真珠夫人
菊池寛


奇禍きか


     

 汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々はげしくなって行く焦燥もどかしさで、満たされていた。国府津こうづまでの、まだ五つも六つもある駅ごとに、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持を可なり、いら立たせているのであった。
 彼は、一刻も早く静子に、会いたかった。そして彼の愛撫あいぶに、かつえている彼女を、思うさま、いたわってやりたかった。
 時は六月のはじめであった。汽車の線路に添うて、潮のように起伏している山や森の緑は、少年のような若々しさを失って、むっとするようなあくどさで車窓に迫って来ていた。たゞ、所々植付けられたばかりの早苗さなえが、軽いほのぼのとした緑を、初夏の風の下に、漂わせているのであった。
 常ならば、箱根から伊豆いず半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になっているはずの二等室【中等車室】も、春と夏との間の、湯治には半端はんぱな時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句あげくであるためとで、それらしい乗客の影さえ見えなかった。たゞ仏蘭西フランス人らしい老年の夫婦が、一人息子らしい十五六の少年を連れて、車室の一隅を占めているのが、信一郎の注意を、最初からいているだけである。彼は、若い男鹿おじかの四肢のように、スラリとしなやかな少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とにかたみ【互い】に話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしていた。の一行の外には、洋服を着た会社員らしい二人連と、田舎娘とその母親らしい女連が、乗り合わしているだけである。
 が、あの湯治階級【中流から上流の余裕ある人々】と言ったような、男も女も、大島そろいか何かを着て、金や白金プラチナや宝石の装身具を身体からだのあらゆる部分に、きらめかしているような人達が、乗り合わしていないことは信一郎にとって結局気楽だった。彼等は、屹度きっと声高に、しゃべり散らしたり、何かを食べ散らしたり、無作法に振舞ったりすることにって、現在以上に信一郎の心持をいら/\させたに違いなかったから。
 日は、深くかげっていた。汽車の進むに従って、隠見【隠れたり見えたり】する相模灘さがみなだはすゝけた銀のごとく、底光をおびたまゝよどんでいた。先刻さっきまで、見えていた天城あまぎ山も、何時いつの間にか、灰色に塗り隠されてしまっていた。相模灘を圧している水平線の腰の辺りには、雨をでも含んでいそうな、暗鬱あんうつな雲が低迷していた。
1/343

もう、午後四時を回っていた。
静子が待ちあぐんでいるに違いない。』と思う毎に、汽車の回転が殊更ことさら遅くなるように思われた。信一郎は、いらいらしくなって来る心を、じっと抑え付けて、湯河原の湯宿に、自分を待っている若き愛妻の面影を、くうに描いて見た。何よりもず、その石竹色せきちくいろ湿うるんでいる頬に、微笑の先駆として浮かんで来る、笑靨えくぼが現われた。それに続いて、つつましいくちびる、高くはないけれども穏やかな品のいゝ鼻。が、そんな目鼻立よりも、顔全体に現われている処女おとめらしい含羞性シャイネス【はにかみ】、それを思い出す毎に、信一郎自身の表情が、たるんで来て、其処そこには居合わさぬ妻に対する愛撫の微笑が、何時の間にか、浮かんでいた。彼は、それを誰かに、気付かれはしないかと、恥しげに車内を見回わした。が、例の仏蘭西の少年が、その時、
お母親さんママン!」と声高に呼びかけた外には、乗合の人々は、銘々に何かを考えているらしかった。
 汽車は、海近い松林の間を、轟々ごうごうと駆け過ぎているのであった。


     

 湯の宿の欄干らんかんに身をもたせて、自分を待ちあぐんでいる愛妻の面影が、汽車の車輪の回転に連れて消えたりかつ浮かんだりした。それほど、信一郎は新しく婚した静子に、心も身も与えていたのである。
 つい三月ほど前に、田舎で挙げた結婚式のことを考えても、上京のみちすがら奈良や京都に足を止めた蜜月旅行ホネムーンらしい幾日かの事を考えても、彼は静子たことが、どんなに幸福を意味しているかをしみ/″\と悟ることが出来た。
 結婚の式場で示した彼女の、処女おとめらしいはずかしさと、きよらかさ、それに続いた同棲どうせい生活において、自分に投げて来た全身的な信頼、日がつに連れて、埋もれていた宝玉のように、だん/\現れて来る彼女のいろ/\な美質、そうしたことを、取とめもなく考えていると、信一郎は一刻も早く、目的地に着いて初々ういういしい静子の透き通るようなくゝりあご【肉づきがよくて二重になった顎】のあたりを、軽くパットしてやりたくて、仕様がなくなって来た。
わずか一週間、離れていると、もうそんなにいたくて、たまらないのか。』と自分自身心の中で、そう反問すると、信一郎は駄々っ子か何かのように、じれ切っている自分が気はずかしくないこともなかった。
 が、新婚後、まだ幾日にもならない信一郎に取っては、わずか一週間ばかりの短い月日が、どんなにか長く、三月も四月もに相当するように思われた事だろう。
2/343

静子が、急性肺炎の病後のために、医者から温泉行を、勧められた時にも、信一郎は自分の手許てもとから、妻を半日でも一日でも、手放して置くことが、不安なさびしい事のように思われて、仕方がなかった。それかと言って、結婚のため、半月以上も、勤先を欠勤している彼には休暇をもらう口実などは、何も残っていなかった。彼はむなく先週の日曜日に妻と女中とを、湯河原へ伴うと、ぐその日に東京へ帰って来たのである。
 今朝着いた手紙から見ると、もうスッカリくなっているに違いない。明日の日曜に、自分と一緒に帰ってもいゝと、言い出すかも知れない。軽便鉄道の駅までは、迎えに来ているかも知れない。いや、静子は、そんなことに気のく女じゃない。あれは、おとなしくつつましく待っている女だ、屹度きっと、あの湯の新築の二階の欄干らんかんにもたれて、藤木川に懸っている木橋をじっと見詰めているに違いない。そして、馬車や自動車が、あの橋板をとゞろかすごとに、静子も自分が来たのではないかと、彼女の小さい胸をとどろかしているに違いない。
 信一郎の、こうした愛妻を中心とした、いろ/\な想像は、重く垂下がった夕方の雲をつんざくような、鋭い汽笛の声で破られた。窓から首を出して見ると、一帯の松林のの間から、国府津こうづに特有な、あの凄味すごみを帯びた真蒼まっさおな海が、暮れ方の光を暗く照り返していた。
 秋の末か何かのように、見渡すかぎり、陸や海は、蕭条しょうじょう【物寂しい】たる色を帯びていた。が、信一郎国府津こうづだと知ると、よみがえったように、座席をって立ち上った。


     

 汽車がプラットホームに、横付けになると、多くもなかった乗客は、我先きにと降りてしまった。の駅が止まりである列車は、見る/\うちに、洗われたように、むなしくなってしまった。
 が、停車場は少しも混雑しなかった。五十人ばかりの乗客が、改札口のところで、しばらくまだらに たゆたった【揺れ動く】だけであった。
 信一郎は、身支度をしていたために、誰よりも遅れて車室を出た。改札口を出て見ると、駅前の広場に湯本行きの電車が発車するばかりの気勢けはいを見せていた。が、その電車もこのの前の日曜の日の混雑とは丸切り違って、まだ腰をかける余地さえ残っていた。が、信一郎はその電車を見たときにガタリガタリと停留場ごとに止まる、のろ/\した途中の事が、直ぐ頭に浮かんだ。その上、小田原で乗り換えると行く手にはもっと難物が控えている。
3/343

それは、右は山 左は海の、狭い崖端がけはなを、蜈蚣むかでか何かのようにのたくって行く軽便鉄道である。それを考えると、彼は電車に乗ろうとした足を、思わず踏みとどめた。湯河原まで、うしても三時間かゝる。湯河原で降りてから、あの田舎道をガタ馬車で三十分、どうしても十時近くなってしまう。彼は汽車の中で感じたそれの十倍も二十倍も、いらいらしさが自分を待っているのだと思うと、うしても電車に乗る勇気がなかった。彼は、少しも予期しなかった困難にでもったように急に悄気しょげてしまった。丁度その時であった。つか/\と彼を追いかけて来た大男があった。
「もし/\如何いかがです。自動車にお召しになっては。」と、彼に呼びかけた。
 見ると、その男は富士屋自動車と言う帽子をかぶっていた。信一郎は、急にたすけ舟にでも逢ったように救われたような気持で、立ち止った。が、彼は賃銭の上の掛引のことを考えたので、そうした感情を、顔へは少しも出さなかった。
「そうだねえ。乗ってもいゝね。安ければ。」と彼は可なり余裕よゆうもって、答えた。
何処どこまでいらっしゃいます。」
「湯河原まで。」
「湯河原までじゃ、十五円【十万円前後/2025年】で参りましょう。本当なれば、もう少し頂くのでございますけれども、此方こっちからお勧めするのですから。」
 十五円と言う金額を聞くと、信一郎は自動車に乗ろうと言う心持を、スッカリ無くしてしまった。と言って、彼は貧しくはなかった。一昨年法科を出て、三菱みつびしへ入ってから、今まで相当な給料をもらっている。その上、郷国くににある財産からの収入を合わすれば、月額五百円【330万円前後】近い収入を持っている。が十五円と言う金額を、湯河原へ行く時間を、わずか二三時間縮める為に払うことは余りに贅沢ぜいたく過ぎた。たとい愛妻の静子が、いかに待ちあぐんでいるにしても。
「まあ、よそう。電車で行けば訳はないのだから。」と、彼は心のうちで考えている事とは、全く反対な理由を言いながら、洋服を着た大男を振り捨てゝ、電車に乗ろうとした。が、大男は執念しゅうねく彼を放さなかった。
4/343


「まあ、一寸ちょっとお待ちなさい。御相談があります。実は、熱海あたみまで行こうと言う方があるのですが、その方と合乗あいのりして下さったら、如何でしょう、それならば大変格安になるのです。それならば、七円だけ出して下されば。」
 信一郎の心は可なり動かされた。彼は、電車の踏み段の棒にやろうとした手を、引っ込めながら言った。「一体、そのお客とはどんな人なのだい?」


     

 洋服を着た大男は、信一郎と同乗すべき客を、迎えて来るために、駅の真向いにある待合所の方へ行った。
 信一郎は、大男の後姿を見ながら思った。どうせ、旅行中のことだから、どんな人間との合乗でもたかが三四十分の辛抱だから、介意かまわないが、それでも感じのいゝ、道伴みちづれであってれゝばいゝと思った。傲然ごうぜんとふんぞり返るような、成金風の湯治階級の男なぞであったら、たまらないと思った。彼はでっぷりとふとった男が、実印を刻んだ金指環ゆびわをでも、光らせながら、大男に連れられて、やって来るのではないかしらと思った。それとも、意外に美しい女か何かじゃないかしらと思った。が、まさか相当な位置の婦人が、合乗を承諾することもあるまいと、思い返した。
 彼は一寸ちょっとした好奇心をそそられながら、しばらくの伴侶はんりょたるべき人の出て来るのを、待っていた。
 三分ばかり待った後だったろう。やっと、交渉がまとまったと見え、大男はニコ/\笑いながら、先きに立って待合所から立ち現れた。その刹那せつな【瞬間】に、信一郎は大男の肩越に、チラリと角帽をかぶった学生姿を見たのである。彼は同乗者が学生であるのをよろこんだ。ことに、自分の母校――と言う程の親しみは持っていなかったが――の学生であるのをよろこんだ。
「お待たせしました。の方です。」
 そう言いながら、大男は学生を、信一郎に紹介した。
「御迷惑でしょうが。」と、信一郎は快活に、挨拶あいさつした。学生は頭を下げた。が、なんにも物は言わなかった。信一郎は、学生の顔を、一目見て、その高貴な容貌ようぼうに打たれざるを得なかった。恐らく貴族か、でなければ名門の子弟なのだろう。
5/343

品のよい鼻と、黒く澄み渡ったひとみとが、争われない生れの け高さ を示していた。殊に、け高く人懐ひとなつかしそうなひとみこのの青年を見る人に、いゝ感じを与えずにはいなかった。クレイヴネット【Cravenette:イギリスのブランド】の外套がいとうを着て、一寸ちょっとした手提かばんを持った姿は、又なく瀟洒しょうしゃに打ち上って【あかぬけして】見えた。
「それで貴君あなた様の方を、湯河原のお宿までお送りして、それから引き返して熱海あたみへ行くことに、此方こちらの御承諾を得ましたから。」と、大男は信一郎に言った。
「そうですか。それは大変御迷惑ですな。」と、信一郎は改めて学生に挨拶した。やがて、二人は大男の指し示す自動車上の人となった。信一郎は左側に、学生は右側に席を占めた。
「湯河原までは、四十分、熱海までは、五十分で参りますから。」と、大男が言った。
 運転手の手は、ハンドルにかゝった。信一郎と学生とを、乗せた自動車は、今発車したばかりの電車を追いかけるように、すさまじい爆音を立てたかと思うと、まっしぐらに国府津こうづの町を疾駆した。
 信一郎は、もう四十分の後には、愛妻のもとに行けるかと思うと、汽車中で感じた焦燥もどかしさや、いらだたしさは、後なく晴れてしまった。自動車の軽動ジャンに連れて身体からだが躍るように、心も軽く楽しい期待に躍った。が、信一郎の同乗者たるかの青年は、自動車に乗っているような意識は、少しもないように身を縮めて一隅に寄せたまゝ そのひいでたまゆを心持ひそめて、何かに思いふけっているようだった。車窓に移り変る情景にさえ、一瞥いちべつをも与えようとはしなかった。


     

 小田原の街に、入るまで、二人は黙々として相並んでいた。信一郎は、心の中では、この青年に一種の親しみをさえ感じていたので、うにかして、話しかけたいと思っていたが、深い憂愁にでも、とらわれているらしい青年の容子ようすは、信一郎にそうした機会をさえ与えなかった。
 ほとんど、一尺にも足りない距離で見る青年の顔付は、愈々いよいよその け高さ を加えているようであった。が、その顔はうした原因であるかは知らないが、蒼白そうはくな血色を帯びている。二つのひとみは、何かの悲しみのため力なく湿うるんでいるようにさえ思われた。
 信一郎はなるべく相手の心持をみだすまいと思った。
6/343

が、一方から考えると、同じ、自動車に二人切りで乗り合わしている以上、黙ったまゝ相対していることは、何だか窮屈で、かつは不自然であるようにも思われた。
「失礼ですが、今の汽車で来られたのですか。」
 と、信一郎ようやく口を切った。会話のための会話として、わかり切ったことを尋ねて見たのである。
「いやこのの前の上りで来たのです。」と、青年の答えは、少し意外だった。
「じゃ、東京から いらっしたんじゃ ないんですか。」
「そうです。三保の方へ行っていたのです。」
 話しかけて見ると、青年は割合ハキ/\と、しかし事務的な受け答をした。
「三保と言えば、三保の松原ですか。」
「そうです。彼処あすこに一週間ばかりいましたが、飽きましたから。」
「やっぱり、御保養ですか。」
「いや保養と言う訳ではありませんが、どうも頭がわるくって。」と言いながら、青年の表情は暗い陰鬱いんうつな調子を帯びていた。
「神経衰弱ですか。」
「いやそうでもありません。」そう言いながら、青年は力無さそうに口をつぐんだ。簡単に言葉では、現わされない原因が、存在することを暗示するかのように。
「学校の方は、ズーッとお休みですね。」
「そうです、もう一月ばかり。」
もっとも文科じゃ出席してもしなくっても、同じでしょうから。」と、信一郎は、先刻さっき青年の襟に、Lと言う字を見たことを思い出しながら言った。
 青年は、立入って、いろ/\かれることに、一寸ちょっと不快を感じたのであろう、又黙り込もうとしたが、法科を出たものの、少年時代からずっと文芸の方に親しんで来た信一郎このの青年とそうした方面の話をも、して見たいと思った。
「失礼ですが、高等学校は。」しばらくして、信一郎はまたこう口を切った。
「東京【旧制一高】です。」青年は振り向きもしないで答えた。
「じゃ私と同じですが、お顔に少しも見覚えがないようですが、何年にお出になりました。」
 青年の心に、急に信一郎に対する一脈の親しみがいたようであった。
7/343

華やかな青春の時代を、同じ向陵むこうがおかの寄宿寮に過ごした者のみが、感じ合う特殊の親しみが、青年の心を湿うるおしたようであった。
「そうですか、それは失礼しました。僕は一昨年高等学校を出ました。貴君あなたは。」
 青年は初めて微笑をもらした。さびしい微笑だったけれども微笑には違いなかった。
「じゃ、高等学校は丁度僕と入れ換わりです。お顔を覚えていないのも無理はありません。」そう言いながら、信一郎はポケットから紙入を出して、名刺を相手に手交した。
「あゝ渥美あつみさんとおっしゃいますか。僕は生憎あいにく名刺を持っていません。青木じゅんと言います。」と、言いながら青年は信一郎の名刺をじっと見詰めた。


     

 名乗り合ってからの二人は、前の二人とは別人同士であるような親しみを、お互に感じ合っていた。
 青年ははにかであるが、その癖人一倍、人懐ひとなつこい性格を持っているらしかった。単なる同乗者であった信一郎には、冷めたい横顔を見せていたのが、一旦いったん同じ学校の出身であると知ると、ぐ先輩に対する親しみで、なついて来るような初心うぶな優しい性格を、持っているらしかった。
「五月の十日に、東京を出て、もう一月ばかり、あてもなく宿とまり歩いているのですが、何処どこへ行っても落着かないのです。」と、青年は訴えるような口調で言った。
 信一郎は、青年のそうした心の動揺が、屹度きっと青年時代に有勝ありがちな、人生観の上の疑惑か、でなければ恋のもだえか何かであるに違いないと思った。が、う言って、それに答えてよいか分らなかった。
一層いっそのこと、東京へお帰りになったらうでしょう。僕なども精神上の動揺のため、海へなり山へなり安息を求めて、旅をしたことも度々ありますが、一人になると、かえって孤独から来るさびしさまでが加わって、いよいよえられなくなって、又都会へ追い返されたものです。僕の考えでは、何かをまぎらすには、東京生活の混乱と騒擾そうじょうとが、何よりの薬ではないかと思うのです。」と、信一郎は自分の過去の二三の経験を思い浮べながらそう言った。
「が、僕の場合は少し違うのです。東京にいることがうにもたまらないのです。当分東京へ帰る勇気は、トテもありません。」
8/343


 青年は、又黙ってしまった。心の中の何処かに、可なり大きい傷を受けているらしい青年の容子は信一郎の眼にもいたましく見えた。
 自動車は、もうとっくに小田原を離れていた。気が付いて見ると、暮れかゝる太平洋の波が、白く砕けている高いがけの上を軽便鉄道の線路に添うて、疾駆しているのであった。
 道は、可なり狭かった。右手には、青葉の層々と茂った山が、往来を圧するように迫っていた。左は、急な傾斜を作って、直ぐ真下には、海が見えていた。崖がやゝ滑かな勾配こうばいになっている所は蜜柑みかん畑になっていた。しら/″\と咲いている蜜柑の花からく、高いにおいが、自動車の疾駆するまゝに、車上の人のおもてを打った。


「日暮までに、熱海あたみに着くといゝですな。」と、信一郎しばらくしてから、沈黙を破った。
「いや、し遅くなれば、僕も湯河原で一泊しようと思います。熱海へ行かなければならぬと言う訳もないのですから。」
「それじゃ、是非湯河原へお泊りなさい。折角お知己ちかづきになったのですから、ゆっくりお話したいと思います。」
貴方あなたは永く御滞在ですか。」と、青年がいた。
「いゝえ、実は妻が行っているのを迎えに行くのです。」と、信一郎は答えた。
「奥さんが!」そう言った青年の顔は、何故なぜだか、一寸ちょっと淋しそうに見えた。青年は又黙ってしまった。
 自動車は、風をいて走った。可なり危険な道路ではあったけれども、日に幾回となく往返ゆきかえりしているらしい運転手は、東京の大路を走るよりも、邪魔物のないのを、結句けっく【結局】気楽そうに、奔放自在ほんぽうじざいにハンドルを回した。その大胆な操縦が、信一郎達をして、時々ハッと息をませることさえあった。
「軽便かしら。」と、青年が独語ひとりごとのように言った。いかにも、自動車の爆音にもまぎれない轟々ごうごうと言う響が、山と海とに反響こだまして、段々近づいて来るのであった。


     

 轟々ごうごうと とゞろく軽便鉄道の汽車の音は、段々近づいて来た。
9/343

自動車が、ある山鼻【山の突き出た所】を回ると、眼の前にもう真黒な車体が、見えていた。絶えず吐く黒い煙と、あえいでいるような格好かっこうとは、何かのろ臭い生き物のような感じを、見る人に与えた。信一郎の乗っている自動車の運転手は、の時代遅れの交通機関を見ると、丁度お伽噺とぎばなしの中で、かめに対したうさぎのように、いかにも相手を馬鹿ばかにし切ったような態度を示した。彼は擦れ違うために、少しでも速力を加減することを、がえんじ【承諾し】なかった。彼は速力を少しも緩めないで、軽便の軌道と、右側の崖壁がいへきの間とを、すばやく通り抜けようと、ハンドルを回しかけたが、それは、彼として、明かな違算であった。其処そこは道幅が、殊更ことさら狭くなっているために、軽便の軌道は、山の崖近く敷かれてあって、軌道と岩壁との間には、車体をれる間隔は存在していないのだった。運転手がこのの事に気が付いた時、汽車は三間【約5.4m】と離れない間近に迫っていた。
「馬鹿! 危い! 気を付けろ!」と、汽車の機関士のはげしい罵声ばせいが、狼狽ろうばいした運転手の耳朶じだ【耳たぶ】を打った。彼は周章あわてた。が、さすがに間髪を容れない瞬間に、ハンドルを反対に急転した。自動車はからく衝突を免れて、道の左へ外れた。信一郎はホッとした。が、それはまたゝく暇もない瞬間だった。左へかわした自動車は、かわし方が余りに急であったためはずみを打ってそのまゝ、左手の岩崖がんがいを墜落しそうな勢いを示した。道の左には、半間ばかりの熊笹くまざさしげっていて、そのはずれからは十丈【約30m】に近い断崖だんがいが、海へ急な角度を成していた。
 最初の危機には、冷静であった運転手も、第二の危険には度を失ってしまった。彼は、狂人のように意味のない言葉を発したかと思うと、運転手台で身をもがいた。が、運転手の死物狂いの努力は間に合った。三人の生命を託した車台は、急回転をして、海へおちることから免れた。が、その反動で五間ばかり走ったかと思うと、今度は右手の山の岩壁に、すさまじくぶっつかったのである。
 信一郎は、恐ろしい音を耳にした。それと同時に、はげしい力で、狭い車内を、二三回左右にたたき付けられた。眼がくらんだ。
10/343

しばらくは、たゞあらしのような混沌こんとんたる意識の外、何も存在しなかった。
 信一郎が、ようやく気が付いた時、彼は狭い車内で、海老えびのように折り曲げられて、一方へ叩き付けられている自分を見出みいだした。彼はやっと身を起した。頭から胸のあたりを、ボンヤリで回わした彼は自分が少しも、傷付いていないのを知ると、まだフラ/\する眼を定めて、自分の横にいるはずの、青年の姿を見ようとした。
 青年の身体からだは、其処そこにあった。が、彼の上半身は、半分開かれた扉から、外へはみ出しているのであった。
「もし/\、君! 君!」と、信一郎は青年を車内に引き入れようとした。その時に、彼は異様な苦悶くもんの声を耳にしたのである。信一郎は水を浴びたように、ゾッとした。
「君! 君!」彼は、必死に呼んだ。が、青年は何とも答えなかった。たゞ、人の心をきむしるような低いうめき声が続いているだけであった。
 信一郎は、懸命の力で、青年を車内に抱き入れた。見ると、彼の美しい顔の半面は、薄気味の悪い紫赤色しせきしょくを呈している。それよりも、信一郎の心を、おびやかしたものは、唇の右の端から、あごにかけて流れる一筋の血であった。しかもその血は、唇から出る血とは違って、内臓からほとばしったに違いない赤黒い血であった。

返すべき時計


     

 信一郎が、青年の身体からだをやっと車内に引き入れたとき、運転手席から路上へ、投げ出されていた運転手は、ようやく身を起した。額の所へ擦り傷の出来た彼の顔色は、すべての血の色を無くしていた。彼はオズ/\車内をのぞき込んだ。
何処どこもお負傷けがはありませんか。お負傷はありませんか。」
馬鹿ばか! 負傷どころじゃない。大変だぞ。」と、信一郎は怒鳴りつけずにはいられなかった。彼は運転手の放胆な操縦が、惨禍さんかの主なる原因であることを、信じたからであった。
「はっはっ。」と運転手は恐れ入ったような声を出しながら、窓にかけている両手をブル/\ふるわせていた。
「君! 君! 気をたしかにしたまえ。」
11/343


 信一郎は懸命な声で青年の意識を呼び返そうとした。が、彼は低い、ともすれば、絶えはてそうなうめき声を続けているだけであった。
 口から流れている血の筋は、何時いつの間にか、段々太くなっていた。右の頬が見る間にれふくらんで来るのだった。信一郎は、ボンヤリつッ立っている運転手を、再びしかり付けた。
「おい! 早く小田原へ引返すのだ。全速力で、早く手当をしないと助からないのだぞ。」
 運転手は、夢からめたように、運転手席に着いた。が、発動機のこわれている上に、前方の車軸までが曲っているらしい自動車は、一寸ちょっとだって動かなかった。
「駄目です。とても動きません。」と、運転手は罪を待つ人のようにふるえ声で言った。
「じゃ、一番近くの医者を呼んで来るのだ。真鶴まなづるなら、遠くはないだろう。医者と、そうだ、警察とへ届けて来るのだ。又小田原へ電話が通ずるのなら、ぐ自動車を寄越すように頼むのだ。」
 運転手は、気の抜けた人間のように、命ぜらるゝままに、フラ/\とけ出した。
 青年の苦悶くもんは、続いている。半眼に開いている眼は、上ずッた白眼を見せているだけであるが、信一郎は、たゞ青年の上半身を抱き起しているだけで、うにも手の付けようがなかった。もう、臨終に間もないかも知れない青年の顔かたちを、たゞ茫然ぼうぜんと見詰めているだけであった。
 信一郎は青年の奇禍きか【思いがけない災難】をいたむのと同時に、あわよく免れた自身の幸福を、よろこばずにはいられなかった。それにしても、うして扉が、開いたのだろう。其処そこから身体が出たのだろう。上半身が、半分出たために、衝突の時に、扉と車体との間で、強く胸部をぶされたのに違いなかった。
 信一郎は、ふと思いついた。最初、車台が海に面する断崖だんがいへ、顛落てんらくしようとしたとき、青年は車から飛び降りるべく、咄嗟とっさに右の窓を開けたに違いなかった。もし、そうだとすると、車体が最初おそれられたように、海中に墜落したとすれば、死ぬ者は信一郎と運転手とで、助かる者はこの青年であったかも知れなかった。
12/343


 車体が、急転したとき、信一郎と青年の運命も咄嗟に転換したのだった。自動車のかりそめの合乗あいのりに青年と信一郎とは、恐ろしい生死の活劇に好運悪運の両極に立ったわけだった。
 信一郎は、そう考えると、結果の上からは、自分が助かるための犠牲になったような、青年のいたましい姿を、一層あわれまずにはいられなかった。
 彼は、ふとウィスキイの小壜こびんがトランクの中にあることを思い出した。それを、飲ますことが、こうした重傷者にう言う結果を及ぼすかは、ハッキリとわからなかった。が、彼としてはの場合にし得る唯一ゆいいつの手当であった。彼は青年の頭を座席の上に、ソッと下すとトランクを開けて、ウィスキイのびんを取り出した。


     

 口中に注ぎ込まれた数滴のウィスキイが、いたのか、それとも偶然そうなったのか、青年の白く湿うるんでいたひとみが、だん/\意識の光を帯び始めた。それと共に、意味のなかったうめき声が切れ切れではあるが、言葉の形を採り始めた。
「気をたしかにしたまえ! 気を! 君! 君! 青木君!」信一郎は、力一杯に今覚えたばかりの青年の名を呼び続けた。
 青年は、じっとひとみこらすようであった。はげしい苦痛のために、ともすれば飛び散りそうになる意識を懸命に取りあつめようとするようだった。彼は、じいっと、信一郎の顔を、見詰めた。やっと自分を襲ったわざわいの前後を思い出したようであった。
うです。気が付きましたか。青木君! 気を確にしたまえ! ぐ医者が来るから。」
 青年は意識が帰って来ると、かりそめの旅の道連みちづれの親切を、しみ/″\と感じたのだろう。
「あり――ありがとう。」と、苦しそうに言いながら、感謝の微笑をたたえようとしたが、それはしきりなく襲うて来る苦痛のために、跡なく崩れてしまった。はらわたをよじるような、苦悶くもんの声が、続いた。
「少しの辛抱です。直ぐ医者が来ます。」
 信一郎は、相手の苦悶のいた/\しさに、狼狽ろうばいしながら答えた。
 青年は、それに答えようとでもするように、身体からだを心持起しかけた。その途端だった。苦しそうにき込んだかと思うと、あごから洋服の胸へかけて、流れるような多量の血を吐いた。それと同時に、今迄いままで充血していた顔が、サッとあおざめてしまった。
13/343


 青年の顔には、既に死相が読まれた。内臓が、外部からの劇しい衝動の為に、内出血をしたことが余りに明かだった。
 医学の心得の少しもない信一郎にも、もう青年の死が、単に時の問題であることが分った。青年の顔に血色がなかったごとく、信一郎おもてにも、血の色がなかった。彼は、彼と偶然知己ちき【知り合い】になって、直ぐ死に去って行く、ホンの瞬間の友達の運命を、じっと見詰めている外はなかった。
 太平洋を圧している、密雲に閉ざされたまゝ、日は落ちてしまった。夕闇ゆうやみの迫っている崖端がけはなの道には、人の影さえ見えなかった。瀕死ひんしの負傷者を見守る信一郎は、ヒシ/\と、身に迫る物凄ものすご寂寥せきりょう【何もない孤独】を感じた。負傷者のうめき声の絶間たえまには、崖下の岩を洗うなみの音がさびしく聞えて来た。
 吐血をしたまゝ、仰向けに倒れていた青年は、ふと頭をもたげて何かを求めるような容子ようすをした。
「何です! 何です!」信一郎は、おおいかぶさるようにしていた。
「僕の――僕の――トランク!」
 口中の血にせるのであろう、青年はあえぎ喘ぎ絶え入るような声で言った。信一郎は、車中を見回した。青年が、たずさえていた旅行用の小形のトランクは座席の下に横倒しになっているのだった。信一郎は、それを取り上げてやった。青年は、それを受け取ろうとして、両手を出そうとしたが、彼の手はもう彼の思うようには、動きそうにもなかった。
「一体、トランクうするのです。」
 青年は、何か答えようとして、口を動かした。が、言葉の代りに出たものは、先刻さっきの吐血の名残りらしい少量の血であった。
「開けるのですか。開けるのですか。」
 青年はうなずこうとした。が、それも肯こうとする意志だけを示したのに、過ぎなかった。信一郎トランクを開けにかゝった。が、それにはかぎがかゝっていると見え、容易には開かなかった。が、この場合 瀕死の重傷者に、鍵の在処ありかを尋ねるなどは、余りに心ないことだった。信一郎は、満身の力を振って、じ開けた。
14/343

金物に付いて、革がベリ/\と、二三寸引き裂かれた。


     

「何を出すのです。何を出すのです。」
 信一郎は、薬品をでも、取り出すのであろうと思っていた。が、青年の答は意外だった。
雑記帳ノートブックを。」青年の声は、かすかに咽喉のどれると、言う程度に過ぎなかった。
「ノート?」信一郎は、不審いぶかりながら、トランクき回した。いかにもトランクの底に、三じょうつづりの【三冊分を綴じ合わせた】大学ノートを入れてあるのを見出みいだした。
 青年は、眼でうなずいた。彼は手を出して、それを取った。彼は、それを破ろうとするらしかった。が、彼の手は、たゞノートの表紙を滑べり回るだけで、一枚の紙さえ破れなかった。
「捨てゝ――捨てゝ下さい! 海へ、海へ。」
 彼は、懸命に苦しげな声を、振りしぼった。そして、哀願的なひとみで、じいっと、信一郎を見詰めた。
 信一郎は、大きく肯いた。
「承知しました。何か、外に用がありませんか。」
 信一郎は、大声で、しかも可なりの感激をもって、青年の耳許みみもとで叫んだ。本当は、何か遺言ゆいごんはありませんかと、言いたい所であった。が、そう言い出すことは、のうら若い負傷者に取って、余りに気の毒に思われた。が、そう言ってもよいほど青年の呼吸は、迫っていた。
 信一郎の言葉が、青年に通じたのだろう。彼は、それに応ずるように、右の手首を、高く差し上げようとするらしかった。信一郎は、不思議に思いながら、差し上げようとする右の手首に手を触れて見た。其処そこに、冷めたく堅い何かを感じたのである。夕暮の光にすかして見ると、青年は腕時計をはめているのであった。
「時計ですか。この時計をうするのです。」
 はげしい苦痛に、ゆがんでいる青年のおもてに、又別な苦悶くもんが現われていた。それは肉体的な苦悶とは、又別な――肉体の苦痛にも劣らないほどの――心の、魂の苦痛であるらしかった。
15/343

彼の蒼白まっさおだったおもては微弱ながら、にわかに興奮の色を示したようであった。
「時計を――時計を――返して下さい。」
「誰にです、誰にです。」信一郎も、懸命になって訊き返した。
「お願い――お願い――お願いです。返して下さい。返して下さい。」
 もう、断末魔らしい苦悶のうちに、青年はこの世にける、最後の力を振りしぼって叫んだ。
「一体、誰にです? 誰にです。」
 信一郎すがり付くように、訊いた。が、青年の意識は、再び彼を離れようとしているらしかった。たゞ、低い切れ切れのうなり声が、それに答えただけだった。信一郎は、今の答えを得ておかなければ永劫えいごうに得られないことを知った。
「時計を誰に返すのです。誰に返すのです。」
 青年の四肢が、ピクリ/\と痙攣けいれんし始めた。もう、死期の目睫もくしょうの間に迫っていることがわかった。
「時計を誰に返すのです。青木君! 青木君! しっかりしたまえ。誰に返すのです。」
 死の苦しみに、青年は身体からだを、左右にもだえた。信一郎の言葉は、もう瀕死ひんしの耳に通じないように見えた。
「時計を誰に返すのです。名前を言って下さい。名前を言って下さい。名前を!」
 信一郎の声も、狂人のように上ずッてしまった。その時に、青年の口が、何かを言おうとして、モグ/\と動いた。
青木君、誰に返すのです?」
 永久に、消え去ろうとする青年の意識が、ホンの瞬間、この世に呼び返されたのか。それとも死際しにぎわの無意味な囈語うわごとであったのだろうか。青年は、
瑠璃子るりこ瑠璃子!」と、子供の片言のように、口走ると、それを世に残した最後の言葉として、劇しい痙攣が来たかと思うと、それがサッと潮の引くように、衰えてしまってガクリとなったかと思うと、もう、ピクリともしなかった。死が、ついに来たのである。


     

 信一郎は、ハンカチーフを取り出して、死者のあごから咽喉のどにかけての、血をぬぐってやった。
16/343


 だん/\蝋色ろういろに、白んで行く、不幸な青年のかおをじっと見詰めていると、信一郎の心も、青年の不慮の横死【不慮の死】をいたむ心で一杯になって、ほた/\と、涙が流れて止まらなかった。五年も十年も、親しんで来た友達の死顔を見ている心と、少しも変らなかった。何と言う、不思議な運命であろうと、信一郎は思った。親しい友達は、元より、親兄弟、いとしきつまおっと、愛児の臨終にさえ、いろ/\な事情や境遇のために、居合わさぬ事もあれば、間に合わぬ事もあるのに、ホンの三十分か四十分の知己ちき【知り合い】、ホンの暫時ざんじ【しばらくの間】の友人、言わば路傍の人に過ぎない、かりそめの旅の道伴みちづれでありながら、その死床にして、介抱をしたり、遺言を聞いてやると言うことは、何と言う不思議な機縁【人と人との縁】であろうと、信一郎は思った。
 が、青年の身になって、考えて見ると、一寸ちょっとした小旅行の中途で思いがけない奇禍きかって、さびしい海辺の一角で、親兄弟は勿論もちろん親しい友達さえも居合わさず、他人に外ならない信一郎に、死水を――それは水でなく、数滴のウィスキイだったが――取られて、望み多い未来を、不当に予告なしに、切り取られてしまった情なさ、淋しさは、どんなであっただろう。彼は、息を引き取るとき、親兄弟の優しい慰藉いしゃ【なぐさめ】の言葉に、どんなにかつえた【望んだ】ことだろう。ことに、母か姉妹か、あるいは恋人かの女性としての優しい愛の言葉を、どんなに欲しただろう。彼が、口走った瑠璃子と言う言葉は、屹度きっと、そうした女性の名前に違いないと思った。
 そのうちに、信一郎の心に、青年ののこした言葉が考えられ始めた。彼は、最初にこう疑って見た。他人同然の彼に、うして時計のことを言ったのだろう。し、時計が誰かに返さるべきものなら名乗り合ったばかりの信一郎などに頼まないでも、遺族の人の手で、当然返さるべきものではなかろうか。が、信一郎は、ぐこう思い返した。青年はノートの内容も、時計を返すことも、遺族の人々には知られたくなかったのだろう。親兄弟には、飽くまでも、秘密にして置きたかったのであろう。しかも秘密に時計を返すには、信一郎に頼む外には、何の手段もなかったのだ。人間が人間を信じることが一つの美徳であるように、この青年も必死の場合に、心から信一郎を信頼したのだろう。いや、信頼する外には、何の手段もなかったのだ。
 信一郎は、青年の死際しにぎわの懸命の信頼を、心に深く受け入れずには おられなかった。
17/343

名乗り合ったばかりの自分に、心からの信頼を置いている。人間として、男として、の信頼に背く訳には、行かないと思った。
 人が、臨終の時にす信頼は、基督正教カトリックの信徒が、死際しにぎわ懺悔ざんげと同じように、神聖な重大なものに違いないと思った。縦令たとい、三十分四十分の交際であろうとも、頼まれた以上、忠実に、その信頼にむくいねばならぬと思った。
 そう思いながら、信一郎は死者の右の手首から、恐る恐る時計をはずして見た。時計も、それを腕にく腕輪も、銀か白銅ニッケルらしい金属で出来ていた。ガラスは、その持主の悲惨な最期さいごに似て、微塵みじんに砕け散っていた。夕暮の光の中で、透して見ると、腕輪に附いている止め金が、衝突のとき、皮肉を切ったのだろう。軽い出血があったと見え、その白っぽい時計の胴に、所々真赤な血がにじんでいた。今までは、興奮のために夢中になっていた信一郎も、それを見ると、今更ながら、青年の最期の、むごたらしさに、思わず戦慄せんりつを禁じ得なかった。


     

 が、時計を返すとして、一体誰に返したらいゝのだろうかと、信一郎は思った。青年が、死際に口走った瑠璃子と言う名前の女性に返せばいゝのかしら。が、瑠璃子と言ったのは、時計を返すべき相手の名前を、言ったのだろうか。時計などとは何の関係もない、青年の恋人か姉か妹かの名ではないのかしら。
『時計を返してれ。』と言ったとき、青年の意識は、可なりたしかだった。が、息を引き取る時には、青年の意識は、もう正気を失っていた。
瑠璃子!』と、叫んだのは、たゞ狂った心の最後の、偶然な囈語うわごとで、あったかも知れなかった。が、瑠璃子と言う名前は、青年の心に死の刹那せつな【瞬間】に深く喰い入った名前に違いなかった。丁度、腕時計が、死の刹那せつな【瞬間】に彼の手首の肉に、喰い入っていたように。
 信一郎は、再度その小形な腕時計を、手許てもとに迫る夕闇ゆうやみの中で、透して見た。じっと、見詰めていると最初銀かニッケルと思った金属は、銀ほどは光が無くニッケルほど薄っぺらでないのに、気が付いた。彼は指先で、二三度でて見た。それは、ぎれもなく白金プラチナだった。しかも撫でている指先が、何かツブ/\した物に触れたので、ひとみこらすと、鋭い光を放つ一の宝石が、ちりばめられていた。
18/343

しかもそれは金で象眼された小さい短剣のつかに当っていた。それは希臘風ギリシヤふうの短剣の形だった。復讐ふくしゅうの女神ネメシスが、逆手さかてつかんでいるような、短剣の形だった。信一郎は、その特異な、不思議な象眼に、はげしい好奇心を、そそられずにはいられなかった。時計の元来の所有者は、女性に違いなかった。が、その象眼は、何と言う女らしからぬ、鋭い意匠いしょうだろう。
 日は、もうとっぷりと、暮れてしまった。海上にのみ、一脈の薄明が、漂うているばかりだった。運転手は、なか/\帰って来なかった。さびしい海岸の一角に、まだ生あたゝかい死屍ししを、たゞ一人で見守っていることは、無気味な事に違いなかった。が、先刻から興奮し続けている信一郎には、それが左程、いとわしい事にも気味の悪い事にも思われなかった。彼はある感激をさえ感じた。人として立派な義務を尽しているように思った。
 信一郎は、ふとこう言う事に気が付いた。たとい、青年からあゝした依託を受けたとしても、たゞ黙って、の高価な白金プラチナの時計を、死屍ししから持ち去ってもいゝだろうか。もし、臨検りんけんの巡査にでも、とがめられたら、何と返事をしたらいゝだろう。死人に口なく、死に去った青年が、自分のために、弁解してれるはずはない。自分は、人の死屍ししから、高貴な物品を、ぎ取る恐ろしいいやしい盗人ぬすっとと思われても、何の言い訳もないではないか。青年の遺言を受けたと抗弁しても、果して信じられるだろうか。
 そう考えると、信一郎の心は、だん/\迷い始めた。妙ないきがかりから、他人の秘密にまで立ち入って、返すべき人の名前さえ、判然とはしない時計などを預って、つまらぬ心配や気苦労をするよりも、たゞ乗り合わした一個の旅の道伴みちづれとして、遺言も何も、聴かなかったことにしようかしら。
 が、こう考えたとき、信一郎の心の耳に、『お願いで――お願いです。時計を返して下さい。』と言う青年の、血にむせぶ断末魔の悲壮な声が、再び鳴り響いた。
19/343

それに応ずるように、信一郎の良心が、『貴様は卑怯ひきょうだぞ。貴様は卑怯だぞ。』と、低くしかしながら、力強くささやいた。
『そうだ。そうだ。かく瑠璃子と言う女性を探して見よう。たとい、それが時計を返すべき人でないにしろ、その人は屹度きっとの青年に一番親しい人に違いない。その人が、屹度きっと時計を返すべき本当の人を、教えて呉れるのに違いない。又、自分が時計を盗んだと言うような、不当な疑いを受けたとき、この人が屹度きっと弁解して呉れるのに違いない。』
 信一郎は、『瑠璃子』と言う三字を頼りにして、自分の物でない時計を、ポケット深く、おさめようとした。
 その時に、急に近よって来る人声がした。彼は、悪い事でもしていたように、ハッと驚いて振り返った。警察の提灯ちょうちんを囲んで、四五人の人が、足早にけ付けて来るようだった。


     

 駈け付けて来たのは、オド/\している運転手を先頭にして、年若い巡査と、医者らしいはかまをつけた男と、警察の小使らしい老人との四人であった。
 信一郎は、彼等を迎えるべく扉を開けて、路上へ降りた。
 巡査は提灯を車内に差し入れるようにしながら、
うです。負傷者は?」と、いた。
先刻さっき、息を引き取ったばかりです。何分胸部をひどく、やられたものですから、助からなかったのです。」と、信一郎は答えた。
 暫らくは、誰もが口をかなかった。運転手が、ブル/\ふるえ出したのが、ほの暗い提灯の光の中でも、それとわかった。
かく、一応て下さい。」と、巡査は医者らしい男に言った。運転手はふるえながら、車体に取り付けてある洋灯ランプに、点火した。周囲が、急に明るくなった。
「おつれじゃないのですね。」医者が検視をするのを見ながら、巡査は信一郎に訊いた。
20/343


「そうです。たゞ国府津こうづから乗合わしたばかりなのです。が、名前は判って居ます。先刻名乗り合いましたから。」
「何と言う名です。」巡査は手帳を開いた。
青木じゅんと言う文科大学生です。宿所は訊かなかったけれど、どうも名前と顔付から考えると、青木淳三と言う貴族院議員のお子さんに違いないと思うのです。無論断言は出来ませんが、持物でも調べればぐ判るでしょう。」
 巡査は、信一郎の言う事を、一々うなずいて聴いていたが、
「遭難の事情は、運転手から一通り、聴きましたが、貴君あなたからもお話を願いたいのです。運転手の言うことばかりも信ぜられませんから。」
 信一郎は言下に「運転手の過失です。」と言い切りたかった。過失と言うよりも、無責任だと言い切りたかった。が、おののきながら、信一郎と巡査との問答を、身の一大事とばかり、聞耳を澄ましている運転手の、罪を知った容子ようすを見ると、そう強くも言えなかった。その上、運転手の罪を、幾何いくら声高に叫んでも、青年のよみがえはずもなかった。
「運転手の過失もありますが、どうも此方このかたが自分で扉を、開けたような形跡もあるのです。扉さえひらかなかったら、死ぬようなことはなかったと思います。」
「なるほど。」と、巡査は何やら手帳に、書き付けてから言った。「いずれ、遺族の方から起訴にでもなると、貴君あなたにも証人になっていただくかも知れません。御名刺を一枚戴きたいと思います。」
 信一郎わるゝまゝに、一枚の名刺を与えた。
 丁度その時に、医者は血にみれた手を気にしながら、車内から出て来た。
「ひどく血を吐きましたね。あれじゃ負傷後、幾何いくらも生きていなかったでしょう。」と、信一郎に言った。
「そうです。三十分も生きていたでしょうか。」
「あれじゃ助かりっこはありません。」と、医者は投げるように言った。
貴君あなたもとんだ災難でした。」と、巡査は信一郎に言った。
21/343

「が、死んだ方にくらぶれば、むしろ命拾いをしたと言ってもいゝでしょう。湯河原へ行らっしゃるそうですね。それじゃ小使に御案内させますから真鶴まなづるまでお歩きなさい。死体の方は、引受けましたから、御自由にお引き取り下さい。」
 信一郎は、とにかく当座の責任と義務とから、放たれたように思った。が、ポケットの底にある時計の事を考えれば、信一郎の責任は何時いつ果されるとも分らなかった。
 信一郎は車台に近寄って、黙礼した。不幸な青年に最後の別れを告げたのである。
 巡査達に挨拶あいさつして、二三間行った時、彼はふと海に捨つるべく、青年から頼まれたノートの事を思い出した。彼は驚いて、取って帰した。
「忘れ物をしました。」彼は、やゝ狼狽ろうばいしながら言った。
「何です。」車内をのぞき込んでいた巡査が振りかえった。
「ノートです。」信一郎は、やゝ上ずッた声で答えた。
「これですか。」先刻さっきから、それに気の付いていたらしい巡査は、座席の上から取り上げてれた。信一郎は、そのノートの表紙に、ペンで青木淳とかいてあるらしいのを見ると、ハッと思った。が、光は暗かった。その上、巡査の心にそうしたうたがい微塵みじんも存在しないらしかった。彼は、やっと安心して、自分の物でない物を、自分の物にした。


     

 真鶴まなづるから湯河原までの軽便の汽車の中でも、駅から湯の宿までの、田舎馬車の中でも、信一郎の頭は混乱と興奮とで、一杯になっていた。その上、衝突のときに、受けた打撃が現われて来たのだろう、頭がズキ/\と痛み始めた。
 青年のうめき声や、吐血の刹那せつな【瞬間】や、蒼白あおじろんで行った死顔などが、ともすれば幻覚となって、耳や目を襲って来た。
 静子に久し振にえると言ったような楽しい平和な期待は、偶然な血腥ちなまぐさい出来事のために、滅茶苦茶めちゃくちゃになってしまったのである。静子初々ういういしい面影を、描こうとすると、それが何時いつの間にか、青年の死顔になっている。「静子静子!」と、口の中で呼んで、愛妻に対する意識を、ハッキリさせようとすると、その声が何時の間にか「瑠璃子瑠璃子!」と、言う悲痛な断末魔の声を、おもい浮べさせたりした。
 馬車が、暗い田の中の道を、左へ曲ったと思うと、眼の前に、山懐やまふところにほのめく、湯の街の灯影ほかげが見え始めた。
22/343


 信一郎は、愛妻に逢う前に、うかして、乱れている自分の心持を、整えようとした。なるべく、穏やかな平静な顔になって、自分の激動ショックを妻に伝染うつすまいとした。血腥ちなまぐさい青年の最期さいごも、出来るならば話すまいとした。それは優しい妻の胸には、鋭すぎる事実だった。
 藤木川の左岸に添うて走った馬車が、新しい木橋を渡ると、はしたもとの湯の宿の玄関に止まった。
「奥様がお待ち兼でございます。」と、妻に付けてある女中が、宿の女中達と一緒に玄関に出迎えた。ふと気が付くと、玄関の突き当りの、二階への階段の中段に、降りて出迎えようか(それともそれが可なりはしたない事なので)降りまいかと、躊躇ためらっていたらしい静子が、信一郎の顔を見ると、艶然にっこりと笑って、はち切れそうなうれしさを抑えて、いそ/\とけ降りて来るのであった。
「いらっしゃいませ。うして、こう遅かったの。」静子一寸ちょっと不平らしい様子を嬉しさのうちに見せた。
「遅くなって済まなかったね。」
 信一郎は、いたわるように言い捨てゝ、先に立って妻の部屋へ入った。
 その時に、彼はふと青年から頼まれたノートを、まだ夏外套がいとうのポケットに入れているのに、気が付いた。先刻真鶴まで歩いたとき、引き裂いて捨てよう/\と思いながら、小使の手前、うしても果し得なかったのである。当惑のために、彼の表情はやゝ曇った。
「御気分が悪そうね。うかしたのですか。湯衣ゆかたにお着換えなさいまし。それとも、お寒いようなら、褞袍どてらになさいますか。」
 そう言いながら静子甲斐々々かいがいしく信一郎の脱ぐ上衣うわぎを受け取ったり、襯衣シャツを脱ぐのを手伝ったりした。
 そのうちに、上衣を衣桁いこうにかけようとした妻は、ふと、
「あれ!」と、可なり けたゝましい声を出した。
うしたのだ。」信一郎は驚いていた。
「何でしょう。これは、血じゃなくて。」
 静子は、真蒼まっさおになりながら、洋服の腕のボタンの所を、電灯でんとうの真近に持って行った。それは紛ぎれもなく血だった。一寸ちょっと四方ばかり、ベットリと血がじんでいたのである。
「そうか。やっぱり付いていたのか。」
23/343


 信一郎の声も、やゝふるいを帯びていた。
うかしたのですか。うかしたのですか。」気の弱い静子の声は、可なり上ずッていた。
 信一郎は、妻の気を落着けようと、可なり冷静に答えた。
「いやうもしないのだ。たゞ、自動車ががけにぶっかってね。乗合わしていた大学生が負傷したのだ。」
貴君あなたは、何処どこもお負傷けがはなかったのですか。」
「運がよかったのだね。俺は、かすり傷一つ負わなかったのだ。」
「そしてその学生の方は。」
「重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ奇禍きか【思いがけない災難】と言うんだね。」
 静子は、夫が免れた危険を想像するけで、可なり激しい感動に襲われたと見え、目をみはったまゝしばらくは物も言わなかった。
 信一郎も、何だか不安になり始めた。奇禍きかに逢ったのは、大学生ばかりではないような気がした。自分も妻も、平和な気持を、滅茶々々にされた事が、可なり大きいわざわいであるように思った。が、そればかりでなく、時計やノートを受け継いだ事にって、青年の恐ろしい運命をも、受け継いだような気がした。彼は、楽しく期待した通り静子に逢いながら、優しい言葉一つさえ、かけてやる事が出来なかった。
 夫と妻とは、蒼白まっさおになりながら、黙々として相対していた。信一郎は、ポケットに入れてある時計が、何か魔のでもあるように、気味悪く感ぜられ始めた。

美しき遅参者


     

 青年の横死【不慮の死】は、東京の各新聞にって、可なりくわしく伝えられた。青年が、信一郎の想像した通り青木男爵だんしゃく長子であったことが、それにって証明された。が、不思議に同乗者の名前は、各新聞とももらしていた。信一郎は結局それを気安いことに思った。
 信一郎が、静子を伴って帰京した翌日に、青木家の葬儀は青山の斎場で、執り行われることになっていた。
 信一郎は、自分が青年の最期さいごを介抱した当人であると言う事を、名乗って出るような心持は、少しもなかった。
24/343

が、自分の手をまくらにしながら、息を引き取った青年が、いたましかった。他人でないような気がした。十年の友達であるような気がした。その人の面影をしのぶと、何となく なつかしい涙ぐましい気がした。
 遺族の人々とは、縁もゆかりもなかった。が、弔われている人とは、可なり強い因縁が、まつわっているように思った。彼は、心からそのとむらいの席に、つらなりたいと思った。
 が、その上、もう一つ是非とも、つらなるべき必要があった。青年の葬儀である以上、姉も妹も、瑠璃子るりこと呼ばるゝ女性も、返すべき時計の真の持主も、(もしあれば)青年の恋人も、みんなつらなっているのにちがいない。青年に、由縁ゆかりのある人を物色すれば、時計を返すべき持主も、案外容易に、見当が付くにちがいない。いな、少くとも瑠璃子と言う女だけは、容易に見出みいだし得るにちがいない、信一郎はそう考えた。
 その日は、廓然かくぜんと晴れた初夏の一日だった。もう夏らしく、白い層雲が、むく/\と空の一角にいていた。水色の空には、強い光が、一杯にち渡って、生々せいせいの気が、空にも地にもあふれていた。たゞ、青山の葬場に集まった人だけは、活々いきいきとした周囲の中に、しめっぽい静かな陰影いんえいを、投げているのだった。
 青年の不幸な夭折ようせつが、特に多くの会葬者を、き付けているらしかった。信一郎が、定刻の三時前に行ったときに、早くも十幾台の自動車と百台に近いくるまが、斎場の前の広い道路に乗り捨てゝあった。控席に待合わしている人々は、もう五百人に近かった。それだのに、自動車やくるまが、幾台となく後から/\到着するのだった。死んだ青年の父が、貴族院のある団体の有力な幹部であるために、政界の巨頭は、大抵網羅しているらしかった。貴族院議長のT公爵の顔や、軍令部長のS大将の顔が、信一郎にもぐそれとわかった。葉巻を横銜よこぐわえにしながら、場所柄をも考えないように哄笑こうしょうしている【大口をあけて笑う】巨漢は、逓信ていしん大臣のN氏だった。それと相手になっているのは、戦後の欧洲おうしゅうを、回って来て以来、風雲を待っているらしく思われているG男爵だった。その外首相の顔も見えた。
25/343

内相もいた。陸相もいた。実業界の名士の顔も、五六人は見覚えがあった。が、見渡したところ信一郎の知人は一人もいなかった。彼は、受附へ名刺を出すと、控場ひかえじょうの一隅へ退いて、式の始まるのを待っていた。
 誰も彼に、話しかけてれる人はなかった。接待をしている人達も、名士達の前には、頭を幾度も下げて、その会葬を感謝しながら、信一郎には、たゞ儀礼的な一揖いちゆうむくいただけだった。
 誰からも、顧みられなかったけれども、信一郎の心には、自信があった。千に近い会葬者が、集まろうとも、青年の臨終にしたのは、自分一人ではないか。青年の最期を、見届けているのは、自分一人ではないか。青年の信頼を受けているのは自分一人ではないか。その死床にして介抱してやったのは、自分一人ではないか。もし、死者にして霊あらば、大臣や実業家や名士達の社交上の会葬よりも、自分の心からな会葬を、どんなによろこぶかも知れない。そう思うと、信一郎は自分の会葬が、他の何人なんぴとの会葬よりも、意義があるように思った。彼はそうした感激にふけりながら、じっと会葬者の群を眺めていた。急に、皆が静かになったかと思うと、戞々かっかつたる【鋭く響くような】馬蹄ばていの響がして、霊柩れいきゅうを載せた馬車が遺族達に守られて、斎場へ近づいて来るのだった。


     

 霊柩を載せた馬車を先頭に、一門の人々を載せた馬車が、七八台も続いた。信一郎は、群衆を擦りけて、馬車の止まった方へ近づいた。次ぎ/\に、馬車を降りる一門の人々を、仔細しさいに注視しようとしたのである。
 霊柩のぐ後の馬車から、降り立ったのは、今日の葬式の喪主であるらしい青年であった。一目見ると、横死【不慮の死】した青年の肉親の弟である事が、直ぐわかった。それほど二人はよく似ていた。たゞ学習院の制服を着ているこの青年の背丈が、国府津こうづで見たその人の兄よりも、一二寸高いように思われた。
 その次ぎの馬車からは、二人の女性が現われた。信一郎は、そのいずれかゞ瑠璃子と呼ばれはしないかと、熱心に見詰めた。
26/343

二人とも、死んだ青年の妹であることが、直ぐ判った。兄に似て二人とも端正な美しさを持っていた。年の上の方も、まだ二十を越していないだろう。その美しい眼を心持泣きはらして、雪のような喪服をまとうて、うつむきがちに、しおたれて歩む姉妹の姿は、悲しくもまた美しかった。
 それに、続いてどの馬車からも、一門の夫人達であろう、白無垢しろむくを着た貴婦人が、一人二人ずつ降り立った。信一郎は、そのうちの誰かゞ、屹度きっと瑠璃子に違いないと思いながら、一人から他へと、あわただしい眼を移した。が、たゞいら/\するだけで、ハッキリと確めるすべは、少しもなかった。
 霊柩が式場の正面に安置せられると、会葬者も銘々に、式場へ雪崩なだれ入った。手狭な式場は見る見る、一杯になった。
 式が始まる前の静けさが、其処そこに在った。会葬者達は、銘々慎つつましみの心を、表に現わして紫やの衣を着た老僧達の、居並ぶ祭壇を一斉に注視しているのであった。
 式場が静粛に緊張して、今にも読経どきょうの第一声が、この静けさを破ろうとする時だった。突如として式場の空気などを、少しも顧慮しないような けたゝましい、自動車の響が場外に近づいた。祭壇に近い人々は、さすがに振向きもしなかった。が、会葬者のほとんど過半が、この無遠慮な闖入者ちんにゅうしゃに対して叱責しっせきに近い注視を投げたのである。
 自動車は、式場の入口に横附けにされた。伊太利イタリー製らしい、優雅な自動車の扉が、運転手にってはいせられた【開けられた】。
 会葬者の注視を引いた事などには、何の恐れ気もないように、翼をひろげた白孔雀くじゃくのような、け高さと上品さとで、その踏段から地上へと、スックと降り立ったのは、まだうら若い一個の女性だった。降りざまに、そのおもておおうていた黒い薄絹のヴェールを、かなぐり捨てゝ、無造作に自動車の中へ投げ入れた。人々の環視のうちに、微笑とも嬌羞きょうしゅう【なまめかしい恥じらい】とも付かぬ表情を、たたえたおもては、くっきりとしろく【清らかで汚れなく】輝いた。
 白襟紋付もんつき瀟洒しょうしゃきぬは、そのスラリとした姿を一層気高く見せていた。彼女は、何の悪怯わるびれた【おどおどする】容子ようすも見せなかった。打ち並ぶ名士達の間に、細く残された通路を、足早に通り抜けて、祭壇の右の婦人達の居並ぶ席に就いた。
27/343


 会葬者達は、場所柄の許す範囲で、銘々熱心な眼で、の美しい無遠慮な遅参者の姿を追った。が、そうした眼の中でも、信一郎のそれが、一番熱心で一番輝いていたのである。


 彼は、何よりも先きに、この女性の美しさに打たれた。年は二十はたちを多くは出ていなかったゞろう。が、そうした若い美しさにもかかわらず、人を圧するような威厳が、何処どこかに備わっていた。
 信一郎は、頭の中で自分の知っている、あらゆる女性の顔を浮べて見た。が、そのどれもが、この婦人の美しさを、少しでもおかすことは出来なかった。
 泰西たいせい【西洋諸国】の名画の中からでも、抜け出して来たような女性を、信一郎は驚異に似た心持でしばらくは、茫然ぼうぜんと会衆の頭越しに見詰めていたのである。


     

 信一郎が、その美しき女性に、釘付くぎづけにされたように、会葬者のひとみも、一時はの女性の身辺に注がれた。が、そのうちに、衆僧が一斉に始めた読経どきょうの朗々たる声は、皆の心持を死者に対する敬虔けいけん哀悼あいとうに引きべてしまった。
 が、この女性が、信一郎の心のうちに起した動揺は、お経の声などにって却々なかなか静まりそうにも見えなかった。
 彼は、直覚的にこの女性が、死んだ青年に対して、特殊な関係を持っていることを信じた。この女性の美しいけれども颯爽さっそうたる容姿が、あの返すべき時計に鏤刻るこくされている、鋭い短剣の形をおもい起さしめた。彼は、読経の声などには、ほとんど耳も傾けずに、群衆の頭越しに、女性の姿を、懸命に見詰めたのである。
 が、見詰めているうちに、信一郎の心は、それが瑠璃子であるか、時計の持主であるかなどと言う疑問よりも、の女性の美しさに、段々とらわれて行くのだった。
 の女性の顔形は、美しいと言っても、昔からある日本婦人の美しさではなかった。それは、日本の近代文明が、はじめて生み出したような美しさと表情を持っていた。明治時代の美人のように、個性のない、人形のような美しさではなかった。そのひとみは、飽くまでも、理知りちに輝いていた。顔全体には、爛熟らんじゅくした文明の婦人に特有な、的な輝きがあった。
 婦人席で多くの婦人の中に立っていながら、の女性の背後だけには、ほの/″\と明るい後光が、しているように思われた。
 年頃から言えば娘とも思われた。が、何処どこかに備わっている冒しがたい威厳は、名門の夫人であることを示しているように思われた。
28/343


 信一郎が、の女性の美貌びぼうに対する耽美たんびおぼれているうちに、葬式のプログラムはだん/\進んで行った。死者の兄弟を先に一門の焼香が終りかけると、の女性もしとやかに席を離れて死者のため一抹いちまつの香をいた。
 やがて式はおわった。会葬者に対する挨拶あいさつがあると、会葬者達は、我先にと帰途を急いだ。式場の前にはくるまと自動車とがしばらくは右往左往に、入りみだれた。
 信一郎は、急いで退場する群衆に、わざと取残された。彼は群衆に押されながら、意識して、の女性に近づいた。
 女性が、式場を出外ではずれると、彼女はそこで、四人の大学生に取りかれた。大学生達は皆死んだ青年の学友であるらしかった。彼女は何か二言ふたこと三言みこと言葉をかえすと乗るべき自動車に片手をかけて、華やかな微笑を四人の中の、誰に投げるともなく投げて、そのしなやかな身をひるがえしてたちまち車上の人となったが、つと上半身を出したかと思うと、
「本当にそう考えて下さっては、わたくし困りますのよ。」と、嫣然えんぜんと【あでやかにほほえんで】言い捨てると、ドアをハタと閉じたが自動車はそれを合図に散りかゝる群衆の間を縫うて、おもむろに動き始めた。
 大学生達は、自動車の後を、暫らく立ち止まって見送ると、そのまま肩をそろえて歩き出した。信一郎も学生達の後を追った。学生達に話しかけて、この女性の本体を知ることが時計の持主を知る、唯一ゆいいつの機会であるように思ったからである。
 学生達は、電車に乗るつもりだろう。式場の前の道を、青山三丁目の方へと歩き出したのであった。信一郎は、それと悟られぬよう一間ばかり、間隔をもって歩いていた。が、学生達の声は、可なり高かった。彼等の会話が、切れ切れに信一郎にも聞えて来た。
青木の変死は、偶然だと言えばそれまでだが、僕は死んだと聞いたとき、ぐ自殺じゃないかと思ったよ。」と、一番ふとっている男が言った。
「僕もそうだよ。青木やつ、やったな! と思ったよ。」
29/343

と、他の背の高い男は直ぐ賛成した。


     

「僕の所へ三保から寄越した手紙なんか、全く変だったよ。」と、たゞ一人夏外套がいとうを着ている男が言った。
 信一郎は、そうした学生の会話に、好奇心をそそられて、思わず間近く接近した。
かく、ヒドく悄気しょげていたことは、事実なんだ。誰かに、失恋したのかも知れない。が、彼奴あいつの事だから誰にも打ち明けないし、相手の見当は、サッパリ付かないね。」と、ふとった男が言った。
 そう聞いて見ると、信一郎は、自動車に同乗したときの、青年の態度をぐ思い出した。その悲しみに閉された面影がアリ/\と頭に浮んだ。
「相手って、まさか我々の荘田しょうだ夫人じゃあるまいね。」と、一人が言うと、皆高々と笑った。
「まさか。まさか。」と皆は口々に打ち消した。
 其処そこは、もう三丁目の停留場だった。四人連の内の三人は、其処そこに停車している電車に、無理に押し入るようにして乗った。たゞ、後に残った一人だけ、眼鏡をかけた、皆の話を黙って聴いていた一人だけ、友達と別れて、電車の線路に沿うて、青山一丁目の方へ歩き出した。信一郎は、その男の後を追った。相手が、一人の方が、話しかけることが、容易であると思ったからである。
 半町ばかり、付いて歩いたが、うしても話しかけられなかった。突然、話しかけることが、不自然で突飛であるように思われた。彼は、幾度も中止しようとした。が、この機会を失しては、時計を返すべきいとぐちが、永久に見付け得られないようにも思った。信一郎到頭とうとう思い切った。先方が、一寸ちょっと振り返るようにしたのを機会に、つか/\と傍へ歩き寄ったのである。
「失礼ですが、貴君あなた青木さんのおとむらいに?」
「そうです。」先方は突然な問を、意外に思ったらしかったが、不愉快な容子ようすは、見せなかった。
「やっぱりお友達でいらっしゃいますか。」信一郎はやゝ安心していた。
「そうです。ずっと、小さい時からの友達です。小学時代からの竹馬の友です。」
30/343


「なるほど。それじゃ、さぞお力落しでしたろう。」と言ってから、信一郎は少し躊躇ちゅうちょしていたが、「つかぬ事を、承わるようですが、今貴君あなた方と話していた婦人の方ですね。」と言うと、青年は直ぐ訊き返した。
「あの自動車で、帰った人ですか。あの人がうかしたのですか。」
 信一郎は少しドギマギした。が、彼は訊き続けた。
「いや、うもしないのですが、あの方は何とおっしゃる方でしょう。」
 学生は、一寸ちょっと信一郎あわれむような微笑を浮べた。ホンの瞬間だったけれども、それは知るべきものを知っていない者に見せるあわれみの微笑だった。
「あれが、有名な荘田夫人ですよ。御存じなかったのですか。かつて司法大臣をした事のある唐沢男爵だんしゃくの娘ですよ。唐沢さんと言えば、青木君のお父様と、同じ団体に属している貴族院の老政治家ですよ。お父様同士の関係で、青木君とは近しかったんです。」
 そう言われて見ると、信一郎も、荘田夫人なるものゝ写真や消息を婦人雑誌や新聞の婦人欄で幾度も見たことを思い出した。が、それに対して、何の注意も払っていなかったので、その名前はうしてもおもい浮ばなかった。が、の場合名前まで訊くことが、可なり変に思われたが、信一郎は思い切ってたずねた。
「お名前は、確か何とか言われたですね。」
瑠璃子ですよ、我々は、玉桂たまかつら瑠璃子夫人と言っていますよ。ハヽヽヽ。」と、学生は事もなげに答えた。


     

 葬場にける遅参者が、信一郎の直覚していたとおり瑠璃子と呼ばるる女性であることが、この大学生にって確められると、彼はその女性に就いて、もっといろ/\な事が、知りたくなった。
「それじゃ、青木君とあの瑠璃子夫人とは、そう大したお交際つきあいでもなかったのですね。」
「いやそんな事もありませんよ。この半年ばかりは、可なり親しくしていたようです。もっともあの奥さんは、大変お交際つきあいの広い方で、僕なぞも、青木君同様 可なり親しく、交際している方です。」
31/343


 大学生は、美貌びぼうの貴婦人を、知己ちき【知り合い】の中に数え得ることが、可なり得意らしく、誇らしげにそう答えた。
「じゃ、可なり自由な御家庭ですね。」
「自由ですとも、夫の勝平氏を失ってからは、思うまゝに、自由に振舞っておられるのです。」
「あ! じゃ、あの方は未亡人ですか。」信一郎は、可なり意外に思いながらいた。
「そうです。結婚してから半年か其処そこらで、夫に死に別れたのです。それに続いて、先妻のお子さんの長男が気が狂ったのです。今では、荘田家はあの奥さんと、美奈子みなこと言う十九の娘さんだけです。それで、奥さんは離縁にもならず、娘さんの親権者として荘田家を切り回しているのです。」
「なるほど。それじゃ、後妻に来られたわけですね。あの美しさで、あの若さで。」と、信一郎は事ごとに意外に感じながらそうつぶやいた。
 大学生は、それに対して、何か説明しようとした。が、もう二人は青山一丁目の、停留場に来ていた。学生は、今発車しようとしている塩町行の電車に、乗りたそうな容子を見せた。
 信一郎は、最後の瞬間を利用して、もう一歩進めて見た。
「突然ですが、ある用事で、あの奥さんに、一度お目にかゝりたいと思うのですが、紹介して下さる訳には……」と、言葉を切った。
 大学生は、信一郎のそうしたやゝ不自然な、ぶっきら棒な願いを、美貌の女性の知己ちき【知り合い】になりたいと言う、世間普通な色好みの男性の願と、同じものだと思ったらしく、一寸ちょっと嘲笑ちょうしょうに似た笑いをもらそうとしたが、直ぐそれをみ殺して、
貴君あなたの御身分や、御希望をくわしく承らないと、僕として一寸ちょっと紹介して差上げることは出来ません。尤も、荘田夫人は普通の奥さん方とは違いますから、突然尋ねて行かれても、屹度きっとってれるでしょう。御宅は、麹町こうじまちの五番町です。」
 そう言い捨てると、その青年は身体からだすばしこく動かしながら、まさに動き出そうとする電車に巧に飛び乗ってしまった。
 信一郎は、一寸ちょっとおいてきぼりを喰ったような、稍々やや不快な感情を持ちながら、しばらく其処そこ佇立ちょりつした。大学生に話しかけた自分の態度が、下等な新聞記者か何かのようであったのが、恥しかった。どんなに、あの女性の本名が知りたくても もっと上品な態度が取れたのにと思った。
32/343


 が、そうした不愉快さが、段々消えて行った後に、瑠璃子と言う女性の本体をつかみ得た満足が其処そこにあった。しかも、瑠璃子と言う女性が、今もなおハンカチーフに包んで、ポケットの底深く潜ませて、持って来た時計の持主らしい、すべての資格を備えていることが何よりもうれしかった。短剣をちりばめた白金プラチナの時計と、今日見た瑠璃子夫人の姿とは、ピッタリと合いすぎるほど、合っていた。今日にでも夫人を訪ねれば、夫人は屹度きっと、死んだ青年に対する哀悼あいとうの涙を浮べながら、あの時計を受取って呉れるにちがいない。そして、自分と青年との不思議な因縁に、感激の言葉を発するに違ない。そう思うと、信一郎ひとみにあざやかな夫人の姿が、歴々ありありと浮かんで来た。彼は一刻も早く、夫人に逢いたくなった。其処そこへ、彼のそうした決心をうながすように、九段両国行きの電車が、きしって【キシキシと音を立てて】来た。この電車に乗れば、麹町五番町までは、一回の乗換さえなかった。


     

 電車が、赤坂見付から三宅坂みやけざか通り、五番町に近づくに従って、信一郎の眼には、葬場で見た美しい女性の姿が、いろいろな姿勢ポーズを取って、現れて来た。返すべき時計のことなどよりも、美しき夫人の面影の方が、より多く彼の心を占めているのに気が付いた。彼は自分の心持の中に、不純なものが交りかけているのを感じた。『お前は時計を返すために、あの夫人にいたがっているのではない。時計を返すのを口実として、あの美しい夫人に逢いたがっているのではないか。』と言う叱責しっせきに似た声を、彼は自分の心持の中に感じた。それほど、瑠璃子と呼ばれる女性の美しさが、彼の心を悩まし惑わしたが、信一郎は懸命にそれから逃れようとした。自分の責任は、たゞ青年の遺言どおりに、時計を真の持主に返せばいゝのだ。荘田瑠璃子が、どんな女性であろうとあるまいと、そんな事は何の問題でもないのだ。たゞ、夫人が本当に時計の持主であるかどうかゞ、問題なのだ。自分はそれを確めて、時計を返しさえすれば、責任は尽きるのだ。信一郎は、そう強く思い切ろうとした。が、幾何いくら強く思い切ろうとしても、白孔雀くじゃくを見るような、ろうたけた【美しくて気品がある】若き夫人の姿は、彼が思うまいとすればするほど、いよいよ鮮明に彼の眼底を去ろうとはしなかった。
33/343


 青い葉桜の林に、キラ/\と夏の風が光る英国大使館の前を過ぎ、青草が美しく茂ったおほりどてに沿うて、電車が止まると、彼は急いで電車を降りた。彼の眼の前に五番町の広いとおりが、午後の太陽の光の下に白く輝いていた。彼は、一寸ちょっとした興奮を感じながらも、しばらくは其処そこに立ち止まった。紳士として、突然訪ねて行くことが、余りにはしたないようにも思われた。手紙位で、一応面会の承諾を得る方が、自然で、かつは礼儀ではないかと思ったりした。が、そうした順序を踏んで相手が、会わないと言えば、それ切りになってしまう。少しは不自然でも、直截ちょくさいに訪問した方が、かえって容易に会見し得るかも知れない。ことに、今は死んだ青年の葬儀から帰ったばかりであるから、の夫人も、きっと青年のことを、考えているにちがいない。其処そこへ、自分が青年の名にって尋ねて行けば、案外快く引見するに違いない。そう考えると信一郎くずれかゝった勇気を振いおこして、五番町の表通と横町とを軒並のきなみに、物色して歩いた。彼は、五番町のすべてをあさった。が、何処どこにも、荘田と言う表札は、見出みいださなかった。三十分近く無駄に歩き回った末、彼は到頭とうとう通り合わした御用ききらしい小僧に尋ねた。
荘田さんですか。それじゃあの停留場のぐ前の、白煉瓦れんがの洋館の、お屋敷がそれです。」と、小僧は言下げんかに【一言】教えてれた。
 その家は、信一郎にも最初からわかっていた。信一郎は、電車から降りたとき、直ぐその家に眼をったのであるが、花崗岩みかげいしらしい大きな石門から、かえで並樹なみきの間を、爪先つまさき上りになっている玄関への道の奥深く、青い若葉のかげそびえる広壮こうそう【広大でりっぱ】な西洋館が――大きい邸宅のそろっているこの界隈かいわいでも、他の建物を圧倒しているような西洋館が荘田夫人の家であろうとは夢にも思わなかった。
 彼は、予想以上に立派な邸宅に気圧けおされながら、暫らくはその門前に佇立ちょりつした。玄関への青い芝生の中の道が、曲線カーブをしている為に車寄せの様子などは、見えなかったが、ゴシック風の白煉瓦の建物は瀟洒しょうしゃしか荘重そうちょう【おごそかで重々しい】な感じを見る者に与えた。開け放した二階の窓にそよいでいる青色の窓おおい【カーテン】が、如何いかにも清々すがすがしく見えた。二階の縁側ヴェランダに置いてある籐椅子とういすには、燃えるような蒲団クションが敷いてあって、この家の主人公が、美しい夫人であることを、示しているようだ。
34/343


 入ろうか、入るまいかと、信一郎は幾度も思い悩んだ。手紙でき合して見ようか、それでも事は足りるのだと思ったりした。彼が、広壮な邸宅に圧迫されながら思わずきびすかえそうとした時だった。噴泉のくように、突如としてかられ始めた朗々たるピアノの音が信一郎の心をしっかとつかんだのである。


     

 樹の間を洩れて来るピアノの曲は、信一郎にも聞き覚えのあるショパンの夜曲ノクチュルンだった。彼は、かえそうとしたきびすを、釘付くぎづけにされて、しばらくはその哀艶あいえんな響に、心を奪われずにはいられなかった。嫋々じょうじょうたる【しなやかにまといつく】ピアノの音は、高く低く緩やかにはげしく、時には若葉のこずえけ抜ける五月の風のようにささやき、時には青い月光の下に、にわかほとばしでたる泉のように、げきした。その絶えんとして【終わりそうで】、又続く快い旋律が、目に見えない紫の糸となって、信一郎の心に、後から後から投げられた。それは美しい女郎蜘蛛ぐもの吐き出す糸のように、蠱惑こわく的【人の心を引きつけてまどわすよう】に彼の心をとらえた。
 彼の心に、鍵盤キイの上をおさのように馳けめぐっている白い手が、一番に浮かんだ。それに続いて葬場でヴェールを取り去った刹那せつな【瞬間】の白い輝かしい顔が浮んだ。
 彼は時計を返すなどと言うことより、かくも、夫人にいたかった。たゞ、訳もなく、き付けられた。たゞ、会うことが出来さえすれば、その事だけでも、非常に大きなよろこびであるように思った。
 躊躇ちゅうちょしていた足を、踏み返した。思い切って門をくぐった。ピアノの音に連れて、浮れ出した若き舞踏者のように、彼の心もあやしき興奮で、ときめいた。白い大理石の柱の並んでいる車寄せで、彼は一寸ちょっと躊躇した。が、その次の瞬間に、彼の指はもうドアの横に取付けてある呼鈴に触れていた。
 ここまで来ると、ピアノの音は、いよいよ間近く聞えた。そのえた触鍵タッチが、彼の心を強くとらえた。
 呼鈴を押した後で、彼は妙な息苦しい不安のうちに、一分ばかり待っていた。その時、小さい靴の足音がしたかと思うとドアが静かに押し開けられた。名刺受の銀の盆を手にした美しい少年が、微笑を含みながら、頭を下げた。
35/343


「奥さまに、一寸ちょっとお目にかゝりたいと思いますが、御都合は如何いかがでございましょうか。」
 彼は、そう言いながら、一枚の名刺を渡した。
一寸ちょっとお待ち下さいませ。」
 少年は丁寧に再び頭を下げながら、玄関の突き当りの二階を、栗鼠りすのように、すばしこくけ上った。
 信一郎は少年の後を、じっと見送っていた。骰子さいは投げられたのだと言ったような、思い詰めた心持で、その二階に消える足音を聞いていた。
 たちまちピアノの音が、ぱったりとんだ。信一郎は、その刹那せつな【瞬間】に劇しい胸騒ぎを感じたのである。その美しき夫人が、彼の姓名を初めて知ったと言うことが、彼の心を騒がしたのである。彼は、再びピアノが鳴り出しはしないかと、息をこらしていた。が、ピアノの鳴る代りに、少年の小さい足音が、聞え始めた。愛嬌あいきょうのよい微笑わらいを浮べた少年は、トン/\と飛ぶように階段を馳け降りて来た。
「一体、う言う御用でございましょうか、一寸ちょっと聞かしていたゞくように、おっしゃいました。」
 信一郎は、それを聞くと、もう夫人に会う確な望みを得た。
「今日、お葬式がありました青木じゅん氏のことで、一寸ちょっとお目にかゝりたいのですが……」と、言った。少年は、又勢いよく階段を馳け上って行った。今度は、以前のように早くは、馳け降りて来なかった。会おうか会うまいかと、夫人が思案している様子が、あり/\と感ぜられた。五分近くもった頃だろう。少年はやっと、二階から馳け降りて来た。
「御紹介状のない方には、何方どなたにもお目にかゝらないことにしてあるのですが、貴君様あなたさまを御信用申上げて、特別にお目にかゝるように仰しゃいました。どうぞ、此方こちらへ。」と、少年は信一郎を案内した。玄関を上ったところは、広間だった。その広間の左の壁には、ゴヤの描いた『踊り子』の絵の、可なり精緻せいちな模写が掲げてあった。

女王蜘蛛ぐも


     

 信一郎の案内せられた応接室は、青葉の庭に面している広い明るい部屋だった。花模様の青い絨氈じゅうたんの敷かれた床の上には、桃花心木マホガニイ卓子テーブルを囲んで、水色の蒲団クションの取り附けてある腕椅子アームチェイア【肘掛けがついた椅子】が五六脚置かれている。
36/343

壁に添うてよこたわっている安楽椅子いす蒲団クションも水色だった。窓おおい【カーテン】も水色だった。それが純白の布で張られている周囲の壁と映じて、夏らしい清新な気が部屋一杯にちていた。信一郎は勧められるまゝに、ドアを後にして、椅子に腰を下すと、落着いて部屋の装飾を見回した。三方の壁には、それぞれ新しい油絵が懸っていた。左手ゆんでの壁にかゝっているのは、去年の二科の展覧会にかなり世評を騒がした新帰朝のある洋画家の水浴する少女の裸体画だった。この家の女主人公が、裸体画を応接室に掲げるほど、社会上の因襲とらわれていないことを示しているように、画中の少女は、一糸もまとっていない肉体を、冷たそうな泉の中に、その両ひざの所まで、オズ/\と浸しているのであった。その他卓子テーブルの上に置いてある灰皿にも、炉棚マンテルピースの上の時計にも、草花を投げ入れてある花瓶にも、この家の女主人公の繊細な鋭い趣味が、一々現われているように思われた。
 途絶とだえたピアノの音は、再び続かなかった。が、その音の主は、なか/\姿を現わさなかった。少年が茶を運んで来た後は、しばらくの間、近づいて来る人の気勢けはいもなかった。三分ち、五分経ち、十分経った。信一郎の心は、段々不安になり、段々いら/\して来た。自分が、余りに奇を好んで紹介もなく顔を見たばかりの夫人を、訪ねて来たことが、軽率であったように、悔いられた。
 そのうちに、ふと気が付くと、正面の炉棚マンテルピースの上の姿見に、自分の顔が映っていた。彼が何気なく自分の顔を見詰めていた時だった。ふと、サラ/\と言う衣擦きぬずれの音がしたかと思うと、背後うしろドアが音もなく開かれた。信一郎が、周章あわてて立ち上がろうとした時だった。正面の姿見に早くも映った白い美しい顔が、鏡の中で信一郎に、嫣然えんぜんたる微笑の【あでやかにほほえむ】会釈えしゃくを投げたのである。
「お待たせしましたこと。でも、御葬式から帰って、まだ着替えも致していなかったのですもの。」
 長い間の友達にでも言うような、男を男とも思っていないような夫人の声は、媚羞びしゅう【なまめかしい愛らしさ】と狎々なれなれしさに充ちていた。しかも、その声は、何と言う美しい響と魅力とを持っていただろう。
37/343

信一郎は、意外な親しさを投げ付けられて最初はドギマギしてしまった。
「いや突然伺いまして……」と、彼は立ち上りながら答えた。声が、妙に上ずッて、少年か何かのように、赤くなってしまった。
 深海色ふかみいろにぼかした模様の錦紗縮緬きんしゃちりめんの着物に、黒と緑の飛燕ひえん模様の帯を締めた夫人は、そのスラリと高い身体からだを、くねらせるように、椅子に落着けた。
「本当に、盛んなお葬式でしたこと。でもじゅんさんのように、あんなに不意に、死んではたまりませんわ。あんまり、突然で丸切り夢のようでございますもの。」
 初対面の客に、ロク/\挨拶あいさつもしないうちに、夫人は何のこだわりもないように、自由にしゃべり続けた。信一郎は、夫人からスッカリ先手を打たれてしまって、暫らくはなんにも言い出せなかった。彼は我にもあらず【われを失い】、十分受け答もなし得ないで、たゞモジ/\していた。夫人は、相手のそうした躊躇ちゅうちょなどは、眼中にないように、自由で快活だった。
「淳さんは、たしかまだ二十四でございましたよ。確か五黄ごおうでございましたよ。五黄のさるでございましょうかしら。わたしと同じに、よく新聞の九星を気にする方でございましたのよ。オホヽヽヽヽ。」
 信一郎は、美しい蜘蛛の精の繰り出す糸にでも、懸ったように、話手の美しさにいながら、暫らくは茫然ぼうぜんとしていた。


     

 夫人は、口でこそ青年の死をいたんでいるものゝ、その華やかな容子ようすや、表情の何処どこにも、それらしいかげさえ見えなかった。たゞ一寸ちょっとした知己ちき【知り合い】の死を、死んでは少しさびしいが、しかし大したことのない知己の死を、話しているのに過ぎなかった。信一郎は、可なり拍子抜けがした。瑠璃子るりこと言う名が、青年の臨終の床で叫ばれた以上、如何いかなる意味かで、青年と深い交渉があるだろうと思ったのは、自分の思い違いかしら。夫人の容子や態度が、示している通り、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己に、過ぎないのかしら。
38/343

そう、疑って来ると、信一郎は、青年の死際しにぎわ囈語うわごとに過ぎなかったかも知れない言葉や、自分の想像を頼りにして、突然訪ねて来た自分の軽率な、芝居がかった態度が気はずかしくてたまらなくなって来た。彼は、夫人に会えば、こう言おうあゝ言おうと思っていた言葉が、咽喉のどにからんでしまって、たゞモジ/\興奮するばかりだった。
わたくし、今日すっかり時間を間違えていましてね。気が付くと、三時過ぎでございましょう。驚いて、自動車でせ付けましたのよ。あんなに遅く行って、本当にきまりが悪うございましたわ。」
 その癖、夫人はきまりが悪かったような表情は少しも見せなかった。あの葬場でも、それを思い出している今も。若い美しい夫人の何処に、そうした大胆な、人を人とも思わないような強い所があるのかと、信一郎はたゞ呆気あっけに取られているだけであった。先刻からの容子を見ると、信一郎が何のために、訪ねて来ているかなどと言うことは、丸切り夫人の念頭にないようだった。信一郎の方も、訪ねて来た用向をどう切り出してよいか、途方にくれた。が、彼はようやく心をめて、オズ/\話し出した。
「実は、今日伺いましたのは、死んだ青木君の事についてでございますが……」
 そう言って、彼は改めて夫人の顔を見直した。夫人が、それに対してどんな表情をするかゞ、見たかったのである。が、夫人は無雑作だった。
「そう/\取次の者が、そんなことを申しておりました。青木さんの事って、何でございますの?」
 帝劇で見た芝居の噂話うわさばなしをでもしているように夫人の態度は平静だった。
「実は、貴方あなたさまにこんなことをお話しすべき筋であるかどうか、それさえ私には分らないのです、もし、人違ひとちがいだったら、うか御免下さい。」
 信一郎は、女王の前に出た騎士のように慇懃いんぎん【物腰が丁寧で礼儀正しい】だった。が、夫人は卓上に置いてあった支那しな製の団扇うちわを取って、あおぐともなく動かしながら、
「ホヽヽ何のお話か知りませんが大層面白くなりそうでございますのね。まあ話して下さいまし。人違いでございましたにしろ、お聞きいたしただけ聞き徳でございますから。」と、微笑を含みながら言った。
 信一郎は、夫人の真面目まじめとも不真面目とも付かぬ態度に揶揄からかわれたように、まごつきながら言った。
39/343


「実は、私は青木君のお友達ではありません。ただ偶然、同じ自動車に乗り合わしたものです。そして青木君の臨終に居合せたものです。」
「ほゝう貴君あなたさまが……」
 そう言った夫人の顔は、さすがに緊張した。が、夫人は自分で、それに気が付くと、ぐ身をかわすように、以前の無関心な態度に帰ろうとした。
「そう! まあ何と言う奇縁でございましょう。」
 その美しい眼を大きくみひらきながら、努めて何気なく言おうとしたが、その言葉には、何となく、あるこだわりがあるように思われた。
「それで、実は青木君の死際の遺言ゆいごんを聴いたのです。」
 信一郎は、夫人の示したわずかばかりの動揺に力を得て突っ込むようにそう言った。
「遺言を貴君あなたさまが、ほゝう。」
 そう言った夫人の けだかい顔にも、隠し切れぬ不安がアリ/\と読まれた。


     

 今迄いままでは、秋の湖のように澄み切っていた夫人の容子が、青年の遺言と言う言葉を聴くと、急にわずかではあるが、みだれ始めた。信一郎は手答えがあったのをよろこんだ。の様子では、自分の想像も、必ずしもまとが外れているとは限らないと、心強く思った。
「衝突の模様は、新聞にもあるとおりですが、それでも負傷から臨終までは、ず三十分も間がありましたでしょう。その間、運転手は医者を呼びに行っていましたし、通りかゝる人はなし、私一人が臨終に居合わしたと言うわけですが、丁度息を引き取る五分位前でしたろう、青木君は、ふと右の手首に入れていた腕時計のことを言い出したのです。」
 信一郎が、ここまで話したとき、夫人のおもては、急に緊張した。そうした緊張を、現すまいとしている夫人の努力が、アリ/\と分った。
「その時計をうしようと、言われたのでございますか。その時計を!」
 夫人の言葉は、可なりき込んでいた。の美しい白い顔が、サッと赤くなった。
「その時計を返して呉れと言われるのです。是非返して呉れと言われるのです。」信一郎も、やゝ興奮しながら答えた。
誰方どなたにでございましょうか。誰方に返して呉れと言われたのでございましょうか。」
 夫人の言葉は、更に急き込んでいた。
40/343

一度赤くなった顔が、白く冷たい色を帯びた。美しいひとみまでが鋭い光を放って、信一郎の答えいかにと、見詰めているのだった。
 信一郎は、夫人の鋭い視線を避けるようにして言った。
「それが誰にとも分らないのです。」
 夫人の顔に現れていた緊張が、又サッとゆるんだ。しばらく途絶とだえていた微笑が、ほのかながら、その口辺に現われた。
「じゃ、誰方に返して呉れともおっしゃらなかったのですの。」夫人は、ホッと安堵あんどしたように、何時いつの間にか、以前の落着おちつきを、取り返していた。
「いやそれがです。幾度も、返すべき相手の名前をいたのですが、もう臨終が迫っていたのでしょう、私の問には、何とも答えなかったのです。たゞ臨終に貴女あなたのお名前を囈語うわごとのように二度繰り返したのです。それで、万一貴女あなたに、お心当りがないかと思って参上したのですが。」
 信一郎は、肝心かんじんな来意を言ってしまったので、ホッとしながら、彼は夫人がう答えるかと、じっと相手の顔を見詰めていた。
「ホヽヽヽヽ。」先ず美しいその唇から、快活な微笑ほほえみれた。
じゅんさんは、本当に頼もしい方でいらっしゃいましたわ。そんな時にまでわたくしを覚えていて下さるのですもの。でも、私腕時計などには少しも覚えがございませんの。お持ちなら、一寸ちょっと拝見させていたゞけませんかしら。」
 もう、夫人の顔に少しの不安も見えなかった。澄み切った以前の美しさが、帰って来ていた。信一郎は、求めらるゝまゝに、ポケットの底から、ハンカチーフにくるんだなぞの時計を取り出した。
「確か女持には違いないのです。少し、象眼の意匠が、女持としては奇抜過ぎますが。」
「妹さんのものじゃございませんのでしょうか。」夫人は無造作に言いながら、信一郎の差し出す時計を受取った。
 信一郎は断るように附け加えた。
「血が少し附いていますが、わざといてありません。衝突の時に、腕環うでわ止金とめがねが肉に喰い入ったのです。」
 そう信一郎が言った刹那せつな【瞬間】、夫人の美しいまゆが曇った。時計を持っている象牙ぞうげのように白い手が、思いしか、かすかにブル/\とふるえ出した。
41/343




     

 時計を持っている手が、かすかにふるえるのと一緒に、夫人の顔も蒼白あおじろく緊張したようだった。ほんのもう、痕跡こんせきしか残っていない血が、夫人の心を可なり、おびやかしたようにも思われた。
 一分ばかり、無言に時計をいじくり回していた夫人は、何かを深く決心したように、そのひそめたまゆを開いて、急に快活な様子を取った。その快活さには、可なりギゴチない、不自然なところが、交っていたけれども。
「あゝわかりました。やっと思い付きました。」夫人は突然言い出した。
「私この時計に心覚えがございますの。持主の方も存じておりますの。お名前は、一寸ちょっと申上げ兼ますが、ある子爵ししゃくの令嬢でいらっしゃいますわ。でも、私あの方と青木さんとが、こうした物を、お取りかわしになっていようとは、夢にも思いませんでしたわ。屹度きっと誰方どなたにも秘密にしていらしったのでございましょう。だから青木さんは臨終の時にも、遺族の方には知られたくなかったのでございましょう。道理で見ず知らずの貴方あなたにお頼みになったのでございますわ。その令嬢と、愛の印としてお取りかわしになったものを、遺品かたみとしてお返しになりたかったのでは、ございませんかしら。」
 夫人は、明瞭めいりょう流暢りゅうちょうに、何のよどみもなく言った。が、何処どことなく力なく空々しいところがあったが、信一郎は夫人の言うことを疑うたしかな証拠は、少しもなかった。
「私も、多分そうした品物だろうとは思っていたのです。それでは、早速その令嬢にお返ししたいと思いますが、御名前を教えていたゞけませんでしょうか。」
「左様でございますね。」と、夫人は首をかしげたが、ぐ「私を信用していたゞけませんでしょうか、私が、女同士で、そっと返して上げたいと思いますのよ。男の方の手からだと、どんなにはずかしくお思いになるか分らないと、存じますのよ。いかゞ?」と、承諾を求めるように、ニッコリと笑った。華やかな艶美えんびな微笑だった。そう言われると、信一郎はそれ以上、かれこれ言うことは出来なかった。
42/343

かくなぞの品物が思ったより容易に、持主に返されることを、よろこぶより外はなかった。
「じゃ、貴女あなたさまのお手でお返し下さいませ。が、その方のお名前だけは、承ることが出来ませんでしょうか。貴女あなたさまを、お疑い申す訳では決してないのでございますが。」と、信一郎はオズ/\言った。
「ホヽヽヽ貴方様あなたさまも、他人の秘密を聴くことが、お好きだと見えますこと。」夫人は、たちま信一郎を突き放すように言った。その癖、顔一杯に微笑をたたえながら、「恋人を突然奪われたその令嬢に、同情して、黙って私にまかして下さいませ。私が責任をもって、青木さんのたましいが、満足遊ばすようにおはからいいたしますわ。」
 信一郎は、もう一歩も前へ出ることは出来なかった。そうした令嬢が、本当にいるかうかは疑われた。が、夫人が時計の持主を、知っていることは確かだった。それが、夫人の言うとおり、子爵の令嬢であるかうかは分らないとしても。
「それでは、お委せいたしますから、うかよろしくお願いいたします。」
 そう引き退さがるより外はなかった。
たしかにお引き受けいたしましたわ。貴方さまのお名前は、その方にも申上げて置きますわ。屹度きっと、その方も感謝なさるだろうと存じますわ。」
 そう言いながら、夫人はその血の附いた時計を、ふところから出した白い絹のハンカチーフに包んだ。
 信一郎は、時計が案外容易に片づいたことが、うれしいような、同時に呆気あっけないような気持がした。少年が紅茶を運んで来たのを合図のように立ち上った。
 信一郎が、勧められるのを振切って、まさに玄関を出ようとしたときだった。夫人は、何かを思い付いたように言った。
「あ、一寸ちょっとお待ち下さいまし。差上げるものがございますのよ。」と、呼び止めた。


     

 信一郎が、いとまを告げたときには何とも引き止めなかった夫人が、玄関のところで、急に後から呼び止めたので、信一郎一寸ちょっと意外に思いながら、振りかえった。
「つまらないものでございますけれども、これをお持ち下さいまし。」
43/343


 そう言いながら、夫人は何時いつの間に、手にしていたのだろう、プログラムらしいものを、信一郎れた。一寸ちょっと開いて見ると、それは夫人の属するある貴婦人の団体で、催される慈善音楽会の入場券とプログラムであった。
「御親切に対する御礼は、わたくしから、致そうと存じておりますけれど、これはホンのお知己ちかづきになったお印に差し上げますのよ。」
 そう言いながら、夫人は信一郎に、最後のするような微笑を与えた。
「いたゞいて置きます。」辞退するほどの物でもないので信一郎はそのままポケットに入れた。
「御迷惑でございましょうが、是非おで下さいませ、それでは、その節またお目にかゝります。」
 そう言いながら、夫人は玄関のドアの外へ出てしばらくは信一郎の歩み去るのを見送っているようであった。
 電車に乗ってから、暫らくの間信一郎は夫人に対するえいから、めなかった。それは確かに酔心地よいごこちとでも言うべきものだった。夫人と会って話している間、信一郎はそのキビ/\した表情や、優しいけれども、のしかゝって来るような言葉に、言い知れぬ魅力みりょくをさえ感じていた。男を男とも思わないような夫人に、もっとグン/\引きずられたいような、不思議な欲望をさえ感じていたのである。
 が、そうした酔が、だん/\醒めかゝるに連れ、冷たい反省が信一郎の心を占めた。彼は、今日の夫人の態度が、何となく気にかゝり始めた。夫人の態度か、言葉かの何処どこかに、うそ偽りがあるように思われてならなかった。最初冷静だった夫人が、遺言と言う言葉を聞くと、急に緊張したり、時計を暫らく見詰めてから、急に持主を知っていると言い出したりしたことが、今更のように、疑念の的になった。疑ってかゝると、信一郎は大事な青年の遺品かたみを、夫人からていよくき上げられたようにさえ思われた。従って、夫人の手にって、時計が本当の持主に帰るかどうかさえが、可なり不安に思われ出した。
 その時に、信一郎の頭の中に、青年の最後の言葉が、アリ/\とよみがえって来た。『時計を返して呉れ』と言う言葉の、語調までが、ハッキリと甦って来た。その叫びは、恋人に恋の遺品かたみを返すことを、頼む言葉としては、余りに悲痛だった。その叫びのうちには、もっと鋭い骨を刺すような何物かゞ、混じっていたように思われた。
44/343

『返して呉れ』と言う言葉の中に『突っ返して呉れ』と言うようなすごい語気を含んでいたことを思い出した。たとい、死際しにぎわであろうとも、恋人に物を返すことを、あれほど悲痛に頼むことはないはずだと思われた。
 そう考えて来ると、瑠璃子夫人の言った子爵ししゃく令嬢と青年との恋愛関係は、けむりのように頼りない事のようにも思われた。夫人はあゝした口実で、あの時計を体よく取返したのでは あるまいか。本当は、自分のものであるのを、他人のものらしく、体よく取返したのでは あるまいか。
 が、そう疑って見たものゝ、それを確める証拠は何もなかった。それを確めるために、もう一度夫人に会って見ても、あの夫人の美しい容貌ようぼうと、溌剌はつらつ【生き生きと元気】な会話とで、もう一度体よく追い返されることは余りにわかり切っている。
 信一郎は、夫人の張る蜘蛛くもの網にかゝったちょうか何かのように、手もなく丸め込まれ、肝心な時計を体よく、捲き上げられたように思われた。彼は、自分の腑甲斐ふがいなさが、口惜くやしく思われて来た。
 彼の手を離れても、なぞの時計は、やっぱり謎の尾を引いている。彼はうかして、その謎を解きたいと思った。
 その時にふと、彼は青年が海に捨つるべく彼に委託したノートのことを思い出したのである。


     

 青年から、海へ捨てるように頼まれたノートを、信一郎はまだトランクのうちに、持っていた。海に捨てる機会をなくしたので、焼こうか裂こうかと思いながら、ついそのままになっていたのである。
 それを、今になってひらいて見ることは、死者に済まないことにはちがいなかった。が、時計のなぞを知るためには、――それと同時に瑠璃子夫人の態度の謎を解くためには、ノートを見ることより外に、何の手段も思い浮ばなかった。あんな秘密な時計をさえ、自分には託したのだ、その時計の本当の持主を知るために、ノートを見る位は、許してれるだろうと、信一郎は思った。
 でも家に帰って、まだ旅行から帰ったまゝに、放り出してあったトランクを開いたとき、信一郎は可なり良心の苛責かしゃくを感じた。
 が、彼が時計の謎を知ろうと言う慾望は、もっと強かった。美しい瑠璃子夫人の謎を解こうと言う慾望は、もっと強かった。
 彼は、恐る恐るノートを取り出した。秘密の封印を解くような興奮と恐怖とで、オズ/\表紙を開いて見た。
45/343

彼の緊張した予期は外れて、最初の二三枚は、白紙だった。その次ぎの五六枚も、白紙だった。彼は、裏切られたようなイラ/\しさで、全体を手早くめくって見た。が、何のページも、真白なよごれないページだった。彼が、妙な失望を感じながら、最後までめくって行ったとき、やっと其処そこに、インキのにおいのまだ新しい青年の手記を見たのである。それは、ノートの最後から、逆にかき出されたものだった。
 信一郎は胸を躍らしながら、むさぼるようにその一行々々を読んだのである。可なり興奮して書いたと見え、字体がすさんでいる上に、字の書きちがいなどが、彼処かしこにも此処ここにもあった。
46/343



――彼女は、蜘蛛くもだ。恐ろしく、美しい蜘蛛だ。自分が彼女にささげた愛も熱情も、たゞ彼女の網にかゝったちょう身悶みもだえに、過ぎなかったのだ。彼女は、彼女の犠牲の悶えを、冷やかに楽しんで見ていたのだ。
 今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと言って、一個の腕時計を呉れた。それを、彼女の白い肌から、ぐ自分の手首へと、移して呉れた。彼女は、それをかけ替のない秘蔵の時計であるようなことを言った。彼女を、純真な女性であると信じていた自分は、そうした賜物たまものを、どんなによろこんだかも知れなかった。彼女を囲んでいる多くの男性の中で、自分こそ選ばれたるただ一人であると思った。勝利者であると思った。自分は、人知れず、得々としてれを手首に入れていた。彼女の愛の把握が其処そこにあるように思っていた。彼女の真実の愛が、自分一人にあるように思っていた。
 が、自分のそうした自惚うぬぼれは、そうした陶酔とうすい滅茶苦茶めちゃくちゃに、つぶされてしまったのだ。皮肉に残酷に。
 昨日自分は、村上海軍大尉たいいと共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待っていた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕をまくり上げて、腕時計を出して見ているのに気が附いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似しているのである。自分はそれとなく、一見を願った。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外した時のおどろきは、んなであったろう。し、大尉が其処そこに居合せなかったら、自分は思わず叫声きょうせい【叫び声】を挙げたにちがいない。自分が、それを持っている手は思わず、ふるえたのである。
 自分はき込んでいた。
「これは、何処どこからお買いになったのです。」
「いや、買ったのではありません。ある人からもらったのです。」
 大尉の答は、憎々しいほど、落着いていた。しかも、その落着の中に、得意の色がアリ/\と見えているではないか。


     

――その時計は、自分の時計と、寸分違ってはいなかった。象眼の模様から、ちりばめてあるダイヤモンドの大きさまで。それは、彼女に取ってかけ替のない、たった一つの時計ではなかったのか。自分は自分の手中にある大尉の時計を、庭の敷石に、たたき付けてやりたいほど興奮した。が、大尉は自分の興奮などには気の付かないように、
うです。仲々奇抜な意匠でしょう。一寸ちょっと類のない品物でしょう。」と、その男性的な顔に得意な微笑を続けていた。自分は、自分の右の手首に入れているそれと、寸分たがわぬ時計を、大尉の眼に突き付けて大尉のプライドを叩きつぶしてやりたかった。が、大尉に何の罪があろう。自分達立派な男子二人に、こんな皮肉な残酷な喜劇を演ぜしめるのは、皆彼女ではないか。彼女があやつ蜘蛛くもの糸のためではないか。自分は、彼女が帰り次第、真向から時計を叩き返してやりたいと思った。
 が、彼女と面と向って、不信を詰責きっせきしようとしたとき、自分はかえって、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児のごとく、翻弄ほんろうされ、奴隷どれいの如くいやしめられた。しかも、美しい彼女の前に出ると、おしのようにたわいもなく、黙り込む自分だった。自分はいきどおりうらみとの為に、わな/\ふるえながらしかも指一本彼女に触れることが出来なかった。自分は力と勇気とが、欲しかった。彼女の華奢きゃしゃな心臓を、一思いに突き刺し得るだけの勇気と力とを。
 が、二つとも自分には欠けていた。彼女を刺す勇気のない自分は、彼女を忘れようとして、都を離れた。が、彼女を忘れようとすればするほど、彼女の面影は自分を追い、自分を悩ませる。
 手記はここで中断している。
47/343

が半ページばかり飛んでから、前よりももっと乱暴な字体で始まっている。

 うしても、彼女の面影が忘れられない。それがまむしのように、自分の心をみ裂く。彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態びたいを惜しげもなく、示しているかと思うと、自分の心は、夜の如く暗くなってしまう。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか、二つに一つだと思う。

 又 一寸ちょっと中断されてから、

 そうだ、一層いっそ死んでやろうかしら。純真な男性の感情をもてあそぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせてやるために。そうだ。自分の真実の血で、彼女のいつわりの贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女のわずかに残っている良心を、はずかしめてやるのだ。

 手記は、ここで終っている。信一郎は、深い感激の中に読みおわった。これで見ると、青年の死は、形は奇禍きか【思いがけない災難】であるけれども、心持は自殺であると言ってもよかったのだ。青年は死場所を求めて、箱根から豆相ずそうの間を逍遥さまよっていたのだった。彼の奇禍きかは、彼の望みどおりに、偽りの贈り物を、彼の純真な血で真赤に染めたのだ。が、その血潮が、彼女の心に僅かに残っている良心を、恥しめ得るだろうか。『返してれ』と言ったのは『叩き返して呉れ』と言う意味だった。信一郎は果して叩き返しただろうか。
 彼女が、瑠璃子夫人であるかうかは、手記を読んだ後も、判然とはわからなかった。が、たゞ生易なまやさしく平和のうちに、返すべき時計でないことはあきらかだった。その時計の中に含まれている青年の恨みを、相手の女性に、十分思い知らさなければならない時計だったのだ。たゞ、ボンヤリと返しただけでは青年の心は永久になぐさめられていないのだ。信一郎はもう一度瑠璃子夫人の手から取り返して、青年の手記の中の所謂いわゆる『彼女』に突き返してやらねばならぬ責任を感じたのである。
 が、『彼女』とは一体誰であろう。

そのかみの事


     

「あら! おあぶのうございますわ。」と、赤い前垂掛の女中姿をした芸者達に、追いまとわれながら、荘田しょうだ勝平は庭の丁度中央まんなかにある丘の上へ、登って行った。
48/343

飲み過ごした三鞭酒シャンペンしゅのために、可なり危かしい足付をしながら。
 丘の上には、数本の大きい八重桜が、爛漫らんまんと咲乱れて、移りく春の名残りをとどめていた。其処そこから見渡される広い庭園には、晩春の日が、うら/\としている。五万坪に近い庭には、幾つもの小山があり芝生があり、芝生が緩やかな勾配こうばいを作って、落ち込んで行ったところには、美しい水のく泉水があった。
 その小山の上にも、ふもとにも、芝生の上にも、泉水のほとりにも、数奇すき【美的なこだわり】を凝らした四阿あずまやの中にも、モーニングやフロックを着た紳士や、華美なすそ模様を着た夫人や令嬢が、三々伍々さんさんごご打ちつどうているのだった。
 人の心を浮き立たすような笛やつづみの音が、かえでの林の中から聞えている。小松の植込の中からは、其処そこに陣取っている、三越みつこしの少年音楽隊の華やかな奏楽が、絶え間なく続いている。拍子木が鳴っているのは、市村座の若手俳優の手踊りが始まる合図だった。それに吸い付けられるように、裾模様振袖ふりそでの夫人達が、その方へゾロ/\と動いて行くのだった。
 勝平は、そうした光景や、物音を聞いていると、得意と満足との微笑が後から後から湧いて来た。自分の名前にって帝都の上流社会がこんなに集まっている。自分の名にって、大臣も来ている。大銀行の総裁や頭取も来ている。侯爵こうしゃくや伯爵の華族達も見えている。いろ/\な方面の名士を、一堂の下にあつめている。自分の名にって、自分の社会的位置で。
 そう考えるに付けても、彼はの三年以来自分に振りかゝって来た夢のような華やかな幸運が、振りかえりみられた。
 戦争が始まる前は、神戸の微々たる貿易商であったのが、偶々たまたま持っていた一せきの汽船が、幸運の緒をつむいで極端な遣繰やりくりをして、一隻一隻と買い占めて行った船が、お伽噺とぎばなしの中の白鳥のように、黄金の卵を、次ぎ次ぎに産んで、わずか三年後の今は、千万円【1千億円/2025年】を越す長者になっている。
 しかも、金の出来るに従って、彼は自分の世界が、だん/\ひろがって行くのを感じた。今までは、『其処そこにいるか』とも声をかけてれなかった人々が、何時いつの間にか自分の周囲にあつまって来ている。
49/343

近づき難いと思っていた一流の政治家や実業家達が、何時の間にか、自分と同じ食卓に就くようになっている。自分を招待したり、自分に招待されたりするようになっている。その他、彼の金力が物を言うところは、いたところにあった。緑酒紅灯こうとうちまたでも、彼は自分の金の力が万能であったのを知った。彼は、金さえあれば、何でも出来ると思った。現に、の庭園なども、都下で屈指の名園を彼が五十万円に近い金を投じて買ったのである。現に、今日の園遊会も、一人あて百金【百円】に近い巨費を投じて、新邸披露として、都下の名士達をんだのである。
 聞えて来る笛の音も、鼓の音も奏楽の響も、模擬店もぎてんでビールの満を引いている人達の哄笑こうしょうも、勝平の耳には、彼の金力に対する賛美さんびの声のように聞えた。『そうだ。すべては金だ。金の力さえあればどんな事でも出来る』と、心のうちつぶやきながら、彼が日頃の確信を、一層強めたときだった。
「いや、どうも盛会ですな。」と、ビールのコップを右の手に高くかざしながら、蹌踉ひょろひょろと近づいて来る男があった。それは、勝平とは同郷の代議士だった。その男の選挙費用も、ことごと勝平のポケットから、出ているのだった。
「やあ! おかげさまで。」と、勝平傲然ごうぜん【尊大でたかぶった様子】と答えた。『ここにも俺の金の力で動いている男が一人いる。』と、心の中で思いながら。


     

「よく集まったものですね。随分珍しい顔が見えますね。松田老侯までが見えていますね。我輩わがはい一昨日は、英国大使館の園遊会ガードンパーティに行きましたがね。とても、本日の盛況には及びませんね。もっとも、この名園を見るだけでも、来る価値ねうちは十分ありますからね。ハヽヽヽ。」
 代議士の沢田は真正面からお世辞を言うのであった。
「いゝ天気で、何よりですよ。ハヽヽヽヽ。」と、勝平鷹揚おうように答えたが、内心の得意は、包隠つつみかくすことが出来なかった。
50/343


「素晴らしい庭ですな。彼処あすこの杉林から泉水の裏手へかけての幽邃ゆうすい【奥深くて物静か】な趣は、とても市内じゃ見られませんね。五十万円でも、これじゃ高くはありませんね。」
 そう言いながら、沢田は持っていたビールのコップを、またグイと飲みした。色の白いふとった顔が、咽喉のどところまで赤くなっている。彼は、転げかゝるように、勝平に近づいて右の二の腕を捕えた。
「主人公が、こんな所に、逃げ込んでいては困りますね。さあ、彼方あっちへ行きましょう。先刻も我党の総裁が、貴方あなたを探していた。まだ挨拶あいさつをしていないと言って。」
 沢田は、勝平をグン/\ふもとの方へ、園遊会のにぎわいと混雑の方へ引きずり込もうとした。
「いや、もう少しこのままにして置いて下さい。今日一時から、門の処で一時間半も立ち続けていた上に、先刻三鞭酒シャンペンしゅを、六七杯も重ねたものだから。もうしばらく捨てゝ置いて下さい。ぐ行きますよ、後から直ぐ。」
 そう言って、捕えられていた腕を、スラリと抜くと、沢田はそのはずみで、一間ばかりひょろひょろと下へ滑って行ったが、其処そこ一寸ちょっと踏みとどまると、
「それじゃ後ほど。」と言ったまゝ空になったコップを、右の手で振り回すようにしながら、ふら/\丘の麓にある模擬店の方へ行ってしまった。
 園内の数ヶ所で始まっている余興は、それ/″\に来会した人々を、分け取りにしているのだろう。勝平の立っているの広い丘の上にも五六人の人影しか、残っていなかった。勝平に付きまとっていた芸妓げいぎ達も、先刻さっき踊りが始まる拍子木が鳴ると、皆その方へけ出してしまった。
 が、勝平四辺あたりに人のいないのが、結局気楽だった。彼は、其処そこに置いてある白い陶製の腰掛に腰を下しながら、快い休息をむさぼっていた。心の中は、燃ゆるような得意さで一杯になりながら。
 彼が、暫らく、ぼんやりと咲き乱れている八重桜のこずえ越しに、薄青く澄んでいる空を、見詰めている時だった。
ここは静かですよ。早く上っていらっしゃい。」と、近くで若い青年の声がした。ふと、その方を見ると、スラリとした長身に、学校の制服を着けた青年が、丘の麓を見下しながら、誰かをさしまねいている所だった。
51/343


 青年は、今日招待した誰かゞ伴って来た家族の一人であろう。勝平には、少しも見覚えがなかった。青年も、の家の主人公が、こんなさびしい処に、一人いようなどとは、夢にも気付いていないらしく、麓の方をさしまねいてしまうと、ハンカチーフを出して、其処そこにある陶製の腰掛のほこりを払っているのだった。
 急に、丘の中腹で、うら若い女の声がした。
「まあ、ひどい混雑ですこと。わたしいやになりましたわ。」
「どうせ、園遊会なんてこうですよ。あの模擬店の雑踏ざっとうは、うです。見ているだけでも、あさましくなるじゃありませんか。」と、青年は丘の中腹を、見下しながら、答えた。
 それには何とも答えないで、昇って来るらしい人の気勢けはいがした。青年の言葉に、一寸ちょっと傷つけられた勝平は、じっと其方を、にらむように見た。最初、前髪を左右に分けた束髪の頭の形が見えた。それに続いて、細面の透き通るほど白い女の顔が現れた。


     

 やがて、女は丘の上に全身を現した。年は十八か九であろう。その気高い美しさは、彼女の頭上に咲き乱れている八重桜の、絢爛けんらんたる美しさをも奪っていた。目もむるような藤納戸ふじなんど色の着物の胸のあたりには、五色の色糸のかすみ模様ぬいが鮮かだった。そのぼかされたすそには、さくら草が一面に散り乱れていた。白地に孔雀くじゃくを浮織にした唐織の帯には、帯止めの大きい真珠が光っていた。


「疲れたでしょう。お掛けなさい。」
 青年は、ほこりを払った腰掛を、女に勧めた。彼女は勧められるまゝに、腰を下しながら、横に立っている青年を見上げるようにして言った。
わたし来なければよかったわ。でも、お父様が一緒に行こう/\言って、お勧めになるものですから。」
「僕も、妹のおともで来たのですが、こう混雑しちゃいやですね。それに、の庭だって、都下の名園だそうですけれども、ちっともよくないじゃありませんか。少しも、自然な素直な所がありゃしない。いやにコセ/\していて、人工的な小刀細工が多すぎるじゃありませんか。ことに、あの四阿あずまやの建て方なんか嫌ですね。」
52/343


 年の若い二人は、この日の園遊会の主催者なる勝平が、たゞ一人こんなさびしいところにいようなどとは夢にも考え及ばないらしく、勝平の方などは、見向きもしないで話し続けた。
「お金さえかければいゝと思っているのでしょうか。」
 美しい令嬢は、その美しさに似合わないような皮肉な、口のき方をした。
「どうせ、そうでしょう。成金と言ったような連中は、金額と言う事より外には、何にも趣味がないのでしょう。すべての事を金の物差で計ろうとする。金さえかければ、何でもいゝものだと考える。今日の園遊会なんか、一人ずつ五十円とか百円とかを、入れるとか何とか言っているそうですが、あの俗悪な趣向を御覧なさい。」
 青年は、何かに激しているように、吐き出すように言った。
 先刻から、聞くともなしに、聞いていた勝平は、はげしいいかりで胸の中が、煮えくり返るように思った。彼は、立ち上りざま、悪口を言っている青年の細首を捕えて、やしきの外へ放り出してやりたいとさえ思った。彼は若い時、東京に出たときに労働をやった時の名残りに、残っている二の腕の力瘤ちからこぶを思わずでた。が、さすがに彼の位置が、つい三四分前まで、あんなに誇らしく思っていた彼の社会的位置が 彼のそうした怒を制してれた。彼は、ムラ/\といて来る心を抑えながら、青年の言うことを、じっと聞き澄していた。
「成金だとか、何とかよく新聞などに、彼等の豪奢ごうしゃな生活を、謳歌おうかしているようですが、金でかちうる彼等の生活は、んなに単純で平凡でしょう。金が出来ると、女色にょしょくあさる、自動車を買う、やしきを買う、家を新築する、分りもしない骨董こっとうを買う、それ切りですね。中に、よっぽど心掛のいゝ男が、寄付をする。物質上の生活などは、いくら金をかけても、ぐ尽きるのだ。金で、自由になる芸妓などを、もてあそんでいて、よく飽きないものですね。」
 青年は、成金全体に、何かはげしい恨みでもあるように、ののしりつゞけた。
「飽きるって。そりゃどうだか、分りませんね。
53/343

貴方あなたのように、敏感な方なら、直ぐに飽きるでしょうが、彼等のように鈍い感じしか持っていない人達は、何時迄いつまで同じことをやっていても飽きないのじゃなくって!」女は、美しいしかし冷めたい微笑を浮べながら言った。
貴方あなたは、悪口は僕より一枚上ですね。ハヽヽヽヽヽ。」
 二人は相顧みて、会心の笑いを笑い合った。
 黙って聞いていた勝平の顔は、憤怒ふんぬのため紫色になった。


     

 まだ年の若い元気な二人は、自分達の会話が、傍に居合す此邸このやしきの主人の勝平にどんな影響を与えているかと言う事は、夢にも気の付いていないように、無遠慮に自由に話し進んだ。
「でも、おばれを受けていて、悪口を言うのは悪いことよ。そうじゃなくって。」
 令嬢は、右の手に持っている華奢きゃしゃ象牙骨ぞうげぼねの扇を、まさぐりながら、青年の顔を見上げながら、さすがに女らしく言った。
「いや、もっと言ってやってもいゝのですよ。」と、青年はその浅黒い男性的な凜々りりしい顔を、一層引きめながら、「第一華族階級の人達が、成金に対する態度なども、可なりいやしいと思っているのですよ。平生門閥もんばつだとか身分だとか言う愚にも付かないものを、自慢にして、平民だとか町人だとか言って、軽蔑けいべつしている癖に、相手が金があると、平民だろうが、成金だろうが、此方こっちからペコ/\して接近するのですからね。僕の父なんかも、何時いつの間にか、あんな連中と知己しりあいになっているのですよ。この間も、あんな連中にかつがれて、何とか言う新設会社の重役になるとか言って、騒いでいるものですから、僕はウンと言ってやったのですよ。」
「おや! 今度は、お父様にお鉢が回ったのですか。」女は、青年の顔を見上げて、ニッコリ笑った。
其処そこへ来ると、貴女あなたのお父様なんか立派なものだ。何処どこへ出しても恥かしくない。いつでも、清貧【清らかで貧しい生活】に安んじていらっしゃる。」青年は靴の先で散りいている落花を踏みにじりながら言った。
「父のは病気ですのよ。」女は、一寸ちょっと美しいまゆを落し「あんなに年が寄っても、道楽がめられないのですもの。」そう言った声は、一寸ちょっとさびしかった。
「道楽じゃありませんよ。男子として、立派な仕事じゃありませんか。三十年来貴族院の闘将として藩閥政府と戦って来られたのですもの。」
54/343


 青年は、女を慰めるように言った。が、先刻成金を攻撃したときほどの元気はなかった。二人は話が何時か、理に落ちて来たためだろう。ちらからともなく、黙ってしまった。青年は、他の一つの腰掛を、二三尺動かして来て、女と並んで腰をかけた。生あたゝかい晩春の微風が、襲って来た為だろう。花がしきりに散り始めた。
 勝平は先刻から、幾度の場を立ち去ろうと思ったか、分らなかった。が、自分に対する悪評をおそれて、コソ/\と逃げ去ることは、傲岸ごうがんな彼の気性が許さなかった。張り裂けるような憤怒ふんぬを、胸に抑えて、じっと青年の攻撃を聞いていたのであった。
 彼は、つい十分ほど前まで、今日の園遊会に集まっている、すべての人々は自分の金力に対する賛美者さんびしゃであると思っていた。賛美者ではなくとも、少くとも羨望者せんぼうしゃであると思っていた。いな少くとも、自分の持っている金の力だけは、認めてれる人達だと思っていた。今日集まっている首相を初め、いろ/\な方面の高官も、M公爵こうしゃくを筆頭に多くの華族連中も、海軍や陸軍の将官達も、銀行や会社の重役達も、学者や宗教家や、角力すもうや俳優達も、自分の持っている金力の価値だけは認めて呉れる人だと思っていた。認めていて呉れゝばこそやって来たのだと思っていた。それだのに、歯牙しがにもかけたくない、生若い男女の学生が、たとい貴族の子女であるにしろ、今日の会場の中央まんなかで、たとい自分の顔を見知らぬにせよ、自分の目前で、自分の生活をののしるばかりでなく、自分が命綱いのちづなとも思う金の力を、頭から否定している。金を持っている自分達の生活を、否人格まで、散々にはずかしめている。そう考えて来ると、先刻まで晴やかに華やかに、たかぶっていた勝平の心は、苦いにらを喰ったように、不快な暗いものになってしまった。彼は、かすり傷を負ったひょうのような、すごい表情をしながら、二人の後姿をにらんでいた。もう一言 何とか言って見ろ。そのまゝには済まさないぞ。彼の激高げっこうした心がそうしたうめきもらしていた。


     

 そうした恐ろしい豹が、彼等の背後にうずくまっていようとは、気の付いていない二人は、今度は四辺あたりはばかるように、しめやかに何やら話し始めた。
55/343


 もう一言、学生が何か言ったら、飛び出して、面と向って言ってやろうと、はやっていた勝平も、相手が急にしずかになったので、拍子抜がしながら、しかもそのまま立ち去ることも、業腹ごうはらな【しゃくにさわる】ので、二人の容子ようすを、じっとにらみ詰めていた。
 自分に対する罵詈ばりのために、カッとなってしまって、青年の顔も少女の顔も、十分眼に入らなかったが、今は少し心が落着いたので、二人の顔を、あらためて見直した。
 気が付いて見れば見るほど、青年は男らしく、美しく、女は女らしく美しかった。ことに、少女の顔に見るきよい美しさは、勝平などが夢にも接したことのない美しさだった。彼は、心の中で、金であがなった新橋や赤坂の、名高い美妓びぎの面影と比較して見た。何と言う格段な相違が其処そこにあっただろう。彼等の美しさは、造花の美しさであった。にせ真珠の美しさであった。一目だけは、ごまかしがくが二目見るともう鼻に付く美しさであった。が、この少女は、夜ごとに下る白露にはぐくまれた自然の花のような生きた新鮮な美しさを持っていた。人間の手の及ばない海底に、自然と造り上げられる、天然真珠のごとき輝きを持っていた。一目見て美しく、二目見て美しく、見直せば見直す毎によみがえって来る美しさを持っていた。
 勝平が、今迄いままで金で買い得た女性の美しさは、この少女の前では、皆偽物だった。金で買い得るものと思っていたものは、皆贋物にせものだったのだ。勝平この少女の美しさからも、今迄のプライドを可なりきずつけられてしまった。
 それだけではなかった。この二人が、恋人同士であることが、勝平にもすぐそれとわかった。二人の交している言葉は、低くて聞えなかったが、時々お互に投げ合っている微笑には、愛情がもっていた。愛情に燃えていながら、しかきよく美しい微笑だった。
 二人のむつまじい容子を見ているうちに、勝平の心の中の憤怒ふんぬ何時いつの間にか、嫉妬しっとをさえ交えていた。『すべての事は金だ。金さえあればどんな事でも出来る。』と思っていた彼の誇は、根底こんていから揺り動かされていた。の二人の恋人が、今感じ合っているような幸福は、勝平の全財産を、投じても得られるか、うか分らなかった。少女の顔に浮ぶ、きよい しかも愛にあふれた微笑の一つでさえ、あながうことが出来るだろうか。
56/343

いかにも、新橋や赤坂には、彼に対して、千のこびを呈し、万の微笑を贈る女は、幾何いくらでもいる。が、そのこびや微笑の底には、袖乞そでごいのようないやしさや、おおかみのような貪慾どんよくさが隠されていた。の若い男女が交しているような微笑とは、金剛石【ダイヤモンド】と木炭のように違っていた。同じ炭素から成っていても、金剛石が木炭と違うように、同じ笑でも質が違っていたのだ。
 青年が、勝平の金力をあんなに、罵倒ばとうするのも無理はなかった。実際彼は、金力で得られない幸福があることを、勝平の前で示しているのだった。
 青年の罵倒が単なる悪口でなく、勝平に取っては、苦い真理であるだけに、勝平の恨みは骨に入った。また、罵倒した後で、罵倒する権利のあることを、勝平にマザ/\と見せ付けただけに、勝平いきどおりは、肝に銘じた。彼は、一突き刺された闘牛のように、怒っていた。もう、自制もなかった。彼が、先刻まで誇っていた社会的位置に対する遠慮もなかった。彼はかしの木に出来る木瘤きこぶのようなてのひらを握りしめながら、今にも青年に飛びかゝるような身構えをしていた。
 その時に、うずくまっていた青年がつと立ち上った。女も続いて立ち上りながら言った。
「でも、何か召し上ったらう。折角いらしったのですもの。」
「僕は、成金ばらぞくむをいさぎよしとしないのです。ハヽヽヽ。」
 青年は、半分冗談で言ったのだった。が、憤怒ふんぬに心の狂いかけていた勝平にとっては、最後の通牒つうちょう【通達】だった。彼は、寝そべっていた獅子ししのように、猛然と腰掛から離れた。


     

 勝平の激怒には、まだ気の付かない青年は、連の女を促して、丘を下ろうとしているのだった。
「もし、もし、しばらく。」勝平の太い声も、さすがふるえた。
 青年は、何気ないように振返った。
「何か御用ですか。」落着いた、しかも気品のある声だった。それと同時に、連の女も振返った。その美しいまゆに、一寸ちょっと勝平の突然な態度をとがめるような色が動いた。
「いや、お呼び止めいたして済みません。一寸ちょっと御挨拶ごあいさつがしたかったのです。」
57/343

と、言って勝平は、息を切った。興奮こうふんために、言葉が自由でなかった。二人の相手は、勝平の興奮した様子を、不思議そうにジロ/\見ていた。
「先刻、皆様に御挨拶したはずですが、貴君あなた方は遅くいらしったと見えて、まだ御挨拶をしなかったようです。私が、この家の主人の荘田勝平です。」
 そう言いながら、勝平はわざと丁寧に、頭を下げた。が、両方の手は、激怒のために、ブル/\とふるえていた。
 さすがに、青年の顔も、彼に寄り添うている少女の顔もサッと変った。が、二人とも少しも悪怯わるびれたところはなかった。
「あゝそうですか。いや、今日はお招きにあずかって有難うございます。僕は、御存じの杉野ただしの息子です。ここに、いらっしゃるのは、唐沢男爵だんしゃくのお嬢さんです。」
 青年の顔色は、青白くなっていたが、少しも狼狽ろうばいした容子は見せなかった。昂然こうぜんとした立派な態度だった。青年に紹介されて、しとやかに頭を下げた令嬢の容子にも、微塵みじん狼狽うろたえた様子はなかった。
「いや、先刻から貴君あなたの御議論を拝聴していました。いろ/\我々には、参考になりました。ハヽヽ。」
 勝平は、高飛車に自分の優越を示すために、哄笑こうしょうしようとした。が、彼の笑い声は、咽喉のどにからんだまゝ、調子外れの叫び声になった。
 自分の罵倒ばとうが、その的の本人に聴かれたと言うことが、明かになると、青年もさすがに当惑の容子を見せた。が、彼は冷静に落着いて答えた。
「それはとんだ失礼を致しました。が、つい平生の持論が出たものですから、何ともむを得ません。僕の不謹慎はおびします。が、持論は持論です。」
 そう言いながら、青年は冷めたい微笑を浮べた。
 自分が飛び出して出さえすれば、周章狼狽しゅうしょうろうばいして、一溜ひとたまりもなく参ってしまうだろうと思っていた勝平は、あてが外れた。彼は、相手が思いの外に、強いのでタジ/\となった。
58/343

が、それだけ彼の憤怒ふんぬは胸のうちき立った。
「いや、お若いときは、金なんかと言って、よく軽蔑けいべつしたがるものです。私なども、その覚えがあります。が、今におわかりになりますよ。金が、人生においてどんなに大切であるかが。」
 勝平は、出来るだけ高飛車に、上から出ようとした。が、青年は少しも屈しなかった。
「僕などは、そうは思いません。世の中で、高尚な仕事の出来ない人が、金でも溜めて見ようと言うことに、なるのじゃありませんか。僕は事業を事業として、楽しんでいる実業家は好きです。が、事業を金を得る手段と心得たり、又得た金の力を他人に、見せびらかそうとするような人は嫌いです。」
 もう、其処そこ何等なんらの儀礼もなかった。それは、言葉で行われている格闘だった。青年の顔もあおざめていた。勝平の顔も蒼ざめていた。
「いや、何とでもおっしゃるがよい。が、理屈りくつじゃありません。世の中のことは、おぼっちゃんの理想どおりに行くものではありません。貴君あなたにも金の力がどんなに恐ろしいかが、お判りになるときが来ますよ。いや、屹度きっと来ますよ。」
 勝平は、その大きい口を、きっと結びながら青年をにらみすえた。が、青年のかたわらに、立ちすくんだまゝ、黙っている彫像のような姿に目を転じたとき、勝平の心は、再びタジ/\となった。その美しい顔は勝平に対する憎悪ぞうおに燃えていたからである。


     

 青年が、何かを答えようとしたとき、女は突如いきなり彼をさえぎった。
「もういゝじゃございませんか。私達が、参ったのがいけなかったのでございますもの。御主人には御主人の主義があり貴君あなたには貴君あなたの主義があるのですもの。そのいずれが正しいかは、銘々一生を通じて試して見る外はありませんわ。さあ、失礼をしておいとましようじゃありませんか。」
 少女は、青年より以上に強かった。
59/343

其処そこには火花が漏れるような堅さがあった。それだけ勝平に対する侮辱ぶじょくも、はなはだしかった。こんな男と言葉を交えるのさえ、馬鹿々々ばかばかしいと、言った表情が、彼女の何処どこかに漂っていた。孔雀くじゃくのように美しい彼女は、孔雀のような襟度きんど【度量】を持っているのだった。
 青年も、自分の態度を、余り大人気ないと思い返したのだろう。女の言葉を、ほこを収める機会にした。
「いや、飛んだ失礼を申上げました。」
 そう言い捨てたまゝ、青年は女と並んで足早に丘を下って行った。敵に、素早く身をかわされたように、勝平は心の憤怒ふんぬを、少しも晴さないうちに、やみ/\と【むざむざと】物別れになったのが、口惜くやしかった。もっと、何とか言えばよかった。もっと、青年をはずかしめてやればよかったと、口惜しがった。むつまじそうに並んで、遠ざかって行く二人を見ていると、勝平は自分の敗れたことが、マザ/\とわかって来た。青年の罵倒ばとうに口惜しがって、思わず飛び出したところを、手もなく扱われて、うまく肩透かたすかしを喰ったのだった。どんな点から、考えて見ても、自分にいゝ所はなかった。敗戦だった。みにくい敗戦だった。そう思うと、わざ/\五万を越す大金をつかって、園遊会をやったことまでが、馬鹿らしくなった。大臣や総裁や公爵こうしゃくなどの挨拶あいさつを受けて、有頂天にまで行った心持が、生若い男女のために地の底へまで引きずり込まれたのだ。
 彼のいきどおりと恨みとが、胸の中で煮えくり返った時だった。その憤りと恨みとのあらしの中に、徐々に鎌首かまくびもたげて来た一念があった。それは、言うまでもなく、復讐ふくしゅうの一念だった。そうだ、俺の金力を、あれほどまで、侮辱した青年を、金の力で、骨までも思い知らしてやるのだ。青年に味方して、俺にあんな憎悪ぞうおの眼を投げた少女を、金の力で髄までも、思い知らしてやるのだ。そう思うと、彼の胸に、新しい力が起った。
 青年の父の杉野ただしと言う子爵も、少女の父の唐沢男爵も、共に聞えた貧乏華族である。黄金のほこの前に、黄金の剣の前には、何の力もない人達だった。
 が、うして戦ったらいゝだろう。
60/343

彼等の父をいじめることは何でもないことに違いない。が、単なる学生である彼等を、いじめる方法は容易に浮かんで、来なかった。その時に、勝平の心に先刻の二人の様子が浮かんだ。むつまじく語っている恋人同士としての二人が浮かんだ。それと同時に、いなずまのように、彼の心にある悪魔的な考えが思い浮かんだ。その考えは、いなずまのように消えないで、徐々に彼の頭に喰い入った。
 まだ、春の日は高かった。彼が招いた人達は園内の各所に散って、春の半日を楽しく遊び暮している。が、その人達を招いた彼だけは、たゞ一人怏々おうおう【不愉快】たる心をいだいて、長閑のどかな春の日に、悪魔のような考えを、考えている。
「あら、まだここにいらしったの、方々探したのよ。」
 突如、後に騒がしい女の声がした。先刻の芸妓げいぎ達が帰って来たのである。
「さあ! 彼方あっちへいらっしゃい。お客様が皆、探しているのよ。」二三人彼のモーニングコートの腕にすがった。
「あゝ行くよ行くよ。行って酒でも飲むのだ。」彼は、気の抜けたように、つぶやきながら、芸妓達に引きずられながら、もう何の興味も無くなった来客達の集まっている方へらっせられた【連れて行かれた】。

父と子


     

『またお父様と兄様の争いが始まっている。』そう思いながら、瑠璃子るりこは読みかけていたツルゲネフの『父と子』の英訳のページを、閉じながら、段々高まって行く父の声に耳を傾けた。
『父と子』の争い、もっと広い言葉で言えば旧時代と新時代との争い、旧思想と新思想との争い、それは十九世紀後半の露西亜ロシアや西欧諸国だけの悩みではなかった。それは、一種の伝染病として、何時いつの間にか、日本の上下の家庭にも、侵入しているのだった。
 五六十になる老人の生活目標と、二十年代の青年の生活目標とは、雪と炭のように違っている。一方が北を指せば、一方は西を指している。老人が『山』と言っても、青年は『川』とは答えない。それだのに、老人は自分の握っている権力で、父としての権力や、支配者としての権力や、上長者としての権力で、青年を束縛しようとする。西へ行きたがっている者を、自分と同じ方向の、北へ連れて行こうとする。其処そこから、色々な家庭悲劇が生れる。
61/343


 瑠璃子は、父の心持もわかった。兄の心持も判った。父の時代に生れ、父のような境遇に育ったものが、父のような心持になり、父のような目的のために戦うのは、当然であるようにおもわれた。が、兄のような時代に生れ、兄のような境遇に育ったものが、兄のように考えるのもまた当然であるように思われた。父も兄も間違ってはいなかった。お互に、間違っていないものが、争っている丈に、その争いは何時が来ても、むことはなかった。何時が来ても、一致しがたい平行線の争いだった。
 母が、昨年死んでから、さびしくなった家庭は、取り残された人々が、その淋しさをつぐなうために、以前よりも、もっとむつまじくなるべきはずだのに、実際はそれと反対だった。調和者ピイスメイカアとしての母がいなくなったため、兄と父との争いは、前よりも激しくなり、露骨になった。
馬鹿ばかを言え! 馬鹿を言え!」
 父のしわがれた張り裂けるような声が、聞えた。それに続いて、何かをなげうつような物音が、聞えて来た。
 瑠璃子は、その音をきくと、何時も心が暗くなった。また父が兄の絵具を見付けて、なげうっているのだ。
 そう思っていると、又カンバスを引き裂いているらしい、きぬを裂く激しい音が聞えた。瑠璃子は、思わず両手で、顔をおおうたまゝ かすかにふるえていた。
 芸術と言ったようなものに、粟粒あわつぶほどの理解も持っていない父が悲しかった。絵を描くことを、ペンキ屋が看板を描くのと同じ位に いやしく見貶みくだしている父の心が悲しかった。それと同じように、芸術をいろ/\な人間の仕事の中で、一番たっといものだと思っている、兄の心も悲しかった。父から、描けば勘当だと厳禁されているにもかかわらず、コソ/\と父の眼を盗んで、写生に行ったり、そっと研究所に通ったりする兄の心が、悲しかった。が、何よりも悲劇であることは、そうしたお互に何の共鳴も持っていない人間同士が、父と子であることだった。父が、卑しみ抜いていることに、子が生涯をささげていることだった。父の理想には、子が少しも同感せず、子の理想には父が少しも同感しないことだった。
 カンバスが、引き裂かれる音がした後は、しばらくは何も聞えて来なかった。
62/343

争いの言葉が聞えて来るうちは、それにって、争いの経過が判った。が、急にしずかになってしまうと、かえって妙な不安が、聞いている者の心に起って来る。瑠璃子はまた父が、興奮の余り心悸しんき昂進こうしんして、物も言えなくなっているのではないかと思うと、急に不安になって来て、争いの舞台シーンたる兄の書斎の方へ、足音を忍ばせながらそっと近づいて行った。


     

 瑠璃子は、そっと足音を立てないように、縁側ヴェランダつとうて兄の書斎へ歩み寄った。とゞろく胸を押えながら縁側ヴェランダに向いている窓の硝子ガラス越しに、そっと室内をのぞき込んだ。彼女が予期した通りの光景が其処そこにあった。長身の父は威丈高いたけだかに、無言のまゝ、兄をにらみ付けて立っていた。せた面長な顔は、白く冷めたく光っている。腰の所へやっている手は、ブル/\ふるえている。兄は兄で、昂然こうぜんとそれに対していた。たゞさえ、蒼白あおじろい顔が、激しい興奮のために、血の気を失って、死人のように蒼ざめている。
 父と子とは、思想も感情もスッカリ違っていたが、負けぬ気の剛情なところだけが、お互に似ていた。父子おやこの争いは、それだけ激しかった。
 二人の間には、絵具のチューブが、滅茶苦茶めちゃくちゃに散っていた。父の足下には、三十号の画布カンバスが、枠に入ったまゝ、ナイフで横に切られていた。その上に描かれている女の肖像も、無残にも頬の下から胸へかけて、一太刀ひとたち浴びているのだった。
 そうした光景を見ただけで、瑠璃子の胸が一杯になった。父が、この上 兄をはずかしめないように、兄が大人しく出てれるようにと、心ひそかに祈っていた。
 が、父と兄との沈黙は、それは戦いの後の沈黙でなくして、これからもっとおそろしい戦いに入る前の沈黙だった。
 画布カンバスまでも、引き裂いた暴君のような父の前に、真面目まじめな芸術家として兄の血は、熱湯のように、沸いたのに違いなかった。いつもは、父に対して、冷然たる反抗を示す兄だったが、今日は心の底から、いきどおっているらしかった。憤怒ふんぬの色が、アリ/\とそのひいでたまゆのあたりに動いていた。
「考えて見るがいゝ。堂々たる男子が、画筆などをもてあそんでいてうするのだ。」
63/343

父は、今迄いままで張り詰めていた姿勢を、少しく崩しながら、苦い物をでも吐き出すように言った。
「考えて、見る迄もありません。男子として、立派な仕事です。」兄の答えも冷たく鋭かった。
馬鹿ばかを言え! 馬鹿を!」父は、又カッとなってしまった。「などと言うものは、男子が一生をささげてやる仕事では決してないのだ。言わば余戯よぎ【たわむれ】なのだ。なぐさみなのだ。お前が唐沢の家の嗣子しし【あととり】でなければ、どんな事でも好き勝手にするがいゝ。が、わしの子であり、唐沢の家の嗣子である以上、お前の好き勝手にはならないのだ。唐沢の家には、画描きなどは出したくないのだ。俺の子は、画描きなどにはなってもらいたくないのだ!」
 父は、そう叫びながら、手近にあるデスクの端を力まかせに二三度打った。瑠璃子には、父が貴族院の演壇で獅子吼ししく【大演説】する有様が、何処どことなくしのばれた。が、相手が現在の子であることが、父の姿を可なりさびしいものにした。
「お前は、父が三十年来の苦闘を察しないのか。お前は、わしの子として、父のこころざしを継ぐことを、名誉だとは思わないのか、俺の志を継いで、俺が年来の望みを、果させて呉れようとは思わないのか。お前は、唐沢の家の歴史を忘れたのか、お前にいつも話している、お祖父様じいさまの御無念を忘れたのか。」
 それは、父が少し興奮こうふんすれば、まって出る口癖だった。父は、それを常に感激をもって語った。が、子はそれを感激を以て聞くことが、出来なかった。唐沢の家が、三万石の小大名ではあったが、足利あしかが時代以来の名家であるとか、維新の際には祖父が勤王の志が、厚かったにもかかわらず、薩長さっちょうに売られて、朝敵の汚名おめいを取り、悶々もんもんうちに憤死したことや、その死床でもらした『かたきを取って呉れ。』という遺言を体して、父が三十年来貴族院で、藩閥政府と戦って来たことなど、それは父にとって重大な一生を支配する生活の刺激しげきだったかも知れない。が、子に取っては、彼の画題となる一けいの草花に現われている、自然の美しさほどの、刺激も持っていなかった。時代が違ってい、人間が違っていた。
64/343

何の共通点もない人間同士が、血縁でつながっていることが、何より大きい悲劇だった。
「黙っていては分らない。何とか返事をなさい!」日本の大正のキングリアは、こう言って石のように黙っている子に挑んだ。


     

「お父さん!」兄はしずかに頭をげた。平素いつもは、黙々として反抗を示すだけの兄だったが、今日は徹底的に言って見ようという決心が、その口の辺に動いていた。「貴方あなたが、幾何いくらおっしゃっても、僕は政治などには、興味が向かないのです。ことに現在のような議会政治には、何の興味も持っていないのです。僕は、お父さんのおっしゃるように、法科を出て政治家になるなどと言うことには、何の興味もないのです。」兄の言葉は、針のように鋭く澄んで来た。
「もう少し待って下さい。もう少し、気長に私のすることを見て居て下さい。そのうちに、を描くことが、人間としてどんなに立派な仕事であるか、堂々たる男子の事業として恥かしくないかを、お父さんにも、お目にかけ得る時が来るだろうと思うのです。」
「あゝよして呉れ!」父ははら退けるように言った。「そんな事は聞きたくない。馬鹿ばかな! 画描きなどが、画を描くことなどが、……」父は苦々しげに言葉を切った。
「お父さんには、幾何いくら言ってもわからないのだ。」兄も投げ捨てるように言った。
「解ってたまるものか。」父の手がまたかすかにふるえた。
 二人が、かたき同士のように黙って相対峙あいたいじしているうちに、二三分過ぎた。
光一!」父は改まったように呼びかけた。
「何です!」兄も、それに応ずるように答えた。
「お前は、今年の正月わしが言った言葉を、まさか忘れはしまいな。」
「覚えています。」
「覚えているか、それじゃお前は、の家にはおられない訳だろう。」
 兄の顔は、憤怒ふんぬのために、見る/\中に真赤になり、それが再びあおざめて行くに従って、悲壮な顔付になった。
65/343


「分りました。出て行けとおっしゃるのですか。」怒のために、兄はわな/\ふるえていた。
「二度と、画を描くと、家には置かないと、あの時言って置いたはずだ。お前が、わしの干渉を受けたくないのなら、この家を出て行く外はないだろう。」父の言葉は鉄のように堅かった。
 瑠璃子は、胸が張り裂けるように悲しかった。一徹な父は、一度言い出すと、後へは引かない性質たちだった。それに対する兄が、父に劣らない意地張だった。彼女が、常々心配していた大破裂カタストロフがとうとう目前に迫って来たのだった。
 父の言葉に、カッと逆上してしまったらしい兄は、前後の分別もないらしかった。
「いや承知しました。」
 そう言うかと思うと、彼はうつむきながら、狂人のように其処そこに落ち散っている絵具のチューブを拾い始めた。それを拾ってしまうと、机の引き出しを、滅茶苦茶にき回し始めた。机の上に在った二三冊のノートのようなものを、風呂敷ふろしきに包んでしまうと、彼は父に一寸ちょっと目礼して、飛鳥のようにへやからけ出そうとした。
 父が、おどろいて引き止めようとする前に、狂気のように室内に飛び込んだ瑠璃子は、早くも兄の左手ゆんですがっていた。
「兄さん! 待って下さい!」
「お放しよ。瑠璃ちゃん!」
 兄は、荒々しくしっするように、瑠璃子の手をもぎ放した。
 瑠璃子が、再び取りすがろうとしたときに、兄は下へ行く階段を、激しい音をさせながら、電光のごとけ下っていた。
「兄さん! 待って下さい!」
 瑠璃子が、声をしぼりながら、後から馳け下ったとき、帽子もかぶらずに、玄関から門の方へ足早に走っている兄の後姿が、チラリと見えた。


     

 兄の後姿が見えなくなると、瑠璃子は よゝと【激しく】泣き崩れた。張り詰めていた気が砕けて、涙はとめどもなく、双頬そうきょう湿うるおした。
 母がくなってからは、父子おやこ三人のさびしい家であった。段々差し迫って来る窮迫【困窮】に、召使の数も減って、たゞ忠実な老婢ばあやと、その連合つれあいの老僕とがいるだけだった。
66/343


 それだのに、わずかしか残っていない歯の中から、またその目ぼしい一本が、抜け落ちるように、兄がいなくなる。父と兄とは、水火のように、何処どこまで行っても、調和するようには見えなかったけれども、兄と瑠璃子とは、仲のよい兄妹だった。母が亡くなってからは、更に二人は親しみ合った。兄はたゞ一人の妹を愛した。ことに父と不和になってから、肉親の愛をかわし得るのはたゞ妹だけだった。妹もたゞ一人の兄を頼った。父からは、得られない理解や同情を兄から仰いでいた。瑠璃子には父の一徹【強い気質】も悲しかった。兄の一徹も悲しかった。
 が、何よりも気遣われたのは、着のみ着のままで、飛び出して行った兄の身の上である。理性の勝った兄に、万一の間違があろうとは思われなかった。が、貧乏はしていても、華族の家に生れた兄は、独立して口をのりして行く【なんとか食いつなぐ】手段を知っている訳はなかった。が、一時の激高げっこうのために、カッと飛び出したものゝ屹度きっと帰って来て下さるにちがいない。あるい麻布あざぶの叔母さんの家にでも、行くに違ない。やっと、そう気休めを考えながら、瑠璃子は涙をぬぐい拭い、階段を上って行った。二階にいる父の事も、気がかりになったからである。
 父はやっぱり兄の書斎にいた。先刻と寸分違わない位置にいた。たゞ、傍にあった椅子いすを引き寄せて、腰を下したまゝじっとうつむいているのだった。たった一人の男の子に、背き去られた父の顔を見ると、瑠璃子の眼には新しい涙が、また一時にいて来るのであった。の頃、交じりかけた白髪しらがが急に眼に立つように思った。
『歯がけて演説の時に声がれて困まる』と、この頃口癖のように言うとおり、口のあたりが淋しくしなびているのが、急に眼に付くように思った。
 一生を通じて、やって来た仕事が、自分の子から理解せられない、それほど淋しいことが、世の中にあるだろうかと思うと、瑠璃子は、父に言葉をかける力もなくなって、そのまま床の上に、再び泣き崩れた。
67/343


 最愛の娘の涙に誘われたのであろう。老いた政治家の頬にも、一条の涙のあとが印せられた。
瑠璃子!」父の声には、先刻さっきのような元気はなかった。
「はい!」瑠璃子は、涙声でかすかに答えた。
「出て行ったかい! あれは?」さすがに何処となく恩愛【いつくしみ】の情がまつわっている声だった。
「はい!」彼女の声は前よりも、力がなかった。
「いやいゝ。出て行くがいゝ。こころざしを異にすれば親でない、子でない、血縁は続いていても路傍ろぼうの人だ。瑠璃子! お前には、父さんの心持はわかるだろう。お前だけは、わしの心持は解るだろう。お前が男であったら、屹度きっとお父さんの志を継いでれるだろうとは、平生思っているのだが。」父は元気に言った。が、声にも口調にも力がなかった。
 瑠璃子は、それには何とも答えなかった。が、瑠璃子の胸に、一味【唐辛子を】焼くような激しい気性と、父にも兄にも勝るような強い意志があることは、彼女の平生の動作が示していた。それと同じように、貴族的な気品があった。昔気質かたぎの父が時々瑠璃子を捕えて『男なりせば』のたん【なげき】をもらすのも無理ではなかった。
 まだ父が、何か言おうとする時であった。やしき前の坂道を疾駆してけ上る自動車の爆音が聞えたかと思うと、やがてそれが門前で緩んで、低い警笛アラームと共に、一りょうの自動車が、唐沢家の古びた黒い木の門の中に滑り入った。


     

 父子の悲しいさびしい緊張は、自動車の音で端なく破られた。瑠璃子は、もっとこうしていたかった。父の気持もき、兄に対する善後策も講じたかった。彼女は、自分の家の恐ろしい悲劇を知らず顔に、自動車で騒々しく、飛び込んで来る客に、軽い憎悪ぞうおをさえ感じたのである。
 老婢ばあやは、何かに取り紛れている【他のことが疎かになっている】のだろう、容易に取次ぎには出て来ないようだった。
老婢ばあやはいないのかしら!」
68/343

そうつぶやくと、瑠璃子は自分で、取次ぎするために、階段を下りかけた。
「大抵の人だったら、会えないと断るのだよ。いゝかい。」
 そう言葉をかけた父を振りかえって見ると、相変らずあおふるえているような顔色をしていた。
 瑠璃子が、階段を下りて、玄関の扉を開けたとき、彼女は訪問者が、一寸ちょっと意外な人だったのにおどろいた。それは、彼女の恋人の父の杉野子爵ししゃくであったからである。
「おや入らっしゃいまし。」そう言いながら、彼女は心の中で可なり当惑した。杉野子爵は、彼女にとってはなつかしい恋人の父だった。が、父と子爵とは、決して親しい仲ではなかった。同じ政治団体に属していたけれども、二人は少しも親しんでいなかった。父は、内心子爵をいやしんでいた。政商達と結託して、私利を追うているらしい子爵の態度を、可なり不快に思っているらしかった。公開の席で、二三度可なり激しい議論をしたと言ううわさなども、瑠璃子何時いつとなく聴いていた。
 そうした人を、こんな場合、父に取次ぐことは、心苦しかった。それかと言って、自分の恋人の父を、すげなく返す気にもなれなかった。彼女が躊躇ちゅうちょしているのを見ると、子爵は不審いぶかしそうにいた。
「いらっしゃらないのですか。」
「いゝえ!」彼女は、そう答えるより外はなかった。
杉野です。一寸ちょっとお取次を願います。」
 そう言われると、瑠璃子は一も二もなく取次がずにはいられなかった。が、階段を上るとき、彼女の心にふとある動揺どよめきが起った。『まさか』と、彼女は幾度も打ち消した。が、打ち消そうとすればするほど、その動揺どよめきは大きくなった。
 杉野子爵の長男直也なおやは、父に似ぬ立派な青年だった。音楽会で知り合ってから、瑠璃子は知らずらずその人にき付けられて行った。男らしい顔立と、彼の火のような熱情とが、彼女に対する大きな魅惑だった。二人の愛は、激しくしかも清浄だった。
 二人は将来を誓い合った。学校を出れば、正式に求婚します。青年は口癖のように繰返した。
 青年は今年の四月学習院の高等科を出ている。
69/343

『学校を出ると言うことが、学習院を出ることを、意味するなら。』そう考えると瑠璃子は踏んでいる足が、階段に着かぬように、そわ/\した。まだ一度も、尋ねて来たことのない子爵が、わざ/\尋ねて来る。そう考えて来ると、瑠璃子の小さい胸は取り止めもなくみだされてしまった。
 が、ついこの間青年と園遊会で会ったとき、彼はおくびにも、そんなことは言わなかった。正式に突然求婚して、自分をおどろかそうと言う悪戯いたずらかしら。彼女は、そんなことまで、咄嗟とっさの間に空想した。
 が、苦り切っている、父の顔を見たとき彼女の心は、急に暗くなった。縦令たとい、それが瑠璃子の思う通りの求婚であったにしろ、父がオイソレと許すだろうか。心の中で、いやしんでいる者の子息に、最愛の娘を与えるだろうか。子は子である。父は父である。れ位の事理じり【道理】の分らない父ではない。が、兄が突然家出して、さなきだに【ただでさえ】淋しい今、自分を手離して、他家よそへやるだろうか。そう思うと、瑠璃子の心に伸びた空想の翼は、またたちまなかば以上切り取られてしまった。が、万一そうなら、又 万一父が容易に承諾したら?
「あの! 杉野子爵がお見えになりました。」彼女の息は可なりはずんでいた。


     

 父は娘の心を知らなかった。杉野子爵ししゃくの突然の来訪を、迷惑がる表情があり/\と動いた。
杉野! ふーむ。」父は苦り切ったまゝ容易に立とうとはしなかった。
 父が、杉野子爵に対してこうした感情を持っている以上、又 兄の家出と言ういたましい事件が起っている以上、縦令たとい子爵の来訪が、瑠璃子の夢見ているとおりの意味を持っていたにしろ、容易にまとまるはずはなかった。そう考えると、彼女の心は、墨を流したように暗くなってしまった。
「仕方がない! お通しなさい!」
 そう言ったまゝ、父は羽織はおりを着るためだろう、階下したの部屋へ下りて行った。
 瑠璃子は、恋人の父と自分の父との間に、まつわる不快な感情を悲しみながら、玄関へ再び降りて行った。
「お待たせいたしました、うぞお上り下さいませ。」
70/343


「いや、どうも突然うかがいまして。」と、子爵は如才くおさいなく【そつなく】挨拶あいさつしながら先に立って、応接室に通った。
 古いガランとした応接室には、何の装飾もなかった。明治十幾年に建てたと言う洋館は、間取りも様式も古臭く旧式だった。瑠璃子は、客を案内するごとに、旧式の椅子いす蒲団クションが、破れかけていることなどが気になった。
 父は、ぐ応接室へ入った。心の中の感情は可なり隔たっていたが、面と向うと、さすがに打ち解けたような挨拶をした。瑠璃子は、茶を運んだり、菓子を運んだりしながらも、主客の話が気にかゝった。が、話は時候の挨拶から、政界の時事などに進んだまゝ用向きらしい話には、容易に触れなかった。
 立ち聞きをするような、はしたない事は、思いも付かなかった。瑠璃子は、来客が気になりながらも、自分の部屋に退いて、不安な、それかと言って、不快ではない心配を続けていた。
 恋人の顔が、絶えず心に浮かんで来た。過ぎ去った一年間の、恋人とのいろ/\な会合が、心の中によみがえって来た。どの一つを考えても、それは楽しい清浄な幸福な思出だった。二人は火のような愛に燃えていた。が、お互に個性を認め合い、尊敬し合った。上野の音楽会の帰途に、ガスの光が、ほのじろく湿うるんでいる公園の木下暗このしたやみを、ベエトーフェンの『月光曲』を聴いた感激を、語り合いながら、辿たどった秋の一夜の事も思い出した。新緑の戸山ヶ原のとちの林の中で、その頃読んだトルストイの『復活』を批評し合った初夏の日曜の事なども思い出した。恋人であると共に、得難い友人であった。彼女の趣味や知識の生活にける大事な指導者だった。
 恋人の凜々りりしい性格や、その男性的な容貌ようぼうや、その他いろ/\な美点が、それからそれと、彼女の頭の中に浮かんで来た。し子爵の来訪の用向きが、自分の想像した通りであったら、(それが何と言う子供らしい想像であろう)とは、打消しながらも、瑠璃子の真珠のように白い頬は、見る人もない部屋の中にありながら、ほのかに赤らんで来るのだった。
 が、来客の話は、そう永くは続かなかった。瑠璃子の夢のような想像を破るように、応接室のドアが、父にって荒々しく開かれた。
71/343

瑠璃子は、客を送り出すため、急いで玄関へ出て行った。
 見ると父は、兄の家出を見送った時以上に、あおい苦り切った顔をしていた。杉野子爵はと見ると、その如才のないニコニコした顔に、【いつもとは違って】微笑の影も見せず、周章しゅうしょうとして【あわてふためいて】追われるように玄関に出て、ロクロク挨拶もしないで、車上の人となると、運転手を促し立てゝ、あわたゞしく去ってしまった。
 父は、自動車の後影を憎悪ぞうお軽蔑けいべつとのまじった眼付で、しばらくの間見詰めていた。
「お父様どうか遊ばしたのですか。」瑠璃子は、おそる/\父にいた。
馬鹿ばかやつだ。華族の面汚つらよごしだ。」父はつばでも吐きかけるようにののしった。


     

 杉野子爵ししゃくに対する、父の燃ゆるような憎悪ぞうおの声を聞くと、瑠璃子は自分の事のように、オドオドしてしまった。胸の中に、ひそかにいだいていた子供らしい想像は、跡形もなく踏みにじられていた。踏んでいた床が、崩れ落ちて、そのまま底知れぬ深いふちへ、落ち込んで行くような、暗い頼りない心持がした。之迄これまででさえ、父と父との感情に、暗いかげのあることは、恋する二人の心を、どんなにいたましめたか分らない。それだのに、今日はその暗いかげが、明らさまに火を放って、爆発をきたしたらしいのである。
「一体うしたのでございます。そんなにお腹立ち遊ばして。」
 瑠璃子は、父の顔を見上げながら、オズ/\いた。父は、口にするさえ、忌々いまいましそうに、
「訊くな。訊くな。けがらわしい。わし達を侮辱している。わしばかりではない、お前までも侮辱しているのだ。」と、歯噛はがみをしないばかりに激高げっこうしているのだった。
 自分までもと、言われると、瑠璃子は更に不安になった。自分のことを、一体う言ったのだろう。自分に就いて、一体何を言ったのだろう。恋人の父は、自分のことを、一体何う侮辱したのだろう。
72/343

そう考えて来ると、瑠璃子は父の機嫌を恐れながらも、黙っている訳には行かなかった。
「一体どんなお話が、ございましたの。わたくしの事を、杉野さんはおっしゃるのでございますか。」
「訊くな。訊くな。訊かぬ方がいゝ。聞くとかえって気を悪くするから。あんないやしい人間の言うことは、一切耳に入れぬことじゃ。」
 やゝ興奮の去りかけた父は、却って娘をなだめるように優しく言いながら、二階の居間へ行くために階段を上りかけた。父は、杉野子爵を賤しい人間として捨てゝ置くことが出来た。が、瑠璃子には、それは出来なかった。どんなに、子爵がいやしくても、自分の恋人の父にちがいなかった。その人が、自分のことを、う言ったかは、瑠璃子に取っては是非にも訊きたい大事な事だった。
「でも、何とおっしゃったか知りたいと思いますの。わたくしのことを何とおっしゃったか、気がかりでございますもの。」
 瑠璃子は、父を追いながら、甘えるような口調で言った。娘の前には、目も鼻もない父だった。母のない娘のためには、何物も惜しまない父だった。瑠璃子執拗しつように二三度訊くと、どんな秘密でも、明しかねない父だった。
「なにも、お前の悪口を言ったのじゃない。」
 父は憤怒ふんぬを顔に現しながらも、娘に対する言葉だけは、優しかった。
「じゃ、うして侮辱になりますの、あの方から、侮辱を受ける覚えがないのでございますもの。」
「それを侮辱するからしからないのだ。俺を侮辱するばかりでなく、清浄潔白せいじょうけっぱくなお前までも侮辱してかゝるのだ。」
 父は、又杉野子爵の態度か言葉かを思い出したのだろう、その人が、前にでもいるように、こぶしを握りしめながら、激しい口調で言った。
うしたと言うのでございます、お父様、ハッキリとおっしゃって下さいまし、一体どんなお話で、あの方が、私の事をう仰しゃったのです。一体どんな用事で、らしったのでございます。」
 瑠璃子も、可なり興奮しながら、本当のことを知りたがって、畳みかけて訊いた。
73/343


の男は、お前の縁談があると言って来たのだ。」父の言葉は意外だった。
わたくしの縁談!」瑠璃子は、そう言ったまゝ、二の句が次げなかった。彼女は化石したように、父の書斎の入口に立ち止まった。父は、瑠璃子おどろきに、深い意味があろうとは、夢にも知らずに、興奮に疲れた身体からだを、安楽椅子いすに投げるのであった。

買い得るか


     

 父から、杉野子爵ししゃくの来訪が、縁談のためであると、聞かされると、瑠璃子るりこは電火にでも、打たれたように、ハッとおどろいた。
 やっぱり、自分の子供らしい想像は当ったのだ。杉野子爵は子のために、直接話を進めに来たのだ。その話の中に、子爵の不用意な言葉か、不遜ふそんの態度かが、潔癖な父を怒らせたにちがいない。そう思うと、瑠璃子はあまりに潔癖過ぎる父が急に恨めしくなった。少しも妥協性のない、一徹な父が恨めしかった。自分の一生の運命を狂わすかも知れない、父の態度が、恨めしかった。瑠璃子は父に抗議するように言った。
「縁談のお話が、うしてわたくしを、侮辱することになりますの。またそんなお話なら、一応 わたくしにも、話して下さってから、お断りになっても、遅くはないと思いますわ。」
 瑠璃子は、誰に対しても、自己を主張し得る女だった。彼女は、父にでも兄にでも恋人にでも、自己を主張せずには、いられない女だった。
 瑠璃子の抗議を、父はあわれむように笑った。
「縁談! ハヽヽヽヽ。普通の縁談なら、無論瑠璃さんにも、よく相談する。が、あの男の縁談は、縁談と言う名目で、貴女あなたを買いに来たのじゃ。金を積んで、貴女あなたを買いに来たのじゃ。しからん! わしの娘を!」
 父の眼は、激怒のために、狂わしいまでに、輝いた。そう言われると、瑠璃子は、一言もなかったが、そうした縁談の相手は、一体誰だろうかと、思った。
の男が来て娘をやらんかと言う。平素から、快く思っていない男じゃが、折角来てれたものだから、無碍むげに断るのもと、思ったから、らんこともないと言うと、段々相手の男のことを話すのじゃ。
74/343

人を馬鹿ばかにして居る。四十五で、先妻の子が、二人まであると言うのじゃ。俺は、頭から怒鳴り付けてやったのじゃ。すると、の男が、オズ/\何を言い出すかと思うと、支度金は三十万円【30億円/2025年】まで出すと、言うのじゃ。俺は憤然と立ち上って、彼の男を応接室の外へ引きずり出したのだ。」父の声は、わな/\ふるえた。
この年になるまで、こんな侮辱を受けたことはない。貧乏はしている。政戦三十年、家もやしきも抵当に入っている。が、三十万円は愚か、千万一億の金を積んでも、娘を金のために、売るものか。」
 父は、はたの見る眼も、いたましいほど、激高げっこうしている。年老いた肉体は、余りに激しい憤怒ふんぬのために今にも砕けそうに、緊張している。瑠璃子も、胸が一杯になった。父のいかりを、もっともだと思った。が、その怒をなだむべき何の言葉も、思い浮ばなかった。
 が、それに付けても、杉野子爵は、何のうらみがあって、こうした侮辱を、年老いた父に与えるのだろう。そう思うと、瑠璃子の胸にも、張り裂けるような怒りが、いて来た。が、それが恋人の父であると、思い返すと、身も世もないような悲しみが伴った。
「彼の男は、金のために、あんなにいやしくなってしまったのだ。政商づれと結託して、金のためにばかり、動いているらしいのだ。今日の縁談なども、まとまれば幾何いくらと言う、口銭が取れる仕事だろう。ハヽヽヽヽ。」父は、怒をあざけりに換えながら、さげすむように哄笑こうしょうした。
「何でも、今日の縁談の申込み手と言うのが、ホラ瑠璃さんも行ったゞろう。この間園遊会をやった荘田しょうだと言う男らしいのだ。」
 父は何気なく言った。が、荘田と言う名を聞くと、瑠璃子ぐ、ひょうの眼のように恐ろしい執拗しつようなその男の眼付を思い出した。冷静な、勝気な、瑠璃子ではあったけれども、悪魔に頬を、められたような気味悪さが、全身をゾク/\と襲って来た。
75/343




     

 荘田と言う名前を聴くと、瑠璃子が気味悪く思ったのも、無理ではなかった。彼女は、その人の催した園遊会で、妙なはずみから、激しい言葉をかわして以来、その男の顔付や容子ようすが、悪夢の名残りのように、彼女の頭から離れなかった。
 太いガサツなまゆ、二段に畳まれている鼻、厚い唇、いかにも自我の強そうな表情、その顔付を思い出して見るだけでも、イヤな気がした。そんな男と、言い争いをしたことが、執念深い蛇とでも、恨を結び合ったように、何となく不安だった。処が、その男が意外にも自分に婚を求めている。そう思うだけでも、彼女は妙な悪寒おかんを感じた。よく伝説の中にある、白蛇などに見込まれた美少女のように。
 瑠璃子は、相手の心持が、容易には分らなかった。容易に、その事を信ずることが出来なかった。
「本当でございますの? 杉野さんが、本当に荘田おっしゃったのでございますの?」
「確かに、あの男だと言わないが、うも彼奴あいつの事らしい。杉野はお前の話を始める前に、それとなく荘田の事をめているのだ。うも彼奴あいつらしい。金が出来たのに、付け上って、華族の娘をでももらいたいはららしいが、俺の娘を貰いに来るなんて狂人の沙汰さただ!」
 父は相手の無礼を怒ったものゝ、先方に深い悪意があろうとは思わないらしく、先刻から見ると余程機嫌が直っているらしかった。
 が、瑠璃子はそうではなかった。の求婚を、気紛きまぐれだとか、冗談だとか、華族の娘を貰いたいと言うような単なる虚栄心だとは、うしても思われなかった。父の一喝いっかつって、這々ほうほうていで、逃げ帰った杉野子爵ししゃくは、ほんの傀儡かいらいで、その背後におそろしい悪魔の手が、動いていることを感ぜずにはいられなかった。そう思って来ると、八重桜の下で、自分達二人を、にらみ付けた恐ろしい眼が、アリアリと浮んで来た。そう思って来ると、自分の恋人の父を、自分に対する求婚の使者にした相手のやり方に、悪魔のような意地悪さを、感ぜずにはいられなかった。
 瑠璃子は思った。自分が傷つけた蛇は、ホンのわずかな恨をむくいるために猛然と、襲いかゝっているのだと。が、そう思うと、瑠璃子かえって、必死になった。
76/343

来るならば来て見よ。あんな男に、指一つ触れさせてなるものか。彼女は心のうちでそう決心した。
「いや、杉野やつ一喝してやったら、一縮みになって帰ったよ。あゝ言って置けば、二度と顔向けは出来ないよ。」
 父は、もうすべてが済んでしまったように、何気なく言った。が、瑠璃子にはそうは思われなかった。一度飛び付きそこなった蛇は、二度目の飛躍の準備をしているのだ。いや、二度目どころではない。三度目 四度目 五度目 十度目の準備まで整っているのかも知れない。そう思うと、瑠璃子は又更に自分の胸の処女おとめほこりが、烈火のように激しく燃えるのを感じた。
「本当に口惜くやしゅうございます。あんな男がわたくしを。それに杉野さんが、そんな話をお取次ぎになるなんて、本当にひどいと思いますわ。」
 瑠璃子は、興奮して、涙をポロ/\落しながら言った。それは口惜しさの涙であり、いかりの涙だった。
「だから、聴かない方が、いゝと言ったのだ。そうだ! 杉野しからんのだ。あんな馬鹿ばかな話を取次ぐなんて、彼奴あいつが怪しからんのだ。が、あんな堕落だらくした人間の言うことは、気に止めぬ方がいゝ。縁談どころか、瑠璃さんには、何時いつまでも、ここにいて貰いたいのだ。ことに、光一があゝなってしまえば、お父様の子はお前だけなのだ。百万円はおろか、お父様の首が飛んでも、お前を手離しはしないぞ。ハヽヽヽ。」
 父は、瑠璃子を慰めるように、快活に笑った。瑠璃子の心も、父に対する愛で、一杯になっていた。何時までも、父の傍にいて、父の理解者であり、慰安者であろうと思った。
わたくしもそう思っていますの。何時までも、お父様のおそばにいたいと思っていますの。」
 そう言って瑠璃子は初めてニッコリ笑った。あらしの過ぎ去った後の平和を思わせるような、寂しいけれども静かな美しい微笑ほほえみだった。
77/343




     

 二つのいまわしい事件が、渦をいて起った日から、瑠璃子の家は、暴風雨の吹き過ぎた後のような寂しさに、包まれてしまった。
 家出した兄からは、ハガキ一つ来なかった。父は父でおくびにも兄の事は言わなかった。人を頼んで、兄の行方を探すとか、警察に捜索願を出すなどと言うことを、父は夢にも思っていないらしかった。自分を捨てた子のためには、指一つ動かすことも、父としての自尊心が許さないらしかった。
 こうした父と兄との間に挟まって、たゞ一人、心をいためるのは瑠璃子だった。彼女は、父に隠れて兄の行方をそれとなく探って見た。兄が、その以前父に隠れて通ったことのある、小石川の洋画研究所も尋ねて見た。兄が、かねてから私淑ししゅくしている二科会の幹部のN氏をも訪ねて見た。が、何処どこでも兄の消息はわからなかった。
 兄の友達の二三にも、手紙でき合して見た。が、どの返事もまったように、兄にしばらく会ったことがないと言うような、頼りない返事だった。縦令たとい父とは不和になっても、自分だけには安否位は、知らせてれてもよいものと、彼女は兄の気強さが恨めしかった。が、彼女の心をいたましめることは外にもう一つあった。それは、これまで感情の疎隔そかく【疎遠】していた父と杉野子爵ししゃくとの間が、到頭とうとう最後の破裂に達したことである。あんな事件が起った以上、再び元通りになることは、ほとんど絶望のように思われた。従って、自分達の恋が、正式に認められるようなおりは、永久に来ないように思われた。自分が、恋を達するときは、やっぱり兄と同じように、父に背かなければならぬ時だと思うと、彼女の心は暗かった。
 突然な非礼な求婚が、しりぞけられてから、それに就いては何事も起らなかった。十日ち二十日経った。父は、その事をもうスッカリ忘れてしまったようだった。が、瑠璃子にはそれが中断された悪夢のように、何となく気がかりだったが、一度ぎりで何の音沙汰おとさたもないところを見ると、その求婚を、恐ろしい復讐ふくしゅうの企てでもあるように思ったのは、自分の邪推じゃすい【ひがんで悪く想像】であったようにさえ、瑠璃子は思った。
 そのうちに五月が過ぎ六月が来た。
78/343

政治季節の外は、何の用事もない父は、毎日のように書斎にばかり、閉じもっていた。瑠璃子うかして、父を慰めたいと思いながらも、父の暗いまゆしなびた口のあたりを見ると、たゞ涙ぐましい気持が先に立って、話しかける言葉さえ、容易に口に浮ばなかった。兄がいるうちは、父と時々争いが起ったものゝ、それでも家の中が、何となく華やかだった。父娘おやこ二人になって見ると、ガランとした洋館が修道院か何かのように、ジメ/\とさびしかった。
 六月のある晴れた朝だった。兄が家出した悲しみも、不快な求婚にみだされた心も、だん/\薄らいで行く頃だった。瑠璃子は、その朝、顔を洗ってしまうと平素いつもの通り、老婢ばあやが自分のへやの机の上に置いてある郵便物を、取り上げて見た。
 父あてに来た書状も、一通り目を通すのが、彼女の役だった。その朝は、父宛の書留が一通じっていた。それは内容証明の書留だった。裏を返すと、見覚えのある川上万吉と言う金貸業者の名前だった。
『あゝまた督促かしら。』と、瑠璃子は思った。そうした書状を見るごとに、平素は感じない家の窮状が彼女にもヒシ/\感ぜられるのであった。
 彼女は、何気なく封を破った。が、それは平素の督促状とは、違っていた。簡単な書式のようなものだった。一寸ちょっと意外に思いながら読んで見た。最初の『債権譲渡ゆずりわたし通知書』と言う五字から、名状めいじょうしがたい【言葉で表現できない】不快な感じを受けた。

   債権譲渡通知書

通知人川上万吉は被通知人に対して有する金弐万五千円【2億5千万円/2025年】の債権を今般都合にり荘田勝平殿に譲渡しそうろうに付き通知候なり
  大正六年六月十五日
通知人  川上万吉    被通知人  唐沢光徳みつのり殿

 荘田勝平と言う名前が、目に入ったとき、その書式を持っている瑠璃子の手は、そのまま しびれてしまうような、いやな重くるしい衝動ショックを受けずには いられなかった。
 悪魔は、そのつめを現し始めたのである。


     

 相手が、あのまま思い切ったと思ったのは、やっぱり自分の早合点はやがてんだったと瑠璃子は思った。
79/343

求婚が一時の気紛きまぐれだと思ったのは、相手を善人に解し過ぎていたのだ。相手はその二つの眼が示している通り、やっぱり恐ろしい相手だったのだ。
 が、それにしても何と言う執念ぶかい男だろう。父が負うている借財の証書を買入れて、父に対する債権者となってから、一体うしようと言う積りなのかしら。卑怯ひきょうにも陋劣ろうれつにも、金の力であの清廉せいれんな父を苦しめようとするのかしら。そう思うと、瑠璃子は、女ながらにその小さい胸に、相手の卑怯をいきどおる熱い血が、沸々と声を立てゝ、煮え立つように思った。
 父の借財は多かった。藩閥内閣打破の運動が、起る度に、父はなけ無しの私財を投じて惜しまなかった。藩閥打破を口にする志士達に、なけ無しの私財を散じて惜しまなかった。父が持って生れた任侠にんきょうの性質は、頼まるゝごとに連帯の判もした。手形の裏書もした、取れる見込のない金も貸した。そうした父の、金に対する豪快なり口は、最初から多くはなかった財産を、何時いつの間にか無一物にしてしまった。が、財産は無くなっても、父の気質は無くならなかった。初めは親類縁者から金を借りた。親類縁者が、見放してしまうと、高利貸の手からさえ、借ることをあえてした。住んでいる家も、手入は届いていないが、可なりだゞっ広い邸地も、一番も二番もの抵当に入っていることを、瑠璃子さえよく知っている。
 金力と言ったものが、丸切り奪われている父が、黄金魔と言ってもよいような相手から、赤児あかごの手をじるように、苛責いじめられる。そう思って来ると、瑠璃子はやるせない憤りと悲しみとで、胸が一杯になって来た。金さえあれば、どんないやしい者でもが、得手勝手なことをする世の中全体が、いきどおろしくのろわしく思われた。
 瑠璃子は、今の場合、こうした不快な通知書を、父に見せることが、一番いやなことだった。父が、どんなに怒り、どんなに口惜くやしがるかが余りに見え透いていたから。
 でも、こうした重要な郵便物を、父に隠し通すことは出来なかった。瑠璃子は、重い足を運びながら、父の寝室へ行って見た。が、父はまだ起きてはいなかった。
80/343

スヤ/\と安らかな呼吸をしながら名残りの夢をむさぼっている父のやつれた寝顔を見ると、瑠璃子は出来るだけこうした不快な物を父の眼には触れさせたくはなかった。彼女は、そっと忍び足に枕元まくらもとに寄り添って、枕元の小さい卓子テーブルの上に置いてある、父の手文庫の中にその呪われた紙片を、そっと音を立てずに入れた。何時までも、父の眼には触れずにあれ、瑠璃子は心の中で、そう祈らずにはいられなかった。
 その日、食事の度毎に顔を合せても、父は何とも言わなかった。夜の八時頃、一人で棊譜きふを開いて盤上に石を並べている父に、紅茶を運んで行ったときにも、父は二言ふたこと三言みこと瑠璃子に言葉をかけたけれど、書状のことは、何も言わなかった。
 願わくは、何時までも、父の眼に触れずにあれ、瑠璃子は更にそう祈った。どうせ、一度は触れるにしても、一日でも二日でも先きへ、延ばしたかった。
 が、翌日眼を覚まして、瑠璃子が前の日の朝の、不快な記憶をおもい浮べながら、その朝の郵便物に眼をやったとき、彼女は思わず、口のうちで、小さい悲鳴を挙げずにはいられなかった。其処そこに、昨日と同じ内容証明の郵便物が、三通まで重ねられていたのである。
 それを取り上げた彼女の手は、思わずかすかにふるえた。もう、父に隠すとか隠さないとか言う余裕は、彼女になかった。彼女はそれを取り上げると、救いを求むる少女のように、父の寝室にけ込んだ。
 父は起きてはいなかったが、床の中で眼を覚ましていた。
「お父様! こんな手紙が参りました。」瑠璃子の声は、何時になく上ずッていた。
「昨日のと同じものだろう。いや心配せいでもえゝ、お前が心配せいでもえゝ。」
 父は、静かにそう言った。昨日の書状も、父は何時の間にか、見ていたのである。
 瑠璃子は、今更ながら、自分の父を頼もしく思わずにはいられなかった。


     

 唐沢の家を呪詛じゅそするような、その不快な通知状は、その翌日もその又翌日も、無心な配達夫にって運ばれて来た。
 はじめほどの驚駭ショックは、受けなかったけれども、その一葉々々に、名状しがたい不快と不安とが、見る人の胸をいた。
「なに、捨てゝ置くさ。同一人に債権のあつまった方が、弁済をするにしても、督促を受くるにしても手数がはぶけていゝ。」
81/343


 父は何気ないように、済ましているようだったが、しかし内心の苦悶くもんは、表面うわべへ出ずにはいなかった。ことに、父は相手の真意を測りかねているようだった。何のために、相手がこれほど、執念深く、自分を追窮して来るのか、わかりかねているようだった。
 が、瑠璃子には相手の心持が、判っているだけ、わずかばかりの恨を根に持って、何処どこまでも何処までも、付きまとって来る相手の心根の恐ろしさが、しみ/″\と身にみた。通知状を見る度に、相手に対する憎悪ぞうおで、彼女の心は一杯になった。彼の金力をののしった自分達だけを苦しめるだけなら、まだいゝ、罪もむくいもない老いた父を、苦しめる相手の非道を、心の底より憎まずにはいられなかった。
 こうして、父が負うている総額二十万円に近い負債に対する数多い証書が、たった一つの黒い堅い冷たい手に、握られてしまった頃であった。
 ある朝、彼女は平生いつものように郵便物を見た。――こうした通知状の来ない前は、それは楽しい仕事に違いなかった。其処そこには恋人からの手紙や、親しい友達の消息が見出みいだされたから――。が、今では不安な、いやな仕事になってしまった。
 彼女は、その朝もオズ/\郵便物に目を通した。幾通かの手紙の一番最後に置かれていた鳥の子の立派な封筒を取り上げて、ふと差出人の名前に、目を触れたとき、彼女の視線はそこに、筆太に書かれている四字に、釘付くぎづけにされずにはいなかった。それはまぎれもなく荘田勝平の四字だったのである。
 黒手組の脅迫状を受けたように、悪魔からの挑戦状を受けたように、瑠璃子の心は打たれた。反感と、憎悪とある恐怖とが、ごっちゃになって、わく/\と胸にこみ上げて来た。
 彼女は、その封筒の端をソッと、醜い蠑螈いもり尻尾しっぽをでも握るように、つまみ上げながら、父の部屋へ持って行った。
 父は差出人の名前を、一目見ると、苦々しげにまゆをひそめた。しばらくは開いて見ようとはしなかった。
「何と申して参ったのでございましょう。」瑠璃子は、気になって、かすようにいた。
 父は、荒々しく封筒を引き破った。
「何だ!」父の声は、初から興奮していた。
「――此度このたび小生において、買占め置きそうろう貴下に対する債権について、御懇談ごこんだんいたしたきこと有之これありつ先日杉野子爵ししゃくを介して、申上げたる件に付きても、重々の行違ゆきちがい有之これあり、右釈明旁々かたがた近日参邸いたし度く――あゝ何と言う図々ずうずうしさだ。
82/343

何と言う! 獣のような図々しさだ。よし、やって来い。やって来るがいゝ。来れば、面と向って、あの男の面皮めんぴを引きいてれるから。」
 父は、そう言いながら、奉書の巻紙を微塵みじんに引き裂いた。老いしなんだ手が、いかりのために、ブル/\ふるえるのが、瑠璃子の眼には、いたましくかなしかった。


     

 父も瑠璃子も、心の中に戦いの準備を整えて、荘田勝平の来るのを遅しと待っていた。
 手紙が来た日の翌日の午前十時頃、瑠璃子が、二階の窓から、やしき前の坂道を、見下していると、はるかに続いているプラタナス並樹なみきの間から、水色に塗られた大形の自動車が、初夏の日光をキラ/\と反射しながら、まぶしいほどの速力で、坂をけ上ったかと思うと、急に速力を緩めて、低いうめくような警笛の音を立てながら、門前に止まるのを見たのである。覚悟をしていたことながら、瑠璃子は今更のように、不快な、悪魔の正体をでも、見たような憎悪ぞうおに、とらわれずにはいられなかった。
 自動車の扉は、開かれた。ハンカチーフで顔をきながら、ぬっとそのおおきい頭を出したのは、紛れもないあの男だった。何がうれしいのか、ニコ/\と得体の知れぬ微笑を浮べながら、玄関の方へ歩いて来るのだった。
 瑠璃子は、取次ぎに出ようか出まいかと、考え迷った。顔を合わしたり、一寸ちょっとでも言葉を交すのがいやでならなかった。が、それかと言って、平素気が付けば取次ぎに出る自分が、の人に限って出ないのは、何だか相手をおそれているようで彼女自身の勝気が、それを許さなかった。そうだ! あんないやしい人間におそれてなるものか。の男こそ、自分の清浄な処女おとめ《おとめ》のほこりの前に、わるびれて【自信がなくおどおどして】いゝのだ。そう思うと、瑠璃子処女おとめ《おとめ》にふさわしい勇気を振いおこして、孔雀くじゃくのような誇と美しさとを、そのスラリとした全身にたたえながら、落着いた冷たい態度で、玄関へ現れた。
 勝平は、瑠璃子の姿を見ると、この間会った時とは別人ででもあるように、頭を丁寧ていねいに下げた。
「お嬢さまでございますか、先日は大変失礼を致しまして、申訳もございません。今日は、あのう! お父様はお在宅いででございましょうか。」
83/343


 こうも白々しく、――あゝした非道なことをしながら、こうも白々しく出られるものかと、瑠璃子あきれたほど、相手は何事もなかったように、平和で丁寧であった。
 瑠璃子は、一寸ちょっと拍子抜けを感じながらも、冷たく引きめた顔を、少しも緩めなかった。
在宅いますことは、在宅いますが、お目にかゝれますかどうか一寸ちょっと伺って参ります。」
 瑠璃子は、そう高飛車に言いながら、二階の父の居間に取って返した。
「やって来たな。よし、下の応接室に通して置け。」
 瑠璃子の顔を見ると、父は簡単にそう言った。
 応接室に案内する間も、勝平は丁寧にしか馴々なれなれしげに、瑠璃子に話しかけようとした。が、彼女は冷たい切口上で、相手を傍へ寄せ付けもしなかった。
「やあ!」挨拶あいさつとも付かず、懸声かけごえとも付かぬ声を立てながら、父は応接室に入って来た。父は相手と初対面ではないらしかった。二三度は会っているらしかった。が、苦り切ったまゝ時候の挨拶さえしなかった。瑠璃子は、茶を運んだ後も、はしたないとは知りながら、一家の浮沈に係る話なので、応接室に沿う縁側の椅子いすに、主客には見えないように、そっと腰をかけながら、一語ももらさないように相手の話に耳をそばだてた。
の間から、一度伺おう/\と思いながら、つい失礼いたしておりました。今度、閣下に対する債権を、私が買い占めましたことについても、屹度きっと私をしからんやつだと、お考えになったゞろうと思いましたので、今日はおかたがた、私の志のある所を、申述べに参ったのです。」
 勝平は、いかにも丁重ていちょうに、恐縮したような口調で、ボツリ/\話し始めたのであった。丁度暴風雨の来る前に吹く微風のように、気味の悪い生あたゝかさを持った口調だった。
「うむ。志! 借金の証書を買いあつめるのに、志があるのか。ハヽヽヽヽヽヽ。」父は、頭からあざけるようになじった。
「ございますとも。」相手は強い口調で、しかも下手から、そう言い返した。


     

はじめから申上げねば分りませんが、実は私は閣下の崇拝者です。閣下の清節を、平生から崇拝致している者であります。」
 そう言って、勝平は丁寧に言葉を切った。老狐ろうこばかそうと思う人間の前で、木の葉を頭からかぶっているような白々しさであった。人を馬鹿ばかにしている癖に、態度だけはいやに、真剣に大真面目おおまじめであるようだった。
84/343


ことに近頃になって、所謂いわゆる政界の名士達なるものと、お知己ちかづきになるに従って、大抵の方には、ほとんど愛想をつかしてしまいました。お口丈くちだけは立派なことを言っていらしっても、一歩裏へ回ると、我々町人風情ふぜいよりも、抜目がありませんからな。口幅くちはばったいことを、申す様でございますが、金で動かせない方と言ったら、数えるだけしかありませんからね。」
 父は黙々として、一言も発しなかった。いざと言う時が来たら、一太刀ひとたちに切って捨てようとする気勢けはいが、あり/\と感ぜられた。が、勝平は相手の容子ようすなどには、一切頓着とんちゃくしないように、臆面おくめんもなく話し続けた。
「いつか、日本倶楽部クラブで、初めて閣下の崇高なお姿に接して以来、益々ますます閣下に対する私の敬慕の念が高くなったのです。多年の間、利慾りよく権勢に目もくれず、たゞ国家のために、一意奮闘していらっしゃる。こう言うお方こそ、本当の国士本当の政治家だと思ったのです。」
 父が、面と向ってのお世辞に、苦り切っている有様が、室外にいる瑠璃子にもマザ/\と感ぜられた。
「御存じの通り、私は外に能のある人間でありません。たゞ、二三年来の幸運で、金だけは相当もうけました。私は、今何に使っても心残りのない金を、五百万円ばかり現金で持っています。あゝ使え、こう寄付しろと言ってれる人もありますが、私は閣下のようなお方に、後顧こうこうれいなからしめ、国家のために思い切り奮闘していたゞけるようにする事も、可なり意義のある立派な仕事だと思ったのです。それには、是非ともお交際つきあいを願って、いろ/\な立ち入った御相談にも、あずからせていただきたいと、それで実はあんな突然なお申込を……」
 そう言って、言葉を切った、がいかにも恐縮にえないと言う口調で、
「ところが、その申込が杉野さんの思いちがいで、と言うよりも、あの方の軽率から、私がお嬢さまをお望み致したなどと とんでもない。ハヽヽヽ。御立腹遊ばすのは当然です。五十に近い私が、お嬢さまに求婚するなどと笑い話にもなりません。実は、当人と申すのは私のせがれ、今年二十五になります。亡妻の遺児わすれがたみです。」
85/343


 一寸ちょっと殊勝らしく声を落しながら、
「その倅とても、年こそお嬢様に似合いでございますが、いやもう一向下らない人物です。が、し万一お嬢様を下さるような事がありましたら、これほど有難い――私の財産を半分無くしても惜しくはない――仕合せだと思いますのですが。が、そのお話は、かく、閣下の御債務はすべて、私に払わせていたゞきたいと思いましたから、一月あまりも心掛けて、もう大抵は買いあつめた積りでございますが、縁談のお話などとは別に、これだけは私の寸志です。どうか御心置きなく、お受取り下さるように。」そう言いながら、父の負うている借財の証書の全部を一つの袋に収めて父の前に差し出したらしかった。
 虚心平気に【心に先入観やわだかまりをもたないで】、勝平の言い分を聴けば、無躾ぶしつけなところは、あるにせよ、成金らしい傲岸ごうがんな無遠慮なところはあるにせよ、それほど、悪意のあるものとは思われなかった。が、瑠璃子にはそうではなかった。瑠璃子と、その恋人とを思い知らせるために、悪魔は、瑠璃子を奪って、自分の妻に――名前だけは妻でも、本当はその金力を示すための装飾品に――しようとした。が、瑠璃子の父が、予想以上に激怒したのと、年齢の余りな相違から来る世間の非難とをおもんぱかって、自分の名義で買う代りに、息子の名義で買おうとする、瑠璃子を商品と見ている点においては、何の相違もない。瑠璃子と彼女の恋人とを思い知らせようとする、蛇のような執念には何の相違もない。正面から飛びかゝって父から、手ひどく跳付はねつけられた悪魔は、今度は横合から、そっとたぶらかそうと掛っているのだった。


     

 瑠璃子には、相手の心が十分に見透かされている。が、相手の本心を知らない父は、その空々しい上部うわべの理由だけに、うか/\と乗せられて、もしや相手の無躾ぶしつけな贈り物を、受け取りはしないかと、瑠璃子はひそかに心を痛めた。縁談などとは別にと、口で美しく言うものゝ、父が相手の差し出すえさにふれた以上、それをしおに、否応いやおうなしに自分を、さらって行こうとする相手の本心が、彼女には余りに明かであった。
 父をうにかだまして娘をさらって行く、それで娘にも、彼女の恋人にも、苦痛を与えればよいのだと相手がたくらんでいるらしいのが、瑠璃子には、余りにわかり過ぎているように思えた。
 が、瑠璃子の心配は無駄だった。父は相手が長々としゃべり続けたのを聞いた後で、二三分ばかり黙っていたらしいが、急に居ずまいを正したらしく、厳格な一分も緩みのない声で言った。
「いや、大きに有難う。
86/343

あなたの好意は感謝する。が、考うる所あって、お受けすることは出来ない。借財は証文の期限どおりに、ちゃんと弁済する。それから、縁談の事じゃが、本人が貴方あなたであろうが御子息であろうが、お断りすることには変りがない。うかしからず。」
 父は激せず熱せず、毅然きぜんとした立派な調子で言い放った。父の立派な男らしい態度を、瑠璃子かげながら、伏し拝まずにはいられなかった。何と言う凜々りりしい態度であろう。どんなにの先苦しもうとも、あゝした父を、父としていることは、何という幸福であろうかと思うと、熱い涙が知らずらず、頬を伝って流れた。
 真向から平手でピシャッと、なぐるような父の返事に、相手はしばらくは、二の句が、げないらしかった。が、暫らくすると、太い渋い不快な声が聞え始めた。
「ふゝむ。これほど申し上げても、私の好意をんで下さらない。これほど申上げても、私の心がお分りになりませんのですか。」
 相手の言葉付は、一眸いちぼううちに変っていた。ひょうが、一太刀ひとたち受けて、後退あとじさりしながら、低くうなっているような無気味な調子だった。
「はゝゝゝ、好意! はゝゝゝ、お前さんは、こんなことを好意だと、言い張るのですか。人の顔につばを吐きかけて置いて、好意であるもないものだ、はゝゝゝゝゝゝ。」父は、相手をさげすみ切ったように嘲笑あざわらった。
「はゝゝ、閣下も、貧乏をお続けになったために、何時いつの間にか、ひがんでおしまいになったと見える。の荘田が、誠意誠心申上げていることが、お分りにならない。」
 相手も、負けてはいなかった。豹が、その本性を現して、猛然と立ち上ったのだった。
「はゝゝゝゝ、誠意誠心か! 人の娘を、金で買うと言う恥知らずに、誠意などがあって、たまるものか。出直しておいでなさい!」父は、低い力強い声で、そうののしった。
「よろしい! 出直して参りましょう。
87/343

閣下、覚えて置いて下さい! の荘田は、好意を持っておりますと同時に、悪意も人並に持っているものでございますから。お言葉に従って、いずれ出直して参りますから。」そう言い捨てると、相手は荒々しくドアを排して、玄関へ出て行った。
 瑠璃子が、急いで応接室にけ込んだとき、父はそこに、昂然こうぜんと立っていた。半白の髪が、逆立さかだっているようにさえ見えた。
「お父様!」瑠璃子は、胸が一杯になりながら、駈け寄った。
「あゝ瑠璃子か。聞いていたのか。さあ! お前もしっかりして、飽くまでも戦うのだ。強くあれ、そうだ飽くまでも強くあることだ!」
 そう言いながら父は、彼のせた胸懐むなぶところに顔をうずめている娘の美しい撫肩なでがたを、軽く二三度たたいた。

わな


     

 羊の皮をかぶって来たおおかみ面皮めんぴを、真正面から、引きいだのであるから、その次ぎの問題は、狼が本性を現して、飛びかゝって来る鋭い歯牙しがを、どんなに防ぎ、どんなに避くるかにあった。
 が、その狼の毒牙どくがは、法律にって、保護されている毒牙だった。今の世の中では、国家の公正な意志であるべき法律までが、富める者の味方をした。
 勝平に買い占められた証書の一部分の期限はもう十日と間のない六月の末であった。今までは、期限が来るごとに、幾度も幾度も証書の書換をした。そのために、証書の金額は、年一年えて行ったものゝ、うにか遣繰やりくりは付いていた。が、それが悪意のある相手の手に帰して、こちらを苛責いじめるための道具に使われている以上、相手が書換や猶予ゆうよの相談に応ずべきはずはなかった。
 六月の末日が、段々近づいて来るに従って、父は毎日のように金策に奔走した。が、三万を越している巨額の金が、現在の父にって容易に、才覚【工面】さるべき筈もなかった。
 朝起きると、父はあおざめながらも、まなこだけますます鋭くなった顔を、曇らせながら、黙々として出て行った。玄関へ送って出る瑠璃子るりこも、
「お早くお帰りなさいまし。」と、挨拶あいさつする外は何の言葉もなかった。が、送り出す時は、まだよかった。其処そこに、わずかでも希望があった。が、夕方、その日の奔走が全く空に帰して、悄然しょうぜんと【元気がなく】帰って来る父を迎えるのは、うにもたまらなかった。
88/343

父と娘とは、黙って一言も、交わさなかった。お互の苦しみを、お互に知っていた。
 今迄いままでは、元気であった父も、折々は嗟嘆さたん【なげき】の声を出すようになった。夕方の食事が済んで、父娘おやこが向い合っている時などに、父は娘にびるように言った。
「皆、お父様が悪かったのだ。自分の志ばかりに、気を取られて、最愛の子供のことまで忘れていたのじゃ。わしの家を治めることを忘れたために、お前までがこんな苦しい思いをするのだ。」
 父の耿々こうこうの気が――三十年火のように燃えた野心が、こうした金の苦労のために、砕かれそうに見えるのが、一番瑠璃子には悲しかった。
 父の友人や知己ちき【知り合い】は、大抵は、父のために、三度も四度も、迷惑をかけさせられていた。父が、金策の話をしても、彼等は体よく断った。断られると、潔癖な父は、二度と頼もうとはしなかった。
 六月が二十五日となり、二十七日となった。連日の奔走が無駄になると、父はもう自棄やけを起したのであろう。もう、ふッつりと出なくなった。幡随院長兵衛ばんずいいんちょうべえが、水野やしきに行くように、父はわるびれもせず、悪魔が、下す毒手を、待ち受けているようだった。
 今年の春やっと、学校を出たばかりの瑠璃子には、父が連日の苦悶くもんを見ても、うしようと言うすべもなかった。彼女は、たゞオロ/\して、一人心を苦しめるだけだった。
 彼女の小さい胸の苦しみを、打ち明けるべき相手としては、たゞ恋人の直也なおやがあるだけだった。が、彼女は恋人に、まだ何も言っていなかった。
 家の窮状を訴えるためには、いろ/\な事情を言わなければならない。荘田しょうだの恨みの原因が、直也罵倒ばとうであることも言わなければならない。直也の父が、不倫ふりんな求婚のいやしい使者をつとめたことも言わなければならない。それでは、恋人に訴えるのではなくして、恋人を責めるような結果になる。潔癖な恋人が、父の非行を聴いて、どんなに悲嘆するかは、瑠璃子にもよく分っていた。自分のふとした罵倒が、瑠璃子父娘おやこに、どんなにわざわいしているかと言うことを聴けば、熱情な恋人は、どんな必死なことをやり出すかも分らない。
89/343

そう思うと、瑠璃子は、出来るだけは、自分の胸一つに収めて、恋人にも知らすまいと思った。
 父や瑠璃子の苦しみなどとは、没交渉に【かかわりがなく】、いな すべての人間の喜怒哀愁きどあいしゅうとは、何のかかわりもなく、六月は暮れて行った。


     

 もう、明日が最後の日という六月二十九日の朝だった。荘田勝平の代理人と言う男が、瑠璃子の家を訪ずれた。わしくちばしのような鼻をした四十前後の男だった。詰襟の麻の洋服を着て、胸のあたりに太い金の鎖を、仰々しくきらめかしていた。
 父は、頭から面会を拒絶した。瑠璃子が、そのむねを相手に伝えると、相手は薄気味の悪い微笑をニヤリと浮べながら、
「いや、お会い下さらなくっても、結構です。それでは、お嬢様から、よろしくお伝え下さい。外の事ではございませんが、今度手前共の主人が、ん所ない事情から、買入れました、此方こちらの御主人に対する証文のうち、一部の期限が明日に当っていますから、是非ともお間違なくお払い下さるように、当方にも事情がございまして、何分御猶予ごゆうよいたすことが出来ませんから、そのお積りで、お間違のないよう。もし、万一お間違がありますと、手前共の方では、ぐ相当な法律上の手段に訴えるような手筈てはずに致しておりますから。後でおうらみなさらないように。」と、言ったが、の冷たそうな男の胸にも、美しい瑠璃子に対する一片の同情が浮んだのであろう。彼は急に、口調をやわらげながら、
「どうかお嬢様、こんなことを申上げる私の苦しい立場もお察し下さい。うらみむくいもない御当家へ参って、こんなことを申上げる私は可なり苦しい思いを致しているのでございます。しかし、これも全く、使われています主人の命令でございますから。それでは、いずれ明日改めて伺いますから。」
 瑠璃子が、大理石で作った女神の像のように、冷たく化石したような美しい顔の、まゆ一つ動かさず黙って聞いているために、男はある威圧を感じたのであろう。そう言ってしまうと、コソコソと、逃ぐるように去ってしまった。
 父に、この督促を伝えようかしら。が伝えたってなんにもならない。何万と言う金が、今日明日に迫って、父にって作られるはずがなかった。
90/343

が、もし払わないとすると、向うでは直ぐ相当な法律上の手段に、訴えると言う。一体それはどんなことをするのだろう。そう考えて来ると、瑠璃子は自分の胸一つには、収め切れない不安がいて来て、進まないながら、父の部屋へ、上って行かずにはいられなかった。
「うむ! 直ぐ法律上の手段に訴える!」
 父はそう言って、腕をこまぬいて、さすがに抑え切れない憂慮の色が、アリ/\と眉の間にあふれた。
執達吏しったつり【執行官】を寄越すと言うのだな。あはゝゝゝゝ、まかり違ったら、競売にすると言うのかな。それもいゝ、こんなボロ屋敷なんか、ない方が結句気楽だ! はゝゝゝゝ。」
 父は、元気らしく笑おうとした。が、それはむなしい努力だった。瑠璃子の眼には、笑おうとする父の顔が、今にも泣き出すように力なくみじめに見えた。
うにか ならないもので ございましょうか、ほんとうに。」
 父の大事などには、今迄いままで一度も口出しなどをしたことのない彼女も、恐ろしい危機に、つい平生のたしなみを忘れてしまった。
 父も、それに釣り込まれたように、
「そうだ! 本多さえ早く帰っておれば、うにかなるのだがな。八月には帰ると言うのだから、の一月か二月さえ、うにか切り抜ければ――」
 父は、娘に対する虚勢も捨てたように、首をうな垂れた。そうだ、父の莫逆ばくぎゃくの友【親友】たる本多男爵だんしゃくさえ日本におればと、瑠璃子も考えた。が、その人は、宮内省くないしょう調度頭ちょうどのかみをしている男爵は、内親王の御降嫁ごこうかの御調度買入れのために、欧洲おうしゅうへ行っていて、此の八月下旬でなければ、日本へは帰らないのだった。
 住んでいる家に、執達吏が、ドヤ/\と踏み込んで来て家財道具に、封印をベタ/\と付ける。そうした光景を、頭の中に思い浮べると、瑠璃子は生きていることが、味気ないようにさえ思った。
 父も娘も、無言のまゝに、三十分も一時間もすわっていた。いつまで、坐っていても父娘おやこの胸の中の、黒いいやなかたまりが、少しもほぐれては行かなかった。
 その時である。また唐沢家をおとなう一人の来客があった。悪魔の使であるか、神の使であるかは分らなかったけれど。


     

 父ととが、差し迫まる難関に、やるせない当惑のまゆをひそめて、向い合って坐っている時に、尋ねて来た客は、木下と言う父の旧知だった。
91/343

政治上の乾分こぶん【子分】とも言うべき男だった。父が、日本ではじめての政党内閣に、法相の椅子いすを、ホンの一月半ばかり占めた時、秘書官に使って以来、ズッと目をかけて来た男だった。長い間、父の手足のように働いていた。父も、いろ/\な世話を焼いた。が、二三年来父の財力が、尽きてしまって、乾分の面倒などは、少しも見ていられなくなってから、の男も段々、父から遠ざかって行ったのだ。
 が、父は久しぶりに、旧知の尋ねて来たことをよろこんだ。おぼるゝ者は、わらをでもつかむように、窮し切っている父は、何処どこかに救いの光を見付けようと、あせっているのだった。その男は、今年の五月来た時とは、別人のような立派な服装なりをしていた。
うだい! 面白い事でもあるかい!」
 父は、心のうち苦悶くもんを、の来客にって、少しは紛ぎらされたように、さびしい微笑を、浮べながら応接室へ入って行った。
「おかげさまでの頃は、うにかこうにか、一本立で食って行けるようになりました。もう、二年お待ち下さい! そのうちには、閣下への御恩報じ【恩返し】も、万分の一の御恩報じも、出来るような自信もありますから。」
 そう言いながら、得意らしく哄笑こうしょうした。の場合の父には、そうした相手のお世辞さえうれしかった。
「そうかい! それは、結構だな、わしは、相変らず貧乏でのう。年頃になった娘にさえ、いろ/\の苦労をかけている始末でのう。」
 父はそう言いながら、茶を運んで行った瑠璃子の方を、びるように見た。
「いや、今に閣下にも、御運が向いて来る時代が参りますよ。の頃ポツ/\新聞などにうわさが出ますように、し××会中心の貴族院内閣でもが、出来るような事がありましたら、閣下などは、誰を差しいても、第一番の入閣候補者ですから、本当に、今しばらくの御辛抱です。三十年近い間の、閣下の御清節が、むくわれないでおわると言うことは、余りに不当なことですから。……いやどうも、閣下のお顔を見ると、思わずこうした愚痴が出て困ります。いや、実は本日参ったのは、一寸ちょっとお願いがあるのです。」
92/343


 そう言いながら、その男は立ち上って、応接室の入口に、立てかけてあった風呂敷包ふろしきづつみを、テーブルの上に持って来た。その長方形な格好かっこうから推して、中が軸物じくものであることが分っていた。
「実は、これを閣下に御鑑定していたゞきたいのです。友人に頼まれましたのですが、書画屋などには安心して頼まれませんものですから。是非一つ閣下にお願いしたいと思うたものですから。」
 瑠璃子の父は、素人しろうと鑑定家として、堂に入っていた。こと北宗画 南宗画おいては、その道の権威だった。
「うむ! 品物はなんなのだな。」父は余り興味がないように言った。書画を鑑定すると言ったような、落着いた気分は、彼の心の何処にも残っていなかったのである。
夏珪かけいの山水図です。」
馬鹿ばかな。」父は頭からあざけるように言った。「そんな品物が、君達の手にヒョコ/\あるものかね。それに、見れば、大幅じゃないか。まあ黙って持って帰った方がいゝだろう。見なくっても分っているようなものだ。ハヽヽヽヽヽ。」
 父は、丸切まるきり相手にしようとはしなかった。相手は、父にそう言われると、恐縮したように、頭をかきながら、
「閣下に、そう手厳てきびしく出られると、一言もありません。が、あきらめのために見ていただきたいのです。贋物にせものは覚悟の前ですから。持っている当人になると、怪しいと思いながら、諦められないものですから。ハヽヽヽヽヽヽ。」


     

 久し振で、訪ねて来た旧知の熱心な頼みを聞くと、父は素気すげなく、断りかねたのであろう、それかと言って、書画を鑑定すると言ったような、静かな穏かな気持は、今の場合、少しも残ってはいないのだった。
「見ないことはないが、今日は困るね、日を改めて、出直して来てもらいたいね。」父は余儀なさ【やむをえなさ】そうに言った。
「いや決して、只今ただいま見て下さいなどと、そんな御無理をお願いいたすのではありません。お手許てもとへおいて置きますから、一月でも二月でも、お預けしておきますから、うかお暇な時に、お気が向いたときに。」
93/343

相手は、丁寧ていねい懇願こんがんした。
「だが、夏珪かけいの山水なんて、大した品物を預っておいて、しもの事があると困るからね。もっとも、君などが、そうヒョックリ本物を持って来ようなどとは、思わないけれども、ハヽヽヽヽ。」
 父は、品物が贋物であることに、何の疑いもないように笑った。
「いやそんな御心配は、御無用です。閣下のお手許に置いて置けば、日本銀行へ供託きょうたくして置くより安全です、ハヽヽヽ。閣下のお口から、贋だと一言おっしゃって下さると当人も諦めが、付くものですから。」
 相手に、そう如才なく言われると、父も断りかねたのであろう。口では、承諾のむねを答えなかったけれども、有耶無耶うやむやうちに、預ることになってしまった。
 その用事が、片付くと客は、取って付けたように、政局の話などを始めた、父はしばらくの間、興味の乗らないような合槌あいづちを打っていた。
 客が、帰って行くとき、父は玄関へ送って出ながら、
およ何時いつ取りに来る?」といた。やっぱり、軸物じくもののことが少しは気になっているのだった。
「御覧になったら、ハガキででも、御一報を願えませんか、本当にお気に向いた時でよろしいのですから。当方は、少しも急ぎませんのですから。」
 客は幾度も繰返しながら、帰って行った。応接室へ引き返した父は、瑠璃子を呼びながら、
これしまって置け、わしの居間の押入へ。」と、命じた。が、瑠璃子が、父の言いつけに従って、その長方形の風呂敷包を、取り上げようとした時だった。父の心が、急にふと変ったのだろう。
「あ、そう。やっぱり一寸ちょっと見て置くかな。どうせ贋にきまっているのだが。」
 そう言いながら、父は瑠璃子の手から、その包みを取り返した。父は包みをいて、箱を開くとさすがに丁寧に、中の一軸を取り出した。幅三尺に近い大幅だった。
「瑠璃さん! 一寸ちょっと掛けて御覧。その軸の上へ重ねてもいゝから。」
 瑠璃子は父の命ずるまゝに、応接室の壁に古くから懸っている、父が好きな維新の志士雲井龍雄たつおの書の上へ、夏珪の山水を展開した。
 ず初め、層々とそびえている峰巒ほうらん【連なる山々】のすがたが現れた。その山が尽きる辺から、落葉し尽くした疎林そりん【まばらな林】が淡々と、浮かんでいる。
94/343

疎林の間には一筋の小径こみちが、遥々はるばると遠く続いている。その小径を横ぎって、水のれた小流さながれが走っている。その水上に架する小さい橋には、牛に騎した牧童が牧笛を吹きながら、通り過ぎている。夕暮が近いのであろう、蒼茫そうぼうたる【ほの暗い】薄靄うすもやが、ほのかに山や森をおおうている。その寂寞せきばくわずかに破るものは、牧童の吹き鳴らす哀切なる牧笛の音であるのだろう。


 父は、軸がひろげられるのと共に、一言も言葉を出さなかった。が、じっと見詰めているひとみには感激の色がアリ/\と動いていた。五分ばかりも黙っていただろう。父は感にえたように、もう黙ってはいられないように言った。
逸品いっぴんだ。素晴らしい逸品だ。この間、伊達侯爵だてこうしゃく家の売立に出た夏珪かけいの『李白観瀑りはくかんばく』以上の逸品だ!」
 父は熱に浮かされたように言っていた。夏珪の『李白観瀑』は、ついこの間行われた伊達家の大売立に九万五千円と言う途方もない高価たかねを附せられた品物だった。


     

「不思議だ! 木下などが、こんな物を持って来る!」父はしばらくの間は魅せられたように、その山水図に対して、立っていた。
「そんなに、この絵がいゝのでございますか。」瑠璃子も、つい父の感激に感染して、こういた。
「いゝとも。徽宗きそう皇帝、梁楷りょうかい馬遠ばえん牧渓もっけい、それから、この夏珪、みんな北宗画の巨頭なのだ、どんな小幅だって五千円もする。この幅などは、お父様が、今迄いままで見た中での傑作だ。北宗画と言うのは、南宗画とはまた違った、やわらかいい味のあるものだ。」
 父は、名画を見たよろこびに、つい明日に迫る一家の窮境を忘れたように、瑠璃子に教えた。
「そうだ。早く木下に知らせてやらなければいけない。贋物にせものだからいくら預っていても、心配ないと思って預かったが、本物だと分ると急に心配になった。そうだ瑠璃さん! 二階の押入れへ、大切にしまって置いておくれ!」
 父は十分もの間、近くから遠くから、つくづくと見尽した後、そう言った。
95/343


 瑠璃子は、それを持って、二階への階段を上りながら思った。自分の手中には、一幅十万円に近い名画がある。の一幅さえあれば一家の窮状は何の苦もなく脱することが出来る。んなに名画であろうとも、長さ一丈を超えず、幅五尺に足らぬ布片に、五万十万の大金を投じて惜しまない人さえある。それと同時に、同じ金額のために、いろ/\な侮辱や迫害を受けている自分達父娘おやこもある。そう思うと、手中にあるその一幅が、人生の不当な、不公平な状態を皮肉に示しているように思われて、その品物に対して、妙な反感をさえ感じた。
 その日の午後、二階の居間に閉じこもった父は、うしたのであろう。平素いつもに似ず、おりに入れられたくまのように、部屋中を絶間たえまなしに歩き回っていた。瑠璃子は、階下の自分の居間にいながら、天井に絶間たえまなく続く父の足音に不安なひとみを向けずには、いられなかった。常には、軽い足音さえ立てない父だった。今日は異常に興奮こうふんしている様子が、瑠璃子にもそれと分った。しばらく音が、絶えたかと思うと、又立ち上って、ドシ/\と可なり激しい音を立てながら、部屋中を歩き回るのだった。瑠璃子はふと、父が若い時に何かに激高げっこうすると、ぐ日本刀を抜いて、ビュウビュウと、部屋の中で振り回すのが癖だったと、き母から聞いたことを思い出した。
 あんなに、父が興奮しているとすると、し明日荘田の代理人が、父に侮辱に近い言葉でも吐くと短慮な父は、どんな珍事ちんじき起さないとも限らないと思うと、瑠璃子は心配の上に、又新しい心配が、重なって来るようで、こんな時家出した兄でも、いてれゝばと、取止めもない愚痴さえ、心のうちに浮んだ。
 その日、五時を回った時だった。父は、瑠璃子を呼んで、外出をするから、車を呼べと言った。もう、金策のあてなどが残っている筈はないと思うと、彼女は父が突然出かけて行くことが、可なり不安に思われた。
何処どこへ行らっしゃるのでございますか。もう直ぐ御飯でございますのに。」瑠璃子は、それとなく引き止めるように言った。
「いや、木下から預った軸物が急に心配になってね。
96/343

これから行って、届けてやろうと思うのだ。向うでは、あゝした高価なものだとは思わずに、預けたのだろうから。」父の答えは、何だか曖昧あいまいだった。
「それなら、直ぐ手紙でもお出しになって、取りに参るように申したら、如何いかがでございましょう。別に御自身でお出かけにならなくても。」瑠璃子は、妙に父の行動が不安だった。
「いや、一寸ちょっと行って来よう。ことこの家は、何時いつ差押えになるかも知れないのだから。預って置いて差押えられたりすると、面倒だから。」父は声低く、弁解するように言った。そう言えば、父が直ぐ返しに行こうと言うのにも、訳がないことはなかった。
 が、父が車に乗って、その軸物の箱を肩にもたせながら、何処いずこともなく出て行く後姿を見た時、瑠璃子の心の中の妙な不安は極点に達していた。


     

 到頭とうとうのろわれた六月の三十日が来た。梅雨つゆ時には、珍らしいカラリとしてほがらかな朝だった。明るい日光の降り注いでいる庭の樹立こだちでは、朝早くからせみさん/\と鳴きしきっていた。
 が、早くから起きた瑠璃子の心には、暗い不安と心配とが、泥のようによどんでいた。父が、昨夜遅く、十二時に近く、酒気を帯びて帰って来たことが、彼女の新しい心配の種だった。還暦かんれきの年に禁酒してから、数年間一度も、酒杯を手にしたことのない父だったのだ。あれほど、気性の激しい父も、不快な執拗しつような圧迫のために、自棄やけになったのではないかと思うと、その事が一番彼女には心苦しかった。
 ついこの間来た、わしくちばしのような鼻をした男が、今にも玄関に現れて来そうな気がして、瑠璃子は自分の居間に、じっとすわっていることさえ、出来なかった。あの男が、父に直接会って、弁済を求める。父が、素気すげなく拒絶する。相手が父を侮辱するような言葉を放つ。いら/\し切っている父が激怒する。恐ろしい格闘が起る。父が、秘蔵の貞宗さだむねの刀を持ち出して来る。そうしたいやな空想が、ひっきりなしに瑠璃子の頭を悩ました。
97/343

が、午前中は無事だった。一度玄関におとなう声がするので驚いて出て見ると、得体の知れぬ売薬を売り付ける偽廃兵はいへいだった。午後になってからも、却々なかなか来る様子はなかった。瑠璃子は絶えずいら/\しながら嫌な呪わしい来客を待っていた。
 父は、朝食事の時に、瑠璃子と顔を合わせたときにも、苦り切ったまゝ一言も言わなかった。昨日きのうよりも色があおく、眼が物狂わしいような、不気味な色を帯びていた。瑠璃子もなるべく父の顔を見ないように、うつむいたまゝ食事をした。それほど、父の顔はいたましくみじめに見えた。昼の食事に顔を合した時にも、親子は言葉らしい言葉は、交さなかった。まして、今日が呪われた六月三十日であると言ったような言葉は、どちらからも、おくびにも出さなかった。その癖、二人の心には六月三十日と言う字が、毒々しくき付けられているのだった。
 が、長い初夏の日が、ようやく暮れかけて、夕日の光が、はるかに見える山王台の青葉を、あか/\と照し出す頃になっても、あの男は来なかった。あんなに、心配した今日が、何事も起らずに済むのだと思うと、瑠璃子は妙に拍子抜けをしたような、心持にさえなろうとした。
 が、しかし悪魔に手抜かりのあるはずはなかった。その犠牲いけにえが、十分苦しむのを見すまして、最後に飛びかゝる猫のように瑠璃子父子おやこが、一日を不安な期待のうちに、苦しみ抜いて、やっと一時逃れの安心に入ろうとした間隙すきに、かの悪魔の使者は護謨輪ゴムわの車に、音も立てず、そっと玄関に忍び寄ったのだった。
「いや、大変遅くなりまして相済みません。が、遅く伺いました方が、御都合が、およろしかろうと思いましたものですから、お父様は御在宅でしょうか。」
 瑠璃子が、出迎えると、その男は妙な薄笑いをしながら、言葉だけはいやに、丁重ていちょうだった。
 来る者が、到頭とうとう来たのだと思いながらも、瑠璃子はその男の顔を見た瞬間から、憎悪ぞうおと不快とで、小さい胸が、ムカムカとき立って来るのだった。
「お父様! 荘田の使が参りました。」
 そう父に取り次いだ瑠璃子の声は、かすかにふるえを帯びるのを、うともする事が出来なかった。
「よし、応接室に通して置け。」
 そう言いながら、父は傍の手文庫【小箱】を無造作に開いた。
98/343

部屋の中は可なり暗かったが、その開かれた手文庫の中には、薄紫の百円紙幣のたばが、――そうだ一寸にも近い束が、二つ三つ入れられてあるのが、アリ/\と見えた。
 瑠璃子は、思わず『アッ』と声を立てようとした。


     

 父の手文庫に思いがけなくも、ほのかな薄紫の紙幣の厚い束を、発見したのであるから、瑠璃子が声を立てるばかりに、おどろいたのも無理ではなかった。おどろくのと一緒に、有頂天になって、躍り上って、よろこぶべきはずであった。が、実際は、その紙幣を見た瞬間に言い知れぬ不安が、潮のごとくヒタ/\と彼女の胸をみたした。
 瑠璃子は、父がその札束を、無造作に取り上げるのを、恐ろしいものを見るように、無言のまゝじっと見詰めていた。
 父が、応接室へ出て行くと、鷲鼻わしばなの男は、やんごとない高貴の方の前にでも出たように、ペコ/\した。
「これは、これは男爵様だんしゃくさまでございますか。私はあの、荘田に使われておりまする矢野と申しますものでございます。今日むを得ません主命で、主人も少々現金の必要に迫られましたものですから止むを得ず期限通りにお願い致しまする次第で、何の御猶予ごゆうよも致しませんで、誠に恐縮きょうしゅく致しておる次第でござります。」父は、そうした挨拶あいさつに返事さえしなかった。
「証文を出してれたまえ。」父の言葉は、匕首あいくちのように鋭く短かった。
「はあ! はあ!」
 相手は、周章あわてたように、ドギマギしながら、折鞄おりかばんの中から、三葉の証書を出した。
 父は、じっと、それに目を通してから、右の手に、鷲づかみにしていた札束を、相手の面前に、突き付けた。
 相手は、父の鋭い態度に、オド/\しながら、それでも一枚々々かぞえ出した。
荘田言伝ことづてをしておいて呉れたまえ、いゝか。わしの言うことをよく覚えて、言伝をして、おいて呉れたまえ。唐沢は貧乏はしている。家もやしきも抵当に入っているが、金銭のために首の骨を曲げるような腰抜けではないぞ。日本中の金の力で、圧迫されても、横に振るべき首は、決して縦には動かさないぞと。いゝか。帰って、そう言うのだ! 五万や十万の債務は、期限どおり何時いつでも払ってやるからと。」
 父は、犬猫をでも叱咤しったするように、低く投げ捨てるような調子で言った。
99/343

相手は何と、ののしられても、かくいやな役目を満足に果し得たことを、もっけの幸と思っているらしく、一層丁寧に慇懃いんぎん【物腰が丁寧で礼儀正しい】だった。
「はあ! はあ! かしこまりました。主人に、そう申し聞けますでござります。どうも、私の口からは、申し上げられませんが、成り上り者などと言う者は、金ばかりありましても、人格などと言うものは皆目かいもく持っていない者が、多うございまして、私の主人なども、使われている者の方が、愛想を尽かすような、いやしい事を時々、やりますので。いや、閣下のお腹立はらだちは、全く御尤ごもっともです。私からも、主人に反省を促すように、申します事でございます。それでは、これでおいとま致します。」
 丁度烏賊いかが、敵をおそれて、逃げるときに嫌な墨汁を吐き出すように、この男も出鱈目でたらめな、その場限りの、遁辞とんじ【逃げ口上】を並べながら、怱卒そうそつとして【あわただしく】帰って行った。
 そうだ! 父は最初の悪魔の突撃を物の見事に一蹴いっしゅうしたのだった。この次ぎの期限までには、半年の余裕がある。その間には、父の親友たる本多男爵も帰って来る。そう思うと、瑠璃子はホッと一息ついて安心しなければならない筈だった。が、彼女の心は、一つの不安が去ると共に、又別な、もっと性質たちのよくない不安が、何時の間にか入れ換っていた。
「瑠璃さん! お前にも心配をかけて済まなかったのう。もう安心するがいゝ。これで何事もないのだ。」
 父は、客が帰った後で、瑠璃子の肩に手をかけながら慰め顔にそう言った。
 が、瑠璃子の心は、怏々おうおうとして【心が晴れなく】楽しまなかった。
『お父様! あなたは、あの大金をうして才覚【工面】なさったのです。』
 そう言う不安な、不快な、疑いが咽喉のどまで出かゝるのを、瑠璃子は、やっと抑え付けた。

ユージット


     

 一家の危機は過ぎた。六月は暮れて、七月は来た。が、父の手文庫の中に奇跡きせきのように見出みいだされた、三万円【3億円/2025年】以上の、巨額な紙幣に対する、瑠璃子るりこの心の新しい不安は、日のつに連れても、容易には薄れて行かなかった。
 七月もなかばになった。庭先に敷き詰めた、白い砂利の上には、瑠璃子の好きな松葉牡丹ぼたんが、咲き始めた。
100/343

真紅しんくや、白や、琥珀こはくのような黄や、いろ/\変った色の、少女おとめのような優しい花の姿が、荒れた庭園の夏をいろど唯一ゆいいつの色彩だった。
 荘田の、思い出すだけでも、いきどおろしい面影も、だん/\思い出す回数が、少くなった。鷲鼻わしばなの男の顔などは、もう何時いつの間にか、忘れてしまった。すべてが、一場の悪夢のように、そのいやな苦い後感も何時しか消えて行くのではないかと思われた。
 が、それは瑠璃子むなしい思違おもいちがいだった。悪魔は、その最後の毒矢を、もう既に放っていたのだった。
 七月の末だった。父は、突然警視総監のT氏から、急用があると言って、会見を申し込まれた。父は、T氏とは公開の席で、二三度顔を合せただけで、私交のある間ではなかった。ことに、父は政府当局からは常に、白眼をもって見られていたのだから。
「何の用事だろう?」
 父は、一寸ちょっと不審ふしんそうに首を傾けた。警視総監と言ったような言葉だけでも、瑠璃子には妙に不安の種だった。
 が、父は何か考え当る事があったのだろう、割合気軽に出かけて行った。が、き乱された瑠璃子の胸は、父の車を見送った後も、しばらくは静まらなかった。
 父は、一時間も経たぬ間に帰って来た。瑠璃子は、ホッと安心して、いそ/\と玄関に出迎えた。
 が、父の顔を一目見たとき、彼女はハッと立竦たちすくんでしまった。容易ならぬ大事が、父の身辺に起ったことが、ぐそれと分った。父の顔は、土のように暗くあおざめていた。血の色が少しもないと言ってよかった。眼だけは、平素いつものように爛々らんらんと、光っていたが、その光り方は、狂人の眼のように、物凄ものすごしかも、ドロンとして力がなかった。
「お帰りなさいまし。」と、言う瑠璃子の言葉も、しわがれたように、咽喉のどにからんでしまった。瑠璃子が、父の顔を見上げると、父は子に顔を見られるのが、恥しそうに、コソ/\と二階へ上って行こうとした。
 父の狼狽ろうばいしたような、血迷ったような姿を見ると、瑠璃子の胸は、暗い憂慮で一杯になってしまった。彼女は、父を慰めよう、訳をこうと思いながら、オズ/\父の後から、いて行った。
 が、父は自分の居間へ入ると、後からいて行った瑠璃子を振り返りながら言った。
101/343


「瑠璃さん! どうか、お父様を、暫らく一人にして置いてれ!」
 父の言葉は、言い付けと言うよりも哀願あいがんだった。父としての力も、権威もなかった。
 それにふと気が付くと、そう言った刹那せつな【瞬間】、父の二つの眼には、抑えかねた涙が、ほた/\とき出しているのだった。
 父が涙を流すのを見たのは、彼女が生れて十八になる今日まで、父が母の死床に、最後の言葉をかけた時、たった一度だった。
 瑠璃子は、父にそう言われると、むなく自分の部屋に帰ったが、一人自分の部屋にいると、墨のような不安が、胸の中を一杯につぶしてしまうのだった。
 夕食の案内をすると、父は、『食べたくない』と言ったまゝ、午後四時から、夜の十時頃まで、カタと言う物音一つさせなかった。
 十時が来ると、寝室へ移るのが、例だった。瑠璃子は、十時が鳴ると父の部屋へ上って行った。そして、オズ/\ドアを開けながら言った。
「もう、十時でございます。お休み遊ばしませ。」黙然としていた父は、手をこまねいたまゝ【何もしないまま】、振向きもしないで答えた。
わしは、もう少し起きているから、瑠璃さんは先きへお寝なさい!」
 そう言われると、瑠璃子は、いよいよ不安になって来た。寝室へ退しりぞくことなどは愚か、父の部屋を遠く離れることさえが、心配でたまらなくなって来た。瑠璃子は、階段を中途まで降りかけたが、はげしい胸騒ぎがして、うしても足が、進まなかった。彼女は、足音を忍ばせながら、そっと、引き返した。彼女は、もない廊下の壁に、寄り添いながら立っていた。父が、寝室へ入るまでは、うにも父の傍を離れられないように思った。


     

 二十分ち三十分経っても、父は寝室へ行くような様子を見せなかった。そればかりではなく、部屋の中からは、身動きをするような物音一つ聞えて来なかった。瑠璃子も、息をこらしながら、ずっとほの暗い廊下のやみに立っていた。一時間余りも、立ち尽したけれども、疲労も眠気も少しも感じなかった。それほど、彼女の神経は、異常に緊張しているのだった。じじと鳴く庭前にわさきの、虫の声さえ手に取るように聞えて来た。
 十二時を打つ時計の音が、階下のやみから聞えて来ても、父は部屋から出て来る様子はなかった。
102/343


 夜が、深くなって行くのと一緒に、瑠璃子の不安も、だん/\深くなって行った。十二時を打つのを聞くと、もうじっと、廊下で待っていられないほど、彼女の心は不安な動揺にさいなまれた。彼女は、無理にも父を寝させようと決心した。言い争ってでも、父を寝室へ連れて行こうと決心した。彼女が、そう決心して、ドアの白い瀬戸物の取手に、手を触れたときだった。何時いつもは、訳もなくグルリと回転する取手が、ガチリと音を立てたまゝ、彼女の手にさからうように、ビクリともしなかった。
内部うちからかぎをかけたのだ!』
 そう思った瞬間に、瑠璃子鉄槌てっついたたかれたように、激しい衝動ショックを受けた。気味の悪い悪寒おかんが、全身を水のように流れた。
「お父様!」彼女は、我を忘れて叫んだ。その声は、悲鳴に近い声だった。が、瑠璃子が、そう声をかけた瞬間、今迄いままでしずかであった父が、にわかに立ち上って、何かをしているらしい様子が、アリ/\と感ぜられた。
「お父様! お開けなすって下さい! お父様!」
 瑠璃子が、続けざまに、呼びかけても、父は返事をしなかった。父が、何とも返事をしないことが彼女の心を、スッカリ動転どうてんさせてしまった。恐ろしい不安が、彼女の胸に、あふれた。彼女は、ドアを力一杯押した。その細い、華奢きゃしゃな両腕が、折れるばかりに打ち叩いた。
「お父様! お父様! お開けなすって下さい!」
 彼女の声は、狂女のそれのように、物凄ものすごかった。魔物に、その可憐かれんな弟を奪われて、鉄のドアの前で、狂乱するタンタジールの姉のように、命掛の声を振搾ふりしぼった。
「お父様! うしてここをお閉めになるのです。ここをお閉めになってう遊ばそうとなさるのです。お開け下さい! お開け下さい。」
 が、父は何とも返事をしなかった。父が返事をしない事にって、瑠璃子は、目がくらむほど恐ろしい不安に打たれた。彼女は、ふと気が付いて、窓から入ろうと、いなずまのように、ヴェランダへ走って出た。が、ヴェランダに面した窓には、丈夫な鎧戸よろいどおおわれていた。
103/343

彼女は、死物狂いになって、再びドアの所へ帰って来た。そして、必死に、そのかよわいしなやか身体からだを、思い切りドアに投げ付けて見た。が、ドアは無慈悲に、傲然ごうぜんと【いかめしく】彼女の身体を突き返した。
 彼女は、血を吐かんばかりに叫んだ。
「お父様! なぜ、開けて下さらないのです。う遊ばそうと言うのです。この瑠璃を捨てゝ置いてう遊ばそうと言うのです。万一の事をなさいますと、瑠璃も生きていないつもりでございますよ。お父様! お恨みでございます。どんな事情がございましょうとも、私に一応話して下さいましても、およろしいじゃございませんか。お父様の外に、誰一人頼る者もない瑠璃ではございませんか。お開け下さいませ。かく、お開け下さいませ。万一の事でもなさいますと、瑠璃はお父様をお恨みいたしますよ。」
 狂ったように、ドアき、打ち、押し、叩いた後、彼女はドアに、顔を当てたまゝ よゝと泣き崩れた。
 その悲壮な泣き声が、古い洋館の夜更よふけの闇を物凄くふるわせるのだった。


     

 よゝと泣き崩れた瑠璃子は、再び自分自身を凜々りりしく奮い起して、女々しく泣き崩れているべき時ではないと思った。彼女は、最後の力、その繊細な身体からだにあるけの力を、両方の腕にこめて、砕けよ裂けよとばかりに、堅い、鉄のように堅いドアを乱打した後、身体全体を、はげしい音を立てゝ、それに向って、打ち付けた。その時に、何かの奇跡きせきが起ったように、今迄いままではガタリとも動かなかったドアが軽々と音もなく口を開いた。はずみを喰った彼女の身体からだは、つゝと一間ばかりも流れて、危く倒れようとした。その時、父の老いてはいるけれども、なお力強い双腕もろうでが、彼女の身体を力強く支えたのである。
「お父様!」と、上ずッた言葉が、彼女のくちびるれると共に、彼女はしばらくは失神したように、父のふところに顔をうずめたまゝはげしい動悸どうきを整えようと、苦しさにあえいでいた。
 気が付いて見ると、父の顔は涙で一杯だった。テーブルの上には、遺書かきおきらしく思われる書状が、数通重ねられている。
104/343


「瑠璃さん! あわれんでおれ! お父さんは死に損ってしまったのだ! 死ぬことさえ出来ないような臆病者おくびょうものになってしまったのだ! お前の声を聞くと、わしの決心が訳もなく崩されてしまったのだ! お前に恨まれると思うと、お父様は死ぬことさえ出来ないのだ。」
 父は、瑠璃子興奮こうふんが、ようやく静まりかけるのを見ると、つぶやくように語り始めた。
「まあ、何をおっしゃるのでございます、死ぬなどと。まあ何を仰しゃるのでございます。一体うしたと言って、そんな事を仰しゃるのでございます。」
「あゝ恥しい。それをいて呉れるな! わしはお前にも顔向けが出来ないのだ! 彼奴あいつの恐ろしいわなに、手もなくかゝったのだ。あんないやしい人間のかけた罠に、きつねたぬきかのように、手もなくかゝったのだ。恥しい! 自分で自分がいやになる!」
 父は、座にもえないように、身悶みもだえして口惜くやしがった。握っているこぶしがブル/\とふるえた。
彼奴あいつと仰しゃりますと、やっぱり荘田でございますか。荘田が、何をいたしましたのでございますか。」
 瑠璃子はげしい興奮に、眼の色を変えながら、父に詰め寄って訊いた。
「今から考えると、見え透いた罠だったのだ。が、木下までが、わしを売ったかと思うと俺はの胸が張り裂けるようになって来るのだ!」
 父は、木下眼前めのまえにでもいるように、前方を、きっとにらみながら、声はわな/\とふるえた。
「へえ! あの木下が、あの木下が。」と、瑠璃子しばらくは茫然ぼうぜんとなった。
かねは、人の心を腐らすものだ。彼奴あいつまでが、十何年と言う長い間、目をかけて使ってやった彼奴あいつ迄が、金のために俺を売ったのだ。金のために、十数年来の旧知を捨てゝ、敵の犬になったのだ。それを思うと、俺はすわっても立ってもおられないのだ!」
木下が、うしたと言うのでございます。」
 瑠璃子も、父の激高げっこうに誘われて桜色に充血した美しい顔を、極度に緊張させながら、問い詰めた。
この間、彼奴あいつが持って来た軸物じくものを、何だと思う、あれが、わしおとしいれる罠だったのだ。あれは一体誰のものだと思う。友達のものだと言う、その友達は誰だったと思う。」
105/343


 父は、眼を熱病患者のそれのように光らせながら、じっと瑠璃子を見下した。
「あれは誰のものでもない、あの荘田のものなのだ。荘田のものを、空々しくわしの所へ持って来たのだ。」
「何のためでございましたろう。何だってそんなことを致したのでございましょう。でも、お父様はあの晩、ぐお返しになったではございませんか。」
 瑠璃子が、そう言うと父の顔は、見る/\曇ってしまった。彼は、崩れるように後の腕椅子いすに身を落した。
「瑠璃さん! 許しておくれ! 罠をかける者も卑しい。が、それにかゝる者もやっぱり卑しかったのだ。」
 父は、そう言うと肉親の娘の視線をも避けるように、おもてを伏せた。


     

 暫らくは、強い緊張のうちに、父も子も黙っていた。が、父はその緊張にえられないように、面をうつむけたまゝ、つぶやくように言った。
「瑠璃さん! お前にスッカリ言ってしまおう。わしはな、浅墓あさはかにも、相手のわなにかゝって飛んでもないことをしてしまったのだ。あの木下やつ彼奴迄あいつまでが、荘田の犬になっていようとは夢にも悟らなかったのだ。お前に言うのも恥しいが、わし木下が、あの軸物を預けて行ったとき、フラ/\と魔がさしたのだ。一月ひとつきでも二月ふたつきでも何時いつまででも預けて置くと言う、此方こっちが通知しないうちは、取りに来ないと言う。俺は、そう聴いたときに、の一軸で一時の窮境を逃れようと思ったのだ。素晴らしい逸品だ、ことに俺の手から持って行けば、三万や五万は、融通ゆうずうが出来ると思ったのだ。果して融通は出来た。が、それは罠の中のえさに、俺が喰い付いたのと、丁度同じだったのだ。彼奴あいつは、俺を散々かつえさした揚句、俺の旧知を買収して、俺に罠をかけたのだ。飢えていた俺は、不覚にも罠の中の肉に喰い付いたのだ。罠をかける奴のいやしさは、論外だが、かゝった俺の卑しさも笑ってれ。三十年の清節も、清貧もあったものではない!」
 父は、のたうつように、椅子いすの中で、身をもだえた。れを聞いている瑠璃子も、身体中からだじゅうが、猛火の中に入ったように、はげしい憤怒ふんぬのために燃え狂うのを感じた。
「それで、それで、うなったと言うのでございます。」
106/343


 彼女は、身をふるわしながらいた。テーブルの上にかけている白いろうのような手も、はげしいふるえを帯びていた。
「あの軸物の本当の所有者は荘田なのだ。彼奴あいつは、わしに対して横領の告訴を出しているのだ。」
 父は吐くように言った。蒼白あおじろい頬が烈しく痙攣けいれんした。
「そんな事が罪になるのでございますか。」
 瑠璃子の眼も血走ってしまった。
「なるのだ! 逆に取って、逆に出るのだから、たまらないのだ。預っている他人の品物は、売っても質入してもいけないのだ。」
「でも、そんなことは、世間に幾何いくらもあるではございませんか。」
「そうだ! そんなことは幾何でもある、わしもそう思ってやったのだ。が、向うでははじめからはかってやった仕事だ。俺が少しでも、つまずくのを待っていたのだ。蹉けば後から飛び付こうと待っていたのだ。」
 瑠璃子の胸は、荘田に対する恐ろしいいかりで、火を発するばかりであった。
人非人奴にんぴにんめ! 人非人奴! どれほどまで執念しゅうね妾達わたしたちを、苦しめるのでございましょう。あゝ口惜くやしい! 口惜しい!」
 彼女は、平生のたしなみも忘れたように、身を悶えて、口惜しがった。
「お前が、そう思うのは無理はない。お父様だって、昔であったら、そのまゝにはして置かないのだが。」
 父の顔はますます凄愴せいそうな色を帯びていた。
「あゝ、男でしたら、男に生れていましたら。残念でございます。」
 そう言いながら、瑠璃子テーブルの上に、泣き伏した。
 何処どこかで、一時を打つ音がした、騒がしい都の夏の夜も、静寂にけ切って、遠くから響いて来る電車の音さえ、絶えてしまった。瑠璃子の泣き声が絶えると、深夜の静けさが、しん/\と迫って来た。
「それで、その告訴はうなるのでございますか。まさか取上げにはなりませんでしょうね。」
 瑠璃子は泣き顔をもたげながら、心配そうに訊いた。
 涙に洗われた顔は、一種の光沢を帯びて、凄艶せいえんな美しさに輝いているのであった。


     

「さあ! 其処そこなのだ! 今日警視総監が、個人としてわしに会見を求めたのは、その問題なのだ。
107/343

総監が言うのには、この位なことで、貴方あなたを社会的にほうむってしまうことは、何とも遺憾なことなので告訴を取り下げるように懇々こんこん言って見たが、頑として聴かない。そして唐沢氏本人がやって来て、手を突いて謝まるならば告訴を取り下げようと言うのだ。うも先方では貴方あなたに対して何か意趣【恨み】を含んで居るらしい。貴方も快くはあるまいが、この際先方にわびを入れて、内済ないさい【内々で始末】にしてもらったらうかと言うのだ。貴方もあんな男に詫びるのは、不愉快だろうが、しかし、貴方の社会的地位や名誉には換えられないから、この際思い切って謝罪して見たらうかと言ってれるのだ。先方が告訴を取り下げさえすれば、検事局では微罪として不起訴にしようと言っていると言うのだ。」
 父は低くうめくように言って来たが、ここまで来ると急にはげしい調子に変りながら、
「だが、瑠璃子考えておくれ。あんな男に、あんないやしい人間に、謝罪はおろか、頭一つ下げることさえ、わしに取ってどんな恥辱ちじょくであるか。わしは、それよりもむしろ死を選みたいのだ。しかし謝罪しないとなると、うしても起訴を免れないのだ。起訴されると、お前この罪は破廉恥罪はれんちざいなのだ! 爵位しゃくいも返上を命ぜられるばかりでなく、わしの社会的位置は、滅茶苦茶めちゃくちゃだ! あれ見い! 貴族院第一の硬骨と言われた唐沢が、あのザマだと、世間から嘲笑ちょうしょうされることを考えておくれ。死以上の恥辱ちじょくだ。何の道を選んでも、死ぬより以上の恥辱ちじょくなのだ。瑠璃子わしが死のうと決心した心のうちを、お前は察して呉れるだろう。」
 瑠璃子は、父の苦しい告白を、石像のように黙って聴いていた。火のように熱した身体中からだじゅうの血が今はかえって、氷のように冷たくなっていた。
わしが死ねば、彼奴あいつの迫害の手も緩むだろうし、それにって、汚名を流さずして済む。つまり、俺は悪魔の手に買い取られた俺の社会的名誉を、血をもって買い戻そうと思ったのだ。お前のことを、思わないではない。父の外には頼る者もないお前のことを思わないではない。が、破廉恥の罪人になることを考えると、泥棒と同じ汚名をこうむることを考えると、何も考えておられなくなったのだ。」
 父は、そう言いながら、心のうちの苦しさにえられないように、しきりに身をもだえた。
108/343


「が、ドアの外でお前が突然叫び出した声を聞くと、刀を持っていたわしの手が、しびれてしまったように、うしても俺の思いどおりに、動かないのだ。未練だ! 未練だ! と、心でしかっても、手がうしても言うことを聴かないのだ。俺は、今初めてお前に対する父としての愛が、名誉心や政治上の野心などよりも、もっと大きいことが分ったのだ。俺は、社会上の位置を失っても、お前のために生き延びようと思ったのだ。破廉恥罪の名をても、お前の父として、生き延びようと思ったのだ。名誉や位置などは、なくなっても、お前さえあれば、まだ生き甲斐がいがあると言うことが、分ったのだ。いや名誉や野心のために、生きるのよりも、自分の子供のために、生きる方が人間として、どれほど立派であるかと言うことが、今やっと分ったのだ。わしは、今光一を追出したことを後悔する。親の野心のために、子を犠牲にしようとしたことを後悔する。瑠璃子! お前のために、どんな汚名を忍んでも生き延びるのだ。お前も、罪人のお父様を見捨てないで、いつまでも俺の傍を離れて呉れるな。」
 父の顔は今、子に対する愛に燃えて、美しく輝いていた。彼は、子に対する愛にって、その苦しみのうちから、その罪のうちから、立派に救われようとしているのだった。


     

 そうだ! 子の心は、すさまじい憤怒ふんぬ復讐ふくしゅうの一念とに、き立った。父が、子に対する愛のために、敵の与えた恥辱ちじょくを忍ぼうとするのにかかわらず、子の心は敵に対する反抗と憎悪ぞうおとのために、狂ってしまった。
「お父様、それでいゝのでございましょうか。お父様! 金さえあれば悪人がお父様のような方を苦しめてもいゝのでございましょうか。しかも、国の法律までが、そんな悪人の味方をするなどと言う、そんなことが、許されることでございましょうか。」
 瑠璃子は、平生のおとなしい、つつましやかな彼女とは、全く別人であるように、熱狂していた。父は子の激高げっこうなだめるように、「だが瑠璃子! 悪人がどんないやしい手段を講じてもお父様さえ、しっかりしていればよかったのだ。国の法律に触れたのはやっぱりわしの不心得だったのだ。」
「いゝえ! わたくしは、そうは思いません。」瑠璃子は、昂然こうぜんとして父の言葉を遮ぎった。
109/343

荘田のやりましたような奸計かんけい【わるだくみ】をめぐらしたならば、どんな人間をだって、罪におとすことは容易だと思います。お父様が信任していらっしゃる木下をまで、買収してお父様をわなに陥し入れるなど、悪魔さえ恥じるような卑怯ひきょうな事を致すのでございますもの。もし、国に本当の法律がございましたら、荘田こそ厳罰に処せらるべきものだと思います。荘田のような悪人の道具になるような法律を、わたくしは心からのろいたいと思います。」
 まなじり【めじり】が、裂けると言ったらいゝのだろう。美しい顔に、凄じい殺気がほとばしった。父も、子のはげしい気性に、気圧けおされたように、黙々として聴いていた。
「お父様、あんな男に起訴されて、泣寝入りになさるような、腑甲斐ふがいないことをして下さいますな。飽くまでもたたかって、相手の悪意をこらしめてやって下さいませ。あゝわたくしが男でございましたら、……本当に男でございましたら……」
 瑠璃子は、熱に浮かされたように、興奮こうふんして叫び続けた。
「が、瑠璃子! 法律と言うものは人間の行為の形だけを、律するものなのだ。荘田が、悪魔のような卑しい悪事を働いても、その形が法律に触れていなければ、大手を振って歩けるのだ。わしは切羽詰って一寸ちょっと逃れに、知人の品物を質入れした。世間に有り触れたことで、事情むを得なかったのだ。が、俺の行為の形は、ちゃんと法律に触れているのだ。法律が罰するものは、荘田の恐ろしい心ではなくして、俺の一寸ちょっとした心得ちがいの行為なのだ。行為の形なのだ!」
し、法律がそんなに、本当の正義にって、動かないものでしたら、わたくしは法律にろうとは思いません。わたくしの力で荘田を罰してやります。わたくしの力で、荘田に思い知らせてやります。」
 気が狂ったのではないかと思うほど、瑠璃子の言葉は烈しくなった。父は呆気あっけに取られたように、子の口もとを見詰めていた。
「金の力が、万能でないと言うことをあの男に知らせてやらねばなりません。金の力で動かないものが、世の中に在ることを知らせてやらねばなりません。このまゝで、お父様が、有罪になるような事がございましたら、荘田は何と思うか分りません。世の中には、法律の力以上に、本当の正義があることを、あの男に思い知らせてやらねばなりません。
110/343

金の力などは、本当の正義の前には土塊つちくれにも等しいことを、あの男に思い知らせてやりたいと思います。」
 そう言いながら、瑠璃子は父の顔をじっと見詰めていたが、思い切ったように言った。
「お父様! お願いでございます。瑠璃子を、無い者とあきらめて、今後何を致しましょうと、わたくしの勝手にまかせて下さいませんか。」
 瑠璃子の顔に、鉄のように堅い決心がひらめいた。父は、瑠璃子の真意を測りかねて、茫然ぼうぜんと愛児の顔を見詰めていた。
「お父様? わたくしは、ユージットになろうと思うのでございます。」


     

「ユージット?」老いた父には、娘の言った言葉の意味が分らなかった。
「左様でございます。わたくしはユージットになろうと思うのでございます。ユージットと申しますのは猶太ユダヤの美しい娘の名でございます。」
「その娘になろうと言うのは、どう言う意味なのだ?」父は、激しい興奮から覚めて、やゝ落着いた口調になっていた。
「ユージットになろうと申しますのは、わたくしの方から進んで、あの荘田勝平の妻になろうと言うことでございます。」
 瑠璃子の言葉は、かしごとく堅く氷の如く冷やかであった。
「えーッ。」と叫んだまゝ、父は雷火に打たれた如く茫然ぼうぜんとなってしまった。
「お父様! お願いでございます。どうか、わたくしをないものとあきらめて、わたくしの思うまゝに、させて下さいませ!」
 瑠璃子は、何時いつの間にか再び熱狂し始めた。
馬鹿ばかなッ!」父は、はげしい、しかし慈愛のこもった言葉で叱責しっせきした。
「馬鹿なことを考えてはいけない! 親の難儀を救うために子が犠牲になる。親の難儀を救うために娘が、身売をする。そんな道徳は、古い昔の、封建時代の道徳ではないか。お前が、そんな馬鹿なことを考える。聡明そうめいなお前が、そんな馬鹿なことを考える。お父様とうさんを救おうとして、お前があんな豚のような男に身をまかす。考えるだけでもけがらわしいことだ! お前を犠牲にして、自分の難儀を助かろうなどと、そんなさもしいことを考える父だと思うのか。
111/343

わしは、自分の名誉や位置を守るために、お前の指一本髪一筋も、犠牲にしようとは思わない。そんな馬鹿々々しいことを考えるとは、平生いつものお前にも似合わないじゃないか。」
 父は、思いの外に、激高げっこうして、瑠璃子をたしなめるように言った。が、瑠璃子は、ビクともしなかった。
「お父様! お考え違いをなさっては、困ります。お父様の身代りになろうなどと、そんな消極的な動機から、申上げているのではありません。わたくしは、法律の網をくぐるばかりでなく、法律を道具に使って、善人をおとしいれようとする悪魔を、法律に代って、罰してやろうと思うのです。一家が受けた迫害に、復讐ふくしゅうするばかりでなく、社会のために、人間全体のために、法律が罰し得ない悪魔を罰してやろうと思うのです。お父様の身代りになろうと言うような、そんな小さい考えばかりではありません。」
 瑠璃子は、昂然こうぜんと現代の烈女【信念を貫きとおす激しい気性の女子】と言ってもいゝように、美しく勇ましかった。
「お前の動機は、それでもいゝ。だが、あの男と結婚することが、うしてあの男を罰することになるのだ。うして、一家が受けた迫害を、復讐することになるのだ。」
「結婚は手段です。あの男に対する刑罰と復讐とが、それに続くのです。」瑠璃子凜然りんぜんと火花を発するように言った。
「お父様、昔猶太ユダヤベトウリヤと言う都市が、ホロフェルネスと言う恐ろしい敵の猛将に、囲まれた時がありました。ホロフェルネスは、獅子ししてうちにするような猛将でした。ベトウリヤの運命は迫りました。破壊と虐殺ぎゃくさつとが、目前に在りました。その時に、美しい少女が、ベトウリヤ第一の美しい少女が、侍女をたった一人連れた切りで、羅衣うすものまとった美しい姿を、とらのようなホロフェルネスの陣営に運んだのです。そしてこの少女の、容色に魅せられた敵将を、閨中けいちゅうでたった一突きに刺し殺したのです。美しい少女は、自分の貞操を犠牲にして、幾万の同胞の命と貞操とを救ったのです。その少女の名こそ、今申し上げたユージットなのでございます。」


     

 瑠璃子の心は、勇ましいロマンチックな火炎で包まれていた。
112/343

獅子の乳で育ったと言う野蛮人の猛将を、細いかいなで刺し殺した猶太ユダヤ少女おとめの美しい姿が、勇ましい面影が、蝕画エッチングのように【鋭く彫り込まれたように】、彼女の心にこびりついて離れなかった。少女に仮装して、敵将を倒した日本武尊やまとたけるのみことよりも、本当の女性であるだけに、それけ勇ましい。命よりも大切な、貞操を犠牲にしているだけに、限りなく悲壮であった。
わたくしはユージットのように、戦って見たいと思うのです。」
 二千有余年も昔の、猶太ユダヤ少女おとめの魂が、大正の日本に、よみがえって来たように、瑠璃子は炎のごとく熱狂した。
 が、父は冷静だった。彼は、熱狂し過ぎている娘を、なだめるように、言葉静かに説きさとした。
瑠璃子! お前のように、そう熱しては困る。女の一番大事な貞操を、犠牲にするなどと、そんな軽率なことを考えては困る。数万の人の命に代るような、大事な場合は、大切なみさおを犠牲にすることも、立派な正しいことに違いない。が、あんなけだもののようないやしい男を、こらすために、お前の一身を犠牲にしては、黄金を土塊つちくれと交換するほど、馬鹿ばか々々しいことじゃないか。」
「だが、お父様!」と、瑠璃子ぐ抗弁した。
「相手は、お父様のおっしゃる通り、取るに足りない男には違いありません。が、現在の社会組織では人格がどんなに下劣でも、金さえあれば、帝王のように強いのです。お父様は、相手を『獣のように卑しい男』とおさげすみになっても、その卑しい男が、金の力で、お父様のような方に、こんな迫害を加え得るのですもの。わたくしが、戦わなければならぬ相手は荘田勝平と言う個人ではありません。荘田勝平と言う人間の姿で、現れた現代の社会組織の悪です。金の力で、どんなことでも出来るような不正な不当な社会全体です。金さえあれば、なんでも出来ると言ったような、その思想です。観念です。わたくしは、それを破って見たいと思うのです。」
 瑠璃子は、処女おとめらしい羞恥心しゅうちしんを、興奮のために、全く振り捨てゝしまったように、叫びつゞけた。
 父は、子のはげしい勢を、持ち扱ったように【手に取るように感じ取り】、黙って聞いていた。
「それに、お父様! ユージットは、操を犠牲にしましたが、それは相手が、勇猛無比なホロフェルネス、操を捨てゝかからなければ、油断をしなかったからです。わたくしは、妻と言う名前ばかりで、相手を懲し得る自信があります。
113/343

うかわたくしを無いものと、おあきらめになって、三月か半年かの間、荘田のもとへやって下さいまし。匕首あいくちで相手を刺し殺す代りに、精神的にあの男を滅ぼして御覧に入れますから。」
 其処そこには、もう優しい処女おとめ《おとめ》の姿はなかった。相手の卑怯ひきょうな執念深い迫害のために、到頭とうとう最後の堪忍かんにんを、し尽して、反抗のやいばを取って立ち上がった彼女の姿は、復讐ふくしゅうの女神その物の姿のように美しく凄愴せいそうだった。
「瑠璃さん! あなたは、今夜はうかしている。お父様とうさんも、ゆっくり考えよう。あなたも、ゆっくりお考えなさい。あなたの考えは、余り突飛だ。そんな馬鹿なことが今時……」
「でも、お父様!」瑠璃子は少しも屈しなかった。「わたくしは、毒にむくいるのには毒をもってしたいと思います。陰謀に報いるには、陰謀を以てしたいと思います。相手が悪魔でも恥じるような陰謀をたくましくするのですもの。此方こっちだって、突飛な非常手段で、懲しめてやる必要があると思います。現代の社会では万能な金の力に対抗するのには、非常手段に出るより外はありません。わたくしは、自分の力を信じているのでございます。あんな男一人ほろぼすのには余る位の力を、持っているように思います。お父様! どうかわたくしを信じて下さいまし。瑠璃子は、一時の興奮に駆られて無謀なことを致すのではありません。ちゃんと成算があるのでございます。」
 瑠璃子の興奮は何処どこまでも、続くのだった。父は黙々として、何も答えなくなった。父と娘との必死な問答のうちに、幾時間もったのであろう、明けやすい夏の夜は、ほのぼのと白みかけていた。

奈子みなこ


     

「はゝゝゝ、唐沢やつ面喰めんくらっているだろう。はゝゝゝ。」
 荘田しょうだは、籐製とうせいの腕椅子いすうちで、身体からだをのけるようにしながら、哄笑こうしょうした。
「どうも、貴方あなたも人間が悪くていけない。あんないゝ方をいじめるなんて、うもはなはよろしくない。貴方が、持って行けと言ったから、つい持って行ったものゝ、どうも寝覚ねざめが悪くっていけない。私は随分唐沢さんにお世話になったのですからね。」
114/343


 木下は、さすがはげしい良心の苛責かしゃくえられないように、苦しげに言った。
「あゝいゝよ。分っているよ。君の苦衷くちゅう【苦しい心の中】も察しているよ。わしだって、何も唐沢が憎くって、やるのじゃないんだ。つい、意地でね。妙な意地でね。一寸ちょっとした意地でやり始めたのだが、やり始めると俺の性質でね、徹底的にやりとおさないと気が済まないのだ。親をいじめる気は、少しもないのだ。あの美しい娘に対する色恋からでもないんだ。はゝゝゝゝ、誤解してれちゃ困るよ。はゝゝゝゝゝ。」
 荘田は、その赤い大きい顔の相好そうごうを崩しながら、思惑が成功した投機師のように、得意な哄笑を笑い続けた。
「どうだ! わしが言ったとおりだろう。君は、高潔な人格の唐沢さんは、決してそんな事はしないとか何とか言って、反対したじゃないか。うだ! 人間は、金に窮すればどんなことでもするだろう。金にって、保護されていない人格などは、要するにあてにならないのだ。清廉潔白せいれんけっぱくなど言うことも、本当に経済上の保証があって出来ることだよ。貧乏人の清廉潔白なんか、当になるものか、はゝゝゝゝゝ。」
の世をば わが世とぞ思う望月もちづきの 欠けたることの)無いように、勝平は得意だった。
「だが、私は気になります。私は唐沢さんが自殺しやしないかと思っているのです。うもやりそうですよ。屹度きっとやりますよ。」木下は、心からそう信じているように、まゆをひそめながら言った。
「うむ! 自殺かね。」さすが荘田も、一寸ちょっと誘われて眉をひそめたが、傲岸ごうがんな笑いで打ち消した。
「はゝゝゝゝ、大丈夫だよ。人間はそう易々やすやすとは、死なないよ。いや待っていたまえ。今に、泣きを入れに来るよ。
115/343

なに、先方が泣きを入れさえすれば、そうはいじめないよ。もと/\、一寸ちょっとした意地からやっていることだからね。」
「それでも、もしお嬢さんをよこすと言ったら御結婚になりますかね。」
「いや、それだがね。わしも考えたのだよ。いくら何だと言っても、二十五六も違うのだろう。世間が五月蠅うるさいからね。ただでさえ『成金! 成金!』と、いやなまなこで見られているんだろう。それだのに、そんな不釣合な結婚でもすると、非難攻撃が、大変だからね。それで、わし花婿はなむこになることは思いとどまったよ。せがれの嫁にするのだ。倅の嫁にね。あれとなら、年だけは似合っているからね。その事は先方へも言って置いたよ。」
「御子息の嫁に!」
 そう言ったまゝ、木下は二の句が継げなかった。荘田むすこ勝彦かつひこと言うそのむすこは、二十はたちを二つ三つも越していながら、子供のように たわいもない白痴だった。白痴に近い男だった。そうだ! 年だけは似合っている。が、瑠璃子の夫としては、何と言う不倫ふりんな、不似合な配偶だろう。金のために旧知を売った木下にさえ、荘田の思い上った暴虐ぼうぎゃくが、不快に面憎つらにくく感ぜられた。
「なに、わしがあのお嬢さんと結婚する必要は、少しもないのだ。金の力で、あのお嬢さんを、左右してやればそれでいゝのだよ。金の力が、どんなに大きいかを、あのお嬢さんと、あゝそう/\、もう一人の人間とに、思い知らしてやればいいのだよ。」
 荘田は、何物も恐れないように、傲然ごうぜんと言い放った。
 丁度、その時だった。荘田背後うしろドアが、ドン/\と、激しく打ちたたかれた。
「電報! 電報!」と、誰かゞ大声で叫んだ。


     

「電報! 電報!」
 ドアは、続け様に割れるようにたたかれた。今迄いままで傲然ごうぜんと反り返っていた荘田は、急に悄気しょげ切ってしまった。
116/343

彼はテレ隠しに、苦笑しながら、
「おい! 勝彦! おい! よさないか、お客様がいるのだぞ。おい! 勝彦!」
 客をはばかって、高い声も立てず、低い声で制しようとしたが、相手は聴かなかった。
「電報! 電報!」強い力で、扉は再び続けざまに、乱打された。
「まあ! お兄様! 何を遊ばすのです。さあ! 彼方あっちへ行らっしゃい。」優しく制している女の声が聞えた。
「電報だい! 電報だい! 本当に電報だよ。美奈みなさん。」男は抗議するように言った。
「あら! 電報じゃありません、お客様の御名刺じゃありませんか、それなら早くお取次ぎ遊ばすのですよ。」
 そうした問答が、聞えたかと思うと、ドアが音もなく開いて、十六――恐らく七にはなるまい少女が姿を現した。色の浅黒い、ひとみのいきいきとした可愛かわいい少女だった。彼女は、兄の恥を自分の身に背負ったように、顔を真赤にしていた。
「お父様! お客様でございます。」
 客に、丁寧に会釈えしゃくをしてから、父に向って名刺を差し出しながら、しとやかそうに言った。傲岸ごうがんな父の娘として、白痴の兄の妹として、彼女はおおかみした【仲間入りした】羊のように、美しく、しとやかだった。
木下さん。これが娘です。」
 そう言った荘田の顔には、娘自慢の得意な微笑が、アリ/\と見えた。が、彼の眼が、開かれたドアの所に立って、キョトンと室内をのぞいている長男の方へ転ずると、急にまた悄気しょげてしまった。
「あゝ美奈さん。兄さんをはよう向うへ連れて行ってね。それから、杉野さんをお通しするように。」
 娘に、優しく言い付けると、客の方へ向きながら、
「御覧の通りの馬鹿ばかですからね。唐沢のお嬢さんのような立派な聡明そうめいな方に、来ていたゞいて、引き回していたゞくのですね。はゝゝゝゝ。」
 馬鹿な長男が去ると、荘田は又以前のような得意な傲岸な態度にかえって行った。
 其処そこへ、小間使に案内されて、入って来たのは、杉野子爵ししゃくだった。
117/343


「やあ! 荘田さん! 懸賞金はやっぱり私のものですよ。到頭とうとう、先方で白旗しらはたを上げましたよ、はゝゝゝ。」
「白旗をね、なるほど。はゝゝゝゝ。」荘田は、凱旋がいせんの将軍のように哄笑こうしょうした。
「案外もろかったですね。」木下は傍から、合槌あいづちを打った。
「それがね。令嬢が、案外もろかったのですよ。お父様が、監獄へ行くかも知れないと聞いて、狼狽ろうばいしたらしいのです。父一人子一人の娘としては、無理はないとも思うのです。私の所へ、今朝そっと手紙を寄越したのです。父に対する告訴を取り下げた上に、唐沢家に対する債権を放棄してれるのなら荘田家へ輿入こしいれしてもいゝと言うのです。」
「なるほど、うむ、なるほど。」
 荘田は、血のにおいいだ食人鬼のように、満足そうな微笑を浮べながら、うなずいた。
「ところが、令嬢に注文があるのです。荘田君! およろこびなさい! 私に対する懸賞金は倍増ばいましにする必要がありますよ、令嬢の注文がこうなのです。同じ荘田家へ嫁ぐのなら、息子さんよりも、やっぱりお父様のお嫁になりたい。男性的な実業家の夫人として、社交界に立って見たいとこう言ってあるのです。手紙をお眼にかけてもいゝですが。」
 そう言いながら、子爵はポケットから、瑠璃子るりこの手紙を取り出した。丁度かたきから来た投降状でも出すように。


     

 凱旋がいせんの将軍が、敵の大将の首実検をでもするように、荘田瑠璃子杉野子爵ししゃくあてに寄越した手紙を取り上げた。得意な、満ち足りたと言ったような、いやしい微笑が、その赤い顔一面にひろがった。
「うむ! 成る程! 成る程!」
 舌鼓したつづみをでも打つように、一句々々をむさぼるように読みおわると、彼は腹を抱えんばかりに哄笑こうしょうした。
「はゝゝゝゝ。強いようでも、やっぱり女子は弱いものじゃ。はゝゝゝゝ。
118/343

なにも、あのお嬢さんを嫁にしようなどとは、夢にも考えていなかったが、こうなると一番若返るかな、はゝゝゝゝ、じゃ、杉野さん、どうかよろしくね。あの証文全部は、お嬢様に、結婚マリエジ進物プレゼントとして差しあげる。そうだ! 差し上げる期日は、結婚式の当日と言うことにしよう。それから、支度金は軽少だが、二万円差し上げよう。そう/\、貴君あなた方に対するお礼もあったけ。」
 王女のように、美しく気高い処女おとめを、到頭とうとう征服し得たと言うよろこびに、荘田は有頂天になっていた。彼は、呼鈴ベルを鳴らして女中を呼ぶと、
「お嬢さんに、そう言うのだ、わし手提てさげ金庫に小切手帳が入っているから持って来るように。」と命じた。
 良心を悪魔に、売り渡した木下杉野子爵とは、自分達の良心の代価が、幾何いくらになるだろうかと銘々心のうちで、荘田の持つ筆の先に現れる数字を、貪慾どんよくに空想しながら、美奈子が小切手帳を持って、入って来るのを待っていた。
「十八の娘にしては、なか/\達筆だ! 文章も立派なものだ!」
 荘田は、なお飽かず瑠璃子の手紙に、魂をみだ【乱】されていた。
 が、丁度その同じ瞬間に、瑠璃子の手紙にって、魂をみだされていたのは荘田勝平だけだけではなかった。
 瑠璃子は、杉野子爵に宛てゝ、一通の手紙を書くのと同時に、その息子の杉野直也なおやに対しても、一通の手紙を送った。杉野子爵に対する手紙は、冷たい微笑と堅い鉄のような心とで書いた。直也に送った手紙は、熱い涙と堅い鉄のような心とで書いた。
 荘田勝平が、一方の手紙を読んで、有頂天うちょうてんになったと同じに、直也は他の一方の手紙を読んで、奈落ならくに突落されたように思った。
119/343



 父を恐ろしい恥辱ちじょくより救い、唐沢一家を滅亡より救う道は、これより外にはないのでございます。……
 法律の力を悪用して、善人を苦しめる悪魔をこらしめる手段は、これより外にはないのでございます。わたくしの行動を奇嬌ききょう【突飛】だとお笑い下さいますな。芝居気があるとお笑い下さいますな。現代においては、万能力を持っている金に対抗する道は、これより外にはないのでございます。……名ばかりの妻、そうです、わたくしはありとあらゆる手段と謀計とでもって、わたくしの貞操をあの悪魔のためにけがされないように努力するつもりです。北海道の牧場では、よく牡牛おうしひぐまとが格闘するそうです。わたくし荘田との戦いもそれと同じです。牡牛が、羆の前足で、たれないうちに、その鉄のような角を、敵の脾腹ひばらへ突き通せば牡牛の勝利です、わたくしも、自分のみさおを汚されないうちに、立派にあの男を倒してやりたいと思います。
 わたくしの結婚は、愛の結婚でなくして、憎しみの結婚です。それに続く結婚生活は、絶えざる不断の格闘です。……
 が、どうかわたくしを信じて下さい。わたくしには自信があります。半年とたないうちに精神的にあの男を殺してやる自信があります。
 直也様よ、わたくしのためにどうか、勝利をお祈り下さい。

 手紙は尚続いた。
120/343




     

 わたくしは、勝利を確信しています。が、それは実質の勝利で、形から言えば、わたくしは金のために荘田あがなわれる【買われる】女奴隷おんなどれいと、等しいものかも知れません。わたくしが、自分のみさお清浄しょうじょうに保ちながら、荘田を倒し得ても、社会的にはわたくしは、荘田の妻です。何人なんぴとわたくしの心も身体からだ処女おとめであることを信じてれるでしょう。わたくし貴君あなただけには、それを信じて戴きたいと思います。が、わたくしにはそれを強いる権利はありません。
 男性化マンリファンと言う言葉があります。わたくしの現在はそれです。わたくしは女性としての恋を捨て、優しさを捨てつつましやかさを捨てゝ、たゞ復讐ふくしゅう膺懲ようちょう【征伐してこらしめる】のために、狂奔きょうほんする【狂ったように走り回る】化物のような人間になろうとしているのです。顧みると、自分ながら、浅ましく思わずには、いられません。が、悪魔を倒すのには、悪魔のような心と謀計とが必要です。
 貴君あなたを愛し、また貴君あなたから愛されていた無垢むくな少女は、残酷な運命の悪戯いたずらから、すべての女性らしさを、自分から捨ててしまうのです。すべての女性らしさを、復讐の神にささげてしまうのです。愛も恋も、つつましやかさもしとやかさも、その黒髪も白きはだえも。
 次ぎのことを申上げるのは、一番いやでございますが、荘田からの最初の申込みを取り継がれた方は、貴君あなたのお父様です。従って、求婚に対するわたくしの承諾も、順序として、貴君あなたのお父様に、取次いでいたゞかねばなりません。わたくしは、貴君あなたに対する、この不快な恐ろしい手紙を書いた後に、貴君あなたのお父様あてに、もう一つの、もっと不快な恐ろしい手紙を書かねばなりません。
 それを思うと、わたくしの心が暗くなります。が、わたくしはあくまで強くなるのです。あゝ、悪魔よ! もっとわたくしの心をすさませてお呉れ! わたくしの心から、最後の優しさと恥しさを奪っておくれ!

 一句一句鋭い匕首あいくちの切先で、えぐられるように、読みおわった直也は最後の一章に来ると、鉄槌てっついで横ざまに殴り付けられたような、恐ろしい打撃を受けた。
 最初は、縦令たといどんな理由があるにしろ、自分を捨てゝ、荘田に嫁ごうとする瑠璃子が恨めしかった。心を喰い裂くようなはげしい嫉妬しっとを感じた。が、だん/\読んで行くうちに、唐沢家に対する荘田の迫害の原因が、荘田に対する自分の罵倒ばとうであったことが、マザ/\と分って来た。瑠璃子唐沢家から奪おうとするのは、つまり自分の手から奪おうとするのだ。荘田が、自分に対する皮肉な恐ろしい復讐なのだ。意趣返し【復讐】なのだ。瑠璃子は、復讐と膺懲ようちょう【征伐してこらしめる】の手段として、結婚すると言う。
121/343

が、それを自分が漫然と見ていられるだろうか。かよわい女性が、貞操の危険をおかしてまで、戦っている時に、第一の責任者たる自分が、茫然ぼうぜんと見ていられるだろうか。が、そんなことはかく直也には、自分の恋人が縦令たとい操は許さないにしても、荘田と――豚のように不快な荘田と、形式的にでも夫と呼び妻と呼ぶことが、まらなかった。瑠璃子は、飽くまでも、操をけがさないと言うが、そんなことは、聡明そうめいではあるにしろ、まだ年の若い彼女の夢想的ロマンチックな空想で、縦令たとい彼女の決心が、どんなに堅かろうとも、一旦いったん結婚した以上、獣のように強い荘田ために、ムザ/\とにじられてしまいはせぬか。どんなに強い精神でも、鉄のように強い腕には、敵せない時がある。瑠璃子の心が火のように烈しく、石のように堅くても、羅衣うすものにも堪えないような【弱弱しい身体】、その優しい肉体は、荘田の強い把握はあくのために、押しつぶされてしまいはせぬか。そう考えると、直也の心は、恐ろしい苦悶くもん焦燥しょうそうのために、烈しく動乱した。が、それよりも、自分の父が自分の恋人を奪う悪魔の手下であることを知ると、彼は憤怒ふんぬ恥辱ちじょくとのために、逆上した。
 彼は瑠璃子の手紙を握りながら、父の部屋へかけ込んだ。父の姿は見えないで、女中が座敷を掃除していた。
「お父様はうした。」
 彼は女中を叱咤しったするように言った。
「今しがた、荘田様へ行らっしゃいました。」
 瑠璃子の承諾の手紙を読むと、鬼の首でも取ったように、荘田の所へけ付けたのだと思うと、直也の心は、恐ろしい憤怒ふんぬのために燃え上った。


     

 美奈子が、小切手帳を持って来ると、荘田は、かたわらの小さいデスクの上にあった金蒔絵まきえ硯箱すずりばこを取寄せて不器用な手付で墨をりながら、左の手で小切手帳を繰ひろげた。
「はゝゝゝゝ、貴方あなたにも、お礼をうんと張り込むかな。」彼は、そう得々と哄笑こうしょうしながら、最初の一葉に、金二万円なりと、小学校の四五年生位の悪筆で、その癖溌剌はつらつと筆太に書いた。それは無論、支度料として、唐沢家へ送るものらしかった。
 その次ぎの一葉を、木下杉野も、爛々らんらんと眼を、ふくろうのように光らせて、見詰めていた。荘田は、無造作に壱万円也と書き入れると、その次ぎの一葉にも、同じだけの金額を書き入れた。
うです。これで不足はないじゃろう。はゝゝゝゝ。」と、荘田は肩をゆるがせながら笑った。
122/343


 食事を与えられた犬のように、何の躊躇ちゅうちょもなく、二人がその紙片に手を出そうとしている時だった。荘田背後うしろドアが、軽くたたかれて、小間使が入って来て、
旦那様だんなさま! あの杉野さんと言う方が、御面会です。」と、言った。
杉野!」と、荘田は首をかしげながら言った。「杉野さんならここにいらっしゃるじゃないか。」
「いゝえ! お若い方でございます。」
「若い方? いくつ位?」と、荘田き返した。
「二十三四の方で、学生の服を着た方です。」
「うゝむ。」と、荘田一寸ちょっと考え込んだが、ふと杉野子爵ししゃくの方を振向きながら、
杉野さん! 貴君あなたの御子息じゃないかね。」と、言った。
「私のせがれ、私の倅がお宅へ伺うことはない。もっとも、私にでも用があるのかな。そうじゃありませんか。私に会いたいと言うのじゃありませんか。」
 子爵は小間使の方を振り向きながら言った。小間使は首を振った。
「いゝえ! 御主人にお目にかゝりたいとおっしゃるのです。」
「あゝ分った! 杉野さん! 貴君あなたの御子息なら、僕の所へ来る理由が、おおいにあるのです。ことに今の場合、唐沢のお嬢さんが、私に屈伏しようと言う今の場合、是非とも来なければならない方です。そうだ! 私も会いたかった。そうだ! 私も会いたかった! おい、お通しするのだ。主人もお待ちしていましたと言ってね。貴君方は、別室で待っていたゞくかね。いや、立会人があった方が、結局いゝかな。そうだ! 早くお通しするのだ!」
 興奮したくまのように、荘田テーブルに沿うて、二三歩ずつ左右に歩きながら、叫んだ。
 杉野子爵には、荘田の言った意味が、十分にわからなかった。何の用事があって、自分の息子が、荘田を尋ねて来るのか見当も立たなかった。
123/343

が、それはかく、自分が荘田から、やましい金を受け取ろうとする現場へ、肉親の子――しかも、その潔白な性格に対しては、親が三目も四目も置いている子が――突然現れて来ることは、いかにもはずかしいキマリの悪い事に違いなかった。彼は顔には現さなかったが、心のうちでは、可なり狼狽ろうばいした。荘田が、早く気をかして、小切手帳をしまってれればいゝ、呉れるものは、早く呉れて、早くしまって呉れゝばいゝと、虫のいゝことを、考えていたけれど、荘田は妙に興奮してしまって、小切手帳のことなどは、念頭にもないようだった。マザ/\と見えている壱万円也と言う金額が、杉野木下等の罪悪を、歴々ありありと語っているように、子爵には心苦しかった。
「一体、私の倅は何だって、貴方をお尋ねするのです。前から御存じなのですか。何の用事があるのでしょう。」杉野子爵は、たまらなくなって訊いた。
「いや、今にわかります。やっぱり、今度の私の結婚についてです。が、媒介ばいかい手数料コンミッションもらいに来るのでないことは、たしかですよ。はゝゝゝゝ。」
 と、荘田は腹を抱えるように哄笑こうしょうした。その哄笑が終らないうちに、彼の背後うしろドアが、静かに開かれて、その男性的な顔を、蒼白そうはくに緊張させている、杉野直也が姿を現した。


     

 直也の姿を見ると、荘田の哄笑が、ピタリと中断した。相手の決死の形相が、傲岸ごうがん荘田の心にも鋭い刃物に触れたような、気味悪い感じを与えたのにちがいなかった。が、彼はさり気なく、鷹揚おうように、徹頭徹尾勝利者であると言う自信で言った。
「いやあ! 貴君あなたでしたか。いつぞやは大変失礼しました。さあ! うか此方こっちへお入り下さい! 丁度、貴君あなたのお父様も来ていらっしゃいますから。」
 外面うわべだけは可なり丁重ていちょうに、直也を引いた。直也は、その口を一文字にきしめたまゝ、黙々として一言も発しなかった。彼は、父の方をなるべく見ないように――それは父に対する遠慮ではなくして、敬虔けいけん基督キリスト教徒が異教徒と同席する時のような、憎悪ぞうお侮蔑ぶべつとのために、なるべく父の方を見ないように、荘田の丁度向い側にテーブルを隔てゝ相対した。
124/343


う言う御用か、知りませんが、よくらっしゃいました。貴君あなたがあんなに軽蔑なさった成金の家へも、尋ねて来て下さる必要が出来たと見えますね。はゝゝゝゝ。」
 荘田は、直也と面と向って立つと、直ぐ挑戦ちょうせんの第一の弾丸を送った。
 直也は、それに対して、何かを言い返そうとした。が、彼ははげしい怒りで、口の周囲まわりの筋肉が、ピク/\と痙攣けいれんするだけで、言葉は少しも、出て来なかった。
う言う御用です。承ろうじゃありませんか。う言う御用です。」
 荘田はのしかゝるように畳かけていた。直也は、心のうち沸騰ふっとうする怒りを、う現してよいか、分らないように、しばらくは両手をふるわせながら、荘田の顔をにらんで立っていたが、突如として口を切った。
貴君あなたは、良心を持っていますか。」
「良心を!」と、荘田ぐ受けたが、問が余りに唐突であったため暫らくはことばに窮した。
「そうです。良心です。普通の人間には、そんなことを訊く必要はない。が、人間以下の人間には、訊く必要があるのです。貴君あなたは良心を持っていますか。」
 直也は、テーブルたたかんばかりに、烈しく迫った。
「あはゝゝゝゝ。良心! うむ、そんな物はよく貧乏人が持ち合わしているものだ。そして、それを金持に売り付けたがる。はゝゝゝ、私も度々買わされた覚えがある。が、私自身には生憎あいにく良心の持ち合せがない、はゝゝゝ。いつかも、貴君あなたに言った通り、金さえあれば、良心なんかなくても、結構世の中が渡って行けますよ。良心は、羅針盤らしんばんのようなものだ。ちっぽけな帆前ほまえや、たかが五百トンや千噸の船には、羅針盤が必要だ。が、三万とか四万とか言う大軍艦になると、羅針盤も何も入りやしない、大手を振って大海が横行出来る。はゝゝゝ。わしなども、羅針盤の入らない軍艦のようなものじゃ。はゝゝゝ。」
 荘田は、飽くまでも、自分の優越を信じているように、出来るだけ直也を、じらすように、ゆっくりと答えた。
125/343


 それを聴くと、直也たまらないように、わなわなと身体からだを顫わせた。
貴君あなたは、自分がやったことを恥だとは思わないのですか。卑劣ひれつ盗人ぬすっとでも恥じるような手段をめぐらして、唐沢家を迫害し、不倫ふりんな結婚を遂げようと言うような、浅ましいやり方を、恥ずかしいとは思わないのですか。貴君あなたは、それを恥ずるだけの良心を持っていないのですか。」
 直也は、吃々きつきつとどもりながら、威丈高いたけだかののしった。が、荘田はビクともしなかった。
「お黙りなさい。国家が許してある範囲で、正々堂々と行動しているのですよ。何を恥じる必要があるのです。貴方は、白昼公然と、私の金の力を、あざわらった。が、御覧なさい! 貴君あなたは、金の力で自分のお父様を買収され、あなたの恋人を、公然と奪われてしまったではありませんか。貴君あなたこそ、自分の不明を恥じて、私の前でいつかの暴言を謝しなさい! 唐沢のお嬢さんは、もうの通り、ちゃんと前非ぜんぴいている。御覧なさい! の手紙を!」
 そう言いながら、荘田は得々として、瑠璃子の手紙を直也に突き付けたとき、彼の心は火のようないきどおりと、恋人を奪われた墨のようなうらみとで、狂ってしまった。


     

「御覧なさい! 私は、自分の息子の嫁に、するために、お嬢さまを所望したのだが、お嬢さまの方から、かえって私の妻になりたいと望んでおられる。有力な男性的な実業家の妻として、社会的にも活動して見たい! こう書いてある。あはゝゝ。うです! お嬢様にも、ちゃんと私の価値がわかったと見える。金の力が、どんなに偉大なものかが判ったと見える! あはゝゝ。」
 荘田は、得々とその大きい鼻を、うごめかしながら、言葉を切った。
 直也は、き立つばかりの憤怒ふんぬと、あらしのような嫉妬しっとに、自分を忘れてしまった。彼は瑠璃子の手紙を見たときに、荘田と媒介人たる自分の父とに、面と向って、その不正と不倫ふりんとをののしり、少しでも残っている荘田の良心を、呼び覚して、不当な暴虐ぼうぎゃくな計画を思いとどまらせようと決心したのだが、実際に会って見ると、自分のそうした考えが、獣に道徳を教えるのと同じであることを知った。そればかりでなく、荘田の逆襲的嘲弄ちょうろう【あざけってばかにしたこと】に、直也自身まで、獣のようにすさんでしまった。
126/343

彼の手は、いつの間にか知らずらず、ポケットの中に入れて来た拳銃ピストルにかかっていた。その拳銃ピストルは、今年の夏、彼が日本アルプスの乗鞍のりくらヶ岳から薬師ヶ岳へ縦走したときに、護身用として持って行って以来、つい机の引出しに入れて置いた。彼は激高げっこうして家を出るとき、ふと拳銃ピストルの事が、頭に浮んだ。荘田の家へ、単身乗り込んで行く以上、召使や運転手や下男などの多数から、どんな暴力的な侮辱を受けるかも知れない。そうした場合の用意に持って来たのだが、しかし今になって見ると、それが直也に、もっと血腥ちなまぐさい決心の動機となっていた。
 暴にむくゆるには暴をもってせよ。相手が金を背景として、暴を用いるなら、こちらは死を背景とした暴を用いてやれ。憤怒ふんぬと嫉妬とに狂った直也は、そう考えていた。そうした考えが浮ぶと共に、直也の顔には、死そのもののような決死の相が浮んでいた。
貴君あなたの、この不正な不当な結婚を、中止なさい。中止すると誓いなさい! でなければ……でなければ……」そう言ったまゝ、直也の言葉もさすがに後が続かなかった。
「でなければ、うすると言うのです。あはゝゝゝゝゝ。貴君あなたは、この荘田脅迫きょうはくするのですな。こりゃ面白い! 中止しなければ、うすると言うのです。」
 直也は、無我夢中だった。彼は、自分も父も母も恋人も、国の法律も、何もかも忘れてしまった。ただ眼前数尺の所にある、大きい赤ら顔を、うにでもたたつぶしたかった。
「中止しなければ……こうするのです。」
 そう叫んだ刹那せつな【瞬間】、彼の右の手は、鉄火のごとくポケットを放れ、水平に突き出されていた。その手先には、白い光沢つやのある金属が鈍い光を放っていた。
「何! 何をするのだ。」と、荘田が、悲鳴とも怒声とも付かぬ声を挙げて、ドアの方へタジ/\と二三歩後ずさりした時だった。
 直也の父は、狂気のように息子の右の腕に飛び付いた。
直也! 何をするのだ! 馬鹿ばかな。」
 その声は、泣くようなしかるような悲鳴に近い声だった。
 父の手が、子の右の手に触れた刹那せつな【瞬間】だった。
127/343

1/3分割、次へ