河童
どうか Kappa と発音してください。
芥川龍之介1892年(明治25年) - 1927年(昭和2年)


     

 これはある精神病院の患者、‥‥第二十三号が だれにでもしゃべる話である。はもう三十を越しているであろう。が、一見したところは いかにも若々しい狂人である。の半生の経験は、‥‥いや、そんなことはどうでもよい。はただじっと両膝りょうひざをかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子てつごうしをはめた窓の外には 枯れ葉さえ見えないかしの木が一本、雪曇りの空に枝を張っていた。)院長のS博士を相手に 長々とこの話をしゃべりつづけた。もっとも身ぶりは しなかったわけではない。はたとえば「驚いた」と言う時には 急に顔をのけぞらせたりした。……
 はこういうの話を かなり正確に写したつもりである。もしまた だれかの筆記に 飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねてみるがよい。年よりも若い第二十三号は まず丁寧ていねいに頭を下げ、蒲団ふとんのない椅子いすを指さすであろう。それから憂鬱ゆううつな微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであろう。最後に、‥‥はこの話を終わった時の の顔色を覚えている。は最後に身を起こすが早いか、たちまち拳骨げんこつをふりまわしながら、だれにでもこう怒鳴どなりつけるであろう。‥‥「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦ばかな、嫉妬しっと深い、猥褻わいせつな、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出ていけ! この悪党めが!」


     

 三年まえの夏のことです。は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地かみこうちの温泉宿やどから穂高山ほたかやまへ登ろうとしました。穂高山へ登るのには御承知のとおり 梓川あずさがわをさかのぼる ほかはありません。
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は前に 穂高山はもちろん、やりたけにも登っていましたから、朝霧のりた梓川の谷を 案内者もつれずに登ってゆきました。朝霧の下りた梓川の谷を‥‥しかしその霧はいつまでたっても 晴れる景色けしきは見えません。のみならず かえって深くなるのです。は一時間ばかり歩いたのち、一度は上高地の温泉宿へ 引き返すことにしようかと思いました。けれども上高地へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待った上に しなければなりません。といって霧は一刻ごとに ずんずん深くなるばかりなのです。「ええ、いっそ登ってしまえ。」‥‥はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように 熊笹くまざさの中を分けてゆきました。
 しかしの目をさえぎるものは やはり深い霧ばかりです。もっとも時々霧の中から 太い毛生欅ぶな【3文字で『ぶな』】やもみの枝が 青あおと葉をらしたのも 見えなかったわけではありません。それからまた 放牧の馬や牛も突然の前へ顔を出しました。けれどもそれらは見えたと思うと、たちまち濛々もうもうとした霧の中に隠れてしまうのです。そのうちに足もくたびれてくれば、腹もだんだん減りはじめる、‥‥おまけに霧にぬれとおった登山服や 毛布なども 並みたいていの重さではありません。はとうとうを折りましたから、岩にせかれている 水の音をたよりに 梓川の谷へりることにしました。
 は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。コーンド・ビーフのかんを切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり、‥‥そんなことをしているうちに かれこれ十分はたったでしょう。そのあいだに どこまでも意地の悪い霧は いつかほのぼのと晴れかかりました。はパンをかじりながら、ちょっと腕時計どけいをのぞいてみました。時刻はもう一時二十分過ぎです。
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が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、まるい腕時計の硝子ガラスの上へ ちらりと影を落としたことです。は驚いてふり返りました。すると、‥‥河童かっぱというものを見たのは 実にこの時がはじめてだったのです。の後ろにある岩の上には にあるとおりの河童が一匹、片手は白樺しらかばの幹をかかえ、片手は目の上にかざしたなり、珍しそうにを見おろしていました。


 にとられたまま、しばらくは身動きもしずにいました。河童もやはり驚いたとみえ、目の上の手さえ動かしません。そのうちには飛び立つが早いか、岩の上の河童へおどりかかりました。同時にまた河童も逃げ出しました。いや、おそらくは逃げ出したのでしょう。【←この不自然は語り手の不安定さを現わしているよう】実はひらりと身をかわしたと思うと、たちまちどこかへ消えてしまったのです。はいよいよ驚きながら、熊笹くまざさの中を見まわしました。すると河童は逃げ腰をしたなり、二三メートル隔たった向こうに を振り返って見ているのです。それは不思議でもなんでもありません。しかしに意外だったのは河童のからだの色のことです。岩の上にを見ていた河童は 一面に灰色を帯びていました。けれども今は体中すっかり 緑いろに変わっているのです。は「畜生!」とおお声をあげ、もう一度河童かっぱへ飛びかかりました。河童が逃げ出したのはもちろんです。それからは三十分ばかり、熊笹くまざさを突きぬけ、岩を飛び越え、遮二無二しゃにむに河童を追いつづけました。
 河童もまた足の早いことは 決してさるなどに劣りません。は夢中になって追いかけるあいだに 何度もその姿を見失おうとしました。のみならず足をすべらしてころがったことも たびたびです。が、大きいとちの木が一本、太ぶとと枝を張った下へ来ると、幸いにも放牧の牛が一匹、河童のく先へ立ちふさがりました。
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しかもそれはつのの太い、目を血走らせた牡牛おうしなのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴をあげながら、ひときわ高い熊笹の中へ もんどりを打つように飛び込みました。は、‥‥も「しめた」と思いましたから、いきなりそのあとへ追いすがりました。するとそこにはの知らない穴でも あいていたのでしょう。なめらかな河童の背中に やっと指先がさわったと思うと、たちまち深いやみの中へ まっさかさまに転げ落ちました。が、我々人間の心は こういう危機一髪の際にも 途方とほうもないことを考えるものです。は「あっ」と思う拍子にあの上高地かみこうちの温泉宿のそばに「河童橋」という橋があるのを思い出しました。それから、‥‥それから先のことは覚えていません。はただ目の前に稲妻いなずまに似たものを感じたぎり、いつのにか正気しょうきを失っていました。


     

 そのうちにやっと気がついてみると、仰向あおむけに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれていました。のみならず太いくちばしの上に 鼻目金はなめがねをかけた河童が一匹、のそばへひざまずきながら、の胸へ聴診器を当てていました。その河童はが目をあいたのを見ると、に「静かに」という手真似てまねをし、それからだれか後ろにいる河童へ Quax, quax と声をかけました。するとどこからか河童が二匹、担架たんかを持って歩いてきました。はこの担架にのせられたまま、大勢の河童の群がった中を 静かに何町【数百m】か進んでゆきました。の両側に並んでいる町は 少しも銀座通りと違いありません。やはり毛生欅ぶなの並み木のかげに いろいろの店が日除ひよけを並べ、そのまた並み木に はさまれた道を自動車が何台も走っているのです。
 やがてを載せた担架は細い横町よこちょうを曲ったと思うと、あるうちの中へかつぎこまれました。
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それはのちに知ったところによれば、あの鼻目金をかけた河童の家、‥‥チャックという医者の家だったのです。チャックを小ぎれいなベッドの上へ寝かせました。それから何か透明な水薬みずぐすりを一杯飲ませました。はベッドの上に横たわったなり、チャックのするままになっていました。実際またからだはろくに身動きもできないほど、節々ふしぶしが痛んでいたのですから。
 チャックは一日に二三度は必ずを診察にきました。また三日に一度ぐらいはの最初に見かけた河童、‥‥バッグという漁夫りょうしも尋ねてきました。河童は我々人間が河童のことを知っているよりも はるかに人間のことを知っています。それは我々人間が河童を捕獲することよりも ずっと河童が人間を捕獲することが多いためでしょう。捕獲というのは当たらないまでも、我々人間はの前にも たびたび河童の国へ来ているのです。のみならず一生河童の国に 住んでいたものも多かったのです。なぜと言ってごらんなさい。らはただ河童かっぱではない、人間であるという特権のために 働かずに食っていられるのです。現にバッグの話によれば、ある若い道路工夫こうふなどは やはり偶然この国へ来たのちめすの河童を妻にめとり、死ぬまで住んでいたということです。もっともそのまためすの河童は この国第一の美人だった上、夫の道路工夫をごまかすのにも 妙をきわめていたということです。
 は一週間ばかりたった後、この国の法律の定めるところにより、「特別保護住民」としてチャックの隣に住むことになりました。うちは小さい割に いかにも瀟洒しょうしゃとできあがっていました。もちろんこの国の文明は 我々人間の国の文明‥‥少なくとも日本の文明などと あまり大差はありません。往来に面した客間のすみには 小さいピアノが一台あり、それからまた壁には 額縁がくぶちへ入れた エッチング【銅版画】などもかかっていました。
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ただ肝心かんじんの家をはじめ、テーブルや椅子いすの寸法も 河童の身長に合わせてありますから、子どもの部屋へやに入れられたように それだけは不便に思いました。
 はいつも日暮れがたになると、この部屋にチャックバッグを迎え、河童の言葉を習いました。いや、彼らばかりではありません。特別保護住民だったに だれも皆好奇心を持っていましたから、毎日血圧を調べてもらいに、わざわざチャックを呼び寄せる ゲエルという硝子ガラス会社の社長なども やはりこの部屋へ顔を出したものです。しかし最初の半月ほどの間に 一番と親しくしたのは やはりあのバッグという漁夫りょうしだったのです。
 ある生暖なまあたたかい日の暮れです。はこの部屋のテーブルを中に 漁夫のバッグと向かい合っていました。するとバッグはどう思ったか、急に黙ってしまった上、大きい目をいっそう大きくして じっとを見つめました。はもちろん妙に思いましたから、「Quax, Bag, quo quel, quan?」と言いました。これは日本語に翻訳すれば、「おい、バッグ、どうしたんだ」ということです。が、バッグは返事をしません。のみならずいきなり立ち上がると、べろりと舌を出したなり、ちょうどかえるねるように 飛びかかる気色けしきさえ示しました。はいよいよ無気味になり、そっと椅子いすから立ち上がると、一足いっそく飛びに戸口へ飛び出そうとしました。ちょうどそこへ顔を出したのは 幸いにも医者のチャックです。
「こら、バッグ、何をしているのだ?」
 チャック鼻目金はなめがねをかけたまま、こういうバッグをにらみつけました。するとバッグは恐れいったとみえ、何度も頭へ手をやりながら、こう言ってチャックにあやまるのです。
「どうもまことにあいすみません。実はこの旦那だんなの気味悪がるのが おもしろかったものですから、つい調子に乗って悪戯いたずらをしたのです。どうか旦那も堪忍かんにんしてください。」
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 はこの先を話す前に ちょっと河童というものを 説明しておかなければ なりません。河童はいまだに実在するかどうかも 疑問になっている動物です。が、それは自身が彼らの間に住んでいた以上、少しも疑う余地はない はずです。ではまたどういう動物かと言えば、頭に短い毛のあるのはもちろん、手足に水掻みずかきのついていることも「水虎考略すいここうりゃく」などに出ているのと著しい違いはありません。身長もざっと1メートルを越えるか越えぬくらいでしょう。体重は医者のチャックによれば、二十ポンド【約9kg】から三十ポンド【約13.5kg】まで、‥‥まれには五十何ポンド【約22.5kg】ぐらいの おお河童もいると言っていました。それから頭のまん中には楕円形だえんけいさらがあり、そのまた皿は年齢により、だんだんかたさを加えるようです。現に年をとったバッグの皿は 若いチャックの皿などとは 全然手ざわりも違うのです。しかし一番不思議なのは 河童の皮膚の色のことでしょう。河童は我々人間のように 一定の皮膚の色を持っていません。なんでもその周囲の色と同じ色に変わってしまう、‥‥たとえば草の中にいる時には 草のように緑色に変わり、岩の上にいる時には岩のように灰色に変わるのです。これはもちろん河童に限らず、カメレオンにもあることです。あるいは河童は皮膚組織の上に 何かカメレオンに近いところを 持っているのかもしれません。はこの事実を発見した時、西国さいこくの河童は緑色であり、東北とうほくの河童は赤い という民俗学上の記録を思い出しました。のみならずバッグを追いかける時、突然どこへ行ったのか、見えなくなったことを思い出しました。しかも河童は皮膚の下に よほど厚い脂肪を持っているとみえ、この地下の国の温度は比較的低いのにもかかわらず、(平均華氏かっし五十度【10℃】前後です。)着物というものを知らずにいるのです。
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もちろんどの河童も目金めがねをかけたり、巻煙草まきたばこの箱を携えたり、金入かねいれを持ったりはしているでしょう。しかし河童はカンガルーのように 腹に袋を持っていますから、それらのものをしまう時にも格別不便はしないのです。ただにおかしかったのは 腰のまわりさえ おおわないことです。はある時この習慣をなぜかと バッグに尋ねてみました。するとバッグはのけぞったまま、いつまでもげらげら笑っていました。おまけに「わたしはお前さんの隠しているのがおかしい」と返事をしました。


     

 はだんだん河童の使う日常の言葉を覚えてきました。従って河童の風俗や習慣も のみこめるように なってきました。その中でも一番不思議だったのは 河童は我々人間の真面目まじめに思うことをおかしがる、同時に我々人間のおかしがることを 真面目に思う‥‥こういう とんちんかんな習慣です。たとえば我々人間は 正義とか人道とかいうことを真面目に思う、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかえて笑い出すのです。つまり彼らの滑稽こっけいという観念は 我々の滑稽こっけいという観念と 全然標準をことにしているのでしょう。はある時 医者のチャック産児制限の話をしていました。するとチャックは大口をあいて、鼻目金はなめがねの落ちるほど笑い出しました。はもちろん腹が立ちましたから、何がおかしいかと詰問しました。なんでもチャックの返答は だいたいこうだったように覚えています。もっとも多少細かいところは 間違まちがっているかもしれません。なにしろまだそのころはも河童の使う言葉を すっかり理解していなかったのですから。
「しかし両親のつごうばかり考えているのは おかしいですからね。どうもあまり手前勝手ですからね。」
 その代わりに我々人間から見れば、実際また河童かっぱのお産ぐらい、おかしいものはありません。
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現にはしばらくたってから、バッグの細君のお産をするところを バッグの小屋へ見物にゆきました。河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や産婆さんばなどの助けを借りて お産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バッグもやはりひざをつきながら、何度も繰り返してこう言いました。それからテーブルの上にあった消毒用の水薬すいやくで うがいをしました。すると細君の腹の中の子は 多少気兼ねでもしているとみえ、こう小声に返事をしました。
「僕は生まれたくはありません。第一僕のおとうさんの遺伝は 精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」
 バッグはこの返事を聞いた時、てれたように頭をかいていました。が、そこにい合わせた産婆は たちまち細君の生殖器へ 太い硝子ガラスかんを突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほっとしたように太い息をもらしました。同時にまた今まで大きかった腹は 水素すいそ瓦斯ガスを抜いた風船のように へたへたと縮んでしまいました。
 こういう返事をするくらいですから、河童の子どもは生まれるが早いか、もちろん歩いたりしゃべったりするのです。なんでもチャックの話では 出産後二十六日目に 神の有無うむについて講演をした子どもも あったとかいうことです。もっともその子どもは 二月目ふたつきめには死んでしまったということですが。
 お産の話をしたついでですから、がこの国へ来た三月目みつきめに 偶然あるまちかどで見かけた、大きいポスターの話をしましょう。その大きいポスターの下には 喇叭らっぱを吹いている河童だの 剣を持っている河童だのが十二三匹いてありました。
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それからまた上には河童の使う、ちょうど時計とけいのゼンマイに似た 螺旋らせん文字が一面に並べてありました。この螺旋文字を翻訳すると、だいたいこういう意味になるのです。これもあるいは 細かいところは間違まちがっているかもしれません。が、とにかくとしてはといっしょに歩いていた、ラップという河童の学生が 大声に読み上げてくれる言葉を いちいちノートにとっておいたのです。


遺伝的義勇隊をつのる!!!
健全なる男女の河童よ!!!
悪遺伝を撲滅ぼくめつするために
不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!


 はもちろん その時にも そんなことの行なわれないことを ラップに話して聞かせました。するとラップばかりではない、ポスターの近所にいた河童は ことごとく げらげら笑い出しました。
「行なわれない? だってあなたの話では あなたがたも やはり我々のように行なっていると思いますがね。あなたは令息【子息しそく】が女中にれたり、令嬢が運転手に惚れたりするのは なんのためだと思っているのです? あれは皆 無意識的に悪遺伝を撲滅しているのですよ。第一この間あなたの話した あなたがた人間の義勇隊よりも、‥‥一本の鉄道を奪うために 互いに殺し合う義勇隊ですね、‥‥ああいう義勇隊に比べれば、ずっと僕たちの義勇隊は 高尚ではないかと思いますがね。」
 ラップ真面目まじめにこう言いながら、しかも太い腹だけは おかしそうに絶えず浪立なみだたせていました。が、は笑うどころか、あわててある河童かっぱをつかまえようとしました。それはの油断を見すまし、その河童が の万年筆を盗んだことに気がついたからです。しかし皮膚のなめらかな河童は 容易に我々にはつかまりません。その河童もぬらりとすべり抜けるが早いか いっさんに逃げ出してしまいました。ちょうど蚊のようにやせたからだを 倒れるかと思うくらい のめらせながら。
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 はこのラップという河童に バッグにも劣らぬ世話になりました。が、その中でも忘れられないのは トックという河童に紹介されたことです。トックは河童仲間の詩人です。詩人が髪を長くしていることは 我々人間と変わりません。は時々トックうちへ 退屈しのぎに遊びにゆきました。トックはいつも狭い部屋へやに 高山植物の鉢植はちうえを並べ、詩を書いたり煙草たばこをのんだり、いかにも気楽そうに暮らしていました。そのまた部屋のすみには めすの河童が一匹、(トックは自由恋愛家ですから、細君というものは持たないのです。)編み物か何かしていました。トックの顔を見ると、いつも微笑してこう言うのです。(もっとも河童の微笑するのは あまりいいものではありません。少なくともは 最初のうちは むしろ無気味に感じたものです。)
「やあ、よく来たね。まあ、その椅子いすにかけたまえ。」
 トックはよく河童の生活だの 河童の芸術だのの話をしました。トックの信ずるところによれば、当たり前の河童の生活ぐらい、莫迦ばかげているものはありません。親子夫婦兄弟などというのは ことごとく互いに苦しめ合うことを 唯一の楽しみにして暮らしているのです。ことに家族制度というものは 莫迦ばかげている以上にも莫迦ばかげているのです。トックはある時窓の外を指さし、「見たまえ。あの莫迦ばかげさ加減を!」と吐き出すように言いました。窓の外の往来にはまだ年の若い河童が一匹、両親らしい河童をはじめ、七八匹の雌雄めすおすの河童を くびのまわりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いていました。しかしは年の若い河童の犠牲的精神に 感心しましたから、かえってその健気けなげさをほめ立てました。
「ふん、君はこの国でも市民になる資格を持っている。……時に君は社会主義者かね?」
 はもちろん qua(これは河童の使う言葉では「しかり」という意味を現わすのです。
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)と答えました。
「では百人の凡人のために 甘んじてひとりの天才を犠牲にすることも 顧みないはずだ。」
「では君は何主義者だ? だれかトック君の信条は無政府主義だと言っていたが、……」
「僕か? 僕は超人(直訳すれば超河童です。)だ。」
 トック昂然こうぜんと言い放ちました。こういうトックは 芸術の上にも独特な考えを持っています。トックの信ずるところによれば、芸術は何ものの支配をも受けない、芸術のための芸術である、従って芸術家たるものは 何よりも先に善悪をぜっした 超人でなければならぬというのです。もっともこれは必ずしも トック一匹の意見ではありません。トックの仲間の詩人たちは たいてい同意見を持っているようです。現にトックといっしょに たびたび超人倶楽部クラブへ遊びにゆきました。超人倶楽部に集まってくるのは詩人、小説家、戯曲家、批評家、画家、音楽家、彫刻家、芸術上の素人しろうと等です。しかしいずれも超人です。彼らは電灯の明るいサロンに いつも快活に話し合っていました。のみならず時には 得々とくとくと彼らの超人ぶりを 示し合っていました。たとえばある彫刻家などは 大きい鬼羊歯おにしだ鉢植はちうえの間に 年の若い河童かっぱをつかまえながら、しきりに男色だんしょくをもてあそんでいました。またあるめすの小説家などは テーブルの上に立ち上がったなり、アブサント【アルコール度数は70%程度】を六十本飲んで見せました。もっともこれは六十本目に テーブルの下へころげ落ちるが早いか、たちまち往生してしまいましたが。
 はある月のいい晩、詩人のトックひじを組んだまま【腕組みのまま】、超人倶楽部から帰ってきました。トックはいつになく沈みこんで ひとことも口をきかずにいました。そのうちにらはかげのさした、小さい窓の前を通りかかりました。
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そのまた窓の向こうには 夫婦らしい雌雄めすおすの河童が二匹、三匹の子どもの河童といっしょに 晩餐ばんさんのテーブルに向かっているのです。するとトックはため息をしながら、突然こうに話しかけました。
「僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああいう家庭の容子ようすを見ると、やはりうらやましさを感じるんだよ。」
「しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わないかね?」
 けれどもトックは月明りの下にじっと腕を組んだまま、あの小さい窓の向こうを、‥‥平和な五匹の河童たちの 晩餐のテーブルを見守っていました。それからしばらくしてこう答えました。
「あすこにある玉子焼きはなんと言っても、恋愛などよりも衛生的だからね。」


     

 実際また河童の恋愛は 我々人間の恋愛とは よほど趣をことにしています。めすの河童はこれぞという雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童をとらえるのに いかなる手段も顧みません、一番正直なめすの河童は 遮二無二しゃにむに雄の河童を追いかけるのです。現には気違いのように 雄の河童を追いかけている めすの河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若いめすの河童はもちろん、その河童の両親や兄弟まで いっしょになって追いかけるのです。雄の河童こそみじめです。なにしろさんざん逃げまわったあげく、運よく つかまらずにすんだとしても、二三か月はとこについてしまうのですから。はある時の家にトックの詩集を読んでいました。するとそこへ駆けこんできたのは あのラップという学生です。ラップの家へ転げこむと、ゆかの上へ倒れたなり、息も切れ切れにこう言うのです。
大変たいへんだ! とうとう僕は抱きつかれてしまった!」
 はとっさに詩集を投げ出し、戸口のじょうをおろしてしまいました。
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しかし鍵穴かぎあなからのぞいてみると、硫黄いおうの粉末を顔に塗った、せいの低いめす河童かっぱが一匹、まだ戸口にうろついているのです。ラップはその日から何週間か とこの上に寝ていました。のみならず いつかラップくちばしは すっかり腐って落ちてしまいました。
 もっとも また時には めすの河童を一生懸命いっしょうけんめいに追いかける おすの河童もないではありません。しかしそれも ほんとうのところは 追いかけずには いられないように めすの河童が仕向けるのです。はやはり気違いのように めすの河童を追いかけている 雄の河童も見かけました。めすの河童は逃げてゆくうちにも、時々わざと立ち止まってみたり、つんいになったりして見せるのです。おまけにちょうどいい時分になると、さもがっかりしたように 楽々とつかませてしまうのです。の見かけた雄の河童はめすの河童を抱いたなり、しばらくそこにころがっていました。が、やっと起き上がったのを見ると、失望というか、後悔というか、とにかくなんとも形容できない、気の毒な顔をしていました。しかしそれはまだいいのです。これもの見かけた中に小さい雄の河童が一匹、めすの河童を追いかけていました。めすの河童は例のとおり、誘惑的遁走とんそうをしているのです。するとそこへ向こうのまちから大きい雄の河童が一匹、鼻息を鳴らせて歩いてきました。めすの河童はなにかの拍子にふとこの雄の河童を見ると「大変たいへんです! 助けてください! あの河童は わたしを殺そうとするのです!」と金切かなきり声を出して叫びました。もちろん大きい雄の河童は たちまち小さい河童をつかまえ、往来のまん中へねじ伏せました。小さい河童は水掻みずかきのある手に二三度くうをつかんだなり、とうとう死んでしまいました。けれどももうその時にはめすの河童は にやにやしながら、大きい河童のくびっ玉へ しっかり しがみついて しまっていたのです。
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 の知っていたおす河童かっぱは だれも皆 言い合わせたようにめすの河童に追いかけられました。もちろん妻子を持っているバッグでも やはり追いかけられたのです。のみならず二三度はつかまったのです。ただマッグという哲学者だけは(これはあのトックという詩人の隣にいる河童です。)一度もつかまったことはありません。これは一つにはマッグぐらい、醜い河童も少ないためでしょう。しかしまた一つには マッグだけはあまり往来へ顔を出さずに うちにばかりいるためです。はこのマッグの家へも時々話しに出かけました。マッグはいつも薄暗うすぐら部屋へや七色なないろ色硝子ガラスランタンをともし、あしの高い机に向かいながら、厚い本ばかり読んでいるのです。はある時 こういうマッグと河童の恋愛を論じ合いました。
「なぜ政府はめすの河童が雄の河童を追いかけるのを もっと厳重に取り締まらないのです?」
「それは一つには官吏の中に めすの河童の少ないためですよ。めすの河童は雄の河童よりも いっそう嫉妬心しっとしんは強いものですからね、めすの河童の官吏さええれば、きっと今よりも雄の河童は 追いかけられずに暮らせるでしょう。しかしその効力もしれたものですね。なぜと言ってごらんなさい。官吏同志でも めすの河童は雄の河童を 追いかけますからね。」
「じゃあなたのように暮らしているのは 一番幸福なわけですね。」
 するとマッグ椅子いすを離れ、の両手を握ったまま、ため息といっしょにこう言いました。
「あなたは我々河童ではありませんから、おわかりにならないのも もっともです。しかしわたしもどうかすると、あの恐ろしい雌の河童に 追いかけられたい気も起こるのですよ。」


     

 はまた詩人のトックと たびたび音楽会へも出かけました。が、いまだに忘れられないのは 三度目にきにいった音楽会のことです。
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もっとも会場の容子ようすなどは あまり日本と変わっていません。やはり だんだんせり上がった席に雌雄めすおすの河童が三四百匹、いずれもプログラムを手にしながら、一心に耳を澄ませているのです。はこの三度目の音楽会の時には トックやトックのめすの河童のほかにも 哲学者のマッグといっしょになり、一番前の席にすわっていました。するとチェロの独奏が終わったのち、妙に目の細い河童が一匹、無造作むぞうさ譜本ふほん【楽譜】をかかえたまま、壇の上へ上がってきました。この河童はプログラムの教えるとおり、名高いクラバックという作曲家です。プログラムの教えるとおり、‥‥いや、プログラムを見るまでもありません。クラバックトックが属している超人倶楽部クラブの会員ですから、もまた顔だけは知っているのです。
「Lied‥‥Craback」(この国のプログラムも たいていは独逸ドイツ語を並べていました。)
 クラバックは盛んな拍手のうちに ちょっと我々へ一礼した後、静かにピアノの前へ歩み寄りました。それからやはり無造作に 自作のリード【メロディー】をきはじめました。クラバックトックの言葉によれば、この国の生んだ音楽家中、前後に比類のない天才だそうです。クラバックの音楽はもちろん、そのまた余技叙情じょじょうにも 興味を持っていましたから、大きい弓なりのピアノの音に 熱心に耳を傾けていました。トックマッグ恍惚こうこつとしていたことは あるいはよりもまさっていたでしょう。が、あの美しい(少なくとも河童かっぱたちの話によれば)めすの河童だけはしっかりプログラムを握ったなり、時々さもいらだたしそうに 長い舌をべろべろ出していました。これはマッグの話によれば、なんでもかれこれ十年ぜんクラバックをつかまえ そこなったものですから、いまだにこの音楽家を目のかたきにしているのだとか いうことです。
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 クラバックは全身に情熱をこめ、戦うようにピアノをきつづけました。すると突然会場の中に神鳴りのように響き渡ったのは「演奏禁止」という声です。はこの声にびっくりし、思わず後ろをふり返りました。声の主は紛れもない、一番後ろの席にいるたけ抜群の巡査です、巡査はがふり向いた時、悠然ゆうぜんと腰をおろしたまま、もう一度 前よりもおお声に「演奏禁止」と怒鳴どなりました。それから、‥‥
 それから先は大混乱です。「警官横暴!」「クラバック、弾け! 弾け!」「莫迦ばか!」「畜生!」「ひっこめ!」「負けるな!」‥‥こういう声のわき上がった中に椅子いすは倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけにだれが投げるのか、サイダーの空罎あきびんや 石ころや かじりかけの胡瓜きゅうりさえ降ってくるのです。にとられましたから、トックにその理由を尋ねようとしました。が、トックも興奮したとみえ、椅子の上に突っ立ちながら、「クラバック、弾け! 弾け!」とわめきつづけています。のみならずトックめすの河童も いつのに敵意を忘れたのか、「警官横暴」と叫んでいることは少しもトックに変わりません。はやむを得ずマッグに向かい、「どうしたのです?」と尋ねてみました。
「これですか? これはこの国ではよくあることですよ。元来だの文芸だのは……」
 マッグは何か飛んでくるたびに ちょっとくびを縮めながら、相変わらず静かに説明しました。
「元来画だの文芸だのは だれの目にも何を表わしているかは とにかくちゃんと わかるはずですから、この国では決して発売禁止や 展覧禁止は行なわれません。その代わりにあるのが演奏禁止です。なにしろ音楽というものだけは どんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。」
「しかしあの巡査は耳があるのですか?」
「さあ、それは疑問ですね。
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たぶん今の旋律を聞いているうちに 細君といっしょに寝ている時の 心臓の鼓動でも思い出したのでしょう。」
 こういう間にも 大騒ぎはいよいよ盛んになるばかりです。クラバックはピアノに向かったまま、傲然ごうぜんと我々をふり返っていました。が、いくら傲然ごうぜんとしていても、いろいろのものの飛んでくるのは よけないわけにゆきません。従ってつまり二三秒置きに せっかくの態度も変わったわけです。しかしとにかく だいたいとしては 大音楽家の威厳を保ちながら、細い目を すさまじく かがやかせていました。は‥‥ももちろん危険を避けるために トック小楯こだてにとっていたものです。が、やはり好奇心に駆られ、熱心にマッグと話しつづけました。
「そんな検閲は乱暴じゃありませんか?」
「なに、どの国の検閲よりも かえって進歩しているくらいですよ。たとえば××をごらんなさい。現につい一月ひとつきばかり前にも、……」
 ちょうどこう言いかけたとたんです。マッグはあいにく脳天に空罎が落ちたものですから、quack(これはただ間投詞かんとうしです)と一声叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。


     

 硝子ガラス会社の社長のゲエルに不思議にも 好意を持っていました。ゲエルは資本家中の資本家です。おそらくはこの国の河童かっぱの中でも、ゲエルほど大きい腹をした河童は 一匹もいなかったのに違いありません。しかし茘枝れいし【ライチ】に似た細君や 胡瓜きゅうりに似た子どもを左右にしながら、安楽椅子いすにすわっているところは ほとんど幸福そのものです。は時々 裁判官のペップや医者のチャックにつれられて ゲエル晩餐ばんさんへ出かけました。またゲエルの紹介状を持って ゲエルやゲエルの友人たちが多少の関係を持っている いろいろの工場も見て歩きました。そのいろいろの工場の中でも ことににおもしろかったのは 書籍製造会社の工場です。
18/52
は年の若い河童の技師とこの工場の中へはいり、水力電気を動力にした、大きい機械をながめた時、今さらのように 河童の国の機械工業の進歩に驚嘆しました。なんでもそこでは 一年間に七百万部の本を製造するそうです。が、を驚かしたのは本の部数ではありません。それだけの本を製造するのに 少しも手数のかからないことです。なにしろこの国では本を造るのに ただ機械の漏斗形じょうごがたの口へ 紙とインクと灰色をした粉末とを 入れるだけなのですから。それらの原料は機械の中へはいると、ほとんど五分とたたないうちに菊版きくばん四六版しろくばん菊半裁版きくはんさいばんなどの無数の本になって出てくるのです。たきのように流れ落ちる いろいろの本をながめながら、り身になった河童の技師に その灰色の粉末はなんと言うものかと尋ねてみました。すると技師は黒光りに光った機械の前に たたずんだまま、つまらなそうにこう返事をしました。
「これですか? これは驢馬ろばの脳髄ですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざっと粉末にしただけのものです。時価は一とん二三銭ですがね。」
 もちろんこういう工業上の奇跡は 書籍製造会社にばかり起こっているわけでは ありません。絵画製造会社にも、音楽製造会社にも、同じように起こっているのです。実際またゲエルの話によれば、この国では平均一か月に七八百種の機械が新案され、なんでも ずんずん人手を待たずに 大量生産が行なわれるそうです。従ってまた職工の解雇かいこされるのも 四五万匹を下らないそうです。そのくせまだこの国では毎朝新聞を読んでいても、一度も罷業ひぎょう【ストライキ】という字に出会いません。はこれを妙に思いましたから、ある時またペップチャックゲエル家の 晩餐に招かれた機会に このことをなぜかと尋ねてみました。
「それはみんな食ってしまうのですよ。」
 食後の葉巻をくわえたゲエルは いかにも無造作むぞうさにこう言いました。
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しかし「食ってしまう」というのは なんのことだかわかりません。すると鼻目金はなめがねをかけたチャックの不審を察したとみえ、横あいから説明を加えてくれました。
「その職工をみんな殺してしまって、肉を食料に使うのです。ここにある新聞をごらんなさい。今月はちょうど六万四千七百六十九匹の職工が 解雇かいこされましたから、それだけ肉の値段も下がったわけですよ。」
「職工は黙って殺されるのですか?」
「それは騒いでもしかたはありません。職工屠殺法しょっこうとさつほうがあるのですから。」
 これは山桃やまもも鉢植はちうえを後ろに 苦い顔をしていたペップの言葉です。はもちろん不快を感じました。しかし主人公のゲエルはもちろん、ペップチャックもそんなことは当然と 思っているらしいのです。現にチャックは笑いながら、あざけるようにに話しかけました。
「つまり餓死がししたり自殺したりする手数を 国家的に省略してやるのですね。ちょっと有毒瓦斯ガスをかがせるだけですから、たいした苦痛はありませんよ。」
「けれどもその肉を食うというのは、……」
常談じょうだんを言ってはいけません。あのマッグに聞かせたら、さぞ大笑いに笑うでしょう。あなたの国でも第四階級の娘たちは 売笑婦になっているではありませんか? 職工の肉を食うことなどに 憤慨したりするのは感傷主義ですよ。」
 こういう問答を聞いていたゲエルは 手近いテーブルの上にあった サンドウィッチの皿を勧めながら、恬然てんぜん【平然】とにこう言いました。
「どうです? 一つとりませんか? これも職工の肉ですがね。」
 はもちろん辟易へきえきしました。いや、そればかりではありません。ペップチャックの笑い声を後ろに ゲエルの客間を飛び出しました。それはちょうど 家々の空に星明かりも見えない 荒れ模様の夜です。はそのやみの中を住居すまいへ帰りながら、のべつ幕なしに嘔吐へどを吐きました。
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夜目にもしらじらと流れる嘔吐を。


     

 しかし硝子ガラス会社の社長のゲエルは 人なつこい河童かっぱだったのに違いません。は たびたびゲエルといっしょに ゲエルの属している倶楽部クラブへ行き、愉快に一晩を暮らしました。これは一つには その倶楽部はトックの属している超人倶楽部よりも はるかに居心いごころのよかったためです。のみならずまたゲエルの話は 哲学者のマッグの話のように 深みを持っていなかったにせよ、には全然新しい世界を、‥‥広い世界をのぞかせました。ゲエルは、いつも純金のさじ珈琲カッフェ茶碗ちゃわんをかきまわしながら、快活にいろいろの話をしたものです。
 なんでもある霧の深い晩、冬薔薇ふゆそうびを盛った花瓶かびんを中に ゲエルの話を聞いていました。それはたしか部屋へや全体はもちろん、椅子いすやテーブルも白い上に 細い金のふちをとった セセッション風の部屋だったように覚えています。ゲエルは ふだんよりも得意そうに 顔中に微笑をみなぎらせたまま、ちょうどそのころ天下を取っていた Quorax 党内閣のことなどを話しました。クオラックスという言葉は ただ意味のない間投詞かんとうしですから、「おや」とでも訳すほかはありません。が、とにかく何よりも先に「河童全体の利益」ということを標榜ひょうぼうしていた政党だったのです。
「クオラックス党を支配しているものは 名高い政治家のロッペです。『正直は最良の外交である』とはビスマルクの言った言葉でしょう。しかしロッペは 正直を内治ないちの上にも及ぼしているのです。……」
「けれどもロッペの演説は……」
「まあ、わたしの言うことをお聞きなさい。あの演説はもちろんことごとくうそです。が、譃ということはだれでも知っていますから、畢竟ひっきょう【つまるところ】正直と変わらないでしょう、それを一概に譃と言うのは あなたがた だけの偏見ですよ。
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我々河童かっぱはあなたがたのように、……しかしそれはどうでもよろしい。わたしの話したいのはロッペのことです。ロッペはクオラックス党を支配している、そのまたロッペを支配しているものは Pou-Fou 新聞の(この『プウ・フウ』という言葉もやはり意味のない間投詞かんとうしです。もしいて訳すれば、『ああ』とでも言うほかはありません。)社長のクイクイです。が、クイクイも彼自身の主人というわけにはゆきません。クイクイを支配しているものは あなたの前にいるゲエルです。」
「けれども‥‥これは失礼かもしれませんけれども、プウ・フウ新聞は労働者の味かたをする新聞でしょう。その社長のクイクイも あなたの支配を受けているというのは、……」
「プウ・フウ新聞の記者たちはもちろん労働者の味かたです。しかし記者たちを支配するものは クイクイのほかはありますまい。しかもクイクイは このゲエルの後援を受けずにはいられないのです。」
 ゲエルは相変わらず微笑しながら、純金のさじをおもちゃにしています。はこういうゲエルを見ると、ゲエル自身を憎むよりも、プウ・フウ新聞の記者たちに同情の起こるのを感じました。するとゲエルの無言に たちまちこの同情を感じたとみえ、大きい腹をふくらませてこう言うのです。
「なに、プウ・フウ新聞の記者たちも 全部労働者の味かたではありませんよ。少なくとも我々河童というものは だれの味かたをするよりも先に 我々自身の味かたをしますからね。……しかしさらに厄介やっかいなことには このゲエル自身さえ やはり他人の支配を受けているのです。あなたはそれをだれだと思いますか? それは わたしの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。」
 ゲエルはおお声に笑いました。
「それはむしろしあわせでしょう。」
「とにかくわたしは満足しています。
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しかしこれもあなたの前だけに、‥‥河童でないあなたの前だけに 手放しで吹聴ふいちょうできるのです。」
「するとつまりクオラックス内閣は ゲエル夫人が支配しているのですね。」
「さあそうも言われますかね。……しかし七年まえの戦争などは たしかにあるめすの河童のために 始まったものに違いありません。」
「戦争? この国にも戦争はあったのですか?」
「ありましたとも。将来もいつあるかわかりません。なにしろ隣国のある限りは、……」
 は 実際この時はじめて 河童の国も国家的に孤立していないことを知りました。ゲエルの説明するところによれば、河童かっぱはいつもかわうそを 仮設敵にしているということです。しかもかわうそは 河童に負けない軍備をそなえているということです。はこのかわうそを相手に 河童の戦争した話に少なからず興味を感じました。(なにしろ河童の強敵にかわうそのいる などということは「水虎考略すいここうりゃく」の著者はもちろん、「山島民譚集さんとうみんたんしゅう」の著者柳田国男やなぎだくにおさんさえ 知らずにいたらしい新事実ですから。)
「あの戦争の起こる前には もちろん両国とも油断せずに じっと相手をうかがっていました。というのは どちらも同じように相手を恐怖していたからです。そこへこの国にいたかわうそが一匹、ある河童の夫婦を訪問しました。そのまためすの河童というのは 亭主を殺すつもりでいたのです。なにしろ亭主は道楽者でしたからね。おまけに生命保険のついていたことも 多少の誘惑になったかもしれません。」
「あなたはその夫婦を御存じですか?」
「ええ、‥‥いや、おすの河童だけは知っています。わたしの妻などは この河童を悪人のように言っていますがね。しかしわたしに言わせれば、悪人よりもむしろ めすの河童につかまることを恐れている 被害妄想ひがいもうぞうの多い狂人です。……そこでこのめすの河童は 亭主のココア茶碗ちゃわんの中へ 青化加里せいかかりを入れておいたのです。
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それをまたどう間違まちがえたか、客のかわうそに飲ませてしまったのです。かわうそはもちろん死んでしまいました。それから……」
「それから戦争になったのですか?」
「ええ、あいにくそのかわうそは勲章を持っていたものですからね。」
「戦争はどちらの勝ちになったのですか?」
「もちろんこの国の勝ちになったのです。三十六万九千五百匹の河童たちは そのために健気けなげにも戦死しました。しかし敵国に比べれば、そのくらいの損害はなんともありません。この国にある毛皮という毛皮は たいていかわうその毛皮です。わたしもあの戦争の時には 硝子ガラスを製造するほかにも 石炭がらを戦地へ送りました。」
「石炭殻を何にするのですか?」
「もちろん食糧にするのです。我々は、河童は腹さえ減れば、なんでも食うのにきまっていますからね。」
「それは‥‥どうかおこらずにください。それは戦地にいる河童たちには……我々の国では醜聞しゅうぶん【スキャンダル】ですがね。」
「この国でも醜聞しゅうぶんには違いありません。しかしわたし自身こう言っていれば、だれも醜聞しゅうぶんにはしないものです。哲学者のマッグも言っているでしょう。『なんじ【そなた】の悪は汝自ら言え。悪はおのずから消滅すべし。』……しかもわたしは利益のほかにも 愛国心に燃え立っていたのですからね。」
 ちょうどそこへ はいってきたのは この倶楽部クラブの給仕です。給仕はゲエルにお時宜じぎをしたのち、朗読でもするようにこう言いました。
「お宅のお隣に火事がございます。」
「火‥‥火事!」
 ゲエルは驚いて立ち上がりました。も立ち上がったのはもちろんです。が、給仕は落ち着き払って次の言葉をつけ加えました。
「しかしもう消し止めました。」
 ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑いに近い表情をしました。はこういう顔を見ると、いつかこの硝子ガラス会社の社長を 憎んでいたことに気づきました。
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が、ゲエルはもう今では大資本家でもなんでもない ただの河童かっぱになって立っているのです。花瓶かびんの中の冬薔薇ふゆそうびの花を抜き、ゲエルの手へ渡しました。
「しかし火事は消えたといっても、奥さんはさぞお驚きでしょう。さあ、これを持ってお帰りなさい。」
「ありがとう。」
 ゲエルの手を握りました。それから急ににやりと笑い、小声にこうに話しかけました。
「隣は わたしの家作かさくですからね。火災保険の金だけはとれるのですよ。」
 はこの時のゲエルの微笑を‥‥軽蔑けいべつすることもできなければ、憎悪ぞうおすることもできない ゲエルの微笑をいまだにありありと覚えています。


     

「どうしたね? きょうはまた妙にふさいでいるじゃないか?」
 その火事のあった翌日です。巻煙草まきたばこをくわえながら、の客間の椅子いすに腰をおろした学生のラップに こう言いました。実際またラップは右のあしの上へ左の脚をのせたまま、腐ったくちばしも見えないほど、ぼんやりゆかの上ばかり見ていたのです。
ラップ君、どうしたね。」と言えば、
「いや、なに、つまらないことなのですよ。‥‥」
 ラップはやっと頭をあげ、悲しい鼻声を出しました。
「僕はきょう窓の外を見ながら、『おや虫取りすみれが咲いた』と何気なにげなしにつぶやいたのです。すると僕の妹は急に顔色を変えたと思うと、『どうせわたしは虫取りすみれよ』と当たり散らすじゃありませんか? おまけにまた僕のおふくろもだいの妹贔屓びいきですから、やはり僕に食ってかかるのです。」
「虫取りすみれが咲いたということは どうして妹さんには不快なのだね?」
「さあ、たぶんおすの河童をつかまえるという意味にでも とったのでしょう。そこへおふくろと仲悪い叔母おば喧嘩けんかの仲間入りをしたのですから、いよいよ大騒動になってしまいました。
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しかも年中酔っ払っているおやじは この喧嘩を聞きつけると、たれかれの差別なしになぐり出したのです。それだけでも始末のつかないところへ 僕の弟はそのあいだに おふくろの財布さいふを盗むが早いか、キネマか何かを見にいってしまいました。僕は……ほんとうに僕はもう、……」
 ラップは両手に顔をうずめ、何も言わずに泣いてしまいました。の同情したのはもちろんです。同時にまた家族制度に対する 詩人のトックの軽蔑を思い出したのも もちろんです。ラップの肩をたたき、一生懸命いっしょうけんめいなぐさめました。
「そんなことは どこでもありがちだよ。まあ勇気を出したまえ。」
「しかし……しかしくちばしでも腐っていなければ、……」
「それはあきらめるほかはないさ。さあ、トック君のうちへでも行こう。」
トックさんは僕を軽蔑けいべつしています。僕はトックさんのように 大胆に家族を捨てることができませんから。」
「じゃクラバック君の家へ行こう。」
 はあの音楽会以来、クラバックにも友だちになっていましたから、とにかくこの大音楽家の家へ ラップをつれ出すことにしました。クラバックトックに比べれば、はるかに贅沢ぜいたくに暮らしています。というのは資本家のゲエルのように 暮らしているという意味ではありません。ただいろいろの骨董こっとうを、‥‥タナグラの人形ペルシャの陶器部屋へやいっぱいに並べた中に トルコ風の長椅子ながいすえ、クラバック自身の肖像画の下に いつも子どもたちと遊んでいるのです。が、きょうはどうしたのか両腕を胸へ組んだまま、苦い顔をしてすわっていました。のみならずそのまた足もとには 紙屑かみくずが一面に散らばっていました。ラップも詩人トックといっしょに たびたびクラバックには会っているはずです。しかしこの容子ようすに恐れたとみえ、きょうは丁寧ていねいにお時宜じぎをしたなり、黙って部屋のすみに腰をおろしました。
「どうしたね? クラバック君。」
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 はほとんど挨拶あいさつの代わりに こう大音楽家へ問いかけました。
「どうするものか? 批評家の阿呆あほうめ! 僕の叙情じょじょう詩は トックの叙情詩と比べものに ならないと言やがるんだ。」
「しかし君は音楽家だし、……」
「それだけならば我慢がまんもできる。僕はロックに比べれば、音楽家の名に価しないと言やがるじゃないか?」
 ロックというのは クラバックと たびたび比べられる音楽家です。が、あいにく超人倶楽部クラブの会員になっていない関係上、は一度も話したことはありません。もっともくちばしり上がった、一癖ひとくせあるらしい顔だけは たびたび写真でも見かけていました。
ロックも天才には違いない。しかしロックの音楽は 君の音楽にあふれている近代的情熱を持っていない。」
「君はほんとうにそう思うか?」
「そう思うとも。」
 するとクラバックは立ち上がるが早いか、タナグラの人形をひっつかみ、いきなりゆかの上にたたきつけました。ラップはよほど驚いたとみえ、何か声をあげて逃げようとしました。が、クラバックラップにはちょっと「驚くな」という手真似てまねをした上、今度は冷やかにこう言うのです。
「それは君もまた俗人ぞくじん【一般の人】のように耳を持っていないからだ。僕はロックを恐れている。……」
「君が? 謙遜家けんそんかを気どるのはやめたまえ。」
「だれが謙遜家けんそんかを気どるものか? 第一君たちに気どって見せるくらいならば、批評家たちの前に気どって見せている。僕は‥‥クラバックは天才だ。その点ではロックを恐れていない。」
「では何を恐れているのだ?」
「何か正体しょうたいの知れないものを、‥‥言わばロックを支配している星を。」
「どうもにはに落ちないがね。」
「ではこう言えばわかるだろう。ロックは僕の影響を受けない。が、僕はいつのにかロックの影響を受けてしまうのだ。」
「それは君の感受性の……。」
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「まあ、聞きたまえ。感受性などの問題ではない。ロックはいつも安んじて あいつだけにできる仕事をしている。しかし僕はいらいらするのだ。それはロックの目から見れば、あるいは一歩の差かもしれない。けれども僕には十マイルも違うのだ。」
「しかし先生の英雄曲は……」
 クラバックは細い目をいっそう細め、いまいましそうにラップをにらみつけました。
「黙りたまえ。君などに何がわかる? 僕はロックを知っているのだ。ロックに平身低頭する犬どもよりも ロックを知っているのだ。」
「まあ少し静かにしたまえ。」
「もし静かにしていられるならば、……僕はいつもこう思っている。‥‥僕らの知らない何ものかは僕を、‥‥クラバックをあざけるために ロックを僕の前に立たせたのだ。哲学者のマッグはこういうことを なにもかも承知している。いつもあの色硝子ガラスのランタンの下に 古ぼけた本ばかり読んでいるくせに。」
「どうして?」
「この近ごろマッグの書いた『阿呆あほうの言葉』という本を見たまえ。‥‥」
 クラバックに一冊の本を渡す‥‥というよりも投げつけました。それからまた腕を組んだまま、つっけんどんにこう言い放ちました。
「じゃきょうは失敬しよう。」
 はしょげ返ったラップといっしょに もう一度往来へ出ることにしました。人通りの多い往来は 相変わらず毛生欅ぶなの並み木のかげに いろいろの店を並べています。らはなんということもなしに 黙って歩いてゆきました。するとそこへ通りかかったのは 髪の長い詩人のトックです。トックらの顔を見ると、腹の袋から手巾ハンケチを出し、何度も額をぬぐいました。
「やあ、しばらく会わなかったね。僕はきょうは久しぶりに クラバックを尋ねようと思うのだが、……」
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 はこの芸術家たちを喧嘩けんかさせては悪いと思い、クラバックのいかにも不機嫌ふきげんだったことを 婉曲えんきょくトックに話しました。
「そうか。じゃやめにしよう。なにしろクラバックは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱っているのだ。」
「どうだね、らといっしょに散歩をしては?」
「いや、きょうはやめにしよう。おや!」
 トックはこう叫ぶが早いか、しっかりの腕をつかみました。しかもいつか体中からだじゅうに冷汗を流しているのです。
「どうしたのだ?」
「どうしたのです?」
「なにあの自動車の窓の中から 緑いろのさるが一匹首を出したように見えたのだよ。」
 は多少心配になり、とにかくあの医者のチャックに 診察してもらうように勧めました。しかしトックはなんと言っても、承知する気色けしきさえ見せません。のみならず何か疑わしそうにらの顔を見比べながら、こんなことさえ言い出すのです。
「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきっと忘れずにいてくれたまえ。‥‥ではさようなら。チャックなどはまっぴらごめんだ。」
 らは ぼんやり たたずんだまま、トックの後ろ姿を見送っていました。らは‥‥いや、「ら」ではありません。学生のラップはいつの間にか 往来のまん中にあしをひろげ、しっきりない自動車や人通りを 股目金まためがねにのぞいているのです。はこの河童かっぱも発狂したかと思い、驚いてラップを引き起こしました。
常談じょうだんじゃない。何をしている?」
 しかしラップは目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。
「いえ、あまり憂鬱ゆううつですから、さかさまに世の中をながめて見たのです。けれどもやはり同じことですね。」


     十一

 これは哲学者のマッグの書いた「阿呆あほうの言葉」の中の何章かです。
29/52
‥‥
        ×
 阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。
        ×
 我々の自然を愛するのは 自然は我々を憎んだり嫉妬しっとしたりしないため も ないことはない。
        ×
 もっとも賢い生活は一時代の習慣を軽蔑けいべつしながら、しかもそのまた習慣を 少しも破らないように暮らすことである。
        ×
 我々のもっとも誇りたいものは 我々の持っていないものだけである。
        ×
 なんびとも偶像を破壊することに 異存を持っているものはない。同時にまた何びとも偶像になることに 異存を持っているものはない。しかし偶像の台座の上に 安んじてすわっていられるものは もっとも神々に恵まれたもの、‥‥阿呆か、悪人か、英雄かである。(クラバックはこの章の上へ つめあとをつけていました。)
        ×
 我々の生活に必要な思想は三千年ぜんに尽きたかもしれない。我々はただ古いたきぎに新しい炎を加えるだけであろう。
        ×
 我々の特色は 我々自身の意識を超越するのを常としている。
        ×
 幸福は苦痛を伴い、平和は倦怠けんたいを伴うとすれば、‥‥?
        ×
 自己を弁護することは 他人を弁護することよりも困難である。疑うものは弁護士を見よ。
        ×
 矜誇きょうか、愛欲、疑惑‥‥あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。同時にまた おそらくは あらゆる徳も。
        ×
 物質的欲望を減ずることは 必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには 精神的欲望も減じなければならぬ。(クラバックはこの章の上にも つめあとを残していました。)
        ×
 我々は人間よりも不幸である。人間は河童かっぱほど進化していない。
30/52
はこの章を読んだ時思わず笑ってしまいました。)
        ×
 成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すことである。畢竟ひっきょう【つまるところ】我々の生活は こういう循環論法を脱することはできない。‥‥すなわち不合理に終始している。
        ×
 ボードレールは白痴になったのち、彼の人生観をたった一語に、‥‥女陰の一語に表白した【自分の全存在をその一言に賭けて表明した】。しかし彼自身を語るものは 必ずしもこう言ったことではない。むしろ彼の天才に、‥‥彼の生活を維持するに足る 詩的天才に信頼したために 胃袋の一語を忘れたことである。(この章にもやはり クラバックの爪の痕は残っていました。)
        ×
 もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴォルテエルの幸福に 一生をおわったのは すなわち 人間の河童よりも進化していないことを示すものである。


     十二

 ある割合に寒い午後です。は「阿呆あほうの言葉」を読み飽きましたから、哲学者のマッグを尋ねに出かけました。するとある寂しい町のかどに 蚊のようにやせた河童かっぱが一匹、ぼんやり壁によりかかっていました。しかもそれは紛れもない、いつかの万年筆を盗んでいった河童なのです。はしめたと思いましたから、ちょうどそこへ通りかかった、たくましい巡査を呼びとめました。
「ちょっとあの河童を取り調べてください。あの河童はちょうど一月ひとつきばかり前に わたしの万年筆を盗んだのですから。」
 巡査は右手の棒をあげ、(この国の巡査はけんの代わりに 水松いちいの棒を持っているのです。)「おい、君」とその河童へ声をかけました。はあるいは その河童は逃げ出しはしないかと思っていました。が、存外落ち着き払って巡査の前へ歩み寄りました。
31/52
のみならず腕を組んだまま、いかにも傲然ごうぜんの顔や巡査の顔をじろじろ見ているのです。しかし巡査はおこりもせず、腹の袋から手帳を出して さっそく尋問にとりかかりました。
「お前の名は?」
「グルック。」
「職業は?」
「つい二三日前までは郵便配達夫をしていました。」
「よろしい。そこでこの人の申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んでいったということだがね。」
「ええ、一月ばかり前に盗みました。」
「なんのために?」
「子どもの玩具おもちゃにしようと思ったのです。」
「その子どもは?」
 巡査ははじめて相手の河童へ鋭い目を注ぎました。
「一週間前に死んでしまいました。」
「死亡証明書を持っているかね?」
 やせた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出しました。巡査はその紙へ目を通すと、急ににやにや笑いながら、相手の肩をたたきました。
「よろしい。どうも御苦労だったね。」
 呆気あっけにとられたまま、巡査の顔をながめていました。しかもそのうちに やせた河童は何か ぶつぶつ つぶやきながら、らを後ろにして行ってしまうのです。はやっと気をとり直し、こう巡査に尋ねてみました。
「どうしてあの河童をつかまえないのです?」
「あの河童は無罪ですよ。」
「しかしの万年筆を盗んだのは……」
「子どもの玩具にするためだったのでしょう。けれどもその子どもは死んでいるのです。もし何か御不審だったら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。」
 巡査はこう言いすてたなり、さっさとどこかへ行ってしまいました。はしかたがありませんから、「刑法千二百八十五条」を口の中に繰り返し、マッグうちへ急いでゆきました。哲学者のマッグは客好きです。
32/52
現にきょうも薄暗い部屋へやには 裁判官のペップや医者のチャック硝子ガラス会社の社長のゲエルなどが集まり、七色なないろ色硝子ガラスのランタンの下に 煙草たばこの煙を立ちのぼらせていました。そこに裁判官のペップが来ていたのは 何よりもにはこうつごうです。椅子いすにかけるが早いか、刑法第千二百八十五条をしらべる代わりに さっそくペップへ問いかけました。
ペップ君、はなはだ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?」
 ペップ金口きんぐちの煙草の煙を まず悠々ゆうゆうと吹き上げてから、いかにもつまらなそうに返事をしました。
「罰しますとも。死刑さえ行なわれるくらいですからね。」
「しかし一月ひとつきばかり前に、……」
 は委細を話したのち、例の刑法千二百八十五条のことを尋ねてみました。
「ふむ、それはこういうのです。‥‥『いかなる犯罪を行ないたりといえども、がい犯罪を行なわしめたる事情の消失したる後は 該犯罪者を処罰することを得ず』つまりあなたの場合で言えば、その河童かっぱはかつては親だったのですが、今はもう親ではありませんから、犯罪も自然と消滅するのです。」
「それはどうも不合理ですね。」
常談じょうだんを言ってはいけません。親だった河童も親である河童も同一に見るのこそ不合理です。そうそう、日本の法律では同一に見ることになっているのですね。それはどうも我々には滑稽こっけいです。ふふふふふふふふふふ。」
 ペップは巻煙草をほうり出しながら、気のない薄笑いをもらしていました。そこへ口を出したのは法律には縁の遠いチャックです。チャックはちょっと鼻目金はなめがねを直し、こうに質問しました。
「日本にも死刑はありますか?」
「ありますとも。日本では絞罪こうざいです。」
 は冷然と構えこんだペップに 多少反感を感じていましたから、この機会に皮肉を浴びせてやりました。
「この国の死刑は 日本よりも文明的にできているでしょうね?」
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「それはもちろん文明的です。」
 ペップはやはり落ち着いていました。
「この国では絞罪などは用いません。まれには電気を用いることもあります。しかしたいていは電気も用いません。ただその犯罪の名を言って聞かせるだけです。」
「それだけで河童は死ぬのですか?」
「死にますとも。我々河童の神経作用は あなたがたのよりも微妙ですからね。」
「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使うのがあります‥‥」
 社長のゲエル色硝子ガラスの光に 顔中 紫に染まりながら、人なつこい笑顔えがおをして見せました。
「わたしはこの間もある社会主義者に『貴様は盗人ぬすびとだ』と言われたために心臓痲痺まひを起こしかかったものです。」
「それは案外多いようですね。わたしの知っていたある弁護士などは やはりそのために死んでしまったのですからね。」
 はこう口を入れた河童かっぱ、‥‥哲学者のマッグをふりかえりました。マッグはやはりいつものように 皮肉な微笑を浮かべたまま、だれの顔も見ずにしゃべっているのです。
「その河童はだれかにかえるだと言われ、‥‥もちろんあなたも御承知でしょう、この国で蛙だと言われるのは 人非人にんぴにんという意味になることぐらいは。‥‥おれは蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考えているうちに とうとう死んでしまったものです。」
「それはつまり自殺ですね。」
「もっともその河童を蛙だと言ったやつは 殺すつもりで言ったのですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺という……」
 ちょうどマッグがこう言った時です。突然その部屋へやの壁の向こうに、‥‥たしかに詩人のトックの家に 鋭いピストルの音が一発、空気をはね返すように響き渡りました。


     十三

 らはトックの家へ駆けつけました。
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トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物の鉢植はちうえの中に 仰向あおむけになって倒れていました。そのまたそばにはめすの河童が一匹、トックの胸に顔をうずめ、大声をあげて泣いていました。めすの河童を抱き起こしながら、(いったいはぬらぬらする河童の皮膚に 手を触れることを あまり好んではいないのですが。)「どうしたのです?」と尋ねました。
「どうしたのだか、わかりません。ただ何か書いていたと思うと、いきなりピストルで頭を打ったのです。ああ、わたしはどうしましょう? qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r」(これは河童の泣き声です。)
「なにしろトック君は わがままだったからね。」
 硝子ガラス会社の社長のゲエルは 悲しそうに頭を振りながら、裁判官のペップにこう言いました。しかしペップは何も言わずに 金口きんぐち巻煙草まきたばこに火をつけていました。すると今までひざまずいて、トック創口きずぐちなどを調べていたチャックは いかにも医者らしい態度をしたまま、ら五人に宣言しました。(実はひとりと四匹しひきとです。)
「もう駄目だめです。トック君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱ゆううつになりやすかったのです。」
「何か書いていたということですが。」
 哲学者のマッグは 弁解するようにこうひとごとをもらしながら、机の上の紙をとり上げました。らは皆くびをのばし、(もっともだけは例外です。)幅の広いマッグの肩越しに 一枚の紙をのぞきこみました。

「いざ、立ちてゆかん。娑婆界しゃばかいを隔つる谷へ。
 岩むらはこごしく、やま水は清く、
 薬草の花はにおえる谷へ。」

 マッグらをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。
「これはゲーテの『ミニヨンの歌』の剽窃ひょうせつですよ。するとトック君の自殺したのは 詩人としても疲れていたのですね。」
35/52
 そこへ偶然自動車を乗りつけたのは あの音楽家のクラバックです。クラバックはこういう光景を見ると、しばらく戸口にたたずんでいました。が、らの前へ歩み寄ると、怒鳴どなりつけるようにマッグに話しかけました。
「それはトック遺言状ゆいごんじょうですか?」
「いや、最後に書いていた詩です。」
「詩?」
 やはり少しも騒がないマッグは 髪を逆立さかだてたクラバックトックの詩稿を渡しました。クラバックはあたりには目もやらずに 熱心にその詩稿を読み出しました。しかもマッグの言葉には ほとんど返事さえしないのです。
「あなたはトック君の死をどう思いますか?」
「いざ、立ちて、……もまたいつ死ぬかわかりません。……娑婆界しゃばかいを隔つる谷へ。……」
「しかしあなたはトック君とは やはり親友のひとりだったのでしょう?」
「親友? トックはいつも孤独だったのです。……娑婆界を隔つる谷へ、……ただトックは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
「不幸にも?」
「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
 はいまだに泣き声を絶たない めす河童かっぱに同情しましたから、そっと肩をかかえるようにし、部屋へやすみ長椅子ながいすへつれていきました。そこには二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らずに笑っているのです。めすの河童の代わりに 子どもの河童をあやしてやりました。するといつかの目にも涙のたまるのを感じました。が河童の国に住んでいるうちに 涙というものをこぼしたのは 前にもあとにもこの時だけです。
「しかしこういう わがままの河童といっしょになった家族は 気の毒ですね。」
「なにしろあとのことも考えないのですから。」
 裁判官のペップは相変わらず、新しい巻煙草まきたばこに火をつけながら、資本家のゲエルに返事をしていました。
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するとらを驚かせたのは 音楽家のクラバックのおお声です。クラバックは詩稿を握ったまま、だれにともなしに呼びかけました。
「しめた! すばらしい葬送曲ができるぞ。」
 クラバックは細い目をかがやかせたまま、ちょっとマッグの手を握ると、いきなり戸口へ飛んでいきました。もちろんもうこの時には隣近所の河童が大勢、トックの家の戸口に集まり、珍しそうに家の中をのぞいているのです。しかしクラバックはこの河童たちを 遮二無二しゃにむに左右へ押しのけるが早いか、ひらりと自動車へ飛び乗りました。同時にまた自動車は爆音を立てて たちまちどこかへ行ってしまいました。
「こら、こら、そうのぞいてはいかん。」
 裁判官のペップは巡査の代わりに 大勢の河童かっぱを押し出したのちトックの家の戸をしめてしまいました。部屋へやの中はそのせいか急にひっそりなったものです。らはこういう静かさの中に‥‥高山植物の花の香に交じった トックの血のにおいの中に 後始末あとしまつのことなどを相談しました。しかしあの哲学者のマッグだけは トック死骸しがいをながめたまま、ぼんやり何か考えています。マッグの肩をたたき、「何を考えているのです?」と尋ねました。
「河童の生活というものをね。」
「河童の生活がどうなるのです?」
「我々河童はなんと言っても、河童の生活をまっとうするためには、……」
 マッグは多少はずかしそうに こう小声でつけ加えました。
「とにかく我々河童以外の 何ものかの力を 信ずることですね。」


     一四

 に宗教というものを思い出させたのは こういうマッグの言葉です。はもちろん物質主義者ですから、真面目まじめに宗教を考えたことは 一度もなかったのに違いありません。が、この時はトックの死にある感動を受けていたために いったい河童の宗教は なんであるかと考え出したのです。
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はさっそく学生のラップに この問題を尋ねてみました。
「それは基督教キリストきょう、仏教、モハメット教、拝火教はいかきょうなども行なわれています。まず一番勢力のあるものは なんといっても近代教でしょう。生活教とも言いますがね。」(「生活教」という訳語は当たっていないかもしれません。この原語は Quemoocha です。cha は英吉利イギリス語の ism という意味に当たるでしょう。quemoo の原形 quemal の訳は単に「生きる」というよりも「飯を食ったり、酒を飲んだり、交合こうごうを行なったり」する意味です。)
「じゃこの国にも教会だの寺院だのはあるわけなのだね?」
常談じょうだんを言ってはいけません。近代教の大寺院などはこの国第一の大建築ですよ。どうです、ちょっと見物に行っては?」
 ある生温なまあたたかい曇天の午後、ラップ得々とくとくといっしょに この大寺院へ出かけました。なるほどそれはニコライ堂の十倍もある大建築です。のみならずあらゆる建築様式を 一つに組み上げた大建築です。はこの大寺院の前に立ち、高い塔やまる屋根をながめた時、なにか無気味にさえ感じました。実際それらは天に向かって伸びた 無数の触手しょくしゅのように見えたものです。らは玄関の前にたたずんだまま、(そのまた玄関に比べてみても、どのくらいらは小さかったのでしょう!)しばらくこの建築よりもむしろ途方もない 怪物に近い希代きだい【非常にまれ】の大寺院を見上げていました。
 大寺院の内部もまた広大です。そのコリント風の円柱の立った中には 参詣さんけい人が何人も歩いていました。しかしそれらはらのように 非常に小さく見えたものです。そのうちにらは 腰の曲がった一匹の河童かっぱに出合いました。するとラップはこの河童にちょっと頭を下げた上、丁寧ていねいにこう話しかけました。
「長老、達者なのは何よりもです。」
 相手の河童もお時宜じぎをしたのち、やはり丁寧に返事をしました。
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「これはラップさんですか? あなたも相変わらず、‥‥(と言いかけながら、ちょっと言葉をつがなかった【詰まった】のは ラップくちばしの腐っているのに やっと気がついたためだったでしょう。)‥‥ああ、とにかく御丈夫らしいようですね。が、きょうはどうしてまた……」
「きょうはこのかたのお伴をしてきたのです。この方はたぶん御承知のとおり、‥‥」
 それからラップ滔々とうとうのことを話しました。どうもまたそれは この大寺院へラップがめったに来ないことの 弁解にもなっていたらしいのです。
「ついてはどうかこの方の御案内を 願いたいと思うのですが。」
 長老は大様おおよう【大らかな様子】に微笑しながら、まず挨拶あいさつをし、静かに正面しょうめんの祭壇を指さしました。
「御案内と申しても、何もお役に立つことはできません。我々信徒の礼拝らいはいするのは正面の祭壇にある『生命の』です。『生命の樹』にはごらんのとおり、金と緑とのがなっています。あの金のを『善の果』と言い、あの緑のを『悪の果』と言います。……」
 はこういう説明のうちに もう退屈を感じ出しました。それはせっかくの長老の言葉も 古い比喩ひゆのように聞こえたからです。はもちろん 熱心に聞いている容子ようすを装っていました。が、時々は大寺院の内部へ そっと目をやるのを忘れずにいました。
 コリント風の柱、ゴシック風穹窿きゅうりゅう、アラビアじみた市松いちまつ模様ゆかセセッションまがいの祈祷机きとうづくえ、‥‥こういうものの作っている調和は 妙に野蛮な美をそなえていました。しかしの目をひいたのは 何よりも両側のがんの中にある 大理石の半身像です。は何かそれらの像を見知っているように思いました。それもまた不思議ではありません。あの腰の曲った河童かっぱは「生命の樹」
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の説明をおわると、今度はラップといっしょに 右側のがんの前へ歩み寄り、そのがんの中の半身像にこういう説明を加え出しました。
「これは我々の聖徒のひとり、‥‥あらゆるものに反逆した 聖徒ストリントベリイです。この聖徒はさんざん苦しんだあげく、スウェデンボルグの哲学のために 救われたように言われています。が、実は救われなかったのです。この聖徒はただ我々のように生活教を信じていました。‥‥というよりも信じるほかはなかったのでしょう。この聖徒の我々に残した『伝説』という本を読んでごらんなさい。この聖徒も自殺未遂者だったことは 聖徒自身告白しています。」
 はちょっと憂鬱ゆううつになり、次のがんへ目をやりました。次のがんにある半身像は口髭くちひげの太い独逸ドイツ人です。
「これはツァラトストラの詩人ニーチェです。その聖徒は聖徒自身の造った超人に救いを求めました。が、やはり救われずに気違いになってしまったのです。もし気違いにならなかったとすれば、あるいは聖徒のかずへ はいることも できなかったかもしれません。……」
 長老はちょっと黙ったのち、第三のがんの前へ案内しました。
「三番目にあるのはトルストイです。この聖徒はだれよりも苦行をしました。それは元来貴族だったために 好奇心の多い公衆に苦しみを見せることを きらったからです。この聖徒は事実上信ぜられない基督キリストを 信じようと努力しました。いや、信じているようにさえ公言したこともあったのです。しかし とうとう晩年には 悲壮なうそつきだったことに えられないようになりました。この聖徒も時々書斎のはりに 恐怖を感じたのは有名です。けれども聖徒の数にはいっているくらいですから、もちろん自殺したのではありません。」
 第四のがんの中の半身像は我々日本人のひとりです。
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はこの日本人の顔を見た時、さすがになつかしさを感じました。
「これは国木田独歩くにきだどっぽです。轢死れきしする人足にんそくの心もちを はっきり知っていた詩人です。しかしそれ以上の説明は あなたには不必要に違いありません。では五番目のがんの中をごらんください。‥‥」
「これはワグネルではありませんか?」
「そうです。国王の友だちだった革命家です。聖徒ワグネルは 晩年には食前の祈祷きとうさえしていました。しかしもちろん 基督教よりも生活教の信徒のひとりだったのです。ワグネルの残した手紙によれば、娑婆苦しゃばくは 何度この聖徒を死の前に駆りやったかわかりません。」
 らはもう その時には第六のがんの前に立っていました。
「これは聖徒ストリントベリイの友だちです。子どもの大勢ある細君の代わりに 十三四のクイティの女をめとった 商売人上がりの仏蘭西フランスの画家です。この聖徒は太い血管の中に水夫の血を流していました。が、くちびるをごらんなさい。砒素ひそか何かのあとが残っています。第七のがんの中にあるのは……もうあなたはお疲れでしょう。ではどうか こちらへおいでください。」
 は実際疲れていましたから、ラップといっしょに長老に従い、こうにおいのする 廊下伝いにある部屋へやへはいりました。そのまた小さい部屋のすみには 黒いヴィーナスの像の下に 山葡萄やまぶどうが一ふさ献じてあるのです。はなんの装飾もない 僧房を想像していただけに ちょっと意外に感じました。すると長老は容子ようすに こういう気もちを感じたとみえ、らに椅子いすすすめる前に 半ば気の毒そうに説明しました。
「どうか我々の宗教の生活教であることを 忘れずにください。我々の神、‥‥『生命の』の教えは『旺盛おうせいに生きよ』というのですから。……ラップさん、あなたはこのかたに 我々の聖書をごらんにいれましたか?」
「いえ、……実はわたし自身もほとんど読んだことはないのです。」
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 ラップは頭のさらきながら、正直にこう返事をしました。が、長老は相変わらず静かに微笑して話しつづけました。
「それではおわかりなりますまい。我々の神は一日のうちにこの世界を造りました。(『生命の』は樹というものの、成しあたわない【成し得ない】ことはないのです。)のみならずめす河童かっぱを造りました。するとめすの河童は退屈のあまり、おすの河童を求めました。我々の神はこの嘆きをあわれみ、めすの河童の脳髄のうずいを取り、雄の河童を造りました。我々の神はこの二匹の河童に『食えよ、交合せよ、旺盛おうせいに生きよ』という祝福を与えました。……」
 は長老の言葉のうちに 詩人のトックを思い出しました。詩人のトックは不幸にものように無神論者です。は河童ではありませんから、生活教を知らなかったのも無理はありません。けれども河童の国に生まれたトックはもちろん「生命の樹」を知っていたはずです。はこの教えに従わなかった トックの最後を憐れみましたから、長老の言葉をさえぎるように トックのことを話し出しました。
「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」
 長老はの話を聞き、深い息をもらしました。
「我々の運命を定めるものは 信仰と境遇と偶然とだけです。(もっともあなたがたは そのほかに遺伝をお数えなさるでしょう。)トックさんは不幸にも 信仰をお持ちにならなかったのです。」
トックは あなたを うらやんでいたでしょう。いや、もうらやんでいます。ラップ君などは年も若いし、……」
「僕もくちばしさえちゃんとしていれば あるいは楽天的だったかもしれません。」
 長老はらにこう言われると、もう一度深い息をもらしました。しかもその目は涙ぐんだまま、じっと黒いヴィーナスを見つめているのです。
「わたしも実は、‥‥これはわたしの秘密ですから、どうかだれにも おっしゃらずにください。
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‥‥わたしも実は 我々の神を信ずるわけにいかないのです。しかし いつか わたしの祈祷きとうは、‥‥」
 ちょうど長老のこう言った時です。突然部屋へやの戸があいたと思うと、大きいめすの河童が一匹、いきなり長老へ飛びかかりました。らがこのめすの河童を抱きとめようとしたのは もちろんです。が、めすの河童は とっさのあいだゆかの上へ長老を投げ倒しました。
「このおやじめ! きょうも またわたしの財布さいふから 一杯やるかねを盗んでいったな!」
 十分ばかりたったのちらは実際逃げ出さないばかりに 長老夫婦をあとに残し、大寺院の玄関をりていきました。
「あれではあの長老も『生命の樹』を信じないはずですね。」
 しばらく黙って歩いた後、ラップにこう言いました。が、は返事をするよりも思わず大寺院を振り返りました。大寺院はどんより曇った空に やはり高い塔や円屋根まるやねを 無数の触手のように伸ばしています。なにか沙漠さばくの空に見える 蜃気楼しんきろうの無気味さを漂わせたまま。……


     一五

 それから かれこれ一週間の後、は ふと医者のチャックに珍しい話を聞きました。というのは あのトックうちに 幽霊の出るという話なのです。そのころには もうめす河童かっぱは どこかほかへ行ってしまい、らの友だちの詩人の家も 写真師のスタジオに変わっていました。なんでもチャックの話によれば、このスタジオでは写真をとると、トックの姿も いつのにか 必ず朦朧もうろうと【ぼんやりとかすんで】客の後ろに 映っているとかいうことです。もっともチャックは物質主義者ですから、死後の生命などを信じていません。現にその話をした時にも 悪意のある微笑を浮かべながら、「やはり霊魂というものも物質的存在とみえますね」などと注釈めいたことをつけ加えていました。も幽霊を信じないことは チャックとあまり変わりません。
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けれども詩人のトックには 親しみを感じていましたから、さっそく本屋の店へ駆けつけ、トックの幽霊に関する記事や トックの幽霊の写真の出ている 新聞や雑誌を買ってきました。なるほどそれらの写真を見ると、どこかトックらしい河童が一匹、老若男女ろうにゃくなんにょの河童の後ろに ぼんやりと姿を現わしていました。しかしを驚かせたのはトックの幽霊の写真よりも トックの幽霊に関する記事、‥‥ことにトックの幽霊に関する 心霊学協会の報告です。はかなり逐語的【文字通り】にその報告を訳しておきましたから、しもに大略を掲げることにしましょう。ただし括弧かっこの中にあるのは 自身の加えた注釈なのです。‥‥
 詩人トック君の幽霊に関する報告。(心霊学協会雑誌第八千二百七十四号所載)
 わが心霊学協会は 先般自殺したる詩人トック君の旧居にして 現在は××写真師のスタジオなる□□街第二百五十一号に臨時調査会を開催せり。列席せる会員はしものごとし。(氏名を略す。)
 我ら十七名の会員は 心霊協会会長ペック氏とともに 九月十七日午前十時三十分、我らのもっとも信頼するメディアム、ホップ夫人を同伴し、がいスタジオの一室に参集せり。ホップ夫人は該スタジオにはいるや、すでに心霊的空気を感じ、全身に痙攣けいれんを催しつつ、嘔吐おうとすること数回に及べり。夫人の語るところによれば、こは詩人トック君の強烈なる煙草たばこを愛したる結果、その心霊的空気もまた ニコチンを含有するためなりという。
 我ら会員は ホップ夫人とともに円卓をめぐりて 黙座もくざしたり。夫人は三分二十五秒ののち、きわめて急劇なる夢遊状態に陥り、かつ詩人トック君の心霊の憑依ひょういするところとなれり。我ら会員は年齢順に従い、夫人に憑依せるトック君の心霊と 左のごとき問答を開始したり。
 問 君は何ゆえに幽霊にずるか?
 答 死後の名声を知らんがためなり。
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 問 君‥‥あるいは心霊諸君は死後もなお名声を欲するや?
 答 少なくともは欲せざるあたわず【欲しないわけにはいかない】。しかれども予の邂逅かいこうしたる日本の一詩人のごときは 死後の名声を軽蔑けいべつしいたり。
 問 君はその詩人の姓名を知れりや?
 答 予は不幸にも忘れたり。ただ彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。
 問 その詩は如何いか
 答「古池やかわず飛びこむ水の音」。
 問 君はその詩を佳作かさく【すぐれた作品】なりとなすや?
 答 は必ずしも悪作なりとなさず。ただ「かわず」を「河童かっぱ」とせんか、さらに光彩陸離こうさいりくりたるべし。
 問 しからばその理由は如何いか
 答 我ら河童はいかなる芸術にも 河童を求むること痛切なればなり。
 会長ペック氏はこの時にあたり、我ら十七名の会員に こは心霊学協会の臨時調査会にして 合評会がっぴょうかいにあらざるを注意したり。
 問 心霊諸君の生活は如何いか
 答 諸君の生活と異なることなし。
 問 しからば君は君自身の自殺せしを後悔するや?
 答 必ずしも後悔せず。予は心霊的生活にまば、さらにピストルを取りて自活すべし【もし私がこの先、精神的な生き方(芸術や魂の探求)に疲れ果ててしまったなら、その時はさらにピストルを手にとって、自らの力で(この生を)終わらせるだけだ】。
 問 自活するは容易なりや否や?
 トック君の心霊は この問に答うるにさらに問をもってしたり。こはトック君を知れるものには すこぶる自然なる応酬おうしゅうなるべし。
 答 自殺するは容易なりや否や?
 問 諸君の生命は永遠なりや?
 答 我らの生命に関しては諸説紛々ふんぷんとして信ずべからず。幸いに我らの間にも基督教キリストきょう、仏教、モハメット教、拝火教はいかきょう等の諸宗あることを忘るるなかれ。
 問 君自身の信ずるところは?
 答 予は常に懐疑主義者なり。
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 問 しかれども君は少なくとも心霊の存在を疑わざるべし?
 答 諸君のごとく確信するあたわず【確信することができない】。
 問 君の交友の多少は如何いか
 答 予の交友は古今東西にわたり、三百人を下らざるべし。その著名なるものをあぐれば、クライストマインレンデルワイニンゲル……
 問 君の交友は自殺者のみなりや?
 答 必ずしも しかりとせず。自殺を弁護せるモンテーニュのごときは 予が畏友いゆう一人いちにんなり。ただ予は自殺せざりし嫌世えんせい主義者、‥‥ショーペンハウアーはいとは交際せず。
 問 ショーペンハウアーは健在なりや?
 答 彼は目下もっか心霊的嫌世主義を樹立し、自活する可否を論じつつあり。しかれどもコレラも黴菌病ばいきんびょうなりしを知り、すこぶる安堵あんどせるもののごとし。
 我ら会員は相次いでナポレオン、孔子こうし、ドストエフスキー、ダーウィン、クレオパトラ、釈迦しゃかデモステネスダンテせん利休りきゅう等の心霊の消息を質問したり。しかれどもトック君は 不幸にも詳細に答うることをなさず、かえってトック君自身に関する 種々のゴシップを質問したり。
 問 の死後の名声は如何いか
 答 ある批評家は「群小詩人のひとり」と言えり。
 問 彼は予が詩集を贈らざりしに 怨恨えんこんを含めるひとりなるべし。予の全集は出版せられしや?
 答 君の全集は出版せられたれども、売行き はなはだ振わざるがごとし。
 問 予の全集は三百年ののち、‥‥すなわち著作権の失われたる後、万人ばんにんあがなうところとなるべし。予の同棲どうせいせる女友だちは如何いか
 答 彼女は書肆しょしラック君の夫人となれり。
 問 彼女はいまだ不幸にも ラックの義眼なるを知らざるなるべし。予が子は如何いか
 答 国立孤児院にありと聞けり。
 トック君はしばらく沈黙せる後、新たに質問を開始したり。
 問 予が家は如何いか
 答 某写真師のスタジオとなれり。
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 問 予の机はいかになれるか?
 答 いかなれるかを知るものなし。
 問 予は予の机の抽斗ひきだしに 予の秘蔵せる一束ひとたばの手紙を‥‥しかれども こは幸いにも多忙なる諸君の関するところにあらず。今や わが心霊界はおもむろに薄暮に沈まんとす。予は諸君と決別けつべつすべし。さらば。諸君。さらば。わが善良なる諸君。
 ホップ夫人は最後の言葉とともに ふたたび急劇に覚醒かくせいしたり。我ら十七名の会員は この問答の真なりしことを 上天の神に誓って保証せんとす。(なおまた我らの信頼するホップ夫人に対する報酬ほうしゅうは かつて夫人が女優たりし時の日当にっとうに従いて 支弁したり。)


     一六

 はこういう記事を読んだのち、だんだんこの国にいることも 憂鬱ゆううつになってきましたから、どうか我々人間の国へ帰ることにしたいと思いました。しかしいくらさがして歩いても、の落ちた穴は見つかりません。そのうちにあのバッグという漁夫りょうしの河童の話には、なんでもこの国のまちはずれにある 年をとった河童が一匹、本を読んだり、ふえを吹いたり、静かに暮らしているということです。はこの河童に尋ねてみれば、あるいはこの国を逃げ出すみちも わかりはしないかと思いましたから、さっそく街はずれへ出かけてゆきました。しかしそこへ行ってみると、いかにも小さい家の中に年をとった河童どころか、頭の皿も固まらない、やっと十二三の河童が一匹、悠々ゆうゆうと笛を吹いていました。はもちろん間違まちがった家へ はいったではないかと思いました。が、念のために名をきいてみると、やはりバッグの教えてくれた 年よりの河童に違いないのです。
「しかしあなたは子どものようですが……」
「お前さんはまだ知らないのかい? わたしはどういう運命か、母親の腹を出た時には白髪頭しらがあたまをしていたのだよ。それからだんだん年が若くなり、今ではこんな子どもになったのだよ。
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けれども年を勘定すれば生まれる前を六十としても、かれこれ百十五六には なるかもしれない。」
 部屋へやの中を見まわしました。そこにはの気のせいか、質素な椅子いすやテーブルの間に 何か清らかな幸福が漂っているように見えるのです。
「あなたはどうも ほかの河童よりもしあわせに暮らしているようですね?」
「さあ、それはそうかもしれない。わたしは若い時は年よりだったし、年をとった時は若いものになっている。従って年よりのように欲にもかわかず、若いもののように色にもおぼれない。とにかくわたしの生涯は たといし あわせではないにもしろ、安らかだったのには違いあるまい。」
「なるほどそれでは安らかでしょう。」
「いや、まだそれだけでは安らかにはならない。わたしはからだ丈夫じょうぶだったし、一生食うに困らぬくらいの財産を持っていたのだよ。しかし一番しあわせだったのは やはり生まれてきた時に 年よりだったことだと思っている。」
 はしばらくこの河童かっぱと 自殺したトックの話だの 毎日医者に見てもらっているゲエルの話だのを していました。が、なぜか年をとった河童は あまりの話などに 興味のないような顔をしていました。
「では あなたは ほかの河童のように 格別生きていることに執着しゅうじゃくを持っては いないのですね?」
 年をとった河童はの顔を見ながら、静かにこう返事をしました。
「わたしもほかの河童のように この国へ生まれてくるかどうか、一応父親に尋ねられてから母親の胎内を離れたのだよ。」
「しかしはふとした拍子に、この国へころげ落ちてしまったのです。どうかに この国から出ていかれるみちを教えてください。」
「出ていかれる路は一つしかない。」
「というのは?」
「それはお前さんのここへ来た路だ。」
 はこの答えを聞いた時に なぜか身の毛がよだちました。
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「その路があいにく見つからないのです。」
 年をとった河童は水々しい目に じっとの顔を見つめました。それからやっとからだを起こし、部屋へやすみへ歩み寄ると、天井からそこに下がっていた一本のつなを引きました。すると今まで気のつかなかった天窓が一つ開きました。そのまたまるい天窓の外には 松やひのきが枝を張った向こうに 大空が青あおと晴れ渡っています。いや、大きいやじりに似たやりたけの峯もそびえています。は飛行機を見た子どものように 実際飛び上がって喜びました。
「さあ、あすこから出ていくがいい。」
 年をとった河童はこう言いながら、さっきの綱を指さしました。今までの綱と思っていたのは 実は綱梯子つなばしごにできていたのです。
「ではあすこから出さしてもらいます。」
「ただわたしは前もって言うがね。出ていって後悔しないように。」
大丈夫だいじょうぶです。は後悔などはしません。」
 はこう返事をするが早いか、もう綱梯子をよじ登っていました。年をとった河童の頭の皿を はるか下にながめながら。


     一七

 河童かっぱの国から帰ってきたのち、しばらくは我々人間の皮膚のにおいに閉口しました。我々人間に比べれば、河童は実に清潔なものです。のみならず我々人間の頭は河童ばかり見ていたには いかにも気味の悪いものに見えました。これはあるいは あなたには おわかりにならない かもしれません。しかし目や口はともかくも、この鼻というものは 妙に恐ろしい気を起こさせるものです。はもちろんできるだけ、だれにも会わない算段をしました。が、我々人間にもいつか次第に慣れ出したとみえ、半年ばかりたつうちに どこへでも出るようになりました。ただそれでも困ったことは 何か話をしているうちに うっかり河童の国の言葉を口に出してしまうことです。
「君はあしたはうちにいるかね?」
「Qua」
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「なんだって?」
「いや、いるということだよ。」
 だいたいこういう調子だったものです。
 しかし河童の国から帰ってきた後、ちょうど一年ほどたった時、はある事業の失敗したために……(S博士は彼がこう言った時、「その話はおよしなさい」と注意をした。なんでも博士の話によれば、彼はこの話をするたびに 看護人の手にもおえないくらい、乱暴になるとかいうことである。)
 ではその話はやめましょう。しかしある事業の失敗したために はまた河童の国へ帰りたいと思い出しました。そうです。「きたい」のではありません。「帰りたい」と思い出したのです。河童の国は当時のには 故郷のように感ぜられましたから。
 はそっとうちを脱け出し、中央線の汽車へ乗ろうとしました。そこをあいにく巡査につかまり、とうとう病院へ入れられたのです。はこの病院へはいった当座も 河童の国のことをおもいつづけました。医者のチャックはどうしているでしょう? 哲学者のマッグも 相変わらず七色なないろ色硝子ガラスのランタンの下に 何か考えているかもしれません。ことにの親友だったくちばしの腐った学生のラップは、‥‥ある きょうのように曇った午後です。こんな追憶にふけっていたは 思わず声をあげようとしました。それはいつのに はいってきたか、バッグという漁夫りょうしの河童が一匹、の前にたたずみながら、何度も頭を下げていたからです。は心をとり直したのち、‥‥泣いたか笑ったかも覚えていません。が、とにかく久しぶりに河童の国の言葉を使うことに 感動していたことはたしかです。
「おい、バッグ、どうして来た?」
「へい、お見舞いに上がったのです。なんでも御病気だとかいうことですから。」
「どうしてそんなことを知っている?」
「ラジオのニュースで知ったのです。」
 バッグは得意そうに笑っているのです。
50/52
「それにしてもよく来られたね?」
「なに、造作ぞうさはありません。東京の川や掘割りは河童には往来も同様ですから。」
 河童かっぱかえるのように水陸両棲りょうせいの動物だったことに 今さらのように気がつきました。
「しかしこの辺には川はないがね。」
「いえ、こちらへ上がったのは水道の鉄管を抜けてきたのです。それからちょっと消火栓しょうかせんをあけて……」
「消火栓をあけて?」
旦那だんなはお忘れなすったのですか? 河童にも機械屋のいるということを。」
 それからは二三日ごとに いろいろの河童の訪問を受けました。の病はS博士によれば早発性痴呆症そうはつせいちほうしょうということです。しかしあの医者のチャックは(これは はなはだ あなたにも失礼に当たるのに違いありません。)は早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆症患者はS博士をはじめ、あなたがた自身だと言っていました。医者のチャックも来るくらいですから、学生のラップや哲学者のマッグの 見舞いにきたことは もちろんです。が、あの漁夫りょうしバッグのほかに 昼間はだれも尋ねてきません。ことに二三匹いっしょに来るのは夜、‥‥それも月のある夜です。はゆうべも 月明りの中に硝子ガラス会社の社長のゲエルや 哲学者のマッグと話をしました。のみならず音楽家のクラバックにも ヴァイオリンを一曲いてもらいました。そら、向こうの机の上に 黒百合くろゆりの花束がのっているでしょう? あれもゆうべ クラバック土産みやげに持ってきてくれたものです。……
 (は後ろを振り返ってみた。が、もちろん机の上には花束も何ものっていなかった。)
 それからこの本も哲学者のマッグが わざわざ持ってきてくれたものです。ちょっと最初の詩を読んでごらんなさい。いや、あなたは河童の国の言葉を 御存知になるはずはありません。では代わりに読んでみましょう。これは近ごろ出版になったトックの全集の一冊です。
51/52
‥‥
 (彼は古い電話帳をひろげ、こういう詩をおお声に読みはじめた。)

‥‥椰子やしの花や竹の中に
  仏陀ぶっだはとうに眠っている。

  みちばたに枯れた無花果いちじゅくといっしょに
  基督キリストももう死んだらしい。

  しかし我々は休まなければならぬ
  たとい芝居しばいの背景の前にも。

  (そのまた背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ?)‥‥


 けれどもはこの詩人のように 嫌世的えんせいてきではありません。河童たちの時々来てくれる限りは、‥‥ああ、このことは忘れていました。あなたはの友だちだった 裁判官のペップを覚えているでしょう。あの河童は職を失ったのち、ほんとうに発狂してしまいました。なんでも今は 河童の国の精神病院にいるということです。S博士さえ承知してくれれば、見舞いにいってやりたいのですがね……。
(昭和二年二月十一日)






底本:「河童・或る阿呆の一生」旺文社文庫、旺文社
   1966(昭和41)年10月20日初版発行
   1984(昭和59)年重版発行
初出:「改造」
   1927(昭和2)年3月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:もりみつじゅんじ
校正:かとうかおり
1999年1月24日公開
2012年3月20日修正
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