一
天保の頃、江戸に
神影流の
達人として
勇名【勇気あるとの評判】を
轟かしていた
長沼正兵衛、その
門人【門下の人】に
小机源八郎というのがあった。
怪剣士【異様な戦い方をする剣士】として人から恐れられていた。
「小机
源八郎のは剣法の正道ではない。
邪道【望ましくない】だ。
故に免許には いまだ致されぬ【達していない】が、しかし、
一足 二身 三手 四口 五眼【武術の修練の順番】を
逆に
行って、彼の
眼は天下無敵だ。
暗夜の
太刀の
秘術を教えざるに【教えていないのに】すでに
会得している。怪剣士というは彼がことである」
師の
正兵衛さえ舌を巻いているのであった。
天保九年五月五日の朝。同門の若者、多くは旗本の次男坊達が寄って、小机
源八郎を取囲んだ。
「ぜひ どうか
敵討に出掛けて
貰いたい。去年の今夜でござる。その
節【その時】もお願いして置いた。この
敵を討ってくれる人は
貴殿【あなた】よりほかにはござらぬと申したので。や、その節
快く
御承諾下されたので、我々共は 今日の
参るのを指折り数えて待っておった
次第で」
「なんでござったかな、敵討なんどと、
左様な【そのような】大事件をお引受け致したか知らん【覚えていない】」
「御失念では痛み入る【恐れ入る】。それ、
武州は
府中、
六所明神暗闇祭の夜、我等の仲間が
大恥辱【侮辱】を取ったことについて」
「ああ、あの事でござるか」
天保八年五月五日の夜、
長沼門下の
旗本の若者が
六人で、府中の祭に出掛けたのであった。それは
神輿渡御【神様を乗せる
輿が巡行する行事】の間は、町中が一点の
灯火も残さず消して真の暗闇にするために、その間において、町の女達はいうまでもなく、
近郷から集って来ている女達が、喜んで神秘のお
蔭を
蒙りたがる【加護を受けたがる】という、
噂の虚実【真偽】を確めずに、その実地【現場】を探りにと出掛けたのであった。
1/18
こうした
敗退気分に満ちている、旗本の
若き武士はその夜、府中の各所に散って、白由行動を取り、翌朝
深大寺門前の
蕎麦屋に会して、互いに一夜の
遭遇奇談【不思議な出来事】を報告し合おうとの約束であった。
さて、明くる朝、定めの家に
六人集って見ると、
六人が
六人とも、
鼻頭をそぎ取られていて、満足の顔の者は一人もないのであった。
「暗闇祭には
怪物が出る。まさか神わざとも思われぬが、いかにしても残念。その正体を見届けて、退治て貰わなければ
堪忍ならぬ【許さぬ】」
六人が
六人とも、もとより暗闇の中の事ゆえ、正体を見届けようもなかったが、何者やら知れず【何者かもわからず】前に立ったと思うと、
忽ち鼻を切られたのだという。ただそれだけで 一同
取留めた事実【明確な事実】が無かったのだ。
「
天狗の
所業と言ってしまえば それまでだが、いわゆる
鎌鼬【人を切りつける妖怪】の
悪戯ではござるまいか」という説もあった。
「いや確かに人間でござった。
心願【心からの願い】あって、六所明神の
祭礼【祭り】に 六つの鼻を切るという
願掛け【神仏に願い祈る】でも致したのではござるまいか」という説もあった。
「なれども、
六人が
六人とも切られたところに疑いがござる。こりゃ
長沼の道場に
遺恨【深いうらみ】のある者が、
六人を見掛けて致したのではござるまいか」という。この説、はなはだ有力となった。
「しかし、まだほかに、鼻を切られた者があったかも知れ申さぬ【いたかもしれません】。あり【いた】とすれば
強ち、
長沼の門人とのみ限られたわけでもござらぬで」という説も出て、要するに何の目的で誰がそのような悪戯をしたのやら、少しも見当がつかぬのであった。
小机
源八郎も、これには多少の興味を持たぬ【持たない】ではなかったので、
「よろしい。しからば
拙者、府中へまかりこし【参上し】、怪物の正体を見届け、
巧く行けば
諸氏【みなさん】の敵も
討ち申そう【打ちましょう】。しかし、まかり間違ったら
拙者の鼻もいかがでござるか【どうなるか】」
笑いながら出て行った。
二
江戸より府中までは
八里【約31km】。夕方前に小机
源八郎は着いた。
2/18
府中は いまさら
説く【説明する】までもなく、
古昔の国府【今でいう県庁】の所在地で、六所明神は府中の
総社【特定地域内の神社の
祭神を集めて
祀った神社】。字【六所の文字】は
禄所が正しいという説もあるが、本社祭神【本社に
祀られている神】は
大己貴命、
相殿【主祭神の他に
合祀する】として
素盞嗚尊、
伊弉冊尊、
瓊々杵尊、
大宮女大神、
布留大神の六座(現在は
大国魂神社)。
武蔵では
古社【古くからある神社】のうちへ数えられるのだ。
毎年五月三日には、
競馬【馬の競争】が社前の
馬場【馬を走らせる場所】において、暗闇の中で行われる。四日には
拝殿【本殿の前にある礼拝のための建物】において
神楽【神に奉納する歌舞】が
執行される【行われる】。五日には
大神事として、八基の
神輿が暗闇の中を
御旅所【神輿が神社の外で
休憩や滞在をするための仮の
社や広場】に
渡御とある。六日には御田植があって終るので、四日間ぶっ通しの祭礼を
当込みに、
種々の商人、あるいは
香具師などが
入込み【入りまじり】、その
賑わしさと言ったらないのであった。
源八郎は
番場宿の
立場茶屋【街道沿いに設けられた茶屋】に入って、夕飯の前に一杯飲むことにした。客はほとんど満員の
有様【状況】なので、ようやく庭の隅の方の
腰掛に席を取った。
「
肴は何があるな。
甲州街道へ来て 新らしい魚類を
所望する程
野暮ではない。何か野菜物か、それとも
若鮎でもあれば
魚田【魚の田楽】が
好いな」
「ところがお侍様、お祭中はいきの好い魚が仕入れてございます。
鰈の煮付、
鯒ならば洗い【魚介を冷たい水で洗うお造りの手法の一つ】にでも出来まする。そのほか
海鰻の
蒲焼に
黒鯛の塩焼、
鰕の
鬼殻焼【殻付きのまま背開きにし、たれをつけ焼いた料理】」
「まるで
品川へ行ったようだな」
「はい、みな品川から夜通しで
廻りますので。
3/18
御案内でもござりましょうが【すでにご存じかと思いますが】、お祭前になりますると、
神主様達が
揃って品川へお
出でになり、海で
水祓【身体を水で清め、心身の
穢れを
祓う宗教儀礼】をなさいまして、それから当日まで
斎にお
籠り【神事の前に、けがれに触れないように家にこもる】で、そういう
縁故【つながり】から品川の漁師達も、取立ての魚を神前へお
供えに持って参りまするが、同じ持って行くのなら たくさん持って行って売った方が
好いなんて、いつの間にやら商売気を出してくれたのが、私達の
仕合せで【私達にとって幸いで】、
多摩の山奥から来た
参詣人などは、初めていきの好い魚を食べられるなんて、大喜びでございます」
「そう
講釈を聴くと江戸では珍らしくないが、一つ
海鰻を焼いて貰って、それから
鯒は洗いが好いな。まあその辺で一升つけてくれ」
「一升でございますか」
「いずれ又 後もつけて貰う。
白鳥【上質な白酒】で大釜【大きな器】へつけて持って来い」
「へえへえ」
小机
源八郎は
長沼の内弟子。言って見れば 今の苦学生だ。金は無いのだ。ところが今日は 暗闇で旗本
六人が鼻をそがれた敵討というので 同門から金を集めてくれたので、大分
懐中は温かいのだから、
大束を
極めて【お金を気にせず】好きな酒が
呑めるのであった。
隣りの腰掛で最前から、一人でちびりちびり、黒鯛の塩焼で飲んでいる
旅商人らしい一人の男。前にも
銚子が七八本行列をしているのだが、一向
酔ったような顔はしていなかった。色は青味を帯びた、
眉毛の濃く、眼の鋭い、
五分月代毛【月代が5分(約1.5㎝)ほど】を
生した、
一癖も
二癖もありそうなのが、
「お
武家様、失礼ながら、
大分御酒はいけますようで」と声を掛けた。
「いや 余計もやらぬが【たくさんは飲まないが】、
貧乏世帯の食事道具
呑位のものじゃ」
「へえ、貧乏世帯の食事道具呑……
聴いたことがございませんな。それはどういう
呑み方でございますか」
「金持の道具では
敵わぬが、貧乏人の台所なら高が知れておる。それに一通り【全部の器に】酒を
注いで片っ端から呑み
乾す【飲み干す】のだ」
「へえ、それでは、まあ茶碗に皿、小鉢、
丼鉢、
椀があるとして、親子三人暮しに積ったところで【見積もったところで】、大概知れたもん【たかが知れたもの】でございますな。手前でもそれなら
頂けそうでございます」
「ところが、
拙者は茶碗や皿などは数には入れておらん。いくら貧乏世帯でも鍋釜はあるはず。それまで 一杯注いで置いて呑む」
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「こいつあ恐れ入りました」
まさか小机
源八郎、それ程呑めもしないのだが、
座興を混ぜて吹飛ばしたのだ【冗談交じりで大げさに話したのだ】。
話が面白くなって酒も大分はずんで来た。
「や、
拙者は当所の御祭礼は初めてだが、なんでも昨年は、暗闇の間に、
余程 奇怪な事が行われたと申すが、それはほんの
噂に過ぎぬのか。それも本統【本当】にあった事かな」
源八郎は この
旅商人が去年の祭にも来ていたというのからして、
探りを入れて見たのであった。
旅商人は少し
真面目になって、
「旦那のお聴きになったのは、どんな出来事でございましたね」と問い入れた。
「されば、なんでも どこかの
侍が数人とも 顔面を 何者にか知れず【犯人が分からず】傷つけられたと申す事で」と
明白には【はっきりとは】
源八郎は言わなかった。
「や、それは私として、初耳でございますが、私の聴きましたのは、ちっと【ちょっと】違いますので」
「どんな話か、
肴に【酒の肴として】聴きたいもんだな」
そう言いつつ、
猪口代用の【猪口の代わりにしていた】茶碗をさした。
三
旅商人は
四辺に気を
配り、声を低めて、
「実は旦那、去年には限りません、毎年この暗闇祭には、怪しい事があるんでございますよ。ですが、それをぱっとさせた日には、
忽ちお祭がさびれっちまうので、土地の者は
秘し
隠しにして【徹底的に隠して】
居りますがね。昨年のはちっと念入りでございましたよ。女がね、お
臀の肉を斬られたんでね。なんでも十二三人もやられたらしいんで。
大道臼【とっても大きな臼】のようなのは、
随分 斬り
出【斬りごたえ】があったろうと思います」と語り出した。
「ふむ、それは
怪しからん【許しがたい】。女の
臀部を斬るとは一体何の為だか。いずれ
馬鹿か、
狂人の
所業であろうな」と
源八郎も新事実を聴いてちょっと驚いた。
「まだほかに何があったか知れませんが、それはただ 私達の耳に入らねえだけのことだと思います。今夜もきっと 何かあるだろうと思われますよ。
5/18
何しろ
諸方【あちこち】から大勢人が入込んで居りますから……それに、昨年は、
信州のある大名のお
部屋様【側室】が、
本町宿の
本陣旅籠にお泊りで、そこにもなんだか変な事があったそうで、それについては 私は
能く存じませんがね」
「大名のお部屋が泊っていても、
矢張 神輿渡御の
刻限【時刻】には火を消さずば なるまいな【消さなければならないだろうな】」
「それはもう どちら様がお泊りでも、火を
点けることはできますまい」
源八郎は考えた。
六人の旗本の鼻を
削ったのと、十数人の女の
臀部を斬ったのと、又 大名の
愛妾【お気に入りのめかけ】を襲ったのと、同一人物の手【
仕業】であるかどうか。これは研究物【調べてみる価値のあるもの】だと
心着いた【気づいた】のであった。
この時、
旅商人は急に心づいた【気がついた】様子で、
「や、御武家様、私に限らず 今夜はもう とてもこの
宿へは泊れません、どこも一杯です。それで私は
布田まで のして置きまする【行っておきます】。へえ、甲州へ絹を仕入れに行った帰りでございます。御免下さいまし【失礼いたします】」
勘定を済まして せっせと先に行ってしまった。
源八郎はその
旅商人を、どうも
怪しいと
睨まずには【疑わずには】いられなかった。
道中の
胡麻の
灰【「護摩の灰」と称するものを街道筋で売歩いていた泥棒】形の男にも見えた。あるいは又
すり稼ぎのために入込んだ者のようにも思われた。あいつが仕事のついでに、
悪戯をして廻るのではあるまいか。そんな疑念をも生じたのであった。
すりは
一種特異の刃物を
掌中に持っている【独特な刃物を手の中に隠し持っている】。それで
巾着【開口部をひもで絞める袋】を切ることもあり、仕事の
邪魔をした者に
復讐的に顔面を傷つけるという話は聴いている。あの
旅商人が巾着切とすれば、どうも鼻そぎ
臀切りの犯人が、あいつのように思われてならぬのであった。
あいつ
真に【本当に】甲州へ絹の仕入れに行き、江戸へ帰るべく 今夜 布田に泊る者とすれば、もうこの土地に姿を見せぬはず。もしあいつが暗闇の前後に、まだ府中の土地を踏んでいるとすれば【土地にいたとすれば】、もう確かだ。
引捕えて白状さして、今度はこっちから鼻を落してやると、
源八郎はそういう決心をして、酒は一升で打ち切り、勘定済まして立場茶屋を出た。
6/18
まだ
神輿出御【神輿の出発】の刻限には間があったので、
源八郎は群集を避けて、本社の背後へと廻って見た。
有名な
乳房銀杏から
後には杉松その他の木が繁っていて、昼も暗いくらいだから、夜はまだ
灯明【あかり】を消さぬ間から暗いのであった。
源八郎にはしかし、少しもそれが暗くないのであった。
透せば
朧気に立木の数も数えられるのであった。
源八郎の眼は
長沼正兵衛すらも驚いているのであった。
小机
源八郎は、武州
橘樹郡小机村の
郷士【武士の身分で農業に従事した者】の子で、子供の時に眼を
患った【眼の病気にかかった】のを、
廻国の六十六部【全国66か所の
霊場を
巡礼する僧侶たち】が
祈祷【
病気平癒を祈る】して、薬師の水というのを付けてくれた。それで全治してから
後は、不思議に
夜目が
利く【暗い夜でもよく見える】ようになったのであった。
野獣の眼が
暗夜に輝くという、そこまでには至らずとも、とにかく普通の者に比べると、薄々ながら見えるのであった。
四
何心なく【無意識に】
源八郎は裏山の方を透して見た【目を凝らして見た】。すると大きな大きな
欅の
樹の、すでに立枯れになっているのが、
妖魔の王の
突立つ
如くに目に入った。その
根下に、怪しい人影が一個認められた。
気になるので
密と立木の間を
縫って、近寄って見ると、意外にも それは例の
旅商人であった。
いよいよ
以て怪しいと思って、
源八郎は忍び足に近寄ろうとすると、
旅商人は すでにそれと感付いたらしく、立上って逃げようとした。
「おいおい、お前はまだここにいたんだな。布田の方へは行かなかったのか」
源八郎は声を掛けた。
「おやっ」
少からず
旅商人は驚いた。
「旦那は、
能くこの暗いのに、私ということが分りましたね」
「お前は 又
拙者が忍んで近寄ったのに、能く分ったの」
向うも驚いたが、こちらでも驚いたのであった。
「へえ、私は、昼間より、夜分の方が眼が能く見えますんで」
「なに、その方も夜目が利くのか。
拙者も実は夜目が利くのだ」
「おや、旦那も夜目がねぇ、へえ、そうでございますかい。じゃあ矢張、お稼ぎになるんですね」
「稼ぐとは何を」
「へへへへ」
「何を稼ぐと申すのか」
「なに、ちょっと、その」
「
拙者を
白浪仲間【盗賊の仲間】とでも感違いを致したのか」
「まあ、その、ちょっとね。
7/18
へへへへ、夜目が利くと
仰有いましたので……どうも
相済みません【本当に申し訳ありません】」
「するとその
方は、確かに
泥棒だな」
「御免なすって下さいまし【どうかお許しください】。隠しゃぁ致しません。全く私は
花婿仲間でございます」
「花婿仲間とはなんだ」
「
夜目取りで。へへへ、嫁取りに
文字ったので」
「江戸の者は泥棒まで
洒落っ
気があるな。面白い。そこでその方は、毎年 暗闇祭には
稼ぎに来るんだな」
「実は旦那、稼ぐというのは二の次で、遊び半分、まあ毎年来て居ります。私ばかりじゃぁございません。仲間の者がみな 腕試しやら眼試しのために」
「腕試しというのはあるが、眼試しとはなんだ」
「この泥棒
稼業に一番大事なのは眼でございます。暗闇で物を見るようにならなければ、
好い稼ぎができません。それで泥棒、と言っても、それぞれ筋があるのでございますが、私達の仲間の古老から みな教わったのでございますが、
食忌み【食事制限】をして、ある秘薬を三年の間
服みつづけまして、それから 又 暗闇の中で眼を光らかす修業を二三年致します。泥棒になるんだって本統【本当】になろうと思うと、修業に骨が折れて楽ではございません。もちろんこれは 昔の
すっぱ【盗賊】の家から伝わった法【やり方】が土台になっておるそうで……そこで、まあ 私も その修業の法は早く済ましてしまいまして、暗夜でも手紙が読めるくらいまでには行っております。異名を
五郎助七三郎と申しますが、
七三郎が本名で五郎助は
梟の
啼き声から取ったのでございますがね」
「それで今、お前の仲間は」
「仲間は日本国中にどのくらいあるか知れませんが、関東だけでざっと五百二十人ばかり、でも本統に夜目の利く
奴は、
僅かなもので、ようやく五人でございました。今から六年前のちょうど今月今日
召捕られまして【捕らえられまして】、八月十九日に
小塚っ
原でお仕置【処罰】を受けました
鼠小僧次郎吉なんか、その五人の中には入って居りません。あんな野郎はまだ駆出しで」
「その五人というのは……」
「そう申しては
口幅っとうございますが【
図々しいかもしれませんが】、
先ず こう申す五郎助
七三郎が筆頭で、それから
夜泣きの
半次、
逆ずり
金蔵、
煙の
与兵衛、
節穴の
長四郎。それだけでございます」
「変な名だな。それがみな、暗闇祭へ来たのか」
「
揃って来たこともありましたが、近在の百姓衆の
財袋を抜いたところで高が知れております。
8/18
しかし、まあ、
悪戯をするのが面白いんで、たとえば神様のいらっしゃる
境内をも
憚らず【遠慮せず】、暗闇を幸いに、男女が密談などしているのを見付けては、知らない間に二人の
髷をちょん切って置いたりなんかして、
脅かしてやりまして、以後そんな不謹慎な事をしないように
誡めてやりますので」
「去年も五人揃って参ったか」
「それが旦那、それからがお話でございます。夜泣きの
半次は御用【逮捕】になりまして、まだ
御牢内に居ります。煙の
与兵衛は
上方【関西地方】へ行って居りまして、一昨年には節穴の
長四郎と、
逆ずり金蔵と、私と、三人連れで参りましたがね。その時に、えらい目に
遭いましてねえ」
五
奇怪極まる五郎助
七三郎の話に、小机
源八郎はすっかり
聴き
惚れてしまったのであった。
「どんな目に
遭ったのか」
五郎助
七三郎は少しく
興奮して、
「あんなのを
天狗とでも言いましょうか。夜目の利く私達よりも、もっと夜目の利く
山伏風【修験道の行者で、独特の服装を身につけている】の大男がね。三人で、ちょうどこの裏山で、抜き取った品物を出し合って勘定をしていたところへ、不意に現われて、
金剛杖【山伏が修行や旅で使う特別な杖】のような物で
滅茶滅茶です。三人もじっとして打たれるようなのじゃあありません。
懐中に呑んでいた【隠し持っていた】
匕首【
鍔がない短刀】で、
魂限り【全力で】立ち向ったんですが、とても
敵いませんでしてね。三人とも半殺しの目に遭わされました。それが原因で
逆ずり金蔵は二月ばかり患って死んでしまいました。節穴の
長四郎と私は
湯治に行くてえような【行くような】有様で……そこで去年、その敵討というので、すっかり準備をして、
長四郎と二人でね、暗闇祭に来ましたがね」
「どんな準備をして」
「目つぶしです。目つぶしを仕入れて、それを叩きつけてから
斬付ける
手筈でしたが、
矢張いけませんでした。
長四郎があべこべに眼を
潰されて
了いました」
「向うから
目潰しを投げたのか」
「いいえ、指を眼の中へ
突込みやあがったので」
「
酷い事をするな」
「とうとう私一人になってしまいました。今年は
口惜しい【悔しい】から、どうしても私一人で
敵を討つ
了簡【考え】で、実は
種ヶ
島【片手で扱える火縄銃】を忍ばせているんでございます」
「去年も矢張 山伏姿か」
「
左様でございました【そうでございました】」
「そいつではないか。去年、武家の顔面を傷つけたのは……」
「さあ そうかも知れません」
「
臀肉を切ったというのは、その者ではあるまいか」
「多分そうかも知れませんな」
「
七三郎とやら、お前、
拙者に隠してはいかんぞ。
9/18
お前と
長四郎とで、旗本六人の鼻の
頭を斬ったのじゃあないか」
「いや隠しません。隠すくらいなら 初めからなんにも言いません。や、白状ついでだから一つは言いますが、本陣へ忍び込んで、大名のお部屋様【側室】の小指を切って逃げたのは私です。その女は私の
稚友達だったのですから」
「じゃあ全く、その方、旗本の鼻や、女の
臀を切ったのではないのだな」
「前には男女の髪は切りましたが、昨年は、お部屋様のほかには なんにも致しませんでございました」
「そうか。実は
拙者……」かくかくの
次第【こうこう こういう事情】と、旗本
六人の敵討に来たことを物語った。
五郎助
七三郎は喜んだ。
「や、
長沼先生の
御高弟【
優れた弟子】、
小机先生でございましたか。そういうことなら ぜひどうかお
力添えを願います。お旗本の鼻を削ったのも、怪しい
山伏に相違ございませんぜ」
この時
大欅の枝の上で、
「あっはっはっはっはっ」と高笑いがした。
さすがの小机
源八郎もびっくりした。五郎助
七三郎などは飛上って驚いた。
透して見ると そこに人が登っていた。
朧気ではあるが 山伏の姿であった。
「なんだ、そんな所にいて、我々の話を黙って聴いていたのか」と
源八郎は呼ばわった。
「夜目が利くの、
暗夜の太刀を心得ておるのと、
高慢【思い上がって人を見下す】なことを申しても
和主達は
駄目だ。俺がここにいるのが見えなかったろう」と、
樹上の
怪人【怪しい人】は
嘲り気味に言った。
「ぐずぐず言わずとここへ降りて来い」
「降りても
好い。だが、貴様達がそこにいては 降りられない」
「こわくって降りられんのか」
「いや、そうじゃあない。俺は一足飛びに そこへ飛んで降りるのだが、ちょうど足場の好い所へ二人並んでいやあがる。邪魔だ」
「馬鹿を言うな。二人の前でも、後でも、右でも、左でも、
空地はある。どちらへでも勝手に飛降りろ」
「だから貴様等の夜目は役に立たないんだ。まだ暗闇が見えるというところまでに達して居らない。貴様達の後には犬の
糞がある。
10/18
それが貴様達には見えないだろう。前には山芋を
掘った穴がある。
能く貴様等は落ちなんだものだ。右には木の根が張っている。左には石や瓦の
かけが
散っている。みな飛降りるのに都合が悪い。ちょうど貴様達二人のいる所が、草の生え具合から土の柔かみで、足場が持って来いだ。それをこの二丈五六尺【約8m弱】から高い樹の上から、暗闇の中にちゃんと見分けることのできる俺だのに、貴様達にはそれができぬ。夜目について威張った口を利くのは
止せっ」
これには二人とも驚いた。
正しく
天狗だ。いで【さあ】 その鼻の高いのを、降りて来て見ろ、斬落してくれるぞと、言い合さねど互いに
待構えた。
六
「さあ、飛ぶぞ。
退かなけりゃあ片足を
すりの頭の上に、片足を三ぴん【身分の低い武士を
卑しんで呼んだ言葉】の頭の上に、乗っけて立つように飛んで見せるぞ」
そう言いながら 樹上の
怪山伏は、一気に二丈五六尺の高さから飛降りた。
「えいっ」
待構えていた小机
源八郎は飛降りてまだ立直らないところを、
度胆を抜くつもりで刀の
背打を食わせようとした。
「はっはっはっ」
後の方で 又 例の高笑いがした。
前に飛んだのは、大きな
幣束であった。後に
山伏は早や立っていた。
何しろ大男だ。顔までは能く分らなかったが、丈は雲を突くばかり、手には金剛杖を持っていた。
「
生意気な
山伏奴。さあ小机
源八郎の暗夜の太刀先を受けて見ろっ」
「いくらでも受けるが、俺の姿が見えるかっ」と
山伏は
嘲笑った。
「何っ」
一刀両断【一太刀で真っ二つに断つ】は
神影流【剣術の流派】の第一義【最も大事な教え】。
11/18
これ、実の実たる剣法であったのを、見事に身を交わされて、虚の虚とさせられた【本物だと思っていたものが偽物となってしまった】。
「おのれっ」
二度の打込は虚の実【フェイントに見せかけた一撃】。二段の剣法【ワンツーパンチ】。
正面急転右替の胴切【面を打とうと見せての胴切り】と出たところを、巧みに金剛杖で受留められた。
杖に
鉄条【
鋼の芯】でも入っているのか、その杖さえも切落せぬので、
源八郎もこれは手ごわいと、
先ず気を
呑まれた【圧倒された】。
源八郎 危しと見て、五郎勘
七三郎は、種ヶ島の短銃を取出し……までは、
好かったが、その時代のは点火式で、火打石で火縄へ火を付けて、その 又 火縄で口火へ付けるという、二重三重の手間の掛かる間に、金剛杖でぐわんと打たれて、手に持っていた
火打鎌【火起こし道具】が、どこへ飛んだか、夜目自慢の
七三郎も、こうなると
面食って、見付けられず、手探りに探っている間に、何度頭を金剛杖で
撲られたか、数知れず、後には気絶して
突伏してしまった。
鋭く斬込んで来る
源八郎を扱いながら、その
隙間に
七三郎を参らしたのだから、どの位 腕が利くか、ほとんど分らなかった。
「もう
止せ。とても俺には
敵うまい。ぐずぐずしていると貴様の命はなくなるぞ。や、それでは少し
借しい【
癪にさわる】。それに貴様達は考え違いをしておる。俺は旗本
六人の鼻も切らねば、十数名の女の
臀部も切らぬ」
「えっ」
「それについて 実は俺も不思議に思っているところなんだ。さあ
勝敗止めて話し合って見ようじゃあないか」
止めるも止めぬもない。小机
源八郎すでにへとへとで、ただ
青眼【刀をまっすぐ前に突き出す】に構えているだけで、四方八方
隙間だらけだ。
「うーむ」
「
唸らなくっても好い。まあ木の根にでも腰を掛けろ。おっとそこの木の根には毛虫が這ってる。貴様には見えまいが、俺には見える」
12/18
「何、毛虫がいたって構わん」
源八郎、
敗けぬ気を出したわけではない。ほかの木の根を探すよりも、早く休みたいからであったのだ。
七
「一体、
貴公【あなた】は何者だ」と小机
源八郎は、ようやく息を
納めて【呼吸を整えて】から問うた。
「俺は本当の
天狗だ。天狗にもいろいろあるが、俺のは
正札付き【由緒正しい】の
天狗だ。ただし昔話にある
羽団扇【鳥の羽で作ったうちわ】を持った、鼻の高い、赤い顔の、あんなのではない。普通の人間で、ちゃんと両親もある、兄弟もある。武州
御岳山で生れたんだ。代々山伏だ。俺の先祖は
常陸坊海尊。それから血統正しく十八代伝わっている。長命が多いので、百歳以上まで生きたのが二三人ある。代々夜目が利くんだ。俺は
大竜院泰雲という者だ」
なる程 天狗だ。大天狗だ。
「それがどうして一昨年と昨年と、二年つづきで
七三郎の仲間を、半殺しの目に遭わされたか」
「当り前じゃあないか。
神祭の際に悪事を働くなんど
怪しからん奴等だから、
懲らしめのために二年つづきで
遣付けてやった。今年で
根絶しに致すところなんだ」
「それでは、旗本
六人の鼻は」
「や、それは
本統【本当】に知らん。俺は全くそんな事はしらない。女の臀部を切ったのも
全で知らん。ほかにあるに違いない。俺は暗闇を幸に悪事をする奴を懲らしめるために、毎年下山して来ておるが、どうも去年のだけは見当がつかぬ」
「すると、ほかにあるんだな。何者だろうか」
「や、面白い。どうだ、
源八郎。貴様のようなのでも、とにかく夜目の利く一人だ。
すりの野郎も先ず先ず夜目が少しは見える。
13/18
今夜はこの三人で暗闇の中を見回って、
左様【そのような】な
悪戯をする者を引捕え、
以来【今後】手を出させぬように致してやろうではないか」
「それは結構。三人で暗闇の中を探して見よう」
「じゃあ、その
すりを
活【生】かしてやろう」
大竜院
泰雲が、
七三郎に
活を一つ入れた。
「うーむ」と
七三郎は唸り出した。
「しっかりしろっ」と
源八郎が呼ばわった。
「もうたくさんです」
「安心しろ、もう
撲らん」
ここで三人が約束して、三方に散って、暗闇祭の中を
縫い歩き、鼻切り
臀切りの犯人を捕えたら、
一先ずこの
大欅の根下まで連れて来るということにした。
「誰が捕えるか、
眼力【見抜く力】くらべだ。敗けた者に酒を
奢らせることにしようではないか」と
源八郎が言い出した。
「や、それは
御免だ【それは遠慮しておこう】。眼力も眼力だが【確かに見抜く力は必要だが】、もし運が悪ければ見付けられない。俺が敗けたとなると 貧乏
山伏だから、酒代は出せぬ。そこで 酒は
すりが人の金を取って たくさん持っているだろうから、誰が見付けたに関らず、
七三郎、貴様
一樽買えっ。その代りだ、見付けた者が一番
威張るということにして、敗けた二人は仕方がない、お
辞儀をする。そうして一つ
拳固で頭をこつん。これくらいの余興がないと面白くない」と
泰雲が主張した。
すりの
上前を跳ねて【一部を横取りする】、酒を呑もうなんて、えらい奴もあったものだ。
こうして、遺伝性で夜目の利く大竜院
泰雲。奇跡的に夜目の利く小机
源八郎。練習の功で夜目の利く五郎助
七三郎。この三人は
社後【神社の後】の林を出て、思い思いに三方に散った。
八
いよいよ暗闇祭の時は来た。神宮
猿渡何某が神殿において
神勇【神の心を
慰める儀式】の
大祝詞を捧げ終ると同時に、
灯火を打消し、八基の
神輿は
粛々として【落ち着いた様子で】練り出されるのであった。
七基は二の鳥居前より甲州街道の
大路【大通り】を西に渡り、一基は
随身門の前より左に別れ、本町宿の方から共に番場宿の
角 札辻【交通の要所】の
御旅所【仮の宮】にと向うのであった。
14/18
三人は三人互いに姿を
晦まして、どちらに向ったか知れぬのであった。
* * *
くさくさの式【さまざまな儀式】も
首尾好く終って
鼕々【擬音】と打鳴らす太鼓の音を合図に、暗黒世界は
忽ち光明世界【光に包まれた世界】に急変するのであった。家々の
高張【祭礼時、家の前に立てられる提灯】、
軒提灯【
軒先に吊るされた提灯】は言うも
更なり【言うまでもない】、四ヶ所の
大篝火は天をも
焦がすばかりにて、森の鳥類を一時【同時に】に驚かすのであった。
「又
遣られたっ」
「今年は 耳を切られた者が三人」
「鼻をそがれたのも五六人あるそうな」
「女は相変らずお
臀だそうな」
群集の中で、あちらこちらに
怪事件を語り伝えるのであった。
* * *
社後の裏山 大欅の下に、
真先に帰って来たのは怪山伏
泰雲であった。はなはだ
機嫌が悪く、ぶつぶつ
独語をつぶやきながら、金剛杖で
立木を
撲りなどしていた。
そこへ怪剣士 小机
源八郎が、ぼんやりした顔で帰って来た。
「やあ お前も
しけか【だめだったか】」
「どうも見付からなかった」
「しかし、矢張、やられた者があるようだな」
「我々で見回って発見されないのだから、
すりの野郎には とても駄目だろう。今にしょげながら帰って来るよ」
そう話し合っているところへ、
怪巷賊 五郎助
七三郎が帰って来た。背中に
黒髪振乱したる若い
娘の、血に染ったのを背負って来た。
「はっはっはっ
曲者【怪しい者】が見付からないので、
埋合せに美人を
生捕って来たな。酒の
酌でもさせようというのであろうが、それはよろしくない。帰してやれ。おや、ぐったりしているじゃあないか。気絶しているのか」
七三郎は黙ってそこへ
娘を
下した。そうして片手の平で鼻を一つ
擦り上げて、
腮をしゃくって
反り身になり、
「さあどうだ。二人とも
地面に手を
仕いて、お辞儀をしなせえ。拳固で一つ頭をこつんだ。もちろん酒は私が
奢ってやる」と馬鹿に威張り出した。
「おいおい、血迷っちゃいかん。切られた
娘を連れて来たって何になるか。切った奴を連れて来なけりゃあ駄目だ」と
源八郎が笑いながら言った。
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「ところがこの
娘が 今夜も
遣ったんで、去年のも多分そうでしょう」
「えっ」
「お前さん達は 男ばかり目を付けて廻ったから逃がしたんで、あっしは女に目を付けたんで 奴と分った。
当身【急所に打って】で気絶さして、
引担いで来たんです。御覧なさい、着物に血が着いている。手にも着いてるでしょう。帯の間に
血塗れの
剃刀が
手拭に巻いて
捻込んであります」
「うーむ」
今度は大竜院
泰雲が唸り出した。
気絶している
娘を三人で
介抱して、
蘇生さして【意識を取り戻させ】、
脅しつ
透しつ【厳しさと優しさを巧みに使い分け】取調べた。
最初は泣いてばかりいて、どうしても白状しなかったが、絶対にこの事実は秘密にしてやるという条件が
利いて、
娘は奇怪なる犯罪の事実を告白に及んだ。
娘は
社家【代々神社に仕えてきた家柄】、
葛城藤馬の長女で
稲代というのであった。
神楽殿【神楽を奉納するための建物】の舞姫として
清浄なる役目を
勤めていたのであったが、五年前の暗闇祭の夜に、荒縄【わらで作った太い縄】で腹巻した神輿かつぎの若者十数人のために、乳房銀杏の蔭へ引きずられて行き、聴くに忍びぬ
悪口雑言【さんざんにののしる】に、
侮辱の極みを浴びせられたのであった。
余りの無念
口惜しさ。それに因果な身をも
耻【恥じ】入りて、多摩川に身を投げて死のうとしたことが八たびに及んだ。それを
発狂【気が狂う】と見られて、土蔵の中を座敷牢にして、三年ばかり入れられていた。この裏面【
背後】には継母の
邪曲【悪意】も
潜むのであった。
既に
定っていた良家への縁談は 腹違いの妹にと移された。
稲代はかかる悲運に
陥いれた種蒔の若者達を、極悪の
敵と呪わずにはいられなかった。けれどもどこの誰やら暗闇の出来事とて、もとより知れようはずがなかった。
復讐、それは誰に向って遂げようもない。悲劇中の悲劇であった。
終には世の中を呪い出した。人間を呪い出した。別して若い男、若い女、それを
無上【この上なく】に呪い出した。
三年の座敷牢。
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土蔵の中の暗さに馴れて、夜目が恐しく利くようになったのを幸、去年の暗闇祭に紛れて、男の鼻をそぎ、女の臀を切ったのであった。
そのために非常な快感を覚えたのであった。今年もまた それを
企てたのであった。これでは矢張
狂人なのであった。家人が座敷牢から自由にしたのが間違っているのであった。
不思議な事実を聴いて三人とも、娘
稲代に同情して、好いか悪いか分らなかった。
「これではなるほど、犯人が分らなかったわけだ」と
源八郎は言った。
「それを見付けたのは五郎助
七三郎だ。や、いくら夜目が利くからって、お前さん達は本統【本当】の目先が利かねえのだから駄目の皮だ。そこへ行くと矢張 江戸っ子でなくっちゃあ通用しねえ。この犯人を女と
睨んだところが 全く気の利いているところなんだ」と
無闇に
七三郎 威張り出した。
「なんだ。貴様、
すりの
癖に、生意気な事を言うなっ」と
泰雲が
赫となった【怒って真っ赤になった】。
「いや約束だ。酒は私が
奢る。これも約束だ。見付けた者が威張れるだけ威張って、後の二人が地面に手を
仕いてお辞儀と
極って【決まって】るんだ。そこで私は、相談だ。
山伏の奴は俺の友達の
敵なんだから、拳骨で頭をこつんというのを、小机さんの分と一緒にして、二つ殴らせて貰いてえね。それは
逆ずり金蔵と、節穴
長四郎との二人の敵討に当ててえので。それさえ済んだら後は笑って、機嫌よく飲んで別れようではありませんか」
「小机の代理に俺が一つ余計に
打たれるなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことはないが。まあ好い。どの道殴られるんだ。一つも二つも同じだ。ただし、俺の頭は石よりも固いから、打つ方が痛いぞ」
「なんだって好い。
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打ちせえすりゃあ、
講釈【歴史物語の語り】で聴いて知っている
晋の
予譲【主君の仇を討とうとした、有名な中国の忠臣】の
故事【昔の話】とやらだ。敵討の筋が通るというもんさ」
大正の現代人には馬鹿馬鹿しく思われる事も、この時代には
大概の場合にも茶番気が付いて廻っていて【嘘っぽさが付きまとい】、それをしかも
滑稽にせず、真面目に遣って
退けるのであった。
泰雲、
頭巾を取って、頭を出すと、
七三郎、拳骨の先に
唾を付けて力一杯、こつん! こつん!
「これで胸がさっぱりした」
この変な敵討をよそに、小机
源八郎は
頻りに考え込んでいたが、やがて決心した
体【様子】で、
「や、
拙者は この
稲代殿を 嫁に貰い受けたい」と言い出した。
これには
泰雲も
七三郎もびっくりした。余りにそれは突然に過ぎた【突然すぎた】からであった。
源八郎は単に
稲代の境遇に同情したばかりではないのであった。
泰雲の夜目の利くのが代々であるというのから考えて 夜目の利く男と、同じく夜目の利く女との
相婚【かけ合わせ】の結果、その子に より以上 夜目を利かして見たいという、そうした腹【
思惑】から出たのであった。
底本:「怪奇・伝奇時代小説選集8 百物語 他11編」春陽文庫、春陽堂書店
2000(平成12)年5月20日第1刷発行
底本の親本:「現代大衆文学全集 江見水蔭集」平凡社
1928(昭和3)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:岡山勝美
校正:門田裕志
2006年9月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
大変ありがとうございました。感謝致します。(
シン文庫追記)
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