汽車は
大仁【現在の伊豆の国市の一部】へ着いた。修善寺通いの馬車はそこに旅人を待受けて居た。停車場を出ると、
吾儕【われわれ】四人は直に馬車屋に
附纏われた。
其日は朝から汽車に乗りつゞけて、
最早乗物に
倦んで【飽きて】居たし、それに旅のはじめで、伊豆の土を踏むということが めづらしく思われた。
吾儕は互に用意して来た金でもって、来出るだけ
斯の旅を楽みたいと思った。
K君、
A君、
M君、揃って出掛けた。
私は煙草の看板の懸けてある小さな店を見つけて、敷島【タバコ】を二つ買って、それから友達に追付いた。
「
そろそろ腹が減って来たネ。」
と
K君は
私を見て笑い
乍ら言出した。大仁の町はずれで、
復た/\馬車屋が追馳けて来たが、
到頭【最後まで】
吾儕は乗らなかった。「
なぁに、歩いた方が反って暖いよ。」
斯うは言っても、
其実 吾儕はこの馬車に乗らなかったことを悔いた。それほど寒い思をした。山々へは雪でも来るのかと思わせた。
私の眼からは
止処もなく涙が流れた。痛い風の刺激に逢ふと、
必と
私はこれだ。やがて山間に不似合な大きな
建築物の見える処へ出て来た。修善寺だ。大抵の家の二階は戸が閉めてあった。出歩く人々も少なかった。
吾儕【われわれ】がブル/″\震えながら、
漸くのことである温泉宿へ着いた時は、早く
心地の好い湯にでも入って、凍えた身体を温めたい、と思った。火。湯に入るよりも
先づ
其方だった。
湯治に来て居る客も多かった。部屋が気に入らなくて、
吾儕【われわれ】は帳場の上にある二階の一間に引越したが、そこでも受持の女中に頼んで長火鉢の火をドツサリ入れて貰って、その周囲へ集って
暖った。何となく気は
沈着かなかった。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(1 / 17)
湯に入りに行く前、一人の女中が入って来て、
夕飯には何を仕度しようと尋ねた。「
御酒をつけますか。」
斯う
附添して言った。
「
あゝ、お爛を熱くして持って来とくれ。」と
K君が答えた。「
姉さん、それから御酒は上等だよ。」
吾儕の身体も冷えては居たが、湯も熱かった。谷底の石の間から湧く温泉の中へ
吾儕は肩まで沈んで、
各自放肆に手足を伸ばした。そして互に顔を見合せて、寒かった途中のことを思って見た。
其日、
吾儕の
頭脳の
内は朝から出逢った種々雑多な人々で充たされて居た。咄嗟に過ぎる影、人の息、髪のにほい――汽車中のことを考えると、都会の空気は何処
迄も
吾儕から離れなかった。
吾儕は、
枯々な桑畠や、浅く
萌出した麦の畠などの間を通って、こゝまで来たが、来て見ると
斯の広い
湯槽の周囲へ集る人々は、いづれも東京や横浜あたりで出逢そうな人達ばかりである。男女の浴客は多勢出たり入ったりして居る。中には、男を男とも思わぬような顔付をして、女同志で湯治に来たらしい人達も居る。その人達の老衰した、萎びた乳房が、湯気の内に
朦朧と見える。
吾儕は未だ全く知らない人の中へ来て居る気はしなかった。
湯から上って、洋服やインバス【
浴衣】の脱ぎ散してある部屋へ戻った。これから行く先の話が出た。
K君と
A君とは地図を持出した。
其時吾儕は茶代の相談をした。
「
何処へ行って泊っても僕は茶代を先へ出したことが無い。」
斯う
K君が言った。「
何時でも発つ時に置く。待遇が好ければ多く置いて来るし、悪ければまた其様にして来る。」
「
僕も左様だナ。」と
A君も言った。
兎に
角、この雑踏した宿では先づ置くことにした。大船でサンドイツチを買った時から、
M君は帳面方を引受けて居て呉れた。
こゝの女中も
矢張 東京横浜方面から来て居るものが多いという。夕飯には、吸物、刺身、ソボロ、玉子焼などが附いた。女中は堅肥りのした【筋肉質で引き締まった】手を延ばして、
皆なの盃へ酒を
注いだ。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(2 / 17)
「
汽車の中で君に稲妻小僧の新聞【素朴な地方新聞】を出して見せた女があったネ。あの女なぞは余程面白かった。僕は左様思って見て来た――あれで得意なんだネ。」
と
K君は
私の方を見て思出したように言った。
吾儕は楽しく笑い
乍ら食った。
宿帳は
A君がつけた。
A君は皆なの
年齢を聞いて書いた。
K君三十九、
A君は三十五、
M君三十、
私は三十八だ。やがて
K君は大蛇のように横に成った。酔へば心地好さそうに寝て
了うのが
K君の癖だ。残る三人は、
K君の
鼾を聞きながら話し続けた。
翌朝頼んで置いた馬車が来た。
吾儕は旅の仕度にいそがしかった。仕度が出来ると、直に宿の勘定をした。
「
K君、僕の方で払はう。」と
私が言った。
「
ナニ僕が出しとくよ。」と
K君は
懐中から紙入を出しながら答えた。
「
ホウ、かゝりましたナ。」と
A君は覗いて見た。
「
随分食ったからね。」と
K君は笑った。早速
M君は手帳を取出した。
宿からは手拭を呉れた。
A君の風呂敷包は地図やら絵葉書やら
脳丸【頭痛薬】やら、それから修善寺土産やらで急に大きく成った。
吾儕は宿の
内儀さんや番頭に送られて、庭の入口からがた馬車【古びた馬車】に乗って出掛けた。
天気は好くても、風は刺すように冷かった。
K君、
A君、
M君、三人とも手拭で耳を
掩うようにして、その上から帽子を冠った。
私の眼からは
復た涙が流れて来た。車中の退屈まぎれに、
吾儕は
馬丁の喇叭【馬車引きが吹くラッパ】を借りて戯れに吹いて見たが、そんなことから
斯の
馬丁も打解けて、
路傍にある樹木の名、行く先/″\の村落を
吾儕に話して聞かせた。
斯うして狩野川の谷について、溯った時は、次第に山深く進んで行ったことを感じた。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(3 / 17)
ある村へさしかゝった頃、
吾儕は車の上から四十ばかりに成る旅
窶れのした女に逢った。
其女は猿を負って【背負って】居た。馬車は駆せ過ぎた。
湯が島へ着いた。やがて昼近かった。温泉宿のあるところ
迄行くと、そこで
馬丁は馬を止めた。
吾儕はこの馬車に乗って天城山を越すか、それともこゝで一晩泊るか、未定だった。山上の激寒を
畏れて、皆なの説は湯が島泊りの方に傾いた。
吾儕の案内された宿は谷底の樫の樹に隠れたような位置にあった。
其日は他に客もなくて、渓流に臨んだ二階の部屋を自由に択ぶことが出来た。「
夏は好いだろうね。斯様なところへ一月ばかりも来て居たいね。」と互に言い合った。天城の山麓だけあって、寒いことも寒い。激しい山気は部屋の
内へ流れ込むので、障子を開放して置くことも出来ない位だった。洋服で来た
M君と
私とは
褞袍に
浴衣を借りて着て、その上からもう一枚褞袍を重ねたが、まだ、それでも身体がゾクゾクした。
こゝへ来ると、
最早全く知らない人の中だ。北伊豆の北伊豆らしいところは、雑踏した修善寺に見られなくて、この野趣の多い湯が島に見られる。何もかも
吾儕の生活とは
懸離れて居る。湯は
温かったが後はポカポカした。
昼飯には鶏を一羽ツブして貰った。肉は獣のように
強かった【かたかった】。骨は叩きようが荒くて皆な歯を傷めた。しかし甘かった。
「
姉さん。」と
私は
山家者【山の中で育った人】らしい女中に聞いて見た。「
こゝは家の人だけでやってるね……姉さんは矢張この家の人かね。」
「
いゝえ、私はこゝの者じゃ御座いません。」と女中は答えた。
この娘の出て行った後で、
A君が、「
修善寺に比べると女中からして違うネ。吾儕【われわれ】の前へ来るとビク/″\してる。」
斯う考深い眼付をして言って居た。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(4 / 17)
日頃樫の樹に特別の興味を持つ
A君は 誰よりも軒先に 生い茂る青々とした葉の新しさを見つけた。この谷底の樫の樹を隔てゝ、どうかすると、雨でも降って来たかと
欺されるような気のすることがあった。よく聞けば
矢張 渓流の音だった。この音から起る
混交った感覚は別の世界の方へ
吾儕を連れて行った。
吾儕は遠く家を離れたような気がした。
「
全く世間を忘れたね。」
と
K君は力を入れて言った。
K君と
私はこの宿の絵葉書を取寄せて書いた。
私はそれを
A君にも勧めた。
「
僕は旅から出したことが無い。」と
A君が言った。「
左様かなぁ、吾家へ一枚出すかなぁ。」
「
M君、君も母親さんのところへ出したら奈何です。」と
私は言って見た。
M君は絵葉書を眺め
乍ら笑った。「
めずらしいことだ――必と誰かに教わって寄した、なんて言うだろうなぁ。」
吾儕はこの二階で東京に居る人のことや、未だ互に若かった時のことや、亡くなった友達のことなどを語り合った。
K君は
私の方を見て
斯様なことを言出した。
「
僕の生涯には暗い影が近づいて来たような気がするね、何となく斯う暗い可畏しい影が――君は其様なことを思いませんか。尤も、僕には兄が死んでる。だから余計に左様思うのかも知れない。」
「
君が死んだら、追悼会をしてやるサ。」と
私は
謔談半分に言った。
「
今は其様な気楽を言ってるけれど――。」と
K君は大きな
体躯を
揺りながら笑った。「
彼時は彼様なことを言ったっけナァ、なんて言うんだろう。」
到頭湯が島に泊ることに成った。日暮に近い頃、
吾儕【われわれ】は散歩に出た。門を出る時、
私は宿の
内儀さんに逢った。「
此辺には山芋は有りませんかね。」と
私は
内儀さんに尋ねて見た。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(5 / 17)
「
ハイ、見にやりましょう。生憎只今は何物も御座ません時でして――野菜も御座ませんし、河魚も捕れませんし。」と
内儀さんは気の毒そうに言う。
「
芋汁が出来るなら御馳走して呉れませんか。」
斯う頼んで置いて、それから谷を一
𢌞りした。
吾儕の為に酒を買いに行った子供は、丁度
吾儕が散歩して帰った頃、谷の上の方から降りて来た。
夕方から村の人は温泉に集まった。この人達はタダで入りに来るという。夕飯前に
吾儕が温まりに行くと、湯槽の
周囲には大人や子供が居て、多少
吾儕に遠慮する気味だった。
吾儕は寧ろ
斯の
山家の人達と一緒に入浴するのを楽んだ。
不相変、湯は
温かった。容易に出ることが出来なかった。
吾儕の眼には
種々なものが映った――激しく労働する手、荒い茶色の髪、僅かにふくらんだばかりの
処女らしい乳房、腫物の出来た痛そうな男の
口唇……
夕飯には
吾儕の所望した芋汁は出来なかった。お
菜は、鳥の肉の残りと、あやしげな茶碗蒸と、野菜だった。茶に
臭気のあるのは水の
故だろうと言出したものがあったが、
左様言われると飯も同じように臭った。こゝの女中が持って来た宿帳の中には
吾儕が知って居る
画家の名もあったので、雑談は
復たそれから始まった。昼の間寂しかった渓流の音は
騒然しく変って来た。寝る前に
吾儕はもう一ぱい
入浴に行った。
朝早く湯が島を発った。
吾儕を待って居た馬車は、修善寺から乗せて来たのと同じで、
馬丁も知った顔だった。天城の山の上まで一人前五十銭【約2千5百円/2025年】づゝ。夜のうちに霰が降ったと見えて、乗って行く
道路は白かった。
「
A君。」と
私は
膝を突き合せて居る友達の顔を眺めた。「
斯うして天城を越すようなことは、一生のうちに左様幾度も有るまいね。」
「
そうさナ、精々もう一度も来るかナ。なにしろまあ能く見て置くんだね。」
斯う
A君が答えた。
其日A君が興奮した
精神の
状態にあることを
私はその力のある
話振で知った。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(6 / 17)
朝日が寒い山の陰へ
射って来た。
A君は高い響けるような声を出して笑った。
馬丁は馬車から降りて、馬の
轡【手綱をつなぐ輪】を執りながら歩いた。山の上までは
斯うして馬に附いて行くという。彼は自分の財産を
護るように――ある時は一人の友達を頼みにするように、馬を大事にした。馬も彼の言うことを聞いて、脚に力を入れ、
吾儕を乗せた重い車を
牽きながら、御料林の中の山道を進んで行った。
茅野という山村の入口で
吾儕は三人ばかりの荒くれた女に逢った。「
ホウ、半鐘がありますぜ。斯様なところに旅舎も有る――是次に来る時は是非あの旅舎で泊めて貰うんだネ。」と
A君は
戯れるように言った。この村の出はずれに
枯々とした耕地があって、向ふの方には屋根の低い小屋が見える。
樵夫らしい男が通る。
吾儕の馬車はそれから一層深く山の中へ入った。
半道ばかりの間、
吾儕は人に逢はなかった。立木の
儘枯れた大きな幹が行先の谷々に灰白く
露出れて居た。
馬丁に聞くと、杉の為に圧倒された
樅の枯木だという。この
可畏しげな樹木の墓地の中を、一人、
吾儕の方へ歩いて来る者があった。男だ、いや女だ、と
吾儕は車の中で争った。
近いて見ると、
樵夫の妻でゞもあるか、
空脛【裸のすね】に
草鞋穿で【草鞋を履いて】、寒い山路を平気で歩いて居た。
其辺は水草の多い、沢深い処だった。薄日をうけた
歯朶【ワラビやゼンマイなど】の葉も大きく物凄く見えた。それぎり
最早誰にも逢はなかった。次第に
吾儕は激しい寒さを感じて来た。
K君は
M君と、
A君と
私と、二人づゝ堅く
膝を組合せ、身体の熱を通わせるようにして、互に
温め合った。馬車は天城の谷に添うて一里ばかり上った。車中の人は言葉を交すことも少くなった。皆な黙って
了った。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(7 / 17)
「
K君、幽い谷だね。」と
私は筋違に向い合って居る友達の方を見て言出した。「
景色が好いなんていうところを通越して、可畏しいような谷だね。」
K君は
点頭いて熱心に眺め入った。
「
まるで冬だ。」と
A君も震えながら言った。「
今だから、余計に深いとこが能く見えるのかも知れませんナ。」
其時M君は車の上から、谷底を
指して、落葉した木の名を
馬丁に尋ねて見た。
「
彼処に見えるのは、山毛欅に、欅だそうだ。」と
A君はそれを伝えた。
「
アヽ、あの黒いのが山毛欅で、白いのが必と欅ですぜ。」
斯う
A君が言った。
吾儕は雪舟の画などを引合に出して、眺めながら話して行ったが、そのうちに一人黙り、二人黙り、
復た/\皆な黙って
了った。
峠に近づいた頃、馬車は氷を製造する小屋の
側を通った。そこで
吾儕は二三人の働いて居る男に逢った。
漸くのことで山上の小屋へ着いた。
吾儕は馬車から下りた。何よりも先づ焚火にあてゝ貰って、更にこれから湯が野まで乗るか、それとも歩いて下るか、とその相談をした。
能く喋舌る
老婦が居て、こゝで郵便物は毎日交換されるの、あの氷を製造して居るのは自分の旦那だの。とノベツに話した。
吾儕は湯が野まで乗ることに定めた。
馬丁は馬に食わせて、今度は自分も乗って、
氷柱の垂下った暗い
隧道を指して出掛けた。
隧道を出ると、やがて下りだった。馬車は霜崩れ【霜柱が解けて崩れる現象】のした崖の側を勢よく通過ぎた。時とすると
吾儕の前には、大きな土の塊が横たはって居た。
其度に、
馬丁は車から
下て、土の塊を押除けて、それから馬を駆った。例の灰色の枯木が突立った山々は何時の間にか後に隠れた。
吾儕は緑色の杉林を見て通った。その色は木曽
谿あたりに見られるような暗緑のそれでなくて、明るい緑だった。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(8 / 17)
半里ばかり下りた。いくらか
温暖に成った。道路には最早
霰が消えかゝって居た。
楽しい笑声は馬車の中に起った。
「
成程すこし暖いや。」と
A君が言出した。
「
見給へ。」と
私は
謔語のつもりで、「
今に菜の花が咲いてるから。」
「
ア、海の香がして来た」と
A君は
戯れて言った。
この「
海の香がして来た」には、笑はないものは無かった。
また半里ばかり下りた。
温暖な日光が馬車の中へ射込んで来た。
吾儕は争って風除の布を揚げた。それほど激しく日光に
渇いて居た。
「
南と北とは斯うも違うものかねえ。」と
K君は地図を取出して見る。
「
K君、あの路傍に植えてあった若い並木は何と言ったっけ。」と
私が聞いた。
「
ヤシヤさ。」と
K君は答えた。「
僕は忘れないように鬼で記憶えて置いた。」
其時M君はこれから
皆なが行こうとして居る下田の噂をした。
「
奈何な港でしょうなぁ。H君の話では何でも非常に淫靡【みだらでくずれた感じ】な処だそうですね――今日は雪舟【重厚で精神性の深い作品が特徴】から歌麿【美人画で有名】ですかナ。」
斯う言ったので、車中のものは笑はずに居られなかった。
それから一里ばかり下りた。村があった。畑の麦もすこし延びて居た。また一里ばかり下りた。
謔語のつもりで言ったことは
真実に成って来た。実際、菜の花が咲いて居た。青草は
地面から頭を持上げて居た。
湯が野へ着いたのは丁度昼飯を食う頃だった。そこで
馬丁は別を告げた。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(9 / 17)
二日の間の旅で、
吾儕はこの
馬丁と懇意に成って、知らない土地のことを
種々と教えられた。この
馬丁から、色男の為に石碑を建てたとかいう
洋妾【外国人の妾】上りの
老婆のことまで教えられた。その健康で且つ金持の老婆が住むという邸の赤い窓を
吾儕は車の上から見て通って来た。
湯が野ではすこしユックリした。こゝにも温泉があった。洋服を脱ぐのが面倒臭いから、
私は入らない積りだったが、皆なに勧められて旅の
疲労を忘れに行った。こゝの宿から
河津川が見えた。二階の部屋の
唐紙に書いてある漢詩を眺めながら
昼飯を済ました。こゝにはウマイ
葱があった。
別の馬車に乗って、やがて下田を指して出発した。
吾儕は椿の花の咲いて居る蔭を通った。
豊饒な【豊かな】河津の谷は
吾儕の
眼前に
展けて来た。傾斜は耕されて幾層かの畠に成って居た。山の上の方まで多く桑が植付けてあった。蜜柑は黄色く
生って居た。「
こゝから英雄が生れたんだろうね。」と
A君は河岸に散布する幾多の村落を眺め入りながら言った。ある坂の上まで行くと、
吾儕は河津の港を望むことが出来た。海は遠く光った。
下田へ近づいた。女は烈しく労働して居た。
吾儕は車の上から街道を通る若い男や
娘の群に逢った。その頬の色を見たばかりでも南伊豆へ来た気がした。
夕方に下田に着いた。町を一
𢌞りして紀念の為に絵葉書を買って、それから港に近いところへ宿をとった。奥の方の二階から眺ると、伊豆石で建てた土蔵、ナマコ壁、古風な瓦屋根などが見渡される。
泥鰌を売りに来る声が
其間から起る。夕方であるのに、
斯の尻下りのした
泥鰌売の声より外には何も聞えなかった。
夕餐の煙は静かな町の空へ上った。
宿の
内儀さんは肥った、丁寧な物の言いようをする人だった。夕飯には
吾儕の為に
鰒を用意して、それを酢にして、大きな皿へ入れて出した。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(10 / 17)
吾儕は湯が島の鳥の骨で歯を痛めて居たから、この新しい
鰒を味うには大分時が
要った。
M君は歯を一枚落した。こゝの女中も
矢張 内儀さんと同じように、丁寧な、優しい口の利きようをして、
吾儕の為に
温暖い、
心地の好い
寝床を延べて呉れた。
吾儕は皆な疲れて横に成った。
「
アヽ、極楽! 極楽!」
と
K君は
放擲すような声を出して、布団の中へ潜り込んだ。
「
今日も上天気ですぜ。天気の具合は実に申分ありませんナ。」
と
A君は宿屋の二階から下田の空を眺めながら言った。
其朝は、伊豆の南端を極める為に皆な
草鞋穿で出掛けることにした。
吾儕は勇んで旅仕度を始めた。
其時M君は手帳を取出した。
兎に
角こゝで一度帳面の締くゝりをして、出すものは出す、受取るものは受取るとした。
「
二円【約1万円/2025年】と幾干僕の方から君へ上げれば可いね。」と
A君が言った。
M君は
私の前に銀貨を置いた。「
これは君の受取る分だ。」
「
僕も受取るのかい。」と
私は言った。
「
君には湯が島で出して貰ったから。」と
A君は傍に居て説明した。
頼んで置いた新しい白足袋が四足来た。皆
十文【約40円/2025年】だ。
A君の足にはすこし大き過ぎて、ブクブクした。
A君はまた宿から
脚絆【スネ巻き】を借りて当てた。旅慣れた
K君はその傍へ寄って、
A君が右を当てるうちに左の方の紐を結んでやった。
「
A君は痩せてるね。」と
K君は
私の方を見て笑い
乍ら言った。
「
この足袋を見給へ、宛然死人が穿いたようだ。」
「
いくらでも、其様な警句【いじり】の材料にするが可いサ。」
斯う
A君も苦笑して、痩せた足に大きな足袋で、部屋の
内を歩いて見た。
「
僕は今迄この白足袋を穿いたことが無い。何時でも紺足袋ばかり。」と
A君はまた思出したように言った。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(11 / 17)
「
男が白足袋を穿くなんて、柔弱だ――よく阿爺に言われたものだ。僕の阿爺はやかましかったからねえ。ある時などは、家のものゝ袖が長いと言って――ナニ其様に長い方じゃ無いんでさ、女としては寧ろ短い方でさ――それを鋏でもってジヨキ/″\切つちやった……」
私は
A君の顔を眺めた。「
君の父親さんは其様に厳格だったかね。」
「
えゝ、えゝ。」と
A君は今更のように亡くなった父親を追想するらしかった。「
そのかわり、御蔭で好い事を覚えましたよ――木綿の衣服を着て何処へ出ても、すこしも可羞しいと思わなくなりましたよ。」
途中の温さを想像して、
K君はインバネス【イギリス(スコットランド)発祥の外套】を置いて行くことにした。
A君は衣服を一枚脱いだ。宿へは茶代だけやって、それから新しい草鞋を穿いて、発った。
長津呂【伊豆半島南端の石廊崎の東側】の漁村へ行くに丁度昼
迄かゝった。そこから断崖の間にある細道を
攀じた【よじ登った】。登ると、松林の中へ出た。半島の絶端を極めたいと思う
勃々とした【意気盛んな】心が先に立って、
吾儕はこゝへ来る
迄の
疲労と
熱苦しさとを忘れた。「
僕は斯ういう路を歩いて行くのが好きサ。」と
K君は
私を顧みながら言った。「
僕も好きだ。」と
私が答えた。やがて松と松の間が青く光って来た。
遠江灘【
遠州灘】が開けた。
石室崎の白い灯台のあるところまで行くと、そこで伊豆は尽きた。望楼【展望所】もあった。
吾儕は制服を着た望楼の役人に逢った。この役人は寂しい生活に飽いたような、生気の無い眼付で
吾儕を眺めて居た。
「
A君、来て見給へ。」と
M君は灯台に近い絶壁の上に立って呼んだ。
A君、
K君続いて
私も
M君と一緒に成った。吾々は深い海を
下瞰して思わず互に顔を見合せた。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(12 / 17)
其時急激な、不思議な
戦慄は
私の身体を伝った。
私は長くそこに立って居られないような気がした。
「
同じ死ぬんなら是処だネ。」
謔語の積りで言って見て、
私は
眩暈を
紛そうとしたが、何となく底の知れない方へ引入れられるような気がした。
灯台の入口にある壁のところには額が掛けてあった。その額の下に灯台守の子供らしい娘が
倚凭って立って居た。
猶 よく見ようとするうちに、一艘の汽船が駿河湾の方から進んで来た。
「
あの船だ。」と
K君が言った。「
船で帰るんなら、こゝに愚図愚図して居たんじゃ間に合はない。」
「
駄目らしいナァ。」と
A君は言った。「
吾儕が長津呂まで行くうちには彼船は出て了う。」
斯う言い合ったが、成る【できる】なら歩いて帰りたくなかった。そこで灯台の見物をそこそこにして長津呂の方へ引返すことにした。
其様に急いで帰るにも当らなかった【外れだった】。岬で見たのは別の汽船だった。
吾儕を乗せて下田まで帰る船は未だ来なかった。汽船宿で聞くと一時間の余も待たなければなるまいと言う。で案内されて、まだ新規に始めたばかりの
旅舎へ行って、若い慣れない
内儀さんに昼飯の仕度を頼んだ。
全く知らない生活を営む素朴な人々の中に、一時間ばかり居た。
吾儕は
草鞋穿のまゝ、広い庭の内に腰掛けて食った。この宿の
内儀さんは未だ
処女らしいところのある人で、
炉辺で
吾儕の為に海苔を炙った。下女は
油差を見るような【油差のような】
銅の道具へ湯を入れて出した。こゝの豆腐の
露【汁物】もウマかった。
汽船を待つ為に、
艀【小型船】のあるところへ行った。
其時は男盛りの
漁夫と船頭親子と一緒だった。鰹の取れる頃には、
其辺は人で埋まるとか、
其日は
闃寂【静寂】としたもので、
蝦網などが干してあって、二三の隠居が暢気に網を
補綴って居た。やがて
艀が出た。船頭は断崖の下に添うて右に灯台の見える海の方へ漕いだ。海は
斑に見えた。
[
:
しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(13 / 17)
藻のないところだけ
透澄るように青かった。強い、若い、とは言へ
嫵けるように美しい女同志が、赤い
脛巾【
脛に巻きつけた布製のもの】を当てゝ、
吾儕の側を勇ましそうに漕いで通った。それは
栄螺を取りに行って帰って来た舟だった。丁度駿河湾の方から進んで来た汽船が、左の高い岩の上に翻る旗を目掛けて入って来て、帆船の一艘停泊して居るあたりで止った。
吾儕は一緒に成った漁夫と共に、この汽船へ移った。
A君は船が大嫌いだ。酔わなければ好いが、と思って皆な心配した。
間もなく船は
石室崎の灯台を離れた。最初の
中は甲板の上もめづらしかった。
吾儕は
連に成った漁夫から、島々の説明を聞いた。
神子元島、
神津島、大島、
其他島々の形を区別することが出来るように成った。
吾儕はまた風の寒い甲板の上をあちこちと歩いて、船の構造を見、勇ましそうな海員の生活を想像した。しかし、それは最初の
中だけのことで、次第に
物憂い動揺【体のだるさ】を感じた。船は魚を積む為に港々へ寄ったが、処によると長く手間が取れた。
吾儕【われわれ】は
其間、空しく不愉快に待って居た。海から見た
陸は、陸から海を見たほどの変化も無かった。
小稲という処を通った時、海から舟で通ふ
洞があった。こゝへ見物に来た男が、細君だけ置いて、五百円【250万円/2025年】
懐中に入れたまゝ舟から落ちたという。
是は往きに聞いた話だ。あの
洋妾上りの
老婆とは違って、金はあっても寿命のない男だと見える。
吾儕は
斯の不幸な亭主の沈んで居るという洞を望んで通った。
日暮に近く下田の港へ入った。幸に
A君は酔いもしなかった。
吾儕は
艀を待つに長くかゝった。この汽船の会計らしい人は自分の室の戸を開けて、小さな植木鉢などの飾ってある机の前で丁寧に
髪を撫でつけ、
鞄を抱いて、それから別の
艀へ移った。
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しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(14 / 17)
甲板の上には汚れた服を着た船員が集って、船の中で買食でもする
外に
歓楽も無いような、ツマラなそうな顔付をして、上陸する人達を
可羨しげに眺めて居た。
漸く
艀が来た。
吾儕も陸へ急いだ。
下田の宿では夕飯の用意をして
吾儕【われわれ】の帰りを待って居た。
其晩、
吾儕は親類や友達へ宛てゝ紀念の絵葉書を書いた。天城を越したら送れと言ったY君を始め、信州の
T君へは、
K君と
私と連名で書いた。旅の
徒然に土地の
按摩を頼んだ。
温暖い雨の降る音がして来た。
早く起きた。雨は夜のうちに止んで、湿った家々の屋根から
朝餐の煙の白く登るのが見えた。音一つしなかった。眠るように静かだ。
「
想像と実際に来て見たとは、斯うも違うかナァ。」と
K君は下田の朝を眺めながら言った。「
まあ、僕の知った限りでは、酒田に近い――酒田よりもうすこし纏まってるかナ。」
「
そんなに淫靡【みだらな感じ】な処だとも思えないじゃないか。」と
私も眺めて、「
船着の町で、他から来る人を大切にして、風俗を固守してる――それ以上は解らん。」
「
斯様な宿じゃ解らないサ。」と
K君は笑った。「
料理屋へでも行って飲食して見なけりや――僕はよく左様思うよ、其土地土地の色は彼様いう場所へ行って見ると、一番よく出てる。」
斯う二人で話して居ると、やがて
A君と
M君もそこへ一緒に成った。
吾儕はこの下田を他の
種々な都会に比較して見た。
「
西京【京都の別称】が斯ういう町の代表者だ。」と
M君は言った。
「
保守的だから奔放【しきたりを無視し、思うままにふるまう】は無いサ。」
とまた
M君が言った。
M君はそこまで話を持って行かなければ承知しなかった。
朝飯の後、伊東へ向けてこの宿を発った。
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しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(15 / 17)
是非
復た来たい。この次に来る時は大島まで行きたい、と互に言い合った。
内儀さんや娘は出て
吾儕を見送った。下女は
艀の出るところまで手荷物を持って
随いて来た。
間もなく
吾儕は伊東行の汽船の中にあった。この汽船は長津呂から下田まで乗ったと同じ型だった。大小の帆船、荷舟、小舟、旧い修繕中の舟、
其他種々雑多な型の舟、あるいは停泊して居る舟、あるいは動いて居る舟――これらのものは、やがて後に隠れた。三月の節句前のことで、船は港々へ寄って、
栄螺を詰めた俵を積んだ。魚も積んだ。それを船員が
総懸りで船の底へ投込む度に、
吾儕の居る室の方まで響けた。
A君は無理に寝て行った。船の中では昼の弁当を売ったが、誰も買ふものが無かった。
斯うして午後まで揺られた。
伊東へ着いた。
其日も
A君は別に船旅に酔ったような様子は無かった。
湯の香のする
旧い
朽ちかゝったような町、
左様かと思うと絵葉書を売る店や、玉突場や、新しく
普請【工事】をした
建築物などの軒を並べた町――
斯う
混交って居るところへ来た。こゝは
最早純粋な田舎ではなかった。それだけ熱海や小田原の方へ近づいたような気もした。
吾儕は行く先/\で何かしら
賞めた――すくなくも土地の長処【長所】を見つけて、その日/\の旅の苦痛に
耽りたい【熱中したい】と思った。修善寺の湯は熱過ぎたし、湯が島では
温過ぎたし、湯が野も悪くはなかったが、入り心地の好いのは
是処だ。
是は伊東の宿へ来て、町の往来へ向った二階の角の部屋で、皆な一緒に茶を飲んだ時の評定だった。
「
こゝの湯で、下田の宿で、湯が島の渓流があったら、申分なしだネ。」と
私が言って見た。
「
長津呂の内儀さんで――」
と
K君は笑いながら
附添した。
其日は
昼飯を食わずだから、宿へ頼んで、夕飯を早くして貰った。皆な
腹が空いて居た。
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しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(16 / 17)
一時は
飲食するより
外の考へが無かった。嫌いな船に揺られた
故か、
A君は何となく元気が無かった。
私がそれを尋ねたら、「
ナニ、別に何処も悪かない――たゞ意気消沈した。」
斯う答へて居た。
日が暮れてから、
A君はこゝの絵葉書を買って来た。「
東京へ土産にするようなものは何物も無かった。」と言って、その絵葉書を見せた。中に大島の風俗があった。大島はよく眺めて来て、島の形から三原山の噴煙まで
眼前にある位だから、この婦人の風俗は
吾儕の注意を引いた。右を取るというものが有り、左を取るというものが有った。「
左は僕の知ってる人に酷く似てる。」などゝ言って笑ふものも有った。礼服、労働の姿で
撮れて居た。
K君は二枚分けて貰った。
それは
翌日東京へ帰るという前の晩だった。
吾儕は烈しい、しかしながら楽しい疲労を覚えた。短い旅の割には可成
種々な処を見て来たような気もした。皆な留守にして置いた
家のことが気に掛かって来た。同時に、しばらく忘れて居た工場の笛、車の音、唸るような電車、
煤と煙と
埃とで暗いような都会の空に震える
彼の響を思出すように成った。
彼の単調な、退屈な…………
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底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日発行
初出:「太陽」
1909(明治42)年4月
※初出時の表題は「旅」です。
入力:林 幸雄
校正:染川隆俊
2005年5月17日作成
2014年8月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、
シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。感謝致します。
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しおり] 島崎藤村-伊豆の旅(17 / 17)