一
山手線の朝の七時二十分の上り【当時は環状線になっていなかった】汽車が、
代々木の電車停留場の
崖下を地響きさせて通るころ、
千駄谷の
田畝を てくてくと歩いていく
男がある。この
男の通らぬことは いかな日にもないので、雨の日には
泥濘【ぬかるみ】の深い
田畝道に 古い
長靴を引きずっていくし、風の吹く朝には帽子を
阿弥陀【後ろに傾けてかぶる様子を、阿弥陀如来の光背に見立てた】にかぶって
塵埃を避けるようにして通るし、沿道の家々の人は、遠くからその姿を見知って、もうあの人が通ったから、あなたお役所が
遅くなりますなどと 春眠いぎたなき【だらしなく眠りこけている】主人を揺り起こす軍人の細君もあるくらいだ。
この
男の姿の この
田畝道にあらわれ出したのは、今からふた月ほど前、近郊の地が開けて、新しい家作【作ってある家】が かなたの森の
角、こなたの丘の上にでき上がって、某少将の邸宅、某会社重役の邸宅などの大きな構えが、武蔵野のなごりの
櫟の大並木の間から ちらちらと画のように見えるころであったが、その
櫟の並木のかなたに、貸家建ての家屋が五、六軒並んであるというから、なんでもそこらに移転して来た人だろうとの もっぱらの評判であった。
何も人間が通るのに、評判を立てるほどのこともないのだが、
淋しい田舎で人珍しいのと、それにこの
男の姿がいかにも特色があって、そして
鶩の歩くような変てこな形をするので、なんともいえぬ不調和――その不調和が路傍の人々の
閑な眼を
惹くもととなった。
年のころ三十七、八、
猫背で、
獅子鼻【低くて先が上をむき小鼻の開いた鼻】で、
反歯で、色が浅黒くって、
頬髯が
煩さそうに顔の半面を
蔽って、ちょっと見ると恐ろしい
容貌、若い女などは昼間
出逢っても気味悪く思うほどだが、それにも似合わず、眼には柔和なやさしいところがあって、絶えず何物をか見て
憧れている【希望に満ち溢れている】かのように見えた。足のコンパスは思い切って広く、トットと小きざみに歩くその早さ! 演習に朝出る兵隊さんも これにはいつも三舎を避けた【大きく距離を置いた】。
たいてい洋服で、それもスコッチ【スコットランド製の毛織物】の毛の
摩れてなくなった
鳶色【黒みがかった茶褐色:トビの羽の色】の古背広、上にはおったインバネス【
インバネスコート】も
羊羹色に黄ばんで、右の手には犬の頭【ステッキの握り部分が〝犬の頭〟の形に】のすぐ取れる安ステッキをつき、
柄にない
海老茶色【黒みがかった赤茶色:伊勢海老の殻由来】の
風呂敷包みをかかえながら、左の手はポッケットに入れている。
四ツ
目垣【竹を縦横に組み、四角い升目状の模様が特徴的な垣根】の外を通りかかると、
「今 お出かけだ!」
と、田舎の角の植木屋の主婦が口の中で言った。
1/14
その植木屋も新建ちの一軒家で、売り物の ひょろ松やら
樫やら
黄楊やら 八ツ手やら がその周囲にだらしなく植え付けられてあるが、その向こうには千駄谷の街道を持っている新開の屋敷町が
参差として【ふぞろいに】連なって、二階のガラス窓には朝日の光がきらきらと輝き渡った。左は
角筈【新宿の地名】の工場の幾棟、細い煙筒からはもう労働に取りかかった朝の煙がくろく低く
靡いている。晴れた空には林を越して電信柱が頭だけ見える。
男は てくてくと歩いていく。
田畝を越すと、二間幅【約3.6m】の石ころ道、
柴垣、
樫垣、
要垣、その絶え間 絶え間にガラス障子、
冠木門、ガス灯と順序よく並んでいて、庭の松に霜よけの
縄のまだ取られずについているのも見える。一、二丁行くと千駄谷通りで、毎朝、演習の兵隊が駆け足で通っていくのに
邂逅【めぐりあう】する。西洋人の大きな洋館、新築の医者の構えの大きな門、
駄菓子を売る古い
茅葺の家、ここまで来ると、もう代々木の停留場の高い線路が見えて、新宿あたりで、ポーと電笛の鳴る音でも耳に入ると、
男はその大きな体を先へのめらせて、見栄も何もかまわずに、一散に走るのが例だ。
今日もそこに来て耳を
敧てたが、電車の来たような
気勢もないので、同じ歩調ですたすたと歩いていったが、高い線路に突き当たって曲がる角で、ふと
栗梅の
縮緬【厚地で上等な栗梅色の縮緬】の羽織をぞろりと着た
格好の
好い
庇髪の
女の後ろ姿を見た。
鶯色【くすんだ黄緑色】のリボン、
繻珍【カラフルな模様】の
鼻緒、おろし立ての
白足袋、それを見ると、もうその胸は なんとなくときめいて、そのくせ どうのこうの と言うのでもないが、ただ
嬉しく、そわそわして、その先へ追い越すのが なんだか惜しいような気がする様子である。
男はこの
女を既に見知っているので、少なくとも五、六度はその
女と同じ電車に乗ったことがある。それどころか、冬の寒い夕暮れ、わざわざ
廻り
路をして その
女の家を突き留めたことがある。千駄谷の
田畝の西の
隅で、樫の木で取り囲んだ奥の大きな家、その総領娘であることをよく知っている。
眉の美しい、色の白い
頬の豊かな、笑う時言うに言われぬ表情をその眉と眼との間にあらわす娘だ。
「もうどうしても二十二、三、学校に通っているのではなし……それは毎朝
逢わぬのでもわかるが、それにしても どこへ行くのだろう」と思ったが、その思ったのが既に愉快なので、眼の前にちらつく美しい着物の色彩が言い知らず胸をそそる。「もう嫁に行くんだろう?」と続いて思ったが、今度はそれがなんだか
侘しいような惜しいような気がして、「
己も今少し若ければ……」と二の矢を継いでたが、「なんだ ばかばかしい、己は幾歳だ、女房もあれば子供もある」と思い返した。
2/14
思い返したが、なんとなく悲しい、なんとなく嬉しい。
代々木の停留場に上る階段のところで、それでも追い越して、
衣ずれの音、
白粉の
香いに胸を
躍らしたが、今度は振り返りもせず、大足に、しかも駆けるようにして、階段を上った。
停留場の駅長が赤い回数切符を切って返した。この駅長も その他の駅夫も 皆 この大男に熟している【親しみを感じている】。せっかちで、あわて者で、早口であるということをも知っている。
板囲いの待合所に入ろうとして、
男はまたその前に兼ねて見知り越しの
女学生の立っているのをめざとくも見た。
肉づきのいい、頬の桃色の、輪郭の丸い、それはかわいい娘だ。はでな
縞物に、海老茶の
袴をはいて、右手に女持ちの細い
蝙蝠傘、左の手に、紫の風呂敷包みを抱えているが、今日はリボンがいつものと違って白いと
男はすぐ思った。
この
娘は自分を忘れはすまい、むろん知ってる! と続いて思った。そして娘の方を見たが、
娘は知らぬ顔をして、あっちを向いている。あのくらいのうちは恥ずかしいんだろう、と思うとたまらなく かわいくなったらしい。見ぬようなふりをして幾度となく見る、しきりに見る。――そしてまた眼をそらして、今度は階段のところで追い越した女の後ろ姿に見入った。
電車の来るのも知らぬというように――。
二
この
娘は自分を忘れはすまいと この
男が思ったのは、理由のあることで、それには おもしろいエピソードがあるのだ。この
娘とは いつでも同時刻に代々木から電車に乗って、
牛込まで行くので、以前からよくその姿を見知っていたが、それといってあえて口をきいたというのではない。ただ相対して乗っている、よく
肥った娘だなぁと思う。あの頬の肉の豊かなこと、乳の大きなこと、りっぱな娘だなどと続いて思う。それがたび重なると、笑顔の美しいことも、耳の下に小さい
黒子のあることも、こみ合った電車の
吊皮にすらりとのべた
腕の白いことも、
信濃町から同じ学校の女学生とおりおり邂逅しては すっぱに【遠慮なしに】会話を交じゆることも、なにもかも よく知るようになって、どこの娘かしらん? などとその家、その家庭が知りたくなる。
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でもあとをつけるほど気にも入らなかったとみえて、あえてそれを知ろうともしなかったが、ある日のこと、
男は例の帽子、例のインバネス、例の背広、例の
靴で、例の道を例のごとく千駄谷の
田畝にかかってくると、ふと前からその肥った
娘が、羽織りの上に白い
前懸けを だらしなくしめて、半ば解きかけた髪を右の手で押さえながら、
友達らしい娘と 何ごとかを語り合いながら歩いてきた。いつも逢う顔に違ったところで逢うと、なんだか他人でないような気がするものだが、
男もそう思ったとみえて、もう少しで会釈をするような態度をして、急いだ歩調をはたと留めた。娘もちらとこっちを見て、これも、「ああ あの人だナ、いつも電車に乗る人だナ」と思ったらしかったが、会釈をするわけもないので、黙ってすれ違ってしまった。
男はすれ違いざまに、「今日は学校に行かぬのかしらん? そうか、試験休みか春休みか」と我知らず口に出して言って、五、六間無意識に てくてくと歩いていくと、ふと黒い柔かい美しい春の土に、ちょうど
金屏風に銀で
画いた松の葉のように そっと落ちているアルミニウムの
留針。
娘のだ!
いきなり、振り返って、大きな声で、
「もし、もし、もし」
と連呼した。
娘はまだ十間ほど行ったばかりだから、むろんこの声は耳に入ったのであるが、今すれ違った大
男に声をかけられるとは思わぬので、振り返りもせずに、友達の娘と肩を並べて静かに語りながら歩いていく。朝日が美しく野の農夫の
鋤の刃に光る。
「もし、もし、もし」
と
男は韻を
押んだように【リズミカルに】再び叫んだ。
で、
娘も振り返る。見るとその
男は両手を高く
挙げて、こっちを向いておもしろい
格好をしている。ふと、気がついて、頭に手をやると、
留針がない。はっと思って、「あら、私、
嫌よ、留針を落としてよ」と友達に言うでもなく言って、そのまま、ばたばたとかけ出した。
男は手を挙げたまま、そのアルミニウムの留針を持って待っている。
娘は いきせき【激しい息づかいで】駆けてくる。やがてそばに近寄った。
「どうもありがとう……」
と、
娘は恥ずかしそうに顔を
赧くして、礼を言った。四角の輪郭をした大きな顔は、さも嬉しそうに にこにこと笑って、
娘の白い美しい手にその留針を渡した。
「どうもありがとうございました」
と、再びていねいに
娘は礼を述べて、そして
踵をめぐらした【引き返した】。
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男は嬉しくてしかたがない。愉快でたまらない。これであの
娘、
己の顔を見覚えたナ……と思う。これから電車で
邂逅しても、あの人が私の留針を拾ってくれた人だと思うに相違ない。もし己が年が若くって、
娘が今少し
別嬪で、それでこういう幕を演ずると、おもしろい小説ができるんだなどと、とりとめもないことを種々に考える。
連想は連想を生んで、その身のいたずらに青年時代を浪費してしまったことや、恋人で
娶った【妻として迎えた】
細君の老いてしまったことや、子供の多いことや、自分の生活の荒涼としていることや、時勢におくれて【社会の流れや世の中の進歩に追いつかず】将来に発達の見込みのないことや、いろいろなことが乱れた糸のように
縺れ合って、こんがらがって、ほとんど際限がない。ふと、その勤めている某雑誌社のむずかしい
編集長の顔が 空想の中にありありと浮かんだ。と、急に空想を捨てて路を急ぎ出した。
三
この
男はどこから来るかと言うと、
千駄谷の
田畝を越して、
櫟の並木の向こうを通って、新建ちのりっぱな邸宅の門をつらねている間を抜けて、牛の鳴き声の聞こえる牧場、
樫の大樹に連なっている
小径――その向こうを だらだらと下った
丘陵の
蔭の一軒家、毎朝かれはそこから出てくるので、
丈の低い
要垣【生垣】を周囲に取りまわして、三間くらい【古来の日本家屋に見られる間取りで、広間を中心に座敷二間と土間が囲む形式】と思われる家の
構造、床の低いのと屋根の低いのを見ても、貸家建ての
粗雑な
普請【建築】であることがわかる。小さな門を中に入らなくとも、
路から庭や座敷がすっかり見えて、
篠竹の五、六本
生えている下に、
沈丁花の小さいのが二、三株咲いているが、そのそばには
鉢植えの花ものが五つ六つ だらしなく並べられてある。細君らしい二十五、六の
細君が かいがいしく【きびきびと】
襷掛けになって働いていると、四歳くらいの男の
児と六歳くらいの女の児とが、座敷の次の間の縁側の日当たりの
好いところに出て、しきりに何ごとをか言って遊んでいる。
家の南側に、
釣瓶を伏せた井戸があるが、十時ころになると、天気さえよければ、
細君はそこに
盥を持ち出して、しきりに
洗濯をやる。着物を洗う水の音が ざぶざぶとのどかに聞こえて、隣の
白蓮【白いハスの花】の美しく春の日に光るのが、なんとも言えぬ平和な趣をあたりに
展げる。
細君は なるほど もう色は衰えているが、娘盛りにはこれでも十人並み以上であったろうと思われる。
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やや旧派の束髪【古典的な束髪のスタイル】に結って、ふっくりとした前髪を取ってあるが、着物は木綿の
縞物を着て、
海老茶色の帯の
末端が地について、帯揚げのところが、洗濯の手を動かすたびにかすかに
揺く。しばらくすると、末の男の児が、かぁちゃん かぁちゃんと遠くから呼んできて、そばに来ると、いきなり
懐の乳を探った。まぁお待ちよと言ったが、なかなか言うことを聞きそうにもないので、洗濯の手を
前垂れでそそくさと
拭いて、前の縁側に腰をかけて、子供を抱いてやった。そこへ総領の女の児も来て立っている。
客間兼帯【兼用】の書斎は六畳で、ガラスの
嵌まった小さい
西洋書箱が西の壁につけて置かれてあって、
栗の木の机がそれと反対の側に
据えられてある。床の間には
春蘭【日本や東アジアに自生する蘭の一種】の
鉢が置かれて、幅物【掛け軸】は
偽物の
文晃の山水だ。春の日が
室の中までさし込むので、実に暖かい、気持ちが
好い。机の上には二、三の雑誌、
硯箱は
能代塗り【秋田音頭にでてくる】の黄いろい木地の木目が出ているもの、そして そこに社の原稿紙らしい紙が春風に吹かれている。
この主人公は名を
杉田古城といって言うまでもなく文学者。若いころには、相応に名も出て、二、三の作品はずいぶん
喝采されたこともある。いや、三十七歳の今日、こうしてつまらぬ雑誌社の社員になって、毎日毎日通っていって、つまらぬ雑誌の校正までして、平凡に文壇の地平線以下に沈没してしまおうとは みずからも思わなかったであろうし、人も思わなかった。けれどこうなったのには原因がある。この男は昔からそうだが、どうも若い女に憧れるという悪い癖がある。若い美しい女を見ると、平生は割合に鋭い観察眼もすっかり権威を失ってしまう。若い時分、盛んにいわゆる少女小説を書いて、一時はずいぶん青年を魅せしめたものだが、観察も思想もない あくがれ【あこがれ】小説が そういつまで人に飽きられずにいることができよう。ついには この男と少女ということが文壇の笑い草の種となって、書く小説も文章も皆笑い声の中に没却されてしまった。
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それに、その
容貌が前にも言ったとおり、このうえもなく
蛮カラ【ハイカラをもじった言葉で、粗野な服装や態度】なので、いよいよそれが
好いコントラストをなして、あの顔で、どうしてああだろう、打ち見たところ【一見したところ】は、いかな猛獣とでも
闘うというような風采と体格とを持っているのに……。これも造化の
戯れ【自然の力や偶然によって生じる現象】の一つであろうという評判であった。
ある時、友人間でその
噂があった時、一人は言った。
「どうも不思議だ。一種の病気かもしれんよ。先生のはただ、あくがれる というばかりなのだからね。美しいと思う、ただそれだけなのだ。我々なら、そういう時には、すぐ本能の力が首を出してきて、ただ、あくがれるくらいでは どうしても満足ができんがね」
「そうとも、生理的に、どこか
陥落しているんじゃないかしらん」
と言ったものがある。
「生理的と言うよりも性質じゃないかしらん」
「いや、僕はそうは思わん。先生、若い時分、あまりに ほしいままなことを したんじゃないかと思うね」
「ほしいままとは?」
「言わずとも わかるじゃないか……。ひとりで あまり 身を傷つけた のさ。その習慣が長く続くと、生理的に、ある方面がロストしてしまって、肉と霊とがしっくり合わんそうだ」
「ばかな……」
と笑ったものがある。
「だって、子供ができるじゃないか」
と誰かが言った。
「それは子供はできるさ……」と前の男は受けて、「僕は医者に聞いたんだが、その結果はいろいろあるそうだ。はげしいのは、生殖の
途が絶たれてしまうそうだが、中には先生のようになるのもあるということだ。よく例があるって……僕にいろいろ教えてくれたよ。僕はきっとそうだと思う。僕の鑑定は誤らんさ」
「僕は性質だと思うがね」
「いや、病気ですよ、少し海岸にでも行っていい空気でも吸って、節慾しなければいかんと思う」
「だって、あまりおかしい、それも十八、九とか二十二、三とかなら、そういうこともあるかもしれんが、細君があって、子供が二人まであって、そして年は三十八にもなろうというんじゃないか。君の言うことは生理学万能で、どうも断定すぎるよ」
「いや、それは説明ができる。十八、九でなければそういうことはあるまいと言うけれど、それはいくらもある。先生、きっと今でもやっているに相違ない。
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若い時、ああいうふうで、むやみに恋愛神聖論者を気どって、口ではきれいなことを言っていても、本能が承知しないから、ついみずから傷つけて
快を取るというようなことになる。そしてそれが習慣になると、病的になって、本能の充分の働きをすることができなくなる。先生のはきっとそれだ。つまり、前にも言ったが、肉と霊とがしっくり調和することができんのだよ。それにしてもおもしろいじゃないか、健全をもってみずからも任じ、人も許していたものが、今では不健全も不健全、デカダン【デカダンス:伝統的な価値観や道徳に反発し、病的な感情や異常な美を追求する】の標本になったのは、これというのも本能をないがしろにしたからだ。君たちは僕が本能万能説を
抱いているのをいつも攻撃するけれど、実際、人間は本能がたいせつだよ。本能に従わん
奴は生存しておられんさ」と
滔々として【よどみなく】弁じた。
四
電車は代々木を出た。
春の朝は
心地が
好い。日がうらうらと照り渡って、空気はめずらしくくっきりと
透き
徹っている。富士の美しく
霞んだ下に大きい
櫟林が黒く並んで、
千駄谷の
凹地に新築の家屋の
参差として【ふぞろいに】連なっているのが走馬灯のように早く行き過ぎる。けれど この無言の自然よりも 美しい少女の姿の方が
好いので、
男は前に相対した二人の娘の顔と姿とに ほとんど魂を打ち込んでいた。けれど無言の自然を見るよりも
活きた人間を
眺めるのは困難なもので、あまりしげしげ見て、悟られてはという気があるので、わきを見ているような顔をして、そして
電光のように早く鋭くながし眼を
遣う。誰だか言った、電車で女を見るのは正面では あまり まばゆくっていけない、そうかと言って、あまり離れてもきわだって人に怪しまれる恐れがある、七分くらいに
斜に対して座を占めるのが一番便利だと。
男は 少女にあくがれるのが病であるほどであるから、むろん、このくらいの
秘訣は人に教わるまでもなく、自然にその呼吸を自覚していて、いつでもその便利な機会を
攫むことを
過らない。
年上の方の
娘の眼の表情がいかにも美しい。星――天上の星もこれに比べたなら その光を失うであろうと思われた。
縮緬のすらりとした
膝のあたりから、
華奢な藤色の
裾、
白足袋をつまだてた
三枚襲の
雪駄、ことに色の白い
襟首から、あのむっちりと胸が高くなっているあたりが美しい
乳房だと思うと、総身が
掻きむしられるような気がする。一人の
肥った方の
娘は
懐からノートブックを出して、しきりにそれを読み始めた。
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すぐ千駄谷駅に来た。
かれの知りおる限りにおいては、ここから、少なくとも三人の少女が乗るのが例だ。けれど今日は、どうしたのか、時刻が
後れたのか早いのか、見知っている三人の一人だも乗らぬ。その代わりに、それは
不器量な、二目とは見られぬような若い
女が乗った。この
男は若い女なら、たいていな醜い顔にも、眼が
好いとか、鼻が
好いとか、色が白いとか、襟首が美しいとか、膝の肥り具合が
好いとか、何かしらの美を発見して、それを見て楽しむのであるが、今乗った
女は、さがしても、発見されるような美は一か所も持っておらなかった。
反歯、ちぢれ毛、色黒、見ただけでも不愉快なのが、いきなり
かれの隣に来て座を取った。
信濃町の停留場は、割合に乗る少女の少ないところで、かつて一度すばらしく美しい、華族の令嬢かと思われるような
少女と膝を並べて牛込まで乗った記憶があるばかり、その後、今一度どうかして
逢いたいもの、見たいものと願っているけれど、今日まで ついぞ【一度も】
かれの望は遂げられなかった。電車は紳士やら軍人やら商人やら学生やらを多く
載せて、そして飛竜のごとく
駛り出した。
トンネルを出て、電車の速力がやや
緩くなったころから、
かれはしきりに首を停車場の待合所の方に注いでいたが、ふと
見馴れたリボンの色を見得たとみえて、その顔は晴れ晴れしく輝いて 胸は
躍った。四ツ谷からお茶の水の高等女学校に通う 十八歳くらいの少女、
身装もきれいに、ことにあでやかな
容色、美しいといってこれほど
美しい娘は 東京にもたくさんはあるまいと思われる。
丈はすらりとしているし、眼は鈴を張ったようにぱっちりしているし、口は
緊って肉は
痩せず
肥らず、晴れ晴れした顔には常に紅が
漲っている。今日はあいにく乗客が多いので、そのまま扉のそばに立ったが、「こみ合いますから前の方へ詰めてください」と車掌の言葉に余儀なくされて、
男のすぐ前のところに来て、下げ皮に白い腕を延べた。
男は立って代わってやりたいとは思わぬではないが、そうするとその白い腕が見られぬばかりではなく、上から見おろすのは、いかにも不便なので、そのまま席を立とうともしなかった。
こみ合った電車の中の
美しい娘、これほど
かれに趣味深くうれしく感ぜられるものはないので、今までにも既に幾度となくその
嬉しさを経験した。柔かい着物が触る。えならぬ【何とも言えない】香水のかおりがする。
温かい肉の触感が言うに言われぬ思いをそそる。
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ことに、女の髪の
匂いというものは、一種のはげしい望みを
男に起こさせるもので、それがなんとも名状せられぬ愉快【言葉では言い表せないほどの喜び】を
かれに与えるのであった。
市谷、
牛込、飯田町と早く過ぎた。代々木から乗った娘は二人とも牛込でおりた。電車は新陳代謝して、ますます混雑を
極める。それにもかかわらず、
かれは魂を失った人のように、前の美しい顔にのみ あくがれ渡っている。
やがてお茶の水に着く。
五
この
男の勤めている雑誌社は、
神田の
錦町で、青年社という、正則英語学校のすぐ次の通りで、街道に面したガラス戸の前には、新刊の書籍の看板が五つ六つも並べられてあって、戸を
開けて中に入ると、雑誌書籍の らちもなく取り散らされた【乱雑に置かれた】室の帳場【帳場台(小机)】には 社主のむずかしい顔が控えている。
編集室は奥の二階で、十畳の一室、西と南とが
塞がっているので、陰気なことおびただしい。編集員の机が五脚ほど並べられてあるが、
かれの机はその最も壁に近い暗いところで、雨の降る日などは、ランプがほしいくらいである。それに、電話がすぐそばにあるので、
間断なしに鳴ってくる電鈴が実に
煩い。先生、お茶の水から
外濠線に乗り換えて錦町三丁目の
角まで来ておりると、楽しかった空想はすっかり
覚めてしまったような
侘しい気がして、編集長とその陰気な机とがすぐ眼に浮かぶ。今日も一日苦しまなければ ならぬかナァと思う。生活というものは つらいものだと すぐあとを続ける。と、この世も何もないような
厭な気になって、街道の
塵埃【ほこり】が黄いろく眼の前に舞う。校正の穴埋めの
厭なこと、雑誌の編集の無意味なることがありありと頭に浮かんでくる。ほとんど留め度がない。そればかりなら まだいいが、半ば覚めてまだ覚め切らない電車の美しい影が、その
侘しい黄いろい
塵埃の間におぼつかなく見えて、それがなんだかこう自分の唯一の楽しみを破壊してしまうように思われるので、いよいよつらい。
編集長がまた皮肉な男で、人を冷やかすことをなんとも思わぬ。骨折って美文でも書くと、
杉田君、またおのろけが出ましたねと突っ込む。なんぞというと【なにかというと】、少女を持ち出して笑われる。で、おりおりはむっとして、
己は子供じゃない、三十七だ、人をばかにするにも
程があると憤慨する。
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けれどそれはすぐ消えてしまうので、懲りることもなく、
艶っぽい歌を
詠み、新体詩【新しい表現の詩】を作る。
すなわち
かれの快楽というのは電車の中の美しい姿と、美文新体詩を作ることで、社にいる間は、用事さえないと、原稿紙を
延べて、一生懸命に美しい文を書いている。少女に関する感想の多いのは むろんのことだ。
その日は校正が多いので、先生一人それに忙殺されたが、午後二時ころ、少し片づいたので一息
吐いていると、
「
杉田君」
と編集長が呼んだ。
「え?」
とそっちを向くと、
「君の近作を読みましたよ」と言って、笑っている。
「そうですか」
「あいかわらず、美しいねえ、どうしてああきれいに書けるだろう。実際、君を好男子【美男子】と思うのは無理はないよ。なんとかいう記者は、君の大きな体格を見て、その予想外なのに驚いたというからね」
「そうですかナ」
と、
杉田はしかたなしに笑う。
「少女万歳【賞賛】ですな!」
と編集員の一人が
相槌を打って冷やかした。
杉田はむっとしたが、くだらん
奴を相手にしてもと思って、
他方を向いてしまった。実に
癪にさわる、三十七の
己を冷やかす気が知れぬと思った。
薄暗い陰気な室はどう考えてみても
侘しさに耐えかねて巻き
煙草を吸うと、青い紫の煙がすうと長く
靡く。見つめていると、代々木の娘、女学生、四谷の美しい姿などが、ごっちゃになって、
縺れ合って、それが一人の姿のように思われる。ばかばかしいと思わぬではないが、しかし愉快でないこともない様子だ。
午後三時過ぎ、退出時刻が近くなると、家のことを思う。
妻のことを思う。つまらんな、年を
老ってしまったと つくづく慨嘆【気が高ぶるほど嘆いて心配】する。若い青年時代をくだらなく過ごして、今になって後悔したとて なんの役にたつ、ほんとうにつまらんなぁと繰り返す。若い時に、なぜ はげしい恋をしなかった? なぜ充分に肉のかおりをも
嗅がなかった? 今時分思ったとて、なんの反響がある? もう三十七だ。こう思うと、気がいらいらして、髪の毛をむしりたくなる。
社のガラス戸を
開けて
戸外に出る。終日の労働で
頭脳はすっかり
労れて、なんだか脳天が痛いような気がする。
11/14
西風に舞い上がる黄いろい
塵埃、
侘しい、
侘しい。なぜか今日はことさらに
侘しくつらい。いくら美しい少女の髪の香に憧れたからって、もう自分らが恋をする時代ではない。また恋をしたいたって、美しい鳥を誘う
羽翼をもう持っておらない。と思うと、もう生きている
価値がない、死んだ方が
好い、死んだ方が
好い、死んだ方が
好い、と
かれは大きな体格を運びながら考えた。
顔色が悪い。眼の濁っているのはその心の暗いことを示している。
妻や子供や平和な家庭のことを念頭に置かぬではないが、そんなことはもう非常に縁故が遠い【関係が希薄である】ように思われる。死んだ方が
好い? 死んだら、
妻や子はどうする? この念はもう かすかになって、反響を与えぬほどその心は神経的に
陥落してしまった。寂しさ、寂しさ、寂しさ、この寂しさを救ってくれるものはないか、美しい姿の唯一つでいいから、白い腕にこの身を巻いてくれるものはないか。そうしたら、きっと復活する。希望、奮闘、勉励【つとめはげむ】、必ずそこに生命を発見する。この濁った血が新しくなれると思う。けれどこの
男は実際それによって、新しい勇気を
回復することができるかどうかは もちろん疑問だ。
外濠の電車が来たので
かれは乗った。
敏捷な眼はすぐ美しい着物の色を求めたが、あいにくそれには
かれの願いを満足させるようなものは 乗っておらなかった。けれど電車に乗ったということだけで心が落ちついて、これからが――家に帰るまでが、自分の極楽境のように、気がゆったりとなる。
路側のさまざまの 商店やら
招牌やら が走馬灯のように眼の前を通るが、それがさまざまの美しい記憶を思い起こさせるので
好い
心地がするのであった。
お茶の水から甲武線に乗り換えると、おりからの博覧会で電車はほとんど満員、それを無理に車掌のいる所に割り込んで、とにかく右の扉の外に立って【当時、混雑時には 乗客が外側のステップやデッキに立つこともあった】、しっかりと
真鍮の丸棒を
攫んだ。ふと車中を見た
かれは はっとして驚いた。
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そのガラス窓を隔ててすぐそこに、
信濃町で同乗した、今一度ぜひ逢いたい、見たいと願っていた美しい
令嬢が、中折れ帽や角帽【大学生が卒業式などで着用する四角い形状の帽子】やインバネスにほとんど
圧しつけられるようになって、ちょうど
烏の群れに取り巻かれた
鳩といったようなふうになって乗っている。
美しい眼、美しい手、美しい髪、どうして俗悪なこの世の中に、こんなきれいな娘がいるかとすぐ思った。誰の細君になるのだろう、誰の腕に巻かれるのであろうと思うと、たまらなく口惜しく情けなくなって その結婚の日はいつだか知らぬが、その日は
呪うべき日だと思った。白い
襟首、黒い髪、
鶯茶のリボン、白魚のようなきれいな指、宝石入りの金の指輪――乗客が
混合っているのと ガラス越しになっているのとを 都合のよいことにして、
かれは心ゆくまでその美しい姿に魂を打ち込んでしまった。
水道橋、飯田町、乗客はいよいよ多い。
牛込に来ると、ほとんど車台の外に押し出されそうになった。
かれは
真鍮の棒につかまって、しかも眼を
令嬢の姿から離さず、うっとりとしてみずからわれを忘れるというふうであったが、市谷に来た時、また五、六の乗客があったので、押しつけて押しかえしてはいるけれど、ややともすると、身が車外に突き出されそうになる。電線のうなりが遠くから聞こえてきて、なんとなくあたりが騒々しい。ピイと発車の笛が鳴って、車台が一、二間ほど出て、急にまたその速力が早められた時、どうした
機会か少なくとも横にいた乗客の二、三が中心を失って倒れかかってきたためでもあろうが、
令嬢の美にうっとりとしていた
かれの手が
真鍮の棒から離れたと同時に、その大きな体はみごとに とんぼがえりを打って、なんのことはない大きな
毬のように、ころころと線路の上に
転がり落ちた。
危ないと車掌が絶叫したのも
遅し早し、上りの電車が運悪く地を
撼かして【揺り動かして】やってきたので、たちまちその黒い大きい一塊物は、あなやという間に【あっという間に】、三、四間ずるずると
引き
摺られて、
紅い血が
一線長くレールを染めた。
非常警笛が空気を
劈いて けたたましく鳴った。
底本:「蒲団・一兵卒」角川文庫、角川書店
1969(昭和44)年10月20日改版初版発行
1974(昭和49)年11月30日改版8版発行
入力:久保あきら
校正:伊藤時也
2000年9月28日公開
2013年5月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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----- (以下、
シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。感謝致します。
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