セロ弾きのゴーシュ
宮沢賢治


 ゴーシュは町の活動写真館でセロ【チェロ】を弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかでは いちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。
 ひるすぎみんなは楽屋にまるくならんで今度の町の音楽会へ出す第六交響曲だいろくこうきょうきょくの練習をしていました。
 トランペットは一生けん命歌っています。
 ヴァイオリンもふたいろ【2本】 かぜのように鳴っています。
 クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。
 ゴーシュも口をりんと結んでさらのようにして楽譜がくふを見つめながらもう一心に弾いています。
 にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」
 みんなは今の所の少し前の所からやり直しました。ゴーシュは顔をまっ赤にして額にあせを出しながらやっといま言われたところを通りました。ほっと安心しながら、つづけて弾いていますと楽長がまた手をぱっとちました。
「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教えてまで いるひまは ないんだがなあ。」
 みんなは気の毒そうにして わざとじぶんの譜をのぞきんだりじぶんの楽器をはじいて見たりしています。ゴーシュはあわてて糸を直しました。これはじつはゴーシュも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした。
「今の前の小節から。はいっ。」
 みんなはまたはじめました。ゴーシュも口をまげて一生けん命です。そしてこんどはかなり進みました。いいあんばいだと思っていると楽長がおどすような形をしてまたぱたっと手を拍ちました。またかとゴーシュはどきっとしましたが ありがたいことにはこんどは別の人でした。ゴーシュはそこで さっきじぶんのとき みんながしたように わざとじぶんの譜へ眼を近づけて何か考えるふりをしていました。
「ではすぐ今の次。はいっ。」
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 そらと思って弾き出したかと思うといきなり楽長が足をどんとんでどなり出しました。
「だめだ。まるでなっていない。このへんは曲の心臓なんだ。それがこんな がさがさしたことで。諸君。演奏までもうあと十日しかないんだよ。音楽を専門にやっているぼくらがあの金沓鍛冶かなぐつかじ【馬の蹄鉄ていてつを作る職人】だの砂糖屋の丁稚でっちなんかの寄り集りに負けてしまったら いったい われわれの面目めんもくはどうなるんだ。おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情ということが まるで できてない。おこるも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと外の楽器と合わないもなあ。いつでも きみだけ とけたくつのひもを引きずってみんなのあとをついてあるくようなんだ、困るよ、しっかりしてくれないとねえ。光輝こうきあるわが金星音楽団がきみ一人のために悪評をとるようなことでは、みんなへもまったく気の毒だからな。では今日は練習はここまで、休んで六時には かっきりボックスへ入ってくれたまえ。」
 みんなはおじぎをして、それからたばこをくわえてマッチをすったりどこかへ出て行ったりしました。ゴーシュはその粗末そまつはこみたいなセロをかかえてかべの方へ向いて口をまげて ぼろぼろなみだをこぼしましたが、気をとり直して じぶんだけたったひとり いまやったところをはじめからしずかに もいちど弾きはじめました。
 その晩おそゴーシュは何かおおきな黒いものをしょって じぶんの家へ帰ってきました。家といってもそれは町はずれの川ばたにある こわれた水車小屋で、ゴーシュはそこにたった一人ですんでいて 午前は小屋のまわりの小さな畑でトマトのえだをきったり 甘藍キャベジの虫をひろったりして ひるすぎになるといつも出て行っていたのです。ゴーシュがうちへ入ってあかりをつけると さっきの黒い包みをあけました。それは何でもない。
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あの夕方のごつごつしたセロでした。ゴーシュはそれをゆかの上にそっと置くと、いきなりたなからコップをとってバケツの水をごくごくのみました。
 それから頭を一つふって椅子いすへかけると まるでとらみたいないきおいでひるの譜を弾きはじめました。譜をめくりながら弾いては考え 考えては弾き 一生けん命しまいまで行くと またはじめから なんべんもなんべんも ごうごうごうごう弾きつづけました。
 夜中も とうにすぎてしまい は もうじぶんが弾いているのかもわからないようになって 顔もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄ものすごい顔つきになり いまにもたおれるかと思うように見えました。
 そのときたれか うしろのをとんとんとたたくものがありました。
ホーシュ君か。」ゴーシュはねぼけたようにさけびました。ところがすうと扉をしてはいって来たのは いままで五六ぺん見たことのある大きな三毛猫みけねこでした。
 ゴーシュの畑からとった半分熟したトマトを さも重そうに持って来て ゴーシュの前におろして言いました。
「ああくたびれた。なかなか運搬うんぱんはひどいやな。」
「何だと」ゴーシュがききました。
「これおみやです。たべてください。」三毛猫が言いました。
 ゴーシュはひるからのむしゃくしゃを一ぺんに どなりつけました。
「誰がきさまにトマトなど持ってこいと言った。第一おれがきさまらのもってきたものなど食うか。それからそのトマトだっておれの畑のやつだ。何だ。赤くもならないやつをむしって。いままでもトマトのくきをかじったり けちらしたりしたのは おまえだろう。行ってしまえ。ねこめ。」
 するとかたをまるくして眼をすぼめてはいましたが 口のあたりで にやにや わらって言いました。
「先生、そうお怒りになっちゃ、おからだにさわります。それよりシューマンのトロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」
「生意気なことを言うな。ねこのくせに。」
 セロ弾きは しゃくにさわって このねこのやつ どうしてくれようとしばらく考えました。
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「いやご遠慮えんりょはありません。どうぞ。わたしはどうも先生の音楽をきかないと ねむられないんです。」
「生意気だ。生意気だ。生意気だ。」
 ゴーシュはすっかりまっ赤になってひるま楽長のしたように足ぶみして どなりましたが にわかに気を変えて言いました。
「では弾くよ。」
 ゴーシュは何と思ったかにかぎをかって 窓もみんなしめてしまい、それからセロをとりだして あかしを消しました。すると外から二十日過ぎの月のひかりがへやのなかへ半分ほどはいってきました。
「何をひけと。」
「トロメライ、ロマチックシューマン作曲。」は口をいて済まして言いました。
「そうか。トロメライというのはこういうのか。」
 セロ弾きは何と思ったか まず はんけちを引きさいてじぶんの耳の穴へぎっしりつめました。それからまるであらしのようないきおいで「印度インド虎狩とらがり」という譜を弾きはじめました。
 するとはしばらく首をまげて聞いていましたが いきなりパチパチパチッと眼をしたかと思うと ぱっと扉の方へ飛びのきました。そしていきなりどんと扉へからだをぶっつけましたが扉はあきませんでした。は さあこれはもう一生一代の失敗をしたという風にあわてだして 眼や額からぱちぱち火花を出しました。するとこんどは口のひげからも鼻からも出ましたからはくすぐったがって しばらく くしゃみをするような顔をして それからまた さあこうしてはいられないぞというように はせあるきだしました。ゴーシュはすっかり面白おもしろくなって ますます勢よくやり出しました。
「先生もうたくさんです。たくさんですよ。ご生ですからやめてください。これからもう先生のタクトなんかとりませんから。」
「だまれ。これから虎をつかまえる所だ。」
 はくるしがって はねあがってまわったり壁にからだをくっつけたりしましたが 壁についたあとはしばらく青くひかるのでした。しまいははまるで風車のようにぐるぐるぐるぐるゴーシュをまわりました。
 ゴーシュもすこしぐるぐるして来ましたので、
「さあこれで許してやるぞ」と言いながらようようやめました。
 するともけろりとして
「先生、こんやの演奏はどうかしてますね。」と言いました。
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 セロ弾きは またぐっとしゃくにさわりましたが 何気ない風で巻たばこを一本だして口にくわえ それからマッチを一本とって
「どうだい。工合ぐあいをわるくしないかい。舌を出してごらん。」
 は ばかにしたようにとがった長い舌をベロリと出しました。
「ははあ、少しれたね。」セロ弾きは言いながら いきなりマッチを舌でシュッとすってじぶんのたばこへつけました。さあおどろいたの何の舌を風車のようにふりまわしながら 入り口のへ行って頭でどんとぶっつかっては よろよろとして またもどって来て どんとぶっつかっては よろよろまた戻って来て またぶっつかってはよろよろ にげみちをこさえようとしました。
 ゴーシュはしばらく面白そうに見ていましたが
「出してやるよ。もう来るなよ。ばか。」
 セロ弾きは扉をあけてが風のようにかやのなかを走って行くのを見て ちょっとわらいました。それから、やっとせいせいしたというように ぐっすりねむりました。
 次の晩もゴーシュがまた黒いセロの包みをかついで帰ってきました。そして水をごくごくのむと そっくり ゆうべのとおりぐんぐんセロを弾きはじめました。十二時は間もなく過ぎ一時もすぎ二時もすぎてもゴーシュは まだやめませんでした。それからもう何時だかもわからず弾いているかもわからず ごうごうやっていますとたれか屋根裏をこっこっと叩くものがあります。
、まだこりないのか。」
 ゴーシュが叫びますといきなり天井てんじょうの穴からぽろんと音がして一ぴきの灰いろの鳥が降りて来ました。床へとまったのを見るとそれはかっこうでした。
「鳥まで来るなんて。何の用だ。」ゴーシュが言いました。
「音楽を教わりたいのです。」
 かっこう鳥はすまして言いました。
 ゴーシュは笑って
「音楽だと。おまえの歌は、かっこう、かっこうというだけじゃあないか。」
 するとかっこうが大へんまじめに
「ええ、それなんです。けれどもむずかしいですからねえ。」と言いました。
「むずかしいもんか。おまえたちのはたくさんくのが ひどいだけで、なきようは何でもないじゃないか。」
「ところがそれがひどいんです。たとえばかっこうと こうなくのと かっこうと こうなくのとでは聞いていてもよほどちがうでしょう。」
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「ちがわないね。」
「ではあなたには わからないんです。わたしらのなかまならかっこうと一万言えば一万みんな ちがうんです。」
「勝手だよ。そんなにわかってるなら何もおれのところへ来なくてもいいではないか。」
「ところが私はドレミファを正確にやりたいんです。」
「ドレミファもくそもあるか。」
「ええ、外国へ行く前にぜひ一度いるんです。」
「外国もくそもあるか。」
「先生どうかドレミファを教えてください。わたしはついてうたいますから。」
「うるさいなあ。そら三べんだけいてやるから すんだらさっさと帰るんだぞ。」
 ゴーシュはセロを取り上げてボロンボロンと糸を合わせてドレミファソラシドとひきました。するとかっこうはあわてて羽をばたばたしました。
「ちがいます、ちがいます。そんなんでないんです。」
「うるさいなあ。ではおまえやってごらん。」
「こうですよ。」かっこうはからだをまえに曲げてしばらく構えてから
「かっこう」と一つなきました。
「何だい。それがドレミファかい。おまえたちには、それではドレミファも第六交響楽こうきょうがくも同じなんだな。」
「それはちがいます。」
「どうちがうんだ。」
「むずかしいのはこれをたくさん続けたのがあるんです。」
「つまりこうだろう。」セロ弾きはまたセロをとって、かっこう かっこう かっこう かっこう かっこうとつづけてひきました。
 するとかっこうはたいへんよろこんで途中とちゅうから かっこう かっこう かっこう かっこうとついてさけびました。それももう一生けん命からだをまげていつまでも叫ぶのです。
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 ゴーシュはとうとう手が痛くなって
「こら、いいかげんにしないか。」と言いながらやめました。するとかっこうは残念そうにをつりあげて まだしばらくないていましたが やっと
「……かっこうかくうかっかっかっかっか」と言ってやめました。
 ゴーシュがすっかりおこってしまって、
「こらとり、もう用が済んだらかえれ」と言いました。
「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのはいいようだけれども すこしちがうんです。」
「何だと、おれがきさまに教わってるんではないんだぞ。帰らんか。」
「どうかたったもう一ぺんおねがいです。どうか。」かっこうは頭を何べんもこんこん下げました。
「ではこれっきりだよ。」
 ゴーシュは弓をかまえました。かっこうは「くっ」とひとつ息をして
「ではなるべく永くおねがいいたします。」といってまた一つおじぎをしました。
「いやになっちまうなあ。」ゴーシュは にが笑いしながら弾きはじめました。するとかっこうは またまるで本気になって「かっこう かっこう かっこう」とからだをまげてじつに一生けん命叫びました。ゴーシュは はじめはむしゃくしゃしていましたが いつまでもつづけて弾いているうちに ふっと何だかこれは鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかなという気がしてきました。どうも弾けば弾くほど かっこうの方がいいような気がするのでした。
「えい こんなばかなことしていたら おれは鳥になってしまうんじゃないか。」とゴーシュはいきなりぴたりとセロをやめました。
 するとかっこうは どしんと頭をたたかれたように ふらふらっとしてそれからまたさっきのように
「かっこう かっこう かっこうかっかっかっかっかっ」と言ってやめました。それからうらめしそうにゴーシュを見て
「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでも のどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」と言いました。
「何を生意気な。こんなばかなまねをいつまでしていられるか。もう出て行け。見ろ。夜があけるんじゃないか。」ゴーシュは窓を指さしました。
 東のそらがぼうっと銀いろになってそこをまっ黒な雲が北の方へどんどん走っています。
「ではお日さまの出るまでどうぞ。もう一ぺん。ちょっとですから。」
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 かっこうはまた頭を下げました。
だまれっ。いい気になって。このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまうぞ。」ゴーシュはどんと床をふみました。
 するとかっこうは にわかにびっくりしたように いきなり窓をめがけて飛び立ちました。そして硝子ガラスにはげしく頭をぶっつけてばたっと下へ落ちました。
「何だ、硝子へばかだなあ。」ゴーシュはあわてて立って窓をあけようとしましたが 元来この窓はそんなにいつでもするする開く窓ではありませんでした。ゴーシュが窓のわくをしきりに がたがたしているうちに またかっこうが ばっとぶっつかって下へ落ちました。見るとくちばしのつけねからすこし血が出ています。
「いまあけてやるから待っていろったら。」ゴーシュがやっと二寸ばかり窓をあけたとき、かっこうは起きあがって何が何でも こんどこそ というようにじっと窓の向うの東のそらをみつめて、あらん限りの力をこめた風で ぱっと飛びたちました。もちろんこんどは前よりひどく硝子につきあたってかっこうは下へ落ちたまま しばらく身動きもしませんでした。つかまえてドアから飛ばしてやろうとゴーシュが手を出しましたら いきなりかっこうは眼をひらいて飛びのきました。そしてまたガラスへ飛びつきそうにするのです。ゴーシュは思わず足を上げて窓をばっとけりました。ガラスは二三枚物すごい音してくだけ 窓はわくのまま外へ落ちました。そのがらんとなった窓のあとをかっこうが矢のように外へ飛びだしました。そしてもう どこまでもどこまでも まっすぐに飛んで行って とうとう見えなくなってしまいました。ゴーシュはしばらくあきれたように外を見ていましたが、そのままたおれるようにへやのすみへころがってねむってしまいました。
 次の晩もゴーシュは 夜中すぎまでセロを弾いて つかれて水を一杯いっぱいのんでいますと、またをこつこつたたくものがあります。
 今夜は何が来ても ゆうべのかっこうのように はじめからおどかして追いはらってやろうと思って コップをもったまま待ち構えてりますと、扉がすこしあいて一疋のたぬきの子が はいってきました。ゴーシュはそこで その扉をもう少し広くひらいて置いて どんと足をふんで、
「こら、、おまえはたぬきじるということを知っているかっ。」とどなりました。
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するとの子は ぼんやりした顔をして きちんと床へすわったまま どうもわからないというように首をまげて考えていましたが、しばらくたって
汁ってぼく知らない。」と言いました。ゴーシュはその顔を見て思わずき出そうとしましたが、まだ無理にこわい顔をして、
「では教えてやろう。汁というのはな。おまえのようなをな、キャベジや塩とまぜて くたくたとておれさまの食うようにしたものだ。」と言いました。するとの子はまたふしぎそうに
「だってぼくのお父さんがね、ゴーシュさんは とてもいい人で こわくないから行って習えと言ったよ。」と言いました。そこでゴーシュもとうとう笑い出してしまいました。
「何を習えと言ったんだ。おれは いそがしいんじゃないか。それに睡いんだよ。」
 の子はにわかいきおいがついたように一足前へ出ました。
「ぼくは小太鼓こだいこの係りでねえ。セロへ合わせてもらって来いと言われたんだ。」
「どこにも小太鼓がないじゃないか。」
「そら、これ」の子は せなかから棒きれを二本出しました。
「それでどうするんだ。」
「ではね、『愉快ゆかいな馬車屋』を弾いてください。」
「なんだ愉快な馬車屋ってジャズか。」
「ああこのだよ。」の子はせなかからまた一枚の譜をとり出しました。ゴーシュは手にとってわらい出しました。
「ふう、変な曲だなあ。よし、さあ弾くぞ。おまえは小太鼓を叩くのか。」ゴーシュの子がどうするのかと思って ちらちら そっちを見ながら弾きはじめました。
 するとの子は棒をもってセロのこまの下のところを拍子ひょうしをとってぽんぽん叩きはじめました。


それがなかなかうまいので弾いているうちにゴーシュはこれは面白おもしろいぞと思いました。
 おしまいまでひいてしまうとの子はしばらく首をまげて考えました。
 それからやっと考えついたというように言いました。
ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときは きたいにおくれるねえ。なんだかぼくがつまずくようになるよ。」
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 ゴーシュははっとしました。たしかにその糸はどんなに手早く弾いても すこしたってからでないと 音が出ないような気がゆうべからしていたのでした。
「いや、そうかもしれない。このセロは悪いんだよ。」とゴーシュはかなしそうに言いました。するとは気の毒そうにして またしばらく考えていましたが
「どこが悪いんだろうなあ。ではもう一ぺん弾いてくれますか。」
「いいとも弾くよ。」ゴーシュははじめました。の子はさっきのようにとんとん叩きながら時々頭をまげてセロに耳をつけるようにしました。そしておしまいまで来たときは今夜もまた東がぼうと明るくなっていました。
「ああ夜が明けたぞ。どうもありがとう。」の子は大へんあわてて譜や棒きれをせなかへしょって ゴムテープでぱちんと とめて おじぎを二つ三つすると急いで外へ出て行ってしまいました。
 ゴーシュは ぼんやりして しばらくゆうべのこわれたガラスから はいってくる風を吸っていましたが、町へ出て行くまで睡って元気をとりもどそうと急いで ねどこへもぐりみました。
 次の晩もゴーシュは夜通しセロを弾いて明方近く思わずつかれて楽譜をもったままうとうとしていますと またたれをこつこつと叩くものがあります。それもまるで聞えるか聞えないかの位でしたが 毎晩のことなのでゴーシュはすぐ聞きつけて「おはいり。」と言いました。すると戸のすきまからはいって来たのは 一ぴきの野ねずみでした。そして大へん ちいさなこどもをつれて ちょろちょろとゴーシュの前へ歩いてきました。そのまた野ねずみのこどもときたら まるでけしごむ のくらいしかないのでゴーシュはおもわずわらいました。すると野ねずみは何をわらわれたろうというように きょろきょろしながらゴーシュの前に来て、青いくりの実を一つぶ前においてちゃんと おじぎをして言いました。
「先生、このがあんばいがわるくて死にそうでございますが 先生お慈悲じひになおしてやってくださいまし。」
「おれが医者などやれるもんか。」ゴーシュはすこしむっとして言いました。
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すると野ねずみのお母さんは下を向いてしばらくだまっていましたが また思い切ったように言いました。
「先生、それはうそでございます、先生は毎日あんなに上手にみんなの病気をなおしておいでになるではありませんか。」
「何のことだかわからんね。」
「だって先生 先生のおかげで、うさぎさんのおばあさんもなおりましたし さんのお父さんもなおりましたし あんな意地悪のみみずくまでなおしていただいたのに この子ばかりお助けをいただけないとは あんまり情ないことでございます。」
「おいおい、それは何かの間ちがいだよ。おれはみみずくの病気なんど なおしてやったことはないからな。もっともの子はゆうべ来て楽隊のまねをして行ったがね。ははん。」ゴーシュあきれてその子ねずみを見おろしてわらいました。
 すると野鼠ねずみのお母さんは泣きだしてしまいました。
「ああこのはどうせ病気になるなら もっと早くなればよかった。さっきまであれ位ごうごうと鳴らしておいでになったのに、病気になるといっしょにぴたっと音がとまって もうあとはいくらおねがいしても鳴らしてくださらないなんて。何てふしあわせな子どもだろう。」
 ゴーシュはびっくりしてさけびました。
「何だと、ぼくがセロを弾けば みみずくや 兎の病気がなおると。どういうわけだ。それは。」
 野ねずみを片手でこすりこすり言いました。
「はい、ここらのものは病気になるとみんな 先生のおうちの床下にはいってなおすのでございます。」
「すると療るのか。」
「はい。からだ中とても血のまわりがよくなって 大へんいい気持ちで すぐ療る方もあればうちへ帰ってから療る方もあります。」
「ああそうか。おれのセロの音が ごうごうひびくと、それがあんまの代りになっておまえたちの病気がなおるというのか。よし。わかったよ。やってやろう。」
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ゴーシュはちょっとギウギウと糸を合せて それからいきなり のねずみのこどもをつまんでセロのあなから中へ入れてしまいました。
「わたしもいっしょについて行きます。どこの病院でもそうですから。」おっかさんの野ねずみは きちがいのようになってセロに飛びつきました。
「おまえさんもはいるかね。」セロ弾きはおっかさんの野ねずみをセロの孔から くぐしてやろうとしましたが 顔が半分しかはいりませんでした。
 野ねずみは ばたばたしながら中のこどもに叫びました。
「おまえそこはいいかい。落ちるときいつも教えるように足をそろえてうまく落ちたかい。」
「いい。うまく落ちた。」こどものねずみはまるでのような小さな声でセロの底で返事しました。
大丈夫だいじょうぶさ。だから泣き声出すなというんだ。」ゴーシュはおっかさんのねずみを下におろして それから弓をとって何とかラプソディとかいうものを ごうごう があがあ 弾きました。するとおっかさんのねずみは いかにも心配そうにその音の工合ぐあいをきいていましたが とうとうこらえ切れなくなったふうで
「もう沢山たくさんです。どうか出してやってください。」と言いました。
「なあんだ、これでいいのか。」ゴーシュはセロをまげて孔のところに手をあてて待っていましたら 間もなくこどものねずみが出てきました。ゴーシュは、だまってそれをおろしてやりました。見るとすっかり目をつぶって ぶるぶるぶるぶる ふるえていました。
「どうだったの。いいかい。気分は。」
 こどものねずみは すこしもへんじもしないで まだしばらく眼をつぶったまま ぶるぶるぶるぶる ふるえていましたが にわかに起きあがって走りだした。
「ああよくなったんだ。ありがとうございます。ありがとうございます。」おっかさんのねずみもいっしょに走っていましたが、まもなくゴーシュの前に来てしきりにおじぎをしながら
「ありがとうございます ありがとうございます」と十ばかり言いました。
 ゴーシュは何がな かあいそうになって
「おい、おまえたちはパンはたべるのか。」とききました。
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 すると野鼠はびっくりしたように きょろきょろあたりを見まわしてから
「いえ、もうおパンというものは小麦の粉をこねたりむしたりして こしらえたもので ふくふくふくらんでいて おいしいものなそうでございますが、そうでなくても私どもはおうちの戸棚とだなへなど参ったこともございませんし、ましてこれ位お世話になりながら どうしてそれを運びになんど参れましょう。」と言いました。
「いや、そのことではないんだ。ただ たべるのかときいたんだ。ではたべるんだな。ちょっと待てよ。その腹の悪いこどもへやるからな。」
 ゴーシュはセロを床へ置いて戸棚からパンを一つまみむしって野ねずみの前へ置きました。
 野ねずみは もうまるで ばかのようになって泣いたり笑ったり おじぎをしたりしてから 大じそうにそれをくわえてこどもをさきに立てて外へ出て行きました。
「あああ。鼠と話するのも なかなかつかれるぞ。」ゴーシュは ねどこへどっかりたおれてすぐ ぐうぐうねむってしまいました。
 それから六日目の晩でした。金星音楽団の人たちは町の公会堂のホールの裏にある控室ひかえしつへ みんなぱっと顔をほてらして めいめい楽器をもって、ぞろぞろホールの舞台ぶたいから引きあげて来ました。首尾よく第六交響曲を仕上げたのです。ホールでは拍手はくしゅの音がまだあらしのように鳴ってります。楽長はポケットへ手をつっ込んで拍手なんかどうでもいいというように のそのそ みんなの間を歩きまわっていましたが、じつはどうしてうれしさでいっぱいなのでした。みんなは たばこをくわえてマッチをすったり楽器をケースへ入れたりしました。
 ホールはまだ ぱちぱち 手が鳴っています。それどころではなく いよいよそれが高くなって 何だかこわいような手がつけられないような音になりました。大きな白いリボンを胸につけた司会者がはいって来ました。
「アンコールをやっていますが、何かみ じかいものでもきかせてやってくださいませんか。」
 すると楽長がきっとなって答えました。「いけませんな。こういう大物のあとへ何を出したって こっちの気の済むようには行くもんでないんです。」
「では楽長さん出て一寸ちょっと挨拶あいさつしてください。」
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「だめだ。おい、ゴーシュ君、何か出て弾いてやってくれ。」
「わたしがですか。」ゴーシュ呆気あっけにとられました。
「君だ、君だ。」ヴァイオリンの一番の人がいきなり顔をあげて言いました。
「さあ出て行きたまえ。」楽長が言いました。みんなもセロをむりにゴーシュに持たせて をあけるといきなり舞台へゴーシュし出してしまいました。ゴーシュがその孔のあいたセロをもって じつに困ってしまって舞台へ出ると みんなはそら見ろというように一そう ひどく手をたたきました。わあと叫んだものもあるようでした。
「どこまでひとをばかにするんだ。よし見ていろ。印度インド虎狩とらがりをひいてやるから。」ゴーシュはすっかり落ちついて舞台のまん中へ出ました。
 それからあのの来たときのようにまるでおこった象のようないきおいで虎狩りを弾きました。ところが聴衆ちょうしゅうは しいんとなって一生けん命聞いています。ゴーシュはどんどん弾きました。が切ながって ぱちぱち火花を出したところも過ぎました。扉へからだを何べんもぶっつけた所も過ぎました。
 曲が終るとゴーシュは もうみんなの方などは見もせず ちょうどそののようにすばやくセロをもって楽屋へげ込みました。すると楽屋では楽長はじめ仲間がみんな火事にでもあったあとのように眼をじっとして ひっそりとすわり込んでいます。ゴーシュはやぶれかぶれだと思ってみんなの間を さっさとあるいて行って向うの長椅子ながいすへどっかりとからだをおろして足を組んですわりました。
 するとみんなが一ぺんに顔をこっちへ向けてゴーシュを見ましたが やはりまじめでべつにわらっているようでもありませんでした。
「こんやは変な晩だなあ。」
 ゴーシュは思いました。ところが楽長は立って言いました。
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ゴーシュ君、よかったぞお。あんな曲だけれども ここではみんな かなり本気になって聞いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。」
 仲間もみんな立って来て「よかったぜ」とゴーシュに言いました。
「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通ふつうの人なら死んでしまうからな。」楽長が向うで言っていました。
 その晩おそゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。
 そしてまた水をがぶがぶみました。それから窓をあけていつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら
「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と言いました。




底本:「新編 銀河鉄道の夜」新潮文庫、新潮社
   1989(平成元)年6月15日発行
   1994(平成6)年6月5日13刷
底本の親本:「新修宮沢賢治全集 第十二巻」筑摩書房
   1980(昭和55)年1月
入力:水口充、野口英司
校正:野口英司
1999年7月23日公開
2008年10月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。感謝致します。
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