かくとも知らぬ
主人 ははなはだ熱心なる様子をもって
一張来いっちょうらい の鏡を見つめている。元来鏡というものは気味の悪いものである。深夜
蝋燭ろうそく を立てて、広い部屋のなかで一人鏡を
覗のぞ き込むにはよほどの勇気がいるそうだ。
吾輩 などは始めて当家の令嬢から鏡を顔の前へ押し付けられた時に、はっと
仰天ぎょうてん して屋敷のまわりを三度
馳か け回ったくらいである。いかに白昼といえども、
主人 のようにかく一生懸命に見つめている以上は自分で自分の顔が
怖こわ くなるに相違ない。ただ見てさえあまり気味のいい顔じゃない。ややあって
主人 は「
なるほどきたない顔だ 」と
独ひと り
言ごと を言った。自己の醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から言うとたしかに気違の
所作しょさ だが言うことは真理である。これがもう一歩進むと、
己おの れの醜悪な事が
怖こわ くなる。人間は吾身が怖ろしい悪党であると言う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは言えない。苦労人でないととうてい
解脱げだつ は出来ない。
主人 もここまで来たらついでに「
おお怖こわ い 」とでも言いそうなものであるがなかなか言わない。「
なるほどきたない顔だ 」と言ったあとで、何を考え出したか、ぷうっと
頬ほ っぺたを
膨ふく らました。そうしてふくれた頬っぺたを
平手ひらて で二三度
叩たた いて見る。何のまじないだか分らない。この時
吾輩 は何だかこの顔に似たものがあるらしいと言う感じがした。よくよく考えて見るとそれは
御三 おさん の顔である。ついでだから
御三 の顔をちょっと紹介するが、それはそれはふくれたものである。この間さる人が
穴守稲荷あなもりいなり から
河豚ふぐ の
提灯ちょうちん をみやげに持って来てくれたが、ちょうどあの
河豚提灯ふぐちょうちん のようにふくれている。あまりふくれ方が残酷なので眼は両方共紛失している。もっとも河豚のふくれるのは万遍なく
真丸まんまる にふくれるのだが、お三とくると、元来の骨格が多角性であって、その骨格通りにふくれ上がるのだから、まるで
水気すいき になやんでいる六角時計のようなものだ。
御三 が聞いたらさぞ
怒おこ るだろうから、
御三 はこのくらいにしてまた
主人 の方に帰るが、かくのごとくあらん限りの空気をもって
頬ほ っぺたをふくらませたる彼は
前ぜん 申す通り手のひらで
頬ほっ ぺたを叩きながら「
このくらい皮膚が緊張するとあばた も眼につかん 」とまた
独ひと り
語ごと をいった。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(1 / 116)
こんどは顔を横に向けて半面に光線を受けた所を鏡にうつして見る。「
こうして見ると大変目立つ。やっぱりまともに日の向いてる方が平たいら に見える。奇体な物だなあ 」と
大分だいぶ 感心した様子であった。それから右の手をうんと
伸のば して、出来るだけ鏡を遠距離に持って行って静かに熟視している。「
このくらい離れるとそんなでもない。やはり近過ぎるといかん。――顔ばかりじゃない何でもそんなものだ 」と悟ったようなことを言う。次に鏡を急に横にした。そうして鼻の根を中心にして眼や額や
眉まゆ を一度にこの中心に向ってくしゃくしゃとあつめた。見るからに不愉快な
容貌ようぼう が出来上ったと思ったら「
いやこれは駄目だ 」と当人も気がついたと見えて
早々そうそう やめてしまった。「
なぜこんなに毒々しい顔だろう 」と少々不審の
体てい で鏡を眼を去る三寸ばかりの所へ引き寄せる。右の人指しゆびで小鼻を
撫な でて、撫でた指の頭を机の上にあった
吸取すいと り
紙がみ の上へ、うんと押しつける。吸い取られた鼻の
膏あぶら が
丸ま るく紙の上へ浮き出した。いろいろな芸をやるものだ。それから
主人 は鼻の膏を
塗抹とまつ した
指頭しとう を転じてぐいと
右眼うがん の
下瞼したまぶた を裏返して、俗に言う
べっかんこう を見事にやって
退の けた。
あばた を研究しているのか、鏡と
睨にら め
競くら をしているのかその辺は少々不明である。気の多い
主人 の事だから見ているうちにいろいろになると見える。それどころではない。もし善意をもって
蒟蒻こんにゃく 問答的もんどうてき に解釈してやれば
主人 は
見性自覚けんしょうじかく の
方便ほうべん としてかように鏡を相手にいろいろな
仕草しぐさ を演じているのかも知れない。すべて人間の研究と言うものは自己を研究するのである。天地と言い
山川さんせん と言い
日月じつげつ と言い
星辰せいしん と言うも皆自己の
異名いみょう に過ぎぬ。自己を
措お いて他に研究すべき事項は
誰人たれびと にも
見出みいだ し得ぬ訳だ。もし人間が自己以外に飛び出す事が出来たら、飛び出す途端に自己はなくなってしまう。しかも自己の研究は自己以外に誰もしてくれる者はない。いくら仕てやりたくても、貰いたくても、出来ない相談である。それだから古来の豪傑はみんな自力で豪傑になった。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(2 / 116)
人のお蔭で自己が分るくらいなら、自分の代理に牛肉を喰わして、堅いか柔かいか判断の出来る訳だ。
朝あした に法を聴き、
夕ゆうべ に道を聴き、
梧前灯下ごぜんとうか に書巻を手にするのは皆この
自証じしょう を
挑発ちょうはつ するの
方便ほうべん の
具ぐ に過ぎぬ。人の説く法のうち、他の弁ずる道のうち、
乃至ないし は
五車ごしゃ にあまる
蠧紙堆裏としたいり に自己が存在する
所以ゆえん がない。あれば自己の幽霊である。もっともある場合において幽霊は
無霊むれい より優るかも知れない。影を追えば本体に
逢着ほうちゃく する時がないとも限らぬ。多くの影は大抵本体を離れぬものだ。この意味で
主人 が鏡をひねくっているなら
大分だいぶ 話せる男だ。エピクテタスなどを
鵜呑うのみ にして学者ぶるよりも
遥はる かにましだと思う。
鏡は
己惚うぬぼれ の醸造器であるごとく、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄の念をもってこれに対する時はこれほど愚物を
扇動せんどう する道具はない。昔から
増上慢ぞうじょうまん をもって
己おのれ を害し他を
戕そこの うた
事跡じせき の三分の二はたしかに鏡の
所作しょさ である。仏国革命の当時物好きな御医者さんが改良首きり器械を発明して飛んだ罪をつくったように、始めて鏡をこしらえた人も定めし
寝覚ねざめ のわるい事だろう。しかし自分に
愛想あいそ の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。
妍醜瞭然けんしゅうりょうぜん だ。こんな顔でよくまあ人で
候そうろう と
反そ りかえって
今日こんにち まで暮らされたものだと気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の
生涯しょうがい 中もっともありがたい期節である。自分で自分の馬鹿を承知しているほど
尊たっ とく見える事はない。この
自覚性じかくせい 馬鹿ばか の前にはあらゆる
えらがり 屋がことごとく頭を下げて恐れ入らねばならぬ。当人は
昂然こうぜん として吾を
軽侮けいぶ 嘲笑ちょうしょう しているつもりでも、こちらから見るとその昂然たるところが恐れ入って頭を下げている事になる。
主人 は鏡を見て
己おの れの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかし吾が顔に印せられる
痘痕とうこん の
銘めい くらいは公平に読み得る男である。顔の醜いのを自認するのは心の
賤いや しきを
会得えとく する
楷梯かいてい にもなろう。たのもしい男だ。これも哲学者からやり込められた結果かも知れぬ。
かように考えながらなお様子をうかがっていると、それとも知らぬ
主人 は思う存分
あかんべえ をしたあとで「
大分だいぶ 充血しているようだ。やっぱり慢性結膜炎だ」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(3 / 116)
と言いながら、人さし指の横つらでぐいぐい充血した
瞼まぶた をこすり始めた。
大方おおかた 痒かゆ いのだろうけれども、たださえあんなに赤くなっているものを、こう
擦こす ってはたまるまい。遠からぬうちに
塩鯛しおだい の眼玉のごとく
腐乱ふらん するにきまってる。やがて眼を
開ひら いて鏡に向ったところを見ると、果せるかなどんよりとして北国の冬空のように曇っていた。もっとも
平常ふだん からあまり晴れ晴れしい眼ではない。誇大な形容詞を用いると
混沌こんとん として黒眼と白眼が
剖判ほうはん しないくらい
漠然ばくぜん としている。彼の精神が
朦朧もうろう として不得要領
底てい に一貫しているごとく、彼の眼も
曖々然あいあいぜん 【曖昧の曖の強調】
昧々然まいまいぜん 【曖昧の昧の強調】として
長とこし えに
眼窩がんか の奥に
漂ただよ うている。これは
胎毒たいどく のためだとも言うし、あるいは
疱瘡ほうそう の余波だとも解釈されて、小さい時分はだいぶ柳の虫や赤蛙の厄介になった事もあるそうだが、せっかく母親の丹精も、あるにその
甲斐かい あらばこそ、
今日こんにち まで生れた当時のままでぼんやりしている。
吾輩 ひそかに思うにこの状態は決して胎毒や疱瘡のためではない。彼の眼玉がかように
晦渋溷濁かいじゅうこんだく の悲境に
彷徨ほうこう しているのは、とりも直さず彼の頭脳が
不透不明ふとうふめい の実質から構成されていて、その作用が
暗憺溟濛あんたんめいもう の極に達しているから、自然とこれが形体の上にあらわれて、知らぬ母親にいらぬ心配を掛けたんだろう。煙たって火あるを知り、まなこ濁って
愚ぐ なるを証す。して見ると彼の眼は彼の心の象徴で、彼の心は
天保銭てんぽうせん のごとく穴があいているから、彼の眼もまた天保銭と同じく、大きな割合に通用しないに違ない。
今度は
髯ひげ をねじり始めた。元来から行儀のよくない髯でみんな思い思いの姿勢をとって
生は えている。いくら個人主義が
流行はや る世の中だって、こう
町々まちまち に
我儘わがまま を尽くされては持主の迷惑はさこそと思いやられる、
主人 もここに
鑑かんが みるところあって近頃は
大おおい に訓練を与えて、出来る限り系統的に
按排あんばい するように尽力している。その熱心の
功果こうか は
空むな しからずして昨今ようやく歩調が少しととのうようになって来た。今までは髯が
生は えておったのであるが、この頃は髯を生やしているのだと自慢するくらいになった。熱心は成効の度に応じて
鼓舞こぶ せられるものであるから、吾が髯の前途有望なりと見てとって
主人 は朝な夕な、手がすいておれば必ず
髯ひげ に向って
鞭撻べんたつ を加える。彼のアムビションは
独逸ドイツ 皇帝陛下のように、向上の念の
熾さかん な髯を
蓄たくわ えるにある。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(4 / 116)
それだから
毛孔けあな が横向であろうとも、下向であろうとも
聊いささ か頓着なく
十把一じっぱひ とからげに
握にぎ っては、上の方へ引っ張り上げる。髯もさぞかし難儀であろう、所有主たる
主人 すら時々は痛い事もある。がそこが訓練である。
否いや でも応でもさかに
扱こ き上げる。門外漢から見ると気の知れない道楽のようであるが、当局者だけは至当の事と心得ている。教育者がいたずらに生徒の
本性ほんせい を
撓た めて、僕の手柄を見給えと誇るようなもので
毫ごう も非難すべき理由はない。
主人 が
満腔まんこう の熱誠をもって髯を調練していると、台所から多角性の
御三 おさん が郵便が参りましたと、例のごとく赤い手をぬっと書斎の
中うち へ出した。
右手みぎ に髯をつかみ、
左手ひだり に鏡を持った
主人 は、そのまま入口の方を振りかえる。八の字の尾に
逆さ か
立だ ちを命じたような髯を見るや否や
御多角おたかく はいきなり台所へ引き戻して、ハハハハと
御釜おかま の
蓋ふた へ身をもたして笑った。
主人 は平気なものである。
悠々ゆうゆう と鏡をおろして郵便を取り上げた。第一信は活版ずりで何だかいかめしい文字が並べてある。読んで見ると
拝啓愈いよいよ 御多祥奉賀候がしたてまつりそろ 回顧すれば日露の戦役は連戦連勝の勢いきおい に乗じて平和克復を告げ吾忠勇義烈なる将士は今や過半万歳声裡り に凱歌を奏し国民の歓喜何ものか之これ に若し かん曩さき に宣戦の大詔煥発たいしょうかんぱつ せらるるや義勇公に奉じたる将士は久しく万里の異境に在あ りて克よ く寒暑の苦難を忍び一意戦闘に従事し命めい を国家に捧げたるの至誠は永く銘して忘るべからざる所なり而しこう して軍隊の凱旋は本月を以て殆ほと んど終了を告げんとす依って本会は来る二十五日を期し本区内一千有余の出征将校下士卒に対し本区民一般を代表し以て一大凱旋祝賀会を開催し兼て軍人遺族を慰藉いしゃ せんが為め熱誠之これ を迎え聊いささか 感謝の微衷びちゅう を表し度たく 就つい ては各位の御協賛を仰ぎ此盛典を挙行するの幸さいわい を得ば本会の面目不過之これにすぎず と存候そろ 間何卒なにとぞ 御賛成奮ふる って義捐ぎえん あらんことを只管ひたすら 希望の至に堪た えず候そろ 敬具
とあって差し出し人は華族様である。
主人 は黙読一過の
後のち 直ちに封の中へ巻き納めて知らん顔をしている。義捐などは恐らくしそうにない。せんだって東北凶作の義援金を二円とか三円とか出してから、逢う人
毎ごと に義捐をとられた、とられたと
吹聴ふいちょう しているくらいである。義捐とある以上は差し出すもので、とられるものでないには
極きま っている。泥棒にあったのではあるまいし、とられたとは不穏当である。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(5 / 116)
しかるにも関せず、盗難にでも
罹かか ったかのごとくに思ってるらしい
主人 がいかに軍隊の歓迎だと言って、いかに華族様の勧誘だと言って、
強談ごうだん で持ちかけたらいざ知らず、活版の手紙くらいで金銭を出すような人間とは思われない。
主人 から言えば軍隊を歓迎する前にまず自分を歓迎したいのである。自分を歓迎した後なら大抵のものは歓迎しそうであるが、自分が
朝夕ちょうせき に
差さ し
支つか える間は、歓迎は華族様に
任まか せておく了見らしい。
主人 は第二信を取り上げたが「
ヤ、これも活版だ 」と言った。
時下秋冷の候こう に候そろ 処貴家益々御隆盛の段 奉賀上候がしあげたてまつりそろ 陳のぶ れば本校儀も御承知の通り一昨々年以来二三野心家の為めに妨げられ一時其極に達し候得共そうらえども 是れ皆 不肖ふしょう 針作 しんさく が足らざる所に起因すと存じ深く自みずか ら 警いまし むる所あり臥薪甞胆がしんしょうたん 其の苦辛くしん の結果漸ようや く茲ここ に独力以て我が理想に適するだけの校舎新築費を得るの途を講じ候そろ 其そ は別義にも御座なく別冊裁縫秘術綱要と命名せる書冊出版の義に御座候そろ 本書は不肖針作 しんさく が多年苦心研究せる工芸上の原理原則に法のっ とり真に肉を裂き血を絞るの思を為な して著述せるものに御座候そろ 因よ って本書を普あまね く一般の家庭へ製本実費に些少さしょう の利潤を附して御購求ごこうきゅう を願い一面斯道しどう 発達の一助となすと同時に又一面には僅少きんしょう の利潤を蓄積して校舎建築費に当つる心算つもり に御座候そろ 依っては近頃何共なんとも 恐縮の至りに存じ候えども本校建築費中へ御寄付被成下なしくださる と御思召おぼしめ し茲ここ に呈供仕候そろ 秘術綱要一部を御購求の上御侍女の方へなりとも御分与被成下候なしくだされそろ て御賛同の意を御表章被成下度なしくだされたく 伏して懇願仕候そろ 匇々そうそう 敬具
大日本女子裁縫最高等大学院
校長
縫田ぬいだ 針作 しんさく 九拝
とある。
主人 はこの
丁重ていちょう なる書面を、冷淡に丸めてぽんと
屑籠くずかご の中へ
抛ほう り込んだ。せっかくの
針作 君の九拝も臥薪甞胆も何の役にも立たなかったのは気の毒である。第三信にかかる。第三信はすこぶる風変りの光彩を放っている。状袋が紅白のだんだらで、
飴あめ ん
棒ぼう の看板のごとくはなやかなる真中に
珍野ちんの 苦沙弥 くしゃみ 先生
虎皮下こひか と
八分体はっぷんたい で肉太に
認したた めてある。中からお
太た さんが出るかどうだか受け合わないが
表おもて だけはすこぶる立派なものだ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(6 / 116)
若も し我を以て天地を律すれば一口ひとくち にして西江せいこう の水を吸いつくすべく、若も し天地を以て我を律すれば我は則すなわ ち陌上はくじょう の塵のみ。すべからく道い え、天地と我と什麼いんも の交渉かある。……始めて海鼠なまこ を食い出いだ せる人は其胆力に於て敬すべく、始めて河豚ふぐ を喫きつ せる漢おとこ は其勇気に於おい て重んずべし。海鼠を食くら えるものは親鸞しんらん 【浄土真宗の宗祖とされる】の再来にして、河豚ふぐ を喫せるものは日蓮にちれん の分身なり。苦沙弥 先生の如きに至っては只ただ 干瓢かんぴょう の酢味噌すみそ を知るのみ。干瓢の酢味噌を食くら って天下の士たるものは、われ未いま だ之これ を見ず。……
親友も汝なんじ を売るべし。父母ふぼ も汝に私わたくし あるべし。愛人も汝を棄つべし。富貴ふっき は固もと より頼みがたかるべし。爵禄しゃくろく は一朝いっちょう にして失うべし。汝の頭中に秘蔵する学問には黴かび が生は えるべし。汝何を恃たの まんとするか。天地の裡うち に何をたのまんとするか。神? 神は人間の苦しまぎれに捏造でつぞう せる土偶どぐう のみ。人間のせつな糞ぐそ の凝結せる臭骸のみ。恃たの むまじきを恃んで安しと言う。咄々とつとつ 、酔漢漫みだ りに胡乱うろん の言辞を弄して、蹣跚まんさん として墓に向う。油尽きて灯とう 自おのずか ら滅す。業尽きて何物をか遺のこ す。苦沙弥 先生よろしく御茶でも上がれ。……
人を人と思わざれば畏おそ るる所なし。人を人と思わざるものが、吾を吾と思わざる世を憤いきどお るは如何いかん 。権貴栄達の士は人を人と思わざるに於て得たるが如し。只ただ 他ひと の吾を吾と思わぬ時に於て怫然ふつぜん として色を作な す。任意に色を作し来れ。馬鹿野郎。……
吾の人を人と思うとき、他ひと の吾を吾と思わぬ時、不平家は発作的ほっさてき に天降あまくだ る。此発作的活動を名づけて革命という。革命は不平家の所為にあらず。権貴栄達の士が好んで産する所なり。朝鮮に人参にんじん 多し先生何が故に服せざる。
在巣鴨
天道公平 てんどうこうへい 再拝
針作 君は九拝であったが、この男は単に再拝だけである。寄付金の依頼でないだけに七拝ほど
横風おうふう 【遠慮がない】に構えている。寄付金の依頼ではないがその代りすこぶる分りにくいものだ。どこの雑誌へ出しても没書になる価値は充分あるのだから、頭脳の不透明をもって鳴る
主人 は必ず
寸断寸断ずたずた に引き裂いてしまうだろうと
思おもい のほか、打ち返し打ち返し読み直している。こんな手紙に意味があると考えて、あくまでその意味を
究きわ めようという決心かも知れない。およそ天地の
間かん にわからんものは沢山あるが意味をつけてつかないものは一つもない。どんなむずかしい文章でも解釈しようとすれば容易に解釈の出来るものだ。人間は馬鹿であると言おうが、人間は利口であると言おうが手もなくわかる事だ。それどころではない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(7 / 116)
人間は犬であると言っても豚であると言っても別に苦しむほどの命題ではない。山は低いと言っても構わん、宇宙は狭いと言っても
差さ し
支つか えはない。烏が白くて小町が醜婦で
苦沙弥 先生が君子でも通らん事はない。だからこんな無意味な手紙でも何とか
蚊か とか
理屈りくつ さえつければどうとも意味はとれる。ことに
主人 のように知らぬ英語を無理矢理にこじ附けて説明し通して来た男はなおさら意味をつけたがるのである。天気の悪るいのになぜグード・モーニングですかと生徒に問われて
七日間なぬかかん 考えたり、コロンバスと言う名は日本語で何と言いますかと聞かれて三日三晩かかって答を工夫するくらいな男には、
干瓢かんぴょう の
酢味噌すみそ が天下の士であろうと、朝鮮の
仁参にんじん を食って革命を起そうと随意な意味は随処に
湧わ き出る訳である。
主人 はしばらくしてグード・モーニング流にこの難解な
言句ごんく を呑み込んだと見えて「
なかなか意味深長だ。何でもよほど哲理を研究した人に違ない。天晴あっぱれ な見識だ 」と大変賞賛した。この
一言いちごん でも
主人 の
愚ぐ なところはよく分るが、
翻ひるがえ って考えて見るといささかもっともな点もある。
主人 は何に寄らずわからぬものをありがたがる癖を有している。これはあながち
主人 に限った事でもなかろう。分らぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか
気高けだか い心持が起るものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかったように
吹聴ふいちょう するにも
係かかわ らず、学者はわかった事をわからぬように講釈する。大学の講義でもわからん事を
喋舌しゃべ る人は評判がよくってわかる事を説明する者は人望がないのでもよく知れる。
主人 がこの手紙に敬服したのも意義が明瞭であるからではない。その主旨が
那辺なへん に存するかほとんど
捕とら え難いからである。急に
海鼠なまこ が出て来たり、せつな
糞ぐそ が出てくるからである。だから
主人 がこの文章を尊敬する唯一の理由は、
道家どうけ で道徳経を尊敬し、
儒家じゅか で
易経えききょう を尊敬し、
禅家ぜんけ で
臨済録りんざいろく を尊敬すると一般で全く分らんからである。
但ただ し全然分らんでは気がすまんから勝手な注釈をつけてわかった顔だけはする。わからんものをわかったつもりで尊敬するのは昔から愉快なものである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(8 / 116)
――
主人 は
恭うやうや しく
八分体はっぷんたい の名筆を巻き納めて、これを机上に置いたまま
懐手ふところで をして
冥想めいそう に沈んでいる。
ところへ「
頼む頼む 」と玄関から大きな声で案内を乞う者がある。声は
迷亭 のようだが、
迷亭 に似合わずしきりに案内を頼んでいる。
主人 は先から書斎のうちでその声を聞いているのだが懐手のまま
毫ごう も動こうとしない。取次に出るのは
主人 の役目でないという主義か、この
主人 は決して書斎から挨拶をした事がない。下女は
先刻さっき 洗濯せんたく 石鹸シャボン を買いに出た。
細君 は
憚はばか りである。すると取次に出べきものは
吾輩 だけになる。
吾輩 だって出るのはいやだ。すると客人は
沓脱くつぬぎ から敷台へ飛び上がって障子を開け放ってつかつか上り込んで来た。
主人 も
主人 だが客も客だ。座敷の方へ行ったなと思うと
襖ふすま を二三度あけたり
閉た てたりして、今度は書斎の方へやってくる。
「
おい冗談じょうだん じゃない。何をしているんだ、御客さんだよ 」
「
おや君か 」
「
おや君かもないもんだ。そこにいるなら何とか言えばいいのに、まるで空家あきや のようじゃないか 」
「
うん、ちと考え事があるもんだから 」
「
考えていたって通れ くらいは言えるだろう 」
「
言えん事もないさ 」
「
相変らず度胸がいいね 」
「
せんだってから精神の修養を力つと めているんだもの 」
「
物好きだな。精神を修養して返事が出来なくなった日には来客は御難だね。そんなに落ちつかれちゃ困るんだぜ。実は僕一人来たんじゃないよ。大変な御客さんを連れて来たんだよ。ちょっと出て逢ってくれ給え 」
「
誰を連れて来たんだい 」
「
誰でもいいからちょっと出て逢ってくれたまえ。是非君に逢いたいと言うんだから 」「
誰だい 」
「
誰でもいいから立ちたまえ 」
主人 は
懐手ふところで のままぬっと立ちながら「
また人を担かつ ぐつもりだろう 」と縁側へ出て何の気もつかずに客間へ入り込んだ。すると六尺の床を正面に一個の老人が
粛然しゅくぜん と
端座たんざ して
控ひか えている。
主人 は思わず懐から両手を出してぺたりと
唐紙からかみ の
傍そば へ尻を片づけてしまった。これでは老人と同じく西向きであるから双方共挨拶のしようがない。
昔堅気むかしかたぎ の人は礼義はやかましいものだ。
「
さあどうぞあれへ 」と床の間の方を指して
主人 を
促うな がす。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(9 / 116)
主人 は両三年前までは座敷はどこへ坐っても構わんものと心得ていたのだが、その
後ご ある人から床の間の講釈を聞いて、あれは上段の
間ま の変化したもので、
上使じょうし が坐わる所だと悟って以来決して床の間へは寄りつかない男である。ことに見ず知らずの年長者が
頑がん と構えているのだから
上座じょうざ どころではない。挨拶さえ
碌ろく には出来ない。一応頭をさげて
「
さあどうぞあれへ 」と向うの言う通りを繰り返した。
「
いやそれでは御挨拶が出来かねますから、どうぞあれへ 」
「
いえ、それでは……どうぞあれへ 」と
主人 はいい加減に先方の口上を真似ている。
「
どうもそう、御謙遜ごけんそん では恐れ入る。かえって手前が痛み入る。どうか御遠慮なく、さあどうぞ 」
「
御謙遜では……恐れますから……どうか 」
主人 は
真赤まっか になって口をもごもご言わせている。精神修養もあまり効果がないようである。
迷亭 君は
襖ふすま の影から笑いながら立見をしていたが、もういい時分だと思って、
後うし ろから
主人 の尻を押しやりながら
「
まあ出たまえ。そう唐紙からかみ へくっついては僕が坐る所がない。遠慮せずに前へ出たまえ 」と無理に割り込んでくる。
主人 はやむを得ず前の方へすり出る。
「
苦沙弥 君これが毎々君に噂をする静岡の伯父だよ。伯父さんこれが苦沙弥 君です」
「
いや始めて御目にかかります、毎度迷亭 が出て御邪魔を致すそうで、いつか参上の上御高話を拝聴致そうと存じておりましたところ、幸い今日こんにち は御近所を通行致したもので、御礼旁かたがた 伺った訳で、どうぞ御見知りおかれまして今後共宜よろ しく 」と
昔むか し風な口上を
淀よど みなく述べたてる。
主人 は交際の狭い、無口な人間である上に、こんな古風な
爺じい さんとはほとんど出会った事がないのだから、最初から多少
場ば うての気味で
辟易へきえき していたところへ、
滔々とうとう と浴びせかけられたのだから、
朝鮮仁参ちょうせんにんじん も
飴あめ ん棒の状袋もすっかり忘れてしまってただ苦しまぎれに妙な返事をする。
「
私も……私も……ちょっと伺がうはずでありましたところ……何分よろしく 」と言い終って頭を少々畳から上げて見ると老人は
未いま だに平伏しているので、はっと恐縮してまた頭をぴたりと着けた。
老人は呼吸を計って首をあげながら「
私ももとはこちらに屋敷も在あ って、永らく御膝元でくらしたものでがすが、瓦解がかい の折にあちらへ参ってからとんと出てこんのでな。今来て見るとまるで方角も分らんくらいで、――迷亭 にでも伴つ れてあるいてもらわんと、とても用達ようたし も出来ません。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(10 / 116)
滄桑そうそう の変へん とは申しながら、御入国ごにゅうこく 以来三百年も、あの通り将軍家の……」と言いかけると
迷亭 先生面倒だと心得て
「
伯父さん将軍家もありがたいかも知れませんが、明治の代よ も結構ですぜ。昔は赤十字なんてものもなかったでしょう 」
「
それはない。赤十字などと称するものは全くない。ことに宮様の御顔を拝むなどと言う事は明治の御代みよ でなくては出来ぬ事だ。わしも長生きをした御蔭でこの通り今日こんにち の総会にも出席するし、宮殿下の御声もきくし、もうこれで死んでもいい 」
「
まあ久し振りで東京見物をするだけでも得ですよ。苦沙弥 君、伯父はね。今度赤十字の総会があるのでわざわざ静岡から出て来てね、今日いっしょに上野へ出掛けたんだが今その帰りがけなんだよ。それだからこの通り先日僕が白木屋へ注文したフロックコートを着ているのさ 」と注意する。なるほどフロックコートを着ている。フロックコートは着ているがすこしもからだに合わない。
袖そで が長過ぎて、
襟えり がおっ
開ぴら いて、背中へ池が出来て、
腋わき の下が釣るし上がっている。いくら
不格好ぶかっこう に作ろうと言ったって、こうまで念を入れて形を
崩くず す訳にはゆかないだろう。その上白シャツと
白襟しろえり が離れ離れになって、
仰あお むくと間から
咽喉仏のどぼとけ が見える。第一黒い襟飾りが襟に属しているのか、シャツに属しているのか
判然はんぜん しない。フロックはまだ我慢が出来るが
白髪しらが のチョン
髷まげ ははなはだ奇観である。評判の
鉄扇てっせん 【親骨に鉄を用いた武士のための扇、帯刀が許されない場所での護身用】はどうかと目を
注つ けると膝の横にちゃんと引きつけている。
主人 はこの時ようやく本心に立ち返って、精神修養の結果を存分に老人の服装に応用して少々驚いた。まさか
迷亭 の話ほどではなかろうと思っていたが、逢って見ると話以上である。もし自分の
あばた が歴史的研究の材料になるならば、この老人のチョン
髷まげ や鉄扇はたしかにそれ以上の価値がある。
主人 はどうかしてこの鉄扇の由来を聞いて見たいと思ったが、まさか、打ちつけに質問する訳には行かず、と言って話を途切らすのも礼に欠けると思って
「
だいぶ人が出ましたろう 」と
極きわ めて尋常な問をかけた。
「
いや非常な人で、それでその人が皆わしをじろじろ見るので――どうも近来は人間が物見高くなったようでがすな。昔むか しはあんなではなかったが 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(11 / 116)
「
ええ、さよう、昔はそんなではなかったですな 」と老人らしい事を言う。これはあながち
主人 が
知し っ
高振たかぶ りをした訳ではない。ただ
朦朧もうろう たる頭脳から好い加減に流れ出す言語と見れば
差さ し
支つか えない。
「
それにな。皆この甲割かぶとわ りへ目を着けるので 」
「
その鉄扇は大分だいぶ 重いものでございましょう 」
「
苦沙弥 君、ちょっと持って見たまえ。なかなか重いよ。伯父さん持たして御覧なさい」
老人は重たそうに取り上げて「
失礼でがすが 」と
主人 に渡す。京都の
黒谷くろだに で
参詣人さんけいにん が
蓮生坊れんしょうぼう の
太刀たち を
戴いただ くようなかたで、
苦沙弥 先生しばらく持っていたが「
なるほど 」と言ったまま老人に返却した。「
みんながこれを鉄扇鉄扇と言うが、これは甲割かぶとわり と称とな えて鉄扇とはまるで別物で…… 」
「
へえ、何にしたものでございましょう 」
「
兜を割るので、――敵の目がくらむ所を撃う ちとったものでがす。楠正成くすのきまさしげ 時代から用いたようで…… 」
「
伯父さん、そりゃ正成の甲割ですかね 」
「
いえ、これは誰のかわからん。しかし時代は古い。建武時代けんむじだい の作かも知れない 」
「
建武時代かも知れないが、寒月 君は弱っていましたぜ。苦沙弥 君、今日帰りにちょうどいい機会だから大学を通り抜けるついでに理科へ寄って、物理の実験室を見せて貰ったところがね。この甲割が鉄だものだから、磁力の器械が狂って大騒ぎさ 」
「
いや、そんなはずはない。これは建武時代の鉄で、性しょう のいい鉄だから決してそんな虞おそ れはない 」
「
いくら性のいい鉄だってそうはいきませんよ。現に寒月 がそう言ったから仕方がないです 」
「
寒月 というのは、あのガラス球だま を磨す っている男かい。今の若さに気の毒な事だ。もう少し何かやる事がありそうなものだ」
「
可愛想かわいそう に、あれだって研究でさあ。あの球を磨り上げると立派な学者になれるんですからね」
「
玉を磨す りあげて立派な学者になれるなら、誰にでも出来る。わしにでも出来る。ビードロやの主人 にでも出来る。ああ言う事をする者を漢土かんど では玉人きゅうじん と称したもので至って身分の軽いものだ 」と言いながら
主人 の方を向いて暗に賛成を求める。
「
なるほど 」と
主人 はかしこまっている。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(12 / 116)
「
すべて今の世の学問は皆形而下けいじか の学でちょっと結構なようだが、いざとなるとすこしも役には立ちませんてな。昔はそれと違って侍さむらい は皆命懸いのちが けの商買しょうばい だから、いざと言う時に狼狽ろうばい せぬように心の修業を致したもので、御承知でもあらっしゃろうがなかなか玉を磨ったり針金を綯よ ったりするような容易たやす いものではなかったのでがすよ 」
「
なるほど 」とやはりかしこまっている。
「
伯父さん心の修業と言うものは玉を磨る代りに懐手ふところで をして坐り込んでるんでしょう 」
「
それだから困る。決してそんな造作ぞうさ のないものではない。孟子もうし は求放心きゅうほうしん と言われたくらいだ。邵康節しょうこうせつ 【北宋の学者】は心要放しんようほう と説いた事もある。また仏家ぶっか では中峯和尚ちゅうほうおしょう と言うのが具不退転ぐふたいてん と言う事を教えている。なかなか容易には分らん 」
「
とうてい分りっこありませんね。全体どうすればいいんです 」
「
御前は沢菴禅師たくあんぜんじ の不動智神妙録ふどうちしんみょうろく というものを読んだ事があるかい 」
「
いいえ、聞いた事もありません 」
「
心をどこに置こうぞ。敵の身の働はたらき に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀たち に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思うところに心を置けば、敵を切らんと思うところに心を取らるるなり。わが太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるるなり。われ切られじと思うところに心を置けば、切られじと思うところに心を取らるるなり。人の構かまえ に心を置けば、人の構に心を取らるるなり。とかく心の置きどころはないとある 」
「
よく忘れずに暗唱あんしょう したものですね。伯父さんもなかなか記憶がいい。長いじゃありませんか。苦沙弥 君分ったかい 」
「
なるほど 」と今度もなるほどですましてしまった。
「
なあ、あなた、そうでござりましょう。心をどこに置こうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば…… 」
「
伯父さん苦沙弥 君はそんな事は、よく心得ているんですよ。近頃は毎日書斎で精神の修養ばかりしているんですから。客があっても取次に出ないくらい心を置き去りにしているんだから大丈夫ですよ 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(13 / 116)
「
や、それは御奇特ごきどく な事で――御前などもちとごいっしょにやったらよかろう 」
「
へへへそんな暇はありませんよ。伯父さんは自分が楽なからだだもんだから、人も遊んでると思っていらっしゃるんでしょう 」
「
実際遊んでるじゃないかの 」
「
ところが閑中かんちゅう 自おのず から忙ぼう ありでね 」
「
そう、粗忽そこつ だから修業をせんといかないと言うのよ、忙中 自おのずか ら 閑かん ありと言う成句せいく はあるが、閑中自ら忙ありと言うのは聞いた事がない。なあ苦沙弥 さん 」
「
ええ、どうも聞きませんようで 」
「
ハハハハそうなっちゃあ敵かな わない。時に伯父さんどうです。久し振りで東京の鰻うなぎ でも食っちゃあ。竹葉ちくよう でも奢おご りましょう。これから電車で行くとすぐです 」
「
鰻も結構だが、今日はこれからすい 原はら へ行く約束があるから、わしはこれで御免を蒙こうむ ろう 」
「
ああ杉原すぎはら ですか、あの爺じい さんも達者ですね 」
「
杉原すぎはら ではない、すい 原はら さ。御前はよく間違ばかり言って困る。他人の姓名を取り違えるのは失礼だ。よく気をつけんといけない」
「
だって杉原すぎはら とかいてあるじゃありませんか 」
「
杉原すぎはら と書いてすい 原はら と読むのさ」
「
妙ですね 」
「
なに妙な事があるものか。名目読みょうもくよ みと言って昔からある事さ。蚯蚓きゅういん を和名わみょう でみみず と言う。あれは目見ず の名目よみで。蝦蟆がま の事をかいる と言うのと同じ事さ 」
「
へえ、驚ろいたな 」
「
蝦蟆を打ち殺すと仰向あおむ きにかえる 。それを名目読みにかいる と言う。透垣すきがき をすい 垣がき 、茎立くきたち をくく 立、皆同じ事だ。杉原すいはら をすぎ原などと言うのは田舎いなか ものの言葉さ。少し気を付けないと人に笑われる 」
「
じゃ、その、すい 原へこれから行くんですか。困ったな 」
「
なに厭いや なら御前は行かんでもいい。わし一人で行くから 」
「
一人で行けますかい 」
「
あるいてはむずかしい。車を雇って頂いて、ここから乗って行こう 」
主人 は
畏かしこ まって直ちに
御三 おさん を車屋へ走らせる。老人は長々と挨拶をしてチョン
髷頭まげあたま へ山高帽をいただいて帰って行く。
迷亭 はあとへ残る。
「
あれが君の伯父さんか 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(14 / 116)
「
あれが僕の伯父さんさ 」
「
なるほど 」と再び
座蒲団ざぶとん の上に坐ったなり
懐手ふところで をして考え込んでいる。
「
ハハハ豪傑だろう。僕もああ言う伯父さんを持って仕合せなものさ。どこへ連れて行ってもあの通りなんだぜ。君驚ろいたろう 」と
迷亭 君は
主人 を驚ろかしたつもりで
大おおい に喜んでいる。
「
なにそんなに驚きゃしない 」
「
あれで驚かなけりゃ、胆力の据すわ ったもんだ 」
「
しかしあの伯父さんはなかなかえらいところがあるようだ。精神の修養を主張するところなぞは大おおい に敬服していい 」
「
敬服していいかね。君も今に六十くらいになるとやっぱりあの伯父見たように、時候おくれになるかも知れないぜ。しっかりしてくれたまえ。時候おくれの廻り持ちなんか気が利き かないよ 」
「
君はしきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれの方がえらい んだぜ。第一今の学問と言うものは先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしない。とうてい満足は得られやしない。そこへ行くと東洋流の学問は消極的で大に味あじわい がある。心そのものの修業をするのだから 」とせんだって哲学者から承わった通りを自説のように述べ立てる。
「
えらい事になって来たぜ。何だか八木やぎ 独仙 どくせん 君のような事を言ってるね 」
八木
独仙 と言う名を聞いて
主人 ははっと驚ろいた。実はせんだって
臥竜窟がりょうくつ を訪問して
主人 を説服に及んで
悠然ゆうぜん と立ち帰った哲学者と言うのが取も直さずこの八木
独仙 君であって、今
主人 が
鹿爪しかつめ らしく述べ立てている議論は全くこの八木
独仙 君の受売なのであるから、知らんと思った
迷亭 がこの先生の名を
間不容髪かんふようはつ の際に持ち出したのは暗に
主人 の一夜作りの
仮鼻かりばな を
挫くじ いた訳になる。「
君独仙 の説を聞いた事があるのかい 」と
主人 は
剣呑けんのん だから念を
推お して見る。
「
聞いたの、聞かないのって、あの男の説ときたら、十年前学校にいた時分と今日こんにち と少しも変りゃしない 」
「
真理はそう変るものじゃないから、変らないところがたのもしいかも知れない 」
「
まあそんな贔負ひいき があるから独仙 もあれで立ち行くんだね。第一八木 と言う名からして、よく出来てるよ。あの髯ひげ が君全く山羊やぎ だからね。そうしてあれも寄宿舎時代からあの通りの格好かっこう で生えていたんだ。名前の独仙 なども振ふる ったものさ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(15 / 116)
昔むか し僕のところへ泊りがけに来て例の通り消極的の修養と言う議論をしてね。いつまで立っても同じ事を繰り返してやめないから、僕が君もう寝ね ようじゃないかと言うと、先生気楽なものさ、いや僕は眠くないとすまし切って、やっぱり消極論をやるには迷惑したね。仕方がないから君は眠くなかろうけれども、僕の方は大変眠いのだから、どうか寝てくれたまえと頼むようにして寝かしたまではよかったが――その晩鼠ねずみ が出て独仙 君の鼻のあたまを噛かじ ってね。夜なかに大騒ぎさ。先生悟ったような事を言うけれども命は依然として惜しかったと見えて、非常に心配するのさ。鼠の毒が総身そうしん 【全身】にまわると大変だ、君どうかしてくれと責めるには閉口したね。それから仕方がないから台所へ行って紙片かみぎれ へ飯粒を貼は ってごまかしてやったあね」
「
どうして 」
「
これは舶来の膏薬こうやく で、近来独逸ドイツ の名医が発明したので、印度人インドじん などの毒蛇に噛か まれた時に用いると即効があるんだから、これさえ貼っておけば大丈夫だと言ってね 」
「
君はその時分からごまかす事に妙を得ていたんだね 」
「
……すると独仙 君はああ言う好人物だから、全くだと思って安心してぐうぐう寝てしまったのさ。あくる日起きて見ると膏薬の下から糸屑いとくず がぶらさがって例の山羊髯やぎひげ に引っかかっていたのは滑稽こっけい だったよ 」
「
しかしあの時分より大分だいぶ えらく なったようだよ 」
「
君近頃逢ったのかい 」
「
一週間ばかり前に来て、長い間話しをして行った 」
「
どうりで独仙 流の消極説を振り舞わすと思った 」
「
実はその時大おおい に感心してしまったから、僕も大に奮発して修養をやろうと思ってるところなんだ 」
「
奮発は結構だがね。あんまり人の言う事を真ま に受けると馬鹿を見るぜ。一体君は人の言う事を何でもかでも正直に受けるからいけない。独仙 も口だけは立派なものだがね、いざとなると御互と同じものだよ。君九年前の大地震を知ってるだろう。あの時寄宿の二階から飛び降りて怪我をしたものは独仙 君だけなんだからな 」
「
あれには当人大分だいぶ 説があるようじゃないか 」
「
そうさ、当人に言わせるとすこぶるありがたいものさ。禅の機鋒きほう は 峻峭しゅんしょう なもので、いわゆる石火せっか の機き となると怖こわ いくらい早く物に応ずる事が出来る。ほかのものが地震だと言って狼狽うろた えているところを自分だけは二階の窓から飛び下りたところに修業の効があらわれて嬉しいと言って、跛びっこ を引きながらうれしがっていた。負惜みの強い男だ。一体禅ぜん とか仏ぶつ とか言って騒ぎ立てる連中ほどあやしいのはないぜ 」
「
そうかな 」と
苦沙弥 先生少々腰が弱くなる。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(16 / 116)
「
この間来た時禅宗坊主 の寝言ねごと 見たような事を何か言ってったろう 」
「
うん電光影裏でんこうえいり に春風しゅんぷう をきるとか言う句を教えて行ったよ 」
「
その電光さ。あれが十年前からの御箱おはこ なんだからおかしいよ。無覚禅師むかくぜんじ 【無学をもじったもの】の電光ときたら寄宿舎中誰も知らないものはないくらいだった。それに先生時々せき込むと間違えて電光影裏を逆さか さまに春風影裏に電光をきると言うから面白い。今度ためして見たまえ。向むこう で落ちつき払って述べたてているところを、こっちでいろいろ反対するんだね。するとすぐ転倒てんとう して妙な事を言うよ 」
「
君のようないたずらものに逢っちゃ叶かな わない 」
「
どっちがいたずら者だか分りゃしない。僕は禅坊主 だの、悟ったのは大嫌だ。僕の近所に南蔵院なんぞういん と言う寺があるが、あすこに八十ばかりの隠居がいる。それでこの間の白雨ゆうだち の時寺内じない へ雷らい が落ちて隠居のいる庭先の松の木を割さ いてしまった。ところが和尚おしょう 泰然として平気だと言うから、よく聞き合わせて見るとから聾つんぼ なんだね。それじゃ泰然たる訳さ。大概そんなものさ。独仙 も一人で悟っていればいいのだが、ややともすると人を誘い出すから悪い。現に独仙 の御蔭で二人ばかり気狂きちがい にされているからな 」
「
誰が 」
「
誰がって。一人は理野陶然りのとうぜん さ。独仙 の御蔭で大おおい に禅学に凝こ り固まって鎌倉へ出掛けて行って、とうとう出先で気狂になってしまった。円覚寺えんがくじ の前に汽車の踏切りがあるだろう、あの踏切り内うち へ飛び込んでレールの上で座禅をするんだね。それで向うから来る汽車をとめて見せると言う大気炎だいきえん さ。もっとも汽車の方で留ってくれたから一命だけはとりとめたが、その代り今度は火に入い って焼けず、水に入って溺おぼ れぬ金剛不壊こんごうふえ のからだだと号して寺内じない の蓮池はすいけ へ入ってぶくぶくあるき廻ったもんだ 」
「
死んだかい 」
「
その時も幸さいわい 、道場の坊主 が通りかかって助けてくれたが、その後ご 東京へ帰ってから、とうとう腹膜炎で死んでしまった。死んだのは腹膜炎だが、腹膜炎になった原因は僧堂で麦飯や万年漬まんねんづけ を食ったせいだから、つまるところは間接に独仙 が殺したようなものさ 」
「
むやみに熱中するのも善よ し悪あ ししだね 」と
主人 はちょっと気味のわるいという顔付をする。
「
本当にさ。独仙 にやられたものがもう一人同窓中にある 」
「
あぶないね。誰だい 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(17 / 116)
「
立町たちまち 老梅 君ろうばいくん さ。あの男も全く独仙 にそそのかされて鰻うなぎ が天上するような事ばかり言っていたが、とうとう君本物になってしまった」
「
本物たあ何だい 」
「
とうとう鰻が天上して、豚が仙人になったのさ 」
「
何の事だい、それは 」
「
八木 が独仙なら、立町 は豚仙ぶたせん さ、あのくらい食い意地のきたない男はなかったが、あの食意地と禅坊主 のわる意地が併発へいはつ したのだから助からない。始めは僕らも気がつかなかったが今から考えると妙な事ばかり並べていたよ。僕のうちなどへ来て君あの松の木へカツレツが飛んできやしませんかの、僕の国では蒲鉾かまぼこ が板へ乗って泳いでいますのって、しきりに警句を吐いたものさ。ただ吐いているうちはよかったが君表のどぶ へ金きん とん を掘りに行きましょうと促うな がすに至っては僕も降参したね。それから二三日にさんち するとついに豚仙になって巣鴨へ収容されてしまった。元来豚なんぞが気狂になる資格はないんだが、全く独仙 の御蔭であすこまで漕ぎ付けたんだね。独仙 の勢力もなかなかえらいよ」
「
へえ、今でも巣鴨にいるのかい 」
「
いるだんじゃない。自大狂じだいきょう で大気炎だいきえん を吐いている。近頃は立町老梅 なんて名はつまらないと言うので、自みずか ら天道公平 てんどうこうへい と号して、天道の権化ごんげ をもって任じている。すさまじいものだよ。まあちょっと行って見たまえ 」「
天道公平 ?」
「
天道公平 だよ。気狂の癖にうまい名をつけたものだね。時々は孔平こうへい とも書く事がある。それで何でも世人が迷ってるからぜひ救ってやりたいと言うので、むやみに友人や何かへ手紙を出すんだね。僕も四五通貰ったが、中にはなかなか長い奴があって不足税を二度ばかりとられたよ」
「
それじゃ僕の所とこ へ来たのも老梅 から来たんだ 」
「
君の所へも来たかい。そいつは妙だ。やっぱり赤い状袋だろう 」
「
うん、真中が赤くて左右が白い。一風変った状袋だ 」
「
あれはね、わざわざ支那から取り寄せるのだそうだよ。天の道は白なり、地の道は白なり、人は中間に在あ って赤しと言う豚仙の格言を示したんだって…… 」
「
なかなか因縁いんねん のある状袋だね 」
「
気狂だけに大おおい に凝こ ったものさ。そうして気狂になっても食意地だけは依然として存しているものと見えて、毎回必ず食物の事がかいてあるから奇妙だ。君の所へも何とか言って来たろう 」
「
うん、海鼠なまこ の事がかいてある 」
「
老梅 は海鼠が好きだったからね。もっともだ。それから?」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(18 / 116)
「
それから河豚ふぐ と朝鮮仁参ちょうせんにんじん か何か書いてある 」
「
河豚と朝鮮仁参の取り合せは旨うま いね。おおかた河豚を食って中あた ったら朝鮮仁参を煎せん じて飲めとでも言うつもりなんだろう 」
「
そうでもないようだ 」
「
そうでなくても構わないさ。どうせ気狂だもの。それっきりかい 」
「
まだある。苦沙弥 先生御茶でも上がれと言う句がある 」
「
アハハハ御茶でも上がれはきびし過ぎる。それで大おおい に君をやり込めたつもりに違ない。大出来だ。天道公平 君万歳だ 」と
迷亭 先生は面白がって、大に笑い出す。
主人 は少からざる尊敬をもって反覆
読誦どくしょう した
書簡しょかん の差出人が
金箔きんぱく つきの狂人であると知ってから、最前の熱心と苦心が何だか無駄骨のような気がして腹立たしくもあり、また
瘋癲病ふうてんびょう 者の文章をさほど心労して
翫味がんみ したかと思うと恥ずかしくもあり、最後に狂人の作にこれほど感服する以上は自分も多少神経に異状がありはせぬかとの疑念もあるので、立腹と、
慚愧ざんき と、心配の合併した状態で何だか落ちつかない顔付をして
控ひか えている。
折から表格子をあららかに開けて、重い靴の音が二た足ほど
沓脱くつぬぎ に響いたと思ったら「
ちょっと頼みます、ちょっと頼みます 」と大きな声がする。
主人 の尻の重いに反して
迷亭 はまたすこぶる気軽な男であるから、
御三 おさん の取次に出るのも待たず、
通れ と言いながら隔ての中の
間ま を二た足ばかりに飛び越えて玄関に
躍おど り出した。人のうちへ案内も乞わずにつかつか入り込むところは迷惑のようだが、人のうちへ這入った以上は
書生 同様取次を
務つと めるからはなはだ便利である。いくら
迷亭 でも御客さんには相違ない、その御客さんが玄関へ出張するのに
主人 たる
苦沙弥 先生が座敷へ構え込んで動かん法はない。普通の男ならあとから引き続いて出陣すべきはずであるが、そこが
苦沙弥 先生である。平気に座布団の上へ尻を落ちつけている。
但ただ し落ちつけているのと、落ちついているのとは、その趣は
大分だいぶ 似ているが、その実質はよほど違う。
玄関へ飛び出した
迷亭 は何かしきりに弁じていたが、やがて奥の方を向いて「
おい御主人 ちょっと御足労だが出てくれたまえ。君でなくっちゃ、間に合わない 」と大きな声を出す。
主人 はやむを得ず
懐手ふところで のままのそりのそりと出てくる。見ると
迷亭 君は一枚の名刺を握ったまましゃがんで挨拶をしている。すこぶる威厳のない腰つきである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(19 / 116)
その名刺には警視庁刑事巡査
吉田虎蔵 よしだとらぞう とある。
虎蔵 君と並んで立っているのは二十五六の
背せい の高い、
いなせ な
唐桟とうざん ずくめの男である。妙な事にこの男は
主人 と同じく懐手をしたまま、無言で
突立つった っている。何だか見たような顔だと思ってよくよく観察すると、見たようなどころじゃない。この間深夜御来訪になって
山やま の
芋いも を持って行かれた泥棒君である。おや今度は白昼公然と玄関からおいでになったな。
「
おいこの方かた は刑事巡査でせんだっての泥棒をつらまえたから、君に出頭しろと言うんで、わざわざおいでになったんだよ 」
主人 はようやく刑事が踏み込んだ理由が分ったと見えて、頭をさげて泥棒の方を向いて
鄭寧ていねい に御辞儀をした。泥棒の方が
虎蔵 君より男振りがいいので、こっちが刑事だと
早合点はやがてん をしたのだろう。泥棒も驚ろいたに相違ないが、まさか
私わたし が泥棒ですよと断わる訳にも行かなかったと見えて、すまして立っている。やはり懐手のままである。もっとも
手錠てじょう をはめているのだから、出そうと言っても出る
気遣きづかい はない。通例のものならこの様子でたいていはわかるはずだが、この
主人 は当世の人間に似合わず、むやみに役人や警察をありがたがる癖がある。
御上おかみ の御威光となると非常に恐しいものと心得ている。もっとも理論上から言うと、巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだくらいの事は心得ているのだが、実際に臨むといやにへえへえする。
主人 のおやじはその昔場末の名主であったから、上の者にぴょこぴょこ頭を下げて暮した習慣が、因果となってかように子に
酬むく ったのかも知れない。まことに気の毒な至りである。
巡査はおかしかったと見えて、にやにや笑いながら「
あしたね、午前九時までに日本堤にほんづつみ の分署まで来て下さい。――盗難品は何と何でしたかね 」
「
盗難品は…… 」と言いかけたが、あいにく先生たいがい忘れている。ただ覚えているのは
多々良たたら 三平 さんぺい 君の山の芋だけである。山の芋などはどうでも構わんと思ったが、盗難品は……と言いかけてあとが出ないのはいかにも
与太郎よたろう のようで
体裁ていさい がわるい。人が盗まれたのならいざ知らず、自分が盗まれておきながら、明瞭の答が出来んのは
一人前いちにんまえ ではない証拠だと、思い切って「
盗難品は……山の芋一箱 」とつけた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(20 / 116)
泥棒はこの時よほどおかしかったと見えて、下を向いて着物の
襟えり へあごを入れた。
迷亭 はアハハハと笑いながら「
山の芋がよほど惜しかったと見えるね 」と言った。巡査だけは存外真面目である。
「
山の芋は出ないようだがほかの物件はたいがい戻ったようです。――まあ来て見たら分るでしょう。それでね、下げ渡したら請書うけしょ が入るから、印形いんぎょう を忘れずに持っておいでなさい。――九時までに来なくってはいかん。日本堤にほんづつみ 分署ぶんしょ です。――浅草警察署の管轄内かんかつない の日本堤分署です。――それじゃ、さようなら 」と
独ひと りで弁じて帰って行く。泥棒君も続いて門を出る。手が出せないので、門をしめる事が出来ないから開け放しのまま行ってしまった。恐れ入りながらも不平と見えて、
主人 は頬をふくらして、ぴしゃりと立て切った。
「
アハハハ君は刑事を大変尊敬するね。つねにああ言う恭謙きょうけん な態度を持ってるといい男だが、君は巡査だけに鄭寧ていねい なんだから困る 」
「
だってせっかく知らせて来てくれたんじゃないか 」
「
知らせに来るったって、先は商売だよ。当り前にあしらってりゃ沢山だ 」
「
しかしただの商売じゃない 」
「
無論ただの商売じゃない。探偵と言ういけすかない商売さ。あたり前の商売より下等だね 」
「
君そんな事を言うと、ひどい目に逢うぜ 」
「
ハハハそれじゃ刑事の悪口わるくち はやめにしよう。しかし刑事を尊敬するのは、まだしもだが、泥棒を尊敬するに至っては、驚かざるを得んよ 」
「
誰が泥棒を尊敬したい 」
「
君がしたのさ 」
「
僕が泥棒に近付きがあるもんか 」
「
あるもんかって君は泥棒にお辞儀をしたじゃないか 」
「
いつ? 」
「
たった今平身低頭へいしんていとう したじゃないか 」
「
馬鹿あ言ってら、あれは刑事だね 」
「
刑事があんななり をするものか 」
「
刑事だからあんななり をするんじゃないか 」
「
頑固がんこ だな」
「
君こそ頑固だ 」
「
まあ第一、刑事が人の所へ来てあんなに懐手ふところで なんかして、突立つった っているものかね 」
「
刑事だって懐手をしないとは限るまい 」
「
そう猛烈にやって来ては恐れ入るがね。君がお辞儀をする間あいつは始終あのままで立っていたのだぜ 」
「
刑事だからそのくらいの事はあるかも知れんさ 」
「
どうも自信家だな。いくら言っても聞かないね 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(21 / 116)
「
聞かないさ。君は口先ばかりで泥棒だ泥棒だと言ってるだけで、その泥棒がはいるところを見届けた訳じゃないんだから。ただそう思って独ひと りで強情を張ってるんだ 」
迷亭 もここにおいてとうてい
済度さいど すべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず黙ってしまった。
主人 は久し振りで
迷亭 を
凹へこ ましたと思って大得意である。
迷亭 から見ると
主人 の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが、
主人 から言うと強情を張っただけ
迷亭 よりえらくなったのである。世の中にはこんな
頓珍漢とんちんかん な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は
遥はる かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は
面目めんぼく を施こしたつもりかなにかで、その時以後人が
軽蔑けいべつ して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。
「
ともかくもあした行くつもりかい 」
「
行くとも、九時までに来いと言うから、八時から出て行く 」
「
学校はどうする 」
「
休むさ。学校なんか 」と
擲たた きつけるように言ったのは
壮さかん なものだった。
「
えらい勢いきおい だね。休んでもいいのかい 」
「
いいとも僕の学校は月給だから、差し引かれる気遣きづかい はない、大丈夫だ 」と真直に白状してしまった。
ずるい 事も
ずるい が、単純なことも単純なものだ。
「
君、行くのはいいが路を知ってるかい 」
「
知るものか。車に乗って行けば訳はないだろう 」とぷんぷんしている。
「
静岡の伯父に譲らざる東京通なるには恐れ入る 」
「
いくらでも恐れ入るがいい 」
「
ハハハ日本堤分署と言うのはね、君ただの所じゃないよ。吉原よしわら だよ 」
「
何だ? 」
「
吉原だよ 」
「
あの遊郭のある吉原か? 」
「
そうさ、吉原と言やあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行って見る気かい 」と
迷亭 君またからかいかける。
主人 は吉原と聞いて、
そいつは と少々
逡巡しゅんじゅん の
体てい であったが、たちまち思い返して「
吉原だろうが、遊郭だろうが、いったん行くと言った以上はきっと行く 」と入らざるところに
力味りきん で見せた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(22 / 116)
愚人は得てこんなところに意地を張るものだ。
迷亭 君は「
まあ面白かろう、見て来たまえ 」と言ったのみである。
一波瀾ひとはらん を生じた刑事事件はこれで
一先ひとま ず
落着らくちゃく を告げた。
迷亭 はそれから相変らず駄弁を
弄ろう して日暮れ方、あまり遅くなると伯父に
怒おこ られると言って帰って行った。
迷亭 が帰ってから、そこそこに晩飯をすまして、また書斎へ引き揚げた
主人 は再び
拱手きょうしゅ して
下しも のように考え始めた。
「
自分が感服して、大おおい に見習おうとした八木独仙 君も迷亭 の話しによって見ると、別段見習うにも及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道するところの説は何だか非常識で、迷亭 の言う通り多少瘋癲的ふうてんてき 系統に属してもおりそうだ。いわんや彼は歴乎れっき とした二人の気狂きちがい の子分を有している。はなはだ危険である。滅多めった に近寄ると同系統内に引ひ き摺ず り込まれそうである。自分が文章の上において驚嘆の余よ 、これこそ大見識を有している偉人に相違ないと思い込んだ天道公平 事てんどうこうへいこと 実名じつみょう 立町たちまち 老梅 ろうばい は純然たる狂人であって、現に巣鴨の病院に起居している。迷亭 の記述が棒大のざれ言にもせよ、彼が瘋癲院ふうてんいん 中に盛名を擅ほしい ままにして天道の主宰をもって自みずか ら任ずるは恐らく事実であろう。こう言う自分もことによると少々ござっているかも知れない。同気相求め、同類相集まると言うから、気狂の説に感服する以上は――少なくともその文章言辞に同情を表する以上は――自分もまた気狂に縁の近い者であるだろう。よし同型中に鋳化ちゅうか せられんでも軒を比なら べて狂人と隣り合せに居きょ を卜ぼく するとすれば、境の壁を一重打ち抜いていつの間にか同室内に膝を突き合せて談笑する事がないとも限らん。こいつは大変だ。なるほど考えて見るとこのほどじゅうから自分の脳の作用は我ながら驚くくらい奇上きじょう に妙みょう を点じ変傍へんぼう に珍ちん を添えている。脳漿一勺のうしょういっせき の化学的変化はとにかく意志の動いて行為となるところ、発して言辞と化する辺あたり には不思議にも中庸【調和】を失した点が多い。舌上ぜつじょう に 竜泉りゅうせん なく、腋下えきか に清風せいふう を生しょう ぜざるも、歯根しこん に狂臭きょうしゅう あり、筋頭きんとう に瘋味ふうみ あるをいかんせん。いよいよ大変だ。 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(23 / 116)
「
ことによるともうすでに立派な患者になっているのではないかしらん。まだ幸さいわい に人を傷きずつ けたり、世間の邪魔になる事をし出かさんからやはり町内を追払われずに、東京市民として存在しているのではなかろうか。こいつは消極の積極のと言う段じゃない。まず脈拍みゃくはく からして検査しなくてはならん。しかし脈には変りはないようだ。頭は熱いかしらん。これも別に逆上の気味でもない。しかしどうも心配だ。 」
「
こう自分と気狂きちがい ばかりを比較して類似の点ばかり勘定していては、どうしても気狂の領分を脱する事は出来そうにもない。これは方法がわるかった。気狂を標準にして自分をそっちへ引きつけて解釈するからこんな結論が出るのである。もし健康な人を本位にしてその傍そば へ自分を置いて考えて見たらあるいは反対の結果が出るかも知れない。それにはまず手近から始めなくてはいかん。第一に今日来たフロックコートの伯父さんはどうだ。心をどこに置こうぞ……あれも少々怪しいようだ。第二に寒月 はどうだ。朝から晩まで弁当持参で球たま ばかり磨いている。これも棒組ぼうぐみ だ。第三にと……迷亭 ? あれはふざけ廻るのを天職のように心得ている。全く陽性の気狂に相違ない。第四はと……金田 の妻君。あの毒悪な根性こんじょう は全く常識をはずれている。純然たる気じるしに極きま ってる。第五は金田 君の番だ。金田 君には御目に懸った事はないが、まずあの細君 を恭うやうや しくおっ立てて、琴瑟きんしつ 調和しているところを見ると非凡の人間と見立てて差支さしつか えあるまい。非凡は気狂の異名いみょう であるから、まずこれも同類にしておいて構わない。それからと、――まだあるある。落雲館の諸君子だ、年齢から言うとまだ芽生えだが、躁狂そうきょう の点においては一世を空むな しゅうするに足る天晴あっぱれ な豪ごう のものである。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(24 / 116)
こう数え立てて見ると大抵のものは同類のようである。案外心丈夫になって来た。ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない。気狂が集合して鎬しのぎ を削けず ってつかみ合い、いがみ合い、罵ののし り合い、奪い合って、その全体が団体として細胞のように崩くず れたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と言うのではないか知らん。その中で多少理屈りくつ がわかって、分別のある奴はかえって邪魔になるから、瘋癲院ふうてんいん というものを作って、ここへ押し込めて出られないようにするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で、院外にあばれているものはかえって気狂である。気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂が金力や威力を乱用らんよう して多くの小気狂しょうきちがい を使役しえき して乱暴を働いて、人から立派な男だと言われている例は少なくない。何が何だか分らなくなった」
以上は
主人 が当夜
煢々けいけい たる孤灯の
下もと で沈思熟慮した時の心的作用をありのままに
描えが き出したものである。彼の頭脳の不透明なる事はここにも著るしくあらわれている。彼はカイゼルに似た
八字髯はちじひげ を
蓄たくわ うるにもかかわらず狂人と常人の差別さえなし得ぬくらいの
凡倉ぼんくら である。のみならず彼はせっかくこの問題を提供して自己の思索力に訴えながら、ついに何等の結論に達せずしてやめてしまった。何事によらず彼は徹底的に考える脳力のない男である。彼の結論の
茫漠ぼうばく として、彼の鼻孔から
迸出ほうしゅつ する朝日の煙のごとく、
捕捉ほそく しがたきは、彼の議論における唯一の特色として記憶すべき事実である。
吾輩 は猫である。猫の癖にどうして
主人 の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかも知れんが、このくらいな事は猫にとって何でもない。
吾輩 はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間の
膝ひざ の上へ乗って眠っているうちに、
吾輩 は吾輩の柔かな
毛衣けごろも をそっと人間の腹にこすり付ける。すると一道の電気が起って彼の腹の中のいきさつが手にとるように
吾輩 の心眼に映ずる。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(25 / 116)
せんだってなどは
主人 がやさしく
吾輩 の頭を
撫な で廻しながら、突然この猫の皮を
剥は いで
ちゃんちゃん にしたらさぞあたたかでよかろうと飛んでもない
了見りょうけん をむらむらと起したのを即座に
気取けど って覚えずひやっとした事さえある。
怖こわ い事だ。当夜
主人 の頭のなかに起った以上の思想もそんな
訳合わけあい で
幸さいわい にも諸君にご報道する事が出来るように相成ったのは
吾輩 の
大おおい に栄誉とするところである。
但ただ し
主人 は「
何が何だか分らなくなった 」まで考えてそのあとはぐうぐう寝てしまったのである、あすになれば何をどこまで考えたかまるで忘れてしまうに違ない。
向後こうご もし
主人 が
気狂きちがい について考える事があるとすれば、もう一
返ぺん 出直して頭から考え始めなければならぬ。そうすると果してこんな
径路けいろ を取って、こんな風に「
何が何だか分らなくなる 」かどうだか保証出来ない。しかし何返考え直しても、
何条なんじょう の径路をとって進もうとも、ついに「
何が何だか分らなくなる 」だけはたしかである。
十
「
あなた、もう七時ですよ 」と
襖越ふすまご しに
細君 が声を掛けた。
主人 は眼がさめているのだか、寝ているのだか、向うむきになったぎり返事もしない。返事をしないのはこの男の癖である。ぜひ何とか口を切らなければならない時は
うん と言う。この
うん も容易な事では出てこない。人間も返事がうるさくなるくらい
無精ぶしょう になると、どことなく
趣おもむき があるが、こんな人に限って女に好かれた試しがない。現在連れ添う
細君 ですら、あまり珍重しておらんようだから、その他は
推お して知るべしと言っても大した間違はなかろう。親兄弟に見離され、あかの他人の
傾城けいせい に、可愛がらりょうはずがない、とある以上は、
細君 にさえ持てない
主人 が、世間一般の淑女に気に入るはずがない。何も異性間に不人望な
主人 をこの際ことさらに
暴露ばくろ する必要もないのだが、本人において存外な考え違をして、全く年廻りのせいで
細君 に好かれないのだなどと理屈をつけていると、
迷まよい の種であるから、自覚の一助にもなろうかと親切心からちょっと申し添えるまでである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(26 / 116)
言いつけられた時刻に、時刻がきたと注意しても、先方がその注意を無にする以上は、
向むこう をむいて
うん さえ発せざる以上は、その
曲きょく は夫にあって、妻にあらずと論定したる
細君 は、遅くなっても知りませんよと言う姿勢で
箒ほうき と
はたき を
担かつ いで書斎の方へ行ってしまった。やがてぱたぱた書斎中を
叩たた き散らす音がするのは例によって例のごとき掃除を始めたのである。一体掃除の目的は運動のためか、遊戯のためか、掃除の役目を帯びぬ
吾輩 の関知するところでないから、知らん顔をしていれば
差さ し
支つか えないようなものの、ここの
細君 の掃除法のごときに至ってはすこぶる無意義のものと言わざるを得ない。何が無意義であるかと言うと、この
細君 は単に掃除のために掃除をしているからである。
はたき を一通り
障子しょうじ へかけて、箒を一応畳の上へ
滑すべ らせる。それで掃除は完成した者と解釈している。掃除の源因及び結果に至っては
微塵みじん の責任だに背負っておらん。かるが故に奇麗な所は毎日奇麗だが、
ごみ のある所、
ほこり の積っている所はいつでも
ごみ が
溜たま って
ほこり が積っている。
告朔こくさく の
餼羊きよう と言う
故事こじ もある事だから、これでもやらんよりはましかも知れない。しかしやっても別段
主人 のためにはならない。ならないところを毎日毎日御苦労にもやるところが
細君 のえらいところである。
細君 と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくって
頑がん として結びつけられているにもかかわらず、掃除の
実じつ に至っては、妻君がいまだ生れざる以前のごとく、
はたき と箒が発明せられざる昔のごとく、
毫ごう も
挙あが っておらん。思うにこの両者の関係は形式論理学の命題における名辞のごとくその内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。
吾輩 は
主人 と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえ
膳ぜん に向わぬさきから、猫の身分をもって朝めしに有りつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁の
香におい が
鮑貝あわびがい の中から、うまそうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。はかない事を、はかないと知りながら頼みにするときは、ただその頼みだけを頭の中に描いて、動かずに落ちついている方が得策であるが、さてそうは行かぬ者で、心の願と実際が、合うか合わぬか是非とも試験して見たくなる。試験して見れば必ず失望するにきまってる事ですら、最後の失望を
自みずか ら事実の上に受取るまでは承知出来んものである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(27 / 116)
吾輩 はたまらなくなって台所へ
這出はいだ した。まず
へっつい の影にある
鮑貝あわびがい の中を
覗のぞ いて見ると案に
違たが わず、
夕ゆう べ
舐な め尽したまま、
闃然げきぜん として、怪しき光が引窓を
洩も る
初秋はつあき の日影にかがやいている。
御三 おさん はすでに
炊た き
立たて の飯を、
御櫃おはち に移して、今や
七輪しちりん にかけた
鍋なべ の中をかきまぜつつある。
釜かま の周囲には
沸わ き上がって流れだした米の汁が、かさかさに
幾条いくすじ となくこびりついて、あるものは吉野紙を
貼は りつけたごとくに見える。もう飯も汁も出来ているのだから食わせてもよさそうなものだと思った。こんな時に遠慮するのはつまらない話だ、よしんば自分の望通りにならなくったって元々で損は行かないのだから、思い切って朝飯の催促をしてやろう、いくら
居候いそうろう の身分だってひもじいに変りはない。と考え定めた
吾輩 はにゃあにゃあと甘えるごとく、訴うるがごとく、あるいはまた
怨えん ずるがごとく泣いて見た。
御三 はいっこう顧みる
景色けしき がない。生れついてのお
多角たかく だから人情に
疎うと いのはとうから承知の上だが、そこをうまく泣き立てて同情を起させるのが、こっちの
手際てぎわ である。今度はにゃごにゃごとやって見た。その泣き声は吾ながら悲壮の
音おん を帯びて
天涯てんがい の
遊子ゆうし をして断腸の思あらしむるに足ると信ずる。
御三 は
恬てん として
顧かえり みない。この女は
聾つんぼ なのかも知れない。聾では下女が勤まる
訳わけ がないが、ことによると猫の声だけには聾なのだろう。世の中には
色盲しきもう というのがあって、当人は完全な視力を具えているつもりでも、医者から言わせると
片輪かたわ だそうだが、この
御三 は
声盲せいもう なのだろう。声盲だって片輪に違いない。片輪のくせにいやに
横風おうふう 【遠慮がない】なものだ。夜中なぞでも、いくらこっちが用があるから開けてくれろと言っても決して開けてくれた事がない。たまに出してくれたと思うと今度はどうしても入れてくれない。夏だって夜露は毒だ。いわんや
霜しも においてをやで、軒下に立ち明かして、日の出を待つのは、どんなに
辛つら いかとうてい想像が出来るものではない。この間しめ出しを食った時なぞは野良犬の襲撃を
蒙こうむ って、すでに危うく見えたところを、ようやくの事で物置の
家根やね へかけ上って、終夜
顫ふる えつづけた事さえある。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(28 / 116)
これ等は皆
御三 の不人情から
胚胎はいたい した不都合である。こんなものを相手にして鳴いて見せたって、
感応かんのう のあるはずはないのだが、そこが、ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみと言うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。にゃごおうにゃごおうと三度目には、注意を喚起するためにことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分ではベトヴェンのシンフォニーにも劣らざる美妙の
音おん と確信しているのだが
御三 には何等の影響も生じないようだ。
御三 は突然膝をついて、揚げ板を一枚はね
除の けて、中から堅炭の四寸ばかり長いのを一本つかみ出した。それからその長い奴を
七輪しちりん の角でぽんぽんと
敲たた いたら、長いのが三つほどに砕けて近所は炭の粉で真黒くなった。少々は汁の中へも這入ったらしい。
御三 はそんな事に頓着する女ではない。直ちにくだけたる三個の炭を
鍋なべ の尻から七輪の中へ押し込んだ。とうてい
吾輩 のシンフォニーには耳を傾けそうにもない。仕方がないから
悄然しょうぜん と茶の間の方へ引きかえそうとして風呂場の横を通り過ぎると、ここは今女の子が三人で顔を洗ってる最中で、なかなか
繁昌はんじょう している。
顔を洗うと言ったところで、上の二人が幼稚園の生徒で、三番目は姉の尻についてさえ行かれないくらい小さいのだから、正式に顔が洗えて、器用に御化粧が出来るはずがない。一番小さいのがバケツの中から
濡ぬ れ
雑巾ぞうきん を引きずり出してしきりに顔中
撫な で廻わしている。雑巾で顔を洗うのは定めし心持ちがわるかろうけれども、地震がゆるたびに
おもちろいわ と言う子だからこのくらいの事はあっても驚ろくに足らん。ことによると八木
独仙 君より悟っているかも知れない。さすがに長女は長女だけに、姉をもって
自みずか ら任じているから、うがい茶碗をからからかんと
抛出ほうりだ して「
坊やちゃん、それは雑巾よ 」と雑巾をとりにかかる。坊やちゃんもなかなか自信家だから容易に姉の言う事なんか聞きそうにしない。「
いやーよ、ばぶ 」と言いながら雑巾を引っ張り返した。この
ばぶ なる語はいかなる意義で、いかなる語源を有しているか、誰も知ってるものがない。ただこの坊やちゃんが
癇癪かんしゃく を起した時に折々ご使用になるばかりだ。雑巾はこの時姉の手と、坊やちゃんの手で左右に引っ張られるから、水を含んだ真中からぽたぽた
雫しずく が
垂た れて、容赦なく坊やの足にかかる、足だけなら我慢するが膝のあたりがしたたか濡れる。坊やはこれでも
元禄げんろく を着ているのである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(29 / 116)
元禄とは何の事だとだんだん聞いて見ると、
中形ちゅうがた の模様なら何でも元禄だそうだ。一体だれに教わって来たものか分らない。「
坊やちゃん、元禄が濡れるから御よしなさい、ね 」と姉が
洒落しゃ れた事を言う。その
癖くせ この姉はついこの間まで元禄と
双六すごろく とを間違えていた
物識ものし りである。
元禄で思い出したからついでに
喋舌しゃべ ってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事は
夥おびただ しいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を言ってる。火事で
茸きのこ が飛んで来たり、
御茶おちゃ の
味噌みそ の女学校へ行ったり、
恵比寿えびす 、
台所だいどこ と並べたり、或る時などは「
わたしゃ藁店わらだな の子じゃないわ 」と言うから、よくよく聞き
糺ただ して見ると
裏店うらだな と藁店を混同していたりする。
主人 はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な
誤謬ごびゅう 【まちがい】を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。
坊やは――当人は坊やとは言わない。いつでも
坊ば と言う――元禄が濡れたのを見て「
元げん どこ がべたい 」と言って泣き出した。元禄が冷たくては大変だから、
御三 が台所から飛び出して来て、雑巾を取上げて着物を
拭ふ いてやる。この騒動中比較的静かであったのは、次女の
すん子 嬢である。
すん子 嬢は向うむきになって棚の上からころがり落ちた、お
白粉しろい の
瓶びん をあけて、しきりに御化粧を
施ほどこ している。第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭をキューと
撫な でたから
竪たて に一本白い筋が通って、鼻のありかがいささか
分明ぶんみょう になって来た。次に塗りつけた指を転じて頬の上を摩擦したから、そこへもってきて、これまた白いかたまりが出来上った。これだけ装飾がととのったところへ、下女がはいって来て坊ばの着物を拭いたついでに、
すん子 の顔もふいてしまった。
すん子 は少々不満の
体てい に見えた。
吾輩 はこの光景を横に見て、茶の間から
主人 の寝室まで来てもう起きたかとひそかに様子をうかがって見ると、
主人 の頭がどこにも見えない。その代り
十文半ともんはん の甲の高い足が、夜具の
裾すそ から一本
食は み出している。頭が出ていては起こされる時に迷惑だと思って、かくもぐり込んだのであろう。亀の子のような男である。ところへ書斎の掃除をしてしまった妻君がまた
箒ほうき と
はたき を
担かつ いでやってくる。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(30 / 116)
最前さいぜん のように
襖ふすま の入口から
「
まだお起きにならないのですか 」と声をかけたまま、しばらく立って、首の出ない夜具を見つめていた。今度も返事がない。
細君 は入口から
二歩ふたあし ばかり進んで、箒をとんと突きながら「
まだなんですか、あなた 」と重ねて返事を承わる。この時
主人 はすでに目が
覚さ めている。覚めているから、
細君 の襲撃にそなえるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立て
籠こも ったのである。首さえ出さなければ、
見逃みのが してくれる事もあろうかと、詰まらない事を頼みにして寝ていたところ、なかなか許しそうもない。しかし第一回の声は敷居の上で、少くとも一間の間隔があったから、まず安心と腹のうちで思っていると、とんと突いた箒が何でも三尺くらいの距離に追っていたにはちょっと驚ろいた。のみならず第二の「
まだなんですか、あなた 」が距離においても音量においても前よりも倍以上の勢を以て夜具のなかまで聞えたから、こいつは駄目だと覚悟をして、小さな声で
うん と返事をした。
「
九時までにいらっしゃるのでしょう。早くなさらないと間に合いませんよ 」
「
そんなに言わなくても今起きる 」と
夜着よぎ の
袖口そでぐち から答えたのは奇観である。妻君はいつでもこの手を食って、起きるかと思って安心していると、また寝込まれつけているから、油断は出来ないと「
さあお起きなさい 」とせめ立てる。起きると言うのに、なお起きろと責めるのは気に食わんものだ。
主人 のごとき
我儘者わがままもの にはなお気に食わん。ここにおいてか
主人 は今まで頭から
被かぶ っていた夜着を一度に
跳は ねのけた。見ると大きな眼を二つとも
開あ いている。
「
何だ騒々しい。起きると言えば起きるのだ 」
「
起きるとおっしゃってもお起きなさらんじゃありませんか 」
「
誰がいつ、そんな嘘うそ をついた 」
「
いつでもですわ 」
「
馬鹿を言え 」
「
どっちが馬鹿だか分りゃしない 」と妻君ぷんとして箒を突いて枕元に立っているところは勇ましかった。この時裏の車屋の子供、
八っちゃん が急に大きな声をしてワーと泣き出す。
八っちゃん は
主人 が
怒おこ り出しさえすれば必ず泣き出すべく、車屋のかみさんから命ぜられるのである。かみさんは
主人 が怒るたんびに
八っちゃん を泣かして
小遣こづかい になるかも知れんが、
八っちゃん こそいい迷惑だ。こんな
御袋おふくろ を持ったが最後朝から晩まで泣き通しに泣いていなくてはならない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(31 / 116)
少しはこの辺の事情を察して
主人 も少々怒るのを差し
控ひか えてやったら、
八っちゃん の寿命が少しは延びるだろうに、いくら
金田 君から頼まれたって、こんな
愚ぐ な事をするのは、
天道公平 君よりもはげしくおいでになっている方だと鑑定してもよかろう。怒るたんびに泣かせられるだけなら、まだ余裕もあるけれども、
金田 君が近所のゴロツキを
傭やと って
今戸焼いまどやき をきめ込むたびに、
八っちゃん は泣かねばならんのである。
主人 が怒るか怒らぬか、まだ判然しないうちから、必ず怒るべきものと予想して、早手廻しに
八っちゃん は泣いているのである。こうなると
主人 が
八っちゃん だか、
八っちゃん が
主人 だか判然しなくなる。
主人 にあてつけるに
手数てすう は掛らない、ちょっと
八っちゃん に
剣突けんつく を食わせれば何の苦もなく、
主人 の
横よこ っ
面つら を張った訳になる。
昔むか し西洋で犯罪者を所刑にする時に、本人が国境外に逃亡して、
捕とら えられん時は、偶像をつくって人間の代りに
火ひ あぶり にしたと言うが、彼等のうちにも西洋の故事に
通暁つうぎょう する軍師があると見えて、うまい計略を授けたものである。落雲館と言い、
八っちゃん の御袋と言い、腕のきかぬ
主人 にとっては定めし
苦手にがて であろう。そのほか苦手はいろいろある。あるいは町内中ことごとく苦手かも知れんが、ただいまは関係がないから、だんだん成し崩しに紹介致す事にする。
八っちゃん の泣き声を聞いた
主人 は、朝っぱらからよほど
癇癪かんしゃく が起ったと見えて、たちまちがばと
布団ふとん の上に起き直った。こうなると精神修養も八木
独仙 も何もあったものじゃない。起き直りながら両方の手でゴシゴシゴシと表皮のむけるほど、頭中引き
掻か き廻す。一ヵ月も溜っているフケは遠慮なく、
頸筋くびすじ やら、寝巻の
襟えり へ飛んでくる。非常な壮観である。
髯ひげ はどうだと見るとこれはまた驚ろくべく、ぴん然とおっ立っている。持主が
怒おこ っているのに髯だけ落ちついていてはすまないとでも心得たものか、一本一本に
癇癪かんしゃく を起して、勝手次第の方角へ猛烈なる勢をもって突進している。これとてもなかなかの
見物みもの である。
昨日きのう は鏡の手前もある事だから、おとなしく
独乙ドイツ 皇帝陛下の真似をして整列したのであるが、一晩寝れば訓練も何もあった者ではない、直ちに本来の面目に帰って思い思いの
出い で
立たち に戻るのである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(32 / 116)
あたかも
主人 の一夜作りの精神修養が、あくる日になると
拭ぬぐ うがごとく奇麗に消え去って、生れついての
野猪的やちょてき 本領が直ちに全面を暴露し
来きた るのと一般である。こんな乱暴な髯をもっている、こんな乱暴な男が、よくまあ今まで免職にもならずに教師が勤まったものだと思うと、始めて日本の広い事がわかる。広ければこそ
金田 君や金田君の犬が人間として通用しているのでもあろう。彼等が人間として通用する間は
主人 も免職になる理由がないと確信しているらしい。いざとなれば巣鴨へ
端書はがき を飛ばして
天道公平 君に聞き合せて見れば、すぐ分る事だ。
この時
主人 は、
昨日きのう 紹介した
混沌こんとん たる太古の眼を精一杯に見張って、向うの戸棚をきっと見た。これは高さ一間を横に仕切って上下共
各おのおの 二枚の袋戸をはめたものである。下の方の戸棚は、
布団ふとん の
裾すそ とすれすれの距離にあるから、起き直った
主人 が眼をあきさえすれば、天然自然ここに視線がむくように出来ている。見ると模様を置いた紙がところどころ破れて妙な
腸はらわた があからさまに見える。腸にはいろいろなのがある。あるものは
活版摺かっぱんずり で、あるものは肉筆である。あるものは裏返しで、あるものは逆さまである。
主人 はこの腸を見ると同時に、何がかいてあるか読みたくなった。今までは車屋のかみさんでも
捕つらま えて、鼻づらを松の木へこすりつけてやろうくらいにまで
怒おこ っていた
主人 が、突然この
反古紙ほごがみ を読んで見たくなるのは不思議のようであるが、こう言う陽性の癇癪持ちには珍らしくない事だ。小供が泣くときに
最中もなか の一つもあてがえばすぐ笑うと一般である。
主人 が
昔むか し去る所の御寺に下宿していた時、
襖ふすま 一ひ と
重え を隔てて尼が五六人いた。尼などと言うものは元来意地のわるい女のうちでもっとも意地のわるいものであるが、この尼が
主人 の性質を見抜いたものと見えて自炊の
鍋なべ をたたきながら、今泣いた烏がもう笑った、今泣いた烏がもう笑ったと拍子を取って歌ったそうだ、
主人 が尼が大嫌になったのはこの時からだと言うが、尼は
嫌きらい にせよ全くそれに違ない。
主人 は泣いたり、笑ったり、嬉しがったり、悲しがったり人一倍もする代りにいずれも長く続いた事がない。よく言えば執着がなくて、
心機しんき がむやみに転ずるのだろうが、これを俗語に翻訳してやさしく言えば奥行のない、
薄うす っ
片ぺら の、
鼻はな っ
張ぱり だけ強いだだっ子である。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(33 / 116)
すでにだだっ子である以上は、喧嘩をする勢で、むっくと
刎は ね起きた
主人 が急に気をかえて
袋戸ふくろど の腸を読みにかかるのももっともと言わねばなるまい。第一に眼にとまったのが伊藤博文の
逆さ か
立だ ちである。上を見ると明治十一年九月廿八日とある。
韓国統監かんこくとうかん もこの時代から
御布令おふれ の
尻尾しっぽ を追っ懸けてあるいていたと見える。大将この時分は何をしていたんだろうと、読めそうにないところを無理によむと
大蔵卿おおくらきょう とある。なるほどえらいものだ、いくら逆か立ちしても大蔵卿である。少し左の方を見ると今度は大蔵卿横になって昼寝をしている。もっともだ。逆か立ちではそう長く続く
気遣きづかい はない。下の方に大きな
木板もくばん で
汝は と二字だけ見える、あとが見たいがあいにく露出しておらん。次の行には
早く の二字だけ出ている。こいつも読みたいがそれぎれで手掛りがない。もし
主人 が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と言うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に
行ゆ かないものだ。
願ねがわ くばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は
羅織虚構らしききょこう をもって良民を罪に
陥おとしい れる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときてはこれまた立派な
気狂きちがい である。次に眼を転じて真中を見ると真中には
大分県おおいたけん が宙返りをしている。伊藤博文でさえ逆か立ちをするくらいだから、大分県が宙返りをするのは当然である。
主人 はここまで読んで来て、双方へ
握にぎ り
拳こぶし をこしらえて、これを高く天井に向けて突きあげた。あくびの用意である。
このあくびがまた
鯨くじら の
遠吠とおぼえ のようにすこぶる変調を
極きわ めた者であったが、それが一段落を告げると、
主人 はのそのそと着物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。待ちかねた
細君 はいきなり
布団ふとん をまくって
夜着よぎ を畳んで、例の通り掃除をはじめる。掃除が例の通りであるごとく、
主人 の顔の洗い方も十年一日のごとく例の通りである。先日紹介をしたごとく依然としてがーがー、げーげーを持続している。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(34 / 116)
やがて頭を分け終って、西洋
手拭てぬぐい を肩へかけて、茶の間へ
出御しゅつぎょ になると、超然として長火鉢の横に座を占めた。長火鉢と言うと
欅けやき の
如輪木じょりんもく か、
銅あか の
総落そうおと しで、
洗髪あらいがみ の姉御が立膝で、
長煙管ながぎせる を
黒柿くろがき の縁へ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが、わが
苦沙弥 くしゃみ 先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない、何で造ったものか
素人しろうと には
見当けんとう のつかんくらい古雅なものである。長火鉢は拭き込んでてらてら光るところが
身上しんしょう なのだが、この
代物しろもの は欅か桜か
桐きり か元来不明瞭な上に、ほとんど
布巾ふきん をかけた事がないのだから陰気で引き立たざる事
夥おびただ しい。こんなものをどこから買って来たかと言うと、決して買った
覚おぼえ はない。そんなら貰ったかと聞くと、誰もくれた人はないそうだ。しからば盗んだのかと
糺ただ して見ると、何だかその辺が
曖昧あいまい である。昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、当分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢を何の気もなく、つい持って来てしまったのだそうだ。少々たちが悪いようだ。考えるとたちが悪いようだがこんな事は世間に往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委託した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を
笠かさ に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らの
喙くちばし を
容い るる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満している以上は長火鉢事件をもって
主人 に泥棒根性があると断定する訳には行かぬ。もし
主人 に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。
長火鉢の
傍そば に陣取って、食卓を前に
控ひか えたる
主人 の三面には、
先刻さっき 雑巾ぞうきん で顔を洗った
坊ば と
御茶おちゃ の
味噌 の学校へ行く
とん 子と、お
白粉罎しろいびん に指を突き込んだ
すん 子が、すでに
勢揃せいぞろい をして朝飯を食っている。
主人 は一応この三女子の顔を公平に見渡した。
とん子 の顔は
南蛮鉄なんばんてつ の刀の
鍔つば のような
輪郭りんかく を有している。
すん子 も妹だけに多少姉の
面影おもかげ を存して
琉球塗りゅうきゅうぬり の
朱盆しゅぼん くらいな資格はある。ただ
坊ば に至っては
独ひと り異彩を放って、
面長おもなが に出来上っている。
但ただ し
竪たて に長いのなら世間にその例もすくなくないが、この子のは横に長いのである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(35 / 116)
いかに流行が変化し
易やす くったって、横に長い顔がはやる事はなかろう。
主人 は自分の子ながらも、つくづく考える事がある。これでも生長しなければならぬ。生長するどころではない、その生長の
速すみや かなる事は
禅寺ぜんでら の
筍たけのこ が若竹に変化する勢で大きくなる。
主人 はまた大きくなったなと思うたんびに、
後うし ろから
追手おって にせまられるような気がしてひやひやする。いかに
空漠くうばく なる
主人 でもこの三令嬢が女であるくらいは心得ている。女である以上はどうにか片付けなくてはならんくらいも承知している。承知しているだけで片付ける手腕のない事も自覚している。そこで自分の子ながらも少しく持て余しているところである。持て余すくらいなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義を言うとほかに何にもない。ただ
入い らざる事を
捏造ねつぞう して
自みずか ら苦しんでいる者だと言えば、それで充分だ。
さすがに子供はえらい。これほどおやじが処置に窮しているとは夢にも知らず、楽しそうにご飯をたべる。ところが始末におえないのは坊ばである。坊ばは当年とって三歳であるから、
細君 が気を
利き かして、食事のときには、三歳然たる小形の
箸はし と茶碗をあてがうのだが、坊ばは決して承知しない。必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかい
悪にく い奴を無理に持ちあつかっている。世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出て
柄がら にもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの坊ば時代から
萌芽ほうが しているのである。その
因よ って
来きた るところはかくのごとく深いのだから、決して教育や
薫陶くんとう で
癒なお せる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。
坊ばは隣りから
分捕ぶんど った偉大なる茶碗と、長大なる箸を専有して、しきりに暴威を
擅ほしいまま にしている。使いこなせない者をむやみに使おうとするのだから、
勢いきおい 暴威を
逞たくま しくせざるを得ない。坊ばはまず箸の根元を二本いっしょに握ったままうんと茶碗の底へ突込んだ。茶碗の中は飯が八分通り盛り込まれて、その上に味噌汁が一面に
漲みなぎ っている。箸の力が茶碗へ伝わるやいなや、今までどうか、こうか、平均を保っていたのが、急に襲撃を受けたので三十度ばかり傾いた。同時に味噌汁は容赦なくだらだらと胸のあたりへこぼれだす。坊ばはそのくらいな事で
辟易へきえき する訳がない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(36 / 116)
坊ばは暴君である。今度は突き込んだ箸を、うんと力一杯茶碗の底から
刎は ね上げた。同時に小さな口を縁まで持って行って、
刎は ね上げられた米粒を這入るだけ口の中へ受納した。打ち
洩も らされた米粒は黄色な汁と相和して鼻のあたまと
頬ほ っぺたと
顋あご とへ、やっと掛声をして飛びついた。飛びつき損じて畳の上へこぼれたものは
打算ださん の限りでない。随分無分別な飯の食い方である。
吾輩 は
謹つつし んで有名なる
金田 君及び天下の勢力家に忠告する。
公等こうら の他をあつかう事、坊ばの茶碗と箸をあつかうがごとくんば、
公等こうら の口へ飛び込む米粒は極めて
僅少きんしょう のものである。必然の勢をもって飛び込むにあらず、
戸迷とまどい をして飛び込むのである。どうか御再考を
煩わずら わしたい。
世故せこ にたけた敏腕家にも似合しからぬ事だ。
姉の
とん子 は、自分の箸と茶碗を坊ばに
略奪りゃくだつ されて、不相応に小さな奴をもってさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、一杯にもった積りでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。したがって
頻繁ひんぱん に御はちの方へ手が出る。もう四膳かえて、今度は五杯目である。
とん子 は御はちの
蓋ふた をあけて大きな
しゃもじ を取り上げて、しばらく
眺なが めていた。これは食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、ついに決心したものと見えて、
焦こ げのなさそうなところを見計って
一掬ひとしゃく いしゃもじの上へ乗せたまでは
無難ぶなん であったが、それを裏返して、ぐいと茶碗の上をこいたら、茶碗に入りきらん飯は
塊かた まったまま畳の上へ
転ころ がり出した。
とん子 は驚ろく
景色けしき もなく、こぼれた飯を
鄭寧ていねい に拾い始めた。拾って何にするかと思ったら、みんな御はちの中へ入れてしまった。少しきたないようだ。
坊ばが一大活躍を試みて箸を
刎は ね上げた時は、ちょうど
とん子 が飯をよそい
了おわ った時である。さすがに姉は姉だけで、坊ばの顔のいかにも乱雑なのを見かねて「
あら坊ばちゃん、大変よ、顔が御ご ぜん粒だらけよ 」と言いながら、
早速さっそく 坊ばの顔の掃除にとりかかる。第一に鼻のあたまに
寄寓きぐう 【身を寄せる】していたのを取払う。取払って捨てると思のほか、すぐ自分の口のなかへ入れてしまったのには驚ろいた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(37 / 116)
それから
頬ほ っぺたにかかる。ここには
大分だいぶ 群ぐん をなして
数かず にしたら、両方を合せて約二十粒もあったろう。姉は丹念に一粒ずつ取っては食い、取っては食い、とうとう妹の顔中にある奴を一つ残らず食ってしまった。この時ただ今まではおとなしく
沢庵たくあん をかじっていた
すん子 が、急に盛り立ての味噌汁の中から
薩摩芋さつまいも のくずれたのをしゃくい出して、勢よく口の内へ
抛ほう り込んだ。諸君も御承知であろうが、汁にした薩摩芋の熱したのほど
口中こうちゅう にこたえる者はない。
大人おとな ですら注意しないと
火傷やけど をしたような心持ちがする。まして
すん子 のごとき、薩摩芋に経験の
乏とぼ しい者は無論
狼狽ろうばい する訳である。
すん子 はワッと言いながら
口中こうちゅう の芋を食卓の上へ吐き出した。その二三
片ぺん がどう言う拍子か、坊ばの前まですべって来て、ちょうどいい加減な距離でとまる。坊ばは
固もと より薩摩芋が大好きである。大好きな薩摩芋が眼の前へ飛んで来たのだから、早速箸を
抛ほう り出して、
手攫てづか みにしてむしゃむしゃ食ってしまった。
先刻さっき からこの
体てい たらくを目撃していた
主人 は、
一言いちごん も言わずに、専心自分の飯を食い、自分の汁を飲んで、この時はすでに
楊枝ようじ を使っている最中であった。
主人 は娘の教育に関して絶体的放任主義を
執と るつもりと見える。今に三人が
海老茶式部えびちゃしきぶ 【生意気・おてんばの女学生】か
鼠式部ねずみしきぶ 【漱石の造語か?】かになって、三人とも申し合せたように
情夫じょうふ をこしらえて
出奔しゅっぽん しても、やはり自分の飯を食って、自分の汁を飲んで澄まして見ているだろう。働きのない事だ。しかし今の世の働きのあると言う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、
鎌かま をかけて人を
陥おとしい れる事よりほかに何も知らないようだ。中学などの少年輩までが
見様見真似みようみまね に、こうしなくては幅が
利き かないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを
得々とくとく と
履行りこう して未来の紳士だと思っている。これは働き手と言うのではない。ごろつき手と言うのである。
吾輩 も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびに
撲なぐ ってやりたくなる。こんなものが一人でも
殖ふ えれば国家はそれだけ衰える訳である。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(38 / 116)
こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。
情なさけ ない事だ。こんなごろつき手に比べると
主人 などは
遥はる かに上等な人間と言わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。
猪口才ちょこざい でないところが上等なのである。
かくのごとく働きのない食い方をもって、無事に
朝食あさめし を済ましたる
主人 は、やがて洋服を着て、車へ乗って、日本堤分署へ出頭に及んだ。
格子こうし をあけた時、車夫に日本堤という所を知ってるかと聞いたら、車夫はへへへと笑った。あの遊郭のある吉原の近辺の日本堤だぜと念を押したのは少々
滑稽こっけい であった。
主人 が珍らしく車で玄関から出掛けたあとで、妻君は例のごとく食事を済ませて「
さあ学校へおいで。遅くなりますよ 」と催促すると、小供は平気なもので「
あら、でも今日は御休みよ 」と
支度したく をする
景色けしき がない。「
御休みなもんですか、早くなさい 」と
叱しか るように言って聞かせると「
それでも昨日きのう 、先生が御休だって、おっしゃってよ 」と姉はなかなか動じない。妻君もここに至って多少変に思ったものか、戸棚から
暦こよみ を出して繰り返して見ると、赤い字でちゃんと御祭日と出ている。
主人 は祭日とも知らずに学校へ欠勤届を出したのだろう。
細君 も知らずに郵便箱へ
抛ほう り込んだのだろう。ただし
迷亭 に至っては実際知らなかったのか、知って知らん顔をしたのか、そこは少々疑問である。この発明におやと驚ろいた妻君はそれじゃ、みんなでおとなしく御遊びなさいと
平生いつも の通り針箱を出して仕事に取りかかる。
その
後ご 三十分間は家内平穏、別段
吾輩 の材料になるような事件も起らなかったが、突然妙な人が御客に来た。十七八の女学生である。
踵かかと のまがった靴を
履は いて、紫色の
袴はかま を引きずって、髪を
算盤珠そろばんだま のようにふくらまして勝手口から案内も
乞こ わずに上って来た。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(39 / 116)
これは
主人 の
姪めい である。学校の生徒だそうだが、折々日曜にやって来て、よく叔父さんと喧嘩をして帰って行く
雪江 ゆきえ とか言う奇麗な名のお嬢さんである。もっとも顔は名前ほどでもない、ちょっと表へ出て一二町あるけば必ず逢える人相である。
「
叔母さん今日は 」と茶の間へつかつか入って来て、針箱の横へ尻をおろした。
「
おや、よく早くから…… 」
「
今日は大祭日ですから、朝のうちにちょっと上がろうと思って、八時半頃から家うち を出て急いで来たの 」
「
そう、何か用があるの? 」
「
いいえ、ただあんまり御無沙汰をしたから、ちょっと上がったの 」
「
ちょっとでなくっていいから、緩ゆっ くり遊んでいらっしゃい。今に叔父さんが帰って来ますから 」
「
叔父さんは、もう、どこへかいらしったの。珍らしいのね 」
「
ええ今日はね、妙な所へ行ったのよ。……警察へ行ったの、妙でしょう 」
「
あら、何で? 」
「
この春這入った泥棒がつらまったんだって 」
「
それで引き合に出されるの? いい迷惑ね 」
「
なあに品物が戻るのよ。取られたものが出たから取りに来いって、昨日きのう 巡査がわざわざ来たもんですから 」
「
おや、そう、それでなくっちゃ、こんなに早く叔父さんが出掛ける事はないわね。いつもなら今時分はまだ寝ていらっしゃるんだわ 」
「
叔父さんほど、寝坊はないんですから……そうして起こすとぷんぷん怒おこ るのよ。今朝なんかも七時までに是非おこせと言うから、起こしたんでしょう。すると夜具の中へ潜もぐ って返事もしないんですもの。こっちは心配だから二度目にまたおこすと、夜着よぎ の袖そで から何か言うのよ。本当にあきれ返ってしまうの 」
「
なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう 」
「
何ですか 」
「
本当にむやみに怒る方かた ね。あれでよく学校が勤まるのね 」「
なに学校じゃおとなしいんですって 」
「
じゃなお悪るいわ。まるで蒟蒻閻魔こんにゃくえんま ね 」
「
なぜ? 」
「
なぜでも蒟蒻閻魔なの。だって蒟蒻閻魔のようじゃありませんか 」
「
ただ怒るばかりじゃないのよ。人が右と言えば左、左と言えば右で、何でも人の言う通りにした事がない、――そりゃ強情ですよ 」
「
天探女あまのじゃく でしょう。叔父さんはあれが道楽なのよ。だから何かさせようと思ったら、うら を言うと、こっちの思い通りになるのよ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(40 / 116)
こないだ蝙蝠こうもり 傘を買ってもらう時にも、いらない、いらないって、わざと言ったら、いらない事があるものかって、すぐ買って下すったの」
「
ホホホホ旨うま いのね。わたしもこれからそうしよう 」
「
そうなさいよ。それでなくっちゃ損だわ 」
「
こないだ保険会社の人が来て、是非御這入おはい んなさいって、勧めているんでしょう、――いろいろ訳わけ を言って、こう言う利益があるの、ああ言う利益があるのって、何でも一時間も話をしたんですが、どうしても這入らないの。うちだって貯蓄はなし、こうして小供は三人もあるし、せめて保険へでも入ってくれるとよっぽど心丈夫なんですけれども、そんな事は少しも構わないんですもの 」
「
そうね、もしもの事があると不安心だわね 」と十七八の娘に似合しからん
世帯染しょたいじ みたことを言う。
「
その談判を蔭で聞いていると、本当に面白いのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから会社も存在しているのだろう。しかし死なない以上は保険に這入る必要はないじゃないかって強情を張っているんです 」
「
叔父さんが? 」
「
ええ、すると会社の男が、それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命と言うものは丈夫なようで脆もろ いもので、知らないうちに、いつ危険が逼せま っているか分りませんと言うとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心をしているって、まあ無法な事を言うんですよ 」
「
決心したって、死ぬわねえ。わたしなんか是非及第きゅうだい するつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ 」
「
保険社員もそう言うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心で長な が生い きが出来るものなら、誰も死ぬものはございませんって 」
「
保険会社の方が至当しとう ですわ 」
「
至当でしょう。それがわからないの。いえ決して死なない。誓って死なないって威張るの 」「
妙ね 」
「
妙ですとも、大妙おおみょう ですわ。保険の掛金を出すくらいなら銀行へ貯金する方が遥はる かにましだってすまし切っているんですよ 」
「
貯金があるの? 」
「
あるもんですか。自分が死んだあとなんか、ちっとも構う考なんかないんですよ 」
「
本当に心配ね。なぜ、あんななんでしょう、ここへいらっしゃる方かた だって、叔父さんのようなのは一人もいないわね 」
「
いるものですか。無類ですよ 」
「
ちっと鈴木 さんにでも頼んで意見でもして貰うといいんですよ。ああ言う穏おだ やかな人だとよっぽど楽ですがねえ 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(41 / 116)
「
ところが鈴木 さんは、うちじゃ評判がわるいのよ 」
「
みんな逆さか なのね。それじゃ、あの方かた がいいでしょう――ほらあの落ちついてる―― 」
「
八木 さん?」
「
ええ 」
「
八木 さんには大分だいぶ 閉口しているんですがね。昨日きのう 迷亭 さんが来て悪口をいったものだから、思ったほど利き かないかも知れない」
「
だっていいじゃありませんか。あんな風に鷹揚おうよう に落ちついていれば、――こないだ学校で演説をなすったわ 」
「
八木 さんが?」
「
ええ 」
「
八木 さんは雪江 さんの学校の先生なの」
「
いいえ、先生じゃないけども、淑徳しゅくとく 婦人会ふじんかい のときに招待して、演説をして頂いたの 」
「
面白かって? 」
「
そうね、そんなに面白くもなかったわ。だけども、あの先生が、あんな長い顔なんでしょう。そうして天神様のような髯ひげ を生やしているもんだから、みんな感心して聞いていてよ 」
「
御話しって、どんな御話なの? 」と妻君が聞きかけていると縁側の方から、
雪江 さんの話し声をききつけて、三人の子供がどたばた茶の間へ乱入して来た。今までは竹垣の外の
空地あきち へ出て遊んでいたものであろう。
「
あら雪江 さんが来た 」と二人の姉さんは嬉しそうに大きな声を出す。妻君は「
そんなに騒がないで、みんな静かにして御坐わりなさい。雪江 さんが今面白い話をなさるところだから 」と仕事を隅へ片付ける。
「
雪江 さん何の御話し、わたし御話しが大好き」と言ったのは
とん子 で「
やっぱりかちかち 山の御話し? 」と聞いたのは
すん子 である。「
坊ばも御はなち 」と言い出した三女は姉と姉の間から膝を前の方に出す。ただしこれは御話を
承うけたま わると言うのではない、坊ばもまた御話を
仕つかまつ ると言う意味である。「
あら、また坊ばちゃんの話だ 」と姉さんが笑うと、妻君は「
坊ばはあとでなさい。雪江 さんの御話がすんでから 」と
賺す かして見る。坊ばはなかなか聞きそうにない。「
いやーよ、ばぶ 」と大きな声を出す。「
おお、よしよし坊ばちゃんからなさい。何と言うの? 」と
雪江 さんは
謙遜けんそん した。
「
あのね。坊たん、坊たん、どこ行くのって 」
「
面白いのね。それから? 」
「
わたちは田圃たんぼ へ稲刈いに 」
「
そう、よく知ってる事 」
「
御前がくうと邪魔だま になる 」
「
あら、くう とじゃないわ、くる とだわね 」と
とん子 が口を出す。坊ばは相変らず「
ばぶ 」と
一喝いっかつ して直ちに姉を
辟易へきえき させる。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(42 / 116)
しかし中途で口を出されたものだから、続きを忘れてしまって、あとが出て来ない。「
坊ばちゃん、それぎりなの? 」と
雪江 さんが聞く。
「
あのね。あとでおならは御免ごめん だよ。ぷう、ぷうぷうって 」
「
ホホホホ、いやだ事、誰にそんな事を、教わったの? 」
「
御三 おたん に」
「
わるい御三 おさん ね、そんな事を教えて 」と妻君は苦笑をしていたが「
さあ今度は雪江 さんの番だ。坊やはおとなしく聞いているのですよ 」と言うと、さすがの暴君も
納得なっとく したと見えて、それぎり当分の間は沈黙した。
「
八木 先生の演説はこんなのよ」と
雪江 さんがとうとう口を切った。「
昔ある辻つじ の真中に大きな石地蔵があったんですってね。ところがそこがあいにく馬や車が通る大変賑にぎ やかな場所だもんだから邪魔になって仕様がないんでね、町内のものが大勢寄って、相談をして、どうしてこの石地蔵を隅の方へ片づけたらよかろうって考えたんですって 」
「
そりゃ本当にあった話なの? 」
「
どうですか、そんな事は何ともおっしゃらなくってよ。――でみんながいろいろ相談をしたら、その町内で一番強い男が、そりゃ訳はありません、わたしがきっと片づけて見せますって、一人でその辻へ行って、両肌もろはだ を抜いで汗を流して引っ張ったけれども、どうしても動かないんですって 」
「
よっぽど重い石地蔵なのね 」
「
ええ、それでその男が疲れてしまって、うちへ帰って寝てしまったから、町内のものはまた相談をしたんですね。すると今度は町内で一番利口な男が、私わたし に任せて御覧なさい、一番やって見ますからって、重箱のなかへ牡丹餅ぼたもち を一杯入れて、地蔵の前へ来て、『ここまでおいで』と言いながら牡丹餅を見せびらかしたんだって、地蔵だって食意地くいいじ が張ってるから牡丹餅で釣れるだろうと思ったら、少しも動かないんだって。利口な男はこれではいけないと思ってね。今度は瓢箪ひょうたん へお酒を入れて、その瓢箪を片手へぶら下げて、片手へ猪口ちょこ を持ってまた地蔵さんの前へ来て、さあ飲みたくはないかね、飲みたければここまでおいでと三時間ばかり、からかって見たがやはり動かないんですって 」
「
雪江 さん、地蔵様は御腹おなか が減へ らないの」と
とん子 がきくと「
牡丹餅が食べたいな 」と
すん子 が言った。
「
利口な人は二度共しくじったから、その次には贋札にせさつ を沢山こしらえて、さあ欲しいだろう、欲しければ取りにおいでと札を出したり引っ込ましたりしたがこれもまるで益やく に立たないんですって。よっぽど頑固がんこ な地蔵様なのよ 」
「
そうね。すこし叔父さんに似ているわ 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(43 / 116)
「
ええまるで叔父さんよ、しまいに利口な人も愛想あいそ をつかしてやめてしまったんですとさ。それでそのあとからね、大きな法螺ほら を吹く人が出て、私わたし ならきっと片づけて見せますからご安心なさいとさも容易たやす い事のように受合ったそうです 」
「
その法螺を吹く人は何をしたんです 」
「
それが面白いのよ。最初にはね巡査の服をきて、付つ け髯ひげ をして、地蔵様の前へきて、こらこら、動かんとその方のためにならんぞ、警察で棄てておかんぞと威張って見せたんですとさ。今の世に警察の仮声こわいろ なんか使ったって誰も聞きゃしないわね 」
「
本当ね、それで地蔵様は動いたの? 」
「
動くもんですか、叔父さんですもの 」
「
でも叔父さんは警察には大変恐れ入っているのよ 」
「
あらそう、あんな顔をして? それじゃ、そんなに怖こわ い事はないわね。けれども地蔵様は動かないんですって、平気でいるんですとさ。それで法螺吹は大変怒おこ って、巡査の服を脱いで、付け髯を紙屑籠かみくずかご へ抛ほう り込んで、今度は大金持ちの服装なり をして出て来たそうです。今の世で言うと岩崎男爵【三菱財閥3代目】のような顔をするんですとさ。おかしいわね 」
「
岩崎のような顔ってどんな顔なの? 」
「
ただ大きな顔をするんでしょう。そうして何もしないで、また何も言わないで地蔵の周まわ りを、大きな巻煙草まきたばこ をふかしながら歩行ある いているんですとさ 」
「
それが何になるの? 」
「
地蔵様を煙けむ に捲ま くんです 」
「
まるで噺はな し家か の洒落しゃれ のようね。首尾よく煙けむ に捲ま いたの? 」
「
駄目ですわ、相手が石ですもの。ごまかしもたいていにすればいいのに、今度は殿下さまに化けて来たんだって。馬鹿ね 」
「
へえ、その時分にも殿下さまがあるの? 」
「
有るんでしょう。八木 先生はそうおっしゃってよ。たしかに殿下様に化けたんだって、恐れ多い事だが化けて来たって――第一不敬じゃありませんか、法螺吹ほらふ きの分際ぶんざい で 」
「
殿下って、どの殿下さまなの 」
「
どの殿下さまですか、どの殿下さまだって不敬ですわ 」
「
そうね 」
「
殿下さまでも利き かないでしょう。法螺吹きもしようがないから、とても私わたし の手際てぎわ では、あの地蔵はどうする事も出来ませんと降参をしたそうです 」
「
いい気味ね 」
「
ええ、ついでに懲役ちょうえき にやればいいのに。――でも町内のものは大層気を揉も んで、また相談を開いたんですが、もう誰も引き受けるものがないんで弱ったそうです 」
「
それでおしまい? 」
「
まだあるのよ。一番しまいに車屋とゴロツキを大勢雇って、地蔵様の周まわ りをわいわい騒いであるいたんです。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(44 / 116)
ただ地蔵様をいじめて、いたたまれないようにすればいいと言って、夜昼交替こうたい で騒ぐんだって」
「
御苦労様ですこと 」
「
それでも取り合わないんですとさ。地蔵様の方も随分強情ね 」
「
それから、どうして? 」と
とん 子が熱心に聞く。
「
それからね、いくら毎日毎日騒いでも験げん が見えないので、大分だいぶ みんなが厭いや になって来たんですが、車夫やゴロツキは幾日いくんち でも日当にっとう になる事だから喜んで騒いでいましたとさ 」
「
雪江 さん、日当ってなに?」と
すん 子が質問をする。
「
日当と言うのはね、御金の事なの 」
「
御金をもらって何にするの? 」
「
御金を貰ってね。……ホホホホいやなすん 子さんだ。――それで叔母さん、毎日毎晩から 騒ぎをしていますとね。その時町内に馬鹿竹ばかたけ と言って、何なんに も知らない、誰も相手にしない馬鹿がいたんですってね。その馬鹿がこの騒ぎを見て御前方おまえがた は何でそんなに騒ぐんだ、何年かかっても地蔵一つ動かす事が出来ないのか、可哀想かわいそう なものだ、と言ったそうですって―― 」
「
馬鹿の癖にえらいのね 」
「
なかなかえらい馬鹿なのよ。みんなが馬鹿竹ばかたけ の言う事を聞いて、物はためしだ、どうせ駄目だろうが、まあ竹にやらして見ようじゃないかとそれから竹に頼むと、竹は一も二もなく引き受けたが、そんな邪魔な騒ぎをしないでまあ静かにしろと車引やゴロツキを引き込まして飄然ひょうぜん 【ふらり】と地蔵様の前へ出て来ました 」
「
雪江 さん飄然 て、馬鹿竹のお友達?」と
とん子 が
肝心かんじん なところで奇問を放ったので、
細君 と
雪江 さんはどっと笑い出した。
「
いいえお友達じゃないのよ 」「
じゃ、なに? 」
「
飄然と言うのはね。――言いようがないわ 」
「
飄然て、言いようがないの? 」
「
そうじゃないのよ、飄然と言うのはね―― 」
「
ええ 」
「
そら多々良たたら 三平 さんぺい さんを知ってるでしょう 」
「
ええ、山の芋をくれてよ 」
「
あの多々良 さん見たようなを言うのよ 」
「
多々良 さんは飄然なの?」
「
ええ、まあそうよ。――それで馬鹿竹が地蔵様の前へ来て懐手ふところで をして、地蔵様、町内のものが、あなたに動いてくれと言うから動いてやんなさいと言ったら、地蔵様はたちまちそうか、そんなら早くそう言えばいいのに、とのこのこ動き出したそうです 」
「
妙な地蔵様ね 」
「
それからが演説よ 」
「
まだあるの? 」
「
ええ、それから八木 先生がね、今日こんにち は御婦人の会でありますが、私がかような御話をわざわざ致したのは少々考があるので、こう申すと失礼かも知れませんが、婦人というものはとかく物をするのに正面から近道を通って行かないで、かえって遠方から廻りくどい手段をとる弊へい がある。もっともこれは御婦人に限った事でない。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(45 / 116)
明治の代よ は男子といえども、文明の弊を受けて多少女性的になっているから、よくいらざる手数てすう と労力を費つい やして、これが本筋である、紳士のやるべき方針であると誤解しているものが多いようだが、これ等は開化の業に束縛された奇形児きけいじ である。別に論ずるに及ばん。ただ御婦人に在あ ってはなるべくただいま申した昔話を御記憶になって、いざと言う場合にはどうか馬鹿竹のような正直な了見で物事を処理していただきたい。あなた方が馬鹿竹になれば夫婦の間、嫁姑よめしゅうと の間に起る忌いま わしき葛藤かっとう の三分一さんぶいち はたしかに減ぜられるに相違ない。人間は魂胆こんたん があればあるほど、その魂胆が祟たた って不幸の源みなもと をなすので、多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆があり過ぎるからである。どうか馬鹿竹になって下さい、と言う演説なの」
「
へえ、それで雪江 さんは馬鹿竹になる気なの 」
「
やだわ、馬鹿竹だなんて。そんなものになりたくはないわ。金田 の富子 さんなんぞは失敬だって大変怒おこ ってよ 」
「
金田の富子 さんて、あの向横町むこうよこちょう の? 」
「
ええ、あのハイカラさんよ 」
「
あの人も雪江 さんの学校へ行くの? 」
「
いいえ、ただ婦人会だから傍聴に来たの。本当にハイカラね。どうも驚ろいちまうわ 」
「
でも大変いい器量だって言うじゃありませんか 」
「
並ですわ。御自慢ほどじゃありませんよ。あんなに御化粧をすればたいていの人はよく見えるわ 」
「
それじゃ雪江 さんなんぞはそのかたのように御化粧をすれば金田 さんの倍くらい美しくなるでしょう 」
「
あらいやだ。よくってよ。知らないわ。だけど、あの方かた は全くつくり過ぎるのね。なんぼ御金があったって―― 」
「
つくり過ぎても御金のある方がいいじゃありませんか 」
「
それもそうだけれども――あの方かた こそ、少し馬鹿竹になった方がいいでしょう。無暗むやみ に威張るんですもの。この間もなんとか言う詩人が新体詩集を捧げたって、みんなに吹聴ふいちょう しているんですもの 」
「
東風 さんでしょう」
「
あら、あの方が捧げたの、よっぽど物数奇ものずき ね 」
「
でも東風 さんは大変真面目なんですよ。自分じゃ、あんな事をするのが当前あたりまえ だとまで思ってるんですもの 」
「
そんな人があるから、いけないんですよ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(46 / 116)
――それからまだ面白い事があるの。此間こないだ だれか、あの方の所とこ へ艶書えんしょ を送ったものがあるんだって」
「
おや、いやらしい。誰なの、そんな事をしたのは 」
「
誰だかわからないんだって 」
「
名前はないの? 」
「
名前はちゃんと書いてあるんだけれども聞いた事もない人だって、そうしてそれが長い長い一間ばかりもある手紙でね。いろいろな妙な事がかいてあるんですとさ。私わたし があなたを恋おも っているのは、ちょうど宗教家が神にあこがれているようなものだの、あなたのためならば祭壇に供える小羊となって屠ほふ られるのが無上の名誉であるの、心臓の形かた ちが三角で、三角の中心にキューピッドの矢が立って、吹き矢なら大当りであるの…… 」
「
そりゃ真面目なの? 」
「
真面目なんですとさ。現にわたしの御友達のうちでその手紙を見たものが三人あるんですもの 」
「
いやな人ね、そんなものを見せびらかして。あの方は寒月 さんのとこへ御嫁に行くつもりなんだから、そんな事が世間へ知れちゃ困るでしょうにね 」
「
困るどころですか大得意よ。こんだ寒月 さんが来たら、知らして上げたらいいでしょう。寒月 さんはまるで御存じないんでしょう 」
「
どうですか、あの方は学校へ行って球たま ばかり磨いていらっしゃるから、大方知らないでしょう 」
「
寒月 さんは本当にあの方を御貰おもらい になる気なんでしょうかね。御気の毒だわね」
「
なぜ? 御金があって、いざって時に力になって、いいじゃありませんか 」
「
叔母さんは、じきに金、金って品ひん がわるいのね。金より愛の方が大事じゃありませんか。愛がなければ夫婦の関係は成立しやしないわ 」「
そう、それじゃ雪江 さんは、どんなところへ御嫁に行くの? 」
「
そんな事知るもんですか、別に何もないんですもの 」
雪江 さんと叔母さんは結婚事件について何か弁論を
逞たくま しくしていると、さっきから、分らないなりに謹聴している
とん 子が突然口を開いて「
わたしも御嫁に行きたいな 」と言いだした。この無鉄砲な希望には、さすが青春の気に満ちて、
大おおい に同情を寄すべき
雪江 さんもちょっと毒気を抜かれた
体てい であったが、
細君 の方は比較的平気に構えて「
どこへ行きたいの 」と笑ながら聞いて見た。
「
わたしねえ、本当はね、招魂社しょうこんしゃ 【国家のために亡くなった人の霊を祀る神社】へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの 」
細君 と
雪江 さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女の
すん子 が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(47 / 116)
「
御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやなら好い いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ 」
「
坊ばも行くの 」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔を
揃そろ えて招魂社へ嫁に行けたら、
主人 もさぞ楽であろう。
ところへ車の音ががらがらと門前に留ったと思ったら、たちまち威勢のいい御帰りと言う声がした。
主人 は日本堤分署から戻ったと見える。車夫が差出す大きな風呂敷包を下女に受け取らして、
主人 は
悠然ゆうぜん と茶の間へ入って来る。「
やあ、来たね 」と
雪江 さんに挨拶しながら、例の有名なる長火鉢の
傍そば へ、ぽかりと手に
携たずさ えた
徳利様とっくりよう のものを
抛ほう り出した。徳利様と言うのは純然たる徳利では無論ない、と言って
花活はない けとも思われない、ただ一種異様の陶器であるから、やむを得ずしばらくかように申したのである。
「
妙な徳利ね、そんなものを警察から貰っていらしったの 」と
雪江 さんが、倒れた奴を起しながら叔父さんに聞いて見る。叔父さんは、
雪江 さんの顔を見ながら、「
どうだ、いい格好かっこう だろう 」と自慢する。
「
いい格好なの? それが? あんまりよかあないわ? 油壺あぶらつぼ なんか何で持っていらっしったの? 」
「
油壺なものか。そんな趣味のない事を言うから困る 」
「
じゃ、なあに? 」
「
花活はないけ さ」
「
花活にしちゃ、口が小ち いさ過ぎて、いやに胴が張ってるわ 」
「
そこが面白いんだ。御前も無風流だな。まるで叔母さんと択えら ぶところなしだ。困ったものだな 」と
独ひと りで油壺を取り上げて、
障子しょうじ の方へ向けて
眺なが めている。
「
どうせ無風流ですわ。油壺を警察から貰ってくるような真似は出来ないわ。ねえ叔母さん 」叔母さんはそれどころではない、風呂敷包を
解と いて
皿眼さらまなこ になって、盗難品を
検しら べている。「
おや驚ろいた。泥棒も進歩したのね。みんな、解いて洗い張をしてあるわ。ねえちょいと、あなた 」
「
誰が警察から油壺を貰ってくるものか。待ってるのが退屈だから、あすこいらを散歩しているうちに堀り出して来たんだ。御前なんぞには分るまいがそれでも珍品だよ 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(48 / 116)
「
珍品過ぎるわ。一体叔父さんはどこを散歩したの 」
「
どこって日本堤にほんづつみ 界隈かいわい さ。吉原へも入って見た。なかなか盛さかん な所だ。あの鉄の門を観み た事があるかい。ないだろう 」
「
だれが見るもんですか。吉原なんて賤業婦せんぎょうふ のいる所へ行く因縁いんねん がありませんわ。叔父さんは教師の身で、よくまあ、あんな所へ行かれたものねえ。本当に驚ろいてしまうわ。ねえ叔母さん、叔母さん 」
「
ええ、そうね。どうも品数しなかず が足りないようだ事。これでみんな戻ったんでしょうか 」
「
戻らんのは山の芋ばかりさ。元来九時に出頭しろと言いながら十一時まで待たせる法があるものか、これだから日本の警察はいかん 」
「
日本の警察がいけないって、吉原を散歩しちゃなおいけないわ。そんな事が知れると免職になってよ。ねえ叔母さん 」
「
ええ、なるでしょう。あなた、私の帯の片側かたかわ がないんです。何だか足りないと思ったら 」
「
帯の片側くらいあきらめるさ。こっちは三時間も待たされて、大切の時間を半日潰つぶ してしまった 」と日本服に着代えて平気に火鉢へもたれて油壺を
眺なが めている。
細君 も仕方がないと
諦あきら めて、戻った品をそのまま戸棚へしまい
込こ んで座に帰る。
「
叔母さん、この油壺が珍品ですとさ。きたないじゃありませんか 」
「
それを吉原で買っていらしったの? まあ 」
「
何がまあ だ。分りもしない癖に 」
「
それでもそんな壺なら吉原へ行かなくっても、どこにだってあるじゃありませんか 」
「
ところがないんだよ。滅多めった に有る品ではないんだよ 」
「
叔父さんは随分石地蔵いしじぞう ね 」
「
また小供の癖に生意気を言う。どうもこの頃の女学生は口が悪るくっていかん。ちと女大学でも読むがいい 」
「
叔父さんは保険が嫌きらい でしょう。女学生と保険とどっちが嫌なの? 」
「
保険は嫌ではない。あれは必要なものだ。未来の考のあるものは、誰でも這入る。女学生は無用の長物だ 」
「
無用の長物でもいい事よ。保険へ入ってもいない癖に 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(49 / 116)
「
来月から這入るつもりだ 」
「
きっと? 」
「
きっとだとも 」
「
およしなさいよ、保険なんか。それよりかその懸金かけきん で何か買った方がいいわ。ねえ、叔母さん 」叔母さんはにやにや笑っている。
主人 は真面目になって
「
お前などは百も二百も生きる気だから、そんな呑気のんき な事を言うのだが、もう少し理性が発達して見ろ、保険の必要を感ずるに至るのは当前あたりまえ だ。ぜひ来月から這入るんだ 」
「
そう、それじゃ仕方がない。だけどこないだのように蝙蝠こうもり 傘を買って下さる御金があるなら、保険に這入る方がましかも知れないわ。ひとがいりません、いりませんと言うのを無理に買って下さるんですもの 」
「
そんなにいらなかったのか? 」
「
ええ、蝙蝠傘なんか欲しかないわ 」
「
そんなら還かえ すがいい。ちょうど とん子 が欲しがってるから、あれをこっちへ廻してやろう。今日持って来たか 」
「
あら、そりゃ、あんまりだわ。だって苛ひど いじゃありませんか、せっかく買って下すっておきながら、還せなんて 」
「
いらないと言うから、還せと言うのさ。ちっとも苛くはない 」
「
いらない事はいらないんですけれども、苛いわ 」
「
分らん事を言う奴だな。いらないと言うから還せと言うのに苛い事があるものか 」
「
だって 」
「
だって、どうしたんだ 」
「
だって苛いわ 」
「
愚ぐ だな、同じ事ばかり繰り返している」
「
叔父さんだって同じ事ばかり繰り返しているじゃありませんか 」
「
御前が繰り返すから仕方がないさ。現にいらないと言ったじゃないか 」
「
そりゃ言いましたわ。いらない事はいらないんですけれども、還すのは厭いや ですもの 」
「
驚ろいたな。没分暁わからずや で強情なんだから仕方がない。御前の学校じゃ論理学を教えないのか 」
「
よくってよ、どうせ無教育なんですから、何とでもおっしゃい。人のものを還せだなんて、他人だってそんな不人情な事は言やしない。ちっと馬鹿竹ばかたけ の真似でもなさい 」
「
何の真似をしろ? 」
「
ちと正直に淡泊たんぱく になさいと言うんです 」
「
お前は愚物の癖にやに強情だよ。それだから落第するんだ 」
「
落第したって叔父さんに学資は出して貰やしないわ 」
雪江 さんは
言げん ここに至って感に
堪た えざるもののごとく、
潸然さんぜん として
一掬いっきく の
涙なんだ を紫の
袴はかま の上に落した。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(50 / 116)
主人 は
茫乎ぼうこ として、その涙がいかなる心理作用に起因するかを研究するもののごとく、袴の上と、
俯う つ向いた
雪江 さんの顔を見つめていた。ところへ
御三 おさん が台所から赤い手を敷居越に
揃そろ えて「
お客さまがいらっしゃいました 」と言う。「
誰が来たんだ 」と
主人 が聞くと「
学校の生徒さんでございます 」と
御三 は
雪江 さんの泣顔を横目に
睨にら めながら答えた。
主人 は客間へ出て行く。
吾輩 も種取り
兼けん 人間研究のため、
主人 に
尾び して忍びやかに
椽えん へ廻った。人間を研究するには何か波瀾がある時を
択えら ばないと
一向いっこう 結果が出て来ない。平生は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張合のないくらい平凡である。しかしいざとなるとこの平凡が急に霊妙なる神秘的作用のためにむくむくと持ち上がって奇なもの、変なもの、妙なもの、
異い なもの、一と口に言えば
吾輩 猫共から見てすこぶる後学になるような事件が至るところに
横風おうふう 【遠慮がない】にあらわれてくる。
雪江 さんの
紅涙こうるい のごときはまさしくその現象の一つである。かくのごとく不可思議、
不可測ふかそく の心を有している
雪江 さんも、
細君 と話をしているうちはさほどとも思わなかったが、
主人 が帰ってきて油壺を
抛ほう り出すやいなや、たちまち
死竜しりゅう に
蒸汽喞筒じょうきポンプ を注ぎかけたるごとく、
勃然ぼつぜん としてその
深奥しんおう にして
窺知きち すべからざる、巧妙なる、美妙なる、奇妙なる、霊妙なる、麗質を、惜気もなく発揚し
了おわ った。しかしてその麗質は天下の
女性にょしょう に共通なる麗質である。ただ惜しい事には容易にあらわれて来ない。
否いや あらわれる事は二六時中間断なくあらわれているが、かくのごとく顕著に
灼然炳乎しゃくぜんへいこ として遠慮なくはあらわれて来ない。幸にして
主人 のように
吾輩 の毛をややともすると逆さに
撫な でたがる
旋毛曲つむじまが りの
奇特家きどくか がおったから、かかる狂言も拝見が出来たのであろう。
主人 のあとさえついてあるけば、どこへ行っても舞台の役者は吾知らず動くに相違ない。面白い男を旦那様に
戴いただ いて、短かい猫の命のうちにも、
大分だいぶ 多くの経験が出来る。ありがたい事だ。今度のお客は何者であろう。
見ると年頃は十七八、
雪江 さんと
追お っつ、
返か っつの
書生 である。大きな頭を
地じ の
隙す いて見えるほど刈り込んで
団子だんご っ
鼻ぱな を顔の真中にかためて、座敷の隅の方に
控ひか えている。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(51 / 116)
別にこれと言う特徴もないが
頭蓋骨ずがいこつ だけはすこぶる大きい。青
坊主 に刈ってさえ、ああ大きく見えるのだから、
主人 のように長く延ばしたら定めし人目を
惹ひ く事だろう。こんな顔にかぎって学問はあまり出来ない者だとは、かねてより
主人 の持説である。事実はそうかも知れないがちょっと見るとナポレオンのようですこぶる偉観である。着物は通例の
書生 のごとく、
薩摩絣さつまがすり か、
久留米くるめ がすりかまた
伊予いよ 絣か分らないが、ともかくも
絣かすり と名づけられたる
袷あわせ を袖短かに着こなして、下には
襯衣シャツ も
襦袢じゅばん もないようだ。
素袷すあわせ や
素足すあし は意気なものだそうだが、この男のはなはだむさ苦しい感じを与える。ことに畳の上に泥棒のような親指を歴然と三つまで
印いん しているのは全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡の上へちゃんと坐って、さも窮屈そうに
畏か しこまっている。一体かしこまるべきものがおとなしく
控ひか えるのは別段気にするにも及ばんが、
毬栗頭いがぐりあたま のつんつるてんの乱暴者が恐縮しているところは何となく不調和なものだ。途中で先生に逢ってさえ礼をしないのを自慢にするくらいの連中が、たとい三十分でも人並に坐るのは苦しいに違ない。ところを生れ得て
恭謙きょうけん の君子、盛徳の
長者ちょうしゃ であるかのごとく構えるのだから、当人の苦しいにかかわらず
傍はた から見ると
大分だいぶ おかしいのである。教場もしくは運動場であんなに騒々しいものが、どうしてかように自己を
箝束かんそく する力を
具そな えているかと思うと、憐れにもあるが
滑稽こっけい でもある。こうやって一人ずつ
相対あいたい になると、いかに
愚騃ぐがい なる
主人 といえども生徒に対して幾分かの重みがあるように思われる。
主人 も定めし得意であろう。
塵ちり 積って山をなすと言うから、微々たる一生徒も
多勢たぜい が
聚合しゅうごう すると
侮あなど るべからざる団体となって、
排斥はいせき 運動やストライキをしでかすかも知れない。これはちょうど臆病者が酒を飲んで大胆になるような現象であろう。衆を頼んで騒ぎ出すのは、人の気に酔っ払った結果、正気を取り落したるものと認めて
差支さしつか えあるまい。それでなければかように恐れ入ると言わんよりむしろ
悄然しょうぜん として、
自みずか ら
襖ふすま に押し付けられているくらいな薩摩絣が、いかに老朽だと言って、
苟かりそ めにも先生と名のつく
主人 を
軽蔑けいべつ しようがない。馬鹿に出来る訳がない。
主人 は
座布団ざぶとん を押しやりながら、「
さあお敷き 」と言ったが
毬栗 先生はかたくなったまま「
へえ 」と言って動かない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(52 / 116)
鼻の先に
剥は げかかった
更紗さらさ の座布団が「
御乗んなさい 」とも何とも言わずに着席している
後うし ろに、生きた
大頭 がつくねんと着席しているのは妙なものだ。布団は乗るための布団で見詰めるために
細君 が勧工場から仕入れて来たのではない。布団にして敷かれずんば、布団はまさしくその名誉を
毀損きそん せられたるもので、これを勧めたる
主人 もまた幾分か顔が立たない事になる。
主人 の顔を
潰つぶ してまで、布団と
睨にら めくらをしている
毬栗 君は決して布団その物が
嫌きらい なのではない。実を言うと、正式に坐った事は
祖父じい さんの法事の時のほかは生れてから
滅多めった にないので、
先さ っきからすでに
しびれ が切れかかって少々足の先は困難を訴えているのである。それにもかかわらず敷かない。布団が手持無沙汰に
控ひか えているにもかかわらず敷かない。
主人 がさあお敷きと言うのに敷かない。厄介な
毬栗 坊主だ。このくらい遠慮するなら
多人数たにんず 集まった時もう少し遠慮すればいいのに、学校でもう少し遠慮すればいいのに、下宿屋でもう少し遠慮すればいいのに。すまじきところへ
気兼きがね をして、すべき時には
謙遜けんそん しない、否
大おおい に
狼藉ろうぜき を働らく。たちの悪るい
毬栗 坊主だ。
ところへ
後うし ろの
襖ふすま をすうと開けて、
雪江 さんが一碗の茶を
恭うやうや しく
坊主 に供した。平生なら、そらサヴェジ・チーが出たと
冷ひ やかすのだが、
主人 一人に対してすら痛み
入い っている上へ、妙齢の
女性にょしょう が学校で覚え立ての
小笠原流おがさわらりゅう で、
乙おつ に気取った手つきをして茶碗を突きつけたのだから、
坊主 は
大おおい に
苦悶くもん の
体てい に見える。
雪江 さんは
襖ふすま をしめる時に後ろからにやにやと笑った。して見ると女は同年輩でもなかなかえらいものだ。
坊主 に比すれば
遥はる かに度胸が
据す わっている。ことに
先刻さっき の無念にはらはらと流した一滴の
紅涙こうるい のあとだから、このにやにやがさらに目立って見えた。
雪江 さんの引き込んだあとは、双方無言のまま、しばらくの間は
辛防しんぼう していたが、これでは
業ぎょう をするようなものだと気がついた
主人 はようやく口を開いた。
「
君は何とか言ったけな 」
「
古井 ふるい ……」
「
古井 ? 古井 何とかだね。名は」「
古井武右衛門 ぶえもん 」
「
古井武右衛門 ――なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昔の名だ。四年生だったね 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(53 / 116)
「
いいえ 」
「
三年生か? 」
「
いいえ、二年生です 」
「
甲の組かね 」
「
乙です 」
「
乙なら、わたしの監督だね。そうか 」と
主人 は感心している。実はこの
大頭 は入学の当時から、
主人 の眼についているんだから、決して忘れるどころではない。のみならず、時々は夢に見るくらい感銘した頭である。しかし
呑気のんき な
主人 はこの頭とこの古風な姓名とを連結して、その連結したものをまた二年乙組に連結する事が出来なかったのである。だからこの夢に見るほど感心した頭が自分の監督組の生徒であると聞いて、思わず
そうか と心の
裏うち で手を
拍う ったのである。しかしこの大きな頭の、古い名の、しかも自分の監督する生徒が何のために今頃やって来たのか
頓とん と
推諒すいりょう 出来ない。元来不人望な
主人 の事だから、学校の生徒などは正月だろうが暮だろうがほとんど寄りついた事がない。寄りついたのは古井
武右衛門 君をもって
嚆矢こうし とするくらいな珍客であるが、その来訪の主意がわからんには
主人 も
大おおい に閉口しているらしい。こんな面白くない人の
家うち へただ遊びにくる訳もなかろうし、また辞職勧告ならもう少し
昂然こうぜん と構え込みそうだし、と言って
武右衛門 君などが一身上の用事相談があるはずがないし、どっちから、どう考えても
主人 には分らない。
武右衛門 君の様子を見るとあるいは本人自身にすら何で、ここまで参ったのか判然しないかも知れない。仕方がないから
主人 からとうとう表向に聞き出した。
「
君遊びに来たのか 」
「
そうじゃないんです 」
「
それじゃ用事かね 」
「
ええ 」
「
学校の事かい 」
「
ええ、少し御話ししようと思って…… 」
「
うむ。どんな事かね。さあ話したまえ 」と言うと
武右衛門 君下を向いたぎり
何なん にも言わない。元来
武右衛門 君は中学の二年生にしてはよく弁ずる方で、頭の大きい割に脳力は発達しておらんが、
喋舌しゃべ る事においては乙組中
鏘々そうそう たるものである。現にせんだってコロンバスの日本訳を教えろと言って
大おおい に
主人 を困らしたはまさにこの
武右衛門 君である。その鏘々たる先生が、
最前さいぜん から
吃どもり の御姫様のようにもじもじしているのは、何か言わくのある事でなくてはならん。単に遠慮のみとはとうてい受け取られない。
主人 も少々不審に思った。
「
話す事があるなら、早く話したらいいじゃないか 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(54 / 116)
「
少し話しにくい事で…… 」
「
話しにくい? 」と言いながら
主人 は
武右衛門 君の顔を見たが、先方は依然として
俯向うつむき になってるから、何事とも鑑定が出来ない。やむを得ず、少し語勢を変えて「
いいさ。何でも話すがいい。ほかに誰も聞いていやしない。わたしも他言たごん はしないから 」と
穏おだ やかにつけ加えた。
「
話してもいいでしょうか? 」と
武右衛門 君はまだ迷っている。
「
いいだろう 」と
主人 は勝手な判断をする。
「
では話しますが 」といいかけて、
毬栗 頭いがぐりあたま をむくりと持ち上げて
主人 の方をちょっとまぼしそうに見た。その眼は三角である。
主人 は頬をふくらまして朝日の煙を吹き出しながらちょっと横を向いた。
「
実はその……困った事になっちまって…… 」
「
何が? 」
「
何がって、はなはだ困るもんですから、来たんです 」
「
だからさ、何が困るんだよ 」
「
そんな事をする考はなかったんですけれども、浜田 はまだ が借せ借せと言うもんですから…… 」
「
浜田 と言うのは浜田 平助へいすけ かい」
「
ええ 」
「
浜田 に下宿料でも借したのかい」
「
何そんなものを借したんじゃありません 」
「
じゃ何を借したんだい 」
「
名前を借したんです 」
「
浜田 が君の名前を借りて何をしたんだい」
「
艶書えんしょ を送ったんです」
「
何を送った? 」
「
だから、名前は廃よ して、投函役とうかんやく になると言ったんです 」
「
何だか要領を得んじゃないか。一体誰が何をしたんだい 」「
艶書えんしょ を送ったんです」
「
艶書を送った? 誰に? 」
「
だから、話しにくいと言うんです 」
「
じゃ君が、どこかの女に艶書を送ったのか 」
「
いいえ、僕じゃないんです 」
「
浜田 が送ったのかい」
「
浜田 でもないんです」
「
じゃ誰が送ったんだい 」
「
誰だか分らないんです 」
「
ちっとも要領を得ないな。では誰も送らんのかい 」
「
名前だけは僕の名なんです 」
「
名前だけは君の名だって、何の事だかちっとも分らんじゃないか。もっと条理を立てて話すがいい。元来その艶書を受けた当人はだれか 」
「
金田 って向横丁むこうよこちょう にいる女です」
「
あの金田 という実業家か 」
「
ええ 」
「
で、名前だけ借したとは何の事だい 」
「
あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。――浜田 が名前がなくちゃいけないって言いますから、君の名前をかけって言ったら、僕のじゃつまらない。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(55 / 116)
古井武右衛門 の方がいいって――それで、とうとう僕の名を借してしまったんです」
「
で、君はあすこの娘を知ってるのか。交際でもあるのか 」
「
交際も何もありゃしません。顔なんか見た事もありません 」
「
乱暴だな。顔も知らない人に艶書をやるなんて、まあどう言う了見で、そんな事をしたんだい 」
「
ただみんながあいつは生意気で威張ってるて言うから、からかってやったんです 」
「
ますます乱暴だな。じゃ君の名を公然とかいて送ったんだな 」
「
ええ、文章は浜田 が書いたんです。僕が名前を借して遠藤 が夜あすこのうちまで行って投函して来たんです 」
「
じゃ三人で共同してやったんだね 」
「
ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退学にでもなると大変だと思って、非常に心配して二三日にさんち は寝られないんで、何だか茫ぼん やりしてしまいました 」
「
そりゃまた飛んでもない馬鹿をしたもんだ。それで文明中学二年生古井武右衛門 とでもかいたのかい 」
「
いいえ、学校の名なんか書きゃしません 」
「
学校の名を書かないだけまあよかった。これで学校の名が出て見るがいい。それこそ文明中学の名誉に関する 」
「
どうでしょう退校になるでしょうか 」
「
そうさな 」
「
先生、僕のおやじさんは大変やかましい人で、それにお母っか さんが継母ままはは ですから、もし退校にでもなろうもんなら、僕あ困っちまうです。本当に退校になるでしょうか 」
「
だから滅多めった な真似をしないがいい 」
「
する気でもなかったんですが、ついやってしまったんです。退校にならないように出来ないでしょうか 」と
武右衛門 君は泣き出しそうな声をしてしきりに哀願に及んでいる。
襖ふすま の蔭では
最前さいぜん から
細君 と
雪江 さんがくすくす笑っている。
主人 は
飽あ くまでももったいぶって「
そうさな 」を繰り返している。なかなか面白い。
吾輩 が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない。聞くのはもっともだ。人間にせよ、動物にせよ、
己おのれ を知るのは
生涯しょうがい の大事である。
己おのれ を知る事が出来さえすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。その時は
吾輩 もこんないたずらを書くのは気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである。しかし自分で自分の鼻の高さが分らないと同じように、自己の何物かはなかなか
見当けんとう がつき
悪に くいと見えて、平生から
軽蔑けいべつ している猫に向ってさえかような質問をかけるのであろう。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(56 / 116)
人間は生意気なようでもやはり、どこか抜けている。万物の霊だなどとどこへでも万物の霊を
担かつ いであるくかと思うと、これしきの事実が理解出来ない。しかも
恬てん として平然たるに至ってはちと
一噱いっきゃく を催したくなる。彼は万物の霊を背中へ
担かつ いで、おれの鼻はどこにあるか教えてくれ、教えてくれと騒ぎ立てている。それなら万物の霊を辞職するかと思うと、どう致して死んでも放しそうにしない。このくらい公然と矛盾をして平気でいられれば
愛嬌あいきょう になる。愛嬌になる代りには馬鹿をもって
甘あまん じなくてはならん。
吾輩 がこの際
武右衛門 君と、
主人 と、
細君 及
雪江 嬢を面白がるのは、単に外部の事件が
鉢合はちあわ せをして、その鉢合せが波動を
乙おつ なところに伝えるからではない。実はその鉢合の反響が人間の心に個々別々の
音色ねいろ を起すからである。第一
主人 はこの事件に対してむしろ冷淡である。
武右衛門 君のおやじさんがいかにやかましくって、おっかさんがいかに君を
継子ままこ あつかいにしようとも、あんまり驚ろかない。驚ろくはずがない。
武右衛門 君が退校になるのは、自分が免職になるのとは
大おおい に
趣おもむき が違う。千人近くの生徒がみんな退校になったら、教師も衣食の
途みち に窮するかも知れないが、古井
武右衛門 君
一人いちにん の運命がどう変化しようと、
主人 の
朝夕ちょうせき にはほとんど関係がない。関係の薄いところには同情も
自おのず から薄い訳である。見ず知らずの人のために
眉まゆ をひそめたり、鼻をかんだり、嘆息をするのは、決して自然の傾向ではない。人間がそんなに
情深なさけぶか い、思いやりのある動物であるとははなはだ受け取りにくい。ただ世の中に生れて来た
賦税ふぜい として、時々交際のために涙を流して見たり、気の毒な顔を作って見せたりするばかりである。言わばごまかし
性せい 表情で、実を言うと
大分だいぶ 骨が折れる芸術である。このごまかしをうまくやるものを芸術的良心の強い人と言って、これは世間から大変珍重される。だから人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試して見ればすぐ分る。この点において
主人 はむしろ
拙せつ な部類に属すると言ってよろしい。拙だから珍重されない。珍重されないから、内部の冷淡を存外隠すところもなく発表している。彼が
武右衛門 君に対して「
そうさな 」を繰り返しているのでも
這裏しゃり の消息はよく分る。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(57 / 116)
諸君は冷淡だからと言って、けっして
主人 のような善人を嫌ってはいけない。冷淡は人間の本来の性質であって、その性質をかくそうと
力つと めないのは正直な人である。もし諸君がかかる際に冷淡以上を望んだら、それこそ人間を買い
被かぶ ったと言わなければならない。正直ですら
払底ふってい な世にそれ以上を予期するのは、
馬琴ばきん の小説から
志乃しの や
小文吾こぶんご が抜けだして、向う三軒両隣へ
八犬伝はっけんでん が引き越した時でなくては、あてにならない無理な注文である。
主人 はまずこのくらいにして、次には茶の間で笑ってる
女連おんなれん に取りかかるが、これは
主人 の冷淡を一歩
向むこう へ
跨また いで、
滑稽こっけい の領分に
躍おど り込んで嬉しがっている。この女連には
武右衛門 君が頭痛に病んでいる艶書事件が、
仏陀ぶっだ の
福音ふくいん のごとくありがたく思われる。理由はないただありがたい。強いて解剖すれば
武右衛門 君が困るのがありがたいのである。諸君女に向って聞いて御覧、「
あなたは人が困るのを面白がって笑いますか 」と。聞かれた人はこの問を呈出した者を馬鹿と言うだろう、馬鹿と言わなければ、わざとこんな問をかけて淑女の品性を侮辱したと言うだろう。侮辱したと思うのは事実かも知れないが、人の困るのを笑うのも事実である。であるとすれば、これから
私わたし の品性を侮辱するような事を自分でしてお目にかけますから、何とか言っちゃいやよと断わるのと一般である。僕は泥棒をする。しかしけっして不道徳と言ってはならん。もし不道徳だなどと言えば僕の顔へ泥を塗ったものである。僕を侮辱したものである。と主張するようなものだ。女はなかなか利口だ、考えに筋道が立っている。いやしくも人間に生れる以上は踏んだり、
蹴け たり、どやされたりして、しかも人が振りむきもせぬ時、平気でいる覚悟が必用であるのみならず、唾を吐きかけられ、糞をたれかけられた上に、大きな声で笑われるのを快よく思わなくてはならない。それでなくてはかように利口な女と名のつくものと交際は出来ない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(58 / 116)
武右衛門 先生もちょっとしたはずみから、とんだ間違をして
大おおい に恐れ入ってはいるようなものの、かように恐れ入ってるものを蔭で笑うのは失敬だとくらいは思うかも知れないが、それは年が行かない
稚気ちき というもので、人が失礼をした時に
怒おこ るのを気が小さいと先方では名づけるそうだから、そう言われるのがいやならおとなしくするがよろしい。最後に
武右衛門 君の心行きをちょっと紹介する。君は心配の
権化ごんげ である。かの偉大なる頭脳はナポレオンのそれが功名心をもって充満せるがごとく、まさに心配をもってはちきれんとしている。時々その団子っ鼻がぴくぴく動くのは心配が顔面神経に
伝つたわ って、反射作用のごとく無意識に活動するのである。彼は大きな
鉄砲丸てっぽうだま を飲み
下くだ したごとく、腹の中にいかんともすべからざる
塊かた まりを
抱いだ いて、この
両三日りょうさんち 処置に窮している。その切なさの余り、別に分別の
出所でどころ もないから監督と名のつく先生のところへ出向いたら、どうか助けてくれるだろうと思って、いやな人の
家うち へ大きな頭を下げにまかり越したのである。彼は平生学校で
主人 にからかったり、同級生を
扇動せんどう して、
主人 を困らしたりした事はまるで忘れている。いかにからかおうとも困らせようとも監督と名のつく以上は心配してくれるに相違ないと信じているらしい。随分単純なものだ。監督は
主人 が好んでなった役ではない。校長の命によってやむを得ずいただいている、言わば
迷亭 の叔父さんの山高帽子の種類である。ただ名前である。ただ名前だけではどうする事も出来ない。名前がいざと言う場合に役に立つなら
雪江 さんは名前だけで見合が出来る訳だ。
武右衛門 君はただに
我儘わがまま なるのみならず、他人は
己おの れに向って必ず親切でなくてはならんと言う、人間を買い
被かぶ った仮定から出立している。笑われるなどとは思も寄らなかったろう。
武右衛門 君は監督の
家うち へ来て、きっと人間について、一の真理を発明したに相違ない。彼はこの真理のために将来ますます本当の人間になるだろう。人の心配には冷淡になるだろう、人の困る時には大きな声で笑うだろう。かくのごとくにして天下は未来の
武右衛門 君をもって
充み たされるであろう。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(59 / 116)
金田 君及び
金田令夫人 をもって充たされるであろう。
吾輩 は切に
武右衛門 君のために瞬時も早く自覚して
真人間まにんげん になられん事を希望するのである。しからずんばいかに心配するとも、いかに後悔するとも、いかに善に移るの心が切実なりとも、とうてい
金田 君のごとき成功は得られんのである。いな社会は遠からずして君を人間の居住地以外に放逐するであろう。文明中学の退校どころではない。
かように考えて面白いなと思っていると、
格子こうし ががらがらとあいて、玄関の
障子しょうじ の蔭から顔が半分ぬうと出た。
「
先生 」
主人 は
武右衛門 君に「
そうさな 」を繰り返していたところへ、先生と玄関から呼ばれたので、誰だろうとそっちを見ると半分ほど
筋違すじかい に障子から
食は み出している顔はまさしく
寒月 君である。「
おい、御這入おはい り 」と言ったぎり坐っている。
「
御客ですか 」と
寒月 君はやはり顔半分で聞き返している。
「
なに構わん、まあ御上おあ がり 」
「
実はちょっと先生を誘いに来たんですがね 」
「
どこへ行くんだい。また赤坂かい。あの方面はもう御免だ。せんだっては無闇むやみ にあるかせられて、足が棒のようになった 」
「
今日は大丈夫です。久し振りに出ませんか 」
「
どこへ出るんだい。まあ御上がり 」
「
上野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです 」
「
つまらんじゃないか、それよりちょっと御上り 」
寒月 君はとうてい遠方では談判不調と思ったものか、靴を脱いでのそのそ上がって来た。例のごとく
鼠色ねずみいろ の、尻につぎの
中あた ったずぼんを
穿は いているが、これは時代のため、もしくは尻の重いために破れたのではない、本人の弁解によると近頃自転車の稽古を始めて局部に比較的多くの摩擦を与えるからである。未来の
細君 をもって
矚目しょくもく された本人へ
文ふみ をつけた恋の
仇あだ とは夢にも知らず、「
やあ 」と言って
武右衛門 君に軽く
会釈えしゃく をして縁側へ近い所へ座をしめた。
「
虎の鳴き声を聞いたって詰らないじゃないか 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(60 / 116)
「
ええ、今じゃいけません、これから方々散歩して夜十一時頃になって、上野へ行くんです 」
「
へえ 」
「
すると公園内の老木は森々しんしん として物凄ものすご いでしょう 」
「
そうさな、昼間より少しは淋さみ しいだろう 」
「
それで何でもなるべく樹き の茂った、昼でも人の通らない所を択よ ってあるいていると、いつの間にか紅塵万丈こうじんばんじょう の都会に住んでる気はなくなって、山の中へ迷い込んだような心持ちになるに相違ないです 」
「
そんな心持ちになってどうするんだい 」
「
そんな心持ちになって、しばらく佇たたず んでいるとたちまち動物園のうちで、虎が鳴くんです 」
「
そう旨うま く鳴くかい 」
「
大丈夫鳴きます。あの鳴き声は昼でも理科大学へ聞えるくらいなんですから、深夜闃寂げきせき として、四望しぼう 人なく、鬼気肌はだえ に逼せま って、魑魅ちみ 鼻を衝つ く際さい に…… 」
「
魑魅鼻を衝くとは何の事だい 」
「
そんな事を言うじゃありませんか、怖こわ い時に 」
「
そうかな。あんまり聞かないようだが。それで 」
「
それで虎が上野の老杉ろうさん の葉をことごとく振い落すような勢で鳴くでしょう。物凄いでさあ 」
「
そりゃ物凄いだろう 」
「
どうです冒険に出掛けませんか。きっと愉快だろうと思うんです。どうしても虎の鳴き声は夜なかに聞かなくっちゃ、聞いたとはいわれないだろうと思うんです 」
「
そうさな 」と
主人 は
武右衛門 君の哀願に冷淡であるごとく、
寒月 君の探検にも冷淡である。
この時まで
黙然もくねん として虎の話を
羨うらや ましそうに聞いていた
武右衛門 君は
主人 の「
そうさな 」で再び自分の身の上を思い出したと見えて、「
先生、僕は心配なんですが、どうしたらいいでしょう 」とまた聞き返す。
寒月 君は不審な顔をしてこの大きな頭を見た。
吾輩 は思う
仔細しさい あってちょっと失敬して茶の間へ廻る。
茶の間では
細君 がくすくす笑いながら、京焼の安茶碗に番茶を
浪々なみなみ と
注つ いで、アンチモニーの
茶托ちゃたく の上へ載せて、
「
雪江 さん、憚はばか りさま、これを出して来て下さい」
「
わたし、いやよ 」
「
どうして 」と
細君 は少々驚ろいた
体てい で笑いをはたと留める。
「
どうしてでも 」と
雪江 さんはやにすました顔を即席にこしらえて、
傍そば にあった読売新聞の上にのしかかるように眼を落した。
細君 はもう一応
協商きょうしょう を始める。
「
あら妙な人ね。寒月 さんですよ。構やしないわ 」
「
でも、わたし、いやなんですもの 」と読売新聞の上から眼を放さない。こんな時に一字も読めるものではないが、読んでいないなどとあばかれたらまた泣き出すだろう。
「
ちっとも恥かしい事はないじゃありませんか 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(61 / 116)
と今度は
細君 笑いながら、わざと茶碗を読売新聞の上へ押しやる。
雪江 さんは「
あら人の悪るい 」と新聞を茶碗の下から、抜こうとする拍子に
茶托ちゃたく に引きかかって、番茶は遠慮なく新聞の上から畳の目へ流れ込む。「
それ御覧なさい 」と
細君 が言うと、
雪江 さんは「
あら大変だ 」と台所へ
馳か け出して行った。
雑巾ぞうきん でも持ってくる
了見りょうけん だろう。
吾輩 にはこの狂言がちょっと面白かった。
寒月 君はそれとも知らず座敷で妙な事を話している。
「
先生障子しょうじ を張り易か えましたね。誰が張ったんです 」
「
女が張ったんだ。よく張れているだろう 」
「
ええなかなかうまい。あの時々おいでになる御嬢さんが御張りになったんですか 」
「
うんあれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば嫁に行く資格はあると言って威張ってるぜ 」
「
へえ、なるほど 」と言いながら
寒月 君障子を見つめている。
「
こっちの方は平たいら ですが、右の端はじ は紙が余って波が出来ていますね 」
「
あすこが張りたてのところで、もっとも経験の乏とぼ しい時に出来上ったところさ 」
「
なるほど、少し御手際おてぎわ が落ちますね。あの表面は超絶的ちょうぜつてき 曲線きょくせん でとうてい普通のファンクションではあらわせないです 」と、理学者だけにむずかしい事を言うと、
主人 は
「
そうさね 」と好い加減な挨拶をした。
この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込がないと思い切った
武右衛門 君は突然かの偉大なる
頭蓋骨ずがいこつ を畳の上に
圧お しつけて、無言の
裡うち に暗に
決別けつべつ の意を表した。
主人 は「
帰るかい 」と言った。
武右衛門 君は
悄然しょうぜん として薩摩下駄を引きずって門を出た。
可愛想かわいそう に。打ちゃって置くと
巌頭がんとう の
吟ぎん でも書いて
華厳滝けごんのたき から飛び込むかも知れない。元を
糺ただ せば
金田令嬢 のハイカラと生意気から起った事だ。もし
武右衛門 君が死んだら、幽霊になって令嬢を取り殺してやるがいい。あんなものが世界から一人や二人消えてなくなったって、男子はすこしも困らない。
寒月 君はもっと令嬢らしいのを貰うがいい。
「
先生ありゃ生徒ですか 」
「
うん 」
「
大変大きな頭ですね。学問は出来ますか 」
「
頭の割には出来ないがね、時々妙な質問をするよ。こないだコロンバスを訳して下さいって大おおい に弱った 」
「
全く頭が大き過ぎますからそんな余計な質問をするんでしょう。先生何とおっしゃいました 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(62 / 116)
「
ええ? なあに好い い加減な事を言って訳してやった 」
「
それでも訳す事は訳したんですか、こりゃえらい 」
「
小供は何でも訳してやらないと信用せんからね 」
「
先生もなかなか政治家になりましたね。しかし今の様子では、何だか非常に元気がなくって、先生を困らせるようには見えないじゃありませんか 」
「
今日は少し弱ってるんだよ。馬鹿な奴だよ 」
「
どうしたんです。何だかちょっと見たばかりで非常に可哀想かわいそう になりました。全体どうしたんです 」
「
なに愚ぐ な事さ。金田の娘 に艶書えんしょ を送ったんだ 」
「
え? あの大頭 がですか。近頃の書生はなかなかえらいもんですね。どうも驚ろいた 」
「
君も心配だろうが…… 」
「
何ちっとも心配じゃありません。かえって面白いです。いくら、艶書が降り込んだって大丈夫です 」
「
そう君が安心していれば構わないが…… 」
「
構わんですとも私はいっこう構いません。しかしあの大頭 が艶書をかいたと言うには、少し驚ろきますね 」
「
それがさ。冗談じょうだん にしたんだよ。あの娘がハイカラで生意気だから、からかってやろうって、三人が共同して…… 」
「
三人が一本の手紙を金田の令嬢 にやったんですか。ますます奇談ですね。一人前の西洋料理を三人で食うようなものじゃありませんか 」
「
ところが手分けがあるんだ。一人が文章をかく、一人が投函とうかん する、一人が名前を借す。で今来たのが名前を借した奴なんだがね。これが一番愚ぐ だね。しかも金田の娘 の顔も見た事がないって言うんだぜ。どうしてそんな無茶な事が出来たものだろう 」
「
そりゃ、近来の大出来ですよ。傑作ですね。どうもあの大頭 が、女に文ふみ をやるなんて面白いじゃありませんか 」
「
飛んだ間違にならあね 」
「
なになったって構やしません、相手が金田 ですもの 」
「
だって君が貰うかも知れない人だぜ 」
「
貰うかも知れないから構わないんです。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(63 / 116)
なあに、金田 なんか、構やしません」
「
君は構わなくっても…… 」
「
なに金田 だって構やしません、大丈夫です 」
「
それならそれでいいとして、当人があとになって、急に良心に責められて、恐ろしくなったものだから、大おおい に恐縮して僕のうちへ相談に来たんだ 」
「
へえ、それであんなに悄々しおしお としているんですか、気の小さい子と見えますね。先生何とか言っておやんなすったんでしょう 」
「
本人は退校になるでしょうかって、それを一番心配しているのさ 」
「
何で退校になるんです 」
「
そんな悪るい、不道徳な事をしたから 」
「
何、不道徳と言うほどでもありませんやね。構やしません。金田 じゃ名誉に思ってきっと吹聴ふいちょう していますよ 」
「
まさか 」
「
とにかく可愛想かわいそう ですよ。そんな事をするのがわるいとしても、あんなに心配させちゃ、若い男を一人殺してしまいますよ。ありゃ頭は大きいが人相はそんなにわるくありません。鼻なんかぴくぴくさせて可愛いです 」「
君も大分だいぶ 迷亭 見たように呑気のんき な事を言うね 」
「
何、これが時代思潮です、先生はあまり昔むか し風ふう だから、何でもむずかしく解釈なさるんです 」
「
しかし愚ぐ じゃないか、知りもしないところへ、いたずらに艶書えんしょ を送るなんて、まるで常識をかいてるじゃないか 」
「
いたずらは、たいがい常識をかいていまさあ。救っておやんなさい。功徳くどく になりますよ。あの様子じゃ華厳けごん の滝へ出掛けますよ 」
「
そうだな 」
「
そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある大僧おおぞう 共がそれどころじゃない、わるいいたずらをして知らん面かお をしていますよ。あんな子を退校させるくらいなら、そんな奴らを片かた っ端ぱし から放逐でもしなくっちゃ不公平でさあ 」
「
それもそうだね 」
「
それでどうです上野へ虎の鳴き声をききに行くのは 」
「
虎かい 」
「
ええ、聞きに行きましょう。実は二三日中にさんちうち にちょっと帰国しなければならない事が出来ましたから、当分どこへも御伴おとも は出来ませんから、今日は是非いっしょに散歩をしようと思って来たんです 」
「
そうか帰るのかい、用事でもあるのかい 」
「
ええちょっと用事が出来たんです。――ともかくも出ようじゃありませんか 」
「
そう。それじゃ出ようか 」
「
さあ行きましょう。今日は私が晩餐ばんさん を奢おご りますから、――それから運動をして上野へ行くとちょうど好い刻限です 」としきりに
促うな がすものだから、
主人 もその気になって、いっしょに出掛けて行った。あとでは
細君 と
雪江 さんが遠慮のない声でげらげらけらけらからからと笑っていた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(64 / 116)
十一
床の間の前に碁盤を中に
据す えて
迷亭 君と
独仙 君が対坐している。「
ただはやらない。負けた方が何か奢おご るんだぜ。いいかい 」と
迷亭 君が念を押すと、
独仙 君は例のごとく
山羊髯やぎひげ を引っ張りながら、こう言った。
「
そんな事をすると、せっかくの清戯せいぎ を俗了ぞくりょう 【俗化】してしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗せいはい を度外において、白雲の自然に岫しゅう を出でて冉々ぜんぜん たるごとき心持ちで一局を了してこそ、個中こちゅう の 味あじわい はわかるものだよ 」
「
また来たね。そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然えんぜん たる列仙伝中の人物だね 」
「
無絃むげん の素琴そきん を弾じさ」
「
無線の電信をかけかね 」
「
とにかく、やろう 」
「
君が白を持つのかい 」
「
どっちでも構わない 」
「
さすがに仙人だけあって鷹揚おうよう だ。君が白なら自然の順序として僕は黒だね。さあ、来たまえ。どこからでも来たまえ 」
「
黒から打つのが法則だよ 」
「
なるほど。しからば謙遜けんそん して、定石じょうせき にここいらから行こう 」
「
定石にそんなのはないよ 」
「
なくっても構わない。新奇発明の定石だ 」
吾輩 は世間が狭いから碁盤と言うものは近来になって始めて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙に出来ている。広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目が
眩くら むほどごたごたと
黒白こくびゃく の石をならべる。そうして勝ったとか、負けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる。高が一尺四方くらいの面積だ。猫の前足で
掻か き散らしても滅茶滅茶になる。引き寄せて結べば草の
庵いおり にて、解くればもとの野原なりけり。入らざるいたずらだ。
懐手ふところで をして盤を眺めている方が
遥はる かに気楽である。それも最初の三四十
目もく は、石の並べ方では別段
目障めざわ りにもならないが、いざ天下わけ目と言う
間際まぎわ に
覗のぞ いて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー言っている。窮屈だからと言って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(65 / 116)
碁を発明したものは人間で、人間の
嗜好しこう が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると言っても
差支さしつか えない。人間の性質が碁石の運命で
推知すいち する事が出来るものとすれば、人間とは
天空海濶てんくうかいかつ の世界を、我からと縮めて、
己おの れの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、
小刀細工こがたなざいく で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とはしいて苦痛を求めるものであると
一言いちごん に評してもよかろう。
呑気のんき なる
迷亭 君と、
禅機ぜんき ある
独仙 君とは、どう言う了見か、今日に限って戸棚から古碁盤を引きずり出して、この暑苦しいいたずらを始めたのである。さすがに御両人
御揃おそろ いの事だから、最初のうちは各自任意の行動をとって、盤の上を白石と黒石が自由自在に飛び交わしていたが、盤の広さには限りがあって、
横竪よこたて の目盛りは
一手ひとて ごとに
埋うま って行くのだから、いかに呑気でも、いかに禅機があっても、苦しくなるのは当り前である。
「
迷亭 君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ入ってくる法はない」「
禅坊主 の碁にはこんな法はないかも知れないが、本因坊ほんいんぼう の流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ 」
「
しかし死ぬばかりだぜ 」
「
臣死をだも辞せず、いわんや彘肩ていけん をやと、一つ、こう行くかな 」
「
そうおいでになったと、よろしい。薫風南みんなみ より来って、殿閣微涼びりょう を生ず。こう、ついでおけば大丈夫なものだ 」
「
おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気遣きづかい はなかろうと思った。ついで、くりゃるな八幡鐘はちまんがね をと、こうやったら、どうするかね 」
「
どうするも、こうするもないさ。一剣天に倚よ って寒し――ええ、面倒だ。思い切って、切ってしまえ 」
「
やや、大変大変。そこを切られちゃ死んでしまう。おい冗談じょうだん じゃない。ちょっと待った 」
「
それだから、さっきから言わん事じゃない。こうなってるところへは這入れるものじゃないんだ 」
「
入って失敬仕つかまつ り候。ちょっとこの白をとってくれたまえ 」
「
それも待つのかい 」
「
ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ 」
「
ずうずうしいぜ、おい 」
「
Do you see the boy か。――なに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引き揚げてくれたまえな。死ぬか生きるかと言う場合だ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(66 / 116)
しばらく、しばらくって花道はなみち から馳か け出してくるところだよ」
「
そんな事は僕は知らんよ 」
「
知らなくってもいいから、ちょっとどけたまえ 」
「
君さっきから、六返ぺん 待ったをしたじゃないか 」
「
記憶のいい男だな。向後こうご は旧に倍し待ったを仕つかまつ り候。だからちょっとどけたまえと言うのだあね。君もよッぽど強情だね。座禅なんかしたら、もう少し捌さば けそうなものだ 」
「
しかしこの石でも殺さなければ、僕の方は少し負けになりそうだから…… 」
「
君は最初から負けても構わない流じゃないか 」
「
僕は負けても構わないが、君には勝たしたくない 」
「
飛んだ悟道【仏の教えの真髄をさとること】だ。相変らず春風影裏しゅんぷうえいり に電光でんこう をきってるね 」
「
春風影裏じゃない、電光影裏だよ。君のは逆さかさ だ 」「
ハハハハもうたいてい逆さ かになっていい時分だと思ったら、やはりたしかなところがあるね。それじゃ仕方がないあきらめるかな 」
「
生死事大しょうしじだい 、無常迅速むじょうじんそく 、あきらめるさ」
「
アーメン 」と
迷亭 先生今度はまるで関係のない方面へぴしゃりと
一石いっせき を
下くだ した。
床の間の前で
迷亭 君と
独仙 君が一生懸命に
輸贏しゅえい を争っていると、座敷の入口には、
寒月 君と
東風 君が相ならんでその
傍そば に
主人 が黄色い顔をして坐っている。
寒月 君の前に
鰹節かつぶし が三本、裸のまま畳の上に行儀よく配列してあるのは奇観である。
この鰹節の
出処しゅっしょ は
寒月 君の
懐ふところ で、取り出した時は
暖あっ たかく、手のひらに感じたくらい、裸ながらぬくもっていた。
主人 と
東風 君は妙な眼をして視線を鰹節の上に注いでいると、
寒月 君はやがて口を開いた。
「
実は四日ばかり前に国から帰って来たのですが、いろいろ用事があって、方々馳か けあるいていたものですから、つい上がられなかったのです 」
「
そう急いでくるには及ばないさ 」と
主人 は例のごとく
無愛嬌ぶあいきょう な事を言う。「
急いで来んでもいいのですけれども、このおみやげを早く献上けんじょう しないと心配ですから 」
「
鰹節じゃないか 」
「
ええ、国の名産です 」
「
名産だって東京にもそんなのは有りそうだぜ 」と
主人 は一番大きな奴を一本取り上げて、鼻の先へ持って行って
臭にお いをかいで見る。
「
かいだって、鰹節の善悪よしあし はわかりませんよ 」
「
少し大きいのが名産たる所以ゆえん かね 」
「
まあ食べて御覧なさい 」
「
食べる事はどうせ食べるが、こいつは何だか先が欠けてるじゃないか 」
「
それだから早く持って来ないと心配だと言うのです 」
「
なぜ? 」
「
なぜって、そりゃ鼠ねずみ が食ったのです 」
「
そいつは危険だ。滅多めった に食うとペストになるぜ 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(67 / 116)
「
なに大丈夫、そのくらいかじったって害はありません 」
「
全体どこで噛かじ ったんだい 」
「
船の中でです 」
「
船の中? どうして 」
「
入れる所がなかったから、ヴァイオリンといっしょに袋のなかへ入れて、船へ乗ったら、その晩にやられました。鰹節かつぶし だけなら、いいのですけれども、大切なヴァイオリンの胴を鰹節と間違えてやはり少々噛かじ りました 」
「
そそっかしい鼠だね。船の中に住んでると、そう見境みさかい がなくなるものかな 」と
主人 は誰にも分らん事を言って依然として鰹節を
眺なが めている。
「
なに鼠だから、どこに住んでてもそそっかしいのでしょう。だから下宿へ持って来てもまたやられそうでね。剣呑けんのん だから夜るは寝床の中へ入れて寝ました 」
「
少しきたないようだぜ 」
「
だから食べる時にはちょっとお洗いなさい 」
「
ちょっとくらいじゃ奇麗にゃなりそうもない 」
「
それじゃ灰汁あく でもつけて、ごしごし磨いたらいいでしょう 」
「
ヴァイオリンも抱いて寝たのかい 」
「
ヴァイオリンは大き過ぎるから抱いて寝る訳には行かないんですが…… 」と言いかけると
「
なんだって? ヴァイオリンを抱いて寝たって? それは風流だ。行く春や重たき琵琶びわ のだき心と言う句もあるが、それは遠きその上かみ の事だ。明治の秀才はヴァイオリンを抱いて寝なくっちゃ古人を凌しの ぐ訳には行かないよ。かい巻まき に長き夜守よも るやヴァイオリンはどうだい。東風 君、新体詩でそんな事が言えるかい 」と向うの方から
迷亭 先生大きな声でこっちの談話にも関係をつける。
東風 君は真面目で「
新体詩は俳句と違ってそう急には出来ません。しかし出来た暁にはもう少し生霊せいれい の機微きび に触れた妙音が出ます 」
「
そうかね、生霊しょうりょう はおがら を焚た いて迎え奉るものと思ってたが、やっぱり新体詩の力でも御来臨になるかい 」と
迷亭 はまだ碁をそっちのけにして
調戯からかっ ている。
「
そんな無駄口を叩たた くとまた負けるぜ 」と
主人 は
迷亭 に注意する。
迷亭 は平気なもので
「
勝ちたくても、負けたくても、相手が釜中ふちゅう の章魚たこ 同然手も足も出せないのだから、僕も無聊ぶりょう でやむを得ずヴァイオリンの御仲間を仕つかまつ るのさ 」と言うと、相手の
独仙 君はいささか激した調子で
「
今度は君の番だよ。こっちで待ってるんだ 」と言い放った。
「
え? もう打ったのかい 」
「
打ったとも、とうに打ったさ 」
「
どこへ 」
「
この白をはすに延ばした 」
「
なあるほど。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(68 / 116)
この白をはすに延ばして負けにけりか、そんならこっちはと――こっちは――こっちはこっちはとて暮れにけりと、どうもいい手がないね。君もう一返打たしてやるから勝手なところへ一目いちもく 打ちたまえ」
「
そんな碁があるものか 」
「
そんな碁があるものかなら打ちましょう。――それじゃこのかど地面へちょっと曲がって置くかな。――寒月 君、君のヴァイオリンはあんまり安いから鼠が馬鹿にして噛かじ るんだよ、もう少しいいのを奮発して買うさ、僕が以太利亜イタリア から三百年前の古物こぶつ を取り寄せてやろうか 」
「
どうか願います。ついでにお払いの方も願いたいもので 」
「
そんな古いものが役に立つものか 」と何にも知らない
主人 は
一喝いっかつ にして
迷亭 君を
極き めつけた。
「
君は人間の古物こぶつ とヴァイオリンの古物こぶつ と同一視しているんだろう。人間の古物でも金田 某のごときものは今だに流行しているくらいだから、ヴァイオリンに至っては古いほどがいいのさ。――さあ、独仙 君どうか御早く願おう。けいまさのせりふじゃないが秋の日は暮れやすいからね 」
「
君のようなせわしない男と碁を打つのは苦痛だよ。考える暇も何もありゃしない。仕方がないから、ここへ一目いちもく 入れて目め にしておこう 」
「
おやおや、とうとう生かしてしまった。惜しい事をしたね。まさかそこへは打つまいと思って、いささか駄弁を振ふる って肝胆かんたん を砕いていたが、やッぱり駄目か 」
「
当り前さ。君のは打つのじゃない。ごまかすのだ 」
「
それが本因坊流、金田 流、当世紳士流さ。――おい苦沙弥 先生、さすがに独仙 君は鎌倉へ行って万年漬を食っただけあって、物に動じないね。どうも敬々服々だ。碁はまずいが、度胸は据すわ ってる 」「
だから君のような度胸のない男は、少し真似をするがいい 」と
主人 が
後うし ろ
向むき のままで答えるやいなや、
迷亭 君は大きな赤い舌をぺろりと出した。
独仙 君は
毫ごう も関せざるもののごとく、「
さあ君の番だ 」とまた相手を
促うなが した。
「
君はヴァイオリンをいつ頃から始めたのかい。僕も少し習おうと思うのだが、よっぽどむずかしいものだそうだね 」と
東風 君が
寒月 君に聞いている。
「
うむ、一と通りなら誰にでも出来るさ 」
「
同じ芸術だから詩歌しいか の趣味のあるものはやはり音楽の方でも上達が早いだろうと、ひそかに恃たの むところがあるんだが、どうだろう 」
「
いいだろう。君ならきっと上手になるよ 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(69 / 116)
「
君はいつ頃から始めたのかね 」
「
高等学校時代さ。――先生私わたく しのヴァイオリンを習い出した顛末てんまつ をお話しした事がありましたかね 」
「
いいえ、まだ聞かない 」
「
高等学校時代に先生でもあってやり出したのかい 」
「
なあに先生も何もありゃしない。独習さ 」
「
全く天才だね 」
「
独習なら天才と限った事もなかろう 」と
寒月 君はつんとする。天才と言われてつんとするのは
寒月 君だけだろう。
「
そりゃ、どうでもいいが、どう言う風に独習したのかちょっと聞かしたまえ。参考にしたいから 」
「
話してもいい。先生話しましょうかね 」
「
ああ話したまえ 」
「
今では若い人がヴァイオリンの箱をさげて、よく往来などをあるいておりますが、その時分は高等学校生で西洋の音楽などをやったものはほとんどなかったのです。ことに私のおった学校は田舎いなか の田舎で麻裏草履あさうらぞうり さえないと言うくらいな質朴な所でしたから、学校の生徒でヴァイオリンなどを弾ひ くものはもちろん一人もありません。…… 」
「
何だか面白い話が向うで始まったようだ。独仙 君いい加減に切り上げようじゃないか 」
「
まだ片づかない所が二三箇所ある 」
「
あってもいい。大概な所なら、君に進上する 」
「
そう言ったって、貰う訳にも行かない 」
「
禅学者にも似合わん几帳面きちょうめん な男だ。それじゃ一気呵成いっきかせい にやっちまおう。――寒月 君何だかよっぽど面白そうだね。――あの高等学校だろう、生徒が裸足はだし で登校するのは…… 」
「
そんな事はありません 」
「
でも、皆みん なはだしで兵式体操をして、廻れ右をやるんで足の皮が大変厚くなってると言う話だぜ 」
「
まさか。だれがそんな事を言いました 」
「
だれでもいいよ。そうして弁当には偉大なる握り飯を一個、夏蜜柑なつみかん のように腰へぶら下げて来て、それを食うんだって言うじゃないか。食うと言うよりむしろ食いつくんだね。すると中心から梅干が一個出て来るそうだ。この梅干が出るのを楽しみに塩気のない周囲を一心不乱に食い欠いて突進するんだと言うが、なるほど元気旺盛おうせい なものだね。独仙 君、君の気に入りそうな話だぜ 」
「
質朴剛健でたのもしい気風だ 」
「
まだたのもしい事がある。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(70 / 116)
あすこには灰吹はいふ きがないそうだ。僕の友人があすこへ奉職をしている頃吐月峰とげつほう の印いん のある灰吹きを買いに出たところが、吐月峰どころか、灰吹と名づくべきものが一個もない。不思議に思って、聞いて見たら、灰吹きなどは裏の薮やぶ へ行って切って来れば誰にでも出来るから、売る必要はないと澄まして答えたそうだ。これも質朴剛健の気風をあらわす美譚びだん だろう、ねえ独仙 君」
「
うむ、そりゃそれでいいが、ここへ駄目を一つ入れなくちゃいけない 」
「
よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。――僕はその話を聞いて、実に驚いたね。そんなところで君がヴァイオリンを独習したのは見上げたものだ。惸独けいどく にして不羣ふぐん なりと楚辞そじ にあるが寒月 君は全く明治の屈原くつげん だよ 」
「
屈原はいやですよ 」
「
それじゃ今世紀のウェルテルさ。――なに石を上げて勘定をしろ? やに物堅ものがた い性質たち だね。勘定しなくっても僕は負けてるからたしかだ 」
「
しかし極きま りがつかないから…… 」
「
それじゃ君やってくれたまえ。僕は勘定所じゃない。一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話を聞かなくっちゃ、先祖へ済まないから失敬する 」と席をはずして、
寒月 君の方へすり出して来た。
独仙 君は丹念に白石を取っては白の穴を
埋う め、黒石を取っては黒の穴を埋めて、しきりに口の内で計算をしている。
寒月 君は話をつづける。
「
土地柄がすでに土地柄だのに、私の国のものがまた非常に頑固がんこ なので、少しでも柔弱なものがおっては、他県の生徒に外聞がわるいと言って、むやみに制裁を厳重にしましたから、ずいぶん厄介でした 」
「
君の国の書生 と来たら、本当に話せないね。元来何だって、紺こん の無地の袴はかま なんぞ穿は くんだい。第一だいち あれからして乙おつ だね。そうして塩風に吹かれつけているせいか、どうも、色が黒いね。男だからあれで済むが女があれじゃさぞかし困るだろう 」と
迷亭 君が一人這入ると
肝心かんじん の話はどっかへ飛んで行ってしまう。「
女もあの通り黒いのです 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(71 / 116)
「
それでよく貰い手があるね 」
「
だって一国中いっこくじゅう ことごとく黒いのだから仕方がありません 」
「
因果いんが だね。ねえ苦沙弥 君」
「
黒い方がいいだろう。生なま じ白いと鏡を見るたんびに己惚おのぼれ が出ていけない。女と言うものは始末におえない物件だからなあ 」と
主人 は
喟然きぜん として
大息たいそく を
洩も らした。
「
だって一国中ことごとく黒ければ、黒い方で己惚うぬぼ れはしませんか 」と
東風 君がもっともな質問をかけた。
「
ともかくも女は全然不必要な者だ 」と
主人 が言うと、
「
そんな事を言うと妻君が後でご機嫌がわるいぜ 」と笑いながら
迷亭 先生が注意する。
「
なに大丈夫だ 」
「
いないのかい 」
「
小供を連れて、さっき出掛けた 」
「
どうれで静かだと思った。どこへ行ったのだい 」
「
どこだか分らない。勝手に出てあるくのだ 」
「
そうして勝手に帰ってくるのかい 」
「
まあそうだ。君は独身でいいなあ 」と言うと
東風 君は少々不平な顔をする。
寒月 君はにやにやと笑う。
迷亭 君は
「
妻さい を持つとみんなそう言う気になるのさ。ねえ独仙 君、君なども妻君難の方だろう」
「
ええ? ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十七と。狭いと思ったら、四十六目もく あるか。もう少し勝ったつもりだったが、こしらえて見ると、たった十八目の差か。――何だって? 」
「
君も妻君難だろうと言うのさ 」
「
アハハハハ別段難でもないさ。僕の妻さい は元来僕を愛しているのだから 」
「
そいつは少々失敬した。それでこそ独仙 君だ 」
「
独仙 君ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と
寒月 君が天下の妻君に代ってちょっと弁護の労を取った。
「
僕も寒月 君に賛成する。僕の考では人間が絶対の域いき に入い るには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と恋だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間は是非結婚をして、この幸福を完まっと うしなければ天意に背そむ く訳だと思うんだ。――がどうでしょう先生 」と
東風 君は相変らず真面目で
迷亭 君の方へ向き直った。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(72 / 116)
「
御名論だ。僕などはとうてい絶対の境きょう に這入れそうもない 」
「
妻さい を貰えばなお這入れやしない」と
主人 はむずかしい顔をして言った。
「
ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義が分からないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月 君にさっきから経験譚けいけんだん をきいているのです 」
「
そうそう、ウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴するはずだったね。さあ話し給え。もう邪魔はしないから 」と
迷亭 君がようやく
鋒鋩ほうぼう を収めると、
「
向上の一路はヴァイオリンなどで開ける者ではない。そんな遊戯三昧ゆうぎざんまい で宇宙の真理が知れては大変だ。這裡しゃり の消息を知ろうと思えばやはり懸崖けんがい に手を撒さっ して、絶後ぜつご に再び蘇よみが える底てい の気魄きはく がなければ駄目だ 」と
独仙 君はもったい振って、
東風 君に訓戒じみた説教をしたのはよかったが、
東風 君は禅宗のぜの字も知らない男だから
頓とん と感心したようすもなく
「
へえ、そうかも知れませんが、やはり芸術は人間の渇仰かつごう の極致を表わしたものだと思いますから、どうしてもこれを捨てる訳には参りません 」
「
捨てる訳に行かなければ、お望み通り僕のヴァイオリン談をして聞かせる事にしよう、で今話す通りの次第だから僕もヴァイオリンの稽古をはじめるまでには大分だいぶ 苦心をしたよ。第一買うのに困りましたよ先生 」
「
そうだろう麻裏草履あさうらぞうり がない土地にヴァイオリンがあるはずがない 」
「
いえ、ある事はあるんです。金も前から用意して溜めたから差支さしつか えないのですが、どうも買えないのです 」
「
なぜ? 」
「
狭い土地だから、買っておればすぐ見つかります。見つかれば、すぐ生意気だと言うので制裁を加えられます 」
「
天才は昔から迫害を加えられるものだからね 」と
東風 君は
大おおい に同情を表した。
「
また天才か、どうか天才呼ばわりだけは御免蒙ごめんこうむ りたいね。それでね毎日散歩をしてヴァイオリンのある店先を通るたびにあれが買えたら好かろう、あれを手に抱かか えた心持ちはどんなだろう、ああ欲しい、ああ欲しいと思わない日は一日いちんち もなかったのです 」
「
もっともだ 」と評したのは
迷亭 で、「
妙に凝こ ったものだね 」と
解げ しかねたのが
主人 で、「
やはり君、天才だよ 」と敬服したのは
東風 君である。ただ
独仙 君ばかりは超然として
髯ひげ を
撚ねん している。
「
そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが第一ご不審かも知れないですが、これは考えて見ると当り前の事です。なぜと言うとこの地方でも女学校があって、女学校の生徒は課業として毎日ヴァイオリンを稽古しなければならないのですから、あるはずです。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(73 / 116)
無論いいのはありません。ただヴァイオリンと言う名が辛かろ うじてつくくらいのものであります。だから店でもあまり重きをおいていないので、二三梃いっしょに店頭へ吊つ るしておくのです。それがね、時々散歩をして前を通るときに風が吹きつけたり、小僧の手が障さわ ったりして、そら音ね を出す事があります。その音ね を聞くと急に心臓が破裂しそうな心持で、いても立ってもいられなくなるんです」
「
危険だね。水癲癇みずてんかん 、人癲癇ひとでんかん と癲癇にもいろいろ種類があるが君のはウェルテルだけあって、ヴァイオリン癲癇だ 」と
迷亭 君が冷やかすと、
「
いやそのくらい感覚が鋭敏でなければ真の芸術家にはなれないですよ。どうしても天才肌だ 」と
東風 君はいよいよ感心する。
「
ええ実際癲癇てんかん かも知れませんが、しかしあの音色ねいろ だけは奇体ですよ。その後ご 今日こんにち まで随分ひきましたがあのくらい美しい音ね が出た事がありません。そうさ何と形容していいでしょう。とうてい言いあらわせないです 」
「
琳琅璆鏘りんろうきゅうそう として鳴るじゃないか」とむずかしい事を持ち出したのは
独仙 君であったが、誰も取り合わなかったのは気の毒である。
「
私が毎日毎日店頭を散歩しているうちにとうとうこの霊異な音ね を三度ききました。三度目にどうあってもこれは買わなければならないと決心しました。仮令たとい 国のものから譴責けんせき されても、他県のものから軽蔑けいべつ されても――よし鉄拳てっけん 制裁のために絶息ぜっそく しても――まかり間違って退校の処分を受けても――、こればかりは買わずにいられないと思いました 」
「
それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込める訳のものじゃない。羨うらやま しい。僕もどうかして、それほど猛烈な感じを起して見たいと年来心掛けているが、どうもいけないね。音楽会などへ行って出来るだけ熱心に聞いているが、どうもそれほどに感興が乗らない 」と
東風 君はしきりに
羨うら やましがっている。
「
乗らない方が仕合せだよ。今でこそ平気で話すようなもののその時の苦しみはとうてい想像が出来るような種類のものではなかった。――それから先生とうとう奮発して買いました 」
「
ふむ、どうして 」
「
ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(74 / 116)
国のものは揃そろ って泊りがけに温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だと言って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行って兼かね て望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」
「
偽病けびょう をつかって学校まで休んだのかい」
「
全くそうです 」
「
なるほど少し天才だね、こりゃ 」と
迷亭 君も少々恐れ入った様子である。
「
夜具の中から首を出していると、日暮れが待遠まちどお でたまりません。仕方がないから頭からもぐり込んで、眼を眠ねむ って待って見ましたが、やはり駄目です。首を出すと烈しい秋の日が、六尺の障子しょうじ へ一面にあたって、かんかんするには癇癪かんしゃく が起りました。上の方に細長い影がかたまって、時々秋風にゆすれるのが眼につきます 」
「
何だい、その細長い影と言うのは 」
「
渋柿の皮を剥む いて、軒へ吊つ るしておいたのです 」
「
ふん、それから 」
「
仕方がないから、床とこ を出て障子をあけて縁側へ出て、渋柿の甘干あまぼ しを一つ取って食いました 」
「
うまかったかい 」と
主人 は小供みたような事を聞く。
「
うまいですよ、あの辺の柿は。とうてい東京などじゃあの味はわかりませんね 」
「
柿はいいがそれから、どうしたい 」と今度は
東風 君がきく。
「
それからまたもぐって眼をふさいで、早く日が暮れればいいがと、ひそかに神仏に念じて見た。約三四時間も立ったと思う頃、もうよかろうと、首を出すとあにはからんや烈しい秋の日は依然として六尺の障子を照らしてかんかんする、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわする 」
「
そりゃ、聞いたよ 」
「
何返なんべん もあるんだよ。それから床を出て、障子をあけて、甘干しの柿を一つ食って、また寝床へ入って、早く日が暮れればいいと、ひそかに神仏に祈念をこらした」
「
やっぱりもとのところじゃないか 」
「
まあ先生そう焦せ かずに聞いて下さい。それから約三四時間夜具の中で辛抱しんぼう して、今度こそもうよかろうとぬっと首を出して見ると、烈しい秋の日は依然として六尺の障子へ一面にあたって、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわしている 」
「
いつまで行っても同じ事じゃないか 」
「
それから床を出て障子を開けて、縁側へ出て甘干しの柿を一つ食って…… 」
「
また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても柿ばかり食ってて際限がないね 」
「
私もじれったくてね 」
「
君より聞いてる方がよっぽどじれったいぜ 」
「
先生はどうも性急せっかち だから、話がしにくくって困ります 」
「
聞く方も少しは困るよ 」と
東風 君も
暗あん に不平を
洩も らした。
「
そう諸君が御困りとある以上は仕方がない。たいていにして切り上げましょう。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(75 / 116)
要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、とうとう軒端のきば に吊つ るした奴をみんな食ってしまいました」
「
みんな食ったら日も暮れたろう 」
「
ところがそう行かないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろうと首を出して見ると、相変らず烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあたって…… 」
「
僕あ、もう御免だ。いつまで行っても果は てしがない 」
「
話す私も飽あ き飽きします 」
「
しかしそのくらい根気があればたいていの事業は成就じょうじゅ するよ。だまってたら、あしたの朝まで秋の日がかんかんするんだろう。全体いつ頃にヴァイオリンを買う気なんだい 」とさすがの
迷亭 君も少し
辛抱しんぼう し切れなくなったと見える。ただ
独仙 君のみは泰然として、あしたの朝まででも、あさっての朝まででも、いくら秋の日がかんかんしても動ずる
気色けしき はさらにない。
寒月 君も落ちつき払ったもので
「
いつ買う気だとおっしゃるが、晩になりさえすれば、すぐ買いに出掛けるつもりなのです。ただ残念な事には、いつ頭を出して見ても秋の日がかんかんしているものですから――いえその時の私わたく しの苦しみと言ったら、とうてい今あなた方の御じれになるどころの騒ぎじゃないです。私は最後の甘干を食っても、まだ日が暮れないのを見て、泫然げんぜん として思わず泣きました。東風 君、僕は実に情なさ けなくって泣いたよ 」
「
そうだろう、芸術家は本来多情多恨だから、泣いた事には同情するが、話はもっと早く進行させたいものだね 」と
東風 君は人がいいから、どこまでも真面目で
滑稽こっけい な挨拶をしている。
「
進行させたいのは山々だが、どうしても日が暮れてくれないものだから困るのさ 」
「
そう日が暮れなくちゃ聞く方も困るからやめよう 」と
主人 がとうとう我慢がし切れなくなったと見えて言い出した。
「
やめちゃなお困ります。これからがいよいよ佳境に入い るところですから 」「
それじゃ聞くから、早く日が暮れた事にしたらよかろう 」
「
では、少しご無理なご注文ですが、先生の事ですから、枉ま げて、ここは日が暮れた事に致しましょう 」
「
それは好都合だ 」と
独仙 君が澄まして述べられたので一同は思わずどっと噴き出した。
「
いよいよ夜に入ったので、まず安心とほっと一息ついて鞍懸村くらかけむら の下宿を出ました。私は性来しょうらい 騒々そうぞう しい所が嫌きらい ですから、わざと便利な市内を避けて、人迹稀じんせきまれ な寒村の百姓家にしばらく蝸牛かぎゅう の庵いおり を結んでいたのです…… 」
「
人迹の稀な はあんまり大袈裟おおげさ だね」と
主人 が抗議を申し込むと「
蝸牛の庵も仰山ぎょうさん だよ。床の間なしの四畳半くらいにしておく方が写生的で面白い 」と
迷亭 君も苦情を持ち出した。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(76 / 116)
東風 君だけは「
事実はどうでも言語が詩的で感じがいい 」と
褒ほ めた。
独仙 君は真面目な顔で「
そんな所に住んでいては学校へ通うのが大変だろう。何里くらいあるんですか 」と聞いた。
「
学校まではたった四五丁です。元来学校からして寒村にあるんですから…… 」
「
それじゃ学生はその辺にだいぶ宿をとってるんでしょう 」と
独仙 君はなかなか承知しない。
「
ええ、たいていな百姓家には一人や二人は必ずいます 」
「
それで人迹稀なんですか 」と正面攻撃を
喰くら わせる。
「
ええ学校がなかったら、全く人迹は稀ですよ。……で当夜の服装と言うと、手織木綿ておりもめん の綿入の上へ金釦きんボタン の制服外套がいとう を着て、外套の頭巾ずきん をすぽりと被かぶ ってなるべく人の目につかないような注意をしました。折柄おりから 柿落葉の時節で宿から南郷街道なんごうかいどう へ出るまでは木こ の葉で路が一杯です。一歩ひとあし 運ぶごとにがさがさするのが気にかかります。誰かあとをつけて来そうでたまりません。振り向いて見ると東嶺寺とうれいじ の森がこんもりと黒く、暗い中に暗く写っています。この東嶺寺と言うのは松平家まつだいらけ の菩提所ぼだいしょ で、庚申山こうしんやま の 麓ふもと にあって、私の宿とは一丁くらいしか隔へだた っていない、すこぶる幽邃ゆうすい な梵刹ぼんせつ です。森から上はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋違すじかい に横切って末は――末は、そうですね、まず布哇ハワイ の方へ流れています…… 」
「
布哇は突飛だね 」と
迷亭 君が言った。
「
南郷街道をついに二丁来て、鷹台町たかのだいまち から市内に入って、古城町こじょうまち を通って、仙石町せんごくまち を曲って、喰代町くいしろちょう を横に見て、通町とおりちょう を一丁目、二丁目、三丁目と順に通り越して、それから尾張町おわりちょう 、名古屋町なごやちょう 、 鯱鉾町しゃちほこちょう 、 蒲鉾町かまぼこちょう …… 」
「
そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか 」と
主人 がじれったそうに聞く。
「
楽器のある店は金善 かねぜん 即ち金子善兵衛方ですから、まだなかなかです 」
「
なかなかでもいいから早く買うがいい 」
「
かしこまりました。それで金善 方へ来て見ると、店にはランプがかんかんともって…… 」
「
またかんかんか、君のかんかんは一度や二度で済まないんだから難渋なんじゅう するよ 」と今度は
迷亭 が予防線を張った。
「
いえ、今度のかんかんは、ほんの通り一返のかんかんですから、別段御心配には及びません。……灯影ほかげ にすかして見ると例のヴァイオリンが、ほのかに秋の灯ひ を反射して、くり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びています。つよく張った琴線きんせん の一部だけがきらきらと白く眼に映うつ ります。…… 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(77 / 116)
「
なかなか叙述がうまいや 」と
東風 君がほめた。
「
あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に動悸どうき がして足がふらふらします…… 」
「
ふふん 」と
独仙 君が鼻で笑った。
「
思わず馳か け込んで、隠袋かくし から蝦蟇口がまぐち を出して、蝦蟇口の中から五円札を二枚出して…… 」
「
とうとう買ったかい 」と
主人 がきく。
「
買おうと思いましたが、まてしばし、ここが肝心かんじん のところだ。滅多めった な事をしては失敗する。まあよそうと、際きわ どいところで思い留まりました 」
「
なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一梃でなかなか人を引っ張るじゃないか 」
「
引っ張る訳じゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません 」
「
なぜ 」
「
なぜって、まだ宵よい の口で人が大勢通るんですもの 」
「
構わんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君はよっぽど妙な男だ 」と
主人 はぷんぷんしている。
「
ただの人なら千が二千でも構いませんがね、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って徘徊はいかい しているんだから容易に手を出せませんよ。中には沈殿党ちんでんとう などと号して、いつまでもクラスの底に溜まって喜んでるのがありますからね。そんなのに限って柔道は強いのですよ。滅多めった にヴァイオリンなどに手出しは出来ません。どんな目に逢あ うかわかりません。私だってヴァイオリンは欲しいに相違ないですけれども、命はこれでも惜しいですからね。ヴァイオリンを弾ひ いて殺されるよりも、弾かずに生きてる方が楽ですよ 」
「
それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね 」と
主人 が念を押す。
「
いえ、買ったのです 」
「
じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早くかたをつけたらよさそうなものだ 」
「
えへへへへ、世の中の事はそう、こっちの思うように埒らち があくもんじゃありませんよ 」と言いながら
寒月 君は冷然と「
朝日 」へ火をつけてふかし出した。
主人 は面倒になったと見えて、ついと立って書斎へ這入ったと思ったら、何だか古ぼけた洋書を一冊持ち出して来て、ごろりと
腹這はらばい になって読み始めた。
独仙 君はいつの間にやら、床の間の前へ退去して、
独ひと りで碁石を並べて
一人相撲ひとりずもう をとっている。せっかくの逸話もあまり長くかかるので聴手が一人減り二人減って、残るは芸術に忠実なる
東風 君と、長い事にかつて
辟易へきえき した事のない
迷亭 先生のみとなる。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(78 / 116)
長い煙をふうと世の中へ遠慮なく吹き出した
寒月 君は、やがて
前同様ぜんどうよう の速度をもって談話をつづける。
「
東風 君、僕はその時こう思ったね。とうていこりゃ宵の口は駄目だ、と言って真夜中に来れば金善 は寝てしまうからなお駄目だ。何でも学校の生徒が散歩から帰りつくして、そうして金善 がまだ寝ない時を見計らって来なければ、せっかくの計画が水泡に帰する。けれどもその時間をうまく見計うのがむずかしい」「
なるほどこりゃむずかしかろう 」
「
で僕はその時間をまあ十時頃と見積ったね。それで今から十時頃までどこかで暮さなければならない。うちへ帰って出直すのは大変だ。友達のうちへ話しに行くのは何だか気が咎とが めるようで面白くなし、仕方がないから相当の時間がくるまで市中を散歩する事にした。ところが平生ならば二時間や三時間はぶらぶらあるいているうちに、いつの間にか経ってしまうのだがその夜に限って、時間のたつのが遅いの何のって、――千秋せんしゅう の思とはあんな事を言うのだろうと、しみじみ感じました 」とさも感じたらしい風をしてわざと
迷亭 先生の方を向く。
「
古人を待つ身につらき置炬燵おきごたつ と言われた事があるからね、また待たるる身より待つ身はつらいともあって軒に吊られたヴァイオリンもつらかったろうが、あてのない探偵のようにうろうろ、まごついている君はなおさらつらいだろう。累々るいるい として喪家そうか の犬のごとし。いや宿のない犬ほど気の毒なものは実際ないよ 」
「
犬は残酷ですね。犬に比較された事はこれでもまだありませんよ 」
「
僕は何だか君の話をきくと、昔むか しの芸術家の伝を読むような気持がして同情の念に堪た えない。犬に比較したのは先生の冗談じょうだん だから気に掛けずに話を進行したまえ 」と
東風 君は
慰藉いしゃ した。慰藉されなくても
寒月 君は無論話をつづけるつもりである。
「
それから徒町おかちまち から百騎町ひゃっきまち を通って、両替町りょうがえちょう から鷹匠町たかじょうまち へ出て、県庁の前で枯柳の数を勘定して病院の横で窓の灯ひ を計算して、紺屋橋こんやばし の上で巻煙草まきたばこ を二本ふかして、そうして時計を見た。…… 」
「
十時になったかい 」
「
惜しい事にならないね。――紺屋橋を渡り切って川添に東へ上のぼ って行くと、按摩あんま に三人あった。そうして犬がしきりに吠ほ えましたよ先生…… 」
「
秋の夜長に川端で犬の遠吠をきくのはちょっと芝居がかりだね。君は落人おちゅうど と言う格だ 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(79 / 116)
「
何かわるい事でもしたんですか 」
「
これからしようと言うところさ 」
「
可哀相かわいそう にヴァイオリンを買うのが悪い事じゃ、音楽学校の生徒はみんな罪人ですよ」
「
人が認めない事をすれば、どんないい事をしても罪人さ、だから世の中に罪人ほどあてにならないものはない。耶蘇ヤソ もあんな世に生れれば罪人さ。好男子寒月 君もそんな所でヴァイオリンを買えば罪人さ 」
「
それじゃ負けて罪人としておきましょう。罪人はいいですが十時にならないのには弱りました 」
「
もう一返ぺん 、町の名を勘定するさ。それで足りなければまた秋の日をかんかんさせるさ。それでもおっつかなければまた甘干しの渋柿を三ダースも食うさ。いつまでも聞くから十時になるまでやりたまえ 」
寒月 先生はにやにやと笑った。
「
そう先せん を越されては降参するよりほかはありません。それじゃ一足飛びに十時にしてしまいましょう。さて御約束の十時になって金善 かねぜん の前へ来て見ると、夜寒の頃ですから、さすが目貫めぬき の両替町りょうがえちょう もほとんど人通りが絶えて、向むこう からくる下駄の音さえ淋さみ しい心持ちです。金善 ではもう大戸をたてて、わずかに潜くぐ り戸と だけを障子しょうじ にしています。私は何となく犬に尾つ けられたような心持で、障子をあけて這入るのに少々薄気味がわるかったです…… 」
この時
主人 はきたならしい本からちょっと眼をはずして、「
おいもうヴァイオリンを買ったかい 」と聞いた。「
これから買うところです 」と
東風 君が答えると「
まだ買わないのか、実に永いな 」と
独ひと り
言ごと のように言ってまた本を読み出した。
独仙 君は無言のまま、白と黒で碁盤を大半
埋うず めてしまった。
「
思い切って飛び込んで、頭巾ずきん を被かぶ ったままヴァイオリンをくれと言いますと、火鉢の周囲に四五人小僧や若僧がかたまって話をしていたのが驚いて、申し合せたように私の顔を見ました。私は思わず右の手を挙げて頭巾をぐいと前の方に引きました。おいヴァイオリンをくれと二度目に言うと、一番前にいて、私の顔を覗のぞ き込むようにしていた小僧がへえと覚束おぼつか ない返事をして、立ち上がって例の店先に吊つ るしてあったのを三四梃一度に卸おろ して来ました。いくらかと聞くと五円二十銭だと言います…… 」
「
おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか 」
「
みんな同価どうね かと聞くと、へえ、どれでも変りはございません。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(80 / 116)
みんな丈夫に念を入れて拵こし らえてございますと言いますから、蝦蟇口がまぐち のなかから五円札と銀貨を二十銭出して用意の大風呂敷を出してヴァイオリンを包みました。この間あいだ 、店のものは話を中止してじっと私の顔を見ています。顔は頭巾でかくしてあるから分る気遣きづかい はないのですけれども何だか気がせいて一刻も早く往来へ出たくて堪たま りません。ようやくの事風呂敷包を外套がいとう の下へ入れて、店を出たら、番頭が声を揃そろ えてありがとうと大きな声を出したのにはひやっとしました。往来へ出てちょっと見回して見ると、幸さいわい 誰もいないようですが、一丁ばかり向むこう から二三人して町内中に響けとばかり詩吟をして来ます。こいつは大変だと金善 の角を西へ折れて濠端ほりばた を薬王師道やくおうじみち へ出て、はんの木村から庚申山こうしんやま の裾すそ へ出てようやく下宿へ帰りました。下宿へ帰って見たらもう二時十分前でした」
「
夜通しあるいていたようなものだね 」と
東風 君が気の毒そうに言うと「
やっと上がった。やれやれ長い道中双六どうちゅうすごろく だ 」と
迷亭 君はほっと一と息ついた。
「
これからが聞きどころですよ。今までは単に序幕です 」
「
まだあるのかい。こいつは容易な事じゃない。たいていのものは君に逢っちゃ根気負けをするね 」
「
根気はとにかく、ここでやめちゃ仏作って魂入れずと一般ですから、もう少し話します 」
「
話すのは無論随意さ。聞く事は聞くよ 」
「
どうです苦沙弥 先生も御聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。ええ先生 」
「
こん度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくってもいい 」
「
まだ売るどこじゃありません 」
「
そんならなお聞かなくてもいい 」
「
どうも困るな、東風 君、君だけだね、熱心に聞いてくれるのは。少し張合が抜けるがまあ仕方がない、ざっと話してしまおう 」
「
ざっとでなくてもいいから緩ゆっ くり話したまえ。大変面白い 」
「
ヴァイオリンはようやくの思で手に入れたが、まず第一に困ったのは置き所だね。僕の所へは大分だいぶ 人が遊びにくるから滅多めった な所へぶらさげたり、立て懸けたりするとすぐ露見してしまう。穴を掘って埋めちゃ掘り出すのが面倒だろう 」
「
そうさ、天井裏へでも隠したかい 」と
東風 君は気楽な事を言う。
「
天井はないさ。百姓家ひゃくしょうや だもの 」
「
そりゃ困ったろう。どこへ入れたい 」
「
どこへ入れたと思う 」
「
わからないね。戸袋のなかか 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(81 / 116)
「
いいえ 」
「
夜具にくるんで戸棚へしまったか 」
「
いいえ 」
東風 君と
寒月 君はヴァイオリンの
隠かく れ
家が についてかくのごとく問答をしているうちに、
主人 と
迷亭 君も何かしきりに話している。
「
こりゃ何と読むのだい 」と
主人 が聞く。
「
どれ 」
「
この二行さ 」
「
何だって? 〔Quid aliud est mulier nisi amicitiae& inimica〕……こりゃ君羅甸語ラテンご じゃないか 」
「
羅甸語は分ってるが、何と読むのだい 」
「
だって君は平生羅甸語が読めると言ってるじゃないか 」と
迷亭 君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「
無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい 」
「
読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね 」
「
何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ 」
「
見ろは烈しいね。まるで従卒のようだね 」
「
従卒でもいいから何だ 」
「
まあ羅甸語などはあとにして、ちょっと寒月 君のご高話を拝聴仕つかまつ ろうじゃないか。今大変なところだよ。いよいよ露見するか、しないか危機一髪と言う安宅あたか の関せき へかかってるんだ。――ねえ寒月 君それからどうしたい 」と急に乗気になって、またヴァイオリンの仲間入りをする。
主人 は
情なさ けなくも取り残された。
寒月 君はこれに勢を得て隠し所を説明する。
「
とうとう古つづらの中へ隠しました。このつづらは国を出る時御祖母おばあ さんが餞別にくれたものですが、何でも御祖母さんが嫁にくる時持って来たものだそうです 」
「
そいつは古物こぶつ だね。ヴァイオリンとは少し調和しないようだ。ねえ東風 君 」
「
ええ、ちと調和せんです 」
「
天井裏だって調和しないじゃないか 」と
寒月 君は
東風 先生をやり込めた。
「
調和はしないが、句にはなるよ、安心し給え。秋淋あきさび しつづらにかくすヴァイオリンはどうだい、両君 」
「
先生今日は大分だいぶ 俳句が出来ますね 」
「
今日に限った事じゃない。いつでも腹の中で出来てるのさ。僕の俳句における造詣ぞうけい と言ったら、故子規子こしきし も舌を捲ま いて驚ろいたくらいのものさ 」
「
先生、子規さんとは御つき合でしたか 」と正直な
東風 君は
真率しんそつ 【率直】な質問をかける。
「
なにつき合わなくっても始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(82 / 116)
と無茶苦茶を言うので、
東風 先生あきれて黙ってしまった。
寒月 君は笑いながらまた進行する。
「
それで置き所だけは出来た訳だが、今度は出すのに困った。ただ出すだけなら人目を掠かす めて眺なが めるくらいはやれん事はないが、眺めたばかりじゃ何にもならない。弾ひ かなければ役に立たない。弾けば音が出る。出ればすぐ露見する。ちょうど木槿垣むくげがき を一重隔てて南隣りは沈殿組ちんでんぐみ の頭領が下宿しているんだから剣呑けんのん だあね 」
「
困るね 」と
東風 君が気の毒そうに調子を合わせる。
「
なるほど、こりゃ困る。論より証拠音が出るんだから、小督こごう の局つぼね も全くこれでしくじったんだからね。これがぬすみ食をするとか、贋札にせさつ を造るとか言うなら、まだ始末がいいが、音曲おんぎょく は人に隠しちゃ出来ないものだからね 」
「
音さえ出なければどうでも出来るんですが…… 」
「
ちょっと待った。音さえ出なけりゃと言うが、音が出なくても隠かく し了おお せないのがあるよ。昔むか し僕等が小石川の御寺で自炊をしている時分に鈴木 の藤とう さんと言う人がいてね、この藤さんが大変味淋みりん がすきで、ビールの徳利とっくり へ味淋を買って来ては一人で楽しみに飲んでいたのさ。ある日藤とう さんが散歩に出たあとで、よせばいいのに苦沙弥 君がちょっと盗んで飲んだところが…… 」
「
おれが鈴木 の味淋などをのむものか、飲んだのは君だぜ 」と
主人 は突然大きな声を出した。
「
おや本を読んでるから大丈夫かと思ったら、やはり聞いてるね。油断の出来ない男だ。耳も八丁、目も八丁とは君の事だ。なるほど言われて見ると僕も飲んだ。僕も飲んだには相違ないが、発覚したのは君の方だよ。――両君まあ聞きたまえ。苦沙弥 先生元来酒は飲めないのだよ。ところを人の味淋だと思って一生懸命に飲んだものだから、さあ大変、顔中真赤まっか にはれ上ってね。いやもう二目ふため とは見られないありさまさ…… 」
「
黙っていろ。羅甸語ラテンご も読めない癖に 」
「
ハハハハ、それで藤とう さんが帰って来てビールの徳利をふって見ると、半分以上足りない。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(83 / 116)
何でも誰か飲んだに相違ないと言うので見回して見ると、大将隅の方に朱泥しゅでい を練りかためた人形のようにかたくなっていらあね……」
三人は思わず
哄然こうぜん と笑い出した。
主人 も本をよみながら、くすくすと笑った。
独ひと り
独仙 君に至っては
機外きがい の
機き を
弄ろう し過ぎて、少々疲労したと見えて、碁盤の上へのしかかって、いつの間にやら、ぐうぐう寝ている。「
まだ音がしないもので露見した事がある。僕が昔し姥子うばこ の温泉に行って、一人のじじいと相宿になった事がある。何でも東京の呉服屋の隠居か何かだったがね。まあ相宿だから呉服屋だろうが、古着屋だろうが構う事はないが、ただ困った事が一つ出来てしまった。と言うのは僕は姥子うばこ へ着いてから三日目に煙草たばこ を切らしてしまったのさ。諸君も知ってるだろうが、あの姥子と言うのは山の中の一軒屋でただ温泉に入って飯を食うよりほかにどうもこうも仕様のない不便の所さ。そこで煙草を切らしたのだから御難だね。物はないとなるとなお欲しくなるもので、煙草がないなと思うやいなや、いつもそんなでないのが急に呑みたくなり出してね。意地のわるい事に、そのじじいが風呂敷に一杯煙草を用意して登山しているのさ。それを少しずつ出しては、人の前で胡坐あぐら をかいて呑みたいだろうと言わないばかりに、すぱすぱふかすのだね。ただふかすだけなら勘弁のしようもあるが、しまいには煙を輪に吹いて見たり、竪たて に吹いたり、横に吹いたり、乃至ないし は邯鄲かんたん 夢ゆめ の枕まくら と逆ぎゃく に吹いたり、または鼻から獅子の洞入ほらい り、洞返ほらがえ りに吹いたり。つまり呑みびらかすんだね…… 」
「
何です、呑みびらかすと言うのは 」
「
衣装道具いしょうどうぐ なら見せびらかすのだが、煙草だから呑みびらかすのさ」
「
へえ、そんな苦しい思いをなさるより貰ったらいいでしょう 」
「
ところが貰わないね。僕も男子だ 」
「
へえ、貰っちゃいけないんですか 」
「
いけるかも知れないが、貰わないね 」
「
それでどうしました 」
「
貰わないで偸ぬす んだ 」
「
おやおや 」
「
奴さん手拭てぬぐい をぶらさげて湯に出掛けたから、呑むならここだと思って一心不乱立てつづけに呑んで、ああ愉快だと思う間ま もなく、障子しょうじ がからりとあいたから、おやと振り返ると煙草の持ち主さ 」
「
湯には這入らなかったのですか 」
「
這入ろうと思ったら巾着きんちゃく を忘れたのに気がついて、廊下から引き返したんだ。人が巾着でもとりゃしまいし第一それからが失敬さ 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(84 / 116)
「
何とも言えませんね。煙草の御手際おてぎわ じゃ 」
「
ハハハハじじいもなかなか眼識があるよ。巾着はとにかくだが、じいさんが障子をあけると二日間の溜め呑みをやった煙草の煙りがむっとするほど室へや のなかに籠こも ってるじゃないか、悪事千里とはよく言ったものだね。たちまち露見してしまった 」
「
じいさん何とかいいましたか 」
「
さすが年の功だね、何にも言わずに巻煙草まきたばこ を五六十本半紙にくるんで、失礼ですが、こんな粗葉そは でよろしければどうぞお呑み下さいましと言って、また湯壺ゆつぼ へ下りて行ったよ 」
「
そんなのが江戸趣味と言うのでしょうか 」
「
江戸趣味だか、呉服屋趣味だか知らないが、それから僕は爺さんと大おおい に肝胆相照かんたんあいて らして、二週間の間面白く逗留とうりゅう して帰って来たよ 」
「
煙草は二週間中爺さんの御馳走になったんですか 」
「
まあそんなところだね 」
「
もうヴァイオリンは片ついたかい 」と
主人 はようやく本を伏せて、起き上りながらついに降参を申し込んだ。
「
まだです。これからが面白いところです、ちょうどいい時ですから聞いて下さい。ついでにあの碁盤の上で昼寝をしている先生――何とか言いましたね、え、独仙 先生、――独仙 先生にも聞いていただきたいな。どうですあんなに寝ちゃ、からだに毒ですぜ。もう起してもいいでしょう 」
「
おい、独仙 君、起きた起きた。面白い話がある。起きるんだよ。そう寝ちゃ毒だとさ。奥さんが心配だとさ 」
「
え 」と言いながら顔を上げた
独仙 君の
山羊髯やぎひげ を伝わって
垂涎よだれ が一筋長々と流れて、
蝸牛かたつむり の這った
迹あと のように歴然と光っている。
「
ああ、眠かった。山上の白雲わが懶ものう きに似たりか。ああ、いい心持ちに寝ね たよ 」
「
寝たのはみんなが認めているのだがね。ちっと起きちゃどうだい 」
「
もう、起きてもいいね。何か面白い話があるかい 」「
これからいよいよヴァイオリンを――どうするんだったかな、苦沙弥 君 」
「
どうするのかな、とんと見当けんとう がつかない 」
「
これからいよいよ弾くところです 」
「
これからいよいよヴァイオリンを弾くところだよ。こっちへ出て来て、聞きたまえ 」
「
まだヴァイオリンかい。困ったな 」
「
君は無絃むげん の素琴そきん を弾ずる連中だから困らない方なんだが、寒月 君のは、きいきいぴいぴい近所合壁きんじょがっぺき へ聞えるのだから大おおい に困ってるところだ 」
「
そうかい。寒月 君近所へ聞えないようにヴァイオリンを弾く方ほう を知らんですか 」
「
知りませんね、あるなら伺いたいもので 」
「
伺わなくても露地ろじ の白牛びゃくぎゅう を見ればすぐ分るはずだが 」と、何だか通じない事を言う。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(85 / 116)
寒月 君はねぼけてあんな珍語を
弄ろう するのだろうと鑑定したから、わざと相手にならないで話頭を進めた。
「
ようやくの事で一策を案出しました。あくる日は天長節だから、朝からうちにいて、つづらの蓋ふた をとって見たり、かぶせて見たり一日いちんち そわそわして暮らしてしまいましたがいよいよ日が暮れて、つづらの底で蛼こおろぎ が鳴き出した時思い切って例のヴァイオリンと弓を取り出しました 」
「
いよいよ出たね 」と
東風 君が言うと「
滅多めった に弾くとあぶないよ」と
迷亭 君が注意した。
「
まず弓を取って、切先きっさき から鍔元つばもと までしらべて見る…… 」
「
下手な刀屋じゃあるまいし 」と
迷亭 君が
冷評ひやか した。「
実際これが自分の魂だと思うと、侍さむらい が研と ぎ澄した名刀を、長夜ちょうや の灯影ほかげ で鞘払さやばらい をする時のような心持ちがするものですよ。私は弓を持ったままぶるぶるとふるえました 」
「
全く天才だ 」と言う
東風 君について「
全く癲癇てんかん だ 」と
迷亭 君がつけた。
主人 は「
早く弾いたらよかろう 」と言う。
独仙 君は困ったものだと言う顔付をする。
「
ありがたい事に弓は無難です。今度はヴァイオリンを同じくランプの傍そば へ引き付けて、裏表共よくしらべて見る。この間あいだ 約五分間、つづらの底では始終蛼こおろぎ が鳴いていると思って下さい。…… 」
「
何とでも思ってやるから安心して弾くがいい 」
「
まだ弾きゃしません。――幸いヴァイオリンも疵きず がない。これなら大丈夫とぬっくと立ち上がる…… 」
「
どっかへ行くのかい 」
「
まあ少し黙って聞いて下さい。そう一句毎に邪魔をされちゃ話が出来ない。…… 」
「
おい諸君、だまるんだとさ。シーシー 」
「
しゃべるのは君だけだぜ 」
「
うん、そうか、これは失敬、謹聴謹聴 」
「
ヴァイオリンを小脇に抱か い込んで、草履ぞうり を突つっ かけたまま二三歩草の戸を出たが、まてしばし…… 」
「
そらおいでなすった。何でも、どっかで停電するに違ないと思った 」
「
もう帰ったって甘干しの柿はないぜ 」
「
そう諸先生が御まぜ返しになってははなはだ遺憾いかん の至りだが、東風 君一人を相手にするより致し方がない。――いいかね東風 君、二三歩出たがまた引き返して、国を出るとき三円二十銭で買った赤毛布あかげっと を頭から被かぶ ってね、ふっとランプを消すと君真暗闇まっくらやみ になって今度は草履ぞうり の所在地ありか が判然しなくなった 」
「
一体どこへ行くんだい 」
「
まあ聞いてたまい。ようやくの事草履を見つけて、表へ出ると星月夜に柿落葉、赤毛布にヴァイオリン。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(86 / 116)
右へ右へと爪先上つまさきあが りに庚申山こうしんやま へ差しかかってくると、東嶺寺とうれいじ の鐘がボーンと毛布けっと を通して、耳を通して、頭の中へ響き渡った。何時なんじ だと思う、君」
「
知らないね 」
「
九時だよ。これから秋の夜長をたった一人、山道八丁を大平おおだいら と言う所まで登るのだが、平生なら臆病な僕の事だから、恐しくってたまらないところだけれども、一心不乱となると不思議なもので、怖こわ いにも怖くないにも、毛頭そんな念はてんで心の中に起らないよ。ただヴァイオリンが弾きたいばかりで胸が一杯になってるんだから妙なものさ。この大平と言う所は庚申山の南側で天気のいい日に登って見ると赤松の間から城下が一目に見下みおろ せる眺望佳絶の平地で――そうさ広さはまあ百坪もあろうかね、真中に八畳敷ほどな一枚岩があって、北側は鵜う の沼ぬま と言う池つづきで、池のまわりは三抱えもあろうと言う樟くすのき ばかりだ。山のなかだから、人の住んでる所は樟脳しょうのう を採と る小屋が一軒あるばかり、池の近辺は昼でもあまり心持ちのいい場所じゃない。幸い工兵が演習のため道を切り開いてくれたから、登るのに骨は折れない。ようやく一枚岩の上へ来て、毛布けっと を敷いて、ともかくもその上へ坐った。こんな寒い晩に登ったのは始めてなんだから、岩の上へ坐って少し落ち着くと、あたりの淋さみ しさが次第次第に腹の底へ沁し み渡る。こう言う場合に人の心を乱すものはただ怖こわ いと言う感じばかりだから、この感じさえ引き抜くと、余るところは皎々冽々こうこうれつれつ たる空霊の気だけになる。二十分ほど茫然ぼうぜん としているうちに何だか水晶で造った御殿のなかに、たった一人住んでるような気になった。しかもその一人住んでる僕のからだが――いやからだばかりじゃない、心も魂もことごとく寒天か何かで製造されたごとく、不思議に透す き徹とお ってしまって、自分が水晶の御殿の中にいるのだか、自分の腹の中に水晶の御殿があるのだか、わからなくなって来た…… 」
「
飛んだ事になって来たね 」と
迷亭 君が真面目にからかうあとに付いて、
独仙 君が「
面白い境界きょうがい だ 」と少しく感心したようすに見えた。
「
もしこの状態が長くつづいたら、私はあすの朝まで、せっかくのヴァイオリンも弾かずに、茫ぼん やり一枚岩の上に坐ってたかも知れないです…… 」
「
狐でもいる所かい 」と
東風 君がきいた。
「
こう言う具合で、自他の区別もなくなって、生きているか死んでいるか方角のつかない時に、突然後うし ろの古沼の奥でギャーと言う声がした。…… 」
「
いよいよ出たね 」
「
その声が遠く反響を起して満山の秋の梢こずえ を、野分のわき と共に渡ったと思ったら、はっと我に帰った…… 」
「
やっと安心した 」と
迷亭 君が胸を
撫な でおろす真似をする。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(87 / 116)
「
大死一番たいしいちばん 乾坤新けんこんあらた なり」と
独仙 君は目くばせをする。
寒月 君にはちっとも通じない。
「
それから、我に帰ってあたりを見回わすと、庚申山こうしんやま 一面はしんとして、雨垂れほどの音もしない。はてな今の音は何だろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大き過ぎるし、猿の声にしては――この辺によもや猿はおるまい。何だろう? 何だろうと言う問題が頭のなかに起ると、これを解釈しようと言うので今まで静まり返っていたやからが、紛然ふんぜん 雑然ざつぜん 糅然じゅうぜん としてあたかもコンノート殿下歓迎の当時における都人士狂乱の態度を以もっ て脳裏をかけ廻る。そのうちに総身そうしん 【全身】の毛穴が急にあいて、焼酎しょうちゅう を吹きかけた毛脛けずね のように、勇気、胆力、分別、沈着などと号するお客様がすうすうと蒸発して行く。心臓が肋骨の下でステテコを踊り出す。両足が紙鳶たこ のうなりのように震動をはじめる。これはたまらん。いきなり、毛布けっと を頭からかぶって、ヴァイオリンを小脇に掻か い込んでひょろひょろと一枚岩を飛び下りて、一目散に山道八丁を麓ふもと の方へかけ下りて、宿へ帰って布団ふとん へくるまって寝てしまった。今考えてもあんな気味のわるかった事はないよ、東風 君 」
「
それから 」
「
それでおしまいさ 」
「
ヴァイオリンは弾かないのかい 」
「
弾きたくっても、弾かれないじゃないか。ギャーだもの。君だってきっと弾かれないよ 」
「
何だか君の話は物足りないような気がする 」
「
気がしても事実だよ。どうです先生 」と
寒月 君は一座を見回わして大得意のようすである。
「
ハハハハこれは上出来。そこまで持って行くにはだいぶ苦心惨憺たるものがあったのだろう。僕は男子のサンドラ・ベロニが東方君子の邦くに に出現するところかと思って、今が今まで真面目に拝聴していたんだよ 」と言った
迷亭 君は誰かサンドラ・ベロニの講釈でも聞くかと思のほか、何にも質問が出ないので「
サンドラ・ベロニが月下に竪琴たてごと を弾いて、以太利亜風イタリアふう の歌を森の中でうたってるところは、君の庚申山こうしんやま へヴァイオリンをかかえて上のぼ るところと同曲にして異巧なるものだね。惜しい事に向うは月中げっちゅう の嫦娥じょうが を驚ろかし、君は古沼ふるぬま の怪狸かいり におどろかされたので、際きわ どいところで滑稽こっけい と崇高の大差を来たした。さぞ遺憾いかん だろう 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(88 / 116)
と一人で説明すると、
「
そんなに遺憾ではありません 」と
寒月 君は存外平気である。
「
全体山の上でヴァイオリンを弾こうなんて、ハイカラをやるから、おどかされるんだ 」と今度は
主人 が酷評を加えると、
「
好漢こうかん この鬼窟裏きくつり に向って生計を営む。惜しい事だ」と
独仙 君は嘆息した。すべて
独仙 君の言う事は決して
寒月 君にわかったためしがない。
寒月 君ばかりではない、おそらく誰にでもわからないだろう。
「
そりゃ、そうと寒月 君、近頃でも矢張り学校へ行って珠たま ばかり磨いてるのかね 」と
迷亭 先生はしばらくして話頭を転じた。
「
いえ、こないだうちから国へ帰省していたもんですから、暫時ざんじ 中止の姿です。珠ももうあきましたから、実はよそうかと思ってるんです 」
「
だって珠が磨けないと博士にはなれんぜ 」と
主人 は少しく眉をひそめたが、本人は存外気楽で、
「
博士ですか、エヘヘヘヘ。博士ならもうならなくってもいいんです 」
「
でも結婚が延びて、双方困るだろう 」
「
結婚って誰の結婚です 」
「
君のさ 」
「
私が誰と結婚するんです 」
「
金田の令嬢 さ」
「
へええ 」
「
へえって、あれほど約束があるじゃないか 」
「
約束なんかありゃしません、そんな事を言い触ふ らすなあ、向うの勝手です 」
「
こいつは少し乱暴だ。ねえ迷亭 、君もあの一件は知ってるだろう 」
「
あの一件た、鼻事件かい。あの事件なら、君と僕が知ってるばかりじゃない、公然の秘密として天下一般に知れ渡ってる。現に万朝まんちょう なぞでは花聟花嫁と言う表題で両君の写真を紙上に掲ぐるの栄はいつだろう、いつだろうって、うるさく僕のところへ聞きにくるくらいだ。東風 君なぞはすでに鴛鴦歌えんおうか と言う一大長編を作って、三箇月前ぜん から待ってるんだが、寒月 君が博士にならないばかりで、せっかくの傑作も宝の持ち腐れになりそうで心配でたまらないそうだ。ねえ、東風 君そうだろう 」
「
まだ心配するほど持ちあつかってはいませんが、とにかく満腹の同情をこめた作を公けにするつもりです 」
「
それ見たまえ、君が博士になるかならないかで、四方八方へ飛んだ影響が及んでくるよ。少ししっかりして、珠を磨いてくれたまえ 」
「
へへへへいろいろ御心配をかけて済みませんが、もう博士にはならないでもいいのです 」
「
なぜ 」
「
なぜって、私にはもう歴然れっき とした女房があるんです 」
「
いや、こりゃえらい。いつの間に秘密結婚をやったのかね。油断のならない世の中だ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(89 / 116)
苦沙弥 さんただ今御聞き及びの通り寒月 君はすでに妻子があるんだとさ」
「
子供はまだですよ。そう結婚して一と月もたたないうちに子供が生れちゃ事でさあ 」
「
元来いつどこで結婚したんだ 」と
主人 は予審判事見たような質問をかける。
「
いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。今日先生の所へ持って来た、この鰹節かつぶし は結婚祝に親類から貰ったんです 」
「
たった三本祝うのはけちだな 」
「
なに沢山のうちを三本だけ持って来たのです 」
「
じゃ御国の女だね、やっぱり色が黒いんだね 」
「
ええ、真黒です。ちょうど私には相当です 」「
それで金田 の方はどうする気だい 」
「
どうする気でもありません 」
「
そりゃ少し義理がわるかろう。ねえ迷亭 」
「
わるくもないさ。ほかへやりゃ同じ事だ。どうせ夫婦なんてものは闇の中で鉢合せをするようなものだ。要するに鉢合せをしないでもすむところをわざわざ鉢合せるんだから余計な事さ。すでに余計な事なら誰と誰の鉢が合ったって構いっこないよ。ただ気の毒なのは鴛鴦歌えんおうか を作った東風 君くらいなものさ 」
「
なに鴛鴦歌は都合によって、こちらへ向け易か えてもよろしゅうございます。金田 家の結婚式にはまた別に作りますから 」
「
さすが詩人だけあって自由自在なものだね 」
「
金田 の方へ断わったかい」と
主人 はまだ
金田 を気にしている。
「
いいえ。断わる訳がありません。私の方でくれとも、貰いたいとも、先方へ申し込んだ事はありませんから、黙っていれば沢山です。――なあに黙ってても沢山ですよ。今時分は探偵が十人も二十人もかかって一部始終残らず知れていますよ 」
探偵と言う
言語ことば を聞いた、
主人 は、急に
苦にが い顔をして
「
ふん、そんなら黙っていろ 」と申し渡したが、それでも
飽あ き足らなかったと見えて、なお探偵について
下しも のような事をさも大議論のように述べられた。
「
不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸ぬす むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑すべ らして人の心を読むのが探偵だ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(90 / 116)
ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強し うるのが探偵だ。だから探偵と言う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上かざかみ に置けるものではない。そんな奴の言う事を聞くと癖になる。決して負けるな」 「
なに大丈夫です、探偵の千人や二千人、風上に隊伍を整えて襲撃したって怖こわ くはありません。珠磨たます りの名人理学士水島寒月 でさあ 」
「
ひやひや見上げたものだ。さすが新婚学士ほどあって元気旺盛おうせい なものだね。しかし苦沙弥 さん。探偵がスリ、泥棒、強盗の同類なら、その探偵を使う金田 君のごときものは何の同類だろう 」
「
熊坂長範くまさかちょうはん 【平安時代の伝説上の盗賊】くらいなものだろう」
「
熊坂はよかったね。一つと見えたる長範が二つになってぞ失う せにけりと言うが、あんな烏金からすがね で身代しんだい をつくった向横丁むこうよこちょう の長範なんかは業ごう つく張りの、慾張り屋だから、いくつになっても失せる気遣きづかい はないぜ。あんな奴につかまったら因果だよ。生涯しょうがい たたるよ、寒月 君用心したまえ 」
「
なあに、いいですよ。ああら物々し盗人ぬすびと よ。手並はさきにも知りつらん。それにも懲こ りず打ち入るかって、ひどい目に合せてやりまさあ 」と
寒月 君は自若として
宝生流ほうしょうりゅう に
気焰きえん を
吐は いて見せる。
「
探偵と言えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう言う訳だろう 」と
独仙 君は
独仙 君だけに時局問題には関係のない超然たる質問を呈出した。
「
物価が高いせいでしょう 」と
寒月 君が答える。
「
芸術趣味を解しないからでしょう 」と
東風 君が答える。
「
人間に文明の角つの が生えて、金米糖こんぺいとう のようにいらいらするからさ 」と
迷亭 君が答える。
今度は
主人 の番である。
主人 はもったい
振ぶ った口調で、こんな議論を始めた。
「
それは僕が大分だいぶ 考えた事だ。僕の解釈によると当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている。僕の自覚心と名づけるのは独仙 君の方で言う、見性成仏けんしょうじょうぶつ とか、自己は天地と同一体だとか言う悟道【仏の教えの真髄をさとること】の類たぐい ではない。…… 」
「
おや大分だいぶ むずかしくなって来たようだ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(91 / 116)
苦沙弥 君、君にしてそんな大議論を舌頭ぜっとう に弄ろう する以上は、かく申す迷亭 も憚はばか りながら御あとで現代の文明に対する不平を堂々と言うよ」
「
勝手に言うがいい、言う事もない癖に 」
「
ところがある。大おおい にある。君なぞはせんだっては刑事巡査を神のごとく敬うやま い、また今日は探偵をスリ泥棒に比し、まるで矛盾の変怪へんげ だが、僕などは終始一貫父母未生ふもみしょう 以前いぜん からただ今に至るまで、かつて自説を変じた事のない男だ 」
「
刑事は刑事だ。探偵は探偵だ。せんだってはせんだってで今日は今日だ。自説が変らないのは発達しない証拠だ。下愚かぐ は移らずと言うのは君の事だ。…… 」
「
これはきびしい。探偵もそうまともにくると可愛いところがある 」
「
おれが探偵 」
「
探偵でないから、正直でいいと言うのだよ。喧嘩はおやめおやめ。さあ。その大議論のあとを拝聴しよう 」「
今の人の自覚心と言うのは自己と他人の間に截然せつぜん たる利害の鴻溝こうこう があると言う事を知り過ぎていると言う事だ。そうしてこの自覚心なるものは文明が進むにしたがって一日一日と鋭敏になって行くから、しまいには一挙手一投足も自然天然とは出来ないようになる。ヘンレーと言う人がスチーヴンソンを評して彼は鏡のかかった部屋に入って、鏡の前を通る毎ごと に自己の影を写して見なければ気が済まぬほど瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日こんにち の趨勢すうせい を言いあらわしている。寝てもおれ、覚さ めてもおれ、このおれが至るところにつけまつわっているから、人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり、ちょうど見合をする若い男女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々ゆうゆう とか従容しょうよう とか言う字は劃かく があって意味のない言葉になってしまう。この点において今代きんだい の人は探偵的である。泥棒的である。探偵は人の目を掠かす めて自分だけうまい事をしようと言う商売だから、勢いきおい 自覚心が強くならなくては出来ん。泥棒も捕つか まるか、見つかるかと言う心配が念頭を離れる事がないから、勢自覚心が強くならざるを得ない。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(92 / 116)
今の人はどうしたら己おの れの利になるか、損になるかと寝ても醒さ めても考えつづけだから、勢探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入い るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の咒詛じゅそ だ。馬鹿馬鹿しい」
「
なるほど面白い解釈だ 」と
独仙 君が言い出した。こんな問題になると
独仙 君はなかなか
引込ひっこ んでいない男である。「
苦沙弥 君の説明はよく我意わがい を得ている。昔むか しの人は己れを忘れろと教えたものだ。今の人は己れを忘れるなと教えるからまるで違う。二六時中己れと言う意識をもって充満している。それだから二六時中太平の時はない。いつでも焦熱地獄だ。天下に何が薬だと言って己れを忘れるより薬な事はない。三更月下さんこうげっか 入無我むがにいる とはこの至境を咏えい じたものさ。今の人は親切をしても自然をかいている。英吉利イギリス のナイスなどと自慢する行為も存外自覚心が張り切れそうになっている。英国の天子が印度インド へ遊びに行って、印度の王族と食卓を共にした時に、その王族が天子の前とも心づかずに、つい自国の我流を出して馬鈴薯じゃがいも を手攫てづか みで皿へとって、あとから真赤まっか になって愧は じ入ったら、天子は知らん顔をしてやはり二本指で馬鈴薯を皿へとったそうだ……」
「
それが英吉利趣味ですか 」これは
寒月 君の質問であった。
「
僕はこんな話を聞いた 」と
主人 が後をつける。「
やはり英国のある兵営で聯隊の士官が大勢して一人の下士官を御馳走した事がある。御馳走が済んで手を洗う水を硝子鉢ガラスばち へ入れて出したら、この下士官は宴会になれんと見えて、硝子鉢を口へあてて中の水をぐうと飲んでしまった。すると聯隊長が突然下士官の健康を祝すと言いながら、やはりフㇶンガー・ボールの水を一息に飲み干したそうだ。そこで並な みいる士官も我劣らじと水盃みずさかずき を挙げて下士官の健康を祝したと言うぜ 」
「
こんな噺はなし もあるよ 」とだまってる事の
嫌きらい な
迷亭 君が言った。「
カーライル【イギリスの歴史家】が始めて女皇じょこう に謁した時、宮廷の礼に嫻なら わぬ変物へんぶつ の事だから、先生突然どうですと言いながら、どさりと椅子へ腰をおろした。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(93 / 116)
ところが女皇の後うし ろに立っていた大勢の侍従や官女がみんなくすくす笑い出した――出したのではない、出そうとしたのさ、すると女皇が後ろを向いて、ちょっと何か相図をしたら、多勢おおぜい の侍従官女がいつの間にかみんな椅子へ腰をかけて、カーライル【イギリスの歴史家】は面目を失わなかったと言うんだが随分御念の入った親切もあったもんだ」
「
カーライル【イギリスの歴史家】の事なら、みんなが立ってても平気だったかも知れませんよ 」と
寒月 君が短評を試みた。
「
親切の方の自覚心はまあいいがね 」と
独仙 君は進行する。「
自覚心があるだけ親切をするにも骨が折れる訳になる。気の毒な事さ。文明が進むに従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際がおだやかになるなどと普通言うが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうしておだやかになれるものか。なるほどちょっと見るとごくしずかで無事なようだが、御互の間は非常に苦しいのさ。ちょうど相撲が土俵の真中で四よ つに組んで動かないようなものだろう。はたから見ると平穏至極だが当人の腹は波を打っているじゃないか 」
「
喧嘩けんか も昔むか しの喧嘩は暴力で圧迫するのだからかえって罪はなかったが、近頃じゃなかなか巧妙になってるからなおなお自覚心が増してくるんだね」と番が
迷亭 先生の頭の上に廻って来る。「
ベーコンの言葉に自然の力に従って始めて自然に勝つとあるが、今の喧嘩は正にベーコンの格言通りに出来上ってるから不思議だ。ちょうど柔術のようなものさ。敵の力を利用して敵を斃たお す事を考える…… 」
「
または水力電気のようなものですね。水の力に逆らわないでかえってこれを電力に変化して立派に役に立たせる…… 」と
寒月 君が言いかけると、
独仙 君がすぐそのあとを引き取った。「
だから貧時ひんじ には貧ひん に縛ばく せられ、富時ふじ には富ふ に縛せられ、憂時ゆうじ には憂ゆう に縛せられ、喜時きじ には喜き に縛せられるのさ。才人は才に斃たお れ、智者は智に敗れ、苦沙弥 君のような癇癪持かんしゃくも ちは癇癪を利用さえすればすぐに飛び出して敵のぺてんに罹かか る…… 」
「
ひやひや 」と
迷亭 君が手をたたくと、
苦沙弥 君はにやにや笑いながら「
これでなかなかそう甘うま くは行かないのだよ 」と答えたら、みんな一度に笑い出した。
「
時に金田 のようなのは何で斃たお れるだろう 」
「
女房は鼻で斃れ、主人 は因業いんごう で斃れ、子分は探偵で斃れか 」
「
娘は? 」
「
娘は――娘は見た事がないから何とも言えないが――まず着倒れか、食い倒れ、もしくは呑んだくれの類たぐい だろう。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(94 / 116)
よもや恋い倒れにはなるまい。ことによると卒塔婆小町そとばこまち のように行き倒れになるかも知れない」
「
それは少しひどい 」と新体詩を捧げただけに
東風 君が異議を申し立てた。
「
だから応無所住おうむしょじゅう 而に 生其心しょうごしん と言うのは大事な言葉だ、そう言う境界きょうがい に至らんと人間は苦しくてならん 」と
独仙 君しきりに
独ひと り悟ったような事を言う。
「
そう威張るもんじゃないよ。君などはことによると電光影裏でんこうえいり にさか倒れをやるかも知れないぜ 」
「
とにかくこの勢で文明が進んで行った日にや僕は生きてるのはいやだ 」と
主人 がいい出した。
「
遠慮はいらないから死ぬさ 」と
迷亭 が
言下ごんか に
道破どうは する。
「
死ぬのはなおいやだ 」と
主人 がわからん強情を張る。
「
生れる時には誰も熟考して生れるものは有りませんが、死ぬ時には誰も苦にすると見えますね 」と
寒月 君がよそよそしい格言をのべる。
「
金を借りるときには何の気なしに借りるが、返す時にはみんな心配するのと同じ事さ 」とこんな時にすぐ返事の出来るのは
迷亭 君である。
「
借りた金を返す事を考えないものは幸福であるごとく、死ぬ事を苦にせんものは幸福さ 」と
独仙 君は超然として
出世間的しゅっせけんてき である。
「
君のように言うとつまり図太ずぶと いのが悟ったのだね 」
「
そうさ、禅語に鉄牛面てつぎゅうめん の鉄牛心てつぎゅうしん 、牛鉄面の牛鉄心と言うのがある 」
「
そうして君はその標本と言う訳かね 」
「
そうでもない。しかし死ぬのを苦にするようになったのは神経衰弱と言う病気が発明されてから以後の事だよ 」
「
なるほど君などはどこから見ても神経衰弱以前の民だよ 」
迷亭 と
独仙 が妙な
掛合かけあい をのべつにやっていると、
主人 は
寒月 東風 二君を相手にしてしきりに文明の不平を述べている。
「
どうして借りた金を返さずに済ますかが問題である 」
「
そんな問題はありませんよ。借りたものは返さなくちゃなりませんよ 」
「
まあさ。議論だから、だまって聞くがいい。どうして借りた金を返さずに済ますかが問題であるごとく、どうしたら死なずに済むかが問題である。いな問題であった。錬金術れんきんじゅつ はこれである。すべての錬金術は失敗した。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(95 / 116)
人間はどうしても死ななければならん事が分明ぶんみょう になった」
「
錬金術以前から分明ですよ 」
「
まあさ、議論だから、だまって聞いていろ。いいかい。どうしても死ななければならん事が分明になった時に第二の問題が起る 」
「
へえ 」
「
どうせ死ぬなら、どうして死んだらよかろう。これが第二の問題である。自殺クラブはこの第二の問題と共に起るべき運命を有している 」「
なるほど 」
「
死ぬ事は苦しい、しかし死ぬ事が出来なければなお苦しい。神経衰弱の国民には生きている事が死よりもはなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのが厭いや だから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。ただたいていのものは知恵ちえ が足りないから自然のままに放擲ほうてき しておくうちに、世間がいじめ殺してくれる。しかし一と癖あるものは世間からなし崩しにいじめ殺されて満足するものではない。必かなら ずや死に方に付いて種々考究の結果、嶄新ざんしん な名案を呈出するに違ない。だからして世界向後こうご の趨勢すうせい は自殺者が増加して、その自殺者が皆独創的な方法をもってこの世を去るに違ない 」
「
大分だいぶ 物騒ぶっそう な事になりますね」
「
なるよ。たしかになるよ。アーサー・ジョーンスと言う人のかいた脚本のなかにしきりに自殺を主張する哲学者があって…… 」
「
自殺するんですか 」
「
ところが惜しい事にしないのだがね。しかし今から千年も立てばみんな実行するに相違ないよ。万年の後のち には死と言えば自殺よりほかに存在しないもののように考えられるようになる 」
「
大変な事になりますね 」
「
なるよきっとなる。そうなると自殺も大分研究が積んで立派な科学になって、落雲館のような中学校で倫理の代りに自殺学を正科として授けるようになる 」
「
妙ですな、傍聴に出たいくらいのものですね。迷亭 先生御聞きになりましたか。苦沙弥 先生の御名論を 」
「
聞いたよ。その時分になると落雲館の倫理の先生はこう言うね。諸君公徳などと言う野蛮の遺風を墨守ぼくしゅ してはなりません。世界の青年として諸君が第一に注意すべき義務は自殺である。しかして己おの れの好むところはこれを人に施ほど こして可なる訳だから、自殺を一歩展開して他殺にしてもよろしい。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(96 / 116)
ことに表の窮措大きゅうそだい 珍野苦沙弥 氏のごときものは生きてござるのが大分苦痛のように見受けらるるから、一刻も早く殺して進ぜるのが諸君の義務である。もっとも昔と違って今日は開明の時節であるから槍やり 、薙刀なぎなた もしくは飛道具の類たぐい を用いるような卑怯ひきょう な振舞をしてはなりません。ただあてこすりの高尚なる技術によって、からかい殺すのが本人のため功徳くどく にもなり、また諸君の名誉にもなるのであります。……」
「
なるほど面白い講義をしますね 」
「
まだ面白い事があるよ。現代では警察が人民の生命財産を保護するのを第一の目的としている。ところがその時分になると巡査が犬殺しのような棍棒こんぼう をもって天下の公民を撲殺ぼくさつ してあるく。…… 」
「
なぜです 」
「
なぜって今の人間は生命いのち が大事だから警察で保護するんだが、その時分の国民は生きてるのが苦痛だから、巡査が慈悲のために打ぶ ち殺してくれるのさ。もっとも少し気の利き いたものは大概自殺してしまうから、巡査に打殺ぶちころ されるような奴はよくよく意気地なしか、自殺の能力のない白痴もしくは不具者に限るのさ。それで殺されたい人間は門口かどぐち へ張札をしておくのだね。なにただ、殺されたい男ありとか女ありとか、はりつけておけば巡査が都合のいい時に巡まわ ってきて、すぐ志望通り取計ってくれるのさ。死骸かね。死骸はやっぱり巡査が車を引いて拾ってあるくのさ。まだ面白い事が出来てくる。…… 」
「
どうも先生の冗談じょうだん は際限がありませんね 」と
東風 君は
大おおい に感心している。すると
独仙 君は例の通り
山羊髯やぎひげ を気にしながら、のそのそ弁じ出した。
「
冗談と言えば冗談だが、予言と言えば予言かも知れない。真理に徹底しないものは、とかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫ほうまつ の夢幻むげん を永久の事実と認定したがるものだから、少し飛び離れた事を言うと、すぐ冗談にしてしまう 」
「
燕雀えんじゃく 焉いずく んぞ大鵬たいほう の志こころざし を知らんやですね」と
寒月 君が恐れ入ると、
独仙 君はそうさと言わぬばかりの顔付で話を進める。
「
昔むか しスペインにコルドヴァと言う所があった……」
「
今でもありゃしないか 」
「
あるかも知れない。今昔の問題はとにかく、そこの風習として日暮れの鐘がお寺で鳴ると、家々の女がことごとく出て来て河へ入って水泳をやる…… 」
「
冬もやるんですか 」
「
その辺はたしかに知らんが、とにかく貴賤老若きせんろうにゃく の別なく河へ飛び込む。但ただ し男子は一人も交らない。ただ遠くから見ている。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(97 / 116)
遠くから見ていると暮色青然ぼしょくそうぜん たる波の上に、白い肌はだえ が模糊もこ として動いている……」
「
詩的ですね。新体詩になりますね。なんと言う所ですか 」と
東風 君は
裸体らたい が出さえすれば前へ乗り出してくる。
「
コルドヴァさ。そこで地方の若いものが、女といっしょに泳ぐ事も出来ず、さればと言って遠くから判然その姿を見る事も許されないのを残念に思って、ちょっといたずらをした…… 」
「
へえ、どんな趣向だい 」といたずらと聞いた
迷亭 君は
大おおい に嬉しがる。
「
お寺の鐘つき番に賄賂わいろ を使って、日没を合図に撞つ く鐘を一時間前に鳴らした。すると女などは浅墓あさはか なものだから、そら鐘が鳴ったと言うので、めいめい河岸かし へあつまって半襦袢はんじゅばん 、半股引はんももひき の服装でざぶりざぶりと水の中へ飛び込んだ。飛び込みはしたものの、いつもと違って日が暮れない 」「
烈はげ しい秋の日がかんかんしやしないか」
「
橋の上を見ると男が大勢立って眺なが めている。恥ずかしいがどうする事も出来ない。大に赤面したそうだ 」
「
それで 」
「
それでさ、人間はただ眼前の習慣に迷わされて、根本の原理を忘れるものだから気をつけないと駄目だと言う事さ 」
「
なるほどありがたい御説教だ。眼前の習慣に迷わされの御話しを僕も一つやろうか。この間ある雑誌をよんだら、こう言う詐欺師さぎし の小説があった。僕がまあここで書画骨董店こっとうてん を開くとする。で店頭に大家の幅ふく や、名人の道具類を並べておく。無論贋物にせもの じゃない、正直正銘しょうじきしょうめい 、うそいつわりのない上等品ばかり並べておく。上等品だからみんな高価にきまってる。そこへ物数奇ものずき な御客さんが来て、この元信もとのぶ の幅はいくらだねと聞く。六百円なら六百円と僕が言うと、その客が欲しい事はほしいが、六百円では手元に持ち合せがないから、残念だがまあ見合せよう 」
「
そう言うときまってるかい 」と
主人 は相変らず
芝居気しばいぎ のない事を言う。
迷亭 君はぬからぬ顔で、
「
まあさ、小説だよ。言うとしておくんだ。そこで僕がなに代だい は構いませんから、お気に入ったら持っていらっしゃいと言う。客はそうも行かないからと躊躇ちゅうちょ する。それじゃ月賦げっぷ でいただきましょう、月賦も細く、長く、どうせこれから御贔屓ごひいき になるんですから――いえ、ちっとも御遠慮には及びません。どうです月に十円くらいじゃ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(98 / 116)
何なら月に五円でも構いませんと僕が極ごく きさく に言うんだ。それから僕と客の間に二三の問答があって、とど僕が狩野法眼かのうほうげん 元信【室町後期の画家】の幅を六百円ただし月賦十円払込の事で売渡す」
「
タイムスの百科全書見たようですね 」
「
タイムスはたしかだが、僕のはすこぶる不慥ふたしか だよ。これからがいよいよ巧妙なる詐偽に取りかかるのだぜ。よく聞きたまえ月十円ずつで六百円なら何年で皆済かいさい になると思う、寒月 君 」
「
無論五年でしょう 」
「
無論五年。で五年の歳月は長いと思うか短かいと思うか、独仙 君 」
「
一念万年いちねんばんねん 、万年一念ばんねんいちねん 。短かくもあり、短かくもなしだ」
「
何だそりゃ道歌どうか か、常識のない道歌だね。そこで五年の間毎月十円ずつ払うのだから、つまり先方では六十回払えばいいのだ。しかしそこが習慣の恐ろしいところで、六十回も同じ事を毎月繰り返していると、六十一回にもやはり十円払う気になる。六十二回にも十円払う気になる。六十二回六十三回、回を重ねるにしたがってどうしても期日がくれば十円払わなくては気が済まないようになる。人間は利口のようだが、習慣に迷って、根本を忘れると言う大弱点がある。その弱点に乗じて僕が何度でも十円ずつ毎月得をするのさ 」
「
ハハハハまさか、それほど忘れっぽくもならないでしょう 」と
寒月 君が笑うと、
主人 はいささか真面目で、
「
いやそう言う事は全くあるよ。僕は大学の貸費たいひ を毎月毎月勘定せずに返して、しまいに向むこう から断わられた事がある 」と自分の恥を人間一般の恥のように公言した。
「
そら、そう言う人が現にここにいるからたしかなものだ。だから僕の先刻さっき 述べた文明の未来記を聞いて冗談だなどと笑うものは、六十回でいい月賦を生涯しょうがい 払って正当だと考える連中だ。ことに寒月 君や、東風 君のような経験の乏とぼ しい青年諸君は、よく僕らの言う事を聞いてだまされないようにしなくっちゃいけない 」
「
かしこまりました。月賦は必ず六十回限りの事に致します 」
「
いや冗談のようだが、実際参考になる話ですよ、寒月 君 」と
独仙 君は
寒月 君に向いだした。「
たとえばですね。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(99 / 116)
今苦沙弥 君か迷亭 君が、君が無断で結婚したのが穏当おんとう でないから、金田 とか言う人に謝罪しろと忠告したら君どうです。謝罪する了見ですか」
「
謝罪は御容赦にあずかりたいですね。向うがあやまるなら特別、私の方ではそんな慾はありません 」
「
警察が君にあやまれと命じたらどうです 」
「
なおなお御免蒙ごめんこうむ ります 」
「
大臣とか華族ならどうです 」
「
いよいよもって御免蒙ります 」
「
それ見たまえ。昔と今とは人間がそれだけ変ってる。昔は御上おかみ の御威光なら 何でも出来た時代です。その次には御上の御威光でも 出来ないものが出来てくる時代です。今の世はいかに殿下でも閣下でも、ある程度以上に個人の人格の上にのしかかる事が出来ない世の中です。はげしく言えば先方に権力があればあるほど、のしかかられるものの方では不愉快を感じて反抗する世の中です。だから今の世は昔むか しと違って、御上の御威光だから 出来ないのだと言う新現象のあらわれる時代です、昔しのものから考えると、ほとんど考えられないくらいな事柄が道理で通る世の中です。世態人情の変遷と言うものは実に不思議なもので、迷亭 君の未来記も冗談だと言えば冗談に過ぎないのだが、その辺の消息を説明したものとすれば、なかなか味あじわい があるじゃないですか 」
「
そう言う知己ちき が出てくると是非未来記の続きが述べたくなるね。独仙 君の御説のごとく今の世に御上の御威光を笠かさ にきたり、竹槍の二三百本を恃たのみ にして無理を押し通そうとするのは、ちょうどカゴへ乗って何でも蚊か でも汽車と競争しようとあせる、時代後れの頑物がんぶつ ――まあわからずやの張本ちょうほん 、烏金からすがね の長範先生ちょうはんせんせい くらいのものだから、黙って御手際おてぎわ を拝見していればいいが――僕の未来記はそんな当座間に合せの小問題じゃない。人間全体の運命に関する社会的現象だからね。つらつら目下文明の傾向を達観して、遠き将来の趨勢すうせい を卜ぼく すると結婚が不可能の事になる。驚ろくなかれ、結婚の不可能。訳はこうさ。前ぜん 申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人 が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。登場人物 [
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栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(100 / 116)
それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと言わぬばかりの風をするようになる。ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中うち で喧嘩けんか を買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、滅多めった に人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明かに昔より弱くなったんだろう。強くなるのは嬉しいが、弱くなるのは誰もありがたくないから、人から一毫【微塵】いちごう も犯おか されまいと、強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛はんもう でも人を侵おか してやろうと、弱いところは無理にも拡ひろ げたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。」 「
かくのごとく人間が自業自得で苦しんで、その苦し紛まぎ れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。日本でも山の中へ入って見給え。一家一門いっけいちもん ことごとく一軒のうちにごろごろしている。主張すべき個性もなく、あっても主張しないから、あれで済むのだが文明の民はたとい親子の間でもお互に我儘わがまま を張れるだけ張らなければ損になるから勢いきお い両者の安全を保持するためには別居しなければならない。欧洲は文明が進んでいるから日本より早くこの制度が行われている。たまたま親子同居するものがあっても、息子むすこ がおやじから利息のつく金を借りたり、他人のように下宿料を払ったりする。親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払えばこそ、こんな美風が成立するのだ。この風は早晩日本へも是非輸入しなければならん。親類はとくに離れ、親子は今日こんにち に離れて、やっと我慢しているようなものの個性の発展と、発展につれてこれに対する尊敬の念は無制限にのびて行くから、まだ離れなくては楽が出来ない。しかし親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはない訳だから、最後の方案として夫婦が分れる事になる。今の人の考ではいっしょにいるから夫婦だと思ってる。それが大きな了見違いさ。登場人物 [
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栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(101 / 116)
いっしょにいるためにはいっしょにいるに充分なるだけ個性が合わなければならないだろう。昔しなら文句はないさ、異体同心とか言って、目には夫婦二人に見えるが、内実は一人前いちにんまえ なんだからね。それだから偕老同穴かいろうどうけつ とか号して、死んでも一つ穴の狸に化ける。野蛮なものさ。今はそうは行かないやね。夫はあくまでも夫で妻はどうしたって妻だからね。その妻が女学校で行灯袴あんどんばかま を穿は いて牢乎ろうこ たる個性を鍛きた え上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思う通りになる訳がない。また夫の思い通りになるような妻なら妻じゃない人形だからね。賢夫人になればなるほど個性は凄すご いほど発達する。発達すればするほど夫と合わなくなる。合わなければ自然の勢いきおい 夫と衝突する。だから賢妻と名がつく以上は朝から晩まで夫と衝突している。まことに結構な事だが、賢妻を迎えれば迎えるほど双方共苦しみの程度が増してくる。水と油のように夫婦の間には截然せつぜん たるしきりがあって、それも落ちついて、しきりが水平線を保っていればまだしもだが、水と油が双方から働らきかけるのだから家のなかは大地震のように上がったり下がったりする。ここにおいて夫婦雑居はお互の損だと言う事が次第に人間に分ってくる。……」 「
それで夫婦がわかれるんですか。心配だな 」と
寒月 君が言った。
「
わかれる。きっとわかれる。天下の夫婦はみんな分れる。今まではいっしょにいたのが夫婦であったが、これからは同棲どうせい しているものは夫婦の資格がないように世間から目もく されてくる 」
「
すると私なぞは資格のない組へ編入される訳ですね 」と
寒月 君は
際きわ どいところでのろけを言った。
「
明治の御代みよ に生れて幸さ。僕などは未来記を作るだけあって、頭脳が時勢より一二歩ずつ前へ出ているからちゃんと今から独身でいるんだよ。人は失恋の結果だなどと騒ぐが、近眼者の視み るところは実に憐れなほど浅薄なものだ。それはとにかく、未来記の続きを話すとこうさ。登場人物 [
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栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(102 / 116)
その時一人の哲学者が天降あまくだ って破天荒はてんこう の真理を唱道する。その説に曰いわ くさ。人間は個性の動物である。個性を滅すれば人間を滅すると同結果に陥おちい る。いやしくも人間の意義を完まった からしめんためには、いかなる価あたい を払うとも構わないからこの個性を保持すると同時に発達せしめなければならん。かの陋習ろうしゅう に縛せられて、いやいやながら結婚を執行するのは人間自然の傾向に反した蛮風であって、個性の発達せざる蒙昧もうまい の時代はいざ知らず、文明の今日こんにち なおこの弊竇へいとう に陥おちい って恬てん として顧かえり みないのははなはだしき謬見びゅうけん である。開化の高潮度に達せる今代きんだい において二個の個性が普通以上に親密の程度をもって連結され得べき理由のあるべきはずがない。この覩易みやす き理由はあるにも関らず無教育の青年男女が一時の劣情に駆られて、漫みだり に合卺ごうきん の式を挙ぐるは背徳没倫はいとくぼつりん のはなはだしき所為である。吾人は人道のため、文明のため、彼等青年男女の個性保護のため、全力を挙げこの蛮風に抵抗せざるべからず……」
「
先生私はその説には全然反対です 」と
東風 君はこの時思い切った調子でぴたりと
平手ひらて で
膝頭ひざがしら を叩いた。「
私の考では世の中に何が尊たっと いと言って愛と美ほど尊いものはないと思います。吾々を慰藉いしゃ し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭であります。吾人の情操を優美にし、品性を高潔にし、同情を洗錬するのは全く両者の御蔭であります。だから吾人はいつの世いずくに生れてもこの二つのものを忘れることが出来ないです。この二つの者が現実世界にあらわれると、愛は夫婦と言う関係になります。美は詩歌しいか 、音楽の形式に分れます。それだからいやしくも人類の地球の表面に存在する限りは夫婦と芸術は決して滅する事はなかろうと思います 」
「
なければ結構だが、今哲学者が言った通りちゃんと滅してしまうから仕方がないと、あきらめるさ。なに芸術だ? 芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展というのは個性の自由と言う意味だろう。個性の自由と言う意味はおれはおれ、人は人と言う意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者きょうじゅしゃ の間に個性の一致があるからだろう。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(103 / 116)
君がいくら新体詩家だって踏張ふんば っても、君の詩を読んで面白いと言うものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君よりほかに読み手はなくなる訳だろう。鴛鴦歌えんおうか をいく篇作ったって始まらないやね。幸いに明治の今日こんにち に生れたから、天下が挙こぞ って愛読するのだろうが……」
「
いえそれほどでもありません 」
「
今でさえそれほどでなければ、人文じんぶん の発達した未来即すなわ ち例の一大哲学者が出て非結婚論を主張する時分には誰もよみ手はなくなるぜ。いや君のだから読まないのじゃない。人々個々にんにんここ おのおの特別の個性をもってるから、人の作った詩文などは一向いっこう 面白くないのさ。現に今でも英国などではこの傾向がちゃんとあらわれている。現今英国の小説家中でもっとも個性のいちじるしい作品にあらわれた、メレジスを見給え、ジェームスを見給え。読み手は極きわ めて少ないじゃないか。少ない訳わけ さ。あんな作品はあんな個性のある人でなければ読んで面白くないんだから仕方がない。この傾向がだんだん発達して婚姻が不道徳になる時分には芸術も完まった く滅亡さ。そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか 」
「
そりゃそうですけれども私はどうも直覚的にそう思われないんです 」
「
君が直覚的にそう思われなければ、僕は曲覚的きょっかくてき にそう思うまでさ 」
「
曲覚的かも知れないが 」と今度は
独仙 君が口を出す。「
とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人なんか担かつ ぎ出すのも全くこの窮屈のやりどころがなくなって仕方なしにあんな哲学に変形したものだね。ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるが、ありゃ理想じゃない、不平さ。個性の発展した十九世紀にすくんで、隣りの人には心置なく滅多めった に寝返りも打てないから、大将少しやけになってあんな乱暴をかき散らしたのだね。あれを読むと壮快と言うよりむしろ気の毒になる。あの声は勇猛精進ゆうもうしょうじん 【積極的に物事に取り組む】の声じゃない、どうしても怨恨痛憤えんこんつうふん の音おん だ。それもそのはずさ昔は一人えらい人があれば天下翕然きゅうぜん としてその旗下にあつまるのだから、愉快なものさ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(104 / 116)
こんな愉快が事実に出てくれば何もニーチェ見たように筆と紙の力でこれを書物の上にあらわす必要がない。だからホーマーでもチェヴィ・チェーズでも同じく超人的な性格を写しても感じがまるで違うからね。陽気ださ。愉快にかいてある。愉快な事実があって、この愉快な事実を紙に写しかえたのだから、苦味にがみ はないはずだ。ニーチェの時代はそうは行かないよ。英雄なんか一人も出やしない。出たって誰も英雄と立てやしない。昔は孔子こうし がたった一人だったから、孔子も幅を利き かしたのだが、今は孔子が幾人もいる。ことによると天下がことごとく孔子かも知れない。だからおれは孔子だよと威張っても圧おし が利かない。利かないから不平だ。不平だから超人などを書物の上だけで振り廻すのさ。吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困っている。それだから西洋の文明などはちょっといいようでもつまり駄目なものさ。これに反して東洋じゃ昔しから心の修行をした。その方が正しいのさ。見給え個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった時、王者おうしゃ の民たみ 蕩々とうとう たりと言う句の価値を始めて発見するから。無為むい にして化か すと言う語の馬鹿に出来ない事を悟るから。しかし悟ったってその時はもうしようがない。アルコール中毒に罹かか って、ああ酒を飲まなければよかったと考えるようなものさ」
「
先生方は大分だいぶ 厭世的な御説のようだが、私は妙ですね。いろいろ伺っても何とも感じません。どう言うものでしょう 」と
寒月 君が言う。
「
そりゃ妻君を持ち立てだからさ 」と
迷亭 君がすぐ解釈した。すると
主人 が突然こんな事を言い出した。
「
妻さい を持って、女はいいものだなどと思うと飛んだ間違になる。参考のためだから、おれが面白い物を読んで聞かせる。よく聴くがいい」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(105 / 116)
と
最前さいぜん 書斎から持って来た古い本を取り上げて「
この本は古い本だが、この時代から女のわるい事は歴然と分ってる 」と言うと、
寒月 君が
「
少し驚きましたな。元来いつ頃の本ですか 」と聞く。「
タマス・ナッシと言って十六世紀の著書だ 」
「
いよいよ驚ろいた。その時分すでに私の妻さい の悪口を言ったものがあるんですか 」
「
いろいろ女の悪口があるが、その内には是非君の妻さい も這入る訳だから聞くがいい 」
「
ええ聞きますよ。ありがたい事になりましたね 」
「
まず古来の賢哲が女性観を紹介すべしと書いてある。いいかね。聞いてるかね 」
「
みんな聞いてるよ。独身の僕まで聞いてるよ 」
「
アリストートル曰いわ く女はどうせ碌ろく でなしなれば、嫁をとるなら、大きな嫁より小さな嫁をとるべし。大きな碌でなしより、小さな碌でなしの方が災わざわい 少なし…… 」
「
寒月 君の妻君は大きいかい、小さいかい」
「
大きな碌でなしの部ですよ 」
「
ハハハハ、こりゃ面白い本だ。さああとを読んだ 」
「
或る人問う、いかなるかこれ最大奇跡さいだいきせき 。賢者答えて曰く、貞婦…… 」
「
賢者ってだれですか 」
「
名前は書いてない 」
「
どうせ振られた賢者に相違ないね 」
「
次にはダイオジニスが出ている。或る人問う、妻を娶めと るいずれの時においてすべきか。ダイオジニス答えて曰く青年は未いま だし、老年はすでに遅し。とある 」
「
先生樽たる の中で考えたね 」
「
ピサゴラス曰いわ く天下に三の恐るべきものあり曰く火、曰く水、曰く女 」
「
希臘ギリシャ の哲学者などは存外迂濶うかつ な事を言うものだね。僕に言わせると天下に恐るべきものなし。火に入い って焼けず、水に入って溺れず……」だけで
独仙 君ちょっと行き詰る。
「
女に逢ってとろけずだろう 」と
迷亭 先生が援兵に出る。
主人 はさっさとあとを読む。
「
ソクラチスは婦女子を御ぎょ するは人間の最大難事と言えり。デモスセニス曰く人もしその敵を苦しめんとせば、わが女を敵に与うるより策の得たるはあらず。家庭の風波に日となく夜となく彼を困憊こんぱい 起つあたわざるに至らしむるを得ればなりと。セネカは婦女と無学をもって世界における二大厄とし、マーカス・オーレリアスは女子は制御し難き点において船舶に似たりと言い、プロータスは女子が綺羅きら を飾るの性癖をもってその天稟てんぴん の醜を蔽おお うの陋策ろうさく にもとづくものとせり。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(106 / 116)
ヴァレリアスかつて書をその友某におくって告げて曰く天下に何事も女子の忍んでなし得ざるものあらず。願わくは皇天憐あわれみ を垂れて、君をして彼等の術中に陥おちい らしむるなかれと。彼また曰く女子とは何ぞ。友愛の敵にあらずや。避くべからざる苦しみにあらずや、必然の害にあらずや、自然の誘惑にあらずや、蜜みつ に似たる毒にあらずや。もし女子を棄つるが不徳ならば、彼等を棄てざるは一層の呵責かしゃく と言わざるべからず。……」
「
もう沢山です、先生。そのくらい愚妻のわる口を拝聴すれば申し分はありません 」
「
まだ四五ページあるから、ついでに聞いたらどうだ 」
「
もうたいていにするがいい。もう奥方の御帰りの刻限だろう 」と
迷亭 先生がからかい掛けると、茶の間の方で
「
清 や、清 や」と
細君 が下女を呼ぶ声がする。
「
こいつは大変だ。奥方はちゃんといるぜ、君 」
「
ウフフフフ 」と
主人 は笑いながら「
構うものか 」と言った。
「
奥さん、奥さん。いつの間に御帰りですか 」
茶の間ではしんとして答がない。
「
奥さん、今のを聞いたんですか。え? 」
答はまだない。
「
今のはね、御主人 の御考ではないですよ。十六世紀のナッシ君の説ですから御安心なさい 」
「
存じません 」と妻君は遠くで簡単な返事をした。
寒月 君はくすくすと笑った。
「
私も存じませんで失礼しましたアハハハハ 」と
迷亭 君は遠慮なく笑ってると、
門口かどぐち をあらあらしくあけて、頼むとも、御免とも言わず、大きな足音がしたと思ったら、座敷の唐紙が乱暴にあいて、
多々良たたら 三平 さんぺい 君の顔がその間からあらわれた。
三平 君今日はいつに似ず、真白なシャツに
卸立おろした てのフロックを着て、すでに幾分か
相場そうば を狂わせてる上へ、右の手へ重そうに下げた四本の
麦酒ビール を縄ぐるみ、
鰹節かつぶし の
傍そば へ置くと同時に挨拶もせず、どっかと腰を下ろして、かつ膝を崩したのは
目覚めざま しい
武者振むしゃぶり である。
「
先生胃病は近来いいですか。こうやって、うちにばかりいなさるから、いかんたい 」
「
まだ悪いとも何ともいやしない 」
「
いわんばってんが、顔色はよかなかごたる。先生顔色が黄きい ですばい。近頃は釣がいいです。品川から舟を一艘雇うて――私はこの前の日曜に行きました 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(107 / 116)
「
何か釣れたかい 」
「
何も釣れません 」
「
釣れなくっても面白いのかい 」
「
浩然こうぜん の気を養うたい、あなた。どうですあなたがた。釣に行った事がありますか。面白いですよ釣は。大きな海の上を小舟で乗り廻わしてあるくのですからね」と誰彼の容赦なく話しかける。
「
僕は小さな海の上を大船で乗り廻してあるきたいんだ 」と
迷亭 君が相手になる。
「
どうせ釣るなら、鯨くじら か人魚でも釣らなくっちゃ、詰らないです 」と
寒月 君が答えた。
「
そんなものが釣れますか。文学者は常識がないですね。…… 」
「
僕は文学者じゃありません 」
「
そうですか、何ですかあなたは。私のようなビジネス・マンになると常識が一番大切ですからね。先生私は近来よっぽど常識に富んで来ました。どうしてもあんな所にいると、傍はた が傍だから、おのずから、そうなってしまうです 」
「
どうなってしまうのだ 」
「
煙草たばこ でもですね、朝日や、敷島しきしま をふかしていては幅が利き かんです」と言いながら、吸口に
金箔きんぱく のついた
埃及エジプト 煙草を出して、すぱすぱ吸い出した、
「
そんな贅沢ぜいたく をする金があるのかい 」
「
金はなかばってんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、大変信用が違います 」
「
寒月 君が珠を磨くよりも楽な信用でいい、手数てすう がかからない。軽便信用だね」と
迷亭 が
寒月 にいうと、
寒月 が何とも答えない間に、
三平 君は
「
あなたが寒月 さんですか。博士にゃ、とうとうならんですか。あなたが博士にならんものだから、私が貰う事にしました 」
「
博士をですか 」
「
いいえ、金田 家の令嬢をです。実は御気の毒と思うたですたい。しかし先方で是非貰うてくれ貰うてくれと言うから、とうとう貰う事に極き めました、先生。しかし寒月 さんに義理がわるいと思って心配しています 」
「
どうか御遠慮なく 」と
寒月 君が言うと、
主人 は
「
貰いたければ貰ったら、いいだろう 」と
曖昧あいまい な返事をする。
「
そいつはおめでたい話だ。だからどんな娘を持っても心配するがものはないんだよ。だれか貰うと、さっき僕が言った通り、ちゃんとこんな立派な紳士の御聟むこ さんが出来たじゃないか。東風 君新体詩の種が出来た。早速とりかかりたまえ 」と
迷亭 君が例のごとく調子づくと
三平 君は
「
あなたが東風 君ですか、結婚の時に何か作ってくれませんか。すぐ活版にして方々へくばります。太陽へも出してもらいます 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(108 / 116)
「
ええ何か作りましょう、いつ頃ごろ 御入用にゅうよう ですか 」
「
いつでもいいです。今まで作ったうちでもいいです。その代りです。披露ひろう のとき呼んで御馳走ごちそう するです。シャンパンを飲ませるです。君シャンパンを飲んだ事がありますか。シャンパンは旨うま いです。――先生披露会のときに楽隊を呼ぶつもりですが、東風 君の作を譜にして奏したらどうでしょう 」
「
勝手にするがいい 」
「
先生、譜にして下さらんか 」
「
馬鹿言え 」
「
だれか、このうちに音楽の出来るものはおらんですか 」
「
落第の候補者寒月 君はヴァイオリンの妙手だよ。しっかり頼んで見たまえ。しかしシャンパンくらいじゃ承知しそうもない男だ 」
「
シャンパンもですね。一瓶ひとびん 四円や五円のじゃよくないです。私の御馳走するのはそんな安いのじゃないですが、君一つ譜を作ってくれませんか 」
「
ええ作りますとも、一瓶二十銭のシャンパンでも作ります。なんならただでも作ります 」「
ただは頼みません、御礼はするです。シャンパンがいやなら、こう言う御礼はどうです 」と言いながら上着の
隠袋かくし のなかから七八枚の写真を出してばらばらと畳の上へ落す。半身がある。全身がある。立ってるのがある。坐ってるのがある。
袴はかま を
穿は いてるがある。
振袖ふりそで がある。高島田がある。ことごとく妙齢の女子ばかりである。
「
先生候補者がこれだけあるです。寒月 君と東風 君にこのうちどれか御礼に周旋してもいいです。こりゃどうです 」と一枚
寒月 君につき付ける。
「
いいですね。是非周旋を願いましょう 」
「
これでもいいですか 」とまた一枚つきつける。
「
それもいいですね。是非周旋して下さい 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(109 / 116)
「
どれをです 」
「
どれでもいいです 」
「
君なかなか多情ですね。先生、これは博士の姪めい です 」
「
そうか 」
「
この方は性質が極ごく いいです。年も若いです。これで十七です。――これなら持参金が千円あります。――こっちのは知事の娘です 」と一人で弁じ立てる。
「
それをみんな貰う訳にゃいかないでしょうか 」
「
みんなですか、それはあまり慾張りたい。君一夫多妻主義いっぷたさいしゅぎ ですか 」
「
多妻主義じゃないですが、肉食論者にくしょくろんしゃ です 」
「
何でもいいから、そんなものは早くしまったら、よかろう 」と
主人 は叱りつけるように言い放ったので、
三平 君は
「
それじゃ、どれも貰わんですね 」と念を押しながら、写真を一枚一枚にポッケットへ収めた。
「
何だいそのビールは 」
「
お見やげでござります。前祝まえいわい に角の酒屋で買うて来ました。一つ飲んで下さい 」
主人 は手を
拍う って下女を呼んで
栓せん を抜かせる。
主人 、
迷亭 、
独仙 、
寒月 、
東風 の五君は
恭うやうや しくコップを捧げて、
三平 君の
艶福えんぷく を祝した。
三平 君は
大おおい に愉快な様子で
「
ここにいる諸君を披露会に招待しますが、みんな出てくれますか、出てくれるでしょうね 」と言う。
「
おれはいやだ 」と
主人 はすぐ答える。
「
なぜですか。私の一生に一度の大礼たいれい ですばい。出てくんなさらんか。少し不人情のごたるな 」
「
不人情じゃないが、おれは出ないよ 」
「
着物がないですか。羽織と袴はかま くらいどうでもしますたい。ちと人中ひとなか へも出るがよかたい先生。有名な人に紹介して上げます 」
「
真平まっぴら ご免めん だ」
「
胃病が癒なお りますばい 」
「
癒らんでも差支さしつか えない 」
「
そげん頑固張がんこば りなさるならやむを得ません。あなたはどうです来てくれますか 」
「
僕かね、是非行くよ。出来るなら媒酌人ばいしゃくにん たるの栄を得たいくらいのものだ。シャンパンの三々九度や春の宵。――なに仲人なこうど は鈴木 の藤とう さんだって? なるほどそこいらだろうと思った。これは残念だが仕方がない。仲人が二人出来ても多過ぎるだろう、ただの人間としてまさに出席するよ 」「
あなたはどうです 」
「
僕ですか、一竿風月いっかんのふうげつ 閑生計かんせいけい 、人釣ひとはつりす 白蘋紅蓼間はくひんこうりょうのかん 」
「
何ですかそれは、唐詩選ですか 」
「
何だかわからんです 」
「
わからんですか、困りますな。登場人物 [
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栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(110 / 116)
寒月 君は出てくれるでしょうね。今までの関係もあるから」
「
きっと出る事にします、僕の作った曲を楽隊が奏するのを、きき落すのは残念ですからね 」
「
そうですとも。君はどうです東風 君 」
「
そうですね。出て御両人ごりょうにん の前で新体詩を朗読したいです 」
「
そりゃ愉快だ。先生私は生れてから、こんな愉快な事はないです。だからもう一杯ビールを飲みます 」と自分で買って来たビールを一人でぐいぐい飲んで
真赤まっか になった。
短かい秋の日はようやく暮れて、巻煙草の
死骸しがい が算を乱す火鉢のなかを見れば火はとくの昔に消えている。さすが
呑気のんき の連中も少しく興が尽きたと見えて、「
大分だいぶ 遅くなった。もう帰ろうか」とまず
独仙 君が立ち上がる。つづいて「
僕も帰る 」と口々に玄関に出る。
寄席よせ がはねたあとのように座敷は淋しくなった。
主人 は
夕飯ゆうはん をすまして書斎に入る。妻君は
肌寒はださむ の
襦袢じゅばん の
襟えり をかき合せて、
洗あら い
晒ざら しの不断着を縫う。
小供 は枕を並べて寝る。下女は湯に行った。
呑気のんき と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。悟ったようでも
独仙 君の足はやはり地面のほかは踏まぬ。気楽かも知れないが
迷亭 君の世の中は絵にかいた世の中ではない。
寒月 君は
珠磨たます りをやめてとうとうお国から奥さんを連れて来た。これが順当だ。しかし順当が永く続くと定めし退屈だろう。
東風 君も今十年したら、無暗に新体詩を捧げる事の非を悟るだろう。
三平 君に至っては水に住む人か、山に住む人かちと鑑定がむずかしい。
生涯しょうがい 三鞭酒シャンパン を御馳走して得意と思う事が出来れば結構だ。
鈴木 の
藤とう さんはどこまでも
転ころ がって行く。転がれば泥がつく。泥がついても転がれぬものよりも幅が
利き く。猫と生れて人の世に住む事もはや二年越しになる。
登場人物 [
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自分ではこれほどの見識家はまたとあるまいと思うていたが、
先達せんだっ てカーテル・ムルと言う見ず知らずの同族が突然
大気焰だいきえん を
揚あ げたので、ちょっと
吃驚びっくり した。よくよく聞いて見たら、実は百年
前ぜん に死んだのだが、ふとした好奇心からわざと幽霊になって
吾輩 を驚かせるために、遠い
冥土めいど から出張したのだそうだ。この猫は母と対面をするとき、挨拶のしるしとして、一匹の
肴さかな を
啣くわ えて出掛けたところ、途中でとうとう我慢がし切れなくなって、自分で食ってしまったと言うほどの不孝ものだけあって、才気もなかなか人間に負けぬほどで、ある時などは詩を作って
主人 を驚かした事もあるそうだ。こんな豪傑がすでに一世紀も前に出現しているなら、
吾輩 のような
碌ろく でなしはとうに
御暇おいとま を頂戴して
無何有郷むかうのきょう に
帰臥きが してもいいはずであった。
主人 は早晩胃病で死ぬ。
金田 のじいさんは慾でもう死んでいる。秋の
木こ の葉は大概落ち尽した。死ぬのが万物の
定業じょうごう で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢こいかも知れない。諸先生の説に従えば人間の運命は自殺に帰するそうだ。油断をすると猫もそんな窮屈な世に生れなくてはならなくなる。恐るべき事だ。何だか気がくさくさして来た。
三平 君のビールでも飲んでちと景気をつけてやろう。
勝手へ廻る。秋風にがたつく戸が細目にあいてる間から吹き込んだと見えてランプはいつの間にか消えているが、月夜と思われて窓から影がさす。コップが盆の上に三つ並んで、その二つに茶色の水が半分ほどたまっている。
硝子ガラス の中のものは湯でも冷たい気がする。まして夜寒の月影に照らされて、静かに
火消壺ひけしつぼ とならんでいるこの液体の事だから、唇をつけぬ先からすでに寒くて飲みたくもない。しかしものは試しだ。
三平 などはあれを飲んでから、
真赤まっか になって、
熱苦あつくる しい
息遣いきづか いをした。猫だって飲めば陽気にならん事もあるまい。どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命のあるうちにしておく事だ。
登場人物 [
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栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(112 / 116)
死んでからああ残念だと墓場の影から
悔く やんでもおっつかない。思い切って飲んで見ろと、勢よく舌を入れてぴちゃぴちゃやって見ると驚いた。何だか舌の先を針でさされたようにぴりりとした。人間は何の
酔興すいきょう でこんな腐ったものを飲むのかわからないが、猫にはとても飲み切れない。どうしても猫とビールは
性しょう が合わない。これは大変だと一度は出した舌を
引込ひっこ めて見たが、また考え直した。人間は口癖のように良薬口に
苦にが しと言って
風邪かぜ などをひくと、顔をしかめて変なものを飲む。飲むから
癒なお るのか、癒るのに飲むのか、今まで疑問であったがちょうどいい
幸さいわい だ。この問題をビールで解決してやろう。飲んで腹の中までにがくなったらそれまでの事、もし
三平 のように前後を忘れるほど愉快になれば空前の
儲もう け
者もの で、近所の猫へ教えてやってもいい。まあどうなるか、運を天に任せて、やっつけると決心して再び舌を出した。眼をあいていると飲みにくいから、しっかり眠って、またぴちゃぴちゃ始めた。
吾輩 は我慢に我慢を重ねて、ようやく一杯のビールを飲み干した時、妙な現象が起った。始めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片付ける時分には別段骨も折れなくなった。もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた。ついでに盆の上にこぼれたのも
拭ぬぐ うがごとく
腹内ふくない に収めた。
それからしばらくの間は自分で自分の動静を伺うため、じっとすくんでいた。次第にからだが暖かになる。眼のふちがぽうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。
主人 も
迷亭 も
独仙 も糞を
食くら えと言う気になる。
金田 のじいさんを
引掻ひっか いてやりたくなる。妻君の鼻を食い欠きたくなる。いろいろになる。最後にふらふらと立ちたくなる。
起た ったらよたよたあるきたくなる。
登場人物 [
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栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(113 / 116)
こいつは面白いとそとへ出たくなる。出ると御月様今晩はと挨拶したくなる。どうも愉快だ。
陶然とはこんな事を言うのだろうと思いながら、あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持でしまりのない足をいい加減に運ばせてゆくと、何だかしきりに眠い。寝ているのだか、あるいてるのだか判然しない。眼はあけるつもりだが重い事
夥おびただ しい。こうなればそれまでだ。海だろうが、山だろうが驚ろかないんだと、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端ぼちゃんと音がして、はっと言ううち、――やられた。どうやられたのか考える
間ま がない。ただやられたなと気がつくか、つかないのにあとは滅茶苦茶になってしまった。
我に帰ったときは水の上に浮いている。苦しいから爪でもって
矢鱈やたら に
掻か いたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐもぐってしまう。仕方がないから
後足あとあし で飛び上っておいて、前足で掻いたら、がりりと音がしてわずかに
手応てごたえ があった。ようやく頭だけ浮くからどこだろうと見回わすと、
吾輩 は大きな
甕かめ の中に落ちている。この
甕かめ は夏まで
水葵みずあおい と称する
水草みずくさ が茂っていたがその後烏の勘公が来て葵を食い尽した上に
行水ぎょうずい を使う。行水を使えば水が減る。減れば来なくなる。近来は
大分だいぶ 減って烏が見えないなと
先刻さっき 思ったが、
吾輩 自身が烏の代りにこんな所で行水を使おうなどとは思いも寄らなかった。
水から縁までは四寸
余よ もある。足をのばしても届かない。飛び上っても出られない。
呑気のんき にしていれば沈むばかりだ。もがけばがりがりと甕に爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべればたちまちぐっともぐる。もぐれば苦しいから、すぐがりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。気は
焦あせ るが、足はさほど
利き かなくなる。
登場人物 [
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栞 ] 夏目漱石-吾輩は猫である_3(114 / 116)
ついにはもぐるために甕を掻くのか、掻くためにもぐるのか、自分でも分りにくくなった。
その時苦しいながら、こう考えた。こんな
呵責かしゃく に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。
吾輩 の足は三寸に足らぬ。よし水の
面おもて にからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらも
掻が いても、あせっても、百年の間身を
粉こ にしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。
自みずか ら求めて苦しんで、自ら好んで
拷問ごうもん に
罹かか っているのは馬鹿気ている。
「
もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙めんこうむ るよ 」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても
差支さしつか えはない。ただ楽である。
否いな 楽そのものすらも感じ得ない。
日月じつげつ を切り落し、天地を
粉韲ふんせい して不可思議の太平に入る。
吾輩 は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ 南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。
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底本:「夏目漱石全集1」
登場人物 [
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ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年9月29日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 1」筑摩書房
1971(昭和46)年4月5日初版
初出:「ホトトギス」
1905(明治38)年1月、2月、4月、6月、7月、10月
1906(明治39)年1月、3月、4月、8月
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:柴田卓治
校正:渡部峰子(一)、おのしげひこ(二、五)、田尻幹二(三)、高橋真也(四、七、八、十、十一)、しず(六)、瀬戸さえ子(九)
1999年9月17日公開
2018年2月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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大変ありがとうございました。感謝致します。(シン文庫追記)
登場人物 [
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