ゴーシュは町の活動写真館でセロ【チェロ】を弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかでは いちばん下手でしたから、いつでも
楽長にいじめられるのでした。
ひるすぎみんなは楽屋に
円くならんで今度の町の音楽会へ出す
第六交響曲の練習をしていました。
トランペットは一生けん命歌っています。
ヴァイオリンも
二いろ【2本】
風のように鳴っています。
クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。
ゴーシュも口をりんと結んで
眼を
皿のようにして
楽譜を見つめながらもう一心に弾いています。
にわかにぱたっと
楽長が両手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。
楽長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」
みんなは今の所の少し前の所からやり直しました。
ゴーシュは顔をまっ赤にして額に
汗を出しながらやっといま言われたところを通りました。ほっと安心しながら、つづけて弾いていますと
楽長がまた手をぱっと
拍ちました。
「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教えてまで いるひまは ないんだがなあ。」
みんなは気の毒そうにして わざとじぶんの譜をのぞき
込んだりじぶんの楽器をはじいて見たりしています。
ゴーシュはあわてて糸を直しました。これはじつは
ゴーシュも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした。
「今の前の小節から。はいっ。」
みんなはまたはじめました。
ゴーシュも口をまげて一生けん命です。そしてこんどはかなり進みました。いいあんばいだと思っていると
楽長がおどすような形をしてまたぱたっと手を拍ちました。またかと
ゴーシュはどきっとしましたが ありがたいことにはこんどは別の人でした。
ゴーシュはそこで さっきじぶんのとき みんながしたように わざとじぶんの譜へ眼を近づけて 何か考えるふりをしていました。
「ではすぐ今の次。はいっ。」
1/15
そらと思って弾き出したかと思うといきなり
楽長が足をどんと
踏んでどなり出しました。
「だめだ。まるでなっていない。このへんは曲の心臓なんだ。それがこんな がさがさしたことで。諸君。演奏までもうあと十日しかないんだよ。音楽を専門にやっているぼくらがあの
金沓鍛冶【馬の
蹄鉄を作る職人】だの砂糖屋の
丁稚なんかの寄り集りに負けてしまったら いったい われわれの
面目はどうなるんだ。おい
ゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情ということが まるで できてない。
怒るも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと外の楽器と合わないもなあ。いつでも きみだけ とけた
靴のひもを引きずって みんなのあとを ついてあるくようなんだ、困るよ、しっかりしてくれないとねえ。
光輝あるわが金星音楽団が きみ一人のために 悪評をとるようなことでは、みんなへもまったく気の毒だからな。では今日は練習はここまで、休んで六時には かっきりボックスへ入ってくれ
給え。」
みんなはおじぎをして、それからたばこをくわえて マッチをすったり どこかへ出て行ったりしました。
ゴーシュはその
粗末な
箱みたいなセロをかかえて
壁の方へ向いて口をまげて ぼろぼろ
涙をこぼしましたが、気をとり直して じぶんだけたったひとり いまやったところを はじめからしずかに もいちど弾きはじめました。
その晩
遅く
ゴーシュは何か
巨きな黒いものをしょって じぶんの家へ帰ってきました。家といってもそれは町はずれの川ばたにある こわれた水車小屋で、
ゴーシュはそこにたった一人ですんでいて 午前は小屋のまわりの小さな畑でトマトの
枝をきったり
甘藍の虫をひろったりして ひるすぎになるといつも出て行っていたのです。
ゴーシュがうちへ入ってあかりをつけると さっきの黒い包みをあけました。それは何でもない。
2/15
あの夕方のごつごつしたセロでした。
ゴーシュはそれを
床の上にそっと置くと、いきなり
棚からコップをとってバケツの水をごくごくのみました。
それから頭を一つふって
椅子へかけると まるで
虎みたいな
勢でひるの譜を弾きはじめました。譜をめくりながら弾いては考え 考えては弾き 一生けん命しまいまで行くと またはじめから なんべんもなんべんも ごうごうごうごう弾きつづけました。
夜中も とうにすぎてしまい は もうじぶんが弾いているのかも わからないようになって 顔もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても
物凄い顔つきになり いまにも
倒れるかと思うように見えました。
そのとき
誰か うしろの
扉をとんとんと
叩くものがありました。
「
ホーシュ君か。」
ゴーシュはねぼけたように
叫びました。ところがすうと扉を
押してはいって来たのは いままで五六ぺん見たことのある大きな
三毛猫でした。
ゴーシュの畑からとった半分熟したトマトを さも重そうに持って来て
ゴーシュの前におろして言いました。
「ああくたびれた。なかなか
運搬はひどいやな。」
「何だと」
ゴーシュがききました。
「これおみやです。たべてください。」
三毛猫が言いました。
ゴーシュはひるからのむしゃくしゃを一ぺんに どなりつけました。
「誰がきさまにトマトなど持ってこいと言った。第一おれが きさまらの もってきたものなど食うか。それからそのトマトだっておれの畑のやつだ。何だ。赤くもならないやつをむしって。いままでもトマトの
茎をかじったり けちらしたりしたのは おまえだろう。行ってしまえ。ねこめ。」
すると
猫は
肩をまるくして眼をすぼめてはいましたが 口のあたりで にやにや わらって言いました。
「先生、そうお怒りになっちゃ、おからだにさわります。それより
シューマンのトロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」
「生意気なことを言うな。ねこのくせに。」
セロ弾きは しゃくにさわって このねこのやつ どうしてくれようとしばらく考えました。
3/15
「いやご
遠慮はありません。どうぞ。わたしはどうも先生の音楽をきかないと ねむられないんです。」
「生意気だ。生意気だ。生意気だ。」
ゴーシュはすっかりまっ赤になってひるま
楽長のしたように足ぶみして どなりましたが にわかに気を変えて言いました。
「では弾くよ。」
ゴーシュは何と思ったか
扉にかぎをかって 窓もみんなしめてしまい、それからセロをとりだして あかしを消しました。すると外から二十日過ぎの月のひかりが
室のなかへ半分ほどはいってきました。
「何をひけと。」
「トロメライ、ロマチックシューマン作曲。」
猫は口を
拭いて済まして言いました。
「そうか。トロメライというのはこういうのか。」
セロ弾きは何と思ったか まず はんけちを引きさいて じぶんの耳の穴へぎっしりつめました。それからまるで
嵐のような
勢で「
印度の
虎狩」という譜を弾きはじめました。
すると
猫はしばらく首をまげて聞いていましたが いきなりパチパチパチッと眼をしたかと思うと ぱっと扉の方へ飛びのきました。そしていきなり どんと扉へからだをぶっつけましたが 扉はあきませんでした。
猫は さあこれは もう一生一代の失敗をしたという風に あわてだして 眼や額からぱちぱち火花を出しました。するとこんどは口のひげからも鼻からも出ましたから
猫はくすぐったがって しばらく くしゃみをするような顔をして それからまた さあこうしては いられないぞと いうように はせあるきだしました。
ゴーシュはすっかり
面白くなって ますます勢よくやり出しました。
「先生もうたくさんです。たくさんですよ。ご生ですからやめてください。これからもう先生のタクトなんかとりませんから。」
「だまれ。これから虎をつかまえる所だ。」
猫はくるしがって はねあがってまわったり 壁にからだを くっつけたりしましたが 壁についたあとはしばらく青くひかるのでした。しまいは
猫はまるで風車のようにぐるぐるぐるぐる
ゴーシュをまわりました。
ゴーシュもすこしぐるぐるして来ましたので、
「さあこれで許してやるぞ」と言いながらようようやめました。
すると
猫もけろりとして
「先生、こんやの演奏はどうかしてますね。」と言いました。
4/15
セロ弾きは またぐっと しゃくにさわりましたが 何気ない風で巻たばこを一本だして口にくわえ それからマッチを一本とって
「どうだい。
工合をわるくしないかい。舌を出してごらん。」
猫は ばかにしたように
尖った長い舌をベロリと出しました。
「ははあ、少し
荒れたね。」セロ弾きは言いながら いきなりマッチを舌でシュッとすって じぶんのたばこへつけました。さあ
猫は
愕いたの何の舌を風車のようにふりまわしながら 入り口の
扉へ行って頭でどんとぶっつかっては よろよろとして また
戻って来て どんとぶっつかっては よろよろまた戻って来て またぶっつかってはよろよろ にげみちを こさえようとしました。
ゴーシュはしばらく面白そうに見ていましたが
「出してやるよ。もう来るなよ。ばか。」
セロ弾きは扉をあけて
猫が風のように
萱のなかを走って行くのを見て ちょっとわらいました。それから、やっとせいせいしたと いうように ぐっすりねむりました。
次の晩も
ゴーシュがまた黒いセロの包みをかついで帰ってきました。そして水をごくごくのむと そっくり ゆうべのとおりぐんぐんセロを弾きはじめました。十二時は間もなく過ぎ一時もすぎ二時もすぎても
ゴーシュは まだやめませんでした。それから もう何時だかもわからず 弾いているかもわからず ごうごうやっていますと
誰か屋根裏をこっこっと叩くものがあります。
「
猫、まだこりないのか。」
ゴーシュが叫びますといきなり
天井の穴からぽろんと音がして一
疋の灰いろの鳥が降りて来ました。床へとまったのを見るとそれは
かっこうでした。
「鳥まで来るなんて。何の用だ。」
ゴーシュが言いました。
「音楽を教わりたいのです。」
かっこう鳥はすまして言いました。
ゴーシュは笑って
「音楽だと。おまえの歌は、かっこう、かっこうと いうだけじゃあないか。」
すると
かっこうが大へんまじめに
「ええ、それなんです。けれども むずかしいですからねえ。」と言いました。
「むずかしいもんか。おまえたちのはたくさん
啼くのが ひどいだけで、なきようは何でもないじゃないか。」
「ところがそれがひどいんです。たとえばかっこうと こうなくのと かっこうと こうなくのとでは 聞いていても よほど ちがうでしょう。」
5/15
「ちがわないね。」
「ではあなたには わからないんです。わたしらのなかまなら かっこうと一万言えば 一万みんな ちがうんです。」
「勝手だよ。そんなにわかってるなら何もおれの
処へ来なくてもいいではないか。」
「ところが私はドレミファを正確にやりたいんです。」
「ドレミファもくそもあるか。」
「ええ、外国へ行く前にぜひ一度いるんです。」
「外国もくそもあるか。」
「先生どうかドレミファを教えてください。わたしはついてうたいますから。」
「うるさいなあ。そら三べんだけ
弾いてやるから すんだらさっさと帰るんだぞ。」
ゴーシュはセロを取り上げて ボロンボロンと糸を合わせて ドレミファソラシドとひきました。すると
かっこうはあわてて羽をばたばたしました。
「ちがいます、ちがいます。そんなんでないんです。」
「うるさいなあ。ではおまえやってごらん。」
「こうですよ。」
かっこうはからだをまえに曲げてしばらく構えてから
「かっこう」と一つなきました。
「何だい。それがドレミファかい。おまえたちには、それではドレミファも第六
交響楽も同じなんだな。」
「それはちがいます。」
「どうちがうんだ。」
「むずかしいのはこれをたくさん続けたのがあるんです。」
「つまりこうだろう。」セロ弾きはまたセロをとって、かっこう かっこう かっこう かっこう かっこうとつづけてひきました。
すると
かっこうはたいへんよろこんで
途中から かっこう かっこう かっこう かっこうとついて
叫びました。それも もう一生けん命からだをまげて いつまでも叫ぶのです。
6/15
ゴーシュはとうとう手が痛くなって
「こら、いいかげんにしないか。」と言いながらやめました。すると
かっこうは残念そうに
眼をつりあげて まだしばらくないていましたが やっと
「……かっこう かくう かっかっかっかっか」と言ってやめました。
ゴーシュがすっかりおこってしまって、
「こらとり、もう用が済んだらかえれ」と言いました。
「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのはいいようだけれども すこしちがうんです。」
「何だと、おれがきさまに教わってるんではないんだぞ。帰らんか。」
「どうかたったもう一ぺんおねがいです。どうか。」
かっこうは頭を何べんもこんこん下げました。
「ではこれっきりだよ。」
ゴーシュは弓をかまえました。
かっこうは「くっ」とひとつ息をして
「ではなるべく永くおねがいいたします。」といってまた一つおじぎをしました。
「いやになっちまうなあ。」
ゴーシュは にが笑いしながら弾きはじめました。すると
かっこうは またまるで本気になって「かっこう かっこう かっこう」とからだをまげてじつに一生けん命叫びました。
ゴーシュは はじめは むしゃくしゃしていましたが いつまでもつづけて弾いているうちに ふっと何だか これは鳥の方がほんとうのドレミファに はまっているかな という気がしてきました。どうも弾けば弾くほど
かっこうの方がいいような気がするのでした。
「えい こんなばかなことしていたら おれは鳥になってしまうんじゃないか。」と
ゴーシュはいきなりぴたりとセロをやめました。
すると
かっこうは どしんと頭を
叩かれたように ふらふらっとして それからまたさっきのように
「かっこう かっこう かっこうかっかっかっかっかっ」と言ってやめました。それから
恨めしそうに
ゴーシュを見て
「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでも のどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」と言いました。
「何を生意気な。こんな ばかなまねを いつまでしていられるか。もう出て行け。見ろ。夜があけるんじゃないか。」
ゴーシュは窓を指さしました。
東のそらがぼうっと銀いろになって そこをまっ黒な雲が北の方へ どんどん走っています。
「ではお日さまの出るまでどうぞ。もう一ぺん。ちょっとですから。」
7/15
かっこうはまた頭を下げました。
「
黙れっ。いい気になって。このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまうぞ。」
ゴーシュはどんと床をふみました。
すると
かっこうは にわかにびっくりしたように いきなり窓をめがけて飛び立ちました。そして
硝子にはげしく頭をぶっつけてばたっと下へ落ちました。
「何だ、硝子へばかだなあ。」
ゴーシュはあわてて立って窓をあけようとしましたが 元来この窓は そんなにいつでも するする開く窓ではありませんでした。
ゴーシュが窓のわくをしきりに がたがたしているうちに また
かっこうが ばっとぶっつかって下へ落ちました。見ると
嘴のつけねからすこし血が出ています。
「いまあけてやるから待っていろったら。」
ゴーシュがやっと二寸ばかり窓をあけたとき、
かっこうは起きあがって何が何でも こんどこそ というようにじっと窓の向うの東のそらをみつめて、あらん限りの力をこめた風で ぱっと飛びたちました。もちろんこんどは前よりひどく硝子につきあたって
かっこうは下へ落ちたまま しばらく身動きもしませんでした。つかまえてドアから飛ばしてやろうと
ゴーシュが手を出しましたら いきなり
かっこうは眼をひらいて飛びのきました。そしてまたガラスへ飛びつきそうにするのです。
ゴーシュは思わず足を上げて窓をばっとけりました。ガラスは二三枚物すごい音して
砕け 窓はわくのまま外へ落ちました。そのがらんとなった窓のあとを
かっこうが矢のように外へ飛びだしました。そしてもう どこまでもどこまでも まっすぐに飛んで行って とうとう見えなくなってしまいました。
ゴーシュはしばらく
呆れたように外を見ていましたが、そのまま
倒れるように
室のすみへころがって
睡ってしまいました。
次の晩も
ゴーシュは 夜中すぎまでセロを弾いて つかれて水を
一杯のんでいますと、また
扉をこつこつ
叩くものがあります。
今夜は何が来ても ゆうべの
かっこうのように はじめからおどかして追い
払ってやろうと思って コップをもったまま待ち構えて
居りますと、扉がすこしあいて一疋の
狸の子が はいってきました。
ゴーシュはそこで その扉をもう少し広くひらいて置いて どんと足をふんで、
「こら、
狸、おまえは
狸汁ということを知っているかっ。」とどなりました。
8/15
すると
狸の子は ぼんやりした顔をして きちんと床へ
座ったまま どうもわからないというように 首をまげて考えていましたが、しばらくたって
「
狸汁ってぼく知らない。」と言いました。
ゴーシュはその顔を見て思わず
吹き出そうとしましたが、まだ無理に
恐い顔をして、
「では教えてやろう。
狸汁というのはな。おまえのような
狸をな、キャベツや塩とまぜて くたくたと
煮ておれさまの食うようにしたものだ。」と言いました。すると
狸の子はまたふしぎそうに
「だってぼくのお父さんがね、
ゴーシュさんは とてもいい人で こわくないから行って習えと言ったよ。」と言いました。そこで
ゴーシュもとうとう笑い出してしまいました。
「何を習えと言ったんだ。おれは いそがしいんじゃないか。それに睡いんだよ。」
狸の子は
俄に
勢がついたように一足前へ出ました。
「ぼくは
小太鼓の係りでねえ。セロへ合わせてもらって来いと言われたんだ。」
「どこにも小太鼓がないじゃないか。」
「そら、これ」
狸の子は せなかから棒きれを二本出しました。
「それでどうするんだ。」
「ではね、『
愉快な馬車屋』を弾いてください。」
「なんだ愉快な馬車屋ってジャズか。」
「ああこの
譜だよ。」
狸の子はせなかからまた一枚の譜をとり出しました。
ゴーシュは手にとってわらい出しました。
「ふう、変な曲だなあ。よし、さあ弾くぞ。おまえは小太鼓を叩くのか。」
ゴーシュは
狸の子がどうするのかと思って ちらちら そっちを見ながら弾きはじめました。
すると
狸の子は棒をもってセロの
駒の下のところを
拍子をとってぽんぽん叩きはじめました。

それが なかなか うまいので弾いているうちに
ゴーシュはこれは
面白いぞと思いました。
おしまいまでひいてしまうと
狸の子はしばらく首をまげて考えました。
それからやっと考えついたというように言いました。
「
ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときは きたいに
遅れるねえ。なんだか ぼくが つまずくようになるよ。」
9/15
ゴーシュははっとしました。たしかにその糸はどんなに手早く弾いても すこしたってからでないと 音が出ないような気がゆうべからしていたのでした。
「いや、そうかもしれない。このセロは悪いんだよ。」と
ゴーシュはかなしそうに言いました。すると
狸は気の毒そうにして またしばらく考えていましたが
「どこが悪いんだろうなあ。ではもう一ぺん弾いてくれますか。」
「いいとも弾くよ。」
ゴーシュははじめました。
狸の子は さっきのように とんとん叩きながら 時々頭をまげてセロに耳をつけるようにしました。そしておしまいまで来たときは 今夜もまた東がぼうと明るくなっていました。
「ああ夜が明けたぞ。どうもありがとう。」
狸の子は大へんあわてて譜や棒きれをせなかへしょって ゴムテープでぱちんと とめて おじぎを二つ三つすると 急いで外へ出て行ってしまいました。
ゴーシュは ぼんやりして しばらくゆうべのこわれたガラスから はいってくる風を吸っていましたが、町へ出て行くまで睡って元気をとり
戻そうと急いで ねどこへもぐり
込みました。
次の晩も
ゴーシュは夜通しセロを弾いて 明方近く思わず つかれて楽譜をもったまま うとうとしていますと また
誰か
扉をこつこつと叩くものがあります。それもまるで聞えるか聞えないかの位でしたが 毎晩のことなので
ゴーシュはすぐ聞きつけて「おはいり。」と言いました。すると戸のすきまからはいって来たのは 一ぴきの野
ねずみでした。そして大へん ちいさなこどもをつれて ちょろちょろと
ゴーシュの前へ歩いてきました。そのまた野
ねずみのこどもときたら まるでけしごむ のくらいしかないので
ゴーシュはおもわずわらいました。すると野
ねずみは何をわらわれたろうというように きょろきょろしながら
ゴーシュの前に来て、青い
栗の実を一つぶ前においてちゃんと おじぎをして言いました。
「先生、この
児があんばいがわるくて死にそうでございますが 先生お
慈悲になおしてやってくださいまし。」
「おれが医者などやれるもんか。」
ゴーシュはすこしむっとして言いました。
10/15
すると野
ねずみのお母さんは下を向いて しばらくだまっていましたが また思い切ったように言いました。
「先生、それはうそでございます、先生は毎日 あんなに上手に みんなの病気をなおして おいでになるでは ありませんか。」
「何のことだかわからんね。」
「だって先生 先生のおかげで、
兎さんの おばあさんも なおりましたし
狸さんのお父さんもなおりましたし あんな意地悪のみみずくまで なおしていただいたのに この子ばかりお助けをいただけないとは あんまり情ないことでございます。」
「おいおい、それは何かの間ちがいだよ。おれはみみずくの病気なんど なおしてやったことは ないからな。もっとも
狸の子はゆうべ来て楽隊のまねをして行ったがね。ははん。」
ゴーシュは
呆れてその子
ねずみを見おろしてわらいました。
すると
野鼠のお母さんは泣きだしてしまいました。
「ああこの
児はどうせ病気になるなら もっと早くなればよかった。さっきまで あれ位ごうごうと鳴らしておいでになったのに、病気になるといっしょにぴたっと音がとまって もうあとは いくらおねがいしても 鳴らしてくださらないなんて。何てふしあわせな子どもだろう。」
ゴーシュはびっくりして
叫びました。
「何だと、ぼくがセロを弾けば みみずくや 兎の病気がなおると。どういうわけだ。それは。」
野
ねずみは
眼を片手でこすりこすり言いました。
「はい、ここらのものは病気になるとみんな 先生のおうちの床下にはいって
療すのでございます。」
「すると
療るのか。」
「はい。からだ中とても血のまわりがよくなって 大へんいい気持ちで すぐ
療る方もあれば うちへ帰ってから
療る方もあります。」
「ああそうか。おれのセロの音が ごうごうひびくと、それがあんまの代りになって おまえたちの病気が なおるというのか。よし。わかったよ。やってやろう。」
11/15
ゴーシュはちょっとギウギウと糸を合せて それからいきなり の
ねずみのこどもをつまんでセロの
孔から中へ入れてしまいました。
「わたしもいっしょについて行きます。どこの病院でもそうですから。」おっかさんの野
ねずみは きちがいのようになってセロに飛びつきました。
「おまえさんもはいるかね。」セロ弾きはおっかさんの野
ねずみをセロの
孔から くぐしてやろうとしましたが 顔が半分しかはいりませんでした。
野
ねずみは ばたばたしながら中のこどもに叫びました。
「おまえそこはいいかい。落ちるときいつも教えるように 足をそろえてうまく落ちたかい。」
「いい。うまく落ちた。」こどもの
ねずみはまるで
蚊のような小さな声でセロの底で返事しました。
「
大丈夫さ。だから泣き声出すなというんだ。」
ゴーシュはおっかさんの
ねずみを下におろして それから弓をとって何とかラプソディとかいうものを ごうごう があがあ 弾きました。するとおっかさんの
ねずみは いかにも心配そうにその音の
工合をきいていましたが とうとうこらえ切れなくなったふうで
「もう
沢山です。どうか出してやってください。」と言いました。
「なあんだ、これでいいのか。」
ゴーシュはセロをまげて
孔のところに手をあてて 待っていましたら 間もなくこどもの
ねずみが出てきました。
ゴーシュは、だまって それをおろしてやりました。見るとすっかり目をつぶって ぶるぶるぶるぶる ふるえていました。
「どうだったの。いいかい。気分は。」
こどもの
ねずみは すこしもへんじもしないで まだしばらく眼をつぶったまま ぶるぶるぶるぶる ふるえていましたが にわかに起きあがって走りだした。
「ああよくなったんだ。ありがとうございます。ありがとうございます。」おっかさんの
ねずみもいっしょに走っていましたが、まもなく
ゴーシュの前に来てしきりにおじぎをしながら
「ありがとうございます ありがとうございます」と十ばかり言いました。
ゴーシュは何がな かあいそうになって
「おい、おまえたちはパンはたべるのか。」とききました。
12/15
すると野鼠はびっくりしたように きょろきょろあたりを見まわしてから
「いえ、もうおパンというものは 小麦の粉をこねたり むしたりして こしらえたもので ふくふく
膨らんでいて おいしいもの なそうで ございますが、そうでなくても私どもはおうちの
戸棚へなど参ったこともございませんし、ましてこれ位お世話になりながら どうしてそれを運びになんど参れましょう。」と言いました。
「いや、そのことではないんだ。ただ たべるのかときいたんだ。ではたべるんだな。ちょっと待てよ。その腹の悪いこどもへやるからな。」
ゴーシュはセロを床へ置いて 戸棚からパンを一つまみ むしって野
ねずみの前へ置きました。
野
ねずみは もうまるで ばかのようになって泣いたり笑ったり おじぎをしたりしてから 大じそうに それをくわえて こどもをさきに立てて 外へ出て行きました。
「あああ。鼠と話するのも なかなかつかれるぞ。」
ゴーシュは ねどこへどっかり
倒れてすぐ ぐうぐうねむってしまいました。
それから六日目の晩でした。金星音楽団の人たちは町の公会堂のホールの裏にある
控室へ みんなぱっと顔をほてらして めいめい楽器をもって、ぞろぞろホールの
舞台から引きあげて来ました。首尾よく第六交響曲を仕上げたのです。ホールでは
拍手の音がまだ
嵐のように鳴って
居ります。
楽長はポケットへ手をつっ込んで 拍手なんかどうでもいい というように のそのそ みんなの間を歩きまわっていましたが、じつはどうして
嬉しさでいっぱいなのでした。みんなは たばこをくわえて マッチをすったり 楽器をケースへ入れたりしました。
ホールはまだ ぱちぱち 手が鳴っています。それどころではなく いよいよそれが高くなって 何だかこわいような 手がつけられないような 音になりました。大きな白いリボンを胸につけた 司会者がはいって来ました。
「アンコールをやっていますが、何かみ じかいものでも きかせてやって くださいませんか。」
すると
楽長がきっとなって答えました。「いけませんな。こういう大物のあとへ何を出したって こっちの気の済むようには行くもんでないんです。」
「では
楽長さん出て
一寸挨拶してください。」
13/15
「だめだ。おい、
ゴーシュ君、何か出て弾いてやってくれ。」
「わたしがですか。」
ゴーシュは
呆気にとられました。
「君だ、君だ。」ヴァイオリンの一番の人が いきなり顔をあげて言いました。
「さあ出て行きたまえ。」
楽長が言いました。みんなもセロをむりに
ゴーシュに持たせて
扉をあけるといきなり舞台へ
ゴーシュを
押し出してしまいました。
ゴーシュがその
孔のあいたセロをもって じつに困ってしまって舞台へ出ると みんなはそら見ろというように一そう ひどく手を
叩きました。わあと叫んだものもあるようでした。
「どこまでひとをばかにするんだ。よし見ていろ。
印度の
虎狩をひいてやるから。」
ゴーシュはすっかり落ちついて舞台のまん中へ出ました。
それからあの
猫の来たときのようにまるで
怒った象のような
勢で虎狩りを弾きました。ところが
聴衆は しいんとなって一生けん命聞いています。
ゴーシュはどんどん弾きました。
猫が切ながって ぱちぱち火花を出したところも過ぎました。扉へからだを何べんもぶっつけた所も過ぎました。
曲が終ると
ゴーシュは もうみんなの方などは見もせず ちょうどその
猫のようにすばやくセロをもって楽屋へ
遁げ込みました。すると楽屋では
楽長はじめ仲間がみんな 火事にでもあったあとのように 眼をじっとして ひっそりとすわり込んでいます。
ゴーシュはやぶれかぶれだと思ってみんなの間を さっさとあるいて行って向うの
長椅子へ どっかりと からだをおろして 足を組んですわりました。
するとみんなが一ぺんに顔をこっちへ向けて
ゴーシュを見ましたが やはり まじめで べつにわらっているようでも ありませんでした。
「こんやは変な晩だなあ。」
ゴーシュは思いました。ところが
楽長は立って言いました。
14/15
「
ゴーシュ君、よかったぞお。あんな曲だけれども ここではみんな かなり本気になって聞いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えば いつでも やれたんじゃないか、君。」
仲間もみんな立って来て「よかったぜ」と
ゴーシュに言いました。
「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。
普通の人なら死んでしまうからな。」
楽長が向うで言っていました。
その晩
遅く
ゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。
そしてまた水をがぶがぶ
呑みました。それから窓をあけていつか
かっこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら
「ああ
かっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と言いました。
底本:「新編 銀河鉄道の夜」新潮文庫、新潮社
1989(平成元)年6月15日発行
1994(平成6)年6月5日13刷
底本の親本:「新修宮沢賢治全集 第十二巻」筑摩書房
1980(昭和55)年1月
入力:水口充、野口英司
校正:野口英司
1999年7月23日公開
2008年10月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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