銀河鉄道の夜
宮沢賢治


     一 午後の授業

「ではみなさんは、そういうふうに川だと言われたり、ちちながれたあとだと言われたりしていた、このぼんやりと白いものが ほんとうは何かご承知しょうちですか」先生は、黒板こくばんにつるした大きな黒い星座せいざの図の、上から下へ白くけぶった銀河帯ぎんがたいのようなところをしながら、みんなにいをかけました。


 カムパネルラが手をあげました。それから四、五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、いそいでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌ざっしで読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだか どんなことも よくわからないという気持きもちがするのでした。
 ところが先生は早くもそれを見つけたのでした。
ジョバンニさん。あなたは わかっているのでしょう」
 ジョバンニいきおいよく立ちあがりましたが、立ってみると もうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前のせきからふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニは もう どぎまぎして まっ赤になってしまいました。先生がまた言いました。「大きな望遠鏡ぼうえんきょう銀河ぎんがをよっく調しらべると銀河ぎんがはだいたい何でしょう」
 やっぱり星だとジョバンニは思いましたが、こんどもすぐに答えることができませんでした。
 先生はしばらくこまったようすでしたが、カムパネルラの方へけて、
「ではカムパネルラさん」と名指なざしました。
 するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはり もじもじ 立ち上がったまま やはり答えができませんでした。
 先生意外いがいなように しばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、いそいで、
「では、よし」と言いながら、自分で星図をしました。
「このぼんやりと白い銀河ぎんがを大きな いい望遠鏡ぼうえんきょうで見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう」
 ジョバンニはまっになって うなずきました。けれどもいつかジョバンニのなかにはなみだが いっぱいに なりました。
1/48
そうだぼくは知っていたのだ、もちろんカムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士はかせのうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌ざっしのなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その雑誌ざっしを読むと、すぐお父さんの書斎しょさいからおおきな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒なページいっぱいに白に点々てんてんのあるうつくしい写真しゃしんを二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラわすれるはずもなかったのに、すぐに返事へんじをしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午後にも仕事しごとがつらく、学校に出ても もうみんなとも はきはきあそばず、カムパネルラともあんまり物を言わないようになったので、カムパネルラがそれを知って きのどくがって わざと返事へんじをしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。
 先生はまた言いました。
「ですから もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星は みんなその川のそこのすな砂利じゃりつぶにもあたるわけです。またこれをおおきなちちながれと考えるなら、もっと天の川とよくています。つまりその星はみな、ちちのなかにまるでこまかにうかんでいる脂油あぶらたまにもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと言いますと、それは真空しんくうという光をあるはやさでつたえるもので、太陽たいよう地球ちきゅうもやっぱりそのなかにかんでいるのです。つまりはわたしどもも天の川の水のなかにんでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川のそこふかく遠いところほど星がたくさん集まって見え、したがって白くぼんやり見えるのです。この模型もけいをごらんなさい」
 先生は中にたくさん光るすなの つぶのはいった 大きな両面りょうめんとつレンズをしました。
「天の川の形はちょうど こんな なのです。このいちいちの光るつぶがみんなわたしどもの太陽たいようと同じように じぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽たいようがこのほぼ中ごろにあって地球ちきゅうがそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜に このまん中に立って このレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズがうすいので わずかの光るつぶすなわち星しか見えないでしょう。こっちや こっちの方は ガラスがあついので、光るつぶ すなわち星がたくさん見え その遠いのはぼうっと白く見えるという、これがつまり今日の銀河ぎんがせつなのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、またその中のさまざまの星についてはもう時間ですから、このつぎの理科の時間にお話します。
2/48
では今日はその銀河ぎんがのおまつりなのですから、みなさんは外へでて よくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい」
 そして教室じゅうは しばらくつくえふたをあけたりしめたり 本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなくみんなは きちんと立ってれいをすると教室を出ました。


     活版所かっぱんじょ

 ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七、八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭こうていすみさくらの木のところにあつまっていました。それはこんやの星祭ほしまつりに青いあかりをこしらえて川へなが烏瓜からすうりりに行く相談そうだんらしかったのです。
 けれどもジョバンニは手を大きくって どしどし学校のもんを出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河ぎんがまつりに いちいのたまをつるしたり、ひのきのえだにあかりをつけたり、いろいろ したくをしているのでした。
 家へは帰らずジョバンニが町を三つがって ある大きな活版所かっぱんじょにはいってくつをぬいで上がりますと、き当たりの大きなとびらをあけました。中にはまだひるなのに電灯でんとうがついて、たくさんの輪転機りんてんきが ばたりばたりと まわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながら たくさんはたらいておりました。


 ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子テーブルにすわった人のところへ行っておじぎをしました。その人はしばらくたなをさがしてから、
「これだけひろって行けるかね」と言いながら、一枚の紙切れをわたしました。ジョバンニはその人の卓子テーブルの足もとから一つの小さなひらたいはこを とりだしてこうの電灯でんとうのたくさんついた、たてかけてあるかべすみところへしゃがみむと、小さなピンセットで まるで粟粒あわつぶぐらいの活字かつじつぎからつぎへとひろいはじめました。青いむねあてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
「よう、虫めがねくん、お早う」と言いますと、近くの四、五人の人たちが声もたてず こっちもかずにつめたくわらいました。
 ジョバンニは何べんもをぬぐいながら活字かつじを だんだんひろいました。
 六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニひろった活字かつじを いっぱいに入れたひらたいはこを もういちど手にもった紙きれと引き合わせてから、さっきの卓子テーブルの人へって来ました。その人はだまってそれをって かすかにうなずきました。
 ジョバンニはおじぎをするととびらをあけて計算台のところに来ました。すると白服しろふくた人がやっぱりだまって小さな銀貨ぎんかを一つジョバンニわたしました。
3/48
ジョバンニは にわかに顔いろがよくなって威勢いせいよくおじぎをすると、台の下にいたかばんをもっておもてへびだしました。それから元気よく口笛くちぶえきながらパンってパンのかたまりを一つと角砂糖かくざとうを一ふくろ買いますと いちもくさんに走りだしました。


     三 家

 ジョバンニいきおいよく帰って来たのは、ある裏町うらまちの小さな家でした。その三つならんだ入口のいちばん左側ひだりがわには空箱あきばこむらさきいろのケールやアスパラガスがえてあって 小さな二つのまどには日覆ひおおがおりたままになっていました。
「お母さん、いま帰ったよ。ぐあいわるくなかったの」ジョバンニくつをぬぎながら言いました。
「ああ、ジョバンニ、お仕事しごとがひどかったろう。今日きょうすずしくてね。わたしは ずうっと ぐあいがいいよ」
 ジョバンニ玄関げんかんを上がって行きますと ジョバンニのお母さんが すぐ入口のへやに白いきれをかぶってやすんでいたのでした。ジョバンニまどをあけました。
「お母さん、今日は角砂糖かくざとうを買ってきたよ。牛乳ぎゅうにゅうに入れてあげようと思って」
「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだ ほしくないんだから」
「お母さん。ねえさんはいつ帰ったの」
「ああ、三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね」
「お母さんの牛乳ぎゅうにゅうは来ていないんだろうか」
「来なかったろうかねえ」
「ぼく行ってとって来よう」
「ああ、あたしは ゆっくりでいいんだから お前さきにおあがり、ねえさんがね、トマトで何かこしらえてそこへいて行ったよ」
「ではぼくたべよう」
 ジョバンニまどのところからトマトのさらをとってパンといっしょに しばらく むしゃむしゃたべました。
「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと まもなく帰ってくると思うよ」
「ああ、あたしもそう思う。けれども おまえはどうしてそう思うの」
「だって今朝けさの新聞に今年は北の方のりょうは たいへんよかったと書いてあったよ」
「ああだけどねえ、お父さんはりょうへ出ていないかもしれない」
「きっと出ているよ。お父さんが監獄かんごくへはいるような そんなわるいことをしたはずがないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈きぞうしたおおきなかにこうらだの となかいのつのだの 今だってみんな標本室ひょうほんしつにあるんだ。
4/48
六年生なんか授業じゅぎょうのとき先生が かわるがわる教室へって行くよ」
「お父さんはこのつぎはおまえにラッコの上着うわぎをもってくるといったねえ」
「みんながぼくにあうとそれを言うよ。ひやかすように言うんだ」
「おまえに悪口わるくちを言うの」
「うん、けれどもカムパネルラなんかけっして言わない。カムパネルラはみんながそんなことを言うときは きのどくそうにしているよ」
カムパネルラのお父さんと うちのお父さんとは、ちょうどおまえたちのように小さいときからのお友達ともだちだったそうだよ」
「ああ だからお父さんは ぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中とちゅうたびたびカムパネルラのうちにった。カムパネルラのうちにはアルコールランプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合わせるとまるくなって それに電柱でんちゅう信号標しんごうひょうもついていて信号標しんごうひょうのあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油せきゆをつかったら、かんがすっかりすすけたよ」
「そうかねえ」
「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家じゅう まだ しいんとしているからな」
「早いからねえ」
「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるでほうきのようだ。ぼくが行くとはなを鳴らしてついてくるよ。ずうっと町のかどまでついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜からすうりのあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ」
「そうだ。今晩こんばん銀河ぎんがのおまつりだねえ」
「うん。ぼく牛乳ぎゅうにゅうをとりながら見てくるよ」
「ああ 行っておいで。川へは はいらないでね」
「ああ ぼくきしから見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ」
「もっとあそんでおいで。カムパネルラさんといっしょなら心配しんぱいはないから」
「ああ きっといっしょだよ。お母さん、窓をしめておこうか」
「ああ、どうか。もうすずしいからね」
 ジョバンニは立ってまどをしめ、おさらやパンのふくろをかたづけるといきおいよくくつをはいて、
「では一時間はんで帰ってくるよ」と言いながらくら戸口とぐちを出ました。
5/48
     四 ケンタウルさいの夜

 ジョバンニは、口笛くちぶえいているようなさびしい口つきで、ひのきのまっ黒にならんだ町のさかをおりて来たのでした。
 さかの下に大きな一つの街灯がいとうが、青白く立派りっぱに光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電灯でんとうの方へおりて行きますと、いままで ばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニかげぼうしは、だんだんく黒く はっきり なって、足をあげたり手をったり、ジョバンニよこの方へまわって来るのでした。
(ぼくは立派りっぱ機関車きかんしゃだ。ここは勾配こうばいだからはやいぞ。ぼくはいま その電灯でんとうを通りす。そうら、こんどはぼくの影法師かげぼうしはコンパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た)
 とジョバンニが思いながら、大股おおまたにその街灯がいとうの下を通りぎたとき、いきなり ひるまのザネリが、新しいえりのとがったシャツをて、電灯でんとうこうがわくら小路こうじから出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。「ザネリ烏瓜からすうりながしに行くの」ジョバンニがまだそう言ってしまわないうちに、
ジョバンニ、お父さんから、ラッコの上着うわぎが来るよ」その子がげつけるように うしろからさけびました。
 ジョバンニは、ばっとむねがつめたくなり、そこらじゅう きいんと鳴るように思いました。
「なんだい、ザネリ」とジョバンニは高くさけかえしましたが、もうザネリこうの ひばのわった家の中へはいっていました。
ザネリは どうして ぼくがなんにも しないのに あんなことを言うのだろう。走るときはまるでねずみのようなくせに。ぼくが なんにもしないのに あんなことを言うのはザネリが ばか なからだ)
 ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまのあかりや木のえだで、すっかりきれいにかざられたまちを通って行きました。時計屋とけいやの店には明るくネオンとうがついて、一びょうごとに石でこさえた ふくろうの赤いが、くるっくるっとうごいたり、いろいろな宝石ほうせきが海のような色をしたあつ硝子ガラスばんって、星のようにゆっくりめぐったり、またこうがわから、どうの人馬がゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。そのまん中にまるい黒い星座早見せいざはやみが青いアスパラガスのかざってありました。
 ジョバンニはわれをわすれて、その星座せいざの図に見入りました。
6/48
 それは ひる学校で見たあの図よりは ずうっと小さかったのですが、その日と時間に合わせてばんをまわすと、そのとき出ているそらが そのまま楕円形だえんけいのなかにめぐって あらわれるようになっており、やはりそのまん中には上から下へかけて銀河ぎんががぼうとけむったようなおびになって、その下の方ではかすかに爆発ばくはつしてげでもあげているように見えるのでした。またそのうしろには三本のあしのついた小さな望遠鏡ぼうえんきょうが黄いろに光って立っていましたし、いちばんうしろのかべには空じゅうの星座せいざを ふしぎなけものへびや 魚や びんの形に書いた大きながかかっていました。ほんとうにこんなようなさそりだの勇士ゆうしだの そらにぎっしりいるだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いてみたいと思ってたりして しばらくぼんやり立っていました。
 それからにわかにお母さんの牛乳ぎゅうにゅうのことを思いだしてジョバンニはその店をはなれました。
 そしてきゅうくつな上着うわぎかたを気にしながら、それでもわざとむねって大きく手をって町を通って行きました。
 空気はみきって、まるで水のように通りや店の中をながれましたし、街灯がいとうは みな まっ青なもみならえだつつまれ、電気会社の前の六本のプラタナスの木などは、中にたくさんの豆電灯まめでんとうがついて、ほんとうにそこらは人魚のみやこのように見えるのでした。子どもらは、みんな新しいおりのついた着物きものて、星めぐり口笛くちぶえいたり、
ケンタウルスつゆをふらせ」とさけんで走ったり、青いマグネシヤ【マグネシウム】の花火をしたりして、たのしそうにあそんでいるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまたふかくびをたれて、そこらの にぎやかさとは まるでちがったことを考えながら、牛乳屋ぎゅうにゅうやの方へいそぐのでした。
 ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木幾本いくほん幾本いくほんも、高く星ぞらにかんでいるところに来ていました。その牛乳屋ぎゅうにゅうやの黒いもんをはいり、牛のにおいのする うすくらい台所だいどころの前に立って、ジョバンニ帽子ぼうしをぬいで、
今晩こんばんは」と言いましたら、家の中はしいんとしてだれも いたようではありませんでした。
今晩こんばんは、ごめんなさい」ジョバンニはまっすぐに立ってまたさけびました。するとしばらくたってから、年とった女の人が、どこかぐあいがわるいように そろそろと出て来て、何か用かと口の中で言いました。
「あの、今日、牛乳ぎゅうにゅうぼくんとこへ来なかったので、もらいにあがったんです」ジョバンニが一生けんめいいきおいよく言いました。
「いまだれもいないでわかりません。あしたにしてください」
7/48
その人は赤いの下のとこをこすりながら、ジョバンニを見おろして言いました。
「おっかさんが病気びょうきなんですから今晩こんばんでないとこまるんです」
「ではもう少したってから来てください」その人はもう行ってしまいそうでした。
「そうですか。ではありがとう」ジョバンニは、お辞儀じぎをして台所だいどころから出ました。
 十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、こうのはしへ行く方の雑貨店ざっかてんの前で、黒いかげやぼんやり白いシャツが入りみだれて、六、七人の生徒らが、口笛くちぶえいたりわらったりして、めいめい烏瓜からすうり灯火あかりってやってるのをました。そのわらい声も口笛くちぶえも、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニ同級どうきゅう子供こどもらだったのです。ジョバンニは思わずどきっとしてもどろうとしましたが、思いなおして、いっそういきおいよくそっちへ歩いて行きました。
「川へ行くの」ジョバンニが言おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、
ジョバンニ、ラッコの上着うわぎが来るよ」さっきのザネリがまたさけびました。
ジョバンニ、ラッコの上着うわぎが来るよ」すぐみんなが、つづいてさけびました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いているかもわからず、いそいで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラがいたのです。カムパネルラはきのどくそうに、だまって少しわらって、おこらないだろうか というようにジョバンニの方を見ていました。
 ジョバンニは、にげるようにそのけ、そしてカムパネルラのせいの高いかたちがぎて行ってまもなく、みんなはてんでに口笛くちぶえきました。町かどをがるとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛くちぶえいてこうにぼんやり見えるはしの方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも言えずさびしくなって、いきなり走りだしました。すると耳に手をあてて、わあわあと言いながら片足かたあしでぴょんぴょんんでいた小さな子供こどもらは、ジョバンニがおもしろくてかけるのだと思って、わあいとさけびました。
 まもなくジョバンニは走りだして黒いおかの方へいそぎました。


     天気輪てんきりんはしら

 牧場ぼくじょうのうしろはゆるいおかになって、その黒いたいらな頂上ちょうじょうは、北の大熊星おおくまぼしの下に、ぼんやり ふだんよりもひくく、つらなって見えました。
 ジョバンニは、もうつゆりかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。
8/48
まっくらな草や、いろいろな形に見える やぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりにらしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、あるは青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなのって行った烏瓜からすうりのあかりのようだとも思いました。
 そのまっ黒な、まつならの林をえると、にわかに がらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へわたっているのが見え、またいただきの、天気輪てんきりんはしらも見わけられたのでした。つりがねそう野ぎくかの花が、そこらいちめんに、ゆめの中からでも かおりだしたというようにき、鳥が一ぴきおかの上を鳴きつづけながら通って行きました。
 ジョバンニは、いただき天気輪てんきりんはしらの下に来て、どかどかする【丘を上って胸の鼓動が高鳴る】からだを、つめたい草にげました。
 町のあかりは、やみの中をまるで海のそこのおみやのけしきのようにともり、子供こどもらの歌う声や口笛くちぶえ、きれぎれのさけび声もかすかに聞こえて来るのでした。風が遠くで鳴り、おかの草もしずかにそよぎ、ジョバンニあせでぬれたシャツも つめたくやされました。
 野原から汽車の音が聞こえてきました。その小さな列車れっしゃまど一列いちれつ小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人たびびとが、苹果りんごをむいたり、わらったり、いろいろなふうにしていると考えますと、ジョバンニは、もうなんとも言えず かなしくなって、またをそらにげました。


(この間 原稿げんこう枚分まいぶんなし)


 ところがいくら見ていても、そのそらは、ひる先生の言ったような、がらんとしたつめたいとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場ぼくじょうやらある野原のはらのように考えられて しかたなかったのです。そしてジョバンニは青いことの星【七夕の織女星】が、三つにも四つにもなって、ちらちらまたたき、あしが何べんも出たり引っんだりして、とうとうきのこのように長くびるのを見ました。またすぐの下のまちまでが、やっぱり ぼんやりしたたくさんの星のあつまりか一つの大きなけむり かのように見えるように思いました。


     銀河ぎんがステーション

 そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪てんきりんはしらが いつか ぼんやりした三角標さんかくひょうの形になって、しばらくほたるのように、ぺかぺかえたりと もったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとう りんと うごかないようになり、鋼青こうせいはがねのように冷たく硬質な、深い青色】のそらの野原にたちました。いま新しくいたばかりの青いはがねいたのような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。
9/48
 するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ぎんがステーション、銀河ぎんがステーションと言う声がしたと思うと、いきなりの前が、ぱっと明るくなって、まるで億万おくまん蛍烏賊ほたるいかの火を一ぺんに化石かせきさせて、そらじゅうにしずめたというぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざとれないふりをして、かくしておいた金剛石こんごうせき【ダイヤモンド】を、だれかがいきなりひっくりかえして、ばらまいたというふうに、の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんもをこすってしまいました。
 気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニっている小さな列車れっしゃが走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道けいべんてつどうの、小さな黄いろの電灯でんとうのならんだ車室に、まどから外を見ながらすわっていたのです。車室の中は、青い天鵞絨ビロードった腰掛こしかけが、まるで がらあきで、こうのねずみいろのワニスったかべには、真鍮しんちゅうの大きなぼたんが二つ光っているのでした。
 すぐ前のせきに、ぬれたようにまっ黒な上着うわぎを着た、せいの高い子供こどもが、窓から頭を出して外を見ているのに気がつきました。 そしてそのこどものかたのあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしてもだれだか わかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちもまどから顔を出そうとしたとき、にわかにその子供こどもが頭を引っめて、こっちを見ました。
 それはカムパネルラだったのです。


ジョバンニが、カムパネルラ、きみは前からここにいたの、と言おうと思ったとき、カムパネルラが、
「みんなはね、ずいぶん走ったけれどもおくれてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれどもいつかなかった」と言いました。
 ジョバンニは、(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出かけたのだ)とおもいながら、
「どこかでっていようか」と言いました。するとカムパネルラは、
ザネリはもう帰ったよ。お父さんがむかいにきたんだ」
 カムパネルラは、なぜかそう言いながら、少し顔いろが青ざめて、どこかくるしいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何かわすれたものがあるというような、おかしな気持きもちがして だまってしまいました。
 ところがカムパネルラは、まどから外をのぞきながら、もうすっかり元気がなおって、いきおいよく言いました。
10/48
「ああしまった。ぼく、水筒すいとうわすれてきた。スケッチちょうわすれてきた。けれどかまわない。もうじき白鳥の停車場ていしゃばだから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くをんでいたって、ぼくはきっと見える」
 そして、カムパネルラは、まるいいたのようになった地図ちずを、しきりにぐるぐるまわして見ていました。まったく、その中に、白くあらわされた天の川の左のきし沿って一じょう鉄道線路てつどうせんろが、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立派りっぱなことは、夜のようにまっ黒なばんの上に、一々の停車場ていしゃば三角標さんかくひょう泉水せんすい【湧き水・泉・小さな池】や森が、青やだいだいみどりや、うつくしい光でちりばめられてありました。
 ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たようにおもいました。
「この地図ちずはどこで買ったの。黒曜石こくようせきでできてるねえ」
 ジョバンニが言いました。
銀河ぎんがステーションで、もらったんだ。きみもらわなかったの」
「ああ、ぼく銀河ぎんがステーションを通ったろうか。いまぼくたちのいるとこ、ここだろう」
 ジョバンニは、白鳥と書いてある停車場ていしゃばのしるしの、すぐ北をしました。
「そうだ。おや、あの河原かわらは月夜だろうか」そっちを見ますと、青白く光る銀河ぎんがきしに、ぎんいろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、なみを立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河ぎんがだから光るんだよ」ジョバンニは言いながら、まるではね上がりたいくらい愉快ゆかいになって、足をこつこつ鳴らし、まどから顔を出して、高く高く星めぐりの口笛くちぶえきながら一生けんめいびあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素すいそよりも すきとおって、ときどきのかげんか、ちらちらむらさきいろのこまかななみをたてたり、にじのようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどんながれて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光りんこう【蓄光、夜光】の三角標さんかくひょうが、うつくしく立っていたのです。
11/48
遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものはだいだいや黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、あるいは三角形さんかくけい、あるいは四辺形しへんけい、あるいはいなずまくさりの形、さまざまにならんで、野原いっぱいに光っているのでした。


ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけにりました。するとほんとうに、そのきれいな野原のはらじゅうの青やだいだいや、いろいろ かがやく三角標さんかくひょうも、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたりふるえたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た」ジョバンニは言いました。
「それに、この汽車石炭せきたんをたいていないねえ」ジョバンニが左手をつき出してまどから前の方を見ながら言いました。
「アルコールか電気だろう」カムパネルラが言いました。
 するとちょうど、それに返事へんじするように、どこか遠くの遠くの もやのもや の中から、セロ【チェロ】のような ごうごうした声がきこえて来ました。
「ここの汽車は、スティームや電気でうごいていない。ただ うごくようにきまっているから うごいているのだ。ごとごと音をたてていると、そうおまえたちは思っているけれども、それはいままで音をたてる汽車にばかり なれているためなのだ」
「あの声、ぼく なんべんも どこかできいた」
「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた」
 ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、三角点さんかくてんの青じろい微光びこうの中を、どこまでも どこまでも と、走って行くのでした。
「ああ、りんどうの花がいている。もうすっかり秋だねえ」カムパネルラが、まどの外をゆびさして言いました。


 線路せんろのへりになったみじかい芝草しばくさの中に、月長石げっちょうせき【青色の閃光せんこうを放つ石】ででもきざまれたような、すばらしいむらさきのりんどうの花がいていました。
「ぼくびおりて、あいつをとって、またってみせようか」ジョバンニむねをおどらせて言いました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから」
 カムパネルラが、そう言ってしまうかしまわないうち、つぎのりんどうの花が、いっぱいに光ってぎて行きました。
 と思ったら、もうつぎからつぎから、たくさんのきいろなそこをもった りんどうの花のコップが、くように、雨のように、の前を通り、三角標さんかくひょうれつは、けむるようにえるように、いよいよ光って立ったのです。
12/48
     北十字きたじゅうじプリオシン海岸かいがん

「おっかさんは、ぼくを ゆるしてくださるだろうか」
 いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、せきこんで言いました。
 ジョバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見えるだいだいいろの三角標さんかくひょうのあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうにさいわいになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんのさいわいなんだろう」カムパネルラは、なんだか、きだしたいのを、一生けんめいこらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいこと ないじゃないの」ジョバンニはびっくりしてさけびました。
「ぼくわからない。けれども、だれだって、ほんとうにいいことをしたら、いちばんさいわいなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う」カムパネルラは、なにかほんとうに決心けっしんしているように見えました。
 にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石こんごうせき【ダイヤモンド】や草のつゆやあらゆる立派りっぱさをあつめたような、きらびやかな銀河ぎんが河床かわどこの上を、水は声もなくかたちもなくながれ、そのながれのまん中に、ぼうっと青白く後光ごこうした一つのしまが見えるのでした。そのしまたいらないただきに、立派りっぱもさめるような、白い十字架じゅうじかがたって、それはもう、こおった北極ほっきょくの雲でといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久えいきゅうに立っているのでした。


「ハレルヤ、ハレルヤ」前からもうしろからも声がこりました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人たびびとたちは、みなまっすぐに きものの ひだをれ、黒いバイブルをむねにあてたり、水晶すいしょう数珠じゅずをかけたり、どの人もつつましくゆびを組み合わせて、そっちにいのっているのでした。思わず二人ふたりともまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラほおは、まるでじゅくした苹果りんごのあかしのように うつくしく かがやいて見えました。
 そしてしま十字架じゅうじかとは、だんだんうしろの方へ うつって行きました。
13/48
 こうぎしも、青じろくぼうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風に ひるがえる らしく、さっとそのぎんいろがけむって、いきでもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火きつねびのように思われました。
 それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきのれつでさえぎられ、白鳥のしまは、二ばかり、うしろの方に見えましたが、じき もうずうっと遠く小さく、のようになってしまい、またすすきが ざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。ジョバンニのうしろには、いつからっていたのか、せいの高い、黒いかつぎ【ベール】をしたカトリックふうのあまさんが、まんまるなみどりひとみを、じっとまっすぐにとして、まだ何かことばか声かが、そっちからつたわって来るのを、つつしんで聞いているというように見えました。旅人たびびとたちはしずかにせきもどり、二人ふたりむねいっぱいのかなしみにた新しい気持きもちを、何気なにげなくちがったことばで、そっとはなし合ったのです。
「もうじき白鳥の停車場ていしゃばだねえ」
「ああ、十一時かっきりにはくんだよ」
 早くも、シグナルのみどりあかりと、ぼんやり白いはしらとが、ちらっとまどのそとをぎ、それから硫黄いおうの ほのお のような くらいぼんやりしたてんてつ【分岐器(ポイント)】の前のあかりがまどの下を通り、汽車はだんだん ゆるやかになって、まもなくプラットホームの一れつ電灯でんとうが、うつくしく規則きそく正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人はちょうど白鳥停車場ていしゃじょうの、大きな時計とけいの前に来てとまりました。
 さわやかな秋の時計とけい盤面ばんめんには、青くかれたはがねの二本のはりが、くっきり十一時をしました。みんなは、一ぺんにおりて、車室の中はがらんとなってしまいました。
〔二十分停車ていしゃ〕と時計とけいの下に書いてありました。
「ぼくたちもりて見ようか」ジョバンニが言いました。「りよう」二人ふたりは一にはねあがって ドアをび出して改札口かいさつぐちへかけて行きました。ところが改札口かいさつぐちには、明るいむらさきがかった電灯でんとうが、一ついているばかり、だれもいませんでした。そこらじゅうを見ても、駅長えきちょう赤帽あかぼう【駅員】らしい人の、かげもなかったのです。
 二人ふたりは、停車場ていしゃばの前の、水晶細工すいしょうざいくのように見える銀杏いちょうの木にかこまれた、小さな広場に出ました。
 そこからはばの広いみちが、まっすぐに銀河ぎんが青光あおびかりの中へ通っていました。
 さきにりた人たちは、もうどこへ行ったか一人ひとりも見えませんでした。二人ふたりがその白い道を、かたをならべて行きますと、二人ふたりかげは、ちょうど四方にまどのあるへやの中の、二本のはしらかげのように、また二つの車輪しゃりん【車輪のリム】のように幾本いくほん幾本いくほんも四方へ出るのでした。そしてまもなく、あの汽車から見えたきれいな河原かわらに来ました。
14/48
 カムパネルラは、そのきれいなすなを一つまみ、てのひらにひろげ、ゆびで きしきし させながら、ゆめのように言っているのでした。
「このすなはみんな水晶すいしょうだ。中で小さな火がえている」
「そうだ」どこでぼくは、そんなことをならったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。
 河原かわらこいしは、みんなすきとおって、たしかに水晶すいしょう黄玉トパーズや、また くしゃくしゃの皺曲しゅうきょくをあらわしたのや、またかどからきりのような青白い光を出す鋼玉コランダムやらでした。ジョバンニは、走ってそのなぎさに行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河ぎんがの水は、水素すいそよりも もっと すきとおっていたのです。それでもたしかにながれていたことは、二人ふたり手首てくびの、水にひたったとこが、少し水銀すいぎんいろいたように見え、その手首てくびにぶっつかってできたなみは、うつくしい燐光りんこう【蓄光、夜光】をあげて、ちらちらとえるように見えたのでもわかりました。
 川上の方を見ると、すすきの いっぱいに はえているがけの下に、白いいわが、まるで運動場うんどうじょうのようにたいらに川に沿って出ているのでした。そこに小さな五、六人の人かげが、何かり出すかめるかしているらしく、立ったりかがんだり、時々なにかの道具どうぐが、ピカッと光ったりしました。
「行ってみよう」二人ふたりは、まるで一さけんで、そっちの方へ走りました。その白いいわになったところの入口に、〔プリオシン海岸かいがん〕という、瀬戸物せともののつるつるした標札ひょうさつが立って、向こうのなぎさには、ところどころ、ほそてつ欄干らんかんえられ、木製もくせいのきれいなベンチもいてありました。
「おや、へんなものがあるよ」カムパネルラが、不思議ふしぎそうに立ちどまって、いわから黒い細長ほそながい さきのとがった くるみののようなものをひろいました。
「くるみのだよ。そら、たくさんある。ながれて来たんじゃない。いわの中にはいってるんだ」
「大きいね、このくるみ、ばいあるね。こいつは すこしも いたんでない」
「早くあすこへ行って見よう。きっと何かってるから」
 二人ふたりは、ぎざぎざの黒いくるみのちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手のなぎさには、なみがやさしい稲妻いなずまのようにえてせ、右手のがけには、いちめんぎん貝殻かいがらでこさえたようなすすきのがゆれたのです。
15/48
 だんだん近づいて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡きんがんきょうをかけ、長靴ながぐつをはいた学者がくしゃらしい人が、手帳てちょうに何か せわしそうに書きつけながら、つるはしをふりあげたり、スコップをつかったりしている、三人の助手じょしゅらしい人たちに夢中むちゅうでいろいろ指図さしずをしていました。
「そこのその突起とっきをこわさないように、スコップを使いたまえ、スコップを。おっと、も少し遠くからって。いけない、いけない、なぜそんな乱暴らんぼうをするんだ」
 見ると、その白いやわらかないわの中から、大きな大きな青じろいけものほねが、横にたおれて つぶれたというふうになって、半分以上はんぶんいじょうり出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、ひづめの二つある足跡あしあとのついたいわが、四角しかくに十ばかり、きれいに切り取られて番号ばんごうがつけられてありました。
「君たちは参観さんかんかね」その大学士だいがくしらしい人が、眼鏡めがねをきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
「くるみがたくさんあったろう。それはまあ、ざっと百二十万年まんねんぐらい前のくるみだよ。ごく新しい方さ。ここは百二十万年前まんねんまえ第三紀だいさんきのあとのころは海岸かいがんでね、この下からはかいがらも出る。いま 川の流れているとこに、そっくり塩水しおみずせたり引いたりもしていたのだ。この けものかね、これはボスといってね、おいおい、そこ、つるはしは よしたまえ。ていねいにのみでやってくれたまえ。ボスといってね、いまのうし先祖せんぞで、むかしはたくさんいたのさ」
標本ひょうほんにするんですか」
「いや、証明しょうめいするにるんだ。ぼくらからみると、ここはあつ立派りっぱ地層ちそうで、百二十万年まんねんぐらい前にできたという証拠しょうこもいろいろ あがるけれども、ぼくらと ちがったやつからみても やっぱりこんな地層ちそうに見えるかどうか、あるいは風か水や、がらんとしたからかに見えやしないか ということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい、そこもスコップではいけない。そのすぐ下に肋骨ろっこつもれてるはずじゃないか」
 大学士だいがくしはあわてて走って行きました。
「もう時間だよ。行こう」カムパネルラが地図と腕時計うでどけいとをくらべながら言いました。
「ああ、ではわたくしどもは失礼しつれいいたします」ジョバンニは、ていねいに大学士だいがくしにおじぎしました。
「そうですか。いや、さよなら」大学士だいがくしは、またいそがしそうに、あちこち歩きまわって監督かんとくをはじめました。
16/48
 二人ふたりは、その白いいわの上を、一生けんめい 汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。いきも切れずひざもあつくなりませんでした。
 こんなにしてかけるなら、もう世界せかいじゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
 そして二人ふたりは、前のあの河原かわらを通り、改札口かいさつぐち電灯でんとうがだんだん大きくなって、まもなく二人ふたりは、もとの車室のせきにすわっていま行って来た方を、まどから見ていました。


     八 鳥をる人

「ここへ かけても ようございますか」
 がさがさした、けれども親切そうな、大人おとなの声が、二人ふたりのうしろで聞こえました。
 それは、茶いろの少し ぼろぼろの外套がいとうて、白いきれでつつんだ荷物にもつを、二つに分けてかたけた、赤髯あかひげの せなかの かがんだでした。
「ええ、いいんです」ジョバンニは、少しかたをすぼめてあいさつしました。その人は、ひげの中でかすかに微笑わらいながら荷物にもつをゆっくり網棚あみだなにのせました。ジョバンニは、なにかたいへんさびしいような かなしいような気がして、だまって正面しょうめん時計とけいを見ていましたら、ずうっと前の方で、硝子ガラスふえのようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。カムパネルラは、車室の天井てんじょうを、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い甲虫かぶとむしがとまって、そのかげが大きく天井てんじょうにうつっていたのです。赤ひげの人は、なにか なつかしそうに わらいながら、ジョバンニカムパネルラのようすを見ていました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かわるがわるまどの外から光りました。
 赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人にきました。
「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか」
「どこまでも行くんです」ジョバンニは、少しきまりわるそうに答えました。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ」
「あなたはどこへ行くんです」カムパネルラが、いきなり、喧嘩けんかのようにたずねましたので、ジョバンニは思わずわらいました。すると、こうのせきにいた、とがった帽子ぼうしをかぶり、大きなかぎこしに下げた人も、ちらっとこっちを見てわらいましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くしてわらいだしてしまいました。ところがその人べつにおこったでもなく、ほおをぴくぴくしながら返事へんじをしました。
「わっしはすぐそこでります。わっしは、鳥をつかまえる商売しょうばいでね」
17/48
「何鳥ですか」
つるがんです。さぎも白鳥もです」
つるはたくさんいますか」
「いますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか」
「いいえ」
「いまでも聞こえるじゃありませんか。そら、耳をすましていてごらんなさい」
 二人ふたりげ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水のくような音が聞こえて来るのでした。
つる、どうして【どうやって】とるんですか」
つるですか、それともさぎですか」
さぎです」ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。
「そいつはな、雑作ぞうさない。さぎというものは、みんな天の川のすなかたまって、ぼおっとできるもんですからね、そして始終しじゅう川へ帰りますからね、川原でっていて、さぎがみんな、あしを こういうふうにして おりてくるとこを、そいつが地べたへ つくかつかないうちに、ぴたっとおさえちまうんです。するともうさぎは、かたまって安心あんしんしてんじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。にするだけです」
さぎにするんですか。標本ひょうほんですか」
標本ひょうほんじゃありません。みんなたべるじゃありませんか」
「おかしいねえ」カムパネルラくびをかしげました。
「おかしいも不審ふしんもありませんや。そら」その男は立って、網棚あみだなからつつみをおろして、手ばやくくるくるときました。
「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです」
「ほんとうにさぎだねえ」二人ふたりは思わずさけびました。まっ白な、あのさっきの北の十字架じゅうじかのように光るさぎのからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒いあしをちぢめて、浮彫うきぼりのようにならんでいたのです。
をつぶってるね」カムパネルラは、ゆびでそっと、さぎ三日月みかづきがたの白いつぶったにさわりました。頭の上のやりのような白い毛もちゃんとついていました。
「ね、そうでしょう」鳥捕とりと風呂敷ふろしきかさねて、またくるくるとつつんでひもでくくりました。だれがいったいここらでさぎなんぞ たべるだろうとジョバンニは思いながらきました。
さぎはおいしいんですか」
「ええ、毎日注文ちゅうもんがあります。しかしがんの方が、もっと売れます。
18/48
がんの方がずっとがらがいいし、第一だいいち手数てすうがありませんからな。そら」鳥捕とりとは、またべつの方のつつみをきました。すると黄と青じろと まだらになって、なにかのあかりのようにひかるがんが、ちょうどさっきのさぎのように、くちばしをそろえて、少しひらべったくなって、ならんでいました。
「こっちはすぐたべられます。どうです、少しおあがりなさい」鳥捕とりとは、黄いろのがんの足を、かるくひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。
「どうです。すこしたべてごらんなさい」鳥捕とりとは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっとたべてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子かしだ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんながんんでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋かしやだ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子かしをたべているのは、たいへんきのどくだ)とおもいながら、やっぱり ぽくぽく それをたべていました。
「も少しおあがりなさい」鳥捕とりとがまたつつみを出しました。ジョバンニは、もっと たべたかったのですけれども、
「ええ、ありがとう」といって遠慮えんりょしましたら、鳥捕とりとは、こんどはこうのせきの、かぎをもった人に出しました。
「いや、商売しょうばいものをもらっちゃすみませんな」その人は、帽子ぼうしをとりました。
「いいえ、どういたしまして。どうです、今年のわたどり景気けいきは」
「いや、すてきなもんですよ。一昨日おととい第二限だいにげんころなんか、なぜ灯台とうだいを、規則以外きそくいがいに間欠【途切れ】させるかって、あっちからもこっちからも、電話で故障こしょうが来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、わたどりどもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですから しかたありませんや、わたしぁ、べらぼうめ、そんな苦情くじょうは、おれのとこへって来たってしかたがねえや、ばさばさのマントをあしと口との途方とほうもなくほそ大将たいしょう【渡り鳥のこと】へやれって、こう言ってやりましたがね、はっは」
 すすきがなくなったために、こうの野原から、ぱっとあかりがして来ました。
さぎの方はなぜ手数てすうなんですか」カムパネルラは、さっきから、こうと思っていたのです。「それはね、さぎをたべるには」鳥捕とりとは、こっちになおりました。
19/48
「天の川の水あかりに、十日もつるしておくかね、そうでなけぁ、すなに三、四日 うずめなけぁ いけないんだ。そうすると、水銀すいぎんがみんな蒸発じょうはつして、たべられるようになるよ」
「こいつは鳥じゃない。ただのお菓子かしでしょう」やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、たずねました。鳥捕とりとは、何かたいへん あわてたふうで、
「そうそう、ここでりなけぁ」と言いながら、立って荷物にもつをとったと思うと、もう見えなくなっていました。
「どこへ行ったんだろう」二人ふたりは顔を見合わせましたら、灯台守とうだいもりは、にやにやわらって、少しびあがるようにしながら、二人のよこまどの外をのぞきました。二人ふたりもそっちを見ましたら、たったいまの鳥捕とりとが、黄いろと青じろの、うつくしい燐光りんこう【蓄光、夜光】を出す、いちめんの かわらははこぐさ の上に立って、まじめな顔をして両手りょうてをひろげて、じっとそらを見ていたのです。
「あすこへ行ってる。ずいぶん奇体きたい【不思議】だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな」と言ったとたん、がらんとした桔梗ききょういろの空から、さっき見たようなさぎが、まるで雪のるように、ぎゃあぎゃあさけびながら、いっぱいにいおりて来ました。するとあの鳥捕とりとは、すっかり注文ちゅうもん通りだというようにほくほくして、両足りょうあしをかっきり六十に開いて立って、さぎのちぢめてりて来る黒いあし両手りょうてかたっぱしからおさえて、ぬのふくろの中に入れるのでした。するとさぎは、ほたるのように、ふくろの中でしばらく、青くぺかぺか光ったりえたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無事ぶじに天の川のすなの上にりるものの方がおおかったのです。それは見ていると、足がすなへつくやいなや、まるでゆきけるように、ちぢまってひらべったくなって、まもなく溶鉱炉ようこうろから出たどうしるのように、すな砂利じゃりの上にひろがり、しばらくは鳥の形が、すなについているのでしたが、それも二、三明るくなったりくらくなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。
 鳥捕とりとは、二十ぴきばかり、ふくろに入れてしまうと、きゅう両手りょうてをあげて、兵隊へいたい鉄砲弾てっぽうだまにあたって、ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕とりとの形はなくなって、かえって、
「ああせいせいした。
20/48
どうも からだにちょうど合うほどかせいでいるくらい、いいことはありませんな」という ききおぼえのある声が、ジョバンニとなりにしました。見ると鳥捕とりとは、もうそこでとって来たさぎを、きちんとそろえて、一つずつかさなおしているのでした。
「どうして、あすこから、いっぺんにここへ来たんですか」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がしていました。「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか」
 ジョバンニは、すぐ返事へんじをしようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
「ああ、遠くからですね」鳥捕とりとは、わかったというように雑作ぞうさなくうなずきました。


     九 ジョバンニの切符きっぷ

「もうここらは白鳥のおしまいです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオ観測所かんそくじょです」
 まどの外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建物たてものが四むねばかり立って、その一つの平屋根ひらやねの上に、もさめるような、青宝玉サファイア黄玉トパーズの大きな二つのすきとおったたまが、になって しずかに くるくるとまわっていました。黄いろのがだんだんこうへまわって行って、青い小さいのがこっちへすすんで来、まもなく二つのはじは、かさなり合って、きれいなみどりいろの両面凸りょうめんとつレンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみだして、とうとう青いのは、すっかりトパーズの正面しょうめんに来ましたので、みどりの中心と黄いろな明るいとができました。


それがまただんだんよこれて、前のレンズの形をぎゃくにくりかえし、とうとうすっとはなれて、サファイアはこうへめぐり、黄いろのはこっちへすすみ、またちょうど さっきのようなふうに なりました。銀河ぎんがの、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測候所そっこうじょが、ねむっているように、しずかに よこたわったのです。
「あれは、水のはやさをはかる器械きかいです。水も......」鳥捕とりとが言いかけたとき、
切符きっぷ拝見はいけんいたします」三人のせきよこに、赤い帽子ぼうしをかぶったせいの高い車掌しゃしょうが、いつかまっすぐに立っていて言いました。鳥捕とりとは、だまって かくし【ポケット】から、小さな紙きれを出しました。車掌しゃしょうはちょっと見て、すぐをそらして(あなた方のは?)というように、ゆびをうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。
「さあ」
21/48
ジョバンニこまって、もじもじしていましたら、カムパネルラはわけもないというふうで、小さなねずみいろの切符きっぷを出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか上着うわぎのポケットにでも、はいっていたかとおもいながら、手を入れてみましたら、何か大きなたたんだ紙きれにあたりました。こんなもの はいっていたろうかと思って、いそいで出してみましたら、それは四つにった はがきぐらいの大さのみどりいろの紙でした。車掌しゃしょうが手を出しているもんですから なんでもかまわない、やっちまえと思ってわたしましたら、車掌しゃしょうはまっすぐに立ちなおって ていねいに それを開いて見ていました。そして読みながら上着うわぎのぼたんやなんかしきりになおしたりしていましたし灯台看守とうだいかんしゅも下からそれを熱心ねっしんにのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは証明書しょうめいしょか何かだったと考えて少しむねあつくなるような気がしました。
「これは三次空間じくうかんの方からおちになったのですか」車掌しゃしょうがたずねました。
「なんだかわかりません」もう大丈夫だいじょうぶだと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつわらいました。
「よろしゅうございます。南十字サウザンクロスきますのは、つぎだい三時ころになります」車掌しゃしょうは紙をジョバンニわたしてこうへ行きました。
 カムパネルラは、その紙切れが何だったかちかねたというようにいそいでのぞきこみました。ジョバンニまったく早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い唐草からくさのような模様もようの中に、おかしな十ばかりの字を印刷いんさつしたもので、だまって見ているとなんだかその中へまれてしまうような気がするのでした。すると鳥捕とりとが横から ちらっとそれを見てあわてたように言いました。
「おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符きっぷだ。天上どこじゃない、どこでもかってにあるける通行券つうこうけんです。こいつをおちになれぁ、なるほど、こんな不完全ふかんぜん幻想第四次げんそうだいよじ銀河鉄道ぎんがてつどうなんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方たいしたもんですね」
「なんだかわかりません」ジョバンニが赤くなって答えながら、それをまた たたんでかくしに入れました。そしてきまりがわるいのでカムパネルラ二人ふたり、またまどの外をながめていましたが、その鳥捕とりとの時々たいしたもんだと いうように、ちらちらこっちを見ているのが ぼんやりわかりました。
22/48
「もうじきわし停車場ていしゃじょうだよ」カムパネルラこうぎしの、三つならんだ小さな青じろい三角標さんかくひょうと、地図とを見くらべて言いました。
 ジョバンニはなんだか わけもわからずに、にわかにとなりの鳥捕とりとが きのどくで たまらなくなりました。さぎをつかまえて せいせいしたと よろこんだり、白いきれでそれをくるくるつつんだり、ひとの切符きっぷをびっくりしたように横目よこめで見てあわててほめだしたり、そんなことを一々考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕とりとのために、ジョバンニっているものでも食べるものでも なんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうのさいわいになるなら、自分があの光る天の川の河原かわらに立って百年つづけて立って鳥をとって やってもいいと いうような気がして、どうしても もうだまっていられなくなりました。ほんとうに あなたのほしいものは いったい何ですかとこうとして、それではあんまり出しけだから、どうしようかと考えて ふりかえって見ましたら、そこにはもうあの鳥捕とりとがいませんでした。網棚あみだなの上には白い荷物にもつも見えなかったのです。またまどの外で足をふんばって そらを見上げてさぎるしたくをしているのかと思って、いそいでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子すなごと白いすすきのなみばかり、あの鳥捕とりとの広いせなかも とがった帽子ぼうしも見えませんでした。
「あの人どこへ行ったろう」カムパネルラも ぼんやりそう言っていました。
「どこへ行ったろう。いったいどこで またあうのだろう。ぼくはどうしても少しあの人にものを言わなかったろう」
「ああ、ぼくもそう思っているよ」
ぼくはあの人が邪魔じゃまなような気がしたんだ。だからぼくはたいへんつらい」ジョバンニはこんなへんてこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで言ったこともないと思いました。
「なんだか苹果りんごのにおいがする。ぼくいま苹果りんごのことを考えたためだろうか」カムパネルラ不思議ふしぎそうにあたりを見まわしました。
「ほんとうに苹果りんごのにおいだよ。それから野茨のいばらのにおいもする」
 ジョバンニもそこらを見ましたが やっぱりそれはまどからでも はいって来るらしいのでした。いま秋だから野茨のいばらの花のにおいのする はずはない とジョバンニは思いました。
 そしたらにわかにそこに、つやつやした黒いかみの六つばかりの男の子が赤いジャケツ【ジャケット】のぼたんもかけず、ひどくびっくりしたような顔をして、がたがたふるえて はだしで立っていました。
23/48
となりには黒い洋服ようふくをきちんとたせいの高い青年がいっぱいに風にかれている けやきの木のような姿勢しせいで、男の子の手をしっかりひいて立っていました。
「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ」青年のうしろに、もひとり、十二ばかりのの茶いろな可愛かわいらしい女の子が、黒い外套がいとう青年うでにすがって不思議ふしぎそうにまどの外を見ているのでした。
「ああ、ここはランカシャイヤ【英国のランカシャー】だ。いや、コンネクテカットしゅう【米国のコネティカット州】だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにも こわいことありません。わたくしたちはかみさまにされているのです」黒服くろふく青年は よろこびに かがやいて その女の子に言いました。けれどもなぜかまたひたいふかしわきざんで、それにたいへん つかれているらしく、無理むりわらいながら男の子ジョバンニのとなりにすわらせました。それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりのせきゆびさしました。女の子は すなおにそこへすわって、きちんと両手りょうてを組み合わせました。
「ぼく、おおねえさんのとこへ行くんだよう」腰掛こしかけたばかりの男の子は顔をへんにして灯台看守とうだいかんしゅこうのせきにすわったばかりの青年に言いました。青年はなんとも言えずかなしそうな顔をして、じっとその子の、ちぢれたぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両手りょうてを顔にあててしくしくいてしまいました。
「お父さんや 〝きくよ〟ねえさんは まだいろいろお仕事しごとがあるのです。けれども もうすぐあとから いらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなにながっていらっしゃったでしょう。
24/48
わたしの大事だいじなタダシは いまどんな歌をうたっているだろう、ゆきる朝にみんなと手をつないで、ぐるぐる にわと このやぶを まわってあそんで いるだろうかと考えたり、ほんとうにって心配しんぱいしていらっしゃるんですから、早く行って、おっかさんにお目にかかりましょうね」
「うん、だけどぼく、船にらなけぁよかったなあ」
「ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの立派りっぱな川、ね、あすこはあの夏じゅう、ツィンクル、ツィンクル、リトル、スターをうたってやすむとき、いつもまどから ぼんやり白く見えていたでしょう。あすこですよ。ね、きれいでしょう、あんなに光っています」
 いていたあねもハンケチでをふいて外を見ました。青年は教えるようにそっと姉弟きょうだいにまた言いました。
「わたしたちは もう、なんにも かなしいことないのです。わたしたちは こんないいとこ をたびして、じきかみさまのとこへ行きます。そこならもう、ほんとうに明るくて においがよくて立派りっぱな人たちでいっぱいです。そしてわたしたちのわりにボートへれた人たちは、きっとみんなたすけられて、心配しんぱいしてっている めいめいのお父さんやお母さんや 自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出して おもしろく うたって行きましょう」青年男の子のぬれたような黒いかみをなで、みんなをなぐさめながら、自分もだんだん顔いろが かがやいてきました。
「あなた方はどちらから いらっしゃったのですか。どうなすったのですか」
 さっきの灯台看守とうだいかんしゅがやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はかすかにわらいました。
「いえ、氷山ひょうざんにぶっつかって船がしずみましてね、わたしたちはこちらのお父さんがきゅうようで二か月前、一足さきに本国へお帰りになったので、あとからったのです。私は大学へはいっていて、家庭教師かていきょうしにやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨日きのうのあたりです、船が氷山ひょうざんにぶっつかって一ぺんにかたむきもうしずみかけました。月のあかりはどこか ぼんやりありましたが、きり非常ひじょうふかかったのです。ところがボートは左舷さげんの方半分はんぶんは もうだめになって いましたから、とてもみんなはり切らないのです。もうそのうちにも船はしずみますし、私は必死ひっしとなって、どうか小さな人たちをせてくださいとさけびました。近くの人たちはすぐみちを開いて、そして子供たちのためにいのってくれました。けれどもそこからボートまでのところには、まだまだ小さな子どもたちや親たちや なんかいて、とてもしのける勇気ゆうきがなかったのです。
25/48
それでもわたくしは どうしてもこの方たちをおたすけするのが私の義務ぎむだと思いましたから 前にいる子供らをしのけようとしました。けれどもまた、そんなにしてたすけてあげるよりは このままかみ御前みまえにみんなで行く方が、ほんとうにこの方たちの幸福こうふくだとも思いました。それからまた、そのかみにそむくつみはわたくしひとりでしょって ぜひともたすけてあげようと思いました。けれども、どうしても見ていると それができないのでした。子どもらばかりのボートの中へはなしてやって、お母さんが狂気きょうきのようにキスをおくり お父さんが かなしいのをじっとこらえて まっすぐに立っているなど、とてももうはらわたもちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずんしずみますから、私たちはかたまって、もうすっかり覚悟かくごして、この人たち二人をいて、かべるだけはかぼうと船のしずむのをっていました。だれげたかライフヴイが一つんで来ましたけれども すべってずうっとこうへ行ってしまいました。私は一生けんめい甲板かんぱん格子こうしになったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく三〇六番【賛美歌】の声があがりました。たちまちみんなは いろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのとき にわかに大きな音がして私たちは水にち、もううずにはいったと思いながら しっかりこの人たちをだいて、それからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。」「この方たちのお母さんは一昨年さくねんくなられました。ええ、ボートはきっとたすかったにちがいありません、なにせ よほど熟練じゅくれん水夫すいふたちがいで、すばやく船からはなれていましたから」
 そこらから小さな嘆息たんそくや いのりの声が聞こえジョバンニカムパネルラもいままでわすれていた いろいろのことを ぼんやり思い出してあつくなりました。
(ああ、その大きな海はパシフィック【太平洋】というのではなかったろうか。その氷山ひょうざんながれる北のはての海で、小さな船にって、風やこおりつく潮水しおみずや、はげしいさむさとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくは そのひとにほんとうに きのどくで そしてすまないような気がする。ぼくは そのひとの さいわいのために いったい どうしたらいいのだろう)
 ジョバンニくびをたれて、すっかりふさぎんでしまいました。
「なにが しあわせか わからないです。ほんとうに どんなつらいことでも それがただしいみちをすすむ中でのできごとなら、とうげの上りも下りも みんなほんとうの幸福こうふくに近づく一あしずつですから」
 灯台守とうだいもりがなぐさめていました。
26/48
「ああそうです。ただいちばんのさいわいにいたるために いろいろの かなしみも みんなおぼしめしです」
 青年いのるようにそう答えました。
 そしてあの姉弟きょうだいはもうつかれて めいめい ぐったりせきによりかかってねむっていました。さっきのあの はだしだった足には いつか白いやわらかなくつをはいていたのです。
 ごとごとごとごと 汽車はきらびやかな燐光りんこう【蓄光、夜光】の川のきしすすみました。こうの方のまどを見ると、野原はまるで幻灯げんとうのようでした。百も千もの大小さまざまの三角標さんかくひょう、その大きなものの上には赤い点々をうった測量旗そくりょうきも見え、野原のはらのはては それらがいちめん、たくさんたくさんあつまってぼおっと青白いきりのよう、そこからか、またはもっとこうからか、ときどき さまざまの形のぼんやりした狼煙のろしのようなものが、かわるがわるきれいな桔梗ききょういろの そらに うちあげられるのでした。じつにそのすきとおった奇麗きれいな風は、ばらの においで いっぱいでした。
「いかがですか。こういう苹果りんごはおはじめてでしょう」こうのせき灯台看守とうだいかんしゅがいつか黄金きんべにで うつくしくいろどられた 大きな苹果りんごとさないように両手りょうてひざの上にかかえていました。
「おや、どっから来たのですか。立派りっぱですねえ。ここらではこんな苹果りんごができるのですか」青年は ほんとうにびっくりしたらしく、灯台看守とうだいかんしゅ両手りょうてにかかえられた一もりの苹果りんごを、ほそくしたりくびをまげたりしながら、われをわすれてながめていました。
「いや、まあおとりください。どうか、まあおとりください」
 青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。
「さあ、こうのぼっちゃんがた。いかがですか。おとりください」
 ジョバンニぼっちゃんといわれたので、すこし しゃくにさわって だまっていましたが、カムパネルラは、「ありがとう」と言いました。
 すると青年は自分でとって一つずつ二人におくってよこしましたので、ジョバンニも立って、ありがとうと言いました。
 灯台看守とうだいかんしゅはやっと両腕りょううでがあいたので、こんどは自分で一つずつねむっている姉弟きょうだいひざにそっときました。
「どうもありがとう。どこでできるのですか。
27/48
こんな立派りっぱ苹果りんごは」
 青年はつくづく見ながら言いました。
「このあたりではもちろん農業のうぎょうは いたしますけれども たいてい ひとりでに いいものができるような約束やくそくになっております。農業のうぎょうだって そんなに ほねはおれはしません。たいてい自分ののぞ種子たねさえけば ひとりでに どんどんできます。米だってパシフィックへん【太平洋沿岸】のようにからもないし十ばいも大きくて においもいいのです【あの世・理想の世界の食べ物は、現実よりずっと立派で豊かなのです】。けれども あなたがたのいらっしゃる方なら農業のうぎょうはもうありません。苹果りんごだってお菓子かしだって、かすが少しもありませんから、みんな そのひとそのひとによって ちがった、わずかの いいかおりになって毛あなから ちらけて【ふわっと消えていって】しまうのです」
 にわかに男の子がばっちりをあいて言いました。
「ああぼくいまおっかさんのゆめをみていたよ。おっかさんがね、立派りっぱ戸棚とだなや本のあるとこにいてね、ぼくの方を見て手をだして にこにこ にこにこ わらったよ。ぼく、おっかさん。りんごをひろってきて あげましょうか、と言ったらがさめちゃった。ああここ、さっきの汽車のなかだねえ」
「その苹果りんごがそこにあります。このおじさんに いただいたのですよ」青年が言いました。
「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさん まだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん」
 あねはわらってをさまし、まぶしそうに両手りょうてにあてて、それから苹果りんごを見ました。
 男の子はまるでパイをたべるように、もうそれをたべていました。またせっかくむいた そのきれいなかわも、くるくるコルクき【螺旋らせん】のような形になってゆかちるまでの間には すうっと、はいいろに光って蒸発じょうはつしてしまうのでした。
 二人ふたりはりんごをたいせつにポケットにしまいました。
 川下のこうぎしに青くしげった大きな林が見え、そのえだにはじゅくしてまっ赤に光る まるいがいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標さんかくひょうが立って、森の中からはオーケストラベル【金管を叩いて音を出すチューブベル】やジロフォン【キロフォンという木琴】にまじって なんとも言えずきれいないろが、とけるようにみるように風につれてながれて来るのでした。
28/48
 青年は ぞくっとして からだをふるうようにしました。
 だまってそのを聞いていると、そこらにいちめん黄いろや、うすいみどりの明るい野原のはら敷物しきものかがひろがり、またまっ白なろうのようなつゆ太陽たいようめんをかすめて行くように思われました。「まあ、あのからすカムパネルラのとなりの、かおるばれた女の子がさけびました。
「からすでない。みんな かささぎだ」カムパネルラがまた何気なにげなくしかるようにさけびましたので、ジョバンニはまた思わずわらい、女の子はきまりわるそうにしました。まったく河原かわらの青じろいあかりの上に、黒い鳥が たくさんたくさん いっぱいにれつになってとまってじっと川の微光びこうを受けているのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんとびてますから」青年はとりなすように言いました。
 こうの青い森の中の三角標さんかくひょうはすっかり汽車の正面しょうめんに来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方から、あの聞きなれた三〇六番の賛美歌さんびかのふしが聞こえてきました。よほどの人数で合唱がっしょうしているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえして またすわりました。かおる子はハンケチを顔にあててしまいました。
 ジョバンニまでなんだかはなへんになりました。けれどもいつともなくだれともなくその歌は歌い出され だんだん はっきり強くなりました。思わずジョバンニカムパネルラもいっしょに うたいだしたのです。
 そして青い橄欖かんらん【オリーブ】の森が、見えない天の川のこうに さめざめと光りながら だんだんうしろの方へ行ってしまい、そこからながれて来るあやしい楽器がっきの音も、もう汽車のひびきや風の音に すりへらされて ずうっと かすかになりました。
「あ、孔雀くじゃくがいるよ。あ、孔雀くじゃくがいるよ」
「あの森ライラ宿やどでしょう。あたしきっとあの森の中にむかしの大きなオーケストラの人たちがあつまっていらっしゃると思うわ、まわりには青い孔雀くじゃくやなんか たくさんいると思うわ」
「ええ、たくさんいたわ」女の子がこたえました。
 ジョバンニはその小さく小さくなって いまはもう一つのみどりいろのかいぼたんのように見える森の上に さっさっと青じろく時々光って その孔雀くじゃくがはねをひろげたり とじたりする光の反射はんしゃを見ました。
29/48
「そうだ、孔雀くじゃくの声だってさっき聞こえた」カムパネルラ女の子に言いました。
「ええ、三十ぴきぐらいは たしかにいたわ」女の子が答えました。
 ジョバンニは にわかに なんとも言えず かなしい気がして思わず、「カムパネルラ、ここからはねおりてあそんで行こうよ」とこわい顔をして言おうとしたくらいでした。
 ところがそのときジョバンニは川下の遠くの方に不思議ふしぎなものを見ました。それはたしかになにか黒いつるつるした細長ほそながいもので、あの見えない天の川の水の上にび出してちょっとゆみのようなかたちにすすんで、また水の中にかくれたようでした。おかしいと思ってまたよく気をつけていましたら、こんどはずっと近くで またそんなことが あったらしいのでした。そのうち もうあっちでもこっちでも、その黒いつるつるしたへんなものが水からび出して、まるくんでまた頭から水へくぐるのが たくさん見えてきました。みんな魚のように川上へのぼるらしいのでした。
「まあ、なんでしょう。たあちゃん。ごらんなさい。まあたくさんだわね。なんでしょうあれ」
 ねむそうにをこすっていた男の子は びっくりしたように立ちあがりました。
「なんだろう」青年も立ちあがりました。
「まあ、おかしな魚だわ、なんでしょうあれ」
海豚いるかです」カムパネルラがそっちを見ながら答えました。
海豚いるかだなんてあたしはじめてだわ。けどここ海じゃないんでしょう」
「いるかは海にいると きまっていない」あの不思議ふしぎひくい声がまたどこからかしました。
 ほんとうに そのいるかのかたちの おかしいことは、二つのひれをちょうど両手りょうてをさげて不動ふどう姿勢しせいをとったようなふうにして水の中からび出して来て、うやうやしく頭を下にして不動ふどう姿勢しせいのまま また水の中へくぐって行くのでした。見えない天の川の水も そのときはゆらゆらと青いほのおのようになみをあげるのでした。
「いるか お魚でしょうか」女の子カムパネルラに はなしかけました。男の子はぐったりつかれたようにせきにもたれてねむっていました。
「いるか、魚じゃありません。くじらと同じような けだものです」カムパネルラが答えました。
「あなたくじら見たことあって」
ぼくあります。くじら、頭と黒いしっぽだけ見えます。
30/48
しおくと ちょうど本にあるようになります」
「くじらなら大きいわねえ」
「くじら大きいです。子供こどもだって いるかぐらいあります」
「そうよ、あたしアラビアンナイトで見たわ」あねほそぎんいろの指輪ゆびわをいじりながら おもしろそうに はなししていました。
カムパネルラぼくもう行っちまうぞ。ぼくなんかくじらだって見たことないや)
 ジョバンニはまるで たまらないほど いらいらしながら、それでもかたく、くちびるんでこらえてまどの外を見ていました。そのまどの外には海豚いるかのかたちも もう見えなくなって川は二つにわかれました。そのまっくらなしまのまん中に高い高いやぐらが一つ組まれて、その上に一人のゆるふくて赤い帽子ぼうしをかぶった男が立っていました。そして両手りょうてに赤と青のはたをもってそらを見上げて信号しんごうしているのでした。
 ジョバンニが見ている間その人はしきりに赤いはたをふっていましたが、にわかに赤旗あかはたをおろして うしろにかくすようにし、青いはたを高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者しきしゃのようにはげしくりました。すると空中にざあっと雨のような音がして、何かまっくらなものが、いくかたまりも いくかたまりも鉄砲丸てっぽうだまのように川のこうの方へんで行くのでした。ジョバンニは思わずまどからからだを半分出して、そっちを見あげました。うつくしいうつくしい桔梗ききょういろのがらんとした空の下を、じつ何万なんまんという小さな鳥どもが、幾組いくくみ幾組いくくみも めいめいせわしく せわしく鳴いて通って行くのでした。「鳥がんで行くな」ジョバンニまどの外で言いました。
「どら」カムパネルラもそらを見ました。
 そのとき あのやぐらの上の ゆるいふくの男はにわかに赤いはたをあげて狂気きょうきのように ふりうごかしました。するとぴたっと鳥のれは通らなくなり、それと同時にぴしゃあんという つぶれたような音が川下の方でこって、それからしばらく しいんとしました。と思ったらあの赤帽あかぼう【駅員】の信号手しんごうしゅがまた青いはたをふってさけんでいたのです。
「いまこそ わたれ わたり鳥、いまこそ わたれ わたり鳥」その声もはっきり聞こえました。
 それといっしょに また幾万いくまんという鳥のれが そらを まっすぐにかけたのです。
31/48
二人ふたりの顔を出しているまん中のまどから あの女の子が顔を出して うつくしいほおを かがやかせながら そらをあおぎました。
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあ そらのきれいなこと」女の子ジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニ生意気なまいきな、いやだいと思いながら、だまって口をむすんでそらを見あげていました。女の子は小さくほっといきをして、だまってせきもどりました。カムパネルラが きのどくそうにまどから顔を引っめて地図を見ていました。
「あの人 鳥へ教えてるんでしょうか」女の子がそっとカムパネルラにたずねました。
「わたり鳥へ信号しんごうしてるんです。きっと どこからか のろしがあがるためでしょう」
 カムパネルラが少しおぼつかなそうに答えました。そして車の中はしいんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っめたかったのですけれども 明るいとこへ顔を出すのがつらかったので、だまって こらえてそのまま立って口笛くちぶえいていました。
(どうしてぼくは こんなに かなしいのだろう。ぼくは もっと こころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこのきしのずうっとこうに まるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうに しずかでつめたい。ぼくはあれをよく見て こころもちを しずめるんだ)
 ジョバンニほてっていたいあたまを両手りょうておさえるようにして、そっちの方を見ました。
(ああ ほんとうに どこまでもどこまでもぼくといっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうにはなしているしぼくは ほんとうにつらいなあ)
 ジョバンニは またなみだでいっぱいになり、天の川もまるで遠くへったように ぼんやり白く見えるだけでした。
 そのとき汽車はだんだん川からはなれてがけの上を通るようになりました。こうぎしもまた黒いいろのがけが川のきし下流かりゅうに下るにしたがって、だんだん高くなっていくのでした。そしてちらっと大きな とうもろこしの木を見ました。そのはぐるぐるにちぢの下には もう美しいみどりいろの大きなほうが赤い毛をいて 真珠しんじゅのようなも ちらっと見えたのでした。
32/48
それはだんだん数をしてきて、もういまはれつのようにがけ線路せんろとの間にならび、思わずジョバンニまどから顔を引っめて こうがわまどを見ましたときは、うつくしいそらの野原の地平線ちへいせんのはてまで、その大きなとうもろこしの木が ほとんどいちめんにえられて、さやさや風にゆらぎ、その立派りっぱなちぢれたのさきからは、まるでひるの間にいっぱい日光をった金剛石こんごうせき【ダイヤモンド】のようにつゆが いっぱいについて、赤やみどりや きらきらえて光っているのでした。カムパネルラが、「あれ とうもろこしだねえ」とジョバンニに言いましたけれども、ジョバンニはどうしても気持きもちが なおりませんでしたから、ただぶっきらぼうに野原を見たまま、「そうだろう」と答えました。
 そのとき汽車は だんだんしずかになって、いくつかのシグナルと てんてつ【分岐器(ポイント)】のあかりを過ぎ、小さな停車場ていしゃばにとまりました。
 その正面しょうめんの青じろい時計とけいはかっきり第二時だいにじしめし、風もなくなり汽車もうごかず、しずかなしずかな野原のなかにそのはカチッカチッと正しく時をきざんでいくのでした。
 そしてまったくそのの音のたえまを 遠くの遠くの野原のはてから、かすかな かすかな旋律せんりつが糸のようにながれて来るのでした。
新世界交響楽しんせかいこうきょうがくだわ」こうのせきあねがひとりごとのように こっちを見ながらそっと言いました。
 まったくもう車の中ではあの黒服くろふく丈高たけたか青年だれもみんなやさしいゆめを見ているのでした。
(こんなしずかな いいとこで ぼくはどうしてもっと愉快ゆかいになれないだろう。どうして こんなに ひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、ぼくといっしょに汽車にっていながら、まるであんな女の子とばかりはなしているんだもの。ぼくはほんとうにつらい)
 ジョバンニはまた手で顔を半分はんぶんかくすようにしてこうのまどのそとを見つめていました。
 すきとおった硝子ガラスのようなふえが鳴って汽車はしずかに動きだし、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛くちぶえきました。「ええ、ええ、もうこのへんはひどい高原ですから」
 うしろの方でだれか としよりらしい人の、いまがさめたというふうで はきはきはなしている声がしました。
「とうもろこしだってぼうで二尺【60cm】もあなをあけておいてそこへかないと はえないんです」
「そうですか。川までは よほどありましょうかねえ」
「ええ、ええ、かわまでは二千じゃく【606m】から六千じゃくあります。もうまるでひどい峡谷きょうこくになっているんです」
33/48
 そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。
 あのあねは弟を自分のむねによりかからせてねむらせながら黒いひとみをうっとりと遠くへげて何を見るでもなしに考えんでいるのでしたし、カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛くちぶえき、男の子はまるできぬつつんだ苹果りんごのような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。
 突然とつぜんとうもろこしがなくなっておおきな黒い野原のはらが いっぱいに ひらけました。
 新世界交響楽しんせかいこうきょうがくはいよいよはっきり地平線ちへいせんのはてからき、そのまっ黒な野原のはらのなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根はねを頭につけ、たくさんの石をうでむねにかざり、小さなゆみをつがえて いちもくさんに汽車をって来るのでした。
「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさま ごらんなさい」
 黒服くろふく青年をさましました。
 ジョバンニカムパネルラも立ちあがりました。
「走って来るわ、あら、走って来るわ。いかけているんでしょう」
「いいえ、汽車をってるんじゃないんですよ。りょうをするかおどるかしてるんですよ」
 青年はいまどこにいるかわすれたというふうにポケットに手を入れて立ちながら言いました。
 まったくインデアン半分はんぶんおどっているようでした。第一だいいちかけるにしても 足のふみようが【立ち向かい方が】 もっと経済けいざいもとれ【無駄を無くして】 本気にもなれそうでした【真剣に取り組めそうだった】。にわかにくっきり白いその羽根はねは前の方へたおれるようになり、インデアンはぴたっと立ちどまって、すばやくゆみを空にひきました。そこから一つるがふらふらとちて来て、また走り出したインデアンの大きくひろげた両手りょうてちこみました。インデアンはうれしそうに立ってわらいました。そしてそのつるをもってこっちを見ているかげも、もうどんどん小さく遠くなり、電しんばしらの碍子がいし【絶縁体の陶器】がきらっきらっとつづいて二つばかり光って、またとうもろこしの林になってしまいました。こっちがわまどを見ますと汽車はほんとうに高い高いがけの上を走っていて、その谷のそこには川がやっぱりはばひろく明るくながれていたのです。
「ええ、もうこのへんから下りです。なんせこんどは一ぺんにあの水面すいめんまでおりて行くんですから容易よういじゃありません。この傾斜けいしゃがあるもんですから汽車はけっしてこうからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう」
34/48
さっきの老人ろうじんらしい声が言いました。
 どんどんどんどん汽車はりて行きました。がけのはじに鉄道てつどうがかかるときは 川が明るく 下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだん こころもちが明るくなってきました。汽車が小さな小屋こやの前を通って、その前に しょんぼりひとりの子供こどもが立ってこっちを見ているときなどは 思わず、ほう、とさけびました。
 どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中へやじゅうのひとたちは半分はんぶんうしろの方へたおれるようになりながら腰掛こしかけに しっかり しがみついていました。ジョバンニは思わずカムパネルラとわらいました。もうそして天の川は汽車のすぐ横手よこてを いままでよほどはげしくながれて来たらしく、ときどき ちらちら光ってながれているのでした。うすあかい河原かわらなでしこの花があちこちいていました。汽車はようやくいたようにゆっくり走っていました。
 こうとこっちのきしに星のかたちと つるはしを書いたはたがたっていました。
「あれなんのはただろうね」ジョバンニがやっとものを言いました。
「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。てつふねがおいてあるねえ」
「ああ」
はしけるとこじゃないんでしょうか」女の子が言いました。
「ああ、あれ工兵こうへいはただねえ。架橋演習かきょうえんしゅうをしてるんだ。けれど兵隊へいたいのかたちが見えないねえ」
 その時こうぎしちかくの少し下流かりゅうの方で、見えない天の川の水がぎらっと光って、はしらのように高くはねあがり、どおと はげしい音がしました。
発破はっぱだよ、発破はっぱだよ」カムパネルラはこおどりしました。
 そのはしらのようになった水は見えなくなり、大きなさけますがきらっきらっと白くはらを光らせて空中に ほうり出されて まるいえがいて また水にちました。ジョバンニはもう はねあがりたいくらい気持きもちがかるくなって言いました。
「空の工兵大隊こうへいだいたいだ。どうだ、ますなんかが まるでこんなになって はねあげられたねえ。ぼくこんな愉快ゆかいたびはしたことない。いいねえ」
35/48
「あのますなら近くで見たらこれくらいあるねえ、たくさん さかないるんだな、この水の中に」
「小さなお魚もいるんでしょうか」女の子はなしにつりまれて言いました。
「いるんでしょう。大きなのがいるんだから小さいのもいるんでしょう。けれど遠くだから、いま小さいの見えなかったねえ」ジョバンニはもうすっかり機嫌きげんなおっておもしろそうにわらって女の子に答えました。「あれきっと双子ふたごのお星さまのおみやだよ」男の子がいきなりまどの外をさしてさけびました。
 右手のひくおかの上に小さな水晶すいしょうで でも こさえたような二つのおみやがならんで立っていました。
双子ふたごのお星さまのおみやってなんだい」
「あたし前になんべんもおっかさんから聞いたわ。ちゃんと小さな水晶すいしょうのおみやで 二つならんでいるから きっとそうだわ」
「はなしてごらん。双子ふたごのお星さまが何をしたっての」
「ぼくも知ってらい。双子ふたごのお星さまが野原へあそびにでて、からすと喧嘩けんかしたんだろう」
「そうじゃないわよ。あのね、天の川のきしにね、おっかさんお話しなすったわ、......」
「それから彗星ほうきぼしが ギーギーフー ギーギーフーて言って来たねえ」
「いやだわ、たあちゃん、そうじゃないわよ。それはべつの方だわ」
「するとあすこにいまふえいているんだろうか」
「いま海へ行ってらあ」
「いけないわよ。もう海から あがっていらっしゃったのよ」
「そうそう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう」

 川の向こうぎしが にわかに赤くなりました。
 やなぎの木や何かもまっ黒にすかし出され、見えない天の川のなみも、ときどきちらちらはりのように赤く光りました。まったくこうぎしの野原に大きなまっ赤な火がもやされ、その黒いけむりは高く桔梗ききょういろの つめたそうな天をもがしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおり、リチウムよりも うつくしくったようになって、その火はえているのでした。
「あれはなんの火だろう。あんな赤く光る火は何をやせばできるんだろう」ジョバンニが言いました。
さそりの火だな」カムパネルラがまた地図とくびっぴき【向き合う】して答えました。
36/48
「あら、さそりの火のことならあたし知ってるわ」
さそりの火ってなんだい」ジョバンニがききました。
さそりがやけて死んだのよ。その火がいまでもえてるって、あたし何べんもお父さんからいたわ」
さそりって、虫だろう」
「ええ、さそりは虫よ。だけどいい虫だわ」
さそりいい虫じゃないよ。ぼく博物館はくぶつかんでアルコールにつけてあるの見た。に こんなかぎがあって それでされるとぬって先生が言ってたよ」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう言ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきのさそりがいて小さな虫やなんかころしてたべて生きていたんですって。するとある日 いたちに見つかって 食べられそうになったんですって。さそりは一生けんめい にげて にげたけど、とうとういたちにおさえられそうになったわ、そのとき いきなり前に井戸いどがあってその中にちてしまったわ、もうどうしてもあがられないで、さそりは おぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう言っておいのりしたというの。
 ああ、わたしはいままで、いくつの もののいのちをとったかわからない、そしてその私がこんど いたちに とられようとしたときは あんなに一生けんめいにげた。それでも とうとう こんなになってしまった。ああ なんにもあてにならない。どうしてわたしは わたしのからだを、だまって いたちに くれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうかかみさま。私の心をごらんください。こんなにむなしくいのちをすてず、どうかこのつぎには、まことのみんなのさいわいのために私のからだをおつかいください。って言ったというの。
 そしたらいつかさそりはじぶんのからだが、まっ赤なうつくしい火になってえて、よるのやみをらしているのを見たって。いまでもえてるってお父さんおっしゃったわ。ほんとうにあの火、それだわ」
「そうだ。
37/48
見たまえ。そこらの三角標さんかくひょうは ちょうど さそりの形にならんでいるよ」
 ジョバンニはまったくその大きな火のこうに三つの三角標さんかくひょうが、ちょうどさそりのうでのように、こっちに五つの三角標さんかくひょうがさそりのやかぎのように ならんでいるのを見ました。そしてほんとうに そのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるくえたのです。
 その火がだんだんうしろの方になるにつれて、みんなはなんとも言えずにぎやかな、さまざまのがくや草花のにおいのようなもの、口笛くちぶえや人々のざわざわ言う声やらを聞きました。それはもうじき ちかくに町か何かがあって、そこにおまつりでもあるというような気がするのでした。
ケンタウルつゆをふらせ」いきなりいままでねむっていたジョバンニのとなりの男の子こうのまどを見ながらさけんでいました。
 ああ そこにはクリスマストリイ【クリスマスツリー】のようにまっ青な唐檜とうひか もみの木がたって、その中にはたくさんのたくさんの豆電灯まめでんとうがまるで千のほたるでもあつまったようについていました。
「ああ、そうだ、今夜ケンタウルさいだねえ」
「ああ、ここはケンタウルの村だよ」カムパネルラがすぐ言いました。


の間 原稿げんこうなし)


「ボール投げならぼく けっしてはずさない」
 男の子が大いばりで言いました。
「もうじきサウザンクロスです。おりるしたくをしてください」青年がみんなに言いました。
ぼく、も少し汽車に乗ってるんだよ」男の子が言いました。
 カムパネルラのとなりの女の子は そわそわ立って したくをはじめましたけれども やっぱりジョバンニたちと わかれたくないような ようすでした。
「ここで おりなけぁいけないのです」青年はきちっと口をむすんで男の子を見おろしながら言いました。
いやだい。ぼくもう少し汽車へってから行くんだい」
 ジョバンニがこらえかねて言いました。
ぼくたちといっしょにって行こう。ぼくたちどこまでだって行ける切符きっぷってるんだ」
「だけどあたしたち、もうここでりなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから」
 女の子がさびしそうに言いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。
38/48
ぼくたちここで天上よりも もっといいとこを こさえなけぁいけないってぼくの先生が言ったよ」
「だっておっさんも行ってらっしゃるし、それにかみさまがおっしゃるんだわ」
「そんなかみさま うそのかみさまだい」
「あなたのかみさま うそのかみさまよ」
「そうじゃないよ」
「あなたのかみさまってどんなかみさまですか」青年わらいながら言いました。
「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人ひとりかみさまです」
「ほんとうのかみさまは もちろんたった一人ひとりです」
「ああ、そんなんでなしに、たったひとりの ほんとうのほんとうのかみさまです」
「だからそうじゃありませんか。わたくしは あなた方が いまにそのほんとうのかみさまの前に、わたくしたちとお会いになることをいのります」青年はつつましく両手りょうてを組みました。
 女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうにわかれがしそうで、その顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげてき出そうとしました。
「さあもう したくはいいんですか。じきサウザンクロスですから」
 ああ そのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青やだいだいや、もうあらゆる光でちりばめられた十字架じゅうじかが、まるで一本の木というふうに川の中から立ってかがやき、その上には青じろい雲がまるいになって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立っておいのりをはじめました。あっちにもこっちにも子供がうりびついたときのような よろこびの声や、なんとも言いようないふかいつつましい ためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架じゅうじかまど正面しょうめんになり、あの苹果りんごにくのような青じろいの雲も、ゆるやかにゆるやかにめぐっているのが見えました。


「ハレルヤ、ハレルヤ」明るくたのしくみんなの声はひびき、みんなはそのそらの遠くから、つめたいそらの遠くから、すきとおったなんとも言えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電灯でんとうあかりのなかを汽車はだんだんゆるやかになり、とうとう十字架じゅうじかのちょうどまかいに行ってすっかりとまりました。
「さあ、おりるんですよ」青年男の子の手をひきあねたがいにえりやかたをなおしてやって だんだんこうの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさよなら」
39/48
女の子がふりかえって二人に言いました。
「さよなら」ジョバンニはまるでき出したいのを こらえておこったように ぶっきらぼうに言いました。
 女の子は いかにもつらそうに を大きくして、も一こっちをふりかえって、それからあとは もうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上はんぶんいじょういてしまい にわかにがらんとして、さびしくなり 風がいっぱいにみました。
 そして見ているとみんなはつつましくれつを組んで、あの十字架じゅうじかの前の天の川の なぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたって、ひとりのこうごうしい 白いきものの人が 手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子ガラスび子は鳴らされ汽車はうごきだし、と思ううちにぎんいろのきりが川下の方から、すうっとながれて来て、もうそっちは何も見えなくなりました。ただ たくさんの くるみの木がをさんさんと光らしてそのきりの中に立ち、黄金きんの円光をもった電気栗鼠でんきりす【電気のように光るリス】が可愛かわいい顔をその中から ちらちら のぞいているだけでした。
 そのとき、すうっときりがはれかかりました。どこかへ行く街道かいどうらしく小さな電灯でんとう一列いちれつについた通りがありました。それはしばらく線路せんろ沿ってすすんでいました。そして二人ふたりがそのあかしの前を通って行くときは、その小さな豆いろの火はちょうど あいさつでもするように ぽかっとえ、二人ふたりが過ぎて行くときまたくのでした。
 ふりかえって見ると、さっきの十字架じゅうじかはすっかり小さくなってしまい、ほんとうにもう そのままむねにも つるされそう【な大きさ】になり、さっきの女の子青年たちがその前の白いなぎさにまだひざまずいているのか、それともどこか方角ほうがくもわからないその天上へ行ったのか、ぼんやりして見分けられませんでした。
 ジョバンニは、ああ、とふかいきしました。
カムパネルラ、またぼくたち二人ふたりきりになったねえ、どこまでも どこまでも いっしょに行こう。ぼくはもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなのさいわいのためならばぼくのからだなんか百ぺんいてもかまわない」
「うん。ぼくだってそうだ」カムパネルラにはきれいななみだがうかんでいました。
「けれども ほんとうのさいわいは いったいなんだろう」
 ジョバンニが言いました。
ぼくわからない」カムパネルラが ぼんやり言いました。
ぼくたちしっかりやろうねえ」
40/48
ジョバンニむねいっぱい新しい力がくように、ふうといきをしながら言いました。「あ、あすこ石炭袋せきたんぶくろだよ。そらのあなだよ」カムパネルラが少しそっちをけるようにしながら天の川のひととこ【一か所】をゆびさしました。
 ジョバンニはそっちを見て、まるで ぎくっとしてしまいました。天の川の一とこ【一か所】に大きなまっくらなあなが、どおんとあいているのです。そのそこがどれほどふかいか、そのおくに何があるか、いくらをこすって のぞいても なんにも見えず、ただがしんしんといたむのでした。ジョバンニが言いました。
ぼくもうあんな大きなやみの中だってこわくない。きっと みんなのほんとうのさいわいを さがしに行く。どこまでもどこまでもぼくたちいっしょにすすんで行こう」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんなあつまってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっ、あすこにいるのは ぼくのお母さんだよ」
 カムパネルラは にわかに まどの遠くに見えるきれいな野原をしてさけびました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれども、そこはぼんやり白くけむっているばかり、どうしてもカムパネルラが言ったように思われませんでした。
 なんとも言えずさびしい気がして、ぼんやりそっちを見ていましたら、こうの河岸かわぎしに二本の電信でんしんばしらが、ちょうど両方りょうほうからうでを組んだように赤い腕木うでぎをつらねて立っていました。
「カムパネルラ、ぼくたちいっしょに行こうねえ」ジョバンニがこう言いながらふりかえって見ましたら、そのいままでカムパネルラのすわっていたせきに、もうカムパネルラの形は見えず、ただ黒いびろうど【ビロード】ばかり ひかっていました。
 ジョバンニはまるで鉄砲丸てっぽうだまのように立ちあがりました。そしてだれにも聞こえないようにまどの外へからだをり出して、力いっぱいはげしくむねをうってさけび、それからもう咽喉のどいっぱいきだしました。
 もう そこらが一ぺんに まっくらになったように思いました。そのとき、「おまえはいったい何をいているの。ちょっと こっちをごらん」いままで たびたび聞こえた、あのやさしいセロ【チェロ】のような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。
41/48
 ジョバンニは、はっと思ってなみだをはらってそっちをふりきました、さっきまでカムパネルラのすわっていたせきに黒い大きな帽子ぼうしをかぶった青白い顔のやせた大人おとなが、やさしくわらって大きな一さつの本をもっていました。
「おまえの ともだちが どこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラを さがしても むだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえが あう どんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果りんごをたべたり汽車にったりしたのだ。だからやっぱりおまえは さっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福こうふくをさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかり おまえはほんとうにカムパネルラといつまでも いっしょに行けるのだ」
「ああ ぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれを もとめたらいいでしょう」
「ああ わたくしも それをもとめている。おまえはおまえの切符きっぷをしっかりもっておいで。そして一しんに勉強べんきょうしなけぁいけない。おまえは化学かがくをならったろう、水は酸素さんそ水素すいそからできているということを知っている。いまはたれだってそれをうたがやしない。実験じっけんしてみると ほんとうにそうなんだから。けれどもむかしはそれを水銀すいぎんしおでできていると言ったり、水銀すいぎん硫黄いおうでできていると言ったり いろいろ議論ぎろんしたのだ。みんながめいめいじぶんのかみさまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもおたがいほかのかみさまをしんずる人たちのしたことでもなみだがこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとか わるいとか 議論ぎろんするだろう。そして勝負しょうぶがつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強べんきょうして実験じっけんでちゃんと ほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験じっけん方法ほうほうさえきまれば、もう信仰しんこう化学かがくと同じようになる。
42/48
けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理ちり歴史れきし辞典じてんだよ。この本のこのページはね、紀元前きげんぜん二千二百年の地理ちり歴史れきしが書いてある。よくごらん、紀元前きげんぜん二千二百年のことでないよ、紀元前きげんぜん二千二百年のころにみんなが考えていた地理ちり歴史れきしというものが書いてある。
 だからこのページ一つが一さつ地歴ちれきの本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前きげんぜん二千二百年ころには たいてい本当ほんとうだ。」「さがすと証拠しょうこもぞくぞく出ている。けれども それが少しどうかなと こう考えだしてごらん、そら、それはつぎページだよ。
 紀元前きげんぜん一千年。だいぶ、地理ちり歴史れきしわってるだろう。このときにはこうなのだ。へんな顔をしてはいけない。ぼくたちは ぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史れきしだって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょに すこしこころもちを しずかにしてごらん。いいか」
 そのひとはゆびを一本あげてしずかに それをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者がくしゃや天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっと ともって またなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆるひろ世界せかいががらんとひらけ、あらゆる歴史れきしがそなわり、すっとえると、もうがらんとした、ただもう それっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかり もとのとおりになりました。
「さあいいか。だからおまえの実験じっけんは、このきれぎれの考えのはじめからわり すべてにわたるようで なければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろん そのときだけのでも いいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスのくさりかなければならない」
 そのときまっくらな地平線ちへいせんこうから青じろいのろしが、まるで ひるまのように うちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。
43/48
「ああマジェランの星雲せいうんだ。さあもうきっとぼくぼくのために、ぼくのお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福こうふくをさがすぞ」
 ジョバンニくちびるんで、そのマジェランの星雲せいうんをのぞんで立ちました。そのいちばん幸福こうふくなそのひとのために!
「さあ、切符きっぷをしっかりっておいで。お前はもうゆめ鉄道てつどうの中でなしにほんとうの世界せかいの火やはげしいなみの中を大股おおまたにまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうの その切符きっぷけっして おまえは なくしてはいけない」
 あのセロ【チェロ】のような声がしたと思うとジョバンニは、あの天の川がもうまるで遠く遠くなって 風がき 自分はまっすぐに草のおかに立っているのを見、また遠くからあのブルカニロ博士はかせの足おとの しずかに近づいて来るのをききました。
「ありがとう。私はたいへん いい実験じっけんをした。私はこんなしずかな場所ばしょで遠くから私の考えを人につたえる実験じっけんをしたいとさっき考えていた。お前の言った語はみんな私の手帳てちょうにとってある。さあ帰っておやすみ。お前はゆめの中で決心けっしんしたとおりまっすぐにすすんで行くがいい。そしてこれからなんでも いつでも私のとこへ相談そうだんにおいでなさい」
ぼくきっとまっすぐにすすみます。きっとほんとうの幸福こうふくもとめます」ジョバンニ力強ちからづよく言いました。
「ああではさよなら。これはさっきの切符きっぷです」
 博士はかせは小さくったみどりいろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもう そのかたちは天気輪てんきりんはしらこうに見えなくなっていました。
 ジョバンニはまっすぐに走っておかをおりました。
 そしてポケットがたいへんおもくカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中で とまって それをしらべてみましたら、あのみどりいろのさっきゆめの中で見たあやしい天の切符きっぷの中に大きな二まい金貨きんかつつんでありました。
博士はかせありがとう、おっかさん。すぐちちをもって行きますよ」
 ジョバンニさけんでまた走りはじめました。
44/48
何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニむねあつまってなんとも言えず かなしいような 新しいような気がするのでした。
 ことの星がずうっと西の方へうつって そしてまたゆめのように足をのばしていました。

 ジョバンニをひらきました。もとのおかの草の中に つかれて ねむっていたのでした。むねはなんだかおかしくほてり、ほおにはつめたいなみだがながれていました。
 ジョバンニは ばねのようにはねきました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんのあかりつづってはいましたが、その光はなんだかさっきよりはねっしたというふうでした。
 そしてたったいまゆめであるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかり、まっ黒な南の地平線ちへいせんの上では ことに けむったようになって、その右には蠍座さそりざの赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置いちはそんなにわってもいないようでした。
 ジョバンニはいっさんにおかを走って下りました。まだ夕ごはんをたべないでっているお母さんのことがむねいっぱいに思いだされたのです。どんどん黒いまつの林の中を通って、それからほの白い牧場ぼくじょうさくをまわって、さっきの入口からくら牛舎ぎゅうしゃの前へまた来ました。そこにはだれかがいま帰ったらしく、さっきなかった一つの車が何かのたるを二つっけていてありました。「今晩こんばんは」ジョバンニさけびました。
「はい」白い太いずぼんをはいた人が すぐ出て来て立ちました。
「なんのご用ですか」
「今日牛乳ぎゅうにゅうがぼくのところへ来なかったのですが」
「あ、みませんでした」その人はすぐおくへ行って一本の牛乳瓶ぎゅうにゅうびんをもって来てジョバンニわたしながら、また言いました。
「ほんとうにみませんでした。今日はひるすぎ、うっかりしてこうしのさくをあけておいたもんですから、大将たいしょうさっそく親牛おやうしのところへ行って半分はんぶんばかりのんでしまいましてね......」その人はわらいました。
「そうですか。ではいただいて行きます」
「ええ、どうもみませんでした」
「いいえ」
 ジョバンニはまだあつちちびん両方りょうほうのてのひらでつつむようにもって牧場ぼくじょうさくを出ました。
45/48
 そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出て またしばらく行きますと みちは十文字になって、その右手の方、通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりをながしに行った川へかかった大きなはしのやぐらが 夜のそらにぼんやり立っていました。
 ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七、八人ぐらいずつあつまってはしの方を見ながら何かひそひそはなしているのです。それからはしの上にも いろいろなあかりが いっぱいなのでした。
 ジョバンニは なぜかさあっとむねつめたくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ、「何かあったんですか」とさけぶようにききました。
「こどもが水へちたんですよ」一人ひとりが言いますと、その人たちは一斉いっせいジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで夢中むちゅうはしの方へ走りました。はしの上は人でいっぱいでかわが見えませんでした。白いふく巡査じゅんさも出ていました。
 ジョバンニはしたもとからぶように下の広い河原かわらへおりました。
 その河原かわらの水ぎわに沿って たくさんのあかりが せわしくのぼったり下ったりしていました。こうぎしくらいどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏瓜からすうりのあかりもない川が、わずかに音をたててはいいろにしずかにながれていたのでした。
 河原かわらのいちばん下流かりゅうの方へのようになって出たところに人のあつまりが くっきりまっ黒に立っていました。ジョバンニは どんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなり さっきカムパネルラといっしょだったマルソいました。マルソジョバンニに走りって言いました。
ジョバンニカムパネルラが川へはいったよ」
「どうして、いつ」
ザネリがね、ふねの上からからすうりのあかりを水のながれる方へしてやろうとしたんだ。そのときふねがゆれたもんだから水へっこったろう。するとカムパネルラがすぐびこんだんだ。そしてザネリふねの方へしてよこした。ザネリはカトウ【火灯:船の灯り】につかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ」
「みんなさがしてるんだろう」
「ああ、すぐみんな来た。
46/48
カムパネルラのお父さん【博士】も来た。けれども見つからないんだ。ザネリはうちへれられてった」
 ジョバンニはみんなのいる そっちの方へ行きました。そこに学生たちや町の人たちにかこまれて 青じろいとがったあごをしたカムパネルラのお父さんが 黒いふくてまっすぐに立って左手に時計とけいって じっと見つめていたのです。
 みんなもじっとかわを見ていました。だれ一言ひとことものを言う人もありませんでした。ジョバンニは わくわくわくわく 足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして、黒い川の水はちらちら小さななみをたててながれているのが見えるのでした。
 下流かりゅうの方の川はばいっぱい銀河ぎんがおおきくうつって、まるで水のないそのままのそらのように見えました。
 ジョバンニは、そのカムパネルラはもうあの銀河ぎんがの はずれにしかいない というような気がしてしかたなかったのです。
 けれどもみんなはまだ、どこかのなみの間から、
「ぼくずいぶんおよいだぞ」と言いながらカムパネルラが出て来るか、あるいはカムパネルラがどこかの人の知らないにでもいて立っていてだれかの来るのをっているかというような気がして しかたないらしいのでした。けれどもにわかにカムパネルラのお父さんがきっぱり言いました。「もう駄目だめです。ちてから四十五分たちましたから」
 ジョバンニは思わずかけよって博士はかせの前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っています、ぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのです、と言おうとしましたが、もうのどがつまってなんとも言えませんでした。すると博士はかせジョバンニがあいさつに来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが、
「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩こんばんはありがとう」とていねいに言いました。
 ジョバンニは何も言えずにただおじぎをしました。
「あなたのお父さんは もう帰っていますか」博士はかせかた時計とけいにぎったまま、またききました。
「いいえ」ジョバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ、ぼくには一昨日おとといたいへん元気な便たよりがあったんだが。
47/48
今日きょうあたりもうくころなんだが。ふねおくれたんだな。ジョバンニさん。あした放課後ほうかごみなさんとうちへあそびに来てくださいね」
 そう言いながら博士はかせはまた、川下の銀河ぎんがの いっぱいに うつった方へ じっとおくりました。
 ジョバンニはもういろいろなことでむねがいっぱいで、なんにも言えずに博士はかせの前をはなれて、早くお母さんに牛乳ぎゅうにゅうって行って、お父さんの帰ることを知らせようと思うと、もういちもくさんに河原かわらまちの方へ走りました。




底本:「銀河鉄道の夜」角川文庫、角川書店
  1969(昭和44)年7月20日改版初版発行
  1987(昭和62)年3月30日改版50版
入力:幸野素子
校正:土屋隆
2005年8月18日作成
2010年11月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。

©シン文庫
48/48