自転車日記
夏目漱石


 西暦一千九百二年秋 忘月忘日 白旗を寝室の窓にひるがえして下宿の婆さんに降を乞う【降参する】や否や、婆さんは二十貫目【75kg】の体躯たいくを三階の天辺てっぺんまで運び上げにかかる、運び上げるというべきを上げにかかると申すは 手間のかかるを形容せんためなり、階段を上ること無慮むりょ【おおよそ】四十二級【42段】、途中にて休憩する事前後二回、時を費す事三分五セコンドの後この偉大なる婆さんの得意なるべき顔面がくるし気に戸口にヌッと出現する、あたり近所は狭苦しきばかり也、この会見の栄を肩身狭くも双肩にになえるに向って婆さん講和こうわ条件の第一かんとして命令的に左のごとく申し渡した、
自転車に御乗んなさい
 ああ悲いかなこの自転車事件たるや、はついに婆さんの命に従って自転車に乗るべく否自転車より落るべく「ラヴェンダー・ヒル【漱石がイギリス留学中、ロンドン郊外で自転車の練習をした坂】」へと参らざるべからざる不運に際会さいかい遭遇そうぐう】せり、監督兼教師は○○氏なり、悄然しょうぜんたる【憂いに沈んでいる】を従えて自転車屋へと飛び込みたる彼は まず女乗の手頃なるやつえらんで これがよかろうと言う、その理由いかにと尋ぬるに初学入門の捷径しょうけい【近道】はこれに限るよと 降参人【降服者】と見てとって いやに軽蔑けいべつした文句を並べる、不肖ふしょう【おろか】なりといえども 軽少ながら鼻下にひげを蓄えたる男子に女の自転車で稽古けいこをしろとは情ない、まあ落ちても善いから当り前の奴でやってみようと抗議を申し込む、もし採用されなかったら 丈夫玉砕瓦全がぜんを恥ず【丈夫は玉砕するも瓦全を恥ず】とか何とか珍汾漢ちんぷんかん気燄きえん【気勢】を吐こうと暗に下拵したごしらえに黙っている、とそれならこれにしようと、いとも見苦しかりける【とてもカッコ悪い】男乗おとこのり【男性用】をぞ あてがいける、思えらく能者筆をえらばず【思うに、うまい人は筆(道具)を選ばない】、どうせ落ちるのだから車の美醜【デザインの良し悪し】などは構うものかと、
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あてがわれたる車を重そうに引張り出す、不平なるは力を出して上からウンと押して見るとギーと鳴る事なり、伏しておもんみれば【考えてみれば】関節がゆるんで油気がなくなった老朽の自転車に 万里の波濤はとうえて【日本から、はるか遠い海を渡って】遥々はるばると逢いに来たようなものである、自転車屋には恩給年限がないのか知らん【自転車に定年制度がないのかな~】と ちょっと不審を起してみる【いぶかってみる】、思うにその年限はッくの昔に来ていて 今まで物置のすみ閑居かんきょ静養【隠居生活】をもっぱらにした奴に違ない、計らざりき東洋の孤客【単身の旅行者】に引きずり出され 奔命たえずして悲鳴を上るに至っては 自転車の末路またあわれむべきものありだが せめては降参の腹癒はらいせにこの老骨をギューと言わしてやらんものをと 乗らぬ先から当人はしきりに乗り気になる、しかるにハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば 股にぶつかり、向へ押しやると往来の真中へけ出そうとする、乗らぬ内から かくのごとく処置に窮するところをもって見れば 乗った後の事は 思いやるだに涙の種と知られける、
「どこへ行って乗ろう」「どこだって今日初めて乗るのだから なるたけ人の通らない道の悪くない 落ちても人の笑わないようなところに願いたい」と降参人ながらいろいろな条件を提出する、仁恵なる【なさけある】監督官衷情ちゅうじょう【心の中】をあわれんで「クラパム・コンモン【クラパム・コモン公園】」の傍 人跡あまりしげからざる大道【人通りがあまり多くない大通り】の横手 馬乗場へとらっし去る、しかして後「さあここで乗って見たまえ」という、いよいよ降参人の降参人たる本領を発揮せざるを得ざるに至った、ああ悲夫かなしいかな
 乗って見たまえとは すでに知己ちき【知人】の語にあらず、その昔本国にあって 時めきし【チヤホヤされた】時代より 天涯てんがい万里 孤城落日 資金窮乏【はるか異国の地に一人ぼっちで落日の孤城にたたずみ、しかも金欠】の今日に至るまで 人の乗るのを見た事はあるが 自分が乗って見たおぼえは毛頭ない、
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去る【そのやつ】を乗って見たまえとは あまり無慈悲なる一言と 怒髪どはつ【髪が逆立つほど興奮し】鳥打帽とりうちぼうついて 猛然とハンドルを握ったまではあっぱれ武者むしゃぶり たのもしかったが いよいよくらまたがって顧盻こけい勇を示す【周りに勇ましさを見せる】一段になると おあつらえどおりに参らない、いざという間際まぎわで ずどんと落ること妙なり、自転車は逆立も何もせず至極しごく落ちつき はらったものだが 乗客だけはまさに鞍壺くらつぼにたまらず ずんでん堂とこける、かつて講釈師にきいた通りを目のあたり 自ら実行するとは、あにはからんや、
 監督官言う、「初めから腰をえようなどというのが間違っている、ペダルに足をかけようとしても駄目だよ、ただ しがみついて車が一回転でもすれば上出来なんだ」、と心細いこと限りなし、ああ吾事休矣わがこときゅうす【もうダメだ!】 いくらしがみついても 車は半輪転もしない ああ吾事休矣【もうダメだ!】としきりに感投詞を繰り返して 暗に助勢を嘆願する、かくあらんとはかねて期したる監督官なれば、近く進んでさあ、僕がしっかりおさえているから乗りたまえ、おっとそうともに乗ってはひっくり返る、そら見たまえ、膝をうったろう、今度はそーっと尻をかけて両手でここを握って、よしか、僕が前へ押し出すからそのいきおいで調子に乗ってけ出すんだよ、とこわがる者を面白おもしろ半分前へ突き出す、しかるに すべてこれらの準備 すべてこれらの労力が 突き出される瞬間において砂地に横面をほうりつけるための準備にして かつ労力ならんとは 実に神ならぬ身の誰か知るべきてい驚愕きょうがくである【まるで神でもなければ分からないほどの、とんでもないショックを受けた】。
 ちらほら人が立ちどまって見る、にやにや笑って行くものがある、
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向うのかしの木の下に 乳母うばさんが小供をつれて ロハ台に腰をかけて さっきからしきりに感服して見ている、何を感服しているのか分らない、おおかた流汗淋漓りゅうかんりんり大童おおわらわ【汗だくになって必死に格闘している】となって 自転車と奮闘しつつある 健気けなげな様子に見とれているのだろう、天涯てんがいこの好知己こうちき【唯一無二の友】を得る以上は 向脛むこうずねの二三カ所をりむいたって 惜しくはないという気になる、「もう一遍頼むよ、もっと強く押してくれたまえ、なにまた落ちる? 落ちたって僕の身体からだだよ」と降参人たる資格を忘れて しきりに汗気燄かんきえん【情熱と努力の炎】を吹いている、すると出し抜に後ろから Sir ! キミ!と呼んだものがある、はてな滅多めったな異人に近づきはないはずだがとふり返ると、ちょっと人を狼狽ろうばいせしむるに足る的の 大巡査がヌーッと立っている、こちらはこんな人に近づきではないが 先方ではこのポット出のチンチクリンの田舎者いなかものに 近づかざるべからざる理由があって まさに近づいたものと見える、その理由にいわく ここは馬を乗る所で 自転車に乗る所ではないから 自転車を稽古けいこするなら 往来へ出てやらしゃい、オーライ謹んで命をりょうす【了解する】と 混交式こんこうしきの答に 博学の程度を見せて すぐさまこれを監督官に申出る、と監督官は降参人の今日のヘコみ加減充分とや思いけん、もう帰ろうじゃないかと言う、すなわち乗れざる自転車と手を携えて帰る、どうでしたと婆さんの問に 敗の意気をもらすらく 車いなないて白日暮れ【馬車のいななきが響くうちに、眩しい昼は過ぎ去り】 耳鳴って秋気きたるヘン【静けさの中で風の音が耳に残り、やがて秋の気配が訪れた】
 忘月忘日 例の自転車を抱いて坂の上に控えたるおもむろに眼を放って はるかあなた【彼方かなた】の下を見回す、監督官の相図を待って一気にこの坂をけ下りんとの野心あればなり、坂の長さ二丁【約218m】あまり、傾斜の角度二十度ばかり、
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路幅十間【約18m】をえて人通多からず、左右はゆかしく【上品で趣がある】住みなせる【落ち着いて暮らしている】屋敷ばかりなり、東洋の名士が自転車から落る稽古けいこをすると聞いて 英政府が特に土木局に命じてこの道路を作らしめたかどうだか その辺はいまだに判然しないが、とにかく自転車用道路として申分もうしぶんのない場所である、監督官巡査の小言にきもを冷したものか 乃至ないしはまたの車を前へ突き出す労力をはぶくためか、昨日から 人と車を天然自然ところがすべく 特にこの地を相し得て【見つけて】 を連れだしたのである、
 人の通らない馬車のかよわない時機を見計ったる監督官は さあ今だ早く乗りたまえという、ただしこの乗るという字に注釈が入る、この字はわれら両人の間には いまだ普通の意味に用られていない、わが いわゆる乗るは 彼らのいわゆる乗るにあらざるなり、くらに尻をおろさざるなり、ペダルに足をかけざるなり、ただ力学の原理に依頼してごうも【いささかも】人工をろうせざるの意なり、人をもよけず馬をも避けず 水火をも辞せず驀地ばくち【まっしぐら】に前進するの義なり、去るほどにその格好かっこうたるや あたかも疝気せんきもち初出でぞめ梯子乗はしごのりを演ずるがごとく、吾ながら乗るという字を乱用らんようしては おらぬかと 危ぶむくらいなものである、されども乗るはついに乗るなり、乗らざるにあらざるなり、ともかくも人間が自転車に付着している也、しかも一気呵成いっきかせいに付着しているなり、この意味において乗るべく命ぜられたるは、疾風のごとくに坂の上から転がり出す、すると不思議やな 左の方の屋敷の内から拍手して 吾が自転行をさかんにした【応援するような】 いたずらものがある、妙だなと思う間もなく車はすでに坂の中腹へかかる、今度は大変な物に出逢であった、女学生が五十人ばかり行列を整えてむこうからやってくる、こうなっては いくら女の手前だからと言って気取る訳にも どうする訳にも行かん、
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両手はふさがっている、腰は曲っている、右の足は空をけっている、下りようとしても車の方で聞かない、絶体絶命 しようがないから自家独得の曲乗のままで 女軍の傍を からくも通り抜ける。ほっと一息つく間もなく 車はすでに坂を下りて平地にあり、けれどもごうも【ちっとも】留まる気色けしきがない、しかのみならず 向うの四ツ角に立ている巡査の方へ向けて どんどんけて行く、気が気でない、今日も巡査に叱られる事かと思いながらも やはり曲乗の姿勢をくずす訳に行かない、自転車は我に無理情死【無理情死】をせまる勢で むやみに人道の方へ猛進する、とうとう車道から人道へ乗り上げ それでも止まらないで板塀いたべいへぶつかって 逆戻をする事 一間半【270cm】、危くも巡査を去る三尺【90cm】の距離でとまった。大分御骨が折れましょうと笑ながら 査公が申された故、答えていわくイエス、
 忘月忘日「……御調べになる時はブリチッシュ・ミュジーアムへ御出かけになりますか」「あすこへはあまり参りません、本へやたらにノートを書きつけたり棒を引いたりする癖があるものですから」「さよう、自分の本の方が自由に使えて善ですね、しかし私などは著作をしようと思うとあすこへ出かけます……」
「夏目さんは大変御勉強だそうですね」と細君【下宿先の女主人】が傍から口を開く「あまり勉強もしません、近頃は人からすすめられて自転車を始めたものですから、朝から晩までそればかりやっています」「自転車は面白うござんすね、宅ではみんな乗りますよ、あなたもやはり遠乗とおのりをなさいましょう」遠乗とおのりをもって 細君からせられた【さぐられた】先生は 実に普通の意味において 乗るちょう事【乗るということ】の いかなるものなるかをさえ 解し得ざる男なり、ただ一種の曲解せられたる意味をもって 坂の上から坂の下まで 辛うじて乗りおおせる男なり、遠乗とおのりの二字をうけたまわって 心 安からず思いしが、掛直かけねを言う【大げさに言う】ことが 第二の天性とまで進化せる 二十世紀の今日、
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この点にかけては一人前に通用する人物なれば、如才なく【機嫌よく】下のごとく返答をした「さよう遠乗とおのりというほどの事も まだしませんが、坂の上から下の方へ勢よく乗りおろす時なんか すこぶる愉快ですね」
 今まで沈黙を守っておった令嬢は こいつ少しはきるなと疳違かんちがいをしたものと見えて「いつか夏目さんといっしょに皆でウィンブルドンへでも行ったらどうでしょう」と 父君【下宿先の主人】と母上【下宿先の老母】に向って動議を提出する、父君と母上は一斉にが顔を見る、 ここにおいてか少々尻こそばゆき状態に陥るの やむをえざるに至れり、さりながら妙齢なる美人より申し込まれたるこの果し状を 真平まっぴら御免蒙ごめんこうむると握りつぶす訳には行かない、いやしくも文明の教育を受けたる紳士が婦人に対する尊敬を失しては生涯しょうがいの不面目だし、かつや これでも かこれでもか と咽喉のどやくし【締め上げ】つつある 二寸五分【約7.6cm】のハイカラ【高い襟】の手前もある事だから、ことさらに平気と愉快を等分に加味した顔をして「それは面白いでしょうしかし……」「御勉強で御忙しいでしょうが今度の土曜ぐらいは御閑おひまでいらっしゃいましょう」と だんだん切り込んでくる、が「しかし……」の後には 必ずしも多忙が来ると限っておらない、自分ながら何のための「しかし」だか まだ判然せざるうちに こうせんを越されてはいよいよ「しかし」の納り場がなくなる、「しかしあまり人通りの多い所ではエー……アノーまだれませんから」と ようやく一方の活路を開くや否や「いえ、あの辺の道路は実に閑静なものですよ」と すぐ通せん坊をされる、進退しんたいこれきわまるとは ただに自転車の上のみにては あらざりけり、とひとりで感心をしている、感心したばかりではらちがあかないから、この際唯一ゆいいつの手段として「しかし」をもう一遍かえす「しかし……今度の土曜は天気でしょうか」旗幟きし【主張】の鮮明ならざることおびただしい 誰に聞いたって、そんな事が分るものか、さてもこの勝負 男の方 負とや見たりけん、審判官たる主人は仲裁乎ちゅうさいこ【仲裁をすべき】として口を開いていわく、日はきめんでもいずれそのうち 私が自転車で御宅へ伺いましょう、そしていっしょに散歩でもしましょう、
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――サイクリストに向って いっしょに散歩でもしましょうとは これいかに、彼はを目してサイクリストたるの資格なきものと認定せるなり
 このうつくしき令嬢と「ウィンブルドン」に行かなかったのは の幸であるか はた不幸であるか、考うること四十八時間 ついに判然しなかった、日本派の俳諧師はいかいし これを称して朦朧体もうろうたいという
 忘月忘日 数日来の手痛き経験と精緻せいちなる思索とによっては下の結論に到着した
自転車のくらとペダルとは何も世間体をつくろうために漫然と付着しているものではない、鞍は尻をかけるための鞍にして ペダルは足を載せかつ踏みつけると回転するためのペダルなり、ハンドルはもっとも危険の道具にして、一度ひとたびこれを握るときは 人目をくらませしむるに足る 目勇めざましき働きをなすものなり
 かく【こうして】 漆桶しっとうを抜くがごとく【うるしの入った桶の栓を抜いてすっきりした快感で】自転悟を開きたる【自転車に乗るコツを悟った】は 今例の監督官及び その友なる貴公子某伯爵と共に くつわ【馬の口にくわえさせる金具:だけど自転車のこと】をつらねて「クラパムコンモン【クラッパム・コモン】」を横ぎり 鉄道馬車の通う大通りへ 曲らんとするところだと思いたまえ、の車は両君の間に介在して操縦すでに自由ならず、ただ前へ出られるばかりと思いたまえ、しかるに出られべき一方口が突然ふさがったと思いたまえ、すなわち横ぎりにかかる塗炭とたんに右の方より不都合なる一輛いちりょうの荷車が 御免ごめんよとも何とも言わず傲然ごうぜんとして【おごりたかぶって偉そうに】我前を通ったのさ、今までの態度を維持すれば衝突するばかりだろう、の主義として衝突はこちらが勝つ場合についてのみ あえてするが、その他負色の見えすいたような衝突になると いつでも御免蒙るのが吾家 伝来の憲法である、さるによってこの尨大ぼうだい【膨大】なる荷車と老朽悲鳴をあげるほどの吾が自転車との衝突は、おやじの遺言としても避けねばならぬ、と言って 左右へよけようとすると 御両君のうちいずれへか衝突の尻をもって行かねばならん、もったいなくも一人は伯爵の若殿様で、一人は吾が恩師である、さような無礼な事は平民たる我々風情ふぜいのすまじき事である、のみならず捕虜の分際として推参すいさんな【おそれおおい】所作と思わるべし、
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孝ならんと欲すれば礼ならず、礼ならんと欲すれば孝ならず、やむなくんば退却か落車の二あるのみと、ちょっとの間に相場がきまってしまった、この時 事に臨んで【物事に直面して】かつて狼狽ろうばいしたる事なき【これまで一度も慌てたことがないと】 われつらつら思うよう【自分でしみじみ思う】、できさえすれば退却も満更まんざらでない、少なくとも落車にまさること万々まま【やまやま】なりといえども、悲夫かなしいかな 逆艪さかろの用意【バックするための装置】いまだ調ととのわざる今日の時勢なれば、エー仕方がない思い切って落車にしろ、と両車の間に堂と落つ、折しもを去る事二間ばかりのところに退屈そうに立っていた巡査――自転車の巡査におけるそれ【自転車に乗っている巡査にとってのそれ(=自転車)は】 なお刺身のツマにおけるがごときか【まるで刺身に添えられたツマのようなものではないか】、何ぞ それ引き合に出るの はなはだしき――このツマ的巡査が声を揚げてアハ、アハ、アハ、と三度笑った。その笑い方苦笑にあらず、冷笑にあらず、微笑にあらず、カンラカラカラ笑にあらず、全くの作り笑なり、人から頼まれてする依託笑なり、この依託笑をするためにこの巡査はシックスペンスを得たか、ワン・シリングを得たか、遺憾いかんながらこれを考究する暇がなかった、
 へん ツマ巡査などが笑ったってと すぐさま御両君の後を慕ってけ出す、
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これが巡公でなくって 先日の御娘さんだったら やはりすぐさま馳け出されるかどうだかの問題は いざとならなければ解釈がつかないから 質問しない方がいいとして先へ進む、さて両君はこの辺の地理不案内なりとの口実をもって 覚束おぼつかなきに先導たるべしとの厳命を伝えた、しかるに案内にはくわしいが 自転車にはごうも【ちっとも】詳しくないから、行こうと思う方へは行かないで 曲り角へくると ただ曲りやすい方へ曲ってしまう、ここにおいてか同じ所へ何返なんべんも出て来る、始めの内は何とか かんとか ごまかしていたが、そうは持ち切れるものでない、今度は違った方へ行こうとの御意である、よろしいと口には言ったようなものの、ままにならぬは浮世の習、容易にそっちの方角へ曲らない、道幅三分の二も来た頃、やっとの思でハンドルをギューッとねじったら、自転車は九十度の角度を一どきに回ってしまった、その急回転のために思いがけなき功名を博し得たと言う御話しは、明日の前講になかという価値もない【話題にするほどの価値もない】から、すぐ話してしまう、この時まで気がつかなかったが この急劇なる方向転換の刹那せつな【瞬間】に と同じ方角へ向けてに尾行して来た一人のサイクリストがあった、ところがこの不意撃ふいうちに驚いて車をかわす暇もなく もろくもの傍で転がり落ちた、後で聞けば、四ツ角を曲る時にはベルを鳴すか片手をあげるか 一通りの挨拶あいさつをするのが礼だそうだが、落天の奇想を好む【常識破りで突飛な考えを好む】は さような月並主義をらない、いわんやベルを鳴したり手をげたり、そんな面倒な事をする余裕はこの際少しも なきにおいてをやだ【ありえない】、ここにおいてか このダンマリ転換を遂行するのも にとっては万やむをえざるに出たもので、のあとにくっついて来た男が吃驚びっくりして落車したのも また無理のないところである、双方共無理のないところであるから不思議はない、当然の事であるが、
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西洋人の論理はこれほどまで発達しておらんと見えて、の落ち人 おおい逆鱗げきりんの体で、チンチンチャイナマンとののしった、罵られたる一矢いっしむくゆるはずであるが、そこは大悠だいゆう【悠然】なる豪傑の本性をあらわして、御気の毒だねの一言をのこしてふり向もせずに曲って行く、実はふり向こうとするうちに車が通り過ぎたのである、「御気の毒だね」よりほかの語が出て来なかったのである、正直なる苟且こうしょ【その場しのぎ】にも豪傑など言う、一種の曲者と間違らるるを恐れて、ここにゆっくり弁解しておくなり、万一を豪傑だなどと買被かいかぶって失敬な挙動あるにおいては 七生まで【七回生まれ変わっても】たたるかも知れない、
 忘月忘日 人間万事 漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもないと、今日はズーズーしく構えて、バタシー公園【バッターシー・パーク】へと急ぐ、公園はすこぶる閑静だが、その手前三丁ばかりのところが非常の雑踏ざっとうな通りで、初学者たるにとっては難透難徹なんとうなんてつ【すこぶる険しい】の難関である、今しもの自転車は「ラヴェンダー」坂を無難に通り抜けて、この四通八達【道路が網の目のように四方八方に通じている】の中央へと乗り出す、向うに鉄道馬車が一台こちらを向いて休んでいる、その右側に非常に大なる荷車が向うむきに休んでいる、その間約四尺【1.2m】ばかり、はこの四尺の間をすり抜けるべく車を走らしたのである、が車の前輪が馬車馬の前足と並んだ時、すなわち身体からだが鉄道馬車と荷車との間に入りかけた時、一台の自転車が疾風のごとくむこうから割り込んで来た、
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かようなとっさの際には命が大事だから退却にしようか落車にしようかなどの分別は、さすがの吾輩にも出なかったと見えて、おやと思ったら身体はもう落ちておった、落方が少々まずかったので、落る時 左の手でしたたか馬の太腹をたたいて、からくも四這よつばいの不体裁をまぬがれた、やれ うれしやと思う間もなく 鉄道馬車は前進し始める、馬は驚ろいて吾輩の自転車を蹴飛けとばす、相手の自転車は何喰わぬ顔ですうと抜けて行く、ぬけさ加減は尋常一様にあらず【物凄いことだ】、この時 派出はでやかなるギグ【馬車】に乗って後ろからきたりたる 一個の紳士、むちげざまに が方をかえりみていわく 大丈夫だ安心したまえ、殺しやしないのだからと、 心中ひそかに驚いて言う、して見ると時には 自転車に乗せて殺してしまうのがあるのかしらん 英国は険呑けんのん【危険】な所だと

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 廿貫目にじゅっかんめ【約75Kg】の婆さんに降参して自転車責にってより以来、大落五度 小落はその数を知らず、或時は石垣にぶつかって向脛むこうずねりむき、或る時は立木に突き当って生爪なまづめがす、その苦戦言うばかりなし、しかして ついに物にならざるなり、元来この二十貫目の婆さんは むやみに人を馬鹿にする婆さんにして、この婆さんが皮肉に人を馬鹿にする時、その妹の十一貫目の婆さんは、またたきもせず が黄色な面を打守りて いかなる変化が眉目びもくかんに現るるかを 検査する役目を務める、御役目御苦労の至りだ、この二婆さん呵責かしゃく【厳しい責め】にあってより以来、猜疑心さいぎしん【不信感】はますます深くなり、
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継子ままこ【仲間はずれ】根性こんじょうは日に日に増長し、ついには明け放しの門戸を閉鎖して 我 黄色な顔をいよいよ黄色にするのやむをえざるに至れり、かの婆さんが黄色の深浅をはかって 彼ら一日のプログラムを定める、は実に彼らにとって黄色な活動晴雨計であった、たまたま降参を申し込んであまし得たるところ 若干いくばくぞと問えば【相手に負けを認めさせ、手に入れたものといえば】、貴重な留学時間を浪費して 下宿の飯を二人前食いしに過ぎず、さればこの降参は我に益なくして に損ありしものと思惟しいす、無残なるかな、




底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:大野晋
1999年10月29日公開
2004年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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----- (以下、シン文庫 追記) -----
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