一
吾輩 は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか とんと
見当けんとう がつかぬ。何でも薄暗い じめじめした所で ニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
吾輩 はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは
書生 という 人間中で一番
獰悪どうあく な種族であったそうだ。この
書生 というのは 時々我々を
捕つかま えて
煮に て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから 別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の
掌てのひら に載せられてスーと持ち上げられた時 何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて
書生 の顔を見たのが いわゆる人間というものの
見始みはじめ であろう。この時 妙なものだと思った感じが 今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔が つるつるして まるで
薬缶やかん だ。その
後ご 猫にもだいぶ
逢あ ったが こんな
片輪かたわ には 一度も
出会でく わした事がない。のみならず顔の真中が あまりに突起している。そうしてその穴の中から 時々ぷうぷうと
煙けむり を吹く。どうも
咽む せぽくて実に弱った。これが人間の飲む
煙草たばこ というものである事は ようやくこの頃知った。
この
書生 の掌の
裏うち で しばらくは よい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。
書生 が動くのか 自分だけが動くのか分らないが
無暗むやみ に眼が廻る。胸が悪くなる。
到底とうてい 助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているが あとは何の事やらいくら 考え出そうとしても分らない。
ふと気が付いて見ると
書生 はいない。たくさんおった兄弟が 一
疋ぴき も見えぬ。
肝心かんじん の母親さえ 姿を隠してしまった。その上
今いま までの所とは違って
無暗むやみ に明るい。眼を
明あ いていられぬくらいだ。はてな何でも様子がおかしいと、のそのそ
這は い出して見ると 非常に痛い。
吾輩 は
藁わら の上から 急に笹原の中へ棄てられたのである。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(1 / 115)
ようやくの思いで笹原を這い出すと 向うに大きな池がある。
吾輩 は池の前に坐って どうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという
分別ふんべつ も出ない。しばらくして 泣いたら
書生 がまた迎に来てくれるかと考え付いた。ニャー、ニャーと試みにやって見たが 誰も来ない。そのうち池の上をさらさらと風が渡って 日が暮れかかる。腹が非常に減って来た。泣きたくても声が出ない。仕方がない、何でもよいから
食物くいもの のある所まで あるこうと決心をして そろりそろりと池を左りに廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに
這は って行くと ようやくの事で何となく人間臭い所へ出た。ここへ入ったら、どうにかなると思って 竹垣の
崩くず れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、
吾輩 はついに
路傍ろぼう に
餓死がし したかも知れんのである。
一樹いちじゅ の蔭【出会いや偶然の出来事も、実は前世からの因縁でつながっている】とは よく言ったものだ。この垣根の穴は
今日こんにち に至るまで
吾輩 が
隣家となり の
三毛 を訪問する時の通路になっている。さて
邸やしき へは 忍び込んだものの これから先どうして
善い いか分らない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来るという始末で もう一刻の
猶予ゆうよ が出来なくなった。仕方がないから とにかく明るくて暖かそうな方へ方へと あるいて行く。今から考えると その時はすでに家の内に入っておったのだ。ここで
吾輩 は
彼か の
書生 以外の人間を再び見るべき機会に
遭遇そうぐう したのである。第一に逢ったのが
おさん である。これは前の
書生 より一層乱暴な方で
吾輩 を見るや否や いきなり
頸筋くびすじ をつかんで表へ
抛ほう り出した。いやこれは駄目だと思ったから 眼をねぶって運を天に任せていた。しかし ひもじいのと寒いのには どうしても我慢が出来ん。
吾輩 は再び
おさん の
隙すき を見て 台所へ
這は い上った。すると間もなく また投げ出された。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(2 / 115)
吾輩 は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。その時に
おさん と言う者は つくづくいやになった。この間
おさん の
三馬さんま 【サンマ】を
偸ぬす んで この返報をしてやってから、やっと胸の
痞つかえ が下りた。
吾輩 が最後につまみ出されようとしたときに、この
家うち の
主人 が 騒々しい何だといいながら出て来た。下女は
吾輩 をぶら下げて
主人 の方へ向けて この
宿やど なしの小猫がいくら出しても出しても
御台所おだいどころ へ上って来て困りますという。
主人 は鼻の下の黒い毛を
撚ひね りながら
吾輩 の顔をしばらく
眺なが めておったが、やがて そんなら内へ置いてやれ といったまま奥へ入ってしまった。
主人 はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女は
口惜くや しそうに
吾輩 を台所へ
抛ほう り出した。かくして
吾輩 は ついにこの
家うち を自分の
住家すみか と
極き める事にしたのである。
吾輩 の
主人 は
滅多めった に
吾輩 と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に入ったぎり ほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際は うちのものがいうような勤勉家ではない。
吾輩 は時々忍び足に彼の書斎を
覗のぞ いて見るが、彼はよく
昼寝ひるね をしている事がある。時々読みかけてある本の上に
涎よだれ をたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が
淡黄色たんこうしょく を帯びて 弾力のない
不活発ふかっぱつ な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後で タカジヤスターゼ【胃薬】を飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。
吾輩 は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(3 / 115)
こんなに寝ていて勤まるものなら 猫にでも出来ぬ事はないと。それでも
主人 に言わせると 教師ほどつらいものはないそうで 彼は友達が来る
度たび に 何とか かんとか不平を鳴らしている。
吾輩 がこの家へ住み込んだ当時は、
主人 以外のものには はなはだ不人望であった。どこへ行っても
跳は ね付けられて 相手にしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、
今日こんにち に至るまで 名前さえつけてくれないのでも分る。
吾輩 は仕方がないから、出来得る限り
吾輩 を入れてくれた
主人 の
傍そば にいる事をつとめた。朝
主人 が新聞を読むときは必ず彼の
膝ひざ の上に乗る。彼が昼寝をするときは 必ずその背中に乗る。これはあながち
主人 が好きという訳ではないが 別に構い手がなかったから やむを得んのである。その後いろいろ経験の上、朝は
飯櫃めしびつ の上、夜は
炬燵こたつ の上、天気のよい昼は縁側へ寝る事とした。しかし一番心持の好いのは 夜に
入い って ここのうちの
小供 の寝床へもぐり込んで いっしょにねる事である。この
小供 というのは 五つと三つで 夜になると二人が一つ床へ入って
一間ひとま へ寝る。
吾輩 はいつでも 彼等の中間に
己おの れを
容い るべき余地を
見出みいだ して どうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く
小供 の一人が眼を
醒さ ますが最後 大変な事になる。
小供 は――ことに小さい方が
質たち がわるい――猫が来た猫が来たといって 夜中でも何でも 大きな声で泣き出すのである。すると例の神経胃弱性の
主人 は
必かなら ず眼をさまして 次の部屋から飛び出してくる。現にせんだってなどは
物指ものさし で尻ぺたをひどく
叩たた かれた。
吾輩 は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は
我儘わがまま なものだと 断言せざるを得ないようになった。ことに
吾輩 が時々
同衾どうきん する【一緒に寝る】
小供 のごときに至っては
言語同断ごんごどうだん である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、
抛ほう り出したり、
へっつい 【かまど】の中へ押し込んだりする。しかも
吾輩 の方で少しでも手出しをしようものなら
家内かない 総がかりで追い廻して迫害を加える。この間もちょっと畳で爪を
磨と いだら
細君 が非常に
怒おこ って それから容易に座敷へ
入い れない。台所の板の間で
他ひと が
顫ふる えていても
一向いっこう 平気なものである。
吾輩 の尊敬する
筋向すじむこう の
白君 などは
逢あ う
度毎たびごと に 人間ほど不人情なものはないと言っておらるる。
白君 は先日 玉のような子猫を四疋
産う まれたのである。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(4 / 115)
ところがそこの
家うち の
書生 が 三日目にそいつを裏の池へ持って行って 四疋ながら棄てて来たそうだ。
白君 は涙を流してその一部始終を話した上、どうしても我等
猫族ねこぞく が親子の愛を
完まった くして美しい家族的生活をするには 人間と戦ってこれを
掃滅そうめつ せねばならぬといわれた。一々もっともの議論と思う。また隣りの
三毛 みけ 君などは 人間が所有権という事を解していないといって
大おおい に憤慨している。元来我々同族間では
目刺めざし の頭でも
鰡ぼら の
臍へそ でも 一番先に見付けたものがこれを食う権利があるものとなっている。もし相手がこの規約を守らなければ 腕力に訴えて
善よ いくらいのものだ。しかるに彼等人間は
毫ごう 【微塵】も この観念がないと見えて 我等が見付けた御馳走は必ず彼等のために
略奪りゃくだつ せらるるのである。彼等はその強力を頼んで 正当に
吾人ごじん 【われわれ】が食い得べきものを
奪うば って すましている。
白君 は軍人の家におり
三毛 君は代言【弁護士】の主人を持っている。
吾輩 は教師の家に住んでいるだけ、こんな事に関すると両君よりも むしろ楽天である。ただ その日その日が どうにかこうにか送られればよい。いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。
我儘わがまま で思い出したから ちょっと
吾輩 の家の
主人 が この我儘で失敗した話をしよう。元来この
主人 は何といって 人に
勝すぐ れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやって
ほととぎす 【俳句雑誌】へ投書をしたり、新体詩を
明星 【文芸雑誌】へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に
凝こ ったり、
謡うたい を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。その癖 やり出すと胃弱の癖に いやに熱心だ。
後架こうか 【便所】の中で謡をうたって、近所で
後架先生こうかせんせい と
渾名あだな をつけられているにも関せず
一向いっこう 平気なもので、やはりこれは
平たいら の
宗盛むねもり にて
候そうろう 【中身のない権威ぶりや、見かけ倒しの知識人ぶり】を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらいである。この
主人 がどういう考になったものか
吾輩 の住み込んでから一月ばかり
後のち のある月の月給日に、大きな包みを
提さ げて あわただしく帰って来た。何を買って来たのかと思うと 水彩絵具と毛筆とワットマンという紙【高級な画用紙】で 今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心と見えた。果して翌日から当分の間というものは 毎日毎日書斎で昼寝もしないで絵ばかりかいている。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(5 / 115)
しかしそのかき上げたものを見ると 何をかいたものやら 誰にも鑑定がつかない。当人もあまり
甘うま くないと思ったものか、ある日その友人で
美学とかをやっている人 が来た時に
下しも のような話をしているのを聞いた。
「
どうも甘うま くかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが 自みずか ら筆をとって見ると 今更いまさら のようにむずかしく感ずる 」これは
主人 の
述懐じゅっかい である。なるほど
詐いつわ りのない処だ。
彼の友 は金縁の
眼鏡越めがねごし に
主人 の顔を見ながら、「
そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画え がかける訳のものではない。昔むか し 以太利イタリー の大家アンドレア・デル・サルト【画家】が言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰せいしん あり。地に露華ろか あり。飛ぶに禽とり あり。走るに獣けもの あり。池に金魚あり。枯木こぼく に寒鴉かんあ 【かんがらす】あり。自然はこれ一幅の大活画だいかつが なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うなら ちと写生をしたら 」
「
へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほど こりゃもっともだ。実にその通りだ 」と
主人 は
無暗むやみ に感心している。
金縁の裏 には
嘲あざ けるような
笑わらい が見えた。
その翌日
吾輩 は例のごとく縁側に出て 心持善く
昼寝ひるね をしていたら、
主人 が例になく書斎から出て来て
吾輩 の
後うし ろで何かしきりにやっている。ふと眼が
覚さ めて 何をしているかと
一分いちぶ ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを
極き め込んでいる。
吾輩 はこの有様を見て 覚えず失笑するのを禁じ得なかった。彼は彼の友に
揶揄やゆ せられたる結果として まず手初めに
吾輩 を写生しつつあるのである。
吾輩 はすでに
十分じゅうぶん 寝た。
欠伸あくび がしたくて たまらない。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(6 / 115)
しかし せっかく
主人 が熱心に筆を
執と っているのを 動いては気の毒だと思って、じっと
辛棒しんぼう しておった。彼は今
吾輩 の輪郭をかき上げて 顔のあたりを
色彩いろど っている。
吾輩 は自白する。
吾輩 は猫として決して上乗の出来ではない。背といい 毛並といい 顔の造作といい あえて他の猫に
勝まさ るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の
吾輩 でも、今
吾輩 の
主人 に
描えが き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一 色が違う。
吾輩 は
波斯産ペルシャさん の猫のごとく 黄を含める淡灰色に
漆うるし のごとき
斑入ふい りの皮膚を有している【うっすら黄みがかった薄い灰色の毛に、黒くつやのある漆のようなまだら模様が入っている】。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今
主人 の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ
褐色とびいろ でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに 評し方のない色である。その上 不思議な事は眼がない。もっとも これは寝ているところを写生したのだから無理もないが 眼らしい所さえ見えないから
盲猫めくら だか寝ている猫だか判然しないのである。
吾輩 は心中ひそかに いくらアンドレア・デル・サルトでも これではしようがないと思った。しかしその熱心には感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催うしている。
身内みうち の筋肉はむずむずする。
最早もはや 一分も
猶予ゆうよ が出来ぬ
仕儀しぎ となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出して あーあと
大だい なる欠伸をした。さてこうなって見ると、もう おとなしくしていても仕方がない。どうせ
主人 の予定は
打ぶ ち
壊こ わしたのだから、ついでに裏へ行って用を
足た そうと思ってのそのそ這い出した。すると
主人 は失望と怒りを
掻か き交ぜたような声をして、座敷の中から「
この馬鹿野郎 」と
怒鳴どな った。この
主人 は人を
罵ののし るときは 必ず馬鹿野郎というのが癖である。ほかに悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、
無暗むやみ に馬鹿野郎
呼よば わりは失敬だと思う。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(7 / 115)
それも平生
吾輩 が彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするなら この
漫罵まんば 【みだりにののしること】も甘んじて受けるが、こっちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立ったのを馬鹿野郎とは
酷ひど い。元来人間というものは自己の力量に慢じて みんな増長している。少し人間より強いものが出て来て
窘いじ めてやらなくては この先どこまで増長するか分らない。
我儘わがまま も このくらいなら我慢するが
吾輩 は人間の不徳について これよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
吾輩 の家の裏に十坪ばかりの
茶園ちゃえん がある。広くはないが
瀟洒さっぱり とした 心持ち好く日の
当あた る所だ。うちの
小供 があまり騒いで楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、
吾輩 はいつでもここへ出て
浩然こうぜん の気【おおらかな精神】を養うのが例である。ある小春の穏かな日の二時頃であったが、
吾輩 は
昼飯後ちゅうはんご 快よく一睡した
後のち 、運動かたがたこの茶園へと
歩ほ を運ばした。茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒して その上に大きな猫が前後不覚に寝ている。彼は
吾輩 の近づくのも
一向いっこう 心付かざる【気付かない】ごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな
鼾いびき をして長々と体を
横よこた えて眠っている。
他ひと の庭内に忍び入りたるものが かくまで平気に
睡ねむ られるものかと、
吾輩 は
窃ひそ かに その大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒猫である。わずかに
午ご を過ぎたる太陽は、透明なる光線を 彼の皮膚の上に
抛な げかけて、きらきらする
柔毛にこげ の間より 眼に見えぬ炎でも
燃も え
出い ずるように思われた。彼は猫中の大王とも言うべきほどの 偉大なる体格を有している。
吾輩 の倍はたしかにある。
吾輩 は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に
佇立ちょりつ して 余念もなく
眺なが めていると、静かなる小春の風が、杉垣の上から出たる
梧桐ごとう の枝を
軽かろ く誘って ばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王は かっとその
真丸まんまる の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する
琥珀こはく というものよりも
遥はる かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(8 / 115)
双眸そうぼう 【両眼】の奥から射るごとき光を
吾輩 の
矮小わいしょう なる
額ひたい の上にあつめて、
御めえ は一体何だと言った。大王にしては少々言葉が
卑いや しいと思ったが 何しろその声の底に犬をも
挫ひ しぐべき力が
籠こも っているので
吾輩 は少なからず恐れを
抱いだ いた。しかし
挨拶あいさつ をしないと
険呑けんのん 【危険】だと思ったから「
吾輩 は猫である。名前はまだない」となるべく平気を
装よそお って冷然と答えた。しかしこの時
吾輩 の心臓は たしかに平時よりも
烈はげ しく鼓動しておった。彼は
大おおい に
軽蔑けいべつ せる調子で「
何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。全ぜん てえ どこに住んでるんだ 」随分
傍若無人ぼうじゃくぶじん である。「
吾輩 はここの教師の家うち にいるのだ」「
どうせそんな事だろうと思った。いやに瘠や せてるじゃねえか 」と大王だけに
気炎きえん を吹きかける。言葉付から察すると どうも良家の猫とも思われない。しかしその
膏切あぶらぎ って肥満しているところを見ると 御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。
吾輩 は「
そう言う君は一体誰だい 」と聞かざるを得なかった。「
己お れあ 車屋の黒くろ よ」
昂然こうぜん 【意気が盛ん】たるものだ。車屋の
黒 はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりで ちっとも教育がないから あまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の
的まと になっている奴だ。
吾輩 は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々
軽侮けいぶ の念も生じたのである。
吾輩 はまず彼がどのくらい無学であるかを
試ため してみようと思って
左さ の問答をして見た。
「
一体車屋と教師とは どっちがえらいだろう 」
「
車屋の方が強いに極きま っていらあな。御めえ のうち の主人 を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ 」
「
君も車屋の猫だけに大分だいぶ 強そうだ。車屋にいると御馳走ごちそう が食えると見えるね 」
「
何なあ におれ なんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。御めえ なんかも茶畠ちゃばたけ ばかり ぐるぐる廻っていねえで、ちっと己おれ の後へ くっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
「
追ってそう願う事にしよう。しかし家うち は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる 」
「
箆棒べらぼう め、うちなんかいくら大きくたって腹の足た しに なるもんか」
彼は
大おおい に
肝癪かんしゃく に
障さわ った様子で、
寒竹かんちく をそいだような耳を しきりとぴく付かせて あららかに【荒々しく】立ち去った。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(9 / 115)
吾輩 が車屋の
黒 と
知己ちき になったのは これからである。
その
後ご 吾輩 は
度々たびたび 黒 と
邂逅かいこう 【出会う】する。邂逅する
毎ごと に彼は車屋相当の
気炎きえん 【さかんな意気】を吐く。先に
吾輩 が耳にしたという不徳事件も実は
黒 から聞いたのである。
或る日 例のごとく
吾輩 と
黒 は暖かい
茶畠ちゃばたけ の中で
寝転ねころ びながら いろいろ雑談をしていると、彼はいつもの
自慢話じまんばな しを さも新しそうに繰り返したあとで、
吾輩 に向って
下しも のごとく質問した。「
御めえ は今までに鼠を何匹とった事がある」知識は
黒 よりも余程発達しているつもりだが 腕力と勇気とに至っては
到底とうてい 黒 の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに
極きま りが
善よ くはなかった。けれども事実は事実で
詐いつわ る訳には行かないから、
吾輩 は「
実は とろうとろう と思ってまだ捕と らない 」と答えた。
黒 は彼の鼻の先から ぴんと
突張つっぱ っている長い
髭ひげ をびりびりと
震ふる わせて 非常に笑った。元来
黒 は自慢をする
丈だけ に どこか足りないところがあって、彼の
気炎きえん を感心したように
咽喉のど をころころ鳴らして謹聴【謹んで聞く】していれば はなはだ
御ぎょ しやすい猫である。
吾輩 は彼と近付になってから
直すぐ に この呼吸を飲み込んだからこの場合にも なまじい
己おの れを弁護してますます形勢をわるくするのも
愚ぐ である、いっその事 彼に自分の手柄話をしゃべらして 御茶を濁すに
若し くはないと思案を
定さだ めた。そこでおとなしく「
君などは年が年であるから大分だいぶん とったろう 」と そそのかして見た。果然彼は
墻壁しょうへき 【隔てるもの】の
欠所けっしょ に
吶喊とっかん 【つきつらぬく】して来た。「
たんとでもねえが三四十はとったろう 」とは得意気なる彼の答であった。彼はなお語をつづけて「
鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがいたち ってえ奴は手に合わねえ。一度いたち に向って酷ひど い目に逢あ った 」「
へえなるほど 」と
相槌あいづち を打つ。
黒 は大きな眼をぱちつかせて言う。「
去年の大掃除の時だ。うちの亭主が石灰いしばい の袋を持って縁の下へ這は い込んだら御めえ 大きないたち の野郎が面喰めんくら って飛び出したと思いねえ 」「
ふん 」と感心して見せる。「
いたち ってけども何 鼠の少し大きいぐれえのものだ。こん畜生ちきしょう って気で追っかけて とうとう泥溝どぶ の中へ追い込んだと思いねえ」「
うまくやったね 」と
喝采かっさい してやる。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(10 / 115)
「
ところが御めえ いざってえ段になると奴め最後さいご っ屁ぺ をこきゃがった。臭くせ えの臭くねえのって それからってえものは いたち を見ると胸が悪くならあ 」彼はここに至ってあたかも去年の臭気を
今いま なお感ずるごとく 前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻わした。
吾輩 も少々気の毒な感じがする。ちっと景気を付けてやろうと思って「
しかし鼠なら君に睨にら まれては百年目だろう。君はあまり鼠を捕と るのが名人で鼠ばかり食うものだから そんなに肥って色つやが善いのだろう 」
黒 の御機嫌をとるためのこの質問は 不思議にも反対の結果を
呈出ていしゅつ した。彼は
喟然きぜん として
大息たいそく していう。「
考かん げえると つまらねえ。いくら稼いで鼠をとったって――一てえ人間ほど ふてえ奴は世の中にいねえぜ。人のとった鼠をみんな取り上げやがって 交番へ持って行きゃあがる。交番じゃ誰が捕と ったか分らねえから そのたんび に五銭ずつくれるじゃねえか。うちの亭主なんか己おれ の御蔭でもう壱円五十銭【約1万円/2025年】くらい儲もう けていやがる癖に、碌ろく なものを食わせた事もありゃしねえ。おい人間てものあ 体てい の善い い泥棒だぜ」さすが無学の
黒 もこのくらいの
理屈りくつ は わかると見えて すこぶる
怒おこ った様子で背中の毛を
逆立さかだ てている。
吾輩 は少々気味が悪くなったから善い加減にその場を
胡魔化ごまか して
家うち へ帰った。この時から
吾輩 は決して鼠をとるまいと決心した。しかし
黒 の子分になって鼠以外の御馳走を
猟あさ ってあるく事もしなかった。御馳走を食うよりも寝ていた方が気楽でいい。教師の
家うち にいると 猫も教師のような性質になると見える。要心しないと今に胃弱になるかも知れない。
教師といえば
吾輩 の
主人 も近頃に至っては
到底とうてい 水彩画において
望のぞみ のない事を悟ったものと見えて 十二月一日の日記にこんな事をかきつけた。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(11 / 115)
○○と言う人に今日の会で始めて出逢であ った。あの人は大分だいぶ 放蕩ほうとう 【遊びに興じた】をした人だと言うがなるほど通人つうじん らしい風采ふうさい をしている。こう言う質たち の人は 女に好かれるものだから○○が放蕩をしたと言うよりも放蕩をするべく 余儀なくせられたと言うのが適当であろう。あの人の妻君は芸者だそうだ、羨うらや ましい事である。元来放蕩家を悪くいう人の大部分は 放蕩をする資格のないものが多い。また放蕩家をもって自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多い。これらは余儀なくされないのに無理に進んでやるのである。あたかも吾輩 の水彩画に於けるがごときもので 到底卒業する気づかいはない。しかるにも関せず、自分だけは通人だと思って済すま している。料理屋の酒を飲んだり待合へ入るから通人となり得るという論が立つなら、吾輩 も一廉ひとかど の水彩画家になり得る理屈りくつ だ。吾輩 の水彩画のごときは かかない方がましであると同じように、愚昧ぐまい 【愚おろ か】なる通人よりも山出し【田舎者】の大野暮おおやぼ の方が遥はる かに上等だ。
通人論つうじんろん はちょっと
首肯しゅこう しかねる。また芸者の妻君を羨しいなどというところは 教師としては口にすべからざる愚劣の考であるが、自己の水彩画における批評眼だけは たしかなものだ。
主人 はかくのごとく
自知じち の
明めい 【自分をよく知る才能】あるにも関せず その
自惚心うぬぼれしん は なかなか抜けない。
中二日なかふつか 置いて十二月四日の日記にこんな事を書いている。
昨夜ゆうべ は僕が水彩画をかいて到底 物にならんと思って、そこらに抛ほう って置いたのを 誰かが立派な額にして欄間らんま に懸か けてくれた夢を見た。さて額になったところを見ると我ながら急に上手になった。非常に嬉しい。これなら立派なものだと独ひと りで眺め暮らしていると、夜が明けて眼が覚さ めて やはり元の通り下手である事が朝日と共に明瞭になってしまった。
主人 は夢の
裡うち まで水彩画の未練を
背負しょ ってあるいていると見える。これでは水彩画家は無論
夫子ふうし 【教養人】 の
所謂いわゆる 通人にもなれない
質たち だ。
主人 が水彩画を夢に見た翌日 例の金縁
眼鏡めがね の
美学者 が 久し振りで
主人 を訪問した。彼は座につくと
劈頭へきとう 【事のはじめ】第一に「
画え はどうかね」と口を切った。
主人 は平気な顔をして「
君の忠告に従って写生を力つと めているが、なるほど写生をすると今まで気のつかなかった物の形や、色の精細な変化などがよく分るようだ。西洋では昔むか しから写生を主張した結果今日こんにち のように発達したものと思われる。さすがアンドレア・デル・サルトだ 」と日記の事は
おくび にも出さないで、またアンドレア・デル・サルトに感心する。
美学者 は笑いながら「
実は君、あれは出鱈目でたらめ だよ 」と頭を
掻か く。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(12 / 115)
「
何が 」と
主人 はまだ
偽いつ わられた事に気がつかない。「
何がって君のしきりに感服しているアンドレア・デル・サルトさ。あれは僕のちょっと捏造ねつぞう した話だ。君がそんなに真面目まじめ に信じようとは思わなかったハハハハ 」と大喜悦の
体てい である。
吾輩 は縁側でこの対話を聞いて 彼の今日の日記には いかなる事が
記しる さるるであろうかと
予あらかじ め想像せざるを得なかった。この
美学者 はこんな
好いい 加減な事を吹き散らして 人を
担かつ ぐのを唯一の
楽たのしみ にしている男である。彼はアンドレア・デル・サルト事件が
主人 の
情線じょうせん 【心情】にいかなる響を伝えたかを
毫ごう 【わずか】も顧慮【考慮】せざるもののごとく 得意になって
下しも のような事を
饒舌しゃべ った。「
いや時々冗談じょうだん を言うと 人が真ま に受けるので大おおい に滑稽的こっけいてき 美感を挑発ちょうはつ するのは面白い。せんだってある学生に ニコラス・ニックルベー【イギリスの有名小説の主人公】がギボン【イギリスの歴史家】に忠告して 彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして 英文で出版させたと言ったら、その学生がまた馬鹿に記憶の善い男で、日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは 滑稽であった。ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが、皆熱心にそれを傾聴しておった。それからまだ面白い話がある。せんだって或る文学者のいる席で ハリソン【イギリスの作家】の歴史小説セオファーノ【皇后】の話はな しが出たから 僕はあれは歴史小説の中うち で白眉はくび 【特に優れた】である。ことに女主人公が死ぬところは鬼気きき 人を襲うようだと評したら、僕の向うに坐っている知らんと言った事のない先生が、そうそうあすこは実に名文だといった。それで僕はこの男もやはり僕同様この小説を読んでおらないという事を知った 」神経胃弱性の
主人 は眼を丸くして問いかけた。「
そんな出鱈目でたらめ をいって もし相手が読んでいたら どうするつもりだ 」あたかも人を
欺あざむ くのは
差支さしつかえ ない、ただ
化ばけ の
皮かわ があらわれた時は困るじゃないかと感じたもののごとくである。
美学者 は少しも動じない。「
なにその時とき ゃ 別の本と間違えたとか何とか言うばかりさ 」と言ってけらけら笑っている。この
美学者 は金縁の眼鏡は掛けているが その性質が車屋の
黒 に似たところがある。
主人 は黙って日の出【日の出天狗というタバコ】を輪に吹いて
吾輩 にはそんな勇気はないと言わんばかりの顔をしている。
美学者 はそれだから
画え をかいても駄目だという目付で「
しかし冗談じょうだん は冗談だが画というものは実際むずかしいものだよ、レオナルド・ダ・ヴィンチは門下生に寺院の壁のしみ を写せと教えた事があるそうだ。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(13 / 115)
なるほど雪隠せついん 【トイレ】などに入って 雨の漏る壁を余念なく眺めていると、なかなかうまい模様画が自然に出来ているぜ。君注意して写生して見給え きっと面白いものが出来るから」 「
また欺だま すのだろう 」「
いえこれだけはたしかだよ。実際奇警【奇抜】な語じゃないか、ダ・ヴィンチでもいいそうな事だあね 」「
なるほど奇警には相違ないな 」と
主人 は半分降参をした。しかし彼はまだ
雪隠せついん で写生はせぬようだ。
車屋の
黒 はその
後ご 跛びっこ になった。彼の光沢ある毛は
漸々だんだん 色が
褪さ めて抜けて来る。
吾輩 が
琥珀こはく よりも美しいと評した彼の眼には
眼脂めやに が一杯たまっている。ことに著るしく
吾輩 の注意を
惹ひ いたのは 彼の元気の消沈とその体格の悪くなった事である。
吾輩 が例の
茶園ちゃえん で彼に逢った最後の日、どうだと言って尋ねたら「
いたち の最後屁さいごっぺ と肴屋さかなや の天秤棒てんびんぼう には懲々こりごり だ」といった。
赤松の間に 二三段の
紅こう を綴った
紅葉こうよう は
昔むか しの夢のごとく散って
つくばい に近く【ちょうずばちの近くへ落ちた】 代る代る
花弁はなびら をこぼした
紅白こうはく の
山茶花さざんか も 残りなく落ち尽した。三間半【約6.3m】の南向の縁側に 冬の日脚が早く傾いて
木枯こがらし の吹かない日は ほとんど
稀まれ になってから
吾輩 の昼寝の時間も
狭せば められたような気がする。
主人 は毎日学校へ行く。帰ると書斎へ立て
籠こも る。人が来ると、教師が
厭いや だ厭だという。水彩画も滅多にかかない。タカジヤスターゼも功能がないといってやめてしまった。
小供 は感心に休まないで幼稚園へかよう。帰ると唱歌を歌って、
毬まり をついて、時々
吾輩 を
尻尾しっぽ でぶら下げる。
吾輩 は
御馳走ごちそう も食わないから別段
肥ふと りもしないが、まずまず健康で
跛びっこ にもならずに その日その日を暮している。鼠は決して取らない。
おさん は
未いま だに
嫌きら いである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから
生涯しょうがい この教師の
家うち で無名の猫で終るつもりだ。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(14 / 115)
二
吾輩 は新年来 多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。
元朝早々
主人 の
許もと へ一枚の
絵端書えはがき が来た。これは彼の交友某画家からの年始状であるが、上部を赤、下部を
深緑ふかみど りで塗って、その真中に一の動物が
蹲踞うずくま っているところをパステルで書いてある。
主人 は例の書斎でこの絵を、横から見たり、
竪たて から眺めたりして、うまい色だなという。すでに一応感服したものだから、もうやめにするかと思うとやはり横から見たり、竪から見たりしている。からだを
拗ね じ向けたり、手を延ばして年寄が
三世相さんぜそう を見るよう【過去・現在・未来の相を見通すよう】にしたり、または窓の方へむいて鼻の先まで持って来たりして見ている。早くやめてくれないと
膝ひざ が揺れて
険呑けんのん でたまらない。ようやくの事で動揺があまり
劇はげ しくなくなったと思ったら、小さな声で 一体何をかいたのだろう と言う。
主人 は絵端書の色には感服したが、かいてある動物の正体が分らぬので、さっきから苦心をしたものと見える。そんな分らぬ絵端書かと思いながら、寝ていた眼を上品に
半なか ば開いて、落ちつき払って見ると
紛まぎ れもない、自分の肖像だ。
主人 のようにアンドレア・デル・サルトを
極き め込んだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もちゃんと整って出来ている。誰が見たって猫に相違ない。少し眼識のあるものなら、猫の
中うち でも
他ほか の猫じゃない
吾輩 である事が判然とわかるように立派に
描か いてある。このくらい明瞭な事を分らずに かくまで苦心するかと思うと、少し人間が気の毒になる。出来る事ならその絵が
吾輩 であると言う事を知らしてやりたい。
吾輩 であると言う事はよし分らないにしても、せめて猫であるという事だけは分らしてやりたい。しかし人間というものは
到底とうてい 吾輩 猫属ねこぞく の言語を解し得るくらいに天の
恵めぐみ に浴しておらん動物であるから、残念ながらそのままにしておいた。
ちょっと読者に断っておきたいが、元来人間が何ぞというと猫々と、事もなげに軽侮の口調をもって
吾輩 を評価する癖があるは はなはだよくない。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(15 / 115)
人間の
糟かす から牛と馬が出来て、牛と馬の糞から猫が製造されたごとく考えるのは、自分の無知に心付かんで高慢な顔をする教師などにはありがちの事でもあろうが、はたから見てあまり見っともいい者じゃない。いくら猫だって、そう粗末簡便には出来ぬ。よそ目には一列一体、平等無差別、どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会に入って見るとなかなか複雑なもので十人
十色といろ という人間界の
語ことば はそのままここにも応用が出来るのである。目付でも、鼻付でも、毛並でも、足並でも、みんな違う。
髯ひげ の張り具合から耳の立ち
按排あんばい 、
尻尾しっぽ の垂れ加減に至るまで同じものは一つもない。器量、不器量、好き嫌い、
粋無粋すいぶすい の
数かず を
悉つ くして千差万別と言っても差支えないくらいである。そのように判然たる区別が存しているにもかかわらず、人間の眼はただ向上とか何とかいって、空ばかり見ているものだから、
吾輩 の性質は無論
相貌そうぼう の末を識別する事すら到底出来ぬのは気の毒だ。同類相求むとは
昔むか しからある
語ことば だそうだがその通り、
餅屋もちや は餅屋、猫は猫で、猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。いくら人間が発達したってこればかりは駄目である。いわんや実際をいうと彼等が
自みずか ら信じているごとく えらくも何ともないのだから なおさらむずかしい。またいわんや同情に乏しい
吾輩 の
主人 のごときは、相互を残りなく解するというが 愛の第一義であるということすら 分らない男なのだから仕方がない。彼は性の悪い
牡蠣かき のごとく書斎に吸い付いて、かつて外界に向って口を
開ひら いた事がない。それで自分だけはすこぶる達観したような
面構つらがまえ をしているのは ちょっとおかしい。達観しない証拠には現に
吾輩 の肖像が眼の前にあるのに少しも悟った様子もなく 今年は征露の第二年目だから大方熊の
画え だろうなどと 気の知れぬことをいって すましているのでもわかる。
吾輩 が
主人 の
膝ひざ の上で眼をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第二の
絵端書えはがき を持って来た。見ると活版で舶来の猫が四五
疋ひき ずらりと行列してペンを握ったり書物を開いたり勉強をしている。その内の一疋は席を離れて机の角で西洋の猫じゃ猫じゃを
躍おど っている。その上に日本の墨で『吾輩は猫である』と黒々とかいて、右の
側わき に書を読むや
躍おど るや猫の
春一日はるひとひ という俳句さえ
認したた められてある。これは
主人 の旧門下生より来たので誰が見たって一見して意味がわかるはずであるのに、
迂濶うかつ な
主人 はまだ悟らないと見えて不思議そうに首を
捻ひね って、はてな今年は猫の年かなと
独言ひとりごと を言った。
吾輩 がこれほど有名になったのを
未ま だ気が着かずにいると見える。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(16 / 115)
ところへ下女がまた第三の端書を持ってくる。今度は絵端書ではない。恭賀新年とかいて、
傍かたわ らに
乍恐縮きょうしゅくながら かの猫へも
宜よろ しく
御伝声ごでんせい 奉願上候ねがいあげたてまつりそろ とある。いかに
迂遠うえん 【世事にうとい】な
主人 でもこう明らさまに書いてあれば分るものと見えてようやく気が付いたようにフンと言いながら
吾輩 の顔を見た。その眼付が今までとは違って多少尊敬の意を含んでいるように思われた。今まで世間から存在を認められなかった
主人 が急に一個の
新面目しんめんぼく 【新名誉】を施こしたのも、全く
吾輩 の御蔭だと思えばこのくらいの眼付は至当だろうと考える。
おりから門の
格子こうし がチリン、チリン、チリリリリンと鳴る。大方来客であろう、来客なら下女が取次に出る。
吾輩 は
肴屋さかなや の
梅公 がくる時のほかは出ない事に
極き めているのだから、平気で、もとのごとく
主人 の膝に坐っておった。すると
主人 は高利貸にでも飛び込まれたように不安な顔付をして玄関の方を見る。何でも年賀の客を受けて酒の相手をするのが
厭いや らしい。人間もこのくらい
偏屈へんくつ になれば申し分はない。そんなら早くから外出でもすればよいのにそれほどの勇気も無い。いよいよ牡蠣の
根性こんじょう をあらわしている。しばらくすると下女が来て
寒月 かんげつ さんがおいでになりましたという。この
寒月 という男は やはり
主人 の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、何でも
主人 より立派になっているという
話はな しである。この男がどういう訳か、よく
主人 の所へ遊びに来る。来ると自分を
恋おも っている女が有りそうな、無さそうな、世の中が面白そうな、つまらなそうな、
凄すご いような
艶つや っぽいような文句ばかり並べては帰る。
主人 のようなしなびかけた人間を求めて、わざわざこんな話しをしに来るのからして
合点がてん が行かぬが、あの
牡蠣的かきてき 【口を開かない】
主人 がそんな談話を聞いて時々
相槌あいづち を打つのはなお面白い。
「
しばらく御無沙汰をしました。実は去年の暮から大おおい に活動しているものですから、出で よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので 」と羽織の
紐ひも をひねくりながら
謎なぞ 見たような事をいう。「
どっちの方角へ足が向くかね 」と
主人 は真面目な顔をして、
黒木綿くろもめん の紋付羽織の
袖口そでぐち を引張る。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(17 / 115)
この羽織は木綿で
ゆき が短かい、下からべんべら者【ぺらぺらした粗末な衣服】が左右へ五分【約1.5cm】くらいずつはみ出している。「
エヘヘヘ少し違った方角で 」と
寒月 君が笑う。見ると今日は前歯が一枚欠けている。「
君 歯をどうかしたかね 」と
主人 は問題を転じた。「
ええ実はある所で椎茸しいたけ を食いましてね 」「
何を食ったって? 」「
その、少し椎茸を食ったんで。椎茸の傘かさ を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ 」「
椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか爺々臭じじいくさ いね。俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな 」と平手で
吾輩 の頭を
軽かろ く叩く。「
ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒 にだって負けそうもありませんね、立派なものだ 」と
寒月 君は
大おおい に
吾輩 を
賞ほ める。「
近頃大分だいぶ 大きくなったのさ 」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。賞められたのは得意であるが頭が少々痛い。「
一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね 」と
寒月 君はまた話しをもとへ戻す。「
どこで 」「
どこでもそりゃ御聞きにならんでもよいでしょう。ヴァイオリンが三挺ちょう とピヤノの伴奏でなかなか面白かったです。ヴァイオリンも三挺くらいになると下手でも聞かれるものですね。二人は女で私わたし がその中へまじりましたが、自分でも善く弾ひ けたと思いました 」「
ふん、そしてその女というのは何者かね 」と
主人 は
羨うらや ましそうに問いかける。元来
主人 は平常
枯木寒巌こぼくかんがん 【冷たくとっつきにくい】のような顔付はしているものの 実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと
惚ほ れる。勘定をして見ると往来を通る婦人の
七割弱 には
恋着れんちゃく 【深く執着】するという事が
風刺的ふうしてき に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。そんな浮気な男が
何故なぜ 牡蠣的生涯を送っているかと言うのは
吾輩 猫などには
到底とうてい 分らない。或人は失恋のためだとも言うし、或人は胃弱のせいだとも言うし、また或人は金がなくて臆病な
性質たち だからだとも言う。どっちにしたって明治の歴史に関係するほどな人物でもないのだから構わない。しかし
寒月 君の
女連おんなづ れを羨まし
気げ に尋ねた事だけは事実である。
寒月 君は面白そうに
口取くちとり 【最初の酒の肴】の
蒲鉾かまぼこ を箸で挟んで半分前歯で食い切った。
吾輩 はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(18 / 115)
「
なに二人とも去さ る所の令嬢ですよ、御存じの方かた じゃありません 」と
余所余所よそよそ しい返事をする。「
ナール 」と
主人 は引張ったが「
ほど 」を略して考えている。
寒月 君はもう
善い い加減な時分だと思ったものか「
どうも好い天気ですな、御閑おひま ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順【日露戦争時の中国の地】が落ちたので市中は大変な景気ですよ 」と
促うな がして見る。
主人 は旅順の陥落より
女連おんなづれ の身元を聞きたいと言う顔で、しばらく考え込んでいたがようやく決心をしたものと見えて「
それじゃ出るとしよう 」と思い切って立つ。やはり黒木綿の紋付羽織に、兄の
紀念かたみ とかいう二十年来
着古きふ るした
結城紬ゆうきつむぎ の綿入を着たままである。いくら結城紬が丈夫だって、こう着つづけではたまらない。所々が薄くなって日に透かして見ると裏から
つぎ を当てた針の目が見える。
主人 の服装には
師走しわす も正月もない。ふだん着も
余所よそ ゆきもない。出るときは
懐手ふところで をしてぶらりと出る。ほかに着る物がないからか、有っても面倒だから着換えないのか、
吾輩 には分らぬ。ただしこれだけは失恋のためとも思われない。
両人ふたり が出て行ったあとで、
吾輩 はちょっと失敬して
寒月 君の食い切った
蒲鉾かまぼこ の残りを
頂戴ちょうだい した。
吾輩 もこの頃では普通一般の猫ではない。まず
桃川如燕ももかわじょえん 【猫の話を得意とした講釈師】以後の猫か、グレーの金魚を
偸ぬす んだ猫【詩人トマス・グレイの詩】くらいの資格は充分あると思う。車屋の
黒 などは
固もと より眼中にない。蒲鉾の
一切ひときれ くらい頂戴したって 人から かれこれ言われる事もなかろう。それにこの人目を忍んで
間食かんしょく をするという癖は、何も吾等猫族に限った事ではない。うちの
御三 おさん などはよく
細君 の留守中に餅菓子などを失敬しては頂戴し、頂戴しては失敬している。
御三 ばかりじゃない 現に上品な
仕付しつけ を受けつつあると
細君 から
吹聴ふいちょう せられている
小児 こども ですらこの傾向がある。四五日前のことであったが、二人の
小供 が馬鹿に早くから眼を覚まして、まだ
主人 夫婦の寝ている間に
対むか い合うて食卓に着いた。彼等は毎朝
主人 の食う
麺麭パン の幾分に、砂糖をつけて食うのが例であるが、この日はちょうど
砂糖壺さとうつぼ が
卓たく の上に置かれて
匙さじ さえ添えてあった。いつものように砂糖を分配してくれるものがないので、大きい方がやがて壺の中から
一匙ひとさじ の砂糖をすくい出して自分の皿の上へあけた。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(19 / 115)
すると小さいのが姉のした通り同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。
少しば らく
両人りょうにん は
睨にら み合っていたが、大きいのがまた匙をとって一杯をわが皿の上に加えた。小さいのもすぐ匙をとってわが分量を姉と同一にした。すると姉がまた一杯すくった。妹も負けずに一杯を附加した。姉がまた壺へ手を懸ける、妹がまた匙をとる。見ている間に一杯一杯一杯と重なって、ついには
両人ふたり の皿には山盛の砂糖が
堆うずたか くなって、壺の中には一匙の砂糖も余っておらんようになったとき、
主人 が寝ぼけ
眼まなこ を
擦こす りながら寝室を出て来て せっかく しゃくい出した砂糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。こんなところを見ると、人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より
優まさ っているかも知れぬが、
知恵ちえ はかえって猫より劣っているようだ。そんなに山盛にしないうちに早く
甞な めてしまえばいいに と思ったが、例のごとく、
吾輩 の言う事などは通じないのだから、気の毒ながら
御櫃おはち 【おひつ】の上から黙って見物していた。
寒月 君と出掛けた
主人 はどこをどう
歩行ある いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に
就つ いたのは九時頃であった。例の御櫃の上から拝見していると、
主人 はだまって
雑煮ぞうに を食っている。代えては食い、代えては食う。餅の切れは小さいが、何でも
六切むきれ か
七切ななきれ 食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと
箸はし を置いた。他人がそんな
我儘わがまま をすると、なかなか承知しないのであるが、
主人 の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に
焦こ げ
爛ただ れた餅の死骸を見て平気ですましている。
妻君 が
袋戸ふくろど の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、
主人 は「
それは利き かないから飲まん 」という。「
でもあなた澱粉質でんぷんしつ のものには大変功能があるそうですから、召し上ったらいいでしょう 」と飲ませたがる。「
澱粉だろうが何だろうが駄目だよ 」と
頑固がんこ に出る。「
あなたはほんとに厭あ きっぽい 」と
細君 が
独言ひとりごと のようにいう。「
厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ 」「
それだってせんだってじゅうは大変に よく利く よく利く とおっしゃって毎日毎日上ったじゃありませんか 」「
こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ 」と
対句ついく のような返事をする。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(20 / 115)
「
そんなに飲んだり止や めたりしちゃ、いくら功能のある薬でも利く気遣きづか いはありません、もう少し辛防しんぼう がよくなくっちゃあ胃弱なんぞは ほかの病気たあ違って直らないわねえ 」とお盆を持って控えた
御三 おさん を顧みる。「
それは本当のところでございます。もう少し召し上ってご覧にならないと、とても善よ い薬か悪い薬かわかりますまい 」と
御三 は一も二もなく
細君 の肩を持つ。「
何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ 」「
どうせ女ですわ 」と
細君 がタカジヤスターゼを
主人 の前へ突き付けて是非
詰腹つめばら を切らせようとする。
主人 は何にも言わず立って書斎へ入る。
細君 と
御三 は顔を見合せて にやにやと笑う。こんなときに後からくっ付いて行って
膝ひざ の上へ乗ると、大変な目に
逢あ わされるから、そっと庭から廻って書斎の縁側へ上って障子の
隙すき から
覗のぞ いて見ると、
主人 はエピクテタス【古代ギリシアの哲学者】とか言う人の本を
披ひら いて見ておった。もしそれが
平常いつも の通り わかるなら ちょっとえらいところがある。五六分するとその本を
叩たた き付けるように机の上へ
抛ほう り出す。大方そんな事だろうと思いながら なお注意していると、今度は日記帳を出して
下しも のような事を書きつけた。
寒月 と、根津、上野、池いけ の端はた 、神田辺へん を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着はるぎ をきて羽根をついていた。衣装いしょう は美しいが顔はすこぶるまずい。何となくうちの猫に似ていた。
何も顔のまずい例に特に
吾輩 を出さなくっても、よさそうなものだ。
吾輩 だって
喜多床きたどこ 【漱石が利用していた理髪店】へ行って顔さえ
剃す って
貰もら やあ、そんなに人間と
異ちが ったところはありゃしない。人間はこう
自惚うぬぼ れているから困る。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(21 / 115)
宝丹ほうたん 【いつもの薬局】の角を曲るとまた一人芸者が来た。これは背せい のすらりとした撫肩なでがた の格好かっこう よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服きもの も素直に着こなされて上品に見えた。白い歯を出して笑いながら「源ちゃん 昨夕ゆうべ は――つい忙がしかったもんだから 」と言った。ただしその声は旅鴉たびがらす のごとく皺枯しゃが れておったので、せっかくの風采ふうさい も大おおい に下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃん なるものの いかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手ふところで のまま御成道おなりみち 【徳川将軍が通った街道】へ出た。寒月 は何となく そわそわしているごとく見えた。
人間の心理ほど
解げ し難いものはない。この
主人 の今の心は
怒おこ っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書【賢者の残した思想】に
一道いちどう の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ
交まじ りたいのだか、くだらぬ事に
肝癪かんしゃく を起しているのか、
物外ぶつがい に【俗世の煩わしさなどに関わらず】
超然ちょうぜん としている【超越して平然としている】のだかさっぱり
見当けんとう が付かぬ。猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、
怒おこ るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。
主人 のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等
猫属ねこぞく に至ると
行住坐臥ぎょうじゅうざが 【日常生活】、
行屎送尿こうしそうにょう 【トイレで用を足す】ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な
手数てかず をして、
己おの れの
真面目しんめんもく を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら縁側に寝ているまでの事さ。
神田の某亭で晩餐ばんさん を食う。久し振りで正宗【上等な酒】を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合が大変いい。胃弱には晩酌が一番だと思う。タカジヤスターゼは無論いかん。誰が何と言っても駄目だ。どうしたって利き かないものは利かないのだ。
無暗むやみ にタカジヤスターゼを攻撃する。独りで喧嘩をしているようだ。今朝の肝癪がちょっとここへ尾を出す。人間の日記の本色はこう言う
辺へん に存するのかも知れない。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(22 / 115)
せんだって○○は朝飯あさめし を廃すると胃がよくなると言うたから二三日にさんち 朝飯をやめて見たが腹がぐうぐう鳴るばかりで功能はない。△△は是非香こう の物もの を断た てと忠告した。彼の説によるとすべて胃病の源因は漬物にある。漬物さえ断てば胃病の源を涸か らす訳だから本復は疑なしという論法であった。それから一週間ばかり香の物に箸はし を触れなかったが別段の験げん も見えなかったから近頃はまた食い出した。××に聞くとそれは按腹揉療治あんぷくもみりょうじ 【腹部をもむ按摩療法】に限る。ただし普通のではゆかぬ。皆川流みながわりゅう という古流な揉も み方で一二度やらせれば大抵の胃病は根治出来る。安井息軒やすいそっけん 【江戸時代の儒学者】も大変この按摩術あんまじゅつ を愛していた。坂本竜馬さかもとりょうま のような豪傑でも時々は治療をうけたと言うから、早速上根岸かみねぎし まで出掛けて揉も まして見た。ところが骨を揉も まなければ癒なお らぬとか、臓腑の位置を一度転倒てんとう しなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な揉も み方をやる。後で身体が綿のようになって昏睡病こんすいびょう にかかったような心持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。A君は是非固形体を食うなという。それから、一日牛乳ばかり飲んで暮して見たが、この時は腸の中でどぼりどぼりと音がして大水でも出たように思われて終夜眠れなかった。B氏は横隔膜おうかくまく で呼吸して内臓を運動させれば自然と胃の働きが健全になる訳だから試しにやって御覧という。これも多少やったが何となく腹中ふくちゅう が不安で困る。それに時々思い出したように一心不乱にかかりはするものの五六分立つと忘れてしまう。忘れまいとすると横隔膜が気になって本を読む事も文章をかく事も出来ぬ。美学者の迷亭 めいてい がこの体てい を見て、産気さんけ のついた男じゃあるまいし止よ すがいいと冷かしたからこの頃は廃よ してしまった。C先生は蕎麦そば を食ったらよかろうと言うから、早速かけ ともり を かわるがわる食ったが、これは腹が下くだ るばかりで何等の功能もなかった。余は年来の胃弱を直すために出来得る限りの方法を講じて見たがすべて駄目である。ただ昨夜ゆうべ 寒月 と傾けた三杯の正宗はたしかに利目ききめ がある。これからは毎晩二三杯ずつ飲む事にしよう。
これも決して長く続く事はあるまい。
主人 の心は
吾輩 の
眼球めだま のように間断なく変化している。何をやっても
永持ながもち のしない男である。その上 日記の上で胃病をこんなに心配している癖に、表向は
大おおい に
痩やせ 我慢をするからおかしい。せんだってその友人で
某なにがし という学者が尋ねて来て、一種の見地から、すべての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果にほかならないと言う議論をした。
大分だいぶ 研究したものと見えて、条理が
明晰めいせき で秩序が整然として立派な説であった。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(23 / 115)
気の毒ながらうちの
主人 などは到底これを
反駁はんばく 【他人の意見に反論】するほどの頭脳も学問もないのである。しかし自分が胃病で苦しんでいる
際さい だから、何とか かんとか 弁解をして自己の面目を保とうと思った者と見えて、「
君の説は面白いが、あのカーライル【イギリスの歴史家】は胃弱だったぜ 」とあたかもカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であると言ったような、見当違いの挨拶をした。すると友人は「
カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ 」と
極き め付けたので
主人 は
黙然もくねん としていた。かくのごとく虚栄心に富んでいるものの実際はやはり胃弱でない方がいいと見えて、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっと滑稽だ。考えて見ると今朝
雑煮ぞうに をあんなにたくさん食ったのも
昨夜ゆうべ 寒月 君と正宗をひっくり返した影響かも知れない。
吾輩 もちょっと雑煮が食って見たくなった。
吾輩 は猫ではあるが大抵のものは食う。車屋の
黒 のように横丁の
肴屋さかなや まで遠征をする気力はないし、
新道しんみち の
二絃琴にげんきん 【2弦の琴】の
師匠 の
所とこ の
三毛 みけ のように
贅沢ぜいたく は無論言える身分でない。従って存外
嫌きらい は少ない方だ。
小供 の食いこぼした
麺麭パン も食うし、餅菓子の
餡あん もなめる。
香こう の
物もの はすこぶるまずいが経験のため
沢庵たくあん を二切ばかりやった事がある。食って見ると妙なもので、大抵のものは食える。あれは
嫌いや だ、これは嫌だと言うのは
贅沢ぜいたく な我儘で到底教師の
家うち にいる猫などの口にすべきところでない。
主人 の話しによると
仏蘭西フランス にバルザックという小説家があったそうだ。この男が大の
贅沢ぜいたく 屋で――もっともこれは口の贅沢屋ではない、小説家だけに文章の贅沢を尽したという事である。バルザックが或る日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろつけて見たが、どうしても気に入らない。ところへ友人が遊びに来たのでいっしょに散歩に出掛けた。友人は
固もと より
何なんに も知らずに連れ出されたのであるが、バルザックは
兼か ねて自分の苦心している名を
目付めつけ ようという考えだから 往来へ出ると何もしないで 店先の看板ばかり見て
歩行ある いている。ところがやはり気に入った名がない。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(24 / 115)
友人を連れて
無暗むやみ にあるく。友人は訳がわからずにくっ付いて行く。彼等はついに朝から晩まで
巴理パリ を探険した。その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。見るとその看板にマーカスという名がかいてある。バルザックは手を
拍う って「
これだこれだこれに限る。マーカスは好い名じゃないか。マーカスの上へZという頭文字をつける、すると申し分ぶん のない名が出来る。Zでなくてはいかん。Z. Marcus は実にうまい。どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでも何となく故意わざ とらしいところがあって面白くない。ようやくの事で気に入った名が出来た 」と友人の迷惑はまるで忘れて、一人嬉しがったというが、小説中の人間の名前をつけるに
一日いちんち 巴理パリ を探険しなくてはならぬようでは随分
手数てすう のかかる話だ。贅沢もこのくらい出来れば結構なものだが
吾輩 のように
牡蠣的かきてき 主人 を持つ身の上では とてもそんな気は出ない。何でもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇の しからしむる ところであろう。だから今
雑煮ぞうに が食いたくなったのも決して贅沢の結果ではない、何でも食える時に食っておこうという考から、
主人 の食い
剰あま した雑煮が もしや台所に残っていはすまいか と思い出したからである。……台所へ廻って見る。
今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に
膠着こうちゃく している。白状するが餅というものは今まで一
辺ぺん も口に入れた事がない。見るとうまそうにもあるし、また少しは
気味きび がわるくもある。前足で上にかかっている菜っ葉を
掻か き寄せる。爪を見ると餅の
上皮うわかわ が引き掛ってねばねばする。
嗅か いで見ると釜の底の飯を
御櫃おはち へ移す時のような
香におい がする。食おうかな、やめようかな、とあたりを見回す。幸か不幸か誰もいない。
御三 おさん は暮も春も【暮れも正月も】同じような顔をして羽根をついている。
小供 は奥座敷で「
何とおっしゃる兎さん 」を歌っている。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(25 / 115)
食うとすれば今だ。もしこの機をはずすと来年までは餅というものの味を知らずに暮してしまわねばならぬ。
吾輩 はこの
刹那せつな 【一瞬】に猫ながら一の真理を感得した。「
得難えがた き機会は すべての動物をして、好まざる事をも敢あえ てせしむ【仕方なくやってしまう】」
吾輩 は実を言うとそんなに雑煮を食いたくはないのである。否
椀底わんてい の様子を熟視すればするほど
気味きび が悪くなって、食うのが
厭いや になったのである。この時もし
御三 でも勝手口を開けたなら、奥の
小供 の足音がこちらへ近付くのを聞き得たなら、
吾輩 は
惜気おしげ もなく椀を見棄てたろう、しかも雑煮の事は来年まで念頭に浮ばなかったろう。ところが誰も来ない、いくら
躊躇ちゅうちょ していても誰も来ない。早く食わぬか食わぬかと催促されるような心持がする。
吾輩 は椀の中を
覗のぞ き込みながら、早く誰か来てくれればいいと念じた。やはり誰も来てくれない。
吾輩 はとうとう雑煮を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を椀の底へ落すようにして、あぐりと餅の角を
一寸いっすん ばかり食い込んだ。このくらい力を込めて食い付いたのだから、大抵なものなら
噛か み切れる訳だが、驚いた! もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。もう一
辺ぺん 噛み直そうとすると動きがとれない。餅は魔物だなと
疳かん づいた時はすでに遅かった。沼へでも落ちた人が足を抜こうと
焦慮あせ るたびにぶくぶく深く沈むように、噛めば噛むほど口が重くなる、歯が動かなくなる。歯答えはあるが、歯答えがあるだけで どうしても始末をつける事が出来ない。美学者
迷亭 先生がかつて
吾輩 の
主人 を評して君は割り切れない男だといった事があるが、なるほどうまい事をいったものだ。この餅も
主人 と同じようにどうしても割り切れない。噛んでも噛んでも、三で十を割るごとく
尽未来際方じんみらいざいかた のつく
期ご は【
未来永劫みらいえいごう 】あるまいと思われた。この
煩悶はんもん の際
吾輩 は覚えず第二の真理に
逢着ほうちゃく した。「
すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す 」真理はすでに二つまで発明したが、餅がくっ付いているので
毫ごう 【わずか】も愉快を感じない。歯が餅の肉に吸収されて、抜けるように痛い。早く食い切って逃げないと
御三 おさん が来る。
小供 の唱歌もやんだようだ、きっと台所へ
馳か け出して来るに相違ない。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(26 / 115)
煩悶はんもん の
極きわみ 尻尾しっぽ をぐるぐる振って見たが何等の功能もない、耳を立てたり寝かしたりしたが駄目である。考えて見ると耳と
尻尾しっぽ は餅と何等の関係もない。要するに振り損の、立て損の、寝かし損であると気が付いたからやめにした。ようやくの事これは前足の助けを借りて餅を払い落すに限ると考え付いた。まず右の方をあげて口の周囲を
撫な で廻す。
撫な でたくらいで割り切れる訳のものではない。今度は左りの方を
伸のば して口を中心として急劇に円を
劃かく して見る。そんな
呪まじな いで魔は落ちない。
辛防しんぼう が
肝心かんじん だと思って左右
交かわ る
交がわ るに動かしたがやはり依然として歯は餅の中にぶら下っている。ええ面倒だと両足を一度に使う。すると不思議な事にこの時だけは
後足あとあし 二本で立つ事が出来た。何だか猫でないような感じがする。猫であろうが、あるまいがこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ
掻か き廻す。前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。倒れかかるたびに後足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる訳にも行かんので、台所中あちら、こちらと飛んで廻る。我ながらよくこんなに器用に
起た っていられたものだと思う。第三の真理が
驀地ばくち 【突然】に
現前げんぜん 【現れる】する。「
危きに臨のぞ めば平常なし能あた わざるところのものを為な し能う。之これ を天祐てんゆう 【天のたすけ】という 」
幸さいわい に天祐を
享う けたる
吾輩 が一生懸命餅の魔と戦っていると、何だか足音がして奥より人が来るような
気合けわい である。ここで人に来られては大変だと思って、いよいよ
躍起やっき となって台所をかけ廻る。足音はだんだん近付いてくる。ああ残念だが天祐が少し足りない。とうとう
小供 に見付けられた。「
あら猫が御雑煮を食べて踊を踊っている 」と大きな声をする。この声を第一に聞きつけたのが
御三 である。羽根も羽子板も打ち
遣や って勝手から「
あらまあ 」と飛込んで来る。
細君 は
縮緬ちりめん の紋付で「
いやな猫ねえ 」と仰せられる。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(27 / 115)
主人 さえ書斎から出て来て「
この馬鹿野郎 」といった。面白い面白いと言うのは
小供 ばかりである。そうしてみんな申し合せたように げらげら笑っている。腹は立つ、苦しくはある、踊はやめる訳にゆかぬ、弱った。ようやく笑いがやみそうになったら、五つになる女の子が「
御かあ様、猫も随分ね 」といったので
狂瀾きょうらん を
既倒きとう 【態勢を元の状態に戻す】に何とかするという勢でまた大変笑われた。人間の同情に乏しい実行も
大分だいぶ 見聞けんもん したが、この時ほど
恨うら めしく感じた事はなかった。ついに天祐もどっかへ消え
失う せて、在来の通り
四よ つ
這ばい になって、眼を白黒するの醜態を演ずるまでに閉口した。さすが見殺しにするのも気の毒と見えて「
まあ餅をとってやれ 」と
主人 が
御三 に命ずる。
御三 はもっと踊らせようじゃありませんかという眼付で
細君 を見る。
細君 は踊は見たいが、殺してまで見る気はないのでだまっている。「
取ってやらんと死んでしまう、早くとってやれ 」と
主人 は再び下女を
顧かえり みる。
御三 おさん は御馳走を半分食べかけて夢から起された時のように、気のない顔をして餅をつかんでぐいと引く。
寒月 かんげつ 君じゃないが前歯がみんな折れるかと思った。どうも痛いの痛くないのって、餅の中へ堅く食い込んでいる歯を
情なさ け容赦もなく引張るのだから たまらない。
吾輩 が「
すべての安楽は困苦を通過せざるべからず【本当の安らぎや幸福は、必ず困難や苦しみを通ってこそ得られるものだ】 」と言う第四の真理を経験して、けろけろとあたりを見回した時には、家人はすでに奥座敷へ入ってしまっておった。
こんな失敗をした時には内にいて
御三 なんぞに顔を見られるのも何となく ばつが悪い。いっその事 気を
易か えて 新道の
二絃琴にげんきん の御
師匠 さんの
所とこ の
三毛 子みけこ でも訪問しようと台所から裏へ出た。
三毛 子はこの近辺で有名な
美貌家びぼうか である。
吾輩 は猫には相違ないが物の
情なさ けは一通り心得ている。うちで
主人 の
苦にが い顔を見たり、
御三 の
険突けんつく を食って気分が
勝すぐ れん時は必ずこの異性の
朋友ほうゆう の
許もと を訪問していろいろな話をする。すると、いつの間にか心が
晴々せいせい して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。女性の影響というものは実に
莫大ばくだい なものだ。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(28 / 115)
杉垣の隙から、いるかなと思って見渡すと、
三毛 子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく縁側に坐っている。その背中の丸さ加減が言うに言われんほど美しい。曲線の美を
尽つく している。
尻尾しっぽ の曲がり加減、足の折り具合、
物憂ものう げに耳をちょいちょい振る
景色けしき なども
到底とうてい 形容が出来ん。ことによく日の当る所に暖かそうに、
品ひん よく
控ひか えているものだから、身体は静粛端正の態度を有するにも関らず、
天鵞毛びろうど を
欺あざむ くほど【白鳥の羽根と区別がつかないほど】の
滑なめ らかな満身の毛は春の光りを反射して 風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。
吾輩 はしばらく
恍惚こうこつ として
眺なが めていたが、やがて我に帰ると同時に、低い声で「
三毛 子さん 三毛子さん」といいながら前足で招いた。
三毛 子は「
あら先生 」と
椽たるき を下りる。赤い首輪につけた鈴がちゃらちゃらと鳴る。おや正月になったら鈴までつけたな、どうもいい
音ね だと感心している間に、
吾輩 の
傍そば に来て「
あら先生、おめでとう 」と尾を左りへ振る。吾等
猫属ねこぞく 間で御互に挨拶をするときには尾を棒のごとく立てて、それを左りへぐるりと廻すのである。町内で
吾輩 を先生と呼んでくれるのはこの
三毛 子ばかりである。
吾輩 は前回断わった通りまだ名はないのであるが、教師の
家うち にいるものだから
三毛 子だけは尊敬して先生先生といってくれる。
吾輩 も先生と言われて
満更まんざら 悪い心持ちもしないから、はいはいと返事をしている。「
やあおめでとう、大層立派に御化粧が出来ましたね 」「
ええ去年の暮 御師匠 おししょう さんに買って頂いたの、宜い いでしょう 」とちゃらちゃら鳴らして見せる。「
なるほど善い音ね ですな、吾輩 などは生れてから、そんな立派なものは見た事がないですよ 」「
あらいやだ、みんなぶら下げるのよ 」とまたちゃらちゃら鳴らす。「
いい音ね でしょう、あたし嬉しいわ 」とちゃらちゃらちゃらちゃら続け様に鳴らす。「
あなたのうちの御師匠 さんは大変あなたを可愛がっていると見えますね 」と吾身に引きくらべて
暗あん に
欣羨きんせん 【うらやましがる】の意を
洩も らす。
三毛 子は無邪気なものである「
ほんとよ、まるで自分の小供 のようよ 」とあどけなく笑う。猫だって笑わないとは限らない。人間は自分よりほかに笑えるものが無いように思っているのは間違いである。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(29 / 115)
吾輩 が笑うのは鼻の
孔あな を三角にして
咽喉仏のどぼとけ を震動させて笑うのだから人間には わからぬはずである。「
一体あなたの所とこ の御主人は何ですか 」「
あら御主人だって、妙なのね。御師匠 おししょう さんだわ。二絃琴にげんきん の御師匠 さんよ 」「
それは吾輩 も知っていますがね。その御身分は何なんです。いずれ昔むか しは立派な方なんでしょうな 」「
ええ 」
君を待つ
間ま の姫小松……………
障子の内で御
師匠 さんが二絃琴を
弾ひ き出す。「
宜い い声でしょう」と
三毛 子は自慢する。「
宜い いようだが、吾輩 にはよくわからん。全体何というものですか」「
あれ? あれは何とかってものよ。御師匠 さんはあれが大好きなの。……御師匠 さんはあれで六十二よ。随分丈夫だわね 」六十二で生きているくらいだから丈夫と言わねばなるまい。
吾輩 は「
はあ 」と返事をした。少し
間ま が抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。「
あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそうおっしゃるの 」「
へえ元は何だったんです 」「
何でも天璋院てんしょういん 様の御祐筆ごゆうひつ 【事務官僚】の妹の御嫁に行った先さ きの御お っかさんの甥おい の娘なんだって 」「
何ですって? 」「
あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった…… 」「
なるほど。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の…… 」「
あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の…… 」「
よろしい分りました天璋院様のでしょう 」「
ええ 」「
御祐筆のでしょう 」「
そうよ 」「
御嫁に行った 」「
妹の御嫁に行ったですよ 」「
そうそう間違った。妹の御嫁に入い った先きの 」「
御っかさんの甥の娘なんですとさ 」「
御っかさんの甥の娘なんですか 」「
ええ。分ったでしょう 」「
いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰つま るところ天璋院様の何になるんですか 」「
あなたもよっぽど分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先さ っきっから言ってるんじゃありませんか 」「
それはすっかり分っているんですがね 」「
それが分りさえすればいいんでしょう 」「
ええ 」と仕方がないから降参をした。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(30 / 115)
吾々は時とすると理詰の
虚言うそ を
吐つ かねばならぬ事がある。
障子の
中うち で二絃琴の
音ね がぱったりやむと、御
師匠 さんの声で「
三毛や 三毛や 御飯だよ 」と呼ぶ。
三毛 子は嬉しそうに「
あら御師匠 さんが呼んでいらっしゃるから、私あた し帰るわ、よくって? 」わるいと言ったって仕方がない。「
それじゃまた遊びにいらっしゃい 」と鈴をちゃらちゃら鳴らして庭先までかけて行ったが急に戻って来て「
あなた大変色が悪くってよ。どうかしやしなくって 」と心配そうに問いかける。まさか
雑煮ぞうに を食って踊りを踊ったとも言われないから「
何別段の事もありませんが、少し考え事をしたら頭痛がしてね。あなたと話しでもしたら直るだろうと思って実は出掛けて来たのですよ 」「
そう。御大事になさいまし。さようなら 」少しは
名残なご り惜し気に見えた。これで雑煮の元気もさっぱりと回復した。いい心持になった。帰りに例の
茶園ちゃえん を通り抜けようと思って
霜柱しもばしら の
融と けかかったのを踏みつけながら
建仁寺けんにんじ の
崩くず れから顔を出すと また車屋の
黒 が枯菊の上に
背せ を山にして
欠伸あくび をしている。近頃は
黒 を見て恐怖するような
吾輩 ではないが、話しをされると面倒だから知らぬ顔をして行き過ぎようとした。
黒 の性質として
他ひと が
己おの れを
軽侮けいぶ したと認むるや否や決して黙っていない。「
おい、名なしの権兵衛ごんべえ 、近頃じゃ乙おつ う高く留ってるじゃあねえか。いくら教師の飯を食ったって、そんな高慢ちきな面つ らあするねえ。人ひと つけ【誰がやっても】面白くもねえ 」
黒 は
吾輩 の有名になったのを、まだ知らんと見える。説明してやりたいが
到底とうてい 分る奴ではないから、まず一応の挨拶をして出来得る限り早く
御免蒙ごめんこうむ るに
若し くはないと決心した。「
いや黒 君 おめでとう。不相変あいかわらず 元気がいいね 」と
尻尾しっぽ を立てて左へくるりと廻わす。
黒 は尻尾を立てたぎり挨拶もしない。「
何おめでてえ? 正月でおめでたけりゃ、御めえなんざあ 年が年中おめでてえ方だろう。気をつけろい、この吹ふ い子ご の向むこ う面づら 【間の抜けた顔】め 」吹い子の向うづらという句は
罵詈ばり の言語であるようだが、
吾輩 には了解が出来なかった。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(31 / 115)
「
ちょっと伺うか がうが吹い子の向うづらと言うのはどう言う意味かね 」「
へん、手めえが悪体あくたい をつかれてる癖に、その訳わけ を聞きゃ世話あねえ、だから正月野郎だって事よ 」正月野郎は詩的であるが、その意味に至ると吹い子の何とかよりも一層不明瞭な文句である。参考のためちょっと聞いておきたいが、聞いたって明瞭な答弁は得られぬに
極き まっているから、
面めん と
対むか ったまま無言で立っておった。いささか手持無沙汰の
体てい である。すると突然
黒 のうちの
神 かみ さんが大きな声を張り揚げて「
おや棚へ上げて置いた鮭しゃけ がない。大変だ。またあの黒 の畜生ちきしょう が取ったんだよ。ほんとに憎らしい猫だっちゃありゃあしない。今に帰って来たら、どうするか見ていやがれ 」と
怒鳴どな る。
初春はつはる の
長閑のどか な空気を無遠慮に震動させて、枝を鳴らさぬ君が
御代みよ を
大おおい に
俗了ぞくりょう 【俗化】してしまう。
黒 は怒鳴るなら、怒鳴りたいだけ怒鳴っていろと言わぬばかりに横着な顔をして、四角な
顋あご を前へ出しながら、あれを聞いたかと合図をする。今までは
黒 との応対で気がつかなかったが、見ると彼の足の下には一切れ二銭三厘に相当する鮭の骨が泥だらけになって転がっている。「
君 不相変あいかわらず やってるな 」と今までの行き掛りは忘れて、つい感投詞【驚きの言葉】を奉呈した。
黒 はそのくらいな事ではなかなか機嫌を直さない。「
何がやってるでえ、この野郎。しゃけ の一切や二切で相変らずたあ何だ。人を見縊みく びった事をいうねえ。憚はばか りながら車屋の黒 だあ 」と腕まくりの代りに 右の前足を
逆さ かに肩の
辺へん まで
掻か き上げた。「
君が黒 君だと言う事は、始めから知ってるさ 」「
知ってるのに、相変らずやってるたあ何だ。何だてえ事よ 」と熱いのを
頻しき りに吹き懸ける。人間なら
胸倉むなぐら をとられて小突き廻されるところである。少々
辟易へきえき して内心困った事になったなと思っていると、再び例の
神さん の大声が聞える。「
ちょいと西川 さん、おい西川さんてば、用があるんだよこの人あ。牛肉を一斤きん すぐ持って来るんだよ。いいかい、分ったかい、牛肉の堅くないところを一斤だよ 」と牛肉注文の声が
四隣しりん 【となり近所】の
寂寞せきばく 【静粛】を破る。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(32 / 115)
「
へん 年に一遍牛肉を誂あつら えると思って、いやに大きな声を出しゃあがらあ。牛肉一斤が隣り近所へ自慢なんだから始末に終えねえ阿魔あま だ 」と
黒 は
嘲あざけ りながら四つ足を
踏張ふんば る。
吾輩 は挨拶のしようもないから黙って見ている。「
一斤くらいじゃあ、承知が出来ねえんだが、仕方がねえ、いいから取っときゃ、今に食ってやらあ 」と自分のために
誂あつら えたもののごとくいう。「
今度は本当の御馳走だ。結構結構 」と
吾輩 はなるべく彼を帰そうとする。「
御めっちの知った事じゃねえ。黙っていろ。うるせえや 」と言いながら突然
後足あとあし で
霜柱しもばしら の
崩くず れた奴を
吾輩 の頭へ ばさりと
浴あ びせ掛ける。
吾輩 が驚ろいて、からだの泥を払っている間に
黒 は垣根を
潜くぐ って、どこかへ姿を隠した。大方
西川 の
牛ぎゅう を
覘ねらい に行ったものであろう。
家うち へ帰ると座敷の中が、いつになく春めいて
主人 の笑い声さえ陽気に聞える。はてなと明け放した縁側から上って
主人 の
傍そば へ寄って見ると見馴れぬ客が来ている。頭を奇麗に分けて、
木綿もめん の紋付の羽織に
小倉こくら の
袴はかま 【丈夫な綿織物】を着けて
至極しごく 真面目そうな
書生 体しょせいてい の男である。
主人 の手あぶりの角を見ると
春慶塗しゅんけいぬ り【透明な漆を塗り、素地の木目を生かしたもの】の
巻煙草まきたばこ 入れと並んで
越智おち 東風 とうふう 君を紹介致
候そろ 水島
寒月 という名刺があるので、この客の名前も、
寒月 君の友人であるという事も知れた。
主客しゅかく の対話は途中からであるから前後がよく分らんが、何でも
吾輩 が前回に紹介した美学者
迷亭 君の事に関しているらしい。
「
それで面白い趣向があるから是非いっしょに来いとおっしゃるので 」と客は落ちついて言う。「
何ですか、その西洋料理へ行って午飯ひるめし を食うのについて趣向があるというのですか 」と
主人 は茶を
続つ ぎ足して客の前へ押しやる。「
さあ、その趣向というのが、その時は私にも分らなかったんですが、いずれあの方かた の事ですから、何か面白い種があるのだろうと思いまして…… 」「
いっしょに行きましたか、なるほど 」「
ところが驚いたのです 」
主人 はそれ見たかと言わぬばかりに、
膝ひざ の上に乗った
吾輩 の頭をぽかと
叩たた く。少し痛い。「
また馬鹿な茶番見たような事なんでしょう。あの男はあれが癖でね 」と急にアンドレア・デル・サルト事件を思い出す。「
へへー。君 何か変ったものを食おうじゃないかとおっしゃるので 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(33 / 115)
「
何を食いました 」「
まず献立こんだて を見ながらいろいろ料理についての御話しがありました 」「
誂あつ らえない前にですか」「
ええ 」「
それから 」「
それから首を捻ひね ってボーイの方を御覧になって、どうも変ったものも ないようだなと おっしゃるとボーイは負けぬ気で鴨かも のロースか小牛のチャップなどは如何いかが ですと言うと、先生は、そんな月並つきなみ を食いに わざわざここまで来やしないとおっしゃるんで、ボーイは月並という意味が分らんものですから妙な顔をして黙っていましたよ 」「
そうでしょう 」「
それから私の方を御向きになって、君 仏蘭西フランス や英吉利イギリス へ行くと随分天明調てんめいちょう 【天明集を参考にしたもの】や万葉調まんようちょう 【万葉集を参考にしたもの】が食えるんだが、日本じゃどこへ行ったって版で圧お したようで、どうも西洋料理へ入る気がしないと言うような大気燄だいきえん で――全体あの方かた は洋行なすった事があるのですかな 」「
何迷亭 が洋行なんかするもんですか、そりゃ金もあり、時もあり、行こうと思えばいつでも行かれるんですがね。大方これから行くつもりのところを、過去に見立てた洒落しゃれ なんでしょう 」と
主人 は自分ながらうまい事を言ったつもりで誘い出し笑をする。客はさまで感服した様子もない。「
そうですか、私はまたいつの間に洋行なさったかと思って、つい真面目に拝聴していました。それに見て来たようになめくじ のスープの御話や蛙かえる のシチューの形容をなさるものですから 」「
そりゃ誰かに聞いたんでしょう、うそをつく事はなかなか名人ですからね 」「
どうもそうのようで 」と
花瓶かびん の水仙を眺める。少しく残念の
気色けしき にも取られる。「
じゃ趣向というのは、それなんですね 」と
主人 が念を押す。「
いえそれはほんの冒頭なので、本論はこれからなのです 」「
ふーん 」と
主人 は好奇的な感投詞を
挟はさ む。「
それから、とてもなめくじ や蛙は食おうっても食えやしないから、まあトチメンボー くらいなところで負けとく事にしようじゃないかと 御相談なさるものですから、私はつい何の気なしに、それがいいでしょう、といってしまったので 」「
へー、とちめんぼうは妙ですな 」「
ええ全く妙なのですが、先生があまり真面目だものですから、つい気がつきませんでした 」と あたかも
主人 に向って
麁忽そこつ 【不注意】を
詫わ びているように見える。「
それからどうしました 」と
主人 は無頓着に聞く。客の謝罪には一向同情を表しておらん。「
それからボーイに おいトチメンボー を二人前 持って来いというと、ボーイがメンチボー ですかと聞き直しましたが、先生はますます真面目まじめ な貌かお でメンチボー じゃないトチメンボー だと訂正されました 」「
なある。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(34 / 115)
そのトチメンボー という料理は一体あるんですか」 「
さあ私も少しおかしいとは思いましたが いかにも先生が沈着であるし、その上あの通りの西洋通でいらっしゃるし、ことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから、私も口を添えてトチメンボー だトチメンボー だと ボーイに教えてやりました 」「
ボーイはどうしました 」「
ボーイがね、今考えると実に滑稽こっけい なんですがね、しばらく思案していましてね、はなはだ御気の毒様ですが今日はトチメンボー は 御生憎様おあいにくさま でメンチボー なら御二人前おふたりまえ すぐに出来ますと言うと、先生は非常に残念な様子で、それじゃせっかくここまで来た甲斐かい がない。どうかトチメンボー を都合つごう して食わせてもらう訳わけ には行くまいかと、ボーイに二十銭銀貨【約千円/2025年】をやられると、ボーイはそれではともかくも料理番と相談して参りましょうと奥へ行きましたよ 」「
大変トチメンボー が食いたかったと見えますね 」「
しばらくしてボーイが出て来て真まこと に御生憎で、御誂おあつらえ なら こしらえますが少々時間がかかります、と言うと迷亭 先生は落ちついたもので、どうせ我々は正月でひまなんだから、少し待って食って行こうじゃないかと言いながら ポッケットから葉巻を出してぷかりぷかり吹かし始められたので、私わたく しも仕方がないから、懐ふところ から日本新聞を出して読み出しました、するとボーイはまた奥へ相談に行きましたよ 」「
いやに手数てすう が掛りますな 」と
主人 は戦争の通信を読むくらいの意気込で席を
前すす める。「
するとボーイがまた出て来て、近頃はトチメンボー の材料が払底【品切れ】で 亀屋へ行っても横浜の十五番へ行っても買われませんから 当分の間は御生憎様でと気の毒そうに言うと、先生はそりゃ困ったな、せっかく来たのになあと 私の方を御覧になってしきりに繰り返さるるので、私も黙っている訳にも参りませんから、どうも遺憾いかん ですな、遺憾極きわま るですなと調子を合せたのです 」「
ごもっともで 」と
主人 が賛成する。何がごもっともだか
吾輩 にはわからん。「
するとボーイも気の毒だと見えて、その内材料が参りましたら、どうか願いますってんでしょう。先生が材料は何を使うかねと問われると ボーイはへへへへと笑って返事をしないんです。材料は日本派【保守的・伝統重視】の俳人だろうと先生が押し返して聞くとボーイはへえさようで、それだものだから近頃は横浜へ行っても買われませんので、まことにお気の毒様と言いましたよ 」「
アハハハそれが落ちなんですか、こりゃ面白い 」と
主人 はいつになく大きな声で笑う。
膝ひざ が揺れて
吾輩 は落ちかかる。
主人 はそれにも
頓着とんじゃく なく笑う。アンドレア・デル・サルトに
罹かか ったのは 自分一人でないと言う事を知ったので 急に愉快になったものと見える。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(35 / 115)
「
それから二人で表へ出ると、どうだ君 うまく行ったろう、橡面坊とちめんぼう 【俳人の安藤橡面坊をもじって使っている】を種に使ったところが面白かろうと大得意なんです。敬服の至りですと言って御別れしたようなものの 実は午飯ひるめし の時刻が延びたので 大変空腹になって弱りましたよ 」「
それは御迷惑でしたろう 」と
主人 は始めて同情を表する。これには
吾輩 も異存はない。しばらく話しが途切れて
吾輩 の
咽喉のど を鳴らす音が
主客しゅかく の耳に入る。
東風 君は冷めたくなった茶をぐっと飲み干して「
実は今日参りましたのは、少々先生に御願があって参ったので 」と改まる。「
はあ、何か御用で 」と
主人 も負けずに
済す ます。「
御承知の通り、文学美術が好きなものですから…… 」「
結構で 」と油を
注さ す。「
同志だけがよりましてせんだってから朗読会というのを組織しまして、毎月一回会合してこの方面の研究をこれから続けたいつもりで、すでに第一回は去年の暮に開いたくらいであります 」「
ちょっと伺っておきますが、朗読会と言うと何か節奏ふし でも附けて、詩歌しいか 文章の類るい を読むように聞えますが、一体どんな風にやるんです 」「
まあ初めは古人の作からはじめて、追々おいおい は同人の創作なんかもやるつもりです 」「
古人の作というと白楽天はくらくてん 【唐の詩人】の琵琶行びわこう のようなものででもあるんですか 」「
いいえ 」「
蕪村ぶそん の春風馬堤曲しゅんぷうばていきょく 【与謝蕪村の俳詩】の種類ですか」「
いいえ 」「
それじゃ、どんなものをやったんです 」「
せんだっては近松の心中物しんじゅうもの をやりました 」「
近松? あの浄瑠璃じょうるり の近松ですか 」近松に二人はない。近松といえば戯曲家の近松に
極きま っている。それを聞き直す
主人 はよほど
愚ぐ だと思っていると、
主人 は何にも分らずに
吾輩 の頭を
丁寧ていねい に
撫な でている。
薮睨やぶにら みから
惚ほ れられたと自認している人間もある世の中だから このくらいの
誤謬ごびゅう 【まちがい】は決して驚くに足らんと撫でらるるがままに すましていた。「
ええ 」と答えて
東風 子とうふうし は
主人 の顔色を
窺うかが う。「
それじゃ一人で朗読するのですか、または役割を極き めてやるんですか 」「
役を極めて懸合かけあい でやって見ました。その主意はなるべく作中の人物に同情を持ってその性格を発揮するのを第一として、それに手真似や身振りを添えます。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(36 / 115)
白せりふ はなるべくその時代の人を写し出すのが主で、御嬢さんでも丁稚でっち でも、その人物が出てきたようにやるんです」「
じゃ、まあ芝居見たようなものじゃありませんか 」「
ええ衣装いしょう と書割かきわり 【背景を描いた大道具】がないくらいなものですな 」「
失礼ながらうまく行きますか 」「
まあ第一回としては成功した方だと思います 」「
それでこの前やったとおっしゃる心中物というと 」「
その、船頭が御客を乗せて芳原よしわら へ行く所とこ なんで 」「
大変な幕をやりましたな 」と教師だけにちょっと首を
傾かたむ ける。鼻から吹き出した
日の出 の煙りが耳を
掠かす めて顔の横手へ廻る。「
なあに、そんなに大変な事もないんです。登場の人物は御客と、船頭と、花魁おいらん と仲居なかい と遣手やりて 【遊女屋の女将】と見番けんばん 【案内連絡係】だけですから 」と
東風 子は平気なものである。
主人 は
花魁おいらん という名をきいてちょっと
苦にが い顔をしたが、仲居、遣手、見番という術語について明瞭の知識がなかったと見えてまず質問を呈出した。「
仲居というのは娼家しょうか の下婢かひ にあたるものですかな 」「
まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で、遣手というのが女部屋おんなべや の助役じょやく 見たようなものだろうと思います 」
東風 子はさっき、その人物が出て来るように
仮色こわいろ を使うと言った癖に遣手や仲居の性格をよく解しておらんらしい。「
なるほど仲居は茶屋に隷属れいぞく するもので、遣手は娼家に起臥きが 【寝起き】する者ですね。次に見番 と言うのは人間ですか または一定の場所を指さ すのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか 」「
見番は何でも男の人間だと思います 」「
何を司つかさ どっているんですかな 」「
さあそこまでは まだ調べが届いておりません。その内調べて見ましょう 」これで懸合をやった日には
頓珍漢とんちんかん なものが出来るだろうと
吾輩 は
主人 の顔をちょっと見上げた。
主人 は存外真面目である。「
それで朗読家は君のほかにどんな人が加わったんですか 」「
いろいろおりました。花魁おいらん が法学士のK君でしたが、口髯くちひげ を生やして、女の甘ったるいせりふを使つ かうのですから ちょっと妙でした。それにその花魁おいらん が癪しゃく 【しゃっくり】を起すところがあるので…… 」「
朗読でも癪を起さなくっちゃ、いけないんですか 」と
主人 は心配そうに尋ねる。「
ええ とにかく表情が大事ですから 」と
東風 子はどこまでも文芸家の気でいる。「
うまく癪が起りましたか 」と
主人 は警句を吐く。「
癪だけは第一回には、ちと無理でした 」と
東風 子も警句を吐く。「
ところで君は何の役割でした 」と
主人 が聞く。「
私わたく しは船頭」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(37 / 115)
「
へー、君が船頭 」君にして船頭が
務つと まるものなら僕にも見番くらいはやれると言ったような語気を
洩も らす。やがて「
船頭は無理でしたか 」と御世辞のないところを打ち明ける。
東風 子は別段癪に障った様子もない。やはり沈着な口調で「
その船頭でせっかくの催しも竜頭蛇尾りゅうとうだび 【始めは勢いがよいが終わりはしりすぼみ】に終りました。実は会場の隣りに女学生が四五人下宿していましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読会があるという事を、どこかで探知して会場の窓下へ来て傍聴していたものと見えます。私わたく しが船頭の仮色こわいろ を使って、ようやく調子づいてこれなら大丈夫と思って得意にやっていると、……つまり身振りがあまり過ぎたのでしょう、今まで耐こ らえていた女学生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚ろいた事も驚ろいたし、極きま りが悪わ るい事も悪るいし、それで腰を折られてから、どうしても後がつづけられないので、とうとうそれ限ぎ りで散会しました 」第一回としては成功だと称する朗読会がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると笑わずにはいられない。覚えず
咽喉仏のどぼとけ がごろごろ鳴る。
主人 はいよいよ柔かに頭を
撫な でてくれる。人を笑って可愛がられるのはありがたいが、いささか無気味なところもある。「
それは飛んだ事で 」と
主人 は正月早々
弔詞ちょうじ を述べている。「
第二回からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、今日出ましたのも全くそのためで、実は先生にも一つ御入会の上御尽力を仰ぎたいので 」「
僕にはとても癪なんか起せませんよ 」と消極的の
主人 はすぐに断わりかける。「
いえ、癪などは起していただかんでもよろしいので、ここに賛助員の名簿が 」と言いながら紫の風呂敷から大事そうに
小菊版こぎくばん 【A4版に似たサイズ】の帳面を出す。「
これへどうか御署名の上御捺印ごなついん を願いたいので 」と帳面を
主人 の
膝ひざ の前へ開いたまま置く。見ると現今知名な文学博士、文学士連中の名が行儀よく
勢揃せいぞろい をしている。「
はあ賛成員にならん事もありませんが、どんな義務があるのですか 」と
牡蠣先生 かきせんせい は
掛念けねん の
体てい に見える。「
義務と申して別段是非願う事もないくらいで、ただ御名前だけを御記入下さって賛成の意さえ御表おひょう し被下くださ ればそれで結構です 」「
そんなら入ります 」と義務のかからぬ事を知るや否や
主人 は急に気軽になる。責任さえないと言う事が分っておれば
謀叛むほん の連判状へでも名を書き入れますと言う顔付をする。
加之のみならず こう知名の学者が名前を
列つら ねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんな事に出合った事のない
主人 にとっては無上の光栄であるから返事の勢のあるのも無理はない。「
ちょっと失敬 」と
主人 は書斎へ印をとりに入る。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(38 / 115)
吾輩 はぼたりと畳の上へ落ちる。
東風 子は菓子皿の中の
カステラ をつまんで一口に
頬張ほおば る。モゴモゴしばらくは苦しそうである。
吾輩 は今朝の
雑煮ぞうに 事件をちょっと思い出す。
主人 が書斎から
印形いんぎょう を持って出て来た時は、
東風 子の胃の中にカステラが落ちついた時であった。
主人 は菓子皿のカステラが
一切ひときれ 足りなくなった事には気が着かぬらしい。もし気がつくとすれば第一に疑われるものは
吾輩 であろう。
東風 子が帰ってから、
主人 が書斎に入って机の上を見ると、いつの間にか
迷亭 先生の手紙が来ている。
『新年の御慶ぎょけい 目出度めでたく 申納候もうしおさめそろ 。……』
いつになく出が真面目だと
主人 が思う。
迷亭 先生の手紙に真面目なのはほとんどないので、この間などは「
其後そのご 別に恋着れんちゃく 【深く執着】せる婦人も無之これなく 、いず方かた より艶書えんしょ も参らず、先ま ず先ま ず無事に消光【日を過ごす】罷まか り在り候そろ 間、乍憚はばかりながら 御休心【安心】可被下候くださるべくそろ 」と言うのが来たくらいである。それに
較くら べるとこの年始状は例外にも世間的である。
『一寸参堂仕ちょっとさんどうつかまつ り 度たく 【お宅に伺いたい】候えども、大兄【あなた】の消極主義に反して、出来得る限り積極的方針を以もっ て、此千古このせんこ 【千年の昔から】未曽有みぞう 【かつてなかった】の新年を迎うる計画故、毎日毎日目の廻る程の多忙、御推察願上候そろ ……』
なるほどあの男の事だから正月は遊び廻るのに忙がしいに違いないと、
主人 は腹の中で
迷亭 君に同意する。
『昨日は一刻のひまを偸ぬす み、東風 子にトチメンボー の御馳走ごちそう を致さんと存じ候処そろところ 、生憎あいにく 材料払底の為た め其意を果さず、遺憾いかん 千万に存候ぞんじそろ 。……』
そろそろ例の通りになって来たと
主人 は無言で微笑する。
『明日は某男爵の歌留多会かるたかい 、明後日は審美学協会の新年宴会、其明日は鳥部 教授歓迎会、其又明日は……』
うるさいなと、
主人 は読みとばす。
『右の如く謡曲会、俳句会、短歌会、新体詩会等、会の連発にて当分の間は、のべつ幕無しに出勤致し候そろ 為め、不得已やむをえず 賀状を以て拝趨はいすう 【急ぎ伺う】の礼に易か え 候段そろだん 不悪あしからず 御宥恕ごゆうじょ 【寛大に許す】 被下度候くだされたくそろ 。……』
別段くるにも及ばんさと、
主人 は手紙に返事をする。
『今度御光来【来訪】の節は久し振りにて晩餐でも供し度たき 心得に御座候そろ 。寒厨かんちゅう 【食物の乏しい台所】何の珍味も無之候これなくそうら えども、せめてはトチメンボー でもと只今より心掛居候おりそろ 。……』
まだ
トチメンボー を振り廻している。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(39 / 115)
失敬なと
主人 はちょっとむっとする。
『然しか しトチメンボー は近頃材料払底の為め、ことに依ると間に合い兼候かねそろ も計りがたきにつき、其節は孔雀くじゃく の舌した でも御風味に入れ可申候もうすべくそろ 。……』
両天秤りょうてんびん をかけたなと
主人 は、あとが読みたくなる。
『御承知の通り孔雀一羽につき、舌肉の分量は小指の半なか ばにも足らぬ程故健啖けんたん 【食欲が旺盛】なる大兄の胃嚢いぶくろ を充み たす為には……』
うそをつけと
主人 は打ち
遣や ったようにいう。
『是非共二三十羽の孔雀を捕獲致さざる可べか らずと存候ぞんじそろ 。然る所孔雀は動物園、浅草花屋敷等には、ちらほら見受け候えども、普通の鳥屋抔など には一向いっこう 見当り不申もうさず 、苦心くしん 此事このこと に御座候そろ 。……』
独りで勝手に苦心しているのじゃないかと
主人 は
毫ごう も感謝の意を表しない。
『此孔雀の舌の料理は往昔おうせき 【いにしえ】羅馬ローマ 全盛の砌みぎ り、一時非常に流行致し候そろ ものにて、豪奢ごうしゃ 風流の極度と平生よりひそかに食指しょくし を動かし居候おりそろ 次第御諒察ごりょうさつ 【ご察し】可被下候くださるべくそろ 。……』
何が御諒察だ、馬鹿なと
主人 はすこぶる冷淡である。
『降くだ って十六七世紀の頃迄は全欧を通じて孔雀は宴席に欠くべからざる好味と相成居候あいなりおりそろ 。レスター伯【イギリスの伯爵】がエリザベス女皇じょこう をケニルウォースに招待致し候節そろせつ も慥たし か孔雀を使用致し候様そろよう 記憶致候いたしそろ 。有名なるレンブラント【オランダで活躍した画家】が画えが き候そろ 饗宴の図にも孔雀が尾を広げたる儘まま 卓上に横よこた わり居り候そろ ……』
孔雀の料理史をかくくらいなら、そんなに多忙でもなさそうだと不平をこぼす。
『とにかく近頃の如く御馳走の食べ続けにては、さすがの小生も遠からぬうちに大兄の如く胃弱と相成あいな るは必定ひつじょう ……』
大兄のごとくは余計だ。何も僕を胃弱の標準にしなくても済むと
主人 はつぶやいた。
『歴史家の説によれば羅馬人ローマじん は日に二度三度も宴会を開き候由そろよし 。日に二度も三度も方丈ほうじょう の食饌しょくせん 【ぜいたくな食事】に就き候えば如何なる健胃の人にても消化機能に不調を醸かも すべく、従って自然は大兄の如く……』
また大兄のごとくか、失敬な。
『然しか るに贅沢ぜいたく と衛生とを両立せしめんと研究を尽したる彼等は不相当に多量の滋味を貪むさぼ ると同時に胃腸を常態に保持するの必要を認め、ここに一の秘法を案出致し候そろ ……』
はてねと
主人 は急に熱心になる。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(40 / 115)
『彼等は食後必ず入浴致候いたしそろ 。入浴後一種の方法によりて浴前よくぜん に嚥下えんか せるものを悉ことごと く嘔吐おうと し、胃内を掃除致し候そろ 。胃内廓清いないかくせい 【清らかにする】の功を奏したる後のち 又食卓に就つ き、飽あ く迄珍味を風好ふうこう し、風好し了おわ れば又湯に入りて之これ を吐出としゅつ 致候いたしそろ 。かくの如くすれば好物は貪むさ ぼり次第貪り候そうろう も毫ごう も内臓の諸機関に障害を生ぜず、一挙両得とは此等の事を可申もうすべき かと愚考致候いたしそろ ……』
なるほど一挙両得に相違ない。
主人 は
羨うらや ましそうな顔をする。
『廿世紀【二十世紀】の今日こんにち 交通の頻繁ひんぱん 、宴会の増加は申す迄もなく、軍国多事征露の第二年とも相成候折柄そろおりから 、吾人戦勝国の国民は、是非共羅馬ローマ 人に傚なら って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し候そろ 事と自信致候いたしそろ 。左さ もなくば切角せっかく の大国民も近き将来に於て悉ことごと く大兄の如く胃病患者と相成る事と窃ひそ かに心痛罷まか りあり候そろ ……』
また大兄のごとくか、
癪しゃく に
障さわ る男だと
主人 が思う。
『此際このさい 吾人ごじん 【我々】 西洋の事情に通ずる者が古史伝説を考究し、既に廃絶せる秘法を発見し、之これ を明治の社会に応用致し候わば 所謂いわば 禍わざわい を未萌みほう 【事前】に防ぐの功徳くどく にも相成り 平素逸楽いつらく 【悦楽】を 擅ほしいまま に致し候そろ 御恩返も 相立ち可申もうすべく と存候ぞんじそろ ……』
何だか妙だなと首を
捻ひね る。
『依よっ て此この 間中じゅう よりギボン【イギリスの歴史家】、モンセン【ドイツの歴史家】、スミス【イギリスの辞典編纂者へんさんしゃ 】等諸家の著述を渉猟しょうりょう 【読みあさる】致し居候おりそうら えども 未いま だに発見の端緒たんしょ をも見出みいだ し得ざるは残念の至に存候ぞんじそろ 。然し御存じの如く小生は一度思い立ち候事そろこと は成功するまでは決して中絶仕つかまつ らざる性質に候えば嘔吐方おうとほう を再興致し候そろ も遠からぬうちと信じ居り候そろ 次第。右は発見次第御報道可仕候つかまつるべくそろ につき、左様御承知可被下候くださるべくそろ 。就つい てはさきに申上候そろ トチメンボー 及び孔雀の舌の御馳走も可相成あいなるべく は右発見後に致し度たく 、左さ すれば小生の都合は勿論もちろん 、既に胃弱に悩み居らるる大兄の為にも御便宜ごべんぎ かと存候ぞんじそろ 草々不備【急ぎ書いたので失礼があるかもしれません】』
何だとうとう
担かつ がれたのか、あまり書き方が真面目だものだからつい
仕舞しまい まで本気にして読んでいた。新年
匆々そうそう こんな
悪戯いたずら をやる
迷亭 はよっぽどひま人だなあと
主人 は笑いながら言った。
それから四五日は別段の事もなく過ぎ去った。
白磁はくじ 【花瓶】の水仙がだんだん
凋しぼ んで、
青軸あおじく の梅が
瓶びん ながらだんだん開きかかるのを眺め暮らしてばかりいてもつまらんと思って、
一両度いちりょうど 【一、二度】
三毛 子を訪問して見たが
逢あ われない。最初は留守だと思ったが、二
返目へんめ には病気で寝ているという事が知れた。障子の中で例の御
師匠 さんと下女が話しをしているのを
手水鉢ちょうずばち 【手洗い桶】の葉蘭【ハラン】の影に隠れて聞いているとこうであった。
「
三毛 は御飯をたべるかい」「
いいえ今朝からまだ何なん にも食べません、あったかにして御火燵おこた に寝かしておきました 」何だか猫らしくない。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(41 / 115)
まるで人間の取扱を受けている。
一方では自分の境遇と比べて見て
羨うらや ましくもあるが、一方では
己おの が愛している猫がかくまで厚遇を受けていると思えば嬉しくもある。
「
どうも困るね、御飯をたべないと、身体からだ が疲れるばかりだからね 」「
そうでございますとも、私共でさえ一日御膳ごぜん をいただかないと、明くる日はとても働けませんもの 」
下女は自分より猫の方が上等な動物であるような返事をする。実際この
家うち では下女より猫の方が大切かも知れない。
「
御医者様へ連れて行ったのかい 」「
ええ、あの御医者はよっぽど妙でございますよ。私が三毛 をだいて診察場へ行くと、風邪かぜ でも引いたのかって私の脈みゃく をとろうとするんでしょう。いえ病人は私ではございません。これですって三毛 を膝の上へ直したら、にやにや笑いながら、猫の病気はわしにも分らん、抛ほう っておいたら今に癒なお るだろうってんですもの、あんまり苛ひど いじゃございませんか。腹が立ったから、それじゃ見ていただかなくっても ようございます これでも大事の猫なんですって、三毛 を懐ふところ へ入れてさっさと帰って参りました 」「
ほんにねえ 」
「
ほんにねえ 」は
到底とうてい 吾輩 のうちなどで聞かれる言葉ではない。やはり
天璋院てんしょういん 様の何とかの何とかでなくては使えない、はなはだ
雅が であると感心した。
「
何だか しくしく言うようだが…… 」「
ええきっと風邪を引いて咽喉のど が痛むんでございますよ。風邪を引くと、どなたでも御咳おせき が出ますからね…… 」
天璋院様の何とかの何とかの下女だけに馬鹿
丁寧ていねい な言葉を使う。
「
それに近頃は肺病とか言うものが出来てのう 」「
ほんとにこの頃のように肺病だのペストだのって新しい病気ばかり殖ふ えた日にゃ油断も隙も なりゃしません のでございますよ 」「
旧幕時代に無い者に碌ろく な者はないから御前も気をつけないといかんよ 」「
そうでございましょうかねえ 」
下女は
大おおい に感動している。
「
風邪かぜ を引くといってもあまり出あるきもしないようだったに……」「
いえね、あなた、それが近頃は悪い友達が出来ましてね 」
下女は国事の秘密でも語る時のように大得意である。
「
悪い友達? 」「
ええあの表通りの教師の所とこ にいる薄ぎたない雄猫おねこ でございますよ 」「
教師と言うのは、あの毎朝無作法な声を出す人かえ 」「
ええ顔を洗うたんびに鵝鳥がちょう が絞し め殺されるような声を出す人でござんす 」
鵝鳥が絞め殺されるような声はうまい形容である。
吾輩 の
主人 は毎朝風呂場で
含嗽うがい をやる時、
楊枝ようじ で
咽喉のど をつっ突いて妙な声を無遠慮に出す癖がある。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(42 / 115)
機嫌の悪い時はやけに があがあやる、機嫌の好い時は元気づいてなお があがあやる。つまり機嫌のいい時も悪い時も休みなく勢よく があがあやる。
細君 の話しではここへ引越す前まではこんな癖はなかったそうだが、ある時ふとやり出してから今日まで一日もやめた事がないという。ちょっと厄介な癖であるが、なぜこんな事を根気よく続けているのか吾等猫などには
到底とうてい 想像もつかん。それもまず善いとして「
薄ぎたない猫 」とは随分酷評をやるものだとなお耳を立ててあとを聞く。
「
あんな声を出して何の呪まじな いになるか知らん。御維新前ごいっしんまえ は中間ちゅうげん 【武家の下働き】でも草履ぞうり 取りでも相応の作法は心得たもので、屋敷町などで、あんな顔の洗い方をするものは一人もおらなかったよ 」「
そうでございましょうともねえ 」
下女は
無暗むやみ に感服しては、無暗に
ねえ を使用する。
「
あんな主人 を持っている猫だから、どうせ野良猫のらねこ さ、今度来たら少し叩たた いておやり 」「
叩いてやりますとも、三毛 の病気になったのも全くあいつの御蔭に相違ございませんもの、きっと讐かたき をとってやります 」
飛んだ
冤罪えんざい を
蒙こうむ ったものだ。こいつは
滅多めった に
近ち か
寄よ れないと
三毛 子にはとうとう逢わずに帰った。
帰って見ると
主人 は書斎の
中うち で何か
沈吟ちんぎん 【思いにふける】の
体てい で筆を
執と っている。
二絃琴にげんきん の御
師匠 さんの
所とこ で聞いた評判を話したら、さぞ
怒おこ るだろうが、知らぬが仏とやらで、うんうん言いながら神聖な詩人になりすましている。
ところへ当分多忙で行かれないと言って、わざわざ年始状をよこした
迷亭 君が
飄然ひょうぜん 【ふらり】とやって来る。「
何か新体詩でも作っているのかね。面白いのが出来たら見せたまえ 」と言う。「
うん、ちょっとうまい文章だと思ったから今翻訳して見ようと思ってね 」と
主人 は重たそうに口を開く。「
文章? 誰だ れの文章だい 」「
誰れのか分らんよ 」「
無名氏か、無名氏の作にも随分善いのがあるからなかなか馬鹿に出来ない。全体どこにあったのか 」と問う。「
第二読本 」と
主人 は落ちつきはらって答える。「
第二読本? 第二読本がどうしたんだ 」「
僕の翻訳している名文と言うのは第二読本の中うち にあると言う事さ 」「
冗談じょうだん じゃない。孔雀の舌の讐かたき を際きわ どいところで討とうと言う寸法なんだろう」「
僕は君のような法螺吹ほらふ きとは違うさ 」と
口髯くちひげ を
捻ひね る。泰然たるものだ。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(43 / 115)
「
昔むか し ある人が山陽【昔の文人】に、先生近頃名文はござらぬかといったら、山陽が馬子まご の書いた借金の催促状を示して 近来の名文は まずこれでしょうと言ったという話があるから、君の審美眼も存外たしかかも知れん。どれ読んで見給え、僕が批評してやるから」と
迷亭 先生は審美眼の
本家ほんけ のような事を言う。
主人 は禅
坊主 が
大灯国師だいとうこくし 【臨済宗の名僧】の
遺誡ゆいかい 【遺訓】を読むような声を出して読み始める。「
巨人きょじん 、引力いんりょく 」「
何だいその巨人引力と言うのは 」「
巨人引力と言う題さ 」「
妙な題だな、僕には意味がわからんね 」「
引力と言う名を持っている巨人というつもりさ 」「
少し無理なつもり だが表題だからまず負けておくとしよう。それから早々そうそう 本文を読むさ、君は声が善いからなかなか面白い 」「
雑ま ぜかえしてはいかんよ」と
予あらか じめ念を押してまた読み始める。
ケートは窓から外面そと を眺なが める。小児しょうに が球たま を投げて遊んでいる。彼等は高く球を空中に擲なげう つ。球は上へ上へとのぼる。しばらくすると落ちて来る。彼等はまた球を高く擲つ。再び三度。擲つたびに球は落ちてくる。なぜ落ちるのか、なぜ上へ上へとのみ のぼらぬかとケートが聞く。「巨人が地中に住む故に 」と母が答える。「彼は巨人引力である。彼は強い。彼は万物を己おの れの方へと引く。彼は家屋を地上に引く。引かねば飛んでしまう。小児も飛んでしまう。葉が落ちるのを見たろう。あれは巨人引力が呼ぶのである。本を落す事があろう。巨人引力が来いというからである。球が空にあがる。巨人引力は呼ぶ。呼ぶと落ちてくる 」
「
それぎりかい 」「
むむ、甘うま いじゃないか 」「
いやこれは恐れ入った。飛んだところでトチメンボー の御返礼に預あずか った 」「
御返礼でもなんでもないさ、実際うまいから訳して見たのさ、君はそう思わんかね 」と金縁の眼鏡の奥を見る。「
どうも驚ろいたね。君にしてこの技量ぎりょう あらんとは、全く此度こんど という今度こんど は担かつ がれたよ、降参降参 」と一人で承知して一人で
喋舌しゃべ る。
主人 には
一向いっこう 通じない。「
何も君を降参させる考えはないさ。ただ面白い文章だと思ったから訳して見たばかりさ 」「
いや実に面白い。そう来なくっちゃ本ものでない。凄すご いものだ。恐縮だ 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(44 / 115)
「
そんなに恐縮するには及ばん。僕も近頃は水彩画をやめたから、その代りに文章でもやろうと思ってね 」「
どうして遠近えんきん 無差別むさべつ 黒白こくびゃく 平等びょうどう の水彩画の比じゃない【水彩画のような曖昧さなんて生ぬるいほどの、ものすごく混沌としている】。感服の至りだよ 」「
そうほめてくれると僕も乗り気になる 」と
主人 は あくまでも
疳違かんちが いをしている【皮肉っただけなのに】。
ところへ
寒月 かんげつ 君が先日は失礼しましたと入って来る。「
いや失敬。今大変な名文を拝聴してトチメンボー の亡魂を退治たいじ られたところで 」と
迷亭 先生は訳のわからぬ事をほのめかす。「
はあ、そうですか 」とこれも訳の分らぬ挨拶をする。
主人 だけは
左さ のみ【たいして】浮かれた
気色けしき 【様子】もない。「
先日は君の紹介で越智おち 東風 とうふう と言う人が来たよ 」「
ああ上りましたか、あの越智おち 東風 こち と言う男は至って正直な男ですが少し変っているところがあるので、あるいは御迷惑かと思いましたが、是非紹介してくれというものですから…… 」「
別に迷惑の事もないがね…… 」「
こちらへ上っても自分の姓名のことについて何か弁じて行きゃしませんか 」「
いいえ、そんな話もなかったようだ 」「
そうですか、どこへ行っても初対面の人には自分の名前の講釈こうしゃく をするのが癖でしてね 」「
どんな講釈をするんだい 」と事あれかし【そうなってほしい】と待ち構えた
迷亭 君は口を入れる。「
あの東風 こち と言うのを音おん で読まれると大変気にするので 」「
はてね 」と
迷亭 先生は
金唐皮きんからかわ 【黄金の皮革】の
煙草入たばこいれ から煙草をつまみ出す。「
私わたく しの名は越智おち 東風 とうふう ではありません、越智おち こち ですと必ず断りますよ」「
妙だね 」と
雲井くもい 【タバコ】を腹の底まで
呑の み込む。「
それが全く文学熱から来たので、こちと読むと遠近 【〝おちこち〟と読み〝あちらこちら〟という意味】と言う成語せいご になる、のみならずその姓名が韻いん を踏んでいると言うのが得意なんです。それだから東風 こち を音おん で読むと僕がせっかくの苦心を人が買ってくれないといって不平を言うのです 」「
こりゃなるほど変ってる 」と
迷亭 先生は図に乗って腹の底から雲井を鼻の
孔あな まで吐き返す。途中で煙が
戸迷とまど いをして
咽喉のど の出口へ引きかかる。先生は
煙管きせる を握って ごほんごほん と
咽むせ び返る。「
先日来た時は朗読会で船頭になって女学生に笑われたといっていたよ 」と
主人 は笑いながら言う。「
うむそれそれ 」と
迷亭 先生が
煙管きせる で
膝頭ひざがしら を
叩たた く。
吾輩 は
険呑けんのん 【不安】になったから少し
傍そば を離れる。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(45 / 115)
「
その朗読会さ。せんだってトチメンボー を御馳走した時にね。その話しが出たよ。何でも第二回には知名の文士を招待して大会をやるつもりだから、先生にも是非御臨席を願いたいって。それから僕が今度も近松の世話物【人情話】をやるつもりかいと聞くと、いえこの次はずっと新しい者を撰えら んで金色夜叉こんじきやしゃ にしましたと言うから、君にゃ何の役が当ってるかと聞いたら私は御宮おみや ですといったのさ。東風 とうふう の御宮は面白かろう。僕は是非出席して喝采かっさい しようと思ってるよ 」「
面白いでしょう 」と
寒月 君が妙な笑い方をする。「
しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないから好い。迷亭 などとは大違いだ 」と
主人 はアンドレア・デル・サルトと
孔雀くじゃく の舌と
トチメンボー の
復讐かたき を一度にとる。
迷亭 君は気にも留めない様子で「
どうせ僕などは行徳ぎょうとく の俎まないた 【馬鹿で世間ずれ】と言う格だからなあ 」と笑う。「
まずそんなところだろう 」と
主人 が言う。実は行徳の俎と言う語を
主人 は
解かい さないのであるが、さすが永年教師をして
胡魔化ごまか しつけているものだから、こんな時には教場の経験を社交上にも応用するのである。「
行徳の俎というのは何の事ですか 」と
寒月 が
真率しんそつ 【率直】に聞く。
主人 は床の方を見て「
あの水仙は暮に僕が風呂の帰りがけに買って来て挿さ したのだが、よく持つじゃないか 」と行徳の俎を無理にねじ伏せる。「
暮といえば、去年の暮に僕は実に不思議な経験をしたよ 」と
迷亭 が
煙管きせる を
大神楽だいかぐら のごとく指の
尖さき で廻わす。「
どんな経験か、聞かし玉たま え 」と
主人 は行徳の俎を遠く
後うしろ に見捨てた気で、ほっと息をつく。
迷亭 先生の不思議な経験というのを聞くと
左さ のごとくである。
「
たしか暮の二十七日と記憶しているがね。例の東風 とうふう から参堂の上 是非文芸上の御高話を伺いたいから御在宿を願うと言う先さ き触ぶ れがあったので、朝から心待ちに待っていると先生なかなか来ないやね。昼飯を食ってストーブの前でバリー・ペーン【イギリスのユーモア作家】の滑稽物こっけいもの を読んでいるところへ静岡の母から手紙が来たから見ると、年寄だけにいつまでも僕を小供のように思ってね。寒中は夜間外出をするなとか、冷水浴もいいがストーブを焚た いて室へや を煖あたた かにしてやらないと風邪かぜ を引くとか いろいろの注意があるのさ。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(46 / 115)
なるほど親はありがたいものだ、他人ではとてもこうはいかないと、呑気のんき な僕もその時だけは大おおい に感動した。それにつけても、こんなにのらくらしていては勿体もったい ない。何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。母の生きているうちに天下をして明治の文壇に迷亭 先生あるを知らしめたいと言う気になった。それからなお読んで行くと御前なんぞは実に仕合せ者だ。露西亜ロシア と戦争が始まって若い人達は大変な辛苦しんく をして御国みくに のために働らいているのに節季師走せっきしわす でもお正月のように気楽に遊んでいると書いてある。――僕はこれでも母の思ってるように遊んじゃいないやね――そのあとへ以もっ て来て、僕の小学校時代の朋友ほうゆう で今度の戦争に出て死んだり負傷したものの名前が列挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気あじき なくなって人間もつまらないと言う気が起ったよ。一番仕舞しまい にね。私わた しも取る年に候えば初春はつはる の御雑煮おぞうに を祝い候も今度限りかと……何だか心細い事が書いてあるんで、なおのこと気がくさくさしてしまって早く東風 とうふう が来れば好いと思ったが、先生どうしても来ない。そのうちとうとう晩飯になったから、母へ返事でも書こうと思ってちょいと十二三行かいた。母の手紙は六尺【約1.8m】以上もあるのだが僕にはとてもそんな芸は出来んから、いつでも十行内外で御免蒙こうむ る事に極き めてあるのさ。すると一日動かずにおったものだから、胃の具合が妙で苦しい。東風 が来たら待たせておけと言う気になって、郵便を入れながら散歩に出掛けたと思い給え。いつになく富士見町の方へは足が向かないで土手どて 三番町さんばんちょう の方へ我れ知らず出てしまった。ちょうどその晩は少し曇って、から風が御濠おほり の向むこ うから吹き付ける、非常に寒い。神楽坂かぐらざか の方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。大変淋さみ しい感じがする。暮、戦死、老衰、無常迅速【人はいつ死ぬかわからない】などと言う奴が頭の中をぐるぐる馳か け廻めぐ る。よく人が首を縊くく ると言うがこんな時にふと誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。」 「
ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつの間にか例の松の真下ました に来ているのさ 」
「
例の松た、何だい 」と
主人 が
断句だんく を投げ入れる。
「
首懸くびかけ の松さ」と
迷亭 は
領えり を縮める。
「
首懸の松は鴻こう の台だい でしょう 」
寒月 が
波紋はもん をひろげる。
「
鴻こう の台だい のは鐘懸かねかけ の松で、土手三番町のは首懸くびかけ の松さ。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(47 / 115)
なぜこう言う名が付いたかと言うと、昔むか しからの言い伝えで 誰でもこの松の下へ来ると首が縊くく りたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら首縊くびくく りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。年に二三返べん はきっとぶら下がっている。どうしても他ほか の松では死ぬ気にならん。見ると、うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。ああ好い枝振りだ。あのままにしておくのは惜しいものだ。どうかしてあすこの所へ人間を下げて見たい、誰か来ないかしらと、四辺あたり を見渡すと生憎あいにく 誰も来ない。仕方がない、自分で下がろうか知らん。いやいや自分が下がっては命がない、危あぶ ないからよそう。しかし昔の希臘人ギリシャじん は宴会の席で首縊くびくく りの真似をして余興を添えたと言う話しがある。一人が台の上へ登って縄の結び目へ首を入れる途端に他ほか のものが台を蹴返す。首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛び下りるという趣向しゅこう である。果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん、僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に撓しわ る【たわむ】。撓しわ り按排あんばい が実に美的である。首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。是非やる事にしようと思ったが、もし東風 とうふう が来て待っていると気の毒だと考え出した。それではまず東風 とうふう に逢あ って約束通り話しをして、それから出直そうと言う気になって ついにうちへ帰ったのさ」
「
それで市いち が栄えたのかい 」と
主人 が聞く。
「
面白いですな 」と
寒月 が にやにやしながら言う。
「
うちへ帰って見ると東風 は来ていない。しかし今日こんにち は無拠処よんどころなき 差支さしつか えがあって出られぬ、いずれ永日えいじつ 御面晤ごめんご 【面会】を期すという端書はがき があったので、やっと安心して、これなら心置きなく首が縊くく れる嬉しいと思った。で早速下駄を引き懸けて、急ぎ足で元の所へ引き返して見る…… 」と言って
主人 と
寒月 の顔を見てすましている。
「
見るとどうしたんだい 」と
主人 は少し
焦じ れる。
「
いよいよ佳境に入りますね 」と
寒月 は羽織の
紐ひも をひねくる。
「
見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(48 / 115)
たった一足違いでねえ君、残念な事をしたよ。考えると何でもその時は死神しにがみ に取り着かれたんだね。ゼームス【アメリカの哲学者】などに言わせると副意識下の幽冥界ゆうめいかい と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応かんのう したんだろう。実に不思議な事があるものじゃないか」 迷亭 はすまし返っている。
主人 はまたやられたと思いながら 何も言わずに
空也餅くうやもち 【現在では〝空也もなか〟で有名なお店】を
頬張ほおば って口をもごもご言わしている。
寒月 は火鉢の灰を丁寧に
掻か き
馴な らして、
俯向うつむ いて にやにや笑っていたが、やがて口を開く。極めて静かな調子である。
「
なるほど伺って見ると不思議な事でちょっと有りそうにも思われませんが、私などは自分でやはり似たような経験をつい近頃したものですから、少しも疑がう気になりません 」
「
おや君も首を縊くく りたくなったのかい 」
「
いえ私のは首じゃないんで。これもちょうど明ければ昨年の暮の事でしかも先生と同日同刻くらいに起った出来事ですから なおさら不思議に思われます 」
「
こりゃ面白い 」と
迷亭 も空也餅を頬張る。
「
その日は向島の知人の家うち で忘年会兼けん 合奏会がありまして、私もそれへヴァイオリンを携たずさ えて行きました。十五六人令嬢やら令夫人が集ってなかなか盛会で、近来の快事と思うくらいに万事が整っていました。晩餐ばんさん もすみ合奏もすんで四方よも の話しが出て時刻も大分だいぶ 遅くなったから、もう暇乞いとまご いをして帰ろうかと思っていますと、某博士の夫人が私のそばへ来てあなたは○○子さんの御病気を御承知ですかと小声で聞きますので、実はその両三日前りょうさんにちまえ に逢った時は平常の通り どこも悪いようには見受けませんでしたから、私も驚ろいて精くわ しく様子を聞いて見ますと、私わたく しの逢ったその晩から急に発熱して、いろいろな譫語うわごと を絶間なく口走くちばし るそうで、それだけなら宜い いですがその譫語のうちに私の名が時々出て来るというのです 」
主人 は無論、
迷亭 先生も「
御安おやす くないね」などという
月並つきなみ は言わず、静粛に謹聴している。
「
医者を呼んで見てもらうと、何だか病名はわからんが、何しろ熱が劇はげ しいので脳を犯しているから、もし睡眠剤すいみんざい が思うように功を奏しないと危険であると言う診断だそうで 私はそれを聞くや否や一種いやな感じが起ったのです。ちょうど夢でうなされる時のような重くるしい感じで周囲の空気が急に固形体になって 四方から吾が身をしめつけるごとく思われました。帰り道にもその事ばかりが頭の中にあって苦しくてたまらない。あの奇麗な、あの快活なあの健康な○○子さんが…… 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(49 / 115)
「
ちょっと失敬だが待ってくれ給え。さっきから伺っていると○○子さんと言うのが二返へん ばかり聞えるようだが、もし差支さしつか えがなければ承うけたま わりたいね、君 」と
主人 を
顧かえり みると、
主人 も「
うむ 」と
生返事なまへんじ をする。「
いやそれだけは当人の迷惑になるかも知れませんから廃よ しましょう 」
「
すべて曖々然あいあいぜん 【曖昧の曖の強調】として昧々然まいまいぜん 【曖昧の昧の強調】たるかたで行くつもりかね 」
「
冷笑なさってはいけません、極真面目ごくまじめ な話しなんですから……とにかくあの婦人が急にそんな病気になった事を考えると、実に飛花ひか 落葉らくよう 【世の移り変わり】の感慨で胸が一杯になって、総身そうしん 【全身】の活気が一度にストライキを起したように元気がにわかに滅入めい ってしまいまして、ただ蹌々そうそう 【よろよろ】として踉々ろうろう 【よろよろ】という形かた ちで吾妻橋あずまばし へきかかったのです。欄干に倚よ って下を見ると満潮まんちょう か干潮かんちょう か分りませんが、黒い水がかたまってただ動いているように見えます。花川戸はなかわど の方から人力車が一台馳か けて来て橋の上を通りました。その提灯ちょうちん の火を見送っていると、だんだん小くなって札幌さっぽろ ビールの処で消えました。私はまた水を見る。すると遥はる かの川上の方で私の名を呼ぶ声が聞えるのです。はてな今時分人に呼ばれる訳はないが誰だろうと水の面おもて をすかして見ましたが暗くて何なん にも分りません。気のせいに違いない早々そうそう 帰ろうと思って一足二足あるき出すと、また微かす かな声で遠くから私の名を呼ぶのです。私はまた立ち留って耳を立てて聞きました。三度目に呼ばれた時には欄干に捕つか まっていながら膝頭ひざがしら ががくがく悸ふる え出したのです。その声は遠くの方か、川の底から出るようですが紛まぎ れもない○○子の声なんでしょう。私は覚えず『はーい』と返事をしたのです。その返事が大きかったものですから静かな水に響いて、自分で自分の声に驚かされて、はっと周囲を見渡しました。人も犬も月も何なん にも見えません。その時に私はこの『夜よる 』の中に巻き込まれて、あの声の出る所へ行きたいと言う気がむらむらと起ったのです。○○子の声がまた苦しそうに、訴えるように、救を求めるように私の耳を刺し通したので、今度は『今直すぐ に行きます』と答えて欄干から半身を出して黒い水を眺めました。どうも私を呼ぶ声が浪なみ の下から無理に洩も れて来るように思われましてね。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(50 / 115)
この水の下だなと思いながら私はとうとう欄干の上に乗りましたよ。今度呼んだら飛び込もうと決心して流を見つめていると また憐れな声が糸のように浮いて来る。ここだと思って力を込めて一反いったん 飛び上がっておいて、そして小石か何ぞのように未練なく落ちてしまいました」
「
とうとう飛び込んだのかい 」と
主人 が眼をぱちつかせて問う。
「
そこまで行こうとは思わなかった 」と
迷亭 が自分の鼻の頭をちょいとつまむ。
「
飛び込んだ後は気が遠くなって、しばらくは夢中でした。やがて眼がさめて見ると寒くはあるが、どこも濡ぬ れた所とこ も何もない、水を飲んだような感じもしない。たしかに飛び込んだはずだが実に不思議だ。こりゃ変だと気が付いてそこいらを見渡すと驚きましたね。水の中へ飛び込んだつもりでいたところが、つい間違って橋の真中へ飛び下りたので、その時は実に残念でした。前と後うし ろの間違だけであの声の出る所へ行く事が出来なかったのです 」
寒月 は にやにや笑いながら例のごとく羽織の
紐ひも を
荷厄介にやっかい 【じゃま】にしている。
「
ハハハハこれは面白い。僕の経験と善く似ているところが奇だ。やはりゼームス教授の材料になるね。人間の感応と言う題で写生文にしたらきっと文壇を驚かすよ。……そしてその○○子さんの病気はどうなったかね 」と
迷亭 先生が追窮する。「
二三日前にさんちまえ 年始に行きましたら、門の内で下女と羽根を突いていましたから病気は全快したものと見えます」
主人 は最前から沈思【思いにふける】の
体てい であったが、この時ようやく口を開いて、「
僕にもある 」と負けぬ気を出す。
「
あるって、何があるんだい 」
迷亭 の眼中に
主人 などは無論ない。
「
僕のも去年の暮の事だ 」
「
みんな去年の暮は暗合あんごう 【偶然に一致】で妙ですな 」と
寒月 が笑う。欠けた前歯のうちに
空也餅くうやもち が着いている。
「
やはり同日同刻じゃないか 」と
迷亭 がまぜ返す。
「
いや日は違うようだ。何でも二十日はつか 頃だよ。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(51 / 115)
細君 が御歳暮の代りに摂津せっつ 大掾だいじょう 【義太夫節の太夫】を聞かしてくれろと言うから、連れて行ってやらん事もないが今日の語り物は何だと聞いたら、細君 が新聞を参考して鰻谷うなぎだに だと言うのさ。鰻谷は嫌いだから今日はよそうとその日はやめにした。翌日になると細君 がまた新聞を持って来て今日は堀川ほりかわ だからいいでしょうと言う。堀川は三味線もので賑やかなばかりで実み がないからよそうと言うと、細君 は不平な顔をして引き下がった。その翌日になると細君 が言うには今日は三十三間堂です、私は是非摂津せっつ の三十三間堂が聞きたい。あなたは三十三間堂も御嫌いか知らないが、私に聞かせるのだからいっしょに行って下すっても宜い いでしょうと手詰てづめ 【猶予を与えない】の談判をする。御前がそんなに行きたいなら行っても宜よ ろしい、しかし一世一代と言うので大変な大入だから到底とうてい 突懸つっか けに行ったって入れる気遣きづか いはない。元来ああ言う場所へ行くには茶屋と言うものが在あ って それと交渉して相当の席を予約するのが正当の手続きだから、それを踏まないで常規を脱した事をするのはよくない、残念だが今日はやめようと言うと、細君 は凄すご い眼付をして、私は女ですから そんなむずかしい手続きなんか知りませんが、大原のお母あさんも、鈴木の君代 さんも正当の手続きを踏まないで立派に聞いて来たんですから、いくらあなたが教師だからって、そう手数てすう のかかる見物をしないでもすみましょう、あなたはあんまりだと泣くような声を出す。それじゃ駄目でもまあ行く事にしよう。晩飯をくって電車で行こうと降参をすると、行くなら四時までに向うへ着くようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはいられませんと急に勢がいい。なぜ四時までに行かなくては駄目なんだと聞き返すと、そのくらい早く行って場所をとらなくちゃ入れないからですと 鈴木の君代 さんから教えられた通りを述べる。それじゃ四時を過ぎればもう駄目なんだねと念を押して見たら、ええ駄目ですともと答える。すると君 不思議な事にはその時から急に悪寒おかん がし出してね」
「
奥さんがですか 」と
寒月 が聞く。
「
なに細君 はぴんぴんしていらあね。僕がさ。何だか穴の明いた風船玉のように一度に萎縮いしゅく する感じが起ると思うと、もう眼がぐらぐらして動けなくなった 」
「
急病だね 」と
迷亭 が注釈を加える。
「
ああ困った事になった。細君 が年に一度の願だから是非叶かな えてやりたい。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(52 / 115)
平生いつも 叱りつけたり、口を聞かなかったり、身上しんしょう の苦労をさせたり、小供 の世話をさせたりするばかりで何一つ洒掃薪水さいそうしんすい 【日常の家事】の労に酬むく いた事はない。今日は幸い時間もある、嚢中のうちゅう 【財布】には四五枚の堵物とぶつ 【札】もある。連れて行けば行かれる。細君 も行きたいだろう、僕も連れて行ってやりたい。是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか、靴脱くつぬぎ へ降りる事も出来ない。」
「
ああ気の毒だ気の毒だと思うと なお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから細君 と相談をして甘木 あまき 医学士を迎いにやると生憎あいにく 昨夜ゆうべ が当番でまだ大学から帰らない。二時頃には御帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますと言う返事である。困ったなあ、今 杏仁水きょうにんすい 【風邪薬】でも飲めば四時前にはきっと癒なお るに極きま っているんだが、運の悪い時には何事も思うように行かんもので、たまさか妻君 の喜ぶ笑顔を見て楽もうと言う予算も、がらりと外はず れそうになって来る。細君 は恨うら めしい顔付をして、到底とうてい いらっしゃれませんかと聞く。行くよ必ず行くよ。四時までにはきっと直って見せるから安心しているがいい。早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいい、と口では言ったようなものの胸中は無限の感慨である。悪寒はますます劇はげ しくなる、眼はいよいよぐらぐらする。もしや四時までに全快して約束を履行りこう する事が出来なかったら、気の狭い女の事だから何をするかも知れない。情なさ けない仕儀になって来た。どうしたら善かろう。万一の事を考えると今の内に有為転変ういてんぺん 【世の中は移り変わりやすく、はかない】の理、生者必滅しょうじゃひつめつ 【命あるものは いつかは必ず死ぬ】の道を説き聞かして、もしもの変が起った時取り乱さないくらいの覚悟をさせるのも、夫おっと の妻つま に対する義務ではあるまいかと考え出した。僕は速すみや かに細君 を書斎へ呼んだよ。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(53 / 115)
呼んで御前は女だけれども many a slip 'twixt the cup and the lip【あと一歩というところで、よく失敗するものである】 と言う西洋の諺ことわざ くらいは心得ているだろうと聞くと、そんな横文字なんか誰が知るもんですか、あなたは人が英語を知らないのを御存じの癖にわざと英語を使って人にからかうのだから、宜よろ しゅうございます、どうせ英語なんかは出来ないんですから、そんなに英語が御好きなら、なぜ耶蘇学校ヤソがっこう 【キリスト教系の学校】の卒業生かなんかをお貰い なさらなかったんです。」 「
あなたくらい冷酷な人はありはしないと非常な権幕けんまく なんで、僕もせっかくの計画の腰を折られてしまった。君等にも弁解するが僕の英語は決して悪意で使った訳じゃない。全く妻さい を愛する至情【まごころ】から出たので、それを妻のように解釈されては僕も立つ瀬がない。それにさっきからの悪寒おかん と眩暈めまい で少し脳が乱れていたところへもって来て、早く有為転変、生者必滅の理を呑み込ませようと少し急せ き込んだものだから、つい細君 の英語を知らないと言う事を忘れて、何の気も付かずに使ってしまった訳さ。考えるとこれは僕が悪わ るい、全く手落ちであった。この失敗で悪寒はますます強くなる。眼はいよいよ ぐらぐらする。妻君 は命ぜられた通り風呂場へ行って両肌もろはだ を脱いで御化粧をして、箪笥たんす から着物を出して着換える。もういつでも出掛けられますと言う風情ふぜい で待ち構えている。僕は気が気でない。早く甘木 君が来てくれれば善いがと思って時計を見るともう三時だ。四時にはもう一時間しかない。『そろそろ出掛けましょうか』と妻君 が書斎の開き戸を明けて顔を出す。自分の妻さい を褒ほ めるのはおかしいようであるが、僕はこの時ほど細君 を美しいと思った事はなかった。もろ肌を脱いで石鹸で磨みが き上げた皮膚がぴかついて黒縮緬くろちりめん の羽織と反映している。その顔が石鹸と摂津大掾せっつだいじょう を聞こうと言う希望との二つで、有形無形の両方面から輝やいて見える。どうしてもその希望を満足させて出掛けてやろうと言う気になる。それじゃ奮発して行こうかな、と〝一ぷく〟【タバコ】ふかしているとようやく甘木 先生が来た。うまい注文通りに行った。が容体をはなすと、甘木 先生は僕の舌を眺なが めて、手を握って、胸を敲たた いて背を撫な でて、目縁まぶち を引っ繰り返して、頭蓋骨ずがいこつ をさすって、しばらく考え込んでいる。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(54 / 115)
『どうも少し険呑けんのん 【よくない】のような気がしまして』と僕が言うと、先生は落ちついて、『いえ格別の事もございますまい』と言う。『あのちょっとくらい外出致しても差支さしつか えはございますまいね』と細君 が聞く。『さよう』と先生はまた考え込む。『御気分さえ御悪くなければ……』『気分は悪いですよ』と僕がいう。『じゃともかくも頓服とんぷく と水薬すいやく を上げますから』『へえどうか、何だかちと、危あぶ ないようになりそうですな』『いや決して御心配になるほどの事じゃございません、神経を御起しになるといけませんよ』と先生が帰る。三時は三十分過ぎた。下女を薬取りにやる。細君 の厳命で馳か け出して行って、馳か け出して返ってくる。四時十五分前である。四時にはまだ十五分ある。すると四時十五分前頃から、今まで何とも無かったのに、急に嘔気はきけ を催もよ おして来た。細君 は水薬すいやく を茶碗へ注つ いで僕の前へ置いてくれたから、茶碗を取り上げて飲もうとすると、胃の中からげーと言う者が吶喊とっかん 【つきつらぬく】して出てくる。やむをえず茶碗を下へ置く。細君 は『早く御飲おの みになったら宜い いでしょう』と逼せま る。早く飲んで早く出掛けなくては義理が悪い。思い切って飲んでしまおうとまた茶碗を唇へつけるとまたゲーが執念深しゅうねんぶか く妨害をする。飲もうとしては茶碗を置き、飲もうとしては茶碗を置いていると茶の間の柱時計がチンチンチンチンと四時を打った。さあ四時だ愚図愚図してはおられんと茶碗をまた取り上げると、不思議だねえ君、実に不思議とはこの事だろう、四時の音と共に吐は き気け がすっかり留まって水薬が何の苦なしに飲めたよ。それから四時十分頃になると、甘木 先生の名医という事も始めて理解する事が出来たんだが、背中がぞくぞくするのも、眼がぐらぐらするのも夢のように消えて、当分立つ事も出来まいと思った病気がたちまち全快したのは嬉しかった」
「
それから歌舞伎座へいっしょに行ったのかい 」と
迷亭 が要領を得んと言う顔付をして聞く。
「
行きたかったが四時を過ぎちゃ、入れないと言う細君 の意見なんだから仕方がない、やめにしたさ。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(55 / 115)
もう十五分ばかり早く甘木 先生が来てくれたら僕の義理も立つし、妻さい も満足したろうに、わずか十五分の差でね、実に残念な事をした。考え出すとあぶないところだったと今でも思うのさ」
語り
了おわ った
主人 はようやく自分の義務をすましたような風をする。これで両人に対して顔が立つと言う気かも知れん。
寒月 は例のごとく欠けた歯を出して笑いながら「
それは残念でしたな 」と言う。
迷亭 はとぼけた顔をして「
君のような親切な夫おっと を持った妻君 は実に仕合せだな 」と
独ひと り
言ごと のようにいう。障子の蔭でエヘンと言う
細君 の
咳払せきばら いが聞える。
吾輩 はおとなしく三人の話しを順番に聞いていたがおかしくも悲しくもなかった。人間というものは時間を
潰つぶ すために
強し いて口を運動させて、おかしくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがったりするほかに能もない者だと思った。
吾輩 の
主人 の
我儘わがまま で
偏狭へんきょう 【度量の小さい】な事は前から承知していたが、
平常ふだん は言葉数を使わないので何だか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点に少しは恐しいと言う感じもあったが、今の話を聞いてから急に
軽蔑けいべつ したくなった。かれはなぜ両人の話しを沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって
愚ぐ にもつかぬ駄弁を
弄ろう すれば何の所得があるだろう。エピクテタスにそんな事をしろと書いてあるのか知らん。要するに
主人 も
寒月 も
迷亭 も
太平たいへい の
逸民いつみん で、彼等は
糸瓜へちま のごとく風に吹かれて超然と
澄すま し切っているようなものの、その実はやはり
娑婆気しゃばけ 【名誉や利益を欲しがる気持ち】もあり
慾気よくけ もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常
罵倒ばとう している
俗骨共ぞっこつども 【いやしい者】と一つ穴の動物になるのは 猫より見て気の毒の至りである。ただその言語動作が普通の
半可通はんかつう 【知ったかぶり】のごとく、
文切もんき り
形がた の
厭いや 味を帯びてないのは いささかの
取と り
得え でもあろう。
こう考えると急に三人の談話が面白くなくなったので、
三毛 子の様子でも見て
来き ようかと
二絃琴にげんきん の御
師匠 さんの庭口へ廻る。
門松かどまつ 注目飾しめかざ りはすでに取り払われて正月も
早は や十日となったが、うららかな
春日はるび は 一流れの雲も見えぬ 深き空より 四海天下を一度に照らして、十坪に足らぬ庭の
面おも も元日の
曙光しょこう を受けた時より
鮮あざや かな活気を呈している。縁側に
座蒲団ざぶとん が一つあって人影も見えず、障子も立て切ってあるのは御
師匠 さんは湯にでも行ったのか知らん。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(56 / 115)
御
師匠 さんは留守でも構わんが、
三毛 子は少しは
宜い い方か、それが気掛りである。ひっそりして人の
気合けわい もしないから、泥足のまま縁側へ上って座蒲団の真中へ
寝転ねこ ろんで見るといい心持ちだ。ついうとうととして、
三毛 子の事も忘れてうたた寝をしていると、急に障子のうちで人声がする。
「
御苦労だった。出来たかえ 」御
師匠 さんはやはり留守ではなかったのだ。
「
はい遅くなりまして、仏師屋ぶっしや へ参りましたらちょうど出来上ったところだと申しまして 」「
どれお見せなさい。ああ奇麗に出来た、これで三毛 も浮かばれましょう。金きん は剥は げる事はあるまいね 」「
ええ念を押しましたら上等を使ったからこれなら人間の位牌いはい よりも持つと申しておりました。……それから猫誉信女みょうよしんにょ の誉の字は崩くず した方が格好かっこう がいいから少し劃かく を易か えたと申しました 」「
どれどれ早速御仏壇へ上げて御線香でもあげましょう 」
三毛 子は、どうかしたのかな、何だか様子が変だと蒲団の上へ立ち上る。チーン
南無猫誉信女なむみょうよしんにょ 、
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ 南無阿弥陀仏と御
師匠 さんの声がする。
「
御前も回向えこう をしておやりなさい 」
チーン南無猫誉信女 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と今度は下女の声がする。
吾輩 は急に
動悸どうき がして来た。座蒲団の上に立ったまま、
木彫きぼり の猫のように眼も動かさない。
「
ほんとに残念な事を致しましたね。始めはちょいと風邪かぜ を引いたんでございましょうがねえ 」「
甘木 さんが薬でも下さると、よかったかも知れないよ」「
一体あの甘木 さんが悪うございますよ、あんまり三毛 を馬鹿にし過ぎまさあね 」「
そう人様ひとさま の事を悪く言うものではない。これも寿命じゅみょう だから 」
三毛 子も
甘木 先生に診察して貰ったものと見える。
「
つまるところ表通りの教師のうちの野良猫のらねこ が無暗むやみ に誘い出したからだと、わたしは思うよ 」「
ええあの畜生ちきしょう が三毛 のかたきでございますよ 」
少し弁解したかったが、ここが我慢のしどころと
唾つば を呑んで聞いている。話しはしばし
途切とぎ れる。
「
世の中は自由にならん者でのう。三毛 のような器量よしは早死はやじに をするし。不器量な野良猫は達者でいたずらをしているし…… 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(57 / 115)
「
その通りでございますよ。三毛 のような可愛らしい猫は鐘と太鼓で探してあるいたって、二人ふたり とはおりませんからね 」
二匹と言う代りに
二ふ たりといった。下女の考えでは猫と人間とは同種族ものと思っているらしい。そう言えばこの下女の顔は吾等
猫属ねこぞく とはなはだ類似している。
「
出来るものなら三毛 の代りに…… 」「
あの教師の所の野良のら が死ぬと御誂おあつら え通りに参ったんでございますがねえ 」
御誂え通りになっては、ちと困る。死ぬと言う事はどんなものか、まだ経験した事がないから好きとも嫌いとも言えないが、先日あまり寒いので
火消壺ひけしつぼ の中へもぐり込んでいたら、下女が
吾輩 がいるのも知らんで上から
蓋ふた をした事があった。その時の苦しさは考えても恐しくなるほどであった。
白君 の説明によるとあの苦しみが今少し続くと死ぬのであるそうだ。
三毛 子の
身代みがわ りになるのなら苦情もないが、あの苦しみを受けなくては死ぬ事が出来ないのなら、誰のためでも死にたくはない。
「
しかし猫でも坊さんの御経を読んでもらったり、戒名かいみょう をこしらえてもらったのだから心残りはあるまい 」「
そうでございますとも、全く果報者かほうもの でございますよ。ただ慾を言うとあの坊さんの御経があまり軽少だったようでございますね 」「
少し短か過ぎたようだったから、大変御早うございますねと御尋ねをしたら、月桂寺げっけいじ さんは、ええ利目ききめ のあるところをちょいとやっておきました、なに猫だからあのくらいで充分浄土へ行かれますとおっしゃったよ 」「
あらまあ……しかしあの野良なんかは…… 」
吾輩 は名前はないとしばしば断っておくのに、この下女は野良野良と
吾輩 を呼ぶ。失敬な奴だ。
「
罪が深いんですから、いくらありがたい御経だって浮かばれる事はございませんよ 」
吾輩 はその
後ご 野良が何百遍繰り返されたかを知らぬ。
吾輩 はこの際限なき談話を中途で聞き棄てて、
布団ふとん をすべり落ちて縁側から飛び下りた時、八万八千八百八十本の毛髪を一度にたてて
身震みぶる いをした。その
後ご 二絃琴にげんきん の御
師匠 さんの近所へは寄りついた事がない。今頃は御
師匠 さん自身が月桂寺さんから軽少な
御回向ごえこう 【功徳の分け与え】を受けているだろう。
近頃は外出する勇気もない。何だか世間が
慵もの うく感ぜらるる。
主人 に劣らぬほどの
無性猫ぶしょうねこ となった。
主人 が書斎にのみ閉じ
籠こも っているのを 人が失恋だ失恋だと評するのも無理はないと思うようになった。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(58 / 115)
鼠ねずみ はまだ取った事がないので、一時は
御三 おさん から
放逐論ほうちくろん 【追放論】さえ
呈出ていしゅつ された事もあったが、
主人 は
吾輩 の普通一般の猫でないと言う事を知っているものだから
吾輩 は やはり のらくらしてこの
家や に
起臥きが している。この点については深く
主人 の恩を感謝すると同時にその
活眼かつがん 【見識】に対して敬服の意を表するに
躊躇ちゅうちょ しないつもりである。
御三 が
吾輩 を知らずして虐待をするのは別に腹も立たない。今に
左甚五郎ひだりじんごろう 【伝説的な彫刻職人】が出て来て、
吾輩 の肖像を
楼門ろうもん の柱に
刻きざ み、日本のスタンラン【大のネコ好きの画家】が好んで
吾輩 の似顔をカンヴァスの上に
描えが くようになったら、彼等
鈍瞎漢どんかつかん 【道理のわからない人】は始めて自己の不明を
恥は ずるであろう。
三
三毛 子は死ぬ。
黒 は相手にならず、いささか
寂寞せきばく 【静粛】の感はあるが、幸い人間に
知己ちき が出来たので さほど退屈とも思わぬ。せんだっては
主人 の
許もと へ
吾輩 の写真を送ってくれと手紙で依頼した男がある。この間は岡山の名産
吉備団子きびだんご をわざわざ
吾輩 の名宛で届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、
己おのれ が猫である事はようやく忘却してくる。猫よりはいつの間にか人間の方へ接近して来たような心持になって、同族を
糾合きゅうごう 【統合】して二本足の先生と
雌雄しゆう を決しようなどと言う量見は昨今のところ
毛頭もうとう ない。それのみか 折々は
吾輩 もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのは たのもしい。あえて同族を
軽蔑けいべつ する次第ではない。ただ性情【性質と心情】の近きところに向って一身の安きを置くは
勢いきおい の しからしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはちと迷惑する。かような言語を
弄ろう して人を
罵詈ばり するものに限って融通の
利き かぬ貧乏性の男が多いようだ。こう猫の習癖を脱化して見ると
三毛 子や
黒 の事ばかり荷厄介にしている訳には行かん。やはり人間同等の
気位きぐらい で彼等の思想、言行を
評隲ひょうしつ 【批評】したくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識を有している
吾輩 をやはり一般
猫児びょうじ の毛の
生は えたものくらいに思って、
主人 が
吾輩 に
一言いちごん の挨拶もなく、
吉備団子きびだんご をわが物顔に喰い尽したのは残念の次第である。写真もまだ
撮と って送らぬ様子だ。これも不平と言えば不平だが、
主人 は主人、
吾輩 は吾輩で、相互の見解が自然
異こと なるのは致し方もあるまい。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(59 / 115)
吾輩 はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動作は、どうしてもちょいと筆に
上のぼ りにくい。
迷亭 、
寒月 諸先生の評判だけで御免
蒙こうむ る事に致そう。
今日は上天気の日曜なので、
主人 は のそのそ書斎から出て来て、
吾輩 の
傍そば へ
筆硯ふですずり と原稿用紙を並べて
腹這はらばい になって、しきりに何か
唸うな っている。大方草稿を書き
卸おろ す
序開じょびら き【序章】として妙な声を発するのだろうと注目していると、ややしばらくして
筆太ふでぶと に『
香一炷こういっしゅ 』【一本の線香が燃え尽きるまで】とかいた。はてな詩になるか、俳句になるか、香一炷とは、
主人 にしては少し
洒落しゃれ 過ぎているがと思う間もなく、彼は香一炷を書き放しにして、新たに
行ぎょう を改めて『さっきから
天然てんねん 居士こじ 【仏教の位号】の事をかこうと考えている』と筆を走らせた。筆はそれだけではたと留ったぎり動かない。
主人 は筆を持って首を
捻ひね ったが別段名案もないものと見えて筆の穂を
甞な めだした。唇が真黒になったと見ていると、今度はその下へちょいと丸をかいた。丸の中へ点を二つうって眼をつける。真中へ小鼻の開いた鼻をかいて、真一文字に口を横へ引張った、これでは文章でも俳句でもない。
主人 も自分で
愛想あいそ が尽きた【見限った】と見えて、そこそこに顔を塗り消してしまった。
主人 はまた
行ぎょう を改める。彼の考によると行さえ改めれば詩か賛か語か録か
何なん かになるだろうとただ
宛あて もなく考えているらしい。やがて『天然居士は空間を研究し、論語を読み、
焼芋やきいも を食い、
鼻汁はな を垂らす人である』と言文一致体【口語体】で
一気呵成いっきかせい に書き流した、何となくごたごたした文章である。それから
主人 はこれを遠慮なく朗読して、いつになく「
ハハハハ面白い 」と笑ったが「
鼻汁はな を垂らすのは、ちと酷こく だから消そう」とその句だけへ棒を引く。一本ですむところを二本引き三本引き、奇麗な
併行線へいこうせん を
描か く、線がほかの
行ぎょう まで
食は み出しても構わず引いている。線が八本並んでもあとの句が出来ないと見えて、今度は筆を捨てて
髭ひげ を
捻ひね って見る。文章を髭から捻り出して御覧に入れますと言う
見幕けんまく で猛烈に捻ってはねじ上げ、ねじ下ろしているところへ、茶の間から
妻君 さいくん が出て来てぴたりと
主人 の鼻の先へ
坐す わる。「
あなたちょっと 」と呼ぶ。「
なんだ 」と
主人 は水中で
銅鑼どら を
叩たた くような声を出す。返事が気に入らないと見えて
妻君 はまた「
あなたちょっと 」と出直す。「
なんだよ 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(60 / 115)
と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「
今月はちっと足りませんが…… 」「
足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん 」とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観【珍しい眺め】のごとく
眺なが めている。「
それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭パン を御食おた べになったり、ジャムを御舐おな めになるものですから 」「
元来ジャムは幾缶いくかん 舐めたのかい 」「
今月は八つ入い りましたよ 」「
八つ? そんなに舐めた覚えはない 」「
あなたばかりじゃありません、子供も舐めます 」「
いくら舐めたって五六円くらいなものだ 」と
主人 は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。
主人 は思わぬ発見をして感じ入った
体てい で、ふっと吹いて見る。
粘着力ねんちゃくりょく が強いので決して飛ばない。「
いやに頑固がんこ だな 」と
主人 は一生懸命に吹く。「
ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります 」と
妻君 は
大おおい に不平な
気色けしき を両頬に
漲みなぎ らす。「
あるかも知れないさ 」と
主人 はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が
交まじ る中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴の
開あ くほど眺めていた
主人 は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を
妻君 の顔の前へ出す。「
あら、いやだ 」と
妻君 は顔をしかめて、
主人 の手を突き戻す。「
ちょっと見ろ、鼻毛の白髪しらが だ 」と
主人 は大に感動した様子である。さすがの
妻君 も笑いながら茶の間へ入る。経済問題は断念したらしい。
主人 はまた
天然てんねん 居士こじ に取り
懸かか る。
鼻毛で
妻君 を追払った
主人 は、まずこれで安心と言わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと
焦あせ る
体てい であるが なかなか筆は動かない。「
焼芋を食う も蛇足だそく だ、割愛かつあい しよう」とついに この句も
抹殺まっさつ する。「
香一炷 もあまり唐突とうとつ だから已や めろ」と惜気もなく
筆誅ひっちゅう 【修正・削除】する。余す所は『天然居士は空間を研究し論語を読む人である』と言う一句になってしまった。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(61 / 115)
主人 はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は
御廃おはい しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に
揮ふる って原稿紙の上へ下手な文人画【職業画家ではない文人たちの絵】の
蘭ラン を勢よくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「
空間に生れ、空間を究きわ め、空間に死す。空たり間たり天然てんねん 居士こじ 噫ああ 」と意味不明な語を
連つら ねているところへ例のごとく
迷亭 が入って来る。
迷亭 は人の
家うち も自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から
飄然ひょうぜん 【ふらり】と舞い込む事もある、心配、遠慮、
気兼きがね 、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。
「
また巨人引力 【例の“ご高説”】かね 」と立ったまま
主人 に聞く。「
そう、いつでも巨人引力 ばかり書いてはおらんさ。天然居士 の墓銘を撰せん しているところなんだ 」と
大袈裟おおげさ な事を言う。「
天然居士 と言うなあ やはり偶然童子 【思慮もないまま流されて生きる、子どもじみた存在】のような戒名かね」と
迷亭 は
不相変あいかわらず 出鱈目でたらめ を言う。「
偶然童子 と言うのもあるのかい」「
なに有りゃしないがまずその見当けんとう だろうと思っていらあね 」「
偶然童子 と言うのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士 と言うのは、君の知ってる男だぜ」「
一体だれが天然居士 なんて名を付けてすましているんだい 」「
例の曽呂崎 そろさき の事だ。卒業して大学院へ入って空間論 と言う題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曽呂崎 はあれでも僕の親友なんだからな 」「
親友でもいいさ、決して悪いと言やしない。しかしその曽呂崎 を天然居士に変化させたのは一体誰の所作しょさ だい 」「
僕さ、僕がつけてやったんだ。元来坊主 のつける戒名ほど俗なものは無いからな 」と天然居士はよほど
雅が な名のように自慢する。
迷亭 は笑いながら「
まあその墓碑銘ぼひめい と言う奴を見せ給え 」と原稿を取り上げて「
何だ……空間に生れ、空間を究きわ め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫ああ 」と大きな声で読み
上あげ る。「
なるほどこりゃあ善い い、天然居士相当のところだ 」
主人 は嬉しそうに「
善いだろう 」と言う。「
この墓銘ぼめい を沢庵石たくあんいし へ彫ほ り付けて本堂の裏手へ力石ちからいし のように抛ほう り出して置くんだね。雅が でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ 」「
僕もそうしようと思っているのさ 」と
主人 は
至極しごく 真面目に答えたが「
僕あ ちょっと失敬するよ、じき帰るから猫にでも からかっていてくれ給え 」と
迷亭 の返事も待たず
風然ふうぜん と出て行く。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(62 / 115)
計らずも
迷亭 先生の接待掛りを命ぜられて
無愛想ぶあいそ な顔もしていられないから、ニャーニャーと
愛嬌あいきょう を振り
蒔ま いて
膝ひざ の上へ
這は い上って見た。すると
迷亭 は「
イヨー大分だいぶ 肥ふと ったな、どれ 」と
無作法ぶさほう にも
吾輩 の
襟髪えりがみ を
攫つか んで宙へ釣るす。「
あと足をこうぶら下げては、鼠ねずみ は取れそうもない、……どうです奥さんこの猫は鼠を捕りますかね 」と
吾輩 ばかりでは不足だと見えて、隣りの
室へや の
妻君 に話しかける。「
鼠どころじゃございません。御雑煮おぞうに を食べて踊りをおどるんですもの 」と
妻君 は飛んだところで旧悪を
暴あば く。
吾輩 は
宙乗ちゅうの りをしながらも少々極りが悪かった。
迷亭 はまだ
吾輩 を
卸おろ してくれない。「
なるほど踊りでもおどりそうな顔だ。奥さんこの猫は油断のならない相好そうごう 【風姿】ですぜ。昔むか しの草双紙くさぞうし 【江戸時代の絵入り娯楽本】にある猫又 ねこまた に似ていますよ 」と勝手な事を言いながら、しきりに
細君 さいくん に話しかける。
細君 は迷惑そうに針仕事の手をやめて座敷へ出てくる。
「
どうも御退屈様、もう帰りましょう 」と茶を
注つ ぎ
易か えて
迷亭 の前へ出す。「
どこへ行ったんですかね 」「
どこへ参るにも断わって行った事の無い男ですから分りかねますが、大方御医者へでも行ったんでしょう 」「
甘木 さんですか、甘木 さんもあんな病人に捕つら まっちゃ災難ですな」「
へえ 」と
細君 は挨拶のしようもないと見えて簡単な答えをする。
迷亭 は
一向いっこう 頓着しない。「
近頃はどうです、少しは胃の加減が能い いんですか 」「
能い いか悪いか頓とん と分りません、いくら甘木 さんにかかったって、あんなにジャムばかり甞な めては胃病の直る訳がないと思います」と
細君 は
先刻せんこく の不平を
暗あん に
迷亭 に
洩も らす。「
そんなにジャムを甞な めるんですかまるで小供のようですね 」「
ジャムばかりじゃないんで、この頃は胃病の薬だとか言って大根卸だいこおろ しを無暗むやみ に甞な めますので…… 」「
驚ろいたな 」と
迷亭 は感嘆する。「
何でも大根卸だいこおろし の中にはジヤスターゼが有るとか言う話しを新聞で読んでからです 」「
なるほどそれでジャムの損害を償つぐな おうと言う趣向ですな。なかなか考えていらあハハハハ 」と
迷亭 は
細君 の
訴うったえ を聞いて
大おおい に愉快な
気色けしき である。「
この間などは赤ん坊にまで甞な めさせまして…… 」「
ジャムをですか 」「
いいえ大根卸だいこおろし を……あなた。坊や御父様がうまいものをやるからおいでてって、――たまに小供 を可愛がってくれるかと思うとそんな馬鹿な事ばかりするんです。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(63 / 115)
二三日前にさんちまえ には中の娘を抱いて箪笥たんす の上へあげましてね……」「
どう言う趣向がありました 」と
迷亭 は何を聞いても趣向ずくめに解釈する。「
なに趣向も何も有りゃしません、ただその上から飛び下りて見ろと言うんですわ、三つや四つの女の子ですもの、そんな御転婆おてんば な事が出来るはずがないです 」「
なるほどこりゃ趣向が無さ過ぎましたね。しかしあれで腹の中は毒のない善人ですよ 」「
あの上腹の中に毒があっちゃ、辛防しんぼう は出来ませんわ 」と
細君 は
大おおい に
気炎きえん を揚げる。「
まあそんなに不平を言わんでも善いでさあ。こうやって不足なくその日その日が暮らして行かれれば上じょう の分ぶん ですよ。苦沙弥 君くしゃみくん などは道楽はせず、服装にも構わず、地味に世帯向しょたいむ きに出来上った人でさあ 」と
迷亭 は
柄がら にない説教を陽気な調子でやっている。「
ところがあなた大違いで…… 」「
何か内々でやりますかね。油断のならない世の中だからね 」と
飄然ひょうぜん 【ふらり】とふわふわした返事をする。「
ほかの道楽はないですが、無暗むやみ に読みもしない本ばかり買いましてね。それも善い加減に見計みはか らって買ってくれると善いんですけれど、勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取って来て、月末になると知らん顔をしているんですもの、去年の暮なんか、月々のが溜たま って大変困りました 」「
なあに書物なんか取って来るだけ取って来て構わんですよ。払いをとりに来たら 今にやる 今にやる と言っていりゃ帰ってしまいまさあ 」「
それでも、そういつまでも引張る訳にも参りませんから 」と
妻君 は
憮然ぶぜん としている。「
それじゃ、訳を話して書籍費しょじゃくひ を削減させるさ 」「
どうして、そんな言こと を言ったって、なかなか聞くものですか、この間などは貴様は学者の妻さい にも似合わん、毫ごう も書籍しょじゃく の価値を解しておらん、昔むか し羅馬ローマ にこう言う話しがある。後学のため聞いておけと言うんです 」「
そりゃ面白い、どんな話しですか 」
迷亭 は乗気になる。
細君 に同情を表しているというより むしろ好奇心に
駆か られている。「
何んでも昔し羅馬ローマ に樽金たるきん とか言う王様があって…… 」「
樽金たるきん ? 樽金はちと妙ですぜ」「
私は唐人とうじん の名なんかむずかしくて覚えられませんわ。何でも七代目なんだそうです 」「
なるほど七代目樽金は妙ですな。ふんその七代目樽金がどうかしましたかい 」「
あら、あなたまで冷かしては立つ瀬がありませんわ。知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか、人の悪い 」と、
細君 は
迷亭 へ食って掛る。「
何 冷かすなんて、そんな人の悪い事をする僕じゃない。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(64 / 115)
ただ七代目樽金は振ふる ってると思ってね……ええお待ちなさいよ羅馬ローマ の七代目の王様ですね、こうっと たしかには覚えていないがタークイン・ゼ・プラウドの事でしょう。まあ誰でもいい、その王様がどうしました」 「
その王様の所へ一人の女が本を九冊持って来て買ってくれないかと言ったんだそうです 」「
なるほど 」「
王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高い事を言うんですって、あまり高いもんだから少し負けないかと言うとその女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて焚や いてしまったそうです 」「
惜しい事をしましたな 」「
その本の内には予言か何かほかで見られない事が書いてあるんですって 」「
へえー 」「
王様は九冊が六冊になったから少しは価ね も減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです、それは乱暴だと言うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。王様はまだ未練があったと見えて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分のねだんをくれと言うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても代価は、元の通り一厘りん も引かない、それを引かせようとすると、残ってる三冊も火にくべるかも知れないので、王様はとうとう高い御金を出して焚や け余あま りの三冊を買ったんですって……どうだこの話しで少しは書物のありがた味み が分ったろう、どうだと力味りき むのですけれど、私にゃ何がありがたいんだか、まあ分りませんね 」と
細君 は一家の見識を立てて【自分なりの意見を持って】
迷亭 の返答を
促うな がす。さすがの
迷亭 も少々窮したと見えて、
袂たもと からハンケチを出して
吾輩 をじゃらしていたが「
しかし奥さん 」と急に何か考えついたように大きな声を出す。「
あんなに本を買って矢鱈やたら に詰め込むものだから人から少しは学者だとか何とか言われるんですよ。この間ある文学雑誌を見たら苦沙弥 君くしゃみくん の評が出ていましたよ 」「
ほんとに? 」と
細君 は向き直る。
主人 の評判が気にかかるのは、やはり夫婦と見える。「
何とかいてあったんです 」「
なあに二三行ばかりですがね。苦沙弥 君の文は行雲流水こううんりゅうすい 【空を行く雲や水の流れ】のごとしとありましたよ 」
細君 は少し にこにこして「
それぎりですか 」「
その次にね――出ずるかと思えば忽たちま ち消え、逝ゆ いては長とこしな えに帰るを忘る【亡くなった者は、永遠に戻ることはない】とありましたよ 」
細君 は妙な顔をして「
賞ほ めたんでしょうか」と心元ない調子である。「
まあ賞めた方でしょうな 」と
迷亭 は済ましてハンケチを
吾輩 の眼の前にぶら下げる。「
書物は商買道具で仕方もござんすまいが、よっぽど偏屈へんくつ でしてねえ 」
迷亭 はまた別途の方面から来たなと思って「
偏屈は少々偏屈ですね、学問をするものはどうせあんなですよ 」と調子を合わせるような弁護をするような不即不離【付きも離れもしない】の妙答【気の利いた答え】をする。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(65 / 115)
「
せんだってなどは学校から帰ってすぐ わきへ出るのに着物を着換えるのが面倒だものですから、あなた外套がいとう も脱がないで、机へ腰を掛けて御飯を食べるのです。御膳おぜん を火燵櫓こたつやぐら の上へ乗せまして――私は御櫃おはち を抱かか えて坐っておりましたがおかしくって…… 」「
何だかハイカラの首実検のようですな。しかしそんなところが苦沙弥 君の苦沙弥君たるところで――とにかく月並つきなみ でない 」と
切せつ ない
褒ほ め方をする。「
月並か月並でないか女には分りませんが、なんぼ何でも、あまり乱暴ですわ 」「
しかし月並より好いですよ 」と無暗に加勢すると
細君 は不満な様子で「
一体、月並月並と皆さんが、よくおっしゃいますが、どんなのが月並なんです 」と開き直って月並の定義を質問する、「
月並ですか、月並と言うと――さよう ちと説明しにくいのですが…… 」「
そんな曖昧あいまい なものなら月並だって好さそうなものじゃありませんか 」と
細君 は
女人にょにん 一流の論理法で詰め寄せる。「
曖昧じゃありませんよ、ちゃんと分っています、ただ説明しにくいだけの事でさあ 」「
何でも自分の嫌いな事を月並と言うんでしょう 」と
細君 は
我われ 知らず
穿うが った事を言う。
迷亭 もこうなると何とか月並の処置を付けなければならぬ仕儀となる。「
奥さん、月並と言うのはね、まず年は二八か二九からぬ と言わず語らず物思い の間あいだ に寝転んでいて、この日や天気晴朗 とくると必ず一瓢いっぴょう 【いささかの酒】を携えて墨堤に遊ぶ連中れんじゅう を言うんです【年は28~29歳くらい。無口でぼんやりと物思いにふけっては寝転び、天気の良い日には酒を携えて隅田川沿いを散歩するような風流ぶった連中のことを言っているのです】 」「
そんな連中があるでしょうか 」と
細君 は分らんものだから
好いい 加減な挨拶をする。「
何だかごたごたして私には分りませんわ 」とついに
我が を折る。「
それじゃ馬琴ばきん 【几帳面だったというから、まじめの代表として登場させたか】の胴へメジョオ・ペンデニス【俗物】の首をつけて一二年欧州の空気で包んでおくんですね 」「
そうすると月並が出来るでしょうか 」
迷亭 は返事をしないで笑っている。「
何そんな手数てすう のかかる事をしないでも出来ます。中学校の生徒に白木屋【江戸時代から続く大商人】の番頭を加えて二で割ると立派な月並が出来上ります 」「
そうでしょうか 」と
細君 は首を
捻ひね ったまま
納得なっとく し兼ねたと言う
風情ふぜい に見える。
「
君 まだいるのか 」と
主人 はいつの間にやら帰って来て
迷亭 の
傍そば へ
坐す わる。「
まだいるのかはちと酷こく だな、すぐ帰るから待ってい給えと言ったじゃないか 」「
万事あれなんですもの 」と
細君 は
迷亭 を
顧かえり みる。「
今 君の留守中に 君の逸話を残らず聞いてしまったぜ 」「
女はとかく多弁でいかん、人間もこの猫くらい沈黙を守るといいがな 」と
主人 は
吾輩 の頭を
撫な でてくれる。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(66 / 115)
「
君は赤ん坊に大根卸だいこおろ しを甞な めさしたそうだな 」「
ふむ 」と
主人 は笑ったが「
赤ん坊でも近頃の赤ん坊は なかなか利口だぜ。それ以来、坊や辛から いのはどこと聞くときっと舌を出すから妙だ 」「
まるで犬に芸を仕込む気でいるから残酷だ。時に寒月 かんげつ はもう来そうなものだな 」「
寒月 が来るのかい」と
主人 は不審な顔をする。「
来るんだ。午後一時までに苦沙弥 くしゃみ の家うち へ来いと端書はがき を出しておいたから 」「
人の都合も聞かんで勝手な事をする男だ。寒月 を呼んで何をするんだい 」「
なあに今日のはこっちの趣向じゃない寒月 先生自身の要求さ。先生何でも理学協会で演説をするとか言うのでね。その稽古をやるから僕に聴いてくれと言うから、そりゃちょうどいい苦沙弥 にも聞かしてやろうと言うのでね。そこで君の家うち へ呼ぶ事にしておいたのさ――なあに 君はひま人だからちょうどいいやね――差支さしつか えなんぞある男じゃない、聞くがいいさ 」と
迷亭 は
独ひと りで呑み込んでいる。「
物理学の演説なんか僕にゃ分らん 」と
主人 は少々
迷亭 の
専断せんだん を
憤いきどお ったもののごとくに言う。「
ところがその問題がマグネ【マグネット】付けられたノッズルについてなどと言う乾燥無味【無味乾燥】なものじゃないんだ。首縊(くく)りの力学 と言う脱俗超凡だつぞくちょうぼん 【凡人の域を抜き出ている】な演題なのだから傾聴する価値があるさ 」「
君は首を縊くく り損そ くなった男だから傾聴するが好いが僕なんざあ…… 」「
歌舞伎座で悪寒おかん がするくらいの人間だから聞かれないと言う結論は出そうもないぜ 」と例のごとく軽口を叩く。
妻君 はホホと笑って
主人 を
顧かえり みながら次の間へ退く。
主人 は無言のまま
吾輩 の頭を
撫な でる。この時のみは非常に丁寧な撫で方であった。
それから約七分くらいすると注文通り
寒月 君が来る。今日は晩に
演舌えんぜつ をするというので例になく立派なフロック【フォーマルな洋装】を着て、洗濯し立ての
白襟カラー を
聳そび やかして【高く起こし立てて】、男振りを二割方上げて、「
少し後おく れまして 」と落ちつき払って、挨拶をする。「
さっきから二人で大待ちに待ったところなんだ。早速願おう、なあ君 」と
主人 を見る。
主人 もやむを得ず「
うむ 」と
生返事なまへんじ をする。
寒月 君はいそがない。「
コップへ水を一杯頂戴しましょう 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(67 / 115)
と言う。「
いよー本式にやるのか次には拍手の請求とおいでなさるだろう 」と
迷亭 は独りで騒ぎ立てる。
寒月 君は
内隠うちがく しから草稿を取り出して
徐おもむ ろに「
稽古ですから、御遠慮なく御批評を願います 」と前置をして、いよいよ演舌の
御浚おさら いを始める。
「
罪人を絞罪こうざい の刑に処すると言う事は重おも にアングロサクソン民族間に行われた方法でありまして、それより古代に溯さかのぼ って考えますと首縊くびくく りは重に自殺の方法として行われた者であります。猶太人中ユダヤじんちゅう に在あ っては罪人を石を抛な げつけて殺す習慣であったそうでございます。旧約全書を研究して見ますといわゆるハンギングなる語は罪人の死体を釣るして野獣または肉食鳥の餌食えじき とする意義と認められます。ヘロドタス【古代ギリシアの歴史家】の説に従って見ますと猶太人ユダヤじん はエジプトを去る以前から夜中やちゅう 死骸を曝さら されることを痛く忌い み嫌ったように思われます。エジプト人は罪人の首を斬って胴だけを十字架に釘付くぎづ けにして夜中曝し物にしたそうで御座います。波斯人ペルシャじん は…… 」「
寒月 君 首縊りと縁がだんだん遠くなるようだが大丈夫かい」と
迷亭 が口を入れる。「
これから本論に入るところですから、少々御辛防ごしんぼう を願います。……さて波斯人はどうかと申しますとこれもやはり処刑には磔はりつけ を用いたようでございます。但し生きているうちに張付はりつ けに致したものか、死んでから釘を打ったものかその辺へん はちと分りかねます…… 」「
そんな事は分らんでもいいさ 」と
主人 は退屈そうに
欠伸あくび をする。「
まだいろいろ御話し致したい事もございますが、御迷惑であらっしゃいましょうから…… 」「
あらっしゃいましょうより、いらっしゃいましょうの方が聞きいいよ、ねえ苦沙弥 君くしゃみくん 」とまた
迷亭 が
咎とが め
立だて をすると
主人 は「
どっちでも同じ事だ 」と気のない返事をする。「
さていよいよ本題に入りまして弁じます 」「
弁じます なんか講釈師の言い草だ。演舌家はもっと上品な詞ことば を使って貰いたいね」と
迷亭 先生また
交ま ぜ返す。「
弁じます が下品なら何と言ったらいいでしょう」と
寒月 君は少々むっとした調子で問いかける。「
迷亭 のは聴いているのか、交ま ぜ返しているのか判然しない。寒月 君 そんな弥次馬やじうま に構わず、さっさとやるが好い」と
主人 はなるべく早く難関を切り抜けようとする。「
むっとして弁じましたる柳かな、かね 」と
迷亭 はあいかわらず
飄然ひょうぜん 【ふらり】たる事を言う。
寒月 は思わず吹き出す。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(68 / 115)
「
真に処刑として絞殺を用いましたのは、私の調べました結果によりますると、オディセー【古代ギリシアの長編叙事詩】の二十二巻目に出ております。即すなわ ち彼か のテレマカス【ギリシア神話の人物】がペネロピー【ギリシア神話の人物】の十二人の侍女を絞殺するという条くだ りでございます。希臘語ギリシャご で本文を朗読しても宜よろ しゅうございますが、ちと衒てら うような気味にもなりますからやめに致します。四百六十五行から、四百七十三行を御覧になると分ります 」「
希臘語ギリシャご 言々うんぬん はよした方がいい、さも希臘語ギリシャご が出来ますと言わんばかりだ、ねえ苦沙弥 君」「
それは僕も賛成だ、そんな物欲しそうな事は言わん方が奥床おくゆか しくて好い 」と
主人 はいつになく直ちに
迷亭 に加担する。
両人りょうにん は
毫ごう 【ちっとも】も
希臘語ギリシャご が読めないのである。「
それではこの両三句は今晩抜く事に致しまして次を弁じ――ええ申し上げます。
この絞殺を今から想像して見ますと、これを執行するに二つの方法があります。第一は、彼か のテレマカスがユーミアス【ギリシア神話の人物】及びフㇶリーシャス【ギリシア神話の人物】の援たすけ を藉か りて縄の一端を柱へ括くく りつけます。そしてその縄の所々へ結び目を穴に開けてこの穴へ女の頭を一つずつ入れておいて、片方の端はじ をぐいと引張って釣し上げたものと見るのです 」「
つまり西洋洗濯屋のシャツのように女がぶら下ったと見れば好いんだろう 」「
その通りで、それから第二は縄の一端を前のごとく柱へ括くく り付けて他の一端も始めから天井へ高く釣るのです。そしてその高い縄から何本か別の縄を下げて、それに結び目の輪になったのを付けて女の頸くび を入れておいて、いざと言う時に女の足台を取りはずすと言う趣向なのです 」「
たとえて言うと縄暖簾なわのれん の先へ提灯玉ちょうちんだま を釣したような景色けしき と思えば間違はあるまい 」「
提灯玉と言う玉は見た事がないから何とも申されませんが、もしあるとすればその辺へん のところかと思います。――それでこれから力学的に第一の場合は到底成立すべきものでないと言う事を証拠立てて御覧に入れます 」「
面白いな 」と
迷亭 が言うと「
うん面白い 」と
主人 も一致する。
「
まず女が同距離に釣られると仮定します。また一番地面に近い二人の女の首と首を繋つな いでいる縄はホリゾンタル【水平】と仮定します。そこでα1α2……α6を縄が地平線と形づくる角度とし、T1T2……T6を縄の各部が受ける力と見做みな し、T7=Xは縄のもっとも低い部分の受ける力とします。Wは勿論もちろん 女の体重と御承知下さい。どうです御分りになりましたか 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(69 / 115)
迷亭 と
主人 は顔を見合せて「
大抵分った 」と言う。但しこの大抵と言う度合は
両人りょうにん が勝手に作ったのだから他人の場合には応用が出来ないかも知れない。「
さて多角形に関する御存じの平均性理論によりますと、下しも のごとく十二の方程式が立ちます。T1cosα1=T2cosα2…… (1) T2cosα2=T3cosα3…… (2) …… 」「
方程式はそのくらいで沢山だろう 」と
主人 は乱暴な事を言う。「
実はこの式が演説の首脳なんですが 」と
寒月 君は はなはだ残り惜し気に見える。「
それじゃ首脳だけは逐お って伺う事にしようじゃないか 」と
迷亭 も少々恐縮の
体てい に見受けられる。「
この式を略してしまうとせっかくの力学的研究がまるで駄目になるのですが…… 」「
何そんな遠慮はいらんから、ずんずん略すさ…… 」と
主人 は平気で言う。「
それでは仰せに従って、無理ですが略しましょう 」「
それがよかろう 」と
迷亭 が妙なところで手をぱちぱちと叩く。「
それから英国へ移って論じますと、ベオウルフ【古典英文学に出てくる英雄ベーオウルフ】の中に絞首架こうしゅか 即すなわ ちガルガと申す字が見えますから絞罪の刑はこの時代から行われたものに違ないと思われます。ブラクストーン【イングランドの法学者】の説によるともし絞罪に処せられる罪人が、万一縄の具合で死に切れぬ時は再度ふたたび 同様の刑罰を受くべきものだとしてありますが、妙な事にはピヤース・プローマン【イギリスの長編宗教詩の登場人物】の中には仮令たとい 凶漢でも二度絞し める法はないと言う句があるのです。まあどっちが本当か知りませんが、悪くすると一度で死ねない事が往々実例にあるので。千七百八十六年に有名なフㇶツ・ゼラルドと言う悪漢を絞めた事がありました。ところが妙なはずみで一度目には台から飛び降りるときに縄が切れてしまったのです。またやり直すと今度は縄が長過ぎて足が地面へ着いたのでやはり死ねなかったのです。とうとう三返目に見物人が手伝って往生おうじょう さしたと言う話しです 」「
やれやれ 」と
迷亭 はこんなところへくると急に元気が出る。「
本当に死に損ぞこな いだな 」と
主人 まで浮かれ出す。「
まだ面白い事があります首を縊くく ると背せい が一寸いっすん 【約3cm】ばかり延びるそうです。これはたしかに医者が計って見たのだから間違はありません 」「
それは新工夫だね、どうだい苦沙弥 くしゃみ などはちと釣って貰っちゃあ、一寸延びたら人間並になるかも知れないぜ 」と
迷亭 が
主人 の方を向くと、
主人 は案外真面目で「
寒月 君、一寸くらい背せい が延びて生き返る事があるだろうか」と聞く。「
それは駄目に極きま っています。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(70 / 115)
釣られて脊髄せきずい が延びるからなんで、早く言うと背が延びると言うより壊こわ れるんですからね」 「
それじゃ、まあ止や めよう 」と
主人 は断念する。
演説の続きは、まだなかなか長くあって
寒月 君は首縊りの生理作用にまで論及するはずでいたが、
迷亭 が無暗に
風来坊ふうらいぼう 【気まぐれ者】のような珍語を
挟はさ むのと、
主人 が時々遠慮なく
欠伸あくび をするので、ついに中途でやめて帰ってしまった。その晩は
寒月 君がいかなる態度で、いかなる雄弁を
振ふる ったか遠方で起った出来事の事だから
吾輩 には知れよう訳がない。
二三日にさんち は事もなく過ぎたが、或る日の午後二時頃また
迷亭 先生は例のごとく
空々くうくう 【こだわりがない様子】として偶然童子のごとく舞い込んで来た。座に着くと、いきなり「
君、越智おち 東風 とうふう の高輪事件たかなわじけん を聞いたかい 」と旅順陥落の号外を知らせに来たほどの勢を示す。「
知らん、近頃は合あ わんから 」と
主人 は
平生いつも の通り陰気である。「
きょうはその東風 子とうふうし の失策物語を御報道に及ぼうと思って忙しいところを わざわざ来たんだよ 」「
またそんな仰山ぎょうさん 【大げさ】な事を言う、君は全体不埒ふらち 【とりとめのない】な男だ 」「
ハハハハハ不埒と言わんよりむしろ無埒むらち 【らちが明かない】の方だろう。それだけはちょっと区別しておいて貰わんと名誉に関係するからな 」「
おんなし事だ 」と
主人 は
嘯うそぶ いている。純然たる天然居士の再来だ。「
この前の日曜に東風 子とうふうし が高輪泉岳寺たかなわせんがくじ に行ったんだそうだ。この寒いのによせばいいのに――第一今時いまどき 泉岳寺などへ参るのは さも東京を知らない、田舎者いなかもの のようじゃないか 」「
それは東風 の勝手さ。君がそれを留める権利はない 」「
なるほど権利は正まさ にない。権利はどうでもいいが、あの寺内に義士遺物保存会と言う見世物があるだろう。君 知ってるか 」「
うんにゃ 」「
知らない? だって泉岳寺へ行った事はあるだろう 」「
いいや 」「
ない? こりゃ驚ろいた。道理で大変東風 を弁護すると思った。江戸っ子が泉岳寺を知らないのは情なさ けない 」「
知らなくても教師は務つと まるからな 」と
主人 はいよいよ天然居士になる。「
そりゃ好いが、その展覧場へ東風 が入って見物していると、そこへ独逸人ドイツじん が夫婦連づれ で来たんだって。それが最初は日本語で東風 に何か質問したそうだ。ところが先生例の通り独逸語が使って見たくてたまらん男だろう。そら二口三口べらべらやって見たとさ。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(71 / 115)
すると存外うまく出来たんだ――あとで考えるとそれが災わざわい の本もと さね」 「
それからどうした 」と
主人 はついに釣り込まれる。「
独逸人が大鷹源吾おおたかげんご 【赤穂浪士四十七士の一人】の蒔絵まきえ の印籠いんろう を見て、これを買いたいが売ってくれるだろうかと聞くんだそうだ。その時東風 の返事が面白いじゃないか、日本人は清廉の君子くんし 【人格者】ばかりだから到底とうてい 駄目だと言ったんだとさ。その辺は大分だいぶ 景気がよかったが、それから独逸人の方では格好かっこう な通弁を得たつもりでしきりに聞くそうだ 」「
何を? 」「
それがさ、何だか分るくらいなら心配はないんだが、早口で無暗むやみ に問い掛けるものだから少しも要領を得ないのさ。たまに分るかと思うと鳶口とびぐち 【棒の先にカギが付いた道具】や掛矢 の事【大型の木槌】を聞かれる。西洋の鳶口や掛矢 は先生何と翻訳して善いのか習った事が無いんだから弱よ わらあね 」「
もっともだ 」と
主人 は教師の身の上に引き
較くら べて同情を表する。「
ところへ閑人ひまじん が物珍しそうに ぽつぽつ集ってくる。仕舞しまい には東風 と独逸人を四方から取り巻いて見物する。東風 は顔を赤くして へどもどする。初めの勢に引き易か えて先生大弱りの体てい さ 」「
結局どうなったんだい 」「
仕舞に東風 が我慢出来なくなったと見えてさいなら と日本語で言ってぐんぐん帰って来たそうだ、さいなら は少し変だ 君の国ではさよなら をさいなら と言うかって聞いて見たら 何 やっぱりさよなら ですが相手が西洋人だから調和を計るために、さいなら にしたんだって、東風 子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心した 」「
さいならはいいが西洋人はどうした 」「
西洋人はあっけに取られて茫然ぼうぜん と見ていたそうだハハハハ面白いじゃないか 」「
別段面白い事もないようだ。それをわざわざ報知しらせ に来る君の方がよっぽど面白いぜ 」と
主人 は
巻煙草まきたばこ の灰を
火桶ひおけ の中へはたき落す。
折柄おりから 格子戸のベルが飛び上るほど鳴って「
御免なさい 」と鋭どい女の声がする。
迷亭 と
主人 は思わず顔を見合わせて沈黙する。
主人 のうちへ女客は
希有けう だなと見ていると、かの鋭どい声の所有主は
縮緬ちりめん の二枚重ねを畳へ
擦す り付けながら入って来る。年は四十の上を少し
超こ したくらいだろう。抜け上った
生は え
際ぎわ から前髪が堤防工事のように高く
聳そび えて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせり出している。眼が切り通しの坂くらいな
勾配こうばい で、直線に釣るし上げられて左右に対立する。【要するに目が吊り上がっている】
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(72 / 115)
直線とは
鯨くじら より細いという形容である【ようするに細いということ】。鼻だけは無暗に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へ
据す え付けたように見える。三坪ほどの小庭へ
招魂社しょうこんしゃ 【国家のために亡くなった人の霊を祀る神社】の
石灯籠いしどうろう を移した時のごとく、
独ひと りで幅を利かしているが、何となく落ちつかない。その鼻はいわゆる
鍵鼻かぎばな で、ひと
度たび は精一杯高くなって見たが、これではあんまりだと中途から
謙遜けんそん して、先の方へ行くと、初めの勢に似ず垂れかかって、下にある唇を
覗のぞ き込んでいる。かく
著いちじ るしい鼻だから、この女が物を言うときは口が物を言うと言わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。
吾輩 はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して
鼻子はなこ 鼻子と呼ぶつもりである。
鼻子 は先ず初対面の挨拶を終って「
どうも結構な御住居おすまい ですこと 」と座敷中を
睨ね め廻わす。
主人 は「
嘘をつけ 」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか
煙草たばこ をふかす。
迷亭 は天井を見ながら「
君、ありゃ雨洩あまも りか、板の木目もくめ か、妙な模様が出ているぜ 」と暗に
主人 を
促うな がす。「
無論雨の洩りさ 」と
主人 が答えると「
結構だなあ 」と
迷亭 がすまして言う。
鼻子 は社交を知らぬ人達だと腹の中で
憤いきどお る。しばらくは三人
鼎坐ていざ 【三人が向かい合ってすわること】のまま無言である。
「
ちと伺いたい事があって、参ったんですが 」と
鼻子 は再び話の口を切る。「
はあ 」と
主人 が極めて冷淡に受ける。これではならぬと
鼻子 は、「
実は私はつい御近所で――あの向う横丁の角屋敷かどやしき なんですが 」「
あの大きな西洋館の倉のあるうちですか、道理であすこには金田 かねだ と言う標札ひょうさつ が出ていますな 」と
主人 はようやく
金田 の西洋館と、
金田 の倉を認識したようだが
金田夫人 に対する尊敬の
度合どあい は前と同様である。「
実は宿やど 【夫】が出まして、御話を伺うんですが会社の方が大変忙がしいもんですから 」と今度は少し
利き いたろうという眼付をする。
主人 は
一向いっこう 動じない。
鼻子 の
先刻さっき からの言葉遣いが初対面の女としてはあまり
存在ぞんざい 過ぎるのですでに不平なのである。「
会社でも一つじゃ無いんです、二つも三つも兼ねているんです。それにどの会社でも重役なんで――多分御存知でしょうが 」これでも恐れ入らぬかと言う顔付をする。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(73 / 115)
元来ここの
主人 は
博士 とか
大学教授 とかいうと非常に恐縮する男であるが、妙な事には実業家に対する尊敬の度は極めて低い。実業家よりも中学校の先生の方がえらいと信じている。よし信じておらんでも、融通の利かぬ性質として、到底実業家、金満家の恩顧【ひいき】を
蒙こうむ る事は
覚束おぼつか ないと
諦あき らめている。いくら先方が勢力家でも、財産家でも、自分が世話になる見込のないと思い切った人の利害には極めて無頓着である。それだから学者社会を除いて他の方面の事には極めて
迂濶うかつ で、ことに実業界などでは、どこに、だれが何をしているか一向知らん。知っても尊敬畏服の念は
毫ごう も起らんのである。
鼻子 の方では
天あめ が
下した の一隅にこんな変人がやはり日光に照らされて生活していようとは夢にも知らない。今まで世の中の人間にも
大分だいぶ 接して見たが、
金田 の
妻さい ですと名乗って、急に取扱いの変らない場合はない、どこの会へ出ても、どんな身分の高い人の前でも立派に
金田夫人 で通して行かれる、いわんやこんな
燻くすぶ り返った老書生においてをやで、
私わたし の
家うち は向う横丁の
角屋敷かどやしき ですとさえ言えば職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。
「
金田 って人を知ってるか」と
主人 は
無雑作むぞうさ に
迷亭 に聞く。「
知ってるとも、金田 さんは僕の伯父の友達だ。この間なんざ園遊会へおいでになった 」と
迷亭 は真面目な返事をする。「
へえ、君の伯父さんてえな誰だい 」「
牧山 男爵まきやまだんしゃく さ」と
迷亭 はいよいよ真面目である。
主人 が何か言おうとして言わぬ先に、
鼻子 は急に向き直って
迷亭 の方を見る。
迷亭 は
大島紬おおしまつむぎ に
古渡更紗こわたりさらさ 【インド由来のエキゾチックな文様や色彩の木綿布】か何か重ねてすましている。「
おや、あなたが牧山 様の――何でいらっしゃいますか、ちっとも存じませんで、はなはだ失礼を致しました。牧山 様には始終御世話になると、宿やど で毎々御噂おうわさ を致しております 」と急に
丁寧ていねい な言葉使をして、おまけに御辞儀までする、
迷亭 は「
へええ何、ハハハハ 」と笑っている。
主人 はあっ
気け に取られて無言で二人を見ている。「
たしか娘の縁辺えんぺん の事につきましてもいろいろ牧山 さまへ御心配を願いましたそうで…… 」「
へえー、そうですか 」とこればかりは
迷亭 にもちと
唐突とうとつ 過ぎたと見えてちょっと
魂消たまげ たような声を出す。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(74 / 115)
「
実は方々から くれくれと申し込はございますが、こちらの身分もあるものでございますから、滅多めった な所とこ へも片付けられませんので…… 」「
ごもっともで 」と
迷亭 はようやく安心する。「
それについて、あなたに伺おうと思って上がったんですがね 」と
鼻子 は
主人 の方を見て急に
存在ぞんざい な言葉に返る。「
あなたの所へ水島寒月 みずしまかんげつ という男が度々たびたび 上がるそうですが、あの人は全体どんな風な人でしょう 」「
寒月 の事を聞いて、何なん にするんです」と
主人 は
苦々にがにが しく言う。「
やはり御令嬢の御婚儀上の関係で、寒月 君の性行せいこう 【普段の行い】の一斑いっぱん 【一端】を御承知になりたいという訳でしょう 」と
迷亭 が気転を
利き かす。「
それが伺えれば大変都合が宜よろ しいのでございますが…… 」「
それじゃ、御令嬢を寒月 におやりになりたいとおっしゃるんで 」「
やりたいなんてえんじゃ無いんです 」と
鼻子 は急に
主人 を参らせる。「
ほかにも だんだん口が有るんですから、無理に貰っていただかないだって困りゃしません 」「
それじゃ寒月 の事なんか聞かんでも好いでしょう 」と
主人 も
躍起やっき となる。「
しかし御隠しなさる訳もないでしょう 」と
鼻子 も少々喧嘩腰になる。
迷亭 は双方の間に坐って、
銀煙管ぎんぎせる を
軍配団扇ぐんばいうちわ のように持って、心の
裡うち で
八卦はっけ よいやよいやと怒鳴っている。「
じゃあ寒月 の方で是非貰いたいとでも言ったのですか 」と
主人 が正面から鉄砲を
喰くら わせる。「
貰いたいと言ったんじゃないんですけれども…… 」「
貰いたいだろうと思っていらっしゃるんですか 」と
主人 はこの婦人 鉄砲に限ると
覚さと ったらしい。「
話しはそんなに運んでるんじゃありませんが――寒月 さんだって満更まんざら 嬉しくない事もないでしょう 」と土俵際で持ち直す。「
寒月 が何かその御令嬢に恋着れんちゃく 【深く執着】したというような事でもありますか」あるなら言って見ろと言う
権幕けんまく で
主人 は
反そ り返る。「
まあ、そんな見当けんとう でしょうね 」今度は
主人 の鉄砲が少しも功を奏しない。今まで
面白気おもしろげ に
行司ぎょうじ 気取りで見物していた
迷亭 も
鼻子 の
一言いちごん に好奇心を
挑発ちょうはつ されたものと見えて、
煙管きせる を置いて前へ乗り出す。「
寒月 が御嬢さんに付つ け文ぶみ でもしたんですか、こりゃ愉快だ、新年になって逸話がまた一つ殖ふ えて話しの好材料になる」と一人で喜んでいる。「
付け文じゃないんです、もっと烈しいんでさあ、御二人とも御承知じゃありませんか 」と
鼻子 は
乙おつ に【妙に】からまって来る。「
君 知ってるか 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(75 / 115)
と
主人 は狐付きのような顔をして
迷亭 に聞く。
迷亭 も
馬鹿気ばかげ た調子で「
僕は知らん、知っていりゃ君だ 」とつまらんところで
謙遜けんそん する。「
いえ御両人共おふたりとも 御存じの事ですよ 」と
鼻子 だけ大得意である。「
へえー 」と御両人は一度に感じ入る。「
御忘れになったら私わた しから御話をしましょう。去年の暮向島の阿部 さんの御屋敷で演奏会があって寒月 さんも出掛けたじゃありませんか、その晩帰りに吾妻橋あずまばし で何かあったでしょう――詳しい事は言いますまい、当人の御迷惑になるかも知れませんから――あれだけの証拠がありゃ充分だと思いますが、どんなものでしょう 」と
金剛石ダイヤ 入りの指環の
嵌はま った指を、膝の上へ
併なら べて、つんと居ずまいを直す。偉大なる鼻がますます異彩を放って、
迷亭 も
主人 も有れども無きがごとき【まるで存在感がない】有様である。
主人 は無論、さすがの
迷亭 もこの
不意撃ふいうち には
胆きも を抜かれたものと見えて、しばらくは
呆然ぼうぜん として
瘧おこり 【三日熱】の落ちた病人のように坐っていたが、
驚愕きょうがく の
箍たが がゆるんでだんだん持前の本態に復すると共に、滑稽と言う感じが一度に
吶喊とっかん して【つきつらぬいて】くる。
両人ふたり は申し合せたごとく「
ハハハハハ 」と笑い崩れる。
鼻子 ばかりは少し当てがはずれて、この際笑うのははなはだ失礼だと両人を
睨にら みつける。「
あれが御嬢さんですか、なるほどこりゃいい、おっしゃる通りだ、ねえ苦沙弥 くしゃみ 君、全く寒月 はお嬢さんを恋おも ってるに相違ないね……もう隠したってしようがないから白状しようじゃないか 」「
ウフン 」と
主人 は言ったままである。「
本当に御隠しなさってもいけませんよ、ちゃんと種は上ってるんですからね 」と
鼻子 はまた得意になる。「
こうなりゃ仕方がない。何でも寒月 君に関する事実は御参考のために陳述するさ、おい苦沙弥 君、君が主人だのに、そう、にやにや笑っていては埒らち があかんじゃないか、実に秘密というものは恐ろしいものだねえ。いくら隠しても、どこからか露見ろけん するからな。――しかし不思議と言えば不思議ですねえ、金田 の奥さん、どうしてこの秘密を御探知になったんです、実に驚ろきますな 」と
迷亭 は一人で
喋舌しゃべ る。「
私わた しの方だって、ぬかりはありませんやね」と
鼻子 はしたり顔をする。「
あんまり、ぬかりが無さ過ぎるようですぜ。一体誰に御聞きになったんです 」「
じきこの裏にいる車屋の神 かみ さんからです 」「
あの黒 猫のいる車屋ですか 」と
主人 は眼を丸くする。「
ええ、寒月 さんの事じゃ、よっぽど使いましたよ。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(76 / 115)
寒月 さんが、ここへ来る度に、どんな話しをするかと思って車屋の神さん を頼んで一々知らせて貰うんです」「
そりゃ苛ひど い 」と
主人 は大きな声を出す。「
なあに、あなたが何をなさろうとおっしゃろうと、それに構ってるんじゃないんです。寒月 さんの事だけですよ 」「
寒月 の事だって、誰の事だって――全体あの車屋の神さん は気に食わん奴だ」と
主人 は一人
怒おこ り出す。「
しかしあなたの垣根のそとへ来て立っているのは向うの勝手じゃありませんか、話しが聞えてわるけりゃ もっと小さい声でなさるか、もっと大きなうちへ御入おはい んなさるがいいでしょう 」と
鼻子 は少しも赤面した様子がない。「
車屋ばかりじゃありません。新道しんみち の二絃琴にげんきん の師匠 からも大分だいぶ いろいろな事を聞いています 」「
寒月 の事をですか」「
寒月 さんばかりの事じゃありません」と少し
凄すご い事を言う。
主人 は恐れ入るかと思うと「
あの師匠 はいやに上品ぶって自分だけ人間らしい顔をしている、馬鹿野郎です 」「
憚はばか り様さま 【おあいにく様】、女ですよ。野郎は御門違おかどちが いです」と
鼻子 の言葉使いはますます
御里おさと をあらわして来る。これではまるで喧嘩をしに来たようなものであるが、そこへ行くと
迷亭 はやはり
迷亭 でこの談判を面白そうに聞いている。
鉄枴仙人てっかいせんにん 【中国の代表的な仙人】が
軍鶏しゃも の
蹴合けあ いを見るような顔をして平気で聞いている。
悪口あっこう の交換では到底
鼻子 の敵でないと自覚した
主人 は、しばらく沈黙を守るのやむを得ざるに至らしめられていたが、ようやく思い付いたか「
あなたは寒月 の方から御嬢さんに恋着したようにばかりおっしゃるが、私わたし の聞いたんじゃ、少し違いますぜ、ねえ迷亭 君 」と
迷亭 の救いを求める。「
うん、あの時の話しじゃ御嬢さんの方が、始め病気になって――何だか譫語うわごと をいったように聞いたね 」「
なにそんな事はありません 」と
金田夫人 は判然たる直線流の言葉使いをする。「
それでも寒月 はたしかに○○博士の夫人から聞いたと言っていましたぜ 」「
それがこっちの手なんでさあ、○○博士の奥さんを頼んで寒月 さんの気を引いて見たんでさあね 」「
○○の奥さんは、それを承知で引き受けたんですか 」「
ええ。引き受けて貰うたって、ただじゃ出来ませんやね、それやこれやでいろいろ物を使っているんですから 」「
是非寒月 君の事を根堀り葉堀り御聞きにならなくっちゃ御帰りにならないと言う決心ですかね 」と
迷亭 も少し気持を悪くしたと見えて、いつになく
手障てざわ りのあらい言葉を使う。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(77 / 115)
「
いいや君、話したって損の行く事じゃなし、話そうじゃないか苦沙弥 君――奥さん、私わたし でも苦沙弥 でも寒月 君に関する事実で差支さしつか えのない事は、みんな話しますからね、――そう、順を立ててだんだん聞いて下さると都合がいいですね 」
鼻子 はようやく
納得なっとく してそろそろ質問を呈出する。一時荒立てた言葉使いも
迷亭 に対してはまたもとのごとく丁寧になる。「
寒月 さんも理学士だそうですが、全体どんな事を専門にしているのでございます」「
大学院では地球の磁気の研究 をやっています 」と
主人 が真面目に答える。不幸にしてその意味が
鼻子 には分らんものだから「
へえー 」とは言ったが
怪訝けげん な顔をしている。「
それを勉強すると博士になれましょうか 」と聞く。「
博士にならなければ やれないとおっしゃるんですか 」と
主人 は不愉快そうに尋ねる。「
ええ。ただの学士じゃね、いくらでもありますからね 」と
鼻子 は平気で答える。
主人 は
迷亭 を見ていよいよ いやな顔をする。「
博士になるかならんかは僕等も保証する事が出来んから、ほかの事を聞いていただく事にしよう 」と
迷亭 もあまり好い機嫌ではない。「
近頃でもその地球の――何かを勉強しているんでございましょうか 」「
二三日前にさんちまえ は首縊りの力学 と言う研究の結果を理学協会で演説しました」と
主人 は何の気も付かずに言う。「
おやいやだ、首縊り だなんて、よっぽど変人ですねえ。そんな首縊り や何かやってたんじゃ、とても博士にはなれますまいね 」「
本人が首を縊くく っちゃあむずかしいですが、首縊りの力学 なら成れないとも限らんです 」「
そうでしょうか 」と今度は
主人 の方を見て顔色を
窺うかが う。悲しい事に
力学 と言う意味がわからんので落ちつきかねている。しかしこれしきの事を尋ねては
金田夫人 の面目に関すると思ってか、ただ相手の顔色で
八卦はっけ を立てて見る。
主人 の顔は渋い。「
そのほかになにか、分り易やす いものを勉強しておりますまいか 」「
そうですな、せんだって団栗(どんぐり)のスタビリチー【スタビリティー:安定性】を論じて併せて天体の運行に及ぶ と言う論文を書いた事があります 」「
団栗どんぐり なんぞでも大学校で勉強するものでしょうか」「
さあ僕も素人しろうと だからよく分らんが、何しろ、寒月 君がやるくらいなんだから、研究する価値があると見えますな 」と
迷亭 はすまして冷かす。
鼻子 は学問上の質問は手に合わんと断念したものと見えて、今度は話題を転ずる。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(78 / 115)
「
御話は違いますが――この御正月に椎茸しいたけ を食べて前歯を二枚折ったそうじゃございませんか 」「
ええその欠けたところに空也餅くうやもち がくっ付いていましてね 」と
迷亭 はこの質問こそ吾
縄張内なわばりうち だと急に浮かれ出す。「
色気のない人じゃございませんか、何だって楊子ようじ を使わないんでしょう 」「
今度逢あ ったら注意しておきましょう 」と
主人 がくすくす笑う。「
椎茸で歯がかけるくらいじゃ、よほど歯の性しょう が悪いと思われますが、如何いかが なものでしょう 」「
善いとは言われますまいな――ねえ迷亭 」「
善い事はないがちょっと愛嬌あいきょう があるよ。あれぎり、まだ填つ めないところが妙だ。今だに空也餅引掛所ひっかけどころ になってるなあ奇観だぜ 」「
歯を填める小遣こづかい がないので欠けなりにしておくんですか、または物好きで欠けなりにしておくんでしょうか 」「
何も永く前歯欠成まえばかけなり を名乗る訳でもないでしょうから御安心なさいよ 」と
迷亭 の機嫌はだんだん回復してくる。
鼻子 はまた問題を改める。「
何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが 」「
端書はがき なら沢山あります、御覧なさい」と
主人 は書斎から三四十枚持って来る。「
そんなに沢山拝見しないでも――その内の二三枚だけ…… 」「
どれどれ僕が好いのを撰よ ってやろう 」と
迷亭 先生は「
これなざあ面白いでしょう 」と一枚の絵葉書を出す。「
おや絵もかくんでございますか、なかなか器用ですね、どれ拝見しましょう 」と眺めていたが「
あらいやだ、狸たぬき だよ。何だって撰りに撰って狸なんぞかくんでしょうね――それでも狸と見えるから不思議だよ 」と少し感心する。「
その文句を読んで御覧なさい 」と
主人 が笑いながら言う。
鼻子 は下女が新聞を読むように読み出す。「
旧暦の歳とし の夜、山の狸が園遊会をやって盛さかん に舞踏します。その歌に曰いわ く、来こ いさ、としの夜で、御山婦美おやまふみ 【山に分け入る人】も来く まいぞ。スッポコポンノポン 」「
何ですこりゃ、人を馬鹿にしているじゃございませんか 」と
鼻子 は不平の
体てい である。「
この天女てんにょ は御気に入りませんか 」と
迷亭 がまた一枚出す。見ると天女が
羽衣はごろも を着て
琵琶びわ を
弾ひ いている。「
この天女の鼻が少し小さ過ぎるようですが 」「
何、それが人並ですよ、鼻より文句を読んで御覧なさい 」文句にはこうある。「
昔むか しある所に一人の天文学者がありました。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(79 / 115)
ある夜いつものように高い台に登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現われ、この世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので、天文学者は身に沁し む寒さも忘れて聞き惚ほ れてしまいました。朝見るとその天文学者の死骸しがい に霜しも が真白に降っていました。これは本当の噺はなし だと、あのうそつきの爺じい やが申しました」 「
何の事ですこりゃ、意味も何もないじゃありませんか、これでも理学士で通るんですかね。ちっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですがねえ 」と
寒月 君 さんざんにやられる。
迷亭 は面白半分に「
こりゃどうです 」と三枚目を出す。今度は活版で
帆懸舟ほかけぶね が印刷してあって、例のごとくその下に何か書き散らしてある。「
よべの泊とま りの十六小女郎じゅうろくこじょろ 【女郎見習】、親がないとて、荒磯ありそ の千鳥、さよの寝覚ねざめ の千鳥に泣いた、親は船乗り波の底 」「
うまいのねえ、感心だ事、話せるじゃありませんか 」「
話せますかな 」「
ええこれなら三味線に乗りますよ 」「
三味線に乗りゃ本物だ。こりゃ如何いかが です 」と
迷亭 は
無暗むやみ に出す。「
いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのは沢山で、そんなに野暮やぼ でないんだと言う事は分りましたから 」と一人で合点している。
鼻子 はこれで
寒月 に関する大抵の質問を
卒お えたものと見えて、「
これは はなはだ失礼を致しました。どうか私の参った事は寒月 さんへは内々に願います 」と
得手勝手えてかって な要求をする。
寒月 の事は何でも聞かなければならないが、自分の方の事は一切
寒月 へ知らしてはならないと言う方針と見える。
迷亭 も
主人 も「
はあ 」と気のない返事をすると「
いずれその内 御礼は致しますから 」と念を入れて言いながら立つ。見送りに出た
両人ふたり が席へ返るや否や
迷亭 が「
ありゃ何だい 」と言うと
主人 も「
ありゃ何だい 」と双方から同じ問をかける。奥の部屋で
細君 が
怺こら え切れなかったと見えてクツクツ笑う声が聞える。
迷亭 は大きな声を出して「
奥さん奥さん、月並の標本が来ましたぜ。月並もあのくらいになるとなかなか振ふる っていますなあ。さあ遠慮はいらんから、存分御笑いなさい 」
主人 は不満な
口気こうき 【口ぶり】で「
第一気に喰わん顔だ 」と
悪にく らしそうに言うと、
迷亭 はすぐ引きうけて「
鼻が顔の中央に陣取って乙おつ に【気取って】構えているなあ 」とあとを付ける。「
しかも曲っていらあ 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(80 / 115)
「
少し猫背ねこぜ だね。猫背の鼻は、ちと奇抜きばつ 過ぎる 」と面白そうに笑う。「
夫おっと を剋こく する【やっつける】顔だ」と
主人 はなお
口惜くや しそうである。「
十九世紀で売れ残って、二十世紀で店曝たなざら しに逢うと言う相そう だ 」と
迷亭 は妙な事ばかり言う。ところへ
妻君 が奥の
間ま から出て来て、女だけに「
あんまり悪口をおっしゃると、また車屋の神 かみ さんにいつけ られますよ 」と注意する。「
少しいつけ る方が薬ですよ、奥さん 」「
しかし顔の讒訴ざんそ 【かげぐち】などをなさるのは、あまり下等ですわ、誰だって好んであんな鼻を持ってる訳でもありませんから――それに相手が婦人ですからね、あんまり苛ひど いわ 」と
鼻子 の鼻を弁護すると、同時に自分の
容貌ようぼう も間接に弁護しておく。「
何ひどいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ迷亭 君 」「
愚人かも知れんが、なかなか えら者【偉い人】だ、大分だいぶ 引き掻か かれたじゃないか 」「
全体教師を何と心得ているんだろう 」「
裏の車屋くらいに心得ているのさ。ああ言う人物に尊敬されるには博士になるに限るよ、一体博士になっておかんのが君の不了見ふりょうけん さ、ねえ奥さん、そうでしょう 」と
迷亭 は笑いながら
細君 を
顧かえり みる。「
博士なんて到底駄目ですよ 」と
主人 は
細君 にまで見離される。「
これでも今になるかも知れん、軽蔑けいべつ するな。貴様なぞは知るまいが昔むか しアイソクラチス【イソクラテス:大弁論家】と言う人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリス【古代ギリシア三大悲劇詩人】が傑作を出して天下を驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニジス【古代ギリシアの詩人】は八十で妙詩を作った。おれだって…… 」「
馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか 」と
細君 はちゃんと
主人 の寿命を予算している。「
失敬な、――甘木 さんへ行って聞いて見ろ――元来御前がこんな皺苦茶しわくちゃ な黒木綿くろもめん の羽織や、つぎだらけの着物を着せておくから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから迷亭 の着ているような奴を着るから出しておけ 」「
出しておけって、あんな立派な御召おめし はござんせんわ。金田 の奥さんが迷亭 さんに丁寧になったのは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。着物の咎とが じゃございません 」と
細君 うまく責任を
逃の がれる。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(81 / 115)
主人 は
伯父さん と言う言葉を聞いて急に思い出したように「
君に伯父があると言う事は、今日始めて聞いた。今までついに噂うわさ をした事がないじゃないか、本当にあるのかい 」と
迷亭 に聞く。
迷亭 は待ってたと言わぬばかりに「
うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物がんぶつ 【頑固】でねえ――やはりその十九世紀から連綿と今日こんにち まで生き延びているんだがね 」と
主人 夫婦を半々に見る。「
オホホホホホ面白い事ばかりおっしゃって、どこに生きていらっしゃるんです 」「
静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃ無いです。頭にちょん髷まげ を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を被かぶ れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです――寒いから、もっと寝ね ていらっしゃいと言うと、人間は四時間寝れば充分だ。四時間以上寝るのは贅沢ぜいたく の沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠ねむ たくていかなんだが、近頃に至って始めて随処 任意【自由】の庶境しょきょう 【庶民の世界】に入い って はなはだ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寝られなくなるなあ当り前でさあ。修業も糸瓜へちま も入い ったものじゃないのに当人は全く克己こっき 【自我を克服する】の力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扇てっせん 【親骨に鉄を用いた武士のための扇、帯刀が許されない場所での護身用】をもって出るんですがね 」「
なににするんだい 」「
何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。ところがせんだって妙な事がありましてね 」と今度は
細君 の方へ話しかける。「
へえー 」と
細君 が
差さ し
合あい 【さしつかえ】のない返事をする。「
此年ことし の春 突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと言うんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着ると言う返事が来ました。二十三日に静岡で祝勝会しゅくしょうかい があるからそれまでに間に合うように、至急調達しろと言う命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸だいまる へ注文してくれ……」「
近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい 」「
なあに、先生、白木屋しろきや と間違えたんだあね 」「
寸法を見計ってくれたって無理じゃないか 」「
そこが伯父の伯父たるところさ 」「
どうした? 」「
仕方がないから見計らって送ってやった 」「
君も乱暴だな。それで間に合ったのかい 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(82 / 115)
「
まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山 翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇てっせん を持ち…… 」「
鉄扇だけは離さなかったと見えるね 」「
うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ 」「
それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった 」「
ところが大間違さ。僕も無事に行ってありがたいと思ってると、しばらくして国から小包が届いたから、何か礼でもくれた事と思って開けて見たら例の山高帽子さ、手紙が添えてあってね、せっかく御求め被下候くだされそうら えども少々大きく候間そろあいだ 、帽子屋へ御遣おつか わしの上、御縮め被下度候くだされたくそろ 。縮め賃は小為替こがわせ にて此方こなた より御送おんおくり 可申上候もうしあぐべきそろ とあるのさ 」「
なるほど迂濶うかつ だな 」と
主人 は
己おの れより迂濶なものの天下にある事を発見して
大おおい に満足の
体てい に見える。やがて「
それから、どうした 」と聞く。「
どうするったって仕方がないから僕が頂戴して被かぶ っていらあ 」「
あの帽子かあ 」と
主人 が にやにや笑う。「
その方かた が男爵でいらっしゃるんですか 」と
細君 が不思議そうに尋ねる。「
誰がです 」「
その鉄扇の伯父さまが 」「
なあに漢学者でさあ、若い時聖堂せいどう 【徳川幕府の儒学の学問所だった湯島聖堂】で朱子学しゅしがく か、何かにこり固まったものだから、電気灯の下で恭うやうや しくちょん 髷まげ を頂いているんです。仕方がありません 」とやたらに
顋あご を
撫な で廻す。「
それでも君は、さっきの女に牧山 男爵と言ったようだぜ 」「
そうおっしゃいましたよ、私も茶の間で聞いておりました 」と
細君 もこれだけは
主人 の意見に同意する。「
そうでしたかなアハハハハハ 」と
迷亭 は
訳わけ もなく笑う。「
そりゃ嘘うそ ですよ。僕に男爵の伯父がありゃ、今頃は局長くらいになっていまさあ 」と平気なものである。「
何だか変だと思った 」と
主人 は嬉しそうな、心配そうな顔付をする。「
あらまあ、よく真面目であんな嘘が付けますねえ。あなたもよっぽど法螺ほら が御上手でいらっしゃる事 」と
細君 は非常に感心する。「
僕より、あの女の方が上う わ手て でさあ 」「
あなただって御負けなさる気遣きづか いはありません 」「
しかし奥さん、僕の法螺は単なる法螺ですよ。あの女のは、みんな魂胆があって、曰いわ く付きの嘘ですぜ。たちが悪いです。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(83 / 115)
猿知恵さるぢえ から割り出した術数【策略】と、天来の滑稽こっけい 趣味と混同されちゃ、コメディーの神様も活眼の士なきを嘆ぜざるを得ざる訳に立ち至りますからな」主人 は
俯目ふしめ になって「
どうだか 」と言う。
妻君 は笑いながら「
同じ事ですわ 」と言う。
吾輩 は今まで向う横丁へ足を踏み込んだ事はない。
角屋敷かどやしき の
金田 とは、どんな構えか見た事は無論ない。聞いた事さえ今が始めてである。
主人 の
家うち で実業家が話頭に
上のぼ った事は一返もないので、
主人 の飯を食う
吾輩 までがこの方面には単に無関係なるのみならず、はなはだ冷淡であった。しかるに先刻
図はか らずも
鼻子 の訪問を受けて、
余所よそ ながらその談話を拝聴し、その令嬢の
艶美えんび を想像し、またその
富貴ふうき 、権勢を思い浮べて見ると、猫ながら安閑として縁側に寝転んでいられなくなった。しかのみならず
吾輩 は
寒月 君に対してはなはだ同情の至りに堪えん。先方では博士の奥さんやら、車屋の
神 かみ さんやら、
二絃琴にげんきん の
天璋院てんしょういん まで買収して知らぬ間に、前歯の欠けたのさえ探偵しているのに、
寒月 君の方ではただニヤニヤして羽織の紐ばかり気にしているのは、いかに卒業したての理学士にせよ、あまり能がなさ過ぎる。と言って、ああ言う偉大な鼻を顔の
中うち に安置している女の事だから、
滅多めった な者では寄り付ける訳の者ではない。こう言う事件に関しては
主人 はむしろ無頓着で かつあまりに
銭ぜに がなさ過ぎる。
迷亭 は銭に不自由はしないが、あんな偶然童子だから、
寒月 に
援たす けを与える
便宜べんぎ は
尠すくな かろう。して見ると
可哀相かわいそう なのは
首縊りの力学 を演説する先生ばかりとなる。
吾輩 でも奮発して、敵城へ乗り込んでその動静を偵察してやらなくては、あまり不公平である。
吾輩 は猫だけれど、エピクテタスを読んで机の上へ叩きつけるくらいな学者の
家うち に
寄寓きぐう 【身を寄せる】する猫で、世間一般の
痴猫ちびょう 、
愚猫ぐびょう とは少しく
撰せん を
殊こと にしている【別の部類に属している】。この冒険をあえてするくらいの義侠心【強きをくじき弱者を助ける】は
固もと より
尻尾しっぽ の先に畳み込んである。何も
寒月 君に恩になったと言う訳もないが、これはただに個人のためにする
血気躁狂けっきそうきょう 【高揚してさわぐこと】の沙汰ではない。大きく言えば公平を好み中庸【調和】を愛する天意を現実にする
天晴あっぱれ な美挙【立派な行動】だ。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(84 / 115)
人の許諾を
経へ ずして
吾妻橋あずまばし 事件などを至る処に振り廻わす以上は、人の軒下に犬を忍ばして、その報道を得々として逢う人に
吹聴ふいちょう する以上は、車夫、
馬丁ばてい 【馬の世話をする人】、
無頼漢ぶらいかん 【ならずもの】、ごろつき書生、
日雇婆ひやといばばあ 、産婆、
妖婆ようば 、
按摩あんま 、
頓馬とんま に至るまでを使用して国家有用の材に
煩はん を及ぼして【迷惑をかけて】
顧かえり みざる以上は――猫にも覚悟がある。幸い天気も好い、
霜解しもどけ は少々閉口するが道のためには一命もすてる。足の裏へ泥が着いて、縁側へ梅の花の印を押すくらいな事は、ただ
御三 おさん の迷惑にはなるか知れんが、
吾輩 の苦痛とは申されない。
翌日あす とも言わずこれから出掛けようと
勇猛精進ゆうもうしょうじん の大決心を起して台所まで飛んで出たが「
待てよ 」と考えた。
吾輩 は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな
咽喉のど の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が
饒舌しゃべ れない。よし首尾よく
金田 邸へ忍び込んで、充分敵の情勢を見届けたところで、
肝心かんじん の
寒月 君に教えてやる訳に行かない。
主人 にも
迷亭 先生にも話せない。話せないとすれば土中にある
金剛石ダイヤモンド の日を受けて光らぬと同じ事で、せっかくの知識も無用の長物となる。これは
愚ぐ だ、やめようかしらんと上り口で
佇たたず んで見た。
しかし一度思い立った事を中途でやめるのは、
白雨ゆうだち が来るかと待っている時 黒雲
共とも 隣国へ通り過ぎたように、何となく残り惜しい。それも非がこっちにあれば格別だが、いわゆる正義のため、人道のためなら、たとい
無駄死むだじに をやるまでも進むのが、義務を知る男児の本懐であろう。無駄骨を折り、無駄足を
汚よご すくらいは猫として適当のところである。猫と生れた
因果いんが で
寒月 、
迷亭 、
苦沙弥 諸先生と三寸の
舌頭ぜっとう 【弁舌で】に相互の思想を交換する
技量ぎりょう はないが、猫だけに忍びの術は諸先生より達者である。他人の出来ぬ事を
成就じょうじゅ するのはそれ自身において愉快である。
吾われ 一箇でも、
金田 の内幕を知るのは、誰も知らぬより愉快である。人に告げられんでも人に知られているなと言う自覚を彼等に与うるだけが愉快である。こんなに愉快が続々出て来ては 行かずにはいられない。やはり行く事に致そう。
向う横町へ来て見ると、聞いた通りの西洋館が
角地面かどじめん を
吾物顔わがものがお に占領している。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(85 / 115)
この
主人 もこの西洋館のごとく
傲慢ごうまん に構えているんだろうと、門を入ってその建築を
眺なが めて見たが ただ人を威圧しようと、二階作りが無意味に突っ立っているほかに何等の能もない構造であった。
迷亭 のいわゆる
月並つきなみ とはこれであろうか。玄関を右に見て、植込の中を通り抜けて、勝手口へ廻る。さすがに勝手は広い、
苦沙弥 先生の台所の十倍はたしかにある。せんだって日本新聞に詳しく書いてあった
大隈伯おおくまはく の勝手にも劣るまいと思うくらい整然と ぴかぴかしている。『模範勝手だな』と入り込む。見ると
漆喰しっくい で叩き上げた二坪ほどの土間に、例の車屋の
神 かみ さんが立ちながら、
御飯焚ごはんた きと車夫を相手にしきりに何か弁じている。こいつは
剣呑けんのん 【やばい】だと
水桶みずおけ の裏へかくれる。「
あの教師あ、うちの旦那の名を知らないのかね 」と
飯焚めしたき が言う。「
知らねえ事があるもんか、この界隈かいわい で金田 さんの御屋敷を知らなけりゃ眼も耳もねえ片輪かたわ だあな 」これは抱え車夫の声である。「
なんとも言えないよ。あの教師と来たら、本よりほかに何にも知らない変人なんだからねえ。旦那の事を少しでも知ってりゃ恐れるかも知れないが、駄目だよ、自分の小供の歳とし さえ知らないんだもの 」と
神さん が言う。「
金田 さんでも恐れねえかな、厄介な唐変木とうへんぼく だ。構かま あ事こた あねえ、みんなで威嚇おど かしてやろうじゃねえか」「
それが好いよ。奥様の鼻が大き過ぎるの、顔が気に喰わないのって――そりゃあ酷ひど い事を言うんだよ。自分の面つら あ今戸焼いまどやき の狸たぬき 見たような癖に――あれで一人前いちにんまえ だと思っているんだから やれ切れないじゃないか 」「
顔ばかりじゃない、手拭てぬぐい を提さ げて湯に行くところからして、いやに高慢ちきじゃないか。自分くらいえらい者は無いつもりでいるんだよ 」と
苦沙弥 先生は飯焚にも
大おおい に不人望である。「
何でも大勢であいつの垣根の傍そば へ行って悪口をさんざんいってやるんだね 」「
そうしたらきっと恐れ入るよ 」「
しかしこっちの姿を見せちゃあ面白くねえから、声だけ聞かして、勉強の邪魔をした上に、出来るだけじらしてやれって、さっき奥様が言い付けておいでなすったぜ 」「
そりゃ分っているよ 」と
神さん は悪口の三分の一を引き受けると言う意味を示す。なるほどこの手合が
苦沙弥 先生を冷やかしに来るなと三人の横を、そっと通り抜けて奥へ入る。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(86 / 115)
猫の足はあれども無きがごとし、どこを歩いても不器用な音のした試しがない。空を踏むがごとく、雲を行くがごとく、水中に
磬けい 【読経のとき打ち鳴らす'へ'の字型の板】を打つがごとく、
洞裏とうり 【ほらあなの内側】に
瑟しつ 【大型の琴】を
鼓こ する【かき鳴らす】がごとく、『
醍醐だいご の妙味を
甞な めて
言詮ごんせん のほかに
冷暖れいだん を
自知じち するがごとし』【人の助けを借りず、みずから悟ること】。月並な西洋館もなく、模範勝手もなく、車屋の
神さん も、
権助 ごんすけ 【奉公人の総称】も、飯焚も、御嬢さまも、
仲働なかばたら きも、
鼻子 夫人も、夫人の
旦那様 もない。行きたいところへ行って聞きたい話を聞いて、舌を出し
尻尾しっぽ を
掉ふ って、
髭ひげ をぴんと立てて
悠々ゆうゆう と帰るのみである。ことに
吾輩 はこの道に掛けては日本一の
堪能かんのう 【深くその道に通じている】である。
草双紙くさぞうし 【江戸時代の絵入り娯楽本】にある
猫又 ねこまた の血脈を受けておりはせぬかと
自みずか ら疑うくらいである。
蟇がま の
額ひたい には
夜光やこう の
明珠めいしゅ 【暗闇でも光を発する
珠たま 】があると言うが、
吾輩 の尻尾には『
神祇釈教しんぎしゃっきょう 【神道と仏教の世界観】
恋無常こいむじょう 【恋もまた無常である】』は無論の事、満天下の人間を馬鹿にする
一家相伝いっかそうでん 【代々受け継がれてきたもの】の妙薬が詰め込んである。
金田 家の廊下を人の知らぬ間に横行するくらいは、仁王様が
心太ところてん を踏み
潰つぶ すよりも容易である。この時
吾輩 は我ながら、わが力量に感服して、これも普段大事にする尻尾の御蔭だなと気が付いて見るとただ置かれない。
吾輩 の尊敬する尻尾大明神を
礼拝らいはい してニャン運長久【運が長く久しく続く】を祈らばやと、ちょっと低頭して見たが、どうも少し
見当けんとう が違うようである。なるべく尻尾の方を見て三拝しなければならん。尻尾の方を見ようと身体を廻すと尻尾も自然と廻る。追付こうと思って首をねじると、尻尾も同じ間隔をとって、先へ
馳か け出す。なるほど
天地玄黄てんちげんこう 【書の練習によく用いられる千字文の第一句。ものの順序を示す言葉】を三寸
裏り に収めるほどの霊物だけあって、到底
吾輩 の手に合わない、尻尾を
環めぐ る事
七度ななた び半にして
草臥くたび れたからやめにした。少々眼がくらむ。どこにいるのだかちょっと方角が分らなくなる。構うものかと滅茶苦茶にあるき廻る。障子の
裏うち で
鼻子 の声がする。ここだと立ち留まって、左右の耳をはすに切って、息を
凝こ らす。「
貧乏教師の癖に生意気じゃありませんか 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(87 / 115)
と例の
金切かなき り
声ごえ を振り立てる。「
うん、生意気な奴だ、ちと懲こ らしめのために いじめてやろう。あの学校にゃ国のものもいるからな 」「
誰がいるの? 」「
津木 つき ピン助すけ や福地 ふくち キシャゴがいるから、頼んでからかわしてやろう」
吾輩 は
金田 君の
生国しょうごく は分らんが、妙な名前の人間ばかり
揃そろ った所だと少々驚いた。
金田 君はなお語をついで、「
あいつは英語の教師かい 」と聞く。「
はあ、車屋の神さん の話では英語のリードルか何か専門に教えるんだって言います 」「
どうせ碌ろく な教師じゃあるめえ 」
あるめえ にも
尠すく なからず感心した。「
この間ピン助 に遇あ ったら、私わたし の学校にゃ妙な奴がおります。生徒から先生番茶 は英語で何と言いますと聞かれて、番茶 は Savage tea【蛮茶】 であると真面目に答えたんで、教員間の物笑いとなっています、どうもあんな教員があるから、ほかのものの、迷惑になって困りますと言ったが、大方おおかた あいつの事だぜ 」「
あいつに極きま っていまさあ、そんな事を言いそうな面構つらがま えですよ、いやに髭ひげ なんか生は やして 」「
怪け しからん奴だ」髭を生やして怪しからなければ猫などは一疋だって怪しかりようがない。「
それにあの迷亭 とか、へべれけとか言う奴は、まあ何てえ、頓狂な跳返はねっかえ りなんでしょう、伯父の牧山 男爵だなんて、あんな顔に男爵の伯父なんざ、有るはずがないと思ったんですもの 」「
御前がどこの馬の骨だか分らんものの言う事を真ま に受けるのも悪い 」「
悪いって、あんまり人を馬鹿にし過ぎるじゃありませんか 」と大変残念そうである。不思議な事には
寒月 君の事は
一言半句いちごんはんく も出ない。
吾輩 の忍んで来る前に評判記はすんだものか、またはすでに落第と事が
極きま って念頭にないものか、その
辺へん は
懸念けねん もあるが仕方がない。しばらく
佇たたず んでいると廊下を隔てて向うの座敷でベルの音がする。そらあすこにも何か事がある。
後おく れぬ先に、とその方角へ歩を向ける。
来て見ると女が
独ひと りで何か大声で話している。その声が
鼻子 とよく似ているところをもって
推お すと、これが即ち当家の令嬢
寒月 君をして
未遂入水みすいじゅすい をあえてせしめたる
代物しろもの だろう。
惜哉おしいかな 障子越しで玉の
御姿おんすがた を拝する事が出来ない。従って顔の真中に大きな鼻を祭り込んでいるか、どうだか受合えない。しかし談話の模様から鼻息の荒いところなどを
総合そうごう して考えて見ると、
満更まんざら 人の注意を
惹ひ かぬ
獅鼻ししばな とも思われない。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(88 / 115)
女はしきりに
喋舌しゃべ っているが相手の声が少しも聞えないのは、
噂うわさ にきく電話というものであろう。「
御前は大和やまと かい。明日あした ね、行くんだからね、鶉うずら の三を取っておいておくれ、いいかえ――分ったかい――なに分らない? おやいやだ。鶉の三【舞台に近い方から数えて三番目(桟敷席を鶉と呼んでいた)】を取るんだよ。――なんだって、――取れない? 取れないはずはない、とるんだよ――へへへへへ御冗談ごじょうだん をだって――何が御冗談なんだよ――いやに人をおひゃらかす【からかう】よ。全体御前は誰だい。長吉 ちょうきち だ? 長吉 なんぞじゃ訳が分らない。お神さん に電話口へ出ろって御言いな――なに? 私わたく しで何でも弁じます?――お前は失敬だよ。妾あた しを誰だか知ってるのかい。金田 だよ。――へへへへへ善く存じておりますだって。ほんとに馬鹿だよこの人あ。――金田 だってえばさ。――なに?――毎度御贔屓ごひいき にあずかりましてありがとうございます?――何がありがたいんだね。御礼なんか聞きたかあないやね――おやまた笑ってるよ。お前はよっぽど愚物ぐぶつ だね。――仰せの通りだって?――あんまり人を馬鹿にすると電話を切ってしまうよ。いいのかい。困らないのかよ――黙ってちゃ分らないじゃないか、何とか御言いなさいな 」電話は
長吉 の方から切ったものか何の返事もないらしい。令嬢は
癇癪かんしゃく を起してやけに
ベル をジャラジャラと廻す。足元で
狆ちん 【(あの)チン】が驚ろいて急に吠え出す。これは
迂濶うかつ に出来ないと、急に飛び下りて縁の下へもぐり込む。
折柄おりから 廊下を
近ちかづ く足音がして障子を開ける音がする。誰か来たなと一生懸命に聞いていると「
御嬢様、旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます 」と小間使らしい声がする。「
知らないよ 」と令嬢は
剣突けんつく を食わせる。「
ちょっと用があるから嬢じょう を呼んで来いとおっしゃいました 」「
うるさいね、知らないてば 」と令嬢は第二の剣突を食わせる。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(89 / 115)
「
……水島寒月 さんの事で御用があるんだそうでございます 」と小間使は気を
利き かして機嫌を直そうとする。「
寒月 でも、水月でも知らないんだよ――大嫌いだわ、糸瓜へちま が戸迷とまど いをしたような顔をして」第三の剣突は、憐れなる
寒月 君が、留守中に頂戴する。「
おや御前いつ束髪そくはつ 【明治に流行った西洋の結髪】に結い ったの 」小間使はほっと一息ついて「
今日こんにち 」となるべく
単簡たんかん な挨拶をする。「
生意気だねえ、小間使の癖に 」と第四の剣突を別方面から食わす。「
そうして新しい半襟はんえり 【飾り襟】を掛けたじゃないか 」「
へえ、せんだって御嬢様からいただきましたので、結構過ぎて勿体もったい ないと思って行李こうり の中へしまっておきましたが、今までのがあまり汚よご れましたからかけ易か えました 」「
いつ、そんなものを上げた事があるの 」「
この御正月、白木屋へいらっしゃいまして、御求め遊ばしたので――鶯茶うぐいすちゃ へ相撲すもう の番附ばんづけ を染め出したのでございます。妾あた しには地味過ぎていやだから御前に上げようとおっしゃった、あれでございます 」「
あらいやだ。善く似合うのね。にくらしいわ 」「
恐れ入ります 」「
褒ほ めたんじゃない。にくらしいんだよ」「
へえ 」「
そんなによく似合うものを なぜだまって貰ったんだい 」「
へえ 」「
御前にさえ、そのくらい似合うなら、妾あた しにだっておかしい事あ ないだろうじゃないか 」「
きっとよく御似合い遊ばします 」「
似あうのが分ってる癖になぜ黙っているんだい。そうしてすまして掛けているんだよ、人の悪い 」
剣突けんつく は留めどもなく連発される。このさき、事局はどう発展するかと謹聴している時、向うの座敷で「
富子 や、富子 や」と大きな声で
金田 君が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむを得ず「
はい 」と電話室を出て行く。
吾輩 より少し大きな
狆ちん が顔の中心に眼と口を引き集めたような
面かお をして付いて行く。
吾輩 は例の忍び足で再び勝手から往来へ出て、急いで
主人 の家に帰る。探険はまず十二分の
成績せいせき である。
帰って見ると、奇麗な
家うち から急に汚ない所へ移ったので、何だか日当りの善い山の上から薄黒い
洞窟どうくつ の中へ入り込んだような心持ちがする。探険中は、ほかの事に気を奪われて部屋の装飾、
襖ふすま 、
障子しょうじ の具合などには眼も留らなかったが、わが
住居すまい の下等なるを感ずると同時に
彼か のいわゆる
月並つきなみ が恋しくなる。教師よりもやはり実業家がえらいように思われる。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(90 / 115)
吾輩 も少し変だと思って、例の
尻尾しっぽ に伺いを立てて見たら、その通りその通りと尻尾の先から
御託宣ごたくせん があった。座敷へ入って見ると驚いたのは
迷亭 先生まだ帰らない、
巻煙草まきたばこ の吸い殻を蜂の巣のごとく火鉢の中へ突き立てて、
大胡坐おおあぐら で何か話し立てている。いつの間にか
寒月 君さえ来ている。
主人 は手枕をして天井の
雨洩あまもり を余念もなく眺めている。あいかわらず太平の逸民【気楽に暮らす人々】の会合である。
「
寒月 君、君の事を譫語うわごと にまで言った婦人の名は、当時秘密であったようだが、もう話しても善かろう」と
迷亭 がからかい出す。「
御話しをしても、私だけに関する事なら差支さしつか えないんですが、先方の迷惑になる事ですから 」「
まだ駄目かなあ 」「
それに○○博士夫人に約束をしてしまったもんですから 」「
他言をしないと言う約束かね 」「
ええ 」と
寒月 君は例のごとく羽織の
紐ひも をひねくる。その紐は売品にあるまじき紫色である。「
その紐の色は、ちと天保調てんぽうちょう 【時代遅れ】だな 」と
主人 が寝ながら言う。
主人 は
金田 事件などには無頓着である。「
そうさ、到底とうてい 日露戦争時代のものではないな。陣笠じんがさ に立葵たちあおい の紋の付いたぶっ割さ き羽織【馬に乗るため、後ろが縦に裂けている羽織】でも着なくっちゃ納まりの付かない紐だ。織田信長が聟入むこいり をするとき頭の髪を茶筌ちゃせん に結い ったと言うがその節用いたのは、たしかそんな紐だよ 」と
迷亭 の文句はあいかわらず長い。「
実際これは爺じじい が長州征伐の時に用いたのです 」と
寒月 君は真面目である。「
もういい加減に博物館へでも献納してはどうだ。首縊りの力学 の演者、理学士水島寒月 君ともあろうものが、売れ残りの旗本のような出い で立たち をするのはちと体面に関する訳だから 」「
御忠告の通りに致してもいいのですが、この紐が大変よく似合うと言ってくれる人もありますので―― 」「
誰だい、そんな趣味のない事を言うのは 」と
主人 は寝返りを打ちながら大きな声を出す。「
それは御存じの方なんじゃないんで―― 」「
御存じでなくてもいいや、一体誰だい 」「
去る女性にょしょう なんです 」「
ハハハハハよほど茶人だなあ、当てて見ようか、やはり隅田川の底から君の名を呼んだ女なんだろう、その羽織を着てもう一返御駄仏おだぶつ を極き め込んじゃどうだい 」と
迷亭 が横合から飛び出す。「
へへへへへもう水底から呼んではおりません。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(91 / 115)
ここから乾いぬい 【北西】の方角にあたる清浄しょうじょう な世界で……」 「
あんまり清浄でもなさそうだ、毒々しい鼻だぜ 」「
へえ? 」と
寒月 は不審な顔をする。「
向う横丁の鼻がさっき押しかけて来たんだよ、ここへ、実に僕等二人は驚いたよ、ねえ苦沙弥 君 」「
うむ 」と
主人 は寝ながら茶を飲む。「
鼻って誰の事です 」「
君の親愛なる久遠くおん の女性にょしょう の御母堂様だ 」「
へえー 」「
金田 の妻さい という女が君の事を聞きに来たよ」と
主人 が真面目に説明してやる。驚くか、嬉しがるか、恥ずかしがるかと
寒月 君の様子を
窺うかが って見ると別段の事もない。例の通り静かな調子で「
どうか私に、あの娘を貰ってくれと言う依頼なんでしょう 」と、また紫の紐をひねくる。「
ところが大違さ。その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有主ぬし でね…… 」
迷亭 が
半なか ば言い懸けると、
主人 が「
おい君、僕はさっきから、あの鼻について俳体詩はいたいし 【明治30年代に高浜虚子、夏目漱石らによって試みられた連句形式の詩】を考えているんだがね 」と木に竹を
接つ いだよう【つじつまが合わない】な事を言う。隣の
室へや で
妻君 がくすくす笑い出す。「
随分君も呑気のんき だなあ出来たのかい 」「
少し出来た。第一句がこの顔に鼻祭り と言うのだ 」「
それから? 」「
次がこの鼻に神酒供え というのさ 」「
次の句は? 」「
まだそれぎりしか出来ておらん 」「
面白いですな 」と
寒月 君が にやにや笑う。「
次へ穴二つ幽かなり 【微かす かなり】と付けちゃどうだ 」と
迷亭 はすぐ出来る。すると
寒月 が「
奥深く毛も見えず はいけますまいか」と
各々おのおの 出鱈目でたらめ を並べていると、垣根に近く、往来で「
今戸焼いまどやき の狸たぬき 今戸焼の狸」と四五人わいわい言う声がする。
主人 も
迷亭 もちょっと驚ろいて表の方を、垣の
隙すき からすかして見ると「
ワハハハハハ 」と笑う声がして遠くへ散る足の音がする。「
今戸焼の狸というな何だい 」と
迷亭 が不思議そうに
主人 に聞く。「
何だか分らん 」と
主人 が答える。「
なかなか振ふる っていますな 」と
寒月 君が批評を加える。
迷亭 は何を思い出したか急に立ち上って「
吾輩は年来美学上の見地からこの鼻について研究した事がございますから、その一斑いっぱん 【一端】を披瀝ひれき 【さらけ出す】して、御両君の清聴を煩わずら わしたいと思います 」と演舌の真似をやる。
主人 はあまりの突然にぼんやりして無言のまま
迷亭 を見ている。
寒月 は「
是非承うけたまわ りたいものです 」と小声で言う。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(92 / 115)
「
いろいろ調べて見ましたが鼻の起源はどうも確しか と分りません。第一の不審は、もしこれを実用上の道具と仮定すれば穴が二つでたくさんである。何もこんなに横風おうふう 【遠慮がない】に真中から突き出して見る必用がないのである。ところがどうしてだんだん御覧のごとく斯様かよう にせり出して参ったか 」と自分の鼻を
抓つま んで見せる。「
あんまりせり出してもおらんじゃないか 」と
主人 は御世辞のないところを言う。「
とにかく引っ込んではおりませんからな。ただ二個の孔あな が併なら んでいる状体と混同なすっては、誤解を生ずるに至るかも計られませんから、予あらかじ め御注意をしておきます。――で愚見【自分の意見をへりくだって言う語】によりますと鼻の発達は吾々人間が鼻汁はな をかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したものでございます 」「
佯いつわ りのない愚見だ」とまた
主人 が寸評を
挿入そうにゅう する。「
御承知の通り鼻汁はな をかむ時は、是非鼻を抓みます、鼻を抓んで、ことにこの局部だけに刺激を与えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に応ずるがため他に比例して不相当な発達を致します。皮も自然堅くなります、肉も次第に硬かた くなります。ついに凝こ って骨となります 」「
それは少し――そう自由に肉が骨に一足飛に変化は出来ますまい 」と理学士だけあって
寒月 君が抗議を申し込む。
迷亭 は何喰わぬ顔で
陳の べ続ける。「
いや御不審はごもっともですが論より証拠この通り骨があるから仕方がありません。すでに骨が出来る。骨は出来ても鼻汁はな は出ますな。出ればかまずにはいられません。この作用で骨の左右が削けず り取られて細い高い隆起と変化して参ります――実に恐ろしい作用です。点滴てんてき の石を穿うが つがごとく、賓頭顱びんずる 【お釈迦様の十六人の弟子(十六羅漢)の一人。おびんずる様と呼ばれ、よく頭をなでられている】の頭が自おのず から光明を放つがごとく、不思議薫ふしぎくん 不思議臭ふしぎしゅう の喩たとえ のごとく、斯様かよう に鼻筋が通って堅くなります 」「
それでも君のなんぞ、ぶくぶくだぜ 」「
演者自身の局部は回護かいご 【弁護】の恐れがありますから、わざと論じません。かの金田の御母堂 の持たせらるる鼻のごときは、もっとも発達せるもっとも偉大なる天下の珍品として御両君に紹介しておきたいと思います 」
寒月 君は思わずヒヤヤヤと言う。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(93 / 115)
「
しかし物も極度に達しますと偉観には相違ございませんが何となく怖おそろ しくて近づき難いものであります。あの鼻梁びりょう 【鼻筋】などは素晴しいには違いございませんが、少々峻嶮しゅんけん 【近寄りがたい】過ぎるかと思われます。古人のうちにてもソクラチス【ソクラテス:古代ギリシアの哲学者】、ゴールドスミス【イギリスの小説家】もしくはサッカレー【イギリスの小説家】の鼻などは構造の上から言うと随分申し分はございましょうが その申し分のあるところに愛嬌あいきょう がございます。鼻高きが故に貴たっと からず、奇き なるがために貴しとはこの故でもございましょうか。下世話げせわ にも鼻より団子と申しますれば美的価値から申しますと まず迷亭 くらいのところが適当かと存じます 」
寒月 と
主人 は「
フフフフ 」と笑い出す。
迷亭 自身も愉快そうに笑う。「
さてただ今いま まで弁じましたのは―― 」「
先生弁じました は少し講釈師のようで下品ですから、よしていただきましょう 」と
寒月 君は先日の
復讐ふくしゅう をやる。「
さよう しからば顔を洗って出直しましょうかな。――ええ――これから鼻と顔の権衡けんこう 【つりあい】に一言いちごん 論及したいと思います。他に関係なく単独に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻――鞍馬山くらまやま で展覧会があっても恐らく一等賞だろうと思われるくらいな鼻を所有していらせられますが、悲しいかなあれは眼、口、その他の諸先生と何等の相談もなく出来上った鼻であります。ジュリアス・シーザー【古代ローマの軍人・政治家】の鼻は大したものに相違ございません。しかしシーザーの鼻を鋏はさみ でちょん切って、当家の猫の顔へ安置したらどんな者でございましょうか。喩たと えにも猫の額ひたい と言うくらいな地面へ、英雄の鼻柱が突兀とっこつ 【高く突き出ている】として聳そび えたら、碁盤の上へ奈良の大仏を据す え付けたようなもので、少しく比例を失するの極、その美的価値を落す事だろうと思います。御母堂の鼻はシーザーのそれのごとく、正まさ しく英姿颯爽えいしさっそう 【堂々として立派な】たる隆起に相違ございません。しかしその周囲を囲繞いにょう 【取り囲む】する顔面的条件は如何いかが な者でありましょう。無論当家の猫のごとく劣等ではない。しかし癲癇病てんかんや みの御かめ のごとく眉まゆ の根に八字を刻んで、細い眼を釣るし上げらるるのは事実であります。諸君、この顔にしてこの鼻ありと嘆ぜざるを得ん【なげかわしく思う】ではありませんか 」
迷亭 の言葉が少し途切れる
途端とたん 、裏の方で「
まだ鼻の話しをしているんだよ。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(94 / 115)
何てえ剛突ごうつ く張ばり だろう」 と言う声が聞える。「
車屋の神さん だ 」と
主人 が
迷亭 に教えてやる。
迷亭 はまたやり初める。「
計らざる裏手にあたって、新たに異性の傍聴者のある事を発見したのは演者の深く名誉と思うところであります。ことに宛転えんてん 【よどみない】たる嬌音きょうおん 【美声】をもって、乾燥なる講筵こうえん 【講堂】に一点の艶味えんみ 【つや・あじ】を添えられたのは実に望外の幸福であります。なるべく通俗的に引き直して佳人かじん 【美人】淑女しゅくじょ の眷顧けんこ 【特別に目をかける】に背そむ かざらん事を期する訳でありますが、これからは少々力学上の問題に立ち入りますので、勢いきおい 御婦人方には御分りにくいかも知れません、どうか御辛防ごしんぼう を願います 」
寒月 君は力学と言う語を聞いてまた にやにやする。「
私の証拠立てようとするのは、この鼻とこの顔は到底調和しない。ツァイシング【ドイツの美学者】の黄金律 を失していると言う事なんで、それを厳格に力学上の公式から演繹えんえき 【導き出す】して御覧に入れようと言うのであります。まずHを鼻の高さとします。αは鼻と顔の平面の交差より生ずる角度であります。Wは無論鼻の重量と御承知下さい。どうです大抵お分りになりましたか。…… 」「
分るものか 」と
主人 が言う。「
寒月 君はどうだい」「
私にもちと分りかねますな 」「
そりゃ困ったな。苦沙弥 くしゃみ はとにかく、君は理学士だから分るだろうと思ったのに。この式が演説の首脳なんだからこれを略しては今までやった甲斐かい がないのだが――まあ仕方がない。公式は略して結論だけ話そう 」「
結論があるか 」と
主人 が不思議そうに聞く。「
当り前さ結論のない演舌は、デザートのない西洋料理のようなものだ、――いいか両君能よ く聞き給え、これからが結論だぜ。――さて以上の公式にウィルヒョウ【ドイツ人の医師、白血病の発見者】、ワイスマン【ドイツの動物学者】諸家の説を参酌さんしゃく 【参考】して考えて見ますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追陪ついばい 【追随】して起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。従ってかくのごとく身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子には、その鼻にも何か異状がある事と察せられます。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(95 / 115)
寒月 君などは、まだ年が御若いから金田令嬢 の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんが、かかる遺伝は潜伏期の長いものでありますから、いつ何時なんどき 気候の劇変と共に、急に発達して御母堂のそれのごとく、咄嗟とっさ の間かん に膨張ぼうちょう するかも知れません、それ故にこの御婚儀は、迷亭 の学理的論証によりますと、今の中 御断念になった方が安全かと思われます、これには当家の御主人 は無論の事、そこに寝ておらるる猫又殿 ねこまたどの にも御異存は無かろうと存じます」主人 はようよう起き返って「
そりゃ無論さ。あんなものの娘を誰が貰うものか。寒月 君もらっちゃいかんよ 」と大変熱心に主張する。
吾輩 もいささか賛成の意を表するために にゃーにゃーと二声ばかり鳴いて見せる。
寒月 君は別段騒いだ様子もなく「
先生方の御意向がそうなら、私は断念してもいいんですが、もし当人がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから―― 」「
ハハハハハ艶罪えんざい 【艶っぽい罪】と言う訳わけ だ 」
主人 だけは
大おおい にむきになって「
そんな馬鹿があるものか、あいつの娘なら碌ろく な者でないに極きま ってらあ。初めて人のうちへ来ておれをやり込めに掛った奴だ。傲慢ごうまん な奴だ 」と
独ひと りでぷんぷんする。するとまた垣根のそばで三四人が「
ワハハハハハ 」と言う声がする。一人が「
高慢ちきな唐変木とうへんぼく だ 」と言うと一人が「
もっと大きな家うち へ入りてえだろう 」と言う。また一人が「
御気の毒だが、いくら威張ったって蔭弁慶かげべんけい 【内弁慶】だ 」と大きな声をする。
主人 は縁側へ出て負けないような声で「
やかましい、何だ わざわざそんな塀へい の下へ来て 」と
怒鳴どな る。「
ワハハハハハ サヴェジ・チー【前述のSavage teaを揶揄】だ、サヴェジ・チーだ 」と口々に
罵のの しる。
主人 は
大おおい に
逆鱗げきりん の
体てい で突然
起た ってステッキを持って、往来へ飛び出す。
迷亭 は手を
拍う って「
面白い、やれやれ 」と言う。
寒月 は羽織の紐を
撚ひね って にやにやする。
吾輩 は
主人 のあとを付けて垣の崩れから往来へ出て見たら、真中に
主人 が手持無沙汰にステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっと
狐きつね に
抓つま まれた
体てい である。
『お詫び』 このテキストは、あまりにも大きいため、未だ編集作業中です。 以下は、仮編集のままリリースさせて頂きます。
四
例によって
金田 邸へ忍び込む。
例によって とは
今更いまさら 解釈する必要もない。
しばしば を
自乗じじょう したほどの度合を示す
語ことば である。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(96 / 115)
一度やった事は二度やりたいもので、二度試みた事は三度試みたいのは人間にのみ限らるる好奇心ではない、猫といえどもこの心理的特権を有して この世界に生れ出でたものと認定していただかねばならぬ。三度以上繰返す時始めて習慣なる語を冠せられて、この行為が生活上の必要と進化するのもまた人間と相違はない。何のために、かくまで
足繁あししげ く
金田 邸へ通うのかと不審を起すなら その前にちょっと人間に反問したい事がある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の
足た しにも血の道の薬にもならないものを、
恥はず かし
気げ もなく
吐呑とどん 【飲んだりはいたり】して
憚はば からざる以上は、
吾輩 が
金田 に
出入しゅつにゅう するのを、あまり大きな声で
咎とが め
立だ てをして貰いたくない。
金田 邸は
吾輩 の
煙草たばこ である。
忍び込む と言うと語弊がある、何だか泥棒か
間男まおとこ のようで聞き苦しい。
吾輩 が
金田 邸へ行くのは、招待こそ受けないが、決して
鰹かつお の
切身きりみ をちょろまかしたり、眼鼻が顔の中心に
痙攣的けいれんてき に密着している
狆ちん 君などと密談するためではない。――何 探偵?――もってのほかの事である。およそ世の中に何が
賤いや しい
家業かぎょう だと言って 探偵と高利貸ほど下等な職はないと思っている。なるほど
寒月 君のために 猫にあるまじきほどの
義侠心ぎきょうしん 【強きをくじき弱きを助ける】を起して、
一度ひとたび は
金田 家の動静を
余所よそ ながら
窺うかが った事はあるが、それはただの一遍で、その後は決して猫の良心に恥ずるような
陋劣ろうれつ 【卑劣】な振舞を致した事はない。――そんなら、なぜ
忍び込む と言うような
胡乱うろん 【うさんくさい】な文字を使用した?――さあ、それがすこぶる意味のある事だて。元来
吾輩 の考によると
大空たいくう は万物を
覆おお うため 大地は万物を
載の せるために出来ている――いかに
執拗しつよう な議論を好む人間でも この事実を否定する訳には行くまい。さてこの
大空大地たいくうだいち を製造するために彼等人類はどのくらいの労力を
費つい やしているかと言うと
尺寸せきすん 【ちょっと】の手伝もしておらぬではないか。自分が製造しておらぬものを自分の所有と
極き める法はなかろう。自分の所有と極めても
差さ し
支つか えないが他の
出入しゅつにゅう を禁ずる理由はあるまい。この
茫々ぼうぼう たる【広々とした】大地を、
小賢こざか しくも
垣かき 【垣根】を
囲めぐ らし
棒杭ぼうぐい を立てて某々所有地などと
劃かく し限る【囲う】のは あたかも かの
青天そうてん に
縄張なわばり して、この部分は
我われ の天、あの部分は
彼かれ の天と届け出るような者だ。もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら 我等が呼吸する空気を一尺立方に割って切売をしても善い訳である。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(97 / 115)
空気の切売が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。
如是観にょぜかん によりて、
如是法にょぜほう 【(仏教・法華経の)真実をそのままに受け入れる法】を信じている
吾輩 は それだからどこへでも入って行く。もっとも行きたくない処へは行かぬが、志す方角へは東西南北の差別は入らぬ、平気な顔をして、のそのそと参る。
金田 ごときものに遠慮をする訳がない。――しかし猫の悲しさは力ずくでは
到底とうてい 人間には
叶かな わない。強勢は権利なりとの格言さえあるこの浮世に存在する以上は、いかにこっちに道理があっても猫の議論は通らない。無理に通そうとすると車屋の
黒 のごとく不意に
肴屋さかなや の
天秤棒てんびんぼう を
喰くら う恐れがある。理はこっちにあるが権力は向うにあると言う場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、または権力の目を
掠かす めて我理を貫くかと言えば、
吾輩 は無論後者を
択えら ぶのである。天秤棒は避けざる べからざるが故に、
忍 ばざるべからず。人の邸内へは入り込んで
差支さしつか えなき
故ゆえ 込 まざるを得ず。この故に
吾輩 は
金田 邸へ
忍び込む のである。
忍び込む
度ど が重なるにつけ、探偵をする気はないが自然
金田 君一家の事情が見たくもない
吾輩 の眼に映じて覚えたくもない
吾輩 の
脳裏のうり に印象を
留とど むるに至るのはやむを得ない。
鼻子 夫人が顔を洗うたんびに念を入れて鼻だけ拭く事や、
富子 令嬢が
阿倍川餅あべかわもち を
無暗むやみ に召し上がらるる事や、それから
金田 君自身が――
金田 君は
妻君 に似合わず鼻の低い男である。単に鼻のみではない、顔全体が低い。小供の時分喧嘩をして、
餓鬼大将がきだいしょう のために
頸筋くびすじ を
捉つら まえられて、うんと精一杯に
土塀どべい へ
圧お し付けられた時の顔が四十年後の
今日こんにち まで、
因果いんが をなしておりはせぬかと
怪あやし まるるくらい平坦な顔である。
至極しごく 穏おだや かで危険のない顔には相違ないが、何となく変化に乏しい。いくら
怒おこ っても
平たいら かな顔である。――その
金田 君が
鮪まぐろ の
刺身さしみ を食って自分で自分の
禿頭はげあたま をぴちゃぴちゃ
叩たた く事や、それから顔が低いばかりでなく背が低いので、無暗に高い帽子と高い下駄を
穿は く事や、それを車夫がおかしがって書生に話す事や、書生がなるほど君の観察は機敏だと感心する事や、――一々数え切れない。
近頃は勝手口の横を庭へ通り抜けて、
築山つきやま の陰から向うを見渡して障子が立て切って物静かであるなと見極めがつくと、
徐々そろそろ 上り込む。もし人声が
賑にぎや かであるか、座敷から
見透みす かさるる恐れがあると思えば池を東へ廻って
雪隠せついん 【せっちん/便所】の横から知らぬ間に縁の下へ出る。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(98 / 115)
悪い事をした
覚おぼえ はないから何も隠れる事も、恐れる事もないのだが、そこが人間と言う無法者に逢っては不運と
諦あきら めるより仕方がないので、もし世間が
熊坂長範くまさかちょうはん 【平安時代の伝説上の盗賊】ばかりになったら いかなる盛徳【りっぱな得】の君子もやはり
吾輩 のような【用心深い】態度に出ずるであろう。
金田 君は堂々たる実業家であるから
固もと より熊坂長範のように五尺三寸を振り廻す
気遣きづかい はあるまいが、
承うけたまわ る処によれば 人を人と思わぬ病気があるそうである。人を人と思わないくらいなら猫を猫とも思うまい。して見れば猫たるものはいかなる盛徳の猫でも彼の邸内で決して油断は出来ぬ
訳わけ である。しかしその油断の出来ぬところが
吾輩 にはちょっと面白いので、
吾輩 がかくまでに
金田 家の門を
出入しゅつにゅう するのも、ただこの危険が
冒おか して見たいばかりかも知れぬ。それは追って
篤とく と考えた上、猫の
脳裏のうり を残りなく解剖し得た時 改めて
御吹聴ごふいちょう 仕つかまつ ろう。
今日はどんな模様だなと、例の築山の
芝生しばふ の上に
顎あご を押しつけて前面を見渡すと十五畳の客間を
弥生やよい 【三月】の春に明け放って、中には
金田 夫婦と一人の来客との
御話おはなし 最中さいちゅう である。
生憎あいにく 鼻子 夫人の鼻がこっちを向いて池越しに
吾輩 の額の上を正面から
睨にら め付けている。鼻に睨まれたのは生れて今日が始めてである。
金田 君は幸い横顔を向けて客と相対しているから例の平坦な部分は半分かくれて見えぬが、その代り鼻の
在所ありか が判然しない。ただ
胡麻塩ごましお 色の
口髯くちひげ が好い加減な所から乱雑に
茂生もせい しているので、あの上に
孔あな が二つあるはずだと結論だけは苦もなく出来る。
春風はるかぜ もああ言う
滑なめら かな顔ばかり吹いていたら定めて楽だろうと、ついでながら想像を
逞たくま しゅうして見た。御客さんは三人の
中うち で一番普通な
容貌ようぼう を有している。ただし普通なだけに、これぞと取り立てて紹介するに足るような
雑作ぞうさく は一つもない。普通と言うと結構なようだが、普通の
極きょく 平凡の堂に
上のぼ り【普通を極めて、その殿堂に入り】、庸俗の室に
入い ったのはむしろ
憫然びんぜん の至り【その詰まらなさは気の毒なほど】だ。かかる無意味な
面構つらがまえ を有すべき宿命を帯びて明治の
昭代しょうだい に生れて来たのは誰だろう。例のごとく縁の下まで行ってその談話を承わらなくては分らぬ。
「
……それで妻さい がわざわざあの男の所まで出掛けて行って様子を聞いたんだがね…… 」と
金田 君は例のごとく
横風おうふう 【遠慮がない】な言葉使である。横風ではあるが
毫ごう 【少し】も
峻嶮しゅんけん 【近寄りがたい】なところがない。言語も彼の顔面のごとく
平板尨大へいばんぼうだい 【面白みに欠け まとまりがない】である。
「
なるほどあの男が水島 さんを教えた事がございますので――なるほど、よい御思い付きで――なるほど 」となるほどずくめのは御客さんである。
「
ところが何だか要領を得んので 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(99 / 115)
「
ええ苦沙弥 くしゃみ じゃ要領を得ない訳わけ で――あの男は私がいっしょに下宿をしている時分から実に煮に え切らない――そりゃ御困りでございましたろう 」と御客さんは
鼻子 夫人の方を向く。
「
困るの、困らないのってあなた、私わた しゃこの年になるまで人のうちへ行って、あんな不取扱ふとりあつかい を受けた事はありゃしません 」と
鼻子 は例によって鼻嵐を吹く。
「
何か無礼な事でも申しましたか、昔むか しから頑固がんこ な性分で――何しろ十年一日のごとく【長い間変化なく】リードル【英語のリーダー】専門の教師をしているのでも大体御分りになりましょう 」と御客さんは
体てい よく調子を合せている。「
いや御話しにもならんくらいで、妻さい が何か聞くとまるで剣もほろろの挨拶だそうで…… 」
「
それは怪け しからん訳で――一体少し学問をしていると とかく慢心が萌きざ すもので、その上貧乏をすると負け惜しみが出ますから――いえ世の中には随分無法な奴がおりますよ。自分の働きのないのにゃ気が付かないで、無暗むやみ に財産のあるものに喰って掛るなんてえのが――まるで彼等の財産でも捲ま き上げたような気分ですから驚きますよ、あははは 」と御客さんは大恐悦【つつしんでよろこぶ】の
体てい である。
「
いや、まことに言語同断ごんごどうだん で、ああ言うのは必竟ひっきょう 世間見ずの我儘わがまま から起るのだから、ちっと懲こ らしめのために いじめてやるが好かろうと思って、少し当ってやったよ 」
「
なるほどそれでは大分だいぶ 答えましたろう、全く本人のためにもなる事ですから 」と御客さんはいかなる
当り方 か
承うけたまわ らぬ先からすでに
金田 君に同意している。
「
ところが鈴木 さん、まあなんて頑固な男なんでしょう。学校へ出ても福地 ふくち さんや、津木 つき さんには口も利き かないんだそうです。恐れ入って黙っているのかと思ったら この間は罪もない、宅たく の書生をステッキを持って追っ懸けたってんです――三十面づら さげて、よく、まあ、そんな馬鹿な真似が出来たもんじゃありませんか、全くやけ で少し気が変になってるんですよ 」
「
へえどうしてまたそんな乱暴な事をやったんで…… 」とこれには、さすがの御客さんも少し不審を起したと見える。
「
なあに、ただあの男の前を何とか言って通ったんだそうです、すると、いきなり、ステッキを持って跣足はだし で飛び出して来たんだそうです。よしんば、ちっとやそっと、何か言ったって小供じゃありませんか、髯面ひげづら の大僧おおぞう の癖にしかも教師じゃありませんか 」
「
さよう教師ですからな 」と御客さんが言うと、
金田 君も「
教師だからな 」と言う。教師たる以上はいかなる侮辱を受けても木像のように おとなしくして おらねばならぬ とはこの三人の期せずして一致した論点と見える。
「
それに、あの迷亭 って男はよっぽどな酔興人すいきょうじん ですね。役にも立たない嘘うそ 八百を並べ立てて。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(100 / 115)
私わた しゃあんな変梃へんてこ な人にゃ初めて逢いましたよ」
「
ああ迷亭 ですか、あいかわらず法螺ほら を吹くと見えますね。やはり苦沙弥 の所で御逢いになったんですか。あれに掛っちゃたまりません。あれも昔むか し自炊の仲間でしたがあんまり人を馬鹿にするものですから能よ く喧嘩をしましたよ 」
「
誰だって怒りまさあね、あんなじゃ。そりゃ嘘をつくのも宜よ うござんしょうさ、ね、義理が悪るいとか、ばつを合せなくっちゃあならないとか――そんな時には誰しも心にない事を言うもんでさあ。しかしあの男のは吐つ かなくってすむのに矢鱈やたら に吐くんだから始末に了お えないじゃありませんか。何が欲しくって、あんな出鱈目でたらめ を――よくまあ、しらじらしく言えると思いますよ 」
「
ごもっともで、全く道楽からくる嘘だから困ります 」
「
せっかくあなた真面目に聞きに行った水島 の事も滅茶滅茶めちゃめちゃ になってしまいました。私わたし ゃ剛腹ごうはら 【癪しゃく に障り】で忌々いまいま しくって――それでも義理は義理でさあ、人のうちへ物を聞きに行って知らん顔の半兵衛もあんまりですから、後で車夫にビールを一ダース持たせてやったんです。ところがあなたどうでしょう。こんなものを受取る理由がない、持って帰れって言うんだそうで。いえ御礼だから、どうか御取り下さいって車夫が言ったら――悪に くいじゃあ ありませんか、俺はジャムは毎日舐な めるがビールのような苦にが い者は飲んだ事がないって、ふいと奥へ入ってしまったって――言い草に事を欠いて、まあどうでしょう、失礼じゃありませんか 」
「
そりゃ、ひどい 」と御客さんも今度は本気に
苛ひど いと感じたらしい。
「
そこで今日わざわざ君を招いたのだがね 」としばらく途切れて
金田 君の声が聞える。「
そんな馬鹿者は陰から、からかってさえいればすむようなものの、少々それでも困る事があるじゃて…… 」と
鮪まぐろ の刺身を食う時のごとく
禿頭はげあたま をぴちゃぴちゃ
叩たた く。もっとも
吾輩 は縁の下にいるから実際叩いたか叩かないか見えようはずがないが、この禿頭の音は近来
大分だいぶ 聞馴れている。
比丘尼びくに 【仏教の正規の女性出家者】が木魚の音を聞き分けるごとく、縁の下からでも音さえたしかであればすぐ禿頭だなと
出所しゅっしょ を鑑定する事が出来る。「
そこでちょっと君を煩わずら わしたいと思ってな…… 」
「
私に出来ます事なら何でも御遠慮なくどうか――今度東京勤務と言う事になりましたのも全くいろいろ御心配を掛けた結果にほかならん訳でありますから 」と御客さんは快よく
金田 君の依頼を承諾する。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(101 / 115)
この
口調くちょう で見るとこの御客さんはやはり
金田 君の世話になる人と見える。いやだんだん事件が面白く発展してくるな、今日はあまり天気が
宜い いので、来る気もなしに来たのであるが、こう言う好材料を
得え ようとは全く思い
掛が けなんだ。
御彼岸おひがん にお
寺詣てらまい りをして偶然
方丈ほうじょう 【お寺の中】で
牡丹餅ぼたもち の御馳走になるような者だ。
金田 君はどんな事を客人に依頼するかなと、縁の下から耳を澄して聞いている。
「
あの苦沙弥 と言う変物へんぶつ が、どう言う訳か水島 に入い れ知恵ぢえ をするので、あの金田 の娘を貰っては行い かんなどと ほのめかすそうだ――なあ鼻子 そうだな 」
「
ほのめかすどころじゃないんです。あんな奴の娘を貰う馬鹿がどこの国にあるものか、寒月 君決して貰っちゃいかんよって言うんです 」
「
あんな奴とは何だ失敬な、そんな乱暴な事を言ったのか 」
「
言ったどころじゃありません、ちゃんと車屋の神さん が知らせに来てくれたんです 」
「
鈴木 君どうだい、御聞の通りの次第さ、随分厄介だろうが?」
「
困りますね、ほかの事と違って、こう言う事には他人が妄みだ りに容喙ようかい するべきはずの者ではありませんからな。そのくらいな事はいかな苦沙弥 でも心得ているはずですが。一体どうした訳なんでしょう 」
「
それでの、君は学生時代から苦沙弥 と同宿をしていて、今はとにかく、昔は親密な間柄であったそうだから御依頼するのだが、君 当人に逢ってな、よく利害を諭さと して見てくれんか。何か怒おこ っているかも知れんが、怒るのは向むこう が悪わ るいからで、先方がおとなしくしてさえいれば一身上の便宜も充分計ってやるし、気に障さ わるような事もやめてやる。しかし向が向ならこっちもこっちと言う気になるからな――つまりそんな我が を張るのは当人の損だからな 」
「
ええ全くおっしゃる通り愚ぐ な抵抗をするのは 本人の損になるばかりで 何の益もない事ですから、善く申し聞けましょう 」
「
それから娘はいろいろと申し込もある事だから、必ず水島 にやると極き める訳にも行かんが、だんだん聞いて見ると学問も人物も悪くもないようだから、もし当人が勉強して近い内に博士にでもなったら あるいはもらう事が出来るかも知れんくらいは それとなくほのめかしても構わん 」
「
そう言ってやったら当人も励はげ みになって勉強する事でしょう。宜よろ しゅうございます 」
「
それから、あの妙な事だが――水島 にも似合わん事だと思うが、あの変物へんぶつ の苦沙弥 を先生先生と言って苦沙弥 の言う事は大抵聞く様子だから困る。なにそりゃ何も水島 に限る訳では無論ないのだから苦沙弥 が何と言って邪魔をしようと、わしの方は別に差支さしつか えもせんが…… 」
「
水島 さんが可哀そうですからね」と
鼻子 夫人が口を出す。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(102 / 115)
「
水島 と言う人には逢った事もございませんが、とにかくこちらと御縁組が出来れば生涯しょうがい の幸福で、本人は無論異存はないのでしょう」
「
ええ水島 さんは貰いたがっているんですが、苦沙弥 だの迷亭 だのって変り者が何だとか、かんだとか言うものですから 」
「
そりゃ、善くない事で、相当の教育のあるものにも似合わん所作しょさ ですな。よく私が苦沙弥 の所へ参って談じましょう 」
「
ああ、どうか、御面倒でも、一つ願いたい。それから実は水島 の事も苦沙弥 が一番詳くわ しいのだが せんだって妻さい が行った時は今の始末で 碌々ろくろく 聞く事も出来なかった訳だから、君から 今一応本人の性行学才等をよく聞いて貰いたいて 」
「
かしこまりました。今日は土曜ですからこれから廻ったら、もう帰っておりましょう。近頃はどこに住んでおりますか知らん 」
「
ここの前を右へ突き当って、左へ一丁ばかり行くと崩れかかった黒塀のあるうちです 」と
鼻子 が教える。
「
それじゃ、つい近所ですな。訳はありません。帰りにちょっと寄って見ましょう。なあに、大体分りましょう標札ひょうさつ を見れば 」
「
標札はあるときと、ないときとありますよ。名刺を御饌粒ごぜんつぶ 【ご飯つぶ】で門へ貼は り付けるのでしょう。雨がふると剥は がれてしまいましょう。すると御天気の日にまた貼り付けるのです。だから標札は当あて にゃなりませんよ。あんな面倒臭い事をするよりせめて木札きふだ でも懸けたらよさそうなもんですがねえ。ほんとうにどこまでも気の知れない人ですよ 」
「
どうも驚きますな。しかし崩れた黒塀のうちと聞いたら大概分るでしょう 」
「
ええあんな汚ないうちは町内に一軒しかないから、すぐ分りますよ。あ、そうそうそれで分らなければ、好い事がある。何でも屋根に草が生は えたうちを探して行けば間違っこありませんよ 」
「
よほど特色のある家いえ ですなアハハハハ 」
鈴木 君が御光来になる前に帰らないと、少し都合が悪い。談話もこれだけ聞けば大丈夫沢山である。縁の下を伝わって
雪隠せついん を西へ廻って
築山つきやま の陰から往来へ出て、急ぎ足で屋根に草の生えているうちへ帰って来て 何喰わぬ顔をして座敷の椽へ廻る。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(103 / 115)
主人 は縁側へ
白毛布しろげっと を敷いて、
腹這はらばい になって
麗うらら かな
春日はるび に
甲羅こうら を干している。太陽の光線は存外公平なもので屋根にペンペン草の目標のある
陋屋ろうおく 【みすぼらしい家】でも、
金田 君の客間のごとく陽気に暖かそうであるが、気の毒な事には
毛布けっと だけが春らしくない。製造元では白のつもりで織り出して、
唐物屋とうぶつや でも白の気で売り
捌さば いたのみならず、
主人 も白と言う注文で買って来たのであるが――何しろ十二三年以前の事だから白の時代はとくに通り越して ただ今は
濃灰色のうかいしょく なる変色の時期に
遭遇そうぐう しつつある。この時期を経過して他の暗黒色に化けるまで毛布の命が続くか どうだかは、疑問である。今でもすでに万遍なく
擦す り切れて、
竪横たてよこ の筋は明かに読まれるくらいだから、毛布と称するのは もはや
僭上せんじょう の【分を過ぎた】沙汰であって、毛の字は
省はぶ いて単に
ット とでも申すのが適当である。しかし
主人 の考えでは一年持ち、二年持ち、五年持ち十年持った以上は
生涯しょうがい 持たねばならぬと思っているらしい。随分
呑気のんき な事である。さてその
因縁いんねん のある
毛布けっと の上へ
前ぜん 申す通り腹這になって何をしているかと思うと 両手で出張った
顋あご を支えて、右手の指の股に
巻煙草まきたばこ を挟んでいる。ただそれだけである。もっとも彼が
フケ だらけの頭の
裏うち には宇宙の大真理が火の車のごとく回転しつつあるかも知れないが、外部から拝見したところでは、そんな事とは夢にも思えない。
煙草の火はだんだん吸口の方へ
逼せま って、
一寸いっすん 【約3cm】ばかり燃え
尽つく した灰の棒がぱたりと毛布の上に落つるのも構わず
主人 は一生懸命に煙草から立ち
上のぼ る煙の行末を見詰めている。その煙りは春風に浮きつ沈みつ、流れる輪を
幾重いくえ にも描いて、紫深き
細君 の
洗髪あらいがみ の根本へ吹き寄せつつある。――おや、
細君 の事を話しておくはずだった。忘れていた。
細君 は
主人 に
尻しり を向けて――なに失礼な
細君 だ? 別に失礼な事はないさ。礼も非礼も相互の解釈次第でどうでもなる事だ。
主人 は平気で
細君 の尻のところへ
頬杖ほおづえ を突き、
細君 は平気で
主人 の顔の先へ
荘厳そうごん なる尻を
据す えたまでの事で無礼も
糸瓜へちま もないのである。御両人は結婚後一ヵ年も立たぬ間に礼儀作法などと窮屈な境遇を脱却せられた超然的夫婦である。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(104 / 115)
――さてかくのごとく
主人 に尻を向けた
細君 はどう言う
了見りょうけん か、今日の天気に乗じて、尺に余る緑の黒髪を、
麩海苔ふのり と生卵でゴシゴシ洗濯せられた者と見えて癖のない奴を、見よがしに肩から背へ振りかけて、無言のまま
小供 の袖なしを熱心に縫っている。実はその洗髪を乾かすために
唐縮緬とうちりめん 【薄く柔らかい毛織物】の
布団ふとん と針箱を縁側へ出して、
恭うやうや しく
主人 に尻を向けたのである。あるいは
主人 の方で尻のある
見当けんとう へ顔を持って来たのかも知れない。そこで先刻御話しをした
煙草たばこ の煙りが、豊かに
靡なび く黒髪の間に流れ流れて、時ならぬ
陽炎かげろう の燃えるところを
主人 は余念もなく眺めている。しかしながら煙は
固もと より
一所いっしょ に
停とど まるものではない、その性質として上へ上へと立ち登るのだから
主人 の眼もこの煙りの
髪毛かみげ と
縺もつ れ合う奇観を落ちなく見ようとすれば、是非共眼を動かさなければならない。
主人 はまず腰の辺から観察を始めて
徐々じょじょ と背中を
伝つた って、肩から
頸筋くびすじ に掛ったが、それを通り過ぎてようよう脳天に達した時、覚えずあっと驚いた。――
主人 が
偕老同穴かいろうどうけつ 【共に暮らして老い、死んだ後は同じ墓穴に葬られる】を
契ちぎ った夫人の脳天の真中には
真丸まんまる な大きな
禿はげ がある。しかもその禿が暖かい日光を反射して、今や時を得顔【得意げ】に輝いている。思わざる
辺へん にこの不思議な大発見をなした時の
主人 の眼は
眩まば ゆい中に充分の驚きを示して、
烈はげ しい光線で
瞳孔どうこう の開くのも構わず一心不乱に見つめている。
主人 がこの禿を見た時、第一彼の
脳裏のうり に浮んだのは かの
家いえ 伝来の仏壇に幾世となく飾り付けられたる
御灯明皿おとうみょうざら 【神仏に備える灯明の皿】である。彼の
一家いっけ は真宗で、真宗では仏壇に身分不相応な金を掛けるのが古例である。
主人 は幼少の時その家の倉の中に、薄暗く飾り付けられたる
金箔きんぱく 厚き
厨子ずし があって、その厨子【要するに仏壇】の中にはいつでも
真鍮しんちゅう の灯明皿がぶら下って、その灯明皿には昼でもぼんやりした
灯ひ がついていた事を記憶している。周囲が暗い中にこの灯明皿が比較的明瞭に輝やいていたので 小供心にこの灯を何遍となく見た時の印象が
細君 の禿に
喚よ び起されて突然飛び出したものであろう。灯明皿は一分立たぬ間に消えた。この
度たび は
観音様かんのんさま の鳩の事を思い出す。観音様の鳩と
細君 の禿とは何等の関係もないようであるが、
主人 の頭では二つの間に密接な連想がある。同じく小供の時分に浅草へ行くと必ず鳩に豆を買ってやった。豆は一皿が
文久ぶんきゅう 二つ【文久銭2枚・約30円~/2025年】で、赤い
土器かわらけ へ入っていた。その
土器かわらけ が、色と言い
大おおき さと言いこの禿によく似ている。
「
なるほど似ているな 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(105 / 115)
と
主人 が、さも感心したらしく言うと「
何がです 」と
細君 は見向きもしない。
「
何だって、御前の頭にゃ大きな禿があるぜ。知ってるか 」
「
ええ 」と
細君 は依然として仕事の手をやめずに答える。別段露見を恐れた様子もない。超然たる模範妻君である。
「
嫁にくるときからあるのか、結婚後新たに出来たのか 」と
主人 が聞く。もし嫁にくる前から禿げているなら
欺だま されたのであると口へは出さないが心の
中うち で思う。
「
いつ出来たんだか覚えちゃいませんわ、禿なんざどうだって宜い いじゃありませんか 」と
大おおい に悟ったものである。
「
どうだって宜いって、自分の頭じゃないか 」と
主人 は少々怒気を帯びている。
「
自分の頭だから、どうだって宜い いんだわ 」と言ったが、さすが少しは気になると見えて、右の手を頭に乗せて、くるくる禿を
撫な でて見る。「
おや大分だいぶ 大きくなった事、こんなじゃ無いと思っていた 」と言ったところをもって見ると、年に合わして禿があまり大き過ぎると言う事をようやく自覚したらしい。
「
女は髷まげ に結ゆ うと、ここが釣れますから誰でも禿げるんですわ 」と少しく弁護しだす。
「
そんな速度で、みんな禿げたら、四十くらいになれば、から薬缶やかん ばかり出来なければならん。そりゃ病気に違いない。伝染するかも知れん、今のうち早く甘木 さんに見て貰え 」と
主人 はしきりに自分の頭を
撫な で廻して見る。
「
そんなに人の事をおっしゃるが、あなただって鼻の孔あな へ白髪しらが が生は えてるじゃありませんか。禿が伝染するなら白髪だって伝染しますわ 」と
細君 少々ぷりぷりする。
「
鼻の中の白髪は見えんから害はないが、脳天が――ことに若い女の脳天がそんなに禿げちゃ見苦しい。不具かたわ 【身体の障害】だ 」
「
不具かたわ なら、なぜ御貰いになったのです。御自分が好きで貰っておいて不具だなんて……」
「
知らなかったからさ。全く今日まで知らなかったんだ。そんなに威張るなら、なぜ嫁に来る時頭を見せなかったんだ 」
「
馬鹿な事を! どこの国に頭の試験をして及第したら嫁にくるなんて、ものが在るもんですか 」
「
禿はまあ我慢もするが、御前は背せ いが人並外はず れて低い。はなはだ見苦しくていかん 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(106 / 115)
「
背いは見ればすぐ分るじゃありませんか、背せい の低いのは最初から承知で御貰いになったんじゃありませんか 」
「
それは承知さ、承知には相違ないが まだ延びるかと思ったから貰ったのさ 」
「
廿はたち 【二十歳】にもなって背せ いが延びるなんて――あなたもよっぽど人を馬鹿になさるのね」と
細君 は
袖そで なしを
抛ほう り出して
主人 の方に
捩ね じ向く。返答次第ではその分には すまさんと言う
権幕けんまく である。
「
廿はたち になったって背いが延びてならんと言う法はあるまい。嫁に来てから滋養分でも食わしたら、少しは延びる見込みがあると思ったんだ」と真面目な顔をして妙な
理屈りくつ を述べていると
門口かどぐち のベルが
勢いきおい よく鳴り立てて 頼むと言う大きな声がする。いよいよ
鈴木 君がペンペン草を
目的めあて に
苦沙弥 くしゃみ 先生の
臥竜窟がりょうくつ 【大人物の隠れ家】を尋ねあてたと見える。
細君 は喧嘩を後日に譲って、
倉皇そうこう 【慌てて】 針箱と袖なしを
抱かか えて茶の間へ逃げ込む。
主人 は鼠色の
毛布けっと を丸めて書斎へ投げ込む。やがて下女が持って来た名刺を見て、
主人 はちょっと驚ろいたような顔付であったが、こちらへ御通し申してと言い棄てて、名刺を握ったまま
後架こうか 【便所】へ入った。何のために後架へ急に入ったか一向要領を得ん、何のために
鈴木 藤十郎すずきとうじゅうろう 君の名刺を後架まで持って行ったのか なおさら説明に苦しむ。とにかく迷惑なのは臭い所へ随行を命ぜられた名刺君である。
下女が
更紗さらさ の座布団を
床とこ の前へ直して、どうぞこれへと引き下がった、
跡あと で、
鈴木 君は一応室内を見回わす。床に掛けた
花開万国春はなひらく ばんこくのはる とある
木菴もくあん 【明国から渡来した臨済宗黄檗派の僧】の【が書いたような】
贋物にせもの や、京製の
安青磁やすせいじ に
活い けた
彼岸桜ひがんざくら などを一々順番に点検したあとで、ふと下女の勧めた布団の上を見るといつの間にか一
疋ぴき の猫がすまして坐っている。申すまでもなくそれはかく申す
吾輩 である。この時
鈴木 君の胸のうちに ちょっとの間 顔色にも出ぬほどの風波が起った。この布団は疑いもなく
鈴木 君のために敷かれたものである。自分のために敷かれた布団の上に自分が乗らぬ先から、断りもなく妙な動物が平然と
蹲踞そんきょ 【うずくまる】している。これが
鈴木 君の心の平均を破る第一の条件である。もしこの布団が勧められたまま、
主ぬし なくして春風の吹くに任せてあったなら、
鈴木 君はわざと
謙遜けんそん の意を
表ひょう して、
主人 がさあどうぞと言うまでは堅い畳の上で我慢していたかも知れない。しかし早晩自分の所有すべき布団の上に挨拶もなく乗ったものは誰であろう。人間なら譲る事もあろうが猫とは
怪け しからん。乗り手が猫であると言うのが一段と不愉快を感ぜしめる。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(107 / 115)
これが
鈴木 君の心の平均を破る第二の条件である。最後にその猫の態度がもっとも
癪しゃく に障る。少しは気の毒そうにでもしている事か、乗る権利もない布団の上に、
傲然ごうぜん 【尊大に】と構えて、丸い
無愛嬌ぶあいきょう な眼をぱちつかせて、御前は誰だいと言わぬばかりに
鈴木 君の顔を見つめている。これが平均を破壊する第三の条件である。これほど不平があるなら、
吾輩 の
頸根くびね っこを
捉とら えて引きずり卸したら
宜よ さそうなものだが、
鈴木 君はだまって見ている。堂々たる人間が猫に恐れて手出しをせぬと言う事は有ろうはずがないのに、なぜ早く
吾輩 を処分して自分の不平を
洩も らさないかと言うと、これは全く
鈴木 君が一個の人間として自己の体面を維持する自重心の故であると察せらるる。もし腕力に訴えたなら三尺【90cm】の童子も
吾輩 を自由に上下し得る【さかさまにする】であろうが、体面を重んずる点より考えると いかに
金田 君の
股肱ここう 【腹心の部下】たる
鈴木 藤十郎その人も この二尺四方の真中に鎮座まします猫大明神を
如何いかん ともする事が出来ぬのである。いかに人の見ていぬ場所でも、猫と座席争いをしたとあっては いささか人間の威厳に関する。真面目に猫を相手にして
曲直きょくちょく 【物事の善悪】を争うのは いかにも
大人気おとなげ ない。滑稽である。この不名誉を避けるためには多少の不便は忍ばねばならぬ。しかし忍ばねばならぬだけ それだけ猫に対する
憎悪ぞうお の念は増す訳であるから、
鈴木 君は時々
吾輩 の顔を見ては
苦にが い顔をする。
吾輩 は
鈴木 君の不平な顔を拝見するのが面白いから滑稽の念を
抑おさ えてなるべく何喰わぬ顔をしている。
吾輩 と
鈴木 君の間に、かくのごとき無言劇が行われつつある間に
主人 は
衣紋えもん をつくろって【衣服を整えて】
後架こうか から出て来て「
やあ 」と席に着いたが、手に持っていた名刺の影さえ見えぬところをもって見ると、
鈴木 藤十郎君の名前は臭い所へ無期徒刑【無期禁錮】に処せられたものと見える。名刺こそ飛んだ
厄運やくうん に際会したものだと思う
間ま もなく、
主人 は この野郎と
吾輩 の
襟えり がみを
攫つか んで えいとばかりに縁側へ
擲たた きつけた。
「
さあ敷きたまえ。珍らしいな。いつ東京へ出て来た 」と
主人 は旧友に向って布団を勧める。
鈴木 君はちょっとこれを裏返した上で、それへ坐る。
「
つい まだ忙がしいものだから報知もしなかったが、実はこの間から東京の本社の方へ帰るようになってね…… 」
「
それは結構だ、大分だいぶ 長く逢わなかったな。君が田舎いなか へ行ってから、始めてじゃないか 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(108 / 115)
「
うん、もう十年近くになるね。なにその後 時々東京へは出て来る事もあるんだが、つい用事が多いもんだから、いつでも失敬するような訳さ。悪わ るく思ってくれたもうな。会社の方は君の職業とは違って随分忙がしいんだから 」「
十年立つうちには大分違うもんだな 」と
主人 は
鈴木 君を見上げたり見下ろしたりしている。
鈴木 君は頭を
美麗きれい に分けて、英国仕立のトウィード【ツイードのジャケット?】を着て、派手な
襟飾えりかざ りをして、胸に金鎖りさえピカつかせている体裁、どうしても
苦沙弥 くしゃみ 君の旧友とは思えない。
「
うん、こんな物までぶら下げなくちゃ、ならんようになってね 」と
鈴木 君はしきりに金鎖りを気にして見せる。
「
そりゃ本ものかい 」と
主人 は
無作法ぶさほう な質問をかける。
「
十八金だよ 」と
鈴木 君は笑いながら答えたが「
君も大分年を取ったね。たしか小供があるはずだったが一人かい 」
「
いいや 」
「
二人? 」
「
いいや 」
「
まだあるのか、じゃ三人か 」
「
うん三人ある。この先幾人いくにん 出来るか分らん 」
「
相変らず気楽な事を言ってるぜ。一番大きいのはいくつになるかね、もうよっぽどだろう 」
「
うん、いくつか能よ く知らんが大方おおかた 六つか、七つかだろう 」
「
ハハハ教師は呑気のんき でいいな。僕も教員にでもなれば善かった 」
「
なって見ろ、三日で嫌いや になるから 」
「
そうかな、何だか上品で、気楽で、閑暇ひま があって、すきな勉強が出来て、よさそうじゃないか。実業家も悪くもないが我々のうちは駄目だ。実業家になるならずっと上にならなくっちゃいかん。下の方になるとやはりつまらん御世辞を振り撒ま いたり、好かん猪口ちょこ をいただきに出たり随分愚ぐ なもんだよ 」
「
僕は実業家は学校時代から大嫌だ。金さえ取れれば何でもする、昔で言えば素町人すちょうにん 【教養も趣味もない素の大衆】だからな 」と実業家を前に
控ひか えて太平楽【状況にそぐわない好き勝手】を並べる。「
まさか――そうばかりも言えんがね、少しは下品なところもあるのさ、とにかく金かね と情死しんじゅう をする覚悟でなければ やり通せないから――ところがその金と言う奴が曲者くせもの で、――今もある実業家の所へ行って聞いて来たんだが、金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないと言うのさ――義理をかく 、人情をかく 、恥をかく これで三角になるそうだ 面白いじゃないかアハハハハ 」
「
誰だそんな馬鹿は 」
「
馬鹿じゃない、なかなか利口な男なんだよ、実業界でちょっと有名だがね、君 知らんかしら、ついこの先の横丁にいるんだが 」
「
金田 か? 何な んだあんな奴」
「
大変怒ってるね。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(109 / 115)
なあに、そりゃ、ほんの冗談じょうだん だろうがね、そのくらいにせんと金は溜たま らんと言う喩たとえ さ。君のようにそう真面目に解釈しちゃ困る」
「
三角術は冗談でもいいが、あすこの女房の鼻はなんだ。君 行ったんなら見て来たろう、あの鼻を 」
「
細君 か、細君は なかなかさばけた人だ」
「
鼻だよ、大きな鼻の事を言ってるんだ。せんだって僕はあの鼻について俳体詩はいたいし 【明治30年代に高浜虚子、夏目漱石らによって試みられた連句形式の詩】を作ったがね 」
「
何だい俳体詩と言うのは 」
「
俳体詩を知らないのか、君も随分時勢に暗いな 」
「
ああ僕のように忙がしいと文学などは到底とうてい 駄目さ。それに以前からあまり数奇すき でない方だから 」
「
君 シャーレマン【西ローマ帝国の皇帝】の鼻の格好かっこう を知ってるか 」
「
アハハハハ随分気楽だな。知らんよ 」
「
エルリントン【そんな人知らん】は部下のものから鼻々と異名いみょう をつけられていた。君 知ってるか 」
「
鼻の事ばかり気にして、どうしたんだい。好いじゃないか鼻なんか丸くても尖と んがってても 」
「
決してそうでない。君 パスカルの事を知ってるか 」
「
また知ってるかか、まるで試験を受けに来たようなものだ。パスカルがどうしたんだい 」
「
パスカルがこんな事を言っている 」
「
どんな事を 」
「
もしクレオパトラの鼻が少し短かかったならば世界の表面に大変化を来きた したろう【フランスの哲学者 ブレーズ・パスカルの言葉(=歴史は極めて偶然的で不確定な要素に依存している)】と 」
「
なるほど 」
「
それだから君のようにそう無雑作むぞうさ に鼻を馬鹿にしてはいかん 」
「
まあいいさ、これから大事にするから。そりゃそうとして、今日来たのは、少し君に用事があって来たんだがね――あの元もと 君の教えたとか言う、水島 ――ええ水島ええちょっと思い出せない。――そら君の所へ始終来ると言うじゃないか 」
「
寒月 かんげつ か」
「
そうそう寒月 寒月。あの人の事についてちょっと聞きたい事があって来たんだがね 」
「
結婚事件じゃないか 」
「
まあ多少それに類似の事さ。今日金田 へ行ったら…… 」
「
この間 鼻が自分で来た 」
「
そうか。そうだって、細君 もそう言っていたよ。苦沙弥 さんに、よく伺おうと思って上ったら、生憎あいにく 迷亭 が来ていて茶々を入れて 何が何だか分らなくして しまったって 」
「
あんな鼻をつけて来るから悪るいや 」
「
いえ君の事を言うんじゃないよ。あの迷亭 君がおったもんだから、そう立ち入った事を聞く訳にも行かなかったので残念だったから、もう一遍僕に行ってよく聞いて来てくれないかって頼まれたものだからね。僕も今までこんな世話はした事はないが、もし当人同士が嫌い やでないなら中へ立って纏まと めるのも、決して悪い事はないからね――それでやって来たのさ 」
「
御苦労様 」と
主人 は冷淡に答えたが、腹の内では
当人同士 と言う
語ことば を聞いて、どう言う訳か分らんが、ちょっと心を動かしたのである。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(110 / 115)
蒸む し熱い夏の夜に
一縷いちる の
冷風れいふう が
袖口そでぐち を
潜くぐ ったような気分になる。元来この
主人 はぶっ切ら棒の、
頑固がんこ 光沢つや 消しを
旨むね として製造された男であるが、さればと言って冷酷不人情な文明の産物とは
自おのず からその
撰せん を
異こと にしている。彼が
何なん ぞと言うと、むかっ腹をたてて ぷんぷんするのでも
這裏しゃり の消息は
会得えとく できる【この場の事情はちゃんと飲み込める】。先日
鼻 と喧嘩をしたのは 鼻が気に食わぬからで
鼻の娘 には何の罪もない話しである。実業家は嫌いだから、実業家の片割れなる
金田 某も
嫌きらい に相違ないが これも娘その人とは 没交渉の沙汰【関わり合いがないこと】と言わねばならぬ。娘には恩も
恨うら みもなくて、
寒月 は自分が実の弟よりも愛している門下生である。もし
鈴木 君の言うごとく、当人同志が好いた仲なら、間接にもこれを妨害するのは君子のなすべき
所作しょさ でない。――
苦沙弥 先生はこれでも自分を君子と思っている。――もし当人同志が好いているなら――しかしそれが問題である。この事件に対して自己の態度を改めるには、まずその真相から確めなければならん。
「
君 その娘は寒月 の所へ来たがってるのか。金田 や鼻はどうでも構わんが、娘自身の意向はどうなんだ 」
「
そりゃ、その――何だね――何でも――え、来たがってるんだろう じゃないか 」
鈴木 君の挨拶は少々
曖昧あいまい である。実は
寒月 君の事だけ聞いて復命【結果を命令者に報告】さえすればいいつもりで、御嬢さんの意向までは確かめて来なかったのである。従って円転
滑脱かつだつ 【なんでもスマートにこなす】の
鈴木 君もちょっと
狼狽ろうばい の気味に見える。
「
だろう た判然しない言葉だ」と
主人 は何事によらず、正面から、どやし付けないと気がすまない。
「
いや、これゃちょっと僕の言いようがわるかった。令嬢の方でも たしかに意い があるんだよ。いえ全くだよ――え?――細君 が僕にそう言ったよ。何でも時々は寒月 君の悪口を言う事もあるそうだがね 」
「
あの娘がか 」
「
ああ 」
「
怪け しからん奴だ、悪口を言うなんて。第一それじゃ寒月 に意い がないんじゃないか」
「
そこがさ、世の中は妙なもので、自分の好いている人の悪口などは殊更ことさら 言って見る事もあるからね 」
「
そんな愚ぐ な奴がどこの国にいるものか 」と
主人 は
斯様かよう な人情の機微に立ち入った事を言われても
頓とん と感じがない。
「
その愚な奴が随分世の中にゃあるから仕方がない。現に金田の妻君 もそう解釈しているのさ。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(111 / 115)
戸惑とまど いをした糸瓜へちま のようだなんて、時々寒月 さんの悪口を言いますから、よっぽど心の中うち では思ってるに相違ありませんと」
主人 はこの不可思議な解釈を聞いて、あまり思い掛けないものだから、眼を丸くして、返答もせず、
鈴木 君の顔を、
大道易者だいどうえきしゃ のように
眤じっ と見つめている。
鈴木 君はこいつ、この様子では、ことによるとやり損なうなと
疳かん づいたと見えて、
主人 にも判断の出来そうな方面へと話頭を移す。
「
君 考えても分るじゃないか、あれだけの財産があってあれだけの器量なら、どこへだって相応の家うち へやれるだろうじゃないか。寒月 だってえらい かも知れんが身分から言や――いや身分と言っちゃ失礼かも知れない。――財産と言う点から言や、まあ、だれが見たって釣り合わんのだからね。それを僕がわざわざ出張するくらい両親が気を揉も んでるのは本人が寒月 君に意があるからの事じゃあないか 」と
鈴木 君は なかなかうまい理屈をつけて説明を与える。今度は
主人 にも納得が出来たらしいのでようやく安心したが、こんなところに まごまごしているとまた
吶喊とっかん 【つきつらぬく】を喰う危険があるから、早く話しの歩を進めて、一刻も早く使命を
完まっと うする方が万全の策と心付いた。
「
それでね。今言う通りの訳であるから、先方で言うには何も金銭や財産はいらんから その代り当人に付属した資格が欲しい――資格と言うと、まあ肩書だね、――博士になったらやってもいいなんて威張ってる次第じゃない――誤解しちゃいかん。せんだって細君 の来た時は迷亭 君がいて妙な事ばかり言うものだから――いえ君が悪いのじゃない。細君 も君の事を御世辞のない正直な いい方かた だと賞ほ めていたよ。全く迷亭 君がわるかったんだろう。――それでさ本人が博士にでもなってくれれば先方でも世間へ対して肩身が広い、面目めんぼく があると言うんだがね、どうだろう、近々きんきん の内 水島 君は博士論文でも呈出して、博士の学位を受けるような運びには行くまいか。なあに――金田 だけなら博士も学士もいらんのさ、ただ世間と言う者があるとね、そう手軽にも行かんからな 」
こう言われて見ると、先方で博士を請求するのも、あながち無理でもないように思われて来る。無理ではないように思われて来れば、
鈴木 君の依頼通りにしてやりたくなる。
主人 を
活い かすのも殺すのも
鈴木 君の意のままである。なるほど
主人 は単純で正直な男だ。
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(112 / 115)
「
それじゃ、今度寒月 が来たら、博士論文をかくように僕から勧めて見よう。しかし当人が金田 の娘を貰うつもりかどうだか、それからまず問い正ただ して見なくちゃいかんからな 」
「
問い正すなんて、君 そんな角張かどば った事をして物が纏まと まるものじゃない。やっぱり普通の談話の際にそれとなく気を引いて見るのが一番近道だよ 」
「
気を引いて見る? 」
「
うん、気を引くと言うと語弊があるかも知れん。――なに気を引かんでもね。話しをしていると自然分るもんだよ 」
「
君にゃ分るかも知れんが、僕にゃ判然と聞かん事は分らん 」
「
分らなけりゃ、まあ好いさ。しかし迷亭 君見たように余計な茶々を入れて打ぶ ち壊こ わすのは善くないと思う。仮令たとい 勧めないまでも、こんな事は本人の随意にすべきはずのものだからね。今度寒月 君が来たらなるべくどうか邪魔をしないようにしてくれ給え。――いえ君の事じゃない、あの迷亭 君の事さ。あの男の口にかかると到底助かりっこないんだから 」と
主人 の代理に
迷亭 の悪口をきいていると、
噂うわさ をすれば陰の
喩たとえ に
洩も れず
迷亭 先生例のごとく勝手口から
飄然ひょうぜん 【ふらり】と
春風しゅんぷう に乗じて舞い込んで来る。
「
いやー珍客だね。僕のような狎客こうかく になると苦沙弥 くしゃみ はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥 のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか 」と
藤村ふじむら の
羊羹ようかん を
無雑作むぞうさ に
頬張ほおば る。
鈴木 君はもじもじしている。
主人 はにやにやしている。
迷亭 は口をもがもがさしている。
吾輩 はこの瞬時の光景を縁側から拝見して無言劇と言うものは優に成立し得ると思った。
禅家ぜんけ で無言の問答をやるのが以心伝心であるなら、この無言の芝居も明かに以心伝心の幕である。すこぶる短かいけれどもすこぶる鋭どい幕である。
「
君は一生旅烏たびがらす かと思ってたら、いつの間にか舞い戻ったね。長生ながいき はしたいもんだな。どんな僥倖ぎょうこう に廻めぐ り合わんとも限らんからね 」と
迷亭 は
鈴木 君に対しても
主人 に対するごとく
毫ごう 【微塵】も遠慮と言う事を知らぬ。いかに自炊の仲間でも十年も逢わなければ、何となく気のおけるものだが
迷亭 君に限って、そんな
素振そぶり も見えぬのは、えらいのだか馬鹿なのかちょっと見当がつかぬ。
「
可哀そうに、そんなに馬鹿にしたものでもない 」
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(113 / 115)
と
鈴木 君は当らず
障さわ らずの返事はしたが、何となく落ちつきかねて、例の金鎖を神経的にいじっている。
「
君 電気鉄道へ乗ったか 」と
主人 は突然
鈴木 君に対して奇問を発する。
「
今日は諸君からひやかされに来たようなものだ。なんぼ田舎者だって――これでも街鉄がいてつ を六十株持ってるよ 」
「
そりゃ馬鹿に出来ないな。僕は八百八十八株半持っていたが、惜しい事に大方おおかた 虫が喰ってしまって、今じゃ半株ばかりしかない。もう少し早く君が東京へ出てくれば、虫の喰わないところを十株ばかりやるところだったが惜しい事をした 」
「
相変らず口が悪るい。しかし冗談は冗談として、ああ言う株は持ってて損はないよ、年々ねんねん 高くなるばかりだから 」
「
そうだ仮令たとい 半株だって千年も持ってるうちにゃ倉が三つくらい建つからな。君も僕もその辺にぬかりはない当世の才子だが、そこへ行くと苦沙弥 などは憐れなものだ。株と言えば大根の兄弟分くらいに考えているんだから 」とまた
羊羹ようかん をつまんで
主人 の方を見ると、
主人 も
迷亭 の
食く い
気け が伝染して
自おの ずから菓子皿の方へ手が出る。世の中では万事積極的のものが人から真似らるる権利を有している。
「
株などはどうでも構わんが、僕は曽呂崎 そろさき に一度でいいから電車へ乗らしてやりたかった 」と
主人 は喰い欠けた羊羹の
歯痕はあと を
撫然ぶぜん として眺める。
「
曽呂崎 が電車へ乗ったら、乗るたんびに品川まで行ってしまうは、それよりやっぱり天然てんねん 居士こじ で沢庵石たくあんいし へ彫ほ り付けられてる方が無事でいい」
「
曽呂崎 と言えば死んだそうだな。気の毒だねえ、いい頭の男だったが惜しい事をした」と
鈴木 君が言うと、
迷亭 は
直ただ ちに引き受けて
「
頭は善かったが、飯を焚た く事は一番下手だったぜ。曽呂崎 の当番の時には、僕あいつでも外出をして蕎麦そば で凌しの いでいた 」
「
ほんとに曽呂崎 の焚いた飯は焦こ げくさくって心しん があって僕も弱った。御負けに御菜おかず に必ず豆腐をなまで食わせるんだから、冷たくて食われやせん 」と
鈴木 君も十年前の不平を記憶の底から
喚よ び起す。
「
苦沙弥 はあの時代から曽呂崎 の親友で毎晩いっしょに汁粉しるこ を食いに出たが、その祟たた りで今じゃ慢性胃弱になって苦しんでいるんだ。実を言うと苦沙弥 の方が汁粉の数を余計食ってるから曽呂崎 より先へ死んで宜い い訳なんだ」
「
そんな論理がどこの国にあるものか。 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(114 / 115)
俺の汁粉より君は運動と号して、毎晩竹刀しない を持って裏の卵塔婆らんとうば へ出て、石塔を叩たた いてるところを坊主 に見つかって剣突けんつく を食ったじゃないか」 と
主人 も負けぬ気になって
迷亭 の旧悪を
曝あば く。
「
アハハハそうそう坊主 が仏様の頭を叩いては安眠の妨害になるからよしてくれって言ったっけ。しかし僕のは竹刀だが、この鈴木 将軍のは手暴てあら だぜ。石塔と相撲をとって大小三個ばかり転がしてしまったんだから 」
「
あの時の坊主 の怒り方は実に烈しかった。是非元のように起せと言うから人足を傭やと うまで待ってくれと言ったら人足じゃいかん懺悔ざんげ の意を表するためにあなたが自身で起さなくては仏の意に背そむ くと言うんだからね 」
「
その時の君の風采ふうさい はなかったぜ、金巾かなきん のしゃつに越中褌えっちゅうふんどし で雨上りの水溜りの中でうんうん唸うな って…… 」
「
それを君がすました顔で写生するんだから苛ひど い。僕はあまり腹を立てた事のない男だが、あの時ばかりは失敬だと心しん から思ったよ。あの時の君の言草をまだ覚えているが君は知ってるか 」
「
十年前の言草なんか誰が覚えているものか、しかしあの石塔に帰泉院殿きせんいんでん 黄鶴大居士こうかくだいこじ 安永五年辰たつ 正月と彫ほ ってあったのだけはいまだに記憶している。あの石塔は古雅に出来ていたよ。引き越す時に盗んで行きたかったくらいだ。実に美学上の原理に叶かな って、ゴシック趣味な石塔だった 」と
迷亭 はまた好い加減な美学を振り廻す。
「
そりゃいいが、君の言草がさ。こうだぜ――吾輩は美学を専攻するつもりだから天地間てんちかん の面白い出来事はなるべく写生しておいて将来の参考に供さなければならん、気の毒だの、可哀相かわいそう だのと言う私情は学問に忠実なる吾輩ごときものの口にすべきところでないと平気で言うのだろう。僕もあんまりな不人情な男だと思ったから泥だらけの手で君の写生帖を引き裂いてしまった 」
「
僕の有望な画才が頓挫とんざ して一向いっこう 振わなくなったのも全くあの時からだ。君に機鋒きほう を折られたのだね。僕は君に恨うらみ がある 」
「
馬鹿にしちゃいけない。こっちが恨めしいくらいだ 」
この作品のおすすめ度を投稿して下さい!
★
★
★
★
★
(-)
[
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_1(115 / 115)
つづき (1/3分割)