上
例は威勢よき黒ぬり車の、それ門に音が止まった 娘ではないかと
両親に出迎われつる物を【出迎えられたのに】、
今宵は辻【道の角】より
飛のりの車【人力車】さえ帰して
悄然と格子戸の外に立てば、
家内には
父親が相かわらずの高声【大きな声で】、いわば
私も福人【幸福な人】の一人、いずれも
柔順しい子供を持って育てるに 手は
懸らず人には
褒められる、分外【身分不相応】の欲さえ
渇かねば
此上に望みもなし、やれやれ有難い事と物がたられる【語られる】、あの相手は定めし【きっと】
母様、ああ何も御存じなしに
彼のように喜んで お
出遊ばす物を【おいでになるけれど】、何の顔さげて離縁状もらって下されと 言われた物か【言えるだろうか】、叱かられるは必定、
太郎という子もある身にて 置いて駆け出して来るまでには
種々思案もし尽しての後なれど、今更にお
老人を驚かして
是れまでの喜びを水の泡にさせまする事つらや、
寧そ話さずに戻ろうか、戻れば
太郎の母と言われて
何時いつまでも
原田の奥様、御両親に
奏任の
聟がある身と自慢させ、
私さえ身を
節倹れば 時たまはお口に合う者 お小
遣いも
差あげられるに、思うままを通して離縁とならは
太郎には
継母の
憂き目を見せ、御両親には今までの自慢の鼻 にわかに低くさせまして、人の思わく、弟の行末、ああ
此身一つの心から 出世の
真も止めずはならず【本当の気持ちでも抑えなければ ならない】、戻ろうか、戻ろうか、あの鬼のような我
良人のもとに戻ろうか、
彼の鬼の、鬼の
良人のもとへ、ええ嫌や嫌やと身をふるわす途端、よろよろとして思はず格子に がたりと音さすれば、誰れだと大きく
父親の声、道ゆく悪太郎の
悪戯と まがえてなるべし【間違えてしまうだろう】。
1/17
外なるは【外にいる者は】おほほと
笑うて、お
父様
私で御座んすと いかにも可愛き声、や、誰れだ、誰れであったと障子を引明けて、ほう
お関か、何だな
其様な処に立って
居て、
何うして又
此おそくに出かけて来た、車もなし、女中も連れずか、やれやれ ま早く中へ入れ、さあ入れ、
何うも不意に驚かされたようで まごまごするわな、格子は閉めずとも
宜い、
私しが閉める、
兎も角も奥が
好い、ずつとお月様のさす方へ、さ、布団へ乗れ、布団へ、
何うも畳が汚ないので 大屋に言っては置いたが 職人の都合があると言うてな、遠慮も何も入らない 着物がたまらぬ【耐えられぬ】から
夫れを敷いて
呉れ、やれやれ
何うして
此遅くに出て来た お
宅では皆お変りもなしかと
例に
替らず【相変わらず】もてはやさる【大事にされる】れば、針の
席にのる様にて 奥さま扱かい情なく【つらく】じっと
涕を
呑込んで、はい誰れも時候の
障り【病気・体調不良】も御座りませぬ、
私は申訳のない御無沙汰して
居りましたが
貴君もお
母様も御機嫌よく いらっしゃりますかと問えば、いや
最う
私は
嚏一つせぬ位、お袋は時たま 例の血の道【女性特有の体調不良】と言う奴を始めるがの、
夫れも布団かぶって半日も
居れば
けろけろとする病だから 子細はなしさ【たいしたことない】と元気よく
呵々と笑うに、
亥之さんが見えませぬが 今晩は
何処へか参りましたか、
彼の子も
替らず【相変わらず】勉強で御座んすかと問えば、
母親はほたほたとして【にこにこしつつ】茶を進めながら、
亥之は今しがた夜学に出て
行ました、あれもお前 お蔭さまで
此間は昇給させて頂いたし、課長様が可愛がって下さるので
何れ
位【どれほど】
心丈夫であろう、
是れと言うも
矢張 原田さんの
縁引が有るからだとて 宅では毎日いい【言いながら】 暮して
居ます、お前に
如才は有るまいけれど
此後とも
原田さんの御機嫌の
好いように、
亥之は
彼の通り口の重い
質だし
何れお目に
懸っても
あっけない御挨拶よりほか出来まいと思われるから、何分ともお前が中に立って
私どもの心が通じるよう、
亥之が行末をも お頼み申て置てお
呉れ、ほんに
替り目で陽気が悪いけれど
太郎さんは
何時も
悪戯をして
居ますか、何故に今夜は連れてお
出でない、お祖
父さんも恋しがってお
出なされた物をと言われて、又今更にうら悲しく、連れて来ようと言いましたけれど
彼の子は
宵まどいで
最う
疾うに寝ましたから
其まま置いて参りました、本当に悪戯ばかり つのりまして【激しくなりまして】 聞わけとては少しもなく、外へ出れば跡を追いまする【追いかけてきます】し、
家内に
居れば
私の
傍ばっかり
覘うて【そばを離れず】、ほんにほんに手が
懸って
成ませぬ、何故
彼様で御座りましょうと言いかけて 言い出しの涙 むねの中に
漲るように、言い切って 置いては来たれど 今頃は目を覚して母さん母さんと
婢女【下女】どもを迷惑がらせ、
煎餅【せんべい】やおこしの
哆し【ご機嫌取り】も
利かで、皆々手を引いて鬼に喰はすと
威かしてでも
居よう、ああ可愛そうな事をと 声たてても泣きたきを、さしも
両親の機嫌よげなるに言い
出しかねて、
烟に まぎらす
烟草二三服、
空咳こんこんとして 涙を
襦袢の
袖にかくしぬ【かくしてしまった】。
2/17
今宵は旧暦の
十三夜、
旧弊なれどお月見の真似事に
団子【いし(美):
女房詞で団子をいう】をこしらえてお月様にお備え申せし、これはお前も好物なれば 少々なりとも
亥之助に持たせて
上ようと思うたけれど、
亥之助も何か
極りを悪がって
其様な物はお
止なされと言うし、十五夜にあげなんだから
片月見に成っても悪るし、食べさせたいと言いながら思うばかりで
上る事が出来なんだに、今夜来て
呉れるとは夢の様な、ほんに心が届いたのであろう、
自宅で甘い物はいくらも食べようけれど 親のこしらいたは 又 別物、奥様気を
取すてて 今夜は昔しの
お関になって、
外見を構はず豆なり栗なり 気に入ったを食べて見せてお
呉れ、いつでも
父様と
噂すること、出世は出世に相違なく、人の見る目も立派なほど、お
位の
宜い方々や 御身分のある奥様がたとの
御交際もして、
兎も角も
原田の妻と
名告て通るには 気骨の折れる事もあろう、
女子どもの使いよう 出入りの者の行渡り【気配りや対応】、人の上に立つものは
夫れ
丈に苦労が多く、里方が
此様な身柄では
猶更のこと 人に
侮られぬようの心
懸けも しなければ成るまじ、
夫れを
種々に思うて見ると
父さんだとて
私だとて 孫なり子なりの顔の見たいは
当然なれど、余りうるさく出入りをしてはと控えられて、ほんに御門の前を通る事はありとも 木綿着物に
毛繻子の
洋傘さした【庶民らしい質素な身なり】時には 見すみすお二階の
簾を見ながら、
吁お関は何をして
居る事かと言いやるばかり 行過ぎて
仕舞まする、実家でも少し何とか成って
居たならば お前の肩身も広かろうし、同じくでも 少しは息のつけよう物を、何を言うにも
此通り、お月見の団子をあげようにも
重箱からしてお恥かしいでは無かろうか、ほんにお前の心
遣いが思われると 嬉しき中にも思うままの通路【自由に会いに行くこと】が
叶わねば、
愚痴の
一トつかみ【ひと握り】
賤しき身分を
情なげに言われて【思いやりなく言われて】、本当に
私は親不孝だと言いまする【そんな
私は親不孝な人間だと思います】、それは成程
和らかい
衣服きて 手車【人力車】に乗りあるく時は 立派らしくも見えましょうけれど、
父さんや
母さんに
斯うして
上ようと思う事も出来ず、いわば自分の皮一重【それは自分と同じ境遇】、
寧そ賃仕事しても お
傍で暮した方が余っぽど
快よう御座います と言い出すに、馬鹿、馬鹿、
其様な事を仮にも言うてはならぬ、嫁に行った身が
実家の親の
貢をする【お金を稼いで親を助ける】などと 言いも寄らぬこと【とても考えられないこと】、家に
居る時は
斎藤の娘、嫁入っては
原田の奥方ではないか、
勇さんの気に入る様にして 家の内を納めてさえ行けば 何の子細【問題】は無い、骨が折れるからとて
夫れ
丈の運のある身ならば
堪えられぬ事は無い筈、女などど言う者は
何うも
愚痴で、お袋などが詰らぬ事を言い出すから困り切る、いや
何うも団子を食べさせる事が出来ぬとて 一日 大立腹であった、大分熱心で
調製たものと見えるから 十分に食べて安心させて
遣って
呉れ、余程
甘かろうぞと
父親の
滑稽を入れるに、再び言いそびれて御馳走の栗枝豆 ありがたく頂戴をなしぬ【してしまった】。
3/17
嫁入りてより七年の間、いまだに夜に入りて 客に来しこともなく【実家に夜に訪ねてきたことは一度もなく】、土産もなしに一人
歩行して来るなど
悉皆【まったく】ためしのなき事【前例のないこと】なるに、言いなしか【そういえば】衣類も
例ほど
燦かならず、稀に逢いたる嬉しさに 左のみ【そんなに】は 心も
付かざりし【気にも とめなかったのだ】が、
聟よりの
言伝とて何一言の口上もなく、無理に笑顔は作りながら 底に
萎れし処【心の奥で気落ちしている様子】のあるは 何か子細【理由】のなくては 叶わず【そうなるはずがない】、
父親は机の上の置時計を眺めて、こりゃモウ程なく十時になるが
関は泊って行って
宜いのかの、帰るならば
最う帰らねば成るまいぞと 気を引いて見る親の顔、娘は今更のように見上げて 御
父様
私は御願いがあって出たので御座ります、
何うぞ 御
聞遊ばしてと
屹となって【急に決心して】畳に手を突く時、はじめて
一トしづく【涙一粒】
幾層の
憂きを
洩らしそめぬ【積もり重なった悲しみを語り出し始めた】。
父は穏かならぬ色を動かして、改まって何かのと膝を進めれば、
私は
今宵限り
原田へ帰らぬ決心で 出て参ったので御座ります、
勇が許しで参ったのではなく、
彼の子を寝かして、
太郎を寝かしつけて、
最早あの顔を見ぬ決心で出て参りました、まだ
私の手より外 誰れの守りでも
承諾せぬほどの
彼の子を、
欺して寝かして夢の中に、
私は鬼に成って出て参りました、御
父様、御
母様、察して下さりませ
私は今日まで遂いに
原田の身に就いて【
原田家での自分の境遇について】御耳に入れました事もなく、
勇と
私との中を人に言うた事は御座りませぬけれど、
千度も
百度も考え直して、二年も三年も泣尽して 今日という今日 どうでも離縁を貰うて頂こうと 決心の
臍をかためました【覚悟を決めました】、
何うぞ御願いで御座ります 離縁の状を取って下され、
私はこれから内職なり何なりして
亥之助が片腕にも なられるよう心がけますほどに、一生一人で置いて下さりませと わっと声たてるを噛しめる
襦袢の
袖、墨絵の竹も 紫竹の色にや出ると 哀れなり【墨で描いた竹まで紫竹の色のように見えるほど、しみじみとしている】。
4/17
夫れは
何ういう子細【理由】で と
父も
母も詰寄って
問かかるに 今までは黙って
居ましたれど
私の家の
夫婦さし向いを 半日見て下さったら 大底御解りに
成ましょう、物言うは用事のある時
慳貪【無愛想】に
申つけられるばかり、朝
起まして機嫌をきけば
不図 脇を向いて庭の草花を
態とらしき
褒め
詞、
是にも腹はたてども
良人の遊ばす事なればと 我慢して
私は何も言葉あらそいした事も 御座んせぬけれど、
朝飯あがる時から小言は絶えず、
召使の前にて 散々と
私が身の不器用不作法を御並べなされ、
夫れはまだまだ辛棒もしましょうけれど、二言目には教育のない身、教育のない身と
御蔑みなさる、それは素より
華族女学校の椅子にかかって育った物ではないに相違なく、御同僚の奥様がたの様に お花のお茶の、歌の画のと 習い立てた事もなければ
其御話しの御相手は出来ませぬけれど、出来ずは人知れず習わせて下さっても済むべき筈、何も表向き実家の
悪るいを
風聴【言いふらし】なされて、召使いの
婢女どもに顔の見られるような事【体面を失うこと】 なさらずとも
宜かりそうなもの、嫁入って丁度半年ばかりの間は
関や関やと下へも置かぬようにして【とても大切にして】下さったけれど、あの子が出来てからと言う物は 丸で
御人が変りまして、言い出しても恐ろしゅう御座ります、
私は くら闇の谷へ突落されたように 暖かい日の影【暖かく穏やかな日の光】というを見た事が御座りませぬ、はじめの
中は 何か
串談【冗談】に
態とらしく
邪慳に遊ばすのと 思うて
居りましたけれど、全くは
私に御飽きなされたので
此様もしたら出てゆくか、
彼様もしたら離縁をと言い出すかと
苦めて苦めて 苦め抜くので御座りましょ、
5/17
御
父様も御
母様も
私の性分は御存じ、よしや
良人が芸者狂いなさろうとも、囲い者して【愛人を作って】御置きなさろうとも
其様な事に
悋気する【やきもちをやく】
私でもなく、
侍婢どもから
其様な噂も聞えまするけれど 彼れほど働きのある御方なり、男の身のそれ位はありうちと
他処行には
衣類にも気をつけて 気に逆らはぬよう心がけて
居りまするに、
唯もう
私の
為る事とては 一から十まで面白くなく
覚しめし、箸の上げ
下しに 家の内の楽しくないは 妻が仕方が悪いからだと仰っしゃる、
夫れも
何ういう事が悪い、
此処が面白くない と言い聞かして下さる様ならば
宜けれど、一筋に
詰らぬ くだらぬ、解らぬ奴、とても相談の相手には ならぬの、いわば
太郎の乳
母として置いて
遣わすのと
嘲って仰しゃる
斗、ほんに
良人というではなく
彼の御方は鬼で御座りまする、御自分の口から出てゆけとは 仰しゃりませぬけれど
私が
此様な意久地なしで
太郎の可愛さに気が引かれ、
何うでも
御詞に
異背せず【逆らわず】
唯々と 御小言を聞いて
居りますれば、
張も
意気地もない
愚うたらの奴、それからして気に入らぬと仰しゃりまする、
左うかと言って 少しなりとも
私の
言条を立てて 負けぬ気に御返事をしましたら
夫を
取こに【それを持って】出てゆけと言われるは必定、
私は御
母様 出て来るのは何でも御座んせぬ、名のみ立派の原田
勇に離縁されたからとて 夢さら残りおしいとは言いませぬけれど、何にも知らぬ
彼の
太郎が、片親に成るかと言いますると 意地もなく我慢もなく、
詫て機嫌を取って、何でも無い事に恐れ入って、今日までも物言わず辛棒して
居りました、御
父様、御
母様、
私は不運で御座りますとて
口惜しさ悲しさ打出し、言いも寄らぬ事【思いもよらないこと】を
談れば 両親は顔を見合せて、さては
其様の
憂き中【つらい状況】かと呆れて
暫時いう
言もなし。
6/17
母様は子に甘きならい、聞く
毎々に身にしみて
口惜しく、
父様は何と思し召すか知らぬが
元来此方から貰うて下されと 願うて
遣った子ではなし、身分が悪いの 学校が
何うしたのと
宜くも
宜くも 勝手な事が言われた物、
先方は忘れたかも知らぬが
此方はたしかに日まで覚えて
居る、
阿関が十七の御正月、まだ門松を取もせぬ七日の朝の事であった、
旧の
猿楽町の
彼の家の前で、御隣の
小娘と
追羽根して、
彼の
娘の突いた白い羽根が 通り掛った
原田さんの車の中へ
落たとって、
夫れを
阿関が貰いに行きしに
其時はじめて見たとか言って 人橋かけて【人を仲立ちにして】やいやいと貰いたがる、御身分がらにも釣合いませぬし、
此方はまだ根っからの子供で 何も稽古事も仕込んでは
置ませず、支度とても
唯今の有様で御座いますからとて 幾度断ったか知れはせぬけれど、何も
舅姑のやかましいが有るでは無し、
我が欲しくて 我が貰うに 身分も何も言う事はない、稽古は引取ってからでも 充分させられるから
其心配も要らぬ事、
兎角くれさえすれば大事にして置こうからと
夫は
夫は火のつく様に催促して、
此方から
強請た訳ではなけれど 支度まで
先方で
調えて
謂わば 御前は恋女房、
私や
父様が遠慮して 左のみ【そんなに】は出入りをせぬというも
勇さんの身分を恐れてでは無い、これが
妾手かけ【愛人】に出したのではなし
正当にも正当にも 百まんだら頼みによこして貰って行った嫁の親、大威張に出入しても
差つかえは無けれど、
彼方が立派にやって
居るに、
此方が
此通りつまらぬ
活計をして
居れば、お前の縁にすがって
聟の
助力を受けもするかと 他人様の
処思が
口惜しく、痩せ我慢では無けれど 交際だけは御身分相応に尽して、平常は逢いたい娘の顔も見ずに
居まする、
夫れをば 何の馬鹿々々しい親なし子でも拾って行ったように 大層らしい【たいそう偉そうに】、物が出来るの出来ぬのと
宜く
其様な口が利けた物、黙って
居ては際限もなく
募って
夫れは
夫れは癖に成って仕舞います、第一は
婢女どもの手前 奥様の威光が
削げて、末には御前の言う事を聞く者もなく、
太郎を
仕立る【育てる】にも
母様を馬鹿にする気になられたら 何としまする、言うだけの事は
屹度言うて、それが悪るいと小言をいうたら 何の
私にも家が有ますとて 出て来るが
宜かろうでは無いか、
実に馬鹿々々しいとっては
夫れほどの事を 今日が日まで黙って
居るという事が有ります物か、余り御前が温順し
過るから 我ままが つのられたのであろ、聞いた
計でも腹が立つ、もうもう
退けて
居るには及びません、身分が何であろうが
父もある
母もある、年はゆかねど
亥之助という弟もあれば その様な火の中にじっとして
居るには及ばぬこと、なあ
父様 一遍
勇さんに逢うて 十分油を取ったら【厳しく言ったら】
宜う御座りましょと
母は
猛って前後もかえり見ず【後先も考えずに】。
7/17
父親は
先刻より腕ぐみして目を閉じて
有けるが、ああ
御袋、無茶の事を言うてはならぬ、
我しさえ【私でさえも】初めて聞いて
何うした物かと思案にくれる、
阿関の事なれば 並大底で
此様な事を言い出しそうにもなく、よくよく
愁らさに出て来たと見えるが、して今夜は
聟どのは
不在か、何か改たまっての事件でもあってか、いよいよ離縁するとでも言われて来たのかと 落ついて問うに、
良人は一昨日より家へとては帰られませぬ、五日六日と家を明けるは
平常の事、左のみ【そんなに】珍らしいとは言いませぬけれど 出際に召物の
揃えかたが悪いとて
如何ほど
詫びても聞入れがなく、
其品をば脱いで
擲きつけて、御自身洋服にめしかえて、
吁、
私位不仕合の人間はあるまい、御前のような妻を持ったのはと 言い捨てに 出て御出で遊ばしました、何という事で御座りましょう 一年三百六十五日 物いう事も無く、
稀々言われるは
此様な情ない
詞をかけられて、
夫れでも
原田の妻と言われたいか、
太郎の
母で
候と 顔おし
拭って【涙などをぬぐって】
居る心か、我身ながら我身の辛棒がわかりませぬ、もうもうもう
私は
良人も子も御座んせぬ 嫁入せぬ昔しと思えば
夫れまで、あの
頑是【分別】ない
太郎の寝顔を眺めながら 置いて来るほどの心になりましたからは、
最う
何うでも
勇の
傍に
居る事は出来ませぬ、親はなくとも子は育つと言いまするし、
私の様な不運の母の手で育つより
継母御なり 御手かけ【愛人】なり 気に
適うた人に育てて貰うたら、少しは
父御も可愛がって
後々あの子の為にも成ましょう、
私はもう
今宵かぎり
何うしても帰る事は致しませぬとて、
断っても断てぬ子の
可憐さに、奇麗に言えども
詞はふるえぬ【声が震える】。
8/17
父は
嘆息して、無理は無い、
居愁らくもあろう、困った
中に成ったものよと
暫時阿関の顔を眺めしが、
大丸髷に 金輪の根を巻きて【
金の輪の飾りを根元に巻いて】
黒縮緬の
羽織 何の惜しげもなく、我が娘ながらいつしか
調う奥様風、これをば結び髪に結いかえさせて【普通の結び髪に結い直させて】 綿銘仙【普段着の布】の
半天に
襷がけの水仕業【家事・下働き】さする事 いかにして忍ばるべき【どうして我慢できようか】、
太郎という子もあるものなり、一端【一時】の怒りに百年の運を取わずして【失ってしまって】、人には笑われものとなり、身は いにしえ【以前】の
斎藤主計が娘に戻らば、泣くとも笑うとも 再度
原田太郎が
母とは呼ばるる事 成るべきにもあらず【そうなることもできない】、
良人に未練は残さずとも 我が子の愛の
断ちがたくば 離れていよいよ【かえって】物をも思うべく【思い悩むことになるだろう】、今の苦労を恋しがる心も出ずべし【出てくるだろう】、
斯く形よく生れたる身の
不幸、不相応の縁につながれて 幾らの苦労をさする事と 哀れさの
増れども、いや
阿関 こう言うと
父が無慈悲で
汲取って
呉れぬの と思うか知らぬが 決して御前を叱るではない、身分が釣合わねば思う事も自然違うて、
此方は真から尽す気でも 取りように寄っては 面白くなく見える事もあろう、
勇さんだからとて
彼の通り 物の道理を心得た、利発の人ではあり 随分学者でもある、無茶苦茶にいじめ立る訳ではあるまいが、得て世間に
褒め物の
敏腕家などと言われるは 極めて恐ろしい我まま物、外では知らぬ顔に切って回せど 勤め向きの不平などまで家内へ帰って当りちらされる、的に成っては随分つらい事もあろう、なれども
彼れほどの
良人を持つ身のつとめ、区役所がよい【役所勤め】の腰弁当【下級役人】が 釜の下を焚きつけて
呉る【家の台所仕事をしてくれる】のと は格が違う、
随って やかましくもあろう
六ずかしくもあろう
夫を機嫌の
好い様に ととのえて行くが妻の役、
表面には見えねど 世間の奥様という人達の
何れも 面白く おかしき
中ばかりは有るまじ【いつも楽しく面白い関係ばかりで あるはずがない】、
9/17
身一つ【自分一人】と思えば恨みも出る、何の
是れが世の勤め【世の
倣え】なり、
殊には
是れほど 身がらの相違もある事なれば 人一倍の苦もある道理、お袋などが口広い【口が軽い】事は言えど
亥之が昨今の月給に有ついたも
必竟【結局】は
原田さんの口入れではなかろうか、
七光どころか
十光もして
間接ながらの恩を着ぬ【恩を受けない】とは言われぬに【言えないのは】
愁らかろう【つらいだろう】とも 一つは親の為 弟の為、
太郎という子もあるものを 今日までの辛棒がなるほどならば、
是れから後とて出来ぬ事はあるまじ、離縁を取って出たが
宜いか、
太郎は
原田のもの、
其方は
斎藤の娘、一度縁が切れては二度と顔見にゆく事もなるまじ、同じく不運に泣くほどならば
原田の妻で大泣きに泣け、なあ
関 そうでは無いか、合点がいったら 何事も胸に納めて 知らぬ顔に今夜は帰って、今まで通りつつしんで世を送って
呉れ、お前が口に出さんとても 親も察しる
弟も察しる、涙は
各自に分て泣こうぞと 因果を含めてこれも目を
拭うに、
阿関はわっと泣いて
夫れでは離縁をというたも我ままで御座りました、成程
太郎に別れて顔も見られぬ様にならば
此世に
居たとて甲斐もないものを、
唯目の前の苦をのがれたとて
何うなる物で御座んしょう、ほんに
私さえ死んだ気にならば 三方四方波風たたず、
兎もあれ
彼の子も両親の手で育てられまするに、つまらぬ事を言い
寄まして、
貴君にまで嫌やな事をお聞かせ申しました、
今宵限り
関は なくなって 魂一つが
彼の子の身を守るのと言いますれば
良人のつらく当る位 百年も辛棒出来そうな事、よく御言葉も合点が行きました、もう
此様な事は御聞かせ申しませぬほどに 心配をして下さりますなとて
拭うあとから又涙、
母親は声たてて何という
此娘は不仕合と 又一しきり大泣きの雨、くもらぬ月【雲に隠れていない月】も 折から淋しくて【さびしく感じられて】、うしろの土手の
自然生を 弟の
亥之が
折て来て、瓶にさしたる
薄の穂の 招く手振りも哀れなる夜なり。
10/17
実家は上野の
新坂下、駿河台への路なれば 茂れる森の木の
下暗佗しけれど、
今宵は月もさやかなり【澄んで明るい】、広小路へ出ずれば昼も同様、雇いつけの
車宿【いつも使っている人力車】とて無き家なれば 路ゆく車を窓から呼んで、合点が行ったら
兎も角も帰れ、
主人の留守に
断なしの外出、これを
咎められるとも 申訳の
詞は有るまじ、少し時刻は遅れたれど車ならばつい
一ト飛、話しは重ねて聞きに行こう、
先ず 今夜は帰って
呉れとて 手を取って引出すようなるも 事あら立てじの親の慈悲、
阿関はこれまでの身と覚悟して お
父様、お
母様、今夜の事はこれ限り、帰りまするからは
私は
原田の妻なり、
良人を
誹るは済みませぬ【許されない】ほどに
最う何も言いませぬ、
関は立派な
良人を持ったので 弟の為にも
好い片腕、ああ安心なと喜んで
居て下されば
私は何も思う事は御座んせぬ、決して決して
不了簡【不届き】など出すような事はしませぬほどに
夫れも案じて下さりますな、
私の身体は今夜をはじめに
勇のものだと言いまして、
彼の人の思うままに 何となりして貰いましょ、
夫では
最う
私は戻ります、
亥之さんが帰ったらば
宜しくいうて置いて下され、お
父様もお
母様も御機嫌よう、
此次には 笑うて参りまするとて 是非なさそうに【あきらめたように】立あがれば、
母親は無けなしの
巾着さげて出て 駿河台まで
何程でゆくと 門なる車夫に声をかけるを、あ、お
母様それは
私がやりまする、有がとう御座んしたと
温順しく挨拶して、格子戸くぐれば顔に
袖、涙をかくして乗り移る哀れさ、家には
父が咳払いの
是れもうるめる声成し【涙ぐんだ感じの声である】。
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下
さやけき【澄んだ感じの】月に 風のおと添いて【風の音が添えられて】、虫の音たえだえに 物がなしき上野へ入りてより まだ一町【約109m】も ようよう【やっと】と思うに【思っていると】、いかにしたるか【どうしたのか】 車夫はぴったりと
轅を止めて、誠に申かねましたが私はこれで御免を願います、代は入りませぬから お下りなすってと
突然にいわれて、言いもかけぬ事なれば【何も言って
居ないのに突然のことで】
阿関は胸をどつきりとさせて、あれ お前そんな事を言っては 困るではないか、少し急ぎの事でもあり 増し【割り増し】は上げようほどに 骨を折ってお
呉れ、こんな淋しい処では 代りの車も有るまいではないか、それはお前 人困らせという物、
愚図らずに行ってお
呉れと 少しふるえて頼むように言えば、増しが欲しいと言うのでは有ませぬ、私からお願いです
何うぞお下りなすって、
最う引くのが嫌やに成ったので御座りますと言うに、
夫ではお前 加減でも悪るいか、まあ
何うしたという訳、
此処まで
挽いて来て 嫌やに成ったでは済むまいがねと 声に力を入れて車夫を叱れば、御免なさいまし、もう
何うでも嫌やに成ったのですからとて
提灯を
持しまま
不図 脇へのかれて、お前は我ままの
車夫さんだね、
夫ならば
約定の処までとは言いませぬ、代りのある処まで行って
呉れれば
夫でよし、代はやるほどに
何処か
开辺らまで、切めて広小路までは行ってお
呉れと 優しい声に すかす様にいえば、成るほど若いお方ではあり
此淋しい処へおろされては 定めし【きっと】お困りなさりましょう、これは私が悪う御座りました、ではお乗せ
申ましょう、お供を致しましょう、
嘸 お驚きなさりましたろうとて
悪者らしくもなく
提灯を
持かゆるに【持ちながらに】、
お関もはじめて胸をなで、心丈夫に【気丈に】車夫の顔を見れば 二十五六の色黒く、小男の痩せぎす【やせて骨ばっている】、あ、月に背けたあの顔が 誰れやらで有った、誰れやらに似て
居ると 人の名も
咽元まで転がりながら、もしやお前さんはと 我知らず声をかけるに、え、と驚いて
振あうぐ【慌てふためく】男、あれお前さんは
彼のお方では無いか、
私を よもやお忘れは なさるまいと 車より
濘るように下りて つくづくと
打まもれば【じっと見つめると】、
貴嬢は
斎藤の
阿関さん、面目も無い
此様な
姿で、
背後に目が無ければ 何の気もつかずに
居ました、
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夫れでも
音声にも心づく【気付く】べき筈なるに、私は余程の鈍に成りましたと 下を向いて身を恥れば、
阿関は
頭の先より爪先まで眺めて いえいえ
私だとて 往来で行逢うた位では よもや
貴君と気は付きますまい、
唯 た今【たった今】の先まで 知らぬ他人の車夫さんとのみ思うて
居ましたに 御存じないは
当然、勿体ない事であったれど 知らぬ事なればゆるして下され、まあ
何時から
此様な
業して、よく
其か弱い身に
障りもしませぬか、
伯母さんが田舎へ引取られてお
出なされて、
小川町のお店をお
廃めなされたという噂は
他処ながら聞いても
居ましたれど、
私も昔しの身でなければ
種々と
障る事があってな、お尋ね申すは更なること 手紙あげる事も
成ませんかった、今は
何処に家を持って、お内儀さんも
御健勝か、
小児のも出来てか、今も
私は折うし【折よく】小川町の勧工場【工場+展示場のような施設】
見物に行まする度々、旧のお店がそっくり
其まま 同じ
烟草店の
能登やというに成って
居まするを、
何時通っても
覗かれて、ああ
高坂の
録さんが子供であったころ、学校の
行返りに寄っては巻
烟草のこぼれを貰うて、生意気らしゅう吸立てた物なれど 今は
何処に何をして、気の優しい方なれば
此様な
六ずかしい世に 何のようの世渡りをしてお
出なろうか、
夫れも心にかかりまして、実家へ行く度に御様子を、もし知っても
居るかと聞いては見まするけれど、
猿楽町を離れたのは今で五年の前、根っからお便りを聞く縁がなく、
何んなにお
懐しゅう御座んしたろうと 我身のほどをも忘れて問いかくれば、男は流れる汗を手拭にぬぐうて、お恥かしい身に落まして 今は家と言う物も御座りませぬ、寝処は浅草町の安宿、村田というが二階に転がって、気に向いた時は 今夜のように遅くまで
挽く事もありまするし、嫌やと思えば日がな一日ごろごろとして
烟のように暮して
居まする、
貴嬢は相変らずの美くしさ、奥様にお成りなされたと聞いた時から
夫でも一度は拝む事が出来るか、一生の内に又 お言葉を交わす事が出来るかと 夢のように願うて
居ました、今日までは
入用のない命 捨て物に取あつこうて
居ましたけれど 命があればこその御対面、ああ
宜く私を高坂の
録之助と覚えて
居て下さりました、
辱のう御座ります と下を向くに、
阿関はさめざめとして 誰れも
憂き世に一人と思うて下さるな【自分を孤独だと思わないでほしい】。
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してお内儀さんはと
阿関の問えば、御存じで御座りましょ 筋向うの
杉田やが娘、色が白いとか格好が
何うだとか言うて 世間の人は
暗雲に
褒めたてた
女で御座ります、私が
如何にも
放蕩【酒や女におぼれること】をつくして 家へとては寄りつかぬように成ったを、貰うべき頃に貰はぬからだと 親類の中の解らずやが勘違いして、
彼れならばと母親が眼鏡にかけ、是非もらえ、やれ貰えと無茶苦茶に進めたてる
五月蠅さ、
何うなりと成れ、成れ、勝手に成れとて
彼れを家へ迎えたは 丁度
貴嬢が御懐妊だと聞ました時分の事、一年目には私が処にもお目出とうを他人からは言われて、
犬張子や風車を並べたてる様に成りましたれど、何のそんな事で私が
放蕩のやむ事か、人は顔の
好い女房を持たせたら足が止まるか、子が生れたら気が改まるかとも思うて
居たのであろうなれど、たとえ小町【小野小町】と
西施【中国古代の四大美女の一人】と手を引いて来て、
衣通姫【日本神話・伝説に登場する絶世の美女】が舞を舞って見せて
呉れても 私の
放蕩は直らぬ事に極めて置いた【決めてしまっていた】を、何で乳くさい子供の顔見て発心が出来ましょう、遊んで遊んで遊び抜いて、呑んで呑んで呑み尽して、家も稼業もそっち除けに 箸一本もたぬように成ったは
一昨々年、お袋は田舎へ嫁入った姉の処に引取って貰いまするし、女房は子をつけて
実家へ戻したまま
音信不通、女の子ではあり 惜しいとも何とも言いはしませぬけれど、
其子も昨年の暮
チフスに
懸って死んだそうに聞ました、女はませな【早くから物事が分かる】物であり、死ぬ際には定めし【きっと】父様とか何とか言うたので御座りましよう、
今年居れば五つになるので御座りました、何のつまらぬ身の上、お話しにも成りませぬ。
男はうす淋しき顔に笑みを浮べて
貴嬢という事も知りませぬので、飛んだ我ままの
不調法、さ、お乗りなされ、お供しまする、
嘸不意でお驚きなさり ましたろう、車を挽くと言うも名ばかり、何が楽しみに
轅棒をにぎって、何が望みに牛馬の真似をする、銭が貰えたら嬉しいか、酒が呑まれたら愉快なか、考えれば何も
彼も
悉皆【ことごとく】嫌やで、お客様を乗せようが
空車の時だろうが 嫌やとなると用捨なく嫌やに
成まする、
呆れはてる我まま男、愛想が尽きるでは有りませぬか、さ、お乗りなされ、お供をしますと進められて、あれ【それらを】知らぬ
中は仕方もなし、知って
其車に乗れます物か、
夫れでも
此様な淋しい処を一人ゆくは 心細いほどに、広小路へ出るまで
唯道づれに成って下され、話しながら行ましょうとて
お関は
小褄【着物の
裾】少し引あげて、ぬり下駄のおと
是れも淋しげなり。
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昔の友という中にも これは忘られぬ
由縁のある人、小川町の高坂とて小奇麗な
烟草屋の一人息子、今は
此様に色も黒く見られぬ男になっては
居れども、世にある頃の
唐桟ぞろいに
小気の利いた前だれがけ【前掛け】、お世辞も上手、愛敬もありて、年の行かぬようにも無い【年もそれなりに重ねてきている】、
父親の
居た時よりは 却って店が賑やかなと 評判された利口らしい人の、さてもさても の
替り様、我身が嫁入りの噂 聞え
初た【始めた】頃から、やけ遊びの底ぬけ騒ぎ、高坂の息子は丸で人間が変ったような、魔でもさしたか、
祟りでもあるか、よもや只事では無いと
其頃に聞きしが、
今宵見れば
如何にも浅ましい【
嘆かわしい】身の有様、
木賃泊りに
居なさんすように成ろうとは 言いも寄らぬ【思いもよらない】、
私は
此人に思われて、十二の年より十七まで明暮れ顔を合せる
毎に 行々は
彼の店の
彼処へ座って 新聞見ながら商いするのと思うても
居たれど、
量らぬ人に縁の定まり、親々の言う事なれば 何の異存を入れられよう、
烟草やの
録さんには【打ち明けよう】と思えど それはほんの子供ごごろ、
先方【相手の方】からも口へ出して言うた事はなし、
此方は
猶さら、これは
取とまらぬ【とりとめのない】夢の様な恋なるを、言い切って仕舞え、言い切って仕舞え、あきらめて仕舞うと心を定めて、今の
原田へ嫁入りの事には成ったれど、
其際までも涙がこぼれて忘れかねた人、
私が思うほどは
此人も思うて、
夫れ故の身の破滅かも知れぬ物を、我が
此様な
丸髷などに、
取済したる様な姿を いかばかり
面にくく【憎らしく】思われるであろう、夢さら【少しも】そうした楽しらしい身では なけれどもと
阿関は振かえって
録之助を見やるに、何を思うか
茫然とせし顔つき、時たま逢いし【(昔は)ときどき会っていた】
阿関に向って 左のみ【そんなに】は嬉しき様子も見えざりき。
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広小路に出れば車もあり、
阿関は紙入れより紙幣いくらか取出して
小菊の紙にしおらしく包みて、
録さんこれは誠に失礼なれど 鼻紙なりとも買って下され、久し振でお目にかかって 何か申たい事は
沢山あるようなれど 口へ出ませぬは察して下され、では
私は御別れに致します、随分【十分に】からだを嫌うて【体をいたわって】
煩らわぬ様に【病気にならないように】、
伯母さんをも早く安心させておあげなさりまし、蔭ながら
私も祈ります、
何うぞ以前の
録さんにお成りなされて、お立派にお店をお開きに成ります処を見せて下され、左様ならばと挨拶すれば
録之助は紙づつみを頂いて、お辞儀申す筈なれど【本来なら遠慮してお断りするところですが】
貴嬢のお手より下されたのなれば、あり難く頂戴して言い出に【思い出に】しまする、お別れ申すが惜しいと言っても
是れが夢ならば仕方のない事、さ、お
出なされ、私も帰ります、更けては路が淋しゅう御座りますぞとて 空車引いてうしろ向く、
其人は東へ、
此人は南へ、大路の柳月のかげに
靡いて 力なさそうの塗り下駄のおと、村田の二階も
原田の奥も
憂きは【つらいことは】お互いの世におもう事多し【この世ではお互いに多くあるものだ】。
(明治二十八年十二月「文芸倶楽部」臨時増刊 閨秀小説)
底本:「日本現代文学全集 10 樋口一葉集」講談社
1962(昭和37)年11月19日第1刷発行
1969(昭和44)年10月1日第5刷発行
初出:「文芸倶楽部 閨秀小説号」博文館
1895(明治28)年12月10日
入力:青空文庫
校正:米田進、小林繁雄
1997年10月15日公開
2014年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。
©シン文庫
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