一
親譲おやゆず りの
無鉄砲むてっぽう で 小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分 学校の二階から飛び降りて一週間ほど
腰こし を
抜ぬ かした事がある。なぜそんな
無闇むやみ をしたと 聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が
冗談じょうだん に、いくら
威張いば っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と
囃はや したからである。
小使こづかい に
負お ぶさって帰って来た時、
おやじ が大きな
眼め をして 二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす
奴やつ があるかと言ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
親類のものから西洋製のナイフを
貰もら って
奇麗きれい な
刃は を日に
翳かざ して、
友達ともだち に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと言った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の
甲こう をはすに切り
込こ んだ。
幸さいわい ナイフが小さいのと、親指の骨が
堅かた かったので、今だに親指は手に付いている。しかし
創痕きずあと は死ぬまで消えぬ。
庭を東へ二十歩に行き
尽つく すと、南上がりに いささかばかりの菜園があって、
真中まんなか に
栗くり の木が一本立っている。これは命より大事な栗だ。実の熟する時分は 起き抜けに
背戸せど 【裏口】を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が
山城屋やましろや という質屋の庭続きで、この質屋に
勘太郎 かんたろう という十三四の
倅せがれ が居た。
勘太郎 は無論弱虫である。弱虫の
癖くせ に四つ目垣【竹を縦横に組み合わせて四つ目にした垣根】を乗りこえて、栗を
盗ぬす みにくる。ある日の夕方
折戸おりど 【アコーディオン的な戸】の
蔭かげ に
隠かく れて、とうとう
勘太郎 を
捕つら まえてやった。その時
勘太郎 は
逃に げ
路みち を失って、
一生懸命いっしょうけんめい に飛びかかってきた。
向むこ うは二つばかり年上である。弱虫だが力は強い。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(1 / 108)
鉢はち の開いた頭を、こっちの胸へ
宛あ ててぐいぐい
押お した
拍子ひょうし に、
勘太郎 の頭がすべって、
おれ の
袷あわせ の
袖そで の中にはいった。
邪魔じゃま になって手が使えぬから、無暗に手を
振ふ ったら、
袖そで の中にある
勘太郎 の頭が、右左へぐらぐら
靡なび いた。しまいに苦しがって
袖そで の中から、
おれ の二の
腕うで へ食い付いた。痛かったから
勘太郎 を垣根へ押しつけておいて、
足搦あしがら 【足絡め】をかけて向うへ
倒たお してやった。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。
勘太郎 は四つ目垣を半分
崩くず して、自分の領分へ
真逆様まっさかさま に落ちて、ぐうと言った。
勘太郎 が落ちるときに、
おれ の
袷あわせ の片
袖そで がもげて、急に手が自由になった。その晩
母 が山城屋に
詫わ びに行ったついでに袷の片
袖そで も取り返して来た。
この外いたずらは大分やった。大工の
兼公かねこう と
肴屋さかなや の
角かく をつれて、
茂作 もさく の
人参畠にんじんばたけ をあらした事がある。人参の芽が
出揃でそろ わぬ
処ところ へ
藁わら が一面に
敷し いてあったから、その上で三人が半日
相撲すもう をとりつづけに取ったら、人参がみんな
踏ふ みつぶされてしまった。
古川 ふるかわ の持っている
田圃たんぼ の
井戸いど を
埋う めて
尻しり を持ち込まれた【責任を押しつけられた】事もある。太い
孟宗もうそう 【竹】の節を抜いて、深く埋めた中から水が
湧わ き出て、そこいらの
稲いね にみずがかかる
仕掛しかけ であった。その時分はどんな仕掛か知らぬから、石や
棒ぼう ちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へ
挿さ し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食っていたら、
古川 が
真赤まっか になって
怒鳴どな り込んで来た。たしか
罰金ばっきん を出して済んだようである。
おやじ はちっとも
おれ を
可愛かわい がってくれなかった。
母 は
兄 ばかり
贔屓ひいき にしていた。この
兄 は やに色が白くって、
芝居しばい の
真似まね をして
女形おんながた になるのが好きだった。
おれ を見る度にこいつはどうせ
碌ろく なものにはならないと、
おやじ が言った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると
母 が言った。なるほど碌なものにはならない。ご覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。ただ
懲役ちょうえき に行かないで生きているばかりである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(2 / 108)
母 が病気で死ぬ
二三日にさんち 前 台所で宙返りをしてへっつい【カマド】の角で
肋骨あばらぼね を
撲う って大いに痛かった。
母 が大層
怒おこ って、お前のようなもの の顔は見たくないと言うから、親類へ
泊とま りに行っていた。すると とうとう死んだと言う
報知しらせ が来た。そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少し
大人おとな しくすればよかったと思って帰って来た。そうしたら例の
兄 が
おれ を親不孝だ、
おれ のために、おっかさんが早く死んだんだと言った。
口惜くや しかったから、
兄 の横っ面を張って大変
叱しか られた。
母 が死んでからは、
おやじ と
兄 と三人で
暮くら していた。
おやじ は何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば 貴様は
駄目だめ だ駄目だと口癖のように言っていた。何が駄目なんだか今に分らない。
妙みょう なおやじがあったもんだ。
兄 は実業家になるとか言ってしきりに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に
一遍いっぺん ぐらいの割で
喧嘩けんか をしていた。ある時
将棋しょうぎ をさしたら
卑怯ひきょう な
待駒まちごま をして、人が困ると
嬉うれ しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を
眉間みけん へ
擲たた きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。
兄 が
おやじ に
言付いつ けた。
おやじ が
おれ を
勘当かんどう すると言い出した。
その時はもう仕方がないと観念して先方の言う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている
清 きよ という下女が、泣きながら
おやじ に
詫あや まって、ようやく
おやじ の
怒いか りが解けた。それにもかかわらず
おやじ を
怖こわ いとは思わなかった。かえってこの
清 と言う下女に気の毒であった。この下女はもと
由緒ゆいしょ のあるものだったそうだが、
瓦解がかい 【江戸幕府の崩壊】のときに
零落れいらく 【落ちぶれる】して、つい
奉公ほうこう までするようになったのだと聞いている。だから
婆ばあ さんである。この婆さんがどういう
因縁いんえん か、
おれ を非常に可愛がってくれた。不思議なものである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(3 / 108)
母 も死ぬ三日前に
愛想あいそ をつかした――
おやじ も年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と
爪弾つまはじ きをする――この
おれ を無暗に
珍重ちんちょう してくれた。
おれ は
到底とうてい 人に好かれる
性たち でないとあきらめていたから、他人から木の
端はし のように取り
扱あつか われるのは何とも思わない、かえってこの
清 のように ちやほやしてくれるのを
不審ふしん に考えた。
清 は時々台所で人の居ない時に「
あなたは真ま っ直すぐ でよいご気性だ 」と
賞ほ める事が時々あった。しかし
おれ には
清 の言う意味が分からなかった。
好い い気性なら
清 以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。
清 がこんな事を言う度に
おれ はお世辞は
嫌きら いだと答えるのが常であった。すると婆さんはそれだから 好いご気性ですと言っては、嬉しそうに
おれ の顔を
眺なが めている。自分の力で
おれ を製造して
誇ほこ ってるように見える。少々気味がわるかった。
母 が死んでから
清 はいよいよ
おれ を可愛がった。時々は小供心に なぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。つまらない、
廃よ せばいいのにと思った。気の毒だと思った。それでも
清 は可愛がる。折々は自分の
小遣こづか いで
金鍔きんつば や
紅梅焼こうばいやき 【せんべいの一種】を買ってくれる。寒い夜などはひそかに
蕎麦粉そばこ を仕入れておいて、いつの間にか
寝ね ている
枕元まくらもと へ蕎麦湯を持って来てくれる。時には
鍋焼饂飩なべやきうどん さえ買ってくれた。ただ食い物ばかりではない。
靴足袋くつたび ももらった。
鉛筆えんぴつ も貰った、帳面も貰った。これはずっと後の事であるが 金を三円【約22,500円/2025年】ばかり貸してくれた事さえある。何も貸せと言った訳ではない。向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと言ってくれたんだ。
おれ は無論入らないと言ったが、是非使えと言うから、借りておいた。実は大変嬉しかった。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(4 / 108)
その三円を
蝦蟇口がまぐち へ入れて、
懐ふところ へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと
後架こうか 【便器】の中へ
落おと してしまった。仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと
清 に話したところが、
清 は早速竹の棒を
捜さが して来て、取って上げますと言った。しばらくすると
井戸端いどばた でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ
蝦蟇口がまぐち の
紐ひも を引き
懸か けたのを水で洗っていた。それから口をあけて
壱円札いちえんさつ を改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。
清 は火鉢で
乾かわ かして、これでいいでしょうと出した。ちょっとかいでみて
臭くさ いやと言ったら、それじゃお出しなさい、取り
換か えて来て上げますからと、どこでどう
胡魔化ごまか したか札の代りに銀貨を三円持って来た。この三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと言ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。
清 が物をくれる時には必ず
おやじ も
兄 も居ない時に限る。
おれ は何が嫌いだと言って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。
兄 とは無論仲がよくないけれども、
兄 に隠して
清 から
菓子かし や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、
おれ 一人にくれて、
兄 さんには
遣や らないのかと
清 に聞く事がある。すると
清 は
澄すま したもので お
兄 様あにいさま はお
父様とうさま が買ってお上げなさるから構いませんと言う。これは不公平である。
おやじ は
頑固がんこ だけれども、そんな
依怙贔負えこひいき はせぬ男だ。しかし
清 の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に
溺おぼ れていたに
違ちが いない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。単にこればかりではない。
贔負ひいき 目は恐ろしいものだ。
清 は
おれ をもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。その癖 勉強をする
兄 は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人できめてしまった。こんな婆さんに
逢あ っては
叶かな わない。自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。
おれ はその時から別段何になると言う
了見りょうけん もなかった。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(5 / 108)
しかし
清 がなるなると言うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。今から考えると
馬鹿馬鹿ばかばか しい。ある時などは
清 にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。ところが
清 にも別段の考えもなかったようだ。ただ
手車てぐるま 【手押しの車】へ乗って、立派な
玄関げんかん のある家をこしらえるに
相違そうい ないと言った。
それから
清 は
おれ がうちでも持って独立したら、
一所いっしょ になる気でいた。どうか置いて下さいと何遍も
繰く り返して頼んだ。
おれ も何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、
麹町こうじまち ですか
麻布あざぶ ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計画を独りで
並なら べていた。その時は家なんか欲しくも何ともなかった。西洋館も
日本建にほんだて も全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも
清 に答えた。すると、あなたは欲がすくなくって、心が奇麗だと言ってまた賞めた。
清 は何と言っても賞めてくれる。
母 が死んでから五六年の間はこの状態で暮していた。
おやじ には叱られる。
兄 とは喧嘩をする。
清 には菓子を貰う、時々賞められる。別に望みもない。これでたくさんだと思っていた。ほかの小供も
一概いちがい にこんなものだろうと思っていた。ただ
清 が何かにつけて、あなたはお
可哀想かわいそう だ、
不仕合ふしあわせ だと無暗に言うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。その外に苦になる事は少しもなかった。ただ
おやじ が小遣いをくれないには閉口した。
母 が死んでから六年目の正月に
おやじ も卒中で亡くなった。その年の四月に
おれ はある私立の中学校を卒業する。六月に
兄 は商業学校を卒業した。
兄 は何とか会社の九州の支店に口があって
行ゆ かなければならん。
おれ は東京でまだ学問をしなければならない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(6 / 108)
兄 は家を売って財産を片付けて任地へ
出立しゅったつ すると言い出した。
おれ はどうでもするがよかろうと返事をした。どうせ
兄 の
厄介やっかい になる気はない。世話をしてくれるにしたところで、喧嘩をするから、向うでも何とか言い出すに
極きま っている。なまじい保護を受ければこそ、こんな
兄 に頭を下げなければならない。牛乳配達をしても食ってられると
覚悟かくご をした。
兄 はそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々の
瓦落多がらくた を
二束三文にそくさんもん に売った。
家屋敷いえやしき はある人の
周旋しゅうせん 【仲立ち】である金満家に譲った。この方は大分金になったようだが、
詳くわ しい事は一向知らぬ。
おれ は一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の
小川町おがわまち へ下宿していた。
清 は十何年居たうちが人手に
渡わた るのを大いに残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。あなたがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続が出来ますものをとしきりに口説いていた。もう少し年をとって相続が出来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。婆さんは
何なんに も知らないから年さえ取れば
兄 の家がもらえると信じている。
兄 と
おれ は かように分れたが、困ったのは
清 の行く先である。
兄 は無論連れて行ける身分でなし、
清 も
兄 の尻にくっ付いて九州
下くんだ りまで出掛ける気は毛頭なし、と言ってこの時の
おれ は
四畳半よじょうはん の安下宿に
籠こも って、それすらも いざとなれば直ちに引き
払はら わねばならぬ始末だ。どうする事も出来ん。
清 に聞いてみた。どこかへ奉公でもする気かねと言ったらあなたがおうちを持って、
奥おく さまをお貰いになるまでは、仕方がないから、
甥おい の厄介になりましょうと ようやく決心した返事をした。この甥は裁判所の書記でまず今日には
差支さしつか えなく暮していたから、今までも
清 に来るなら来いと二三度勧めたのだが、
清 はたとい
下女奉公げじょぼうこう はしても年来住み
馴な れた
家うち の方がいいと言って応じなかった。しかし今の場合知らぬ屋敷へ
奉公易ほうこうが えをして入らぬ
気兼きがね を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。それにしても早くうちを持ての、
妻さい を貰えの、来て世話をするのと言う。
親身しんみ の甥よりも他人の
おれ の方が好きなのだろう。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(7 / 108)
九州へ立つ二日前
兄 が下宿へ来て金を六百円【約450万円/2025年】出してこれを資本にして
商買しょうばい をするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも
随意ずいい に使うがいい、その代りあとは構わないと言った。
兄 にしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ
淡泊たんばく な処置が気に入ったから、礼を言って貰っておいた。
兄 はそれから五十円出してこれをついでに
清 に渡してくれと言ったから、異議なく引き受けた。二日立って新橋の
停車場ていしゃば で分れたぎり
兄 にはその後一遍も逢わない。
おれ は六百円の使用法について寝ながら考えた。商買をしたって
面倒めんど くさくって
旨うま く出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。それからどこの学校へはいろうと考えたが、学問は
生来しょうらい どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか言うものは
真平まっぴら ご
免めん だ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り
掛かか ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から
起おこ った失策だ。
三年間まあ
人並ひとなみ に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から
勘定かんじょう する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも
可笑おか しいと思ったが 苦情を言う訳もないから大人しく卒業しておいた。
卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円【約30万円/2025年】だが、行ってはどうだという相談である。
おれ は三年間学問はしたが実を言うと教師になる気も、
田舎いなか へ行く考えも何もなかった。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(8 / 108)
もっとも教師以外に何をしようと言うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと
即席そくせき に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が
祟たた ったのである。
引き受けた以上は
赴任ふにん せねばならぬ。この三年間は四畳半に
蟄居ちっきょ して小言はただの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。
おれ の生涯のうちでは
比較的ひかくてき 呑気のんき な時節であった。しかしこうなると四畳半も引き払わなければならん。生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に
鎌倉かまくら へ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。どうせ
碌ろく な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも少々面倒臭い。
家を
畳たた んでからも
清 の所へは折々行った。
清 の甥というのは存外結構な人である。
おれ が
行ゆ くたびに、
居お りさえすれば、何くれと
款待もて なしてくれた。
清 は
おれ を前へ置いて、いろいろ
おれ の
自慢じまん を甥に聞かせた。今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと
吹聴ふいちょう した事もある。独りで
極き めて
一人ひとり で
喋舌しゃべ るから、こっちは
困こ まって顔を赤くした。それも一度や二度ではない。折々
おれ が小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思って
清 の自慢を聞いていたか分らぬ。ただ
清 は
昔風むかしふう の女だから、自分と
おれ の関係を
封建ほうけん 時代の
主従しゅじゅう のように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと
合点がてん したものらしい。甥こそいい
面つら の皮【いい迷惑】だ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(9 / 108)
いよいよ約束が極まって、もう立つと言う三日前に
清 を
尋たず ねたら、北向きの三畳に
風邪かぜ を引いて寝ていた。
おれ の来たのを見て起き直るが早いか、
坊ぼ っちゃんいつ
家うち をお持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。
おれ は単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くんだと言ったら、非常に失望した
容子ようす で、
胡麻塩ごましお の
鬢びん の乱れをしきりに
撫な でた。あまり気の毒だから「
行ゆ く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」と
慰なぐさ めてやった。それでも妙な顔をしているから「
何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい 」と聞いてみたら「
越後えちご の笹飴ささあめ が食べたい」と言った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。「
おれ の行く田舎には笹飴はなさそうだ」と言って聞かしたら「
そんなら、どっちの見当です 」と聞き返した。「
西の方だよ 」と言うと「
箱根はこね のさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。
出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。来る
途中とちゅう 小間物屋で買って来た
歯磨はみがき と
楊子ようじ と
手拭てぬぐい をズックの
革鞄かばん に入れてくれた。そんな物は入らないと言ってもなかなか承知しない。車を並べて【人力車を連ねて】停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだ
おれ の顔をじっと見て「
もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌きげん よう 」と小さな声で言った。目に
涙なみだ が
一杯いっぱい たまっている。
おれ は泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動き出してから、もう
大丈夫だいしょうぶ だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。
二
ぶうと言って汽船がとまると、
艀はしけ 【小型の船舶】が岸を
離はな れて、
漕こ ぎ寄せて来た。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(10 / 108)
船頭は
真ま っ
裸ぱだか に赤ふんどしをしめている。
野蛮やばん な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水が やに光る。見つめていても
眼め がくらむ。事務員に聞いてみると
おれ はここへ降りるのだそうだ。見るところでは
大森おおもり ぐらいな漁村だ。人を
馬鹿ばか にしていらあ、こんな所に
我慢がまん が出来るものかと思ったが仕方がない。
威勢いせい よく一番に飛び込んだ。
続つ づいて五六人は乗ったろう。外に大きな
箱はこ を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ
戻もど して来た。
陸おか へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、
磯いそ に立っていた鼻たれ
小僧こぞう をつらまえて中学校はどこだと聞いた。小僧はぼんやりして、知らんがの、と言った。気の利かぬ
田舎いなか ものだ。
猫ねこ の額ほどな町内の
癖くせ に、中学校のありかも知らぬ
奴やつ があるものか。ところへ
妙みょう な
筒つつ っぽう【作業着】を着た男がきて、こっちへ来いと言うから、
尾つ いて行ったら、港屋とか言う宿屋へ連れて来た。やな【いやな】女が声を
揃そろ えてお上がりなさいと言うので、上がるのがいやになった。門口へ立ったなり 中学校を教えろと言ったら、中学校はこれから汽車で二里【約8km】ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがいやになった。
おれ は、筒っぽうを着た男から、
おれ の
革鞄かばん を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。宿屋のものは変な顔をしていた。
停車場はすぐ知れた。
切符きっぷ も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。それから車を
傭やと って、中学校へ来たら、もう放課後で
誰だれ も居ない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(11 / 108)
宿直はちょっと
用達ようたし に出たと
小使こづかい が教えた。
随分ずいぶん 気楽な宿直がいるものだ。校長でも
尋たず ねようかと思ったが、
草臥くたび れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に言い付けた。車夫は威勢よく
山城屋やましろや と言ううちへ横付けにした。山城屋とは質屋の
勘太郎 かんたろう の屋号と同じだからちょっと面白く思った。
何だか二階の
楷子段はしごだん の下の暗い部屋へ案内した。熱くって居られやしない。こんな部屋はいやだと言ったら あいにくみんな
塞ふさ がっておりますからと言いながら 革鞄を
抛ほう り出したまま出て行った。仕方がないから部屋の中へはいって
汗あせ をかいて
我慢がまん していた。やがて湯に入れと言うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。帰りがけに
覗のぞ いてみると
涼すず しそうな部屋がたくさん空いている。失敬な奴だ。
嘘うそ をつきゃあがった。それから下女が
膳ぜん を持って来た。部屋は
熱あ つかったが、飯は下宿のよりも大分
旨うま かった。給仕をしながら下女が どちらからおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答えた。すると東京はよい所でございましょうと言ったから
当あた り前だと答えてやった。膳を下げた下女が台所へいった時分、大きな笑い声が
聞きこ えた。くだらないから、すぐ
寝ね たが、なかなか寝られない。熱いばかりではない。
騒々そうぞう しい。下宿の五倍ぐらいやかましい。うとうとしたら
清 きよ の
夢ゆめ を見た。
清 が
越後えちご の
笹飴ささあめ を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。笹は毒だからよしたらよかろうと言うと、いえこの笹がお薬でございますと言って旨そうに食っている。
おれ があきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら眼が覚めた。下女が雨戸を明けている。相変らず空の底が
突つ き
抜ぬ けたような天気だ。
道中どうちゅう をしたら茶代をやるものだと聞いていた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(12 / 108)
茶代をやらないと
粗末そまつ に取り扱われると聞いていた。こんな、
狭せま くて暗い部屋へ
押お し込めるのも茶代をやらないせいだろう。見すぼらしい
服装なり をして、ズックの革鞄と
毛繻子けじゅす 【綿と毛のまじった織物】の
蝙蝠傘こうもり を提げてるからだろう。田舎者の癖に人を
見括みくび ったな。一番茶代をやって
驚おどろ かしてやろう。
おれ はこれでも学資のあまりを三十円ほど
懐ふところ に入れて東京を出て来たのだ。汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。みんなやったってこれからは月給を
貰もら うんだから構わない。田舎者はしみったれだから五円【約37,500円/2025年】もやれば
驚おど ろいて眼を
廻まわ すに
極きま っている。どうするか見ろと
済すま して顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。
盆ぼん を持って給仕をしながら、やに にやにや笑ってる。失敬な奴だ。顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし。これでもこの下女の
面つら よりよっぽど上等だ。飯を済ましてからにしようと思っていたが、
癪しゃく に
障さわ ったから、
中途ちゅうと で五円
札さつ を一
枚まい 出して、あとでこれを帳場へ持って行けと言ったら、下女は変な顔をしていた。それから飯を済ましてすぐ学校へ
出懸でか けた。
靴くつ は
磨みが いてなかった。
学校は
昨日きのう 車で乗りつけたから、
大概たいがい の見当は分っている。四つ角を二三度曲がったらすぐ門の前へ出た。門から
玄関げんかん までは
御影石みかげいし で
敷し きつめてある。きのうこの敷石の上を車でがらがらと通った時は、
無暗むやみ に
仰山ぎょうさん な音がするので少し弱った。途中から
小倉こくら 【厚手で丈夫な小倉織】の制服を着た生徒にたくさん
逢あ ったが、みんなこの門をはいって行く。中には
おれ より背が高くって強そうなのが居る。あんな奴を教えるのかと思ったら何だか気味が
悪わ るくなった。
名刺めいし を出したら校長室へ通した。校長は
薄髯うすひげ のある、色の黒い、目の大きな
狸たぬき のような男である。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(13 / 108)
やにもったいぶっていた。まあ精出して勉強してくれと言って、
恭うやうや しく大きな印の
捺おさ った、辞令を
渡わた した。この辞令は東京へ帰るとき丸めて海の中へ
抛ほう り
込こ んでしまった。校長は今に職員に
紹介しょうかい してやるから、一々その人にこの辞令を見せるんだと言って聞かした。余計な手数だ。そんな
面倒めんどう な事をするよりこの辞令を三日間職員室へ張り付ける方がましだ。
教員が
控所ひかえじょ へ
揃そろ うには一時間目の
喇叭らっぱ が鳴らなくてはならぬ。大分時間がある。校長は時計を出して見て、
追々おいおい ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を
呑の み込んでおいてもらおうと言って、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。
おれ は無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。校長の言うようにはとても出来ない。
おれ みたような
無鉄砲むてっぽう なものをつらまえて、生徒の
模範もはん になれの、一校の
師表しひょう と
仰あお がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を
及およ ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなえらい人が月給四十円で
遥々はるばる こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば
喧嘩けんか の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。そんなむずかしい役なら
雇やと う前にこれこれだと話すがいい。
おれ は
嘘うそ をつくのが
嫌きら いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで
断こと わって帰っちまおうと思った。宿屋へ五円やったから
財布さいふ の中には九円なにがししかない。九円じゃ東京までは帰れない。茶代なんかやらなければよかった。
惜お しい事をした。しかし九円だって、どうかならない事はない。旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、
到底とうてい あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと言ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせて
おれ の顔を見ていた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと言いながら笑った。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(14 / 108)
そのくらいよく知ってるなら、始めから
威嚇おどさ さなければいいのに。
そう、こうする内に
喇叭らっぱ が鳴った。教場の方が急に がやがやする。もう教員も控所へ揃いましたろうと言うから、校長に
尾つ いて教員控所へはいった。広い細長い部屋の周囲に机を
並なら べて みんな
腰こし をかけている。
おれ が はいったのを見て、みんな申し合せたように
おれ の顔を見た。見世物じゃあるまいし。それから申し付けられた通り
一人一人ひとりびとり の前へ行って辞令を出して
挨拶あいさつ をした。
大概たいがい は
椅子いす を離れて腰をかがめるばかりであったが、念の入ったのは差し出した辞令を受け取って一応拝見をしてそれを
恭うやうや しく
返却へんきゃく した。まるで宮芝居の
真似まね だ。十五人目に
体操たいそう の教師へと廻って来た時には、同じ事を何返もやるので少々じれったくなった。
向むこ うは一度で済む。こっちは同じ
所作しょさ を十五返繰り返している。少しはひとの
了見りょうけん も察してみるがいい。
挨拶をしたうちに教頭のなにがしと言うのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と言えば大学の卒業生だから えらい人なんだろう。
妙みょう に女のような優しい声を出す人だった。もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネル【太く毛羽立った糸】の
襯衣しゃつ を着ている。いくらか
薄うす い地には
相違そうい なくっても暑いには
極きま ってる。文学士だけにご苦労千万な
服装なり をしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人を
馬鹿ばか にしている。あとから聞いたらこの男は 年が年中赤シャツを着るんだそうだ。妙な病気があった者だ。当人の説明では赤は
身体からだ に薬になるから、衛生のために わざわざ
誂あつ らえるんだそうだが、入らざる心配だ。そんならついでに着物も
袴はかま も赤にすればいい。それから英語の教師に
古賀 こが とか言う大変顔色の
悪わ るい男が居た。大概顔の
蒼あお い人は
瘠や せてるもんだが この男は
蒼あお くふくれている。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(15 / 108)
昔むかし 小学校へ行く時分、
浅井 あさい の
民 たみ さんと言う子が同級生にあったが、この
浅井 の
おやじ がやはり、こんな色つやだった。
浅井 は
百姓ひゃくしょう だから、百姓になるとあんな顔になるかと
清 に聞いてみたら、そうじゃありません、あの人は うらなり【時期が遅くなってから、なった実】の
唐茄子とうなす 【カボチャ】ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。それ以来蒼くふくれた人を見れば必ず うらなりの唐茄子を食った
酬むく いだと思う。この英語の教師も うらなりばかり食ってるに
違ちが いない。もっとも うらなりとは何の事か今もって知らない。
清 に聞いてみた事はあるが、
清 は笑って答えなかった。大方
清 も知らないんだろう。それから
おれ と同じ数学の教師に
堀田 ほった というのが居た。これは
逞たくま しい
毬栗坊主いがぐりぼうず で、
叡山えいざん の
悪僧あくそう と言うべき
面構つらがまえ である。人が
叮寧ていねい に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに
来給きたま えアハハハと言った。何がアハハハだ。そんな
礼儀れいぎ を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。
おれ はこの時からこの坊主に
山嵐 やまあらし という
渾名あだな をつけてやった。漢学の先生はさすがに
堅かた いものだ。昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご
励精れいせい 【精を出す】で、――とのべつに弁じたのは
愛嬌あいきょう のあるお
爺じい さんだ。画学の教師は全く芸人風だ。べらべらした
透綾すきや 【透けて見える】の羽織を着て、
扇子せんす をぱちつかせて、お国はどちらでげす、え? 東京? そりゃ
嬉うれ しい、お仲間が出来て......
私わたし もこれで
江戸えど っ子ですと言った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。そのほか一人一人についてこんな事を書けばいくらでもある。しかし際限がないからやめる。
挨拶が一通り済んだら、校長が今日はもう引き取ってもいい、もっとも授業上の事は数学の主任と打ち合せをしておいて、
明後日あさって から課業を始めてくれと言った。数学の主任は誰かと聞いてみたら例の
山嵐 であった。
忌々いまいま しい、こいつの下に働くのか おやおやと失望した。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(16 / 108)
山嵐 は「
おい君どこに宿とま ってるか、山城屋か、うん、今に行って相談する 」と言い残して
白墨はくぼく を持って教場へ出て行った。主任の癖に向うから来て相談するなんて不見識な男だ。しかし呼び付けるよりは感心だ。
それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。県庁も見た。古い前世紀の建築である。兵営も見た。
麻布あざぶ の
聯隊れんたい より立派でない。大通りも見た。
神楽坂かぐらざか を半分に狭くしたぐらいな
道幅みちはば で
町並まちなみ はあれより落ちる。二十五万石の城下だって高の知れたものだ。こんな所に住んでご城下だなどと
威張いば ってる人間は
可哀想かわいそう なものだと考えながらくると、いつしか山城屋の前に出た。広いようでも狭いものだ。これで
大抵たいてい は
見尽みつく したのだろう。帰って飯でも食おうと門口をはいった。帳場に
坐すわ っていたかみさんが、
おれ の顔を見ると急に飛び出してきてお帰り......と板の間へ頭をつけた。
靴くつ を
脱ぬ いで上がると、お
座敷ざしき があきましたからと下女が二階へ案内をした。十五
畳じょう の表二階で大きな
床とこ の
間ま がついている。
おれ は生れてからまだこんな立派な座敷へはいった事はない。この後いつ はいれるか分らないから、洋服を脱いで
浴衣ゆかた 一枚になって座敷の
真中まんなか へ大の字に寝てみた。いい心持ちである。
昼飯を食ってから早速
清 へ手紙をかいてやった。
おれ は文章がまずい上に字を知らないから手紙を書くのが
大嫌だいきら いだ。またやる所もない。しかし
清 は心配しているだろう。難船して死にやしないかなどと思っちゃ困るから、
奮発ふんぱつ して長いのを書いてやった。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(17 / 108)
その文句はこうである。
「
きのう着いた。つまらん所だ。十五畳の座敷に寝ている。宿屋へ茶代を五円やった。かみさんが頭を板の間へすりつけた。夕べは寝られなかった。清 が笹飴を笹ごと食う夢を見た。来年の夏は帰る。今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸 、教頭は赤シャツ 、英語の教師はうらなり 、数学は山嵐 、画学はのだいこ 。今にいろいろな事を書いてやる。さようなら 」
手紙をかいてしまったら、いい心持ちになって
眠気ねむけ がさしたから、最前のように座敷の真中へのびのびと大の字に寝た。今度は夢も何も見ないでぐっすり寝た。この部屋かいと大きな声がするので目が覚めたら、
山嵐 がはいって来た。最前は失敬、君の受持ちは......と人が起き上がるや否や 談判を開かれたので大いに
狼狽ろうばい した。受持ちを聞いてみると別段むずかしい事もなさそうだから承知した。このくらいの事なら、明後日は
愚おろか 、
明日あした から始めろと言ったって驚ろかない。授業上の打ち合せが済んだら、君はいつまでこんな宿屋に居るつもりでもあるまい、
僕ぼく がいい下宿を
周旋しゅうせん してやるから移りたまえ。外のものでは承知しないが僕が話せばすぐ出来る。早い方がいいから、今日見て、あす移って、あさってから学校へ行けば
極きま りがいいと一人で呑み込んでいる。なるほど十五畳敷にいつまで居る訳にも行くまい。月給をみんな
宿料しゅくりょう に
払はら っても追っつかないかもしれぬ。五円の茶代を
奮発ふんぱつ してすぐ移るのはちと残念だが、どうせ移る者なら、早く引き
越こ して落ち付く方が便利だから、そこのところはよろしく
山嵐 に
頼たの む事にした。すると
山嵐 は ともかくも いっしょに来てみろと言うから、行った。町はずれの岡の中腹にある家で至極
閑静かんせい だ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(18 / 108)
主人は
骨董こっとう を売買する
いか銀 と言う男で、
女房にょうぼう は
亭主 ていしゅ よりも四つばかり
年嵩としかさ の女だ。中学校に居た時ウィッチと言う言葉を習った事があるが この女房はまさにウィッチ【魔女】に似ている。ウィッチだって人の女房だから構わない。とうとう明日から引き移る事にした。帰りに
山嵐 は
通町とおりちょう で氷水を一
杯ぱい 奢おご った。学校で逢った時は やに
横風おうふう な失敬な奴だと思ったが、こんなにいろいろ世話をしてくれるところを見ると、わるい男でもなさそうだ。ただ
おれ と同じように せっかちで
肝癪持かんしゃくもち らしい。あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのだそうだ。
三
いよいよ学校へ出た。初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、
おれ でも先生が勤まるのかと思った。生徒はやかましい。時々
図抜ずぬ けた大きな声で先生と言う。先生には
応こた えた。今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは
雲泥うんでい の差だ。何だか足の裏がむずむずする。
おれ は
卑怯ひきょう な人間ではない。
臆病おくびょう な男でもないが、
惜お しい事に
胆力たんりょく 【度胸】が欠けている。先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で
午砲どん 【空砲】を聞いたような気がする。最初の一時間は何だかいい加減にやってしまった。しかし別段困った質問も
掛か けられずに済んだ。
控所ひかえじょ へ帰って来たら、
山嵐 がどうだいと聞いた。うんと単簡に返事をしたら
山嵐 は安心したらしかった。
二時間目に
白墨はくぼく を持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り
込こ むような気がした。教場へ出ると今度の組は前より大きな
奴やつ ばかりである。
おれ は
江戸えど っ子で
華奢きゃしゃ に小作りに出来ているから、どうも高い所へ上がっても
押お しが利かない。
喧嘩けんか なら
相撲取すもうとり とでもやってみせるが、こんな
大僧おおぞう を四十人も前へ
並なら べて、ただ一
枚まい の舌をたたいて
恐縮きょうしゅく させる手際はない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(19 / 108)
しかしこんな
田舎者いなかもの に弱身を見せると
癖くせ になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。最初のうちは、生徒も
烟けむ に
捲ま かれてぼんやりしていたから、それ見ろとますます得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の
真中まんなか に居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と言う。そら来たと思いながら、何だと聞いたら、「
あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣や って、おくれんかな、もし 」と言った。
おくれんかな 、
もし は
生温なまぬ るい言葉だ。早過ぎるなら、ゆっくり言ってやるが、
おれ は江戸っ子だから
君等きみら の言葉は使えない、
分わか らなければ、分るまで待ってるがいいと答えてやった。この調子で二時間目は思ったより、うまく行った。ただ帰りがけに生徒の一人がちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし、と出来そうもない
幾何きか の問題を持って
逼せま ったには
冷汗ひやあせ を流した。仕方がないから何だか分らない、この次教えてやると急いで引き
揚あ げたら、生徒がわあと
囃はや した。その中に出来ん出来んと言う声が
聞きこ える。
箆棒べらぼう め、先生だって、出来ないのは当り前だ。出来ないのを出来ないと言うのに不思議があるもんか。そんなものが出来るくらいなら四十円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。今度はどうだと また
山嵐 が聞いた。うんと言ったが、うんだけでは気が済まなかったから、この学校の生徒は分らずやだなと言ってやった。
山嵐 は
妙みょう な顔をしていた。
三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異であった。最初の日に出た級は、いずれも少々ずつ失敗した。教師ははたで見るほど楽じゃないと思った。授業はひと通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽつ
然ねん として待ってなくてはならん。三時になると、受持級の生徒が自分の教室を
掃除そうじ して
報知しらせ にくるから検分をするんだそうだ。それから、
出席簿しゅっせきぼ を一応調べてようやくお
暇ひま が出る。いくら月給で買われた
身体からだ だって、あいた時間まで学校へ
縛しば りつけて机と
睨にら めっくらをさせるなんて法があるものか。しかしほかの連中はみんな
大人おとな しくご規則通りやってるから新参の
おれ ばかり、だだを
捏こ ねるのもよろしくないと思って
我慢がまん していた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(20 / 108)
帰りがけに、君何でもかんでも三時
過すぎ まで学校にいさせるのは
愚おろか だぜと
山嵐 に訴えたら、
山嵐 はそうさ アハハハと笑ったが、あとから
真面目まじめ になって、君あまり学校の不平を言うと、いかんぜ。言うなら
僕ぼく だけに話せ、
随分ずいぶん 妙な人も居るからなと忠告がましい事を言った。四つ角で分れたから
詳くわ しい事は聞くひまがなかった。
それからうちへ帰ってくると、宿の
亭主 ていしゅ がお茶を入れましょうと言ってやって来る。お茶を入れると言うからご
馳走ちそう をするのかと思うと、
おれ の茶を
遠慮えんりょ なく入れて自分が飲むのだ。この様子では
留守中るすちゅう も勝手にお茶を入れましょうを
一人ひとり で
履行りこう しているかも知れない。
亭主 が言うには手前は
書画骨董しょがこっとう がすきで、とうとうこんな商買を内々で始めるようになりました。あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらっしゃるらしい。ちと道楽にお始めなすってはいかがですと、飛んでもない
勧誘かんゆう をやる。二年前ある人の
使つかい に
帝国ていこく ホテルへ行った時は
錠前じょうまえ 直しと
間違まちが えられた事がある。ケットを
被かぶ って、
鎌倉かまくら の大仏を見物した時は車屋から親方と言われた。その外
今日こんにち まで
見損みそくな われた事は随分あるが、まだ
おれ をつらまえて大分ご風流でいらっしゃると言ったものはない。
大抵たいてい は なりや様子でも分る。風流人なんていうものは、
画え を見ても、
頭巾ずきん を
被かぶ るか
短冊たんざく を持ってるものだ。この
おれ を風流人だなどと真面目に言うのはただの
曲者くせもの じゃない。
おれ はそんな
呑気のんき な
隠居いんきょ のやるような事は
嫌きら いだと言ったら、
亭主 はへへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、どなたもございませんが、いったんこの道にはいるとなかなか出られませんと一人で茶を注いで妙な
手付てつき をして飲んでいる。実はゆうべ茶を買ってくれと
頼たの んでおいたのだが、こんな苦い
濃こ い茶はいやだ。一
杯ぱい 飲むと胃に答えるような気がする。今度からもっと苦くないのを買ってくれと言ったら、かしこまりましたとまた一杯しぼって飲んだ。人の茶だと思って
無暗むやみ に飲む
奴やつ だ。主人が引き下がってから、明日の
下読したよみ をしてすぐ
寝ね てしまった。
それから毎日毎日学校へ出ては規則通り働く、毎日毎日帰って来ると主人がお茶を入れましょうと出てくる。一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは飲み込めたし、宿の夫婦の人物も
大概たいがい は分った。ほかの教師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐらいの間は自分の評判がいいだろうか、
悪わ るいだろうか非常に気に
掛か かるそうであるが、
おれ は一向そんな感じはなかった。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(21 / 108)
教場で折々しくじるとその時だけは やな心持ちだが 三十分ばかり立つと
奇麗きれい に消えてしまう。
おれ は何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。教場のしくじりが生徒にどんな
影響えいきょう を
与あた えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を
呈てい するかまるで
無頓着むとんじゃく であった。
おれ は前に言う通りあまり度胸の
据すわ った男ではないのだが、思い切りは すこぶるいい人間である。この学校が いけなければ すぐどっかへ
行ゆ く
覚悟かくご でいたから、
狸 たぬき も
赤シャツ も、ちっとも
恐おそろ しくはなかった。まして教場の
小僧こぞう 共なんかには
愛嬌あいきょう もお世辞も使う気になれなかった。学校はそれでいいのだが下宿の方はそうはいかなかった。
亭主 が茶を飲みに来るだけなら我慢もするが、いろいろな者を持ってくる。始めに持って来たのは何でも印材で、
十とお ばかり
並なら べておいて、みんなで三円なら安い物だお買いなさいと言う。
田舎巡いなかまわ りのヘボ絵師じゃあるまいし、そんなものは入らないと言ったら、今度は
華山かざん とか何とか言う男の花鳥の
掛物かけもの をもって来た。自分で
床とこ の
間ま へかけて、いい出来じゃありませんかと言うから、そうかなと
好加減いいかげん に
挨拶あいさつ をすると、華山には
二人ふたり ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この
幅ふく はその何とか華山の方だと、くだらない講釈をしたあとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。お買いなさいと
催促さいそく をする。金がないと断わると、金なんか、いつでもようございますとなかなか
頑固がんこ だ。金があつても買わないんだと、その時は追っ
払ぱら っちまった。その次には
鬼瓦おにがわら ぐらいな
大硯おおすずり を担ぎ込んだ。これは
端渓たんけい です、端渓ですと二
遍へん も三遍も端渓がるから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。端渓には上層中層下層とあって、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、この
眼がん をご覧なさい。眼が三つあるのは
珍めず らしい。
溌墨はつぼく の具合も至極よろしい、試してご覧なさいと、
おれ の前へ大きな硯を
突つ きつける。いくらだと聞くと、持主が
支那しな から持って帰って来て是非売りたいと言いますから、お安くして三十円にしておきましょうと言う。この男は
馬鹿ばか に
相違そうい ない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(22 / 108)
学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう
骨董責こっとうぜめ に
逢あ ってはとても長く続きそうにない。
そのうち学校もいやになった。
ある日の晩
大町おおまち と言う所を散歩していたら郵便局の
隣とな りに
蕎麦そば とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。
おれ は蕎麦が大好きである。東京に
居お った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の
香にお いをかぐと、どうしても
暖簾のれん がくぐりたくなった。今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。見ると看板ほどでもない。東京と
断こと わる以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、
滅法めっぽう きたない。
畳たたみ は色が変ってお負けに砂でざらざらしている。
壁かべ は
煤すす で
真黒まっくろ だ。
天井てんじょう はランプの
油烟ゆえん で
燻くす ぼってるのみか、低くって、思わず首を縮めるくらいだ。ただ
麗々れいれい と蕎麦の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新しい。何でも古いうちを買って
二三日にさんち 前から開業したに
違ちが いなかろう。ねだん付の第一号に
天麩羅てんぷら とある。おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。するとこの時まで
隅すみ の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた
連中れんじゅう が、ひとしく
おれ の方を見た。
部屋へや が暗いので、ちょっと気がつかなかったが顔を合せると、みんな学校の生徒である。先方で
挨拶あいさつ をしたから、
おれ も挨拶をした。その晩は
久ひさ し
振ぶり に蕎麦を食ったので、
旨うま かったから天麩羅を四杯
平たいら げた。
翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。
おれ の顔を見てみんな わあと笑った。
おれ は馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ
可笑おか しいかと聞いた。すると生徒の
一人ひとり が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と言った。四杯食おうが五杯食おうが
おれ の銭で
おれ が食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(23 / 108)
但ただ し笑うべからず。と黒板にかいてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は
癪しゃく に
障さわ った。
冗談じょうだん も度を過ごせば いたずらだ。
焼餅やきもち の
黒焦くろこげ のようなもので
誰だれ も
賞ほ め手はない。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで
押お して行っても構わないと言う
了見りょうけん だろう。一時間あるくと見物する町もないような
狭せま い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を
日露にちろ 戦争のように
触ふ れちらかすんだろう。
憐あわ れな
奴等やつら だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、
植木鉢うえきばち の
楓かえで みたような
小人しょうじん が出来るんだ。
無邪気むじゃき ならいっしょに笑ってもいいが、こりゃなんだ。小供の
癖くせ に
乙おつ に【変に】毒気を持ってる。
おれ はだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、
卑怯ひきょう な冗談だ。君等は卑怯と言う意味を知ってるか、と言ったら、自分がした事を笑われて
怒おこ るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。やな奴だ。わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった。余計な減らず口を利かないで勉強しろと言って、授業を始めてしまった。それから次の教場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。どうも始末に終えない。あんまり腹が立ったから、そんな生意気な奴は教えないと言って すたすた帰って来てやった。生徒は休みになって喜んだそうだ。こうなると学校より骨董の方がまだましだ。
天麩羅蕎麦もうちへ帰って、一晩寝たらそんなに
肝癪かんしゃく に障らなくなった。学校へ出てみると、生徒も出ている。何だか訳が分らない。それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に
住田すみた と言う所へ行って
団子だんご を食った。この住田と言う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に
遊郭ゆうかく がある。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(24 / 108)
おれ のはいった団子屋は遊郭の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、
誰だれ も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二
皿さら 七銭と書いてある。実際
おれ は二皿食って七銭
払はら った。どうも
厄介やっかい な奴等だ。二時間目にもきっと何かあると思うと遊郭の団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等だ。団子がそれで済んだと思ったら今度は
赤手拭あかてぬぐい と言うのが評判になった。何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。
おれ はここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に
極き めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも
及およ ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた
出掛でかけ る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に
染そま った上へ、赤い
縞しま が流れ出したのでちょっと見ると
紅色べにいろ に見える。
おれ はこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで生徒が
おれ の事を赤手拭赤手拭と言うんだそうだ。どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三階の新築で上等は
浴衣ゆかた をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が
天目てんもく へ茶を
載の せて出す。
おれ はいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは
贅沢ぜいたく だと言い出した。余計なお世話だ。まだある。
湯壺ゆつぼ は
花崗石みかげいし を
畳たた み上げて、十五
畳敷じょうじき ぐらいの広さに仕切ってある。
大抵たいてい は十三四人
漬つか ってるが たまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか
愉快ゆかい だ。
おれ は人の居ないのを
見済みすま しては十五畳の湯壺を泳ぎ
巡まわ って喜んでいた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(25 / 108)
ところがある日三階から
威勢いせい よく下りて今日も泳げるかなと ざくろ口を
覗のぞ いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずと かいて
貼は りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この
貼札はりふだ は
おれ のために特別に新調したのかも知れない。
おれ はそれから泳ぐのは断念した。泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには
驚おど ろいた。何だか生徒全体が
おれ 一人を
探偵たんてい しているように思われた。くさくさした。生徒が何を言ったって、やろうと思った事をやめるような
おれ ではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情なくなった。それでうちへ帰ると相変らず骨董責である。
四
学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる。
但ただ し
狸 たぬき と
赤シャツ は例外である。何でこの両人が当然の義務を
免まぬ かれるのかと聞いてみたら、
奏任待遇そうにんたいぐう 【高等官待遇】だからと言う。面白くもない。月給はたくさんとる、時間は少ない、それで宿直を
逃の がれるなんて不公平があるものか。勝手な規則をこしらえて、それが
当あた り
前まえ だというような顔をしている。よくまああんなにずうずうしく出来るものだ。これについては大分不平であるが、
山嵐 やまあらし の説によると、いくら
一人ひとり で不平を
並なら べたって通るものじゃないそうだ。一人だって
二人ふたり だって正しい事なら通りそうなものだ。
山嵐 は might is right という英語を引いて
説諭せつゆ を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利と言う意味だそうだ。強者の権利ぐらいなら
昔むかし から知っている。今さら
山嵐 から講釈をきかなくってもいい。強者の権利と宿直とは別問題だ。
狸 や
赤シャツ が強者だなんて、
誰だれ が承知するものか。議論は議論としてこの宿直がいよいよ
おれ の番に
廻まわ って来た。一体
疳性かんしょう 【神経質】だから
夜具やぐ 蒲団ふとん などは 自分のものへ楽に寝ないと寝たような心持ちがしない。小供の時から、友達のうちへ
泊とま った事は ほとんどないくらいだ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(26 / 108)
友達のうちでさえ
厭いや なら学校の宿直はなおさら厭だ。厭だけれども、これが四十円のうちへ
籠こも っているなら仕方がない。
我慢がまん して勤めてやろう。
教師も生徒も帰ってしまったあとで、一人ぽかんとしているのは
随分ずいぶん 間が
抜ぬ けたものだ。宿直部屋は教場の裏手にある寄宿舎の西はずれの一室だ。ちょっとはいってみたが、西日をまともに受けて、苦しくって居たたまれない。
田舎いなか だけあって秋がきても、気長に暑いもんだ。生徒の
賄まかない を取りよせて晩飯を済ましたが、まずいには
恐おそ れ
入い った。よくあんなものを食って、あれだけに暴れられたもんだ。それで晩飯を急いで四時半に片付けてしまうんだから
豪傑ごうけつ に
違ちが いない。飯は食ったが、まだ日が
暮く れないから
寝ね る訳に行かない。ちょっと温泉に行きたくなった。宿直をして、外へ出るのはいい事だか、
悪わ るい事だかしらないが、こうつくねんとして
重禁錮じゅうきんこ 【禁固刑】同様な
憂目うきめ に
逢あ うのは我慢の出来るもんじゃない。始めて学校へ来た時 当直の人はと聞いたら、ちょっと
用達ようたし に出たと
小使こづかい が答えたのを
妙みょう だと思ったが、自分に番が
廻まわ ってみると思い当る。出る方が正しいのだ。
おれ は小使にちょっと出てくると言ったら、何かご用ですかと聞くから、用じゃない、温泉へはいるんだと答えて、さっさと
出掛でか けた。
赤手拭あかてぬぐい は宿へ忘れて来たのが残念だが今日は先方で借りるとしよう。
それから かなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく
日暮方ひぐれがた になったから、汽車へ乗って
古町こまち の
停車場ていしゃば まで来て下りた。学校まではこれから四丁だ。訳はないとあるき出すと、向うから
狸 が来た。
狸 はこれからこの汽車で温泉へ行こうと言う計画なんだろう。すたすた急ぎ足にやってきたが、
擦す れ
違ちが った時
おれ の顔を見たから、ちょっと
挨拶あいさつ をした。すると
狸 はあなたは今日は宿直では
なかったですかねえ と
真面目まじめ くさって聞いた。なかったですかねえも ないもんだ。二時間前
おれ に向って今夜は始めての宿直ですね。ご苦労さま。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(27 / 108)
と礼を言ったじゃないか。校長なんかになると いやに曲りくねった言葉を使うもんだ。
おれ は腹が立ったから、ええ宿直です。宿直ですから、これから帰って泊る事はたしかに泊りますと言い捨てて済ましてあるき出した。
竪町たてまち の四つ角までくると今度は
山嵐 やまあらし に出っ
喰く わした。どうも
狭せま い所だ。出てあるきさえすれば必ず誰かに逢う。「
おい君は宿直じゃないか 」と聞くから「
うん、宿直だ 」と答えたら、「
宿直が無暗むやみ に出てあるくなんて、不都合ふつごう じゃないか 」と言った。「
ちっとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ 」と
威張いば ってみせた。「
君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒めんどう だぜ 」と
山嵐 に似合わない事を言うから「
校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれ の散歩をほめたよ 」と言って、面倒
臭くさ いから、さっさと学校へ帰って来た。
それから日はすぐくれる。くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも
飽あ きたから、寝られないまでも
床とこ へはいろうと思って、寝巻に
着換きが えて、
蚊帳かや を
捲ま くって、赤い
毛布けっと を
跳は ねのけて、とんと
尻持しりもち を
突つ いて、
仰向あおむ けになった。
おれ が寝るときに とんと尻持をつくのは小供の時からの
癖くせ だ。わるい癖だと言って
小川町おがわまち の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち
込こ んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、
愚ぐ な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのは
おれ の尻がわるいのじゃない。下宿の建築が
粗末そまつ なんだ。
掛か ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと
凹へこ ましてやった。この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと
倒たお れても構わない。なるべく
勢いきおい よく倒れないと寝たような心持ちがしない。ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。ざらざらして
蚤のみ のようでもないからこいつあと
驚おど ろいて、足を二三度
毛布けっと の中で
振ふ ってみた。するとざらざらと当ったものが、急に
殖ふ え出して
脛すね が五六カ所、
股もも が二三カ所、尻の下でぐちゃりと
踏ふ み
潰つぶ したのが一つ、
臍へそ の所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろいた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(28 / 108)
早速さっそく 起き
上あが って、
毛布けっと をぱっと後ろへ
抛ほう ると、蒲団の中から、バッタが五六十飛び出した。正体の知れない時は多少気味が
悪わ るかったが、バッタと相場が
極き まってみたら急に腹が立った。バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、いきなり
括くく り
枕まくら を取って、二三度
擲たた きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく
抛な げつける割に
利目ききめ がない。仕方がないから、また布団の上へ
坐すわ って、
煤掃すすはき の時に
蓙ござ を丸めて
畳たたみ を
叩たた くように、そこら近辺を無暗にたたいた。バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、
おれ の
肩かた だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかったりする。顔へ付いた
奴やつ は枕で叩く訳に行かないから、手で
攫つか んで、一生懸命に
擲たた きつける。
忌々いまいま しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。バッタは
擲たた きつけられたまま蚊帳へ つらまっている。死にもどうもしない。ようやくの事に三十分ばかりでバッタは
退治たいじ た。
箒ほうき を持って来てバッタの
死骸しがい を掃き出した。小使が来て何ですかと言うから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に
飼か っとく奴がどこの国にある。
間抜まぬけ め。と
叱しか ったら、私は存じませんと弁解をした。存じませんで済むかと箒を
椽側えんがわ へ
抛ほう り出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。
おれ は早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構うものか。寝巻のまま
腕うで まくりをして談判を始めた。
「
なんでバッタなんか、おれ の床の中へ入れた 」
「
バッタた何ぞな 」と
真先まっさき の一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「
バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう 」と言ったが、
生憎あいにく 掃き出してしまって一
匹ぴき も居ない。また小使を呼んで、「
さっきのバッタを持ってこい 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(29 / 108)
と言ったら、「
もう掃溜はきだめ へ棄す ててしまいましたが、拾って参りましょうか 」と聞いた。「
うんすぐ拾って来い 」と言うと小使は急いで
馳か け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり
載の せて来て「
どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります 」と言う。小使まで
馬鹿ばか だ。
おれ はバッタの一つを生徒に見せて「
バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ 」と言うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「
そりゃ、イナゴぞな、もし 」と生意気に
おれ を
遣や り
込こ めた。「
篦棒べらぼう め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕つら まえてなもし た何だ。菜飯なめし は田楽でんがく の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「
なもしと菜飯とは違うぞな、もし 」と言った。いつまで行っても
なもし を使う奴だ。
「
イナゴでもバッタでも、何でおれ の床の中へ入れたんだ。おれ がいつ、バッタを入れてくれと頼たの んだ 」
「
誰も入れやせんがな 」
「
入れないものが、どうして床の中に居るんだ 」
「
イナゴは温ぬく い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたの じゃあろ 」
「
馬鹿あ言え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあ なぜこんないたずらをしたか、言え 」
「
言えてて、入れんものを説明しようがないがな 」
けちな
奴等やつら だ。自分で自分のした事が言えないくらいなら、てんでしないがいい。
証拠しょうこ さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。
おれ だって中学に居た時分は少しはいたずらも したもんだ。しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような
卑怯ひきょう な事はただの一度もなかった。したものはしたので、しないものはしないに
極きま ってる。
おれ なんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。嘘を
吐つ いて
罰ばつ を
逃に げるくらいなら、始めからいたずらなんかやるものか。いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(30 / 108)
いたずらだけで罰はご
免蒙めんこうむ るなんて
下劣げれつ な根性がどこの国に
流行はや ると思ってるんだ。金は借りるが、返す事はご免だと言う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に
相違そうい ない。全体中学校へ何しにはいってるんだ。学校へはいって、嘘を吐いて、
胡魔化ごまか して、
陰かげ でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと
癇違かんちが いをしていやがる。話せない
雑兵ぞうひょう だ。
おれ はこんな
腐くさ った
了見りょうけん の奴等と談判するのは
胸糞むなくそ が
悪わ るいから、「
そんなに言われなきゃ、聞かなくっていい。中学校へはいって、上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なものだ 」と言って六人を
逐お っ
放ぱな してやった。
おれ は言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりも
遥はる かに上品なつもりだ。六人は
悠々ゆうゆう と引き
揚あ げた。
上部うわべ だけは教師の
おれ よりよっぽどえらく見える。実は落ち付いているだけなお悪るい。
おれ には
到底とうてい これほどの度胸はない。
それからまた床へはいって横になったら、さっきの
騒動そうどう で蚊帳の中はぶんぶん
唸うな っている。
手燭てしょく をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、
釣手つりて をはずして、長く
畳たた んでおいて部屋の中で
横竪よこたて 十文字に
振ふる ったら、
環かん が飛んで手の
甲こう をいやというほど
撲ぶ った。三度目に床へはいった時は少々落ち付いたが なかなか寝られない。時計を見ると十時半だ。考えてみると厄介な所へ来たもんだ。一体中学の先生なんて、どこへ行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なものだ。よく先生が品切れにならない。よっぽど
辛防しんぼう 強い
朴念仁ぼくねんじん がなるんだろう。
おれ には到底やり切れない。それを思うと
清 きよ なんてのは見上げたものだ。教育もない身分もない
婆ばあ さんだが、人間としてはすこぶる
尊たっ とい。今まではあんなに世話になって別段
難有ありがた いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。
越後えちご の
笹飴ささあめ が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価値は
充分じゅうぶん ある。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(31 / 108)
清 は
おれ の事を欲がなくって、
真直まっすぐ な気性だと言って、ほめるが、ほめられる
おれ よりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか
清 に逢いたくなった。
清 の事を考えながら、のつそつ【のびたりそったり】していると、
突然とつぜん おれ の頭の上で、数で言ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと
拍子ひょうし を取って床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな
鬨とき の声が
起おこ った。
おれ は何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる
途端とたん に、ははあ さっきの
意趣返いしゅがえ し【仕返し】に生徒があばれるのだなと気がついた。手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に
覚おぼえ があるだろう。本来なら寝てから
後悔こうかい してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。たとい、あやまらないまでも恐れ入って、
静粛せいしゅく に寝ているべきだ。それを何だこの
騒さわ ぎは。寄宿舎を建てて
豚ぶた でも飼っておきぁ しまいし。
気狂きちが いじみた
真似まね も
大抵たいてい にするがいい。どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、
楷子段はしごだん を
三股半みまたはん に二階まで
躍おど り上がった。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。これは妙だ。ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と
分わか らないが、
人気ひとけ のあるとないとは様子でも知れる。長く東から西へ
貫つらぬ いた
廊下ろうか には
鼠ねずみ 一
匹ぴき も
隠かく れていない。廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。どうも変だ、
おれ は小供の時から、よく
夢ゆめ を見る癖があって、
夢中むちゅう に跳ね起きて、わからぬ寝言を言って、人に笑われた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た
兄 に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な
勢いきおい で
尋たず ねたくらいだ。その時は三日ばかりうち
中じゅう の笑い草になって大いに弱った。ことによると今のも夢かも知れない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(32 / 108)
しかし たしかにあばれたに違いないがと、廊下の
真中まんなか で考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって
響ひび いたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が
床板ゆかいた を踏み鳴らした。それ見ろ夢じゃないやっぱり事実だ。静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ
馳か けだした。
おれ の通る
路みち は暗い、ただはずれに見える月あかりが
目標めじるし だ。
おれ が馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、
堅かた い大きなものに
向脛むこうずね をぶつけて、
あ痛い が頭へひびく間に、身体はすとんと前へ
抛ほう り出された。こん
畜生ちきしょう と起き上がってみたが、馳けられない。気はせくが、足だけは言う事を利かない。じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、
森しん としている。いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。まるで豚だ。こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を
極き めて
寝室しんしつ の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。
錠じょう をかけてあるのか、机か何か積んで立て
懸か けてあるのか、
押お しても、押しても決して開かない。今度は向う合せの北側の
室へや を試みた。開かない事はやっぱり同然である。
おれ が戸を開けて中に居る奴を引っ
捕つ らまえてやろうと、
焦慮いらっ てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。この
野郎やろう 申し合せて、東西相応じて
おれ を馬鹿にする気だな、とは思ったが さてどうしていいか 分らない。正直に白状してしまうが、
おれ は勇気のある割合に
知恵ちえ が足りない。こんな時にはどうしていいか さっぱりわからない。わからないけれども、決して負けるつもりはない。このままに済ましては
おれ の顔にかかわる。
江戸えど っ子は
意気地いくじ がないと言われるのは残念だ。宿直をして
鼻垂はなった れ
小僧こぞう にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は
旗本はたもと だ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(33 / 108)
旗本の元は
清和源氏せいわげんじ で、
多田ただ の
満仲まんじゅう の
後裔こうえい だ。こんな
土百姓どびゃくしょう とは生まれからして違うんだ。ただ知恵のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。
おれ はこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。さっき、ぶつけた向脛を
撫な でてみると、何だかぬらぬらする。血が出るんだろう。血なんか出たければ勝手に出るがいい。そのうち最前からの
疲つか れが出て、ついうとうと寝てしまった。何だか騒がしいので、
眼め が覚めた時はえっ
糞くそ しまったと飛び上がった。
おれ の
坐すわ ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、
おれ の前に立っている。
おれ は正気に返って、はっと思う途端に、
おれ の鼻の先にある生徒の足を
引ひ っ
攫つか んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと
仰向あおむけ に倒れた。ざまを見ろ。残る一人がちょっと
狼狽ろうばい したところを、飛びかかって、肩を
抑おさ えて二三度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。さあ
おれ の部屋まで来いと引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく
尾つ いて来た。
夜よ はとうにあけている。
おれ が宿直部屋へ連れてきた奴を
詰問きつもん し始めると、豚は、
打ぶ っても
擲たた いても豚だから、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けっして白状しない。そのうち一人来る、二人来る、だんだん二階から宿直部屋へ集まってくる。見るとみんな
眠ねむ そうに
瞼まぶた をはらしている。けちな奴等だ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(34 / 108)
一晩ぐらい寝ないで、そんな面をして男と言われるか。面でも洗って議論に来いと言ってやったが、誰も面を洗いに行かない。
おれ は五十人あまりを相手に約一時間ばかり
押問答おしもんどう をしていると、ひょっくり
狸 がやって来た。あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。これしきの事に、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ。
校長はひと通り
おれ の説明を聞いた。生徒の
言草いいぐさ もちょっと聞いた。追って処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろと言って寄宿生をみんな
放免ほうめん した。
手温てぬ るい事だ。
おれ なら
即席そくせき に寄宿生をことごとく退校してしまう。こんな
悠長ゆうちょう な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。その上
おれ に向って、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に
及およ ばんと言うから、
おれ はこう答えた。「
いえ、ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業はやります、一晩ぐらい寝なくって、授業が出来ないくらいなら、頂戴ちょうだい した月給を学校の方へ割戻わりもど します 」校長は何と思ったものか、しばらく
おれ の顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれていますよと注意した。なるほど何だか少々重たい気がする。その上べた一面
痒かゆ い。蚊がよっぽと
刺さ したに相違ない。
おれ は顔中ぼりぼり
掻か きながら、顔はいくら
膨は れたって、口はたしかにきけますから、授業には差し
支つか えませんと答えた。校長は笑いながら、大分元気ですねと
賞ほ めた。実を言うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。
五
君
釣つ りに行きませんかと
赤シャツ が
おれ に聞いた。
赤シャツ は気味の
悪わ るいように優しい声を出す男である。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(35 / 108)
まるで男だか女だか
分わか りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえ
おれ くらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
おれ はそうですなあと少し進まない返事をしたら、君 釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、
小梅こうめ の
釣堀つりぼり で
鮒ふな を三
匹びき 釣った事がある。それから
神楽坂かぐらざか の
毘沙門びしゃもん の
縁日えんにち で八寸ばかりの
鯉こい を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったが これは今考えても
惜お しいと言ったら、
赤シャツ は
顋あご を前の方へ
突つ き出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。「
それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう 」とすこぶる得意である。だれがご伝授をうけるものか。一体釣や
猟りょう をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、
殺生せっしょう をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に
極き まってる。釣や猟をしなくっちゃ
活計かっけい がたたないなら格別だが、何不足なく
暮くら している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて
贅沢ぜいたく な話だ。こう思ったが
向むこ うは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ
叶かな わないと思って、だまってた。すると先生 この
おれ を降参させたと
疳違かんちが いして、早速伝授しましょう。おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。
吉川 よしかわ 君と
二人ふたり ぎりじゃ、
淋さむ しいから、来たまえとしきりに勧める。
吉川 君というのは画学の教師で例の
野だいこ の事だ。この
野だ は、どういう
了見りょうけん だか、
赤シャツ のうちへ朝夕
出入でいり して、どこへでも
随行ずいこう して
行ゆ く。まるで
同輩どうはい じゃない。
主従しゅうじゅう みたようだ。
赤シャツ の行く所なら、
野だ は必ず行くに
極きま っているんだから、今さら
驚おど ろきもしないが、二人で行けば済むところを、なんで
無愛想ぶあいそ の
おれ へ口を
掛か けたんだろう。大方
高慢こうまん ちきな釣道楽で、自分の釣るところを
おれ に見せびらかすつもりかなんかで
誘さそ ったに違いない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(36 / 108)
そんな事で見せびらかされる
おれ じゃない。
鮪まぐろ の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。
おれ だって人間だ、いくら
下手へた だって糸さえ
卸おろ しゃ、何かかかるだろう、ここで
おれ が行かないと、
赤シャツ の事だから、下手だから行かないんだ、
嫌きら いだから行かないんじゃないと
邪推じゃすい するに
相違そうい ない。
おれ はこう考えたから、行きましょうと答えた。それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、
支度したく を整えて、停車場で
赤シャツ と
野だ を待ち合せて
浜はま へ行った。船頭は
一人ひとり で、
船ふね は細長い東京辺では見た事もない
格好かっこう である。さっきから船中
見渡みわた すが
釣竿つりざお が一本も見えない。釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、
野だ に聞くと、
沖釣おきづり には竿は用いません、糸だけでげすと
顋あご を
撫な でて
黒人くろうと じみた事を言った。こう
遣や り
込こ められるくらいなら だまっていればよかった。
船頭はゆっくりゆっくり
漕こ いでいるが熟練は
恐おそろ しいもので、
見返みか えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。
高柏寺こうはくじ の五重の
塔とう が森の上へ
抜ぬ け出して針のように
尖とん がってる。
向側むこうがわ を見ると
青嶋あおしま が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と
松まつ ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。
赤シャツ は、しきりに
眺望ちょうぼう していい景色だと言ってる。
野だ は絶景でげすと言ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に
吹ふ かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「
あの松を見たまえ、幹が真直まっすぐ で、上が傘かさ のように開いてターナー【イギリスの風景画家】の画にありそうだね 」と
赤シャツ が
野だ に言うと、
野だ は「
全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ 」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから
黙だま っていた。舟は島を右に見てぐるりと
廻まわ った。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(37 / 108)
波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど
平たいら だ。
赤シャツ のお
陰かげ で はなはだ
愉快ゆかい だ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと
赤シャツ が異議を申し立てた。
おれ は黙ってた。すると
野だ がどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な
発議ほつぎ をした。
赤シャツ はそいつは面白い、
吾々われわれ はこれからそう言おうと賛成した。この吾々のうちに
おれ もはいってるなら
迷惑めいわく だ。
おれ には青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエル【ラファエロ】のマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと
野だ が言うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと
赤シャツ が気味の悪るい笑い方をした。なに誰も居ないから
大丈夫だいじょうぶ ですと、ちょっと
おれ の方を見たが、わざと顔をそむけて にやにやと笑った。
おれ は何だか やな心持ちがした。マドンナだろうが、
小旦那こだんな だろうが、
おれ の関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえ ような風をする。下品な仕草だ。これで当人は
私わたし も
江戸えど っ子でげす などと言ってる。マドンナと言うのは何でも
赤シャツ の
馴染なじみ の芸者の
渾名あだな か何かに違いないと思った。なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして
眺なが めていれば世話はない。それを
野だ が油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。
ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、
錨いかり を卸した。
幾尋いくひろ あるかねと
赤シャツ が聞くと、
六尋むひろ ぐらいだと言う。六尋ぐらいじゃ
鯛たい はむずかしいなと、
赤シャツ は糸を海へなげ込んだ。大将鯛を釣る気と見える、
豪胆ごうたん なものだ。
野だ は、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(38 / 108)
それになぎですからとお世辞を言いながら、これも糸を
繰く り出して投げ入れる。何だか先に
錘おもり のような
鉛なまり がぶら下がってるだけだ。
浮うき がない。浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。
おれ には
到底とうてい 出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ 糸はありますかと聞く。糸はあまるほどあるが、浮がありませんと言ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは
素人しろうと ですよ。こうしてね、糸が
水底みずそこ へついた時分に、
船縁ふなべり の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に答える。――そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何にもかからない、
餌え がなくなってたばかりだ。いい
気味きび だ。教頭、残念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ
逃に げられちゃ、今日は油断ができませんよ。しかし逃げられても何ですね。浮と
睨にら めくらをしている連中よりはましですね。ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと
野だ は
妙みよう な事ばかり
喋舌しゃべ る。よっぽど
撲なぐ りつけてやろうかと思った。
おれ だって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。広い所だ。
鰹かつお の一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと
錘おもり と糸を
抛ほう り込んでいい加減に指の先であやつっていた。
しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。
おれ は考えた。こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。しめた、釣れたとぐいぐい
手繰たぐ り寄せた。おや釣れましたかね、後世
恐おそ るべしだと
野だ がひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に
浸つ いておらん。
船縁べり から
覗のぞ いてみたら、金魚のような
縞しま のある魚が糸にくっついて、右左へ
漾ただよ いながら、手に応じて浮き上がってくる。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(39 / 108)
面白い。水際から上げるとき、ぽちゃりと
跳は ねたから、
おれ の顔は潮水だらけになった。ようやくつらまえて、針をとろうとするが なかなか取れない。
捕つら まえた手はぬるぬるする。大いに気味がわるい。面倒だから糸を
振ふ って
胴どう の
間ま へ
擲たた きつけたら、すぐ死んでしまった。
赤シャツ と
野だ は驚ろいて見ている。
おれ は海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。まだ
腥臭なまぐさ い。もう
懲こ り
懲ご りだ。何が釣れたって魚は
握にぎ りたくない。魚も握られたくなかろう。そうそう糸を捲いてしまった。
一番槍いちばんやり はお
手柄てがら だがゴルキじゃ、と
野だ がまた生意気を言うと、ゴルキと言うと
露西亜ロシア の文学者みたような名だねと
赤シャツ が
洒落しゃれ た。そうですね、まるで露西亜の文学者ですねと
野だ はすぐ賛成しやがる。ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が
芝しば の写真師で、米のなる木が命の親だろう【韻を踏んだだけ】。一体この
赤シャツ はわるい
癖くせ だ。
誰だれ を
捕つら まえても片仮名の
唐人とうじん 【異国人】の名を並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。
おれ のような数学の教師にゴルキだか
車力しゃりき だか見当がつくものか、少しは
遠慮えんりょ するがいい。言うならフランクリン【ベンジャミン・フランクリン】の自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロント【明治時代の中学校でよく使われた英語のテキストに出てくる本】だとか、
おれ でも知ってる名を使うがいい。
赤シャツ は時々帝国文学とかいう
真赤まっか な雑誌を学校へ持って来て
難有ありがた そうに読んでいる。
山嵐 やまあらし に聞いてみたら、
赤シャツ の片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。
それから
赤シャツ と
野だ は
一生懸命いっしょうけんめい に釣っていたが、約一時間ばかりのうちに
二人ふたり で十五六上げた。
可笑おか しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(40 / 108)
鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。今日は露西亜文学の大当りだと
赤シャツ が
野だ に話している。あなたの
手腕しゅわん でゴルキなんですから、
私わたし なんぞがゴルキなのは仕方がありません。当り前ですなと
野だ が答えている。船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。ただ
肥料こやし には出来るそうだ。
赤シャツ と
野だ は一生懸命に肥料を釣っているんだ。気の毒の至りだ。
おれ は一
匹ぴき で
懲こ りたから、胴の間へ
仰向あおむ けになって、さっきから大空を眺めていた。釣をするよりこの方がよっぽど
洒落しゃれ ている。
すると二人は小声で何か話し始めた。
おれ にはよく
聞きこ えない、また聞きたくもない。
おれ は空を見ながら
清 きよ の事を考えている。金があって、
清 をつれて、こんな
奇麗きれい な所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。いくら景色がよくっても
野だ などといっしょじゃつまらない。
清 は
皺苦茶しわくちゃ だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たって
恥は ずかしい心持ちはしない。
野だ のようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、
凌雲閣りょううんかく 【明治時代の眺望用の高層建築物】へのろうが、到底寄り付けたものじゃない。
おれ が教頭で、
赤シャツ が
おれ だったら、やっぱり
おれ に へけつけ【媚びへつらう】お世辞を使って
赤シャツ を
冷ひや かすに違いない。江戸っ子は
軽薄けいはく だと言うがなるほど こんなものが
田舎巡いなかまわ りをして、
私わたし は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。こんな事を考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。笑い声の間に何か言うが
途切とぎ れ途切れでとんと要領を得ない。
「
え? どうだか...... 」「
......全くです......知らないんですから......罪ですね 」「
まさか...... 」「
バッタを......本当ですよ 」
おれ は外の言葉には耳を
傾かたむ けなかったが、バッタと言う
野だ の
語ことば を
聴き いた時は、思わずきっとなった。
野だ は何のためかバッタと言う言葉だけことさら力を入れて、
明瞭めいりょう に
おれ の耳にはいるようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。
おれ は動かないでやはり聞いていた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(41 / 108)
「
また例の堀田 ほった が...... 」「
そうかも知れない...... 」「
天麩羅てんぷら ......ハハハハハ」「
......扇動せんどう して...... 」「
団子だんご も?」
言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でも
おれ のことについて
内所話ないしょばな しをしているに相違ない。話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、
おれ なんか誘わなければいい。いけ好かない連中だ。バッタだろうが
雪踏せった 【底に皮をはったぞうり】だろうが、非は
おれ にある事じゃない。校長がひとまず あずけろと言ったから、
狸 たぬき の顔にめんじてただ今のところは
控ひか えているんだ。
野だ の癖に入らぬ批評をしやがる。
毛筆けふで でもしゃぶって引っ込んでるがいい。
おれ の事は、
遅おそ かれ早かれ、
おれ 一人で片付けてみせるから、
差支さしつか えはないが、
また例の堀田 が とか
扇動して とか言う文句が気にかかる。
堀田 が
おれ を扇動して
騒動そうどう を大きくしたと言う意味なのか、あるいは
堀田 が生徒を扇動して
おれ をいじめたと言うのか方角がわからない。青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。
線香せんこう の
烟けむり のような雲が、
透す き
徹とお る底の上を静かに
伸の して行ったと思ったら、いつしか底の
奥おく に流れ込んで、うすくもやを
掛か けたようになった。
もう帰ろうかと
赤シャツ が思い出したように言うと、ええちょうど時分ですね。今夜は
マドンナ の君にお
逢あ いですかと
野だ が言う。
赤シャツ は
馬鹿ばか あ言っちゃいけない、間違いになると、
船縁べり に身を
倚も たした
奴やつ を、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたって......と
野だ が振り返った時、
おれ は
皿さら のような
眼め を
野だ の頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。
野だ は まぼしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭を
掻か いた。何という
猪口才ちょこざい だろう。
船は静かな海を岸へ
漕こ ぎ
戻もど る。君
釣つり はあまり好きでないと見えますねと
赤シャツ が聞くから、ええ
寝ね ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた
巻烟草まきたばこ を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして
艪ろ の足で掻き分けられた
浪なみ の上を
揺ゆ られながら
漾ただよ っていった。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(42 / 108)
「
君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発ふんぱつ してやってくれたまえ 」と今度は釣には まるで
縁故えんこ もない事を言い出した。「
あんまり喜んでもいないでしょう 」「
いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、吉川 君 」「
喜んでるどころじゃない。大騒おおさわ ぎです 」と
野だ は にやにやと笑った。こいつの言う事は一々
癪しゃく に
障さわ るから妙だ。「
しかし君注意しないと、険呑けんのん ですよ 」と
赤シャツ が言うから「
どうせ険呑です。こうなりゃ険呑は覚悟かくご です 」と言ってやった。実際
おれ は
免職めんしょく になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。「
そう言っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから言うんだが、わるく取っちゃ困る 」「
教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及およ ばずながら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互たがい に力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力じんりょく しているんですよ 」と
野だ が人間
並なみ の事を言った。
野だ のお世話になるくらいなら首を
縊くく って死んじまわあ。
「
それでね、生徒は君の来たのを大変歓迎かんげい しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢がまん だと思って、辛防しんぼう してくれたまえ。決して君のためにならないような事はしないから 」
「
いろいろの事情た、どんな事情です 」
「
それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕ぼく が話さないでも自然と分って来るです、ね吉川 君 」
「
ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分って来るです 」と
野だ は
赤シャツ と同じような事を言う。
「
そんな面倒めんどう な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺うかが うんです 」
「
そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事を言っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。ところが学校というものは なかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊たんぱく には行ゆ かないですからね 」
「
淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです 」
「
さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏とぼ しいと言うんですがね...... 」
「
どうせ経験には乏しいはずです。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(43 / 108)
履歴書りれきしょ にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「
さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです 」
「
正直にしていれば誰だれ が乗じたって怖こわ くはないです 」
「
無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと言うんです 」
野だ が
大人おとな しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか
艫とも の方で船頭と釣の話をしている。
野だ が居ないんでよっぽど話しよくなった。
「
僕の前任者が、誰だ れに乗ぜられたんです 」
「
だれと指すと、その人の名誉に関係するから言えない。また判然と証拠しょうこ のない事だから言うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等ぼくら も君を呼んだ甲斐かい がない。どうか気を付けてくれたまえ 」
「
気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ好い いんでしょう 」
赤シャツ はホホホホと笑った。別段
おれ は笑われるような事を言った覚えはない。
今日こんにち ただ今に至るまでこれでいいと
堅かた く信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を
奨励しょうれい しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な
純粋じゅんすい な人を見ると、
坊ぼ っちゃんだの
小僧こぞう だのと
難癖なんくせ をつけて
軽蔑けいべつ する。それじゃ小学校や中学校で
嘘うそ をつくな、正直にしろと
倫理りんり の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。
赤シャツ がホホホホと笑ったのは、
おれ の単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。
清 はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。
清 の方が
赤シャツ よりよっぽど上等だ。
「
無論悪わ るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(44 / 108)
世の中には磊落らいらく なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがありますから......。大分寒くなった。もう秋ですね、浜の方は靄もや でセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川 君どうだい、あの浜の景色は......」 と大きな声を出して
野だ を呼んだ。なあるほどこりゃ
奇絶きぜつ ですね。時間があると写生するんだが、
惜お しいですね、このままにしておくのはと
野だ は大いにたたく。
港屋の二階に灯が一つついて、汽車の
笛ふえ がヒューと鳴るとき、
おれ の乗っていた舟は
磯いそ の砂へざぐりと、
舳へさき をつき込んで動かなくなった。お早うお帰りと、かみさんが、浜に立って
赤シャツ に
挨拶あいさつ する。
おれ は
船端ふなばた から、やっと
掛声かけごえ をして磯へ飛び下りた。
六
野だ は
大嫌だいきら いだ。こんな
奴やつ は
沢庵石たくあんいし をつけて海の底へ
沈しず めちまう方が日本のためだ。
赤シャツ は声が気に食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ
駄目だめ だ。
惚ほ れるものがあったって
マドンナ ぐらいなものだ。しかし教頭だけに
野だ よりむずかしい事を言う。うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。はっきりとした事は言わないから、見当がつきかねるが、何でも
山嵐 やまあらし がよくない奴だから用心しろと言うのらしい。それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。そうして、そんな
悪わ るい教師なら、早く
免職めんしょく さしたらよかろう。教頭なんて文学士の
癖くせ に
意気地いくじ のないもんだ。
蔭口かげぐち をきくのでさえ、公然と名前が言えないくらいな男だから、弱虫に
極き まってる。弱虫は親切なものだから、あの
赤シャツ も女のような親切ものなんだろう。親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が
違ちが う。それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が
悪漢わるもの だなんて、人を
馬鹿ばか にしている。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(45 / 108)
大方
田舎いなか だから万事東京のさかに行くんだろう。
物騒ぶっそう な所だ。今に火事が氷って、石が
豆腐とうふ になるかも知れない。しかし、あの
山嵐 が生徒を扇動するなんて、いたずらをしそうもないがな。一番人望のある教師だと言うから、やろうと思ったら
大抵たいてい の事は出来るかも知れないが、――第一そんな
廻まわ りくどい事をしないでも、じかに
おれ を
捕つら まえて
喧嘩けんか を吹き
懸か けりゃ手数が省ける訳だ。
おれ が
邪魔じゃま になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと言や、よさそうなもんだ。物は相談ずくでどうでもなる。
向むこ うの言い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。ここばかり米が出来る訳でもあるまい。どこの
果はて へ行ったって、のたれ
死じに はしないつもりだ。
山嵐 もよっぽど話せない奴だな。
ここへ来た時 第一番に氷水を
奢おご ったのは
山嵐 だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、
おれ の顔に関わる。
おれ はたった一
杯ぱい しか飲まなかったから一銭五
厘りん しか
払はら わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、
詐欺師さぎし の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。
おれ は
清 きよ から三円借りている。その三円は五年
経た った今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。
清 は今に返すだろうなどと、かりそめにも
おれ の
懐中かいちゅう をあてにしてはいない。
おれ も今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど
清 の心を疑ぐるようなもので、
清 の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは
清 を
踏ふ みつけるのじゃない、
清 を
おれ の
片破かたわ れと思うからだ。
清 と
山嵐 とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、
甘茶あまちゃ だろうが、他人から
恵めぐみ を受けて、だまっているのは向うを ひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで
難有ありがた いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(46 / 108)
無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より
尊たっ といお礼と思わなければならない。
おれ はこれでも
山嵐 に一銭五厘
奮発ふんぱつ させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。
山嵐 は
難有ありがた いと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って
卑劣ひれつ な
振舞ふるまい をするとは
怪け しからん
野郎やろう だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。
おれ はここまで考えたら、
眠ねむ くなったからぐうぐう
寝ね てしまった。あくる日は思う
仔細しさい があるから、例刻より早ヤ目に出校して
山嵐 を待ち受けた。ところがなかなか出て来ない。
うらなり が出て来る。漢学の先生が出て来る。
野だ が出て来る。しまいには
赤シャツ まで出て来たが
山嵐 の机の上は
白墨はくぼく が一本
竪たて に寝ているだけで
閑静かんせい なものだ。
おれ は、
控所ひかえじょ へはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで
握にぎ って来た。
おれ は
膏あぶら っ手だから、開けてみると一銭五厘が
汗あせ をかいている。汗をかいてる銭を返しちゃ、
山嵐 が何とか言うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。ところへ
赤シャツ が来て昨日は失敬、
迷惑めいわく でしたろうと言ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。すると
赤シャツ は
山嵐 の机の上へ
肱ひじ を
突つ いて、あの
盤台面ばんだいづら を
おれ の鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君 昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。まだ
誰だれ にも話しやしますまいねと言った。女のような声を出すだけに心配性な男と見える。話さない事はたしかである。しかしこれから話そうと言う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで
赤シャツ から口留めをされちゃ、ちと困る。
赤シャツ も赤シャツだ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(47 / 108)
山嵐 と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る
謎なぞ をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。元来なら
おれ が
山嵐 と戦争をはじめて
鎬しのぎ を
削けず ってる
真中まんなか へ出て堂々と
おれ の
肩かた を持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、
赤シャツ を着ている主意も立つというもんだ。
おれ は教頭に
向むか って、まだ誰にも話さないが、これから
山嵐 と談判するつもりだと言ったら、
赤シャツ は大いに
狼狽ろうばい して、君 そんな無法な事をしちゃ困る。
僕ぼく は
堀田 ほった 君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。君は学校に
騒動そうどう を起すつもりで来たんじゃなかろうと
妙みょう に常識をはずれた質問をするから、
当あた り
前まえ です、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと言った。すると
赤シャツ はそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて
依頼いらい に
及およ ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。君
大丈夫だいじょうぶ かいと
赤シャツ は念を
押お した。どこまで女らしいんだか
奥行おくゆき がわからない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。
辻褄つじつま の合わない、論理に欠けた注文をして
恬然てんぜん としている。しかもこの
おれ を疑ぐってる。
憚はばか りながら男だ。受け合った事を裏へ廻って
反古ほご にするような さもしい
了見りょうけん はもってるもんか。
ところへ
両隣りょうどな りの机の所有主も出校したんで、
赤シャツ は早々自分の席へ帰って行った。
赤シャツ は
歩あ るき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、音を立てないように
靴くつ の底をそっと
落おと す。音を立てないであるくのが
自慢じまん になるもんだとは、この時から始めて知った。
泥棒どろぼう の
稽古けいこ じゃあるまいし、当り前にするがいい。やがて始業の
喇叭らっぱ がなった。
山嵐 はとうとう出て来ない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ
出掛でか けた。
授業の
都合つごう で一時間目は少し
後おく れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。
山嵐 もいつの間にか来ている。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(48 / 108)
欠勤だと思ったら
遅刻ちこく したんだ。
おれ の顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。
罰金ばっきん を出したまえと言った。
おれ は机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。
先達せんだっ て
通町とおりちょう で飲んだ氷水の代だと
山嵐 の前へ置くと、何を言ってるんだと笑いかけたが、
おれ が存外
真面目まじめ でいるので、つまらない
冗談じょうだん をするなと銭を
おれ の机の上に
掃は き返した。おや
山嵐 の
癖くせ にどこまでも奢る気だな。
「
冗談じゃない本当だ。おれ は君に氷水を奢られる因縁いんえん がないから、出すんだ。取らない法があるか 」
「
そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ 」
「
今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ 」
山嵐 は冷然と
おれ の顔を見てふんと言った。
赤シャツ の依頼がなければ、ここで
山嵐 の
卑劣ひれつ をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。人がこんなに
真赤まっか になってるのに ふんという
理屈りくつ があるものか。
「
氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ 」
「
一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれ の勝手だ 」
「
ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主 ていしゅ が来て君に出てもらいたいと言うから、その訳を聞いたら亭主 の言うのはもっともだ。それでも もう一応たしかめるつもりで今朝けさ あすこへ寄って詳くわ しい話を聞いてきたんだ 」
おれ には
山嵐 の言う事が何の意味だか分らない。
「
亭主 が君に何を話したんだか、おれ が知ってるもんか。そう自分だけで極めたって仕様があるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主 の言う方がもっともだなんて失敬千万な事を言うな」
「
うん、そんなら言ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て余あ まされているんだ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出して拭ふ かせるなんて、威張いば り過ぎるさ 」
「
おれ が、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「
拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(49 / 108)
下宿料の十円や十五円は懸物かけもの を一幅ぷく 売りゃ、すぐ浮う いてくるって言ってたぜ」
「
利いた風な事をぬかす野郎やろう だ。そんなら、なぜ置いた 」
「
なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと言うんだろう。君出てやれ 」
「
当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。一体そんな言い懸がか りを言うような所へ周旋しゅうせん する君からしてが不埒ふらち だ 」
「
おれ が不埒か、君が大人おとな しくないんだか、どっちかだろう」
山嵐 も
おれ に
劣おと らぬ
肝癪持かんしゃくも ちだから、負け
嫌ぎら いな大きな声を出す。控所に居た連中は何事が始まったかと思って、みんな、
おれ と
山嵐 の方を見て、
顋あご を長くしてぼんやりしている。
おれ は、別に
恥は ずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り
見巡みま わしてやった。みんなが
驚おど ろいてるなかに
野だ だけは面白そうに笑っていた。
おれ の大きな
眼め が、貴様も喧嘩をするつもりかと言う権幕で、
野だ の
干瓢かんぴょう づらを
射貫いぬ いた時に、
野だ は
突然とつぜん 真面目な顔をして、大いにつつしんだ。少し
怖こ わかったと見える。そのうち
喇叭らっぱ が鳴る。
山嵐 も
おれ も喧嘩を中止して教場へ出た。
午後は、先夜
おれ に対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。会議というものは生れて始めてだから とんと
容子ようす が分らないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に
纏まと めるのだろう。纏めるというのは
黒白こくびゃく の決しかねる
事柄ことがら について言うべき言葉だ。この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは
暇潰ひまつぶ しだ。誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。こんな明白なのは
即座そくざ に校長が処分してしまえばいいに。
随分ずいぶん 決断のない事だ。校長ってものが、これならば、何の事はない、
煮に え
切き らない
愚図ぐず の異名だ。
会議室は校長室の
隣とな りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張った
椅子いす が二十
脚きゃく ばかり、長いテーブルの周囲に
並なら んでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(50 / 108)
そのテーブルの
端はじ に校長が
坐すわ って、校長の隣りに
赤シャツ が構える。あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、
体操たいそう の教師だけはいつも席末に
謙遜けんそん するという話だ。
おれ は様子が分らないから、博物の教師と漢学の教師の間へはいり
込こ んだ。向うを見ると
山嵐 と
野だ が並んでる。
野だ の顔はどう考えても劣等だ。喧嘩はしても
山嵐 の方が
遥はる かに
趣おもむき がある。
おやじ の
葬式そうしき の時に
小日向こびなた の
養源寺ようげんじ の
座敷ざしき にかかってた懸物はこの顔によく似ている。
坊主ぼうず に聞いてみたら
韋駄天いだてん と言う怪物だそうだ。今日は
怒おこ ってるから、眼をぐるぐる廻しちゃ、時々
おれ の方を見る。そんな事で
威嚇おど かされてたまるもんかと、
おれ も負けない気で、やっぱり眼をぐりつかせて、
山嵐 をにらめてやった。
おれ の眼は
格好かっこう はよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。あなたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと
清 がよく言ったくらいだ。
もう大抵お
揃そろ いでしょうかと校長が言うと、書記の
川村 と言うのが一つ二つと頭数を
勘定かんじょう してみる。一人足りない。一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。
唐茄子とうなす の
うらなり 君が来ていない。
おれ と
うらなり 君とはどう言う
宿世すくせ の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。控所へくれば、すぐ、
うらなり 君が眼に付く、
途中とちゅう をあるいていても、
うらなり 先生の様子が心に
浮うか ぶ。温泉へ行くと、
うらなり 君が時々
蒼あお い顔をして
湯壺ゆつぼ のなかに
膨ふく れている。
挨拶あいさつ をすると へえと
恐縮きょうしゅく して頭を下げるから気の毒になる。学校へ出て
うらなり 君ほど大人しい人は居ない。めったに笑った事もないが、余計な口をきいた事もない。
おれ は君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、
うらなり 君に
逢あ ってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはいるや否や、
うらなり 君の居ないのは、すぐ気がついた。実を言うと、この男の次へでも
坐す わろうかと、ひそかに
目標めじるし にして来たくらいだ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(51 / 108)
校長はもうやがて見えるでしょうと、自分の前にある
紫むらさき の
袱紗包ふくさづつみ 【小さな風呂敷】をほどいて、
蒟蒻版こんにゃくばん 【簡易印刷の一種】のような者を読んでいる。
赤シャツ は
琥珀こはく のパイプを絹ハンケチで
磨みが き始めた。この男はこれが道楽である。
赤シャツ 相当のところだろう。ほかの連中は隣り同志で何だか
私語ささや き合っている。
手持無沙汰てもちぶさた なのは
鉛筆えんぴつ の
尻しり に着いている、
護謨ゴム の頭でテーブルの上へしきりに何か書いている。
野だ は時々
山嵐 に話しかけるが、
山嵐 は一向応じない。ただ
うん とか
ああ と言うばかりで、時々
怖こわ い眼をして、
おれ の方を見る。
おれ も負けずに
睨にら め返す。
ところへ待ちかねた、
うらなり 君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅刻
致いた しましたと
慇懃いんぎん に
狸 たぬき に
挨拶あいさつ をした。では会議を開きますと
狸 はまず書記の
川村 君に蒟蒻版を配布させる。見ると最初が処分の件、次が生徒
取締とりしまり の件、その他二三ヶ条である。
狸 は例の通りもったいぶって、教育の
生霊いきりょう という見えでこんな意味の事を述べた。「
学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳かとく 【徳が少ない】の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧ざんき の念に堪た えんが、不幸にして今回もまた かかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい 」
おれ は校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの
狸 だのと言うものは、えらい事を言うもんだと感心した。こう校長が何もかも責任を受けて、自分の
咎とが だとか、不徳だとか言うくらいなら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ
免職めんしょく になったら、よさそうなもんだ。そうすればこんな
面倒めんどう な会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。第一常識から言っても分ってる。
おれ が大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする。わるいのは校長でもなけりゃ、
おれ でもない、生徒だけに
極きま ってる。もし
山嵐 が
扇動せんどう したとすれば、生徒と
山嵐 を
退治たいじ ればそれでたくさんだ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(52 / 108)
人の
尻しり を自分で
背負しょ い
込こ んで、
おれ の尻だ、
おれ の尻だと吹き散らかす奴が、どこの国にあるもんか、
狸 でなくっちゃ出来る芸当じゃない。
彼かれ はこんな
条理じょうり に
適かな わない議論を
吐は いて、得意気に一同を見回した。ところが誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根に
烏からす がとまってるのを
眺なが めている。漢学の先生は
蒟蒻版こんにゃくばん を
畳たた んだり、延ばしたりしてる。
山嵐 はまだ
おれ の顔をにらめている。会議と言うものが、こんな
馬鹿気ばかげ たものなら、欠席して昼寝でもしている方がましだ。
おれ は、じれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、
赤シャツ が何か言い出したから、やめにした。見るとパイプをしまって、
縞しま のある絹ハンケチで顔をふきながら、何か言っている。あの
手巾はんけち はきっと
マドンナ から巻き上げたに
相違そうい ない。男は白い
麻あさ を使うもんだ。「
私も寄宿生の乱暴を聞いて はなはだ教頭として不行届ふゆきとどき であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く慚は ずるのであります。でこう言う事は、何か陥欠かんけつ があると起るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任はかえって学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯いたずら をやる事はないとも限らん。で もとより処分法は校長のお考えにある事だから、私の容喙ようかい 【口を出す】する限りではないが、どうかその辺をご斟酌しんしゃく になって、なるべく寛大なお取計とりはからい を願いたいと思います 」
なるほど
狸 が狸なら、
赤シャツ も赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪るいんだと公言している。
気狂きちがい が人の頭を
撲なぐ り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。
難有ありがた い仕合せだ。活気にみちて困るなら運動場へ出て
相撲すもう でも取るがいい、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。この様子じゃ
寝頸ねくび をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(53 / 108)
おれ はこう考えて何か言おうかなと考えてみたが、言うなら人を驚ろかすように
滔々とうとう と述べたてなくっちゃつまらない、
おれ の癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行き
塞つま ってしまう。
狸 でも
赤シャツ でも人物から言うと、
おれ よりも下等だが、弁舌はなかなか達者だから、まずい事を
喋舌しゃべ って
揚足あげあし を取られちゃ面白くない。ちょっと腹案を作ってみようと、胸のなかで文章を作ってる。すると前に居た
野だ が突然起立したには驚ろいた。
野だ の癖に意見を述べるなんて生意気だ。
野だ は例のへらへら調で「
実に今回のバッタ事件及び咄喊とっかん 【大声をあげて叫ぶ】事件は吾々われわれ 心ある職員をして、ひそかに吾わが 校将来の前途ぜんと に危惧きぐ の念を抱いだ かしむるに足る珍事ちんじ でありまして、吾々職員たるものはこの際 奮ふる って自ら省りみて、全校の風紀を振粛しんしゅく 【引き締める】しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮こうけい に中あた った剴切がいせつ なお考えで私は徹頭徹尾てっとうてつび 賛成致します。どうかなるべく寛大かんだい のご処分を仰あお ぎたいと思います 」と言った。
野だ の言う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに
陳列ちんれつ するぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと言う言葉だけだ。
おれ は
野だ の言う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに
起た ち上がってしまった。「
私は徹頭徹尾反対です...... 」と言ったがあとが急に出て来ない。「
......そんな頓珍漢とんちんかん な、処分は大嫌だいきら いです 」とつけたら、職員が一同笑い出した。「
一体生徒が全然悪わ るいです。どうしても詫あや まらせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。......何だ失敬な、新しく来た教師だと思って...... 」と言って着席した。すると右隣りに居る博物が「
生徒がわるい事も、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起していけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛な方に賛成します 」と弱い事を言った。左隣の漢学は
穏便説おんびんせつ に賛成と言った。歴史も教頭と同説だと言った。
忌々いまいま しい、大抵のものは
赤シャツ 党だ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(54 / 108)
こんな連中が寄り合って学校を立てていりゃ世話はない。
おれ は生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに極めてるんだから、もし
赤シャツ が勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする
覚悟かくご でいた。どうせ、こんな
手合てあい を
弁口べんこう で
屈伏くっぷく させる手際はなし、させたところでいつまでご交際を願うのは、こっちでご免だ。学校に居ないとすれば どうなったって構うもんか。また何か言うと笑うに違いない。だれが言うもんかと
澄すま していた。
すると今までだまって聞いていた
山嵐 が奮然として、起ち上がった。野郎また
赤シャツ 賛成の意を表するな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると
山嵐 は
硝子ガラス 窓を
振ふる わせるような声で「
私わたくし は教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものは この事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏ぼうし を軽侮けいぶ してこれを翻弄ほんろう しようとした所為しょい とより外ほか には認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが 失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、まだ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃ころ であります。この短かい二十日間において生徒は君の学問人物を評価し得る余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌しんしゃく を加える理由もありましょうが、何らの源因もないのに新来の先生を愚弄ぐろう するような軽薄な生徒を寛仮かんか しては 学校の威信いしん に関わる事と思います。教育の精神は単に学問を授けるばかりではない、高尚こうしょう な、正直な、武士的な元気を鼓吹こすい すると同時に、野卑やひ な、軽躁けいそう な、暴慢ぼうまん な悪風を掃蕩そうとう するにあると思います。もし反動が恐おそろ しいの、騒動が大きくなるのと姑息こそく な事を言った日には この弊風へいふう はいつ矯正きょうせい 出来るか知れません。かかる弊風を途絶とぜつ するためにこそ吾々はこの学校に職を奉じているので、これを見逃みの がすくらいなら始めから教師にならん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰げんばつ に処する上に、当該とうがい 教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます」と言いながら、どんと
腰こし を
卸おろ した。一同はだまって何にも言わない。
赤シャツ はまたパイプを
拭ふ き始めた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(55 / 108)
おれ は何だか非常に
嬉うれ しかった。
おれ の言おうと思うところを
おれ の代りに
山嵐 がすっかり言ってくれたようなものだ。
おれ はこう言う単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いに
難有ありがた いと言う顔をもって、腰を卸した
山嵐 の方を見たら、
山嵐 は一向知らん
面かお をしている。
しばらくして
山嵐 はまた起立した。「
ただ今ちょっと失念して言い落おと しましたから、申します。当夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもっての外の事と考えます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、咎とが める者のないのを幸さいわい に、場所もあろうに温泉などへ入湯にいくなどと言うのは大きな失体である。生徒は生徒として、この点については校長からとくに責任者にご注意あらん事を希望します 」
妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。
おれ は何の気もなく、前の宿直が出あるいた事を知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう言われてみると、これは
おれ が悪るかった。
攻撃こうげき されても仕方がない。そこで
おれ はまた起って「
私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります 」と言って着席したら、一同がまた笑い出した。
おれ が何か言いさえすれば笑う。つまらん
奴等やつら だ。貴様等これほど自分のわるい事を公けにわるかったと断言出来るか、出来ないから笑うんだろう。
それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと言った。ついでだからその結果を言うと、寄宿生は一週間の禁足【外出禁止】になった上に、
おれ の前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければ その時辞職して帰るところだったが なまじい、
おれ のいう通りになったのでとうとう大変な事になってしまった。それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんな事を言った。生徒の
風儀ふうぎ は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに
出入しゅつにゅう しない事にしたい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば
蕎麦屋そばや だの、
団子屋だんごや だの――と言いかけたらまた一同が笑った。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(56 / 108)
野だ が
山嵐 を見て
天麩羅てんぷら と言って目くばせをしたが
山嵐 は取り合わなかった。いい
気味きび だ。
おれ は脳がわるいから、
狸 の言うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、
おれ みたような食い
心棒しんぼう にゃ
到底とうてい 出来っ子ないと思った。それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して
雇やと うがいい。だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお
布令ふれ を出すのは、
おれ のような外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。すると
赤シャツ がまた口を出した。「
元来中学の教師なぞは社会の上流にくらいするものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。その方に耽ふけ るとつい品性にわるい影響えいきょう を及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽ごらく がないと、田舎いなか へ来て狭せま い土地では到底暮くら せるものではない。それで釣つり に行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚こうしょう な精神的娯楽を求めなくってはいけない...... 」
だまって聞いてると勝手な熱を吹く。
沖おき へ行って
肥料こやし を釣ったり、ゴルキが
露西亜ロシア の文学者だったり、
馴染なじみ の芸者が
松まつ の木の下に立ったり、古池へ
蛙かわず が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を
呑の み込むのも精神的娯楽だ。そんな下さらない娯楽を授けるより
赤シャツ の
洗濯せんたく でもするがいい。あんまり腹が立ったから「
マドンナ に逢あ うのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして
互たがい に眼と眼を見合せている。
赤シャツ 自身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。利いたろう。ただ気の毒だったのは
うらなり 君で、
おれ が、こう言ったら蒼い顔をますます蒼くした。
七
おれ は
即夜そくや 下宿を引き
払はら った。宿へ帰って荷物をまとめていると、
女房にょうぼう が何か
不都合ふつごう でもございましたか、お腹の立つ事があるなら、言っておくれたら改めますと言う。どうも
驚おど ろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり
揃そろ ってるんだろう。出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだか
分わか りゃしない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(57 / 108)
まるで
気狂きちがい だ。こんな者を相手に
喧嘩けんか をしたって
江戸えど っ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出てきた。
出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと言うから、だまって
尾つ いて来い、今にわかる、と言って、すたすたやって来た。
面倒めんどう だから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数だ。こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだろう。そうしたら、そこが天意に
叶かな ったわが宿と言う事にしよう。とぐるぐる、
閑静かんせい で住みよさそうな所をあるいているうち、とうとう
鍛冶屋町かじやちょう へ出てしまった。ここは士族
屋敷やしき で下宿屋などのある町ではないから、もっと
賑にぎ やかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといい事を考え付いた。
おれ が敬愛する
うらなり 君はこの町内に住んでいる。
うらなり 君は土地の人で先祖代々の屋敷を
控ひか えているくらいだから、この辺の事情には通じているに
相違そうい ない。あの人を
尋たず ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。
幸さいわい 一度
挨拶あいさつ に来て勝手は知ってるから、
捜さ がしてあるく面倒はない。ここだろうと、いい加減に見当をつけて、ご
免めん ご免と二返ばかり言うと、
奥おく から五十ぐらいな
年寄としより が古風な
紙燭しそく 【和ろうそくに紙を巻いて、簡易的な照明にしたもの】をつけて、出て来た。
おれ は若い女も
嫌きら いではないが、年寄を見ると何だか なつかしい心持ちがする。大方
清 きよ がすきだから、その
魂たましい が方々のお
婆ばあ さんに乗り移るんだろう。これは大方
うらなり 君のおっ
母か さんだろう。切り下げの品格のある婦人だが、よく
うらなり 君に似ている。まあお上がりと言うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を
玄関げんかん まで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。
うらなり 先生 それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に
萩野 はぎの と言って老人夫婦ぎりで
暮く らしているものがある、いつぞや
座敷ざしき を明けておいても
無駄むだ だから、たしかな人があるなら貸してもいいから
周旋しゅうせん してくれと
頼たの んだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
その夜から
萩野 の家の下宿人となった。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(58 / 108)
驚おどろ いたのは、
おれ が
いか銀 の座敷を引き払うと、
翌日あくるひ から入れ
違ちが いに
野だ が平気な顔をして、
おれ の居た部屋を
占領せんりょう した事だ。さすがの
おれ もこれにはあきれた。世の中は いかさま師ばかりで、お
互たがい に乗せっこをしているのかも知れない。いやになった。
世間がこんなものなら、
おれ も負けない気で、
世間並せけんなみ にしなくちゃ、
遣や りきれない訳になる。
巾着切きんちゃくきり 【すり】の上前をはねなければ 三度のご
膳ぜん が
戴いただ けないと、事が
極き まればこうして、生きてるのも考え物だ。と言ってぴんぴんした達者なからだで、首を
縊くく っちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を
資本もとで にして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば
清 も
おれ の
傍そば を
離はな れずに済むし、
おれ も遠くから婆さんの事を心配しずに
暮くら される。いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして
田舎いなか へ来てみると
清 はやっぱり善人だ。あんな
気立きだて のいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない。婆さん、
おれ の立つときに、少々
風邪かぜ を引いていたが
今頃いまごろ はどうしてるか知らん。先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだが――
おれ はこんな事ばかり考えて二三日暮していた。
気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々
尋たず ねてみるが、聞くたんびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦は
いか銀 とは違って、もとが士族だけに
双方そうほう 共上品だ。
爺じい さんが
夜よ るになると、変な声を出して
謡うたい をうたうには閉口するが、
いか銀 のようにお茶を入れましょうと
無暗むやみ に出て来ないから大きに楽だ。お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお
出い でなんだの ぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。
可哀想かわいそう にこれでもまだ二十四ですぜと言ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと
冒頭ぼうとう を置いて、どこの
誰だれ さんは二十でお
嫁よめ をお
貰もら いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を
二人ふたり お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて
反駁はんばく を試みたには
恐おそ れ入った。それじゃ
僕ぼく も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を
真似まね て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(59 / 108)
「
本当の本当ほんま のって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ 」
「
そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ 」この
挨拶あいさつ には痛み入って返事が出来なかった。
「
しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極きま っとらい。私はちゃんと、もう、睨ね らんどるぞなもし 」
「
へえ、活眼かつがん だね。どうして、睨らんどるんですか 」
「
どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦こ がれておいでるじゃないかなもし 」
「
こいつあ驚おどろ いた。大変な活眼だ 」
「
中あた りましたろうがな、もし」
「
そうですね。中ったかも知れませんよ 」
「
しかし今時の女子おなご は、昔むかし と違ちご うて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし 」
「
何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい 」
「
いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど...... 」
「
それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい 」
「
あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが―― 」
「
どこに不たしかなのが居ますかね 」
「
ここ等ら にも大分居お ります。先生、あの遠山 のお嬢さん をご存知かなもし 」
「
いいえ、知りませんね 」
「
まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪べっぴん さんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナ マドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし 」
「
うん、マドンナ ですか。僕あ芸者の名かと思った 」
「
いいえ、あなた。マドンナ と言うと唐人とうじん の言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし 」
「
そうかも知れないね。驚いた 」
「
大方画学の先生がお付けた名ぞなもし 」
「
野だ がつけたんですかい」
「
いいえ、あの吉川 よしかわ 先生がお付けたのじゃがなもし 」
「
そのマドンナ が不たしかなんですかい 」
「
そのマドンナ さんが不たしかなマドンナさんでな、もし 」
「
厄介やっかい だね。渾名あだな の付いてる女にゃ昔から碌ろく なものは居ませんからね。そうかも知れませんよ」
「
ほん当にそうじゃなもし。鬼神きじん のお松まつ じゃの、妲妃だっき のお百じゃのてて怖こわ い女が居お りましたなもし 」
「
マドンナ もその同類なんですかね」
「
そのマドンナ さんがなもし、あなた。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(60 / 108)
そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀 先生なもし――あの方の所へお嫁よめ に行く約束やくそく が出来ていたのじゃがなもし――」
「
へえ、不思議なもんですね。あのうらなり 君が、そんな艶福えんぷく 【もてる】のある男とは思わなかった。人は見懸みか けによらない者だな。ちっと気を付けよう 」
「
ところが、去年 あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持ってお出いで るし、万事都合つごう がよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀 さんがあまりお人が好過よす ぎるけれ、お欺だま されたんぞなもし。それや、これやでお輿入こしいれ も延びているところへ、あの教頭さんがお出い でて、是非お嫁にほしいとお言いるのじゃがなもし 」
「
あの赤シャツ がですか。ひどい奴やつ だ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから? 」
「
人を頼んで懸合かけお うておみると、遠山 さんでも古賀 さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツ さんが、手蔓てづる を求めて遠山 さんの方へ出入でいり をおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さん を手馴付てなづ けておしまいたのじゃがなもし。赤シャツ さんも赤シャツさんじゃが、お嬢さん もお嬢さんじゃてて、みんなが悪わ るく言いますのよ。いったん古賀 さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがお出いで たけれ、その方に替か えよてて、それじゃ今日様こんにちさま 【おてんとさま】へ済むまいがなもし、あなた 」
「
全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね 」
「
それで古賀 さんにお気の毒じゃてて、お友達の堀田 ほった さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツ さんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰うかも知れんが、今のところは遠山 家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山 家と交際をするには別段古賀 さんに済まん事もなかろうとお言いるけれ、堀田 さんも仕方がなしにお戻もど りたそうな。赤シャツ さんと堀田 さんは、それ以来折合おりあい がわるいという評判ぞなもし 」
「
よくいろいろな事を知ってますね。どうして、そんな詳くわ しい事が分るんですか。感心しちまった 」
「
狭せま いけれ何でも分りますぞなもし」
分り過ぎて困るくらいだ。この
容子ようす じゃ
おれ の
天麩羅てんぷら や
団子だんご の事も知ってるかも知れない。
厄介やっかい な所だ。しかしお
蔭様かげさま で
マドンナ の意味もわかるし、
山嵐 と
赤シャツ の関係もわかるし大いに後学になった。ただ困るのはどっちが悪る者だか判然しない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(61 / 108)
おれ のような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分らない。
「
赤シャツ と山嵐 たあ、どっちがいい人ですかね」
「
山嵐 て何ぞなもし」
「
山嵐 というのは堀田 の事ですよ」
「
そりゃ強い事は堀田 さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツ さんは学士さんじゃけれ、働きはある方かた ぞな、もし。それから優しい事も赤シャツ さんの方が優しいが、生徒の評判は堀田 さんの方がええというぞなもし 」
「
つまりどっちがいいんですかね 」
「
つまり月給の多い方が豪えら いのじゃろうがなもし 」
これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。それから二三日して学校から帰るとお婆さんが にこにこして、へえお待遠さま。やっと参りました。と一本の手紙を持って来てゆっくりご覧と言って出て行った。取り上げてみると
清 からの便りだ。
符箋ふせん が二三
枚まい ついてるから、よく調べると、山城屋から、
いか銀 の方へ
廻まわ して、
いか銀 から、
萩野 はぎの へ廻って来たのである。その上 山城屋では一週間ばかり
逗留とうりゅう している。宿屋だけに手紙まで
泊とめ るつもりなんだろう。開いてみると、非常に長いもんだ。
坊ぼ っちゃんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかり
寝ね ていたものだから、つい
遅おそ くなって済まない。その上 今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。
甥おい に代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ
下し たがきを一返して、それから清書をした。清書をするには二日で済んだが、下た書きをするには四日かかった。読みにくいかも知れないが、これでも
一生懸命いっしょうけんめい にかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。という
冒頭ぼうとう で四尺ばかり何やらかやら
認したた めてある。なるほど読みにくい。字がまずいばかりではない、
大抵たいてい 平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか
句読くとう をつけるのによっぽど骨が折れる。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(62 / 108)
おれ は
焦せ っ
勝か ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五円【約37,500円/2025年】やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりは
真面目まじめ になって、
始はじめ から
終しまい まで読み通した。読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくく、なったから、とうとう
椽鼻えんばな 【軒下のあたり】へ出て
腰こし をかけながら
鄭寧ていねい に拝見した。すると
初秋はつあき の風が
芭蕉ばしょう の葉を動かして、
素肌すはだ に
吹ふ きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、
向むこ うの生垣まで飛んで行きそうだ。
おれ はそんな事には構っていられない。坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ
肝癪かんしゃく が強過ぎてそれが心配になる。――ほかの人に
無暗むやみ に
渾名あだな なんか、つけるのは人に
恨うら まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、
清 だけに手紙で知らせろ。――田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目に
遭あ わないようにしろ。――気候だって東京より不順に極ってるから、
寝冷ねびえ をして風邪を引いてはいけない。坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行って
頼たよ りになるはお金ばかりだから、なるべく
倹約けんやく して、万一の時に
差支さしつか えないようにしなくっちゃいけない。――お
小遣こづかい がなくて困るかも知れないから、
為替かわせ で十円あげる。――
先せん だって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――なるほど女と言うものは細かいものだ。
おれ が椽鼻で
清 の手紙をひらつかせながら、考え
込こ んでいると、しきりの
襖ふすま をあけて、
萩野 のお婆さんが晩めしを持ってきた。まだ見てお
出い でるのかなもし。えっぽど長いお手紙じゃなもし、と言ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして
膳ぜん についた。見ると今夜も
薩摩芋さつまいも の
煮に つけだ。ここのうちは、
いか銀 よりも
鄭寧ていねい で、親切で、しかも上品だが、
惜お しい事に食い物がまずい。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(63 / 108)
昨日も芋、
一昨日おととい も芋で今夜も芋だ。
おれ は芋は大好きだと明言したには相違ないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない。
うらなり 君を笑うどころか、
おれ 自身が遠からぬうちに、芋の
うらなり 先生になっちまう。
清 ならこんな時に、
おれ の好きな
鮪まぐろ のさし身か、
蒲鉾かまぼこ のつけ焼を食わせるんだが、
貧乏びんぼう 士族のけちん
坊ぼう と来ちゃ仕方がない。どう考えても
清 といっしょでなくっちあ
駄目だめ だ。もしあの学校に長くでも居る模様なら、東京から
召よ び
寄よ せてやろう。天麩羅
蕎麦そば を食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。
禅宗ぜんしゅう 坊主だって、これよりは口に
栄耀えよう をさせているだろう。――
おれ は一皿の芋を平げて、机の
抽斗ひきだし から生卵を二つ出して、
茶碗ちゃわん の
縁ふち でたたき割って、ようやく
凌しの いだ。生卵ででも営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出来るものか。
今日は
清 の手紙で湯に行く時間が遅くなった。しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乗って
出懸でか けようと、例の
赤手拭あかてぬぐい をぶら下げて
停車場ていしゃば まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰を懸けて、
敷島しきしま 【タバコ】を吹かしていると、
偶然ぐうぜん にも
うらなり 君がやって来た。
おれ はさっきの話を聞いてから、
うらなり 君がなおさら気の毒になった。
平常ふだん から天地の間に
居候いそうろう をしているように、小さく構えているのがいかにも
憐あわ れに見えたが、今夜は憐れどころの
騒さわ ぎではない。出来るならば月給を倍にして、
遠山 の
お嬢さん と
明日あした から
結婚けっこん さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、や お湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと
威勢いせい よく席を
譲ゆず ると、
うらなり 君は
恐おそ れ入った体裁で、いえ
構かも うておくれなさるな、と
遠慮えんりょ だか何だかやっぱり立ってる。少し待たなくっちゃ出ません、
草臥くたび れますからお懸けなさいとまた勧めてみた。実はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。それではお
邪魔じゃま を
致いた しましょうとようやく
おれ の言う事を聞いてくれた。世の中には
野だ みたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。
山嵐 のように
おれ が居なくっちゃ
日本にっぽん が困るだろうと言うような面を
肩かた の上へ
載の せてる奴もいる。そうかと思うと、
赤シャツ のようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(64 / 108)
教育が生きてフロックコート【フォーマルコート】を着れば
おれ になるんだと言わぬばかりの
狸 たぬき もいる。
皆々みなみな それ相応に威張ってるんだが、この
うらなり 先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように
大人おとな しくしているのは見た事がない。顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて
赤シャツ に
靡なび くなんて、
マドンナ もよっぼど気の知れない おきゃん【おてんば】だ。
赤シャツ が何ダース寄ったって、これほど立派な
旦那様だんなさま が出来るもんか。
「
あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが...... 」「
いえ、別段これという持病もないですが...... 」
「
そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね 」
「
あなたは大分ご丈夫じょうぶ のようですな 」
「
ええ瘠や せても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから 」
うらなり 君は、
おれ の言葉を聞いて にやにやと笑った。
ところへ入口で若々しい女の笑声が
聞きこ えたから、何心なく
振ふ り返ってみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが
並なら んで
切符きっぷ を売る窓の前に立っている。
おれ は美人の形容などが出来る男でないから何にも言えないが 全く美人に相違ない。何だか
水晶すいしょう の
珠たま を
香水こうすい で
暖あっ ためて、
掌てのひら へ
握にぎ ってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。
おれ は、や、来たなと思う
途端とたん に、
うらなり 君の事は
全然すっかり 忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、
うらなり 君が
突然とつぜん おれ の
隣となり から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。
マドンナ じゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を言ってるのか分らない。
停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ
馳か け
込こ んで来たものがある。見れば
赤シャツ だ。何だかべらべら然たる着物へ
縮緬ちりめん の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り
金鎖きんぐさ りをぶらつかしている。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(65 / 108)
あの金鎖りは
贋物にせもの である。
赤シャツ は
誰だれ も知るまいと思って、見せびらかしているが、
おれ はちゃんと知ってる。
赤シャツ は馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符
売下所うりさげじょ の前に話している三人へ
慇懃いんぎん にお
辞儀じぎ をして、何か二こと、三こと、言ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく
猫足ねこあし にあるいて来て、や 君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の
金側きんがわ を出して、二分ほどちがってると言いながら、
おれ の
傍そば へ腰を
卸おろ した。女の方はちっとも見返らないで
杖つえ の上に
顋あご をのせて、正面ばかり
眺なが めている。年寄の婦人は時々
赤シャツ を見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよ
マドンナ に違いない。
やがて、ピューと
汽笛きてき が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ
吾わ れ
勝がち に【我先に】乗り込む。
赤シャツ は いの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、
住田すみた まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういう
おれ でさえ上等を
奮発ふんぱつ して白切符を
握にぎ ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、
大抵たいてい は下等へ乗る。
赤シャツ のあとから
マドンナ とマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。
うらなり 君は活版で
押お したように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、何だか
躊躇ちゅうちょ の
体てい であったが、
おれ の顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。
おれ はこの時 何となく気の毒でたまらなかったから、
うらなり 君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
温泉へ着いて、三階から、
浴衣ゆかた のなりで
湯壺ゆつぼ へ下りてみたら、また
うらなり 君に逢った。
おれ は会議や何かでいざと極まると、
咽喉のど が
塞ふさ がって
饒舌しゃべ れない男だが、
平常ふだん は
随分ずいぶん 弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかで
うらなり 君に話しかけてみた。何だか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を
慰なぐさ めてやるのは、
江戸えど っ子の義務だと思ってる。ところがあいにく
うらなり 君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(66 / 108)
何を言っても、
え とか
いえ とかぎりで、しかもその
え と
いえ が大分
面倒めんどう らしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご
免蒙めんこうむ った。
湯の中では
赤シャツ に逢わなかった。もっとも
風呂ふろ の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。別段不思議にも思わなかった。風呂を出てみるといい月だ。町内の両側に
柳やなぎ が
植うわ って、柳の
枝えだ が
丸ま るい影を往来の中へ
落おと している。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が
妓楼ぎろう 【遊女屋】である。山門のなかに
遊郭ゆうかく があるなんて、前代未聞の現象だ。ちょっとはいってみたいが、また
狸 から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い
暖簾のれん をかけた、小さな
格子窓こうしまど の平屋は
おれ が団子を食って、しくじった所だ。
丸提灯まるぢょうちん に
汁粉しるこ 、お
雑煮ぞうに とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、
軒端のきば に近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
食いたい団子の食えないのは情ない。しかし自分の
許嫁いいなずけ が他人に心を移したのは、なお情ないだろう。
うらなり 君の事を思うと、団子は
愚おろ か、三日ぐらい
断食だんじき しても不平はこぼせない訳だ。本当に人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、
冬瓜とうがん の
水膨みずぶく れのような
古賀 さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。
淡泊たんぱく だと思った
山嵐 は生徒を
扇動せんどう したと言うし。生徒を扇動したのかと思うと、生徒の処分を校長に
逼せま るし。
厭味いやみ で練りかためたような
赤シャツ が存外親切で、
おれ に
余所よそ ながら注意をしてくれるかと思うと、
マドンナ を
胡魔化ごまか したり、胡魔化したのかと思うと、
古賀 の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと言うし。
いか銀 が
難癖なんくせ をつけて、
おれ を追い出すかと思うと、すぐ
野だ 公が
入い れ
替かわ ったり――どう考えてもあてにならない。こんな事を
清 にかいてやったら定めて驚く事だろう。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(67 / 108)
箱根はこね の向うだから
化物ばけもの が寄り合ってるんだと言うかも知れない。
おれ は、
性来しょうらい 構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを
物騒ぶっそう に思い出した。別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を
渡わた って
野芹川のぜりがわ の
堤どて へ出た。川と言うとえらそうだが実は一間【約1.82m】ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁【約109m】ほど下ると
相生村あいおいむら へ出る。村には
観音様かんのんさま がある。
温泉ゆ の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。
太鼓たいこ が鳴るのは遊郭に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに
人影ひとかげ が見え出した。月に
透す かしてみると影は二つある。
温泉ゆ へ来て村へ帰る若い
衆しゅ かも知れない。それにしては
唄うた もうたわない。存外静かだ。
だんだん歩いて行くと、
おれ の方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。
おれ の足音を聞きつけて、十間ぐらいの
距離きょり に
逼せま った時、男がたちまち振り向いた。月は
後うしろ からさしている。その時
おれ は男の様子を見て、はてなと思った。男と女はまた元の通りにあるき出した。
おれ は考えがあるから、急に全速力で追っ
懸か けた。先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。今は話し声も手に取るように聞える。土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。
おれ は苦もなく後ろから追い付いて、男の
袖そで を
擦す り
抜ぬ けざま、二足前へ出した
踵くびす をぐるりと返して男の顔を
覗のぞ き
込こ んだ。月は正面から
おれ の五分
刈がり の頭から
顋あご の
辺あた りまで、
会釈えしゃく もなく
照てら す。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(68 / 108)
男はあっと小声に言ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を
促うな がすが早いか、
温泉ゆ の町の方へ引き返した。
赤シャツ は図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗り
損そく なったのかしら。ところが狭くて困ってるのは、
おれ ばかりではなかった。
八
赤シャツ に勧められて
釣つり に行った帰りから、
山嵐 やまあらし を疑ぐり出した。無い事を種に下宿を出ろと言われた時は、いよいよ
不埒ふらち な
奴やつ だと思った。ところが会議の席では案に
相違そうい して
滔々とうとう と生徒
厳罰論げんばつろん を述べたから、おや変だなと首を
捩ひね った。
萩野 はぎの の
婆ばあ さんから、
山嵐 が、
うらなり 君のために
赤シャツ と談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手を
拍う った。この様子ではわる者は
山嵐 じゃあるまい、
赤シャツ の方が曲ってるんで、
好加減いいかげん な
邪推じゃすい を
実まこと しやかに、しかも
遠廻とおまわ しに、
おれ の頭の中へ
浸し み
込こ ましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、
野芹川のぜりがわ の土手で、
マドンナ を連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来
赤シャツ は
曲者くせもの だと
極き めてしまった。曲者だか何だかよくは
分わか らないが、ともかくも
善い い男じゃない。表と裏とは
違ちが った男だ。人間は竹のように
真直まっすぐ でなくっちゃ
頼たの もしくない。真直なものは
喧嘩けんか をしても心持ちがいい。
赤シャツ のようなやさしいのと、親切なのと、
高尚こうしょう なのと、
琥珀こはく のパイプとを
自慢じまん そうに見せびらかすのは油断が出来ない、めったに喧嘩も出来ないと思った。喧嘩をしても、
回向院えこういん の
相撲すもう 【本場所相撲】のような心持ちのいい喧嘩は出来ないと思った。そうなると一銭五厘の
出入でいり で
控所ひかえじょ 全体を
驚おど ろかした議論の相手の
山嵐 の方がはるかに人間らしい。会議の時に
金壺眼かなつぼまなこ をぐりつかせて、
おれ を
睨にら めた時は
憎にく い奴だと思ったが、あとで考えると、それも
赤シャツ の ねちねちした
猫撫声ねこなでごえ よりはましだ。実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二こと話しかけてみたが、
野郎やろう 返事もしないで、まだ
眼め を
剥むく ってみせた【にらんだ】から、こっちも腹が立ってそのままにしておいた。
それ以来
山嵐 は
おれ と口を利かない。机の上へ返した一銭五厘はいまだに机の上に乗っている。ほこりだらけになって乗っている。
おれ は無論手が出せない、
山嵐 は決して持って帰らない。この一銭五厘が二人の間の
墻壁しょうへき になって、
おれ は話そうと思っても話せない、
山嵐 は
頑がん として
黙だま ってる。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(69 / 108)
おれ と
山嵐 には一銭五厘が
祟たた った。しまいには学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。
山嵐 と
おれ が絶交の姿となったに引き
易か えて、
赤シャツ と
おれ は
依然いぜん として在来の関係を保って、交際をつづけている。野芹川で
逢あ った翌日などは、学校へ出ると第一番に
おれ の
傍そば へ来て、君 今度の下宿はいいですかの またいっしょに
露西亜ロシア 文学を
釣つ りに行こうじゃないかの といろいろな事を話しかけた。
おれ は少々
憎にく らしかったから、
昨夜ゆうべ は二返 逢いましたねと言ったら、ええ
停車場ていしゃば で――君はいつでもあの時分
出掛でか けるのですか、遅いじゃないかと言う。野芹川の土手でもお目に
懸かか りましたねと
喰く らわしてやったら、いいえ
僕ぼく はあっちへは行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。何もそんなに
隠かく さないでもよかろう、現に逢ってるんだ。よく
嘘うそ をつく男だ。これで中学の教頭が勤まるなら、
おれ なんか大学総長がつとまる。
おれ はこの時からいよいよ
赤シャツ を信用しなくなった。信用しない
赤シャツ とは口をきいて、感心している
山嵐 とは話をしない。世の中は
随分妙ずいぶんみょう なものだ。
ある日の事
赤シャツ がちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと言うから、
惜お しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時
頃ごろ 出掛けて行った。
赤シャツ は一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの
昔むかし に引き
払はら って立派な
玄関げんかん を構えている。家賃は九円五
拾銭じっせん 【約71,250円/2025年】だそうだ。
田舎いなか へ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、
おれ も一つ
奮発ふんぱつ して、東京から
清 を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。頼むと言ったら、
赤シャツ の弟が
取次とりつぎ に出て来た。この弟は学校で、
おれ に代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。その
癖くせ 渡わた りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が
悪わ るい。
赤シャツ に逢って用事を聞いてみると、大将 例の琥珀のパイプで、きな
臭くさ い
烟草たばこ をふかしながら、こんな事を言った。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(70 / 108)
「
君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績せいせき がよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼しんらい しているのだから、そのつもりで勉強していただきたい 」
「
へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが―― 」
「
今のくらいで充分じゅうぶん です。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです 」
「
下宿の世話なんかするものあ剣呑けんのん 【危険】だという事ですか 」
「
そう露骨ろこつ に言うと、意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にもよく通じている事と思うから。そこで君が今のように出精しゅっせい して下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合つごう さえつけば、待遇たいぐう の事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね 」
「
へえ、俸給ほうきゅう ですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね 」
「
それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみないと無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通ゆうずう が出来るかも知れないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね 」
「
どうも難有ありがと う。だれが転任するんですか 」
「
もう発表になるから話しても差し支つか えないでしょう。実は古賀 君です 」
「
古賀 さんは、だってここの人じゃありませんか」
「
ここの地じ の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です 」
「
どこへ行ゆ くんです 」
「
日向ひゅうが の延岡のべおか で――土地が土地だから一級俸上あが って行く事になりました」
「
誰だれ か代りが来るんですか」
「
代りも大抵たいてい 極まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです 」
「
はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません 」
「
とも角も僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追っては君にもっと働いて頂いた だかなくってはならんようになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覚悟かくご をしてやってもらいたいですね 」
「
今より時間でも増すんですか 」
「
いいえ、時間は今より減るかも知れませんが―― 」
「
時間が減って、もっと働くんですか、妙だな 」
「
ちょっと聞くと妙だが、――判然とは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです 」
おれ には一向分らない。今より重大な責任と言えば、数学の主任だろうが、主任は
山嵐 だから、やっこさんなかなか辞職する
気遣きづか いはない。それに、生徒の人望があるから転任や
免職めんしょく は学校の得策であるまい。
赤シャツ の談話はいつでも要領を得ない。要領を得なくっても用事はこれで済んだ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(71 / 108)
それから少し雑談をしているうちに、
うらなり 君の送別会をやる事や、ついては
おれ が酒を飲むかと言う問や、
うらなり 先生は君子で愛すべき人だと言う事や――
赤シャツ はいろいろ弁じた。しまいに話をかえて君 俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。
発句ほっく は
芭蕉ばしょう か
髪結床かみいどこ 【床屋】の親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに
釣瓶つるべ をとられてたまるものか【朝顔やつるべ取られてもらひ水(加賀千代女)をもじった】。
帰ってうんと考え込んだ。世間には随分気の知れない男が居る。家屋敷はもちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと言って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。それも花の都の電車が
通かよ ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。
おれ は船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。延岡と言えば山の中も山の中も大変な山の中だ。
赤シャツ の言うところによると船から上がって、
一日いちんち 馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた
一日いちんち 車へ乗らなくっては着けないそうだ。名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。
猿さる と人とが半々に住んでるような気がする。いかに聖人の
うらなり 君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という
物数奇ものずき だ。
ところへあいかわらず
婆ばあ さんが
夕食ゆうめし を運んで出る。今日もまた
芋いも ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお
豆腐とうふ ぞなもしと言った。どっちにしたって似たものだ。
「
お婆さん古賀 さんは日向へ行くそうですね 」
「
ほん当にお気の毒じゃな、もし 」
「
お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね 」
「
好んで行くて、誰がぞなもし 」
「
誰がぞなもしって、当人がさ。古賀 先生が物数奇ものずき に行くんじゃありませんか 」
「
そりゃあなた、大違いの勘五郎かんごろう ぞなもし 」
「
勘五郎かね。だって今赤シャツ がそう言いましたぜ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(72 / 108)
それが勘五郎なら赤シャツ は嘘つきの法螺右衛門ほらえもん だ」
「
教頭さんが、そうお言いるのはもっともじゃが、古賀 さんのお往い きともないのも もっともぞなもし 」
「
そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい 」
「
今朝古賀 のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし 」
「
どんな訳をお話したんです 」
「
あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮くら し向むき が豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた 」
「
なるほど 」
「
校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお言いたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰さた があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀 さんにお言いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと言われたげな。―― 」
「
じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか 」
「
さよよ。古賀 さんは よそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居お りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀 さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお言いたげな 」
「
へん 人を馬鹿ばか にしてら、面白おもしろ くもない。じゃ古賀 さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木とうへんぼく はまずないからね 」
「
唐変木て、先生なんぞなもし 」
「
何でもいいでさあ、――全く赤シャツ の作略さりゃく だね。よくない仕打しうち だ。まるで欺撃だましうち ですね。それでおれ の月給を上げるなんて、不都合ふつごう な事があるものか。上げてやるったって、誰が上がってやるものか 」
「
先生は月給がお上りるのかなもし 」
「
上げてやるって言うから、断こと わろうと思うんです 」
「
何で、お断わりるのぞなもし 」
「
何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツ は馬鹿ですぜ。卑怯ひきょう でさあ 」
「
卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人おとな しく頂いておく方が得ぞなもし。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(73 / 108)
若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢がまん じゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔くや むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツ さんが月給をあげてやろとお言いたら、難有ありがと うと受けておおきなさいや」
「
年寄としより の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれ の月給は上がろうと下がろうとおれ の月給だ」
婆さんはだまって引き込んだ。
爺じい さんは
呑気のんき な声を出して
謡うたい をうたってる。謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。あんな者を毎晩
飽あ きずに
唸うな る爺さんの気が知れない。
おれ は謡どころの
騒さわ ぎじゃない。月給を上げてやろうと言うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させて その男の月給の上前を
跳は ねるなんて不人情な事が出来るものか。当人がもとの通りでいいと言うのに
延岡 下くんだ りまで落ちさせるとは一体どう言う
了見りょうけん だろう。
太宰権帥だざいごんのそつ 【菅原道真】でさえ
博多はかた 近辺で落ちついたものだ。
河合又五郎 かあいまたごろう 【幕末・明治の武士】だって
相良さがら 【熊本県や鹿児島県にある地名】でとまってるじゃないか。とにかく
赤シャツ の所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。
小倉こくら の
袴はかま をつけてまた出掛けた。大きな玄関へ
突つ っ立って頼むと言うと、また例の弟が取次に出て来た。
おれ の顔を見てまた来たかという
眼付めつき をした。用があれば二度だって三度だって来る。よる夜なかだって
叩たた き
起おこ さないとは限らない。教頭の所へご
機嫌伺きげんうかが いにくるような
おれ と
見損みそくな ってるか。これでも月給が入らないから返しに
来きた んだ。すると弟が今来客中だと言うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと言ったら
奥おく へ引き込んだ。足元を見ると、
畳付たたみつ きの薄っぺらな、のめりの
駒下駄こまげた がある。奥でもう
万歳ばんざい ですよと言う声が
聞きこ える。お客とは
野だ だなと気がついた。
野だ でなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を
穿は くものはない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(74 / 108)
しばらくすると、
赤シャツ がランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない
吉川 君だ、と言うから、いえここでたくさんです。ちょっと話せばいいんです、と言って、
赤シャツ の顔を見ると金時のようだ。
野だ 公と
一杯いっぱい 飲んでると見える。
「
さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです 」
赤シャツ はランプを前へ出して、奥の方から
おれ の顔を
眺なが めたが、とっさの場合返事をしかねて
茫然ぼうぜん としている。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを
不審ふしん に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、
呆あき れ返ったのか、または
双方合併そうほうがっぺい したのか、妙な口をして突っ立ったままである。
「
あの時承知したのは、古賀 君が自分の希望で転任するという話でしたからで...... 」
「
古賀 君は全く自分の希望で半ば転任するんです」
「
そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです 」
「
君は古賀 君から、そう聞いたのですか 」
「
そりゃ当人から、聞いたんじゃありません 」
「
じゃ誰からお聞きです 」
「
僕の下宿の婆さんが、古賀 さんのおっ母か さんから聞いたのを今日僕に話したのです 」
「
じゃ、下宿の婆さんがそう言ったのですね 」
「
まあそうです 」
「
それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの言う事は信ずるが、教頭の言う事は信じないと言うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支さしつか えないでしょうか 」
おれ はちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。妙な所へこだわって、ねちねち
押お し寄せてくる。
おれ はよく
親父おやじ から貴様はそそっかしくて
駄目だめ だ駄目だと言われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実は
うらなり 君にも うらなりのおっ母さんにも逢って
詳くわ しい事情は聞いてみなかったのだ。だからこう文学士流に
斬き り付けられると、ちょっと受け留めにくい。
正面からは受け留めにくいが、
おれ はもう
赤シャツ に対して不信任を心の
中うち で申し渡してしまった。下宿の婆さんも けちん
坊ぼう の欲張り屋に相違ないが、嘘は
吐つ かない女だ、
赤シャツ のように裏表はない。
おれ は仕方がないから、こう答えた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(75 / 108)
「
あなたの言う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙めんこうむ ります 」
「
それはますます可笑おか しい。今 君がわざわざお出いで になったのは増俸を受けるには忍しの びない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね 」
「
解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ 」
「
そんなに否いや なら強いてとまでは言いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変ひょうへん しちゃ、将来君の信用にかかわる 」
「
かかわっても構わないです 」
「
そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩譲ゆず って、下宿の主人が...... 」
「
主人じゃない、婆さんです 」
「
どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀 君の所得を削けず って得たものではないでしょう。古賀 君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀 君よりも多少低給で来てくれる。その剰余じょうよ を君に廻ま わすと言うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀 君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束やくそく で安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合つごう のいい事はないと思うですがね。いやなら否いや でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか 」
おれ の頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう
巧妙こうみょう な弁舌を
揮ふる えば、おやそうかな、それじゃ、
おれ が間違ってたと
恐おそ れ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から
赤シャツ は何だか虫が好かなかった。
途中とちゅう で親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど
厭いや になっている。だから先がどれほどうまく論理的に弁論を
逞たくまし くしようとも、堂々たる教頭流に
おれ を遣り込めようとも、そんな事は構わない。議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(76 / 108)
表向きは
赤シャツ の方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで
惚ほ れさせる訳には行かない。金や
威力いりょく や
理屈りくつ で人間の心が買える者なら、高利貸でも
巡査じゅんさ でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法で
おれ の心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。「
あなたの言う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じ事です。さようなら 」と言いすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかっている。
九
うらなり 君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、
山嵐 やまあらし が
突然とつぜん 、君 先だっては
いか銀 が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと
頼たの んだから、
真面目まじめ に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつは
悪わる い
奴やつ で、よく
偽筆ぎひつ 【ニセモノ】へ
贋落款にせらっかん 【署名や印】などを
押お して売りつけるそうだから、全く君の事も
出鱈目でたらめ に
違ちが いない。君に
懸物かけもの や
骨董こっとう を売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないで
儲もう けがないものだから、あんな作りごとをこしらえて
胡魔化ごまか したのだ。僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した
勘弁かんべん したまえと長々しい謝罪をした。
おれ は何とも言わずに、
山嵐 の机の上にあった、一銭五
厘りん をとって、
おれ の
蝦蟇口がまぐち のなかへ入れた。
山嵐 は 君 それを引き
込こ めるのかと
不審ふしん そうに聞くから、うん
おれ は君に
奢おご られるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き込ますんだと説明した。
山嵐 は大きな声をしてアハハハと笑いながら、そんなら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。実は取ろう取ろうと思ってたが、何だか
妙みょう だからそのままにしておいた。近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になるくらいいやだったと言ったら、君はよっぽど負け
惜お しみの強い男だと言うから、君はよっぽど
剛情張ごうじょうっぱ りだと答えてやった。それから二人の間にこんな問答が
起おこ った。「
君は一体どこの産だ 」
「
おれ は江戸えど っ子だ」
「
うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った 」
「
きみはどこだ 」
「
僕は会津あいづ だ 」
「
会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(77 / 108)
「
行くとも、君は? 」
「
おれ は無論行くんだ。古賀 さんが立つ時は、浜はま まで見送りに行こうと思ってるくらいだ」
「
送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ 」
「
勝手に飲むがいい。おれ は肴さかな を食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿ばか だ 」
「
君はすぐ喧嘩けんか を吹ふ き懸か ける男だ。なるほど江戸っ子の軽跳けいちょう な風を、よく、あらわしてる 」
「
何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれ のうちへお寄り、話はな しがあるから 」
山嵐 は
約束やくそく 通り
おれ の下宿へ寄った。
おれ はこの間から、
うらなり 君の顔を見る度に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だか
憐あわ れっぽくって、出来る事なら、
おれ が代りに行ってやりたい様な気がしだした。それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行を
盛さかん にしてやりたいと思うのだが、
おれ のべらんめえ調子じゃ、
到底とうてい 物にならないから、大きな声を出す
山嵐 を
雇やと って、一番
赤シャツ の
荒肝あらぎも を
挫ひし いでやろうと考え付いたから、わざわざ
山嵐 を呼んだのである。
おれ はまず
冒頭ぼうとう として
マドンナ 事件から説き出したが、
山嵐 は無論
マドンナ 事件は
おれ より
詳くわ しく知っている。
おれ が
野芹川のぜりがわ の土手の話をして、あれは
馬鹿野郎ばかやろう だと言ったら、
山嵐 は君はだれを
捕つら まえても馬鹿
呼よば わりをする。今日学校で自分の事を馬鹿と言ったじゃないか。自分が馬鹿なら、
赤シャツ は馬鹿じゃない。自分は
赤シャツ の同類じゃないと主張した。それじゃ
赤シャツ は
腑抜ふぬ けの
呆助ほうすけ だと言ったら、そうかもしれないと
山嵐 は大いに賛成した。
山嵐 は強い事は強いが、こんな言葉になると、
おれ より
遥はる かに字を知っていない。会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
それから増給事件と将来重く登用すると
赤シャツ が言った話をしたら
山嵐 はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を
免職めんしょく する考えだなと言った。免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、
誰だれ がなるものか、自分が免職になるなら、
赤シャツ もいっしょに免職させてやると大いに
威張いば った。どうしていっしょに免職させる気かと押し返して
尋たず ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。
山嵐 は強そうだが、
知恵ちえ はあまりなさそうだ。
おれ が増給を
断こと わったと話したら、大将 大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいと
賞ほ めてくれた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(78 / 108)
うらなり が、そんなに
厭いや がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、
うらなり から話を聞いた時は、
既すで にきまってしまって、校長へ二度、
赤シャツ へ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。それについても
古賀 があまり好人物過ぎるから困る。
赤シャツ から話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと
逃に げればいいのに、あの弁舌に胡魔化されて、
即席そくせき に
許諾きょだく したものだから、あとからおっ
母か さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
今度の事件は全く
赤シャツ が、
うらなり を遠ざけて、
マドンナ を手に入れる策略なんだろうと
おれ が言ったら、無論そうに違いない。あいつは
大人おとな しい顔をして、悪事を働いて、人が何か言うと、ちゃんと
逃道にげみち を
拵こしら えて待ってるんだから、よっぽど
奸物かんぶつ 【悪人】だ。あんな奴にかかっては
鉄拳制裁てっけんせいさい でなくっちゃ利かないと、
瘤こぶ だらけの
腕うで をまくってみせた。
おれ はついでだから、君の腕は強そうだな
柔術じゅうじゅつ でもやるかと聞いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと
攫つか んでみろと言うから、指の先で
揉も んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
おれ はあまり感心したから、君 そのくらいの腕なら、
赤シャツ の五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと言いながら、曲げた腕を
伸の ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで
回転かいてん する。すこぶる
愉快ゆかい だ。
山嵐 の証明する所によると、かんじん
綯よ りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。かんじんよりなら、
おれ にも出来そうだと言ったら、出来るものか、出来るならやってみろと来た。切れないと外聞がわるいから、
おれ は見合せた。
君 どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、
赤シャツ と
野だ を
撲なぐ ってやらないかと面白半分に勧めてみたら、
山嵐 はそうだなと考えていたが、今夜は まあよそうと言った。なぜと聞くと、今夜は
古賀 に気の毒だから――それにどうせ撲るくらいなら、あいつらの悪るい所を見届けて現場で撲らなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうな事を
附加つけた した。
山嵐 でも
おれ よりは考えがあると見える。
じゃ演説をして
古賀 君を大いにほめてやれ、
おれ がすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(79 / 108)
そうして、きまった所へ出ると、急に
溜飲りゅういん が起って
咽喉のど の所へ、大きな
丸たま が上がって来て言葉が出ないから、君に
譲ゆず るからと言ったら、妙な病気だな、じゃ君は人中じゃ口は利けないんだね、困るだろう、と聞くから、何そんなに困りゃしないと答えておいた。
そうこうするうち時間が来たから、
山嵐 と一所に会場へ行く。会場は
花晨亭かしんてい といって、
当地ここ で第一等の料理屋だそうだが、
おれ は一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの
屋敷やしき を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど
見懸みかけ からして
厳いか めしい構えだ。家老の屋敷が料理屋になるのは、
陣羽織じんばおり を
縫ぬ い直して、
胴着どうぎ にする様なものだ。
二人が着いた
頃ころ には、
人数にんず ももう
大概たいがい 揃そろ って、五十
畳じょう の広間に二つ三つ人間の
塊かたまり が出来ている。五十畳だけに
床とこ 【床の間】は素敵に大きい。
おれ が山城屋で
占領せんりょう した十五畳敷の床とは比較にならない。尺を取ってみたら二間【3.6m】あった。右の方に、赤い模様のある瀬戸物の
瓶かめ を
据す えて、その中に
松まつ の大きな
枝えだ が
挿さ してある。松の枝を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月立っても散る気遣いがないから、銭が懸らなくって、よかろう。あの瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物じゃありません、
伊万里いまり ですと言った。伊万里だって瀬戸物じゃないかと、言ったら、博物はえへへへへと笑っていた。あとで聞いてみたら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸と言うのだそうだ。
おれ は江戸っ子だから、
陶器とうき の事を瀬戸物というのかと思っていた。床の真中に大きな懸物があって、
おれ の顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。どうも
下手へた なものだ。あんまり
不味まず いから、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを
麗々れいれい と懸けておくんですと
尋たず ねたところ、先生はあれは
海屋かいおく といって有名な書家のかいた者だと教えてくれた。海屋だか何だか、
おれ は今だに下手だと思っている。
やがて書記の
川村 がどうかお着席をと言うから、柱があって
靠よ りかかるのに都合のいい所へ
坐すわ った。海屋の懸物の前に
狸 たぬき が
羽織はおり 、
袴はかま で着席すると、左に
赤シャツ が同じく羽織袴で
陣取じんど った。右の方は主人公だというので
うらなり 先生、これも日本服で
控ひか えている。
おれ は洋服だから、かしこまるのが
窮屈きゅうくつ だったから、すぐ
胡坐あぐら をかいた。
隣とな りの
体操たいそう 教師は黒
ずぼん で、ちゃんとかしこまっている。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(80 / 108)
体操の教師だけにいやに修行が積んでいる。やがてお
膳ぜん が出る。
徳利とくり が
並なら ぶ。幹事が立って、
一言いちごん 開会の辞を述べる。それから
狸 が立つ。
赤シャツ が
起た つ。ことごとく送別の辞を述べたが、三人共申し合せたように
うらなり 君の、良教師で好人物な事を
吹聴ふいちょう して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだから
致いた し
方かた がないという意味を述べた。こんな
嘘うそ をついて送別会を開いて、それでちっとも
恥はず かしいとも思っていない。ことに
赤シャツ に至って三人のうちで一番
うらなり 君をほめた。この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで言った。しかもそのいい方がいかにも、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるに
極きま ってる。
マドンナ も大方この手で
引掛ひっか けたんだろう。
赤シャツ が送別の辞を述べ立てている最中、
向側むかいがわ に坐っていた
山嵐 が
おれ の顔を見てちょっと
稲光いなびかり をさした。
おれ は返電として、人指し指でべっかんこう【あかんべ】をして見せた。
赤シャツ が座に復するのを待ちかねて、
山嵐 がぬっと立ち上がったから、
おれ は
嬉うれ しかったので、思わず手をぱちぱちと
拍う った。すると
狸 を始め一同がことごとく
おれ の方を見たには少々困った。
山嵐 は何を言うかと思うとただ今校長始めことに教頭は
古賀 君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で
古賀 君が
一日いちじつ も早く当地を去られるのを希望しております。延岡は
僻遠へきえん の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。が、聞くところによれば風俗のすこぶる
淳朴じゅんぼく な所で、職員生徒ことごとく
上代樸直じょうだいぼくちょく の気風を帯びているそうである。心にもないお世辞を
振ふ り
蒔ま いたり、美しい顔をして君子を
陥おとしい れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき
温良篤厚おんりょうとっこう 【心温かく、誠実】の士は必ずその地方一般の
歓迎かんげい を受けられるに
相違そうい ない。
吾輩わがはい は大いに
古賀 君のためにこの転任を祝するのである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(81 / 108)
終りに臨んで君が延岡に
赴任ふにん されたら、その地の
淑女しゅくじょ にして、君子の
好逑こうきゅう となるべき資格あるものを
択えら んで
一日いちじつ も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお
転婆てんば を事実の上において
慚死ざんし 【恥ずかしさのあまり死にたくなる】せしめん事を希望します。えへんえへんと二つばかり大きな
咳払せきばら いをして席に着いた。
おれ は今度も手を
叩たた こうと思ったが、またみんなが
おれ の
面かお を見るといやだから、やめにしておいた。
山嵐 が坐ると今度は
うらなり 先生が起った。先生はご
鄭寧ていねい に、自席から、座敷の
端はし の末座まで行って、
慇懃いんぎん に一同に
挨拶あいさつ をした上、今般は一身上の都合で九州へ参る事になりましたについて、諸先生方が小生のためにこの
盛大せいだい なる送別会をお開き下さったのは、まことに
感銘かんめい の至りに
堪た えぬ次第で――ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞を
頂戴ちょうだい して、大いに
難有ありがた く
服膺ふくよう する【心にとどめる】訳であります。私はこれから遠方へ参りますが、なにとぞ従前の通りお見捨てなくご
愛顧あいこ のほどを願います。と へえつく張って席に
戻もど った。
うらなり 君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。自分がこんなに馬鹿にされている校長や、教頭に
恭うやうや しくお礼を言っている。それも義理
一遍いっぺん の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから言うと、
心しん から感謝しているらしい。こんな聖人に真面目にお礼を言われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが
狸 も
赤シャツ も真面目に
謹聴きんちょう しているばかりだ。
挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。
おれ も真似をして
汁しる を飲んでみたがまずいもんだ。
口取くちとり 【祝い事の席で最初に供される料理】に
蒲鉾かまぼこ はついてるが、どす黒くて竹輪の
出来損できそこ ないである。
刺身さしみ も並んでるが、厚くって
鮪まぐろ の切り身を生で食うと同じ事だ。それでも
隣とな り近所の連中はむしゃむしゃ
旨うま そうに食っている。大方江戸前の料理を食った事がないんだろう。
そのうち
燗徳利かんどくり が
頻繁ひんぱん に往来し始めたら、四方が急に
賑にぎ やかになった。
野だ 公は
恭うやうや しく校長の前へ出て
盃さかずき を頂いてる。いやな奴だ。
うらなり 君は順々に
献酬けんしゅう をして、
一巡周いちじゅんめぐ るつもりとみえる。はなはだご苦労である。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(82 / 108)
うらなり 君が
おれ の前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、
おれ も窮屈にズボンのままかしこまって、一
盃ぱい 差し上げた。せっかく参って、すぐお別れになるのは残念ですね。ご
出立しゅったつ はいつです、是非浜までお見送りをしましょうと言ったら、
うらなり 君はいえご用
多おお のところ決してそれには
及およ びませんと答えた。
うらなり 君が何と言ったって、
おれ は学校を休んで送る気でいる。
それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。まあ一
杯ぱい 、おや僕が飲めと言うのに......などと
呂律ろれつ の
巡まわ りかねるのも
一人二人ひとりふたり 出来て来た。少々
退屈たいくつ したから便所へ行って、昔風な庭を星明りにすかして
眺なが めていると
山嵐 が来た。どうださっきの演説はうまかったろう。と大分得意である。大賛成だが一ヶ所気に入らないと
抗議こうぎ を申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。
「
美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居お らないから......と君は言ったろう 」
「
うん 」
「
ハイカラ野郎だけでは不足だよ 」
「
じゃ何と言うんだ 」
「
ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被ねこっかぶ りの、香具師やし の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも言うがいい 」
「
おれ には、そう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。それで演舌えんぜつ が出来ないのは不思議だ」
「
なにこれは喧嘩けんか のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演舌となっちゃ、こうは出ない 」
「
そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ 」
「
何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の...... 」と言いかけていると、
椽側えんがわ をどたばた言わして、二人ばかり、よろよろしながら
馳か け出して来た。
「
両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決して逃にが さない、さあのみたまえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ 」
と
おれ と
山嵐 をぐいぐい引っ張って行く。実はこの両人共便所に来たのだが、
酔よ ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、
おれ 等を引っ張るのだろう。酔っ払いは目の
中あた る所へ用事を
拵こしら えて、前の事はすぐ忘れてしまうんだろう。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(83 / 108)
「
さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと言うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん 」
と逃げもせぬ、
おれ を
壁際かべぎわ へ
圧お し付けた。諸方を見回してみると、膳の上に満足な肴の乗っているのは一つもない。自分の分を
奇麗きれい に食い
尽つく して、五六間先へ
遠征えんせい に出た奴もいる。校長はいつ帰ったか姿が見えない。
ところへお座敷はこちら?と芸者が三四人はいって来た。
おれ も少し
驚おど ろいたが、壁際へ圧し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。すると今まで
床柱とこばしら へもたれて例の
琥珀こはく のパイプを
自慢じまん そうに
啣くわ えていた、
赤シャツ が急に
起た って、座敷を出にかかった。
向むこ うからはいって来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠くで
聞きこ えなかったが、おや今晩はぐらい言ったらしい。
赤シャツ は知らん顔をして出て行ったぎり、顔を出さなかった。大方校長のあとを
追懸おいか けて帰ったんだろう。
芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が
鬨とき の声を
揚あ げて
歓迎かんげい したのかと思うくらい、
騒々そうぞう しい。そうしてある奴は なんこを
攫つか む【得をする】。その声の大きな事、まるで
居合抜いあいぬき の
稽古けいこ のようだ。こっちでは
拳けん を打ってる。よっ、はっ、と
夢中むちゅう で両手を振るところは、ダーク一座の
操人形あやつりにんぎょう よりよっぽど
上手じょうず だ。向うの
隅すみ ではおいお
酌しゃく だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。どうもやかましくて騒々しくってたまらない。そのうちで
手持無沙汰てもちぶさた に下を向いて考え込んでるのは
うらなり 君ばかりである。自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任を
惜おし んでくれるんじゃない。みんなが酒を
呑の んで遊ぶためだ。自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。こんな送別会なら、開いてもらわない方がよっぽどましだ。
しばらくしたら、めいめい
胴間声どうまごえ 【調子のはずれた(男の)太い声】を出して何か
唄うた い始めた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(84 / 108)
おれ の前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線を
抱かか えたから、
おれ は唄わない、貴様唄ってみろと言ったら、
金かね や
太鼓たいこ でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。叩いて廻って
逢あ われるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと言った。おおしんどなら、もっと楽なものをやればいいのに。
すると、いつの間にか
傍そば へ来て坐った、
野だ が、
鈴ちゃん 逢いたい人に逢ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さま みたようでげす と相変らず
噺はな し家みたような言葉使いをする。知りまへんと芸者はつんと済ました。
野だ は
頓着とんじゃく なく、たまたま逢いは逢いながら......と、いやな声を出して
義太夫ぎだゆう の
真似まね をやる。おきなはれやと芸者は平手で
野だ の
膝ひざ を叩いたら
野だ は
恐悦きょうえつ して笑ってる。この芸者は
赤シャツ に挨拶をした奴だ。芸者に叩かれて笑うなんて、
野だ もおめでたい者だ。
鈴ちゃん 僕が
紀伊き の国を
踴おど るから、一つ
弾ひ いて頂戴と言い出した。
野だ はこの上まだ
踴おど る気でいる。
向うの方で漢学のお
爺じい さんが歯のない口を
歪ゆが めて、そりゃ聞えません
伝兵衛でんべい さん、お前とわたしのその中は......とまでは無事に
済すま したが、それから? と芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物を
捕つら まえて
近頃ちかごろ こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや――
花月巻かげつまき 、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、
半可はんか の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。
山嵐 は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、
おれ が
剣舞けんぶ をやるから、三味線を弾けと号令を下した。芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。
山嵐 は委細構わず、ステッキを持って来て、
踏破ふみやぶる 千山万岳烟せんざんばんがくの 烟けむり と
真中まんなか へ出て独りで
隠かく し芸を演じている。ところへ
野だ がすでに
紀伊き の国を済まして、かっぽれを済まして、
棚たな の
達磨だるま さんを済して
丸裸まるはだか の
越中褌えっちゅうふんどし 一つになって、
棕梠箒しゅろぼうき を小脇に
抱か い込んで、日清談判
破裂はれつ して......と座敷中練りあるき出した。まるで
気違きちが いだ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(85 / 108)
おれ はさっきから苦しそうに袴も
脱ぬ がず控えている
うらなり 君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の
裸踴はだかおどり まで羽織袴で
我慢がまん してみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、
古賀 さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。すると
うらなり 君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご
遠慮えんりょ なくと動く景色もない。なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様をご覧なさい。
気狂会きちがいかい です。さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、
野だ が箒を振り振り進行して来て、や ご主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を
塞ふさ いだ。
おれ はさっきから
肝癪かんしゃく が起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃん【=手打ち:清の味方】だろうと、いきなり
拳骨げんこつ で、
野だ の頭をぽかりと
喰く わしてやった。
野だ は二三秒の間毒気を抜かれた
体てい で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。お
撲ぶ ちになったのは情ない。この
吉川 をご
打擲ちょうちゃく とは恐れ入った。いよいよもって日清談判だ。とわからぬ事をならべているところへ、うしろから
山嵐 が何か
騒動そうどう が始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり
頸筋くびすじ をうんと
攫つか んで引き
戻もど した。日清......いたい。いたい。どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横に
捩ねじ ったら、すとんと
倒たお れた。あとはどうなったか知らない。
途中とちゅう で
うらなり 君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。
十
祝勝会で学校はお休みだ。
練兵場れんぺいば で式があるというので、
狸 たぬき は生徒を引率して参列しなくてはならない。
おれ も職員の
一人ひとり として いっしょにくっついて行くんだ。町へ出ると日の丸だらけで、まぼしいくらいである。学校の生徒は八百人もあるのだから、体操の教師が
隊伍たいご を整えて、一組一組の間を少しずつ明けて、それへ職員が一人か
二人ふたり ずつ
監督かんとく として割り
込こ む
仕掛しか けである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(86 / 108)
仕掛しかけ だけはすこぶる
巧妙こうみょう なものだが、実際はすこぶる不手際である。生徒は
小供こども の上に、生意気で、規律を破らなくっては生徒の体面にかかわると思ってる
奴等やつら だから、職員が
幾人いくたり ついて行ったって何の役に立つもんか。命令も下さないのに勝手な軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳もないのに
鬨とき の声を
揚あ げたり、まるで
浪人ろうにん が町内をねりあるいてるようなものだ。軍歌も鬨の声も揚げない時はがやがや何か
喋舌しゃべ ってる。喋舌らないでも歩けそうなもんだが、日本人はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言を言ったって聞きっこない。喋舌るのもただ喋舌るのではない、教師のわる口を喋舌るんだから、下等だ。
おれ は宿直事件で生徒を謝罪さして、まあこれならよかろうと思っていた。ところが実際は
大違おおちが いである。下宿の
婆ばあ さんの言葉を借りて言えば、正に大違いの
勘五郎かんごろう である。生徒があやまったのは
心しん から
後悔こうかい してあやまったのではない。ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。商人が頭ばかり下げて、
狡ずる い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものでない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものから成立しているかも知れない。人があやまったり
詫わ びたりするのを、
真面目まじめ に受けて勘弁するのは正直過ぎる
馬鹿ばか と言うんだろう。あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば
差さ し
支つか えない。もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで
叩たた きつけなくてはいけない。
おれ が組と組の間にはいって行くと、
天麩羅てんぷら だの、
団子だんご だの、と言う声が絶えずする。しかも大勢だから、
誰だれ が言うのだか分らない。よし分っても
おれ の事を天麩羅と言ったんじゃありません、団子と申したのじゃありません、それは先生が
神経衰弱しんけいすいじゃく だから、ひがんで、そう聞くんだぐらい言うに
極き まってる。こんな
卑劣ひれつ な根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら言って聞かしたって、教えてやったって、
到底とうてい 直りっこない。こんな土地に一年も居ると、潔白な
おれ も、この
真似まね をしなければならなく、なるかも知れない。
向むこ うでうまく言い
抜ぬ けられるような手段で、
おれ の顔を
汚よご すのを
抛ほう っておく、
樗蒲一ちょぼいち 【でたらめ】はない。向こうが人なら
おれ も人だ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(87 / 108)
生徒だって、子供だって、ずう体は
おれ より大きいや。だから
刑罰けいばつ として何か返報をしてやらなくっては義理がわるい。ところがこっちから返報をする時分に
尋常じんじょう の手段で行くと、向うから
逆捩さかねじ 【逆襲】を食わして来る。貴様がわるいからだと言うと、初手から
逃に げ
路みち が作ってある事だから
滔々とうとう と【よどみなく】弁じ立てる。弁じ立てておいて、自分の方を表向きだけ立派にしてそれからこっちの非を
攻撃こうげき する。もともと返報にした事だから、こちらの弁護は向うの非が挙がらない上は弁護にならない。つまりは向うから手を出しておいて、世間体はこっちが仕掛けた
喧嘩けんか のように、
見傚みな されてしまう。大変な不利益だ。それなら向うのやるなり、
愚迂多良童子ぐうたらどうじ 【なまけもの】を極め込んでいれば、向うはますます増長するばかり、大きく言えば世の中のためにならない。そこで仕方がないから、こっちも向うの筆法を用いて
捕つら まえられないで、手の付けようのない返報をしなくてはならなくなる。そうなっては
江戸えど っ子も
駄目だめ だ。駄目だが一年もこうやられる以上は、
おれ も人間だから駄目でも何でも そうならなくっちゃ始末がつかない。どうしても早く東京へ帰って
清 きよ といっしょになるに限る。こんな
田舎いなか に居るのは
堕落だらく しに来ているようなものだ。新聞配達をしたって、ここまで堕落するよりはましだ。
こう考えて、いやいや、
附つ いてくると、何だか
先鋒せんぽう が急にがやがや
騒さわ ぎ出した。同時に列はぴたりと留まる。変だから、列を右へはずして、向うを見ると、
大手町おおてまち を
突つ き当って
薬師町やくしまち へ曲がる角の所で、行き
詰づま ったぎり、
押お し返したり、押し返されたりして
揉も み合っている。前方から静かに静かにと声を
涸か らして来た体操教師に何ですと聞くと、曲り角で中学校と
師範しはん 学校が
衝突しょうとつ したんだと言う。
中学と師範とはどこの県下でも犬と
猿さる のように仲がわるいそうだ。なぜだかわからないが、まるで気風が合わない。何かあると喧嘩をする。大方
狭せま い田舎で
退屈たいくつ だから、
暇潰ひまつぶ しにやる仕事なんだろう。
おれ は喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分に
馳か け出して行った。すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税の
癖くせ に、引き込めと、
怒鳴どな ってる。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(88 / 108)
後ろからは押せ押せと大きな声を出す。
おれ は
邪魔じゃま になる生徒の間をくぐり抜けて、曲がり角へもう少しで出ようとした時に、前へ! と言う高く
鋭するど い号令が
聞きこ えたと思ったら師範学校の方は
粛粛しゅくしゅく として行進を始めた。先を争った衝突は、折合がついたには
相違そうい ないが、つまり中学校が一歩を
譲ゆず ったのである。資格から言うと師範学校の方が上だそうだ。
祝勝の式はすこぶる簡単なものであった。旅団長が祝詞を読む、知事が祝詞を読む、参列者が
万歳ばんざい を唱える。それでおしまいだ。余興は午後にあると言う話だから、ひとまず下宿へ帰って、こないだじゅうから、気に
掛かか っていた、
清 への返事をかきかけた。今度はもっと
詳くわ しく書いてくれとの注文だから、なるべく
念入ねんいり に
認したた めなくっちゃならない。しかしいざとなって、
半切はんきれ 【紙】を取り上げると、書く事はたくさんあるが、何から書き出していいか、わからない。あれにしようか、あれは
面倒臭めんどうくさ い。これにしようか、これはつまらない。何か、すらすらと出て、骨が折れなくって、そうして
清 が面白がるようなものはないかしらん、と考えてみると、そんな注文通りの事件は一つもなさそうだ。
おれ は
墨すみ を
磨す って、筆をしめして、巻紙を
睨にら めて、――巻紙を睨めて、筆をしめして、墨を磨って――同じ所作を同じように何返も
繰く り返したあと、
おれ には、とても手紙は書けるものではないと、
諦あきら めて
硯すずり の
蓋ふた をしてしまった。手紙なんぞをかくのは面倒臭い。やっぱり東京まで出掛けて行って、
逢あ って話をするのが簡便だ。
清 の心配は察しないでもないが、
清 の注文通りの手紙を書くのは
三七日みなぬか 【21日】の
断食だんじき よりも苦しい。
おれ は筆と巻紙を
抛ほう り出して、ごろりと転がって
肱枕ひじまくら をして
庭にわ の方を
眺なが めてみたが、やっぱり
清 の事が気にかかる。その時
おれ はこう思った。こうして遠くへ来てまで、
清 の身の上を案じていてやりさえすれば、
おれ の
真心まこと は
清 に通じるに違いない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で
暮くら してると思ってるだろう。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(89 / 108)
たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。
庭は
十坪とつぼ ほどの平庭で、これという植木もない。ただ一本の
蜜柑みかん があって、
塀へい のそとから、
目標めじるし になるほど高い。
おれ はうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑を眺める。東京を出た事のないものには蜜柑の
生な っているところは すこぶる
珍めずら しいものだ。あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、定めて
奇麗きれい だろう。今でももう半分色の変ったのがある。
婆ばあ さんに聞いてみると、すこぶる水気の多い、
旨うま い蜜柑だそうだ。今に
熟うれ たら、たんと
召め し上がれと言ったから、毎日少しずつ食ってやろう。もう三週間もしたら、
充分じゅうぶん 食えるだろう。まさか三週間以内にここを去る事もなかろう。
おれ が蜜柑の事を考えているところへ、
偶然ぐうぜん 山嵐 やまあらし が話しにやって来た。今日は祝勝会だから、君といっしょにご
馳走ちそう を食おうと思って牛肉を買って来たと、竹の皮の
包つつみ を
袂たもと から引きずり出して、
座敷ざしき の
真中まんなか へ
抛ほう り出した。
おれ は下宿で
芋責いもぜめ 豆腐責になってる上、
蕎麦そば 屋行き、
団子だんご 屋行きを禁じられてる際だから、そいつは結構だと、すぐ婆さんから
鍋なべ と砂糖をかり込んで、
煮方にかた に取りかかった。
山嵐 は
無暗むやみ に牛肉を
頬張ほおば りながら、君 あの
赤シャツ が芸者に
馴染なじみ のある事を知ってるかと聞くから、知ってるとも、この間
うらなり の送別会の時に来た一人がそうだろうと言ったら、そうだ
僕ぼく はこの
頃ごろ ようやく勘づいたのに、君はなかなか
敏捷びんしょう だと大いにほめた。
「
あいつは、ふた言目には品性だの、精神的娯楽ごらく だのと言う癖くせ に、裏へ廻まわ って、芸者と関係なんかつけとる、怪け しからん奴やつ だ。それもほかの人が遊ぶのを寛容かんよう するならいいが、君が蕎麦屋へ行ったり、団子屋へはいるのさえ取締上とりしまりじょう 害になると言って、校長の口を通して注意を加えたじゃないか 」
「
うん、あの野郎の考えじゃ芸者買は精神的娯楽で、天麩羅や、団子は物理的娯楽なんだろう。精神的娯楽なら、もっと大べらにやるがいい。何だあの様ざま は。馴染の芸者がはいってくると、入れ代りに席をはずして、逃げるなんて、どこまでも人を胡魔化ごまか す気だから気に食わない。そうして人が攻撃こうげき すると、僕は知らないとか、露西亜ロシア 文学だとか、俳句が新体詩の兄弟分だとか言って、人を烟けむ に捲ま くつもりなんだ。登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(90 / 108)
あんな弱虫は男じゃないよ。全く御殿女中ごてんじょちゅう の生れ変りか何かだぜ。ことによると、あいつのおやじは湯島のかげま 【男娼】かもしれない」
「
湯島のかげま た何だ 」
「
何でも男らしくないもんだろう。――君そこのところはまだ煮えていないぜ。そんなのを食うと絛虫さなだむし が湧わ くぜ 」
「
そうか、大抵たいてい 大丈夫だいじょうぶ だろう。それで赤シャツ は人に隠かく れて、温泉ゆ の町の角屋かどや へ行って、芸者と会見するそうだ 」
「
角屋って、あの宿屋か 」
「
宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者をつれて、あすこへはいり込むところを見届けておいて面詰めんきつ するんだね 」
「
見届けるって、夜番よばん でもするのかい 」
「
うん、角屋の前に枡屋ますや という宿屋があるだろう。あの表二階をかりて、障子しょうじ へ穴をあけて、見ているのさ 」
「
見ているときに来るかい 」
「
来るだろう。どうせひと晩じゃいけない。二週間ばかりやるつもりでなくっちゃ 」
「
随分ずいぶん 疲れるぜ。僕あ、おやじの死ぬとき一週間ばかり徹夜てつや して看病した事があるが、あとでぼんやりして、大いに弱った事がある」
「
少しぐらい身体が疲れたって構わんさ。あんな奸物かんぶつ をあのままにしておくと、日本のためにならないから、僕が天に代って誅戮ちゅうりく 【処刑】を加えるんだ 」
「
愉快ゆかい だ。そう事が極まれば、おれ も加勢してやる。それで今夜から夜番をやるのかい」
「
まだ枡屋に懸合かけあ ってないから、今夜は駄目だ 」
「
それじゃ、いつから始めるつもりだい 」
「
近々のうちやるさ。いずれ君に報知をするから、そうしたら、加勢してくれたまえ 」
「
よろしい、いつでも加勢する。僕ぼく は計略はかりごと は下手へた だが、喧嘩とくるとこれで なかなかすばしこいぜ 」
おれ と
山嵐 がしきりに
赤シャツ 退治の
計略はかりごと を相談していると、宿の婆さんが出て来て、学校の生徒さんが一人、
堀田 ほった 先生にお目にかかりたいててお
出い でたぞなもし。今お宅へ参じたのじゃが、お
留守るす じゃけれ、大方ここじゃろうてて
捜さが し当ててお出でたのじゃがなもしと、
閾しきい の所へ
膝ひざ を
突つ いて
山嵐 の返事を待ってる。
山嵐 はそうですかと
玄関げんかん まで出て行ったが、やがて帰って来て、君、生徒が祝勝会の余興を見に行かないかって
誘さそ いに来たんだ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(91 / 108)
今日は
高知こうち から、何とか
踴おど りをしに、わざわざここまで
多人数たにんず 乗り込んで来ているのだから、是非見物しろ、めったに見られない
踴おどり だというんだ、君もいっしょに行ってみたまえと
山嵐 は大いに乗り気で、
おれ に同行を勧める。
おれ は
踴おど りなら東京でたくさん見ている。毎年
八幡様はちまんさま のお祭りには屋台が町内へ廻ってくるんだから
汐酌しおく みでも何でもちゃんと心得ている。土佐っぽの馬鹿
踴おど りなんか、見たくもないと思ったけれども、せっかく
山嵐 が勧めるもんだから、つい行く気になって門へ出た。
山嵐 を誘いに来たものは誰かと思ったら
赤シャツ の弟だ。
妙みょう な
奴やつ が来たもんだ。
会場へはいると、
回向院えこういん の
相撲すもう か
本門寺ほんもんじ の
御会式おえしき のように
幾旒いくながれ となく長い旗を所々に植え付けた上に、世界万国の国旗をことごとく借りて来たくらい、
縄なわ から縄、
綱つな から綱へ
渡わた しかけて、大きな空が、いつになく
賑にぎ やかに見える。東の
隅すみ に一夜作りの
舞台ぶたい を設けて、ここでいわゆる高知の何とか
踴おど りをやるんだそうだ。舞台を右へ半町ばかりくると
葭簀よしず の囲いをして、
活花いけばな が
陳列ちんれつ してある。みんなが感心して眺めているが、一向くだらないものだ。あんなに草や竹を曲げて
嬉うれ しがるなら、背虫の色男や、
跛びっこ の
亭主ていしゅ を持って
自慢じまん するがよかろう。
舞台とは反対の方面で、しきりに花火を揚げる。花火の中から風船が出た。
帝国万歳ていこくばんざい とかいてある。天主の松の上をふわふわ飛んで営所のなかへ落ちた。次はぽんと音がして、黒い団子が、しょっと秋の空を
射抜いぬ くように
揚あ がると、それが
おれ の頭の上で、ぽかりと割れて、青い
烟けむり が
傘かさ の骨のように開いて、だらだらと空中に流れ込んだ。風船がまた上がった。今度は陸海軍万歳と赤地に白く染め抜いた奴が風に揺られて、
温泉ゆ の町から、
相生村あいおいむら の方へ飛んでいった。大方観音様の
境内けいだい へでも落ちたろう。
式の時はさほどでもなかったが、今度は大変な人出だ。田舎にもこんなに人間が住んでるかと
驚おど ろいたぐらい うじゃうじゃしている。
利口りこう な顔はあまり見当らないが、数から言うとたしかに馬鹿に出来ない。そのうち評判の高知の何とか
踴おど りが始まった。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(92 / 108)
踴おど りというから藤間【藤間流】か何ぞのやる
踴おど りかと早合点していたが、これは大間違いであった。
いかめしい
後鉢巻うしろはちまき をして、
立た っ
付つ け
袴ばかま 【ひざ下をしぼったもの】を
穿は いた男が十人ばかりずつ、舞台の上に三列に
並なら んで、その三十人がことごとく抜き身【鞘から抜いた真剣】を
携さ げているには
魂消たまげ た。前列と後列の間はわずか一尺五寸ぐらいだろう、左右の
間隔かんかく はそれより短いとも長くはない。たった一人列を
離はな れて舞台の
端はし に立ってるのがあるばかりだ。この仲間
外はず れの男は袴だけはつけているが、後鉢巻は倹約して、抜身の代りに、胸へ
太鼓たいこ を
懸か けている。太鼓は
太神楽だいかぐら の太鼓と同じ物だ。この男がやがて、いやあ、はああと
呑気のんき な声を出して、妙な
謡うた をうたいながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんと
叩たた く。歌の調子は前代未聞の不思議なものだ。
三河万歳みかわまんざい と
普陀洛ふだらく やの
合併がっぺい したものと思えば大した間違いにはならない。
歌はすこぶる
悠長ゆうちょう なもので、夏分の
水飴みずあめ のように、だらしがないが、句切りをとるためにぼこぼんを入れるから、のべつのようでも
拍子ひょうし は取れる。この拍子に応じて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたすこぶる
迅速じんそく なお手際で、拝見していても
冷々ひやひや する。
隣とな りも後ろも一尺五寸以内に生きた人間が居て、その人間がまた切れる抜き身を自分と同じように
振ふ り
舞ま わすのだから、よほど調子が
揃そろ わなければ、
同志撃どうしうち を始めて
怪我けが をする事になる。それも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ
危険あぶなく もないが、三十人が一度に
足踏あしぶ みをして横を向く時がある。ぐるりと廻る事がある。膝を曲げる事がある。隣りのものが一秒でも早過ぎるか、
遅おそ 過ぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。隣りの頭はそがれるかも知れない。抜き身の動くのは自由自在だが、その動く
範囲はんい は一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右のものと同方向に同速度にひらめかなければならない。こいつは驚いた、なかなかもって
汐酌しおくみ や
関せき の
戸と の
及およ ぶところでない【とても並の人間ができるものではない】。聞いてみると、これは はなはだ熟練の入るもので容易な事では、こういう風に調子が合わないそうだ。ことにむずかしいのは、かの万歳節の ぼこぼん先生だそうだ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(93 / 108)
三十人の足の運びも、手の働きも、
腰こし の曲げ方も、ことごとくこの ぼこぼん君の拍子一つで極まるのだそうだ。
傍はた で見ていると、この大将が一番呑気そうに、いやあ、はああと気楽にうたってるが、その実は はなはだ責任が重くって非常に骨が折れるとは不思議なものだ。
おれ と
山嵐 が感心のあまりこの
踴おど りを余念なく見物していると、半町ばかり、向うの方で急にわっと言う鬨の声がして、今まで
穏おだ やかに諸所を縦覧していた連中が、にわかに波を打って、右左りに
揺うご き始める。喧嘩だ喧嘩だと言う声がすると思うと、人の
袖そで を
潜くぐ り
抜ぬ けて来た
赤シャツ の弟が、先生また喧嘩です、中学の方で、
今朝けさ の
意趣返いしゅがえ しをするんで、また
師範しはん の奴と決戦を始めたところです、早く来て下さいと言いながら また人の波のなかへ
潜もぐ り
込こ んでどっかへ行ってしまった。
山嵐 は世話の焼ける小僧だまた始めたのか、いい加減にすればいいのにと逃げる人を
避よ けながら一散に
馳か け出した。見ている訳にも行かないから取り
鎮しず めるつもりだろう。
おれ は無論の事逃げる気はない。
山嵐 の
踵かかと を踏んで【後について】あとからすぐ現場へ馳けつけた。喧嘩は今が
真最中まっさいちゅう である。師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割方多い。師範は制服をつけているが、中学は式後
大抵たいてい は日本服に
着換きが えているから、敵味方はすぐわかる。しかし入り乱れて組んづ、
解ほご れつ戦ってるから、どこから、どう手を付けて引き分けていいか分らない。
山嵐 は困ったなと言う風で、しばらくこの乱雑な有様を眺めていたが、こうなっちゃ仕方がない。
巡査じゅんさ がくると面倒だ。飛び込んで分けようと、
おれ の方を見て言うから、
おれ は返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の
烈はげ しそうな所へ
躍おど り
込こ んだ。
止よ せ止せ。そんな乱暴をすると学校の体面に関わる。よさないかと、出るだけの声を出して敵と味方の分界線らしい所を
突つ き
貫ぬ けようとしたが、なかなかそう
旨うま くは行かない。一二間はいったら、出る事も引く事も出来なくなった。目の前に
比較的ひかくてき 大きな師範生が、十五六の中学生と組み合っている。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(94 / 108)
止せと言ったら、止さないかと師範生の
肩かた を持って、無理に引き分けようとする
途端とたん にだれか知らないが、下から
おれ の足をすくった。
おれ は不意を打たれて
握にぎ った、肩を放して、横に
倒たお れた。
堅かた い
靴くつ で
おれ の背中の上へ乗った奴がある。両手と膝を突いて下から、
跳は ね起きたら、乗った奴は右の方へころがり落ちた。起き上がって見ると、三間ばかり向うに
山嵐 の大きな身体が生徒の間に
挟はさ まりながら、止せ止せ、喧嘩は止せ止せと揉み返されてるのが見えた。おい到底駄目だと言ってみたが聞えないのか返事もしない。
ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなり
おれ の
頬骨ほおぼね へ
中あた ったなと思ったら、後ろからも、背中を
棒ぼう でどやした奴がある。教師の
癖くせ に出ている、
打ぶ て打てと言う声がする。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を
抛な げろ。と言う声もする。
おれ は、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、
傍そば に居た師範生の頭を張りつけてやった。石がまたひゅうと来る。今度は
おれ の五
分ぶ 刈がり の頭を
掠かす めて後ろの方へ飛んで行った。
山嵐 はどうなったか見えない。こうなっちゃ仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいったんだが、どやされたり、石をなげられたりして、
恐おそ れ入って引き下がる うんでれがんが あるものか。
おれ を誰だと思うんだ。
身長なり は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ 逃げろ逃げろと言う声がした。今まで
葛練くずね りの中で泳いでるように身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引上げてしまった。田舎者でも
退却たいきゃく は巧妙だ。クロパトキン【ロシア帝国の陸軍軍人】より旨いくらいである。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(95 / 108)
山嵐 はどうしたかと見ると、
紋付もんつき の
一重羽織ひとえばおり をずたずたにして、向うの方で鼻を
拭ふ いている。鼻柱をなぐられて大分出血したんだそうだ。鼻がふくれ上がって
真赤まっか になってすこぶる見苦しい。
おれ は
飛白かすり の
袷あわせ を着ていたから
泥どろ だらけになったけれども、
山嵐 の羽織ほどな損害はない。しかし
頬ほっ ぺたがぴりぴりしてたまらない。
山嵐 は大分血が出ているぜと教えてくれた。
巡査は十五六名来たのだが、生徒は反対の方面から退却したので、
捕つら まったのは、
おれ と
山嵐 だけである。
おれ らは
姓名せいめい を告げて、一部始終を話したら、ともかくも警察まで来いと言うから、警察へ行って、署長の前で事の
顛末てんまつ を述べて下宿へ帰った。
十一
あくる日
眼め が覚めてみると、
身体中からだじゅう 痛くてたまらない。久しく
喧嘩けんか をしつけなかったから、こんなに答えるんだろう。これじゃあんまり
自慢じまん もできないと
床とこ の中で考えていると、
婆ばあ さんが四国新聞を持ってきて
枕元まくらもと へ置いてくれた。実は新聞を見るのも
退儀たいぎ なんだが、男がこれしきの事に
閉口へこ たれて仕様があるものかと無理に
腹這はらば いになって、
寝ね ながら、二頁を開けてみると
驚おど ろいた。昨日の喧嘩がちゃんと出ている。喧嘩の出ているのは驚ろかないのだが、中学の教師
堀田 某ほったぼう と、
近頃ちかごろ 東京から
赴任ふにん した生意気なる某とが、順良なる生徒を
使嗾しそう してこの
騒動そうどう を
喚起かんき せるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、みだりに師範生に
向むか って暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が
付記ふき してある。本県の中学は
昔時せきじ より善良温順の気風をもって全国の
羨望せんぼう するところなりしが、
軽薄けいはく なる二
豎子じゅし のために
吾校わがこう の特権を
毀損きそん せられて、この不面目を全市に受けたる以上は、
吾人ごじん は
奮然ふんぜん として
起た ってその責任を問わざるを得ず。吾人は信ず、吾人が手を下す前に、当局者は相当の処分をこの
無頼漢ぶらいかん の上に加えて、
彼等かれら をして再び教育界に足を入るる余地なからしむる事を。そうして一字ごとにみんな黒点を加えて、お
灸きゅう を
据す えたつもりでいる。
おれ は床の中で、
糞くそ でも
喰く らえと言いながら、むっくり飛び起きた。不思議な事に今まで身体の
関節ふしぶし が非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くなった。
おれ は新聞を丸めて庭へ
抛な げつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ
後架こうか へ持って行って
棄す てて来た。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(96 / 108)
新聞なんて
無暗むやみ な
嘘うそ を
吐つ くもんだ。世の中に何が一番
法螺ほら を
吹ふ くと言って、新聞ほどの
法螺ほら 吹きはあるまい。
おれ の言ってしかるべき事をみんな
向むこ うで
並なら べていやがる。それに近頃東京から赴任した生意気な某とは何だ。天下に某と言う名前の人があるか。考えてみろ。これでもれっきとした
姓せい もあり名もあるんだ。系図が見たけりゃ、
多田満仲ただのまんじゅう 以来の先祖を
一人ひとり 残らず拝ましてやらあ。――顔を洗ったら、
頬ほっ ぺたが急に痛くなった。婆さんに鏡をかせと言ったら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。読んで後架へ棄てて来た。欲しけりゃ拾って来いと言ったら、
驚おどろ いて引き下がった。鏡で顔を見ると
昨日きのう と同じように傷がついている。これでも大事な顔だ、顔へ傷まで付けられた上へ生意気なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
今日の新聞に
辟易へきえき して学校を休んだなどと言われちゃ一生の名折れだから、飯を食っていの一号に出頭した。出てくる
奴やつ も、出てくる奴も
おれ の顔を見て笑っている。何がおかしいんだ。貴様達にこしらえてもらった顔じゃあるまいし。そのうち、
野だ が出て来て、いや昨日はお
手柄てがら で、――
名誉めいよ のご負傷でげすか、と送別会の時に
撲なぐ った返報と心得たのか、いやに
冷ひや かしたから、余計な事を言わずに絵筆でも
舐な めていろと言ってやった。するとこりゃ
恐入おそれい りやした。しかし さぞお痛い事でげしょうと言うから、痛かろうが、痛くなかろうが
おれ の面だ。貴様の世話になるもんかと
怒鳴どな りつけてやったら、
向むこ う側の自席へ着いて、やっぱり
おれ の顔を見て、
隣とな りの歴史の教師と何か内所話をして笑っている。
それから
山嵐 が出頭した。
山嵐 の鼻に至っては、
紫色むらさきいろ に
膨張ぼうちょう して、
掘ほ ったら中から
膿うみ が出そうに見える。
自惚うぬぼれ のせいか、
おれ の顔よりよっぽど手ひどく
遣や られている。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(97 / 108)
おれ と
山嵐 は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、お負けにその机が部屋の戸口から真正面にあるんだから運がわるい。妙な顔が二つ
塊かた まっている。ほかの奴は
退屈たいくつ にさえなると きっとこっちばかり見る。飛んだ事でと口で言うが、心のうちではこの
馬鹿ばか がと思ってるに
相違そうい ない。それでなければああいう風に
私語合ささやきあ ってはくすくす笑う訳がない。教場へ出ると生徒は拍手をもって
迎むか えた。先生
万歳ばんざい と言うものが二三人あった。景気がいいんだか、馬鹿にされてるんだか分からない。
おれ と
山嵐 がこんなに注意の
焼点しょうてん となってるなかに、
赤シャツ ばかりは平常の通り
傍そば へ来て、どうも飛んだ災難でした。僕は君等に対してお気の毒でなりません。新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申し
込こ む手続きにしておいたから、心配しなくてもいい。僕の弟が
堀田 君を
誘さそ いに行ったから、こんな事が
起おこ ったので、僕は実に申し訳がない。それでこの件についてはあくまで
尽力じんりょく するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べている。校長は三時間目に校長室から出てきて、困った事を新聞がかき出しましたね。むずかしくならなければいいがと多少心配そうに見えた。
おれ には心配なんかない、先で
免職めんしょく をするなら、免職される前に辞表を出してしまうだけだ。しかし自分がわるくないのにこっちから身を引くのは
法螺ほら 吹きの新聞屋をますます増長させる訳だから、新聞屋を正誤させて、
おれ が意地にも務めるのが順当だと考えた。帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思ったが、学校から
取消とりけし の手続きはしたと言うから、やめた。
おれ と
山嵐 は校長と教頭に時間の合間を
見計みはから って、嘘のないところを一応説明した。校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に
恨うら みを
抱いだ いて、あんな記事をことさらに
掲かか げたんだろうと論断した。
赤シャツ は
おれ 等の
行為こうい を弁解しながら
控所ひかえじょ を一人ごとに
廻まわ ってあるいていた。ことに自分の弟が
山嵐 を誘い出したのを自分の過失であるかのごとく
吹聴ふいちょう していた。みんなは全く新聞屋がわるい、
怪け しからん、両君は実に災難だと言った。
帰りがけに
山嵐 は、君
赤シャツ は
臭くさ いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(98 / 108)
どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと言うと、君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、
捲ま き
込こ んだのは策だぜと教えてくれた。なるほどそこまでは気がつかなかった。
山嵐 は
粗暴そぼう なようだが、
おれ より
知恵ちえ のある男だと感心した。
「
ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を廻してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物かんぶつ だ 」
「
新聞までも赤シャツ か。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツ の言う事をそう容易たやす く聴き くかね 」
「
聴かなくって。新聞屋に友達が居りゃ訳はないさ 」
「
友達が居るのかい 」
「
居なくても訳ないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ 」
「
ひどいもんだな。本当に赤シャツ の策なら、僕等はこの事件で免職になるかも知れないね 」
「
わるくすると、遣や られるかも知れない 」
「
そんなら、おれ は明日あした 辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所に頼たの んだって居るのはいやだ 」
「
君が辞表を出したって、赤シャツ は困らない 」
「
それもそうだな。どうしたら困るだろう 」
「
あんな奸物の遣る事は、何でも証拠しょうこ の挙がらないように、挙がらないようにと工夫するんだから、反駁はんばく するのはむずかしいね 」
「
厄介やっかい だな。それじゃ濡衣ぬれぎぬ を着るんだね。面白おもしろ くもない。天道是耶非てんどうぜかひ 【この世の秩序や運命は果たして正しい者に味方しているのか】かだ」
「
まあ、もう二三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉ゆ の町で取って抑おさ えるより仕方がないだろう 」
「
喧嘩事件は、喧嘩事件としてか 」
「
そうさ。こっちはこっちで向うの急所を抑えるのさ 」
「
それもよかろう。おれ は策略は下手へた なんだから、万事よろしく頼む。いざとなれば何でもする 」
俺と
山嵐 はこれで
分わか れた。
赤シャツ が
果はた たして
山嵐 の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。
到底とうてい 知恵比べで勝てる奴ではない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(99 / 108)
どうしても
腕力わんりょく でなくっちゃ
駄目だめ だ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどの
詰つま りは腕力だ。
あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、
披ひら いてみると、正誤どころか取り消しも見えない。学校へ行って
狸 たぬき に
催促さいそく すると、あしたぐらい出すでしょうと言う。明日になって六号活字で小さく取消が出た。しかし新聞屋の方で正誤は無論しておらない。また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだと言う答だ。校長なんて
狸 のような顔をして、いやにフロック張っている【フロックコート着て威張っている】が 存外無勢力【力のない】なものだ。
虚偽きょぎ の記事を掲げた田舎新聞一つ
詫あや まらせる事が出来ない。あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると言ったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた
説諭せつゆ を加えた。新聞がそんな者なら、一日も早く
打ぶ っ
潰つぶ してしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、
泥鼈すっぽん に食いつかれるとが似たり寄ったりだとは
今日こんにち ただ今
狸 の説明によって始めて承知
仕つかまつ った。
それから三日ばかりして、ある日の午後、
山嵐 が
憤然ふんぜん とやって来て、いよいよ時機が来た、
おれ は例の計画を断行するつもりだと言うから、そうかそれじゃ
おれ もやろうと、
即座そくざ に一味徒党に加盟した。ところが
山嵐 が、君はよす方がよかろうと首を
傾かたむ けた。なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと言われたかと
尋たず ねるから、いや言われない。君は? と聴き返すと、今日校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから
処決しょけつ してくれと言われたとの事だ。
「
そんな裁判はないぜ。狸 は大方腹鼓はらつづみ を叩たた き過ぎて、胃の位置が転倒てんどう したんだ。君とおれ は、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踴おど りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと言うがいい。なんで田舎いなか の学校はそう理屈りくつ が分らないんだろう。焦慮じれった いな 」
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(100 / 108)
「
それが赤シャツ の指金さしがね だよ。おれ と赤シャツ とは今までの行懸ゆきがか り上 到底とうてい 両立しない人間だが、君の方は今の通り置いても害にならないと思ってるんだ 」
「
おれ だって赤シャツ と両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」
「
君はあまり単純過ぎるから、置いたって、どうでも胡魔化ごまか されると考えてるのさ 」
「
なお悪いや。誰だれ が両立してやるものか 」
「
それに先だって古賀 が去ってから、まだ後任が事故のために到着とうちゃく しないだろう。その上に君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間に明きが出来て、授業にさし支つか えるからな 」
「
それじゃおれ を間あい のくさびに一席伺うかが わせる気なんだな。こん畜生ちくしょう 、だれがその手に乗るものか 」
翌日あくるひ おれ は学校へ出て校長室へ入って談判を始めた。
「
何で私に辞表を出せと言わないんですか 」
「
へえ? 」と
狸 はあっけに取られている。
「
堀田 には出せ、私には出さないで好い いと言う法がありますか」
「
それは学校の方の都合つごう で...... 」
「
その都合が間違まちが ってまさあ。私が出さなくって済むなら堀田 だって、出す必要はないでしょう 」
「
その辺は説明が出来かねますが――堀田 君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから 」
なるほど
狸 だ、要領を得ない事ばかり並べて、しかも落ち付き
払はら ってる。
おれ は仕様がないから
「
それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田 君一人辞職させて、私が安閑あんかん として、留まっていられると思っていらっしゃるかも知れないが、私にはそんな不人情な事は出来ません 」
「
それは困る。堀田 も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるで出来なくなってしまうから...... 」
「
出来なくなっても私の知った事じゃありません 」
「
君 そう我儘わがまま を言うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから一月立つか立たないのに辞職したと言うと、君の将来の履歴りれき に関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう 」
「
履歴なんか構うもんですか、履歴より義理が大切です 」
「
そりゃごもっとも――君の言うところは一々ごもっともだが、わたしの言う方も少しは察して下さい。君が是非辞職すると言うなら辞職されてもいいから、代りのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一返考え直してみて下さい 」
考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、
狸 が
蒼あお くなったり、赤くなったりして、
可愛想かわいそう になったからひとまず考え直す事として引き下がった。
赤シャツ には口もきかなかった。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(101 / 108)
どうせ遣っつけるなら
塊かた めて、うんと遣っつける方がいい。
山嵐 に
狸 と談判した模様を話したら、大方そんな事だろうと思った。辞表の事は いざとなるまで そのままにしておいても
差支さしつか えあるまいとの話だったから、
山嵐 の言う通りにした。どうも
山嵐 の方が
おれ よりも
利巧りこう らしいから万事
山嵐 の忠告に従う事にした。
山嵐 はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の
挨拶あいさつ をして
浜はま の港屋まで
下さが ったが、人に知れないように引き返して、
温泉ゆ の町の
枡屋ますや の表二階へ
潜ひそ んで、
障子しょうじ へ穴をあけて
覗のぞ き出した。これを知ってるものは
おれ ばかりだろう。
赤シャツ が
忍しの んで来ればどうせ夜だ。しかも
宵よい の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに
極きま ってる。最初の二晩は
おれ も十一時
頃ごろ まで
張番はりばん をしたが、
赤シャツ の
影かげ も見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。駄目を
踏ふ んで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。
四五日しごんち すると、うちの婆さんが少々心配を始めて、
奥おく さんのおありるのに、夜遊びは おやめたがええぞなもし と忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違う。こっちのは天に代って
誅戮ちゅうりく 【成敗】を加える夜遊びだ。とはいうものの一週間も通って、少しも
験げん が見えないと、いやになるもんだ。
おれ は
性急せっかち な性分だから、熱心になると
徹夜てつや でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。いかに天誅【天に代わって罪を罰する】党でも
飽あ きる事に変りはない。六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。そこへ行くと
山嵐 は
頑固がんこ なものだ。
宵よい から十二時
過すぎ までは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの
瓦斯灯がすとう の下を
睨にら めっきりである。
おれ が行くと今日は何人客があって、
泊とま りが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。どうも来ないようじゃないかと言うと、うん、たしかに来るはずだがと時々
腕組うでぐみ をして
溜息ためいき をつく。可愛想に、もし
赤シャツ がここへ一度来てくれなければ、
山嵐 は、
生涯しょうがい 天誅を加える事は出来ないのである。
八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で
鶏卵けいらん を八つ買った。これは下宿の婆さんの
芋責いもぜめ に応ずる策である。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(102 / 108)
その玉子を四つずつ左右の
袂たもと へ入れて、例の
赤手拭あかてぬぐい を
肩かた へ乗せて、
懐手ふところで をしながら、
枡屋ますや の
楷子段はしごだん を登って
山嵐 の
座敷ざしき の障子をあけると、おい有望有望と
韋駄天いだてん のような顔は急に活気を
呈てい した。
昨夜ゆうべ までは少し
塞ふさ ぎの気味で、はたで見ている
おれ さえ、
陰気臭いんきくさ いと思ったくらいだが、この顔色を見たら、
おれ も急にうれしくなって、何も聞かない先から、
愉快ゆかい 愉快と言った。
「
今夜七時半頃あの小鈴 こすず と言う芸者が角屋へはいった 」
「
赤シャツ といっしょか」
「
いいや 」
「
それじゃ駄目だ 」
「
芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい 」
「
どうして 」
「
どうしてって、ああ言う狡ずる い奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない 」
「
そうかも知れない。もう九時だろう 」
「
今九時十二分ばかりだ 」と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら言ったが「
おい洋灯らんぷ を消せ、障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。狐きつね はすぐ疑ぐるから 」
おれ は
一貫張いっかんばり の机の上にあった置き
洋灯らんぷ をふっと吹きけした。星明りで障子だけは少々あかるい。月はまだ出ていない。
おれ と
山嵐 は
一生懸命いっしょうけんめい に障子へ
面かお をつけて、息を
凝こ らしている。チーンと九時半の柱時計が鳴った。
「
おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもう厭いや だぜ 」
「
おれ は銭のつづく限りやるんだ」
「
銭っていくらあるんだい 」
「
今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合つごう のいいように毎晩勘定かんじょう するんだ 」
「
それは手廻しがいい。宿屋で驚いてるだろう 」
「
宿屋はいいが、気が放せないから困る 」
「
その代り昼寝ひるね をするだろう 」
「
昼寝はするが、外出が出来ないんで窮屈きゅうくつ でたまらない 」
「
天誅も骨が折れるな。これで天網恢々てんもうかいかい 疎そ にして洩も らしちまったり、何かしちゃ、つまらないぜ 」
「
なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ 」と小声になったから、
おれ は思わずどきりとした。黒い
帽子ぼうし を
戴いただ いた男が、角屋の瓦斯灯を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違っている。おやおやと思った。そのうち帳場の時計が
遠慮えんりょ なく十時を打った。今夜もとうとう駄目らしい。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(103 / 108)
世間は大分静かになった。
遊郭ゆうかく で鳴らす
太鼓たいこ が手に取るように
聞きこ える。月が
温泉ゆ の山の
後うしろ からのっと顔を出した。往来はあかるい。すると、
下しも の方から人声が聞えだした。窓から首を出す訳には行かないから、姿を
突つ き留める事は出来ないが、だんだん近づいて来る模様だ。からんからんと
駒下駄こまげた を引き
擦ず る音がする。眼を
斜なな めにするとやっと二人の
影法師かげぼうし が見えるくらいに近づいた。
「
もう大丈夫だいじょうぶ ですね。邪魔じゃま ものは追っ払ったから 」
正まさ しく
野だ の声である。「
強がるばかりで策がないから、仕様がない 」これは
赤シャツ だ。「
あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら、勇み肌はだ の坊ぼ っちゃんだから愛嬌あいきょう がありますよ 」「
増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない 」
おれ は窓をあけて、二階から飛び下りて、思う様
打ぶ ちのめしてやろうと思ったが、やっとの事で
辛防しんぼう した。二人はハハハハと笑いながら、瓦斯灯の下を
潜くぐ って、角屋の中へはいった。
「
おい 」
「
おい 」
「
来たぜ 」
「
とうとう来た 」
「
これでようやく安心した 」
「
野だ の畜生、おれ の事を勇み肌の坊っちゃんだと抜ぬ かしやがった」
「
邪魔物と言うのは、おれ の事だぜ。失敬千万な 」
おれ と
山嵐 は二人の帰路を
要撃ようげき しなければならない。しかし二人はいつ出てくるか見当がつかない。
山嵐 は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかも知れないから、出られるようにしておいてくれと
頼たの んで来た。今思うと、よく宿のものが承知したものだ。
大抵たいてい なら
泥棒どろぼう と間違えられるところだ。
赤シャツ の来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。寝る訳には行かないし、始終障子の
隙すき から睨めているのもつらいし、どうも、こうも心が落ちつかなくって、これほど
難儀なんぎ な思いをした事はいまだにない。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(104 / 108)
いっその事角屋へ踏み込んで現場を取って
抑おさ えようと
発議ほつぎ したが、
山嵐 は一言にして、
おれ の申し出を
斥しりぞ けた。自分共が今時分飛び込んだって、乱暴者だと言って
途中とちゅう で
遮さえぎ られる。訳を話して面会を求めれば居ないと
逃に げるか別室へ案内をする。不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、退屈でも出るのを待つより外に策はないと言うから、ようやくの事でとうとう朝の五時まで
我慢がまん した。
角屋から出る二人の影を見るや否や、
おれ と
山嵐 はすぐあとを
尾つ けた。一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。
温泉ゆ の町をはずれると一丁ばかりの
杉並木すぎなみき があって左右は
田圃たんぼ になる。それを通りこすと ここかしこに
藁葺わらぶき があって、
畠はたけ の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さえはずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で
捕つら まえてやろうと、見えがくれについて来た。町を
外はず れると急に
馳か け
足あし の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。何が来たかと驚ろいて
振ふ り向く奴を待てと言って肩に手をかけた。
野だ は
狼狽ろうばい の気味で逃げ出そうという
景色けしき だったから、
おれ が前へ廻って行手を
塞ふさ いでしまった。
「
教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊とま った 」と
山嵐 はすぐ
詰なじ りかけた。
「
教頭は角屋へ泊って悪わ るいという規則がありますか 」と
赤シャツ は
依然いぜん として
鄭寧ていねい な言葉を使ってる。顔の色は少々蒼い。「
取締上とりしまりじょう 不都合だから、蕎麦屋そばや や団子屋だんごや へさえはいってはいかんと、言うくらい謹直きんちょく な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」
野だ は隙を見ては逃げ出そうとするから
おれ はすぐ前に立ち塞がって「
べらんめえの坊っちゃんた何だ 」と怒鳴り付けたら、「
いえ君の事を言ったんじゃないんです、全くないんです 」と鉄面皮に言訳がましい事をぬかした。
おれ はこの時気がついてみたら、両手で自分の袂を
握にぎ ってる。追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。
おれ はいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと言いながら、
野だ の面へ
擲たた きつけた。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。
野だ はよっぽど
仰天ぎょうてん した者と見えて、わっと言いながら、
尻持しりもち をついて、助けてくれと言った。
おれ は食うために玉子は買ったが、
打ぶ つけるために袂へ入れてる訳ではない。ただ
肝癪かんしゃく のあまりに、ついぶつける ともなしに 打つけてしまったのだ。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(105 / 108)
しかし
野だ が尻持を突いたところを見て始めて、
おれ の成功した事に気がついたから、こん
畜生ちくしょう 、こん畜生と言いながら残る六つを無茶苦茶に
擲たた きつけたら、
野だ は顔中黄色になった。
おれ が玉子をたたきつけているうち、
山嵐 と
赤シャツ はまだ談判最中である。
「
芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと言う証拠しょうこ がありますか 」
「
宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て言う事だ。胡魔化せるものか 」
「
胡魔化す必要はない。僕は吉川 君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない 」
「
だまれ 」と
山嵐 は
拳骨げんこつ を食わした。
赤シャツ はよろよろしたが「
これは乱暴だ、狼藉ろうぜき である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ 」
「
無法でたくさんだ 」とまたぽかりと
撲な ぐる。「
貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ 」とぽかぽかなぐる。
おれ も同時に
野だ を散々に
擲たた き据えた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
「
もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲なぐ ってやる 」とぽかんぽかんと
両人ふたり でなぐったら「
もうたくさんだ 」と言った。
野だ に「
貴様もたくさんか 」と聞いたら「
無論たくさんだ 」と答えた。
「
貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲こ りて以来つつしむがいい。いくら言葉巧たく みに弁解が立っても正義は許さんぞ 」と
山嵐 が言ったら
両人共ふたりとも だまっていた。ことによると口をきくのが
退儀たいぎ なのかも知れない。
「
おれ は逃げも隠かく れもせん。今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査じゅんさ なりなんなり、よこせ」と
山嵐 が言うから、
おれ も「
おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田 と同じ所に待ってるから警察へ訴うった えたければ、勝手に訴えろ 」と言って、二人してすたすたあるき出した。
おれ が下宿へ帰ったのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どう おしるのぞなもし と聞いた。お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、
山嵐 は二階で寝ていた。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(106 / 108)
おれ は早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、
私儀わたくしぎ 都合
有之これあり 辞職の上東京へ帰り
申候もうしそろ につき
左様御承知被下度候さようごしょうちくだされたくそろ 以上とかいて校長
宛あて にして郵便で出した。
汽船は夜六時の
出帆しゅっぱん である。
山嵐 も
おれ も疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。「
赤シャツ も野だ も訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。
その夜
おれ と
山嵐 はこの
不浄ふじょう な地を
離はな れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく
娑婆しゃば へ出たような気がした。
山嵐 とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
清 きよ の事を話すのを忘れていた。――
おれ が東京へ着いて下宿へも行かず、
革鞄かばん を提げたまま、
清 や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと
涙なみだ をぽたぽたと落した。
おれ もあまり
嬉うれ しかったから、もう
田舎いなか へは行かない、東京で
清 とうちを持つんだと言った。
その後ある人の
周旋しゅうせん で
街鉄がいてつ 【東京市街鉄道】の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。
清 は
玄関げんかん 付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月
肺炎はいえん に
罹かか って死んでしまった。死ぬ前日
おれ を呼んで坊っちゃん後生だから
清 が死んだら、坊っちゃんのお寺へ
埋う めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと言った。だから
清 の墓は
小日向こびなた の養源寺にある。
(明治三十九年四月)
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底本:「ちくま日本文学全集 夏目漱石」筑摩書房
1992(平成4)年1月20日第1刷発行
底本の親本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年10月27日第1刷発行
※底本の注にれば、本作品の原稿には、「そのうち学校もいやになった。」の後に、漱石自身による2字あけの指定があるという。このファイルでは、その情報にもとづいて、当該の箇所を2字あけとした。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(107 / 108)
入力:真先芳秋
校正:柳沢成雄
1999年9月13日公開
2011年5月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
大変ありがとうございました。感謝致します。(
シン文庫 追記)
登場人物 [
:
栞 ] 夏目漱石-坊っちゃん(108 / 108)