外科室
泉 鏡花きょうか1873年(明治6年) - 1939年(昭和14年)




     上

 実は好奇心のゆえに、しかれども 予よ【私】は予が画師えし【画家】たるを利器りき【助ける】として、ともかくも口実こうじつを設もうけつつ、予と兄弟も ただならざる【優れた】医学士 高峰をしいて【押し切って】、某それの日 東京府下の一ある病院において、渠かれが刀とうを下す【執刀する】べき、貴船きふね伯爵夫人の手術をば 予をして見せしむる【私に見学させる】ことを余儀なくしたり【させた】。
 その日 午前九時過ぐるころ家を出いでて 病院に腕車わんしゃ【人力車】を飛ばしつ。直ただちに外科室の方かたに赴おもむくとき、むこうより戸を排して【開あけて】 すらすらと出で来たれる華族かぞく【貴族】の小間こま使づかいとも見ゆる容目みめよき【美しい】婦人おんな二、三人と、廊下の半なかばに行き違えり。
 見れば 渠かれらの間には、被布ひふ【羽織物】着たる一個いっこ【一人の】七、八歳の娘を擁ようし【抱きかかえ】つ、見送るほどに見えずなれり【見えなくなった】。これのみならず 玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート【礼装】着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴はかまの扮装いでたちの人物、その他、貴婦人令嬢れいじょう等 いずれもただならず【非常に】気高きが、あなた【向こう】に行き違い、こなた【こちら】に落ち合い、あるいは歩ほし、あるいは停ていし、往復 あたかも織る【布を織る】がごとし。予は今 門前において見たる数台すだいの馬車に思い合わせて【照らし合わせて】、ひそかに心に【心の中で】頷うなずけり。渠かれらの ある者は沈痛ちんつうに、ある者は憂慮きづかわしげ【心配そう】に、はた ある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで【穏やかではなく】、忙せわしげなる小刻みの靴くつの音、草履ぞうりの響き、一種 寂寞せきばくたる【ものさびしく静まっている】病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音きょうおん【足音】を響かしつつ、うたた【ますます】陰惨いんさん【悲しく重苦しい】の趣おもむきをなせり。
 予はしばらくして外科室に入りぬ。
 ときに予と相目あいもくして【目を合わせて】、脣辺しんぺん【唇のあたり】に微笑びしょうを浮かべたる医学士は、両手を組みて ややあおむけに椅子いすに凭よれり【凭もたれかかっていた】。今にはじめぬこと【今に始まったことではない】ながら、ほとんど わが国の上流社会全体の喜憂きゆう【喜びと心配】に関すべき、この大いなる責任を荷になえる身の、あたかも晩餐ばんさんの筵むしろ【宴席】に望みたる【参加する】ごとく、平然としてひややかなること【冷静でいられることは】、おそらく 渠かれのごときは まれなるべし【めったにないだろう】。助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十字の看護婦五名あり。看護婦 その者にして、胸に勲章くんしょう帯びたるも見受けたるが、ある やんごとなき【身分の高い】あたりより 特【特別】に下したまえるもありぞ【お与えになったのだろう】と思わる。他に女性にょしょうとてはあらざりし【存在しない】。
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なにがし公【公爵】と、なにがし侯【侯爵】と、なにがし伯【伯爵】と、みな立ち会いの親族なり。しかして一種 形容すべからざる【言い表せない】面色おももち【顔つき】にて、愁然しゅうぜんとして【悲しみに沈み】立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。
 室内の この人々に瞻みまもられ、室外の あのかたがたに憂慮きづかわれて、塵ちりをも数うべく、明るくして、しかも なんとなく すさまじく 侵すべからざる【立ち入ってはいけない】ごとき観あるところの外科室の中央に据すえられたる、手術台なる【にいる】伯爵夫人は、純潔じゅんけつなる白衣びゃくえを絡まといて、死骸しがいのごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、頤おとがい【下あご】細りて手足は綾羅りょうらにだも【絹織物の衣にさえ】堪えざるべし【堪えられない】。脣くちびるの色 少しく褪あせたるに、玉のごとき前歯 かすかに見え、眼めは固く閉ざしたるが、眉まゆは思いなしか【気のせいか】顰ひそみて見られつ。わずかに束つかねたる頭髪は、ふさふさと枕まくらに乱れて、台の上にこぼれたり。
 その かよわげに、かつ気高く、清く、貴とうとく、うるわしき病者の俤おもかげを一目見るより、予は慄然りつぜんとして【恐れおののき】寒さを感じぬ【感じた】。
 医学士はと、ふと見れば、渠かれは 露つゆほどの感情をも 動かしおらざるもののごとく、虚心きょしん【先入観を持たない】に平然たる状さま 露あらわれて、椅子に座すわりたるは室内にただ渠かれのみなり。そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂いわば謂え、伯爵夫人の爾しかき【そのような】容体を見たる予が眼よりは むしろ心憎きばかり なりしなり。
 おりから しとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻さきに廊下にて行き逢いたりし三人の腰元こしもと【雑用をする侍女】の中に、ひときわ目立ちし婦人おんななり。
 そと【そっと】貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて【声音で】、
「御前ごぜん【旦那様】、姫様ひいさまは ようよう【ようやく】お泣き止やみあそばして、別室に おとなしゅういらっしゃいます」
 伯は ものいわで【無言で】頷うなずけり。
 看護婦は わが医学士の前に進みて、
「それでは、あなた」
「よろしい」
 と一言答えたる医学士の声は、このとき 少しく震ふるいを帯びてぞ 予が耳には達したる。その顔色は いかにしけん【どうしたのだろうか】、にわかに少しく変わりたり。
 さてはいかなる医学士も、驚破すわ【さあ、始めよう】という場合に望みては、さすがに懸念のなからんや【ないという事は ないだろう】と、予は同情を表ひょうしたりき。
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 看護婦は医学士の旨むね【意向】を領りょうして【受けて】のち、かの腰元に立ち向かいて、
「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」
 腰元は その意を得て【意味を理解して】、手術台に擦すり寄りつ、優【上品】に膝ひざのあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、
「夫人おくさま、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お算かぞえあそばしますように」
 伯爵夫人は 答なし。
 腰元は恐る恐る繰り返して、
「お聞き済みでございましょうか」
「ああ」とばかり答えたまう【お答えになる】。
 念を推して、
「それでは よろしゅうございますね」
「何かい、痲酔剤ねむりぐすりをかい」
「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝げしなりませんと【お眠りにならないと】、いけませんそうです」
 夫人は黙もくして考えたるが、
「いや、よそうよ」と謂いえる声は判然はんぜん【はっきり】として聞こえたり。一同顔を見合わせぬ【見合わせた】。
 腰元は、諭さとすがごとく、
「それでは夫人おくさま、御療治ができません」
「はあ、できなくってもいいよ」
 腰元は言葉はなくて、顧かえりみて【振り返って】伯爵の色【顔色】を伺うかがえり。伯爵は前に進み、
「奥おく【夫人】、そんな無理を謂いっては いけません。できなくってもいい ということがあるものか。わがままを謂いっては なりません」
 侯爵は また かたわらより口を挟はさめり。
「あまり、無理をお謂いやったら、姫ひいを連れて来て見せるがいいの。疾はやくよくならんで どうするものか」
「はい」
「それでは 御ご得心とくしん【納得】でございますか」
 腰元は その間に周旋しゅうせんせり【仲に立って取り持っていた】。夫人は重おもたげなる【重たそうな】頭かぶりを掉ふりぬ【振った】。看護婦の一人は優しき声にて、
「なぜ、そんなに おきらいあそばすの、ちっとも いやなもんじゃ ございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」
 このとき夫人の眉まゆは動き、口は曲ゆがみて、瞬間 苦痛に堪えざるごとくなりし【堪えられないようになった】。半なかば【半分ほど】目を睜みひらきて、
「そんなに強しいるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤ねむりぐすりは譫言うわごとを謂いうと申すから、それが こわくってなりません。
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どうぞもう、眠らずに お療治ができないようなら、もうもう快なおらんでもいい、よしてください」
 聞くがごとくんば【聞いた通リであれば】、伯爵夫人は、意中いちゅう【心の中】の秘密を 夢現ゆめうつつの間に 人に呟つぶやかんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。良人おっとたる者が これを聞ける胸中いかん【どのようなものか】。この言ことばをして もし平生にあらしめば【普段の状態であれば】必ず一条いちじょう【一つ】の紛紜ふんぬん【もめごと】を惹ひき起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者は なんらの【どんな】ことも これを不問に帰せざるべからず【不問にしなければならない】。しかも わが口よりして【自分の口から】、あからさまに秘密ありて 人に聞かしむることを得ず【できない】と、断乎だんことして謂いい出だせる、夫人の胸中を推すいすれば【推し量はかれば】。
 伯爵は 温乎おんこ【おだやか】として、
「わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥」
「はい。だれにも聞かすことはなりません」
 夫人は決然けつぜんたる【強く決心した】ものありき。
「何も痲酔剤ますいざいを嗅かいだからって、譫言うわごとを謂いうという、極きまったことも なさそうじゃの」
「いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いいますに違いありません」
「そんな、また、無理を謂いう」
「もう、御免くださいまし【お許し下さい】」
 投げ棄すつるがごとく かく謂いいつつ、伯爵夫人は寝返りして、横に背そむかんとしたりしが、病やめる身のままならで【思うように動けず】、歯を鳴らす音聞こえたり。
 ために顔の色の動かざる者【冷静な者】は、ただあの医学士一人あるのみ。渠かれは先刻さきに いかにしけん【どうしたのか】、ひとたびその平生を失しっせしが、いまやまた自若じじゃく【冷静】となりたり。
 侯爵は 渋面造りて、
「貴船、こりゃなんでも【何としても】姫ひいを連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも【どれほどでも】 児このかわいさには我が折れよう」
 伯爵は頷うなずきて、
「これ、綾あや」
「は」と腰元は振り返る。
「何を【何をしている】、姫を連れて来い」
 夫人は堪たまらず遮さえぎりて、
「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」
 看護婦は 窮きゅうしたる【困ったような】微笑えみを含みて、
「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険けんのんでございます」
「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」
 予はそのあまりの無邪気さに、覚えず【知らず知らず】森寒【寒気がするほど心底から恐ろしい】を禁じ得ざりき【感情を抑えることができなかった】。
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おそらく今日きょうの切開術は、眼を開きて これを見るもの あらじとぞ【いないだろうと】思えるをや【思われる】。
 看護婦は また謂いえり。
「それは夫人おくさま、いくらなんでも ちっとは お痛みあそばしましょうから、爪つめをお取りあそばすとは違いますよ」
 夫人は ここにおいて ぱっちりと眼を睜ひらけり。気もたしかになりけん、声は凛りんとして、
「刀とうを取る【執刀する】先生は、高峰様だろうね!」
「はい、外科科長です。いくら高峰様でも 痛くなく お切り申すことは できません」
「いいよ、痛かあないよ」
「夫人ふじん、あなたの御病気は そんな手軽いのではありません。肉を殺そいで、骨を削けずるのです。ちっとの間 御ご辛抱しんぼうなさい」
 臨検の医博士は いまはじめてかく謂いえり。これ とうてい【到底】関雲長【関羽・中国後漢末期の武将】にあらざるよりは【でなければ】、堪えうべきことにあらず【耐えられるものではない】。しかるに夫人は驚く色なし。
「そのことは存じております。でも ちっともかまいません」
「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」
 と伯爵は愁然しゅうぜんたり。侯爵は、かたわらより、
「ともかく、今日はまあ 見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂いい聞かすがよかろう」
 伯爵は 一議【異論】もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮さえぎりぬ【遮った】。
「一時ひととき後おくれては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑けいべつして【軽く見て】おらるるから埒らちあかん【事が進展しない】。感情を とやかくいうのは姑息こそくです。看護婦ちょっと お押え申せ」
 いと【非常に】厳おごそかなる命のもとに【命令によって】 五名の看護婦は バラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。渠かれらは服従をもって責任とす。単に、医師の命をだに奉ずれば【命令に従っていれば】よし、あえて 他の感情を顧かえりみることを要【必要】せざるなり。
「綾! 来ておくれ。あれ!」
 と夫人は絶え入る呼吸いきにて、腰元を呼びたまえば、慌あわてて看護婦を遮さえぎりて、
「まあ、ちょっと待ってください。夫人おくさま、どうぞ、御堪忍あそばして」と優しき腰元はおろおろ声。
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 夫人の面おもて【顔】は蒼然そうぜん【青ざめて】として、
「どうしても肯ききませんか【認めてもらえませんか】。それじゃ全快なおっても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」
 と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋えもん【和服の襟えりの、胸で合わせる部分】を少し寛くつろげつつ、玉のごとき胸部を顕あらわし、
「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」
 決然として言い放てる、辞色じしょく【言葉つきと顔色】ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳 あたりを払うにぞ【包み込み】、満堂【部屋にいる人全員】 斉ひとしく【一様に】声を呑のみ、高き咳しわぶき【せき】をも漏らさずして、寂然せきぜん【静寂】たりしその瞬間、先刻さきよりちとの身動きだもせで【身動きさえしないで】、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子いすを離れ、
「看護婦、メスを」
「ええ」と看護婦の一人は、目を睜みはりて猶予ためらえり。一同斉ひとしく愕然がくぜんとして、医学士の面おもて【顔】を瞻みまもる【じっと見る】とき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。
 医学士は 取るとそのまま、靴音くつおと軽く歩を移して つと【さっと】手術台に近接せり。
 看護婦は おどおどしながら、
「先生、このままでいいんですか」
「ああ、いいだろう」
「じゃあ、お押え申しましょう」
 医学士は ちょっと手を挙あげて、軽く押し留とどめ、
「なに、それにも及ぶまい」
 謂いう時【そう言った瞬間】 疾はやく【素早く】その手は すでに病者の胸を掻かき開あけたり。夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。
 かかりしとき【そのような時】医学士は、誓うがごとく、深重しんちょう【重々しく】 厳粛げんしゅく【厳おごそか】たる音調もて、
「夫人、責任を負って手術します」
 ときに高峰の風采ふうさいは 一種神聖にして犯すべからざる 異様のものにてありしなり。
「どうぞ」と一言答いらえたる、夫人が 蒼白なる両の頬ほおに 刷はけるがごとき【刷毛はけでさっと塗ったような】紅を潮うしおしつ【紅がさした】。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼まなこを塞ふさがんとは なさざりき。
 と見れば 雪の寒紅梅、血汐ちしおは胸よりつと流れて、さと白衣びゃくえを染むるとともに、夫人の顔は もとのごとく、いと蒼白あおじろくなりけるが、はたせるかな【やはり】自若じじゃく【落ち着いている】として、足の指をも動かさざりき。
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 ことのここに及べるまで、医学士の挙動 脱兎だっとのごとく神速にして いささか間かんなく、伯爵夫人の胸を割さくや、一同はもとより かの医博士に到いたるまで、言ことばを挟さしはさむべき寸隙すんげきとても なかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり【体や手足が震え】、面を覆おおうあり、背向そがいになるあり、あるいは首こうべを低たるるあり、予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。
 三秒セコンドにして渠かれが手術は、ハヤその佳境かきょうに進みつつ、メス 骨に達すと覚しきとき、
「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来 寝返りさえも えせずと聞きたる、夫人は俄然がぜん【急に】器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀とう取れる高峰が右手めての腕かいなに両手をしかと取り縋すがりぬ。
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
 かく言い懸かけて伯爵夫人は、がっくりと仰向あおむきつつ、凄冷せいれい極きわまりなき【ひどく冷たく寂しい】最後の眼まなこに、国手こくしゅ【名医】をじっと瞻みまもりて【見つめて】、
「でも、あなたは、あなたは、私わたくしを知りますまい!」
 謂いうとき晩おそし【言ったときにはもう遅く】、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻かき切りぬ。医学士は真蒼まっさおになりて戦おののきつつ、
「忘れません」
 その声、その呼吸いき、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人は うれしげに、いとあどけなき微笑えみを含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ【伏したように】見えし、脣くちびるの色変わりたり。
 そのときの二人が状さま【様子】、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。


     下

 数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころは まだ医科大学に学生なりしみぎり【時】なりき。一日あるひ 予は 渠かれとともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日 躑躅つつじの花 盛んなりし。渠かれとともに手を携たずさえ、芳草ほうそう【よいかおりのする草】の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を繞めぐりて、咲き揃そろいたる藤ふじを見つ。
 歩を転じて かしこなる【あちらにある】躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。
 一個ひとり 洋服の扮装いでたちにて 煙突帽えんとつぼう【シルクハット】を戴いただきたる蓄髯ちくぜん【ひげをたくわえた】の漢おとこ【男】 前衛して【先頭に立ち】、中に三人の婦人を囲みて、後あとよりもまた 同一おなじ様なる漢 来れり。渠かれらは貴族の御者なりし。
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中なる三人の婦人等おんなたちは、一様に深張りの涼傘ひがさを指し翳かざして、裾捌すそさばきの音 いとさやかに【とてもはっきりと聞こえ】、するすると【静かに滑るように】練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。
「見たか」
 高峰は頷うなずきぬ。「むむ」
 かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。
 かたわらのベンチに腰懸こしかけたる、商人あきゅうど体てい【商人風】の壮者わかものあり。
「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」
「そうさね、たまにゃおまえの謂いうことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝おがまれるんじゃなかったっけ」
「なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ」
「一人は丸髷まるまげ【既婚女性の髪型】じゃあないか」
「どのみち はや【すぐに】御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪そくはつ【洋髪の影響を受けて生まれた簡便かんべんな結髪】でも、ないし【あるいは】 しゃぐま【赤毛のかつら】でもなんでもいい」
「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田ぶんきん【格式の高い日本髪】とくるところを、銀杏いちょう【日本髪の一種。高島田と比べてカジュアル】と出たなあどういう気だろう」
「銀杏、合点がてんがいかぬかい」
「ええ、わりい洒落しゃれだ」
「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにという肚はらだ。ね、それ、まん中の水ぎわが立って【ひときわ目立って】たろう。いま一人が影武者というのだ【ということだ】」
「そこでお召し物はなんと踏んだ」
「藤色と踏んだよ」
「え、藤色とばかりじゃ、本読みが納まらねえ【辻褄つじつまが合わない】ぜ。足下そこ【足元】のよう【様子】でもない【違う】じゃないか」
「眩まばゆくって うなだれた【うつむいた】ね、おのずと【自然と】天窓あたま【頭】が上がらなかった」
「そこで帯から下へ目をつけたろう」
「ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ【見たか見ないか分からないくらいの】間だったよ。ああ残り惜しい」
「あのまた、歩行あるきぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっと こう霞かすみに乗って行くようだっけ。裾捌すそさばき、褄つまはずれ【身のこなし】なんということ【見事なこと】を、なるほどと見たは今日がはじめてよ。
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どうもお育ちがらは また格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と雲上うんじょうになったんだな。どうして下界のやつばらが真似まねようたってできるものか」
「ひどくいうな」
「ほんのこったが わっしゃそれ ご存じのとおり、北廓なか【吉原遊郭の中で】を三年が間、金毘羅こんぴら様に断たった【女遊びを断つことを誓った】というもんだ。ところが、なんのこたあない。肌はだ守りを懸けて、夜中に土堤どてを通ろう【通って遊びに行こうとした】じゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心ほっしん切った【心を決めた】。あの醜婦すべったどもどうするものか。見なさい、アレアレ ちらほらと こう そこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵ごみか、蛆うじが蠢うごめいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」
「これはきびしいね」
「串戯じょうだんじゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しで、おんなじような蝙蝠傘こうもりがさで立ってるところは、憚はばかりながら これ人間の女だ。しかも女の新造しんぞ【見習いの遊女】だ。女の新造に違いはないが、今拝んだのと較くらべて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいか汚よごれ切っていらあ。あれでも おんなじ女だっさ、へん、聞いて呆あきれらい」
「おやおや、どうした 大変なことを謂いい出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけが、今のを見てから もうもう胸がすっきりした。なんだか せいせいとする、以来 女はふっつりだ【女に関心を持つことはないだろう】」
「それじゃあ生涯しょうがいありつけまいぜ。源吉とやら、みずからは、とあの姫様ひいさまが、言いそうもないからね【『源吉とやら』と姫様が声をかけて来ることは、ありそうもないからね】」
「罰があたらあ、あてこともない【とんでもない】」
「でも、あなたやあ、ときたらどうする【もし、貴方相手に、そうきたらどうする?】」
「正直なところ、わっしは遁にげるよ」
「足下そこ【お前】もか」
「え、君は」
「私も遁げるよ」と目を合わせつ。しばらく言ことば途絶えたり。
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「高峰、ちっと歩こうか」
 予は高峰とともに立ち上がりて、遠く かの壮佼わかもの【若者】を離れしとき、高峰は さも感じたる面色おももちにて、
「ああ、真の美の人を動かすこと あのとおりさ、君はお手のものだ、勉強したまえ」
 予は画師たるがゆえに動かされぬ【美に心を動かされることはない】。行くこと数す百歩、あの樟くすの大樹の鬱蓊うつおうたる木この下蔭したかげの、やや薄暗きあたりを行く 藤色の衣きぬの端を 遠くよりちらとぞ見たる。
 園を出いずれば丈たけ高く肥えたる馬二頭立ちて、磨すりガラス入りたる馬車に、三個みたりの馬丁べっとう休やすらいたりき 【三人ほどの馬係が休んでいた】。その後九年を経て 病院のかのこと【あの出来事】ありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、予にすら 一言ことをも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は 室【妻】あらざるべからざる【いなければならない】身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかも渠かれは 学生たりし時代より 品行いっそう謹厳きんげん【慎み深く厳格】にてありしなり。予は多くを謂いわざるべし。
 青山の墓地と、谷中やなかの墓地と所こそは変わりたれ、同一おなじ日に前後して相逝ゆけり。
 語ごを寄よす【語りたい】、天下の宗教家、渠かれら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか【天に行くことはできないのだろうか?】。




底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
   1979(昭和54)年11月30日改版第14刷発行
入力:今中一時
校正:浜野 智
1998年8月6日作成
2012年10月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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