序
これはある精神病院の患者、‥‥
第二十三号が だれにでもしゃべる話である。
彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところは いかにも若々しい狂人である。
彼の半生の経験は、‥‥いや、そんなことはどうでもよい。
彼はただじっと
両膝をかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、(
鉄格子をはめた窓の外には 枯れ葉さえ見えない
樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張っていた。)院長の
S博士や
僕を相手に 長々とこの話をしゃべりつづけた。もっとも身ぶりは しなかったわけではない。
彼はたとえば「驚いた」と言う時には 急に顔をのけぞらせたりした。……
僕はこういう
彼の話を かなり正確に写したつもりである。もしまた だれか
僕の筆記に 飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねてみるがよい。年よりも若い
第二十三号は まず
丁寧に頭を下げ、
蒲団のない
椅子を指さすであろう。それから
憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであろう。最後に、‥‥
僕はこの話を終わった時の
彼の顔色を覚えている。
彼は最後に身を起こすが早いか、たちまち
拳骨をふりまわしながら、だれにでもこう
怒鳴りつけるであろう。‥‥「出て行け! この悪党めが! 貴様も
莫迦な、
嫉妬深い、
猥褻な、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出ていけ! この悪党めが!」
一
三年
前の夏のことです。
僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの
上高地の温泉
宿から
穂高山へ登ろうとしました。穂高山へ登るのには御承知のとおり
梓川をさかのぼる ほかはありません。
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僕は前に 穂高山はもちろん、
槍ヶ
岳にも登っていましたから、朝霧の
下りた梓川の谷を 案内者もつれずに登ってゆきました。朝霧の下りた梓川の谷を‥‥しかしその霧はいつまでたっても 晴れる
景色は見えません。のみならず かえって深くなるのです。
僕は一時間ばかり歩いた
後、一度は上高地の温泉宿へ 引き返すことにしようかと思いました。けれども上高地へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待った上に しなければなりません。といって霧は一刻ごとに ずんずん深くなるばかりなのです。「ええ、いっそ登ってしまえ。」‥‥
僕はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように
熊笹の中を分けてゆきました。
しかし
僕の目をさえぎるものは やはり深い霧ばかりです。もっとも時々霧の中から 太い
毛生欅【3文字で『ぶな』】や
樅の枝が 青あおと葉を
垂らしたのも 見えなかったわけではありません。それからまた 放牧の馬や牛も突然
僕の前へ顔を出しました。けれどもそれらは見えたと思うと、たちまち
濛々とした霧の中に隠れてしまうのです。そのうちに足もくたびれてくれば、腹もだんだん減りはじめる、‥‥おまけに霧にぬれ
透った登山服や 毛布なども 並みたいていの重さではありません。
僕はとうとう
我を折りましたから、岩にせかれている 水の音をたよりに 梓川の谷へ
下りることにしました。
僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。コーンド・ビーフの
缶を切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり、‥‥そんなことをしているうちに かれこれ十分はたったでしょう。その
間に どこまでも意地の悪い霧は いつかほのぼのと晴れかかりました。
僕はパンをかじりながら、ちょっと腕
時計をのぞいてみました。時刻はもう一時二十分過ぎです。
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が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、
円い腕時計の
硝子の上へ ちらりと影を落としたことです。
僕は驚いてふり返りました。すると、‥‥
僕が
河童というものを見たのは 実にこの時がはじめてだったのです。
僕の後ろにある岩の上には
画にあるとおりの河童が一匹、片手は
白樺の幹を
抱え、片手は目の上にかざしたなり、珍しそうに
僕を見おろしていました。
僕は
呆っ
気にとられたまま、しばらくは身動きもしずにいました。河童もやはり驚いたとみえ、目の上の手さえ動かしません。そのうちに
僕は飛び立つが早いか、岩の上の河童へおどりかかりました。同時にまた河童も逃げ出しました。いや、おそらくは逃げ出したのでしょう。【←この不自然は語り手の不安定さを現わしているよう】実はひらりと身をかわしたと思うと、たちまちどこかへ消えてしまったのです。
僕はいよいよ驚きながら、
熊笹の中を見まわしました。すると河童は逃げ腰をしたなり、二三メートル隔たった向こうに
僕を振り返って見ているのです。それは不思議でもなんでもありません。しかし
僕に意外だったのは河童の
体の色のことです。岩の上に
僕を見ていた河童は 一面に灰色を帯びていました。けれども今は体中すっかり 緑いろに変わっているのです。
僕は「畜生!」とおお声をあげ、もう一度
河童へ飛びかかりました。河童が逃げ出したのはもちろんです。それから
僕は三十分ばかり、
熊笹を突きぬけ、岩を飛び越え、
遮二無二河童を追いつづけました。
河童もまた足の早いことは 決して
猿などに劣りません。
僕は夢中になって追いかける
間に 何度もその姿を見失おうとしました。のみならず足をすべらして
転がったことも たびたびです。が、大きい
橡の木が一本、太ぶとと枝を張った下へ来ると、幸いにも放牧の牛が一匹、河童の
往く先へ立ちふさがりました。
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しかもそれは
角の太い、目を血走らせた
牡牛なのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴をあげながら、ひときわ高い熊笹の中へ もんどりを打つように飛び込みました。
僕は、‥‥
僕も「しめた」と思いましたから、いきなりそのあとへ追いすがりました。するとそこには
僕の知らない穴でも あいていたのでしょう。
僕は
滑らかな河童の背中に やっと指先がさわったと思うと、たちまち深い
闇の中へ まっさかさまに転げ落ちました。が、我々人間の心は こういう危機一髪の際にも
途方もないことを考えるものです。
僕は「あっ」と思う拍子にあの
上高地の温泉宿のそばに「河童橋」という橋があるのを思い出しました。それから、‥‥それから先のことは覚えていません。
僕はただ目の前に
稲妻に似たものを感じたぎり、いつの
間にか
正気を失っていました。
二
そのうちにやっと気がついてみると、
僕は
仰向けに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれていました。のみならず太い
嘴の上に
鼻目金をかけた河童が一匹、
僕のそばへひざまずきながら、
僕の胸へ聴診器を当てていました。その河童は
僕が目をあいたのを見ると、
僕に「静かに」という
手真似をし、それからだれか後ろにいる河童へ Quax, quax と声をかけました。するとどこからか河童が二匹、
担架を持って歩いてきました。
僕はこの担架にのせられたまま、大勢の河童の群がった中を 静かに何町【数百m】か進んでゆきました。
僕の両側に並んでいる町は 少しも銀座通りと違いありません。やはり
毛生欅の並み木のかげに いろいろの店が
日除けを並べ、そのまた並み木に はさまれた道を自動車が何台も走っているのです。
やがて
僕を載せた担架は細い
横町を曲ったと思うと、ある
家の中へかつぎこまれました。
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それは
後に知ったところによれば、あの鼻目金をかけた河童の家、‥‥
チャックという医者の家だったのです。
チャックは
僕を小ぎれいなベッドの上へ寝かせました。それから何か透明な
水薬を一杯飲ませました。
僕はベッドの上に横たわったなり、
チャックのするままになっていました。実際また
僕の
体はろくに身動きもできないほど、
節々が痛んでいたのですから。
チャックは一日に二三度は必ず
僕を診察にきました。また三日に一度ぐらいは
僕の最初に見かけた河童、‥‥
バッグという
漁夫も尋ねてきました。河童は我々人間が河童のことを知っているよりも はるかに人間のことを知っています。それは我々人間が河童を捕獲することよりも ずっと河童が人間を捕獲することが多いためでしょう。捕獲というのは当たらないまでも、我々人間は
僕の前にも たびたび河童の国へ来ているのです。のみならず一生河童の国に 住んでいたものも多かったのです。なぜと言ってごらんなさい。
僕らはただ
河童ではない、人間であるという特権のために 働かずに食っていられるのです。現に
バッグの話によれば、ある若い道路
工夫などは やはり偶然この国へ来た
後、
雌の河童を妻にめとり、死ぬまで住んでいたということです。もっともそのまた
雌の河童は この国第一の美人だった上、夫の道路工夫をごまかすのにも 妙をきわめていたということです。
僕は一週間ばかりたった後、この国の法律の定めるところにより、「特別保護住民」として
チャックの隣に住むことになりました。
僕の
家は小さい割に いかにも
瀟洒とできあがっていました。もちろんこの国の文明は 我々人間の国の文明‥‥少なくとも日本の文明などと あまり大差はありません。往来に面した客間の
隅には 小さいピアノが一台あり、それからまた壁には
額縁へ入れた エッチング【
銅版画】なども
懸っていました。
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ただ
肝心の家をはじめ、テーブルや
椅子の寸法も 河童の身長に合わせてありますから、子どもの
部屋に入れられたように それだけは不便に思いました。
僕はいつも日暮れがたになると、この部屋に
チャックや
バッグを迎え、河童の言葉を習いました。いや、彼らばかりではありません。特別保護住民だった
僕に だれも皆好奇心を持っていましたから、毎日血圧を調べてもらいに、わざわざ
チャックを呼び寄せる
ゲエルという
硝子会社の社長なども やはりこの部屋へ顔を出したものです。しかし最初の半月ほどの間に 一番
僕と親しくしたのは やはりあの
バッグという
漁夫だったのです。
ある
生暖かい日の暮れです。
僕はこの部屋のテーブルを中に 漁夫の
バッグと向かい合っていました。すると
バッグはどう思ったか、急に黙ってしまった上、大きい目をいっそう大きくして じっと
僕を見つめました。
僕はもちろん妙に思いましたから、「Quax, Bag, quo quel, quan?」と言いました。これは日本語に翻訳すれば、「おい、
バッグ、どうしたんだ」ということです。が、
バッグは返事をしません。のみならずいきなり立ち上がると、べろりと舌を出したなり、ちょうど
蛙の
跳ねるように 飛びかかる
気色さえ示しました。
僕はいよいよ無気味になり、そっと
椅子から立ち上がると、
一足飛びに戸口へ飛び出そうとしました。ちょうどそこへ顔を出したのは 幸いにも医者の
チャックです。
「こら、
バッグ、何をしているのだ?」
チャックは
鼻目金をかけたまま、こういう
バッグをにらみつけました。すると
バッグは恐れいったとみえ、何度も頭へ手をやりながら、こう言って
チャックにあやまるのです。
「どうもまことに
相すみません。実はこの
旦那の気味悪がるのが おもしろかったものですから、つい調子に乗って
悪戯をしたのです。どうか旦那も
堪忍してください。」
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三
僕はこの先を話す前に ちょっと河童というものを 説明しておかなければ なりません。河童はいまだに実在するかどうかも 疑問になっている動物です。が、それは
僕自身が彼らの間に住んでいた以上、少しも疑う余地はない はずです。ではまたどういう動物かと言えば、頭に短い毛のあるのはもちろん、手足に
水掻きのついていることも「
水虎考略」などに出ているのと著しい違いはありません。身長もざっと1メートルを越えるか越えぬくらいでしょう。体重は医者の
チャックによれば、二十ポンド【約9kg】から三十ポンド【約13.5kg】まで、‥‥まれには五十何ポンド【約22.5kg】ぐらいの
大河童もいると言っていました。それから頭のまん中には
楕円形の
皿があり、そのまた皿は年齢により、だんだん
固さを加えるようです。現に年をとった
バッグの皿は 若い
チャックの皿などとは 全然手ざわりも違うのです。しかし一番不思議なのは 河童の皮膚の色のことでしょう。河童は我々人間のように 一定の皮膚の色を持っていません。なんでもその周囲の色と同じ色に変わってしまう、‥‥たとえば草の中にいる時には 草のように緑色に変わり、岩の上にいる時には岩のように灰色に変わるのです。これはもちろん河童に限らず、カメレオンにもあることです。あるいは河童は皮膚組織の上に 何かカメレオンに近いところを 持っているのかもしれません。
僕はこの事実を発見した時、
西国の河童は緑色であり、
東北の河童は赤い という民俗学上の記録を思い出しました。のみならず
バッグを追いかける時、突然どこへ行ったのか、見えなくなったことを思い出しました。しかも河童は皮膚の下に よほど厚い脂肪を持っているとみえ、この地下の国の温度は比較的低いのにもかかわらず、(平均
華氏五十度【10℃】前後です。)着物というものを知らずにいるのです。
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もちろんどの河童も
目金をかけたり、
巻煙草の箱を携えたり、
金入れを持ったりはしているでしょう。しかし河童はカンガルーのように 腹に袋を持っていますから、それらのものをしまう時にも格別不便はしないのです。ただ
僕におかしかったのは 腰のまわりさえ おおわないことです。
僕はある時この習慣をなぜかと
バッグに尋ねてみました。すると
バッグはのけぞったまま、いつまでもげらげら笑っていました。おまけに「わたしはお前さんの隠しているのがおかしい」と返事をしました。
四
僕はだんだん河童の使う日常の言葉を覚えてきました。従って河童の風俗や習慣も のみこめるように なってきました。その中でも一番不思議だったのは 河童は我々人間の
真面目に思うことをおかしがる、同時に我々人間のおかしがることを 真面目に思う‥‥こういう とんちんかんな習慣です。たとえば我々人間は 正義とか人道とかいうことを真面目に思う、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかえて笑い出すのです。つまり彼らの
滑稽という観念は 我々の
滑稽という観念と 全然標準を
異にしているのでしょう。
僕はある時 医者の
チャックと
産児制限の話をしていました。すると
チャックは大口をあいて、
鼻目金の落ちるほど笑い出しました。
僕はもちろん腹が立ちましたから、何がおかしいかと詰問しました。なんでも
チャックの返答は だいたいこうだったように覚えています。もっとも多少細かいところは
間違っているかもしれません。なにしろまだそのころは
僕も河童の使う言葉を すっかり理解していなかったのですから。
「しかし両親のつごうばかり考えているのは おかしいですからね。どうもあまり手前勝手ですからね。」
その代わりに我々人間から見れば、実際また
河童のお産ぐらい、おかしいものはありません。
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現に
僕はしばらくたってから、
バッグの細君のお産をするところを
バッグの小屋へ見物にゆきました。河童もお産をする時には我々人間と同じことです。やはり医者や
産婆などの助けを借りて お産をするのです。けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。
バッグもやはり
膝をつきながら、何度も繰り返してこう言いました。それからテーブルの上にあった消毒用の
水薬で うがいをしました。すると細君の腹の中の子は 多少気兼ねでもしているとみえ、こう小声に返事をしました。
「僕は生まれたくはありません。第一僕のお
父さんの遺伝は 精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」
バッグはこの返事を聞いた時、てれたように頭をかいていました。が、そこにい合わせた産婆は たちまち細君の生殖器へ 太い
硝子の
管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほっとしたように太い息をもらしました。同時にまた今まで大きかった腹は
水素瓦斯を抜いた風船のように へたへたと縮んでしまいました。
こういう返事をするくらいですから、河童の子どもは生まれるが早いか、もちろん歩いたりしゃべったりするのです。なんでも
チャックの話では 出産後二十六日目に 神の
有無について講演をした子どもも あったとかいうことです。もっともその子どもは
二月目には死んでしまったということですが。
お産の話をしたついでですから、
僕がこの国へ来た
三月目に 偶然ある
街の
角で見かけた、大きいポスターの話をしましょう。その大きいポスターの下には
喇叭を吹いている河童だの 剣を持っている河童だのが十二三匹
描いてありました。
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それからまた上には河童の使う、ちょうど
時計のゼンマイに似た
螺旋文字が一面に並べてありました。この螺旋文字を翻訳すると、だいたいこういう意味になるのです。これもあるいは 細かいところは
間違っているかもしれません。が、とにかく
僕としては
僕といっしょに歩いていた、
ラップという河童の学生が 大声に読み上げてくれる言葉を いちいちノートにとっておいたのです。
遺伝的義勇隊を募る!!!
健全なる男女の河童よ!!!
悪遺伝を撲滅するために
不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!
僕はもちろん その時にも そんなことの行なわれないことを
ラップに話して聞かせました。すると
ラップばかりではない、ポスターの近所にいた河童は ことごとく げらげら笑い出しました。
「行なわれない? だってあなたの話では あなたがたも やはり我々のように行なっていると思いますがね。あなたは令息【
子息】が女中に
惚れたり、令嬢が運転手に惚れたりするのは なんのためだと思っているのです? あれは皆 無意識的に悪遺伝を撲滅しているのですよ。第一この間あなたの話した あなたがた人間の義勇隊よりも、‥‥一本の鉄道を奪うために 互いに殺し合う義勇隊ですね、‥‥ああいう義勇隊に比べれば、ずっと僕たちの義勇隊は 高尚ではないかと思いますがね。」
ラップは
真面目にこう言いながら、しかも太い腹だけは おかしそうに絶えず
浪立たせていました。が、
僕は笑うどころか、あわててある
河童をつかまえようとしました。それは
僕の油断を見すまし、その河童が
僕の万年筆を盗んだことに気がついたからです。しかし皮膚の
滑らかな河童は 容易に我々にはつかまりません。その河童もぬらりとすべり抜けるが早いか いっさんに逃げ出してしまいました。ちょうど蚊のようにやせた
体を 倒れるかと思うくらい のめらせながら。
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五
僕はこの
ラップという河童に
バッグにも劣らぬ世話になりました。が、その中でも忘れられないのは
トックという河童に紹介されたことです。
トックは河童仲間の詩人です。詩人が髪を長くしていることは 我々人間と変わりません。
僕は時々
トックの
家へ 退屈しのぎに遊びにゆきました。
トックはいつも狭い
部屋に 高山植物の
鉢植えを並べ、詩を書いたり
煙草をのんだり、いかにも気楽そうに暮らしていました。そのまた部屋の
隅には
雌の河童が一匹、(
トックは自由恋愛家ですから、細君というものは持たないのです。)編み物か何かしていました。
トックは
僕の顔を見ると、いつも微笑してこう言うのです。(もっとも河童の微笑するのは あまりいいものではありません。少なくとも
僕は 最初のうちは むしろ無気味に感じたものです。)
「やあ、よく来たね。まあ、その
椅子にかけたまえ。」
トックはよく河童の生活だの 河童の芸術だのの話をしました。
トックの信ずるところによれば、当たり前の河童の生活ぐらい、
莫迦げているものはありません。親子夫婦兄弟などというのは ことごとく互いに苦しめ合うことを 唯一の楽しみにして暮らしているのです。ことに家族制度というものは
莫迦げている以上にも
莫迦げているのです。
トックはある時窓の外を指さし、「見たまえ。あの
莫迦げさ加減を!」と吐き出すように言いました。窓の外の往来にはまだ年の若い河童が一匹、両親らしい河童をはじめ、七八匹の
雌雄の河童を
頸のまわりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いていました。しかし
僕は年の若い河童の犠牲的精神に 感心しましたから、かえってその
健気さをほめ立てました。
「ふん、君はこの国でも市民になる資格を持っている。……時に君は社会主義者かね?」
僕はもちろん qua(これは河童の使う言葉では「
然り」という意味を現わすのです。
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)と答えました。
「では百人の凡人のために 甘んじてひとりの天才を犠牲にすることも 顧みないはずだ。」
「では君は何主義者だ? だれか
トック君の信条は無政府主義だと言っていたが、……」
「僕か? 僕は超人(直訳すれば超河童です。)だ。」
トックは
昂然と言い放ちました。こういう
トックは 芸術の上にも独特な考えを持っています。
トックの信ずるところによれば、芸術は何ものの支配をも受けない、芸術のための芸術である、従って芸術家たるものは 何よりも先に善悪を
絶した 超人でなければならぬというのです。もっともこれは必ずしも
トック一匹の意見ではありません。
トックの仲間の詩人たちは たいてい同意見を持っているようです。現に
僕は
トックといっしょに たびたび超人
倶楽部へ遊びにゆきました。超人倶楽部に集まってくるのは詩人、小説家、戯曲家、批評家、画家、音楽家、彫刻家、芸術上の
素人等です。しかしいずれも超人です。彼らは電灯の明るいサロンに いつも快活に話し合っていました。のみならず時には
得々と彼らの超人ぶりを 示し合っていました。たとえばある彫刻家などは 大きい
鬼羊歯の
鉢植えの間に 年の若い
河童をつかまえながら、しきりに
男色をもてあそんでいました。またある
雌の小説家などは テーブルの上に立ち上がったなり、
アブサント【アルコール度数は70%程度】を六十本飲んで見せました。もっともこれは六十本目に テーブルの下へ
転げ落ちるが早いか、たちまち往生してしまいましたが。
僕はある月のいい晩、詩人の
トックと
肘を組んだまま【腕組みのまま】、超人倶楽部から帰ってきました。
トックはいつになく沈みこんで ひとことも口をきかずにいました。そのうちに
僕らは
火かげのさした、小さい窓の前を通りかかりました。
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そのまた窓の向こうには 夫婦らしい
雌雄の河童が二匹、三匹の子どもの河童といっしょに
晩餐のテーブルに向かっているのです。すると
トックはため息をしながら、突然こう
僕に話しかけました。
「僕は超人的恋愛家だと思っているがね、ああいう家庭の
容子を見ると、やはりうらやましさを感じるんだよ。」
「しかしそれはどう考えても、矛盾しているとは思わないかね?」
けれども
トックは月明りの下にじっと腕を組んだまま、あの小さい窓の向こうを、‥‥平和な五匹の河童たちの 晩餐のテーブルを見守っていました。それからしばらくしてこう答えました。
「あすこにある玉子焼きはなんと言っても、恋愛などよりも衛生的だからね。」
六
実際また河童の恋愛は 我々人間の恋愛とは よほど趣を
異にしています。
雌の河童はこれぞという雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童をとらえるのに いかなる手段も顧みません、一番正直な
雌の河童は
遮二無二雄の河童を追いかけるのです。現に
僕は気違いのように 雄の河童を追いかけている
雌の河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若い
雌の河童はもちろん、その河童の両親や兄弟まで いっしょになって追いかけるのです。雄の河童こそみじめです。なにしろさんざん逃げまわったあげく、運よく つかまらずにすんだとしても、二三か月は
床についてしまうのですから。
僕はある時
僕の家に
トックの詩集を読んでいました。するとそこへ駆けこんできたのは あの
ラップという学生です。
ラップは
僕の家へ転げこむと、
床の上へ倒れたなり、息も切れ切れにこう言うのです。
「
大変だ! とうとう僕は抱きつかれてしまった!」
僕はとっさに詩集を投げ出し、戸口の
錠をおろしてしまいました。
13/52
しかし
鍵穴からのぞいてみると、
硫黄の粉末を顔に塗った、
背の低い
雌の
河童が一匹、まだ戸口にうろついているのです。
ラップはその日から何週間か
僕の
床の上に寝ていました。のみならず いつか
ラップの
嘴は すっかり腐って落ちてしまいました。
もっとも また時には
雌の河童を
一生懸命に追いかける
雄の河童もないではありません。しかしそれも ほんとうのところは 追いかけずには いられないように
雌の河童が仕向けるのです。
僕はやはり気違いのように
雌の河童を追いかけている 雄の河童も見かけました。
雌の河童は逃げてゆくうちにも、時々わざと立ち止まってみたり、
四つん
這いになったりして見せるのです。おまけにちょうどいい時分になると、さもがっかりしたように 楽々とつかませてしまうのです。
僕の見かけた雄の河童は
雌の河童を抱いたなり、しばらくそこに
転がっていました。が、やっと起き上がったのを見ると、失望というか、後悔というか、とにかくなんとも形容できない、気の毒な顔をしていました。しかしそれはまだいいのです。これも
僕の見かけた中に小さい雄の河童が一匹、
雌の河童を追いかけていました。
雌の河童は例のとおり、誘惑的
遁走をしているのです。するとそこへ向こうの
街から大きい雄の河童が一匹、鼻息を鳴らせて歩いてきました。
雌の河童はなにかの拍子にふとこの雄の河童を見ると「
大変です! 助けてください! あの河童は わたしを殺そうとするのです!」と
金切り声を出して叫びました。もちろん大きい雄の河童は たちまち小さい河童をつかまえ、往来のまん中へねじ伏せました。小さい河童は
水掻きのある手に二三度
空をつかんだなり、とうとう死んでしまいました。けれどももうその時には
雌の河童は にやにやしながら、大きい河童の
頸っ玉へ しっかり しがみついて しまっていたのです。
14/52
僕の知っていた
雄の
河童は だれも皆 言い合わせたように
雌の河童に追いかけられました。もちろん妻子を持っている
バッグでも やはり追いかけられたのです。のみならず二三度はつかまったのです。ただ
マッグという哲学者だけは(これはあの
トックという詩人の隣にいる河童です。)一度もつかまったことはありません。これは一つには
マッグぐらい、醜い河童も少ないためでしょう。しかしまた一つには
マッグだけはあまり往来へ顔を出さずに
家にばかりいるためです。
僕はこの
マッグの家へも時々話しに出かけました。
マッグはいつも
薄暗い
部屋に
七色の
色硝子の
ランタンをともし、
脚の高い机に向かいながら、厚い本ばかり読んでいるのです。
僕はある時 こういう
マッグと河童の恋愛を論じ合いました。
「なぜ政府は
雌の河童が雄の河童を追いかけるのを もっと厳重に取り締まらないのです?」
「それは一つには官吏の中に
雌の河童の少ないためですよ。
雌の河童は雄の河童よりも いっそう
嫉妬心は強いものですからね、
雌の河童の官吏さえ
殖えれば、きっと今よりも雄の河童は 追いかけられずに暮らせるでしょう。しかしその効力もしれたものですね。なぜと言ってごらんなさい。官吏同志でも
雌の河童は雄の河童を 追いかけますからね。」
「じゃあなたのように暮らしているのは 一番幸福なわけですね。」
すると
マッグは
椅子を離れ、
僕の両手を握ったまま、ため息といっしょにこう言いました。
「あなたは我々河童ではありませんから、おわかりにならないのも もっともです。しかしわたしもどうかすると、あの恐ろしい雌の河童に 追いかけられたい気も起こるのですよ。」
七
僕はまた詩人の
トックと たびたび音楽会へも出かけました。が、いまだに忘れられないのは 三度目に
聴きにいった音楽会のことです。
15/52
もっとも会場の
容子などは あまり日本と変わっていません。やはり だんだんせり上がった席に
雌雄の河童が三四百匹、いずれもプログラムを手にしながら、一心に耳を澄ませているのです。
僕はこの三度目の音楽会の時には
トックやトックの
雌の河童のほかにも 哲学者の
マッグといっしょになり、一番前の席にすわっていました。するとチェロの独奏が終わった
後、妙に目の細い河童が一匹、
無造作に
譜本【楽譜】を
抱えたまま、壇の上へ上がってきました。この河童はプログラムの教えるとおり、名高い
クラバックという作曲家です。プログラムの教えるとおり、‥‥いや、プログラムを見るまでもありません。
クラバックは
トックが属している超人
倶楽部の会員ですから、
僕もまた顔だけは知っているのです。
「Lied‥‥Craback」(この国のプログラムも たいていは
独逸語を並べていました。)
クラバックは盛んな拍手のうちに ちょっと我々へ一礼した後、静かにピアノの前へ歩み寄りました。それからやはり無造作に 自作のリード【メロディー】を
弾きはじめました。
クラバックは
トックの言葉によれば、この国の生んだ音楽家中、前後に比類のない天才だそうです。
僕は
クラバックの音楽はもちろん、そのまた
余技の
叙情詩にも 興味を持っていましたから、大きい弓なりのピアノの音に 熱心に耳を傾けていました。
トックや
マッグも
恍惚としていたことは あるいは
僕よりもまさっていたでしょう。が、あの美しい(少なくとも
河童たちの話によれば)
雌の河童だけはしっかりプログラムを握ったなり、時々さもいらだたしそうに 長い舌をべろべろ出していました。これは
マッグの話によれば、なんでもかれこれ十年
前に
クラバックをつかまえ そこなったものですから、いまだにこの音楽家を目の
敵にしているのだとか いうことです。
16/52
クラバックは全身に情熱をこめ、戦うようにピアノを
弾きつづけました。すると突然会場の中に神鳴りのように響き渡ったのは「演奏禁止」という声です。
僕はこの声にびっくりし、思わず後ろをふり返りました。声の主は紛れもない、一番後ろの席にいる
身の
丈抜群の巡査です、巡査は
僕がふり向いた時、
悠然と腰をおろしたまま、もう一度 前よりもおお声に「演奏禁止」と
怒鳴りました。それから、‥‥
それから先は大混乱です。「警官横暴!」「
クラバック、弾け! 弾け!」「
莫迦!」「畜生!」「ひっこめ!」「負けるな!」‥‥こういう声のわき上がった中に
椅子は倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけにだれが投げるのか、サイダーの
空罎や 石ころや かじりかけの
胡瓜さえ降ってくるのです。
僕は
呆っ
気にとられましたから、
トックにその理由を尋ねようとしました。が、
トックも興奮したとみえ、椅子の上に突っ立ちながら、「
クラバック、弾け! 弾け!」とわめきつづけています。のみならず
トックの
雌の河童も いつの
間に敵意を忘れたのか、「警官横暴」と叫んでいることは少しも
トックに変わりません。
僕はやむを得ず
マッグに向かい、「どうしたのです?」と尋ねてみました。
「これですか? これはこの国ではよくあることですよ。元来
画だの文芸だのは……」
マッグは何か飛んでくるたびに ちょっと
頸を縮めながら、相変わらず静かに説明しました。
「元来画だの文芸だのは だれの目にも何を表わしているかは とにかくちゃんと わかるはずですから、この国では決して発売禁止や 展覧禁止は行なわれません。その代わりにあるのが演奏禁止です。なにしろ音楽というものだけは どんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。」
「しかしあの巡査は耳があるのですか?」
「さあ、それは疑問ですね。
17/52
たぶん今の旋律を聞いているうちに 細君といっしょに寝ている時の 心臓の鼓動でも思い出したのでしょう。」
こういう間にも 大騒ぎはいよいよ盛んになるばかりです。
クラバックはピアノに向かったまま、
傲然と我々をふり返っていました。が、いくら
傲然としていても、いろいろのものの飛んでくるのは よけないわけにゆきません。従ってつまり二三秒置きに せっかくの態度も変わったわけです。しかしとにかく だいたいとしては 大音楽家の威厳を保ちながら、細い目を すさまじく かがやかせていました。
僕は‥‥
僕ももちろん危険を避けるために
トックを
小楯にとっていたものです。が、やはり好奇心に駆られ、熱心に
マッグと話しつづけました。
「そんな検閲は乱暴じゃありませんか?」
「なに、どの国の検閲よりも かえって進歩しているくらいですよ。たとえば××をごらんなさい。現につい
一月ばかり前にも、……」
ちょうどこう言いかけたとたんです。
マッグはあいにく脳天に空罎が落ちたものですから、quack(これはただ
間投詞です)と一声叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。
八
僕は
硝子会社の社長の
ゲエルに不思議にも 好意を持っていました。
ゲエルは資本家中の資本家です。おそらくはこの国の
河童の中でも、
ゲエルほど大きい腹をした河童は 一匹もいなかったのに違いありません。しかし
茘枝【ライチ】に似た細君や
胡瓜に似た子どもを左右にしながら、安楽
椅子にすわっているところは ほとんど幸福そのものです。
僕は時々 裁判官の
ペップや医者の
チャックにつれられて
ゲエル家の
晩餐へ出かけました。また
ゲエルの紹介状を持って
ゲエルやゲエルの友人たちが多少の関係を持っている いろいろの工場も見て歩きました。そのいろいろの工場の中でも ことに
僕におもしろかったのは 書籍製造会社の工場です。
18/52
僕は年の若い河童の技師とこの工場の中へはいり、水力電気を動力にした、大きい機械をながめた時、今さらのように 河童の国の機械工業の進歩に驚嘆しました。なんでもそこでは 一年間に七百万部の本を製造するそうです。が、
僕を驚かしたのは本の部数ではありません。それだけの本を製造するのに 少しも手数のかからないことです。なにしろこの国では本を造るのに ただ機械の
漏斗形の口へ 紙とインクと灰色をした粉末とを 入れるだけなのですから。それらの原料は機械の中へはいると、ほとんど五分とたたないうちに
菊版、
四六版、
菊半裁版などの無数の本になって出てくるのです。
僕は
瀑のように流れ落ちる いろいろの本をながめながら、
反り身になった河童の技師に その灰色の粉末はなんと言うものかと尋ねてみました。すると技師は黒光りに光った機械の前に たたずんだまま、つまらなそうにこう返事をしました。
「これですか? これは
驢馬の脳髄ですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざっと粉末にしただけのものです。時価は一
噸二三銭ですがね。」
もちろんこういう工業上の奇跡は 書籍製造会社にばかり起こっているわけでは ありません。絵画製造会社にも、音楽製造会社にも、同じように起こっているのです。実際また
ゲエルの話によれば、この国では平均一か月に七八百種の機械が新案され、なんでも ずんずん人手を待たずに 大量生産が行なわれるそうです。従ってまた職工の
解雇されるのも 四五万匹を下らないそうです。そのくせまだこの国では毎朝新聞を読んでいても、一度も
罷業【ストライキ】という字に出会いません。
僕はこれを妙に思いましたから、ある時また
ペップや
チャックと
ゲエル家の 晩餐に招かれた機会に このことをなぜかと尋ねてみました。
「それはみんな食ってしまうのですよ。」
食後の葉巻をくわえた
ゲエルは いかにも
無造作にこう言いました。
19/52
しかし「食ってしまう」というのは なんのことだかわかりません。すると
鼻目金をかけた
チャックは
僕の不審を察したとみえ、横あいから説明を加えてくれました。
「その職工をみんな殺してしまって、肉を食料に使うのです。ここにある新聞をごらんなさい。今月はちょうど六万四千七百六十九匹の職工が
解雇されましたから、それだけ肉の値段も下がったわけですよ。」
「職工は黙って殺されるのですか?」
「それは騒いでもしかたはありません。
職工屠殺法があるのですから。」
これは
山桃の
鉢植えを後ろに 苦い顔をしていた
ペップの言葉です。
僕はもちろん不快を感じました。しかし主人公の
ゲエルはもちろん、
ペップや
チャックもそんなことは当然と 思っているらしいのです。現に
チャックは笑いながら、あざけるように
僕に話しかけました。
「つまり
餓死したり自殺したりする手数を 国家的に省略してやるのですね。ちょっと有毒
瓦斯をかがせるだけですから、たいした苦痛はありませんよ。」
「けれどもその肉を食うというのは、……」
「
常談を言ってはいけません。あの
マッグに聞かせたら、さぞ大笑いに笑うでしょう。あなたの国でも第四階級の娘たちは 売笑婦になっているではありませんか? 職工の肉を食うことなどに 憤慨したりするのは感傷主義ですよ。」
こういう問答を聞いていた
ゲエルは 手近いテーブルの上にあった サンドウィッチの皿を勧めながら、
恬然【平然】と
僕にこう言いました。
「どうです? 一つとりませんか? これも職工の肉ですがね。」
僕はもちろん
辟易しました。いや、そればかりではありません。
ペップや
チャックの笑い声を後ろに
ゲエル家の客間を飛び出しました。それはちょうど 家々の空に星明かりも見えない 荒れ模様の夜です。
僕はその
闇の中を
僕の
住居へ帰りながら、のべつ幕なしに
嘔吐を吐きました。
20/52
夜目にも
白じらと流れる嘔吐を。
九
しかし
硝子会社の社長の
ゲエルは 人なつこい
河童だったのに違いません。
僕は たびたび
ゲエルといっしょに
ゲエルの属している
倶楽部へ行き、愉快に一晩を暮らしました。これは一つには その倶楽部は
トックの属している超人倶楽部よりも はるかに
居心のよかったためです。のみならずまた
ゲエルの話は 哲学者の
マッグの話のように 深みを持っていなかったにせよ、
僕には全然新しい世界を、‥‥広い世界をのぞかせました。
ゲエルは、いつも純金の
匙に
珈琲の
茶碗をかきまわしながら、快活にいろいろの話をしたものです。
なんでもある霧の深い晩、
僕は
冬薔薇を盛った
花瓶を中に
ゲエルの話を聞いていました。それはたしか
部屋全体はもちろん、
椅子やテーブルも白い上に 細い金の
縁をとった
セセッション風の部屋だったように覚えています。
ゲエルは ふだんよりも得意そうに 顔中に微笑をみなぎらせたまま、ちょうどそのころ天下を取っていた Quorax 党内閣のことなどを話しました。クオラックスという言葉は ただ意味のない
間投詞ですから、「おや」とでも訳すほかはありません。が、とにかく何よりも先に「河童全体の利益」ということを
標榜していた政党だったのです。
「クオラックス党を支配しているものは 名高い政治家の
ロッペです。『正直は最良の外交である』とはビスマルクの言った言葉でしょう。しかし
ロッペは 正直を
内治の上にも及ぼしているのです。……」
「けれども
ロッペの演説は……」
「まあ、わたしの言うことをお聞きなさい。あの演説はもちろんことごとく
譃です。が、譃ということはだれでも知っていますから、
畢竟【つまるところ】正直と変わらないでしょう、それを一概に譃と言うのは あなたがた だけの偏見ですよ。
21/52
我々
河童はあなたがたのように、……しかしそれはどうでもよろしい。わたしの話したいのは
ロッペのことです。
ロッペはクオラックス党を支配している、そのまた
ロッペを支配しているものは Pou-Fou 新聞の(この『プウ・フウ』という言葉もやはり意味のない
間投詞です。もし
強いて訳すれば、『ああ』とでも言うほかはありません。)社長の
クイクイです。が、
クイクイも彼自身の主人というわけにはゆきません。
クイクイを支配しているものは あなたの前にいる
ゲエルです。」
「けれども‥‥これは失礼かもしれませんけれども、プウ・フウ新聞は労働者の味かたをする新聞でしょう。その社長の
クイクイも あなたの支配を受けているというのは、……」
「プウ・フウ新聞の記者たちはもちろん労働者の味かたです。しかし記者たちを支配するものは
クイクイのほかはありますまい。しかも
クイクイは この
ゲエルの後援を受けずにはいられないのです。」
ゲエルは相変わらず微笑しながら、純金の
匙をおもちゃにしています。
僕はこういう
ゲエルを見ると、
ゲエル自身を憎むよりも、プウ・フウ新聞の記者たちに同情の起こるのを感じました。すると
ゲエルは
僕の無言に たちまちこの同情を感じたとみえ、大きい腹をふくらませてこう言うのです。
「なに、プウ・フウ新聞の記者たちも 全部労働者の味かたではありませんよ。少なくとも我々河童というものは だれの味かたをするよりも先に 我々自身の味かたをしますからね。……しかしさらに
厄介なことには この
ゲエル自身さえ やはり他人の支配を受けているのです。あなたはそれをだれだと思いますか? それは わたしの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。」
ゲエルはおお声に笑いました。
「それはむしろしあわせでしょう。」
「とにかくわたしは満足しています。
22/52
しかしこれもあなたの前だけに、‥‥河童でないあなたの前だけに 手放しで
吹聴できるのです。」
「するとつまりクオラックス内閣は ゲエル夫人が支配しているのですね。」
「さあそうも言われますかね。……しかし七年
前の戦争などは たしかにある
雌の河童のために 始まったものに違いありません。」
「戦争? この国にも戦争はあったのですか?」
「ありましたとも。将来もいつあるかわかりません。なにしろ隣国のある限りは、……」
僕は 実際この時はじめて 河童の国も国家的に孤立していないことを知りました。
ゲエルの説明するところによれば、
河童はいつも
獺を 仮設敵にしているということです。しかも
獺は 河童に負けない軍備を
具えているということです。
僕はこの
獺を相手に 河童の戦争した話に少なからず興味を感じました。(なにしろ河童の強敵に
獺のいる などということは「
水虎考略」の著者はもちろん、「
山島民譚集」の著者
柳田国男さんさえ 知らずにいたらしい新事実ですから。)
「あの戦争の起こる前には もちろん両国とも油断せずに じっと相手をうかがっていました。というのは どちらも同じように相手を恐怖していたからです。そこへこの国にいた
獺が一匹、ある河童の夫婦を訪問しました。そのまた
雌の河童というのは 亭主を殺すつもりでいたのです。なにしろ亭主は道楽者でしたからね。おまけに生命保険のついていたことも 多少の誘惑になったかもしれません。」
「あなたはその夫婦を御存じですか?」
「ええ、‥‥いや、
雄の河童だけは知っています。わたしの妻などは この河童を悪人のように言っていますがね。しかしわたしに言わせれば、悪人よりもむしろ
雌の河童につかまることを恐れている
被害妄想の多い狂人です。……そこでこの
雌の河童は 亭主の
ココアの
茶碗の中へ
青化加里を入れておいたのです。
23/52
それをまたどう
間違えたか、客の
獺に飲ませてしまったのです。
獺はもちろん死んでしまいました。それから……」
「それから戦争になったのですか?」
「ええ、あいにくその
獺は勲章を持っていたものですからね。」
「戦争はどちらの勝ちになったのですか?」
「もちろんこの国の勝ちになったのです。三十六万九千五百匹の河童たちは そのために
健気にも戦死しました。しかし敵国に比べれば、そのくらいの損害はなんともありません。この国にある毛皮という毛皮は たいてい
獺の毛皮です。わたしもあの戦争の時には
硝子を製造するほかにも 石炭
殻を戦地へ送りました。」
「石炭殻を何にするのですか?」
「もちろん食糧にするのです。我々は、河童は腹さえ減れば、なんでも食うのにきまっていますからね。」
「それは‥‥どうか
怒らずにください。それは戦地にいる河童たちには……我々の国では
醜聞【スキャンダル】ですがね。」
「この国でも
醜聞には違いありません。しかしわたし自身こう言っていれば、だれも
醜聞にはしないものです。哲学者の
マッグも言っているでしょう。『
汝【そなた】の悪は汝自ら言え。悪はおのずから消滅すべし。』……しかもわたしは利益のほかにも 愛国心に燃え立っていたのですからね。」
ちょうどそこへ はいってきたのは この
倶楽部の給仕です。給仕は
ゲエルにお
時宜をした
後、朗読でもするようにこう言いました。
「お宅のお隣に火事がございます。」
「火‥‥火事!」
ゲエルは驚いて立ち上がりました。
僕も立ち上がったのはもちろんです。が、給仕は落ち着き払って次の言葉をつけ加えました。
「しかしもう消し止めました。」
ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑いに近い表情をしました。
僕はこういう顔を見ると、いつかこの
硝子会社の社長を 憎んでいたことに気づきました。
24/52
が、
ゲエルはもう今では大資本家でもなんでもない ただの
河童になって立っているのです。
僕は
花瓶の中の
冬薔薇の花を抜き、
ゲエルの手へ渡しました。
「しかし火事は消えたといっても、奥さんはさぞお驚きでしょう。さあ、これを持ってお帰りなさい。」
「ありがとう。」
ゲエルは
僕の手を握りました。それから急ににやりと笑い、小声にこう
僕に話しかけました。
「隣は わたしの
家作ですからね。火災保険の金だけはとれるのですよ。」
僕はこの時の
ゲエルの微笑を‥‥
軽蔑することもできなければ、
憎悪することもできない
ゲエルの微笑をいまだにありありと覚えています。
十
「どうしたね? きょうはまた妙にふさいでいるじゃないか?」
その火事のあった翌日です。
僕は
巻煙草をくわえながら、
僕の客間の
椅子に腰をおろした学生の
ラップに こう言いました。実際また
ラップは右の
脚の上へ左の脚をのせたまま、腐った
嘴も見えないほど、ぼんやり
床の上ばかり見ていたのです。
「
ラップ君、どうしたね。」と言えば、
「いや、なに、つまらないことなのですよ。‥‥」
ラップはやっと頭をあげ、悲しい鼻声を出しました。
「僕はきょう窓の外を見ながら、『おや虫取り
菫が咲いた』と
何気なしにつぶやいたのです。すると僕の妹は急に顔色を変えたと思うと、『どうせわたしは虫取り
菫よ』と当たり散らすじゃありませんか? おまけにまた僕のおふくろも
大の妹
贔屓ですから、やはり僕に食ってかかるのです。」
「虫取り
菫が咲いたということは どうして妹さんには不快なのだね?」
「さあ、たぶん
雄の河童をつかまえるという意味にでも とったのでしょう。そこへおふくろと仲悪い
叔母も
喧嘩の仲間入りをしたのですから、いよいよ大騒動になってしまいました。
25/52
しかも年中酔っ払っているおやじは この喧嘩を聞きつけると、たれかれの差別なしに
殴り出したのです。それだけでも始末のつかないところへ 僕の弟はその
間に おふくろの
財布を盗むが早いか、キネマか何かを見にいってしまいました。僕は……ほんとうに僕はもう、……」
ラップは両手に顔を
埋め、何も言わずに泣いてしまいました。
僕の同情したのはもちろんです。同時にまた家族制度に対する 詩人の
トックの軽蔑を思い出したのも もちろんです。
僕は
ラップの肩をたたき、
一生懸命に
慰めました。
「そんなことは どこでもありがちだよ。まあ勇気を出したまえ。」
「しかし……しかし
嘴でも腐っていなければ、……」
「それはあきらめるほかはないさ。さあ、
トック君の
家へでも行こう。」
「
トックさんは僕を
軽蔑しています。僕は
トックさんのように 大胆に家族を捨てることができませんから。」
「じゃ
クラバック君の家へ行こう。」
僕はあの音楽会以来、
クラバックにも友だちになっていましたから、とにかくこの大音楽家の家へ
ラップをつれ出すことにしました。
クラバックは
トックに比べれば、はるかに
贅沢に暮らしています。というのは資本家の
ゲエルのように 暮らしているという意味ではありません。ただいろいろの
骨董を、‥‥
タナグラの人形や
ペルシャの陶器を
部屋いっぱいに並べた中に
トルコ風の長椅子を
据え、
クラバック自身の肖像画の下に いつも子どもたちと遊んでいるのです。が、きょうはどうしたのか両腕を胸へ組んだまま、苦い顔をしてすわっていました。のみならずそのまた足もとには
紙屑が一面に散らばっていました。
ラップも詩人
トックといっしょに たびたび
クラバックには会っているはずです。しかしこの
容子に恐れたとみえ、きょうは
丁寧にお
時宜をしたなり、黙って部屋の
隅に腰をおろしました。
「どうしたね?
クラバック君。」
26/52
僕はほとんど
挨拶の代わりに こう大音楽家へ問いかけました。
「どうするものか? 批評家の
阿呆め! 僕の
叙情詩は
トックの叙情詩と比べものに ならないと言やがるんだ。」
「しかし君は音楽家だし、……」
「それだけならば
我慢もできる。僕は
ロックに比べれば、音楽家の名に価しないと言やがるじゃないか?」
ロックというのは
クラバックと たびたび比べられる音楽家です。が、あいにく超人
倶楽部の会員になっていない関係上、
僕は一度も話したことはありません。もっとも
嘴の
反り上がった、
一癖あるらしい顔だけは たびたび写真でも見かけていました。
「
ロックも天才には違いない。しかし
ロックの音楽は 君の音楽にあふれている近代的情熱を持っていない。」
「君はほんとうにそう思うか?」
「そう思うとも。」
すると
クラバックは立ち上がるが早いか、タナグラの人形をひっつかみ、いきなり
床の上にたたきつけました。
ラップはよほど驚いたとみえ、何か声をあげて逃げようとしました。が、
クラバックは
ラップや
僕にはちょっと「驚くな」という
手真似をした上、今度は冷やかにこう言うのです。
「それは君もまた
俗人【一般の人】のように耳を持っていないからだ。僕は
ロックを恐れている。……」
「君が?
謙遜家を気どるのはやめたまえ。」
「だれが
謙遜家を気どるものか? 第一君たちに気どって見せるくらいならば、批評家たちの前に気どって見せている。僕は‥‥
クラバックは天才だ。その点では
ロックを恐れていない。」
「では何を恐れているのだ?」
「何か
正体の知れないものを、‥‥言わば
ロックを支配している星を。」
「どうも
僕には
腑に落ちないがね。」
「ではこう言えばわかるだろう。
ロックは僕の影響を受けない。が、僕はいつの
間にか
ロックの影響を受けてしまうのだ。」
「それは君の感受性の……。」
27/52
「まあ、聞きたまえ。感受性などの問題ではない。
ロックはいつも安んじて あいつだけにできる仕事をしている。しかし僕はいらいらするのだ。それは
ロックの目から見れば、あるいは一歩の差かもしれない。けれども僕には十
哩も違うのだ。」
「しかし先生の英雄曲は……」
クラバックは細い目をいっそう細め、いまいましそうに
ラップをにらみつけました。
「黙りたまえ。君などに何がわかる? 僕は
ロックを知っているのだ。
ロックに平身低頭する犬どもよりも
ロックを知っているのだ。」
「まあ少し静かにしたまえ。」
「もし静かにしていられるならば、……僕はいつもこう思っている。‥‥僕らの知らない何ものかは僕を、‥‥
クラバックをあざけるために
ロックを僕の前に立たせたのだ。哲学者の
マッグはこういうことを なにもかも承知している。いつもあの
色硝子のランタンの下に 古ぼけた本ばかり読んでいるくせに。」
「どうして?」
「この近ごろ
マッグの書いた『
阿呆の言葉』という本を見たまえ。‥‥」
クラバックは
僕に一冊の本を渡す‥‥というよりも投げつけました。それからまた腕を組んだまま、
突けんどんにこう言い放ちました。
「じゃきょうは失敬しよう。」
僕はしょげ返った
ラップといっしょに もう一度往来へ出ることにしました。人通りの多い往来は 相変わらず
毛生欅の並み木のかげに いろいろの店を並べています。
僕らはなんということもなしに 黙って歩いてゆきました。するとそこへ通りかかったのは 髪の長い詩人の
トックです。
トックは
僕らの顔を見ると、腹の袋から
手巾を出し、何度も額をぬぐいました。
「やあ、しばらく会わなかったね。僕はきょうは久しぶりに
クラバックを尋ねようと思うのだが、……」
28/52
僕はこの芸術家たちを
喧嘩させては悪いと思い、
クラバックのいかにも
不機嫌だったことを
婉曲に
トックに話しました。
「そうか。じゃやめにしよう。なにしろ
クラバックは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱っているのだ。」
「どうだね、
僕らといっしょに散歩をしては?」
「いや、きょうはやめにしよう。おや!」
トックはこう叫ぶが早いか、しっかり
僕の腕をつかみました。しかもいつか
体中に冷汗を流しているのです。
「どうしたのだ?」
「どうしたのです?」
「なにあの自動車の窓の中から 緑いろの
猿が一匹首を出したように見えたのだよ。」
僕は多少心配になり、とにかくあの医者の
チャックに 診察してもらうように勧めました。しかし
トックはなんと言っても、承知する
気色さえ見せません。のみならず何か疑わしそうに
僕らの顔を見比べながら、こんなことさえ言い出すのです。
「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきっと忘れずにいてくれたまえ。‥‥ではさようなら。
チャックなどはまっぴらごめんだ。」
僕らは ぼんやり たたずんだまま、
トックの後ろ姿を見送っていました。
僕らは‥‥いや、「
僕ら」ではありません。学生の
ラップはいつの間にか 往来のまん中に
脚をひろげ、しっきりない自動車や人通りを
股目金にのぞいているのです。
僕はこの
河童も発狂したかと思い、驚いて
ラップを引き起こしました。
「
常談じゃない。何をしている?」
しかし
ラップは目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。
「いえ、あまり
憂鬱ですから、さかさまに世の中をながめて見たのです。けれどもやはり同じことですね。」
十一
これは哲学者の
マッグの書いた「
阿呆の言葉」の中の何章かです。
29/52
‥‥
×
阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。
×
我々の自然を愛するのは 自然は我々を憎んだり
嫉妬したりしないため も ないことはない。
×
もっとも賢い生活は一時代の習慣を
軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を 少しも破らないように暮らすことである。
×
我々のもっとも誇りたいものは 我々の持っていないものだけである。
×
何びとも偶像を破壊することに 異存を持っているものはない。同時にまた何びとも偶像になることに 異存を持っているものはない。しかし偶像の台座の上に 安んじてすわっていられるものは もっとも神々に恵まれたもの、‥‥阿呆か、悪人か、英雄かである。(
クラバックはこの章の上へ
爪の
痕をつけていました。)
×
我々の生活に必要な思想は三千年
前に尽きたかもしれない。我々はただ古い
薪に新しい炎を加えるだけであろう。
×
我々の特色は 我々自身の意識を超越するのを常としている。
×
幸福は苦痛を伴い、平和は
倦怠を伴うとすれば、‥‥?
×
自己を弁護することは 他人を弁護することよりも困難である。疑うものは弁護士を見よ。
×
矜誇、愛欲、疑惑‥‥あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。同時にまた おそらくは あらゆる徳も。
×
物質的欲望を減ずることは 必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには 精神的欲望も減じなければならぬ。(
クラバックはこの章の上にも
爪の
痕を残していました。)
×
我々は人間よりも不幸である。人間は
河童ほど進化していない。
30/52
(
僕はこの章を読んだ時思わず笑ってしまいました。)
×
成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すことである。
畢竟【つまるところ】我々の生活は こういう循環論法を脱することはできない。‥‥すなわち不合理に終始している。
×
ボードレールは白痴になった
後、彼の人生観をたった一語に、‥‥女陰の一語に表白した【自分の全存在をその一言に賭けて表明した】。しかし彼自身を語るものは 必ずしもこう言ったことではない。むしろ彼の天才に、‥‥彼の生活を維持するに足る 詩的天才に信頼したために 胃袋の一語を忘れたことである。(この章にもやはり
クラバックの爪の痕は残っていました。)
×
もし理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴォルテエルの幸福に 一生をおわったのは すなわち 人間の河童よりも進化していないことを示すものである。
十二
ある割合に寒い午後です。
僕は「
阿呆の言葉」を読み飽きましたから、哲学者の
マッグを尋ねに出かけました。するとある寂しい町の
角に 蚊のようにやせた
河童が一匹、ぼんやり壁によりかかっていました。しかもそれは紛れもない、いつか
僕の万年筆を盗んでいった河童なのです。
僕はしめたと思いましたから、ちょうどそこへ通りかかった、たくましい巡査を呼びとめました。
「ちょっとあの河童を取り調べてください。あの河童はちょうど
一月ばかり前に わたしの万年筆を盗んだのですから。」
巡査は右手の棒をあげ、(この国の巡査は
剣の代わりに
水松の棒を持っているのです。)「おい、君」とその河童へ声をかけました。
僕はあるいは その河童は逃げ出しはしないかと思っていました。が、存外落ち着き払って巡査の前へ歩み寄りました。
31/52
のみならず腕を組んだまま、いかにも
傲然と
僕の顔や巡査の顔をじろじろ見ているのです。しかし巡査は
怒りもせず、腹の袋から手帳を出して さっそく尋問にとりかかりました。
「お前の名は?」
「グルック。」
「職業は?」
「つい二三日前までは郵便配達夫をしていました。」
「よろしい。そこでこの人の申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んでいったということだがね。」
「ええ、一月ばかり前に盗みました。」
「なんのために?」
「子どもの
玩具にしようと思ったのです。」
「その子どもは?」
巡査ははじめて相手の河童へ鋭い目を注ぎました。
「一週間前に死んでしまいました。」
「死亡証明書を持っているかね?」
やせた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出しました。巡査はその紙へ目を通すと、急ににやにや笑いながら、相手の肩をたたきました。
「よろしい。どうも御苦労だったね。」
僕は
呆気にとられたまま、巡査の顔をながめていました。しかもそのうちに やせた河童は何か ぶつぶつ つぶやきながら、
僕らを後ろにして行ってしまうのです。
僕はやっと気をとり直し、こう巡査に尋ねてみました。
「どうしてあの河童をつかまえないのです?」
「あの河童は無罪ですよ。」
「しかし
僕の万年筆を盗んだのは……」
「子どもの玩具にするためだったのでしょう。けれどもその子どもは死んでいるのです。もし何か御不審だったら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。」
巡査はこう言いすてたなり、さっさとどこかへ行ってしまいました。
僕はしかたがありませんから、「刑法千二百八十五条」を口の中に繰り返し、
マッグの
家へ急いでゆきました。哲学者の
マッグは客好きです。
32/52
現にきょうも薄暗い
部屋には 裁判官の
ペップや医者の
チャックや
硝子会社の社長の
ゲエルなどが集まり、
七色の
色硝子のランタンの下に
煙草の煙を立ち
昇らせていました。そこに裁判官の
ペップが来ていたのは 何よりも
僕には
好つごうです。
僕は
椅子にかけるが早いか、刑法第千二百八十五条を
検べる代わりに さっそく
ペップへ問いかけました。
「
ペップ君、はなはだ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?」
ペップは
金口の煙草の煙を まず
悠々と吹き上げてから、いかにもつまらなそうに返事をしました。
「罰しますとも。死刑さえ行なわれるくらいですからね。」
「しかし
僕は
一月ばかり前に、……」
僕は委細を話した
後、例の刑法千二百八十五条のことを尋ねてみました。
「ふむ、それはこういうのです。‥‥『いかなる犯罪を行ないたりといえども、
該犯罪を行なわしめたる事情の消失したる後は 該犯罪者を処罰することを得ず』つまりあなたの場合で言えば、その
河童はかつては親だったのですが、今はもう親ではありませんから、犯罪も自然と消滅するのです。」
「それはどうも不合理ですね。」
「
常談を言ってはいけません。親
だった河童も親
である河童も同一に見るのこそ不合理です。そうそう、日本の法律では同一に見ることになっているのですね。それはどうも我々には
滑稽です。ふふふふふふふふふふ。」
ペップは巻煙草をほうり出しながら、気のない薄笑いをもらしていました。そこへ口を出したのは法律には縁の遠い
チャックです。
チャックはちょっと
鼻目金を直し、こう
僕に質問しました。
「日本にも死刑はありますか?」
「ありますとも。日本では
絞罪です。」
僕は冷然と構えこんだ
ペップに 多少反感を感じていましたから、この機会に皮肉を浴びせてやりました。
「この国の死刑は 日本よりも文明的にできているでしょうね?」
33/52
「それはもちろん文明的です。」
ペップはやはり落ち着いていました。
「この国では絞罪などは用いません。まれには電気を用いることもあります。しかしたいていは電気も用いません。ただその犯罪の名を言って聞かせるだけです。」
「それだけで河童は死ぬのですか?」
「死にますとも。我々河童の神経作用は あなたがたのよりも微妙ですからね。」
「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使うのがあります‥‥」
社長の
ゲエルは
色硝子の光に 顔中 紫に染まりながら、人なつこい
笑顔をして見せました。
「わたしはこの間もある社会主義者に『貴様は
盗人だ』と言われたために心臓
痲痺を起こしかかったものです。」
「それは案外多いようですね。わたしの知っていたある弁護士などは やはりそのために死んでしまったのですからね。」
僕はこう口を入れた
河童、‥‥哲学者の
マッグをふりかえりました。
マッグはやはりいつものように 皮肉な微笑を浮かべたまま、だれの顔も見ずにしゃべっているのです。
「その河童はだれかに
蛙だと言われ、‥‥もちろんあなたも御承知でしょう、この国で蛙だと言われるのは
人非人という意味になることぐらいは。‥‥
己は蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考えているうちに とうとう死んでしまったものです。」
「それはつまり自殺ですね。」
「もっともその河童を蛙だと言ったやつは 殺すつもりで言ったのですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺という……」
ちょうど
マッグがこう言った時です。突然その
部屋の壁の向こうに、‥‥たしかに詩人の
トックの家に 鋭いピストルの音が一発、空気をはね返すように響き渡りました。
十三
僕らは
トックの家へ駆けつけました。
34/52
トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物の
鉢植えの中に
仰向けになって倒れていました。そのまたそばには
雌の河童が一匹、
トックの胸に顔を
埋め、大声をあげて泣いていました。
僕は
雌の河童を抱き起こしながら、(いったい
僕はぬらぬらする河童の皮膚に 手を触れることを あまり好んではいないのですが。)「どうしたのです?」と尋ねました。
「どうしたのだか、わかりません。ただ何か書いていたと思うと、いきなりピストルで頭を打ったのです。ああ、わたしはどうしましょう? qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r」(これは河童の泣き声です。)
「なにしろ
トック君は わがままだったからね。」
硝子会社の社長の
ゲエルは 悲しそうに頭を振りながら、裁判官の
ペップにこう言いました。しかし
ペップは何も言わずに
金口の
巻煙草に火をつけていました。すると今までひざまずいて、
トックの
創口などを調べていた
チャックは いかにも医者らしい態度をしたまま、
僕ら五人に宣言しました。(実はひとりと
四匹とです。)
「もう
駄目です。
トック君は元来胃病でしたから、それだけでも
憂鬱になりやすかったのです。」
「何か書いていたということですが。」
哲学者の
マッグは 弁解するようにこう
独り
語をもらしながら、机の上の紙をとり上げました。
僕らは皆
頸をのばし、(もっとも
僕だけは例外です。)幅の広い
マッグの肩越しに 一枚の紙をのぞきこみました。
「いざ、立ちてゆかん。娑婆界を隔つる谷へ。
岩むらはこごしく、やま水は清く、
薬草の花はにおえる谷へ。」
マッグは
僕らをふり返りながら、微苦笑といっしょにこう言いました。
「これはゲーテの『ミニヨンの歌』の
剽窃ですよ。すると
トック君の自殺したのは 詩人としても疲れていたのですね。」
35/52
そこへ偶然自動車を乗りつけたのは あの音楽家の
クラバックです。
クラバックはこういう光景を見ると、しばらく戸口にたたずんでいました。が、
僕らの前へ歩み寄ると、
怒鳴りつけるように
マッグに話しかけました。
「それは
トックの
遺言状ですか?」
「いや、最後に書いていた詩です。」
「詩?」
やはり少しも騒がない
マッグは 髪を
逆立てた
クラバックに
トックの詩稿を渡しました。
クラバックはあたりには目もやらずに 熱心にその詩稿を読み出しました。しかも
マッグの言葉には ほとんど返事さえしないのです。
「あなたは
トック君の死をどう思いますか?」
「いざ、立ちて、……
僕もまたいつ死ぬかわかりません。……
娑婆界を隔つる谷へ。……」
「しかしあなたは
トック君とは やはり親友のひとりだったのでしょう?」
「親友?
トックはいつも孤独だったのです。……娑婆界を隔つる谷へ、……ただ
トックは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
「不幸にも?」
「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
僕はいまだに泣き声を絶たない
雌の
河童に同情しましたから、そっと肩を
抱えるようにし、
部屋の
隅の
長椅子へつれていきました。そこには二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らずに笑っているのです。
僕は
雌の河童の代わりに 子どもの河童をあやしてやりました。するといつか
僕の目にも涙のたまるのを感じました。
僕が河童の国に住んでいるうちに 涙というものをこぼしたのは 前にもあとにもこの時だけです。
「しかしこういう わがままの河童といっしょになった家族は 気の毒ですね。」
「なにしろあとのことも考えないのですから。」
裁判官の
ペップは相変わらず、新しい
巻煙草に火をつけながら、資本家の
ゲエルに返事をしていました。
36/52
すると
僕らを驚かせたのは 音楽家の
クラバックのおお声です。
クラバックは詩稿を握ったまま、だれにともなしに呼びかけました。
「しめた! すばらしい葬送曲ができるぞ。」
クラバックは細い目をかがやかせたまま、ちょっと
マッグの手を握ると、いきなり戸口へ飛んでいきました。もちろんもうこの時には隣近所の河童が大勢、
トックの家の戸口に集まり、珍しそうに家の中をのぞいているのです。しかし
クラバックはこの河童たちを
遮二無二左右へ押しのけるが早いか、ひらりと自動車へ飛び乗りました。同時にまた自動車は爆音を立てて たちまちどこかへ行ってしまいました。
「こら、こら、そうのぞいてはいかん。」
裁判官の
ペップは巡査の代わりに 大勢の
河童を押し出した
後、
トックの家の戸をしめてしまいました。
部屋の中はそのせいか急にひっそりなったものです。
僕らはこういう静かさの中に‥‥高山植物の花の香に交じった
トックの血の
匂いの中に
後始末のことなどを相談しました。しかしあの哲学者の
マッグだけは
トックの
死骸をながめたまま、ぼんやり何か考えています。
僕は
マッグの肩をたたき、「何を考えているのです?」と尋ねました。
「河童の生活というものをね。」
「河童の生活がどうなるのです?」
「我々河童はなんと言っても、河童の生活をまっとうするためには、……」
マッグは多少はずかしそうに こう小声でつけ加えました。
「とにかく我々河童以外の 何ものかの力を 信ずることですね。」
一四
僕に宗教というものを思い出させたのは こういう
マッグの言葉です。
僕はもちろん物質主義者ですから、
真面目に宗教を考えたことは 一度もなかったのに違いありません。が、この時は
トックの死にある感動を受けていたために いったい河童の宗教は なんであるかと考え出したのです。
37/52
僕はさっそく学生の
ラップに この問題を尋ねてみました。
「それは
基督教、仏教、モハメット教、
拝火教なども行なわれています。まず一番勢力のあるものは なんといっても近代教でしょう。生活教とも言いますがね。」(「生活教」という訳語は当たっていないかもしれません。この原語は Quemoocha です。cha は
英吉利語の ism という意味に当たるでしょう。quemoo の原形 quemal の訳は単に「生きる」というよりも「飯を食ったり、酒を飲んだり、
交合を行なったり」する意味です。)
「じゃこの国にも教会だの寺院だのはあるわけなのだね?」
「
常談を言ってはいけません。近代教の大寺院などはこの国第一の大建築ですよ。どうです、ちょっと見物に行っては?」
ある
生温かい曇天の午後、
ラップは
得々と
僕といっしょに この大寺院へ出かけました。なるほどそれは
ニコライ堂の十倍もある大建築です。のみならずあらゆる建築様式を 一つに組み上げた大建築です。
僕はこの大寺院の前に立ち、高い塔や
円屋根をながめた時、なにか無気味にさえ感じました。実際それらは天に向かって伸びた 無数の
触手のように見えたものです。
僕らは玄関の前にたたずんだまま、(そのまた玄関に比べてみても、どのくらい
僕らは小さかったのでしょう!)しばらくこの建築よりもむしろ途方もない 怪物に近い
希代【非常にまれ】の大寺院を見上げていました。
大寺院の内部もまた広大です。その
コリント風の円柱の立った中には
参詣人が何人も歩いていました。しかしそれらは
僕らのように 非常に小さく見えたものです。そのうちに
僕らは 腰の曲がった一匹の
河童に出合いました。すると
ラップはこの河童にちょっと頭を下げた上、
丁寧にこう話しかけました。
「長老、
御達者なのは何よりもです。」
相手の河童もお
時宜をした
後、やはり丁寧に返事をしました。
38/52
「これは
ラップさんですか? あなたも相変わらず、‥‥(と言いかけながら、ちょっと言葉をつがなかった【詰まった】のは
ラップの
嘴の腐っているのに やっと気がついたためだったでしょう。)‥‥ああ、とにかく御丈夫らしいようですね。が、きょうはどうしてまた……」
「きょうはこの
方のお伴をしてきたのです。この方はたぶん御承知のとおり、‥‥」
それから
ラップは
滔々と
僕のことを話しました。どうもまたそれは この大寺院へ
ラップがめったに来ないことの 弁解にもなっていたらしいのです。
「ついてはどうかこの方の御案内を 願いたいと思うのですが。」
長老は
大様【大らかな様子】に微笑しながら、まず
僕に
挨拶をし、静かに
正面の祭壇を指さしました。
「御案内と申しても、何もお役に立つことはできません。我々信徒の
礼拝するのは正面の祭壇にある『生命の
樹』です。『生命の樹』にはごらんのとおり、金と緑との
果がなっています。あの金の
果を『善の果』と言い、あの緑の
果を『悪の果』と言います。……」
僕はこういう説明のうちに もう退屈を感じ出しました。それはせっかくの長老の言葉も 古い
比喩のように聞こえたからです。
僕はもちろん 熱心に聞いている
容子を装っていました。が、時々は大寺院の内部へ そっと目をやるのを忘れずにいました。
コリント風の柱、
ゴシック風の
穹窿、アラビアじみた
市松模様の
床、
セセッションまがいの
祈祷机、‥‥こういうものの作っている調和は 妙に野蛮な美を
具えていました。しかし
僕の目をひいたのは 何よりも両側の
龕の中にある 大理石の半身像です。
僕は何かそれらの像を見知っているように思いました。それもまた不思議ではありません。あの腰の曲った
河童は「生命の樹」
39/52
の説明をおわると、今度は
僕や
ラップといっしょに 右側の
龕の前へ歩み寄り、その
龕の中の半身像にこういう説明を加え出しました。
「これは我々の聖徒のひとり、‥‥あらゆるものに反逆した 聖徒
ストリントベリイです。この聖徒はさんざん苦しんだあげく、
スウェデンボルグの哲学のために 救われたように言われています。が、実は救われなかったのです。この聖徒はただ我々のように生活教を信じていました。‥‥というよりも信じるほかはなかったのでしょう。この聖徒の我々に残した『伝説』という本を読んでごらんなさい。この聖徒も自殺未遂者だったことは 聖徒自身告白しています。」
僕はちょっと
憂鬱になり、次の
龕へ目をやりました。次の
龕にある半身像は
口髭の太い
独逸人です。
「これは
ツァラトストラの詩人ニーチェです。その聖徒は聖徒自身の造った超人に救いを求めました。が、やはり救われずに気違いになってしまったのです。もし気違いにならなかったとすれば、あるいは聖徒の
数へ はいることも できなかったかもしれません。……」
長老はちょっと黙った
後、第三の
龕の前へ案内しました。
「三番目にあるのはトルストイです。この聖徒はだれよりも苦行をしました。それは元来貴族だったために 好奇心の多い公衆に苦しみを見せることを きらったからです。この聖徒は事実上信ぜられない
基督を 信じようと努力しました。いや、信じているようにさえ公言したこともあったのです。しかし とうとう晩年には 悲壮な
譃つきだったことに
堪えられないようになりました。この聖徒も時々
書斎の梁に 恐怖を感じたのは有名です。けれども聖徒の数にはいっているくらいですから、もちろん自殺したのではありません。」
第四の
龕の中の半身像は我々日本人のひとりです。
40/52
僕はこの日本人の顔を見た時、さすがに
懐しさを感じました。
「これは
国木田独歩です。
轢死する
人足の心もちを はっきり知っていた詩人です。しかしそれ以上の説明は あなたには不必要に違いありません。では五番目の
龕の中をごらんください。‥‥」
「これは
ワグネルではありませんか?」
「そうです。国王の友だちだった革命家です。聖徒
ワグネルは 晩年には食前の
祈祷さえしていました。しかしもちろん 基督教よりも生活教の信徒のひとりだったのです。
ワグネルの残した手紙によれば、
娑婆苦は 何度この聖徒を死の前に駆りやったかわかりません。」
僕らはもう その時には第六の
龕の前に立っていました。
「これは聖徒ストリントベリイの友だちです。子どもの大勢ある細君の代わりに 十三四のクイティの女をめとった 商売人上がりの
仏蘭西の画家です。この聖徒は太い血管の中に水夫の血を流していました。が、
唇をごらんなさい。
砒素か何かの
痕が残っています。第七の
龕の中にあるのは……もうあなたはお疲れでしょう。ではどうか こちらへおいでください。」
僕は実際疲れていましたから、
ラップといっしょに長老に従い、
香の
匂いのする 廊下伝いにある
部屋へはいりました。そのまた小さい部屋の
隅には 黒いヴィーナスの像の下に
山葡萄が一ふさ献じてあるのです。
僕はなんの装飾もない 僧房を想像していただけに ちょっと意外に感じました。すると長老は
僕の
容子に こういう気もちを感じたとみえ、
僕らに
椅子を
薦める前に 半ば気の毒そうに説明しました。
「どうか我々の宗教の生活教であることを 忘れずにください。我々の神、‥‥『生命の
樹』の教えは『
旺盛に生きよ』というのですから。……
ラップさん、あなたはこのかたに 我々の聖書をごらんにいれましたか?」
「いえ、……実はわたし自身もほとんど読んだことはないのです。」
41/52
ラップは頭の
皿を
掻きながら、正直にこう返事をしました。が、長老は相変わらず静かに微笑して話しつづけました。
「それではおわかりなりますまい。我々の神は一日のうちにこの世界を造りました。(『生命の
樹』は樹というものの、成しあたわない【成し得ない】ことはないのです。)のみならず
雌の
河童を造りました。すると
雌の河童は退屈のあまり、
雄の河童を求めました。我々の神はこの嘆きを
憐れみ、
雌の河童の
脳髄を取り、雄の河童を造りました。我々の神はこの二匹の河童に『食えよ、交合せよ、
旺盛に生きよ』という祝福を与えました。……」
僕は長老の言葉のうちに 詩人の
トックを思い出しました。詩人の
トックは不幸にも
僕のように無神論者です。
僕は河童ではありませんから、生活教を知らなかったのも無理はありません。けれども河童の国に生まれた
トックはもちろん「生命の樹」を知っていたはずです。
僕はこの教えに従わなかった
トックの最後を憐れみましたから、長老の言葉をさえぎるように
トックのことを話し出しました。
「ああ、あの気の毒な詩人ですね。」
長老は
僕の話を聞き、深い息をもらしました。
「我々の運命を定めるものは 信仰と境遇と偶然とだけです。(もっともあなたがたは そのほかに遺伝をお数えなさるでしょう。)
トックさんは不幸にも 信仰をお持ちにならなかったのです。」
「
トックは あなたを うらやんでいたでしょう。いや、
僕もうらやんでいます。
ラップ君などは年も若いし、……」
「僕も
嘴さえちゃんとしていれば あるいは楽天的だったかもしれません。」
長老は
僕らにこう言われると、もう一度深い息をもらしました。しかもその目は涙ぐんだまま、じっと黒いヴィーナスを見つめているのです。
「わたしも実は、‥‥これはわたしの秘密ですから、どうかだれにも おっしゃらずにください。
42/52
‥‥わたしも実は 我々の神を信ずるわけにいかないのです。しかし いつか わたしの
祈祷は、‥‥」
ちょうど長老のこう言った時です。突然
部屋の戸があいたと思うと、大きい
雌の河童が一匹、いきなり長老へ飛びかかりました。
僕らがこの
雌の河童を抱きとめようとしたのは もちろんです。が、
雌の河童は とっさの
間に
床の上へ長老を投げ倒しました。
「この
爺め! きょうも またわたしの
財布から 一杯やる
金を盗んでいったな!」
十分ばかりたった
後、
僕らは実際逃げ出さないばかりに 長老夫婦をあとに残し、大寺院の玄関を
下りていきました。
「あれではあの長老も『生命の樹』を信じないはずですね。」
しばらく黙って歩いた後、
ラップは
僕にこう言いました。が、
僕は返事をするよりも思わず大寺院を振り返りました。大寺院はどんより曇った空に やはり高い塔や
円屋根を 無数の触手のように伸ばしています。なにか
沙漠の空に見える
蜃気楼の無気味さを漂わせたまま。……
一五
それから かれこれ一週間の後、
僕は ふと医者の
チャックに珍しい話を聞きました。というのは あの
トックの
家に 幽霊の出るという話なのです。そのころには もう
雌の
河童は どこかほかへ行ってしまい、
僕らの友だちの詩人の家も 写真師のスタジオに変わっていました。なんでも
チャックの話によれば、このスタジオでは写真をとると、
トックの姿も いつの
間にか 必ず
朦朧と【ぼんやりとかすんで】客の後ろに 映っているとかいうことです。もっとも
チャックは物質主義者ですから、死後の生命などを信じていません。現にその話をした時にも 悪意のある微笑を浮かべながら、「やはり霊魂というものも物質的存在とみえますね」などと注釈めいたことをつけ加えていました。
僕も幽霊を信じないことは
チャックとあまり変わりません。
43/52
けれども詩人の
トックには 親しみを感じていましたから、さっそく本屋の店へ駆けつけ、
トックの幽霊に関する記事や
トックの幽霊の写真の出ている 新聞や雑誌を買ってきました。なるほどそれらの写真を見ると、どこか
トックらしい河童が一匹、
老若男女の河童の後ろに ぼんやりと姿を現わしていました。しかし
僕を驚かせたのは
トックの幽霊の写真よりも
トックの幽霊に関する記事、‥‥ことに
トックの幽霊に関する 心霊学協会の報告です。
僕はかなり逐語的【文字通り】にその報告を訳しておきましたから、
下に大略を掲げることにしましょう。ただし
括弧の中にあるのは
僕自身の加えた注釈なのです。‥‥
詩人
トック君の幽霊に関する報告。(心霊学協会雑誌第八千二百七十四号所載)
わが心霊学協会は 先般自殺したる詩人
トック君の旧居にして 現在は××写真師のスタジオなる□□街第二百五十一号に臨時調査会を開催せり。列席せる会員は
下のごとし。(氏名を略す。)
我ら十七名の会員は 心霊協会会長
ペック氏とともに 九月十七日午前十時三十分、我らのもっとも信頼するメディアム、
ホップ夫人を同伴し、
該スタジオの一室に参集せり。
ホップ夫人は該スタジオにはいるや、すでに心霊的空気を感じ、全身に
痙攣を催しつつ、
嘔吐すること数回に及べり。夫人の語るところによれば、こは詩人
トック君の強烈なる
煙草を愛したる結果、その心霊的空気もまた ニコチンを含有するためなりという。
我ら会員は
ホップ夫人とともに円卓をめぐりて
黙座したり。夫人は三分二十五秒の
後、きわめて急劇なる夢遊状態に陥り、かつ詩人
トック君の心霊の
憑依するところとなれり。我ら会員は年齢順に従い、夫人に憑依せる
トック君の心霊と 左のごとき問答を開始したり。
問 君は何ゆえに幽霊に
出ずるか?
答 死後の名声を知らんがためなり。
44/52
問 君‥‥あるいは心霊諸君は死後もなお名声を欲するや?
答 少なくとも
予は欲せざるあたわず【欲しないわけにはいかない】。しかれども予の
邂逅したる日本の一詩人のごときは 死後の名声を
軽蔑しいたり。
問 君はその詩人の姓名を知れりや?
答 予は不幸にも忘れたり。ただ彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。
問 その詩は
如何?
答「古池や
蛙飛びこむ水の音」。
問 君はその詩を
佳作【すぐれた作品】なりとなすや?
答
予は必ずしも悪作なりとなさず。ただ「
蛙」を「
河童」とせんか、さらに
光彩陸離たるべし。
問 しからばその理由は
如何?
答 我ら河童はいかなる芸術にも 河童を求むること痛切なればなり。
会長
ペック氏はこの時にあたり、我ら十七名の会員に こは心霊学協会の臨時調査会にして
合評会にあらざるを注意したり。
問 心霊諸君の生活は
如何?
答 諸君の生活と異なることなし。
問 しからば君は君自身の自殺せしを後悔するや?
答 必ずしも後悔せず。予は心霊的生活に
倦まば、さらにピストルを取りて
自活すべし【もし私がこの先、精神的な生き方(芸術や魂の探求)に疲れ果ててしまったなら、その時はさらにピストルを手にとって、自らの力で(この生を)終わらせるだけだ】。
問
自活するは容易なりや否や?
トック君の心霊は この問に答うるにさらに問をもってしたり。こは
トック君を知れるものには すこぶる自然なる
応酬なるべし。
答 自殺するは容易なりや否や?
問 諸君の生命は永遠なりや?
答 我らの生命に関しては諸説
紛々として信ずべからず。幸いに我らの間にも
基督教、仏教、モハメット教、
拝火教等の諸宗あることを忘るるなかれ。
問 君自身の信ずるところは?
答 予は常に懐疑主義者なり。
45/52
問 しかれども君は少なくとも心霊の存在を疑わざるべし?
答 諸君のごとく確信するあたわず【確信することができない】。
問 君の交友の多少は
如何?
答 予の交友は古今東西にわたり、三百人を下らざるべし。その著名なるものをあぐれば、
クライスト、
マインレンデル、
ワイニンゲル……
問 君の交友は自殺者のみなりや?
答 必ずしも しかりとせず。自殺を弁護せる
モンテーニュのごときは 予が
畏友の
一人なり。ただ予は自殺せざりし
嫌世主義者、‥‥
ショーペンハウアーの
輩とは交際せず。
問 ショーペンハウアーは健在なりや?
答 彼は
目下心霊的嫌世主義を樹立し、
自活する可否を論じつつあり。しかれどもコレラも
黴菌病なりしを知り、すこぶる
安堵せるもののごとし。
我ら会員は相次いでナポレオン、
孔子、ドストエフスキー、ダーウィン、クレオパトラ、
釈迦、
デモステネス、
ダンテ、
千の
利休等の心霊の消息を質問したり。しかれども
トック君は 不幸にも詳細に答うることをなさず、かえって
トック君自身に関する 種々のゴシップを質問したり。
問
予の死後の名声は
如何?
答 ある批評家は「
群小詩人のひとり」と言えり。
問 彼は予が詩集を贈らざりしに
怨恨を含めるひとりなるべし。予の全集は出版せられしや?
答 君の全集は出版せられたれども、売行き はなはだ振わざるがごとし。
問 予の全集は三百年の
後、‥‥すなわち著作権の失われたる後、
万人の
購うところとなるべし。予の
同棲せる女友だちは
如何?
答 彼女は
書肆ラック君の夫人となれり。
問 彼女はいまだ不幸にも
ラックの義眼なるを知らざるなるべし。予が子は
如何?
答 国立孤児院にありと聞けり。
トック君はしばらく沈黙せる後、新たに質問を開始したり。
問 予が家は
如何?
答 某写真師のスタジオとなれり。
46/52
問 予の机はいかになれるか?
答 いかなれるかを知るものなし。
問 予は予の机の
抽斗に 予の秘蔵せる
一束の手紙を‥‥しかれども こは幸いにも多忙なる諸君の関するところにあらず。今や わが心霊界はおもむろに薄暮に沈まんとす。予は諸君と
決別すべし。さらば。諸君。さらば。わが善良なる諸君。
ホップ夫人は最後の言葉とともに ふたたび急劇に
覚醒したり。我ら十七名の会員は この問答の真なりしことを 上天の神に誓って保証せんとす。(なおまた我らの信頼する
ホップ夫人に対する
報酬は かつて夫人が女優たりし時の
日当に従いて 支弁したり。)
一六
僕はこういう記事を読んだ
後、だんだんこの国にいることも
憂鬱になってきましたから、どうか我々人間の国へ帰ることにしたいと思いました。しかしいくら
探して歩いても、
僕の落ちた穴は見つかりません。そのうちにあの
バッグという
漁夫の河童の話には、なんでもこの国の
街はずれにある 年をとった河童が一匹、本を読んだり、
笛を吹いたり、静かに暮らしているということです。
僕はこの河童に尋ねてみれば、あるいはこの国を逃げ出す
途も わかりはしないかと思いましたから、さっそく街はずれへ出かけてゆきました。しかしそこへ行ってみると、いかにも小さい家の中に年をとった河童どころか、頭の皿も固まらない、やっと十二三の河童が一匹、
悠々と笛を吹いていました。
僕はもちろん
間違った家へ はいったではないかと思いました。が、念のために名をきいてみると、やはり
バッグの教えてくれた 年よりの河童に違いないのです。
「しかしあなたは子どものようですが……」
「お前さんはまだ知らないのかい? わたしはどういう運命か、母親の腹を出た時には
白髪頭をしていたのだよ。それからだんだん年が若くなり、今ではこんな子どもになったのだよ。
47/52
けれども年を勘定すれば生まれる前を六十としても、かれこれ百十五六には なるかもしれない。」
僕は
部屋の中を見まわしました。そこには
僕の気のせいか、質素な
椅子やテーブルの間に 何か清らかな幸福が漂っているように見えるのです。
「あなたはどうも ほかの河童よりもしあわせに暮らしているようですね?」
「さあ、それはそうかもしれない。わたしは若い時は年よりだったし、年をとった時は若いものになっている。従って年よりのように欲にも
渇かず、若いもののように色にもおぼれない。とにかくわたしの生涯は たといし あわせではないにもしろ、安らかだったのには違いあるまい。」
「なるほどそれでは安らかでしょう。」
「いや、まだそれだけでは安らかにはならない。わたしは
体も
丈夫だったし、一生食うに困らぬくらいの財産を持っていたのだよ。しかし一番しあわせだったのは やはり生まれてきた時に 年よりだったことだと思っている。」
僕はしばらくこの
河童と 自殺した
トックの話だの 毎日医者に見てもらっている
ゲエルの話だのを していました。が、なぜか年をとった河童は あまり
僕の話などに 興味のないような顔をしていました。
「では あなたは ほかの河童のように 格別生きていることに
執着を持っては いないのですね?」
年をとった河童は
僕の顔を見ながら、静かにこう返事をしました。
「わたしもほかの河童のように この国へ生まれてくるかどうか、一応父親に尋ねられてから母親の胎内を離れたのだよ。」
「しかし
僕はふとした拍子に、この国へ
転げ落ちてしまったのです。どうか
僕に この国から出ていかれる
路を教えてください。」
「出ていかれる路は一つしかない。」
「というのは?」
「それはお前さんのここへ来た路だ。」
僕はこの答えを聞いた時に なぜか身の毛がよだちました。
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「その路があいにく見つからないのです。」
年をとった河童は水々しい目に じっと
僕の顔を見つめました。それからやっと
体を起こし、
部屋の
隅へ歩み寄ると、天井からそこに下がっていた一本の
綱を引きました。すると今まで気のつかなかった天窓が一つ開きました。そのまた
円い天窓の外には 松や
檜が枝を張った向こうに 大空が青あおと晴れ渡っています。いや、大きい
鏃に似た
槍ヶ
岳の峯もそびえています。
僕は飛行機を見た子どものように 実際飛び上がって喜びました。
「さあ、あすこから出ていくがいい。」
年をとった河童はこう言いながら、さっきの綱を指さしました。今まで
僕の綱と思っていたのは 実は
綱梯子にできていたのです。
「ではあすこから出さしてもらいます。」
「ただわたしは前もって言うがね。出ていって後悔しないように。」
「
大丈夫です。
僕は後悔などはしません。」
僕はこう返事をするが早いか、もう綱梯子をよじ登っていました。年をとった河童の頭の皿を はるか下にながめながら。
一七
僕は
河童の国から帰ってきた
後、しばらくは我々人間の皮膚の
匂いに閉口しました。我々人間に比べれば、河童は実に清潔なものです。のみならず我々人間の頭は河童ばかり見ていた
僕には いかにも気味の悪いものに見えました。これはあるいは あなたには おわかりにならない かもしれません。しかし目や口はともかくも、この鼻というものは 妙に恐ろしい気を起こさせるものです。
僕はもちろんできるだけ、だれにも会わない算段をしました。が、我々人間にもいつか次第に慣れ出したとみえ、半年ばかりたつうちに どこへでも出るようになりました。ただそれでも困ったことは 何か話をしているうちに うっかり河童の国の言葉を口に出してしまうことです。
「君はあしたは
家にいるかね?」
「Qua」
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「なんだって?」
「いや、いるということだよ。」
だいたいこういう調子だったものです。
しかし河童の国から帰ってきた後、ちょうど一年ほどたった時、
僕はある事業の失敗したために……(
S博士は彼がこう言った時、「その話はおよしなさい」と注意をした。なんでも博士の話によれば、彼はこの話をするたびに 看護人の手にもおえないくらい、乱暴になるとかいうことである。)
ではその話はやめましょう。しかしある事業の失敗したために
僕はまた河童の国へ帰りたいと思い出しました。そうです。「
行きたい」のではありません。「帰りたい」と思い出したのです。河童の国は当時の
僕には 故郷のように感ぜられましたから。
僕はそっと
家を脱け出し、中央線の汽車へ乗ろうとしました。そこをあいにく巡査につかまり、とうとう病院へ入れられたのです。
僕はこの病院へはいった当座も 河童の国のことを
想いつづけました。医者の
チャックはどうしているでしょう? 哲学者の
マッグも 相変わらず
七色の
色硝子のランタンの下に 何か考えているかもしれません。ことに
僕の親友だった
嘴の腐った学生の
ラップは、‥‥ある きょうのように曇った午後です。こんな追憶にふけっていた
僕は 思わず声をあげようとしました。それはいつの
間に はいってきたか、
バッグという
漁夫の河童が一匹、
僕の前にたたずみながら、何度も頭を下げていたからです。
僕は心をとり直した
後、‥‥泣いたか笑ったかも覚えていません。が、とにかく久しぶりに河童の国の言葉を使うことに 感動していたことはたしかです。
「おい、
バッグ、どうして来た?」
「へい、お見舞いに上がったのです。なんでも御病気だとかいうことですから。」
「どうしてそんなことを知っている?」
「ラジオのニュースで知ったのです。」
バッグは得意そうに笑っているのです。
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「それにしてもよく来られたね?」
「なに、
造作はありません。東京の川や掘割りは河童には往来も同様ですから。」
僕は
河童も
蛙のように水陸
両棲の動物だったことに 今さらのように気がつきました。
「しかしこの辺には川はないがね。」
「いえ、こちらへ上がったのは水道の鉄管を抜けてきたのです。それからちょっと
消火栓をあけて……」
「消火栓をあけて?」
「
旦那はお忘れなすったのですか? 河童にも機械屋のいるということを。」
それから
僕は二三日ごとに いろいろの河童の訪問を受けました。
僕の病は
S博士によれば
早発性痴呆症ということです。しかしあの医者の
チャックは(これは はなはだ あなたにも失礼に当たるのに違いありません。)
僕は早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆症患者は
S博士をはじめ、あなたがた自身だと言っていました。医者の
チャックも来るくらいですから、学生の
ラップや哲学者の
マッグの 見舞いにきたことは もちろんです。が、あの
漁夫の
バッグのほかに 昼間はだれも尋ねてきません。ことに二三匹いっしょに来るのは夜、‥‥それも月のある夜です。
僕はゆうべも 月明りの中に
硝子会社の社長の
ゲエルや 哲学者の
マッグと話をしました。のみならず音楽家の
クラバックにも ヴァイオリンを一曲
弾いてもらいました。そら、向こうの机の上に
黒百合の花束がのっているでしょう? あれもゆうべ
クラバックが
土産に持ってきてくれたものです。……
(
僕は後ろを振り返ってみた。が、もちろん机の上には花束も何ものっていなかった。)
それからこの本も哲学者の
マッグが わざわざ持ってきてくれたものです。ちょっと最初の詩を読んでごらんなさい。いや、あなたは河童の国の言葉を 御存知になるはずはありません。では代わりに読んでみましょう。これは近ごろ出版になった
トックの全集の一冊です。
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‥‥
(彼は古い電話帳をひろげ、こういう詩をおお声に読みはじめた。)
‥‥椰子の花や竹の中に
仏陀はとうに眠っている。
路ばたに枯れた無花果といっしょに
基督ももう死んだらしい。
しかし我々は休まなければならぬ
たとい芝居の背景の前にも。
(そのまた背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ?)‥‥
けれども
僕はこの詩人のように
嫌世的ではありません。河童たちの時々来てくれる限りは、‥‥ああ、このことは忘れていました。あなたは
僕の友だちだった 裁判官の
ペップを覚えているでしょう。あの河童は職を失った
後、ほんとうに発狂してしまいました。なんでも今は 河童の国の精神病院にいるということです。
僕は
S博士さえ承知してくれれば、見舞いにいってやりたいのですがね……。
(昭和二年二月十一日)
底本:「河童・或る阿呆の一生」旺文社文庫、旺文社
1966(昭和41)年10月20日初版発行
1984(昭和59)年重版発行
初出:「改造」
1927(昭和2)年3月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:もりみつじゅんじ
校正:かとうかおり
1999年1月24日公開
2012年3月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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