1/9
猫の事務所
……ある小さな官衙かんが【役所】に関する幻想……
宮沢賢治




 軽便鉄道【一般的な鉄道よりも規格が簡便で、安価に建設された鉄道】の停車場のちかくに、猫の第六事務所がありました。ここは主に、猫の歴史と地理をしらべるところでした。
 書記はみな、短い黒の繻子しゅす【滑らかで光沢のある繊維】の服を着て、それに大へん みんなに尊敬されましたから、何かの都合で書記をやめるものがあると、そこらの若い猫は、どれもどれも、みんな そのあとへ入りたがって ばたばたしました。
 けれども、この事務所の書記の数は いつもただ四人と きまっていましたから、その沢山の中で一番字がうまく詩の読めるものが、一人 やっとえらばれるだけでした。
 事務長は大きな黒猫で、少しもうろくしてはいましたが、眼などは中に銅線が幾重も張ってあるかのように、じつに立派にできていました。
 さてその部下の

一番書記は白猫でした、
二番書記は虎猫とらねこでした、
三番書記は三毛猫でした、
四番書記は竃猫かまねこでした。

 竃猫というのは、これは生れ付きではありません。生れ付きは何猫でもいいのですが、夜かまどの中にはいってねむる癖があるために、いつでもからだがすすできたなく、ことに鼻と耳にはまっくろにすみがついて、何だかたぬきのような猫のことを言うのです。
 ですから かまは ほかの猫には嫌われます。
 けれどもこの事務所では、何せ事務長が黒猫なもんですから、このかまも、あたり前ならいくら勉強ができても、とても書記なんかに なれないはずのを、四十人の中から えらびだされたのです。
 大きな事務所のまん中に、事務長の黒猫が、まっ赤な羅紗らしや【厚手の毛織物】をかけたテーブルひかえてどっかり腰かけ、その右側に一番の白猫と三番の三毛猫、左側に二番の虎猫と四番のかまが、めいめい小さなテーブルを前にして、きちんと椅子いすにかけていました。
 ところで猫に、地理だの歴史だの何になるかと言いますと、
 まあこんな風です。
 事務所のをこつこつたたくものがあります。
はいれっ。事務長の黒猫が、ポケツトに手を入れて ふんぞりかえって どなりました。
 四人の書記は下を向いていそがしそうに帳面をしらべています。
 ぜいたく猫がはいって来ました。
何の用だ。事務長が言います。
わしは氷河鼠ひようがねずみを食いにベーリング地方へ行きたいのだが、どこらがいちばんいいだろう。
うん、一番書記、氷河鼠の産地を言え。
[ しおり] 宮沢賢治-猫の事務所(1 / 9)
 一番書記は、青い表紙の大きな帳面をひらいて答えました。
ウステラゴメナ、ノバスカイヤ、フサ河流域であります。
 事務長ぜいたく猫に言いました。
ウステラゴメナ、ノバ………何と言ったかな。
ノバスカイヤ。一番書記ぜいたく猫がいっしょに言いました。
そう、ノバスカイヤ、それから何!?
フサ川。」またぜいたく猫一番書記といっしょに言ったので、事務長は少しきまり悪そうでした。
そうそう、フサ川。まあ あそこらがいいだろうな。
で 旅行についての注意はどんなものだろう。
うん、二番書記、ベーリング地方旅行の注意を述べよ。
はっ。二番書記はじぶんの帳面をめくりました。「夏猫は全然旅行に適せず」するとどういうわけか、この時みんながかまの方をじろっと見ました。
冬猫もまた細心の注意を要す。函館はこだて付近、馬肉にて釣らるる危険あり。特に黒猫は充分に猫なることを表示しつつ旅行するにあらざれば、応々黒狐くろぎつねと誤認せられ、本気にて追跡さるることあり。
よし、いまの通りだ。貴殿は我輩のように黒猫ではないから、まあ大した心配はあるまい。函館で馬肉を警戒するぐらいのところだ。
そう、で、向うでの有力者はどんなものだろう。
三番書記、ベーリング地方有力者の名称を挙げよ。
はい、えゝと、ベーリング地方と、はい、トバスキーゲンゾスキー、二名であります。
トバスキーゲンゾスキーというのは、どういうようなやつらかな。
四番書記トバスキーゲンゾスキーについて大略を述べよ。
はい。」四番書記のかまは、もう大原簿のトバスキーゲンゾスキーとのところに、みじかい手を一本づつ入れて待っていました。そこで事務長ぜいたく猫も、大へん感服したらしいのでした。
 ところがほかの三人の書記は、いかにも馬鹿ばかにしたように横目で見て、ヘッとわらっていました。
[ しおり] 宮沢賢治-猫の事務所(2 / 9)
かまは一生けん命 帳面を読みあげました。
トバスキー酋長しうちよう、徳望【尊敬・信頼】あり。眼光炯々けいけいたる【洞察力や観察力が鋭い】も 物を言うこと少しく遅し、ゲンゾスキー財産家、物を言うこと少しく遅けれども眼光炯々けいけいたり。
いや、それでわかりました。ありがとう。
 ぜいたく猫は出て行きました。
 こんな工合ぐあいで、猫にはまあ便利なものでした。ところが今のおはなしから ちょうど半年ばかりたったとき、とうとうこの第六事務所が廃止になってしまいました。というわけは、もうみなさんもお気づきでしょうが、四番書記のかまは、上の方の三人の書記からひどく憎まれていましたし、ことに三番書記の三毛猫は、このかまの仕事をじぶんがやって見たくて たまらなくなったのです。かまは、何とかみんなによく思われようといろいろ工夫をしましたが、どうも かえっていけませんでした。
 たとえば、ある日 となりの虎猫とらねこが、ひるのべんとうを、机の上に出して たべはじめようとしたときに、急にあくびにおそわれました。
 そこで虎猫は、みじかい両手をあらんかぎり高く延ばして、ずいぶん大きなあくびをやりました。これは猫仲間では、目上の人にも無礼なことでも何でもなく、人ならば まずひげでもひねるぐらいのところですから、それは かまいませんけれども、いけないことは、足をふんばったために、テーブルが少し坂になって、べんとうばこが するするっと滑って、とうとう がたっと事務長の前の床に落ちてしまったのです。それは でこぼこではありましたが、アルミニュームでできていましたから、大丈夫こわれませんでした。そこで虎猫は急いであくびを切り上げて、机の上から手をのばして、それを取ろうとしましたが、やっと手がかかるか かからないか位なので、べんとうばこは、あっちへ行ったりこっちへ寄ったり、なかなか うまくつかまりませんでした。
君、だめだよ。とどかないよ。」と事務長の黒猫が、もしゃもしゃパンを食べながら笑って言いました。その時 四番書記のかまも、ちょうどべんとうのふたを開いたところでしたが、それを見てすばやく立って、弁当を拾って虎猫に渡そうとしました。
[ しおり] 宮沢賢治-猫の事務所(3 / 9)
ところが虎猫は急にひどく怒り出して、折角かまの出した弁当も受け取らず、手をうしろに回して、自暴やけにからだを振りながらどなりました。
何だい。君は僕にこの弁当を食べろというのかい。机から床の上へ落ちた弁当を君は僕に食えというのかい。
いいえ、あなたが拾おうとなさるもんですから、拾ってあげただけでございます。
いつ僕が拾おうとしたんだ。うん。僕はただそれが事務長さんの前に落ちてあんまり失礼なもんだから、僕の机の下へ押し込まうと思ったんだ。
そうですか。私はまた、あんまり弁当があっちこっち動くもんですから…………
何だと失敬な。決闘を………
ジャラ ジャラ ジャラ ジャラン。事務長が高くどなりました。これは決闘をしろと言ってしまわせないために、わざと邪魔をしたのです。
いや、喧嘩けんかするのは よしたまえ。かま君も虎猫君に食べさせようというんで拾ったんじゃなかろう。それから今朝言うのを忘れたが虎猫君は月給が十銭あがったよ。
 虎猫は、はじめはこはい顔をしてそれでも頭を下げて聴いていましたが、とうとう、よろこんで笑い出しました。
どうも おさわがせいたしましてお申しわけございません。」それからとなりのかまをじろっと見て腰掛けました。
 みなさん ぼくはかまに同情します。
 それから又 五六日たって、丁度これに似たことが起ったのです。こんなことがたびたび起るわけは、一つは猫どもの無精ぶしょうなたち【性格】と、も一つは猫の前あしすなはち手が、あんまり短いためです。今度は向うの三番書記の三毛猫が、朝仕事を始める前に、筆がポロポロころがって、とうとう床に落ちました。三毛猫はすぐ立てばいいのを、骨惜みして早速 前に虎猫とらねこのやった通り、両手を机越しに延ばして、それを拾い上げようとしました。今度もやつぱり届きません。
[ しおり] 宮沢賢治-猫の事務所(4 / 9)
三毛猫ことにせいが低かったので、だんだん乗り出して、とうとう足が腰掛けからはなれてしまいました。かまは拾ってやろうかやるまいか、この前のこともありますので、しばらくためらって眼をパチパチさせて居ましたが、とうとう見るに見兼ねて、立ちあがりました。
 ところが丁度この時に、三毛猫はあんまり乗り出し過ぎてガタンとひっつくり返ってひどく頭をついて机から落ちました。それが大分ひどい音でしたから、事務長の黒猫もびっくりして立ちあがって、うしろの棚から、気付けのアンモニア水【大正・昭和初期には医療や応急処置で「気付け薬」としてよく使われた】のびんを取りました。ところが三毛猫はすぐ起き上って、かんしゃくまぎれに いきなり、
かま、きさまはよくも僕を押しのめしたな。」とどなりました。
 今度はしかし、事務長がすぐ三毛猫をなだめました。
いや、三毛君。それは君のまちがいだよ。
 かま君は好意でちよっと立っただけだ、君にさはりも何もしない。しかしまあ、こんな小さなことは、なんでもありゃしないじゃないか。さあ、えゝとサントンタンの転居届けと。えゝ。
事務長はさっさと仕事にかかりました。そこで三毛猫も、仕方なく、仕事にかかりはじめましたが やっぱり たびたびこわい目をしてかまを見ていました。
 こんな工合ぐあひですからかまはじつにつらいのでした。
 かまはあたりまえの猫になろうと何べん窓の外にねて見ましたが、どうしても夜中に寒くてくしやみが出てたまらないので、やっぱり仕方なくかまどのなかに入るのでした。
 なぜそんなに寒くなるか というのに皮がうすいためで、なぜ皮が薄いかというのに、それは土用【夏の土用(暑さが厳しいとき)を指している?】に生れたからです。やっぱり僕が悪いんだ、仕方ないなあと、かまは考えて、なみだをまんまるな眼一杯にためました。
 けれども事務長さんがあんなに親切にして下さる、それにかま仲間のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこぶのだ、どんなにつらくても ぼくはやめないぞ、きっとこらえるぞと、かまは泣きながら、にぎりこぶしを握りました。
[ しおり] 宮沢賢治-猫の事務所(5 / 9)
 ところがその事務長も、あてにならなくなりました。それは猫なんていうものは、賢いようでばかなものです。ある時、かまは運わるく風邪かぜを引いて、足のつけねをわんのようにらし、どうしても歩けませんでしたから、とうとう一日やすんでしまいました。かまのもがきようといったらありません。泣いて泣いて泣きました。納屋の小さな窓からし込んで来る黄いろな光をながめながら、一日一杯眼をこすって泣いていました。
 その間に事務所ではこういう風でした。
はてな、今日はかま君がまだ来んね。遅いね。」と事務長が、仕事のたえ間に言いました。
なあに、海岸へでも遊びに行ったんでしょう。白猫が言いました。
いゝやどこかの宴会にでも呼ばれて行ったろう虎猫とらねこが言いました。
今日どこかに宴会があるか。事務長はびっくりしてたずねました。猫の宴会に自分の呼ばれないものなどあるはずはないと思ったのです。
何でも北の方で開校式があるとか言いましたよ。
そうか。」黒猫はだまって考え込みました。
どうしてどうしてかまは、三毛猫が言い出しました。「このごろはあちこちへ呼ばれているよ。何でもこんどは、おれが事務長になるとか言ってるそうだ。だから馬鹿ばかなやつらが こわがって あらんかぎりご機嫌きげんをとるのだ。
本とうかい。それは。黒猫がどなりました。
本とうですとも。お調べになってごらんなさい。三毛猫が口をとがらせて言いました。
けしからん。あいつはおれはよほど目をかけてやってあるのだ。よし。おれにも考えがある。
 そして事務所はしばらくしんとしました。
 さて次の日です。
 かまは、やっと足のはれが、ひいたので、よろこんで朝早く、ごうごう風の吹くなかを事務所へ来ました。
[ しおり] 宮沢賢治-猫の事務所(6 / 9)
するといつも来るとすぐ表紙をでて見るほど大切な自分の原簿が、自分の机の上からなくなって、向う隣り三つの机に分けてあります。
ああ、昨日は忙がしかったんだな、かまは、なぜか胸をどきどきさせながら、かすれた声で独りごとしました。
 ガタッ。が開いて三毛猫がはいって来ました。
お早うございます。かまは立って挨拶あいさつしましたが、三毛猫はだまって腰かけて、あとはいかにも忙がしそうに帳面をめくっています。ガタン。ピシャン。虎猫がはいって来ました。
お早うございます。かまは立って挨拶しましたが、虎猫は見向きもしません。
お早うございます。三毛猫が言いました。
お早う、どうもひどい風だね。虎猫もすぐ帳面をめくりはじめました。
 ガタッ、ピシャーン。白猫しろねこが入って来ました。
お早うございます。虎猫とらねこ三毛猫が一緒に挨拶しました。
いや、お早う、ひどい風だね。白猫も忙がしそうに仕事にかかりました。その時かまは力なく立ってだまっておじぎをしましたが、白猫はまるで知らない ふりをしています。
 ガタン、ピシヤリ。
ふう、ずいぶんひどい風だね。事務長の黒猫が入って来ました。
お早うございます。」三人はすばやく立っておじぎをしました。かまもぼんやり立って、下を向いたまゝおじぎをしました。
まるで暴風だね、えゝ。」黒猫は、かまを見ないでう言いながら、もうすぐ仕事をはじめました。
さあ、今日は昨日のつづきのアンモニアックの兄弟を調べて回答しなければならん。二番書記、アンモニアック兄弟の中で、南極へ行ったのはたれだ。」仕事がはじまりました。かまはだまってうつむいていました。原簿がないのです。それを何とか言いたくっても、もう声が出ませんでした。
パン、ポラリスであります。虎猫が答えました。
よろしい、パン、ポラリスを詳述せよ。
[ しおり] 宮沢賢治-猫の事務所(7 / 9)
と黒猫が言います。ああ、これはぼくの仕事だ、原簿、原簿、とかまはまるで泣くように思いました。
パン、ポラリス、南極探険の帰途、ヤップ島沖にて死亡、遺骸いがいは水葬せらる。」一番書記の白猫が、かまの原簿で読んでいます。かまはもう かなしくて、かなしくてほほのあたりが酸っぱくなり、そこらがきいんと鳴ったりするのを じっとこらえてうつむいてりました。
 事務所の中は、だんだん忙しく湯の様になって、仕事はずんずん進みました。みんな、ほんの時々、ちらっとこっちを見るだけで、たゞ一ことも言いません。
 そしておひるになりました。かまは、持って来た弁当も食べず、じっとひざに手を置いてうつむいて居りました。
 とうとうひるすぎの一時から、かまはしくしく泣きはじめました。そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたり また泣きだしたりしたのです。
 それでもみんなはそんなこと、一向知らないというように面白そうに仕事をしていました。
 その時です。猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向うに いかめしい獅子しし【ライオン】の金いろの頭が見えました。
 獅子は不審そうに、しばらく中を見ていましたが、いきなり戸口をたたいてはいって来ました。猫どものおどろきようといったらありません。うろうろ うろうろ そこらをあるきまわるだけです。かまだけが泣くのをやめて、まっすぐに立ちました。
 獅子が大きなしっかりした声で言いました。
お前たちは何をしているか。そんなことで地理も歴史もった はなしでない。やめてしまえ。えい。解散を命ずる
 こうして事務所は廃止になりました。
 ぼくは半分 獅子に同感です。



この作品のおすすめ度を投稿して下さい!

(0.0)


底本:「宮沢賢治全集8」
[ しおり] 宮沢賢治-猫の事務所(8 / 9)
ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年1月28日第1刷発行
   1996(平成8)年5月15日第14刷発行
底本の親本:「新修宮沢賢治全集 第十三巻」筑摩書房
   1980(昭和55)年3月15日初版第1刷発行
入力:細川みづ穂
校正:瀬戸さえ子
1999年3月8日公開
2008年10月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。感謝致します。
[ しおり] 宮沢賢治-猫の事務所(9 / 9)