上
実は好奇心のゆえに、しかれども
予【私】は
予が
画師【画家】たるを
利器【助ける】として、ともかくも
口実を
設けつつ、
予と兄弟も ただならざる【優れた】医学士
高峰をしいて【押し切って】、
某の日 東京府下の
一病院において、
渠が
刀を下す【執刀する】べき、
貴船伯爵夫人の手術をば
予をして見せしむる【私に見学させる】ことを余儀なくしたり【させた】。
その日 午前九時過ぐるころ家を
出でて 病院に
腕車【人力車】を飛ばしつ。
直ちに外科室の
方に
赴くとき、むこうより戸を排して【
開けて】 すらすらと出で来たれる
華族【貴族】の
小間使とも見ゆる
容目よき【美しい】
婦人二、三人と、廊下の
半ばに行き違えり。
見れば
渠らの間には、
被布【羽織物】着たる
一個【一人の】七、八歳の娘を
擁し【抱きかかえ】つ、見送るほどに見えずなれり【見えなくなった】。これのみならず 玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート【礼装】着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織
袴の
扮装の人物、その他、貴婦人
令嬢等 いずれもただならず【非常に】気高きが、あなた【向こう】に行き違い、こなた【こちら】に落ち合い、あるいは
歩し、あるいは
停し、往復 あたかも織る【布を織る】がごとし。
予は今 門前において見たる
数台の馬車に思い合わせて【照らし合わせて】、ひそかに心に【心の中で】
頷けり。
渠らの ある者は
沈痛に、ある者は
憂慮わしげ【心配そう】に、はた ある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで【穏やかではなく】、
忙しげなる小刻みの
靴の音、
草履の響き、一種
寂寞たる【ものさびしく静まっている】病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の
跫音【足音】を響かしつつ、うたた【ますます】
陰惨【悲しく重苦しい】の
趣をなせり。
予はしばらくして外科室に入りぬ。
ときに
予と
相目して【目を合わせて】、
脣辺【唇のあたり】に
微笑を浮かべたる
医学士は、両手を組みて ややあおむけに
椅子に
凭れり【
凭れかかっていた】。今にはじめぬこと【今に始まったことではない】ながら、ほとんど わが国の上流社会全体の
喜憂【喜びと心配】に関すべき、この大いなる責任を
荷える身の、あたかも
晩餐の
筵【宴席】に望みたる【参加する】ごとく、平然としてひややかなること【冷静でいられることは】、おそらく
渠のごときは まれなるべし【めったにないだろう】。助手三人と、立ち会いの
医博士一人と、別に赤十字の
看護婦五名あり。
看護婦 その者にして、胸に
勲章帯びたるも見受けたるが、ある やんごとなき【身分の高い】あたりより 特【特別】に下したまえるもありぞ【お与えになったのだろう】と思わる。他に
女性とてはあらざりし【存在しない】。
1/10
なにがし公【公爵】と、なにがし侯【侯爵】と、なにがし伯【伯爵】と、みな立ち会いの親族なり。しかして一種 形容すべからざる【言い表せない】
面色【顔つき】にて、
愁然として【悲しみに沈み】立ちたるこそ、病者の夫の
伯爵なれ。
室内の この人々に
瞻られ、室外の あのかたがたに
憂慮われて、
塵をも数うべく、明るくして、しかも なんとなく すさまじく 侵すべからざる【立ち入ってはいけない】ごとき観あるところの外科室の中央に
据えられたる、手術台なる【にいる】
伯爵夫人は、
純潔なる
白衣を
絡いて、
死骸のごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、
頤【下あご】細りて手足は
綾羅にだも【絹織物の衣にさえ】堪えざるべし【堪えられない】。
脣の色 少しく
褪せたるに、玉のごとき前歯 かすかに見え、
眼は固く閉ざしたるが、
眉は思いなしか【気のせいか】
顰みて見られつ。わずかに
束ねたる頭髪は、ふさふさと
枕に乱れて、台の上にこぼれたり。
その かよわげに、かつ気高く、清く、
貴く、うるわしき病者の
俤を一目見るより、
予は
慄然として【恐れおののき】寒さを感じぬ【感じた】。
医学士はと、ふと見れば、
渠は
露ほどの感情をも 動かしおらざるもののごとく、
虚心【先入観を持たない】に平然たる
状 露われて、椅子に
坐りたるは室内にただ
渠のみなり。そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと
謂わば謂え、
伯爵夫人の
爾き【そのような】容体を見たる
予が眼よりは むしろ心憎きばかり なりしなり。
おりから しとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、
先刻に廊下にて行き逢いたりし三人の
腰元【雑用をする侍女】の中に、ひときわ目立ちし
婦人なり。
そと【そっと】
貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて【声音で】、
「
御前【旦那様】、
姫様は ようよう【ようやく】お泣き
止みあそばして、別室に おとなしゅういらっしゃいます」
伯は ものいわで【無言で】
頷けり。
看護婦は わが
医学士の前に進みて、
「それでは、あなた」
「よろしい」
と一言答えたる
医学士の声は、このとき 少しく
震いを帯びてぞ
予が耳には達したる。その顔色は いかにしけん【どうしたのだろうか】、にわかに少しく変わりたり。
さてはいかなる
医学士も、
驚破【さあ、始めよう】という場合に望みては、さすがに懸念のなからんや【ないという事は ないだろう】と、
予は同情を
表したりき。
2/10
看護婦は
医学士の
旨【意向】を
領して【受けて】のち、かの腰元に立ち向かいて、
「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
腰元は その意を得て【意味を理解して】、手術台に
擦り寄りつ、優【上品】に
膝のあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、
「
夫人、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お
算えあそばしますように」
伯爵夫人は 答なし。
腰元は恐る恐る繰り返して、
「お聞き済みでございましょうか」
「ああ」とばかり答えたまう【お答えになる】。
念を推して、
「それではよろしゅうございますね」
「何かい、
痲酔剤をかい」
「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、
御寝なりませんと【お眠りにならないと】、いけませんそうです」
夫人は
黙して考えたるが、
「いや、よそうよ」と
謂える声は
判然【はっきり】として聞こえたり。一同顔を見合わせぬ【見合わせた】。
腰元は、
諭すがごとく、
「それでは
夫人、御療治ができません」
「はあ、できなくってもいいよ」
腰元は言葉はなくて、
顧みて【振り返って】
伯爵の色【顔色】を
伺えり。
伯爵は前に進み、
「
奥【夫人】、そんな無理を
謂っては いけません。できなくってもいい ということがあるものか。わがままを
謂っては なりません」
侯爵は また かたわらより口を
挟めり。
「あまり、無理をお
謂やったら、
姫を連れて来て見せるがいいの。
疾くよくならんで どうするものか」
「はい」
「それでは
御得心【納得】でございますか」
腰元は その間に
周旋せり【仲に立って取り持っていた】。
夫人は
重げなる【重たそうな】
頭を
掉りぬ【振った】。
看護婦の一人は優しき声にて、
「なぜ、そんなに おきらいあそばすの、ちっとも いやなもんじゃ ございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」
このとき
夫人の
眉は動き、口は
曲みて、瞬間 苦痛に堪えざるごとくなりし【堪えられないようになった】。
半ば【半分ほど】目を
睜きて、
「そんなに
強いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。
痲酔剤は
譫言を
謂うと申すから、それが こわくってなりません。
3/10
どうぞもう、眠らずに お療治ができないようなら、もうもう
快らんでもいい、よしてください」
聞くがごとくんば【聞いた通リであれば】、
伯爵夫人は、
意中【心の中】の秘密を
夢現の間に 人に
呟かんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。
良人たる者が これを聞ける胸中いかん【どのようなものか】。この
言をして もし平生にあらしめば【普段の状態であれば】必ず
一条【一つ】の
紛紜【もめごと】を
惹き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者は なんらの【どんな】ことも これを不問に帰せざるべからず【不問にしなければならない】。しかも わが口よりして【自分の口から】、あからさまに秘密ありて 人に聞かしむることを得ず【できない】と、
断乎として
謂い出だせる、
夫人の胸中を
推すれば【推し
量れば】。
伯爵は
温乎【おだやか】として、
「わしにも、聞かされぬことなんか。え、
奥」
「はい。だれにも聞かすことはなりません」
夫人は
決然たる【強く決心した】ものありき。
「何も
痲酔剤を
嗅いだからって、
譫言を
謂うという、
極まったことも なさそうじゃの」
「いいえ、このくらい思っていれば、きっと
謂いますに違いありません」
「そんな、また、無理を
謂う」
「もう、御免くださいまし【お許し下さい】」
投げ
棄つるがごとく かく
謂いつつ、
伯爵夫人は寝返りして、横に
背かんとしたりしが、
病める身のままならで【思うように動けず】、歯を鳴らす音聞こえたり。
ために顔の色の動かざる者【冷静な者】は、ただあの
医学士一人あるのみ。
渠は
先刻に いかにしけん【どうしたのか】、ひとたびその平生を
失せしが、いまやまた
自若【冷静】となりたり。
侯爵は 渋面造りて、
「
貴船、こりゃなんでも【何としても】
姫を連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも【どれほどでも】
児のかわいさには
我折れよう」
伯爵は
頷きて、
「これ、
綾」
「は」と腰元は振り返る。
「何を【何をしている】、姫を連れて来い」
夫人は
堪らず
遮りて、
「
綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」
看護婦は
窮したる【困ったような】
微笑を含みて、
「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、
危険でございます」
「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」
予はそのあまりの無邪気さに、覚えず【知らず知らず】森寒【寒気がするほど心底から恐ろしい】を禁じ得ざりき【感情を抑えることができなかった】。
4/10
おそらく
今日の切開術は、眼を開きて これを見るもの あらじとぞ【いないだろうと】思えるをや【思われる】。
看護婦は また
謂えり。
「それは
夫人、いくらなんでも ちっとは お痛みあそばしましょうから、
爪をお取りあそばすとは違いますよ」
夫人は ここにおいて ぱっちりと眼を
睜けり。気もたしかになりけん、声は
凛として、
「
刀を取る【執刀する】先生は、
高峰様だろうね!」
「はい、外科科長です。いくら
高峰様でも 痛くなく お切り申すことは できません」
「いいよ、痛かあないよ」
「
夫人、あなたの御病気は そんな手軽いのではありません。肉を
殺いで、骨を
削るのです。ちっとの間
御辛抱なさい」
臨検の
医博士は いまはじめてかく
謂えり。これ とうてい【到底】
関雲長【関羽・中国後漢末期の武将】にあらざるよりは【でなければ】、堪えうべきことにあらず【耐えられるものではない】。しかるに
夫人は驚く色なし。
「そのことは存じております。でも ちっともかまいません」
「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」
と
伯爵は
愁然たり。
侯爵は、かたわらより、
「ともかく、今日はまあ 見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと
謂い聞かすがよかろう」
伯爵は 一議【異論】もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの
医博士は
遮りぬ【遮った】。
「
一時後れては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を
軽蔑して【軽く見て】おらるるから
埒あかん【事が進展しない】。感情を とやかくいうのは
姑息です。
看護婦ちょっと お押え申せ」
いと【非常に】
厳かなる命のもとに【命令によって】 五名の
看護婦は バラバラと
夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。
渠らは服従をもって責任とす。単に、医師の命をだに奉ずれば【命令に従っていれば】よし、あえて 他の感情を
顧みることを要【必要】せざるなり。
「
綾! 来ておくれ。あれ!」
と
夫人は絶え入る
呼吸にて、腰元を呼びたまえば、
慌てて
看護婦を
遮りて、
「まあ、ちょっと待ってください。
夫人、どうぞ、御堪忍あそばして」と優しき腰元はおろおろ声。
5/10
夫人の
面【顔】は
蒼然【青ざめて】として、
「どうしても
肯きませんか【認めてもらえませんか】。それじゃ
全快っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」
と真白く細き手を動かし、かろうじて
衣紋【和服の
襟の、胸で合わせる部分】を少し
寛げつつ、玉のごとき胸部を
顕わし、
「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」
決然として言い放てる、
辞色【言葉つきと顔色】ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳 あたりを払うにぞ【包み込み】、満堂【部屋にいる人全員】
斉しく【一様に】声を
呑み、高き
咳【せき】をも漏らさずして、
寂然【静寂】たりしその瞬間、
先刻よりちとの身動きだもせで【身動きさえしないで】、死灰のごとく、見えたる
高峰、軽く見を起こして
椅子を離れ、
「
看護婦、メスを」
「ええ」と
看護婦の一人は、目を
睜りて
猶予えり。一同
斉しく
愕然として、
医学士の
面【顔】を
瞻る【じっと見る】とき、他の一人の
看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを
高峰に渡したり。
医学士は 取るとそのまま、
靴音軽く歩を移して つと【さっと】手術台に近接せり。
看護婦は おどおどしながら、
「先生、このままでいいんですか」
「ああ、いいだろう」
「じゃあ、お押え申しましょう」
医学士は ちょっと手を
挙げて、軽く押し
留め、
「なに、それにも及ぶまい」
謂う時【そう言った瞬間】
疾く【素早く】その手は すでに病者の胸を
掻き
開けたり。
夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
かかりしとき【そのような時】
医学士は、誓うがごとく、
深重【重々しく】
厳粛【
厳か】たる音調もて、
「
夫人、責任を負って手術します」
ときに
高峰の
風采は 一種神聖にして犯すべからざる 異様のものにてありしなり。
「どうぞ」と一言
答えたる、
夫人が 蒼白なる両の
頬に
刷けるがごとき【
刷毛でさっと塗ったような】紅を
潮しつ【紅がさした】。じっと
高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも
眼を
塞がんとは なさざりき。
と見れば 雪の寒紅梅、
血汐は胸よりつと流れて、さと
白衣を染むるとともに、
夫人の顔は もとのごとく、いと
蒼白くなりけるが、はたせるかな【やはり】
自若【落ち着いている】として、足の指をも動かさざりき。
6/10
ことのここに及べるまで、
医学士の挙動
脱兎のごとく神速にして いささか
間なく、
伯爵夫人の胸を
割くや、一同はもとより かの
医博士に
到るまで、
言を
挟むべき
寸隙とても なかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり【体や手足が震え】、面を
蔽うあり、
背向になるあり、あるいは
首を
低るるあり、
予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。
三
秒にして
渠が手術は、ハヤその
佳境に進みつつ、メス 骨に達すと覚しきとき、
「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来 寝返りさえも えせずと聞きたる、
夫人は
俄然【急に】器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、
刀取れる
高峰が
右手の
腕に両手をしかと取り
縋りぬ。
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
かく言い
懸けて
伯爵夫人は、がっくりと
仰向きつつ、
凄冷極まりなき【ひどく冷たく寂しい】最後の
眼に、
国手【名医】をじっと
瞻りて【見つめて】、
「でも、あなたは、あなたは、
私を知りますまい!」
謂うとき
晩し【言ったときにはもう遅く】、
高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く
掻き切りぬ。
医学士は
真蒼になりて
戦きつつ、
「忘れません」
その声、その
呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿。
伯爵夫人は うれしげに、いとあどけなき
微笑を含みて
高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ【伏したように】見えし、
脣の色変わりたり。
そのときの二人が
状【様子】、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。
下
数うれば、はや九年前なり。
高峰がそのころは まだ医科大学に学生なりしみぎり【時】なりき。
一日 予は
渠とともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日
躑躅の花 盛んなりし。
渠とともに手を
携え、
芳草【よいかおりのする草】の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を
繞りて、咲き
揃いたる
藤を見つ。
歩を転じて かしこなる【あちらにある】躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。
一個 洋服の
扮装にて
煙突帽【シルクハット】を
戴きたる
蓄髯【ひげをたくわえた】の
漢【男】 前衛して【先頭に立ち】、中に三人の婦人を囲みて、
後よりもまた
同一様なる漢 来れり。
渠らは貴族の御者なりし。
7/10
中なる三人の
婦人等は、一様に深張りの
涼傘を指し
翳して、
裾捌きの音 いとさやかに【とてもはっきりと聞こえ】、するすると【静かに滑るように】練り来たれる、と行き違いざま
高峰は、思わず後を見返りたり。
「見たか」
高峰は
頷きぬ。「むむ」
かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。
かたわらのベンチに
腰懸けたる、
商人体【商人風】の
壮者あり。
「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」
「そうさね、たまにゃおまえの
謂うことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、
拝まれるんじゃなかったっけ」
「なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ」
「一人は
丸髷【既婚女性の髪型】じゃあないか」
「どのみち はや【すぐに】御相談になるんじゃなし、丸髷でも、
束髪【洋髪の影響を受けて生まれた
簡便な結髪】でも、ないし【あるいは】 しゃぐま【赤毛のかつら】でもなんでもいい」
「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、
高島田【格式の高い日本髪】とくるところを、
銀杏【日本髪の一種。高島田と比べてカジュアル】と出たなあどういう気だろう」
「銀杏、
合点がいかぬかい」
「ええ、わりい
洒落だ」
「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにという
肚だ。ね、それ、まん中の水ぎわが立って【ひときわ目立って】たろう。いま一人が影武者というのだ【ということだ】」
「そこでお召し物はなんと踏んだ」
「藤色と踏んだよ」
「え、藤色とばかりじゃ、本読みが納まらねえ【
辻褄が合わない】ぜ。
足下【足元】のよう【様子】でもない【違う】じゃないか」
「
眩くって うなだれた【うつむいた】ね、おのずと【自然と】
天窓【頭】が上がらなかった」
「そこで帯から下へ目をつけたろう」
「ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ【見たか見ないか分からないくらいの】間だったよ。ああ残り惜しい」
「あのまた、
歩行ぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっと こう
霞に乗って行くようだっけ。
裾捌き、
褄はずれ【身のこなし】なんということ【見事なこと】を、なるほどと見たは今日がはじめてよ。
8/10
どうもお育ちがらは また格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と
雲上になったんだな。どうして下界のやつばらが
真似ようたってできるものか」
「ひどくいうな」
「ほんのこったが わっしゃそれ ご存じのとおり、
北廓【吉原遊廓の中で】を三年が間、
金毘羅様に
断った【女遊びを断つことを誓った】というもんだ。ところが、なんのこたあない。
肌守りを懸けて、夜中に
土堤を通ろう【通って遊びに行こうとした】じゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は
発心切った【心を決めた】。あの
醜婦どもどうするものか。見なさい、アレアレ ちらほらと こう そこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、
芥塵か、
蛆が
蠢めいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」
「これはきびしいね」
「
串戯じゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しで、おんなじような
蝙蝠傘で立ってるところは、
憚りながら これ人間の女だ。しかも女の
新造【見習いの遊女】だ。女の新造に違いはないが、今拝んだのと
較べて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいか
汚れ切っていらあ。あれでも おんなじ女だっさ、へん、聞いて
呆れらい」
「おやおや、どうした 大変なことを
謂い出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけが、今のを見てから もうもう胸がすっきりした。なんだか せいせいとする、以来 女はふっつりだ【女に関心を持つことはないだろう】」
「それじゃあ
生涯ありつけまいぜ。
源吉とやら、みずからは、とあの
姫様が、言いそうもないからね【『源吉とやら』と姫様が声をかけて来ることは、ありそうもないからね】」
「罰があたらあ、あてこともない【とんでもない】」
「でも、あなたやあ、ときたらどうする【もし、貴方相手に、そうきたらどうする?】」
「正直なところ、わっしは
遁げるよ」
「
足下【お前】もか」
「え、君は」
「私も遁げるよ」と目を合わせつ。しばらく
言途絶えたり。
9/10
「
高峰、ちっと歩こうか」
予は
高峰とともに立ち上がりて、遠く かの
壮佼【若者】を離れしとき、
高峰は さも感じたる
面色にて、
「ああ、真の美の人を動かすこと あのとおりさ、君はお手のものだ、勉強したまえ」
予は画師たるがゆえに動かされぬ【美に心を動かされることはない】。行くこと
数百歩、あの
樟の大樹の
鬱蓊たる
木の
下蔭の、やや薄暗きあたりを行く 藤色の
衣の端を 遠くよりちらとぞ見たる。
園を
出ずれば
丈高く肥えたる馬二頭立ちて、
磨りガラス入りたる馬車に、
三個の
馬丁休らいたりき 【三人ほどの馬係が休んでいた】。その後九年を経て 病院のかのこと【あの出来事】ありしまで、
高峰はかの婦人のことにつきて、
予にすら 一
言をも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、
高峰は 室【妻】あらざるべからざる【いなければならない】身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかも
渠は 学生たりし時代より 品行いっそう
謹厳【慎み深く厳格】にてありしなり。
予は多くを
謂わざるべし。
青山の墓地と、
谷中の墓地と所こそは変わりたれ、
同一日に前後して相
逝けり。
語を
寄す【語りたい】、天下の宗教家、
渠ら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか【天に行くことはできないのだろうか?】。
底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
1979(昭和54)年11月30日改版第14刷発行
入力:今中一時
校正:浜野 智
1998年8月6日作成
2012年10月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
大変ありがとうございました。感謝致します。(
シン文庫追記)
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