性に眼覚める頃
室生犀星


大正八年十月

 は七十に近いと一しょに、寂しい寺領奥の院で自由に暮した。そのとき、もうは十七になっていた。
 は茶が好きであった。奥庭を覆うているけやきの新しい若葉の影が、湿ったこけの上に揺れるのを眺めながら、はよくと小さい茶のを囲んだものであった。夏の暑い日中でもは茶のと一緒に座っていると、茶釜の澄んだ奥深い謹しみ深い鳴りようを、かえって涼しく爽やかに感じるのであった。
 はなれた手つきで茶筅ちゃせんを執ると、南蛮渡りだという重い うつわもの の中を、静かに しかも細緻なふるいをもって、かなり力強く、巧みにき立てるのであった。みるみるうちに濃い緑の液体は、真砂子まさご【細かい砂】のような最微な純白な泡沫となって、しかも軽いところのない適度の重さをたたえて、芳醇ほうじゅんな高い気品をこめた香気をどものあたまにみ込ませるのであった。
 はそのころ、習慣になったせいもあったが、その濃い重い液体を静かに愛ふくするというまでではなかったが、妙ににがみに甘さの交わったこの飲料が好きであった。じっと舌のうえに置くようにして味うと、がいつも言うように、何となく落ちついたものが精神に加わってゆくようになって、心がいつも鎮まるのであった。
「お前は なかなか お茶の飲みかたが上手うまくなったが、いつの間に覚えたのか……」などと、は言ったりした。
「いつの間にか覚えてしまったんです。いつもあなたがふくんでいるのを見ると、ひとりでに解ってくるじゃありませんか。」
「それもそうじゃ。何んでも覚えて置く方がいい。」
 そういうとき、はいろいろな古い茶碗を取り出して見せてくれた。初代近い釜らしいという古九谷の青や、まるで腐食されたような黒漆な石器や、黄と緑との強い支那のものなど、みな幾十年来の数繁かずしげき茶席の清いあかと 光沢とによって磨かれたのが多かった。
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そういうものはにはわからなかったが、の愛とうの心持がいつの間にかをして、やはり解らぬままに陶器をくようにさせていたことは実際であった。
 は、そのなかから薄い卵黄色の女もちにふさわしい一つの古い茶碗をとり出して、
「これはお前の のにするといい。」と、の手にわたした。
 はそれを茶棚の隅に置いて、自分の もちものにすることが嬉しかった。
 童顔仙躯どうがんせんくとでもいう【童顔であり仙人のようでもある】ように、眉まで白く長かった。いつも静かな看経かんきん【読経】の ひまひまには【合間ごとに】、茶を立てたり、手習いをしたり、暦をったり仏具を磨いたりして、まめまめしい日を送っていた。若いころに妻をうしなってから、一人の下男と音のない寂しい日をくらしていた。茶を立てる日になると、井戸水はきめが荒くていけないというので、朝など、
「お前 御苦労だがゴミのないのを一杯んで来ておくれ。」
 がうるさく思いはせぬかと気をかねるようにして、いつも裏の犀川さいかわの水をみにやらせた。東京では隅田川ほどあるこの犀川さいかわは、瀬にがれた きめのこまかな柔らかい質に富んでいて、茶の日には必要欠くことのできないものであった。はそんなとき、手桶をもって、すぐかわらへ出てゆくのであった。庭から瀬へ出られる石段があって、そこから川へ出られた。
 この犀川さいかわの上流は、大日山という白山の峯つづきで、水は四季ともに澄みとおって、瀬にはことに美しい音があるといわれていた。は手桶を澄んだ瀬につき込んで、いつも、朝の一番水をむのであった。上流の山山の峯うしろに、どっしりとそびえている飛騨の連峯をもやの中に眺めながら、新しい手桶の水を幾度となくみ換えたりした。
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んでしまってからも、新しい見事な水がどんどん流れているのを見ると、いまんだ分よりもっと鮮かな綺麗な水が流れているように思って、は神経質にいくたびもみかえたりした。
 この朝ごとの時刻には向河岸むこうぎしでは、酒屋の小者【丁稚でっち】の水みが初まっていた。小者はみな裸体になってあふれるほどんだ二つの手桶を天びんにかついで、街の方へ行った。静かな朝など、桶からはみ出た水が光って、まるで白刃しらはのように新しい朝日に輝いていた。の故郷にはこの川の水から造られた「菊水」という美しい味をたたえた上品なうまい酒がとれた。
 このかわらからはの住む寺院がよく見えた。二本の高いつがの樹をその左右にして、本堂を覆うたけやきかえでの大樹のひろがった、枝は川の方へ殆んど水面とすれすれに深く茂り込んでいた。そこは、用水から余った瀬尻せじりが深く水底を穿ほじくってどんよりとあお蒼しい淵をつくっていた。鮎や石斑魚うぐいなどを釣る人が、そこの蛇籠じゃかごしゃがんで、黙って終日釣り暮すのを見受けることがあった。
 んで来た一番水を毎時いつもよく洗われた真鍮しんちゅうの壺に納めて、本堂へ供えた。それを日の入りには川へ流すのが例になっていた。あとの水は、茶の釜にうつした。午前九時ごろになると、釜は、の居間で静かに鳴りはじまって、ことに冬など、ふすま越しにそれが遠い松風のように、文字通り時雨しぐれの過ぎ去ってゆくような音を立てた。
 そういうとき、は一つの置物のように端然と座って、湯加減を考えるように小首をかたげていた。夏は純白な麻の着物をまとうて、鶴のように痩せた手をひざの上にしている姿は、寂しさ過ぎていかめしく見えた。時時、仲間の坊さん連のやってくる外は、たいがい茶室で黙ってくらすことが多かった。

 は私で学校をやめてから、いつも奥の院で自分のすきな書物を対手あいてにくらしていた。
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学校は落第ばかり続いていたので、やさしいは家にいて勉強したって同じだと言ってくれたのを幸いにして、まるで若隠居のように、終日室にこもっていた。
 そのころは詩の雑誌である「新声」をとっていて、はじめて詩を投書すると、すぐにられた。K・K氏の選であった。はよく発行の遅れるこの雑誌を 毎日片町の本屋へ見に行った。この「新声」の詩壇に詩が載ることは、ことにのように地方にいるものにとっては困難なことであったし、実力以外では殆んど不可能なことであった。そのかわりそこに掲載されれば、疑いもなく一個の詩人としての存在が、わけても地方にあっては確実に獲得できるのであった。は、本屋までの途中、載るか載らないかという疑惑に胸さわぎして、ひとりで、あおくなったり赤くなったりした。
「『新声』ですか。まだ来ていませんよ。来たらおとどけいたします。」
 などと、本屋の小僧は、まるでの詩が没書にでもなったような冷たい顔をして言った。はそのたびに、
「あ。そう。」と、きまり悪くそそくさと帰った。
 そんな日はは陰気に失望させられていたが、その夜が明けると、もう朝のうちに本屋へ行って「新声」が来ているかどうかということを確めないと、落ちついて室にもいることができなかった。は本屋の店さきに立って、新刊雑誌を一と通りずっと見渡して、まだ着いてないことが判っても、もしも荷がついてまだ解かないのではなかろうか(そんなこともあったのだ。)などと思って、一度問いただして見なければ気がすまなかった。
「君。『新声』はまだ来ないかね。」と言っては赤くなった。
「今お宅へとどけようと思っていたところです。お持ちになりますか。」
「あ。持って行く――。」
 は、雑誌をうけとると、すぐ胸がどきどきしだした。本屋から旅館の角をまがって、裏町へ出ると、はいきなり目次をひろげて見た。
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いろいろな有名な詩人小説家の名前が一度にあたまへひびいてきて、たださえあわてているであるのに、殆んど没書という運命を予期していたの詩が、それらの有名な詩人連に挟まれて、規律正しい真面目な四角な活字が、しっかりと自分の名前を刷り込んであるのを見たとき、はかっとなった。血がみな頭へ上ったように、耳がやたらに熱くなるのであった。
 はペエジをる手先が震えて、何度も同じペエジばかりっていた。肝心の自分の詩のペエジをることのできないほどあわてていた。やっと自分の詩のペエジに行きつくと、はそこにこれまで見なかった立派な世界に、いまここにいるよりも別人のような偉さを見せて、しかも徹頭徹尾 まるでよろいでも着て座っているように、は私の姿を見た。東京の雑誌でなければ見られない四六しろく二倍の大判【現在のB5判(182mm×257mm)に近い大きさ】の、しかもその中に自分の詩が出ているという事実は、まるで夢のように奇跡的であった。は七月の太陽が白い街上に照りかえしているのに眼をられながら、どこからどう歩いてどの町へ出たか、誰に会ったか覚えていなかった。はまるで夢のように歩いて、いつの間にか寺の門の前に来ていた。
 は室へ入ると雑誌を机の上に置いて、あまりの嬉しさにしばらく茫然ぼうぜんとしていた。何を見るともない眼で、微笑をうかべたまま障子のそとのかわらを見ていた。かわらから大橋が見えた。通行人がたえず歩いて行った。はそのとき初めて大橋をいま渡って来たことを、たしかに下駄の踏み工合で地面とは異っていたことを思い出した。けれどもやはりどの道を歩いたか覚えなかった。
 は雑誌を机の上に置いたり読んだりしているうちに、これは是非に言っておかなければ ならないと思いながらも、何だか非常に恥かしくも感じたが、しかし言いたくて しかたがなかった。の室へ雑誌をもって入って行った。
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「東京の雑誌にの書いたものが載ったんです。この雑誌です。」
 とは「新声」をとり出した。
「そうか。それはいい塩梅あんばいだった。一生懸命にやれば何んだってやれるよ。お見せなさい。」
 の詩をよんでみたが、解りそうもないらしい顔をした。いくたびも読みかえして、
「むかしの漢詩みたいなものだ。それとは違うかな。」
「まあ同じいものです。」
 は苦笑した。
 は自分の室へかえると、自分の詩が自分の尊敬する雑誌に載ったという事実を 今は はっきりと意識することができた。そして、あの雑誌を読む人人はみな のものに注意しているに違いないと思った。この故郷の人も近隣の若い娘らまで きっとの詩をよむに違いない。は全世界のまぶしい注目と賛美の的になっているような、晴晴しい押え難い興奮のために、庭へ出て大声をあげたいようにさえ思った。の詩のよしあしを正しく批判するに値する人は、決してこの故郷にはいないように思われた。は私の故郷に於いて最もすぐれた詩人であることを初めて信じていいと思った。
 はその翌日から非常に愉快に生活することができた。は毎日詩作をした。机にかじりつきながら、どうかして偉くならなければ ならないという要求のために、毎日、胸さわぎとゆえもない震えようを心に感じながら、庭の一点をみつめたままで暮すようなことがあった。それから選者のK・K氏に長い手紙をかいて、自分は決して今の小ささでいたくないことや、これからも殆んど自分の全生涯をあげても詩をかきたいことなどを伝えた。K・K氏は強烈な日夜の飲酒のために、その若い時代をソシアリストとして、しかも社会主義詩集まで出した人であった。返事が来た。
「君のような詩人は稀れだ。は君に期待するから詩作を怠るな。」とあった。
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それから、ハガキで朴訥ぼくとつな、にじりつけたような墨筆で「北国の荒い海浜にそだった詩人に熱情あれ。」というような、何処どこか酒場にでもいて書いたもののようなハガキも来た。
 はその選者の熱情に深い尊敬をもっていた。そのころ詩壇では新しい口語詩の運動が起りかけていたが、流行をうことなき生一本なK・K氏の熱情にたいしては、その芸術よりもは深く敬愛していたのである。

いろ青き魚はなにを悲しみ
ひねもすそらを仰ぐや。
そらは水のにかがやきわたりて
魚ののぞみとどかず。
あはれ、そらとみづとは遠くへだたり
魚はかたみに空をうかがふ。

【訳】
色の青い魚は、何を悲しんで
一日中、空を見上げているのだろう。
空は水の上にきらきらと広がっているけれど、
魚の願いはそこへ届かない。
ああ、空と水とは遠く隔たっていて、
魚はただひたすら空をうかがっている。

(明治三十七年七月処女作)
 そのころと同じく詩をかいている悼影おもてとうえいという友人がいた。この友は、街のまん中の西町という処に住んでいた。に交際したいという手紙をよこしてから三日目に、この見ず知らずの友は、の寺をたずねにやって来た。
 おもては大柄なのに似合わない可愛い円い頬をして、あまり饒舌しゃべらない黙った人であった。かれはと同じ十七であった。たちはすぐに仲よしになった。
 もすぐにこの新しい友を訪ねた。姉さんと母親との三人ぐらしで、友の室は二階の柿の若葉した瑞瑞みずみずしい窓際に机が据えられてあった。「新声」や「文庫」という雑誌が机の上に重ねてあった。
「君の『新声』の詩を読んで感心しました。たいへんうまいと思いましたよ。」
 と言って、自分の短歌を見せた。「麦の穂はころもへだてておん肌を刺すまで伸びぬいざや別れむ【麦の穂は、着物を隔てたその奥の肌を刺すほどに伸びてきた。
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さあ、もう別れよう】」「日は紅しひとにはひとの悲しみの厳かなるに涙は落つれ【夕日は紅く染まっている。人には人それぞれの、おごそかな悲しみがあり、は思わず涙をこぼしてしまった。】」の二首はを驚かしたものであった。このような立派な美しく巧みな歌をよむ友が、以外にもこの故郷にいたことを喜んだ。それと同時に「おん肌を刺すまで伸びぬ」はたいへんうまいと思った。おもての作品はすべて情操のしっとりとした重み温かみを内にひそませているものが多かった。ことに「君」という相対的な名詞がの注意をいたのみならず、きっと「君」というからには、ラバア【恋人】があるにちがいないと思った。
 おもてはたえず手紙をかいて女のところに出していた。そして幾人の女からも手紙をもらった。それをよくに見せた。
「どうして君はそんなに女の人と近づく機会があるんだ。」
 は寂しい思いをさせられながら訊ねると、
「女なんかすぐに友達になれるよ。君にも紹介してやるよ。」と、わけもなく言った。
「僕にも一人こさえてくれたまえ。」
 などとは思わず言うと、かれは「もうしばらく待ちたまえ。」などと言った。
 ある日、おもてとは劇場へ行った。どもは二階にいた。おもてはそわそわと階下へ降りたり上ったりしていたが、
あの女はちょいときれいだろう。今手紙を送ったんだ。あす返事が来るよ。」
 などと、あごしゃくって、ます【桝席】を指した。そこには女学校に通うているらしい十七、八の桃割の、白い襟首と肥えた白い頬とが側面から見えた。すぐよこにお母さんらしい人が座っていて、前の方には、この城下町の昔から慣例しきたりのようになっている物見遊山に用いられる重詰の御馳走がひらかれてあった。
「どうして手紙を渡せるんだ。あそこへ君は持って行ったんじゃなかろうが。」
「なあに君、たいがいの女は手紙をうけ取ってくれるもんだよ。」
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「だってあの女の人が、お母さんに言いつけたら君はどうするんだ。」
「言うもんかね。大丈夫言いはしないよ。そんな頓馬とんまなことを言ったらあべこべにお母さんに叱られるばかりだよ。ほらこっちを向いたろう。手紙を読みたくてしようがないんだよ。」
 実際、色白な娘が、そしらぬふりをしながら、此方こちらをときどき盗み見た。ははっとしたが、おもては落ちついていた。どちらかといえば不思議なような、それでいて馴れやすい目をもった女は、よりもやはり絶えずおもてに注意をしながら二階の方を素知らぬふりで幾度も見た。
「このつぎの幕間に僕はあの女を呼んで見せるよ。僕の近所の女なんだよ。向うだって知っているに決っている。」
「だって呼ぶってどうするんだ。向うにお母さんがついているじゃないか。」
「まあ見ていたまえ。」
 おもては落ちついて、次の幕のハネるのを待つように言ったので、はその娘の桃割と派手なつくりのお太鼓とを見つめていた。そのおとなしそうで内気な女が、いまそばにいる友の手紙をうけ取ったということさえ殆んど奇跡的であるのに、おもてが彼女を呼んで見せるということが、これまた信じることの出来ない不審なことであった。おもては女性にたいしては無雑作であるようでいつも深い計画の底まで見貫みぬく力をもっていることは実際であった。かれは決してきむすめ以外には手出しをしなかったし、生娘きむすめなれば たいがい 大丈夫だとも言っていた。
「駄目な時には初めっから駄目なんだ。向うが少しでもいやな顔をしたり、手を握らせなかったりしたら、どんなに焦っても駄目さ。そんな奴はやめてしまうさ。それになるべく美人の方がやりいいね。」
「なお むつかしいじゃないか。」
 は問い返した。
「きれいな女は二、三度引っかかっていなけりゃ、子供の時分から人に可愛がられているから馴れていてやりよいのさ。」
 おもては真面目な顔をした。
「そんなもんかなあ――僕はその反対だと思っていたんだ。」
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 おもての言葉の中に、本当のところがあるような気がした。
「だから美人は たいがい 堕落だらくする――僕の経験から言っても、わるい女はきっとねつけるようだね。」
 だちが ひそひそ話しているうちに、幕が引かれた。おもては騒がしいほこりの立ったますの方をじっと凝視していたが、急に立って廊下の方へ行った。そして女のますからややはなれた桟敷さじきの囲いのそとに永く立っていた。は胸に鼓動をかんじながら見ていると、女はお母さんと何か話をしいしいおもての方へ目をやっていた。おもては右の手を自分のひざのところで、妙に物をすくうような格好をして、一種の秘密な手招きをやっていた。女はの目にも判るほどおろおろした、落ちつかない様子で、ぼんやり引幕をながめたり、また急におもての方を気にしたりしていた。それらの態度の狼狽うろたえた内気な、それでいて怖れに充ちているのが、には限りなく優しいものに見えた。おもては表で、他の見物にそれと分りかねるような、狐憑きつねつのような手招きを執拗につづけていた。そのうち女は もうどうにも ならない様な中腰になってまで、しばらく躊躇ためろうていたが、ふと立って廊下の方へ出て行った。なりの高いくびの細い女であった。そのときおもてもすぐ娘の出て行った廊下へうろたえて行った。
 は娘が立った瞬間から、頭にかっと血が上ったように、呼吸さえつまるような興奮を感じた。そして、すぐおもてのそばへ行って見たいような気がした。何だかあの娘が可愛相な気がしたりして、もう座っていることができなかった。は立って階下へゆこうとしたが行ってはいけないようにも思われるし、行かなければ ならないようにも思われ、自分でないほど ふらふらと目まいまでが仕出した。
 そこへおもてがかえって来た。れいの優しい目つきで、しかも何処どこか興奮したらしい少し震いを帯びた声で、
「もう仲善しになってしまったんだ。見ていたのかい。」
「うん。
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すこしばかり――話しをしたの。」
「明日ね。さっきの返事をよこすって言っていた。」
 は黙り込んでいた。おもてを前に置いて ああまでしなければよかった というような顔をして、気まずく黙っていた。そして、
「君にも紹介するよ。」と、気休めらしく言ったが、はわざと黙って、席についた桃割をじっと見ていた。女がいますこし前におもてと話したりしたという事実が、ああも手早く簡単に行われたということが、殆んど 有り得べからざるもの のように思えた。はげしい嫉妬をかんじながらも、あまりの不審さと余りに奇跡的なのには呆れ返っていた。
 女はつぎの幕間には、ときどきおもての方を向いてはそれとなく微笑して見せたりした。おもてはそんなとき思いきった大胆な微笑を送った。それがいかにも開け放しで、つき込んだ【突き出した】微笑であった。は心の中で益益ますますひどい寂しさをかんじた。よりおもては柔らかい輪郭と優しい目とをもっていることなども、いつも思うことながらの気を益益ますますふさぎ込ませた。
 達は芝居を見るとすぐに別れた。
 おもての眼だけを見ていると、そのいつも近眼鏡の下に温和おとなしくまたいていて子供のように円円まるまるしてそこに狡猾ろうかつさも毒毒しさもなかった。わけて縁日や劇場でああまで大胆に女に接近するさまは、不審すぎるほど不審で、いつも一歩も仮借かしゃく【 見逃がすこと】しなかった。
 あるとき、劇場などで、わざわざ娘らしい女の座った足につまずいて見せて、
「どうも失礼しました。」と、白白しく、しかも丁寧ていねいに詫びると、かえって対手が赤くなって、
「いいえ。」と、はにかむと、彼はいつもその隣席へ割り込むのであった。
 幾時間も一しょに座っているうちに、彼は実にたくみに話しかけては対手の心をだんだんに柔らげると、いつの間にか手を握るところまで、図図しくき込んでゆくのが癖であった。
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そばによその人が注視していても、それにはまるで気にけないで、殆んど無知なほど大胆で巧妙であった。
 彼は、いつも眼鏡のそとから、じろりと秋波めいたものを送るとき(彼はと対談しているときも嫌な横目をした。)何かしら嫌らしい淫猥な、陰険な気持を含んでいた。しかも彼がと同じい年頃であるにかかわらず、その長い髪を真中から分けているところや、気のきいた帽子をかむっていた点は、の学生じみた格好よりも、ずっとませ込んでいた。
 おもての「君」という相対語の意味がだんだん解りかけていた。それに一方嫉妬をかんじながらも、は何かしら彼が懐しかった。別に彼が「女を紹介する」と言っても、紹介しもしなかったが、そのもの柔らかな言葉や、詩の話などが出るごとに、あの悪魔的な大胆な男が、よくもこうまで優しい情熱をもっているかと思うほど、初初ういういしいところがあった。それに詩作では全く天才肌で、何でもぐんぐん書いて行った。(数年後は上京したときK・K氏がおもては全く驚異すべき天才をもっていたということを聞いた。)
 彼は子供のときから印刷工場に勤めていた といわれていたが、と知るようになってから、もう何処どこへも勤めに出てはいなかった。彼はと同じように毎日机にむかって、姉に保護されていた。

 寺のことは たいがい がしていた。本堂に八基の金灯籠かなどうろう、観音の四灯、そのほか客間、茶室、記帳場――総て十二室の各座敷の仏画や仏像の前には、みな灯明がともされていた。それらは、よちよちと油壺と灯心草とうしんそう【イグサ】とをのせた三宝【四角い木製の台】を持ったが、朝と夕との二度に、しずかな足袋たびずれを畳の上に立てながらともして歩くのであった。寺へ来る人人は、よくの道楽が、御灯明を上げることだなどと言っていた。それほどは高価な菜種油を惜まなかった。自身も、
「お灯明は仏の御馳走だ。」と言っていた。
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 しかし境内けいだいの二基の瓦斯ガス灯は、ときとすると下男のいないときは、いつもともさなければ ならなかった。
 が読書などしていて午後五時ごろになると、もうのお灯明配りが始まっていた。幾十年来 ともしつけているその手つきはれた【熟練した】ものであった。新しい灯心草とうしんそう【イグサ】を土器かわらけに挿すと、油壺は静かにゆるく【ゆるやかに】その土器かわらけにそそがれ、そしていつも点火された。それは実に静かで、いかにも清浄な仕事では見ていていつも感心していた。
 ふすま襖がすーと音がして開いたり閉ったりすると、足袋たびずれが次の室から次の室へと遠のいて行って、そのたびに、一つ一つの室に新しい灯明がぱっちりとあかるくともされてゆくのであった。それを見ていると、まだそとが明るいけれど、もう晩になったような気がしてくるのであった。
 はよく夕方 境内けいだいを歩くことがあった。幾抱えもある大きなつがが立っていて、どんなに雨が降ってもその根元を湿すことがなかった。その下に迷い子の墓碑があって、子供が道に迷ったりすると、この墓碑に祈願きがんすれば、ひとりでに子供の迷うている町が判るといわれているこけ蒸したこの墓碑は、いつもたたずんだりもたれたりするに都合がよかった。
 くるわ遊郭】に近い界隈だけに、夕方など、白い襟首をした舞妓や芸者がおまいりに来たりした。桜紙【淡い桃色のやわらかい和紙】を十字にむすんだ縁結びを、金毘羅【航海安全や商売繁盛の神】さんの格子にくくったりして行った。その縁結びは、いつも鼠啼ねずみなきをして、ちょいと口でぬらしてする習慣になっているらしく、はその桜紙に口紅のはげしい匂いをよく嗅ぎ分けることができた。そのうすあまい匂いはのどうすることもできない、樹木にでもからみつきたい若い情熱をそそり立て、悩ましい空想を駆り立ててくるのであった。
 の幼年のころ川から拾い上げた地蔵尊は、境内けいだい堂宇どうう【寺の建物】におさまっていた。
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はそこへゆくといつも姉を思い出した。姉は間もなく隣国の越中へ行って、永く会わなかった。あの小さい姉とこの地蔵尊のお祭りしたことも、いつも、そのころ建てた流れ旗や三宝や仏器が今もこの堂宇に納っているのを見ると、が寺院にもらわれて来たことにも、みな深い因縁があるように思われた。行方不明になった母は、死んだという人もあり、まだ生きているという人もあったが、死んだ方がたしかに事実らしかった。が法名を書いてくれて仏壇に納めてあった。が法名を書いてくれた日を命日として、は心まで精進していた。
 いろいろな噂をとりあつめると、の母は派手なところがあって、虚無僧こむそうが塗り下駄をはいてお城下さきを尺八をながしてあるくのを見ると、若い母は、その翌日は虚無僧と同じい黒塗りの下駄をひっかけた。そういう小さな例からも、は あの落ちついた母に そういう軽はずみな若いときがあったかと、かえって嬉しそうにしている姿を目に見るようで 不快ではなかった。が養家さきから、ひっそりと会いに行って、つい寝込んでしまった母のひざのふれ心地のよかったことも、ずっと頭の奥の方に、いまも温かにふうわりと残っているような気がするのであった。
 は地蔵尊のそばへゆくと、それらのはてしない寂しい心になって、いつもふさぎ込むのであった。は人の見ないとき、そっと川から拾い上げた地蔵尊の前に立って手を合せた。母を祈る心と自分の永い生涯を祈る心とを とりまぜて祈ることは、何故かしら川から拾った地蔵さんに通じるような変な迷信をはもっていたのである。自分が拾いあげたという一つのことが、地蔵さんと親しみを分け合えるように、幼年の時代から考えた癖が今もなお根を張っているのであった。

 参詣さんけい人のなかには もう見知り顔もできていた。あるじが長い航海に出ているのを平穏無事にと祈願きがんしにくる中年の婦人は、いつも静かな、温かい母親の示すような挨拶をいつもにした。
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そのひとは、いつも手を合せて、永い間、懐中から手帛ハンカチにつつんだ写真をとり出して、それをひざの上にのせては低い声で何か祈りながら、板敷の上に座っていた。毎日、毎日、まるで印刷にしたように午後になるとやってきて、二時間あまりも座っておまいりしてゆくのであった。時には、におみくじを引いてもらって、海上生活が安穏あんのんであるかどうか ということを見てもらっていた。もう三十をよほど越した人であったが、内気なような皮膚の美しい人であった。
 それから中婆ちゅうばあさん【少し高齢の女性】の 手癖てくせのよくないのもいた。その中婆さんは いつも他の参詣さんけい人のいない、たとえばお昼飯ひるのころとか、午後の四時近いときかに、たくみに参詣さんけい人の途絶えたとき、賽銭箱のかぎを開けることが非常に上手であった。それは、一本のくぎ錠穴かぎあなから挿し込んで、逆にねじあけると、いつも容易に開くのであった。
 その中婆さんは、すぐ裏町に娘と二人で住んでいて、いつもやって来ては、あり金をき集めて持ってゆくことが、にはよく判っていた。あるときはは、わざとかぎくぎをつき込んだとき、本堂の内部からガタガタ音させてそれとなく注意したが、ひょいと本堂の内部を窺うだけで、やはりかぎを開けはじめるのであった。二、三度顔も見知っていたので、年寄を責める気にもならず、といって、記帳場(寺の事務所)へ告げる気にもならなかった。一つには中婆さんもあったせいもあった。はせいの高い堅肥りのかなりな器量きりょうをもっていた。東京へ逃げて行ったこともあり品行も悪いという評判であったが、それとは反対に瑞瑞みずみずしい若さ美しさに富んでいた。
 毎月十八日のお観音の祭日には、きっと親子揃っておまいりにやってくるのであった。そして二人とも揃いも揃った一種の盗癖をもっていたのである。中婆さんはいつも手近に落ちている銅貨をたくみにひざ頭に敷き込んでは、ふくらはぎのあたりへ手をやっては、たもとじ込んでいた。
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それは、たとえ隣によその人がいても、ちょっとの隙に礼拝するように板敷の上へ額をこすりつけている間に行われるので、たいがいの人には判明わからなかった。
 は記帳場の重い戸板の節穴から、すべての参詣さんけい人が何をしているかということが、よく眺められるのを幸いにして、よく彼のを見ることができた。彼女中婆さんのすることを横目でちょいちょい見ていたが、すぐ自分の左のひざから二、三寸前の方に落ちている銅貨に、たえず気を奪られているらしく、いくども横目でじろじろ見ていたが、急にひざの下に敷き込むということもなかったし、まさか、この美しいが わずかなものをかすめとるということも考えられなかった。彼女はもう十九か二十歳に見えたほど大柄で、色の白い脂肪質な皮膚には、一種の光沢をもっていた。その澄んだ大きな目は、ときどき、不安の瞬きをしていた。
 はそのとき彼女の左の手が、まるく盛り上ったひざがしらへかけて弓なりになった豊かな肉線の上を、しずかに、おずおずと次第にひざがしらに向ってすべってゆくのを見た。指はみな肥り切って、関節ごとに糸で括ったような美しさを見せていて、ことに、その なまなましい 色の白さが、まるで幾疋いくひきかのかいこうてゆくように気味悪いまで、内陣の明りをうけて、だんだんひざがしらへ向って行った。彼女の手がそのひざがしらと畳との二、三寸の宙をうようにして おろしかかったとき、彼女は鋭い極度に不安な、掏摸すりのようにはげしくあたりの参詣さんけい人の目をさぐって、自分に注意しているものがいないということを見極めると、五本の白い蛇のように宙にうていた指は、その銅貨の上にそっと弱弱しくむしろだらりと置かれた。と同時にその手はいきなり引かれて、観音の内陣の明るい燭火しょっかに向って合掌がっしょうされた。
 はそれを見ていて息がつまるような気がした。心持からか、彼女はすこしあおざめたような頬をして、その合せた左の手が不自然な、柔らかい格好をして握られると、いきなりたもとの中へ飛び込んだ。
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なぜ、ああいう美しい顔をしているのに、小さなみにくい根性が巣くっているのかと、はじっと見ていた。――彼女はそういう手段で幾度も幾度もやったが、だんだん機敏に、いきなり目的に向って、さきのような不必要な細心さや周到な注意を払うことがなかった。また、誰もこの美しいが小さな盗みのために座っているとは思えなかった。はこのことは記帳場へは話をしなかった。記帳場ではよくありがちなことであるから大概は意見をするだけで、見て見ぬふりをするのが多かったからである。
 それから二、三日後、は記帳場から何気なく境内けいだいの門のそとの道路を見ていると、一人の若い女が門のうちへ入ってくるのが見えた。そしてははっとした。それは十八日の晩の女であったからは驚いたのである。はすぐにある不吉の場面を想像した。そしてすぐに例の秘密な節穴から彼女を監視することにした。
 彼女はさっぱりした姿で、紅い模様のある華美はでな帯をしめていた。彼女はいきなり板敷の上に座ると、あたりを見回した。格子の内部は暗い内陣になっていたので、そこを透して誰かいるかと見ていたが、こんどは境内けいだいを見渡した。夏のことで暑いさかりの参詣さんけい人も途絶えて、湧くような蝉時雨せみしぐれが起っているばかりであった。彼女は一本のくぎをとり出した。そして母親のする通りにかぎ穴から挿し込んで、逆にねじあげると、かぎはかっちんと鳴って、賽銭箱から離れた。彼女は自分でその音に驚いたように非常にあお白い顔をして、あたりを丁寧ていねいに見回した。誰か不意に参詣さんけい人が来はしないかという懸念や、本堂の内部から見ていはしないかという心配に、何者かのけはいに聞耳ききみみを立てていたが、その白い手はおびただしく震えているのがの方からも見えた。その指はすんなりと長くて肥って、一本一本の関節がうす紅くぼかした ようになって 小さい可愛いえくぼさえ浮いていた。
 はそのとき、どうしたはずみであったか、戸板に額をふれさせたので、重い戸板がことんと音を立てた。そのとき、彼女吃驚びっくりしていきなり戸板の方を凝視した。
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ちょうどの覗いている節穴の正面に、しかも一生懸命になっているはげしい恐怖におそわれた、ありとあらゆる不安をあつめた彼女の大きな眼は、むしろ凄艶せいえんな光をたたえて じっとの額に熱い視線をりつけたのであった。はすぐ節穴から離れようとしたが、そうすれば節穴が明るい記帳場のひかりを透すであろうと思って、わざと不動じっとしていた。それに節穴が非常に小さかったのと、あたりがやや暗い堂内であったために、すぐ彼女はそのしつこい視線を解いた。ひざ頭が震えて、からだが、すくみ上るような堅苦しい息づまりをかんじた。彼女は誰も見ていないと知ると、こんどは、賽銭箱から一銭二銭の銅貨や五銭の白銅、または紙にくるんだのなどをすっかり小さな女持の、紅い美しいガマ口におさめてしまった。ガマ口に容れきれないのは、別に紙につつんで帯の間にはさみ込んだ。そして、また、がっちりとかぎおろして、あとをも見ずに寺を出て行った。そのせいの高いすらりとした後ろ姿は、その紅い帯とともにの目にいつもありありと描き出された。

 はそうした彼女の行為を見たあとは、いつも性欲的な興奮と発作とが頭に重りかかって、たとえば、美少年などをひどくいじめたときに起るような、こころよ惨虐ざんぎゃくな場面を見せられるような気がするのであった。それと一しょに、彼女がああした仕事に夢中になっている最中に飛び出して行って、彼女をじりじりとおどかしながら、そのさくら色をした歯痒いほど美しい頬のあおざめるのを傲然ごうぜんと眺めたり、または静かに今 彼女のしている事はこの世間では決して許されない事であり、してはならないことであることを忠告して、彼女がこころから贖罪しょくざいの涙を流して泣き悲しむのを見詰めたりしたら、どんなにこころよい、痛痒い気持になることであろう。
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そしてまた彼女が悔い改めて自分をしたって、しまいには自分を愛してくれるようになったら、自分はきっと寂しくないにちがいない。そうでなくとも、彼女の弱点につけ込んで、自分はどんな冒涜ぼうとく的なことでもできるのだなどと、は果しもない悩ましい妄念【邪念、妄想】にあやつられるのであった。おもてなれば、きっとこんな時 彼女を強迫してしまうにちがいない。そして直ぐに自由にしてしまうにちがいない。
 は板戸をはなれて記帳場へくると、執事の年寄が彼女が盗みをしたかどうかということを訊ねた。四、五日前に来たときにも、どうも素振りがあやしいし、あの女のきた日は賽銭がすくないなんて言った。はそのたびごとに「何もしなかったようですよ。この間はきっと出来心ですよ。あんな女のひとが盗みをするなんてことはありません。」と言って、決して真実を言わなかった。
「そうですか。ともかくもいい塩梅です。わるいことをされると此方こちらで黙っているわけにゆきませんからね。」と年寄たちは言っていた。
 しかし彼女益益ますますはげしく、殆んど毎日のようにやって来た。しまいには記帳場でも厳しい監視をしていたが、やはり彼女に疑いはかかっていても、彼女であるということが判らなかった。そういう話のでるたびに、
「きょうも怪しい男が本堂のところに休んでいましたよ。どうもおかしい奴だった。」
 は見もせぬ作りごとを言っておいた。
「そうですか。気をつけなければいけませんな。」と年寄は不安そうに言っていた。
 しまいにまでが、
「このごろは少しもおまいりがないのか、あがりがないようだね。」
 記帳場の帳面を見ながら言っているのをきいて、ははっとした。年寄たちもふしぎがっていた。だんだん何んだかが盗んでいるような、やましい気がしてならなかった。ことに記帳場の手前もあったので、が盗んだように思われるのが嫌だったので、彼女があり金をそっくり持って行ったあとに、はそれほどの金高をあとから小遣のなかから割いて、こっそりと賽銭箱に入れて置いたりした。その何より一番困ることは、賽銭の性質上、すべて銅貨でくずして入れておかなければ ならないことであった。
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そのために、よく向いの花売りの店でこわしてもらっては、そっと入れておいた。その効果はすぐに現われた。記帳場の年寄は、
「このごろ来なくなったようですよ。本当にいい工合だ。」
 そう言うのを聞いて、はひとりで苦笑した。しかし、ここに困ったことは三日や四日はゴマ化したものの、毎日そう小遣がに無かったために、に毎日のようにこの間からもらっているので、言いにくかった。と言って賽銭箱の方を打っちゃって置くわけにもゆかなかった。ある日、かね箪笥の中から少額ではあったが、銀貨や銅貨をとり出した。箪笥の中は紙幣やら銀貨やらで、だらしなくなっていたので判りそうもなかった。味をおぼえて次の日もこんどは紙幣の束からそっと幾枚かを抜き出した。そしてくずしては例の箱の中へ入れておいた。は重い金箪笥に手をかけるとき その金具ががちゃがちゃ鳴るのを気にしながら、いつも人の善いの微笑を思い出した。ことに、少年として過分な小遣をもらっているのに、いつも小言一つ言わないでくれるを、は私の盗みをするときにのみ「済まないな」と切にかんじた。しかしにはそうするより外に方法がなかった。それは彼女の盗みの埋め合せばかりでは無くなって、だんだん自分の用途にも使うようになっていた。ノートや青いインキ壺などが、次第にの机の上を新しく賑やかにして行った。
 そとでは毎日 彼女はやって来た。
 いつも午後三時ごろの、日ざかり過ぎの静かなほこりっぽい時、彼女のやや明るい紅い帯が、そのすっきりした高い姿とともに寺領の長い廊下の中に現われた。はそんなとき、すぐに「困ったな、また来たな。」と心でつぶやいた。その一面には何んだか永い間待っていた人が来たような気もした。しかし彼女の盗みを記帳場へは絶対に知らすまいと思っていた。一つは可愛想でもあるし、また、そういうことが知れたら決して彼女は寺へ来られなくなるだろう。
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来なくなるということは、にとっては いまは かなりに寂しいことであった。そうかと言って彼女の仕事の最中に飛び出して叱責する勇気はなかった。また一方にはそうそうの金箪笥に手をかければ、しまいに発見するにちがいない。はどうしていいか分らなかった。内と外とで示し合せたような盗みが行われているのが、には実に堪らない苦しさであった。彼女さえ盗みをしなければ、は勿論ああいう盗みをしなくていいのだ、とさえ思うようになった。何んだか、ときには女の人にとりすがって 姉にたいするような甘えた心持で、それを訴えて見たいような、まるで子供らしい考えにふけることもあった。
 はある日、彼女のやってくる時刻に、一通のてがみを書いて、それを賽銭箱の中へ入れて置いた。そうすれば、金と一しょにすべり出てゆくに ちがいないし、出れば読むに決っていると思った。それは、「あなたは此処ここへ来てはいけません。あなたの毎日せられたことはお寺にみんな知れているから、この手紙を見たらもう来てはいけません。」と書いたのだ。はそれを箱の中へ入れてからも、これを見たら彼女が来なくなるだろうという寂しい心持になった。そして入れなければよかったと思い、とり出してしまおうかと、落ちつかない心持になった。
 しかし時間はもう彼女のやってくる時に迫っていた。は れいの戸板のところで、くらやみからい出てくる蚊をはらいながら待っていると、彼女はやってきた。そして、もうすっかり馴れた手つきで素早くくぎをつっ込むと、かぎはあいた。そして箱をしずかにななめに傾けると、一方のかぎのあいた方から、銅貨や銀貨がぞろぞろとすべって出た。そのとき、の入れた手紙が出た。「田中様に」とかいておいたので、彼女は一と目見るなり、さっと顔を赤めた。はれいの節穴から一心に見詰めていた。恐ろしい好奇心に瞳を燃しながら、彼女の一挙一動を見逃すまいとして――かの女は顔を赤めた瞬間、すぐに稲妻のような迅速な驚愕を目にあらわしながら 四辺あたりを見回した。見るうちに彼女の手やひざ頭や、それらの一切の肢体が激しく震えた。
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彼女はおそるおそる手紙をとると、その瞬間、一種の狡猾ろうかつ情と落着きとを現わして、と裏とを見くらべたりして封を切った。読んだ。その刹那せつな 彼女の眼は実に大きく一時にびっくりしたような色をおびた。そして読み終るとすぐさま手紙を懐中へねじ込んで、まるで蹴飛ばされたように急いで雪駄をつっかけると突然いきなり駈け出した。寺の門のところでちょっと振りかえって見た。これは本当に二分間もかからなかった間のことである。
 はそのうしろ姿を見ていて、非常に寂しい気がした。は ああするより外 仕方がなかったのだ。彼女は驚きと極度の恐怖との中に 駈け出したのだ。あれで彼女が正しくなれば の書いたことはよかったのだ。彼女は怨んでいるに ちがいなかろう。これより永く彼女が寺へくることになれば、も同じ苦しみ盗みの道に踏み迷わなければ ならないのだ。
 は「なぜああいう美しい顔をして、ああいう汚いことをしなければ ならないか。」ということを考えたり、また、ああいう手紙をかいたものがであるということを知っているだろうかなどと考え込んだ。しかしは自分の持ち物をそっくり棄ててしまったような術ない寂しさに閉されはじめた。しかしはその日からの金箪笥に手をふれることをしなくなった。幸いのやったことは判らなかったので、はいつかはに謝まる時があるだろうと、それきり、あの重い箪笥のそばへも寄らなかった。

 は間もなく、毎時、彼女のやってくる午後三時ごろになると、境内けいだいを あちこち歩いたりして、もうあれきり来なくなったのを非常に寂しく感じた。小さくお太鼓に結んだ紅い帯地の模様を、時時、あたまの中で静かに考え出しては、ぼんやりつがの老木の根元にしゃがんで、二時間も三時間も高い頂に登ったり下りたりしている蟻の行列を眺めたりしていた。はなぜ、彼女にああいう手紙をやって注意したのか、なぜ、あのまま彼女を毎日寺の方へ来させて置かなかったのか。
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しかし段段考えると、うちのものに見付けられるよりが発見したのはよかったのだ。はどうにもならない やきもきした感情で永い間、来もしない彼女の姿を門内の長廊下や、堂前の板敷の上に描き出して、白いえくぼのある顔や、盛りあがった座り工合を想像した。そういうとき、は一言も話したことのない彼女との間に、ふしぎに心で許し合ったようなもの、お互の弱点をつき交ぜたものが 彼女との隔離を非常に親しく考えさせた。
 はどうかしてもう一度 彼女を見たいと思った。ああいう手紙をやったものが であるといういやしい報告によって、明らかに彼女の胸に が救い主であることを了解させたいと思った。その一面には、彼女が自分の悪事を看破られた理由から、あるいは、をかえって憎憎しく考えるにちがいない という不安もあったが、ともかく、はもう一度 彼女を見たいという欲求に燃えた。
 彼女だちの町のすぐ裏になっている、お留守組町に住んでいることをは知っていた。加賀藩の零落おちぶれた士族の多く住んだ町で、ちょうど彼女の家は前庭のある平屋で、それも古い朽ちはてた屋根石の あいまあいまには、まだ去年の落葉をき換えない貧しい家であった。小さい柴折戸しおりどのような門構えのなかは、すももと柘榴ざくろとが二、三本立っていて、小さい柘榴が実りはじめていた。
 家のなかは しんとしていて、台所口の水の音がちゃぶちゃぶしていた。はそのとき、すぐ胸がおどおどして直覚的に彼女が台所にいるような気がした。水を何かにかける音がざあーとすると、こんどはタワシでごしごし桶のようなものを洗っている音がした。はすぐさま、あの白い餅のように柔らかいえくぼのたくさん彫られた手を思い出して、あたまのそこまでしんとしてその美しい形や円みを描いた。
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 彼女がうちにいるという事実をたしかめるに有力な証拠としては、紅い鼻緒の立った籐表とうおもての女下駄が、日ぐれどきの玄関のうす明りに、ほんのりと口紅のように浮んでいるのを見たとき、たしかに家にいるということが感じられた。それは、あの紅い鼻緒の下駄をいつも彼女がはいては寺へ参詣さんけいにやって来たからであった。堂前のだんだんに いつも脱いであるのを殆んどは毎日のように眺めもしていたし、あざやかには頭にきざみ込まれていたからである。
 台所口に格子の小窓がついていて、そこに黒い濃い束髪が動いているのを見たとき、疑いもなく彼女であることを知った。は胸がわくわくするのと、音を立てないで通りに立っているのとで、ひざがしらがぶるぶる震えるのを、おさえるようにしていたが、砂利に下駄が食い込んでがりがりと音を立ててしまったので、はっと汗をかいた。そのとき、彼女はふいと小窓から通りを見て、の立っているのを見ると 何だか顔色をかえたように思われた。それがいかにも賽銭箱をこじ開けたときの彼女とは、全く別な美しい顔であって、その大きな目さえ、厳格に正面から凝視みつめたのである。
 はその大きな、艶透えんとうな目の光を感じると同時に、いくらか肉肥りした姿のよい鼻とくちと、多血質な美しい皮膚とをるように視線のなかに感じた。それらの喜ばしい艶やかな雑作は一瞬の間に、彼女いやしい盗みをやったことを思わせたが、やはり、そのときは別な、美しい女性としての威光をもって、ぶしつけに垣のそとに立っている譴責けんせきする【いましめる】もののように思われた。は一目見たいという望みが充たされたばかりでなく、彼女のこころよい皮膚の桜色した色合いが しっとりと 今心にそそぎ込まれたような満足を感じた。「あの人の盗みをしたことと、あの人の美貌とは決して係っていない。あの人はいつまでも美しい。そして盗みはみにくい。別別なものだ。」とは考え込んだりした。そしてまた「あの人は美しいから盗みをしても不快ではないのだ。
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美しい手でかぎをこじあけたからきつけられたのだ。」――はそういうことを考えながら、そっと柴折戸しおりどを離れた。はそのとき要垣かなめがきあかい葉を二つ三つ千切ちぎった。その深いあかねに近い朱色な葉ッ葉のなかにも、彼女の皮膚の一部を想像することができたからである。
 は裏町から通りへ出て、犀川さいかわのへりの方を歩いた。かわら草叢くさむらは高く茂り上って、橋の腹にまでとどいて、水はれ込んでいた。鉄橋の方は殆んど岸もわからないほどの一面の草原になって、すずみかたわら歩く人も多かった。はそれらの景情にひたりながらも、さきから引き続いた女の幻影を、こんどは、かえり途にもう一度見たいという執念強い要求のもとに縛りつけられて、はまたあの裏町へ歩いて行った。
 間もなく彼女の家近くまで来ると、胸さわぎと同時に急に早足で歩かなければ ならないような、足は足で、別に命令されたもののような歩き方をしてゆくのであった。そこの柴折戸しおりどの前までくると、いきなり玄関の格子戸が開いて、彼女何処どこかへ外出するらしい他処着よそぎをして出かかるのと、の眼とぴったりと突き当った。は思わず赤くなって目を伏せると、彼女はにっと微笑したように思われた。気のせいであったのか、それとも一種の幻惑の種類であったのか、ともかく、彼女の厚いくちもとから鼻すじへかけて、深い微笑のしわれこんだ事は実際であった。それと同時にいきなり柴折戸しおりどのところへやってくるので、はいそいで、今来た道へ引き返すような様子をした。彼女はやぶさのように柴折戸しおりどをあけると、と反対な道へ行った。ふりかえると、もう一町もさきへ行って、向うからも振りかえった。
 はあんな手紙などやらなければ よかったような気がし出した。そして彼女の弱点につけ込んでゆくような いやしい恥かしさが度を増して、彼女が町角をまがって見えなくなってしまったあとで、ひとりで顔が赤くなった。
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 寺の記帳場では、
「近頃ちっともの女が来ないようですね。あの人が来なくなってから、間違いがなくなったが、やはりあの女は怪しい――。」と記帳の年寄が言った。
「だって僕が幾度も隙見をしていたけれど、怪しいことがなかったんだもの。」
 しかし心の内では、年寄連がのああした仕事を知っているらしくも思われたりして、いつも、いい加減に座をはずすのであった。
 は机に向っているときでも、よくあの女の皮膚の一部や、粗雑なだけ親密になれるような物腰、それとははっきり判らなかったが、印象の深い微笑などがあの日から目にうかんで来て、我知らず、お留守組町まで用もないのに歩くことがあった。たとえば、玄関先の雪駄の紅い鼻緒にしろ、かなめの若葉の朱いのにしろ、その前庭の土の工合までが、一つ一つ懐しいもののように目に触れてくるのであった。ことにああいう盗みなどをするという大胆さの底には、きっと優しい、の心をれてくれるものが たたえられているように思われた。
 はその日もふらふらと釣られるように彼女の家の前までくると、家の内部は寂然として、気のせいか女の声らしい話しごえがしているようであった。前の庭はきれいに掃いてあって、柘榴ざくろの蔭にはおいらん草が裏町の庭らしく 乏しい花をつけているのが、わけても今日はなつかしく眺められた。しずかな家の内部はいかにも彼女の温かい呼吸や、血色のよい桜色した皮膚に彩色せられたように、そこに何ともいわれぬ温かい空気が漂うているように思われた。
 いつまで立っていても、人のけはいがしないので、は すごすご 立去ろうとするとき、庭の石のところに、糸屑を丸めたのが打棄てられてあるのが、その紅や白の色彩とともに、ふいと目にとまった。それがどういう原因もなしに、ふいとほしくなり出した。しかし其処そこまで入るときはどうしても柴折戸しおりどを開かねば ならなかったので、はしばらく考えていたが、急に柴折戸しおりどをそっとあけた。柴折戸しおりどはべつに音も立てなかったので、は十歩ほど忍び足になって、糸屑を拾うことができた。
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 糸屑はいろいろな用にたたないのを丸めてあったので、彼女を忍ぶよすがもなかったが、そのふわふわした筋ばった小さい玉を、握りしめて見ると、何かしら一種の女性に通じている心持が、たとえば無理に彼女の手なり足なりの感覚の一部を そこに感じられるように思われるのであった。その糸屑を拾うときに 殆んど突然に玄関先に脱ぎすててある 紅い緒の立った雪駄を ほしいような気がしたのは、自分ながら意外であった。何ということなしに、その雪駄の上にそっと自分の足をのせて見たら 面白いだろうという心持と、そこに足をのせれば、まるで彼女の全身の温味を感じられるように思われたからである。は子供のときから姉の雪駄をはいては よく叱られたものであるが、それよりも、もっと強いはげしい秘密なくすぐったいようなこころよさが、きっとが雪駄に足をふれさせた瞬間から、の全身を伝ってくるにちがいない。ちょうど、かかとからだんだんひざや胸をのぼってきて、これまで覚えたこともない 美しい うっとりした心になるにちがいないと、は雪駄をじっと怨めしく眺めたのであった。それは誰でも男は女の下駄を思わず引っかけて見たい一種の好奇心があるように、の場合では、籐表とうおもてのところで思うさま手をこすって見たいような、も一つはその雪駄を緒は緒、表は表、裏は裏という順序にばらばらに壊して見たいような惨忍に近い気持が、また、ふいに顔を出して来たりした。
 も一つ心の奥からの悪戯いたずらきざしかけたのは、ともかくがこの庭まで忍び込んだという証拠として、また、その事実を彼女に何かしら知らしめたいということから、彼女の雪駄を片足だけ(はこの場合両方が決して欲しくなかった。)盗んでみたらとさえ 思うようになったのである。それは一つにはがあの雪駄を盗んでも、それはきっと彼女に発見されても、許してもらえる理由をつかんでもいたし、また彼女としてそれを叱責しないような気もするのであった。玄関には格子戸が閉っているので、それを開ければきっと音がするに定っているし、音がすれば誰か出てくるにちがいないという不安があった。
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はどうして格子戸を開けたらいいかということを考えた。それに人通りのすくない裏町であるとはいえ、やはり途切れながらも通る人があった。そういうときは、やはり散歩する人のようにゆっくりと歩いて見せて、人が通って行ってしまうと、いそいでは玄関の内部をうかごうた。そこには紅い緒の雪駄が、もはや雪駄以上な別な値のあるもののように、べつな美しい彼女の肢体の一部分を切離して、そこに据えつけてあるような、深い悩ましい魅力をもってくぎづけにしたように立たせるのであった。
 はそのとき、何者かがいて急にに非常な力を注ぎこんだような戦慄を感じながら、あたりの人通りに注意した。ちょうど途絶えたその隙には何者かから背後から押し込まれたように柴折戸しおりどすべり込んで、そっと玄関の格子戸に手を触れると、はまるで雷に打たれたような震えが全身に荒い脈拍をつたえたのを知りながら、少しずつ格子を開けはじめた。格子戸は思ったよりも静かに、特にきしむということなく二寸三寸と開かれて行った。もうの小さな体躯をよこにして入れるようにまで開けると、は素足になって玄関の中へ入りこんだ。そととは異った ひいやりした湿り気のある涼しい空気と、庭のたたきの冷たさがかかと裏から全身につたわってきてはなおはげしいふるえを感じた。は見た。其処そこにあった紅い緒の雪駄を――いきなりそっと掴むと殆んど夢か幻の間に格子をするりとぬけて庭から、柴折戸しおりどわたって外へ出た。そのとき柴折戸しおりどに着物が引っかかったので無理に引いたので、柴折戸しおりどはやや高いきしるような音を立てた。はそのとき殆んど眼まいを感じながら一散にかけ出した。
 寺へかえると、は懐中から女雪駄をとり出した。まだ新しい籐表とうおもての つやつや したのであった。
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はそれを凝乎じっと見詰めていると不思議にこの雪駄を盗み出したことが、非常に恐ろしい罪悪のように暫くでも 持っていては ならないような、追っ立てられるような不安と焦燥とを感じ始めた。まるでそれは一つの肉体のような重さと、あやしい女のかかとあぶらじみた匂いとを漂わした。はそれを懐しげに眺めるというよりも、自分がなぜこういうものを盗む気になったかということを考えた。は机の下に入れて置いたが、ふいとにでも見つけられてはと思い、こんどは縁の下の暗いところへ蜘蛛の巣と一しょに押し込んで置いたが、その暗いところに ありありと隠されてあるのが目にうかんで 落ちつけなかった。はしまいには どうしてもこの雪駄を持っているうちは じっと落ちついて座っていることさえ出来なかった。
 の心は だんだん後悔しはじめた。どんなに彼女が捜していることだろう。そしてもしのしたことだと判明すれば彼女と同じい罪を犯したも一般だ。は恐ろしくなりはじめた。は縁の下からまた取り出して土を払って、そっと懐中へ入れて、また寺を出て行った。彼女の家の前へ来たのは、殆んど前に忍び込んだときとは一時間ほどの後であったので、家の中はやはり寂然としていた。はそっと柴折戸しおりどから入って、玄関へ雪駄をそっと挿し込むように入れて置いて、すぐに通りへ出た。さきの位置に雪駄を置くときは、格子を一尺近くあけなければ ならなかったので、は犬でもいたずらしたように見せるために、すぐしきいのよこに置いたのであった。奥のたたきの上には、つれに離れた片方の雪駄が寂しそうにひとりで、やがて来るつれを待っているように 取り残されていた。
 はそののち暫く外出をしないで、室にばかり籠っていた。殆んど自分でも予期しない、ああした発作的な悪戯をしてからというものは、たえず外出をすれば何者かにとがめられるような気がして仕様がなかった。だんだん日が経つにしたがって、のああした悪戯が 真実に行われたかどうか ということさえ疑わしく思われた。
 もちろん彼女はもう寺の前をも通らなかった。
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を本堂へ上るときに手を引いたり、茶の湯の水みをやったりしていた。寺にはあやしい御符ごふという加持祈祷かじきとうをした砂があってよく 信者がもらいにやって来た。わずか五粒か六粒ほどずつ紙につつんで、清い水でむと、ふしぎにきものや、硬ばった死人が自由に柔らかくなるという薬餌やくじであった。はそれを見るごとに不思議な気がした。
 もう一つは「おくじ【おみくじ】」をひきに来る女が多かった。この市街でもかなり名のある日本画家の中年の母親は、いつも娘の縁談があるごとに、に会いに来て、そして「おくじ」を引いて判断してもらっていた。その娘は有名な美しい娘であった。いつも母親と一しょにお観音におまいりに来た。奇体なことには、この古いお城下町は古くから仏教信者が多かった。それは年寄ばかりではなく、若い娘をもつ母親は、もう娘の六つか七つの時にお寺詣まいりにつれてあるいて、娘らのこころに信仰を築きあげることや、宗教が女の生活に最も必要なことを教えたり、あるいはお寺詣まいりにってそれらを暗示したりしていた。その画家の娘は実に凄いほど色の白い、どこか肺病のような弱弱しい悩ましさを頬にもっていた。
 母親はいつもに、
「こんどの嫁入口はたいがい良い方なんでございますが、念のため『おくじ』を引いて下さいませんか。」と言ってに「おくじ」を引かせた。
 は本堂から下りて来て、
「おくじにあらわれたところは、あまり思わしくないんですけれど、あなたさえよければお嫁入りさせたらいいでしょう。」と言った。
 それは画家の妻がもう三年越しに娘の幸福な嫁入口をさがして歩いて、いつもおくじを引くと凶が出るので、も気の毒に思ってそう言ったのであった。
「まあ、おくじが悪いんですか。」
 彼女はいつも失望したばかりではなく、折角の縁談も中止するのが常であった。はいつもあの「おくじ」一本によって人間の運命が決定される馬鹿馬鹿しさと、それを信ぜずにいられない母親のかたよった心を気の毒に思っていた。
「あの人はおくじを引きにくるけれど、おくじを信じることができない人だ。」
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が言っていた。
 は先月にこんなことをおくじに引いてもらった。あたるかあたらないかを自身ではっきり見たいためもあった。
「東京へ送った書き物が のるかのらないか を見て下さい。」と。
 は本堂から降りて来て、
「出る。たしかに出る。」と言った。何んだかが失望しはせぬかという懸念のために いい加減に言われたような気がした。
「本当ですか。どんな『くじ』なんです。」
あさひの登るが如しと言うのじゃ。」
 は、竹の札(くじ箱にはそれが百本入っていて、一本ずつ振ると出て来る。その偶然が人人にとっての運命になっている。)を見せた。それには文字通りの「上吉」が出ていた。
 そしての詩が印刷された。はそれからは信じきれないうちにも、時時信じるようになっていた。神秘に近いものが毎時いつもおくじに現われているようにさえ思うのであった。米の相場師などがよく朝早くやって来た。「吉」が出ると、
「買っていいんですな。本当にいいんですな。」と血眼になる人もあった。
「おくじ」の出たとおりにやって儲かった人は、よく大きな金灯籠や真鍮しんちゅうの燭台や提灯ちょうちんなどを運んでお礼まいりに来たりした。
 若い芸者などはよく縁の有無を判断してもらいに来た。は、どんな人にも口数をきかなかった。要領だけ言っていつも奥へ入ることが多かった。
 そのころから十年前に寺の庫裏くりから失火して、屋根へ火がぬけたことがあった。まだ宵のくちであったから、火はすぐに揉み消すことが出来た。けれどもあとで気がつくとの姿が見えなかった。捜すとは本堂の護摩壇槃若経はんにゃきょうとなんでいた。目撃した人は、「あの小さいお上人しょうにんさんが まるで鐘のような声でお経をよんでいたのは本当に凄かった。」とあとで言っていた。
「お前お茶をあがらんか。」
 の読書している室へ呼びに来ることがあった。
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寂しいほど静かな午後になると、そういうも寂しそうにしていた。
「え。ごちそうになります。」
 の室へはいると相変らず釜鳴りがしていた。はだまって茶をいれてふくませた。それに羊羹などが添えられてあった。は草花がすきで茶棚には季節の花がいつも挿されてあった。
「お前も早く成人しなければいかん。」
 などと時折に言った。
 の顔を凝視するごとに、このもきっと世を去るときがあるにちがいない。それも近いうちにあるにちがいないという観念をもった。そしてなお つくづくとの顔を眺め悲しんだ。
 の立てた茶は温和にしっとりした味いと湯加減の適度とをもって、いつも美しい緑のかぐわしさをたたえていた。それはの優しい性格が そのままあじわみてにおうている ようなものであった。
 はいつも朱銅のびんかけほかにも用意してあった。大きさから重さから言っても実に立派なものであった。はいつも、
「わしが死んだらお前にこの瓶かけを上げよう。」と言っていた。
 そして時おり絹雑巾で朱銅の胴を磨いていた。もほしいと思っていた。(の死後、はこの瓶掛をもらった。いまはこの郊外の家のの机のそばにある。)

 おもての評判は悪かった。おもてが劇場や縁日を夜歩きすると、町の娘らは道を譲るように彼を避けるほどになっていて、みな、うしろから指をさしながら、この優しい不良少年を恐がった。女学校などでも たいがい おもての名前が知れていたらしかった。
 そのころ、おもては公園のお玉さんという、掛茶屋の娘と仲よくしていた。藤棚のある小綺麗な、噴水の池が窓から眺められる茶店で、もよくおもてにつれられて行った。お玉さんはメリンスの前垂れ【前掛け】をしめていて、おもてとはいつのまにか深い交際をしていた。
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 よくおもてと二人で散歩のときによると、
「きょうはお母さんが留守なんですから、ゆっくりして いらっしゃいましな。」
 などと言った。おもてはそういうとき、
「そう、では露助ろすけにもらった更紗さらさをM君に見せてあげなさい。M君はあんな布類が大変すきなんだから。」
「そうですか。ではお見せしますわ。」
 いろいろな布類のはいった交ぜ張りの、いかにも娘のもつらしい箱をもって来たりした。ちょうど露西亜ロシアの捕虜がいるころで、みんなこの茶店へ三時の散歩にはやって来たもので、なかにひどく惚れこんでいるのもいた。
「これなんぞ随分きれいでしょう。」
 それは真正ほんとうロシア更紗で、一面の真紅まっかな地に白の水玉が染め抜かれてあった。なかにはこまかな刺繍を施した布面に高まりを見せた高価なハンカチなどがあった。それから古い銀の十字架細工のピンなど、実に立派なものが多かった。
 おもてはそんなとき、
「戦争にゆくのに よくこんなハンカチなぞ持っていたものだね。やっぱり露西亜人はのんびりしているね。」と言った。は、
「そして捕虜がいつも来るんですか。」とたずねると、
「え、散歩の時間になりますといらっしゃいますの。」
 おもてに気をかねてお玉さんは黙った。おもてはそんなとき不機嫌にしていた。そして午後三時ごろになるとおもてはやけな調子で、
「もう三時だ。散歩の時間だ。かえろう君。」
 おもてけ気味な皮肉を言って出てゆくのであった。まだ十七になったばかりのお玉さんは、何か言いたいような可憐な寂しい目をして送っていた。おもて此処ここでビールをのんでも いつもお玉さんが 家の前をとりつくろうてくれて【うまくごまかしてくれて】 払わせなかった。
 お玉さんが非常におもてを愛していると思った。あのおどおどした目つきが、いつものおもての一挙一動ごとに はらはらしているさまが見えたからである。
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そしてああいう可憐な娘にはいつも非常に愛されるたちを彼はもっていた。やり放しのようで、それでいて、いつも深い計画のもとに働くのはおもての巧みな、女にとり入る術であった。
 ある日のこと、おもての不在中、警察から高等刑事が来て、おもての平常の生活を調べて行ったりした。そして巡査がやって来て、夜あまり外出させてはいけないと母親に言って行ったと、あとでおもては笑いながら言っていた。けれどもおもてはやはり縁日や公園へ行ってはお玉さんを誘い出したりして、永く夜露に打たれたり、けて帰ったりしていた。
 ある日、おもてをたずねると、彼はすこしあおいむくんだような顔をしていた。
「君、僕はやられたらしい。」とに言った。
「肺かね。しかし君はからだが丈夫だから何んでもないよ。気のせいだ。」
「そうかなあ――。」
 そしてどもは よくお玉さんのところへ出かけた。もうはビールの味を知っていた。どもにお玉さんを加えて、時時黙って永い間座っていることがあった。そんなときは、きっとおもてお玉さんと二人きりで話したいという心になっていることが、にも もう判るようになっていた。
 そんなとき、だけはさきにかえった。お玉さんは坂の上まで送って来たりした。
「またいらしてくださいましなね。」
「ありがとう。おもては からだをわるくしているようだから、ビールをあまりすすめない方がいいね。」
「ええ。もすこし変に思っていますの。時時嫌な咳をなさいますもの。」
「だいじにしてお上げ。さよなら。」
「さよなら。」
 そういう日は、おもては黙っておがむような目をにしていた。はなぜだかおもての弱弱しい一面が好きであった。あの大胆な女たらしのような男に、何ともいえない柔らかい微妙な優しさがあるのをは恋に近い感情をもって接していた。は晩など、お玉さんによく握られたらしい彼の手を強く握ったものであった。
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柔らかいしかし大きい手であった。
 は彼の病気は真正の肺【本物の肺病】であることを疑わなかった。頬がだんだんに赤みを帯びて来るのが不自然であり、その徴候でもあるらしく思った。
 彼は「文庫【文芸雑誌】」で短編を発していた。
「晩などよく呼びに来るんだよ。口笛を吹いてね。」
 おもてお玉さんが呼出しにくるのを嬉しそうに言っていた。あの西町の静かな裏町の夕方などに、おもての家の前を往ったり来たりして口笛を吹くお玉さんの下町娘らしい姿をはよく浮彫りにするように、心で描いて見た。それにおもてお玉さんができてから、よその女にはあまり目をかけなくなっていた。こういう二人の間のやさしい愛情をは詩のように美しい心になって考えていた。決してねたましいという心など微塵も起らなかった。ああいう可憐な女性によって、あの友の顔までが心と一しょに美しくなるようにさえ思われるのであった。
 ある日、は久しぶりでおもてをたずねた。彼は奥の間に床をとってふせっていた。
「とうとう床についてしまった。」
 彼は青い顔をしていた。わずかの間に彼は非常にせ衰えていた。
「今朝ね。もう柿の葉が散り出したのを見て、非常に寂しくなってしまった。」
 庭には鳳仙花ほうせんかがもう咲いていた。
「君がようとは思わなかった。当分外へ出ないんだね。」
「しばらく養生するつもりだ。今死んではたまらない。もっと色色なものを書きたくてたまらない。」
 くちびるばかりが熱で乾いて赤くえていた。
お玉さんは知っているのかい。君のたことをね。」
「いや知らないらしい。でね。夕方などよく呼びにくるんだよ。口笛が合図になっているんで、床にいても はらはらするの。出たいけれど出られないしね。母の前もあるしね。」
「お母さんは知らないのか。」
「感づいていないらしい。すまないけれど君が会って僕のことを話してくれないか。」
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「じゃ今日帰りによってあげよう。」
 凝然じっと狭い庭をながめていた。そして心の中で柿の葉が散ったのを見て寂しくなったという友のことを考えた。
 どもはしばらく黙っていた。
「僕はどうしても死なないような気がするんだ。死ぬなんてことがありそうもないようにね。」
 おもての顔をじっと見た。弱い精のつきたような眼の底に何かしらぎらぎらと感情的な光を見せていた。はそれには答えないで黙っていると、
「君はどう思うかね。死の予期というものがあるだろうか。」
「さあ。僕はいまどうと言って言えないが、死の瞬間にはあるだろうね。」
「死の瞬間――死の間際だね。」
 彼はまた考え沈んだ。彼はまた永い間経って言った。
「僕はお玉さんのことを母に言おう言おうとして言えないよ。僕はあのことを言わないで置きたいのだ。母にも姉にも心配をかけ通しだからね。」
 も時時 おもてのお母さんにいっそ言った方がよかないかと考えたが、やはり言い出せなかった。おもての顔を見ると決して言えないような気がした。いろいろな自由な生活をした放埒ほうらつさがどうしてもお母さんに今更 おもてに女があると言えなかった。
「そうね。言わない方がいいね。知れる時には知れるからね。」
「知れる時には知れる――」
 おもては口ごもって神経的に目を おどおど させた。おもてが殆んどこの前に会ったときよりも、非常に神経過敏になったことや、少しずつあの大胆なやり放しな性格が弱ってゆくのがだんだん分って来た。
 は間もなく暇を告げて立ちかけると、
「明日来てくれるかね。」
「明日はどうだか分らない。来られたら来るよ。」
「来てくれたまえ。ていると淋しくてね。待っているからね。」
 の顔を いつもにもなく 静かではあったが、強く見詰めた。は やや うすくなった友の髪を見ると、急に明日も来なければ ならないと思った。
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「きっと来るよ。それに『邪宗門じゃしゅうもん』がいたから持ってくるよ。」
「あ。『邪宗門じゃしゅうもん』が来たのか。見たいなあ。今夜来てくれたまえ。」
 おもては急に興奮して熱を含んで言った。
「明日来るから待っていたまえ。じゃさよなら。」
「きっとね。」
 は街路へ出ると深い呼吸をした。

 公園の坂をあがりかけると、もう蝉の声もまばらになって、木立が透いて見えた。お玉さんの茶店へよった。
 折よくお玉さんが出て来た。は何かしら顔が赤くなったような気がした。いつも会っていたけれど一人のときは すくなかったからである。
「いらっしゃいまし、よくこそ。」
 お玉さんは、なめらかな言葉で言った。しばらく見ない間に余計に美しく冴えた顔をしていた。
おもてはとうとう床につきました。きょう寄ってきたんですが――そう言っておいてくれとのことでした。しかし大したことはないんです。」とは言った。
「まあ。わたしもそんな気がしておりましたの。そしてひどいことはないんでしょうかしら。」
「え。しかしだいぶ痩せました。」
 どもは暫く黙っていた。突然お玉さんが言った。
「やっぱりあの病気でしょうか。あの病気は なかなか なおらないそうですってね。」
「十に九までは駄目だと言いますね。しかしおもて 君はまだそれほど心配するほどでもありませんよ。」
 お玉さんの目ははや湿っていた。生一本な娘らしい涙をためた美しい目は、の感じ易い心をいた。そして女は涙をためたりする時に、へいぜいより濃い美しさを もつものだ という事を感じた。
「こんど何時いらっしゃいますの。」
「明日もゆきます。お言伝ことづけがあったら言って下さい。」
 お玉さんは ややためらっていたが、
「どうぞね。おだいじになすって下さいと言って下さいまし。わたしもおなおりになることをお祈りしておりますから。」
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 おもてお玉さんの交情が、あたかも美しい物語りめいたもののような気がして、おもてに対する懐しい友愛は、とりもなおさずお玉さんを愛する情愛になるような気がするのであった。二人をならべて見るとき、のかたよった情熱はいつもこの二人をとり揃えて眺めることに、よりはげしい滑らかな愛を感じるのであった。
「あなたは本当におもてを愛しているのでしょうね。」
 は思わず言った。そしてお玉さんが顔を赤めたとき、言わなくともよいことを言ったと思った。
「ええ。」
 お玉さんは低い声ではあったが、心持のよい声で言った。そして、
「うちのものが うすうす知っていて、ずいぶんなことを言いますけれど……。」
 は力をこめて、
おもてはいい人です。永くつきあってあげて下さい。」
「ありがとうございます。」と涙ぐんだ。
 は間もなく別れを告げた。藤棚の下の坂道を下りかけると、見送っていたお玉さんがいそいで走って来て、そして もじもじ しながら、
「あの――わたしお願いがございますの。」と低い声で言った。
 あたりはもう暮れかけて涼しさが少し寒さを感じさせるほどになっていた。お玉さんはぴったりにより添って、
「いちど逢わして下さいまし。」
 思い詰めたように言った。彼女の顔から発散する温かみが遠い炭火にあたるように、の頬につたわった。それにはげしい髪の匂いがした。
「それはも考えているんですけれど、おもてはそとへ出られないし、あなたは公然と訪ねて行けませんしね。」
「ほんとにわがままを言いましたわね。ごめんなさいましね。」
 彼女はじっと地べたを眺めて言った。その細いきゃしゃな頸首えりくびがくっきりした白さで、しずかに呼吸につれてうごいた。
「わたし、わるうございました。失礼します。」
 彼女は坂を上って行った。重い足どりが坂を下りて行くにきこえなくなった。
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は何気なく振りかえると、お玉さんは停っての方を見送っていた。そのうれわしげな姿はをして胸をおもくした。
 は翌朝、おもての病気の一日も早く全快するように誦経ずきょうしてくれるよう頼んだ。は、法衣ころもを肩にまきつけながら、
「あのお人かい。そりゃお気の毒だ。お経をあげましょう。」と言って本堂へ上って行かれた。
 もじっと誦経ずきょうが降るようにきこえる下の壇で、一心に静かに祈っていた。どうにもならない病気とは知りながらも、何故かよそから力が加わることを信ぜずにはいられなかった。の枯れ込んだ腹の底からな声は、古い本堂の鐸鈴たくれいにひびいたりした。厳そかな一時間がすぎた。
 は本堂を降りて来られた。その顔は憂わしげな、なにか不吉なものの予言に苦しめられているようであった。
 は言った。
「おいくつかね。」
「十七なんです。」
「実はね。お経中にお灯明が消えてしまったのじゃ。そのかたはむずかしいようだね。時時そういうお灯明の消えたことがあるが、そんなときはむずかしいね。」
 の顔をみつめた。
「ほんとうでしょうか。」
「疑いなさんな。」
 言葉少いは次の茶室へ入って行った。は信じていいか悪いか決める事ができなかった。
 午後、はしきりにおもてのことが考えられて仕方がなかった。病み衰えたあお白い顔が目にうかんだ。それが静かに室の隅の方での名を呼んだ。「室生君」という声がきこえた。はすぐに友を訪ねるために外へ出て行くのであった。
 は果物をすこし買った。
 友の家の前では永い間、聴耳ききみみを立てて 何事か起っては いはしないか と窺うていたが、家の中は寂しく静かであった。ときどき力のない咳の音がした。はその音をきくと、とんと胸を小かれたような恐怖を感じた。やはり悪いのだなと思いながら入った。
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 おもての顔を見ると嬉しそうに、飛びかかるように言った。
「よく来てくれたね。今朝からおもての方で下駄の音がすると、君が来てくれたのかと幾度も幾度も立ちかけたんだ。――君はいまおもてでじっと内の様子をきいていたろう。下駄の音が突然やんだので分ったよ。」
 はぎくりとした。けれども嘘は言えなかった。
「ずいぶん過敏になっているね。」
 おもてのお母さんが座をはずした隙に、
「昨日お玉さんに会って話しておいたよ。」
「そう。ありがとう。」
 おもてから報告される言葉を期待しているように、目をかがやかした。
「あの人は君を愛しているね。君がねていると言ったら、だいじにしてくれるように言っていたよ。」
 おもては黙っていた。
「でね。いちど逢いたいって――僕は何だか気の毒だった。ほんとに優しい人だね。君は仕合せだ。」
「でも女はわからないよ。心の底はどうしても分らないよ。」
「でも君の人は君を心から愛しているよ。感謝したまえ。」
 おもてはいつかしたような疑い深そうに、自分の手を見つめていたが、
「僕だって愛されていると思うが、何故か信じられなくってね。僕はいろいろなことを考えると生きたいね。早くなおってしまいたいね。」
「きっとよくなるよ。林檎りんごをやらんか。」
「ありがとう。少しやろう。」
 林檎りんごの皮をむき出した。林檎りんごはまっかな皮を だんだんに するすると むかれて行った。おもてはそれを眺めていたが、
「こんど手紙をもって行ってくれたまえ。たのむから。」と、やや明るい言葉でいった。
「いいとも。かきたまえ持って行くから。」
「その林檎りんごはいい色をしているね。」
「あ。」
 達はこの柔らかい果物をたべていた。突然またおもてが言った。
「逢いたい気がするね。」
「よくなってからさ。」
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 この西町の午後は静かで、そとの明るい日光が小さい庭にもし入っていた。はそれを見ていたが、約束の『邪宗門じゃしゅうもん』を出して見せた。
「もう出たんだね。」
 おもては手にとって嬉しそうに見た。草刷くさずりのような羽二重はぶたえをまぜ張った燃ゆるようなこの詩集は 彼をなぐさめた。感覚と異国情調と新しい官能との盛りあがったこの書物の一ペエジごとに起る高い鼓動は、友の頬を紅く上気せしめたのみならず、友に強い生きるちからを与えさえした。
 友はこの書物をよこに置いて、
「この間短いのを書いたから見てくれ。」とノートを出して見せた。
 ノートもくすりみ込んで、頁をめくるとパッと匂いがした。はしばらく見なかった作品を味うようにして読んだ。

この寂しさは何処どこよりおとづれて来るや。
たましひの奥の奥よりか
空とほく過ぎゆくごとく
わが胸にありてささやくごとく
とらへんとすれど形なし。
ああ、われ、ひねもす【一日中】座して
わが寂しさに触れんとはせり。
されどかたちなきものの影をおとして。
わが胸を日に日に衰へゆかしむ。

 は この詩の精神にゆきわたった たましいの孤独に なやまされてゆく友を見た。しかも彼は一日ずつ何者かに力をかすめられてゆくもののように、自分の生命の微妙な衰えを凝視しているさまが、をしてこの友が死を否定していながら次第に肯定してゆくさまが、読み分けられて行くのであった。
「病気になってから書いたんだね。」
「四、五日前に書いたのだ。やはりその気持から離れられないのだ。」
 たちはまた暫く黙っていた。おもてはその間に二、三度咳をした。ちからのない声は、をして面をそむけさせた。はときどきは伝染うつりはしないだろうかという不安を感じたが、しかしすぐに消えて行った。
 は間もなく別れてかえった。
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かえるときにひどく発熱していた。
 もう夏は残る暑さのみ感じられるだけで、地上の一切のものはすべて秋のよそおいに急ぎつつあった。寺の庭の菊がつぼみをもったり、柿が重そうにこずえにさがり出した。けれども土は乾き切って白かった。なぜかそれらを見ていると、夏の終りから秋の初めに移る季節のいみじい感情が、しっとりとのこころに重りかかってくるのであった。
 秋のお講連中【信仰仲間の一団】が三十三ヶ所の札所回りに、よくの寺の方へもやって来た。寂しい白の脚絆きゃはん【すね当て】をはいた女連れのなかに、若い娘だちもまじっていた。それらの連中が観音さんのお堂の前で御詠歌となんで去ると、賑やかで寂しい一としきりの騒ぎが済んだあとゆえ、ことに秋らしい淋しさを感じるのであった。
 は毎日詩作していた。友が病んだ後は一人きりな孤独のうちに、まるで自分の心と一しょに生活をするように、川近い書斎にこもっていた。
 その日もおもてをたずねた。この友は四、五日見ない間に非常にせ込んで、もうたきりで起き上らなかった。
「どうかね。きっとくなると信じていればくなるもんだよ。」
 かれは白いような、淋しい微笑を浮べた。それが自分の病気をあざわらっているようにも、またが彼の病気にかかわっていないことを 冷笑しているようにも受けとれるのであった。深刻な、いやな微笑であった。
「どうも駄目らしく思うよ。こんなにせてしまっては……」
 友は手を布団ふとんから出してこすって見せた。あお白いたるんだ つやのない皮膚は、つまんだらげそうに力なく見えた。
「ずいぶんせたね。」
 は痛痛しく眺めた。
「それからね。お玉さんと君と友達になってくれたまえな。僕のかわりにね。この間から考えたんだ。」
 かれは真摯な顔をした。はすぐ赤くなったような気がしたが、
「そんなことはどうでもいいよ。
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くなれば皆してまた遊べるじゃないか。何も考えない方がいいよ。」
「そうかね。」と力なく言って咳入った。
 彼は突然発熱したように上気して、起き直ろうとして言った。
「僕がいけなくなったら君だけは有名になってくれ。僕の分をも二人前活動してくれたまえ。」
 はかれの目をじっと見た。眼は病熱に輝いていた。
「ばかを言え。そのうちくなったら二人で仕事をしようじゃないか。」
 ははげましたが、友はもう自分を知っていたらしかった。あのような衰えようはこの頑固な友の強い意志をだんだんにくじいた。
 しかし彼はまた言った。
「僕が君に力をかしてやるからね。二人分やってくれ。」
「僕は一生懸命にやるよ。君の分もね。十年はやり通しに勉強する。」
 はつい興奮して叫んだ。
 二人は日暮れまでこんな話をしていた。間もなくはこの友に暇を告げてそとへ出た。そとへ出ては胸が迫って涙を感じた。秋も半ばすぎにこの友は死んだ。

 おもてとむらいの日は彼岸ひがんに近い寂しく白白と晴れた午後で、いよいよ棺が家を出るとき、お玉さんが近所の人込みの間に 小さく挟まれたように ひっそりとただ一人で見送っているのが、いじらしいその涙ぐんだ眼とともにの目にすぐに映った。参詣さんけい人といってもわずか四、五人の貧しいとむらいは、長長とつづいた町から町を練って野へ出て行った。野にはもう北国の荒い野分のわきが吹きはじまって、きびの道つづきや、里芋の畑の間を人足どものあわただしい歩調がつづいた。
 おもての短い十七年の生涯は、それなりでも、かなりな充実した生涯であった。は彼がいろいろな悪辣【悪質】な手段をもって少女を釣ったり、大胆な誘惑を、しかも何ら外部から拘束せられることなく、また少しも顧慮しないでき進んだことも だんだんの心の持ちようにも 染みてゆくところがあった。
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しかしまた一面には何ともいわれない優しい友愛をもっていたことも忘られないことであった。
 とむらいが済んでから、は家へかえって寂しい日を送って行った。ある日、公園のお玉さんのところへ行ってみるような気になった。いちど行こうと思いながらも、死んだ友人の愛した女を訪ねてゆくということが、しきりに気がとがめてしかたがなかった。一つには、もうおもてもいなくなったら、かえってゆっくりお玉さんと話ができるという邪魔者のない明るい心持と、おもてもいろいろな悪いことをやったのだから、があの人と交際したって構うものかという心と、も一つは、死んだ魂の前に対する深い恥かしさとが、をしてつい彼女を訪ねさせなかった。
 もう公園の芝草のさきが焦げはじめて、すすきや萩の叢生した【デコボコはえた】あたりに野生の鈴虫のなきさかるころで、高い松の群生したあたりをあるくと、自分の下駄の音が、一種のひびきをもつほど空気が透った午後であった。
 茶店へよると、お玉さんが出て来た。そのしおらしい赤いたすきもよく冴えて、はっきりと目にうつった。
「よくいらしって下さいましたわね。」と言って、彼女は いちはやくを見ると、すぐおもてを思い出して涙ぐんだ。も二人きりで会ったことが よけいないだけ、すぐに彼女の眼の湿うたのに誘われながら、やや胸が迫るような気がした。
 だちはいろいろなことを話した。死んだおもてがたえずだちの間に、しょんぼり座っているようにも思われたりした。そして、いつか「お玉さんと交際してくれたまえ。君となら安心できるから。」とおもてが言ったことを思い出した。よそのひとなら僕は死にきれないが 君となら安心できると言ったおもては、自分でそう言いながら寂しい顔をした。
「これから時時いらしって下さいまし、わたし本当にお友だちがないんですから。」と、彼女は言った。
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 人間一人の死は、と彼女との間にはさまって、ことに娘らしい弱い彼女をだんだんに安心させてに近づかせて来るようであった。は私で、おもての死んだのを餌にしているような心苦しさを気にしながら、なれやすい優しい女の性からくる親しみを すこしずつ感じた。
「あの方のことは もうおっしゃらないで下さいまし。わたし いろいろなことを思い出して悲しくなりますから。」と言った。
 はそれを聞くと、彼女ができるなら 少しでもおもてのことを忘れるように つとめているのを感じた。はそれが物足りない気がした。また一方には死んだものをいつまでもしたうていることも、しおらしい彼女にとっては しかたがないことであったが、なんだかこれまで経験したことのない ねたましさをも感じた。
おもてさんの病気はうつるって言いますが本当でしょうか。」とお玉さんは言った。
 それと同時におもてと一しょによく肉鍋をつついたり、酒をのんだりしたことを思い出して、自分にも伝染してはいないかと、一種の寒さを感じた。
「食べものからよく伝染うつることがありますね。からだの弱い人は やはりすぐに うつりやすいようです。」
 いつかおもてが咳入っていたとき、蚊のような肺病の虫が、の座ったところまでぱっと拡がったような気のしたことを思い出した。そのときは、なに伝染るものかという気がしたし、友に安心させるために わざと 近近と顔をよせて話したことも、いま思い出されて、急に怖気おじけがついて来て、とりかえしのつかないような気がした。
「わたしこのごろ変な咳をしますの。顔だって随分 あおいでしょう。」
 はじめて会ったころよりか、いくらか水気をふくんだような青みを帯びているように思われた。そしてはすぐにおもてと彼女との関係が目まぐるしいほどの迅さで、二つのくちびるの結ぼれているさまを目にうかべた。
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あの美しい詩のような心でながめた二人を、これまでいちども感じなかった 或る汚なさを交えて 考えるようになって、ねたみまでが はげしく ずきずきと加わって行った。いま此処ここにこうした真面目な顔をして話をしていながら、いろいろな形を亡き友に開いて見せたかと思うと、あの執拗な病気がすっかり彼女の胸にくい入っていることも当然のように思えるし、また何かしら可憐な気をも起させてくるのであった。また一面には小気味よくも感じ、それをたねにおどかしてみたいような、いらいらした気分をも感じてくるのであった。そうかと思うと、彼女とおもてとの関係があったために、このごろ毎日家で責められていたり、すこしも寛ろいだ気のするときのないことや、よくおもてに融通したかねのことなどで 絶えず泣かされることを聞くと、は「おもてもずいぶんひどいやつだ。」と考えるようにもなった。
「みんなが わるかったんですから、わたしあの方のことなんか すこしもうらみません。」と言ってを見た。
おもてももうすこし生きていれば、何とかあなたのことも具体的にできたのでしょうけれど。」
 は言いながらも、いつもおもての感情が決して的確な地盤の上で組み立てられていないことを、ことにお玉さんの身の上にもかんじた。おもてはただ享楽すればよかった。おもては未来や過去を考えるよりも、目の前の女性をたのしみたかったのだ。おもてのしていたことが、おもての死後、なおその犠牲者の魂をいじめ苦しめていることを考えると、人は死によってもなお そそぎつくせない贖罪しょくざいのあるものだ ということを感じた。本人はそれでいいだろう。しかし後に残ったものの苦しみはどうなるのだろうと、おもての生涯の短いだけ、それほど長い生涯の人の生活だけを 短い間に仕尽して行ったような 運命のずるさを感じた。
「このごろ死ぬような気がしてしようがないんですの。」
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「あんまり いろいろなことを考えないようにした方がいいね。」
「でもわたし、ほんとにそんな気がしますの。」
 女のひとにありがちな、やさしい死のことを彼女も考えているらしかった。はまたの日を約して別れた。

 十一月になって、ある日、どっと寒さが日暮れ近くにしたかと思うと、急に大つぶなカッキリした寒さを含んだあられになって屋根の上の落葉をたたいた。そのはげしい急霰きゅうさんの落ちようは人の話し声も聞えないほど さかんであった。が書院の障子をあけて見ると、川の上におちるのや、庭のおち葉をたたきながらねかえるあられは、まるで純白の玉を飛ばしたようであった。は毎年この季節になると、ことにこのあられを見ると幽遠【深遠】な気がした。冬の一時のしらせが重重しく叫ばれるような、あわただしく非常に寂しい気をおこさせるのであった。は茶室にこもりはじめた。しずかな釜鳴りふすま越しにの室までつたわって来た。「おさんはまたお茶だな。」と思いながらは障子をしめた。梅が香の匂いがどの室で焚かれているのか、ゆるく、遠く漂うて来た。
 は夕方からひっそりと寺をぬけ出て、ひとりで或る神社の裏手から、くるわ町の方へ出て行った。くるわ町の道路にはあられがつもって、上品な絹行灯きぬあんどんのともしびが あちこちにならんで、べに塗の格子の家がつづいた。はそこを小さく、人に見られないようにして行って、ある一軒の大きな家へはいった。
「先日は失礼しました。どうぞお上りなすって下さいまし。」
 二階へ案内された。はさきの晩、なりの高い女をんだ。はただ、すきなだけ女を見ておれば だんだん平常の餓えがちなものを埋めるような気がした。
金毘羅こんぴらさんの坊ちゃんでしたわね。いつかお目にかかったことのある方だと思っていたんですよ。」
 彼女は小さい妹芸者を振りかえって笑った。
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はいつも彼女を寺の境内けいだいで、そのすらりとした姿をみたときに逢って話したいと思っていて、こうしてやって来て、いつも簡単に会えるのがうれしかった。
「雨のふるのによくいらしったわね。」
 彼女は火鉢の火をいた。このくるわのしきたりとして、どういう家にもみな香を焚いてあった。それに赤襟あかえりといわれている美しい人形のような舞妓がいて、姉さんと一しょに座敷へやって来るのが例になっていた。
「お酒を召しあがりになりますの。」
 彼女はちょいと驚いた。
「すこしやれるんだから、とって下さい。」
 このごろ少しくやれる酒を言い附けた。
「あなたはいつも黙っているのね。」
 女は手持無沙汰らしく言った。はべつに話すこともなかったし、妙に言葉が目まいした【言葉がぐるぐるして定まらない】ように言えなかった。それにこのくるわ町へはいると、いつもからだが震えてしかたがなかった。ことに女と話していると、その濃厚な大きい顔の輪郭や、自分に近くどっしりと座っているのを見ると、一種の押されるような美しくもあやしい圧迫を感じた。それがだんだん震えになって、指さきなどがぶるぶるして来るのであった。お玉さんなどと会っていても身に感じなかったものが、いつも此処ここでは感じられて来るのであった。
「じっとしていらっしゃい。きっと震えないから。」
 と女は言ったが、じっと力をこめていても やはり手さきが震えた。こらえれば、こらえるほどはげしい震えようがした。そこでは、いつも時間が非常に永いような気がした。たとえば女ととが僅か三尺ばかりしか離れていないために、女のからだの悩ましい重みが、すこしずつ、その美しいまるい ぽたぽたした 座り工合からも、全体からな曲線からも、ことにその花花しい快活な小鳥のくちのように開かれたりするところからも、一種の圧力をもって、たえずの上にのしかかるようで、弱い少年のの肉体はそれに打ちまかされて、話をするにも、どこかおずおずしたところがあるのに気がついた。
わたしね。昨日もおまいりに行ったとき、あなたがもしも境内けいだいにでも出ていらっしゃらないかと思って、しばらく廊下にいましたの。」
「僕は奥にいるからめったに外へ出たことがない――。」と、女がなんだか、ありそうもないことを言ったようで変な気がした。
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それにしきりに先刻から寺のことが考えられて仕方がなかった。のことや、だましてもらって来た金のことなどが、たえず頭のなかでり返されて来て、落ちつかなかった。たとえばのこんな遊びをしている間に、ひょっとしたことから火事でも出来たら大変だという懸念や、何か特別な天災が起って来そうに思われて仕方がなかった。ことに此麽こんな派手な座敷のいろいろな飾り立や、女のもって来た三味線や、業業しく並べ立てられた果物の皿などが、寺の静かな部屋とくらべて考えると、ここに座っているだけでも非常な悪いことのような気がした。しまいには、ひとりで顔があおくなるほどうるさく種種なことを考え出して胸が酸っぱくなって一時も早く帰らなければ ならないような気がした。
「僕は今夜はすこし急ぐから。」と言って立ち上った。
「もっとゆっくりしたって いいじゃありませんか。あまりおそくなるとお家へいけないでしょうが、でもまだ九時よ。」
 引止められても、はどうしても帰らなければ ならない気がして、外へ出た。
 寺へ帰ると、の顔が正視できないような、今までいたところをすっかりが知っているような気がした。
「だいぶ遅いようだが若いうちは夜あまり外出しない方がいいね。」
 はやさしく言う。
「つい友達のところで話し込んでしまったものですから。」
 は、逃げるように自分の室へはいるのであった。
 自分の室はすぐ縁から犀川さいかわの瀬の音がするところにあった。今夜はなぜかその瀬の音までが、いつものように すやすやと自分をねむらせなかった。はながい間 目をさましながら、もっと女のところにいればよかったとも考えた。
「あなたのようなお若い方は おことわりしているのですが、おうちをよく存じ上げているものですから……」
 そういうおかみまでが、しみじみした、これまでにない或る種類の人情をかんじた。しかしは座敷へ呼んで見た女が、どうしても寺へおまいりに来て、いつもちゃんと座って熱心な祈願きがんに燃えている有様と、まるで別人のような気がしてならなかった。
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その合掌がっしょうして、目を閉じてしきりにすすり泣くような声をあげて祈っているのが、記帳場にいてもそれと聴き分けられるほど、鋭いつや艶しい性欲的であるのに、会っていると、あれほどの刺激性もなければ美しさもなかった。それに彼女の銀杏返しが本堂内で見るとき、天井から吊しさげられた奉納とか献灯けんとうとか書いた紅提灯ちょうちんとの調和が非常によく釣り合っているのにくらべて、目の前で見ていると、ただの女のようで味気なかった。の求めて行ったものが いつも失われるような気がした。
 その結果、はもう行くまいと考えたり、自分がああいうところに行くようになったことを非常に悪いことに考えられて仕方がなかった。
 はひとり机に向っているときでも、いろいろな恋の詩をかいたり、または、いつまでも一つところを見て、何をするということもなく ぼんやりしていることが多かった。妙にからだ中がむずがゆいような、頭の中がいらいらしくなって、たえず女性のことばかり考えられてくるのであった。たとえば自分のあお白い腕の腹をじっと見つめたり、伸ばしたり曲げたりしながら、それが或る美しい曲線をかたちづくると、そこに強烈な性欲的な快感を味ったり、自分で自分の堅い白い肉体を吸って見たりしながら、飽きることのない悩ましい密室の妄念【邪念、妄想】にふけっているばかりではなく、ときとすると、新聞の広告に挿入された いまわしい半裸体の女などを見ると、自分の内部にある空想によって描かれたものの形までが手伝って、永い間、それを生きているもののような取扱いに心は悩み、快感の小さい叫びをあげながら、その美しい形を盛りあげたり、くずしてみたりするのであった。
 朝朝ちょうちょうの目ざめは いつもぼおっとした熱のようなものが、まぶたの上に重く蜘蛛の巣のようにかかっていて、払おうとしても とりのけられないかすみのようなものが、そこら中に張りつめられているようで、ものうい【気だるい】毎日がつづいた。
 は ふらふらと そとへ出た。
 あられが二、三度降ってきてから、国境の山山の姿は日に深く、削り立てたような、厚い積雪の重みに輝いていた。
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かわらの草は すっかり穂をかざしながら【風に折れながら】、いまは、蕭蕭しおしおした荒い景色のなかにふるえて、もう立つことのない季節の きびしい風にがれていた。誰しも北国に生れたものの感じることであるが、冬のやってくる前の息苦しい景色の単調と静止とは、ひとびとの心にまで乗りうつって、なにをするにも鈍な、かじかんだところが出て来るのであった。
 向河岸むこうぎしの屋根は曇った日のなかに、そらと同じい色にぼかされ、窓窓の障子戸ばかりがさむざむと水面に投影しているのが眺められた。はそれから坂をあがって、公園の方へ出た。
 冬のはじまりは公園の道路に吹きしかれた落葉にも、掛茶屋のぴったり閉めきった障子戸にも、刈り込められた萩の坊主株が 曲水のあちこちに 寂しくとり残されたあたりにも感じられた。葉をふるいおとした明るい雑林に交って咲いたさざんかの冷やかにこぼれた土の湿り気は、凍るような荒さを夜ごとの降霜こうそうや、あられにいためられながら、処処にむくれ上っていた。
 はその疎林そりんを透して、やや下地になった噴水の方を見た。たたた……たたた……と水面をたたいて落ちる飛沫は、小さい其処そこにあるつつじの葉ッ葉を濡らして、たえまなく、閑寂かんじゃくな、冷やかな単調な音をつづっていた。はしゃがんで、おもてがよくここらでお玉さんとあいびきしたことを考えた。すぐ噴水のそばに彼女の家があったが、ひっそりと静まりかえった障子戸のうちは、深い山里の家のような寂しさをに思わせた。ことにこの頃になると散歩する人もなくなっていたから、いたずらに掃く園丁えんてい【庭師】の忠実な仕事ぶりも、ただ、そこらの道路をひとしお寂しく白白と眺めさせるのみであった。
 お玉さんの家の前へ行った。そして「ごめんなさい。」と言うと、なかからひそひそ声がした。それは誰の声とも分らなかったが、なぜかしら不安な気をおこさせた。そのひそひそ声が止むと、お玉さんのお母さんが出てきた。
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二、三度会っていて知っていた。
「いらっしゃいまし。」と言ったが、はその母なるひとの顔を見ると、何か取り込んだ落ちつかぬ色を見た。「お玉さんは。」と言うと母親はのそばへ寄るようにして、
「実は先日からすこし加減をわるくしてやすんでいますので……」
 はぎっくりした。すぐ、この前に会ったときのあおい水気をふくんだ顔をすぐ思い出した。「うつったな。」と言う心のなかの叫びは、すぐに、「やられたな。」とつぶやいた。
「よほどお悪いんですか。」
「え。よかったり悪かったりして、お医者では永びくだろうと言ってらっしゃいましたが、やはりおもてさんと同じ病気だと思うんでございますよ。」
 いくらか皮肉なところもあったので、は、
「御大切になさい。どうかよろしく言って下さい。」と、すぐ表へ出た。
 途途みちみち、あの恐ろしい病気が もうかの女に現われはじめたことを感じた。自身のなかにも、あの病気が ありはしないだろうかという 不安な神経をやみながら、あの小さい少女らしい可憐な肉体が、しずかに家に横臥よこたえられていることを考えると、やはりおもてのように、とても永くないような気がした。はじっと噴水のたえまなく上るのを見ながら沈んだ心になって、公園の坂を下りて行った。
「わたし このごろ死ぬような気がしますの。」
 この間言っていたその言葉が、真実にいま彼女の上に働きかけていることを感じた。






底本:「或る少女の死まで 他二篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年1月25日第1刷発行
   2003(平成15)年11月14日改版第1刷発行
   2005(平成17)年12月15日第3刷発行
底本の親本:「或る少女の死まで 他二篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:辻朔実
校正:門田裕志、小林繁雄
2012年12月26日作成
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----- (以下、シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。

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