かくとも知らぬ主人は はなはだ熱心なる様子をもって一張来いっちょうらい【一点張】の鏡を見つめている。元来鏡というものは気味の悪いものである。深夜蝋燭ろうそくを立てて、広い部屋のなかで一人鏡をのぞき込むには よほどの勇気がいるそうだ。吾輩などは 始めて当家の令嬢から 鏡を顔の前へ押し付けられた時に、はっと仰天ぎょうてんして屋敷のまわりを三度け回ったくらいである。いかに白昼といえども、主人のように かく【このように】一生懸命に見つめている以上は 自分で自分の顔がこわくなるに相違ない。ただ見てさえあまり気味のいい顔じゃない。ややあって主人は「なるほどきたない顔だ」とひとごとを言った。自己の醜を自白するのは なかなか見上げたものだ。様子から言うとたしかに気違の所作しょさだが言うことは真理である。これがもう一歩進むと、おのれの醜悪な事がこわくなる。人間は吾身が怖ろしい悪党であると言う事実を 徹骨徹髄てっこつてつずいに感じた者でないと苦労人とは言えない。苦労人でないと とうてい解脱げだつは出来ない。主人もここまで来たらついでに「おおこわい」とでも言いそうなものであるが なかなか言わない。「なるほどきたない顔だ」と言ったあとで、何を考え出したか、ぷうっとっぺたをふくらました。そうしてふくれた頬っぺたを平手ひらてで二三度たたいて見る。何のまじないだか分らない。この時吾輩は何だか この顔に似たものがあるらしい と言う感じがした。よくよく考えて見るとそれは御三おさんの顔である。ついでだから御三の顔をちょっと紹介するが、それはそれは ふくれたものである。この間 さる人が穴守稲荷あなもりいなり【羽田空港そば】から河豚ふぐ提灯ちょうちんをみやげに持って来てくれたが、ちょうどあの河豚提灯ふぐちょうちんのようにふくれている。あまりふくれ方が残酷なので眼は両方共紛失している。もっとも河豚ふぐのふくれるのは万遍なく真丸まんまるにふくれるのだが、お三とくると、元来の骨格が多角性であって、その骨格通りにふくれ上がるのだから、まるで水気すいきになやんでいる【湿気で調子が悪くなっている】六角時計【六角形の柱時計】のようなものだ。御三が聞いたら さぞおこるだろうから、御三はこのくらいにしてまた主人の方に帰るが、かくのごとくあらん限りの空気をもってっぺたをふくらませたる彼はぜん申す通り手のひらでほっぺたを叩きながら「このくらい皮膚が緊張するとあばたも眼につかん」とまたひとごとをいった。
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 こんどは顔を横に向けて 半面に光線を受けた所を鏡にうつして見る。「こうして見ると大変目立つ。やっぱりまともに日の向いてる方がたいらに見える。奇体な物だなあ」と大分だいぶ感心した様子であった。それから右の手をうんとのばして、出来るだけ鏡を遠距離に持って行って 静かに熟視している。「このくらい離れるとそんなでもない。やはり近過ぎるといかん。‥‥顔ばかりじゃない何でもそんなものだ」と悟ったようなことを言う。次に鏡を急に横にした。そうして鼻の根を中心にして眼や額やまゆを一度にこの中心に向って くしゃくしゃと あつめた。見るからに不愉快な容貌ようぼうが出来上ったと思ったら「いやこれは駄目だ」と当人も気がついたと見えて早々そうそうやめてしまった。「なぜこんなに毒々しい顔だろう」と少々不審のていで鏡を 眼を去る 三寸ばかりの所へ引き寄せる。右の人指しゆびで小鼻をでて、撫でた指の頭を机の上にあった吸取すいとがみの上へ、うんと押しつける。吸い取られた鼻のあぶらるく紙の上へ浮き出した。いろいろな芸をやるものだ。それから主人は鼻のあぶら塗抹とまつした指頭しとうを転じて ぐいと右眼うがん下瞼したまぶたを裏返して、俗に言うべっかんこう【あかんべぇ】を見事にやって退けた。あばたを研究しているのか、鏡とにらくらをしているのかその辺は少々不明である。気の多い主人の事だから見ているうちに いろいろ になると見える。それどころではない。もし善意をもって蒟蒻こんにゃく 問答的もんどうてき【意味不明な問答的】に解釈してやれば主人見性自覚けんしょうじかく【自身の本質を見極め】の方便ほうべんとして かように鏡を相手に いろいろな仕草しぐさを演じているの かも知れない。すべて人間の研究と言うものは 自己を研究するのである。天地と言い 山川さんせんと言い 日月じつげつと言い 星辰せいしんと言うも皆 自己の異名いみょうに過ぎぬ。自己をいて他に研究すべき事項は誰人たれびとにも見出みいだし得ぬ訳だ。もし人間が自己以外に飛び出す事が出来たら、飛び出す途端に自己はなくなってしまう。しかも自己の研究は 自己以外に誰もしてくれる者はない。いくら仕てやりたくても、貰いたくても、出来ない相談である。それだから古来の豪傑ごうけつはみんな自力で豪傑になった。
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人のお蔭で自己が分るくらいなら、自分の代理に牛肉を喰わして、堅いか柔かいか判断の出来る訳だ。あしたに法を聴き、ゆうべに道を聴き、梧前灯下ごぜんとうか【書斎の灯火の下】に書巻しょかんを手にするのは 皆この自証じしょう挑発ちょうはつするの方便ほうべんに過ぎぬ【それらはすべて、自分自身の悟り(自証)を促すための手段にすぎない】。人の説く法のうち、他の弁ずる道のうち、乃至ないし五車ごしゃ【大量の本】にあまる 蠧紙堆裏としたいり【虫に食われた紙くずの山】に自己が存在する所以ゆえんがない。あれば自己の幽霊である。もっとも ある場合において幽霊は無霊むれいより優るかも知れない。影を追えば本体【実体】に逢着ほうちゃくする【行き当たる】時がないとも限らぬ。多くの影は大抵本体を離れぬものだ。この意味で主人が鏡をひねくっているなら大分だいぶ話せる男だ。エピクテトス【古代ローマ時代の哲学者】などを鵜呑うのみにして学者ぶるよりもはるかにましだと思う。
 鏡は己惚うぬぼれの醸造器であるごとく、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄ふかきょえい【うわべだけの華やかさや見栄】の念をもってこれに対する時は これほど愚物を扇動せんどうする道具はない。昔から増上慢ぞうじょうまん【自分を過信して思い上がる】をもっておのれを害し 他をそこのうた事跡じせき【他人を傷つけたような過去の事実】の三分の二は たしかに鏡の所作しょさである。仏国革命の当時 物好きな御医者さんが 改良首きり器械を発明して 飛んだ罪をつくったように、始めて鏡をこしらえた人も 定めし【さぞかし】寝覚ねざめのわるい事だろう。しかし自分に愛想あいその尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。妍醜瞭然けんしゅうりょうぜん【美醜の違いが明白】だ。こんな顔で よくまあ人でそうろうりかえって今日こんにちまで暮らされたものだと 気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の生涯しょうがい中もっともありがたい期節である。自分で自分の馬鹿を承知しているほどたっとく見える事はない。この自覚性じかくせい馬鹿ばかの前には あらゆるえらがり屋が ことごとく頭を下げて恐れ入らねば ならぬ。当人は昂然こうぜん【意気盛ん】として吾を軽侮けいぶ嘲笑ちょうしょうしているつもりでも、こちらから見ると その昂然たるところが 恐れ入って頭を下げている事になる。主人は鏡を見ておのれの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかし吾が顔に印せられる痘痕とうこんめい【刻印】くらいは公平に読み得る男である。顔の醜いのを自認するのは心のいやしきを会得えとくする楷梯かいてい【階段】にもなろう。たのもしい男だ。これも哲学者から やり込められた結果かも知れぬ。
 かように考えながらな お様子をうかがっていると、それとも知らぬ主人は思う存分あかんべえをしたあとで「大分だいぶ充血しているようだ。やっぱり慢性結膜炎だ」
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と言いながら、人さし指の横つらでぐいぐい充血したまぶたをこすり始めた。大方おおかたかゆいのだろうけれども、たださえあんなに赤くなっているものを、こうこすってはたまるまい。遠からぬうちに塩鯛しおだいの眼玉のごとく腐乱ふらんするにきまってる。やがて眼をひらいて鏡に向ったところを見ると、おおせるかな どんよりとして北国の冬空のように曇っていた。もっとも平常ふだんからあまり晴れ晴れしい眼ではない。誇大な形容詞を用いると混沌こんとんとして黒眼と白眼が剖判ほうはん【判別】しないくらい漠然ばくぜんとしている。彼の精神が朦朧もうろうとして不得要領てい【要領を得ない】に一貫しているごとく、彼の眼も曖々然あいあいぜん【曖昧の曖の強調】昧々然まいまいぜん【曖昧の昧の強調】としてとこしえに眼窩がんかの奥にただようている。これは胎毒たいどく【生まれる際に体内に溜まっているとされる毒】のためだとも言うし、あるいは疱瘡ほうそうの余波だとも解釈されて、小さい時分はだいぶ柳の虫や赤蛙【江戸時代から伝わる伝統薬】の厄介になった事もあるそうだが、せっかく母親の丹精も、あるにその甲斐かいあらばこそ、今日こんにちまで生れた当時のままでぼんやりしている。吾輩ひそかに思うにこの状態は決して胎毒や疱瘡ほうそうのためではない。彼の眼玉がかように晦渋溷濁かいじゅうこんだく【乱れにごっている】の悲境に彷徨ほうこう【さまよう】しているのは、とりも直さず彼の頭脳が不透不明ふとうふめいの実質から構成されていて、その作用が暗憺溟濛あんたんめいもう【先が見えなく、前途に希望がない】の極に達しているから、自然とこれが形体の上にあらわれて、知らぬ母親にいらぬ心配を掛けたんだろう。煙たって火あるを知り、まなこ濁ってなるをしょうす。して見ると彼の眼は彼の心の象徴で、彼の心は天保銭てんぽうせんのごとく穴があいているから、彼の眼もまた天保銭と同じく、大きな割合に通用しないに違ない。
 今度はひげをねじり始めた。元来から行儀のよくないひげで みんな思い思いの姿勢をとってえている。いくら個人主義が流行はやる世の中だって、こう町々まちまちわがままを尽くされては持主の迷惑は さこそ【さぞかし】と思いやられる、主人もここにかんがみるところあって近頃はおおいに訓練を与えて、出来る限り系統的に按排あんばいするように尽力している。その熱心の功果こうかむなしからずして昨今ようやく歩調が少し ととのう ようになって来た。今まではひげえておったのであるが、この頃はひげを生やしているのだと自慢するくらいになった。熱心は成効の度に応じて鼓舞こぶせられるものであるから、吾がひげの前途有望なりと見てとって主人は朝な夕な、手がすいておれば必ずひげに向って鞭撻べんたつ【強い はげまし】を加える。彼のアムビション【大志】は独逸ドイツ皇帝陛下のように、向上の念のさかんひげたくわえるにある。
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それだから毛孔けあなが横向であろうとも、下向であろうともいささか頓着なく十把一じっぱひとからげににぎっては、上の方へ引っ張り上げる。ひげもさぞかし難儀であろう、所有主たる主人すら時々は痛い事もある。が そこが訓練である。いやでも応でも さかにき上げる。門外漢から見ると気の知れない道楽のようであるが、当局者だけは至当【この上もなく適当】の事と心得ている。教育者がいたずらに生徒の本性ほんせいめて【故意に曲げて】、僕の手柄を見給えと誇るようなものでごう【わずか】も非難すべき理由はない。
 主人満腔まんこう【全身】の熱誠【あつい真心】をもってひげを調練していると、台所から多角性【ごつごつした顔】の御三おさんが郵便が参りましたと、例のごとく赤い手をぬっと書斎のうちへ出した。右手みぎひげをつかみ、左手ひだりに鏡を持った主人は、そのまま入口の方を振りかえる。八の字の尾にちを命じたようなひげを見るや否や御多角おたかくはいきなり台所へ引き戻して、ハハハハと御釜おかまふたへ身をもたして笑った。主人は平気なものである。悠々ゆうゆうと鏡をおろして郵便を取り上げた。第一信は活版ずりで何だか いかめしい文字が並べてある。読んで見ると

拝啓いよいよ御多祥奉賀候がしたてまつりそろ回顧すれば日露の戦役は連戦連勝のいきおいに乗じて平和克復を告げ吾 忠勇義烈なる将士は今や過半万歳声に凱歌を奏し国民の歓喜何ものかこれかんさきに宣戦の大詔煥発たいしょうかんぱつせらるるや義勇公に奉じたる将士は 久しく万里の異境にりてく寒暑の苦難を忍び 一意戦闘に従事しめいを国家に捧げたるの至誠は 永く銘して忘るべからざる所なり しこうして軍隊の凱旋がいせんは本月を以てほとんど終了を告げんとす 依って本会は来る二十五日を期し 本区内一千有余の出征将校下士卒に対し 本区民一般を代表し以て 一大凱旋がいせん祝賀会を開催し 兼て軍人遺族を慰藉いしゃせんが為め 熱誠これを迎えいささか感謝の微衷びちゅうを表し たくついては 各位の御協賛を仰ぎ この盛典を挙行するのさいわいを得ば 本会の面目不過之これにすぎずと存そろ 何卒なにとぞ御賛成ふるって義捐ぎえんあらんことを只管ひたすら希望の至にえずそろ敬具

【訳】

拝啓
貴殿にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
思い返せば、日露戦争では我が軍が連戦連勝の勢いに乗り、ついに平和の回復が実現しました。忠義と勇気に満ちた我が将兵たちは、今や万歳の声に包まれて凱旋がいせんしており、国民の喜びもこの上ないものであります。
かつて戦争が宣言された際、義勇の心を持って従軍した兵士たちは、遠い異国の地で、寒さ暑さの中よく耐え忍び、戦いに一心不乱に励み、命を国家に捧げました。その誠実な行いは、決して忘れるべきではありません。
さて、軍隊の凱旋がいせんは今月をもってほぼ終了する見込みであり、つきましては、本会では今月25日に、本区内より出征した1,000余名の将校および下士卒に対して、凱旋がいせん祝賀会を開催する運びとなりました。
この祝賀会では、軍人の遺族を慰めることも目的としており、区民を代表して感謝の意を示したく存じます。
つきましては、皆様のご協賛を仰ぎ、この盛大な式典を成功させることができれば、本会にとってこの上ない名誉であります。
なにとぞご賛同いただき、義援金などのご協力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
敬具
【明治末期〜大正初期頃の公的な『凱旋がいせん祝賀会』への協賛依頼文(勧誘書)のよう】

とあって差し出し人は華族様である。主人は黙読一過ののち直ちに封の中へ巻き納めて知らん顔をしている。義捐ぎえんなどは恐らくしそうにない。せんだって東北凶作の義援金を二円【約1万円】とか三円とか出してから、逢う人ごと義捐ぎえんをとられた、とられたと吹聴ふいちょうしているくらいである。義捐ぎえんとある以上は差し出すもので、とられるものでないにはきまっている。泥棒にあったのではあるまいし、とられたとは不穏当である。
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しかるにも関せず、盗難にでもかかったかのごとくに思ってるらしい主人がいかに軍隊の歓迎だと言って、いかに華族様の勧誘だと言って、強談ごうだんで持ちかけたらいざ知らず、活版の手紙くらいで 金銭を出すような人間とは思われない。主人から言えば 軍隊を歓迎する前に まず自分を歓迎したいのである。自分を歓迎した後なら 大抵のものは歓迎しそうであるが、自分が朝夕ちょうせきつかえる間は【朝昼晩、自分の食事に差し支えるうちは】、歓迎は華族様にまかせておく了見らしい。主人は第二信を取り上げたが「ヤ、これも活版だ」と言った。

時下秋冷のこうそろ処貴家益々御隆盛の段奉賀上候がしあげたてまつりそろのぶれば本校儀も御承知の通り一昨々年以来二三野心家の為めに妨げられ一時その極に達し候得共そうらえども是れ皆不肖ふしょう 針作しんさくが足らざる所に起因すと存じ深くみずかいましむる所あり臥薪甞胆がしんしょうたんその苦辛くしんの結果ようやここに独力以て我が理想に適するだけの校舎新築費を得るの途を講じそろは別義にも御座なく別冊裁縫秘術綱要と命名せる書冊出版の義に御座そろ本書は不肖針作しんさくが多年苦心研究せる工芸上の原理原則にのっとり真に肉を裂き血を絞るの思をして著述せるものに御座そろって本書をあまねく一般の家庭へ製本実費に些少さしょうの利潤を附して御購求ごこうきゅうを願い一面斯道しどう発達の一助となすと同時に又一面には僅少きんしょうの利潤を蓄積して校舎建築費に当つる心算つもりに御座そろ依っては近頃何共なんとも恐縮の至りに存じそうらえども本校建築費中へ御寄付被成下なしくださる御思召おぼしめここに呈供仕そろ秘術綱要一部を御購求の上御侍女の方へなりとも御分与被成下候なしくだされそろて御賛同の意を御表章被成下度なしくだされたく伏して懇願仕そろ匇々そうそう敬具

【訳】

拝啓 時節は秋も深まり、貴家におかれましては ますますご繁栄のこととお喜び申し上げます。
さて、私ども(本校)は、ご承知の通り、一昨年より二、三人の野心家たちによって妨害され、一時は運営が行き詰まりました。
とはいえ、これはひとえに不肖 私・針作の力不足によるものであり、深く反省しております。
その後、臥薪嘗胆がしんしょうたん【苦心・苦労を重ねる】の思いで耐え忍び、努力した結果、ようやく、理想とする新しい校舎を 自力で建てるための資金調達手段を 見出すことができました。
それが‥‥
『別冊 裁縫秘術綱要さいほうひじゅつこうよう』と名付けた書籍の出版でございます。
この本は、私・針作が長年にわたって研究してきた工芸・裁縫の原理に基づき、血と汗を絞る思いで書き上げたものであります。
この本を、家庭向けに実費で製本し、わずかばかりの利益を乗せて販売することで、一方では工芸道の発展に貢献し、他方では校舎建設資金に充てたいと考えております。
つきましては、まことに恐縮ながら、このたび、お願いがございます。
どうか本書をご購入いただき、御宅の侍女の方などにお分けいただくなどして、ご賛同の意をお示しいただけますと幸いです。
何卒よろしくお願い申し上げます。
早々に失礼いたします。敬具

大日本女子裁縫最高等大学院
校長 縫田ぬいだ 針作しんさく 九拝【何回も礼拝してありがたがること】

とある。主人はこの丁重ていちょうなる書面を、冷淡に丸めてぽんと屑籠くずかごの中へほうり込んだ。せっかくの針作君の九拝も臥薪甞胆がしんしょうたんも何の役にも立たなかったのは気の毒である。第三信にかかる。第三信は すこぶる風変りの光彩を放っている。状袋じょうぶくろ【封筒】が紅白のだんだら【縞】で、あめぼうの看板【安直・子ども向け・俗っぽさの象徴】のごとく はなやかなる真中に珍野ちんの 苦沙弥くしゃみ先生 虎皮下こひか【あて名の横に書く言葉】と八分体はっぷんたい【文字全体が横長に見える書体】で肉太にしたためてある。中からおさんが出るか【まともな内容か】どうだか受け合わないがおもてだけは すこぶる立派なものだ。
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し我を以て天地を律すれば一口ひとくちにして西江せいこうの水を吸いつくすべく、し天地を以て我を律すれば我はすなわ陌上はくじょうの塵のみ。すべからくえ、天地と我と什麼いんもの交渉かある。……始めて海鼠なまこを食いいだせる人はその胆力に於て敬すべく、始めて河豚ふぐきつせるおとこその勇気において重んずべし。海鼠をくらえるものは親鸞しんらん【浄土真宗の宗祖とされる】の再来にして、河豚ふぐを喫せるものは日蓮にちれんの分身なり。苦沙弥先生の如きに至ってはただ 干瓢かんぴょう酢味噌すみそを知るのみ。干瓢の酢味噌をくらって天下の士たるものは、われいまこれを見ず。……
親友もなんじを売るべし。父母ふぼも汝にわたくしあるべし。愛人も汝を棄つべし。富貴ふっきもとより頼みがたかるべし。爵禄しゃくろく一朝いっちょうにして失うべし。汝の頭中に秘蔵する学問にはかびえるべし。汝何をたのまんとするか。天地のうちに何をたのまんとするか。神? 神は人間の苦しまぎれに捏造でつぞうせる土偶どぐうのみ。人間のせつなぐそ【下品でどうしようもない奴】の凝結せる臭骸のみ。たのむまじきを恃んで安しと言う。咄々とつとつ、酔漢みだりに胡乱うろんの言辞を弄して、蹣跚まんさんとして墓に向う。油尽きてとう おのずから滅す。業尽きて何物をかのこす。苦沙弥先生よろしく御茶でも上がれ。……
人を人と思わざればおそるる所なし。人を人と思わざるものが、吾を吾と思わざる世をいきどおるは如何いかん。権貴栄達の士は人を人と思わざるに於て得たるが如し。ただひとの吾を吾と思わぬ時に於て怫然ふつぜんとして色をす。任意に色を作し来れ。馬鹿野郎。……
吾の人を人と思うとき、ひとの吾を吾と思わぬ時、不平家は発作的ほっさてき天降あまくだる。この発作的活動を名づけて革命という。革命は不平家の所為にあらず。権貴栄達の士が好んで産する所なり。朝鮮に人参にんじん多し先生何がゆえに服せざる。

【訳】

もし この私が天地(世界)を支配するとしたら、西江【長江】の水など一息に飲み干してしまうだろう。しかし、天地が自分を支配するなら、自分など道ばたの塵にすぎない。……そんな『天地』と『我【自己】』の関係性に一体どんな意味があるというのか? ……最初にナマコを食べた人は、胆力【勇気】がすごい。 最初にフグを食べた人は、毒があると知りながら食べたんだから、なおさらすごい。 ナマコを食べられる人はまるで『親鸞しんらん』のような悟りを開いた人、 フグを食べる人は『日蓮』のような命知らずの宗教家だ。 一方、苦沙弥先生は、ただ干瓢かんぴょうの酢味噌を食べるだけ。

親友は裏切るし、親は私情を持つ【えこひいきする】し、愛人も捨てる。 お金や地位なんて、そもそも頼りにならない。 地位は一朝にして失われる。 学問だってかびが生える【役に立たなくなる】。 神? そんなものは人間の苦し紛れの妄想。 神とは、人間のクソの塊にすぎない。 頼れないものを頼って安心するとは、愚かなことだ。 酔っ払いがデタラメなことを言って墓場に向かって ふらついていくようなもの。 油が切れたら火は自然に消える。 努力を尽くしても、何も残らない。 ……苦沙弥先生、まあ お茶でも飲みなさい。

他人を人間だと思わなければ、怖いものなどない。 でも、そんな他人が 自分を人間扱いしないと怒るのは どうなんだ? 出世する人は、人を人とも思わない冷酷さがあるから 成功するんじゃないか? 他人が自分を無視したときだけ、怒り出す人間こそおかしい。 ……勝手に怒ってれば? 馬鹿野郎。 自分が他人をきちんと“人”として扱っていても、他人は自分を人扱いしない。 そんな不公平に怒ったとき、『革命』が起こる。 革命とは、不満を持つ者が起こすものではなく、実は出世した権力者たちの傲慢が生み出すものなのだ。 朝鮮には高麗人参が多いのに、先生はなぜ服用しないのですか?

在巣鴨  天道公平てんどうこうへい 再拝【二度続けておがむ】

 針作君は九拝であったが、この男は単に再拝だけである。寄付金の依頼でないだけに七拝ほど横風おうふう【遠慮がない】に構えている。寄付金の依頼ではないが その代り すこぶる分りにくいものだ。どこの雑誌へ出しても 没書になる価値は充分あるのだから、頭脳の不透明をもって鳴る主人は必ず寸断寸断ずたずたに引き裂いてしまうだろう とおもいのほか、打ち返し打ち返し読み直している。こんな手紙に意味があると考えて、あくまでその意味をきわめようという決心かも知れない。およそ天地のかんにわからんものは沢山あるが 意味をつけてつかないものは一つもない。どんなむずかしい文章でも 解釈しようとすれば容易に解釈の出来るものだ。人間は馬鹿であると言おうが、人間は利口であると言おうが 手もなくわかる事だ。それどころではない。
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人間は犬であると言っても 豚であると言っても 別に苦しむほどの命題ではない。山は低いと言っても構わん、宇宙は狭いと言ってもつかえはない。からすが白くて小町が醜婦【不美人】で苦沙弥先生が君子でも通らん事はない。だからこんな無意味な手紙でも 何とかとか理屈りくつさえつければ どうとも意味はとれる。ことに主人のように 知らぬ英語を無理矢理にこじ附けて 説明し通して来た男は なおさら意味をつけたがるのである。天気の悪るいのになぜグード・モーニングですかと生徒に問われて七日間なぬかかん考えたり、コロンブスと言う名は 日本語で何と言いますかと聞かれて 三日三晩かかって答を工夫するくらいな男には、干瓢かんぴょう酢味噌すみそが天下の士であろうと、朝鮮の仁参にんじんを食って革命を起そうと随意な意味は随処にき出る訳である。主人は しばらくしてグード・モーニング流にこの難解な言句ごんくを呑み込んだと見えて「なかなか意味深長だ。何でもよほど哲理を研究した人に違ない。天晴あっぱれな見識だ」と大変賞賛した。この一言いちごんでも主人なところはよく分るが、ひるがえって考えて見ると いささか もっともな点もある。主人は何に寄らず わからぬもの をありがたがる癖を有している。これはあながち主人に限った事でもなかろう。分らぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか気高けだかい心持が起るものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかったように吹聴ふいちょうするにもかかわらず、学者はわかった事をわからぬように講釈する。大学の講義でもわからん事を喋舌しゃべる人は評判がよくって わかる事を説明する者は人望がないのでもよく知れる。主人がこの手紙に敬服したのも 意義が明瞭であるからではない。その主旨が那辺なへん【どこ】に存するか ほとんどとらえ難いからである。急に海鼠なまこが出て来たり、せつなぐそ【下品でどうしようもない奴】が出てくるからである。だから主人がこの文章を尊敬する唯一の理由は、道家どうけ【思想家の人々】で道徳経を尊敬し、儒家じゅか易経えききょうを尊敬し、禅家ぜんけ臨済録りんざいろく【禅の基本の書物】を尊敬すると一般で全く分らんからである。ただし 全然分らんでは気がすまんから 勝手な注釈をつけて わかった顔だけはする。わからんものを わかったつもりで尊敬するのは 昔から愉快なものである。
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‥‥主人うやうやしく八分体はっぷんたい【文字全体が横長に見える書体】の名筆を巻き納めて、これを机上に置いたまま懐手ふところでをして冥想めいそうに沈んでいる。
 ところへ「頼む頼む」と玄関から大きな声で案内を乞う者がある。声は迷亭のようだが、迷亭に似合わずしきりに案内を頼んでいる。主人は先から書斎のうちで その声を聞いているのだが 懐手のままごう【わずか】も動こうとしない。取次に出るのは主人の役目でないという主義か、この主人は決して書斎から挨拶あいさつをした事がない。下女は先刻さっき 洗濯せんたく 石鹸シャボンを買いに出た。細君はばかりである。すると取次に出べきものは吾輩だけになる。吾輩だって出るのはいやだ。すると客人は沓脱くつぬぎから敷台しきだいへ飛び上がって 障子を開け放って つかつか上り込んで来た。主人も主人だが客も客だ。座敷の方へ行ったなと思うとふすまを二三度あけたりてたりして、今度は書斎の方へやってくる。
「おい冗談じょうだんじゃない。何をしているんだ、御客さんだよ」
「おや君か」
「おや君かもないもんだ。そこにいるなら何とか言えばいいのに、まるで空家あきやのようじゃないか」
「うん、ちと考え事があるもんだから」
「考えていたって通れくらいは言えるだろう」
「言えん事もないさ」
「相変らず度胸がいいね」
「せんだってから精神の修養をつとめているんだもの」
「物好きだな。精神を修養して返事が出来なくなった日には 来客は御難だね。そんなに落ちつかれちゃ困るんだぜ。実は僕一人来たんじゃないよ。大変な御客さんを連れて来たんだよ。ちょっと出て逢ってくれ給え」
「誰を連れて来たんだい」
「誰でもいいから ちょっと出て逢ってくれたまえ。是非君に逢いたいと言うんだから」
「誰だい」
「誰でもいいから立ちたまえ」
 主人懐手ふところでのまま ぬっと立ちながら「また人をかつぐつもりだろう」と縁側へ出て何の気もつかずに客間へ入り込んだ。すると六尺の床を正面に一個の老人が粛然しゅくぜん端座たんざ【正座】してひかえている。主人は思わず懐から両手を出して ぺたりと唐紙からかみ【襖】のそばへ尻を片づけてしまった【座った】。これでは老人と同じく西向きであるから双方共挨拶あいさつのしようがない。昔堅気むかしかたぎの人は礼義はやかましいものだ。
「さあどうぞ あれへ」と床の間の方を指して主人うながす。
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主人は両三年前までは 座敷はどこへ座っても構わんものと 心得ていたのだが、そのある人から床の間の講釈を聞いて、あれは上段のの変化したもので、上使じょうし【上級権力者からの使者】が座わる所だと悟って以来 決して床の間へは寄りつかない男である。ことに見ず知らずの年長者ががんと構えているのだから上座じょうざどころではない。挨拶あいさつさえろくには出来ない。一応頭をさげて
「さあどうぞあれへ」と向うの言う通りを繰り返した。
「いやそれでは御挨拶あいさつが出来かねますから、どうぞあれへ」
「いえ、それでは……どうぞあれへ」と主人はいい加減に先方の口上を真似ている。
「どうもそう、御謙遜ごけんそんでは恐れ入る。かえって手前が痛み入る。どうか御遠慮なく、さあどうぞ」
「御謙遜では……恐れますから……どうか」主人真赤まっかになって口を もごもご 言わせている。精神修養もあまり効果がないようである。迷亭君はふすまの影から笑いながら立見をしていたが、もういい時分だと思って、うしろから主人の尻を押しやりながら
「まあ出たまえ。そう唐紙からかみへくっついては僕が座る所がない。遠慮せずに前へ出たまえ」と無理に割り込んでくる。主人はやむを得ず前の方へすり出る。
苦沙弥君これが 毎々 君に噂をする静岡の伯父だよ。伯父さんこれが苦沙弥君です」
「いや始めて御目にかかります、毎度迷亭が出て御邪魔を致すそうで、いつか参上の上 御高話を拝聴致そうと存じておりましたところ、幸い今日こんにちは御近所を通行致したもので、御礼かたがた伺った訳で、どうぞ御見知りおかれまして今後共よろしく」とむかし風な口上をよどみなく述べたてる。主人は交際の狭い、無口な人間である上に、こんな古風なじいさんとは ほとんど出会った事がないのだから、最初から多少うて【場当たり的】の気味で辟易へきえきしていたところへ、滔々とうとうと浴びせかけられたのだから、朝鮮仁参ちょうせんにんじんあめん棒の状袋じょうぶくろも【(以前出てきた内容)】 すっかり忘れてしまって ただ苦しまぎれに妙な返事をする。
「私も……私も……ちょっと伺がうはずでありましたところ……何分よろしく」と言い終って頭を少々畳から上げて見ると老人はいまだに平伏しているので、はっと恐縮してまた頭をぴたりと着けた。
 老人は呼吸を計って首をあげながら「私も もとはこちらに屋敷もって、永らく御ひざ元でくらしたものでがすが、瓦解がかいの折にあちらへ参ってから とんと出てこんのでな。今来て見るとまるで方角も分らんくらいで、‥‥迷亭にでもれてあるいてもらわんと、とても用達ようたしも出来ません。
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滄桑そうそうへん【世の中が非常に大きく変わること】とは申しながら、御入国ごにゅうこく以来三百年も、あの通り将軍家の……」と言いかけると迷亭先生面倒だと心得て
伯父さん将軍家もありがたいかも知れませんが、明治のも結構ですぜ。昔は赤十字なんてものもなかったでしょう」
「それはない。赤十字などと称するものは全くない。ことに宮様の御顔を拝むなどと言う事は明治の御代みよでなくては出来ぬ事だ。わしも長生きをした御蔭でこの通り今日こんにちの総会にも出席するし、宮殿下の御声もきくし、もうこれで死んでもいい」
「まあ久し振りで東京見物をするだけでも得ですよ。苦沙弥君、伯父はね。今度赤十字の総会があるので わざわざ静岡から出て来てね、今日いっしょに上野へ出掛けたんだが 今 その帰りがけなんだよ。それだからこの通り 先日僕が白木屋へ注文した フロックコートを着ているのさ」と注意する。なるほどフロックコートを着ている。フロックコートは着ているが すこしも からだに合わない。そでが長過ぎて、えりがおっぴらいて、背中へ池が出来て、わきの下が釣るし上がっている。いくら不格好ぶかっこうに作ろうと言ったって、こうまで念を入れて形をくずす訳にはゆかないだろう。その上 白シャツと白襟しろえりが離れ離れになって、あおむくと間から咽喉仏のどぼとけが見える。第一黒い襟飾りが襟に属しているのか、シャツに属しているのか判然はんぜんしない。フロックはまだ我慢が出来るが白髪しらがのチョンまげは はなはだ奇観である。評判の鉄扇てっせんはどうかと目をけるとひざの横にちゃんと引きつけている。主人はこの時ようやく本心に立ち返って、精神修養の結果を 存分に老人の服装に応用して 少々驚いた。まさか迷亭の話ほどではなかろうと思っていたが、逢って見ると話以上である。もし自分のあばたが歴史的研究の材料になるならば、この老人のチョンまげや鉄扇はたしかにそれ以上の価値がある。主人はどうかして この鉄扇の由来を聞いて見たいと思ったが、まさか、打ちつけに質問する訳には行かず、と言って話を途切らすのも礼に欠けると思って
「だいぶ人が出ましたろう」ときわめて尋常な問をかけた。
「いや非常な人で、それでその人が皆 わしをじろじろ見るので‥‥どうも近来は人間が物見高くなった【やたら好奇心旺盛になった】ようでがすな。むかしはあんなではなかったが」
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「ええ、さよう、昔はそんなではなかったですな」と老人らしい事を言う。これはあながち主人高振たかぶりをした訳ではない。ただ朦朧もうろうたる頭脳から好い加減に流れ出す言語と見ればつかえない。
「それにな。皆この甲割かぶとわり【鉄扇】へ目を着けるので」
「その鉄扇は大分だいぶ重いものでございましょう」
苦沙弥君、ちょっと持って見たまえ。なかなか重いよ。伯父さん持たして御覧なさい」
 老人は重たそうに取り上げて「失礼でがすが」と主人に渡す。京都の黒谷くろだに参詣人さんけいにん蓮生坊れんしょうぼう【源平合戦で活躍した武将】の太刀たちいただくようなかたで、苦沙弥先生しばらく持っていたが「なるほど」と言ったまま老人に返却した。「みんながこれを鉄扇鉄扇と言うが、これは甲割かぶとわりとなえて鉄扇とはまるで別物で……」
「へえ、何にしたものでございましょう」
「兜を割るので、‥‥敵の目がくらむ所をちとったものでがす。楠正成くすのきまさしげ時代から用いたようで……」
伯父さん、そりゃ正成の甲割かぶとわりですかね」
「いえ、これは誰のかわからん。しかし時代は古い。建武時代けんむじだいの作かも知れない」
「建武時代かも知れないが、寒月君は弱っていましたぜ。苦沙弥君、今日帰りにちょうどいい機会だから 大学を通り抜けるついでに 理科へ寄って、物理の実験室を見せて貰ったところがね。この甲割かぶとわりが鉄だものだから、磁力の器械が狂って大騒ぎさ」
「いや、そんなはずはない。これは建武時代の鉄で、しょうのいい鉄だから決してそんなおそれはない」
「いくら性のいい鉄だってそうはいきませんよ。現に寒月がそう言ったから仕方がないです」
寒月というのは、あのガラスだまっている男かい。今の若さに気の毒な事だ。もう少し何かやる事がありそうなものだ」
可愛想かわいそうに、あれだって研究でさあ。あの球を磨り上げると 立派な学者になれるんですからね」
「玉をりあげて立派な学者になれるなら、誰にでも出来る。わしにでも出来る。ビードロやの主人にでも出来る。ああ言う事をする者を漢土かんど【古代中国】では玉人きゅうじんと称したもので至って身分の軽いものだ」と言いながら主人の方を向いて暗に賛成を求める。
「なるほど」と主人はかしこまっている。
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「すべて今の世の学問は皆 形而下けいじか【物質的なもの】の学でちょっと結構なようだが、いざとなるとすこしも役には立ちませんてな。昔はそれと違ってさむらいは皆命懸いのちがけの商買しょうばいだから、いざと言う時に狼狽ろうばいせぬように心の修業を致したもので、御承知でもあらっしゃろうが なかなか玉をったり針金をったりするような容易たやすいものでは なかったので がすよ」
「なるほど」と やはりかしこまっている。
伯父さん心の修業と言うものは玉をる代りに懐手ふところでをして座り込んでるんでしょう」
「それだから困る。決してそんな造作ぞうさのないものではない。孟子もうし求放心きゅうほうしん【迷った心は探して取り戻せ】と言われたくらいだ。邵康節しょうこうせつ【北宋の学者】は心要放しんようほう【心は放っておけ】と説いた事もある。また仏家ぶっかでは中峯和尚ちゅうほうおしょう【中国元時代を代表する禅僧】と言うのが具不退転ぐふたいてん【一度決めたら最後までやり遂げる】と言う事を教えている。なかなか容易には分らん」
「とうてい分りっこありませんね。全体どうすればいいんです」
「御前は沢菴禅師たくあんぜんじ【〝たくあん漬け〟の考案者として有名】の不動智神妙録ふどうちしんみょうろく【剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一致)について】というものを読んだ事があるかい」
「いいえ、聞いた事もありません」
「心をどこに置こうぞ。敵の身のはたらきに心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀たちに心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思うところに心を置けば、敵を切らんと思うところに心を取らるるなり。わが太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるるなり。われ切られじと思うところに心を置けば、切られじと思うところに心を取らるるなり。人のかまえに心を置けば、人の構に心を取らるるなり。とかく心の置きどころは ないとある」
「よく忘れずに暗唱あんしょうしたものですね。伯父さんも なかなか記憶がいい。長いじゃありませんか。苦沙弥君分ったかい」
「なるほど」と 今度も なるほどで すましてしまった。
「なあ、あなた、そうでござりましょう。心をどこに置こうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば……」
伯父さん苦沙弥君はそんな事は、よく心得ているんですよ。近頃は毎日書斎で 精神の修養ばかりしているんですから。客があっても取次に出ないくらい 心を置き去りにしているんだから 大丈夫ですよ」
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「や、それは御奇特ごきどく【感心】な事で‥‥御前なども ちと ごいっしょにやったらよかろう」
「へへへそんな暇はありませんよ。伯父さんは自分が楽なからだ だもんだから、人も遊んでると思っていらっしゃるんでしょう」
「実際遊んでるじゃないかの」
「ところが閑中かんちゅう おのずからぼうあり【表面的にはボーッとしているように見えるが、実は観察や思索で忙しい】でね」
「そう、粗忽そこつだから修業をせんといかないと言うのよ、忙中 おのずかかんあり【忙しい中にもふとした暇がある】と言う成句せいくはあるが、閑中自ら忙ありと言うのは聞いた事がない。なあ苦沙弥さん」
「ええ、どうも聞きませんようで」
「ハハハハそうなっちゃあかなわない。時に伯父さん どうです。久し振りで東京のうなぎでも食っちゃあ。竹葉ちくようでもおごりましょう【理屈はこのくらいにして、まあ一杯やりましょう】。これから電車で行くとすぐです」
「鰻も結構だが、今日はこれからすいはらへ行く約束があるから、わしはこれで御免をこうむろう」
「ああ杉原すぎはらですか、あのじいさんも達者ですね」
杉原すぎはらではない、すいはらさ。御前はよく間違ばかり言って困る。他人の姓名を取り違えるのは失礼だ。よく気をつけんといけない」
「だって杉原すぎはらとかいてあるじゃありませんか」
杉原すぎはらと書いてすいはらと読むのさ」
「妙ですね」
「なに妙な事があるものか。名目読みょうもくよみ【習慣による読み癖に従った読み方】と言って昔からある事さ。蚯蚓きゅういん和名わみょうみみずと言う。あれは目見ずの名目よみで。蝦蟆がまの事をかいると言うのと同じ事さ」
「へえ、驚ろいたな」
蝦蟆がまを打ち殺すと仰向あおむきにかえる。それを名目読みにかいると言う。透垣すきがきすいがき茎立くきたちくく立、皆同じ事だ。杉原すいはらをすぎ原などと言うのは田舎いなかものの言葉さ。少し気を付けないと人に笑われる」
「じゃ、その、すい原へこれから行くんですか。困ったな」
「なにいやなら御前は行かんでもいい。わし一人で行くから」
「一人で行けますかい」
「あるいてはむずかしい。車を雇って頂いて、ここから乗って行こう」
 主人かしこまって直ちに御三おさんを車屋へ走らせる。老人は長々と挨拶あいさつをしてチョン髷頭まげあたまへ山高帽をいただいて帰って行く。迷亭はあとへ残る。
「あれが君の伯父さんか」
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「あれが僕の伯父さんさ」
「なるほど」と再び座蒲団ざぶとんの上に座ったなり懐手ふところでをして考え込んでいる。
「ハハハ豪傑ごうけつだろう。僕も ああ言う伯父さんを持って仕合せなものさ。どこへ連れて行ってもあの通りなんだぜ。君 驚ろいたろう」と迷亭君は主人を驚ろかしたつもりでおおいに喜んでいる。
「なにそんなに驚きゃしない」
「あれで驚かなけりゃ、胆力のすわったもんだ」
「しかしあの伯父さんは なかなか えらいところがあるようだ。精神の修養を主張するところなぞはおおいに敬服していい」
「敬服していいかね。君も今に六十くらいになるとやっぱりあの伯父見たように、時候おくれになる かも知れないぜ。しっかりしてくれたまえ。時候おくれの回り持ちなんか気がかないよ」
「君はしきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。第一 今の学問と言うものは先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしない。とうてい満足は得られやしない。そこへ行くと東洋流の学問は消極的でおおいあじわいがある。心そのものの修業をするのだから」と せんだって哲学者から承わった通りを 自説のように述べ立てる。
「えらい事になって来たぜ。何だか八木やぎ独仙どくせん君のような事を言ってるね」
 八木独仙と言う名を聞いて主人は はっと驚ろいた。実はせんだって臥竜窟がりょうくつ【この家】を訪問して主人を説服に及んで 悠然ゆうぜんと立ち帰った哲学者と言うのが 取も直さずこの八木独仙君であって、今主人鹿爪しかつめらしく【まじめくさって】述べ立てている議論は 全くこの八木独仙君の受売なのであるから、知らんと思った迷亭が この先生の名を間不容髪かんふようはつ【間髪を容れず】の際に持ち出したのは 暗に主人の一夜作りの仮鼻かりばなくじいた訳になる。「君独仙の説を聞いた事があるのかい」と主人剣呑けんのんだから念をして見る。
「聞いたの、聞かないのって、あの男の説ときたら、十年前学校にいた時分と今日こんにちと少しも変りゃしない」
「真理はそう変るものじゃないから、変らないところが たのもしい かも知れない」
「まあそんな贔負ひいきがあるから独仙もあれで立ち行くんだね。第一八木と言う名からして、よく出来てるよ。あのひげが君 全く山羊やぎだからね。そうしてあれも寄宿舎時代からあの通りの格好かっこうで生えていたんだ。名前の独仙などもふるったものさ。
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むかし僕のところへ泊りがけに来て 例の通り消極的の修養と言う議論をしてね。いつまで立っても同じ事を繰り返してやめないから、僕が 君 もうようじゃないかと言うと、先生気楽なものさ、いや僕は眠くないとすまし切って、やっぱり消極論をやるには迷惑したね。仕方がないから君は眠く なかろうけれども、僕の方は大変眠いのだから、どうか寝てくれたまえと 頼むようにして 寝かしたまではよかったが‥‥その晩ねずみが出て独仙君の鼻のあたまをかじってね。夜なかに大騒ぎさ。先生悟ったような事を言うけれども 命は依然として惜しかったと見えて、非常に心配するのさ。鼠の毒が総身そうしん【全身】にまわると大変だ、君どうかしてくれと責めるには閉口したね。それから仕方がないから台所へ行って紙片かみぎれへ飯粒をってごまかしてやったあね」
「どうして」
「これは舶来の膏薬こうやくで、近来独逸ドイツの名医が発明したので、印度人インドじんなどの毒蛇にまれた時に用いると即効があるんだから、これさえ貼っておけば大丈夫だと言ってね」
「君はその時分から ごまかす事に妙を得ていたんだね」
「……すると独仙君はああ言う好人物だから、全くだと思って安心して ぐうぐう寝てしまったのさ。あくる日起きて見ると膏薬の下から糸屑いとくずがぶらさがって例の山羊髯やぎひげに引っかかっていたのは滑稽こっけいだったよ」
「しかしあの時分より大分だいぶえらくなったようだよ」
「君 近頃 逢ったのかい」
「一週間ばかり前に来て、長い間話しをして行った」
「どうりで独仙流の消極説を振り舞わすと思った」
「実はその時おおいに感心してしまったから、僕もおおいに奮発して修養をやろうと思ってるところなんだ」
「奮発は結構だがね。あんまり人の言う事をに受けると馬鹿を見るぜ。一体 君は人の言う事を何でも かでも 正直に受けるからいけない。独仙も口だけは立派なものだがね、いざとなると御互おたがいと同じものだよ。君 九年前の大地震を知ってるだろう。あの時寄宿の二階から飛び降りて怪我をしたものは独仙君だけなんだからな」
「あれには当人大分だいぶ説があるようじゃないか」
「そうさ、当人に言わせると すこぶるありがたいものさ。禅の機鋒きほう【ほこさきの勢い】は 峻峭しゅんしょう【高く険しい】なもので、いわゆる石火せっかとなると【一瞬の勝負どころでは】こわいくらい早く物に応ずる事が出来る。ほかのものが地震だと言って狼狽うろたえているところを 自分だけは二階の窓から飛び下りたところに 修業の効があらわれて嬉しいと言って、びっこを引きながら うれしがっていた。負惜みの強い男だ。一体ぜんとかぶつとか言って騒ぎ立てる連中ほど あやしいのはないぜ」
「そうかな」と苦沙弥先生少々腰が弱くなる。
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「この間来た時 禅宗坊主の寝言ねごと見たような事を何か言ってったろう」
「うん電光影裏でんこうえいり春風しゅんぷうをきる【ほんの一瞬の間に、春風を斬る → 一見かっこよさそうに見えるが、実は無意味で滑稽こっけいな行為をしている】とか言う句を教えて行ったよ」
「その電光さ。あれが十年前からの御箱おはこなんだからおかしいよ。無覚禅師むかくぜんじ【無学をもじったもの】の電光ときたら 寄宿舎中 誰も知らないものは ないくらいだった。それに先生時々せき込むと間違えて電光影裏をさかさまに春風影裏に電光をきると言うから面白い。今度ためして見たまえ。むこうで落ちつき払って述べたてているところを、こっちで いろいろ反対するんだね。するとすぐ転倒てんとうして妙な事を言うよ」
「君のような いたずらもの に逢っちゃかなわない」
「どっちが いたずら者だか分りゃしない。僕は禅坊主だの、悟ったのは大嫌だ。僕の近所に南蔵院なんぞういんと言う寺があるが、あすこに八十ばかりの隠居がいる。それでこの間の白雨ゆうだちの時 寺内じないらいが落ちて隠居のいる庭先の松の木をいてしまった。ところが和尚おしょう泰然として平気だと言うから、よく聞き合わせて見ると からつんぼ【聞こえないふり】なんだね。それじゃ泰然たる訳さ。大概そんなものさ。独仙も一人で悟っていればいいのだが、ややともすると人を誘い出すから悪い。現に独仙の御蔭で二人ばかり気狂きちがいにされているからな」
「誰が」
「誰がって。一人は理野陶然りのとうぜんさ。独仙の御蔭でおおいに禅学にり固まって鎌倉へ出掛けて行って、とうとう出先で気狂きちがいになってしまった。円覚寺えんがくじの前に汽車の踏切りがあるだろう、あの踏切りうちへ飛び込んでレールの上で座禅をするんだね。それで向うから来る汽車をとめて見せると言う大気炎きえんさ。もっとも汽車の方で 留ってくれたから 一命だけはとりとめたが、その代り今度は火にって焼けず、水に入っておぼれぬ金剛不壊こんごうふえ【非常に堅固で、決してこわれない】のからだだと号して寺内じない蓮池はすいけへ入って ぶくぶく あるき回ったもんだ」
「死んだかい」
「その時もさいわい、道場の坊主が通りかかって助けてくれたが、その東京へ帰ってから、とうとう腹膜炎で死んでしまった。死んだのは腹膜炎だが、腹膜炎になった原因は僧堂で麦飯や万年漬まんねんづけ【古い古い漬物】を食ったせいだから、つまるところは間接に独仙が殺したようなものさ」
「むやみに熱中するのもししだね」と主人はちょっと気味のわるいという顔付をする。
「本当にさ。独仙にやられたものが もう一人 同窓中にある」
「あぶないね。誰だい」
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立町たちまち 老梅ろうばいくんさ。あの男も全く独仙にそそのかされてうなぎが天上するような事ばかり言っていたが、とうとう君 本物になってしまった」
「本物たあ何だい」
「とうとう鰻が天上して、豚が仙人になったのさ」
「何の事だい、それは」
八木が独仙なら、立町豚仙ぶたせんさ、あのくらい食い意地のきたない男はなかったが、あの食意地と禅坊主のわる意地が併発へいはつしたのだから助からない。始めは僕らも気がつかなかったが 今から考えると妙な事ばかり並べていたよ。僕のうちなどへ来て 君 あの松の木へ カツレツが飛んできやしませんかの、僕の国では蒲鉾かまぼこが板へ乗って泳いでいますのって、しきりに警句けいくを吐いたものさ。ただ吐いているうちはよかったが 君 表のどぶきんとん【金塊と豚とをかけた】を掘りに行きましょうとうながすに至っては僕も降参したね。それから二三日にさんちするとついに豚仙になって巣鴨【巣鴨監獄】へ収容されてしまった。元来 豚なんぞが気狂きちがいになる資格はないんだが、全く独仙の御蔭であすこまで漕ぎ付けたんだね。独仙の勢力も なかなか えらいよ」
「へえ、今でも巣鴨にいるのかい」
「いるだんじゃない。自大狂じだいきょうで大気炎きえんを吐いている。近頃は立町老梅なんて名はつまらないと言うので、みずか天道公平てんどうこうへいと号して、天道の権化ごんげをもって任じている。すさまじいものだよ。まあちょっと行って見たまえ」「天道公平?」
天道公平だよ。気狂きちがいの癖にうまい名をつけたものだね。時々は孔平こうへいとも書く事がある。それで何でも世人が迷ってるから ぜひ救ってやりたいと言うので、むやみに友人や何かへ手紙を出すんだね。僕も四五通貰ったが、中には なかなか長い奴があって 不足税を二度ばかりとられたよ」
「それじゃ僕のとこへ来たのも老梅から来たんだ」
「君の所へも来たかい。そいつは妙だ。やっぱり赤い状袋じょうぶくろ【封筒】だろう」
「うん、真中が赤くて左右が白い。一風変った状袋じょうぶくろだ」
「あれはね、わざわざ支那から取り寄せる のだそうだよ。天の道は白なり、地の道は白なり、人は中間にって赤しと言う豚仙の格言を示したんだって……」
「なかなか因縁いんねんのある状袋じょうぶくろだね」
気狂きちがいだけにおおいったものさ。そうして気狂きちがいになっても 食意地だけは 依然として存しているものと見えて、毎回必ず食物の事がかいてあるから奇妙だ。君の所へも何とか言って来たろう」
「うん、海鼠なまこの事がかいてある」
老梅は海鼠が好きだったからね。もっともだ。それから?」
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「それから河豚ふぐ朝鮮仁参ちょうせんにんじんか何か書いてある」
河豚ふぐと朝鮮仁参の取り合せはうまいね。おおかた河豚ふぐを食ってあたったら朝鮮仁参をせんじて飲めとでも言うつもりなんだろう」
「そうでもないようだ」
「そうでなくても構わないさ。どうせ気狂きちがいだもの。それっきりかい」
「まだある。苦沙弥先生 御茶でも上がれと言う句がある」
「アハハハ 御茶でも上がれは きびし過ぎる。それでおおいに君をやり込めたつもりに違ない。大出来だ。天道公平君万歳だ」と迷亭先生は面白がって、おおいに笑い出す。主人は少からざる尊敬をもって反覆読誦どくしょうした書簡しょかんの差出人が 金箔きんぱくつきの狂人であると知ってから、最前の熱心と苦心が何だか 無駄骨のような気がして 腹立たしくもあり、また瘋癲病ふうてんびょう者【精神病患者】の文章をさほど心労して翫味がんみ【面白がる】したかと思うと恥ずかしくもあり、最後に狂人の作にこれほど感服する以上は 自分も多少神経に異状がありはせぬか との疑念もあるので、立腹と、慚愧ざんき【反省・後悔】と、心配の合併した状態で 何だか落ちつかない顔付をしてひかえている。
 折から表格子をあららかに【荒々しく】開けて、重い靴の音が二た足ほど沓脱くつぬぎに響いたと思ったら「ちょっと頼みます、ちょっと頼みます」と大きな声がする。主人の尻の重いに反して迷亭はまた すこぶる気軽な男であるから、御三おさんの取次に出るのも待たず、通れと言いながら隔ての中のを二た足ばかりに飛び越えて玄関におどり出した。人のうちへ案内も乞わずに つかつか入り込むところは 迷惑のようだが、人のうちへ入った以上は書生同様 取次をつとめるから はなはだ便利である。いくら迷亭でも御客さんには相違ない、その御客さんが玄関へ出張するのに主人たる苦沙弥先生が座敷へ構え込んで動かん法はない。普通の男なら あとから引き続いて 出陣すべき はずであるが、そこが苦沙弥先生である。平気に座布団の上へ尻を落ちつけている。ただし落ちつけているのと、落ちついているのとは、その趣は大分だいぶ似ているが、その実質はよほど違う。
 玄関へ飛び出した迷亭は何かしきりに弁じていたが、やがて奥の方を向いて「おい御主人 ちょっと御足労だが出てくれたまえ。君でなくっちゃ、間に合わない」と大きな声を出す。主人はやむを得ず懐手ふところでのまま のそりのそりと出てくる。見ると迷亭君は一枚の名刺を握ったまましゃがんで挨拶あいさつをしている。すこぶる威厳のない腰つきである。
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その名刺には警視庁刑事巡査 吉田虎蔵とらぞうとある。虎蔵君と並んで立っているのは二十五六のせいの高い、いなせ唐桟とうざん【縞模様の綿織物】ずくめの男である。妙な事にこの男は主人と同じく懐手をしたまま、無言で突立つったっている。何だか見たような顔だと思ってよくよく観察すると、見たようなどころじゃない。この間 深夜 御来訪になってやまいもを持って行かれた泥棒君である。おや今度は白昼公然と玄関からおいでになったな。
「おいこのかたは刑事巡査でせんだっての泥棒をつらまえたから、君に出頭しろと言うんで、わざわざおいでになったんだよ」
 主人はようやく刑事が踏み込んだ理由が分ったと見えて、頭をさげて泥棒の方を向いて鄭寧ていねいに御辞儀をした。泥棒の方が虎蔵君より男振りがいいので、こっちが刑事だと早合点はやがてんをしたのだろう。泥棒も驚ろいたに相違ないが、まさかわたし泥棒ですよと断わる訳にも行かなかったと見えて、すまして立っている。やはり懐手のままである。もっとも手錠てじょうをはめているのだから、出そうと言っても出る気遣きづかい【はず】はない。通例のものならこの様子で たいていは わかるはずだが、この主人は当世の人間に似合わず、むやみに役人や警察をありがたがる癖がある。御上おかみの御威光となると非常に恐しいものと心得ている。もっとも理論上から言うと、巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだ くらいの事は心得ているのだが、実際に臨むと いやに へえへえする。主人のおやじはその昔 場末の名主であったから、上の者にぴょこぴょこ頭を下げて暮した習慣が、因果となって かように子にむくったの かも知れない。まことに気の毒な至りである。
 巡査はおかしかったと見えて、にやにや笑いながら「あしたね、午前九時までに日本堤にほんづつみの分署まで来て下さい。‥‥盗難品は何と何でしたかね」
「盗難品は……」と言いかけたが、あいにく先生 たいがい忘れている。ただ覚えているのは多々良たたら三平さんぺい君の山の芋だけである。山の芋などは どうでも構わんと思ったが、盗難品は……と言いかけてあとが出ないのは いかにも与太郎よたろうのようで体裁ていさいがわるい。人が盗まれたのならいざ知らず、自分が盗まれておきながら、明瞭の答が出来んのは一人前いちにんまえではない証拠だと、思い切って「盗難品は……山の芋一箱」とつけた。
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 泥棒はこの時よほどおかしかったと見えて、下を向いて着物のえりへあごを入れた。迷亭はアハハハと笑いながら「山の芋がよほど惜しかったと見えるね」と言った。巡査だけは存外真面目である。
「山の芋は出ないようだが ほかの物件はたいがい戻ったようです。‥‥まあ来て見たら分るでしょう。それでね、下げ渡したら請書うけしょが入るから、印形いんぎょう【ハンコ】を忘れずに持っておいでなさい。‥‥九時までに来なくってはいかん。日本堤にほんづつみ 分署ぶんしょです。‥‥浅草警察署の管轄内かんかつないの日本堤分署です。‥‥それじゃ、さようなら」とひとりで弁じて帰って行く。泥棒君も続いて門を出る。手が出せないので、門をしめる事が出来ないから 開け放しのまま行ってしまった。恐れ入りながらも不平と見えて、主人は頬をふくらして、ぴしゃりと立て切った。
「アハハハ君は刑事を大変尊敬するね。つねにああ言う恭謙きょうけん【つつしみ深く、へりくだる】な態度を持ってるといい男だが、君は巡査だけに鄭寧ていねいなんだから困る」
「だってせっかく知らせて来てくれたんじゃないか」
「知らせに来るったって、先は商売だよ。当り前にあしらってりゃ沢山だ」
「しかしただの商売じゃない」
「無論ただの商売じゃない。探偵と言う いけすかない商売さ。あたり前の商売より下等だね」
「君そんな事を言うと、ひどい目に逢うぜ」
「ハハハそれじゃ刑事の悪口わるくちはやめにしよう。しかし刑事を尊敬するのは、まだしもだが、泥棒を尊敬するに至っては、驚かざるを得んよ」
「誰が泥棒を尊敬したい」
「君がしたのさ」
「僕が泥棒に近付きがあるもんか」
「あるもんかって君は泥棒にお辞儀をしたじゃないか」
「いつ?」
「たった今 平身低頭へいしんていとうしたじゃないか」
「馬鹿あ言ってら、あれは刑事だね」
「刑事があんななりをするものか」
「刑事だから あんななりをするんじゃないか」
頑固がんこだな」
「君こそ頑固だ」
「まあ第一、刑事が人の所へ来てあんなに懐手ふところでなんかして、突立つったっているものかね」
「刑事だって懐手をしないとは限るまい」
「そう猛烈にやって来ては恐れ入るがね。君がお辞儀をする間 あいつは始終 あのままで立っていたのだぜ」
「刑事だからそのくらいの事はあるかも知れんさ」
「どうも自信家だな。いくら言っても聞かないね」
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「聞かないさ。君は口先ばかりで泥棒だ泥棒だと言ってるだけで、その泥棒がはいるところを見届けた訳じゃないんだから。ただそう思ってひとりで強情を張ってるんだ」
 迷亭も ここにおいて とうてい済度さいどすべからざる【救いようのない】男と断念したものと見えて、例に似ず黙ってしまった。主人は久し振りで迷亭へこましたと思って大得意である。迷亭から見ると主人の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが、主人から言うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである。世の中にはこんな頓珍漢とんちんかんな事は ままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場ははるかに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目めんぼくを施こしたつもりか なにかで、その時以後 人が軽蔑けいべつして相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づける のだそうだ。
「ともかくも あした行くつもりかい」
「行くとも、九時までに来いと言うから、八時から出て行く」
「学校はどうする」
「休むさ。学校なんか」とたたきつけるように言ったのはさかんなものだった。
「えらいいきおいだね。休んでもいいのかい」
「いいとも僕の学校は月給だから、差し引かれる気遣きづかい【はず】はない、大丈夫だ」と真直まっすぐに白状してしまった。ずるい事もずるいが、単純なことも単純なものだ。
「君、行くのはいいが路を知ってるかい」
「知るものか。車に乗って行けば訳はないだろう」とぷんぷんしている。
「静岡の伯父に譲らざる東京通なるには恐れ入る」
「いくらでも恐れ入るがいい」
「ハハハ日本堤分署と言うのはね、君ただの所じゃないよ。吉原よしわらだよ」
「何だ?」
「吉原だよ」
「あの遊郭のある吉原か?」
「そうさ、吉原と言やあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行って見る気かい」と迷亭君また からかいかける。
 主人は吉原と聞いて、そいつはと少々逡巡しゅんじゅん【ためらい】の ていであったが、たちまち思い返して「吉原だろうが、遊郭だろうが、いったん行くと言った以上はきっと行く」と入らざるところに力味りきんで見せた。
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愚人は得てこんなところに意地を張るものだ。
 迷亭君は「まあ面白かろう、見て来たまえ」と言ったのみである。一波瀾ひとはらんを生じた刑事事件はこれで一先ひとま落着らくちゃくを告げた。迷亭はそれから相変らず駄弁をろうして日暮れ方、あまり遅くなると伯父おこられると言って帰って行った。
 迷亭が帰ってから、そこそこに晩飯をすまして、また書斎へ引き揚げた主人は 再び拱手きょうしゅ【腕組み】してしものように考え始めた。
「自分が感服して、おおいに見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると、別段見習うにも及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道【説教】するところの説は何だか非常識で、迷亭の言う通り多少瘋癲的ふうてんてき【常軌を逸した】系統に属してもおりそうだ。いわんや彼は歴乎れっきとした二人の気狂きちがいの子分を有している。はなはだ危険である。滅多めったに近寄ると同系統内にり込まれそうである。自分が文章の上において驚嘆の、これこそ大見識を有している 偉人に相違ないと思い込んだ天道公平てんどうこうへい事 実名 立町たちまち老梅ろうばいは純然たる狂人であって、現に巣鴨の病院に起居ききょ【生活】している。迷亭の記述が棒大の ざれ言にもせよ、彼が瘋癲院ふうてんいん【精神病院】中に盛名をほしいままにして天道の主宰をもってみずから任ずるは 恐らく事実であろう。こう言う自分も ことによると少々 ござっている かも知れない。同気 相求め、同類 相集まると言うから、気狂きちがいの説に感服する以上は‥‥少なくともその文章言辞げんじ【言葉】に同情を表する以上は‥‥自分もまた気狂きちがいに縁の近い者であるだろう。よし同型中に鋳化ちゅうか【型に流し込んで冷やし固めること】せられんでも 軒をならべて狂人と隣り合せにきょぼくする【暮らす】とすれば、境の壁を一重打ち抜いて いつの間にか同室内にひざを突き合せて談笑する事がないとも限らん。こいつは大変だ。なるほど考えて見ると このほどじゅうから自分の脳の作用は 我ながら驚くくらい 奇上きじょうみょうを点じ変傍へんぼうちんを添えている【もう十分おかしいのに、さらに上塗りしている】。脳漿一勺のうしょういっせき【ほんのわずかな脳みそ】の化学的変化は とにかく意志の動いて行為となるところ、発して言辞げんじ【言葉】と化するあたりには不思議にも中庸【調和】を失した点が多い。舌上ぜつじょう竜泉りゅうせんなく、腋下えきか清風せいふうしょうぜざるも、歯根しこん狂臭きょうしゅうあり、筋頭きんとう瘋味ふうみあるをいかんせん【立派な知恵も品位も持ち合わせず、口は臭く、全身からは狂気のにおいがする】。いよいよ大変だ。」
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「ことによると もうすでに立派な患者になっているのでは ないかしらん。まださいわいに人をきずつけたり、世間の邪魔になる事を し出かさんから やはり町内を追払われずに、東京市民として存在しているのではなかろうか。こいつは消極の積極のと言う段じゃない。まず脈拍みゃくはくからして検査しなくてはならん。しかし脈には変りはないようだ。頭は熱いかしらん。これも別に逆上の気味でもない。しかしどうも心配だ。」
「こう自分と気狂きちがいばかりを比較して類似の点ばかり勘定していては、どうしても気狂きちがいの領分を脱する事は出来そうにもない。これは方法がわるかった。気狂きちがいを標準にして 自分をそっちへ引きつけて解釈するから こんな結論が出るのである。もし健康な人を本位にしてそのそばへ自分を置いて考えて見たら あるいは反対の結果が出るかも知れない。それにはまず手近から始めなくてはいかん。第一に今日来たフロックコートの伯父さんはどうだ。心をどこに置こうぞ……あれも少々怪しいようだ。第二に寒月はどうだ。朝から晩まで弁当持参でたまばかり磨いている。これも棒組ぼうぐみ【仲間】だ。第三にと……迷亭? あれはふざけ回るのを天職のように心得ている。全く陽性の気狂きちがいに相違ない。第四はと……金田の妻君。あの毒悪な根性こんじょうは全く常識をはずれている。純然たる気じるし【精神的に普通でない】にきまってる。第五は金田君の番だ。金田君には御目に懸った事はないが、まずあの細君うやうやしくおっ立てて、琴瑟きんしつ調和【夫婦仲が非常に良い】しているところを見ると非凡の人間と見立てて差支さしつかえあるまい。非凡は気狂きちがい異名いみょうであるから、まずこれも同類にしておいて構わない。それからと、‥‥まだあるある。落雲館の諸君子だ、年齢から言うとまだ芽生えだが、躁狂そうきょう【狂ったように騒ぐ】の点においては 一世をむなしゅうするに足る【その時代、それに匹敵する存在は他に誰もいない】天晴あっぱれごうのもの【猛者もさ】である。
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こう数え立てて見ると大抵のものは同類のようである。案外 心 丈夫になって来た。ことによると社会はみんな気狂きちがいの寄り合かも知れない。気狂きちがいが集合してしのぎけずってつかみ合い、いがみ合い、ののしり合い、奪い合って、その全体が団体として細胞のようにくずれたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と言うのでは ないか知らん。その中で多少理屈りくつがわかって、分別のある奴はかえって邪魔になるから、瘋癲院ふうてんいんというものを作って、ここへ押し込めて出られないようにするのでは ないかしらん。すると瘋癲院ふうてんいんに幽閉されているものは普通の人で、院外にあばれているものは かえって気狂きちがいである。気狂きちがいも孤立している間はどこまでも気狂きちがいにされてしまうが、団体となって勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂きちがいが金力や威力を乱用らんようして多くの小気狂しょうきちがい使役しえきして乱暴を働いて、人から立派な男だと言われている例は少なくない。何が何だか分らなくなった」
 以上は主人が当夜煢々けいけいたる【きらきら光りかがやく】孤灯のもとで沈思熟慮した時の心的作用を ありのままにえがき出したものである。彼の頭脳の不透明なる事は ここにも著るしくあらわれている。彼はカイゼルに似た八字髯はちじひげたくわうるにもかかわらず 狂人と常人の差別さえなし得ぬくらいの凡倉ぼんくらである。のみならず彼はせっかく この問題を提供して 自己の思索力に訴えながら、ついに何等の結論に達せずしてやめてしまった。何事によらず彼は徹底的に考える脳力のない男である。彼の結論の茫漠ぼうばく【ぼんやりして つかみどころのない】として、彼の鼻孔から迸出ほうしゅつする【勢いよく飛び出る】朝日の煙のごとく、捕捉ほそくしがたきは、彼の議論における唯一の特色として 記憶すべき事実である。
 吾輩は猫である。猫の癖にどうして主人の心中をかく精密に記述し得るかと 疑うものがあるかも知れんが、このくらいな事は猫にとって何でもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間のひざの上へ乗って眠っているうちに、吾輩は吾輩の柔かな毛衣けごろもをそっと人間の腹にこすり付ける。すると一道の電気が起って 彼の腹の中のいきさつが手にとるように吾輩の心眼に映ずる。
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せんだってなどは主人がやさしく吾輩の頭をで回しながら、突然この猫の皮をいでちゃんちゃんにしたら さぞあたたかで よかろうと飛んでもない了見りょうけんを むらむらと 起したのを即座に気取けどって 覚えず ひやっとした事さえある。こわい事だ。当夜主人の頭のなかに起った以上の思想もそんな訳合わけあいさいわいにも諸君に ご報道する事が出来るように相成ったのは 吾輩おおいに栄誉とするところである。ただ主人は「何が何だか分らなくなった」まで考えて そのあとは ぐうぐう寝てしまったのである、あすになれば 何をどこまで考えたか まるで忘れてしまうに違ない。向後こうご もし主人気狂きちがいについて考える事があるとすれば、もう一ぺん出直して頭から考え始めなければならぬ。そうすると果してこんな径路けいろを取って、こんな風に「何が何だか分らなくなる」かどうだか保証出来ない。しかし何返考え直しても、何条なんじょうの径路をとって進もうとも、ついに「何が何だか分らなくなる」だけはたしかである。


     

「あなた、もう七時ですよ」と襖越ふすまごしに細君が声を掛けた。主人は眼がさめているのだか、寝ているのだか、向うむきになったぎり返事もしない。返事をしないのはこの男の癖である。ぜひ何とか口を切らなければ ならない時はうんと言う。このうんも容易な事では出てこない。人間も返事がうるさくなるくらい無精ぶしょうになると、どことなくおもむきがあるが、こんな人に限って女に好かれた試しがない。現在連れ添う細君ですら、あまり珍重しておらんようだから、その他はして知るべしと言っても大した間違はなかろう。親兄弟に見離され、あかの他人の傾城けいせい【美女】に、可愛がらりょうはずがない、とある以上は、細君にさえ持てない主人が、世間一般の淑女に気に入るはずがない。何も異性間に不人望な主人を この際ことさらに暴露ばくろする必要もないのだが、本人において存外な考え違をして、全く年回りのせい【運勢・巡り合わせ】で細君に好かれないのだ などと理屈をつけていると、まよいの種であるから、自覚の一助にもなろうかと 親切心からちょっと申し添えるまでである。
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 言いつけられた時刻に、時刻がきたと注意しても、先方がその注意を無にする以上は、むこうをむいてうんさえ発せざる以上は、そのきょく【原因】は夫にあって、妻にあらずと論定したる細君は、遅くなっても知りませんよと言う姿勢で ほうきはたきかついで書斎の方へ行ってしまった。やがて ぱたぱた 書斎中をたたき散らす音がするのは 例によって例のごとき 掃除を始めたのである。一体掃除の目的は運動のためか、遊戯のためか、掃除の役目を帯びぬ吾輩の関知するところでないから、知らん顔をしていればつかえないようなものの、ここの細君の掃除法のごときに至っては すこぶる無意義のものと言わざるを得ない。何が無意義であるかと言うと、この細君は単に掃除のために掃除をしているからである。はたきを一通り障子しょうじへかけて、ほうきを一応畳の上へすべらせる。それで掃除は完成した者と解釈している。掃除の源因及び結果に至っては微塵みじんの責任だに背負っておらん。かるが故に【それゆえに】奇麗な所は毎日奇麗だが、ごみのある所、ほこりの積っている所は いつでもごみたまってほこりが積っている。告朔こくさく餼羊きよう【古くから続いている習慣や年中行事は、理由もなく廃絶してはならない】と言う故事こじもある事だから、これでもやらんよりはまし かも知れない。しかしやっても別段主人のためには ならない。ならないところを毎日毎日 御苦労にもやるところが細君のえらいところである。細君と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくってがんとして結びつけられているにも かかわらず、掃除のじつに至っては、妻君がいまだ生れざる以前のごとく、はたきほうきが発明せられざる昔のごとく、ごう【わずか】もあがっておらん。思うに この両者の関係は 形式論理学の命題における名辞のごとく その内容のいかんにかかわらず 結合せられたものであろう。
 吾輩主人と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえぜんに向わぬさきから、猫の身分をもって 朝めしに有りつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁のにおい鮑貝あわびがいの中から、うまそうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。はかない事を、はかないと知りながら頼みにするときは、ただその頼みだけを頭の中に描いて、動かずに落ちついている方が得策であるが、さてそうは行かぬ者で、心の願と実際が、合うか合わぬか是非とも試験して見たくなる。試験して見れば必ず失望するにきまってる事ですら、最後の失望をみずから事実の上に受取るまでは承知出来んものである。
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吾輩はたまらなくなって台所へ這出はいだした。まずへっつい【かまど】の影にある鮑貝あわびがいの中をのぞいて見ると案にたがわず、ゆうめ尽したまま、闃然げきぜんとして【ひっそりと静まり返って】、怪しき光が引窓を初秋はつあきの日影にかがやいている。御三おさんはすでにたての飯を、御櫃おはちに移して、今や七輪しちりんにかけたなべの中をかきまぜつつある。かまの周囲にはき上がって流れだした米の汁が、かさかさに幾条いくすじとなくこびりついて、あるものは吉野紙【非常に薄い和紙】をりつけたごとくに見える。もう飯も汁も出来ているのだから 食わせても よさそうなものだと思った。こんな時に遠慮するのはつまらない話だ、よしんば自分の望通りにならなくったって 元々で損は行かないのだから、思い切って朝飯の催促をしてやろう、いくら居候いそうろうの身分だって ひもじいに変りはない。と考え定めた吾輩は にゃあにゃあ と甘えるごとく、訴うるがごとく、あるいはまたえんずるがごとく泣いて見た。御三はいっこうかえりみる景色けしきがない。生れついてのお多角たかくだから人情にうといのはとうから承知の上だが、そこをうまく泣き立てて同情を起させるのが、こっちの手際てぎわである。今度は にゃごにゃご とやって見た。その泣き声は吾ながら悲壮のおんを帯びて天涯てんがい遊子ゆうしをして断腸の思あらしむるに足ると信ずる。御三てん【平然として】としてかえりみない。この女はつんぼなのかも知れない。聾では下女が勤まるわけがないが、ことによると猫の声だけには聾なのだろう。世の中には色盲しきもうというのがあって、当人は完全な視力を具えているつもりでも、医者から言わせると片輪かたわだそうだが、この御三声盲せいもうなのだろう。声盲だって片輪かたわに違いない。片輪かたわのくせに いやに横風おうふう【遠慮がない】なものだ。夜中なぞでも、いくらこっちが用があるから 開けてくれろと言っても 決して開けてくれた事がない。たまに出してくれたと思うと 今度はどうしても入れてくれない。夏だって夜露は毒だ。いわんやしもにおいてをやで【まして霜では、なおさらで】、軒下に立ち明かして、日の出を待つのは、どんなにつらいか とうてい想像が出来るものではない。この間しめ出しを食った時なぞは 野良犬の襲撃をこうむって、すでに危うく見えたところを、ようやくの事で物置の家根やねへかけ上って、終夜ふるえつづけた事さえある。
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これ等は皆御三の不人情【思いやりのなさ】から胚胎はいたいした【生み出された】不都合である。こんなものを相手にして鳴いて見せたって、感応かんのうのある はずはない のだが、そこが、ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみ【貧しくても煩悩はなくならない】と言うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。にゃごおう にゃごおう と三度目には、注意を喚起するために ことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分では ベートーベンのシンフォニーにも劣らざる 美妙のおんと確信しているのだが 御三には何等の影響も生じないようだ。御三は突然ひざをついて、揚げ板を一枚はねけて、中から堅炭かたずみの四寸ばかり長いのを一本つかみ出した。それからその長い奴を七輪しちりんの角でぽんぽんとたたいたら、長いのが三つほどに砕けて 近所は炭の粉で真黒くなった。少々は汁の中へも入ったらしい。御三はそんな事に頓着する女ではない。直ちにくだけたる三個の炭をなべの尻から七輪の中へ押し込んだ。とうてい吾輩のシンフォニーには耳を傾けそうにもない。仕方がないから悄然しょうぜんと茶の間の方へ引きかえそうとして 風呂場の横を通り過ぎると、ここは今 女の子が三人で顔を洗ってる最中で、なかなか繁昌はんじょうしている。
 顔を洗うと言ったところで、上の二人が幼稚園の生徒で、三番目は 姉の尻についてさえ行かれないくらい 小さいのだから、正式に顔が洗えて、器用に御化粧が出来るはずがない。一番小さいのがバケツの中から雑巾ぞうきんを引きずり出して しきりに顔中で回わしている。雑巾で顔を洗うのは 定めし【さぞかし】心持ちが わるかろうけれども、地震がゆるたびにおもちろいわと言う子だから このくらいの事はあっても驚ろくに足らん。ことによると八木独仙君より悟っている かも知れない。さすがに長女は長女だけに、姉をもってみずから任じているから、うがい茶碗をからからかんと抛出ほうりだして「坊やちゃん、それは雑巾よ」と雑巾をとりにかかる。坊やちゃんも なかなか自信家だから容易にの言う事なんか聞きそうにしない。「いやーよ、ばぶ」と言いながら雑巾を引っ張り返した。このばぶなる語はいかなる意義で、いかなる語源を有しているか、誰も知ってるものがない。ただこの坊やちゃん癇癪かんしゃくを起した時に折々ご使用になるばかりだ。雑巾はこの時 の手と、坊やちゃんの手で左右に引っ張られるから、水を含んだ真中からぽたぽたしずくれて、容赦なく坊やの足にかかる、足だけなら我慢するがひざのあたりがしたたか濡れる。坊やはこれでも元禄げんろく元禄模様の着物】を着ているのである。
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元禄とは何の事だと だんだん聞いて見ると、中形ちゅうがたの模様なら何でも元禄だそうだ。一体だれに教わって来たものか分らない。「坊やちゃん、元禄が濡れるから御よしなさい、ね」と洒落しゃれた事を言う。そのくせこのはついこの間まで元禄と双六すごろく【マス目模様】とを間違えていた物識ものしりである。
 元禄で思い出したからついでに喋舌しゃべってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事はおびただしいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を言ってる。火事できのこ【火の粉】が飛んで来たり、御茶おちゃ味噌みそ【お茶の水】の女学校へ行ったり、恵比寿えびす台所だいどこ大黒だいこく】と並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店わらだなの子じゃないわ」と言うから、よくよく聞きただして見ると 裏店うらだな【裏路地や商店の裏側にある借家(比較的粗末)】と藁店わらだな【カツオの藁焼たたきを提供する飲食店】を混同していたりする。主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽こっけい誤謬ごびゅう【まちがい】を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。
 坊やは‥‥当人は坊やとは言わない。いつでも坊ばと言う‥‥元禄が濡れたのを見て「げんどこべたい」と言って泣き出した。元禄が冷たくては大変だから、御三が台所から飛び出して来て、雑巾を取上げて着物をいてやる。この騒動中 比較的静かであったのは、次女のすん子嬢である。すん子嬢は向うむきになって棚の上からころがり落ちた、お白粉しろいびんをあけて、しきりに御化粧をほどこしている。第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭をキューとでたからたてに一本白い筋が通って、鼻のありかが いささか分明ぶんみょう【はっきり】になって来た。次に塗りつけた指を転じて頬の上を摩擦したから、そこへもってきて、これまた白いかたまりが出来上った。これだけ装飾がととのったところへ、下女がはいって来て坊ばの着物を拭いたついでに、すん子の顔もふいてしまった。すん子は少々不満のていに見えた。
 吾輩はこの光景を横に見て、茶の間から主人の寝室まで来て もう起きたかと ひそかに様子をうかがって見ると、主人の頭がどこにも見えない。その代り十文半ともんはん【25cm】の甲の高い足が、夜具のすそから一本み出している。頭が出ていては起こされる時に迷惑だと思って、かく もぐり込んだのであろう。亀の子のような男である。ところへ書斎の掃除をしてしまった妻君が また ほうきはたきかついでやってくる。
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最前さいぜんのようにふすまの入口から
「まだ お起きに ならないのですか」と声をかけたまま、しばらく立って、首の出ない夜具を見つめていた。今度も返事がない。細君は入口から二歩ふたあしばかり進んで、ほうきをとんと突きながら「まだなんですか、あなた」と重ねて返事を承わる。この時主人はすでに目がめている。覚めているから、細君の襲撃にそなえるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立てこもったのである。首さえ出さなければ、見逃みのがしてくれる事もあろうかと、詰まらない事を頼みにして寝ていたところ、なかなか許しそうもない。しかし第一回の声は敷居の上で、少くとも一間の間隔があったから、まず安心と腹のうちで思っていると、とんと突いたほうきが 何でも三尺くらいの距離に 追っていたには ちょっと驚ろいた。のみならず第二の「まだなんですか、あなた」が距離においても 音量においても 前よりも倍以上の勢を以て 夜具のなかまで聞えたから、こいつは駄目だと覚悟をして、小さな声でうんと返事をした。
「九時までにいらっしゃるのでしょう。早くなさらないと間に合いませんよ」
「そんなに言わなくても今起きる」と夜着よぎ袖口そでぐちから答えたのは奇観である。妻君はいつでもこの手を食って、起きるかと思って安心していると、また寝込まれつけているから、油断は出来ないと「さあ お起きなさい」とせめ立てる。起きると言うのに、なお起きろと責めるのは気に食わんものだ。主人のごときわがまま者には なお気に食わん。ここにおいてか【こういうわけで】主人は今まで頭からかぶっていた夜着を一度にねのけた。見ると大きな眼を二つともいている。
「何だ騒々しい。起きると言えば起きるのだ」
「起きるとおっしゃっても お起きなさらんじゃ ありませんか」
「誰がいつ、そんなうそをついた」
「いつでもですわ」
「馬鹿を言え」
「どっちが馬鹿だか分りゃしない」と妻君ぷんとしてほうきを突いて枕元に立っているところは勇ましかった。この時 裏の車屋の子供、八っちゃんが急に大きな声をしてワーと泣き出す。八っちゃん主人おこり出しさえすれば必ず泣き出すべく、車屋のかみさんから命ぜられるのである。かみさんは主人が怒るたんびに八っちゃんを泣かして小遣こづかいになるかも知れんが、八っちゃんこそいい迷惑だ。こんな御袋おふくろを持ったが最後 朝から晩まで泣き通しに泣いていなくては ならない。
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少しはこの辺の事情を察して主人も少々怒るのを差しひかえてやったら、八っちゃんの寿命が少しは延びるだろうに、いくら金田君から頼まれたって、こんなな事をするのは、天道公平君よりも はげしく おいでになっている方だと鑑定してもよかろう。怒るたんびに泣かせられるだけなら、まだ余裕もあるけれども、金田君が近所のゴロツキ【八っちゃんの家の人】をやとって 今戸焼いまどやき【今戸あたりの職人・荒者を連想させる俗語的表現】をきめ込むたびに、八っちゃんは泣かねばならんのである。主人が怒るか怒らぬか、まだ判然しないうちから、必ず怒るべきものと予想して、早手回しに八っちゃんは泣いているのである。こうなると主人八っちゃんだか、八っちゃん主人だか判然しなくなる。主人にあてつけるに手数てすうは掛らない、ちょっと八っちゃん剣突けんつくを食わせれば【しかりつければ】何の苦もなく、主人よこつらを張った訳になる。むかし西洋で犯罪者を所刑にする時に、本人が国境外に逃亡して、とらえられん時は、偶像をつくって人間の代りにあぶりにしたと言うが、彼等のうちにも西洋の故事に通暁つうぎょう【精通】する軍師があると見えて、うまい計略を授けたものである。落雲館と言い、八っちゃんの御袋と言い、腕のきかぬ主人にとっては 定めし【さぞかし】苦手にがてであろう。そのほか苦手は いろいろある。あるいは町内中ことごとく苦手かも知れんが、ただいまは関係がないから、だんだん成し崩しに紹介致す事にする。
 八っちゃんの泣き声を聞いた主人は、朝っぱらからよほど癇癪かんしゃくが起ったと見えて、たちまち がばと布団ふとんの上に起き直った。こうなると精神修養も八木独仙も何もあったものじゃない。起き直りながら 両方の手でゴシゴシゴシと 表皮のむけるほど、頭中引きき回す。一ヵ月も溜っているフケは遠慮なく、頸筋くびすじやら、寝巻のえりへ飛んでくる。非常な壮観である。ひげはどうだと見ると これはまた驚ろくべく、ぴん然とおっ立っている。持主がおこっているのにひげだけ落ちついていては すまないとでも心得たものか、一本一本に癇癪かんしゃくを起して、勝手次第の方角へ猛烈なる勢をもって突進している。これとても なかなかの見物みものである。昨日きのうは鏡の手前もある事だから、おとなしく独乙ドイツ皇帝陛下の真似をして整列したのであるが、一晩寝れば訓練も何もあった者ではない、直ちに本来の面目【立場】に帰って思い思いのたちに戻るのである。
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あたかも主人の一夜作りの精神修養が、あくる日になるとぬぐうがごとく奇麗に消え去って、生れついての野猪的やちょてき【イノシシ的】本領が直ちに全面を暴露しきたるのと一般【世間の常識】である。こんな乱暴なひげをもっている、こんな乱暴な男が、よくまあ今まで免職にもならずに 教師が勤まったものだと思うと、始めて日本の広い事がわかる。広ければこそ金田君や金田君の犬が 人間として通用しているのでもあろう。彼等が人間として通用する間は主人も免職になる理由がないと確信しているらしい。いざとなれば巣鴨へ端書はがきを飛ばして天道公平君に聞き合せて見れば、すぐ分る事だ。
 この時主人は、昨日きのう紹介した混沌こんとんたる太古の眼を精一杯に見張って、向うの戸棚をきっと見た。これは高さ一間【約1.8m】を横に仕切って上下共おのおの二枚の袋戸【引き戸】をはめたものである。下の方の戸棚は、布団ふとんすそとすれすれの距離にあるから、起き直った主人が眼をあきさえすれば、天然自然ここに視線がむくように出来ている。見ると模様を置いた紙がところどころ破れて妙なはらわたがあからさまに見える。はらわたには いろいろなのがある。あるものは活版摺かっぱんずりで、あるものは肉筆である。あるものは裏返しで、あるものは逆さまである。主人はこのはらわたを見ると同時に、何がかいてあるか読みたくなった。今までは車屋のかみさんでもつらまえて、鼻づらを松の木へ こすりつけてやろう くらいにまでおこっていた主人が、突然この反古紙ほごがみ【くず紙】を読んで見たくなるのは不思議のようであるが、こう言う陽性の癇癪持ちには珍らしくない事だ。小供が泣くときに最中もなかの一つも あてがえば すぐ笑うと一般である。主人むかし去る所の御寺に下宿していた時、ふすまを隔てて尼が五六人いた。尼などと言うものは元来意地のわるい女のうちで もっとも意地のわるいもの であるが、この尼が主人の性質を見抜いたものと見えて自炊のなべをたたきながら、今泣いたからすがもう笑った、今泣いたからすがもう笑ったと拍子を取って歌ったそうだ、主人が尼が大嫌になったのは この時からだと言うが、尼はきらいにせよ全くそれに違ない。主人は泣いたり、笑ったり、嬉しがったり、悲しがったり 人一倍もする代りに いずれも長く続いた事がない。よく言えば執着がなくて、心機しんき【気持ち】がむやみに転ずるのだろうが、これを俗語に翻訳してやさしく言えば奥行のない、うすぺらの、はなぱりだけ強い だだっ子である。
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すでに だだっ子である以上は、喧嘩をする勢で、むっくとね起きた主人が急に気をかえて袋戸ふくろどはらわたを読みにかかるのも もっとも と言わねばなるまい。第一に眼にとまったのが伊藤博文のちである。上を見ると明治十一年九月廿八にじゅうはち日とある。韓国統監かんこくとうかんもこの時代から御布令おふれ尻尾しっぽを追っ懸けてあるいていたと見える。大将この時分は何をしていたんだろうと、読めそうにないところを無理によむと大蔵卿おおくらきょうとある。なるほどえらいものだ、いくら逆か立ちしても大蔵卿である。少し左の方を見ると 今度は大蔵卿 横になって昼寝をしている。もっともだ。逆か立ちではそう長く続く気遣きづかい【はず】はない。下の方に大きな木板もくばん汝(なんじ)はと二字だけ見える、あとが見たいがあいにく露出しておらん。次の行には早くの二字だけ出ている。こいつも読みたいが それぎれで手掛りがない。もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがす かも知れない。探偵と言うものには 高等な教育を受けたものが ないから 事実を挙げるためには何でもする。あれは始末にかないものだ。ねがわくばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は 決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構らしききょこう【罪の無い者をわざと捕らえて罪をでっちあげる】をもって良民を罪におとしいれる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときては これまた立派な気狂きちがいである。次に眼を転じて真中を見ると真中には大分県おおいたけんが宙返りをしている。伊藤博文でさえ逆か立ちをするくらいだから、大分県が宙返りをするのは当然である。主人はここまで読んで来て、双方へにぎこぶしをこしらえて、これを高く天井に向けて突きあげた。あくびの用意である。
 このあくびがまたくじら遠吠とおぼえのように すこぶる変調をきわめた者であったが、それが一段落を告げると、主人は のそのそ と着物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。待ちかねた細君はいきなり布団ふとんをまくって夜着よぎを畳んで、例の通り掃除をはじめる。掃除が例の通りであるごとく、主人の顔の洗い方も十年一日のごとく例の通りである。先日紹介をしたごとく依然として がーがー、げーげーを持続している。
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やがて頭を分け終って、西洋手拭てぬぐいを肩へかけて、茶の間へ出御しゅつぎょ【おでまし】になると、超然ちょうぜんとして長火鉢の横に座を占めた。長火鉢と言うとけやき如輪木じょりんもく【年輪のような模様】か、あか総落そうおとし【化粧縁】で、洗髪あらいがみの姉御が立ひざで、長煙管ながぎせる黒柿くろがき【黒柿でできた長火鉢】の縁へ叩きつける様を 想見する諸君も ないとも限らないが、わが苦沙弥くしゃみ先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない、何で造ったものか素人しろうとには見当けんとうのつかんくらい古雅【古風】なものである。長火鉢は拭き込んで てらてら 光るところが身上しんしょうなのだが、この代物しろものけやきか桜かきり元来不明瞭な上に、ほとんど布巾ふきんをかけた事がないのだから 陰気で引き立たざる事おびただしい。こんなものをどこから買って来たかと言うと、決して買ったおぼえはない。そんなら貰ったかと聞くと、誰もくれた人はないそうだ。しからば盗んだのかとただして見ると、何だかその辺が曖昧あいまいである。昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、当分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように 使っていた火鉢を 何の気もなく、つい持って来てしまった のだそうだ。少々たちが悪いようだ。考えるとたちが悪いようだが こんな事は世間に往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかいつけている うちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委託した代理人のようなものだ。ところが委任された権力をかさに着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らのくちばしるる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満している以上は 長火鉢事件をもって主人に泥棒根性があると断定する訳には行かぬ。もし主人に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。
 長火鉢のそばに陣取って、食卓を前にひかえたる主人の三面には、先刻さっき雑巾ぞうきんで顔を洗った坊ば御茶おちゃ味噌の学校へ行くとん子と、お白粉罎しろいびんに指を突き込んだすん子が、すでに勢揃せいぞろいをして朝飯を食っている。主人は一応この三女子の顔を公平に見渡した。とん子の顔は南蛮鉄なんばんてつ刀のつばのような輪郭りんかくを有している。すん子も妹だけに多少姉の面影おもかげを存して琉球塗りゅうきゅうぬり朱盆しゅぼんくらいな資格はある。ただ坊ばに至ってはひとり異彩を放って、面長おもながに出来上っている。ただたてに長いのなら世間にその例もすくなくないが、この子のは横に長いのである。
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いかに流行が変化しやすくったって、横に長い顔がはやる事はなかろう。主人は自分の子ながらも、つくづく考える事がある。これでも生長しなければならぬ。生長するどころではない、その生長のすみやかなる事は禅寺ぜんでらたけのこが若竹に変化する勢で大きくなる。主人はまた大きくなったなと思うたんびに、うしろから追手おってにせまられるような気がして ひやひやする。いかに空漠くうばく【ぼんやりしている】なる主人でも この三令嬢が女であるくらいは心得ている。女である以上は どうにか片付けなくてはならん くらいも承知している。承知しているだけで 片付ける手腕のない事も 自覚している。そこで自分の子ながらも 少しく持て余しているところである。持て余すくらいなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義を言うとほかに何にもない。ただらざる事を捏造ねつぞうしてみずから苦しんでいる者だと言えば、それで充分だ。
 さすがに子供はえらい。これほど おやじが処置にきゅうしているとは夢にも知らず、楽しそうにご飯をたべる。ところが始末におえないのは坊ばである。坊ばは当年とって三歳であるから、細君が気をかして、食事のときには、三歳然たる小形のはしと茶碗をあてがうのだが、坊ばは決して承知しない。必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかいにくい奴を無理に持ちあつかっている。世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出てがらにもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの坊ば時代から萌芽ほうがし【めばえ】ているのである。そのってきたるところは かくのごとく深いのだから、決して教育や薫陶くんとう【指導】でなおせる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。
 坊ばは隣りから分捕ぶんどった偉大なる茶碗と、長大なる箸を専有して、しきりに暴威をほしいままにしている。使いこなせない者をむやみに使おうとするのだから、いきおい暴威をたくましくせざるを得ない。坊ばはまず箸の根元を二本いっしょに握ったまま うんと茶碗の底へ突込んだ。茶碗の中は飯が八分通り盛り込まれて、その上に味噌汁が一面にみなぎっている。箸の力が茶碗へ伝わるやいなや、今までどうか、こうか、平均を保っていたのが、急に襲撃を受けたので三十度ばかり傾いた。同時に味噌汁は容赦なく だらだらと胸のあたりへこぼれだす。坊ばは そのくらいな事で辟易へきえきする訳がない。
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坊ばは暴君である。今度は突き込んだ箸を、うんと力一杯茶碗の底からね上げた。同時に小さな口を縁まで持って行って、ね上げられた米粒を入るだけ口の中へ受納した。打ちらされた米粒は黄色な汁と相和して鼻のあたまとっぺたとあごとへ、やっと掛声をして飛びついた。飛びつき損じて畳の上へこぼれたものは打算ださん【もくろみ】の限りでない。随分無分別な飯の食い方である。吾輩つつしんで有名なる金田君及び天下の勢力家に忠告する。公等こうら【諸君】の他をあつかう事、坊ばの茶碗と箸をあつかうがごとくんば、公等こうらの口へ飛び込む米粒は極めて僅少きんしょうのものである。必然の勢をもって飛び込むにあらず、戸迷とまどいをして飛び込むのである。どうか御再考をわずらわしたい。世故せこ【世間のさまざまな ならわし】にたけた敏腕家にも似合にあわしからぬ【似つかわしくない】事だ。
 姉のとん子は、自分の箸と茶碗を坊ば略奪りゃくだつされて、不相応に小さな奴をもってさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、一杯にもった積りでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。したがって頻繁ひんぱんに御はちの方へ手が出る。もう四膳かえて、今度は五杯目である。とん子は御はちのふたをあけて大きなしゃもじを取り上げて、しばらくながめていた。これは食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、ついに決心したものと見えて、げのなさそうなところを見計って一掬ひとしゃくいしゃもじの上へ乗せたまでは無難ぶなんであったが、それを裏返して、ぐいと茶碗の上をこいたら、茶碗に入りきらん飯はかたまったまま畳の上へころがり出した。とん子は驚ろく景色けしきもなく、こぼれた飯を鄭寧ていねいに拾い始めた。拾って何にするかと思ったら、みんな御はちの中へ入れてしまった。少しきたないようだ。
 坊ばが一大活躍を試みて箸をね上げた時は、ちょうどとん子が飯をよそいおわった時である。さすがに姉は姉だけで、坊ばの顔のいかにも乱雑なのを見かねて「あら坊ばちゃん、大変よ、顔がぜん粒だらけよ」と言いながら、早速さっそく坊ばの顔の掃除にとりかかる。第一に鼻のあたまに寄寓きぐう【付着】していたのを取払う。取払って捨てると思のほか、すぐ自分の口のなかへ入れてしまったのには驚ろいた。
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それからっぺたにかかる。ここには大分だいぶぐんをなしてかずにしたら、両方を合せて約二十粒もあったろう。姉は丹念に一粒ずつ取っては食い、取っては食い、とうとう妹の顔中にある奴を 一つ残らず食ってしまった。この時ただ今まではおとなしく沢庵たくあんをかじっていたすん子が、急に盛り立ての味噌汁の中から薩摩芋さつまいものくずれたのをしゃくい出して、勢よく口の内へほうり込んだ。諸君も御承知であろうが、汁にした薩摩芋の熱したのほど口中こうちゅうにこたえる者はない。大人おとなですら注意しないと火傷やけどをしたような心持ちがする。ましてすん子のごとき、薩摩芋に経験のとぼしい者は無論狼狽ろうばいする訳である。すん子はワッと言いながら口中こうちゅうの芋を食卓の上へ吐き出した。その二三ぺんがどう言う拍子か、坊ばの前まですべって来て、ちょうどいい加減な距離でとまる。坊ばもとより薩摩芋が大好きである。大好きな薩摩芋が眼の前へ飛んで来たのだから、早速箸をほうり出して、手攫てづかみにして むしゃむしゃ食ってしまった。
 先刻さっきからこのていたらくを目撃していた主人は、一言いちごんも言わずに、専心自分の飯を食い、自分の汁を飲んで、この時はすでに楊枝ようじを使っている最中であった。主人は娘の教育に関して絶体的放任主義をるつもりと見える。今に三人が海老茶式部えびちゃしきぶ【生意気・おてんばの女学生】か鼠式部ねずみしきぶ【紫式部のような教養ある女を気取っているが、その実は猫も見下すコソコソした鼠みたいな女学生?】かになって、三人とも申し合せたように情夫じょうふ【彼氏】をこしらえて出奔しゅっぽんしても【出て行っても】、やはり自分の飯を食って、自分の汁を飲んで澄まして見ているだろう。働きのない事だ。しかし今の世の働きのあると言う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ回って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、かまをかけて人をおとしいれる事よりほかに何も知らないようだ。中学などの少年輩までが見様見真似みようみまねに、こうしなくては幅がかないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべき のを 得々とくとく履行りこうして未来の紳士だと思っている。これは働き手と言うのではない。ごろつき手と言うのである。吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびになぐってやりたくなる。こんなものが一人でもえれば国家はそれだけ衰える訳である。
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こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱ちじょくであって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。なさけない事だ。こんなごろつき手に比べると主人などははるかに上等な人間と言わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才ちょこざい【小ずるい】でないところが上等なのである。
 かくのごとく働きのない食い方をもって、無事に朝食あさめしを済ましたる主人は、やがて洋服を着て、車へ乗って、日本堤分署へ出頭に及んだ。格子こうしをあけた時、車夫に日本堤という所を知ってるかと聞いたら、車夫はへへへと笑った。あの遊郭のある吉原の近辺の 日本堤だぜと 念を押したのは少々滑稽こっけいであった。
 主人が珍らしく車で玄関から出掛けたあとで、妻君は例のごとく食事を済ませて「さあ学校へおいで。遅くなりますよ」と催促すると、小供は平気なもので「あら、でも今日は御休みよ」と支度したくをする景色けしきがない。「御休みなもんですか、早くなさい」としかるように言って聞かせると「それでも昨日きのう、先生が御休だって、おっしゃってよ」とは なかなか動じない。妻君もここに至って多少変に思ったものか、戸棚からこよみを出して繰り返して見ると、赤い字でちゃんと御祭日と出ている。主人は祭日とも知らずに学校へ欠勤届を出したのだろう。細君も知らずに郵便箱へほうり込んだのだろう。ただし迷亭に至っては実際知らなかったのか、知って知らん顔をしたのか、そこは少々疑問である。この発明【出来事】におやと驚ろいた妻君はそれじゃ、みんなでおとなしく御遊びなさいと平生いつもの通り針箱を出して仕事に取りかかる。
 その三十分間は家内平穏、別段吾輩の材料になるような事件も起らなかったが、突然妙な人が御客に来た。十七八の女学生である。かかとのまがった靴をいて、紫色のはかまを引きずって、髪を算盤珠そろばんだまのようにふくらまして勝手口から案内もわずに上って来た。
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これは主人めいである。学校の生徒だそうだが、折々日曜にやって来て、よく叔父さんと喧嘩をして帰って行く雪江ゆきえとか言う奇麗な名のお嬢さんである。もっとも顔は名前ほどでもない、ちょっと表へ出て 一二町あるけば 必ず逢える人相である。
叔母さん今日は」と茶の間へつかつか入って来て、針箱の横へ尻をおろした。
「おや、よく早くから……」
「今日は大祭日ですから、朝のうちにちょっと上がろうと思って、八時半頃からうちを出て急いで来たの」
「そう、何か用があるの?」
「いいえ、ただあんまり御無沙汰をしたから、ちょっと上がったの」
「ちょっとでなくっていいから、ゆっくり遊んでいらっしゃい。今に叔父さんが帰って来ますから」
叔父さんは、もう、どこへかいらしったの。珍らしいのね」
「ええ今日はね、妙な所へ行ったのよ。……警察へ行ったの、妙でしょう」
「あら、何で?」
「この春入った泥棒が つらまったんだって」
「それで引き合に出されるの? いい迷惑ね」
「なあに品物が戻るのよ。取られたものが出たから取りに来いって、昨日きのう巡査がわざわざ来たもんですから」
「おや、そう、それでなくっちゃ、こんなに早く叔父さんが出掛ける事はないわね。いつもなら今時分はまだ寝ていらっしゃるんだわ」
叔父さんほど、寝坊はないんですから……そうして起こすと ぷんぷんおこるのよ。今朝なんかも七時までに是非おこせと言うから、起こしたんでしょう。すると夜具の中へもぐって返事もしないんですもの。こっちは心配だから二度目にまたおこすと、夜着よぎそでから何か言うのよ。本当にあきれ返ってしまうの」
「なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう」
「何ですか」
「本当にむやみに怒るかたね。あれでよく学校が勤まるのね」「なに学校じゃ おとなしいんですって」
「じゃなお悪るいわ。まるで蒟蒻閻魔こんにゃくえんまね」
「なぜ?」
「なぜでも蒟蒻閻魔なの。だって蒟蒻閻魔【普段は弱々しくおとなしいくせに、怒ると閻魔様のように威張る】のようじゃありませんか」
「ただ怒るばかりじゃないのよ。人が右と言えば左、左と言えば右で、何でも人の言う通りにした事がない、‥‥そりゃ強情ですよ」
天探女あまのじゃくでしょう。叔父さんはあれが道楽なのよ。だから何かさせようと思ったら、うらを言うと、こっちの思い通りになるのよ。
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こないだ蝙蝠こうもり傘を買ってもらう時にも、いらない、いらないって、わざと言ったら、いらない事があるものかって、すぐ買って下すったの」
「ホホホホうまいのね。わたしもこれからそうしよう」
「そうなさいよ。それでなくっちゃ損だわ」
「こないだ保険会社の人が来て、是非御入おはいんなさいって、勧めているんでしょう、‥‥いろいろわけを言って、こう言う利益があるの、ああ言う利益があるのって、何でも一時間も話をしたんですが、どうしても入らないの。うちだって貯蓄はなし、こうして小供は三人もあるし、せめて保険へでも入ってくれると よっぽど心丈夫なんですけれども、そんな事は少しも構わないんですもの」
「そうね、もしもの事があると不安心だわね」と十七八の娘に似合しからん世帯染しょたいじみたことを言う。
「その談判を蔭で聞いていると、本当に面白いのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから会社も存在しているのだろう。しかし死なない以上は 保険に入る必要はないじゃないかって 強情を張っているんです」
叔父さんが?」
「ええ、すると会社の男が、それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命と言うものは丈夫なようでもろいもので、知らないうちに、いつ危険がせまっているか分りませんと言うとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心をしているって、まあ無法な事を言うんですよ」
「決心したって、死ぬわねえ。わたしなんか是非及第きゅうだい【期末試験に合格】するつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ」
「保険社員もそう言うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心できが出来るものなら、誰も死ぬものはございませんって」
「保険会社の方が至当しとう【もっとも】ですわ」
「至当でしょう。それがわからないの。いえ決して死なない。誓って死なないって威張るの」「妙ね」
「妙ですとも、大妙おおみょうですわ。保険の掛金を出すくらいなら銀行へ貯金する方がはるかにましだってすまし切っているんですよ」
「貯金があるの?」
「あるもんですか。自分が死んだあとなんか、ちっとも構う考なんかないんですよ」
「本当に心配ね。なぜ、あんななんでしょう、ここへいらっしゃるかただって、叔父さんのようなのは一人もいないわね」
「いるものですか。無類ですよ」
「ちっと鈴木さんにでも頼んで意見でもして貰うといいんですよ。ああ言うおだやかな人だとよっぽど楽ですがねえ」
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「ところが鈴木さんは、うちじゃ評判がわるいのよ」
「みんなさかなのね。それじゃ、あのかたがいいでしょう‥‥ほらあの落ちついてる‥‥」
八木さん?」
「ええ」
八木さんには大分だいぶ閉口しているんですがね。昨日きのう迷亭さんが来て悪口をいったものだから、思ったほどかない かも知れない」
「だっていいじゃありませんか。あんな風に鷹揚おうように【おっとりとして】落ちついていれば、‥‥こないだ学校で演説をなすったわ」
八木さんが?」
「ええ」
八木さんは雪江さんの学校の先生なの」
「いいえ、先生じゃないけども、淑徳しゅくとく婦人会ふじんかい【上品で道徳的な婦人を気取った女性たちの集まり(架空)】のときに招待して、演説をして頂いたの」
「面白かって?」
「そうね、そんなに面白くもなかったわ。だけども、あの先生が、あんな長い顔なんでしょう。そうして天神様のようなひげを生やしているもんだから、みんな感心して聞いていてよ」
「御話しって、どんな御話なの?」と妻君が聞きかけていると縁側の方から、雪江さんの話し声をききつけて、三人の子供がどたばた茶の間へ乱入して来た。今までは竹垣の外の空地あきちへ出て遊んでいたものであろう。
「あら雪江さんが来た」と二人の姉さんは嬉しそうに大きな声を出す。妻君は「そんなに騒がないで、みんな静かにして御座わりなさい。雪江さんが今面白い話をなさるところだから」と仕事を隅へ片付ける。
雪江さん何の御話し、わたし御話しが大好き」と言ったのはとん子で「やっぱりかちかち山の御話し?」と聞いたのはすん子である。「坊ばも御はなち」と言い出した三女は姉と姉の間からひざを前の方に出す。ただしこれは御話をうけたまわると言うのではない、坊ばもまた御話をつかまつる【してさし上げる】と言う意味である。「あら、また坊ばちゃんの話だ」と姉さんが笑うと、妻君は「坊ばはあとでなさい。雪江さんの御話がすんでから」とかして見る。坊ばは なかなか聞きそうにない。「いやーよ、ばぶ」と大きな声を出す。「おお、よしよし坊ばちゃんからなさい。何と言うの?」と雪江さんは謙遜けんそんした。
「あのね。坊たん、坊たん、どこ行くのって」
「面白いのね。それから?」
「わたちは田圃たんぼへ稲刈いに」
「そう、よく知ってる事」
「御前がくうと邪魔だまになる」
「あら、くうとじゃないわ、くるとだわね」ととん子が口を出す。坊ばは相変らず「ばぶ」と一喝いっかつして直ちに姉を辟易へきえきさせる。
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しかし中途で口を出されたものだから、続きを忘れてしまって、あとが出て来ない。「坊ばちゃん、それぎりなの?」と雪江さんが聞く。
「あのね。あとでおならは御免ごめんだよ。ぷう、ぷうぷうって」
「ホホホホ、いやだ事、誰にそんな事を、教わったの?」
御三おたんに」
「わるい御三おさんね、そんな事を教えて」と妻君は苦笑をしていたが「さあ今度は雪江さんの番だ。坊やはおとなしく聞いているのですよ」と言うと、さすがの暴君納得なっとくしたと見えて、それぎり当分の間は沈黙した。
八木先生の演説はこんなのよ」と雪江さんがとうとう口を切った。「昔あるつじの真中に大きな石地蔵があったんですってね。ところがそこが あいにく 馬や車が通る大変にぎやかな場所だもんだから 邪魔になって仕様がないんでね、町内のものが大勢寄って、相談をして、どうしてこの石地蔵を 隅の方へ片づけたらよかろうって 考えたんですって」
「そりゃ本当にあった話なの?」
「どうですか、そんな事は何ともおっしゃらなくってよ。‥‥で みんなが いろいろ相談をしたら、その町内で一番強い男が、そりゃ訳はありません、わたしがきっと片づけて見せますって、一人でその辻へ行って、両肌もろはだを抜いで汗を流して引っ張ったけれども、どうしても動かないんですって」
「よっぽど重い石地蔵なのね」
「ええ、それでその男が疲れてしまって、うちへ帰って寝てしまったから、町内のものはまた相談をしたんですね。すると今度は町内で一番利口な男が、わたしに任せて御覧なさい、一番やって見ますからって、重箱のなかへ牡丹餅ぼたもちを一杯入れて、地蔵の前へ来て、『ここまでおいで』と言いながら牡丹餅を見せびらかしたんだって、地蔵だって食意地くいいじが張ってるから牡丹餅で釣れるだろうと思ったら、少しも動かないんだって。利口な男はこれではいけないと思ってね。今度は瓢箪ひょうたんへお酒を入れて、その瓢箪を片手へぶら下げて、片手へ猪口ちょこを持ってまた地蔵さんの前へ来て、さあ飲みたくはないかね、飲みたければ ここまでおいでと三時間ばかり、からかって見たが やはり動かないんですって」
雪江さん、地蔵様は御腹おなからないの」ととん子がきくと「牡丹餅が食べたいな」とすん子が言った。
「利口な人は二度共しくじったから、その次には贋札にせさつを沢山こしらえて、さあ欲しいだろう、欲しければ取りにおいでと 札を出したり引っ込ましたりしたが これもまるでやくに立たないんですって。よっぽど頑固がんこな地蔵様なのよ」
「そうね。すこし叔父さんに似ているわ」
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「ええまるで叔父さんよ、しまいに利口な人も愛想あいそをつかして やめてしまったんですとさ。それでそのあとからね、大きな法螺ほらを吹く人が出て、わたしならきっと片づけて見せますからご安心なさいと さも容易たやすい事のように受合ったそうです」
「その法螺ほらを吹く人は何をしたんです」
「それが面白いのよ。最初にはね 巡査の服をきて、ひげをして、地蔵様の前へきて、こらこら、動かんとその方のためにならんぞ、警察で棄てておかんぞと威張って見せたんですとさ。今の世に警察の仮声こわいろなんか使ったって誰も聞きゃしないわね」
「本当ね、それで地蔵様は動いたの?」
「動くもんですか、叔父さんですもの」
「でも叔父さんは警察には大変恐れ入っているのよ」
「あらそう、あんな顔をして? それじゃ、そんなにこわい事はないわね。けれども地蔵様は動かないんですって、平気でいるんですとさ。それで法螺吹ほらふきは大変おこって、巡査の服を脱いで、付けひげ紙屑籠かみくずかごほうり込んで、今度は大金持ちの服装なりをして出て来たそうです。今の世で言うと岩崎男爵【三菱財閥3代目】のような顔をするんですとさ。おかしいわね」
「岩崎のような顔ってどんな顔なの?」
「ただ大きな顔をするんでしょう。そうして何もしないで、また何も言わないで地蔵のまわりを、大きな巻煙草まきたばこをふかしながら歩行あるいているんですとさ」
「それが何になるの?」
「地蔵様をけむくんです」
「まるではな洒落しゃれのようね。首尾よくけむいたの?」
「駄目ですわ、相手が石ですもの。ごまかしも たいていにすればいいのに、今度は殿下さまに化けて来たんだって。馬鹿ね」
「へえ、その時分にも殿下さまがあるの?」
「有るんでしょう。八木先生はそうおっしゃってよ。たしかに殿下様に化けたんだって、恐れ多い事だが化けて来たって‥‥第一不敬【敬意を欠いた行動】じゃありませんか、法螺吹ほらふきの分際ぶんざいで」
「殿下って、どの殿下さまなの」
「どの殿下さまですか、どの殿下さまだって不敬ですわ」
「そうね」
「殿下さまでもかないでしょう。法螺吹ほらふきもしようがないから、とてもわたし手際てぎわでは、あの地蔵はどうする事も出来ません と降参をしたそうです」
「いい気味ね」
「ええ、ついでに懲役ちょうえきにやればいいのに。‥‥でも町内のものは大層 気をんで、また相談を開いたんですが、もう誰も引き受けるものがないんで弱ったそうです」
「それでおしまい?」
「まだあるのよ。一番しまいに車屋とゴロツキを大勢雇って、地蔵様のまわりをわいわい騒いであるいたんです。
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ただ地蔵様をいじめて、いたたまれないように すればいいと言って、夜昼交替こうたいで騒ぐんだって」
「御苦労様ですこと」
「それでも取り合わないんですとさ。地蔵様の方も随分強情ね」
「それから、どうして?」ととん子が熱心に聞く。
「それからね、いくら毎日毎日騒いでもげん【効果】が見えないので、大分だいぶみんながいやになって来たんですが、車夫やゴロツキは幾日いくんちでも日当にっとうになる事だから喜んで騒いでいましたとさ」
雪江さん、日当ってなに?」とすん子が質問をする。
「日当と言うのはね、御金の事なの」
「御金をもらって何にするの?」
「御金を貰ってね。……ホホホホいやなすん子さんだ。‥‥それで叔母さん、毎日毎晩から騒ぎをしていますとね。その時町内に馬鹿竹ばかたけと言って、なんにも知らない、誰も相手にしない馬鹿がいたんですってね。その馬鹿がこの騒ぎを見て御前方おまえがたは何でそんなに騒ぐんだ、何年かかっても地蔵一つ動かす事が出来ないのか、可哀想かわいそうなものだ、と言ったそうですって‥‥」
「馬鹿の癖にえらいのね」
「なかなか えらい馬鹿なのよ。みんなが馬鹿竹ばかたけの言う事を聞いて、物はためしだ、どうせ駄目だろうが、まあ竹にやらして見ようじゃないかと それから竹に頼むと、竹は一も二もなく引き受けたが、そんな邪魔な騒ぎをしないで まあ静かにしろと車引やゴロツキを引き込まして 飄然ひょうぜんと地蔵様の前へ出て来ました」
雪江さん飄然て、馬鹿竹のお友達?」ととん子肝心かんじんなところで奇問を放ったので、細君雪江さんはどっと笑い出した。
「いいえお友達じゃないのよ」「じゃ、なに?」
「飄然と言うのはね。‥‥言いようがないわ」
「飄然て、言いようがないの?」
「そうじゃないのよ、飄然と言うのはね‥‥」
「ええ」
「そら多々良たたら三平さんぺいさんを知ってるでしょう」
「ええ、山の芋をくれてよ」
「あの多々良さん見たようなを言うのよ」
多々良さんは飄然なの?」
「ええ、まあそうよ。‥‥それで馬鹿竹が地蔵様の前へ来て懐手ふところでをして、地蔵様、町内のものが、あなたに動いてくれと言うから 動いてやんなさいと言ったら、地蔵様はたちまち そうか、そんなら早くそう言えばいいのに、と のこのこ動き出したそうです」
「妙な地蔵様ね」
「それからが演説よ」
「まだあるの?」
「ええ、それから八木先生がね、今日こんにちは御婦人の会でありますが、私が かような御話をわざわざ致したのは少々考があるので、こう申すと失礼かも知れませんが、婦人というものは とかく物をするのに 正面から近道を通って行かないで、かえって遠方から回りくどい手段をとるへいがある。もっともこれは御婦人に限った事でない。
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明治のは男子といえども、文明の弊を受けて多少女性的になっているから、よくいらざる手数てすうと労力をついやして、これが本筋である、紳士のやるべき方針であると 誤解しているものが多いようだが、これ等は開化の業に束縛された奇形児きけいじである。別に論ずるに及ばん。ただ御婦人にっては なるべく ただいま申した昔話を御記憶になって、いざと言う場合には どうか馬鹿竹のような 正直な了見で物事を処理していただきたい。あなた方が馬鹿竹になれば夫婦の間、嫁姑よめしゅうとの間に起るいまわしき葛藤かっとう三分一さんぶいちは たしかに減ぜられるに相違ない。人間は魂胆こんたんがあればあるほど、その魂胆がたたって不幸のみなもとをなすので、多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆があり過ぎるからである。どうか馬鹿竹になって下さい、と言う演説なの」
「へえ、それで雪江さんは馬鹿竹になる気なの」
「やだわ、馬鹿竹だなんて。そんなものに なりたくはないわ。金田の富子さんなんぞは失敬だって大変おこってよ」
「金田の富子さんて、あの向横町むこうよこちょうの?」
「ええ、あのハイカラさんよ」
「あの人も雪江さんの学校へ行くの?」
「いいえ、ただ婦人会だから傍聴に来たの。本当にハイカラね。どうも驚ろいちまうわ」
「でも大変いい器量だって言うじゃありませんか」
「並ですわ。御自慢ほどじゃありませんよ。あんなに御化粧をすれば たいていの人はよく見えるわ」
「それじゃ雪江さんなんぞは そのかたのように御化粧をすれば金田さんの倍くらい美しくなるでしょう」
「あらいやだ。よくってよ。知らないわ。だけど、あのかたは全くつくり過ぎるのね。なんぼ御金があったって‥‥」
「つくり過ぎても御金のある方がいいじゃありませんか」
「それもそうだけれども‥‥あのかたこそ、少し馬鹿竹になった方がいいでしょう。無暗むやみに威張るんですもの。この間もなんとか言う詩人が新体詩集を捧げたって、みんなに吹聴ふいちょうしているんですもの」
東風さんでしょう」
「あら、あの方が捧げたの、よっぽど物数奇ものずきね」
「でも東風さんは大変真面目なんですよ。自分じゃ、あんな事をするのが当前あたりまえだとまで思ってるんですもの」
「そんな人があるから、いけないんですよ。
46/116
‥‥それからまだ面白い事があるの。此間こないだだれか、あの方のとこ艶書えんしょ【恋文】を送ったものがあるんだって」
「おや、いやらしい。誰なの、そんな事をしたのは」
「誰だか わからないんだって」
「名前はないの?」
「名前はちゃんと書いてあるんだけれども 聞いた事もない人だって、そうしてそれが長い長い一間【約182㎝】ばかりもある手紙でね。いろいろな妙な事がかいてあるんですとさ。わたしがあなたをおもっているのは、ちょうど宗教家が神にあこがれている ようなものだの、あなたのためならば祭壇に供える小羊となってほふられる【犠牲として捧げられる】のが無上の名誉であるの、心臓のかたちが三角で、三角の中心にキューピッドの矢が立って、吹き矢なら大当りであるの……」
「そりゃ真面目なの?」
「真面目なんですとさ。現にわたしの御友達のうちで その手紙を見たものが 三人あるんですもの」
「いやな人ね、そんなものを見せびらかして。あの方は寒月さんのとこへ御嫁に行くつもりなんだから、そんな事が世間へ知れちゃ困るでしょうにね」
「困るどころですか大得意よ。こんだ寒月さんが来たら、知らして上げたらいいでしょう。寒月さんはまるで御存じないんでしょう」
「どうですか、あの方は学校へ行ってたまばかり磨いていらっしゃるから、大方知らないでしょう」
寒月さんは本当にあの方を御貰おもらいになる気なんでしょうかね。御気の毒だわね」
「なぜ? 御金があって、いざって時に力になって、いいじゃありませんか」
叔母さんは、じきに金、金ってひんがわるいのね。金より愛の方が大事じゃありませんか。愛がなければ夫婦の関係は成立しやしないわ」「そう、それじゃ雪江さんは、どんなところへ御嫁に行くの?」
「そんな事知るもんですか、別に何もないんですもの」
 雪江さんと叔母さんは結婚事件について何か弁論をたくましくしていると、さっきから、分らないなりに謹聴しているとんが突然口を開いて「わたしも御嫁に行きたいな」と言いだした。この無鉄砲な希望には、さすが青春の気に満ちて、おおいに同情を寄すべき雪江さんも ちょっと毒気を抜かれたていであったが、細君の方は比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑ながら聞いて見た。
わたしねえ、本当はね、招魂社しょうこんしゃ【靖国神社】へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
 細君雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女のすん子が姉さんに向って かような相談を持ちかけた。
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「御ねえ様も招魂社しょうこんしゃ【単に近くの賑やかな所】がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社しょうこんしゃへ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやならいわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」
坊ばも行くの」とついには坊ばさんまでが招魂社しょうこんしゃへ嫁に行く事になった。かように三人が顔をそろえて招魂社しょうこんしゃへ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。
 ところへ車の音ががらがらと門前に留ったと思ったら、たちまち威勢のいい御帰りと言う声がした。主人は日本堤分署から戻ったと見える。車夫が差出す大きな風呂敷包を下女に受け取らして、主人悠然ゆうぜんと茶の間へ入って来る。「やあ、来たね」と雪江さんに挨拶あいさつしながら、例の有名なる長火鉢のそばへ、ぽかりと手にたずさえた徳利様とっくりようのものをほうり出した。徳利様と言うのは純然たる徳利では無論ない、と言って花活はないけとも思われない、ただ一種異様の陶器であるから、やむを得ずしばらく かように申したのである。
「妙な徳利ね、そんなものを警察から貰っていらしったの」と雪江さんが、倒れた奴を起しながら叔父さんに聞いて見る。叔父さんは、雪江さんの顔を見ながら、「どうだ、いい格好かっこうだろう」と自慢する。
「いい格好なの? それが? あんまりよかあないわ? 油壺あぶらつぼなんか何で持っていらっしったの?」
「油壺なものか。そんな趣味のない事を言うから困る」
「じゃ、なあに?」
花活はないけさ」
「花活にしちゃ、口がいさ過ぎて、いやに胴が張ってるわ」
「そこが面白いんだ。御前も無風流だな。まるで叔母さんえらぶところなしだ。困ったものだな」とひとりで油壺を取り上げて、障子しょうじの方へ向けてながめている。
「どうせ無風流ですわ。油壺を警察から貰ってくるような真似は出来ないわ。ねえ叔母さん叔母さんはそれどころではない、風呂敷包をいて皿眼さらまなこになって、盗難品をしらべている。「おや驚ろいた。泥棒も進歩したのね。みんな、解いて洗い張【着物を解いて反物の状態に戻し、水洗いして汚れを落とすこと】をしてあるわ。ねえちょいと、あなた」
「誰が警察から油壺を貰ってくるものか。待ってるのが退屈だから、あすこいらを散歩しているうちに堀り出して来たんだ。御前なんぞには分るまいがそれでも珍品だよ」
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「珍品過ぎるわ。一体叔父さんはどこを散歩したの」
「どこって日本堤にほんづつみ 界隈かいわいさ。吉原へも入って見た。なかなかさかんな所だ。あの鉄の門をた事があるかい。ないだろう」
「だれが見るもんですか。吉原なんて賤業婦せんぎょうふのいる所へ行く因縁いんねんがありませんわ。叔父さんは教師の身で、よくまあ、あんな所へ行かれたものねえ。本当に驚ろいてしまうわ。ねえ叔母さん、叔母さん」
「ええ、そうね。どうも品数しなかずが足りないようだ事。これでみんな戻ったんでしょうか」
「戻らんのは山の芋ばかりさ。元来九時に出頭しろと言いながら 十一時まで待たせる法があるものか、これだから日本の警察はいかん」
「日本の警察がいけないって、吉原を散歩しちゃ なおいけないわ。そんな事が知れると免職になってよ。ねえ叔母さん
「ええ、なるでしょう。あなた、私の帯の片側かたかわがないんです。何だか足りないと思ったら」
「帯の片側くらいあきらめるさ。こっちは三時間も待たされて、大切の時間を半日つぶしてしまった」と日本服に着代えて平気に火鉢へもたれて油壺をながめている。細君も仕方がないとあきらめて、戻った品をそのまま戸棚へしまいんで座に帰る。
叔母さん、この油壺が珍品ですとさ。きたないじゃありませんか」
「それを吉原で買っていらしったの? まあ」
「何がまあだ。分りもしない癖に」
「それでもそんな壺なら吉原へ行かなくっても、どこにだって あるじゃありませんか」
「ところがないんだよ。滅多めったに有る品ではないんだよ」
叔父さんは随分石地蔵いしじぞうね」
「また小供の癖に生意気を言う。どうもこの頃の女学生は口が悪るくっていかん。ちと女大学【江戸時代の女性向け道徳書】でも読むがいい」
叔父さんは保険がきらいでしょう。女学生と保険とどっちが嫌なの?」
「保険は嫌ではない。あれは必要なものだ。未来の考のあるものは、誰でも入る。女学生は無用の長物だ」
「無用の長物でもいい事よ。保険へ入ってもいない癖に」
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「来月から入るつもりだ」
「きっと?」
「きっとだとも」
「およしなさいよ、保険なんか。それよりかその懸金かけきんで何か買った方がいいわ。ねえ、叔母さん叔母さんは にやにや笑っている。主人は真面目になって
「お前などは百も二百も生きる気だから、そんな呑気のんきな事を言うのだが、もう少し理性が発達して見ろ、保険の必要を感ずるに至るのは当前あたりまえだ。ぜひ来月から入るんだ」
「そう、それじゃ仕方がない。だけど こないだのように蝙蝠こうもり傘を買って下さる御金があるなら、保険に入る方がまし かも知れないわ。ひとがいりません、いりませんと言うのを無理に買って下さるんですもの」
「そんなに いらなかったのか?」
「ええ、蝙蝠こうもり傘なんか欲しかないわ」
「そんならかえすがいい。ちょうどとん子が欲しがってるから、あれをこっちへ回してやろう。今日持って来たか」
「あら、そりゃ、あんまりだわ。だってひどいじゃありませんか、せっかく買って下すっておきながら、還せなんて」
「いらないと言うから、還せと言うのさ。ちっともひどくはない」
「いらない事はいらないんですけれども、ひどいわ」
「分らん事を言う奴だな。いらないと言うから還せと言うのにひどい事があるものか」
「だって」
「だって、どうしたんだ」
「だってひどいわ」
だな、同じ事ばかり繰り返している」
叔父さんだって同じ事ばかり繰り返しているじゃありませんか」
「御前が繰り返すから仕方がないさ。現にいらないと言ったじゃないか」
「そりゃ言いましたわ。いらない事はいらないんですけれども、還すのはいやですもの」
「驚ろいたな。没分暁わからずやで強情なんだから仕方がない。御前の学校じゃ論理学を教えないのか」
「よくってよ、どうせ無教育なんですから、何とでもおっしゃい。人のものを還せだなんて、他人だってそんな不人情【思いやりがない】な事は言やしない。ちっと馬鹿竹ばかたけの真似でもなさい」
「何の真似をしろ?」
「ちと正直に淡泊たんぱくになさいと言うんです」
「お前は愚物の癖に やに【とても】強情だよ。それだから落第するんだ」
「落第したって叔父さんに学資は出して貰やしないわ」
 雪江さんはげんここに至って感にえざるもののごとく、潸然さんぜんとして一掬いっきくなんだを紫のはかまの上に落した【はらはらと涙を流し、その一すくい分ほどの涙を、紫の袴の上にぽとりと落とした】。
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主人茫乎ぼうこ【ぼんやり】として、その涙が いかなる心理作用に起因するかを 研究するもののごとく、袴の上と、つ向いた雪江さんの顔を見つめていた。ところへ御三おさんが台所から赤い手を敷居越にそろえて「お客さまがいらっしゃいました」と言う。「誰が来たんだ」と主人が聞くと「学校の生徒さんでございます」と御三雪江さんの泣顔を横目ににらめながら答えた。主人は客間へ出て行く。吾輩も 種【話のタネ】取りけん人間研究のため、主人して忍びやかにえんへ回った。人間を研究するには何か波瀾がある時をえらばないと一向いっこう結果が出て来ない。平生は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張合のないくらい平凡である。しかしいざとなると この平凡が急に霊妙なる 神秘的作用のために むくむくと持ち上がって奇なもの、変なもの、妙なもの、なもの、一と口に言えば吾輩猫共から見て すこぶる後学になるような事件が 至るところに横風おうふう【遠慮なく】にあらわれてくる。雪江さんの紅涙こうるい【女性の流す涙】のごときは まさしくその現象の一つである。かくのごとく不可思議、不可測ふかそくの心を有している雪江さんも、細君と話をしているうちは さほどとも思わなかったが、主人が帰ってきて油壺をほうり出すやいなや、たちまち死竜しりゅう蒸汽喞筒じょうきポンプを注ぎかけたるごとく【死んだ竜に、蒸気ポンプで一気に水をぶっかけたように】、勃然ぼつぜんとしてその深奥しんおうにして窺知きちすべからざる【深遠そうに見えるが、正体不明・理解不能で】、巧妙なる、美妙なる、奇妙なる、霊妙なる、麗質【もって生まれたりっぱな性質】を、惜気もなく発揚しおわった。しかしてその麗質は天下の女性にょしょうに共通なる麗質である。ただ惜しい事には容易よういにあらわれて来ない。いやあらわれる事は二六時中【一日中】間断なくあらわれているが、かくのごとく顕著に灼然炳乎しゃくぜんへいことして【非常にはっきりとして】遠慮なくはあらわれて来ない。幸にして主人のように吾輩の毛を ややともすると 逆さにでたがる旋毛曲つむじまがりの奇特家きどくかがおったから、かかる狂言【滑稽こっけい喜劇】も拝見が出来たのであろう。主人のあとさえついてあるけば、どこへ行っても舞台の役者は吾知らず動くに相違ない。面白い男を旦那様にいただいて、短かい猫の命のうちにも、大分だいぶ多くの経験が出来る。ありがたい事だ。今度のお客は何者であろう。
 見ると年頃は十七八、雪江さんとっつ、っつの書生である。大きな頭をいて見えるほど刈り込んで 団子だんごぱなを顔の真中にかためて、座敷の隅の方にひかえている。
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別にこれと言う特徴もないが頭蓋骨ずがいこつだけは すこぶる大きい。青坊主に刈ってさえ、ああ大きく見えるのだから、主人のように長く延ばしたら 定めし【さぞかし】人目をく事だろう。こんな顔にかぎって学問はあまり出来ない者だとは、かねてより主人の持説である。事実はそうかも知れないが ちょっと見るとナポレオンのようで すこぶる偉観である。着物は通例の書生のごとく、薩摩絣さつまがすりか、久留米くるめがすりか また伊予いよか分らないが、ともかくもかすりと名づけられたるあわせ【裏地付きの着物】を袖短かに着こなして、下には襯衣シャツ襦袢じゅばん【着物の下に着る間着】もないようだ。素袷すあわせ【肌に直で袷を着る】や素足すあしは意気なもの だそうだが、この男の はなはだ むさ苦しい感じを与える。ことに畳の上に泥棒のような親指を歴然と三つまでいんしている【親指の跡が三つ、はっきりと残っている】のは 全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡【猫(吾輩)の足跡】の上へちゃんと座って、さも窮屈きゅうくつそうにしこまっている。一体かしこまるべきものが おとなしくひかえるのは別段気にするにも及ばんが、毬栗頭いがぐりあたまのつんつるてん【衣服の丈が短く、手足やひざが露出している状態】の乱暴者が恐縮しているところは 何となく不調和なものだ。途中で先生に逢ってさえ 礼をしないのを自慢にするくらいの連中が、たとい三十分でも人並に座るのは苦しいに違ない。ところを生れ得て恭謙きょうけんの君子【礼儀正しく謙虚な君子】、盛徳の長者ちょうしゃ【すぐれた徳を持った立派な人物】であるかのごとく構えるのだから、当人の苦しいにかかわらずはたから見ると大分だいぶおかしいのである。教場もしくは運動場であんなに騒々しいものが、どうしてかように自己を箝束かんそく【束縛】する力をそなえているかと思うと、憐れにもあるが滑稽こっけいでもある。こうやって一人ずつ相対あいたいになると、いかに愚騃ぐがい【おろか】なる主人といえども 生徒に対して幾分かの重みがあるように思われる。主人も 定めし【さぞかし】得意であろう。ちり積って山をなすと言うから、微々たる一生徒も多勢たぜい聚合しゅうごうするとあなどるべからざる団体となって、排斥はいせき運動やストライキをしでかす かも知れない。これはちょうど臆病者が酒を飲んで 大胆になるような現象であろう。衆を頼んで騒ぎ出すのは、人の気に酔っ払った結果、正気を取り落したるものと認めて差支さしつかえあるまい。それでなければ かように恐れ入ると言わんよりむしろ悄然しょうぜんとして、みずかふすまに押し付けられているくらいな薩摩絣さつまがすりが、いかに老朽ろうきゅうだと言って、かりそめにも先生と名のつく主人軽蔑けいべつしようがない。馬鹿に出来る訳がない。
 主人座布団ざぶとんを押しやりながら、「さあお敷き」と言ったが毬栗先生は かたくなったまま「へえ」と言って動かない。
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鼻の先にげかかった更紗さらさの座布団が「御乗んなさい」とも何とも言わずに着席しているうしろに、生きた大頭がつくねんと着席しているのは妙なものだ。布団は乗るための布団で見詰めるために細君勧工場【百貨店やマーケットの前身】から仕入れて来たのではない。布団にして敷かれずんば、布団はまさしくその名誉を毀損きそんせられたるもので、これを勧めたる主人もまた幾分か顔が立たない事になる。主人の顔をつぶしてまで、布団とにらめくらをしている毬栗君は決して布団その物がきらいなのではない。実を言うと、正式に座った事は祖父じいさんの法事の時のほかは生れてから滅多めったにないので、っきからすでにしびれが切れかかって 少々足の先は困難を訴えているのである。それにもかかわらず敷かない。布団が手持無沙汰にひかえているにもかかわらず敷かない。主人がさあお敷きと言うのに敷かない。厄介な毬栗坊主だ。このくらい遠慮するなら多人数たにんず集まった時もう少し遠慮すればいいのに、学校でもう少し遠慮すればいいのに、下宿屋でもう少し遠慮すればいいのに。すまじきところへ気兼きがねをして、すべき時には謙遜けんそんしない、いなおおい狼藉ろうぜきを働らく。たちの悪るい毬栗坊主だ。
 ところへうしろのふすまをすうと開けて、雪江さんが一碗の茶をうやうやしく坊主に供した。平生なら、そらサヴェジ・チー【過去に『番茶は Savage tea』と訳してネタにされている】が出たとやかすのだが、主人一人に対してすら痛みっている上へ、妙齢の女性にょしょうが学校で覚え立ての小笠原流おがさわらりゅうで、おつに気取った手つきをして茶碗を突きつけたのだから、坊主おおい苦悶くもんていに見える。雪江さんはふすまをしめる時に後ろから にやにやと笑った。して見ると女は同年輩でも なかなかえらいものだ。坊主に比すればはるかに度胸がわっている。ことに先刻さっきの無念に はらはらと流した一滴の紅涙こうるいのあとだから、この にやにやが さらに目立って見えた。
 雪江さんの引き込んだあとは、双方無言のまま、しばらくの間は辛防しんぼうしていたが、これではぎょうをするようなものだと気がついた主人はようやく口を開いた。
「君は何とか言ったけな」
古井ふるい……」
古井? 古井何とかだね。名は」「古井武右衛門ぶえもん
「古井武右衛門‥‥なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昔の名だ。四年生だったね」
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「いいえ」
「三年生か?」
「いいえ、二年生です」
「甲の組かね」
「乙です」
「乙なら、わたしの監督だね。そうか」と主人は感心している。実はこの大頭は入学の当時から、主人の眼についているんだから、決して忘れるどころではない。のみならず、時々は夢に見るくらい感銘した頭である。しかし呑気のんき主人はこの頭とこの古風な姓名とを連結して、その連結したものを また二年乙組に連結する事が出来なかったのである。だからこの夢に見るほど感心した頭が 自分の監督組の生徒であると聞いて、思わずそうかと心のうちで手をったのである。しかしこの大きな頭の、古い名の、しかも自分の監督する生徒が 何のために今頃やって来たのかとん推諒すいりょう出来ない。元来不人望な主人の事だから、学校の生徒などは正月だろうが暮だろうが ほとんど寄りついた事がない。寄りついたのは古井武右衛門君をもって嚆矢こうし【物事のはじまり】とするくらいな珍客であるが、その来訪の主意がわからんには主人おおいに閉口しているらしい。こんな面白くない人のうちへただ遊びにくる訳もなかろうし、また辞職勧告ならもう少し昂然こうぜん【意気が盛ん】と構え込みそうだし、と言って武右衛門君などが一身上の用事相談があるはずがないし、どっちから、どう考えても主人には分らない。武右衛門君の様子を見るとあるいは本人自身にすら何で、ここまで参ったのか判然しない かも知れない。仕方がないから主人からとうとう表向に聞き出した。
「君遊びに来たのか」
「そうじゃないんです」
「それじゃ用事かね」
「ええ」
「学校の事かい」
「ええ、少し御話ししようと思って……」
「うむ。どんな事かね。さあ話したまえ」と言うと武右衛門君 下を向いたぎりなんにも言わない。元来武右衛門君は中学の二年生にしてはよく弁ずる方で、頭の大きい割に脳力は発達しておらんが、喋舌しゃべる事においては乙組中鏘々そうそうたる【盛んな】ものである。現にせんだってコロンブスの日本訳を教えろと言っておおい主人を困らしたは まさにこの武右衛門君である。その鏘々そうそうたる【盛んな】先生が、最前さいぜんからどもりの御姫様のように もじもじしているのは、何か言わくのある事でなくてはならん。単に遠慮のみとは とうてい受け取られない。主人も少々不審に思った。
「話す事があるなら、早く話したらいいじゃないか」
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「少し話しにくい事で……」
「話しにくい?」と言いながら主人武右衛門君の顔を見たが、先方は依然として俯向うつむきになってるから、何事とも鑑定が出来ない。やむを得ず、少し語勢を変えて「いいさ。何でも話すがいい。ほかに誰も聞いていやしない。わたしも他言たごんはしないから」とおだやかにつけ加えた。
「話してもいいでしょうか?」と武右衛門君はまだ迷っている。
「いいだろう」と主人は勝手な判断をする。
「では話しますが」といいかけて、毬栗いがぐりあたまをむくりと持ち上げて主人の方をちょっとまぼしそうに見た。その眼は三角である。主人は頬をふくらまして 朝日の煙を吹き出しながら ちょっと横を向いた。
「実はその……困った事になっちまって……」
「何が?」
「何がって、はなはだ困るもんですから、来たんです」
「だからさ、何が困るんだよ」
「そんな事をする考はなかったんですけれども、浜田はまだが借せ借せと言うもんですから……」
浜田と言うのは浜田平助へいすけかい」
「ええ」
浜田に下宿料でも借したのかい」
「何そんなものを借したんじゃありません」
「じゃ何を借したんだい」
「名前を借したんです」
浜田が君の名前を借りて何をしたんだい」
艶書えんしょ【恋文】を送ったんです」
「何を送った?」
「だから、名前はして、投函役とうかんやくになると言ったんです」
「何だか要領を得んじゃないか。一体誰が何をしたんだい」「艶書えんしょを送ったんです」
「艶書を送った? 誰に?」
「だから、話しにくいと言うんです」
「じゃ君が、どこかの女に艶書を送ったのか」
「いいえ、僕じゃないんです」
浜田が送ったのかい」
浜田でもないんです」
「じゃ誰が送ったんだい」
「誰だか分らないんです」
「ちっとも要領を得ないな。では誰も送らんのかい」
「名前だけは僕の名なんです」
「名前だけは君の名だって、何の事だかちっとも分らんじゃないか。もっと条理を立てて話すがいい。元来その艶書を受けた当人はだれか」
金田って向横丁むこうよこちょうにいる女です」
「あの金田という実業家か」
「ええ」
「で、名前だけ借したとは何の事だい」
「あすこの娘が ハイカラで生意気だから 艶書を送ったんです。‥‥浜田が名前がなくちゃいけないって言いますから、君の名前をかけって言ったら、僕のじゃつまらない。
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古井武右衛門の方がいいって‥‥それで、とうとう僕の名を借してしまったんです」
「で、君はあすこの娘を知ってるのか。交際でもあるのか」
「交際も何もありゃしません。顔なんか見た事もありません」
「乱暴だな。顔も知らない人に艶書をやるなんて、まあどう言う了見で、そんな事をしたんだい」
「ただみんなが あいつは生意気で威張ってるて言うから、からかってやったんです」
「ますます乱暴だな。じゃ君の名を公然とかいて送ったんだな」
「ええ、文章は浜田が書いたんです。僕が名前を借して遠藤が 夜 あすこのうちまで行って投函して来たんです」
「じゃ三人で共同してやったんだね」
「ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退学にでもなると大変だと思って、非常に心配して二三日にさんちは寝られないんで、何だかぼんやりしてしまいました」
「そりゃまた飛んでもない馬鹿をしたもんだ。それで文明中学二年生古井武右衛門とでもかいたのかい」
「いいえ、学校の名なんか書きゃしません」
「学校の名を書かないだけ まあよかった。これで学校の名が出て見るがいい。それこそ文明中学の名誉に関する」
「どうでしょう退校になるでしょうか」
「そうさな」
「先生、僕のおやじさんは大変やかましい人で、それにおっかさんが継母ままははですから、もし退校にでもなろうもんなら、僕あ困っちまうです。本当に退校になるでしょうか」
「だから滅多めったな真似をしないがいい」
「する気でもなかったんですが、ついやってしまったんです。退校にならないように出来ないでしょうか」と武右衛門君は泣き出しそうな声をして しきりに哀願に及んでいる。ふすまの蔭では最前さいぜんから細君雪江さんが くすくす笑っている。主人くまでも もったいぶって「そうさな」を繰り返している。なかなか面白い。
 吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人がある かも知れない。聞くのはもっともだ。人間にせよ、動物にせよ、おのれを知るのは生涯しょうがいの大事である。おのれを知る事が出来さえすれば 人間も人間として 猫より尊敬を受けてよろしい。その時は吾輩もこんな いたずらを書くのは気の毒だから すぐさま やめてしまうつもりである。しかし自分で自分の鼻の高さが分らないと同じように、自己の何物かは なかなか見当けんとうがつきくいと見えて、平生から軽蔑けいべつしている猫に向ってさえ かような質問をかけるのであろう。
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人間は生意気なようでも やはり、どこか抜けている。万物の霊だなどと どこへでも万物の霊をかついであるくかと思うと、これしきの事実が理解出来ない。しかもてんとして【恥を何とも思わないで】平然たるに至っては ちと一噱いっきゃく【ひと笑い】を催したくなる。彼は万物の霊を背中へかついで、おれの鼻はどこにあるか教えてくれ、教えてくれと騒ぎ立てている。それなら万物の霊を辞職するかと思うと、どう致して死んでも放しそうにしない。このくらい公然と矛盾をして平気でいられれば愛嬌あいきょうになる。愛嬌になる代りには馬鹿をもってあまんじなくてはならん。
 吾輩がこの際武右衛門君と、主人と、細君雪江嬢を面白がるのは、単に外部の事件が鉢合はちあわせをして、その鉢合せが波動をおつなところに伝えるからではない。実はその鉢合の反響が人間の心に個々別々の音色ねいろを起すからである。第一主人はこの事件に対してむしろ冷淡である。武右衛門君のおやじさんが いかにやかましくって、おっかさんがいかに君を継子ままこあつかいにしようとも、あんまり驚ろかない。驚ろくはずがない。武右衛門君が退校になるのは、自分が免職になるのとはおおいおもむきが違う。千人近くの生徒がみんな退校になったら、教師も衣食のみちきゅうする かも知れないが、古井武右衛門一人いちにんの運命がどう変化しようと、主人朝夕ちょうせき【生活】には ほとんど関係がない。関係の薄いところには同情もおのずから薄い訳である。見ず知らずの人のためにまゆをひそめたり、鼻をかんだり、嘆息たんそくをする【ため息をつく】のは、決して自然の傾向ではない。人間がそんなに情深なさけぶかい、思いやりのある動物であるとは はなはだ受け取りにくい。ただ世の中に生れて来た賦税ふぜい【税金】として、時々交際のために涙を流して見たり、気の毒な顔を作って見せたりするばかりである。言わばごまかしせい表情で、実を言うと大分だいぶ骨が折れる芸術である。このごまかしを うまくやるものを芸術的良心の強い人と言って、これは世間から大変珍重される。だから人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試して見ればすぐ分る。この点において主人はむしろせつ【へた】な部類に属すると言ってよろしい。拙だから珍重されない。珍重されないから、内部の冷淡を存外隠すところもなく発表している。彼が武右衛門君に対して「そうさな」を繰り返しているのでも這裏しゃり【ここ】の消息【様子】はよく分る。
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諸君は冷淡だからと言って、けっして主人のような善人を嫌ってはいけない。冷淡は人間の本来の性質であって、その性質をかくそうとつとめないのは正直な人である。もし諸君がかかる際に冷淡以上を望んだら、それこそ人間を買いかぶったと言わなければ ならない。正直ですら払底ふってい【品切れ】な世にそれ以上を予期するのは、馬琴ばきんの小説から志乃しの小文吾こぶんごが抜けだして、向う三軒両隣へ八犬伝はっけんでんが引き越した時【もし滝沢馬琴の小説の登場人物たちが 現実世界に抜け出して、近所に引っ越してきたら】でなくては、あてにならない無理な注文である。主人はまずこのくらいにして、次には茶の間で笑ってる女連おんなれんに取りかかるが、これは主人の冷淡を一歩むこうまたいで、滑稽こっけいの領分におどり込んで嬉しがっている。この女連には武右衛門君が頭痛に病んでいる艶書事件が、仏陀ぶっだ福音ふくいんのごとくありがたく思われる。理由はない ただありがたい。強いて解剖すれば武右衛門君が困るのが ありがたいのである。諸君 女に向って聞いて御覧、「あなたは人が困るのを面白がって笑いますか」と。聞かれた人はこの問を呈出した者を馬鹿と言うだろう、馬鹿と言わなければ、わざとこんな問をかけて 淑女の品性を侮辱したと言うだろう。侮辱したと思うのは事実かも知れないが、人の困るのを笑うのも事実である。であるとすれば、これからわたしの品性を侮辱するような事を 自分でして お目にかけますから、何とか言っちゃいやよと断わるのと一般である。僕は泥棒をする。しかしけっして不道徳と言ってはならん。もし不道徳だなどと言えば 僕の顔へ泥を塗ったものである。僕を侮辱したものである。と主張するようなものだ。女は なかなか利口だ、考えに筋道が立っている。いやしくも人間に生れる以上は踏んだり、たり、どやされたりして、しかも人が振りむきもせぬ時、平気でいる覚悟が必用であるのみならず、唾を吐きかけられ、糞をたれかけられた上に、大きな声で笑われるのを快よく思わなくては ならない。それでなくては かように利口な女と名のつくものと交際は出来ない。
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武右衛門先生もちょっとしたはずみから、とんだ間違をしておおいに恐れ入っては いるようなものの、かように恐れ入ってるものを 蔭で笑うのは失敬だとくらいは 思うかも知れないが、それは年が行かない稚気ちきというもので、人が失礼をした時におこるのを気が小さいと先方では名づけるそうだから、そう言われるのがいやなら おとなしくするがよろしい。最後に武右衛門君の心行きをちょっと紹介する。君は心配の権化ごんげである。かの偉大なる頭脳は ナポレオンのそれが功名心をもって 充満せるがごとく、まさに心配をもって はちきれんとしている。時々その団子っ鼻が ぴくぴく動くのは 心配が顔面神経につたわって、反射作用のごとく無意識に活動するのである。彼は大きな鉄砲丸てっぽうだまを飲みくだしたごとく、腹の中に いかんともすべからざるかたまりをいだいて、この両三日りょうさんち処置にきゅうしている。その切なさの余り、別に分別の出所でどころもないから監督と名のつく先生のところへ出向いたら、どうか助けてくれるだろうと思って、いやな人のうちへ大きな頭を下げにまかり越したのである。彼は平生学校で主人にからかったり、同級生を扇動せんどうして、主人を困らしたりした事はまるで忘れている。いかに からかおうとも 困らせようとも 監督と名のつく以上は 心配してくれるに相違ないと 信じているらしい。随分単純なものだ。監督は主人が好んでなった役ではない。校長の命によってやむを得ずいただいている、言わば迷亭の叔父さんの山高帽子の種類である。ただ名前である。ただ名前だけではどうする事も出来ない。名前がいざと言う場合に役に立つなら雪江さんは名前だけで見合が出来る訳だ。武右衛門君はただにわがままなるのみならず、他人はおのれに向って必ず親切でなくてはならんと言う、人間を買いかぶった仮定から出立している。笑われるなどとは思も寄らなかったろう。武右衛門君は監督のうちへ来て、きっと人間について、一の真理を発明したに相違ない。彼はこの真理のために将来 ますます 本当の人間になるだろう。人の心配には冷淡になるだろう、人の困る時には大きな声で笑うだろう。かくのごとくにして天下は未来の武右衛門君をもってたされるであろう。
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金田君及び金田令夫人をもって充たされるであろう。吾輩は切に武右衛門君のために瞬時も早く自覚して真人間まにんげんになられん事を希望するのである。しからずんば いかに心配するとも、いかに後悔するとも、いかに善に移るの心が切実なりとも、とうてい金田君のごとき成功は得られんのである。いな社会は 遠からずして君を人間の居住地以外に 放逐するであろう。文明中学の退校どころではない。
 かように考えて面白いなと思っていると、格子こうしが がらがらとあいて、玄関の障子しょうじの蔭から顔が半分ぬうと出た。
「先生」
 主人武右衛門君に「そうさな」を繰り返していたところへ、先生と玄関から呼ばれたので、誰だろうとそっちを見ると半分ほど筋違すじかいに障子からみ出している顔はまさしく寒月君である。「おい、御入おはいり」と言ったぎり座っている。
「御客ですか」と寒月君は やはり顔半分で聞き返している。
「なに構わん、まあ御上おあがり」
「実はちょっと先生を誘いに来たんですがね」
「どこへ行くんだい。また赤坂かい。あの方面はもう御免だ。せんだっては無闇むやみにあるかせられて、足が棒のようになった」
「今日は大丈夫です。久し振りに出ませんか」
「どこへ出るんだい。まあ御上がり」
「上野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです」
「つまらんじゃないか、それよりちょっと御上り」
 寒月君は とうてい遠方では談判不調と思ったものか、靴を脱いで のそのそ上がって来た。例のごとく鼠色ねずみいろの、尻につぎのあたったずぼんを穿いているが、これは時代のため、もしくは尻の重いために破れたのではない、本人の弁解によると 近頃自転車の稽古を始めて 局部に比較的多くの摩擦を与えるからである。未来の細君をもって矚目しょくもく【注目】された本人へふみをつけた恋のあだとは夢にも知らず、「やあ」と言って武右衛門君に軽く会釈えしゃくをして縁側へ近い所へ座をしめた。
「虎の鳴き声を聞いたって詰らないじゃないか」
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「ええ、今じゃいけません、これから方々散歩して夜十一時頃になって、上野へ行くんです」
「へえ」
「すると公園内の老木は森々しんしんとして物凄ものすごいでしょう」
「そうさな、昼間より少しはさみしいだろう」
「それで何でも なるべくの茂った、昼でも人の通らない所をってあるいていると、いつの間にか紅塵万丈こうじんばんじょう【市街地などに土ぼこりが立ちこめる】の都会に住んでる気はなくなって、山の中へ 迷い込んだような心持ちに なるに相違ないです」
「そんな心持ちになってどうするんだい」
「そんな心持ちになって、しばらくたたずんでいると たちまち動物園のうちで、虎が鳴くんです」
「そううまく鳴くかい」
「大丈夫鳴きます。あの鳴き声は 昼でも理科大学へ聞えるくらいなんですから、深夜闃寂げきせき【ひっそりと静か】として、四望しぼう【四方を眺めて】人なく、鬼気はだえ【身の毛もよだつよう】にせまって、魑魅ちみ【怪物】鼻をさいに……」
「魑魅鼻を衝くとは何の事だい」
「そんな事を言うじゃありませんか、こわい時に」
「そうかな。あんまり聞かないようだが。それで」
「それで虎が上野の老杉ろうさんの葉をことごとく振い落すような勢で鳴くでしょう。物凄いでさあ」
「そりゃ物凄いだろう」
「どうです冒険に出掛けませんか。きっと愉快だろうと思うんです。どうしても虎の鳴き声は夜なかに聞かなくっちゃ、聞いたとは いわれないだろうと思うんです」
「そうさな」と主人武右衛門君の哀願に冷淡であるごとく、寒月君の探検にも冷淡である。
 この時まで黙然もくねんとして虎の話をうらやましそうに聞いていた武右衛門君は主人の「そうさな」で再び自分の身の上を思い出したと見えて、「先生、僕は心配なんですが、どうしたらいいでしょう」とまた聞き返す。寒月君は不審な顔をしてこの大きな頭を見た。吾輩は思う仔細しさいあってちょっと失敬して茶の間へ回る。
 茶の間では細君がくすくす笑いながら、京焼の安茶碗に番茶を浪々なみなみいで、アンチモニー【比重が銀に近い合金素材】の茶托ちゃたくの上へ載せて、
雪江さん、はばかりさま【相手に頼む時の挨拶あいさつ】、これを出して来て下さい」
「わたし、いやよ」
「どうして」と細君は少々驚ろいたていで笑いをはたと留める。
「どうしてでも」と雪江さんは やに【とても】すました顔を即席にこしらえて、そばにあった読売新聞の上にのしかかるように眼を落した。細君はもう一応協商きょうしょう【相談】を始める。
「あら妙な人ね。寒月さんですよ。構やしないわ」
「でも、わたし、いやなんですもの」と読売新聞の上から眼を放さない。こんな時に一字も読めるものではないが、読んでいないなどと あばかれたら また泣き出すだろう。
「ちっとも恥かしい事はないじゃありませんか」
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と今度は細君笑いながら、わざと茶碗を読売新聞の上へ押しやる。雪江さんは「あら人の悪るい」と新聞を茶碗の下から、抜こうとする拍子に茶托ちゃたくに引きかかって、番茶は遠慮なく新聞の上から畳の目へ流れ込む。「それ御覧なさい」と細君が言うと、雪江さんは「あら大変だ」と台所へけ出して行った。雑巾ぞうきんでも持ってくる了見りょうけんだろう。吾輩にはこの狂言【滑稽こっけい喜劇】がちょっと面白かった。
 寒月君はそれとも知らず座敷で妙な事を話している。
「先生障子しょうじを張りえましたね。誰が張ったんです」
「女が張ったんだ。よく張れているだろう」
「ええ なかなか うまい。あの時々おいでになる御嬢さんが 御張りになったんですか」
「うんあれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば 嫁に行く資格はある と言って威張ってるぜ」
「へえ、なるほど」と言いながら寒月君 障子を見つめている。
「こっちの方はたいらですが、右のはじは紙が余って波が出来ていますね」
「あすこが張りたてのところで、もっとも経験のとぼしい時に出来上ったところさ」
「なるほど、少し御手際おてぎわが落ちますね。あの表面は超絶的ちょうぜつてき 曲線きょくせんで とうてい普通のファンクション【関数】ではあらわせないです」と、理学者だけに むずかしい事を言うと、主人
「そうさね」と好い加減な挨拶あいさつをした。
 この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込がないと思い切った武右衛門君は突然かの偉大なる頭蓋骨ずがいこつを畳の上にしつけて、無言のうちに暗に決別けつべつの意を表した。主人は「帰るかい」と言った。武右衛門君は悄然しょうぜんとして薩摩下駄を引きずって門を出た。可愛想かわいそうに。打ちゃって置くと巌頭がんとうぎんでも書いて【断崖の上で詩をしたため】華厳滝けごんのたきから飛び込む かも知れない。元をただせば金田令嬢のハイカラと生意気から起った事だ。もし武右衛門君が死んだら、幽霊になって令嬢を取り殺してやるがいい。あんなものが 世界から一人や二人 消えてなくなったって、男子はすこしも困らない。寒月君はもっと令嬢らしいのを貰うがいい。
「先生ありゃ生徒ですか」
「うん」
「大変大きな頭ですね。学問は出来ますか」
「頭の割には出来ないがね、時々妙な質問をするよ。こないだコロンブスを訳して下さいっておおいに弱った」
「全く頭が大き過ぎますから そんな余計な質問をするんでしょう。先生何とおっしゃいました」
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「ええ? なあにい加減な事を言って訳してやった」
「それでも訳す事は訳したんですか、こりゃえらい」
「小供は何でも訳してやらないと信用せんからね」
「先生も なかなか政治家になりましたね。しかし今の様子では、何だか非常に元気がなくって、先生を困らせるようには見えないじゃありませんか」
「今日は少し弱ってるんだよ。馬鹿な奴だよ」
「どうしたんです。何だかちょっと見たばかりで非常に可哀想かわいそうになりました。全体どうしたんです」
「なにな事さ。金田の娘艶書えんしょを送ったんだ」
「え? あの大頭がですか。近頃の書生は なかなか えらいもん ですね。どうも驚ろいた」
「君も心配だろうが……」
「何ちっとも心配じゃありません。かえって面白いです。いくら、艶書が降り込んだって大丈夫です」
「そう君が安心していれば構わないが……」
「構わんですとも私はいっこう構いません。しかしあの大頭が艶書をかいたと言うには、少し驚ろきますね」
「それがさ。冗談じょうだんにしたんだよ。あの娘がハイカラで生意気だから、からかってやろうって、三人が共同して……」
「三人が一本の手紙を金田の令嬢にやったんですか。ますます奇談ですね。一人前の西洋料理を 三人で食うようなもの じゃありませんか」
「ところが手分けがあるんだ。一人が文章をかく、一人が投函とうかんする、一人が名前を借す。で今来たのが名前を借した奴なんだがね。これが一番だね。しかも金田の娘の顔も見た事がないって言うんだぜ。どうしてそんな無茶な事が出来たものだろう」
「そりゃ、近来の大出来ですよ。傑作ですね。どうもあの大頭が、女にふみをやるなんて面白いじゃありませんか」
「飛んだ間違に ならあね」
「なに なったって構やしません、相手が金田ですもの」
「だって君が貰うかも知れない人だぜ」
「貰うかも知れないから構わないんです。
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なあに、金田なんか、構やしません」
「君は構わなくっても……」
「なに金田だって構やしません、大丈夫です」
「それならそれでいいとして、当人があとになって、急に良心に責められて、恐ろしくなったものだから、おおいに恐縮して僕のうちへ相談に来たんだ」
「へえ、それであんなに悄々しおしお【消沈】としているんですか、気の小さい子と見えますね。先生何とか言っておやんなすったんでしょう」
「本人は退校になるでしょうかって、それを一番心配しているのさ」
「何で退校になるんです」
「そんな悪るい、不道徳な事をしたから」
「何、不道徳と言うほどでもありませんやね。構やしません。金田じゃ名誉に思ってきっと吹聴ふいちょうしていますよ」
「まさか」
「とにかく可愛想かわいそうですよ。そんな事をするのがわるいとしても、あんなに心配させちゃ、若い男を一人殺してしまいますよ。ありゃ頭は大きいが人相はそんなにわるくありません。鼻なんかぴくぴくさせて可愛いです」「君も大分だいぶ迷亭見たように呑気のんきな事を言うね」
「何、これが時代思潮です、先生はあまりむかふうだから、何でもむずかしく解釈なさるんです」
「しかしじゃないか、知りもしないところへ、いたずらに艶書えんしょを送るなんて、まるで常識をかいてるじゃないか」
「いたずらは、たいがい常識をかいていまさあ。救っておやんなさい。功徳くどくになりますよ。あの様子じゃ華厳けごんの滝へ出掛けますよ」
「そうだな」
「そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある大僧おおぞう共がそれどころじゃない、わるいいたずらをして知らんかおをしていますよ。あんな子を退校させるくらいなら、そんな奴らをかたぱしから放逐でもしなくっちゃ不公平でさあ」
「それもそうだね」
「それでどうです上野へ虎の鳴き声をききに行くのは」
「虎かい」
「ええ、聞きに行きましょう。実は二三日中にさんちうちに ちょっと帰国しなければ ならない事が出来ましたから、当分どこへも御伴おともは出来ませんから、今日は是非 いっしょに散歩をしようと 思って来たんです」
「そうか帰るのかい、用事でもあるのかい」
「ええちょっと用事が出来たんです。‥‥ともかくも出ようじゃありませんか」
「そう。それじゃ出ようか」
「さあ行きましょう。今日は私が晩餐ばんさんおごりますから、‥‥それから運動をして 上野へ行くと ちょうど好い刻限です」としきりにうながすものだから、主人もその気になって、いっしょに出掛けて行った。あとでは細君雪江さんが遠慮のない声で げらげら けらけら からから と笑っていた。
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     十一

 床の間の前に碁盤を中にえて迷亭君と独仙君が対座している。「ただはやらない。負けた方が何かおごるんだぜ。いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君は例のごとく山羊髯やぎひげを引っ張りながら、こう言った。
「そんな事をすると、せっかくの清戯せいぎ【風雅な戯れ】を俗了ぞくりょう【俗化】してしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗せいはいを度外において、白雲の自然にしゅう【岩穴】を出でて冉々ぜんぜんたるごとき心持ち【ゆるやかに流れる気分】で一局を了して【完了して】こそ、個中こちゅうあじわい【物事の奥深い道理】はわかるものだよ」
「また来たね。そんな仙骨【仙人じみた人物】を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然えんぜんたる列仙伝中の人物だね【浮世離れした、風変わりな人物だね】」
無絃むげん素琴そきんだんじさ【弦のない琴を、おきなさい】」
「無線の電信をかけかね【そんなハイテクなことはできない】」
「とにかく、やろう」
「君が白を持つのかい」
「どっちでも構わない」
「さすがに仙人だけあって鷹揚おうようだ【おっとりとしている】。君が白なら自然の順序として僕は黒だね。さあ、来たまえ。どこからでも来たまえ」
「黒から打つのが法則だよ」
「なるほど。しからば謙遜けんそんして、定石じょうせきに ここいらから行こう」
「定石にそんなのはないよ」
「なくっても構わない。新奇発明の定石だ」
 吾輩は世間が狭いから 碁盤と言うものは近来になって 始めて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙に出来ている。広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目がくらむほど ごたごたと黒白こくびゃくの石をならべる。そうして勝ったとか、負けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる。高が一尺四方くらいの面積だ。猫の前足でき散らしても滅茶滅茶になる。引き寄せて結べば草のいおりにて【ばらばらの草を引き寄せて結ぶと家(庵)になる】、解くればもとの野原なりけり【でもその結びをほどけば、ただの草原にもどるだけ】。入らざる いたずらだ。懐手ふところでをして盤を眺めている方がはるかに気楽である。それも最初の三四十もくは、石の並べ方では別段目障めざわりにも ならないが、いざ天下わけ目と言う間際まぎわのぞいて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー言っている。窮屈きゅうくつだからと言って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。
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碁を発明したものは人間で、人間の嗜好しこうが局面にあらわれるものとすれば、窮屈きゅうくつなる碁石の運命は せせこましい人間の性質を 代表していると言っても差支さしつかえない。人間の性質が碁石の運命で推知すいちする事が出来るものとすれば、人間とは天空海濶てんくうかいかつ【空がからりとして晴れ、海が広々としている】の世界を、我からと縮めて、おのれの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工こがたなざいくで自分の領分に 縄張りをするのが好きなんだ と断言せざるを得ない。人間とは しいて苦痛を求めるものであると一言いちごんに評してもよかろう。
 呑気のんきなる迷亭君と、禅機ぜんき【禅における無我の境地から出る働き】ある独仙君とは、どう言う了見か、今日に限って戸棚から古碁盤を引きずり出して、この暑苦しい いたずらを始めたのである。さすがに御両人御揃おそろいの事だから、最初のうちは各自任意の行動をとって、盤の上を白石と黒石が自由自在に飛び交わしていたが、盤の広さには限りがあって、横竪よこたての目盛りは一手ひとてごとにうまって行くのだから、いかに呑気でも、いかに禅機があっても、苦しくなるのは当り前である。
迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ入ってくる法はない」「禅坊主の碁にはこんな法はない かも知れないが、本因坊ほんいんぼうの流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」
「しかし死ぬばかりだぜ」
しん 死をだも辞せず【死をも辞せず】、いわんや彘肩ていけんをや【まして豚の肩肉なんて、よろこんで受けます:けど、粗末なものでも受け取っておきましょう】と、一つ、こう行くかな」
「そうおいでになったと、よろしい。薫風【初夏の風】みんなみより来って、殿閣でんかく微涼びりょうを生ず【建物の中に、ほのかに秋の涼気が立ちはじめた】。こう、ついでおけば大丈夫なものだ」
「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気遣きづかい【はず】はなかろうと思った。ついで、くりゃるな八幡鐘はちまんがね【江戸深川八幡宮】をと、こうやったら、どうするかね」
「どうするも、こうするもないさ。一剣天にって寒し【空に立つ剣に寄りかかるようにして、身が冷えている】‥‥ええ、面倒だ。思い切って、切ってしまえ」
「やや、大変大変。そこを切られちゃ死んでしまう。おい冗談じょうだんじゃない。ちょっと待った」
「それだから、さっきから言わん事じゃない。こうなってるところへは入れるものじゃないんだ」
「入って失敬つかまつり候。ちょっとこの白をとってくれたまえ」
「それも待つのかい」
「ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ」
「ずうずうしいぜ、おい」
「Do you see the boy【溺れている少年が見えるだろう】か。‥‥なに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引き揚げてくれたまえな。死ぬか生きるかと言う場合だ。
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しばらく、しばらくって花道はなみちからけ出してくるところだよ」
「そんな事は僕は知らんよ」
「知らなくってもいいから、ちょっとどけたまえ」
「君さっきから、六ぺん待ったをしたじゃないか」
「記憶のいい男だな。向後こうごは旧に倍し待ったをつかまつり候【今後は以前にも増して遠慮いたします】。だからちょっと どけたまえと言うのだあね。君もよッぽど強情だね。座禅なんかしたら、もう少しさばけそうなものだ」
「しかしこの石でも殺さなければ、僕の方は少し負けになりそうだから……」
「君は最初から負けても構わない流じゃないか」
「僕は負けても構わないが、君には勝たしたくない」
「飛んだ悟道【仏の教えの真髄をさとること】だ。相変らず春風影裏しゅんぷうえいり電光でんこうをきってる【穏やかな春風の陰で、瞬間的に稲妻の閃光が走った】ね」
「春風影裏じゃない、電光影裏だよ。君のはさかさだ」「ハハハハもうたいていかになっていい時分だと思ったら、やはり たしかなところがあるね。それじゃ仕方がないあきらめるかな」
生死事大しょうしじだい無常迅速むじょうじんそく【生死は一大事であり、無常は迅速である】、あきらめるさ」
「アーメン」と迷亭先生 今度はまるで関係のない方面へぴしゃりと一石いっせきくだした。
 床の間の前で迷亭君と独仙君が一生懸命に輸贏しゅえい【勝負】を争っていると、座敷の入口には、寒月君と東風君が相ならんでそのそば主人が黄色い顔をして座っている。寒月君の前に鰹節かつぶしが三本、裸のまま畳の上に行儀よく配列してあるのは奇観である。
 この鰹節の出処しゅっしょ寒月君のふところで、取り出した時はあったかく、手のひらに感じたくらい、裸ながらぬくもっていた。主人東風君は妙な眼をして視線を鰹節の上に注いでいると、寒月君はやがて口を開いた。
「実は四日ばかり前に国から帰って来たのですが、いろいろ用事があって、方々けあるいていたものですから、つい上がられなかったのです」
「そう急いでくるには及ばないさ」と主人は例のごとく無愛嬌ぶあいきょうな事を言う。「急いで来んでもいいのですけれども、このおみやげを早く献上けんじょうしないと心配ですから」
「鰹節じゃないか」
「ええ、国の名産です」
「名産だって東京にもそんなのは有りそうだぜ」と主人は一番大きな奴を一本取り上げて、鼻の先へ持って行ってにおいをかいで見る。
「かいだって、鰹節の善悪よしあしはわかりませんよ」
「少し大きいのが名産たる所以ゆえんかね」
「まあ食べて御覧なさい」
「食べる事はどうせ食べるが、こいつは何だか先が欠けてるじゃないか」
「それだから早く持って来ないと心配だと言うのです」
「なぜ?」
「なぜって、そりゃねずみが食ったのです」
「そいつは危険だ。滅多めったに食うとペストになるぜ」
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「なに大丈夫、そのくらいかじったって害はありません」
「全体どこでかじったんだい」
「船の中でです」
「船の中? どうして」
「入れる所がなかったから、ヴァイオリンといっしょに袋のなかへ入れて、船へ乗ったら、その晩にやられました。鰹節かつぶしだけなら、いいのですけれども、大切なヴァイオリンの胴を鰹節と間違えて やはり少々かじりました」
「そそっかしい鼠だね。船の中に住んでると、そう見境みさかいがなくなるものかな」と主人は誰にも分らん事を言って依然として鰹節をながめている。
「なに鼠だから、どこに住んでても そそっかしい のでしょう。だから下宿へ持って来てもまたやられそうでね。剣呑けんのんだから夜るは寝床の中へ入れて寝ました」
「少しきたないようだぜ」
「だから食べる時にはちょっとお洗いなさい」
「ちょっとくらいじゃ奇麗にゃなりそうもない」
「それじゃ灰汁あくでもつけて、ごしごし磨いたらいいでしょう」
「ヴァイオリンも抱いて寝たのかい」
「ヴァイオリンは大き過ぎるから 抱いて寝る訳には行かないんですが……」と言いかけると
「なんだって? ヴァイオリンを抱いて寝たって? それは風流だ。行く春や重たき琵琶びわのだき心と言う句もあるが、それは遠きそのかみ【昔】の事だ。明治の秀才は ヴァイオリンを抱いて寝なくっちゃ 古人をしのぐ訳には行かないよ。かいまき【袖のついた寝具のことで、綿入れ半纏の一種】に長き夜守よもるやヴァイオリンはどうだい。東風君、新体詩でそんな事が言えるかい」と向うの方から迷亭先生大きな声でこっちの談話にも関係をつける。
 東風君は真面目で「新体詩は俳句と違ってそう急には出来ません。しかし出来た暁にはもう少し生霊せいれい機微きびに触れた妙音【美しい響き】が出ます」
「そうかね、生霊しょうりょうおがら【迎え火】をいて迎えたてまつるものと思ってたが、やっぱり新体詩の力でも御来臨【ご訪問】になるかい」と迷亭はまだ碁をそっちのけにして調戯からかっている。
「そんな無駄口をたたくとまた負けるぜ」と主人迷亭に注意する。迷亭は平気なもので
「勝ちたくても、負けたくても、相手が釜中ふちゅう章魚たこ同然 手も足も出せないのだから、僕も無聊ぶりょう【たいくつ】でやむを得ずヴァイオリンの御仲間をつかまつるのさ」と言うと、相手の独仙君はいささか激した調子で
「今度は君の番だよ。こっちで待ってるんだ」と言い放った。
「え? もう打ったのかい」
「打ったとも、とうに打ったさ」
「どこへ」
「この白を はす【斜め】に延ばした」
「なあるほど。
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この白をはすに延ばして負けにけりか、そんならこっちはと‥‥こっちは‥‥こっちはこっちはとて暮れにけりと、どうもいい手がないね。君もう一返打たしてやるから勝手なところへ一目いちもく打ちたまえ」
「そんな碁があるものか」
「そんな碁があるものかなら打ちましょう。‥‥それじゃこのかど地面へちょっと曲がって置くかな。‥‥寒月君、君のヴァイオリンはあんまり安いから鼠が馬鹿にしてかじるんだよ、もう少しいいのを奮発して買うさ、僕が以太利亜イタリアから三百年前の古物こぶつを取り寄せてやろうか」
「どうか願います。ついでにお払いの方も願いたいもので」
「そんな古いものが役に立つものか」と何にも知らない主人一喝いっかつにして迷亭君をめつけた。
「君は人間の古物こぶつとヴァイオリンの古物こぶつと同一視しているんだろう。人間の古物でも金田某のごときものは今だに流行しているくらいだから、ヴァイオリンに至っては古いほどがいいのさ。‥‥さあ、独仙君どうか御早く願おう。けいまさ【けい まさ寒月の本名らしい】のせりふじゃないが秋の日は暮れやすいからね」
「君のような せわしない男と碁を打つのは苦痛だよ。考える暇も何もありゃしない。仕方がないから、ここへ一目いちもく入れてにしておこう」
「おやおや、とうとう生かしてしまった。惜しい事をしたね。まさかそこへは打つまいと思って、いささか駄弁をふるって肝胆かんたんを砕いていた【力を尽くしていた】が、やッぱり駄目か」
「当り前さ。君のは打つのじゃない。ごまかすのだ」
「それが本因坊流、金田流、当世紳士流さ。‥‥おい苦沙弥先生、さすがに独仙君は鎌倉へ行って万年漬を食った【精神修養をした】だけあって、物に動じないね。どうも敬々服々だ。碁はまずいが、度胸はすわってる」「だから君のような度胸のない男は、少し真似をするがいい」と主人うしむきのままで答えるやいなや、迷亭君は大きな赤い舌をぺろりと出した。独仙君はごう【わずか】も関せざるもののごとく、「さあ君の番だ」とまた相手をうながした。
「君はヴァイオリンをいつ頃から始めたのかい。僕も少し習おうと思うのだが、よっぽどむずかしいもの だそうだね」と東風君が寒月君に聞いている。
「うむ、一と通りなら誰にでも出来るさ」
「同じ芸術だから詩歌しいかの趣味のあるものは やはり音楽の方でも上達が早いだろうと、ひそかにたのむ【頼る】ところがあるんだが、どうだろう」
「いいだろう。君ならきっと上手になるよ」
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「君はいつ頃から始めたのかね」
「高等学校時代さ。‥‥先生わたくしのヴァイオリンを習い出した顛末てんまつをお話しした事がありましたかね」
「いいえ、まだ聞かない」
「高等学校時代に先生でもあってやり出したのかい」
「なあに先生も何もありゃしない。独習さ」
「全く天才だね」
「独習なら天才と限った事もなかろう」と寒月君はつんとする。天才と言われてつんとするのは寒月君だけだろう。
「そりゃ、どうでもいいが、どう言う風に独習したのかちょっと聞かしたまえ。参考にしたいから」
「話してもいい。先生話しましょうかね」
「ああ話したまえ」
「今では若い人がヴァイオリンの箱をさげて、よく往来などをあるいておりますが、その時分は 高等学校生で西洋の音楽などをやったものは ほとんどなかったのです。ことに私のおった学校は田舎いなかの田舎で麻裏草履あさうらぞうりさえないと言うくらいな【麻で作られた粗末な草履すらないほど貧しい】質朴な所でしたから、学校の生徒でヴァイオリンなどをくものはもちろん一人もありません。……」
「何だか面白い話が向うで始まったようだ。独仙君いい加減に切り上げようじゃないか」
「まだ片づかない所が二三箇所ある」
「あってもいい。大概な所なら、君に進上する」
「そう言ったって、貰う訳にも行かない」
「禅学者にも似合わん几帳面きちょうめんな男だ。それじゃ一気呵成いっきかせい【ひといき】にやっちまおう。‥‥寒月君何だかよっぽど面白そうだね。‥‥あの高等学校だろう、生徒が裸足はだしで登校するのは……」
「そんな事はありません」
「でも、みんなはだしで兵式体操をして、回れ右をやるんで 足の皮が大変厚くなってると言う話だぜ」
「まさか。だれがそんな事を言いました」
「だれでもいいよ。そうして弁当には偉大なる握り飯を一個、夏蜜柑なつみかんのように腰へぶら下げて来て、それを食うんだって言うじゃないか。食うと言うよりむしろ食いつくんだね。すると中心から梅干が一個出て来るそうだ。この梅干が出るのを楽しみに 塩気のない周囲を 一心不乱に食い欠いて突進するんだと言うが、なるほど元気旺盛おうせいなものだね。独仙君、君の気に入りそうな話だぜ」
質朴剛健しつぼくごうけん【飾り気がなく真面目で、心身ともに強くたくましい】で たのもしい気風だ」
「まだ たのもしい事がある。
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あすこには灰吹はいふき【タバコの吸がらを吹き落としたり、たたき入れたりする筒】がないそうだ。僕の友人があすこへ奉職をしている頃 吐月峰とげつほう【雪舟や雪斎などが修行したことで知られ、禅と風雅の象徴的な山】のいんのある灰吹きを買いに出たところが、吐月峰どころか、灰吹と名づくべきものが一個もない。不思議に思って、聞いて見たら、灰吹きなどは裏のやぶへ行って切って来れば誰にでも出来るから、売る必要はないと澄まして答えたそうだ。これも質朴剛健の気風をあらわす美譚びだんだろう、ねえ独仙君」
「うむ、そりゃそれでいいが、ここへ駄目を一つ入れなくちゃいけない」
「よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。‥‥僕はその話を聞いて、実に驚いたね。そんなところで 君がヴァイオリンを独習したのは 見上げたものだ。惸独けいどくにして不羣ふぐんなり【私は孤独でも俗物とは交わらない主義だ】と楚辞そじ【中国戦国時代、楚の国の詩人屈原(くつげん)などが書いた叙情的・象徴的な詩集】にあるが寒月君は全く明治の屈原くつげんだよ」
「屈原はいやですよ」
「それじゃ今世紀のウェルテル【若きウェルテルの悩み(作ゲーテ)のウェルテル:恋と孤独と苦悩に沈み、やがて死を選ぶ青年の代名詞】さ。‥‥なに石を上げて勘定をしろ? やに【とても】物堅ものがた性質たちだね。勘定しなくっても僕は負けてるから たしかだ」
「しかしきまりがつかないから……」
「それじゃ君やってくれたまえ。僕は勘定所じゃない。一代の才人ウェルテル君が ヴァイオリンを習い出した逸話を聞かなくっちゃ、先祖へ済まないから失敬する」と席をはずして、寒月君の方へすり出して来た。独仙君は丹念に白石を取っては白の穴をめ、黒石を取っては黒の穴を埋めて、しきりに口の内で計算をしている。寒月君は話をつづける。
「土地柄がすでに土地柄だのに、私の国のものがまた非常に頑固がんこなので、少しでも柔弱なものがおっては、他県の生徒に外聞がわるいと言って、むやみに制裁を厳重にしましたから、ずいぶん厄介でした」
「君の国の書生と来たら、本当に話せないね。元来何だって、こんの無地のはかまなんぞ穿くんだい。第一だいちあれからしておつ【いまいち】だね。そうして塩風に吹かれつけているせいか、どうも、色が黒いね。男だからあれで済むが 女があれじゃさぞかし困るだろう」と迷亭君が一人入ると肝心かんじんの話はどっかへ飛んで行ってしまう。「女もあの通り黒いのです」
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「それでよく貰い手があるね」
「だって一国中いっこくじゅうことごとく黒いのだから仕方がありません」
因果いんがだね。ねえ苦沙弥君」
「黒い方がいいだろう。なまじ白いと 鏡を見るたんびに己惚おのぼれが出ていけない。女と言うものは始末におえない物件だからなあ」と主人喟然きぜんとして大息たいそくらした。
「だって一国中ことごとく黒ければ、黒い方で己惚うぬぼれはしませんか」と東風君がもっともな質問をかけた。
「ともかくも女は全然不必要な者だ」と主人が言うと、
「そんな事を言うと妻君が後でご機嫌がわるいぜ」と笑いながら迷亭先生が注意する。
「なに大丈夫だ」
「いないのかい」
「小供を連れて、さっき出掛けた」
「どうれで静かだと思った。どこへ行ったのだい」
「どこだか分らない。勝手に出てあるくのだ」
「そうして勝手に帰ってくるのかい」
「まあそうだ。君は独身でいいなあ」と言うと東風君は少々不平な顔をする。寒月君は にやにやと笑う。迷亭君は
さいを持つとみんなそう言う気になるのさ。ねえ独仙君、君なども妻君難の方だろう」
「ええ? ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十七と。狭いと思ったら、四十六もくあるか。もう少し勝ったつもりだったが、こしらえて見ると、たった十八目の差か。‥‥何だって?」
「君も妻君難だろうと言うのさ」
「アハハハハ別段 難でもないさ。僕のさい元来僕を愛しているのだから」
「そいつは少々失敬した。それでこそ独仙君だ」
独仙君ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と寒月君が天下の妻君に代ってちょっと弁護の労を取った。
「僕も寒月君に賛成する。僕の考では人間が絶対のいきるには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と恋だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間は是非結婚をして、この幸福をまっとうしなければ天意にそむく訳だと思うんだ。‥‥がどうでしょう先生」と東風君は相変らず真面目で迷亭君の方へ向き直った。
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「御名論だ。僕などは とうてい絶対のきょうに入れそうもない」
さいを貰えば なお入れやしない」と主人はむずかしい顔をして言った。
「ともかくも 我々未婚の青年は 芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ 人生の意義が分からないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月君にさっきから経験譚けいけんだんをきいているのです」
「そうそう、ウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴する はずだったね。さあ話し給え。もう邪魔はしないから」と迷亭君がようやく鋒鋩ほうぼう【刃物などのきっさき】を収めると、
「向上の一路はヴァイオリンなどで開ける者ではない。そんな遊戯三昧ゆうぎざんまいで宇宙の真理が知れては大変だ。這裡しゃり【ここ】の消息を知ろうと思えば やはり懸崖けんがいに手をさっして、絶後ぜつごに再びよみがえるてい気魄きはくがなければ駄目だ【真理を知るには、死ぬ覚悟の気迫がいるんだよ!】」と独仙君はもったい振って、東風君に訓戒くんかいじみた説教をしたのはよかったが、東風君は禅宗のぜの字も知らない男だからとんと感心したようすもなく
「へえ、そうかも知れませんが、やはり芸術は人間の渇仰かつごうの極致【心底からあがめ、したってやまない】を表わしたものだと思いますから、どうしてもこれを捨てる訳には参りません」
「捨てる訳に行かなければ、お望み通り僕のヴァイオリン談を して聞かせる事にしよう、で今話す通りの次第だから 僕もヴァイオリンの稽古をはじめるまでには 大分だいぶ苦心をしたよ。第一買うのに困りましたよ先生」
「そうだろう麻裏草履あさうらぞうりがない土地にヴァイオリンがあるはずがない」
「いえ、ある事はあるんです。金も前から用意して溜めたから差支さしつかえないのですが、どうも買えないのです」
「なぜ?」
「狭い土地だから、買っておればすぐ見つかります。見つかれば、すぐ生意気だと言うので制裁を加えられます」
「天才は昔から迫害を加えられるものだからね」と東風君はおおいに同情を表した。
「また天才か、どうか天才呼ばわりだけは御免蒙ごめんこうむりたいね。それでね 毎日散歩をしてヴァイオリンのある店先を通るたびに あれが買えたら好かろう、あれを手にかかえた心持ちはどんなだろう、ああ欲しい、ああ欲しいと思わない日は一日いちんちもなかったのです」
「もっともだ」と評したのは迷亭で、「妙にったものだね」としかねたのが主人で、「やはり君、天才だよ」と敬服したのは東風君である。ただ独仙君ばかりは超然ちょうぜんとしてひげねんしている【ねじっている】。
「そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが 第一ご不審かも知れないですが、これは考えて見ると当り前の事です。なぜと言うとこの地方でも女学校があって、女学校の生徒は課業として 毎日ヴァイオリンを稽古しなければ ならないのですから、あるはずです。
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無論いいのはありません。ただヴァイオリンと言う名がかろうじて つくくらいのものであります。だから店でもあまり重きをおいていないので、二三ちょういっしょに店頭へるしておくのです。それがね、時々散歩をして前を通るときに風が吹きつけたり、小僧の手がさわったりして、そらを出す事があります。そのを聞くと急に心臓が破裂しそうな心持で、いても立ってもいられなくなるんです」
「危険だね。水癲癇みずてんかん人癲癇ひとでんかん癲癇にも いろいろ種類があるが君のは ウェルテルだけあって、ヴァイオリン癲癇だ」と迷亭君が冷やかすと、
「いや そのくらい感覚が鋭敏でなければ 真の芸術家にはなれないですよ。どうしても天才肌だ」と東風君はいよいよ感心する。
「ええ実際癲癇てんかんかも知れませんが、しかしあの音色ねいろだけは奇体ですよ。その今日こんにちまで随分ひきましたが あのくらい美しいが出た事がありません。そうさ何と形容していいでしょう。とうてい言いあらわせないです」
琳琅璆鏘りんろうきゅうそう【弓と弦が触れ合って美しく鳴り響くさま】として鳴るじゃないか」とむずかしい事を持ち出したのは独仙君であったが、誰も取り合わなかったのは気の毒である。
「私が毎日毎日店頭を散歩しているうちに とうとうこの霊異なを三度ききました。三度目にどうあってもこれは 買わなければ ならないと決心しました。仮令たとい国のものから譴責けんせきされても【とがめられても】、他県のものから軽蔑けいべつされても‥‥よし 鉄拳てっけん制裁のために絶息ぜっそく【絶命】しても‥‥まかり間違って退校の処分を受けても‥‥、こればかりは買わずにいられないと思いました」
「それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込める訳のものじゃない。うらやましい。僕もどうかして、それほど猛烈な感じを起して見たいと 年来心掛けているが、どうもいけないね。音楽会などへ行って出来るだけ熱心に聞いているが、どうもそれほどに感興【感心】が乗らない」と東風君はしきりにうらやましがっている。
「乗らない方が仕合せだよ。今でこそ平気で話すようなものの その時の苦しみは とうてい想像が出来るような種類のものではなかった。‥‥それから先生とうとう奮発して買いました」
「ふむ、どうして」
「ちょうど十一月の天長節【天皇誕生日】の前の晩でした。
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国のものはそろって泊りがけに温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だと言って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行ってかねて望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」
偽病けびょうをつかって学校まで休んだのかい」
「全くそうです」
「なるほど少し天才だね、こりゃ」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。
「夜具の中から首を出していると、日暮れが待遠まちどおでたまりません。仕方がないから頭からもぐり込んで、眼をねむって待って見ましたが、やはり駄目です。首を出すとはげしい秋の日が、六尺の障子しょうじへ一面にあたって、かんかんするには癇癪かんしゃくが起りました。上の方に細長い影がかたまって、時々秋風にゆすれるのが眼につきます」
「何だい、その細長い影と言うのは」
「渋柿の皮をいて、軒へるしておいたのです」
「ふん、それから」
「仕方がないから、とこを出て障子をあけて縁側へ出て、渋柿の甘干あまぼしを一つ取って食いました」
「うまかったかい」と主人は小供みたような事を聞く。
「うまいですよ、あの辺の柿は。とうてい東京などじゃあの味はわかりませんね」
「柿はいいがそれから、どうしたい」と今度は東風君がきく。
「それからまたもぐって眼をふさいで、早く日が暮れればいいがと、ひそかに神仏に念じて見た。約三四時間も立ったと思う頃、もうよかろうと、首を出すと あにはからんや はげしい秋の日は 依然として六尺の障子を照らして かんかんする、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわする」
「そりゃ、聞いたよ」
何返なんべんもあるんだよ。それから床を出て、障子をあけて、甘干しの柿を一つ食って、また寝床へ入って、早く日が暮れればいいと、ひそかに神仏に祈念をこらした」
「やっぱり もとのところ じゃないか」
「まあ先生そうかずに聞いて下さい。それから約三四時間夜具の中で辛抱しんぼうして、今度こそもうよかろうとぬっと首を出して見ると、はげしい秋の日は依然として六尺の障子へ一面にあたって、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわしている」
「いつまで行っても同じ事じゃないか」
「それから床を出て障子を開けて、縁側へ出て甘干しの柿を一つ食って……」
「また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても 柿ばかり食ってて際限がないね」
「私もじれったくてね」
「君より聞いてる方がよっぽどじれったいぜ」
「先生はどうも性急せっかちだから、話がしにくくって困ります」
「聞く方も少しは困るよ」と東風君もあんに不平をらした。
「そう諸君が御困りとある以上は仕方がない。たいていにして切り上げましょう。
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要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、とうとう軒端のきばるした奴をみんな食ってしまいました」
「みんな食ったら日も暮れたろう」
「ところがそう行かないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろうと首を出して見ると、相変らずはげしい秋の日が六尺の障子へ一面にあたって……」
「僕あ、もう御免だ。いつまで行ってもてしがない」
「話す私もき飽きします」
「しかしそのくらい根気があればたいていの事業は成就じょうじゅするよ。だまってたら、あしたの朝まで秋の日が かんかん するんだろう。全体いつ頃にヴァイオリンを買う気なんだい」とさすがの迷亭君も少し辛抱しんぼうし切れなくなったと見える。ただ独仙君のみは泰然として、あしたの朝まででも、あさっての朝まででも、いくら秋の日がかんかんしても動ずる気色けしきはさらにない。寒月君も落ちつき払ったもので
「いつ買う気だとおっしゃるが、晩になりさえすれば、すぐ買いに出掛けるつもりなのです。ただ残念な事には、いつ頭を出して見ても秋の日が かんかん しているものですから‥‥いえその時のわたくしの苦しみと言ったら、とうてい今 あなた方の御じれになるどころの 騒ぎじゃないです。私は最後の甘干を食っても、まだ日が暮れないのを見て、泫然げんぜん【涙がはらはらとこぼれるさま】として思わず泣きました。東風君、僕は実になさけなくって泣いたよ」
「そうだろう、芸術家は本来多情多恨だから、泣いた事には同情するが、話はもっと早く進行させたいものだね」と東風君は人がいいから、どこまでも真面目で滑稽こっけい挨拶あいさつをしている。
「進行させたいのは山々だが、どうしても日が暮れてくれないものだから困るのさ」
「そう日が暮れなくちゃ 聞く方も困るからやめよう」と主人がとうとう 我慢がし切れなくなったと見えて 言い出した。
「やめちゃなお困ります。これからがいよいよ佳境にるところですから」「それじゃ聞くから、早く日が暮れた事にしたらよかろう」
「では、少しご無理なご注文ですが、先生の事ですから、げて、ここは日が暮れた事に致しましょう」
「それは好都合だ」と独仙君が澄まして述べられたので 一同は思わずどっと噴き出した。
「いよいよ夜に入ったので、まず安心とほっと一息ついて鞍懸村くらかけむらの下宿を出ました。私は性来しょうらい騒々そうぞうしい所がきらいですから、わざと便利な市内を避けて、人迹稀じんせきまれな【人里離れた】寒村の百姓家にしばらく蝸牛かぎゅういおりを結んでいた【カタツムリのように、小さな庵を構えて、静かに暮らしていた】のです……」
人迹の稀なはあんまり大袈裟おおげさだね」と主人が抗議を申し込むと「蝸牛の庵も仰山ぎょうさん【大げさ】だよ。床の間なしの四畳半くらいにしておく方 が写生的で面白い」と迷亭君も苦情を持ち出した。
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東風君だけは「事実はどうでも言語が詩的で感じがいい」とめた。独仙君は真面目な顔で「そんな所に住んでいては学校へ通うのが大変だろう。何里くらいあるんですか」と聞いた。
「学校まではたった四五丁【500m前後】です。元来学校からして寒村にあるんですから……」
「それじゃ学生は その辺にだいぶ宿をとってるんでしょう」と独仙君は なかなか承知しない。
「ええ、たいていな百姓家には一人や二人は必ずいます」
「それで人迹稀なんですか」と正面攻撃をくらわせる。
「ええ学校がなかったら、全く人迹は稀ですよ。……で当夜の服装と言うと、手織木綿ておりもめんの綿入の上へ金釦きんボタンの制服外套がいとうを着て、外套の頭巾ずきんをすぽりとかぶって なるべく人の目につかないような注意をしました。折柄おりから 柿落葉の時節で 宿から南郷街道なんごうかいどうへ出るまではの葉で路が一杯です。


一歩ひとあし運ぶごとに がさがさ するのが気にかかります。誰かあとをつけて来そうでたまりません。振り向いて見ると東嶺寺とうれいじの森がこんもりと黒く、暗い中に暗く写っています。この東嶺寺と言うのは松平家まつだいらけ菩提所ぼだいしょで、庚申山こうしんやまふもとにあって、私の宿とは一丁くらいしかへだたっていない、すこぶる幽邃ゆうすい梵刹ぼんせつ【ひっそりとして奥深く、神秘的な雰囲気に包まれた寺】です。森から上はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋違すじかいに横切って末は‥‥末は、そうですね、まず布哇ハワイの方へ流れています……」
布哇ハワイは突飛だね」と迷亭君が言った。
「南郷街道をついに二丁来て、鷹台町たかのだいまちから市内に入って、古城町こじょうまちを通って、仙石町せんごくまちを曲って、喰代町くいしろちょうを横に見て、通町とおりちょうを一丁目、二丁目、三丁目と順に通り越して、それから尾張町おわりちょう名古屋町なごやちょう鯱鉾町しゃちほこちょう、  蒲鉾町かまぼこちょう……」
「そんなに いろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と主人がじれったそうに聞く。
「楽器のある店は金善かねぜん 即ち金子善兵衛方ですから、まだ なかなかです」
「なかなか でもいいから早く買うがいい」
「かしこまりました。それで金善方へ来て見ると、店にはランプが かんかん ともって……」
「またかんかんか、君のかんかんは一度や二度で済まないんだから難渋なんじゅう【物事がはかどらず苦しむ】するよ」と今度は迷亭が予防線を張った。
「いえ、今度のかんかんは、ほんの通り一返のかんかんですから、別段御心配には及びません。……灯影ほかげにすかして見ると例のヴァイオリンが、ほのかに秋のを反射して、くり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びています。つよく張った琴線きんせんの一部だけが きらきら と白く眼にうつります。……」
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「なかなか叙述【文章】がうまいや」と東風君がほめた。
「あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に動悸どうきがして足がふらふらします……」
「ふふん」と独仙君が鼻で笑った。
「思わずけ込んで、隠袋かくしから蝦蟇口がまぐちを出して、蝦蟇口の中から五円札を二枚出して……」
「とうとう買ったかい」と主人がきく。
「買おうと思いましたが、まてしばし、ここが肝心かんじんのところだ。滅多めったな事をしては失敗する。まあよそうと、きわどいところで思い留まりました」
「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一梃いっちょうで なかなか人を引っ張るじゃないか」
「引っ張る訳じゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません」
「なぜ」
「なぜって、まだよいの口で人が大勢通るんですもの」
「構わんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君はよっぽど妙な男だ」と主人はぷんぷんしている。
「ただの人なら千が二千でも構いませんがね、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って徘徊はいかいしているんだから容易に手を出せませんよ。中には沈殿党ちんでんとうなどと号して、いつまでもクラスの底に溜まって 喜んでるのがありますからね。そんなのに限って柔道は強いのですよ。滅多めったにヴァイオリンなどに手出しは出来ません。どんな目にうかわかりません。私だってヴァイオリンは欲しいに 相違ないですけれども、命はこれでも惜しいですからね。ヴァイオリンをいて殺されるよりも、弾かずに生きてる方が楽ですよ」
「それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と主人が念を押す。
「いえ、買ったのです」
「じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやなら いやでいいから、早くかたをつけたら よさそうなものだ」
「えへへへへ、世の中の事はそう、こっちの思うようにらちがあくもんじゃ ありませんよ」と言いながら寒月君は冷然と「朝日」へ火をつけて ふかし出した。
 主人は面倒になったと見えて、ついと立って書斎へ入ったと思ったら、何だか古ぼけた洋書を一冊持ち出して来て、ごろりと腹這はらばいになって読み始めた。独仙君はいつの間にやら、床の間の前へ退去して、ひとりで碁石を並べて一人相撲ひとりずもうをとっている。せっかくの逸話も あまり長くかかるので 聴手が一人減り二人減って、残るは芸術に忠実なる東風君と、長い事にかつて辟易へきえきした事のない迷亭先生のみとなる。
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 長い煙をふうと世の中へ遠慮なく吹き出した寒月君は、やがて前同様ぜんどうようの速度をもって談話をつづける。
東風君、僕はその時こう思ったね。とうてい こりゃ 宵の口は駄目だ、と言って真夜中に来れば金善は寝てしまうからなお駄目だ。何でも学校の生徒が散歩から帰りつくして、そうして金善がまだ寝ない時を見計らって来なければ、せっかくの計画が水泡に帰する。けれどもその時間をうまく見計うのがむずかしい」「なるほど こりゃ むずかしかろう」
「で僕はその時間をまあ十時頃と見積ったね。それで今から十時頃までどこかで暮さなければ ならない。うちへ帰って出直すのは大変だ。友達のうちへ話しに行くのは何だか気がとがめるようで面白くなし、仕方がないから相当の時間がくるまで 市中を散歩する事にした。ところが平生ならば二時間や三時間は ぶらぶら あるいているうちに、いつの間にか経ってしまうのだがその夜に限って、時間のたつのが遅いの何のって、‥‥千秋せんしゅう【一日千秋】の思とはあんな事を言うのだろうと、しみじみ感じました」と さも感じたらしい風をして わざと迷亭先生の方を向く。
「古人を待つ身につらき置炬燵おきごたつ【懐かしいあの人を待ち続ける私には、この置き炬燵の温もりがかえって切ない】と言われた事があるからね、また待たるる身より待つ身はつらいともあって 軒に吊られたヴァイオリンもつらかったろうが、あてのない探偵のようにうろうろ、まごついている君は なおさらつらいだろう。累々るいるいとして【弱り果てた】喪家そうかの犬【主人を失い、しょんぼりとうろつく犬】のごとし。いや宿のない犬ほど気の毒なものは実際ないよ」
「犬は残酷ですね。犬に比較された事は これでも まだありませんよ」
「僕は何だか君の話をきくと、むかしの芸術家の伝を読むような気持がして 同情の念にえない。犬に比較したのは先生の冗談じょうだんだから 気に掛けずに話を進行したまえ」と東風君は慰藉いしゃした【なぐさめた】。慰藉されなくても寒月君は無論 話をつづけるつもりである。
「それから徒町おかちまちから百騎町ひゃっきまちを通って、両替町りょうがえちょうから鷹匠町たかじょうまちへ出て、県庁の前で枯柳の数を勘定して病院の横で窓のを計算して、紺屋橋こんやばしの上で巻煙草まきたばこを二本ふかして、そうして時計を見た。……」
「十時になったかい」
「惜しい事にならないね。‥‥紺屋橋を渡り切って川添に東へのぼって行くと、按摩あんまに三人あった。そうして犬がしきりにえましたよ先生……」
「秋の夜長に川端で犬の遠吠をきくのは ちょっと芝居がかりだね。君は落人おちゅうどと言う格だ」
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「何かわるい事でもしたんですか」
「これからしようと言うところさ」
可哀相かわいそうにヴァイオリンを買うのが悪い事じゃ、音楽学校の生徒はみんな罪人ですよ」
「人が認めない事をすれば、どんないい事をしても罪人さ、だから世の中に罪人ほど あてに ならないものはない。耶蘇ヤソ【キリスト】もあんな世に生れれば罪人さ。好男子寒月君もそんな所でヴァイオリンを買えば罪人さ」
「それじゃ負けて罪人としておきましょう。罪人はいいですが十時にならないのには弱りました」
「もう一ぺん、町の名を勘定するさ。それで足りなければまた秋の日を かんかん させるさ。それでも おっつかなければ また甘干しの渋柿を三ダースも食うさ。いつまでも聞くから十時になるまでやりたまえ」
 寒月先生は にやにやと笑った。
「そうせんを越されては降参するより ほかはありません。それじゃ一足飛びに十時にしてしまいましょう。さて御約束の十時になって金善かねぜんの前へ来て見ると、夜寒の頃ですから、さすが目貫めぬき両替町りょうがえちょうも ほとんど人通りが絶えて、むこうからくる下駄の音さえさみしい心持ちです。金善ではもう大戸をたてて【表戸を閉めて】、わずかにくぐだけを障子しょうじにしています。私は何となく犬にけられたような心持で、障子をあけて入るのに少々薄気味がわるかったです……」
 この時主人は きたならしい本からちょっと眼をはずして、「おいもうヴァイオリンを買ったかい」と聞いた。「これから買うところです」と東風君が答えると「まだ買わないのか、実に永いな」とひとごとのように言ってまた本を読み出した。独仙君は無言のまま、白と黒で碁盤を大半うずめてしまった。
「思い切って飛び込んで、頭巾ずきんかぶったままヴァイオリンをくれと言いますと、火鉢の周囲に四五人 小僧や若僧がかたまって話をしていたのが 驚いて、申し合せたように私の顔を見ました。私は思わず右の手を挙げて 頭巾をぐいと前の方に引きました。おいヴァイオリンをくれと二度目に言うと、一番前にいて、私の顔をのぞき込むようにしていた小僧が へえと覚束おぼつかない返事をして、立ち上がって例の店先にるしてあったのを三四ちょう一度におろして来ました。いくらかと聞くと五円二十銭【約五万円】だと言います……」
「おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか」
「みんな同価どうねかと聞くと、へえ、どれでも変りはございません。
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みんな丈夫に念を入れてこしらえてございますと言いますから、蝦蟇口がまぐちのなかから五円札と銀貨を二十銭出して 用意の大風呂敷を出してヴァイオリンを包みました。このあいだ、店のものは 話を中止してじっと私の顔を見ています。顔は頭巾でかくしてあるから 分る気遣きづかい【はず】はないのですけれども 何だか気がせいて一刻も早く往来へ出たくてたまりません。ようやくの事 風呂敷包を外套がいとうの下へ入れて、店を出たら、番頭が声をそろえてありがとう と大きな声を出したのには ひやっとしました。往来へ出てちょっと見回して見ると、さいわい誰もいないようですが、一丁ばかりむこうから二三人して町内中に響けとばかり詩吟をして来ます。こいつは大変だと金善の角を西へ折れて濠端ほりばた薬王師道やくおうじみちへ出て、はんの木村から庚申山こうしんやますそへ出てようやく下宿へ帰りました。下宿へ帰って見たらもう二時十分前でした」
「夜通しあるいていたようなものだね」と東風君が気の毒そうに言うと「やっと上がった。やれやれ長い道中双六どうちゅうすごろくだ」と迷亭君はほっと一と息ついた。
「これからが聞きどころですよ。今までは単に序幕です」
「まだあるのかい。こいつは容易な事じゃない。たいていのものは君に逢っちゃ根気負けをするね」
「根気はとにかく、ここでやめちゃ 仏作って魂入れず と一般【一緒】ですから、もう少し話します」
「話すのは無論随意さ。聞く事は聞くよ」
「どうです苦沙弥先生も御聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。ええ先生」
「こん度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくってもいい」
「まだ売るどこじゃありません」
「そんならなお聞かなくてもいい」
「どうも困るな、東風君、君だけだね、熱心に聞いてくれるのは。少し張合が抜けるがまあ仕方がない、ざっと話してしまおう」
「ざっとでなくても いいから ゆっくり話したまえ。大変面白い」
「ヴァイオリンはようやくの思で手に入れたが、まず第一に困ったのは置き所だね。僕の所へは大分だいぶ人が遊びにくるから滅多めったな所へぶらさげたり、立て懸けたりするとすぐ露見してしまう。穴を掘って埋めちゃ掘り出すのが面倒だろう」
「そうさ、天井裏へでも隠したかい」と東風君は気楽な事を言う。
「天井はないさ。百姓家ひゃくしょうやだもの」
「そりゃ困ったろう。どこへ入れたい」
「どこへ入れたと思う」
「わからないね。戸袋のなかか」
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「いいえ」
「夜具にくるんで戸棚へしまったか」
「いいえ」
 東風君と寒月君はヴァイオリンのかくについて かくのごとく問答をしているうちに、主人迷亭君も何かしきりに話している。
「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
「何だって? 〔Quid aliud est mulier nisi amicitiae& inimica【女とは、友情にとっての敵でしかないのではないか?】〕……こりゃ君 羅甸語ラテンごじゃないか」
「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」
「だって君は平生 羅甸語が読めると言ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」
「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」
「何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ」
「見ろははげしいね。まるで従卒【将校当番兵】のようだね」
「従卒でもいいから何だ」
「まあ羅甸語などは あとにして、ちょっと寒月君のご高話を拝聴つかまつろうじゃないか。今 大変なところだよ。いよいよ露見するか、しないか危機一髪と言う安宅あたかせき【源義経の勧進帳の舞台】へかかってるんだ。‥‥ねえ寒月君それからどうしたい」と急に乗気になって、またヴァイオリンの仲間入りをする。主人なさけなくも取り残された。寒月君はこれに勢を得て隠し所を説明する。
「とうとう 古つづら の中へ隠しました。このつづらは国を出る時御祖母おばあさんが餞別にくれたものですが、何でも御祖母さんが嫁にくる時 持って来たものだそうです」
「そいつは古物こぶつだね。ヴァイオリンとは少し調和しないようだ。ねえ東風君」
「ええ、ちと調和せんです」
「天井裏だって調和しないじゃないか」と寒月君は東風先生をやり込めた。
「調和はしないが、句にはなるよ、安心し給え。秋淋あきさびし つづら にかくすヴァイオリンはどうだい、両君」
「先生今日は大分だいぶ俳句が出来ますね」
「今日に限った事じゃない。いつでも腹の中で出来てるのさ。僕の俳句における造詣ぞうけい【深い知識や理解】と言ったら、故子規子こしきし【亡くなった子規、子規子は俳号の一つ】も舌をいて驚ろいたくらいのものさ」
「先生、子規さんとは御つき合でしたか」と正直な東風君は真率しんそつ【率直】な質問をかける。
「なにつき合わなくっても 始終無線電信で 肝胆相照らしていた【心の底まで知り合う友情があった】もんだ」
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と無茶苦茶を言うので、東風先生あきれて黙ってしまった。寒月君は笑いながらまた進行する。
「それで置き所だけは出来た訳だが、今度は出すのに困った。ただ出すだけなら人目をかすめてながめるくらいはやれん事はないが、眺めたばかりじゃ何にもならない。かなければ役に立たない。弾けば音が出る。出ればすぐ露見する。ちょうど木槿垣むくげがきを一重隔てて南隣りは沈殿組ちんでんぐみ【無気力で停滞したような隣人】の頭領が下宿しているんだから剣呑けんのんだあね」
「困るね」と東風君が気の毒そうに調子を合わせる。
「なるほど、こりゃ困る。論より証拠 音が出るんだから、小督こごうつぼね【平安時代末期の、有名な悲恋の物語のヒロイン】も全くこれで しくじったんだからね。これがぬすみ食をするとか、贋札にせさつを造るとか言うなら、まだ始末がいいが、音曲おんぎょくは人に隠しちゃ出来ないものだからね」
「音さえ出なければどうでも出来るんですが……」
「ちょっと待った。音さえ出なけりゃと言うが、音が出なくてもかくおおせないのがあるよ。むかし僕等が小石川の御寺で自炊をしている時分に鈴木とうさんと言う人がいてね、この藤さんが大変味淋みりんがすきで、ビールの徳利とっくりへ味淋を買って来ては一人で楽しみに飲んでいたのさ。ある日とうさんが散歩に出たあとで、よせばいいのに苦沙弥君がちょっと盗んで飲んだところが……」
「おれが鈴木味淋みりんなどをのむものか、飲んだのは君だぜ」と主人は突然大きな声を出した。
「おや本を読んでるから大丈夫かと思ったら、やはり聞いてるね。油断の出来ない男だ。耳も八丁【八方からの音を聞き取る】、目も八丁とは君の事だ。なるほど言われて見ると僕も飲んだ。僕も飲んだには相違ないが、発覚したのは君の方だよ。‥‥両君まあ聞きたまえ。苦沙弥先生元来酒は飲めないのだよ。ところを人の味淋みりんだと思って一生懸命に飲んだものだから、さあ大変、顔中真赤まっかにはれ上ってね。いやもう二目ふためとは見られない ありさまさ……」
「黙っていろ。羅甸語ラテンごも読めない癖に」
「ハハハハ、それでとうさんが帰って来てビールの徳利をふって見ると、半分以上足りない。
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何でも誰か飲んだに相違ない と言うので見回して見ると、大将隅の方に朱泥しゅでい【赤褐色の急須を思い浮かべて】を練りかためた人形のように かたくなっていらあね……」
 三人は思わず哄然こうぜんと【どっと】笑い出した。主人も本をよみながら、くすくすと笑った。ひと独仙君に至っては機外きがいろうし過ぎて、少々疲労したと見えて、碁盤の上へのしかかって、いつの間にやら、ぐうぐう寝ている。「まだ音がしないもので露見した事がある。僕が昔し姥子うばこの温泉に行って、一人のじじいと相宿あいやどになった事がある。何でも東京の呉服屋の隠居か何かだったがね。まあ相宿だから呉服屋だろうが、古着屋だろうが構う事はないが、ただ困った事が一つ出来てしまった。と言うのは僕は姥子うばこへ着いてから三日目に煙草たばこを切らしてしまったのさ。諸君も知ってるだろうが、あの姥子と言うのは山の中の一軒屋で ただ温泉に入って飯を食うよりほかに どうもこうも仕様のない不便の所さ。そこで煙草を切らしたのだから御難だね。物はないとなると なお欲しくなるもので、煙草がないなと思うやいなや、いつもそんなでないのが急に呑みたくなり出してね。意地のわるい事に、そのじじいが風呂敷に一杯 煙草を用意して登山しているのさ。それを少しずつ出しては、人の前で胡座あぐらをかいて呑みたいだろうと言わないばかりに、すぱすぱふかすのだね。ただふかすだけなら勘弁のしようもあるが、しまいには煙を輪に吹いて見たり、たてに吹いたり、横に吹いたり、乃至ないし邯鄲かんたん ゆめまくら軽業かるわざや曲芸の演目】とぎゃくに吹いたり、または鼻から獅子の洞入ほらいり、洞返ほらがえりに吹いたり。つまり呑み びらかす んだね……」
「何です、呑みびらかすと言うのは」
衣装道具いしょうどうぐなら見せびらかすのだが、煙草だから呑みびらかすのさ」
「へえ、そんな苦しい思いをなさるより貰ったらいいでしょう」
「ところが貰わないね。僕も男子だ」
「へえ、貰っちゃいけないんですか」
「いけるかも知れないが、貰わないね」
「それでどうしました」
「貰わないでぬすんだ」
「おやおや」
「奴さん手拭てぬぐいをぶらさげて湯に出掛けたから、呑むならここだと思って一心不乱立てつづけに呑んで、ああ愉快だと思うもなく、障子しょうじがからりとあいたから、おやと振り返ると煙草の持ち主さ」
「湯には入らなかったのですか」
「入ろうと思ったら巾着きんちゃくを忘れたのに気がついて、廊下から引き返したんだ。人が巾着でもとりゃしまいし第一それからが失敬さ」
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「何とも言えませんね。煙草の御手際おてぎわじゃ」
「ハハハハじじいも なかなか眼識があるよ。巾着はとにかくだが、じいさんが障子をあけると 二日間の溜め呑みをやった 煙草の煙りがむっとするほどへやのなかにこもってるじゃないか、悪事千里とはよく言ったものだね。たちまち露見してしまった」
「じいさん何とかいいましたか」
「さすが年の功だね、何にも言わずに巻煙草まきたばこを五六十本半紙にくるんで、失礼ですが、こんな粗葉そはでよろしければ どうぞお呑み下さいましと言って、また湯壺ゆつぼへ下りて行ったよ」
「そんなのが江戸趣味と言うのでしょうか」
「江戸趣味だか、呉服屋趣味だか知らないが、それから僕は爺さんとおおい肝胆相照かんたんあいてらして【親しくなって】、二週間の間 面白く逗留とうりゅうして帰って来たよ」
「煙草は二週間中爺さんの御馳走になったんですか」
「まあそんなところだね」
「もうヴァイオリンは片ついたかい」と主人はようやく本を伏せて、起き上りながらついに降参を申し込んだ。
「まだです。これからが面白いところです、ちょうどいい時ですから聞いて下さい。ついでにあの碁盤の上で昼寝をしている先生‥‥何とか言いましたね、え、独仙先生、‥‥独仙先生にも聞いていただきたいな。どうですあんなに寝ちゃ、からだに毒ですぜ。もう起してもいいでしょう」
「おい、独仙君、起きた起きた。面白い話がある。起きるんだよ。そう寝ちゃ毒だとさ。奥さんが心配だとさ」
「え」と言いながら顔を上げた独仙君の山羊髯やぎひげを伝わって垂涎よだれが一筋長々と流れて、蝸牛かたつむりの這ったあとのように歴然と光っている。
「ああ、眠かった。山上の白雲わがものうきに似たり【山の上に漂う白い雲は、私の怠け者に似ている】か。ああ、いい心持ちにたよ」
「寝たのはみんなが認めているのだがね。ちっと起きちゃどうだい」
「もう、起きてもいいね。何か面白い話があるかい」「これからいよいよヴァイオリンを‥‥どうするんだったかな、苦沙弥君」
「どうするのかな、とんと見当けんとうがつかない」
「これからいよいよ弾くところです」
「これからいよいよヴァイオリンを弾くところだよ。こっちへ出て来て、聞きたまえ」
「まだヴァイオリンかい。困ったな」
「君は無絃むげん素琴そきんだんずる連中だから困らない方なんだが、寒月君のは、きいきいぴいぴい近所合壁きんじょがっぺきへ聞えるのだからおおいに困ってるところだ」
「そうかい。寒月君近所へ聞えないようにヴァイオリンを弾くほうを知らんですか」
「知りませんね、あるなら伺いたいもので」
「伺わなくても露地ろじ白牛びゃくぎゅうを見ればすぐ分るはずだが」と、何だか通じない事を言う。
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寒月君はねぼけてあんな珍語をろうするのだろうと鑑定したから、わざと相手にならないで話頭を進めた。
「ようやくの事で一策を案出しました。あくる日は天長節だから、朝からうちにいて、つづらのふたをとって見たり、かぶせて見たり一日いちんちそわそわして暮らしてしまいましたが いよいよ日が暮れて、つづらの底でこおろぎが鳴き出した時 思い切って例のヴァイオリンと弓を 取り出しました」
「いよいよ出たね」と東風君が言うと「滅多めったに弾くとあぶないよ」と迷亭君が注意した。
「まず弓を取って、切先きっさきから鍔元つばもとまでしらべて見る……」
「下手な刀屋じゃあるまいし」と迷亭君が冷評ひやかした。「実際これが自分の魂だと思うと、さむらいぎ澄した名刀を、長夜ちょうや灯影ほかげ鞘払さやばらい【刀を引き抜く動作】をする時のような心持ちがするものですよ。私は弓を持ったまま ぶるぶると ふるえました」
「全く天才だ」と言う東風君について「全く癲癇てんかんだ」と迷亭君がつけた。主人は「早く弾いたらよかろう」と言う。独仙君は困ったものだと言う顔付をする。
「ありがたい事に弓は無難【問題なし】です。今度はヴァイオリンを同じくランプのそばへ引き付けて、裏表共よくしらべて見る。このあいだ約五分間、つづらの底では始終こおろぎが鳴いていると思って下さい。……」
「何とでも思ってやるから安心して弾くがいい」
「まだ弾きゃしません。‥‥幸いヴァイオリンもきずがない。これなら大丈夫とぬっくと立ち上がる……」
「どっかへ行くのかい」
「まあ少し黙って聞いて下さい。そう一句毎に邪魔をされちゃ話が出来ない。……」
「おい諸君、だまるんだとさ。シーシー」
「しゃべるのは君だけだぜ」
「うん、そうか、これは失敬、謹聴謹聴」
「ヴァイオリンを小脇にい込んで、草履ぞうりつっかけたまま二三歩草の戸を出たが、まてしばし……」
「そらおいでなすった。何でも、どっかで停電するに違ないと思った」
「もう帰ったって甘干しの柿はないぜ」
「そう諸先生が御まぜ返しになっては はなはだ遺憾いかんの至りだが、東風君一人を相手にするより致し方がない。‥‥いいかね東風君、二三歩出たがまた引き返して、国を出るとき三円二十銭で買った赤毛布あかげっとを頭からかぶってね、ふっとランプを消すと君真暗闇まっくらやみになって今度は草履ぞうり所在地ありかが判然しなくなった」
「一体どこへ行くんだい」
「まあ聞いてたまい。ようやくの事 草履を見つけて、表へ出ると星月夜に柿落葉、赤毛布あかげっとにヴァイオリン。
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右へ右へと爪先上つまさきあがりに庚申山こうしんやまへ差しかかってくると、東嶺寺とうれいじの鐘がボーンと毛布けっとを通して、耳を通して、頭の中へ響き渡った。何時なんじだと思う、君」
「知らないね」
「九時だよ。これから秋の夜長をたった一人、山道八丁を大平おおだいらと言う所まで登るのだが、平生なら臆病な僕の事だから、恐しくって たまらない ところだけれども、一心不乱となると不思議なもので、こわいにも怖くないにも、毛頭【少しも】そんな念はてんで心の中に起らないよ。ただヴァイオリンが弾きたいばかりで 胸が一杯になってるんだから 妙なものさ。この大平と言う所は庚申山の南側で 天気のいい日に登って見ると 赤松の間から城下が一目に見下みおろせる眺望佳絶の平地で‥‥そうさ広さはまあ百坪もあろうかね、真中に八畳敷ほどな一枚岩があって、北側はぬまと言う池つづきで、池のまわりは三抱えもあろうと言うくすのきばかりだ。山のなかだから、人の住んでる所は樟脳しょうのう【芳香・防虫剤】をる小屋が一軒あるばかり、池の近辺は昼でもあまり心持ちのいい場所じゃない。幸い工兵が演習のため道を切り開いてくれたから、登るのに骨は折れない。ようやく一枚岩の上へ来て、毛布けっとを敷いて、ともかくも その上へ座った。こんな寒い晩に登ったのは始めてなんだから、岩の上へ座って少し落ち着くと、あたりのさみしさが次第次第に腹の底へみ渡る。こう言う場合に人の心を乱すものは ただこわいと言う感じばかりだから、この感じさえ引き抜くと、余るところは皎々冽々こうこうれつれつたる空霊の気だけ【非常に澄み渡って明るく、冷たく清らかな、天空の霊的な気配】になる。二十分ほど茫然ぼうぜんとしているうちに何だか水晶で造った御殿のなかに、たった一人住んでるような気になった。しかもその一人住んでる僕のからだが‥‥いやからだばかりじゃない、心も魂もことごとく寒天か何かで製造されたごとく、不思議にとおってしまって、自分が水晶の御殿の中にいるのだか、自分の腹の中に水晶の御殿があるのだか、わからなくなって来た……」
「飛んだ事になって来たね」と迷亭君が真面目にからかうあとに付いて、独仙君が「面白い境界きょうがいだ」と少しく感心したようすに見えた。
「もしこの状態が長くつづいたら、私はあすの朝まで、せっかくのヴァイオリンも弾かずに、ぼんやり一枚岩の上に座ってた かも知れないです……」
きつねでもいる所かい」と東風君がきいた。
「こう言う具合で、自他の区別もなくなって、生きているか死んでいるか方角のつかない時に、突然うしろの古沼の奥でギャーと言う声がした。……」
「いよいよ出たね」
「その声が遠く反響を起して満山の秋のこずえを、野分のわき【秋草の野をふき分ける強い風】と共に渡ったと思ったら、はっと我に帰った……」
「やっと安心した」と迷亭君が胸をでおろす真似をする。
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大死一番たいしいちばん乾坤新けんこんあらたなり【大いなる決死の一歩を経て、天地が新しく生まれ変わる】」と独仙君は目くばせをする。寒月君にはちっとも通じない。
「それから、我に帰ってあたりを見回わすと、庚申山こうしんやま一面はしんとして、雨れほどの音もしない。はてな今の音は何だろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大き過ぎるし、猿の声にしては‥‥この辺によもや猿はおるまい。何だろう? 何だろうと言う問題が頭のなかに起ると、これを解釈しようと言うので 今まで静まり返っていた やからが、紛然ふんぜん雑然ざつぜん糅然じゅうぜん【秩序も意味もなく、さまざまなものが ごちゃまぜになっている】としてあたかもコンノート殿下【ヴィクトリア女王の三男】歓迎の当時における都人士【都会人】狂乱の態度をもって脳裏をかけ回る。そのうちに総身そうしん【全身】の毛穴が急にあいて、焼酎しょうちゅうを吹きかけた毛脛けずねのように、勇気、胆力、分別、沈着などと号するお客様がすうすうと蒸発して行く。心臓が肋骨の下でステテコを踊り出す【ステテコ姿で踊り出す】。両足が紙鳶たこのうなりのように震動をはじめる。これはたまらん。いきなり、毛布けっとを頭からかぶって、ヴァイオリンを小脇にい込んでひょろひょろと一枚岩を飛び下りて、一目散に山道八丁をふもとの方へかけ下りて、宿へ帰って布団ふとんへくるまって寝てしまった。今考えてもあんな気味のわるかった事はないよ、東風君」
「それから」
「それでおしまいさ」
「ヴァイオリンは弾かないのかい」
「弾きたくっても、弾かれないじゃないか。ギャーだもの。君だってきっと弾かれないよ」
「何だか君の話は物足りないような気がする」
「気がしても事実だよ。どうです先生」と寒月君は一座を見回わして大得意のようすである。
「ハハハハこれは上出来。そこまで持って行くにはだいぶ苦心 惨憺さんたんたる【見るに忍びない】ものがあったのだろう。僕は男子のサンドラ・ベロニ【聡明で情熱的なイタリア系の歌姫の小説の女主人公】が東方君子のくにに出現するところかと思って、今が今まで真面目に拝聴していたんだよ」と言った迷亭君は誰かサンドラ・ベロニの講釈でも聞くかと思のほか、何にも質問が出ないので「サンドラ・ベロニが月下に竪琴たてごとを弾いて、以太利亜風イタリアふうの歌を森の中でうたってるところは、君の庚申山こうしんやまへヴァイオリンをかかえてのぼるところと同曲にして異巧なる【異なる味わいがある】ものだね。惜しい事に向うは月中げっちゅう嫦娥じょうが【月に住む清らかな美女】を驚ろかし、君は古沼ふるぬま怪狸かいり【化け狸】におどろかされたので、きわどいところで滑稽こっけいと崇高の大差を来たした。さぞ遺憾いかんだろう」
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と一人で説明すると、
「そんなに遺憾ではありません」と寒月君は存外平気である。
「全体山の上でヴァイオリンを弾こうなんて、ハイカラをやるから、おどかされるんだ」と今度は主人が酷評を加えると、
好漢こうかんこの鬼窟裏きくつりに向って生計を営む【気骨ある男が、こんな鬼の巣のような場所に立ち向かいながら、日々の暮らしを立てている】。惜しい事だ」と独仙君は嘆息した。すべて独仙君の言う事は決して寒月君にわかった ためしがない。寒月君ばかりではない、おそらく誰にでもわからないだろう。
「そりゃ、そうと寒月君、近頃でも矢張り学校へ行ってたまばかり磨いてるのかね」と迷亭先生はしばらくして話頭を転じた。
「いえ、こないだうちから国へ帰省していたもんですから、暫時ざんじ中止の姿です。たまももうあきましたから、実はよそうかと思ってるんです」
「だってたまが磨けないと博士にはなれんぜ」と主人は少しく眉をひそめたが、本人は存外気楽で、
「博士ですか、エヘヘヘヘ。博士なら もう ならなくってもいいんです」
「でも結婚が延びて、双方困るだろう」
「結婚って誰の結婚です」
「君のさ」
「私が誰と結婚するんです」
金田の令嬢さ」
「へええ」
「へえって、あれほど約束があるじゃないか」
「約束なんかありゃしません、そんな事を言いらすなあ、向うの勝手です」
「こいつは少し乱暴だ。ねえ迷亭、君もあの一件は知ってるだろう」
「あの一件た、鼻事件かい。あの事件なら、君と僕が知ってるばかりじゃない、公然の秘密として天下一般に知れ渡ってる。現に万朝まんちょう【新聞】なぞでは花聟はなむこ花嫁と言う表題で両君の写真を紙上に掲ぐるのえいはいつだろう、いつだろうって、うるさく僕のところへ聞きにくるくらいだ。東風君なぞは すでに鴛鴦歌えんおうかと言う一大長編を作って、三箇月ぜんから待ってるんだが、寒月君が博士にならないばかりで、せっかくの傑作も 宝の持ち腐れになりそうで 心配でたまらないそうだ。ねえ、東風君そうだろう」
「まだ心配するほど持ちあつかって【取り扱っては】はいませんが、とにかく満腹の同情をこめた作を 公けにするつもりです」
「それ見たまえ、君が博士になるか ならないかで、四方八方へ飛んだ影響が及んでくるよ。少ししっかりして、たまを磨いてくれたまえ」
「へへへへ いろいろ御心配をかけて済みませんが、もう博士には ならないでもいいのです」
「なぜ」
「なぜって、私にはもう歴然れっきとした女房があるんです」
「いや、こりゃえらい。いつの間に秘密結婚をやったのかね。油断のならない世の中だ。
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苦沙弥さん ただ今御聞き及びの通り寒月君はすでに妻子があるんだとさ」
「子供はまだですよ。そう結婚して一と月も たたないうちに 子供が生れちゃ事でさあ」
元来いつどこで結婚したんだ」と主人は予審判事見たような質問をかける。
「いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。今日先生の所へ持って来た、この鰹節かつぶしは結婚祝に親類から貰ったんです」
「たった三本祝うのは けちだな」
「なに沢山のうちを三本だけ持って来たのです」
「じゃ御国の女だね、やっぱり色が黒いんだね」
「ええ、真黒です。ちょうど私には相当です」「それで金田の方はどうする気だい」
「どうする気でもありません」
「そりゃ少し義理がわるかろう。ねえ迷亭
「わるくもないさ。ほかへやりゃ同じ事だ。どうせ夫婦なんてものは 闇の中で鉢合せをするようなものだ。要するに鉢合せをしないでも すむところを わざわざ鉢合せるんだから余計な事さ。すでに余計な事なら 誰と誰の鉢が合ったって 構いっこないよ。ただ気の毒なのは鴛鴦歌えんおうかを作った東風君くらいなものさ」
「なに鴛鴦歌は都合によって、こちらへ向けえてもよろしゅうございます。金田家の結婚式にはまた別に作りますから」
「さすが詩人だけあって自由自在なものだね」
金田の方へ断わったかい」と主人はまだ金田を気にしている。
「いいえ。断わる訳がありません。私の方でくれとも、貰いたいとも、先方へ申し込んだ事はありませんから、黙っていれば沢山です。‥‥なあに黙ってても沢山ですよ。今時分は探偵が十人も二十人もかかって 一部始終残らず知れていますよ」
 探偵と言う言語ことばを聞いた、主人は、急ににがい顔をして
「ふん、そんなら黙っていろ」と申し渡したが、それでもき足らなかったと見えて、なお探偵についてしものような事をさも大議論のように述べられた。
「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品をぬすむのが泥棒で、知らぬ間に口をすべらして人の心を読むのが探偵だ。
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ダンビラ【段平:幅広の刀】を畳の上へ刺して 無理に人の金銭を着服するのが 強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志をうるのが探偵だ。だから探偵と言う奴はスリ、泥棒、強盗の一族で とうてい人の風上かざかみに置けるものではない。そんな奴の言う事を聞くと癖になる。決して負けるな」「なに大丈夫です、探偵の千人や二千人、風上に隊伍【隊列】を整えて襲撃したってこわくはありません。珠磨たますりの名人理学士水島寒月でさあ」
「ひやひや見上げたものだ。さすが新婚学士ほどあって元気旺盛おうせいなものだね。しかし苦沙弥さん。探偵がスリ、泥棒、強盗の同類なら、その探偵を使う金田君のごときものは何の同類だろう」
熊坂長範くまさかちょうはん【平安時代の伝説上の盗賊】くらいなものだろう」
「熊坂はよかったね。一つと見えたる長範が二つになってぞせにけり【一つに見えた長範が、二つに分かれてどこかへ消えてしまった】と言うが、あんな烏金からすがね【一昼夜を期限として高利で金を貸す業者】で身代しんだいをつくった向横丁むこうよこちょうの長範なんかは ごうつく張りの、欲張り屋だから、いくつになっても失せる気遣きづかい【はず】はないぜ。あんな奴につかまったら因果だよ。生涯しょうがいたたるよ、寒月君用心したまえ」
「なあに、いいですよ。ああら物々し盗人ぬすびとよ。手並は さきにも知りつらん【以前から知っていただろう】。それにもりず打ち入るかって、ひどい目に合せてやりまさあ」と寒月君は自若として【落ち着いていて】宝生流ほうしょうりゅう【能楽の流派のひとつ】に気焰きえんいて見せる【勇ましい態度をとる】。
「探偵と言えば 二十世紀の人間は たいてい探偵のようになる傾向があるが、どう言う訳だろう」と独仙君は独仙君だけに時局問題には関係のない超然ちょうぜんたる質問を呈出した。
「物価が高いせいでしょう」と寒月君が答える。
「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君が答える。
「人間に文明のつのが生えて、金米糖こんぺいとうのように いらいらするからさ」と迷亭君が答える。
 今度は主人の番である。主人はもったいった口調で、こんな議論を始めた。
「それは僕が大分だいぶ考えた事だ。僕の解釈によると 当世人の探偵的傾向は 全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている。僕の自覚心と名づけるのは独仙君の方で言う、見性成仏けんしょうじょうぶつ【自己の本性を悟ることによって仏の境地に達する】とか、自己は天地と同一体だとか言う悟道【仏の教えの真髄をさとること】のたぐいではない。……」
「おや大分だいぶむずかしくなって来たようだ。
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苦沙弥君、君にしてそんな大議論を舌頭ぜっとうろうする以上は、かく申す迷亭はばかりながら 御あとで現代の文明に対する不平を 堂々と言うよ」
「勝手に言うがいい、言う事もない癖に」
「ところがある。おおいにある。君なぞはせんだっては刑事巡査を神のごとくうやまい、また今日は探偵をスリ泥棒に比し、まるで矛盾の変怪へんげだが、僕などは終始一貫 父母未生ふもみしょう以前いぜんからただ今に至るまで、かつて自説を変じた事のない男だ」
「刑事は刑事だ。探偵は探偵だ。せんだっては せんだって で今日は今日だ。自説が変らないのは発達しない証拠だ。下愚かぐ【非常に愚かな人】は移らずと言うのは君の事だ。……」
「これはきびしい。探偵もそうまともにくると可愛いところがある」
「おれが探偵」
「探偵でないから、正直でいいと言うのだよ。喧嘩はおやめおやめ。さあ。その大議論のあとを拝聴しよう」「今の人の自覚心と言うのは 自己と他人の間に截然せつぜんたる【はっきりとした】利害の鴻溝こうこう【隔たり】がある と言う事を知り過ぎていると言う事だ。そうしてこの自覚心なるものは 文明が進むにしたがって 一日一日と鋭敏になって行くから、しまいには 一挙手一投足も自然天然とは 出来ないようになる。ヘンリー【:ギリスの詩人】と言う人がスチーヴンソン【スコットランドの小説家、『ジキル博士とハイド氏』や『宝島』などの代表作で有名】を評して彼は鏡のかかった部屋に入って、鏡の前を通るごとに自己の影を写して見なければ気が済まぬほど 瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日こんにち趨勢すうせいを言いあらわしている。寝てもおれ、めてもおれ、このおれが至るところに つけまつわっているから、人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈きゅうくつになるばかり、世の中が苦しくなるばかり、ちょうど見合をする若い男女の心持ちで 朝から晩までくらさなければ ならない。悠々ゆうゆうとか従容しょうよう【落ち着きがある様子】とか言う字は かくがあって【画数ばかり多くて】意味のない言葉になってしまう。この点において今代きんだいの人は探偵的である。泥棒的である。探偵は人の目をかすめて自分だけうまい事をしようと言う商売だから、いきおい自覚心が強くならなくては出来ん。泥棒もつかまるか、見つかるかと言う心配が念頭を離れる事がないから、勢 自覚心が強くならざるを得ない。
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今の人はどうしたらおのれの利になるか、損になるかと寝てもめても考えつづけだから、勢 探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓にるまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の咒詛じゅそ【のろい】だ。馬鹿馬鹿しい」
「なるほど面白い解釈だ」と独仙君が言い出した。こんな問題になると独仙君は なかなか引込ひっこんでいない男である。「苦沙弥君の説明はよく我意わがいを得ている。むかしの人は己れを忘れろと教えたものだ。今の人は 己れを忘れるなと教える からまるで違う。二六時中己れと言う意識をもって充満している。それだから二六時中太平の時はない。いつでも焦熱地獄【仏教・八大地獄の一つで、体が溶けるほどの高熱に苦しむ】だ。天下に何が薬だと言って 己れを忘れるより 薬な事はない。三更さんこう【真夜中】月下げっか 入無我むがにいる【無我の境地に入る】とはこの至境をえいじたものさ。今の人は親切をしても自然をかいている。英吉利イギリスのナイスなどと自慢する行為も 存外自覚心が張り切れそうになっている。英国の天子が印度インドへ遊びに行って、印度の王族と食卓を共にした時に、その王族が天子の前とも心づかずに、つい自国の我流を出して馬鈴薯じゃがいも手攫てづかみで皿へとって、あとから真赤まっかになってじ入ったら、天子は知らん顔をして やはり二本指で馬鈴薯じゃがいもを皿へとったそうだ……」
「それが英吉利趣味ですか」これは寒月君の質問であった。
「僕はこんな話を聞いた」と主人が後をつける。「やはり英国のある兵営で連隊れんたいの士官が大勢して一人の下士官【士官の下の地位の人】を御馳走した事がある。御馳走が済んで手を洗う水を硝子鉢ガラスばちへ入れて出したら、この下士官は宴会になれんと見えて、硝子鉢を口へあてて中の水をぐうと飲んでしまった。すると連隊長が突然下士官の健康を祝すと言いながら、やはりフィンガー・ボールの水を一息に飲み干したそうだ。そこでみいる士官も我劣らじと水盃みずさかずきを挙げて下士官の健康を祝したと言うぜ」
「こんなはなしもあるよ」とだまってる事のきらい迷亭君が言った。「カーライル【イギリスの歴史家】が始めて女皇じょこうえっした【お目にかかった】時、宮廷の礼にならわぬ変物へんぶつの事だから、先生突然どうですと言いながら、どさりと椅子へ腰をおろした。
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ところが女皇のうしろに立っていた大勢の侍従じじゅうや官女がみんな くすくす笑い出した‥‥出したのではない、出そうとしたのさ、すると女皇が後ろを向いて、ちょっと何か相図をしたら、多勢おおぜいの侍従官女がいつの間にかみんな椅子へ腰をかけて、カーライルは面目を失わなかったと言うんだが 随分御念の入った親切もあったもんだ」
「カーライルの事なら、みんなが立ってても平気だったかも知れませんよ」と寒月君が短評を試みた。
「親切の方の自覚心は まあいいがね」と独仙君は進行する。「自覚心があるだけ親切をするにも骨が折れる訳になる。気の毒な事さ。文明が進むに従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際がおだやかになる などと普通言うが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうして おだやかになれるものか。なるほどちょっと見ると ごくしずかで無事なようだが、御互の間は非常に苦しいのさ。ちょうど相撲が土俵の真中でつに組んで動かないようなものだろう。はたから見ると平穏至極だが 当人の腹は波を打っているじゃないか」
喧嘩けんかむかしの喧嘩は暴力で圧迫するのだから かえって罪はなかったが、近頃じゃ なかなか巧妙になってるから なおなお自覚心が増してくるんだね」と番が迷亭先生の頭の上に回って来る。「ベーコン【17世紀イギリスの哲学者】の言葉に自然の力に従って始めて自然に勝つとあるが、今の喧嘩は 正にベーコンの格言通りに出来上ってるから 不思議だ。ちょうど柔術のようなものさ。敵の力を利用して敵をたおす事を考える……」
「または水力電気のようなものですね。水の力に逆らわないで かえってこれを電力に変化して立派に役に立たせる……」と寒月君が言いかけると、独仙君がすぐそのあとを引き取った。「だから貧時ひんじにはひんばくせられ、富時ふじにはに縛せられ、憂時ゆうじにはゆうに縛せられ、喜時きじにはに縛せられるのさ。才人は才にたおれ、智者は智に敗れ、苦沙弥君のような癇癪持かんしゃくもちは癇癪を利用さえすれば すぐに飛び出して敵のぺてんにかかる【手口に引っかかる】……」
「ひやひや」と迷亭君が手をたたくと、苦沙弥君は にやにや笑いながら「これで なかなか そううまくは行かないのだよ」と答えたら、みんな一度に笑い出した。
「時に金田のようなのは何でたおれるだろう」
「女房は鼻でたおれ、主人因業いんごう【仕打ちのむごさ】でたおれ、子分は探偵でたおれか」
「娘は?」
「娘は‥‥娘は見た事がないから何とも言えないが‥‥まず着倒れか、食い倒れ、もしくは呑んだくれのたぐいだろう。
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よもや恋い倒れにはなるまい。ことによると卒塔婆小町そとばこまち観阿弥かんあみ作の能の代表的な老女物】のように行き倒れになる かも知れない」
「それは少しひどい」と新体詩ささげただけに東風君が異議を申し立てた。
「だから応無所住おうむしょじゅう生其心しょうごしん【執着することをやめなさい】と言うのは大事な言葉だ、そう言う境界きょうがいに至らんと人間は苦しくてならん」と独仙君しきりにひとり悟ったような事を言う。
「そう威張るもんじゃないよ。君などは ことによると電光影裏でんこうえいり【ほんの一瞬の間】に さか倒れをやる【ひっくり返る】かも知れないぜ」
「とにかく この勢で文明が進んで行った日にや 僕は生きてるのはいやだ」と主人がいい出した。
「遠慮はいらないから死ぬさ」と迷亭言下ごんか道破どうはする【はっきり言う】。
「死ぬのは なおいやだ」と主人がわからん強情を張る。
「生れる時には誰も熟考して生れるものは有りませんが、死ぬ時には誰も苦にすると見えますね」と寒月君がよそよそしい格言をのべる。
「金を借りるときには何の気なしに借りるが、返す時にはみんな心配する【困る】のと同じ事さ」とこんな時にすぐ返事の出来るのは迷亭君である。
「借りた金を返す事を考えないものは幸福であるごとく、死ぬ事を苦にせんものは幸福さ」と独仙君は超然ちょうぜんとして出世間的しゅっせけんてき【悟りの境地】である。
「君のように言うとつまり図太ずぶといのが悟ったのだね」
「そうさ、禅語に鉄牛面てつぎゅうめん鉄牛心てつぎゅうしん【表も心も一貫して鉄牛(強健で巨大な牛)のごとし】、牛鉄面の牛鉄心【表現を変えても意味は変わらない】と言うのがある」
「そうして君はその標本と言う訳かね」
「そうでもない。しかし死ぬのを苦にするようになったのは 神経衰弱と言う病気が発明されてから 以後の事だよ」
「なるほど君などは どこから見ても神経衰弱以前の民だよ」
 迷亭独仙が妙な掛合かけあいをのべつにやっていると、主人寒月東風二君を相手にしてしきりに文明の不平を述べている。
「どうして借りた金を返さずに済ますかが問題である」
「そんな問題はありませんよ。借りたものは返さなくちゃなりませんよ」
「まあさ。議論だから、だまって聞くがいい。どうして借りた金を返さずに済ますかが 問題であるごとく、どうしたら死なずに済むかが問題である。いな問題であった。錬金術れんきんじゅつはこれである。すべての錬金術は失敗した。
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人間はどうしても 死ななければ ならん事が分明ぶんみょう【明確】になった」
「錬金術以前から分明ですよ」
「まあさ、議論だから、だまって聞いていろ。いいかい。どうしても 死ななければ ならん事が分明になった時に第二の問題が起る」
「へえ」
「どうせ死ぬなら、どうして死んだらよかろう。これが第二の問題である。自殺クラブは この第二の問題と共に 起るべき運命を有している」「なるほど」
「死ぬ事は苦しい、しかし死ぬ事が出来なければ なお苦しい。神経衰弱の国民には 生きている事が 死よりも はなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのがいやだから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである【どう死ぬのがいちばんよいかを思い悩むのである】。ただ たいていのものは知恵ちえが足りないから自然のままに放擲ほうてき【放置】しておくうちに、世間がいじめ殺してくれる。しかし一と癖あるものは 世間から なし崩しに いじめ殺されて満足するものではない。かならずや死に方に付いて種々考究の結果、嶄新ざんしんな名案を呈出するに違ない。だからして世界向後こうご趨勢すうせいは自殺者が増加して、その自殺者が皆 独創的な方法をもってこの世を去るに違ない」
大分だいぶ 物騒ぶっそうな事になりますね」
「なるよ。たしかになるよ。アーサー・ジョーンスと言う人のかいた脚本のなかに しきりに自殺を主張する哲学者があって……」
「自殺するんですか」
「ところが惜しい事にしないのだがね。しかし今から千年も立てば みんな実行するに相違ないよ。万年ののちには 死と言えば自殺よりほかに存在しないもの のように考えられるようになる」
「大変な事になりますね」
「なるよきっとなる。そうなると 自殺も大分研究が積んで 立派な科学になって、落雲館のような中学校で 倫理の代りに自殺学を正科として授けるようになる」
「妙ですな、傍聴に出たいくらいのものですね。迷亭先生御聞きになりましたか。苦沙弥先生の御名論を」
「聞いたよ。その時分になると落雲館の倫理の先生はこう言うね。諸君公徳などと言う野蛮の遺風を墨守ぼくしゅ【頑固に守る】してはなりません。世界の青年として 諸君が第一に注意すべき義務は 自殺である。しかしておのれの好むところは これを人にほどこして可なる訳だから、自殺を一歩展開して他殺にしてもよろしい。
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ことに表の窮措大きゅうそだい【貧しい学者】珍野苦沙弥氏のごときものは 生きてござるのが大分苦痛のように見受けらるるから、一刻も早く殺して進ぜるのが諸君の義務である。もっとも昔と違って今日は開明の時節であるからやり薙刀なぎなたもしくは飛道具のたぐいを用いるような卑怯ひきょうな振舞をしてはなりません。ただあてこすりの高尚なる技術によって、からかい殺すのが本人のため功徳くどくにもなり、また諸君の名誉にもなるのであります。……」
「なるほど面白い講義をしますね」
「まだ面白い事があるよ。現代では 警察が人民の生命財産を保護するのを 第一の目的としている。ところがその時分になると巡査が犬殺しのような棍棒こんぼうをもって天下の公民を撲殺ぼくさつしてあるく。……」
「なぜです」
「なぜって今の人間は生命いのちが大事だから警察で保護するんだが、その時分の国民は生きてるのが苦痛だから、巡査が慈悲のためにち殺してくれるのさ。もっとも少し気のいたものは大概自殺してしまうから、巡査に打殺ぶちころされるような奴はよくよく意気地なしか、自殺の能力のない白痴もしくは不具者に限るのさ。それで殺されたい人間は門口かどぐちへ張札をしておくのだね。なにただ、殺されたい男ありとか 女ありとか、はりつけておけば巡査が都合のいい時にまわってきて、すぐ志望通り取計ってくれるのさ。死骸かね。死骸はやっぱり巡査が車を引いて拾ってあるくのさ。まだ面白い事が出来てくる。……」
「どうも先生の冗談じょうだんは際限がありませんね」と東風君はおおいに感心している。すると独仙君は例の通り山羊髯やぎひげを気にしながら、のそのそ弁じ出した。
「冗談と言えば冗談だが、予言と言えば予言かも知れない。真理に徹底しないものは、とかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫ほうまつ夢幻むげん【泡のように消えゆく、夢や幻のようにはかないもの】を永久の事実と認定したがるものだから、少し飛び離れた事を言うと、すぐ冗談にしてしまう」
燕雀えんじゃくいずくんぞ大鵬たいほうこころざしを知らんや【小人物には大人物の志は理解できない】ですね」と寒月君が恐れ入ると、独仙君はそうさと言わぬばかりの顔付で話を進める。
むかしスペインにコルドヴァと言う所があった……」
「今でもありゃしないか」
「あるかも知れない。今昔の問題はとにかく、そこの風習として日暮れの鐘がお寺で鳴ると、家々の女がことごとく出て来て河へ入って水泳をやる……」
「冬もやるんですか」
「その辺はたしかに知らんが、とにかく貴賤老若きせんろうにゃく【身分の高い人と低い人、老人と若者】の別なく河へ飛び込む。ただし男子は一人も交らない。ただ遠くから見ている。
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遠くから見ていると暮色青然ぼしょくそうぜん【夕方になって、少しずつ暗くなっていく】たる波の上に、白いはだえ模糊もことして動いている【白い肌が、ぼんやりと、ゆらゆらと、形を定めずに動いている】……」
「詩的ですね。新体詩になりますね。なんと言う所ですか」と東風君は裸体らたいが出さえすれば前へ乗り出してくる。
「コルドヴァさ。そこで地方の若いものが、女といっしょに泳ぐ事も出来ず、さればと言って 遠くから 判然その姿を見る事も許されないのを 残念に思って、ちょっと いたずらをした……」
「へえ、どんな趣向だい」と いたずらと聞いた迷亭君はおおいに嬉しがる。
「お寺の鐘つき番に賄賂わいろを使って、日没を合図にく鐘を一時間前に鳴らした。すると女などは浅墓あさはか【思慮が足りない】なものだから、そら鐘が鳴ったと言うので、めいめい河岸かしへあつまって半襦袢はんじゅばん半股引はんももひきの服装で ざぶりざぶり と水の中へ飛び込んだ。飛び込みはしたものの、いつもと違って日が暮れない」「はげしい秋の日が かんかん しやしないか」
「橋の上を見ると男が大勢立ってながめている。恥ずかしいがどうする事も出来ない。大に赤面したそうだ」
「それで」
「それでさ、人間はただ眼前の習慣に迷わされて、根本の原理を忘れるものだから 気をつけないと駄目だと言う事さ」
「なるほどありがたい御説教だ。眼前の習慣に迷わされの御話しを僕も一つやろうか。この間ある雑誌をよんだら、こう言う詐欺師さぎしの小説があった。僕がまあここで書画骨董店こっとうてんを開くとする。で店頭に大家たいかふく【掛け軸】や、名人の道具類を並べておく。無論贋物にせものじゃない、正直正銘しょうじきしょうめい、うそいつわりのない上等品ばかり並べておく。上等品だからみんな高価にきまってる。そこへ物数奇ものずきな御客さんが来て、この元信もとのぶの幅はいくらだねと聞く。六百円なら六百円と僕が言うと、その客が欲しい事はほしいが、六百円では手元に持ち合せがないから、残念だがまあ見合せよう」
「そう言うと きまってるかい」と主人は相変らず芝居気しばいぎのない事を言う。迷亭君は ぬからぬ顔で【したり顔で】、
「まあさ、小説だよ。言うとしておくんだ。そこで僕がなにだいは構いませんから、お気に入ったら持っていらっしゃいと言う。客はそうも行かないからと躊躇ちゅうちょする。それじゃ月賦げっぷでいただきましょう、月賦も細く、長く、どうせこれから御贔屓ごひいきになるんですから‥‥いえ、ちっとも御遠慮には及びません。どうです月に十円くらいじゃ。
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何なら月に五円でも構いませんと僕がごくきさくに言うんだ。それから僕と客の間に二三の問答があって、とど僕が狩野法眼かのうほうげん元信【室町後期の画家】の幅を六百円 ただし月賦十円払込の事で売渡す」
「タイムスの百科全書見たようですね」
「タイムスはたしかだが、僕のは すこぶる不慥ふたしかだよ。これからがいよいよ巧妙なる詐偽に取りかかるのだぜ。よく聞きたまえ月十円ずつで六百円なら何年で皆済かいさいになると思う、寒月君」
「無論五年でしょう」
「無論五年。で五年の歳月は長いと思うか短かいと思うか、独仙君」
一念万年いちねんばんねん万年一念ばんねんいちねん。短かくもあり、短かくもなしだ」
「何だそりゃ道歌どうかか、常識のない道歌だね。そこで五年の間毎月十円ずつ払うのだから、つまり先方では六十回払えばいいのだ。しかしそこが習慣の恐ろしいところで、六十回も同じ事を毎月繰り返していると、六十一回にも やはり十円払う気になる。六十二回にも十円払う気になる。六十二回六十三回、回を重ねるにしたがって どうしても期日がくれば 十円払わなくては気が済まないようになる。人間は利口のようだが、習慣に迷って、根本を忘れると言う大弱点がある。その弱点に乗じて 僕が何度でも十円ずつ毎月得をするのさ」
「ハハハハまさか、それほど忘れっぽくも ならないでしょう」と寒月君が笑うと、主人はいささか真面目で、
「いやそう言う事は全くあるよ。僕は大学の貸費たいひ【借りた費用】を毎月毎月勘定せずに返して、しまいにむこうから断わられた事がある」と自分の恥を人間一般の恥のように公言した。
「そら、そう言う人が現に ここにいるから たしかなものだ。だから僕の先刻さっき述べた文明の未来記を聞いて冗談だなどと笑うものは、六十回でいい月賦を生涯しょうがい払って正当だと考える連中だ。ことに寒月君や、東風君のような経験のとぼしい青年諸君は、よく僕らの言う事を聞いて だまされないように しなくっちゃいけない」
「かしこまりました。月賦は必ず六十回限りの事に致します」
「いや冗談のようだが、実際参考になる話ですよ、寒月君」と独仙君は寒月君に向いだした。「たとえばですね。
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苦沙弥君か迷亭君が、君が無断で結婚したのが穏当おんとうでないから、金田とか言う人に謝罪しろと忠告したら君どうです。謝罪する了見ですか」
「謝罪は御容赦にあずかりたいですね。向うがあやまるなら特別、私の方ではそんな欲はありません」
「警察が君にあやまれと命じたらどうです」
「なおなお御免蒙ごめんこうむります」
「大臣とか華族ならどうです」
「いよいよもって御免蒙ります」
「それ見たまえ。昔と今とは人間がそれだけ変ってる。昔は御上おかみの御威光なら何でも出来た時代です。その次には御上の御威光でも出来ないものが出来てくる時代です。今の世はいかに殿下でも閣下でも、ある程度以上に 個人の人格の上にのしかかる事が 出来ない世の中です。はげしく言えば先方に権力があればあるほど、のしかかられるもの の方では不愉快を感じて反抗する世の中です。だから今の世はむかしと違って、御上の御威光だから出来ないのだ【昔は無理やで出来ていた】と言う新現象のあらわれる時代です、昔しのものから考えると、ほとんど 考えられないくらいな事柄が 道理で通る世の中です。世態人情の変遷と言うものは実に不思議なもので、迷亭君の未来記も冗談だと言えば冗談に過ぎないのだが、その辺の消息を説明したものとすれば、なかなかあじわいがあるじゃないですか」
「そう言う知己ちき【知合い】が出てくると 是非未来記の続きが述べたくなるね。独仙君の御説のごとく 今の世に御上の御威光をかさにきたり、竹槍の二三百本をたのみにして無理を押し通そうとするのは、ちょうどカゴへ乗って何でもでも汽車と競争しようとあせる、時代後れの頑物がんぶつ‥‥まあ わからずやの張本ちょうほん烏金からすがね【黒いカネ】の長範先生ちょうはんせんせい金田】くらいのものだから、黙って御手際おてぎわを拝見していればいいが‥‥僕の未来記はそんな当座 間に合せの小問題じゃない。人間全体の運命に関する社会的現象だからね。つらつら目下文明の傾向を達観して、遠き将来の趨勢すうせいぼくする【うらなう】と結婚が不可能の事になる。驚ろくなかれ、結婚の不可能。訳はこうさ。ぜん申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。
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それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと言わぬばかりの風をするようになる。ふたりの人が途中で逢えば うぬが人間なら、おれも人間だぞと 心のうち喧嘩けんかを買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、滅多めったに人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明かに昔より弱くなったんだろう。強くなるのは嬉しいが、弱くなるのは誰もありがたくないから、人から一毫いちごう【わずか】もおかされまいと、強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛はんもう【髪の毛の半分】でも人をおかしてやろうと、弱いところは無理にもひろげたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈きゅうくつになる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりに ふくれ返って苦しがって生存している。苦しいから 色々の方法で個人と個人との間に 余裕を求める。」「かくのごとく人間が自業自得で苦しんで、その苦しまぎれに案出した第一の方案は 親子別居の制さ。日本でも山の中へ入って見給え。一家一門いっけいちもんことごとく一軒のうちに ごろごろしている。主張すべき個性もなく、あっても主張しないから、あれで済むのだが 文明の民は たとい親子の間でも お互にわがままを張れるだけ張らなければ損になるから いきおい両者の安全を保持するためには 別居しなければ ならない。欧洲は文明が進んでいるから 日本より早くこの制度が行われている。たまたま親子同居するものがあっても、息子むすこがおやじから利息のつく金を借りたり、他人のように下宿料を払ったりする。親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払えばこそ、こんな美風が成立するのだ。この風は早晩日本へも是非輸入しなければならん。親類はとくに離れ、親子は今日こんにちに離れて、やっと我慢しているようなものの 個性の発展と、発展につれて これに対する尊敬の念は 無制限にのびて行くから、まだ離れなくては楽が出来ない。しかし親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはない訳だから、最後の方案として夫婦が分れる事になる。今の人の考では いっしょにいるから 夫婦だと思ってる。それが大きな了見違いさ。
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いっしょにいるためには いっしょにいるに充分なるだけ 個性が合わなければ ならないだろう。昔しなら文句はないさ、異体同心とか言って、目には夫婦二人に見えるが、内実は一人前いちにんまえなんだ【それぞれ違う】からね。それだから偕老同穴かいろうどうけつ【夫婦が共に年老い、死後は同じ墓に入る】とか号して、死んでも一つ穴の狸に化ける。野蛮なものさ。今はそうは行かないやね。夫はあくまでも夫で妻はどうしたって妻だからね。その妻が女学校で行灯袴あんどんばかま穿いて牢乎ろうこたる【ゆるぎも見せない】個性をきたえ上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思う通りになる訳がない。また夫の思い通りになるような妻なら 妻じゃない人形だからね。賢夫人になれば なるほど 個性はすごいほど発達する。発達すれば するほど 夫と合わなくなる。合わなければ自然のいきおい夫と衝突する。だから賢妻と名がつく以上は 朝から晩まで夫と衝突している。まことに結構な事だが、賢妻を迎えれば迎えるほど 双方共 苦しみの程度が増してくる。水と油のように夫婦の間には截然せつぜんたるしきりがあって、それも落ちついて、しきりが水平線を保っていればまだしもだが、水と油が双方から働らきかけるのだから 家のなかは 大地震のように上がったり下がったりする。ここにおいて夫婦雑居は お互の損だと言う事が 次第に人間に分ってくる。……」「それで夫婦がわかれるんですか。心配だな」と寒月君が言った。
「わかれる。きっとわかれる。天下の夫婦はみんな分れる。今まではいっしょにいたのが夫婦であったが、これからは同棲どうせいしているものは夫婦の資格がないように世間からもくされてくる」
「すると私なぞは資格のない組へ編入される訳ですね」と寒月君はきわどいところで のろけ を言った。
「明治の御代みよに生れて幸さ。僕などは未来記を作るだけあって、頭脳が時勢より一二歩ずつ前へ出ているから ちゃんと今から独身でいるんだよ。人は失恋の結果だなどと騒ぐが、近眼者のるところは実に憐れなほど浅薄せんぱくなものだ。それはとにかく、未来記の続きを話すとこうさ。
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その時一人の哲学者が天降あまくだって破天荒はてんこうの真理を唱道する。その説にいわくさ。人間は個性の動物である。個性を滅すれば人間を滅すると同結果におちいる。いやしくも人間の意義をまったからしめんためには、いかなるあたいを払うとも構わないから この個性を保持すると同時に 発達せしめなければならん。かの陋習ろうしゅう【時代遅れの悪い慣習】にせられて【しばられて】、いやいやながら結婚を執行するのは 人間自然の傾向に反した蛮風であって、個性の発達せざる蒙昧もうまい【知識が低く道理に暗い】の時代はいざ知らず、文明の今日こんにちなお この弊竇へいとう【欠陥】におちいっててん【平然】としてかえりみないのは はなはだしき謬見びゅうけん【まちがった見解】である。開化の高潮度に達せる今代きんだいにおいて 二個の個性が普通以上に 親密の程度をもって 連結され得べき理由の あるべきはずがない。この覩易みやすき【見てすぐわかる】理由はあるにも関らず 無教育の青年男女が一時の劣情に駆られて、みだりに【分別なく】合卺ごうきんの式【言わずもがなの行為】を挙ぐるは背徳没倫はいとくぼつりん【道徳に反すること】の はなはだしき所為である。吾人ごじんは人道のため、文明のため、彼等青年男女の個性保護のため、全力を挙げこの蛮風に抵抗せざるべからず【抵抗しなければ ならない】……」
「先生私はその説には全然反対です」と東風君はこの時思い切った調子でぴたりと平手ひらて膝頭ひざがしらを叩いた。「私の考では世の中に何がたっといと言って愛と美ほど尊いものはないと思います。吾々を慰藉いしゃ【なぐさめていたわる】し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭であります。吾人ごじんの情操を優美にし、品性を高潔にし、同情を洗錬するのは全く両者の御蔭であります。だから吾人ごじんは いつの世 いずくに生れても この二つのものを忘れることが出来ないです。この二つの者が現実世界にあらわれると、愛は夫婦と言う関係になります。美は詩歌しいか、音楽の形式に分れます。それだから いやしくも人類の地球の表面に存在する限りは 夫婦と芸術は決して滅する事はなかろうと思います」
「なければ結構だが、今哲学者が言った通り ちゃんと滅してしまうから仕方がないと、あきらめるさ。なに芸術だ? 芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展というのは個性の自由と言う意味だろう。個性の自由と言う意味はおれはおれ、人は人と言う意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者きょうじゅしゃの間に個性の一致があるからだろう。
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君がいくら新体詩家だって踏張ふんばっても、君の詩を読んで面白いと言うものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが 君よりほかに読み手はなくなる訳だろう。鴛鴦歌えんおうかをいくへん作ったって始まらないやね。幸いに明治の今日こんにちに生れたから、天下がこぞって愛読するのだろうが……」
「いえそれほどでもありません」
「今でさえそれほどでなければ、人文じんぶんの発達した未来すなわち例の一大哲学者が出て 非結婚論を主張する時分には 誰もよみ手はなくなるぜ。いや君のだから読まないのじゃない。人々個々にんにんここおのおの特別の個性をもってるから、人の作った詩文などは一向いっこう面白くないのさ。現に今でも英国などでは この傾向がちゃんとあらわれている。現今 英国の小説家中で もっとも個性のいちじるしい作品にあらわれた、メレディス【イギリスの小説家】を見給え、ジェイムズ【アメリカ生まれで英国帰化の小説家】を見給え。読み手はきわめて少ないじゃないか。少ないわけさ。あんな作品は あんな個性のある人でなければ 読んで面白くないんだから仕方がない。この傾向がだんだん発達して 婚姻が不道徳になる時分には 芸術もまったく滅亡さ。そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」
「そりゃそうですけれども 私はどうも直覚的【直感的】にそう思われないんです」
「君が直覚的にそう思われなければ、僕は曲覚的きょっかくてき【ひねくれた感じ方】にそう思うまでさ」
「曲覚的かも知れないが」と今度は独仙君が口を出す。「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど 御互の間が窮屈きゅうくつになるに相違ないよ。ニーチェが超人なんかかつぎ出すのも 全くこの窮屈きゅうくつのやりどころがなくなって仕方なしに あんな哲学に変形したものだね。ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるが、ありゃ理想じゃない、不平さ。個性の発展した十九世紀にすくんで、隣りの人には心置なく滅多めったに寝返りも打てないから、大将少しやけになって あんな乱暴をかき散らしたのだね。あれを読むと壮快と言うよりむしろ気の毒になる。あの声は勇猛精進ゆうもうしょうじん【積極的に物事に取り組む】の声じゃない、どうしても怨恨痛憤えんこんつうふん【恨み・深い悲しみ・強い怒りがないまぜになった激しい感情】のおんだ。それもそのはずさ 昔は一人えらい人があれば天下翕然きゅうぜんとして【一致して】その旗下にあつまるのだから、愉快なものさ。
104/116
こんな愉快が事実に出てくれば 何もニーチェ見たように 筆と紙の力でこれを書物の上にあらわす必要がない。だからホーマー【古代ギリシャの叙事詩人】でもチェヴィ・チェーズ【英国伝承の民謡的叙述】でも同じく 超人的な性格を写しても 感じがまるで違うからね。陽気ださ。愉快にかいてある。愉快な事実があって、この愉快な事実を紙に写しかえたのだから、苦味にがみはないはずだ。ニーチェの時代はそうは行かないよ。英雄なんか一人も出やしない。出たって誰も英雄と立てやしない。昔は孔子こうしがたった一人だったから、孔子も幅をかしたのだが、今は孔子が幾人もいる。ことによると天下がことごとく孔子かも知れない。だからおれは孔子だよと威張ってもおしが利かない。利かないから不平だ。不平だから超人などを書物の上だけで振り回すのさ。吾人ごじんは自由を欲して自由を得た。自由を得た結果 不自由を感じて困っている。それだから西洋の文明などは ちょっといいようでも つまり駄目なものさ。これに反して東洋じゃ昔しから心の修行をした。その方が正しいのさ。見給え個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった時、王者おうしゃたみ蕩々とうとうたり【理想的な王が治める国の民は、穏やかでゆったりとした暮らしをしている】と言う句の価値を始めて発見するから。無為むいにしてすと言う語の馬鹿に出来ない事を悟るから。しかし悟ったってその時はもうしようがない。アルコール中毒にかかって、ああ酒を飲まなければよかったと考えるようなものさ」
「先生方は大分だいぶ えん世的【世の中を悲観的に捉える】な御説のようだが、私は妙ですね。いろいろ伺っても何とも感じません。どう言うものでしょう」と寒月君が言う。
「そりゃ妻君を持ち立てだからさ」と迷亭君がすぐ解釈した。すると主人が突然こんな事を言い出した。
さいを持って、女はいいものだなどと思うと飛んだ間違になる。参考のためだから、おれが面白い物を読んで聞かせる。よく聴くがいい」
105/116
最前さいぜん書斎から持って来た古い本を取り上げて「この本は古い本だが、この時代から女のわるい事は歴然と分ってる」と言うと、寒月君が
「少し驚きましたな。元来いつ頃の本ですか」と聞く。「タマス・ナッシ【イングランド・エリザベス朝時代の風刺作家・詩人・劇作家】と言って十六世紀の著書だ」
「いよいよ驚ろいた。その時分すでに私のさいの悪口を言ったものがあるんですか」
「いろいろ女の悪口があるが、その内には是非君のさいも入る訳だから聞くがいい」
「ええ聞きますよ。ありがたい事になりましたね」
「まず古来の賢哲【賢人と哲人】が女性観を紹介すべしと書いてある。いいかね。聞いてるかね」
「みんな聞いてるよ。独身の僕まで聞いてるよ」
アリストテレスいわく 女はどうせろくでなしなれば、嫁をとるなら、大きな嫁より小さな嫁をとるべし。大きなろくでなしより、小さな碌でなしの方がわざわい少なし……」
寒月君の妻君は大きいかい、小さいかい」
「大きな碌でなしの部ですよ」
「ハハハハ、こりゃ面白い本だ。さあ あとを読んだ」
「或る人 問う、いかなるかこれ最大奇跡さいだいきせき。賢者答えて曰く、貞婦……【貞淑な女性などほとんど存在しない】」
「賢者ってだれですか」
「名前は書いてない」
「どうせ振られた賢者に相違ないね」
「次にはダイオジニス【古代ギリシアの哲学者】が出ている。或る人 問う、妻をめとる いずれの時においてすべきか。ダイオジニス答えて曰く 青年はいまだし、老年はすでに遅し。とある」
「先生 たるの中で考えたね」
ピタゴラスいわく 天下に三の恐るべきものあり 曰く 火、曰く 水、曰く 女」
希臘ギリシャの哲学者などは存外迂濶うかつな事を言うものだね。僕に言わせると天下に恐るべきものなし。火にって焼けず、水に入って溺れず……」だけで独仙君ちょっと行き詰る。
「女に逢ってとろけずだろう」と迷亭先生が援兵に出る。主人はさっさとあとを読む。
ソクラテスは 婦女子をぎょする【統治する】は人間の最大難事と言えり。デモスセニス【古代ギリシア・アテネの雄弁家】曰く 人 もしその敵を苦しめんとせば、わが女を敵に与うるより 策の得たるはあらず【妙案は無い】。家庭の風波に 日となく夜となく 彼を困憊こんぱい起つあたわざるに至らしむるを得ればなり【家庭内のもめごとにより、昼夜の区別なく彼を疲れ果てさせ、起き上がることすらできない状態にまで 追い込むからである】と。セネカ【古代ローマの哲学者】は婦女と無学をもって世界における二大厄とし、マーカス・オーレリアス【古代ローマの皇帝であり、ストア派哲学者】は 女子は 制御し難き点において 船舶に似たりと言い、プロータス【古代ギリシアのソフィスト(知恵者)、哲学者】は 女子が綺羅きらを飾るの性癖せいへきをもって その天稟てんぴんしゅう【生まれつきのみにくさ】をおおうの陋策ろうさくに もとづくもの とせり。
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ヴァレリアス【古代ローマ時代の人物】かつて書をその友某におくって告げて曰く 天下に何事も女子の忍んでなし得ざるものあらず【女性には不可能なことはない】。願わくは皇天あわれみれて、君をして彼等の術中におちいらしむるなかれ【あなたが彼(女)らの罠にはまらないようにしなさい】と。彼また曰く 女子とは何ぞ。友愛の敵にあらずや【友愛の敵ではないか?】。くべからざる苦しみにあらずや【避けることのできない苦しみではないか?】、必然の害にあらずや【必然的に起こる害ではないか?】、自然の誘惑にあらずや【自然のもたらす誘惑ではないか?】、みつに似たる毒にあらずや【蜜のように甘いが毒のように危険なものではないか?】。もし女子をつる【女性を見捨てる】が不徳【道徳に反すること】ならば、彼等を棄てざるは一層の呵責かしゃくと言わざるべからず【彼女らを見捨てないのは それ以上に悪いと言わざるを得ない】。……」
「もう沢山です、先生。そのくらい愚妻のわる口を拝聴すれば 申し分はありません」
「まだ四五ページあるから、ついでに聞いたらどうだ」
「もう たいていにするがいい。もう奥方の御帰りの刻限だろう」と迷亭先生が からかい掛けると、茶の間の方で
や、や」と細君が下女を呼ぶ声がする。
「こいつは大変だ。奥方はちゃんといるぜ、君」
「ウフフフフ」と主人は笑いながら「構うものか」と言った。
「奥さん、奥さん。いつの間に御帰りですか」
 茶の間では しんとして答がない。
「奥さん、今のを聞いたんですか。え?」
 答はまだない。
「今のはね、御主人の御考ではないですよ。十六世紀のナッシ君の説ですから御安心なさい」
「存じません」と妻君は遠くで簡単な返事をした。寒月君は くすくすと笑った。
「私も存じませんで失礼しましたアハハハハ」と迷亭君は遠慮なく笑ってると、門口かどぐちをあらあらしくあけて、頼むとも、御免とも言わず、大きな足音がしたと思ったら、座敷の唐紙が乱暴にあいて、多々良たたら三平さんぺい君の顔がその間からあらわれた。
 三平君 今日はいつに似ず、真白なシャツに卸立おろしたてのフロックを着て、すでに幾分か相場そうばを狂わせてる上へ、右の手へ重そうに下げた四本の麦酒ビールを縄ぐるみ、鰹節かつぶしそばへ置くと同時に挨拶あいさつもせず、どっかと腰を下ろして、かつひざを崩したのは目覚めざましい武者振むしゃぶりである。
「先生 胃病は近来いいですか。こうやって、うちにばかりいなさるから、いかんたい」
「まだ悪いとも何ともいやしない」
「いわんばってんが、顔色は よかなか ごたる。先生顔色がきいですばい。近頃は釣がいいです。品川から舟を一艘雇うて‥‥私はこの前の日曜に行きました」
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「何か釣れたかい」
「何も釣れません」
「釣れなくっても面白いのかい」
浩然こうぜんの気【おおらかで生き生きとした気力】を養うたい、あなた。どうですあなたがた。釣に行った事がありますか。面白いですよ釣は。大きな海の上を 小舟で乗り回わして あるくのですからね」と誰彼の容赦なく話しかける。
「僕は小さな海の上を大船で乗り回してあるきたいんだ」と迷亭君が相手になる。
「どうせ釣るなら、くじらか人魚でも釣らなくっちゃ、詰らないです」と寒月君が答えた。
「そんなものが釣れますか。文学者は常識がないですね。……」
「僕は文学者じゃありません」
「そうですか、何ですかあなたは。私のようなビジネス・マンになると常識が一番大切ですからね。先生私は近来よっぽど常識に富んで来ました。どうしてもあんな所にいると、はたが傍だから、おのずから、そうなってしまうです」
「どうなってしまうのだ」
煙草たばこでもですね、朝日や、敷島しきしまをふかしていては幅がかんです」と言いながら、吸口に金箔きんぱくのついた埃及エジプト煙草を出して、すぱすぱ吸い出した、
「そんな贅沢ぜいたくをする金があるのかい」
「金はなかばってんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、大変信用が違います」
寒月君がたまを磨くよりも楽な信用でいい、手数てすうが かからない。軽便信用だね」と迷亭寒月にいうと、寒月が何とも答えない間に、三平君は
「あなたが寒月さんですか。博士にゃ、とうとうならんですか。あなたが博士にならんものだから、私が貰う事にしました」
「博士をですか」
「いいえ、金田家の令嬢をです。実は御気の毒と思うたですたい。しかし先方で是非貰うてくれ貰うてくれと言うから、とうとう貰う事にめました、先生。しかし寒月さんに義理がわるいと思って心配しています」
「どうか御遠慮なく」と寒月君が言うと、主人
「貰いたければ貰ったら、いいだろう」と曖昧あいまいな返事をする。
「そいつはおめでたい話だ。だからどんな娘を持っても 心配するがものはない【心配する必要はない】んだよ。だれか貰うと、さっき僕が言った通り、ちゃんとこんな立派な紳士の御むこさんが出来たじゃないか。東風新体詩の種が出来た。早速とり かかりたまえ」と迷亭君が例のごとく調子づくと三平君は
「あなたが東風君ですか、結婚の時に何か作ってくれませんか。すぐ活版にして方々へくばります。太陽へも出してもらいます」
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「ええ何か作りましょう、いつごろ入用にゅうようですか」
「いつでもいいです。今まで作ったうちでもいいです。その代りです。披露ひろうのとき呼んで御馳走ごちそうするです。シャンパンを飲ませるです。君シャンパンを飲んだ事がありますか。シャンパンはうまいです。‥‥先生披露会のときに楽隊を呼ぶつもりですが、東風君の作を譜にして奏したらどうでしょう」
「勝手にするがいい」
「先生、譜にして下さらんか」
「馬鹿言え」
「だれか、このうちに音楽の出来るものは おらんですか」
「落第の候補者寒月君はヴァイオリンの妙手だよ。しっかり頼んで見たまえ。しかしシャンパンくらいじゃ承知しそうもない男だ」
「シャンパンもですね。一瓶ひとびん四円や五円のじゃよくないです。私の御馳走するのはそんな安いのじゃないですが、君一つ譜を作ってくれませんか」
「ええ作りますとも、一瓶二十銭のシャンパンでも作ります。なんならただでも作ります」「ただは頼みません、御礼はするです。シャンパンがいやなら、こう言う御礼はどうです」と言いながら上着の隠袋かくしのなかから 七八枚の写真を出して ばらばらと畳の上へ落す。半身がある。全身がある。立ってるのがある。座ってるのがある。はかま穿いてるがある。振袖ふりそでがある。高島田がある。ことごとく妙齢【年頃】の女子ばかりである。
「先生候補者がこれだけあるです。寒月君と東風君に このうちどれか御礼に周旋してもいいです。こりゃどうです」と一枚寒月君につき付ける。
「いいですね。是非周旋を願いましょう」
「これでもいいですか」とまた一枚つきつける。
「それもいいですね。是非周旋して下さい」
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「どれをです」
「どれでもいいです」
「君 なかなか多情ですね。先生、これは博士のめいです」
「そうか」
「この方は性質がごくいいです。年も若いです。これで十七です。‥‥これなら持参金が千円あります。‥‥こっちのは知事の娘です」と一人で弁じ立てる。
「それをみんな貰う訳にゃいかないでしょうか」
「みんなですか、それはあまり欲張りたい。君一夫多妻主義いっぷたさいしゅぎですか」
「多妻主義じゃないですが、肉食論者にくしょくろんしゃです」
「何でもいいから、そんなものは早くしまったら、よかろう」と主人は叱りつけるように言い放ったので、三平君は
「それじゃ、どれも貰わんですね」と念を押しながら、写真を一枚一枚にポッケットへ収めた。
「何だいそのビールは」
「お見やげでござります。前祝まえいわいに角の酒屋で買うて来ました。一つ飲んで下さい」
 主人は手をって下女を呼んでせんを抜かせる。主人迷亭独仙寒月東風の五君はうやうやしくコップを捧げて、三平君の艶福えんぷく【モテモテ】を祝した。三平君はおおいに愉快な様子で
「ここにいる諸君を披露会に招待しますが、みんな出てくれますか、出てくれるでしょうね」と言う。
「おれはいやだ」と主人はすぐ答える。
「なぜですか。私の一生に一度の大礼たいれいですばい。出てくんなさらんか。少し不人情【思いやりがない】のごたるな」
「不人情じゃないが、おれは出ないよ」
「着物がないですか。羽織はおりはかまくらい どうでもしますたい。ちと人中ひとなかへも出るが よかたい先生。有名な人に紹介して上げます」
真平まっぴらめんだ」
「胃病がなおりますばい」
「癒らんでも差支さしつかえない」
「そげん頑固張がんこばりなさるなら やむを得ません。あなたはどうです来てくれますか」
「僕かね、是非行くよ。出来るなら媒酌人ばいしゃくにんたるの栄を得たいくらいのものだ。シャンパンの三々九度や春の宵。‥‥なに仲人なこうど鈴木とうさんだって? なるほどそこいらだろうと思った。これは残念だが仕方がない。仲人が二人出来ても多過ぎるだろう、ただの人間としてまさに出席するよ」「あなたはどうです」
「僕ですか、一竿風月いっかんのふうげつ 閑生計かんせいけい人釣ひとはつりす 白蘋紅蓼間はくひんこうりょうのかん【一本の釣り竿と風月を友とする閑な暮らし。白い浮草と赤い蓼の花の間で、人を釣っている】」
「何ですかそれは、唐詩選ですか」
「何だかわからんです」
「わからんですか、困りますな。
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寒月君は出てくれるでしょうね。今までの関係もあるから」
「きっと出る事にします、僕の作った曲を楽隊が奏するのを、きき落すのは残念ですからね」
「そうですとも。君はどうです東風君」
「そうですね。出て御両人ごりょうにんの前で新体詩を朗読したいです」
「そりゃ愉快だ。先生私は生れてから、こんな愉快な事はないです。だからもう一杯ビールを飲みます」と自分で買って来たビールを一人でぐいぐい飲んで真赤まっかになった。
 短かい秋の日はようやく暮れて、巻煙草まきタバコ死骸しがいが算を乱す【秩序を乱す】火鉢のなかを見れば 火はとくの昔に消えている。さすが呑気のんきの連中も少しく興が尽きたと見えて、「大分だいぶ遅くなった。もう帰ろうか」とまず独仙君が立ち上がる。つづいて「僕も帰る」と口々に玄関に出る。寄席よせが はねたあと のように座敷は淋しくなった。
 主人夕飯ゆうはんをすまして書斎に入る。妻君肌寒はださむ襦袢じゅばんえりをかき合せて、あらざらしの不断着を縫う。小供は枕を並べて寝る。下女は湯に行った。
 呑気のんきと見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。悟ったようでも独仙君の足は やはり地面のほかは踏まぬ。気楽かも知れないが迷亭君の世の中は絵にかいた世の中ではない。寒月君は珠磨たますりをやめて とうとうお国から奥さんを連れて来た。これが順当だ。しかし順当が永く続くと 定めし【さぞかし】退屈だろう。東風君も今十年したら、無暗に新体詩を捧げる事の非を悟るだろう。三平君に至っては水に住む人か、山に住む人か ちと鑑定がむずかしい。生涯しょうがい三鞭酒シャンパンを御馳走して得意と思う事が出来れば結構だ。鈴木とうさんはどこまでもころがって行く。転がれば泥がつく。泥がついても転がれぬものよりも幅がく。猫と生れて人の世に住む事も はや二年越しになる。
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自分では これほどの見識家は またとあるまいと思うていたが、先達せんだってカーテル・ムル【ホフマン作(1820 -1822)『牡猫ムルの人生観』の主人公の猫】と言う見ず知らずの同族が突然大気焰だいきえんげた【大きなことを言う】ので、ちょっと吃驚びっくりした。よくよく聞いて見たら、実は百年ぜんに死んだのだが、ふとした好奇心から わざと幽霊になって吾輩を驚かせるために、遠い冥土めいどから出張した のだそうだ。この猫は母と対面をするとき、挨拶あいさつのしるしとして、一匹のさかなくわえて出掛けたところ、途中でとうとう我慢がし切れなくなって、自分で食ってしまったと言うほどの 不孝ものだけあって、才気も なかなか人間に負けぬほどで、ある時などは 詩を作って主人を驚かした事もあるそうだ。こんな豪傑ごうけつがすでに一世紀も前に出現しているなら、吾輩のようなろくでなしは とうに御暇おいとまを頂戴して 無何有郷むかうのきょう【人為から解き放たれた自由な境地】に帰臥きがし【身を引いて静かに暮らす】てもいいはずであった。
 主人は早晩胃病で死ぬ。金田のじいさんは欲でもう死んでいる。秋のの葉は大概落ち尽した。死ぬのが万物の定業じょうごう【決まり】で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢こいかも知れない。諸先生の説に従えば人間の運命は自殺に帰するそうだ。油断をすると猫もそんな窮屈きゅうくつな世に生れなくては ならなくなる。恐るべき事だ。何だか気がくさくさして来た。三平君のビールでも飲んで ちと景気をつけてやろう。
 勝手へ回る。秋風に がたつく戸が細目にあいてる間から 吹き込んだと見えて ランプはいつの間にか消えているが、月夜と思われて窓から影がさす。コップが盆の上に三つ並んで、その二つに茶色の水が半分ほどたまっている。硝子ガラスの中のものは湯でも冷たい気がする。まして夜寒の月影に照らされて、静かに火消壺ひけしつぼとならんでいるこの液体の事だから、唇をつけぬ先からすでに寒くて飲みたくもない。しかしものは試しだ。三平などはあれを飲んでから、真赤まっかになって、熱苦あつくるしい息遣いきづかいをした。猫だって飲めば陽気にならん事もあるまい。どうせ いつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命のあるうちにしておく事だ。
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死んでからああ残念だと墓場の影からやんでも おっつかない。思い切って飲んで見ろと、勢よく舌を入れて ぴちゃぴちゃ やって見ると驚いた。何だか舌の先を針でさされたようにぴりりとした。人間は何の酔興すいきょうでこんな腐ったものを飲むのか わからないが、猫にはとても飲み切れない。どうしても猫とビールはしょうが合わない。これは大変だと一度は出した舌を引込ひっこめて見たが、また考え直した。人間は口癖のように良薬口ににがしと言って風邪かぜなどをひくと、顔をしかめて変なものを飲む。飲むからなおるのか、癒るのに飲むのか、今まで疑問であったがちょうどいいさいわいだ。この問題をビールで解決してやろう。飲んで腹の中まで にがくなったら それまでの事、もし三平のように前後を忘れるほど愉快になれば空前のもうもので、近所の猫へ教えてやってもいい。まあどうなるか、運を天に任せて、やっつけると決心して再び舌を出した。眼をあいていると飲みにくいから、しっかり眠って、またぴちゃぴちゃ始めた。
 吾輩は我慢に我慢を重ねて、ようやく一杯のビールを飲み干した時、妙な現象が起った。始めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片付ける時分には別段骨も折れなくなった。もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた。ついでに盆の上にこぼれたのもぬぐうがごとく腹内ふくないに収めた。
 それからしばらくの間は自分で自分の動静を伺うため、じっとすくんでいた。次第にからだが暖かになる。眼のふちがぽうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。主人迷亭独仙も糞をくらえと言う気になる。金田のじいさんを引掻ひっかいてやりたくなる。妻君の鼻を食い欠きたくなる。いろいろになる。最後にふらふらと立ちたくなる。ったら よたよた あるきたくなる。
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こいつは面白いと そとへ出たくなる。出ると御月様今晩はと挨拶あいさつしたくなる。どうも愉快だ。
 陶然【酔ってうっとりした気分】とは こんな事を言うのだろうと思いながら、あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持で しまりのない足を いい加減に運ばせてゆくと、何だかしきりに眠い。寝ているのだか、あるいてるのだか判然しない。眼はあけるつもりだが重い事おびただしい。こうなればそれまでだ。海だろうが、山だろうが驚ろかないんだと、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端 ぼちゃんと音がして、はっと言ううち、‥‥やられた。どうやられたのか考えるがない。ただやられたなと気がつくか、つかないのにあとは滅茶苦茶になってしまった。
 我に帰ったときは水の上に浮いている。苦しいから爪でもって矢鱈やたらいたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐ もぐってしまう。仕方がないから後足あとあしで飛び上っておいて、前足で掻いたら、がりりと音がしてわずかに手応てごたえがあった。ようやく頭だけ浮くから どこだろうと見回わすと、吾輩は大きなかめの中に落ちている。このかめは夏まで水葵みずあおいと称する水草みずくさが茂っていたがその後 からすの勘公が来て葵を食い尽した上に行水ぎょうずいを使う。行水を使えば水が減る。減れば来なくなる。近来は大分だいぶ減ってからすが見えないなと先刻さっき思ったが、吾輩自身がからすの代りに こんな所で行水を使おうなどとは 思いも寄らなかった。
 水から縁までは四寸【約12cm】もある。足をのばしても届かない。飛び上っても出られない。呑気のんきにしていれば沈むばかりだ。もがけば がりがりとかめに爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべれば たちまち ぐっともぐる。もぐれば苦しいから、すぐ がりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。気はあせるが、足はさほどかなくなる。
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ついにはもぐるためにかめを掻くのか、掻くためにもぐるのか、自分でも分りにくくなった。
 その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責かしゃくに逢うのはつまりかめから上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが 上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水のおもてにからだが浮いて、浮いた所から思う存分 前足をのばしたって 五寸にあまるかめの縁に爪のかかりようがない。かめのふちに爪のかかりようがなければ いくらもいても、あせっても、百年の間 身をにしても出られっこない。出られないと分り切っているものを 出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。みずから求めて苦しんで、自ら好んで拷問ごうもんかかっているのは馬鹿気ている。
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙めんこうむるよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
 次第に楽になってくる。苦しいのだか ありがたいのだか 見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支さしつかえはない。ただ楽である。いな 楽そのものすらも感じ得ない。日月じつげつを切り落し、天地を粉韲ふんせい【こなみじんに】して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ 南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。



底本:「夏目漱石全集1」
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ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年9月29日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 1」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月5日初版
初出:「ホトトギス」
   1905(明治38)年1月、2月、4月、6月、7月、10月
   1906(明治39)年1月、3月、4月、8月
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:柴田卓治
校正:渡部峰子(一)、おのしげひこ(二、五)、田尻幹二(三)、高橋真也(四、七、八、十、十一)、しず(六)、瀬戸さえ子(九)
1999年9月17日公開
2018年2月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。

©シン文庫
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