その時、
私には六十三銭【約3,000円/2025年】しか持ち合せがなかったのです。
十銭白銅六つ一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩いて行こうと思ったのでした。思えば正気の
沙汰ではない。が、むこう見ずはもともと
私にとっては生れつきの気性らしかったし、それに、大阪から東京まで何里あるかも判らぬその道も、
文子に会いに行くのだと思えば遠い気もしなかった、……とはいうものの、せめて汽車賃の算段がついてからという考えも、もちろん
泛ばぬ【浮かばぬ】こともなかった。が、やはりテクテクと歩いて行ったのは、金の
工面に日の暮れるその足で、少しでも
文子のいる東京へ近づきたいという気持にせきたてられたのと、一つには放浪への郷愁でした。
そう言えば、たしかに
私の放浪は生れたとたんに もう始まっていました……。
生れた時のことは むろんおぼえはなかったが、何でも
母親の
胎内に八月しかいなかったらしい。いわゆる月足らずで、世間にありがちな生れだったけれど、よりによって生れる
十月ほど前、
落語家の
父が九州巡業に出かけて、一月あまり家をあけていたことがあり、普通に日を
繰って【たぐって】みて、その留守中につくった子ではないかと、疑えば疑えぬこともない。それかあらぬか、
父は生れたばかりの
私の顔をそわそわと
覗きこんで、色の白いところ、鼻筋の通ったところ、受け口の気味など、
母親似のところばかり探して、何となく
苦りきっていたといいます。
父は高座へ上ればすぐ自分の顔の色のことを言うくらい色黒で、鼻も平べったい方でした。
その時、
母はいいわけするのも あほらしい という顔だったが、一つにはいいわけする口を利く力もないくらい衰弱しきっていて、
私に乳を飲ませるのもおぼつかなく、びっくりした産婆が
私の口を乳房から引き離した時は、もう
母の顔は
蝋の色になっていて歯の間から舌の先を出しながら
唸っていたそうです。そうして
母は死に、阿倍野【大阪市阿倍野区】の葬儀場へ送ったその足で、
私は追われるように
里子【親以外の家庭に預けて養育される】に
遣られた。
俄かやもめで、それも いたし方ないとはいうものの、ミルクで育たぬわけでもなし、いくら何でも初七日もすまぬうちの里預けは急いだ、やはり
父親のあらぬ疑いが せきたてたのであろうか――と、
おきみ婆さんから教えられたのは、十五の時でした。
おきみ婆さんの言葉はずいぶん うがちすぎていたけれど、
私は子供心にうなずいて、さもありなんという
早熟た顔をしてみせました。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(1 / 28)
それというのも、もうそのころには、おれは
父親に可愛がられていないという気持がそうとう強くこびりついていたからです。しかし、今は違います。今の
私は自分ははっきり
父親の子だと信じております……。
よくはおぼえていないが、最初に里子に遣られた先は、南河内の
狭山、何でも周囲一里もあるという大きな池の傍の百姓だったそうです。里子を預かるくらいゆえ【預かり手には一定の金銭(仕送り)があったため、生活の一助とするケースも】、もとより水呑みの、牛一頭持てぬ
細々した
納屋暮しで、主人が畑へ出かけた留守中、
お内儀さんが紙風船など
貼りながら、
私ともう一人やはり同じ年に生れた自分の子に乳をやっていたのだが、
私が行ってから一年もたたぬうちに日露戦争がはじまって主人が出征し、畑へは
お内儀さんが出た。しかしいくら
剛気な
お内儀さんでも両手に
乳飲子をかかえた畑仕事は さすがに手に余ったのでしょう。ある冬の朝、
下肥えを汲み【
屎尿処理を担っていた】に大阪へ出たついでに、高津の
私の生家へ立ち寄って言うのには、四つになる長女に
守をさせられぬこともないが、近所には池もあります。そして、せっかく寄ったのだから汲ませていただきますと言って、汲み取った下肥えの代りに
私を置いて行ったそうです。
汲み取った下肥えの代りに……とは、うっかり口がすべった
洒落みたいなものですが、ここらが親譲りというのでしょう。
父は疑っていたかもしれぬが、
私はやはり落語家の
父の子だった。自慢にはならぬが、話が上手で、というよりお
喋りで、自分でもいや気がさすくらいだが、
浅墓な女には それがちょっと魅力だったらしい。事実また、
私の毒にも薬にもならぬ身の上ばなしに釣りこまれて夜を
更かしたのが、離れられぬ縁となった女もないではなかった。
私もまた少しは同情を
惹く意味でか、ずいぶんとそりゃ女に語ったものです。もっとも同情を惹くといっても、哀れっぽく持ちだすなど 気性からいってもできなかった。どうせ不景気な話だから、いっそ景気よく語ってやりましょう、子供のころでおぼえもなし、空想をまじえた創作で語る以上、できるだけおもしろおかしく脚色してやりましょうと、万事「
下肥えの代り」に式で喋りました。当人にしか おもしろくないような子供のころの話を、ポソポソと不景気な語り口で語ってみたところで しかたがない。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(2 / 28)
嘘でなきゃあ誰も子供のころの話なんか聞くものかという気持だったから、自然相手の
仁【おもいやり】を見た
下司っぽい語り口になったわけ、しかし、そんな語り口でしか
私には自分をいたわる方法がなかったと、言えば言えないこともない。こんな風に語ったのです。
「
……そんなわけで、下肥えのかわりに置いて行かれたけど、その日の 日の暮れにはもう、腫物の神さんの石切【石切劔箭神社が腫れ物の神様と知られていた】の下の百姓に預けられたいうさかい、親父も気のせわしい男やったが、こっちもこっちで、八月でお母んのお腹飛びだすぐらいやさかい、気の永い方やない。つまり言うたら、手っ取り早いとこ乳にありついたいうわけやが、運の悪いことは続くもんで、その百姓家のおばはん、ものの十日もたたんうちにチビス【小さくてやんちゃな子】にかかりよった。なんぼ石切さんが腫物の神さんでも、チビスは専門違いや。ハタケは癒せても、チビスの方はハタケ違いや。さア、薮医者が飛んできよる。巡査が手帳持って覗きに来よる。桃山(の伝染病院)行きや、消毒やいうて、えらい騒動や。そのあげく、乳飲ましたらあかんぜ、いうことになった。そらそや、いくら何でもチビスの乳は飲めんさかいナ。さア、お腹は空いてくるわ、なんぼ泣いてもほっとかれるわ。お襁褓もかえてくれんわ。踏んだり蹴ったりや。蹴ったくそ わるいさかい、オギアオギア せえだい泣いてるとこイ、ええ、へっつい直し【かまど修理人】というて、天びん担いで、へっつい直しが廻ってきよって、事情きくと、そら気の毒やいうて、世話してくれたンが、大和の西大寺のそのへっつい直しの親戚の家やった。そンでまア巧いこと乳にありついて、餓え死を免れたわけやが、そこの おばはんいうのが、こらまた随分 りん気【嫉妬】深い女子で、亭主が西瓜時分になると、大阪イ西瓜売りに行ったまンま何日も戻ってけえへんいうて、大騒動や。しまいには掴み合いの喧嘩になって、出て行け、ああ、出て行ったるわい。おばはんとうとう出て行きよったが、出て行きしな、風呂敷包持って行ったンはええけど、里子の俺は置いてきぼりや。おかげで、乳は飲めん、お腹は空いてくる、お襁褓はかえてくれん、放ったらかしや。 [
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栞] 織田作之助-アド・バルーン(3 / 28)
蹴ったくそ わるいさかい、亭主の顔みイみイ、おっさんどないしてくれまんネいうて、千度泣いたると、亭主も弱り目にたたり目で、とうとう俺を背負うて、親父のとこイ連れて行きよった。ところが、親父はすぐまた俺を和泉の山滝村イ預けよった。山滝村いうたら、岸和田の奥の紅葉の名所で、滝もあって、景色のええとこやったが、こんどは自分の方から飛びだしたった。ところが、それが病みつきになってしもて、それからというもんは、どこイ預けられても、いつも自分から飛び……」
「
……だすいうても、ちょっと、あんた、あんたその時分はまだ赤子だしたンやろ? えらい早熟た、赤子だしてンナ……。」
女も笑ったくらい、どこまでが本当で、どこまでが嘘か判らぬような身の上ばなしでしたが、しかし、七つの年までざっと数えて六度か七度、預けられた里をまるで
付箋つきの葉書みたいに転々と移ってきたことだけはたしかで、放浪のならわしはその時もう幼い
私の
躯にしみついていたと言えましょう。
七歳の夏、帰ることになりました。さすがの
父も里子の
私を
不憫に思ったのでしょう。しかし、その時いた
八尾の田舎まで迎えに来てくれたのは、
父でなく、三味線引きの
おきみ婆さんだった。
高津神社の裏門をくぐると、すぐ梅ノ木橋という橋があります。といっても子供の足で二足か三足、大阪で一番短いというその橋を渡って、すぐ掛りの小綺麗な
しもたや【商店街の中にあって商業を営まない住み家】が今日から暮す家だと、
おきみ婆さんに教えられた時は胸がおどったが、しかし、そこにはすでに
浜子という
継母がいた。あとできけば、
浜子はもと
南地の芸者だったのを、
父が受けだした、というより
浜子の方で打ちこんで入れ揚げたあげく、旦那にあいそづかしをされたその足で押しかけ女房に来たのが四年前で、男の子も生れて、その時三つ、
新次というその子は青ばなを二筋垂らして、びっくりしたような
団栗眼は
父親似だった。
父親は顔の造作が一つ一つ円くて、芸名も
円団治でした。それで
浜子は
新次のことを小円団治とよんで、この子は芸人にしまんねんと喜んでいたが、
おきみ婆さんにはそれが かねがね
気羨【
羨ましい】かったのでしょう。
私を送って行った足で上りこむなり、もう
嫌味たっぷりに、――高津
神社の
境内にある安井
稲荷は安井さん(安い産)といって、お産の神さんだのに、この子の
母親は安井さんのすぐ傍で生みながら、産の病で死んでしまったとは、何と
因果なことか……と、わざとらしく
私の生みの母親のことを持ちだしたりなどして、
浜子の気持を悪くした。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(4 / 28)
そして、ああこれで清々したという顔で
おきみ婆さんが
寄席へ行ってしまうと、間もなく
父も寄席の時間が来ていなくなり、
私はふと心細い気がしたが、晩になると、
浜子は
新次と
私を二つ井戸や道頓堀へ連れて行ってくれて、生れてはじめて夜店を見せてもらいました。
その時のことを、少し
詳しく語ってみましょう。というのも、その時みた夜の世界が
私の一生に少しは影響したからですが、一つには何といっても
私には大阪の町々がなつかしい、今となってみればいっそうなつかしい、
惜愛【おしみいつくしむ】の気持といってもよいくらいだからです。

家を出て、表門の鳥居をくぐると、もう高津表門筋の坂道、その坂道を登りつめた南側に『かにどん』というぜんざい屋があったことは もう知っている人はほとんどいないでしょう。二つ井戸の『かにどん』は知っている人はいても、この『かにどん』は誰も知らない。しかし、その晩はその『かにどん』へは行かず、すぐ坂を降りましたが、その降りて行く道は、
灯明の
灯が道から見える寺があったり、そしてその寺の白壁があったり、曲り角の間から
生国魂神社の北門が見えたり、入口に地蔵を
祠っている路地があったり、
金灯籠を売る店があったり、稲荷を祠る時の巻物をくわえた石の狐を売る店があったり、
簔虫の巣でつくった銭入れを売る店があったり、赤い硝子の
軒灯【軒につるす灯り】に家号を入れた料理仕出屋があったり、間口の広い油屋があったり、赤い
暖簾の隙間から、裸の人が見える銭湯があったり、ちょうど大阪の高台の町である上町と、船場島ノ内である下町とをつなぐ坂であるだけに、寺町の回顧的な静けさと、ごみごみした
市井の
賑かさが ごっちゃになったような
趣きがありました。
坂を降りて北へ折れると、市場で、
日覆を屋根の下にたぐり寄せた 生臭い匂いのする軒先で、もう店をしもうたらしい若者が、
猿股一つの裸に鈍い軒灯の光をあびながら将棋をしていましたが、
浜子を見ると、どこ行きでンねンと声を掛けました。すると、
浜子はちょっと南へと言って、そして、あんた五十銭罰金だっせエと裸かのことを言いました。市場の中は狭くて暗かったが、そこを抜けて西へ折れると、道はぱっとひらけて、明るく、二つ井戸。オットセイの黒ずんだ肉を売る店があったり、猿の
頭蓋骨や、竜のおとし児の黒焼を売る黒焼屋があったり、ゲンノショウコやドクダミを売る薬屋があったり、薬屋の多いところだと思っていると、
物尺やハカリを売る店が何軒もあったり、岩おこし屋の軒先に井戸が二つあったり。そして下大和橋のたもとの、落ちこんだように軒の低い小さな家では三色ういろを売っていて、その向いの
蒲鉾屋では、売れ残りの白い
半平が水に浮いていた。
猪の肉を売る店では猪がさかさまにぶら下っている。昆布屋の前を通る時、塩昆布を煮るらしい匂いがプンプン鼻をついた。
[
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栞] 織田作之助-アド・バルーン(5 / 28)
ガラスの
簾を売る店では、ガラス玉のすれる音や
風鈴の音が涼しい音を呼び、
櫛屋の中では
丁稚が居眠っていました。道頓堀川の岸へ下って行く階段の下の青いペンキ塗の建物は共同便所でした。芋を売る店があり、小間物屋があり、呉服屋があった。『まからんや』という帯専門のその店の前で、
浜子は永いこと立っていました。
新次はしょっちゅう来馴れていて、二つ井戸など少しも珍らしくないのでしょう、しきりに
欠伸などしていたが、
私はしびれるような夜の世界の悩ましさに、幼い心がうずいていたのです。そして前方の道頓堀の灯をながめて、今通ってきた二つ井戸よりもなお明るいあんな世界がこの世にあったのかと、もうまるで狐につままれたような想いがし、もし
浜子が連れて行ってくれなければ、
隙をみてかけだして行って、あの光の洪水の中へ飛びこもうと思いながら、『まからんや』の前で立ち停っている
浜子の動きだすのを待っていると、
浜子はやがてまた歩きだしたので、いそいそとその傍について
堺筋の電車道を越えたとたん、もう道頓堀の明るさはあっという間に
私の
躯をさらって、
私はぼうっとなってしまった。
弁天座、朝日座、角座……。そしてもう少し行くと、中座、浪花座と東より順に五座の、当時はゆっくりと仰ぎ見て たのしんだほど 看板が見られたわけだったが、
浜子は角座の隣りの果物屋の角をきゅうに千日前の方へ折れて、眼鏡屋の鏡の前で、
浴衣の
襟を直しました。
浜子は蛇ノ目傘の模様のついた浴衣を、
裾短かく着ていました。そのためか、
私は今でも蛇ノ目傘を見ると、この継母を想いだして、なつかしくなる。それともうひとつ想いだすのは、
浜子が法善寺の小路の前を通る時、ちょっと
覗きこんで、お
父つあんの出たはるのは あの
寄席やと花月の方を指しながら、
私たちに言って、きゅうにペロリと舌を出したあの
仕草です。
やがて楽天地の建物が見えました。が、
浜子は
私たちをその前まで連れて行ってはくれず、ひょいと日本橋一丁目の方へ折れて、そしてすぐ掛りにある目安寺の中へはいりました。そこは
献納提灯がいくつも掛っていて、灯明の灯が揺れ、線香の火が
瞬き、やはり明るかったが、しかし、ふと暗い隅が残っていたりして、道頓堀の明るさと違います。
浜子は不動明王の前へ灯明をあげて、何やら訳のわからぬ言葉を妙な
節まわしで唱えていたかと思うと、
私たちには物も言わずにこんどは水掛地蔵の前へ来て、目鼻のすりへった地蔵の顔や、水垢のために色のかわった胸のあたりに水を掛けたり、タワシでこすったりした。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(6 / 28)
私は
新次と顔を見合せました。
目安寺を出ると、暗かった。が、
浜子はすぐ
私たちを光の中へ連れて行きました。お
午の夜店が出ていたのです。お午の夜店というのは午の日ごとに、道頓堀の朝日座の角から千日前の
金刀比羅通りまでの南北の筋に出る夜店で、
私はふたたび夜の
蛾のようにこの世界にあこがれてしまったのです。
おもちゃ屋の隣に今川焼があり、今川焼の隣は手品の
種明し、
行灯の中がぐるぐる廻るのは
走馬灯で、虫売の屋台の赤い行灯にも鈴虫、松虫、くつわ虫の絵が描かれ、虫売りの隣の
蜜垂らし屋では蜜を掛けた
祇園だんごを売っており、蜜垂らし屋の隣に何屋がある。と見れば、豆板屋、
金米糖、ぶっ切り
飴もガラスの
蓋の下にはいっており、その隣は鯛焼屋、
尻尾まで
餡がはいっている焼きたてで、新聞紙に包んでも 持てぬくらい熱い。そして、粘土細工、積木細工、絵草紙、メンコ、びいどろのおはじき、花火、
河豚の提灯、奥州斎川孫太郎虫【宮城県白石市斎川の名産でヘビトンボの幼虫】、扇子、暦、らんちゅう、花緒、風鈴……さまざまな色彩とさまざまな形がアセチリン(アセチレン)
瓦斯やランプの光の中にごちゃごちゃと、しかし一種の秩序を
保って並んでいる風景は、田舎で育ってきた
私にはまるで夢の世界です。ぼうっとなって歩いているうちに、やがてアセチリン瓦斯の匂いと青い灯が
如露の水に
濡れた緑をいきいきと
甦らしている植木屋の前まで来ると、もうそこからは夜店の
外れでしょう、底が抜けたように薄暗く、演歌師の
奏でるバイオリンの響きは、夜店の果てまで来たもの哀しさでした。
しかし、
私がもう一度引きかえしてみたいといいだす前に、
浜子はふたたび明るい方へ戻って行き、植木屋、風鈴、花緒、らんちゅう、暦、扇子、奥州斎川孫太郎虫、河豚の提灯、花火、びいどろのおはじき……いい母親だと思った。おまけに
浜子は
私がせがまなくても、あれも買え、これもほしいのンか、ああ、そっちゃのンもええなア、おっさん、これも包んだげてんかと、まるで自分から眼の色を変えて、片ッ端から
新次の分と二つずつ買うてくれ、
私はうろうろしてしまった。あまりのうれしさに、小便が出そうになってきたので、虫売の屋台の前では、股をすり合わせて帰りが急がれたが、
浜子は虫籠を物色してなかなか動かないのです。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(7 / 28)
浜子は世帯持ちは下手ではなかったが、買物好きの昔の癖は抜けきれず、おまけに
継子の
私が戻ってみれば、明日からの近所の
思惑も
慮っておかねばならないし、頼みもせぬのに世話を焼きたがる
おきみ婆さんの口も
怖いと、生みの母親もかなわぬ気のよさを見せるつもりも少しはあったのだろう――と、そんな事情は むろん子供の
私には判らず、帰りの二つ井戸で『かにどん』の
氷金時を食べさせてもらって、高津の坂を登って行く途々、ついぞこれまで味えなかった女親というものの味の甘さにうっとりして、何度も何度も美しい
浜子の横顔を見上げていました。
ところが、そんな
優しい母親が、近所の大人たちに言わせると
継母なのです。この子どこの子、ソバ屋の
継子、上って遊べ、茶碗の欠けで、頭カチンと張ってやろ。こんな唄をわざわざ教えてくれたのは
おきみ婆さんで、
おきみ婆さんはいつも千日前の
常盤座の向いの一名『五割安』という千日堂で買うてくる五厘【約10円/2025年】の飴を
私にくれて言うのには、
十吉ちゃんは
新ちゃんと
違て、継子やさかい、えらい目に会わされて可哀相や。お歯黒をした気味の悪い口を
私の耳に押しつけながらもう涙ぐみ、そして
私がわけの判らぬままにキョトンとしていると、もっと
はんなり【明るく陽気】しなはれと叱りつけて、悲しかったら わてといっしょに泣きイ、さア、
せえだい泣きイと、言うのです。
おきみ婆さんは昔大阪の二等俳優の細君でしたが、芸者上りの
妾のために二人も子のある堀江の家を追いだされて、今日まで二十五年の歳月、その二人の子の継子の身の上を思いつめながら
野堂町の歯ブラシ職人の二階を借りて、一人さびしく暮してきたという女でしたから、頼まれもせぬのに八尾の田舎まで
私を迎えに来てくれたのも、またうまの合わぬ
浜子に煙たがられるのも承知で何かと
円団治の家の世話を焼きに来るのも、ただの親切だけでなく、自分ではそれと気づかぬ何か
残酷めいた好奇心に釣られてのことかもしれません。だから、
私には継子だとか継母だとか、えらい目だとか、はじめは意味のわからなかった言葉がいつか耳にこびりついてしまった。
すると、
私の顔はだんだんに いまに
苛められるだろうという継子の顔じみてきて、その顔を
浜子に向けると、この若い継母は かなり継母じみてくるのでした。
浜子は
私めずらしさにも もうそろそろ
飽きてきた時だったのでしょう。夜、
父が寄席へ出かけた留守中、
浜子は
新次からお
午や
榎の夜店見物をせがまれると、留守番がないからと言ってちらりと
私の顔を見る。そんな時、わい夜店は眠うなるさかい嫌やと、心にもないことを言うのは むろん
私でした。一つには昼間
おきみ婆さんに貰った飴をこっそり一人
内緒で食べたいのです。一人内緒という言葉を教えてくれたのも
おきみ婆さんでした。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(8 / 28)
浜子は近ごろ
父との夫婦仲が思わしくないためか だんだん険の出てきた声で、――何や、けったいな子やなア。ほな、
十吉はうちで留守番してなはれ。昼間、
私が
新次を表へ連れだして遊んでいると、近所の人々には、
私がむりやり子守をさせられているとしか見えなかった。それほどしょんぼりした顔をしていたのです。
浜子は
新次が泣けば、かならずそれを
私のせいにしました。それで、
新次が中耳炎になって一日じゅう泣いていた時など、
浜子の眼から逃げ廻るようにしていた
私は、氷を買いにやらされたのをいいことに、いつまでも
境内の舞台に
佇んでいた。すると
提げていた氷が小さくなって縄から抜けて落ちた拍子に割れてしまった。驚いて拾い上げたが、もう縄に掛らなかったので、前掛けに包んで帰ろうとすると、石段につまずいて倒れた。手と
膝頭を
擦り
剥いただけでしたが、
私は手ぶらで帰っても
浜子に
折檻されない口実ができたと思ったのでしょう、通りかかった人が抱き起しても、死んだようになっていました。
ところが、尋常三年生の冬、学校がひけて帰ってくると、
新次の泣声が聴えたので、
咄嗟に
浜子の小言を覚悟して、おそるおそる上ると、いい
按配に
浜子の姿は見えず、
父が長火鉢の前に鉛のように坐って、泣いている
新次をぼんやりながめながら、
煙草を吹かしていました。やがて日が暮れると、
父は寄席へ出かけたが、しばらくすると近所の弁当屋から二人前の弁当を運んできたので、
私は
新次と二人でそれを食べながら
新次にきけば、もう
浜子は帰ってこないのだという。あほぬかせと
私は本当にしなかったが、
翌る日
おきみ婆さんがいそいそとやってきて言うのには、喜びイ、喜びイ、とうとう追いだされよったぜ。
浜子は継子の
私を
苛めた罰に
父に追いだされてしもうたと言うのですが、
私は
父がそんなに自分のことを思ってくれているとは なぜか思えなかった。
浜子がいなくなって間もなく、一家はすぐ笠屋町へ移りました。
周防町筋を半町ばかり南へはいった東側に路地があります。その路地の一番奥にある南向きの家でした。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(9 / 28)
鰻の寝床みたいな狭い路地だったけれど、しかしその辺は宗右衛門町の色町に近かったから、上町や長町あたりに多い いわゆる貧乏長屋ではなくて、路地の両側の家は、たとえば三味線の師匠の看板がかかっていたり、芝居の小道具づくりの家であったり、芸者の置屋であったり、また自前の芸者が母親と猫と三人(?)で住んでいる家であったりして、長屋でありながら電話を引いている家もあるというばかりでなく、
夜更けの方が
賑かだという点でも変っていて、そして何となく路地全体が なまめいていました。なまめいているといえば、しかし、引っ越しの日に手伝いに来ていた
玉子という見知らぬ女も、首筋だけ
白粉をつけていて、そして
浜子がしていたように浴衣の
裾が短かく、どこかなまめいているように、子供心にも判りました。
玉子はあと片づけがすんでも帰らぬと思っていると、そのまま ずるずるにいついてしまって、
私たちの新しい母親になりました。
玉子は
浜子と同じように、
私や
新次を八幡筋の夜店へ連れて行ってくれたので、何にも知らぬ
新次は
玉子が来たことを喜んでいたようだが、はたして
私はどうでしたか。八幡筋の夜店というのは、路地を出て十歩も行くと、笠屋町の通りを東西に横切る筋があります。これが道具屋や表具屋や
骨董屋の多い八幡筋。ここでちょっと通りと筋のことを言いますと、船場では南北の線よりも東西の線の方が町並みが発達しているので、東西の線を通りと呼び、南北の線を筋と呼んでいるが、これが島ノ内に来ると、反対に南北の方がひらけて、南北の線が通り、東西の線が筋になる、もっとも心斎橋筋や
御堂筋は南北の線だが筋というように例外もあるけれども、八幡筋は東西だから筋、その筋に夜店が出るのです。

この夜店は心斎橋筋を横切って御堂筋まで伸びていたが、
玉子は心斎橋筋の角まで来ると、ひょいと南へ曲りました。そして
戎橋を越え、橋の南詰を道頓堀へ折れ、浪花座の前を通り、中座の前を過ぎ、角座の横の果物屋の前まで来ると、
浜子と違って千日前の方へは折れずに、反対側の太左衛門橋の方へ折れて、そして橋の上でちょっと涼んで、北へ真っ直ぐ笠屋町の路地まで帰るのです。
私ははじめて見る心斎橋筋の灯にぼうっとなってしまいましたが、しかしそれよりも、戎橋や太左衛門橋の上から見た川の両岸の灯に心をそそられた。宗右衛門町の青楼と道頓堀の芝居茶屋が、ちょうど川をはさんで、背中を向け合っている。そしてどちらの背中にも
夏簾がかかっていて、その中で扇子を使っている人々を影絵のように見せている灯は、やがて道頓堀川のゆるやかな流れにうつっているのを見ると、
私の人一倍多感な胸は
躍るのでしたが、しかし、そんな風景を見せてくれた
玉子を、あのいつかの夜
浜子を見た時のいい母親だという眼でみるほど、
私はもう甘くなかった。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(10 / 28)
なんだい、継母じゃないかという眼で
玉子を見て、そして、大宝寺小学校へ来年はいるという年ごろの
新次を
掴えて、お前は継子だぞと言って聴かせるのに、残酷めいた快感を味っていた。
浜子のいる時分、あんなに
羨しく見えた
新次が今ではもう自分と同じ継子だと思うと、何か小気味よかったのでしょうか。
しかし、
新次は変な子供で、
浜子を恋しがる風も見せずに、
化物のように背の高い
玉子にひたすら なついていたようでした。しかし、やがて
玉子が女の子をうむと、
新次は
私が言って聴かせる継子という言葉にうなずいて、悲しそうな表情を
泛べるようになったので、
私も
新次がその女の子の守をしているのを見ると、ちょっとかわいそうになった。そして、
父の方をうかがうと、
父はその女の子を可愛がろうともせずに、
玉子と
喧嘩ばかりしていたので、
私はべつに自分や
新次が
父に可愛がられなくても、少しは
諦めがつくと、早熟な考えをした。しかし、
玉子はけちくさい女で、買いぐいの銭などくれなかったから、
私はふと気前のよかった
浜子のことを想いだして、
新次と二人でそのことを語っていると、
浜子がまるで生みの母親みたいに想われて、シクシク泣けてきたとは、今から考えると、ちょっと不思議でした。
玉子は背が高いばかりで取得もなく、顔も
浜子にくらべものにならぬくらい
醜かったのです。
ところが、大宝寺小学校の高等科をやがて卒業するころ、仏壇の
抽出の底にはいっていた生みの母親の写真を見つけました。そして、ああ、この人やこの人やという
おきみ婆さんの声を聴きながら、じっとその写真を見ているうちに、
私は家を出て奉公する決心をしました。その方が悲壮だという気がしたのです。
おきみ婆さんに打ち明けると、泣いて賛成してくれました。
私もおおげさだったが、
おきみ婆さんもおおげさだった。そのころ大宝寺小学校に尋常四年生の花組に
漆山文子という畳屋町から通っている子がいて、芸者の子らしく学校でも大きな藤の模様のついた
浴衣を着て、ひけて帰ると
白粉をつけ、
紅もさしていましたが、奉公に行けば、もうその子の姿も見られなくなるという甘い別れの感傷も、かえって
私の決心を固めさせた。しかし、何よりも
私の
肚をきめたのは、
父が
私の申出を聞いていっこうに反対しなかったことです。
私はそれを
父の冷淡だと思うくらい気の廻る子供だったが、しかしそのころは大阪では
良家のぼんちでない限り、たいていは
丁稚奉公に
遣らされる ならわしだったのだから、世話はない。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(11 / 28)
いったいに
私は物事をおおげさに考えるたちで、
私が今まで長々と子供のころの話をしてきたのも、里子に遣られたり、継母に育てられたり、奉公に行ったりしたことが、
私の運命をがらりと変えてしまったように思っているせいですが、しかし今ふと考えてみると、
私が現在自分のような人間になったのは、環境や境遇のせいではなかったような気もしてくる。
私という人間はどんな環境や境遇の中に育っても、結局今の自分にしかなれなかったのではないでしょうか。いや、
私のような平凡な男がどんな風に育ったかなどという話は、思えばどうでもいいことで、してみると、もうこれ以上話をしてみても始まらぬわけだと、今までの長話も後悔されてきます。しかし、それもお
喋りな生れつきの身から出た
錆、
私としては早く天王寺西門の出会いにまで
漕ぎつけて話を終ってしまいたいのですが、子供のころの話から始めた以上乗りかかった船で、おもしろくもない話を当分続けねばなりますまい。しかし、なるべく早く漕ぐことにしましょう。といっても、こと大阪の話になると、やはりなつかしくて、つい
細々と語りたくて……。
さて、
私が西横堀の瀬戸物屋へ丁稚奉公したのは、十五の春のことでした。そこは俗にいう瀬戸物町で、
高麗橋通りに
架った
筋違橋のたもとから四ツ橋まで、西横堀川に添うた十五町ほどの間は、ほとんど軒並みに瀬戸物屋で、
私の奉公した家は、平野町通りから二三軒南へはいった西側の、
佃煮屋の隣りでした。
私は
木綿の
厚司【厚くてじょうぶな綿織物】に白い
紐の前掛をつけさせられ、朝はお
粥に香の物、昼は
ばんざいといって野菜の煮たものか
蒟蒻の水臭いすまし汁、夜はまた香のものにお茶漬だった。給金はなくて、小遣いは一年に五十銭【約800円/2025年】、一月五銭足らずでした。古参の丁稚でもそれと大差がないらしく、
朋輩はその小遣いを
後生大事に
握って、一六の夜ごとに出る平野町の夜店で、一串二厘のドテ焼という豚のアブラ身の
味噌煮きや、一つ五厘の野菜
天婦羅を食べたりして、体に油をつけていましたが、
私は新参だから夜店へも行かしてもらえず、夜は大戸を閉めおろした中で、手習いでした。おまけに朝は一番早く起された。そして、戸を明け、
掃除をするのですが、この掃除がむずかしい。縄屑やゴミは
燃料になるので、土がまじらぬように、そっと
掃かないと叱られる。旦那は
藁一筋のことにでも目の変るような人だった。掃除が終っても、すぐごはんにならず、使いに走らされる。朝ごはんの前に使いに遣ると、使いが早いというのです。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(12 / 28)
その代り使いから帰ると食べすぎるというので、香の物は恐しくまずく漬けてある。香の物がまずいと、お粥も食べすぎないだろうという心の配り方です。しかし、これはその家だけの習慣ではなく、あとであちこち奉公してみて判ったのだが、これは船場一体のしきたりだったようです。
一事が万事、丁稚奉公は義理にも
辛くないとは言えなかったが、しかしはじめての盆に宿下りしてみると、実家はその二三日前に笠屋町から上ノ
宮町の方へ移っていました。上宮中学の、
蔵鷺庵という寺の真向いの路地の二軒目。そして、そこにはもう
玉子はいずに、
茂子という女が新しい母親になっていて、
玉子が残して行った
ユキノという
私の妹は、
新次といっしょに継子になっていました。
私はやはり奉公してよかったと思いました。その時、
私はずいぶん悲痛な顔をしていたようでしたが、しかし、今になって考えてみると、
父は細君が変ると、すぐ家を移ってしまう癖があり、しかもそれがいつも夏だったとは、ずいぶんおかしい気がする。
父の夫婦別れの原因はいまもって判らないが、やはり落語家らしい のんきな男でした。
それはともかく、家が上ノ宮町へ引っ越していたのは ちょっと寂しいことだった。というのは漆山
文子のいる畳屋町は笠屋町から心斎橋筋へ一つ西寄りの通りだから、
私はすぐにでも
文子に会える、とたのしみにしていたからです。
私は
文子に逢えずに瀬戸物町へ帰りました。しかし、よしんばその時家が笠屋町にあったにせよ、自分の丁稚姿をふりかえってみれば、やはり恥しくて会えなかったかもしれない。ところが、その
翌る年の七月二十四日の陶器祭、この日は瀬戸物町に陶器作りの人形が出て、年に一度の
賑いで、
私の心も浮々としていたが、その
雑鬧の中で
私はぱったり
文子に出くわしました。母親といっしょに祭見物に来ていたのです。
文子は
私の顔を見ても、つんと素知らぬ顔をしていたが、むりもない、
私はこれまで一度も
文子と口を利いたことはなかったし、それに
文子はまだ十二だった。しかし十六の
私は
文子がつんとしたは、
私の丁稚姿のせいだと
早合点してしまい、きゅうに瀬戸物町というものがいやになってしまった。
間もなく
私は瀬戸物屋を暇取って、
道修町の薬種問屋に奉公しました。瀬戸物町では白い
紐の前掛けだったが、道修町では茶色の紐でした。ところが、それから二年のちにはもう
私は、
靱の乾物屋で青い紐の前掛をしていました。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(13 / 28)
はや
私の放浪癖が頭をもたげていたのでしょう。が、一つには
私は人一倍物事に熱中する代りに、すぐそれに飽いてしまうという厄介な性質を持っていました。いわば、
竜頭蛇尾【初めは勢いが盛んで、終わりはふるわない】、たとえば千メートルの競争だったら、最初の二百メートルはむちゃくちゃに力を出しきって、あとはへこたれてしまうといった調子。そんな訳で、奉公したては、旦那が感心するくらい
忠実に働くのだが、少し飽きてくると、もういたたまれなくなって、奉公先を変えてしまうのです。
十五の歳から二十五の歳まで十年の間、白、茶、青と三つの紐の色は覚えているが、あとはどんな色の紐の前掛をつけたのやらまるで覚えがないくらい、ひんぱんに奉公先を変えました。里子の時分、転々と移っていたことに似ているわけだったが、しかしさすがの
父も昔のことはもう忘れていたのか、そんな
私を簡単に不良扱いにして勘当してしまいました。しかし勘当されたとなると、もうどこも
雇ってくれるところはなし、といって働かねば食えず、二十五歳の秋には、あんなに
憧れていた夜店で 季節外れの扇子を売っている自分を見出さねばならなかったとは、何という皮肉でしょう。『自分を見出す』などという言い方は、たぶん講義録で少しは横文字をかじった影響でしょうが、その講義録にしたところで、最初の三月分だけ無我夢中で読んだだけ、あとはもう金も払いこまず、したがって送ってもこなかった。が、
私はえらくなろうという野心――野心といったのは、つまり えらくなって
文子と結婚したいという望み――だけは、やはり捨てなかったのです。
ところが、その年の冬、
詳しくいうと十一月の十日に御即位の御大礼が挙げられて、大阪の町々は夜ごと四ツ竹を持った踊りの群がくりだすという騒ぎ、町の景気も浮ついていたので、こんな日は夜店出しの
書入れ時だと 季節はずれの扇子に代った 昭和四年度の暦や日めくりの店を谷町九丁目の夜店で張っていると、そんなところへも色町からくりだした踊りの群が流れこんできて、エライコッチャエライコッチャと
雑鬧を踊りの群が入り乱れているうちに、頭を眼鏡という髪にゆって、
襟に豆絞りの手拭を掛けた
手古舞の女が一人、どっと押しだされてよろよろと
私の店の上へ倒れかけました。
私は商品を汚されてはという心配から、思わずはっと抱きかかえて、ふとみると思いがけない
文子の顔。
文子は おやと なつかしそうに、
十吉っあんやおまへんか、久しぶりだしたなアと、さすがに笠屋町の上級生の顔を覚えていてくれました。
文子はそのころもう宗右衛門町の芸者で、そんな
稼業とそして踊りに浮かれた気分が、幼な
馴染みの
私に声を掛けさせたといえましょうが、しかし、
私は
嬉しかった。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(14 / 28)
と同時に、十年前会った丁稚姿、そして今夜は夜店出し、あたりの
賑いにくらべて いかにもしょんぼりしている自分の姿が、恥じられてならなかった。
私はすぐまた踊りの群といっしょに立ち去って行った
文子の後ろ姿を見送りながら、つくづく夜店出しがいやになったばかりか、何となく
文子のいる大阪にいたたまれぬ気がしました。極端から極端へと走りやすい
私の気持は、やがて
私を大阪の外へ追いやりました。そして三年後には『自分を見出した』という言い方をもう一度使いますと、流れ流れて南紀の白浜の温泉の宿の客引をしている自分を見出しました。もっともその三年の間、せっせと金を貯めて、その金を持っておおぴらに
文子に会いに行こうと思わなかった日は、一日とてなかった。宿の女中などと関りあいを持ちながら、けっして夫婦にならなかったのも、もちろん
文子のことが頭にあったからでした。
ところが偶然というものは続きだしたら切りのないもので、そしてまた、それがこの世の中に生きて行くおもしろさであるわけですが、ある日、
文子が客といっしょに白浜へ遠出をしてきて、そして泊ったのが何と
私の勤めている宿屋だった。その客というのは東京のあるレコード会社の重役でしたが、
文子はその客が好かぬらしく、だからたまたま幼馴染みの
私がその宿屋の客引をしていたのを幸い、
土産物を買いに出るといっては、
私を道案内にしました。そして、二人は子供のころの想い出話に
耽ったのですが、
文子はふと
私の話上手に
惹きつけられたようだった。その宿は庭からすぐ海に出られるので、客の眼をぬすんでは、砂の白いその浜辺に出て語りました。よしんば見つけられても、客引という
私の身分が弁解してくれるので、いわば半分おおっぴら。
文子が白浜にいる三日というものは、
私はもうわれを忘れていました。今想いだしてもなつかしく、また恥しいくらい。
文子は三日いて客といっしょに大阪へ帰った。
私は間抜けた顔をして、半月余りそわそわと
文子のことを想っていましたが、とうとうたまりかねて大阪へ行きました。そして宗右衛門町の
桔梗屋という家に上り、
文子を呼んでもらうと、
文子は十日ほど前にレコード会社の重役に引かされて東京へ行かはった。レコードに吹きこまはる いうことでっせと言う返辞。
[
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栞] 織田作之助-アド・バルーン(15 / 28)
私は
肝をつぶし、そしてカッとなりましたが、その腹の虫を押えるために飲んだ酒と花代で、
私が白浜から持ってきた金はほとんどなくなってしまい、ふらふらと桔梗屋を出たのは、あくる日の
黄昏前だった。
私は太左衛門橋の
欄干に
凭れて、道頓堀川の汚い水を眺めているうちに、ふと東京へ行こうと思った。
その時、
私には六十三銭しか持ち合せがなかったのです。
十銭白銅六つ。一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩いて行こうと思ったのでした。思えば正気の沙汰ではない。が、向う見ずはもともと
私にとっては生れつきの気性らしかったし、それに、大阪から東京まで何里あるかも判らぬその道も、
文子に会いに行くのだと思えば遠い気もしなかった――とはいうものの、せめて汽車賃の算段がついてからという考えも、もちろん
泛ばぬこともなかった。が、やはりテクテクと歩いて行ったのは金の
工面に日の暮れるその足で、少しでも
文子のいる東京へ近づきたいという気持にせきたてられたのと、一つには放浪への郷愁でした。
真夏の日射しはきつかった。
麦藁帽の下から手拭を垂らして、日を
除けながらトボトボ歩きました。京都へ着くと、もう日が暮れていましたが、それでも歩きつづけて、石山まで行ってやっと野宿しました。朝、瀬多川で顔を洗い、駅前の飯屋で朝ごはんを食べると、もう十五銭しか残っていなかった。それで煙草とマッチを買い、残った三銭をマッチの箱の中に入れて、おりから瀬多川で行われていたボート競争も見ずに、歩きだした。ところが、煙草がなくなるころには、いつかマッチ箱の中の三銭も落してしまい、もう大福餅一つ買えなかった。それほど放心した歩き方だったのでしょう。腹は
空ってくる。おまけに暑さにあてられて、目まいがする。そんな時、道端の百姓家へ泣きこんで事情を打ち明けると、食事を恵んでくれる親切なお内儀さんもありました。が、しまいにはもうそれもできなかった。というのは、事情を話せば恵んでくれるでしょうが、そのための口を利く元気すらない時の方が多かったのです。
[
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栞] 織田作之助-アド・バルーン(16 / 28)
といえば嘘みたいですが、本当に疲労と空腹がはげしくなれば、口を利くのもうるさくなる。ままよ、面倒くさい口を利くくらいなら、いっそ食べずにおこうと思うわけ、そしてそんな状態が続けば、しまいには口を利きたくても唇が動かなくなるのです。そうして、やっと豊橋の近くまで来た時は、もう一歩も動けず、目の前は真っ白、たまりかねて線路工夫の弁当を盗みました。みつかって、警察へ突き出される覚悟でした。おかしい話ですが、留置所へはいって食う飯のことが目にちらついてならなかった。人間もこうまであさましくなるものかと思いました。が、線路工夫には見つからずにすんで、いわば当てが外れたみたいなものでした。その弁当でいくらか力がついたので、またトボトボと歩いて、静岡まで来ましたが、ふらふらになりながら、まず探したのは交番、やっと
辿りついて豊橋で弁当を盗んだことを自首しました。
人のよさそうな巡査はしかし取り合わず、弁当を恵んで、働くことを
薦めてくれました。安倍川の川さらいの仕事です。
私はさっそくやってみましたが、何しろはじめは夢中になるくせにすぐへたばってしまう性質ですから、力を平均に使うということを知りません。だから最初の二三時間はひどく能率を上げても、あとが からきしだめで、ほかの人夫が一日七十銭にも八十銭にもなるのに、
私は三十四銭にしかならないのです。当時三度食べて煙草を買うと、まずいくら切り詰めても四十五銭はいりました。五日働いた後、
私はまた線路伝いに歩きました。そして、夜が来たので、ある百姓家の
裏薮のなかで野宿しました。その裏薮から、
蚊帳を吊った座敷がまる見えでした。ラヂオがあると見えて、音楽がきこえます。蚊に食われながら聴いていると、やがてそれがすんで、次に落語の放送でした。が、アナウンサーの紹介を聴いたとたん、
私は思わず涙を落しました。出演者は思いもかけぬ
父の
円団治でした。なつかしい
父の声、人々は皆 蚊帳の中にはいってゲラゲラ笑いながら聴いているのに、自分一人こうして蚊に食われながら、ポロポロ涙を落して聴いているのだ、――そう思うと、つくづく情けなくなってしまいましたが、しかし、
文子のいる東京はもうすぐだ。そう思うと、いくらか元気が出て、泣きながら夜を明かすと、また歩きました。
東京へ着いたのは、大阪を出て十八日目の夕方でした。
[
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栞] 織田作之助-アド・バルーン(17 / 28)
桔梗屋のお
内儀に教えてもらった
文子の住居を、芝の白金三光町に探しあてたのは、その日の夜更け。
文子は女中と二人暮しでもう寝ていましたが、表の戸を
敲く音を旦那だと思って明けたところ、まるで乞食同然の姿をした男がしょぼんと立っていたので、びっくりしたようでした。しかし、やっと
私だということが判ると、やはりなつかしそうに上げてくれました。ところが、
私が大阪から歩いてわざわざ会いに来た話をすると、
文子はきゅうに
私が気味わるくなったらしく、その晩泊めることすら迷惑な風でした。
私はそんな女心に愛想がつきてしまう前に、自分に愛想をつかしました。思えばばかな男だった。ところが、ますますばかなことには、苦しいその夜が明けて、その家を出る時、
私は
文子に大阪までの旅費をうっかり
貰ってしまったのです。東京の土地にうろうろされてはわてが困ります、だから早く大阪へ帰ってくれという意味の旅費だったのでしょう。むろん突きかえすべき金だった。いやばかにするなと、投げつけてこそ、
私も男だった。それを、おめおめと……、しかし、
私は旅費を貰いながら、大阪へ帰ったら、死ぬつもりでした。そんなものを貰った以上、死ぬよりほかはもう浮びようがない。もう一度大阪の灯を見て死のうと思いました。その時の気持はせんさくしてみれば、ずいぶん複雑でしたが、しかし、今はもうその興味はありません。それに、複雑だからといって、べつに何の自慢にもならない。先を急ぎましょう。
さて、これからがこの話の眼目にはいるのですが、考えてみると、話の枕に身を入れすぎて、もうこの先の
肝心の部分を
詳しく語りたい熱がなくなってしまいました。何をやらしてみても、力いっぱい つかいすぎて、後になるほど根まけしてしまうという いつもの癖が、こんな話のしかたにも出てしまったわけで、いわば自業自得ですが、しかしこうなればもう どうにもしようがない、
駈足で語らしてもらうほかは ありますまい。
大阪駅へ着いたのは夜でした。
文子がくれた金は汽車賃を払うと、もうわずかしか残らず、汽車の食堂での飲み食いが精いっぱいでしたので、汽車を降りて、煙草を買うと、もう無一文。しかし、かえってサバサバした気持で大阪駅から中之島公園まで歩きました。公園の中へはいり、川の岸に腰を下して煙草を吸いました。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(18 / 28)
川の向う正面はちょうど北浜三丁目と二丁目の中ほどのあたりの、中華料理屋の裏側に当っていて、明けはなした地下室の料理場がほとんど川の水とすれすれでした。その料理場では鈍い電灯の光を浴びた裸かの料理人が影絵のようにうごめいていました。その上は客室で、川に面した窓側で、若い男女が料理をつついています。話し合っているのでしょうが、声が聴えないので、だんまりの芝居のようです。隣の家は歯医者らしく、二階の部屋で白い診療衣を着た医者が黙々と立ち働いているのが見えました。治療してもらっているのはどこかの奥さんらしくアッパッパ【簡易ワンピース】を着て、スリッパをはいた両足をきちんと
揃えて、仰向いています。何か日々の
営みのなつかしさを想わせるような
風情でした。
私はふと
濡れるような旅情を感ずると、にわかに生への執着が
甦ってきました。そしてふと想いだした
文子の顔は
額がせまくて、鼻が少し上向いた、はれぼったい
瞼の、何か醜い顔だった。キンキンした声も二十四の歳にしては、いやらしく若やいでいる……。
提灯をつけたボートが生物のように川の上を往ったり来たりしています。浪花橋の上を電車が通ると、その灯が川に落ちて、波の上にさかさになった電車の形を描きだします。やがて、どれだけ時間がたったでしょうか、中華料理屋の客席の灯が消え、歯医者の二階の灯が消え、電車が途絶え、ボートの影も見えなくなってしまっても、
私はそこを動きませんでした。夜の底はしだいに深くなって行った。
私は力なく起ち上って、じっと川の底を
覗いていると、おいと声を掛けられました。
振り向くと、バタ屋【バッタものを売る人】――つまり大阪でいう拾い屋【廃品回収業】らしい男でした。何をしているのだと訊いたその声は
老けていましたが、年は
私と同じ二十七八でしょうか、
痩せてひょろひょろと背が高く、鼻の横には大きくホクロ。そのホクロを見ながら、
私は泊るところがないからこうしているのだと答えました。まさか死のうと思っていたなどと言えない。男はじっと
私の顔を見ていましたが、やがて
随いてこいと言って歩きだしました。
私は意志を失ったように随いて行きました。
公園を抜けて、北浜二丁目に出ると、男は東へ東へと歩いて行きます。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(19 / 28)
やがて
天満から馬場の方へそれて、日本橋の通りを阿倍野まで行き、それから阪和電車の線路伝いに美章園という駅の近くのガード下まで来ると、そこにトタンとむしろで囲ったまるでルンペン小屋のようなものがありました。男はその中へもぐりました。そこがその男の住居だったのです。男は、今宮へ行けば市営の無料宿泊所もあるが、しかし、人間そんな所の
厄介になるようではもうしまいだと言いながら、その小屋に
泊めてくれました。
翌朝、男は近くの米屋から四合十銭の米と、八百屋から五銭の
青豌豆を買ってきて、豌豆飯を炊いて、食べさせてくれました。そして、どうだ、拾い屋をやる気はないかと言うので、
私は人恋しさのあまりその男にふと女心めいたなつかしさを覚えていたのでしょう、その男のいうままに、ブリキの
空缶を肩に掛けていっしょにごみ箱を
漁りました。ちょうど満洲事変が起った年で、世の中の不景気は底をついて、東京では法学士がバタ屋になったと新聞に出るという時代だったから、拾い屋といってもべつに恥しくはない。それに
私は何かその男といっしょに働く喜びにいそいそとして、
文子のことなどすっかり思いきってしまいました。
ところが、拾い屋をはじめてから十日ばかりたったある朝、ガードの近くの百姓家へ井戸水を貰いに行っていると、そこの主人が拾い屋もいいが、一日三十七銭にしかならぬようではしかたがない。それより車の先引き【荷車を引っ張る仕事】をしないかと言う。その主人の親戚で
亀やんという老人が、青物の行商に毎日北田辺から出てくるが、もうだいぶ身体が弱っているので、車の先引きをしてくれる若い者を探してくれと頼まれていたらしい。帰って
秋山さん――例の男は
秋山といいました――に相談すると、賛成してくれましたので、
私は
秋山さんと別れて、車の先引きになりました。
亀やんは毎朝北田辺から手ぶらで出てきて
河堀口の米屋に預けてある空の荷車を受けとると、それを引っぱって近くの青物市場へ行き、仕入れた青物つまり野菜類をその車に
載せて、石ヶ辻や
生国魂方面へかけて行商します。
私はその米屋の二階に三畳を間借りして、
亀やんの顔が見えると、いっしょに出かけて、その車の先引きをすると、一日七十銭になりました。ところが、三月ばかりたつと、
亀やんはぽっくり死んでしまったので、
私はまた拾い屋になろうと思って、ガード下の
秋山さんを訪れると、もう
秋山さんはどこかへ行ってしまったのか、姿を消していました。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(20 / 28)
井戸水を貰っていた百姓家の人に訊いても、
秋山さんが出入りしていた屑屋に
訊いても判らない。
空には軽気球がうかんでいて、百貨店の大売出しの広告文字がぶらさがっていた。とぼとぼ河堀口へ帰って行く道、紙芝居屋が、自転車の前に子供を集めているのを見ると、ふと立ち停って、ぼんやり聴いていたくらい、その日の
私は途方に暮れていました。ところが、聴いているうちに、ふと俺ならもっと巧く
喋れるがと思ったとたん、
私はきゅうに眼を輝かせました。翌日から
私は紙芝居屋になりました。
車の先引きをしていた三月の間に、九円三銭の金がたまっていました。それが資本です。それで日本橋四丁目の五会という古物市場で五円で中古自転車を買った。それから大今里のトキワ会という紙芝居協会へ三円払って絵と道具を借りた。谷町で五十銭の半ズボン、松屋町の飴屋で飴五十銭。残った三銭で芋を買って、それで空腹を満しながら、自転車を押して歩いた。
飴は一本五厘で、五十銭で仕入れると、百本くれる。普通は一本を二つに折って、それを一銭に売るのだから、売りつくすと二円になる。が、
私は二つに折らずに、仕入れたままの長いのを一銭に売りました。そしてその日は全部売りつくすまで廻りましたが、自分で食べた分もあるので、売上げは九十七銭でした。
半月ほど後に、
私は河堀口の米屋の二階から今里のうどん屋の二階へ移りました。そこはトキワ会が近くて絵を借りに行くのが便利だったのと、階下がうどん屋だから、自炊の世話がいらなかったからです。ところが、そのうどん屋では酒も出すので、寒い夜道を疲れて帰った時などつい飲みたくなる。もともといける口だし、借も利くので、つい飲みすごしてしまう。
私はもうたいした野心もなく、大金持になろうなどと思ってはいなかったというものの、勘当されている身の上を考えれば、やはり少しはましな人間になって、大手を振って親きょうだいに会えるようになりたい、そのためにはまず貯金だと思っていたのですが、酒のためにそれもできない始末でした。
ところが、その年も押しつまったある夜、
紙芝居をすませて帰ってきますと、今里の青年会館の前に禁酒宣伝の演説会の立看板が立っていたので、どんなことを喋るのか、喋り方を見てやろうと思いながら、はいって聴きました。
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(21 / 28)
そして、二人目の講師の演説が終った時には、もともと極端に走りやすい
私はもう禁酒会員名簿に署名をしていました。そのころ東成禁酒会の宣伝隊長は
谷口という顔の四角い人でしたが、
私は
谷口さんに頼まれて時々演説会場で禁酒宣伝の紙芝居を実演したり、東成禁酒会付属少年禁酒会長という肩書をもらって、町の子供を相手に禁酒宣伝や貯金宣伝の紙芝居を見せたりしました。そして貯金宣伝をする以上、自分も貯金しなくてはおかしいと思って、毎月十円ずつ禁酒貯金をするほかに、もう一つ
私は
秋山名義の貯金帳をこしらえました。
秋山というのは、中之島公園で
私を拾ってくれたあの拾い屋です。
私はその人を命の恩人と思い、今は
行方は判らぬが、もしめぐり会うことがあれば、この貯金通帳をそっくり上げようと名義も
秋山にして、毎月十日に一円ずつ入れることにしたのです。十日にしたのはあの中之島公園の夜が八月十日だったのと、
私の名が十吉だったからで、子供らしい思いつきと言ってしまえばそれまでですが、貯金というものは結局そんな思いつきがなければ、
私のような者にはできなかったかもしれない。
私のこの話が もしかりに美談であるとすれば、これからが美談らしくなるわけですが、美談というものは およそ おもしろくないのが相場のようですから、これから先はますますご辛抱願わねばなりますまい。
さて、一円ずつ貯金してきた通帳の額がちょうど四十円になった時、
私は無性に
秋山さんに会いたくなった。もっともそれまでも、紙芝居を持って大阪の町々をまわりながら、それとなく行方を探していたことはいましたが、見つからない。そこである日のこと、宣伝隊長の
谷口さんにそのことを打ち明けると、
谷口さんもひどく乗気になってくれて、その翌日弁当ごしらえをして、二人掛りで一日じゅう大阪じゅうを探し歩きましたが、何しろ
秋山という名前と、もと拾い屋をしていたという知識だけが頼りですから、まるで雲を
掴むような話、迷子を探すというわけには行きません。とうとう探しくたびれてしまったところ、ちょうどそのころ今里保育園の仕事に関係していた弘済会の保育部長の
田所さんがこの話を聴いて、――というのは、
谷口さんも当時今里保育園の仕事に関係していて
田所さんと親しかったので、――これは警察に探してもらう方がよかろうと、府の警察部へ話してくれました。すると、それを聴きつけたのが、府庁詰の朝日新聞の記者で、さっそくそれを新聞記事にして「
秋山さんいずこ。命の恩人を探す人生紙芝居」
[
:
栞] 織田作之助-アド・バルーン(22 / 28)
という変な見出しで書きたてましたので、
私はこれは困ったことになったわいと恥しい思いをしていました。ところが、その記事が
私を
秋山さんに会わせてくれたのです。
四年目の対面でした。などと言うと、まるで新聞記事みたいだが、その時の対面のことを同じ朝日の記者が書きました。
私は照れくさい思いがしたが、しかし、やはり
私のような凡人は新聞に書かれると少しは
嬉しいのか、その記事の文句をいまだにおぼえています。
『既報“人生紙芝居”の相手役
秋山八郎君の居所が
奇しくも本紙記事が機縁となって判明した。四年前――昭和六年八月十日の夜、中之島公園の川岸に
佇んで死を決していた長藤
十吉君(当時二十八)を救って
更生への道を教えたまま
飄然として姿を消していた
秋山八郎君は、その後転々として
流転の生活を送った末、病苦と失業苦にうらぶれた身を横たえたのが東成区北生野町一丁目ボタン製造業
古谷新六氏方、昨二十二日本紙記事を見た
古谷氏は“人生紙芝居”の相手役がどうやら自宅の二階にいる
秋山君らしいと知って
吃驚、本紙を手にして大今里町
三宅春松氏方に長藤
十吉君(現在三十二)を訪れた。おりから町の子供相手の紙芝居に出かける支度中の
長藤君は
古谷氏の話を聞いて狂喜し さっそくこの
旨を既報“人生紙芝居”のワキ役、済生会大阪府支部主事
田所勝弥氏(四八)、東成禁酒会宣伝隊長
谷口直太郎氏(三八)に報告、一同打ち
揃って前記
古谷氏宅に
秋山君を訪れ、ここに四年ぶりの対面が行われた。“おお
秋山さん”“おお
長藤君か”二人は感激の手を握り合って四年前の回旧談に
耽った。やがて
長藤君が
秋山君名義で
蓄えた貯金通帳を
贈れば、
秋山君は救ったものが救われるとはこのことだと感激の涙にむせびながら、その通帳を更生記念として発奮を誓ったが、かくて“人生紙芝居”の大詰がめでたく幕を閉じたこの機会にふたたび“人生
双六”の第一歩を踏みだしてはどうかと進言したのが前記
田所氏、二人は『お互い依頼心を起さず、独立独歩働こう、そして相手方のために、一円ずつ貯金して、五年後の昭和十五年三月二十一日午後五時五十三分、彼岸の中日の太陽が大阪天王寺西門大鳥居の真西に沈まんとする瞬間、鳥居の下で再会しよう』との誓約書を取りかわし、人生の明暗喜怒哀楽をのせて転々ところぶ人生双六の
骰子はかくて感激にふるえる両君の手で振られて、両君は西と東に別れて、それぞれの人生航路に旅立とうと誓ったのである』
まだこの後十行ばかり書いてありましたが、恥しくなったのでそれは省略しましょう。彼岸の中日に会うことにしたのは、ちょうどその対面の日が三月二十三日だったので、同じ会うなら二十三日よりも中日の二十一日の方がよいという
田所さんの言葉に従ったのです。
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栞] 織田作之助-アド・バルーン(23 / 28)
田所さんは仏家の出で、永年育児事業をやっている眉毛の長い人で、冗談を言ってはひょいと舌を出す癖のあるおもしろい人でした。
田所さんのお嬢さんは舞をならっているそうです。
新聞にはその日のうちに西と東に別れたように書いていたけれど、
秋山さんが
私と別れて四国の方へ行ったのは、それから半月ばかりたってからだった。一方、
私は相変らず大阪に残って紙芝居。ところが、世間というものはおかしなもので、そんな風に二度まで新聞に書かれたためか、
私はたちまち町の人気者みたいになってしまった。何しろ世を
挙げて宣伝の時代、ある大きな酒場では
私をボーイに雇いたいと言ってきました。うっかり応じたら、
私はまた新聞種になって、恥を上塗ったところでしたが、さすがに応じなかった。ある女は結婚したいと手紙を寄越した。
私と境遇が似ているというのです。二人手をたずさえて、人生紙芝居の第一歩を踏みだしましょうと、まじめなのか、からかっているのか、お話にならない。紙芝居を持って町を歩くと、『人生紙芝居』という
囁きが耳にはいりました。新聞は
私の紙芝居の宣伝をしてくれたわけですが、しかし、そのためかえって
私は紙芝居をよしてしまった。どうにも気恥しくて歩けなかったからです。そして、
田所さんの世話で造船所の倉庫番をしたり、病院の雑役夫になったりして、そのわずかの給金の中から、禁酒貯金と
秋山さん名義の貯金を続けましたが、
秋山さんからは何の便りも来なかった。もっともお互い今度会う時まで便りをしないでおこうという約束だったのですが、しかし、やはり消息が判らないのは心配でした。
五年は
瞬く間にたちました。そして約束の彼岸の中日が近づいてくると、
私はいよいよ
秋山さんの安否が気になってきて、はたして
秋山さんは来るだろうかと、
田所さんたちに会うたび言い言いしていたところ、ちょうど、彼岸の入りの十八日の朝刊でしたか、人生紙芝居の記事を特種にしてきた朝日新聞が『出世双六、五年の“
上り”迫る誓いの日、さて相手は?』来るだろうかという見出しで、また書きたてましたので、約束の日、
私が
田所さんたちといっしょに天王寺西門の鳥居の下へ行くと、おりから彼岸の中日のせいもあったが、鳥居の附近は黒山のような人だかりで、身動きもできぬくらいだった。
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栞] 織田作之助-アド・バルーン(24 / 28)
私は新聞の記事にあおりたてられた物見高い人々が、五年目の再会の模様を見ようと、天王寺へお
詣りがてら来ているのだと判ると、きゅうに自分のみすぼらしい――新聞に書かれた出世双六などという言葉におよそ似つかぬ姿を恥じて、穴あらば はいりたい気持とはこのことかと思った。しかし、まさか逃げだしもできず、それに
秋山さんは はたして来るだろうかと思えば自然光ってくる眼を、じっと西門の停留所の方へ向けていました。
秋山さんはやはり来た。
雑鬧を押しわけてやってきた――その姿はよれよれの国民服で、風呂敷包を持っていました。『午後五時五十三分、天王寺西門の鳥居の真西に太陽が沈まんとする瞬間』と新聞はあとで書きましたが、十分過ぎでした。立ち話もそんな場所ではできず、前から部屋を頼んでおいた近くの
逢坂町にある春風荘という精神道場へ行こうとすると、新聞の写真班が写真を
撮るからちょっと待ってくれと言いました。それで、
私たちは、
秋山さんが
私の肩に手を掛け、
私は背の高い
秋山さんの顔を見上げながら笑っているという姿勢をしばらく続けていましたが、やがて写真班がマグネシュームをたこうとしたとたん、待ってくれと声がして、俺もいっしょに
撮ってくれと、割りこむように飛んできたのは、思いがけない父の
円団治でした。
やがて春風荘の一室に落ちつくと、
父は、俺はあの時お前の若気の至りを
咎めて勘当したが、思えば俺の方こそ若気の至りだとあとで後悔した。新聞を見たのでたまりかねて飛んできたが、見れば俺も
老けたがお前ももうあまり若いといえんな、そうかもう三十七かと、さすが
落語家らしい口調で言って、そして
秋山さんの方を向いて、
伜の命を助けてくだすったのはあなたでしたかと、真白な頭を下げた。すると、
秋山さんは、いや助けてもらったのはこちらの方なんでと笑いました。聴けば、
秋山さんはあれから四国の
小豆島へ渡って丸金醤油の
運搬夫をしているうちに、土地の娘と深い仲になったが、娘の親が大阪で拾い屋などしていた男には
遣らぬと言って、引き離されてしまったので、やけになり世にすねたあげく、いっそこの世を見限ろうとしたこともあるが、五年後の再会を思いだしたので、ふたたび発奮して九州へ渡り、高島、新屋敷などの鉱山を転々とした後、昨年六月から佐賀の山城鉱業所にはいって働いているが、もしあの誓約がなかったら今まで生きていたかどうか。思えば
長藤君に命を助けてもらったのも同然だと言いながら、
秋山さんの涙は鼻の横のホクロを
濡らしていました。そして、どうだ、
長藤君もう一度ここで西と東に別れて、五年後の今日同じ時間同じ場所でまた会おうじゃないかと
秋山さんは言いましたが、それは
私も言おうと思っていた言葉でした。
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栞] 織田作之助-アド・バルーン(25 / 28)
それで
私たちはお互いの名義の貯金帳を見せ合っただけで、また持ち続けることにしました。
翌る日の夕方の船で、
秋山さんは九州へ
発ちました。
父や
田所さんたちといっしょに天保山まで見送った
私は、やがて
父と二人で千日前の
父の家へ行きました。歌舞伎座の裏手の自由軒の横に雁次郎横町という路地があります。なぜ雁次郎横町というのか判らないが、突当りに地蔵さんが
祀ってあり、金ぷら屋や寿司屋など食物屋がごちゃごちゃとある中に、
格子のはまった小さな しもた家【商売をやめて住居になった家】――それが
父の家でした。
父はもう七十五歳、もう落語もすたっていたのと、自分も語れなくなっていて、落ちぶれた暮しを、それでも何人目かの
老妻といっしょに送っていた。もうとっくに死んでいた
おきみ婆さんと同じようにお歯黒に染めていたその婆さんは、もと髪結いをしていて、その家の軒には『おめかし処』と
父の筆で書いた
行灯が掛っていたのだが、二三年前から婆さんの右の手が
不随になってしまったので、髪結いもよしてしまったらしい。弟の
新次は満洲へ、妹の
ユキノと、それからその下にもう一人できた腹違いの妹は二人とも
嫁づいていて、その三人の仕送りが頼りの
父の暮しだと判ると、
私はこの
父といっしょに住んで孝行しようと思った。
父は
私の
躯についている薬の匂いをいやがったので、
私は間もなく病院の雑役夫をよして、ある貯蓄会社の外交員になりました。貯金の宣伝は紙芝居でずいぶんやったし、それに
私の経歴が経歴ですから、われながら苦笑するくらいの適任だと言えるわけですが、しかしたった一つ
私の悪い癖は、生れつき言葉がぞんざいで、敬語というものが巧く使えない。それはこの話しっぷりでもいくらか判るでしょうが、
丁寧な言葉を使っているかと思うと、すぐまた乱暴な言葉が出てしまう。そのため外交に廻ってても人を怒らすことが
間々あった。しかし、まアくびにもならずに勤めていましたので、
父はそんな
私を見て安心したのか、二年後の五月には七十六歳の大往生を
遂げました。落語家でしたので新聞にちいさく出たが、
浜子も
玉子も来なかった。死んでしまっていたかもしれない。
私は禁酒会へはいってから毎月十円ずつしてきた禁酒貯金がもうそのころ千円を越していたので、それで葬式をして、
父の墓を建てました。そして八月の十日には
父の残した
老妻と二人で高野山へ
父の骨を
納めに行った。
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栞] 織田作之助-アド・バルーン(26 / 28)
昭和十六年の八月の十日、中之島公園で
秋山さんと会ったあの夜から数えてまる十年後のその日を、わざと選んだ
私の気持はずいぶん感傷的だったが、一つには十日といえばお盆にはいるからいいという
父の
老妻の言葉もあったからです。
骨箱の中にコトリと音のしていた
父の骨を納めて、ほっとしてお寺を出て、中ノ院の茶店へはいると、季節はずれの古いレコードが掛っていて、どうも場違いな感じでしたが、『今日も空には
軽気球……』と歌っているその声を聴くともなく聴いていると、どうやらその声が
文子に似ているように思えた。が、あるいは気のせいかもしれない。べつに確めようとする気も起らなかったが、何か けたたましいような、そしてまたもの哀しいようなその歌を聴いていると、やはり十年前のことが想いだされた。それは遠い想いだった。が、現在の自分を振り返ってみても、別に出世双六と騒がれるほどの出世ではない。相変らずの貯蓄会社の外交員で、うだつがあがらぬと言ってしまえばそれまでだが、しかし、もう
私にはたいした望みもない。
私を誘惑する大阪の灯ももうすっかり消えてしまい、かえって気持が落ちついている。外交をして廻っていると、
儲ける機会もないではなく、そしてまた何年かのちに、また新聞に二度目の
秋山さんとの会合を書かれることを思えば、少しは……と思わぬこともなかったが、しかし、書かれると思えばかえって自分を
慎みたい、不正なことはできないと思った。そして、
秋山さんも
私と同じような気持で、九州でほそぼそと しかしまじめに働いているのではなかろうか……。
茶店を出ると、
蝉の声を聴きながら
私はケーブルの乗場へ歩いて行ったが、ちょこちょこと
随いてくる
父の
老妻の
皺くちゃの顔を見ながら、ふとこの婆さんに孝行してやろうと思った。そして、気がつくと、
私は『今日も空には
軽気球……』とぼそぼそ口ずさんでいました。
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底本:「日本文学全集72 織田作之助 井上友一郎集」集英社
1975(昭和50)年3月8日発行
初出:「新文学」
1946(昭和21)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:米田
2011年10月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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大変ありがとうございました。感謝致します。(
シン文庫追記)
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