かくとも知らぬ
主人は はなはだ熱心なる様子をもって
一張来の鏡を見つめている。元来鏡というものは気味の悪いものである。深夜
蝋燭を立てて、広い部屋のなかで一人鏡を
覗き込むには よほどの勇気がいるそうだ。
吾輩などは始めて当家の令嬢から鏡を顔の前へ押し付けられた時に、はっと
仰天して屋敷のまわりを三度
馳け回ったくらいである。いかに白昼といえども、
主人のようにかく一生懸命に見つめている以上は自分で自分の顔が
怖くなるに相違ない。ただ見てさえあまり気味のいい顔じゃない。ややあって
主人は「
なるほどきたない顔だ」と
独り
言を言った。自己の醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から言うとたしかに気違の
所作だが言うことは真理である。これがもう一歩進むと、
己れの醜悪な事が
怖くなる。人間は吾身が怖ろしい悪党であると言う事実を
徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは言えない。苦労人でないととうてい
解脱は出来ない。
主人もここまで来たらついでに「
おお怖い」とでも言いそうなものであるが なかなか言わない。「
なるほどきたない顔だ」と言ったあとで、何を考え出したか、ぷうっと
頬っぺたを
膨らました。そうしてふくれた頬っぺたを
平手で二三度
叩いて見る。何のまじないだか分らない。この時
吾輩は何だかこの顔に似たものがあるらしいと言う感じがした。よくよく考えて見るとそれは
御三の顔である。ついでだから
御三の顔をちょっと紹介するが、それはそれは ふくれたものである。この間 さる人が
穴守稲荷【羽田空港そば】から
河豚の
提灯をみやげに持って来てくれたが、ちょうどあの
河豚提灯のようにふくれている。あまりふくれ方が残酷なので眼は両方共紛失している。もっとも河豚のふくれるのは万遍なく
真丸にふくれるのだが、お三とくると、元来の骨格が多角性であって、その骨格通りにふくれ上がるのだから、まるで
水気になやんでいる【湿気で調子が悪くなっている】六角時計【六角形の柱時計】のようなものだ。
御三が聞いたら さぞ
怒るだろうから、
御三はこのくらいにしてまた
主人の方に帰るが、かくのごとくあらん限りの空気をもって
頬っぺたをふくらませたる彼は
前申す通り手のひらで
頬ぺたを叩きながら「
このくらい皮膚が緊張するとあばたも眼につかん」とまた
独り
語をいった。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(1 / 116)
こんどは顔を横に向けて半面に光線を受けた所を鏡にうつして見る。「
こうして見ると大変目立つ。やっぱりまともに日の向いてる方が平に見える。奇体な物だなあ」と
大分感心した様子であった。それから右の手をうんと
伸して、出来るだけ鏡を遠距離に持って行って静かに熟視している。「
このくらい離れるとそんなでもない。やはり近過ぎるといかん。――顔ばかりじゃない何でもそんなものだ」と悟ったようなことを言う。次に鏡を急に横にした。そうして鼻の根を中心にして眼や額や
眉を一度にこの中心に向って くしゃくしゃと あつめた。見るからに不愉快な
容貌が出来上ったと思ったら「
いやこれは駄目だ」と当人も気がついたと見えて
早々やめてしまった。「
なぜこんなに毒々しい顔だろう」と少々不審の
体で鏡を 眼を去る 三寸ばかりの所へ引き寄せる。右の人指しゆびで小鼻を
撫でて、撫でた指の頭を机の上にあった
吸取り
紙の上へ、うんと押しつける。吸い取られた鼻の
膏が
丸るく紙の上へ浮き出した。いろいろな芸をやるものだ。それから
主人は鼻の
膏を
塗抹した
指頭を転じて ぐいと
右眼の
下瞼を裏返して、俗に言う
べっかんこう【あかんべぇ】を見事にやって
退けた。
あばたを研究しているのか、鏡と
睨め
競をしているのかその辺は少々不明である。気の多い
主人の事だから見ているうちにいろいろになると見える。それどころではない。もし善意をもって
蒟蒻 問答的【意味不明な問答的】に解釈してやれば
主人は
見性自覚【自身の本質を見極め】の
方便として かように鏡を相手にいろいろな
仕草を演じているのかも知れない。すべて人間の研究と言うものは自己を研究するのである。天地と言い
山川と言い
日月と言い
星辰と言うも皆自己の
異名に過ぎぬ。自己を
措いて他に研究すべき事項は
誰人にも
見出し得ぬ訳だ。もし人間が自己以外に飛び出す事が出来たら、飛び出す途端に自己はなくなってしまう。しかも自己の研究は自己以外に誰もしてくれる者はない。いくら仕てやりたくても、貰いたくても、出来ない相談である。それだから古来の豪傑はみんな自力で豪傑になった。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(2 / 116)
人のお蔭で自己が分るくらいなら、自分の代理に牛肉を喰わして、堅いか柔かいか判断の出来る訳だ。
朝に法を聴き、
夕に道を聴き、
梧前灯下【書斎の灯火の下】に書巻を手にするのは皆この
自証を
挑発するの
方便の
具に過ぎぬ。人の説く法のうち、他の弁ずる道のうち、
乃至は
五車【大量の本】にあまる
蠧紙堆裏【虫に食われた紙くずの山】に自己が存在する
所以がない。あれば自己の幽霊である。もっとも ある場合において幽霊は
無霊より優るかも知れない。影を追えば本体【実体】に
逢着【行き当たる】する時がないとも限らぬ。多くの影は大抵本体を離れぬものだ。この意味で
主人が鏡をひねくっているなら
大分話せる男だ。エピクテタス【古代ローマ時代の哲学者】などを
鵜呑にして学者ぶるよりも
遥かにましだと思う。
鏡は
己惚の醸造器であるごとく、同時に自慢の消毒器である。もし
浮華虚栄【うわべだけの華やかさや見栄】の念をもってこれに対する時は これほど愚物を
扇動する道具はない。昔から
増上慢【自分を過信して思い上がる】をもって
己を害し 他を
戕うた
事跡【他人を傷つけたような過去の事実】の三分の二は たしかに鏡の
所作である。仏国革命の当時 物好きな御医者さんが改良首きり器械を発明して飛んだ罪をつくったように、始めて鏡をこしらえた人も定めし
寝覚のわるい事だろう。しかし自分に
愛想の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。
妍醜瞭然【美醜の違いが明白】だ。こんな顔でよくまあ人で
候と
反りかえって
今日まで暮らされたものだと気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の
生涯中もっともありがたい期節である。自分で自分の馬鹿を承知しているほど
尊とく見える事はない。この
自覚性馬鹿の前にはあらゆる
えらがり屋がことごとく頭を下げて恐れ入らねばならぬ。当人は
昂然として吾を
軽侮嘲笑しているつもりでも、こちらから見るとその昂然たるところが恐れ入って頭を下げている事になる。
主人は鏡を見て
己れの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかし吾が顔に印せられる
痘痕の
銘【刻印】くらいは公平に読み得る男である。顔の醜いのを自認するのは心の
賤しきを
会得する
楷梯【階段】にもなろう。たのもしい男だ。これも哲学者からやり込められた結果かも知れぬ。
かように考えながらなお様子をうかがっていると、それとも知らぬ
主人は思う存分
あかんべえをしたあとで「
大分充血しているようだ。やっぱり慢性結膜炎だ」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(3 / 116)
と言いながら、人さし指の横つらでぐいぐい充血した
瞼をこすり始めた。
大方痒いのだろうけれども、たださえあんなに赤くなっているものを、こう
擦ってはたまるまい。遠からぬうちに
塩鯛の眼玉のごとく
腐乱するにきまってる。やがて眼を
開いて鏡に向ったところを見ると、
果せるかな どんよりとして北国の冬空のように曇っていた。もっとも
平常からあまり晴れ晴れしい眼ではない。誇大な形容詞を用いると
混沌として黒眼と白眼が
剖判【判別】しないくらい
漠然としている。彼の精神が
朦朧として不得要領
底【要領を得ない】に一貫しているごとく、彼の眼も
曖々然【曖昧の曖の強調】
昧々然【曖昧の昧の強調】として
長えに
眼窩の奥に
漂うている。これは
胎毒【生まれる際に体内に溜まっているとされる毒】のためだとも言うし、あるいは
疱瘡の余波だとも解釈されて、小さい時分はだいぶ柳の虫や赤蛙【江戸時代から伝わる伝統薬】の厄介になった事もあるそうだが、せっかく母親の丹精も、あるにその
甲斐あらばこそ、
今日まで生れた当時のままでぼんやりしている。
吾輩ひそかに思うにこの状態は決して胎毒や疱瘡のためではない。彼の眼玉がかように
晦渋溷濁【乱れにごっている】の悲境に
彷徨【さまよう】しているのは、とりも直さず彼の頭脳が
不透不明の実質から構成されていて、その作用が
暗憺溟濛【先が見えなく、前途に希望がない】の極に達しているから、自然とこれが形体の上にあらわれて、知らぬ母親にいらぬ心配を掛けたんだろう。煙たって火あるを知り、まなこ濁って
愚なるを
証す。して見ると彼の眼は彼の心の象徴で、彼の心は
天保銭のごとく穴があいているから、彼の眼もまた天保銭と同じく、大きな割合に通用しないに違ない。
今度は
髯をねじり始めた。元来から行儀のよくない髯でみんな思い思いの姿勢をとって
生えている。いくら個人主義が
流行る世の中だって、こう
町々に
我儘を尽くされては持主の迷惑は さこそ と思いやられる、
主人もここに
鑑みるところあって近頃は
大に訓練を与えて、出来る限り系統的に
按排するように尽力している。その熱心の
功果は
空しからずして昨今ようやく歩調が少し ととのう ようになって来た。今までは髯が
生えておったのであるが、この頃は髯を生やしているのだと自慢するくらいになった。熱心は成効の度に応じて
鼓舞せられるものであるから、吾が髯の前途有望なりと見てとって
主人は朝な夕な、手がすいておれば必ず
髯に向って
鞭撻【強い はげまし】を加える。彼のアムビション【大志】は
独逸皇帝陛下のように、向上の念の
熾な髯を
蓄えるにある。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(4 / 116)
それだから
毛孔が横向であろうとも、下向であろうとも
聊か頓着なく
十把一とからげに
握っては、上の方へ引っ張り上げる。髯もさぞかし難儀であろう、所有主たる
主人すら時々は痛い事もある。が そこが訓練である。
否でも応でもさかに
扱き上げる。門外漢から見ると気の知れない道楽のようであるが、当局者だけは至当【この上もなく適当】の事と心得ている。教育者がいたずらに生徒の
本性を
撓めて【故意に曲げて】、僕の手柄を見給えと誇るようなもので
毫も非難すべき理由はない。
主人が
満腔【全身】の熱誠【あつい真心】をもって髯を調練していると、台所から多角性の
御三が郵便が参りましたと、例のごとく赤い手をぬっと書斎の
中へ出した。
右手に髯をつかみ、
左手に鏡を持った
主人は、そのまま入口の方を振りかえる。八の字の尾に
逆か
立ちを命じたような髯を見るや否や
御多角はいきなり台所へ引き戻して、ハハハハと
御釜の
蓋へ身をもたして笑った。
主人は平気なものである。
悠々と鏡をおろして郵便を取り上げた。第一信は活版ずりで何だか いかめしい文字が並べてある。読んで見ると
拝啓愈御多祥奉賀候回顧すれば日露の戦役は連戦連勝の勢に乗じて平和克復を告げ吾 忠勇義烈【忠義で勇気がある】なる将士は今や過半万歳声裡に凱歌を奏し国民の歓喜何ものか之に若かん曩に宣戦の大詔煥発せらるるや義勇公に奉じたる将士は久しく万里の異境に在りて克く寒暑の苦難を忍び一意戦闘に従事し命を国家に捧げたるの至誠は永く銘して忘るべからざる所なり而して軍隊の凱旋は本月を以て殆んど終了を告げんとす依って本会は来る二十五日を期し本区内一千有余の出征将校下士卒に対し本区民一般を代表し以て一大凱旋祝賀会を開催し兼て軍人遺族を慰藉せんが為め熱誠之を迎え聊感謝の微衷を表し度就ては各位の御協賛を仰ぎ此盛典を挙行するの幸を得ば本会の面目不過之と存候間何卒御賛成奮って義捐あらんことを只管希望の至に堪えず候敬具
---約---
拝啓
貴殿にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
思い返せば、日露戦争では我が軍が連戦連勝の勢いに乗り、ついに平和の回復が実現しました。忠義と勇気に満ちた我が将兵たちは、今や万歳の声に包まれて凱旋しており、国民の喜びもこの上ないものであります。
かつて戦争が宣言された際、義勇の心を持って従軍した兵士たちは、遠い異国の地で、寒さ暑さの中よく耐え忍び、戦いに一心不乱に励み、命を国家に捧げました。その誠実な行いは、決して忘れるべきではありません。
さて、軍隊の凱旋は今月をもってほぼ終了する見込みであり、つきましては、本会では今月25日に、本区内より出征した1,000余名の将校および下士卒に対して、凱旋祝賀会を開催する運びとなりました。
この祝賀会では、軍人の遺族を慰めることも目的としており、区民を代表して感謝の意を示したく存じます。
つきましては、皆様のご協賛を仰ぎ、この盛大な式典を成功させることができれば、本会にとってこの上ない名誉であります。
なにとぞご賛同いただき、義援金などのご協力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
敬具
【明治末期〜大正初期頃の公的な『凱旋祝賀会』への協賛依頼文(勧誘書)のよう】
とあって差し出し人は華族様である。
主人は黙読一過の
後直ちに封の中へ巻き納めて知らん顔をしている。
義捐などは恐らくしそうにない。せんだって東北凶作の義援金を二円【約1万円】とか三円とか出してから、逢う人
毎に
義捐をとられた、とられたと
吹聴しているくらいである。
義捐とある以上は差し出すもので、とられるものでないには
極っている。泥棒にあったのではあるまいし、とられたとは不穏当である。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(5 / 116)
しかるにも関せず、盗難にでも
罹ったかのごとくに思ってるらしい
主人がいかに軍隊の歓迎だと言って、いかに華族様の勧誘だと言って、
強談で持ちかけたらいざ知らず、活版の手紙くらいで金銭を出すような人間とは思われない。
主人から言えば軍隊を歓迎する前にまず自分を歓迎したいのである。自分を歓迎した後なら大抵のものは歓迎しそうであるが、自分が
朝夕に
差し
支える間は【朝昼晩、自分の食事に差し支えるうちは】、歓迎は華族様に
任せておく了見らしい。
主人は第二信を取り上げたが「
ヤ、これも活版だ」と言った。
時下秋冷の候に候処貴家益々御隆盛の段奉賀上候陳れば本校儀も御承知の通り一昨々年以来二三野心家の為めに妨げられ一時其極に達し候得共是れ皆不肖 針作が足らざる所に起因すと存じ深く自ら 警むる所あり臥薪甞胆其の苦辛の結果漸く茲に独力以て我が理想に適するだけの校舎新築費を得るの途を講じ候其は別義にも御座なく別冊裁縫秘術綱要と命名せる書冊出版の義に御座候本書は不肖針作が多年苦心研究せる工芸上の原理原則に法とり真に肉を裂き血を絞るの思を為して著述せるものに御座候因って本書を普く一般の家庭へ製本実費に些少の利潤を附して御購求を願い一面斯道発達の一助となすと同時に又一面には僅少の利潤を蓄積して校舎建築費に当つる心算に御座候依っては近頃何共恐縮の至りに存じ候えども本校建築費中へ御寄付被成下と御思召し茲に呈供仕候秘術綱要一部を御購求の上御侍女の方へなりとも御分与被成下候て御賛同の意を御表章被成下度伏して懇願仕候匇々敬具
---約---
拝啓 時節は秋も深まり、貴家におかれましては ますますご繁栄のこととお喜び申し上げます。
さて、私ども(本校)は、ご承知の通り、一昨年より二、三人の野心家たちによって妨害され、一時は運営が行き詰まりました。
とはいえ、これはひとえに不肖(わたくし)針作の力不足によるものであり、深く反省しております。
その後、臥薪嘗胆【苦心・苦労を重ねる】の思いで耐え忍び、努力した結果、ようやく、理想とする新しい校舎を自力で建てるための資金調達手段を見出すことができました。
それが――
『別冊 裁縫秘術綱要』と名付けた書籍の出版でございます。
この本は、私・針作が長年にわたって研究してきた工芸・裁縫の原理に基づき、血と汗を絞る思いで書き上げたものであります。
この本を、家庭向けに実費で製本し、わずかばかりの利益を乗せて販売することで、一方では工芸道の発展に貢献し、他方では校舎建設資金に充てたいと考えております。
つきましては、まことに恐縮ながら、このたび、お願いがございます。
どうか本書をご購入いただき、御宅の侍女の方などにお分けいただくなどして、ご賛同の意をお示しいただけますと幸いです。
何卒よろしくお願い申し上げます。
早々に失礼いたします。敬具
大日本女子裁縫最高等大学院
校長 縫田 針作 九拝【何回も礼拝してありがたがること】
とある。
主人はこの
丁重なる書面を、冷淡に丸めてぽんと
屑籠の中へ
抛り込んだ。せっかくの
針作君の九拝も臥薪甞胆も何の役にも立たなかったのは気の毒である。第三信にかかる。第三信はすこぶる風変りの光彩を放っている。
状袋【封筒】が紅白のだんだら【縞】で、
飴ん
棒の看板のごとく はなやかなる真中に
珍野 苦沙弥先生
虎皮下【あて名の横に書く言葉】と
八分体【文字全体が横長に見える書体】で肉太に
認めてある。中からお
太さんが出るか どうだか受け合わないが
表だけはすこぶる立派なものだ。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(6 / 116)
若し我を以て天地を律すれば一口にして西江の水を吸いつくすべく、若し天地を以て我を律すれば我は則ち陌上の塵のみ。すべからく道え、天地と我と什麼の交渉かある。……始めて海鼠を食い出せる人は其胆力に於て敬すべく、始めて河豚を喫せる漢は其勇気に於て重んずべし。海鼠を食えるものは親鸞【浄土真宗の宗祖とされる】の再来にして、河豚を喫せるものは日蓮の分身なり。苦沙弥先生の如きに至っては只 干瓢の酢味噌を知るのみ。干瓢の酢味噌を食って天下の士たるものは、われ未だ之を見ず。……
親友も汝を売るべし。父母も汝に私あるべし。愛人も汝を棄つべし。富貴は固より頼みがたかるべし。爵禄は一朝にして失うべし。汝の頭中に秘蔵する学問には黴が生えるべし。汝何を恃まんとするか。天地の裡に何をたのまんとするか。神? 神は人間の苦しまぎれに捏造せる土偶のみ。人間のせつな糞の凝結せる臭骸のみ。恃むまじきを恃んで安しと言う。咄々、酔漢漫りに胡乱の言辞を弄して、蹣跚として墓に向う。油尽きて灯 自ら滅す。業尽きて何物をか遺す。苦沙弥先生よろしく御茶でも上がれ。……
人を人と思わざれば畏るる所なし。人を人と思わざるものが、吾を吾と思わざる世を憤るは如何。権貴栄達の士は人を人と思わざるに於て得たるが如し。只他の吾を吾と思わぬ時に於て怫然として色を作す。任意に色を作し来れ。馬鹿野郎。……
吾の人を人と思うとき、他の吾を吾と思わぬ時、不平家は発作的に天降る。此発作的活動を名づけて革命という。革命は不平家の所為にあらず。権貴栄達の士が好んで産する所なり。朝鮮に人参多し先生何が故に服せざる。
---約---
自分が天地を支配するなら、西江【長江】の水を一息で飲み干してしまうほどの力がある。しかし、天地が自分を支配するなら、自分など道ばたの塵にすぎない。……そんな『天地』と『我【自己】』の関係性に一体どんな意味があるというのか?
……最初にナマコを食べた人は、胆力【勇気】がすごい。
最初にフグを食べた人は、毒があると知りながら食べたんだから、なおさらすごい。
ナマコを食べられる人はまるで『親鸞』のような悟りを開いた人、
フグを食べる人は『日蓮』のような命知らずの宗教家だ。
一方、苦沙弥先生は、ただ干瓢の酢味噌を食べるだけ。
親友は裏切るし、親は私情を持つし、愛人も捨てる。
お金や地位なんて、そもそも頼りにならない。
地位は一朝にして失われる。
学問だって黴が生える【役に立たなくなる】。
神? そんなものは人間の苦し紛れの妄想。
神とは、人間のクソの塊にすぎない。
頼れないものを頼って安心するとは、愚かなことだ。
酔っ払いがデタラメなことを言って墓場に向かって ふらついていくようなもの。
油が切れたら火は自然に消える。
努力を尽くしても、何も残らない。
……苦沙弥先生、まあ お茶でも飲みなさい。
他人を人間だと思わなければ、怖いものなどない。
でも、そんな他人が自分を人間扱いしないと怒るのはどうなんだ?
出世する人は、人を人とも思わない冷酷さがあるから成功するんじゃないか?
他人が自分を無視したときだけ、怒り出す人間こそおかしい。
……勝手に怒ってれば? 馬鹿野郎。
自分が他人をきちんと“人”として扱っていても、他人は自分を人扱いしない。
そんな不公平に怒ったとき、『革命』が起こる。
革命とは、不満を持つ者が起こすものではなく、実は出世した権力者たちの傲慢が生み出すものなのだ。
朝鮮には高麗人参が多いのに、先生はなぜ服用しないのですか?
在巣鴨 天道公平 再拝【二度続けておがむ】
針作君は九拝であったが、この男は単に再拝だけである。寄付金の依頼でないだけに七拝ほど
横風【遠慮がない】に構えている。寄付金の依頼ではないが その代りすこぶる分りにくいものだ。どこの雑誌へ出しても没書になる価値は充分あるのだから、頭脳の不透明をもって鳴る
主人は必ず
寸断寸断に引き裂いてしまうだろう と
思のほか、打ち返し打ち返し読み直している。こんな手紙に意味があると考えて、あくまでその意味を
究めようという決心かも知れない。およそ天地の
間にわからんものは沢山あるが意味をつけてつかないものは一つもない。どんなむずかしい文章でも解釈しようとすれば容易に解釈の出来るものだ。人間は馬鹿であると言おうが、人間は利口であると言おうが 手もなくわかる事だ。それどころではない。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(7 / 116)
人間は犬であると言っても豚であると言っても別に苦しむほどの命題ではない。山は低いと言っても構わん、宇宙は狭いと言っても
差し
支えはない。烏が白くて小町が醜婦【不美人】で
苦沙弥先生が君子でも通らん事はない。だからこんな無意味な手紙でも何とか
蚊とか
理屈さえつければどうとも意味はとれる。ことに
主人のように知らぬ英語を無理矢理にこじ附けて説明し通して来た男はなおさら意味をつけたがるのである。天気の悪るいのになぜグード・モーニングですかと生徒に問われて
七日間考えたり、コロンバス【アメリカ大陸を発見したコロンブス】と言う名は日本語で何と言いますかと聞かれて三日三晩かかって答を工夫するくらいな男には、
干瓢の
酢味噌が天下の士であろうと、朝鮮の
仁参を食って革命を起そうと随意な意味は随処に
湧き出る訳である。
主人は しばらくしてグード・モーニング流にこの難解な
言句を呑み込んだと見えて「
なかなか意味深長だ。何でもよほど哲理を研究した人に違ない。天晴な見識だ」と大変賞賛した。この
一言でも
主人の
愚なところはよく分るが、
翻って考えて見ると いささか もっともな点もある。
主人は何に寄らず わからぬもの をありがたがる癖を有している。これはあながち
主人に限った事でもなかろう。分らぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか
気高い心持が起るものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかったように
吹聴するにも
係らず、学者はわかった事をわからぬように講釈する。大学の講義でもわからん事を
喋舌る人は評判がよくって わかる事を説明する者は人望がないのでもよく知れる。
主人がこの手紙に敬服したのも意義が明瞭であるからではない。その主旨が
那辺【どこ】に存するかほとんど
捕え難いからである。急に
海鼠が出て来たり、せつな
糞が出てくるからである。だから
主人がこの文章を尊敬する唯一の理由は、
道家【思想家の人々】で道徳経を尊敬し、
儒家【儒教の古典を重んじる人々】で
易経を尊敬し、
禅家【禅の思想を重んじる人々】で
臨済録【禅の基本の書物】を尊敬すると一般で全く分らんからである。
但し全然分らんでは気がすまんから勝手な注釈をつけてわかった顔だけはする。わからんものをわかったつもりで尊敬するのは昔から愉快なものである。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(8 / 116)
――
主人は
恭しく
八分体の名筆を巻き納めて、これを机上に置いたまま
懐手をして
冥想に沈んでいる。
ところへ「
頼む頼む」と玄関から大きな声で案内を乞う者がある。声は
迷亭のようだが、
迷亭に似合わずしきりに案内を頼んでいる。
主人は先から書斎のうちでその声を聞いているのだが懐手のまま
毫も動こうとしない。取次に出るのは
主人の役目でないという主義か、この
主人は決して書斎から挨拶をした事がない。下女は
先刻 洗濯 石鹸を買いに出た。
細君は
憚りである。すると取次に出べきものは
吾輩だけになる。
吾輩だって出るのはいやだ。すると客人は
沓脱から敷台へ飛び上がって障子を開け放ってつかつか上り込んで来た。
主人も主人だが客も客だ。座敷の方へ行ったなと思うと
襖を二三度あけたり
閉てたりして、今度は書斎の方へやってくる。
「
おい冗談じゃない。何をしているんだ、御客さんだよ」
「
おや君か」
「
おや君かもないもんだ。そこにいるなら何とか言えばいいのに、まるで空家のようじゃないか」
「
うん、ちと考え事があるもんだから」
「
考えていたって通れくらいは言えるだろう」
「
言えん事もないさ」
「
相変らず度胸がいいね」
「
せんだってから精神の修養を力めているんだもの」
「
物好きだな。精神を修養して返事が出来なくなった日には来客は御難だね。そんなに落ちつかれちゃ困るんだぜ。実は僕一人来たんじゃないよ。大変な御客さんを連れて来たんだよ。ちょっと出て逢ってくれ給え」
「
誰を連れて来たんだい」
「
誰でもいいからちょっと出て逢ってくれたまえ。是非君に逢いたいと言うんだから」
「
誰だい」
「
誰でもいいから立ちたまえ」
主人は
懐手のままぬっと立ちながら「
また人を担ぐつもりだろう」と縁側へ出て何の気もつかずに客間へ入り込んだ。すると六尺の床を正面に一個の老人が
粛然と
端座【正座】して
控えている。
主人は思わず懐から両手を出して ぺたりと
唐紙【襖】の
傍へ尻を片づけてしまった【座った】。これでは老人と同じく西向きであるから双方共挨拶のしようがない。
昔堅気の人は礼義はやかましいものだ。
「
さあどうぞ あれへ」と床の間の方を指して
主人を
促がす。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(9 / 116)
主人は両三年前までは座敷はどこへ坐っても構わんものと心得ていたのだが、その
後ある人から床の間の講釈を聞いて、あれは上段の
間の変化したもので、
上使【上級権力者からの使者】が坐わる所だと悟って以来 決して床の間へは寄りつかない男である。ことに見ず知らずの年長者が
頑と構えているのだから
上座どころではない。挨拶さえ
碌には出来ない。一応頭をさげて
「
さあどうぞあれへ」と向うの言う通りを繰り返した。
「
いやそれでは御挨拶が出来かねますから、どうぞあれへ」
「
いえ、それでは……どうぞあれへ」と
主人はいい加減に先方の口上を真似ている。
「
どうもそう、御謙遜では恐れ入る。かえって手前が痛み入る。どうか御遠慮なく、さあどうぞ」
「
御謙遜では……恐れますから……どうか」
主人は
真赤になって口を もごもご 言わせている。精神修養もあまり効果がないようである。
迷亭君は
襖の影から笑いながら立見をしていたが、もういい時分だと思って、
後ろから
主人の尻を押しやりながら
「
まあ出たまえ。そう唐紙へくっついては僕が坐る所がない。遠慮せずに前へ出たまえ」と無理に割り込んでくる。
主人はやむを得ず前の方へすり出る。
「
苦沙弥君これが 毎々 君に噂をする静岡の伯父だよ。伯父さんこれが苦沙弥君です」
「
いや始めて御目にかかります、毎度迷亭が出て御邪魔を致すそうで、いつか参上の上御高話を拝聴致そうと存じておりましたところ、幸い今日は御近所を通行致したもので、御礼旁伺った訳で、どうぞ御見知りおかれまして今後共宜しく」と
昔し風な口上を
淀みなく述べたてる。
主人は交際の狭い、無口な人間である上に、こんな古風な
爺さんとはほとんど出会った事がないのだから、最初から多少
場うて【場当たり的】の気味で
辟易していたところへ、
滔々と浴びせかけられたのだから、
朝鮮仁参【高級品】も
飴ん棒の
状袋もすっかり忘れてしまってただ苦しまぎれに妙な返事をする。
「
私も……私も……ちょっと伺がうはずでありましたところ……何分よろしく」と言い終って頭を少々畳から上げて見ると老人は
未だに平伏しているので、はっと恐縮してまた頭をぴたりと着けた。
老人は呼吸を計って首をあげながら「
私ももとはこちらに屋敷も在って、永らく御膝元でくらしたものでがすが、瓦解の折にあちらへ参ってからとんと出てこんのでな。今来て見るとまるで方角も分らんくらいで、――迷亭にでも伴れてあるいてもらわんと、とても用達も出来ません。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(10 / 116)
滄桑の変【世の中が非常に大きく変わること】とは申しながら、御入国以来三百年も、あの通り将軍家の……」と言いかけると
迷亭先生面倒だと心得て
「
伯父さん将軍家もありがたいかも知れませんが、明治の代も結構ですぜ。昔は赤十字なんてものもなかったでしょう」
「
それはない。赤十字などと称するものは全くない。ことに宮様の御顔を拝むなどと言う事は明治の御代でなくては出来ぬ事だ。わしも長生きをした御蔭でこの通り今日の総会にも出席するし、宮殿下の御声もきくし、もうこれで死んでもいい」
「
まあ久し振りで東京見物をするだけでも得ですよ。苦沙弥君、伯父はね。今度赤十字の総会があるので わざわざ静岡から出て来てね、今日いっしょに上野へ出掛けたんだが 今 その帰りがけなんだよ。それだからこの通り先日僕が白木屋へ注文したフロックコートを着ているのさ」と注意する。なるほどフロックコートを着ている。フロックコートは着ているが すこしも からだに合わない。
袖が長過ぎて、
襟がおっ
開いて、背中へ池が出来て、
腋の下が釣るし上がっている。いくら
不格好に作ろうと言ったって、こうまで念を入れて形を
崩す訳にはゆかないだろう。その上 白シャツと
白襟が離れ離れになって、
仰むくと間から
咽喉仏が見える。第一黒い襟飾りが襟に属しているのか、シャツに属しているのか
判然しない。フロックはまだ我慢が出来るが
白髪のチョン
髷は はなはだ奇観である。評判の
鉄扇【親骨に鉄を用いた武士のための扇、帯刀が許されない場所での護身用】はどうかと目を
注けると膝の横にちゃんと引きつけている。
主人はこの時ようやく本心に立ち返って、精神修養の結果を存分に老人の服装に応用して少々驚いた。まさか
迷亭の話ほどではなかろうと思っていたが、逢って見ると話以上である。もし自分の
あばたが歴史的研究の材料になるならば、この老人のチョン
髷や鉄扇はたしかにそれ以上の価値がある。
主人はどうかしてこの鉄扇の由来を聞いて見たいと思ったが、まさか、打ちつけに質問する訳には行かず、と言って話を途切らすのも礼に欠けると思って
「
だいぶ人が出ましたろう」と
極めて尋常な問をかけた。
「
いや非常な人で、それでその人が皆 わしをじろじろ見るので――どうも近来は人間が物見高くなったようでがすな。昔しはあんなではなかったが」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(11 / 116)
「
ええ、さよう、昔はそんなではなかったですな」と老人らしい事を言う。これはあながち
主人が
知っ
高振りをした訳ではない。ただ
朦朧たる頭脳から好い加減に流れ出す言語と見れば
差し
支えない。
「
それにな。皆この甲割り【鉄扇】へ目を着けるので」
「
その鉄扇は大分重いものでございましょう」
「
苦沙弥君、ちょっと持って見たまえ。なかなか重いよ。伯父さん持たして御覧なさい」
老人は重たそうに取り上げて「
失礼でがすが」と
主人に渡す。京都の
黒谷で
参詣人が
蓮生坊【源平合戦で活躍した武将】の
太刀を
戴くようなかたで、
苦沙弥先生しばらく持っていたが「
なるほど」と言ったまま老人に返却した。「
みんながこれを鉄扇鉄扇と言うが、これは甲割と称えて鉄扇とはまるで別物で……」
「
へえ、何にしたものでございましょう」
「
兜を割るので、――敵の目がくらむ所を撃ちとったものでがす。楠正成時代から用いたようで……」
「
伯父さん、そりゃ正成の甲割ですかね」
「
いえ、これは誰のかわからん。しかし時代は古い。建武時代の作かも知れない」
「
建武時代かも知れないが、寒月君は弱っていましたぜ。苦沙弥君、今日帰りにちょうどいい機会だから大学を通り抜けるついでに理科へ寄って、物理の実験室を見せて貰ったところがね。この甲割が鉄だものだから、磁力の器械が狂って大騒ぎさ」
「
いや、そんなはずはない。これは建武時代の鉄で、性のいい鉄だから決してそんな虞れはない」
「
いくら性のいい鉄だってそうはいきませんよ。現に寒月がそう言ったから仕方がないです」
「
寒月というのは、あのガラス球を磨っている男かい。今の若さに気の毒な事だ。もう少し何かやる事がありそうなものだ」
「
可愛想に、あれだって研究でさあ。あの球を磨り上げると立派な学者になれるんですからね」
「
玉を磨りあげて立派な学者になれるなら、誰にでも出来る。わしにでも出来る。ビードロやの主人にでも出来る。ああ言う事をする者を漢土【古代中国】では玉人と称したもので至って身分の軽いものだ」と言いながら
主人の方を向いて暗に賛成を求める。
「
なるほど」と
主人はかしこまっている。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(12 / 116)
「
すべて今の世の学問は皆 形而下【物質的なもの】の学でちょっと結構なようだが、いざとなるとすこしも役には立ちませんてな。昔はそれと違って侍は皆命懸けの商買だから、いざと言う時に狼狽せぬように心の修業を致したもので、御承知でもあらっしゃろうが なかなか玉を磨ったり針金を綯ったりするような容易いものでは なかったので がすよ」
「
なるほど」と やはりかしこまっている。
「
伯父さん心の修業と言うものは玉を磨る代りに懐手をして坐り込んでるんでしょう」
「
それだから困る。決してそんな造作のないものではない。孟子は求放心【いったん放たれた心を再び自分の身のうちへ引き戻す】と言われたくらいだ。邵康節【北宋の学者】は心要放【心を放たなければならない】と説いた事もある。また仏家では中峯和尚【中国元時代を代表する禅僧】と言うのが具不退転【一度決めたら最後までやり遂げる】と言う事を教えている。なかなか容易には分らん」
「
とうてい分りっこありませんね。全体どうすればいいんです」
「
御前は沢菴禅師【大根の漬物〝たくあん漬け〟の考案者として有名】の不動智神妙録【剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一致)について】というものを読んだ事があるかい」
「
いいえ、聞いた事もありません」
「
心をどこに置こうぞ。敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思うところに心を置けば、敵を切らんと思うところに心を取らるるなり。わが太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるるなり。われ切られじと思うところに心を置けば、切られじと思うところに心を取らるるなり。人の構に心を置けば、人の構に心を取らるるなり。とかく心の置きどころは ないとある」
「
よく忘れずに暗唱したものですね。伯父さんも なかなか記憶がいい。長いじゃありませんか。苦沙弥君分ったかい」
「
なるほど」と 今度も なるほどで すましてしまった。
「
なあ、あなた、そうでござりましょう。心をどこに置こうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば……」
「
伯父さん苦沙弥君はそんな事は、よく心得ているんですよ。近頃は毎日書斎で精神の修養ばかりしているんですから。客があっても取次に出ないくらい心を置き去りにしているんだから大丈夫ですよ」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(13 / 116)
「
や、それは御奇特【感心】な事で――御前なども ちと ごいっしょにやったらよかろう」
「
へへへそんな暇はありませんよ。伯父さんは自分が楽なからだ だもんだから、人も遊んでると思っていらっしゃるんでしょう」
「
実際遊んでるじゃないかの」
「
ところが閑中 自から忙あり【表面的にはボーッとしているように見えるが、実は観察や思索で忙しい】でね」
「
そう、粗忽だから修業をせんといかないと言うのよ、忙中 自ら 閑あり【忙しい中にもふとした暇がある】と言う成句はあるが、閑中自ら忙ありと言うのは聞いた事がない。なあ苦沙弥さん」
「
ええ、どうも聞きませんようで」
「
ハハハハそうなっちゃあ敵わない。時に伯父さん どうです。久し振りで東京の鰻でも食っちゃあ。竹葉でも奢りましょう。これから電車で行くとすぐです」
「
鰻も結構だが、今日はこれからすい原へ行く約束があるから、わしはこれで御免を蒙ろう」
「
ああ杉原ですか、あの爺さんも達者ですね」
「
杉原ではない、すい原さ。御前はよく間違ばかり言って困る。他人の姓名を取り違えるのは失礼だ。よく気をつけんといけない」
「
だって杉原とかいてあるじゃありませんか」
「
杉原と書いてすい原と読むのさ」
「
妙ですね」
「
なに妙な事があるものか。名目読み【習慣による読み癖に従った読み方】と言って昔からある事さ。蚯蚓を和名でみみずと言う。あれは目見ずの名目よみで。蝦蟆の事をかいると言うのと同じ事さ」
「
へえ、驚ろいたな」
「
蝦蟆を打ち殺すと仰向きにかえる。それを名目読みにかいると言う。透垣をすい垣、茎立をくく立、皆同じ事だ。杉原をすぎ原などと言うのは田舎ものの言葉さ。少し気を付けないと人に笑われる」
「
じゃ、その、すい原へこれから行くんですか。困ったな」
「
なに厭なら御前は行かんでもいい。わし一人で行くから」
「
一人で行けますかい」
「
あるいてはむずかしい。車を雇って頂いて、ここから乗って行こう」
主人は
畏まって直ちに
御三を車屋へ走らせる。老人は長々と挨拶をしてチョン
髷頭へ山高帽をいただいて帰って行く。
迷亭はあとへ残る。
「
あれが君の伯父さんか」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(14 / 116)
「
あれが僕の伯父さんさ」
「
なるほど」と再び
座蒲団の上に坐ったなり
懐手をして考え込んでいる。
「
ハハハ豪傑だろう。僕も ああ言う伯父さんを持って仕合せなものさ。どこへ連れて行ってもあの通りなんだぜ。君 驚ろいたろう」と
迷亭君は
主人を驚ろかしたつもりで
大に喜んでいる。
「
なにそんなに驚きゃしない」
「
あれで驚かなけりゃ、胆力の据ったもんだ」
「
しかしあの伯父さんは なかなか えらいところがあるようだ。精神の修養を主張するところなぞは大に敬服していい」
「
敬服していいかね。君も今に六十くらいになるとやっぱりあの伯父見たように、時候おくれになるかも知れないぜ。しっかりしてくれたまえ。時候おくれの廻り持ち【持ち回りの仕事】なんか気が利かないよ」
「
君はしきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。第一 今の学問と言うものは先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしない。とうてい満足は得られやしない。そこへ行くと東洋流の学問は消極的で大に味がある。心そのものの修業をするのだから」とせんだって哲学者から承わった通りを自説のように述べ立てる。
「
えらい事になって来たぜ。何だか八木独仙君のような事を言ってるね」
八木
独仙と言う名を聞いて
主人は はっと驚ろいた。実はせんだって
臥竜窟を訪問して
主人を説服に及んで
悠然と立ち帰った哲学者と言うのが取も直さずこの八木
独仙君であって、今
主人が
鹿爪らしく【まじめくさって】述べ立てている議論は全くこの八木
独仙君の受売なのであるから、知らんと思った
迷亭がこの先生の名を
間不容髪【間髪を容れず】の際に持ち出したのは暗に
主人の一夜作りの
仮鼻を
挫いた訳になる。「
君独仙の説を聞いた事があるのかい」と
主人は
剣呑【不安】だから念を
推して見る。
「
聞いたの、聞かないのって、あの男の説ときたら、十年前学校にいた時分と今日と少しも変りゃしない」
「
真理はそう変るものじゃないから、変らないところが たのもしいかも知れない」
「
まあそんな贔負があるから独仙もあれで立ち行くんだね。第一八木と言う名からして、よく出来てるよ。あの髯が君 全く山羊だからね。そうしてあれも寄宿舎時代からあの通りの格好で生えていたんだ。名前の独仙なども振ったものさ。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(15 / 116)
昔し僕のところへ泊りがけに来て 例の通り消極的の修養と言う議論をしてね。いつまで立っても同じ事を繰り返してやめないから、僕が 君 もう寝ようじゃないかと言うと、先生気楽なものさ、いや僕は眠くないとすまし切って、やっぱり消極論をやるには迷惑したね。仕方がないから君は眠く なかろうけれども、僕の方は大変眠いのだから、どうか寝てくれたまえと頼むようにして寝かしたまではよかったが――その晩鼠が出て独仙君の鼻のあたまを噛ってね。夜なかに大騒ぎさ。先生悟ったような事を言うけれども命は依然として惜しかったと見えて、非常に心配するのさ。鼠の毒が総身【全身】にまわると大変だ、君どうかしてくれと責めるには閉口したね。それから仕方がないから台所へ行って紙片へ飯粒を貼ってごまかしてやったあね」
「
どうして」
「
これは舶来の膏薬で、近来独逸の名医が発明したので、印度人などの毒蛇に噛まれた時に用いると即効があるんだから、これさえ貼っておけば大丈夫だと言ってね」
「
君はその時分から ごまかす事に妙を得ていたんだね」
「
……すると独仙君はああ言う好人物だから、全くだと思って安心して ぐうぐう寝てしまったのさ。あくる日起きて見ると膏薬の下から糸屑がぶらさがって例の山羊髯に引っかかっていたのは滑稽だったよ」
「
しかしあの時分より大分えらくなったようだよ」
「
君 近頃 逢ったのかい」
「
一週間ばかり前に来て、長い間話しをして行った」
「
どうりで独仙流の消極説を振り舞わすと思った」
「
実はその時大に感心してしまったから、僕も大に奮発して修養をやろうと思ってるところなんだ」
「
奮発は結構だがね。あんまり人の言う事を真に受けると馬鹿を見るぜ。一体 君は人の言う事を何でもかでも正直に受けるからいけない。独仙も口だけは立派なものだがね、いざとなると御互と同じものだよ【外見や身分、知識、態度が違って見えても、本当に困った時、緊急時には、皆似たように弱くなるし動揺もする】。君 九年前の大地震を知ってるだろう。あの時寄宿の二階から飛び降りて怪我をしたものは独仙君だけなんだからな」
「
あれには当人大分説があるようじゃないか」
「
そうさ、当人に言わせるとすこぶるありがたいものさ。禅の機鋒【ほこさきの勢い】は 峻峭【高く険しい】なもので、いわゆる石火の機となると怖いくらい早く物に応ずる事が出来る。ほかのものが地震だと言って狼狽えているところを自分だけは二階の窓から飛び下りたところに修業の効があらわれて嬉しいと言って、跛を引きながらうれしがっていた。負惜みの強い男だ。一体禅とか仏とか言って騒ぎ立てる連中ほど あやしいのはないぜ」
「
そうかな」と
苦沙弥先生少々腰が弱くなる。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(16 / 116)
「
この間来た時 禅宗坊主の寝言見たような事を何か言ってったろう」
「
うん電光影裏に春風をきる【稲妻が光る影の中で春風を斬る → 一見かっこよさそうに見えるが、実は無意味で滑稽な行為をしている】とか言う句を教えて行ったよ」
「
その電光さ。あれが十年前からの御箱なんだからおかしいよ。無覚禅師【無学をもじったもの】の電光ときたら 寄宿舎中 誰も知らないものは ないくらいだった。それに先生時々せき込むと間違えて電光影裏を逆さまに春風影裏に電光をきると言うから面白い。今度ためして見たまえ。向で落ちつき払って述べたてているところを、こっちでいろいろ反対するんだね。するとすぐ転倒して妙な事を言うよ」
「
君のような いたずらもの に逢っちゃ叶わない」
「
どっちがいたずら者だか分りゃしない。僕は禅坊主だの、悟ったのは大嫌だ。僕の近所に南蔵院と言う寺があるが、あすこに八十ばかりの隠居がいる。それでこの間の白雨の時 寺内へ雷が落ちて隠居のいる庭先の松の木を割いてしまった。ところが和尚泰然として平気だと言うから、よく聞き合わせて見るとから聾なんだね。それじゃ泰然たる訳さ。大概そんなものさ。独仙も一人で悟っていればいいのだが、ややともすると人を誘い出すから悪い。現に独仙の御蔭で二人ばかり気狂にされているからな」
「
誰が」
「
誰がって。一人は理野陶然さ。独仙の御蔭で大に禅学に凝り固まって鎌倉へ出掛けて行って、とうとう出先で気狂になってしまった。円覚寺の前に汽車の踏切りがあるだろう、あの踏切り内へ飛び込んでレールの上で座禅をするんだね。それで向うから来る汽車をとめて見せると言う大気炎さ。もっとも汽車の方で留ってくれたから一命だけはとりとめたが、その代り今度は火に入って焼けず、水に入って溺れぬ金剛不壊【非常に堅固で、決してこわれない】のからだだと号して寺内の蓮池へ入ってぶくぶくあるき廻ったもんだ」
「
死んだかい」
「
その時も幸、道場の坊主が通りかかって助けてくれたが、その後東京へ帰ってから、とうとう腹膜炎で死んでしまった。死んだのは腹膜炎だが、腹膜炎になった原因は僧堂で麦飯や万年漬【長年変わらず古くさいままのものを揶揄】を食ったせいだから、つまるところは間接に独仙が殺したようなものさ」
「
むやみに熱中するのも善し悪ししだね」と
主人はちょっと気味のわるいという顔付をする。
「
本当にさ。独仙にやられたものが もう一人 同窓中にある」
「
あぶないね。誰だい」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(17 / 116)
「
立町 老梅君さ。あの男も全く独仙にそそのかされて鰻が天上するような事ばかり言っていたが、とうとう君 本物になってしまった」
「
本物たあ何だい」
「
とうとう鰻が天上して、豚が仙人になったのさ」
「
何の事だい、それは」
「
八木が独仙なら、立町は豚仙さ、あのくらい食い意地のきたない男はなかったが、あの食意地と禅坊主のわる意地が併発したのだから助からない。始めは僕らも気がつかなかったが今から考えると妙な事ばかり並べていたよ。僕のうちなどへ来て 君 あの松の木へ カツレツが飛んできやしませんかの、僕の国では蒲鉾が板へ乗って泳いでいますのって、しきりに警句【本来の名言という意味を揶揄】を吐いたものさ。ただ吐いているうちはよかったが 君 表のどぶへ金とん【金塊と豚とをかけた】を掘りに行きましょうと促がすに至っては僕も降参したね。それから二三日するとついに豚仙になって巣鴨【巣鴨監獄】へ収容されてしまった。元来 豚なんぞが気狂になる資格はないんだが、全く独仙の御蔭であすこまで漕ぎ付けたんだね。独仙の勢力も なかなか えらいよ」
「
へえ、今でも巣鴨にいるのかい」
「
いるだんじゃない。自大狂で大気炎を吐いている。近頃は立町老梅なんて名はつまらないと言うので、自ら天道公平と号して、天道の権化をもって任じている。すさまじいものだよ。まあちょっと行って見たまえ」「
天道公平?」
「
天道公平だよ。気狂の癖にうまい名をつけたものだね。時々は孔平とも書く事がある。それで何でも世人が迷ってるからぜひ救ってやりたいと言うので、むやみに友人や何かへ手紙を出すんだね。僕も四五通貰ったが、中にはなかなか長い奴があって不足税を二度ばかりとられたよ」
「
それじゃ僕の所へ来たのも老梅から来たんだ」
「
君の所へも来たかい。そいつは妙だ。やっぱり赤い状袋だろう」
「
うん、真中が赤くて左右が白い。一風変った状袋だ」
「
あれはね、わざわざ支那から取り寄せるのだそうだよ。天の道は白なり、地の道は白なり、人は中間に在って赤しと言う豚仙の格言を示したんだって……」
「
なかなか因縁のある状袋だね」
「
気狂だけに大に凝ったものさ。そうして気狂になっても食意地だけは依然として存しているものと見えて、毎回必ず食物の事がかいてあるから奇妙だ。君の所へも何とか言って来たろう」
「
うん、海鼠の事がかいてある」
「
老梅は海鼠が好きだったからね。もっともだ。それから?」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(18 / 116)
「
それから河豚と朝鮮仁参か何か書いてある」
「
河豚と朝鮮仁参の取り合せは旨いね。おおかた河豚を食って中ったら朝鮮仁参を煎じて飲めとでも言うつもりなんだろう」
「
そうでもないようだ」
「
そうでなくても構わないさ。どうせ気狂だもの。それっきりかい」
「
まだある。苦沙弥先生 御茶でも上がれと言う句がある」
「
アハハハ 御茶でも上がれ はきびし過ぎる。それで大に君をやり込めたつもりに違ない。大出来だ。天道公平君万歳だ」と
迷亭先生は面白がって、大に笑い出す。
主人は少からざる尊敬をもって反覆
読誦した
書簡の差出人が
金箔つきの狂人であると知ってから、最前の熱心と苦心が何だか無駄骨のような気がして腹立たしくもあり、また
瘋癲病者【精神病患者】の文章をさほど心労して
翫味【面白がる】したかと思うと恥ずかしくもあり、最後に狂人の作にこれほど感服する以上は 自分も多少神経に異状がありはせぬか との疑念もあるので、立腹と、
慚愧【反省・後悔】と、心配の合併した状態で 何だか落ちつかない顔付をして
控えている。
折から表格子をあららかに【荒々しく】開けて、重い靴の音が二た足ほど
沓脱に響いたと思ったら「
ちょっと頼みます、ちょっと頼みます」と大きな声がする。
主人の尻の重いに反して
迷亭はまたすこぶる気軽な男であるから、
御三の取次に出るのも待たず、
通れと言いながら隔ての中の
間を二た足ばかりに飛び越えて玄関に
躍り出した。人のうちへ案内も乞わずにつかつか入り込むところは迷惑のようだが、人のうちへ入った以上は書生同様 取次を
務めるから はなはだ便利である。いくら
迷亭でも御客さんには相違ない、その御客さんが玄関へ出張するのに
主人たる
苦沙弥先生が座敷へ構え込んで動かん法はない。普通の男ならあとから引き続いて出陣すべきはずであるが、そこが
苦沙弥先生である。平気に座布団の上へ尻を落ちつけている。
但し落ちつけているのと、落ちついているのとは、その趣は
大分似ているが、その実質はよほど違う。
玄関へ飛び出した
迷亭は何かしきりに弁じていたが、やがて奥の方を向いて「
おい御主人 ちょっと御足労だが出てくれたまえ。君でなくっちゃ、間に合わない」と大きな声を出す。
主人はやむを得ず
懐手のまま のそりのそりと出てくる。見ると
迷亭君は一枚の名刺を握ったまましゃがんで挨拶をしている。すこぶる威厳のない腰つきである。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(19 / 116)
その名刺には警視庁刑事巡査
吉田虎蔵とある。
虎蔵君と並んで立っているのは二十五六の
背の高い、
いなせな
唐桟【縞模様の綿織物】ずくめの男である。妙な事にこの男は
主人と同じく懐手をしたまま、無言で
突立っている。何だか見たような顔だと思ってよくよく観察すると、見たようなどころじゃない。この間 深夜 御来訪になって
山の
芋を持って行かれた
泥棒君である。おや今度は白昼公然と玄関からおいでになったな。
「
おいこの方は刑事巡査でせんだっての泥棒をつらまえたから、君に出頭しろと言うんで、わざわざおいでになったんだよ」
主人はようやく刑事が踏み込んだ理由が分ったと見えて、頭をさげて
泥棒の方を向いて
鄭寧に御辞儀をした。
泥棒の方が
虎蔵君より男振りがいいので、こっちが刑事だと
早合点をしたのだろう。
泥棒も驚ろいたに相違ないが、まさか
私が
泥棒ですよと断わる訳にも行かなかったと見えて、すまして立っている。やはり懐手のままである。もっとも
手錠をはめているのだから、出そうと言っても出る
気遣はない。通例のものならこの様子で たいていは わかるはずだが、この
主人は当世の人間に似合わず、むやみに役人や警察をありがたがる癖がある。
御上の御威光となると非常に恐しいものと心得ている。もっとも理論上から言うと、巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだ くらいの事は心得ているのだが、実際に臨むと いやに へえへえする。
主人のおやじはその昔 場末の名主であったから、上の者にぴょこぴょこ頭を下げて暮した習慣が、因果となって かように子に
酬ったのかも知れない。まことに気の毒な至りである。
巡査はおかしかったと見えて、にやにや笑いながら「
あしたね、午前九時までに日本堤の分署まで来て下さい。――盗難品は何と何でしたかね」
「
盗難品は……」と言いかけたが、あいにく先生 たいがい忘れている。ただ覚えているのは
多々良三平君の山の芋だけである。山の芋などは どうでも構わんと思ったが、盗難品は……と言いかけてあとが出ないのは いかにも
与太郎のようで
体裁がわるい。人が盗まれたのならいざ知らず、自分が盗まれておきながら、明瞭の答が出来んのは
一人前ではない証拠だと、思い切って「
盗難品は……山の芋一箱」とつけた。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(20 / 116)
泥棒はこの時よほどおかしかったと見えて、下を向いて着物の
襟へあごを入れた。
迷亭はアハハハと笑いながら「
山の芋がよほど惜しかったと見えるね」と言った。巡査だけは存外真面目である。
「
山の芋は出ないようだがほかの物件はたいがい戻ったようです。――まあ来て見たら分るでしょう。それでね、下げ渡したら請書が入るから、印形【ハンコ】を忘れずに持っておいでなさい。――九時までに来なくってはいかん。日本堤 分署です。――浅草警察署の管轄内の日本堤分署です。――それじゃ、さようなら」と
独りで弁じて帰って行く。
泥棒君も続いて門を出る。手が出せないので、門をしめる事が出来ないから開け放しのまま行ってしまった。恐れ入りながらも不平と見えて、
主人は頬をふくらして、ぴしゃりと立て切った。
「
アハハハ君は刑事を大変尊敬するね。つねにああ言う恭謙【つつしみ深く、へりくだる】な態度を持ってるといい男だが、君は巡査だけに鄭寧なんだから困る」
「
だってせっかく知らせて来てくれたんじゃないか」
「
知らせに来るったって、先は商売だよ。当り前にあしらってりゃ沢山だ」
「
しかしただの商売じゃない」
「
無論ただの商売じゃない。探偵と言う いけすかない商売さ。あたり前の商売より下等だね」
「
君そんな事を言うと、ひどい目に逢うぜ」
「
ハハハそれじゃ刑事の悪口はやめにしよう。しかし刑事を尊敬するのは、まだしもだが、泥棒を尊敬するに至っては、驚かざるを得んよ」
「
誰が泥棒を尊敬したい」
「
君がしたのさ」
「
僕が泥棒に近付きがあるもんか」
「
あるもんかって君は泥棒にお辞儀をしたじゃないか」
「
いつ?」
「
たった今 平身低頭したじゃないか」
「
馬鹿あ言ってら、あれは刑事だね」
「
刑事があんななりをするものか」
「
刑事だから あんななりをするんじゃないか」
「
頑固だな」
「
君こそ頑固だ」
「
まあ第一、刑事が人の所へ来てあんなに懐手なんかして、突立っているものかね」
「
刑事だって懐手をしないとは限るまい」
「
そう猛烈にやって来ては恐れ入るがね。君がお辞儀をする間あいつは始終あのままで立っていたのだぜ」
「
刑事だからそのくらいの事はあるかも知れんさ」
「
どうも自信家だな。いくら言っても聞かないね」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(21 / 116)
「
聞かないさ。君は口先ばかりで泥棒だ泥棒だと言ってるだけで、その泥棒がはいるところを見届けた訳じゃないんだから。ただそう思って独りで強情を張ってるんだ」
迷亭も ここにおいて とうてい
済度すべからざる【救いようのない】男と断念したものと見えて、例に似ず黙ってしまった。
主人は久し振りで
迷亭を
凹ましたと思って大得意である。
迷亭から見ると
主人の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが、
主人から言うと強情を張っただけ
迷亭よりえらくなったのである。世の中にはこんな
頓珍漢な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は
遥かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は
面目を施こしたつもりか なにかで、その時以後人が
軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。
「
ともかくも あした行くつもりかい」
「
行くとも、九時までに来いと言うから、八時から出て行く」
「
学校はどうする」
「
休むさ。学校なんか」と
擲きつけるように言ったのは
壮なものだった。
「
えらい勢だね。休んでもいいのかい」
「
いいとも僕の学校は月給だから、差し引かれる気遣はない、大丈夫だ」と真直に白状してしまった。
ずるい事も
ずるいが、単純なことも単純なものだ。
「
君、行くのはいいが路を知ってるかい」
「
知るものか。車に乗って行けば訳はないだろう」とぷんぷんしている。
「
静岡の伯父に譲らざる東京通なるには恐れ入る」
「
いくらでも恐れ入るがいい」
「
ハハハ日本堤分署と言うのはね、君ただの所じゃないよ。吉原だよ」
「
何だ?」
「
吉原だよ」
「
あの遊郭のある吉原か?」
「
そうさ、吉原と言やあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行って見る気かい」と
迷亭君また からかいかける。
主人は吉原と聞いて、
そいつはと少々
逡巡【ためらい】の
体であったが、たちまち思い返して「
吉原だろうが、遊郭だろうが、いったん行くと言った以上はきっと行く」と入らざるところに
力味で見せた。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(22 / 116)
愚人は得てこんなところに意地を張るものだ。
迷亭君は「
まあ面白かろう、見て来たまえ」と言ったのみである。
一波瀾を生じた刑事事件はこれで
一先ず
落着を告げた。
迷亭はそれから相変らず駄弁を
弄して日暮れ方、あまり遅くなると
伯父に
怒られると言って帰って行った。
迷亭が帰ってから、そこそこに晩飯をすまして、また書斎へ引き揚げた
主人は 再び
拱手【腕組み】して
下のように考え始めた。
「
自分が感服して、大に見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると、別段見習うにも及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道【説教】するところの説は何だか非常識で、迷亭の言う通り多少瘋癲的【常軌を逸した】系統に属してもおりそうだ。いわんや彼は歴乎とした二人の気狂の子分を有している。はなはだ危険である。滅多に近寄ると同系統内に引き摺り込まれそうである。自分が文章の上において驚嘆の余、これこそ大見識を有している偉人に相違ないと思い込んだ天道公平事 実名 立町老梅は純然たる狂人であって、現に巣鴨の病院に起居【生活】している。迷亭の記述が棒大の ざれ言にもせよ、彼が瘋癲院中に盛名を擅ままにして天道の主宰をもって自ら任ずるは 恐らく事実であろう。こう言う自分もことによると少々ござっている【ざれ言をもじっている】かも知れない。同気 相求め、同類 相集まると言うから、気狂の説に感服する以上は――少なくともその文章言辞に同情を表する以上は――自分もまた気狂に縁の近い者であるだろう。よし同型中に鋳化【型に流し込んで冷やし固めること】せられんでも 軒を比べて狂人と隣り合せに居を卜する【暮らす】とすれば、境の壁を一重打ち抜いて いつの間にか同室内に膝を突き合せて談笑する事がないとも限らん。こいつは大変だ。なるほど考えて見ると このほどじゅうから自分の脳の作用は 我ながら驚くくらい奇上に妙を点じ変傍に珍を添えている。脳漿一勺【ほんのわずかな脳みそ】の化学的変化は とにかく意志の動いて行為となるところ、発して言辞【言葉】と化する辺には不思議にも中庸【調和】を失した点が多い。舌上に 竜泉なく、腋下に清風を生ぜざるも、歯根に狂臭あり、筋頭に瘋味あるをいかんせん【立派な知恵も品位も持ち合わせず、口は臭く、全身からは狂気のにおいがする】。いよいよ大変だ。」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(23 / 116)
「
ことによると もうすでに立派な患者になっているのでは ないかしらん。まだ幸に人を傷けたり、世間の邪魔になる事を し出かさんから やはり町内を追払われずに、東京市民として存在しているのではなかろうか。こいつは消極の積極のと言う段じゃない。まず脈拍からして検査しなくてはならん。しかし脈には変りはないようだ。頭は熱いかしらん。これも別に逆上の気味でもない。しかしどうも心配だ。」
「
こう自分と気狂ばかりを比較して類似の点ばかり勘定していては、どうしても気狂の領分を脱する事は出来そうにもない。これは方法がわるかった。気狂を標準にして自分をそっちへ引きつけて解釈するからこんな結論が出るのである。もし健康な人を本位にしてその傍へ自分を置いて考えて見たらあるいは反対の結果が出るかも知れない。それにはまず手近から始めなくてはいかん。第一に今日来たフロックコートの伯父さんはどうだ。心をどこに置こうぞ……あれも少々怪しいようだ。第二に寒月はどうだ。朝から晩まで弁当持参で球ばかり磨いている。これも棒組【仲間】だ。第三にと……迷亭? あれはふざけ回るのを天職のように心得ている。全く陽性の気狂に相違ない。第四はと……金田の妻君。あの毒悪な根性は全く常識をはずれている。純然たる気じるし【精神的に普通でない】に極ってる。第五は金田君の番だ。金田君には御目に懸った事はないが、まずあの細君を恭しくおっ立てて、琴瑟調和【夫婦仲が非常に良い】しているところを見ると非凡の人間と見立てて差支えあるまい。非凡は気狂の異名であるから、まずこれも同類にしておいて構わない。それからと、――まだあるある。落雲館の諸君子だ、年齢から言うとまだ芽生えだが、躁狂【狂ったように騒ぐ】の点においては 一世を空しゅうするに足る【その時代、それに匹敵する存在は他に誰もいない】天晴な豪のものである。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(24 / 116)
こう数え立てて見ると大抵のものは同類のようである。案外 心 丈夫になって来た。ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない。気狂が集合して鎬を削ってつかみ合い、いがみ合い、罵り合い、奪い合って、その全体が団体として細胞のように崩れたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と言うのではないか知らん。その中で多少理屈がわかって、分別のある奴はかえって邪魔になるから、瘋癲院というものを作って、ここへ押し込めて出られないようにする のではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で、院外にあばれているものは かえって気狂である。気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂が金力や威力を乱用して多くの小気狂を使役して乱暴を働いて、人から立派な男だと言われている例は少なくない。何が何だか分らなくなった」
以上は
主人が当夜
煢々たる【きらきら光りかがやく】孤灯の
下で沈思熟慮した時の心的作用をありのままに
描き出したものである。彼の頭脳の不透明なる事はここにも著るしくあらわれている。彼はカイゼル【カイゼル髭は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の口髭が由来】に似た
八字髯を
蓄うるにもかかわらず 狂人と常人の差別さえなし得ぬくらいの
凡倉である。のみならず彼はせっかくこの問題を提供して自己の思索力に訴えながら、ついに何等の結論に達せずしてやめてしまった。何事によらず彼は徹底的に考える脳力のない男である。彼の結論の
茫漠【ぼんやりしてつかみどころのない】として、彼の鼻孔から
迸出する【勢いよく飛び出る】朝日の煙のごとく、
捕捉しがたきは、彼の議論における唯一の特色として記憶すべき事実である。
吾輩は猫である。猫の癖にどうして
主人の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかも知れんが、このくらいな事は猫にとって何でもない。
吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間の
膝の上へ乗って眠っているうちに、
吾輩は吾輩の柔かな
毛衣をそっと人間の腹にこすり付ける。すると一道の電気が起って彼の腹の中のいきさつが手にとるように
吾輩の心眼に映ずる。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(25 / 116)
せんだってなどは
主人がやさしく
吾輩の頭を
撫で廻しながら、突然この猫の皮を
剥いで
ちゃんちゃんにしたら さぞあたたかで よかろうと飛んでもない
了見をむらむらと起したのを即座に
気取って 覚えずひやっとした事さえある。
怖い事だ。当夜
主人の頭のなかに起った以上の思想もそんな
訳合で
幸にも諸君にご報道する事が出来るように相成ったのは
吾輩の
大に栄誉とするところである。
但し
主人は「
何が何だか分らなくなった」まで考えて そのあとは ぐうぐう寝てしまったのである、あすになれば何をどこまで考えたかまるで忘れてしまうに違ない。
向後 もし
主人が
気狂について考える事があるとすれば、もう一
返出直して頭から考え始めなければならぬ。そうすると果してこんな
径路を取って、こんな風に「
何が何だか分らなくなる」かどうだか保証出来ない。しかし何返考え直しても、
何条の径路をとって進もうとも、ついに「
何が何だか分らなくなる」だけはたしかである。
十
「
あなた、もう七時ですよ」と
襖越しに
細君が声を掛けた。
主人は眼がさめているのだか、寝ているのだか、向うむきになったぎり返事もしない。返事をしないのはこの男の癖である。ぜひ何とか口を切らなければ ならない時は
うんと言う。この
うんも容易な事では出てこない。人間も返事がうるさくなるくらい
無精になると、どことなく
趣があるが、こんな人に限って女に好かれた試しがない。現在連れ添う
細君ですら、あまり珍重しておらんようだから、その他は
推して知るべしと言っても大した間違はなかろう。親兄弟に見離され、あかの他人の
傾城【美女】に、可愛がらりょうはずがない、とある以上は、
細君にさえ持てない
主人が、世間一般の淑女に気に入るはずがない。何も異性間に不人望な
主人をこの際ことさらに
暴露する必要もないのだが、本人において存外な考え違をして、全く年廻りのせいで
細君に好かれないのだなどと理屈をつけていると、
迷の種であるから、自覚の一助にもなろうかと親切心からちょっと申し添えるまでである。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(26 / 116)
言いつけられた時刻に、時刻がきたと注意しても、先方がその注意を無にする以上は、
向をむいて
うんさえ発せざる以上は、その
曲【原因】は夫にあって、妻にあらずと論定したる
細君は、遅くなっても知りませんよと言う姿勢で
箒と
はたきを
担いで書斎の方へ行ってしまった。やがてぱたぱた書斎中を
叩き散らす音がするのは 例によって例のごとき 掃除を始めたのである。一体掃除の目的は運動のためか、遊戯のためか、掃除の役目を帯びぬ
吾輩の関知するところでないから、知らん顔をしていれば
差し
支えないようなものの、ここの
細君の掃除法のごときに至ってはすこぶる無意義のものと言わざるを得ない。何が無意義であるかと言うと、この
細君は単に掃除のために掃除をしているからである。
はたきを一通り
障子へかけて、
箒を一応畳の上へ
滑らせる。それで掃除は完成した者と解釈している。掃除の源因及び結果に至っては
微塵の責任だに背負っておらん。かるが故に【それゆえに】奇麗な所は毎日奇麗だが、
ごみのある所、
ほこりの積っている所はいつでも
ごみが
溜って
ほこりが積っている。
告朔の
餼羊【古くから続いている習慣や年中行事は、理由もなく廃絶してはならない】と言う
故事もある事だから、これでもやらんよりはましかも知れない。しかしやっても別段
主人のためにはならない。ならないところを毎日毎日御苦労にもやるところが
細君のえらいところである。
細君と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくって
頑として結びつけられているにもかかわらず、掃除の
実に至っては、
妻君がいまだ生れざる以前のごとく、
はたきと
箒が発明せられざる昔のごとく、
毫も
挙っておらん。思うに この両者の関係は形式論理学の命題における名辞のごとく その内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。
吾輩は
主人と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえ
膳に向わぬさきから、猫の身分をもって朝めしに有りつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁の
香が
鮑貝の中から、うまそうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。はかない事を、はかないと知りながら頼みにするときは、ただその頼みだけを頭の中に描いて、動かずに落ちついている方が得策であるが、さてそうは行かぬ者で、心の願と実際が、合うか合わぬか是非とも試験して見たくなる。試験して見れば必ず失望するにきまってる事ですら、最後の失望を
自ら事実の上に受取るまでは承知出来んものである。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(27 / 116)
吾輩はたまらなくなって台所へ
這出した。まず
へっつい【かまど】の影にある
鮑貝の中を
覗いて見ると案に
違わず、
夕べ
舐め尽したまま、
闃然として【ひっそりと静まり返って】、怪しき光が引窓を
洩る
初秋の日影にかがやいている。
御三はすでに
炊き
立の飯を、
御櫃に移して、今や
七輪にかけた
鍋の中をかきまぜつつある。
釜の周囲には
沸き上がって流れだした米の汁が、かさかさに
幾条となくこびりついて、あるものは吉野紙【非常に薄い和紙】を
貼りつけたごとくに見える。もう飯も汁も出来ているのだから 食わせても よさそうなものだと思った。こんな時に遠慮するのはつまらない話だ、よしんば自分の望通りにならなくったって元々で損は行かないのだから、思い切って朝飯の催促をしてやろう、いくら
居候の身分だって ひもじいに変りはない。と考え定めた
吾輩は にゃあにゃあ と甘えるごとく、訴うるがごとく、あるいはまた
怨ずるがごとく泣いて見た。
御三はいっこう
顧みる
景色がない。生れついてのお
多角だから人情に
疎いのはとうから承知の上だが、そこをうまく泣き立てて同情を起させるのが、こっちの
手際である。今度は にゃごにゃご とやって見た。その泣き声は吾ながら悲壮の
音を帯びて
天涯の
遊子をして断腸の思あらしむるに足ると信ずる。
御三は
恬【平然として】として
顧みない。この女は
聾なのかも知れない。聾では下女が勤まる
訳がないが、ことによると猫の声だけには聾なのだろう。世の中には
色盲というのがあって、当人は完全な視力を具えているつもりでも、医者から言わせると
片輪だそうだが、この
御三は
声盲なのだろう。声盲だって片輪に違いない。片輪のくせにいやに
横風【遠慮がない】なものだ。夜中なぞでも、いくらこっちが用があるから開けてくれろと言っても決して開けてくれた事がない。たまに出してくれたと思うと今度はどうしても入れてくれない。夏だって夜露は毒だ。いわんや
霜においてをやで【まして霜では、なおさらで】、軒下に立ち明かして、日の出を待つのは、どんなに
辛いかとうてい想像が出来るものではない。この間しめ出しを食った時なぞは野良犬の襲撃を
蒙って、すでに危うく見えたところを、ようやくの事で物置の
家根へかけ上って、終夜
顫えつづけた事さえある。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(28 / 116)
これ等は皆
御三の不人情から
胚胎した【生み出された】不都合である。こんなものを相手にして鳴いて見せたって、
感応のある はずはない のだが、そこが、ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに 恋のふみ と言うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。にゃごおう にゃごおう と三度目には、注意を喚起するためにことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分ではベトヴェンのシンフォニーにも劣らざる美妙の
音と確信しているのだが
御三には何等の影響も生じないようだ。
御三は突然膝をついて、揚げ板を一枚はね
除けて、中から堅炭の四寸ばかり長いのを一本つかみ出した。それからその長い奴を
七輪の角でぽんぽんと
敲いたら、長いのが三つほどに砕けて近所は炭の粉で真黒くなった。少々は汁の中へも入ったらしい。
御三はそんな事に頓着する女ではない。直ちにくだけたる三個の炭を
鍋の尻から七輪の中へ押し込んだ。とうてい
吾輩のシンフォニーには耳を傾けそうにもない。仕方がないから
悄然と茶の間の方へ引きかえそうとして風呂場の横を通り過ぎると、ここは今
女の子が三人で顔を洗ってる最中で、なかなか
繁昌している。
顔を洗うと言ったところで、上の二人が幼稚園の生徒で、三番目は姉の尻についてさえ行かれないくらい小さいのだから、正式に顔が洗えて、器用に御化粧が出来るはずがない。
一番小さいのがバケツの中から
濡れ
雑巾を引きずり出してしきりに顔中
撫で廻わしている。雑巾で顔を洗うのは定めし心持ちがわるかろうけれども、地震がゆるたびに
おもちろいわと言う子だからこのくらいの事はあっても驚ろくに足らん。ことによると八木
独仙君より悟っているかも知れない。さすがに
長女は長女だけに、姉をもって
自ら任じているから、うがい茶碗をからからかんと
抛出して「
坊やちゃん、それは雑巾よ」と雑巾をとりにかかる。
坊やちゃんもなかなか自信家だから容易に
姉の言う事なんか聞きそうにしない。「
いやーよ、ばぶ」と言いながら雑巾を引っ張り返した。この
ばぶなる語はいかなる意義で、いかなる語源を有しているか、誰も知ってるものがない。ただこの
坊やちゃんが
癇癪を起した時に折々ご使用になるばかりだ。雑巾はこの時
姉の手と、
坊やちゃんの手で左右に引っ張られるから、水を含んだ真中からぽたぽた
雫が
垂れて、容赦なく
坊やの足にかかる、足だけなら我慢するが膝のあたりがしたたか濡れる。
坊やはこれでも
元禄【元禄模様の着物】を着ているのである。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(29 / 116)
元禄とは何の事だとだんだん聞いて見ると、
中形の模様なら何でも元禄だそうだ。一体だれに教わって来たものか分らない。「
坊やちゃん、元禄が濡れるから御よしなさい、ね」と
姉が
洒落れた事を言う。その
癖この
姉はついこの間まで元禄と
双六【マス目模様】とを間違えていた
物識りである。
元禄で思い出したからついでに
喋舌ってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事は
夥しいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を言ってる。火事で
茸【火の粉】が飛んで来たり、
御茶の
味噌【お茶の水】の女学校へ行ったり、
恵比寿、
台所と並べたり、或る時などは「
わたしゃ藁店の子じゃないわ」と言うから、よくよく聞き
糺して見ると
裏店【裏路地や商店の裏側にある借家】と藁店【神楽坂の付近】を混同していたりする。
主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な
誤謬【まちがい】を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。
坊やは――当人は坊やとは言わない。いつでも
坊ばと言う――元禄が濡れたのを見て「
元どこがべたい」と言って泣き出した。元禄が冷たくては大変だから、
御三が台所から飛び出して来て、雑巾を取上げて着物を
拭いてやる。この騒動中比較的静かであったのは、次女の
すん子嬢である。
すん子嬢は向うむきになって棚の上からころがり落ちた、お
白粉の
瓶をあけて、しきりに御化粧を
施している。第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭をキューと
撫でたから
竪に一本白い筋が通って、鼻のありかが いささか
分明【はっきり】になって来た。次に塗りつけた指を転じて頬の上を摩擦したから、そこへもってきて、これまた白いかたまりが出来上った。これだけ装飾がととのったところへ、
下女がはいって来て
坊ばの着物を拭いたついでに、
すん子の顔もふいてしまった。
すん子は少々不満の
体に見えた。
吾輩はこの光景を横に見て、茶の間から
主人の寝室まで来て もう起きたかと ひそかに様子をうかがって見ると、
主人の頭がどこにも見えない。その代り
十文半【25cm】の甲の高い足が、夜具の
裾から一本
食み出している。頭が出ていては起こされる時に迷惑だと思って、かくもぐり込んだのであろう。亀の子のような男である。ところへ書斎の掃除をしてしまった
妻君がまた
箒と
はたきを
担いでやってくる。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(30 / 116)
最前のように
襖の入口から
「
まだお起きにならないのですか」と声をかけたまま、しばらく立って、首の出ない夜具を見つめていた。今度も返事がない。
細君は入口から
二歩ばかり進んで、
箒をとんと突きながら「
まだなんですか、あなた」と重ねて返事を承わる。この時
主人はすでに目が
覚めている。覚めているから、
細君の襲撃にそなえるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立て
籠ったのである。首さえ出さなければ、
見逃してくれる事もあろうかと、詰まらない事を頼みにして寝ていたところ、なかなか許しそうもない。しかし第一回の声は敷居の上で、少くとも一間の間隔があったから、まず安心と腹のうちで思っていると、とんと突いた
箒が 何でも三尺くらいの距離に 追っていたには ちょっと驚ろいた。のみならず第二の「
まだなんですか、あなた」が距離においても音量においても前よりも倍以上の勢を以て夜具のなかまで聞えたから、こいつは駄目だと覚悟をして、小さな声で
うんと返事をした。
「
九時までにいらっしゃるのでしょう。早くなさらないと間に合いませんよ」
「
そんなに言わなくても今起きる」と
夜着の
袖口から答えたのは奇観である。
妻君はいつでもこの手を食って、起きるかと思って安心していると、また寝込まれつけているから、油断は出来ないと「
さあ お起きなさい」とせめ立てる。起きると言うのに、なお起きろと責めるのは気に食わんものだ。
主人のごとき
我儘者には なお気に食わん。ここにおいてか
主人は今まで頭から
被っていた夜着を一度に
跳ねのけた。見ると大きな眼を二つとも
開いている。
「
何だ騒々しい。起きると言えば起きるのだ」
「
起きるとおっしゃっても お起きなさらんじゃありませんか」
「
誰がいつ、そんな嘘をついた」
「
いつでもですわ」
「
馬鹿を言え」
「
どっちが馬鹿だか分りゃしない」と
妻君ぷんとして
箒を突いて枕元に立っているところは勇ましかった。この時 裏の車屋の子供、
八っちゃんが急に大きな声をしてワーと泣き出す。
八っちゃんは
主人が
怒り出しさえすれば必ず泣き出すべく、車屋のかみさんから命ぜられるのである。かみさんは
主人が怒るたんびに
八っちゃんを泣かして
小遣になるかも知れんが、
八っちゃんこそいい迷惑だ。こんな
御袋を持ったが最後 朝から晩まで泣き通しに泣いていなくてはならない。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(31 / 116)
少しはこの辺の事情を察して
主人も少々怒るのを差し
控えてやったら、
八っちゃんの寿命が少しは延びるだろうに、いくら
金田君から頼まれたって、こんな
愚な事をするのは、
天道公平君よりも はげしく おいでになっている方だと鑑定してもよかろう。怒るたんびに泣かせられるだけなら、まだ余裕もあるけれども、
金田君が近所のゴロツキを
傭って
今戸焼をきめ込むたびに【金田君が、近所のゴロツキを雇って、今戸焼のような格好をして見せびらかすたびに】、
八っちゃんは泣かねばならんのである。
主人が怒るか怒らぬか、まだ判然しないうちから、必ず怒るべきものと予想して、早手廻しに
八っちゃんは泣いているのである。こうなると
主人が
八っちゃんだか、
八っちゃんが
主人だか判然しなくなる。
主人にあてつけるに
手数は掛らない、ちょっと
八っちゃんに
剣突を食わせれば【しかりつければ】何の苦もなく、
主人の
横っ
面を張った訳になる。
昔し西洋で犯罪者を所刑にする時に、本人が国境外に逃亡して、
捕えられん時は、偶像をつくって人間の代りに
火あぶりにしたと言うが、彼等のうちにも西洋の故事に
通暁する軍師があると見えて、うまい計略を授けたものである。落雲館と言い、
八っちゃんの御袋と言い、腕のきかぬ
主人にとっては定めし
苦手であろう。そのほか苦手はいろいろある。あるいは町内中ことごとく苦手かも知れんが、ただいまは関係がないから、だんだん成し崩しに紹介致す事にする。
八っちゃんの泣き声を聞いた
主人は、朝っぱらからよほど
癇癪が起ったと見えて、たちまち がばと
布団の上に起き直った。こうなると精神修養も八木
独仙も何もあったものじゃない。起き直りながら両方の手でゴシゴシゴシと表皮のむけるほど、頭中引き
掻き廻す。一ヵ月も溜っているフケは遠慮なく、
頸筋やら、寝巻の
襟へ飛んでくる。非常な壮観である。
髯はどうだと見ると これはまた驚ろくべく、ぴん然とおっ立っている。持主が
怒っているのに髯だけ落ちついていては すまないとでも心得たものか、一本一本に
癇癪を起して、勝手次第の方角へ猛烈なる勢をもって突進している。これとても なかなかの
見物である。
昨日は鏡の手前もある事だから、おとなしく
独乙皇帝陛下の真似をして整列したのであるが、一晩寝れば訓練も何もあった者ではない、直ちに本来の面目【立場】に帰って思い思いの
出で
立に戻るのである。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(32 / 116)
あたかも
主人の一夜作りの精神修養が、あくる日になると
拭うがごとく奇麗に消え去って、生れついての
野猪的【イノシシ的】本領が直ちに全面を暴露し
来るのと一般【世間の常識】である。こんな乱暴な髯をもっている、こんな乱暴な男が、よくまあ今まで免職にもならずに教師が勤まったものだと思うと、始めて日本の広い事がわかる。広ければこそ
金田君や金田君の犬が人間として通用しているのでもあろう。彼等が人間として通用する間は
主人も免職になる理由がないと確信しているらしい。いざとなれば巣鴨へ
端書を飛ばして
天道公平君に聞き合せて見れば、すぐ分る事だ。
この時
主人は、
昨日紹介した
混沌たる太古の眼を精一杯に見張って、向うの戸棚をきっと見た。これは高さ一間【約1.8m】を横に仕切って上下共
各二枚の袋戸【引き戸】をはめたものである。下の方の戸棚は、
布団の
裾とすれすれの距離にあるから、起き直った
主人が眼をあきさえすれば、天然自然ここに視線がむくように出来ている。見ると模様を置いた紙がところどころ破れて妙な
腸があからさまに見える。腸にはいろいろなのがある。あるものは
活版摺で、あるものは肉筆である。あるものは裏返しで、あるものは逆さまである。
主人はこの腸を見ると同時に、何がかいてあるか読みたくなった。今までは車屋のかみさんでも
捕えて、鼻づらを松の木へこすりつけてやろう くらいにまで
怒っていた
主人が、突然この
反古紙【くず紙】を読んで見たくなるのは不思議のようであるが、こう言う陽性の癇癪持ちには珍らしくない事だ。小供が泣くときに
最中の一つも あてがえば すぐ笑うと一般である。
主人が
昔し去る所の御寺に下宿していた時、
襖一と
重を隔てて尼が五六人いた。尼などと言うものは元来意地のわるい女のうちで もっとも意地のわるいもの であるが、この尼が
主人の性質を見抜いたものと見えて自炊の
鍋をたたきながら、今泣いた烏がもう笑った、今泣いた烏がもう笑ったと拍子を取って歌ったそうだ、
主人が尼が大嫌になったのはこの時からだと言うが、尼は
嫌にせよ全くそれに違ない。
主人は泣いたり、笑ったり、嬉しがったり、悲しがったり人一倍もする代りにいずれも長く続いた事がない。よく言えば執着がなくて、
心機がむやみに転ずるのだろうが、これを俗語に翻訳してやさしく言えば奥行のない、
薄っ
片の、
鼻っ
張だけ強いだだっ子である。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(33 / 116)
すでにだだっ子である以上は、喧嘩をする勢で、むっくと
刎ね起きた
主人が急に気をかえて
袋戸の腸を読みにかかるのも もっとも と言わねばなるまい。第一に眼にとまったのが伊藤博文の
逆か
立ちである。上を見ると明治十一年九月廿八日とある。
韓国統監もこの時代から
御布令の
尻尾を追っ懸けてあるいていたと見える。大将この時分は何をしていたんだろうと、読めそうにないところを無理によむと
大蔵卿とある。なるほどえらいものだ、いくら逆か立ちしても大蔵卿である。少し左の方を見ると今度は大蔵卿横になって昼寝をしている。もっともだ。逆か立ちではそう長く続く
気遣はない。下の方に大きな
木板で
汝(なんじ)はと二字だけ見える、あとが見たいがあいにく露出しておらん。次の行には
早くの二字だけ出ている。こいつも読みたいがそれぎれで手掛りがない。もし
主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と言うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に
行かないものだ。
願くばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は
羅織虚構【罪の無い者をわざと捕らえて罪をでっちあげる】をもって良民を罪に
陥れる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなど ときては これまた立派な
気狂である。次に眼を転じて真中を見ると真中には
大分県が宙返りをしている。伊藤博文でさえ逆か立ちをするくらいだから、大分県が宙返りをするのは当然である。
主人はここまで読んで来て、双方へ
握り
拳をこしらえて、これを高く天井に向けて突きあげた。あくびの用意である。
このあくびがまた
鯨の
遠吠のようにすこぶる変調を
極めた者であったが、それが一段落を告げると、
主人は のそのそ と着物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。待ちかねた
細君はいきなり
布団をまくって
夜着を畳んで、例の通り掃除をはじめる。掃除が例の通りであるごとく、
主人の顔の洗い方も十年一日のごとく例の通りである。先日紹介をしたごとく依然としてがーがー、げーげーを持続している。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(34 / 116)
やがて頭を分け終って、西洋
手拭を肩へかけて、茶の間へ
出御【おでまし】になると、超然【堂々】として長火鉢の横に座を占めた。長火鉢と言うと
欅の
如輪木【年輪のような模様】か、
銅の
総落し【化粧縁】で、
洗髪の姉御が立膝で、
長煙管を
黒柿の縁へ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが、わが
苦沙弥先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない、何で造ったものか
素人には
見当のつかんくらい古雅【古風】なものである。長火鉢は拭き込んで てらてら 光るところが
身上なのだが、この
代物は
欅か桜か
桐か元来不明瞭な上に、ほとんど
布巾をかけた事がないのだから陰気で引き立たざる事
夥しい。こんなものをどこから買って来たかと言うと、決して買った
覚はない。そんなら貰ったかと聞くと、誰もくれた人はないそうだ。しからば盗んだのかと
糺して見ると、何だかその辺が
曖昧である。昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、当分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢を何の気もなく、つい持って来てしまったのだそうだ。少々たちが悪いようだ。考えるとたちが悪いようだがこんな事は世間に往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかい つけている うちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委託した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を
笠に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らの
喙を
容るる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満している以上は長火鉢事件をもって
主人に泥棒根性があると断定する訳には行かぬ。もし
主人に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。
長火鉢の
傍に陣取って、食卓を前に
控えたる
主人の三面には、
先刻雑巾で顔を洗った
坊ばと
御茶の
味噌の学校へ行く
とん子と、お
白粉罎に指を突き込んだ
すん子が、すでに
勢揃をして朝飯を食っている。
主人は一応この三女子の顔を公平に見渡した。
とん子の顔は
南蛮鉄の刀【日本刀】の
鍔【丸】のような
輪郭を有している。
すん子も妹だけに多少姉の
面影を存して
琉球塗の
朱盆【丸】くらいな資格はある。ただ
坊ばに至っては
独り異彩を放って、
面長に出来上っている。
但し
竪に長いのなら世間にその例もすくなくないが、この子のは横に長いのである。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(35 / 116)
いかに流行が変化し
易くったって、横に長い顔がはやる事はなかろう。
主人は自分の子ながらも、つくづく考える事がある。これでも生長しなければならぬ。生長するどころではない、その生長の
速かなる事は
禅寺の
筍が若竹に変化する勢で大きくなる。
主人はまた大きくなったなと思うたんびに、
後ろから
追手にせまられるような気がして ひやひやする。いかに
空漠【ぼんやりしている】なる
主人でも この三令嬢が女であるくらいは心得ている。女である以上は どうにか片付けなくてはならん くらいも承知している。承知しているだけで片付ける手腕のない事も自覚している。そこで自分の子ながらも少しく持て余しているところである。持て余すくらいなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義を言うとほかに何にもない。ただ
入らざる事を
捏造して
自ら苦しんでいる者だと言えば、それで充分だ。
さすがに子供はえらい。これほど おやじが処置に窮しているとは夢にも知らず、楽しそうにご飯をたべる。ところが始末におえないのは
坊ばである。
坊ばは当年とって三歳であるから、
細君が気を
利かして、食事のときには、三歳然たる小形の
箸と茶碗をあてがうのだが、
坊ばは決して承知しない。必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかい
悪い奴を無理に持ちあつかっている。世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出て
柄にもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの
坊ば時代から
萌芽し【めばえ】ているのである。その
因って
来るところは かくのごとく深いのだから、決して教育や
薫陶【指導】で
癒せる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。
坊ばは隣りから
分捕った偉大なる茶碗と、長大なる箸を専有して、しきりに暴威を
擅にしている。使いこなせない者をむやみに使おうとするのだから、
勢暴威を
逞しくせざるを得ない。
坊ばはまず箸の根元を二本いっしょに握ったまま うんと茶碗の底へ突込んだ。茶碗の中は飯が八分通り盛り込まれて、その上に味噌汁が一面に
漲っている。箸の力が茶碗へ伝わるやいなや、今までどうか、こうか、平均を保っていたのが、急に襲撃を受けたので三十度ばかり傾いた。同時に味噌汁は容赦なく だらだらと胸のあたりへこぼれだす。
坊ばはそのくらいな事で
辟易【勢いや困難におされて、しりごみ】する訳がない。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(36 / 116)
坊ばは暴君である。今度は突き込んだ箸を、うんと力一杯茶碗の底から
刎ね上げた。同時に小さな口を縁まで持って行って、
刎ね上げられた米粒を入るだけ口の中へ受納した。打ち
洩らされた米粒は黄色な汁と相和して鼻のあたまと
頬っぺたと
顋とへ、やっと掛声をして飛びついた。飛びつき損じて畳の上へこぼれたものは
打算【もくろみ】の限りでない。随分無分別な飯の食い方である。
吾輩は
謹んで有名なる
金田君及び天下の勢力家に忠告する。
公等【諸君】の他をあつかう事、
坊ばの茶碗と箸をあつかうがごとくんば、
公等の口へ飛び込む米粒は極めて
僅少のものである。必然の勢をもって飛び込むにあらず、
戸迷をして飛び込むのである。どうか御再考を
煩わしたい。
世故【世間のさまざまな ならわし】にたけた敏腕家にも似合しからぬ事【そぐわないこと】だ。
姉の
とん子は、自分の箸と茶碗を
坊ばに
略奪されて、不相応に小さな奴をもってさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、一杯にもった積りでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。したがって
頻繁に御はちの方へ手が出る。もう四膳かえて、今度は五杯目である。
とん子は御はちの
蓋をあけて大きな
しゃもじを取り上げて、しばらく
眺めていた。これは食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、ついに決心したものと見えて、
焦げのなさそうなところを見計って
一掬いしゃもじの上へ乗せたまでは
無難であったが、それを裏返して、ぐいと茶碗の上をこいたら、茶碗に入りきらん飯は
塊まったまま畳の上へ
転がり出した。
とん子は驚ろく
景色もなく、こぼれた飯を
鄭寧に拾い始めた。拾って何にするかと思ったら、みんな御はちの中へ入れてしまった。少しきたないようだ。
坊ばが一大活躍を試みて箸を
刎ね上げた時は、ちょうど
とん子が飯をよそい
了った時である。さすがに姉は姉だけで、
坊ばの顔のいかにも乱雑なのを見かねて「
あら坊ばちゃん、大変よ、顔が御ぜん粒だらけよ」と言いながら、
早速坊ばの顔の掃除にとりかかる。第一に鼻のあたまに
寄寓【付着】していたのを取払う。取払って捨てると思のほか、すぐ自分の口のなかへ入れてしまったのには驚ろいた。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(37 / 116)
それから
頬っぺたにかかる。ここには
大分群をなして
数にしたら、両方を合せて約二十粒もあったろう。姉は丹念に一粒ずつ取っては食い、取っては食い、とうとう妹の顔中にある奴を一つ残らず食ってしまった。この時ただ今まではおとなしく
沢庵をかじっていた
すん子が、急に盛り立ての味噌汁の中から
薩摩芋のくずれたのをしゃくい出して、勢よく口の内へ
抛り込んだ。諸君も御承知であろうが、汁にした薩摩芋の熱したのほど
口中にこたえる者はない。
大人ですら注意しないと
火傷をしたような心持ちがする。まして
すん子のごとき、薩摩芋に経験の
乏しい者は無論
狼狽する訳である。
すん子はワッと言いながら
口中の芋を食卓の上へ吐き出した。その二三
片がどう言う拍子か、
坊ばの前まですべって来て、ちょうどいい加減な距離でとまる。
坊ばは
固より薩摩芋が大好きである。大好きな薩摩芋が眼の前へ飛んで来たのだから、早速箸を
抛り出して、
手攫みにして むしゃむしゃ食ってしまった。
先刻からこの
体たらくを目撃していた
主人は、
一言も言わずに、専心自分の飯を食い、自分の汁を飲んで、この時はすでに
楊枝を使っている最中であった。
主人は娘の教育に関して絶体的放任主義を
執るつもりと見える。今に三人が
海老茶式部【生意気・おてんばの女学生】か
鼠式部【紫式部のような教養ある女を気取っているが、その実は猫も見下すコソコソした鼠みたいな女学生?】かになって、三人とも申し合せたように
情夫【彼氏】をこしらえて
出奔しても【出て行っても】、やはり自分の飯を食って、自分の汁を飲んで澄まして見ているだろう。働きのない事だ。しかし今の世の働きのあると言う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、
鎌をかけて人を
陥れる事よりほかに何も知らないようだ。中学などの少年輩までが
見様見真似に、こうしなくては幅が
利かないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべき のを
得々と
履行して未来の紳士だと思っている。これは働き手と言うのではない。ごろつき手と言うのである。
吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびに
撲ってやりたくなる。こんなものが一人でも
殖えれば国家はそれだけ衰える訳である。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(38 / 116)
こんな生徒のいる学校は、学校の
恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。
情ない事だ。こんなごろつき手に比べると
主人などは
遥かに上等な人間と言わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。
猪口才【小ずるい】でないところが上等なのである。
かくのごとく働きのない食い方をもって、無事に
朝食を済ましたる
主人は、やがて洋服を着て、車へ乗って、日本堤分署へ出頭に及んだ。
格子をあけた時、車夫に日本堤という所を知ってるかと聞いたら、車夫はへへへと笑った。あの遊郭のある吉原の近辺の日本堤だぜと念を押したのは少々
滑稽であった。
主人が珍らしく車で玄関から出掛けたあとで、
妻君は例のごとく食事を済ませて「
さあ学校へおいで。遅くなりますよ」と催促すると、
小供は平気なもので「
あら、でも今日は御休みよ」と
支度をする
景色がない。「
御休みなもんですか、早くなさい」と
叱るように言って聞かせると「
それでも昨日、先生が御休だって、おっしゃってよ」と
姉はなかなか動じない。
妻君もここに至って多少変に思ったものか、戸棚から
暦を出して繰り返して見ると、赤い字でちゃんと御祭日と出ている。
主人は祭日とも知らずに学校へ欠勤届を出したのだろう。
細君も知らずに郵便箱へ
抛り込んだのだろう。ただし
迷亭に至っては実際知らなかったのか、知って知らん顔をしたのか、そこは少々疑問である。この発明【出来事】におやと驚ろいた
妻君はそれじゃ、みんなでおとなしく御遊びなさいと
平生の通り針箱を出して仕事に取りかかる。
その
後三十分間は家内平穏、別段
吾輩の材料になるような事件も起らなかったが、突然妙な人が御客に来た。十七八の女学生である。
踵のまがった靴を
履いて、紫色の
袴を引きずって、髪を
算盤珠のようにふくらまして勝手口から案内も
乞わずに上って来た。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(39 / 116)
これは
主人の
姪である。学校の生徒だそうだが、折々日曜にやって来て、よく
叔父さんと喧嘩をして帰って行く
雪江とか言う奇麗な名のお嬢さんである。もっとも顔は名前ほどでもない、ちょっと表へ出て一二町あるけば必ず逢える人相である。
「
叔母さん今日は」と茶の間へつかつか入って来て、針箱の横へ尻をおろした。
「
おや、よく早くから……」
「
今日は大祭日ですから、朝のうちにちょっと上がろうと思って、八時半頃から家を出て急いで来たの」
「
そう、何か用があるの?」
「
いいえ、ただあんまり御無沙汰をしたから、ちょっと上がったの」
「
ちょっとでなくっていいから、緩くり遊んでいらっしゃい。今に叔父さんが帰って来ますから」
「
叔父さんは、もう、どこへかいらしったの。珍らしいのね」
「
ええ今日はね、妙な所へ行ったのよ。……警察へ行ったの、妙でしょう」
「
あら、何で?」
「
この春入った泥棒が つらまったんだって」
「
それで引き合に出されるの? いい迷惑ね」
「
なあに品物が戻るのよ。取られたものが出たから取りに来いって、昨日巡査がわざわざ来たもんですから」
「
おや、そう、それでなくっちゃ、こんなに早く叔父さんが出掛ける事はないわね。いつもなら今時分はまだ寝ていらっしゃるんだわ」
「
叔父さんほど、寝坊はないんですから……そうして起こすと ぷんぷん怒るのよ。今朝なんかも七時までに是非おこせと言うから、起こしたんでしょう。すると夜具の中へ潜って返事もしないんですもの。こっちは心配だから二度目にまたおこすと、夜着の袖から何か言うのよ。本当にあきれ返ってしまうの」
「
なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう」
「
何ですか」
「
本当にむやみに怒る方ね。あれでよく学校が勤まるのね」「
なに学校じゃおとなしいんですって」
「
じゃなお悪るいわ。まるで蒟蒻閻魔ね」
「
なぜ?」
「
なぜでも蒟蒻閻魔なの。だって蒟蒻閻魔【普段は弱々しくおとなしいくせに、怒ると閻魔様のように威張る】のようじゃありませんか」
「
ただ怒るばかりじゃないのよ。人が右と言えば左、左と言えば右で、何でも人の言う通りにした事がない、――そりゃ強情ですよ」
「
天探女でしょう。叔父さんはあれが道楽なのよ。だから何かさせようと思ったら、うらを言うと、こっちの思い通りになるのよ。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(40 / 116)
こないだ蝙蝠傘を買ってもらう時にも、いらない、いらないって、わざと言ったら、いらない事があるものかって、すぐ買って下すったの」
「
ホホホホ旨いのね。わたしもこれからそうしよう」
「
そうなさいよ。それでなくっちゃ損だわ」
「
こないだ保険会社の人が来て、是非御入んなさいって、勧めているんでしょう、――いろいろ訳を言って、こう言う利益があるの、ああ言う利益があるのって、何でも一時間も話をしたんですが、どうしても入らないの。うちだって貯蓄はなし、こうして小供は三人もあるし、せめて保険へでも入ってくれるとよっぽど心丈夫なんですけれども、そんな事は少しも構わないんですもの」
「
そうね、もしもの事があると不安心だわね」と十七八の娘に似合しからん
世帯染みたことを言う。
「
その談判を蔭で聞いていると、本当に面白いのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから会社も存在しているのだろう。しかし死なない以上は保険に入る必要はないじゃないかって強情を張っているんです」
「
叔父さんが?」
「
ええ、すると会社の男が、それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命と言うものは丈夫なようで脆いもので、知らないうちに、いつ危険が逼っているか分りませんと言うとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心をしているって、まあ無法な事を言うんですよ」
「
決心したって、死ぬわねえ。わたしなんか是非及第【期末試験に合格】するつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ」
「
保険社員もそう言うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心で長が生きが出来るものなら、誰も死ぬものはございませんって」
「
保険会社の方が至当【もっとも】ですわ」
「
至当でしょう。それがわからないの。いえ決して死なない。誓って死なないって威張るの」「
妙ね」
「
妙ですとも、大妙ですわ。保険の掛金を出すくらいなら銀行へ貯金する方が遥かにましだってすまし切っているんですよ」
「
貯金があるの?」
「
あるもんですか。自分が死んだあとなんか、ちっとも構う考なんかないんですよ」
「
本当に心配ね。なぜ、あんななんでしょう、ここへいらっしゃる方だって、叔父さんのようなのは一人もいないわね」
「
いるものですか。無類ですよ」
「
ちっと鈴木さんにでも頼んで意見でもして貰うといいんですよ。ああ言う穏やかな人だとよっぽど楽ですがねえ」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(41 / 116)
「
ところが鈴木さんは、うちじゃ評判がわるいのよ」
「
みんな逆なのね。それじゃ、あの方がいいでしょう――ほらあの落ちついてる――」
「
八木さん?」
「
ええ」
「
八木さんには大分閉口しているんですがね。昨日迷亭さんが来て悪口をいったものだから、思ったほど利かないかも知れない」
「
だっていいじゃありませんか。あんな風に鷹揚【おっとりとして上品】に落ちついていれば、――こないだ学校で演説をなすったわ」
「
八木さんが?」
「
ええ」
「
八木さんは雪江さんの学校の先生なの」
「
いいえ、先生じゃないけども、淑徳婦人会【上品で道徳的な婦人を気取った女性たちの集まり(架空)】のときに招待して、演説をして頂いたの」
「
面白かって?」
「
そうね、そんなに面白くもなかったわ。だけども、あの先生が、あんな長い顔なんでしょう。そうして天神様のような髯を生やしているもんだから、みんな感心して聞いていてよ」
「
御話しって、どんな御話なの?」と
妻君が聞きかけていると縁側の方から、
雪江さんの話し声をききつけて、三人の子供がどたばた茶の間へ乱入して来た。今までは竹垣の外の
空地へ出て遊んでいたものであろう。
「
あら雪江さんが来た」と二人の姉さんは嬉しそうに大きな声を出す。
妻君は「
そんなに騒がないで、みんな静かにして御坐わりなさい。雪江さんが今面白い話をなさるところだから」と仕事を隅へ片付ける。
「
雪江さん何の御話し、わたし御話しが大好き」と言ったのは
とん子で「
やっぱりかちかち山の御話し?」と聞いたのは
すん子である。「
坊ばも御はなち」と言い出した三女は姉と姉の間から膝を前の方に出す。ただしこれは御話を
承わると言うのではない、
坊ばもまた御話を
仕る【してさし上げる】と言う意味である。「
あら、また坊ばちゃんの話だ」と姉さんが笑うと、
妻君は「
坊ばはあとでなさい。雪江さんの御話がすんでから」と
賺かして見る。
坊ばは なかなか聞きそうにない。「
いやーよ、ばぶ」と大きな声を出す。「
おお、よしよし坊ばちゃんからなさい。何と言うの?」と
雪江さんは
謙遜した。
「
あのね。坊たん、坊たん、どこ行くのって」
「
面白いのね。それから?」
「
わたちは田圃へ稲刈いに」
「
そう、よく知ってる事」
「
御前がくうと邪魔になる」
「
あら、くうとじゃないわ、くるとだわね」と
とん子が口を出す。
坊ばは相変らず「
ばぶ」と
一喝して直ちに姉を
辟易させる。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(42 / 116)
しかし中途で口を出されたものだから、続きを忘れてしまって、あとが出て来ない。「
坊ばちゃん、それぎりなの?」と
雪江さんが聞く。
「
あのね。あとでおならは御免だよ。ぷう、ぷうぷうって」
「
ホホホホ、いやだ事、誰にそんな事を、教わったの?」
「
御三に」
「
わるい御三ね、そんな事を教えて」と
妻君は苦笑をしていたが「
さあ今度は雪江さんの番だ。坊やはおとなしく聞いているのですよ」と言うと、さすがの
暴君も
納得したと見えて、それぎり当分の間は沈黙した。
「
八木先生の演説はこんなのよ」と
雪江さんがとうとう口を切った。「
昔ある辻の真中に大きな石地蔵があったんですってね。ところがそこが あいにく 馬や車が通る大変賑やかな場所だもんだから邪魔になって仕様がないんでね、町内のものが大勢寄って、相談をして、どうしてこの石地蔵を隅の方へ片づけたらよかろうって考えたんですって」
「
そりゃ本当にあった話なの?」
「
どうですか、そんな事は何ともおっしゃらなくってよ。――でみんながいろいろ相談をしたら、その町内で一番強い男が、そりゃ訳はありません、わたしがきっと片づけて見せますって、一人でその辻へ行って、両肌を抜いで汗を流して引っ張ったけれども、どうしても動かないんですって」
「
よっぽど重い石地蔵なのね」
「
ええ、それでその男が疲れてしまって、うちへ帰って寝てしまったから、町内のものはまた相談をしたんですね。すると今度は町内で一番利口な男が、私に任せて御覧なさい、一番やって見ますからって、重箱のなかへ牡丹餅を一杯入れて、地蔵の前へ来て、『ここまでおいで』と言いながら牡丹餅を見せびらかしたんだって、地蔵だって食意地が張ってるから牡丹餅で釣れるだろうと思ったら、少しも動かないんだって。利口な男はこれではいけないと思ってね。今度は瓢箪へお酒を入れて、その瓢箪を片手へぶら下げて、片手へ猪口を持ってまた地蔵さんの前へ来て、さあ飲みたくはないかね、飲みたければここまでおいでと三時間ばかり、からかって見たがやはり動かないんですって」
「
雪江さん、地蔵様は御腹が減らないの」と
とん子がきくと「
牡丹餅が食べたいな」と
すん子が言った。
「
利口な人は二度共しくじったから、その次には贋札を沢山こしらえて、さあ欲しいだろう、欲しければ取りにおいでと札を出したり引っ込ましたりしたが これもまるで益に立たないんですって。よっぽど頑固な地蔵様なのよ」
「
そうね。すこし叔父さんに似ているわ」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(43 / 116)
「
ええまるで叔父さんよ、しまいに利口な人も愛想をつかしてやめてしまったんですとさ。それでそのあとからね、大きな法螺を吹く人が出て、私ならきっと片づけて見せますからご安心なさいと さも容易い事のように受合ったそうです」
「
その法螺を吹く人は何をしたんです」
「
それが面白いのよ。最初にはね 巡査の服をきて、付け髯をして、地蔵様の前へきて、こらこら、動かんとその方のためにならんぞ、警察で棄てておかんぞと威張って見せたんですとさ。今の世に警察の仮声なんか使ったって誰も聞きゃしないわね」
「
本当ね、それで地蔵様は動いたの?」
「
動くもんですか、叔父さんですもの」
「
でも叔父さんは警察には大変恐れ入っているのよ」
「
あらそう、あんな顔をして? それじゃ、そんなに怖い事はないわね。けれども地蔵様は動かないんですって、平気でいるんですとさ。それで法螺吹は大変怒って、巡査の服を脱いで、付け髯を紙屑籠へ抛り込んで、今度は大金持ちの服装をして出て来たそうです。今の世で言うと岩崎男爵【三菱財閥3代目】のような顔をするんですとさ。おかしいわね」
「
岩崎のような顔ってどんな顔なの?」
「
ただ大きな顔をするんでしょう。そうして何もしないで、また何も言わないで地蔵の周りを、大きな巻煙草をふかしながら歩行いているんですとさ」
「
それが何になるの?」
「
地蔵様を煙に捲くんです」
「
まるで噺し家の洒落のようね。首尾よく煙に捲いたの?」
「
駄目ですわ、相手が石ですもの。ごまかしも たいていにすればいいのに、今度は殿下さまに化けて来たんだって。馬鹿ね」
「
へえ、その時分にも殿下さまがあるの?」
「
有るんでしょう。八木先生はそうおっしゃってよ。たしかに殿下様に化けたんだって、恐れ多い事だが化けて来たって――第一不敬【敬意を欠いた行動】じゃありませんか、法螺吹きの分際で」
「
殿下って、どの殿下さまなの」
「
どの殿下さまですか、どの殿下さまだって不敬ですわ」
「
そうね」
「
殿下さまでも利かないでしょう。法螺吹きもしようがないから、とても私の手際では、あの地蔵はどうする事も出来ませんと降参をしたそうです」
「
いい気味ね」
「
ええ、ついでに懲役にやればいいのに。――でも町内のものは大層気を揉んで、また相談を開いたんですが、もう誰も引き受けるものがないんで弱ったそうです」
「
それでおしまい?」
「
まだあるのよ。一番しまいに車屋とゴロツキを大勢雇って、地蔵様の周りをわいわい騒いであるいたんです。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(44 / 116)
ただ地蔵様をいじめて、いたたまれないようにすればいいと言って、夜昼交替で騒ぐんだって」
「
御苦労様ですこと」
「
それでも取り合わないんですとさ。地蔵様の方も随分強情ね」
「
それから、どうして?」と
とん子が熱心に聞く。
「
それからね、いくら毎日毎日騒いでも験【効果】が見えないので、大分みんなが厭になって来たんですが、車夫やゴロツキは幾日でも日当になる事だから喜んで騒いでいましたとさ」
「
雪江さん、日当ってなに?」と
すん子が質問をする。
「
日当と言うのはね、御金の事なの」
「
御金をもらって何にするの?」
「
御金を貰ってね。……ホホホホいやなすん子さんだ。――それで叔母さん、毎日毎晩から騒ぎをしていますとね。その時町内に馬鹿竹と言って、何も知らない、誰も相手にしない馬鹿がいたんですってね。その馬鹿がこの騒ぎを見て御前方は何でそんなに騒ぐんだ、何年かかっても地蔵一つ動かす事が出来ないのか、可哀想なものだ、と言ったそうですって――」
「
馬鹿の癖にえらいのね」
「
なかなか えらい馬鹿なのよ。みんなが馬鹿竹の言う事を聞いて、物はためしだ、どうせ駄目だろうが、まあ竹にやらして見ようじゃないかと それから竹に頼むと、竹は一も二もなく引き受けたが、そんな邪魔な騒ぎをしないで まあ静かにしろと車引やゴロツキを引き込まして 飄然【ふらり】と地蔵様の前へ出て来ました」
「
雪江さん飄然て、馬鹿竹のお友達?」と
とん子が
肝心なところで奇問を放ったので、
細君と
雪江さんはどっと笑い出した。
「
いいえお友達じゃないのよ」「
じゃ、なに?」
「
飄然と言うのはね。――言いようがないわ」
「
飄然て、言いようがないの?」
「
そうじゃないのよ、飄然と言うのはね――」
「
ええ」
「
そら多々良三平さんを知ってるでしょう」
「
ええ、山の芋をくれてよ」
「
あの多々良さん見たようなを言うのよ」
「
多々良さんは飄然なの?」
「
ええ、まあそうよ。――それで馬鹿竹が地蔵様の前へ来て懐手をして、地蔵様、町内のものが、あなたに動いてくれと言うから動いてやんなさいと言ったら、地蔵様はたちまち そうか、そんなら早くそう言えばいいのに、と のこのこ動き出したそうです」
「
妙な地蔵様ね」
「
それからが演説よ」
「
まだあるの?」
「
ええ、それから八木先生がね、今日は御婦人の会でありますが、私が かような御話をわざわざ致したのは少々考があるので、こう申すと失礼かも知れませんが、婦人というものはとかく物をするのに正面から近道を通って行かないで、かえって遠方から廻りくどい手段をとる弊がある。もっともこれは御婦人に限った事でない。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(45 / 116)
明治の代は男子といえども、文明の弊を受けて多少女性的になっているから、よくいらざる手数と労力を費やして、これが本筋である、紳士のやるべき方針であると誤解しているものが多いようだが、これ等は開化の業に束縛された奇形児である。別に論ずるに及ばん。ただ御婦人に在っては なるべく ただいま申した昔話を御記憶になって、いざと言う場合にはどうか馬鹿竹のような正直な了見で物事を処理していただきたい。あなた方が馬鹿竹になれば夫婦の間、嫁姑の間に起る忌わしき葛藤の三分一はたしかに減ぜられるに相違ない。人間は魂胆があればあるほど、その魂胆が祟って不幸の源をなすので、多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆があり過ぎるからである。どうか馬鹿竹になって下さい、と言う演説なの」
「
へえ、それで雪江さんは馬鹿竹になる気なの」
「
やだわ、馬鹿竹だなんて。そんなものに なりたくはないわ。金田の富子さんなんぞは失敬だって大変怒ってよ」
「
金田の富子さんて、あの向横町の?」
「
ええ、あのハイカラさんよ」
「
あの人も雪江さんの学校へ行くの?」
「
いいえ、ただ婦人会だから傍聴に来たの。本当にハイカラね。どうも驚ろいちまうわ」
「
でも大変いい器量だって言うじゃありませんか」
「
並ですわ。御自慢ほどじゃありませんよ。あんなに御化粧をすれば たいていの人はよく見えるわ」
「
それじゃ雪江さんなんぞは そのかたのように御化粧をすれば金田さんの倍くらい美しくなるでしょう」
「
あらいやだ。よくってよ。知らないわ。だけど、あの方は全くつくり過ぎるのね。なんぼ御金があったって――」
「
つくり過ぎても御金のある方がいいじゃありませんか」
「
それもそうだけれども――あの方こそ、少し馬鹿竹になった方がいいでしょう。無暗に威張るんですもの。この間もなんとか言う詩人が新体詩集を捧げたって、みんなに吹聴しているんですもの」
「
東風さんでしょう」
「
あら、あの方が捧げたの、よっぽど物数奇ね」
「
でも東風さんは大変真面目なんですよ。自分じゃ、あんな事をするのが当前だとまで思ってるんですもの」
「
そんな人があるから、いけないんですよ。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(46 / 116)
――それからまだ面白い事があるの。此間だれか、あの方の所へ艶書【恋文】を送ったものがあるんだって」
「
おや、いやらしい。誰なの、そんな事をしたのは」
「
誰だか わからないんだって」
「
名前はないの?」
「
名前はちゃんと書いてあるんだけれども聞いた事もない人だって、そうしてそれが長い長い一間【約182㎝】ばかりもある手紙でね。いろいろな妙な事がかいてあるんですとさ。私があなたを恋っているのは、ちょうど宗教家が神にあこがれているようなものだの、あなたのためならば祭壇に供える小羊となって屠られる【犠牲として捧げられる】のが無上の名誉であるの、心臓の形ちが三角で、三角の中心にキューピッドの矢が立って、吹き矢なら大当りであるの……」
「
そりゃ真面目なの?」
「
真面目なんですとさ。現にわたしの御友達のうちでその手紙を見たものが三人あるんですもの」
「
いやな人ね、そんなものを見せびらかして。あの方は寒月さんのとこへ御嫁に行くつもりなんだから、そんな事が世間へ知れちゃ困るでしょうにね」
「
困るどころですか大得意よ。こんだ寒月さんが来たら、知らして上げたらいいでしょう。寒月さんはまるで御存じないんでしょう」
「
どうですか、あの方は学校へ行って球ばかり磨いていらっしゃるから、大方知らないでしょう」
「
寒月さんは本当にあの方を御貰になる気なんでしょうかね。御気の毒だわね」
「
なぜ? 御金があって、いざって時に力になって、いいじゃありませんか」
「
叔母さんは、じきに金、金って品がわるいのね。金より愛の方が大事じゃありませんか。愛がなければ夫婦の関係は成立しやしないわ」「
そう、それじゃ雪江さんは、どんなところへ御嫁に行くの?」
「
そんな事知るもんですか、別に何もないんですもの」
雪江さんと
叔母さんは結婚事件について何か弁論を
逞しくしていると、さっきから、分らないなりに謹聴している
とん子が突然口を開いて「
わたしも御嫁に行きたいな」と言いだした。この無鉄砲な希望には、さすが青春の気に満ちて、
大に同情を寄すべき
雪江さんもちょっと毒気を抜かれた
体であったが、
細君の方は比較的平気に構えて「
どこへ行きたいの」と笑ながら聞いて見た。
「
わたしねえ、本当はね、招魂社【国家のために亡くなった人の霊を祀る神社】へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
細君と
雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女の
すん子が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(47 / 116)
「
御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやなら好いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」
「
坊ばも行くの」とついには
坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔を
揃えて招魂社へ嫁に行けたら、
主人もさぞ楽であろう。
ところへ車の音ががらがらと門前に留ったと思ったら、たちまち威勢のいい御帰りと言う声がした。
主人は日本堤分署から戻ったと見える。車夫が差出す大きな風呂敷包を下女に受け取らして、
主人は
悠然と茶の間へ入って来る。「
やあ、来たね」と
雪江さんに挨拶しながら、例の有名なる長火鉢の
傍へ、ぽかりと手に
携えた
徳利様のものを
抛り出した。徳利様と言うのは純然たる徳利では無論ない、と言って
花活けとも思われない、ただ一種異様の陶器であるから、やむを得ずしばらく かように申したのである。
「
妙な徳利ね、そんなものを警察から貰っていらしったの」と
雪江さんが、倒れた奴を起しながら
叔父さんに聞いて見る。
叔父さんは、
雪江さんの顔を見ながら、「
どうだ、いい格好だろう」と自慢する。
「
いい格好なの? それが? あんまりよかあないわ? 油壺なんか何で持っていらっしったの?」
「
油壺なものか。そんな趣味のない事を言うから困る」
「
じゃ、なあに?」
「
花活さ」
「
花活にしちゃ、口が小いさ過ぎて、いやに胴が張ってるわ」
「
そこが面白いんだ。御前も無風流だな。まるで叔母さんと択ぶところなしだ。困ったものだな」と
独りで油壺を取り上げて、
障子の方へ向けて
眺めている。
「
どうせ無風流ですわ。油壺を警察から貰ってくるような真似は出来ないわ。ねえ叔母さん」
叔母さんはそれどころではない、風呂敷包を
解いて
皿眼になって、盗難品を
検べている。「
おや驚ろいた。泥棒も進歩したのね。みんな、解いて洗い張【着物を解いて反物の状態に戻し、水洗いして汚れを落とすこと】をしてあるわ。ねえちょいと、あなた」
「
誰が警察から油壺を貰ってくるものか。待ってるのが退屈だから、あすこいらを散歩しているうちに堀り出して来たんだ。御前なんぞには分るまいがそれでも珍品だよ」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(48 / 116)
「
珍品過ぎるわ。一体叔父さんはどこを散歩したの」
「
どこって日本堤 界隈さ。吉原へも入って見た。なかなか盛な所だ。あの鉄の門を観た事があるかい。ないだろう」
「
だれが見るもんですか。吉原なんて賤業婦のいる所へ行く因縁がありませんわ。叔父さんは教師の身で、よくまあ、あんな所へ行かれたものねえ。本当に驚ろいてしまうわ。ねえ叔母さん、叔母さん」
「
ええ、そうね。どうも品数が足りないようだ事。これでみんな戻ったんでしょうか」
「
戻らんのは山の芋ばかりさ。元来九時に出頭しろと言いながら十一時まで待たせる法があるものか、これだから日本の警察はいかん」
「
日本の警察がいけないって、吉原を散歩しちゃ なおいけないわ。そんな事が知れると免職になってよ。ねえ叔母さん」
「
ええ、なるでしょう。あなた、私の帯の片側がないんです。何だか足りないと思ったら」
「
帯の片側くらいあきらめるさ。こっちは三時間も待たされて、大切の時間を半日潰してしまった」と日本服に着代えて平気に火鉢へもたれて油壺を
眺めている。
細君も仕方がないと
諦めて、戻った品をそのまま戸棚へしまい
込んで座に帰る。
「
叔母さん、この油壺が珍品ですとさ。きたないじゃありませんか」
「
それを吉原で買っていらしったの? まあ」
「
何がまあだ。分りもしない癖に」
「
それでもそんな壺なら吉原へ行かなくっても、どこにだってあるじゃありませんか」
「
ところがないんだよ。滅多に有る品ではないんだよ」
「
叔父さんは随分石地蔵ね」
「
また小供の癖に生意気を言う。どうもこの頃の女学生は口が悪るくっていかん。ちと女大学でも読むがいい」
「
叔父さんは保険が嫌でしょう。女学生と保険とどっちが嫌なの?」
「
保険は嫌ではない。あれは必要なものだ。未来の考のあるものは、誰でも入る。女学生は無用の長物だ」
「
無用の長物でもいい事よ。保険へ入ってもいない癖に」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(49 / 116)
「
来月から入るつもりだ」
「
きっと?」
「
きっとだとも」
「
およしなさいよ、保険なんか。それよりかその懸金で何か買った方がいいわ。ねえ、叔母さん」
叔母さんは にやにや笑っている。
主人は真面目になって
「
お前などは百も二百も生きる気だから、そんな呑気な事を言うのだが、もう少し理性が発達して見ろ、保険の必要を感ずるに至るのは当前だ。ぜひ来月から入るんだ」
「
そう、それじゃ仕方がない。だけどこないだのように蝙蝠傘を買って下さる御金があるなら、保険に入る方がましかも知れないわ。ひとがいりません、いりませんと言うのを無理に買って下さるんですもの」
「
そんなにいらなかったのか?」
「
ええ、蝙蝠傘なんか欲しかないわ」
「
そんなら還すがいい。ちょうどとん子が欲しがってるから、あれをこっちへ廻してやろう。今日持って来たか」
「
あら、そりゃ、あんまりだわ。だって苛いじゃありませんか、せっかく買って下すっておきながら、還せなんて」
「
いらないと言うから、還せと言うのさ。ちっとも苛くはない」
「
いらない事はいらないんですけれども、苛いわ」
「
分らん事を言う奴だな。いらないと言うから還せと言うのに苛い事があるものか」
「
だって」
「
だって、どうしたんだ」
「
だって苛いわ」
「
愚だな、同じ事ばかり繰り返している」
「
叔父さんだって同じ事ばかり繰り返しているじゃありませんか」
「
御前が繰り返すから仕方がないさ。現にいらないと言ったじゃないか」
「
そりゃ言いましたわ。いらない事はいらないんですけれども、還すのは厭ですもの」
「
驚ろいたな。没分暁で強情なんだから仕方がない。御前の学校じゃ論理学を教えないのか」
「
よくってよ、どうせ無教育なんですから、何とでもおっしゃい。人のものを還せだなんて、他人だってそんな不人情な事は言やしない。ちっと馬鹿竹の真似でもなさい」
「
何の真似をしろ?」
「
ちと正直に淡泊になさいと言うんです」
「
お前は愚物の癖に やに強情だよ。それだから落第するんだ」
「
落第したって叔父さんに学資は出して貰やしないわ」
雪江さんは
言ここに至って感に
堪えざるもののごとく、
潸然として
一掬の
涙を紫の
袴の上に落した。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(50 / 116)
主人は
茫乎【ぼんやり】として、その涙がいかなる心理作用に起因するかを研究するもののごとく、袴の上と、
俯つ向いた
雪江さんの顔を見つめていた。ところへ
御三が台所から赤い手を敷居越に
揃えて「
お客さまがいらっしゃいました」と言う。「
誰が来たんだ」と
主人が聞くと「
学校の生徒さんでございます」と
御三は
雪江さんの泣顔を横目に
睨めながら答えた。
主人は客間へ出て行く。
吾輩も種取り
兼人間研究のため、
主人に
尾して忍びやかに
椽へ廻った。人間を研究するには何か波瀾がある時を
択ばないと
一向結果が出て来ない。平生は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張合のないくらい平凡である。しかしいざとなるとこの平凡が急に霊妙なる神秘的作用のために むくむくと持ち上がって奇なもの、変なもの、妙なもの、
異なもの、一と口に言えば
吾輩猫共から見てすこぶる後学になるような事件が 至るところに
横風【遠慮なく】にあらわれてくる。
雪江さんの
紅涙のごときは まさしくその現象の一つである。かくのごとく不可思議、
不可測の心を有している
雪江さんも、
細君と話をしているうちは さほどとも思わなかったが、
主人が帰ってきて油壺を
抛り出すやいなや、たちまち
死竜に
蒸汽喞筒を注ぎかけたるごとく【ハエ一匹に戦車を出すような】、
勃然としてその
深奥にして
窺知すべからざる【深遠そうに見えるが、正体不明・理解不能で】、巧妙なる、美妙なる、奇妙なる、霊妙なる、麗質【美人の体質】を、惜気もなく発揚し
了った。しかしてその麗質は天下の
女性に共通なる麗質である。ただ惜しい事には
容易にあらわれて来ない。
否あらわれる事は二六時中【一日中】間断なくあらわれているが、かくのごとく顕著に
灼然炳乎として【非常にはっきりとして】遠慮なくはあらわれて来ない。幸にして
主人のように
吾輩の毛をややともすると逆さに
撫でたがる
旋毛曲りの
奇特家がおったから、かかる狂言も拝見が出来たのであろう。
主人のあとさえついてあるけば、どこへ行っても舞台の役者は吾知らず動くに相違ない。面白い男を旦那様に
戴いて、短かい猫の命のうちにも、
大分多くの経験が出来る。ありがたい事だ。今度のお客は何者であろう。
見ると年頃は十七八、
雪江さんと
追っつ、
返っつの
書生である。大きな頭を
地の
隙いて見えるほど刈り込んで
団子っ
鼻を顔の真中にかためて、座敷の隅の方に
控えている。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(51 / 116)
別にこれと言う特徴もないが
頭蓋骨だけは すこぶる大きい。青坊主に刈ってさえ、ああ大きく見えるのだから、
主人のように長く延ばしたら定めし人目を
惹く事だろう。こんな顔にかぎって学問はあまり出来ない者だとは、かねてより
主人の持説である。事実はそうかも知れないがちょっと見るとナポレオンのようで すこぶる偉観である。着物は通例の書生のごとく、
薩摩絣か、
久留米がすりか また
伊予絣か分らないが、ともかくも
絣と名づけられたる
袷【裏地付きの着物】を袖短かに着こなして、下には
襯衣も
襦袢【着物の下に着る間着】もないようだ。
素袷や
素足は意気なものだそうだが、この男の はなはだ むさ苦しい感じを与える。ことに畳の上に
泥棒のような親指を歴然と三つまで
印している【親指の跡が三つ、はっきりと残っている】のは 全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡の上へちゃんと坐って、さも窮屈そうに
畏しこまっている。一体かしこまるべきものがおとなしく
控えるのは別段気にするにも及ばんが、
毬栗頭のつんつるてん【衣服の丈が短く、手足や膝が露出している状態】の乱暴者が恐縮しているところは 何となく不調和なものだ。途中で先生に逢ってさえ礼をしないのを自慢にするくらいの連中が、たとい三十分でも人並に坐るのは苦しいに違ない。ところを生れ得て
恭謙の君子【礼儀正しく謙虚な君子】、盛徳の
長者【すぐれた徳を持った立派な人物】であるかのごとく構えるのだから、当人の苦しいにかかわらず
傍から見ると
大分おかしいのである。教場もしくは運動場であんなに騒々しいものが、どうしてかように自己を
箝束【束縛】する力を
具えているかと思うと、憐れにもあるが
滑稽でもある。こうやって一人ずつ
相対になると、いかに
愚騃【おろか】なる
主人といえども 生徒に対して幾分かの重みがあるように思われる。
主人も定めし得意であろう。
塵積って山をなすと言うから、微々たる一生徒も
多勢が
聚合すると
侮るべからざる団体となって、
排斥運動やストライキをしでかすかも知れない。これはちょうど臆病者が酒を飲んで大胆になるような現象であろう。衆を頼んで騒ぎ出すのは、人の気に酔っ払った結果、正気を取り落したるものと認めて
差支えあるまい。それでなければ かように恐れ入ると言わんよりむしろ
悄然として、
自ら
襖に押し付けられているくらいな
薩摩絣が、いかに
老朽だと言って、
苟めにも先生と名のつく
主人を
軽蔑しようがない。馬鹿に出来る訳がない。
主人は
座布団を押しやりながら、「
さあお敷き」と言ったが
毬栗先生はかたくなったまま「
へえ」と言って動かない。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(52 / 116)
鼻の先に
剥げかかった
更紗【インドで生まれた木綿の染色布、鮮やかな色彩と繊細な模様】の座布団が「
御乗んなさい」とも何とも言わずに着席している
後ろに、生きた
大頭がつくねんと着席しているのは妙なものだ。布団は乗るための布団で見詰めるために
細君が勧工場【百貨店やマーケットの前身】から仕入れて来たのではない。布団にして敷かれずんば、布団はまさしくその名誉を
毀損せられたるもので、これを勧めたる
主人もまた幾分か顔が立たない事になる。
主人の顔を
潰してまで、布団と
睨めくらをしている
毬栗君は決して布団その物が
嫌なのではない。実を言うと、正式に坐った事は
祖父さんの法事の時のほかは生れてから
滅多にないので、
先っきからすでに
しびれが切れかかって少々足の先は困難を訴えているのである。それにもかかわらず敷かない。布団が手持無沙汰に
控えているにもかかわらず敷かない。
主人がさあお敷きと言うのに敷かない。厄介な
毬栗坊主だ。このくらい遠慮するなら
多人数集まった時もう少し遠慮すればいいのに、学校でもう少し遠慮すればいいのに、下宿屋でもう少し遠慮すればいいのに。すまじきところへ
気兼をして、すべき時には
謙遜しない、否
大に
狼藉を働らく。たちの悪るい
毬栗坊主だ。
ところへ
後ろの
襖をすうと開けて、
雪江さんが一碗の茶を
恭しく
坊主に供した。平生なら、そらサヴェジ・チー【野蛮なチーさん】が出たと
冷やかすのだが、
主人一人に対してすら痛み
入っている上へ、妙齢の
女性が学校で覚え立ての
小笠原流で、
乙に気取った手つきをして茶碗を突きつけたのだから、
坊主は
大に
苦悶の
体に見える。
雪江さんは
襖をしめる時に後ろから にやにやと笑った。して見ると女は同年輩でも なかなかえらいものだ。
坊主に比すれば
遥かに度胸が
据わっている。ことに
先刻の無念に はらはらと流した一滴の
紅涙のあとだから、この にやにやが さらに目立って見えた。
雪江さんの引き込んだあとは、双方無言のまま、しばらくの間は
辛防していたが、これでは
業をするようなものだと気がついた
主人はようやく口を開いた。
「
君は何とか言ったけな」
「
古井……」
「
古井? 古井何とかだね。名は」「
古井武右衛門」
「
古井武右衛門――なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昔の名だ。四年生だったね」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(53 / 116)
「
いいえ」
「
三年生か?」
「
いいえ、二年生です」
「
甲の組かね」
「
乙です」
「
乙なら、わたしの監督だね。そうか」と
主人は感心している。実はこの
大頭は入学の当時から、
主人の眼についているんだから、決して忘れるどころではない。のみならず、時々は夢に見るくらい感銘した頭である。しかし
呑気な
主人はこの頭とこの古風な姓名とを連結して、その連結したものを また二年乙組に連結する事が出来なかったのである。だからこの夢に見るほど感心した頭が 自分の監督組の生徒であると聞いて、思わず
そうかと心の
裏で手を
拍ったのである。しかしこの大きな頭の、古い名の、しかも自分の監督する生徒が何のために今頃やって来たのか
頓と
推諒出来ない。元来不人望な
主人の事だから、学校の生徒などは正月だろうが暮だろうがほとんど寄りついた事がない。寄りついたのは古井
武右衛門君をもって
嚆矢【物事のはじまり】とするくらいな珍客であるが、その来訪の主意がわからんには
主人も
大に閉口しているらしい。こんな面白くない人の
家へただ遊びにくる訳もなかろうし、また辞職勧告ならもう少し
昂然【意気が盛ん】と構え込みそうだし、と言って
武右衛門君などが一身上の用事相談があるはずがないし、どっちから、どう考えても
主人には分らない。
武右衛門君の様子を見るとあるいは本人自身にすら何で、ここまで参ったのか判然しないかも知れない。仕方がないから
主人からとうとう表向に聞き出した。
「
君遊びに来たのか」
「
そうじゃないんです」
「
それじゃ用事かね」
「
ええ」
「
学校の事かい」
「
ええ、少し御話ししようと思って……」
「
うむ。どんな事かね。さあ話したまえ」と言うと
武右衛門君 下を向いたぎり
何にも言わない。元来
武右衛門君は中学の二年生にしてはよく弁ずる方で、頭の大きい割に脳力は発達しておらんが、
喋舌る事においては乙組中
鏘々たる【盛んな】ものである。現にせんだってコロンバスの日本訳を教えろと言って
大に
主人を困らしたは まさにこの
武右衛門君である。その
鏘々たる先生が、
最前から
吃の御姫様のように もじもじしているのは、何か言わくのある事でなくてはならん。単に遠慮のみとは とうてい受け取られない。
主人も少々不審に思った。
「
話す事があるなら、早く話したらいいじゃないか」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(54 / 116)
「
少し話しにくい事で……」
「
話しにくい?」と言いながら
主人は
武右衛門君の顔を見たが、先方は依然として
俯向になってるから、何事とも鑑定が出来ない。やむを得ず、少し語勢を変えて「
いいさ。何でも話すがいい。ほかに誰も聞いていやしない。わたしも他言はしないから」と
穏やかにつけ加えた。
「
話してもいいでしょうか?」と
武右衛門君はまだ迷っている。
「
いいだろう」と
主人は勝手な判断をする。
「
では話しますが」といいかけて、
毬栗頭をむくりと持ち上げて
主人の方をちょっとまぼしそうに見た。その眼は三角である。
主人は頬をふくらまして朝日の煙を吹き出しながらちょっと横を向いた。
「
実はその……困った事になっちまって……」
「
何が?」
「
何がって、はなはだ困るもんですから、来たんです」
「
だからさ、何が困るんだよ」
「
そんな事をする考はなかったんですけれども、浜田が借せ借せと言うもんですから……」
「
浜田と言うのは浜田平助かい」
「
ええ」
「
浜田に下宿料でも借したのかい」
「
何そんなものを借したんじゃありません」
「
じゃ何を借したんだい」
「
名前を借したんです」
「
浜田が君の名前を借りて何をしたんだい」
「
艶書を送ったんです」
「
何を送った?」
「
だから、名前は廃して、投函役になると言ったんです」
「
何だか要領を得んじゃないか。一体誰が何をしたんだい」「
艶書を送ったんです」
「
艶書を送った? 誰に?」
「
だから、話しにくいと言うんです」
「
じゃ君が、どこかの女に艶書を送ったのか」
「
いいえ、僕じゃないんです」
「
浜田が送ったのかい」
「
浜田でもないんです」
「
じゃ誰が送ったんだい」
「
誰だか分らないんです」
「
ちっとも要領を得ないな。では誰も送らんのかい」
「
名前だけは僕の名なんです」
「
名前だけは君の名だって、何の事だかちっとも分らんじゃないか。もっと条理を立てて話すがいい。元来その艶書を受けた当人はだれか」
「
金田って向横丁にいる女です」
「
あの金田という実業家か」
「
ええ」
「
で、名前だけ借したとは何の事だい」
「
あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。――浜田が名前がなくちゃいけないって言いますから、君の名前をかけって言ったら、僕のじゃつまらない。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(55 / 116)
古井武右衛門の方がいいって――それで、とうとう僕の名を借してしまったんです」
「
で、君はあすこの娘を知ってるのか。交際でもあるのか」
「
交際も何もありゃしません。顔なんか見た事もありません」
「
乱暴だな。顔も知らない人に艶書をやるなんて、まあどう言う了見で、そんな事をしたんだい」
「
ただみんなが あいつは生意気で威張ってるて言うから、からかってやったんです」
「
ますます乱暴だな。じゃ君の名を公然とかいて送ったんだな」
「
ええ、文章は浜田が書いたんです。僕が名前を借して遠藤が 夜 あすこのうちまで行って投函して来たんです」
「
じゃ三人で共同してやったんだね」
「
ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退学にでもなると大変だと思って、非常に心配して二三日は寝られないんで、何だか茫やりしてしまいました」
「
そりゃまた飛んでもない馬鹿をしたもんだ。それで文明中学二年生古井武右衛門とでもかいたのかい」
「
いいえ、学校の名なんか書きゃしません」
「
学校の名を書かないだけ まあよかった。これで学校の名が出て見るがいい。それこそ文明中学の名誉に関する」
「
どうでしょう退校になるでしょうか」
「
そうさな」
「
先生、僕のおやじさんは大変やかましい人で、それにお母さんが継母ですから、もし退校にでもなろうもんなら、僕あ困っちまうです。本当に退校になるでしょうか」
「
だから滅多な真似をしないがいい」
「
する気でもなかったんですが、ついやってしまったんです。退校にならないように出来ないでしょうか」と
武右衛門君は泣き出しそうな声をしてしきりに哀願に及んでいる。
襖の蔭では
最前から
細君と
雪江さんが くすくす笑っている。
主人は
飽くまでも もったいぶって「
そうさな」を繰り返している。なかなか面白い。
吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない。聞くのはもっともだ。人間にせよ、動物にせよ、
己を知るのは
生涯の大事である。
己を知る事が出来さえすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。その時は
吾輩もこんないたずらを書くのは気の毒だから すぐさま やめてしまうつもりである。しかし自分で自分の鼻の高さが分らないと同じように、自己の何物かは なかなか
見当がつき
悪くいと見えて、平生から
軽蔑している猫に向ってさえ かような質問をかけるのであろう。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(56 / 116)
人間は生意気なようでもやはり、どこか抜けている。万物の霊だなどと どこへでも万物の霊を
担いであるくかと思うと、これしきの事実が理解出来ない。しかも
恬として【恥を何とも思わないで】平然たるに至っては ちと
一噱【ひと笑い】を催したくなる。彼は万物の霊を背中へ
担いで、おれの鼻はどこにあるか教えてくれ、教えてくれと騒ぎ立てている。それなら万物の霊を辞職するかと思うと、どう致して死んでも放しそうにしない。このくらい公然と矛盾をして平気でいられれば
愛嬌になる。愛嬌になる代りには馬鹿をもって
甘じなくてはならん。
吾輩がこの際
武右衛門君と、
主人と、
細君及
雪江嬢を面白がるのは、単に外部の事件が
鉢合せをして、その鉢合せが波動を
乙なところに伝えるからではない。実はその鉢合の反響が人間の心に個々別々の
音色を起すからである。第一
主人はこの事件に対してむしろ冷淡である。
武右衛門君のおやじさんが いかにやかましくって、おっかさんがいかに君を
継子あつかいにしようとも、あんまり驚ろかない。驚ろくはずがない。
武右衛門君が退校になるのは、自分が免職になるのとは
大に
趣が違う。千人近くの生徒がみんな退校になったら、教師も衣食の
途に窮するかも知れないが、古井
武右衛門君
一人の運命がどう変化しようと、
主人の
朝夕【生活】にはほとんど関係がない。関係の薄いところには同情も
自から薄い訳である。見ず知らずの人のために
眉をひそめたり、鼻をかんだり、嘆息をするのは、決して自然の傾向ではない。人間がそんなに
情深い、思いやりのある動物であるとは はなはだ受け取りにくい。ただ世の中に生れて来た
賦税【税金】として、時々交際のために涙を流して見たり、気の毒な顔を作って見せたりするばかりである。言わばごまかし
性表情で、実を言うと
大分骨が折れる芸術である。このごまかしを うまくやるものを芸術的良心の強い人と言って、これは世間から大変珍重される。だから人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試して見ればすぐ分る。この点において
主人はむしろ
拙【へた】な部類に属すると言ってよろしい。拙だから珍重されない。珍重されないから、内部の冷淡を存外隠すところもなく発表している。彼が
武右衛門君に対して「
そうさな」を繰り返しているのでも
這裏【ここ】の消息はよく分る。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(57 / 116)
諸君は冷淡だからと言って、けっして
主人のような善人を嫌ってはいけない。冷淡は人間の本来の性質であって、その性質をかくそうと
力めないのは正直な人である。もし諸君がかかる際に冷淡以上を望んだら、それこそ人間を買い
被ったと言わなければならない。正直ですら
払底【品切れ】な世にそれ以上を予期するのは、
馬琴の小説から
志乃や
小文吾が抜けだして、向う三軒両隣へ
八犬伝が引き越した時【もし滝沢馬琴の小説の登場人物たちが現実世界に抜け出して、近所に引っ越してきたら】でなくては、あてにならない無理な注文である。
主人はまずこのくらいにして、次には茶の間で笑ってる
女連に取りかかるが、これは
主人の冷淡を一歩
向へ
跨いで、
滑稽の領分に
躍り込んで嬉しがっている。この女連には
武右衛門君が頭痛に病んでいる艶書事件が、
仏陀の
福音のごとくありがたく思われる。理由はない ただありがたい。強いて解剖すれば
武右衛門君が困るのがありがたいのである。諸君 女に向って聞いて御覧、「
あなたは人が困るのを面白がって笑いますか」と。聞かれた人はこの問を呈出した者を馬鹿と言うだろう、馬鹿と言わなければ、わざとこんな問をかけて淑女の品性を侮辱したと言うだろう。侮辱したと思うのは事実かも知れないが、人の困るのを笑うのも事実である。であるとすれば、これから
私の品性を侮辱するような事を自分でしてお目にかけますから、何とか言っちゃいやよと断わるのと一般である。僕は泥棒をする。しかしけっして不道徳と言ってはならん。もし不道徳だなどと言えば僕の顔へ泥を塗ったものである。僕を侮辱したものである。と主張するようなものだ。女は なかなか利口だ、考えに筋道が立っている。いやしくも人間に生れる以上は踏んだり、
蹴たり、どやされたりして、しかも人が振りむきもせぬ時、平気でいる覚悟が必用であるのみならず、唾を吐きかけられ、糞をたれかけられた上に、大きな声で笑われるのを快よく思わなくてはならない。それでなくては かように利口な女と名のつくものと交際は出来ない。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(58 / 116)
武右衛門先生もちょっとしたはずみから、とんだ間違をして
大に恐れ入っては いるようなものの、かように恐れ入ってるものを蔭で笑うのは失敬だとくらいは思うかも知れないが、それは年が行かない
稚気というもので、人が失礼をした時に
怒るのを気が小さいと先方では名づけるそうだから、そう言われるのがいやなら おとなしくするがよろしい。最後に
武右衛門君の心行きをちょっと紹介する。君は心配の
権化である。かの偉大なる頭脳はナポレオンのそれが功名心をもって充満せるがごとく、まさに心配をもって はちきれんとしている。時々その団子っ鼻がぴくぴく動くのは心配が顔面神経に
伝って、反射作用のごとく無意識に活動するのである。彼は大きな
鉄砲丸を飲み
下したごとく、腹の中に いかんともすべからざる
塊まりを
抱いて、この
両三日処置に窮している。その切なさの余り、別に分別の
出所もないから監督と名のつく先生のところへ出向いたら、どうか助けてくれるだろうと思って、いやな人の
家へ大きな頭を下げにまかり越したのである。彼は平生学校で
主人にからかったり、同級生を
扇動して、
主人を困らしたりした事はまるで忘れている。いかに からかおうとも困らせようとも監督と名のつく以上は心配してくれるに相違ないと信じているらしい。随分単純なものだ。監督は
主人が好んでなった役ではない。校長の命によってやむを得ずいただいている、言わば
迷亭の叔父さんの山高帽子の種類である。ただ名前である。ただ名前だけではどうする事も出来ない。名前がいざと言う場合に役に立つなら
雪江さんは名前だけで見合が出来る訳だ。
武右衛門君はただに
我儘なるのみならず、他人は
己れに向って必ず親切でなくてはならんと言う、人間を買い
被った仮定から出立している。笑われるなどとは思も寄らなかったろう。
武右衛門君は監督の
家へ来て、きっと人間について、一の真理を発明したに相違ない。彼はこの真理のために将来ますます本当の人間になるだろう。人の心配には冷淡になるだろう、人の困る時には大きな声で笑うだろう。かくのごとくにして天下は未来の
武右衛門君をもって
充たされるであろう。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(59 / 116)
金田君及び
金田令夫人をもって充たされるであろう。
吾輩は切に
武右衛門君のために瞬時も早く自覚して
真人間になられん事を希望するのである。しからずんば いかに心配するとも、いかに後悔するとも、いかに善に移るの心が切実なりとも、とうてい
金田君のごとき成功は得られんのである。いな社会は遠からずして君を人間の居住地以外に放逐するであろう。文明中学の退校どころではない。
かように考えて面白いなと思っていると、
格子が がらがらとあいて、玄関の
障子の蔭から顔が半分ぬうと出た。
「
先生」
主人は
武右衛門君に「
そうさな」を繰り返していたところへ、先生と玄関から呼ばれたので、誰だろうとそっちを見ると半分ほど
筋違に障子から
食み出している顔はまさしく
寒月君である。「
おい、御入り」と言ったぎり坐っている。
「
御客ですか」と
寒月君はやはり顔半分で聞き返している。
「
なに構わん、まあ御上がり」
「
実はちょっと先生を誘いに来たんですがね」
「
どこへ行くんだい。また赤坂かい。あの方面はもう御免だ。せんだっては無闇にあるかせられて、足が棒のようになった」
「
今日は大丈夫です。久し振りに出ませんか」
「
どこへ出るんだい。まあ御上がり」
「
上野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです」
「
つまらんじゃないか、それよりちょっと御上り」
寒月君はとうてい遠方では談判不調と思ったものか、靴を脱いで のそのそ上がって来た。例のごとく
鼠色の、尻につぎの
中ったずぼんを
穿いているが、これは時代のため、もしくは尻の重いために破れたのではない、本人の弁解によると近頃自転車の稽古を始めて局部に比較的多くの摩擦を与えるからである。未来の
細君をもって
矚目【注目】された本人へ
文をつけた恋の
仇とは夢にも知らず、「
やあ」と言って
武右衛門君に軽く
会釈をして縁側へ近い所へ座をしめた。
「
虎の鳴き声を聞いたって詰らないじゃないか」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(60 / 116)
「
ええ、今じゃいけません、これから方々散歩して夜十一時頃になって、上野へ行くんです」
「
へえ」
「
すると公園内の老木は森々として物凄いでしょう」
「
そうさな、昼間より少しは淋しいだろう」
「
それで何でもなるべく樹の茂った、昼でも人の通らない所を択ってあるいていると、いつの間にか紅塵万丈【市街地などに土ぼこりが立ちこめる】の都会に住んでる気はなくなって、山の中へ迷い込んだような心持ちになるに相違ないです」
「
そんな心持ちになってどうするんだい」
「
そんな心持ちになって、しばらく佇んでいると たちまち動物園のうちで、虎が鳴くんです」
「
そう旨く鳴くかい」
「
大丈夫鳴きます。あの鳴き声は昼でも理科大学へ聞えるくらいなんですから、深夜闃寂【ひっそりと静か】として、四望【四方を眺めて】人なく、鬼気肌【身の毛もよだつよう】に逼って、魑魅【怪物】鼻を衝く際に……」
「
魑魅鼻を衝くとは何の事だい」
「
そんな事を言うじゃありませんか、怖い時に」
「
そうかな。あんまり聞かないようだが。それで」
「
それで虎が上野の老杉の葉をことごとく振い落すような勢で鳴くでしょう。物凄いでさあ」
「
そりゃ物凄いだろう」
「
どうです冒険に出掛けませんか。きっと愉快だろうと思うんです。どうしても虎の鳴き声は夜なかに聞かなくっちゃ、聞いたとは いわれないだろうと思うんです」
「
そうさな」と
主人は
武右衛門君の哀願に冷淡であるごとく、
寒月君の探検にも冷淡である。
この時まで
黙然として虎の話を
羨ましそうに聞いていた
武右衛門君は
主人の「
そうさな」で再び自分の身の上を思い出したと見えて、「
先生、僕は心配なんですが、どうしたらいいでしょう」とまた聞き返す。
寒月君は不審な顔をしてこの大きな頭を見た。
吾輩は思う
仔細あってちょっと失敬して茶の間へ回る。
茶の間では
細君がくすくす笑いながら、京焼の安茶碗に番茶を
浪々と
注いで、アンチモニー【比重が銀に近い合金素材】の
茶托の上へ載せて、
「
雪江さん、憚りさま【相手に頼む時の挨拶】、これを出して来て下さい」
「
わたし、いやよ」
「
どうして」と
細君は少々驚ろいた
体で笑いをはたと留める。
「
どうしてでも」と
雪江さんは やにすました顔を即席にこしらえて、
傍にあった読売新聞の上にのしかかるように眼を落した。
細君はもう一応
協商【相談】を始める。
「
あら妙な人ね。寒月さんですよ。構やしないわ」
「
でも、わたし、いやなんですもの」と読売新聞の上から眼を放さない。こんな時に一字も読めるものではないが、読んでいないなどと あばかれたら また泣き出すだろう。
「
ちっとも恥かしい事はないじゃありませんか」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(61 / 116)
と今度は
細君笑いながら、わざと茶碗を読売新聞の上へ押しやる。
雪江さんは「
あら人の悪るい」と新聞を茶碗の下から、抜こうとする拍子に
茶托に引きかかって、番茶は遠慮なく新聞の上から畳の目へ流れ込む。「
それ御覧なさい」と
細君が言うと、
雪江さんは「
あら大変だ」と台所へ
馳け出して行った。
雑巾でも持ってくる
了見だろう。
吾輩にはこの狂言がちょっと面白かった。
寒月君はそれとも知らず座敷で妙な事を話している。
「
先生障子を張り易えましたね。誰が張ったんです」
「
女が張ったんだ。よく張れているだろう」
「
ええ なかなか うまい。あの時々おいでになる御嬢さんが御張りになったんですか」
「
うんあれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば嫁に行く資格はあると言って威張ってるぜ」
「
へえ、なるほど」と言いながら
寒月君 障子を見つめている。
「
こっちの方は平ですが、右の端は紙が余って波が出来ていますね」
「
あすこが張りたてのところで、もっとも経験の乏しい時に出来上ったところさ」
「
なるほど、少し御手際が落ちますね。あの表面は超絶的 曲線でとうてい普通のファンクション【関数】ではあらわせないです」と、理学者だけにむずかしい事を言うと、
主人は
「
そうさね」と好い加減な挨拶をした。
この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込がないと思い切った
武右衛門君は突然かの偉大なる
頭蓋骨を畳の上に
圧しつけて、無言の
裡に暗に
決別の意を表した。
主人は「
帰るかい」と言った。
武右衛門君は
悄然として【元気なく】薩摩下駄を引きずって門を出た。
可愛想に。打ちゃって置くと
巌頭の
吟でも書いて【断崖の上で詩をしたため】
華厳滝から飛び込むかも知れない。元を
糺せば
金田令嬢のハイカラと生意気から起った事だ。もし
武右衛門君が死んだら、幽霊になって令嬢を取り殺してやるがいい。あんなものが世界から一人や二人消えてなくなったって、男子はすこしも困らない。
寒月君はもっと令嬢らしいのを貰うがいい。
「
先生ありゃ生徒ですか」
「
うん」
「
大変大きな頭ですね。学問は出来ますか」
「
頭の割には出来ないがね、時々妙な質問をするよ。こないだコロンバスを訳して下さいって大に弱った」
「
全く頭が大き過ぎますからそんな余計な質問をするんでしょう。先生何とおっしゃいました」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(62 / 116)
「
ええ? なあに好い加減な事を言って訳してやった」
「
それでも訳す事は訳したんですか、こりゃえらい」
「
小供は何でも訳してやらないと信用せんからね」
「
先生もなかなか政治家になりましたね。しかし今の様子では、何だか非常に元気がなくって、先生を困らせるようには見えないじゃありませんか」
「
今日は少し弱ってるんだよ。馬鹿な奴だよ」
「
どうしたんです。何だかちょっと見たばかりで非常に可哀想になりました。全体どうしたんです」
「
なに愚な事さ。金田の娘に艶書を送ったんだ」
「
え? あの大頭がですか。近頃の書生はなかなか えらいもん ですね。どうも驚ろいた」
「
君も心配だろうが……」
「
何ちっとも心配じゃありません。かえって面白いです。いくら、艶書が降り込んだって大丈夫です」
「
そう君が安心していれば構わないが……」
「
構わんですとも私はいっこう構いません。しかしあの大頭が艶書をかいたと言うには、少し驚ろきますね」
「
それがさ。冗談にしたんだよ。あの娘がハイカラで生意気だから、からかってやろうって、三人が共同して……」
「
三人が一本の手紙を金田の令嬢にやったんですか。ますます奇談ですね。一人前の西洋料理を三人で食うようなものじゃありませんか」
「
ところが手分けがあるんだ。一人が文章をかく、一人が投函する、一人が名前を借す。で今来たのが名前を借した奴なんだがね。これが一番愚だね。しかも金田の娘の顔も見た事がないって言うんだぜ。どうしてそんな無茶な事が出来たものだろう」
「
そりゃ、近来の大出来ですよ。傑作ですね。どうもあの大頭が、女に文をやるなんて面白いじゃありませんか」
「
飛んだ間違に ならあね」
「
なに なったって構やしません、相手が金田ですもの」
「
だって君が貰うかも知れない人だぜ」
「
貰うかも知れないから構わないんです。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(63 / 116)
なあに、金田なんか、構やしません」
「
君は構わなくっても……」
「
なに金田だって構やしません、大丈夫です」
「
それならそれでいいとして、当人があとになって、急に良心に責められて、恐ろしくなったものだから、大に恐縮して僕のうちへ相談に来たんだ」
「
へえ、それであんなに悄々としているんですか、気の小さい子と見えますね。先生何とか言っておやんなすったんでしょう」
「
本人は退校になるでしょうかって、それを一番心配しているのさ」
「
何で退校になるんです」
「
そんな悪るい、不道徳な事をしたから」
「
何、不道徳と言うほどでもありませんやね。構やしません。金田じゃ名誉に思ってきっと吹聴していますよ」
「
まさか」
「
とにかく可愛想ですよ。そんな事をするのがわるいとしても、あんなに心配させちゃ、若い男を一人殺してしまいますよ。ありゃ頭は大きいが人相はそんなにわるくありません。鼻なんかぴくぴくさせて可愛いです」「
君も大分迷亭見たように呑気な事を言うね」
「
何、これが時代思潮です、先生はあまり昔し風だから、何でもむずかしく解釈なさるんです」
「
しかし愚じゃないか、知りもしないところへ、いたずらに艶書を送るなんて、まるで常識をかいてるじゃないか」
「
いたずらは、たいがい常識をかいていまさあ。救っておやんなさい。功徳になりますよ。あの様子じゃ華厳の滝へ出掛けますよ」
「
そうだな」
「
そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある大僧共がそれどころじゃない、わるいいたずらをして知らん面をしていますよ。あんな子を退校させるくらいなら、そんな奴らを片っ端から放逐でもしなくっちゃ不公平でさあ」
「
それもそうだね」
「
それでどうです上野へ虎の鳴き声をききに行くのは」
「
虎かい」
「
ええ、聞きに行きましょう。実は二三日中にちょっと帰国しなければならない事が出来ましたから、当分どこへも御伴は出来ませんから、今日は是非いっしょに散歩をしようと思って来たんです」
「
そうか帰るのかい、用事でもあるのかい」
「
ええちょっと用事が出来たんです。――ともかくも出ようじゃありませんか」
「
そう。それじゃ出ようか」
「
さあ行きましょう。今日は私が晩餐を奢りますから、――それから運動をして上野へ行くとちょうど好い刻限です」としきりに
促がすものだから、
主人もその気になって、いっしょに出掛けて行った。あとでは
細君と
雪江さんが遠慮のない声で げらげら けらけら からから と笑っていた。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(64 / 116)
十一
床の間の前に碁盤を中に
据えて
迷亭君と
独仙君が対坐している。「
ただはやらない。負けた方が何か奢るんだぜ。いいかい」と
迷亭君が念を押すと、
独仙君は例のごとく
山羊髯を引っ張りながら、こう言った。
「
そんな事をすると、せっかくの清戯【風雅な戯れ】を俗了【俗化】してしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗を度外において、白雲の自然に岫【岩穴】を出でて冉々たるごとき心持ち【ゆるやかに流れる気分】で一局を了して【完了して】こそ、個中の 味【物事の奥深い道理】はわかるものだよ」
「
また来たね。そんな仙骨【仙人じみた人物】を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然たる列仙伝中の人物だね【浮世離れした、風変わりな人物だね】」
「
無絃の素琴を弾じさ【弦のない琴を、お弾きなさい】」
「
無線の電信をかけかね」
「
とにかく、やろう」
「
君が白を持つのかい」
「
どっちでも構わない」
「
さすがに仙人だけあって鷹揚だ。君が白なら自然の順序として僕は黒だね。さあ、来たまえ。どこからでも来たまえ」
「
黒から打つのが法則だよ」
「
なるほど。しからば謙遜して、定石に ここいらから行こう」
「
定石にそんなのはないよ」
「
なくっても構わない。新奇発明の定石だ」
吾輩は世間が狭いから碁盤と言うものは近来になって始めて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙に出来ている。広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目が
眩むほど ごたごたと
黒白の石をならべる。そうして勝ったとか、負けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる。高が一尺四方くらいの面積だ。猫の前足で
掻き散らしても滅茶滅茶になる。引き寄せて結べば草の
庵にて【ばらばらの草を引き寄せて結ぶと家(庵)になる】、解くればもとの野原なりけり【でもその結びをほどけば、ただの草原にもどるだけ】。入らざるいたずらだ。
懐手をして盤を眺めている方が
遥かに気楽である。それも最初の三四十
目は、石の並べ方では別段
目障りにもならないが、いざ天下わけ目と言う
間際に
覗いて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー言っている。窮屈だからと言って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(65 / 116)
碁を発明したものは人間で、人間の
嗜好が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると言っても
差支えない。人間の性質が碁石の運命で
推知する事が出来るものとすれば、人間とは
天空海濶【空がからりとして晴れ、海が広々としている】の世界を、我からと縮めて、
己れの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、
小刀細工で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とは しいて苦痛を求めるものであると
一言に評してもよかろう。
呑気なる
迷亭君と、
禅機【禅における無我の境地から出る働き】ある
独仙君とは、どう言う了見か、今日に限って戸棚から古碁盤を引きずり出して、この暑苦しいいたずらを始めたのである。さすがに御両人
御揃いの事だから、最初のうちは各自任意の行動をとって、盤の上を白石と黒石が自由自在に飛び交わしていたが、盤の広さには限りがあって、
横竪の目盛りは
一手ごとに
埋って行くのだから、いかに呑気でも、いかに禅機があっても、苦しくなるのは当り前である。
「
迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ入ってくる法はない」「
禅坊主の碁にはこんな法はないかも知れないが、本因坊の流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」
「
しかし死ぬばかりだぜ」
「
臣 死をだも辞せず【死をも辞せず】、いわんや彘肩をや【まして豚の肩肉なんて、よろこんで受けます:けど、粗末なものでも受け取っておきましょう】と、一つ、こう行くかな」
「
そうおいでになったと、よろしい。薫風【初夏の風】南より来って、殿閣微涼を生ず【建物の中に、ほのかに秋の涼気が立ちはじめた】。こう、ついでおけば大丈夫なものだ」
「
おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気遣はなかろうと思った。ついで、くりゃるな八幡鐘【江戸深川八幡宮】をと、こうやったら、どうするかね」
「
どうするも、こうするもないさ。一剣天に倚って寒し【空に立つ剣に寄りかかるようにして、身が冷えている】――ええ、面倒だ。思い切って、切ってしまえ」
「
やや、大変大変。そこを切られちゃ死んでしまう。おい冗談じゃない。ちょっと待った」
「
それだから、さっきから言わん事じゃない。こうなってるところへは入れるものじゃないんだ」
「
入って失敬仕り候。ちょっとこの白をとってくれたまえ」
「
それも待つのかい」
「
ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ」
「
ずうずうしいぜ、おい」
「
Do you see the boy か【溺れている少年が見えるだろう】。――なに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引き揚げてくれたまえな。死ぬか生きるかと言う場合だ。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(66 / 116)
しばらく、しばらくって花道から馳け出してくるところだよ」
「
そんな事は僕は知らんよ」
「
知らなくってもいいから、ちょっとどけたまえ」
「
君さっきから、六返待ったをしたじゃないか」
「
記憶のいい男だな。向後は旧に倍し待ったを仕り候【今後は以前にも増して遠慮いたします】。だからちょっと どけたまえと言うのだあね。君もよッぽど強情だね。座禅なんかしたら、もう少し捌けそうなものだ」
「
しかしこの石でも殺さなければ、僕の方は少し負けになりそうだから……」
「
君は最初から負けても構わない流じゃないか」
「
僕は負けても構わないが、君には勝たしたくない」
「
飛んだ悟道【仏の教えの真髄をさとること】だ。相変らず春風影裏に電光をきってる【穏やかな春風の陰で、瞬間的に稲妻の閃光が走った】ね」
「
春風影裏じゃない、電光影裏だよ。君のは逆だ」「
ハハハハもうたいてい逆かになっていい時分だと思ったら、やはりたしかなところがあるね。それじゃ仕方がないあきらめるかな」
「
生死事大、無常迅速【生死は一大事であり、無常は迅速である】、あきらめるさ」
「
アーメン」と
迷亭先生今度はまるで関係のない方面へぴしゃりと
一石を
下した。
床の間の前で
迷亭君と
独仙君が一生懸命に
輸贏【勝負】を争っていると、座敷の入口には、
寒月君と
東風君が相ならんでその
傍に
主人が黄色い顔をして坐っている。
寒月君の前に
鰹節が三本、裸のまま畳の上に行儀よく配列してあるのは奇観である。
この鰹節の
出処は
寒月君の
懐で、取り出した時は
暖たかく、手のひらに感じたくらい、裸ながらぬくもっていた。
主人と
東風君は妙な眼をして視線を鰹節の上に注いでいると、
寒月君はやがて口を開いた。
「
実は四日ばかり前に国から帰って来たのですが、いろいろ用事があって、方々馳けあるいていたものですから、つい上がられなかったのです」
「
そう急いでくるには及ばないさ」と
主人は例のごとく
無愛嬌な事を言う。「
急いで来んでもいいのですけれども、このおみやげを早く献上しないと心配ですから」
「
鰹節じゃないか」
「
ええ、国の名産です」
「
名産だって東京にもそんなのは有りそうだぜ」と
主人は一番大きな奴を一本取り上げて、鼻の先へ持って行って
臭いをかいで見る。
「
かいだって、鰹節の善悪はわかりませんよ」
「
少し大きいのが名産たる所以かね」
「
まあ食べて御覧なさい」
「
食べる事はどうせ食べるが、こいつは何だか先が欠けてるじゃないか」
「
それだから早く持って来ないと心配だと言うのです」
「
なぜ?」
「
なぜって、そりゃ鼠が食ったのです」
「
そいつは危険だ。滅多に食うとペストになるぜ」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(67 / 116)
「
なに大丈夫、そのくらいかじったって害はありません」
「
全体どこで噛ったんだい」
「
船の中でです」
「
船の中? どうして」
「
入れる所がなかったから、ヴァイオリンといっしょに袋のなかへ入れて、船へ乗ったら、その晩にやられました。鰹節だけなら、いいのですけれども、大切なヴァイオリンの胴を鰹節と間違えてやはり少々噛りました」
「
そそっかしい鼠だね。船の中に住んでると、そう見境がなくなるものかな」と
主人は誰にも分らん事を言って依然として鰹節を
眺めている。
「
なに鼠だから、どこに住んでても そそっかしい のでしょう。だから下宿へ持って来てもまたやられそうでね。剣呑だから夜るは寝床の中へ入れて寝ました」
「
少しきたないようだぜ」
「
だから食べる時にはちょっとお洗いなさい」
「
ちょっとくらいじゃ奇麗にゃなりそうもない」
「
それじゃ灰汁でもつけて、ごしごし磨いたらいいでしょう」
「
ヴァイオリンも抱いて寝たのかい」
「
ヴァイオリンは大き過ぎるから抱いて寝る訳には行かないんですが……」と言いかけると
「
なんだって? ヴァイオリンを抱いて寝たって? それは風流だ。行く春や重たき琵琶のだき心と言う句もあるが、それは遠きその上【昔】の事だ。明治の秀才はヴァイオリンを抱いて寝なくっちゃ古人を凌ぐ訳には行かないよ。かい巻【袖のついた寝具のことで、綿入れ半纏の一種】に長き夜守るやヴァイオリンはどうだい。東風君、新体詩でそんな事が言えるかい」と向うの方から
迷亭先生大きな声でこっちの談話にも関係をつける。
東風君は真面目で「
新体詩は俳句と違ってそう急には出来ません。しかし出来た暁にはもう少し生霊の機微に触れた妙音【美しい響き】が出ます」
「
そうかね、生霊はおがら【迎え火】を焚いて迎え奉るものと思ってたが、やっぱり新体詩の力でも御来臨【ご訪問】になるかい」と
迷亭はまだ碁をそっちのけにして
調戯ている。
「
そんな無駄口を叩くとまた負けるぜ」と
主人は
迷亭に注意する。
迷亭は平気なもので
「
勝ちたくても、負けたくても、相手が釜中の章魚同然 手も足も出せないのだから、僕も無聊【たいくつ】でやむを得ずヴァイオリンの御仲間を仕るのさ」と言うと、相手の
独仙君はいささか激した調子で
「
今度は君の番だよ。こっちで待ってるんだ」と言い放った。
「
え? もう打ったのかい」
「
打ったとも、とうに打ったさ」
「
どこへ」
「
この白を はす【斜め】に延ばした」
「
なあるほど。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(68 / 116)
この白をはすに延ばして負けにけりか、そんならこっちはと――こっちは――こっちはこっちはとて暮れにけりと、どうもいい手がないね。君もう一返打たしてやるから勝手なところへ一目打ちたまえ」
「
そんな碁があるものか」
「
そんな碁があるものかなら打ちましょう。――それじゃこのかど地面へちょっと曲がって置くかな。――寒月君、君のヴァイオリンはあんまり安いから鼠が馬鹿にして噛るんだよ、もう少しいいのを奮発して買うさ、僕が以太利亜から三百年前の古物を取り寄せてやろうか」
「
どうか願います。ついでにお払いの方も願いたいもので」
「
そんな古いものが役に立つものか」と何にも知らない
主人は
一喝にして
迷亭君を
極めつけた。
「
君は人間の古物とヴァイオリンの古物と同一視しているんだろう。人間の古物でも金田某のごときものは今だに流行しているくらいだから、ヴァイオリンに至っては古いほどがいいのさ。――さあ、独仙君どうか御早く願おう。けいまさ【桂 正は寒月の本名:外部資料・注釈によって判明】のせりふじゃないが秋の日は暮れやすいからね」
「
君のような せわしない男と碁を打つのは苦痛だよ。考える暇も何もありゃしない。仕方がないから、ここへ一目入れて目にしておこう」
「
おやおや、とうとう生かしてしまった。惜しい事をしたね。まさかそこへは打つまいと思って、いささか駄弁を振って肝胆を砕いていた【力を尽くしていた】が、やッぱり駄目か」
「
当り前さ。君のは打つのじゃない。ごまかすのだ」
「
それが本因坊流、金田流、当世紳士流さ。――おい苦沙弥先生、さすがに独仙君は鎌倉へ行って万年漬を食った【精神修養をした】だけあって、物に動じないね。どうも敬々服々だ。碁はまずいが、度胸は据ってる」「
だから君のような度胸のない男は、少し真似をするがいい」と
主人が
後ろ
向のままで答えるやいなや、
迷亭君は大きな赤い舌をぺろりと出した。
独仙君は
毫も関せざるもののごとく、「
さあ君の番だ」とまた相手を
促した。
「
君はヴァイオリンをいつ頃から始めたのかい。僕も少し習おうと思うのだが、よっぽどむずかしいものだそうだね」と
東風君が
寒月君に聞いている。
「
うむ、一と通りなら誰にでも出来るさ」
「
同じ芸術だから詩歌の趣味のあるものは やはり音楽の方でも上達が早いだろうと、ひそかに恃む【頼る】ところがあるんだが、どうだろう」
「
いいだろう。君ならきっと上手になるよ」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(69 / 116)
「
君はいつ頃から始めたのかね」
「
高等学校時代さ。――先生私しのヴァイオリンを習い出した顛末をお話しした事がありましたかね」
「
いいえ、まだ聞かない」
「
高等学校時代に先生でもあってやり出したのかい」
「
なあに先生も何もありゃしない。独習さ」
「
全く天才だね」
「
独習なら天才と限った事もなかろう」と
寒月君はつんとする。天才と言われてつんとするのは
寒月君だけだろう。
「
そりゃ、どうでもいいが、どう言う風に独習したのかちょっと聞かしたまえ。参考にしたいから」
「
話してもいい。先生話しましょうかね」
「
ああ話したまえ」
「
今では若い人がヴァイオリンの箱をさげて、よく往来などをあるいておりますが、その時分は高等学校生で西洋の音楽などをやったものは ほとんどなかったのです。ことに私のおった学校は田舎の田舎で麻裏草履さえないと言うくらいな【麻で作られた粗末な草履すらないほど貧しい】質朴な所でしたから、学校の生徒でヴァイオリンなどを弾くものはもちろん一人もありません。……」
「
何だか面白い話が向うで始まったようだ。独仙君いい加減に切り上げようじゃないか」
「
まだ片づかない所が二三箇所ある」
「
あってもいい。大概な所なら、君に進上する」
「
そう言ったって、貰う訳にも行かない」
「
禅学者にも似合わん几帳面な男だ。それじゃ一気呵成【ひといき】にやっちまおう。――寒月君何だかよっぽど面白そうだね。――あの高等学校だろう、生徒が裸足で登校するのは……」
「
そんな事はありません」
「
でも、皆なはだしで兵式体操をして、廻れ右をやるんで足の皮が大変厚くなってると言う話だぜ」
「
まさか。だれがそんな事を言いました」
「
だれでもいいよ。そうして弁当には偉大なる握り飯を一個、夏蜜柑のように腰へぶら下げて来て、それを食うんだって言うじゃないか。食うと言うよりむしろ食いつくんだね。すると中心から梅干が一個出て来るそうだ。この梅干が出るのを楽しみに塩気のない周囲を一心不乱に食い欠いて突進するんだと言うが、なるほど元気旺盛なものだね。独仙君、君の気に入りそうな話だぜ」
「
質朴剛健【飾り気がなく真面目で、心身ともに強くたくましい】でたのもしい気風だ」
「
まだ たのもしい事がある。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(70 / 116)
あすこには灰吹き【タバコの吸がらを吹き落としたり、たたき入れたりする筒】がないそうだ。僕の友人があすこへ奉職をしている頃 吐月峰【雪舟や雪斎などが修行したことで知られ、禅と風雅の象徴的な場所】の印のある灰吹きを買いに出たところが、吐月峰どころか、灰吹と名づくべきものが一個もない。不思議に思って、聞いて見たら、灰吹きなどは裏の薮へ行って切って来れば誰にでも出来るから、売る必要はないと澄まして答えたそうだ。これも質朴剛健の気風をあらわす美譚だろう、ねえ独仙君」
「
うむ、そりゃそれでいいが、ここへ駄目を一つ入れなくちゃいけない」
「
よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。――僕はその話を聞いて、実に驚いたね。そんなところで君がヴァイオリンを独習したのは見上げたものだ。惸独にして不羣なり【私は孤独でも俗物とは交わらない主義だ】と楚辞【中国戦国時代、楚の国の詩人屈原(くつげん)などが書いた叙情的・象徴的な詩集】にあるが寒月君は全く明治の屈原だよ」
「
屈原はいやですよ」
「
それじゃ今世紀のウェルテル【若きウェルテルの悩み(作ゲーテ)のウェルテル:恋と孤独と苦悩に沈み、やがて死を選ぶ青年の代名詞】さ。――なに石を上げて勘定をしろ? やに物堅い性質だね。勘定しなくっても僕は負けてるから たしかだ」
「
しかし極りがつかないから……」
「
それじゃ君やってくれたまえ。僕は勘定所じゃない。一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話を聞かなくっちゃ、先祖へ済まないから失敬する」と席をはずして、
寒月君の方へすり出して来た。
独仙君は丹念に白石を取っては白の穴を
埋め、黒石を取っては黒の穴を埋めて、しきりに口の内で計算をしている。
寒月君は話をつづける。
「
土地柄がすでに土地柄だのに、私の国のものがまた非常に頑固なので、少しでも柔弱なものがおっては、他県の生徒に外聞がわるいと言って、むやみに制裁を厳重にしましたから、ずいぶん厄介でした」
「
君の国の書生と来たら、本当に話せないね。元来何だって、紺の無地の袴なんぞ穿くんだい。第一あれからして乙【いまいち】だね。そうして塩風に吹かれつけているせいか、どうも、色が黒いね。男だからあれで済むが 女があれじゃさぞかし困るだろう」と
迷亭君が一人入ると
肝心の話はどっかへ飛んで行ってしまう。「
女もあの通り黒いのです」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(71 / 116)
「
それでよく貰い手があるね」
「
だって一国中ことごとく黒いのだから仕方がありません」
「
因果だね。ねえ苦沙弥君」
「
黒い方がいいだろう。生じ白いと鏡を見るたんびに己惚が出ていけない。女と言うものは始末におえない物件だからなあ」と
主人は
喟然として
大息を
洩らした。
「
だって一国中ことごとく黒ければ、黒い方で己惚れはしませんか」と
東風君がもっともな質問をかけた。
「
ともかくも女は全然不必要な者だ」と
主人が言うと、
「
そんな事を言うと妻君が後でご機嫌がわるいぜ」と笑いながら
迷亭先生が注意する。
「
なに大丈夫だ」
「
いないのかい」
「
小供を連れて、さっき出掛けた」
「
どうれで静かだと思った。どこへ行ったのだい」
「
どこだか分らない。勝手に出てあるくのだ」
「
そうして勝手に帰ってくるのかい」
「
まあそうだ。君は独身でいいなあ」と言うと
東風君は少々不平な顔をする。
寒月君は にやにやと笑う。
迷亭君は
「
妻を持つとみんなそう言う気になるのさ。ねえ独仙君、君なども妻君難の方だろう」
「
ええ? ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十七と。狭いと思ったら、四十六目あるか。もう少し勝ったつもりだったが、こしらえて見ると、たった十八目の差か。――何だって?」
「
君も妻君難だろうと言うのさ」
「
アハハハハ別段 難でもないさ。僕の妻は元来僕を愛しているのだから」
「
そいつは少々失敬した。それでこそ独仙君だ」
「
独仙君ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と
寒月君が天下の妻君に代ってちょっと弁護の労を取った。
「
僕も寒月君に賛成する。僕の考では人間が絶対の域に入るには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と恋だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間は是非結婚をして、この幸福を完うしなければ天意に背く訳だと思うんだ。――がどうでしょう先生」と
東風君は相変らず真面目で
迷亭君の方へ向き直った。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(72 / 116)
「
御名論だ。僕などはとうてい絶対の境に入れそうもない」
「
妻を貰えば なお入れやしない」と
主人はむずかしい顔をして言った。
「
ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義が分からないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月君にさっきから経験譚をきいているのです」
「
そうそう、ウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴するはずだったね。さあ話し給え。もう邪魔はしないから」と
迷亭君がようやく
鋒鋩【刃物などのきっさき】を収めると、
「
向上の一路はヴァイオリンなどで開ける者ではない。そんな遊戯三昧で宇宙の真理が知れては大変だ。這裡の消息を知ろうと思えばやはり懸崖に手を撒して、絶後に再び蘇える底の気魄がなければ駄目だ【真理を知るには、死ぬ覚悟の気迫がいるんだよ!】」と
独仙君はもったい振って、
東風君に訓戒じみた説教をしたのはよかったが、
東風君は禅宗のぜの字も知らない男だから
頓と感心したようすもなく
「
へえ、そうかも知れませんが、やはり芸術は人間の渇仰の極致【心底から崇め、慕ってやまない】を表わしたものだと思いますから、どうしてもこれを捨てる訳には参りません」
「
捨てる訳に行かなければ、お望み通り僕のヴァイオリン談をして聞かせる事にしよう、で今話す通りの次第だから僕もヴァイオリンの稽古をはじめるまでには大分苦心をしたよ。第一買うのに困りましたよ先生」
「
そうだろう麻裏草履がない土地にヴァイオリンがあるはずがない」
「
いえ、ある事はあるんです。金も前から用意して溜めたから差支えないのですが、どうも買えないのです」
「
なぜ?」
「
狭い土地だから、買っておればすぐ見つかります。見つかれば、すぐ生意気だと言うので制裁を加えられます」
「
天才は昔から迫害を加えられるものだからね」と
東風君は
大に同情を表した。
「
また天才か、どうか天才呼ばわりだけは御免蒙りたいね。それでね毎日散歩をしてヴァイオリンのある店先を通るたびに あれが買えたら好かろう、あれを手に抱えた心持ちはどんなだろう、ああ欲しい、ああ欲しいと思わない日は一日もなかったのです」
「
もっともだ」と評したのは
迷亭で、「
妙に凝ったものだね」と
解しかねたのが
主人で、「
やはり君、天才だよ」と敬服したのは
東風君である。ただ
独仙君ばかりは超然として
髯を
撚している。
「
そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが第一ご不審かも知れないですが、これは考えて見ると当り前の事です。なぜと言うとこの地方でも女学校があって、女学校の生徒は課業として毎日ヴァイオリンを稽古しなければならないのですから、あるはずです。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(73 / 116)
無論いいのはありません。ただヴァイオリンと言う名が辛うじてつくくらいのものであります。だから店でもあまり重きをおいていないので、二三梃いっしょに店頭へ吊るしておくのです。それがね、時々散歩をして前を通るときに風が吹きつけたり、小僧の手が障ったりして、そら音を出す事があります。その音を聞くと急に心臓が破裂しそうな心持で、いても立ってもいられなくなるんです」
「
危険だね。水癲癇、人癲癇と癲癇にもいろいろ種類があるが君のはウェルテルだけあって、ヴァイオリン癲癇だ」と
迷亭君が冷やかすと、
「
いやそのくらい感覚が鋭敏でなければ真の芸術家にはなれないですよ。どうしても天才肌だ」と
東風君はいよいよ感心する。
「
ええ実際癲癇かも知れませんが、しかしあの音色だけは奇体ですよ。その後今日まで随分ひきましたがあのくらい美しい音が出た事がありません。そうさ何と形容していいでしょう。とうてい言いあらわせないです」
「
琳琅璆鏘【弓と弦が触れ合って美しく鳴り響くさま】として鳴るじゃないか」とむずかしい事を持ち出したのは
独仙君であったが、誰も取り合わなかったのは気の毒である。
「
私が毎日毎日店頭を散歩しているうちに とうとうこの霊異な音を三度ききました。三度目にどうあってもこれは買わなければならないと決心しました。仮令国のものから譴責されても【とがめられても】、他県のものから軽蔑されても――よし 鉄拳制裁のために絶息しても――まかり間違って退校の処分を受けても――、こればかりは買わずにいられないと思いました」
「
それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込める訳のものじゃない。羨しい。僕もどうかして、それほど猛烈な感じを起して見たいと年来心掛けているが、どうもいけないね。音楽会などへ行って出来るだけ熱心に聞いているが、どうもそれほどに感興【感心】が乗らない」と
東風君はしきりに
羨やましがっている。
「
乗らない方が仕合せだよ。今でこそ平気で話すようなものの その時の苦しみはとうてい想像が出来るような種類のものではなかった。――それから先生とうとう奮発して買いました」
「
ふむ、どうして」
「
ちょうど十一月の天長節【天皇誕生日】の前の晩でした。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(74 / 116)
国のものは揃って泊りがけに温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だと言って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行って兼て望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」
「
偽病をつかって学校まで休んだのかい」
「
全くそうです」
「
なるほど少し天才だね、こりゃ」と
迷亭君も少々恐れ入った様子である。
「
夜具の中から首を出していると、日暮れが待遠でたまりません。仕方がないから頭からもぐり込んで、眼を眠って待って見ましたが、やはり駄目です。首を出すと烈しい秋の日が、六尺の障子へ一面にあたって、かんかんするには癇癪が起りました。上の方に細長い影がかたまって、時々秋風にゆすれるのが眼につきます」
「
何だい、その細長い影と言うのは」
「
渋柿の皮を剥いて、軒へ吊るしておいたのです」
「
ふん、それから」
「
仕方がないから、床を出て障子をあけて縁側へ出て、渋柿の甘干しを一つ取って食いました」
「
うまかったかい」と
主人は小供みたような事を聞く。
「
うまいですよ、あの辺の柿は。とうてい東京などじゃあの味はわかりませんね」
「
柿はいいがそれから、どうしたい」と今度は
東風君がきく。
「
それからまたもぐって眼をふさいで、早く日が暮れればいいがと、ひそかに神仏に念じて見た。約三四時間も立ったと思う頃、もうよかろうと、首を出すとあにはからんや烈しい秋の日は依然として六尺の障子を照らしてかんかんする、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわする」
「
そりゃ、聞いたよ」
「
何返もあるんだよ。それから床を出て、障子をあけて、甘干しの柿を一つ食って、また寝床へ入って、早く日が暮れればいいと、ひそかに神仏に祈念をこらした」
「
やっぱりもとのところじゃないか」
「
まあ先生そう焦かずに聞いて下さい。それから約三四時間夜具の中で辛抱して、今度こそもうよかろうとぬっと首を出して見ると、烈しい秋の日は依然として六尺の障子へ一面にあたって、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわしている」
「
いつまで行っても同じ事じゃないか」
「
それから床を出て障子を開けて、縁側へ出て甘干しの柿を一つ食って……」
「
また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても柿ばかり食ってて際限がないね」
「
私もじれったくてね」
「
君より聞いてる方がよっぽどじれったいぜ」
「
先生はどうも性急だから、話がしにくくって困ります」
「
聞く方も少しは困るよ」と
東風君も
暗に不平を
洩らした。
「
そう諸君が御困りとある以上は仕方がない。たいていにして切り上げましょう。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(75 / 116)
要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、とうとう軒端に吊るした奴をみんな食ってしまいました」
「
みんな食ったら日も暮れたろう」
「
ところがそう行かないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろうと首を出して見ると、相変らず烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあたって……」
「
僕あ、もう御免だ。いつまで行っても果てしがない」
「
話す私も飽き飽きします」
「
しかしそのくらい根気があればたいていの事業は成就するよ。だまってたら、あしたの朝まで秋の日がかんかんするんだろう。全体いつ頃にヴァイオリンを買う気なんだい」とさすがの
迷亭君も少し
辛抱し切れなくなったと見える。ただ
独仙君のみは泰然として、あしたの朝まででも、あさっての朝まででも、いくら秋の日がかんかんしても動ずる
気色はさらにない。
寒月君も落ちつき払ったもので
「
いつ買う気だとおっしゃるが、晩になりさえすれば、すぐ買いに出掛けるつもりなのです。ただ残念な事には、いつ頭を出して見ても秋の日が かんかん しているものですから――いえその時の私しの苦しみと言ったら、とうてい今あなた方の御じれになるどころの騒ぎじゃないです。私は最後の甘干を食っても、まだ日が暮れないのを見て、泫然として思わず泣きました。東風君、僕は実に情けなくって泣いたよ」
「
そうだろう、芸術家は本来多情多恨だから、泣いた事には同情するが、話はもっと早く進行させたいものだね」と
東風君は人がいいから、どこまでも真面目で
滑稽な挨拶をしている。
「
進行させたいのは山々だが、どうしても日が暮れてくれないものだから困るのさ」
「
そう日が暮れなくちゃ聞く方も困るからやめよう」と
主人がとうとう我慢がし切れなくなったと見えて言い出した。
「
やめちゃなお困ります。これからがいよいよ佳境に入るところですから」「
それじゃ聞くから、早く日が暮れた事にしたらよかろう」
「
では、少しご無理なご注文ですが、先生の事ですから、枉げて、ここは日が暮れた事に致しましょう」
「
それは好都合だ」と
独仙君が澄まして述べられたので一同は思わずどっと噴き出した。
「
いよいよ夜に入ったので、まず安心とほっと一息ついて鞍懸村の下宿を出ました。私は性来騒々しい所が嫌ですから、わざと便利な市内を避けて、人迹稀な【人里離れた】寒村の百姓家にしばらく蝸牛の庵を結んでいた【カタツムリのように、小さな庵を構えて、静かに暮らしていた】のです……」
「
人迹の稀なはあんまり大袈裟だね」と
主人が抗議を申し込むと「
蝸牛の庵も仰山【大げさ】だよ。床の間なしの四畳半くらいにしておく方が写生的で面白い」と
迷亭君も苦情を持ち出した。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(76 / 116)
東風君だけは「
事実はどうでも言語が詩的で感じがいい」と
褒めた。
独仙君は真面目な顔で「
そんな所に住んでいては学校へ通うのが大変だろう。何里くらいあるんですか」と聞いた。
「
学校まではたった四五丁【約436〜545m】です。元来学校からして寒村にあるんですから……」
「
それじゃ学生はその辺にだいぶ宿をとってるんでしょう」と
独仙君はなかなか承知しない。
「
ええ、たいていな百姓家には一人や二人は必ずいます」
「
それで人迹稀なんですか」と正面攻撃を
喰わせる。
「
ええ学校がなかったら、全く人迹は稀ですよ。……で当夜の服装と言うと、手織木綿の綿入の上へ金釦の制服外套を着て、外套の頭巾をすぽりと被って なるべく人の目につかないような注意をしました。折柄 柿落葉の時節で 宿から南郷街道へ出るまでは木の葉で路が一杯です。

一歩運ぶごとにがさがさするのが気にかかります。誰かあとをつけて来そうでたまりません。振り向いて見ると東嶺寺の森がこんもりと黒く、暗い中に暗く写っています。この東嶺寺と言うのは松平家の菩提所で、庚申山の 麓にあって、私の宿とは一丁くらいしか隔っていない、すこぶる幽邃な梵刹【ひっそりとして奥深く、神秘的な雰囲気に包まれた寺】です。森から上はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋違に横切って末は――末は、そうですね、まず布哇の方へ流れています……」
「
布哇は突飛だね」と
迷亭君が言った。
「
南郷街道をついに二丁来て、鷹台町から市内に入って、古城町を通って、仙石町を曲って、喰代町を横に見て、通町を一丁目、二丁目、三丁目と順に通り越して、それから尾張町、名古屋町、 鯱鉾町、 蒲鉾町……」
「
そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と
主人がじれったそうに聞く。
「
楽器のある店は金善 即ち金子善兵衛方ですから、まだなかなかです」
「
なかなかでもいいから早く買うがいい」
「
かしこまりました。それで金善方へ来て見ると、店にはランプが かんかん ともって……」
「
またかんかんか、君のかんかんは一度や二度で済まないんだから難渋【物事がはかどらず苦しむ】するよ」と今度は
迷亭が予防線を張った。
「
いえ、今度のかんかんは、ほんの通り一返のかんかんですから、別段御心配には及びません。……灯影にすかして見ると例のヴァイオリンが、ほのかに秋の灯を反射して、くり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びています。つよく張った琴線の一部だけがきらきらと白く眼に映ります。……」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(77 / 116)
「
なかなか叙述【文章】がうまいや」と
東風君がほめた。
「
あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に動悸がして足がふらふらします……」
「
ふふん」と
独仙君が鼻で笑った。
「
思わず馳け込んで、隠袋から蝦蟇口を出して、蝦蟇口の中から五円札を二枚出して……」
「
とうとう買ったかい」と
主人がきく。
「
買おうと思いましたが、まてしばし、ここが肝心のところだ。滅多な事をしては失敗する。まあよそうと、際どいところで思い留まりました」
「
なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一梃でなかなか人を引っ張るじゃないか」
「
引っ張る訳じゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません」
「
なぜ」
「
なぜって、まだ宵の口で人が大勢通るんですもの」
「
構わんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君はよっぽど妙な男だ」と
主人はぷんぷんしている。
「
ただの人なら千が二千でも構いませんがね、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って徘徊しているんだから容易に手を出せませんよ。中には沈殿党などと号して、いつまでもクラスの底に溜まって喜んでるのがありますからね。そんなのに限って柔道は強いのですよ。滅多にヴァイオリンなどに手出しは出来ません。どんな目に逢うかわかりません。私だってヴァイオリンは欲しいに相違ないですけれども、命はこれでも惜しいですからね。ヴァイオリンを弾いて殺されるよりも、弾かずに生きてる方が楽ですよ」
「
それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と
主人が念を押す。
「
いえ、買ったのです」
「
じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早くかたをつけたらよさそうなものだ」
「
えへへへへ、世の中の事はそう、こっちの思うように埒があくもんじゃありませんよ」と言いながら
寒月君は冷然と「
朝日」へ火をつけてふかし出した。
主人は面倒になったと見えて、ついと立って書斎へ入ったと思ったら、何だか古ぼけた洋書を一冊持ち出して来て、ごろりと
腹這になって読み始めた。
独仙君はいつの間にやら、床の間の前へ退去して、
独りで碁石を並べて
一人相撲をとっている。せっかくの逸話もあまり長くかかるので聴手が一人減り二人減って、残るは芸術に忠実なる
東風君と、長い事にかつて
辟易した事のない
迷亭先生のみとなる。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(78 / 116)
長い煙をふうと世の中へ遠慮なく吹き出した
寒月君は、やがて
前同様の速度をもって談話をつづける。
「
東風君、僕はその時こう思ったね。とうてい こりゃ 宵の口は駄目だ、と言って真夜中に来れば金善は寝てしまうからなお駄目だ。何でも学校の生徒が散歩から帰りつくして、そうして金善がまだ寝ない時を見計らって来なければ、せっかくの計画が水泡に帰する。けれどもその時間をうまく見計うのがむずかしい」「
なるほど こりゃ むずかしかろう」
「
で僕はその時間をまあ十時頃と見積ったね。それで今から十時頃までどこかで暮さなければならない。うちへ帰って出直すのは大変だ。友達のうちへ話しに行くのは何だか気が咎めるようで面白くなし、仕方がないから相当の時間がくるまで市中を散歩する事にした。ところが平生ならば二時間や三時間は ぶらぶら あるいているうちに、いつの間にか経ってしまうのだがその夜に限って、時間のたつのが遅いの何のって、――千秋【一日千秋】の思とはあんな事を言うのだろうと、しみじみ感じました」と さも感じたらしい風をしてわざと
迷亭先生の方を向く。
「
古人を待つ身につらき置炬燵【懐かしいあの人を待ち続ける私には、この置き炬燵の温もりがかえって切ない】と言われた事があるからね、また待たるる身より待つ身はつらいともあって 軒に吊られたヴァイオリンもつらかったろうが、あてのない探偵のようにうろうろ、まごついている君は なおさらつらいだろう。累々として喪家の犬のごとし【極端にやつれ、みすぼらしく、哀れ】。いや宿のない犬ほど気の毒なものは実際ないよ」
「
犬は残酷ですね。犬に比較された事はこれでも まだありませんよ」
「
僕は何だか君の話をきくと、昔しの芸術家の伝を読むような気持がして同情の念に堪えない。犬に比較したのは先生の冗談だから気に掛けずに話を進行したまえ」と
東風君は
慰藉した【なぐさめた】。慰藉されなくても
寒月君は無論 話をつづけるつもりである。
「
それから徒町から百騎町を通って、両替町から鷹匠町へ出て、県庁の前で枯柳の数を勘定して病院の横で窓の灯を計算して、紺屋橋の上で巻煙草を二本ふかして、そうして時計を見た。……」
「
十時になったかい」
「
惜しい事にならないね。――紺屋橋を渡り切って川添に東へ上って行くと、按摩に三人あった。そうして犬がしきりに吠えましたよ先生……」
「
秋の夜長に川端で犬の遠吠をきくのは ちょっと芝居がかりだね。君は落人と言う格だ」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(79 / 116)
「
何かわるい事でもしたんですか」
「
これからしようと言うところさ」
「
可哀相にヴァイオリンを買うのが悪い事じゃ、音楽学校の生徒はみんな罪人ですよ」
「
人が認めない事をすれば、どんないい事をしても罪人さ、だから世の中に罪人ほどあてにならないものはない。耶蘇【キリスト】もあんな世に生れれば罪人さ。好男子寒月君もそんな所でヴァイオリンを買えば罪人さ」
「
それじゃ負けて罪人としておきましょう。罪人はいいですが十時にならないのには弱りました」
「
もう一返、町の名を勘定するさ。それで足りなければまた秋の日を かんかん させるさ。それでも おっつかなければ また甘干しの渋柿を三ダースも食うさ。いつまでも聞くから十時になるまでやりたまえ」
寒月先生は にやにやと笑った。
「
そう先を越されては降参するよりほかはありません。それじゃ一足飛びに十時にしてしまいましょう。さて御約束の十時になって金善の前へ来て見ると、夜寒の頃ですから、さすが目貫の両替町もほとんど人通りが絶えて、向からくる下駄の音さえ淋しい心持ちです。金善ではもう大戸をたてて、わずかに潜り戸だけを障子にしています。私は何となく犬に尾けられたような心持で、障子をあけて入るのに少々薄気味がわるかったです……」
この時
主人は きたならしい本からちょっと眼をはずして、「
おいもうヴァイオリンを買ったかい」と聞いた。「
これから買うところです」と
東風君が答えると「
まだ買わないのか、実に永いな」と
独り
言のように言ってまた本を読み出した。
独仙君は無言のまま、白と黒で碁盤を大半
埋めてしまった。
「
思い切って飛び込んで、頭巾を被ったままヴァイオリンをくれと言いますと、火鉢の周囲に四五人小僧や若僧がかたまって話をしていたのが驚いて、申し合せたように私の顔を見ました。私は思わず右の手を挙げて頭巾をぐいと前の方に引きました。おいヴァイオリンをくれと二度目に言うと、一番前にいて、私の顔を覗き込むようにしていた小僧がへえと覚束ない返事をして、立ち上がって例の店先に吊るしてあったのを三四梃一度に卸して来ました。いくらかと聞くと五円二十銭だと言います……」
「
おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか」
「
みんな同価かと聞くと、へえ、どれでも変りはございません。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(80 / 116)
みんな丈夫に念を入れて拵らえてございますと言いますから、蝦蟇口のなかから五円札と銀貨を二十銭出して用意の大風呂敷を出してヴァイオリンを包みました。この間、店のものは話を中止してじっと私の顔を見ています。顔は頭巾でかくしてあるから分る気遣はないのですけれども何だか気がせいて一刻も早く往来へ出たくて堪りません。ようやくの事 風呂敷包を外套の下へ入れて、店を出たら、番頭が声を揃えてありがとう と大きな声を出したのには ひやっとしました。往来へ出てちょっと見回して見ると、幸誰もいないようですが、一丁ばかり向から二三人して町内中に響けとばかり詩吟をして来ます。こいつは大変だと金善の角を西へ折れて濠端を薬王師道へ出て、はんの木村から庚申山の裾へ出てようやく下宿へ帰りました。下宿へ帰って見たらもう二時十分前でした」
「
夜通しあるいていたようなものだね」と
東風君が気の毒そうに言うと「
やっと上がった。やれやれ長い道中双六だ」と
迷亭君はほっと一と息ついた。
「
これからが聞きどころですよ。今までは単に序幕です」
「
まだあるのかい。こいつは容易な事じゃない。たいていのものは君に逢っちゃ根気負けをするね」
「
根気はとにかく、ここでやめちゃ 仏作って魂入れず と一般【一緒】ですから、もう少し話します」
「
話すのは無論随意さ。聞く事は聞くよ」
「
どうです苦沙弥先生も御聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。ええ先生」
「
こん度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくってもいい」
「
まだ売るどこじゃありません」
「
そんならなお聞かなくてもいい」
「
どうも困るな、東風君、君だけだね、熱心に聞いてくれるのは。少し張合が抜けるがまあ仕方がない、ざっと話してしまおう」
「
ざっとでなくても いいから 緩くり話したまえ。大変面白い」
「
ヴァイオリンはようやくの思で手に入れたが、まず第一に困ったのは置き所だね。僕の所へは大分人が遊びにくるから滅多な所へぶらさげたり、立て懸けたりするとすぐ露見してしまう。穴を掘って埋めちゃ掘り出すのが面倒だろう」
「
そうさ、天井裏へでも隠したかい」と
東風君は気楽な事を言う。
「
天井はないさ。百姓家だもの」
「
そりゃ困ったろう。どこへ入れたい」
「
どこへ入れたと思う」
「
わからないね。戸袋のなかか」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(81 / 116)
「
いいえ」
「
夜具にくるんで戸棚へしまったか」
「
いいえ」
東風君と
寒月君はヴァイオリンの
隠れ
家についてかくのごとく問答をしているうちに、
主人と
迷亭君も何かしきりに話している。
「
こりゃ何と読むのだい」と
主人が聞く。
「
どれ」
「
この二行さ」
「
何だって? 〔Quid aliud est mulier nisi amicitiae& inimica【女とは、友情にとっての敵でしかないのではないか?】〕……こりゃ君羅甸語じゃないか」
「
羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」
「
だって君は平生 羅甸語が読めると言ってるじゃないか」と
迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「
無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」
「
読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」
「
何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ」
「
見ろは烈しいね。まるで従卒【将校当番兵】のようだね」
「
従卒でもいいから何だ」
「
まあ羅甸語などは あとにして、ちょっと寒月君のご高話を拝聴仕ろうじゃないか。今 大変なところだよ。いよいよ露見するか、しないか危機一髪と言う安宅の関【源義経の勧進帳の舞台】へかかってるんだ。――ねえ寒月君それからどうしたい」と急に乗気になって、またヴァイオリンの仲間入りをする。
主人は
情けなくも取り残された。
寒月君はこれに勢を得て隠し所を説明する。
「
とうとう 古つづら の中へ隠しました。このつづらは国を出る時御祖母さんが餞別にくれたものですが、何でも御祖母さんが嫁にくる時持って来たものだそうです」
「
そいつは古物だね。ヴァイオリンとは少し調和しないようだ。ねえ東風君」
「
ええ、ちと調和せんです」
「
天井裏だって調和しないじゃないか」と
寒月君は
東風先生をやり込めた。
「
調和はしないが、句にはなるよ、安心し給え。秋淋しつづらにかくすヴァイオリンはどうだい、両君」
「
先生今日は大分俳句が出来ますね」
「
今日に限った事じゃない。いつでも腹の中で出来てるのさ。僕の俳句における造詣【深い知識や理解】と言ったら、故子規子【亡くなった子規先生】も舌を捲いて驚ろいたくらいのものさ」
「
先生、子規さんとは御つき合でしたか」と正直な
東風君は
真率【率直】な質問をかける。
「
なにつき合わなくっても始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ【心の底まで知り合う友情があった】」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(82 / 116)
と無茶苦茶を言うので、
東風先生あきれて黙ってしまった。
寒月君は笑いながらまた進行する。
「
それで置き所だけは出来た訳だが、今度は出すのに困った。ただ出すだけなら人目を掠めて眺めるくらいはやれん事はないが、眺めたばかりじゃ何にもならない。弾かなければ役に立たない。弾けば音が出る。出ればすぐ露見する。ちょうど木槿垣を一重隔てて南隣りは沈殿組【無気力で停滞したような隣人】の頭領が下宿しているんだから剣呑【危なっかしい】だあね」
「
困るね」と
東風君が気の毒そうに調子を合わせる。
「
なるほど、こりゃ困る。論より証拠 音が出るんだから、小督の局【平安時代末期の、有名な悲恋の物語のヒロイン】も全くこれでしくじったんだからね。これがぬすみ食をするとか、贋札を造るとか言うなら、まだ始末がいいが、音曲は人に隠しちゃ出来ないものだからね」
「
音さえ出なければどうでも出来るんですが……」
「
ちょっと待った。音さえ出なけりゃと言うが、音が出なくても隠し了せないのがあるよ。昔し僕等が小石川の御寺で自炊をしている時分に鈴木の藤さんと言う人がいてね、この藤さんが大変味淋がすきで、ビールの徳利へ味淋を買って来ては一人で楽しみに飲んでいたのさ。ある日藤さんが散歩に出たあとで、よせばいいのに苦沙弥君がちょっと盗んで飲んだところが……」
「
おれが鈴木の味淋などをのむものか、飲んだのは君だぜ」と
主人は突然大きな声を出した。
「
おや本を読んでるから大丈夫かと思ったら、やはり聞いてるね。油断の出来ない男だ。耳も八丁【八方からの音を聞き取る】、目も八丁とは君の事だ。なるほど言われて見ると僕も飲んだ。僕も飲んだには相違ないが、発覚したのは君の方だよ。――両君まあ聞きたまえ。苦沙弥先生元来酒は飲めないのだよ。ところを人の味淋だと思って一生懸命に飲んだものだから、さあ大変、顔中真赤にはれ上ってね。いやもう二目とは見られない ありさまさ……」
「
黙っていろ。羅甸語も読めない癖に」
「
ハハハハ、それで藤さんが帰って来てビールの徳利をふって見ると、半分以上足りない。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(83 / 116)
何でも誰か飲んだに相違ないと言うので見回して見ると、大将隅の方に朱泥【赤褐色の急須を思い浮かべて】を練りかためた人形のように かたくなっていらあね……」
三人は思わず
哄然と【どっと】笑い出した。
主人も本をよみながら、くすくすと笑った。
独り
独仙君に至っては
機外の
機を
弄し過ぎて、少々疲労したと見えて、碁盤の上へのしかかって、いつの間にやら、ぐうぐう寝ている。「
まだ音がしないもので露見した事がある。僕が昔し姥子の温泉に行って、一人のじじいと相宿になった事がある。何でも東京の呉服屋の隠居か何かだったがね。まあ相宿だから呉服屋だろうが、古着屋だろうが構う事はないが、ただ困った事が一つ出来てしまった。と言うのは僕は姥子へ着いてから三日目に煙草を切らしてしまったのさ。諸君も知ってるだろうが、あの姥子と言うのは山の中の一軒屋でただ温泉に入って飯を食うよりほかに どうもこうも仕様のない不便の所さ。そこで煙草を切らしたのだから御難だね。物はないとなると なお欲しくなるもので、煙草がないなと思うやいなや、いつもそんなでないのが急に呑みたくなり出してね。意地のわるい事に、そのじじいが風呂敷に一杯煙草を用意して登山しているのさ。それを少しずつ出しては、人の前で胡坐をかいて呑みたいだろうと言わないばかりに、すぱすぱふかすのだね。ただふかすだけなら勘弁のしようもあるが、しまいには煙を輪に吹いて見たり、竪に吹いたり、横に吹いたり、乃至は邯鄲 夢の枕【軽業や曲芸の演目】と逆に吹いたり、または鼻から獅子の洞入り、洞返りに吹いたり。つまり呑み びらかす んだね……」
「
何です、呑みびらかすと言うのは」
「
衣装道具なら見せびらかすのだが、煙草だから呑みびらかすのさ」
「
へえ、そんな苦しい思いをなさるより貰ったらいいでしょう」
「
ところが貰わないね。僕も男子だ」
「
へえ、貰っちゃいけないんですか」
「
いけるかも知れないが、貰わないね」
「
それでどうしました」
「
貰わないで偸んだ」
「
おやおや」
「
奴さん手拭をぶらさげて湯に出掛けたから、呑むならここだと思って一心不乱立てつづけに呑んで、ああ愉快だと思う間もなく、障子がからりとあいたから、おやと振り返ると煙草の持ち主さ」
「
湯には入らなかったのですか」
「
入ろうと思ったら巾着を忘れたのに気がついて、廊下から引き返したんだ。人が巾着でもとりゃしまいし第一それからが失敬さ」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(84 / 116)
「
何とも言えませんね。煙草の御手際じゃ」
「
ハハハハじじいもなかなか眼識があるよ。巾着はとにかくだが、じいさんが障子をあけると二日間の溜め呑みをやった煙草の煙りがむっとするほど室のなかに籠ってるじゃないか、悪事千里とはよく言ったものだね。たちまち露見してしまった」
「
じいさん何とかいいましたか」
「
さすが年の功だね、何にも言わずに巻煙草を五六十本半紙にくるんで、失礼ですが、こんな粗葉でよろしければ どうぞお呑み下さいましと言って、また湯壺へ下りて行ったよ」
「
そんなのが江戸趣味と言うのでしょうか」
「
江戸趣味だか、呉服屋趣味だか知らないが、それから僕は爺さんと大に肝胆相照らして【親しくなって】、二週間の間 面白く逗留して帰って来たよ」
「
煙草は二週間中爺さんの御馳走になったんですか」
「
まあそんなところだね」
「
もうヴァイオリンは片ついたかい」と
主人はようやく本を伏せて、起き上りながらついに降参を申し込んだ。
「
まだです。これからが面白いところです、ちょうどいい時ですから聞いて下さい。ついでにあの碁盤の上で昼寝をしている先生――何とか言いましたね、え、独仙先生、――独仙先生にも聞いていただきたいな。どうですあんなに寝ちゃ、からだに毒ですぜ。もう起してもいいでしょう」
「
おい、独仙君、起きた起きた。面白い話がある。起きるんだよ。そう寝ちゃ毒だとさ。奥さんが心配だとさ」
「
え」と言いながら顔を上げた
独仙君の
山羊髯を伝わって
垂涎が一筋長々と流れて、
蝸牛の這った
迹のように歴然と光っている。
「
ああ、眠かった。山上の白雲わが懶きに似たり【山の上に漂う白い雲は、私の怠け者に似ている】か。ああ、いい心持ちに寝たよ」
「
寝たのはみんなが認めているのだがね。ちっと起きちゃどうだい」
「
もう、起きてもいいね。何か面白い話があるかい」「
これからいよいよヴァイオリンを――どうするんだったかな、苦沙弥君」
「
どうするのかな、とんと見当がつかない」
「
これからいよいよ弾くところです」
「
これからいよいよヴァイオリンを弾くところだよ。こっちへ出て来て、聞きたまえ」
「
まだヴァイオリンかい。困ったな」
「
君は無絃の素琴を弾ずる連中だから困らない方なんだが、寒月君のは、きいきいぴいぴい近所合壁へ聞えるのだから大に困ってるところだ」
「
そうかい。寒月君近所へ聞えないようにヴァイオリンを弾く方を知らんですか」
「
知りませんね、あるなら伺いたいもので」
「
伺わなくても露地の白牛を見ればすぐ分るはずだが」と、何だか通じない事を言う。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(85 / 116)
寒月君はねぼけてあんな珍語を
弄するのだろうと鑑定したから、わざと相手にならないで話頭を進めた。
「
ようやくの事で一策を案出しました。あくる日は天長節だから、朝からうちにいて、つづらの蓋をとって見たり、かぶせて見たり一日そわそわして暮らしてしまいましたが いよいよ日が暮れて、つづらの底で蛼が鳴き出した時思い切って例のヴァイオリンと弓を取り出しました」
「
いよいよ出たね」と
東風君が言うと「
滅多に弾くとあぶないよ」と
迷亭君が注意した。
「
まず弓を取って、切先から鍔元までしらべて見る……」
「
下手な刀屋じゃあるまいし」と
迷亭君が
冷評した。「
実際これが自分の魂だと思うと、侍が研ぎ澄した名刀を、長夜の灯影で鞘払【刀を引き抜く動作】をする時のような心持ちがするものですよ。私は弓を持ったまま ぶるぶると ふるえました」
「
全く天才だ」と言う
東風君について「
全く癲癇だ」と
迷亭君がつけた。
主人は「
早く弾いたらよかろう」と言う。
独仙君は困ったものだと言う顔付をする。
「
ありがたい事に弓は無難【問題なし】です。今度はヴァイオリンを同じくランプの傍へ引き付けて、裏表共よくしらべて見る。この間約五分間、つづらの底では始終蛼が鳴いていると思って下さい。……」
「
何とでも思ってやるから安心して弾くがいい」
「
まだ弾きゃしません。――幸いヴァイオリンも疵がない。これなら大丈夫とぬっくと立ち上がる……」
「
どっかへ行くのかい」
「
まあ少し黙って聞いて下さい。そう一句毎に邪魔をされちゃ話が出来ない。……」
「
おい諸君、だまるんだとさ。シーシー」
「
しゃべるのは君だけだぜ」
「
うん、そうか、これは失敬、謹聴謹聴」
「
ヴァイオリンを小脇に抱い込んで、草履を突かけたまま二三歩草の戸を出たが、まてしばし……」
「
そらおいでなすった。何でも、どっかで停電するに違ないと思った」
「
もう帰ったって甘干しの柿はないぜ」
「
そう諸先生が御まぜ返しになっては はなはだ遺憾の至りだが、東風君一人を相手にするより致し方がない。――いいかね東風君、二三歩出たがまた引き返して、国を出るとき三円二十銭で買った赤毛布を頭から被ってね、ふっとランプを消すと君真暗闇になって今度は草履の所在地が判然しなくなった」
「
一体どこへ行くんだい」
「
まあ聞いてたまい。ようやくの事草履を見つけて、表へ出ると星月夜に柿落葉、赤毛布にヴァイオリン。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(86 / 116)
右へ右へと爪先上りに庚申山へ差しかかってくると、東嶺寺の鐘がボーンと毛布を通して、耳を通して、頭の中へ響き渡った。何時だと思う、君」
「
知らないね」
「
九時だよ。これから秋の夜長をたった一人、山道八丁を大平と言う所まで登るのだが、平生なら臆病な僕の事だから、恐しくってたまらないところだけれども、一心不乱となると不思議なもので、怖いにも怖くないにも、毛頭そんな念はてんで心の中に起らないよ。ただヴァイオリンが弾きたいばかりで胸が一杯になってるんだから妙なものさ。この大平と言う所は庚申山の南側で 天気のいい日に登って見ると 赤松の間から城下が一目に見下せる眺望佳絶の平地で――そうさ広さはまあ百坪もあろうかね、真中に八畳敷ほどな一枚岩があって、北側は鵜の沼と言う池つづきで、池のまわりは三抱えもあろうと言う樟ばかりだ。山のなかだから、人の住んでる所は樟脳【クスノキの木片を水蒸気蒸留法によりつくられる天然の芳香・防虫剤】を採る小屋が一軒あるばかり、池の近辺は昼でもあまり心持ちのいい場所じゃない。幸い工兵が演習のため道を切り開いてくれたから、登るのに骨は折れない。ようやく一枚岩の上へ来て、毛布を敷いて、ともかくもその上へ坐った。こんな寒い晩に登ったのは始めてなんだから、岩の上へ坐って少し落ち着くと、あたりの淋しさが次第次第に腹の底へ沁み渡る。こう言う場合に人の心を乱すものはただ怖いと言う感じばかりだから、この感じさえ引き抜くと、余るところは皎々冽々たる空霊の気だけ【非常に澄み渡って明るく、冷たく清らかな、天空の霊的な気配】になる。二十分ほど茫然としているうちに何だか水晶で造った御殿のなかに、たった一人住んでるような気になった。しかもその一人住んでる僕のからだが――いやからだばかりじゃない、心も魂もことごとく寒天か何かで製造されたごとく、不思議に透き徹ってしまって、自分が水晶の御殿の中にいるのだか、自分の腹の中に水晶の御殿があるのだか、わからなくなって来た……」
「
飛んだ事になって来たね」と
迷亭君が真面目にからかうあとに付いて、
独仙君が「
面白い境界だ」と少しく感心したようすに見えた。
「
もしこの状態が長くつづいたら、私はあすの朝まで、せっかくのヴァイオリンも弾かずに、茫やり一枚岩の上に坐ってたかも知れないです……」
「
狐でもいる所かい」と
東風君がきいた。
「
こう言う具合で、自他の区別もなくなって、生きているか死んでいるか方角のつかない時に、突然後ろの古沼の奥でギャーと言う声がした。……」
「
いよいよ出たね」
「
その声が遠く反響を起して満山の秋の梢を、野分【秋草の野をふき分ける強い風】と共に渡ったと思ったら、はっと我に帰った……」
「
やっと安心した」と
迷亭君が胸を
撫でおろす真似をする。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(87 / 116)
「
大死一番乾坤新なり【大いなる決死の一歩を経て、天地が新しく生まれ変わる】」と
独仙君は目くばせをする。
寒月君にはちっとも通じない。
「
それから、我に帰ってあたりを見回わすと、庚申山一面はしんとして、雨垂れほどの音もしない。はてな今の音は何だろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大き過ぎるし、猿の声にしては――この辺によもや猿はおるまい。何だろう? 何だろうと言う問題が頭のなかに起ると、これを解釈しようと言うので今まで静まり返っていたやからが、紛然雑然糅然【秩序も意味もなく、さまざまなものがごちゃまぜになっている】としてあたかもコンノート殿下【ヴィクトリア女王の三男】歓迎の当時における都人士【都会人】狂乱の態度を以て脳裏をかけ回る。そのうちに総身【全身】の毛穴が急にあいて、焼酎を吹きかけた毛脛のように、勇気、胆力、分別、沈着などと号するお客様がすうすうと蒸発して行く。心臓が肋骨の下でステテコを踊り出す【ステテコ姿で踊り出す】。両足が紙鳶のうなりのように震動をはじめる。これはたまらん。いきなり、毛布を頭からかぶって、ヴァイオリンを小脇に掻い込んでひょろひょろと一枚岩を飛び下りて、一目散に山道八丁を麓の方へかけ下りて、宿へ帰って布団へくるまって寝てしまった。今考えてもあんな気味のわるかった事はないよ、東風君」
「
それから」
「
それでおしまいさ」
「
ヴァイオリンは弾かないのかい」
「
弾きたくっても、弾かれないじゃないか。ギャーだもの。君だってきっと弾かれないよ」
「
何だか君の話は物足りないような気がする」
「
気がしても事実だよ。どうです先生」と
寒月君は一座を見回わして大得意のようすである。
「
ハハハハこれは上出来。そこまで持って行くにはだいぶ苦心 惨憺たる【見るに忍びない】ものがあったのだろう。僕は男子のサンドラ・ベロニ【聡明で情熱的なイタリア系の歌姫】が東方君子の邦に出現するところかと思って、今が今まで真面目に拝聴していたんだよ」と言った
迷亭君は誰かサンドラ・ベロニの講釈でも聞くかと思のほか、何にも質問が出ないので「
サンドラ・ベロニが月下に竪琴を弾いて、以太利亜風の歌を森の中でうたってるところは、君の庚申山へヴァイオリンをかかえて上るところと同曲にして異巧なる【異なる味わいがある】ものだね。惜しい事に向うは月中の嫦娥【月に住む清らかな美女】を驚ろかし、君は古沼の怪狸【化け狸】におどろかされたので、際どいところで滑稽と崇高の大差を来たした。さぞ遺憾だろう」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(88 / 116)
と一人で説明すると、
「
そんなに遺憾ではありません」と
寒月君は存外平気である。
「
全体山の上でヴァイオリンを弾こうなんて、ハイカラをやるから、おどかされるんだ」と今度は
主人が酷評を加えると、
「
好漢この鬼窟裏に向って生計を営む【気骨ある男が、こんな鬼の巣のような場所に立ち向かいながら、日々の暮らしを立てている】。惜しい事だ」と
独仙君は嘆息した。すべて
独仙君の言う事は決して
寒月君にわかったためしがない。
寒月君ばかりではない、おそらく誰にでもわからないだろう。
「
そりゃ、そうと寒月君、近頃でも矢張り学校へ行って珠ばかり磨いてるのかね」と
迷亭先生はしばらくして話頭を転じた。
「
いえ、こないだうちから国へ帰省していたもんですから、暫時中止の姿です。珠ももうあきましたから、実はよそうかと思ってるんです」
「
だって珠が磨けないと博士にはなれんぜ」と
主人は少しく眉をひそめたが、本人は存外気楽で、
「
博士ですか、エヘヘヘヘ。博士なら もうならなくってもいいんです」
「
でも結婚が延びて、双方困るだろう」
「
結婚って誰の結婚です」
「
君のさ」
「
私が誰と結婚するんです」
「
金田の令嬢さ」
「
へええ」
「
へえって、あれほど約束があるじゃないか」
「
約束なんかありゃしません、そんな事を言い触らすなあ、向うの勝手です」
「
こいつは少し乱暴だ。ねえ迷亭、君もあの一件は知ってるだろう」
「
あの一件た、鼻事件かい。あの事件なら、君と僕が知ってるばかりじゃない、公然の秘密として天下一般に知れ渡ってる。現に万朝【新聞】なぞでは花聟花嫁と言う表題で両君の写真を紙上に掲ぐるの栄はいつだろう、いつだろうって、うるさく僕のところへ聞きにくるくらいだ。東風君なぞは すでに鴛鴦歌【夫婦愛・恋情を題材にした詩歌】と言う一大長編を作って、三箇月前から待ってるんだが、寒月君が博士にならないばかりで、せっかくの傑作も宝の持ち腐れになりそうで心配でたまらないそうだ。ねえ、東風君そうだろう」
「
まだ心配するほど持ちあつかって【取り扱っては】はいませんが、とにかく満腹の同情をこめた作を公けにするつもりです」
「
それ見たまえ、君が博士になるか ならないかで、四方八方へ飛んだ影響が及んでくるよ。少ししっかりして、珠を磨いてくれたまえ」
「
へへへへいろいろ御心配をかけて済みませんが、もう博士には ならないでもいいのです」
「
なぜ」
「
なぜって、私にはもう歴然とした女房があるんです」
「
いや、こりゃえらい。いつの間に秘密結婚をやったのかね。油断のならない世の中だ。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(89 / 116)
苦沙弥さん ただ今御聞き及びの通り寒月君はすでに妻子があるんだとさ」
「
子供はまだですよ。そう結婚して一と月も たたないうちに 子供が生れちゃ事でさあ」
「
元来いつどこで結婚したんだ」と
主人は予審判事見たような質問をかける。
「
いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。今日先生の所へ持って来た、この鰹節は結婚祝に親類から貰ったんです」
「
たった三本祝うのは けちだな」
「
なに沢山のうちを三本だけ持って来たのです」
「
じゃ御国の女だね、やっぱり色が黒いんだね」
「
ええ、真黒です。ちょうど私には相当です」「
それで金田の方はどうする気だい」
「
どうする気でもありません」
「
そりゃ少し義理がわるかろう。ねえ迷亭」
「
わるくもないさ。ほかへやりゃ同じ事だ。どうせ夫婦なんてものは闇の中で鉢合せをするようなものだ。要するに鉢合せをしないでも すむところを わざわざ鉢合せるんだから余計な事さ。すでに余計な事なら誰と誰の鉢が合ったって構いっこないよ。ただ気の毒なのは鴛鴦歌を作った東風君くらいなものさ」
「
なに鴛鴦歌は都合によって、こちらへ向け易えてもよろしゅうございます。金田家の結婚式にはまた別に作りますから」
「
さすが詩人だけあって自由自在なものだね」
「
金田の方へ断わったかい」と
主人はまだ
金田を気にしている。
「
いいえ。断わる訳がありません。私の方でくれとも、貰いたいとも、先方へ申し込んだ事はありませんから、黙っていれば沢山です。――なあに黙ってても沢山ですよ。今時分は探偵が十人も二十人もかかって一部始終残らず知れていますよ」
探偵と言う
言語を聞いた、
主人は、急に
苦い顔をして
「
ふん、そんなら黙っていろ」と申し渡したが、それでも
飽き足らなかったと見えて、なお探偵について
下のような事をさも大議論のように述べられた。
「
不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(90 / 116)
ダンビラ【段平:幅広の刀】を畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。だから探偵と言う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。そんな奴の言う事を聞くと癖になる。決して負けるな」「
なに大丈夫です、探偵の千人や二千人、風上に隊伍【隊列】を整えて襲撃したって怖くはありません。珠磨りの名人理学士水島寒月でさあ」
「
ひやひや見上げたものだ。さすが新婚学士ほどあって元気旺盛なものだね。しかし苦沙弥さん。探偵がスリ、泥棒、強盗の同類なら、その探偵を使う金田君のごときものは何の同類だろう」
「
熊坂長範【平安時代の伝説上の盗賊】くらいなものだろう」
「
熊坂はよかったね。一つと見えたる長範が二つになってぞ失せにけり【一つに見えた長範が、二つに分かれてどこかへ消えてしまった】と言うが、あんな烏金【一昼夜を期限として高利で金を貸す業者】で身代をつくった向横丁の長範なんかは 業つく張りの、慾張り屋だから、いくつになっても失せる気遣はないぜ。あんな奴につかまったら因果だよ。生涯たたるよ、寒月君用心したまえ」
「
なあに、いいですよ。ああら物々し盗人よ。手並は さきにも知りつらん【以前から知っていただろう】。それにも懲りず打ち入るかって、ひどい目に合せてやりまさあ」と
寒月君は自若として【落ち着いていて】
宝生流【能楽の流派のひとつ】に
気焰を
吐いて見せる【勇ましい態度をとる】。
「
探偵と言えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう言う訳だろう」と
独仙君は独仙君だけに時局問題には関係のない超然たる質問を呈出した。
「
物価が高いせいでしょう」と
寒月君が答える。
「
芸術趣味を解しないからでしょう」と
東風君が答える。
「
人間に文明の角が生えて、金米糖のように いらいらするからさ」と
迷亭君が答える。
今度は
主人の番である。
主人はもったい
振った口調で、こんな議論を始めた。
「
それは僕が大分考えた事だ。僕の解釈によると当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている。僕の自覚心と名づけるのは独仙君の方で言う、見性成仏【自己の本性を悟ることによって仏の境地に達する】とか、自己は天地と同一体だとか言う悟道【仏の教えの真髄をさとること】の類ではない。……」
「
おや大分むずかしくなって来たようだ。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(91 / 116)
苦沙弥君、君にしてそんな大議論を舌頭に弄する以上は、かく申す迷亭も憚りながら御あとで現代の文明に対する不平を堂々と言うよ」
「
勝手に言うがいい、言う事もない癖に」
「
ところがある。大にある。君なぞはせんだっては刑事巡査を神のごとく敬い、また今日は探偵をスリ泥棒に比し、まるで矛盾の変怪だが、僕などは終始一貫父母未生以前からただ今に至るまで、かつて自説を変じた事のない男だ」
「
刑事は刑事だ。探偵は探偵だ。せんだってはせんだってで今日は今日だ。自説が変らないのは発達しない証拠だ。下愚【非常に愚かな人】は移らずと言うのは君の事だ。……」
「
これはきびしい。探偵もそうまともにくると可愛いところがある」
「
おれが探偵」
「
探偵でないから、正直でいいと言うのだよ。喧嘩はおやめおやめ。さあ。その大議論のあとを拝聴しよう」「
今の人の自覚心と言うのは 自己と他人の間に截然たる【はっきりとした】利害の鴻溝【隔たり】がある と言う事を知り過ぎていると言う事だ。そうしてこの自覚心なるものは文明が進むにしたがって一日一日と鋭敏になって行くから、しまいには一挙手一投足も自然天然とは出来ないようになる。ヘンレー【ウィリアム・アーネスト・ヘンリー:イギリスの詩人】と言う人がスチーヴンソン【ロバート・ルイス・スチーヴンソン:スコットランドの小説家、『ジキル博士とハイド氏』や『宝島』などの代表作で有名】を評して彼は鏡のかかった部屋に入って、鏡の前を通る毎に自己の影を写して見なければ気が済まぬほど 瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日の趨勢を言いあらわしている。寝てもおれ、覚めてもおれ、このおれが至るところに つけまつわっているから、人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり、ちょうど見合をする若い男女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々とか従容【落ち着きがある様子】とか言う字は劃【区切り】があって意味のない言葉になってしまう。この点において今代の人は探偵的である。泥棒的である。探偵は人の目を掠めて自分だけうまい事をしようと言う商売だから、勢自覚心が強くならなくては出来ん。泥棒も捕まるか、見つかるかと言う心配が念頭を離れる事がないから、勢 自覚心が強くならざるを得ない。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(92 / 116)
今の人はどうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒めても考えつづけだから、勢 探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の咒詛【のろい】だ。馬鹿馬鹿しい」
「
なるほど面白い解釈だ」と
独仙君が言い出した。こんな問題になると
独仙君は なかなか
引込んでいない男である。「
苦沙弥君の説明はよく我意を得ている。昔しの人は己れを忘れろと教えたものだ。今の人は 己れを忘れるなと教える からまるで違う。二六時中己れと言う意識をもって充満している。それだから二六時中太平の時はない。いつでも焦熱地獄だ。天下に何が薬だと言って 己れを忘れるより 薬な事はない。三更【中国の古い時刻の呼び方の一つで、夜中の時間帯を3つに分けたうちの3番目の時間:午後11時頃から午前1時頃の深夜】月下 入無我【無我の境地に入る】とはこの至境を咏じたものさ。今の人は親切をしても自然をかいている。英吉利のナイスなどと自慢する行為も存外自覚心が張り切れそうになっている。英国の天子が印度へ遊びに行って、印度の王族と食卓を共にした時に、その王族が天子の前とも心づかずに、つい自国の我流を出して馬鈴薯を手攫みで皿へとって、あとから真赤になって愧じ入ったら、天子は知らん顔をして やはり二本指で馬鈴薯を皿へとったそうだ……」
「
それが英吉利趣味ですか」これは
寒月君の質問であった。
「
僕はこんな話を聞いた」と
主人が後をつける。「
やはり英国のある兵営で聯隊の士官が大勢して一人の下士官【士官の下の地位の人】を御馳走した事がある。御馳走が済んで手を洗う水を硝子鉢へ入れて出したら、この下士官は宴会になれんと見えて、硝子鉢を口へあてて中の水をぐうと飲んでしまった。すると聯隊長が突然下士官の健康を祝すと言いながら、やはりフㇶンガー・ボールの水を一息に飲み干したそうだ。そこで並みいる士官も我劣らじと水盃を挙げて下士官の健康を祝したと言うぜ」
「
こんな噺もあるよ」とだまってる事の
嫌な
迷亭君が言った。「
カーライル【イギリスの歴史家】が始めて女皇に謁した【お目にかかった】時、宮廷の礼に嫻わぬ変物の事だから、先生突然どうですと言いながら、どさりと椅子へ腰をおろした。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(93 / 116)
ところが女皇の後ろに立っていた大勢の侍従や官女がみんな くすくす笑い出した――出したのではない、出そうとしたのさ、すると女皇が後ろを向いて、ちょっと何か相図をしたら、多勢の侍従官女がいつの間にかみんな椅子へ腰をかけて、カーライルは面目を失わなかったと言うんだが随分御念の入った親切もあったもんだ」
「
カーライルの事なら、みんなが立ってても平気だったかも知れませんよ」と
寒月君が短評を試みた。
「
親切の方の自覚心は まあいいがね」と
独仙君は進行する。「
自覚心があるだけ親切をするにも骨が折れる訳になる。気の毒な事さ。文明が進むに従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際がおだやかになる などと普通言うが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうしておだやかになれるものか。なるほどちょっと見ると ごくしずかで無事なようだが、御互の間は非常に苦しいのさ。ちょうど相撲が土俵の真中で四つに組んで動かないようなものだろう。はたから見ると平穏至極だが当人の腹は波を打っているじゃないか」
「
喧嘩も昔しの喧嘩は暴力で圧迫するのだからかえって罪はなかったが、近頃じゃなかなか巧妙になってるから なおなお自覚心が増してくるんだね」と番が
迷亭先生の頭の上に廻って来る。「
ベーコン【フランシス・ベーコン:17世紀イギリスの哲学者】の言葉に自然の力に従って始めて自然に勝つとあるが、今の喧嘩は正にベーコンの格言通りに出来上ってるから不思議だ。ちょうど柔術のようなものさ。敵の力を利用して敵を斃す事を考える……」
「
または水力電気のようなものですね。水の力に逆らわないで かえってこれを電力に変化して立派に役に立たせる……」と
寒月君が言いかけると、
独仙君がすぐそのあとを引き取った。「
だから貧時には貧に縛せられ、富時には富に縛せられ、憂時には憂に縛せられ、喜時には喜に縛せられるのさ。才人は才に斃れ、智者は智に敗れ、苦沙弥君のような癇癪持ちは癇癪を利用さえすれば すぐに飛び出して敵のぺてんに罹る【手口に引っかかる】……」
「
ひやひや」と
迷亭君が手をたたくと、
苦沙弥君は にやにや笑いながら「
これで なかなか そう甘くは行かないのだよ」と答えたら、みんな一度に笑い出した。
「
時に金田のようなのは何で斃れるだろう」
「
女房は鼻で斃れ、主人は因業【仕打ちのむごさ】で斃れ、子分は探偵で斃れか」
「
娘は?」
「
娘は――娘は見た事がないから何とも言えないが――まず着倒れか、食い倒れ、もしくは呑んだくれの類だろう。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(94 / 116)
よもや恋い倒れにはなるまい。ことによると卒塔婆小町【小町が卒都婆(墓標)に腰掛け‥】のように行き倒れになるかも知れない」
「
それは少しひどい」と新体詩を
捧げただけに
東風君が異議を申し立てた。
「
だから応無所住而生其心【『何ものにもとらわれず、心を生じなさい』という意味の禅語】と言うのは大事な言葉だ、そう言う境界に至らんと人間は苦しくてならん」と
独仙君しきりに
独り悟ったような事を言う。
「
そう威張るもんじゃないよ。君などはことによると電光影裏に【稲妻のような一瞬の光と影の中で】さか倒れをやる【ひっくり返る】かも知れないぜ」
「
とにかくこの勢で文明が進んで行った日にや僕は生きてるのはいやだ」と
主人がいい出した。
「
遠慮はいらないから死ぬさ」と
迷亭が
言下に
道破する【はっきり言う】。
「
死ぬのは なおいやだ」と
主人がわからん強情を張る。
「
生れる時には誰も熟考して生れるものは有りませんが、死ぬ時には誰も苦にすると見えますね」と
寒月君がよそよそしい格言をのべる。
「
金を借りるときには何の気なしに借りるが、返す時にはみんな心配するのと同じ事さ」とこんな時にすぐ返事の出来るのは
迷亭君である。
「
借りた金を返す事を考えないものは幸福であるごとく、死ぬ事を苦にせんものは幸福さ」と
独仙君は超然として
出世間的である。
「
君のように言うとつまり図太いのが悟ったのだね」
「
そうさ、禅語に鉄牛面の鉄牛心【表も心も一貫して鉄牛のごとし】、牛鉄面の牛鉄心【表現を変えても意味は変わらない】と言うのがある」
「
そうして君はその標本と言う訳かね」
「
そうでもない。しかし死ぬのを苦にするようになったのは神経衰弱と言う病気が発明されてから以後の事だよ」
「
なるほど君などはどこから見ても神経衰弱以前の民だよ」
迷亭と
独仙が妙な
掛合をのべつにやっていると、
主人は
寒月東風二君を相手にしてしきりに文明の不平を述べている。
「
どうして借りた金を返さずに済ますかが問題である」
「
そんな問題はありませんよ。借りたものは返さなくちゃなりませんよ」
「
まあさ。議論だから、だまって聞くがいい。どうして借りた金を返さずに済ますかが問題であるごとく、どうしたら死なずに済むかが問題である。いな問題であった。錬金術はこれである。すべての錬金術は失敗した。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(95 / 116)
人間はどうしても死な なければ ならん事が分明【明確】になった」
「
錬金術以前から分明ですよ」
「
まあさ、議論だから、だまって聞いていろ。いいかい。どうしても死な なければ ならん事が分明になった時に第二の問題が起る」
「
へえ」
「
どうせ死ぬなら、どうして死んだらよかろう。これが第二の問題である。自殺クラブはこの第二の問題と共に起るべき運命を有している」「
なるほど」
「
死ぬ事は苦しい、しかし死ぬ事が出来なければ なお苦しい。神経衰弱の国民には生きている事が死よりも はなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのが厭だから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。ただ たいていのものは知恵が足りないから自然のままに放擲【放置】しておくうちに、世間がいじめ殺してくれる。しかし一と癖あるものは世間から なし崩しに いじめ殺されて満足するものではない。必ずや死に方に付いて種々考究の結果、嶄新な名案を呈出するに違ない。だからして世界向後の趨勢は自殺者が増加して、その自殺者が皆 独創的な方法をもってこの世を去るに違ない」
「
大分物騒な事になりますね」
「
なるよ。たしかになるよ。アーサー・ジョーンスと言う人のかいた脚本のなかにしきりに自殺を主張する哲学者があって……」
「
自殺するんですか」
「
ところが惜しい事にしないのだがね。しかし今から千年も立てばみんな実行するに相違ないよ。万年の後には死と言えば自殺よりほかに存在しないもののように考えられるようになる」
「
大変な事になりますね」
「
なるよきっとなる。そうなると自殺も大分研究が積んで立派な科学になって、落雲館のような中学校で倫理の代りに自殺学を正科として授けるようになる」
「
妙ですな、傍聴に出たいくらいのものですね。迷亭先生御聞きになりましたか。苦沙弥先生の御名論を」
「
聞いたよ。その時分になると落雲館の倫理の先生はこう言うね。諸君公徳などと言う野蛮の遺風を墨守【頑固に守る】してはなりません。世界の青年として諸君が第一に注意すべき義務は自殺である。しかして己れの好むところはこれを人に施こして可なる訳だから、自殺を一歩展開して他殺にしてもよろしい。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(96 / 116)
ことに表の窮措大【貧しい学者】珍野苦沙弥氏のごときものは生きてござるのが大分苦痛のように見受けらるるから、一刻も早く殺して進ぜるのが諸君の義務である。もっとも昔と違って今日は開明の時節であるから槍、薙刀もしくは飛道具の類を用いるような卑怯な振舞をしてはなりません。ただあてこすりの高尚なる技術によって、からかい殺すのが本人のため功徳にもなり、また諸君の名誉にもなるのであります。……」
「
なるほど面白い講義をしますね」
「
まだ面白い事があるよ。現代では警察が人民の生命財産を保護するのを第一の目的としている。ところがその時分になると巡査が犬殺しのような棍棒をもって天下の公民を撲殺してあるく。……」
「
なぜです」
「
なぜって今の人間は生命が大事だから警察で保護するんだが、その時分の国民は生きてるのが苦痛だから、巡査が慈悲のために打ち殺してくれるのさ。もっとも少し気の利いたものは大概自殺してしまうから、巡査に打殺されるような奴はよくよく意気地なしか、自殺の能力のない白痴【知的障害者】もしくは不具者【身体障害者】に限るのさ。それで殺されたい人間は門口へ張札をしておくのだね。なにただ、殺されたい男ありとか 女ありとか、はりつけておけば巡査が都合のいい時に巡ってきて、すぐ志望通り取計ってくれるのさ。死骸かね。死骸はやっぱり巡査が車を引いて拾ってあるくのさ。まだ面白い事が出来てくる。……」
「
どうも先生の冗談は際限がありませんね」と
東風君は
大に感心している。すると
独仙君は例の通り
山羊髯を気にしながら、のそのそ弁じ出した。
「
冗談と言えば冗談だが、予言と言えば予言かも知れない。真理に徹底しないものは、とかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫の夢幻【泡のように消えゆく、夢や幻のようにはかないもの】を永久の事実と認定したがるものだから、少し飛び離れた事を言うと、すぐ冗談にしてしまう」
「
燕雀焉んぞ大鵬の志を知らんや【小人物には大人物の志は理解できない】ですね」と
寒月君が恐れ入ると、
独仙君はそうさと言わぬばかりの顔付で話を進める。
「
昔しスペインにコルドヴァと言う所があった……」
「
今でもありゃしないか」
「
あるかも知れない。今昔の問題はとにかく、そこの風習として日暮れの鐘がお寺で鳴ると、家々の女がことごとく出て来て河へ入って水泳をやる……」
「
冬もやるんですか」
「
その辺はたしかに知らんが、とにかく貴賤老若【身分の高い人と低い人、老人と若者を問わず】の別なく河へ飛び込む。但し男子は一人も交らない。ただ遠くから見ている。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(97 / 116)
遠くから見ていると暮色青然【夕方になって、少しずつ暗くなっていく】たる波の上に、白い肌が模糊として動いている【白い肌が、ぼんやりと、ゆらゆらと、形を定めずに動いている】……」
「
詩的ですね。新体詩になりますね。なんと言う所ですか」と
東風君は
裸体が出さえすれば前へ乗り出してくる。
「
コルドヴァさ。そこで地方の若いものが、女といっしょに泳ぐ事も出来ず、さればと言って遠くから判然その姿を見る事も許されないのを残念に思って、ちょっといたずらをした……」
「
へえ、どんな趣向だい」といたずらと聞いた
迷亭君は
大に嬉しがる。
「
お寺の鐘つき番に賄賂を使って、日没を合図に撞く鐘を一時間前に鳴らした。すると女などは浅墓【思慮が足りない】なものだから、そら鐘が鳴ったと言うので、めいめい河岸へあつまって半襦袢、半股引の服装で ざぶりざぶり と水の中へ飛び込んだ。飛び込みはしたものの、いつもと違って日が暮れない」「
烈しい秋の日が かんかん しやしないか」
「
橋の上を見ると男が大勢立って眺めている。恥ずかしいがどうする事も出来ない。大に赤面したそうだ」
「
それで」
「
それでさ、人間はただ眼前の習慣に迷わされて、根本の原理を忘れるものだから気をつけないと駄目だと言う事さ」
「
なるほどありがたい御説教だ。眼前の習慣に迷わされの御話しを僕も一つやろうか。この間ある雑誌をよんだら、こう言う詐欺師の小説があった。僕がまあここで書画骨董店を開くとする。で店頭に大家の幅や、名人の道具類を並べておく。無論贋物じゃない、正直正銘、うそいつわりのない上等品ばかり並べておく。上等品だからみんな高価にきまってる。そこへ物数奇な御客さんが来て、この元信の幅はいくらだねと聞く。六百円なら六百円と僕が言うと、その客が欲しい事はほしいが、六百円では手元に持ち合せがないから、残念だがまあ見合せよう」
「
そう言うと きまってるかい」と
主人は相変らず
芝居気のない事を言う。
迷亭君はぬからぬ顔で、
「
まあさ、小説だよ。言うとしておくんだ。そこで僕がなに代は構いませんから、お気に入ったら持っていらっしゃいと言う。客はそうも行かないからと躊躇する。それじゃ月賦でいただきましょう、月賦も細く、長く、どうせこれから御贔屓になるんですから――いえ、ちっとも御遠慮には及びません。どうです月に十円くらいじゃ。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(98 / 116)
何なら月に五円でも構いませんと僕が極きさくに言うんだ。それから僕と客の間に二三の問答があって、とど僕が狩野法眼元信【室町後期の画家】の幅を六百円ただし月賦十円払込の事で売渡す」
「
タイムスの百科全書見たようですね」
「
タイムスはたしかだが、僕のはすこぶる不慥だよ。これからがいよいよ巧妙なる詐偽に取りかかるのだぜ。よく聞きたまえ月十円ずつで六百円なら何年で皆済になると思う、寒月君」
「
無論五年でしょう」
「
無論五年。で五年の歳月は長いと思うか短かいと思うか、独仙君」
「
一念万年、万年一念。短かくもあり、短かくもなしだ」
「
何だそりゃ道歌か、常識のない道歌だね。そこで五年の間毎月十円ずつ払うのだから、つまり先方では六十回払えばいいのだ。しかしそこが習慣の恐ろしいところで、六十回も同じ事を毎月繰り返していると、六十一回にもやはり十円払う気になる。六十二回にも十円払う気になる。六十二回六十三回、回を重ねるにしたがってどうしても期日がくれば十円払わなくては気が済まないようになる。人間は利口のようだが、習慣に迷って、根本を忘れると言う大弱点がある。その弱点に乗じて僕が何度でも十円ずつ毎月得をするのさ」
「
ハハハハまさか、それほど忘れっぽくもならないでしょう」と
寒月君が笑うと、
主人はいささか真面目で、
「
いやそう言う事は全くあるよ。僕は大学の貸費【借りた費用】を毎月毎月勘定せずに返して、しまいに向から断わられた事がある」と自分の恥を人間一般の恥のように公言した。
「
そら、そう言う人が現に ここにいるから たしかなものだ。だから僕の先刻述べた文明の未来記を聞いて冗談だなどと笑うものは、六十回でいい月賦を生涯払って正当だと考える連中だ。ことに寒月君や、東風君のような経験の乏しい青年諸君は、よく僕らの言う事を聞いてだまされないようにしなくっちゃいけない」
「
かしこまりました。月賦は必ず六十回限りの事に致します」
「
いや冗談のようだが、実際参考になる話ですよ、寒月君」と
独仙君は
寒月君に向いだした。「
たとえばですね。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(99 / 116)
今苦沙弥君か迷亭君が、君が無断で結婚したのが穏当でないから、金田とか言う人に謝罪しろと忠告したら君どうです。謝罪する了見ですか」
「
謝罪は御容赦にあずかりたいですね。向うがあやまるなら特別、私の方ではそんな慾はありません」
「
警察が君にあやまれと命じたらどうです」
「
なおなお御免蒙ります」
「
大臣とか華族ならどうです」
「
いよいよもって御免蒙ります」
「
それ見たまえ。昔と今とは人間がそれだけ変ってる。昔は御上の御威光なら何でも出来た時代です。その次には御上の御威光でも出来ないものが出来てくる時代です。今の世はいかに殿下でも閣下でも、ある程度以上に個人の人格の上にのしかかる事が出来ない世の中です。はげしく言えば先方に権力があればあるほど、のしかかられるもの の方では不愉快を感じて反抗する世の中です。だから今の世は昔しと違って、御上の御威光だから出来ないのだと言う新現象のあらわれる時代です、昔しのものから考えると、ほとんど考えられないくらいな事柄が道理で通る世の中です。世態人情の変遷と言うものは実に不思議なもので、迷亭君の未来記も冗談だと言えば冗談に過ぎないのだが、その辺の消息を説明したものとすれば、なかなか味があるじゃないですか」
「
そう言う知己が出てくると是非未来記の続きが述べたくなるね。独仙君の御説のごとく今の世に御上の御威光を笠にきたり、竹槍の二三百本を恃にして無理を押し通そうとするのは、ちょうどカゴへ乗って何でも蚊でも汽車と競争しようとあせる、時代後れの頑物――まあわからずやの張本、烏金の長範先生くらいのものだから、黙って御手際を拝見していればいいが――僕の未来記はそんな当座間に合せの小問題じゃない。人間全体の運命に関する社会的現象だからね。つらつら目下文明の傾向を達観して、遠き将来の趨勢を卜すると結婚が不可能の事になる。驚ろくなかれ、結婚の不可能。訳はこうさ。前申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(100 / 116)
それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと言わぬばかりの風をするようになる。ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中で喧嘩を買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、滅多に人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明かに昔より弱くなったんだろう。強くなるのは嬉しいが、弱くなるのは誰もありがたくないから、人から一毫【微塵】も犯されまいと、強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛【髪の毛の半分】でも人を侵してやろうと、弱いところは無理にも拡げたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。」「
かくのごとく人間が自業自得で苦しんで、その苦し紛れに案出した第一の方案は 親子別居の制さ。日本でも山の中へ入って見給え。一家一門ことごとく一軒のうちに ごろごろしている。主張すべき個性もなく、あっても主張しないから、あれで済むのだが 文明の民は たとい親子の間でもお互に我儘を張れるだけ張らなければ損になるから 勢い両者の安全を保持するためには別居しなければならない。欧洲は文明が進んでいるから日本より早くこの制度が行われている。たまたま親子同居するものがあっても、息子がおやじから利息のつく金を借りたり、他人のように下宿料を払ったりする。親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払えばこそ、こんな美風が成立するのだ。この風は早晩日本へも是非輸入しなければならん。親類はとくに離れ、親子は今日に離れて、やっと我慢しているようなものの 個性の発展と、発展につれてこれに対する尊敬の念は無制限にのびて行くから、まだ離れなくては楽が出来ない。しかし親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはない訳だから、最後の方案として夫婦が分れる事になる。今の人の考では いっしょにいるから 夫婦だと思ってる。それが大きな了見違いさ。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(101 / 116)
いっしょにいるためには いっしょにいるに充分なるだけ 個性が合わなければならないだろう。昔しなら文句はないさ、異体同心とか言って、目には夫婦二人に見えるが、内実は一人前なんだ【でも実際のところは、一人前にしかならない】からね。それだから偕老同穴【夫婦が共に年老い、死後は同じ墓に入る】とか号して、死んでも一つ穴の狸に化ける。野蛮なものさ。今はそうは行かないやね。夫はあくまでも夫で妻はどうしたって妻だからね。その妻が女学校で行灯袴を穿いて牢乎たる【ゆるぎも見せない】個性を鍛え上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思う通りになる訳がない。また夫の思い通りになるような妻なら妻じゃない人形だからね。賢夫人になればなるほど個性は凄いほど発達する。発達すればするほど夫と合わなくなる。合わなければ自然の勢夫と衝突する。だから賢妻と名がつく以上は朝から晩まで夫と衝突している。まことに結構な事だが、賢妻を迎えれば迎えるほど 双方共 苦しみの程度が増してくる。水と油のように夫婦の間には截然たるしきりがあって、それも落ちついて、しきりが水平線を保っていればまだしもだが、水と油が双方から働らきかけるのだから 家のなかは 大地震のように上がったり下がったりする。ここにおいて夫婦雑居はお互の損だと言う事が次第に人間に分ってくる。……」「
それで夫婦がわかれるんですか。心配だな」と
寒月君が言った。
「
わかれる。きっとわかれる。天下の夫婦はみんな分れる。今まではいっしょにいたのが夫婦であったが、これからは同棲しているものは夫婦の資格がないように世間から目されてくる」
「
すると私なぞは資格のない組へ編入される訳ですね」と
寒月君は
際どいところで のろけ を言った。
「
明治の御代に生れて幸さ。僕などは未来記を作るだけあって、頭脳が時勢より一二歩ずつ前へ出ているから ちゃんと今から独身でいるんだよ。人は失恋の結果だなどと騒ぐが、近眼者の視るところは実に憐れなほど浅薄なものだ。それはとにかく、未来記の続きを話すとこうさ。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(102 / 116)
その時一人の哲学者が天降って破天荒の真理を唱道する。その説に曰くさ。人間は個性の動物である。個性を滅すれば人間を滅すると同結果に陥る。いやしくも人間の意義を完からしめんためには、いかなる価を払うとも構わないから この個性を保持すると同時に発達せしめなければならん。かの陋習【時代遅れの悪い慣習】に縛せられて【しばられて】、いやいやながら結婚を執行するのは 人間自然の傾向に反した蛮風であって、個性の発達せざる蒙昧【知識が低く道理に暗い】の時代はいざ知らず、文明の今日なお この弊竇【欠陥】に陥って恬【平然】として顧みないのは はなはだしき謬見【まちがった見解】である。開化の高潮度に達せる今代において 二個の個性が普通以上に 親密の程度をもって連結され得べき理由のあるべきはずがない。この覩易き【見てすぐわかる】理由はあるにも関らず 無教育の青年男女が一時の劣情に駆られて、漫に【分別なく】合卺の式【結婚の儀式】を挙ぐるは背徳没倫【道徳に反すること】の はなはだしき所為である。吾人は人道のため、文明のため、彼等青年男女の個性保護のため、全力を挙げこの蛮風に抵抗せざるべからず【抵抗しなければならない】……」
「
先生私はその説には全然反対です」と
東風君はこの時思い切った調子でぴたりと
平手で
膝頭を叩いた。「
私の考では世の中に何が尊いと言って愛と美ほど尊いものはないと思います。吾々を慰藉【なぐさめていたわる】し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭であります。吾人の情操を優美にし、品性を高潔にし、同情を洗錬するのは全く両者の御蔭であります。だから吾人はいつの世 いずくに生れても この二つのものを忘れることが出来ないです。この二つの者が現実世界にあらわれると、愛は夫婦と言う関係になります。美は詩歌、音楽の形式に分れます。それだからいやしくも人類の地球の表面に存在する限りは夫婦と芸術は決して滅する事はなかろうと思います」
「
なければ結構だが、今哲学者が言った通りちゃんと滅してしまうから仕方がないと、あきらめるさ。なに芸術だ? 芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展というのは個性の自由と言う意味だろう。個性の自由と言う意味はおれはおれ、人は人と言う意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(103 / 116)
君がいくら新体詩家だって踏張っても、君の詩を読んで面白いと言うものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君よりほかに読み手はなくなる訳だろう。鴛鴦歌をいく篇作ったって始まらないやね。幸いに明治の今日に生れたから、天下が挙って愛読するのだろうが……」
「
いえそれほどでもありません」
「
今でさえそれほどでなければ、人文の発達した未来即ち例の一大哲学者が出て非結婚論を主張する時分には誰もよみ手はなくなるぜ。いや君のだから読まないのじゃない。人々個々おのおの特別の個性をもってるから、人の作った詩文などは一向面白くないのさ。現に今でも英国などではこの傾向がちゃんとあらわれている。現今 英国の小説家中でもっとも個性のいちじるしい作品にあらわれた、メレジス【ジョージ・メレディス:イギリスの小説家】を見給え、ジェームス【ヘンリー・ジェイムズ:メリカ生まれで英国帰化の小説家】を見給え。読み手は極めて少ないじゃないか。少ない訳さ。あんな作品はあんな個性のある人でなければ読んで面白くないんだから仕方がない。この傾向がだんだん発達して婚姻が不道徳になる時分には芸術も完く滅亡さ。そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」
「
そりゃそうですけれども私はどうも直覚的【直感的】にそう思われないんです」
「
君が直覚的にそう思われなければ、僕は曲覚的にそう思うまでさ」
「
曲覚的かも知れないが」と今度は
独仙君が口を出す。「
とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人なんか担ぎ出すのも全くこの窮屈のやりどころがなくなって仕方なしに あんな哲学に変形したものだね。ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるが、ありゃ理想じゃない、不平さ。個性の発展した十九世紀にすくんで、隣りの人には心置なく滅多に寝返りも打てないから、大将少しやけになってあんな乱暴をかき散らしたのだね。あれを読むと壮快と言うよりむしろ気の毒になる。あの声は勇猛精進【積極的に物事に取り組む】の声じゃない、どうしても怨恨痛憤【恨み・深い悲しみ・強い怒りがないまぜになった激しい感情】の音だ。それもそのはずさ昔は一人えらい人があれば天下翕然として【一致して】その旗下にあつまるのだから、愉快なものさ。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(104 / 116)
こんな愉快が事実に出てくれば何もニーチェ見たように筆と紙の力でこれを書物の上にあらわす必要がない。だからホーマー【古代ギリシャの叙事詩人】でもチェヴィ・チェーズ【英国伝承の民謡的叙述】でも同じく超人的な性格を写しても感じがまるで違うからね。陽気ださ。愉快にかいてある。愉快な事実があって、この愉快な事実を紙に写しかえたのだから、苦味はないはずだ。ニーチェの時代はそうは行かないよ。英雄なんか一人も出やしない。出たって誰も英雄と立てやしない。昔は孔子がたった一人だったから、孔子も幅を利かしたのだが、今は孔子が幾人もいる。ことによると天下がことごとく孔子かも知れない。だからおれは孔子だよと威張っても圧が利かない。利かないから不平だ。不平だから超人などを書物の上だけで振り廻すのさ。吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困っている。それだから西洋の文明などは ちょっといいようでも つまり駄目なものさ。これに反して東洋じゃ昔しから心の修行をした。その方が正しいのさ。見給え個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった時、王者の民蕩々たり【理想的な王が治める国の民は、穏やかでゆったりとした暮らしをしている】と言う句の価値を始めて発見するから。無為にして化すと言う語の馬鹿に出来ない事を悟るから。しかし悟ったってその時はもうしようがない。アルコール中毒に罹って、ああ酒を飲まなければよかったと考えるようなものさ」
「
先生方は大分 厭世的【世の中を悲観的に捉える】な御説のようだが、私は妙ですね。いろいろ伺っても何とも感じません。どう言うものでしょう」と
寒月君が言う。
「
そりゃ妻君を持ち立てだからさ」と
迷亭君がすぐ解釈した。すると
主人が突然こんな事を言い出した。
「
妻を持って、女はいいものだなどと思うと飛んだ間違になる。参考のためだから、おれが面白い物を読んで聞かせる。よく聴くがいい」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(105 / 116)
と
最前書斎から持って来た古い本を取り上げて「
この本は古い本だが、この時代から女のわるい事は歴然と分ってる」と言うと、
寒月君が
「
少し驚きましたな。元来いつ頃の本ですか」と聞く。「
タマス・ナッシ【イングランド・エリザベス朝時代の風刺作家・詩人・劇作家】と言って十六世紀の著書だ」
「
いよいよ驚ろいた。その時分すでに私の妻の悪口を言ったものがあるんですか」
「
いろいろ女の悪口があるが、その内には是非君の妻も入る訳だから聞くがいい」
「
ええ聞きますよ。ありがたい事になりましたね」
「
まず古来の賢哲【賢人と哲人】が女性観を紹介すべしと書いてある。いいかね。聞いてるかね」
「
みんな聞いてるよ。独身の僕まで聞いてるよ」
「
アリストートル【アリストテレス】曰く 女はどうせ碌でなしなれば、嫁をとるなら、大きな嫁より小さな嫁をとるべし。大きな碌でなしより、小さな碌でなしの方が災少なし……」
「
寒月君の妻君は大きいかい、小さいかい」
「
大きな碌でなしの部ですよ」
「
ハハハハ、こりゃ面白い本だ。さあ あとを読んだ」
「
或る人 問う、いかなるかこれ最大奇跡。賢者答えて曰く、貞婦……」
「
賢者ってだれですか」
「
名前は書いてない」
「
どうせ振られた賢者に相違ないね」
「
次にはダイオジニス【古代ギリシアの哲学者】が出ている。或る人 問う、妻を娶る いずれの時においてすべきか。ダイオジニス答えて曰く 青年は未だし、老年はすでに遅し。とある」
「
先生 樽の中で考えたね」
「
ピサゴラス【ピタゴラス】曰く 天下に三の恐るべきものあり 曰く 火、曰く 水、曰く 女」
「
希臘の哲学者などは存外迂濶な事を言うものだね。僕に言わせると天下に恐るべきものなし。火に入って焼けず、水に入って溺れず……」だけで
独仙君ちょっと行き詰る。
「
女に逢ってとろけずだろう」と
迷亭先生が援兵に出る。
主人はさっさとあとを読む。
「
ソクラチス【ソクラテス】は 婦女子を御する【統治する】は人間の最大難事と言えり。デモスセニス【古代ギリシア・アテナイの雄弁家】曰く 人 もしその敵を苦しめんとせば、わが女を敵に与うるより 策の得たるはあらず【妙案は無い】。家庭の風波に 日となく夜となく 彼を困憊起つあたわざるに至らしむるを得ればなり【家庭内のもめごとにより、昼夜の区別なく彼を疲れ果てさせ、起き上がることすらできない状態にまで 追い込んだからである】と。セネカ【古代ローマの哲学者】は婦女と無学をもって世界における二大厄とし、マーカス・オーレリアス【古代ローマの皇帝であり、ストア派哲学者】は 女子は 制御し難き点において 船舶に似たりと言い、プロータス【プロタゴラス、古代ギリシアのソフィスト(知恵者)、哲学者】は 女子が綺羅を飾るの性癖をもって【華美な着飾りを好む性質があり】 その天稟の醜【生まれつきの醜さ】を蔽うの陋策に もとづくもの とせり【みっともない策で隠そうとすることに基づくものだ】。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(106 / 116)
ヴァレリアス【古代ローマ時代の人物】かつて書をその友某におくって告げて曰く 天下に何事も女子の忍んでなし得ざるものあらず【女性には不可能なことはない】。願わくは皇天憐を垂れて、君をして彼等の術中に陥らしむるなかれ【あなたが彼らの罠にはまらないようにしてください】と。彼また曰く 女子とは何ぞ。友愛の敵にあらずや【友愛の敵ではないか?】。避くべからざる苦しみにあらずや【避けることのできない苦しみではないか?】、必然の害にあらずや【必然的に起こる害ではないか?】、自然の誘惑にあらずや【自然のもたらす誘惑ではないか?】、蜜に似たる毒にあらずや【蜜のように甘いが毒のように危険なものではないか?】。もし女子を棄つる【女性を見捨てる】が不徳【道徳に反すること】ならば、彼等を棄てざるは一層の呵責と言わざるべからず【彼女らを見捨てないのはそれ以上に悪いと言わざるを得ない】。……」
「
もう沢山です、先生。そのくらい愚妻のわる口を拝聴すれば 申し分はありません」
「
まだ四五ページあるから、ついでに聞いたらどうだ」
「
もう たいていにするがいい。もう奥方の御帰りの刻限だろう」と
迷亭先生が からかい掛けると、茶の間の方で
「
清や、清や」と
細君が下女を呼ぶ声がする。
「
こいつは大変だ。奥方はちゃんといるぜ、君」
「
ウフフフフ」と
主人は笑いながら「
構うものか」と言った。
「
奥さん、奥さん。いつの間に御帰りですか」
茶の間では しんとして答がない。
「
奥さん、今のを聞いたんですか。え?」
答はまだない。
「
今のはね、御主人の御考ではないですよ。十六世紀のナッシ君の説ですから御安心なさい」
「
存じません」と
妻君は遠くで簡単な返事をした。
寒月君は くすくすと笑った。
「
私も存じませんで失礼しましたアハハハハ」と
迷亭君は遠慮なく笑ってると、
門口をあらあらしくあけて、頼むとも、御免とも言わず、大きな足音がしたと思ったら、座敷の唐紙が乱暴にあいて、
多々良三平君の顔がその間からあらわれた。
三平君 今日はいつに似ず、真白なシャツに
卸立てのフロックを着て、すでに幾分か
相場を狂わせてる上へ、右の手へ重そうに下げた四本の
麦酒を縄ぐるみ、
鰹節の
傍へ置くと同時に挨拶もせず、どっかと腰を下ろして、かつ膝を崩したのは
目覚しい
武者振である。
「
先生 胃病は近来いいですか。こうやって、うちにばかりいなさるから、いかんたい」
「
まだ悪いとも何ともいやしない」
「
いわんばってんが、顔色はよかなかごたる。先生顔色が黄ですばい。近頃は釣がいいです。品川から舟を一艘雇うて――私はこの前の日曜に行きました」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(107 / 116)
「
何か釣れたかい」
「
何も釣れません」
「
釣れなくっても面白いのかい」
「
浩然の気【おおらかで生き生きとした気力】を養うたい、あなた。どうですあなたがた。釣に行った事がありますか。面白いですよ釣は。大きな海の上を小舟で乗り廻わしてあるくのですからね」と誰彼の容赦なく話しかける。
「
僕は小さな海の上を大船で乗り廻してあるきたいんだ」と
迷亭君が相手になる。
「
どうせ釣るなら、鯨か人魚でも釣らなくっちゃ、詰らないです」と
寒月君が答えた。
「
そんなものが釣れますか。文学者は常識がないですね。……」
「
僕は文学者じゃありません」
「
そうですか、何ですかあなたは。私のようなビジネス・マンになると常識が一番大切ですからね。先生私は近来よっぽど常識に富んで来ました。どうしてもあんな所にいると、傍が傍だから、おのずから、そうなってしまうです」
「
どうなってしまうのだ」
「
煙草でもですね、朝日や、敷島をふかしていては幅が利かんです」と言いながら、吸口に
金箔のついた
埃及煙草を出して、すぱすぱ吸い出した、
「
そんな贅沢をする金があるのかい」
「
金はなかばってんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、大変信用が違います」
「
寒月君が珠を磨くよりも楽な信用でいい、手数が かからない。軽便信用だね」と
迷亭が
寒月にいうと、
寒月が何とも答えない間に、
三平君は
「
あなたが寒月さんですか。博士にゃ、とうとうならんですか。あなたが博士にならんものだから、私が貰う事にしました」
「
博士をですか」
「
いいえ、金田家の令嬢をです。実は御気の毒と思うたですたい。しかし先方で是非貰うてくれ貰うてくれと言うから、とうとう貰う事に極めました、先生。しかし寒月さんに義理がわるいと思って心配しています」
「
どうか御遠慮なく」と
寒月君が言うと、
主人は
「
貰いたければ貰ったら、いいだろう」と
曖昧な返事をする。
「
そいつはおめでたい話だ。だからどんな娘を持っても 心配するがものはない【心配する必要はない】んだよ。だれか貰うと、さっき僕が言った通り、ちゃんとこんな立派な紳士の御聟さんが出来たじゃないか。東風君新体詩の種が出来た。早速とり かかりたまえ」と
迷亭君が例のごとく調子づくと
三平君は
「
あなたが東風君ですか、結婚の時に何か作ってくれませんか。すぐ活版にして方々へくばります。太陽へも出してもらいます」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(108 / 116)
「
ええ何か作りましょう、いつ頃御入用ですか」
「
いつでもいいです。今まで作ったうちでもいいです。その代りです。披露のとき呼んで御馳走するです。シャンパンを飲ませるです。君シャンパンを飲んだ事がありますか。シャンパンは旨いです。――先生披露会のときに楽隊を呼ぶつもりですが、東風君の作を譜にして奏したらどうでしょう」
「
勝手にするがいい」
「
先生、譜にして下さらんか」
「
馬鹿言え」
「
だれか、このうちに音楽の出来るものは おらんですか」
「
落第の候補者寒月君はヴァイオリンの妙手だよ。しっかり頼んで見たまえ。しかしシャンパンくらいじゃ承知しそうもない男だ」
「
シャンパンもですね。一瓶四円や五円のじゃよくないです。私の御馳走するのはそんな安いのじゃないですが、君一つ譜を作ってくれませんか」
「
ええ作りますとも、一瓶二十銭のシャンパンでも作ります。なんならただでも作ります」「
ただは頼みません、御礼はするです。シャンパンがいやなら、こう言う御礼はどうです」と言いながら上着の
隠袋のなかから七八枚の写真を出してばらばらと畳の上へ落す。半身がある。全身がある。立ってるのがある。坐ってるのがある。
袴を
穿いてるがある。
振袖がある。高島田がある。ことごとく妙齢【年頃】の女子ばかりである。
「
先生候補者がこれだけあるです。寒月君と東風君にこのうちどれか御礼に周旋してもいいです。こりゃどうです」と一枚
寒月君につき付ける。
「
いいですね。是非周旋を願いましょう」
「
これでもいいですか」とまた一枚つきつける。
「
それもいいですね。是非周旋して下さい」
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(109 / 116)
「
どれをです」
「
どれでもいいです」
「
君なかなか多情ですね。先生、これは博士の姪です」
「
そうか」
「
この方は性質が極いいです。年も若いです。これで十七です。――これなら持参金が千円あります。――こっちのは知事の娘です」と一人で弁じ立てる。
「
それをみんな貰う訳にゃいかないでしょうか」
「
みんなですか、それはあまり慾張りたい。君一夫多妻主義ですか」
「
多妻主義じゃないですが、肉食論者です」
「
何でもいいから、そんなものは早くしまったら、よかろう」と
主人は叱りつけるように言い放ったので、
三平君は
「
それじゃ、どれも貰わんですね」と念を押しながら、写真を一枚一枚にポッケットへ収めた。
「
何だいそのビールは」
「
お見やげでござります。前祝に角の酒屋で買うて来ました。一つ飲んで下さい」
主人は手を
拍って下女を呼んで
栓を抜かせる。
主人、
迷亭、
独仙、
寒月、
東風の五君は
恭しくコップを捧げて、
三平君の
艶福【モテモテ】を祝した。
三平君は
大に愉快な様子で
「
ここにいる諸君を披露会に招待しますが、みんな出てくれますか、出てくれるでしょうね」と言う。
「
おれはいやだ」と
主人はすぐ答える。
「
なぜですか。私の一生に一度の大礼ですばい。出てくんなさらんか。少し不人情のごたるな」
「
不人情じゃないが、おれは出ないよ」
「
着物がないですか。羽織と袴くらい どうでもしますたい。ちと人中へも出るが よかたい先生。有名な人に紹介して上げます」
「
真平ご免だ」
「
胃病が癒りますばい」
「
癒らんでも差支えない」
「
そげん頑固張りなさるなら やむを得ません。あなたはどうです来てくれますか」
「
僕かね、是非行くよ。出来るなら媒酌人たるの栄を得たいくらいのものだ。シャンパンの三々九度や春の宵。――なに仲人は鈴木の藤さんだって? なるほどそこいらだろうと思った。これは残念だが仕方がない。仲人が二人出来ても多過ぎるだろう、ただの人間としてまさに出席するよ」「
あなたはどうです」
「
僕ですか、一竿風月【一本の釣り竿と、風と月】閑生計【つつましい生活】、人釣【人が釣りをしている】白蘋紅蓼間【白いオオバコと赤いタデの咲くあいだ】」
「
何ですかそれは、唐詩選【唐代の漢詩選集】ですか」
「
何だかわからんです」
「
わからんですか、困りますな。[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(110 / 116)
寒月君は出てくれるでしょうね。今までの関係もあるから」
「
きっと出る事にします、僕の作った曲を楽隊が奏するのを、きき落すのは残念ですからね」
「
そうですとも。君はどうです東風君」
「
そうですね。出て御両人の前で新体詩を朗読したいです」
「
そりゃ愉快だ。先生私は生れてから、こんな愉快な事はないです。だからもう一杯ビールを飲みます」と自分で買って来たビールを一人でぐいぐい飲んで
真赤になった。
短かい秋の日はようやく暮れて、
巻煙草の
死骸が算を乱す【秩序を乱す】火鉢のなかを見れば 火はとくの昔に消えている。さすが
呑気の連中も少しく興が尽きたと見えて、「
大分遅くなった。もう帰ろうか」とまず
独仙君が立ち上がる。つづいて「
僕も帰る」と口々に玄関に出る。
寄席が はねたあと のように座敷は淋しくなった。
主人は
夕飯をすまして書斎に入る。
妻君は
肌寒の
襦袢の
襟をかき合せて、
洗い
晒しの不断着を縫う。
小供は枕を並べて寝る。下女は湯に行った。
呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。悟ったようでも
独仙君の足はやはり地面のほかは踏まぬ。気楽かも知れないが
迷亭君の世の中は絵にかいた世の中ではない。
寒月君は
珠磨りをやめて とうとうお国から奥さんを連れて来た。これが順当だ。しかし順当が永く続くと定めし退屈だろう。
東風君も今十年したら、無暗に新体詩を捧げる事の非を悟るだろう。
三平君に至っては水に住む人か、山に住む人かちと鑑定がむずかしい。
生涯三鞭酒を御馳走して得意と思う事が出来れば結構だ。
鈴木の
藤さんはどこまでも
転がって行く。転がれば泥がつく。泥がついても転がれぬものよりも幅が
利く。猫と生れて人の世に住む事も はや二年越しになる。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(111 / 116)
自分では これほどの見識家は またとあるまいと思うていたが、
先達てカーテル・ムルと言う見ず知らずの同族が突然
大気焰を
揚げた【大きなことを言う】ので、ちょっと
吃驚した。よくよく聞いて見たら、実は百年
前に死んだのだが、ふとした好奇心から わざと幽霊になって
吾輩を驚かせるために、遠い
冥土から出張したのだそうだ。この猫は母と対面をするとき、挨拶のしるしとして、一匹の
肴を
啣えて出掛けたところ、途中でとうとう我慢がし切れなくなって、自分で食ってしまったと言うほどの不孝ものだけあって、才気もなかなか人間に負けぬほどで、ある時などは詩を作って
主人を驚かした事もあるそうだ。こんな豪傑がすでに一世紀も前に出現しているなら、
吾輩のような
碌でなしはとうに
御暇を頂戴して
無何有郷【人為から解き放たれた自由な境地】に
帰臥し【身を引いて静かに暮らす】てもいいはずであった。
主人は早晩胃病で死ぬ。
金田のじいさんは慾でもう死んでいる。秋の
木の葉は大概落ち尽した。死ぬのが万物の
定業【決まり】で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢こいかも知れない。諸先生の説に従えば人間の運命は自殺に帰するそうだ。油断をすると猫もそんな窮屈な世に生れなくては ならなくなる。恐るべき事だ。何だか気がくさくさして来た。
三平君のビールでも飲んで ちと景気をつけてやろう。
勝手へ回る。秋風に がたつく戸が細目にあいてる間から吹き込んだと見えて ランプはいつの間にか消えているが、月夜と思われて窓から影がさす。コップが盆の上に三つ並んで、その二つに茶色の水が半分ほどたまっている。
硝子の中のものは湯でも冷たい気がする。まして夜寒の月影に照らされて、静かに
火消壺とならんでいるこの液体の事だから、唇をつけぬ先からすでに寒くて飲みたくもない。しかしものは試しだ。
三平などはあれを飲んでから、
真赤になって、
熱苦しい
息遣いをした。猫だって飲めば陽気にならん事もあるまい。どうせ いつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命のあるうちにしておく事だ。
[
:
しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(112 / 116)
死んでからああ残念だと墓場の影から
悔やんでも おっつかない。思い切って飲んで見ろと、勢よく舌を入れて ぴちゃぴちゃ やって見ると驚いた。何だか舌の先を針でさされたようにぴりりとした。人間は何の
酔興でこんな腐ったものを飲むのか わからないが、猫にはとても飲み切れない。どうしても猫とビールは
性が合わない。これは大変だと一度は出した舌を
引込めて見たが、また考え直した。人間は口癖のように良薬口に
苦しと言って
風邪などをひくと、顔をしかめて変なものを飲む。飲むから
癒るのか、癒るのに飲むのか、今まで疑問であったがちょうどいい
幸だ。この問題をビールで解決してやろう。飲んで腹の中まで にがくなったら それまでの事、もし
三平のように前後を忘れるほど愉快になれば空前の
儲け
者で、近所の猫へ教えてやってもいい。まあどうなるか、運を天に任せて、やっつけると決心して再び舌を出した。眼をあいていると飲みにくいから、しっかり眠って、またぴちゃぴちゃ始めた。
吾輩は我慢に我慢を重ねて、ようやく一杯のビールを飲み干した時、妙な現象が起った。始めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片付ける時分には別段骨も折れなくなった。もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた。ついでに盆の上にこぼれたのも
拭うがごとく
腹内に収めた。
それからしばらくの間は自分で自分の動静を伺うため、じっとすくんでいた。次第にからだが暖かになる。眼のふちがぽうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。
主人も
迷亭も
独仙も糞を
食えと言う気になる。
金田のじいさんを
引掻いてやりたくなる。
妻君の鼻を食い欠きたくなる。いろいろになる。最後にふらふらと立ちたくなる。
起ったら よたよた あるきたくなる。
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しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(113 / 116)
こいつは面白いとそとへ出たくなる。出ると御月様今晩はと挨拶したくなる。どうも愉快だ。
陶然【酔ってうっとりした気分】とは こんな事を言うのだろうと思いながら、あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持でしまりのない足をいい加減に運ばせてゆくと、何だかしきりに眠い。寝ているのだか、あるいてるのだか判然しない。眼はあけるつもりだが重い事
夥しい。こうなればそれまでだ。海だろうが、山だろうが驚ろかないんだと、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端ぼちゃんと音がして、はっと言ううち、――やられた。どうやられたのか考える
間がない。ただやられたなと気がつくか、つかないのにあとは滅茶苦茶になってしまった。
我に帰ったときは水の上に浮いている。苦しいから爪でもって
矢鱈に
掻いたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐ もぐってしまう。仕方がないから
後足で飛び上っておいて、前足で掻いたら、がりりと音がしてわずかに
手応があった。ようやく頭だけ浮くから どこだろうと見回わすと、
吾輩は大きな
甕の中に落ちている。この
甕は夏まで
水葵と称する
水草が茂っていたがその後 烏の勘公が来て葵を食い尽した上に
行水を使う。行水を使えば水が減る。減れば来なくなる。近来は
大分減って烏が見えないなと
先刻思ったが、
吾輩自身が烏の代りにこんな所で行水を使おうなどとは思いも寄らなかった。
水から縁までは四寸【約12cm】
余もある。足をのばしても届かない。飛び上っても出られない。
呑気にしていれば沈むばかりだ。もがけば がりがりと
甕に爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべれば たちまち ぐっともぐる。もぐれば苦しいから、すぐ がりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。気は
焦るが、足はさほど
利かなくなる。
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しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(114 / 116)
ついにはもぐるために
甕を掻くのか、掻くためにもぐるのか、自分でも分りにくくなった。
その時苦しいながら、こう考えた。こんな
呵責に逢うのはつまり
甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。
吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水の
面にからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる
甕の縁に爪のかかりようがない。
甕のふちに爪のかかりようがなければ いくらも
掻いても、あせっても、百年の間 身を
粉にしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。
自ら求めて苦しんで、自ら好んで
拷問に
罹っているのは馬鹿気ている。
「
もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
次第に楽になってくる。苦しいのだか ありがたいのだか 見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても
差支えはない。ただ楽である。
否 楽そのものすらも感じ得ない。
日月を切り落し、天地を
粉韲【こなみじんに】して不可思議の太平に入る。
吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。
底本:「夏目漱石全集1」
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しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(115 / 116)
ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年9月29日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 1」筑摩書房
1971(昭和46)年4月5日初版
初出:「ホトトギス」
1905(明治38)年1月、2月、4月、6月、7月、10月
1906(明治39)年1月、3月、4月、8月
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:柴田卓治
校正:渡部峰子(一)、おのしげひこ(二、五)、田尻幹二(三)、高橋真也(四、七、八、十、十一)、しず(六)、瀬戸さえ子(九)
1999年9月17日公開
2018年2月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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----- (以下、
シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。感謝致します。
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しおり] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(116 / 116)
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