現代語訳 方丈記ほうじょうき
かもの長明ちょうめい正治二年~建暦二年(1200-1212)
現代語訳:シン文庫



序文:ゆく河の流れと人の住まい
 川の流れは絶えることなく続いているが、しかも同じ水ではない。淀みに浮かぶ泡は、消えたり できたりして、長く とどまることがない。この世に生きる人や、その住まいも、ちょうどこれと同じである。
 美しく飾られた都の中に、軒を並べて屋根の高さを競い合うように建っている、身分の高い人も 低い人も 住む家々は、代々続いて尽きることがないように見えるが、本当にそうなのかと確かめてみると、昔からそのまま残っている家はほとんどない。ある家は去年焼けて今年建て直され、ある家は大きな家が滅びて小さな家になっている。
 そこに住む人もまた同じである。場所は変わらず、人も多くいるけれど、昔見た人は、二、三十人の中に、わずかに一人か二人いるだけである。朝に死に、夕方に生まれるというこの世の習いは、まるで水の泡のようなものだ。
 わからない。生まれては死んでいく人間は、どこから来て、どこへ去っていくのか。またわからない。この仮の宿(この世の住まい)のために、いったい誰のために心を悩ませ、何によって目を楽しませているのか。
 その家の主人と住まいとが、どちらが先に消えていくか競うように移り変わる様子は、いわば朝顔につく露と何も変わらない。ある場合は、露が先に落ちて花が残る。残るとはいっても、朝日が昇れば枯れてしまう。またある場合は、花がしぼんでも露はまだ消えずに残る。残るとはいっても、夕方まで持ちこたえることはない。

第一の災厄さいやく:安元の火(大火)
 だいたい物事の道理が わかるようになってから このかた、四十年以上の年月を過ごす間に、世の不思議な出来事を見ることが、しばしばあった。
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昔、安元三年四月二十八日であったろうか、風が激しく吹いて穏やかでなかった夜、戌の刻(午後8時ごろ)に、都の東南(辰巳)の方から火が出て、西北(戌亥いぬい)の方まで燃え広がった。
 ついには、朱雀門すざくもん大極殿だいごくでん大学寮民部省にまで延焼し、わずか一晩のうちに、すべて灰になってしまった。火元は、樋口富小路ひぐちとみのこうじとかいう所で、病人を泊めていた仮小屋から出火したのだということである。
 吹き荒れる風にあおられて、火はあちらこちらへと移っていき、その広がり方は、まるで扇を広げたように末広がりになった。遠くの家では煙にむせび、近くでは炎が地面に吹きつけられるように燃え広がった。
 空には灰が吹き上げられ、火の光に照らされて、あたり一面が真っ赤になった。風に耐えきれずに吹きちぎられた炎は、まるで飛ぶようにして一、二町(約100〜200m)も越えて燃え移っていく。その中にいる人々が、どうして正気でいられようか。
 ある者は煙にむせて倒れ、ある者は炎に巻き込まれて たちまち死んでしまう。また、かろうじて身ひとつで逃げ出せた人もいたが、財産を持ち出すことまでは できなかった。
 金銀や宝石など、あらゆる財宝は、すべて灰になってしまった。その損失はどれほどであったことか、見当もつかない。この火事で、公卿くぎょう(身分の高い貴族)の家だけでも十六軒が焼けた。ましてそのほかの家については、数えきれない。
 都全体のうち、三分の二にも及んだということである。男女で死んだ者は数千人、馬や牛の類も、どれほど死んだか限りがない。人々の営みは どれも むなしいものだが、とりわけこのように危険な都の中に家を建てるために、財産を費やし、心を悩ませることは、この上なく無意味なことであるに違いない。
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第二の災厄さいやく治承じしょうの辻風(竜巻)
 また、治承じしょう四年四月二十九日ごろ、中御門京極のあたりから、大きなつむじ風が起こって、六条あたりまで、激しく吹き荒れたことがあった。三、四町(約300〜400メートル)にわたって吹き荒れる中で、その中にあった家々は、大きいものも 小さいものも、一つとして壊れないものはなかった。
 すっかり平らに倒れてしまった家もあれば、柱や梁だけが残っている ものもあった。また、門を吹き飛ばして四、五町も先に落としたり、垣根を吹き払って、隣の家と一続きにしてしまったりした。
 言うまでもなく、家の中の財宝も、すべて空に吹き上げられ、檜皮(ひわだ)きの板などは、冬の木の葉が風に乱れ散るようであった。
 土ぼこりが煙のように吹き上げられたので、まったく何も見えない。すさまじい音が鳴り響いて、人の声も聞こえない。あの地獄の激しい風であっても、これほどではないだろうと思われるほどであった。家が壊れるだけでなく、それを取り繕おうとする間に、けがをして体を損ない、障害を負った者も数えきれない。この風は南西(未申ひつじさる)の方へと移っていき、多くの人々の嘆きを引き起こした。
 つむじ風は ふだんから吹くものではあるが、これほどのことがあろうか、いや、ない。これは ただごとではない。何かの前触れではないかと疑われた。

第三の災厄さいやく:福原遷都
 また同じ年の六月ごろ、突然、都が移されてしまった。まったく思いもよらない出来事であった。そもそもこの京(京都)の始まりを聞けば、嵯峨天皇の御代に都として定められてから、すでに数百年が経っている。
 特別な理由もないのに、簡単に変えられるようなもの ではないので、このことを世の人々が、大変なことだと嘆き悲しんだ様子は、もっともなことであった。
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 しかし、あれこれ言っても どうにもならず、天皇をはじめとして、大臣や公卿たちは皆、摂津国難波なにわの都へ移ってしまった。宮仕えをしているような人で、誰一人として都に残っていようとする者がいるだろうか(いや、いない)。官位に望みをかけ、主君の庇護ひごを頼りにしている人々は、一日でも早く移ろうと競い合っていた。
 一方で、時勢に取り残され、世に受け入れられず、仕えるところのない者は、なげきながら都にとどまっていた。軒を並べていた人々の住まいも、日が経つにつれて荒れ果てていく。家は壊されて淀川に流され、その跡地は目の前で畑になってしまう。
 人々の心もすっかり変わってしまい、ただ馬やくらばかりを重んじるようになった。牛車ぎっしゃを使おうとする人は、もはやいない。そして、西や南の国(難波に近い地域)の領地ばかりを望み、東や北の国の荘園は好まれなくなった。
 その時、たまたま用事のついでがあって、摂津国の今の都(福原)に行った。その場所の様子を見ると、土地は狭くて、都の区画(条里)を整えるのにも十分ではない。北は山に沿って高く、南は海に近くて低くなっている。
 波の音はいつも騒がしく、潮風もとりわけ激しい。内裏だいりは山の中にあるので、(昔の)木の丸殿まるどのもこんな感じだったのだろうかと、かえって昔風で趣があると思われる面もあった。
 日ごとに壊されては、川でも運びきれないほどに、次々と現地の元の家が流されていくが、それらはいったい どこに建てられていた のだろうかと思われるほど。そして、まだ空き地は多く、建てられている家は少ない。
 もとの都はすでに荒れ果て、新しい都はまだ完成していない。生きているすべての人が、まるで浮雲のように不安定な思いを抱いていた。もともとここ(福原)に住んでいた人は 土地を失って嘆き、今新しく移り住んできた人は、建築の苦労に悩んでいる。
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 道ばたを見ると、本来は牛車ぎっしゃに乗るべき身分の人が 馬に乗り、本来は衣冠いかん布衣ほいを着るべき人が、直垂ひたたれ(武士の服)を着ている。都の風俗は たちまち変わってしまい、まるで田舎びた武士のようになってしまった。
 これは世の中が乱れる前兆だと聞いていたが、まさにその通りで、日が経つにつれて 世の中は不安定になり、人々の心も落ち着かず、民の嘆きも ついに現実のものとなったので、同じ年の冬、やはり この都(京都)へ帰られた。
 しかし、壊してしまった家々はどうなってしまったのか、すべてが元通りに再建されることはなかった。
 ぼんやりと伝え聞くところによると、昔の立派な天皇の御代には、人々をあわれんで国を治めておられた。すなわち、御殿の屋根にかやき、軒さえも整えないほど質素にしていた。
 民の家から煙が立たない(=生活が苦しい)様子をご覧になると、決められている税でさえも免除された。これは、民を思いやり、世の中を助けようとされたからである。今の世のありさまは、この昔と比べて考えれば よくわかることである。

第四の災厄さいやく:養和の飢渇(飢饉)
 また、養和のころであったろうか、ずいぶん昔のことなので、はっきりとは覚えていないが、二年間のあいだ、世の中は飢えに苦しみ、ひどい ありさまであった。
 あるときは 春や夏に日照りが続き、またあるときは 秋や冬に大風や洪水など、よくない出来事が次々と起こって、五穀はまったく実らなかった。むなしく春に耕し、夏に植えるという営みはあっても、秋に刈り取り、冬に収穫するという当然のことは、まったくできなかった。
 そのため、国々の人々は、ある者は土地を捨てて他国へ出て行き、ある者は家を捨てて 山の中に住むようになった。さまざまな祈祷きとうが始まり、普通ではない特別な祈りなども行われたが、まったくその効果はなかった。
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 都の習いとして、何かにつけても頼りにするのは地方であるが、(食料などを)都へ運んでくる者が まったくいないので、どうして(人々が)生活を保っていくことができようか。困り果てて、さまざまな財宝を、端から捨てるように(安く)売ってみても、まったく見向きする人もいない。たまに物々交換をする場合でも、金の価値は軽くなり、粟(あわ)の価値が重くなる。
 乞食は道ばたにあふれ、嘆き悲しむ声があちこちで聞こえる。前年はこのように苦しみながら暮れていった。新しい年になれば立ち直るだろうかと思ったが、その上さらに疫病えきびょうまで重なり、いっそう ひどくなって、どうしようもない状態である。
 世の人は皆 飢え死にしてしまい、日が経つにつれて(その惨状が)ますます極まっていく様子は、水の少ないところで苦しむ魚のたとえの通りである。
 しまいには、笠をかぶり、足を布で包み(履き物が手に入らない)、(一見すると)きちんとした身なりの者までもが、ひたすら家々を回って物乞いをするようになった。このように困り果てた人々が歩いているのかと思って見ていると、たちまちその場で倒れて死んでしまう。
 築地ついじ(塀)のそばや 道ばたに飢え死にする者の数は、数えきれないほどである。死体を片づける手立てもないので、ひどい臭いが世の中に満ちあふれ、腐って変わっていくその姿は、目も当てられないほど のものが多かった。ましてや河原などでは、牛車や馬車が行き違うための道さえないほどであった。
 下人(しづ)や山で働く人(山がつ)までもが 力尽きてしまい、たきぎさえも不足してくると、頼る手段のない人々は、自分の家を壊して市に出て、それを売るようになる。しかし、一人が運び出した分の値段は、なお一日分の命を支えることさえ できないほどだという。
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 不思議なことには、そのような薪の中に、丹(に)や白銀・黄金のなどが、あちこちについて見える 木の割れ端が混じっている。これを(なぜかと)尋ねてみると、どうしようもなくなった人々が、古い寺に行って仏像を盗み、堂の内部の道具を壊して取り、それを割り砕いて(薪にしている)のだった。
 このようなにごりきった悪い世に生まれ合わせて、このように 心がつらくなる行いを 目の当たりにした。
 また、しみじみと哀れに思われることがあった。かけがえのない妻や夫などを持っている人は、その人への思いが強く、愛情の深い者ほど、必ず先に死んでしまう。その理由は、自分のことは後回しにして、男であれ女であれ、大切に思う相手に、たまたま乞うて手に入れた食べ物を、まず譲ってしまうからである。
 だから、親子がいる場合は決まっていて、親のほうが先に死んでしまうのであった。また、母親が命尽きて倒れているのも知らないで、幼い子どもが その乳房に吸いつきながら、そばに伏している、というようなこともあった。
 仁和寺にんなじに、慈尊院じそんいん大蔵卿おおくらきょう隆暁法印りゅうぎょうほういんという人がいて、このように(人々が)次々と数えきれないほど死んでいくのを悲しんで、多くの僧を集めながら、死体が目に入るたびに、その額に『阿』の字を書いて、仏縁を結ばせるということをしていた。
 その人数を知ろうとして、四、五か月ほど数えてみたところ、都の中で、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の範囲で、道ばたにある死体の数は、全部で四万二千三百余りもあった。言うまでもなく、その前後に死んだ者はさらに多く、河原や白河、西の京など、さまざまな郊外の地まで加えて言うならば、際限がないほどであろう。
 まして全国(七道)に至っては、どれほどであったか言いようもない。
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近い例では、崇徳すとく天皇の御代、長承ちょうしょうのころであろうか、このような例があったとは聞いているが、その当時の様子は知らない。(しかし今回の飢饉は)実際に目の当たりにして、まことに珍しいほどであり、また非常に悲しい出来事であった。

第五の災厄さいやく:元暦の地震
 また、元暦げんりゃく二年(1185年)ごろ、大きな地震があった。その様子は普通ではなかった。山は崩れて川を埋め、海は傾いて陸地を浸した。地面は裂けて水が湧き出し、岩は割れて谷へ転がり落ちた。浜辺を漕ぐ船は波に漂い、道を行く馬は足の置き場を見失ってしまう。
 言うまでもなく都のあたりでは、あちこちの寺院や神社の建物は、一つとして無事なものはなかった。あるものは崩れ、あるものは倒れるうちに、土ぼこりが立ち上がって、まるで盛んに立ちのぼる煙のようであった。地面が揺れ、家が壊れる音は、雷と少しも変わらなかった。
 家の中にいれば、たちまち押しつぶされそうになる。外へ走り出れば、今度は地面が割れて裂ける。羽がないので空へ逃げることもできず、龍でもないので雲に登ることもできない。さまざまな恐ろしいものの中でも、本当に恐ろしいのは、ただ地震であると感じられた。
 その中で、ある武士の一人息子で、六、七歳ほどであった子が、土塀のおおいの下に小さな家を作り、たわいもない ままごとのような遊びをしていたが、突然それが崩れて埋もれてしまい、跡形もなく押しつぶされてしまった。(遺体は)二つの目などが一寸ほど飛び出しているほどで、それを父母が抱きかかえ、声も惜しまず泣き悲しんでいる様子は、実に哀れで悲しく見えた。
 子どもを失った悲しみの前には、普段は強い武士でさえ 恥も忘れてしまうのだと思われて、気の毒であり、もっともな ことだと感じられた。
 このように激しく揺れることは しばらくして収まったが、その余震はしばしば絶えることがなかった。
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普段なら驚くほどの地震が、二、三十回も、揺れない日はないほど続いた。十日や二十日ほど過ぎると、だんだん間遠になり、あるいは一日に四、五回、二、三回、あるいは一日おき、二、三日に一度などとなり、おおよそ その余震は三か月ほど続いたのであろうか。
 四大(地・水・火・風)のうち、水・火・風はいつも災いを起こすが、大地に関しては普段は動かないものである。昔、斉衡さいこうのころであろうか、大地震があって、東大寺の大仏の頭が落ちるなど、大変なことがあったと聞くが、それでも今回には及ばないという。
 やがて人々はみな、このどうにもならない出来事について語り合い、少しは心の不安も薄らいだように見えたが、月日が重なって年を越してしまうと、その後は言葉に出して語る人さえいなくなってしまった。

身のほどと住まいの苦しみ
 そもそも、この世に生きにくいことや、わが身とすみか(住まい)のはかなく、むなしいさまは、以上に述べてきたとおりである。ましてや、置かれた境遇や身分の違いによって、心を悩ませることは、数え上げればきりがない。
 権力者のそばに仕える身分の低い者は、深く喜ぶことがあっても、心から大いに楽しむことはできない。悲しみがあっても、声を上げて泣くこともできない。進退にも落ち着きなく、立ち居ふるまうたびに 恐れおののいている様子は、ちょうど雀が鷹の巣に近づいているかのようである。
 貧しくして裕福な家の隣に住む者は、朝に夕に、みすぼらしい姿を恥じながら へつらいつつ出入りする。妻や子、召し使いが(富める隣人を)うらやむ様子を見るにつけ、また富める家の人が(こちらを)軽んじる気配を感じるにつけ、心はいつも揺れ動いて、片時も安らぐことがない。
 狭い土地に住めば、近くで火事が起きた時、その災いから逃れることができない。
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かといって辺鄙へんぴな場所に住めば、行き来の不便が多く、盗賊の危険からも逃れがたい。勢力のある者は欲が深く、独り身の者は人に軽んじられる。財宝があれば心配事が多く、貧しければ嘆きは切実である。
 人を頼りにすれば、わが身は他人のものとなってしまう。人をやしな庇護ひごすれば、心は情愛に縛られてしまう。世の習いに従えば、わが身は苦しい。かといって従わなければ、狂人のように見られる。いったいどのような場所に身を置き、どのような生き方をすれば、しばらくでもこの身を安らかに宿やどし、わずかでも心をなぐさめることができるというのだろうか。

出家への道のり:大原の隠遁いんとん
 私はもともと、父方の祖母の家を受け継いで、長くその場所に住んでいた。その後、縁が薄れ、身もおとろえ、思い出ばかりが多くなっていったので、ついにその家に住み続けることができなくなり、三十歳を過ぎてから、改めて自分の意志で一つのいろりを結んだ。
 それをかつての住まいと比べると、十分の一ほどの広さにすぎない。居室だけを こしらえるのがやっとで、きちんとした建物を造るまでには及ばなかった。わずかに土塀をめぐらせてはみたものの、門を立てる手立てもない。竹を柱にして、車宿くるまやど(簡易な屋根)とした。雪が降り風が吹くたびに、危なげに思われることも少なくなかった。場所は河原に近いため、水害の恐れも深く、白波(洪水)の不安も絶えなかった。
 そのような ままならない世を念じながら(こらえながら)過ごし、心を悩ませ続けること、三十余年。その間、折々に訪れる不運を通じて、おのずと自分の乏しい運を悟るようになった。そして五十の春を迎えるにあたり、家を出て世を捨てた。もともと妻子がいないから、捨てがたい絆もない。身に官職も俸禄ほうろくもないから、何に執着をとどめる必要もない。
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 こうして、むなしく大原山の雲の中に伏して(隠棲いんせいして)、またどれほどの春秋を重ねたことだろうか。

日野山の方丈ほうじょうの庵:移動する家
 ここに、六十歳というつゆのように消えかかるよわいに及んで、さらにまたついの棲み家となる庵を結んだ。いわば、狩人が一夜の仮宿を作るようなもの、老いたかいこまゆを営むようなものである。これをかつての中ごろの住まいと比べると、また百分の一にも及ばない。
 あれこれ言っているうちに、年齢は年々傾き(老いてゆき)、住まいは折々に せばまっていった。その家のありさまは、世間一般のものとは まったく似ていない。
 広さはわずかに一丈四方(約3メートル四方)、高さは七尺(約2メートル)以内である。どこかに永住しようと決めているわけではないから、土地を占めて造りつけることはしない。土台を組み、屋根をいて、継ぎ目ごとに掛け金をかけた。もし気に入らないことがあれば、簡単に別の場所へ移せるようにするためである。その建て替え・移転の時、どれほどの手間がかかるだろうか‥‥積み荷はわずかに荷車二台分である。車を引く人への礼のほかは、まったく別の費用も要らない。
 いま日野山の奥に身を隠してからというもの、庵の南側に簡単な日よけのひさしを差し出し、竹のすのこを敷いた。その西側に閼伽棚あかだな(仏前に供える水を置く棚)を設け、室内では西の壁に沿って阿弥陀の画像を安置し申し上げ、沈む夕日を受けて、その眉間みけんの光とした。
 かのとばりの扉(布の仕切り)には、普賢菩薩ふげんぼさつ不動明王の像を掛けた。北側の障子の上には小さな棚を設けて、黒い皮籠かわごを三つ四つ置いた。そこには和歌・管絃かんげん往生要集などの抄物しょうもの(抜き書き・要約したもの)を入れた。その傍らに琴と琵琶をそれぞれ一張立てかけてある。いわゆる折琴おりごと継ぎ琵琶というものである。
 東側に沿って わらびのほどろ(枯れたわらび)を敷き、むしろを重ねて夜の寝床とした。
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東の壁に窓を開けて、そこに文机ふづくえを出してある。枕の方向には囲炉裏があり、これをしば(雑木の小枝)を折りくべる場所としている。
 庵の北側に少しばかりの土地を占めて、粗末な垣根を囲って小さな園とした。そこには さまざまな薬草を植えた。仮の庵のありさまは、このようなものである。

山居の情景と楽しみ
 その場所のありさまを言えば、南に懸樋かけひ(水を引く竹や木のとい)があり、岩を積んで水を溜めている。雑木林が近いので、薪を拾うにも不自由しない。名を外山という。まさきつるが(古い)跡を埋め尽くしている。谷は木が繁っているが、西の方は開けて晴れている。観念(仏を心に念じること)の助けとなるものが ないわけでもない。
 春は藤の花房かぼうを見る。紫雲のように西の方へ 美しく匂い広がる。夏はほととぎすの声を聞く。ほととぎすが鳴くたびに、まるで「一緒に死出の山路(冥途への道)を行きましょう」と私に語りかけ、約束を迫っているかのように聞こえる。
 秋は日暮らし(ひぐらし)の声が耳に満ちる。このはかない世を悲しんでいるかのように聞こえる。冬は雪をしみじみと眺める。積もっては消える そのさまは、(心に積もった)罪障に たとえることが できそうだ。
 もし念仏が面倒になり、読経に身が入らない時は、自分で休み、自分で怠けるのを妨げる人もなく、また恥ずかしく思うべき友もいない。特別に無言の行をするわけでもないが、一人でいれば口のわざわいを収めることができる。必ず戒律かいりつを守ろうとするわけでもないが、俗世との関わりがなければ、何かにつけて破るきっかけもない。
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 船が通り過ぎた後に残る白い航跡の波に、我が身を託す(消えゆく波に無常の思いを重ね合わせる)朝には、岡の屋(高台)から行き交う船を眺めて、満誓沙弥さみのまんぜいの風情を盗み取り、もし桂の木に風が吹いて葉を鳴らす夕べには、潯陽じんようこう(中国の川)に思いをはせて、源都督げんととく源経信みなもとのつねのぶ)の流れをならう。
 もし興が余れば、折々に松風の響きに秋風楽しゅうふうらくを重ね合わせ、水の音に流泉の曲を奏でる。芸は つたないけれども、人の耳を喜ばせよう というわけでもない。ただひとり音を調べ、ひとりえいじて、自ら心を養うばかりである。

ふもと小童こわらわとの交流と遊行
 また山麓に、一つの粗末な柴の庵がある。すなわち この山の番人が住む所である。そこに一人の童子がいて、時々やって来ては訪ねてくれる。もし所在なく退屈な時は、この子を友として遊び歩く。彼は十六歳、私は六十歳、その年齢はかけ離れているけれど、心をなぐめることは これと同じである。
 あるときは茅花つばな(ちがやの穂)を抜き、岩梨を取る。またぬかご(山芋の実)を盛り、せりを摘む。あるいはすそ野の田んぼのほとりに至って、落ち穂を拾って穂組み(束ねたもの)を作る。
 もし日が うららかであれば、みねによじ登って、はるかに古里の空を望む。木幡山こはたやま伏見の里鳥羽羽束師はづかしを見渡す。景勝の地には主がいないから、心をなぐさめるのに何の障りもない。
 足が達者で、遠くまで行く気力のある時は、ここから峰続きに炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間寺に詣で、あるいは石山寺を拝む。もしくは粟津の原を分け入って、蝉丸翁の旧跡を訪ね、田上川を渡って、猿丸大夫の墓を尋ねる。帰り道には、折々に桜を狩り(花を求めて歩き)、紅葉を求め、わらびを折り、木の実を拾って、一方では仏に供え、一方では家への土産とする。
 もし夜が静かであれば、窓から差し込む月の光に故人をしのび、猿の声にそでを涙でらす。
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草むらの蛍は、遠く真木の島(京都の川の中州)の篝火かがりかと見まがうほどで、夜明けの雨は、おのずと木の葉を吹き散らす嵐に似ている。
 山鳥がほろほろと鳴くのを聞いても、父か母かと思わず疑い、峰の鹿が近くに馴れ親しんでくるにつけても、自分がどれほど世から遠ざかっているかを知る。あるいはうずみ火をかき起こして、老いの寝覚めの友とする。
 恐ろしい山というわけでもないが、ふくろうの声をしみじみと聞くにつけても、山中の景色は折々に尽きることがない。まして深く思い、深く物事を知っている人にとっては、この感慨はこれだけに とどまらないであろう。

閑居かんきょの充足と世俗への視線
 そもそもこの場所に住み始めた時は、ほんの一時のつもりと思っていたが、今やすでに五年を経た。仮の庵も ようやく古びた家となって、軒にはち葉が深く積もり、土台には苔が生えている。
 折々に都の便りを耳にすれば、この山にもってから後、高貴な方々がお亡くなりになったことも 数多く聞こえてくる。まして身分の低い者たちの数に至っては、とても数え尽くして知ることができない。たびたびの火事で焼け滅びた家も、またどれほど多いことか。
 ただこの仮の庵だけは、のどかで何の恐れもない。狭いとはいえ、夜はす床があり、昼は居る座がある。一身を宿すには不足がない。
 かに(蟹)は小さな貝殻を好む、それはよく自分の身の程を わきまえているからである。みさごは荒磯に住む、それは人を恐れるが ゆえである。私も またこれと同じである。身の程を知り世の中を知っているならば、望まず交わらず、ただ静かなることを望みとし、憂いのないことを楽しみとする。
 およそ世の人が住まいを作る ならわしは、必ずしも自分自身のために するわけではない。ある者は妻子・眷属けんぞくのために作り、ある者は親しい友人のために作る。
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またある者は主君・師匠のために、さらには財宝・馬牛のためにさえ これを作る。
 私は今、わが身のために結んだのであり、人のために作ったのではない。なぜかといえば、今の世のならいと、この身のありさまとして、共に住むべき人もなく、頼むべき召し使いもいない。たとえ広く作ったとしても、誰を宿し、誰をえようというのか。
 そもそも人の友となるものは、富める者を尊び、親密さを第一とする。必ずしも情け深い者や 誠実な者を愛するわけではない。(そのような人間を友とするくらいなら)ただ糸竹・花・月を友とするのが一番だ。
 人の召し使いとなるものは、賞罰の厳しさを気にかけ、恩の厚さを重んじる。いかにやしないつくしんでくれると言っても、気楽でしずかなることを望むわけではない。(そのような召し使いを持つくらいなら)ただ我が身を自分自身の奴婢ぬひとするのが一番だ。
 もし何かすべきことがあれば、すなわち自ら身を使う。だるくないわけではないが、人を従え人の世話をするよりは気楽である。もし歩いて行くべきことがあれば、自ら歩く。苦しいとはいえ、馬・鞍・牛車のことで心を悩ますよりは ましである。
 今この一身を二つの用に分けて使う。手は召し使いとして、足は乗り物として、よく私の心に かなっている。心もまた身の苦しみを わきまえているから、苦しい時は休ませ、達者な時は使う。使うといっても度を過ごして無理をするわけでもなく、気だるいと感じても心を乱されるわけでもない。それどころか、常に歩き常に動くことは、これ養生というものであろう。どうして いたずらに休んで いられようか。人を苦しめ 人を悩ますことは また罪業である。どうして他人の力を借りるべきであろうか。
 衣食のたぐいも また同じである。藤の衣、麻のふすま、得るにしたがって肌を覆う。野辺の茅花つばな、嶺の木の実(山の恵み)、わずかに命をつなぐばかりである。
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人に交わらないから、姿を恥じるいもない。食べ物が乏しければ粗末ではあるけれど、それでも味を甘く感じる。
 およそ このようなことは、楽しく富める人に対して言うのではない。ただ我が身一つについて、昔と今とを比べるばかりである。

一期いちごの楽しみ
 そもそも世を逃れ、身を捨ててより、恨みもなく恐れもない。命は天の運に任せて、惜しまずいとわず、身を浮雲になぞらえて、頼まず待ちわびることもしない。一生の楽しみは、うたた寝の枕の上に極まり、生涯の望みは、折々の美しい景色の中に残っている。
 そもそも三界(仏教でいうこの世のすべて)は、ただ心一つにかかっている。心もし安らかでなければ、牛馬も七珍(七種の宝)も何の意味もなく、宮殿も楼閣も望みようがない。今この寂しい住まい、一間の庵を、自らこれを愛している。おのずから都に出ては、乞食のようになり果てたことを 恥ずかしいとは思うけれど、帰ってここに居る時は、他の人が俗世のちりに染まっていることを かえって哀れに思う。
 もし人がこの言葉を疑うならば、魚と鳥のありさまを見よ。魚は水に飽くことなく、魚でなければ その心をどうして知ることができようか。鳥は林を求め、鳥でなければ その心を知らない。閑居かんきょの味わいも またこのようなものである。住んでみなければ、誰が悟ることができようか。

結び:自問自答と念仏
 そもそも一生という月影は傾いて、残りの命は山の端に近づいている。たちまち三途の闇に向かわんとする時、何の行いを言い訳にしようというのか。
 仏が人に教えてくださる おもむきは、何事につけても執着するなということである。今この草の庵を愛することも罪とすべきであり、閑寂かんじゃくに執着することも また障りとなるに違いない。どうして無用な楽しみを述べ連ねて、残り少ない命の時間を、こんなことに費やしていてよいのか。
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 静かな夜明け、このような道理を思い続けて、自ら心に問いかけて言う。世を逃れて山林に入ったのは、心を落ち着かせて仏道を実践するはずであった。しかるになんじ(あなた)の姿は聖人に似ていても、心は濁りに染まっている。
 住まいは かの浄名居士じょうみょうこじの跡にならっているとはいえ、保っている修行はわずかに周梨槃特しゅりはんどく(釈迦の弟子のひとり)の行にさえ及ばない。もしこれが貧しくいやしい境遇が 自ずと身を悩ませているのか、はたまた迷いの心が極まって 狂わせているのか。
 その時、心はまったく答えることができない。ただ かたわらに舌を動かして、頼まれもしない念仏を ふた声 み声 唱えて、やんでしまった。
 時に建暦二年(1212年)、弥生(三月)の晦日みそか(毎月の最終日)ごろ、桑門蓮胤そうもんのれんいん(出家後の法名)、外山の庵にてこれを記す。

『月の光が入っていく山の端も、つれなく思われた。絶えることのないその光を見る術があればよいのだが』






底本:「国文大観 日記草子部」明文社
   1906(明治39)年1月30日初版発行
   1909(明治42)年10月12日再版発行
※このファイルは、日本文学等テキストファイル(http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/bungaku.htm)で公開されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、「国文大観 日記草子部」板倉屋書房、1903(明治36)年10月27日発行を使用しました。
※『方丈記』の本文としては、流布本系である。
※割り注を()に入れました。
※「現在通行字体の〈し〉」「志に由来する変体仮名」ともに、「し」で入力しました。
※監修者、編纂者の没年は以下の通りです。
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監修者 本居豊穎 (1913(大正2)年2月15日没)
同   木村正辞 (1913(大正2)年4月10日没)
同   小杉榲邨 (1910(明治43)年3月30日没)
同   井上頼圀 (1914(大正3)年7月3日没)
同  故落合直文 (1903(明治36)年12月16日没)
編纂者 丸岡 桂 (1919(大正8)年2月12日没)
同   松下大三郎(1935(昭和10)年5月2日没)
松下以外の没年月日は講談社学術文庫『大日本人名辞書』による。
松下の没年月日は徳田正信『近代文法図説』(明治書院)による。
編纂者等の著作権は消失している。
入力:岡島昭浩
校正:小林繁雄
2004年6月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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