奇禍
一
汽車が
大船を離れた頃から、
信一郎の心は、段々
烈しくなって行く
焦燥しさで、満たされていた。
国府津迄の、まだ五つも六つもある駅
毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持を可なり、いら立たせているのであった。
彼は、一刻も早く
静子に、会いたかった。そして彼の
愛撫に、
渇えている彼女を、思うさま、いたわってやりたかった。
時は六月の
初であった。汽車の線路に添うて、潮のように起伏している山や森の緑は、少年のような若々しさを失って、むっとするような
あくどさで車窓に迫って来ていた。たゞ、所々植付けられたばかりの
早苗が、軽いほのぼのとした緑を、初夏の風の下に、漂わせているのであった。
常ならば、箱根から
伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になっている
筈の二等室【中等車室】も、春と夏との間の、湯治には
半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた
揚句である
為とで、それらしい乗客の影さえ見えなかった。たゞ
仏蘭西人らしい老年の夫婦が、一人息子らしい十五六の少年を連れて、車室の一隅を占めているのが、
信一郎の注意を、最初から
惹いているだけである。彼は、若い
男鹿の四肢のように、スラリと
娜な少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とに
迭み【互い】に話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしていた。
此の一行の外には、洋服を着た会社員らしい二人連と、田舎娘とその母親らしい女連が、乗り合わしているだけである。
が、あの湯治階級【中流から上流の余裕ある人々】と言ったような、男も女も、
大島の
揃か何かを着て、金や
白金や宝石の装身具を
身体のあらゆる部分に、
燦かしているような人達が、乗り合わしていないことは
信一郎にとって結局気楽だった。彼等は、
屹度声高に、
喋り散らしたり、何かを食べ散らしたり、無作法に振舞ったりすることに
依って、現在以上に
信一郎の心持をいら/\させたに違いなかったから。
日は、深く
翳っていた。汽車の進むに従って、隠見【隠れたり見えたり】する
相模灘はすゝけた銀の
如く、底光を
帯たまゝ
澱んでいた。
先刻まで、見えていた
天城山も、
何時の間にか、灰色に塗り隠されて
了っていた。相模灘を圧している水平線の腰の辺りには、雨をでも含んでいそうな、
暗鬱な雲が低迷していた。
1/343
もう、午後四時を回っていた。
『
静子が待ちあぐんでいるに違いない。』と思う毎に、汽車の回転が
殊更遅くなるように思われた。
信一郎は、いらいらしくなって来る心を、じっと抑え付けて、湯河原の湯宿に、自分を待っている若き愛妻の面影を、
空に描いて見た。何よりも
先ず、その
石竹色に
湿んでいる頬に、微笑の先駆として浮かんで来る、
笑靨が現われた。それに続いて、
慎ましい
脣、高くはないけれども穏やかな品のいゝ鼻。が、そんな目鼻立よりも、顔全体に現われている
処女らしい
含羞性【はにかみ】、それを思い出す毎に、
信一郎自身の表情が、たるんで来て、
其処には居合わさぬ妻に対する愛撫の微笑が、何時の間にか、浮かんでいた。彼は、それを誰かに、気付かれはしないかと、恥しげに車内を見回わした。が、例の仏蘭西の少年が、その時、
「
お母親さん!」と声高に呼びかけた外には、乗合の人々は、銘々に何かを考えているらしかった。
汽車は、海近い松林の間を、
轟々と駆け過ぎているのであった。
二
湯の宿の
欄干に身を
靠せて、自分を待ちあぐんでいる愛妻の面影が、汽車の車輪の回転に連れて消えたりかつ浮かんだりした。それほど、
信一郎は新しく婚した
静子に、心も身も与えていたのである。
つい三月ほど前に、田舎で挙げた結婚式のことを考えても、上京の
途すがら奈良や京都に足を止めた
蜜月旅行らしい幾日かの事を考えても、彼は
静子を
獲たことが、どんなに幸福を意味しているかをしみ/″\と悟ることが出来た。
結婚の式場で示した彼女の、
処女らしい
羞しさと、
浄らかさ、それに続いた
同棲生活に
於て、自分に投げて来た全身的な信頼、日が
経つに連れて、埋もれていた宝玉のように、だん/\現れて来る彼女のいろ/\な美質、そうしたことを、取とめもなく考えていると、
信一郎は一刻も早く、目的地に着いて
初々しい
静子の透き通るような
くゝり顎【肉づきがよくて二重になった顎】の
辺を、軽く
撫してやりたくて、仕様がなくなって来た。
『
僅か一週間、離れていると、もうそんなに
逢いたくて、
堪らないのか。』と自分自身心の中で、そう反問すると、
信一郎は駄々っ子か何かのように、じれ切っている自分が気
恥しくないこともなかった。
が、新婚後、まだ幾日にもならない
信一郎に取っては、
僅一週間ばかりの短い月日が、どんなにか長く、三月も四月もに相当するように思われた事だろう。
2/343
静子が、急性肺炎の病後のために、医者から温泉行を、勧められた時にも、
信一郎は自分の
手許から、妻を半日でも一日でも、手放して置くことが、不安な
淋しい事のように思われて、仕方がなかった。それかと言って、結婚のため、半月以上も、勤先を欠勤している彼には休暇を
貰う口実などは、何も残っていなかった。彼は
止むなく先週の日曜日に妻と女中とを、湯河原へ伴うと、
直ぐその日に東京へ帰って来たのである。
今朝着いた手紙から見ると、もうスッカリ
好くなっているに違いない。明日の日曜に、自分と一緒に帰ってもいゝと、言い出すかも知れない。軽便鉄道の駅までは、迎えに来ているかも知れない。いや、
静子は、そんなことに気の
利く女じゃない。あれは、おとなしく
慎しく待っている女だ、
屹度、あの湯の新築の二階の
欄干にもたれて、藤木川に懸っている木橋をじっと見詰めているに違いない。そして、馬車や自動車が、あの橋板をとゞろかす
毎に、
静子も自分が来たのではないかと、彼女の小さい胸を
轟かしているに違いない。
信一郎の、こうした愛妻を中心とした、いろ/\な想像は、重く垂下がった夕方の雲を
劈くような、鋭い汽笛の声で破られた。窓から首を出して見ると、一帯の松林の
樹の間から、
国府津に特有な、あの
凄味を帯びた
真蒼な海が、暮れ方の光を暗く照り返していた。
秋の末か何かのように、見渡すかぎり、陸や海は、
蕭条【物寂しい】たる色を帯びていた。が、
信一郎は
国府津だと知ると、
蘇ったように、座席を
蹴って立ち上った。
三
汽車がプラットホームに、横付けになると、多くもなかった乗客は、我先きにと降りてしまった。
此の駅が止まりである列車は、見る/\
裡に、洗われたように、
虚しくなってしまった。
が、停車場は少しも混雑しなかった。五十人ばかりの乗客が、改札口のところで、
暫らく
斑に たゆたった【揺れ動く】
丈であった。
信一郎は、身支度をしていた
為に、誰よりも遅れて車室を出た。改札口を出て見ると、駅前の広場に湯本行きの電車が発車するばかりの
気勢を見せていた。が、その電車も
、の前の日曜の日の混雑とは丸切り違って、まだ腰をかける余地さえ残っていた。が、
信一郎はその電車を見たときにガタリガタリと停留場
毎に止まる、のろ/\した途中の事が、直ぐ頭に浮かんだ。その上、小田原で乗り換えると行く手にはもっと難物が控えている。
3/343
それは、右は山 左は海の、狭い
崖端を、
蜈蚣か何かのようにのたくって行く軽便鉄道である。それを考えると、彼は電車に乗ろうとした足を、思わず踏み
止めた。湯河原まで、
何うしても三時間かゝる。湯河原で降りてから、あの田舎道をガタ馬車で三十分、どうしても十時近くなってしまう。彼は汽車の中で感じたそれの十倍も二十倍も、
いらいらしさが自分を待っているのだと思うと、
何うしても電車に乗る勇気がなかった。彼は、少しも予期しなかった困難にでも
逢ったように急に
悄気てしまった。丁度その時であった。つか/\と彼を追いかけて来た大男があった。
「もし/\
如何です。自動車にお召しになっては。」と、彼に呼びかけた。
見ると、その男は富士屋自動車と言う帽子を
被っていた。
信一郎は、急に
援け舟にでも逢ったように救われたような気持で、立ち止った。が、彼は賃銭の上の掛引のことを考えたので、そうした感情を、顔へは少しも出さなかった。
「そうだねえ。乗ってもいゝね。安ければ。」と彼は可なり
余裕を
以て、答えた。
「
何処までいらっしゃいます。」
「湯河原まで。」
「湯河原までじゃ、十五円【十万円前後/2025年】で参りましょう。本当なれば、もう少し頂くのでございますけれども、
此方からお勧めするのですから。」
十五円と言う金額を聞くと、
信一郎は自動車に乗ろうと言う心持を、スッカリ無くしてしまった。と言って、彼は貧しくはなかった。一昨年法科を出て、
三菱へ入ってから、今まで相当な給料を
貰っている。その上、
郷国にある財産からの収入を合わすれば、月額五百円【330万円前後】近い収入を持っている。が十五円と言う金額を、湯河原へ行く時間を、わずか二三時間縮める為に払うことは余りに
贅沢過ぎた。たとい愛妻の
静子が、いかに待ちあぐんでいるにしても。
「まあ、よそう。電車で行けば訳はないのだから。」と、彼は心の
裡で考えている事とは、全く反対な理由を言いながら、洋服を着た大男を振り捨てゝ、電車に乗ろうとした。が、大男は
執念く彼を放さなかった。
4/343
「まあ、
一寸お待ちなさい。御相談があります。実は、
熱海まで行こうと言う方があるのですが、その方と
合乗して下さったら、如何でしょう、それならば大変格安になるのです。それならば、七円
丈出して下されば。」
信一郎の心は可なり動かされた。彼は、電車の踏み段の棒にやろうとした手を、引っ込めながら言った。「一体、そのお客とはどんな人なのだい?」
四
洋服を着た大男は、
信一郎と同乗すべき客を、迎えて来る
為に、駅の真向いにある待合所の方へ行った。
信一郎は、大男の後姿を見ながら思った。どうせ、旅行中のことだから、どんな人間との合乗でもたかが三四十分の辛抱だから、
介意ないが、それでも感じのいゝ、
道伴であって
呉れゝばいゝと思った。
傲然とふんぞり返るような、成金風の湯治階級の男なぞであったら、
堪らないと思った。彼はでっぷりと
肥った男が、実印を刻んだ金
指環をでも、光らせながら、大男に連れられて、やって来るのではないかしらと思った。それとも、意外に美しい女か何かじゃないかしらと思った。が、まさか相当な位置の婦人が、合乗を承諾することもあるまいと、思い返した。
彼は
一寸した好奇心を
唆られながら、
暫らくの
伴侶たるべき人の出て来るのを、待っていた。
三分ばかり待った後だったろう。やっと、交渉が
纏ったと見え、大男はニコ/\笑いながら、先きに立って待合所から立ち現れた。その
刹那【瞬間】に、
信一郎は大男の肩越に、チラリと角帽を
被った学生姿を見たのである。彼は同乗者が学生であるのを
欣んだ。
殊に、自分の母校――と言う程の親しみは持っていなかったが――の学生であるのを
欣んだ。
「お待たせしました。
此の方です。」
そう言いながら、大男は学生を、
信一郎に紹介した。
「御迷惑でしょうが。」と、
信一郎は快活に、
挨拶した。学生は頭を下げた。が、
何にも物は言わなかった。
信一郎は、学生の顔を、一目見て、その高貴な
容貌に打たれざるを得なかった。恐らく貴族か、でなければ名門の子弟なのだろう。
5/343
品のよい鼻と、黒く澄み渡った
眸とが、争われない生れの け高さ を示していた。殊に、け高く
人懐しそうな
眸が
、の青年を見る人に、いゝ感じを与えずにはいなかった。クレイヴネット【Cravenette:イギリスのブランド】の
外套を着て、
一寸した手提
鞄を持った姿は、又なく
瀟洒に打ち上って【あかぬけして】見えた。
「それで
貴君様の方を、湯河原のお宿までお送りして、それから引き返して
熱海へ行くことに、
此方の御承諾を得ましたから。」と、大男は
信一郎に言った。
「そうですか。それは大変御迷惑ですな。」と、
信一郎は改めて学生に挨拶した。やがて、二人は大男の指し示す自動車上の人となった。
信一郎は左側に、学生は右側に席を占めた。
「湯河原までは、四十分、熱海までは、五十分で参りますから。」と、大男が言った。
運転手の手は、ハンドルにかゝった。
信一郎と学生とを、乗せた自動車は、今発車したばかりの電車を追いかけるように、
凄じい爆音を立てたかと思うと、まっしぐらに
国府津の町を疾駆した。
信一郎は、もう四十分の後には、愛妻の
許に行けるかと思うと、汽車中で感じた
焦燥しさや、いらだたしさは、後なく晴れてしまった。自動車の
軽動に連れて
身体が躍るように、心も軽く楽しい期待に躍った。が、
信一郎の同乗者たるかの青年は、自動車に乗っているような意識は、少しもないように身を縮めて一隅に寄せたまゝ その
秀でた
眉を心持ひそめて、何かに思い
耽っているようだった。車窓に移り変る情景にさえ、
一瞥をも与えようとはしなかった。
五
小田原の街に、入る
迄、二人は黙々として相並んでいた。
信一郎は、心の中では、
此青年に一種の親しみをさえ感じていたので、
何うにかして、話しかけたいと思っていたが、深い憂愁にでも、
囚われているらしい青年の
容子は、
信一郎にそうした機会をさえ与えなかった。
殆ど、一尺にも足りない距離で見る青年の顔付は、
愈々その け高さ を加えているようであった。が、その顔は
何うした原因であるかは知らないが、
蒼白な血色を帯びている。二つの
眸は、何かの悲しみのため力なく
湿んでいるようにさえ思われた。
信一郎はなるべく相手の心持を
擾すまいと思った。
6/343
が、一方から考えると、同じ、自動車に二人切りで乗り合わしている以上、黙ったまゝ相対していることは、何だか窮屈で、かつは不自然であるようにも思われた。
「失礼ですが、今の汽車で来られたのですか。」
と、
信一郎は
漸く口を切った。会話のための会話として、
判り切ったことを尋ねて見たのである。
「いや
、の前の上りで来たのです。」と、青年の答えは、少し意外だった。
「じゃ、東京から いらっしたんじゃ ないんですか。」
「そうです。三保の方へ行っていたのです。」
話しかけて見ると、青年は割合ハキ/\と、
然し事務的な受け答をした。
「三保と言えば、三保の松原ですか。」
「そうです。
彼処に一週間ばかりいましたが、飽きましたから。」
「やっぱり、御保養ですか。」
「いや保養と言う訳ではありませんが、どうも頭がわるくって。」と言いながら、青年の表情は暗い
陰鬱な調子を帯びていた。
「神経衰弱ですか。」
「いやそうでもありません。」そう言いながら、青年は力無さそうに口を
緘んだ。簡単に言葉では、現わされない原因が、存在することを暗示するかのように。
「学校の方は、ズーッとお休みですね。」
「そうです、もう一月ばかり。」
「
尤も文科じゃ出席してもしなくっても、同じでしょうから。」と、
信一郎は、
先刻青年の襟に、Lと言う字を見たことを思い出しながら言った。
青年は、立入って、いろ/\
訊かれることに、
一寸不快を感じたのであろう、又黙り込もうとしたが、法科を出たものの、少年時代からずっと文芸の方に親しんで来た
信一郎は
、の青年とそうした方面の話をも、して見たいと思った。
「失礼ですが、高等学校は。」
暫らくして、
信一郎はまたこう口を切った。
「東京【旧制一高】です。」青年は振り向きもしないで答えた。
「じゃ私と同じですが、お顔に少しも見覚えがないようですが、何年にお出になりました。」
青年の心に、急に
信一郎に対する一脈の親しみが
湧いたようであった。
7/343
華やかな青春の時代を、同じ
向陵の寄宿寮に過ごした者のみが、感じ合う特殊の親しみが、青年の心を
湿おしたようであった。
「そうですか、それは失礼しました。僕は一昨年高等学校を出ました。
貴君は。」
青年は初めて微笑を
洩した。
淋しい微笑だったけれども微笑には違いなかった。
「じゃ、高等学校は丁度僕と入れ換わりです。お顔を覚えていないのも無理はありません。」そう言いながら、
信一郎はポケットから紙入を出して、名刺を相手に手交した。
「あゝ
渥美さんと
仰しゃいますか。僕は
生憎名刺を持っていません。
青木淳と言います。」と、言いながら青年は
信一郎の名刺をじっと見詰めた。
六
名乗り合ってからの二人は、前の二人とは別人同士であるような親しみを、お互に感じ合っていた。
青年は
羞み
家であるが、その癖人一倍、
人懐い性格を持っているらしかった。単なる同乗者であった
信一郎には、冷めたい横顔を見せていたのが、
一旦同じ学校の出身であると知ると、
直ぐ先輩に対する親しみで、
懐いて来るような
初心な優しい性格を、持っているらしかった。
「五月の十日に、東京を出て、もう一月ばかり、
当もなく
宿り歩いているのですが、
何処へ行っても落着かないのです。」と、青年は訴えるような口調で言った。
信一郎は、青年のそうした心の動揺が、
屹度青年時代に
有勝な、人生観の上の疑惑か、でなければ恋の
悶えか何かであるに違いないと思った。が、
何う言って、それに答えてよいか分らなかった。
「
一層のこと、東京へお帰りになったら
何うでしょう。僕なども精神上の動揺のため、海へなり山へなり安息を求めて、旅をしたことも度々ありますが、一人になると、
却って孤独から来る
淋しさ
迄が加わって、
愈堪えられなくなって、又都会へ追い返されたものです。僕の考えでは、何かを
紛らすには、東京生活の混乱と
騒擾とが、何よりの薬ではないかと思うのです。」と、
信一郎は自分の過去の二三の経験を思い浮べながらそう言った。
「が、僕の場合は少し違うのです。東京にいることが
何うにも
堪らないのです。当分東京へ帰る勇気は、トテもありません。」
8/343
青年は、又黙ってしまった。心の中の何処かに、可なり大きい傷を受けているらしい青年の容子は
信一郎の眼にもいたましく見えた。
自動車は、もうとっくに小田原を離れていた。気が付いて見ると、暮れかゝる太平洋の波が、白く砕けている高い
崖の上を軽便鉄道の線路に添うて、疾駆しているのであった。
道は、可なり狭かった。右手には、青葉の層々と茂った山が、往来を圧するように迫っていた。左は、急な傾斜を作って、直ぐ真下には、海が見えていた。崖がやゝ滑かな
勾配になっている所は
蜜柑畑になっていた。しら/″\と咲いている蜜柑の花から
湧く、高い
匂が、自動車の疾駆するまゝに、車上の人の
面を打った。

「日暮までに、
熱海に着くといゝですな。」と、
信一郎は
暫らくしてから、沈黙を破った。
「いや、
若し遅くなれば、僕も湯河原で一泊しようと思います。熱海へ行かなければならぬと言う訳もないのですから。」
「それじゃ、是非湯河原へお泊りなさい。折角お
知己になったのですから、ゆっくりお話したいと思います。」
「
貴方は永く御滞在ですか。」と、青年が
訊いた。
「いゝえ、実は妻が行っているのを迎えに行くのです。」と、
信一郎は答えた。
「奥さんが!」そう言った青年の顔は、
何故だか、
一寸淋しそうに見えた。青年は又黙ってしまった。
自動車は、風を
捲いて走った。可なり危険な道路ではあったけれども、日に幾回となく
往返しているらしい運転手は、東京の大路を走るよりも、邪魔物のないのを、
結句【結局】気楽そうに、
奔放自在にハンドルを回した。その大胆な操縦が、
信一郎達をして、時々ハッと息を
呑ませることさえあった。
「軽便かしら。」と、青年が
独語のように言った。いかにも、自動車の爆音にもまぎれない
轟々と言う響が、山と海とに
反響して、段々近づいて来るのであった。
七
轟々と とゞろく軽便鉄道の汽車の音は、段々近づいて来た。
9/343
自動車が、ある山鼻【山の突き出た所】を回ると、眼の前にもう真黒な車体が、見えていた。絶えず吐く黒い煙と、
喘いでいるような
格好とは、何か
のろ臭い生き物のような感じを、見る人に与えた。
信一郎の乗っている自動車の運転手は、
此の時代遅れの交通機関を見ると、丁度お
伽噺の中で、
亀に対した
兎のように、いかにも相手を
馬鹿にし切ったような態度を示した。彼は擦れ違うために、少しでも速力を加減することを、
肯んじ【承諾し】なかった。彼は速力を少しも緩めないで、軽便の軌道と、右側の
崖壁の間とを、すばやく通り抜けようと、ハンドルを回しかけたが、それは、彼として、明かな違算であった。
其処は道幅が、
殊更狭くなっているために、軽便の軌道は、山の崖近く敷かれてあって、軌道と岩壁との間には、車体を
容れる間隔は存在していないのだった。運転手が
、の事に気が付いた時、汽車は三間【約5.4m】と離れない間近に迫っていた。
「馬鹿! 危い! 気を付けろ!」と、汽車の機関士の
烈しい
罵声が、
狼狽した運転手の
耳朶【耳たぶ】を打った。彼は
周章てた。が、
遉に間髪を容れない瞬間に、ハンドルを反対に急転した。自動車は
辛く衝突を免れて、道の左へ外れた。
信一郎はホッとした。が、それはまたゝく暇もない瞬間だった。左へ
躱した自動車は、
躱し方が余りに急であった
為、
機みを打ってそのまゝ、左手の
岩崖を墜落しそうな勢いを示した。道の左には、半間ばかりの
熊笹が
繁っていて、その
端からは十丈【約30m】に近い
断崖が、海へ急な角度を成していた。
最初の危機には、冷静であった運転手も、第二の危険には度を失ってしまった。彼は、狂人のように意味のない言葉を発したかと思うと、運転手台で身をもがいた。が、運転手の死物狂いの努力は間に合った。三人の生命を託した車台は、急回転をして、海へ
陥ることから免れた。が、その反動で五間ばかり走ったかと思うと、今度は右手の山の岩壁に、
凄じくぶっ
突ったのである。
信一郎は、恐ろしい音を耳にした。それと同時に、
烈しい力で、狭い車内を、二三回左右に
叩き付けられた。眼が
眩んだ。
10/343
しばらくは、たゞ
嵐のような
混沌たる意識の外、何も存在しなかった。
信一郎が、
漸く気が付いた時、彼は狭い車内で、
海老のように折り曲げられて、一方へ叩き付けられている自分を
見出した。彼はやっと身を起した。頭から胸のあたりを、ボンヤリ
撫で回わした彼は自分が少しも、傷付いていないのを知ると、まだフラ/\する眼を定めて、自分の横にいる
筈の、青年の姿を見ようとした。
青年の
身体は、
直ぐ
其処にあった。が、彼の上半身は、半分開かれた扉から、外へ
はみ出しているのであった。
「もし/\、君! 君!」と、
信一郎は青年を車内に引き入れようとした。その時に、彼は異様な
苦悶の声を耳にしたのである。
信一郎は水を浴びたように、ゾッとした。
「君! 君!」彼は、必死に呼んだ。が、青年は何とも答えなかった。たゞ、人の心を
掻きむしるような低いうめき声が続いている
丈であった。
信一郎は、懸命の力で、青年を車内に抱き入れた。見ると、彼の美しい顔の半面は、薄気味の悪い
紫赤色を呈している。それよりも、
信一郎の心を、
脅やかしたものは、唇の右の端から、
顎にかけて流れる一筋の血であった。
而もその血は、唇から出る血とは違って、内臓から
迸ったに違いない赤黒い血であった。
返すべき時計
一
信一郎が、青年の
身体をやっと車内に引き入れたとき、運転手席から路上へ、投げ出されていた運転手は、
漸く身を起した。額の所へ擦り傷の出来た彼の顔色は、
凡ての血の色を無くしていた。彼はオズ/\車内をのぞき込んだ。
「
何処もお
負傷はありませんか。お負傷はありませんか。」
「
馬鹿! 負傷どころじゃない。大変だぞ。」と、
信一郎は怒鳴りつけずにはいられなかった。彼は運転手の放胆な操縦が、
此の
惨禍の主なる原因であることを、信じたからであった。
「はっはっ。」と運転手は恐れ入ったような声を出しながら、窓にかけている両手をブル/\
顫わせていた。
「君! 君! 気を
確にしたまえ。」
11/343
信一郎は懸命な声で青年の意識を呼び返そうとした。が、彼は低い、ともすれば、絶えはてそうな
うめき声を続けている
丈であった。
口から流れている血の筋は、
何時の間にか、段々太くなっていた。右の頬が見る間に
脹れふくらんで来るのだった。
信一郎は、ボンヤリつッ立っている運転手を、再び
叱り付けた。
「おい! 早く小田原へ引返すのだ。全速力で、早く手当をしないと助からないのだぞ。」
運転手は、夢から
醒めたように、運転手席に着いた。が、発動機の
壊れている上に、前方の車軸までが曲っているらしい自動車は、
一寸だって動かなかった。
「駄目です。とても動きません。」と、運転手は罪を待つ人のように
顫え声で言った。
「じゃ、一番近くの医者を呼んで来るのだ。
真鶴なら、遠くはないだろう。医者と、そうだ、警察とへ届けて来るのだ。又小田原へ電話が通ずるのなら、
直ぐ自動車を寄越すように頼むのだ。」
運転手は、気の抜けた人間のように、命ぜらるゝままに、フラ/\と
駈け出した。
青年の
苦悶は、続いている。半眼に開いている眼は、上ずッた白眼を見せているだけであるが、
信一郎は、たゞ青年の上半身を抱き起しているだけで、
何うにも手の付けようがなかった。もう、臨終に間もないかも知れない青年の顔かたちを、たゞ
茫然と見詰めているだけであった。
信一郎は青年の
奇禍【思いがけない災難】を
傷むのと同時に、あわよく免れた自身の幸福を、
欣ばずにはいられなかった。それにしても、
何うして扉が、開いたのだろう。
其処から身体が出たのだろう。上半身が、半分出た
為に、衝突の時に、扉と車体との間で、強く胸部を
圧し
潰ぶされたのに違いなかった。
信一郎は、ふと思いついた。最初、車台が海に面する
断崖へ、
顛落しようとしたとき、青年は車から飛び降りるべく、
咄嗟に右の窓を開けたに違いなかった。もし、そうだとすると、車体が最初
怖れられたように、海中に墜落したとすれば、死ぬ者は
信一郎と運転手とで、助かる者は
此青年であったかも知れなかった。
12/343
車体が、急転したとき、
信一郎と青年の運命も咄嗟に転換したのだった。自動車の
苟めの
合乗に青年と
信一郎とは、恐ろしい生死の活劇に好運悪運の両極に立ったわけだった。
信一郎は、そう考えると、結果の上からは、自分が助かるための犠牲になったような、青年のいたましい姿を、一層あわれまずにはいられなかった。
彼は、ふとウィスキイの
小壜がトランクの中にあることを思い出した。それを、飲ますことが、こうした重傷者に
何う言う結果を及ぼすかは、ハッキリと
判らなかった。が、彼としては
此の場合に
為し得る
唯一の手当であった。彼は青年の頭を座席の上に、ソッと下すとトランクを開けて、ウィスキイの
壜を取り出した。
二
口中に注ぎ込まれた数滴のウィスキイが、
利いたのか、それとも偶然そうなったのか、青年の白く
湿んでいた
眸が、だん/\意識の光を帯び始めた。それと共に、意味のなかったうめき声が切れ切れではあるが、言葉の形を採り始めた。
「気を
確にしたまえ! 気を! 君! 君!
青木君!」
信一郎は、力一杯に今覚えたばかりの青年の名を呼び続けた。
青年は、じっと
眸を
凝すようであった。
劇しい苦痛の
為に、ともすれば飛び散りそうになる意識を懸命に取り
蒐めようとするようだった。彼は、じいっと、
信一郎の顔を、見詰めた。やっと自分を襲った
禍の前後を思い出したようであった。
「
何うです。気が付きましたか。
青木君! 気を確にしたまえ!
直ぐ医者が来るから。」
青年は意識が帰って来ると、
此の
苟の旅の
道連の親切を、しみ/″\と感じたのだろう。
「あり――ありがとう。」と、苦しそうに言いながら、感謝の微笑を
湛えようとしたが、それは
劃なく襲うて来る苦痛の
為に、跡なく崩れてしまった。
腸をよじるような、
苦悶の声が、続いた。
「少しの辛抱です。直ぐ医者が来ます。」
信一郎は、相手の苦悶のいた/\しさに、
狼狽しながら答えた。
青年は、それに答えようとでもするように、
身体を心持起しかけた。その途端だった。苦しそうに
咳き込んだかと思うと、
顎から洋服の胸へかけて、流れるような多量の血を吐いた。それと同時に、
今迄充血していた顔が、サッと
蒼ざめてしまった。
13/343
青年の顔には、既に死相が読まれた。内臓が、外部からの劇しい衝動の為に、内出血をしたことが余りに明かだった。
医学の心得の少しもない
信一郎にも、もう青年の死が、単に時の問題であることが分った。青年の顔に血色がなかった
如く、
信一郎の
面にも、血の色がなかった。彼は、彼と偶然
知己【知り合い】になって、直ぐ死に去って行く、ホンの瞬間の友達の運命を、じっと見詰めている外はなかった。
太平洋を圧している、密雲に閉ざされたまゝ、日は落ちてしまった。
夕闇の迫っている
崖端の道には、人の影さえ見えなかった。
瀕死の負傷者を見守る
信一郎は、ヒシ/\と、身に迫る
物凄い
寂寥【何もない孤独】を感じた。負傷者のうめき声の
絶間には、崖下の岩を洗う
浪の音が
淋しく聞えて来た。
吐血をしたまゝ、仰向けに倒れていた青年は、ふと頭を
擡げて何かを求めるような
容子をした。
「何です! 何です!」
信一郎は、
掩いかぶさるようにして
訊いた。
「僕の――僕の――
鞄!」
口中の血に
咽せるのであろう、青年は
喘ぎ喘ぎ絶え入るような声で言った。
信一郎は、車中を見回した。青年が、
携えていた旅行用の小形の
鞄は座席の下に横倒しになっているのだった。
信一郎は、それを取り上げてやった。青年は、それを受け取ろうとして、両手を出そうとしたが、彼の手はもう彼の思うようには、動きそうにもなかった。
「一体、
此の
鞄を
何うするのです。」
青年は、何か答えようとして、口を動かした。が、言葉の代りに出たものは、
先刻の吐血の名残りらしい少量の血であった。
「開けるのですか。開けるのですか。」
青年は
肯こうとした。が、それも肯こうとする意志だけを示したのに、過ぎなかった。
信一郎は
鞄を開けにかゝった。が、それには
鍵がかゝっていると見え、容易には開かなかった。が、
此場合 瀕死の重傷者に、鍵の
在処を尋ねるなどは、余りに心ないことだった。
信一郎は、満身の力を振って、
捻じ開けた。
14/343
金物に付いて、革がベリ/\と、二三寸引き裂かれた。
三
「何を出すのです。何を出すのです。」
信一郎は、薬品をでも、取り出すのであろうと思って
訊いた。が、青年の答は意外だった。
「
雑記帳を。」青年の声は、かすかに
咽喉を
洩れると、言う程度に過ぎなかった。
「ノート?」
信一郎は、
不審りながら、
鞄を
掻き回した。いかにも
鞄の底に、三
帖綴の【三冊分を綴じ合わせた】大学ノートを入れてあるのを
見出した。
青年は、眼で
肯いた。彼は手を出して、それを取った。彼は、それを破ろうとするらしかった。が、彼の手は、たゞノートの表紙を滑べり回る
丈で、一枚の紙さえ破れなかった。
「捨てゝ――捨てゝ下さい! 海へ、海へ。」
彼は、懸命に苦しげな声を、振りしぼった。そして、哀願的な
眸で、じいっと、
信一郎を見詰めた。
信一郎は、大きく肯いた。
「承知しました。何か、外に用がありませんか。」
信一郎は、大声で、
而も可なりの感激を
以て、青年の
耳許で叫んだ。本当は、何か
遺言はありませんかと、言いたい所であった。が、そう言い出すことは、
此のうら若い負傷者に取って、余りに気の毒に思われた。が、そう言ってもよいほど青年の呼吸は、迫っていた。
信一郎の言葉が、青年に通じたのだろう。彼は、それに応ずるように、右の手首を、高く差し上げようとするらしかった。
信一郎は、不思議に思いながら、差し上げようとする右の手首に手を触れて見た。
其処に、冷めたく堅い何かを感じたのである。夕暮の光に
透して見ると、青年は腕時計をはめているのであった。
「時計ですか。
此時計を
何うするのです。」
烈しい苦痛に、
歪んでいる青年の
面に、又別な
苦悶が現われていた。それは肉体的な苦悶とは、又別な――肉体の苦痛にも劣らないほどの――心の、魂の苦痛であるらしかった。
15/343
彼の
蒼白だった
面は微弱ながら、
俄に興奮の色を示したようであった。
「時計を――時計を――返して下さい。」
「誰にです、誰にです。」
信一郎も、懸命になって訊き返した。
「お願い――お願い――お願いです。返して下さい。返して下さい。」
もう、断末魔らしい苦悶の
裡に、青年は
此世に
於ける、最後の力を振りしぼって叫んだ。
「一体、誰にです? 誰にです。」
信一郎は
縋り付くように、訊いた。が、青年の意識は、再び彼を離れようとしているらしかった。たゞ、低い切れ切れのうなり声が、それに答えただけだった。
信一郎は、今
此の答えを得て
置なければ
永劫に得られないことを知った。
「時計を誰に返すのです。誰に返すのです。」
青年の四肢が、ピクリ/\と
痙攣し始めた。もう、死期の
目睫の間に迫っていることが
判った。
「時計を誰に返すのです。
青木君!
青木君! しっかりし
給え。誰に返すのです。」
死の苦しみに、青年は
身体を、左右にもだえた。
信一郎の言葉は、もう
瀕死の耳に通じないように見えた。
「時計を誰に返すのです。名前を言って下さい。名前を言って下さい。名前を!」
信一郎の声も、狂人のように上ずッてしまった。その時に、青年の口が、何かを言おうとして、モグ/\と動いた。
「
青木君、誰に返すのです?」
永久に、消え去ろうとする青年の意識が、ホンの瞬間、
此世に呼び返されたのか。それとも
死際の無意味な
囈語であったのだろうか。青年は、
「
瑠璃子!
瑠璃子!」と、子供の片言のように、口走ると、それを世に残した最後の言葉として、劇しい痙攣が来たかと思うと、それがサッと潮の引くように、衰えてしまってガクリとなったかと思うと、もう、ピクリともしなかった。死が、
遂に来たのである。
四
信一郎は、ハンカチーフを取り出して、死者の
顎から
咽喉にかけての、血を
拭ってやった。
16/343
だん/\
蝋色に、白んで行く、不幸な青年の
面をじっと見詰めていると、
信一郎の心も、青年の不慮の横死【不慮の死】を
悼む心で一杯になって、ほた/\と、涙が流れて止まらなかった。五年も十年も、親しんで来た友達の死顔を見ている心と、少しも変らなかった。何と言う、不思議な運命であろうと、
信一郎は思った。親しい友達は、元より、親兄弟、いとしき
妻夫、愛児の臨終にさえ、いろ/\な事情や境遇のために、居合わさぬ事もあれば、間に合わぬ事もあるのに、ホンの三十分か四十分の
知己【知り合い】、ホンの
暫時【しばらくの間】の友人、言わば路傍の人に過ぎない、
苟の旅の
道伴でありながら、その死床に
侍して、介抱をしたり、遺言を聞いてやると言うことは、何と言う不思議な機縁【人と人との縁】であろうと、
信一郎は思った。
が、青年の身になって、考えて見ると、
一寸した小旅行の中途で思いがけない
奇禍に
逢って、
淋しい海辺の一角で、親兄弟は
勿論親しい友達さえも居合わさず、他人に外ならない
信一郎に、死水を――それは水でなく、数滴のウィスキイだったが――取られて、望み多い未来を、不当に予告なしに、切り取られてしまった情なさ、淋しさは、どんなであっただろう。彼は、息を引き取るとき、親兄弟の優しい
慰藉【なぐさめ】の言葉に、どんなに
渇えた【望んだ】ことだろう。
殊に、母か姉妹か、
或は恋人かの女性としての優しい愛の言葉を、どんなに欲しただろう。彼が、口走った
瑠璃子と言う言葉は、
屹度、そうした女性の名前に違いないと思った。
その
裡に、
信一郎の心に、青年の
遺した言葉が考えられ始めた。彼は、最初にこう疑って見た。他人同然の彼に、
何うして時計のことを言ったのだろう。
若し、時計が誰かに返さるべきものなら名乗り合ったばかりの
信一郎などに頼まないでも、遺族の人の手で、当然返さるべきものではなかろうか。が、
信一郎は、
直ぐこう思い返した。青年はノートの内容も、時計を返すことも、遺族の人々には知られたくなかったのだろう。親兄弟には、飽くまでも、秘密にして置きたかったのであろう。
而も秘密に時計を返すには、
信一郎に頼む外には、何の手段もなかったのだ。人間が人間を信じることが一つの美徳であるように、
此青年も必死の場合に、心から
信一郎を信頼したのだろう。いや、信頼する外には、何の手段もなかったのだ。
信一郎は、青年の
死際の懸命の信頼を、心に深く受け入れずには おられなかった。
17/343
名乗り合ったばかりの自分に、心からの信頼を置いている。人間として、男として、
此の信頼に背く訳には、行かないと思った。
人が、臨終の時に
為す信頼は、
基督正教の信徒が、
死際の
懺悔と同じように、神聖な重大なものに違いないと思った。
縦令、三十分四十分の交際であろうとも、頼まれた以上、忠実に、その信頼に
酬いねばならぬと思った。
そう思いながら、
信一郎は死者の右の手首から、恐る恐る時計を
脱して見た。時計も、それを腕に
捲く腕輪も、銀か
白銅らしい金属で出来ていた。ガラスは、その持主の悲惨な
最期に似て、
微塵に砕け散っていた。夕暮の光の中で、透して見ると、腕輪に附いている止め金が、衝突のとき、皮肉を切ったのだろう。軽い出血があったと見え、その白っぽい時計の胴に、所々真赤な血が
浸んでいた。今までは、興奮のために夢中になっていた
信一郎も、それを見ると、今更ながら、青年の最期の、むごたらしさに、思わず
戦慄を禁じ得なかった。
五
が、時計を返すとして、一体誰に返したらいゝのだろうかと、
信一郎は思った。青年が、死際に口走った
瑠璃子と言う名前の女性に返せばいゝのかしら。が、
瑠璃子と言ったのは、時計を返すべき相手の名前を、言ったのだろうか。時計などとは何の関係もない、青年の恋人か姉か妹かの名ではないのかしら。
『時計を返して
呉れ。』と言ったとき、青年の意識は、可なり
確だった。が、息を引き取る時には、青年の意識は、もう正気を失っていた。
『
瑠璃子!』と、叫んだのは、たゞ狂った心の最後の、偶然な
囈語で、あったかも知れなかった。が、
瑠璃子と言う名前は、青年の心に死の
刹那【瞬間】に深く喰い入った名前に違いなかった。丁度、腕時計が、死の
刹那【瞬間】に彼の手首の肉に、喰い入っていたように。
信一郎は、再度その小形な腕時計を、
手許に迫る
夕闇の中で、透して見た。じっと、見詰めていると最初銀かニッケルと思った金属は、銀ほどは光が無くニッケルほど薄っぺらでないのに、気が付いた。彼は指先で、二三度
撫でて見た。それは、
紛ぎれもなく
白金だった。しかも撫でている指先が、何かツブ/\した物に触れたので、
眸を
凝すと、鋭い光を放つ一
顆の宝石が、
鏤められていた。
18/343
而もそれは金で
象眼された小さい短剣の
柄に当っていた。それは
希臘風の短剣の形だった。
復讐の女神
ネメシスが、
逆手に
掴んでいるような、短剣の形だった。
信一郎は、その特異な、不思議な象眼に、
劇しい好奇心を、
唆られずにはいられなかった。時計の元来の所有者は、女性に違いなかった。が、その象眼は、何と言う女らしからぬ、鋭い
意匠だろう。
日は、もうとっぷりと、暮れてしまった。海上にのみ、一脈の薄明が、漂うているばかりだった。運転手は、なか/\帰って来なかった。
淋しい海岸の一角に、まだ生あたゝかい
死屍を、たゞ一人で見守っていることは、無気味な事に違いなかった。が、先刻から興奮し続けている
信一郎には、それが左程、
嫌わしい事にも気味の悪い事にも思われなかった。彼はある感激をさえ感じた。人として立派な義務を尽しているように思った。
信一郎は、ふとこう言う事に気が付いた。たとい、青年からあゝした依託を受けたとしても、たゞ黙って、
此の高価な
白金の時計を、
死屍から持ち去ってもいゝだろうか。もし、
臨検の巡査にでも、
咎められたら、何と返事をしたらいゝだろう。死人に口なく、死に去った青年が、自分のために、弁解して
呉れる
筈はない。自分は、人の
死屍から、高貴な物品を、
剥ぎ取る恐ろしい
卑しい
盗人と思われても、何の言い訳もないではないか。青年の遺言を受けたと抗弁しても、果して信じられるだろうか。
そう考えると、
信一郎の心は、だん/\迷い始めた。妙な
いきがかりから、他人の秘密にまで立ち入って、返すべき人の名前さえ、判然とはしない時計などを預って、つまらぬ心配や気苦労をするよりも、たゞ乗り合わした一個の旅の
道伴として、遺言も何も、聴かなかったことにしようかしら。
が、こう考えたとき、
信一郎の心の耳に、『お願いで――お願いです。時計を返して下さい。』と言う青年の、血に
咽ぶ断末魔の悲壮な声が、再び鳴り響いた。
19/343
それに応ずるように、
信一郎の良心が、『貴様は
卑怯だぞ。貴様は卑怯だぞ。』と、低く
然しながら、力強く
囁いた。
『そうだ。そうだ。
兎に
角、
瑠璃子と言う女性を探して見よう。たとい、それが時計を返すべき人でないにしろ、その人は
屹度、
此の青年に一番親しい人に違いない。その人が、
屹度時計を返すべき本当の人を、教えて呉れるのに違いない。又、自分が時計を盗んだと言うような、不当な疑いを受けたとき、
此人が
屹度弁解して呉れるのに違いない。』
信一郎は、『
瑠璃子』と言う三字を頼りにして、自分の物でない時計を、ポケット深く、
蔵めようとした。
その時に、急に近よって来る人声がした。彼は、悪い事でもしていたように、ハッと驚いて振り返った。警察の
提灯を囲んで、四五人の人が、足早に
駈け付けて来るようだった。
六
駈け付けて来たのは、オド/\している運転手を先頭にして、年若い巡査と、医者らしい
袴をつけた男と、警察の小使らしい老人との四人であった。
信一郎は、彼等を迎えるべく扉を開けて、路上へ降りた。
巡査は提灯を車内に差し入れるようにしながら、
「
何うです。負傷者は?」と、
訊いた。
「
先刻、息を引き取ったばかりです。何分胸部をひどく、やられたものですから、助からなかったのです。」と、
信一郎は答えた。
暫らくは、誰もが口を
利かなかった。運転手が、ブル/\
顫え出したのが、ほの暗い提灯の光の中でも、それと
判った。
「
兎も
角、一応
診て下さい。」と、巡査は医者らしい男に言った。運転手は
顫えながら、車体に取り付けてある
洋灯に、点火した。周囲が、急に明るくなった。
「お
伴じゃないのですね。」医者が検視をするのを見ながら、巡査は
信一郎に訊いた。
20/343
「そうです。たゞ
国府津から乗合わしたばかりなのです。が、名前は判って居ます。先刻名乗り合いましたから。」
「何と言う名です。」巡査は手帳を開いた。
「
青木淳と言う文科大学生です。宿所は訊かなかったけれど、どうも名前と顔付から考えると、
青木淳三と言う貴族院議員のお子さんに違いないと思うのです。無論断言は出来ませんが、持物でも調べれば
直ぐ判るでしょう。」
巡査は、
信一郎の言う事を、一々
肯いて聴いていたが、
「遭難の事情は、運転手から一通り、聴きましたが、
貴君からもお話を願いたいのです。運転手の言うことばかりも信ぜられませんから。」
信一郎は言下に「運転手の過失です。」と言い切りたかった。過失と言うよりも、無責任だと言い切りたかった。が、
戦きながら、
信一郎と巡査との問答を、身の一大事とばかり、聞耳を澄ましている運転手の、罪を知った
容子を見ると、そう強くも言えなかった。その上、運転手の罪を、
幾何声高に叫んでも、青年の
甦る
筈もなかった。
「運転手の過失もありますが、どうも
此方が自分で扉を、開けたような形跡もあるのです。扉さえ
開かなかったら、死ぬようなことはなかったと思います。」
「なるほど。」と、巡査は何やら手帳に、書き付けてから言った。「いずれ、遺族の方から起訴にでもなると、
貴君にも証人になって
戴くかも知れません。御名刺を一枚戴きたいと思います。」
信一郎は
乞わるゝまゝに、一枚の名刺を与えた。
丁度その時に、医者は血に
塗みれた手を気にしながら、車内から出て来た。
「ひどく血を吐きましたね。あれじゃ負傷後、
幾何も生きていなかったでしょう。」と、
信一郎に言った。
「そうです。三十分も生きていたでしょうか。」
「あれじゃ助かりっこはありません。」と、医者は投げるように言った。
「
貴君もとんだ災難でした。」と、巡査は
信一郎に言った。
21/343
「が、死んだ方に
比ぶれば、むしろ命拾いをしたと言ってもいゝでしょう。湯河原へ行らっしゃるそうですね。それじゃ小使に御案内させますから
真鶴までお歩きなさい。死体の方は、引受けましたから、御自由にお引き取り下さい。」
信一郎は、とにかく当座の責任と義務とから、放たれたように思った。が、ポケットの底にある時計の事を考えれば、
信一郎の責任は
何時果されるとも分らなかった。
信一郎は車台に近寄って、黙礼した。不幸な青年に最後の別れを告げたのである。
巡査達に
挨拶して、二三間行った時、彼はふと海に捨つるべく、青年から頼まれたノートの事を思い出した。彼は驚いて、取って帰した。
「忘れ物をしました。」彼は、やゝ
狼狽しながら言った。
「何です。」車内を
覗き込んでいた巡査が振り
顧った。
「ノートです。」
信一郎は、やゝ上ずッた声で答えた。
「これですか。」
先刻から、それに気の付いていたらしい巡査は、座席の上から取り上げて
呉れた。
信一郎は、そのノートの表紙に、ペンで
青木淳とかいてあるらしいのを見ると、ハッと思った。が、光は暗かった。その上、巡査の心にそうした
疑は
微塵も存在しないらしかった。彼は、やっと安心して、自分の物でない物を、自分の物にした。
七
真鶴から湯河原
迄の軽便の汽車の中でも、駅から湯の宿までの、田舎馬車の中でも、
信一郎の頭は混乱と興奮とで、一杯になっていた。その上、衝突のときに、受けた打撃が現われて来たのだろう、頭がズキ/\と痛み始めた。
青年のうめき声や、吐血の
刹那【瞬間】や、
蒼白んで行った死顔などが、ともすれば幻覚となって、耳や目を襲って来た。
静子に久し振に
逢えると言ったような楽しい平和な期待は、偶然な
血腥い出来事のために、
滅茶苦茶になってしまったのである。
静子の
初々しい面影を、描こうとすると、それが
何時の間にか、青年の死顔になっている。「
静子!
静子!」と、口の中で呼んで、愛妻に対する意識を、ハッキリさせようとすると、その声が何時の間にか「
瑠璃子!
瑠璃子!」と、言う悲痛な断末魔の声を、
想い浮べさせたりした。
馬車が、暗い田の中の道を、左へ曲ったと思うと、眼の前に、
山懐にほのめく、湯の街の
灯影が見え始めた。
22/343
信一郎は、愛妻に逢う前に、
何うかして、乱れている自分の心持を、整えようとした。なるべく、穏やかな平静な顔になって、自分の
激動を妻に
伝染すまいとした。
血腥い青年の
最期も、出来るならば話すまいとした。それは優しい妻の胸には、鋭すぎる事実だった。
藤木川の左岸に添うて走った馬車が、新しい木橋を渡ると、
橋袂の湯の宿の玄関に止まった。
「奥様がお待ち兼でございます。」と、妻に付けてある女中が、宿の女中達と一緒に玄関に出迎えた。ふと気が付くと、玄関の突き当りの、二階への階段の中段に、降りて出迎えようか(それともそれが可なり
はしたない事なので)降りまいかと、
躊躇っていたらしい
静子が、
信一郎の顔を見ると、
艶然と笑って、はち切れそうな
嬉しさを抑えて、いそ/\と
駈け降りて来るのであった。
「いらっしゃいませ。
何うして、こう遅かったの。」
静子は
一寸不平らしい様子を嬉しさの
裡に見せた。
「遅くなって済まなかったね。」
信一郎は、
劬わるように言い捨てゝ、先に立って妻の部屋へ入った。
その時に、彼はふと青年から頼まれたノートを、まだ夏
外套のポケットに入れているのに、気が付いた。先刻真鶴まで歩いたとき、引き裂いて捨てよう/\と思いながら、小使の手前、
何うしても果し得なかったのである。当惑の
為に、彼の表情はやゝ曇った。
「御気分が悪そうね。
何うかしたのですか。
湯衣にお着換えなさいまし。それとも、お寒いようなら、
褞袍になさいますか。」
そう言いながら
静子は
甲斐々々しく
信一郎の脱ぐ
上衣を受け取ったり、
襯衣を脱ぐのを手伝ったりした。
その
中に、上衣を
衣桁にかけようとした妻は、ふと、
「あれ!」と、可なり けたゝましい声を出した。
「
何うしたのだ。」
信一郎は驚いて
訊いた。
「何でしょう。これは、血じゃなくて。」
静子は、
真蒼になりながら、洋服の腕のボタンの所を、
電灯の真近に持って行った。それは紛ぎれもなく血だった。
一寸四方ばかり、ベットリと血が
浸じんでいたのである。
「そうか。やっぱり付いていたのか。」
23/343
信一郎の声も、やゝ
顫いを帯びていた。
「
何うかしたのですか。
何うかしたのですか。」気の弱い
静子の声は、可なり上ずッていた。
信一郎は、妻の気を落着けようと、可なり冷静に答えた。
「いや
何うもしないのだ。たゞ、自動車が
崖にぶっ
突かってね。乗合わしていた大学生が負傷したのだ。」
「
貴君は、
何処もお
負傷はなかったのですか。」
「運がよかったのだね。俺は、かすり傷一つ負わなかったのだ。」
「そしてその学生の方は。」
「重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ
奇禍【思いがけない災難】と言うんだね。」
静子は、夫が免れた危険を想像する
丈けで、可なり激しい感動に襲われたと見え、目を
刮ったまゝ
暫らくは物も言わなかった。
信一郎も、何だか不安になり始めた。
奇禍に逢ったのは、大学生ばかりではないような気がした。自分も妻も、平和な気持を、滅茶々々にされた事が、可なり大きい
禍であるように思った。が、そればかりでなく、時計やノートを受け継いだ事に
依って、青年の恐ろしい運命をも、受け継いだような気がした。彼は、楽しく期待した通り
静子に逢いながら、優しい言葉一つさえ、かけてやる事が出来なかった。
夫と妻とは、
蒼白になりながら、黙々として相対していた。
信一郎は、ポケットに入れてある時計が、何か魔の
符でもあるように、気味悪く感ぜられ始めた。
美しき遅参者
一
青年の横死【不慮の死】は、東京の各新聞に
依って、可なり
精しく伝えられた。青年が、
信一郎の想像した通り
青木男爵の
長子であったことが、それに
依って証明された。が、不思議に同乗者の名前は、各新聞とも
洩していた。
信一郎は結局それを気安いことに思った。
信一郎が、
静子を伴って帰京した翌日に、
青木家の葬儀は青山の斎場で、執り行われることになっていた。
信一郎は、自分が青年の
最期を介抱した当人であると言う事を、名乗って出るような心持は、少しもなかった。
24/343
が、自分の手を
枕にしながら、息を引き取った青年が、
傷ましかった。他人でないような気がした。十年の友達であるような気がした。その人の面影を
偲ぶと、何となく なつかしい涙ぐましい気がした。
遺族の人々とは、縁も
ゆかりもなかった。が、弔われている人とは、可なり強い因縁が、
纏わっているように思った。彼は、心からその
葬いの席に、
列りたいと思った。
が、その上、もう一つ是非とも、
列るべき必要があった。青年の葬儀である以上、姉も妹も、
瑠璃子と呼ばるゝ女性も、返すべき時計の真の持主も、(もしあれば)青年の恋人も、みんな
列っているのに
違ない。青年に、
由縁のある人を物色すれば、時計を返すべき持主も、案外容易に、見当が付くに
違ない。
否、少くとも
瑠璃子と言う女
丈は、容易に
見出し得るに
違ない、
信一郎はそう考えた。
その日は、
廓然と晴れた初夏の一日だった。もう夏らしく、白い層雲が、むく/\と空の一角に
湧いていた。水色の空には、強い光が、一杯に
充ち渡って、
生々の気が、空にも地にも
溢れていた。たゞ、青山の葬場に集まった人
丈は、
活々とした周囲の中に、しめっぽい静かな
陰影を、投げているのだった。
青年の不幸な
夭折が、特に多くの会葬者を、
惹き付けているらしかった。
信一郎が、定刻の三時前に行ったときに、早くも十幾台の自動車と百台に近い
俥が、斎場の前の広い道路に乗り捨てゝあった。控席に待合わしている人々は、もう五百人に近かった。それだのに、自動車や
俥が、幾台となく後から/\到着するのだった。死んだ青年の父が、貴族院のある団体の有力な幹部である
為に、政界の巨頭は、大抵網羅しているらしかった。貴族院議長のT公爵の顔や、軍令部長のS大将の顔が、
信一郎にも
直ぐそれと
判った。葉巻を
横銜えにしながら、場所柄をも考えないように
哄笑している【大口をあけて笑う】巨漢は、
逓信大臣のN氏だった。それと相手になっているのは、戦後の
欧洲を、回って来て以来、風雲を待っているらしく思われているG男爵だった。その外首相の顔も見えた。
25/343
内相もいた。陸相もいた。実業界の名士の顔も、五六人は見覚えがあった。が、見渡したところ
信一郎の知人は一人もいなかった。彼は、受附へ名刺を出すと、
控場の一隅へ退いて、式の始まるのを待っていた。
誰も彼に、話しかけて
呉れる人はなかった。接待をしている人達も、名士達の前には、頭を幾度も下げて、その会葬を感謝しながら、
信一郎には、たゞ儀礼的な
一揖を
酬いただけだった。
誰からも、顧みられなかったけれども、
信一郎の心には、自信があった。千に近い会葬者が、集まろうとも、青年の臨終に
侍したのは、自分一人ではないか。青年の最期を、見届けているのは、自分一人ではないか。青年の信頼を受けているのは自分一人ではないか。その死床に
侍して介抱してやったのは、自分一人ではないか。もし、死者にして霊あらば、大臣や実業家や名士達の社交上の会葬よりも、自分の心からな会葬を、どんなに
欣ぶかも知れない。そう思うと、
信一郎は自分の会葬が、他の
何人の会葬よりも、意義があるように思った。彼はそうした感激に
耽りながら、じっと会葬者の群を眺めていた。急に、皆が静かになったかと思うと、
戞々たる【鋭く響くような】
馬蹄の響がして、
霊柩を載せた馬車が遺族達に守られて、斎場へ近づいて来るのだった。
二
霊柩を載せた馬車を先頭に、一門の人々を載せた馬車が、七八台も続いた。
信一郎は、群衆を擦り
脱けて、馬車の止まった方へ近づいた。次ぎ/\に、馬車を降りる一門の人々を、
仔細に注視しようとしたのである。
霊柩の
直ぐ後の馬車から、降り立ったのは、今日の葬式の喪主であるらしい青年であった。一目見ると、横死【不慮の死】した青年の肉親の弟である事が、直ぐ
判った。それほど二人はよく似ていた。たゞ学習院の制服を着ている
此青年の背丈が、
国府津で見たその人の兄よりも、一二寸高いように思われた。
その次ぎの馬車からは、二人の女性が現われた。
信一郎は、その
孰れかゞ
瑠璃子と呼ばれはしないかと、熱心に見詰めた。
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二人とも、死んだ青年の妹であることが、直ぐ判った。兄に似て二人とも端正な美しさを持っていた。年の上の方も、まだ二十を越していないだろう。その美しい眼を心持泣き
脹して、雪のような喪服を
纏うて、
俯きがちに、しおたれて歩む姉妹の姿は、悲しくも
亦美しかった。
それに、続いてどの馬車からも、一門の夫人達であろう、
白無垢を着た貴婦人が、一人二人
宛降り立った。
信一郎は、その
裡の誰かゞ、
屹度瑠璃子に違いないと思いながら、一人から他へと、
慌しい眼を移した。が、たゞいら/\する
丈で、ハッキリと確める
術は、少しもなかった。
霊柩が式場の正面に安置せられると、会葬者も銘々に、式場へ
雪崩れ入った。手狭な式場は見る見る、一杯になった。
式が始まる前の静けさが、
其処に在った。会葬者達は、
銘々慎しみの心を、表に現わして紫や
緋の衣を着た老僧達の、居並ぶ祭壇を一斉に注視しているのであった。
式場が静粛に緊張して、今にも
読経の第一声が、この静けさを破ろうとする時だった。突如として式場の空気などを、少しも顧慮しないような けたゝましい、自動車の響が場外に近づいた。祭壇に近い人々は、
遉に振向きもしなかった。が、会葬者の
殆ど過半が、
此無遠慮な
闖入者に対して
叱責に近い注視を投げたのである。
自動車は、式場の入口に横附けにされた。
伊太利製らしい、優雅な自動車の扉が、運転手に
依って
排せられた【開けられた】。
会葬者の注視を引いた事などには、何の恐れ気もないように、翼を
拡げた白
孔雀のような、け高さと上品さとで、その踏段から地上へと、スックと降り立ったのは、まだうら若い一個の女性だった。降りざまに、その
面を
掩うていた黒い薄絹のヴェールを、かなぐり捨てゝ、無造作に自動車の中へ投げ入れた。人々の環視の
裡に、微笑とも
嬌羞【なまめかしい恥じらい】とも付かぬ表情を、
湛えた
面は、くっきりと
皎く【清らかで汚れなく】輝いた。
白襟
紋付の
瀟洒な
衣は、そのスラリとした姿を一層気高く見せていた。彼女は、何の
悪怯れた【おどおどする】
容子も見せなかった。打ち並ぶ名士達の間に、細く残された通路を、足早に通り抜けて、祭壇の右の婦人達の居並ぶ席に就いた。
27/343
会葬者達は、場所柄の許す範囲で、銘々熱心な眼で、
此の美しい無遠慮な遅参者の姿を追った。が、そうした眼の中でも、
信一郎のそれが、一番熱心で一番輝いていたのである。

彼は、何よりも先きに、
此女性の美しさに打たれた。年は
二十を多くは出ていなかったゞろう。が、そうした若い美しさにも
拘わらず、人を圧するような威厳が、
何処かに備わっていた。
信一郎は、頭の中で自分の知っている、あらゆる女性の顔を浮べて見た。が、そのどれもが、
此婦人の美しさを、少しでも
冒すことは出来なかった。
泰西【西洋諸国】の名画の中からでも、抜け出して来たような女性を、
信一郎は驚異に似た心持で
暫らくは、
茫然と会衆の頭越しに見詰めていたのである。
三
信一郎が、その美しき女性に、
釘付けにされたように、会葬者の
眸も、一時は
此の女性の身辺に注がれた。が、その
裡に、衆僧が一斉に始めた
読経の朗々たる声は、皆の心持を死者に対する
敬虔な
哀悼に引き
統べてしまった。
が、
此女性が、
信一郎の心の
裡に起した動揺は、お経の声などに
依って
却々静まりそうにも見えなかった。
彼は、直覚的に
此女性が、死んだ青年に対して、特殊な関係を持っていることを信じた。
此女性の美しいけれども
颯爽たる容姿が、あの返すべき時計に
鏤刻されている、鋭い短剣の形を
想い起さしめた。彼は、読経の声などには、
殆ど耳も傾けずに、群衆の頭越しに、女性の姿を、懸命に見詰めたのである。
が、見詰めている
中に、
信一郎の心は、それが
瑠璃子であるか、時計の持主であるかなどと言う疑問よりも、
此の女性の美しさに、段々
囚われて行くのだった。
此の女性の顔形は、美しいと言っても、昔からある日本婦人の美しさではなかった。それは、日本の近代文明が、
初て生み出したような美しさと表情を持っていた。明治時代の美人のように、個性のない、人形のような美しさではなかった。その
眸は、飽くまでも、
理知に輝いていた。顔全体には、
爛熟した文明の婦人に特有な、
智的な輝きがあった。
婦人席で多くの婦人の中に立っていながら、
此の女性の背後
丈には、ほの/″\と明るい後光が、
射しているように思われた。
年頃から言えば娘とも思われた。が、
何処かに備わっている冒しがたい威厳は、名門の夫人であることを示しているように思われた。
28/343
信一郎が、
此の女性の
美貌に対する
耽美に
溺れている
裡に、葬式のプログラムはだん/\進んで行った。死者の兄弟を先に一門の焼香が終りかけると、
此の女性もしとやかに席を離れて死者の
為に
一抹の香を
焚いた。
やがて式は
了った。会葬者に対する
挨拶があると、会葬者達は、我先にと帰途を急いだ。式場の前には
俥と自動車とが
暫くは右往左往に、入り
擾れた。
信一郎は、急いで退場する群衆に、わざと取残された。彼は群衆に押されながら、意識して、
彼の女性に近づいた。
女性が、式場を
出外ずれると、彼女はそこで、四人の大学生に取り
捲かれた。大学生達は皆死んだ青年の学友であるらしかった。彼女は何か
二言三言言葉を
換すと乗るべき自動車に片手をかけて、華やかな微笑を四人の中の、誰に投げるともなく投げて、その
娜やかな身を
翻して
忽ち車上の人となったが、つと上半身を出したかと思うと、
「本当にそう考えて下さっては、
妾困りますのよ。」と、
嫣然と【あでやかにほほえんで】言い捨てると、
扉をハタと閉じたが自動車はそれを合図に散りかゝる群衆の間を縫うて、
徐ろに動き始めた。
大学生達は、自動車の後を、暫らく立ち止まって見送ると、そのまま肩を
揃えて歩き出した。
信一郎も学生達の後を追った。学生達に話しかけて、
此女性の本体を知ることが時計の持主を知る、
唯一の機会であるように思ったからである。
学生達は、電車に乗る
積だろう。式場の前の道を、青山三丁目の方へと歩き出したのであった。
信一郎は、それと悟られぬよう一間ばかり、間隔を
以て歩いていた。が、学生達の声は、可なり高かった。彼等の会話が、切れ切れに
信一郎にも聞えて来た。
「
青木の変死は、偶然だと言えばそれまでだが、僕は死んだと聞いたとき、
直ぐ自殺じゃないかと思ったよ。」と、一番
肥っている男が言った。
「僕もそうだよ。
青木の
奴、やったな! と思ったよ。」
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と、他の背の高い男は直ぐ賛成した。
四
「僕の所へ三保から寄越した手紙なんか、全く変だったよ。」と、たゞ一人夏
外套を着ている男が言った。
信一郎は、そうした学生の会話に、好奇心を
唆られて、思わず間近く接近した。
「
兎に
角、ヒドく
悄気ていたことは、事実なんだ。誰かに、失恋したのかも知れない。が、
彼奴の事だから誰にも打ち明けないし、相手の見当は、サッパリ付かないね。」と、
肥った男が言った。
そう聞いて見ると、
信一郎は、自動車に同乗したときの、青年の態度を
直ぐ思い出した。その悲しみに閉された面影がアリ/\と頭に浮んだ。
「相手って、まさか我々の
荘田夫人じゃあるまいね。」と、一人が言うと、皆高々と笑った。
「まさか。まさか。」と皆は口々に打ち消した。
其処は、もう三丁目の停留場だった。四人連の内の三人は、
其処に停車している電車に、無理に押し入るようにして乗った。たゞ、後に残った一人
丈、眼鏡をかけた、皆の話を黙って聴いていた一人だけ、友達と別れて、電車の線路に沿うて、青山一丁目の方へ歩き出した。
信一郎は、その男の後を追った。相手が、一人の方が、話しかけることが、容易であると思ったからである。
半町ばかり、付いて歩いたが、
何うしても話しかけられなかった。突然、話しかけることが、不自然で突飛であるように思われた。彼は、幾度も中止しようとした。が、
此機会を失しては、時計を返すべき
緒が、永久に見付け得られないようにも思った。
信一郎は
到頭思い切った。先方が、
一寸振り返るようにしたのを機会に、つか/\と傍へ歩き寄ったのである。
「失礼ですが、
貴君も
青木さんのお
葬いに?」
「そうです。」先方は突然な問を、意外に思ったらしかったが、不愉快な
容子は、見せなかった。
「やっぱりお友達でいらっしゃいますか。」
信一郎はやゝ安心して
訊いた。
「そうです。ずっと、小さい時からの友達です。小学時代からの竹馬の友です。」
30/343
「なるほど。それじゃ、
嘸お力落しでしたろう。」と言ってから、
信一郎は少し
躊躇していたが、「つかぬ事を、承わるようですが、今
貴君方と話していた婦人の方ですね。」と言うと、青年は直ぐ訊き返した。
「あの自動車で、帰った人ですか。あの人が
何うかしたのですか。」
信一郎は少しドギマギした。が、彼は訊き続けた。
「いや、
何うもしないのですが、あの方は何と
仰しゃる方でしょう。」
学生は、
一寸信一郎を
憫れむような微笑を浮べた。ホンの瞬間だったけれども、それは知るべきものを知っていない者に見せる
憫れみの微笑だった。
「あれが、有名な
荘田夫人ですよ。御存じなかったのですか。
曽て司法大臣をした事のある
唐沢男爵の娘ですよ。
唐沢さんと言えば、
青木君のお父様と、同じ団体に属している貴族院の老政治家ですよ。お父様同士の関係で、
青木君とは近しかったんです。」
そう言われて見ると、
信一郎も、
荘田夫人なるものゝ写真や消息を婦人雑誌や新聞の婦人欄で幾度も見たことを思い出した。が、それに対して、何の注意も払っていなかったので、その名前は
何うしても
想い浮ばなかった。が、
此の場合名前まで訊くことが、可なり変に思われたが、
信一郎は思い切って
訊ねた。
「お名前は、確か何とか言われたですね。」
「
瑠璃子ですよ、我々は、
玉桂の
瑠璃子夫人と言っていますよ。ハヽヽヽ。」と、学生は事もなげに答えた。
五
葬場に
於ける遅参者が、
信一郎の直覚していた
通、
瑠璃子と呼ばるる女性であることが、
此大学生に
依って確められると、彼はその女性に就いて、もっといろ/\な事が、知りたくなった。
「それじゃ、
青木君とあの
瑠璃子夫人とは、そう大したお
交際でもなかったのですね。」
「いやそんな事もありませんよ。
此半年ばかりは、可なり親しくしていたようです。
尤もあの奥さんは、大変お
交際の広い方で、僕なぞも、
青木君同様 可なり親しく、交際している方です。」
31/343
大学生は、
美貌の貴婦人を、
知己【知り合い】の中に数え得ることが、可なり得意らしく、誇らしげにそう答えた。
「じゃ、可なり自由な御家庭ですね。」
「自由ですとも、夫の
勝平氏を失ってからは、思うまゝに、自由に振舞っておられるのです。」
「あ! じゃ、あの方は未亡人ですか。」
信一郎は、可なり意外に思いながら
訊いた。
「そうです。結婚してから半年か
其処らで、夫に死に別れたのです。それに続いて、先妻のお子さんの長男が気が狂ったのです。今では、
荘田家はあの奥さんと、
美奈子と言う十九の娘さんだけです。それで、奥さんは離縁にもならず、娘さんの親権者として
荘田家を切り回しているのです。」
「なるほど。それじゃ、後妻に来られたわけですね。あの美しさで、あの若さで。」と、
信一郎は事
毎に意外に感じながらそう
呟いた。
大学生は、それに対して、何か説明しようとした。が、もう二人は青山一丁目の、停留場に来ていた。学生は、今発車しようとしている塩町行の電車に、乗りたそうな容子を見せた。
信一郎は、最後の瞬間を利用して、もう一歩進めて見た。
「突然ですが、ある用事で、あの奥さんに、一度お目にかゝりたいと思うのですが、紹介して下さる訳には……」と、言葉を切った。
大学生は、
信一郎のそうしたやゝ不自然な、ぶっきら棒な願いを、美貌の女性の
知己【知り合い】になりたいと言う、世間普通な色好みの男性の願と、同じものだと思ったらしく、
一寸嘲笑に似た笑いを
洩そうとしたが、直ぐそれを
噛み殺して、
「
貴君の御身分や、御希望を
精しく承らないと、僕として
一寸紹介して差上げることは出来ません。尤も、
荘田夫人は普通の奥さん方とは違いますから、突然尋ねて行かれても、
屹度逢って
呉れるでしょう。御宅は、
麹町の五番町です。」
そう言い捨てると、その青年は
身体を
捷く動かしながら、
将に動き出そうとする電車に巧に飛び乗ってしまった。
信一郎は、
一寸おいてきぼりを喰ったような、
稍々不快な感情を持ちながら、
暫らく
其処に
佇立した。大学生に話しかけた自分の態度が、下等な新聞記者か何かのようであったのが、恥しかった。どんなに、あの女性の本名が知りたくても もっと上品な態度が取れたのにと思った。
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が、そうした不愉快さが、段々消えて行った後に、
瑠璃子と言う女性の本体を
掴み得た満足が
其処にあった。
而も、
瑠璃子と言う女性が、今も
尚ハンカチーフに包んで、ポケットの底深く潜ませて、持って来た時計の持主らしい、
凡ての資格を備えていることが何よりも
嬉しかった。短剣を
鏤めた
白金の時計と、今日見た
瑠璃子夫人の姿とは、ピッタリと合いすぎるほど、合っていた。今日にでも夫人を訪ねれば、夫人は
屹度、死んだ青年に対する
哀悼の涙を浮べながら、あの時計を受取って呉れるに
違ない。そして、自分と青年との不思議な因縁に、感激の言葉を発するに違ない。そう思うと、
信一郎の
瞳にあざやかな夫人の姿が、
歴々と浮かんで来た。彼は一刻も早く、夫人に逢いたくなった。
其処へ、彼のそうした決心を
促すように、九段両国行きの電車が、
軋って【キシキシと音を立てて】来た。
此電車に乗れば、麹町五番町
迄は、一回の乗換さえなかった。
六
電車が、赤坂見付から三
宅坂通り、五番町に近づくに従って、
信一郎の眼には、葬場で見た美しい女性の姿が、いろいろな
姿勢を取って、現れて来た。返すべき時計のことなどよりも、美しき夫人の面影の方が、より多く彼の心を占めているのに気が付いた。彼は自分の心持の中に、不純なものが交りかけているのを感じた。『お前は時計を返す
為に、あの夫人に
逢いたがっているのではない。時計を返すのを口実として、あの美しい夫人に逢いたがっているのではないか。』と言う
叱責に似た声を、彼は自分の心持の中に感じた。それほど、
瑠璃子と呼ばれる女性の美しさが、彼の心を悩まし惑わしたが、
信一郎は懸命にそれから逃れようとした。自分の責任は、たゞ青年の遺言
通に、時計を真の持主に返せばいゝのだ。荘田
瑠璃子が、どんな女性であろうとあるまいと、そんな事は何の問題でもないのだ。たゞ、夫人が本当に時計の持主であるかどうかゞ、問題なのだ。自分はそれを確めて、時計を返しさえすれば、責任は尽きるのだ。
信一郎は、そう強く思い切ろうとした。が、
幾何強く思い切ろうとしても、白
孔雀を見るような、
﨟たけた【美しくて気品がある】若き夫人の姿は、彼が思うまいとすればするほど、
愈鮮明に彼の眼底を去ろうとはしなかった。
33/343
青い葉桜の林に、キラ/\と夏の風が光る英国大使館の前を過ぎ、青草が美しく茂ったお
濠の
堤に沿うて、電車が止まると、彼は急いで電車を降りた。彼の眼の前に五番町の広い
通が、午後の太陽の光の下に白く輝いていた。彼は、
一寸した興奮を感じながらも、
暫くは
其処に立ち止まった。紳士として、突然訪ねて行くことが、余りに
はしたないようにも思われた。手紙位で、一応面会の承諾を得る方が、自然で、かつは礼儀ではないかと思ったりした。が、そうした順序を踏んで相手が、会わないと言えば、それ切りになってしまう。少しは不自然でも、
直截に訪問した方が、
却って容易に会見し得るかも知れない。
殊に、今は死んだ青年の葬儀から帰ったばかりであるから、
此の夫人も、きっと青年のことを、考えているに
違ない。
其処へ、自分が青年の名に
依って尋ねて行けば、案外快く引見するに違いない。そう考えると
信一郎は
崩れかゝった勇気を振い
興して、五番町の表通と横町とを
軒並に、物色して歩いた。彼は、五番町の
総てを
漁った。が、
何処にも、
荘田と言う表札は、
見出さなかった。三十分近く無駄に歩き回った末、彼は
到頭通り合わした御用
聴らしい小僧に尋ねた。
「
荘田さんですか。それじゃあの停留場の
直ぐ前の、白
煉瓦の洋館の、お屋敷がそれです。」と、小僧は
言下に【一言】教えて
呉れた。
その家は、
信一郎にも最初から
判っていた。
信一郎は、電車から降りたとき、直ぐその家に眼を
与ったのであるが、
花崗岩らしい大きな石門から、
楓の
並樹の間を、
爪先上りになっている玄関への道の奥深く、青い若葉の
蔭に
聳える
広壮【広大でりっぱ】な西洋館が――大きい邸宅の
揃っている
此界隈でも、他の建物を圧倒しているような西洋館が
荘田夫人の家であろうとは夢にも思わなかった。
彼は、予想以上に立派な邸宅に
気圧されながら、暫らくはその門前に
佇立した。玄関への青い芝生の中の道が、
曲線をしている為に車寄せの様子などは、見えなかったが、ゴシック風の白煉瓦の建物は
瀟洒に
而も
荘重【おごそかで重々しい】な感じを見る者に与えた。開け放した二階の窓にそよいでいる青色の窓
掩い【カーテン】が、
如何にも
清々しく見えた。二階の
縁側に置いてある
籐椅子には、燃えるような
蒲団が敷いてあって、
此家の主人公が、美しい夫人であることを、示しているようだ。
34/343
入ろうか、入るまいかと、
信一郎は幾度も思い悩んだ。手紙で
訊き合して見ようか、それでも事は足りるのだと思ったりした。彼が、広壮な邸宅に圧迫されながら思わず
踵を
回そうとした時だった。噴泉の
湧くように、突如として
樹の
間から
洩れ始めた朗々たるピアノの音が
信一郎の心をしっかと
掴んだのである。
七
樹の間を洩れて来るピアノの曲は、
信一郎にも聞き覚えのある
ショパンの夜曲だった。彼は、
回そうとした
踵を、
釘付けにされて、
暫らくはその
哀艶な響に、心を奪われずにはいられなかった。
嫋々たる【しなやかにまといつく】ピアノの音は、高く低く緩やかに
劇しく、時には若葉の
梢を
馳け抜ける五月の風のように
囁き、時には青い月光の下に、
俄に
迸り
出でたる泉のように、
激した。その絶えんとして【終わりそうで】、又続く快い旋律が、目に見えない紫の糸となって、
信一郎の心に、後から後から投げられた。それは美しい女郎
蜘蛛の吐き出す糸のように、
蠱惑的【人の心を引きつけてまどわすよう】に彼の心を
囚えた。
彼の心に、
鍵盤の上を
梭のように馳けめぐっている白い手が、一番に浮かんだ。それに続いて葬場でヴェールを取り去った
刹那【瞬間】の白い輝かしい顔が浮んだ。
彼は時計を返すなどと言うことより、
兎に
角も、夫人に
逢いたかった。たゞ、訳もなく、
惹き付けられた。たゞ、会うことが出来さえすれば、その事
丈でも、非常に大きな
欣びであるように思った。
躊躇していた足を、踏み返した。思い切って門を
潜った。ピアノの音に連れて、浮れ出した若き舞踏者のように、彼の心もあやしき興奮で、ときめいた。白い大理石の柱の並んでいる車寄せで、彼は
一寸躊躇した。が、その次の瞬間に、彼の指はもう
扉の横に取付けてある呼鈴に触れていた。
茲まで来ると、ピアノの音は、
愈間近く聞えた。その
冴えた
触鍵が、彼の心を強く
囚えた。
呼鈴を押した後で、彼は妙な息苦しい不安の
裡に、一分ばかり待っていた。その時、小さい靴の足音がしたかと思うと
扉が静かに押し開けられた。名刺受の銀の盆を手にした美しい少年が、微笑を含みながら、頭を下げた。
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「奥さまに、
一寸お目にかゝりたいと思いますが、御都合は
如何でございましょうか。」
彼は、そう言いながら、一枚の名刺を渡した。
「
一寸お待ち下さいませ。」
少年は丁寧に再び頭を下げながら、玄関の突き当りの二階を、
栗鼠のように、すばしこく
馳け上った。
信一郎は少年の後を、じっと見送っていた。
骰子は投げられたのだと言ったような、思い詰めた心持で、その二階に消える足音を聞いていた。
忽ちピアノの音が、ぱったりと
止んだ。
信一郎は、その
刹那【瞬間】に劇しい胸騒ぎを感じたのである。その美しき夫人が、彼の姓名を初めて知ったと言うことが、彼の心を騒がしたのである。彼は、再びピアノが鳴り出しはしないかと、息を
凝していた。が、ピアノの鳴る代りに、少年の小さい足音が、聞え始めた。
愛嬌のよい
微笑を浮べた少年は、トン/\と飛ぶように階段を馳け降りて来た。
「一体、
何う言う御用でございましょうか、
一寸聞かしていたゞくように、
仰しゃいました。」
信一郎は、それを聞くと、もう夫人に会う確な望みを得た。
「今日、お葬式がありました
青木淳氏のことで、
一寸お目にかゝりたいのですが……」と、言った。少年は、又勢いよく階段を馳け上って行った。今度は、以前のように早くは、馳け降りて来なかった。会おうか会うまいかと、夫人が思案している様子が、あり/\と感ぜられた。五分近くも
経った頃だろう。少年はやっと、二階から馳け降りて来た。
「御紹介状のない方には、
何方にもお目にかゝらないことにしてあるのですが、
貴君様を御信用申上げて、特別にお目にかゝるように仰しゃいました。どうぞ、
此方へ。」と、少年は
信一郎を案内した。玄関を上った
処は、広間だった。その広間の左の壁には、ゴヤの描いた『踊り子』の絵の、可なり
精緻な模写が掲げてあった。
女王蜘蛛
一
信一郎の案内せられた応接室は、青葉の庭に面している広い明るい部屋だった。花模様の青い
絨氈の敷かれた床の上には、
桃花心木の
卓子を囲んで、水色の
蒲団の取り附けてある
腕椅子【肘掛けがついた椅子】が五六脚置かれている。
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壁に添うて
横わっている
安楽椅子の
蒲団も水色だった。窓
掩い【カーテン】も水色だった。それが純白の布で張られている周囲の壁と映じて、夏らしい清新な気が部屋一杯に
充ちていた。
信一郎は勧められるまゝに、
扉を後にして、椅子に腰を下すと、落着いて部屋の装飾を見回した。三方の壁には、それぞれ新しい油絵が懸っていた。
左手の壁にかゝっているのは、去年の二科の展覧会にかなり世評を騒がした新帰朝のある洋画家の水浴する少女の裸体画だった。
此家の女主人公が、裸体画を応接室に掲げるほど、社会上の
因襲に
囚われていないことを示しているように、画中の少女は、一糸も
纏っていない肉体を、冷たそうな泉の中に、その両
膝の所
迄、オズ/\と浸しているのであった。その他
卓子の上に置いてある灰皿にも、
炉棚の上の時計にも、草花を投げ入れてある花瓶にも、
此家の女主人公の繊細な鋭い趣味が、一々現われているように思われた。
途絶えたピアノの音は、再び続かなかった。が、その音の主は、なか/\姿を現わさなかった。少年が茶を運んで来た後は、
暫らくの間、近づいて来る人の
気勢もなかった。三分
経ち、五分経ち、十分経った。
信一郎の心は、段々不安になり、段々いら/\して来た。自分が、余りに奇を好んで紹介もなく顔を見たばかりの夫人を、訪ねて来たことが、軽率であったように、悔いられた。
その
裡に、ふと気が付くと、正面の
炉棚の上の姿見に、自分の顔が映っていた。彼が何気なく自分の顔を見詰めていた時だった。ふと、サラ/\と言う
衣擦れの音がしたかと思うと、
背後の
扉が音もなく開かれた。
信一郎が、
周章て立ち上がろうとした時だった。正面の姿見に早くも映った白い美しい顔が、鏡の中で
信一郎に、
嫣然たる微笑の【あでやかにほほえむ】
会釈を投げたのである。
「お待たせしましたこと。でも、御葬式から帰って、まだ着替えも致していなかったのですもの。」
長い間の友達にでも言うような、男を男とも思っていないような夫人の声は、
媚羞【なまめかしい愛らしさ】と
狎々しさに充ちていた。しかも、その声は、何と言う美しい響と魅力とを持っていただろう。
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信一郎は、意外な親しさを投げ付けられて最初はドギマギしてしまった。
「いや突然伺いまして……」と、彼は立ち上りながら答えた。声が、妙に上ずッて、少年か何かのように、赤くなってしまった。
深海色にぼかした模様の
錦紗縮緬の着物に、黒と緑の
飛燕模様の帯を締めた夫人は、そのスラリと高い
身体を、くねらせるように、椅子に落着けた。
「本当に、盛んなお葬式でしたこと。でも
淳さんのように、あんなに不意に、死んでは
堪りませんわ。あんまり、突然で丸切り夢のようでございますもの。」
初対面の客に、ロク/\
挨拶もしない
中に、夫人は何のこだわりもないように、自由に
喋べり続けた。
信一郎は、夫人からスッカリ先手を打たれてしまって、暫らくは
何にも言い出せなかった。彼は我にもあらず【
我を失い】、十分受け答もなし得ないで、たゞモジ/\していた。夫人は、相手のそうした
躊躇などは、眼中にないように、自由で快活だった。
「淳さんは、たしかまだ二十四でございましたよ。確か
五黄でございましたよ。五黄の
申でございましょうかしら。
妾と同じに、よく新聞の九星を気にする方でございましたのよ。オホヽヽヽヽ。」
信一郎は、美しい蜘蛛の精の繰り出す糸にでも、懸ったように、話手の美しさに
酔いながら、暫らくは
茫然としていた。
二
夫人は、口でこそ青年の死を
悼んでいるものゝ、その華やかな
容子や、表情の
何処にも、それらしい
翳さえ見えなかった。たゞ
一寸した
知己【知り合い】の死を、死んでは少し
淋しいが、
然し大したことのない知己の死を、話しているのに過ぎなかった。
信一郎は、可なり拍子抜けがした。
瑠璃子と言う名が、青年の臨終の床で叫ばれた以上、
如何なる意味かで、青年と深い交渉があるだろうと思ったのは、自分の思い違いかしら。夫人の容子や態度が、示している通り、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己に、過ぎないのかしら。
38/343
そう、疑って来ると、
信一郎は、青年の
死際の
囈語に過ぎなかったかも知れない言葉や、自分の想像を頼りにして、突然訪ねて来た自分の軽率な、芝居がかった態度が気
恥しくて
堪らなくなって来た。彼は、夫人に会えば、こう言おうあゝ言おうと思っていた言葉が、
咽喉にからんでしまって、たゞモジ/\興奮するばかりだった。
「
妾、今日すっかり時間を間違えていましてね。気が付くと、三時過ぎでございましょう。驚いて、自動車で
馳せ付けましたのよ。あんなに遅く行って、本当にきまりが悪うございましたわ。」
その癖、夫人はきまりが悪かったような表情は少しも見せなかった。あの葬場でも、それを思い出している今も。若い美しい夫人の何処に、そうした大胆な、人を人とも思わないような強い所があるのかと、
信一郎はたゞ
呆気に取られている
丈であった。先刻からの容子を見ると、
信一郎が何のために、訪ねて来ているかなどと言うことは、丸切り夫人の念頭にないようだった。
信一郎の方も、訪ねて来た用向をどう切り出してよいか、途方にくれた。が、彼は
漸く心を
定めて、オズ/\話し出した。
「実は、今日伺いましたのは、死んだ
青木君の事に
就てでございますが……」
そう言って、彼は改めて夫人の顔を見直した。夫人が、それに対してどんな表情をするかゞ、見たかったのである。が、夫人は無雑作だった。
「そう/\取次の者が、そんなことを申しておりました。
青木さんの事って、何でございますの?」
帝劇で見た芝居の
噂話をでもしているように夫人の態度は平静だった。
「実は、
貴方さまにこんなことをお話しすべき筋であるかどうか、それさえ私には分らないのです、もし、
人違だったら、
何うか御免下さい。」
信一郎は、女王の前に出た騎士のように
慇懃【物腰が丁寧で礼儀正しい】だった。が、夫人は卓上に置いてあった
支那製の
団扇を取って、
煽ぐともなく動かしながら、
「ホヽヽ何のお話か知りませんが大層面白くなりそうでございますのね。まあ話して下さいまし。人違いでございましたにしろ、お聞きいたしただけ聞き徳でございますから。」と、微笑を含みながら言った。
信一郎は、夫人の
真面目とも不真面目とも付かぬ態度に
揶揄れたように、まごつきながら言った。
39/343
「実は、私は
青木君のお友達ではありません。
只偶然、同じ自動車に乗り合わしたものです。そして
青木君の臨終に居合せたものです。」
「ほゝう
貴君さまが……」
そう言った夫人の顔は、
遉に緊張した。が、夫人は自分で、それに気が付くと、
直ぐ身を
躱すように、以前の無関心な態度に帰ろうとした。
「そう! まあ何と言う奇縁でございましょう。」
その美しい眼を大きく
刮きながら、努めて何気なく言おうとしたが、その言葉には、何となく、あるこだわりがあるように思われた。
「それで、実は
青木君の死際の
遺言を聴いたのです。」
信一郎は、夫人の示した
僅かばかりの動揺に力を得て突っ込むようにそう言った。
「遺言を
貴君さまが、ほゝう。」
そう言った夫人の けだかい顔にも、隠し切れぬ不安がアリ/\と読まれた。
三
今迄は、秋の湖のように澄み切っていた夫人の容子が、青年の遺言と言う言葉を聴くと、急に
僅ではあるが、
擾れ始めた。
信一郎は手答えがあったのを
欣んだ。
此の様子では、自分の想像も、必ずしも
的が外れているとは限らないと、心強く思った。
「衝突の模様は、新聞にもある
通ですが、それでも負傷から臨終までは、
先ず三十分も間がありましたでしょう。その間、運転手は医者を呼びに行っていましたし、通りかゝる人はなし、私一人が臨終に居合わしたと言うわけですが、丁度息を引き取る五分位前でしたろう、
青木君は、ふと右の手首に入れていた腕時計のことを言い出したのです。」
信一郎が、
茲まで話したとき、夫人の
面は、急に緊張した。そうした緊張を、現すまいとしている夫人の努力が、アリ/\と分った。
「その時計を
何うしようと、言われたのでございますか。その時計を!」
夫人の言葉は、可なり
急き込んでいた。
其の美しい白い顔が、サッと赤くなった。
「その時計を返して呉れと言われるのです。是非返して呉れと言われるのです。」
信一郎も、やゝ興奮しながら答えた。
「
誰方にでございましょうか。誰方に返して呉れと言われたのでございましょうか。」
夫人の言葉は、更に急き込んでいた。
40/343
一度赤くなった顔が、白く冷たい色を帯びた。美しい
瞳までが鋭い光を放って、
信一郎の答えいかにと、見詰めているのだった。
信一郎は、夫人の鋭い視線を避けるようにして言った。
「それが誰にとも分らないのです。」
夫人の顔に現れていた緊張が、又サッと
緩んだ。
暫らく
途絶えていた微笑が、ほのかながら、その口辺に現われた。
「じゃ、誰方に返して呉れとも
仰しゃらなかったのですの。」夫人は、ホッと
安堵したように、
何時の間にか、以前の
落着を、取り返していた。
「いやそれがです。幾度も、返すべき相手の名前を
訊いたのですが、もう臨終が迫っていたのでしょう、私の問には、何とも答えなかったのです。たゞ臨終に
貴女のお名前を
囈語のように二度繰り返したのです。それで、万一
貴女に、お心当りがないかと思って参上したのですが。」
信一郎は、
肝心な来意を言ってしまったので、ホッとしながら、彼は夫人が
何う答えるかと、じっと相手の顔を見詰めていた。
「ホヽヽヽヽ。」先ず美しいその唇から、快活な
微笑が
洩れた。
「
淳さんは、本当に頼もしい方でいらっしゃいましたわ。そんな時にまで
私を覚えていて下さるのですもの。でも、私腕時計などには少しも覚えがございませんの。お持ちなら、
一寸拝見させていたゞけませんかしら。」
もう、夫人の顔に少しの不安も見えなかった。澄み切った以前の美しさが、帰って来ていた。
信一郎は、求めらるゝまゝに、ポケットの底から、ハンカチーフに
括んだ
謎の時計を取り出した。
「確か女持には違いないのです。少し、象眼の意匠が、女持としては奇抜過ぎますが。」
「妹さんのものじゃございませんのでしょうか。」夫人は無造作に言いながら、
信一郎の差し出す時計を受取った。
信一郎は断るように附け加えた。
「血が少し附いていますが、わざと
拭いてありません。衝突の時に、
腕環の
止金が肉に喰い入ったのです。」
そう
信一郎が言った
刹那【瞬間】、夫人の美しい
眉が曇った。時計を持っている
象牙のように白い手が、思い
做しか、かすかにブル/\と
顫え出した。
41/343
四
時計を持っている手が、
微かに
顫えるのと一緒に、夫人の顔も
蒼白く緊張したようだった。ほんのもう、
痕跡しか残っていない血が、夫人の心を可なり、
脅かしたようにも思われた。
一分ばかり、無言に時計をいじくり回していた夫人は、何かを深く決心したように、その
ひそめた眉を開いて、急に快活な様子を取った。その快活さには、可なりギゴチない、不自然なところが、交っていたけれども。
「あゝ
判りました。やっと思い付きました。」夫人は突然言い出した。
「私
此時計に心覚えがございますの。持主の方も存じておりますの。お名前は、
一寸申上げ兼ますが、ある
子爵の令嬢でいらっしゃいますわ。でも、私あの方と
青木さんとが、こうした物を、お取り
換しになっていようとは、夢にも思いませんでしたわ。
屹度、
誰方にも秘密にしていらしったのでございましょう。だから
青木さんは臨終の時にも、遺族の方には知られたくなかったのでございましょう。道理で見ず知らずの
貴方にお頼みになったのでございますわ。その令嬢と、愛の印としてお取り
換しになったものを、
遺品としてお返しになりたかったのでは、ございませんかしら。」
夫人は、
明瞭に
流暢に、何のよどみもなく言った。が、
何処となく力なく空々しいところがあったが、
信一郎は夫人の言うことを疑う
確な証拠は、少しもなかった。
「私も、多分そうした品物だろうとは思っていたのです。それでは、早速その令嬢にお返ししたいと思いますが、御名前を教えていたゞけませんでしょうか。」
「左様でございますね。」と、夫人は首を
傾げたが、
直ぐ「私を信用していたゞけませんでしょうか、私が、女同士で、そっと返して上げたいと思いますのよ。男の方の手からだと、どんなに
恥しくお思いになるか分らないと、存じますのよ。いかゞ?」と、承諾を求めるように、ニッコリと笑った。華やかな
艶美な微笑だった。そう言われると、
信一郎はそれ以上、かれこれ言うことは出来なかった。
42/343
兎に
角、
謎の品物が思ったより容易に、持主に返されることを、
欣ぶより外はなかった。
「じゃ、
貴女さまのお手でお返し下さいませ。が、その方のお名前
丈は、承ることが出来ませんでしょうか。
貴女さまを、お疑い申す訳では決してないのでございますが。」と、
信一郎はオズ/\言った。
「ホヽヽヽ
貴方様も、他人の秘密を聴くことが、お好きだと見えますこと。」夫人は、
忽ち
信一郎を突き放すように言った。その癖、顔一杯に微笑を
湛えながら、「恋人を突然奪われたその令嬢に、同情して、黙って私に
委して下さいませ。私が責任を
以て、
青木さんの
霊が、満足遊ばすようにお
計いいたしますわ。」
信一郎は、もう一歩も前へ出ることは出来なかった。そうした令嬢が、本当にいるか
何うかは疑われた。が、夫人が時計の持主を、知っていることは確かだった。それが、夫人の言う
通、子爵の令嬢であるか
何うかは分らないとしても。
「それでは、お委せいたしますから、
何うかよろしくお願いいたします。」
そう引き
退るより外はなかった。
「
確にお引き受けいたしましたわ。貴方さまのお名前は、その方にも申上げて置きますわ。
屹度、その方も感謝なさるだろうと存じますわ。」
そう言いながら、夫人はその血の附いた時計を、
懐から出した白い絹のハンカチーフに包んだ。
信一郎は、時計が案外容易に片づいたことが、
嬉しいような、同時に
呆気ないような気持がした。少年が紅茶を運んで来たのを合図のように立ち上った。
信一郎が、勧められるのを振切って、
将に玄関を出ようとしたときだった。夫人は、何かを思い付いたように言った。
「あ、
一寸お待ち下さいまし。差上げるものがございますのよ。」と、呼び止めた。
五
信一郎が、
暇を告げたときには何とも引き止めなかった夫人が、玄関のところで、急に後から呼び止めたので、
信一郎は
一寸意外に思いながら、振り
顧った。
「つまらないものでございますけれども、
之をお持ち下さいまし。」
43/343
そう言いながら、夫人は
何時の間に、手にしていたのだろう、プログラムらしいものを、
信一郎に
呉れた。
一寸開いて見ると、それは夫人の属するある貴婦人の団体で、催される慈善音楽会の入場券とプログラムであった。
「御親切に対する御礼は、
妾から、致そうと存じておりますけれど、これはホンのお
知己になったお印に差し上げますのよ。」
そう言いながら、夫人は
信一郎に、最後の
魅するような微笑を与えた。
「いたゞいて置きます。」辞退するほどの物でもないので
信一郎はそのままポケットに入れた。
「御迷惑でございましょうが、是非お
出で下さいませ、それでは、その節またお目にかゝります。」
そう言いながら、夫人は玄関の
扉の外へ出て
暫らくは
信一郎の歩み去るのを見送っているようであった。
電車に乗ってから、暫らくの間
信一郎は夫人に対する
酔から、
醒めなかった。それは確かに
酔心地とでも言うべきものだった。夫人と会って話している間、
信一郎はそのキビ/\した表情や、優しいけれども、のしかゝって来るような言葉に、言い知れぬ
魅力をさえ感じていた。男を男とも思わないような夫人に、もっとグン/\引きずられたいような、不思議な欲望をさえ感じていたのである。
が、そうした酔が、だん/\醒めかゝるに連れ、冷たい反省が
信一郎の心を占めた。彼は、今日の夫人の態度が、何となく気にかゝり始めた。夫人の態度か、言葉かの
何処かに、
嘘偽りがあるように思われてならなかった。最初冷静だった夫人が、遺言と言う言葉を聞くと、急に緊張したり、時計を暫らく見詰めてから、急に持主を知っていると言い出したりしたことが、今更のように、疑念の的になった。疑ってかゝると、
信一郎は大事な青年の
遺品を、夫人から
体よく
捲き上げられたようにさえ思われた。従って、夫人の手に
依って、時計が本当の持主に帰るかどうかさえが、可なり不安に思われ出した。
その時に、
信一郎の頭の中に、青年の最後の言葉が、アリ/\と
甦って来た。『時計を返して呉れ』と言う言葉の、語調までが、ハッキリと甦って来た。その叫びは、恋人に恋の
遺品を返すことを、頼む言葉としては、余りに悲痛だった。その叫びの
裡には、もっと鋭い骨を刺すような何物かゞ、混じっていたように思われた。
44/343
『返して呉れ』と言う言葉の中に『突っ返して呉れ』と言うような
凄い語気を含んでいたことを思い出した。たとい、
死際であろうとも、恋人に物を返すことを、あれほど悲痛に頼むことはない
筈だと思われた。
そう考えて来ると、
瑠璃子夫人の言った
子爵令嬢と青年との恋愛関係は、
烟のように頼りない事のようにも思われた。夫人はあゝした口実で、あの時計を体よく取返したのでは あるまいか。本当は、自分のものであるのを、他人のものらしく、体よく取返したのでは あるまいか。
が、そう疑って見たものゝ、それを確める証拠は何もなかった。それを確めるために、もう一度夫人に会って見ても、あの夫人の美しい
容貌と、
溌剌【生き生きと元気】な会話とで、もう一度体よく追い返されることは余りに
判り切っている。
信一郎は、夫人の張る
蜘蛛の網にかゝった
蝶か何かのように、手もなく丸め込まれ、肝心な時計を体よく、捲き上げられたように思われた。彼は、自分の
腑甲斐なさが、
口惜しく思われて来た。
彼の手を離れても、
謎の時計は、やっぱり謎の尾を引いている。彼は
何うかして、その謎を解きたいと思った。
その時にふと、彼は青年が海に捨つるべく彼に委託したノートのことを思い出したのである。
六
青年から、海へ捨てるように頼まれたノートを、
信一郎はまだトランクの
裡に、持っていた。海に捨てる機会を
失したので、焼こうか裂こうかと思いながら、ついそのままになっていたのである。
それを、今になって
披いて見ることは、死者に済まないことには
違なかった。が、時計の
謎を知るためには、――それと同時に
瑠璃子夫人の態度の謎を解くためには、ノートを見ることより外に、何の手段も思い浮ばなかった。あんな秘密な時計をさえ、自分には託したのだ、その時計の本当の持主を知るために、ノートを見る位は、許して
呉れるだろうと、
信一郎は思った。
でも家に帰って、まだ旅行から帰ったまゝに、放り出してあったトランクを開いたとき、
信一郎は可なり良心の
苛責を感じた。
が、彼が時計の謎を知ろうと言う慾望は、もっと強かった。美しい
瑠璃子夫人の謎を解こうと言う慾望は、もっと強かった。
彼は、恐る恐るノートを取り出した。秘密の封印を解くような興奮と恐怖とで、オズ/\表紙を開いて見た。
45/343
彼の緊張した予期は外れて、最初の二三枚は、白紙だった。その次ぎの五六枚も、白紙だった。彼は、裏切られたようなイラ/\しさで、全体を手早くめくって見た。が、何の
頁も、真白な
汚れない
頁だった。彼が、妙な失望を感じながら、最後までめくって行ったとき、やっと
其処に、インキの
匂のまだ新しい青年の手記を見たのである。それは、ノートの最後から、逆にかき出されたものだった。
信一郎は胸を躍らしながら、
貪るようにその一行々々を読んだのである。可なり興奮して書いたと見え、字体が
荒んでいる上に、字の書き
違などが、
彼処にも
此処にもあった。
46/343
――彼女は、蜘蛛だ。恐ろしく、美しい蜘蛛だ。自分が彼女に捧げた愛も熱情も、たゞ彼女の網にかゝった蝶の身悶えに、過ぎなかったのだ。彼女は、彼女の犠牲の悶えを、冷やかに楽しんで見ていたのだ。
今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと言って、一個の腕時計を呉れた。それを、彼女の白い肌から、直ぐ自分の手首へと、移して呉れた。彼女は、それをかけ替のない秘蔵の時計であるようなことを言った。彼女を、純真な女性であると信じていた自分は、そうした賜物を、どんなに欣んだかも知れなかった。彼女を囲んでいる多くの男性の中で、自分こそ選ばれたる唯一人であると思った。勝利者であると思った。自分は、人知れず、得々として之れを手首に入れていた。彼女の愛の把握が其処にあるように思っていた。彼女の真実の愛が、自分一人にあるように思っていた。
が、自分のそうした自惚は、そうした陶酔は滅茶苦茶に、蹂み潰されてしまったのだ。皮肉に残酷に。
昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待っていた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見ているのに気が附いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似しているのである。自分はそれとなく、一見を願った。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外した時の駭きは、何んなであったろう。若し、大尉が其処に居合せなかったら、自分は思わず叫声【叫び声】を挙げたに違ない。自分が、それを持っている手は思わず、顫えたのである。
自分は急き込んで訊いた。
「これは、何処からお買いになったのです。」
「いや、買ったのではありません。ある人から貰ったのです。」
大尉の答は、憎々しいほど、落着いていた。しかも、その落着の中に、得意の色がアリ/\と見えているではないか。
七
――その時計は、自分の時計と、寸分違ってはいなかった。象眼の模様から、鏤めてあるダイヤモンドの大きさまで。それは、彼女に取ってかけ替のない、たった一つの時計ではなかったのか。自分は自分の手中にある大尉の時計を、庭の敷石に、叩き付けてやりたいほど興奮した。が、大尉は自分の興奮などには気の付かないように、
「何うです。仲々奇抜な意匠でしょう。一寸類のない品物でしょう。」と、その男性的な顔に得意な微笑を続けていた。自分は、自分の右の手首に入れているそれと、寸分違わぬ時計を、大尉の眼に突き付けて大尉の誇を叩き潰してやりたかった。が、大尉に何の罪があろう。自分達立派な男子二人に、こんな皮肉な残酷な喜劇を演ぜしめるのは、皆彼女ではないか。彼女が操る蜘蛛の糸の為ではないか。自分は、彼女が帰り次第、真向から時計を叩き返してやりたいと思った。
が、彼女と面と向って、不信を詰責しようとしたとき、自分は却って、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如く、翻弄され、奴隷の如く卑しめられた。而も、美しい彼女の前に出ると、唖のようにたわいもなく、黙り込む自分だった。自分は憤と恨との為に、わな/\顫えながら而も指一本彼女に触れることが出来なかった。自分は力と勇気とが、欲しかった。彼女の華奢な心臓を、一思いに突き刺し得る丈の勇気と力とを。
が、二つとも自分には欠けていた。彼女を刺す勇気のない自分は、彼女を忘れようとして、都を離れた。が、彼女を忘れようとすればするほど、彼女の面影は自分を追い、自分を悩ませる。
手記は
茲で中断している。
47/343
が半
頁ばかり飛んでから、前よりももっと乱暴な字体で始まっている。
何うしても、彼女の面影が忘れられない。それが蝮のように、自分の心を噛み裂く。彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示しているかと思うと、自分の心は、夜の如く暗くなってしまう。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか、二つに一つだと思う。
又
一寸中断されてから、
そうだ、一層死んでやろうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせてやるために。そうだ。自分の真実の血で、彼女の偽の贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅に残っている良心を、恥しめてやるのだ。
手記は、
茲で終っている。
信一郎は、深い感激の中に読み
了った。これで見ると、青年の死は、形は
奇禍【思いがけない災難】であるけれども、心持は自殺であると言ってもよかったのだ。青年は死場所を求めて、箱根から
豆相の間を
逍遥っていたのだった。彼の
奇禍は、彼の望み
通に、偽りの贈り物を、彼の純真な血で真赤に染めたのだ。が、その血潮が、彼女の心に僅かに残っている良心を、恥しめ得るだろうか。『返して
呉れ』と言ったのは『叩き返して呉れ』と言う意味だった。
信一郎は果して叩き返しただろうか。
彼女が、
瑠璃子夫人であるか
何うかは、手記を読んだ後も、判然とは
判らなかった。が、たゞ
生易しく平和の
裡に、返すべき時計でないことは
明だった。その時計の中に含まれている青年の恨みを、相手の女性に、十分思い知らさなければならない時計だったのだ。たゞ、ボンヤリと返しただけでは青年の心は永久に
慰められていないのだ。
信一郎はもう一度
瑠璃子夫人の手から取り返して、青年の手記の中の
所謂『彼女』に突き返してやらねばならぬ責任を感じたのである。
が、『彼女』とは一体誰であろう。
そのかみの事
一
「あら! お
危うございますわ。」と、赤い前垂掛の女中姿をした芸者達に、追い
纏われながら、
荘田勝平は庭の丁度
中央にある丘の上へ、登って行った。
48/343
飲み過ごした
三鞭酒のために、可なり危かしい足付をしながら。
丘の上には、数本の大きい八重桜が、
爛漫と咲乱れて、移り
逝く春の名残りを
止めていた。
其処から見渡される広い庭園には、晩春の日が、うら/\と
射している。五万坪に近い庭には、幾つもの小山があり芝生があり、芝生が緩やかな
勾配を作って、落ち込んで行ったところには、美しい水の
湧く泉水があった。
その小山の上にも、
麓にも、芝生の上にも、泉水の
畔りにも、
数奇【美的なこだわり】を凝らした
四阿の中にも、モーニングやフロックを着た紳士や、華美な
裾模様を着た夫人や令嬢が、
三々伍々打ち
集うているのだった。
人の心を浮き立たすような笛や
鼓の音が、
楓の林の中から聞えている。小松の植込の中からは、
其処に陣取っている、
三越の少年音楽隊の華やかな奏楽が、絶え間なく続いている。拍子木が鳴っているのは、
市村座の若手俳優の手踊りが始まる合図だった。それに吸い付けられるように、
裾模様や
振袖の夫人達が、その方へゾロ/\と動いて行くのだった。
勝平は、そうした光景や、物音を聞いていると、得意と満足との微笑が後から後から湧いて来た。自分の名前に
依って帝都の上流社会がこんなに集まっている。自分の名に
依って、大臣も来ている。大銀行の総裁や頭取も来ている。
侯爵や伯爵の華族達も見えている。いろ/\な方面の名士を、一堂の下に
蒐めている。自分の名に
依って、自分の社会的位置で。
そう考えるに付けても、彼は
此の三年以来自分に振りかゝって来た夢のような華やかな幸運が、振り
顧みられた。
戦争が始まる前は、神戸の微々たる貿易商であったのが、
偶々持っていた一
隻の汽船が、幸運の緒を
紡いで極端な
遣繰りをして、一隻一隻と買い占めて行った船が、お
伽噺の中の白鳥のように、黄金の卵を、次ぎ次ぎに産んで、わずか三年後の今は、千万円【1千億円/2025年】を越す長者になっている。
しかも、金の出来るに従って、彼は自分の世界が、だん/\
拡がって行くのを感じた。今までは、『
其処にいるか』とも声をかけて
呉れなかった人々が、
何時の間にか自分の周囲に
蒐まって来ている。
49/343
近づき難いと思っていた一流の政治家や実業家達が、何時の間にか、自分と同じ食卓に就くようになっている。自分を招待したり、自分に招待されたりするようになっている。その他、彼の金力が物を言うところは、
到る
処にあった。
緑酒紅灯の
巷でも、彼は自分の金の力が万能であったのを知った。彼は、金さえあれば、何でも出来ると思った。現に、
此の庭園なども、都下で屈指の名園を彼が五十万円に近い金を投じて買ったのである。現に、今日の園遊会も、一人
宛百金【百円】に近い巨費を投じて、新邸披露として、都下の名士達を
招んだのである。
聞えて来る笛の音も、鼓の音も奏楽の響も、
模擬店でビールの満を引いている人達の
哄笑も、
勝平の耳には、彼の金力に対する
賛美の声のように聞えた。『そうだ。
凡ては金だ。金の力さえあればどんな事でも出来る』と、心の
裡で
呟きながら、彼が日頃の確信を、一層強めたときだった。
「いや、どうも盛会ですな。」と、ビールの
杯を右の手に高く
翳しながら、
蹌踉と近づいて来る男があった。それは、
勝平とは同郷の代議士だった。その男の選挙費用も、
悉く
勝平のポケットから、出ているのだった。
「やあ! お
蔭さまで。」と、
勝平は
傲然【尊大でたかぶった様子】と答えた。『
茲にも俺の金の力で動いている男が一人いる。』と、心の中で思いながら。
二
「よく集まったものですね。随分珍しい顔が見えますね。松田老侯までが見えていますね。
我輩一昨日は、英国大使館の
園遊会に行きましたがね。とても、本日の盛況には及びませんね。
尤も、
此名園を見る
丈でも、来る
価値は十分ありますからね。ハヽヽヽ。」
代議士の
沢田は真正面からお世辞を言うのであった。
「いゝ天気で、何よりですよ。ハヽヽヽヽ。」と、
勝平は
鷹揚に答えたが、内心の得意は、
包隠すことが出来なかった。
50/343
「素晴らしい庭ですな。
彼処の杉林から泉水の裏手へかけての
幽邃【奥深くて物静か】な趣は、とても市内じゃ見られませんね。五十万円でも、これじゃ高くはありませんね。」
そう言いながら、
沢田は持っていたビールの
杯を、またグイと飲み
乾した。色の白い
肥った顔が、
咽喉の
処まで赤くなっている。彼は、転げかゝるように、
勝平に近づいて右の二の腕を捕えた。
「主人公が、こんな所に、逃げ込んでいては困りますね。さあ、
彼方へ行きましょう。先刻も我党の総裁が、
貴方を探していた。まだ
挨拶をしていないと言って。」
沢田は、
勝平をグン/\
麓の方へ、園遊会の
賑いと混雑の方へ引きずり込もうとした。
「いや、もう少しこのままにして置いて下さい。今日一時から、門の処で一時間半も立ち続けていた上に、先刻
三鞭酒を、六七杯も重ねたものだから。もう
暫らく捨てゝ置いて下さい。
直ぐ行きますよ、後から直ぐ。」
そう言って、捕えられていた腕を、スラリと抜くと、
沢田はその
機みで、一間ばかりひょろひょろと下へ滑って行ったが、
其処で
一寸踏み
止まると、
「それじゃ後ほど。」と言ったまゝ空になった
杯を、右の手で振り回すようにしながら、ふら/\丘の麓にある模擬店の方へ行ってしまった。
園内の数ヶ所で始まっている余興は、それ/″\に来会した人々を、分け取りにしているのだろう。
勝平の立っている
此の広い丘の上にも五六人の人影しか、残っていなかった。
勝平に付き
纏っていた
芸妓達も、
先刻踊りが始まる拍子木が鳴ると、皆その方へ
馳け出してしまった。
が、
勝平は
四辺に人のいないのが、結局気楽だった。彼は、
其処に置いてある白い陶製の腰掛に腰を下しながら、快い休息を
貪っていた。心の中は、燃ゆるような得意さで一杯になりながら。
彼が、暫らく、ぼんやりと咲き乱れている八重桜の
梢越しに、薄青く澄んでいる空を、見詰めている時だった。
「
茲は静かですよ。早く上っていらっしゃい。」と、近くで若い青年の声がした。ふと、その方を見ると、スラリとした長身に、学校の制服を着けた青年が、丘の麓を見下しながら、誰かを
麾いている所だった。
51/343
青年は、今日招待した誰かゞ伴って来た家族の一人であろう。
勝平には、少しも見覚えがなかった。青年も、
此の家の主人公が、こんな
淋しい処に、一人いようなどとは、夢にも気付いていないらしく、麓の方を
麾いてしまうと、ハンカチーフを出して、
其処にある陶製の腰掛の
埃を払っているのだった。
急に、丘の中腹で、うら若い女の声がした。
「まあ、ひどい混雑ですこと。
妾いやになりましたわ。」
「どうせ、園遊会なんてこうですよ。あの模擬店の
雑踏は、
何うです。見ている
丈でも、あさましくなるじゃありませんか。」と、青年は丘の中腹を、見下しながら、答えた。
それには何とも答えないで、昇って来るらしい人の
気勢がした。青年の言葉に、
一寸傷つけられた
勝平は、じっと其方を、
睨むように見た。最初、前髪を左右に分けた束髪の頭の形が見えた。それに続いて、細面の透き通るほど白い女の顔が現れた。
三
やがて、女は丘の上に全身を現した。年は十八か九であろう。その気高い美しさは、彼女の頭上に咲き乱れている八重桜の、
絢爛たる美しさをも奪っていた。目も
醒むるような
藤納戸色の着物の胸のあたりには、五色の色糸の
かすみ模様の
繍が鮮かだった。そのぼかされた
裾には、
さくら草が一面に散り乱れていた。白地に
孔雀を浮織にした
唐織の帯には、帯止めの大きい真珠が光っていた。

「疲れたでしょう。お掛けなさい。」
青年は、
埃を払った腰掛を、女に勧めた。彼女は勧められるまゝに、腰を下しながら、横に立っている青年を見上げるようにして言った。
「
妾来なければよかったわ。でも、お父様が一緒に行こう/\言って、お勧めになるものですから。」
「僕も、妹のお
伴で来たのですが、こう混雑しちゃ
嫌ですね。それに、
此の庭だって、都下の名園だそうですけれども、ちっともよくないじゃありませんか。少しも、自然な素直な所がありゃしない。いやにコセ/\していて、人工的な小刀細工が多すぎるじゃありませんか。
殊に、あの
四阿の建て方なんか嫌ですね。」
52/343
年の若い二人は、
此日の園遊会の主催者なる
勝平が、たゞ一人こんな
淋しい
処にいようなどとは夢にも考え及ばないらしく、
勝平の方などは、見向きもしないで話し続けた。
「お金さえかければいゝと思っているのでしょうか。」
美しい令嬢は、その美しさに似合わないような皮肉な、口の
利き方をした。
「どうせ、そうでしょう。成金と言ったような連中は、金額と言う事より外には、何にも趣味がないのでしょう。
凡ての事を金の物差で計ろうとする。金さえかければ、何でもいゝものだと考える。今日の園遊会なんか、一人
宛五十円とか百円とかを、入れるとか何とか言っているそうですが、あの俗悪な趣向を御覧なさい。」
青年は、何かに激しているように、吐き出すように言った。
先刻から、聞くともなしに、聞いていた
勝平は、
烈しい
怒で胸の中が、煮えくり返るように思った。彼は、立ち上りざま、悪口を言っている青年の細首を捕えて、
邸の外へ放り出してやりたいとさえ思った。彼は若い時、東京に出たときに労働をやった時の名残りに、残っている二の腕の
力瘤を思わず
撫でた。が、
遉に彼の位置が、つい三四分前まで、あんなに誇らしく思っていた彼の社会的位置が 彼のそうした怒を制して
呉れた。彼は、ムラ/\と
湧いて来る心を抑えながら、青年の言うことを、じっと聞き澄していた。
「成金だとか、何とかよく新聞などに、彼等の
豪奢な生活を、
謳歌しているようですが、金で
贏うる彼等の生活は、
何んなに単純で平凡でしょう。金が出来ると、
女色を
漁る、自動車を買う、
邸を買う、家を新築する、分りもしない
骨董を買う、それ切りですね。中に、よっぽど心掛のいゝ男が、寄付をする。物質上の生活などは、いくら金をかけても、
直ぐ尽きるのだ。金で、自由になる芸妓などを、
弄んでいて、よく飽きないものですね。」
青年は、成金全体に、何か
烈しい恨みでもあるように、
罵りつゞけた。
「飽きるって。そりゃどうだか、分りませんね。
53/343
貴方のように、敏感な方なら、直ぐに飽きるでしょうが、彼等のように鈍い感じしか持っていない人達は、
何時迄同じことをやっていても飽きないのじゃなくって!」女は、美しい
然し冷めたい微笑を浮べながら言った。
「
貴方は、悪口は僕より一枚上ですね。ハヽヽヽヽヽ。」
二人は相顧みて、会心の笑いを笑い合った。
黙って聞いていた
勝平の顔は、
憤怒のため紫色になった。
四
まだ年の若い元気な二人は、自分達の会話が、傍に居合す
此邸の主人の
勝平にどんな影響を与えているかと言う事は、夢にも気の付いていないように、無遠慮に自由に話し進んだ。
「でも、お
招ばれを受けていて、悪口を言うのは悪いことよ。そうじゃなくって。」
令嬢は、右の手に持っている
華奢な
象牙骨の扇を、
弄りながら、青年の顔を見上げながら、
遉に女らしく言った。
「いや、もっと言ってやってもいゝのですよ。」と、青年はその浅黒い男性的な
凜々しい顔を、一層引き
緊めながら、「第一華族階級の人達が、成金に対する態度なども、可なり
卑しいと思っているのですよ。平生
門閥だとか身分だとか言う愚にも付かないものを、自慢にして、平民だとか町人だとか言って、
軽蔑している癖に、相手が金があると、平民だろうが、成金だろうが、
此方からペコ/\して接近するのですからね。僕の父なんかも、
何時の間にか、あんな連中と
知己になっているのですよ。
此間も、あんな連中に
担がれて、何とか言う新設会社の重役になるとか言って、騒いでいるものですから、僕はウンと言ってやったのですよ。」
「おや! 今度は、お父様にお鉢が回ったのですか。」女は、青年の顔を見上げて、ニッコリ笑った。
「
其処へ来ると、
貴女のお父様なんか立派なものだ。
何処へ出しても恥かしくない。いつでも、清貧【清らかで貧しい生活】に安んじていらっしゃる。」青年は靴の先で散り
布いている落花を踏み
躙りながら言った。
「父のは病気ですのよ。」女は、
一寸美しい
眉を落し「あんなに年が寄っても、道楽が
止められないのですもの。」そう言った声は、
一寸淋しかった。
「道楽じゃありませんよ。男子として、立派な仕事じゃありませんか。三十年来貴族院の闘将として藩閥政府と戦って来られたのですもの。」
54/343
青年は、女を慰めるように言った。が、先刻成金を攻撃したときほどの元気はなかった。二人は話が何時か、理に落ちて来た
為だろう。
孰ちらからともなく、黙ってしまった。青年は、他の一つの腰掛を、二三尺動かして来て、女と並んで腰をかけた。生あたゝかい晩春の微風が、襲って来た為だろう。花が
頻りに散り始めた。
勝平は先刻から、幾度
此の場を立ち去ろうと思ったか、分らなかった。が、自分に対する悪評を
怖れて、コソ/\と逃げ去ることは、
傲岸な彼の気性が許さなかった。張り裂けるような
憤怒を、胸に抑えて、じっと青年の攻撃を聞いていたのであった。
彼は、つい十分ほど前まで、今日の園遊会に集まっている、
凡ての人々は自分の金力に対する
賛美者であると思っていた。賛美者ではなくとも、少くとも
羨望者であると思っていた。
否少くとも、自分の持っている金の力
丈は、認めて
呉れる人達だと思っていた。今日集まっている首相を初め、いろ/\な方面の高官も、M
公爵を筆頭に多くの華族連中も、海軍や陸軍の将官達も、銀行や会社の重役達も、学者や宗教家や、
角力や俳優達も、自分の持っている金力の価値
丈は認めて呉れる人だと思っていた。認めていて呉れゝばこそやって来たのだと思っていた。それだのに、
歯牙にもかけたくない、生若い男女の学生が、たとい貴族の子女であるにしろ、今日の会場の
中央で、たとい自分の顔を見知らぬにせよ、自分の目前で、自分の生活を
罵るばかりでなく、自分が
命綱とも思う金の力を、頭から否定している。金を持っている自分達の生活を、否人格まで、散々に
辱めている。そう考えて来ると、先刻まで晴やかに華やかに、
昂ぶっていた
勝平の心は、苦い
韮を喰ったように、不快な暗いものになってしまった。彼は、かすり傷を負った
豹のような、
凄い表情をしながら、二人の後姿を
睨んでいた。もう一言 何とか言って見ろ。そのまゝには済まさないぞ。彼の
激高した心がそうした
呻を
洩していた。
五
そうした恐ろしい豹が、彼等の背後に
蹲まっていようとは、気の付いていない二人は、今度は
四辺を
憚るように、しめやかに何やら話し始めた。
55/343
もう一言、学生が何か言ったら、飛び出して、面と向って言ってやろうと、
逸っていた
勝平も、相手が急に
静になったので、拍子抜がしながら、
而もそのまま立ち去ることも、
業腹な【しゃくにさわる】ので、二人の
容子を、じっと
睨み詰めていた。
自分に対する
罵詈のために、カッとなってしまって、青年の顔も少女の顔も、十分眼に入らなかったが、今は少し心が落着いたので、二人の顔を、
更めて見直した。
気が付いて見れば見るほど、青年は男らしく、美しく、女は女らしく美しかった。
殊に、少女の顔に見る
浄い美しさは、
勝平などが夢にも接したことのない美しさだった。彼は、心の中で、金で
購った新橋や赤坂の、名高い
美妓の面影と比較して見た。何と言う格段な相違が
其処にあっただろう。彼等の美しさは、造花の美しさであった。
偽真珠の美しさであった。一目
丈は、ごまかしが
利くが二目見るともう鼻に付く美しさであった。が、この少女は、夜
毎に下る白露に
育まれた自然の花のような生きた新鮮な美しさを持っていた。人間の手の及ばない海底に、自然と造り上げられる、天然真珠の
如き輝きを持っていた。一目見て美しく、二目見て美しく、見直せば見直す毎に
蘇って来る美しさを持っていた。
勝平が、
今迄金で買い得た女性の美しさは、
此少女の前では、皆偽物だった。金で買い得るものと思っていたものは、皆
贋物だったのだ。
勝平は
此少女の美しさからも、今迄の
誇を可なり
傷けられてしまった。
それ
丈ではなかった。
此二人が、恋人同士であることが、
勝平にもすぐそれと
判った。二人の交している言葉は、低くて聞えなかったが、時々お互に投げ合っている微笑には、愛情が
籠もっていた。愛情に燃えていながら、
而も
浄く美しい微笑だった。
二人の
睦じい容子を見ている
裡に、
勝平の心の中の
憤怒は
何時の間にか、
嫉妬をさえ交えていた。『
凡ての事は金だ。金さえあればどんな事でも出来る。』と思っていた彼の誇は、
根底から揺り動かされていた。
此の二人の恋人が、今感じ合っているような幸福は、
勝平の全財産を、投じても得られるか、
何うか分らなかった。少女の顔に浮ぶ、
浄い しかも愛に
溢れた微笑の一つでさえ、
購うことが出来るだろうか。
56/343
いかにも、新橋や赤坂には、彼に対して、千の
媚を呈し、万の微笑を贈る女は、
幾何でもいる。が、その
媚や微笑の底には、
袖乞いのような
卑しさや、
狼のような
貪慾さが隠されていた。
此の若い男女が交しているような微笑とは、金剛石【ダイヤモンド】と木炭のように違っていた。同じ炭素から成っていても、金剛石が木炭と違うように、同じ笑でも質が違っていたのだ。
青年が、
勝平の金力をあんなに、
罵倒するのも無理はなかった。実際彼は、金力で得られない幸福があることを、
勝平の前で示しているのだった。
青年の罵倒が単なる悪口でなく、
勝平に取っては、苦い真理である
丈に、
勝平の恨みは骨に入った。また、罵倒した後で、罵倒する権利のあることを、
勝平にマザ/\と見せ付けた
丈に、
勝平の
憤は、肝に銘じた。彼は、一突き刺された闘牛のように、怒っていた。もう、自制もなかった。彼が、先刻まで誇っていた社会的位置に対する遠慮もなかった。彼は
樫の木に出来る
木瘤のような
掌を握りしめながら、今にも青年に飛びかゝるような身構えをしていた。
その時に、
蹲まっていた青年がつと立ち上った。女も続いて立ち上りながら言った。
「でも、何か召し上ったら
何う。折角いらしったのですもの。」
「僕は、成金
輩の
粟を
食むを
潔しとしないのです。ハヽヽヽ。」
青年は、半分冗談で言ったのだった。が、
憤怒に心の狂いかけていた
勝平にとっては、最後の
通牒【通達】だった。彼は、寝そべっていた
獅子のように、猛然と腰掛から離れた。
六
勝平の激怒には、まだ気の付かない青年は、連の女を促して、丘を下ろうとしているのだった。
「もし、もし、
暫らく。」
勝平の太い声も、
遉に
顫えた。
青年は、何気ないように振返った。
「何か御用ですか。」落着いた、しかも気品のある声だった。それと同時に、連の女も振返った。その美しい
眉に、
一寸勝平の突然な態度を
咎めるような色が動いた。
「いや、お呼び止めいたして済みません。
一寸御挨拶がしたかったのです。」
57/343
と、言って
勝平は、息を切った。
興奮の
為に、言葉が自由でなかった。二人の相手は、
勝平の興奮した様子を、不思議そうにジロ/\見ていた。
「先刻、皆様に御挨拶した
筈ですが、
貴君方は遅くいらしったと見えて、まだ御挨拶をしなかったようです。私が、
此家の主人の荘田
勝平です。」
そう言いながら、
勝平はわざと丁寧に、頭を下げた。が、両方の手は、激怒のために、ブル/\と
顫えていた。
遉に、青年の顔も、彼に寄り添うている少女の顔もサッと変った。が、二人とも少しも
悪怯れたところはなかった。
「あゝそうですか。いや、今日はお招きに
与って有難うございます。僕は、御存じの
杉野直の息子です。
茲に、いらっしゃるのは、
唐沢男爵のお嬢さんです。」
青年の顔色は、青白くなっていたが、少しも
狼狽した容子は見せなかった。
昂然とした立派な態度だった。青年に紹介されて、しとやかに頭を下げた令嬢の容子にも、
微塵狼狽えた様子はなかった。
「いや、先刻から
貴君の御議論を拝聴していました。いろ/\我々には、参考になりました。ハヽヽ。」
勝平は、高飛車に自分の優越を示すために、
哄笑しようとした。が、彼の笑い声は、
咽喉にからんだまゝ、調子外れの叫び声になった。
自分の
罵倒が、その的の本人に聴かれたと言うことが、明かになると、青年も
遉に当惑の容子を見せた。が、彼は冷静に落着いて答えた。
「それはとんだ失礼を致しました。が、つい平生の持論が出たものですから、何とも
止むを得ません。僕の不謹慎はお
詫びします。が、持論は持論です。」
そう言いながら、青年は冷めたい微笑を浮べた。
自分が飛び出して出さえすれば、
周章狼狽して、
一溜りもなく参ってしまうだろうと思っていた
勝平は、
当が外れた。彼は、相手が思いの外に、強いのでタジ/\となった。
58/343
が、それ
丈彼の
憤怒は胸の
裡に
湧き立った。
「いや、お若いときは、金なんかと言って、よく
軽蔑したがるものです。私なども、その覚えがあります。が、今にお
判りになりますよ。金が、人生に
於てどんなに大切であるかが。」
勝平は、出来る
丈高飛車に、上から出ようとした。が、青年は少しも屈しなかった。
「僕などは、そうは思いません。世の中で、高尚な仕事の出来ない人が、金でも溜めて見ようと言うことに、なるのじゃありませんか。僕は事業を事業として、楽しんでいる実業家は好きです。が、事業を金を得る手段と心得たり、又得た金の力を他人に、見せびらかそうとするような人は嫌いです。」
もう、
其処に
何等の儀礼もなかった。それは、言葉で行われている格闘だった。青年の顔も
蒼ざめていた。
勝平の顔も蒼ざめていた。
「いや、何とでも
仰しゃるがよい。が、
理屈じゃありません。世の中のことは、お
坊ちゃんの理想
通に行くものではありません。
貴君にも金の力がどんなに恐ろしいかが、お判りになるときが来ますよ。いや、
屹度来ますよ。」
勝平は、その大きい口を、きっと結びながら青年を
睨みすえた。が、青年の
直ぐ
傍に、立ち
竦んだまゝ、黙っている彫像のような姿に目を転じたとき、
勝平の心は、再びタジ/\となった。その美しい顔は
勝平に対する
憎悪に燃えていたからである。
七
青年が、何かを答えようとしたとき、女は
突如彼を
遮ぎった。
「もういゝじゃございませんか。私達が、参ったのがいけなかったのでございますもの。御主人には御主人の主義があり
貴君には
貴君の主義があるのですもの。その
孰れが正しいかは、銘々一生を通じて試して見る外はありませんわ。さあ、失礼をしてお
暇しようじゃありませんか。」
少女は、青年より以上に強かった。
59/343
其処には火花が漏れるような堅さがあった。それ
丈、
勝平に対する
侮辱も、
甚だしかった。こんな男と言葉を交えるのさえ、
馬鹿々々しいと、言った表情が、彼女の
何処かに漂っていた。
孔雀のように美しい彼女は、孔雀のような
襟度【度量】を持っているのだった。
青年も、自分の態度を、余り大人気ないと思い返したのだろう。女の言葉を、
戈を収める機会にした。
「いや、飛んだ失礼を申上げました。」
そう言い捨てたまゝ、青年は女と並んで足早に丘を下って行った。敵に、素早く身を
躱されたように、
勝平は心の
憤怒を、少しも晴さない
中に、やみ/\と【むざむざと】物別れになったのが、
口惜しかった。もっと、何とか言えばよかった。もっと、青年を
恥しめてやればよかったと、口惜しがった。
睦じそうに並んで、遠ざかって行く二人を見ていると、
勝平は自分の敗れたことが、マザ/\と
判って来た。青年の
罵倒に口惜しがって、思わず飛び出したところを、手もなく扱われて、うまく
肩透しを喰ったのだった。どんな点から、考えて見ても、自分にいゝ所はなかった。敗戦だった。
醜い敗戦だった。そう思うと、わざ/\五万を越す大金を
消って、園遊会をやったことまでが、馬鹿らしくなった。大臣や総裁や
公爵などの
挨拶を受けて、有頂天にまで行った心持が、生若い男女のために地の底へまで引きずり込まれたのだ。
彼の
憤りと恨みとが、胸の中で煮えくり返った時だった。その憤りと恨みとの
嵐の中に、徐々に
鎌首を
擡げて来た一念があった。それは、言うまでもなく、
復讐の一念だった。そうだ、俺の金力を、あれほどまで、侮辱した青年を、金の力で、骨までも思い知らしてやるのだ。青年に味方して、俺にあんな
憎悪の眼を投げた少女を、金の力で髄までも、思い知らしてやるのだ。そう思うと、彼の胸に、新しい力が起った。
青年の父の
杉野直と言う子爵も、少女の父の
唐沢男爵も、共に聞えた貧乏華族である。黄金の
戈の前に、黄金の剣の前には、何の力もない人達だった。
が、
何うして戦ったらいゝだろう。
60/343
彼等の父を
苛めることは何でもないことに違いない。が、単なる学生である彼等を、
苛める方法は容易に浮かんで、来なかった。その時に、
勝平の心に先刻の二人の様子が浮かんだ。
睦じく語っている恋人同士としての二人が浮かんだ。それと同時に、
電のように、彼の心にある悪魔的な考えが思い浮かんだ。その考えは、
電のように消えないで、徐々に彼の頭に喰い入った。
まだ、春の日は高かった。彼が招いた人達は園内の各所に散って、春の半日を楽しく遊び暮している。が、その人達を招いた彼
丈は、たゞ一人
怏々【不愉快】たる心を
懐いて、
長閑な春の日に、悪魔のような考えを、考えている。
「あら、まだ
茲にいらしったの、方々探したのよ。」
突如、後に騒がしい女の声がした。先刻の
芸妓達が帰って来たのである。
「さあ!
彼方へいらっしゃい。お客様が皆、探しているのよ。」二三人彼のモーニングコートの腕に
縋った。
「あゝ行くよ行くよ。行って酒でも飲むのだ。」彼は、気の抜けたように、
呟きながら、芸妓達に引きずられながら、もう何の興味も無くなった来客達の集まっている方へ
拉せられた【連れて行かれた】。
父と子
一
『またお父様と兄様の争いが始まっている。』そう思いながら、
瑠璃子は読みかけていたツルゲネフの『父と子』の英訳の
頁を、閉じながら、段々高まって行く父の声に耳を傾けた。
『父と子』の争い、もっと広い言葉で言えば旧時代と新時代との争い、旧思想と新思想との争い、それは十九世紀後半の
露西亜や西欧諸国
丈の悩みではなかった。それは、一種の伝染病として、
何時の間にか、日本の上下の家庭にも、侵入しているのだった。
五六十になる老人の生活目標と、二十年代の青年の生活目標とは、雪と炭のように違っている。一方が北を指せば、一方は西を指している。老人が『山』と言っても、青年は『川』とは答えない。それだのに、老人は自分の握っている権力で、父としての権力や、支配者としての権力や、上長者としての権力で、青年を束縛しようとする。西へ行きたがっている者を、自分と同じ方向の、北へ連れて行こうとする。
其処から、色々な家庭悲劇が生れる。
61/343
瑠璃子は、父の心持も
判った。兄の心持も判った。父の時代に生れ、父のような境遇に育ったものが、父のような心持になり、父のような目的のために戦うのは、当然であるように
想われた。が、兄のような時代に生れ、兄のような境遇に育ったものが、兄のように考えるのも
亦当然であるように思われた。父も兄も間違ってはいなかった。お互に、間違っていないものが、争っている丈に、その争いは何時が来ても、
止むことはなかった。何時が来ても、一致しがたい平行線の争いだった。
母が、昨年死んでから、
淋しくなった家庭は、取り残された人々が、その淋しさを
償うために、以前よりも、もっと
睦まじくなるべき
筈だのに、実際はそれと反対だった。
調和者としての母がいなくなった
為、兄と父との争いは、前よりも激しくなり、露骨になった。
「
馬鹿を言え! 馬鹿を言え!」
父のしわがれた張り裂けるような声が、聞えた。それに続いて、何かを
擲つような物音が、聞えて来た。
瑠璃子は、その音をきくと、何時も心が暗くなった。また父が兄の絵具を見付けて、
擲っているのだ。
そう思っていると、又カンバスを引き裂いているらしい、
帛を裂く激しい音が聞えた。
瑠璃子は、思わず両手で、顔を
掩うたまゝ かすかに
顫えていた。
芸術と言ったようなものに、
粟粒ほどの理解も持っていない父が悲しかった。絵を描くことを、ペンキ屋が看板を描くのと同じ位に
卑しく
見貶している父の心が悲しかった。それと同じように、芸術をいろ/\な人間の仕事の中で、一番
尊いものだと思っている、兄の心も悲しかった。父から、描けば勘当だと厳禁されているにも
拘わらず、コソ/\と父の眼を盗んで、写生に行ったり、そっと研究所に通ったりする兄の心が、悲しかった。が、何よりも悲劇であることは、そうしたお互に何の共鳴も持っていない人間同士が、父と子であることだった。父が、卑しみ抜いていることに、子が生涯を
捧げていることだった。父の理想には、子が少しも同感せず、子の理想には父が少しも同感しないことだった。
カンバスが、引き裂かれる音がした後は、
暫らくは何も聞えて来なかった。
62/343
争いの言葉が聞えて来る
裡は、それに
依って、争いの経過が判った。が、急に
静になってしまうと、
却って妙な不安が、聞いている者の心に起って来る。
瑠璃子はまた父が、興奮の余り
心悸が
昂進して、物も言えなくなっているのではないかと思うと、急に不安になって来て、争いの
舞台たる兄の書斎の方へ、足音を忍ばせながらそっと近づいて行った。
二
瑠璃子は、そっと足音を立てないように、
縁側を
伝うて兄の書斎へ歩み寄った。とゞろく胸を押えながら
縁側に向いている窓の
硝子越しに、そっと室内をのぞき込んだ。彼女が予期した通りの光景が
其処にあった。長身の父は
威丈高に、無言のまゝ、兄を
睨み付けて立っていた。
痩せた面長な顔は、白く冷めたく光っている。腰の所へやっている手は、ブル/\
顫えている。兄は兄で、
昂然とそれに対していた。たゞさえ、
蒼白い顔が、激しい興奮のために、血の気を失って、死人のように蒼ざめている。
父と子とは、思想も感情もスッカリ違っていたが、負けぬ気の剛情なところ
丈が、お互に似ていた。
父子の争いは、それ
丈激しかった。
二人の間には、絵具のチューブが、
滅茶苦茶に散っていた。父の足下には、三十号の
画布が、枠に入ったまゝ、ナイフで横に切られていた。その上に描かれている女の肖像も、無残にも頬の下から胸へかけて、
一太刀浴びているのだった。
そうした光景を見た
丈で、
瑠璃子の胸が一杯になった。父が、
此上 兄を
恥しめないように、兄が大人しく出て
呉れるようにと、心
私かに祈っていた。
が、父と兄との沈黙は、それは戦いの後の沈黙でなくして、これからもっと
怖しい戦いに入る前の沈黙だった。
画布までも、引き裂いた暴君のような父の前に、
真面目な芸術家として兄の血は、熱湯のように、沸いたのに違いなかった。いつもは、父に対して、冷然たる反抗を示す兄だったが、今日は心の底から、
憤っているらしかった。
憤怒の色が、アリ/\とその
秀でた
眉のあたりに動いていた。
「考えて見るがいゝ。堂々たる男子が、画筆などを
弄んでいて
何うするのだ。」
63/343
父は、
今迄張り詰めていた姿勢を、少しく崩しながら、苦い物をでも吐き出すように言った。
「考えて、見る迄もありません。男子として、立派な仕事です。」兄の答えも冷たく鋭かった。
「
馬鹿を言え! 馬鹿を!」父は、又カッとなってしまった。「
画などと言うものは、男子が一生を
捧げてやる仕事では決してないのだ。言わば
余戯【たわむれ】なのだ。
なぐさみなのだ。お前が
唐沢の家の
嗣子【あととり】でなければ、どんな事でも好き勝手にするがいゝ。が、
俺の子であり、
唐沢の家の嗣子である以上、お前の好き勝手にはならないのだ。
唐沢の家には、画描きなどは出したくないのだ。俺の子は、画描きなどにはなって
貰いたくないのだ!」
父は、そう叫びながら、手近にある
卓の端を力
委せに二三度打った。
瑠璃子には、父が貴族院の演壇で
獅子吼【大演説】する有様が、
何処となく
偲ばれた。が、相手が現在の子であることが、父の姿を可なり
淋しいものにした。
「お前は、父が三十年来の苦闘を察しないのか。お前は、
俺の子として、父の
志を継ぐことを、名誉だとは思わないのか、俺の志を継いで、俺が年来の望みを、果させて呉れようとは思わないのか。お前は、
唐沢の家の歴史を忘れたのか、お前にいつも話している、お
祖父様の御無念を忘れたのか。」
それは、父が少し
興奮すれば、
定まって出る口癖だった。父は、それを常に感激を
以て語った。が、子はそれを感激を以て聞くことが、出来なかった。
唐沢の家が、三万石の小大名ではあったが、
足利時代以来の名家であるとか、維新の際には祖父が勤王の志が、厚かったにも
拘わらず、
薩長に売られて、朝敵の
汚名を取り、
悶々の
裡に憤死したことや、その死床で
洩した『
敵を取って呉れ。』という遺言を体して、父が三十年来貴族院で、藩閥政府と戦って来たことなど、それは父にとって重大な一生を支配する生活の
刺激だったかも知れない。が、子に取っては、彼の画題となる一
茎の草花に現われている、自然の美しさほどの、刺激も持っていなかった。時代が違ってい、人間が違っていた。
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何の共通点もない人間同士が、血縁でつながっていることが、何より大きい悲劇だった。
「黙っていては分らない。何とか返事をなさい!」日本の大正の
王リアは、こう言って石のように黙っている子に挑んだ。
三
「お父さん!」兄は
静に頭を
擡げた。
平素は、黙々として反抗を示す
丈の兄だったが、今日は徹底的に言って見ようという決心が、その口の辺に動いていた。「
貴方が、
幾何仰しゃっても、僕は政治などには、興味が向かないのです。
殊に現在のような議会政治には、何の興味も持っていないのです。僕は、お父さんの
仰しゃるように、法科を出て政治家になるなどと言うことには、何の興味もないのです。」兄の言葉は、針のように鋭く澄んで来た。
「もう少し待って下さい。もう少し、気長に私のすることを見て居て下さい。その
中に、
画を描くことが、人間としてどんなに立派な仕事であるか、堂々たる男子の事業として恥かしくないかを、お父さんにも、お目にかけ得る時が来るだろうと思うのです。」
「あゝよして呉れ!」父は
排い
退けるように言った。「そんな事は聞きたくない。
馬鹿な! 画描きなどが、画を描くことなどが、……」父は苦々しげに言葉を切った。
「お父さんには、
幾何言っても
解らないのだ。」兄も投げ捨てるように言った。
「解ってたまるものか。」父の手がまたかすかに
顫えた。
二人が、
敵同士のように黙って
相対峙している
裡に、二三分過ぎた。
「
光一!」父は改まったように呼びかけた。
「何です!」兄も、それに応ずるように答えた。
「お前は、今年の正月
俺が言った言葉を、まさか忘れはしまいな。」
「覚えています。」
「覚えているか、それじゃお前は、
此の家にはおられない訳だろう。」
兄の顔は、
憤怒のために、見る/\中に真赤になり、それが再び
蒼ざめて行くに従って、悲壮な顔付になった。
65/343
「分りました。出て行けと
仰しゃるのですか。」怒のために、兄はわな/\
顫えていた。
「二度と、画を描くと、家には置かないと、あの時言って置いた
筈だ。お前が、
俺の干渉を受けたくないのなら、
此家を出て行く外はないだろう。」父の言葉は鉄のように堅かった。
瑠璃子は、胸が張り裂けるように悲しかった。一徹な父は、一度言い出すと、後へは引かない
性質だった。それに対する兄が、父に劣らない意地張だった。彼女が、常々心配していた
大破裂がとうとう目前に迫って来たのだった。
父の言葉に、カッと逆上してしまったらしい兄は、前後の分別もないらしかった。
「いや承知しました。」
そう言うかと思うと、彼は
俯きながら、狂人のように
其処に落ち散っている絵具のチューブを拾い始めた。それを拾ってしまうと、机の引き出しを、滅茶苦茶に
掻き回し始めた。机の上に在った二三冊のノートのようなものを、
風呂敷に包んでしまうと、彼は父に
一寸目礼して、飛鳥のように
室から
駈け出そうとした。
父が、
駭いて引き止めようとする前に、狂気のように室内に飛び込んだ
瑠璃子は、早くも兄の
左手に
縋っていた。
「兄さん! 待って下さい!」
「お放しよ。瑠璃ちゃん!」
兄は、荒々しく
叱するように、
瑠璃子の手をもぎ放した。
瑠璃子が、再び取り
縋ろうとしたときに、兄は下へ行く階段を、激しい音をさせながら、電光の
如く
馳け下っていた。
「兄さん! 待って下さい!」
瑠璃子が、声をしぼりながら、後から馳け下ったとき、帽子も
被らずに、玄関から門の方へ足早に走っている兄の後姿が、チラリと見えた。
四
兄の後姿が見えなくなると、
瑠璃子は よゝと【激しく】泣き崩れた。張り詰めていた気が砕けて、涙はとめどもなく、
双頬を
湿おした。
母が
亡くなってからは、
父子三人の
淋しい家であった。段々差し迫って来る窮迫【困窮】に、召使の数も減って、たゞ忠実な
老婢と、その
連合の老僕とがいる
丈だった。
66/343
それだのに、
僅かしか残っていない歯の中から、またその目ぼしい一本が、抜け落ちるように、兄がいなくなる。父と兄とは、水火のように、
何処まで行っても、調和するようには見えなかったけれども、兄と
瑠璃子とは、仲のよい兄妹だった。母が亡くなってからは、更に二人は親しみ合った。兄はたゞ一人の妹を愛した。
殊に父と不和になってから、肉親の愛を
換し得るのはたゞ妹だけだった。妹もたゞ一人の兄を頼った。父からは、得られない理解や同情を兄から仰いでいた。
瑠璃子には父の一徹【強い気質】も悲しかった。兄の一徹も悲しかった。
が、何よりも気遣われたのは、着のみ着のままで、飛び出して行った兄の身の上である。理性の勝った兄に、万一の間違があろうとは思われなかった。が、貧乏はしていても、華族の家に生れた兄は、独立して口を
糊して行く【なんとか食いつなぐ】手段を知っている訳はなかった。が、一時の
激高のために、カッと飛び出したものゝ
屹度帰って来て下さるに
違ない。
或は
麻布の叔母さんの家にでも、行くに違ない。やっと、そう気休めを考えながら、
瑠璃子は涙を
拭い拭い、階段を上って行った。二階にいる父の事も、気がかりになったからである。
父はやっぱり兄の書斎にいた。先刻と寸分違わない位置にいた。たゞ、傍にあった
椅子を引き寄せて、腰を下したまゝじっと
俯いているのだった。たった一人の男の子に、背き去られた父の顔を見ると、
瑠璃子の眼には新しい涙が、また一時に
湧いて来るのであった。
此の頃、交じりかけた
白髪が急に眼に立つように思った。
『歯が
脱けて演説の時に声が
洩れて困まる』と、
此頃口癖のように言う
通、口の
辺が淋しく
凋びているのが、急に眼に付くように思った。
一生を通じて、やって来た仕事が、自分の子から理解せられない、それほど淋しいことが、世の中にあるだろうかと思うと、
瑠璃子は、父に言葉をかける力もなくなって、そのまま床の上に、再び泣き崩れた。
67/343
最愛の娘の涙に誘われたのであろう。老いた政治家の頬にも、一条の涙の
痕が印せられた。
「
瑠璃子!」父の声には、
先刻のような元気はなかった。
「はい!」
瑠璃子は、涙声でかすかに答えた。
「出て行ったかい!
彼は?」
遉に何処となく恩愛【いつくしみ】の情が
纏わっている声だった。
「はい!」彼女の声は前よりも、力がなかった。
「いやいゝ。出て行くがいゝ。
志を異にすれば親でない、子でない、血縁は続いていても
路傍の人だ。
瑠璃子! お前には、父さんの心持は
解るだろう。お前
丈は、
俺の心持は解るだろう。お前が男であったら、
屹度お父さんの志を継いで
呉れるだろうとは、平生思っているのだが。」父は元気に言った。が、声にも口調にも力がなかった。
瑠璃子は、それには何とも答えなかった。が、
瑠璃子の胸に、一味【唐辛子を】焼くような激しい気性と、父にも兄にも勝るような強い意志があることは、彼女の平生の動作が示していた。それと同じように、貴族的な気品があった。昔
気質の父が時々
瑠璃子を捕えて『男なりせば』の
嘆【なげき】を
漏すのも無理ではなかった。
まだ父が、何か言おうとする時であった。
邸前の坂道を疾駆して
馳け上る自動車の爆音が聞えたかと思うと、やがてそれが門前で緩んで、低い
警笛と共に、一
輛の自動車が、
唐沢家の古びた黒い木の門の中に滑り入った。
五
父子の悲しい
淋しい緊張は、自動車の音で端なく破られた。
瑠璃子は、もっとこうしていたかった。父の気持も
訊き、兄に対する善後策も講じたかった。彼女は、自分の家の恐ろしい悲劇を知らず顔に、自動車で騒々しく、飛び込んで来る客に、軽い
憎悪をさえ感じたのである。
老婢は、何かに取り紛れている【他のことが疎かになっている】のだろう、容易に取次ぎには出て来ないようだった。
「
老婢はいないのかしら!」
68/343
そう
呟くと、
瑠璃子は自分で、取次ぎするために、階段を下りかけた。
「大抵の人だったら、会えないと断るのだよ。いゝかい。」
そう言葉をかけた父を振り
顧って見ると、相変らず
蒼い
顫えているような顔色をしていた。
瑠璃子が、階段を下りて、玄関の扉を開けたとき、彼女は訪問者が、
一寸意外な人だったのに
駭いた。それは、彼女の恋人の父の
杉野子爵であったからである。
「おや入らっしゃいまし。」そう言いながら、彼女は心の中で可なり当惑した。
杉野子爵は、彼女にとっては
懐しい恋人の父だった。が、父と子爵とは、決して親しい仲ではなかった。同じ政治団体に属していたけれども、二人は少しも親しんでいなかった。父は、内心子爵を
賤しんでいた。政商達と結託して、私利を追うているらしい子爵の態度を、可なり不快に思っているらしかった。公開の席で、二三度可なり激しい議論をしたと言う
噂なども、
瑠璃子は
何時となく聴いていた。
そうした人を、こんな場合、父に取次ぐことは、心苦しかった。それかと言って、自分の恋人の父を、
情なく返す気にもなれなかった。彼女が
躊躇しているのを見ると、子爵は
不審そうに
訊いた。
「いらっしゃらないのですか。」
「いゝえ!」彼女は、そう答えるより外はなかった。
「
杉野です。
一寸お取次を願います。」
そう言われると、
瑠璃子は一も二もなく取次がずにはいられなかった。が、階段を上るとき、彼女の心にふとある
動揺が起った。『まさか』と、彼女は幾度も打ち消した。が、打ち消そうとすればするほど、その
動揺は大きくなった。
杉野子爵の長男
直也は、父に似ぬ立派な青年だった。音楽会で知り合ってから、
瑠璃子は知らず
識らずその人に
惹き付けられて行った。男らしい顔立と、彼の火のような熱情とが、彼女に対する大きな魅惑だった。二人の愛は、激しく
而も清浄だった。
二人は将来を誓い合った。学校を出れば、正式に求婚します。青年は口癖のように繰返した。
青年は今年の四月学習院の高等科を出ている。
69/343
『学校を出ると言うことが、学習院を出ることを、意味するなら。』そう考えると
瑠璃子は踏んでいる足が、階段に着かぬように、そわ/\した。まだ一度も、尋ねて来たことのない子爵が、わざ/\尋ねて来る。そう考えて来ると、
瑠璃子の小さい胸は取り止めもなく
掻き
擾されてしまった。
が、つい
此間青年と園遊会で会ったとき、彼は
おくびにも、そんなことは言わなかった。正式に突然求婚して、自分を
駭かそうと言う
悪戯かしら。彼女は、そんなことまで、
咄嗟の間に空想した。
が、苦り切っている、父の顔を見たとき彼女の心は、急に暗くなった。
縦令、それが
瑠璃子の思う通りの求婚であったにしろ、父がオイソレと許すだろうか。心の中で、
賤しんでいる者の子息に、最愛の娘を与えるだろうか。子は子である。父は父である。
之れ位の
事理【道理】の分らない父ではない。が、兄が突然家出して、さなきだに【ただでさえ】淋しい今、自分を手離して、
他家へやるだろうか。そう思うと、
瑠璃子の心に伸びた空想の翼は、また
忽ち
半以上切り取られてしまった。が、万一そうなら、又 万一父が容易に承諾したら?
「あの!
杉野子爵がお見えになりました。」彼女の息は可なりはずんでいた。
六
父は娘の心を知らなかった。
杉野子爵の突然の来訪を、迷惑がる表情があり/\と動いた。
「
杉野! ふーむ。」父は苦り切ったまゝ容易に立とうとはしなかった。
父が、
杉野子爵に対してこうした感情を持っている以上、又 兄の家出と言う
傷ましい事件が起っている以上、
縦令子爵の来訪が、
瑠璃子の夢見ている
通の意味を持っていたにしろ、容易に
纏まる
筈はなかった。そう考えると、彼女の心は、墨を流したように暗くなってしまった。
「仕方がない! お通しなさい!」
そう言ったまゝ、父は
羽織を着るためだろう、
階下の部屋へ下りて行った。
瑠璃子は、恋人の父と自分の父との間に、まつわる不快な感情を悲しみながら、玄関へ再び降りて行った。
「お待たせいたしました、
何うぞお上り下さいませ。」
70/343
「いや、どうも突然
伺いまして。」と、子爵は
如才なく【そつなく】
挨拶しながら先に立って、応接室に通った。
古いガランとした応接室には、何の装飾もなかった。明治十幾年に建てたと言う洋館は、間取りも様式も古臭く旧式だった。
瑠璃子は、客を案内する
毎に、旧式の
椅子の
蒲団が、破れかけていることなどが気になった。
父は、
直ぐ応接室へ入った。心の中の感情は可なり隔たっていたが、面と向うと、
遉に打ち解けたような挨拶をした。
瑠璃子は、茶を運んだり、菓子を運んだりしながらも、主客の話が気にかゝった。が、話は時候の挨拶から、政界の時事などに進んだまゝ用向きらしい話には、容易に触れなかった。
立ち聞きをするような、
はしたない事は、思いも付かなかった。
瑠璃子は、来客が気になりながらも、自分の部屋に退いて、不安な、それかと言って、不快ではない心配を続けていた。
恋人の顔が、絶えず心に浮かんで来た。過ぎ去った一年間の、恋人とのいろ/\な会合が、心の中に
蘇えって来た。どの一つを考えても、それは楽しい清浄な幸福な思出だった。二人は火のような愛に燃えていた。が、お互に個性を認め合い、尊敬し合った。上野の音楽会の帰途に、ガスの光が、ほのじろく
湿んでいる公園の
木下暗を、ベエトーフェンの『月光曲』を聴いた感激を、語り合いながら、
辿った秋の一夜の事も思い出した。新緑の戸山ヶ原の
橡の林の中で、その頃読んだトルストイの『復活』を批評し合った初夏の日曜の事なども思い出した。恋人であると共に、得難い友人であった。彼女の趣味や知識の生活に
於ける大事な指導者だった。
恋人の
凜々しい性格や、その男性的な
容貌や、その他いろ/\な美点が、それからそれと、彼女の頭の中に浮かんで来た。
若し子爵の来訪の用向きが、自分の想像した通りであったら、(それが何と言う子供らしい想像であろう)とは、打消しながらも、
瑠璃子の真珠のように白い頬は、見る人もない部屋の中にありながら、ほのかに赤らんで来るのだった。
が、来客の話は、そう永くは続かなかった。
瑠璃子の夢のような想像を破るように、応接室の
扉が、父に
依って荒々しく開かれた。
71/343
瑠璃子は、客を送り出すため、急いで玄関へ出て行った。
見ると父は、兄の家出を見送った時以上に、
蒼い苦り切った顔をしていた。
杉野子爵はと見ると、その如才のないニコニコした顔に、【いつもとは違って】微笑の影も見せず、
周章として【あわてふためいて】追われるように玄関に出て、ロクロク挨拶もしないで、車上の人となると、運転手を促し立てゝ、あわたゞしく去ってしまった。
父は、自動車の後影を
憎悪と
軽蔑との
交った眼付で、しばらくの間見詰めていた。
「お父様どうか遊ばしたのですか。」
瑠璃子は、おそる/\父に
訊いた。
「
馬鹿な
奴だ。華族の
面汚しだ。」父は
唾でも吐きかけるように
罵った。
七
杉野子爵に対する、父の燃ゆるような
憎悪の声を聞くと、
瑠璃子は自分の事のように、オドオドしてしまった。胸の中に、ひそかに
懐いていた子供らしい想像は、跡形もなく踏み
躙られていた。踏んでいた床が、崩れ落ちて、
其まま底知れぬ深い
淵へ、落ち込んで行くような、暗い頼りない心持がした。
之迄でさえ、父と父との感情に、暗い
翳のあることは、恋する二人の心を、どんなに
傷しめたか分らない。それだのに、今日はその暗い
翳が、明らさまに火を放って、爆発を
来したらしいのである。
「一体
何うしたのでございます。そんなにお腹立ち遊ばして。」
瑠璃子は、父の顔を見上げながら、オズ/\
訊いた。父は、口にするさえ、
忌々しそうに、
「訊くな。訊くな。
汚らわしい。
俺達を侮辱している。
俺ばかりではない、お前までも侮辱しているのだ。」と、
歯噛をしないばかりに
激高しているのだった。
自分までもと、言われると、
瑠璃子は更に不安になった。自分のことを、一体
何う言ったのだろう。自分に就いて、一体何を言ったのだろう。恋人の父は、自分のことを、
一体何う侮辱したのだろう。
72/343
そう考えて来ると、
瑠璃子は父の機嫌を恐れながらも、黙っている訳には行かなかった。
「一体どんなお話が、ございましたの。
妾の事を、
杉野さんは
何う
仰しゃるのでございますか。」
「訊くな。訊くな。訊かぬ方がいゝ。聞くと
却って気を悪くするから。あんな
賤しい人間の言うことは、一切耳に入れぬことじゃ。」
やゝ興奮の去りかけた父は、却って娘を
宥めるように優しく言いながら、二階の居間へ行くために階段を上りかけた。父は、
杉野子爵を賤しい人間として捨てゝ置くことが出来た。が、
瑠璃子には、それは出来なかった。どんなに、子爵が
賤しくても、自分の恋人の父に
違なかった。その人が、自分のことを、
何う言ったかは、
瑠璃子に取っては是非にも訊きたい大事な事だった。
「でも、何と
仰しゃったか知りたいと思いますの。
妾のことを何と
仰しゃったか、気がかりでございますもの。」
瑠璃子は、父を追いながら、甘えるような口調で言った。娘の前には、目も鼻もない父だった。母のない娘のためには、何物も惜しまない父だった。
瑠璃子が
執拗に二三度訊くと、どんな秘密でも、明しかねない父だった。
「なにも、お前の悪口を言ったのじゃない。」
父は
憤怒を顔に現しながらも、娘に対する言葉
丈は、優しかった。
「じゃ、
何うして侮辱になりますの、あの方から、侮辱を受ける覚えがないのでございますもの。」
「それを侮辱するから
怪しからないのだ。俺を侮辱するばかりでなく、
清浄潔白なお前までも侮辱してかゝるのだ。」
父は、又
杉野子爵の態度か言葉かを思い出したのだろう、その人が、前にでもいるように、
拳を握りしめながら、激しい口調で言った。
「
何うしたと言うのでございます、お父様、ハッキリと
仰しゃって下さいまし、一体どんなお話で、あの方が、私の事を
何う仰しゃったのです。一体どんな用事で、
入らしったのでございます。」
瑠璃子も、可なり興奮しながら、本当のことを知りたがって、畳みかけて訊いた。
73/343
「
彼の男は、お前の縁談があると言って来たのだ。」父の言葉は意外だった。
「
妾の縁談!」
瑠璃子は、そう言ったまゝ、二の句が次げなかった。彼女は化石したように、父の書斎の入口に立ち止まった。父は、
瑠璃子の
駭きに、深い意味があろうとは、夢にも知らずに、興奮に疲れた
身体を、安楽
椅子に投げるのであった。
買い得るか
一
父から、
杉野子爵の来訪が、縁談の
為であると、聞かされると、
瑠璃子は電火にでも、打たれたように、ハッと
駭いた。
やっぱり、自分の子供らしい想像は当ったのだ。
杉野子爵は子のために、直接話を進めに来たのだ。その話の中に、子爵の不用意な言葉か、
不遜の態度かが、潔癖な父を怒らせたに
違ない。そう思うと、
瑠璃子はあまりに潔癖過ぎる父が急に恨めしくなった。少しも妥協性のない、一徹な父が恨めしかった。自分の一生の運命を狂わすかも知れない、父の態度が、恨めしかった。
瑠璃子は父に抗議するように言った。
「縁談のお話が、
何うして
妾を、侮辱することになりますの。またそんなお話なら、一応
妾にも、話して下さってから、お断りになっても、遅くはないと思いますわ。」
瑠璃子は、誰に対しても、自己を主張し得る女だった。彼女は、父にでも兄にでも恋人にでも、自己を主張せずには、いられない女だった。
瑠璃子の抗議を、父は
憫むように笑った。
「縁談! ハヽヽヽヽ。普通の縁談なら、無論瑠璃さんにも、よく相談する。が、あの男の縁談は、縁談と言う名目で、
貴女を買いに来たのじゃ。金を積んで、
貴女を買いに来たのじゃ。
怪しからん!
俺の娘を!」
父の眼は、激怒のために、狂わしいまでに、輝いた。そう言われると、
瑠璃子は、一言もなかったが、そうした縁談の相手は、一体誰だろうかと、思った。
「
彼の男が来て娘をやらんかと言う。平素から、快く思っていない男じゃが、折角来て
呉れたものだから、
無碍に断るのもと、思ったから、
与らんこともないと言うと、段々相手の男のことを話すのじゃ。
74/343
人を
馬鹿にして居る。四十五で、先妻の子が、二人まであると言うのじゃ。俺は、頭から怒鳴り付けてやったのじゃ。すると、
彼の男が、オズ/\何を言い出すかと思うと、支度金は三十万円【30億円/2025年】まで出すと、言うのじゃ。俺は憤然と立ち上って、彼の男を応接室の外へ引きずり出したのだ。」父の声は、わな/\
顫えた。
「
此年になるまで、こんな侮辱を受けたことはない。貧乏はしている。政戦三十年、家も
邸も抵当に入っている。が、三十万円は愚か、千万一億の金を積んでも、娘を金のために、売るものか。」
父は、
傍の見る眼も、
傷ましいほど、
激高している。年老いた肉体は、余りに激しい
憤怒のために今にも砕けそうに、緊張している。
瑠璃子も、胸が一杯になった。父の
怒を、
尤もだと思った。が、その怒を
宥むべき何の言葉も、思い浮ばなかった。
が、それに付けても、
杉野子爵は、何の
恨があって、こうした侮辱を、年老いた父に与えるのだろう。そう思うと、
瑠璃子の胸にも、張り裂けるような怒りが、
湧いて来た。が、それが恋人の父であると、思い返すと、身も世もないような悲しみが伴った。
「彼の男は、金のために、あんなに
賤しくなってしまったのだ。政商
連と結託して、金のためにばかり、動いているらしいのだ。今日の縁談なども、
纏まれば
幾何と言う、口銭が取れる仕事だろう。ハヽヽヽヽ。」父は、怒を
嘲に換えながら、
蔑むように
哄笑した。
「何でも、今日の縁談の申込み手と言うのが、ホラ瑠璃さんも行ったゞろう。
此間園遊会をやった
荘田と言う男らしいのだ。」
父は何気なく言った。が、
荘田と言う名を聞くと、
瑠璃子は
直ぐ、
豹の眼のように恐ろしい
執拗なその男の眼付を思い出した。冷静な、勝気な、
瑠璃子ではあったけれども、悪魔に頬を、
舐められたような気味悪さが、全身をゾク/\と襲って来た。
75/343
二
荘田と言う名前を聴くと、
瑠璃子が気味悪く思ったのも、無理ではなかった。彼女は、その人の催した園遊会で、妙な
機みから、激しい言葉を
交して以来、その男の顔付や
容子が、悪夢の名残りのように、彼女の頭から離れなかった。
太いガサツな
眉、二段に畳まれている鼻、厚い唇、いかにも自我の強そうな表情、その顔付を思い出して見る
丈でも、イヤな気がした。そんな男と、言い争いをしたことが、執念深い蛇とでも、恨を結び合ったように、何となく不安だった。処が、その男が意外にも自分に婚を求めている。そう思う
丈でも、彼女は妙な
悪寒を感じた。よく伝説の中にある、白蛇などに見込まれた美少女のように。
瑠璃子は、相手の心持が、容易には分らなかった。容易に、その事を信ずることが出来なかった。
「本当でございますの?
杉野さんが、本当に
荘田と
仰しゃったのでございますの?」
「確かに、あの男だと言わないが、
何うも
彼奴の事らしい。
杉野はお前の話を始める前に、それとなく
荘田の事を
賞めているのだ。
何うも
彼奴らしい。金が出来たのに、付け上って、華族の娘をでも
貰いたい
肚らしいが、俺の娘を貰いに来るなんて狂人の
沙汰だ!」
父は相手の無礼を怒ったものゝ、先方に深い悪意があろうとは思わないらしく、先刻から見ると余程機嫌が直っているらしかった。
が、
瑠璃子はそうではなかった。
此の求婚を、
気紛れだとか、冗談だとか、華族の娘を貰いたいと言うような単なる虚栄心だとは、
何うしても思われなかった。父の
一喝に
逢って、
這々の
体で、逃げ帰った
杉野子爵は、ほんの
傀儡で、その背後に
怖ろしい悪魔の手が、動いていることを感ぜずにはいられなかった。そう思って来ると、八重桜の下で、自分達二人を、
睨み付けた恐ろしい眼が、アリアリと浮んで来た。そう思って来ると、自分の恋人の父を、自分に対する求婚の使者にした相手のやり方に、悪魔のような意地悪さを、感ぜずにはいられなかった。
瑠璃子は思った。自分が傷つけた蛇は、ホンの
僅な恨を
酬いるために猛然と、襲いかゝっているのだと。が、そう思うと、
瑠璃子は
却って、必死になった。
76/343
来るならば来て見よ。あんな男に、指一つ触れさせてなるものか。彼女は心の
中でそう決心した。
「いや、
杉野の
奴一喝してやったら、一縮みになって帰ったよ。あゝ言って置けば、二度と顔向けは出来ないよ。」
父は、もう
凡てが済んでしまったように、何気なく言った。が、
瑠璃子にはそうは思われなかった。一度飛び付き
損った蛇は、二度目の飛躍の準備をしているのだ。いや、二度目どころではない。三度目 四度目 五度目 十度目の準備まで整っているのかも知れない。そう思うと、
瑠璃子は又更に自分の胸の
処女の
誇が、烈火のように激しく燃えるのを感じた。
「本当に
口惜しゅうございます。あんな男が
妾を。それに
杉野さんが、そんな話をお取次ぎになるなんて、本当にひどいと思いますわ。」
瑠璃子は、興奮して、涙をポロ/\落しながら言った。それは口惜しさの涙であり、
怒の涙だった。
「だから、聴かない方が、いゝと言ったのだ。そうだ!
杉野が
怪しからんのだ。あんな
馬鹿な話を取次ぐなんて、
彼奴が怪しからんのだ。が、あんな
堕落した人間の言うことは、気に止めぬ方がいゝ。縁談どころか、瑠璃さんには、
何時までも、
茲にいて貰いたいのだ。
殊に、
光一があゝなってしまえば、お父様の子はお前
丈なのだ。百万円はおろか、お父様の首が飛んでも、お前を手離しはしないぞ。ハヽヽヽ。」
父は、
瑠璃子を慰めるように、快活に笑った。
瑠璃子の心も、父に対する愛で、一杯になっていた。何時までも、父の傍にいて、父の理解者であり、慰安者であろうと思った。
「
妾もそう思っていますの。何時までも、お父様のお
傍にいたいと思っていますの。」
そう言って
瑠璃子は初めてニッコリ笑った。
嵐の過ぎ去った後の平和を思わせるような、寂しいけれども静かな美しい
微笑だった。
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三
二つの
忌わしい事件が、渦を
捲いて起った日から、
瑠璃子の家は、暴風雨の吹き過ぎた後のような寂しさに、包まれてしまった。
家出した兄からは、ハガキ一つ来なかった。父は父で
おくびにも兄の事は言わなかった。人を頼んで、兄の行方を探すとか、警察に捜索願を出すなどと言うことを、父は夢にも思っていないらしかった。自分を捨てた子の
為には、指一つ動かすことも、父としての自尊心が許さないらしかった。
こうした父と兄との間に挟まって、たゞ一人、心を
傷めるのは
瑠璃子だった。彼女は、父に隠れて兄の行方をそれとなく探って見た。兄が、その以前父に隠れて通ったことのある、小石川の洋画研究所も尋ねて見た。兄が、
予てから
私淑している二科会の幹部のN氏をも訪ねて見た。が、
何処でも兄の消息は
判らなかった。
兄の友達の二三にも、手紙で
訊き合して見た。が、どの返事も
定まったように、兄に
暫らく会ったことがないと言うような、頼りない返事だった。
縦令父とは不和になっても、自分
丈には安否位は、知らせて
呉れてもよいものと、彼女は兄の気強さが恨めしかった。が、彼女の心を
傷ましめることは外にもう一つあった。それは、これまで感情の
疎隔【疎遠】していた父と
杉野子爵との間が、
到頭最後の破裂に達したことである。あんな事件が起った以上、再び元通りになることは、
殆ど絶望のように思われた。従って、自分達の恋が、正式に認められるような
機は、永久に来ないように思われた。自分が、恋を達するときは、やっぱり兄と同じように、父に背かなければならぬ時だと思うと、彼女の心は暗かった。
突然な非礼な求婚が、
斥けられてから、それに就いては何事も起らなかった。十日
経ち二十日経った。父は、その事をもうスッカリ忘れてしまったようだった。が、
瑠璃子にはそれが中断された悪夢のように、何となく気がかりだったが、一度
限で何の
音沙汰もないところを見ると、その求婚を、恐ろしい
復讐の企てでもあるように思ったのは、自分の
邪推【ひがんで悪く想像】であったようにさえ、
瑠璃子は思った。
その
裡に五月が過ぎ六月が来た。
78/343
政治季節の外は、何の用事もない父は、毎日のように書斎にばかり、閉じ
籠もっていた。
瑠璃子は
何うかして、父を慰めたいと思いながらも、父の暗い
眉や
凋びた口の
辺を見ると、たゞ涙ぐましい気持が先に立って、話しかける言葉さえ、容易に口に浮ばなかった。兄がいる
裡は、父と時々争いが起ったものゝ、それでも家の中が、何となく華やかだった。
父娘二人になって見ると、ガランとした洋館が修道院か何かのように、ジメ/\と
淋しかった。
六月のある晴れた朝だった。兄が家出した悲しみも、不快な求婚に
擾された心も、だん/\薄らいで行く頃だった。
瑠璃子は、その朝、顔を洗ってしまうと
平素の通り、
老婢が自分の
室の机の上に置いてある郵便物を、取り上げて見た。
父
宛に来た書状も、一通り目を通すのが、彼女の役だった。その朝は、父宛の書留が一通
雑じっていた。それは内容証明の書留だった。裏を返すと、見覚えのある
川上万吉と言う金貸業者の名前だった。
『あゝまた督促かしら。』と、
瑠璃子は思った。そうした書状を見る
毎に、平素は感じない家の窮状が彼女にもヒシ/\感ぜられるのであった。
彼女は、何気なく封を破った。が、それは平素の督促状とは、違っていた。簡単な書式のようなものだった。
一寸意外に思いながら読んで見た。最初の『債権
譲渡通知書』と言う五字から、
先ず
名状しがたい【言葉で表現できない】不快な感じを受けた。
債権譲渡通知書
通知人川上万吉は被通知人に対して有する金弐万五千円【2億5千万円/2025年】の債権を今般都合に依り荘田勝平殿に譲渡し候に付き通知候也
大正六年六月十五日
通知人 川上万吉
被通知人 唐沢光徳殿
荘田
勝平と言う名前が、目に入ったとき、その書式を持っている
瑠璃子の手は、そのまま しびれてしまうような、
嫌な重くるしい
衝動を受けずには いられなかった。
悪魔は、その
爪を現し始めたのである。
四
相手が、あのまま思い切ったと思ったのは、やっぱり自分の
早合点だったと
瑠璃子は思った。
79/343
求婚が一時の
気紛れだと思ったのは、相手を善人に解し過ぎていたのだ。相手はその二つの眼が示している通り、やっぱり恐ろしい相手だったのだ。
が、それにしても何と言う執念ぶかい男だろう。父が負うている借財の証書を買入れて、父に対する債権者となってから、一体
何うしようと言う積りなのかしら。
卑怯にも
陋劣にも、金の力であの
清廉な父を苦しめようとするのかしら。そう思うと、
瑠璃子は、女ながらにその小さい胸に、相手の卑怯を
憤る熱い血が、沸々と声を立てゝ、煮え立つように思った。
父の借財は多かった。藩閥内閣打破の運動が、起る度に、父はなけ無しの私財を投じて惜しまなかった。藩閥打破を口にする志士達に、なけ無しの私財を散じて惜しまなかった。父が持って生れた
任侠の性質は、頼まるゝ
毎に連帯の判も
捺した。
手形の裏書もした、取れる見込のない金も貸した。そうした父の、金に対する豪快な
遣り口は、最初から多くはなかった財産を、
何時の間にか無一物にしてしまった。が、財産は無くなっても、父の気質は無くならなかった。初めは親類縁者から金を借りた。親類縁者が、見放してしまうと、高利貸の手からさえ、借ることを
敢てした。住んでいる家も、手入は届いていないが、可なりだゞっ広い邸地も、一番も二番もの抵当に入っていることを、
瑠璃子さえよく知っている。
金力と言ったものが、丸切り奪われている父が、黄金魔と言ってもよいような相手から、
赤児の手を
捻じるように、
苛責られる。そう思って来ると、
瑠璃子はやるせない憤りと悲しみとで、胸が一杯になって来た。金さえあれば、どんな
卑しい者でもが、得手勝手なことをする世の中全体が、
憤ろしく
呪わしく思われた。
瑠璃子は、今の場合、こうした不快な通知書を、父に見せることが、一番
嫌なことだった。父が、どんなに怒り、どんなに
口惜しがるかが余りに見え透いていたから。
でも、こうした重要な郵便物を、父に隠し通すことは出来なかった。
瑠璃子は、重い足を運びながら、父の寝室へ行って見た。が、父はまだ起きてはいなかった。
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スヤ/\と安らかな呼吸をしながら名残りの夢を
貪っている父の
窶れた寝顔を見ると、
瑠璃子は出来る
丈こうした不快な物を父の眼には触れさせたくはなかった。彼女は、そっと忍び足に
枕元に寄り添って、枕元の小さい
卓子の上に置いてある、父の手文庫の中にその呪われた紙片を、そっと音を立てずに入れた。何時までも、父の眼には触れずにあれ、
瑠璃子は心の中で、そう祈らずにはいられなかった。
その日、食事の度毎に顔を合せても、父は何とも言わなかった。夜の八時頃、一人で
棊譜を開いて盤上に石を並べている父に、紅茶を運んで行ったときにも、父は
二言三言瑠璃子に言葉をかけたけれど、書状のことは、何も言わなかった。
願わくは、何時までも、父の眼に触れずにあれ、
瑠璃子は更にそう祈った。どうせ、一度は触れるにしても、一日でも二日でも先きへ、延ばしたかった。
が、翌日眼を覚まして、
瑠璃子が前の日の朝の、不快な記憶を
想い浮べながら、その朝の郵便物に眼をやったとき、彼女は思わず、口の
裡で、小さい悲鳴を挙げずにはいられなかった。
其処に、昨日と同じ内容証明の郵便物が、三通まで重ねられていたのである。
それを取り上げた彼女の手は、思わずかすかに
顫えた。もう、父に隠すとか隠さないとか言う余裕は、彼女になかった。彼女はそれを取り上げると、救いを求むる少女のように、父の寝室に
駈け込んだ。
父は起きてはいなかったが、床の中で眼を覚ましていた。
「お父様! こんな手紙が参りました。」
瑠璃子の声は、何時になく上ずッていた。
「昨日のと同じものだろう。いや心配せいでもえゝ、お前が心配せいでもえゝ。」
父は、静かにそう言った。昨日の書状も、父は何時の間にか、見ていたのである。
瑠璃子は、今更ながら、自分の父を頼もしく思わずにはいられなかった。
五
唐沢の家を
呪詛するような、その不快な通知状は、その翌日もその又翌日も、無心な配達夫に
依って運ばれて来た。
初ほどの
驚駭は、受けなかったけれども、その一葉々々に、名状しがたい不快と不安とが、見る人の胸を
衝いた。
「なに、捨てゝ置くさ。同一人に債権の
蒐まった方が、弁済をするにしても、督促を受くるにしても手数が
省けていゝ。」
81/343
父は何気ないように、済ましているようだったが、
然し内心の
苦悶は、
表面へ出ずにはいなかった。
殊に、父は相手の真意を測りかねているようだった。何のために、相手がこれほど、執念深く、自分を追窮して来るのか、
判りかねているようだった。
が、
瑠璃子には相手の心持が、判っている
丈、わずかばかりの恨を根に持って、
何処までも何処までも、付き
纏って来る相手の心根の恐ろしさが、しみ/″\と身に
浸みた。通知状を見る度に、相手に対する
憎悪で、彼女の心は一杯になった。彼の金力を
罵った自分達
丈を苦しめる
丈なら、まだいゝ、罪も
酬いもない老いた父を、苦しめる相手の非道を、心の底より憎まずにはいられなかった。
こうして、父が負うている総額二十万円に近い負債に対する数多い証書が、たった一つの黒い堅い冷たい手に、握られてしまった頃であった。
ある朝、彼女は
平生のように郵便物を見た。――こうした通知状の来ない前は、それは楽しい仕事に違いなかった。
其処には恋人からの手紙や、親しい友達の消息が
見出されたから――。が、今では不安な、いやな仕事になってしまった。
彼女は、その朝もオズ/\郵便物に目を通した。幾通かの手紙の一番最後に置かれていた鳥の子の立派な封筒を取り上げて、ふと差出人の名前に、目を触れたとき、彼女の視線はそこに、筆太に書かれている四字に、
釘付けにされずにはいなかった。それは
紛れもなく荘田
勝平の四字だったのである。
黒手組の脅迫状を受けたように、悪魔からの挑戦状を受けたように、
瑠璃子の心は打たれた。反感と、憎悪とある恐怖とが、
ごっちゃになって、わく/\と胸にこみ上げて来た。
彼女は、その封筒の端をソッと、醜い
蠑螈の
尻尾をでも握るように、
摘み上げながら、父の部屋へ持って行った。
父は差出人の名前を、一目見ると、苦々しげに
眉をひそめた。
暫らくは開いて見ようとはしなかった。
「何と申して参ったのでございましょう。」
瑠璃子は、気になって、
急かすように
訊いた。
父は、荒々しく封筒を引き破った。
「何だ!」父の声は、初から興奮していた。
「――
此度小生に
於て、買占め置き
候貴下に対する債権に
就て、
御懇談いたしたきこと
有之、
且つ先日
杉野子爵を介して、申上げたる件に付きても、重々の
行違有之、右釈明
旁々近日参邸いたし度く――あゝ何と言う
図々しさだ。
82/343
何と言う! 獣のような図々しさだ。よし、やって来い。やって来るがいゝ。来れば、面と向って、あの男の
面皮を引き
剥いて
呉れるから。」
父は、そう言いながら、
奉書の巻紙を
微塵に引き裂いた。老い
凋んだ手が、
怒のために、ブル/\
顫えるのが、
瑠璃子の眼には、
傷ましくかなしかった。
六
父も
瑠璃子も、心の中に戦いの準備を整えて、荘田
勝平の来るのを遅しと待っていた。
手紙が来た日の翌日の午前十時頃、
瑠璃子が、二階の窓から、
邸前の坂道を、見下していると、
遥に続いている
プラタナスの
並樹の間から、水色に塗られた大形の自動車が、初夏の日光をキラ/\と反射しながら、
眩しいほどの速力で、坂を
馳け上ったかと思うと、急に速力を緩めて、低い
うめくような警笛の音を立てながら、門前に止まるのを見たのである。覚悟をしていたことながら、
瑠璃子は今更のように、不快な、悪魔の正体をでも、見たような
憎悪に、
囚われずにはいられなかった。
自動車の扉は、開かれた。ハンカチーフで顔を
拭きながら、ぬっとその
巨きい頭を出したのは、紛れもないあの男だった。何が
嬉しいのか、ニコ/\と得体の知れぬ微笑を浮べながら、玄関の方へ歩いて来るのだった。
瑠璃子は、取次ぎに出ようか出まいかと、考え迷った。顔を合わしたり、
一寸でも言葉を交すのが
嫌でならなかった。が、それかと言って、平素気が付けば取次ぎに出る自分が、
此の人に限って出ないのは、何だか相手を
怖れているようで彼女自身の勝気が、それを許さなかった。そうだ! あんな
卑しい人間に
怯れてなるものか。
彼の男こそ、自分の清浄な
処女《おとめ》の
誇の前に、
愧じ
怯れて【自信がなくおどおどして】いゝのだ。そう思うと、
瑠璃子は
処女《おとめ》にふさわしい勇気を振い
興して、
孔雀のような誇と美しさとを、そのスラリとした全身に
湛えながら、落着いた冷たい態度で、玄関へ現れた。
勝平は、
瑠璃子の姿を見ると、
此間会った時とは別人ででもあるように、頭を
丁寧に下げた。
「お嬢さまでございますか、先日は大変失礼を致しまして、申訳もございません。今日は、あのう! お父様はお
在宅でございましょうか。」
83/343
こうも白々しく、――あゝした非道なことをしながら、こうも白々しく出られるものかと、
瑠璃子が
呆れたほど、相手は何事もなかったように、平和で丁寧であった。
瑠璃子は、
一寸拍子抜けを感じながらも、冷たく引き
緊めた顔を、少しも緩めなかった。
「
在宅すことは、
在宅すが、お目にかゝれますかどうか
一寸伺って参ります。」
瑠璃子は、そう高飛車に言いながら、二階の父の居間に取って返した。
「やって来たな。よし、下の応接室に通して置け。」
瑠璃子の顔を見ると、父は簡単にそう言った。
応接室に案内する間も、
勝平は丁寧に
而も
馴々しげに、
瑠璃子に話しかけようとした。が、彼女は冷たい切口上で、相手を傍へ寄せ付けもしなかった。
「やあ!」
挨拶とも付かず、
懸声とも付かぬ声を立てながら、父は応接室に入って来た。父は相手と初対面ではないらしかった。二三度は会っているらしかった。が、苦り切ったまゝ時候の挨拶さえしなかった。
瑠璃子は、茶を運んだ後も、
はしたないとは知りながら、一家の浮沈に係る話なので、応接室に沿う縁側の
椅子に、主客には見えないように、そっと腰をかけながら、一語も
洩さないように相手の話に耳を
聳てた。
「
此の間から、一度伺おう/\と思いながら、つい失礼いたしておりました。今度、閣下に対する債権を、私が買い占めましたことに
就ても、
屹度私を
怪しからん
奴だと、お考えになったゞろうと思いましたので、今日はお
詫び
旁、私の志のある所を、申述べに参ったのです。」
勝平は、いかにも
丁重に、恐縮したような口調で、ボツリ/\話し始めたのであった。丁度暴風雨の来る前に吹く微風のように、気味の悪い生あたゝかさを持った口調だった。
「うむ。志! 借金の証書を買い
蒐めるのに、志があるのか。ハヽヽヽヽヽヽ。」父は、頭から
嘲るように
詰った。
「ございますとも。」相手は強い口調で、
而も下手から、そう言い返した。
七
「
初から申上げねば分りませんが、実は私は閣下の崇拝者です。閣下の清節を、平生から崇拝致している者であります。」
そう言って、
勝平は丁寧に言葉を切った。
老狐が
化そうと思う人間の前で、木の葉を頭から
被っているような白々しさであった。人を
馬鹿にしている癖に、態度
丈はいやに、真剣に
大真面目であるようだった。
84/343
「
殊に近頃になって、
所謂政界の名士達なるものと、お
知己になるに従って、大抵の方には、
殆ど愛想を
尽してしまいました。お
口丈は立派なことを言っていらしっても、一歩裏へ回ると、我々町人
風情よりも、抜目がありませんからな。
口幅ったいことを、申す様でございますが、金で動かせない方と言ったら、数える
丈しかありませんからね。」
父は黙々として、一言も発しなかった。いざと言う時が来たら、
一太刀に切って捨てようとする
気勢が、あり/\と感ぜられた。が、
勝平は相手の
容子などには、一切
頓着しないように、
臆面もなく話し続けた。
「いつか、日本
倶楽部で、初めて閣下の崇高なお姿に接して以来、
益々閣下に対する私の敬慕の念が高くなったのです。多年の間、
利慾権勢に目もくれず、たゞ国家のために、一意奮闘していらっしゃる。こう言うお方こそ、本当の国士本当の政治家だと思ったのです。」
父が、面と向ってのお世辞に、苦り切っている有様が、室外にいる
瑠璃子にもマザ/\と感ぜられた。
「御存じの通り、私は外に能のある人間でありません。たゞ、二三年来の幸運で、金
丈は相当
儲けました。私は、今何に使っても心残りのない金を、五百万円ばかり現金で持っています。あゝ使え、こう寄付しろと言って
呉れる人もありますが、私は閣下のようなお方に、
後顧の
憂いなからしめ、国家のために思い切り奮闘していたゞけるようにする事も、可なり意義のある立派な仕事だと思ったのです。それには、是非ともお
交際を願って、いろ/\な立ち入った御相談にも、
与らせて
戴きたいと、それで実はあんな突然なお申込を……」
そう言って、言葉を切った、がいかにも恐縮に
堪えないと言う口調で、
「ところが、その申込が
杉野さんの思い
違で、と言うよりも、あの方の軽率から、私がお嬢さまをお望み致したなどと とんでもない。ハヽヽヽ。御立腹遊ばすのは当然です。五十に近い私が、お嬢さまに求婚するなどと笑い話にもなりません。実は、当人と申すのは私の
倅、今年二十五になります。亡妻の
遺児です。」
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一寸殊勝らしく声を落しながら、
「その倅とても、年こそお嬢様に似合いでございますが、いやもう一向下らない人物です。が、
若し万一お嬢様を下さるような事がありましたら、これほど有難い――私の財産を半分無くしても惜しくはない――仕合せだと思いますのですが。が、そのお話は、
兎も
角、閣下の御債務は
凡て、私に払わせていたゞきたいと思いましたから、一月あまりも心掛けて、もう大抵は買い
蒐めた積りでございますが、縁談のお話などとは別に、これ
丈は私の寸志です。どうか御心置きなく、お受取り下さるように。」そう言いながら、父の負うている借財の証書の全部を一つの袋に収めて父の前に差し出したらしかった。
虚心平気に【心に先入観やわだかまりをもたないで】、
勝平の言い分を聴けば、
無躾なところは、あるにせよ、成金らしい
傲岸な無遠慮なところはあるにせよ、それほど、悪意のあるものとは思われなかった。が、
瑠璃子にはそうではなかった。
瑠璃子と、その恋人とを思い知らせるために、悪魔は、
瑠璃子を奪って、自分の妻に――名前
丈は妻でも、本当はその金力を示すための装飾品に――しようとした。が、
瑠璃子の父が、予想以上に激怒したのと、年齢の余りな相違から来る世間の非難とを
慮って、自分の名義で買う代りに、息子の名義で買おうとする、
瑠璃子を商品と見ている点に
於ては、何の相違もない。
瑠璃子と彼女の恋人とを思い知らせようとする、蛇のような執念には何の相違もない。正面から飛びかゝって父から、手ひどく
跳付けられた悪魔は、今度は横合から、そっと
騙かそうと掛っているのだった。
八
瑠璃子には、相手の心が十分に見透かされている。が、相手の本心を知らない父は、その空々しい
上部の理由
丈に、うか/\と乗せられて、もしや相手の
無躾な贈り物を、受け取りはしないかと、
瑠璃子はひそかに心を痛めた。縁談などとは別にと、口で美しく言うものゝ、父が相手の差し出す
餌にふれた以上、それを
機に、
否応なしに自分を、
浚って行こうとする相手の本心が、彼女には余りに明かであった。
父を
何うにか
騙して娘を
浚って行く、それで娘にも、彼女の恋人にも、苦痛を与えればよいのだと相手が
謀んでいるらしいのが、
瑠璃子には、余りに
判り過ぎているように思えた。
が、
瑠璃子の心配は無駄だった。父は相手が長々と
喋べり続けたのを聞いた後で、二三分ばかり黙っていたらしいが、急に居ずまいを正したらしく、厳格な一分も緩みのない声で言った。
「いや、大きに有難う。
86/343
あなたの好意は感謝する。が、考うる所あって、お受けすることは出来ない。借財は証文の期限
通に、ちゃんと弁済する。それから、縁談の事じゃが、本人が
貴方であろうが御子息であろうが、お断りすることには変りがない。
何うか
悪しからず。」
父は激せず熱せず、
毅然とした立派な調子で言い放った。父の立派な男らしい態度を、
瑠璃子は
蔭ながら、伏し拝まずにはいられなかった。何と言う
凜々しい態度であろう。どんなに
此の先苦しもうとも、あゝした父を、父としていることは、何という幸福であろうかと思うと、熱い涙が知らず
識らず、頬を伝って流れた。
真向から平手でピシャッと、
殴るような父の返事に、相手は
暫らくは、二の句が、
次げないらしかった。が、暫らくすると、太い渋い不快な声が聞え始めた。
「ふゝむ。これほど申し上げても、私の好意を
汲んで下さらない。これほど申上げても、私の心がお分りになりませんのですか。」
相手の言葉付は、
一眸の
裡に変っていた。
豹が、
一太刀受けて、
後退しながら、低くうなっているような無気味な調子だった。
「はゝゝゝ、好意! はゝゝゝ、お前さんは、こんなことを好意だと、言い張るのですか。人の顔に
唾を吐きかけて置いて、好意であるもないものだ、はゝゝゝゝゝゝ。」父は、相手を
蔑すみ切ったように
嘲笑った。
「はゝゝ、閣下も、貧乏をお続けになったために、
何時の間にか、
僻んでおしまいになったと見える。
此の荘田が、誠意誠心申上げていることが、お分りにならない。」
相手も、負けてはいなかった。豹が、その本性を現して、猛然と立ち上ったのだった。
「はゝゝゝゝ、誠意誠心か! 人の娘を、金で買うと言う恥知らずに、誠意などがあって、
堪るものか。出直してお
出なさい!」父は、低い力強い声で、そう
罵った。
「よろしい! 出直して参りましょう。
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閣下、覚えて置いて下さい!
此の荘田は、好意を持っておりますと同時に、悪意も人並に持っているものでございますから。お言葉に従って、いずれ出直して参りますから。」そう言い捨てると、相手は荒々しく
扉を排して、玄関へ出て行った。
瑠璃子が、急いで応接室に
駈け込んだとき、父はそこに、
昂然と立っていた。半白の髪が、
逆立っているようにさえ見えた。
「お父様!」
瑠璃子は、胸が一杯になりながら、駈け寄った。
「あゝ
瑠璃子か。聞いていたのか。さあ! お前もしっかりして、飽くまでも戦うのだ。強くあれ、そうだ飽くまでも強くあることだ!」
そう言いながら父は、彼の
痩せた
胸懐に顔を
埋めている娘の美しい
撫肩を、軽く二三度
叩いた。
罠
一
羊の皮を
被って来た
狼の
面皮を、真正面から、引き
剥いだのであるから、その次ぎの問題は、狼が本性を現して、飛びかゝって来る鋭い
歯牙を、どんなに防ぎ、どんなに避くるかにあった。
が、その狼の
毒牙は、法律に
依って、保護されている毒牙だった。今の世の中では、国家の公正な意志であるべき法律までが、富める者の味方をした。
勝平に買い占められた証書の一部分の期限はもう十日と間のない六月の末であった。今までは、期限が来る
毎に、幾度も幾度も証書の書換をした。そのために、証書の金額は、年一年
増えて行ったものゝ、
何うにか
遣繰は付いていた。が、それが悪意のある相手の手に帰して、こちらを
苛責るための道具に使われている以上、相手が書換や
猶予の相談に応ずべき
筈はなかった。
六月の末日が、段々近づいて来るに従って、父は毎日のように金策に奔走した。が、三万を越している巨額の金が、現在の父に
依って容易に、才覚【工面】さるべき筈もなかった。
朝起きると、父は
蒼ざめながらも、
眼丈は
益鋭くなった顔を、曇らせながら、黙々として出て行った。玄関へ送って出る
瑠璃子も、
「お早くお帰りなさいまし。」と、
挨拶する外は何の言葉もなかった。が、送り出す時は、まだよかった。
其処に、
僅でも希望があった。が、夕方、その日の奔走が全く空に帰して、
悄然と【元気がなく】帰って来る父を迎えるのは、
何うにも
堪らなかった。
88/343
父と娘とは、黙って一言も、交わさなかった。お互の苦しみを、お互に知っていた。
今迄は、元気であった父も、折々は
嗟嘆【なげき】の声を出すようになった。夕方の食事が済んで、
父娘が向い合っている時などに、父は娘に
詫びるように言った。
「皆、お父様が悪かったのだ。自分の志ばかりに、気を取られて、最愛の子供のことまで忘れていたのじゃ。
俺の家を治めることを忘れたために、お前までがこんな苦しい思いをするのだ。」
父の
耿々の気が――三十年火のように燃えた野心が、こうした金の苦労のために、砕かれそうに見えるのが、一番
瑠璃子には悲しかった。
父の友人や
知己【知り合い】は、大抵は、父のために、三度も四度も、迷惑をかけさせられていた。父が、金策の話をしても、彼等は体よく断った。断られると、潔癖な父は、二度と頼もうとはしなかった。
六月が二十五日となり、二十七日となった。連日の奔走が無駄になると、父はもう
自棄を起したのであろう。もう、ふッつりと出なくなった。
幡随院長兵衛が、
水野の
邸に行くように、父は
怯びれもせず、悪魔が、下す毒手を、待ち受けているようだった。
今年の春やっと、学校を出たばかりの
瑠璃子には、父が連日の
苦悶を見ても、
何うしようと言う
術もなかった。彼女は、たゞオロ/\して、一人心を苦しめる
丈だった。
彼女の小さい胸の苦しみを、打ち明けるべき相手としては、たゞ恋人の
直也がある
丈だった。が、彼女は恋人に、まだ何も言っていなかった。
家の窮状を訴えるためには、いろ/\な事情を言わなければならない。
荘田の恨みの原因が、
直也の
罵倒であることも言わなければならない。
直也の父が、
不倫な求婚の
賤しい使者を
務めたことも言わなければならない。それでは、恋人に訴えるのではなくして、恋人を責めるような結果になる。潔癖な恋人が、父の非行を聴いて、どんなに悲嘆するかは、
瑠璃子にもよく分っていた。自分のふとした罵倒が、
瑠璃子父娘に、どんなに
禍しているかと言うことを聴けば、熱情な恋人は、どんな必死なことをやり出すかも分らない。
89/343
そう思うと、
瑠璃子は、出来る
丈は、自分の胸一つに収めて、恋人にも知らすまいと思った。
父や
瑠璃子の苦しみなどとは、没交渉に【かかわりがなく】、
否 凡ての人間の
喜怒哀愁とは、何の
渉りもなく、六月は暮れて行った。
二
もう、明日が最後の日という六月二十九日の朝だった。荘田
勝平の代理人と言う男が、
瑠璃子の家を訪ずれた。
鷲の
嘴のような鼻をした四十前後の男だった。詰襟の麻の洋服を着て、胸の
辺に太い金の鎖を、仰々しくきらめかしていた。
父は、頭から面会を拒絶した。
瑠璃子が、その
旨を相手に伝えると、相手は薄気味の悪い微笑をニヤリと浮べながら、
「いや、お会い下さらなくっても、結構です。それでは、お嬢様から、よろしくお伝え下さい。外の事ではございませんが、今度手前共の主人が、
拠ん所ない事情から、買入れました、
此方の御主人に対する証文の
中、一部の期限が明日に当っていますから、是非ともお間違なくお払い下さるように、当方にも事情がございまして、何分
御猶予いたすことが出来ませんから、そのお積りで、お間違のないよう。もし、万一お間違がありますと、手前共の方では、
直ぐ相当な法律上の手段に訴えるような
手筈に致しておりますから。後でお
怨みなさらないように。」と、言ったが、
此の冷たそうな男の胸にも、美しい
瑠璃子に対する一片の同情が浮んだのであろう。彼は急に、口調を
和げながら、
「どうかお嬢様、こんなことを申上げる私の苦しい立場もお察し下さい。
怨も
報もない御当家へ参って、こんなことを申上げる私は可なり苦しい思いを致しているのでございます。
然し、これも全く、使われています主人の命令でございますから。それでは、いずれ明日改めて伺いますから。」
瑠璃子が、大理石で作った女神の像のように、冷たく化石したような美しい顔の、
眉一つ動かさず黙って聞いているために、男はある威圧を感じたのであろう。そう言ってしまうと、コソコソと、逃ぐるように去ってしまった。
父に、この督促を伝えようかしら。が伝えたって
何にもならない。何万と言う金が、今日明日に迫って、父に
依って作られる
筈がなかった。
90/343
が、もし払わないとすると、向うでは直ぐ相当な法律上の手段に、訴えると言う。一体それはどんなことをするのだろう。そう考えて来ると、
瑠璃子は自分の胸一つには、収め切れない不安が
湧いて来て、進まないながら、父の部屋へ、上って行かずにはいられなかった。
「うむ! 直ぐ法律上の手段に訴える!」
父はそう言って、腕を
拱いて、
遉に抑え切れない憂慮の色が、アリ/\と眉の間に
溢れた。
「
執達吏【執行官】を寄越すと言うのだな。あはゝゝゝゝ、まかり違ったら、競売にすると言うのかな。それもいゝ、こんなボロ屋敷なんか、ない方が結句気楽だ! はゝゝゝゝ。」
父は、元気らしく笑おうとした。が、それは
空しい努力だった。
瑠璃子の眼には、笑おうとする父の顔が、今にも泣き出すように力なく
みじめに見えた。
「
何うにか ならないもので ございましょうか、ほんとうに。」
父の大事などには、
今迄一度も口出しなどをしたことのない彼女も、恐ろしい危機に、つい平生の
たしなみを忘れてしまった。
父も、それに釣り込まれたように、
「そうだ!
本多さえ早く帰っておれば、
何うにかなるのだがな。八月には帰ると言うのだから、
此の一月か二月さえ、
何うにか切り抜ければ――」
父は、娘に対する虚勢も捨てたように、首を
うな垂れた。そうだ、父の
莫逆の友【親友】たる
本多男爵さえ日本におればと、
瑠璃子も考えた。が、その人は、
宮内省の
調度頭をしている男爵は、内親王の
御降嫁の御調度買入れのために、
欧洲へ行っていて、此の八月下旬でなければ、日本へは帰らないのだった。
住んでいる家に、執達吏が、ドヤ/\と踏み込んで来て家財道具に、封印をベタ/\と付ける。そうした光景を、頭の中に思い浮べると、
瑠璃子は生きていることが、味気ないようにさえ思った。
父も娘も、無言のまゝに、三十分も一時間も
坐っていた。いつまで、坐っていても
父娘の胸の中の、黒いいやな
塊が、少しもほぐれては行かなかった。
その時である。また
唐沢家を
訪う一人の来客があった。悪魔の使であるか、神の使であるかは分らなかったけれど。
三
父と
娘とが、差し迫まる難関に、やるせない当惑の
眉をひそめて、向い合って坐っている時に、尋ねて来た客は、
木下と言う父の旧知だった。
91/343
政治上の
乾分【子分】とも言うべき男だった。父が、日本で
初ての政党内閣に、法相の
椅子を、ホンの一月半ばかり占めた時、秘書官に使って以来、ズッと目をかけて来た男だった。長い間、父の手足のように働いていた。父も、いろ/\な世話を焼いた。が、二三年来父の財力が、尽きてしまって、乾分の面倒などは、少しも見ていられなくなってから、
此の男も段々、父から遠ざかって行ったのだ。
が、父は久し
振に、旧知の尋ねて来たことを
欣んだ。
溺るゝ者は、
藁をでも
掴むように、窮し切っている父は、
何処かに救いの光を見付けようと、
焦っているのだった。その男は、今年の五月来た時とは、別人のような立派な
服装をしていた。
「
何うだい! 面白い事でもあるかい!」
父は、心の
中の
苦悶を、
此の来客に
依って、少しは紛ぎらされたように、
淋しい微笑を、浮べながら応接室へ入って行った。
「お
蔭さまで
此の頃は、
何うにかこうにか、一本立で食って行けるようになりました。もう、二年お待ち下さい! その
中には、閣下への御恩報じ【恩返し】も、万分の一の御恩報じも、出来るような自信もありますから。」
そう言いながら、得意らしく
哄笑した。
此の場合の父には、そうした相手のお世辞さえ
嬉しかった。
「そうかい! それは、結構だな、
俺は、相変らず貧乏でのう。年頃になった娘にさえ、いろ/\の苦労をかけている始末でのう。」
父はそう言いながら、茶を運んで行った
瑠璃子の方を、
詫びるように見た。
「いや、今に閣下にも、御運が向いて来る時代が参りますよ。
此の頃ポツ/\新聞などに
噂が出ますように、
若し××会中心の貴族院内閣でもが、出来るような事がありましたら、閣下などは、誰を差し
措いても、第一番の入閣候補者ですから、本当に、今
暫くの御辛抱です。三十年近い間の、閣下の御清節が、
報われないで
了ると言うことは、余りに不当なことですから。……いやどうも、閣下のお顔を見ると、思わずこうした愚痴が出て困ります。いや、実は本日参ったのは、
一寸お願いがあるのです。」
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そう言いながら、その男は立ち上って、応接室の入口に、立てかけてあった
風呂敷包を、
卓の上に持って来た。その長方形な
格好から推して、中が
軸物であることが分っていた。
「実は、
之を閣下に御鑑定していたゞきたいのです。友人に頼まれましたのですが、書画屋などには安心して頼まれませんものですから。是非一つ閣下にお願いしたいと思うたものですから。」
瑠璃子の父は、
素人鑑定家として、堂に入っていた。
殊に
北宗画 南宗画に
於ては、その道の権威だった。
「うむ! 品物は
何なのだな。」父は余り興味がないように言った。書画を鑑定すると言ったような、落着いた気分は、彼の心の何処にも残っていなかったのである。
「
夏珪の山水図です。」
「
馬鹿な。」父は頭から
嘲るように言った。「そんな品物が、君達の手にヒョコ/\あるものかね。それに、見れば、大幅じゃないか。まあ黙って持って帰った方がいゝだろう。見なくっても分っているようなものだ。ハヽヽヽヽヽ。」
父は、
丸切り相手にしようとはしなかった。相手は、父にそう言われると、恐縮したように、頭をかきながら、
「閣下に、そう
手厳しく出られると、一言もありません。が、
諦めのために見て
戴きたいのです。
贋物は覚悟の前ですから。持っている当人になると、怪しいと思いながら、諦められないものですから。ハヽヽヽヽヽヽ。」
四
久し振で、訪ねて来た旧知の熱心な頼みを聞くと、父は
素気なく、断りかねたのであろう、それかと言って、書画を鑑定すると言ったような、静かな穏かな気持は、今の場合、少しも残ってはいないのだった。
「見ないことはないが、今日は困るね、日を改めて、出直して来て
貰いたいね。」父は余儀なさ【やむをえなさ】そうに言った。
「いや決して、
直ぐ
只今見て下さいなどと、そんな御無理をお願いいたすのではありません。お
手許へおいて置きますから、一月でも二月でも、お預けしておきますから、
何うかお暇な時に、お気が向いたときに。」
93/343
相手は、
丁寧に
懇願した。
「だが、
夏珪の山水なんて、大した品物を預っておいて、
若しもの事があると困るからね。
尤も、君などが、そうヒョックリ本物を持って来ようなどとは、思わないけれども、ハヽヽヽヽ。」
父は、品物が贋物であることに、何の疑いもないように笑った。
「いやそんな御心配は、御無用です。閣下のお手許に置いて置けば、日本銀行へ
供託して置くより安全です、ハヽヽヽ。閣下のお口から、贋だと一言
仰しゃって下さると当人も諦めが、付くものですから。」
相手に、そう如才なく言われると、父も断りかねたのであろう。口では、承諾の
旨を答えなかったけれども、
有耶無耶の
裡に、預ることになってしまった。
その用事が、片付くと客は、取って付けたように、政局の話などを始めた、父は
暫らくの間、興味の乗らないような
合槌を打っていた。
客が、帰って行くとき、父は玄関へ送って出ながら、
「
凡そ
何時取りに来る?」と
訊いた。やっぱり、
軸物のことが少しは気になっているのだった。
「御覧になったら、ハガキででも、御一報を願えませんか、本当にお気に向いた時でよろしいのですから。当方は、少しも急ぎませんのですから。」
客は幾度も繰返しながら、帰って行った。応接室へ引き返した父は、
瑠璃子を呼びながら、
「
之を
蔵って置け、
俺の居間の押入へ。」と、命じた。が、
瑠璃子が、父の言い
付に従って、その長方形の風呂敷包を、取り上げようとした時だった。父の心が、急にふと変ったのだろう。
「あ、そう。やっぱり
一寸見て置くかな。どうせ贋に
定っているのだが。」
そう言いながら、父は
瑠璃子の手から、その包みを取り返した。父は包みを
解いて、箱を開くと
遉に丁寧に、中の一軸を取り出した。幅三尺に近い大幅だった。
「瑠璃さん!
一寸掛けて御覧。その軸の上へ重ねてもいゝから。」
瑠璃子は父の命ずるまゝに、応接室の壁に古くから懸っている、父が好きな維新の志士
雲井龍雄の書の上へ、夏珪の山水を展開した。
先ず初め、層々と
聳えている
峰巒【連なる山々】の
相が現れた。その山が尽きる辺から、落葉し尽くした
疎林【まばらな林】が淡々と、浮かんでいる。
94/343
疎林の間には一筋の
小径が、
遥々と遠く続いている。その小径を横ぎって、水の
乾れた
小流が走っている。その水上に架する小さい橋には、牛に騎した牧童が牧笛を吹きながら、通り過ぎている。夕暮が近いのであろう、
蒼茫たる【ほの暗い】
薄靄が、ほのかに山や森を
掩うている。その
寂寞を
僅かに破るものは、牧童の吹き鳴らす哀切なる牧笛の音であるのだろう。

父は、軸が
拡げられるのと共に、一言も言葉を出さなかった。が、じっと見詰めている
眸には感激の色がアリ/\と動いていた。五分ばかりも黙っていただろう。父は感に
堪えたように、もう黙ってはいられないように言った。
「
逸品だ。素晴らしい逸品だ。
此間、
伊達侯爵家の売立に出た
夏珪の『
李白観瀑』以上の逸品だ!」
父は熱に浮かされたように言っていた。夏珪の『李白観瀑』は、つい
此間行われた伊達家の大売立に九万五千円と言う途方もない
高価を附せられた品物だった。
五
「不思議だ!
木下などが、こんな物を持って来る!」父は
暫らくの間は魅せられたように、その山水図に対して、立っていた。
「そんなに、
此絵がいゝのでございますか。」
瑠璃子も、つい父の感激に感染して、こう
訊いた。
「いゝとも。
徽宗皇帝、
梁楷、
馬遠、
牧渓、それから、この夏珪、みんな北宗画の巨頭なのだ、どんな小幅だって五千円もする。この幅などは、お父様が、
今迄見た中での傑作だ。北宗画と言うのは、南宗画とはまた違った、
柔かい
佳い味のあるものだ。」
父は、名画を見た
欣びに、つい明日に迫る一家の窮境を忘れたように、
瑠璃子に教えた。
「そうだ。早く
木下に知らせてやらなければいけない。
贋物だからいくら預っていても、心配ないと思って預かったが、本物だと分ると急に心配になった。そうだ瑠璃さん! 二階の押入れへ、大切に
蔵って置いておくれ!」
父は十分もの間、近くから遠くから、つくづくと見尽した後、そう言った。
95/343
瑠璃子は、それを持って、二階への階段を上りながら思った。自分の手中には、一幅十万円に近い名画がある。
此の一幅さえあれば一家の窮状は何の苦もなく脱することが出来る。
何んなに名画であろうとも、長さ一丈を超えず、幅五尺に足らぬ布片に、五万十万の大金を投じて惜しまない人さえある。それと同時に、同じ金額のために、いろ/\な侮辱や迫害を受けている自分達
父娘もある。そう思うと、手中にあるその一幅が、人生の不当な、不公平な状態を皮肉に示しているように思われて、その品物に対して、妙な反感をさえ感じた。
その日の午後、二階の居間に閉じ
籠った父は、
何うしたのであろう。
平素に似ず、
檻に入れられた
熊のように、部屋中を
絶間なしに歩き回っていた。
瑠璃子は、階下の自分の居間にいながら、天井に
絶間なく続く父の足音に不安な
眸を向けずには、いられなかった。常には、軽い足音さえ立てない父だった。今日は異常に
興奮している様子が、
瑠璃子にもそれと分った。
暫らく音が、絶えたかと思うと、又立ち上って、ドシ/\と可なり激しい音を立てながら、部屋中を歩き回るのだった。
瑠璃子はふと、父が若い時に何かに
激高すると、
直ぐ日本刀を抜いて、ビュウビュウと、部屋の中で振り回すのが癖だったと、
亡き母から聞いたことを思い出した。
あんなに、父が興奮しているとすると、
若し明日
荘田の代理人が、父に侮辱に近い言葉でも吐くと短慮な父は、どんな
珍事を
惹き起さないとも限らないと思うと、
瑠璃子は心配の上に、又新しい心配が、重なって来るようで、こんな時家出した兄でも、いて
呉れゝばと、取止めもない愚痴さえ、心の
裡に浮んだ。
その日、五時を回った時だった。父は、
瑠璃子を呼んで、外出をするから、車を呼べと言った。もう、金策の
当などが残っている筈はないと思うと、彼女は父が突然出かけて行くことが、可なり不安に思われた。
「
何処へ行らっしゃるのでございますか。もう直ぐ御飯でございますのに。」
瑠璃子は、それとなく引き止めるように言った。
「いや、
木下から預った軸物が急に心配になってね。
96/343
これから行って、届けてやろうと思うのだ。向うでは、あゝした高価なものだとは思わずに、預けたのだろうから。」父の答えは、何だか
曖昧だった。
「それなら、直ぐ手紙でもお出しになって、取りに参るように申したら、
如何でございましょう。別に御自身でお出かけにならなくても。」
瑠璃子は、妙に父の行動が不安だった。
「いや、
一寸行って来よう。
殊に
此家は、
何時差押えになるかも知れないのだから。預って置いて差押えられたりすると、面倒だから。」父は声低く、弁解するように言った。そう言えば、父が直ぐ返しに行こうと言うのにも、訳がないことはなかった。
が、父が車に乗って、その軸物の箱を肩に
靠せながら、
何処ともなく出て行く後姿を見た時、
瑠璃子の心の中の妙な不安は極点に達していた。
六
到頭呪われた六月の三十日が来た。
梅雨時には、珍らしいカラリとして
朗かな朝だった。明るい日光の降り注いでいる庭の
樹立では、朝早くから
蝉が
さん/\と鳴きしきっていた。
が、早くから起きた
瑠璃子の心には、暗い不安と心配とが、泥のように
澱んでいた。父が、昨夜遅く、十二時に近く、酒気を帯びて帰って来たことが、彼女の新しい心配の種だった。
還暦の年に禁酒してから、数年間一度も、酒杯を手にしたことのない父だったのだ。あれほど、気性の激しい父も、不快な
執拗な圧迫のために、
自棄になったのではないかと思うと、その事が一番彼女には心苦しかった。
つい
此間来た、
鷲の
嘴のような鼻をした男が、今にも玄関に現れて来そうな気がして、
瑠璃子は自分の居間に、じっと
坐っていることさえ、出来なかった。あの男が、父に直接会って、弁済を求める。父が、
素気なく拒絶する。相手が父を侮辱するような言葉を放つ。いら/\し切っている父が激怒する。恐ろしい格闘が起る。父が、秘蔵の
貞宗の刀を持ち出して来る。そうした
嫌な空想が、ひっきりなしに
瑠璃子の頭を悩ました。
97/343
が、午前中は無事だった。一度玄関に
訪う声がするので驚いて出て見ると、得体の知れぬ売薬を売り付ける偽
廃兵だった。午後になってからも、
却々来る様子はなかった。
瑠璃子は絶えずいら/\しながら嫌な呪わしい来客を待っていた。
父は、朝食事の時に、
瑠璃子と顔を合わせたときにも、苦り切ったまゝ一言も言わなかった。
昨日よりも色が
蒼く、眼が物狂わしいような、不気味な色を帯びていた。
瑠璃子もなるべく父の顔を見ないように、
俯いたまゝ食事をした。それほど、父の顔は
傷しく
惨に見えた。昼の食事に顔を合した時にも、親子は言葉らしい言葉は、交さなかった。まして、今日が呪われた六月三十日であると言ったような言葉は、
孰らからも、
おくびにも出さなかった。その癖、二人の心には六月三十日と言う字が、毒々しく
烙き付けられているのだった。
が、長い初夏の日が、
漸く暮れかけて、夕日の光が、
遥かに見える山王台の青葉を、あか/\と照し出す頃になっても、あの男は来なかった。あんなに、心配した今日が、何事も起らずに済むのだと思うと、
瑠璃子は妙に拍子抜けをしたような、心持にさえなろうとした。
が、
然し悪魔に手抜かりのある
筈はなかった。その
犠牲が、十分苦しむのを見すまして、最後に飛びかゝる猫のように
瑠璃子父子が、一日を不安な期待の
裡に、苦しみ抜いて、やっと一時逃れの安心に入ろうとした
間隙に、かの悪魔の使者は
護謨輪の車に、音も立てず、そっと玄関に忍び寄ったのだった。
「いや、大変遅くなりまして相済みません。が、遅く伺いました方が、御都合が、およろしかろうと思いましたものですから、お父様は御在宅でしょうか。」
瑠璃子が、出迎えると、その男は妙な薄笑いをしながら、言葉
丈はいやに、
丁重だった。
来る者が、
到頭来たのだと思いながらも、
瑠璃子はその男の顔を見た瞬間から、
憎悪と不快とで、小さい胸が、ムカムカと
湧き立って来るのだった。
「お父様!
荘田の使が参りました。」
そう父に取り次いだ
瑠璃子の声は、かすかに
顫えを帯びるのを、
何うともする事が出来なかった。
「よし、応接室に通して置け。」
そう言いながら、父は傍の手文庫【小箱】を無造作に開いた。
98/343
部屋の中は可なり暗かったが、その開かれた手文庫の中には、薄紫の百円紙幣の
束が、――そうだ一寸にも近い束が、二つ三つ入れられてあるのが、アリ/\と見えた。
瑠璃子は、思わず『アッ』と声を立てようとした。
七
父の手文庫に思いがけなくも、ほのかな薄紫の紙幣の厚い束を、発見したのであるから、
瑠璃子が声を立てるばかりに、
駭いたのも無理ではなかった。
駭くのと一緒に、有頂天になって、躍り上って、
欣ぶべき
筈であった。が、実際は、その紙幣を見た瞬間に言い知れぬ不安が、潮の
如くヒタ/\と彼女の胸を
充した。
瑠璃子は、父がその札束を、無造作に取り上げるのを、恐ろしいものを見るように、無言のまゝじっと見詰めていた。
父が、応接室へ出て行くと、
鷲鼻の男は、
やんごとない高貴の方の前にでも出たように、ペコ/\した。
「これは、これは
男爵様でございますか。私はあの、
荘田に使われておりまする
矢野と申しますものでございます。今日
止むを得ません主命で、主人も少々現金の必要に迫られましたものですから止むを得ず期限通りにお願い致しまする次第で、何の
御猶予も致しませんで、誠に
恐縮致しておる次第でござります。」父は、そうした
挨拶に返事さえしなかった。
「証文を出して
呉れたまえ。」父の言葉は、
匕首のように鋭く短かった。
「はあ! はあ!」
相手は、
周章たように、ドギマギしながら、
折鞄の中から、三葉の証書を出した。
父は、じっと、それに目を通してから、右の手に、鷲
掴みにしていた札束を、相手の面前に、突き付けた。
相手は、父の鋭い態度に、オド/\しながら、それでも一枚々々
算え出した。
「
荘田に
言伝をしておいて呉れたまえ、いゝか。
俺の言うことをよく覚えて、言伝をして、おいて呉れ
給え。
此の
唐沢は貧乏はしている。家も
邸も抵当に入っているが、金銭のために首の骨を曲げるような腰抜けではないぞ。日本中の金の力で、圧迫されても、横に振るべき首は、決して縦には動かさないぞと。いゝか。帰って、そう言うのだ! 五万や十万の債務は、期限
通何時でも払ってやるからと。」
父は、犬猫をでも
叱咤するように、低く投げ捨てるような調子で言った。
99/343
相手は何と、
罵られても、
兎に
角嫌な役目を満足に果し得たことを、
もっけの幸と思っているらしく、一層丁寧に
慇懃【物腰が丁寧で礼儀正しい】だった。
「はあ! はあ!
畏まりました。主人に、そう申し聞けますでござります。どうも、私の口からは、申し上げられませんが、成り上り者などと言う者は、金ばかりありましても、人格などと言うものは
皆目持っていない者が、多うございまして、私の主人なども、使われている者の方が、愛想を尽かすような、
卑しい事を時々、やりますので。いや、閣下のお
腹立は、全く
御尤もです。私からも、主人に反省を促すように、申します事でございます。それでは、これでお
暇致します。」
丁度
烏賊が、敵を
怖れて、逃げるときに嫌な墨汁を吐き出すように、この男も
出鱈目な、その場限りの、
遁辞【逃げ口上】を並べながら、
怱卒として【あわただしく】帰って行った。
そうだ! 父は最初の悪魔の突撃を物の見事に
一蹴したのだった。この次ぎの期限までには、半年の余裕がある。その間には、父の親友たる
本多男爵も帰って来る。そう思うと、
瑠璃子はホッと一息ついて安心しなければならない筈だった。が、彼女の心は、一つの不安が去ると共に、又別な、もっと
性質のよくない不安が、何時の間にか入れ換っていた。
「瑠璃さん! お前にも心配をかけて済まなかったのう。もう安心するがいゝ。これで何事もないのだ。」
父は、客が帰った後で、
瑠璃子の肩に手をかけながら慰め顔にそう言った。
が、
瑠璃子の心は、
怏々として【心が晴れなく】楽しまなかった。
『お父様! あなたは、あの大金を
何うして才覚【工面】なさったのです。』
そう言う不安な、不快な、疑いが
咽喉まで出かゝるのを、
瑠璃子は、やっと抑え付けた。
ユージット
一
一家の危機は過ぎた。六月は暮れて、七月は来た。が、父の手文庫の中に
奇跡のように
見出された、三万円【3億円/2025年】以上の、巨額な紙幣に対する、
瑠璃子の心の新しい不安は、日の
経つに連れても、容易には薄れて行かなかった。
七月も
半になった。庭先に敷き詰めた、白い砂利の上には、
瑠璃子の好きな
松葉牡丹が、咲き始めた。
100/343
真紅や、白や、
琥珀のような黄や、いろ/\変った色の、
少女のような優しい花の姿が、荒れた庭園の夏を
彩る
唯一の色彩だった。
荘田の、思い出す
丈でも、
憤ろしい面影も、だん/\思い出す回数が、少くなった。
鷲鼻の男の顔などは、もう
何時の間にか、忘れてしまった。
凡てが、一場の悪夢のように、その
嫌な苦い後感も何時しか消えて行くのではないかと思われた。
が、それは
瑠璃子の
空しい
思違だった。悪魔は、その最後の毒矢を、もう既に放っていたのだった。
七月の末だった。父は、突然警視総監のT氏から、急用があると言って、会見を申し込まれた。父は、T氏とは公開の席で、二三度顔を合せた
丈で、私交のある間ではなかった。
殊に、父は政府当局からは常に、白眼を
以て見られていたのだから。
「何の用事だろう?」
父は、
一寸不審そうに首を傾けた。警視総監と言ったような言葉
丈でも、
瑠璃子には妙に不安の種だった。
が、父は何か考え当る事があったのだろう、割合気軽に出かけて行った。が、
掻き乱された
瑠璃子の胸は、父の車を見送った後も、
暫らくは静まらなかった。
父は、一時間も経たぬ間に帰って来た。
瑠璃子は、ホッと安心して、
いそ/\と玄関に出迎えた。
が、父の顔を一目見たとき、彼女はハッと
立竦んでしまった。容易ならぬ大事が、父の身辺に起ったことが、
直ぐそれと分った。父の顔は、土のように暗く
蒼ざめていた。血の色が少しもないと言ってよかった。眼
丈は、
平素のように
爛々と、光っていたが、その光り方は、狂人の眼のように、
物凄く
而も、ドロンとして力がなかった。
「お帰りなさいまし。」と、言う
瑠璃子の言葉も、
しわがれたように、
咽喉にからんでしまった。
瑠璃子が、父の顔を見上げると、父は子に顔を見られるのが、恥しそうに、コソ/\と二階へ上って行こうとした。
父の
狼狽したような、血迷ったような姿を見ると、
瑠璃子の胸は、暗い憂慮で一杯になってしまった。彼女は、父を慰めよう、訳を
訊こうと思いながら、オズ/\父の後から、
随いて行った。
が、父は自分の居間へ入ると、後から
随いて行った
瑠璃子を振り返りながら言った。
101/343
「瑠璃さん! どうか、お父様を、暫らく一人にして置いて
呉れ!」
父の言葉は、言い付けと言うよりも
哀願だった。父としての力も、権威もなかった。
それにふと気が付くと、そう言った
刹那【瞬間】、父の二つの眼には、抑えかねた涙が、ほた/\と
湧き出しているのだった。
父が涙を流すのを見たのは、彼女が生れて十八になる今日まで、父が母の死床に、最後の言葉をかけた時、たった一度だった。
瑠璃子は、父にそう言われると、
止むなく自分の部屋に帰ったが、一人自分の部屋にいると、墨のような不安が、胸の中を一杯に
塗り
潰してしまうのだった。
夕食の案内をすると、父は、『食べたくない』と言ったまゝ、午後四時から、夜の十時頃まで、カタと言う物音一つさせなかった。
十時が来ると、寝室へ移るのが、例だった。
瑠璃子は、十時が鳴ると父の部屋へ上って行った。そして、オズ/\
扉を開けながら言った。
「もう、十時でございます。お休み遊ばしませ。」黙然としていた父は、手を
拱いたまゝ【何もしないまま】、振向きもしないで答えた。
「
俺は、もう少し起きているから、瑠璃さんは先きへお寝なさい!」
そう言われると、
瑠璃子は、
愈不安になって来た。寝室へ
退くことなどは愚か、父の部屋を遠く離れることさえが、心配で
堪らなくなって来た。
瑠璃子は、階段を中途まで降りかけたが、
烈しい胸騒ぎがして、
何うしても足が、進まなかった。彼女は、足音を忍ばせながら、そっと、引き返した。彼女は、
灯もない廊下の壁に、寄り添いながら立っていた。父が、寝室へ入るまでは、
何うにも父の傍を離れられないように思った。
二
二十分
経ち三十分経っても、父は寝室へ行くような様子を見せなかった。そればかりではなく、部屋の中からは、身動きをするような物音一つ聞えて来なかった。
瑠璃子も、息を
凝しながら、ずっとほの暗い廊下の
暗に立っていた。一時間余りも、立ち尽したけれども、疲労も眠気も少しも感じなかった。それほど、彼女の神経は、異常に緊張しているのだった。じじと鳴く
庭前の、虫の声さえ手に取るように聞えて来た。
十二時を打つ時計の音が、階下の
闇から聞えて来ても、父は部屋から出て来る様子はなかった。
102/343
夜が、深くなって行くのと一緒に、
瑠璃子の不安も、だん/\深くなって行った。十二時を打つのを聞くと、もうじっと、廊下で待っていられないほど、彼女の心は不安な動揺に
苛まれた。彼女は、無理にも父を寝させようと決心した。言い争ってでも、父を寝室へ連れて行こうと決心した。彼女が、そう決心して、
扉の白い瀬戸物の取手に、手を触れたときだった。
何時もは、訳もなくグルリと回転する取手が、ガチリと音を立てたまゝ、彼女の手に
逆うように、ビクリともしなかった。
『
内部から
鍵をかけたのだ!』
そう思った瞬間に、
瑠璃子は
鉄槌で
叩かれたように、激しい
衝動を受けた。気味の悪い
悪寒が、全身を水のように流れた。
「お父様!」彼女は、我を忘れて叫んだ。その声は、悲鳴に近い声だった。が、
瑠璃子が、そう声をかけた瞬間、
今迄静であった父が、
俄に立ち上って、何かをしているらしい様子が、アリ/\と感ぜられた。
「お父様! お開けなすって下さい! お父様!」
瑠璃子が、続けざまに、呼びかけても、父は返事をしなかった。父が、何とも返事をしないことが彼女の心を、スッカリ
動転させてしまった。恐ろしい不安が、彼女の胸に、
充ち
溢れた。彼女は、
扉を力一杯押した。その細い、
華奢な両腕が、折れるばかりに打ち叩いた。
「お父様! お父様! お開けなすって下さい!」
彼女の声は、狂女のそれのように、
物凄かった。魔物に、その
可憐な弟を奪われて、鉄の
扉の前で、狂乱する
タンタジールの姉のように、命掛の声を
振搾った。
「お父様!
何うして
茲をお閉めになるのです。
茲をお閉めになって
何う遊ばそうとなさるのです。お開け下さい! お開け下さい。」
が、父は何とも返事をしなかった。父が返事をしない事に
依って、
瑠璃子は、目が
眩むほど恐ろしい不安に打たれた。彼女は、ふと気が付いて、窓から入ろうと、
電のように、ヴェランダへ走って出た。が、ヴェランダに面した窓には、丈夫な
鎧戸が
掩われていた。
103/343
彼女は、死物狂いになって、再び
扉の所へ帰って来た。そして、必死に、その
かよわい、
しなやかな
身体を、思い切り
扉に投げ付けて見た。が、
扉は無慈悲に、
傲然と【いかめしく】彼女の身体を突き返した。
彼女は、血を吐かんばかりに叫んだ。
「お父様! なぜ、開けて下さらないのです。
何う遊ばそうと言うのです。
此瑠璃を捨てゝ置いて
何う遊ばそうと言うのです。万一の事をなさいますと、瑠璃も生きていないつもりでございますよ。お父様! お恨みでございます。どんな事情がございましょうとも、私に一応話して下さいましても、およろしいじゃございませんか。お父様の外に、誰一人頼る者もない瑠璃ではございませんか。お開け下さいませ。
兎に
角、お開け下さいませ。万一の事でもなさいますと、瑠璃はお父様をお恨みいたしますよ。」
狂ったように、
扉を
掻き、打ち、押し、叩いた後、彼女は
扉に、顔を当てたまゝ よゝと泣き崩れた。
その悲壮な泣き声が、古い洋館の
夜更の闇を物凄く
顫わせるのだった。
三
よゝと泣き崩れた
瑠璃子は、再び自分自身を
凜々しく奮い起して、女々しく泣き崩れているべき時ではないと思った。彼女は、最後の力、その繊細な
身体にある
丈けの力を、両方の腕にこめて、砕けよ裂けよとばかりに、堅い、鉄のように堅い
扉を乱打した後、身体全体を、
烈しい音を立てゝ、それに向って、打ち付けた。その時に、何かの
奇跡が起ったように、
今迄はガタリとも動かなかった
扉が軽々と音もなく口を開いた。
機みを喰った彼女の
身体は、つゝと一間ばかりも流れて、危く倒れようとした。その時、父の老いてはいるけれども、
尚力強い
双腕が、彼女の身体を力強く支えたのである。
「お父様!」と、上ずッた言葉が、彼女の
唇を
洩れると共に、彼女は
暫らくは失神したように、父の
懐に顔を
埋めたまゝ
烈しい
動悸を整えようと、苦しさにあえいでいた。
気が付いて見ると、父の顔は涙で一杯だった。
卓の上には、
遺書らしく思われる書状が、数通重ねられている。
104/343
「瑠璃さん! あわれんでお
呉れ! お父さんは死に損ってしまったのだ! 死ぬことさえ出来ないような
臆病者になってしまったのだ! お前の声を聞くと、
俺の決心が訳もなく崩されてしまったのだ! お前に恨まれると思うと、お父様は死ぬことさえ出来ないのだ。」
父は、
瑠璃子の
興奮が、
漸く静まりかけるのを見ると、
呟くように語り始めた。
「まあ、何を
仰しゃるのでございます、死ぬなどと。まあ何を仰しゃるのでございます。一体
何うしたと言って、そんな事を仰しゃるのでございます。」
「あゝ恥しい。それを
訊いて呉れるな!
俺はお前にも顔向けが出来ないのだ!
彼奴の恐ろしい
罠に、手もなくかゝったのだ。あんな
卑しい人間のかけた罠に、
狐か
狸かのように、手もなくかゝったのだ。恥しい! 自分で自分が
嫌になる!」
父は、座にも
堪えないように、
身悶えして
口惜しがった。握っている
拳がブル/\と
顫えた。
「
彼奴と仰しゃりますと、やっぱり
荘田でございますか。
荘田が、何をいたしましたのでございますか。」
瑠璃子も
烈しい興奮に、眼の色を変えながら、父に詰め寄って訊いた。
「今から考えると、見え透いた罠だったのだ。が、
木下までが、
俺を売ったかと思うと俺は
此の胸が張り裂けるようになって来るのだ!」
父は、
木下が
眼前にでもいるように、前方を、きっと
睨みながら、声はわな/\と
顫えた。
「へえ! あの
木下が、あの
木下が。」と、
瑠璃子も
暫らくは
茫然となった。
「
金は、人の心を腐らすものだ。
彼奴までが、十何年と言う長い間、目をかけて使ってやった
彼奴迄が、金のために俺を売ったのだ。金のために、十数年来の旧知を捨てゝ、敵の犬になったのだ。それを思うと、俺は
坐っても立ってもおられないのだ!」
「
木下が、
何うしたと言うのでございます。」
瑠璃子も、父の
激高に誘われて桜色に充血した美しい顔を、極度に緊張させながら、問い詰めた。
「
此間、
彼奴が持って来た
軸物を、何だと思う、あれが、
俺を
陥れる罠だったのだ。あれは一体誰のものだと思う。友達のものだと言う、その友達は誰だったと思う。」
105/343
父は、眼を熱病患者のそれのように光らせながら、じっと
瑠璃子を見下した。
「あれは誰のものでもない、あの
荘田のものなのだ。
荘田のものを、空々しく
俺の所へ持って来たのだ。」
「何の
為でございましたろう。何だってそんなことを致したのでございましょう。でも、お父様はあの晩、
直ぐお返しになったではございませんか。」
瑠璃子が、そう言うと父の顔は、見る/\曇ってしまった。彼は、崩れるように後の腕
椅子に身を落した。
「瑠璃さん! 許しておくれ! 罠をかける者も卑しい。が、それにかゝる者もやっぱり卑しかったのだ。」
父は、そう言うと肉親の娘の視線をも避けるように、
面を伏せた。
四
暫らくは、強い緊張の
裡に、父も子も黙っていた。が、父はその緊張に
堪えられないように、面を
俯けたまゝ、
呟くように言った。
「瑠璃さん! お前にスッカリ言ってしまおう。
俺はな、
浅墓にも、相手の
罠にかゝって飛んでもないことをしてしまったのだ。あの
木下の
奴!
彼奴迄が、
荘田の犬になっていようとは夢にも悟らなかったのだ。お前に言うのも恥しいが、
俺は
木下が、あの軸物を預けて行ったとき、フラ/\と魔がさしたのだ。
一月でも
二月でも
何時まででも預けて置くと言う、
此方が通知しない
中は、取りに来ないと言う。俺は、そう聴いたときに、
此の一軸で一時の窮境を逃れようと思ったのだ。素晴らしい逸品だ、
殊に俺の手から持って行けば、三万や五万は、
直ぐ
融通が出来ると思ったのだ。果して融通は出来た。が、それは罠の中の
餌に、俺が喰い付いたのと、丁度同じだったのだ。
彼奴は、俺を散々
餓えさした揚句、俺の旧知を買収して、俺に罠をかけたのだ。飢えていた俺は、不覚にも罠の中の肉に喰い付いたのだ。罠をかける奴の
卑しさは、論外だが、かゝった俺の卑しさも笑って
呉れ。三十年の清節も、清貧もあったものではない!」
父は、のたうつように、
椅子の中で、身を
悶えた。
之れを聞いている
瑠璃子も、
身体中が、猛火の中に入ったように、
烈しい
憤怒のために燃え狂うのを感じた。
「それで、それで、
何うなったと言うのでございます。」
106/343
彼女は、身を
顫わしながら
訊いた。
卓の上にかけている白い
蝋のような手も、
烈しい
顫えを帯びていた。
「あの軸物の本当の所有者は
荘田なのだ。
彼奴は、
俺に対して横領の告訴を出しているのだ。」
父は吐くように言った。
蒼白い頬が烈しく
痙攣した。
「そんな事が罪になるのでございますか。」
瑠璃子の眼も血走ってしまった。
「なるのだ! 逆に取って、逆に出るのだから、
堪らないのだ。預っている他人の品物は、売っても質入してもいけないのだ。」
「でも、そんなことは、世間に
幾何もあるではございませんか。」
「そうだ! そんなことは幾何でもある、
俺もそう思ってやったのだ。が、向うでは
初から
謀ってやった仕事だ。俺が少しでも、
蹉くのを待っていたのだ。蹉けば後から飛び付こうと待っていたのだ。」
瑠璃子の胸は、
荘田に対する恐ろしい
怒で、火を発するばかりであった。
「
人非人奴! 人非人奴! どれほどまで
執念く
妾達を、苦しめるのでございましょう。あゝ
口惜しい! 口惜しい!」
彼女は、平生のたしなみも忘れたように、身を悶えて、口惜しがった。
「お前が、そう思うのは無理はない。お父様だって、昔であったら、そのまゝにはして置かないのだが。」
父の顔は
益凄愴な色を帯びていた。
「あゝ、男でしたら、男に生れていましたら。残念でございます。」
そう言いながら、
瑠璃子は
卓の上に、泣き伏した。
何処かで、一時を打つ音がした、騒がしい都の夏の夜も、静寂に
更け切って、遠くから響いて来る電車の音さえ、絶えてしまった。
瑠璃子の泣き声が絶えると、深夜の静けさが、しん/\と迫って来た。
「それで、その告訴は
何うなるのでございますか。まさか取上げにはなりませんでしょうね。」
瑠璃子は泣き顔を
擡げながら、心配そうに訊いた。
涙に洗われた顔は、一種の光沢を帯びて、
凄艶な美しさに輝いているのであった。
五
「さあ!
其処なのだ! 今日警視総監が、個人として
俺に会見を求めたのは、その問題なのだ。
107/343
総監が言うのには、この位なことで、
貴方を社会的に
葬ってしまうことは、何とも遺憾なことなので告訴を取り下げるように
懇々言って見たが、頑として聴かない。そして
唐沢氏本人がやって来て、手を突いて謝まるならば告訴を取り下げようと言うのだ。
何うも先方では
貴方に対して何か意趣【恨み】を含んで居るらしい。貴方も快くはあるまいが、
此際先方に
詫を入れて、
内済【内々で始末】にして
貰ったら
何うかと言うのだ。貴方もあんな男に詫びるのは、不愉快だろうが、
然し、貴方の社会的地位や名誉には換えられないから、
此際思い切って謝罪して見たら
何うかと言って
呉れるのだ。先方が告訴を取り下げさえすれば、検事局では微罪として不起訴にしようと言っていると言うのだ。」
父は低くうめくように言って来たが、
茲まで来ると急に
烈しい調子に変りながら、
「だが、
瑠璃子考えておくれ。あんな男に、あんな
卑しい人間に、謝罪はおろか、頭一つ下げることさえ、
俺に取ってどんな
恥辱であるか。
俺は、それよりも
寧ろ死を選みたいのだ。
然し謝罪しないとなると、
何うしても起訴を免れないのだ。起訴されると、お前
此罪は
破廉恥罪なのだ!
爵位も返上を命ぜられるばかりでなく、
俺の社会的位置は、
滅茶苦茶だ! あれ見い! 貴族院第一の硬骨と言われた
唐沢が、あのザマだと、世間から
嘲笑されることを考えておくれ。死以上の
恥辱だ。何の道を選んでも、死ぬより以上の
恥辱なのだ。
瑠璃子、
俺が死のうと決心した心の
裡を、お前は察して呉れるだろう。」
瑠璃子は、父の苦しい告白を、石像のように黙って聴いていた。火のように熱した
身体中の血が今は
却って、氷のように冷たくなっていた。
「
俺が死ねば、
彼奴の迫害の手も緩むだろうし、それに
依って、汚名を流さずして済む。つまり、俺は悪魔の手に買い取られた俺の社会的名誉を、血を
以て買い戻そうと思ったのだ。お前のことを、思わないではない。父の外には頼る者もないお前のことを思わないではない。が、破廉恥の罪人になることを考えると、泥棒と同じ汚名を
被ることを考えると、何も考えておられなくなったのだ。」
父は、そう言いながら、心の
裡の苦しさに
堪えられないように、
頻りに身を
悶えた。
108/343
「が、
扉の外でお前が突然叫び出した声を聞くと、刀を持っていた
俺の手が、
しびれてしまったように、
何うしても俺の思い
通に、動かないのだ。未練だ! 未練だ! と、心で
叱っても、手が
何うしても言うことを聴かないのだ。俺は、今初めてお前に対する父としての愛が、名誉心や政治上の野心などよりも、もっと大きいことが分ったのだ。俺は、社会上の位置を失っても、お前の
為に生き延びようと思ったのだ。破廉恥罪の名を
被ても、お前の父として、生き延びようと思ったのだ。名誉や位置などは、なくなっても、お前さえあれば、まだ生き
甲斐があると言うことが、分ったのだ。いや名誉や野心のために、生きるのよりも、自分の子供のために、生きる方が人間として、どれほど立派であるかと言うことが、今やっと分ったのだ。
俺は、今
光一を追出したことを後悔する。親の野心のために、子を犠牲にしようとしたことを後悔する。
瑠璃子! お前のために、どんな汚名を忍んでも生き延びるのだ。お前も、罪人のお父様を見捨てないで、いつまでも俺の傍を離れて呉れるな。」
父の顔は今、子に対する愛に燃えて、美しく輝いていた。彼は、子に対する愛に
依って、その苦しみの
裡から、その罪の
裡から、立派に救われようとしているのだった。
六
そうだ! 子の心は、
凄じい
憤怒と
復讐の一念とに、
湧き立った。父が、子に対する愛のために、敵の与えた
恥辱を忍ぼうとするのに
拘わらず、子の心は敵に対する反抗と
憎悪とのために、狂ってしまった。
「お父様、それでいゝのでございましょうか。お父様! 金さえあれば悪人がお父様のような方を苦しめてもいゝのでございましょうか。
而も、国の法律までが、そんな悪人の味方をするなどと言う、そんなことが、許されることでございましょうか。」
瑠璃子は、平生のおとなしい、
慎しやかな彼女とは、全く別人であるように、熱狂していた。父は子の
激高を
宥めるように、「だが
瑠璃子! 悪人がどんな
卑しい手段を講じてもお父様さえ、しっかりしていればよかったのだ。国の法律に触れたのはやっぱり
俺の不心得だったのだ。」
「いゝえ!
妾は、そうは思いません。」
瑠璃子は、
昂然として父の言葉を遮ぎった。
109/343
「
荘田のやりましたような
奸計【わるだくみ】を
回らしたならば、どんな人間をだって、罪に
陥すことは容易だと思います。お父様が信任していらっしゃる
木下をまで、買収してお父様を
罠に陥し入れるなど、悪魔さえ恥じるような
卑怯な事を致すのでございますもの。もし、国に本当の法律がございましたら、
荘田こそ厳罰に処せらるべきものだと思います。
荘田のような悪人の道具になるような法律を、
妾は心から
呪いたいと思います。」
眦【めじり】が、裂けると言ったらいゝのだろう。美しい顔に、凄じい殺気が
迸った。父も、子の
烈しい気性に、
気圧されたように、黙々として聴いていた。
「お父様、あんな男に起訴されて、泣寝入りになさるような、
腑甲斐ないことをして下さいますな。飽くまでも
戦って、相手の悪意を
懲しめてやって下さいませ。あゝ
妾が男でございましたら、……本当に男でございましたら……」
瑠璃子は、熱に浮かされたように、
興奮して叫び続けた。
「が、
瑠璃子! 法律と言うものは人間の行為の形
丈を、律するものなのだ。
荘田が、悪魔のような卑しい悪事を働いても、その形が法律に触れていなければ、大手を振って歩けるのだ。
俺は切羽詰って
一寸逃れに、知人の品物を質入れした。世間に有り触れたことで、事情
止むを得なかったのだ。が、俺の行為の形は、ちゃんと法律に触れているのだ。法律が罰するものは、
荘田の恐ろしい心ではなくして、俺の
一寸した心得
違の行為なのだ。行為の形なのだ!」
「
若し、法律がそんなに、本当の正義に
依って、動かないものでしたら、
妾は法律に
依ろうとは思いません。
妾の力で
荘田を罰してやります。
妾の力で、
荘田に思い知らせてやります。」
気が狂ったのではないかと思うほど、
瑠璃子の言葉は烈しくなった。父は
呆気に取られたように、子の口もとを見詰めていた。
「金の力が、万能でないと言うことをあの男に知らせてやらねばなりません。金の力で動かないものが、世の中に在ることを知らせてやらねばなりません。このまゝで、お父様が、有罪になるような事がございましたら、
荘田は何と思うか分りません。世の中には、法律の力以上に、本当の正義があることを、あの男に思い知らせてやらねばなりません。
110/343
金の力などは、本当の正義の前には
土塊にも等しいことを、あの男に思い知らせてやりたいと思います。」
そう言いながら、
瑠璃子は父の顔をじっと見詰めていたが、思い切ったように言った。
「お父様! お願いでございます。
瑠璃子を、無い者と
諦めて、今後何を致しましょうと、
妾の勝手に
委せて下さいませんか。」
瑠璃子の顔に、鉄のように堅い決心が
閃いた。父は、
瑠璃子の真意を測りかねて、
茫然と愛児の顔を見詰めていた。
「お父様?
妾は、
ユージットになろうと思うのでございます。」
七
「ユージット?」老いた父には、娘の言った言葉の意味が分らなかった。
「左様でございます。
妾はユージットになろうと思うのでございます。ユージットと申しますのは
猶太の美しい娘の名でございます。」
「その娘になろうと言うのは、どう言う意味なのだ?」父は、激しい興奮から覚めて、やゝ落着いた口調になっていた。
「ユージットになろうと申しますのは、
妾の方から進んで、あの荘田
勝平の妻になろうと言うことでございます。」
瑠璃子の言葉は、
樫の
如く堅く氷の如く冷やかであった。
「えーッ。」と叫んだまゝ、父は雷火に打たれた如く
茫然となってしまった。
「お父様! お願いでございます。どうか、
妾をないものと
諦めて、
妾の思うまゝに、させて下さいませ!」
瑠璃子は、
何時の間にか再び熱狂し始めた。
「
馬鹿なッ!」父は、
烈しい、
然し慈愛の
籠った言葉で
叱責した。
「馬鹿なことを考えてはいけない! 親の難儀を救うために子が犠牲になる。親の難儀を救うために娘が、身売をする。そんな道徳は、古い昔の、封建時代の道徳ではないか。お前が、そんな馬鹿なことを考える。
聡明なお前が、そんな馬鹿なことを考える。お
父様を救おうとして、お前があんな豚のような男に身を
委す。考える
丈でも
汚らわしいことだ! お前を犠牲にして、自分の難儀を助かろうなどと、そんな
さもしいことを考える父だと思うのか。
111/343
俺は、自分の名誉や位置を守るために、お前の指一本髪一筋も、犠牲にしようとは思わない。そんな馬鹿々々しいことを考えるとは、
平生のお前にも似合わないじゃないか。」
父は、思いの外に、
激高して、
瑠璃子をたしなめるように言った。が、
瑠璃子は、ビクともしなかった。
「お父様! お考え違いをなさっては、困ります。お父様の身代りになろうなどと、そんな消極的な動機から、申上げているのではありません。
妾は、法律の網を
潜るばかりでなく、法律を道具に使って、善人を
陥れようとする悪魔を、法律に代って、罰してやろうと思うのです。一家が受けた迫害に、
復讐するばかりでなく、社会のために、人間全体のために、法律が罰し得ない悪魔を罰してやろうと思うのです。お父様の身代りになろうと言うような、そんな小さい考えばかりではありません。」
瑠璃子は、
昂然と現代の烈女【信念を貫きとおす激しい気性の女子】と言ってもいゝように、美しく勇ましかった。
「お前の動機は、それでもいゝ。だが、あの男と結婚することが、
何うしてあの男を罰することになるのだ。
何うして、一家が受けた迫害を、復讐することになるのだ。」
「結婚は手段です。あの男に対する刑罰と復讐とが、それに続くのです。」
瑠璃子は
凜然と火花を発するように言った。
「お父様、昔
猶太の
ベトウリヤと言う都市が、
ホロフェルネスと言う恐ろしい敵の猛将に、囲まれた時がありました。ホロフェルネスは、
獅子を
搏にするような猛将でした。ベトウリヤの運命は迫りました。破壊と
虐殺とが、目前に在りました。その時に、美しい少女が、ベトウリヤ第一の美しい少女が、侍女をたった一人連れた切りで、
羅衣を
纏った美しい姿を、
虎のようなホロフェルネスの陣営に運んだのです。そしてこの少女の、容色に魅せられた敵将を、
閨中でたった一突きに刺し殺したのです。美しい少女は、自分の貞操を犠牲にして、幾万の同胞の命と貞操とを救ったのです。その少女の名こそ、今申し上げたユージットなのでございます。」
八
瑠璃子の心は、勇ましいロマンチックな火炎で包まれていた。
112/343
牝獅子の乳で育ったと言う野蛮人の猛将を、細い
腕で刺し殺した
猶太の
少女の美しい姿が、勇ましい面影が、
蝕画のように【鋭く彫り込まれたように】、彼女の心にこびりついて離れなかった。少女に仮装して、敵将を倒した
日本武尊よりも、本当の女性である
丈に、それ
丈け勇ましい。命よりも大切な、貞操を犠牲にしている
丈に、限りなく悲壮であった。
「
妾はユージットのように、戦って見たいと思うのです。」
二千有余年も昔の、
猶太の
少女の魂が、大正の日本に、
甦って来たように、
瑠璃子は炎の
如く熱狂した。
が、父は冷静だった。彼は、熱狂し過ぎている娘を、
宥めるように、言葉静かに説き
諭した。
「
瑠璃子! お前のように、そう熱しては困る。女の一番大事な貞操を、犠牲にするなどと、そんな軽率なことを考えては困る。数万の人の命に代るような、大事な場合は、大切な
操を犠牲にすることも、立派な正しいことに違いない。が、あんな
獣のような
卑しい男を、
懲すために、お前の一身を犠牲にしては、黄金を
土塊と交換するほど、
馬鹿々々しいことじゃないか。」
「だが、お父様!」と、
瑠璃子は
直ぐ抗弁した。
「相手は、お父様の
仰しゃる通り、取るに足りない男には違いありません。が、現在の社会組織では人格がどんなに下劣でも、金さえあれば、帝王のように強いのです。お父様は、相手を『獣のように卑しい男』とお
蔑すみになっても、その卑しい男が、金の力で、お父様のような方に、こんな迫害を加え得るのですもの。
妾が、戦わなければならぬ相手は荘田
勝平と言う個人ではありません。荘田
勝平と言う人間の姿で、現れた現代の社会組織の悪です。金の力で、どんなことでも出来るような不正な不当な社会全体です。金さえあれば、
何でも出来ると言ったような、その思想です。観念です。
妾は、それを破って見たいと思うのです。」
瑠璃子は、
処女らしい
羞恥心を、興奮のために、全く振り捨てゝしまったように、叫びつゞけた。
父は、子の
烈しい勢を、持ち扱ったように【手に取るように感じ取り】、黙って聞いていた。
「それに、お父様! ユージットは、操を犠牲にしましたが、それは相手が、勇猛無比なホロフェルネス、操を捨てゝかからなければ、油断をしなかったからです。
妾は、妻と言う名前ばかりで、相手を懲し得る自信があります。
113/343
何うか
妾を無いものと、お
諦めになって、三月か半年かの間、荘田の
許へやって下さいまし。
匕首で相手を刺し殺す代りに、精神的にあの男を滅ぼして御覧に入れますから。」
其処には、もう優しい
処女《おとめ》の姿はなかった。相手の
卑怯な執念深い迫害のために、
到頭最後の
堪忍を、し尽して、反抗の
刃を取って立ち上がった彼女の姿は、
復讐の女神その物の姿のように美しく
凄愴だった。
「瑠璃さん! あなたは、今夜は
何うかしている。お
父様も、ゆっくり考えよう。あなたも、ゆっくりお考えなさい。あなたの考えは、余り突飛だ。そんな馬鹿なことが今時……」
「でも、お父様!」
瑠璃子は少しも屈しなかった。「
妾は、毒に
報いるのには毒を
以てしたいと思います。陰謀に報いるには、陰謀を以てしたいと思います。相手が悪魔でも恥じるような陰謀を
逞くするのですもの。
此方だって、突飛な非常手段で、懲しめてやる必要があると思います。現代の社会では万能な金の力に対抗するのには、非常手段に出るより外はありません。
妾は、自分の力を信じているのでございます。あんな男一人
滅ぼすのには余る位の力を、持っているように思います。お父様! どうか
妾を信じて下さいまし。
瑠璃子は、一時の興奮に駆られて無謀なことを致すのではありません。ちゃんと成算があるのでございます。」
瑠璃子の興奮は
何処までも、続くのだった。父は黙々として、何も答えなくなった。父と娘との必死な問答の
裡に、幾時間も
経ったのであろう、明け
易い夏の夜は、ほのぼのと白みかけていた。
美奈子
一
「はゝゝゝ、
唐沢の
奴、
面喰っているだろう。はゝゝゝ。」
荘田は、
籐製の腕
椅子の
裡で、
身体をのけ
反るようにしながら、
哄笑した。
「どうも、
貴方も人間が悪くていけない。あんないゝ方を
苛めるなんて、
何うも
甚だ
宜しくない。貴方が、持って行けと言ったから、つい持って行ったものゝ、どうも
寝覚が悪くっていけない。私は随分
唐沢さんにお世話になったのですからね。」
114/343
木下は、
遉に
烈しい良心の
苛責に
堪えられないように、苦しげに言った。
「あゝいゝよ。分っているよ。君の
苦衷【苦しい心の中】も察しているよ。
俺だって、何も
唐沢が憎くって、やるのじゃないんだ。つい、意地でね。妙な意地でね。
一寸した意地でやり始めたのだが、やり始めると俺の性質でね、徹底的にやり
徹さないと気が済まないのだ。親を
苛める気は、少しもないのだ。あの美しい娘に対する色恋からでもないんだ。はゝゝゝゝ、誤解して
呉れちゃ困るよ。はゝゝゝゝゝ。」
荘田は、その赤い大きい顔の
相好を崩しながら、思惑が成功した投機師のように、得意な哄笑を笑い続けた。
「どうだ!
俺が言った
通だろう。君は、高潔な人格の
唐沢さんは、決してそんな事はしないとか何とか言って、反対したじゃないか。
何うだ! 人間は、金に窮すればどんなことでもするだろう。金に
依って、保護されていない人格などは、要するに
当にならないのだ。
清廉潔白など言うことも、本当に経済上の保証があって出来ることだよ。貧乏人の清廉潔白なんか、当になるものか、はゝゝゝゝゝ。」
(
此の世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることの)無いように、
勝平は得意だった。
「だが、私は気になります。私は
唐沢さんが自殺しやしないかと思っているのです。
何うもやりそうですよ。
屹度やりますよ。」
木下は、心からそう信じているように、
眉をひそめながら言った。
「うむ! 自殺かね。」
遉に
荘田も、
一寸誘われて眉をひそめたが、
直ぐ
傲岸な笑いで打ち消した。
「はゝゝゝゝ、大丈夫だよ。人間はそう
易々とは、死なないよ。いや待っていたまえ。今に、泣きを入れに来るよ。
115/343
なに、先方が泣きを入れさえすれば、そうは
苛めないよ。もと/\、
一寸した意地からやっていることだからね。」
「それでも、もしお嬢さんをよこすと言ったら御結婚になりますかね。」
「いや、それだがね。
俺も考えたのだよ。いくら何だと言っても、二十五六も違うのだろう。世間が
五月蠅からね。
只でさえ『成金! 成金!』と、いやな
眼で見られているんだろう。それだのに、そんな不釣合な結婚でもすると、非難攻撃が、大変だからね。それで、
俺が
花婿になることは思い
止まったよ。
倅の嫁にするのだ。倅の嫁にね。あれとなら、年
丈は似合っているからね。その事は先方へも言って置いたよ。」
「御子息の嫁に!」
そう言ったまゝ、
木下は二の句が継げなかった。
荘田の
息、
勝彦と言うその
息は、
二十を二つ三つも越していながら、子供のように たわいもない白痴だった。白痴に近い男だった。そうだ! 年
丈は似合っている。が、
瑠璃子の夫としては、何と言う
不倫な、不似合な配偶だろう。金のために旧知を売った
木下にさえ、
荘田の思い上った
暴虐が、不快に
面憎く感ぜられた。
「なに、
俺があのお嬢さんと結婚する必要は、少しもないのだ。金の力で、あのお嬢さんを、左右してやればそれでいゝのだよ。金の力が、どんなに大きいかを、あのお嬢さんと、あゝそう/\、もう一人の人間とに、思い知らしてやればいいのだよ。」
荘田は、何物も恐れないように、
傲然と言い放った。
丁度、その時だった。
荘田の
背後の
扉が、ドン/\と、激しく打ち
叩かれた。
「電報! 電報!」と、誰かゞ大声で叫んだ。
二
「電報! 電報!」
扉は、続け様に割れるように
叩かれた。
今迄、
傲然と反り返っていた
荘田は、急に
悄気切ってしまった。
116/343
彼はテレ隠しに、苦笑しながら、
「おい!
勝彦! おい! よさないか、お客様がいるのだぞ。おい!
勝彦!」
客を
憚って、高い声も立てず、低い声で制しようとしたが、相手は聴かなかった。
「電報! 電報!」強い力で、扉は再び続けざまに、乱打された。
「まあ! お兄様! 何を遊ばすのです。さあ!
彼方へ行らっしゃい。」優しく制している女の声が聞えた。
「電報だい! 電報だい! 本当に電報だよ。
美奈さん。」男は抗議するように言った。
「あら! 電報じゃありません、お客様の御名刺じゃありませんか、それなら早くお取次ぎ遊ばすのですよ。」
そうした問答が、聞えたかと思うと、
扉が音もなく開いて、十六――恐らく七にはなるまい少女が姿を現した。色の浅黒い、
眸のいきいきとした
可愛い少女だった。彼女は、兄の恥を自分の身に背負ったように、顔を真赤にしていた。
「お父様! お客様でございます。」
客に、丁寧に
会釈をしてから、父に向って名刺を差し出しながら、しとやかそうに言った。
傲岸な父の娘として、白痴の兄の妹として、彼女は
狼に
伍した【仲間入りした】羊のように、美しく、しとやかだった。
「
木下さん。これが娘です。」
そう言った
荘田の顔には、娘自慢の得意な微笑が、アリ/\と見えた。が、彼の眼が、開かれた
扉の所に立って、キョトンと室内を
覗いている長男の方へ転ずると、急にまた
悄気てしまった。
「あゝ美奈さん。兄さんを
早う向うへ連れて行ってね。それから、
杉野さんをお通しするように。」
娘に、優しく言い付けると、客の方へ向きながら、
「御覧の通りの
馬鹿ですからね。
唐沢のお嬢さんのような立派な
聡明な方に、来ていたゞいて、引き回していたゞくのですね。はゝゝゝゝ。」
馬鹿な長男が去ると、
荘田は又以前のような得意な傲岸な態度に
還って行った。
其処へ、小間使に案内されて、入って来たのは、
杉野子爵だった。
117/343
「やあ!
荘田さん! 懸賞金はやっぱり私のものですよ。
到頭、先方で
白旗を上げましたよ、はゝゝゝ。」
「白旗をね、なるほど。はゝゝゝゝ。」
荘田は、
凱旋の将軍のように
哄笑した。
「案外
脆かったですね。」
木下は傍から、
合槌を打った。
「それがね。令嬢が、案外
脆かったのですよ。お父様が、監獄へ行くかも知れないと聞いて、
狼狽したらしいのです。父一人子一人の娘としては、無理はないとも思うのです。私の所へ、今朝そっと手紙を寄越したのです。父に対する告訴を取り下げた上に、
唐沢家に対する債権を放棄して
呉れるのなら
荘田家へ
輿入れしてもいゝと言うのです。」
「なるほど、うむ、なるほど。」
荘田は、血の
臭を
嗅いだ食人鬼のように、満足そうな微笑を浮べながら、
肯いた。
「ところが、令嬢に注文があるのです。
荘田君! お
欣びなさい! 私に対する懸賞金は
倍増にする必要がありますよ、令嬢の注文がこうなのです。同じ
荘田家へ嫁ぐのなら、息子さんよりも、やっぱりお父様のお嫁になりたい。男性的な実業家の夫人として、社交界に立って見たいとこう言ってあるのです。手紙をお眼にかけてもいゝですが。」
そう言いながら、子爵はポケットから、
瑠璃子の手紙を取り出した。丁度
敵から来た投降状でも出すように。
三
凱旋の将軍が、敵の大将の首実検をでもするように、
荘田は
瑠璃子が
杉野子爵宛に寄越した手紙を取り上げた。得意な、満ち足りたと言ったような、
賤しい微笑が、その赤い顔一面に
拡がった。
「うむ! 成る程! 成る程!」
舌鼓をでも打つように、一句々々を
貪るように読み
了ると、彼は腹を抱えんばかりに
哄笑した。
「はゝゝゝゝ。強いようでも、やっぱり女子は弱いものじゃ。はゝゝゝゝ。
118/343
なにも、あのお嬢さんを嫁にしようなどとは、夢にも考えていなかったが、こうなると一番若返るかな、はゝゝゝゝ、じゃ、
杉野さん、どうかよろしくね。あの証文全部は、お嬢様に、
結婚の
進物として差しあげる。そうだ! 差し上げる期日は、結婚式の当日と言うことにしよう。それから、支度金は軽少だが、二万円差し上げよう。そう/\、
貴君方に対するお礼もあったけ。」
王女のように、美しく気高い
処女を、
到頭征服し得たと言う
欣びに、
荘田は有頂天になっていた。彼は、
呼鈴を鳴らして女中を呼ぶと、
「お嬢さんに、そう言うのだ、
俺の
手提金庫に小切手帳が入っているから持って来るように。」と命じた。
良心を悪魔に、売り渡した
木下と
杉野子爵とは、自分達の良心の代価が、
幾何になるだろうかと銘々心の
裡で、
荘田の持つ筆の先に現れる数字を、
貪慾に空想しながら、
美奈子が小切手帳を持って、入って来るのを待っていた。
「十八の娘にしては、なか/\達筆だ! 文章も立派なものだ!」
荘田は、
尚飽かず
瑠璃子の手紙に、魂を
擾【乱】されていた。
が、丁度その同じ瞬間に、
瑠璃子の手紙に
依って、魂を
擾されていたのは荘田
勝平丈だけではなかった。
瑠璃子は、
杉野子爵に宛てゝ、一通の手紙を書くのと同時に、その息子の杉野
直也に対しても、一通の手紙を送った。
杉野子爵に対する手紙は、冷たい微笑と堅い鉄のような心とで書いた。
直也に送った手紙は、熱い涙と堅い鉄のような心とで書いた。
荘田
勝平が、一方の手紙を読んで、
有頂天になったと同じに、
直也は他の一方の手紙を読んで、
奈落に突落されたように思った。
119/343
父を恐ろしい恥辱より救い、唐沢一家を滅亡より救う道は、これより外にはないのでございます。……
法律の力を悪用して、善人を苦しめる悪魔を懲しめる手段は、これより外にはないのでございます。妾の行動を奇嬌【突飛】だとお笑い下さいますな。芝居気があるとお笑い下さいますな。現代に於ては、万能力を持っている金に対抗する道は、これより外にはないのでございます。……名ばかりの妻、そうです、妾はありとあらゆる手段と謀計とで以て、妾の貞操をあの悪魔のために汚されないように努力する積です。北海道の牧場では、よく牡牛と羆とが格闘するそうです。妾と荘田との戦いもそれと同じです。牡牛が、羆の前足で、搏たれない裡に、その鉄のような角を、敵の脾腹へ突き通せば牡牛の勝利です、妾も、自分の操を汚されない裡に、立派にあの男を倒してやりたいと思います。
妾の結婚は、愛の結婚でなくして、憎しみの結婚です。それに続く結婚生活は、絶えざる不断の格闘です。……
が、どうか妾を信じて下さい。妾には自信があります。半年と経たない裡に精神的にあの男を殺してやる自信があります。
直也様よ、妾のためにどうか、勝利をお祈り下さい。
手紙は尚続いた。
120/343
四
妾は、勝利を確信しています。が、それは実質の勝利で、形から言えば、妾は金のために荘田に購われる【買われる】女奴隷と、等しいものかも知れません。妾が、自分の操を清浄に保ちながら、荘田を倒し得ても、社会的には妾は、荘田の妻です。何人が妾の心も身体も処女であることを信じて呉れるでしょう。妾は貴君丈には、それを信じて戴きたいと思います。が、妾にはそれを強いる権利はありません。
男性化と言う言葉があります。妾の現在はそれです。妾は女性としての恋を捨て、優しさを捨て慎しやかさを捨てゝ、たゞ復讐と膺懲【征伐してこらしめる】のために、狂奔する【狂ったように走り回る】化物のような人間になろうとしているのです。顧みると、自分ながら、浅ましく思わずには、いられません。が、悪魔を倒すのには、悪魔のような心と謀計とが必要です。
貴君を愛し、また貴君から愛されていた無垢な少女は、残酷な運命の悪戯から、凡ての女性らしさを、自分から捨ててしまうのです。凡ての女性らしさを、復讐の神に捧げてしまうのです。愛も恋も、慎しやかさも淑さも、その黒髪も白き肌も。
次ぎのことを申上げるのは、一番嫌でございますが、荘田からの最初の申込みを取り継がれた方は、貴君のお父様です。従って、求婚に対する妾の承諾も、順序として、貴君のお父様に、取次いでいたゞかねばなりません。妾は、貴君に対する、この不快な恐ろしい手紙を書いた後に、貴君のお父様宛に、もう一つの、もっと不快な恐ろしい手紙を書かねばなりません。
それを思うと、妾の心が暗くなります。が、妾はあくまで強くなるのです。あゝ、悪魔よ! もっと妾の心を荒ませてお呉れ! 妾の心から、最後の優しさと恥しさを奪っておくれ!
一句一句鋭い
匕首の切先で、
抉られるように、読み
了った
直也は最後の一章に来ると、
鉄槌で横ざまに殴り付けられたような、恐ろしい打撃を受けた。
最初は、
縦令どんな理由があるにしろ、自分を捨てゝ、
荘田に嫁ごうとする
瑠璃子が恨めしかった。心を喰い裂くような
烈しい
嫉妬を感じた。が、だん/\読んで行く
裡に、
唐沢家に対する
荘田の迫害の原因が、
荘田に対する自分の
罵倒であったことが、マザ/\と分って来た。
瑠璃子を
唐沢家から奪おうとするのは、つまり自分の手から奪おうとするのだ。
荘田が、自分に対する皮肉な恐ろしい復讐なのだ。意趣返し【復讐】なのだ。
瑠璃子は、復讐と
膺懲【征伐してこらしめる】の手段として、結婚すると言う。
121/343
が、それを自分が漫然と見ていられるだろうか。かよわい女性が、貞操の危険を
冒してまで、戦っている時に、第一の責任者たる自分が、
茫然と見ていられるだろうか。が、そんなことは
兎に
角直也には、自分の恋人が
縦令操は許さないにしても、
荘田と――豚のように不快な
荘田と、形式的にでも夫と呼び妻と呼ぶことが、
堪まらなかった。
瑠璃子は、飽くまでも、操を
汚さないと言うが、そんなことは、
聡明ではあるにしろ、まだ年の若い彼女の
夢想的な空想で、
縦令彼女の決心が、どんなに堅かろうとも、
一旦結婚した以上、獣のように強い
荘田の
為に、ムザ/\と
蹂み
躙られてしまいはせぬか。どんなに強い精神でも、鉄のように強い腕には、敵せない時がある。
瑠璃子の心が火のように烈しく、石のように堅くても、
羅衣にも堪えないような【弱弱しい身体】、その優しい肉体は、
荘田の強い
把握のために、押し
潰されてしまいはせぬか。そう考えると、
直也の心は、恐ろしい
苦悶と
焦燥のために、烈しく動乱した。が、それよりも、自分の父が自分の恋人を奪う悪魔の手下であることを知ると、彼は
憤怒と
恥辱とのために、逆上した。
彼は
瑠璃子の手紙を握りながら、父の部屋へかけ込んだ。父の姿は見えないで、女中が座敷を掃除していた。
「お父様は
何うした。」
彼は女中を
叱咤するように言った。
「今しがた、
荘田様へ行らっしゃいました。」
瑠璃子の承諾の手紙を読むと、鬼の首でも取ったように、
荘田の所へ
馳け付けたのだと思うと、
直也の心は、恐ろしい
憤怒のために燃え上った。
五
美奈子が、小切手帳を持って来ると、
荘田は、
傍の小さい
卓の上にあった金
蒔絵の
硯箱を取寄せて不器用な手付で墨を
磨りながら、左の手で小切手帳を繰
拡げた。
「はゝゝゝゝ、
貴方にも、お礼をうんと張り込むかな。」彼は、そう得々と
哄笑しながら、最初の一葉に、金二万円
也と、小学校の四五年生位の悪筆で、その癖
溌剌と筆太に書いた。それは無論、支度料として、
唐沢家へ送るものらしかった。
その次ぎの一葉を、
木下も
杉野も、
爛々と眼を、
梟のように光らせて、見詰めていた。
荘田は、無造作に壱万円也と書き入れると、その次ぎの一葉にも、同じ
丈の金額を書き入れた。
「
何うです。これで不足はないじゃろう。はゝゝゝゝ。」と、
荘田は肩を
揺がせながら笑った。
122/343
食事を与えられた犬のように、何の
躊躇もなく、二人がその紙片に手を出そうとしている時だった。
荘田の
背後の
扉が、軽く
叩かれて、小間使が入って来て、
「
旦那様! あの
杉野さんと言う方が、御面会です。」と、言った。
「
杉野!」と、
荘田は首を
傾げながら言った。「
杉野さんなら
茲にいらっしゃるじゃないか。」
「いゝえ! お若い方でございます。」
「若い方? いくつ位?」と、
荘田は
訊き返した。
「二十三四の方で、学生の服を着た方です。」
「うゝむ。」と、
荘田は
一寸考え込んだが、ふと
杉野子爵の方を振向きながら、
「
杉野さん!
貴君の御子息じゃないかね。」と、言った。
「私の
倅、私の倅がお宅へ伺うことはない。
尤も、私にでも用があるのかな。そうじゃありませんか。私に会いたいと言うのじゃありませんか。」
子爵は小間使の方を振り向きながら言った。小間使は首を振った。
「いゝえ! 御主人にお目にかゝりたいと
仰しゃるのです。」
「あゝ分った!
杉野さん!
貴君の御子息なら、僕の所へ来る理由が、
大にあるのです。
殊に今の場合、
唐沢のお嬢さんが、私に屈伏しようと言う今の場合、是非とも来なければならない方です。そうだ! 私も会いたかった。そうだ! 私も会いたかった! おい、お通しするのだ。主人もお待ちしていましたと言ってね。貴君方は、別室で待っていたゞくかね。いや、立会人があった方が、結局いゝかな。そうだ! 早くお通しするのだ!」
興奮した
熊のように、
荘田は
卓に沿うて、二三歩ずつ左右に歩きながら、叫んだ。
杉野子爵には、
荘田の言った意味が、十分に
判らなかった。何の用事があって、自分の息子が、
荘田を尋ねて来るのか見当も立たなかった。
123/343
が、それは
兎も
角、自分が
荘田から、
邪しい金を受け取ろうとする現場へ、肉親の子――しかも、その潔白な性格に対しては、親が三目も四目も置いている子が――突然現れて来ることは、いかにも
愧しいキマリの悪い事に違いなかった。彼は顔には現さなかったが、心の
裡では、可なり
狼狽した。
荘田が、早く気を
利かして、小切手帳をしまって
呉れればいゝ、呉れるものは、早く呉れて、早く
蔵って呉れゝばいゝと、虫のいゝことを、考えていたけれど、
荘田は妙に興奮してしまって、小切手帳のことなどは、念頭にもないようだった。マザ/\と見えている壱万円也と言う金額が、
杉野や
木下等の罪悪を、
歴々と語っているように、子爵には心苦しかった。
「一体、私の倅は何だって、貴方をお尋ねするのです。前から御存じなのですか。何の用事があるのでしょう。」
杉野子爵は、
堪らなくなって訊いた。
「いや、今に
直ぐ
判ります。やっぱり、今度の私の結婚に
就てです。が、
媒介の
手数料を
貰いに来るのでないことは、
確ですよ。はゝゝゝゝ。」
と、
荘田は腹を抱えるように
哄笑した。その哄笑が終らない
中に、彼の
背後の
扉が、静かに開かれて、その男性的な顔を、
蒼白に緊張させている、杉野
直也が姿を現した。
六
直也の姿を見ると、
荘田の哄笑が、ピタリと中断した。相手の決死の形相が、
傲岸な
荘田の心にも鋭い刃物に触れたような、気味悪い感じを与えたのに
違なかった。が、彼はさり気なく、
鷹揚に、徹頭徹尾勝利者であると言う自信で言った。
「いやあ!
貴君でしたか。いつぞやは大変失礼しました。さあ!
何うか
此方へお入り下さい! 丁度、
貴君のお父様も来ていらっしゃいますから。」
外面丈は可なり
丁重に、
直也を引いた。
直也は、その口を一文字に
緊きしめたまゝ、黙々として一言も発しなかった。彼は、父の方をなるべく見ないように――それは父に対する遠慮ではなくして、
敬虔な
基督教徒が異教徒と同席する時のような、
憎悪と
侮蔑とのために、なるべく父の方を見ないように、
荘田の丁度向い側に
卓を隔てゝ相対した。
124/343
「
何う言う御用か、知りませんが、よく
入らっしゃいました。
貴君があんなに軽蔑なさった成金の家へも、尋ねて来て下さる必要が出来たと見えますね。はゝゝゝゝ。」
荘田は、
直也と面と向って立つと、直ぐ
挑戦の第一の弾丸を送った。
直也は、それに対して、何かを言い返そうとした。が、彼は
烈しい怒りで、口の
周囲の筋肉が、ピク/\と
痙攣する
丈で、言葉は少しも、出て来なかった。
「
何う言う御用です。承ろうじゃありませんか。
何う言う御用です。」
荘田はのしかゝるように畳かけて
訊いた。
直也は、心の
裡に
沸騰する怒りを、
何う現してよいか、分らないように、
暫らくは両手を
顫わせながら、
荘田の顔を
睨んで立っていたが、突如として口を切った。
「
貴君は、良心を持っていますか。」
「良心を!」と、
荘田は
直ぐ受けたが、問が余りに唐突であったため暫らくは
語に窮した。
「そうです。良心です。普通の人間には、そんなことを訊く必要はない。が、人間以下の人間には、訊く必要があるのです。
貴君は良心を持っていますか。」
直也は、
卓を
叩かんばかりに、烈しく迫った。
「あはゝゝゝゝ。良心! うむ、そんな物はよく貧乏人が持ち合わしているものだ。そして、それを金持に売り付けたがる。はゝゝゝ、私も度々買わされた覚えがある。が、私自身には
生憎良心の持ち合せがない、はゝゝゝ。いつかも、
貴君に言った通り、金さえあれば、良心なんかなくても、結構世の中が渡って行けますよ。良心は、
羅針盤のようなものだ。ちっぽけな
帆前や、たかが五百
噸や千噸の船には、羅針盤が必要だ。が、三万とか四万とか言う大軍艦になると、羅針盤も何も入りやしない、大手を振って大海が横行出来る。はゝゝゝ。
俺なども、羅針盤の入らない軍艦のようなものじゃ。はゝゝゝ。」
荘田は、飽くまでも、自分の優越を信じているように、出来る
丈直也を、
じらすように、ゆっくりと答えた。
125/343
それを聴くと、
直也は
堪らないように、わなわなと
身体を顫わせた。
「
貴君は、自分がやったことを恥だとは思わないのですか。
卑劣な
盗人でも恥じるような手段を
回らして、
唐沢家を迫害し、
不倫な結婚を遂げようと言うような、浅ましいやり方を、恥ずかしいとは思わないのですか。
貴君は、それを恥ずる
丈の良心を持っていないのですか。」
直也は、
吃々とどもりながら、
威丈高に
罵った。が、
荘田はビクともしなかった。
「お黙りなさい。国家が許してある範囲で、正々堂々と行動しているのですよ。何を恥じる必要があるのです。貴方は、白昼公然と、私の金の力を、あざ
嗤った。が、御覧なさい!
貴君は、金の力で自分のお父様を買収され、あなたの恋人を、公然と奪われてしまったではありませんか。
貴君こそ、自分の不明を恥じて、私の前でいつかの暴言を謝しなさい!
唐沢のお嬢さんは、もう
此の通り、ちゃんと
前非を
悔いている。御覧なさい!
此の手紙を!」
そう言いながら、
荘田は得々として、
瑠璃子の手紙を
直也に突き付けたとき、彼の心は火のような
憤と、恋人を奪われた墨のような
恨とで、狂ってしまった。
七
「御覧なさい! 私は、自分の息子の嫁に、するために、お嬢さまを所望したのだが、お嬢さまの方から、
却って私の妻になりたいと望んでおられる。有力な男性的な実業家の妻として、社会的にも活動して見たい! こう書いてある。あはゝゝ。
何うです! お嬢様にも、ちゃんと私の価値が
判ったと見える。金の力が、どんなに偉大なものかが判ったと見える! あはゝゝ。」
荘田は、得々とその大きい鼻を、うごめかしながら、言葉を切った。
直也は、
湧き立つばかりの
憤怒と、
嵐のような
嫉妬に、自分を忘れてしまった。彼は
瑠璃子の手紙を見たときに、
荘田と媒介人たる自分の父とに、面と向って、その不正と
不倫とを
罵り、少しでも残っている
荘田の良心を、呼び覚して、不当な
暴虐な計画を思い
止まらせようと決心したのだが、実際に会って見ると、自分のそうした考えが、獣に道徳を教えるのと同じであることを知った。そればかりでなく、
荘田の逆襲的
嘲弄【あざけってばかにしたこと】に、
直也自身まで、獣のように
荒んでしまった。
126/343
彼の手は、いつの間にか知らず
識らず、ポケットの中に入れて来た
拳銃にかかっていた。その
拳銃は、今年の夏、彼が日本アルプスの
乗鞍ヶ岳から薬師ヶ岳へ縦走したときに、護身用として持って行って以来、つい机の引出しに入れて置いた。彼は
激高して家を出るとき、ふと
此の
拳銃の事が、頭に浮んだ。
荘田の家へ、単身乗り込んで行く以上、召使や運転手や下男などの多数から、どんな暴力的な侮辱を受けるかも知れない。そうした場合の用意に持って来たのだが、
然し今になって見ると、それが
直也に、もっと
血腥い決心の動機となっていた。
暴に
報ゆるには暴を
以てせよ。相手が金を背景として、暴を用いるなら、こちらは死を背景とした暴を用いてやれ。
憤怒と嫉妬とに狂った
直也は、そう考えていた。そうした考えが浮ぶと共に、
直也の顔には、死そのもののような決死の相が浮んでいた。
「
貴君の、この不正な不当な結婚を、中止なさい。中止すると誓いなさい! でなければ……でなければ……」そう言ったまゝ、
直也の言葉も
遉に後が続かなかった。
「でなければ、
何うすると言うのです。あはゝゝゝゝゝ。
貴君は、この
荘田を
脅迫するのですな。こりゃ面白い! 中止しなければ、
何うすると言うのです。」
直也は、無我夢中だった。彼は、自分も父も母も恋人も、国の法律も、何もかも忘れてしまった。ただ眼前数尺の所にある、大きい赤ら顔を、
何うにでも
叩き
潰したかった。
「中止しなければ……こうするのです。」
そう叫んだ
刹那【瞬間】、彼の右の手は、鉄火の
如くポケットを放れ、水平に突き出されていた。その手先には、白い
光沢のある金属が鈍い光を放っていた。
「何! 何をするのだ。」と、
荘田が、悲鳴とも怒声とも付かぬ声を挙げて、
扉の方へタジ/\と二三歩後ずさりした時だった。
直也の父は、狂気のように息子の右の腕に飛び付いた。
「
直也! 何をするのだ!
馬鹿な。」
その声は、泣くような
叱るような悲鳴に近い声だった。
父の手が、子の右の手に触れた
刹那【瞬間】だった。
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