1/8
一房の葡萄
有島武郎ありしま たけお


     

 は小さい時に絵をくことが好きでした。かよっていた学校は横浜よこはまやまという所にありましたが、そこいらは西洋人ばかり住んでいる町で、の学校も教師は西洋人ばかりでした。そしてその学校の行きかえりには いつでもホテルや西洋人の会社などが ならんでいる海岸の通りを通るのでした。通りの海添いに立って見ると、真青まっさおな海の上に軍艦だの商船だのが一ぱいならんでいて、煙突から煙の出ているのや、ほばしら【帆柱】から檣へ万国旗をかけわたしたのや があって、眼がいたいように綺麗きれいでした。はよく岸に立ってその景色けしきを見渡して、いえに帰ると、覚えているだけを出来るだけ美しく絵にいて見ようとしました。けれどもあの透きとおるような海のあいあいいろと、白い帆前船ほまえせん【洋式帆船】などの水際みずぎわ近くに塗ってある洋紅色ようこうしょくとは、の持っている絵具えのぐでは どうしてもうまく出せませんでした。いくら描いても描いても本当の景色で見るような色には描けませんでした。
 ふとは学校の友達の持っている西洋絵具を思い出しました。その友達は矢張やはり西洋人で、しかもより二つ位としが上でしたから、身長せいは見上げるように大きい子でした。ジムというその子の持っている絵具は舶来の上等のもので、軽い木の箱の中に、十二いろの絵具が小さな墨のように四角な形にかためられて、二列にならんでいました。どの色も美しかったが、とりわけてあいと洋紅とは喫驚びっくりするほど美しいものでした。ジムより身長せいが高いくせに、絵はずっと下手へたでした。それでもその絵具をぬると、下手な絵さえが なんだか見ちがえるように美しく見えるのです。はいつでもそれをうらやましいと思っていました。あんな絵具さえあればだって海の景色を本当に海に見えるようにいて見せるのになあと、自分の悪い絵具を恨みながら考えました。そうしたら、その日からジムの絵具が ほしくってほしくってたまらなくなりました。けれどもはなんだか臆病おくびょうになってパパにもママにも買って下さいと願う気になれないので、毎日々々その絵具のことを心の中で思いつづけるばかりで幾日か日がたちました。
 今ではいつのころだったか覚えてはいませんが秋だったのでしょう。葡萄ぶどうの実が熟していたのですから。天気は冬が来る前の秋によくあるように空の奥の奥まで見すかされそうにれわたった日でした。
[] 有島武郎-一房の葡萄(1 / 8)
達は先生と一緒に弁当をたべましたが、その楽しみな弁当の最中でもの心はなんだか落着かないで、その日の空とは うらはらに暗かったのです。は自分一人で考えこんでいました。たれかが気がついて見たら、顔も屹度きっと青かったかも知れません。ジムの絵具が ほしくってほしくって たまらなくなってしまったのです。胸が痛むほど ほしくなってしまったのです。ジムの胸の中で考えていることを 知っているに ちがいないと思って、そっとその顔を見ると、ジムはなんにも知らないように、面白そうに笑ったりして、わきにすわっている生徒とはなしをしているのです。でもその笑っているのがのことを知っていて笑っているようにも思えるし、何か話をしているのが、「いまに見ろ、あの日本人がの絵具を取るにちがいないから。」といっているようにも思えるのです。はいやな気持ちになりました。けれどもジムを疑っているように見えれば見えるほど、はその絵具がほしくてならなくなるのです。


     

 はかわいい顔はしていたかも知れないがからだも心も弱い子でした。その上臆病者おくびょうもので、言いたいことも言わずに すますようなたちでした。だからあんまり人からは、かわいがられなかったし、友達もない方でした。昼御飯がすむとほかの子供達は活発かっぱつ運動場うんどうばに出て走りまわって遊びはじめましたが、だけはなおさらその日は変に心が沈んで、一人だけ教場きょうじょうに入っていました。そとが明るいだけに教場の中は暗くなっての心の中のようでした。自分の席にすわっていながらの眼は時々ジムテイブルの方に走りました。


ナイフで色々な いたずら書きが彫りつけてあって、手垢てあか真黒まっくろになっているあのふたげると、その中に本や雑記帳や石板せきばんと一緒になって、あめのような木の色の絵具箱があるんだ。そしてその箱の中には小さい墨のような形をしたあいや洋紅の絵具が……は顔が赤くなったような気がして、思わずそっぽを向いてしまうのです。けれどもすぐまた横眼でジムテイブルの方を見ないではいられませんでした。胸のところが どきどきとして苦しいほどでした。じっと坐っていながら夢で鬼にでも追いかけられた時のように気ばかり せかせかしていました。
 教場に入る鐘が かんかんと鳴りました。は思わず ぎょっとして立上りました。
[] 有島武郎-一房の葡萄(2 / 8)
生徒達が大きな声で笑ったり呶鳴どなったりしながら、洗面所の方に手を洗いに出かけて行くのが窓から見えました。は急に頭の中が氷のように冷たくなるのを気味悪く思いながら、ふらふらとジムテイブルの所に行って、半分夢のようにそこの蓋を揚げて見ました。そこにはが考えていたとおり雑記帳や鉛筆箱とまじって見覚えのある絵具箱がしまってありました。なんのためだか知らないがはあっちこちを見回みまわしてから、誰も見ていないなと思うと、手早くその箱の蓋を開けてあいと洋紅との二色ふたいろを取上げるが早いかポッケットの中に押込みました。そして急いでいつも整列して先生を待っている所に走って行きました。
 達は若い女の先生に連れられて教場に入り銘々の席に坐りました。ジムがどんな顔をしているか見たくって たまらなかったけれども、どうしてもそっちの方をふり向くことができませんでした。でものしたことを誰も気のついた様子がないので、気味が悪いような、安心したような心持ちでいました。の大好きな若い女の先生おっしゃることなんかは耳に入りは入っても なんのことだか ちっともわかりませんでした。先生も時々不思議そうにの方を見ているようでした。
 しか先生の眼を見るのがその日に限ってなんだか いやでした。そんな風で一時間がたちました。なんだかみんな耳こすりでも しているようだと思いながら一時間がたちました。
 教場を出る鐘が鳴ったのではほっと安心して溜息ためいきをつきました。けれども先生が行ってしまうと、は僕のきゅうで一番大きな、そしてよく出来る生徒に「ちょっとこっちにお」とひじの所をつかまれていました。の胸は宿題をなまけたのに先生に名をされた時のように、思わずどきんと震えはじめました。けれどもは出来るだけ知らない振りをしていなければならないと思って、わざと平気な顔をしたつもりで、仕方なしに運動場うんどうばすみに連れて行かれました。
君はジムの絵具を持っているだろう。ここに出したまえ。
 そういってその生徒はの前に大きくひろげた手をつき出しました。そういわれるとはかえって心が落着いて、
そんなもの、持ってやしない。」と、つい でたらめをいってしまいました。
[] 有島武郎-一房の葡萄(3 / 8)
そうすると三四人の友達と一緒にそばに来ていたジムが、
は昼休みの前にちゃんと絵具箱を調べておいたんだよ。一つもくなってはいなかったんだよ。そして昼休みが済んだら二つ失くなっていたんだよ。そして休みの時間に教場にいたのは君だけじゃないか。」と少し言葉を震わしながら言いかえしました。
 はもう駄目だめだと思うと急に頭の中に血が流れこんで来て顔が真赤まっかになったようでした。すると誰だったか そこに立っていた一人がいきなりのポッケットに手をさし込もうとしました。は一生懸命にそうはさせまいとしましたけれども、多勢たぜい無勢ぶぜいとてかないません。のポッケットの中からは、見る見るマーブルだま(今のビーだまのことです)や鉛のメンコなどと一緒に二つの絵具のかたまりが掴み出されてしまいました。「それ見ろ」といわんばかりの顔をして子供達は憎らしそうにの顔をにらみつけました。からだはひとりでに ぶるぶる震えて、眼の前が真暗まっくらになるようでした。いいお天気なのに、みんな休時間を面白そうに遊び廻っているのに、だけは本当に心から しおれてしまいました。あんなことをなぜしてしまったんだろう。取りかえしのつかないことになってしまった。もうは駄目だ。そんなに思うと弱虫だったさびしく悲しくなって来て、しくしくと泣き出してしまいました。
泣いておどかしたって駄目だよ。」とよく出来る大きな子が馬鹿にするような憎みきったような声で言って、動くまいとするをみんなで寄ってたかって二階に引張って行こうとしました。は出来るだけ行くまいとしたけれども とうとう力まかせに引きずられて階子段はしごだんを登らせられてしまいました。そこにの好きな受持ちの先生部屋へやがあるのです。
 やがてその部屋の戸をジムがノックしました。ノックするとは入ってもいいかと戸をたたくことなのです。中からはやさしく「お入り」という先生の声が聞えました。はその部屋に入る時ほど いやだと思ったことは またとありません。
 何か書きものをしていた先生は どやどやと入って来た達を見ると、少し驚いたようでした。
[] 有島武郎-一房の葡萄(4 / 8)
が、女の癖に男のようにくびの所でぶつりと切った髪の毛を右の手でであげながら、いつものとおりのやさしい顔をこちらに向けて、一寸ちょっと首をかしげただけで何の御用という風をしなさいました。そうするとよく出来る大きな子が前に出て、ジムの絵具を取ったことをくわしく先生に言いつけました。先生は少し曇った顔付きをして真面目まじめにみんなの顔や、半分泣きかかっているの顔を見くらべて いなさいましたが、に「それは本当ですか。」と聞かれました。本当なんだけれども、がそんないやなやつだということをどうしてもの好きな先生に知られるのがつらかったのです。だからは答える代りに本当に泣き出してしまいました。
 先生しばらを見つめていましたが、やがて生徒達に向って静かに「もういってもようございます。」といって、みんなをかえしてしまわれました。生徒達は少し物足らなそうに どやどやと下に降りていってしまいました。
 先生は少しの間なんとも言わずに、の方も向かずに自分の手の爪を見つめていましたが、やがて静かに立って来て、かたの所を抱きすくめるようにして「絵具はもう返しましたか。」と小さな声でおっしゃいました。は返したことをしっかり先生に知ってもらいたいので深々とうなずいて見せました。
あなたは自分のしたことを いやなことだったと思っていますか。
 もう一度そう先生が静かに仰った時には、はもう たまりませんでした。ぶるぶると震えてしかたがないくちびるを、みしめても噛みしめても泣声が出て、眼からは涙がむやみに流れて来るのです。もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました。
あなたはもう泣くんじゃない。よくわかったらそれでいいから泣くのをやめましょう、ね。次ぎの時間には教場に出ないでもよろしいから、わたくしのこのお部屋に入らっしゃい。静かにしてここに入らっしゃい。私が教場から帰るまでここに入らっしゃいよ。いい。」と仰りながら長椅子ながいすすわらせて、その時また勉強の鐘がなったので、机の上の書物を取り上げて、の方を見ていられましたが、二階の窓まで高くあがった葡萄蔓ぶどうづるから、一房ひとふさの西洋葡萄をもぎって、しくしくと泣きつづけていたひざの上にそれをおいて静かに部屋を出て行きなさいました。
[] 有島武郎-一房の葡萄(5 / 8)
     

 一時いちじがやがやとやかましかった生徒達はみんな教場きょうじょうに入って、急にしんとするほどあたりが静かになりました。さびしくって淋しくってしようがないほど悲しくなりました。あの位好きな先生を苦しめたかと思うとは本当に悪いことをしてしまったと思いました。葡萄ぶどうなどはとてべる気になれないでいつまでも泣いていました。
 ふとは肩を軽くゆすぶられて眼をさましました。先生部屋へやでいつの間にか泣寝入りをしていたと見えます。少しせて身長せいの高い先生笑顔えがおを見せてを見おろしていられました。は眠ったために気分がよくなって今まであったことは忘れてしまって、少し恥しそうに笑いかえしながら、あわてて膝の上からすべり落ちそうになっていた葡萄の房をつまみ上げましたが、すぐ悲しいことを思い出して笑いも何も引込んでしまいました。
そんなに悲しい顔をしないでもよろしい。もうみんなは帰ってしまいましたから、あなたはお帰りなさい。そして明日あすはどんなことがあっても学校に来なければいけませんよ。あなたの顔を見ないとわたくしは悲しく思いますよ。屹度きっとですよ。
 そういって先生のカバンの中にそっと葡萄の房を入れて下さいました。はいつものように海岸通りを、海をながめたり船を眺めたりしながら つまらなくいえに帰りました。そして葡萄をおいしく食べてしまいました。
 けれども次の日が来るとは中々学校に行く気にはなれませんでした。おなかが痛くなればいいと思ったり、頭痛がすればいいと思ったりしたけれども、その日に限って虫歯一本痛みもしないのです。仕方なしに いやいやながらいえは出ましたが、ぶらぶらと考えながら歩きました。どうしても学校の門を入ることは出来ないように思われたのです。けれども先生の別れの時の言葉を思い出すと、先生の顔だけは なんといっても見たくてしかたがありませんでした。が行かなかったら先生は屹度悲しく思われるに違いない。もう一度先生のやさしい眼で見られたい。ただその一事ひとことがあるばかりでは学校の門をくぐりました。
 そうしたらどうでしょう、ず第一に待ち切っていたようにジムが飛んで来て、の手を握ってくれました。
[] 有島武郎-一房の葡萄(6 / 8)
そして昨日きのうのことなんか忘れてしまったように、親切にの手をひいて どぎまぎしている先生の部屋に連れて行くのです。はなんだか訳がわかりませんでした。学校に行ったらみんなが遠くの方からを見て「見ろ泥棒のうそつきの日本人が来た」とでも悪口をいうだろうと思っていたのに こんな風にされると気味が悪いほどでした。
 二人の足音を聞きつけてか、先生ジムがノックしない前に、戸を開けて下さいました。二人は部屋の中に入りました。
ジム、あなたはいい子、よくわたくしの言ったことがわかってくれましたね。ジムはもうあなたから あやまってもらわなくってもいいと言っています。二人は今からいいお友達になればそれでいいんです。二人とも上手じょうずに握手をなさい。」と先生は にこにこしながら達を向い合せました。はでもあんまり勝手過ぎるようで もじもじしていますと、ジムはいそいそとぶら下げているの手を引張り出して堅く握ってくれました。はもうなんといってこのうれしさを表せばいいのか分らないで、ただ恥しく笑うほかありませんでした。ジムも気持よさそうに、笑顔をしていました。先生は にこにこしながらに、
昨日きのう葡萄ぶどうはおいしかったの。」と問われました。は顔を真赤まっかにして「ええ」と白状するより仕方がありませんでした。
そんなら又あげましょうね。」 そういって、先生真白まっしろなリンネル【亜麻あま科の繊維】の着物につつまれたからだを窓からのび出させて、葡萄の一房をもぎ取って、真白まっしろい左の手の上に粉のふいた紫色の房を乗せて、細長い銀色のはさみ真中まんなかからぷつりと二つに切って、ジムとに下さいました。真白いひらに紫色の葡萄の粒が重って乗っていたその美しさをは今でも はっきりと思い出すことが出来ます。
 はその時から前より少しいい子になり、少し はにかみ屋でなくなったようです。
 それにしてもの大好きなあのいい先生はどこに行かれたでしょう。もう二度とはえないと知りながら、は今でもあの先生がいたらなあと思います。秋になるといつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。



この作品のおすすめ度を投稿して下さい!

(-)


底本:「赤い鳥傑作集」
[] 有島武郎-一房の葡萄(7 / 8)
新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年6月25日発行
   1974(昭和49)年9月10日29刷改版
   1984(昭和59)年10月10日44刷
初出:「赤い鳥 第五巻第二号」
   1920(大正9)年8月
※表題は底本では、「一房《ひとふさ》の葡萄《ぶどう》」となっています。
入力:鈴木厚司
1999年2月13日公開
2018年10月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
大変ありがとうございました。感謝致します。(シン文庫追記)
[] 有島武郎-一房の葡萄(8 / 8)