
西暦一千九百二年秋 忘月忘日 白旗を寝室の窓に
翻えして下宿の
婆さんに降を乞う【降参する】や否や、
婆さんは二十貫目【75kg】の
体躯を三階の
天辺まで運び上げにかかる、運び上げるというべきを上げにかかると申すは 手間のかかるを形容せんためなり、階段を上ること
無慮【おおよそ】四十二級【42段】、途中にて休憩する事前後二回、時を費す事三分五セコンドの後この偉大なる
婆さんの得意なるべき顔面が
苦し気に戸口にヌッと出現する、あたり近所は狭苦しきばかり也、この会見の栄を肩身狭くも双肩に
荷える
余に向って
婆さんは
講和条件の第一
款として命令的に左のごとく申し渡した、
自転車に御乗んなさい
ああ悲いかなこの自転車事件たるや、
余はついに
婆さんの命に従って自転車に乗るべく否自転車より落るべく「ラヴェンダー・ヒル【漱石がイギリス留学中、ロンドン郊外で自転車の練習をした坂】」へと参らざるべからざる不運に
際会【
遭遇】せり、
監督兼教師は○○氏なり、
悄然たる【憂いに沈んでいる】
余を従えて自転車屋へと飛び込みたる彼は まず女乗の手頃なる
奴を
撰んで これがよかろうと言う、その理由いかにと尋ぬるに初学入門の
捷径【近道】はこれに限るよと 降参人【降服者】と見てとって いやに
軽蔑した文句を並べる、
不肖【おろか】なりといえども 軽少ながら鼻下に
髯を蓄えたる男子に女の自転車で
稽古をしろとは情ない、まあ落ちても善いから当り前の奴でやってみようと抗議を申し込む、もし採用されなかったら 丈夫玉砕
瓦全を恥ず【
丈夫は玉砕するも瓦全を恥ず】とか何とか
珍汾漢の
気燄【気勢】を吐こうと暗に
下拵に黙っている、とそれならこれにしようと、いとも見苦しかりける【とてもカッコ悪い】
男乗【男性用】をぞ あてがいける、思えらく能者筆を
択ばず【思うに、うまい人は筆(道具)を選ばない】、どうせ落ちるのだから車の美醜【デザインの良し悪し】などは構うものかと、
1/13
あてがわれたる車を重そうに引張り出す、不平なるは力を出して上からウンと押して見るとギーと鳴る事なり、伏して
惟れば【考えてみれば】関節が
弛んで油気がなくなった老朽の自転車に 万里の
波濤を
超えて【日本から、はるか遠い海を渡って】
遥々と逢いに来たようなものである、自転車屋には恩給年限がないのか知らん【自転車に定年制度がないのかな~】と ちょっと不審を起してみる【いぶかってみる】、思うにその年限は
疾ッくの昔に来ていて 今まで物置の
隅に
閑居静養【隠居生活】を
専らにした奴に違ない、計らざりき東洋の孤客【単身の旅行者】に引きずり出され
奔命に
堪ずして悲鳴を上るに至っては 自転車の末路また
憐むべきものありだが せめては降参の
腹癒にこの老骨をギューと言わしてやらんものをと 乗らぬ先から当人はしきりに乗り気になる、
然るにハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば 股にぶつかり、向へ押しやると往来の真中へ
馳け出そうとする、乗らぬ内から かくのごとく処置に窮するところをもって見れば 乗った後の事は 思いやるだに涙の種と知られける、
「どこへ行って乗ろう」「どこだって今日初めて乗るのだから なるたけ人の通らない道の悪くない 落ちても人の笑わないようなところに願いたい」と降参人ながらいろいろな条件を提出する、仁恵なる【なさけある】
監督官は
余が
衷情【心の中】を
憐んで「クラパム・コンモン【
クラパム・コモン公園】」の傍 人跡あまり
繁からざる大道【人通りがあまり多くない大通り】の横手 馬乗場へと
余を
拉し去る、しかして後「さあここで乗って見たまえ」という、いよいよ降参人の降参人たる本領を発揮せざるを得ざるに至った、ああ
悲夫、
乗って見たまえとは すでに
知己【知人】の語にあらず、その昔本国にあって 時めきし【チヤホヤされた】時代より
天涯万里 孤城落日 資金窮乏【はるか異国の地に一人ぼっちで落日の孤城にたたずみ、しかも金欠】の今日に至るまで 人の乗るのを見た事はあるが 自分が乗って見たおぼえは毛頭ない、
2/13
去る【そのやつ】を乗って見たまえとは あまり無慈悲なる一言と
怒髪【髪が逆立つほど興奮し】
鳥打帽を
衝て 猛然とハンドルを握ったまではあっぱれ
武者ぶり たのもしかったが いよいよ
鞍に
跨って
顧盻勇を示す【周りに勇ましさを見せる】一段になると おあつらえ
通りに参らない、いざという
間際で ずどんと落ること妙なり、自転車は逆立も何もせず
至極落ちつき はらったものだが 乗客だけはまさに
鞍壺にたまらず ずんでん堂とこける、かつて講釈師に
聞た通りを目のあたり 自ら実行するとは、あにはからんや、
監督官言う、「初めから腰を
据えようなどというのが間違っている、ペダルに足をかけようとしても駄目だよ、ただ しがみついて車が一回転でもすれば上出来なんだ」、と心細いこと限りなし、ああ
吾事休矣【もうダメだ!】 いくらしがみついても 車は半輪転もしない ああ吾事休矣【もうダメだ!】としきりに感投詞を繰り返して 暗に助勢を嘆願する、かくあらんとは
兼て期したる
監督官なれば、近く進んでさあ、僕がしっかり
抑えているから乗りたまえ、おっとそう
真ともに乗っては
顛り返る、そら見たまえ、膝を
打たろう、今度はそーっと尻をかけて両手でここを握って、よしか、僕が前へ押し出すからその
勢で調子に乗って
馳け出すんだよ、と
怖がる者を
面白半分前へ突き出す、
然るに すべてこれらの準備 すべてこれらの労力が 突き出される瞬間において砂地に横面を
抛りつけるための準備にして かつ労力ならんとは 実に神ならぬ身の誰か知るべき
底の
驚愕である【まるで神でもなければ分からないほどの、とんでもないショックを受けた】。
ちらほら人が立ちどまって見る、にやにや笑って行くものがある、
3/13
向うの
樫の木の下に
乳母さんが小供をつれて
ロハ台に腰をかけて さっきからしきりに感服して見ている、何を感服しているのか分らない、おおかた
流汗淋漓大童【汗だくになって必死に格闘している】となって 自転車と奮闘しつつある
健気な様子に見とれているのだろう、
天涯この
好知己【唯一無二の友】を得る以上は
向脛の二三カ所を
擦りむいたって 惜しくはないという気になる、「もう一遍頼むよ、もっと強く押してくれたまえ、なにまた落ちる? 落ちたって僕の
身体だよ」と降参人たる資格を忘れて しきりに
汗気燄【情熱と努力の炎】を吹いている、すると出し抜に後ろから
Sir ! と呼んだものがある、はてな
滅多な異人に近づきはないはずだがとふり返ると、ちょっと人を
狼狽せしむるに足る的の 大
巡査がヌーッと立っている、こちらはこんな人に近づきではないが 先方ではこのポット出のチンチクリンの
田舎者に 近づかざるべからざる理由があって まさに近づいたものと見える、その理由に
曰く ここは馬を乗る所で 自転車に乗る所ではないから 自転車を
稽古するなら 往来へ出てやらしゃい、オーライ謹んで命を
領す【了解する】と
混交式の答に 博学の程度を見せて すぐさまこれを
監督官に申出る、と
監督官は降参人の今日の
凹み加減充分とや思いけん、もう帰ろうじゃないかと言う、すなわち乗れざる自転車と手を携えて帰る、どうでしたと
婆さんの問に 敗
余の意気をもらすらく 車
嘶いて白日暮れ【馬車のいななきが響くうちに、眩しい昼は過ぎ去り】 耳鳴って秋気
来るヘン【静けさの中で風の音が耳に残り、やがて秋の気配が訪れた】
忘月忘日 例の自転車を抱いて坂の上に控えたる
余は
徐ろに眼を放って
遥かあなた【
彼方】の下を見回す、
監督官の相図を待って一気にこの坂を
馳け下りんとの野心あればなり、坂の長さ二丁【約218m】あまり、傾斜の角度二十度ばかり、
4/13
路幅十間【約18m】を
超えて人通多からず、左右はゆかしく【上品で趣がある】住みなせる【落ち着いて暮らしている】屋敷ばかりなり、東洋の名士が自転車から落る
稽古をすると聞いて 英政府が特に土木局に命じてこの道路を作らしめたかどうだか その辺はいまだに判然しないが、とにかく自転車用道路として
申分のない場所である、
余が
監督官は
巡査の小言に
胆を冷したものか
乃至はまた
余の車を前へ突き出す労力を
省くためか、昨日から 人と車を天然自然ところがすべく 特にこの地を相し得て【見つけて】
余を連れだしたのである、
人の通らない馬車のかよわない時機を見計ったる
監督官は さあ今だ早く乗りたまえという、ただしこの乗るという字に注釈が入る、この字は
吾ら両人の間には いまだ普通の意味に用られていない、わが いわゆる乗るは 彼らのいわゆる乗るにあらざるなり、
鞍に尻をおろさざるなり、ペダルに足をかけざるなり、ただ力学の原理に依頼して
毫も【いささかも】人工を
弄せざるの意なり、人をもよけず馬をも避けず 水火をも辞せず
驀地【まっしぐら】に前進するの義なり、去るほどにその
格好たるや あたかも
疝気持が
初出に
梯子乗を演ずるがごとく、吾ながら乗るという字を
乱用しては おらぬかと 危ぶむくらいなものである、されども乗るはついに乗るなり、乗らざるにあらざるなり、ともかくも人間が自転車に付着している也、しかも
一気呵成に付着しているなり、この意味において乗るべく命ぜられたる
余は、疾風のごとくに坂の上から転がり出す、すると不思議やな 左の方の屋敷の内から拍手して 吾が自転行を
壮にした【応援するような】 いたずらものがある、妙だなと思う間もなく車はすでに坂の中腹へかかる、今度は大変な物に
出逢った、女学生が五十人ばかり行列を整えて
向からやってくる、こうなっては いくら女の手前だからと言って気取る訳にも どうする訳にも行かん、
5/13
両手は
塞っている、腰は曲っている、右の足は空を
蹴ている、下りようとしても車の方で聞かない、絶体絶命 しようがないから自家独得の曲乗のままで 女軍の傍を からくも通り抜ける。ほっと一息つく間もなく 車はすでに坂を下りて平地にあり、けれども
毫も【ちっとも】留まる
気色がない、しかのみならず 向うの四ツ角に立ている
巡査の方へ向けて どんどん
馳けて行く、気が気でない、今日も
巡査に叱られる事かと思いながらも やはり曲乗の姿勢をくずす訳に行かない、自転車は我に無理情死【無理情死】を
逼る勢で むやみに人道の方へ猛進する、とうとう車道から人道へ乗り上げ それでも止まらないで
板塀へぶつかって 逆戻をする事 一間半【270cm】、危くも
巡査を去る三尺【90cm】の距離でとまった。大分御骨が折れましょうと笑ながら
査公が申された故、答えて
曰くイエス、
忘月忘日「……御調べになる時は
ブリチッシュ・ミュジーアムへ御出かけになりますか」「あすこへはあまり参りません、本へやたらにノートを書きつけたり棒を引いたりする癖があるものですから」「さよう、自分の本の方が自由に使えて善ですね、しかし私などは著作をしようと思うとあすこへ出かけます……」
「夏目さんは大変御勉強だそうですね」と
細君【下宿先の女主人】が傍から口を開く「あまり勉強もしません、近頃は人から
勧められて自転車を始めたものですから、朝から晩までそればかりやっています」「自転車は面白うござんすね、宅ではみんな乗りますよ、あなたもやはり
遠乗をなさいましょう」
遠乗をもって
細君から
擬せられた【
探られた】先生は 実に普通の意味において 乗るちょう事【乗るということ】の いかなるものなるかをさえ 解し得ざる男なり、ただ一種の曲解せられたる意味をもって 坂の上から坂の下まで 辛うじて乗り
終せる男なり、
遠乗の二字を
承って 心 安からず思いしが、
掛直を言う【大げさに言う】ことが 第二の天性とまで進化せる 二十世紀の今日、
6/13
この点にかけては一人前に通用する人物なれば、如才なく【機嫌よく】下のごとく返答をした「さよう
遠乗というほどの事も まだしませんが、坂の上から下の方へ勢よく乗りおろす時なんか すこぶる愉快ですね」
今まで沈黙を守っておった
令嬢は こいつ少しは
乗きるなと
疳違をしたものと見えて「いつか夏目さんといっしょに皆でウィンブルドンへでも行ったらどうでしょう」と 父君【下宿先の主人】と母上【下宿先の老母】に向って動議を提出する、父君と母上は一斉に
余が顔を見る、
余 ここにおいてか少々尻こそばゆき状態に陥るの やむをえざるに至れり、さりながら妙齢なる美人より申し込まれたるこの果し状を
真平御免蒙ると握りつぶす訳には行かない、いやしくも文明の教育を受けたる紳士が婦人に対する尊敬を失しては
生涯の不面目だし、かつや これでも かこれでもか と
余が
咽喉を
扼し【締め上げ】つつある 二寸五分【約7.6cm】のハイカラ【高い襟】の手前もある事だから、ことさらに平気と愉快を等分に加味した顔をして「それは面白いでしょうしかし……」「御勉強で御忙しいでしょうが今度の土曜ぐらいは
御閑でいらっしゃいましょう」と だんだん切り込んでくる、
余が「しかし……」の後には 必ずしも多忙が来ると限っておらない、自分ながら何のための「しかし」だか まだ判然せざるうちに こう
先を越されてはいよいよ「しかし」の納り場がなくなる、「しかしあまり人通りの多い所ではエー……アノーまだ
練れませんから」と ようやく一方の活路を開くや否や「いえ、あの辺の道路は実に閑静なものですよ」と すぐ通せん坊をされる、
進退これきわまるとは
啻に自転車の上のみにては あらざりけり、と
独りで感心をしている、感心したばかりでは
埒があかないから、この際
唯一の手段として「しかし」をもう一遍
繰り
返す「しかし……今度の土曜は天気でしょうか」
旗幟【主張】の鮮明ならざること
夥しい 誰に聞いたって、そんな事が分るものか、さてもこの勝負 男の方 負とや見たりけん、審判官たる主人は
仲裁乎【仲裁をすべき】として口を開いて
曰く、日はきめんでもいずれそのうち 私が自転車で御宅へ伺いましょう、そしていっしょに散歩でもしましょう、
7/13
――サイクリストに向って いっしょに散歩でもしましょうとは これいかに、彼は
余を目してサイクリストたるの資格なきものと認定せるなり
このうつくしき
令嬢と「ウィンブルドン」に行かなかったのは
余の幸であるか はた不幸であるか、考うること四十八時間 ついに判然しなかった、日本派の
俳諧師 これを称して
朦朧体という
忘月忘日 数日来の手痛き経験と
精緻なる思索とによって
余は下の結論に到着した
自転車の鞍とペダルとは何も世間体を繕うために漫然と付着しているものではない、鞍は尻をかけるための鞍にして ペダルは足を載せかつ踏みつけると回転するためのペダルなり、ハンドルはもっとも危険の道具にして、一度びこれを握るときは 人目を眩せしむるに足る 目勇しき働きをなすものなり
かく【こうして】
漆桶を抜くがごとく【
漆の入った桶の栓を抜いてすっきりした快感で】自転悟を開きたる【自転車に乗るコツを悟った】
余は 今例の
監督官及び その友なる
貴公子某伯爵と共に
鑣【馬の口にくわえさせる金具:だけど自転車のこと】を
連ねて「クラパムコンモン【
クラッパム・コモン】」を横ぎり 鉄道馬車の通う大通りへ 曲らんとするところだと思いたまえ、
余の車は両君の間に介在して操縦すでに自由ならず、ただ前へ出られるばかりと思いたまえ、しかるに出られべき一方口が突然
塞ったと思いたまえ、すなわち横ぎりにかかる
塗炭に右の方より不都合なる
一輛の荷車が
御免よとも何とも言わず
傲然として【おごりたかぶって偉そうに】我前を通ったのさ、今までの態度を維持すれば衝突するばかりだろう、
余の主義として衝突はこちらが勝つ場合についてのみ あえてするが、その他負色の見えすいたような衝突になると いつでも御免蒙るのが吾家 伝来の憲法である、さるによってこの
尨大【膨大】なる荷車と老朽悲鳴をあげるほどの吾が自転車との衝突は、おやじの遺言としても避けねばならぬ、と言って 左右へよけようとすると 御両君のうちいずれへか衝突の尻をもって行かねばならん、もったいなくも一人は伯爵の若殿様で、一人は吾が恩師である、さような無礼な事は平民たる我々
風情のすまじき事である、のみならず捕虜の分際として
推参な【おそれおおい】所作と思わるべし、
8/13
孝ならんと欲すれば礼ならず、礼ならんと欲すれば孝ならず、やむなくんば退却か落車の二あるのみと、ちょっとの間に相場がきまってしまった、この時 事に臨んで【物事に直面して】かつて
狼狽したる事なき【これまで一度も慌てたことがないと】 われつらつら思うよう【自分でしみじみ思う】、できさえすれば退却も
満更でない、少なくとも落車に
優ること
万々【やまやま】なりといえども、
悲夫 逆艪の用意【バックするための装置】いまだ
調わざる今日の時勢なれば、エー仕方がない思い切って落車にしろ、と両車の間に堂と落つ、折しも
余を去る事二間ばかりのところに退屈そうに立っていた
巡査――自転車の
巡査におけるそれ【自転車に乗っている
巡査にとってのそれ(=自転車)は】 なお刺身のツマにおけるがごときか【まるで刺身に添えられたツマのようなものではないか】、何ぞ それ引き合に出るの はなはだしき――このツマ的
巡査が声を揚げてアハ、アハ、アハ、と三度笑った。その笑い方苦笑にあらず、冷笑にあらず、微笑にあらず、カンラカラカラ笑にあらず、全くの作り笑なり、人から頼まれてする依託笑なり、この依託笑をするためにこの
巡査はシックスペンスを得たか、ワン・シリングを得たか、
遺憾ながらこれを考究する暇がなかった、
へん ツマ
巡査などが笑ったってと すぐさま御両君の後を慕って
馳け出す、
9/13
これが
巡公でなくって 先日の御娘さんだったら やはりすぐさま馳け出されるかどうだかの問題は いざとならなければ解釈がつかないから 質問しない方がいいとして先へ進む、さて両君はこの辺の地理不案内なりとの口実をもって
覚束なき
余に先導たるべしとの厳命を伝えた、しかるに案内には
詳しいが 自転車には
毫も【ちっとも】詳しくないから、行こうと思う方へは行かないで 曲り角へくると ただ曲りやすい方へ曲ってしまう、ここにおいてか同じ所へ
何返も出て来る、始めの内は何とか かんとか ごまかしていたが、そうは持ち切れるものでない、今度は違った方へ行こうとの御意である、よろしいと口には言ったようなものの、ままにならぬは浮世の習、容易にそっちの方角へ曲らない、道幅三分の二も来た頃、やっとの思でハンドルをギューッと
捩ったら、自転車は九十度の角度を一どきに回ってしまった、その急回転のために思いがけなき功名を博し得たと言う御話しは、明日の前講になかという価値もない【話題にするほどの価値もない】から、すぐ話してしまう、この時まで気がつかなかったが この急劇なる方向転換の
刹那【瞬間】に
余と同じ方角へ向けて
余に尾行して来た一人のサイクリストがあった、ところがこの
不意撃に驚いて車をかわす暇もなく もろくも
余の傍で転がり落ちた、後で聞けば、四ツ角を曲る時にはベルを鳴すか片手をあげるか 一通りの
挨拶をするのが礼だそうだが、落天の奇想を好む【常識破りで突飛な考えを好む】
余は さような月並主義を
採らない、いわんやベルを鳴したり手を
挙げたり、そんな面倒な事をする余裕はこの際少しも なきにおいてをやだ【ありえない】、ここにおいてか このダンマリ転換を遂行するのも
余にとっては万やむをえざるに出たもので、
余のあとにくっついて来た男が
吃驚して落車したのも また無理のないところである、双方共無理のないところであるから不思議はない、当然の事であるが、
10/13
西洋人の論理はこれほどまで発達しておらんと見えて、
彼の落ち人
大に
逆鱗の体で、チンチンチャイナマンと
余を
罵った、罵られたる
余は
一矢酬ゆるはずであるが、そこは
大悠【悠然】なる豪傑の本性をあらわして、御気の毒だねの一言を
遺してふり向もせずに曲って行く、実はふり向こうとするうちに車が通り過ぎたのである、「御気の毒だね」よりほかの語が出て来なかったのである、正直なる
余は
苟且【その場しのぎ】にも豪傑など言う、一種の曲者と間違らるるを恐れて、ここにゆっくり弁解しておくなり、万一
余を豪傑だなどと
買被って失敬な挙動あるにおいては 七生まで【七回生まれ変わっても】
祟るかも知れない、
忘月忘日 人間万事 漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもないと、今日はズーズーしく構えて、バタシー公園【
バッターシー・パーク】へと急ぐ、公園はすこぶる閑静だが、その手前三丁ばかりのところが非常の
雑踏な通りで、初学者たる
余にとっては
難透難徹【すこぶる険しい】の難関である、今しも
余の自転車は「ラヴェンダー」坂を無難に通り抜けて、この四通八達【道路が網の目のように四方八方に通じている】の中央へと乗り出す、向うに鉄道馬車が一台こちらを向いて休んでいる、その右側に非常に大なる荷車が向うむきに休んでいる、その間約四尺【1.2m】ばかり、
余はこの四尺の間をすり抜けるべく車を走らしたのである、
余が車の前輪が馬車馬の前足と並んだ時、すなわち
余の
身体が鉄道馬車と荷車との間に入りかけた時、一台の自転車が疾風のごとく
向から割り込んで来た、
11/13
かようなとっさの際には命が大事だから退却にしようか落車にしようかなどの分別は、さすがの吾輩にも出なかったと見えて、おやと思ったら身体はもう落ちておった、落方が少々まずかったので、落る時 左の手でしたたか馬の太腹を
叩いて、からくも
四這の不体裁を
免がれた、やれ うれしやと思う間もなく 鉄道馬車は前進し始める、馬は驚ろいて吾輩の自転車を
蹴飛す、相手の自転車は何喰わぬ顔ですうと抜けて行く、
間の
抜さ加減は尋常一様にあらず【物凄いことだ】、この時
派出やかなるギグ【馬車】に乗って後ろから
馳け
来りたる 一個の紳士、
策を
揚げざまに
余が方を
顧みて
曰く 大丈夫だ安心したまえ、殺しやしないのだからと、
余 心中ひそかに驚いて言う、して見ると時には 自転車に乗せて殺してしまうのがあるのかしらん 英国は
険呑【危険】な所だと
* * *
余が
廿貫目【約75Kg】の
婆さんに降参して自転車責に
遇ってより以来、大落五度 小落はその数を知らず、或時は石垣にぶつかって
向脛を
擦りむき、或る時は立木に突き当って
生爪を
剥がす、その苦戦言うばかりなし、しかして ついに物にならざるなり、元来この二十貫目の
婆さんは むやみに人を馬鹿にする
婆さんにして、この
婆さんが皮肉に人を馬鹿にする時、その妹の十一貫目の
婆さんは、
瞬きもせず
余が黄色な面を打守りて いかなる変化が
余の
眉目の
間に現るるかを 検査する役目を務める、御役目御苦労の至りだ、この二
婆さんの
呵責【厳しい責め】に
逢てより以来、
余が
猜疑心【不信感】はますます深くなり、
12/13
余が
継子【仲間はずれ】
根性は日に日に増長し、ついには明け放しの門戸を閉鎖して 我 黄色な顔をいよいよ黄色にするのやむをえざるに至れり、
彼二
婆さんは
余が黄色の深浅を
測って 彼ら一日のプログラムを定める、
余は実に彼らにとって黄色な活動晴雨計であった、たまたま降参を申し込んで
贏し得たるところ
若干ぞと問えば【相手に負けを認めさせ、手に入れたものといえば】、貴重な留学時間を浪費して 下宿の飯を二人前食いしに過ぎず、さればこの降参は我に益なくして
彼に損ありしものと
思惟す、無残なるかな、
底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:大野晋
1999年10月29日公開
2004年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、
シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。感謝致します。
13/13