外科室
鏡花きょうか



     

 実は好奇心のゆえに、しかれども 【私】は画師えし【画家】たるを利器りき【助ける】として、ともかくも口実こうじつもうけつつ、と兄弟も ただならざる【優れた】医学士 高峰をしいて【押し切って】、それの日 東京府下のある病院において、かれとうを下す【執刀する】べき、貴船きふね伯爵夫人の手術をば をして見せしむる【私に見学させる】ことを余儀なくしたり【させた】。
 その日 午前九時過ぐるころ家をでて 病院に腕車わんしゃ【人力車】を飛ばしつ。ただちに外科室のかたおもむくとき、むこうより戸を排して【けて】 すらすらと出で来たれる華族かぞく【貴族】の小間こま使づかいとも見ゆる容目みめよき【美しい】婦人おんな二、三人と、廊下のなかばに行き違えり。
 見れば かれらの間には、被布ひふ【羽織物】着たる一個いっこ【一人の】七、八歳の娘をようし【抱きかかえ】つ、見送るほどに見えずなれり【見えなくなった】。これのみならず 玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート【礼装】着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織はかま扮装いでたちの人物、その他、貴婦人令嬢れいじょう等 いずれもただならず【非常に】気高きが、あなた【向こう】に行き違い、こなた【こちら】に落ち合い、あるいはし、あるいはていし、往復 あたかも織る【布を織る】がごとし。は今 門前において見たる数台すだいの馬車に思い合わせて【照らし合わせて】、ひそかに心に【心の中で】うなずけり。かれらの ある者は沈痛ちんつうに、ある者は憂慮きづかわしげ【心配そう】に、はた ある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで【穏やかではなく】、せわしげなる小刻みのくつの音、草履ぞうりの響き、一種 寂寞せきばくたる【ものさびしく静まっている】病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音きょうおん【足音】を響かしつつ、うたた【ますます】陰惨いんさん【悲しく重苦しい】のおもむきをなせり。
 はしばらくして外科室に入りぬ。
 ときに相目あいもくして【目を合わせて】、脣辺しんぺん【唇のあたり】に微笑びしょうを浮かべたる医学士は、両手を組みて ややあおむけに椅子いすれり【もたれかかっていた】。今にはじめぬこと【今に始まったことではない】ながら、ほとんど わが国の上流社会全体の喜憂きゆう【喜びと心配】に関すべき、この大いなる責任をになえる身の、あたかも晩餐ばんさんむしろ【宴席】に望みたる【参加する】ごとく、平然としてひややかなること【冷静でいられることは】、おそらく かれのごときは まれなるべし【めったにないだろう】。助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十字の看護婦五名あり。看護婦 その者にして、胸に勲章くんしょう帯びたるも見受けたるが、ある やんごとなき【身分の高い】あたりより 特【特別】に下したまえるもありぞ【お与えになったのだろう】と思わる。他に女性にょしょうとてはあらざりし【存在しない】。
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なにがし公【公爵】と、なにがし侯【侯爵】と、なにがし伯【伯爵】と、みな立ち会いの親族なり。しかして一種 形容すべからざる【言い表せない】面色おももち【顔つき】にて、愁然しゅうぜんとして【悲しみに沈み】立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。
 室内の この人々にみまもられ、室外の あのかたがたに憂慮きづかわれて、ちりをも数うべく、明るくして、しかも なんとなく すさまじく 侵すべからざる【立ち入ってはいけない】ごとき観あるところの外科室の中央にえられたる、手術台なる【にいる】伯爵夫人は、純潔じゅんけつなる白衣びゃくえまといて、死骸しがいのごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、おとがい【下あご】細りて手足は綾羅りょうらにだも【絹織物の衣にさえ】堪えざるべし【堪えられない】。くちびるの色 少しくせたるに、玉のごとき前歯 かすかに見え、は固く閉ざしたるが、まゆは思いなしか【気のせいか】ひそみて見られつ。わずかにつかねたる頭髪は、ふさふさとまくらに乱れて、台の上にこぼれたり。
 その かよわげに、かつ気高く、清く、とうとく、うるわしき病者のおもかげを一目見るより、慄然りつぜんとして【恐れおののき】寒さを感じぬ【感じた】。
 医学士はと、ふと見れば、かれつゆほどの感情をも 動かしおらざるもののごとく、虚心きょしん【先入観を持たない】に平然たるさま あらわれて、椅子にすわりたるは室内にただかれのみなり。そのいたく落ち着きたる、これを頼もしとわば謂え、伯爵夫人しかき【そのような】容体を見たるが眼よりは むしろ心憎きばかり なりしなり。
 おりから しとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻さきに廊下にて行き逢いたりし三人の腰元こしもと【雑用をする侍女】の中に、ひときわ目立ちし婦人おんななり。
 そと【そっと】貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて【声音で】、
御前ごぜん【旦那様】、姫様ひいさまは ようよう【ようやく】お泣きみあそばして、別室に おとなしゅういらっしゃいます」
 は ものいわで【無言で】うなずけり。
 看護婦は わが医学士の前に進みて、
「それでは、あなた」
「よろしい」
 と一言答えたる医学士の声は、このとき 少しくふるいを帯びてぞ が耳には達したる。その顔色は いかにしけん【どうしたのだろうか】、にわかに少しく変わりたり。
 さてはいかなる医学士も、驚破すわ【さあ、始めよう】という場合に望みては、さすがに懸念のなからんや【ないという事は ないだろう】と、は同情をひょうしたりき。
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 看護婦医学士むね【意向】をりょうして【受けて】のち、かの腰元に立ち向かいて、
「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
 腰元は その意を得て【意味を理解して】、手術台にり寄りつ、優【上品】にひざのあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、
夫人おくさま、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、おかぞえあそばしますように」
 伯爵夫人は 答なし。
 腰元は恐る恐る繰り返して、
「お聞き済みでございましょうか」
「ああ」とばかり答えたまう【お答えになる】。
 念を推して、
「それではよろしゅうございますね」
「何かい、痲酔剤ねむりぐすりをかい」
「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝げしなりませんと【お眠りにならないと】、いけませんそうです」
 夫人もくして考えたるが、
「いや、よそうよ」とえる声は判然はんぜん【はっきり】として聞こえたり。一同顔を見合わせぬ【見合わせた】。
 腰元は、さとすがごとく、
「それでは夫人おくさま、御療治ができません」
「はあ、できなくってもいいよ」
 腰元は言葉はなくて、かえりみて【振り返って】伯爵の色【顔色】をうかがえり。伯爵は前に進み、
おく【夫人】、そんな無理をっては いけません。できなくってもいい ということがあるものか。わがままをっては なりません」
 侯爵は また かたわらより口をはさめり。
「あまり、無理をおやったら、ひいを連れて来て見せるがいいの。はやくよくならんで どうするものか」
「はい」
「それでは 得心とくしん【納得】でございますか」
 腰元は その間に周旋しゅうせんせり【仲に立って取り持っていた】。夫人おもたげなる【重たそうな】かぶりりぬ【振った】。看護婦の一人は優しき声にて、
「なぜ、そんなに おきらいあそばすの、ちっとも いやなもんじゃ ございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」
 このとき夫人まゆは動き、口はゆがみて、瞬間 苦痛に堪えざるごとくなりし【堪えられないようになった】。なかば【半分ほど】目をみひらきて、
「そんなにいるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤ねむりぐすり譫言うわごとうと申すから、それが こわくってなりません。
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どうぞもう、眠らずに お療治ができないようなら、もうもうなおらんでもいい、よしてください」
 聞くがごとくんば【聞いた通リであれば】、伯爵夫人は、意中いちゅう【心の中】の秘密を 夢現ゆめうつつの間に 人につぶやかんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。良人おっとたる者が これを聞ける胸中いかん【どのようなものか】。このことばをして もし平生にあらしめば【普段の状態であれば】必ず一条いちじょう【一つ】の紛紜ふんぬん【もめごと】をき起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者は なんらの【どんな】ことも これを不問に帰せざるべからず【不問にしなければならない】。しかも わが口よりして【自分の口から】、あからさまに秘密ありて 人に聞かしむることを得ず【できない】と、断乎だんことしてい出だせる、夫人の胸中をすいすれば【推しはかれば】。
 伯爵温乎おんこ【おだやか】として、
「わしにも、聞かされぬことなんか。え、
「はい。だれにも聞かすことはなりません」
 夫人決然けつぜんたる【強く決心した】ものありき。
「何も痲酔剤ますいざいいだからって、譫言うわごとうという、まったことも なさそうじゃの」
「いいえ、このくらい思っていれば、きっといますに違いありません」
「そんな、また、無理をう」
「もう、御免くださいまし【お許し下さい】」
 投げつるがごとく かくいつつ、伯爵夫人は寝返りして、横にそむかんとしたりしが、める身のままならで【思うように動けず】、歯を鳴らす音聞こえたり。
 ために顔の色の動かざる者【冷静な者】は、ただあの医学士一人あるのみ。かれ先刻さきに いかにしけん【どうしたのか】、ひとたびその平生をしっせしが、いまやまた自若じじゃく【冷静】となりたり。
 侯爵は 渋面造りて、
貴船、こりゃなんでも【何としても】ひいを連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも【どれほどでも】 のかわいさには折れよう」
 伯爵うなずきて、
「これ、あや
「は」と腰元は振り返る。
「何を【何をしている】、姫を連れて来い」
 夫人はたまらずさえぎりて、
、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」
 看護婦きゅうしたる【困ったような】微笑えみを含みて、
「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険けんのんでございます」
「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」
 はそのあまりの無邪気さに、覚えず【知らず知らず】森寒【寒気がするほど心底から恐ろしい】を禁じ得ざりき【感情を抑えることができなかった】。
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おそらく今日きょうの切開術は、眼を開きて これを見るもの あらじとぞ【いないだろうと】思えるをや【思われる】。
 看護婦は またえり。
「それは夫人おくさま、いくらなんでも ちっとは お痛みあそばしましょうから、つめをお取りあそばすとは違いますよ」
 夫人は ここにおいて ぱっちりと眼をひらけり。気もたしかになりけん、声はりんとして、
とうを取る【執刀する】先生は、高峰様だろうね!」
「はい、外科科長です。いくら高峰様でも 痛くなく お切り申すことは できません」
「いいよ、痛かあないよ」
夫人ふじん、あなたの御病気は そんな手軽いのではありません。肉をいで、骨をけずるのです。ちっとの間 辛抱しんぼうなさい」
 臨検の医博士は いまはじめてかくえり。これ とうてい【到底】関雲長【関羽・中国後漢末期の武将】にあらざるよりは【でなければ】、堪えうべきことにあらず【耐えられるものではない】。しかるに夫人は驚く色なし。
「そのことは存じております。でも ちっともかまいません」
「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」
 と伯爵愁然しゅうぜんたり。侯爵は、かたわらより、
「ともかく、今日はまあ 見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりとい聞かすがよかろう」
 伯爵は 一議【異論】もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士さえぎりぬ【遮った】。
一時ひとときおくれては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑けいべつして【軽く見て】おらるるかららちあかん【事が進展しない】。感情を とやかくいうのは姑息こそくです。看護婦ちょっと お押え申せ」
 いと【非常に】おごそかなる命のもとに【命令によって】 五名の看護婦は バラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。かれらは服従をもって責任とす。単に、医師の命をだに奉ずれば【命令に従っていれば】よし、あえて 他の感情をかえりみることを要【必要】せざるなり。
! 来ておくれ。あれ!」
 と夫人は絶え入る呼吸いきにて、腰元を呼びたまえば、あわてて看護婦さえぎりて、
「まあ、ちょっと待ってください。夫人おくさま、どうぞ、御堪忍あそばして」と優しき腰元はおろおろ声。
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 夫人おもて【顔】は蒼然そうぜん【青ざめて】として、
「どうしてもきませんか【認めてもらえませんか】。それじゃ全快なおっても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」
 と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋えもん【和服のえりの、胸で合わせる部分】を少しくつろげつつ、玉のごとき胸部をあらわし、
「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」
 決然として言い放てる、辞色じしょく【言葉つきと顔色】ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳 あたりを払うにぞ【包み込み】、満堂【部屋にいる人全員】 ひとしく【一様に】声をみ、高きしわぶき【せき】をも漏らさずして、寂然せきぜん【静寂】たりしその瞬間、先刻さきよりちとの身動きだもせで【身動きさえしないで】、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子いすを離れ、
看護婦、メスを」
「ええ」と看護婦の一人は、目をみはりて猶予ためらえり。一同ひとしく愕然がくぜんとして、医学士おもて【顔】をみまもる【じっと見る】とき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。
 医学士は 取るとそのまま、靴音くつおと軽く歩を移して つと【さっと】手術台に近接せり。
 看護婦は おどおどしながら、
「先生、このままでいいんですか」
「ああ、いいだろう」
「じゃあ、お押え申しましょう」
 医学士は ちょっと手をげて、軽く押しとどめ、
「なに、それにも及ぶまい」
 う時【そう言った瞬間】 はやく【素早く】その手は すでに病者の胸をけたり。夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
 かかりしとき【そのような時】医学士は、誓うがごとく、深重しんちょう【重々しく】 厳粛げんしゅくおごそか】たる音調もて、
夫人、責任を負って手術します」
 ときに高峰風采ふうさいは 一種神聖にして犯すべからざる 異様のものにてありしなり。
「どうぞ」と一言いらえたる、夫人が 蒼白なる両のほおけるがごとき【刷毛はけでさっと塗ったような】紅をうしおしつ【紅がさした】。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにもまなこふさがんとは なさざりき。
 と見れば 雪の寒紅梅、血汐ちしおは胸よりつと流れて、さと白衣びゃくえを染むるとともに、夫人の顔は もとのごとく、いと蒼白あおじろくなりけるが、はたせるかな【やはり】自若じじゃく【落ち着いている】として、足の指をも動かさざりき。
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 ことのここに及べるまで、医学士の挙動 脱兎だっとのごとく神速にして いささかかんなく、伯爵夫人の胸をくや、一同はもとより かの医博士いたるまで、ことばさしはさむべき寸隙すんげきとても なかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり【体や手足が震え】、面をおおうあり、背向そがいになるあり、あるいはこうべるるあり、のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。
 三セコンドにしてかれかれが手術は、ハヤその佳境かきょうに進みつつ、メス 骨に達すと覚しきとき、
「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来 寝返りさえも えせずと聞きたる、夫人俄然がぜん【急に】器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、とう取れる高峰右手めてかいなに両手をしかと取りすがりぬ。
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
 かく言いけて伯爵夫人は、がっくりと仰向あおむきつつ、凄冷せいれいきわまりなき【ひどく冷たく寂しい】最後のまなこに、国手こくしゅ【名医】をじっとみまもりて【見つめて】、
「でも、あなたは、あなたは、わたくしを知りますまい!」
 うときおそし【言ったときにはもう遅く】、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深くき切りぬ。医学士真蒼まっさおになりておののきつつ、
「忘れません」
 その声、その呼吸いき、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人は うれしげに、いとあどけなき微笑えみを含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ【伏したように】見えし、くちびるの色変わりたり。
 そのときの二人がさま【様子】、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。


     

 数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころは まだ医科大学に学生なりしみぎり【時】なりき。一日あるひ かれとともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日 躑躅つつじの花 盛んなりし。かれとともに手をたずさえ、芳草ほうそう【よいかおりのする草】の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池をめぐりて、咲きそろいたるふじを見つ。
 歩を転じて かしこなる【あちらにある】躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。
 一個ひとり 洋服の扮装いでたちにて 煙突帽えんとつぼう【シルクハット】をいただきたる蓄髯ちくぜん【ひげをたくわえた】のおとこ【男】 前衛して【先頭に立ち】、中に三人の婦人を囲みて、あとよりもまた 同一おなじ様なる漢 来れり。かれらは貴族の御者なりし。
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中なる三人の婦人等おんなたちは、一様に深張りの涼傘ひがさを指しかざして、裾捌すそさばきの音 いとさやかに【とてもはっきりと聞こえ】、するすると【静かに滑るように】練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。
「見たか」
 高峰うなずきぬ。「むむ」
 かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。
 かたわらのベンチに腰懸こしかけたる、商人あきゅうどてい【商人風】の壮者わかものあり。
「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」
「そうさね、たまにゃおまえのうことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、おがまれるんじゃなかったっけ」
「なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ」
「一人は丸髷まるまげ【既婚女性の髪型】じゃあないか」
「どのみち はや【すぐに】御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪そくはつ【洋髪の影響を受けて生まれた簡便かんべんな結髪】でも、ないし【あるいは】 しゃぐま【赤毛のかつら】でもなんでもいい」
「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田ぶんきん【格式の高い日本髪】とくるところを、銀杏いちょう【日本髪の一種。高島田と比べてカジュアル】と出たなあどういう気だろう」
「銀杏、合点がてんがいかぬかい」
「ええ、わりい洒落しゃれだ」
「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにというはらだ。ね、それ、まん中の水ぎわが立って【ひときわ目立って】たろう。いま一人が影武者というのだ【ということだ】」
「そこでお召し物はなんと踏んだ」
「藤色と踏んだよ」
「え、藤色とばかりじゃ、本読みが納まらねえ【辻褄つじつまが合わない】ぜ。足下そこ【足元】のよう【様子】でもない【違う】じゃないか」
まばゆくって うなだれた【うつむいた】ね、おのずと【自然と】天窓あたま【頭】が上がらなかった」
「そこで帯から下へ目をつけたろう」
「ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ【見たか見ないか分からないくらいの】間だったよ。ああ残り惜しい」
「あのまた、歩行あるきぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっと こうかすみに乗って行くようだっけ。裾捌すそさばき、つまはずれ【身のこなし】なんということ【見事なこと】を、なるほどと見たは今日がはじめてよ。
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どうもお育ちがらは また格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と雲上うんじょうになったんだな。どうして下界のやつばらが真似まねようたってできるものか」
「ひどくいうな」
「ほんのこったが わっしゃそれ ご存じのとおり、北廓なか【吉原遊廓の中で】を三年が間、金毘羅こんぴら様にった【女遊びを断つことを誓った】というもんだ。ところが、なんのこたあない。はだ守りを懸けて、夜中に土堤どてを通ろう【通って遊びに行こうとした】じゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心ほっしん切った【心を決めた】。あの醜婦すべったどもどうするものか。見なさい、アレアレ ちらほらと こう そこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵ごみか、うじうごめいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」
「これはきびしいね」
串戯じょうだんじゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しで、おんなじような蝙蝠傘こうもりがさで立ってるところは、はばかりながら これ人間の女だ。しかも女の新造しんぞ【見習いの遊女】だ。女の新造に違いはないが、今拝んだのとくらべて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいかよごれ切っていらあ。あれでも おんなじ女だっさ、へん、聞いてあきれらい」
「おやおや、どうした 大変なことをい出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけが、今のを見てから もうもう胸がすっきりした。なんだか せいせいとする、以来 女はふっつりだ【女に関心を持つことはないだろう】」
「それじゃあ生涯しょうがいありつけまいぜ。源吉とやら、みずからは、とあの姫様ひいさまが、言いそうもないからね【『源吉とやら』と姫様が声をかけて来ることは、ありそうもないからね】」
「罰があたらあ、あてこともない【とんでもない】」
「でも、あなたやあ、ときたらどうする【もし、貴方相手に、そうきたらどうする?】」
「正直なところ、わっしはげるよ」
足下そこ【お前】もか」
「え、君は」
「私も遁げるよ」と目を合わせつ。しばらくことば途絶えたり。
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高峰、ちっと歩こうか」
 高峰とともに立ち上がりて、遠く かの壮佼わかもの【若者】を離れしとき、高峰は さも感じたる面色おももちにて、
「ああ、真の美の人を動かすこと あのとおりさ、君はお手のものだ、勉強したまえ」
 は画師たるがゆえに動かされぬ【美に心を動かされることはない】。行くこと百歩、あのくすの大樹の鬱蓊うつおうたる下蔭したかげの、やや薄暗きあたりを行く 藤色のきぬの端を 遠くよりちらとぞ見たる。
 園をずればたけ高く肥えたる馬二頭立ちて、りガラス入りたる馬車に、三個みたり馬丁べっとうやすらいたりき 【三人ほどの馬係が休んでいた】。その後九年を経て 病院のかのこと【あの出来事】ありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、にすら 一ことをも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は 室【妻】あらざるべからざる【いなければならない】身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかもかれは 学生たりし時代より 品行いっそう謹厳きんげん【慎み深く厳格】にてありしなり。は多くをわざるべし。
 青山の墓地と、谷中やなかの墓地と所こそは変わりたれ、同一おなじ日に前後して相けり。
 す【語りたい】、天下の宗教家、かれら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか【天に行くことはできないのだろうか?】。




底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
   1979(昭和54)年11月30日改版第14刷発行
入力:今中一時
校正:浜野 智
1998年8月6日作成
2012年10月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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大変ありがとうございました。感謝致します。(シン文庫追記)
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