初恋


     

 瑠璃子るりこ夫人を、あの太陽に向って、豪然と咲き誇っている向日葵ひまわりたとえたならば、それとは全く反対に、鉢の中の尺寸の【ほんのわずかな】地の上に、楚々そそとしてつつましやかに花を付けるあの可憐かれん雛罌粟ひなげしの花のような女性が、夫人の手近にいることを、人々は忘れはしまい。それは言うまでもなく、美奈子みなこである。
 父の勝平が死んだとき十七であった美奈子は、今年十九になっていた。その丸顔の色白のかおは、処女おとめそのものの象徴のような、きよさと無邪気あどけなさとをもって輝いていた。


 男性に対しては、何の真情をも残していないような瑠璃子夫人ではあったが、彼女は美奈子に対しては母のような慈愛と姉のような親しさとを持っていた。
 美奈子また、彼女の若き母を慕っていた。ことに、兄の勝彦が父に対する暴行の結果として、警察の注意のため、葉山の別荘の一室に閉じ込められたために、彼女の親しい肉親の人々をすべて彼女の周囲から、奪われてしまった寂しい美奈子の心は、自然若い義母に向っていた。若き母も、美奈子を心の底から愛した。
 二人は、過去のにがい記憶をことごとく忘れて、本当の姉妹のように愛し合った。瑠璃子が、勝平の死んだ後も、荘田しょうだ家にとどまっているのは、一つは、美奈子に対する愛のためであると言ってもよかった。この可憐な少女と、その少女の当然受け継ぐべき財産とを、守ってやろうと言う心も、無意識のうちに働いていたと言ってもよかった。
 従って瑠璃子は、美奈子処女おとめらしく、女らしくつつましやかに育てゝ行くために、可なり心を砕いていた。彼女は彼女自身の放縦な生活には、決して美奈子を近づけなかった。
 彼女を追う男性が、はえのようにあつまって来る客間サロンには、決して美奈子を近づけなかった。
 従って、美奈子は母の客間サロンに、どんな男性があつまって来るのか、顔だけも知らなかった。無論紹介されたことなどは、一度もなかった。たゞ門の出入などに、そうした男性と、擦れ違うことなどはあったが、たゞ軽い黙礼の外は口一つかなかった。
 母が日曜の午後を、華麗な客間で、多くの男性に囲まれて、女王のように振舞っているのをよそに、美奈子は自分の離れの居間に、日本室の居間に、気に入りの女中を相手に、お琴や挿花さしばなのお復習さらいに静かな半日を送るのが常だった。
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 時々は、客間にける男性の華やかな笑い声が、遠く彼女の居間にまで、響いて来ることがあったが、彼女の心は、そのために微動だにもしなかった。そうした折など、女中達が、瑠璃子夫人の奔放な、放恣ほうしな【勝手きままで節度がない】生活を非難するように、
「まあ! 大変おにぎやかでございますわね。奥様もお若くていらっしゃいますから。」
 などと、美奈子の心を察するように、忠勤【主君に忠義を尽くして励む】ぶった蔭口かげぐちを利く時などには、美奈子は、その女中をそれとなくたしなめるのが常だった。
 が、日曜の午後を、彼女はもっと有意義に過すこともあった。それは、青山に在る父と母とのお墓にお参りすることであった。
 彼女は、女中を一人連れて、晴れた日曜の午後などを、わざと自動車などに乗らないで、青山に父母の墓を訪ねた。
 彼女は夢のような幼い時の思出などにふけりながら、一時間にも近い間、父母の墓石の辺に低徊ていかいしている【思いにふけりながら、ゆっくり歩きまわる】ことがあった。
 六月の終りの日曜の午後だった。その日は死んだ母の命日に当っていた。彼女は、女中を伴って、何時いつものようにお墓参りをした。
 墓地には、初夏の日光が、やゝ暑くるしいと思われるほど、輝かしく照っていた。墓地をしきっている生籬いけがきの若葉が、スイ/\と勢いよく延びていた。美奈子は裏の庭園で、切って来た美しい白百合しらゆりの花を、右手めてに持ちながら、なつかしい人にでも会うような心持で、墓地の中の小道を幾度も折れながら、父母の墓の方へ近づいて行った。


     

 晴れた日曜の午後の青山墓地は、其処そこの墓石の辺にも、彼処かしこ生籬いけがきうちにも、お墓まいりの人影が、チラホラ見えた。
 清々すがすがしく水が注がれて、線香の煙が、白くかすかに立ち昇っているお墓なども多かった。
 小さい子供を連れて、き夫のお墓に詣るらしい若い未亡人や、珠数じゅずを手にかけた大家の老夫人らしい人にも、行き違った。
 荘田家の墓地は、あの有名なN大将の墓から十間と離れていないところにあった。美奈子の母が死んだ時、父は貧乏時代を世帯しょたいの苦労に苦しみ抜いて、碌々ろくろく夫の栄華の日にも会わずに、死んで行った糟糠そうこうの【貧しい時代を共に苦労した】妻に対する、せめてもの心やりとして、此処ここに広大な墓地を営んだ。無論、自分自身も、妻の後を追うて、其処そこに埋められると言うことは夢にも知らないで。
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 亡き父の豪奢ごうしゃは、周囲を巡っている鉄柵てつさくにも、四辺あたりの墓石を圧しているような、一丈に近い墓石にもしのばれた。
 美奈子は、女中が水をみに行っている間、父母の墓の前に、じっとうずくまりながら、心のうちで父母のなつかしい面影を描き出していた。世間からは、いろ/\に悪評も立てられ、成金に対する攻撃を、一身に受けていたような父ではあったが、自分に対しては、世にかけ替のない優しい父であったことを思い出すと、何時いつものように、追慕の涙が、ホロ/\と止めどもなく、二つの頬を流れ落ちるのだった。
 女中が、水を汲んで来ると、美奈子は、その花筒の古い汚れた水を、浚乾かえほしてから、新しい水を、なみなみと注ぎ入れて、り取ったまゝに、まだ香の高い白百合しらゆりの花を、挿入れた。こうしたことをしていると、何時の間にか、心が清浄しょうじょうに澄んで来て、父母の霊が、遠い/\天の一角から、自分のしていることを、微笑ほほえみながら、見ていてれるような、頼もしいような懐しいような、清々しい気持になっていた。
 美奈子は、花を供えた後も、じっとうずくまったまゝ、心の中で父母の冥福めいうくを祈っていた。微風が、そよ/\と、向うの杉垣の間から吹いて来た。
「ほんとうに、よく晴れた日ね。」
 美奈子は、やっと立ち上りながら、女中を見返ってそう言った。
「左様でございます。ほんとうに、雲のかけ一つだってございませんわ。」
 そう言いながら、女中はまぶしそうに、晴れ渡った夏の大空を仰いでいた。
「そんなことないわ。ほら、彼処あすこにかすったような白い雲があるでしょう。」
 美奈子も、空を仰ぎながら、晴々しい気持になってそう言った。が、美奈子の見付けたその白いかすかな雲の一片を除いた外は、空はほがらかに何処どこまでも晴れ続いていた。
「今日はあまりいゝお天気だから直ぐ帰るのは惜しいわ。ぶら/\散歩しながら、帰りましょう。」
 そう言いながら、美奈子は女中をうながして、懐しい父母の墓を離れた。
 何時もは、歩きれた道を、青山三丁目の停留場に出るのであったが、その日は清い墓地内を、あてもなくぶら/\歩くために、わざと道を別な方向に選んだ。
 自分の家の墓地から、三十間ばかり来たときに、美奈子はふと、美しく刈り込まれた生籬いけがきに囲まれた墓地の中に、若い二人の兄妹きょうだいらしい男女が、お詣りしているのに気が付いた。
 美奈子は、軽い好奇心から、二人の容子を可なり注意して見た。兄の方は、二十三四だろう。
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銘仙らしい白い飛白かすりに、はかま穿いて麦藁むぎわらの帽子をかぶった、スラリとした姿が、何処となく上品な気品を持っていた。妹はと見ると、まだ十五か十六だろう、青味がかった棒縞ぼうじまのお召にカシミヤのはかま穿いた姿が、質素な周囲と反映してあざやかに美しかった。
 美奈子達が、段々近づいてその墓地の前を通り過ぎようとしたとき、ふと振り返った妹は、美奈子の顔を見ると、微笑を含みながら軽く会釈えしゃくした。


     

 妹らしい方から会釈されて、美奈子周章あわてながら、それに応じた。が、相手が誰だか、容易に思い出せなかった。長いまつげおおわれたその黒いひとみを、何処どこかで見たことのあるように思った。が、それがうしても美奈子には思い出せなかった。
「人違いじゃないのかしら。」
 そう思って、美奈子一寸ちょっと顔を赤くした。
 が、美奈子がその墓地の前を通り過ぎようとして、二度ふたたびその兄妹らしい男女を見返ったとき、今度は兄の方が、美奈子の方を振り返っていた。恐らく妹が、挨拶あいさつしたので、一寸ちょっとした興味を持ったためだろう。美奈子ひとみは、当然その青年の顔を、正面から見た。その刹那せつな【瞬間】美奈子は、若い男性と、咄嗟とっさに顔を見合わした恥かしさに、はじかれたように、顔を元に返した。
 それはホンの一瞬の間だった。が、その一瞬の間に一目見た青年の顔は、美奈子の心に、名工がのみを振ったかのように、ハッキリと刻み付けられてしまった。
 彼女は、今まで異性の顔に、自分から注意を向けたことなどは、ほとんどなかった。が、今見た青年の顔は、彼女の注意のすべてを、支配するような不思議な魅力を持っていた。
 白いくっきりとした顔、妹によく似た黒いひとみ凜々りりしく引きしまった唇、顔全体を包んでいる上品なにおい
 お墓参りの後の、澄み渡ったような美奈子の心持は、たちまみだされてしまった。彼女ののんびりとしていた歩調は、急に早くなった。彼女の心は、強い力で後へ引かれながら、身体けは彼女の意志とは反対に、前へ/\と急いでいた。丁度、恐ろしいものからでも逃れるように。
 彼女のみだれていた心が、だん/\なごんで来るのに従って、先刻の妹の方から受けた挨拶のことを、考えていた。
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先方は、自分を知っているに違ない。少くとも、妹の方だけは、自分を知っていてれるに違ない。が、そうは思って見るものの、妹が誰であるかうしても思い出されなかった。
 が、通り過ぎた時に、チラと見た所にると、二人が、つい近く失ったばかりの肉親のお墓まいりをしていたことだけは、明かだった。幾本も立っている卒都婆そとばが、どれもこれも墨の匂が新しかった。
 美奈子は、知人の家で、最近に不幸のあった家を、それからそれと数えて見た。が、うしても兄妹の所属はわからなかった。
 妹の方が、人違をしたのかも知れない。そう思うことは美奈子は、何だかさみしかった。やっぱり、此方こちらが思い出せないのだ。その中には、また屹度きっとあの人達と顔を合せる機会があるに違いない。屹度きっと機会が来るに違いない。
「お嬢様! 何方どっちへ行らっしゃるのでございます?」
 そう言って呼び止める女中の声に驚いて、美奈子が我に帰ると、美奈子は右に折れるべき道を、ズン/\前へ、出口のない小径こみちの方へと、進んでいるところだった。
其方そちらへいらっしゃいますと突き当りでございますよ。」
 そう言いながら、女中は笑った。
「おや! おや! わたしぼんやりしていたわ。」
 美奈子も、てれかくしに笑った。
 二人は何時いつの間にか霞町かすみちょうの方へ近づいていた。
「霞町から乗って、青山一丁目で乗換えすることにいたしましょうか。」
 女中の発議にまかしたように、美奈子は黙って霞町の方へ、だら/\した坂をくだっていた。心の中では、まだ一心に、その妹の顔と兄の顔とを等分に考えながら。
 塩町行の電車の昇降台しょうこうだいの棒に、美奈子が手をかけたとき、彼女は低く、
「あゝそう/\!」と、自分自身に言った。
 彼女は、やっと妹を思い出した。お茶の水で確か三年か二年か下の級にいた人だ。そう/\! 先刻見たときバンドをしていたのをスッカリ忘れていた。向うでは此方こっちの顔だけを覚えていて呉れたのだ。
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そう思うと、美奈子は兄妹に対して一入ひとしおなつかしい心がいて来た。


     

 少女の顔だけは、やっと思い出したけれども、名前はうしても思い出せなかった。家へ帰ってからも、美奈子は、お茶の水にいた頃の校友会雑誌の『校報』などをひろげて、それらしい名前を、思い出そうとしたけれども、やっぱり徒爾むだだった。
 自分ながら、うしてあの兄妹に、不思議に心をかされるのか、美奈子には分らなかった。が、兄の方の白い横顔や、妹の会釈えしゃくした時の微笑などがうしても忘れられなかった。自分にも、あんなに親しい兄があったら、兄の勝彦が、もう少し普通の人間であったら、などと取り止めもないことを、考えながら、やっぱり忘れられないのは、一目顔を見合わせただけの兄妹だった。いな、本当に忘れられないのは、兄の方一人だけだったかも知れない。たゞ兄をおもい出すごとに、妹は影の形に伴うごとく、彼女の記憶のうちに、よみがえって来るのかも知れなかった。異性の兄の方だけを考えることは、彼女のつつましい処女おとめ性が、彼女自身にそれを許さなかった。彼女は、自身でも兄妹のことを考えているように、言訳しながら、本当は兄だけのことを考えていたのかも知れなかった。
 美奈子は、兄の方の美しい凜々りりしい姿を、心のうちで、じっとみしめるように、想い出していると ほの/″\と夜の明けるように、心のうちに新しいのぞみや、新しい世界が開けて行くように思った。今まで夢にも知らなかったような、美しい世界が開けて行くように思った。
 が、それと一緒に、兄妹の名前が、ハッキリと知れないことが、寂しかった。あの時に、偶然ったばかりで、今後永く/\、否一生逢わずに終るのではないかと思ったりすると、淡いつかみどころのないような寂しさが、彼女の心を暗くしてしまうのだった。
 彼女は、新しい望みと、寂しさとを一緒に知ったと言ってもよかった。否彼女の心の少女らしい平和は、永久に破られたと言ってもよかった。
 美奈子は、以前よりも温和おとなしい、以前よりもつつましい少女になっていた。
 そのうちに、彼女の心にも、少女らしい計画プランが考えられていた。そうだ! の次の日曜にも、お墓まいりをして見よう。もし、あの新しい墓の主が、兄妹に取って親しい父か母かであったならば、この次の日曜にも二人は屹度きっと、お詣りをしているのに違ない。
 そう考えて来ると、美奈子には次の日曜が回って来るのが、一日千秋のように、もどかしく待たれた。
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 が、待たれたその日曜が来て見ると、昨夜ゆうべからの梅雨つゆらしい雨が、じめ/\と降っているのだった。
「今日はお墓詣りに行こうと思っていたのですけれども。」
 美奈子は、朝母と顔を見合すと、運動会の日を雨に降られた少女か何かのように、こぼすように言った。瑠璃子には美奈子の失望が分らなかった。
「だって! 美奈さんは、前の日曜にもお参りしたのじゃないの。」
「でも、今日も何だか行きたかったの。わたくし楽しみにしていたのです。」
「そう! じゃ、自動車くるまで行って来てはどう。自動車を降りてから、三十間も歩けばいゝのですもの。」
 瑠璃子は、優しく言った。
「でも!」そう言って、美奈子口籠くちごもった。
 雨をいてでも、風を衝いてでも、自分は行ってもいゝ。が、先方むこうは? そう思うと、美奈子は寂しかった。普通にお墓詣りをする人が、こんな雨降りの日に出かけて来る訳はない。そう思って来ると、雨降りにでも行こうと言う自分の心、否お墓詣りと言うことを、ダシに使おうとしている自分の心が、美奈子は急に恥かしくなった。彼女は、われにもあらず顔を赤くした。
「おや! 美奈さん。何がそんなに恥しいの。お墓詣りするのが、そんなに恥しいの?」
 明敏な瑠璃子は、美奈子の表情を見逃さなかった。
「あら! そうではありませんわ。」
 と、美奈子周章あわてゝ、打ち消したが、彼女の素絹しらぎぬのように白い頬は、耳の附根まで赤くなっていた。


     

 その次の日曜は、珍らしい快晴だった。洗い出したような紺青色ウルトラマリンの空に、まぶしい夏の太陽が輝かしい光を、一杯にみなぎらしていた。
 美奈子は、朝眼が覚めると、寝床ベッドの白いシーツの上に、緑色の窓掩カーテンを透して、朝の朗かな光が、たわむれているのを見ると、急に幸福な感じで、胸が一杯になった。今日は何だか、楽しいうれしい出来事に出逢であいそうな気がした。彼女は、いそ/\として、床を離れた。
 午前中は、いろ/\な事が手に付かなかった。母に勧められて、母のピアノにヴァイオリンを合せたけれども、美奈子何時いつになく幾度も幾度もき違えた。
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「美奈さんは、今日はうかしているじゃないの?」と、母から心のうちの動揺を、見透されると、美奈子の心は、愈々いよいよみだされて、到頭とうとう中途で合奏をめてしまった。
 午後になるのを待ち兼ねたように、美奈子はお墓まいりに行くための許しを、母にうた。何時もはあんなに気軽に、口に出せることが、今日は何だか、言いにくかった。
 墓地は、何時ものように静かだった。時候がもうスッカリ夏になったためか、の前来たときのように、お墓詣りの人達は多くはなかった。が、周囲は、静寂であるのにもかかわらず、墓地に一歩踏み入れると同時に、美奈子の心は、ときめいた。何だか、そわ/\として、足が地に付かなかった。こわいようなおそろしいような、それでいて浮き立つようなそそられるような心地がした。
 父母のお墓の前に、じっとうずくまったけれども、心持はいつものように、しんみりとはしなかった。こんな心持で、お墓に向ってはならないと、心でとがめながらも、妙に心が落着かなかった。
 彼女は、平素いつもとは違って、何かに周章あわてたように、父母の墓前から立ち上った。
すみや、今日も霞町かすみちょうの方へ出て見ない!」
 美奈子は、一寸ちょっと顔をあからめながら何気ないように女中に言った。女中は黙っていて来た。
 美奈子の心は、一歩ごとにその動揺を増して行った。彼女は墓石と墓石との間から、今にも麦藁帽むぎわらぼうの端か、妹の方のあざやかな着物が、チラリとでも見えはせぬかと、幾度も透して見た。が、そのあたりは妙に静まり返って、人気さえしなかった。
 彼女が、決心して足を早めて、心覚えの墓地に近づいて行ったとき、彼女の希望は、今朝からの興奮と幸福とは、煙のようにムザ/\と、夏の大空に消えてしまった。
 心覚えの墓地は、むなしかった。新しい墓の前には、燃え尽きた線香の灰が残っているだけであった。供えた花が、しおれているだけであった。美奈子の心を、寂しい失望が一面にとざしてしまった。
 せめて墓に彫り付けてある姓名から、兄妹の姓名を知りたいと思った。が、生籬いけがき越に見ただけでは、それがうしても、確められなかった。それかと言って、女中を連れている手前、それを確かめるために、墓地の回りを歩いたりすることも出来なかった。
 美奈子は、満されざる空虚を、心のうちに残しながら、寂しくその墓地の前を通り過ぎた。
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 彼女は、その途端ふと学校で習った『くいぜを守ってうさぎを待つ【たまたま起きた幸運がもう一度起こると思って、何も努力せずに待つだけではダメだ】』と、言う熟語を思い出した。約束もしない人が、うして一定の時日に、一定の場所に来ることがあるだろう。そう思って来ると、自分の子供らしさが、恥しいと同時に、寂しい頼りない気がした。あるいは、あれ切りもう一生われない人かも知れない。
 彼女は、怏々おうおうとして【心が晴れなく】、暗いむすぼれた心持で電車に乗った。今までは楽しく明るい世の中が、何だか急にかげって来たようにさえ思われた。
 が、美奈子の乗った九段両国行の電車が、三宅坂みやけざかに止まったとき、運転手台の方から、乗って来る人を見たとき、美奈子は思わずその美しい目をみはった。


     

 美奈子が、おどろいて目をみはったのも、無理ではなかった。車内へツカ/\と、入って来て、彼女のぐ斜前へ腰を降ろしたのは、まぎれもない、墓地で見たの青年であった。美奈子が二週間もの間、よそながらもう一度見たいと思っていたあの青年であった。彼女は、一目見たばかりではあったが、上品なその目鼻立を見ると、直ぐそれと気が付いた。
 その青年に、つい目と鼻の位置にすわられると、美奈子は顔をあからめて、じっとうつむいてしまう女だった。が、心のうちでは思った、何と言う不思議な偶然チャンスだろう。その人にえると思った場所では、逢えないで、悄然しょうぜんと【元気がなく】帰って来る電車の中で、ヒョックリ乗り合わす。何と言う不思議な偶然だろう。そう思うと同時に、不思議な偶然の向うには、思いがけない幸福でもが、潜んでいるように思われて、先刻までしおれかえっていた美奈子の心は、別人のように晴れやかに、弾んで来た。が、美奈子は顔を上げて、相手の顔を、じっと見詰めるだけの勇気はなかった。車台の床に投げられている彼女の視線には、青年が持っている細身のとうのステッキの先端はしだけしか映っていなかった。
 あの方は、自分の顔を覚えていてくれるかしら。美奈子はそんなことを、わく/\する胸で、取り止めもなく考えていた。かく、妹が挨拶あいさつをした以上、自分の顔だけ位は、覚えていてれるかしら。覚えていて呉れゝば、どんなに幸福であろうかなどと思ったりした。
 電車は、直ぐ半蔵門で止った。
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もう、自分の家までは二分か三分かの間である。動き出せば直ぐ止る、わずかの距離であった。美奈子は、もっと/\の電車に乗っていたかった。そうだ! 青年の乗っている限り、の電車に乗っていたいと思った。
 彼女は、女中をそれとなく先へ降して、神田辺に買物があると言って、のまゝずっと乗り続けていようかと思ったりした。が、そうした大胆な計画をなすべく、彼女はあまりに純だった。
 その内に、電車はもう半蔵門の停留場を離れていた。英国大使館の前の桜青葉の間を、勢よく走っていた。美奈子は電車が、平素いつもの二倍もの速力で走っているように思った。彼女は、最後の一瞥いちべつを得ようとして、思い切って顔を持ち上げた。青年は、の前見たときと同じような白い飛白かすりの着物にセル【夏の薄物】らしいはかま穿いていた。近く見れば見るほど、貴公子らしい凜々しい面影が、美奈子の小さい胸をし付けるように、迫って来るのだった。美奈子は、の青年と向い合って坐りながら、もっともっと九段までも両国までも、いな/\もっとはるかに遥かに遠いところまで、一緒に乗って行きたいような、切ない情熱が、胸にいて来るのをうすることも出来なかった。このまゝ別れてしまうと、また何時いつ会われるか分らない。二年も三年も、いな一生もう二度と会われないのでは あるまいか などと思ったりすると、美奈子は、うしても座席が離れられなかった。が、女中のすみやは、そんなことは少しも頓着しなかった。
 五番町の停留場の赤い柱が見え出すと、主人よりも先きに立ち上った。
「参りましたよ。」
 彼女は主人をうながすように言った。美奈子がそれに促されて、不承々々に席を離れようとしたときだった。降りそうな気勢けはいなどは、少しも見せなかった青年が、突然立ち上ると男らしい活発さで、素早く車掌台へ出ると、まだ惰力だりょくで動いている電車から、軽くヒラリと飛び降りた。
『おや!』女中が、傍にいなかったら、彼女はおどろいて声を出したかも知れなかった。
『御近所の方かしら。』そう思った美奈子は、電車を降りながら美しいひとみこらして、その後姿を見失うまいと、眼も放たず【目をそらさず】見詰めていた。
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 美奈子より先に、電車を飛び降りた青年は、その後姿を、じっと彼女から見詰められているとは少しも気が付かないように、とうの細身のステッキを、まぶしい日の光のうちに、軽く打ち振りながら、グン/\急ぎ足で歩いた。
 美奈子は、一体の青年が、近所のどの家に入るのかと、わざと自分の歩調を緩めながら、青年の後姿を眼で追っていた。
 その時に、彼女をおどろかすような思いがけないことが、起った。
「おや! あの方、家へいらっしゃるのじゃないかしら。」
 美奈子は、思わずそう口走らずにはいられなかった。
 九段の方へグン/\歩いて行くように見えた青年は、美奈子の家の前まで行くと、だん/\その門に吸い付けられるように歩み寄るのであった。
 青年は、門の前で、ホンの一瞬の間、佇立ちょりつした。美奈子は、やっぱり通りがかりに、一寸ちょっと邸内の容子を軽い好奇心からのぞくのではないかと思った。が、たたずんで一寸ちょっと何か考えたらしい青年は、思い切ったように、グン/\家の中へ入って行った。ステッキを元気に打ち振りながら。
「お客様ですわ、奥様の。」
 女中は、美奈子の前の言葉に答えるように言った。
 いかにも、女中の言うとおり、母の客間サロンおとなう青年の一人に違いないことが美奈子にも、もう明かだった。
「お前、あの方知っているの?」
 美奈子は、心のうちの動揺を押しかくすようにしながら、何気なくいた。
「いゝえ! 存じませんわ。わたくしはお客間の方の御用をしたことが、一度もないのでございますもの。きくやなら、きっと存じておりますわ。」
 きくやと言うのは、母にいている小間使の一人だった。
 美奈子は、かくその青年が、自分の家に出入りしていると言うことを知ったことが、可なり大きいよろこびだった。自分の家に出入りしている以上、会う機会、知己しりあいになる機会が、幾何いくらでも得られると思うと、彼女の小さい胸は、歓喜のためにはげしく波立って行くのだった。が、それと同時に、母が前から、その青年と知り合っていること、その青年とお友達であることが、不思議に気になり出した。今までは、母が幾何いくら若い男性を、その周囲にき付けていようとも、それは美奈子に取って、何の関係もないことだった。
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が、この青年までが、母の周囲に惹き付けられているのを知ると、美奈子は平気ではいられなかった。かすかではあるが、母に対する美奈子の純なにごらない心持が、揺ぎ初めた。
 美奈子が、心持足を早めて、玄関の方へ近づいて見ると、青年は取次が帰って来るのを待っているのだろう。其処そこに、ボンヤリ立っていた。
 彼は不思議そうに、美奈子をジロ/\と見たが、美奈子の家の家人であることに、やっと気が付いたと見え、少し周章あわて気味に会釈えしゃくした。
 美奈子周章あわてて、頭を下げた。彼女の白いうっくり【ふっくら】とした頬は、見る/\染めたように真赤になった。その時に丁度、取次の少年が帰って来た。青年は待ち兼ねたようにその後に従いて入った。
 美奈子が、玄関から上って、奥の離れへ行こうとして客間の前を通ったとき、一頻ひとしきにぎやかな笑い声が、美奈子の耳をいて起った。今までは、そうした笑い声が、美奈子の心をかすりもしなかった。本当に平気に聞き流すことが出来た。が、今日はそうではなかった。その笑い声が、妙に美奈子の神経をき刺した。美奈子の心を不安にし、悩ました。あの青年と、自由に談笑している母に対して、羨望せんぼうに似た心持が、彼女の心に起って来るのをうともすることも出来なかった。


     

 その日曜の残りを、美奈子はそわ/\した少しも落着かない気持のうちに過さねばならなかった。かの青年が、自分の家の一室にいることが、彼女の心をみだしてしまったのだ。
 今までは、一度も心に止めたことのない客間サロンの方が、絶えず心にかゝった。青年が母に対してどんな話をしているのか、母が青年にどんな答をしているかと言ったようなことを、想像することが、彼女を益々ますます不安にさせ、いら/\させた。
 彼女は、到頭とうとう部屋の中に、じっとすわっていられないようになって、広い庭へ降りて行った。気をまぎらすために、庭の中を歩いて見たいためだった。が、庭の中を彼方此方あちらこちらと歩いているうちに、彼女の足は何時いつの間にか、だん/\洋館の方へ吸い付けられて行くのだった。
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彼女のひとみは、時々我にもあらず、客間の縁側ヴェランダの方へ走るのを、うともすることが出来なかった。その縁側からは、時々思い出したように、華やかな笑い声が外へれた。若い男性の影が、チラホラ動くのが見えた。が、その人らしい姿は、到頭とうとう見えなかった。
 大抵は、その日の訪問客を引き止めて、華美はで晩餐ばんさんを振舞う瑠璃子るりこであったが、その日はうしたのか、夕方が近づくと皆客を帰してしまって、美奈子とたった二人り、小さい食堂で、平日のように差し向いに食卓に就いた。
 その夜の瑠璃子は、これまでの通り、美奈子に取って母のような優しさと姉のような親しみとを持っていた。が、美奈子は母に、ホンのかすかではあるが、今までに持たなかったような感情を持ち初めていた。母の若々しい神々こうごうしいほどの美貌びぼうが、何となくうらやましかった。母が男性と、ことにあの青年と、自由に交際つきあっているのが、何となく羨ましいように、ねたましいように思われて仕方がなかった。が、美奈子はそうしたはしたない感情を、グッと抑え付けることが出来た。彼女は平素いつも初々ういういしい温和おとなしい美奈子だった。
 順々に運ばれる皿数コーセスの最後に出た独活アスパラガスを、瑠璃子夫人がその白魚のような華奢きゃしゃな指先で、つまみ上げたとき、彼女は思い出したように美奈子に言った。
「あゝそう/\! 美奈さんに相談しようと思っていたの。貴女あなたこの夏は何処どこへ行きましょうね。四五日のうちに、何処かへ行こうと思っているの。今日なんかもう可なり暑いのですもの。」
わたし、何処だっていゝわ。貴女あなたのお好きなところなら何処だっていゝわ。」美奈子は、つつましくそう言った。
「軽井沢は去年行ったし、わたくし今年は箱根へ行こうかしらと思っているの。今年は電車が強羅ごうらまで開通したそうだし、便利でいゝわ。」
わたくし箱根へはまだ行ったことがありませんの。」
「それだとなおいゝわ。わたくし温泉では箱根が一番いゝと思うの。東京には近いし景色はいゝし。じゃやっぱり箱根にしましょうね。明日でも、富士屋ホテルへ電話をかけて部屋の都合をき合せましょうね。」
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 そう言って、瑠璃子は言葉を切ったが、ぐ何か思い出したように、
「そう/\、まだ貴女あなたにお許しを願わなければならぬことがあるの。女手ばかりだと何かに付けて心細いから、男のお友達の方に、一人一緒に行っていたゞこうと思うの。貴女あなた介意かまわなくって?」
「介意いませんとも。」美奈子はそう答えた。もし、昨日の美奈子であったら、それをもっと自由に快活に答えることが出来たであろう。が、今の美奈子はそう答えると共に、胸が怪しくみだれるのを、うともすることが出来なかった。
温和おとなしい学生の方なの。いろ/\な用事をしてもらうのにいゝわ。」
 瑠璃子は、いかにもその学生を子供扱いにでもしているような口調で言った。
 学生と聴くと、美奈子の胸は更にはげしく波立った。押え切れぬ希望と妙な不安とが、胸一杯にち満ちた。

箱根行


     

「御機嫌よく行ってらっしゃいませ。」
 玄関に並んだ召使達が、口をそろえて見送りの言葉を述べるのを後にして、美奈子みなこ達の乗った自動車は、門の中から街頭へ、滑かにすべり出した。
 乾燥した暑い日が、四五日も続いた七月の十日の朝だった。自動車の窓に吹き入って来る風は、それでもやや涼しかったが、空には午後からの暑気を思わせるような白い雲が、彼方此方あちらこちらにムク/\とき出していた。
 美奈子は、母と並んで腰をかけていた。前には、母の気に入りの小間使と自分の附添の女中とが、窮屈そうに腰をかけていた。
 美奈子は、母から箱根行のことをかされてから、母が一緒にともなって行くと言う青年のことが、絶えず心にかゝっていた。が、母の方からはそれ以来、青年のことは何とも口に出さなかった。母が口に出さない以上、美奈子の方から切り出して訊くことは、内気な彼女には出来なかった。
 出立しゅったつの朝になっても、青年の姿は見えなかった。美奈子は、母が青年を連れて行くことを中止したのではないかとさえ思った。そう思うと美奈子は、失望したような、何となく物足りないような心持になった。
 自動車が、日比谷ひびや公園の傍のお濠端ほりばたを走っている時だった。美奈子は、やっと思い切って母に訊いて見た。
「あの、学生の方とかをお連れするのじゃなかったの?」
 瑠璃子は、初めて気が付いたように言った。
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「そう/\。あの方を美奈さんに紹介して置くのだったわ。貴女あなたまだ御存じないのでしょう。」
「はい! 存じませんわ。」
「学習院の方よ。時々制服を着ていらっしゃることがあってよ。気が付かない?」
「いゝえ! 一度もお目にかゝったことありませんわ。」
青木さんと言う方よ。」
 母は何気ないように言った。
青木さん!」美奈子一寸ちょっとおどろいたように言った。「その方はこの間、くなられたのではございませんの。」
 美奈子も、母の男性のお友達の一人なる青木なにがしが、横死【不慮の死】したと言うことは、薄々知っていた。
「いゝえ! あの方の弟さんよ。兄さんは、帝大の文科にいらしったのよ。」
 ここまで聴いたとき美奈子にはもうすべてが、わかっていた。の旅行の同伴者が、何人なんぴとであるかがもうハッキリと判った。新しく兄を失った青木と言う青年が、彼女が青山墓地で見たその人であることに、もう何のうたがいも残っていなかった。
 美奈子の心は、あらしの下の海のように乱れ立った。かの青年と、少くとも向う一箇月間一緒に暮すと言うことが、彼女の心を、取り乱させるのに十分だった。それはうれしいことだった。が、それは同時におそろしいことだった。それは、楽しいことだった。が、それは同時にはげしい不安を伴った。
 美奈子の心の大きな動揺を、夢にも知らない瑠璃子るりこ夫人は、その真白な腕首に喰い入っている時計を、チラリと見ながら独言ひとりごとのようにつぶやいた。
「もう、九時だから、青木さんは屹度きっと来ていらっしゃるに違いないわ。」
 そうだ! 青年は、停車場で待ち合わせる約束だったのだ。もう、二三分の後にその人と面と向って立たねば ならぬか と思うと、美奈子の心は、とりとめもなく乱れて行くのだった。
 が、美奈子は少女らしい勇気を振い起して、自分の心持をまとめようとした。あの青年と会っても、取り乱すことのないように、出来るだけ自分の心持を纏めて置こうと思った。
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美奈子の心持などに、何の容赦もない自動車は、彼女の心が少しも纏まらない内に、もう彼女を東京駅の赤煉瓦あかれんがの大きい建物の前に下していた。


     

 美奈子等の自動車の着くのを、先刻さっきから待ち受けていたかのように、駅の群集の間から、五六人の青年紳士が、自動車から降り立ったばかりの、瑠璃子夫人の周囲を取り囲むのであった。
「お見送りに来たのですよ。」
 皆は、口をそろえて言った。
 夫人は軽い快いおどろきを、顔に表しながら言った。
「おや! うして御存じ?」
「はゝゝ、おおどろきになったでしょう。お隠しになったって駄目ですよ。我々の諜報局ちょうほうきょくには、奥さんのなさることは、スッカリわかっているのですからね。」
 外交官らしい、霜降り【細かな混色】のモーニングを着た三十に近い紳士が、冗談半分にそう言った。
「それは驚きましたね、小山さん! 貴君あなた間諜スパイでも使っているのじゃないの? おッほゝゝ。」
 夫人も華やかに笑った。
「使っておりますとも。女中さんなんかにも、気を許しちゃいけませんよ。」
「じゃ! 行先も判って?」
「判っていますとも。箱根でしょう。しかも、お泊りになる宿屋まで、ちゃんと判っているのです。」
 今度は、長髪に黒のアルパカの上着を着て、ボヘミアンネクタイ【蝶ネクタイ】をした、画家らしい男が、そう附け加えた。
「おや! おや! 誰が内通したのかしら?」
 夫人は、当惑とうわくしたらしい、その実は少しも当惑しないらしい表情でそう答えた。
 若い男性に囲まれながら、彼等を軽くあしらっている夫人の今日の姿は、又なく鮮かだった。青磁色の洋装が、そのスラリとした長身に、ピッタリ合っていた。極楽鳥の翼で飾った帽子が、そのうるしのようににおう黒髪をおおうていた。大粒の真珠の頸飾くびかざりが、彼女自身の象徴シンボルのように、その白い滑らかな豊かな胸に、垂れ下っていた。
 平素いつも見馴みなれている美奈子にさえ、今日の母の姿は一段と美しく見えた。駅の広間ホールに渦巻いている群衆の眼も、一度は必ず夫人の上に注がれて、彼等が切符を買ったり手荷物を預けたりする忙がしい手を緩めさせた。
 美奈子は、母を囲む若い男性を避けて、一間ばかりも離れて立っていた。彼女は、最初その男達の間に、あの青年のいないのを知った。
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一寸ちょっと期待が外れたような、安心したような気持になっていた。その内に、母を見送りの男性は、一人増え二人加った。が、かの青年は何時いつまで待っても見えなかった。その男性達は、美奈子の方には、ほとんど注意を向けなかった。たゞ美奈子の顔を、よそながら知っている二三人が軽く会釈えしゃくしただけだった。
「奥さん! まだ判っていることがあるのですがね。」
 しばらくしてから、紺の背広を着た会社員らしい男が、おず/\そう言った。
「何です? おっしゃって御覧なさい。」
 夫人は、微笑しながら、しかも言葉だけは、命令するように言った。
「言っても介意かまいませんか。」
「介意いませんとも。」
 夫人は、ニコ/\と絶えず、微笑を絶たなかった。
「じゃ申上げますがね。」彼は、夫人の顔色をうかがいながら言った。「青木君を、お連れになると言うじゃありませんか。」
 それに附け加えて、皆は口を揃えるように言った。
うです、奥さん。当ったでしょう。」
 皆の顔には、六分の冗談と四分の嫉妬しっとが混じっていた。
「奥さん、いけませんね。貴女あなたは、皆に機会均等だと言いながら、青木君兄弟にばかり、いやに好意を持ち過ぎますね。」
 小山と言う外交官らしい男が、冗談半分に抗議を言った。
 美奈子は、母が何と答えるか、じっと聞耳を立てゝいた。


     

「まあ! 青木さんを連れて行くって。うそばっかり。青木さんなんか、まだ兄さんのいみも明けていない位じゃありませんか。」
 瑠璃子るりこ夫人は、事もなげに打消した。美奈子は、母が先刻自分に肯定こうていしたことを、こうも安々と、打ち消しているのを聴いたとき、内心少からず驚いた。自分に対しては可なり親切な、誠意のある母が、こうも男性に向っては白々しく出来ることが、可なり異様に聞えた。
「忌もまだ明けないだろうって。奥さんにも似合わない旧弊なことをおっしゃるのですね。忌位明けなくったって、いゝじゃありませんか。
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ことに、奥さんと一緒に行くんだったら、死んだ兄さんだって、冥土めいどで満足しているかも知れませんよ。死んだ青木じゅん君の瑠璃子夫人崇拝は人一倍だったのですからね。あの男の貴女あなたに対する態度は、狂信に近かったのですからね。」
 長髪の画家が、一寸ちょっと皮肉らしくった。
 夫人は、美しい顔を、少し曇らせたようだったが、ぐ元の微笑に帰って、
「まあ! 何とでも仰しゃいよ。でも青木さんのいらっしゃらないのは本当よ。論より証拠青木さんは、お見えにならないじゃありませんか。」
「奥さん! そんなことは、証拠になりませんよ。発車間際まぎわに姿を現して、我々がアッと言っている間に、汽笛一声発車してしまうのじゃありませんか。貴女あなたのなさることは、大抵そんなことですからね。」
 の内で、一番年配らしい三十二三の夏の外套がいとうを着た紳士が、始めて口を入れた。
「御冗談でございましょう! 富田さん。青木さんをお連れするのだったら、そうコソ/\とはいたしませんよ。まさか、貴君あなたが赤坂の誰かを湯治に連れていらっしゃるのとは違っていますから。」
 瑠璃子夫人の巧みな逆襲ぎゃくしゅうに、みんなは声をそろえて哄笑こうしょうした。富田と呼ばれた紳士は苦笑しながら言った。
「まあ、青木君の問題は、別として、僕も、近々箱根へ行こうと思っているのですが、彼方あちらでお訪ねしても、介意かまいませんか。」
 瑠璃子夫人は、微笑を含みながら、しか乱麻を断つように答えた。
「いゝえ! いけませんよ。の夏は男禁制! 誰かの歌に、こんなのが、あるじゃありませんか。『大方の恋をば追わずの夏は真白草花白きこそよけれ【この夏は、ただ清潔で静かな心でいたい】』わたくしも、そうなのよ、の夏は、本当に対人間の生活から、少し離れていたいと思いますの。」
「ところが、奥さん。その真白草花と言うのが、案外にも青木ジュニョルだったりするのじゃありませんか。」
 小山と呼ばれた外交官らしい紳士が、突込んだ。
「まあ! 執念深い! 発車するまでに、青木さんが、お見えになったら、そのつぐないとして、皆さんを箱根へ御招待しますわ。御覧なさい、もう切符を切りかけたのに、青木さんはお見えにならないじゃありませんか。」
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 夫人はそう言いながら、美奈子達をうながして改札口の方へ進んだ。若い紳士達は、ありの甘きにくように、夫人の後から、ゾロ/\と続いた。
 夫人が、汽車に乗った後も、青木と呼ばれる青年は姿を現さなかった。若い男達は、やっと夫人の言葉を信じ初めた。
「向うから、お呼び寄せになるかうかは別として、今日同行なさらないことだけは、信じましたよ。はゝゝゝゝ。」
 小山と言う男が、発車間際になって、そう言った。
「まだそんな負惜しみを、言っていらっしゃるの!」
 夫人は、そう言いながら、嫣然にっこりと笑って見せた。
 美奈子は、何が何だったか、わからなくなった。母の自動車の中の言葉では、青木と言う青年が――墓地でったの人に相違ない青年が――東京駅で待っているようだった。しかも母は、今そのことをきっぱり打ち消している。
 美奈子は安心したような、しかも失望したような妙な心持の混乱に悩んでいた。
 汽車が出るまで、到頭とうとう青木は姿を、見せなかった。


     

 汽車が動き初めても、青木の姿は、到頭とうとう見えなかった。
「それ御覧なさい! 疑いはお晴れになったでしょう!」
 夫人は、車窓から、その繊細せんさいな上半身を現しながら、見送っている人達に、そうした捨台辞すてぜりふを投げた。
 男性達が、銘々いろ/\な別辞を返しているうちに、汽車は見る/\駅頭を離れてしまった。
「まあ! うるさいたらありはしないわ。こんな小旅行トリップの出発を、わざ/\見送って呉れたりなどして。」
 夫人は美奈子に対する言い訳のようにつぶやきながら席に着いた。
 母を囲む男性達が、青木の同行を気にかけている以上に、もっと気にかけていたのは美奈子だった。その人と一緒に汽車に乗ったり、一緒に宿屋に宿とまったり、同じ食卓に着いたりすることを考えると、彼女の小さい心は、おののいていたと言ってもよかった。それは恐ろしいことであり、同時に、限りなき歓喜でもあったのだ。が、その人は到頭とうとう姿を現わさない。母も前言を打ち消すような事を言っている。
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美奈子の心配はなくなった。それと同時に、彼女の歓喜も消えた。たゞ白々しい寂しさだけが、彼女の胸に残っていた。
 美奈子の心持を少しも知らない瑠璃子は、美奈子が沈んだ顔をしているのを慰めるように言った。
「美奈さんなんか、うお考えになって。妾達わたしたち女性を追うているあゝ言う男性を。あゝ言う女性追求者と言ったような人達を。」
 美奈子は黙って答をしなかった。母が交際つきあっている人達を、いやだとも言えなかった。それかと言って、決して好きではなかった。
「あんな人達と結婚しようなどとは、夢にも考えないでしょうね。男性は男性らしく、女性なんかに屈服しないでいる人が、頼もしいわね。」
 美奈子も、ついそれに賛成したかった。が、青木と呼ばれるらしい青年も、やっぱりそうした男性らしくない女性追求者の一人かと思うと、美奈子はやっぱり黙っている外はなかった。
妾達わたしたちを、追うて来る人でも、身体と心とのすべてを投じて、来る人はまだいゝのよ。あの人達なんか遊び半分なのですもの。おおかみの散歩旁々かたがた人の後からいて行くようなものなのよ。つい、つまずいたら、飛びかゝってやろう位にしか思っていないのですもの。」
 美奈子は、母の辛辣しんらつな思い切った言葉に、つい笑ってしまった。男性のことを話すと、敵か何かのように罵倒ばとうする母が、何故なぜ多くの男性を近づけているかが、美奈子にはたゞ一つの疑問だった。
青木さんと言う方、一緒にいらっしゃるのじゃないの?」
 美奈子は、やっと、心に懸っていたことをいてみた。母は、意味ありげに笑いながら言った。
「いらっしゃるのよ。」
「後からいらっしゃるの?」
「いゝえ!」母は笑いながら、打ち消した。
「じゃ、先にいらっしゃったの?」
「いゝえ!」母は、やっぱり笑いながら打ち消した。
「じゃ何時いつ?」
 母は笑ったまゝ返事をしなかった。
 丁度その時に、汽車が品川駅に停車した。四五人の乗客が、ドヤ/\と入って来た。
 丁度その乗客の一番後から、麻の背広を着た長身白皙はくせき【色が白い】の美青年が、姿を現わした。
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瑠璃子夫人の姿を見ると、ニッコリ笑いながら、近づいた。右の手には旅行用のトランクを持っていた。
「おや! いらっしゃい!」
 夫人は、あふれる微笑を青年に浴びせながら言った。
「さあ! おかけなさい!」
 夫人はその青年のために、座席シートを取って置いたかのように、自分の右に置いてあった小さいトランクを取りけた。


     

 美奈子は、おどろきに目をみはりながら、それでもそっと青年の顔をぬすみ見た。それは、紛れもなく彼の青年であった。墓地で見、電車に乗り合わし、自分の家を訪ねるのを見た彼の青年に違いなかった。
 美奈子は、胸を不意に打たれたように、息苦しくなって、じっとかおを伏せていた。
 が、美奈子のそうした態度を、処女おとめに普通な羞恥しゅうちだと、解釈したらしい瑠璃子は、事もなげに言った。
「これが先刻お話した青木さんなの。」
 紹介された青年は、美奈子の方を見ながら、丁寧に頭を下げた。
「お嬢様でしたか。いつか一度、お目にかゝったことがありましたね。」
 そう言われて、『はい。』と答えることも、美奈子には出来なかった。彼女はそれを肯定こうていするように、丁寧に頭を下げたけだったが、青年が自分を覚えていてれたことが、彼女をどんなによろこばしたか分らなかった。
 青年は、瑠璃子の右側近く腰を降した。
貴君あなた、大変だったのよ。今東京駅でね。皆知っていらっしゃるのよ。わたしが今日立つと言うことを。そればかりでなく貴君あなたが一緒だと言うことまで知っていらっしゃるのよ。だから、極力打ち消して置いたのよ。青木さんが一緒だったら、そのつぐのいとして皆さんを箱根へ御招待しますって。それでも皆善人ばかりなのよ、おしまいにはわたくしの言うことを信じてしまったのですもの。だから、わたくしが言わないことじゃないでしょう。品川か新橋かどちらかでお乗りなさいと。
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わたくし貴君あなたわたくしの言うことを聴かないで、ひょっくり東京駅へ来やしないかと思って、ビク/\していましたの。」
 夫人は、弟にでも話すように、馴々なれなれしかった。青年は姉の言葉をでも、聴いているように、一言一句に、微笑しながら肯いた。
 それを、黙って聴いている美奈子の心の中に、不思議な不愉快さが、ムラ/\といて来た。それは彼女自身にも、一度も経験したことのないような、不快な気持だった。彼女は、母に対して、不快を感じているのでなく、青年に対して、不快を感じているのでなく、たゞ母と青年とが、馴々しく話しあっていることが、不思議に、彼女の心に苦いおりき乱すのであった。ことに青年が人目を忍ぶように、品川からたゞ一人、コッソリと乗ったことが、美奈子の心を、可なり傷けた。母と青年との間に、何か後暗いかげでもあるように、思われて仕方がなかった。
うして、僕が奥さんと一緒に行くことが分ったのでしょう。僕は誰にも言ったことはないのですがね。」
 青年は一寸ちょっと言い訳のように言った。
「何分っていてもいゝのですよ。薄々分っている位が、丁度いゝのですよ。貴君あなたとなら、分っていてもいゝのですよ。」
 夫人は、軽いこびを含みながら言った。
「光栄です。本当に光栄です。」
 青年は冗談でなく、本当に心から感激しているように言った。
 母と青年との会話は、自由に快活に馴々しく進んで行った。美奈子は、なるべくそれを聴くまいとした。が、母が声を低めて言っていることまでが、神経のいらだっている美奈子の耳には、轟々ごうごうたる車輪の、響にも消されずに、ハッキリと響いて来るのだった。
 母と青年との一問一答に、小さい美奈子の胸は、益々ますます傷けられて行くのだった。時々母が、
「美奈さん! 貴女あなたう思って?」
 などと黙っている彼女を、会話の圏内けんないに入れようとするごとに、美奈子さみしい微笑をもらだけだった。
 美奈子は、青年の姿を見ない前までは、青年の同行することは、恐ろしいが同時に限りない歓喜がその中に潜んでいるように思われた。が、それが実現して見ると、それは恐ろしく、寂しく、苦しいだけであることが、ハッキリと分った。この先一月も、こうした寂しさ苦しさを、味わっていなければ ならぬか と思うと、美奈子の心は、墨を流したように真暗になってしまった。
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 汽車は、美奈子の心の、恋を知りめた処女おとめの苦しみと悩みとを運びながら、グン/\東京を離れて行った。
 夫人と青年との親しそうな、しめやかな、会話は続いた。夫人は久し振にった弟をでも、愛撫あいぶするように、耳近く口を寄せてささやいたり、軽くしっするように言ったりした。青年は青年で、姉にでも甘えるように、姉から引き回されるのをよろこぶように、柔順に温和に夫人の言葉を、一々微笑しながらいていた。
 美奈子は、母と青年との会話を、余り気にしている自分が、何だかはずかしくなって来た。彼女は、成るべく聞くまい見まいと思った。が、そう努めれば努めるほど、青年の言葉やその白皙はくせき【色が白い】のかおに浮ぶ微笑が、悩ましく耳に付いたり、眼についたりした。
 青年のかおには、歓喜と満足とがあふれているのが、美奈子にも感ぜられた。彼の眼中には、瑠璃子夫人以外のものが、何も映っていないことが、美奈子にもあり/\と感ぜられた。母の傍にいる自分などは、恐らく青年の眼には、ちりほどにも、あくた【ゴミ】ほどにも、感ぜられてはいまいと思うと、美奈子はげしいさみしさで胸がみだされた。
 が、それよりも、もっと美奈子を寂しくしたことは、今迄いままで愛情の唯一ゆいいつどころとしていた母が、たとい一時ではあろうとも、自分よりも青年の方へ、親しんでいることだった。
 大船を汽車が出たとき、美奈子うにも、たまらなくなって、向う側の座席が空いたのを幸に、景色を見るような風をして、其処そこへ席を移した。
 母と青年との会話は、もう聞えて来なくなった。が、一度掻きみだされた胸は、たやすく元のようにはえなかった。
 彼女は、こうした苦しみを味わいながら、この先一月も過さねば ならぬか と思うと、どうにも堪らないように思われ出した。そうだ! 箱根へ着いて二三日したら、何か口実を見付けて自分丈け帰って来よう。美奈子は、小さい胸の中でそう決心した。
 丁度、そう考えていたときに、
美奈子さん! 一寸ちょっといらっしゃい!」
 と、母から何気なく呼ばれた。美奈子は淋しい心を、じっと抑えながら、元の座席へ帰って行った。顔だけには、強いて微笑びしょうを浮べながら。
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貴女あなた青木さんと、青山墓地で、会ったことがあるでしょう!」
 母は、美奈子すわるのを待ってそう言った。青年の顔を、チラリと見ると、彼もニコ/\笑っていた。美奈子は、何か秘密にしていたことを母に見付けられたかのように、顔を真赤にした。
貴女あなたは覚えていないの?」
 母は、美奈子をもっとドギマギさせるように言った。
「いゝえ! 覚えていますの。」
 美奈子周章あわててそう言った。
 美奈子は、青年が自分を覚えていてれたことが、何よりもうれしかった。
青木さんの妹さんが、よく貴女あなたを知っていらっしゃるのですって。ねえ! 青木さん。」
 夫人は賛成を求めるように、青木の方を振りかえった。
「そうです。たしか美奈子さんより二三年下なのですが、お顔なんかよく知っているのです。この間も『あれが荘田しょうださんのお嬢さんだ』と言うものですから一寸驚いたのです。僕の妹を御存じありませんか。」
 青年は、初めて親しそうに、美奈子に口をいた。
「はい、お顔だけは存じていますの。」
 美奈子は、口のうちつぶやくように答えた。が、青年から親しく口を利かれて見ると、美奈子の寂しく傷いていた心は、緩和薬バルサムをでも、塗られたようになごんでいた。今まで、恐ろしく寂しく考えられていた避暑地生活に、一道の微光が漂って来たように思われた。


     

 それから汽車が、国府津こうづへ着くまで、青年は美奈子に、幾度も言葉をかけた。平素いつも妹を相手にしていると見えて、その言葉には、女性――ことに年下の女性に対する親しみが、自然にこもっていた。青年の一言々々は、美奈子のこじれかかろうとした胸を春風のように、でさするのであった。美奈子は最初陥っていた不快な感情から、いつの間にか、救われていた。自分が、妙にひがんで、嫉妬しっとに似た感情を持っていたことを、はしたないとさえ思い始めていた。
 国府津こうづへ着いたとき、もう美奈子は、また元の処女おとめらしい、感情と表情とを取り返していた。
 国府津こうづのプラットフォームに降り立った時、瑠璃子は駆け寄った赤帽【手荷物運搬業者】の一人に、命令した。
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「あの、自動車を用意させておくれ!――そう、一台じゃ、窮屈だから――二台ね、宮の下まで行ってれるように。」
 赤帽が命を受けてけ去ったときだった。今まで他の赤帽を指図して手荷物を下させていた青年が驚いて瑠璃子の方を振り顧った。
「奥さん! 自動車ですか。」
 青年の語気は可なり真面目まじめだった。
「そうです。いけないのですか。」
 瑠璃子は、軽く揶揄やゆするように反問した。
「あんなにお願いしてあったのに聴いて下さらないのですか。」
 温和おとなしい青年は、可なり当惑したように、暗い表情をした。
 瑠璃子は、華やかに笑った。
「あら! まだ、あんなことを気にしていらっしゃるの。わたし貴君あなたが冗談に言って いらしったのか と思ったのですよ。兄さんが、自動車で死なれたからと言って、自動車をこわがるなんて、迷信じゃありませんか。男らしくもない。自動車が衝突しょうとつするなんて、一年に一度あるかないかの事件じゃありませんか。そんなことを恐れて、自動車に乗らないなんて。」
 夫人は、子供の臆病おくびょうをでもしっするように言った。
「でも、奥さん。」青年は、可なり懸命になって言った。「兄が、やっぱり国府津こうづから自動車に乗ってやられたのでしょう。それからまだ一月もっていないのです。殊に、今度箱根へ行くと言うと、父と母とが可なり止めるのです。で、やっと、説破せっぱして、自動車には乗らないと言う条件で、許しが出たのです。だから、奥さんにも、自動車には乗らないと言ってあれほど申上げて置いたじゃありませんか。」
「お父様やお母様が、そうした御心配をなさるのは、もっともと思いますわ。でも貴君あなたまでが、それに感化かぶれると言うことはないじゃありませんか。縁起などと、言う言葉は、現代人の辞書にはない字ですわね。」
「でも、奥さん! 肉親の者が、命をおとした殆ど同じ自動車に、まだ一月も経つか経たないかに乗ると言うことは、縁起だとか何とか言う問題以上ですね。貴女あなただって、もし近しい方が、自動車であゝした奇禍きか【思いがけない災難】においになると、屹度きっと自動車がお嫌いになりますよ。」
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「そうかしら。わたしは、そうは思いませんわ。だってお兄さんだってわたしには可なり近しい方だったのですもの。」
 そう言って夫人はさみしく笑った。
「でも、いゝじゃありませんか。わたしと一緒ですもの。それでもお嫌ですか。」
 そう言って、嫣然えんぜんと笑いながら、青年の顔をのぞき込む瑠璃子夫人の顔には、女王のような威厳と娼婦しょうふのようなこびとが、二つながら交っていた。
 瑠璃子の前には、小姓こしょうか何かのように、力のないらしい青年は、極度の当惑に口をつぐんだまま、そのひいでたまゆを、ふかくひそめていた。背丈こそ高く、容子こそ大人びているが、名門に育ったの青年が対人的にはホンの子供であることが、瑠璃子にも、マザ/\と分った。

ある三角関係


     

 そのうちに、美奈子みなこ達の一行は改札口を出ていた。駅前の広場には、赤帽が命じたらしい自動車が二台、美奈子達の一行を待っていた。
 青年は、瑠璃子るりこ夫人の力に、グイ/\引きずられながらも、自動車に乗ることは、可なり気が進んでいないらしかった。
 彼は哀願するように、オズ/\と夫人に言った。
うです? 奥さん。僕お願いなのですが、電車で行って下さることは出来ないでしょうか。兄の惨死ざんしの記憶が、僕にはまだマザ/\と残っているのです。兄を襲った運命が、肉親の僕に、何だか糸を引いているように、不吉な胸騒ぎがするのです。何だか、兄と同じ惨禍に僕が知らずらず近づいているような、不安な心持がするのです。」
 青年は、可なり一生懸命らしかった。が、瑠璃子は青年の哀願に耳を傾けるような容子も見せなかった。彼女は、意志の弱い男性を、グン/\自分の思い通に、引き回すことが、彼女の快楽かいらくの一つであるかのように言った。
「まあ! 貴君あなたのように、そうセンチメンタルになると、いやになってしまいますよ。わたしは運命だとか胸騒ぎだとか言うような言葉は、大嫌いですよ。わたしは徹底した物質主義者マテリアリストです。電車なんか、あんなに混んでいるじゃございませんか。
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さあ、乗りましょう。いゝじゃございませんの。自動車ががけからおっこちても、死なば諸共もろともですわ。貴君あなたわたしと一緒なら、死んでも本望じゃなくて? おほゝゝゝゝゝ。」
 夫人は、奔放にそう言い放つと、青年がう返事するかも待たないで、美奈子うながしながら、一台の自動車に、ズン/\乗ってしまった。
 の時の青年は、可なりみじめだった。瑠璃子夫人の前では、手も足も出ない青年の容子が、美奈子にも、可なりみじめに、むしろ気の毒に思われた。
 彼は、泣き出しそうなこわばった微笑を、強いて作りながら、美奈子達の後から乗った。
「そんなにクヨ/\なさるのなら、連れて行って上げませんよ。」
 夫人は、子供をでもしかるように、愛撫あいぶの微笑を目元にたたえながら言った。
 青年は、黙っていた。彼は、夫人の至上命令のため、むなく自動車に乗ったものの、内心の不安と苦痛と嫌悪けんおとは、その蒼白あおじろい顔にハッキリと現われていた。臆病おくびょうなどと言うことではなくして、兄の自動車での惨死が、善良な純な彼の心に、自動車に対する、ことに箱根の――唱歌にもあるけわしい山や、たにの間を縫う自動車に対する不安を、植え付けているのであった。
 美奈子は、心の中から青年が、気の毒だった。
 母が故意に、青年の心持に、逆らっていることが、可なり気の毒に思われた。
 自動車が、小田原の町を出はずれた時だった。美奈子は何気ないように言った。
「お母様。湯本から登山電車に乗って御覧にならない。この間の新聞に、日本には始めての登山電車で瑞西スイスの登山鉄道に乗っているような感じがするとか言って、出ていましたのよ。」
 美奈子には、優しい母だった。
「そうですね。でも、荷物なんかが邪魔じゃない?」
「荷物は、このまゝ自動車で届けさえすればいいわ。特等室へ乗れば自動車よりも、楽だと思いますわ。」
「そうね。じゃ、乗り換えて見ましょうか。青木さんは、無論御賛成でしょうね。」
 瑠璃子は、青年の顔を見て、皮肉に笑った。
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青年は、黙って苦笑した。が、チラリと美奈子の顔を見た眼には美奈子の少女らしい優しい好意に対する感謝の情が、歴々ありありと動いていた。


     

 富士屋ホテルの華麗な家庭部屋の一つのうちで、美奈子達の避暑地生活は始まった。
『暮したし木賀底倉に夏三月【木賀きが底倉そこくらで、夏の三か月を暮らしたい】』それは昔の人々の、夏の箱根に対する憧憬あこがれであった。関所はすたれ、街道には草蒸し、交通の要衝としての箱根には、昔の面影はなかったけれども、温泉いでゆ滾々こんこんとしていて尽きなかった。青葉におおわれた谿壑けいがく【深い谷】から吹き起る涼風は、昔ながらに水のごとき冷たさを帯びていた。
 ことに、美奈子達の占めた一室は、ホテルの建物の右の翼のはずれにあった。開け放たれた窓には、早川の対岸 明神岳【明神ヶ岳】 明星岳【明星ヶ岳】の翠微すいび【薄い緑色の山々】が、手に取るごとく迫っていた。東方、早川谿谷けいこく【渓谷】が、群峰の間にたゞ一筋、開かれている末はるかに、地平線に雲のいぬ晴れた日の折節おりふし【そのときどき】には、いぶした銀の如く、ほのかに、雲とも付かず空とも付かず、光っている相模灘さがみなだが見えた。
 設備の整ったホテル生活に、女中達が不用なため、東京へ帰してからは、美奈子達三人の生活は、もっと密接になった。
 美奈子は、最初青年に対して、口も碌々ろくろくけなかった。たゞ、折々母を介して簡単な二言三言を交えるだけだった。
 母が青年と話しているときには、よく自分一人その場を外して、縁側ヴェランダに出て、其処そこにある籐椅子とういす何時いつまでも何時までも、すわっていることが、多かった。
 又何かの拍子で、青年とたゞ二人、部屋の中に取り残されると、美奈子はまた、じっとしていることが出来なかった。青年の存在が、息苦しいほどに、身体全体に感ぜられた。
 そうした折にも、美奈子は、やっぱりそっと部屋を外して、縁側に出るのが常だった。とにかく、彼女の小さい胸は、やすらいとまもない水鳥の脚のように動いていた。
 彼女に一番楽しいのは、夕暮の散歩かも知れなかった。晩餐ばんさんが終ってから、美奈子は母と青年との三人で、よく散歩した。
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早川の断崖だんがいに添うた道を、底倉そこくらから木賀きがへ、時には宮城野みやぎのまで、岩にむせぶ早川の水声に、夏を忘れながら。
 箱根へ来てから、五日ばかりったある日の夕方だった。美奈子達が、晩餐が終ってから、食堂を出ようとしたとき、瑠璃子はふとその入口で、その日来たばかりの知合の仏蘭西フランス大使の令嬢と出会った。日本ずきの令嬢は、瑠璃子とは可なり親しい間柄だった。彼女は思いがけないところで、瑠璃子に会ったのを可なりよろこんだ。瑠璃子は誘われるまゝに、大使令嬢の部屋を訪ねて行った。
 美奈子と、青年とは部屋に帰ったものの、手持無沙汰ぶさたに、ボンヤリとして、暮れて行く夕暮の空に対していた。
 二人は、心の中では銘々に、瑠璃子の帰るのを待っていた。が、二十分経っても三十分経っても、瑠璃子は帰りそうにも見えなかった。
 青年は平素いつものように、散歩に出たいと見え、ステッキを持ったり、帽子を手にしたりしながら、瑠璃子の帰るのを待っているらしかった。が、瑠璃子却々なかなか帰って来なかった。
 青年はやゝ待ちあぐみかけた らしかった。彼はもう明るく電灯でんとういた部屋の中を、四五歩ずつ行ったり来たりしていたが、なかば独語のように美奈子に言った。
「お母様は、却々なかなかお帰りになりませんね。」
「はい。」
 窓にって輝き初めた星の光をボンヤリ見詰めていた美奈子は、低い声で聞えるか聞えないかのように答えた。青年は、自分一人で出て行きたいらしかったが、美奈子を一人ぼっちにして置くことが、気がとがめるらしかった。彼は、到頭とうとう言い憎くそうに言った。
美奈子さん。如何いかがです、一緒に散歩をなさいませんか。お母様をお待ちしていても、なかなかお帰りになりそうじゃありませんから。」
 青年は、口籠くちごもりながらそう言った。
「えゝっ!」
 美奈子は彼女自身の耳を疑っているかのように、つぶらなる目をみはった。
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 美奈子に取っては、青年から散歩に誘われたことが、可なり大きなおどろきであった。四五日一緒に生活して来たと言うものの、二人向い合っては、短い会話一つ交したことがなかった。
 その相手から、突然散歩に誘われたのであるから、彼女がおどろきの目をみはったまゝ、わく/\する胸を抑えたまゝ、何とも返事が出来なかったのも、無理ではなかった。
 青年は、美奈子の返事が遅いのを、彼女が内心当惑しているためだと思ったのであろう。彼は、自分の突然な申出の無躾ぶしつけさを恥じるように言った。
「いらっしゃいませんですか。じゃ、僕一人行って来ますから。僕は、日の暮方には、どうもへやの中にじっとしていられないのです。」
 青年は、弁解のように、そう言いながら室を出て行こうとした。
 美奈子は、胸の内で、青年の勧誘に、どれほど心を躍らしたか分らなかった。青年とたった二人切りで、散歩すると言うことが、彼女にとってどんなおどろきでありよろこびであっただろう。彼女は、おどろきの余りに、青年の初めの勧誘に、つい返事をし損じたのであった。彼女は、どんなに青年が、もう一度勧めてれるのを待ったであろう。もう一度、勧めてさえ呉れゝば、美奈子は心も空に、青年の後からいて行くのであったのだ。
 が、青年には美奈子の心は、分らなかった。彼には、美奈子が返事をしないのが、処女おとめらしい恥しさと後退しりごみのためだとより、思われなかった。彼は、最初から誘わなければよかったと思いながら、一寸ちょっと気まずい思いで、部屋を出た。
 青年が、部屋を出る後姿を見ると、美奈子は取返しの付かないことをしたように思った。もう再びとは、得がたい黄金のごとき機会を、永久に失うような心持がした。その上、青年の勧めに、返事さえしなかったことが、彼女の心をとがめ初めた。それにって、相手の心を少しでも傷けはしなかったかと思うと、彼女は立ってもすわっても、いられないような心持がし初めた。
 一二分、考えた末、彼女は到頭とうとうたまらなくなって部屋を出た。長い廊下を急ぎ足にけすぎた。ホテルの玄関で、草履ぞうり穿くと、夏の宵闇よいやみの戸外へ、走りでた。
 玄関前の広場にある噴水のほとりを、透して見たけれども、その人らしい影は見えなかった。彼女は、到頭とうとう宮の下の通に出た。
 青年の行く道は、分っていた。
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彼女は、胸を躍らしながら、底倉の方へと急いだ。
 温泉いでゆ町の夏の夕は、可なり人通が多かった。その人かと思って近づいて行くと、見知らない若い人であったりした。
 が、美奈子が宮の下のにぎやかな通を出はずれて、段々さみしいがけ上の道へ来かゝったとき、丁度道の左側にある理髪店の軒端のきばたたずみながら、若い衆が指している将棋を見ている青年の横顔を見付けたのである。
 青年に近づく前に、彼女の小さい胸は、どんなにふるえたか分らなかった。でも、彼女はありだけの勇気で、近づいて行った。
ここにいらっしたのですか。わたくしも、散歩にお伴いたしますわ。母は、帰りそうにもありませんですから。」
 彼女は、低い小さい声で、途切れ/\に言った。青年は、おどろいて彼女を振り返った。投げたつぶてが忘れた頃に激しい水音を立てたように、青年は自分の一寸ちょっとした勧誘が、少女の心を、こんなに動かしていることに、おどろいた。が、それは決して不快なおどろきではなかった。
「じゃ、お伴しましょうか。」
 そう言いながら、青年は歩き初めた。美奈子は二三尺も間隔を置きながら従った。夢のような幸福な感じが、彼女の胸にち満ちて、踏む足も地に付かないように思った。


     

 初め、連れ立ってから、半町ばかりの間、二人とも一言も、口をかなかった。初めて、若い男性、しかも心の奥深くおもっている若い男性とたゞ二人、歩いている美奈子の心には、散歩をしていると言ったような、のんきな心持は少しもなかった。胸が絶えず、わく/\して、息はおさえても/\弾むのであった。
 青年も、黙っていた。たゞ、黙ってグン/\歩いていた。二人は、散歩とは思われないほどの早さで、歩いていた。何処どこへ行くと言うあてもなしに。
 早川の谿谷けいこくの底はるかに、岩に激している水は、夕闇ゆうやみを透してほのじろく見えていた。その水からき上って来る涼気は、浴衣ゆかたを着ている美奈子には、肌寒く感ぜられるほどだった。
 青年が、何時いつまでも黙っているので、美奈子の心は、妙に不安になった。
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美奈子は自分が後を追って来たはしたなさを、相手が不愉快に思っているのではないかと、心配し始めた。自分が思い切って後を追って来たことが、軽率ではなかったかと、後悔し初めた。
 が、二人が丁度、底倉と木賀との間を流れている、蛇骨川じゃこつがわの橋の上まで、来たときに、青年は初めて口を利いた。立ち止って空を仰ぎながら、
「御覧なさい! 月が、出かゝっています。」
 そう言われて、今迄いままでうつむきがちに歩いて来た美奈子も、立ち止って空を振り仰いだ。
 早川の対岸に、空をくぎってそびえている、連山の輪郭りんかくを、ほの/″\とした月魄つきしろが、くっきりと浮き立たせているのであった。
 相模灘さがみなだを、渡って来た月の光が今丁度箱根の山々を、照し初めようとしている所だった。
「まあ! 綺麗きれいですこと。」
 美奈子もつい感嘆の声をもらした。
「旧の十六日ですね、きっと。いゝ月でしょう。空が、あんなによく晴れています。東京の、濁ったような空と比べるとうです。これが本当に緑玉エメラルドと言う空ですね。」
 青年は、心ゆくように【気が済むまで】空を見ながら言った。美奈子も、青年のひとみを追うて、大空を見た。夏の宵の箱根の空は、磨いたように澄み切っていた。
「本当に美しい空でございますこと。」
 美奈子も、しみ/″\とした気持でそう言った。丁度、今までかけられていた沈黙ののろいが解かれたように。
「やっぱり空気がいゝのですね。東京の空と違って、塵埃じんあい煤煙ばいえんがないのですね。」
「山の緑が映っているような空でございますこと。」
 美奈子も、つい気軽になってそう言った。
「そうです。本当に山の緑が映っているような空です。」
 青年は、美奈子の言った言葉をみしめるように繰り返した。
 二人は、またしばらく黙って歩いた。が、もう先刻のようなギゴチなさは、取り除かれていた。美しい自然に対する賛美さんびの心持が、二人の間の、心の垣を、ある程度まで取りけていた。美奈子は、青年ともっと親しい話が出来ると言う自信を得た。
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青年も、美奈子に対してある親しみを感じ初めたようだった。
 四五尺も離れて歩いていた二人は、何時の間にか、どちらからともなく寄添うて歩いていた。
 美奈子は、相手に話したいことが、山ほどもあるようで、しかもそれを考えにまとめようとすると、何も纏まらなかった。おしが、大切な機会にしゃべろうとするように、たゞいら/\あせり立っているばかりだった。
「そう/\、貴女あなたに申上げたいことがあったのです。つい、この間中から機会がなくて。」
 青年は、大切なことをでも、話すように言葉を改めた。動きやすい少女の心は、そんなことにまではげしく波立つのだった。


     

 相手がどんなことを言い出すのかと、美奈子は、胸を躍らしながら待っていた。
 青年は、一寸ちょっと言い憎そうに、口籠くちごもっていたが、やっと思い切ったように言った。
この間中から、お礼を申上げよう申上げようと思いながら、ついそのままになっていたのです。この間はどうも有難うございました。」
 夕闇ゆうやみに透いて見える彼の白い頬が、思いしか少し赤らんでいるように思われた。美奈子も相手から、思いがけもない感謝の言葉を受けて、我にもあらず、顔がほてるように熱くなった。彼女は、青年から礼を言われるような心覚えが、少しもなかったのである。
「まあ! 何でございますの! わたくし!」
 美奈子は、当惑の目をみはった。
「お忘れになったのですか。お忘れになっているとすれば、僕は愈々いよいよ感謝しなければならぬ必要があるのです。お忘れになりましたですか。来る道で僕があんなに自動車に乗ることをいやがったのを。はゝゝゝゝゝ。自分ながら、今から考えると、余り臆病おくびょうになり過ぎていたようです。お母様から後で散々冷かされたのも無理はありません。が、あの時は本当にこわかったのです。妙に気になってしまったのです。ベソをきそうな顔をしていたと、後でお母様に冷かされたのですが、本当にあの時は、そんな気持がしていたのです。それに、荘田しょうだ夫人と来ては、極端に意地がわるいのですからね。
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僕が恐がれば恐がるほど、しつこくいじめようとするのですからね。本当にあの時の、貴女あなたのお言葉は地獄に仏だったのです。はゝゝゝ。考えて見れば、僕も余り臆病すぎたな。とんだ所を貴女あなた方に見せてしまった!」
 青年は、冗談のように言いながらも、美奈子に対する感謝の心だけは、可なり真面目まじめであるらしかった。
「まあ! あんなことなんか。わたくし、本当に電車に乗りたかったのでございますわ。」
 美奈子は、顔を真赤にしながら、青年の言葉を打ち消した。が、心の中はこみ上げて来るうれしさで一杯だった。
「あの時、僕は本当に貴女あなたの態度に、感心したのです。あの時、露骨に僕の味方をして下さると、僕も恥しいし、お母様も意地になって、あゝうまくは行かなかったのでしょうが、貴女あなたの自然な無邪気な申出には、さすが荘田夫人も、ぐ賛成しましたからね。僕は、今まで荘田夫人を、女性の中で最も聡明そうめいな人だと思っていましたが、貴女あなたのあの時の態度を見て、世の中には荘田夫人の聡明さとは又別な本当に女性らしい聡明さを持った方があるのを知りました。」
「まあ! あんなことを。わたくしお恥かしゅうございますわ。」
 そう言って、美奈子は本当に浴衣ゆかたそでで顔をおおうた。処女おとめらしい嬌羞きょうしゅう【なまめかしい恥じらい】が、その身体全体にあふれていた。が、彼女の心は、憎からず思っている青年からの賛辞さんじを聴いて、張り裂けるばかりのよろこびで躍っていた。
 山のを離れた月は、の峡谷に添うている道へも、その朗かな光を投げていた。美奈子はつい二三尺離れて、月光の中ににおうている青年の白皙はくせき【色が白い】のかおを見ることが出来た。青年の黒いひとみが、時々自分の方へ向って輝くのを見た。
 二人は、もう一時間前の二人ではなかった。今まで、遠く離れていた二人の心は、今可なり強い速力で、相求め合っているのは確かだった。
 二人は、また黙ったまゝ、歩いた。が、前のような固くるしい沈黙ではなかった。黙っていても心持だけは通っていた。
「もっと歩いても、大丈夫ですか。」
 木賀を過ぎて宮城野みやぎの近くなったとき、青年は再び沈黙を破った。
「はい。」
 美奈子は、つつましく答えた。が、心のうちでは、『何処どこまでも/\』と言うつもりであったのだ。
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 木賀から、宮城野まで、六七町の間、早川の谿谷けいこくに沿うた道を歩いているうちに、二人はようやく打ち解けて、いろ/\な問をいたり訊かれたりした。
 美奈子処女おとめらしい無邪気なつつましやかさが、青年の心を可なり動かしたようだった。それと同時に青年の上品な素直な優しい態度が、美奈子の心に、深く/\喰い入ってしまった。
 宮城野の橋まで来ると、谿たには段々浅くなっている。橋下の水には水車が懸っていて、しろがねの月光を砕きながら、コト/\と回り続けていた。
 月は、もう可なり高くのぼっていた。水のように澄んだ光は、山や水や森や樹木を、しっとりぬらしていた。二人は、夏の夜の清浄しょうじょうな箱根に酔いながら、可なり長い間橋の欄干らんかんに寄り添いながら、たたずんでいた。
 美奈子の心の中には、青年に対する熱情が、刻一刻潮のように満ちわたって来るのだった。今までは、どんな男性に対しても感じたことのないような、信頼と愛慕との心が、胸一杯にヒシ/\とこみ上げて来るのだった。
 話は、何時いつの間にか、美奈子の一身の上にも及んでいた。美奈子到頭とうとう、兄の悲しい状態まで話してしまった。
「そう/\、そんなうわさは、薄々聴いていましたが、お兄さんがそんなじゃ、貴女あなたには本当の肉親と言ったようなものは、一人もないのと同じですね。」
 青年は悵然ちょうぜんとして【失意の状態で嘆いて】そう言った。心の中の同情が、言葉の端々にあふれていた。そう言われると、美奈子も、自分の寂しい孤独の身の上が顧みられて、涙ぐましくなる心持を、抑えることが出来なかった。
「母が、本当によくしてれますの。実の母のように、実の姉のように、本当によくして呉れますの。でも、やっぱり本当の兄か姉かが一人あれば、どんなに頼もしいか分らないと思いますの。」
 美奈子は、つい誰にも言わなかった本心を言ってしまった。
御尤ごもっともです。」青年は可なり感動したように答えた。「僕なども、兄弟の愛などは、今までそんなに感じなかったのですが、兄を不慮に失ってから、肉親と言うものの尊さが、分ったように思うのです。でも、貴女あなたなんか……」そう言って、青年は一寸ちょっと言いよどんだが、
「今に御結婚でもなされば、今のような寂しさは、自然無くなるだろうと思います。」
「あら、あんなことを、結婚なんて、まだ考えて見たこともございませんわ。」
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 美奈子は、恥かしそうに周章あわてて打ち消した。
「じゃ、当分御結婚はなさらない訳ですね。」
 青年は、何故なぜだか執拗しつように再びそう訊いた。
「まだ、本当に考えて見たこともございませんの。」
 美奈子は、益々ますます狼狽ろうばいしながらも、ハッキリと口では、打ち消した。が、青年がうしてそうした問題を繰り返して訊くのかと思うと、彼女の顔は焼けるように熱くなった。胸が何とも言えず、わくわくした。彼女は、相手がうして自分の結婚をそんなに気にするのか分らなかった。が、彼女がある原因を想像したとき、彼女の頭は狂うように熱した。
 彼女は、熱にでも浮されたように、平生の慎みも忘れて言った。
「結婚なんて申しましても、わたくしのようなものと、わたくしのような、何の取りどころもないようなものと。」
 彼女の声は、恥かしさにふるえていた。彼女の身体も恥かしさにふるえていた。


     

 美奈子の声は、恥かしさに打ちふるえていたけれども、青年は可なり落着いていた。余裕よゆうのある声だった。
貴女あなたなんかが、そんな謙遜けんそんをなさっては困りますね。貴女あなたのような方が結婚の資格がないとすれば、誰が、どんな女性が結婚の資格があるでしょう。貴女あなたほど――そう貴女あなたほどの……」
 そう言いかけて、青年は口をつぐんでしまった。が、口の中では、美奈子つつましさや美しさに対する賛美さんびの言葉を、つぶしたのに違いなかった。
 美奈子は、青年がの次に、何を言い出すかと言う期待で、身体全体が焼けるようであった。心が波濤はとうのように動揺した。小説で読んだ若い男女の恋のラヴシーンが、熱病患者の見る幻覚のように、頭の中にしきりに浮んで来た。
 が、美奈子のもしやと言う期待を裏切るように、青年は黙っていた。月の光に透いて見える白い頬が、やゝ興奮しているようには見えるけれども、美奈子の半分も熱していないことは明かだった。
 美奈子も裏切られたように、かすかな失望を感じながら、黙ってしまった。
 沈黙が五分ばかりも続いた。
「もう、そろ/\帰りましょうか。まるで秋のような冷気を感じますね。着物が、しっとりして来たような気がします。」
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 青年は、そう言いながら欄干らんかんを離れた。青年の態度は、平生の通りだった。優しいけれども、冷静だった。
 美奈子は夢から覚めたように、続いて欄干らんかんを離れた。自分だけが、興奮したことが、はずかしくてたまらなかった。自分の独合点ひとりがてんの興奮を、相手が気付かなかったかと思うと、恥しさで地の中へでも隠れたいような気がした。
 が、丁度二三町も帰りかけたときだった。青年は思い出したようにいた。
「お母様は何時いつまで、あゝして未亡人でいらっしゃるのでしょうか。」
 青年の問は、美奈子が何と答えてよいか分らないほど、唐突だしぬけだった。彼女は、一寸ちょっと答に窮した。
「いや、実はこんなうわさがあるのです。荘田夫人は、本当はまだ処女おとめなのだ。そして、将来は屹度きっと再婚せられる。屹度きっと再婚せられる。僕の死んだ兄などは、夫人の口から直接聴いたらしいのです。が、世間にはいろ/\な噂があるものですから、貴女あなたにでも伺って見れば本当の事が分りゃしないかと思ったのです。」
わたくし、ちっとも存じませんわ。」
 美奈子はそう答えるより外はなかった。
「こんなことを言っている者もあるのです。夫人が結婚しないのは、荘田家の令嬢に対して母としての責任を尽したいからなのだ。だから、令嬢が結婚すれば、夫人も当然再婚せられるだろう。こう言っている者もあるのです。」
 青年は、ホンの噂話のようにそう言った。が、青年の言葉を、かみしめているうちに、美奈子は傍の渓間たにまへでも突落されたようなはげしい打撃を感ぜずにはいられなかった。
 青年が、自分の結婚のことなどを、訊いた原因が、今ハッキリと分った。自分の結婚などは、青年にはどうでもよかったのだ。
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たゞ、自分が結婚した後に起るはずの、母の再婚を確めるために、自分の結婚を、口にしたのに過ぎないのだ。それとは知らずに、興奮した自分が、はずかしくて恥しくて堪らなかった。彼女の処女おとめらしい興奮と羞恥しゅうちとは、物の見事に裏切られてしまったのだ。
 彼女は、照っている月が、たちまち暗くなってしまったようなおもいがした。青年と並んで歩くことが堪らなかった。彼女の幸福の夢は、たちまちにして恐ろしい悪夢と変じていた。
 彼女はそれでも、砕かれた心をやっとまとめながら返事だけした。
わたくし、母のことはちっとも存じませんわ。」
 彼女の低い声には、綿々たるうらみこもっていた。

夜の密語


     

 青年との散歩が、悲しい幻滅げんめつに終ってから、避暑地生活は、美奈子みなこに取って、喰わねばならぬ苦い苦いにらになった。
 開きかけたつぼみが、そうだ! 周囲の暖かさを信じて開きかけた蕾が、周囲から裏切られて思いがけない寒気にったように、傷つきやすい少女の心は、深い/\傷を負ってしまった。
 それでも、温和おとなしい彼女は、東京へ一人で帰るとは言わなかった。自分ばかり、何の理由も示さずに、先きへ帰ることなどは、温和おとなしい彼女には思いも及ばないことだった。
 彼女はとどまって、そうして忍ぶべく決心した。彼女の苦しいつらい境遇にえようと決心した。
 青年の心が、美奈子にハッキリとわかってからは、彼女は同じ部屋に住みながら、自分一人いつも片隅にかくれるような生活をした。
 青年と母とが、向い合っているときなどは、彼女は、そっと席を外した。その人から、おもわれていない以上、せめてその人の恋の邪魔になるまいと思う、美奈子の心は悲しかった。
 そう気が付いて見ると、青年の母に対するひとみが、日一日輝きを増して来るのが、美奈子にもありありわかった。母の一顰一笑いっぴんいっしょうに、青年がよろこんだり悲しんだりすることが、美奈子にもありありと判った。
 が、それが判れば判るほど、美奈子は悲しかった。寂しかった。苦しかった。
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 一人の男に、二人の女、あるいは一人の女に、二人の男、恋愛にける三角関係の悲劇は、昔から今まで、数限りもなく、人生に演ぜられたかも判らない。が、瑠璃子るりこと青年と美奈子との三人が作る三角関係では、美奈子だけが一番苦しかった。可憐かれんな優しい美奈子だけが苦しんでいた。
「美奈さん! うかしたのじゃないの?」
 美奈子が、黙ったまゝ、露台バルコニー欄干らんかんに、長く長くっているときなど、母は心配そうに、やさしくたずねた。が、そんなとき、
「いゝえ! どうもしないの。」
 寂しく笑いながら答える、小さい胸の内に、堪えられない、苦しみがあることは、明敏な瑠璃子にさえ判らなかった。
 青年も、美奈子が、――一度あんなに彼に親しくした美奈子が、またてのひらかえすように、急に再び疎々うとうとしくなったことが、彼の責任であることに、彼も気が付いていなかった。
 夕暮の楽しみにしていた散歩にも、もう美奈子は楽しんでは、行かなかった。少くとも、青年は美奈子が同行することを、いやがってはいないまでも、決してよろこんではいないだろうと思うと、彼女はいつも二の足を踏んだ。が、そんなとき、母はどうしても、美奈子一人残しては行かなかった。彼女が二度も断ると母は屹度きっと言った。
「じゃ、妾達わたしたちも行くのをしましょうね。」
 そう言われると、美奈子も不承々々に、承諾した。
「まあ! そんなに、おっしゃるのなら参りますわ。」
 美奈子口丈くちだけは機嫌よく言って、重い/\鉛のような心を、持ちながら、母の後から、いて行くのだった。
 が、ある晩、それは丁度箱根へ来てから、半月もった頃だが、美奈子の心は、何時いつになく滅入めいってしまっていた。
 母が、どんなに言っても、美奈子は一緒に出る気にはならなかった。その上、平素いつもは、青年も口先だけでは、母と一緒に勧めてれるのが、その晩に限って、たった一言も勧めて呉れなかった。
わたくし、今夜はお友達に手紙を書こうと思っていますの。」
 美奈子は、到頭とうとうそんな口実を考えた。
「まあ! 手紙なんか、明日の朝書くといゝわ。ね、いらっしゃい。
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二人だけじゃつまらないのですもの! ねえ、青木さん!」
 そう言われて、青年は不服そうに肯いた。青年のそうした表情を見ると、美奈子うしても断ろうと決心した。


     

「でも、わたくし、今晩だけは失礼させて、いたゞきますわ。一人でゆっくり、お手紙をかきたいと思いますの。」
 美奈子が、可なり思い切って、断るのを見ると、母は さまでとは【そこまでとは】、言い兼ねたらしかった。
「じゃ、美奈さんを残して置きましょうか。」
 母は青年に相談するように言った。
 そう聴いた青年のかおに、ある喜悦きえつの表情が、浮んでいるのが、美奈子は気が付かずにはいられなかった。その表情が、美奈子の心を、むごたらしく傷けてしまった。
「じゃ、美奈さん! 一寸ちょっと行って来ますわ。寂しくない?」
 母は、平素いつものように、優しい母だった。
「いゝえ、大丈夫ですわ。」
 口丈くちだけは、元気らしく答えたが、彼女の心には、口とは丸切り反対に、大きい大きい寂しさが、暗い翼をひろげて、一杯にわだかまっていたのだ。
 母と青年との姿が、廊下のはずれに消えたとき、ドアの所に立って見送っていた美奈子は、自分の部屋へけ込むと、床に崩れるように、うずくまって、安楽椅子いす蒲団クションに顔を埋めたまゝ、しばらくは顔を上げなかった。熱い/\涙が、止め度もなく流れた。自分けが、この世の中に、生き甲斐がいのないみじめな人間のように、思われた。誰からも見捨てられたと言ったような寂しさが、心の隅々をき乱した。
 友達にでも、手紙を書けば、少しでも寂しさがまぎらせるかと思って、机の前にすわって見たけれどもまとまった文句は、一行だって、ペンの先には、出て来なかった。母と青年とが、いつもの散歩みちを、寄り添いながら、親しそうに歩いている姿だけが、頭の中にこびり付いて離れなかった。
 その中に、寂しさと、彼女自身には気が付いていなかったが、人間の心に免れがたい嫉妬しっととが、彼女を立っても坐っても、いられないように、さいなみ初めていた。彼女は、高い山の頂きにでも立って、思うさま泣きたかった。彼女は、到頭とうとうじっとしては いられないような、いら/\した気持になっていた。彼女は、フラ/\と自分の部屋を出た。
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あてもなしに、戸外に出たかった。暗い道を何処どこまでも何処までも、歩いて行きたいような心持になっていた。が、母に対して、散歩に出ないと言った以上、ホテルの外へ出ることは出来なかった。彼女は、ふとホテルの裏庭へ、出て見ようと思った。其処そこは可なり広い庭園で、昼ならば、はるか相模灘さがみなだを見渡す美しい眺望ちょうぼうを持っていた。
 美奈子が、廊下から、そっとその庭へ降り立ったとき、西洋人の夫妻が、腕を組合いながら、芝生の小路を、逍遥しょうよう【散歩】している外は、人影は更に見えなかった。
 美奈子は、ホテルの部屋々々からの灯影ほかげで、明るく照し出された明るい方を避けて出来るだけ、庭の奥のやみの方へと進んでいた。
 樹木の茂ったかげにある椅子ベンチを、探し当てゝ、美奈子は腰を降した。
 部屋々々の窓かられる灯影も、ここまでは届いて来なかった。周囲は人里離れた山林のように、静かだった。止宿している西洋の婦人の手すさび【手遊び】らしい、ヴァイオリンの弾奏が、ほのかにほのかに聞えて来る外は、人声も聞えて来なかった。
 闇の中に、たった一人坐っていると、いら/\した、寂しみも、だん/\落着いて来るように思った。ことにヴァイオリンのほのかな音が、彼女のきずついた胸を、でるように、かすかにかすかに聞えて来るのだった。それに、耳を澄している中に、彼女の心持は、だん/\和らいで行った。
 母が帰らない中に、早く帰っていなければならぬと思いながらも、美奈子は腰を上げかねた。三十分、四十分、一時間近くも、美奈子は、其処そこに坐り続けていた。その時、彼女は、ふと近づいて来る人の足音を聴いたのである。


     

 美奈子は、最初その足音をあまり気にかけなかった。先刻さっきちらりと見た西洋人の夫妻たちが通り過ぎているのだろうと思った。
 が、その足音は不思議に、だん/\近づいて来た。二言三言、話声さえ聞えて来た。それはまさしく、外国語でなく日本語であった。しかも、何だか聞きなれたような声だった。彼女は『オヤ!』と思いながら、振り返ってやみの中をすかして見た。
 闇の中に、人影が動いた。
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一人でなく二人連だった。二人とも、白い浴衣ゆかたを着ているために、闇の中でも、割合ハッキリと見えた。美奈子は、じっと二人が近よって来るのを見詰めていた。十秒、二十秒、そのうちにそれが何人なんぴとであるかが分ると、彼女は全身に、水を浴びせられたように、ゾッとなった。それは、夜の目にも紛れなく青年と母の瑠璃子るりことであったからである。しかも、二人は、彼等が恋人同志であることを、明かに示すように、身体が触れ合わんばかりに、寄り添うて歩いているのである。闇の中で、しかとは判らないが、母の左の手と、青年の右の手とが、堅く握り合せられているように、美奈子には感ぜられた。
 美奈子は、恐ろしいものを見たように、身体がゾク/\とふるえた。彼女は、地が口を開いて、自分の身体をのまゝんでれゝばいゝとさえ思った。悲鳴を揚げながら、逃げ出したいような気持だった。が、身体を動かすと母達に気付かれはしないかと思うと、彼女は、動くことさえ出来なかった。彼女は、そのまゝ椅子にこおり付いたように、身体を小さくしながら、息を潜めて、母達が行き過ぎるのを待っていようと思った。が、あゝそれが何と言う悪魔の悪戯いたずらだろう! 母達は、だん/\美奈子のいる方へ歩み寄って来るのであった。彼女の心は当惑のために張り裂けるようだった。母と青年とが、し自分を見付けたらと思うと、彼女の身体全体は、益々ますますふるえ立って来た。
 が、母と青年とは、闇の中の樹蔭こかげ椅子ベンチに、美奈子がたった一人うずくまっていようとは、夢にも思わないと見え、美奈子のいる方へ、益々近づいて来た。美奈子は、絶体絶命だった。母達が気の付かない内に、自分の方から声をかけようと思ったが、声が咽喉のどにからんでしまって、うしても出て来なかった。が、美奈子の当惑が、最後の所まで行った時だった。今まで、美奈子の方へ真直まっすぐに進んで来ていた母達は、つと右の方へ外れたかと思うと、其処そこに茂っている樹木の向う側に、樹木を隔てゝ美奈子とは、背中合せの椅子に、腰を下してしまった。
 美奈子は、苦しい境遇から、一歩を逃れてホッと一息した。
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が、またぐ、母と青年とが、話し初める会話を、うしても立聞かねば ならぬか と思うと、彼女はまた新しい当惑にちていた。彼女は母と青年とが、話し初めることを聞きたくなかった。それは、彼女にとって余りに恐ろしいことだった。ことに、母と青年とが、ああまで寄り添うて歩いているところを見ると、それが世間並の話でないことは、余りに判りすぎた。彼女は、自分の母の秘密を知りたくなかった。今まで、信頼し愛している母の秘密を知りたくなかった。美奈子は、自分の眼が直ぐ盲になり、耳が直ぐろうすることを、どれほど望んでいたか判らなかった。若し、それが出来なければ、一目散に逃げたかった。若し、それも出来なかったら、両手で二つの耳を堅く/\おおうていたかった。
 が、彼女がどんなに聴くことを、いやがっても、聞えて来るものは、聞えて来ずには、いなかったのである。夜の静かなる闇には、彼等の話声を妨げる少しの物音もなかったのである。


     

 夜は静だった。母と青年との話声は、二間ばかり隔っていたけれども、手に取るごとく美奈子の耳――その話声を、毒のように嫌っている美奈子の耳に、ハッキリと聞えて来た。
みのるさん! 一体何なの? 改まって、話したいことがあるなんて、わたしをわざ/\こんな暗いところへ連れて来て?」
 そう言っている母の言葉や、アクセントは、平生いつもの母とは思えないほど、下卑げびていて娼婦しょうふか何かのようになまめかしかった。しかも、美奈子のいるところでは、一度も呼んだことのない青年の名を、馴々なれなれしく呼んでいるのだった。こうした母の言葉を聞いたとき、美奈子の心は、とどめの一太刀ひとたちを受けたと言ってもよかった。今まで、あんなに信頼していた母にまで裏切られた寂しさと不快とが、彼女の心を滅茶々々めちゃめちゃに引き裂いた。
 瑠璃子に、そう言われても、青年は却々なかなか話し出そうとはしなかった。沈黙が、二三分間彼等の間に在った。
 母は、もどかしげに青年を促した。
「早く、おっしゃいよ! 何をそんなに考えていらっしゃるの。早く帰らないといけませんわ。美奈子が、さみしがっているのですもの。
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歩きながらでは、話せないなんて、一体どんな話なの! 早く言って御覧なさい! まあ、自烈じれったい人ですこと。」
 美奈子は、自分の名を呼ばれて、ヒヤリとした。それと同時に、母の言葉が、蓮葉はすは【下品】に乱暴なのを聴いて、益々ますます心が暗くなった。
 青年は、それでも却々なかなか話し出そうとはしなかった。が、母の気持が可なり浮いているのにも拘わらず、青年が一生懸命であることが、美奈子にも、それとなく感ぜられた。
「さあ! 早くおっしゃいよ。一体何の話なの?」
 母は、子供をでも、すかすように、なまめいた口調で、三度みたび催促さいそくした。
「じゃ、申上げますが、いつものように、はぐらかして下さっては困りますよ。僕は真面目まじめで申しあげるのです。」
 青年の口調は、可なり重々しい口調だった。一生懸命な態度が、美奈子にさえ、アリ/\と感ぜられた。
「まあ! 憎らしい。わたしが、何時いつ貴君あなたを、はぐらかしたのです。いやさんだこと。何時だって、貴方あなたのおっしゃることは、真面目で聴いているではありませんか。」
 そう言っている母の言葉に、娼婦のような技巧があることが、美奈子にも感ぜられた。
貴女あなたは、何時もそうなのです。貴女あなたは、何時も僕にそうした態度しか見せて下さらないのです。僕が一生懸命に言うことを、何時もそんな風にはぐらかしてしまうのです。」
 青年は、恨みがましくそう言った。
「まあ、そんなに怒らなくってもいゝわ。じゃ、わたし貴君あなたの好きなように、聴いて上げるから言って御覧なさい!」
 母は、子供をあやつるように言った。
 母の態度は、心にもない立聞たちぎきをしている美奈子にさえ恥しかった。
 青年は、また黙ってしまった。
「さあ! 早くおっしゃいよ。わたしこんなに待っているのよ。」
 母が、青年の頬近く口を寄せて、うながしている有様が、美奈子にもぐ感ぜられた。
瑠璃子さん! 貴女あなたには、僕の今申し上げようと思っていることが、大抵おわかりになってはいませんか。」
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 青年は、到頭とうとう必死な声でそう言った。美奈子は、予期したものを、到頭とうとう聴いたように思うと、今までの緊張がゆるむのと同時に、暗い絶望の気持が、心のうち一杯になった。それでも彼女は母が、一体どう答えるかと、じっと耳を澄していた。


     

 瑠璃子は青年をじらすように、落着いた言葉で言った。
わかっているかって? 何がです。」
 ある空々しさが、美奈子にさえ感ぜられた。瑠璃子の言葉を聴くと、青年は、可なり激してしまった。はげしい熱情が、彼の言葉を、ふるわした。
「お解りになりませんか。お解りにならないと言うのですか。僕の心持、僕の貴女あなたに対する心持が、僕が貴女あなたをこんなに慕っている心持が。」
 青年は、もどかしげに、叫ぶように言うのだった。陰で聞いている美奈子は、胸を発矢はっしと打たれたように思った。青年の本当の心持ちが、自分が心ひそかに思っていた青年の心が、母の方へ向っていることを知ると、彼女は死刑囚が、その最後の判決を聴いた時のように、身体も心も、ブル/\ふるえるのを、抑えることが出来なかった。が、母が青年の言葉に何と答えるかが、彼女には、もっと大事なことだった。彼女は、砕かれた胸を抑えて、母が何と言い出すかを、一心に耳を澄せていた。
 が、母は容易に返事をしなかった。母が、返事をしない内に、青年の方がき立ってしまった。
「お解りになりませんか。僕の心持が、お解りにならない筈はないと思うのですが、僕がどんなに貴女あなたを思っているか。貴女あなたのためには、何物をも犠牲にしようと思っている僕の心持を。」
 青年は、必死に母に迫っているらしかった。ふるえる声が、変に途切れて、傍聞わきぎきしている美奈子までが、胸に迫るような声だった。
 が、母は平素いつものように落着いた声で言った。
「解っていますわ。」
 母の冷静な答に、青年が満足していないことは明かだった。
「解っています。そうです、貴女あなた何時いつでも、そう言われるのです。
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僕が、何時か貴女あなたに申上げたときにも、貴女あなたは解っているとおっしゃったのです。が、貴女あなたが解っていると仰しゃるのと、解っていないと仰しゃるのと、何処どこが違うのです。恐らく、貴女あなたは、貴女あなたの周囲に集まっている多くの男性に、皆一様に『解っている』『解っている』と仰しゃっているのではありませんか。『解っている』程度のお返事なら、お返事していたゞかなくても、同じ事です。解っているのなら、本当に解っているように、していたゞきたいと思うのです。」
 青年が、一句一語に、興奮して行く有様が、目を閉じて、じっと聴きすましている美奈子にさえ、アリ/\と感ぜられた。
 が、母は、何と言う冷静さだろうと美奈子でさえ、青年の言葉を、陰で聴いている美奈子でさえ、胸が裂けるような息苦しさを感じているのに、面と向って聴いている当人の母は、息一つはずませてもいないのだった。青年が、興奮すればするほど、興奮して行く有様を、じっと楽しんででもいるかのように、落着いている母だった。
「解っているようにするなんて? うすればいゝの?」
 言葉だけはなまめかしく馴々なれなれしかった。
 母の取りすました言葉を、聴くと、青年は火のように激してしまった。
うすればいゝの? なんて、そんなことを、貴女あなたは僕にお聞きになるのですか。」青年は、恨めし気に言った。「貴女あなたは僕を、最初から、僕を玩具おもちゃにしていらっしゃるのですか。僕の感情を、最初からもてあそんでいらっしゃるのですか。僕が折に触れ、事に臨んで、貴女あなたに申上げたことを、貴女あなたは何と聴いていらっしゃるのです。」
 青年の若い熱情が――、恋の炎が、今烈々とほとばしっているのであった。


     

 青年が、段々激して来るのを、聴いていると、美奈子はもうの上、隠れて聴いているのが、たまらなかった。
 彼女の小さい胸は、いろ/\なはげしい感情で、張り裂けるように一杯だった。青年の心を知ったための大きい絶望もあった、が、それと同時に、青年のはげしい恋に対する優しい同情もあった。母の不誠意な、薄情な態度を悲しむ心も交っていた。どの一つの感情でも、彼女の心を底からくつがえすのに十分だった。
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 その上、他人の秘密、他人ひとの一生懸命な秘密を、ぬすみ聴きしていることが、一番彼女の心を苦しめた。彼女は、もう一刻も、すわっていることが出来なかった。その椅子ベンチが針のむしろか、何かでもあるように、幾度も腰を上げようとした。が、距離は、わずかに二間位しかない。草を踏む音でも聞えるかも知れない。ことに樹木のかげを離れると、如何いかなるはずみで母達の眼に触れるかも知れない。母達が、自分がいたことに気が付いたときの、おどろきと当惑とを思うと、美奈子の立ち上ろうとする足は、そのまゝすくんでしまうのだった。
 美奈子が、退きならぬ境遇に苦しんでいることを、夢にも知らない瑠璃子は、前のように落着いた声で静に言った。
「だから、わかっていると言っているのじゃないの。貴君あなたのお心は、よく解っていると言っているのじゃないの。」
 青年の声は、前よりももっと迫っていた。
「本当ですか。本当ですか。本心でそうおっしゃっているのですか。まさか、口先だけで言っていらっしゃるのじゃありますまいね。」
 青年が、そうき詰めても母は、黙っていた。青年は、愈々いよいよあせった。
「本心ならば、証拠を見せて下さい。貴女あなたのお言葉けは、もう幾度聴いたか分らない。貴女あなたは、それと同じような言葉を、僕に幾度繰返したか分らない。僕は言葉だけではなく、証拠を見せてもらいたいのです。本心ならば、本心らしい証拠を見せていたゞきたいのです。」
 青年が、あせっても激しても、動かない母だった。
「証拠なんて! わたくしの言葉を信じて下さらなければ、それまでよ。お女郎じゃあるまいし、まさか、起請きしょうを書くわけにも行かないじゃないの。」
 母の貴婦人レディらしからぬ言葉遣いが、美奈子の心をいたましめた。
「証拠と言って、品物を下さいと言うのじゃありません。
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僕が、先日言ったことに、ハッキリと返事をしていたゞきたいのです。たゞ『待っていろ』ばかりじゃ僕はもう堪らないのです。」
「先日言ったことって、何?」
 母は、相手を益々ますますじらすように、しかもなまめかしい口調で言った。
「あれを、お忘れになったのですか、貴女あなたは?」
 青年は憤然ふんぜんとしたらしかった。
「あんな重大なことを、僕があんなに一生懸命にお願いしたのを、貴女あなたはもう忘れて、いらっしゃるのですか。じゃ、繰り返してもう一度、申上げましょう。瑠璃子さん、貴女あなたは僕と結婚して下さいませんか。」
 結婚と言う思いがけない言葉を聴くと、美奈子は、最後の打撃を受けたように思った。青年の母に対する決心が、これほど堅く進んでいようとは夢にも思っていないことだった。
「あのお話! あれには貴君あなた、ハッキリとお答えしてあるじゃないの。」
 母は、青年の必死な言葉を軽く受け流すように答えた。
「あのお答えには、もう満足出来なくなったのです。」
 母のハッキリした答えと言うのは、どんな内容だろうと思うと、美奈子は悪い/\と思いながらじっと耳を澄まさずにはいられなかった。


     

「あんなお答には、僕はもう満足出来なくなったのです。あんな生ぬるいお答には、もう満足出来なくなったのです。貴女あなたは、美奈子さんが、結婚してしまうまで、この返事は待ってれとおっしゃる。が、貴女あなたのお心だけをおめになるのなら、美奈子さんの結婚などは、何の関係もないことではありませんか。僕に約束をして下さって、たゞ、時期を待てと仰しゃるのなら僕は何時いつまでも待ちます。五年でも十年でも、二十年でも、いな生涯しょうがい待ち続けても僕は悔いないつもりです。貴女あなたのはたゞ『返事を待て』と仰しゃるのです、お返事だけならば、美奈子さんが結婚しようがしまいが、それとは少しも関係なしに、貴女あなたのお心一つで、うともお定めになることが、出来ることじゃありませんか。僕に約束さえして下されば、僕はよろこんで五年でも七年でも待っている積りです。」
 青年の声は、だん/\低くなって来た。が、その声に含まれている熱情は、だん/\高くなって行くらしかった。しんみりとした調子の中に、人の心に触れる力がこもっていた。
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自分の名が、青年の口に上る度に、美奈子は胸をとゞろかせながら、息をひそめて聞いていた。
 母が何とも答えないので、青年は又言葉を続けた。
「返事を待て、返事を待って呉れと、仰しゃる。が、その返事がいゝ返事に定まっていれば、五年七年でも待ちます。が、もし五年も七年も待って、その返事が悪い返事だったら、一体うなるのです。僕は青春の感情を、貴女あなたに散々もてあそばれて、揚句あげくはてに、突き離されることになるのじゃありませんか。貴女あなたは、僕をちらとも付かない迷いのうちに、釣って置いて、何時までも何時までも、僕の感情をもてあそぼうとするのではありませんか。僕は、貴女あなたのなさることから考えると、そう思うより外はないのです。」
「まさか、わたしそんな悪人ではないわ。貴君あなたのお心は、十分お受けしているのよ。でも、結婚となるとわたし考えるわ。一度あゝ言う恐ろしい結婚をしているのでしょう。わたし結婚となると、何か恐ろしいふちの前にでも立っているようで、足がすくんでしまうのです。無論、美奈子が結婚してしまえば、わたしの責任は無くなってしまうのよ。結婚しようと思えば、出来ないことはないわ。が、その時になって、本当に結婚したいと思うか、したくないか、今のわたしには分らないのよ。」
 母は、初めて本心の一部を打ち明けたように言った。
「が、それは貴女あなたの結婚に対するお考えです。僕がきたいと思うのは、僕に対する貴女あなたのお考えです。貴女あなたが結婚するかしないかよりも、貴女あなたが僕と結婚するかしないかが、僕には大問題なのです。言葉を換えて言えば、僕を、結婚してもいゝと思うほど、愛していて下さるかうかが、僕には大問題なのです。」
 青年の言葉は、一句々々一生懸命だった。
「つまり、こう言うことをお尋ねしたのです。貴女あなたが、もし、将来結婚なさらないで終るのなら、是非もないことです。が、もし結婚なさるならば、何人なんぴといても、僕と結婚して下さるかどうかを訊いているのです。時期などは、何時でもいゝ、五年後でも、十年後でも、介意かまわないのです、たゞ、貴女あなたが結婚しようと決心なさったときに、夫として僕を選んで下さるかうかをおたずねしているのです。」
 青年の静かな言葉のうちには、彼の熾烈しれつな恋が、火花を発していると言ってもよかった。
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 事理じり【道理】のとおった退引のっぴきならぬ青年の問に、母が何と答えるか、美奈子は胸をふるわしながら待っていた。
 母は、しばらく返事をしなかった。夜は、もう十時に近かった。やゝ欠けた月が、箱根の山々に、青白い夢のような光を落していた。

約束の夜に


     

「そのお返事は、出来ないことはないと思うのです。いなか応か、どちらかの返事をして下さればいゝのです。貴女あなたが、今まで僕に示して下さったいろ/\な愛の表情に、たゞ裏書をさえして下さればいゝのです。貴女あなたの将来のお心をいているのではないのです。現在の、貴女あなたのお心を訊いているのです。現在の、貴女あなた自身のお心が、貴女あなたに分らないはずはないと思うのです。たゞ、現在の貴女あなたのお心をハッキリお返事して下さればいゝのです。将来、結婚と言う問題が貴女あなたのお考えのうちに起ったときには、僕を夫として選ぼうと現在思っているかどうかを訊かしていたゞきたいのです。」
 青年の問には、ハッキリとした条理が立っていた。詭弁きべんろうしがちな瑠璃子るりこにも、もう言い逃れるすべは、ないように見えた。
わたし貴君あなたを愛していることは愛しているわ。わたしが、この間中から言っていることは、決してうそではないわ。が、貴君あなたを愛していると言うことは、必ずしも貴君あなたと結婚したいと言うことを意味していないわ。けれど、貴君あなたに、結婚したいと言う希望が、本当におありになるのなら、わたしは又別に考えて見たいと思うの。」
 瑠璃子の、少しも熱しない返事を訊くと、青年は又激してしまった。
「考えて見るなんて、貴女あなたのそう言うお返事はもう沢山です。『考えて見る』『わかっている』そう言う一時逃れのお返事には、もうあき/\しました。僕は、全かしくは無を欲するのです。徹底的なお返事が欲しいのです。貴女あなたが、若し『否』とおっしゃれば、僕も男です。失恋の苦しみと男らしく戦って、貴女あなたに決して未練がましいことは言わないつもりです、僕は貴女あなたに、承諾しょうだくしてれとは言わないのです。
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どちらでも、ハッキリとしたお返事が欲しいのです。こんな中途半端はんぱな気持のうちに、いつまでも苦しんでいたくないのです。僕は、貴女あなたの全部をつかみたいのです。でなければ僕はむしろ、貴女あなたの全部を失いたいのです、恋は暴君です、相手の占有を望んでまないのです。」
 青年は、男らしく強くは言っているものの、彼が瑠璃子に対して、どんなに微弱であるかは、そのふるえている語気で明かに分った。
「一体考えて見るなんて、何時いつまで考えて御覧になるのです。五六年も考えて見るおつもりなのですか。」
 青年は、うらみがましくやゝ皮肉らしく、そう言った。
「いゝえ。明後日まで。」
 瑠璃子の答は、一生懸命に突っ掛って来た相手を、軽く外したような意地悪さと軽快さとを持っていた。
 青年は、手軽く外されたために、ムッとして黙ったらしかったが、しかし、答そのものは、手答があるので、彼はしばらくしてから、口を開いた。
「明後日! 本当に明後日までですか。」
「嘘は言いませんわ。」
 瑠璃子の返事は、殊勝だった【しっかりしていた】。
「じゃ、そのお返事は何時聴けるのです。」
 青年の言葉に、やっとうれしそうな響きがあった。
「明後日の晩ですわ。」
 瑠璃子の本心は知らず、言葉けにはある誠意があった。
「明後日の晩、やっぱり二人切りで、散歩に出て下さいますか。貴女あなたは、何時でも、美奈子みなこさんをお誘いになる。美奈子さんが、進まれない時でも、貴女あなた美奈子さんを、いろ/\すすめてお連れになる。僕がどんなに貴女あなたと二人切の時間を持ちたいと思っている時でも、貴女あなた美奈子さんを無理にお勧めになるのですもの。」
 聴いている美奈子は、もう立つ瀬がなかった。彼女の頬には、涙がほろ/\と流れ出した。


     

 美奈子さんを連れ過ぎると、青年が母に対して恨んでいるのを聴くと、もう美奈子は、一刻も辛抱が出来なかった。口惜しさと、うらめしさと、絶望との涙が、止めどもなく頬を伝って流れ落ちた。
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自分が、心ひそかにおもいを寄せていた青年から、邪魔物扱いされていたことは、彼女の魂をにじってしまうのに、十分だった。もう一刻も、とどまっていることは出来なかった。逃げ出すために、母達に、見付けられようが、見付けられまいが、もうそんなことは問題ではなかった。そんなことは、もう気にならないほど、彼女の心は狂っていた。彼女は、どんなことがあろうとも、もう一秒も止まっていることは出来なかった。
 彼女は、それでも物音を立てないように、そっと椅子から、立ち上った。立ち上った刹那せつな【瞬間】から、脚がわな/\とふるえた。一歩踏み出そうとすると、全身の血が、ことごとく逆流を初めたように、身体がフラ/\とした。倒れようとするのをやっと支えた。最後の力を、振い起した。わなゝく足を支えて、芝生の上を、静に/\踏み占め、椅子から、十間ばかり離れた。彼女は、そこまでは、うように、身体を沈ませながら辿たどったが、其処そこに茂っている、夜の目には何とも付かない若い樹木の疎林そりんへまで、辿り付くと、もう最後の辛抱をし尽したように、疎林の中を縫うように、母達のいる位置を、遠回りしながら、ホテルの建物の方へと足を早めた。いなけ始めた。恐ろしい悪夢から逃げるように。恐ろしい罪と恥とから逃げるように。彼女は、すべてを忘れて、若い牝鹿めじかのように、逃げた。
 夢中に、庭園を馳けぬけ、夢中に階段を馳け上り、夢中に廊下を走って、自分の寝室へ馳け込むと彼女は寝台へ身体を瓦破がばと投げ付けたまゝ、泣き伏した。
 涙は、幾何いくら流れても尽きなかった。悲しみは、幾何泣いても、薄らがなかった。
 すべては失われた。すべては、彼女の心から奪われた。新しく得ようとした恋人と一緒に、古くから持っていたたゞ一人の母を。彼女の愛情生活の唯一ゆいいつの相手であった母を。
 春の花園のように、光と愛と美しさとに、ちていた美奈子の心は、あらしのために、吹き荒されて、跡には荒寥こうりょうたる暗黒と悲哀ひあいの外は、何も残っていなかった。
 恋人から、邪魔物扱いされていることが、悲しかった。
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が、それと同じに、母が――あれほど、自分には優しく、清浄しょうじょうである母が、男に対して、娼婦しょうふのように、なまめかしく、不誠実であることが、一番悲しかった。自分の頼み切った母が、夜そっと眼を覚して見ると、自分の傍には、いないで、有明の行灯あんどん【の油】をめているのを発見した古い怪譚かいだん【昔からある典型的な怪談】の中の少女のように、美奈子の心は、あさましいおどろきで一杯だった。
 自分に、優しい母を考えると、彼女は母を恨むことは出来なかった。が、あさましかった。恥かしかった。恨めしかった。
 母と青年とから、逃れて来たものの、美奈子は本当に逃れているのではなかった。山中で、怪物に会って、馳け込んだ家が、丁度怪物の棲家すみかであるように、母と青年とから逃れて来ても、彼等は相つづいて、同じの部屋に帰って来るのだった。
 そう思うと、いっそ美奈子は、の部屋から逃げ出したかった。遠く/\何人なんぴとにも見出みいだされない、山の中へ入って、の悲しみを何時いつまでも何時までも泣き明したかった。いな、少くともこのけでも、母と青年との顔を見たくなかった。母と青年とが、並んで帰って来るのを見たくなかった。いな、青年から邪魔物扱いされている以上、もう部屋に止まりたくなかった。が、の部屋を離れて、いな母を離れて、彼女は一人何処どこへ行くところがあろう。たゞ一人、すがり付く由縁よすがとした母を離れて何処いずこへ行くところがあろう。そう思うと、美奈子の頭には、死んだ父母の面影が、アリ/\と浮んで来た。


     

 死んだ父母の面影が、浮んで来ると、美奈子なつかしさで、胸がピッタリと閉された。
 今の彼女の悲しみと、苦しみを、でさすってれる者は、死んだ父母の外には、広い世の中に誰一人ないように思われた。
 そう思うと、き父が、あの強いかいなを差し伸べて、自分を招いていて呉れるように思われた。その手は世の人々には、どんなに薄情に働いたかも知れないが、自分に対しては限りない慈愛が含まれていた。美奈子は、父の腕が、恋しかった。父の、その強い腕に抱かれたかった。
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そう思うと、自分一人世の中に取り残されて、悲しく情ない目に会っていることが、味気あじきなかった。
 が、それよりも、彼女はこの部屋にとどまっていて、母と青年とが、何知らぬ顔をして、帰って来るのを迎えるのにえなかった。何処どこでもいゝ、山でもいゝ、海でもいゝ、母と青年とのいないところへ逃れたかった。彼女は、泣き伏していた顔を、上げた。フラ/\と寝台を離れた。浴衣ゆかたを脱いで、明石縮あかしちぢみ単衣ひとえに換えた。手提てさげを取り上げた。彼女の小さい心は、今狂っていた。もう何の思慮も、分別も残っていなかった。たゞ、突き詰めた一途いちず少女心おとめごころが、張り切っていただけである。
 彼女が、着物を着換えてしまう間、幸に母と青年とは帰って来なかった。
 彼女は、部屋をけ出そうとしたとき、咄嗟とっさに兄のことを考えた。兄は、白痴の身を、監禁同様に葉山の別荘に閉じ込められている。が、他の世間の人々に対しては、愚かなあさましい兄であるが、その愚かさのうちにも、肉親に対する愛だけは、残っている。彼女は、彼女が時々兄をおとなうときに、兄がどんなにうれしそうな表情をするかを、覚えている。縦令たとい、自分の現在の苦しみや、悲しみを理解し得る兄ではないにしろ、兄の愚かな、しかしながら純な態度は、屹度きっと自分を慰めて呉れるに違ない。少くとも、あの愚かな兄だけは、何時いつ行っても屹度きっと、自分に、あの人のよい、愚かしいが然しきよい親愛の情を表して呉れるに違ない。そう思うと、美奈子は急に、兄に会いたくなった。夜は十時に近かったがまだ湯本行の電車はあるように思った。もし、横須賀よこすか行の汽車に間に合わなかったら、国府津こうづか小田原かで、一泊してもいゝとさえ思った。
 部屋のドアを、そっと開けて、彼女は廊下をうかがった。西洋人の少年少女が二人連れ立って、自分の部屋へ、帰って行くらしいのを除いた外には人影はなかった。
 彼女は、廊下を左へ取った。その廊下を突き当って左へ降りると、ホテルの玄関を通らないで、広場へ出ることを知っていた。
 彼女は、廊下を馳け過ぎた。
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階段を、一気に馳け降りた。そして、階段の突き当りにある、扉を押し開いて、夜の戸外へ、走り出ようとした。
 が、その扉を押し開いた刹那せつな【瞬間】であった。
「おや!」戸外に、叫ぶ声がした。戸外からも、扉を開けようとした人が、思わず内部から開いたので、おどろいて発した声だった。美奈子は、ぐ、そう叫んだ人と、顔を面して立たなければならなかった。それは、正しく母だった。母の後に、寄り添うように立っているのは、もとよりの青年だった。
「美奈さんじゃないの!」
 母は、可なりおどろいていた。狼狽ろうばいしていたと言ってもよかった。美奈子は、全身の血が、凍ってしまったように、じっと身体を縮ませながら、立っていた。
うしたの? こんなに遅く?」
 青年との会話には、あんな冷静を保っていた母が、別人ではないかと思うほど、色を変えていた。
 美奈子が、黙っていると、母は益々ますます気遣わしげに言った。
一体何うしたの、こんなに遅く、着物を着換えて、手提なんか持って。」


     

 母に問い詰められて、美奈子は、ようやくその重い唇を開いた。
「あの、手紙を出しに、郵便局まで行こうと思っていましたの。」
 彼女は、生れて最初のうそを、ついてしまった。彼女の、あおふるいを帯びた顔色を見れば、誰が彼女が郵便局へ行くことを、信ずることが出来よう。
「郵便局!」瑠璃子は、反射的にそう繰返したが、その美しいまゆは、深い憂慮のために、暗くなってしまった。「こんなに遅く郵便局へ!」
 瑠璃子は、つぶやくように言った。が、それは美奈子とがめていると言うよりも、自分自身を咎めているような声だった。
 母子おやこの間に、しばらくは沈黙が在った。美奈子は、たゞ黙って立っている外は、うすることも出来なかった。
「郵便局! 郵便局なら、僕が行って来て上げましょう。」
 母の後に立っていた青年は、の沈黙を救おうとしてそう言った。
 美奈子は、一寸ちょっと狼狽ろうばいした。託すべき手紙などは持っていなかったからである。
「いゝえ。結構でございますの。」
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 美奈子は、平素いつもに似ず、きっぱりと答えた。その拒絶には、彼女の、芽にして、にじられた恋の千万無量の恨が、こもっていたと言ってもよかった。
 聡明そうめい瑠璃子には、美奈子の心持が、可なりわかったらしかった。彼女は、涙がにじんではいぬかと思われるほどの、やさしいひとみで、美奈子を、じっと見詰めながら言った。
「ねえ! 美奈さん。今晩は、よしてれない。もう十時ですもの、あした早く入れに行くといゝわ。ねえ美奈さん! いゝでしょう。」
 彼女は、美奈子を抱きしめるように、おおいながら、耳許みみもと近く、子供でもすかすように言った。
 平素いつもなら、母の一言半句にも背かない美奈子であるが、その夜の彼女の心は、妙にこじれていた。彼女は、黙って返事をしなかった。
うしても、行くのなら、わたしも一緒に行くわ。青木さんは、部屋で待っていて下さいね。ねえ! 美奈さん、それでいいでしょう。」
 そう言いながら、瑠璃子は早くも、先に立って歩もうとした。
 美奈子は、一寸ちょっと進退に窮した。母と一緒に郵便局へ行っても、出すべき手紙がなかった。それかと言って、今まで黙っていながら、今更行くことをよすとも、言い出しかねた。
 そのうちに、青年はの場を避けることが、彼にとって、一番適当なことだと思ったのだろう。何の挨拶あいさつもしないで、建物の中へ入ると、階段を勢よくけ上ってしまった。
 母一人になると、美奈子の張り詰めていた心は、ゆるんでしまって、新しい涙が、頬を伝い出したかと思うと、どんなに止めようとしても止まらなかった。到頭とうとう、しく/\と声を立てゝしまった。
 美奈子が泣き始めるのを見ると、瑠璃子は、心からおどろいたらしかった。美奈子の身体を抱えながら叫ぶように言った。
「美奈さん! うしたの、一体何うしたの。何が悲しいの。貴女あなた一人残して置いて済まなかったわ。御免なさいね、御免なさいね。」
 青年に対しては、あれほど冷静であった母が、本当に二十前後の若い女に帰ったように、狼狽うろたえているのであった。
貴女あなた、泣いたりなんかしたら、いやですわ。
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今迄いままで貴女あなたの泣き顔は、一度だって、見たことがないのですもの。わたし貴女あなたの泣き顔を見るのが、何よりもつらいわ。一体何うしたの。わたしが、悪かったのなら、どんなにでもあやまるわ。ねえ、後生だから、訳を言って下さいね。」
 そう言っている母の声に、はげしい愛と熱情とが、籠っていることを、疑うことは出来なかった。


     

 その夜は、美奈子も強いて争いかねて、重い足を返しながら、部屋へ帰って来た。
 翌日になると、夜が明けるのを待ち兼ねていたように、美奈子は母に言った。
「お母様、わたし葉山へ行って来ようかと思っているの。兄さんにも、随分会わないから、どんな容子だか、わたし見て来たいと思うの。」
 が、母は許さなかった。美奈子の容子が、何となく気にかゝっているらしかった。
「もう二三日してから行って下さいね。それだと、わたしも一緒に行くかも知れないわ。箱根もわたし何だかき/\して来たから。」
 その日一杯、平素いつもは快活な瑠璃子は、妙に沈んでしまっていた。青年には、口一つかなかった。美奈子にも、用事の外は、ほとんど口を利かなかった。たゞ一人、縁側ヴェランダにある籐椅子とういすに、腰を降しながら、一時間も二時間も、石のように黙っていた。
 瑠璃子の態度が、ぐ青年に反射していた。瑠璃子から、口一つ利かれない青年は、所在なさ【手持ち無沙汰】そうに、主人から嫌われた犬のように、部屋の中をウロ/\歩いていた。彼のオド/\した眼は、燃ゆるような熱を帯びながら、瑠璃子の上に、注がれていた。美奈子は、青年の容子に、抑え切れぬ嫉妬しっとを感じながらも、しかし何となく気の毒であった。犬のように、母を追うている、母の一挙一動に悲しんだりよろこんだりする青年の容子が、気の毒であった。
 その日は、事もなく暮れた。平素いつものように、夕方の散歩にも行かなかった。食堂から帰って来ると三人は気まずく三十分ばかり向い合っていた後に、銘々自分の寝室に、まだ九時にもならない内に、退いてしまった。
 あくる日が来ても、瑠璃子の容子は前日と少しも変らなかった。
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美奈子には、時々優しい言葉をかけたけれども、青年には一言も言わなかった。青年の顔に、絶望の色が、段々濃くなって行った。彼の眼は、うらめしげに光り初めた。
 到頭とうとう、夜が来た。瑠璃子と青年との間に、交された約束の夜が来た。
 美奈子は、夜が近づくに従って、青年が自分の存在を、どんなにのろっているかも知れないと思うと部屋にいることが、うにも苦痛になって来た。
 晩餐ばんさんの食堂から、帰るときに、美奈子は、そっと母達から離れて、自分一人ホテルの図書室へでも行こうと思った。そうすれば、青年は彼の希望通り、母とたった二人りで、散歩に行くことが出来るだろう。母も、自分に何の気兼なしに青年とたった二人、散歩に出ることが出来るだろう。
 美奈子は、そう思いながら、そっと母達から離れる機会を待っていた。が、母は故意にやっていると思われるほど、美奈子から眼を離さなかった。美奈子は、仕方なしに、一緒に部屋へ帰って来た。
 部屋に帰ってから、しばらくの間、瑠璃子は黙っていた。五分十分つに連れて、青年がじり/\し初めたことが、美奈子の眼にも、ハッキリとわかった。しかも、青年がいら/\していることが、自分がいるためであると思うと、美奈子うにも、辛抱しんぼうが出来なかった。自分が、青年の大事な/\機会の邪魔をしていると思うと、美奈子うにも、辛抱が出来なかった。
わたくし、お母様、図書室へ行って来ますわ。一寸ちょっと本が読みたくなりましたから。」
 美奈子は、そう言って、母の返事をも待たず、つか/\と部屋を出ようとした。
 母は、おどろいたように呼び止めた。
「図書室へ行くのなんか およしなさいね。昨夕ゆうべは出なかったから、今日は散歩に出ようじゃありませんか。」
 美奈子は、一寸ちょっとおどろいて足を止めた。ふと気が付くと、青年の顔ははげしい怒りのために、黒くなっていた。


     

 美奈子は、母の真意をはかりかねた。
 母も、確に青年とたった二人きり、散歩する約束をしたはずである。そして、あの大切な返事を青年に与える約束をした筈である。
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それだのに、なぜ自分を呼び止めるのであろう。そうした機会を、彼等に与えようとして、席を外そうとする、自分を呼び止めるとは。
「えゝっ!」美奈子は、つい返事とも、おどろきとも何とも付かぬ言葉を出してしまった。
「ねえ! 図書室なんか、明日いらっしゃればいゝのに。今夜は強羅ごうら公園へ行こうと思うの。ねえ! いゝでしょう。」
 母はいつもよりも、もっと熱心に美奈子に勧めた。
「でも。」
 美奈子は、躊躇ちゅうちょした。彼女は、そうためらいながらも、青年の顔を見ずにはいられなかったのである。彼は、部屋の一隅の籐椅子とういすに腰を下していたが、その白い顔は、はげしい憤怒ふんぬのために、充血していた。彼は、爛々らんらんたるひとみを、恨めしげに母の上に投げていたのである。美奈子は、そうした青年の容子を見ることが、心苦しかった。彼女は、青年のために、心の動転どうてんしている青年のためにも、母の勧めに、おいそれと従うことは出来なかった。
「いゝじゃありませんの。図書室なんか、今晩に限ったことはないのでしょう。ねえ! いらっしゃい。わたしお願いしますから。」
 母は、余儀ない【避けられない】ように言った。そう言われゝば、美奈子は、同行を強いて断るほどの口実は何もなかった。たゞ彼女には、自分を極力同行せしめようとする母の真意が、うしても分らなかった。
「ねえ! 青木さん! 美奈さんと、三人でなければ面白くありませんわねえ。二人きりじゃさみしいし張合がありませんわねえ!」
 母は、青年に同意を求めた。
 何もかも知っている美奈子は、母のやり方が、恐ろしかった。青年が、嫌いだと言うものを、グン/\咽喉のどに押し込むような、母の意地の悪い逆な態度が、恐ろしかった。美奈子は、ハラ/\した。青年が、母の言葉を、う取るかと思うと、ハラ/\せずにはいられなかった。青年は、果してカッとなったらしかった。それかと言って、美奈子の前では、何の抗議を言うことも出来ないらしかった。
「僕! 僕! 僕は、今日は散歩に行きたくありません。失礼します、失礼します。」
 それが、青年の精一杯の反抗であった。青年の顔は、今蒼白そうはくに変じ、彼の言葉は、激高げきこうのために、ふるえた。
何故なぜ?」
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瑠璃子詰問きつもんするように言った。
「何故いらっしゃらない。だって、貴君あなた先刻さっき食堂で、今夜は強羅まで行こうとおっしゃったのじゃないの。今になって、よそうなんて、それじゃ故意に、わたくし達の感情を害しようとなさっているのだわ。」
 青年は、唇をブル/\ふるわした。が、美奈子の前では、彼は一言も、本当の抗議は言えなかった。
貴女あなたは約束と違うじゃありませんか。なぜ、美奈子さんをお連れになるのです。』それが、青年の心に、沸々ふつふつき立っている言い分であった。が、それを、うして美奈子の前で口にすることが出来るだろう。
 青年の、籐椅子の腕に置いている手が、わなわなふるえるのが、美奈子は、先刻から気が付いていた。
 母の皮肉な逆な態度が、どんなに青年の心をしいたげているかが、美奈子にもよくわかった。美奈子は、もう一度、青年を救ってやりたいと思った。
わたくしやっぱり、図書室へ参りますわ。今日急に、お関所の歴史が知りたくなりましたの。」


     

「お関所の歴史なんか、今夜じゃなくてもいゝじゃないの。」
 瑠璃子は、美奈子が、再度図書室へ行こうと言うのを聴くと、少しじれたように、そう言った。
うしてわたしと一緒に行くのが、お嫌いなの。美奈さんも、青木さんも、今夜に限ってうしてそんなに煮え切らないの。」
 瑠璃子は、青年の火のような憤怒ふんぬも、美奈子苦衷くちゅう【苦しい心の中】も、何も分らないように、平然と言った。
「ねえ! 美奈さん、お願いだから行って下さいね。貴女あなたが、行きたがらないものだから、青木さんまでが、出渋るのですわ。ねえ! そうでしょう、青木さん!」
 弱いうさぎを、苛責いじめる牝豹めひょうか何かのように、瑠璃子何処どこまでも、皮肉に逆に逆に出るのであった。美奈子は、青年の顔を見るのにえなかった。青年がどんなに怒っているか、また美奈子がいるために、その怒を少しももらすことが出来ない苦しさを察すると、美奈子は気の毒で、顔を背けずにはいられなかった。
 瑠璃子には、青年の憤怒ふんぬなどは、眼中にないようだった。それでも、しばらくしてから、青年をなだめるように言った。
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「さあ! 三人で機嫌よく行こうじゃありませんか。ねえ! 青木さん。何をそんなに、気にかけていらっしゃるの。」
 そう、可なり優しく言ってから、彼女は意味ありげに附け加えた。
わたしこの間中から、考えていることがあって、くさ/\してしまったの。散歩でもして、気を晴らしてから、もっとよく考えて見たいと思うの。」
 それは、暗に青年に対する言い訳のようであった。まだ、十分に考えがまとまっていないこと、従って今夜の返事を待ってれと言う意味が、言外に含まれているようだった。
 それを聴くと、青年の怒りは幾分、解けたらしかった。彼は不承々々に椅子いすから、腰を離した。
 美奈子も、やっと安心した。やっぱり、母は、真面目まじめに、この二三日口もかずに、青年の申出を、考えたに違いない。それが、到頭とうとう纏りが付かないために、返事の延期を、青年にそれとなく求めたに違いない。それを、青年が不承々々ではあるが、承諾した以上、今夜の約束は延ばされたのだ。そう思うと、自分が母達に同伴することが、必ずしも青年の恋の機会の邪魔をすることではないと思うと彼女はようやく同伴する気になった。
 三人は、それ/″\に、いつもよりは、少しく身拵みごしらえを丁寧にした。
きと帰りは、電車にしましょうね。歩くと大変だから。」
 瑠璃子は、そう言いながら、一番に部屋を出た。青年も美奈子も、黙ってそれに続いた。
 三人が、ホテルの玄関に出て、ボーイに送られながら、その階段を降りようとしたときだった。暮れなやむ夏の夕暮のまだほの明るいやみを、煌々こうこうたる頭光ヘッドライトで、照し分けながら、一台の自動車が、はげしい勢でけ込んで来た。
 美奈子は、塔の沢か湯本あたりから、上って来た外人客であろうと思ったので、あまり注意もしなかった。
 が、美奈子と一緒に歩いていた母は、自動車の中から、立ち現われた人を見ると、急に立ちすくんだように目をみはった。いつもは、冷然と澄している母の態度に、明かな狼狽ろうばいが見えていた。夕暗の中ではあったが、美しい眼が、異様に光っているのが、美奈子にも気が付いた。
 美奈子も、おどろいて相手を見た。
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母をこんなにおどろかせる相手は、一体何だろうかと思いながら。

一条の光


     

 相手は、まだ三十になるかならない紳士だった。金縁の眼鏡が、その色白のかおに光っていた。純白な背広が、可なりよく似合っていた。彼は一人ではなかった。ぐその後から、丸顔の可愛かわいい二十ばかりの夫人らしい女が、自動車から降りた。
 美奈子みなこは、夫婦とも全然見覚えがなかった。
 瑠璃子るりこが、相手の顔を見ると、ハッとおどろいたように、紳士も瑠璃子の顔を見ると、ハッと顔色を変えながら、立竦たちすくんでしまった。
 紳士と瑠璃子とは、互に敵意のある眼付を交しながら、十秒二十秒三十秒ばかり、相対して立っていた。それでも、紳士の方は、挨拶あいさつしようかしまいかと、一寸ちょっと躊躇ためらっているらしかったが、瑠璃子が黙って顔を背けてしまうと、それに対抗するように、また黙って顔を背けてしまった。
 が、瑠璃子から顔を背けた相手は、彼女の右に立っている青年の顔を見ずにはいなかった。青年の顔を見たときに、紳士の顔は、前よりも、もっと動揺した。彼のおどろきは、前よりも、もっとはげしかった。彼は、声こそ出さなかったが、ほとんど叫び出しでもするような表情をした。
 彼は、狼狽あわてたように瑠璃子の顔を見直した。再び青年の顔を見た。そして、青年の顔と瑠璃子の顔とを見比べると、何かけがらわしいものをでも見たような表情をしながら、妻をうながして、足早に階段を上ってしまった。
 美奈子は、何だかその不知人ストレンジャーが、気になったが、母にくことが、悪いように思って、うしても口に出せなかった。すると、ホテルの門を出た頃に、先刻から黙っていた青年が初めて瑠璃子に口をいた。
「一体今の人は誰です。御存じじゃありませんか。」
「いゝえ! ちっとも、心当りのない方ですわ。でも、可笑おかしな人ですわね。妾達わたしたちを、じっと見詰めたりなんかして。」
 瑠璃子は、何気なく言ったらしかった。
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が、声が平素いつものように、澄んだ自信のち満ちた声ではなかった。
「そうですか、御存じないのですか。でも、先方は、僕達のことをよく知っているようですねえ。」
 青年は、不審いぶかしげにそう言った。が、瑠璃子は、聞えないように返事をしなかった。
 三人は、底気味の悪い沈黙を、お互の間にかもしながら、宮の下の停留場から、強羅ごうら行の電車に乗った。
 が、電車に乗っても、三人は散歩に行くと言ったような気持は少しもなかった。美奈子は、人身御供ひとみごくうにでもなったような心持で、たゞ母の意志に従っていると言うのに過ぎなかった。
 青年は、無論最初から滅入めいっていた。大事な返事を体よく延ばされたことが、彼にとっては、何よりの打撃であったのだ。彼が楽しんでいるはずはなかった。
 瑠璃子も、最初は二人を促して、散歩に出たのであったが、玄関で紳士にってからは、隠し切れぬ暗いかげが、彼女の美しい顔の何処どこかにひそんでいるようだった。
 夜の箱根の緑のやみを、明るい頭光ヘッドライトを照しながら、電車は静かな山腹の空気をふるわして、轟々ごうごうと走りつゞけたかと思うと直ぐ終点の強羅に着いていた。
 電車を去ってから、可なり勾配こうばいの急な坂を二三町上ると、もう強羅公園の表門に来た。
 電車が、強羅まで開通してからは、急に別荘の数が増し、今年の避暑客は可なり多いらしかった。
 公園の表門の突き当りにある西洋料理店レストランの窓から、明るい光がれ、玉を突いているらしい避暑客の高笑いが、絶え間なく聞えていた。
 夜の公園にも、涼を求めているらしい人影が、彼方かなたにも此方こなたにもチラホラ見えた。


     

 三人は、西洋料理店の左から、コンクリートで堅めた水泳場の傍を通って、段々上の方に登って行った。
 公園は、山の傾斜に作られた洋風の庭園であった。箱根の山の大自然の中に、ここばかり一寸ちょっと人間が細工をしたと言ったような、こましゃくれた、しかし、嫌味いやみのない小公園だった。
 園の中央には、山上から引いたらしい水が、噴水となってほとばしって、肌寒いほどの涼味を放っていた。
 三人は、黙ったまゝ園内を、彼方此方あちらこちらと歩いた。誰も口をかなかった。皆が、舌を封ぜられたかのように、黙々としてたゞ歩き回っていた。
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 三人が、少し歩き疲れて、片陰の大きいならの下の自然石じねんせきの上に、腰を降した時だった。先刻から一言も、口を利かなかった瑠璃子が、突然青年に向って話し出した。しかも可なり真剣な声で。
青木さん! この間のお話ね。」
 青年は、瑠璃子が何を言っているのか、丸切り見当が付かないらしかった。
「えっ! えっ!」彼は可なり狼狽ろうばいしたように焦っていた。
この間のお話ね。」
 瑠璃子は、再びそう繰り返した。彼女の言葉には、鋼鉄のような冷たさと堅さがあった。
この間の話?」
 青年は、如何いかにもに落ちないと言ったように、首をかしげた。
 丁度その時、美奈子は母と青年との真中にすわっていた。自分を、中央にして、自分を隔てゝ母と青年とが、何だかわだかまりのある話をし始めたので、彼女は可なり当惑した。が、彼女にも母が、一体何を話し出すのか皆目見当が付かなかった。
「お忘れになったの。先夜のお話ですよ。」
 瑠璃子の声は、冗談などを少しも意味していないように真面目まじめだった。
「先夜って、何時いつのことです。」青年の声が、だん/\緊張した。
「お忘れになったの? 一昨日おとといの晩のことですよ。」
 青年が色を変えておどろいたことが、美奈子にもハッキリと感ぜられた。美奈子でさえ、あまりのおどろきのために、胸がつぶれてしまった。母は、果して一昨日の夜のことを、美奈子の前で話そうとしているのかしら、そう思っただけで、美奈子の心はおののいた。
「一昨日の晩!」青年の声は、必死であった。彼は一生懸命の努力で続けて言った。
「一昨日の晩? 何か特別に貴女あなたとお話をしたでしょうか。」
 必死に、逃路にげみちを求めているような青年の様子が、可なり悲惨ひさんだった。美奈子は、他人事ならず、胸が張り裂けるばかりに、母が何と言い出すかと待っていた。
「お忘れになったの。」
 瑠璃子は、静に冷たく言った。
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冗談を言っているのでもなければ、揶揄からかっているのでもなければ、じらしているのでもなかった。彼女も、今夜は別人のように真面目であった。
「忘れる? 一昨日の晩!」青年は首を傾げる様子をした。が、彼の態度は如何にも苦しそうであった。「僕には、ちっともわかりません。一昨日の晩、僕が何か申上げたでしょうか。」
 青年の声は、わな/\とふるえた。彼はその言葉を、瑠璃子に投げ付けるように言った。
 が、その投げ付けたつもりの言葉のうちに、みじめな哀願の調子が、アリ/\と響いていた。
 青年の哀願の調子をね付けるように、瑠璃子の言葉は、冷たく無情だった。
「一昨日の晩のお話のお返事を、わたし今夜致そうと思いますの。」
 風が、少し出たせいだろう、冷たい噴水の飛沫ひまつが三人の上に降りかゝって来た。


     

 瑠璃子の言葉は、これから判決文を読み上げようとする裁判長の言葉のように、峻厳しゅんげんであった。
 青年は瑠璃子の言葉を聴くと、もう黙ってはいられなかった。『抜く抜く』と言う冗談が、本当の白刃になったように、彼はもうそれを真正面から受止める外はなかった。
「奥さん、貴女あなたは何をおっしゃるのです。貴女あなたは、お約束をお忘れになったのですか。あれほど僕がお願いしたお約束をお忘れになったのですか。」
 美奈子が、真中にいることも、もうスッカリ忘れたように、青年は我を忘れて激高げきこうした。興奮にき立った温かい呼吸いきが、美奈子の冷い頬に、吐き付けられた。
「お約束? お約束を忘れないからこそ、今夜お返事すると言っているのじゃありませんか。」
「何! 何! 何と仰しゃるのです。」
 青年はスックと立ち上った。もう美奈子を隔てゝ、話をするほどの余裕よゆうもなくなったのであろう、彼は、激しく瑠璃子の前に詰めよった。
 美奈子は、浅ましい恐ろしい物を見たように、かおを伏せてしまった。
「奥さん! 貴女あなたは、貴女あなたは何を仰しゃるのです。僕! 僕! 僕が、一昨夜申上げたこと、あのお返事を今、なさろうとするのですか。あの、あのお返事を!」
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 激しい興奮のために、彼の身体はふるえ、彼の声は裂け、彼の言葉は咽喉のどにからんで、容易には出て来なかった。
「まあ! お坐りなさい! そう、貴君あなたのように興奮なさっては、話が、ちっとも分らなくなりますわ。まあ! 坐ってお話しなさいませ。わたし、今夜はよくお話したいと思いますから。」
 瑠璃子の態度は、水のごとく冷たく澄んでいた。たしなめられて、青年は不承々々に元の席に復したが、彼の興奮は容易には去らない。彼は火のように、熱い息を吐いていた。
「坐ります。坐ります。が、あのお話を、今ここでなさるなんて、あんまりではありませんか。あれは、僕だけの私事です。私事的プライヴェートな事です。それを今ここでお話しになるなんて、あんまりではありませんか。あの晩、僕が何と申上げたのです。あの晩申上げた事を、貴女あなたは覚えていて下さらないのですか。」
 青年は、美奈子が聴いていることなどは、もう介意かまっていられないように、熱狂して来た。
 美奈子は、真中でじっと聴いているのにえられなくなって来た。彼女は、勇気を鼓舞しながら、口を開いた。
「あのう、お母様! わたくし一寸ちょっと失礼させていたゞきたいと思いますわ。お話が、お済みになった頃に帰って参りますから。」
 美奈子は、皮肉でなく真面目まじめにそう言わずにはいられなかった。
 おぼれる者は、わらをでもつかむように、青年はもう夢中だった。
「そうです。奥さん! もし貴女あなたが、あの晩の話のお返事をして下さるのなら、失礼ですが、美奈子さんに、一寸ちょっと失礼させていたゞきたいのです。あれは、僕の私事です。あのお返事なら、僕一人の時に承わりたいのです。」
 興奮した青年に、水を浴せるように、瑠璃子は言った。
「いゝえ! わたくし、美奈さんにも、是非とも聞いていたゞきたいのですわ。一昨夜も、あんなお話なら美奈さんに立ち合っていたゞきたいと思ったのです。
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あんなお話は、二人切りで、すべきものではないと思いますもの。たゞさえ、わたくし色々な風評の的になって、困っているのですもの。あゝいうお話はなるべく陰影いんえいの残らないように、ハッキリと片を付けて置きたいと思いますの。ねえ、美奈さん、貴女あなたこのお話の、証人ウィットネスになって下さるでしょうねえ。」
「あ! 奥さん! 貴女あなたは! 貴女あなたは!」
 青年は、狂したように叫びながら立ち上ると、続けざまに、地を踏み鳴らした。


     

 青年が、狂気したように、叫び出したのにもかかわらず、瑠璃子は、冷然として、語りつゞけた。
「美奈さん、貴女あなたには、お話しなかったけれども、わたし青木さんから、一昨日の晩、突然結婚の申込を受けたのです。そうして、それに対する諾否だくひのお返事を、今晩しようと言うお約束をしたのです。結婚の申込を直接受けたことを、わたくし本当に心苦しく思っているのです。せめて、お返事をするときだけでも貴女あなたに立ち合っていただきたいと思いましたの。」
 美奈子は、何と返事をしてよいか、皆目分らなかった。たゞ、彼女にも、ボンヤリ分ったことは、美奈子が母と青年の密語を、立ち聴きしたことを、母が気付いていると言うことだった。美奈子が、居堪いたたまれなくなって逃げ出したときの後姿を、母が気付いたに違いないと言うことだった。
 そう思うと、自分の心持が、明敏な母に、すっかり悟られているように思われて、美奈子は一言も返事をすることさえ出来なかった。
 青年の顔は、真蒼まっさおになっていた。眼ばかりが、爛々らんらんやみの中に光っていた。
「ねえ! 青木さん。それでは、よく心を落ち着けて聴いて下さいませ! わたくし、あの、大変お気の毒ではございますけれども、よく/\考えて見ましたところ、貴君あなたのお申出もうしいでに応ずることが出来ないのでございます。」
 瑠璃子の言葉に、闘牛が、とどめの一撃を受けたように、青年の細長い身体が、タジ/\と後へよろめいた。
 彼は、両手で頭を抱えた。身体を左右にもだえた。つぶやきともうめきとも付かないものが口かられた。
 美奈子は、見ているのにえなかった。
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もし、母が傍にいなかったら、走り寄って、青年の身体を抱えて、思うさま慰めてやりたかった。
 二分ばかり、青年の苦悶くもんが続いた。が、彼はやっと、その苦悶からい上って来た。
 母から受けた恥辱ちじょくのために、彼の眼は血走り、彼のまなじりは裂けていた。
「あなたのは、お断りになるのではなくて、僕を恥しめるのです。僕がそっとお願いしたことを、美奈子さんの前で、貴女あなたにはお子さんかも知れないが、僕には他人です、その方の前で、恥しめるのです。拒絶ではなくして、侮辱です。僕は生れてから、こんなはずかしめを受けたことはありません。」
 青年は、血を吐くように叫んだ。青年の言葉は、恨みと忿いかりのために狂い始めていた。
貴女あなたは、妖婦ようふです、僕はあえて、そう申上げるのです。貴女あなたを、貴婦人だと思って、近づいたのは、僕の誤りでした。僕に、下さった貴女あなたの愛の言葉を、貴女あなたの真実だと思ったのが、僕の誤りでした。真実の愛をもって、貴女あなたの真実な愛をあがなうことが出来ると思ったのは、僕の間違でした。奥さん! 貴女あなたは、あらゆる手段や甘言で、僕を誘惑して置きながら、僕が堪らなくなって、結婚を申し込むと、それを恐ろしい侮辱で、突き返したのです。この恨みは、屹度きっと晴らしますから、覚えていて下さい。覚えていて下さい。」
 青年は、狂ったように、瑠璃子ののしりつゞけた。
 瑠璃子は、青年の罵倒ばとうを、冷然と聞き流していたが、青年の声が、ようやく絶えた頃に、やっと口を開いた。
青木さん! 貴君あなたのように、そう怒るものじゃなくってよ。わたくし貴君あなたに対する愛が、丸切りうそだと言うのは、余りヒドいと思いますわ。わたくしが、貴君あなたを愛していることは本当ですわ。たゞ、その愛は夫に対するような愛ではなくて、弟に対するような愛なのです。わたくし、昨日今日考えて、やっとそれが分ったのです。わたくし貴君あなたを弟に持ちたいと思うわ。が、貴君あなたを夫にしようとは、夢にも思ったことはないわ。が、夫以外の一番親しいものとして、わたくし貴君あなた何時いつまでも、何時までも、交際つきあっていたゞきたいと思うのよ。
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ねえ! 美奈さん。貴女あなたわたくしの心持は分らない!」
 瑠璃子は、意味ありげに、美奈子を顧みた。今まで少しも、分らなかった今夜の瑠璃子の心持が、やみの中に、一条の光が生れたように、美奈子にもほの/″\と分って来たように思えた。


     

 美奈子には、母の心持が、朝霧の野に、日の昇るように、ようやく明かになって来た。
 母は自分の心持をスッカリ気付いたのだ。青年に対する自分の心持をスッカリ知ってしまったのだ。
 母が、自分の面前で、何のにべもないように、青年をしりぞけたのも、みんな自分に対する義理なのだ。自分に対する母の好意なのだ。自分に対する母の心づくしなのだ。そう思うと、はげしい恥かしさを感じながら、母に対する感謝の心が、しみ/″\と、胸の底深くにじんで出た。
 母は、やっぱり自分を愛して呉れる、自分のためには、どんなことでも、しかねないのだ。そう思うと、美奈子は、母に対して昨日今日、少しでもあきたらなく【不満に】思ったことが、深く悔いられた。
 母の心持は、もっと露骨になって来た。
青木さん。貴君あなたが、わたしと結婚なさろうなんて、それは一時の迷いです。貴君あなたのお若い心の一時の出来心ウイムです。貴君あなたにはわたしの心が少しも分っていないのです。いゝえ、わたしの本体が少しも分っていないのです。わたしの心が、どんなにすさんでいるかそれが貴君あなたには、少しも分っていないのです。わたしが、貴君あなたを本当に愛しているかどうかさえ、貴君あなたには分らないのです。そう/\、ワイルドの警句に、『結婚の適当なる基礎は相方の誤解なり。【結婚の初期には相手に対する理想化・思い込み・幻想がある】』と言う皮肉な言葉がありますが、貴君あなたわたしに対する、結婚申込なんか、本当に貴君あなたの誤解から出ているのです。」
 青年には、瑠璃子の言葉などは、少しも耳に入っていないようだった。彼は、はげしい怒のために、口がけなくなったように、たゞ身体をふるわせているだけだった。
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 が、そんなことは少しも意に介せないように、瑠璃子は落着いた口調で、話しつゞけた。
貴君あなたは、わたしの心持が分らないばかりでなく、貴君あなたに対する誰の心持も分っていないのです。貴君あなたには、まだ、本当に人の心が分らないのです。真珠のような美しい――いゝえ、どんな宝石にも換えがたいような、美しい心を持った処女おとめが、貴君あなたに恋しても、貴君あなたには、それが分らないのです。貴君あなたはもっと足を地上に降して、しっかり物を見なければならないと思います。」
 美奈子は、母の言葉を聴くと、地の中へでも消えてしまいたいような恥かしさと、母の自分に対する真剣な心づくしに対する有難さとで、心の中が一杯になってしまった。
 が、ここまで黙って聴いていた青年は、憤然ふんぜんとして、立ち上った。
「奥さん! もう沢山です。貴女あなたは、僕を散々恥しめて置きながら、の上何をおっしゃろうと言うのです。男として、えられないような恥辱ちじょくを僕に与えて置きながら、この上何を言おうと仰しゃるのです。貴女あなたに対する僕の要求は、全か無かです。弟に対する愛、そんな子供だましのようなお言葉で、いつまで僕をあやつろうとなさるのです。奥さん、僕はこれで失礼します。二度と貴女あなたには、お目にかゝらない心算つもりです。男性に対する貴女あなたの態度が、何時いつまで天罰を受けずにいるかよそながら拝見しているつもりです。僕の貴女あなたに対する恋、それは、僕に取っては初恋です。大切な懸命な初恋でした、すべてを犠牲にしてもいゝと思った初恋です。が、それが……」
 青年は、ここまで言うと、自分自身で、こみ上げて来る口惜しさに堪え切れなくなったように、ハラ/\と涙を落した。
「……それが貴女あなたのために、ムザ/\とにじられてしまったのだ。覚えていらっしゃい! 奥さん。」
 彼は、自分の感情を抑え切れなくなったように、こう叫んだ。
 立っている華奢きゃしゃな長身が、いたましくわなわなふるえて、男泣きの涙が、幾条いくすじとなく地に落ちた。先刻さっきから美奈子は、青年の容子を見ているのに、堪えないように、目を伏せていたが何と思ったのかこの時ふと顔を上げた。
「お母様!」
 彼女はかすれたような声で、初めて口を開いた。


     

「お母様!」
 そう叫んだ美奈子の言葉には、思い切った処女おとめの真剣さが、こもっていた。
「お母様、あのう、もう一度、どうぞもう一度、ゆっくりお考え下さいませ。
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青木さんがおっしゃったのか知りませんが、もう一度考え直して下さいませ。わたくしわたくし……」
 美奈子は、もっと何か言いたそうだったが、はげしい興奮のために、胸がせまったのだろう、そのまゝ口籠くちごもってしまった。
 去りかけようとした青年は、美奈子の言葉を聴くと、一寸ちょっとためらいながら、美奈子の方を振り返った。
美奈子さん。貴女あなたの御厚意は、大変有難うございます。が、もうすべては終ったのです。僕の心は、にじられたのです。僕の心には、今悲みとうらみとがあるばかりです。さようなら、貴女あなたには、いろ/\失礼しました。」
 そう言い捨てると、青年ははじかれたように、身体をひるがえすと、緩い勾配こうばいの芝生の道を、一気に二十間ばかり、け降りると、その白い浴衣ゆかたを着た長身で、公園のやみを切る姿を見せていたが、直ぐ樹立こだちかげに見えずなった。
 美奈子は、淋しみとも悲しみとも、あきらめとも付かぬ心で、消えて行く青年の姿を追うていた。
 瑠璃子も、一寸ちょっと青年の後姿を見ていたようだったが、直ぐ思い返したように立ち上ると、美奈子の傍に寄って来て、すれ/\に腰をかけた。
美奈子さん! おどろいて?」
 軽く左の手を、美奈子の肩にかけながら、優しくいた。
「はい。青木さんが、お気の毒でございますわ。」
 美奈子は、消え入るような声で言った。彼女はしばらく考えていたが、
青木さんなんかよりも、わたくし美奈さんに済まないと思っていますの。どうぞ、堪忍かんにんして下さい。どうぞ。」
 母の声には、深い本心が、アリ/\と動いていた。美奈子でさえ、一度も聴いたことのないようなしんみりとした、心の底からにじみ出たような声だった。
「美奈さん。間違っていたら、御免なさい。わたくし貴女あなたのお心が分ったの。青木さんに対する貴女あなたのお心が。」
 そう、心の底を見抜かれると、美奈子は、サッと色を変えながら、うつ伏してしまった。
「美奈さん、貴女あなたは、一昨日の晩、わたくし青木さんとが、話したことをすっかり、お聴きになったのでしょう。
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いゝえ、貴女あなたがお聴きになったのではなく、貴女あなたがいらっしゃるとは知らずに、わたくし達がいろ/\なことを話しましたでしょう。わたくし、あの晩部屋へ帰ろうとして、外出なさろうとする貴女あなたのお顔を見たときに、もうすべてが分ったような気がしたのです。絶望その物のような貴女あなたのお顔を見て、わたくしは、すべてが分ったような気がしたのです。わたくしは、それまでにもしやと思ったことが、一二度あったのです。そのもしやが、本当だと言うことが分ると、わたくしは、大変なことが起ったと思ったのです。わたくしおかした失策が、取り返しのつかないものだと言うことを知ったのです。」
 母の言葉が、ます/\真剣な悲痛な響を帯びて来た。
 美奈子は、俎上そじょうに上ったような心持で、母の言葉をじっと聴いている外はなかった。恥かしさと悲しさとで、裂けるような胸を持ちながら。
わたくし、今度のことで、わたくしの生活が全然破産したことを知ったのです。男性に向って吐いたつばきが、自分に飛び返って来たことを知ったのです。どうか、美奈さん。わたくし懺悔ざんげを聴いて下さい。」
 快活な、泣き言などは、ちっとも言ったことのない母の声が、悲しみに湿うるんでいた。


     

青木さんなんかに、わたし初めから、何の興味も持っていなかったのです。青木さんを箱根へ連れて来たのなども、わたしのホンの意地からなのです。ある別な男の方に対するわたしの意地からなのです。ある男の方が、わたしに、青木さんけは、誘惑してれては困ると言ったような、おせっかいなことを言ったものですから、わたしはつい反抗的に、意地であの方を箱根へ連れて来たくなったのです。よそながら、そのおせっかいな人に思い知らせて、やりたくなったのです。美奈子さん、それがわたしの性分なのです。今までのわたしの生活、貴女あなたのおうちへ来たことなども、みんなわたしのそう言った性分が、わたしを動かしたのです。」
 母は何時いつになく、しんみりとした沈んだ調子になっていた。短い沈黙の後で、母は再び口を開いた。
「それは、自分でもうともすることが出来ない性分です。誰かから抑えられると、その二倍も三倍ものはげしさで、跳返はねかえしたいような気になるのです。
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それが、わたしの性格の致命的フェータルな欠陥かも知れません。わたしは自分のそうした性分のために、自分の一生を犠牲にしたのではないかとさえ、この頃考えているのです。」
 母は、こう言って悵然ちょうぜんとした【失意の状態で嘆いた】が、またぐ言葉を続けた。
「子供が、触ってはいけないと言われた草花に、かえって触りたくなるような心持で、青木さんを、わざと箱根へ連れて来たのです。あの人に何の興味があったと言う訳でもないのです、おせっかいなことを言った人に対する意地で、ついそんなことをしてしまったのです。それから、恐ろしい罰を受けようとは夢にも知らなかったのです。」
 母の言葉は、沈み切っていた。強いくいが、彼女の心をさいなんでいることを示していた。
わたしの想像が違ったら、御免下さい。貴女あなた清浄しょうじょうな純な心に映った男性をわたしが奪うと言う恐ろしいことをしていたのです。美奈さん! 許して下さい。美奈さん。」
 涙などは、今まで一度も流したことのない母の声が、湿うるんでいた。
貴女あなたに対して、何とお詫びしていゝか分らないのです。貴女あなたの心にきざんだ美しいおもいの芽をわたし蹂躙じゅうりんしていようとは、わたしが! 貴女あなたを何物よりも愛しているわたしが。」
 瑠璃子の眼に、始めて涙が光った。
「取り返しの付かない、恐ろしいことです。わたしが、たゞホンの悪戯いたずらのために、ホンの意地の為めに、宝石にも換えがたい貴女あなたの純な感情をにじっていようとは、思い出すだけでも、わたしの心は張り裂けるようです。美奈さん! 許して下さい。どうぞ、わたしの罪を許して下さい!」
 瑠璃子苛責かしゃくえないように、かおを伏せて終った。
「まあ! お母様、何をおっしゃるのです。許して呉れなんて、わたし、何も……」
 美奈子は、はげしい恥しさに堪えながら、母を慰めようとした。
「こんなことは、許しを願えるようなものではないかも知れません。本当に、許しがたいことです。『許し難いことイントレランス』です。貴女あなたが許して下さっても、わたしの心は何時までも、何時までも苦しむのです。
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わたしが、世の中で一番愛している貴女あなたに、恐ろしい不幸を浴びせていようとは恐ろしいことです。恐ろしいことです。」
 冷静な母の態度も、心のはげしいの苛責の為めに、だん/\乱れて行った。
 美奈子は、最初自分の心を母からマザ/\と指摘された恥しさで、動乱していたが、それが静まるに連れて、母の自分に対する愛、誠意にだん/\動かされ初めた。


     

わたしが、男性に対する意地と反感とでしたことが、男性をきずつけないで、かえって女性、しかもわたしには、一番親しい、一番愛している貴女あなたを傷けようとは、夢にも思わなかったのです。何と言う皮肉でしょう。何と言う恐ろしい皮肉でしょう。」
 母の心のもだえは、益々ますますはげしくなって行くようだった。
わたしの生活が、破産する日が、到頭とうとう来たのです。わたしの生活の罰が、わたしの最も愛する貴女あなたの上に振りかかって来ようとは。」
 瑠璃子の声はかすかにふるえていた。
わたしは、今までどんな人から、どんなにわたしの生活を非難されても、ビクともしなかったのです。わたしの生活態度のために、犠牲者が出ようとも、ビクともしなかったのです。わたしは、孔雀くじゃくのように勝ち誇っていたのです。すべての男性をにじっていたのです。が、男性ばかりを蹂みにじっているつもりで、得意になっていると、その男性に交って、女性! しかもわたしには一番親しい女性を蹂みにじっていたのです。」
 瑠璃子は、そう言い切ると、じっとかおを垂れたまゝ黙ってしまった。
 美奈子は、母の真剣な言葉にって、胸をヒタ/\と打たれるように思った。母が、自分のために何物をも犠牲にしようと言う心持、自分をきずつけたために、母が感じている苦悶くもん、そうしたものが美奈子に、ヒシ/\と感ぜられた、自分をこれほどまで、愛してれる母には、自分もすべてを犠牲にしてもいゝと思った。
「お母様! もう何も、おっしゃって下さいますな、わたし青木さんのことなんか、ほんとうに何でもないのでございます。」
 美奈子は、白い頬を夜目よめにも、分るほど真赤にしながら、恥かしげにそう言った。
「いゝえ! 何でもないことはありません。処女おとめの初恋は、もう二度とは得がたい宝玉です。初恋を破られた処女おとめは、人生のなかばを蹂みつぶされたのです。美奈さん、わたしにはその覚えがあります。その覚えがあります。」
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 そう言ったかと思うと、あれほど気丈な凜々りりしい瑠璃子も、顔にそでおおうたまゝ、しばらくむせび入ってしまった。
わたしには、その覚えがありますから、貴女あなたのお心が分るのです。身に比べてしみ/″\と分るのです。」
 母にそう言われると、今まで抑えていた美奈子の悲しみは、堤をきられた水のように、彼女の身体をひたした。彼女のはげしいすゝり泣きが、瑠璃子の低いそれを圧してしまった。
 瑠璃子までが、昔の彼女に帰ったように、二人はいつまでも/\泣いていた。
 が、先に涙をぬぐったのは、美奈子だった。
「お母様! 貴女あなたは、決してわたしにおわびをなさるには、当りませんわ。本当に悪いのは、お母様ではありません。わたしの父です。お母様の初恋を蹂躙じゅうりんした父の罪が、わたしに報いて来たのです。父の犯した罪が子のわたしに報いて来たのです。お母様のせいでは決してありませんわ。」そう言いながら、美奈子はしく/\と泣きつゞけていたが、「が、わたし今晩、お母様のわたしに対するお心を知ってつく/″\思ったのです。お母様さえ、それほどわたしを愛して下されば、世の中のすべての人を失ってもわたしさみしくありませんわ。」
 そう言いながら、美奈子は母に対する本当の愛で燃えながら、母の傍にすり寄った。瑠璃子は、彼女の柔いうっくり【ふっくら】とした撫肩なでかたを、白い手で抱きながら言った。
「本当にそう思って下さるの。美奈さん! わたしもそうなのよ。美奈さんさえ、わたしを愛して下されば、世の中のすべての人を敵にしても、わたしは寂しくないのです。」
 二人はきよい愛の火に焼かれながら、夏の夜の宵闇よいやみに、その白い頬と白い頬とを触れ合せた。

火をあおる者


     

 青年の身体は、燃えた。
 はげしい憤怒ふんぬと恨みとのために、火のごとく燃え狂った。
 彼は、その燃え狂う身体を、何物かに打ち突けたいような気持で走った。やみの中を、滅茶苦茶めちゃくちゃに走った。闇の中を、つぶてのように走った。滅茶苦茶に、走りでもする外、彼のあらしのような心を抑える方法は何もなかった。
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にでも、石にでも、当れば当れ、川にでもたににでもおちらば陥れ、彼はそうした必死的デスペレエトな気持で、獣のように風のように、たゞ走りに走った。
 強羅ごうらの電車停留場まで、一気にけ降りたけれども、其処そこには電車の影は、なかった。彼は、そこに二三分間待ったが、心の底から沸々ふつふつき上っている感情の嵐は、彼を一分もじっとさせていなかった。電車を待っているような心の落着は、少しもなかった。彼は、宮の下まで、走りつゞけようと決心した。そう決心すると、前よりは、もっとはげしい勢で、別荘が両方に立ち並んだ道を、一散に馳け始めた。
 初め馳けている間、彼の頭には、何もなかった。たゞ、彼をあんなに恥しめた瑠璃子るりこの顔が、彼の頭の中で、大きくなったり、小さくなったり、幾つにも分れて、ともえのように渦巻いたりした。
 が、だん/\走りつゞけて、早川の岸に出たときには、彼の身体が、疲れるのと一緒に、疲労ひろうから来る落着が、彼の狂いかけていた頭を、だん/\冷静にしていた。
 彼の走る速力が緩むのと同時に、彼の頭は、だん/\いろ/\な事を考え初めていた。
 彼が、死んだ兄と一緒に、荘田しょうだの家へ、出入し初めた頃のことなどが、ぼんやりと頭の中に浮んで来た。
 荘田夫人の美しい端麗たんれい容貌ようぼうや、その溌剌はつらつとして華やかな動作や、そのすぐれた教養や趣味に、兄も自分も、若い心を、引き寄せられて行った頃の思い出が、後から/\頭の中に浮んで来た。
 夫人が、多くの男性の友達の中から、特に自分達兄弟を愛して呉れたこと、従って自分達も、しきりに夫人の愛を求めたこと、そのうちに、兄が夫人に熱狂してしまったこと、兄が夫人の愛を独占しようとしたこと、自分が兄に対して軽い嫉妬しっとを感じたこと、そうしたことが、とりとめもなく、彼の頭の中に浮んだ。
 実際、自分の兄が、夫人に対して、熱愛をいだいていることを知ったとき、彼は兄に対する遠慮から心ならずも、夫人に対する愛を抑えていた。
 突然な兄の死は、彼を悲しませた。が、それと同時に、彼の心のうちの兄に対する遠慮を取り去った。彼は、兄に対する遠慮から、抑えていた心を、自由に夫人に向って放った。
 夫人は、それを待ち受けていたように、手をさし延べて呉れた。兄の偶然な死は、夫人と彼とをたちまち接近せしめてしまった。
 彼は、夫人から、みつのような甘い言葉を、幾度となく聴いた。
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彼は、夫人が自分を愛していて呉れることを、疑う余地は、少しもなかった。
 彼は直截ちょくさいに【ためらうことなく】夫人に結婚を求めた。
わたしも、ぜひそうしていたゞきたいのよ。でも、もう少し考えさせて下さいよ。貴君あなた、箱根へ一緒に行って下さらない。わたしの夏は、箱根で暮そうと思っていますのよ。箱根へ行ってから、ゆっくり考えてお答えしますわ。」
 夫人は、美しい微笑でそう言った。
 箱根へ同行を誘って呉れる! それは、もう九分までの承諾しょうだくであると彼は思った。
 箱根にける避暑生活は、彼に取って地上の極楽であるはずであった。
 思いきや、其処そこに地獄の口が開かれていようとは。
「裏切者め!」
 青年は、走りながら、思わず右の手のステッキを握りしめた。


     

 ホテルの門に辿たどり着いたときにも、長い道をけ続けたために、身体こそやゝ疲れていたものの、彼の憤怒ふんぬは少しも緩んではいなかった。部屋へ飛び込めば、トランクの中へ、すべてのものを投げ込むのだ。もう、こんな土地には一分だっていたくない。彼女が、帰って来ないうちに、一刻も早く去ってしまうのだ。
 彼は心のうちで、そうした決心を堅めながら、はげしい勢で、玄関へけ上った。其処そこに立っていたボーイが、彼の面色を見ると、おどろいて目をみはった。それも、無理はなかった。彼の眼は血走り、色はあおざめ、広い白い額に、一条の殺気がほとばしって、温和な上品な平素いつもの彼とは、別人のような、血相を示していたからである。が、ボーイが、おどろこうがおどろくまいが、そんなことはどうでもよかった。彼はおどろいたボーイを尻目しりめにかけながら、廊下を走るように馳け過ぎて、廊下の端にある二階への階段を、烈しく駆け上ろうとしたときだった。彼は余りに急いだため、余りに夢中であったため、丁度その時、上から降りようとした人に、烈しくつかってしまった。
 余りに強くき当ったため、彼の疲れていた身体は、ひょろ/\として、二三段よろけ落ちた。
「いやあ。失礼!」
 相手の人は、おどろいて彼を支えた。
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が、衝突しょうとつの責任は、無論此方こっちにあった。
「いゝえ。僕こそ。」
 彼は、そう答えると、軽く会釈えしゃくしたまゝで、相手の顔も、碌々ろくろく見ないで、そのまゝ階段を馳け上った。
 が、彼が六七段も、馳け上ったときだった。まだ立ち止まって、じっと彼の後姿を見ていた相手の男が、急に声をかけた。
青木君! 青木君じゃありませんか。」
 不意に、自分の名を呼ばれて、青年はおどろいた。彼は、思わず階段の中途に、立ちすくんでしまった。
「えゝっ!」
 青年は、返事ともおどろきとも分らないような声を出した。
「間違っていたら御免下さい! 貴君あなたは、青木君じゃありませんか。あの、青木じゅん君の弟さんの。」
 相手は、階段の下から、上を見上げながら、落着いた声でそういた。青年は、やゝほの暗い電灯の光で、振り上げた相手の顔を見た。意外にも、それは先刻散歩へ出るときに、玄関でった、彼の見知らない紳士であった。彼は、どうしての男が、自分の名前を知っているのだろうかと、不審ふしんに思いながら答えた。
「そうです。青木です。ですが、貴君あなたは……」
 青年は、一寸ちょっと相手が、無作法に呼び止めたことをとがめるように訊き返した。
「いや、御存じないのは、もっともです。」
 そう言いながら、紳士は階段を二三段上りながら、青年に近づいた。
「お兄さんの知人と言っても、ホンのお知合になったと言うけに過ぎないのですが、しかしその……」
 紳士は、一寸ちょっと言いよどんだ。青年は、自分がいら/\し切っているときに、何の差しせまった用もなさそうな人から、たゞ兄の知人であると言った理由だけで、呼び止められるのにえなかった。
「そうですか。それでは、又いずれ、ゆっくりとお話しましょう。一寸ちょっと只今ただいまは、急いでいますから。」
 そう言い捨てると、青年は振り切るように、残った階段を馳け上ろうとした。
 すると、紳士は意外にも、しつこく青年を呼び止めた。
「あゝ一寸ちょっとお待ち下さい。私も急に、貴君あなたにお話したいことがあるのです。」
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「急に話したいことがある。」未知の男からしつこく言われると、青年はむっとした。何と言う執拗しつような男だろう。何と言う無礼な男だろうと腹立たしかった。
「いや、どんな急なお話かも知れませんが、僕はこうしてはいられないのです。」
 青年は、そう言い切ると、相手を振り払うように、階段をけ上ろうとした。が、相手はまだあきらめなかった。
青木君! 一寸ちょっとお待ちなさい。貴君あなたは、お兄さんからの言伝ことづてを聴こうとは思わないですか。そうです、貴君あなたに対する言伝です。特に、現在の貴君あなたに対する言伝です。」
 そう言われると、青年はさすがに足を止めずにはいられなかった。
「言伝! 死んだ兄から、そんな馬鹿ばかな話があるものですか。」
 青年はあざけるように、言い放った。
「いや、あるのです。それがあるのです。私は、貴君あなたのお顔の色を見ると、それを言わずにはいられなかったのです。貴君あなたは、今可なり危険な深淵しんえんの前に立っている。私は貴君あなたがムザ/\その中へおちいるのを見るに忍びないのです。お兄さんに対する私の義務として、どうしても一言だけ、注意をせずにはいられないのです。」
 そう言いながら、相手は青年と同じ階段のところまで上って来た。
「危険な深淵! そうです。貴君あなたのお兄さんが、誤って陥った深淵へ貴君あなたまでが、同じようにちようとしているのです。」
 青年は、改めて相手の顔を見直した。相手が可なり真面目まじめで、自分に対して好意を持っていてれることが、ぐ分った。が、相手が妙に、意味ありげな言い回しをすることが、彼のいら/\している神経を、更にいら立たせた。
「それが一体う言うことなのです。僕には少しも分りませんが。」
 青年は、腹立たしげに、相手をしっするように言った。
「それでは、もっと具体的に言いましょう。青木君! 貴君あなたは、一日も早く、荘田しょうだ夫人から遠ざかる必要があるのです。
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そうです。一日も早くです。あの夫人は、貴君あなたの身体を呑んでしまう恐ろしい深淵です。貴君あなたのお兄さんは、それに呑まれてしまったのです。」
 紳士は、そう言って、じっと青年の顔を見詰めた。
貴君あなたは、兄さんの誤を再び繰り返してはなりません。これは、私の忠告ではありません、死んだ兄さんのお言伝です。よくお心に止めて置いて下さい!」
 そう言うかと思うと、紳士は一寸ちょっと青年に会釈えしゃくしたまゝ、階段をスタ/\と降りかけた、もう言うけのことは、スッカリ言ってしまったと言う風に。
 今度は、青年の方が、狼狽ろうばいして呼び止めた。
「待って下さい! 待って下さい! そんなことを本当に兄が言ったのですか。」
 紳士は顔けを振り向けた。
「文字どおりに、そう言われたとは言いません。が、それと同じことを私に言われたのです。」
何時いつ何処どこで?」
 青年は、可なりあせっていた。
「お兄さんが死なれる直ぐ前です。」
 そう言って、紳士はさみしい微笑をもらした。
「死ぬ直ぐ前? それでは貴君あなたは、兄の臨終に居合したと言うのですか。」
 青年は、可なり緊張して訊いた。
「そうです。貴君あなたのお兄さんの臨終に居合したたった一人の人間は私です。お兄さんの遺言ゆいごんを聴いたたった一人の人間も私です。」
 紳士は落着いて、静に答えた。
「えゝっ! 兄の遺言を。一体兄は何と言ったのです。何と言ったのです。その遺言を貴君あなたが、今まで遺族いぞくの者に、隠しているなんて!」
 青年は、相手を詰問きつもんするように言った。
「いや、決して隠してはいません。現在貴君あなたに、その遺言を伝えているじゃありませんか。」


     

 紳士の言葉は、もう青年の心の底まで、喰い入ってしまった。
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「本当に、貴君あなたは兄の臨終に居合したのですか。それで、兄は何と言いました。兄は死際しにぎわに何と言いました?」
 青年は、興奮こうふんあせった。
「いや、それに就いて、貴君あなたにゆっくりお話したいと思っていたのです。ここじゃ、どうもお話しにくいですが、いかゞです僕の部屋へ。」
 紳士は可なり落着いていた。
貴君あなたさえお差支さしつかえなけれや。」
「じゃ、僕の部屋へ来て下さい。丁度妻は、湯に入っていますので誰もいませんから。」
 紳士の部屋は、階段を上ってから、左へ二番目の部屋だった。
 紳士は、青年を自分の部屋に導くと、彼に椅子いすを勧めて、自分も青年と二尺とへだたらずに相対して腰を降した。
「申し遅れました。僕は渥美あつみと言うものですが。」
 そう言って紳士は、改めて挨拶あいさつした。
「いや、実は避暑に出る前に、貴君あなたに一度是非お目にかゝりたいと思っていたのです。貴君あなたにお目にかけたいもの、貴君あなたに申上げたいこともあったのです。それで、それとなく貴君あなたのお宅へ電話をかけて、貴君あなたの在否をさぐって見ると、意外にも宮の下へ来ていられると言うのです。それで、実は私は小涌谷こわくだにの方へ行くつもりであったのですが、貴君あなたにお目にかかれはしないかと言う希望があったものですから、二三日、此処ここ宿とまって見る気になったのです。それが、意外にもホテルの玄関で貴君あなたにお目にかゝろうとは、貴君あなたばかりでなく荘田夫人にお目にかゝろうとは。」
 紳士は一寸ちょっと意味ありげな微笑をもらしながら、
「実は、お兄さんが遭難されたとき、同乗していたと言う一人の旅客は私なのです。」
「えゝっ!」
 思わず、青年は、おどろきの目をみはった。
「お兄さんの死は、形は奇禍きか【思いがけない災難】のようですが、心持は自殺です。私は、そう断言したいのです。お兄さんは、死場所を求めて、三保から豆相ずそうの間を彷徨さまよっていたのです。奇禍きかが偶然にお兄さんの自殺を早めたのです。」
 紳士の表情は、可なり厳粛であった。
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彼が、いゝ加減なことを言っているとは、どうしても思われなかった。
「自殺! 兄はそんな意志があったのですか。」
 青年はおどろきながらいた。
「ありましたとも。それは、貴君あなたにもわかりますが。」
「自殺! 自殺の意志。もしあったとすれば、それは何のための自殺でしょう。」
「ある婦人のために、もてあそばれたのです。」
 紳士は苦々にがにがしげに言った。
「婦人のために、もてあそばれる。」
 そう繰り返した青年の顔は、見る/\色を変えた。彼は、心の中で、ある恐ろしい事実にハッと思い当ったのである。
「それは本当でしょうか。貴君あなたは、それを断言する証拠がありますか。」
 青年の眼は、興奮のために爛々らんらんと輝いた。
「ありますとも。お兄さんの遺言と言うのも、お兄さんをもてあそんだ婦人に対して、お兄さんの恨みを伝えて呉れと言うことだったのです。」
「うゝむ!」
 青年は、低くうなるように答えた。
「実は、私はその恨みを伝えようとしたのです。が、その婦人は、恨を物の見事にねつけてしまったのです。そればかりでなく、死んだお兄さんをはずかしめるようなことまでも言ったのです。その婦人はお兄さんをもてあそんで、間接に殺しながら、その責任までも逃れようとしているのです。青木さんが、自殺の決心をしたとしても、それは私のせいではありません、あの方の弱い性格のせいだと、その婦人は言っているのです。そればかりではありません……」
 紳士も、自分自身の言葉に可なり興奮してしまった。


     

 紳士は興奮して叫び続けた。
「そればかりではありません。青木君をもてあそんで間接に殺しながらまだそれにもりないで、青木君の弟である……」
「あゝもう沢山です。」青年は、相手にすがり付くような手付をして言った。「わかりました、よく判りました。
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が、証拠がありますか? 兄がもてあそばれて、自殺を決心したと言う証拠がありますか?」
 青年のひとみは必死の色を浮べていた。
「ありますとも。お見せしましょう。が、そう興奮しないで、ゆっくり気を落着けて下さい。」
 そう言いながら、紳士は椅子いすを離れると、部屋の片隅に置いてある大きなトランクに近づいて、それを開きながら、中から一冊のノートを取り出した。
「これです。筆跡ひっせきには覚えがあるでしょう。」
 そう言いながら、相手はノートを、とう卓子テーブルの上に置いた。青年は、焼き付くような眼で、それをじっと見詰めた。表紙の青木じゅんと言う字が、いかにもなつかしい兄の筆跡だった。
「じゃ、拝見します。」
 彼はかすかに、ふるえる手付で、そのノートを取り上げた。
 恐ろしい沈黙が部屋の中に在った。ノートのページのめくられる音が、時々気味悪くその沈黙を破った。
 二分三分、青年は、だまって読みつゞけた。その中に、青年の腰かけている椅子が、かすかな音を立て初めた。見ると、青年の身体が、怒のために激しくふるえていたのである。
うです! これほど、確な証拠はないでしょう。遭難当時のお兄さんの心持が、ハッキリわかっているでしょう。途中で、奇禍きか【思いがけない災難】に逢われなかったら、お兄さんは屹度きっと熱海あたみ何処どこかで、自殺をしておられるはずです。」
 紳士は、ノートをのぞき込むようにしながら言った。
 青年の顔は、恐ろしい感情の激発げきはつのために、紫色にふくらんでいた。
 紳士は、青年の感情をもっと狂わすように言った。
其処そこ白金プラチナの時計のことが、書いてあるでしょう。お兄さんは、死なれる間際まぎわに、その時計を返してれと言われたのです。偶然にも、その時計は、その偽りの贈物は、お兄さんの血で、真赤に染められていたのです。衝突のときに、硝子ガラスが壊れたと見え、血が時計の胴ににじんでいたのです。」
「それをうしました。それをうしました。」
 青年は、激情のために、なかば狂っていた。
「無論、それを返したのです。
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私は、お兄さんの心持をんで、それをたたき返してやろうと思ったのです。それを返しながら、お兄さんのうらみを、知らせてやろうと思ったのです。ところが、残念にも、私はそれを、手もなくき上げられてしまったのです。あの方は、妖婦ようふです。僕達には、とても真面まともに太刀打は出来ない人です。」
妖婦ようふ! 妖婦!」
 青年は狂ったように、口走った。
「いや、その点で私はお兄さんの、委託いたくに背いてしまったのです。取返しの付かないことをしてしまったのです。が、その代り、私は貴君あなたうかして、救いたいと思ったのです。お兄さんに対する僕の責任として、貴君あなたが同じあやまちを犯すのを、うかして救いたいと思ったのです。私は、そのために、あの方に頼んだのです。青木君に対する貴女あなたの後悔として、青木君の弟だけもてあそんで呉れるな。弟さんだけうか、誘惑して呉れるな。私は、そう言って事をけて頼んだのです。それだのに、彼女はそれを冷然とはね付けたのです。いや、跳付けたばかりではありません。私のそうした依頼をあざけるように、いやそれに対する意地のように、わざと貴君あなたを一緒に連れて来ているのです。」


     

 青年のかおが、火のような激憤で、埋まるのを見ると、紳士はそれをなだめるように言った。
「いや、貴君あなたがお怒りになり、おおどろきになるのももっともです。が、あゝした人には、近よらないのが万全の策です。貴君あなたが怒って先方にぶつかって行くと、いよ/\相手の術策に陥ってしまうのです。あの方の張っている蜘蛛くもの網の中で手も足も出なくなってしまうのです。たゞ、一刻も早くここを去られるのが得策です。いや、ここばかりではありません。夫人の周囲から、絶対に去られるのが得策です。触らぬ神にたたりなしと言う言葉があります。まして、相手は特別、恐ろしい女神ですから。はゝゝゝゝゝゝ。」
 紳士は軽く笑った、話が、余り緊張して来たのを、わざとゆるめようとして。
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しかし、かく私としては、これでお兄さんに対する責任を少しは尽したように思うのです。そう言う意味で、貴君あなたが僕の言うことを、よく聴いて下さったのを有難く思うのです。いや、私が一歩遅かったら、貴君あなたもどんな目にっているかも知れなかったのです。」
 紳士は、自分の忠告が間に合ったことを、よろこぶような顔色を示した。が、彼の忠告は間に合っただろうか。いな、彼の忠告は、後のツーレートだった。一時間だけ、遅れ過ぎた。
 彼の忠告は、災禍の火を未然に消す風とならずして、かえってその火をあおり立てた。彼が、夫人の危険を説いたときに、青年はもう、夫人からもてあそばれていたのだ。いなもてあそばれたと思っていたのだ。夫人から、もてあそばれた恨といきどおりとに、燃えていた青年の心を、彼はいやが上に煽った。
『お前ばかりではない、お前の肉親の兄も、あの女にもてあそばれて、身をあやまったのだ! 身をほろぼしたのだ!』と。
「いや! 御忠告ありがとう! 御忠告ありがとう!」
 青年は、そう言いながら立ち上った。が、あまり興奮したためだろう、彼は、眼がくらんだように、よろめいた。
 紳士は、周章あわてて、青年の身体を支えた。
「いや、あまりに興奮なさっては困りますよ。お心を落着けて、気を静めて!」
 が、青年はそれを振切った。
「いや、捨てゝ置いて下さい! 大丈夫です、大丈夫です!」
 そう言いながら、青年は廊下へよろめきながら出た。『大丈夫です!』と、口では言ったものの、彼はもう決して、大丈夫ではなかった。
 彼の頭の中には、激情のあらしが吹き荒れた。怒と恨との洪水こうずいみなぎった。理性の灯火は、もうふッつりと消えてしまっていた。
「兄をもてあそんだ上に、この俺を!」
 そう思うと、彼の全身の血は、怒のためにぐん/\と煮え返った。
「兄をもてあそんで間接に、殺して置きながら、まだ二月とたない今、この俺を! 箱根まで誘い出して、われのない恥辱ちじょくを与える!」
 そう考えると、彼の頭のうちは、燃えた。身体中からだじゅうの筋肉が、異様に痙攣けいれんした。
 もう世の中の他のすべては、彼の頭から消え去った。国家も社会も法律も、父も母も妹も、恐怖も羞恥しゅうちも、愛も同情も。たゞ恐ろしいにくしだけが残った。
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その憎みは、爆発薬のようなはげしさで、彼の胸のうちを縦横にのたうった。
 そうした彼の心のうちに、焼き付いたように残っているのは、先刻さっき読んだ兄の手記中の一節だった。
『そうだ、一層いっそ死んでやろうかしら。純真な男性の感情をもてあそぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせるために。』
 が、兄が死んでも彼女は、少しも思い知ろうとはしなかった。兄の死を冷眼視するほど、彼女が厚顔無恥であるとしたならば、彼女を思い知らせるには、そうだ! 彼女を思い知らせるには。
 そう考えたとき、彼の全身の血は、海嘯つなみのように、彼の狂いかけた頭へ逆上して来た。

破裂点


     

 強羅ごうら公園で、お互の心からなるきよい愛に、溶け合った美奈子みなこ瑠璃子るりことが、其処そこに一時間以上も費して、宮の下へ帰って来たのは、夜の十時を回った頃だった。
 二人とも、心のうちでは、青年のことが気になっていたけれども、それを口に出すことを避け合った。
 が、部屋へ入ったとき、瑠璃子さすがに青年の寝室のドアに立ち寄って、そっと容子をうかがった。
「もう、青木さんは寝たのかしら。」
 そう言って、彼女は扉に手をかけて見た。それは平素いつもになく内部から、かぎが、かけられたと見え、ビクリとも動かなかった。
「あゝ。もう、寝ていらっしゃる!」
 瑠璃子は、やっと安堵あんどしたように言った。
 美奈子瑠璃子とが、同じ寝室に入って、寝台ベッドの中に横わったのは、もう十一時を回った頃だった。
 電灯を消してからも、美奈子は母としばらくの間、言葉を交えた。そのうちに、十二時が鳴った。彼女は、おどろいて眠に入ろうとした。が、その夜のはげしい経験は、――彼女が生れて以来初めて出会ったような複雑な、はげしい出来事は、彼女の神経を、極度にみだしていた。彼女が、いくら眠ろうとあせっても、意識はえ返って、先刻の恐ろしい情景が、頭の中で幾度も幾度も、繰り返された。青年のすごいほど、緊張した顔が、彼女の頭の中を、ともえのようにけ回った。
 眠ろう眠ろうとあせればあせるほど、神経が益々ますますいらだって来た。
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記憶が、異常に興奮して、自分の生い立ちや、母の死や父の死や、兄の事などが、頭の中に次ぎ次ぎに思い浮んで来た。
 そのうちに一時が鳴った。
 瑠璃子も、寝台ベッドの中で、暫らくの間は、眠り悩んでいたようだったが、そのうちに、おだやかないびきの声が聞え初めた。
 母が、眠に就いたのを知ると、美奈子は益々あせっていた。口の中で、数をかぞえて見たり、深呼吸をして気持を落ち着けようと試みたりした。が、それもこれも無駄だった。先刻聴いたばかりの青年のうらみの声が、落ち着こうとする美奈子の心のうちに、幾度も/\よみがえって来た。
 そのうちに、二時が鳴った。
 はげしい興奮のために、頭脳あたまも眼も、疲れ切っていながら、それが妙にいら/\して、眠はうしても来なかった。
 そのうちに、到頭とうとう三時が鳴った。
 さすがに、彼女の意識は疲れてしまった。不快な、重くるしい眠が、彼女のぐた/\になった頭脳をむしばみ始めていた。うつつともなく夢ともないような、いやな半睡半醒はんすいはんせいの状態が、暫らく続いた。彼女はとろとろとしたかと思うと、ハッと気が付いたり、気が付いたかと思うと、深い泥沼の中に、引きずり込まれるように、いやな眠りの中に、陥って行ったりした。
 彼女が、砂をむような現と、胸ぐるしい悪夢との間に、さまよっていたときだった。彼女は、何者かが自分をおそって来るような、無気味な感じがした。寝室の扉が、かすかに動いているような感じがした。自分に襲いかゝっている人の足音を聴くような気がした。が、それが夢であるか現であるか確める気にもなれないほど、彼女の意識は混沌こんとんとしていた。
 到頭とうとう、悪夢が、彼女をとらえてしまった。彼女は母と一緒に田舎みちを歩いていた。それが、死んだ母のようでもあり、現在の母であるようにも思われた。ふと、地平の端に白い何物かが現れた。それが矢のような勢いで、彼女達の方へ向って来た。つい、目の前の小川を飛び越したとき、それが白い牡牛おうしであることが、わかった。狼狽ろうばいしている美奈子達を目がけて激しい勢いで殺到した。
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美奈子は悲鳴を挙げながら、逃げた。牡牛は、逃げ遅れた母に迫った。美奈子が、アッと思う間もなく、牡牛の鉄のような角は、母の脇腹わきばらえぐっていた。母の、恐ろしいうなり声が美奈子の魂をおののかしたが、母のうめき声を聴いた途端に、悪夢はれた。が、不思議に呻き声のみは、なお続いていた。


     

 悪夢のうちに聴いた呻き声を、美奈子夢現ゆめうつつの間に聞き続けていた。
「うゝむ! うゝむ!」
 はらわたを断つような呻き声が、段々彼女の耳の近くに聞え初めた。彼女の意識が、めかゝるに連れてその呻き声は段々高くなった。
「うゝむ! うゝむ!」
 彼女は、到頭とうとう寝台の上に醒めた。醒めたと同時に、彼女は冷水を浴びたような悪寒おかんを感じた。
「うゝむ! うゝむ!」
 ひきしぼるような悲鳴は、彼女の身辺からマザ/\と起っているのであった。
「お母様!」
 それは、悲鳴だった。
「お母様! お母様!」
 美奈子は、つゞけ様に、すがり付くような悲鳴を揚げた。
 母の答はなかった。
 低い、しぼり出るような悲鳴が、物凄ものすごやみの中に起っているだけだった。
「あ! お母様!」
 美奈子は、たまらなくなって、寝台からまろび落ちた。
 母の寝台は、二尺とは離れていなかった。彼女が、ふるえる手を、寝台の一端にかけたとき、生あたたかい液体が、彼女の手にベットリと、触れた。
「お母様!」彼女の声は、わな/\とふるえていた。
 彼女の手は、母の胸に触れた。母の華奢きゃしゃな肉体が、手の下でかすかにうごめいた。
「お母様! お母様! う遊ばしたのです。」彼女は、懸命の声を揚げた。
 低いうめき声が、しばらく続いていた。
「お母様! お母様! 気を確になさいませ。」美奈子は、狂ったように叫んだ。
 母は、はげしい苦悩の下から、しぼり出すように答えた。
灯火あかりを! 灯火を!」
 きずつける者、死なんとする者が、第一に求めるものは光明だった。
 美奈子は立上って電灯を探し求めた。狼狽あわてているせいか、電灯がなか/\手に触れなかった。
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 が、ようやくスイッチをひねったとき、明るい光は、痛ましい光景を、マザ/\と照し出した。母の白い寝衣ねまき、白いシーツ、白い毛布に、夜目には赤黒く見える血潮が、ベタ/\と一面ににじんでいる。
「あっ!」
 美奈子は、一眼見ると床の上に、よろめきながら打ち倒れた。が、母を気遣う心が、ぐ彼女をち上らせた。
「お母様! しっかりなさいませ!」
 彼女は、そう叫びながら、母にすがり付いた。致命の傷を負いながら、彼女は少しも取り乱した様子はなかった。右の脇腹わきばらの傷口を、両手でじっと押えながら、全身をきむしるほどの苦痛を、そのかぬ気で、その凜々りりしい気性で、じっとこらえているのだった。
 彼女のかよわい肉体の血は、彼女が抑えている両手の間から、惜しげもなく流れ出しているのだった。
 美奈子も一生懸命だった。自分の寝台のシーツを取ると、それを小さく引き裂いて、母の傷口を幾重にも幾重にもくゝった。
「お母様! 気を確になさいませ。直ぐ医者を呼びますから。」
 彼女は、母の耳元に口を寄せて、必死に呼んだ。それが、耳に入ったのだろう、母は、かすかに頭を動かした。大理石のように、光沢のあった白い頬は、あおざめて、美しい眼は、にぶい光を放ち、まゆは釣り上がり、くちびるは刻一刻紫色に変っていた。
 美奈子が、寝室を出て、居間の方にある卓上の電話を取り上げたときだった。彼女は、青年の寝室のドアが開かれて、其処そこに寝台がむなしく横たわっているのを知った。
 恐しい悲劇の実相が、彼女に判然とわかった。


     

 医者が来るまで、瑠璃子は恐ろしい苦痛にもだえていた。が、彼女はその苦痛を、じっと堪えていた。華奢きゃしゃな身体に、致命の傷を負いながら、彼女は悲鳴一つ揚げなかった。たゞ抑え切れない苦痛を、低いうめき声にもらしているだけであった。
 美奈子の方が、かえって逆上していた。彼女は、母の胸にすがりながら、
「お母様! しっかりして下さい。しっかりして下さい!」と、おろ/\叫んでいるだけだった。
 そのうちに、瑠璃子は、ふと閉していた眼を開いた。
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そして、異様な光を帯び初めたひとみで、じっと美奈子を見詰めた。
「お母様! お母様! しっかりして下さい!」
 美奈子は、泣き声で叫んだ。
「美奈さん!」
 瑠璃子は、身体に残っている力を、振りしぼったような声を出した。
「わーたーし、わたし今度は、もう――駄目かも知れないわ。」
 一語二語、はらわたから、しぼり出るような声だった。
「お母様! そんなことを! 大丈夫でございますわ、大丈夫でございますわ。」
「いゝえ! わたし、覚悟していますの。美奈さんには、すみませんわね。」
 そう言った母の顔は、苦痛のために、ピク/\と痙攣けいれんした。
 美奈子は、わあっ! と泣き出さずには いられなかった。
「それで、わたし貴女あなたに、お願いがあるの。あの、電報を打つときに、神戸へも打っていたゞきたいの!」
 瑠璃子は、恐ろしい苦痛に堪えながら、途切れ/\に話しつゞけた。
「神戸! 神戸って、何方どなたにです?」
 美奈子は、怪しみながらいた。
「あの、あの。」瑠璃子は苦痛のために、言いよどんだようだったが、「あの、杉野直也なおやです。わたし、新聞で見たのです。月初に、ボルネオから帰って、神戸の南洋貿易会社にいるはずです。死ぬ前に一度えればと思うのです。」
 瑠璃子は、やっとあえぎながら言い終ると、精根が全く尽きたように、ガクリとくずおれてしまった。
 二年の間、恋人のことを忘れはてた ように見せながらも、真は心の底深く思い続けていたのであろう。恋人の消息を、よそながら、むさぼり求めていたのであろう。
 医者が、来たのは夏の夜が、はや白々とあけ初める頃であった。
 一時間近くもかゝったために、瑠璃子は、多量の出血のために、昏々こんこんとして人事不省のうちにあった。
 内科専門のまだ年若い医者は、覚束おぼつかない手付で、瑠璃子の負傷を見た。
 それは、可なり鋭い洋刀ナイフで、右の脇腹わきばらを一突き突いたものだった。傷口は小さかったが、深さは三寸を越していた。
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「重傷です。私は応急の手当をしますから、直ぐ東京から、専門の方をお呼び下さい。今のところ生命には、別条ないと思いますが、しかし最も余病を併発しやすい個所ですから、何とも申せません。」
 医者の眉は、うれわしげに曇った。
 いたいけな美奈子には、背負い切れないような、大切な仕事を、彼女ははげしい悲嘆と驚きとのうちに処理せねばならなかった。その中で、一番いやだったのは、医者が去るのと、入れ違いに入って来た巡査との応答だった。
「加害者は、逃げたのですか。」
 美奈子は、何とも答えられなかった。
「その青木と言う学生と、貴女あなたのお母様はう言う御関係があったのです。」
 美奈子は、何とも答えられなかった。
「何か凶行きょうこうをするについて、最近の動機ともなったような事件がありましたでしょうか。」
 美奈子は、何とも答えられなかった。たゞ、彼女自身、恐ろしい罪の審問しんもんを受けているように、心が千々にさいなまれた。


     

 夜は明け放れた。今日も真夏の、明るい太陽が、箱根の山々を輝々ききとして、照し初めた。が、人事不省のうちに眠っている瑠璃子は、昏々こんこんとして覚めなかった。生と死の間の懸崖けんがいに、彼女の細き命は一縷いちるの糸にって懸っていた。
 その日の二時過ぐる頃、美奈子の打った急電にって、かね美奈子の傷を治療したことのある外科の泰斗たいと近藤博士が、け付けた。が、博士にって、あらゆる手当がほどこされた後も、瑠璃子の意識は返って来なかった。
 その前後から、はげしい高熱に襲われ初めた瑠璃子は、取りとめもない囈言うわごとを言いつゞけた。その囈言うわごとの中にも、美奈子は、母が直也と呼ぶのを幾度となく聴いた。
 夕暮になって、瑠璃子の父の老男爵だんしゃくが馳け付けた。瑠璃子の近来の行状【品行】を快く思ってはいなかった男爵は、その娘と一年近くも会っていなかった。が、死相を帯びながら、瀕死ひんしの床に横わっている瑠璃子を見ると、老いた男爵の眼からは、涙が、潸然さんぜんとしてほうり落ちた。娘のこうした運命が、九分までは自分の責任だと思うと、娘の額に手をやった男爵の手は、わな/\ふるえずにはいなかった。
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 美奈子は、母の兄なる光一にも、電報を打ったけれども、恐らく彼は東京を離れていたのだろう、夜になっても姿を見せなかった。
 東京から急を聴いて馳け付けた女中や、執事しつじなどで、瑠璃子の床はにぎやかに取巻かれた。が、母を――肉親はつながっていなくとも心の内では母とも姉とも思う瑠璃子を、失おうとする美奈子の心細さは、時のつと共に、段々つのって行った。
 丁度夜の十時に近い頃だった。母はやゝ安眠に入ったと見え、囈言うわごとが、しばらく途絶とだえて、いやな静けさが、部屋のうちに、漂っていたときだった。廊下に面したドアを、低く、聞えるか聞えないかに、トン/\と打つ音がした。女中が立ってそれを開いたが、美奈子の所へ帰って来た。
「あの、お嬢さま。ホテルの支配人の方が、一寸ちょっとお目にかゝりたいと申しております。」
 美奈子は、立ち上って扉の所へ行った。
「どうか、一寸ちょっとこちらへ。」
 支配人は、美奈子に廊下へ出ることを求めた。美奈子が、一寸ちょっと不安な気持に襲われながら、続いて廊下へ出ると、支配人は声をひそめた。
「お取込みの中を、大変恐れ入りますが、今箱根町から電話がかゝっているのです。実はあしの湖で今夕水死人の死体が上ったと言うのですが、それが二十三四の学生風の方で、舟の中に残して置いた数通の遺書で見ると、富士屋ホテルにて、青木、と書いてあったと言うのです。」
 そこまで、聴いたとき、美奈子は自分の立っている廊下の床が、ズーッと陥込おちこむような感じがしたかと思うと、支配人がおどろいて彼女の右の肩口を捕えていた。
「あゝ危い! しっかりして下さい!」
 彼女は、最後の力で、自分のよろめく足を支えた。が、暫らくの間、天井と床とがグル/\回るような気がした。
「いや、おおどろかせしてすみません、たゞ青木さんの東京のおところだけが承りたかったのです。」
 美奈子が、ふるえる声で、それに答えると、支配人は幾度もびながら、倉卒そうそつとして去った。
 もう、美奈子の弱い心は、人生の恐ろしさに、打ち砕かれてしまっていた。彼女が部屋へ帰って来たとき、彼女の顔色は、きずついている瑠璃子のそれと少しも変っていなかった。
 が、丁度その時に、瑠璃子は長い昏睡こんすいから覚めていた。美奈子の顔を見ると、彼女はなつかしげなひとみで物を言いたそうにした。
「お母様! お気が付きましたか。」
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 少し明るい気持になりながら、美奈子は母の耳許みみもとで叫んだ。
「あゝ、美奈さん。まだ? まだ?」


     

 消えかゝるともしびのように、瑠璃子の命は、絶えんとして、又続いた。
 翌日になって、彼女の熱は段々下って行った。傷の痛みも、段々薄らいで行くようだった。が、衰弱が、いたましい衰弱が、彼女の凄艶せいえんかおに、刻一刻深く刻まれて行った。
 彼女の枕頭ちんとうに、ほとんど附き切っている近藤博士の顔は、それにつれて、うれわしげに曇って行った。
うでしょう、助かりましょうか。」
 父の男爵だんしゃくは、傍に誰もいないのを見計みはからって、ささやくようにいた。
「希望はあります。けれど……」
 そう答えたまゝ、博士の口は重くつぐまれてしまった。
 美奈子は、そうした問を発することが、恐ろしかった。彼女はたゞ、力一杯、心と身体との力一杯消え行こうとする母の魂に、すがり付いている外はなかった。昨夜中、眠らなかった美奈子の身体は綿のように疲れていた。が、彼女は誰が何と勧めても母の病床を去ろうとはしなかった。
 瑠璃子は、昏睡こんすいから覚める度に、美奈子の耳許近く、同一の問を繰返していた。が、その人は容易に、来なかった。電報が運よく届いているかどうかさえ、判然はっきりしなかった。
 午後三時頃だった。瑠璃子は、その衰えた視力で、美奈子をじっと見詰めていたが、ふと気が付いたように言った。
青木さんは?」
 美奈子愕然ぎょっとした。彼女は、しばらくは返事が出来なかった。
青木さんは?」
 母は、繰り返した。美奈子は、ふるえる声で答えた。
何処どこへ行かれたか分りませんの。あの晩からずうっと分りませんの。」
 が、瑠璃子は、美奈子の表情ですべてをさとったらしかった。寂しい微笑らしい影が、その唇のほとりに浮んだ。
「美奈さん、本当を言って下さい。わたし覚悟していますから。どうせ助からないのですから。」
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 美奈子は、何とも口がけなかった。
「自首したの?」
 美奈子は、首を振った。瑠璃子の衰えた顔に、絶望的な色が動いた。
「じゃ、自殺?」
 美奈子は、黙ってしまった。彼女の舌は、釘付くぎづけられたように動かなかった。
「そう! わたし、そうだと思っていたの。でも今度だけは、わたし悪意はなかったの。」
 そう言いながら、瑠璃子は目を閉じた。美奈子すべてがわかっていた。母は、美奈子に対する義理として、青年をあれほど、露骨にしりぞけたのだった。美奈子に対する彼女の真心が、彼女を、この恐ろしい結果に導いたのだと言ってもよかった。そう思うと、美奈子は身も世もないような心持がした。
 日暮に近づくに従って、瑠璃子の容態は、険悪になった。熱が、反対にぐん/\下って行った。呼吸が――それも何の力もない――愈々いよいよせわしくなって行った。
 博士は、到頭とうとう今夜中が危険だと言うことを、宣言した。
 瑠璃子に対して、死の判決文が読まれたときだった。ホテルの玄関に、横着よこづけになった一台の自動車があった。それは昔の恋人の危急におどろいて、瀕死ひんしの床を見舞うべくけ付けて来た直也だった。熱帯地にける二年の奮闘は、彼の容貌ようぼうをも変えていた。一個白面の貴公子であった彼は、今やあかぐろい男性的な顔色と、隆々たる筋肉を持っていた。見るからに、颯爽さっそうたる風采ふうさい面魂つらだましいとを持っていた。その昔ながらに美しいひとみは、自信と希望とに燃えていた。


     

 直也瑠璃子の部屋に入って来たとき、瑠璃子は夢ともなくうつつともないように眠っていた。
 生命そのもの、活動そのものと言ったような直也の姿と、死そのもの、衰弱そのものと言ったような瑠璃子あおざめた瀕死ひんしの姿とは、何と言う不思議な、しかしあわれな、対照をしただろう。青春の美しさと、希望とに輝きながら、肩をならべて歩いた二年前の恋人同士として、其処そこに何と言うおそろしいへだたりが出来たことだろう。
 美奈子は、看護婦達を遠ざけた。そして、母の耳許みみもとに口を寄せて叫んだ。
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「お母さま、あの、直也様がいらっしゃいました。」
 段々、衰えかけている瑠璃子の聴覚には、それが容易には聞えなかった。美奈子は再び叫んだ。
「お母さま、直也様がいらっしゃいました。」
 瑠璃子の土のようにあおかおの筋肉が、かすかに、動いたように思った。美奈子の声がようやく聞えたのである。美奈子は、三度目に力をめて叫んだ。
「お母様、直也様がいらっしゃいました。」
 ふと母の頬が、――二日の間に青白くしなびてしまった頬が、ほのかにではあるがうす赤く染まって行ったかと思うと、その落窪おちくぼんだ二つの眼から、大粒の涙がほろ/\と、止めどもなくでた。と、今まで毅然きぜんとして立っていた、直也の男性的な顔が、妙にひきつッたかと思うと、彼のあかぐろい頬を、涙が、滂沱ぼうだとして流れ落ちた。
 美奈子は、恋人同士に、二人りの久し振りの、やがて最後になるかも知れない会見を与えようと思った。
「お母様! それでは、わたくしはお次ぎへ行っておりますから。」
 そう言って、美奈子は次ぎの部屋に去ろうとした。すると、意外にも瑠璃子は、瀕死の声を揚げて言った。
「美奈さん! あなたも――どうか/\いて下さい。」
 それは、かすかな、わずかくちびるるゝような声だった。
「お母様、わたくしもいるのですか。わたくしもいるのですか。」美奈子は、再びいた。母は、肯いた。いな肯くように、その重い頭を、動かそうとしたのだ。
 やがて、瑠璃子は、その衰えはてたひとみを持ち上げながら、何かを探るような眼付をした。
「瑠璃さん! 僕です、僕です。分りますか。杉野ですよ。」
 直也も、激して来る感情にえないように叫びながら、瑠璃子おおいかぶさるように、そのあかぐろい顔を、瑠璃子の顔に触れるような近くへ持って行った。
 瀕死の眼にも恋人の顔が分ったのだろう、彼女の衰えた顔にもうれしげな微笑の影が動いた。それは本当に影に過ぎなかった。微笑ほほえだけの力も、彼女にはもう残っていなかったのだ。
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直也さん!」
 瑠璃子は、消えんとする命の最後の力を、ふりしぼったのだろう、が、しかし、それはかすかな、うめくような声として、唇を洩れたのに過ぎなかった。
「何です? 何です?」
 直也は、瑠璃子の去らんとする魂に、すがり付くように言った。
「わ――た――し、あなたには何も言いませんわ。たゞお願いがあるのです。」
 それだけ続けるのが、彼女には精一杯だった。
「願いって何です?」
「聴いてくれますか。」
「聴きますとも。」
 直也は、心の底から叫んだ。
「あの――あの――美奈さんを、貴君あなたにお頼みしたいのです。美奈さんは――美奈さんは――みなし――みなし――みなしご……」
 そこまで、言ったとき、彼女の張り詰めた気力の糸が、ぶつりと切れたように、彼女はぐったりとなってしまった。
 母が、直也を呼んだことが、彼女自身のためではなく、母が一番信頼する直也に、自分の将来を頼むためであったかと思うと、美奈子は母の真心に、その死よりも強き愛に、よゝとばかり、泣き伏してしまった。
 その夜、瑠璃子の魂は、美しかりし彼女の肉体を永久に離れた。烈々たる炎のごとき感情の動くまゝに、その短生を、火花の如く散らし去った彼女の勝気な魂は、恐らく何のくいをもいだくことなく縹渺ひょうびょうとして天外に飛び去ったことだろう。


     

 母を失った美奈子の悲嘆は、限りもなかった。彼女は、世の中のすべてを失うとも、母さえ永らえてれゝばと、嘆き悲しんだ。
 母の亡骸なきがらが、棺に納められた後、彼女は涙のうちに母の身辺のものを、片づけにかゝっていた。そして、最後に、母が刺されたその夜に、身に付けていた、白い肌襦袢はだじゅばんに、手を触れなければならなかった。それには、所々血がにじんでいた。美奈子は、それに手を触れるのが恐ろしかった。が、母が身に付けたものを、他人の手にかけるのは、いやだった。彼女は、恐る/\それを手に取り上げた。そのときに、彼女はふとその襦袢の胴のところに、布類とは違った堅い手触りを感じた。彼女はおどろいて見直した。其処そこには何か紙片かみきれのようなものが、軽く裏側から別に布をおおうて、縫い付けられていた。
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彼女はそれを見ようか見まいかと思いまどった。母の秘密を、死後にあばくことになりはしないかと恐れたが、彼女はそれが母の大切な遺書か、何かのようにも思われた。彼女は、思い切って、おそる/\それを取り出して見た。意外にも、それは台紙をがした一葉の写真だったのである。写真は、絶えず母の肌と触れていたために、薄れてはいたけれども、まぎれもなく直也が、学生時代の姿だった。
 美奈子は、その写真を見たときに、母の本当の心がわかったように思った。母が、黄金の力のためにいつわりの結婚をしたときも、美しき妖婦ようふとして、群がる男性を翻弄ほんろうしていたときにも、彼女の心の底深く、初恋の男性に対する美しきみさおは、けがれなき真珠のごと燦然さんぜんとして輝いていたのであった。いな、彼女は初恋の人に対する心と肉体との操を守りながら、初恋をにじられた恨を、多くの男性に報いていたと言ってもよかった。
 美奈子は、母に対する新しい感激の涙にむせびながら、隣室にいた直也を呼ぶと、黙ってその写真と肌襦袢とを示した。
 しばらく、それを見詰めていた直也は、あふれ出ずる涙が、美奈子の手前一寸ちょっとは支えていたが、到頭とうとう堪えきれなくなったと見え、男泣きに泣き出してしまった。
        *        *        *
 青木みのる瑠璃子との死に就いて、都下の新聞紙は、その社会部面の過半を割いて、いろ/\に書き立てた。が、そのどれもが、瑠璃子夫人を男の血を吸う、美しき吸血魔ヴァンパイアとすることに一致した。中には、夫人の死を、妖婦ようふカルメンの死に比しているものもあった。夫人の華麗奔放、放縦不羈ほうじゅうふきの生活を伝聞していた人々は、新聞の報道を少しも疑わなかった。夫人の美しさをたたえると同時に、夫人の態度を非難するあらしのような世評の中に在って、夫人の本当の心、その本当の姿を知っているものは、美奈子直也の外にはなかった。
 が、世の中の千万人から非難されようとも、彼女がこの世の中で愛した、たった二人の男性と女性とから、理解されていることは、大輪の緋牡丹ひぼたんの崩るゝ如く散り去った彼女に取って、さぞ本望であっただろう。
        *        *        *
 記憶のよい読者は、去年の二科会に展覧された『真珠夫人』と題した肖像画が、秋の季節シーズンを通じての傑作として、美術批評家達の賛辞さんじを浴びたことを記憶しているだろう。
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 それは、清麗高雅、真珠の如き美貌びぼうを持った若き夫人の立姿であった。しかも、この肖像画の成功はその顔に巧みに現わされた自覚した近代的女性に特有な、理知りち的な、精神的な、表情の輝きであると言われていた。その絵を親しく見た人は、画面の右の端に、K. K. と署名サインされているのに気が付いただろう。それは、妹の保護のもとに、芸術の道に精進していた唐沢光一が、妹の横死【不慮の死】をいたむ涙のうちに完成した力作で、彼女に対する彼が、唯一ゆいいつ手向たむけであったのであろう。
        *        *        *
 瑠璃子を失った美奈子の運命が、この先何うなって行くか、それは未来のことであるから、の小説の作者にも分らない。が、われ/\は彼女を安心して、直也の手にまかせて置いてもいゝだろうと思う。




底本:「真珠夫人(上)」新潮文庫、新潮社
   2002(平成14)年8月1日発行
   「真珠夫人(下)」新潮文庫、新潮社
   2002(平成14)年8月1日発行
初出:「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」
   1920(大正9年)6月9日~12月22日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「甲斐々々《かいがい》しく」と「甲斐甲斐《かいがい》しく」の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:トレンドイースト、門田裕志、Juki
2014年5月14日作成
2016年9月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。感謝致します。
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