序文:ゆく河の流れと人の住まい
川の流れは絶えることなく続いているが、しかも同じ水ではない。淀みに浮かぶ泡は、消えたり できたりして、長く とどまることがない。この世に生きる人や、その住まいも、ちょうどこれと同じである。
美しく飾られた都の中に、軒を並べて屋根の高さを競い合うように建っている、身分の高い人も 低い人も 住む家々は、代々続いて尽きることがないように見えるが、本当にそうなのかと確かめてみると、昔からそのまま残っている家はほとんどない。ある家は去年焼けて今年建て直され、ある家は大きな家が滅びて小さな家になっている。
そこに住む人もまた同じである。場所は変わらず、人も多くいるけれど、昔見た人は、二、三十人の中に、わずかに一人か二人いるだけである。朝に死に、夕方に生まれるというこの世の習いは、まるで水の泡のようなものだ。
わからない。生まれては死んでいく人間は、どこから来て、どこへ去っていくのか。またわからない。この仮の宿(この世の住まい)のために、いったい誰のために心を悩ませ、何によって目を楽しませているのか。
その家の主人と住まいとが、どちらが先に消えていくか競うように移り変わる様子は、いわば朝顔につく露と何も変わらない。ある場合は、露が先に落ちて花が残る。残るとはいっても、朝日が昇れば枯れてしまう。またある場合は、花がしぼんでも露はまだ消えずに残る。残るとはいっても、夕方まで持ちこたえることはない。
第一の災厄:安元の火(大火)
だいたい物事の道理が わかるようになってから このかた、四十年以上の年月を過ごす間に、世の不思議な出来事を見ることが、しばしばあった。
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昔、安元三年四月二十八日であったろうか、風が激しく吹いて穏やかでなかった夜、戌の刻(午後8時ごろ)に、都の東南(辰巳)の方から火が出て、西北(
戌亥)の方まで燃え広がった。
ついには、
朱雀門・
大極殿・
大学寮・
民部省にまで延焼し、わずか一晩のうちに、すべて灰になってしまった。火元は、
樋口富小路とかいう所で、病人を泊めていた仮小屋から出火したのだということである。
吹き荒れる風にあおられて、火はあちらこちらへと移っていき、その広がり方は、まるで扇を広げたように末広がりになった。遠くの家では煙にむせび、近くでは炎が地面に吹きつけられるように燃え広がった。
空には灰が吹き上げられ、火の光に照らされて、あたり一面が真っ赤になった。風に耐えきれずに吹きちぎられた炎は、まるで飛ぶようにして一、二町(約100〜200m)も越えて燃え移っていく。その中にいる人々が、どうして正気でいられようか。
ある者は煙にむせて倒れ、ある者は炎に巻き込まれて たちまち死んでしまう。また、かろうじて身ひとつで逃げ出せた人もいたが、財産を持ち出すことまでは できなかった。
金銀や宝石など、あらゆる財宝は、すべて灰になってしまった。その損失はどれほどであったことか、見当もつかない。この火事で、
公卿(身分の高い貴族)の家だけでも十六軒が焼けた。ましてそのほかの家については、数えきれない。
都全体のうち、三分の二にも及んだということである。男女で死んだ者は数千人、馬や牛の類も、どれほど死んだか限りがない。人々の営みは どれも むなしいものだが、とりわけこのように危険な都の中に家を建てるために、財産を費やし、心を悩ませることは、この上なく無意味なことであるに違いない。
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第二の災厄:治承の辻風(竜巻)
また、
治承四年四月二十九日ごろ、
中御門京極のあたりから、大きなつむじ風が起こって、六条あたりまで、激しく吹き荒れたことがあった。三、四町(約300〜400メートル)にわたって吹き荒れる中で、その中にあった家々は、大きいものも 小さいものも、一つとして壊れないものはなかった。
すっかり平らに倒れてしまった家もあれば、柱や梁だけが残っている ものもあった。また、門を吹き飛ばして四、五町も先に落としたり、垣根を吹き払って、隣の家と一続きにしてしまったりした。
言うまでもなく、家の中の財宝も、すべて空に吹き上げられ、
檜皮(ひわだ)葺きの板などは、冬の木の葉が風に乱れ散るようであった。
土ぼこりが煙のように吹き上げられたので、まったく何も見えない。すさまじい音が鳴り響いて、人の声も聞こえない。あの地獄の激しい風であっても、これほどではないだろうと思われるほどであった。家が壊れるだけでなく、それを取り繕おうとする間に、けがをして体を損ない、障害を負った者も数えきれない。この風は南西(
未申)の方へと移っていき、多くの人々の嘆きを引き起こした。
つむじ風は ふだんから吹くものではあるが、これほどのことがあろうか、いや、ない。これは ただごとではない。何かの前触れではないかと疑われた。
第三の災厄:福原遷都
また同じ年の六月ごろ、突然、都が移されてしまった。まったく思いもよらない出来事であった。そもそもこの京(京都)の始まりを聞けば、
嵯峨天皇の御代に都として定められてから、すでに数百年が経っている。
特別な理由もないのに、簡単に変えられるようなもの ではないので、このことを世の人々が、大変なことだと嘆き悲しんだ様子は、もっともなことであった。
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しかし、あれこれ言っても どうにもならず、天皇をはじめとして、大臣や公卿たちは皆、
摂津国の
難波の都へ移ってしまった。宮仕えをしているような人で、誰一人として都に残っていようとする者がいるだろうか(いや、いない)。官位に望みをかけ、主君の
庇護を頼りにしている人々は、一日でも早く移ろうと競い合っていた。
一方で、時勢に取り残され、世に受け入れられず、仕えるところのない者は、
嘆きながら都にとどまっていた。軒を並べていた人々の住まいも、日が経つにつれて荒れ果てていく。家は壊されて淀川に流され、その跡地は目の前で畑になってしまう。
人々の心もすっかり変わってしまい、ただ馬や
鞍ばかりを重んじるようになった。
牛車を使おうとする人は、もはやいない。そして、西や南の国(難波に近い地域)の領地ばかりを望み、東や北の国の荘園は好まれなくなった。
その時、たまたま用事のついでがあって、摂津国の今の都(福原)に行った。その場所の様子を見ると、土地は狭くて、都の区画(
条里)を整えるのにも十分ではない。北は山に沿って高く、南は海に近くて低くなっている。
波の音はいつも騒がしく、潮風もとりわけ激しい。
内裏は山の中にあるので、(昔の)
木の丸殿もこんな感じだったのだろうかと、かえって昔風で趣があると思われる面もあった。
日ごとに壊されては、川でも運びきれないほどに、次々と現地の元の家が流されていくが、それらはいったい どこに建てられていた のだろうかと思われるほど。そして、まだ空き地は多く、建てられている家は少ない。
もとの都はすでに荒れ果て、新しい都はまだ完成していない。生きているすべての人が、まるで浮雲のように不安定な思いを抱いていた。もともとここ(福原)に住んでいた人は 土地を失って嘆き、今新しく移り住んできた人は、建築の苦労に悩んでいる。
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道ばたを見ると、本来は
牛車に乗るべき身分の人が 馬に乗り、本来は
衣冠や
布衣を着るべき人が、
直垂(武士の服)を着ている。都の風俗は たちまち変わってしまい、まるで田舎びた武士のようになってしまった。
これは世の中が乱れる前兆だと聞いていたが、まさにその通りで、日が経つにつれて 世の中は不安定になり、人々の心も落ち着かず、民の嘆きも ついに現実のものとなったので、同じ年の冬、やはり この都(京都)へ帰られた。
しかし、壊してしまった家々はどうなってしまったのか、すべてが元通りに再建されることはなかった。
ぼんやりと伝え聞くところによると、昔の立派な天皇の御代には、人々をあわれんで国を治めておられた。すなわち、御殿の屋根に
茅を
葺き、軒さえも整えないほど質素にしていた。
民の家から煙が立たない(=生活が苦しい)様子をご覧になると、決められている税でさえも免除された。これは、民を思いやり、世の中を助けようとされたからである。今の世のありさまは、この昔と比べて考えれば よくわかることである。
第四の災厄:養和の飢渇(飢饉)
また、
養和のころであったろうか、ずいぶん昔のことなので、はっきりとは覚えていないが、二年間のあいだ、世の中は飢えに苦しみ、ひどい ありさまであった。
あるときは 春や夏に日照りが続き、またあるときは 秋や冬に大風や洪水など、よくない出来事が次々と起こって、五穀はまったく実らなかった。むなしく春に耕し、夏に植えるという営みはあっても、秋に刈り取り、冬に収穫するという当然のことは、まったくできなかった。
そのため、国々の人々は、ある者は土地を捨てて他国へ出て行き、ある者は家を捨てて 山の中に住むようになった。さまざまな
祈祷が始まり、普通ではない特別な祈りなども行われたが、まったくその効果はなかった。
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都の習いとして、何かにつけても頼りにするのは地方であるが、(食料などを)都へ運んでくる者が まったくいないので、どうして(人々が)生活を保っていくことができようか。困り果てて、さまざまな財宝を、端から捨てるように(安く)売ってみても、まったく見向きする人もいない。たまに物々交換をする場合でも、金の価値は軽くなり、粟(あわ)の価値が重くなる。
乞食は道ばたにあふれ、嘆き悲しむ声があちこちで聞こえる。前年はこのように苦しみながら暮れていった。新しい年になれば立ち直るだろうかと思ったが、その上さらに
疫病まで重なり、いっそう ひどくなって、どうしようもない状態である。
世の人は皆 飢え死にしてしまい、日が経つにつれて(その惨状が)ますます極まっていく様子は、水の少ないところで苦しむ魚のたとえの通りである。
しまいには、笠をかぶり、足を布で包み(履き物が手に入らない)、(一見すると)きちんとした身なりの者までもが、ひたすら家々を回って物乞いをするようになった。このように困り果てた人々が歩いているのかと思って見ていると、たちまちその場で倒れて死んでしまう。
築地(塀)のそばや 道ばたに飢え死にする者の数は、数えきれないほどである。死体を片づける手立てもないので、ひどい臭いが世の中に満ちあふれ、腐って変わっていくその姿は、目も当てられないほど のものが多かった。ましてや河原などでは、牛車や馬車が行き違うための道さえないほどであった。
下人(しづ)や山で働く人(山がつ)までもが 力尽きてしまい、
薪さえも不足してくると、頼る手段のない人々は、自分の家を壊して市に出て、それを売るようになる。しかし、一人が運び出した分の値段は、なお一日分の命を支えることさえ できないほどだという。
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不思議なことには、そのような薪の中に、
丹(に)や白銀・黄金の
箔などが、あちこちについて見える 木の割れ端が混じっている。これを(なぜかと)尋ねてみると、どうしようもなくなった人々が、古い寺に行って仏像を盗み、堂の内部の道具を壊して取り、それを割り砕いて(薪にしている)のだった。
このような
濁りきった悪い世に生まれ合わせて、このように 心がつらくなる行いを 目の当たりにした。
また、しみじみと哀れに思われることがあった。かけがえのない妻や夫などを持っている人は、その人への思いが強く、愛情の深い者ほど、必ず先に死んでしまう。その理由は、自分のことは後回しにして、男であれ女であれ、大切に思う相手に、たまたま乞うて手に入れた食べ物を、まず譲ってしまうからである。
だから、親子がいる場合は決まっていて、親のほうが先に死んでしまうのであった。また、母親が命尽きて倒れているのも知らないで、幼い子どもが その乳房に吸いつきながら、そばに伏している、というようなこともあった。
仁和寺に、
慈尊院の
大蔵卿隆暁法印という人がいて、このように(人々が)次々と数えきれないほど死んでいくのを悲しんで、多くの僧を集めながら、死体が目に入るたびに、その
額に『阿』の字を書いて、仏縁を結ばせるということをしていた。
その人数を知ろうとして、四、五か月ほど数えてみたところ、都の中で、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の範囲で、道ばたにある死体の数は、全部で四万二千三百余りもあった。言うまでもなく、その前後に死んだ者はさらに多く、河原や白河、西の京など、さまざまな郊外の地まで加えて言うならば、際限がないほどであろう。
まして全国(
七道)に至っては、どれほどであったか言いようもない。
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近い例では、
崇徳天皇の御代、
長承のころであろうか、このような例があったとは聞いているが、その当時の様子は知らない。(しかし今回の飢饉は)実際に目の当たりにして、まことに珍しいほどであり、また非常に悲しい出来事であった。
第五の災厄:元暦の地震
また、
元暦二年(1185年)ごろ、大きな地震があった。その様子は普通ではなかった。山は崩れて川を埋め、海は傾いて陸地を浸した。地面は裂けて水が湧き出し、岩は割れて谷へ転がり落ちた。浜辺を漕ぐ船は波に漂い、道を行く馬は足の置き場を見失ってしまう。
言うまでもなく都のあたりでは、あちこちの寺院や神社の建物は、一つとして無事なものはなかった。あるものは崩れ、あるものは倒れるうちに、土ぼこりが立ち上がって、まるで盛んに立ちのぼる煙のようであった。地面が揺れ、家が壊れる音は、雷と少しも変わらなかった。
家の中にいれば、たちまち押しつぶされそうになる。外へ走り出れば、今度は地面が割れて裂ける。羽がないので空へ逃げることもできず、龍でもないので雲に登ることもできない。さまざまな恐ろしいものの中でも、本当に恐ろしいのは、ただ地震であると感じられた。
その中で、ある武士の一人息子で、六、七歳ほどであった子が、土塀の
覆いの下に小さな家を作り、たわいもない ままごとのような遊びをしていたが、突然それが崩れて埋もれてしまい、跡形もなく押しつぶされてしまった。(遺体は)二つの目などが一寸ほど飛び出しているほどで、それを父母が抱きかかえ、声も惜しまず泣き悲しんでいる様子は、実に哀れで悲しく見えた。
子どもを失った悲しみの前には、普段は強い武士でさえ 恥も忘れてしまうのだと思われて、気の毒であり、もっともな ことだと感じられた。
このように激しく揺れることは しばらくして収まったが、その余震はしばしば絶えることがなかった。
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普段なら驚くほどの地震が、二、三十回も、揺れない日はないほど続いた。十日や二十日ほど過ぎると、だんだん間遠になり、あるいは一日に四、五回、二、三回、あるいは一日おき、二、三日に一度などとなり、おおよそ その余震は三か月ほど続いたのであろうか。
四大(地・水・火・風)のうち、水・火・風はいつも災いを起こすが、大地に関しては普段は動かないものである。昔、
斉衡のころであろうか、大地震があって、東大寺の大仏の頭が落ちるなど、大変なことがあったと聞くが、それでも今回には及ばないという。
やがて人々はみな、このどうにもならない出来事について語り合い、少しは心の不安も薄らいだように見えたが、月日が重なって年を越してしまうと、その後は言葉に出して語る人さえいなくなってしまった。
身のほどと住まいの苦しみ
そもそも、この世に生きにくいことや、わが身とすみか(住まい)のはかなく、むなしいさまは、以上に述べてきたとおりである。ましてや、置かれた境遇や身分の違いによって、心を悩ませることは、数え上げればきりがない。
権力者のそばに仕える身分の低い者は、深く喜ぶことがあっても、心から大いに楽しむことはできない。悲しみがあっても、声を上げて泣くこともできない。進退にも落ち着きなく、立ち居ふるまうたびに 恐れおののいている様子は、ちょうど雀が鷹の巣に近づいているかのようである。
貧しくして裕福な家の隣に住む者は、朝に夕に、みすぼらしい姿を恥じながら
へつらいつつ出入りする。妻や子、召し使いが(富める隣人を)うらやむ様子を見るにつけ、また富める家の人が(こちらを)軽んじる気配を感じるにつけ、心はいつも揺れ動いて、片時も安らぐことがない。
狭い土地に住めば、近くで火事が起きた時、その災いから逃れることができない。
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かといって
辺鄙な場所に住めば、行き来の不便が多く、盗賊の危険からも逃れがたい。勢力のある者は欲が深く、独り身の者は人に軽んじられる。財宝があれば心配事が多く、貧しければ嘆きは切実である。
人を頼りにすれば、わが身は他人のものとなってしまう。人を
養い
庇護すれば、心は情愛に縛られてしまう。世の習いに従えば、わが身は苦しい。かといって従わなければ、狂人のように見られる。いったいどのような場所に身を置き、どのような生き方をすれば、しばらくでもこの身を安らかに
宿し、わずかでも心を
慰めることができるというのだろうか。
出家への道のり:大原の隠遁
私はもともと、父方の祖母の家を受け継いで、長くその場所に住んでいた。その後、縁が薄れ、身も
衰え、思い出ばかりが多くなっていったので、ついにその家に住み続けることができなくなり、三十歳を過ぎてから、改めて自分の意志で一つの
庵を結んだ。
それをかつての住まいと比べると、十分の一ほどの広さにすぎない。居室だけを こしらえるのがやっとで、きちんとした建物を造るまでには及ばなかった。わずかに土塀をめぐらせてはみたものの、門を立てる手立てもない。竹を柱にして、
車宿り(簡易な屋根)とした。雪が降り風が吹くたびに、危なげに思われることも少なくなかった。場所は河原に近いため、水害の恐れも深く、白波(洪水)の不安も絶えなかった。
そのような ままならない世を念じながら(こらえながら)過ごし、心を悩ませ続けること、三十余年。その間、折々に訪れる不運を通じて、
自ずと自分の乏しい運を悟るようになった。そして五十の春を迎えるにあたり、家を出て世を捨てた。もともと妻子がいないから、捨てがたい絆もない。身に官職も
俸禄もないから、何に執着をとどめる必要もない。
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こうして、むなしく大原山の雲の中に伏して(
隠棲して)、またどれほどの春秋を重ねたことだろうか。
日野山の方丈の庵:移動する家
ここに、六十歳という
露のように消えかかる
齢に及んで、さらにまた
終の棲み家となる庵を結んだ。いわば、狩人が一夜の仮宿を作るようなもの、老いた
蚕が
繭を営むようなものである。これをかつての中ごろの住まいと比べると、また百分の一にも及ばない。
あれこれ言っているうちに、年齢は年々傾き(老いてゆき)、住まいは折々に せばまっていった。その家のありさまは、世間一般のものとは まったく似ていない。
広さはわずかに一丈四方(約3メートル四方)、高さは七尺(約2メートル)以内である。どこかに永住しようと決めているわけではないから、土地を占めて造りつけることはしない。土台を組み、屋根を
葺いて、継ぎ目ごとに掛け金をかけた。もし気に入らないことがあれば、簡単に別の場所へ移せるようにするためである。その建て替え・移転の時、どれほどの手間がかかるだろうか‥‥積み荷はわずかに荷車二台分である。車を引く人への礼のほかは、まったく別の費用も要らない。
いま
日野山の奥に身を隠してからというもの、庵の南側に簡単な日よけの
庇を差し出し、竹のすのこを敷いた。その西側に
閼伽棚(仏前に供える水を置く棚)を設け、室内では西の壁に沿って阿弥陀の画像を安置し申し上げ、沈む夕日を受けて、その
眉間の光とした。
かの
帳の扉(布の仕切り)には、
普賢菩薩と
不動明王の像を掛けた。北側の障子の上には小さな棚を設けて、黒い
皮籠を三つ四つ置いた。そこには和歌・
管絃・
往生要集などの
抄物(抜き書き・要約したもの)を入れた。その傍らに琴と琵琶をそれぞれ一張立てかけてある。いわゆる
折琴と
継ぎ琵琶というものである。
東側に沿って わらびのほどろ(枯れたわらび)を敷き、
莚を重ねて夜の寝床とした。
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東の壁に窓を開けて、そこに
文机を出してある。枕の方向には囲炉裏があり、これを
柴(雑木の小枝)を折りくべる場所としている。
庵の北側に少しばかりの土地を占めて、粗末な垣根を囲って小さな園とした。そこには さまざまな薬草を植えた。仮の庵のありさまは、このようなものである。
山居の情景と楽しみ
その場所のありさまを言えば、南に
懸樋(水を引く竹や木の
樋)があり、岩を積んで水を溜めている。雑木林が近いので、薪を拾うにも不自由しない。名を外山という。
まさきの
蔓が(古い)跡を埋め尽くしている。谷は木が繁っているが、西の方は開けて晴れている。観念(仏を心に念じること)の助けとなるものが ないわけでもない。
春は藤の
花房を見る。紫雲のように西の方へ 美しく匂い広がる。夏はほととぎすの声を聞く。ほととぎすが鳴くたびに、まるで「一緒に死出の山路(冥途への道)を行きましょう」と私に語りかけ、約束を迫っているかのように聞こえる。
秋は日暮らし(
ひぐらし)の声が耳に満ちる。この
儚い世を悲しんでいるかのように聞こえる。冬は雪をしみじみと眺める。積もっては消える そのさまは、(心に積もった)
罪障に たとえることが できそうだ。
もし念仏が面倒になり、読経に身が入らない時は、自分で休み、自分で怠けるのを妨げる人もなく、また恥ずかしく思うべき友もいない。特別に無言の行をするわけでもないが、一人でいれば口の
禍いを収めることができる。必ず
戒律を守ろうとするわけでもないが、俗世との関わりがなければ、何かにつけて破るきっかけもない。
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船が通り過ぎた後に残る白い航跡の波に、我が身を託す(消えゆく波に無常の思いを重ね合わせる)朝には、岡の屋(高台)から行き交う船を眺めて、
満誓沙弥の風情を盗み取り、もし桂の木に風が吹いて葉を鳴らす夕べには、
潯陽の江(中国の川)に思いをはせて、
源都督(
源経信)の流れを
倣う。
もし興が余れば、折々に松風の響きに
秋風楽を重ね合わせ、水の音に
流泉の曲を奏でる。芸は つたないけれども、人の耳を喜ばせよう というわけでもない。ただひとり音を調べ、ひとり
詠じて、自ら心を養うばかりである。
麓の小童との交流と遊行
また山麓に、一つの粗末な柴の庵がある。すなわち この山の番人が住む所である。そこに一人の童子がいて、時々やって来ては訪ねてくれる。もし
所在なく退屈な時は、この子を友として遊び歩く。彼は十六歳、私は六十歳、その年齢はかけ離れているけれど、心を
慰めることは これと同じである。
あるときは
茅花(ちがやの穂)を抜き、
岩梨を取る。また
ぬかご(山芋の実)を盛り、
芹を摘む。あるいは
裾野の田んぼのほとりに至って、落ち穂を拾って穂組み(束ねたもの)を作る。
もし日が うららかであれば、
嶺によじ登って、はるかに古里の空を望む。
木幡山、
伏見の里、
鳥羽、
羽束師を見渡す。景勝の地には主がいないから、心を
慰めるのに何の障りもない。
足が達者で、遠くまで行く気力のある時は、ここから峰続きに炭山を越え、笠取を過ぎて、
岩間寺に詣で、あるいは
石山寺を拝む。もしくは粟津の原を分け入って、
蝉丸翁の旧跡を訪ね、田上川を渡って、
猿丸大夫の墓を尋ねる。帰り道には、折々に桜を狩り(花を求めて歩き)、紅葉を求め、わらびを折り、木の実を拾って、一方では仏に供え、一方では家への土産とする。
もし夜が静かであれば、窓から差し込む月の光に故人を
偲び、猿の声に
袖を涙で
濡らす。
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草むらの蛍は、遠く真木の島(京都の川の中州)の
篝火かと見まがうほどで、夜明けの雨は、おのずと木の葉を吹き散らす嵐に似ている。
山鳥がほろほろと鳴くのを聞いても、父か母かと思わず疑い、峰の鹿が近くに馴れ親しんでくるにつけても、自分がどれほど世から遠ざかっているかを知る。あるいは
埋み火をかき起こして、老いの寝覚めの友とする。
恐ろしい山というわけでもないが、ふくろうの声をしみじみと聞くにつけても、山中の景色は折々に尽きることがない。まして深く思い、深く物事を知っている人にとっては、この感慨はこれだけに とどまらないであろう。
閑居の充足と世俗への視線
そもそもこの場所に住み始めた時は、ほんの一時のつもりと思っていたが、今やすでに五年を経た。仮の庵も ようやく古びた家となって、軒には
朽ち葉が深く積もり、土台には苔が生えている。
折々に都の便りを耳にすれば、この山に
籠もってから後、高貴な方々がお亡くなりになったことも 数多く聞こえてくる。まして身分の低い者たちの数に至っては、とても数え尽くして知ることができない。たびたびの火事で焼け滅びた家も、またどれほど多いことか。
ただこの仮の庵だけは、のどかで何の恐れもない。狭いとはいえ、夜は
臥す床があり、昼は居る座がある。一身を宿すには不足がない。
かに(蟹)は小さな貝殻を好む、それはよく自分の身の程を わきまえているからである。
鶚は荒磯に住む、それは人を恐れるが ゆえである。私も またこれと同じである。身の程を知り世の中を知っているならば、望まず交わらず、ただ静かなることを望みとし、憂いのないことを楽しみとする。
およそ世の人が住まいを作る ならわしは、必ずしも自分自身のために するわけではない。ある者は妻子・
眷属のために作り、ある者は親しい友人のために作る。
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またある者は主君・師匠のために、さらには財宝・馬牛のためにさえ これを作る。
私は今、わが身のために結んだのであり、人のために作ったのではない。なぜかといえば、今の世のならいと、この身のありさまとして、共に住むべき人もなく、頼むべき召し使いもいない。たとえ広く作ったとしても、誰を宿し、誰を
据えようというのか。
そもそも人の友となるものは、富める者を尊び、親密さを第一とする。必ずしも情け深い者や 誠実な者を愛するわけではない。(そのような人間を友とするくらいなら)ただ糸竹・花・月を友とするのが一番だ。
人の召し使いとなるものは、賞罰の厳しさを気にかけ、恩の厚さを重んじる。いかに
養い
慈しんでくれると言っても、気楽で
閑かなることを望むわけではない。(そのような召し使いを持つくらいなら)ただ我が身を自分自身の
奴婢とするのが一番だ。
もし何かすべきことがあれば、すなわち自ら身を使う。だるくないわけではないが、人を従え人の世話をするよりは気楽である。もし歩いて行くべきことがあれば、自ら歩く。苦しいとはいえ、馬・鞍・牛車のことで心を悩ますよりは ましである。
今この一身を二つの用に分けて使う。手は召し使いとして、足は乗り物として、よく私の心に かなっている。心もまた身の苦しみを わきまえているから、苦しい時は休ませ、達者な時は使う。使うといっても度を過ごして無理をするわけでもなく、気だるいと感じても心を乱されるわけでもない。それどころか、常に歩き常に動くことは、これ養生というものであろう。どうして いたずらに休んで いられようか。人を苦しめ 人を悩ますことは また罪業である。どうして他人の力を借りるべきであろうか。
衣食のたぐいも また同じである。
藤の衣、麻の
衾、得るにしたがって肌を覆う。野辺の
茅花、嶺の木の実(山の恵み)、わずかに命をつなぐばかりである。
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人に交わらないから、姿を恥じる
悔いもない。食べ物が乏しければ粗末ではあるけれど、それでも味を甘く感じる。
およそ このようなことは、楽しく富める人に対して言うのではない。ただ我が身一つについて、昔と今とを比べるばかりである。
一期の楽しみ
そもそも世を逃れ、身を捨ててより、恨みもなく恐れもない。命は天の運に任せて、惜しまず
厭わず、身を浮雲になぞらえて、頼まず待ちわびることもしない。一生の楽しみは、うたた寝の枕の上に極まり、生涯の望みは、折々の美しい景色の中に残っている。
そもそも
三界(仏教でいうこの世のすべて)は、ただ心一つにかかっている。心もし安らかでなければ、牛馬も
七珍(七種の宝)も何の意味もなく、宮殿も楼閣も望みようがない。今この寂しい住まい、一間の庵を、自らこれを愛している。おのずから都に出ては、乞食のようになり果てたことを 恥ずかしいとは思うけれど、帰ってここに居る時は、他の人が俗世の
塵に染まっていることを かえって哀れに思う。
もし人がこの言葉を疑うならば、魚と鳥のありさまを見よ。魚は水に飽くことなく、魚でなければ その心をどうして知ることができようか。鳥は林を求め、鳥でなければ その心を知らない。
閑居の味わいも またこのようなものである。住んでみなければ、誰が悟ることができようか。
結び:自問自答と念仏
そもそも一生という月影は傾いて、残りの命は山の端に近づいている。たちまち三途の闇に向かわんとする時、何の行いを言い訳にしようというのか。
仏が人に教えてくださる おもむきは、何事につけても執着するなということである。今この草の庵を愛することも罪とすべきであり、
閑寂に執着することも また障りとなるに違いない。どうして無用な楽しみを述べ連ねて、残り少ない命の時間を、こんなことに費やしていてよいのか。
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静かな夜明け、このような道理を思い続けて、自ら心に問いかけて言う。世を逃れて山林に入ったのは、心を落ち着かせて仏道を実践するはずであった。しかるに
汝(あなた)の姿は聖人に似ていても、心は濁りに染まっている。
住まいは かの
浄名居士の跡にならっているとはいえ、保っている修行はわずかに
周梨槃特(釈迦の弟子のひとり)の行にさえ及ばない。もしこれが貧しく
賤しい境遇が 自ずと身を悩ませているのか、はたまた迷いの心が極まって 狂わせているのか。
その時、心はまったく答えることができない。ただ かたわらに舌を動かして、頼まれもしない念仏を ふた声 み声 唱えて、やんでしまった。
時に建暦二年(1212年)、弥生(三月)の
晦日(毎月の最終日)ごろ、
桑門蓮胤(出家後の法名)、外山の庵にてこれを記す。
『月の光が入っていく山の端も、つれなく思われた。絶えることのないその光を見る術があればよいのだが』
底本:「国文大観 日記草子部」明文社
1906(明治39)年1月30日初版発行
1909(明治42)年10月12日再版発行
※このファイルは、日本文学等テキストファイル(http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/bungaku.htm)で公開されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、「国文大観 日記草子部」板倉屋書房、1903(明治36)年10月27日発行を使用しました。
※『方丈記』の本文としては、流布本系である。
※割り注を()に入れました。
※「現在通行字体の〈し〉」「志に由来する変体仮名」ともに、「し」で入力しました。
※監修者、編纂者の没年は以下の通りです。
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監修者 本居豊穎 (1913(大正2)年2月15日没)
同 木村正辞 (1913(大正2)年4月10日没)
同 小杉榲邨 (1910(明治43)年3月30日没)
同 井上頼圀 (1914(大正3)年7月3日没)
同 故落合直文 (1903(明治36)年12月16日没)
編纂者 丸岡 桂 (1919(大正8)年2月12日没)
同 松下大三郎(1935(昭和10)年5月2日没)
松下以外の没年月日は講談社学術文庫『大日本人名辞書』による。
松下の没年月日は徳田正信『近代文法図説』(明治書院)による。
編纂者等の著作権は消失している。
入力:岡島昭浩
校正:小林繁雄
2004年6月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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