
冬の長い国のことで、物蔭にはまだ雪が残って居り、
村端の溝に
芹の葉
一片 青んではいないが、晴れた空はそことなく
霞んで、
雪消の路の
泥濘の処々乾きかゝった上を、春めいた風が薄ら温かく吹いていた。それは明治四十年四月一日のことであった。
新学年始業式の日なので、S村尋常高等小学校の代用教員、
千早健は、平生より少し早目に出勤した。
白墨の粉に汚れた木綿の
紋付に、
裾の
擦切れた長目の
袴を
穿いて、クリ/\した三分刈の頭に帽子も
冠らず――
渠は帽子も
有っていなかった。――
亭乎とした体を
真直にして玄関から上って行くと、早出の生徒は、毎朝、控所の
彼方此方から駆けて来て、
敬しく
渠を迎える。中には
態々 渠に
叩頭をする
許りに、
其処に待っているのもあった。その朝は
殊に
其数が多かった。
平生の三倍も四倍も……遅刻
勝な
成績の悪い児の顔さえ
其中に交っていた。
健は直ぐ、
其等の心々に溢れている進級の
喜悦を想うた。そして、何がなく心が曇った。
渠はその朝 解職願を懐にしていた。
職員室には、十人
許りの
男女――
何れも
穢い
扮装をした百姓達が、物に
怖えた様にキョロ/\している尋常科の新入生を、一人ずつ
伴れて来ていた。職員四人分の
卓や椅子、書類入の戸棚などを並べて、さらでだに【ただでさえ】狭くなっている
室は、
其等の人数に
埋められて、
身動ぎも出来ぬ程である。これも今来た
許りと見える女教師の並木
孝子は、一人で
其人数を引受けて少し
周章いたという
態で、腰も掛けずに何やら
急がしく
卓の上で帳簿を
繰っていた。
そして、
健が入って来たのを見ると、
「あ、先生!」
と言って、ホッと安心した様な顔をした。
百姓達は、床板に
膝を突いて、
交る/″\先を争ろ様に
健に挨拶した。
「
老婆さん、いくら探しても、
松三郎というのは役場から来た学齢簿の写しにありませんよ。」と、
孝子は心持 眉を
顰めて、
古手拭を
冠った一人の
老女に言っている。
「ハァ。」と
老女は当惑した様に眼をしょぼつかせた。
「無い筈はないでしょう。
尤も
此辺では、戸籍上の名と
家で呼ぶ名と違うのがありますよ。」
1/22
と、
健は
喙を
容れた。そして
老女に、
「
芋田の鍛冶屋だったね、婆さんの
家は?」
「ハイ。」
「いくら見てもありませんの。役場にも
松三郎と届けた筈だって言いますし……」と
孝子はまた初めから帳簿を
繰って、「通知書を持って来ないもんですから、
薩張分りませんの。」
「
可怪いなぁ。婆さん、役場から
真箇に通知書が行ったのかい? 子供を学校に出せという書付が?」
「ハイ。来るにぁ来ましたども、弟の方のな
許りで、
此児(と
顎で指して、)のなは今年ぁ来ませんでなす。それでハァ、持って
来なごあんさす。」
「今年は来ない? 何だ、それじゃ
其児は
九歳か、
十歳かだな?」
「
九歳。」と、その
松三郎が自分で答えた。
膝に
補布を当てた股引【ももひき】を
穿いて、ボロ/\の布の
無尻【
角袖コートの
袖を切ったもの?】を何枚も/\
着膨れた、見るから
腕白らしい児であった。
「九歳なら去年の学齢だ。無い筈ですよ、それは今年だけの名簿ですから。」
「去年ですか。
私は又、
其点に気が付かなかったもんですから……」と、
孝子は少しきまり
悪気にして、
其児の名を別の帳簿に書入れる。
「それじゃ何だね、」と、
健は
再老女の方を向いた。「
此児の弟というのが、今年
八歳になったんだろう。」
「ハイ。」
「
何故それは
伴れて来ないんだ?」
「ハイ。」
「ハイじゃない。
此児は去年から出さなけれぁならないのを、今年まで
延したんだろう。そんな
風じゃ
不可い、兄弟一緒に
寄越すさ。遅く入学さして置いて、卒業もしないうちから、子守をさせるの何のって下げてしまう。そんな
風だから、
此辺の者は徴兵に採られても、大抵上等兵にも成らずに帰って来る。」
「ハイ。」
「親が悪いんだよ。」
「ハイ。
2/22
そでごあんすどもなす【そうでございますけどね】、先生様、兄弟
何方も一年生だら、
可笑ごあんすべぁすか【おかしいでしょうか】?」
と、
老女は
黒漿の落ちた歯を見せて、テレ隠しに
追従笑いをした。
「構うもんか。弟が内務大臣をして兄は田舎の郡長をしていた人さえある。一緒な位何でもないさ。」
「ハイ。」
「婆さんの理屈で行くと、兄が死ねば弟も死なゝけれぁならなくなる。俺の姉は去年死んだけれども俺は
恁うして生きている。
然うだ。
過日死んだ
馬喰さんは、婆さんの
同胞だっていうじゃないか?」
「アッハヽヽ。」と、居並ぶ百姓達は皆笑った。
「婆さんだって
其通りチャンと生きている。ハヽヽ。とにかく 弟の方も今年から
寄越すさ。
明日と
明後日は休みで、四日から授業が始まる。その時
此児と一緒に。」
「ハイ。」
「
真箇だよ。
寄越さなかったら俺が迎いに行くぞ。」
そう言いながら立ち上って、
健は
孝子の隣の
卓に行った。
「お手伝いしましょう。」
「済みませんけれども、それでは
何卒。」
「アもう八時になりますね。」と、
渠は
孝子の頭の上に掛っている時計を見上げた目を移して、障子一重で隔てた宿直室を、
顎で指した。「まだ顔を出さないんですか?」
孝子は笑って
点頭いた。
その宿直室には、校長の
安藤が家族――
妻と二人の小供――と共に住んでいる。
朝飯の
準備が今
漸々出来たところと見えて、茶碗や皿を
食卓に並べる音が聞える。
無精者の細君は何やら
呟々小供を叱っていた。
新入生の一人々々を、学齢児童調書に突合して、
健はそれを学籍簿に記入し、
孝子は新しく出席簿を
拵える。何本を買はねば ならぬかとか、
石盤は
石石盤が
可いか 紙石盤が
可いかとか、
塗板も
有たせねば ならぬかとか、父兄は一人々々同じ様な事を
繰返して訊く。
3/22
孝子は
一々それに答える。すると今度は
健の前に
叩頭をして、小供の
平生の行状やら癖やら、体の弱い事などを述べて、何分よろしくと頼む。新入生は後から/\と続いて狭い職員室に溢れた。
忠一という、今度尋常科の三年に進んだ校長の長男が、用もないのに
怖々しながら入って来て、甘える
様の
姿態をして
健の
卓に
倚掛った。
「
彼方へ行け、彼方へ。」
と、
健は
烈しい調子で、隣室にも聞える様に叱った。
「ハ。」
と言って、
猾そうな、臆病らしい眼付で
健の顔を見ながら、
忠一は
徐々と
後退りに出て行った。
為様のない横着な児で、今迄
健の受持の二年級であったが、外の教師も生徒等も、校長の子というのでそれとなく遠慮している。
健はそれを、人一倍厳しく叱る。五十分の授業の間を教室の隅に立たして置くなどは珍しくもない事で、三日に一度は、罰として放課後の教室の掃除当番を
吩付ける。そんな時は、無精者の母親がよく
健の前へ来て、抱いている梅ちやんという児に胸を
披けて大きい乳房を含ませながら、
「
千早先生、
家の
忠一は今日も何か悪い事 しゃんしたべすか【したんですか】?」
などと言ろことがある。
「ハ。
忠一さんは
日増に悪くなる様ですね。今日も
権太という小供が新らしく買って来た墨を、自分の机の中に隠して知らない振していたんですよ。」
「コラ、
彼方へ行け。」と、校長は聞きかねて細君を叱る。
「それだってなす【そうですけどね】、毎日悪い事
許りして
千早先生に御迷惑かける様 なんだハンテ【なので】、よくお聞き申して置いて、後で
私もよっく
吩付けて置くべと思ってす。」
健は
平然として
卓隣りの
秋野という老教師と話を始める。校長の妻は、まだ何か言いたげにして、
上吊った眉をピリ/\させながら
其処に立っている。
然うしてるところへ、掃除が出来たと言って、掃除監督の生徒が
通知に来る。
「黒板も綺麗に拭いたか?」
「ハイ。」
「先生に見られても、少しも小言を言われる
点が無い様に出来たか?」
「ハイ。」
4/22
「
若し粗末だったら、明日また
為直させるぞ。」
「ハイ。立派に出来ました。」
「
好し。」と言って、
健は
莞爾して見せる。「それでは
一同帰しても
可い。お前も帰れ。それからな、今先生が行くから
忠一だけは教室に残って居れと言え。」
「ハイ。」と、生徒の方も嬉しそうに
莞爾して、活発に一礼して出て行く。
健のこんな
訓導方は、尋常二年には余りに
厳し
過ると他の教師は思っていた。
然しその為に
健の受持の組は、他級の生徒から
羨まれる程規律がよく、少し物の解った高等科の生徒などは、
何彼につけて尋常二年に笑われぬ様にと心懸けている程であった。
軈て
健は二階の教室に上って行く。すると、校長の妻は
密乎と
其後を
跟けて行って、教室の外から我が子の叱られているのを
立聞する。
意気地なしの校長は校長で、これも我が子の泣いている顔を思い浮べながら、明日の教案を書く……
健が
殊更校長の子に厳しく当るのは、
其児が人一倍
悪戯に
長けて、横着で、時にはその
生先が危まれる様な事まで
為出かす為には違いないが、一つは
渠の性質に、そんな事をして
或る感情の満足を求めると言った様な
点があるのと、又、
然うする方が他の生徒を取締る上に都合の好い為でもあった。
渠が
忠一を
虐めることが厳しければ厳しい程、他の生徒は
渠を偉い教師の様に思った。
そして、女教師の
孝子にも、
健のそんな
行動が何がなしに快く思われた。時には
孝子自身も、人のいない処へ
忠一を呼んで、手厳しく
譴めてやることがある。それは
孝子にとっても
或る満足であった。
孝子は
半年前に
此学校に転任して来てから、日一日と経つうちに、
何処の学校にもない異様な現象を発見した。それは校長と
健との妙な対照で、
健は自分より四円【約11万円/2025年】も月給の安い一代用教員に過ぎないが、生徒の服していることから言えば、
健が校長の様で、校長の
安藤は女教師の自分よりも生徒に
侮られていた。
孝子は師範女子部の寄宿舎を出てから二年とは経たず、一生を教育に
献げようとは思はぬまでも、授業にも読書にもまだ相応に興味を
有ってる頃ではあり、
何処か気性の
確固した、判断力の勝った女なので、日頃校長の無能が女ながらも
歯痒い位。
5/22
殊にも、その妻のだらしの無いのが見るも嫌で、毎日顔を合していながら、
碌すっぽ口を利かぬことさえ珍しくない。そして
孝子には、
万事に生々とした
健の
烈しい気性――その気性の輝いている、笑う時は十七八の少年の様に無邪気に、
真摯な時は二十六七にも、もっと上にも見える
渠の眼、(それを
孝子は、写真版などで見た
奈勃翁の眼に
肖たと思っていた。)――その眼が
此学校の
精神でゞもあるかの様に見えた。
健の眼が右に動けば、何百の生徒の心が右に行く、
健の眼が左に動けば、何百の生徒の心が左に行く、と
孝子は信じていた。そして
孝子自身の心も、何時しか
健の眼に
随って動く様になっている事は、気が付かずにいた。
齢から言えば、
孝子は二十三で、
健の方が
一歳下の弟である。が、
健は何かの事情で早く結婚したので、その頃もう
小児も有った。そして
其家が時として
其日の
糧にも差支える程貧しい事は、村中知らぬ者もなく、
健自身も別段隠す
態も見せなかった。
或日、
健は朝から浮かぬ顔をして、十分の休み毎に
呟呻許りしていた。
「
奈何なさいましたの、
千早先生、今日はお顔色が良くないじゃありませんか?」
と
孝子は何かの
機会に訊いた。
健は出かゝった
生呿呻を噛んで、
「
何有。」
と言って笑った。そして、
「今日は煙草が切れたもんですからね。」
孝子は何とも言ろことが出来なかった。
健が
平生人に
魂消られる程の喫煙家で、職員室に入って来ると、どんな事があろうと先ず
煙管を取上げる男であることは、
孝子もよく知っていた。
卓隣りの
秋野は
其煙草入を出して
健に
薦めたが、
渠は
其日一日
喫まぬ積りだったと見えて、
煙管も持って来ていなかった。そして、
秋野の
煙管を借りて、
美味そうに二三服続け様に
喫んだ。
孝子はそれを見ているのが、何がなしに辛かった。宿へ帰ってからまで
其事を思出して、何か都合の好い名儀をつけて、
健に金を
遣る
途はあるまいかと考えた事があった。又、去年の一夏、
健が
到頭 古袷を着て過した事、それで左程暑くも感じなかったという事なども、
渠自身の口から聞いていたが、村の噂はそれだけではなかった。
6/22
其夏、毎晩夜遅くなると、
健の
家――
或る百姓家を半分
劃って借りていた――では障子を
開放して、居たたまらぬ位 杉の葉を
燻しては、中で
頻りに
団扇で
煽いでいた。それは多分
蚊帳が無いので、
然うして蚊を
逐出してから寝たのだろうという事であった。そんなに苦しい生活をしていて、
渠には
些とも心を痛めている
態がない。朝から晩まで、
真に朝から晩まで、小供等を対手に
怡々として【楽しそうに】暮らしている。
孝子が初めて
此学校に来た秋の頃は、毎朝
昧爽から朝飯時まで、自宅に近所の小供等を集めて『
朝読』というのを
遣っていた。朝な/\、
黎明【夜明け】の光が
漸く障子に
仄めいた
許りの頃、早く行くのを競っている小供等――主に高等科の――が、
戸外から声高に友達を呼起して行くのを、
孝子は毎朝の様にまだ
臥床の中で聞いたものだ。冬になって朝読が出来なくなると、
健は夜な/\九時頃までも生徒を集めて、算術、読方、
綴方から歴史や地理、
古来の偉人の伝記逸話、年上の少年には英語の初歩なども授けた。この二月村役場から話があって、学校に
壮丁【成人】教育の夜学を開いた時は、三週間の期間を十六日まで
健が一人で教えた。そして終いの五日間は、毎晩
裾から
吹上る夜寒を
怺えて、二時間も三時間も教壇に立った為に風邪を引いて寝たのだという事であった。
それでいて、
健の月給は
唯八円【約23万円/2025年】であった。そして、その八円は
何時でも
前借になっていて、二十一日の月給日が来ても、いつの月でも
健には、同僚と一緒に月給の渡されたことがない。四人分の受領書を持って行った校長が、役場から帰って来ると、
孝子は大抵
紙幣と銀貨を
交ぜて十二円渡される。検定試験上りの
秋野は十三円で、古い師範出の校長は十八円であった。そして、校長は
気毒相な顔をしながら、
健には
存在な字で書いた一枚の前借証を返してやる。
渠は
平然としてそれを受取って、クル/\と円めて火鉢に
燻べる。淡い
焔がメラ/\と立つかと見ると、直ぐ消えてしまう。と、
渠は不揃な火箸を取って、白くなって
小く残っている
其灰を
突く。突いて、突いて、そして上げた顔は
平然としている。
孝子は
気毒さに見ぬ振をしながらも、
健のその
態度をそれとなく見ていた。そして訳もなく胸が迫って、泣きたくなることがあった。そんな時は、
孝子は用もない帳簿などを
弄って、
人後【他人より後】まで残った。
7/22
月給を貰った為に
怡々して早く帰るなどと、思われたくなかったのだ。
孝子の目に映っている
健は、月給八円の代用教員ではなかった。
孝子は
或る時その同窓の女友達の一人へ
遣った手紙に、この若い教師のことを書いたことがある。
若しや
詰らぬ疑いを起されてはという心配から、
健には妻子のあることを詳しく記した上で、
「私の学校は、この
千早先生一人の学校といっても
可い位よ。
奥様やお
子様のある人とは見えない程若い人ですが、男生でも女生でも
千早先生の言うことをきかぬ者は一人もありません。そら、
小野田教諭がいつも言ったでしょう――教育者には教育の精神を以て教える人と、教育の形式で教える人と、二種類ある。後者には何人でも成れぬことはないが、前者は百人に一人、千人に一人しか無いもので、学んで出来ることではない、
謂わば
生来の教育者である――って。
千早先生はその百人に一人しかない方の組よ。教授法なんかから言ったら、先生は乱暴よ、随分乱暴よ。今の時間は生徒と
睨めっクラをして、敗けた奴を立たせることにして遊びましたよなどゝ言う時があります。(遊びました)というのは嘘で、先生はそんな事をして、生徒の心を散るのを御自分の一身に
集るのです。そうしてから授業に
取かゝるのです。
偶に先生が欠勤でもすると、私が掛持で尋常二年に出ますの。生徒は決して私ばかりでなく、誰のいうことも、聞きません。先生の組の生徒は、先生のいうことでなければ聞きません。私はそんな時、『
千早先生はそう騒いでも
可いと教えましたか?』と言います。すると、直ぐ静粛になってしまいます。先生は又、教案を作りません。その事で
何日だったか、
巡って来た郡視学【地方教育行政官】と二時間
許り議論をしたのよ。その時の面白かったこと? 結局視学の方が敗けて
胡麻化してしまったの。」
「先生は尋常二年の修身【道徳教育の科目】と体操を校長にやらして、その代り高等科(校長の受持)の
綴方と歴史地理に出ます。今度は
千早先生の時間だという時は、鐘が鳴って控所に生徒の列んだ時、その高等科の生徒の顔色で分ります。」
8/22
「尋常二年に
由松という児があります。それは
生来の低脳者で、
七歳になる時に
燐寸を
弄そんで、自分の
家に火をつけて、ドン/\燃え出すのを手を打って喜んでいたという児ですが、先生は御自分の一心で是非
由松を
普通の小供にすると言って、暇さえあればその
由松を
膝の間に坐らせて、(先生は腰かけて、)上から
眤と見下しながら、肩に手をかけて色々なことを言って聞かせています。その時だけは
由松も大人しくしていて、
終いには
屹度メソ/\泣出してしまいますの。時として先生は、
然うしていて十分も二十分も黙って
由松の顔を見ていることがあります。二三日前でした、
由松は先生と
然うしていて、突然眼を
瞑って
背後に倒れました。先生は静かに
由松を抱いて小使室へ行って、頭に水を掛けたので小供は蘇生しましたが、私共は一時
喫驚しました。先生は、「私の精神と
由松の精神と
角力をとって、私の方が勝ったのだ。」と言って居られました。その
由松は近頃では清書なんか人並に書く様になりました。算術だけはいくら骨を折っても駄目だそうです。」
「
秀子さん、そら、あの寄宿舎の談話室ね、
彼処の壁にペスタロッジ【ヨハン・ハインリヒ・
ペスタロッチ】が小供を教えている画が
掲けてあったでしょう。あのペスタロッジは痩せて骨立った老人でしたが、私、
千早先生が
由松に物を言ってるところを横から見ていると、何ということなくあの画を思出すことがありますの。それは先生は、無論一生を教育事業に献げるお積りではなく、お家の事情で当分あゝして居られるのでしょうが、私はこんな人を長く教育界に留めて置かぬのが、何より残念な事と思います。先生は何か人の知らぬ大きな事を考えて居られる様ですが、私共には分りません。
然しそのお話を聴いていると、常々私共の行きたい/\と思ってる処――
何処ですか知りませんが――へ段々連れて行かれる様な気がします。そして先生は、自分は教育界
獅子身中の虫だと言って居られるの。又、今の社会を改造するには先ず小学教育を破壊しなければいけない、自分に若し二つ体があったら、一つでは一生代用教員をしていたいと言ってます。
奈何して小学教育を破壊するかと訊くと、
何有ホンの少しの違いです、人を生れた時のままで大きくならせる方針を取りゃ
可いんですと答えられました。」
「
然し
秀子さん、
千早先生は私にはまだ一つの謎です。
何処か分らないところがあります。
9/22
ですけれども、毎日同じ学校にいて、毎日先生の
為さる事を見ていると、どうしても敬服せずには居られませんの。先生は随分苦しい生活をして居られます。それはお気毒な程です。そして、先生の
奥様という人は、矢張好い人で、優しい、美しい(但し色は少し黒いけれど、)親切な方です。……」
と書いたものだ。実際それは
孝子の思っている通りで、この若い女教師から見ると、
健が月末の出席
歩合の調べを怠けるのさえ、コセ/\した他の教師共より偉い様に見えた。
が、流石は女心で、例えば
健が郡視学などと
揶揄半分に議論をする時とか、父の目の前で手厳しく
忠一を叱る時などは、
傍で見る目もハラ/\して、顔を挙げ得なかった。
今も、
健が声高に
忠一を叱ったので、宿直室の話声が
礑と止んだ。
孝子は耳
敏くもそれを聞付けて
忠一が
後退りに出て行くと、
「マア、先生は!」
と
低声に言って、口を
窄めて微笑みながら
健の顔を見た。
「ハヽヽヽ。」と、
渠は
軽く笑った。そして、眼を
円くして直ぐ前に立っている新入生の一人に、
「
可いか。お前も学校に入ると、不断先生の断りなしに入っては
不可いという処へ入れば、今の人の様に叱られるんだぞ。」
「ハ。」と言って、
其児はピョコリと頭を下げた。
火傷の痕の大きい禿が後頭部に光った。
「
忠一ィ。
忠一ィ。」と、宿直室から校長の妻の呼ぶ声が
洩れた。
健と
孝子は目と目で笑い合った。
軈て、
埃に
染みた、黒の
詰襟の洋服を着た校長の
安藤が出て来て、
健と代って新入生を取扱かった。
健は自分の
卓に行って、その受持の
教務にかゝった。
九時半頃、
秋野教師が遅刻の
弁疏を
為い/\入って来て、何時も
其室の柱に懸けて置く黒
繻子の
袴を
穿いた時は、後から/\と来た新入生も大方来尽して、職員室の中は
空いていた。
10/22
健は
卓の上から延び上って、
其処に垂れて居る
索【つな】を
続様に強く引いた。壁の
彼方では勇しく
号鐘が鳴り出す。今か/\とそれを待ちあぐんでいた生徒等は、一しきり春の
潮の湧く様に騒いだ。
五分とも経たぬうちに、今度は
秋野がその
鐘索を引いて、先ず控所へ出て行った。と、
健は校長の前へ行って、半紙【約B4サイズの紙】を八つに畳んだ一枚の紙を無造作に出した。
「これ書いて来ました。
何卒宜しく願います。」
笑う時 目尻の
皺の深くなる、
口髯の下向いた、寒そうな、人の好さ相な顔をした
安藤は、臆病らしい眼付をして
其紙と
健の顔を
見比べた。前夜訪ねて来て書式を聞いて行ったのだから、
展けて見なくても解職願な事は解っている。
そして、妙に喉に
絡まった声で言った。
「
然うでごあんすか。」
「は。
何卒。」
綴じしまえた【綴じ終えた】
許りの新しい出席簿を持って、立ち上った
孝子は、チラリと
其畳んだ紙を見た。そして、
健が四月に
罷めると言うのは
予々聞いていた為であろう、それが若しや解職願ではあるまいかと思われた。
「何と申して
可いか……ナンですけれども、お決めになってあるのだば
為方がない訳でごあんす。」
「何卒宜しく、お取り計いを願います。」
と言って
健は、軽く会釈して、職員室を出てしまった。その後から
孝子も出た。
控所には、級が新しくなって
列ぶべき場所の解らなくなった生徒が、ワヤワヤと騒いでいた。
秋野は
其間を縫って歩いて、
「
先の
場所へ列ぶのだ、先の場所へ。」
と叫んでいるが、生徒等は、自分達が皆
及第【進級】して上の級に進んだのに、今迄の場所に列ぶのが不見識【非常識】な様にでも思われるかして、仲々言うことを聞かない。と見た
健は、号令壇を兼ねている階段の上に突立って、
「何を騒いでいる。」
と呶鳴った。耳を
聾する【聞こえなくする】
許りの
騒擾が、夕立の
霽れ上る様にサッと
収って、三百近い男女の瞳はその顔に
萃まった。
「
一同今迄の
場所に今迄の通り列べ。」
ゾロ/\と足音が乱れて、それが
鎮ると、各級は皆規則正しい二列縦隊を作っていた。
鬩乎として話一つする者がない。
11/22
新入生の父兄は、不思議相にしてそれを見ていた。
渠は
緩りした歩調で階段を降りて、
秋野と共に各級をその新しい場所に導いた。
孝子は新入生を集めて列を作らしていた。
校長が出て来て壇の上に立った。
密々と話声が起りかけた。
健は
背後の方から一つ咳払いをした。話声はそれで
再鎮った。
「えゝ、今日から明治四十年度の新しい学年が始まります……」
と、校長は両手を邪魔相に前で揉みながら、低い、
怖々した様な声で語り出した。二分も経つか経たぬに、
「三年一万九百日。」
と高等科の生徒の一人が、妙な声色を使って言った。
「
叱っ。」
と
秋野が制した。
潜笑いの声は
漣の様に伝わった。そして新しい
密語が
其に
交った。
それは
恰度 今の並木
孝子の前の女教師が他村へ転任した時――去年の十月であった。――
安藤は告別の
辞の中で「三年一万九百日」と誤って言った。その女教師は三年の間この学校にいたったのだ。それ以来
年長の生徒は何時もこの事を言っては、校長を軽蔑する種にしている。
恰度この時、
健もその事を思出していたので、も少しで
渠も笑いを洩らすところであった。
密語の声は
漸々高まった。中には声に出して何やら笑うのもある。と、
孝子は草履の音を忍ばせて
健の
傍に寄って来た。
「先生が前の方へ
被入ると
宜うござんす。」
「
然うですね。」と
渠も
囁いた。
そして静かに前の方へ出て、階段の最も低い段の端の方へ立った。場内はまた水を打った様に
闃乎とした。
不図 渠は、
諸有生徒の目が、
諄々と何やら話し続けている校長を見ているのでなく、
渠自身に注がれているのに気が付いた。
例の事ながら、何となき満足が
渠の
情を
唆かした。そして、
幽かに
唇を歪めて
微笑んで見た。
12/22
其処にも
此処にも、
幽かに微笑んだ生徒の顔が見えた。
校長の話の済んでしまうまでも、
渠は
其処から動かなかった。
それから生徒は、
痩せた体の
何処から出るかと
許り高い
渠の号令で、
各々その新しい教室に導かれた。
四人の職員が再び職員室に顔を合せたのは、もう十一時に間のない頃であった。学年の初めは諸帳簿の
綴変えやら、前年度の
調物の残りやらで、雑務が仲々多い。四人はこれという話もなく、十二時が打つまでも
孜々とそれを
行っていた。
「
安藤先生。」
と
孝子は呼んだ。
「ハ。」
「今日の新入生は
合計で四十八名でございます。その内、七名は去年の学齢で、
一昨年ンのが三名ございますから、今年の学齢で来たのは三十八名しかありません。」
「
然うでごあんすか。総体で何名でごあんしたろう?」
「四十八名でございます。」
「
否、本年度の学齢児童数は?」
「それは七十二名という通知でございます、役場からの。でございますから、今日だけの就学歩合では六十六、六六七にしか成りません。」
「少いな。」と校長は首を
傾げた。
「
何有、毎年今日はそれ位なもんでごあんす。」と、十年もこの学校にいる
土地者の
秋野が
喙を
容れた。「授業の始まる日になれば、また二十人位ぁ来あんすでぁ。」
「少いなぁ。」と、校長はまた同じ事を言う。
「
奈何です。」と
健は言った。「今日来なかったのえ【家】、
明日明後日の中に役場から又督促さして見ては?」
「
何有、
明々後日になれば、二十人は
屹度来あんすでぁ。保険付だ。」と、
秋野は鉛筆を削っている。
「二十人来るにしても、三十八名に二十……
残部十四名の不就学児童があるじゃありませんか?」
「督促しても、来るのは来るし、来ないのは来なごあんすぜ。」
「ハハヽヽ。」
13/22
と
健は訳もなく笑った。「
可いじゃありませんか、私達が
草鞋を
穿いて歩くんじゃなし、役場の小使を歩かせるのですもの。」
「来ないのは来ないでしょうなぁ。」と、校長は
独語の様に意味のないことを言って、
卓の上の
手焙の火を、
煙管で
突いている。
「一学年は
並木さんの受持だが、御意見は
奈何です?」
然う言う
健の顔に、
孝子は
一寸薄目を
与れて、
「それぁ私の方は……」
と言出した時、入口の障子がガラリと
開いて、浅黄がかった縞の
古袷に、
羽織も着ず、
足袋も
穿かぬ小造りの男が、セカ/\と入って来た。
「やあ、誰かと思ったば
東川さんか。」と、
秋野は言った。
「そんなに
喫驚する事はねえさ。」
然う言いながら
東川は、型の古い黒の中折【頭頂部の真ん中に折り目の付いた帽子】を書類入の戸棚の上に載せて、
「やあ お
急しい様でごあんすな。
好いお天気で。」
と、
一同に挨拶した。そして、手ずから【みずから】椅子を引寄せて、遠慮もなく腰を掛け、校長や
秋野と二言三言話していたが、何やら気の急ぐ
態度であった。その横顔を
健は
眤と
凝視めていた。齢は三十四五であるが、頭の
頂辺が
大分円く禿げていて、
左眼が潰れた眼の上に度の強い近眼鏡をかけている。小形の鼻が
尖って、見るから一癖あり相な、抜目のない顔立である。
「時に、」と、
東川は話の
断目を待構えていた様に、椅子を
健の
卓に向けた。「
千早先生。」
「何です?」
「実は
其用で
態々来たのだが なす【ね】、先生、もう出したすか?
未だすか?」
「何をです?」
「何をって。そんなに白ばくれなくても
可ごぁんすべ【いいじゃないですか】。出したすか? 出さねえすか?」
「だから何をさ?」
「解らない人だなぁ。辞表をす。」
「あゝ、その
事ですか。」
「出したすか? 出さねえすか?」
「
何故?」
「何故って。用があるから訊くのす。」
よくツケ/\と人を
圧迫ける様な
物言をする癖があって、多少の学識もあり、村で
健が
友人扱いをするのは
此男の外に無かった。若い時は青雲【高い地位や出世】の夢を見たもので、
機会あらば宰相の位にも上ろうという野心家であったが、財産のなくなると共に
徒らに村の物笑いになった。今では村会議員に学務委員を兼ねている。
「出しましたよ。」
14/22
と、
健は
平然として答えた。
「
真箇すか?」と
東川は力を入れる。
「ハヽヽヽ。」
「だハンテ若い人は困る。人がどんなに心配してるかも知らないで、気ばかり早くてさ。」
「それ/\、煙草の火が
膝に落ちた。」
「これだ!」と、呆れた様な顔をしながら、それでも急いで吸殻を
膝から払い落して、「先生、出したっても今日の事だがら、まだ校長の手許にあるベアハンテ【はずだから】、今の
間に戻してござれ。」
「
何故?」
「いやサ、詳しく話さねえば解らねえが……実はなす、」
と穏かな調子になって、「今日何も知らねえで役場さ来てみたのす。そすると
種市助役が、
一寸別室、て呼ぶだハンテ【呼んだので】、何だど思って行って見だば先生の一件さ。昨日逢った時、明日辞表を出すっていだっけ【言っていた】が、何しろ村教育も
漸々発展の
緒に就いた
許りの時だのに、
千早先生に
罷められては誠に困る。それがと言って今は村長も留守で、正式に留任勧告をするにも都合が悪い。
何れ二三日中には村長も帰るし、七日には村会も開かれるのだから、ともかくも それまでは是非待って貰いたいと言うので なす【ね】、それで
畢竟は
種市助役の代理になって、今俺ぁ飛んで来た どころす【ところです】。解ったすか?」
「解るには解ったが、……
奈何も御苦労でした。」
「御苦労も糞も
無えが、なす、先生、
然う言う訳だハンテ、
何卒一先戻して貰ってござれ。」
戻して貰え、という、その「貰え」という
語が
驕持心の強い
健の耳に鋭く響いた。そして、
適確した調子で言った。
「出来ません、そんな事は。」
「それだハンテ【そうだとしても】困る。」
「御好意は充分有難く思いますけれど、
為方がありません、出してしまった後ですから。」
秋野も校長も
孝子も、
鳴を潜めて二人の話を聞いていた。
「出したと言ったところです、それが未だ学校の中にあるのだば、
謂わば未だ内輪だけの事でぁねえすか?」
「
東川さん、折角の御勧告は感謝しますけれど、貴方は私の気性を御存知の筈です。私は一旦出してしまったのは、
奈何あっても、
譬えそれが自分に不利益であっても取戻すことは嫌です。内輪だろうが外輪だろうが、私はそんな事は考えません。」
然う言った
健の顔は、もう
例の
平然とした
態に帰っていて、
此上いくら言ったとて動きそうにない。言い出しては後へ
退かぬ
健の気性は、
東川もよく知っていた。
15/22
東川は
突然椅子を
捻向けた。
「
安藤先生。」
その声は、今にも喰って掛るかと
許り
烈しかった。
嚇すナ、と
健は思った。
「ハ?」と言って、
安藤は目の
遣場に困る程
周章いた。
「先生ぁ
真箇に
千早先生の辞表を受取ったすか?」
「ハ。……いや、それでごあんすでは【そうなんですよ】。今も申上げようかと思いあんしたども、お話中に
容喙するのも悪いと思って、黙ってあんしたが、
先刻その、
号鐘が鳴って今始業式が始まるという時、お出しになりあんしてなす。ハ、これでごあんす。」と、
硯箱の下から
其解職願を出して、「
何れ
後刻で
緩りお話しようと思ってあんしたったども、今迄その暇がなくて
一寸此処にお預りして置いた訳でごあんす。何しろ思懸けないことでごあんしてなす。ハ。」
「その書式を教えたのは誰だ?」と
健は心の中で
嘲笑った。
「
然うすか、解職願お出しエんしたのすか? 俺ぁ少しも知らなごあんしたオなす。」と、
秋野は初めて知ったと言う
態に言った。「
千早先生も又、どんな御事情だかも知れねえども、今急にお
罷めぁねえくとも宜うごあんすべぁすか?」
「
安藤先生、」と
東川は呼んだ。「そせば先生も、その辞表を一旦お戻しやる積りだったのだなす?」
「ハ、
然うでごあんす。
何れ
後刻でお話しようと思って、受取った訳でぁごあんせん、
一寸お預りして置いただけでごあんす。」
「お戻しやれ、そだら。」と、
東川は命令する様な調子で言った。「お戻しやれ、お聞きやった様な訳で、今それを出されでぁ困りあんすでば。」
「ハ。
奈何せ私も
然う思ってだのでごあんすアハンテ、お戻しすあんす。」と、顔を曇らして言って、頬を
凹ませてヂウ/\する
煙管を強く吸った。戻すも具合悪く、戻さぬも具合悪いといった
態度である。
健は横を向いて、煙草の煙をフウと長く吹いた。
「お戻しやれ、俺ぁ学務委員の
一人として勧告しあんす。」
安藤は思切り悪く椅子を離れて、
健の前に立った。
16/22
「
千早さん、
先刻は
急しい時で……」と
諄々弁疏を言って、「今お聞き申して居れば、役場の方にも
種々御事情がある様でごあんすゝ、
一寸お預りしただけでごあんすから、とにかくこれはお返し致しあんす。」
然う言って、解職願を
健の前に出した。その手は
顫えていた。
健は待ってましたと言はぬ
許りに急に難しい顔をして、
霎時、
眤と校長の
揉手をしているその手を見ていた。そして言った。
「それでは、直接郡役所へ送ってやっても宜うございますか?」
「これはしたり!」
「先生。」「先生。」と、
秋野と
東川が同時に言った。そして
東川は続けた。
「
然うは言うもんでぁない。今日は俺の顔を立てゝ呉れても
可いでぁねえすか?」
「ですけれど……それぁ
安藤先生の方で、お考え次第進達するのを延そうと延すまいと、それは私には
奈何も出来ない事ですけれど、私の方では前々から決めていた事でもあり、且つ、何が何でも一旦出したのは、取るのは嫌ですよ。それも私一人の為めに村教育が
奈何の
恁うのと言うのではなし、
却てお邪魔をしてる様な訳ですからね。」と言って、
些と校長に
流盻を
与れた。
「マ、マ、
然うは言うもんでぁ無えでばサ。前々から決めておいた事は決めて置いた事として、
茲はマア村の頼みを訊いて呉れても
可いでぁねえすか? それも
唯、一週間か
其処いら待って貰うだけの話だもの。」
「とにかくお返ししあんす。」と言って、
安藤は手持無沙汰に自分の
卓に帰った。
「
安藤先生。」と、
東川は
再喰って掛る様に呼んだ。「先生もまた、も少し何とか言方が有りそうなもんでぁねえすか? 今の様でぁ、
宛然俺に言われた
許りで返す様でぁねえすか? 先生には、
千早先生が
何れだけこの学校に要のある人だか解らねえすか?」
「ハ?」と、
安藤は目を
怖々さして
東川を見た。
意気地なしの、
能力の無い
其顔には、あり/\と当惑の色が現れている。
17/22
と、
健は、
然うして
擦った
揉んだと
果しなく
諍ってるのが、――校長の困り切ってるのが、何だか面白くなって来た。そして、ツと立って、解職願を
再校長の
卓に持って行った。
「とにかくこれは貴方に差上げて置きます。
奈何なさろうと、それは貴方の御権限ですが……」
と言いながら、
傍から留めた
秋野の言葉は聞かぬ振をして、自分の席に帰って来た。
「困りあんしたなぁ。」と、校長は両手で頭を押えた。
眇目の
東川も、意地悪い興味を覚えた様な顔をして、黙ってそれを眺めた。
秋野は
煙管の
雁首を見ながら煙草を
喫んでいる。
と、今迄何も言はずに、四人の顔を
見巡していた
孝子は、思切った様に立上った。
「出過ぎた様でございますけれども……アノ、それは私がお預り致しましょう。……
千早先生も一旦お出しになったのですから、お嫌でしょうし、それでは
安藤先生もお困りでしょうし、お役場には又、御事情がお有りなのですから……」と、心持息を
逸ませて、
呆気にとられている四人の顔を
急しく見巡した。そして、
膨りと肥った手で静かにその解職願を校長の
卓から取り上げた。
「お預りしても
宜敷うございましょうか? 出過ぎた様でございますけれど。」
「ハ? ハ。それぁ何でごあんす……」と言って、
安藤は
密と
秋野の顔色を覗った。
秋野は黙って
煙管を
咬えている。
月給から言えば、
秋野は
孝子の上である。
然し資格から言えば、同じ正教員でも一人は検定試験上りで、一人は女ながらも師範出だから、
孝子は校長の
次席なのだ。
秋野が預るとすると、男だから、
且つは
土地者だけに
種々な関係があって、
屹度何かの
反響が起る。
孝子はそれも考えたのだ。そして、
「私の様な
無能者がお預りしていると、一番安全でございます。ホヽヽヽ。」
と、取ってつけた様に笑いながら、校長の返事も待たず、その八つ折りの紙を
袴の間に
挟んで、自分の席に復した。その顔はポウッと
赧らんでいた。
常にない
其行動を、
健は目を
円くして眺めた。
「成程。」
18/22
と、その時
東川は
膝を叩いた。「
並木先生は偉い。
出来した、出来した、なぁる程それが一番だ。」
と言いながら
健の方を向いて、
「
千早先生も、それなら
可がべす?」
「
並木先生。」と
健は呼んだ。
「マ、マ。」と
東川は手を挙げてそれを制した。「マ、これで
可いでば。これで俺の役目も済んだというもんだ。ハヽヽヽ。」
そして、急に調子を変えて、
「時に、
安藤先生。今日の新入学者は何人位ごあんすか?」
「ハ?……えゝと……えゝと、」と、校長は
周章いてしまって、無理に思出すという様に眉を
萃めた。「四十八名でごあんす。
然うでごあんしたなす。
並木さん?」
「ハ。」
「四十八名すか? それで例年に比べて多い方すか、少い方すか?」
話題は変ってしまった。
「
秋野先生、」
と言いながら、胡麻塩頭の、少し腰の曲った小使が入って来た。
「お家から
迎えが来たぁす。」
「
然うか。何用だべな。」と、
秋野は小使と一緒に出て行った。
腕組をして
眤と考込んでいた
健は、その時ツと立上った。
「お先に失礼します。」
「
然うすか?」と、人々はその顔――
屹【険しく】と口を結んだ、額の広い、その顔を見上げた。
「左様なら。」
健は玄関を出た。処々乾きかゝっている赤土の運動場には、今年初めての
黄い蝶々が二つ、フワ/\と
縺れて低く舞っている。隅の方には、
柵を潜って来た四五羽の
鶏が、コツ/\と遊んでいた。
太い丸太の
尖を円めて二本植えた、校門の
辺へ来ると、
何れ女生徒の
遺失したものであろう、小さい赤
櫛が一つ泥の中に落ちていた。
健はそれを足駄の歯で動かしてみた。櫛は二つに折れていた。
19/22
健が一箇年だけで
罷めるというのは、
渠が最初、知合の郡視学に会って、昔自分の学んだ郷里の学校に出てみたい、と申込んだ時から、その一箇年の在職中も、常々言っていた事で、又、
渠自身は勿論、
渠を知っているだけの人は、誰一人、
健を片田舎の小学教師などで埋もれてしまう男とは思っていなかった。
小い時分から
覇気【意気ごみ】の
壮んな、才気に溢れた、一時は東京に出て、まだ
二十にも足らぬ齢で著書の一つも出した
渠――その頃 数少き 年少詩人の一人に、
千早林鳥の名のあった事は、今でも記憶している人も有ろう【作者の啄木自身がそう(別名で投稿)していた】。――が、
侘しい百姓村の単調な
其日々々を、朝から晩まで、熱心に、又楽し相に、育ち
卑しき
涕垂しの
児女等を対手に送っているのは、何も知らぬ村の
老女達の目にさえ、不思議にも詰らなくも見えていた。
何れ
何事かやり出すだろう! それは、その一箇年の間の、
四周の人の
渠に対する思惑であった。
加之、
年老った両親と、若い妻と、妹と、生れた
許りの
女児と、それに
渠を合せて六人の家族は、いかに生活費の
費らぬ片田舎とは言え、又、
倹約家の母がいかに
倹ってみても、
唯八円の月給では到底喰って行けなかった。女三人の手で
裁縫物など引受けて
遣ってもいたが、それとても狭い村だから、月に一円五十銭の
収入は
覚束ない。
そして、もう六十に手の
達いた父の
乗雲は、
家の
惨状を見るに見かねて、それかと言って何一つ家計の
補助になる様な事も出来ず、若い時は雲水【諸国を修行して歩く僧】もして歩いた僧侶上りの、思切りよく
飄然と家出をしてしまって、この頃
漸く居処が
確まった様な
状態であった。
健でないにしたところが、必ず、何かもっと
収入の多い職業を見付けねば ならなかったのだ。
「
健や、四月になったら学校は
罷めて、
何処さか行ぐべぁがな?」
と、
渠の母親――背中の方が頭よりも高い程 腰の曲った、極く小柄な
渠の母親は、時々心配相に
恁う言った。
「あゝ、行くさ。」と、
其度渠はこんな返事をしていた。
「
何処さ?」
「東京。」
東京へ行く! 行って
奈何する?
渠は以前の経験で、多少は
其名を成していても、詩では到底生活されぬ事を知っていた。
且つは又、
此頃の
健には
些とも作詩の
興がなかった。
小説を書こう、という希望は、大分長い間
健の胸にあった。初めて書いてみたのは、去年の夏、もう暑中休暇に間のない頃であった。
20/22
『面影』というのがそれで、昼は学校に出ながら、四日続け様に徹夜して百四十何枚を
書了えると、
渠はそれを東京の知人に送った。十二三日経って、原稿はそのまま帰って来た。また別の人に送って、また帰って来た。三度目に送る時は、四銭の送料はあったけれども、添えてやる手紙の郵税が無かった。
健は、何十通の古手紙を出してみて、
漸々一枚、
消印の
逸れている郵券を見つけ出した。そしてそれを貼って送った。
或雨の降る日であった。妻の
敏子は、
到頭金【どうしても必要になる金】にならなかった原稿の、包紙の雨に濡れたのを持って、
渠の居間にしている
穢しい二階に上って来た。
「また帰って来たのか? アハヽヽヽ。」
と
渠は笑った。そして、そのまま本箱の中に投げ込んで、二度と出して見ようともしなかった。
何時の間にか、
渠は自信というものを失っていた。
然しそれは、
渠自身も、
四周の人も気が付かなかった。
そして、前夜、短い手紙でも書く様に、何気なくスラスラと解職願を書きながらも、学校を
罷めて
奈何するという決心はなかったのだ。
健は、
例の様に
亭乎とした体を少し
反身に、
確乎した
歩調で歩いて、行き合う
児女等の会釈に微笑みながらも、始終
思慮深い眼付をして、
「
罷めても食えぬし、
罷めなくても食えぬ……。」
と、その事
許り思っていた。
家へ入ると、
通し庭の
壁側に据えた小形の
竈の前に小さく
蹲んで、
干菜でも煮るらしく、鍋の下を焚いていた母親が、
「帰ったか。お
腹が減ったったべぁな?」
と、
強いて作った様な笑顔を見せた。今が今まで我家の
将来でも考えて、胸が
塞っていたのであろう。
縞目【色と色との境目】も見えぬ
洗晒しの
双子の
筒袖の、袖口の
擦切れたのを着ていて、白髪交りの頭に
冠った浅黄の手拭の上には、白く灰がかゝっていた。
「
然うでもない。」
と言って、
渠は足駄を脱いだ。
上框には妻の
敏子が、垢着いた木綿物の上に
女児を
負って、顔にかゝるほつれ毛を気にしながら、ランプの
火屋【ガラス製の筒】を
研いていた。
「今夜は客があるぞ、
屹度。」
「
誰方?」
それには答えないで、
「あゝ、今日は
急しかった。」
と言いながら、
健は勢いよくドン/\
梯子を上って行った。
21/22
(その一、終)
(予が今までに書いたものは、自分でも忘れたい、人にも忘れて貰いたい、そして、予は今、予にとっての新らしい覚悟を以てこの長編を書き出してみた。他日になったら、また、この作をも忘れたく、忘れて貰いたくなる時があるかも知れぬ。――啄木)
(『スバル』明治四十二年二月号)
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
底本の親本:「スバル 第二号」
1909(明治42)年2月1日発行
初出:「スバル 第二号」
1909(明治42)年2月1日発行
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2008年10月18日作成
2012年9月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、
シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。感謝致します。
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