一
もう何年か前、ジェノアの少年で
十三になる男の子が、ジェノアからアメリカまでただ一人で
母をたずねて行きました。
母親は二年前にアルゼンチンの首府ブエーノスアイレスへ行ったのですが、それは一家がいろいろな不幸にあって、すっかり貧乏になり、たくさんなお金を払わねばならなかったので
母は今一度お金持の家に奉公してお金をもうけ一家が暮せるようにしたいがためでありました。
このあわれな
母親は十八歳になる子と十一歳になる子とをおいて出かけたのでした。
船は無事で海の上を走りました。
母親はブエーノスアイレスにつくとすぐに夫の兄弟にあたる人の世話でその土地の立派な人の家に働くことになりました。
母親は月に八十リラずつもうけましたが自分は少しも使わないで、三月ごとにたまったお金を故郷へ送りました。
父親も心の正しい人でしたから一生懸命に働いてよい評判をうけるようになりました。
父親のただ一つのなぐさめは
母親が早くかえってくるのを まつことでした。
母親がいない
家はまるでからっぽのように さびしいものでした。ことに小さい方の子は
母を慕って毎日泣いていました。
月日は早くもたって一年はすぎました。
母親の方からは、身体の工合が少しよくないという みじかい手紙がきたきり、何のたよりもなくなってしまいました。
父親は大変心配して兄弟の所へ二度も手紙を出しましたが何の返事もありませんでした。
そこでイタリイの領事館から たずねてもらいましたが、三月ほどたってから「
新聞にも広告してずいぶんたずねましたが見あたりません。」といってきました。
それから幾月かたちました。何のたよりもありません。
父親と二人の子供は心配でなりませんでした。わけても小さい方の子は
父親にだきついて「
お母さんは、お母さんは、」といっていました。
父親は自分がアメリカへいって妻をさがしてこようかと考えました。けれども
父親は働かねばなりませんでした。
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(1 / 20)
一番年上の子も今ではだんだん働いて
手助をしてくれるので、一家にとっては、はなすわけにはゆきませんでした。
親子は毎日悲しい言葉をくりかえしていると、ある晩、小さい子の
マルコが、
「
お父さん僕をアメリカへやって下さい。おかあさんをたずねてきますから。」
と元気のよい声でいいました。
父親は悲しそうに、頭をふって何の返事もしませんでした、
父親は心の中で、「
どうして小さい子供を一人で一月もかかるアメリカへやることが出来よう。大人でさえ なかなか行けないのに。」と思ったからでした。
けれども
マルコはどうしてもききませんでした。その日も、その次の日も、毎日毎日、
父親にすがりついてたのみました。
「
どうしてもやって下さい。外の人だって行ったじゃありませんか。一ぺんそこへゆきさえすればおじさんの家をさがします。もしも見つからなかったら領事館をたずねてゆきます。」
こういって
父親にせがみました。
父親は
マルコの勇気にすっかり動かされてしまいました。
父親はこのことを自分の知っているある汽船の船長に話しすると船長はすっかり感心してアルゼンチンの国へ行く三等切符を一枚 ただくれました。
そこでいよいよ
マルコは
父親も承知してくれたので旅立つことになりました。
父と
兄とはふくろに
マルコの着物を入れ、
マルコのポケットにいくらかのお金を入れ、
おじさんの
所書をもわたしました。
マルコは四月の晴れた晩、船にのりました。
父親は涙を流して
マルコにいいました。
「
マルコ、孝行の旅だから神様はきっと守って下さるでしょう。勇気を出して行きな、どんな辛いことがあっても。」
マルコは船の甲板に立って帽子をふりながら叫びました。
「
お父さん、行ってきますよ。きっと、きっと、……」
青い美しい月の光りが海の上にひろがっていました。
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(2 / 20)
船は美しい故郷の町をはなれました、大きな船の上にはたくさんな人たちが乗りあっていましたが だれ一人として知る人もなく、自分一人小さなふくろの前にうずくまっていました。
マルコの心の中にはいろいろな悲しい考えが浮んできました。そして一番悲しく浮んできたのは――
おかあさんが死んでしまったという考えでした。
マルコは夜もねむることが出来ませんでした。
でも、ジブラルタルの海峡がすぎた後で、はじめて大西洋を見た時には元気も出てきました。
望も出てきました。けれどもそれはしばらくの間でした、自分が一人ぼっちで見知らぬ国へゆくと思うと急に心が苦しくなってきました。
船は白い波がしらをけって進んでゆきました。時々甲板の上へ美しい飛魚がはね上ることもありました。日が波のあちらへおちてゆくと海の面は火のように真赤になりました。
マルコはもはや力も抜けてしまって板の間に身体をのばして死んでいるもののように見えました。大ぜいの人たちも、たいくつそうにぼんやりとしていました。
海と空、空と海、昨日も今日も船は進んでゆきました。
こうして二十七日間つづきました。しかししまいには
凉しいいい日がつづきました。
マルコは一人の
おじいさんと仲よしになりました。それはロムバルディの人で、ロサーリオ【首都ブエノスアイレスの北西300km】の町の近くに農夫をしている息子をたずねてアメリカへゆく人でした。
マルコはこの
おじいさんにすっかり自分の身の上を話しますと、
おじいさんは大変同情して、
「
大丈夫だよ。もうじきにおかあさんにあわれますよ。」
といいました。
マルコはこれをきいて たいそう心を丈夫にしました。
そして
マルコは首にかけていた十字のメダルにキスしながら「
どうかおかあさんにあわせて下さい。」と祈りました。
出発してから二十七日目、それは美しい五月の朝、汽船はアルゼンチンの首府ブエーノスアイレスの都【故郷から約1万2千km】の岸にひろがっている大きなプラータ河に錨を下ろしました。
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(3 / 20)
マルコは気ちがいのようによろこびました。
「
かあさんはもうわずかな所にいる。もうしばらくのうちにあえるのだ。ああ自分はアメリカへ来たのだ。」
マルコは小さいふくろを手に持ってボートから波止場に上陸して勇ましく都の方に向って歩きだしました。
一番はじめの街の入口にはいると、
マルコは
一人の男に、ロスアルテス街へ行くにはどう行けばよいか教えて下さいとたずねました、ちょうどその人はイタリイ人でありましたから、今自分が出てきた街を
指しながらていねいに教えてくれました。
マルコはお礼をいって教えてもらった道を急ぎました。
それはせまい真すぐな街でした。道の両側にはひくい白い家がたちならんでいて、街にはたくさんな人や、馬車や、荷車がひっきりなしに通っていました。そしてそこにもここにも色々な色をした大きな旗がひるがえっていて、それには大きな字で汽船の出る広告が書いてありました。
マルコは新しい街にくるたびに、それが自分のさがしている街ではないのかと思いました、また
女の人にあうたびにもしや自分の
母親でないかしらと思いました。
マルコは一生懸命に歩きました。と、ある十文字になっている街へ出ました。
マルコはそのかどをまがってみると、それが自分のたずねているロスアルテス街でありました。
おじさんの店は一七五番でした。
マルコは夢中になってかけ出しました。そして小さな組糸店にはいりました。これが一七五でした。見ると店には髪の毛の白い眼鏡をかけた
女の人がいました。
「
何か用でもあるの?」
女はスペイン語でたずねました。
「
あの、これはフランセスコメレリの店ではありませんか。」
「
メレリさんはずっと前に死にましたよ。」
と
女の人は答えました。
マルコは胸をうたれたような気がしました、そして彼は早口にこういいました。
「
メレリが僕のおかあさんを知っていたんです。 [
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(4 / 20)
おかあさんはメキネズさんの所へ奉公していたんです。わたしはおかあさんをたずねてアメリカへ来たのです。わたしはおかあさんを見つけねばなりません。」「
可愛そうにねえ!」
と
女の人はいいました。そして「
わたしは知らないが裏の子供にきいて上げよう。あの子がメレリさんの使をしたことがあるかもしれないから――、」
女の人は店を出ていってその
少年を呼びました。
少年はすぐにきました。そして「
メレリさんはメキネズさんの所へゆかれた。時々わたしも行きましたよ。ロスアルテス街のはしの方です。」
と答えてくれました。
「
ああ、ありがとう、奥さん」
マルコは叫びました。
「
番地を教えて下さいませんか。君、僕と一しょに来てくれない?」
マルコは熱心にいいましたので
少年は、
「
では行こう」
といってすぐに出かけました。
二人はだまったまま長い街を走るように歩きました。
街のはしまでゆくと小さい白い家の入口につきました。そこには美しい門がたっていました。門の中には草花の鉢がたくさん見えました。
マルコはいそいでベルをおしました。すると若い
女の人が出てきました。
「
メキネズさんはここにいますねえ?」
少年は心配そうにききました。
「
メキネズさんはコルドバ【首都ブエノスアイレスの西北西に700km】へ行きましたよ。」
マルコは胸がドキドキしました。
「
コルドバ? コルドバってどこです、そして奉公していた女はどうなりましたか。わたしのおかあさんです。おかあさんをつれて行きましたか。」
マルコはふるえるような声でききました。
若い
女の人は
マルコを見ながらいいました。
「
わたしは知りませんわ、もしかするとわたしの父が知っているかもしれません、しばらく待っていらっしゃい。」
しばらくするとその
父はかえってきました。
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(5 / 20)
背の高いひげの白い紳士でした。
紳士は
マルコに
「
お前のおかあさんはジェノア人でしょう。」
と問いました。
マルコはそうですと答えました。
「
それならそのメキネズさんのところにいた女の人はコルドバという都へゆきましたよ。」
マルコは深いため息をつきました。そして
「
それでは私はコルドバへゆきます。」
「
かわいそうに。コルドバはここから何百哩もある。」
紳士はこういいました。
マルコは死んだように、門によりかかりました。
紳士は
マルコの様子を見て、かわいそうに思い しきりに何か考えていました。が、やがて机に向って、一通の手紙を書いて
マルコにわたしながらいいました。
「
それではこの手紙をポカへ持っておいで、ここからポカへは二時間ぐらいでゆかれる。そこへいってこの手紙の宛名になっている紳士をたずねなさい。たれでも知っている紳士ですから、その人が明日お前をロサーリオの町へ送ってくれるでしょう、そこからまた たれかにたのんでコルドバへゆけるようしてくれるだろうから。コルドバへゆけばメキネズの家もお前のおかあさんも見つかるだろうから、それからこれをおもち。」
こういって
紳士はいくらかのお金を
マルコにあたえました。
マルコはただ「
ありがとう、ありがとう」といって小さいふくろを持って外へ出ました。そして案内してくれた
少年とも別れてポカの方へ向って出かけました。
二
マルコはすっかり つかれてしまいました。息が苦しくなってきました。そしてその次の日の暮れ方、果物をつんだ大きな船にのり込みました。
船は三日四晩走りつづけました。ある時は長い島をぬうてゆくこともありました。その島にはオレンヂの木がしげっていました。
マルコは船の中で一日に二度ずつ少しのパンと塩かけの肉を食べました。
船頭たちは
マルコのかなしそうな様子を見て言葉もかけませんでした。
夜になると
マルコは甲板で眠りました。青白い月の光りが広々とした水の上や遠い岸を銀色に照しました、
マルコの心はしんとおちついてきました。そして「
コルドバ」
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(6 / 20)
の名を呼んでいるとまるで昔ばなしにきいた不思議な都のような気がしてなりませんでした。
船頭は甲板に立ってうたをうたいました、そのうたはちょうど
マルコが小さい時
おかあさんからきいた子守唄のようでした。
マルコは急になつかしくなってとうとう泣き出してしまいました。
船頭は歌をやめると
マルコの方へかけよってきて、
「
おいどうしたので、しっかりしなよ。ジェノアの子が国から遠く来たからって泣くことがあるものか。ジェノアの児は世界にほこる子だぞ。」
といいました。
マルコはジェノアたましいの声をきくと急に元気づきました。
「
ああそうだ、わたしはジェノアの児だ。」
マルコは心の中で叫びました。
船は夜のあけ方に、パラアナ河にのぞんでいるロサーリオの都の前にきました。
マルコは船をすててふくろを手にもってポカの
紳士が書いてくれた手紙をもってアルゼンチンの紳士をたずねに町の方をゆきました。
町にはたくさんな人や、馬や、車がたくさん通っていました。
マルコは一時間あまりもたずね歩くと、やっとその家を見つけました。
マルコはベルをならすと家から髪の毛の赤い意地の悪そうな男が出てきて
「
何の用か、」
とぶっきらぼうにいいました。
マルコは書いてもらった手紙を出しました。
その男はその手紙を読んで
「
主人は昨日の午後ブエーノスアイレスへ御家の人たちをつれて出かけられた。」
といいました。
マルコはどういってよいかわかりませんでした。ただそこに棒のように立っていました。そして
「
わたしはここでだれも知りません。」
とあわれそうな声でいいました。すると
その男は、
「
物もらいをするならイタリイでやれ、」
といってぴしゃりと戸をしめてしまいました。
マルコはふくろをとりあげてしょんぼりと出かけました。
マルコは胸をかきむしられたような気がしました。そして
「
わたしはどこへ行ったらよいのだろう。もうお金もなくなった。」
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(7 / 20)
マルコはもう歩く元気もなくなって、ふくろを道におろして そこにうつむいていました、道を通りがかりの子供たちは立ち止って
マルコを見ていました。
マルコはじっとしておりました。するとやがて「
おいどうしたんだい。」とロムバルディの言葉でいった人がありました。
マルコはひょっと顔を上げてみると、それは船の中で一しょになった年よったロムバルディの
お百姓でありました。
マルコはおどろいて、
「
まあ、おじいさん!」
と叫びました。
お百姓もおどろいて
マルコのそばへかけて来ました。
マルコは自分の今までの有様を残らず話しました。
お百姓は大変可愛そうに思って、何かしきりに考えていましたが、やがて、
「
マルコ、わたしと一緒にお出で どうにかなるでしょう。」
といって歩き出しました。
マルコは後について歩きました。二人は長い道を歩きました、やがて
お百姓は一軒の宿屋の戸口に立ち止りました。看板には「
イタリイの星」と書いてありました。
二人は大きな部屋へはいりました。そこには大勢の人がお酒をのみながら高い声で笑いながら話しあっていました。
お百姓は
マルコを自分の前に立たせ皆にむかいながらこう叫びました。
「
皆さん、しばらくわたしの話を聞いて下さい、ここにかわいそうな子供がいます。この子はイタリイの子供です。ジェノアからブエーノスアイレスまで母親をたずねて一人で来た子です。ところがこんどはコルドバへ行くのですがお金を一銭も持っていないのです。何とかいい考えが皆さんにありませんか。」
これをきいた
五六人のものは立ち上って、
「
とんでもないことだ。そんなことが出来るものか」
といいました。するとその中の
一人は、テエブルをたたいて、
「
おい、我々の兄弟だ。われわれの兄弟のために助けてやらねばならぬぞ。全く孝行者だ。 [
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(8 / 20)
一人できたのか。ほんとに偉いぞ。愛国者だ、さあこちらへ来な、葡萄酒でものんだがよい。わしたちが母親のところへ とどけてあげるから心配しないがよい。」
こういって
その男は
マルコの肩をたたきふくろを下してやりました。
マルコのうわさが宿屋中にひろがると大勢の人たちが急いで出てきました、ロムバルディの
おじいさんは
マルコのために帽子を持ってまわると たちまち四十二リラ【約10万円/2025年】のお金があつまりました。
みんなの者はコップに葡萄酒をついで、
「
お前のおかあさんの無事を祈る。」といってのみました。
マルコはうれしくてどうしてよいかわからずただ「
ありがとう。」といって、
おじいさんのくびに飛びつきました。
つぎの朝
マルコはよろこび勇んでコルドバへ向って出かけました。
マルコの顔はよろこびにかがやきました。
マルコは汽車にのりました。汽車は広々とした野原を走ってゆきました。つめたい風が汽車の窓からひゅっとはいってきました。
マルコがジェノアを出た時は四月の末でしたがもう冬になっているのでした。けれども
マルコは夏の服を着ていました。
マルコは寒くてなりませんでした。そればかりでなく身体も心もつかれてしまって夜もなかなか眠ることも出来ませんでした。
マルコはもしかすると病気にでもなって倒れるのではないかと思いました。
おかあさんにあうことも出来ないで死んだとしたら……
マルコは急にかなしい心になりました。
コルドバへゆけばきっとお
母さんにあえるかしら、ほんとうに
おかあさんにあうことがたしかに出来るかしら。もしもロスアルテス街の
紳士が間違ったことをいったのだとしたらどうしよう。
マルコはこう思っているうちに眠ってゆきました。そしてコルドバへ行っている夢を見ました、それは一人のあやしい男が出てきて、「
お前のおかあさんはここにいない。」といっている夢でした。
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(9 / 20)
マルコは はっとしてとびおきると自分の向うのはしに
三人の男が恐しい眼つきで何か話していました。
マルコは思わずそこへかけよって、
「
わたしは何も持っていません。イタリイから来たのです。おかあさんをたずねに一人できたのです。貧乏な子供です。どうぞ、何もしないで下さい。」
といいました。
三人の男は彼をかわいそうに思って
マルコの頭をなでながらいろいろ言葉をかけ一枚のシオルを
マルコの体にまいて、眠られるようにしてくれました。その時はもう広い野には夕日がおちていました。
汽車がコルドバにつくと
三人の男は
マルコをおこしました。
マルコは飛びたつように汽車から飛び出しました。彼は停車場の人に
メキネズの家はどこにあるかききました。その人はある教会の名をいいました。家はそのそばにあるのでした。
マルコは急いで出かけました。
町はもう夜でした。
マルコはやっと教会を見つけ出して、ふるえる手でベルをならしました。すると年取った
女の人が手にあかりを持って出てきました。
「
何か用がありますか」
「
メキネズさんはいますか。」
マルコは早口にいいました。
女の人は両手をくんで頭をふりながら答えました。
「
メキネズさんはツークーマン【コルドバから北へ570km】へゆかれた。」
マルコはがっかりしてしまいました、そしてふるえるような声で、
「
そこはどこです。どのくらいはなれているのです。おかあさんにあわないで、死んでしまいそうだ。」
「
まあ可愛そうに、ここから四五百哩はなれていますよ。」
女の人は気の毒そうにいいました。
マルコは顔に手をおしあてて、「
わたしはどうしたらいいのだろう、」
といって泣き出しました。
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(10 / 20)
女の人は しばらくだまって考えていましたが、やがて思い出したように、
「
ああ、そうそう、よいことがある、この町を右の方へゆくと、たくさんの荷車を牛にひかせて明日ツークーマンへ出かけてゆく商人がいますよ。その人に頼んでつれていってもらいなさい。何か手つだいでもすることにして、それが一番よい今すぐに行ってごらんなさい。」
といいました。
マルコはお礼をいいながら ふくろをかつぎ急いで出かけました。しばらくゆくとそこには大ぜいの男が荷車に穀物のふくろをつんでいました。
丈の高い口ひげのある男が長靴をはいて仕事の指図をしていました。その人がこの親方でした。
マルコはおそるおそる その人のそばへ行って「
自分もどうかつれていって下さい。おかあさんをさがしにゆくのだから。」
とたのみました。
親方は
マルコの様子をじろじろと見ながら
「
お前を のせてゆく場所がない。」
とつめたく答えました。
マルコは一生懸命になって、たのみました。
「
ここに十五リラあります。これをさしあげます。そして途中で働きます。牛や馬の飲水もはこびます。どんな御用でもいたします。どうぞつれて行って下さい。」
親方はまたじろじろと
マルコを見てから、今度はいくらかやさしい声でいいました。
「
おれたちはツークーマンへゆくのではない、サンチヤゴという別の町へゆくのだよ。だからお前をのせていっても途中で下りねばならないし、それに下りてからお前はずいぶん歩かなければならぬぞ。」
「
ええ、どんな長い旅でもいたします。どんなことをしましてもツークーマンへまいりますから どうかのせていって下さい。」
マルコはこういってたのみました。
親方はまた、
「
おい二十日もかかるぞ。つらい旅だぞ。それに一人で歩かねば ならないのだぞ。」
といいました。
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(11 / 20)
マルコは元気そうな声でいいました。
「
はいどんな事でもこらえます、おかあさんにさえあえるなら。どうぞのせていって下さい」
親方はとうとう
マルコの熱心に動かされてしまいました。そして「
よし」といって
マルコの手を握りしめました。
「
お前は今夜荷車の中でねるのだよ。そして明日の朝、四時におこすぞ。」
親方はこういって家の中へはいってゆきました。
朝の四時になりました。星はつめたそうに光っていました。荷車の長い列はがたがたと動き出しました。荷車はみな六頭の牛にひかれてゆきました。そのあとからは たくさんな馬もついてゆきました。
マルコは車に積んだ袋の上にのりました。がすぐに眠ってしまいました。
マルコが目をさますと、荷車の列はとまってしまって、
人足たちは火をたきながらパンをやいて食べているのでした。みんなは食事がすむと しばらくひるねをして それからまた出かけました。みんなは毎朝五時に出て九時にとまり、夕方の五時に出て十時にとまりました。ちょうど兵隊が行軍するのと同じように規則正しくやりました。
マルコはパンをやく火をこしらえたり牛や馬にのませる水をくんできたり角灯の掃除をしたりしました。
みんなの進む所は、どちらを見ても広い平野がつづいていて人家もなければ人影も見えませんでした。たまたま二三人の旅人が馬にのってくるのに あうこともありましたが、風のように一散にかけてゆきました。くる日もくる日もただ広い野原しか見えないのでみんなは、たいくつでたいくつで たまりませんでした。
人足たちはだんだん意地悪くなって、
マルコをおどかしたり
無理使したりしました。大きな
秣【馬のエサとなる干し草など】をはこばせたり、遠い所へ水をくみにやらせたりしました。そして少しでもおそいと 大きな声で叱りつけました。
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(12 / 20)
マルコはへとへとにつかれて、夜になっても眠ることが出来ませんでした、荷車はぎいぎいとゆれ、体はころがるようになり、おまけに風が吹いてくると赤い土ほこりがたってきて息をすることさえ出来ませんでした。
マルコは全くつかれはててしまいました。それに朝から晩まで叱られたりいじめられたりするので日に日に元気もなくなってゆきました。ただ
マルコをかわいがってくれるものは親方だけでした。
マルコは車のすみに小さくうずくまってふくろに顔をあてて泣いていました。
ある朝、
マルコが水を汲んでくるのがおそいといって
人足の一人が、彼をぶちました。それからというものは
人足たちは代る代る彼を足でけりながら、「
この宿なし犬め」といいました。
マルコは悲しくなって ただすすりあげて泣いていました。
マルコはとうとう病気になりました。三日のあいだ荷車の中で何もたべずに苦しんでいました。ただ水をくれたりして親切にしてくれるものは親方だけでした。親方はいつも彼のところへきては、
「
しっかりせよ。母親にあえるのだから」
といってなぐさめてくれました。
マルコは、もう自分は死ぬのだと思いました。そしてしきりに「
おかあさん。もうあえないのですか。おかあさん。」といって胸の上に手をくんで祈っていました。
親方は親切に看護をしたので、
マルコはだんだんよくなってゆきました。すると今度は一番安心することの出来ない日がきました。それはもう九日も旅をつづけたのでツークーマンへゆく道とサンチヤゴへ行く道との分れる所へ来たからです。親方は
マルコに別れなければならないことをいいました。
親方は何かと心配して道のことを教えてくれたり歩く時に じゃまにならないように ふくろをかつがせたりしました。
マルコは親方の体にだきついて別れのあいさつをしました。
三
マルコは青い草の道に立って手をあげながら荷車の一隊を見送っていました。荷車の親方も
人足たちも手をあげて
マルコを見ていました。
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(13 / 20)
やがて一隊は平野の赤い土ほこりの中にかくれてしまいました。
マルコは草の道を歩いてゆきました。夜になると草のしげみへはいってふくろを枕にして眠りました。やがていく日かたつと彼の目の前に青々とした山脈を見ることが出来ました。
マルコは飛びたつようによろこびました。山のてっぺんには白い雪が光っていました。
マルコは自分の国のアルプス山を思い出しました。そして自分の国へ来たような気持になりました。
その山はアンデズ山でありました。アメリカの大陸の脊骨をつくっている山でした。空気もだんだんあたたかになってきました。そして所々に小さい人家が見えてきました。小さい店もありました。
マルコはその店でパンを買ってたべました。また黒い顔をした女や子供たちにもであいました。その人たちは
マルコをじっと見ていました。
マルコは歩けるだけ歩くと木の下に眠りました。その次の日もそうしました。そうするうちに彼の元気はすっかりなくなってしまいました。靴は破れ足から血がにじんでいました、彼はしくしく泣きながら歩き出しました。けれども「
おかあさんにあえるのだ。」と思うと足のいたさも忘れてしまいました。
彼は元気を出して歩きました。ひろいきび畑を通ったり、はてしない野の間をぬけたり、あの高い青い山を見ながら四日、五日、一週間もたちました。彼の足からはたえず血がにじみ出ました、また急に元気がなくなって来ました、でもとうとうある日の夕方 一人の
女の人にあいましたから、
「
ツークーマンへはここからいくらありますか。」
とたずねました。
女の人は、
「
ツークーマンはここから二哩【3.2Km】ほどだよ。」
と答えました。
[
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(14 / 20)
マルコはよろこびました。そしてなくした元気をとりもどしたように歩き出しました。しかしそれはほんのしばらくでした。彼の力はすぐに抜けました。けれども心の中はうれしくてなりませんでした。
星はきらきらとかがやいていました、
マルコは草の上に体をのばして美しい星空を眺めました。この時は
マルコの心は幸福でありました。
マルコは光っている星に話でもするようにいいました。
「
ああおかあさん、あなたの子のマルコは今ここにいます。こんなに近くにいます。どうぞ無事でいて下さい、おかあさん、あなたは今何を思っていられますか。マルコのことを思って下さるのですか。」
マルコの
母親は病気にかかって
メキネズの立派なやしきにねていました。ところが
メキネズは思いがけずブエーノスアイレスから遠くへ出かけねばならなくなりコルドバへきたのでした、その時
母親は腫物が体の内に出来たので外科のお医者さんにかかるためツークーマンに見てもらっていたのでした。けれども大変な重い病気だったので どれだけたってもなおりませんでした。それで手術をしてもらうということになりました。けれども
母親は
「
わたしはもうこらえる力がありません。手術のうちに死んでしまいます。どうかこのまま死なせて下さい。わたしはもう苦しまずに死にとうございます。」
といいました。
主人と
奥さんは「
手術をうけると早くなおるから、もっと元気を出しなさい、子供たちのためにも早くなおらなければなりません。」としずかにいってきかせました。
母親はただ さめざめと泣きだしました。
「
おお子供たち、みんなはもう生きていないだろう。わたしも死んでゆきたい。旦那様、奥さま、ありがとうございます。 [
:
栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(15 / 20)
何かとお世話になりましてありがとうございます。わたしはもうお医者さまにかかりたくありません。わたしはここで死にとうございます。」
主人は「
そんなことをいうものではない」といって女の手をとって慰めました。
けれども彼女はまるで死んだように眼をとじていました。
主人と
奥さんとはろうそくのかすかな光でこのあわれな女を見守っていました。「
家を助けるために三千里もはなれた国へきて、あんなに働いたあとで死んでゆく。ほん当に可哀そうだ。」
主人はこういってそこにぼんやりと立っていました。
マルコはいたい足をひきずりながら、ふくろをせおって次ぎの日の朝早くアルゼンチンの国でもっともにぎやかな町であるツークーマンの町へはいりました。ここもまた同じような街で、まっすぐな長い道と、ひくい白い家とがありました。ただ
マルコの目をよろこばしたものは大きな美しい植物と、イタリイでかつて見たこともないように すみ切った青空でありました。彼は街をずんずん歩いてゆきました。そしてもしか
母親にあいはしないかと
女の人にあうたびにじっと見ました。
女の人みんなに自分の
母親でないかたずねてみたい心持になりました。街の子供たちは四五人あつまってきて、みすぼらしいほこりだらけの
少年をじっと見ていました。
しばらく行くと道の左かわにイタリイの名の書いてある宿屋の看板が目につきました。中には眼鏡をかけた
男の人がいました。
マルコはかけていってたずねました。「
ちょっとおたずねしますがメキネズさんの家はどちらでしょうか。」
男の人はちょっと考えていましたが、
「
メキネズさんはここにはいないよ。ここから六哩ほどはなれているサラヂーロというところだ。」
と答えました。
マルコは剣で胸をつかれたようにそこに打ち倒れてしまいました。すると宿屋の
主人や
女たちが出てきて、「
どうしたのだ、どうしたというのだ、」といいながら
マルコを部屋の中へ入れました。
主人は彼をなだめるようにいいました。
「
さあ、何も心配することはない。ここからしばらくの時間でゆける。 [
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栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(16 / 20)
川のそばの大きな砂糖工場がたっているところにメキネズさんの家がある。誰でも知っているよ、安心なさい、」
しばらくすると
マルコは生きかえったようにおき上りながら、
「
どちらへ行くんです、どうぞ早く道を教えて下さい。私はすぐにゆきます。」
といいました。
主人は、
「
お前はつかれている、休まないと行かれない。今日はここで休んで明日ゆきなさい、一日かかるのだから。」
とすすめました。
「
いけません。いけません。私は早くおかあさんにあわなければなりません。すぐにゆきます。」
マルコの強い心に動かされて、宿屋の
主人は
一人の男をわざわざ町はずれの森まで送ってよこしました。
マルコは大変よろこんで教えてもらった道を急ぎました。道の両がわにはこんもりとした並木が立ちならんでいました。
マルコは足のいたいことも忘れて歩きました。
その夜
母親は大そう苦しんでもう息も切れ切れに、「
お医者さまを呼んで下さい。助けて下さい。わたしはもう死にます。」
といいました。
主人や
奥さんや
女中たちは女の手をとってなぐさめました。
もう夜中でありました。
マルコはもう歩む力もなくなっていく度となくころびました、けれども
マルコは「
おかあさんにあえるのだ。」という心が胸にわいてきて足のいたいことも忘れてしまいました。
やがて東の空がしらじらとあけてきて、銀のような星も次第に消えてゆきました。
朝の八時になりました。ツークーマンのお
医者さんは若い一人の助手をつれて病人の家へ来ました。そしてしきりに手術をうけるようにすすめました。
メキネズ夫婦もそれをすすめました。けれどもそれは無駄でした。
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栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(17 / 20)
女はどうしても手術をうける気はありませんでした。手術をうけないうちに死んでゆくのだとあきらめているからでした。
医者はそれでもあきらめずにもう一度いってみました。
けれども女は、
「
わたしはこのまま安らかに死んでゆきとうございます。」
といいました、そしてまた消えてゆくような声で、
「
奥さま、わたしの荷物と、この少しばかりのお金を家の者に送ってやってください、私はこれで死んでゆきます。どうぞ私の家へ手紙も出して下さい。わたしは子供を忘れることが出来ません。小さい子のマルコはどうしているでしょう、ああマルコが……」
といいました。
その時、
主人もいませんでした。
奥さんはあわただしくかけてゆきました。しばらくすると
医者はよろこばしい顔をしてはいってきました。
主人も
奥さんもはいってきました。そして病人に、いいました。
「
ジョセハ、うれしいことをきかせてあげるよ。」
「
おどろいてはいけません。」
女はじっとその声をきいていました。
奥さんは
「
お前がよろこぶことですよ、お前の大そう可愛がっている子にあうのですよ。」
女はきらきらする目で
奥さんを見ました。そしてありったけの力を出して頭をあげました。
その時でした、ぼろぼろの服をきてほこりだらけになった
マルコが入口に立ったのでした。
女はびっくりして「
あっ」と叫び声をあげました。
マルコはかけよりました。
母親はやせた細い手をのばして
マルコをだきしめました。そして気ちがいのように「
どうしてここへ来たのほんとうにお前なのか。本当にマルコだねえ、ああほんとうに」と叫びました。
女はすぐに
医者の方をむいていい出しました。
「
お医者様、どうぞなおして下さい。早く手術をして下さい。わたしは早くよくなりたいです。 [
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栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(18 / 20)
どうぞお医者さま、マルコに見せないで。」
マルコは
主人につれられて部屋を出ました。
奥さんも
女たちもいそいで出てゆきました。
マルコは不思議でなりませんでしたから、
「
おかあさんをどうするのですか。」
と
主人にたずねました。
主人は
おかあさんが病気だから手術を受けるのだといいました。
と不意に女の叫び声が家中にひびきました。
マルコはびっくりして「
おかあさんが死んだ。」と叫びました。
医者は入口に出て来て「
おかあさんは助かった、」といいました。
マルコはしばらくぼんやりと立っていましたが、やがて
医者の足許へかけていって泣きながら、
「
お医者さま、ありがとうございます。」
といいました。
しかし
医者は
マルコの手をとってこういいました。
「
マルコさん。おかあさんを助けたのは私ではありません。それはお前です。英雄のように立派なお前だ!」
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底本:「家なき子」九段書房
1927(昭和2)年10月15日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「或る→ある かも知れ→かもしれ 位→くらい 毎→ごと 沢山→たくさん 只→ただ 一寸→ちょっと (て)見→み (て)貰→もら」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
※底本中、混在している「コルドバ」「コルトバ」「ゴルドバ」「エルドバ」「マルドバ」は原文をチェックの上、「コルドバ」に統一しました。入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(前田一貴)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年6月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
大変ありがとうございました。
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栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(19 / 20)
感謝致します。(
シン文庫追記)
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栞] アミーチス-母を尋ねて三千里(20 / 20)