怪異かいい暗闇祭くらやみまつり
江見 水蔭すいいん


       一

 天保てんぽうの頃、江戸に神影流しんかげりゅう達人たつじんとして勇名ゆうめい【勇気あるとの評判】をとどろかしていた長沼正兵衛ながぬましょうべえ、その門人もんじん【門下の人】に小机こづくえ源八郎げんぱちろうというのがあった。怪剣士かいけんし【異様な戦い方をする剣士】として人から恐れられていた。
「小机源八郎のは剣法の正道ではない。邪道じゃどう【望ましくない】だ。ゆえに免許には いまだ致されぬ【達していない】が、しかし、一足いっそく 二身にしん 三手さんしゅ 四口しく 五眼ごがん【武術の修練の順番】をぎゃくおこなって、彼のは天下無敵だ。暗夜あんや太刀たち秘術ひじゅつを教えざるに【教えていないのに】すでに会得えとくしている。怪剣士というは彼がことである」
 師の正兵衛さえ舌を巻いているのであった。
 天保九年五月五日の朝。同門の若者、多くは旗本の次男坊達が寄って、小机源八郎を取囲んだ。
「ぜひ どうか敵討かたきうちに出掛けてもらいたい。去年の今夜でござる。そのせつ【その時】もお願いして置いた。このかたきを討ってくれる人は 貴殿きでん【あなた】よりほかにはござらぬと申したので。や、その節 こころよ御承諾ごしょうだく下されたので、我々共は 今日のまいるのを指折り数えて待っておった次第しだいで」
「なんでござったかな、敵討なんどと、左様さような【そのような】大事件をお引受け致したか知らん【覚えていない】」
「御失念では痛み入る【恐れ入る】。それ、武州ぶしゅう府中ふちゅう六所明神ろくしょみょうじん暗闇祭くらやみまつりの夜、我等の仲間が大恥辱だいちじょく【侮辱】を取ったことについて」
「ああ、あの事でござるか」
 天保八年五月五日の夜、長沼門下の旗本はたもとの若者が六人で、府中の祭に出掛けたのであった。それは神輿しんよ渡御とぎょ【神様を乗せる輿こしが巡行する行事】の間は、町中が一点の灯火ともしびも残さず消して真の暗闇にするために、その間において、町の女達はいうまでもなく、近郷きんごうから集って来ている女達が、喜んで神秘のおかげこうむりたがる【加護を受けたがる】という、うわさの虚実【真偽】を確めずに、その実地【現場】を探りにと出掛けたのであった。
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 こうした敗退はいたい気分に満ちている、旗本の若き武士はその夜、府中の各所に散って、白由行動を取り、翌朝深大寺じんだいじ門前の蕎麦屋そばやに会して、互いに一夜の遭遇そうぐう奇談きだん【不思議な出来事】を報告し合おうとの約束であった。
 さて、明くる朝、定めの家に六人集って見ると、六人六人とも、鼻頭はなさきをそぎ取られていて、満足の顔の者は一人もないのであった。
「暗闇祭には怪物かいぶつが出る。まさか神わざとも思われぬが、いかにしても残念。その正体を見届けて、退治て貰わなければ堪忍かんにんならぬ【許さぬ】」
 六人六人とも、もとより暗闇の中の事ゆえ、正体を見届けようもなかったが、何者やら知れず【何者かもわからず】前に立ったと思うと、たちまち鼻を切られたのだという。ただそれだけで 一同 取留とりとめた事実【明確な事実】が無かったのだ。
天狗てんぐ所業しわざと言ってしまえば それまでだが、いわゆる鎌鼬かまいたち【人を切りつける妖怪】の悪戯いたずらではござるまいか」という説もあった。
「いや確かに人間でござった。心願しんがん【心からの願い】あって、六所明神の祭礼さいれい【祭り】に 六つの鼻を切るという願掛がんかけ【神仏に願い祈る】でも致したのではござるまいか」という説もあった。
「なれども、六人六人とも切られたところに疑いがござる。こりゃ長沼の道場に遺恨いこん【深いうらみ】のある者が、六人を見掛けて致したのではござるまいか」という。この説、はなはだ有力となった。
「しかし、まだほかに、鼻を切られた者があったかも知れ申さぬ【いたかもしれません】。あり【いた】とすればあながち、長沼の門人とのみ限られたわけでもござらぬで」という説も出て、要するに何の目的で誰がそのような悪戯をしたのやら、少しも見当がつかぬのであった。
 小机源八郎も、これには多少の興味を持たぬ【持たない】ではなかったので、
「よろしい。しからば拙者せっしゃ、府中へまかりこし【参上し】、怪物の正体を見届け、うまく行けば諸氏しょし【みなさん】の敵もち申そう【打ちましょう】。しかし、まかり間違ったら 拙者の鼻もいかがでござるか【どうなるか】」
 笑いながら出て行った。


       二

 江戸より府中までは八里はちり【約31km】。夕方前に小机源八郎は着いた。
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 府中は いまさらく【説明する】までもなく、古昔いにしえの国府【今でいう県庁】の所在地で、六所明神は府中の総社そうじゃ【特定地域内の神社の祭神さいじんを集めてまつった神社】。字【六所の文字】は禄所ろくしょが正しいという説もあるが、本社祭神【本社にまつられている神】は大己貴命おおなむちのみこと相殿あいでん【主祭神の他に合祀ごうしする】として素盞嗚尊すさのおのみこと伊弉冊尊いざなみのみこと瓊々杵尊ににぎのみこと大宮女大神おおみやひめのおおかみ布留大神ふるのおおかみの六座(現在は大国魂おおくにたま神社)。武蔵むさしでは 古社こしゃ【古くからある神社】のうちへ数えられるのだ。
 毎年五月三日には、競馬くらべうま【馬の競争】が社前の馬場ばば【馬を走らせる場所】において、暗闇の中で行われる。四日には拝殿はいでん【本殿の前にある礼拝のための建物】において神楽かぐら【神に奉納する歌舞】が執行しっこうされる【行われる】。五日には大神事だいしんじとして、八基の神輿みこしが暗闇の中を御旅所おたびしょ【神輿が神社の外で休憩きゅうけいや滞在をするための仮のやしろや広場】に渡御とぎょとある。六日には御田植があって終るので、四日間ぶっ通しの祭礼を当込あてこみに、種々いろいろの商人、あるいは香具師やしなどが入込いりこみ【入りまじり】、そのにぎわしさと言ったらないのであった。
 源八郎番場宿ばんばじゅく立場茶屋たてばぢゃや【街道沿いに設けられた茶屋】に入って、夕飯の前に一杯飲むことにした。客はほとんど満員の有様ありさま【状況】なので、ようやく庭の隅の方の腰掛こしかけに席を取った。
さかなは何があるな。甲州街道こうしゅうかいどうへ来て 新らしい魚類を所望しょもうする程 野暮やぼではない。何か野菜物か、それとも若鮎わかあゆでもあれば魚田ぎょでん【魚の田楽】がいな」
「ところがお侍様、お祭中はいきの好い魚が仕入れてございます。かれいの煮付、こちならば洗い【魚介を冷たい水で洗うお造りの手法の一つ】にでも出来まする。そのほか海鰻あなご蒲焼かばやき黒鯛かいずの塩焼、えび鬼殻焼おにがらやき【殻付きのまま背開きにし、たれをつけ焼いた料理】」
「まるで品川しながわへ行ったようだな」
「はい、みな品川から夜通しでまわりますので。
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御案内でもござりましょうが【すでにご存じかと思いますが】、お祭前になりますると、神主かんぬし様達がそろって品川へおでになり、海で水祓みそぎ【身体を水で清め、心身のけがれをはらう宗教儀礼】をなさいまして、それから当日までいみにおこもり【神事の前に、けがれに触れないように家にこもる】で、そういう縁故えんこ【つながり】から品川の漁師達も、取立ての魚を神前へおそなえに持って参りまするが、同じ持って行くのなら たくさん持って行って売った方がいなんて、いつの間にやら商売気を出してくれたのが、私達の仕合しあわせで【私達にとって幸いで】、多摩たまの山奥から来た参詣人さんけいにんなどは、初めていきの好い魚を食べられるなんて、大喜びでございます」
「そう講釈こうしゃくを聴くと江戸では珍らしくないが、一つ海鰻あなごを焼いて貰って、それからこちは洗いが好いな。まあその辺で一升つけてくれ」
「一升でございますか」
「いずれ又 後もつけて貰う。白鳥はくちょう【上質な白酒】で大釜【大きな器】へつけて持って来い」
「へえへえ」
 小机源八郎長沼の内弟子。言って見れば 今の苦学生だ。金は無いのだ。ところが今日は 暗闇で旗本六人が鼻をそがれた敵討というので 同門から金を集めてくれたので、大分懐中ふところは温かいのだから、大束おおたばきわめて【お金を気にせず】好きな酒がめるのであった。
 隣りの腰掛で最前から、一人でちびりちびり、黒鯛の塩焼で飲んでいる旅商人たびあきんどらしい一人の男。前にも銚子ちょうしが七八本行列をしているのだが、一向 ったような顔はしていなかった。色は青味を帯びた、眉毛まゆげの濃く、眼の鋭い、五分ごぶ月代毛さかやけ【月代が5分(約1.5㎝)ほど】をはやした、一癖ひとくせ二癖ふたくせもありそうなのが、
「お武家様ぶけさま、失礼ながら、大分だいぶ御酒はいけますようで」と声を掛けた。
「いや 余計もやらぬが【たくさんは飲まないが】、貧乏びんぼう世帯の食事道具呑位のみぐらいのものじゃ」
「へえ、貧乏世帯の食事道具呑……いたことがございませんな。それはどういうみ方でございますか」
「金持の道具ではかなわぬが、貧乏人の台所なら高が知れておる。それに一通り【全部の器に】酒をいで片っ端から呑みす【飲み干す】のだ」
「へえ、それでは、まあ茶碗に皿、小鉢、丼鉢どんぶりばちわんがあるとして、親子三人暮しに積ったところで【見積もったところで】、大概知れたもん【たかが知れたもの】でございますな。手前でもそれならいただけそうでございます」
「ところが、拙者は茶碗や皿などは数には入れておらん。いくら貧乏世帯でも鍋釜はあるはず。それまで 一杯注いで置いて呑む」
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「こいつあ恐れ入りました」
 まさか小机源八郎、それ程呑めもしないのだが、座興ざきょうを混ぜて吹飛ばしたのだ【冗談交じりで大げさに話したのだ】。
 話が面白くなって酒も大分はずんで来た。
「や、拙者せっしゃは当所の御祭礼は初めてだが、なんでも昨年は、暗闇の間に、余程よほど 奇怪きかいな事が行われたと申すが、それはほんのうわさに過ぎぬのか。それも本統【本当】にあった事かな」
 源八郎は この旅商人が去年の祭にも来ていたというのからして、さぐりを入れて見たのであった。
 旅商人は少し真面目まじめになって、
「旦那のお聴きになったのは、どんな出来事でございましたね」と問い入れた。
「されば、なんでも どこかのさむらいが数人とも 顔面を 何者にか知れず【犯人が分からず】傷つけられたと申す事で」と明白あからさまには【はっきりとは】源八郎は言わなかった。
「や、それは私として、初耳でございますが、私の聴きましたのは、ちっと【ちょっと】違いますので」
「どんな話か、さかなに【酒の肴として】聴きたいもんだな」
 そう言いつつ、猪口ちょこ代用だいようの【猪口の代わりにしていた】茶碗をさした。


       三

 旅商人四辺あたりに気をくばり、声を低めて、
「実は旦那、去年には限りません、毎年この暗闇祭には、怪しい事があるんでございますよ。ですが、それをぱっとさせた日には、たちまちお祭がさびれっちまうので、土地の者はかくしにして【徹底的に隠して】りますがね。昨年のはちっと念入りでございましたよ。女がね、おしりの肉を斬られたんでね。なんでも十二三人もやられたらしいんで。大道臼だいどううす【とっても大きな臼】のようなのは、随分ずいぶん 【斬りごたえ】があったろうと思います」と語り出した。
「ふむ、それはしからん【許しがたい】。女の臀部でんぶを斬るとは一体何の為だか。いずれ馬鹿ばかか、狂人きちがい所業しわざであろうな」と源八郎も新事実を聴いてちょっと驚いた。
「まだほかに何があったか知れませんが、それはただ 私達の耳に入らねえだけのことだと思います。今夜もきっと 何かあるだろうと思われますよ。
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何しろ諸方しょほう【あちこち】から大勢人が入込んで居りますから……それに、昨年は、信州しんしゅうのある大名のお部屋様へやさま【側室】が、本町宿ほんちょうじゅく本陣ほんじん旅籠はたごにお泊りで、そこにもなんだか変な事があったそうで、それについては 私はく存じませんがね」
「大名のお部屋が泊っていても、矢張やはり 神輿渡御の刻限こくげん【時刻】には火を消さずば なるまいな【消さなければならないだろうな】」
「それはもう どちら様がお泊りでも、火をけることはできますまい」
 源八郎は考えた。六人の旗本の鼻をけずったのと、十数人の女の臀部でんぶを斬ったのと、又 大名の愛妾あいしょう【お気に入りのめかけ】を襲ったのと、同一人物の手【仕業しわざ】であるかどうか。これは研究物【調べてみる価値のあるもの】だと心着こころづいた【気づいた】のであった。
 この時、旅商人は急に心づいた【気がついた】様子で、
「や、御武家様、私に限らず 今夜はもう とてもこの宿しゅくへは泊れません、どこも一杯です。それで私は布田ふだまで のして置きまする【行っておきます】。へえ、甲州へ絹を仕入れに行った帰りでございます。御免下さいまし【失礼いたします】」
 勘定かんじょうを済まして せっせと先に行ってしまった。源八郎はその旅商人を、どうもあやしいとにらまずには【疑わずには】いられなかった。
 道中どうちゅう胡麻ごまはい【「護摩の灰」と称するものを街道筋で売歩いていた泥棒】形の男にも見えた。あるいは又 すり稼ぎのために入込んだ者のようにも思われた。あいつが仕事のついでに、悪戯いたずらをして廻るのではあるまいか。そんな疑念をも生じたのであった。
 すり一種いっしゅ特異とくいの刃物を掌中しょうちゅうに持っている【独特な刃物を手の中に隠し持っている】。それで巾着きんちゃく【開口部をひもで絞める袋】を切ることもあり、仕事の邪魔じゃまをした者に 復讐ふくしゅう的に顔面を傷つけるという話は聴いている。あの旅商人たびあきんどが巾着切とすれば、どうも鼻そぎしり切りの犯人が、あいつのように思われてならぬのであった。
 あいつ しんに【本当に】甲州へ絹の仕入れに行き、江戸へ帰るべく 今夜 布田に泊る者とすれば、もうこの土地に姿を見せぬはず。もしあいつが暗闇の前後に、まだ府中の土地を踏んでいるとすれば【土地にいたとすれば】、もう確かだ。引捕ひっとらえて白状さして、今度はこっちから鼻を落してやると、源八郎はそういう決心をして、酒は一升で打ち切り、勘定済まして立場茶屋を出た。
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 まだ神輿みこし出御しゅつぎょ【神輿の出発】の刻限には間があったので、源八郎は群集を避けて、本社の背後へと廻って見た。
 有名な乳房銀杏ちぶさいちょうからうしろには杉松その他の木が繁っていて、昼も暗いくらいだから、夜はまだ灯明とうみょう【あかり】を消さぬ間から暗いのであった。
 源八郎にはしかし、少しもそれが暗くないのであった。すかせば朧気おぼろげに立木の数も数えられるのであった。源八郎の眼は長沼正兵衛すらも驚いているのであった。
 小机源八郎は、武州橘樹郡たちばなごおり小机村こづくえむら郷士ごうし【武士の身分で農業に従事した者】の子で、子供の時に眼をわずらった【眼の病気にかかった】のを、廻国かいこくの六十六部【全国66か所の霊場れいじょう巡礼じゅんれいする僧侶たち】が祈祷きとう病気平癒びょうきへいゆを祈る】して、薬師の水というのを付けてくれた。それで全治してからのちは、不思議に夜目よめく【暗い夜でもよく見える】ようになったのであった。
 野獣やじゅうの眼が暗夜あんやに輝くという、そこまでには至らずとも、とにかく普通の者に比べると、薄々ながら見えるのであった。


       四

 何心なにごころなく【無意識に】源八郎は裏山の方を透して見た【目を凝らして見た】。すると大きな大きなけやきの、すでに立枯れになっているのが、妖魔ようまの王の突立つったごとくに目に入った。その根下ねもとに、怪しい人影が一個認められた。
 気になるので そっと立木の間をって、近寄って見ると、意外にも それは例の旅商人たびあきんどであった。
 いよいよもって怪しいと思って、源八郎は忍び足に近寄ろうとすると、旅商人は すでにそれと感付いたらしく、立上って逃げようとした。
「おいおい、お前はまだここにいたんだな。布田の方へは行かなかったのか」
 源八郎は声を掛けた。
「おやっ」
 少からず旅商人は驚いた。
「旦那は、くこの暗いのに、私ということが分りましたね」
「お前は 又 拙者せっしゃが忍んで近寄ったのに、能く分ったの」
 向うも驚いたが、こちらでも驚いたのであった。
「へえ、私は、昼間より、夜分の方が眼が能く見えますんで」
「なに、その方も夜目が利くのか。拙者も実は夜目が利くのだ」
「おや、旦那も夜目がねぇ、へえ、そうでございますかい。じゃあ矢張、お稼ぎになるんですね」
「稼ぐとは何を」
「へへへへ」
「何を稼ぐと申すのか」
「なに、ちょっと、その」
拙者白浪しらなみ仲間【盗賊の仲間】とでも感違いを致したのか」
「まあ、その、ちょっとね。
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へへへへ、夜目が利くと仰有おっしゃいましたので……どうも相済あいすみません【本当に申し訳ありません】」
「するとそのほうは、確かに泥棒どろぼうだな」
「御免なすって下さいまし【どうかお許しください】。隠しゃぁ致しません。全く私は花婿はなむこ仲間でございます」
「花婿仲間とはなんだ」
夜目取よめどりで。へへへ、嫁取りに文字もじったので」
「江戸の者は泥棒まで洒落しゃれがあるな。面白い。そこでその方は、毎年 暗闇祭にはかせぎに来るんだな」
「実は旦那、稼ぐというのは二の次で、遊び半分、まあ毎年来て居ります。私ばかりじゃぁございません。仲間の者がみな 腕試しやら眼試しのために」
「腕試しというのはあるが、眼試しとはなんだ」
「この泥棒稼業かぎょうに一番大事なのは眼でございます。暗闇で物を見るようにならなければ、い稼ぎができません。それで泥棒、と言っても、それぞれ筋があるのでございますが、私達の仲間の古老から みな教わったのでございますが、食忌しょくいみ【食事制限】をして、ある秘薬を三年の間 みつづけまして、それから 又 暗闇の中で眼を光らかす修業を二三年致します。泥棒になるんだって本統【本当】になろうと思うと、修業に骨が折れて楽ではございません。もちろんこれは 昔のすっぱ【盗賊】の家から伝わった法【やり方】が土台になっておるそうで……そこで、まあ 私も その修業の法は早く済ましてしまいまして、暗夜でも手紙が読めるくらいまでには行っております。異名を五郎助七三郎ごろすけしちさぶろうと申しますが、七三郎が本名で五郎助はふくろうき声から取ったのでございますがね」
「それで今、お前の仲間は」
「仲間は日本国中にどのくらいあるか知れませんが、関東だけでざっと五百二十人ばかり、でも本統に夜目の利くやつは、わずかなもので、ようやく五人でございました。今から六年前のちょうど今月今日 召捕めしとられまして【捕らえられまして】、八月十九日に小塚こづかぱらでお仕置【処罰】を受けました鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきちなんか、その五人の中には入って居りません。あんな野郎はまだ駆出しで」
「その五人というのは……」
「そう申しては口幅くちはばっとうございますが【図々ずうずうしいかもしれませんが】、ず こう申す五郎助七三郎が筆頭で、それから夜泣よなきの半次はんじさかずり金蔵きんぞうけむり与兵衛よへえ節穴ふしあな長四郎ちょうしろう。それだけでございます」
「変な名だな。それがみな、暗闇祭へ来たのか」
そろって来たこともありましたが、近在の百姓衆の財袋さいふを抜いたところで高が知れております。
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しかし、まあ、悪戯いたずらをするのが面白いんで、たとえば神様のいらっしゃる境内けいだいをもはばからず【遠慮せず】、暗闇を幸いに、男女が密談などしているのを見付けては、知らない間に二人のまげをちょん切って置いたりなんかして、おどかしてやりまして、以後そんな不謹慎な事をしないようにいましめてやりますので」
「去年も五人揃って参ったか」
「それが旦那、それからがお話でございます。夜泣きの半次は御用【逮捕】になりまして、まだ御牢内ごろうないに居ります。煙の与兵衛上方かみがた【関西地方】へ行って居りまして、一昨年には節穴の長四郎と、逆ずり金蔵と、私と、三人連れで参りましたがね。その時に、えらい目にいましてねえ」


       五

 奇怪極きかいきわまる五郎助七三郎の話に、小机源八郎はすっかりれてしまったのであった。
「どんな目にったのか」
 五郎助七三郎は少しく興奮こうふんして、
「あんなのを天狗てんぐとでも言いましょうか。夜目の利く私達よりも、もっと夜目の利く山伏やまぶし風【修験道の行者で、独特の服装を身につけている】の大男がね。三人で、ちょうどこの裏山で、抜き取った品物を出し合って勘定をしていたところへ、不意に現われて、金剛杖こんごうづえ【山伏が修行や旅で使う特別な杖】のような物で滅茶滅茶めちゃめちゃです。三人もじっとして打たれるようなのじゃあありません。懐中ふところに呑んでいた【隠し持っていた】匕首あいくちつばがない短刀】で、魂限こんかぎり【全力で】立ち向ったんですが、とてもかないませんでしてね。三人とも半殺しの目に遭わされました。それが原因で逆ずり金蔵は二月ばかり患って死んでしまいました。節穴の長四郎と私は湯治とうじに行くてえような【行くような】有様で……そこで去年、その敵討というので、すっかり準備をして、長四郎と二人でね、暗闇祭に来ましたがね」
「どんな準備をして」
「目つぶしです。目つぶしを仕入れて、それを叩きつけてから斬付きりつける手筈てはずでしたが、矢張やはりいけませんでした。長四郎があべこべに眼をつぶされてしまいました」
「向うから目潰めつぶしを投げたのか」
「いいえ、指を眼の中へ突込つっこみやあがったので」
ひどい事をするな」
「とうとう私一人になってしまいました。今年は口惜くやしい【悔しい】から、どうしても私一人でかたきを討つ了簡りょうけん【考え】で、実はたねしま【片手で扱える火縄銃】を忍ばせているんでございます」
「去年も矢張 山伏姿か」
左様さようでございました【そうでございました】」
「そいつではないか。去年、武家の顔面を傷つけたのは……」
「さあ そうかも知れません」
臀肉でんにくを切ったというのは、その者ではあるまいか」
「多分そうかも知れませんな」
七三郎とやら、お前、拙者に隠してはいかんぞ。
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お前と長四郎とで、旗本六人の鼻のさきを斬ったのじゃあないか」
「いや隠しません。隠すくらいなら 初めからなんにも言いません。や、白状ついでだから一つは言いますが、本陣へ忍び込んで、大名のお部屋様【側室】の小指を切って逃げたのは私です。その女は私のおさな友達だったのですから」
「じゃあ全く、その方、旗本の鼻や、女のしりを切ったのではないのだな」
「前には男女の髪は切りましたが、昨年は、お部屋様のほかには なんにも致しませんでございました」
「そうか。実は拙者……」かくかくの次第しだい【こうこう こういう事情】と、旗本六人の敵討に来たことを物語った。
 五郎助七三郎は喜んだ。
「や、長沼先生の御高弟ごこうていすぐれた弟子】、小机先生でございましたか。そういうことなら ぜひどうかお力添ちからぞえを願います。お旗本の鼻を削ったのも、怪しい山伏に相違ございませんぜ」
 この時 大欅おおけやきの枝の上で、
「あっはっはっはっはっ」と高笑いがした。
 さすがの小机源八郎もびっくりした。五郎助七三郎などは飛上って驚いた。
 透して見ると そこに人が登っていた。朧気おぼろげではあるが 山伏の姿であった。
「なんだ、そんな所にいて、我々の話を黙って聴いていたのか」と源八郎は呼ばわった。
「夜目が利くの、暗夜あんやの太刀を心得ておるのと、高慢こうまん【思い上がって人を見下す】なことを申しても 和主達おぬしたち駄目だめだ。俺がここにいるのが見えなかったろう」と、樹上じゅじょう怪人かいじん【怪しい人】はあざけり気味に言った。
「ぐずぐず言わずとここへ降りて来い」
「降りてもい。だが、貴様達がそこにいては 降りられない」
「こわくって降りられんのか」
「いや、そうじゃあない。俺は一足飛びに そこへ飛んで降りるのだが、ちょうど足場の好い所へ二人並んでいやあがる。邪魔だ」
「馬鹿を言うな。二人の前でも、後でも、右でも、左でも、空地くうちはある。どちらへでも勝手に飛降りろ」
「だから貴様等の夜目は役に立たないんだ。まだ暗闇が見えるというところまでに達して居らない。貴様達の後には犬のくそがある。
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それが貴様達には見えないだろう。前には山芋をった穴がある。く貴様等は落ちなんだものだ。右には木の根が張っている。左には石や瓦のかけちらかっている。みな飛降りるのに都合が悪い。ちょうど貴様達二人のいる所が、草の生え具合から土の柔かみで、足場が持って来いだ。それをこの二丈五六尺【約8m弱】から高い樹の上から、暗闇の中にちゃんと見分けることのできる俺だのに、貴様達にはそれができぬ。夜目について威張った口を利くのはせっ」
 これには二人とも驚いた。まさしく天狗だ。いで【さあ】 その鼻の高いのを、降りて来て見ろ、斬落してくれるぞと、言い合さねど互いに待構まちかまえた。


       六

「さあ、飛ぶぞ。退かなけりゃあ片足を すりの頭の上に、片足を三ぴん【身分の低い武士をいやしんで呼んだ言葉】の頭の上に、乗っけて立つように飛んで見せるぞ」
 そう言いながら 樹上のかい山伏やまぶしは、一気に二丈五六尺の高さから飛降りた。
「えいっ」
 待構えていた小机源八郎は飛降りてまだ立直らないところを、度胆どぎもを抜くつもりで刀の背打むねうちを食わせようとした。
「はっはっはっ」
 うしろの方で 又 例の高笑いがした。
 前に飛んだのは、大きな幣束へいそくであった。後に山伏は早や立っていた。
 何しろ大男だ。顔までは能く分らなかったが、丈は雲を突くばかり、手には金剛杖を持っていた。
生意気なまいき山伏。さあ小机源八郎の暗夜の太刀先を受けて見ろっ」
「いくらでも受けるが、俺の姿が見えるかっ」と山伏嘲笑あざわらった。
「何っ」
 一刀両断いっとうりょうだん【一太刀で真っ二つに断つ】は神影流しんかげりゅう【剣術の流派】の第一義【最も大事な教え】。
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これ、実の実たる剣法であったのを、見事に身を交わされて、虚の虚とさせられた【本物だと思っていたものが偽物となってしまった】。
「おのれっ」
 二度の打込は虚の実【フェイントに見せかけた一撃】。二段の剣法【ワンツーパンチ】。正面しょうめん急転きゅうてん右替みぎがえの胴切【面を打とうと見せての胴切り】と出たところを、巧みに金剛杖で受留められた。
 つえ鉄条てつじょうはがねの芯】でも入っているのか、その杖さえも切落せぬので、源八郎もこれは手ごわいと、ず気をまれた【圧倒された】。
 源八郎 あやうしと見て、五郎勘七三郎は、種ヶ島の短銃を取出し……までは、かったが、その時代のは点火式で、火打石で火縄へ火を付けて、その 又 火縄で口火へ付けるという、二重三重の手間の掛かる間に、金剛杖でぐわんと打たれて、手に持っていた火打鎌ひうちがま【火起こし道具】が、どこへ飛んだか、夜目自慢の七三郎も、こうなると面食めんくらって、見付けられず、手探りに探っている間に、何度頭を金剛杖でなぐられたか、数知れず、後には気絶して突伏つっぷしてしまった。
 鋭く斬込んで来る源八郎を扱いながら、その隙間すきま七三郎を参らしたのだから、どの位 腕が利くか、ほとんど分らなかった。
「もうせ。とても俺にはかなうまい。ぐずぐずしていると貴様の命はなくなるぞ。や、それでは少ししゃくしい【しゃくにさわる】。それに貴様達は考え違いをしておる。俺は旗本六人の鼻も切らねば、十数名の女の臀部でんぶも切らぬ」
「えっ」
「それについて 実は俺も不思議に思っているところなんだ。さあ 勝敗しょうぶめて話し合って見ようじゃあないか」
 止めるも止めぬもない。小机源八郎すでにへとへとで、ただ青眼せいがん【刀をまっすぐ前に突き出す】に構えているだけで、四方八方 隙間すきまだらけだ。
「うーむ」
うならなくっても好い。まあ木の根にでも腰を掛けろ。おっとそこの木の根には毛虫が這ってる。貴様には見えまいが、俺には見える」
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「何、毛虫がいたって構わん」
 源八郎けぬ気を出したわけではない。ほかの木の根を探すよりも、早く休みたいからであったのだ。


       七

「一体、貴公きこう【あなた】は何者だ」と小机源八郎は、ようやく息をおさめて【呼吸を整えて】から問うた。
「俺は本当の天狗だ。天狗にもいろいろあるが、俺のはしょう札付ふだつき【由緒正しい】の天狗だ。ただし昔話にある羽団扇はうちわ【鳥の羽で作ったうちわ】を持った、鼻の高い、赤い顔の、あんなのではない。普通の人間で、ちゃんと両親もある、兄弟もある。武州御岳山おんたけさんで生れたんだ。代々山伏だ。俺の先祖は常陸坊海尊ひたちぼうかいそん。それから血統正しく十八代伝わっている。長命が多いので、百歳以上まで生きたのが二三人ある。代々夜目が利くんだ。俺は大竜院だいりゅういん泰雲たいうんという者だ」
 なる程 天狗だ。大天狗だ。
「それがどうして一昨年と昨年と、二年つづきで七三郎の仲間を、半殺しの目に遭わされたか」
「当り前じゃあないか。神祭かんまつりの際に悪事を働くなんど しからん奴等だから、らしめのために二年つづきで遣付やっつけてやった。今年で根絶ねだやしに致すところなんだ」
「それでは、旗本六人の鼻は」
「や、それは本統ほんとう【本当】に知らん。俺は全くそんな事はしらない。女の臀部を切ったのもまるで知らん。ほかにあるに違いない。俺は暗闇を幸に悪事をする奴を懲らしめるために、毎年下山して来ておるが、どうも去年のだけは見当がつかぬ」
「すると、ほかにあるんだな。何者だろうか」
「や、面白い。どうだ、源八郎。貴様のようなのでも、とにかく夜目の利く一人だ。すりの野郎も先ず先ず夜目が少しは見える。
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今夜はこの三人で暗闇の中を見回って、左様さよう【そのような】な悪戯いたずらをする者を引捕え、以来いらい【今後】手を出させぬように致してやろうではないか」
「それは結構。三人で暗闇の中を探して見よう」
「じゃあ、そのすり【生】かしてやろう」
 大竜院泰雲が、七三郎かつを一つ入れた。
「うーむ」と七三郎は唸り出した。
「しっかりしろっ」と源八郎が呼ばわった。
「もうたくさんです」
「安心しろ、もうなぐらん」
 ここで三人が約束して、三方に散って、暗闇祭の中をい歩き、鼻切りしり切りの犯人を捕えたら、一先ひとまずこの大欅おおけやきの根下まで連れて来るということにした。
「誰が捕えるか、眼力がんりき【見抜く力】くらべだ。敗けた者に酒をおごらせることにしようではないか」と源八郎が言い出した。
「や、それは御免ごめんだ【それは遠慮しておこう】。眼力も眼力だが【確かに見抜く力は必要だが】、もし運が悪ければ見付けられない。俺が敗けたとなると 貧乏山伏だから、酒代は出せぬ。そこで 酒はすりが人の金を取って たくさん持っているだろうから、誰が見付けたに関らず、七三郎、貴様一樽ひとたる買えっ。その代りだ、見付けた者が一番威張いばるということにして、敗けた二人は仕方がない、お辞儀じぎをする。そうして一つ拳固げんこで頭をこつん。これくらいの余興がないと面白くない」と泰雲が主張した。すり上前うわまえを跳ねて【一部を横取りする】、酒を呑もうなんて、えらい奴もあったものだ。
 こうして、遺伝性で夜目の利く大竜院泰雲。奇跡的に夜目の利く小机源八郎。練習の功で夜目の利く五郎助七三郎。この三人は社後やしろご【神社の後】の林を出て、思い思いに三方に散った。


       八

 いよいよ暗闇祭の時は来た。神宮猿渡何某さるわたりなにがしが神殿において 神勇かむいさめ【神の心をなぐさめる儀式】の大祝詞おおのりとを捧げ終ると同時に、灯火ともしびを打消し、八基の神輿みこし粛々しゅくしゅくとして【落ち着いた様子で】練り出されるのであった。
 七基は二の鳥居前より甲州街道の大路おおじ【大通り】を西に渡り、一基は随身門ずいしんもんの前より左に別れ、本町宿の方から共に番場宿のかど 札辻ふだつじ【交通の要所】の御旅所おたびしょ【仮の宮】にと向うのであった。
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 三人は三人互いに姿をくらまして、どちらに向ったか知れぬのであった。

     *       *       *

 くさくさの式【さまざまな儀式】も首尾しゅびく終って 鼕々とうとう【擬音】と打鳴らす太鼓の音を合図に、暗黒世界はたちまち光明世界【光に包まれた世界】に急変するのであった。家々の高張たかはり【祭礼時、家の前に立てられる提灯】、軒提灯のきぢょうちん軒先のきさきに吊るされた提灯】は言うもさらなり【言うまでもない】、四ヶ所の大篝火おおかがりびは天をもがすばかりにて、森の鳥類を一時【同時に】に驚かすのであった。
「又 られたっ」
「今年は 耳を切られた者が三人」
「鼻をそがれたのも五六人あるそうな」
「女は相変らずおしりだそうな」
 群集の中で、あちらこちらにかい事件を語り伝えるのであった。

     *       *       *

 社後の裏山 大欅の下に、真先まっさきに帰って来たのは怪山伏泰雲であった。はなはだ機嫌きげんが悪く、ぶつぶつ独語ひとりごとをつぶやきながら、金剛杖で立木こだちなぐりなどしていた。
 そこへ怪剣士 小机源八郎が、ぼんやりした顔で帰って来た。
「やあ お前もしけか【だめだったか】」
「どうも見付からなかった」
「しかし、矢張、やられた者があるようだな」
「我々で見回って発見されないのだから、すりの野郎には とても駄目だろう。今にしょげながら帰って来るよ」
 そう話し合っているところへ、怪巷賊かいこうぞく 五郎助七三郎が帰って来た。背中に黒髪くろかみ振乱ふりみだしたる若いの、血に染ったのを背負って来た。
「はっはっはっ 曲者くせもの【怪しい者】が見付からないので、埋合うめあわせに美人を生捕いけどって来たな。酒のしゃくでもさせようというのであろうが、それはよろしくない。帰してやれ。おや、ぐったりしているじゃあないか。気絶しているのか」
 七三郎は黙ってそこへおろした。そうして片手の平で鼻を一つこすり上げて、あごをしゃくってり身になり、
「さあどうだ。二人とも地面じびたに手をいて、お辞儀をしなせえ。拳固で一つ頭をこつんだ。もちろん酒は私がおごってやる」と馬鹿に威張り出した。
「おいおい、血迷っちゃいかん。切られたを連れて来たって何になるか。切った奴を連れて来なけりゃあ駄目だ」と源八郎が笑いながら言った。
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「ところがこのが 今夜もったんで、去年のも多分そうでしょう」
「えっ」
「お前さん達は 男ばかり目を付けて廻ったから逃がしたんで、あっしは女に目を付けたんで 奴と分った。当身あてみ【急所に打って】で気絶さして、引担ひっかついで来たんです。御覧なさい、着物に血が着いている。手にも着いてるでしょう。帯の間に血塗ちまみれの剃刀かみそり手拭てぬぐいに巻いて捻込ねじこんであります」
「うーむ」
 今度は大竜院泰雲が唸り出した。
 気絶しているを三人で介抱かいほうして、蘇生そせいさして【意識を取り戻させ】、おどしつすかしつ【厳しさと優しさを巧みに使い分け】取調べた。
 最初は泣いてばかりいて、どうしても白状しなかったが、絶対にこの事実は秘密にしてやるという条件がいて、は奇怪なる犯罪の事実を告白に及んだ。
 社家しゃけ【代々神社に仕えてきた家柄】、葛城藤馬かつらぎとうまの長女で稲代いなよというのであった。
 神楽殿【神楽を奉納するための建物】の舞姫として清浄せいじょうなる役目をつとめていたのであったが、五年前の暗闇祭の夜に、荒縄【わらで作った太い縄】で腹巻した神輿かつぎの若者十数人のために、乳房銀杏の蔭へ引きずられて行き、聴くに忍びぬ悪口雑言あっこうぞうごん【さんざんにののしる】に、侮辱ぶじょくの極みを浴びせられたのであった。
 余りの無念 口惜くちおしさ。それに因果な身をもはじ【恥じ】入りて、多摩川に身を投げて死のうとしたことが八たびに及んだ。それを発狂はっきょう【気が狂う】と見られて、土蔵の中を座敷牢にして、三年ばかり入れられていた。この裏面【背後はいご】には継母の邪曲よこしま【悪意】もひそむのであった。
 既にさだまっていた良家への縁談は 腹違いの妹にと移された。
 稲代はかかる悲運におとしいれた種蒔の若者達を、極悪のかたきと呪わずにはいられなかった。けれどもどこの誰やら暗闇の出来事とて、もとより知れようはずがなかった。
 復讐、それは誰に向って遂げようもない。悲劇中の悲劇であった。ついには世の中を呪い出した。人間を呪い出した。別して若い男、若い女、それを無上むじょう【この上なく】に呪い出した。
 三年の座敷牢。
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土蔵の中の暗さに馴れて、夜目が恐しく利くようになったのを幸、去年の暗闇祭に紛れて、男の鼻をそぎ、女の臀を切ったのであった。
 そのために非常な快感を覚えたのであった。今年もまた それをくわだてたのであった。これでは矢張 狂人きちがいなのであった。家人が座敷牢から自由にしたのが間違っているのであった。
 不思議な事実を聴いて三人とも、娘 稲代に同情して、好いか悪いか分らなかった。
「これではなるほど、犯人が分らなかったわけだ」と源八郎は言った。
「それを見付けたのは五郎助七三郎だ。や、いくら夜目が利くからって、お前さん達は本統【本当】の目先が利かねえのだから駄目の皮だ。そこへ行くと矢張 江戸っ子でなくっちゃあ通用しねえ。この犯人を女とにらんだところが 全く気の利いているところなんだ」と無闇むやみ七三郎 威張いばり出した。
「なんだ。貴様、すりくせに、生意気な事を言うなっ」と泰雲かっとなった【怒って真っ赤になった】。
「いや約束だ。酒は私がおごる。これも約束だ。見付けた者が威張れるだけ威張って、後の二人が地面に手をいてお辞儀ときまって【決まって】るんだ。そこで私は、相談だ。山伏の奴は俺の友達のかたきなんだから、拳骨で頭をこつんというのを、小机さんの分と一緒にして、二つ殴らせて貰いてえね。それは逆ずり金蔵と、節穴長四郎との二人の敵討に当ててえので。それさえ済んだら後は笑って、機嫌よく飲んで別れようではありませんか」
「小机の代理に俺が一つ余計にたれるなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことはないが。まあ好い。どの道殴られるんだ。一つも二つも同じだ。ただし、俺の頭は石よりも固いから、打つ方が痛いぞ」
「なんだって好い。
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打ちせえすりゃあ、講釈こうしゃく【歴史物語の語り】で聴いて知っているしん予譲よじょう【主君の仇を討とうとした、有名な中国の忠臣】の故事ふるごと【昔の話】とやらだ。敵討の筋が通るというもんさ」
 大正の現代人には馬鹿馬鹿しく思われる事も、この時代には大概たいがいの場合にも茶番気が付いて廻っていて【嘘っぽさが付きまとい】、それをしかも滑稽こっけいにせず、真面目に遣って退けるのであった。
 泰雲頭巾ずきんを取って、頭を出すと、七三郎、拳骨の先につばを付けて力一杯、こつん! こつん!
「これで胸がさっぱりした」
 この変な敵討をよそに、小机源八郎しきりに考え込んでいたが、やがて決心したてい【様子】で、
「や、拙者は この稲代殿を 嫁に貰い受けたい」と言い出した。
 これには泰雲七三郎もびっくりした。余りにそれは突然に過ぎた【突然すぎた】からであった。源八郎は単に稲代の境遇に同情したばかりではないのであった。泰雲の夜目の利くのが代々であるというのから考えて 夜目の利く男と、同じく夜目の利く女との相婚そうこん【かけ合わせ】の結果、その子に より以上 夜目を利かして見たいという、そうした腹【思惑おもわく】から出たのであった。




底本:「怪奇・伝奇時代小説選集8 百物語 他11編」春陽文庫、春陽堂書店
   2000(平成12)年5月20日第1刷発行
底本の親本:「現代大衆文学全集 江見水蔭集」平凡社
   1928(昭和3)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:岡山勝美
校正:門田裕志
2006年9月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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大変ありがとうございました。感謝致します。(シン文庫追記)
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