一
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか とんと
見当がつかぬ。何でも薄暗い じめじめした所で ニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは
書生という 人間中で一番
獰悪な種族であったそうだ。この
書生というのは 時々我々を
捕えて
煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから 別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の
掌に載せられてスーと持ち上げられた時 何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて
書生の顔を見たのが いわゆる人間というものの
見始であろう。この時 妙なものだと思った感じが 今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔が つるつるして まるで
薬缶だ。その
後 猫にもだいぶ
逢ったが こんな
片輪には 一度も
出会わした事がない。のみならず顔の真中が あまりに突起している。そうしてその穴の中から 時々ぷうぷうと
煙を吹く。どうも
咽せぽくて実に弱った。これが人間の飲む
煙草というものである事は ようやくこの頃知った。
この
書生の掌の
裏で しばらくは よい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。
書生が動くのか 自分だけが動くのか分らないが
無暗に眼が廻る。胸が悪くなる。
到底助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているが あとは何の事やらいくら 考え出そうとしても分らない。
ふと気が付いて見ると
書生はいない。たくさんおった兄弟が 一
疋も見えぬ。
肝心の母親さえ 姿を隠してしまった。その上
今までの所とは違って
無暗に明るい。眼を
明いていられぬくらいだ。はてな何でも様子がおかしいと、のそのそ
這い出して見ると 非常に痛い。
吾輩は
藁の上から 急に笹原の中へ棄てられたのである。
1/115
ようやくの思いで笹原を這い出すと 向うに大きな池がある。
吾輩は池の前に坐って どうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという
分別も出ない。しばらくして 泣いたら
書生がまた迎に来てくれるかと考え付いた。ニャー、ニャーと試みにやって見たが 誰も来ない。そのうち池の上をさらさらと風が渡って 日が暮れかかる。腹が非常に減って来た。泣きたくても声が出ない。仕方がない、何でもよいから
食物のある所まで あるこうと決心をして そろりそろりと池を左りに廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに
這って行くと ようやくの事で何となく人間臭い所へ出た。ここへ入ったら、どうにかなると思って 竹垣の
崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、
吾輩はついに
路傍に
餓死したかも知れんのである。
一樹の蔭【出会いや偶然の出来事も、実は前世からの因縁でつながっている】とは よく言ったものだ。この垣根の穴は
今日に至るまで
吾輩が
隣家の
三毛を訪問する時の通路になっている。さて
邸へは 忍び込んだものの これから先どうして
善いか分らない。そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降って来るという始末で もう一刻の
猶予が出来なくなった。仕方がないから とにかく明るくて暖かそうな方へ方へと あるいて行く。今から考えると その時はすでに家の内に入っておったのだ。ここで
吾輩は
彼の
書生以外の人間を再び見るべき機会に
遭遇したのである。第一に逢ったのが
おさんである。これは前の
書生より一層乱暴な方で
吾輩を見るや否や いきなり
頸筋をつかんで表へ
抛り出した。いやこれは駄目だと思ったから 眼をねぶって運を天に任せていた。しかし ひもじいのと寒いのには どうしても我慢が出来ん。
吾輩は再び
おさんの
隙を見て 台所へ
這い上った。すると間もなく また投げ出された。
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吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。その時に
おさんと言う者は つくづくいやになった。この間
おさんの
三馬【サンマ】を
偸んで この返報をしてやってから、やっと胸の
痞が下りた。
吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この
家の
主人が 騒々しい何だといいながら出て来た。下女は
吾輩をぶら下げて
主人の方へ向けて この
宿なしの小猫がいくら出しても出しても
御台所へ上って来て困りますという。
主人は鼻の下の黒い毛を
撚りながら
吾輩の顔をしばらく
眺めておったが、やがて そんなら内へ置いてやれ といったまま奥へ入ってしまった。
主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女は
口惜しそうに
吾輩を台所へ
抛り出した。かくして
吾輩は ついにこの
家を自分の
住家と
極める事にしたのである。
吾輩の
主人は
滅多に
吾輩と顔を合せる事がない。職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に入ったぎり ほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際は うちのものがいうような勤勉家ではない。
吾輩は時々忍び足に彼の書斎を
覗いて見るが、彼はよく
昼寝をしている事がある。時々読みかけてある本の上に
涎をたらしている。彼は胃弱で皮膚の色が
淡黄色を帯びて 弾力のない
不活発な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後で タカジヤスターゼ【胃薬】を飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。
吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。
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こんなに寝ていて勤まるものなら 猫にでも出来ぬ事はないと。それでも
主人に言わせると 教師ほどつらいものはないそうで 彼は友達が来る
度に 何とか かんとか不平を鳴らしている。
吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、
主人以外のものには はなはだ不人望であった。どこへ行っても
跳ね付けられて 相手にしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、
今日に至るまで 名前さえつけてくれないのでも分る。
吾輩は仕方がないから、出来得る限り
吾輩を入れてくれた
主人の
傍にいる事をつとめた。朝
主人が新聞を読むときは必ず彼の
膝の上に乗る。彼が昼寝をするときは 必ずその背中に乗る。これはあながち
主人が好きという訳ではないが 別に構い手がなかったから やむを得んのである。その後いろいろ経験の上、朝は
飯櫃の上、夜は
炬燵の上、天気のよい昼は縁側へ寝る事とした。しかし一番心持の好いのは 夜に
入って ここのうちの
小供の寝床へもぐり込んで いっしょにねる事である。この
小供というのは 五つと三つで 夜になると二人が一つ床へ入って
一間へ寝る。
吾輩はいつでも 彼等の中間に
己れを
容るべき余地を
見出して どうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く
小供の一人が眼を
醒ますが最後 大変な事になる。
小供は――ことに小さい方が
質がわるい――猫が来た猫が来たといって 夜中でも何でも 大きな声で泣き出すのである。すると例の神経胃弱性の
主人は
必ず眼をさまして 次の部屋から飛び出してくる。現にせんだってなどは
物指で尻ぺたをひどく
叩かれた。
吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は
我儘なものだと 断言せざるを得ないようになった。ことに
吾輩が時々
同衾する【一緒に寝る】
小供のごときに至っては
言語同断である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、
抛り出したり、
へっつい【かまど】の中へ押し込んだりする。しかも
吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら
家内総がかりで追い廻して迫害を加える。この間もちょっと畳で爪を
磨いだら
細君が非常に
怒って それから容易に座敷へ
入れない。台所の板の間で
他が
顫えていても
一向平気なものである。
吾輩の尊敬する
筋向の
白君などは
逢う
度毎に 人間ほど不人情なものはないと言っておらるる。
白君は先日 玉のような子猫を四疋
産まれたのである。
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ところがそこの
家の
書生が 三日目にそいつを裏の池へ持って行って 四疋ながら棄てて来たそうだ。
白君は涙を流してその一部始終を話した上、どうしても我等
猫族が親子の愛を
完くして美しい家族的生活をするには 人間と戦ってこれを
掃滅せねばならぬといわれた。一々もっともの議論と思う。また隣りの
三毛君などは 人間が所有権という事を解していないといって
大に憤慨している。元来我々同族間では
目刺の頭でも
鰡の
臍でも 一番先に見付けたものがこれを食う権利があるものとなっている。もし相手がこの規約を守らなければ 腕力に訴えて
善いくらいのものだ。しかるに彼等人間は
毫【微塵】も この観念がないと見えて 我等が見付けた御馳走は必ず彼等のために
略奪せらるるのである。彼等はその強力を頼んで 正当に
吾人【われわれ】が食い得べきものを
奪って すましている。
白君は軍人の家におり
三毛君は代言【弁護士】の主人を持っている。
吾輩は教師の家に住んでいるだけ、こんな事に関すると両君よりも むしろ楽天である。ただ その日その日が どうにかこうにか送られればよい。いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。
我儘で思い出したから ちょっと
吾輩の家の
主人が この我儘で失敗した話をしよう。元来この
主人は何といって 人に
勝れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやって
ほととぎす【俳句雑誌】へ投書をしたり、新体詩を
明星【文芸雑誌】へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に
凝ったり、
謡を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。その癖 やり出すと胃弱の癖に いやに熱心だ。
後架【便所】の中で謡をうたって、近所で
後架先生と
渾名をつけられているにも関せず
一向平気なもので、やはりこれは
平の
宗盛にて
候【中身のない権威ぶりや、見かけ倒しの知識人ぶり】を繰返している。みんながそら宗盛だと吹き出すくらいである。この
主人がどういう考になったものか
吾輩の住み込んでから一月ばかり
後のある月の月給日に、大きな包みを
提げて あわただしく帰って来た。何を買って来たのかと思うと 水彩絵具と毛筆とワットマンという紙【高級な画用紙】で 今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心と見えた。果して翌日から当分の間というものは 毎日毎日書斎で昼寝もしないで絵ばかりかいている。
5/115
しかしそのかき上げたものを見ると 何をかいたものやら 誰にも鑑定がつかない。当人もあまり
甘くないと思ったものか、ある日その友人で
美学とかをやっている人が来た時に
下のような話をしているのを聞いた。
「どうも
甘くかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが
自ら筆をとって見ると
今更のようにむずかしく感ずる」これは
主人の
述懐である。なるほど
詐りのない処だ。
彼の友は金縁の
眼鏡越に
主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで
画がかける訳のものではない。
昔し
以太利の大家アンドレア・デル・サルト【画家】が言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に
星辰あり。地に
露華あり。飛ぶに
禽あり。走るに
獣あり。池に金魚あり。
枯木に
寒鴉【かんがらす】あり。自然はこれ一幅の
大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うなら ちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほど こりゃもっともだ。実にその通りだ」と
主人は
無暗に感心している。
金縁の裏には
嘲けるような
笑が見えた。
その翌日
吾輩は例のごとく縁側に出て 心持善く
昼寝をしていたら、
主人が例になく書斎から出て来て
吾輩の
後ろで何かしきりにやっている。ふと眼が
覚めて 何をしているかと
一分ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを
極め込んでいる。
吾輩はこの有様を見て 覚えず失笑するのを禁じ得なかった。彼は彼の友に
揶揄せられたる結果として まず手初めに
吾輩を写生しつつあるのである。
吾輩はすでに
十分寝た。
欠伸がしたくて たまらない。
6/115
しかし せっかく
主人が熱心に筆を
執っているのを 動いては気の毒だと思って、じっと
辛棒しておった。彼は今
吾輩の輪郭をかき上げて 顔のあたりを
色彩っている。
吾輩は自白する。
吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。背といい 毛並といい 顔の造作といい あえて他の猫に
勝るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の
吾輩でも、今
吾輩の
主人に
描き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一 色が違う。
吾輩は
波斯産の猫のごとく 黄を含める淡灰色に
漆のごとき
斑入りの皮膚を有している【うっすら黄みがかった薄い灰色の毛に、黒くつやのある漆のようなまだら模様が入っている】。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今
主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ
褐色でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに 評し方のない色である。その上 不思議な事は眼がない。もっとも これは寝ているところを写生したのだから無理もないが 眼らしい所さえ見えないから
盲猫だか寝ている猫だか判然しないのである。
吾輩は心中ひそかに いくらアンドレア・デル・サルトでも これではしようがないと思った。しかしその熱心には感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催うしている。
身内の筋肉はむずむずする。
最早一分も
猶予が出来ぬ
仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出して あーあと
大なる欠伸をした。さてこうなって見ると、もう おとなしくしていても仕方がない。どうせ
主人の予定は
打ち
壊わしたのだから、ついでに裏へ行って用を
足そうと思ってのそのそ這い出した。すると
主人は失望と怒りを
掻き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と
怒鳴った。この
主人は人を
罵るときは 必ず馬鹿野郎というのが癖である。ほかに悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、
無暗に馬鹿野郎
呼わりは失敬だと思う。
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それも平生
吾輩が彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするなら この
漫罵【みだりにののしること】も甘んじて受けるが、こっちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立ったのを馬鹿野郎とは
酷い。元来人間というものは自己の力量に慢じて みんな増長している。少し人間より強いものが出て来て
窘めてやらなくては この先どこまで増長するか分らない。
我儘も このくらいなら我慢するが
吾輩は人間の不徳について これよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
吾輩の家の裏に十坪ばかりの
茶園がある。広くはないが
瀟洒とした 心持ち好く日の
当る所だ。うちの
小供があまり騒いで楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、
吾輩はいつでもここへ出て
浩然の気【おおらかな精神】を養うのが例である。ある小春の穏かな日の二時頃であったが、
吾輩は
昼飯後 快よく一睡した
後、運動かたがたこの茶園へと
歩を運ばした。茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒して その上に大きな猫が前後不覚に寝ている。彼は
吾輩の近づくのも
一向心付かざる【気付かない】ごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな
鼾をして長々と体を
横えて眠っている。
他の庭内に忍び入りたるものが かくまで平気に
睡られるものかと、
吾輩は
窃かに その大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒猫である。わずかに
午を過ぎたる太陽は、透明なる光線を 彼の皮膚の上に
抛げかけて、きらきらする
柔毛の間より 眼に見えぬ炎でも
燃え
出ずるように思われた。彼は猫中の大王とも言うべきほどの 偉大なる体格を有している。
吾輩の倍はたしかにある。
吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に
佇立して 余念もなく
眺めていると、静かなる小春の風が、杉垣の上から出たる
梧桐の枝を
軽く誘って ばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王は かっとその
真丸の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する
琥珀というものよりも
遥かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。
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双眸【両眼】の奥から射るごとき光を
吾輩の
矮小なる
額の上にあつめて、
御めえは一体何だと言った。大王にしては少々言葉が
卑しいと思ったが 何しろその声の底に犬をも
挫しぐべき力が
籠っているので
吾輩は少なからず恐れを
抱いた。しかし
挨拶をしないと
険呑【危険】だと思ったから「
吾輩は猫である。名前はまだない」となるべく平気を
装って冷然と答えた。しかしこの時
吾輩の心臓は たしかに平時よりも
烈しく鼓動しておった。彼は
大に
軽蔑せる調子で「何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。
全てえ どこに住んでるんだ」随分
傍若無人である。「
吾輩はここの教師の
家にいるのだ」「どうせそんな事だろうと思った。いやに
瘠せてるじゃねえか」と大王だけに
気炎を吹きかける。言葉付から察すると どうも良家の猫とも思われない。しかしその
膏切って肥満しているところを見ると 御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。
吾輩は「そう言う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。「
己れあ 車屋の
黒よ」
昂然【意気が盛ん】たるものだ。車屋の
黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりで ちっとも教育がないから あまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の
的になっている奴だ。
吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々
軽侮の念も生じたのである。
吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを
試してみようと思って
左の問答をして見た。
「一体車屋と教師とは どっちがえらいだろう」
「車屋の方が強いに
極っていらあな。
御めえの
うちの
主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
「君も車屋の猫だけに
大分強そうだ。車屋にいると
御馳走が食えると見えるね」
「
何に
おれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。
御めえなんかも
茶畠ばかり ぐるぐる廻っていねえで、ちっと
己の後へ くっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
「追ってそう願う事にしよう。しかし
家は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」
「
箆棒め、うちなんかいくら大きくたって腹の
足しに なるもんか」
彼は
大に
肝癪に
障った様子で、
寒竹をそいだような耳を しきりとぴく付かせて あららかに【荒々しく】立ち去った。
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吾輩が車屋の
黒と
知己になったのは これからである。
その
後吾輩は
度々黒と
邂逅【出会う】する。邂逅する
毎に彼は車屋相当の
気炎【さかんな意気】を吐く。先に
吾輩が耳にしたという不徳事件も実は
黒から聞いたのである。
或る日 例のごとく
吾輩と
黒は暖かい
茶畠の中で
寝転びながら いろいろ雑談をしていると、彼はいつもの
自慢話しを さも新しそうに繰り返したあとで、
吾輩に向って
下のごとく質問した。「
御めえは今までに鼠を何匹とった事がある」知識は
黒よりも余程発達しているつもりだが 腕力と勇気とに至っては
到底黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに
極りが
善くはなかった。けれども事実は事実で
詐る訳には行かないから、
吾輩は「実は とろうとろう と思ってまだ
捕らない」と答えた。
黒は彼の鼻の先から ぴんと
突張っている長い
髭をびりびりと
震わせて 非常に笑った。元来
黒は自慢をする
丈に どこか足りないところがあって、彼の
気炎を感心したように
咽喉をころころ鳴らして謹聴【謹んで聞く】していれば はなはだ
御しやすい猫である。
吾輩は彼と近付になってから
直に この呼吸を飲み込んだからこの場合にも なまじい
己れを弁護してますます形勢をわるくするのも
愚である、いっその事 彼に自分の手柄話をしゃべらして 御茶を濁すに
若くはないと思案を
定めた。そこでおとなしく「君などは年が年であるから
大分とったろう」と そそのかして見た。果然彼は
墻壁【隔てるもの】の
欠所に
吶喊【つきつらぬく】して来た。「たんとでもねえが三四十はとったろう」とは得意気なる彼の答であった。彼はなお語をつづけて「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるが
いたちってえ奴は手に合わねえ。一度
いたちに向って
酷い目に
逢った」「へえなるほど」と
相槌を打つ。
黒は大きな眼をぱちつかせて言う。「去年の大掃除の時だ。うちの亭主が
石灰の袋を持って縁の下へ
這い込んだら
御めえ大きな
いたちの野郎が
面喰って飛び出したと思いねえ」「ふん」と感心して見せる。「
いたちってけども何 鼠の少し大きいぐれえのものだ。こん
畜生って気で追っかけて とうとう
泥溝の中へ追い込んだと思いねえ」「うまくやったね」と
喝采してやる。
10/115
「ところが
御めえいざってえ段になると奴め
最後っ
屁をこきゃがった。
臭えの臭くねえのって それからってえものは
いたちを見ると胸が悪くならあ」彼はここに至ってあたかも去年の臭気を
今なお感ずるごとく 前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻わした。
吾輩も少々気の毒な感じがする。ちっと景気を付けてやろうと思って「しかし鼠なら君に
睨まれては百年目だろう。君はあまり鼠を
捕るのが名人で鼠ばかり食うものだから そんなに肥って色つやが善いのだろう」
黒の御機嫌をとるためのこの質問は 不思議にも反対の結果を
呈出した。彼は
喟然として
大息していう。「
考げえると つまらねえ。いくら稼いで鼠をとったって――一てえ人間ほど ふてえ奴は世の中にいねえぜ。人のとった鼠をみんな取り上げやがって 交番へ持って行きゃあがる。交番じゃ誰が
捕ったか分らねえから その
たんびに五銭ずつくれるじゃねえか。うちの亭主なんか
己の御蔭でもう壱円五十銭【約1万円/2025年】くらい
儲けていやがる癖に、
碌なものを食わせた事もありゃしねえ。おい人間てものあ
体の
善い泥棒だぜ」さすが無学の
黒もこのくらいの
理屈は わかると見えて すこぶる
怒った様子で背中の毛を
逆立てている。
吾輩は少々気味が悪くなったから善い加減にその場を
胡魔化して
家へ帰った。この時から
吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。しかし
黒の子分になって鼠以外の御馳走を
猟ってあるく事もしなかった。御馳走を食うよりも寝ていた方が気楽でいい。教師の
家にいると 猫も教師のような性質になると見える。要心しないと今に胃弱になるかも知れない。
教師といえば
吾輩の
主人も近頃に至っては
到底水彩画において
望のない事を悟ったものと見えて 十二月一日の日記にこんな事をかきつけた。
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○○と言う人に今日の会で始めて出逢った。あの人は大分 放蕩【遊びに興じた】をした人だと言うがなるほど通人らしい風采をしている。こう言う質の人は 女に好かれるものだから○○が放蕩をしたと言うよりも放蕩をするべく 余儀なくせられたと言うのが適当であろう。あの人の妻君は芸者だそうだ、羨ましい事である。元来放蕩家を悪くいう人の大部分は 放蕩をする資格のないものが多い。また放蕩家をもって自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多い。これらは余儀なくされないのに無理に進んでやるのである。あたかも吾輩の水彩画に於けるがごときもので 到底卒業する気づかいはない。しかるにも関せず、自分だけは通人だと思って済している。料理屋の酒を飲んだり待合へ入るから通人となり得るという論が立つなら、吾輩も一廉の水彩画家になり得る理屈だ。吾輩の水彩画のごときは かかない方がましであると同じように、愚昧【愚か】なる通人よりも山出し【田舎者】の大野暮の方が遥かに上等だ。
通人論はちょっと
首肯しかねる。また芸者の妻君を羨しいなどというところは 教師としては口にすべからざる愚劣の考であるが、自己の水彩画における批評眼だけは たしかなものだ。
主人はかくのごとく
自知の
明【自分をよく知る才能】あるにも関せず その
自惚心は なかなか抜けない。
中二日置いて十二月四日の日記にこんな事を書いている。
昨夜は僕が水彩画をかいて到底 物にならんと思って、そこらに抛って置いたのを 誰かが立派な額にして欄間に懸けてくれた夢を見た。さて額になったところを見ると我ながら急に上手になった。非常に嬉しい。これなら立派なものだと独りで眺め暮らしていると、夜が明けて眼が覚めて やはり元の通り下手である事が朝日と共に明瞭になってしまった。
主人は夢の
裡まで水彩画の未練を
背負ってあるいていると見える。これでは水彩画家は無論
夫子【教養人】の
所謂通人にもなれない
質だ。
主人が水彩画を夢に見た翌日 例の金縁
眼鏡の
美学者が 久し振りで
主人を訪問した。彼は座につくと
劈頭【事のはじめ】第一に「
画はどうかね」と口を切った。
主人は平気な顔をして「君の忠告に従って写生を
力めているが、なるほど写生をすると今まで気のつかなかった物の形や、色の精細な変化などがよく分るようだ。西洋では
昔しから写生を主張した結果
今日のように発達したものと思われる。さすがアンドレア・デル・サルトだ」と日記の事は
おくびにも出さないで、またアンドレア・デル・サルトに感心する。
美学者は笑いながら「実は君、あれは
出鱈目だよ」と頭を
掻く。
12/115
「何が」と
主人はまだ
偽わられた事に気がつかない。「何がって君のしきりに感服しているアンドレア・デル・サルトさ。あれは僕のちょっと
捏造した話だ。君がそんなに
真面目に信じようとは思わなかったハハハハ」と大喜悦の
体である。
吾輩は縁側でこの対話を聞いて 彼の今日の日記には いかなる事が
記さるるであろうかと
予め想像せざるを得なかった。この
美学者はこんな
好加減な事を吹き散らして 人を
担ぐのを唯一の
楽にしている男である。彼はアンドレア・デル・サルト事件が
主人の
情線【心情】にいかなる響を伝えたかを
毫【わずか】も顧慮【考慮】せざるもののごとく 得意になって
下のような事を
饒舌った。「いや時々
冗談を言うと 人が
真に受けるので
大に
滑稽的美感を
挑発するのは面白い。せんだってある学生に ニコラス・ニックルベー【イギリスの有名小説の主人公】がギボン【イギリスの歴史家】に忠告して 彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして 英文で出版させたと言ったら、その学生がまた馬鹿に記憶の善い男で、日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは 滑稽であった。ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが、皆熱心にそれを傾聴しておった。それからまだ面白い話がある。せんだって或る文学者のいる席で ハリソン【イギリスの作家】の歴史小説セオファーノ【皇后】の
話しが出たから 僕はあれは歴史小説の
中で
白眉【特に優れた】である。ことに女主人公が死ぬところは
鬼気人を襲うようだと評したら、僕の向うに坐っている知らんと言った事のない先生が、そうそうあすこは実に名文だといった。それで僕はこの男もやはり僕同様この小説を読んでおらないという事を知った」神経胃弱性の
主人は眼を丸くして問いかけた。「そんな
出鱈目をいって もし相手が読んでいたら どうするつもりだ」あたかも人を
欺くのは
差支ない、ただ
化の
皮があらわれた時は困るじゃないかと感じたもののごとくである。
美学者は少しも動じない。「なにその
時ゃ 別の本と間違えたとか何とか言うばかりさ」と言ってけらけら笑っている。この
美学者は金縁の眼鏡は掛けているが その性質が車屋の
黒に似たところがある。
主人は黙って日の出【日の出天狗というタバコ】を輪に吹いて
吾輩にはそんな勇気はないと言わんばかりの顔をしている。
美学者はそれだから
画をかいても駄目だという目付で「しかし
冗談は冗談だが画というものは実際むずかしいものだよ、レオナルド・ダ・ヴィンチは門下生に寺院の壁の
しみを写せと教えた事があるそうだ。
13/115
なるほど
雪隠【トイレ】などに入って 雨の漏る壁を余念なく眺めていると、なかなかうまい模様画が自然に出来ているぜ。君注意して写生して見給え きっと面白いものが出来るから」「また
欺すのだろう」「いえこれだけはたしかだよ。実際奇警【奇抜】な語じゃないか、ダ・ヴィンチでもいいそうな事だあね」「なるほど奇警には相違ないな」と
主人は半分降参をした。しかし彼はまだ
雪隠で写生はせぬようだ。
車屋の
黒はその
後跛になった。彼の光沢ある毛は
漸々色が
褪めて抜けて来る。
吾輩が
琥珀よりも美しいと評した彼の眼には
眼脂が一杯たまっている。ことに著るしく
吾輩の注意を
惹いたのは 彼の元気の消沈とその体格の悪くなった事である。
吾輩が例の
茶園で彼に逢った最後の日、どうだと言って尋ねたら「
いたちの
最後屁と
肴屋の
天秤棒には
懲々だ」といった。
赤松の間に 二三段の
紅を綴った
紅葉は
昔しの夢のごとく散って
つくばいに近く【ちょうずばちの近くへ落ちた】 代る代る
花弁をこぼした
紅白の
山茶花も 残りなく落ち尽した。三間半【約6.3m】の南向の縁側に 冬の日脚が早く傾いて
木枯の吹かない日は ほとんど
稀になってから
吾輩の昼寝の時間も
狭められたような気がする。
主人は毎日学校へ行く。帰ると書斎へ立て
籠る。人が来ると、教師が
厭だ厭だという。水彩画も滅多にかかない。タカジヤスターゼも功能がないといってやめてしまった。
小供は感心に休まないで幼稚園へかよう。帰ると唱歌を歌って、
毬をついて、時々
吾輩を
尻尾でぶら下げる。
吾輩は
御馳走も食わないから別段
肥りもしないが、まずまず健康で
跛にもならずに その日その日を暮している。鼠は決して取らない。
おさんは
未だに
嫌いである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから
生涯この教師の
家で無名の猫で終るつもりだ。
14/115
二
吾輩は新年来 多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。
元朝早々
主人の
許へ一枚の
絵端書が来た。これは彼の交友某画家からの年始状であるが、上部を赤、下部を
深緑りで塗って、その真中に一の動物が
蹲踞っているところをパステルで書いてある。
主人は例の書斎でこの絵を、横から見たり、
竪から眺めたりして、うまい色だなという。すでに一応感服したものだから、もうやめにするかと思うとやはり横から見たり、竪から見たりしている。からだを
拗じ向けたり、手を延ばして年寄が
三世相を見るよう【過去・現在・未来の相を見通すよう】にしたり、または窓の方へむいて鼻の先まで持って来たりして見ている。早くやめてくれないと
膝が揺れて
険呑でたまらない。ようやくの事で動揺があまり
劇しくなくなったと思ったら、小さな声で 一体何をかいたのだろう と言う。
主人は絵端書の色には感服したが、かいてある動物の正体が分らぬので、さっきから苦心をしたものと見える。そんな分らぬ絵端書かと思いながら、寝ていた眼を上品に
半ば開いて、落ちつき払って見ると
紛れもない、自分の肖像だ。
主人のようにアンドレア・デル・サルトを
極め込んだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もちゃんと整って出来ている。誰が見たって猫に相違ない。少し眼識のあるものなら、猫の
中でも
他の猫じゃない
吾輩である事が判然とわかるように立派に
描いてある。このくらい明瞭な事を分らずに かくまで苦心するかと思うと、少し人間が気の毒になる。出来る事ならその絵が
吾輩であると言う事を知らしてやりたい。
吾輩であると言う事はよし分らないにしても、せめて猫であるという事だけは分らしてやりたい。しかし人間というものは
到底吾輩猫属の言語を解し得るくらいに天の
恵に浴しておらん動物であるから、残念ながらそのままにしておいた。
ちょっと読者に断っておきたいが、元来人間が何ぞというと猫々と、事もなげに軽侮の口調をもって
吾輩を評価する癖があるは はなはだよくない。
15/115
人間の
糟から牛と馬が出来て、牛と馬の糞から猫が製造されたごとく考えるのは、自分の無知に心付かんで高慢な顔をする教師などにはありがちの事でもあろうが、はたから見てあまり見っともいい者じゃない。いくら猫だって、そう粗末簡便には出来ぬ。よそ目には一列一体、平等無差別、どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会に入って見るとなかなか複雑なもので十人
十色という人間界の
語はそのままここにも応用が出来るのである。目付でも、鼻付でも、毛並でも、足並でも、みんな違う。
髯の張り具合から耳の立ち
按排、
尻尾の垂れ加減に至るまで同じものは一つもない。器量、不器量、好き嫌い、
粋無粋の
数を
悉くして千差万別と言っても差支えないくらいである。そのように判然たる区別が存しているにもかかわらず、人間の眼はただ向上とか何とかいって、空ばかり見ているものだから、
吾輩の性質は無論
相貌の末を識別する事すら到底出来ぬのは気の毒だ。同類相求むとは
昔しからある
語だそうだがその通り、
餅屋は餅屋、猫は猫で、猫の事ならやはり猫でなくては分らぬ。いくら人間が発達したってこればかりは駄目である。いわんや実際をいうと彼等が
自ら信じているごとく えらくも何ともないのだから なおさらむずかしい。またいわんや同情に乏しい
吾輩の
主人のごときは、相互を残りなく解するというが 愛の第一義であるということすら 分らない男なのだから仕方がない。彼は性の悪い
牡蠣のごとく書斎に吸い付いて、かつて外界に向って口を
開いた事がない。それで自分だけはすこぶる達観したような
面構をしているのは ちょっとおかしい。達観しない証拠には現に
吾輩の肖像が眼の前にあるのに少しも悟った様子もなく 今年は征露の第二年目だから大方熊の
画だろうなどと 気の知れぬことをいって すましているのでもわかる。
吾輩が
主人の
膝の上で眼をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第二の
絵端書を持って来た。見ると活版で舶来の猫が四五
疋ずらりと行列してペンを握ったり書物を開いたり勉強をしている。その内の一疋は席を離れて机の角で西洋の猫じゃ猫じゃを
躍っている。その上に日本の墨で『吾輩は猫である』と黒々とかいて、右の
側に書を読むや
躍るや猫の
春一日 という俳句さえ
認められてある。これは
主人の旧門下生より来たので誰が見たって一見して意味がわかるはずであるのに、
迂濶な
主人はまだ悟らないと見えて不思議そうに首を
捻って、はてな今年は猫の年かなと
独言を言った。
吾輩がこれほど有名になったのを
未だ気が着かずにいると見える。
16/115
ところへ下女がまた第三の端書を持ってくる。今度は絵端書ではない。恭賀新年とかいて、
傍らに
乍恐縮かの猫へも
宜しく
御伝声奉願上候とある。いかに
迂遠【世事にうとい】な
主人でもこう明らさまに書いてあれば分るものと見えてようやく気が付いたようにフンと言いながら
吾輩の顔を見た。その眼付が今までとは違って多少尊敬の意を含んでいるように思われた。今まで世間から存在を認められなかった
主人が急に一個の
新面目【新名誉】を施こしたのも、全く
吾輩の御蔭だと思えばこのくらいの眼付は至当だろうと考える。
おりから門の
格子がチリン、チリン、チリリリリンと鳴る。大方来客であろう、来客なら下女が取次に出る。
吾輩は
肴屋の
梅公がくる時のほかは出ない事に
極めているのだから、平気で、もとのごとく
主人の膝に坐っておった。すると
主人は高利貸にでも飛び込まれたように不安な顔付をして玄関の方を見る。何でも年賀の客を受けて酒の相手をするのが
厭らしい。人間もこのくらい
偏屈になれば申し分はない。そんなら早くから外出でもすればよいのにそれほどの勇気も無い。いよいよ牡蠣の
根性をあらわしている。しばらくすると下女が来て
寒月さんがおいでになりましたという。この
寒月という男は やはり
主人の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、何でも
主人より立派になっているという
話しである。この男がどういう訳か、よく
主人の所へ遊びに来る。来ると自分を
恋っている女が有りそうな、無さそうな、世の中が面白そうな、つまらなそうな、
凄いような
艶っぽいような文句ばかり並べては帰る。
主人のようなしなびかけた人間を求めて、わざわざこんな話しをしに来るのからして
合点が行かぬが、あの
牡蠣的【口を開かない】
主人がそんな談話を聞いて時々
相槌を打つのはなお面白い。
「しばらく御無沙汰をしました。実は去年の暮から
大に活動しているものですから、
出よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と羽織の
紐をひねくりながら
謎見たような事をいう。「どっちの方角へ足が向くかね」と
主人は真面目な顔をして、
黒木綿の紋付羽織の
袖口を引張る。
17/115
この羽織は木綿で
ゆきが短かい、下からべんべら者【ぺらぺらした粗末な衣服】が左右へ五分【約1.5cm】くらいずつはみ出している。「エヘヘヘ少し違った方角で」と
寒月君が笑う。見ると今日は前歯が一枚欠けている。「君 歯をどうかしたかね」と
主人は問題を転じた。「ええ実はある所で
椎茸を食いましてね」「何を食ったって?」「その、少し椎茸を食ったんで。椎茸の
傘を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか
爺々臭いね。俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」と平手で
吾輩の頭を
軽く叩く。「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の
黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と
寒月君は
大に
吾輩を
賞める。「近頃
大分大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。賞められたのは得意であるが頭が少々痛い。「一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね」と
寒月君はまた話しをもとへ戻す。「どこで」「どこでもそりゃ御聞きにならんでもよいでしょう。ヴァイオリンが三
挺とピヤノの伴奏でなかなか面白かったです。ヴァイオリンも三挺くらいになると下手でも聞かれるものですね。二人は女で
私がその中へまじりましたが、自分でも善く
弾けたと思いました」「ふん、そしてその女というのは何者かね」と
主人は
羨ましそうに問いかける。元来
主人は平常
枯木寒巌【冷たくとっつきにくい】のような顔付はしているものの 実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと
惚れる。勘定をして見ると往来を通る婦人の
七割弱には
恋着【深く執着】するという事が
風刺的に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。そんな浮気な男が
何故牡蠣的生涯を送っているかと言うのは
吾輩猫などには
到底分らない。或人は失恋のためだとも言うし、或人は胃弱のせいだとも言うし、また或人は金がなくて臆病な
性質だからだとも言う。どっちにしたって明治の歴史に関係するほどな人物でもないのだから構わない。しかし
寒月君の
女連れを羨まし
気に尋ねた事だけは事実である。
寒月君は面白そうに
口取【最初の酒の肴】の
蒲鉾を箸で挟んで半分前歯で食い切った。
吾輩はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった。
18/115
「なに二人とも
去る所の令嬢ですよ、御存じの
方じゃありません」と
余所余所しい返事をする。「ナール」と
主人は引張ったが「ほど」を略して考えている。
寒月君はもう
善い加減な時分だと思ったものか「どうも好い天気ですな、
御閑ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順【日露戦争時の中国の地】が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と
促がして見る。
主人は旅順の陥落より
女連の身元を聞きたいと言う顔で、しばらく考え込んでいたがようやく決心をしたものと見えて「それじゃ出るとしよう」と思い切って立つ。やはり黒木綿の紋付羽織に、兄の
紀念とかいう二十年来
着古るした
結城紬の綿入を着たままである。いくら結城紬が丈夫だって、こう着つづけではたまらない。所々が薄くなって日に透かして見ると裏から
つぎを当てた針の目が見える。
主人の服装には
師走も正月もない。ふだん着も
余所ゆきもない。出るときは
懐手をしてぶらりと出る。ほかに着る物がないからか、有っても面倒だから着換えないのか、
吾輩には分らぬ。ただしこれだけは失恋のためとも思われない。
両人が出て行ったあとで、
吾輩はちょっと失敬して
寒月君の食い切った
蒲鉾の残りを
頂戴した。
吾輩もこの頃では普通一般の猫ではない。まず
桃川如燕【猫の話を得意とした講釈師】以後の猫か、グレーの金魚を
偸んだ猫【詩人トマス・グレイの詩】くらいの資格は充分あると思う。車屋の
黒などは
固より眼中にない。蒲鉾の
一切くらい頂戴したって 人から かれこれ言われる事もなかろう。それにこの人目を忍んで
間食をするという癖は、何も吾等猫族に限った事ではない。うちの
御三などはよく
細君の留守中に餅菓子などを失敬しては頂戴し、頂戴しては失敬している。
御三ばかりじゃない 現に上品な
仕付を受けつつあると
細君から
吹聴せられている
小児ですらこの傾向がある。四五日前のことであったが、二人の
小供が馬鹿に早くから眼を覚まして、まだ
主人夫婦の寝ている間に
対い合うて食卓に着いた。彼等は毎朝
主人の食う
麺麭の幾分に、砂糖をつけて食うのが例であるが、この日はちょうど
砂糖壺が
卓の上に置かれて
匙さえ添えてあった。いつものように砂糖を分配してくれるものがないので、大きい方がやがて壺の中から
一匙の砂糖をすくい出して自分の皿の上へあけた。
19/115
すると小さいのが姉のした通り同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。
少らく
両人は
睨み合っていたが、大きいのがまた匙をとって一杯をわが皿の上に加えた。小さいのもすぐ匙をとってわが分量を姉と同一にした。すると姉がまた一杯すくった。妹も負けずに一杯を附加した。姉がまた壺へ手を懸ける、妹がまた匙をとる。見ている間に一杯一杯一杯と重なって、ついには
両人の皿には山盛の砂糖が
堆くなって、壺の中には一匙の砂糖も余っておらんようになったとき、
主人が寝ぼけ
眼を
擦りながら寝室を出て来て せっかく しゃくい出した砂糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。こんなところを見ると、人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より
優っているかも知れぬが、
知恵はかえって猫より劣っているようだ。そんなに山盛にしないうちに早く
甞めてしまえばいいに と思ったが、例のごとく、
吾輩の言う事などは通じないのだから、気の毒ながら
御櫃【おひつ】の上から黙って見物していた。
寒月君と出掛けた
主人はどこをどう
歩行いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に
就いたのは九時頃であった。例の御櫃の上から拝見していると、
主人はだまって
雑煮を食っている。代えては食い、代えては食う。餅の切れは小さいが、何でも
六切か
七切食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと
箸を置いた。他人がそんな
我儘をすると、なかなか承知しないのであるが、
主人の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に
焦げ
爛れた餅の死骸を見て平気ですましている。
妻君が
袋戸の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、
主人は「それは
利かないから飲まん」という。「でもあなた
澱粉質のものには大変功能があるそうですから、召し上ったらいいでしょう」と飲ませたがる。「澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」と
頑固に出る。「あなたはほんとに
厭きっぽい」と
細君が
独言のようにいう。「厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ」「それだってせんだってじゅうは大変に よく利く よく利く とおっしゃって毎日毎日上ったじゃありませんか」「こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」と
対句のような返事をする。
20/115
「そんなに飲んだり
止めたりしちゃ、いくら功能のある薬でも利く
気遣いはありません、もう少し
辛防がよくなくっちゃあ胃弱なんぞは ほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えた
御三を顧みる。「それは本当のところでございます。もう少し召し上ってご覧にならないと、とても
善い薬か悪い薬かわかりますまい」と
御三は一も二もなく
細君の肩を持つ。「何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」「どうせ女ですわ」と
細君がタカジヤスターゼを
主人の前へ突き付けて是非
詰腹を切らせようとする。
主人は何にも言わず立って書斎へ入る。
細君と
御三は顔を見合せて にやにやと笑う。こんなときに後からくっ付いて行って
膝の上へ乗ると、大変な目に
逢わされるから、そっと庭から廻って書斎の縁側へ上って障子の
隙から
覗いて見ると、
主人はエピクテタス【古代ギリシアの哲学者】とか言う人の本を
披いて見ておった。もしそれが
平常の通り わかるなら ちょっとえらいところがある。五六分するとその本を
叩き付けるように机の上へ
抛り出す。大方そんな事だろうと思いながら なお注意していると、今度は日記帳を出して
下のような事を書きつけた。
寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついていた。衣装は美しいが顔はすこぶるまずい。何となくうちの猫に似ていた。
何も顔のまずい例に特に
吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。
吾輩だって
喜多床【漱石が利用していた理髪店】へ行って顔さえ
剃って
貰やあ、そんなに人間と
異ったところはありゃしない。人間はこう
自惚れているから困る。
21/115
宝丹【いつもの薬局】の角を曲るとまた一人芸者が来た。これは背のすらりとした撫肩の格好よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服も素直に着こなされて上品に見えた。白い歯を出して笑いながら「源ちゃん昨夕は――つい忙がしかったもんだから」と言った。ただしその声は旅鴉のごとく皺枯れておったので、せっかくの風采も大に下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるものの いかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手のまま御成道【徳川将軍が通った街道】へ出た。寒月は何となく そわそわしているごとく見えた。
人間の心理ほど
解し難いものはない。この
主人の今の心は
怒っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書【賢者の残した思想】に
一道の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ
交りたいのだか、くだらぬ事に
肝癪を起しているのか、
物外に【俗世の煩わしさなどに関わらず】
超然としている【超越して平然としている】のだかさっぱり
見当が付かぬ。猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、
怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。
主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等
猫属に至ると
行住坐臥【日常生活】、
行屎送尿【トイレで用を足す】ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な
手数をして、
己れの
真面目を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら縁側に寝ているまでの事さ。
神田の某亭で晩餐を食う。久し振りで正宗【上等な酒】を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合が大変いい。胃弱には晩酌が一番だと思う。タカジヤスターゼは無論いかん。誰が何と言っても駄目だ。どうしたって利かないものは利かないのだ。
無暗にタカジヤスターゼを攻撃する。独りで喧嘩をしているようだ。今朝の肝癪がちょっとここへ尾を出す。人間の日記の本色はこう言う
辺に存するのかも知れない。
22/115
せんだって○○は朝飯を廃すると胃がよくなると言うたから二三日朝飯をやめて見たが腹がぐうぐう鳴るばかりで功能はない。△△は是非香の物を断てと忠告した。彼の説によるとすべて胃病の源因は漬物にある。漬物さえ断てば胃病の源を涸らす訳だから本復は疑なしという論法であった。それから一週間ばかり香の物に箸を触れなかったが別段の験も見えなかったから近頃はまた食い出した。××に聞くとそれは按腹揉療治【腹部をもむ按摩療法】に限る。ただし普通のではゆかぬ。皆川流という古流な揉み方で一二度やらせれば大抵の胃病は根治出来る。安井息軒【江戸時代の儒学者】も大変この按摩術を愛していた。坂本竜馬のような豪傑でも時々は治療をうけたと言うから、早速上根岸まで出掛けて揉まして見た。ところが骨を揉まなければ癒らぬとか、臓腑の位置を一度転倒しなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な揉み方をやる。後で身体が綿のようになって昏睡病にかかったような心持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。A君は是非固形体を食うなという。それから、一日牛乳ばかり飲んで暮して見たが、この時は腸の中でどぼりどぼりと音がして大水でも出たように思われて終夜眠れなかった。B氏は横隔膜で呼吸して内臓を運動させれば自然と胃の働きが健全になる訳だから試しにやって御覧という。これも多少やったが何となく腹中が不安で困る。それに時々思い出したように一心不乱にかかりはするものの五六分立つと忘れてしまう。忘れまいとすると横隔膜が気になって本を読む事も文章をかく事も出来ぬ。美学者の迷亭がこの体を見て、産気のついた男じゃあるまいし止すがいいと冷かしたからこの頃は廃してしまった。C先生は蕎麦を食ったらよかろうと言うから、早速かけともりを かわるがわる食ったが、これは腹が下るばかりで何等の功能もなかった。余は年来の胃弱を直すために出来得る限りの方法を講じて見たがすべて駄目である。ただ昨夜寒月と傾けた三杯の正宗はたしかに利目がある。これからは毎晩二三杯ずつ飲む事にしよう。
これも決して長く続く事はあるまい。
主人の心は
吾輩の
眼球のように間断なく変化している。何をやっても
永持のしない男である。その上 日記の上で胃病をこんなに心配している癖に、表向は
大に
痩我慢をするからおかしい。せんだってその友人で
某という学者が尋ねて来て、一種の見地から、すべての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果にほかならないと言う議論をした。
大分研究したものと見えて、条理が
明晰で秩序が整然として立派な説であった。
23/115
気の毒ながらうちの
主人などは到底これを
反駁【他人の意見に反論】するほどの頭脳も学問もないのである。しかし自分が胃病で苦しんでいる
際だから、何とか かんとか 弁解をして自己の面目を保とうと思った者と見えて、「君の説は面白いが、あのカーライル【イギリスの歴史家】は胃弱だったぜ」とあたかもカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であると言ったような、見当違いの挨拶をした。すると友人は「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」と
極め付けたので
主人は
黙然としていた。かくのごとく虚栄心に富んでいるものの実際はやはり胃弱でない方がいいと見えて、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっと滑稽だ。考えて見ると今朝
雑煮をあんなにたくさん食ったのも
昨夜寒月君と正宗をひっくり返した影響かも知れない。
吾輩もちょっと雑煮が食って見たくなった。
吾輩は猫ではあるが大抵のものは食う。車屋の
黒のように横丁の
肴屋まで遠征をする気力はないし、
新道の
二絃琴【2弦の琴】の
師匠の
所の
三毛のように
贅沢は無論言える身分でない。従って存外
嫌は少ない方だ。
小供の食いこぼした
麺麭も食うし、餅菓子の
餡もなめる。
香の
物はすこぶるまずいが経験のため
沢庵を二切ばかりやった事がある。食って見ると妙なもので、大抵のものは食える。あれは
嫌だ、これは嫌だと言うのは
贅沢な我儘で到底教師の
家にいる猫などの口にすべきところでない。
主人の話しによると
仏蘭西にバルザックという小説家があったそうだ。この男が大の
贅沢屋で――もっともこれは口の贅沢屋ではない、小説家だけに文章の贅沢を尽したという事である。バルザックが或る日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろつけて見たが、どうしても気に入らない。ところへ友人が遊びに来たのでいっしょに散歩に出掛けた。友人は
固より
何も知らずに連れ出されたのであるが、バルザックは
兼ねて自分の苦心している名を
目付ようという考えだから 往来へ出ると何もしないで 店先の看板ばかり見て
歩行いている。ところがやはり気に入った名がない。
24/115
友人を連れて
無暗にあるく。友人は訳がわからずにくっ付いて行く。彼等はついに朝から晩まで
巴理を探険した。その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。見るとその看板にマーカスという名がかいてある。バルザックは手を
拍って「これだこれだこれに限る。マーカスは好い名じゃないか。マーカスの上へZという頭文字をつける、すると申し
分のない名が出来る。Zでなくてはいかん。Z. Marcus は実にうまい。どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでも何となく
故意とらしいところがあって面白くない。ようやくの事で気に入った名が出来た」と友人の迷惑はまるで忘れて、一人嬉しがったというが、小説中の人間の名前をつけるに
一日巴理を探険しなくてはならぬようでは随分
手数のかかる話だ。贅沢もこのくらい出来れば結構なものだが
吾輩のように
牡蠣的主人を持つ身の上では とてもそんな気は出ない。何でもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇の しからしむる ところであろう。だから今
雑煮が食いたくなったのも決して贅沢の結果ではない、何でも食える時に食っておこうという考から、
主人の食い
剰した雑煮が もしや台所に残っていはすまいか と思い出したからである。……台所へ廻って見る。
今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に
膠着している。白状するが餅というものは今まで一
辺も口に入れた事がない。見るとうまそうにもあるし、また少しは
気味がわるくもある。前足で上にかかっている菜っ葉を
掻き寄せる。爪を見ると餅の
上皮が引き掛ってねばねばする。
嗅いで見ると釜の底の飯を
御櫃へ移す時のような
香がする。食おうかな、やめようかな、とあたりを見回す。幸か不幸か誰もいない。
御三は暮も春も【暮れも正月も】同じような顔をして羽根をついている。
小供は奥座敷で「何とおっしゃる兎さん」を歌っている。
25/115
食うとすれば今だ。もしこの機をはずすと来年までは餅というものの味を知らずに暮してしまわねばならぬ。
吾輩はこの
刹那【一瞬】に猫ながら一の真理を感得した。「
得難き機会は すべての動物をして、好まざる事をも
敢てせしむ【仕方なくやってしまう】」
吾輩は実を言うとそんなに雑煮を食いたくはないのである。否
椀底の様子を熟視すればするほど
気味が悪くなって、食うのが
厭になったのである。この時もし
御三でも勝手口を開けたなら、奥の
小供の足音がこちらへ近付くのを聞き得たなら、
吾輩は
惜気もなく椀を見棄てたろう、しかも雑煮の事は来年まで念頭に浮ばなかったろう。ところが誰も来ない、いくら
躊躇していても誰も来ない。早く食わぬか食わぬかと催促されるような心持がする。
吾輩は椀の中を
覗き込みながら、早く誰か来てくれればいいと念じた。やはり誰も来てくれない。
吾輩はとうとう雑煮を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を椀の底へ落すようにして、あぐりと餅の角を
一寸ばかり食い込んだ。このくらい力を込めて食い付いたのだから、大抵なものなら
噛み切れる訳だが、驚いた! もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。もう一
辺噛み直そうとすると動きがとれない。餅は魔物だなと
疳づいた時はすでに遅かった。沼へでも落ちた人が足を抜こうと
焦慮るたびにぶくぶく深く沈むように、噛めば噛むほど口が重くなる、歯が動かなくなる。歯答えはあるが、歯答えがあるだけで どうしても始末をつける事が出来ない。美学者
迷亭先生がかつて
吾輩の
主人を評して君は割り切れない男だといった事があるが、なるほどうまい事をいったものだ。この餅も
主人と同じようにどうしても割り切れない。噛んでも噛んでも、三で十を割るごとく
尽未来際方のつく
期は【
未来永劫】あるまいと思われた。この
煩悶の際
吾輩は覚えず第二の真理に
逢着した。「すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す」真理はすでに二つまで発明したが、餅がくっ付いているので
毫【わずか】も愉快を感じない。歯が餅の肉に吸収されて、抜けるように痛い。早く食い切って逃げないと
御三が来る。
小供の唱歌もやんだようだ、きっと台所へ
馳け出して来るに相違ない。
26/115
煩悶の
極 尻尾をぐるぐる振って見たが何等の功能もない、耳を立てたり寝かしたりしたが駄目である。考えて見ると耳と
尻尾は餅と何等の関係もない。要するに振り損の、立て損の、寝かし損であると気が付いたからやめにした。ようやくの事これは前足の助けを借りて餅を払い落すに限ると考え付いた。まず右の方をあげて口の周囲を
撫で廻す。
撫でたくらいで割り切れる訳のものではない。今度は左りの方を
伸して口を中心として急劇に円を
劃して見る。そんな
呪いで魔は落ちない。
辛防が
肝心だと思って左右
交る
交るに動かしたがやはり依然として歯は餅の中にぶら下っている。ええ面倒だと両足を一度に使う。すると不思議な事にこの時だけは
後足二本で立つ事が出来た。何だか猫でないような感じがする。猫であろうが、あるまいがこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ
掻き廻す。前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。倒れかかるたびに後足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる訳にも行かんので、台所中あちら、こちらと飛んで廻る。我ながらよくこんなに器用に
起っていられたものだと思う。第三の真理が
驀地【突然】に
現前【現れる】する。「危きに
臨めば平常なし
能わざるところのものを
為し能う。
之を
天祐【天のたすけ】という」
幸に天祐を
享けたる
吾輩が一生懸命餅の魔と戦っていると、何だか足音がして奥より人が来るような
気合である。ここで人に来られては大変だと思って、いよいよ
躍起となって台所をかけ廻る。足音はだんだん近付いてくる。ああ残念だが天祐が少し足りない。とうとう
小供に見付けられた。「あら猫が御雑煮を食べて踊を踊っている」と大きな声をする。この声を第一に聞きつけたのが
御三である。羽根も羽子板も打ち
遣って勝手から「あらまあ」と飛込んで来る。
細君は
縮緬の紋付で「いやな猫ねえ」と仰せられる。
27/115
主人さえ書斎から出て来て「この馬鹿野郎」といった。面白い面白いと言うのは
小供ばかりである。そうしてみんな申し合せたように げらげら笑っている。腹は立つ、苦しくはある、踊はやめる訳にゆかぬ、弱った。ようやく笑いがやみそうになったら、五つになる女の子が「御かあ様、猫も随分ね」といったので
狂瀾を
既倒【態勢を元の状態に戻す】に何とかするという勢でまた大変笑われた。人間の同情に乏しい実行も
大分見聞したが、この時ほど
恨めしく感じた事はなかった。ついに天祐もどっかへ消え
失せて、在来の通り
四つ
這になって、眼を白黒するの醜態を演ずるまでに閉口した。さすが見殺しにするのも気の毒と見えて「まあ餅をとってやれ」と
主人が
御三に命ずる。
御三はもっと踊らせようじゃありませんかという眼付で
細君を見る。
細君は踊は見たいが、殺してまで見る気はないのでだまっている。「取ってやらんと死んでしまう、早くとってやれ」と
主人は再び下女を
顧みる。
御三は御馳走を半分食べかけて夢から起された時のように、気のない顔をして餅をつかんでぐいと引く。
寒月君じゃないが前歯がみんな折れるかと思った。どうも痛いの痛くないのって、餅の中へ堅く食い込んでいる歯を
情け容赦もなく引張るのだから たまらない。
吾輩が「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず【本当の安らぎや幸福は、必ず困難や苦しみを通ってこそ得られるものだ】」と言う第四の真理を経験して、けろけろとあたりを見回した時には、家人はすでに奥座敷へ入ってしまっておった。
こんな失敗をした時には内にいて
御三なんぞに顔を見られるのも何となく ばつが悪い。いっその事 気を
易えて 新道の
二絃琴の御
師匠さんの
所の
三毛子でも訪問しようと台所から裏へ出た。
三毛子はこの近辺で有名な
美貌家である。
吾輩は猫には相違ないが物の
情けは一通り心得ている。うちで
主人の
苦い顔を見たり、
御三の
険突を食って気分が
勝れん時は必ずこの異性の
朋友の
許を訪問していろいろな話をする。すると、いつの間にか心が
晴々して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。女性の影響というものは実に
莫大なものだ。
28/115
杉垣の隙から、いるかなと思って見渡すと、
三毛子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく縁側に坐っている。その背中の丸さ加減が言うに言われんほど美しい。曲線の美を
尽している。
尻尾の曲がり加減、足の折り具合、
物憂げに耳をちょいちょい振る
景色なども
到底形容が出来ん。ことによく日の当る所に暖かそうに、
品よく
控えているものだから、身体は静粛端正の態度を有するにも関らず、
天鵞毛を
欺くほど【白鳥の羽根と区別がつかないほど】の
滑らかな満身の毛は春の光りを反射して 風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。
吾輩はしばらく
恍惚として
眺めていたが、やがて我に帰ると同時に、低い声で「
三毛子さん 三毛子さん」といいながら前足で招いた。
三毛子は「あら先生」と
椽を下りる。赤い首輪につけた鈴がちゃらちゃらと鳴る。おや正月になったら鈴までつけたな、どうもいい
音だと感心している間に、
吾輩の
傍に来て「あら先生、おめでとう」と尾を左りへ振る。吾等
猫属間で御互に挨拶をするときには尾を棒のごとく立てて、それを左りへぐるりと廻すのである。町内で
吾輩を先生と呼んでくれるのはこの
三毛子ばかりである。
吾輩は前回断わった通りまだ名はないのであるが、教師の
家にいるものだから
三毛子だけは尊敬して先生先生といってくれる。
吾輩も先生と言われて
満更悪い心持ちもしないから、はいはいと返事をしている。「やあおめでとう、大層立派に御化粧が出来ましたね」「ええ去年の暮
御師匠さんに買って頂いたの、
宜いでしょう」とちゃらちゃら鳴らして見せる。「なるほど善い
音ですな、
吾輩などは生れてから、そんな立派なものは見た事がないですよ」「あらいやだ、みんなぶら下げるのよ」とまたちゃらちゃら鳴らす。「いい
音でしょう、あたし嬉しいわ」とちゃらちゃらちゃらちゃら続け様に鳴らす。「あなたのうちの御
師匠さんは大変あなたを可愛がっていると見えますね」と吾身に引きくらべて
暗に
欣羨【うらやましがる】の意を
洩らす。
三毛子は無邪気なものである「ほんとよ、まるで自分の
小供のようよ」とあどけなく笑う。猫だって笑わないとは限らない。人間は自分よりほかに笑えるものが無いように思っているのは間違いである。
29/115
吾輩が笑うのは鼻の
孔を三角にして
咽喉仏を震動させて笑うのだから人間には わからぬはずである。「一体あなたの
所の御主人は何ですか」「あら御主人だって、妙なのね。
御師匠さんだわ。
二絃琴の御
師匠さんよ」「それは
吾輩も知っていますがね。その御身分は何なんです。いずれ
昔しは立派な方なんでしょうな」「ええ」
君を待つ
間の姫小松……………
障子の内で御
師匠さんが二絃琴を
弾き出す。「
宜い声でしょう」と
三毛子は自慢する。「
宜いようだが、
吾輩にはよくわからん。全体何というものですか」「あれ? あれは何とかってものよ。御
師匠さんはあれが大好きなの。……御
師匠さんはあれで六十二よ。随分丈夫だわね」六十二で生きているくらいだから丈夫と言わねばなるまい。
吾輩は「はあ」と返事をした。少し
間が抜けたようだが別に名答も出て来なかったから仕方がない。「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそうおっしゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも
天璋院様の
御祐筆【事務官僚】の妹の御嫁に行った
先きの
御っかさんの
甥の娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいった……」「なるほど。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「御嫁に行った」「妹の御嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。妹の御嫁に
入った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。分ったでしょう」「いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。
詰るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたもよっぽど分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、
先っきっから言ってるんじゃありませんか」「それはすっかり分っているんですがね」「それが分りさえすればいいんでしょう」「ええ」と仕方がないから降参をした。
30/115
吾々は時とすると理詰の
虚言を
吐かねばならぬ事がある。
障子の
中で二絃琴の
音がぱったりやむと、御
師匠さんの声で「三毛や 三毛や 御飯だよ」と呼ぶ。
三毛子は嬉しそうに「あら御
師匠さんが呼んでいらっしゃるから、
私し帰るわ、よくって?」わるいと言ったって仕方がない。「それじゃまた遊びにいらっしゃい」と鈴をちゃらちゃら鳴らして庭先までかけて行ったが急に戻って来て「あなた大変色が悪くってよ。どうかしやしなくって」と心配そうに問いかける。まさか
雑煮を食って踊りを踊ったとも言われないから「何別段の事もありませんが、少し考え事をしたら頭痛がしてね。あなたと話しでもしたら直るだろうと思って実は出掛けて来たのですよ」「そう。御大事になさいまし。さようなら」少しは
名残り惜し気に見えた。これで雑煮の元気もさっぱりと回復した。いい心持になった。帰りに例の
茶園を通り抜けようと思って
霜柱の
融けかかったのを踏みつけながら
建仁寺の
崩れから顔を出すと また車屋の
黒が枯菊の上に
背を山にして
欠伸をしている。近頃は
黒を見て恐怖するような
吾輩ではないが、話しをされると面倒だから知らぬ顔をして行き過ぎようとした。
黒の性質として
他が
己れを
軽侮したと認むるや否や決して黙っていない。「おい、名なしの
権兵衛、近頃じゃ
乙う高く留ってるじゃあねえか。いくら教師の飯を食ったって、そんな高慢ちきな
面らあするねえ。
人つけ【誰がやっても】面白くもねえ」
黒は
吾輩の有名になったのを、まだ知らんと見える。説明してやりたいが
到底分る奴ではないから、まず一応の挨拶をして出来得る限り早く
御免蒙るに
若くはないと決心した。「いや
黒君 おめでとう。
不相変元気がいいね」と
尻尾を立てて左へくるりと廻わす。
黒は尻尾を立てたぎり挨拶もしない。「何おめでてえ? 正月でおめでたけりゃ、御めえなんざあ 年が年中おめでてえ方だろう。気をつけろい、この
吹い
子の
向う
面【間の抜けた顔】め」吹い子の向うづらという句は
罵詈の言語であるようだが、
吾輩には了解が出来なかった。
31/115
「ちょっと
伺がうが吹い子の向うづらと言うのはどう言う意味かね」「へん、手めえが
悪体をつかれてる癖に、その
訳を聞きゃ世話あねえ、だから正月野郎だって事よ」正月野郎は詩的であるが、その意味に至ると吹い子の何とかよりも一層不明瞭な文句である。参考のためちょっと聞いておきたいが、聞いたって明瞭な答弁は得られぬに
極まっているから、
面と
対ったまま無言で立っておった。いささか手持無沙汰の
体である。すると突然
黒のうちの
神さんが大きな声を張り揚げて「おや棚へ上げて置いた
鮭がない。大変だ。またあの
黒の
畜生が取ったんだよ。ほんとに憎らしい猫だっちゃありゃあしない。今に帰って来たら、どうするか見ていやがれ」と
怒鳴る。
初春の
長閑な空気を無遠慮に震動させて、枝を鳴らさぬ君が
御代を
大に
俗了【俗化】してしまう。
黒は怒鳴るなら、怒鳴りたいだけ怒鳴っていろと言わぬばかりに横着な顔をして、四角な
顋を前へ出しながら、あれを聞いたかと合図をする。今までは
黒との応対で気がつかなかったが、見ると彼の足の下には一切れ二銭三厘に相当する鮭の骨が泥だらけになって転がっている。「君
不相変やってるな」と今までの行き掛りは忘れて、つい感投詞【驚きの言葉】を奉呈した。
黒はそのくらいな事ではなかなか機嫌を直さない。「何がやってるでえ、この野郎。
しゃけの一切や二切で相変らずたあ何だ。人を
見縊びった事をいうねえ。
憚りながら車屋の
黒だあ」と腕まくりの代りに 右の前足を
逆かに肩の
辺まで
掻き上げた。「君が
黒君だと言う事は、始めから知ってるさ」「知ってるのに、相変らずやってるたあ何だ。何だてえ事よ」と熱いのを
頻りに吹き懸ける。人間なら
胸倉をとられて小突き廻されるところである。少々
辟易して内心困った事になったなと思っていると、再び例の
神さんの大声が聞える。「ちょいと
西川さん、おい西川さんてば、用があるんだよこの人あ。牛肉を一
斤すぐ持って来るんだよ。いいかい、分ったかい、牛肉の堅くないところを一斤だよ」と牛肉注文の声が
四隣【となり近所】の
寂寞【静粛】を破る。
32/115
「へん 年に一遍牛肉を
誂えると思って、いやに大きな声を出しゃあがらあ。牛肉一斤が隣り近所へ自慢なんだから始末に終えねえ
阿魔だ」と
黒は
嘲りながら四つ足を
踏張る。
吾輩は挨拶のしようもないから黙って見ている。「一斤くらいじゃあ、承知が出来ねえんだが、仕方がねえ、いいから取っときゃ、今に食ってやらあ」と自分のために
誂えたもののごとくいう。「今度は本当の御馳走だ。結構結構」と
吾輩はなるべく彼を帰そうとする。「御めっちの知った事じゃねえ。黙っていろ。うるせえや」と言いながら突然
後足で
霜柱の
崩れた奴を
吾輩の頭へ ばさりと
浴びせ掛ける。
吾輩が驚ろいて、からだの泥を払っている間に
黒は垣根を
潜って、どこかへ姿を隠した。大方
西川の
牛を
覘に行ったものであろう。
家へ帰ると座敷の中が、いつになく春めいて
主人の笑い声さえ陽気に聞える。はてなと明け放した縁側から上って
主人の
傍へ寄って見ると見馴れぬ客が来ている。頭を奇麗に分けて、
木綿の紋付の羽織に
小倉の
袴【丈夫な綿織物】を着けて
至極真面目そうな
書生体の男である。
主人の手あぶりの角を見ると
春慶塗り【透明な漆を塗り、素地の木目を生かしたもの】の
巻煙草入れと並んで
越智東風君を紹介致
候水島
寒月という名刺があるので、この客の名前も、
寒月君の友人であるという事も知れた。
主客の対話は途中からであるから前後がよく分らんが、何でも
吾輩が前回に紹介した美学者
迷亭君の事に関しているらしい。
「それで面白い趣向があるから是非いっしょに来いとおっしゃるので」と客は落ちついて言う。「何ですか、その西洋料理へ行って
午飯を食うのについて趣向があるというのですか」と
主人は茶を
続ぎ足して客の前へ押しやる。「さあ、その趣向というのが、その時は私にも分らなかったんですが、いずれあの
方の事ですから、何か面白い種があるのだろうと思いまして……」「いっしょに行きましたか、なるほど」「ところが驚いたのです」
主人はそれ見たかと言わぬばかりに、
膝の上に乗った
吾輩の頭をぽかと
叩く。少し痛い。「また馬鹿な茶番見たような事なんでしょう。あの男はあれが癖でね」と急にアンドレア・デル・サルト事件を思い出す。「へへー。君 何か変ったものを食おうじゃないかとおっしゃるので」
33/115
「何を食いました」「まず
献立を見ながらいろいろ料理についての御話しがありました」「
誂らえない前にですか」「ええ」「それから」「それから首を
捻ってボーイの方を御覧になって、どうも変ったものも ないようだなと おっしゃるとボーイは負けぬ気で
鴨のロースか小牛のチャップなどは
如何ですと言うと、先生は、そんな
月並を食いに わざわざここまで来やしないとおっしゃるんで、ボーイは月並という意味が分らんものですから妙な顔をして黙っていましたよ」「そうでしょう」「それから私の方を御向きになって、君
仏蘭西や
英吉利へ行くと随分
天明調【天明集を参考にしたもの】や
万葉調【万葉集を参考にしたもの】が食えるんだが、日本じゃどこへ行ったって版で
圧したようで、どうも西洋料理へ入る気がしないと言うような
大気燄で――全体あの
方は洋行なすった事があるのですかな」「何
迷亭が洋行なんかするもんですか、そりゃ金もあり、時もあり、行こうと思えばいつでも行かれるんですがね。大方これから行くつもりのところを、過去に見立てた
洒落なんでしょう」と
主人は自分ながらうまい事を言ったつもりで誘い出し笑をする。客はさまで感服した様子もない。「そうですか、私はまたいつの間に洋行なさったかと思って、つい真面目に拝聴していました。それに見て来たように
なめくじのスープの御話や
蛙のシチューの形容をなさるものですから」「そりゃ誰かに聞いたんでしょう、うそをつく事はなかなか名人ですからね」「どうもそうのようで」と
花瓶の水仙を眺める。少しく残念の
気色にも取られる。「じゃ趣向というのは、それなんですね」と
主人が念を押す。「いえそれはほんの冒頭なので、本論はこれからなのです」「ふーん」と
主人は好奇的な感投詞を
挟む。「それから、とても
なめくじや蛙は食おうっても食えやしないから、まあ
トチメンボーくらいなところで負けとく事にしようじゃないかと 御相談なさるものですから、私はつい何の気なしに、それがいいでしょう、といってしまったので」「へー、とちめんぼうは妙ですな」「ええ全く妙なのですが、先生があまり真面目だものですから、つい気がつきませんでした」と あたかも
主人に向って
麁忽【不注意】を
詫びているように見える。「それからどうしました」と
主人は無頓着に聞く。客の謝罪には一向同情を表しておらん。「それからボーイに おい
トチメンボーを二人前 持って来いというと、ボーイが
メンチボーですかと聞き直しましたが、先生はますます
真面目な
貌で
メンチボーじゃない
トチメンボーだと訂正されました」「なある。
34/115
その
トチメンボーという料理は一体あるんですか」「さあ私も少しおかしいとは思いましたが いかにも先生が沈着であるし、その上あの通りの西洋通でいらっしゃるし、ことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから、私も口を添えて
トチメンボーだ
トチメンボーだと ボーイに教えてやりました」「ボーイはどうしました」「ボーイがね、今考えると実に
滑稽なんですがね、しばらく思案していましてね、はなはだ御気の毒様ですが今日は
トチメンボーは
御生憎様で
メンチボーなら
御二人前すぐに出来ますと言うと、先生は非常に残念な様子で、それじゃせっかくここまで来た
甲斐がない。どうか
トチメンボーを
都合して食わせてもらう
訳には行くまいかと、ボーイに二十銭銀貨【約千円/2025年】をやられると、ボーイはそれではともかくも料理番と相談して参りましょうと奥へ行きましたよ」「大変
トチメンボーが食いたかったと見えますね」「しばらくしてボーイが出て来て
真に御生憎で、
御誂なら こしらえますが少々時間がかかります、と言うと
迷亭先生は落ちついたもので、どうせ我々は正月でひまなんだから、少し待って食って行こうじゃないかと言いながら ポッケットから葉巻を出してぷかりぷかり吹かし始められたので、
私しも仕方がないから、
懐から日本新聞を出して読み出しました、するとボーイはまた奥へ相談に行きましたよ」「いやに
手数が掛りますな」と
主人は戦争の通信を読むくらいの意気込で席を
前める。「するとボーイがまた出て来て、近頃は
トチメンボーの材料が払底【品切れ】で 亀屋へ行っても横浜の十五番へ行っても買われませんから 当分の間は御生憎様でと気の毒そうに言うと、先生はそりゃ困ったな、せっかく来たのになあと 私の方を御覧になってしきりに繰り返さるるので、私も黙っている訳にも参りませんから、どうも
遺憾ですな、遺憾
極るですなと調子を合せたのです」「ごもっともで」と
主人が賛成する。何がごもっともだか
吾輩にはわからん。「するとボーイも気の毒だと見えて、その内材料が参りましたら、どうか願いますってんでしょう。先生が材料は何を使うかねと問われると ボーイはへへへへと笑って返事をしないんです。材料は日本派【保守的・伝統重視】の俳人だろうと先生が押し返して聞くとボーイはへえさようで、それだものだから近頃は横浜へ行っても買われませんので、まことにお気の毒様と言いましたよ」「アハハハそれが落ちなんですか、こりゃ面白い」と
主人はいつになく大きな声で笑う。
膝が揺れて
吾輩は落ちかかる。
主人はそれにも
頓着なく笑う。アンドレア・デル・サルトに
罹ったのは 自分一人でないと言う事を知ったので 急に愉快になったものと見える。
35/115
「それから二人で表へ出ると、どうだ君 うまく行ったろう、
橡面坊【俳人の安藤橡面坊をもじって使っている】を種に使ったところが面白かろうと大得意なんです。敬服の至りですと言って御別れしたようなものの 実は
午飯の時刻が延びたので 大変空腹になって弱りましたよ」「それは御迷惑でしたろう」と
主人は始めて同情を表する。これには
吾輩も異存はない。しばらく話しが途切れて
吾輩の
咽喉を鳴らす音が
主客の耳に入る。
東風君は冷めたくなった茶をぐっと飲み干して「実は今日参りましたのは、少々先生に御願があって参ったので」と改まる。「はあ、何か御用で」と
主人も負けずに
済ます。「御承知の通り、文学美術が好きなものですから……」「結構で」と油を
注す。「同志だけがよりましてせんだってから朗読会というのを組織しまして、毎月一回会合してこの方面の研究をこれから続けたいつもりで、すでに第一回は去年の暮に開いたくらいであります」「ちょっと伺っておきますが、朗読会と言うと何か
節奏でも附けて、
詩歌文章の
類を読むように聞えますが、一体どんな風にやるんです」「まあ初めは古人の作からはじめて、
追々は同人の創作なんかもやるつもりです」「古人の作というと
白楽天【唐の詩人】の
琵琶行のようなものででもあるんですか」「いいえ」「
蕪村の
春風馬堤曲【与謝蕪村の俳詩】の種類ですか」「いいえ」「それじゃ、どんなものをやったんです」「せんだっては近松の
心中物をやりました」「近松? あの
浄瑠璃の近松ですか」近松に二人はない。近松といえば戯曲家の近松に
極っている。それを聞き直す
主人はよほど
愚だと思っていると、
主人は何にも分らずに
吾輩の頭を
丁寧に
撫でている。
薮睨みから
惚れられたと自認している人間もある世の中だから このくらいの
誤謬【まちがい】は決して驚くに足らんと撫でらるるがままに すましていた。「ええ」と答えて
東風子は
主人の顔色を
窺う。「それじゃ一人で朗読するのですか、または役割を
極めてやるんですか」「役を極めて
懸合でやって見ました。その主意はなるべく作中の人物に同情を持ってその性格を発揮するのを第一として、それに手真似や身振りを添えます。
36/115
白はなるべくその時代の人を写し出すのが主で、御嬢さんでも
丁稚でも、その人物が出てきたようにやるんです」「じゃ、まあ芝居見たようなものじゃありませんか」「ええ
衣装と
書割【背景を描いた大道具】がないくらいなものですな」「失礼ながらうまく行きますか」「まあ第一回としては成功した方だと思います」「それでこの前やったとおっしゃる心中物というと」「その、船頭が御客を乗せて
芳原へ行く
所なんで」「大変な幕をやりましたな」と教師だけにちょっと首を
傾ける。鼻から吹き出した
日の出の煙りが耳を
掠めて顔の横手へ廻る。「なあに、そんなに大変な事もないんです。登場の人物は御客と、船頭と、
花魁と
仲居と
遣手【遊女屋の女将】と
見番【案内連絡係】だけですから」と
東風子は平気なものである。
主人は
花魁という名をきいてちょっと
苦い顔をしたが、仲居、遣手、見番という術語について明瞭の知識がなかったと見えてまず質問を呈出した。「仲居というのは
娼家の
下婢にあたるものですかな」「まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で、遣手というのが
女部屋の
助役見たようなものだろうと思います」
東風子はさっき、その人物が出て来るように
仮色を使うと言った癖に遣手や仲居の性格をよく解しておらんらしい。「なるほど仲居は茶屋に
隷属するもので、遣手は娼家に
起臥【寝起き】する者ですね。次に
見番と言うのは人間ですか または一定の場所を
指すのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか」「見番は何でも男の人間だと思います」「何を
司どっているんですかな」「さあそこまでは まだ調べが届いておりません。その内調べて見ましょう」これで懸合をやった日には
頓珍漢なものが出来るだろうと
吾輩は
主人の顔をちょっと見上げた。
主人は存外真面目である。「それで朗読家は君のほかにどんな人が加わったんですか」「いろいろおりました。
花魁が法学士のK君でしたが、
口髯を生やして、女の甘ったるいせりふを
使かうのですから ちょっと妙でした。それにその
花魁が
癪【しゃっくり】を起すところがあるので……」「朗読でも癪を起さなくっちゃ、いけないんですか」と
主人は心配そうに尋ねる。「ええ とにかく表情が大事ですから」と
東風子はどこまでも文芸家の気でいる。「うまく癪が起りましたか」と
主人は警句を吐く。「癪だけは第一回には、ちと無理でした」と
東風子も警句を吐く。「ところで君は何の役割でした」と
主人が聞く。「
私しは船頭」
37/115
「へー、君が船頭」君にして船頭が
務まるものなら僕にも見番くらいはやれると言ったような語気を
洩らす。やがて「船頭は無理でしたか」と御世辞のないところを打ち明ける。
東風子は別段癪に障った様子もない。やはり沈着な口調で「その船頭でせっかくの催しも
竜頭蛇尾【始めは勢いがよいが終わりはしりすぼみ】に終りました。実は会場の隣りに女学生が四五人下宿していましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読会があるという事を、どこかで探知して会場の窓下へ来て傍聴していたものと見えます。
私しが船頭の
仮色を使って、ようやく調子づいてこれなら大丈夫と思って得意にやっていると、……つまり身振りがあまり過ぎたのでしょう、今まで
耐らえていた女学生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚ろいた事も驚ろいたし、
極りが
悪るい事も悪るいし、それで腰を折られてから、どうしても後がつづけられないので、とうとうそれ
限りで散会しました」第一回としては成功だと称する朗読会がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると笑わずにはいられない。覚えず
咽喉仏がごろごろ鳴る。
主人はいよいよ柔かに頭を
撫でてくれる。人を笑って可愛がられるのはありがたいが、いささか無気味なところもある。「それは飛んだ事で」と
主人は正月早々
弔詞を述べている。「第二回からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、今日出ましたのも全くそのためで、実は先生にも一つ御入会の上御尽力を仰ぎたいので」「僕にはとても癪なんか起せませんよ」と消極的の
主人はすぐに断わりかける。「いえ、癪などは起していただかんでもよろしいので、ここに賛助員の名簿が」と言いながら紫の風呂敷から大事そうに
小菊版【A4版に似たサイズ】の帳面を出す。「これへどうか御署名の上
御捺印を願いたいので」と帳面を
主人の
膝の前へ開いたまま置く。見ると現今知名な文学博士、文学士連中の名が行儀よく
勢揃をしている。「はあ賛成員にならん事もありませんが、どんな義務があるのですか」と
牡蠣先生は
掛念の
体に見える。「義務と申して別段是非願う事もないくらいで、ただ御名前だけを御記入下さって賛成の意さえ
御表し
被下ればそれで結構です」「そんなら入ります」と義務のかからぬ事を知るや否や
主人は急に気軽になる。責任さえないと言う事が分っておれば
謀叛の連判状へでも名を書き入れますと言う顔付をする。
加之こう知名の学者が名前を
列ねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんな事に出合った事のない
主人にとっては無上の光栄であるから返事の勢のあるのも無理はない。「ちょっと失敬」と
主人は書斎へ印をとりに入る。
38/115
吾輩はぼたりと畳の上へ落ちる。
東風子は菓子皿の中の
カステラをつまんで一口に
頬張る。モゴモゴしばらくは苦しそうである。
吾輩は今朝の
雑煮事件をちょっと思い出す。
主人が書斎から
印形を持って出て来た時は、
東風子の胃の中にカステラが落ちついた時であった。
主人は菓子皿のカステラが
一切足りなくなった事には気が着かぬらしい。もし気がつくとすれば第一に疑われるものは
吾輩であろう。
東風子が帰ってから、
主人が書斎に入って机の上を見ると、いつの間にか
迷亭先生の手紙が来ている。
『新年の御慶目出度申納候。……』
いつになく出が真面目だと
主人が思う。
迷亭先生の手紙に真面目なのはほとんどないので、この間などは「
其後別に
恋着【深く執着】せる婦人も
無之、いず
方より
艶書も参らず、
先ず
先ず無事に消光【日を過ごす】
罷り在り
候間、
乍憚御休心【安心】
可被下候」と言うのが来たくらいである。それに
較べるとこの年始状は例外にも世間的である。
『一寸参堂仕り 度【お宅に伺いたい】候えども、大兄【あなた】の消極主義に反して、出来得る限り積極的方針を以て、此千古【千年の昔から】未曽有【かつてなかった】の新年を迎うる計画故、毎日毎日目の廻る程の多忙、御推察願上候……』
なるほどあの男の事だから正月は遊び廻るのに忙がしいに違いないと、
主人は腹の中で
迷亭君に同意する。
『昨日は一刻のひまを偸み、東風子にトチメンボーの御馳走を致さんと存じ候処、生憎材料払底の為め其意を果さず、遺憾千万に存候。……』
そろそろ例の通りになって来たと
主人は無言で微笑する。
『明日は某男爵の歌留多会、明後日は審美学協会の新年宴会、其明日は鳥部教授歓迎会、其又明日は……』
うるさいなと、
主人は読みとばす。
『右の如く謡曲会、俳句会、短歌会、新体詩会等、会の連発にて当分の間は、のべつ幕無しに出勤致し候為め、不得已賀状を以て拝趨【急ぎ伺う】の礼に易え 候段 不悪 御宥恕【寛大に許す】 被下度候。……』
別段くるにも及ばんさと、
主人は手紙に返事をする。
『今度御光来【来訪】の節は久し振りにて晩餐でも供し度心得に御座候。寒厨【食物の乏しい台所】何の珍味も無之候えども、せめてはトチメンボーでもと只今より心掛居候。……』
まだ
トチメンボーを振り廻している。
39/115
失敬なと
主人はちょっとむっとする。
『然しトチメンボーは近頃材料払底の為め、ことに依ると間に合い兼候も計りがたきにつき、其節は孔雀の舌でも御風味に入れ可申候。……』
両天秤をかけたなと
主人は、あとが読みたくなる。
『御承知の通り孔雀一羽につき、舌肉の分量は小指の半ばにも足らぬ程故健啖【食欲が旺盛】なる大兄の胃嚢を充たす為には……』
うそをつけと
主人は打ち
遣ったようにいう。
『是非共二三十羽の孔雀を捕獲致さざる可らずと存候。然る所孔雀は動物園、浅草花屋敷等には、ちらほら見受け候えども、普通の鳥屋抔には一向見当り不申、苦心此事に御座候。……』
独りで勝手に苦心しているのじゃないかと
主人は
毫も感謝の意を表しない。
『此孔雀の舌の料理は往昔【いにしえ】羅馬全盛の砌り、一時非常に流行致し候ものにて、豪奢風流の極度と平生よりひそかに食指を動かし居候次第御諒察【ご察し】可被下候。……』
何が御諒察だ、馬鹿なと
主人はすこぶる冷淡である。
『降って十六七世紀の頃迄は全欧を通じて孔雀は宴席に欠くべからざる好味と相成居候。レスター伯【イギリスの伯爵】がエリザベス女皇をケニルウォースに招待致し候節も慥か孔雀を使用致し候様記憶致候。有名なるレンブラント【オランダで活躍した画家】が画き候饗宴の図にも孔雀が尾を広げたる儘卓上に横わり居り候……』
孔雀の料理史をかくくらいなら、そんなに多忙でもなさそうだと不平をこぼす。
『とにかく近頃の如く御馳走の食べ続けにては、さすがの小生も遠からぬうちに大兄の如く胃弱と相成るは必定……』
大兄のごとくは余計だ。何も僕を胃弱の標準にしなくても済むと
主人はつぶやいた。
『歴史家の説によれば羅馬人は日に二度三度も宴会を開き候由。日に二度も三度も方丈の食饌【ぜいたくな食事】に就き候えば如何なる健胃の人にても消化機能に不調を醸すべく、従って自然は大兄の如く……』
また大兄のごとくか、失敬な。
『然るに贅沢と衛生とを両立せしめんと研究を尽したる彼等は不相当に多量の滋味を貪ると同時に胃腸を常態に保持するの必要を認め、ここに一の秘法を案出致し候……』
はてねと
主人は急に熱心になる。
40/115
『彼等は食後必ず入浴致候。入浴後一種の方法によりて浴前に嚥下せるものを悉く嘔吐し、胃内を掃除致し候。胃内廓清【清らかにする】の功を奏したる後又食卓に就き、飽く迄珍味を風好し、風好し了れば又湯に入りて之を吐出致候。かくの如くすれば好物は貪ぼり次第貪り候も毫も内臓の諸機関に障害を生ぜず、一挙両得とは此等の事を可申かと愚考致候……』
なるほど一挙両得に相違ない。
主人は
羨ましそうな顔をする。
『廿世紀【二十世紀】の今日交通の頻繁、宴会の増加は申す迄もなく、軍国多事征露の第二年とも相成候折柄、吾人戦勝国の国民は、是非共羅馬人に傚って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し候事と自信致候。左もなくば切角の大国民も近き将来に於て悉く大兄の如く胃病患者と相成る事と窃かに心痛罷りあり候……』
また大兄のごとくか、
癪に
障る男だと
主人が思う。
『此際 吾人【我々】 西洋の事情に通ずる者が古史伝説を考究し、既に廃絶せる秘法を発見し、之を明治の社会に応用致し候わば 所謂 禍を未萌【事前】に防ぐの功徳にも相成り 平素逸楽【悦楽】を 擅に致し候御恩返も 相立ち可申と存候……』
何だか妙だなと首を
捻る。
『依て此間中よりギボン【イギリスの歴史家】、モンセン【ドイツの歴史家】、スミス【イギリスの辞典編纂者】等諸家の著述を渉猟【読みあさる】致し居候えども 未だに発見の端緒をも見出し得ざるは残念の至に存候。然し御存じの如く小生は一度思い立ち候事は成功するまでは決して中絶仕らざる性質に候えば嘔吐方を再興致し候も遠からぬうちと信じ居り候次第。右は発見次第御報道可仕候につき、左様御承知可被下候。就てはさきに申上候トチメンボー及び孔雀の舌の御馳走も可相成は右発見後に致し度、左すれば小生の都合は勿論、既に胃弱に悩み居らるる大兄の為にも御便宜かと存候 草々不備【急ぎ書いたので失礼があるかもしれません】』
何だとうとう
担がれたのか、あまり書き方が真面目だものだからつい
仕舞まで本気にして読んでいた。新年
匆々こんな
悪戯をやる
迷亭はよっぽどひま人だなあと
主人は笑いながら言った。
それから四五日は別段の事もなく過ぎ去った。
白磁【花瓶】の水仙がだんだん
凋んで、
青軸の梅が
瓶ながらだんだん開きかかるのを眺め暮らしてばかりいてもつまらんと思って、
一両度【一、二度】
三毛子を訪問して見たが
逢われない。最初は留守だと思ったが、二
返目には病気で寝ているという事が知れた。障子の中で例の御
師匠さんと下女が話しをしているのを
手水鉢【手洗い桶】の葉蘭【ハラン】の影に隠れて聞いているとこうであった。
「
三毛は御飯をたべるかい」「いいえ今朝からまだ
何にも食べません、あったかにして
御火燵に寝かしておきました」何だか猫らしくない。
41/115
まるで人間の取扱を受けている。
一方では自分の境遇と比べて見て
羨ましくもあるが、一方では
己が愛している猫がかくまで厚遇を受けていると思えば嬉しくもある。
「どうも困るね、御飯をたべないと、
身体が疲れるばかりだからね」「そうでございますとも、私共でさえ一日
御膳をいただかないと、明くる日はとても働けませんもの」
下女は自分より猫の方が上等な動物であるような返事をする。実際この
家では下女より猫の方が大切かも知れない。
「御医者様へ連れて行ったのかい」「ええ、あの御医者はよっぽど妙でございますよ。私が
三毛をだいて診察場へ行くと、
風邪でも引いたのかって私の
脈をとろうとするんでしょう。いえ病人は私ではございません。これですって
三毛を膝の上へ直したら、にやにや笑いながら、猫の病気はわしにも分らん、
抛っておいたら今に
癒るだろうってんですもの、あんまり
苛いじゃございませんか。腹が立ったから、それじゃ見ていただかなくっても ようございます これでも大事の猫なんですって、
三毛を
懐へ入れてさっさと帰って参りました」「ほんにねえ」
「ほんにねえ」は
到底吾輩のうちなどで聞かれる言葉ではない。やはり
天璋院様の何とかの何とかでなくては使えない、はなはだ
雅であると感心した。
「何だか しくしく言うようだが……」「ええきっと風邪を引いて
咽喉が痛むんでございますよ。風邪を引くと、どなたでも
御咳が出ますからね……」
天璋院様の何とかの何とかの下女だけに馬鹿
丁寧な言葉を使う。
「それに近頃は肺病とか言うものが出来てのう」「ほんとにこの頃のように肺病だのペストだのって新しい病気ばかり
殖えた日にゃ油断も隙も なりゃしません のでございますよ」「旧幕時代に無い者に
碌な者はないから御前も気をつけないといかんよ」「そうでございましょうかねえ」
下女は
大に感動している。
「
風邪を引くといってもあまり出あるきもしないようだったに……」「いえね、あなた、それが近頃は悪い友達が出来ましてね」
下女は国事の秘密でも語る時のように大得意である。
「悪い友達?」「ええあの表通りの教師の
所にいる薄ぎたない
雄猫でございますよ」「教師と言うのは、あの毎朝無作法な声を出す人かえ」「ええ顔を洗うたんびに
鵝鳥が
絞め殺されるような声を出す人でござんす」
鵝鳥が絞め殺されるような声はうまい形容である。
吾輩の
主人は毎朝風呂場で
含嗽をやる時、
楊枝で
咽喉をつっ突いて妙な声を無遠慮に出す癖がある。
42/115
機嫌の悪い時はやけに があがあやる、機嫌の好い時は元気づいてなお があがあやる。つまり機嫌のいい時も悪い時も休みなく勢よく があがあやる。
細君の話しではここへ引越す前まではこんな癖はなかったそうだが、ある時ふとやり出してから今日まで一日もやめた事がないという。ちょっと厄介な癖であるが、なぜこんな事を根気よく続けているのか吾等猫などには
到底想像もつかん。それもまず善いとして「薄ぎたない猫」とは随分酷評をやるものだとなお耳を立ててあとを聞く。
「あんな声を出して何の
呪いになるか知らん。
御維新前は
中間【武家の下働き】でも
草履取りでも相応の作法は心得たもので、屋敷町などで、あんな顔の洗い方をするものは一人もおらなかったよ」「そうでございましょうともねえ」
下女は
無暗に感服しては、無暗に
ねえを使用する。
「あんな
主人を持っている猫だから、どうせ
野良猫さ、今度来たら少し
叩いておやり」「叩いてやりますとも、
三毛の病気になったのも全くあいつの御蔭に相違ございませんもの、きっと
讐をとってやります」
飛んだ
冤罪を
蒙ったものだ。こいつは
滅多に
近か
寄れないと
三毛子にはとうとう逢わずに帰った。
帰って見ると
主人は書斎の
中で何か
沈吟【思いにふける】の
体で筆を
執っている。
二絃琴の御
師匠さんの
所で聞いた評判を話したら、さぞ
怒るだろうが、知らぬが仏とやらで、うんうん言いながら神聖な詩人になりすましている。
ところへ当分多忙で行かれないと言って、わざわざ年始状をよこした
迷亭君が
飄然【ふらり】とやって来る。「何か新体詩でも作っているのかね。面白いのが出来たら見せたまえ」と言う。「うん、ちょっとうまい文章だと思ったから今翻訳して見ようと思ってね」と
主人は重たそうに口を開く。「文章?
誰れの文章だい」「誰れのか分らんよ」「無名氏か、無名氏の作にも随分善いのがあるからなかなか馬鹿に出来ない。全体どこにあったのか」と問う。「第二読本」と
主人は落ちつきはらって答える。「第二読本? 第二読本がどうしたんだ」「僕の翻訳している名文と言うのは第二読本の
中にあると言う事さ」「
冗談じゃない。孔雀の舌の
讐を
際どいところで討とうと言う寸法なんだろう」「僕は君のような
法螺吹きとは違うさ」と
口髯を
捻る。泰然たるものだ。
43/115
「
昔し ある人が山陽【昔の文人】に、先生近頃名文はござらぬかといったら、山陽が
馬子の書いた借金の催促状を示して 近来の名文は まずこれでしょうと言ったという話があるから、君の審美眼も存外たしかかも知れん。どれ読んで見給え、僕が批評してやるから」と
迷亭先生は審美眼の
本家のような事を言う。
主人は禅
坊主が
大灯国師【臨済宗の名僧】の
遺誡【遺訓】を読むような声を出して読み始める。「
巨人、
引力」「何だいその巨人引力と言うのは」「巨人引力と言う題さ」「妙な題だな、僕には意味がわからんね」「引力と言う名を持っている巨人というつもりさ」「少し無理な
つもりだが表題だからまず負けておくとしよう。それから
早々本文を読むさ、君は声が善いからなかなか面白い」「
雑ぜかえしてはいかんよ」と
予じめ念を押してまた読み始める。
ケートは窓から外面を眺める。小児が球を投げて遊んでいる。彼等は高く球を空中に擲つ。球は上へ上へとのぼる。しばらくすると落ちて来る。彼等はまた球を高く擲つ。再び三度。擲つたびに球は落ちてくる。なぜ落ちるのか、なぜ上へ上へとのみ のぼらぬかとケートが聞く。「巨人が地中に住む故に」と母が答える。「彼は巨人引力である。彼は強い。彼は万物を己れの方へと引く。彼は家屋を地上に引く。引かねば飛んでしまう。小児も飛んでしまう。葉が落ちるのを見たろう。あれは巨人引力が呼ぶのである。本を落す事があろう。巨人引力が来いというからである。球が空にあがる。巨人引力は呼ぶ。呼ぶと落ちてくる」
「それぎりかい」「むむ、
甘いじゃないか」「いやこれは恐れ入った。飛んだところで
トチメンボーの御返礼に
預った」「御返礼でもなんでもないさ、実際うまいから訳して見たのさ、君はそう思わんかね」と金縁の眼鏡の奥を見る。「どうも驚ろいたね。君にしてこの
技量あらんとは、全く
此度という
今度は
担がれたよ、降参降参」と一人で承知して一人で
喋舌る。
主人には
一向通じない。「何も君を降参させる考えはないさ。ただ面白い文章だと思ったから訳して見たばかりさ」「いや実に面白い。そう来なくっちゃ本ものでない。
凄いものだ。恐縮だ」
44/115
「そんなに恐縮するには及ばん。僕も近頃は水彩画をやめたから、その代りに文章でもやろうと思ってね」「どうして
遠近 無差別 黒白 平等の水彩画の比じゃない【水彩画のような曖昧さなんて生ぬるいほどの、ものすごく混沌としている】。感服の至りだよ」「そうほめてくれると僕も乗り気になる」と
主人は あくまでも
疳違いをしている【皮肉っただけなのに】。
ところへ
寒月君が先日は失礼しましたと入って来る。「いや失敬。今大変な名文を拝聴して
トチメンボーの亡魂を
退治られたところで」と
迷亭先生は訳のわからぬ事をほのめかす。「はあ、そうですか」とこれも訳の分らぬ挨拶をする。
主人だけは
左のみ【たいして】浮かれた
気色【様子】もない。「先日は君の紹介で
越智東風と言う人が来たよ」「ああ上りましたか、あの
越智東風と言う男は至って正直な男ですが少し変っているところがあるので、あるいは御迷惑かと思いましたが、是非紹介してくれというものですから……」「別に迷惑の事もないがね……」「こちらへ上っても自分の姓名のことについて何か弁じて行きゃしませんか」「いいえ、そんな話もなかったようだ」「そうですか、どこへ行っても初対面の人には自分の名前の
講釈をするのが癖でしてね」「どんな講釈をするんだい」と事あれかし【そうなってほしい】と待ち構えた
迷亭君は口を入れる。「あの
東風と言うのを
音で読まれると大変気にするので」「はてね」と
迷亭先生は
金唐皮【黄金の皮革】の
煙草入から煙草をつまみ出す。「
私しの名は
越智東風ではありません、
越智こちですと必ず断りますよ」「妙だね」と
雲井【タバコ】を腹の底まで
呑み込む。「それが全く文学熱から来たので、こちと読むと
遠近【〝おちこち〟と読み〝あちらこちら〟という意味】と言う
成語になる、のみならずその姓名が
韻を踏んでいると言うのが得意なんです。それだから
東風を
音で読むと僕がせっかくの苦心を人が買ってくれないといって不平を言うのです」「こりゃなるほど変ってる」と
迷亭先生は図に乗って腹の底から雲井を鼻の
孔まで吐き返す。途中で煙が
戸迷いをして
咽喉の出口へ引きかかる。先生は
煙管を握って ごほんごほん と
咽び返る。「先日来た時は朗読会で船頭になって女学生に笑われたといっていたよ」と
主人は笑いながら言う。「うむそれそれ」と
迷亭先生が
煙管で
膝頭を
叩く。
吾輩は
険呑【不安】になったから少し
傍を離れる。
45/115
「その朗読会さ。せんだって
トチメンボーを御馳走した時にね。その話しが出たよ。何でも第二回には知名の文士を招待して大会をやるつもりだから、先生にも是非御臨席を願いたいって。それから僕が今度も近松の世話物【人情話】をやるつもりかいと聞くと、いえこの次はずっと新しい者を
撰んで
金色夜叉にしましたと言うから、君にゃ何の役が当ってるかと聞いたら私は
御宮ですといったのさ。
東風の御宮は面白かろう。僕は是非出席して
喝采しようと思ってるよ」「面白いでしょう」と
寒月君が妙な笑い方をする。「しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないから好い。
迷亭などとは大違いだ」と
主人はアンドレア・デル・サルトと
孔雀の舌と
トチメンボーの
復讐を一度にとる。
迷亭君は気にも留めない様子で「どうせ僕などは
行徳の
俎【馬鹿で世間ずれ】と言う格だからなあ」と笑う。「まずそんなところだろう」と
主人が言う。実は行徳の俎と言う語を
主人は
解さないのであるが、さすが永年教師をして
胡魔化しつけているものだから、こんな時には教場の経験を社交上にも応用するのである。「行徳の俎というのは何の事ですか」と
寒月が
真率【率直】に聞く。
主人は床の方を見て「あの水仙は暮に僕が風呂の帰りがけに買って来て
挿したのだが、よく持つじゃないか」と行徳の俎を無理にねじ伏せる。「暮といえば、去年の暮に僕は実に不思議な経験をしたよ」と
迷亭が
煙管を
大神楽のごとく指の
尖で廻わす。「どんな経験か、聞かし
玉え」と
主人は行徳の俎を遠く
後に見捨てた気で、ほっと息をつく。
迷亭先生の不思議な経験というのを聞くと
左のごとくである。
「たしか暮の二十七日と記憶しているがね。例の
東風から参堂の上 是非文芸上の御高話を伺いたいから御在宿を願うと言う
先き
触れがあったので、朝から心待ちに待っていると先生なかなか来ないやね。昼飯を食ってストーブの前でバリー・ペーン【イギリスのユーモア作家】の
滑稽物を読んでいるところへ静岡の母から手紙が来たから見ると、年寄だけにいつまでも僕を小供のように思ってね。寒中は夜間外出をするなとか、冷水浴もいいがストーブを
焚いて
室を
煖かにしてやらないと
風邪を引くとか いろいろの注意があるのさ。
46/115
なるほど親はありがたいものだ、他人ではとてもこうはいかないと、
呑気な僕もその時だけは
大に感動した。それにつけても、こんなにのらくらしていては
勿体ない。何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。母の生きているうちに天下をして明治の文壇に
迷亭先生あるを知らしめたいと言う気になった。それからなお読んで行くと御前なんぞは実に仕合せ者だ。
露西亜と戦争が始まって若い人達は大変な
辛苦をして
御国のために働らいているのに
節季師走でもお正月のように気楽に遊んでいると書いてある。――僕はこれでも母の思ってるように遊んじゃいないやね――そのあとへ
以て来て、僕の小学校時代の
朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものの名前が列挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時には何だか世の中が
味気なくなって人間もつまらないと言う気が起ったよ。一番
仕舞にね。
私しも取る年に候えば
初春の
御雑煮を祝い候も今度限りかと……何だか心細い事が書いてあるんで、なおのこと気がくさくさしてしまって早く
東風が来れば好いと思ったが、先生どうしても来ない。そのうちとうとう晩飯になったから、母へ返事でも書こうと思ってちょいと十二三行かいた。母の手紙は六尺【約1.8m】以上もあるのだが僕にはとてもそんな芸は出来んから、いつでも十行内外で御免
蒙る事に
極めてあるのさ。すると一日動かずにおったものだから、胃の具合が妙で苦しい。
東風が来たら待たせておけと言う気になって、郵便を入れながら散歩に出掛けたと思い給え。いつになく富士見町の方へは足が向かないで
土手三番町の方へ我れ知らず出てしまった。ちょうどその晩は少し曇って、から風が
御濠の
向うから吹き付ける、非常に寒い。
神楽坂の方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。大変
淋しい感じがする。暮、戦死、老衰、無常迅速【人はいつ死ぬかわからない】などと言う奴が頭の中をぐるぐる
馳け
廻る。よく人が首を
縊ると言うがこんな時にふと誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。」「ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつの間にか例の松の
真下に来ているのさ」
「例の松た、何だい」と
主人が
断句を投げ入れる。
「
首懸の松さ」と
迷亭は
領を縮める。
「首懸の松は
鴻の
台でしょう」
寒月が
波紋をひろげる。
「
鴻の
台のは
鐘懸の松で、土手三番町のは
首懸の松さ。
47/115
なぜこう言う名が付いたかと言うと、
昔しからの言い伝えで 誰でもこの松の下へ来ると首が
縊りたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら
首縊りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。年に二三
返はきっとぶら下がっている。どうしても
他の松では死ぬ気にならん。見ると、うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。ああ好い枝振りだ。あのままにしておくのは惜しいものだ。どうかしてあすこの所へ人間を下げて見たい、誰か来ないかしらと、
四辺を見渡すと
生憎誰も来ない。仕方がない、自分で下がろうか知らん。いやいや自分が下がっては命がない、
危ないからよそう。しかし昔の
希臘人は宴会の席で
首縊りの真似をして余興を添えたと言う話しがある。一人が台の上へ登って縄の結び目へ首を入れる途端に
他のものが台を蹴返す。首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛び下りるという
趣向である。果してそれが事実なら別段恐るるにも及ばん、僕も一つ試みようと枝へ手を懸けて見ると好い具合に
撓る【たわむ】。
撓り
按排が実に美的である。首がかかってふわふわするところを想像して見ると嬉しくてたまらん。是非やる事にしようと思ったが、もし
東風が来て待っていると気の毒だと考え出した。それではまず
東風に
逢って約束通り話しをして、それから出直そうと言う気になって ついにうちへ帰ったのさ」
「それで
市が栄えたのかい」と
主人が聞く。
「面白いですな」と
寒月が にやにやしながら言う。
「うちへ帰って見ると
東風は来ていない。しかし
今日は
無拠処 差支えがあって出られぬ、いずれ
永日御面晤【面会】を期すという
端書があったので、やっと安心して、これなら心置きなく首が
縊れる嬉しいと思った。で早速下駄を引き懸けて、急ぎ足で元の所へ引き返して見る……」と言って
主人と
寒月の顔を見てすましている。
「見るとどうしたんだい」と
主人は少し
焦れる。
「いよいよ佳境に入りますね」と
寒月は羽織の
紐をひねくる。
「見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。
48/115
たった一足違いでねえ君、残念な事をしたよ。考えると何でもその時は
死神に取り着かれたんだね。ゼームス【アメリカの哲学者】などに言わせると副意識下の
幽冥界と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に
感応したんだろう。実に不思議な事があるものじゃないか」
迷亭はすまし返っている。
主人はまたやられたと思いながら 何も言わずに
空也餅【現在では〝空也もなか〟で有名なお店】を
頬張って口をもごもご言わしている。
寒月は火鉢の灰を丁寧に
掻き
馴らして、
俯向いて にやにや笑っていたが、やがて口を開く。極めて静かな調子である。
「なるほど伺って見ると不思議な事でちょっと有りそうにも思われませんが、私などは自分でやはり似たような経験をつい近頃したものですから、少しも疑がう気になりません」
「おや君も首を
縊りたくなったのかい」
「いえ私のは首じゃないんで。これもちょうど明ければ昨年の暮の事でしかも先生と同日同刻くらいに起った出来事ですから なおさら不思議に思われます」
「こりゃ面白い」と
迷亭も空也餅を頬張る。
「その日は向島の知人の
家で忘年会
兼合奏会がありまして、私もそれへヴァイオリンを
携えて行きました。十五六人令嬢やら令夫人が集ってなかなか盛会で、近来の快事と思うくらいに万事が整っていました。
晩餐もすみ合奏もすんで
四方の話しが出て時刻も
大分遅くなったから、もう
暇乞いをして帰ろうかと思っていますと、某博士の夫人が私のそばへ来てあなたは○○子さんの御病気を御承知ですかと小声で聞きますので、実はその
両三日前に逢った時は平常の通り どこも悪いようには見受けませんでしたから、私も驚ろいて
精しく様子を聞いて見ますと、
私しの逢ったその晩から急に発熱して、いろいろな
譫語を絶間なく
口走るそうで、それだけなら
宜いですがその譫語のうちに私の名が時々出て来るというのです」
主人は無論、
迷亭先生も「
御安くないね」などという
月並は言わず、静粛に謹聴している。
「医者を呼んで見てもらうと、何だか病名はわからんが、何しろ熱が
劇しいので脳を犯しているから、もし
睡眠剤が思うように功を奏しないと危険であると言う診断だそうで 私はそれを聞くや否や一種いやな感じが起ったのです。ちょうど夢でうなされる時のような重くるしい感じで周囲の空気が急に固形体になって 四方から吾が身をしめつけるごとく思われました。帰り道にもその事ばかりが頭の中にあって苦しくてたまらない。あの奇麗な、あの快活なあの健康な○○子さんが……」
49/115
「ちょっと失敬だが待ってくれ給え。さっきから伺っていると○○子さんと言うのが二
返ばかり聞えるようだが、もし
差支えがなければ
承わりたいね、君」と
主人を
顧みると、
主人も「うむ」と
生返事をする。「いやそれだけは当人の迷惑になるかも知れませんから
廃しましょう」
「すべて
曖々然【曖昧の曖の強調】として
昧々然【曖昧の昧の強調】たるかたで行くつもりかね」
「冷笑なさってはいけません、
極真面目な話しなんですから……とにかくあの婦人が急にそんな病気になった事を考えると、実に
飛花落葉【世の移り変わり】の感慨で胸が一杯になって、
総身【全身】の活気が一度にストライキを起したように元気がにわかに
滅入ってしまいまして、ただ
蹌々【よろよろ】として
踉々【よろよろ】という
形ちで
吾妻橋へきかかったのです。欄干に
倚って下を見ると
満潮か
干潮か分りませんが、黒い水がかたまってただ動いているように見えます。
花川戸の方から人力車が一台
馳けて来て橋の上を通りました。その
提灯の火を見送っていると、だんだん小くなって
札幌ビールの処で消えました。私はまた水を見る。すると
遥かの川上の方で私の名を呼ぶ声が聞えるのです。はてな今時分人に呼ばれる訳はないが誰だろうと水の
面をすかして見ましたが暗くて
何にも分りません。気のせいに違いない
早々帰ろうと思って一足二足あるき出すと、また
微かな声で遠くから私の名を呼ぶのです。私はまた立ち留って耳を立てて聞きました。三度目に呼ばれた時には欄干に
捕まっていながら
膝頭ががくがく
悸え出したのです。その声は遠くの方か、川の底から出るようですが
紛れもない○○子の声なんでしょう。私は覚えず『はーい』と返事をしたのです。その返事が大きかったものですから静かな水に響いて、自分で自分の声に驚かされて、はっと周囲を見渡しました。人も犬も月も
何にも見えません。その時に私はこの『
夜』の中に巻き込まれて、あの声の出る所へ行きたいと言う気がむらむらと起ったのです。○○子の声がまた苦しそうに、訴えるように、救を求めるように私の耳を刺し通したので、今度は『今
直に行きます』と答えて欄干から半身を出して黒い水を眺めました。どうも私を呼ぶ声が
浪の下から無理に
洩れて来るように思われましてね。
50/115
この水の下だなと思いながら私はとうとう欄干の上に乗りましたよ。今度呼んだら飛び込もうと決心して流を見つめていると また憐れな声が糸のように浮いて来る。ここだと思って力を込めて
一反飛び上がっておいて、そして小石か何ぞのように未練なく落ちてしまいました」
「とうとう飛び込んだのかい」と
主人が眼をぱちつかせて問う。
「そこまで行こうとは思わなかった」と
迷亭が自分の鼻の頭をちょいとつまむ。
「飛び込んだ後は気が遠くなって、しばらくは夢中でした。やがて眼がさめて見ると寒くはあるが、どこも
濡れた
所も何もない、水を飲んだような感じもしない。たしかに飛び込んだはずだが実に不思議だ。こりゃ変だと気が付いてそこいらを見渡すと驚きましたね。水の中へ飛び込んだつもりでいたところが、つい間違って橋の真中へ飛び下りたので、その時は実に残念でした。前と
後ろの間違だけであの声の出る所へ行く事が出来なかったのです」
寒月は にやにや笑いながら例のごとく羽織の
紐を
荷厄介【じゃま】にしている。
「ハハハハこれは面白い。僕の経験と善く似ているところが奇だ。やはりゼームス教授の材料になるね。人間の感応と言う題で写生文にしたらきっと文壇を驚かすよ。……そしてその○○子さんの病気はどうなったかね」と
迷亭先生が追窮する。「
二三日前年始に行きましたら、門の内で下女と羽根を突いていましたから病気は全快したものと見えます」
主人は最前から沈思【思いにふける】の
体であったが、この時ようやく口を開いて、「僕にもある」と負けぬ気を出す。
「あるって、何があるんだい」
迷亭の眼中に
主人などは無論ない。
「僕のも去年の暮の事だ」
「みんな去年の暮は
暗合【偶然に一致】で妙ですな」と
寒月が笑う。欠けた前歯のうちに
空也餅が着いている。
「やはり同日同刻じゃないか」と
迷亭がまぜ返す。
「いや日は違うようだ。何でも
二十日頃だよ。
51/115
細君が御歳暮の代りに
摂津大掾【義太夫節の太夫】を聞かしてくれろと言うから、連れて行ってやらん事もないが今日の語り物は何だと聞いたら、
細君が新聞を参考して
鰻谷だと言うのさ。鰻谷は嫌いだから今日はよそうとその日はやめにした。翌日になると
細君がまた新聞を持って来て今日は
堀川だからいいでしょうと言う。堀川は三味線もので賑やかなばかりで
実がないからよそうと言うと、
細君は不平な顔をして引き下がった。その翌日になると
細君が言うには今日は三十三間堂です、私は是非
摂津の三十三間堂が聞きたい。あなたは三十三間堂も御嫌いか知らないが、私に聞かせるのだからいっしょに行って下すっても
宜いでしょうと
手詰【猶予を与えない】の談判をする。御前がそんなに行きたいなら行っても
宜ろしい、しかし一世一代と言うので大変な大入だから
到底突懸けに行ったって入れる
気遣いはない。元来ああ言う場所へ行くには茶屋と言うものが
在って それと交渉して相当の席を予約するのが正当の手続きだから、それを踏まないで常規を脱した事をするのはよくない、残念だが今日はやめようと言うと、
細君は
凄い眼付をして、私は女ですから そんなむずかしい手続きなんか知りませんが、大原のお母あさんも、鈴木の
君代さんも正当の手続きを踏まないで立派に聞いて来たんですから、いくらあなたが教師だからって、そう
手数のかかる見物をしないでもすみましょう、あなたはあんまりだと泣くような声を出す。それじゃ駄目でもまあ行く事にしよう。晩飯をくって電車で行こうと降参をすると、行くなら四時までに向うへ着くようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはいられませんと急に勢がいい。なぜ四時までに行かなくては駄目なんだと聞き返すと、そのくらい早く行って場所をとらなくちゃ入れないからですと 鈴木の
君代さんから教えられた通りを述べる。それじゃ四時を過ぎればもう駄目なんだねと念を押して見たら、ええ駄目ですともと答える。すると君 不思議な事にはその時から急に
悪寒がし出してね」
「奥さんがですか」と
寒月が聞く。
「なに
細君はぴんぴんしていらあね。僕がさ。何だか穴の明いた風船玉のように一度に
萎縮する感じが起ると思うと、もう眼がぐらぐらして動けなくなった」
「急病だね」と
迷亭が注釈を加える。
「ああ困った事になった。
細君が年に一度の願だから是非
叶えてやりたい。
52/115
平生叱りつけたり、口を聞かなかったり、
身上の苦労をさせたり、
小供の世話をさせたりするばかりで何一つ
洒掃薪水【日常の家事】の労に
酬いた事はない。今日は幸い時間もある、
嚢中【財布】には四五枚の
堵物【札】もある。連れて行けば行かれる。
細君も行きたいだろう、僕も連れて行ってやりたい。是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか、
靴脱へ降りる事も出来ない。」
「ああ気の毒だ気の毒だと思うと なお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから
細君と相談をして
甘木医学士を迎いにやると
生憎昨夜が当番でまだ大学から帰らない。二時頃には御帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますと言う返事である。困ったなあ、今
杏仁水【風邪薬】でも飲めば四時前にはきっと
癒るに
極っているんだが、運の悪い時には何事も思うように行かんもので、たまさか
妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと言う予算も、がらりと
外れそうになって来る。
細君は
恨めしい顔付をして、
到底いらっしゃれませんかと聞く。行くよ必ず行くよ。四時までにはきっと直って見せるから安心しているがいい。早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいい、と口では言ったようなものの胸中は無限の感慨である。悪寒はますます
劇しくなる、眼はいよいよぐらぐらする。もしや四時までに全快して約束を
履行する事が出来なかったら、気の狭い女の事だから何をするかも知れない。
情けない仕儀になって来た。どうしたら善かろう。万一の事を考えると今の内に
有為転変【世の中は移り変わりやすく、はかない】の理、
生者必滅【命あるものは いつかは必ず死ぬ】の道を説き聞かして、もしもの変が起った時取り乱さないくらいの覚悟をさせるのも、
夫の
妻に対する義務ではあるまいかと考え出した。僕は
速かに
細君を書斎へ呼んだよ。
53/115
呼んで御前は女だけれども many a slip 'twixt the cup and the lip【あと一歩というところで、よく失敗するものである】 と言う西洋の
諺くらいは心得ているだろうと聞くと、そんな横文字なんか誰が知るもんですか、あなたは人が英語を知らないのを御存じの癖にわざと英語を使って人にからかうのだから、
宜しゅうございます、どうせ英語なんかは出来ないんですから、そんなに英語が御好きなら、なぜ
耶蘇学校【キリスト教系の学校】の卒業生かなんかをお貰い なさらなかったんです。」「あなたくらい冷酷な人はありはしないと非常な
権幕なんで、僕もせっかくの計画の腰を折られてしまった。君等にも弁解するが僕の英語は決して悪意で使った訳じゃない。全く
妻を愛する至情【まごころ】から出たので、それを妻のように解釈されては僕も立つ瀬がない。それにさっきからの
悪寒と
眩暈で少し脳が乱れていたところへもって来て、早く有為転変、生者必滅の理を呑み込ませようと少し
急き込んだものだから、つい
細君の英語を知らないと言う事を忘れて、何の気も付かずに使ってしまった訳さ。考えるとこれは僕が
悪るい、全く手落ちであった。この失敗で悪寒はますます強くなる。眼はいよいよ ぐらぐらする。
妻君は命ぜられた通り風呂場へ行って
両肌を脱いで御化粧をして、
箪笥から着物を出して着換える。もういつでも出掛けられますと言う
風情で待ち構えている。僕は気が気でない。早く
甘木君が来てくれれば善いがと思って時計を見るともう三時だ。四時にはもう一時間しかない。『そろそろ出掛けましょうか』と
妻君が書斎の開き戸を明けて顔を出す。自分の
妻を
褒めるのはおかしいようであるが、僕はこの時ほど
細君を美しいと思った事はなかった。もろ肌を脱いで石鹸で
磨き上げた皮膚がぴかついて
黒縮緬の羽織と反映している。その顔が石鹸と
摂津大掾を聞こうと言う希望との二つで、有形無形の両方面から輝やいて見える。どうしてもその希望を満足させて出掛けてやろうと言う気になる。それじゃ奮発して行こうかな、と〝一ぷく〟【タバコ】ふかしているとようやく
甘木先生が来た。うまい注文通りに行った。が容体をはなすと、
甘木先生は僕の舌を
眺めて、手を握って、胸を
敲いて背を
撫でて、
目縁を引っ繰り返して、
頭蓋骨をさすって、しばらく考え込んでいる。
54/115
『どうも少し
険呑【よくない】のような気がしまして』と僕が言うと、先生は落ちついて、『いえ格別の事もございますまい』と言う。『あのちょっとくらい外出致しても
差支えはございますまいね』と
細君が聞く。『さよう』と先生はまた考え込む。『御気分さえ御悪くなければ……』『気分は悪いですよ』と僕がいう。『じゃともかくも
頓服と
水薬を上げますから』『へえどうか、何だかちと、
危ないようになりそうですな』『いや決して御心配になるほどの事じゃございません、神経を御起しになるといけませんよ』と先生が帰る。三時は三十分過ぎた。下女を薬取りにやる。
細君の厳命で
馳け出して行って、
馳け出して返ってくる。四時十五分前である。四時にはまだ十五分ある。すると四時十五分前頃から、今まで何とも無かったのに、急に
嘔気を
催おして来た。
細君は
水薬を茶碗へ
注いで僕の前へ置いてくれたから、茶碗を取り上げて飲もうとすると、胃の中からげーと言う者が
吶喊【つきつらぬく】して出てくる。やむをえず茶碗を下へ置く。
細君は『早く
御飲みになったら
宜いでしょう』と
逼る。早く飲んで早く出掛けなくては義理が悪い。思い切って飲んでしまおうとまた茶碗を唇へつけるとまたゲーが
執念深く妨害をする。飲もうとしては茶碗を置き、飲もうとしては茶碗を置いていると茶の間の柱時計がチンチンチンチンと四時を打った。さあ四時だ愚図愚図してはおられんと茶碗をまた取り上げると、不思議だねえ君、実に不思議とはこの事だろう、四時の音と共に
吐き
気がすっかり留まって水薬が何の苦なしに飲めたよ。それから四時十分頃になると、
甘木先生の名医という事も始めて理解する事が出来たんだが、背中がぞくぞくするのも、眼がぐらぐらするのも夢のように消えて、当分立つ事も出来まいと思った病気がたちまち全快したのは嬉しかった」
「それから歌舞伎座へいっしょに行ったのかい」と
迷亭が要領を得んと言う顔付をして聞く。
「行きたかったが四時を過ぎちゃ、入れないと言う
細君の意見なんだから仕方がない、やめにしたさ。
55/115
もう十五分ばかり早く
甘木先生が来てくれたら僕の義理も立つし、
妻も満足したろうに、わずか十五分の差でね、実に残念な事をした。考え出すとあぶないところだったと今でも思うのさ」
語り
了った
主人はようやく自分の義務をすましたような風をする。これで両人に対して顔が立つと言う気かも知れん。
寒月は例のごとく欠けた歯を出して笑いながら「それは残念でしたな」と言う。
迷亭はとぼけた顔をして「君のような親切な
夫を持った
妻君は実に仕合せだな」と
独り
言のようにいう。障子の蔭でエヘンと言う
細君の
咳払いが聞える。
吾輩はおとなしく三人の話しを順番に聞いていたがおかしくも悲しくもなかった。人間というものは時間を
潰すために
強いて口を運動させて、おかしくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがったりするほかに能もない者だと思った。
吾輩の
主人の
我儘で
偏狭【度量の小さい】な事は前から承知していたが、
平常は言葉数を使わないので何だか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点に少しは恐しいと言う感じもあったが、今の話を聞いてから急に
軽蔑したくなった。かれはなぜ両人の話しを沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって
愚にもつかぬ駄弁を
弄すれば何の所得があるだろう。エピクテタスにそんな事をしろと書いてあるのか知らん。要するに
主人も
寒月も
迷亭も
太平の
逸民で、彼等は
糸瓜のごとく風に吹かれて超然と
澄し切っているようなものの、その実はやはり
娑婆気【名誉や利益を欲しがる気持ち】もあり
慾気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常
罵倒している
俗骨共【いやしい者】と一つ穴の動物になるのは 猫より見て気の毒の至りである。ただその言語動作が普通の
半可通【知ったかぶり】のごとく、
文切り
形の
厭味を帯びてないのは いささかの
取り
得でもあろう。
こう考えると急に三人の談話が面白くなくなったので、
三毛子の様子でも見て
来ようかと
二絃琴の御
師匠さんの庭口へ廻る。
門松注目飾りはすでに取り払われて正月も
早や十日となったが、うららかな
春日は 一流れの雲も見えぬ 深き空より 四海天下を一度に照らして、十坪に足らぬ庭の
面も元日の
曙光を受けた時より
鮮かな活気を呈している。縁側に
座蒲団が一つあって人影も見えず、障子も立て切ってあるのは御
師匠さんは湯にでも行ったのか知らん。
56/115
御
師匠さんは留守でも構わんが、
三毛子は少しは
宜い方か、それが気掛りである。ひっそりして人の
気合もしないから、泥足のまま縁側へ上って座蒲団の真中へ
寝転ろんで見るといい心持ちだ。ついうとうととして、
三毛子の事も忘れてうたた寝をしていると、急に障子のうちで人声がする。
「御苦労だった。出来たかえ」御
師匠さんはやはり留守ではなかったのだ。
「はい遅くなりまして、
仏師屋へ参りましたらちょうど出来上ったところだと申しまして」「どれお見せなさい。ああ奇麗に出来た、これで
三毛も浮かばれましょう。
金は
剥げる事はあるまいね」「ええ念を押しましたら上等を使ったからこれなら人間の
位牌よりも持つと申しておりました。……それから
猫誉信女の誉の字は
崩した方が
格好がいいから少し
劃を
易えたと申しました」「どれどれ早速御仏壇へ上げて御線香でもあげましょう」
三毛子は、どうかしたのかな、何だか様子が変だと蒲団の上へ立ち上る。チーン
南無猫誉信女、
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と御
師匠さんの声がする。
「御前も
回向をしておやりなさい」
チーン南無猫誉信女 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と今度は下女の声がする。
吾輩は急に
動悸がして来た。座蒲団の上に立ったまま、
木彫の猫のように眼も動かさない。
「ほんとに残念な事を致しましたね。始めはちょいと
風邪を引いたんでございましょうがねえ」「
甘木さんが薬でも下さると、よかったかも知れないよ」「一体あの
甘木さんが悪うございますよ、あんまり
三毛を馬鹿にし過ぎまさあね」「そう
人様の事を悪く言うものではない。これも
寿命だから」
三毛子も
甘木先生に診察して貰ったものと見える。
「つまるところ表通りの教師のうちの
野良猫が
無暗に誘い出したからだと、わたしは思うよ」「ええあの
畜生が
三毛のかたきでございますよ」
少し弁解したかったが、ここが我慢のしどころと
唾を呑んで聞いている。話しはしばし
途切れる。
「世の中は自由にならん者でのう。
三毛のような器量よしは
早死をするし。不器量な野良猫は達者でいたずらをしているし……」
57/115
「その通りでございますよ。
三毛のような可愛らしい猫は鐘と太鼓で探してあるいたって、
二人とはおりませんからね」
二匹と言う代りに
二たりといった。下女の考えでは猫と人間とは同種族ものと思っているらしい。そう言えばこの下女の顔は吾等
猫属とはなはだ類似している。
「出来るものなら
三毛の代りに……」「あの教師の所の
野良が死ぬと
御誂え通りに参ったんでございますがねえ」
御誂え通りになっては、ちと困る。死ぬと言う事はどんなものか、まだ経験した事がないから好きとも嫌いとも言えないが、先日あまり寒いので
火消壺の中へもぐり込んでいたら、下女が
吾輩がいるのも知らんで上から
蓋をした事があった。その時の苦しさは考えても恐しくなるほどであった。
白君の説明によるとあの苦しみが今少し続くと死ぬのであるそうだ。
三毛子の
身代りになるのなら苦情もないが、あの苦しみを受けなくては死ぬ事が出来ないのなら、誰のためでも死にたくはない。
「しかし猫でも坊さんの御経を読んでもらったり、
戒名をこしらえてもらったのだから心残りはあるまい」「そうでございますとも、全く
果報者でございますよ。ただ慾を言うとあの坊さんの御経があまり軽少だったようでございますね」「少し短か過ぎたようだったから、大変御早うございますねと御尋ねをしたら、
月桂寺さんは、ええ
利目のあるところをちょいとやっておきました、なに猫だからあのくらいで充分浄土へ行かれますとおっしゃったよ」「あらまあ……しかしあの野良なんかは……」
吾輩は名前はないとしばしば断っておくのに、この下女は野良野良と
吾輩を呼ぶ。失敬な奴だ。
「罪が深いんですから、いくらありがたい御経だって浮かばれる事はございませんよ」
吾輩はその
後野良が何百遍繰り返されたかを知らぬ。
吾輩はこの際限なき談話を中途で聞き棄てて、
布団をすべり落ちて縁側から飛び下りた時、八万八千八百八十本の毛髪を一度にたてて
身震いをした。その
後 二絃琴の御
師匠さんの近所へは寄りついた事がない。今頃は御
師匠さん自身が月桂寺さんから軽少な
御回向【功徳の分け与え】を受けているだろう。
近頃は外出する勇気もない。何だか世間が
慵うく感ぜらるる。
主人に劣らぬほどの
無性猫となった。
主人が書斎にのみ閉じ
籠っているのを 人が失恋だ失恋だと評するのも無理はないと思うようになった。
58/115
鼠はまだ取った事がないので、一時は
御三から
放逐論【追放論】さえ
呈出された事もあったが、
主人は
吾輩の普通一般の猫でないと言う事を知っているものだから
吾輩は やはり のらくらしてこの
家に
起臥している。この点については深く
主人の恩を感謝すると同時にその
活眼【見識】に対して敬服の意を表するに
躊躇しないつもりである。
御三が
吾輩を知らずして虐待をするのは別に腹も立たない。今に
左甚五郎【伝説的な彫刻職人】が出て来て、
吾輩の肖像を
楼門の柱に
刻み、日本のスタンラン【大のネコ好きの画家】が好んで
吾輩の似顔をカンヴァスの上に
描くようになったら、彼等
鈍瞎漢【道理のわからない人】は始めて自己の不明を
恥ずるであろう。
三
三毛子は死ぬ。
黒は相手にならず、いささか
寂寞【静粛】の感はあるが、幸い人間に
知己が出来たので さほど退屈とも思わぬ。せんだっては
主人の
許へ
吾輩の写真を送ってくれと手紙で依頼した男がある。この間は岡山の名産
吉備団子をわざわざ
吾輩の名宛で届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、
己が猫である事はようやく忘却してくる。猫よりはいつの間にか人間の方へ接近して来たような心持になって、同族を
糾合【統合】して二本足の先生と
雌雄を決しようなどと言う量見は昨今のところ
毛頭ない。それのみか 折々は
吾輩もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのは たのもしい。あえて同族を
軽蔑する次第ではない。ただ性情【性質と心情】の近きところに向って一身の安きを置くは
勢の しからしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはちと迷惑する。かような言語を
弄して人を
罵詈するものに限って融通の
利かぬ貧乏性の男が多いようだ。こう猫の習癖を脱化して見ると
三毛子や
黒の事ばかり荷厄介にしている訳には行かん。やはり人間同等の
気位で彼等の思想、言行を
評隲【批評】したくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識を有している
吾輩をやはり一般
猫児の毛の
生えたものくらいに思って、
主人が
吾輩に
一言の挨拶もなく、
吉備団子をわが物顔に喰い尽したのは残念の次第である。写真もまだ
撮って送らぬ様子だ。これも不平と言えば不平だが、
主人は主人、
吾輩は吾輩で、相互の見解が自然
異なるのは致し方もあるまい。
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吾輩はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動作は、どうしてもちょいと筆に
上りにくい。
迷亭、
寒月諸先生の評判だけで御免
蒙る事に致そう。
今日は上天気の日曜なので、
主人は のそのそ書斎から出て来て、
吾輩の
傍へ
筆硯と原稿用紙を並べて
腹這になって、しきりに何か
唸っている。大方草稿を書き
卸す
序開き【序章】として妙な声を発するのだろうと注目していると、ややしばらくして
筆太に『
香一炷』【一本の線香が燃え尽きるまで】とかいた。はてな詩になるか、俳句になるか、香一炷とは、
主人にしては少し
洒落過ぎているがと思う間もなく、彼は香一炷を書き放しにして、新たに
行を改めて『さっきから
天然居士【仏教の位号】の事をかこうと考えている』と筆を走らせた。筆はそれだけではたと留ったぎり動かない。
主人は筆を持って首を
捻ったが別段名案もないものと見えて筆の穂を
甞めだした。唇が真黒になったと見ていると、今度はその下へちょいと丸をかいた。丸の中へ点を二つうって眼をつける。真中へ小鼻の開いた鼻をかいて、真一文字に口を横へ引張った、これでは文章でも俳句でもない。
主人も自分で
愛想が尽きた【見限った】と見えて、そこそこに顔を塗り消してしまった。
主人はまた
行を改める。彼の考によると行さえ改めれば詩か賛か語か録か
何かになるだろうとただ
宛もなく考えているらしい。やがて『天然居士は空間を研究し、論語を読み、
焼芋を食い、
鼻汁を垂らす人である』と言文一致体【口語体】で
一気呵成に書き流した、何となくごたごたした文章である。それから
主人はこれを遠慮なく朗読して、いつになく「ハハハハ面白い」と笑ったが「
鼻汁を垂らすのは、ちと
酷だから消そう」とその句だけへ棒を引く。一本ですむところを二本引き三本引き、奇麗な
併行線を
描く、線がほかの
行まで
食み出しても構わず引いている。線が八本並んでもあとの句が出来ないと見えて、今度は筆を捨てて
髭を
捻って見る。文章を髭から捻り出して御覧に入れますと言う
見幕で猛烈に捻ってはねじ上げ、ねじ下ろしているところへ、茶の間から
妻君が出て来てぴたりと
主人の鼻の先へ
坐わる。「あなたちょっと」と呼ぶ。「なんだ」と
主人は水中で
銅鑼を
叩くような声を出す。返事が気に入らないと見えて
妻君はまた「あなたちょっと」と出直す。「なんだよ」
60/115
と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「今月はちっと足りませんが……」「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観【珍しい眺め】のごとく
眺めている。「それでもあなたが御飯を召し上らんで
麺麭を
御食べになったり、ジャムを
御舐めになるものですから」「元来ジャムは
幾缶舐めたのかい」「今月は八つ
入りましたよ」「八つ? そんなに舐めた覚えはない」「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」と
主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。
主人は思わぬ発見をして感じ入った
体で、ふっと吹いて見る。
粘着力が強いので決して飛ばない。「いやに
頑固だな」と
主人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります」と
妻君は
大に不平な
気色を両頬に
漲らす。「あるかも知れないさ」と
主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が
交る中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴の
開くほど眺めていた
主人は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を
妻君の顔の前へ出す。「あら、いやだ」と
妻君は顔をしかめて、
主人の手を突き戻す。「ちょっと見ろ、鼻毛の
白髪だ」と
主人は大に感動した様子である。さすがの
妻君も笑いながら茶の間へ入る。経済問題は断念したらしい。
主人はまた
天然居士に取り
懸る。
鼻毛で
妻君を追払った
主人は、まずこれで安心と言わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと
焦る
体であるが なかなか筆は動かない。「
焼芋を食うも
蛇足だ、
割愛しよう」とついに この句も
抹殺する。「
香一炷もあまり
唐突だから
已めろ」と惜気もなく
筆誅【修正・削除】する。余す所は『天然居士は空間を研究し論語を読む人である』と言う一句になってしまった。
61/115
主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は
御廃しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に
揮って原稿紙の上へ下手な文人画【職業画家ではない文人たちの絵】の
蘭を勢よくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「空間に生れ、空間を
究め、空間に死す。空たり間たり
天然居士噫」と意味不明な語を
連ねているところへ例のごとく
迷亭が入って来る。
迷亭は人の
家も自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から
飄然【ふらり】と舞い込む事もある、心配、遠慮、
気兼、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。
「また
巨人引力【例の“ご高説”】かね」と立ったまま
主人に聞く。「そう、いつでも
巨人引力ばかり書いてはおらんさ。
天然居士の墓銘を
撰しているところなんだ」と
大袈裟な事を言う。「
天然居士と言うなあ やはり
偶然童子【思慮もないまま流されて生きる、子どもじみた存在】のような戒名かね」と
迷亭は
不相変出鱈目を言う。「
偶然童子と言うのもあるのかい」「なに有りゃしないがまずその
見当だろうと思っていらあね」「
偶然童子と言うのは僕の知ったものじゃないようだが
天然居士と言うのは、君の知ってる男だぜ」「一体だれが
天然居士なんて名を付けてすましているんだい」「例の
曽呂崎の事だ。卒業して大学院へ入って
空間論と言う題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。
曽呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」「親友でもいいさ、決して悪いと言やしない。しかしその
曽呂崎を天然居士に変化させたのは一体誰の
所作だい」「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来
坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほど
雅な名のように自慢する。
迷亭は笑いながら「まあその
墓碑銘と言う奴を見せ給え」と原稿を取り上げて「何だ……空間に生れ、空間を
究め、空間に死す。空たり間たり天然居士
噫」と大きな声で読み
上る。「なるほどこりゃあ
善い、天然居士相当のところだ」
主人は嬉しそうに「善いだろう」と言う。「この
墓銘を
沢庵石へ
彫り付けて本堂の裏手へ
力石のように
抛り出して置くんだね。
雅でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」「僕もそうしようと思っているのさ」と
主人は
至極真面目に答えたが「僕あ ちょっと失敬するよ、じき帰るから猫にでも からかっていてくれ給え」と
迷亭の返事も待たず
風然と出て行く。
62/115
計らずも
迷亭先生の接待掛りを命ぜられて
無愛想な顔もしていられないから、ニャーニャーと
愛嬌を振り
蒔いて
膝の上へ
這い上って見た。すると
迷亭は「イヨー
大分肥ったな、どれ」と
無作法にも
吾輩の
襟髪を
攫んで宙へ釣るす。「あと足をこうぶら下げては、
鼠は取れそうもない、……どうです奥さんこの猫は鼠を捕りますかね」と
吾輩ばかりでは不足だと見えて、隣りの
室の
妻君に話しかける。「鼠どころじゃございません。
御雑煮を食べて踊りをおどるんですもの」と
妻君は飛んだところで旧悪を
暴く。
吾輩は
宙乗りをしながらも少々極りが悪かった。
迷亭はまだ
吾輩を
卸してくれない。「なるほど踊りでもおどりそうな顔だ。奥さんこの猫は油断のならない
相好【風姿】ですぜ。
昔しの
草双紙【江戸時代の絵入り娯楽本】にある
猫又に似ていますよ」と勝手な事を言いながら、しきりに
細君に話しかける。
細君は迷惑そうに針仕事の手をやめて座敷へ出てくる。
「どうも御退屈様、もう帰りましょう」と茶を
注ぎ
易えて
迷亭の前へ出す。「どこへ行ったんですかね」「どこへ参るにも断わって行った事の無い男ですから分りかねますが、大方御医者へでも行ったんでしょう」「
甘木さんですか、
甘木さんもあんな病人に
捕まっちゃ災難ですな」「へえ」と
細君は挨拶のしようもないと見えて簡単な答えをする。
迷亭は
一向頓着しない。「近頃はどうです、少しは胃の加減が
能いんですか」「
能いか悪いか
頓と分りません、いくら
甘木さんにかかったって、あんなにジャムばかり
甞めては胃病の直る訳がないと思います」と
細君は
先刻の不平を
暗に
迷亭に
洩らす。「そんなにジャムを
甞めるんですかまるで小供のようですね」「ジャムばかりじゃないんで、この頃は胃病の薬だとか言って
大根卸しを
無暗に
甞めますので……」「驚ろいたな」と
迷亭は感嘆する。「何でも
大根卸の中にはジヤスターゼが有るとか言う話しを新聞で読んでからです」「なるほどそれでジャムの損害を
償おうと言う趣向ですな。なかなか考えていらあハハハハ」と
迷亭は
細君の
訴を聞いて
大に愉快な
気色である。「この間などは赤ん坊にまで
甞めさせまして……」「ジャムをですか」「いいえ
大根卸を……あなた。坊や御父様がうまいものをやるからおいでてって、――たまに
小供を可愛がってくれるかと思うとそんな馬鹿な事ばかりするんです。
63/115
二三日前には中の娘を抱いて
箪笥の上へあげましてね……」「どう言う趣向がありました」と
迷亭は何を聞いても趣向ずくめに解釈する。「なに趣向も何も有りゃしません、ただその上から飛び下りて見ろと言うんですわ、三つや四つの女の子ですもの、そんな
御転婆な事が出来るはずがないです」「なるほどこりゃ趣向が無さ過ぎましたね。しかしあれで腹の中は毒のない善人ですよ」「あの上腹の中に毒があっちゃ、
辛防は出来ませんわ」と
細君は
大に
気炎を揚げる。「まあそんなに不平を言わんでも善いでさあ。こうやって不足なくその日その日が暮らして行かれれば
上の
分ですよ。
苦沙弥君などは道楽はせず、服装にも構わず、地味に
世帯向きに出来上った人でさあ」と
迷亭は
柄にない説教を陽気な調子でやっている。「ところがあなた大違いで……」「何か内々でやりますかね。油断のならない世の中だからね」と
飄然【ふらり】とふわふわした返事をする。「ほかの道楽はないですが、
無暗に読みもしない本ばかり買いましてね。それも善い加減に
見計らって買ってくれると善いんですけれど、勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取って来て、月末になると知らん顔をしているんですもの、去年の暮なんか、月々のが
溜って大変困りました」「なあに書物なんか取って来るだけ取って来て構わんですよ。払いをとりに来たら 今にやる 今にやる と言っていりゃ帰ってしまいまさあ」「それでも、そういつまでも引張る訳にも参りませんから」と
妻君は
憮然としている。「それじゃ、訳を話して
書籍費を削減させるさ」「どうして、そんな
言を言ったって、なかなか聞くものですか、この間などは貴様は学者の
妻にも似合わん、
毫も
書籍の価値を解しておらん、
昔し
羅馬にこう言う話しがある。後学のため聞いておけと言うんです」「そりゃ面白い、どんな話しですか」
迷亭は乗気になる。
細君に同情を表しているというより むしろ好奇心に
駆られている。「何んでも昔し
羅馬に
樽金とか言う王様があって……」「
樽金? 樽金はちと妙ですぜ」「私は
唐人の名なんかむずかしくて覚えられませんわ。何でも七代目なんだそうです」「なるほど七代目樽金は妙ですな。ふんその七代目樽金がどうかしましたかい」「あら、あなたまで冷かしては立つ瀬がありませんわ。知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか、人の悪い」と、
細君は
迷亭へ食って掛る。「何 冷かすなんて、そんな人の悪い事をする僕じゃない。
64/115
ただ七代目樽金は
振ってると思ってね……ええお待ちなさいよ
羅馬の七代目の王様ですね、こうっと たしかには覚えていないがタークイン・ゼ・プラウドの事でしょう。まあ誰でもいい、その王様がどうしました」「その王様の所へ一人の女が本を九冊持って来て買ってくれないかと言ったんだそうです」「なるほど」「王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高い事を言うんですって、あまり高いもんだから少し負けないかと言うとその女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて
焚いてしまったそうです」「惜しい事をしましたな」「その本の内には予言か何かほかで見られない事が書いてあるんですって」「へえー」「王様は九冊が六冊になったから少しは
価も減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです、それは乱暴だと言うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。王様はまだ未練があったと見えて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分のねだんをくれと言うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても代価は、元の通り一
厘も引かない、それを引かせようとすると、残ってる三冊も火にくべるかも知れないので、王様はとうとう高い御金を出して
焚け
余りの三冊を買ったんですって……どうだこの話しで少しは書物のありがた
味が分ったろう、どうだと
力味むのですけれど、私にゃ何がありがたいんだか、まあ分りませんね」と
細君は一家の見識を立てて【自分なりの意見を持って】
迷亭の返答を
促がす。さすがの
迷亭も少々窮したと見えて、
袂からハンケチを出して
吾輩をじゃらしていたが「しかし奥さん」と急に何か考えついたように大きな声を出す。「あんなに本を買って
矢鱈に詰め込むものだから人から少しは学者だとか何とか言われるんですよ。この間ある文学雑誌を見たら
苦沙弥君の評が出ていましたよ」「ほんとに?」と
細君は向き直る。
主人の評判が気にかかるのは、やはり夫婦と見える。「何とかいてあったんです」「なあに二三行ばかりですがね。
苦沙弥君の文は
行雲流水【空を行く雲や水の流れ】のごとしとありましたよ」
細君は少し にこにこして「それぎりですか」「その次にね――出ずるかと思えば
忽ち消え、
逝いては
長えに帰るを忘る【亡くなった者は、永遠に戻ることはない】とありましたよ」
細君は妙な顔をして「
賞めたんでしょうか」と心元ない調子である。「まあ賞めた方でしょうな」と
迷亭は済ましてハンケチを
吾輩の眼の前にぶら下げる。「書物は商買道具で仕方もござんすまいが、よっぽど
偏屈でしてねえ」
迷亭はまた別途の方面から来たなと思って「偏屈は少々偏屈ですね、学問をするものはどうせあんなですよ」と調子を合わせるような弁護をするような不即不離【付きも離れもしない】の妙答【気の利いた答え】をする。
65/115
「せんだってなどは学校から帰ってすぐ わきへ出るのに着物を着換えるのが面倒だものですから、あなた
外套も脱がないで、机へ腰を掛けて御飯を食べるのです。
御膳を
火燵櫓の上へ乗せまして――私は
御櫃を
抱えて坐っておりましたがおかしくって……」「何だかハイカラの首実検のようですな。しかしそんなところが
苦沙弥君の苦沙弥君たるところで――とにかく
月並でない」と
切ない
褒め方をする。「月並か月並でないか女には分りませんが、なんぼ何でも、あまり乱暴ですわ」「しかし月並より好いですよ」と無暗に加勢すると
細君は不満な様子で「一体、月並月並と皆さんが、よくおっしゃいますが、どんなのが月並なんです」と開き直って月並の定義を質問する、「月並ですか、月並と言うと――さよう ちと説明しにくいのですが……」「そんな
曖昧なものなら月並だって好さそうなものじゃありませんか」と
細君は
女人一流の論理法で詰め寄せる。「曖昧じゃありませんよ、ちゃんと分っています、ただ説明しにくいだけの事でさあ」「何でも自分の嫌いな事を月並と言うんでしょう」と
細君は
我知らず
穿った事を言う。
迷亭もこうなると何とか月並の処置を付けなければならぬ仕儀となる。「奥さん、月並と言うのはね、まず
年は二八か二九からぬと
言わず語らず物思いの
間に寝転んでいて、
この日や天気晴朗とくると必ず
一瓢【いささかの酒】を携えて墨堤に遊ぶ連中を言うんです【年は28~29歳くらい。無口でぼんやりと物思いにふけっては寝転び、天気の良い日には酒を携えて隅田川沿いを散歩するような風流ぶった連中のことを言っているのです】」「そんな連中があるでしょうか」と
細君は分らんものだから
好加減な挨拶をする。「何だかごたごたして私には分りませんわ」とついに
我を折る。「それじゃ
馬琴【几帳面だったというから、まじめの代表として登場させたか】の胴へメジョオ・ペンデニス【俗物】の首をつけて一二年欧州の空気で包んでおくんですね」「そうすると月並が出来るでしょうか」
迷亭は返事をしないで笑っている。「何そんな
手数のかかる事をしないでも出来ます。中学校の生徒に白木屋【江戸時代から続く大商人】の番頭を加えて二で割ると立派な月並が出来上ります」「そうでしょうか」と
細君は首を
捻ったまま
納得し兼ねたと言う
風情に見える。
「君 まだいるのか」と
主人はいつの間にやら帰って来て
迷亭の
傍へ
坐わる。「まだいるのかはちと
酷だな、すぐ帰るから待ってい給えと言ったじゃないか」「万事あれなんですもの」と
細君は
迷亭を
顧みる。「今 君の留守中に 君の逸話を残らず聞いてしまったぜ」「女はとかく多弁でいかん、人間もこの猫くらい沈黙を守るといいがな」と
主人は
吾輩の頭を
撫でてくれる。
66/115
「君は赤ん坊に
大根卸しを
甞めさしたそうだな」「ふむ」と
主人は笑ったが「赤ん坊でも近頃の赤ん坊は なかなか利口だぜ。それ以来、坊や
辛いのはどこと聞くときっと舌を出すから妙だ」「まるで犬に芸を仕込む気でいるから残酷だ。時に
寒月はもう来そうなものだな」「
寒月が来るのかい」と
主人は不審な顔をする。「来るんだ。午後一時までに
苦沙弥の
家へ来いと
端書を出しておいたから」「人の都合も聞かんで勝手な事をする男だ。
寒月を呼んで何をするんだい」「なあに今日のはこっちの趣向じゃない
寒月先生自身の要求さ。先生何でも理学協会で演説をするとか言うのでね。その稽古をやるから僕に聴いてくれと言うから、そりゃちょうどいい
苦沙弥にも聞かしてやろうと言うのでね。そこで君の
家へ呼ぶ事にしておいたのさ――なあに 君はひま人だからちょうどいいやね――
差支えなんぞある男じゃない、聞くがいいさ」と
迷亭は
独りで呑み込んでいる。「物理学の演説なんか僕にゃ分らん」と
主人は少々
迷亭の
専断を
憤ったもののごとくに言う。「ところがその問題がマグネ【マグネット】付けられたノッズルについてなどと言う乾燥無味【無味乾燥】なものじゃないんだ。
首縊(くく)りの力学と言う
脱俗超凡【凡人の域を抜き出ている】な演題なのだから傾聴する価値があるさ」「君は首を
縊り
損くなった男だから傾聴するが好いが僕なんざあ……」「歌舞伎座で
悪寒がするくらいの人間だから聞かれないと言う結論は出そうもないぜ」と例のごとく軽口を叩く。
妻君はホホと笑って
主人を
顧みながら次の間へ退く。
主人は無言のまま
吾輩の頭を
撫でる。この時のみは非常に丁寧な撫で方であった。
それから約七分くらいすると注文通り
寒月君が来る。今日は晩に
演舌をするというので例になく立派なフロック【フォーマルな洋装】を着て、洗濯し立ての
白襟を
聳やかして【高く起こし立てて】、男振りを二割方上げて、「少し
後れまして」と落ちつき払って、挨拶をする。「さっきから二人で大待ちに待ったところなんだ。早速願おう、なあ君」と
主人を見る。
主人もやむを得ず「うむ」と
生返事をする。
寒月君はいそがない。「コップへ水を一杯頂戴しましょう」
67/115
と言う。「いよー本式にやるのか次には拍手の請求とおいでなさるだろう」と
迷亭は独りで騒ぎ立てる。
寒月君は
内隠しから草稿を取り出して
徐ろに「稽古ですから、御遠慮なく御批評を願います」と前置をして、いよいよ演舌の
御浚いを始める。
「罪人を
絞罪の刑に処すると言う事は
重にアングロサクソン民族間に行われた方法でありまして、それより古代に
溯って考えますと
首縊りは重に自殺の方法として行われた者であります。
猶太人中に
在っては罪人を石を
抛げつけて殺す習慣であったそうでございます。旧約全書を研究して見ますといわゆるハンギングなる語は罪人の死体を釣るして野獣または肉食鳥の
餌食とする意義と認められます。ヘロドタス【古代ギリシアの歴史家】の説に従って見ますと
猶太人はエジプトを去る以前から
夜中死骸を
曝されることを痛く
忌み嫌ったように思われます。エジプト人は罪人の首を斬って胴だけを十字架に
釘付けにして夜中曝し物にしたそうで御座います。
波斯人は……」「
寒月君 首縊りと縁がだんだん遠くなるようだが大丈夫かい」と
迷亭が口を入れる。「これから本論に入るところですから、少々
御辛防を願います。……さて波斯人はどうかと申しますとこれもやはり処刑には
磔を用いたようでございます。但し生きているうちに
張付けに致したものか、死んでから釘を打ったものかその
辺はちと分りかねます……」「そんな事は分らんでもいいさ」と
主人は退屈そうに
欠伸をする。「まだいろいろ御話し致したい事もございますが、御迷惑であらっしゃいましょうから……」「あらっしゃいましょうより、いらっしゃいましょうの方が聞きいいよ、ねえ
苦沙弥君」とまた
迷亭が
咎め
立をすると
主人は「どっちでも同じ事だ」と気のない返事をする。「さていよいよ本題に入りまして弁じます」「
弁じますなんか講釈師の言い草だ。演舌家はもっと上品な
詞を使って貰いたいね」と
迷亭先生また
交ぜ返す。「
弁じますが下品なら何と言ったらいいでしょう」と
寒月君は少々むっとした調子で問いかける。「
迷亭のは聴いているのか、
交ぜ返しているのか判然しない。
寒月君 そんな
弥次馬に構わず、さっさとやるが好い」と
主人はなるべく早く難関を切り抜けようとする。「むっとして弁じましたる柳かな、かね」と
迷亭はあいかわらず
飄然【ふらり】たる事を言う。
寒月は思わず吹き出す。
68/115
「真に処刑として絞殺を用いましたのは、私の調べました結果によりますると、オディセー【古代ギリシアの長編叙事詩】の二十二巻目に出ております。
即ち
彼のテレマカス【ギリシア神話の人物】がペネロピー【ギリシア神話の人物】の十二人の侍女を絞殺するという
条りでございます。
希臘語で本文を朗読しても
宜しゅうございますが、ちと
衒うような気味にもなりますからやめに致します。四百六十五行から、四百七十三行を御覧になると分ります」「
希臘語 言々はよした方がいい、さも
希臘語が出来ますと言わんばかりだ、ねえ
苦沙弥君」「それは僕も賛成だ、そんな物欲しそうな事は言わん方が
奥床しくて好い」と
主人はいつになく直ちに
迷亭に加担する。
両人は
毫【ちっとも】も
希臘語が読めないのである。「それではこの両三句は今晩抜く事に致しまして次を弁じ――ええ申し上げます。
この絞殺を今から想像して見ますと、これを執行するに二つの方法があります。第一は、
彼のテレマカスがユーミアス【ギリシア神話の人物】及びフㇶリーシャス【ギリシア神話の人物】の
援を
藉りて縄の一端を柱へ
括りつけます。そしてその縄の所々へ結び目を穴に開けてこの穴へ女の頭を一つずつ入れておいて、片方の
端をぐいと引張って釣し上げたものと見るのです」「つまり西洋洗濯屋のシャツのように女がぶら下ったと見れば好いんだろう」「その通りで、それから第二は縄の一端を前のごとく柱へ
括り付けて他の一端も始めから天井へ高く釣るのです。そしてその高い縄から何本か別の縄を下げて、それに結び目の輪になったのを付けて女の
頸を入れておいて、いざと言う時に女の足台を取りはずすと言う趣向なのです」「たとえて言うと
縄暖簾の先へ
提灯玉を釣したような
景色と思えば間違はあるまい」「提灯玉と言う玉は見た事がないから何とも申されませんが、もしあるとすればその
辺のところかと思います。――それでこれから力学的に第一の場合は到底成立すべきものでないと言う事を証拠立てて御覧に入れます」「面白いな」と
迷亭が言うと「うん面白い」と
主人も一致する。
「まず女が同距離に釣られると仮定します。また一番地面に近い二人の女の首と首を
繋いでいる縄はホリゾンタル【水平】と仮定します。そこでα1α2……α6を縄が地平線と形づくる角度とし、T1T2……T6を縄の各部が受ける力と
見做し、T7=Xは縄のもっとも低い部分の受ける力とします。Wは
勿論女の体重と御承知下さい。どうです御分りになりましたか」
69/115
迷亭と
主人は顔を見合せて「大抵分った」と言う。但しこの大抵と言う度合は
両人が勝手に作ったのだから他人の場合には応用が出来ないかも知れない。「さて多角形に関する御存じの平均性理論によりますと、
下のごとく十二の方程式が立ちます。T1cosα1=T2cosα2…… (1) T2cosα2=T3cosα3…… (2) ……」「方程式はそのくらいで沢山だろう」と
主人は乱暴な事を言う。「実はこの式が演説の首脳なんですが」と
寒月君は はなはだ残り惜し気に見える。「それじゃ首脳だけは
逐って伺う事にしようじゃないか」と
迷亭も少々恐縮の
体に見受けられる。「この式を略してしまうとせっかくの力学的研究がまるで駄目になるのですが……」「何そんな遠慮はいらんから、ずんずん略すさ……」と
主人は平気で言う。「それでは仰せに従って、無理ですが略しましょう」「それがよかろう」と
迷亭が妙なところで手をぱちぱちと叩く。「それから英国へ移って論じますと、ベオウルフ【古典英文学に出てくる英雄ベーオウルフ】の中に
絞首架即ちガルガと申す字が見えますから絞罪の刑はこの時代から行われたものに違ないと思われます。ブラクストーン【イングランドの法学者】の説によるともし絞罪に処せられる罪人が、万一縄の具合で死に切れぬ時は
再度同様の刑罰を受くべきものだとしてありますが、妙な事にはピヤース・プローマン【イギリスの長編宗教詩の登場人物】の中には
仮令凶漢でも二度
絞める法はないと言う句があるのです。まあどっちが本当か知りませんが、悪くすると一度で死ねない事が往々実例にあるので。千七百八十六年に有名なフㇶツ・ゼラルドと言う悪漢を絞めた事がありました。ところが妙なはずみで一度目には台から飛び降りるときに縄が切れてしまったのです。またやり直すと今度は縄が長過ぎて足が地面へ着いたのでやはり死ねなかったのです。とうとう三返目に見物人が手伝って
往生さしたと言う話しです」「やれやれ」と
迷亭はこんなところへくると急に元気が出る。「本当に死に
損いだな」と
主人まで浮かれ出す。「まだ面白い事があります首を
縊ると
背が
一寸【約3cm】ばかり延びるそうです。これはたしかに医者が計って見たのだから間違はありません」「それは新工夫だね、どうだい
苦沙弥などはちと釣って貰っちゃあ、一寸延びたら人間並になるかも知れないぜ」と
迷亭が
主人の方を向くと、
主人は案外真面目で「
寒月君、一寸くらい
背が延びて生き返る事があるだろうか」と聞く。「それは駄目に
極っています。
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釣られて
脊髄が延びるからなんで、早く言うと背が延びると言うより
壊れるんですからね」「それじゃ、まあ
止めよう」と
主人は断念する。
演説の続きは、まだなかなか長くあって
寒月君は首縊りの生理作用にまで論及するはずでいたが、
迷亭が無暗に
風来坊【気まぐれ者】のような珍語を
挟むのと、
主人が時々遠慮なく
欠伸をするので、ついに中途でやめて帰ってしまった。その晩は
寒月君がいかなる態度で、いかなる雄弁を
振ったか遠方で起った出来事の事だから
吾輩には知れよう訳がない。
二三日は事もなく過ぎたが、或る日の午後二時頃また
迷亭先生は例のごとく
空々【こだわりがない様子】として偶然童子のごとく舞い込んで来た。座に着くと、いきなり「君、
越智東風の
高輪事件を聞いたかい」と旅順陥落の号外を知らせに来たほどの勢を示す。「知らん、近頃は
合わんから」と
主人は
平生の通り陰気である。「きょうはその
東風子の失策物語を御報道に及ぼうと思って忙しいところを わざわざ来たんだよ」「またそんな
仰山【大げさ】な事を言う、君は全体
不埒【とりとめのない】な男だ」「ハハハハハ不埒と言わんよりむしろ
無埒【らちが明かない】の方だろう。それだけはちょっと区別しておいて貰わんと名誉に関係するからな」「おんなし事だ」と
主人は
嘯いている。純然たる天然居士の再来だ。「この前の日曜に
東風子が
高輪泉岳寺に行ったんだそうだ。この寒いのによせばいいのに――第一
今時泉岳寺などへ参るのは さも東京を知らない、
田舎者のようじゃないか」「それは
東風の勝手さ。君がそれを留める権利はない」「なるほど権利は
正にない。権利はどうでもいいが、あの寺内に義士遺物保存会と言う見世物があるだろう。君 知ってるか」「うんにゃ」「知らない? だって泉岳寺へ行った事はあるだろう」「いいや」「ない? こりゃ驚ろいた。道理で大変
東風を弁護すると思った。江戸っ子が泉岳寺を知らないのは
情けない」「知らなくても教師は
務まるからな」と
主人はいよいよ天然居士になる。「そりゃ好いが、その展覧場へ
東風が入って見物していると、そこへ
独逸人が夫婦
連で来たんだって。それが最初は日本語で
東風に何か質問したそうだ。ところが先生例の通り独逸語が使って見たくてたまらん男だろう。そら二口三口べらべらやって見たとさ。
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すると存外うまく出来たんだ――あとで考えるとそれが
災の
本さね」「それからどうした」と
主人はついに釣り込まれる。「独逸人が
大鷹源吾【赤穂浪士四十七士の一人】の
蒔絵の
印籠を見て、これを買いたいが売ってくれるだろうかと聞くんだそうだ。その時
東風の返事が面白いじゃないか、日本人は清廉の
君子【人格者】ばかりだから
到底駄目だと言ったんだとさ。その辺は
大分景気がよかったが、それから独逸人の方では
格好な通弁を得たつもりでしきりに聞くそうだ」「何を?」「それがさ、何だか分るくらいなら心配はないんだが、早口で
無暗に問い掛けるものだから少しも要領を得ないのさ。たまに分るかと思うと
鳶口【棒の先にカギが付いた道具】や
掛矢の事【大型の木槌】を聞かれる。西洋の鳶口や
掛矢は先生何と翻訳して善いのか習った事が無いんだから
弱わらあね」「もっともだ」と
主人は教師の身の上に引き
較べて同情を表する。「ところへ
閑人が物珍しそうに ぽつぽつ集ってくる。
仕舞には
東風と独逸人を四方から取り巻いて見物する。
東風は顔を赤くして へどもどする。初めの勢に引き
易えて先生大弱りの
体さ」「結局どうなったんだい」「仕舞に
東風が我慢出来なくなったと見えて
さいならと日本語で言ってぐんぐん帰って来たそうだ、
さいならは少し変だ 君の国では
さよならを
さいならと言うかって聞いて見たら 何 やっぱり
さよならですが相手が西洋人だから調和を計るために、
さいならにしたんだって、
東風子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心した」「さいならはいいが西洋人はどうした」「西洋人はあっけに取られて
茫然と見ていたそうだハハハハ面白いじゃないか」「別段面白い事もないようだ。それをわざわざ
報知に来る君の方がよっぽど面白いぜ」と
主人は
巻煙草の灰を
火桶の中へはたき落す。
折柄格子戸のベルが飛び上るほど鳴って「御免なさい」と鋭どい女の声がする。
迷亭と
主人は思わず顔を見合わせて沈黙する。
主人のうちへ女客は
希有だなと見ていると、かの鋭どい声の所有主は
縮緬の二枚重ねを畳へ
擦り付けながら入って来る。年は四十の上を少し
超したくらいだろう。抜け上った
生え
際から前髪が堤防工事のように高く
聳えて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせり出している。眼が切り通しの坂くらいな
勾配で、直線に釣るし上げられて左右に対立する。【要するに目が吊り上がっている】
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直線とは
鯨より細いという形容である【ようするに細いということ】。鼻だけは無暗に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へ
据え付けたように見える。三坪ほどの小庭へ
招魂社【国家のために亡くなった人の霊を祀る神社】の
石灯籠を移した時のごとく、
独りで幅を利かしているが、何となく落ちつかない。その鼻はいわゆる
鍵鼻で、ひと
度は精一杯高くなって見たが、これではあんまりだと中途から
謙遜して、先の方へ行くと、初めの勢に似ず垂れかかって、下にある唇を
覗き込んでいる。かく
著るしい鼻だから、この女が物を言うときは口が物を言うと言わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。
吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して
鼻子 鼻子と呼ぶつもりである。
鼻子は先ず初対面の挨拶を終って「どうも結構な
御住居ですこと」と座敷中を
睨め廻わす。
主人は「嘘をつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか
煙草をふかす。
迷亭は天井を見ながら「君、ありゃ
雨洩りか、板の
木目か、妙な模様が出ているぜ」と暗に
主人を
促がす。「無論雨の洩りさ」と
主人が答えると「結構だなあ」と
迷亭がすまして言う。
鼻子は社交を知らぬ人達だと腹の中で
憤る。しばらくは三人
鼎坐【三人が向かい合ってすわること】のまま無言である。
「ちと伺いたい事があって、参ったんですが」と
鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と
主人が極めて冷淡に受ける。これではならぬと
鼻子は、「実は私はつい御近所で――あの向う横丁の
角屋敷なんですが」「あの大きな西洋館の倉のあるうちですか、道理であすこには
金田と言う
標札が出ていますな」と
主人はようやく
金田の西洋館と、
金田の倉を認識したようだが
金田夫人に対する尊敬の
度合は前と同様である。「実は
宿【夫】が出まして、御話を伺うんですが会社の方が大変忙がしいもんですから」と今度は少し
利いたろうという眼付をする。
主人は
一向動じない。
鼻子の
先刻からの言葉遣いが初対面の女としてはあまり
存在過ぎるのですでに不平なのである。「会社でも一つじゃ無いんです、二つも三つも兼ねているんです。それにどの会社でも重役なんで――多分御存知でしょうが」これでも恐れ入らぬかと言う顔付をする。
73/115
元来ここの
主人は
博士とか
大学教授とかいうと非常に恐縮する男であるが、妙な事には実業家に対する尊敬の度は極めて低い。実業家よりも中学校の先生の方がえらいと信じている。よし信じておらんでも、融通の利かぬ性質として、到底実業家、金満家の恩顧【ひいき】を
蒙る事は
覚束ないと
諦らめている。いくら先方が勢力家でも、財産家でも、自分が世話になる見込のないと思い切った人の利害には極めて無頓着である。それだから学者社会を除いて他の方面の事には極めて
迂濶で、ことに実業界などでは、どこに、だれが何をしているか一向知らん。知っても尊敬畏服の念は
毫も起らんのである。
鼻子の方では
天が
下の一隅にこんな変人がやはり日光に照らされて生活していようとは夢にも知らない。今まで世の中の人間にも
大分接して見たが、
金田の
妻ですと名乗って、急に取扱いの変らない場合はない、どこの会へ出ても、どんな身分の高い人の前でも立派に
金田夫人で通して行かれる、いわんやこんな
燻り返った老書生においてをやで、
私の
家は向う横丁の
角屋敷ですとさえ言えば職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。
「
金田って人を知ってるか」と
主人は
無雑作に
迷亭に聞く。「知ってるとも、
金田さんは僕の伯父の友達だ。この間なんざ園遊会へおいでになった」と
迷亭は真面目な返事をする。「へえ、君の伯父さんてえな誰だい」「
牧山男爵さ」と
迷亭はいよいよ真面目である。
主人が何か言おうとして言わぬ先に、
鼻子は急に向き直って
迷亭の方を見る。
迷亭は
大島紬に
古渡更紗【インド由来のエキゾチックな文様や色彩の木綿布】か何か重ねてすましている。「おや、あなたが
牧山様の――何でいらっしゃいますか、ちっとも存じませんで、はなはだ失礼を致しました。
牧山様には始終御世話になると、
宿で毎々
御噂を致しております」と急に
丁寧な言葉使をして、おまけに御辞儀までする、
迷亭は「へええ何、ハハハハ」と笑っている。
主人はあっ
気に取られて無言で二人を見ている。「たしか娘の
縁辺の事につきましてもいろいろ
牧山さまへ御心配を願いましたそうで……」「へえー、そうですか」とこればかりは
迷亭にもちと
唐突過ぎたと見えてちょっと
魂消たような声を出す。
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「実は方々から くれくれと申し込はございますが、こちらの身分もあるものでございますから、
滅多な
所へも片付けられませんので……」「ごもっともで」と
迷亭はようやく安心する。「それについて、あなたに伺おうと思って上がったんですがね」と
鼻子は
主人の方を見て急に
存在な言葉に返る。「あなたの所へ
水島寒月という男が
度々上がるそうですが、あの人は全体どんな風な人でしょう」「
寒月の事を聞いて、
何にするんです」と
主人は
苦々しく言う。「やはり御令嬢の御婚儀上の関係で、
寒月君の
性行【普段の行い】の
一斑【一端】を御承知になりたいという訳でしょう」と
迷亭が気転を
利かす。「それが伺えれば大変都合が
宜しいのでございますが……」「それじゃ、御令嬢を
寒月におやりになりたいとおっしゃるんで」「やりたいなんてえんじゃ無いんです」と
鼻子は急に
主人を参らせる。「ほかにも だんだん口が有るんですから、無理に貰っていただかないだって困りゃしません」「それじゃ
寒月の事なんか聞かんでも好いでしょう」と
主人も
躍起となる。「しかし御隠しなさる訳もないでしょう」と
鼻子も少々喧嘩腰になる。
迷亭は双方の間に坐って、
銀煙管を
軍配団扇のように持って、心の
裡で
八卦よいやよいやと怒鳴っている。「じゃあ
寒月の方で是非貰いたいとでも言ったのですか」と
主人が正面から鉄砲を
喰わせる。「貰いたいと言ったんじゃないんですけれども……」「貰いたいだろうと思っていらっしゃるんですか」と
主人はこの婦人 鉄砲に限ると
覚ったらしい。「話しはそんなに運んでるんじゃありませんが――
寒月さんだって
満更嬉しくない事もないでしょう」と土俵際で持ち直す。「
寒月が何かその御令嬢に
恋着【深く執着】したというような事でもありますか」あるなら言って見ろと言う
権幕で
主人は
反り返る。「まあ、そんな
見当でしょうね」今度は
主人の鉄砲が少しも功を奏しない。今まで
面白気に
行司気取りで見物していた
迷亭も
鼻子の
一言に好奇心を
挑発されたものと見えて、
煙管を置いて前へ乗り出す。「
寒月が御嬢さんに
付け
文でもしたんですか、こりゃ愉快だ、新年になって逸話がまた一つ
殖えて話しの好材料になる」と一人で喜んでいる。「付け文じゃないんです、もっと烈しいんでさあ、御二人とも御承知じゃありませんか」と
鼻子は
乙に【妙に】からまって来る。「君 知ってるか」
75/115
と
主人は狐付きのような顔をして
迷亭に聞く。
迷亭も
馬鹿気た調子で「僕は知らん、知っていりゃ君だ」とつまらんところで
謙遜する。「いえ
御両人共御存じの事ですよ」と
鼻子だけ大得意である。「へえー」と御両人は一度に感じ入る。「御忘れになったら
私しから御話をしましょう。去年の暮向島の
阿部さんの御屋敷で演奏会があって
寒月さんも出掛けたじゃありませんか、その晩帰りに
吾妻橋で何かあったでしょう――詳しい事は言いますまい、当人の御迷惑になるかも知れませんから――あれだけの証拠がありゃ充分だと思いますが、どんなものでしょう」と
金剛石入りの指環の
嵌った指を、膝の上へ
併べて、つんと居ずまいを直す。偉大なる鼻がますます異彩を放って、
迷亭も
主人も有れども無きがごとき【まるで存在感がない】有様である。
主人は無論、さすがの
迷亭もこの
不意撃には
胆を抜かれたものと見えて、しばらくは
呆然として
瘧【三日熱】の落ちた病人のように坐っていたが、
驚愕の
箍がゆるんでだんだん持前の本態に復すると共に、滑稽と言う感じが一度に
吶喊して【つきつらぬいて】くる。
両人は申し合せたごとく「ハハハハハ」と笑い崩れる。
鼻子ばかりは少し当てがはずれて、この際笑うのははなはだ失礼だと両人を
睨みつける。「あれが御嬢さんですか、なるほどこりゃいい、おっしゃる通りだ、ねえ
苦沙弥君、全く
寒月はお嬢さんを
恋ってるに相違ないね……もう隠したってしようがないから白状しようじゃないか」「ウフン」と
主人は言ったままである。「本当に御隠しなさってもいけませんよ、ちゃんと種は上ってるんですからね」と
鼻子はまた得意になる。「こうなりゃ仕方がない。何でも
寒月君に関する事実は御参考のために陳述するさ、おい
苦沙弥君、君が主人だのに、そう、にやにや笑っていては
埒があかんじゃないか、実に秘密というものは恐ろしいものだねえ。いくら隠しても、どこからか
露見するからな。――しかし不思議と言えば不思議ですねえ、
金田の奥さん、どうしてこの秘密を御探知になったんです、実に驚ろきますな」と
迷亭は一人で
喋舌る。「
私しの方だって、ぬかりはありませんやね」と
鼻子はしたり顔をする。「あんまり、ぬかりが無さ過ぎるようですぜ。一体誰に御聞きになったんです」「じきこの裏にいる車屋の
神さんからです」「あの
黒猫のいる車屋ですか」と
主人は眼を丸くする。「ええ、
寒月さんの事じゃ、よっぽど使いましたよ。
76/115
寒月さんが、ここへ来る度に、どんな話しをするかと思って車屋の
神さんを頼んで一々知らせて貰うんです」「そりゃ
苛い」と
主人は大きな声を出す。「なあに、あなたが何をなさろうとおっしゃろうと、それに構ってるんじゃないんです。
寒月さんの事だけですよ」「
寒月の事だって、誰の事だって――全体あの車屋の
神さんは気に食わん奴だ」と
主人は一人
怒り出す。「しかしあなたの垣根のそとへ来て立っているのは向うの勝手じゃありませんか、話しが聞えてわるけりゃ もっと小さい声でなさるか、もっと大きなうちへ
御入んなさるがいいでしょう」と
鼻子は少しも赤面した様子がない。「車屋ばかりじゃありません。
新道の
二絃琴の
師匠からも
大分いろいろな事を聞いています」「
寒月の事をですか」「
寒月さんばかりの事じゃありません」と少し
凄い事を言う。
主人は恐れ入るかと思うと「あの
師匠はいやに上品ぶって自分だけ人間らしい顔をしている、馬鹿野郎です」「
憚り
様【おあいにく様】、女ですよ。野郎は
御門違いです」と
鼻子の言葉使いはますます
御里をあらわして来る。これではまるで喧嘩をしに来たようなものであるが、そこへ行くと
迷亭はやはり
迷亭でこの談判を面白そうに聞いている。
鉄枴仙人【中国の代表的な仙人】が
軍鶏の
蹴合いを見るような顔をして平気で聞いている。
悪口の交換では到底
鼻子の敵でないと自覚した
主人は、しばらく沈黙を守るのやむを得ざるに至らしめられていたが、ようやく思い付いたか「あなたは
寒月の方から御嬢さんに恋着したようにばかりおっしゃるが、
私の聞いたんじゃ、少し違いますぜ、ねえ
迷亭君」と
迷亭の救いを求める。「うん、あの時の話しじゃ御嬢さんの方が、始め病気になって――何だか
譫語をいったように聞いたね」「なにそんな事はありません」と
金田夫人は判然たる直線流の言葉使いをする。「それでも
寒月はたしかに○○博士の夫人から聞いたと言っていましたぜ」「それがこっちの手なんでさあ、○○博士の奥さんを頼んで
寒月さんの気を引いて見たんでさあね」「○○の奥さんは、それを承知で引き受けたんですか」「ええ。引き受けて貰うたって、ただじゃ出来ませんやね、それやこれやでいろいろ物を使っているんですから」「是非
寒月君の事を根堀り葉堀り御聞きにならなくっちゃ御帰りにならないと言う決心ですかね」と
迷亭も少し気持を悪くしたと見えて、いつになく
手障りのあらい言葉を使う。
77/115
「いいや君、話したって損の行く事じゃなし、話そうじゃないか
苦沙弥君――奥さん、
私でも
苦沙弥でも
寒月君に関する事実で
差支えのない事は、みんな話しますからね、――そう、順を立ててだんだん聞いて下さると都合がいいですね」
鼻子はようやく
納得してそろそろ質問を呈出する。一時荒立てた言葉使いも
迷亭に対してはまたもとのごとく丁寧になる。「
寒月さんも理学士だそうですが、全体どんな事を専門にしているのでございます」「大学院では
地球の磁気の研究をやっています」と
主人が真面目に答える。不幸にしてその意味が
鼻子には分らんものだから「へえー」とは言ったが
怪訝な顔をしている。「それを勉強すると博士になれましょうか」と聞く。「博士にならなければ やれないとおっしゃるんですか」と
主人は不愉快そうに尋ねる。「ええ。ただの学士じゃね、いくらでもありますからね」と
鼻子は平気で答える。
主人は
迷亭を見ていよいよ いやな顔をする。「博士になるかならんかは僕等も保証する事が出来んから、ほかの事を聞いていただく事にしよう」と
迷亭もあまり好い機嫌ではない。「近頃でもその地球の――何かを勉強しているんでございましょうか」「
二三日前は
首縊りの力学と言う研究の結果を理学協会で演説しました」と
主人は何の気も付かずに言う。「おやいやだ、
首縊りだなんて、よっぽど変人ですねえ。そんな
首縊りや何かやってたんじゃ、とても博士にはなれますまいね」「本人が首を
縊っちゃあむずかしいですが、
首縊りの力学なら成れないとも限らんです」「そうでしょうか」と今度は
主人の方を見て顔色を
窺う。悲しい事に
力学と言う意味がわからんので落ちつきかねている。しかしこれしきの事を尋ねては
金田夫人の面目に関すると思ってか、ただ相手の顔色で
八卦を立てて見る。
主人の顔は渋い。「そのほかになにか、分り
易いものを勉強しておりますまいか」「そうですな、せんだって
団栗(どんぐり)のスタビリチー【スタビリティー:安定性】を論じて併せて天体の運行に及ぶと言う論文を書いた事があります」「
団栗なんぞでも大学校で勉強するものでしょうか」「さあ僕も
素人だからよく分らんが、何しろ、
寒月君がやるくらいなんだから、研究する価値があると見えますな」と
迷亭はすまして冷かす。
鼻子は学問上の質問は手に合わんと断念したものと見えて、今度は話題を転ずる。
78/115
「御話は違いますが――この御正月に
椎茸を食べて前歯を二枚折ったそうじゃございませんか」「ええその欠けたところに
空也餅がくっ付いていましてね」と
迷亭はこの質問こそ吾
縄張内だと急に浮かれ出す。「色気のない人じゃございませんか、何だって
楊子を使わないんでしょう」「今度
逢ったら注意しておきましょう」と
主人がくすくす笑う。「椎茸で歯がかけるくらいじゃ、よほど歯の
性が悪いと思われますが、
如何なものでしょう」「善いとは言われますまいな――ねえ
迷亭」「善い事はないがちょっと
愛嬌があるよ。あれぎり、まだ
填めないところが妙だ。今だに空也餅
引掛所になってるなあ奇観だぜ」「歯を填める
小遣がないので欠けなりにしておくんですか、または物好きで欠けなりにしておくんでしょうか」「何も永く
前歯欠成を名乗る訳でもないでしょうから御安心なさいよ」と
迷亭の機嫌はだんだん回復してくる。
鼻子はまた問題を改める。「何か御宅に手紙かなんぞ当人の書いたものでもございますならちょっと拝見したいもんでございますが」「
端書なら沢山あります、御覧なさい」と
主人は書斎から三四十枚持って来る。「そんなに沢山拝見しないでも――その内の二三枚だけ……」「どれどれ僕が好いのを
撰ってやろう」と
迷亭先生は「これなざあ面白いでしょう」と一枚の絵葉書を出す。「おや絵もかくんでございますか、なかなか器用ですね、どれ拝見しましょう」と眺めていたが「あらいやだ、
狸だよ。何だって撰りに撰って狸なんぞかくんでしょうね――それでも狸と見えるから不思議だよ」と少し感心する。「その文句を読んで御覧なさい」と
主人が笑いながら言う。
鼻子は下女が新聞を読むように読み出す。「旧暦の
歳の夜、山の狸が園遊会をやって
盛に舞踏します。その歌に
曰く、
来いさ、としの夜で、
御山婦美【山に分け入る人】も
来まいぞ。スッポコポンノポン」「何ですこりゃ、人を馬鹿にしているじゃございませんか」と
鼻子は不平の
体である。「この
天女は御気に入りませんか」と
迷亭がまた一枚出す。見ると天女が
羽衣を着て
琵琶を
弾いている。「この天女の鼻が少し小さ過ぎるようですが」「何、それが人並ですよ、鼻より文句を読んで御覧なさい」文句にはこうある。「
昔しある所に一人の天文学者がありました。
79/115
ある夜いつものように高い台に登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現われ、この世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので、天文学者は身に
沁む寒さも忘れて聞き
惚れてしまいました。朝見るとその天文学者の
死骸に
霜が真白に降っていました。これは本当の
噺だと、あのうそつきの
爺やが申しました」「何の事ですこりゃ、意味も何もないじゃありませんか、これでも理学士で通るんですかね。ちっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですがねえ」と
寒月君 さんざんにやられる。
迷亭は面白半分に「こりゃどうです」と三枚目を出す。今度は活版で
帆懸舟が印刷してあって、例のごとくその下に何か書き散らしてある。「よべの
泊りの
十六小女郎【女郎見習】、親がないとて、
荒磯の千鳥、さよの
寝覚の千鳥に泣いた、親は船乗り波の底」「うまいのねえ、感心だ事、話せるじゃありませんか」「話せますかな」「ええこれなら三味線に乗りますよ」「三味線に乗りゃ本物だ。こりゃ
如何です」と
迷亭は
無暗に出す。「いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのは沢山で、そんなに
野暮でないんだと言う事は分りましたから」と一人で合点している。
鼻子はこれで
寒月に関する大抵の質問を
卒えたものと見えて、「これは はなはだ失礼を致しました。どうか私の参った事は
寒月さんへは内々に願います」と
得手勝手な要求をする。
寒月の事は何でも聞かなければならないが、自分の方の事は一切
寒月へ知らしてはならないと言う方針と見える。
迷亭も
主人も「はあ」と気のない返事をすると「いずれその内 御礼は致しますから」と念を入れて言いながら立つ。見送りに出た
両人が席へ返るや否や
迷亭が「ありゃ何だい」と言うと
主人も「ありゃ何だい」と双方から同じ問をかける。奥の部屋で
細君が
怺え切れなかったと見えてクツクツ笑う声が聞える。
迷亭は大きな声を出して「奥さん奥さん、月並の標本が来ましたぜ。月並もあのくらいになるとなかなか
振っていますなあ。さあ遠慮はいらんから、存分御笑いなさい」
主人は不満な
口気【口ぶり】で「第一気に喰わん顔だ」と
悪らしそうに言うと、
迷亭はすぐ引きうけて「鼻が顔の中央に陣取って
乙に【気取って】構えているなあ」とあとを付ける。「しかも曲っていらあ」
80/115
「少し
猫背だね。猫背の鼻は、ちと
奇抜過ぎる」と面白そうに笑う。「
夫を
剋する【やっつける】顔だ」と
主人はなお
口惜しそうである。「十九世紀で売れ残って、二十世紀で
店曝しに逢うと言う
相だ」と
迷亭は妙な事ばかり言う。ところへ
妻君が奥の
間から出て来て、女だけに「あんまり悪口をおっしゃると、また車屋の
神さんに
いつけられますよ」と注意する。「少し
いつける方が薬ですよ、奥さん」「しかし顔の
讒訴【かげぐち】などをなさるのは、あまり下等ですわ、誰だって好んであんな鼻を持ってる訳でもありませんから――それに相手が婦人ですからね、あんまり
苛いわ」と
鼻子の鼻を弁護すると、同時に自分の
容貌も間接に弁護しておく。「何ひどいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ
迷亭君」「愚人かも知れんが、なかなか えら者【偉い人】だ、
大分引き
掻かれたじゃないか」「全体教師を何と心得ているんだろう」「裏の車屋くらいに心得ているのさ。ああ言う人物に尊敬されるには博士になるに限るよ、一体博士になっておかんのが君の
不了見さ、ねえ奥さん、そうでしょう」と
迷亭は笑いながら
細君を
顧みる。「博士なんて到底駄目ですよ」と
主人は
細君にまで見離される。「これでも今になるかも知れん、
軽蔑するな。貴様なぞは知るまいが
昔しアイソクラチス【イソクラテス:大弁論家】と言う人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリス【古代ギリシア三大悲劇詩人】が傑作を出して天下を驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニジス【古代ギリシアの詩人】は八十で妙詩を作った。おれだって……」「馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか」と
細君はちゃんと
主人の寿命を予算している。「失敬な、――
甘木さんへ行って聞いて見ろ――元来御前がこんな
皺苦茶な
黒木綿の羽織や、つぎだらけの着物を着せておくから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから
迷亭の着ているような奴を着るから出しておけ」「出しておけって、あんな立派な
御召はござんせんわ。
金田の奥さんが
迷亭さんに丁寧になったのは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。着物の
咎じゃございません」と
細君うまく責任を
逃がれる。
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主人は
伯父さんと言う言葉を聞いて急に思い出したように「君に伯父があると言う事は、今日始めて聞いた。今までついに
噂をした事がないじゃないか、本当にあるのかい」と
迷亭に聞く。
迷亭は待ってたと言わぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に
頑物【頑固】でねえ――やはりその十九世紀から連綿と
今日まで生き延びているんだがね」と
主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白い事ばかりおっしゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃ無いです。頭にちょん
髷を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を
被れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです――寒いから、もっと
寝ていらっしゃいと言うと、人間は四時間寝れば充分だ。四時間以上寝るのは
贅沢の沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても
眠たくていかなんだが、近頃に至って始めて随処 任意【自由】の
庶境【庶民の世界】に
入って はなはだ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寝られなくなるなあ当り前でさあ。修業も
糸瓜も
入ったものじゃないのに当人は全く
克己【自我を克服する】の力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと
鉄扇【親骨に鉄を用いた武士のための扇、帯刀が許されない場所での護身用】をもって出るんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。ところがせんだって妙な事がありましてね」と今度は
細君の方へ話しかける。「へえー」と
細君が
差し
合【さしつかえ】のない返事をする。「
此年の春 突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと言うんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着ると言う返事が来ました。二十三日に静岡で
祝勝会があるからそれまでに間に合うように、至急調達しろと言う命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって
大丸へ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、
白木屋と間違えたんだあね」「寸法を見計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たるところさ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」
82/115
「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。国の新聞を見たら、当日
牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の
鉄扇を持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ」「それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった」「ところが大間違さ。僕も無事に行ってありがたいと思ってると、しばらくして国から小包が届いたから、何か礼でもくれた事と思って開けて見たら例の山高帽子さ、手紙が添えてあってね、せっかく御求め
被下候えども少々大きく
候間、帽子屋へ
御遣わしの上、御縮め
被下度候。縮め賃は
小為替にて
此方より
御送可申上候とあるのさ」「なるほど
迂濶だな」と
主人は
己れより迂濶なものの天下にある事を発見して
大に満足の
体に見える。やがて「それから、どうした」と聞く。「どうするったって仕方がないから僕が頂戴して
被っていらあ」「あの帽子かあ」と
主人が にやにや笑う。「その
方が男爵でいらっしゃるんですか」と
細君が不思議そうに尋ねる。「誰がです」「その鉄扇の伯父さまが」「なあに漢学者でさあ、若い時
聖堂【徳川幕府の儒学の学問所だった湯島聖堂】で
朱子学か、何かにこり固まったものだから、電気灯の下で
恭しく
ちょん髷を頂いているんです。仕方がありません」とやたらに
顋を
撫で廻す。「それでも君は、さっきの女に
牧山男爵と言ったようだぜ」「そうおっしゃいましたよ、私も茶の間で聞いておりました」と
細君もこれだけは
主人の意見に同意する。「そうでしたかなアハハハハハ」と
迷亭は
訳もなく笑う。「そりゃ
嘘ですよ。僕に男爵の伯父がありゃ、今頃は局長くらいになっていまさあ」と平気なものである。「何だか変だと思った」と
主人は嬉しそうな、心配そうな顔付をする。「あらまあ、よく真面目であんな嘘が付けますねえ。あなたもよっぽど
法螺が御上手でいらっしゃる事」と
細君は非常に感心する。「僕より、あの女の方が
上わ
手でさあ」「あなただって御負けなさる
気遣いはありません」「しかし奥さん、僕の法螺は単なる法螺ですよ。あの女のは、みんな魂胆があって、
曰く付きの嘘ですぜ。たちが悪いです。
83/115
猿知恵から割り出した術数【策略】と、天来の
滑稽趣味と混同されちゃ、コメディーの神様も活眼の士なきを嘆ぜざるを得ざる訳に立ち至りますからな」
主人は
俯目になって「どうだか」と言う。
妻君は笑いながら「同じ事ですわ」と言う。
吾輩は今まで向う横丁へ足を踏み込んだ事はない。
角屋敷の
金田とは、どんな構えか見た事は無論ない。聞いた事さえ今が始めてである。
主人の
家で実業家が話頭に
上った事は一返もないので、
主人の飯を食う
吾輩までがこの方面には単に無関係なるのみならず、はなはだ冷淡であった。しかるに先刻
図らずも
鼻子の訪問を受けて、
余所ながらその談話を拝聴し、その令嬢の
艶美を想像し、またその
富貴、権勢を思い浮べて見ると、猫ながら安閑として縁側に寝転んでいられなくなった。しかのみならず
吾輩は
寒月君に対してはなはだ同情の至りに堪えん。先方では博士の奥さんやら、車屋の
神さんやら、
二絃琴の
天璋院まで買収して知らぬ間に、前歯の欠けたのさえ探偵しているのに、
寒月君の方ではただニヤニヤして羽織の紐ばかり気にしているのは、いかに卒業したての理学士にせよ、あまり能がなさ過ぎる。と言って、ああ言う偉大な鼻を顔の
中に安置している女の事だから、
滅多な者では寄り付ける訳の者ではない。こう言う事件に関しては
主人はむしろ無頓着で かつあまりに
銭がなさ過ぎる。
迷亭は銭に不自由はしないが、あんな偶然童子だから、
寒月に
援けを与える
便宜は
尠かろう。して見ると
可哀相なのは
首縊りの力学を演説する先生ばかりとなる。
吾輩でも奮発して、敵城へ乗り込んでその動静を偵察してやらなくては、あまり不公平である。
吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで机の上へ叩きつけるくらいな学者の
家に
寄寓【身を寄せる】する猫で、世間一般の
痴猫、
愚猫とは少しく
撰を
殊にしている【別の部類に属している】。この冒険をあえてするくらいの義侠心【強きをくじき弱者を助ける】は
固より
尻尾の先に畳み込んである。何も
寒月君に恩になったと言う訳もないが、これはただに個人のためにする
血気躁狂【高揚してさわぐこと】の沙汰ではない。大きく言えば公平を好み中庸【調和】を愛する天意を現実にする
天晴な美挙【立派な行動】だ。
84/115
人の許諾を
経ずして
吾妻橋事件などを至る処に振り廻わす以上は、人の軒下に犬を忍ばして、その報道を得々として逢う人に
吹聴する以上は、車夫、
馬丁【馬の世話をする人】、
無頼漢【ならずもの】、ごろつき書生、
日雇婆、産婆、
妖婆、
按摩、
頓馬に至るまでを使用して国家有用の材に
煩を及ぼして【迷惑をかけて】
顧みざる以上は――猫にも覚悟がある。幸い天気も好い、
霜解は少々閉口するが道のためには一命もすてる。足の裏へ泥が着いて、縁側へ梅の花の印を押すくらいな事は、ただ
御三の迷惑にはなるか知れんが、
吾輩の苦痛とは申されない。
翌日とも言わずこれから出掛けようと
勇猛精進の大決心を起して台所まで飛んで出たが「待てよ」と考えた。
吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においてはあえて中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな
咽喉の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が
饒舌れない。よし首尾よく
金田邸へ忍び込んで、充分敵の情勢を見届けたところで、
肝心の
寒月君に教えてやる訳に行かない。
主人にも
迷亭先生にも話せない。話せないとすれば土中にある
金剛石の日を受けて光らぬと同じ事で、せっかくの知識も無用の長物となる。これは
愚だ、やめようかしらんと上り口で
佇んで見た。
しかし一度思い立った事を中途でやめるのは、
白雨が来るかと待っている時 黒雲
共隣国へ通り過ぎたように、何となく残り惜しい。それも非がこっちにあれば格別だが、いわゆる正義のため、人道のためなら、たとい
無駄死をやるまでも進むのが、義務を知る男児の本懐であろう。無駄骨を折り、無駄足を
汚すくらいは猫として適当のところである。猫と生れた
因果で
寒月、
迷亭、
苦沙弥諸先生と三寸の
舌頭【弁舌で】に相互の思想を交換する
技量はないが、猫だけに忍びの術は諸先生より達者である。他人の出来ぬ事を
成就するのはそれ自身において愉快である。
吾一箇でも、
金田の内幕を知るのは、誰も知らぬより愉快である。人に告げられんでも人に知られているなと言う自覚を彼等に与うるだけが愉快である。こんなに愉快が続々出て来ては 行かずにはいられない。やはり行く事に致そう。
向う横町へ来て見ると、聞いた通りの西洋館が
角地面を
吾物顔に占領している。
85/115
この
主人もこの西洋館のごとく
傲慢に構えているんだろうと、門を入ってその建築を
眺めて見たが ただ人を威圧しようと、二階作りが無意味に突っ立っているほかに何等の能もない構造であった。
迷亭のいわゆる
月並とはこれであろうか。玄関を右に見て、植込の中を通り抜けて、勝手口へ廻る。さすがに勝手は広い、
苦沙弥先生の台所の十倍はたしかにある。せんだって日本新聞に詳しく書いてあった
大隈伯の勝手にも劣るまいと思うくらい整然と ぴかぴかしている。『模範勝手だな』と入り込む。見ると
漆喰で叩き上げた二坪ほどの土間に、例の車屋の
神さんが立ちながら、
御飯焚きと車夫を相手にしきりに何か弁じている。こいつは
剣呑【やばい】だと
水桶の裏へかくれる。「あの教師あ、うちの旦那の名を知らないのかね」と
飯焚が言う。「知らねえ事があるもんか、この
界隈で
金田さんの御屋敷を知らなけりゃ眼も耳もねえ
片輪だあな」これは抱え車夫の声である。「なんとも言えないよ。あの教師と来たら、本よりほかに何にも知らない変人なんだからねえ。旦那の事を少しでも知ってりゃ恐れるかも知れないが、駄目だよ、自分の小供の
歳さえ知らないんだもの」と
神さんが言う。「
金田さんでも恐れねえかな、厄介な
唐変木だ。
構あ
事あねえ、みんなで
威嚇かしてやろうじゃねえか」「それが好いよ。奥様の鼻が大き過ぎるの、顔が気に喰わないのって――そりゃあ
酷い事を言うんだよ。自分の
面あ
今戸焼の
狸見たような癖に――あれで
一人前だと思っているんだから やれ切れないじゃないか」「顔ばかりじゃない、
手拭を
提げて湯に行くところからして、いやに高慢ちきじゃないか。自分くらいえらい者は無いつもりでいるんだよ」と
苦沙弥先生は飯焚にも
大に不人望である。「何でも大勢であいつの垣根の
傍へ行って悪口をさんざんいってやるんだね」「そうしたらきっと恐れ入るよ」「しかしこっちの姿を見せちゃあ面白くねえから、声だけ聞かして、勉強の邪魔をした上に、出来るだけじらしてやれって、さっき奥様が言い付けておいでなすったぜ」「そりゃ分っているよ」と
神さんは悪口の三分の一を引き受けると言う意味を示す。なるほどこの手合が
苦沙弥先生を冷やかしに来るなと三人の横を、そっと通り抜けて奥へ入る。
86/115
猫の足はあれども無きがごとし、どこを歩いても不器用な音のした試しがない。空を踏むがごとく、雲を行くがごとく、水中に
磬【読経のとき打ち鳴らす'へ'の字型の板】を打つがごとく、
洞裏【ほらあなの内側】に
瑟【大型の琴】を
鼓する【かき鳴らす】がごとく、『
醍醐の妙味を
甞めて
言詮のほかに
冷暖を
自知するがごとし』【人の助けを借りず、みずから悟ること】。月並な西洋館もなく、模範勝手もなく、車屋の
神さんも、
権助【奉公人の総称】も、飯焚も、御嬢さまも、
仲働きも、
鼻子夫人も、夫人の
旦那様もない。行きたいところへ行って聞きたい話を聞いて、舌を出し
尻尾を
掉って、
髭をぴんと立てて
悠々と帰るのみである。ことに
吾輩はこの道に掛けては日本一の
堪能【深くその道に通じている】である。
草双紙【江戸時代の絵入り娯楽本】にある
猫又の血脈を受けておりはせぬかと
自ら疑うくらいである。
蟇の
額には
夜光の
明珠【暗闇でも光を発する
珠】があると言うが、
吾輩の尻尾には『
神祇釈教【神道と仏教の世界観】
恋無常【恋もまた無常である】』は無論の事、満天下の人間を馬鹿にする
一家相伝【代々受け継がれてきたもの】の妙薬が詰め込んである。
金田家の廊下を人の知らぬ間に横行するくらいは、仁王様が
心太を踏み
潰すよりも容易である。この時
吾輩は我ながら、わが力量に感服して、これも普段大事にする尻尾の御蔭だなと気が付いて見るとただ置かれない。
吾輩の尊敬する尻尾大明神を
礼拝してニャン運長久【運が長く久しく続く】を祈らばやと、ちょっと低頭して見たが、どうも少し
見当が違うようである。なるべく尻尾の方を見て三拝しなければならん。尻尾の方を見ようと身体を廻すと尻尾も自然と廻る。追付こうと思って首をねじると、尻尾も同じ間隔をとって、先へ
馳け出す。なるほど
天地玄黄【書の練習によく用いられる千字文の第一句。ものの順序を示す言葉】を三寸
裏に収めるほどの霊物だけあって、到底
吾輩の手に合わない、尻尾を
環る事
七度び半にして
草臥れたからやめにした。少々眼がくらむ。どこにいるのだかちょっと方角が分らなくなる。構うものかと滅茶苦茶にあるき廻る。障子の
裏で
鼻子の声がする。ここだと立ち留まって、左右の耳をはすに切って、息を
凝らす。「貧乏教師の癖に生意気じゃありませんか」
87/115
と例の
金切り
声を振り立てる。「うん、生意気な奴だ、ちと
懲らしめのために いじめてやろう。あの学校にゃ国のものもいるからな」「誰がいるの?」「
津木ピン
助や
福地キシャゴがいるから、頼んでからかわしてやろう」
吾輩は
金田君の
生国は分らんが、妙な名前の人間ばかり
揃った所だと少々驚いた。
金田君はなお語をついで、「あいつは英語の教師かい」と聞く。「はあ、車屋の
神さんの話では英語のリードルか何か専門に教えるんだって言います」「どうせ
碌な教師じゃあるめえ」
あるめえにも
尠なからず感心した。「この間
ピン助に
遇ったら、
私の学校にゃ妙な奴がおります。生徒から先生
番茶は英語で何と言いますと聞かれて、
番茶は Savage tea【蛮茶】 であると真面目に答えたんで、教員間の物笑いとなっています、どうもあんな教員があるから、ほかのものの、迷惑になって困りますと言ったが、
大方あいつの事だぜ」「あいつに
極っていまさあ、そんな事を言いそうな
面構えですよ、いやに
髭なんか
生やして」「
怪しからん奴だ」髭を生やして怪しからなければ猫などは一疋だって怪しかりようがない。「それにあの
迷亭とか、へべれけとか言う奴は、まあ何てえ、頓狂な
跳返りなんでしょう、伯父の
牧山男爵だなんて、あんな顔に男爵の伯父なんざ、有るはずがないと思ったんですもの」「御前がどこの馬の骨だか分らんものの言う事を
真に受けるのも悪い」「悪いって、あんまり人を馬鹿にし過ぎるじゃありませんか」と大変残念そうである。不思議な事には
寒月君の事は
一言半句も出ない。
吾輩の忍んで来る前に評判記はすんだものか、またはすでに落第と事が
極って念頭にないものか、その
辺は
懸念もあるが仕方がない。しばらく
佇んでいると廊下を隔てて向うの座敷でベルの音がする。そらあすこにも何か事がある。
後れぬ先に、とその方角へ歩を向ける。
来て見ると女が
独りで何か大声で話している。その声が
鼻子とよく似ているところをもって
推すと、これが即ち当家の令嬢
寒月君をして
未遂入水をあえてせしめたる
代物だろう。
惜哉障子越しで玉の
御姿を拝する事が出来ない。従って顔の真中に大きな鼻を祭り込んでいるか、どうだか受合えない。しかし談話の模様から鼻息の荒いところなどを
総合して考えて見ると、
満更人の注意を
惹かぬ
獅鼻とも思われない。
88/115
女はしきりに
喋舌っているが相手の声が少しも聞えないのは、
噂にきく電話というものであろう。「御前は
大和かい。
明日ね、行くんだからね、
鶉の三を取っておいておくれ、いいかえ――分ったかい――なに分らない? おやいやだ。鶉の三【舞台に近い方から数えて三番目(桟敷席を鶉と呼んでいた)】を取るんだよ。――なんだって、――取れない? 取れないはずはない、とるんだよ――へへへへへ
御冗談をだって――何が御冗談なんだよ――いやに人をおひゃらかす【からかう】よ。全体御前は誰だい。
長吉だ?
長吉なんぞじゃ訳が分らない。お
神さんに電話口へ出ろって御言いな――なに?
私しで何でも弁じます?――お前は失敬だよ。
妾しを誰だか知ってるのかい。
金田だよ。――へへへへへ善く存じておりますだって。ほんとに馬鹿だよこの人あ。――
金田だってえばさ。――なに?――毎度
御贔屓にあずかりましてありがとうございます?――何がありがたいんだね。御礼なんか聞きたかあないやね――おやまた笑ってるよ。お前はよっぽど
愚物だね。――仰せの通りだって?――あんまり人を馬鹿にすると電話を切ってしまうよ。いいのかい。困らないのかよ――黙ってちゃ分らないじゃないか、何とか御言いなさいな」電話は
長吉の方から切ったものか何の返事もないらしい。令嬢は
癇癪を起してやけに
ベルをジャラジャラと廻す。足元で
狆【(あの)チン】が驚ろいて急に吠え出す。これは
迂濶に出来ないと、急に飛び下りて縁の下へもぐり込む。
折柄廊下を
近く足音がして障子を開ける音がする。誰か来たなと一生懸命に聞いていると「御嬢様、旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます」と小間使らしい声がする。「知らないよ」と令嬢は
剣突を食わせる。「ちょっと用があるから
嬢を呼んで来いとおっしゃいました」「うるさいね、知らないてば」と令嬢は第二の剣突を食わせる。
89/115
「……水島
寒月さんの事で御用があるんだそうでございます」と小間使は気を
利かして機嫌を直そうとする。「
寒月でも、水月でも知らないんだよ――大嫌いだわ、
糸瓜が
戸迷いをしたような顔をして」第三の剣突は、憐れなる
寒月君が、留守中に頂戴する。「おや御前いつ
束髪【明治に流行った西洋の結髪】に
結ったの」小間使はほっと一息ついて「
今日」となるべく
単簡な挨拶をする。「生意気だねえ、小間使の癖に」と第四の剣突を別方面から食わす。「そうして新しい
半襟【飾り襟】を掛けたじゃないか」「へえ、せんだって御嬢様からいただきましたので、結構過ぎて
勿体ないと思って
行李の中へしまっておきましたが、今までのがあまり
汚れましたからかけ
易えました」「いつ、そんなものを上げた事があるの」「この御正月、白木屋へいらっしゃいまして、御求め遊ばしたので――
鶯茶へ
相撲の
番附を染め出したのでございます。
妾しには地味過ぎていやだから御前に上げようとおっしゃった、あれでございます」「あらいやだ。善く似合うのね。にくらしいわ」「恐れ入ります」「
褒めたんじゃない。にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによく似合うものを なぜだまって貰ったんだい」「へえ」「御前にさえ、そのくらい似合うなら、
妾しにだっておかしい事あ ないだろうじゃないか」「きっとよく御似合い遊ばします」「似あうのが分ってる癖になぜ黙っているんだい。そうしてすまして掛けているんだよ、人の悪い」
剣突は留めどもなく連発される。このさき、事局はどう発展するかと謹聴している時、向うの座敷で「
富子や、
富子や」と大きな声で
金田君が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむを得ず「はい」と電話室を出て行く。
吾輩より少し大きな
狆が顔の中心に眼と口を引き集めたような
面をして付いて行く。
吾輩は例の忍び足で再び勝手から往来へ出て、急いで
主人の家に帰る。探険はまず十二分の
成績である。
帰って見ると、奇麗な
家から急に汚ない所へ移ったので、何だか日当りの善い山の上から薄黒い
洞窟の中へ入り込んだような心持ちがする。探険中は、ほかの事に気を奪われて部屋の装飾、
襖、
障子の具合などには眼も留らなかったが、わが
住居の下等なるを感ずると同時に
彼のいわゆる
月並が恋しくなる。教師よりもやはり実業家がえらいように思われる。
90/115
吾輩も少し変だと思って、例の
尻尾に伺いを立てて見たら、その通りその通りと尻尾の先から
御託宣があった。座敷へ入って見ると驚いたのは
迷亭先生まだ帰らない、
巻煙草の吸い殻を蜂の巣のごとく火鉢の中へ突き立てて、
大胡坐で何か話し立てている。いつの間にか
寒月君さえ来ている。
主人は手枕をして天井の
雨洩を余念もなく眺めている。あいかわらず太平の逸民【気楽に暮らす人々】の会合である。
「
寒月君、君の事を
譫語にまで言った婦人の名は、当時秘密であったようだが、もう話しても善かろう」と
迷亭がからかい出す。「御話しをしても、私だけに関する事なら
差支えないんですが、先方の迷惑になる事ですから」「まだ駄目かなあ」「それに○○博士夫人に約束をしてしまったもんですから」「他言をしないと言う約束かね」「ええ」と
寒月君は例のごとく羽織の
紐をひねくる。その紐は売品にあるまじき紫色である。「その紐の色は、ちと
天保調【時代遅れ】だな」と
主人が寝ながら言う。
主人は
金田事件などには無頓着である。「そうさ、
到底日露戦争時代のものではないな。
陣笠に
立葵の紋の付いたぶっ
割き羽織【馬に乗るため、後ろが縦に裂けている羽織】でも着なくっちゃ納まりの付かない紐だ。織田信長が
聟入をするとき頭の髪を
茶筌に
結ったと言うがその節用いたのは、たしかそんな紐だよ」と
迷亭の文句はあいかわらず長い。「実際これは
爺が長州征伐の時に用いたのです」と
寒月君は真面目である。「もういい加減に博物館へでも献納してはどうだ。
首縊りの力学の演者、理学士水島
寒月君ともあろうものが、売れ残りの旗本のような
出で
立をするのはちと体面に関する訳だから」「御忠告の通りに致してもいいのですが、この紐が大変よく似合うと言ってくれる人もありますので――」「誰だい、そんな趣味のない事を言うのは」と
主人は寝返りを打ちながら大きな声を出す。「それは御存じの方なんじゃないんで――」「御存じでなくてもいいや、一体誰だい」「去る
女性なんです」「ハハハハハよほど茶人だなあ、当てて見ようか、やはり隅田川の底から君の名を呼んだ女なんだろう、その羽織を着てもう一返
御駄仏を
極め込んじゃどうだい」と
迷亭が横合から飛び出す。「へへへへへもう水底から呼んではおりません。
91/115
ここから
乾【北西】の方角にあたる
清浄な世界で……」「あんまり清浄でもなさそうだ、毒々しい鼻だぜ」「へえ?」と
寒月は不審な顔をする。「向う横丁の鼻がさっき押しかけて来たんだよ、ここへ、実に僕等二人は驚いたよ、ねえ
苦沙弥君」「うむ」と
主人は寝ながら茶を飲む。「鼻って誰の事です」「君の親愛なる
久遠の
女性の御母堂様だ」「へえー」「
金田の
妻という女が君の事を聞きに来たよ」と
主人が真面目に説明してやる。驚くか、嬉しがるか、恥ずかしがるかと
寒月君の様子を
窺って見ると別段の事もない。例の通り静かな調子で「どうか私に、あの娘を貰ってくれと言う依頼なんでしょう」と、また紫の紐をひねくる。「ところが大違さ。その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有
主でね……」
迷亭が
半ば言い懸けると、
主人が「おい君、僕はさっきから、あの鼻について
俳体詩【明治30年代に高浜虚子、夏目漱石らによって試みられた連句形式の詩】を考えているんだがね」と木に竹を
接いだよう【つじつまが合わない】な事を言う。隣の
室で
妻君がくすくす笑い出す。「随分君も
呑気だなあ出来たのかい」「少し出来た。第一句が
この顔に鼻祭りと言うのだ」「それから?」「次が
この鼻に神酒供えというのさ」「次の句は?」「まだそれぎりしか出来ておらん」「面白いですな」と
寒月君が にやにや笑う。「次へ
穴二つ幽かなり【
微かなり】と付けちゃどうだ」と
迷亭はすぐ出来る。すると
寒月が「
奥深く毛も見えずはいけますまいか」と
各々出鱈目を並べていると、垣根に近く、往来で「
今戸焼の
狸今戸焼の狸」と四五人わいわい言う声がする。
主人も
迷亭もちょっと驚ろいて表の方を、垣の
隙からすかして見ると「ワハハハハハ」と笑う声がして遠くへ散る足の音がする。「今戸焼の狸というな何だい」と
迷亭が不思議そうに
主人に聞く。「何だか分らん」と
主人が答える。「なかなか
振っていますな」と
寒月君が批評を加える。
迷亭は何を思い出したか急に立ち上って「吾輩は年来美学上の見地からこの鼻について研究した事がございますから、その
一斑【一端】を
披瀝【さらけ出す】して、御両君の清聴を
煩わしたいと思います」と演舌の真似をやる。
主人はあまりの突然にぼんやりして無言のまま
迷亭を見ている。
寒月は「是非
承りたいものです」と小声で言う。
92/115
「いろいろ調べて見ましたが鼻の起源はどうも
確と分りません。第一の不審は、もしこれを実用上の道具と仮定すれば穴が二つでたくさんである。何もこんなに
横風【遠慮がない】に真中から突き出して見る必用がないのである。ところがどうしてだんだん御覧のごとく
斯様にせり出して参ったか」と自分の鼻を
抓んで見せる。「あんまりせり出してもおらんじゃないか」と
主人は御世辞のないところを言う。「とにかく引っ込んではおりませんからな。ただ二個の
孔が
併んでいる状体と混同なすっては、誤解を生ずるに至るかも計られませんから、
予め御注意をしておきます。――で愚見【自分の意見をへりくだって言う語】によりますと鼻の発達は吾々人間が
鼻汁をかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したものでございます」「
佯りのない愚見だ」とまた
主人が寸評を
挿入する。「御承知の通り
鼻汁をかむ時は、是非鼻を抓みます、鼻を抓んで、ことにこの局部だけに刺激を与えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に応ずるがため他に比例して不相当な発達を致します。皮も自然堅くなります、肉も次第に
硬くなります。ついに
凝って骨となります」「それは少し――そう自由に肉が骨に一足飛に変化は出来ますまい」と理学士だけあって
寒月君が抗議を申し込む。
迷亭は何喰わぬ顔で
陳べ続ける。「いや御不審はごもっともですが論より証拠この通り骨があるから仕方がありません。すでに骨が出来る。骨は出来ても
鼻汁は出ますな。出ればかまずにはいられません。この作用で骨の左右が
削り取られて細い高い隆起と変化して参ります――実に恐ろしい作用です。
点滴の石を
穿つがごとく、
賓頭顱【お釈迦様の十六人の弟子(十六羅漢)の一人。おびんずる様と呼ばれ、よく頭をなでられている】の頭が
自から光明を放つがごとく、
不思議薫 不思議臭の
喩のごとく、
斯様に鼻筋が通って堅くなります」「それでも君のなんぞ、ぶくぶくだぜ」「演者自身の局部は
回護【弁護】の恐れがありますから、わざと論じません。かの
金田の御母堂の持たせらるる鼻のごときは、もっとも発達せるもっとも偉大なる天下の珍品として御両君に紹介しておきたいと思います」
寒月君は思わずヒヤヤヤと言う。
93/115
「しかし物も極度に達しますと偉観には相違ございませんが何となく
怖しくて近づき難いものであります。あの
鼻梁【鼻筋】などは素晴しいには違いございませんが、少々
峻嶮【近寄りがたい】過ぎるかと思われます。古人のうちにてもソクラチス【ソクラテス:古代ギリシアの哲学者】、ゴールドスミス【イギリスの小説家】もしくはサッカレー【イギリスの小説家】の鼻などは構造の上から言うと随分申し分はございましょうが その申し分のあるところに
愛嬌がございます。鼻高きが故に
貴からず、
奇なるがために貴しとはこの故でもございましょうか。
下世話にも鼻より団子と申しますれば美的価値から申しますと まず
迷亭くらいのところが適当かと存じます」
寒月と
主人は「フフフフ」と笑い出す。
迷亭自身も愉快そうに笑う。「さてただ
今まで弁じましたのは――」「先生
弁じましたは少し講釈師のようで下品ですから、よしていただきましょう」と
寒月君は先日の
復讐をやる。「さよう しからば顔を洗って出直しましょうかな。――ええ――これから鼻と顔の
権衡【つりあい】に
一言論及したいと思います。他に関係なく単独に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻――
鞍馬山で展覧会があっても恐らく一等賞だろうと思われるくらいな鼻を所有していらせられますが、悲しいかなあれは眼、口、その他の諸先生と何等の相談もなく出来上った鼻であります。ジュリアス・シーザー【古代ローマの軍人・政治家】の鼻は大したものに相違ございません。しかしシーザーの鼻を
鋏でちょん切って、当家の猫の顔へ安置したらどんな者でございましょうか。
喩えにも猫の
額と言うくらいな地面へ、英雄の鼻柱が
突兀【高く突き出ている】として
聳えたら、碁盤の上へ奈良の大仏を
据え付けたようなもので、少しく比例を失するの極、その美的価値を落す事だろうと思います。御母堂の鼻はシーザーのそれのごとく、
正しく
英姿颯爽【堂々として立派な】たる隆起に相違ございません。しかしその周囲を
囲繞【取り囲む】する顔面的条件は
如何な者でありましょう。無論当家の猫のごとく劣等ではない。しかし
癲癇病みの
御かめのごとく
眉の根に八字を刻んで、細い眼を釣るし上げらるるのは事実であります。諸君、この顔にしてこの鼻ありと嘆ぜざるを得ん【なげかわしく思う】ではありませんか」
迷亭の言葉が少し途切れる
途端、裏の方で「まだ鼻の話しをしているんだよ。
94/115
何てえ
剛突く
張だろう」と言う声が聞える。「車屋の
神さんだ」と
主人が
迷亭に教えてやる。
迷亭はまたやり初める。「計らざる裏手にあたって、新たに異性の傍聴者のある事を発見したのは演者の深く名誉と思うところであります。ことに
宛転【よどみない】たる
嬌音【美声】をもって、乾燥なる
講筵【講堂】に一点の
艶味【つや・あじ】を添えられたのは実に望外の幸福であります。なるべく通俗的に引き直して
佳人【美人】
淑女の
眷顧【特別に目をかける】に
背かざらん事を期する訳でありますが、これからは少々力学上の問題に立ち入りますので、
勢御婦人方には御分りにくいかも知れません、どうか
御辛防を願います」
寒月君は力学と言う語を聞いてまた にやにやする。「私の証拠立てようとするのは、この鼻とこの顔は到底調和しない。ツァイシング【ドイツの美学者】の
黄金律を失していると言う事なんで、それを厳格に力学上の公式から
演繹【導き出す】して御覧に入れようと言うのであります。まずHを鼻の高さとします。αは鼻と顔の平面の交差より生ずる角度であります。Wは無論鼻の重量と御承知下さい。どうです大抵お分りになりましたか。……」「分るものか」と
主人が言う。「
寒月君はどうだい」「私にもちと分りかねますな」「そりゃ困ったな。
苦沙弥はとにかく、君は理学士だから分るだろうと思ったのに。この式が演説の首脳なんだからこれを略しては今までやった
甲斐がないのだが――まあ仕方がない。公式は略して結論だけ話そう」「結論があるか」と
主人が不思議そうに聞く。「当り前さ結論のない演舌は、デザートのない西洋料理のようなものだ、――いいか両君
能く聞き給え、これからが結論だぜ。――さて以上の公式にウィルヒョウ【ドイツ人の医師、白血病の発見者】、ワイスマン【ドイツの動物学者】諸家の説を
参酌【参考】して考えて見ますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に
追陪【追随】して起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。従ってかくのごとく身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子には、その鼻にも何か異状がある事と察せられます。
95/115
寒月君などは、まだ年が御若いから
金田令嬢の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんが、かかる遺伝は潜伏期の長いものでありますから、いつ
何時気候の劇変と共に、急に発達して御母堂のそれのごとく、
咄嗟の
間に
膨張するかも知れません、それ故にこの御婚儀は、
迷亭の学理的論証によりますと、今の中 御断念になった方が安全かと思われます、これには当家の御
主人は無論の事、そこに寝ておらるる
猫又殿にも御異存は無かろうと存じます」
主人はようよう起き返って「そりゃ無論さ。あんなものの娘を誰が貰うものか。
寒月君もらっちゃいかんよ」と大変熱心に主張する。
吾輩もいささか賛成の意を表するために にゃーにゃーと二声ばかり鳴いて見せる。
寒月君は別段騒いだ様子もなく「先生方の御意向がそうなら、私は断念してもいいんですが、もし当人がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから――」「ハハハハハ
艶罪【艶っぽい罪】と言う
訳だ」
主人だけは
大にむきになって「そんな馬鹿があるものか、あいつの娘なら
碌な者でないに
極ってらあ。初めて人のうちへ来ておれをやり込めに掛った奴だ。
傲慢な奴だ」と
独りでぷんぷんする。するとまた垣根のそばで三四人が「ワハハハハハ」と言う声がする。一人が「高慢ちきな
唐変木だ」と言うと一人が「もっと大きな
家へ入りてえだろう」と言う。また一人が「御気の毒だが、いくら威張ったって
蔭弁慶【内弁慶】だ」と大きな声をする。
主人は縁側へ出て負けないような声で「やかましい、何だ わざわざそんな
塀の下へ来て」と
怒鳴る。「ワハハハハハ サヴェジ・チー【前述のSavage teaを揶揄】だ、サヴェジ・チーだ」と口々に
罵しる。
主人は
大に
逆鱗の
体で突然
起ってステッキを持って、往来へ飛び出す。
迷亭は手を
拍って「面白い、やれやれ」と言う。
寒月は羽織の紐を
撚って にやにやする。
吾輩は
主人のあとを付けて垣の崩れから往来へ出て見たら、真中に
主人が手持無沙汰にステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっと
狐に
抓まれた
体である。
四
例によって
金田邸へ忍び込む。
例によってとは
今更解釈する必要もない。
しばしばを
自乗したほどの度合を示す
語である。
96/115
一度やった事は二度やりたいもので、二度試みた事は三度試みたいのは人間にのみ限らるる好奇心ではない、猫といえどもこの心理的特権を有して この世界に生れ出でたものと認定していただかねばならぬ。三度以上繰返す時始めて習慣なる語を冠せられて、この行為が生活上の必要と進化するのもまた人間と相違はない。何のために、かくまで
足繁く
金田邸へ通うのかと不審を起すなら その前にちょっと人間に反問したい事がある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の
足しにも血の道の薬にもならないものを、
恥かし
気もなく
吐呑【飲んだりはいたり】して
憚からざる以上は、
吾輩が
金田に
出入するのを、あまり大きな声で
咎め
立てをして貰いたくない。
金田邸は
吾輩の
煙草である。
忍び込むと言うと語弊がある、何だか泥棒か
間男のようで聞き苦しい。
吾輩が
金田邸へ行くのは、招待こそ受けないが、決して
鰹の
切身をちょろまかしたり、眼鼻が顔の中心に
痙攣的に密着している
狆君などと密談するためではない。――何 探偵?――もってのほかの事である。およそ世の中に何が
賤しい
家業だと言って 探偵と高利貸ほど下等な職はないと思っている。なるほど
寒月君のために 猫にあるまじきほどの
義侠心【強きをくじき弱きを助ける】を起して、
一度は
金田家の動静を
余所ながら
窺った事はあるが、それはただの一遍で、その後は決して猫の良心に恥ずるような
陋劣【卑劣】な振舞を致した事はない。――そんなら、なぜ
忍び込むと言うような
胡乱【うさんくさい】な文字を使用した?――さあ、それがすこぶる意味のある事だて。元来
吾輩の考によると
大空は万物を
覆うため 大地は万物を
載せるために出来ている――いかに
執拗な議論を好む人間でも この事実を否定する訳には行くまい。さてこの
大空大地を製造するために彼等人類はどのくらいの労力を
費やしているかと言うと
尺寸【ちょっと】の手伝もしておらぬではないか。自分が製造しておらぬものを自分の所有と
極める法はなかろう。自分の所有と極めても
差し
支えないが他の
出入を禁ずる理由はあるまい。この
茫々たる【広々とした】大地を、
小賢しくも
垣【垣根】を
囲らし
棒杭を立てて某々所有地などと
劃し限る【囲う】のは あたかも かの
青天に
縄張して、この部分は
我の天、あの部分は
彼の天と届け出るような者だ。もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら 我等が呼吸する空気を一尺立方に割って切売をしても善い訳である。
97/115
空気の切売が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。
如是観によりて、
如是法【(仏教・法華経の)真実をそのままに受け入れる法】を信じている
吾輩は それだからどこへでも入って行く。もっとも行きたくない処へは行かぬが、志す方角へは東西南北の差別は入らぬ、平気な顔をして、のそのそと参る。
金田ごときものに遠慮をする訳がない。――しかし猫の悲しさは力ずくでは
到底人間には
叶わない。強勢は権利なりとの格言さえあるこの浮世に存在する以上は、いかにこっちに道理があっても猫の議論は通らない。無理に通そうとすると車屋の
黒のごとく不意に
肴屋の
天秤棒を
喰う恐れがある。理はこっちにあるが権力は向うにあると言う場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、または権力の目を
掠めて我理を貫くかと言えば、
吾輩は無論後者を
択ぶのである。天秤棒は避けざる べからざるが故に、
忍ばざるべからず。人の邸内へは入り込んで
差支えなき
故 込まざるを得ず。この故に
吾輩は
金田邸へ
忍び込むのである。
忍び込む
度が重なるにつけ、探偵をする気はないが自然
金田君一家の事情が見たくもない
吾輩の眼に映じて覚えたくもない
吾輩の
脳裏に印象を
留むるに至るのはやむを得ない。
鼻子夫人が顔を洗うたんびに念を入れて鼻だけ拭く事や、
富子令嬢が
阿倍川餅を
無暗に召し上がらるる事や、それから
金田君自身が――
金田君は
妻君に似合わず鼻の低い男である。単に鼻のみではない、顔全体が低い。小供の時分喧嘩をして、
餓鬼大将のために
頸筋を
捉まえられて、うんと精一杯に
土塀へ
圧し付けられた時の顔が四十年後の
今日まで、
因果をなしておりはせぬかと
怪まるるくらい平坦な顔である。
至極 穏かで危険のない顔には相違ないが、何となく変化に乏しい。いくら
怒っても
平かな顔である。――その
金田君が
鮪の
刺身を食って自分で自分の
禿頭をぴちゃぴちゃ
叩く事や、それから顔が低いばかりでなく背が低いので、無暗に高い帽子と高い下駄を
穿く事や、それを車夫がおかしがって書生に話す事や、書生がなるほど君の観察は機敏だと感心する事や、――一々数え切れない。
近頃は勝手口の横を庭へ通り抜けて、
築山の陰から向うを見渡して障子が立て切って物静かであるなと見極めがつくと、
徐々上り込む。もし人声が
賑かであるか、座敷から
見透かさるる恐れがあると思えば池を東へ廻って
雪隠【せっちん/便所】の横から知らぬ間に縁の下へ出る。
98/115
悪い事をした
覚はないから何も隠れる事も、恐れる事もないのだが、そこが人間と言う無法者に逢っては不運と
諦めるより仕方がないので、もし世間が
熊坂長範【平安時代の伝説上の盗賊】ばかりになったら いかなる盛徳【りっぱな得】の君子もやはり
吾輩のような【用心深い】態度に出ずるであろう。
金田君は堂々たる実業家であるから
固より熊坂長範のように五尺三寸を振り廻す
気遣はあるまいが、
承る処によれば 人を人と思わぬ病気があるそうである。人を人と思わないくらいなら猫を猫とも思うまい。して見れば猫たるものはいかなる盛徳の猫でも彼の邸内で決して油断は出来ぬ
訳である。しかしその油断の出来ぬところが
吾輩にはちょっと面白いので、
吾輩がかくまでに
金田家の門を
出入するのも、ただこの危険が
冒して見たいばかりかも知れぬ。それは追って
篤と考えた上、猫の
脳裏を残りなく解剖し得た時 改めて
御吹聴 仕ろう。
今日はどんな模様だなと、例の築山の
芝生の上に
顎を押しつけて前面を見渡すと十五畳の客間を
弥生【三月】の春に明け放って、中には
金田夫婦と一人の来客との
御話最中である。
生憎鼻子夫人の鼻がこっちを向いて池越しに
吾輩の額の上を正面から
睨め付けている。鼻に睨まれたのは生れて今日が始めてである。
金田君は幸い横顔を向けて客と相対しているから例の平坦な部分は半分かくれて見えぬが、その代り鼻の
在所が判然しない。ただ
胡麻塩色の
口髯が好い加減な所から乱雑に
茂生しているので、あの上に
孔が二つあるはずだと結論だけは苦もなく出来る。
春風もああ言う
滑かな顔ばかり吹いていたら定めて楽だろうと、ついでながら想像を
逞しゅうして見た。御客さんは三人の
中で一番普通な
容貌を有している。ただし普通なだけに、これぞと取り立てて紹介するに足るような
雑作は一つもない。普通と言うと結構なようだが、普通の
極平凡の堂に
上り【普通を極めて、その殿堂に入り】、庸俗の室に
入ったのはむしろ
憫然の至り【その詰まらなさは気の毒なほど】だ。かかる無意味な
面構を有すべき宿命を帯びて明治の
昭代に生れて来たのは誰だろう。例のごとく縁の下まで行ってその談話を承わらなくては分らぬ。
「……それで
妻がわざわざあの男の所まで出掛けて行って様子を聞いたんだがね……」と
金田君は例のごとく
横風【遠慮がない】な言葉使である。横風ではあるが
毫【少し】も
峻嶮【近寄りがたい】なところがない。言語も彼の顔面のごとく
平板尨大【面白みに欠け まとまりがない】である。
「なるほどあの男が
水島さんを教えた事がございますので――なるほど、よい御思い付きで――なるほど」となるほどずくめのは御客さんである。
「ところが何だか要領を得んので」
99/115
「ええ
苦沙弥じゃ要領を得ない
訳で――あの男は私がいっしょに下宿をしている時分から実に
煮え切らない――そりゃ御困りでございましたろう」と御客さんは
鼻子夫人の方を向く。
「困るの、困らないのってあなた、
私しゃこの年になるまで人のうちへ行って、あんな
不取扱を受けた事はありゃしません」と
鼻子は例によって鼻嵐を吹く。
「何か無礼な事でも申しましたか、
昔しから
頑固な性分で――何しろ十年一日のごとく【長い間変化なく】リードル【英語のリーダー】専門の教師をしているのでも大体御分りになりましょう」と御客さんは
体よく調子を合せている。「いや御話しにもならんくらいで、
妻が何か聞くとまるで剣もほろろの挨拶だそうで……」
「それは
怪しからん訳で――一体少し学問をしていると とかく慢心が
萌すもので、その上貧乏をすると負け惜しみが出ますから――いえ世の中には随分無法な奴がおりますよ。自分の働きのないのにゃ気が付かないで、
無暗に財産のあるものに喰って掛るなんてえのが――まるで彼等の財産でも
捲き上げたような気分ですから驚きますよ、あははは」と御客さんは大恐悦【つつしんでよろこぶ】の
体である。
「いや、まことに
言語同断で、ああ言うのは
必竟世間見ずの
我儘から起るのだから、ちっと
懲らしめのために いじめてやるが好かろうと思って、少し当ってやったよ」
「なるほどそれでは
大分答えましたろう、全く本人のためにもなる事ですから」と御客さんはいかなる
当り方か
承らぬ先からすでに
金田君に同意している。
「ところが
鈴木さん、まあなんて頑固な男なんでしょう。学校へ出ても
福地さんや、
津木さんには口も
利かないんだそうです。恐れ入って黙っているのかと思ったら この間は罪もない、
宅の書生をステッキを持って追っ懸けたってんです――三十
面さげて、よく、まあ、そんな馬鹿な真似が出来たもんじゃありませんか、全く
やけで少し気が変になってるんですよ」
「へえどうしてまたそんな乱暴な事をやったんで……」とこれには、さすがの御客さんも少し不審を起したと見える。
「なあに、ただあの男の前を何とか言って通ったんだそうです、すると、いきなり、ステッキを持って
跣足で飛び出して来たんだそうです。よしんば、ちっとやそっと、何か言ったって小供じゃありませんか、
髯面の
大僧の癖にしかも教師じゃありませんか」
「さよう教師ですからな」と御客さんが言うと、
金田君も「教師だからな」と言う。教師たる以上はいかなる侮辱を受けても木像のように おとなしくして おらねばならぬ とはこの三人の期せずして一致した論点と見える。
「それに、あの
迷亭って男はよっぽどな
酔興人ですね。役にも立たない
嘘八百を並べ立てて。
100/115
私しゃあんな
変梃な人にゃ初めて逢いましたよ」
「ああ
迷亭ですか、あいかわらず
法螺を吹くと見えますね。やはり
苦沙弥の所で御逢いになったんですか。あれに掛っちゃたまりません。あれも
昔し自炊の仲間でしたがあんまり人を馬鹿にするものですから
能く喧嘩をしましたよ」
「誰だって怒りまさあね、あんなじゃ。そりゃ嘘をつくのも
宜うござんしょうさ、ね、義理が悪るいとか、ばつを合せなくっちゃあならないとか――そんな時には誰しも心にない事を言うもんでさあ。しかしあの男のは
吐かなくってすむのに
矢鱈に吐くんだから始末に
了えないじゃありませんか。何が欲しくって、あんな
出鱈目を――よくまあ、しらじらしく言えると思いますよ」
「ごもっともで、全く道楽からくる嘘だから困ります」
「せっかくあなた真面目に聞きに行った
水島の事も
滅茶滅茶になってしまいました。
私ゃ
剛腹【
癪に障り】で
忌々しくって――それでも義理は義理でさあ、人のうちへ物を聞きに行って知らん顔の半兵衛もあんまりですから、後で車夫にビールを一ダース持たせてやったんです。ところがあなたどうでしょう。こんなものを受取る理由がない、持って帰れって言うんだそうで。いえ御礼だから、どうか御取り下さいって車夫が言ったら――
悪くいじゃあ ありませんか、俺はジャムは毎日
舐めるがビールのような
苦い者は飲んだ事がないって、ふいと奥へ入ってしまったって――言い草に事を欠いて、まあどうでしょう、失礼じゃありませんか」
「そりゃ、ひどい」と御客さんも今度は本気に
苛いと感じたらしい。
「そこで今日わざわざ君を招いたのだがね」としばらく途切れて
金田君の声が聞える。「そんな馬鹿者は陰から、からかってさえいればすむようなものの、少々それでも困る事があるじゃて……」と
鮪の刺身を食う時のごとく
禿頭をぴちゃぴちゃ
叩く。もっとも
吾輩は縁の下にいるから実際叩いたか叩かないか見えようはずがないが、この禿頭の音は近来
大分聞馴れている。
比丘尼【仏教の正規の女性出家者】が木魚の音を聞き分けるごとく、縁の下からでも音さえたしかであればすぐ禿頭だなと
出所を鑑定する事が出来る。「そこでちょっと君を
煩わしたいと思ってな……」
「私に出来ます事なら何でも御遠慮なくどうか――今度東京勤務と言う事になりましたのも全くいろいろ御心配を掛けた結果にほかならん訳でありますから」と御客さんは快よく
金田君の依頼を承諾する。
101/115
この
口調で見るとこの御客さんはやはり
金田君の世話になる人と見える。いやだんだん事件が面白く発展してくるな、今日はあまり天気が
宜いので、来る気もなしに来たのであるが、こう言う好材料を
得ようとは全く思い
掛けなんだ。
御彼岸にお
寺詣りをして偶然
方丈【お寺の中】で
牡丹餅の御馳走になるような者だ。
金田君はどんな事を客人に依頼するかなと、縁の下から耳を澄して聞いている。
「あの
苦沙弥と言う
変物が、どう言う訳か
水島に
入れ
知恵をするので、あの
金田の娘を貰っては
行かんなどと ほのめかすそうだ――なあ
鼻子そうだな」
「ほのめかすどころじゃないんです。あんな奴の娘を貰う馬鹿がどこの国にあるものか、
寒月君決して貰っちゃいかんよって言うんです」
「あんな奴とは何だ失敬な、そんな乱暴な事を言ったのか」
「言ったどころじゃありません、ちゃんと車屋の
神さんが知らせに来てくれたんです」
「
鈴木君どうだい、御聞の通りの次第さ、随分厄介だろうが?」
「困りますね、ほかの事と違って、こう言う事には他人が
妄りに
容喙するべきはずの者ではありませんからな。そのくらいな事はいかな
苦沙弥でも心得ているはずですが。一体どうした訳なんでしょう」
「それでの、君は学生時代から
苦沙弥と同宿をしていて、今はとにかく、昔は親密な間柄であったそうだから御依頼するのだが、君 当人に逢ってな、よく利害を
諭して見てくれんか。何か
怒っているかも知れんが、怒るのは
向が
悪るいからで、先方がおとなしくしてさえいれば一身上の便宜も充分計ってやるし、気に
障わるような事もやめてやる。しかし向が向ならこっちもこっちと言う気になるからな――つまりそんな
我を張るのは当人の損だからな」
「ええ全くおっしゃる通り
愚な抵抗をするのは 本人の損になるばかりで 何の益もない事ですから、善く申し聞けましょう」
「それから娘はいろいろと申し込もある事だから、必ず
水島にやると
極める訳にも行かんが、だんだん聞いて見ると学問も人物も悪くもないようだから、もし当人が勉強して近い内に博士にでもなったら あるいはもらう事が出来るかも知れんくらいは それとなくほのめかしても構わん」
「そう言ってやったら当人も
励みになって勉強する事でしょう。
宜しゅうございます」
「それから、あの妙な事だが――
水島にも似合わん事だと思うが、あの
変物の
苦沙弥を先生先生と言って
苦沙弥の言う事は大抵聞く様子だから困る。なにそりゃ何も
水島に限る訳では無論ないのだから
苦沙弥が何と言って邪魔をしようと、わしの方は別に
差支えもせんが……」
「
水島さんが可哀そうですからね」と
鼻子夫人が口を出す。
102/115
「
水島と言う人には逢った事もございませんが、とにかくこちらと御縁組が出来れば
生涯の幸福で、本人は無論異存はないのでしょう」
「ええ
水島さんは貰いたがっているんですが、
苦沙弥だの
迷亭だのって変り者が何だとか、かんだとか言うものですから」
「そりゃ、善くない事で、相当の教育のあるものにも似合わん
所作ですな。よく私が
苦沙弥の所へ参って談じましょう」
「ああ、どうか、御面倒でも、一つ願いたい。それから実は
水島の事も
苦沙弥が一番
詳しいのだが せんだって
妻が行った時は今の始末で
碌々聞く事も出来なかった訳だから、君から 今一応本人の性行学才等をよく聞いて貰いたいて」
「かしこまりました。今日は土曜ですからこれから廻ったら、もう帰っておりましょう。近頃はどこに住んでおりますか知らん」
「ここの前を右へ突き当って、左へ一丁ばかり行くと崩れかかった黒塀のあるうちです」と
鼻子が教える。
「それじゃ、つい近所ですな。訳はありません。帰りにちょっと寄って見ましょう。なあに、大体分りましょう
標札を見れば」
「標札はあるときと、ないときとありますよ。名刺を
御饌粒【ご飯つぶ】で門へ
貼り付けるのでしょう。雨がふると
剥がれてしまいましょう。すると御天気の日にまた貼り付けるのです。だから標札は
当にゃなりませんよ。あんな面倒臭い事をするよりせめて
木札でも懸けたらよさそうなもんですがねえ。ほんとうにどこまでも気の知れない人ですよ」
「どうも驚きますな。しかし崩れた黒塀のうちと聞いたら大概分るでしょう」
「ええあんな汚ないうちは町内に一軒しかないから、すぐ分りますよ。あ、そうそうそれで分らなければ、好い事がある。何でも屋根に草が
生えたうちを探して行けば間違っこありませんよ」
「よほど特色のある
家ですなアハハハハ」
鈴木君が御光来になる前に帰らないと、少し都合が悪い。談話もこれだけ聞けば大丈夫沢山である。縁の下を伝わって
雪隠を西へ廻って
築山の陰から往来へ出て、急ぎ足で屋根に草の生えているうちへ帰って来て 何喰わぬ顔をして座敷の椽へ廻る。
103/115
主人は縁側へ
白毛布を敷いて、
腹這になって
麗かな
春日に
甲羅を干している。太陽の光線は存外公平なもので屋根にペンペン草の目標のある
陋屋【みすぼらしい家】でも、
金田君の客間のごとく陽気に暖かそうであるが、気の毒な事には
毛布だけが春らしくない。製造元では白のつもりで織り出して、
唐物屋でも白の気で売り
捌いたのみならず、
主人も白と言う注文で買って来たのであるが――何しろ十二三年以前の事だから白の時代はとくに通り越して ただ今は
濃灰色なる変色の時期に
遭遇しつつある。この時期を経過して他の暗黒色に化けるまで毛布の命が続くか どうだかは、疑問である。今でもすでに万遍なく
擦り切れて、
竪横の筋は明かに読まれるくらいだから、毛布と称するのは もはや
僭上の【分を過ぎた】沙汰であって、毛の字は
省いて単に
ットとでも申すのが適当である。しかし
主人の考えでは一年持ち、二年持ち、五年持ち十年持った以上は
生涯持たねばならぬと思っているらしい。随分
呑気な事である。さてその
因縁のある
毛布の上へ
前申す通り腹這になって何をしているかと思うと 両手で出張った
顋を支えて、右手の指の股に
巻煙草を挟んでいる。ただそれだけである。もっとも彼が
フケだらけの頭の
裏には宇宙の大真理が火の車のごとく回転しつつあるかも知れないが、外部から拝見したところでは、そんな事とは夢にも思えない。
煙草の火はだんだん吸口の方へ
逼って、
一寸【約3cm】ばかり燃え
尽した灰の棒がぱたりと毛布の上に落つるのも構わず
主人は一生懸命に煙草から立ち
上る煙の行末を見詰めている。その煙りは春風に浮きつ沈みつ、流れる輪を
幾重にも描いて、紫深き
細君の
洗髪の根本へ吹き寄せつつある。――おや、
細君の事を話しておくはずだった。忘れていた。
細君は
主人に
尻を向けて――なに失礼な
細君だ? 別に失礼な事はないさ。礼も非礼も相互の解釈次第でどうでもなる事だ。
主人は平気で
細君の尻のところへ
頬杖を突き、
細君は平気で
主人の顔の先へ
荘厳なる尻を
据えたまでの事で無礼も
糸瓜もないのである。御両人は結婚後一ヵ年も立たぬ間に礼儀作法などと窮屈な境遇を脱却せられた超然的夫婦である。
104/115
――さてかくのごとく
主人に尻を向けた
細君はどう言う
了見か、今日の天気に乗じて、尺に余る緑の黒髪を、
麩海苔と生卵でゴシゴシ洗濯せられた者と見えて癖のない奴を、見よがしに肩から背へ振りかけて、無言のまま
小供の袖なしを熱心に縫っている。実はその洗髪を乾かすために
唐縮緬【薄く柔らかい毛織物】の
布団と針箱を縁側へ出して、
恭しく
主人に尻を向けたのである。あるいは
主人の方で尻のある
見当へ顔を持って来たのかも知れない。そこで先刻御話しをした
煙草の煙りが、豊かに
靡く黒髪の間に流れ流れて、時ならぬ
陽炎の燃えるところを
主人は余念もなく眺めている。しかしながら煙は
固より
一所に
停まるものではない、その性質として上へ上へと立ち登るのだから
主人の眼もこの煙りの
髪毛と
縺れ合う奇観を落ちなく見ようとすれば、是非共眼を動かさなければならない。
主人はまず腰の辺から観察を始めて
徐々と背中を
伝って、肩から
頸筋に掛ったが、それを通り過ぎてようよう脳天に達した時、覚えずあっと驚いた。――
主人が
偕老同穴【共に暮らして老い、死んだ後は同じ墓穴に葬られる】を
契った夫人の脳天の真中には
真丸な大きな
禿がある。しかもその禿が暖かい日光を反射して、今や時を得顔【得意げ】に輝いている。思わざる
辺にこの不思議な大発見をなした時の
主人の眼は
眩ゆい中に充分の驚きを示して、
烈しい光線で
瞳孔の開くのも構わず一心不乱に見つめている。
主人がこの禿を見た時、第一彼の
脳裏に浮んだのは かの
家伝来の仏壇に幾世となく飾り付けられたる
御灯明皿【神仏に備える灯明の皿】である。彼の
一家は真宗で、真宗では仏壇に身分不相応な金を掛けるのが古例である。
主人は幼少の時その家の倉の中に、薄暗く飾り付けられたる
金箔厚き
厨子があって、その厨子【要するに仏壇】の中にはいつでも
真鍮の灯明皿がぶら下って、その灯明皿には昼でもぼんやりした
灯がついていた事を記憶している。周囲が暗い中にこの灯明皿が比較的明瞭に輝やいていたので 小供心にこの灯を何遍となく見た時の印象が
細君の禿に
喚び起されて突然飛び出したものであろう。灯明皿は一分立たぬ間に消えた。この
度は
観音様の鳩の事を思い出す。観音様の鳩と
細君の禿とは何等の関係もないようであるが、
主人の頭では二つの間に密接な連想がある。同じく小供の時分に浅草へ行くと必ず鳩に豆を買ってやった。豆は一皿が
文久二つ【文久銭2枚・約30円~/2025年】で、赤い
土器へ入っていた。その
土器が、色と言い
大さと言いこの禿によく似ている。
「なるほど似ているな」
105/115
と
主人が、さも感心したらしく言うと「何がです」と
細君は見向きもしない。
「何だって、御前の頭にゃ大きな禿があるぜ。知ってるか」
「ええ」と
細君は依然として仕事の手をやめずに答える。別段露見を恐れた様子もない。超然たる模範妻君である。
「嫁にくるときからあるのか、結婚後新たに出来たのか」と
主人が聞く。もし嫁にくる前から禿げているなら
欺されたのであると口へは出さないが心の
中で思う。
「いつ出来たんだか覚えちゃいませんわ、禿なんざどうだって
宜いじゃありませんか」と
大に悟ったものである。
「どうだって宜いって、自分の頭じゃないか」と
主人は少々怒気を帯びている。
「自分の頭だから、どうだって
宜いんだわ」と言ったが、さすが少しは気になると見えて、右の手を頭に乗せて、くるくる禿を
撫でて見る。「おや
大分大きくなった事、こんなじゃ無いと思っていた」と言ったところをもって見ると、年に合わして禿があまり大き過ぎると言う事をようやく自覚したらしい。
「女は
髷に
結うと、ここが釣れますから誰でも禿げるんですわ」と少しく弁護しだす。
「そんな速度で、みんな禿げたら、四十くらいになれば、から
薬缶ばかり出来なければならん。そりゃ病気に違いない。伝染するかも知れん、今のうち早く
甘木さんに見て貰え」と
主人はしきりに自分の頭を
撫で廻して見る。
「そんなに人の事をおっしゃるが、あなただって鼻の
孔へ
白髪が
生えてるじゃありませんか。禿が伝染するなら白髪だって伝染しますわ」と
細君少々ぷりぷりする。
「鼻の中の白髪は見えんから害はないが、脳天が――ことに若い女の脳天がそんなに禿げちゃ見苦しい。
不具【身体の障害】だ」
「
不具なら、なぜ御貰いになったのです。御自分が好きで貰っておいて不具だなんて……」
「知らなかったからさ。全く今日まで知らなかったんだ。そんなに威張るなら、なぜ嫁に来る時頭を見せなかったんだ」
「馬鹿な事を! どこの国に頭の試験をして及第したら嫁にくるなんて、ものが在るもんですか」
「禿はまあ我慢もするが、御前は
背いが人並
外れて低い。はなはだ見苦しくていかん」
106/115
「背いは見ればすぐ分るじゃありませんか、
背の低いのは最初から承知で御貰いになったんじゃありませんか」
「それは承知さ、承知には相違ないが まだ延びるかと思ったから貰ったのさ」
「
廿【二十歳】にもなって
背いが延びるなんて――あなたもよっぽど人を馬鹿になさるのね」と
細君は
袖なしを
抛り出して
主人の方に
捩じ向く。返答次第ではその分には すまさんと言う
権幕である。
「
廿になったって背いが延びてならんと言う法はあるまい。嫁に来てから滋養分でも食わしたら、少しは延びる見込みがあると思ったんだ」と真面目な顔をして妙な
理屈を述べていると
門口のベルが
勢よく鳴り立てて 頼むと言う大きな声がする。いよいよ
鈴木君がペンペン草を
目的に
苦沙弥先生の
臥竜窟【大人物の隠れ家】を尋ねあてたと見える。
細君は喧嘩を後日に譲って、
倉皇【慌てて】針箱と袖なしを
抱えて茶の間へ逃げ込む。
主人は鼠色の
毛布を丸めて書斎へ投げ込む。やがて下女が持って来た名刺を見て、
主人はちょっと驚ろいたような顔付であったが、こちらへ御通し申してと言い棄てて、名刺を握ったまま
後架【便所】へ入った。何のために後架へ急に入ったか一向要領を得ん、何のために
鈴木藤十郎君の名刺を後架まで持って行ったのか なおさら説明に苦しむ。とにかく迷惑なのは臭い所へ随行を命ぜられた名刺君である。
下女が
更紗の座布団を
床の前へ直して、どうぞこれへと引き下がった、
跡で、
鈴木君は一応室内を見回わす。床に掛けた
花開万国春とある
木菴【明国から渡来した臨済宗黄檗派の僧】の【が書いたような】
贋物や、京製の
安青磁に
活けた
彼岸桜などを一々順番に点検したあとで、ふと下女の勧めた布団の上を見るといつの間にか一
疋の猫がすまして坐っている。申すまでもなくそれはかく申す
吾輩である。この時
鈴木君の胸のうちに ちょっとの間 顔色にも出ぬほどの風波が起った。この布団は疑いもなく
鈴木君のために敷かれたものである。自分のために敷かれた布団の上に自分が乗らぬ先から、断りもなく妙な動物が平然と
蹲踞【うずくまる】している。これが
鈴木君の心の平均を破る第一の条件である。もしこの布団が勧められたまま、
主なくして春風の吹くに任せてあったなら、
鈴木君はわざと
謙遜の意を
表して、
主人がさあどうぞと言うまでは堅い畳の上で我慢していたかも知れない。しかし早晩自分の所有すべき布団の上に挨拶もなく乗ったものは誰であろう。人間なら譲る事もあろうが猫とは
怪しからん。乗り手が猫であると言うのが一段と不愉快を感ぜしめる。
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これが
鈴木君の心の平均を破る第二の条件である。最後にその猫の態度がもっとも
癪に障る。少しは気の毒そうにでもしている事か、乗る権利もない布団の上に、
傲然【尊大に】と構えて、丸い
無愛嬌な眼をぱちつかせて、御前は誰だいと言わぬばかりに
鈴木君の顔を見つめている。これが平均を破壊する第三の条件である。これほど不平があるなら、
吾輩の
頸根っこを
捉えて引きずり卸したら
宜さそうなものだが、
鈴木君はだまって見ている。堂々たる人間が猫に恐れて手出しをせぬと言う事は有ろうはずがないのに、なぜ早く
吾輩を処分して自分の不平を
洩らさないかと言うと、これは全く
鈴木君が一個の人間として自己の体面を維持する自重心の故であると察せらるる。もし腕力に訴えたなら三尺【90cm】の童子も
吾輩を自由に上下し得る【さかさまにする】であろうが、体面を重んずる点より考えると いかに
金田君の
股肱【腹心の部下】たる
鈴木藤十郎その人も この二尺四方の真中に鎮座まします猫大明神を
如何ともする事が出来ぬのである。いかに人の見ていぬ場所でも、猫と座席争いをしたとあっては いささか人間の威厳に関する。真面目に猫を相手にして
曲直【物事の善悪】を争うのは いかにも
大人気ない。滑稽である。この不名誉を避けるためには多少の不便は忍ばねばならぬ。しかし忍ばねばならぬだけ それだけ猫に対する
憎悪の念は増す訳であるから、
鈴木君は時々
吾輩の顔を見ては
苦い顔をする。
吾輩は
鈴木君の不平な顔を拝見するのが面白いから滑稽の念を
抑えてなるべく何喰わぬ顔をしている。
吾輩と
鈴木君の間に、かくのごとき無言劇が行われつつある間に
主人は
衣紋をつくろって【衣服を整えて】
後架から出て来て「やあ」と席に着いたが、手に持っていた名刺の影さえ見えぬところをもって見ると、
鈴木藤十郎君の名前は臭い所へ無期徒刑【無期禁錮】に処せられたものと見える。名刺こそ飛んだ
厄運に際会したものだと思う
間もなく、
主人は この野郎と
吾輩の
襟がみを
攫んで えいとばかりに縁側へ
擲きつけた。
「さあ敷きたまえ。珍らしいな。いつ東京へ出て来た」と
主人は旧友に向って布団を勧める。
鈴木君はちょっとこれを裏返した上で、それへ坐る。
「つい まだ忙がしいものだから報知もしなかったが、実はこの間から東京の本社の方へ帰るようになってね……」
「それは結構だ、
大分長く逢わなかったな。君が
田舎へ行ってから、始めてじゃないか」
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「うん、もう十年近くになるね。なにその後 時々東京へは出て来る事もあるんだが、つい用事が多いもんだから、いつでも失敬するような訳さ。
悪るく思ってくれたもうな。会社の方は君の職業とは違って随分忙がしいんだから」「十年立つうちには大分違うもんだな」と
主人は
鈴木君を見上げたり見下ろしたりしている。
鈴木君は頭を
美麗に分けて、英国仕立のトウィード【ツイードのジャケット?】を着て、派手な
襟飾りをして、胸に金鎖りさえピカつかせている体裁、どうしても
苦沙弥君の旧友とは思えない。
「うん、こんな物までぶら下げなくちゃ、ならんようになってね」と
鈴木君はしきりに金鎖りを気にして見せる。
「そりゃ本ものかい」と
主人は
無作法な質問をかける。
「十八金だよ」と
鈴木君は笑いながら答えたが「君も大分年を取ったね。たしか小供があるはずだったが一人かい」
「いいや」
「二人?」
「いいや」
「まだあるのか、じゃ三人か」
「うん三人ある。この先
幾人出来るか分らん」
「相変らず気楽な事を言ってるぜ。一番大きいのはいくつになるかね、もうよっぽどだろう」
「うん、いくつか
能く知らんが
大方六つか、七つかだろう」
「ハハハ教師は
呑気でいいな。僕も教員にでもなれば善かった」
「なって見ろ、三日で
嫌になるから」
「そうかな、何だか上品で、気楽で、
閑暇があって、すきな勉強が出来て、よさそうじゃないか。実業家も悪くもないが我々のうちは駄目だ。実業家になるならずっと上にならなくっちゃいかん。下の方になるとやはりつまらん御世辞を振り
撒いたり、好かん
猪口をいただきに出たり随分
愚なもんだよ」
「僕は実業家は学校時代から大嫌だ。金さえ取れれば何でもする、昔で言えば
素町人【教養も趣味もない素の大衆】だからな」と実業家を前に
控えて太平楽【状況にそぐわない好き勝手】を並べる。「まさか――そうばかりも言えんがね、少しは下品なところもあるのさ、とにかく
金と
情死をする覚悟でなければ やり通せないから――ところがその金と言う奴が
曲者で、――今もある実業家の所へ行って聞いて来たんだが、金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないと言うのさ――義理を
かく、人情を
かく、恥を
かく これで三角になるそうだ 面白いじゃないかアハハハハ」
「誰だそんな馬鹿は」
「馬鹿じゃない、なかなか利口な男なんだよ、実業界でちょっと有名だがね、君 知らんかしら、ついこの先の横丁にいるんだが」
「
金田か?
何んだあんな奴」
「大変怒ってるね。
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なあに、そりゃ、ほんの
冗談だろうがね、そのくらいにせんと金は
溜らんと言う
喩さ。君のようにそう真面目に解釈しちゃ困る」
「三角術は冗談でもいいが、あすこの女房の鼻はなんだ。君 行ったんなら見て来たろう、あの鼻を」
「
細君か、細君は なかなかさばけた人だ」
「鼻だよ、大きな鼻の事を言ってるんだ。せんだって僕はあの鼻について
俳体詩【明治30年代に高浜虚子、夏目漱石らによって試みられた連句形式の詩】を作ったがね」
「何だい俳体詩と言うのは」
「俳体詩を知らないのか、君も随分時勢に暗いな」
「ああ僕のように忙がしいと文学などは
到底駄目さ。それに以前からあまり
数奇でない方だから」
「君 シャーレマン【西ローマ帝国の皇帝】の鼻の
格好を知ってるか」
「アハハハハ随分気楽だな。知らんよ」
「エルリントン【そんな人知らん】は部下のものから鼻々と
異名をつけられていた。君 知ってるか」
「鼻の事ばかり気にして、どうしたんだい。好いじゃないか鼻なんか丸くても
尖んがってても」
「決してそうでない。君 パスカルの事を知ってるか」
「また知ってるかか、まるで試験を受けに来たようなものだ。パスカルがどうしたんだい」
「パスカルがこんな事を言っている」
「どんな事を」
「もしクレオパトラの鼻が少し短かかったならば世界の表面に大変化を
来したろう【フランスの哲学者 ブレーズ・パスカルの言葉(=歴史は極めて偶然的で不確定な要素に依存している)】と」
「なるほど」
「それだから君のようにそう
無雑作に鼻を馬鹿にしてはいかん」
「まあいいさ、これから大事にするから。そりゃそうとして、今日来たのは、少し君に用事があって来たんだがね――あの
元 君の教えたとか言う、
水島――ええ水島ええちょっと思い出せない。――そら君の所へ始終来ると言うじゃないか」
「
寒月か」
「そうそう
寒月寒月。あの人の事についてちょっと聞きたい事があって来たんだがね」
「結婚事件じゃないか」
「まあ多少それに類似の事さ。今日
金田へ行ったら……」
「この間 鼻が自分で来た」
「そうか。そうだって、
細君もそう言っていたよ。
苦沙弥さんに、よく伺おうと思って上ったら、
生憎迷亭が来ていて茶々を入れて 何が何だか分らなくして しまったって」
「あんな鼻をつけて来るから悪るいや」
「いえ君の事を言うんじゃないよ。あの
迷亭君がおったもんだから、そう立ち入った事を聞く訳にも行かなかったので残念だったから、もう一遍僕に行ってよく聞いて来てくれないかって頼まれたものだからね。僕も今までこんな世話はした事はないが、もし当人同士が
嫌やでないなら中へ立って
纏めるのも、決して悪い事はないからね――それでやって来たのさ」
「御苦労様」と
主人は冷淡に答えたが、腹の内では
当人同士と言う
語を聞いて、どう言う訳か分らんが、ちょっと心を動かしたのである。
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蒸し熱い夏の夜に
一縷の
冷風が
袖口を
潜ったような気分になる。元来この
主人はぶっ切ら棒の、
頑固光沢消しを
旨として製造された男であるが、さればと言って冷酷不人情な文明の産物とは
自からその
撰を
異にしている。彼が
何ぞと言うと、むかっ腹をたてて ぷんぷんするのでも
這裏の消息は
会得できる【この場の事情はちゃんと飲み込める】。先日
鼻と喧嘩をしたのは 鼻が気に食わぬからで
鼻の娘には何の罪もない話しである。実業家は嫌いだから、実業家の片割れなる
金田某も
嫌に相違ないが これも娘その人とは 没交渉の沙汰【関わり合いがないこと】と言わねばならぬ。娘には恩も
恨みもなくて、
寒月は自分が実の弟よりも愛している門下生である。もし
鈴木君の言うごとく、当人同志が好いた仲なら、間接にもこれを妨害するのは君子のなすべき
所作でない。――
苦沙弥先生はこれでも自分を君子と思っている。――もし当人同志が好いているなら――しかしそれが問題である。この事件に対して自己の態度を改めるには、まずその真相から確めなければならん。
「君 その娘は
寒月の所へ来たがってるのか。
金田や鼻はどうでも構わんが、娘自身の意向はどうなんだ」
「そりゃ、その――何だね――何でも――え、来たがってるんだろう じゃないか」
鈴木君の挨拶は少々
曖昧である。実は
寒月君の事だけ聞いて復命【結果を命令者に報告】さえすればいいつもりで、御嬢さんの意向までは確かめて来なかったのである。従って円転
滑脱【なんでもスマートにこなす】の
鈴木君もちょっと
狼狽の気味に見える。
「
だろうた判然しない言葉だ」と
主人は何事によらず、正面から、どやし付けないと気がすまない。
「いや、これゃちょっと僕の言いようがわるかった。令嬢の方でも たしかに
意があるんだよ。いえ全くだよ――え?――
細君が僕にそう言ったよ。何でも時々は
寒月君の悪口を言う事もあるそうだがね」
「あの娘がか」
「ああ」
「
怪しからん奴だ、悪口を言うなんて。第一それじゃ
寒月に
意がないんじゃないか」
「そこがさ、世の中は妙なもので、自分の好いている人の悪口などは
殊更言って見る事もあるからね」
「そんな
愚な奴がどこの国にいるものか」と
主人は
斯様な人情の機微に立ち入った事を言われても
頓と感じがない。
「その愚な奴が随分世の中にゃあるから仕方がない。現に金田の
妻君もそう解釈しているのさ。
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戸惑いをした
糸瓜のようだなんて、時々
寒月さんの悪口を言いますから、よっぽど心の
中では思ってるに相違ありませんと」
主人はこの不可思議な解釈を聞いて、あまり思い掛けないものだから、眼を丸くして、返答もせず、
鈴木君の顔を、
大道易者のように
眤と見つめている。
鈴木君はこいつ、この様子では、ことによるとやり損なうなと
疳づいたと見えて、
主人にも判断の出来そうな方面へと話頭を移す。
「君 考えても分るじゃないか、あれだけの財産があってあれだけの器量なら、どこへだって相応の
家へやれるだろうじゃないか。
寒月だって
えらいかも知れんが身分から言や――いや身分と言っちゃ失礼かも知れない。――財産と言う点から言や、まあ、だれが見たって釣り合わんのだからね。それを僕がわざわざ出張するくらい両親が気を
揉んでるのは本人が
寒月君に意があるからの事じゃあないか」と
鈴木君は なかなかうまい理屈をつけて説明を与える。今度は
主人にも納得が出来たらしいのでようやく安心したが、こんなところに まごまごしているとまた
吶喊【つきつらぬく】を喰う危険があるから、早く話しの歩を進めて、一刻も早く使命を
完うする方が万全の策と心付いた。
「それでね。今言う通りの訳であるから、先方で言うには何も金銭や財産はいらんから その代り当人に付属した資格が欲しい――資格と言うと、まあ肩書だね、――博士になったらやってもいいなんて威張ってる次第じゃない――誤解しちゃいかん。せんだって
細君の来た時は
迷亭君がいて妙な事ばかり言うものだから――いえ君が悪いのじゃない。
細君も君の事を御世辞のない正直な いい
方だと
賞めていたよ。全く
迷亭君がわるかったんだろう。――それでさ本人が博士にでもなってくれれば先方でも世間へ対して肩身が広い、
面目があると言うんだがね、どうだろう、
近々の内
水島君は博士論文でも呈出して、博士の学位を受けるような運びには行くまいか。なあに――
金田だけなら博士も学士もいらんのさ、ただ世間と言う者があるとね、そう手軽にも行かんからな」
こう言われて見ると、先方で博士を請求するのも、あながち無理でもないように思われて来る。無理ではないように思われて来れば、
鈴木君の依頼通りにしてやりたくなる。
主人を
活かすのも殺すのも
鈴木君の意のままである。なるほど
主人は単純で正直な男だ。
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「それじゃ、今度
寒月が来たら、博士論文をかくように僕から勧めて見よう。しかし当人が
金田の娘を貰うつもりか どうだか、それからまず問い
正して見なくちゃ いかんからな」
「問い正すなんて、君 そんな
角張った事をして物が
纏まるものじゃない。やっぱり普通の談話の際にそれとなく気を引いて見るのが一番近道だよ」
「気を引いて見る?」
「うん、気を引くと言うと語弊があるかも知れん。――なに気を引かんでもね。話しをしていると自然分るもんだよ」
「君にゃ分るかも知れんが、僕にゃ判然と聞かん事は分らん」
「分らなけりゃ、まあ好いさ。しかし
迷亭君見たように余計な茶々を入れて
打ち
壊わすのは善くないと思う。
仮令勧めないまでも、こんな事は本人の随意にすべき はずのものだからね。今度
寒月君が来たら なるべく どうか邪魔をしないようにしてくれ給え。――いえ君の事じゃない、あの
迷亭君の事さ。あの男の口にかかると到底助かりっこないんだから」と
主人の代理に
迷亭の悪口をきいていると、
噂をすれば陰の
喩に
洩れず
迷亭先生例のごとく勝手口から
飄然【ふらり】と
春風に乗じて舞い込んで来る。
「いやー珍客だね。僕のような
狎客【なじみ客】になると
苦沙弥は とかく粗略にしたがっていかん。何でも
苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と
藤村の
羊羹【加賀藩の御用達から東京進出を果たした格式高い羊羹】を
無雑作に
頬張る。
鈴木君は もじもじしている。
主人は にやにやしている。
迷亭は口を もがもがさしている。
吾輩はこの瞬時の光景を縁側から拝見して無言劇と言うものは優に成立し得ると思った。
禅家で無言の問答をやるのが以心伝心であるなら、この無言の芝居も明かに以心伝心の幕である。すこぶる短かいけれども すこぶる鋭どい幕である。
「君は一生
旅烏かと思ってたら、いつの間にか舞い戻ったね。
長生はしたいもんだな。どんな
僥倖【偶然に得るしあわせ】に
廻り合わんとも限らんからね」と
迷亭は
鈴木君に対しても
主人に対するごとく
毫【微塵】も遠慮と言う事を知らぬ。いかに自炊の仲間でも十年も逢わなければ、何となく気のおける【遠慮や気兼ねがある】ものだが
迷亭君に限って、そんな
素振も見えぬのは、えらいのだか馬鹿なのかちょっと見当がつかぬ。
「可哀そうに、そんなに馬鹿にしたものでもない」
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と
鈴木君は当らず
障らずの返事はしたが、何となく落ちつきかねて、例の金鎖を神経的にいじっている。
「君 電気鉄道へ乗ったか」と
主人は突然
鈴木君に対して奇問を発する。
「今日は諸君から ひやかされに来たようなものだ。なんぼ田舎者だって――これでも
街鉄【東京都電の前身】を六十株持ってるよ」
「そりゃ馬鹿に出来ないな。僕は八百八十八株半持っていたが、惜しい事に
大方虫が喰ってしまって、今じゃ半株ばかりしかない。もう少し早く君が東京へ出てくれば、虫の喰わないところを十株ばかりやるところだったが惜しい事をした」
「相変らず口が悪るい。しかし冗談は冗談として、ああ言う株は持ってて損はないよ、
年々高くなるばかりだから」
「そうだ
仮令半株だって千年も持ってるうちにゃ倉が三つくらい建つからな。君も僕もその辺にぬかりはない当世の才子だが、そこへ行くと
苦沙弥などは憐れなものだ。株と言えば大根の兄弟分くらいに考えているんだから」とまた
羊羹をつまんで
主人の方を見ると、
主人も
迷亭の
食い
気が伝染して
自ずから菓子皿の方へ手が出る。世の中では万事積極的のものが人から真似らるる権利を有している。
「株などはどうでも構わんが、僕は
曽呂崎に一度でいいから電車へ乗らしてやりたかった」と
主人は喰い欠けた羊羹の
歯痕を
撫然として眺める。
「
曽呂崎が電車へ乗ったら、乗るたんびに品川まで行ってしまうは、それよりやっぱり
天然居士で
沢庵石へ
彫り付けられてる方が無事でいい」
「
曽呂崎と言えば死んだそうだな。気の毒だねえ、いい頭の男だったが惜しい事をした」と
鈴木君が言うと、
迷亭は
直ちに引き受けて
「頭は善かったが、飯を
焚く事は一番下手だったぜ。
曽呂崎の当番の時には、僕あ いつでも外出をして
蕎麦で
凌いでいた」
「ほんとに
曽呂崎の焚いた飯は
焦げくさくって
心があって僕も弱った。御負けに
御菜に必ず豆腐をなまで食わせるんだから、冷たくて食われやせん」と
鈴木君も十年前の不平を記憶の底から
喚び起す。
「
苦沙弥はあの時代から
曽呂崎の親友で毎晩いっしょに
汁粉を食いに出たが、その
祟りで今じゃ慢性胃弱になって苦しんでいるんだ。実を言うと
苦沙弥の方が汁粉の数を余計食ってるから
曽呂崎より先へ死んで
宜い訳なんだ」
「そんな論理がどこの国にあるものか。
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俺の汁粉より君は運動と号して、毎晩
竹刀を持って裏の
卵塔婆【卵形の墓石】へ出て、石塔を
叩いてるところを
坊主に見つかって
剣突を食った【どなりつけられた】じゃないか」と
主人も負けぬ気になって
迷亭の旧悪を
曝く。
「アハハハそうそう
坊主が仏様の頭を叩いては安眠の妨害になるからよしてくれって言ったっけ。しかし僕のは竹刀だが、この
鈴木将軍のは
手暴だぜ。石塔と相撲をとって大小三個ばかり転がしてしまったんだから」
「あの時の
坊主の怒り方は実に烈しかった。是非元のように起せと言うから人足を
傭うまで待ってくれと言ったら人足じゃいかん
懺悔の意を表するために あなたが自身で起さなくては仏の意に
背くと言うんだからね」
「その時の君の
風采【見てくれ】はなかったぜ、
金巾【薄手の綿生地】のしゃつに
越中褌で雨上りの水溜りの中でうんうん
唸って……」
「それを君がすました顔で写生するんだから
苛い。僕はあまり腹を立てた事のない男だが、あの時ばかりは失敬だと
心から思ったよ。あの時の君の言草をまだ覚えているが君は知ってるか」
「十年前の言草なんか誰が覚えているものか、しかしあの石塔に
帰泉院殿 黄鶴大居士安永五年
辰正月と
彫ってあったのだけはいまだに記憶している。あの石塔は古雅【古風でみやび】に出来ていたよ。引き越す時に盗んで行きたかったくらいだ。実に美学上の原理に
叶って、ゴシック趣味な石塔だった」と
迷亭はまた好い加減な美学を振り廻す。
「そりゃいいが、君の
言草【いつもの決まり文句】がさ。こうだぜ――吾輩は美学を専攻するつもりだから
天地間の面白い出来事は なるべく写生しておいて将来の参考に供さなければならん、気の毒だの、
可哀相だのと言う私情は 学問に忠実なる吾輩ごときものの口にすべきところでない と平気で言うのだろう。僕も あんまりな不人情な男だと思ったから 泥だらけの手で君の写生帖を引き裂いてしまった」
「僕の有望な画才が
頓挫して
一向振わなくなったのも全くあの時からだ。君に
機鋒【勢い】を折られたのだね。僕は君に
恨がある」
「馬鹿にしちゃいけない。こっちが恨めしいくらいだ」
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