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垂水たるみ
神西清

 二十年ほども昔のこと、垂水【神戸市垂水と思われる】の山寄りの、一めんの松林におおわれた谷あいを占める五泉家の別荘が、幾年このかた絶えて見せなかった静かなさざめきを立てていた。その夏浅いころ、別荘の古びた冠木門かぶきもん【柱の上に横木を渡した門】を、定紋じょうもん【家紋】つきの自動車に運ばれて来た二人の人物が、くぐって姿を消したのである。その日ののち、通りかかる里の人々の目は、崩れかけた築地ついじ【土塀】のひま【すきま】から、松林の奥に久方ぶりの燭火しょっか【ともしび】のかすかにまたたくのを見た。
 丁度その年の秋の末に、五泉家のごく身近かには、一つの婚姻がかねての約束どおり果されようとしていた。では、立ち返ったさざめきは、直接それにるものであったろうか。いや、決して。婚姻がこの別荘に与えようとしていた影響は、余所目よそめ【人目】にうつるそれほどに単純なものではなかった。仰々しい心根の人なら、たやすく苦痛のうめきをあげたに相違ない不図ふとした過失からの責苦が、其処そこの住み手を捉えていたのであった。ただ、糸のもつれは、つつしみを無邪気な第二の天性にまで押しすすめている の別荘の人々の心の奥に宿ったため、そのままに破れ築地の内側に埋もれてしまい、今も昔も変りない世の人心を喜ばせるための、公然とした取沙汰にならなかったまでである。これには勿論、もう一つの理由として、二十年をさかのぼった頃のまだまだ物静かな時代の相も、一応は考えに入れる必要があろうけれども。……
 五泉男爵夫人 李子ももこは、厚母伯爵家の出であった。彼女は十八歳で輿入こしいれしてこのかた九年のあいだ、まだ一人の子もなかった。それは一に彼女の病弱に帰せられていた。
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のみならず、彼女がその故に暗々あんあんに【ひそかに】五泉家の京都の本宅を遠ざけられる事になった一種の乱倫らんりん【内輪もめ】も、たといそれが形影けいえい相伴あいともなはぬ【夫婦の仲が良くない】もので、実際はむしろ男爵自身の乱行の反映と見た方が正しかったにせよ、やはり幾分は彼女の病弱のせいにして いいように考えられる。事実、病弱こそは、静養に名を借りたこの追放のための公けの理由ではなかったのか。……まだ、あらゆる事物の平俗化が充分でなかった一時代前の貴族社会には、病弱を唯一の理由として、恐らく永遠性をさえ帯びた【血筋の存続を意とする】別居へと、その嫁を追いやった五泉家の後室こうしつ【未亡人】のような毅然きぜんたる無慈悲さは、よく見受けられたものである。つまりは、世に堪える気魄きはくである。
 こうして、久しい間 見棄てられていた五泉家の垂水の別荘は、朽ち傾いた昔ながらの冠木門を開いて、この年若い男爵夫人を迎え入れることになったが、移り住んだのは彼女一人ではなく、曽根と呼ばれる青年が同じ自動車の踏段を踏んで姿を現した。は五泉家にとって遠い姻戚いんせき【俗にいう義理の関係】に当る、今は死に絶えた或る一族の遺子であった。彼は幼い頃から五泉家に引取られて成長したのであったし、また彼が、厚母伯爵家の当主である喬彦たかひこの妹麻子と殆ど生れ落ちるとからの許嫁いいなずけの間柄であり、この厚母兄弟が当時須磨寺の里に住んでいたことが併せて、彼の同行を極めて自然なものにしたのであった。そのうえ、十九歳の夏を迎えた厚母麻子と彼との結婚の日取までが、二人の知らぬ遠い昔に何人かの手に依って定められていて、前にも言ったように もうその秋に迫っていた。
 曽根が垂水に移ることになったについても、五泉家の後室の密やかな下心の動きを探ることが出来る。彼はこの家に引取られて人となったものの、その受けた待遇は一種奇妙なものであった。
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手早てばやに言えば、彼は或る敬遠【表面では敬う態度で、実際にはかかわりを持たないようにする】のさびしさを味いながら成長したのである。何がその原因なのか、一時代前のことは彼自身も知らぬ。それにせよ、表面にあらわれた瑣事さじちょうしても【ちょっとしたことからしても】、尊重されているのは彼自身ではなく、その偶然に生をけた「家系」の形骸であるのを察するには足りた。このような生れながらの差別けじめが、或る時には彼の胸に加えられる抑圧となり、或る時には鳩尾みぞおちの辺りを撫でさする 取澄とりすました 柔媚じゅうびへつらい【すました顔で、媚びるように柔らかく振る舞いながら、こびへつらう態度】となった。彼は次第にこの待遇に慣れて行った。と言うのは、彼の心のうちに、貴族社会の冷やかなほど筋目正しい秩序に育てられて、顕貴ときめき【けんき:高い地位】――特にそれが装うあらゆる何気ない幸福の表情の根によこたわる一種の密かな特権に向けて、彼の侮蔑ぶべつと野心とが冥々めいめいうち【知らず知らずのうち】に芽生え、極く自然な生長を遂げて行ったというほどの意味である。侮蔑によって そそられながら、彼の欲望はかなり強いものになっていた。その為、数年まえ同志社に入学した春ごろ、初めて公然と厚母麻子との婚約関係を後室から告げ聴かされたときにも、彼は ほとんど何の不満も満足も感じはしなかった。すべてが当然とも言えぬ、取るに足らぬことに思われた。彼の死んだ家系が一人の伯爵家の娘に値するなら、彼自らの力であがなえる【手に入れられる】ものは果して何であろうか。この想像の中に、彼のあらゆるひがみもおごりも、また いらだたしさもが発している。曽根はこの登攀とうはん【険しい岩壁などをよじ登り】についての告知を、そ知らぬ顔で目をつむって聞いた。……何故なら彼にあって一つの登攀は、反抗によって蒼ざめた彼の前額ぜんがく【おでこ】にさらに一抹の蒼白を加える、新たな取留めのない欲望の誕生であったから。
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 ……こうした約束の錯綜の姿に、読者は定めし或るわずらわしさを感じられるに違いない。けれど どうぞ、此等これらの人物の性格の底に、暗い術策のようなものは何も期待しないで戴きたいものである。そして もし、そのような影が ほの見えることがあったとしても、それはひとえに私の筆のたどたどしさに帰して戴きたい。何故なら、この物語の人物たちは、自らの性格の複雑さに何のわずらいも感じない人達であったから。――むしろ複雑さこそは、彼等をわざとらしさから救うのであった。つまり彼等は、あらゆる陰謀の不自由さを苦にするどころか、その生れながらの優しい気品なり気位なりにって、却ってそれを人の世のなだらかな流れと観ずる人達であった。この伝統的な美質のお蔭で、彼等の心は いつも春のようにおっとりしていた。

 李子夫人がを伴って垂水の別荘の主となったのは、六月も半ば過ぎたころであった。その年は空梅雨で、早目に澄みかえった夏空の藍が、はげしい炎暑を約束していた。その日から二た月が過ぎた。それにつれて曽根家と厚母伯爵家の婚姻の日は近づいた。けれど彼等には相変らずの安穏な日々が続いているらしく見えた。もともと、婚姻とは彼等にとってただ厳かな儀式、いはば何者かの意志によって定められたその日を果たす、と言うだけのことに過ぎなかった。もとより彼等がそんな不躾ぶしつけな考えを口にのぼせる人達でなかったことは言うまでもないが、またそれだけに、婚姻という想像に何の期待も何の不安も感ぜぬ、殆ど徹底した冷たい心の持主であったのは事実である。垂水の家で、また須磨寺の家で、麻子とは屡々しばしば顔を合せた。昔、厚母の家がまだ二条にあったころ、幼い二人はよく法要や誕生祝いの席で隣合せに坐ったものであった。いまは、彼女のにわかに大人びた姿を見て、内心におどろくのであった。麻子の方では、が少しも変っていないのを発見するのであった。
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しかしその場には必ず李子か、さもなければ喬彦つらなっていたので、近い未来の夫婦があらかじめ想思の間柄になるような機会は決して来なかった。いやむしろ、そのような機会を避けていたのは李子でも喬彦でもなく、かえって当事者の二人の方であったろう。
 二人が特別な間柄を意識して対座するのは、その夏がはじめてであったけれども、といって彼等の表情に、何かとりたてて目新らしい感情の動きが見られたのでもなかった。が肉づいた肩先を揺すって鷹揚おうよう【おっとりとして上品】な笑いを波だたせると、麻子もやがて同じく鷹揚な微笑を眼許にたたえてそれにこたえた。二人の羞恥しゅうちは主に、自分が不図して相手より先に衿持きょうじ【プライド】を失いはしまいかという心遣いの方に向けられていた。……このような安穏な日々に、の心が傾いて行った先はと言えば、それはむしろ李子夫人の方へであった。
 彼は厚母麻子に対するとき、同族としての態度に少しのひけ目も感ぜずに居られたが、李子に対しては、これまで彼が五泉家で受けていた待遇のさせる業でもあろうか、何とはなしに自分が一段低い族の生れのような気がしてならなかった。この内心の差別けじめが生れ出る根に横たわる秘密へと向けられた興味と渇望とは、彼のうちに次第に強くなりまさった。李子夫人の方では決して、にそうしたさげすみをいだいていたわけではない。
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夫人が生れつき持っていた平安な無関心さはしかし、焦慮しょうりょ【いらだち】を消極的にむちうつのであった。
 或る日のこと、長い炎暑の一日の終りを告げる ものの十分余りの通り雨が馳せ過ぎたあとで、は自分の居間に充てられた離れの縁に籐椅子を持ち出して、暮れ残る空の明るさに心を吸いとられていた。この離れの間は、母屋とは長い渡殿わたどの【渡り廊下】で結ばれて、四囲しい【周囲】に迫る丈の高い松樹の影に囲まれていた。南に面して月見草の咲く僅かな芝生があり、その尽きるあたりの丘のうえには、四阿あずまやが夕空の青を吸いとって黒ずんで見えた。名残の点滴【雨だれ】が、時たま松蔭の柔かな土に かすかな音を立てては滲み入った。ふとは、四阿を抜けて白い浴衣姿の李子夫人が丘を下りるのを見た。夫人は、黄色い花の間の夕闇を縫って近づいて来る。彼女をこんな光線の中に見出すのは、には初めてであった。夫人の姿に何か珍らしい美が匂っているように思われて、彼はひそかに籐椅子をきしませて、その方を見やった。
何を御覧になって?」と、芝生の中頃から李子は気置きのない声で尋ねかけた、「また何かむずかしい考えごとでも遊ばして?
 彼女の声には思い構えぬ【思いも寄らぬ】羞恥に打たれてたじろいだ。彼がをやっていた先は、夫人の姿のうえではなかったのか。それも何かしら新しい意味を籠めて。……それと同時に彼は見出すのであった、夫人がこれ迄見たことのない簡素な引っつめ髪に結っていることを。自分を捉えていた新しい感情は、ただその髪の与えた印象に依るものに過ぎないことに自分を説き伏せながら、彼はわれにもなく言った。――
お髪が変ったので別の方かと思いました。随分お若く見えたので。
 夫人はそれには微笑で答えながら、団扇うちわの音を立てた。軒端のきばの夕闇に新しい湯の香が漂って、その匂いが不図 彼に、或る無念な想像を起させるのであった。五泉家の長い間の風習として、彼のお湯の順番はいつも夫人のあとであった。彼女は垂水の別荘に移ってからも、この風習を棄てなかった。それは恐らく、彼女のおっとりした生れつきでは気附かぬ事柄だったに違いない。
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このような些細な順序が、成長した青年の心にさげすみを感じさせ ひがみ心を抱かせることには。けれど今、を波だたせたのは、夫人の身の廻りに漂う湯の香が、彼に依然とした無念さを呼びさましながら、しかもそのしおからい気持の裏には、或るほのかなよろこびをいなみ得ぬ【否定できない】われとわが心の姿についてであった。彼は自らに問うた、――これは蔑みにれた心であろうか、それとも美に負けた心であろうか。……
お先きに」と夫人が思い出したように言い継いだ、「すこしお加減がぬるいので、いま燃させて差上げましたわ。もう少しお待ちになって。……まあ大変な蚊! 蚊りをお焚きになっては。
 が蚊遣りに火を入れているあいだ、夫人は軒端に佇んで、珍らしく京都の話をはじめた。五泉家の古びた邸は草深い御室おむろ【京都の地名】にあった。手紙でも来て、その日は久し振りで京都が彼女の心を占めていたのであろう。男爵は暫く比叡山に参籠さんろう【寺院にこもる】しているという話であった。
だんだんお爺さんになって、お寺籠りがよく似合うようになって……」と夫人はかすかな非難を漂わせながら笑った。それは、過ぎた日の事とはまだ言えぬ、良人の素行に向けられたものに違いなかった。が言った。
お爺さんのお配偶つれあいなら、お婆さまではありませんか。そろそろ そういうお心掛けになられたら?……
ま、様のお口のお悪いこと。いつの間にそんなことお覚え遊ばして?」夫人はわかやいだ【若々しい】笑声を立ててふと口籠ったが、それなり歌うように言い棄てた、「あのひとはお爺さん、けれど私は若者!
 一瞬、いとけなさ【幼さ】が不自然に揺れたようであった。それも直ぐ、これというあらわれもなしに消えた。
 やがて夫人がにお湯をすすめて、再び月見草の丘をのぼって行ったあとでも、は大分長いあいだ籐椅子を動かなかった。彼にはこの夕暮ほど、夫人の姿が近しく思われたことがなかった。彼は夫人の秘密に、遂に一足を近づいたのを感じた。
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しかしこのような心の距離の変化はごく陰微いんび【外に現れず分かりにくい】なものであったので、李子さとられるわけがなかった。不思議な眼のさとさで、それを間もなく見破ったのは、却って須磨寺にいる厚母喬彦であった。とはいえ、彼の持つこのような眼光は、よし妹への肉身の愛の深さのなす作用を考えに入れるにせよ、余りに敏すぎはしまいか。
 確かに、喬彦の心がそれほどに敏い嗅覚をそなえて【備えて】いたのは、嫉妬のさせる業にほかならなかった。彼の貴族の子としての早熟さは、まだ中学の生徒だった頃に早くも、父伯爵の手文庫の底から、家系に関する一つの秘事を探り出させていた。それは一通の古びた手紙であったが、それにると、自分より二歳の年長でしかない叔母の李子は、実は叔母でも何でもないのであった。それのみか、古手紙からおぼろに察せられる所によれば、彼女の出生は祖父の不図した不行跡ふぎょうせきにさえ、少くも直接には依るものでなく、全く縁もゆかりもない京都の或るいやしい陶物師すえものし【陶器職人】の娘でしかなかった。それが父伯爵の実妹として登籍とうせきされた事情に至っては、稚い喬彦の理解の外にあった。とまれ、美しい叔母は赤の他人であった! しかも賤しい家の出ではないか。この無邪気な忿懣ふんまん【いらいら】が、やがて成長して危険な年齢を迎えた喬彦の心のなかで、或る卑しい欲望に変形して行ったのは言うまでもない。その日ごろ彼が李子に注いでいたを、もし今思い出すなら、彼自身ですら自己嫌悪に陥らずには居られまいと思われる。彼はその欲望を達する手段として、手文庫の秘事を利用しようとさえした。けれどその時には、恐らく父の死の前後に焼却されたのでもあろうか、例の手紙はどこにも発見されなかった。……
 こうして、喬彦の恋は満たされないままに残った。
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暗い炎は殆ど消え失せたもののように見えた。それがいま数年を隔てて、李子が垂水に移って互いの生活が間近になるにつれ、ふたたび穂をもたげたのであった。喬彦李子の美をふたたび発見することになったのは、曽根の瞳をとおしてである。彼は李子を直接に見るときには、憎悪と蔑みをしか感じなかった。けれどの眼の奥に、日毎に色を変えながら昂まってゆく感情のほのめきを見てとる時、喬彦の心を激しい嫉妬がさいなむのであった。そして彼の嫉妬は、眠りかけた昔の恋を不思議な形に変えて呼びさました。
 夏山に蝉の音の満ちるころ、麻子の新しい衣装の柄選みの相談役に、李子は須磨寺の家に招かれた。帰りは夜になって、喬彦が送って来た。鉄道線路を越して坂道を垂水の別荘に近づいたとき、喬彦はふと傍の松原のなかへ躍るように踏込んだ。止ってはまた二三間ほど粗々しく走った。その思いがけぬ動作に、李子は立ちどまって闇をすかした。余程遠くへ行ったろうと思った彼の姿は、そのあたり ひとしお闇の色濃く見える老樹の幹にもたれて、思いがけぬ近さにあった。
どうなすって、喬さん李子の声に心やすい哀願がにじんだ、「犬でもいて?
いや、何でもない。ちょっと思い出したことが……」はげしく、制するように彼が答えた。彼もまた、何かに怯えているようであった。
 喬彦燐寸マッチをすった。赤い火光ほめきが、彼の秀でた鼻のあたりをくっきりとくまどった。
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火は投げ棄てられてからも、暫くひこばえ【根元の若芽】の中で燃えて、やがて尽きた。風がわたって、五色山の底しれぬ松籟しょうらい【松のこずえ に吹く風】が四囲を揺すった。夜道に慣れぬ李子の心に、その松山の影までが かつて見たこともないほど巨大なものに思われた。彼女は大揺れに揺れる闇の影響で、自分も自分たちも だんだん悪者に似て来るのを感じた。二人とも黙っていた。風が通り過ぎて、四囲がもとのすがすがしい静もりに返った中に、ふと喬彦の笑声がうつろ【うつろ】に響いた。
いやな喬さん――李子喬彦の笑いの余韻を急いで拭きとろうとするかのように言った、
さ、もう行きましょう。遅くなりますよ。
 彼がようやく松原を出て来たのは、それから三分ほどもたった後であった。李子は並んで歩きはじめた彼の顔をのぞき込み、蟀谷こめかみに太い青筋の浮き出ているのを見た。これは彼女もよく知っている、甥の時たまの激しい癇癖かんぺき癇癪かんしゃく】の発作の徴しであった。して見れば、彼が松原にかくれたのは、何か只事でない興奮を抑えるためなのである。だが、何なのだろうか? 甥をいつまでも子供と信じていた李子にとって、それが喬彦の負けじ魂によって辛うじて抑圧された情欲の発作であろうなどとは、もとより思いも及ばなかった。

 しかし、喬彦がその夜くぐり抜けたと自ら信じた危機は、それで終ってはいなかった。そしてこの内心の闘いがようやく彼の心のらち【一線】を越えて立ち現れたとき、それは情欲の上に蔑みと憎悪とが勝利を占めた形に於いてであった。……こうして、李子は或る晩、甥からの初めての手紙を受けとったのである。
 手紙の文字は、正しい筆遣いにもかかわらず、それではおおいかくせぬ乱れの跡をとどめていた。
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読みすすむにつれ、夫人の眼はきらきらして、美しい唇が引きつるように歪むのであった。喬彦は昔の手文庫の秘密について書いてよこしたのである。だがその文面は、李子の出をあばいてこれを罰するのではなしに、却って自分が子供のときに犯した秘事の告白であるかのように見えた。むしろそれは、彼が望んだように厚母家の名誉にかけた威嚇ではなしに、厚母一族の不純さの懺悔ざんげとしか見えなかった。喬彦は一たい何に目が暗んで、これほどのことを見境すら附かなくなったのであろう? それとも、彼はこの手紙を手引にして、何かを彼女にねだろうと企らんでいるのか知ら。五泉家にうとまれ、荒れ果てた別荘へ追いやられている現在の彼女から。……とまれ、李子がこの不可解な手紙を読み終えたときに得たのは、ひろびろとした呼吸感であった。今まで厚母家の一人として、知らず識らず背負っていた虚飾のかせ【束縛】が解け去るのであった。この手紙に遠廻しに語られている遠い昔の事柄がもし本当なら、彼女は逆に喬彦の名誉にかけて彼をおどす【脅す】ことが出来るのではないか。つまり、手紙が彼女に宣告したのは、敗北ではなくて、思いがけなく手に入った優越なのではないか。
 彼女は機械的にペンを取上げた。けれど次第に落着きを取戻すとともに その考えを振り棄てて、ペン皿のうえで甥の手紙に火を点じた。手紙が幾層かの醜く反り返った灰になるのを見澄みすました【見届けた】のち、彼女は床にはいった。間もなく不思議なほどに深い眠りが彼女を捉えていた。
 その真夜中、李子は何かするどい物音を耳にして目をさました。高い動悸が打ち、神経は一時に研ぎすましたように冴えわたった。息ぐるしい闇の中に、いま眠りと現実の境で耳にした物音は、枕許の書机のうえで手紙の灰が、冷えはじめた夜半の空気に誘われ立てた、微かな干割ひわれ【ひび割れ】の音に過ぎなかった。それと知ったあとでも、彼女はしとね【布団】のなかに半身を起したまま、凝然ぎょうぜん【じっと構えて】とその滅びた紙片の残響に聴き耳を立てていた。
 彼女は床を離れた。そして枕頭ちんとう【枕もと】の紙燭しそく【こよりに油をしみ込ませた灯火】に火を入れると、冷たい水を飲むために湯殿にとなる洗面所へと、よろめくように歩いて行った。
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夏の夜の蒸暑さが、やがて暁の清冷せいれい【澄んだ涼しさ】に代ろうとしていた。とはいえ、戸外の闇のまだまだ重く色濃い中で、油蝉あぶらぜみく声がしきりだった。冷たいコップの触感を唇の上に感じたとき、彼女のちえがはじめて目をさまし、李子はやっと自分のあらわな情感の姿をさとるのであった。李子は自分の手を見た。彼女はよろめいたのだ。今となっては何もかも もう遅すぎた。燃殻もえがらの干割れは、彼女の耳に怖ろしい復讐を囁いたのではなかったのか。紙燭を取り上げたとき、すでに彼女の指は汚れていたのではなかったのか。窓の曇硝子をとおして、彼女は戸外の闇の重さをはかった。
 いま李子夫人のような性格を、例えば五泉家の後室のそれに比較して見るのは、興味深いことである。後室の性格を、わば開花期に於ける貴族精神を代表するものとするなら、李子夫人のそれは没落期の一典型とは考えられまいか。それは世間一般に考えられているように、けた血の純不純に依るものではない。実際 後室にしてもが、その生家の血統をしらべつくして見て、其処そこに一筋の汚れの跡もないと誰が断言するだろうか。それのみか、貴族階級を流れる血が最も汚れたものでないと誰が断言するだろうか。後室に一生を毅然とした挙止きょし【立ち居振る舞い】で貫かせたのは、そしてあらゆる背徳はいとくを清浄にさえ変貌させる大きな意志の力をふるわせたのは、血のさせる業ではなかった。それは、あらゆる平俗化をふせぎとめる戦いへと貴族階級を招いた、あの後天的な伝統のの強さに依るものだった。言い換えるなら、伝統が血統を圧し伏せていたのである。これに反して李子夫人の場合は、時代の流れにつれて朽ちかけていた伝統が、もろくも血統にその席を譲ったのであった。自分の生れの秘密を知った瞬間、彼女はすでに血の蛇身に誘われて、快い闇に転落して行ったのだ。
 李子は熱した唇をつよく拭いた。それは冷水の刺激によって一しお鮮紅に燃え立つようであった。彼女は わななく指に紙燭を取りあげた。
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やがて灯影が彼女の寝間とは反対側に折れて、離れへ導く渡殿を仄々ほのぼのと渡って行くのが見えた。彼女の秘めた足どりは安らかな夢の敷物を踏むように。……

 二た月の夜と日が流れた。垂水の別荘にも須磨寺の家にも、余所目よそめ【人目】には何の変りも見えなかった。結婚の日の迫るにつれて人々の往き来は繁くなって行ったが、別に幸福の色が濃くなりまさったというわけでもない。そして、定めの日取りを違えずに曽根家と厚母家の結婚披露が、神戸の或る古めかしいホテルで催された。
 李子喬彦の席は斜めに向い合っていたけれど、松に蘭をあしらった大きな水盤に遮られて、お互いの顔は見えなかった。正面のの席と李子の間には何の遮るものもなかった。その空間をの方から、するどいながら清らかな視線が絶え間なく流れた。李子は、この結婚の席でほとんど半年ぶりの対面をした良人の、取りつくろった会話につつましく応えながら、時おり眼をあげて遥かなむくいる【報いる】のであった。やがて乾杯のとき、はじめて松と蘭の上に喬彦の蒼白な顔があらわれた。しかし彼の気むずかしげな眼は、李子を避けて合うことがなかった。



底本:「雪の宿り 神西清小説セレクション」港の人
   2008(平成20)年10月5日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集 第二巻」文治堂書店
   1962(昭和37)年6月21日
初出:「セルパン」
   1933(昭和8)年3月号
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2012年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
大変ありがとうございました。感謝致します。(シン文庫追記)
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