私は いま伊豆の温泉宿にいて、のんびりした格好で海を眺めている。だが人間を格好だけで判断するわけにはいかない。この
私も実はのんびりどころか、
屈托【悩みや心配事】だらけなのである。海を眺めているのは格好だけで、
私の眼は貸家札を探しているのである。
今朝の都新聞を見ると、『読者と記者』という欄に、「
この一月以来私は貸家探しをしてやっと見つかり五ヶ月ぶりにホッとした者だが」という書出しで、ある読者が苦情を並べている。記者の方も同情して「
大問題です」と答えている。
私もまた ここのところずうっと貸家探しをしている者だ。
私の方はまだ見つからんのでホッとするまでにならない。そこで
私は仕方なくこの温泉宿へやって来たという次第だ。海を眺めながらも貸家札がといったのは、つまり
私の心境を表現したのである。
新聞を手にすると
先づ、何よりもあの一番後の
頁、あそこを見ることにしている。バルカン諸王国の運命も気にかからんことはないが、それよりも『貸家』という案内広告である。しかし近頃は『貸家』よりは『売家』の方が多い。『貸家』が二件なら『売家』の方は二十件である。だからその結果として『求貸家』というのがすばらしく並んでいる。当然の比例で『求売家』というのは見当らない。世の中の方則というものは整然と行われている。泰平なものだなと思う。
泰平ではあるが
私には、なぜこの売家と貸家とが『家屋』という一つの欄に収められているのかが判らない。借りなければならない人間に買える筈はない。同じ家屋ではあるが この二色は極楽と地獄みたいな相違である。新聞社にして こんなことに気づかないとは可笑しすぎる。
それはそれとして手頃な広告を見つける。だがこれが見つかったとて、すぐさま、手頃な貸家が見つかったことにはならない。
厭でもそこまで足を運ばなければならない。判りにくいところを、円タクでぐるぐる廻る。
メーターの方は黙つてカチリチリと出るだけだが、運転手の方は黙っていない。いゝ加減にしてこの辺で下りてくれという。家主への手前、折角 自動車で乗りつけた豪勢なところを見せたいと考えたのも、それですっかりふいになってしまう。それで、どうだね君、用事はすぐ済んでまた銀座の方へ帰るんだが、ちよっと待っていて稼ぐ気はないかね? 君だって空車で帰るよりはいいだろう。勿論メーターは立て直していいよ。などと御機嫌をとってみるのだが、なかなかその手には乗ってくれない。御冗談でしょう、近頃の円タクで空車流しをやるような そんなトンチキは近頃の貸家よりも目っからねえようなもんですぜ、などと喰わされる。
さて、そういう思いをしながら、やっと駆けつけた先方の家主だが、これがひどく冷たい。
私のとこには空家なんぞ無い筈だという顔をする。ああ あれですかいと来る。あれはもうとっくに決っちまいましたよ、というのである。とっくにといったって広告は今朝の新聞じゃないか。一体いつ決ったんですかと尋くと、午前中ですよ。午前中の何時頃ですかと、物の勢いでこっちも
尋いたって仕方のないことを尋く。すると、そう午前七時か、七時半か、なにしろ御出勤前だといって居られましたからなという返事である。午前七時、出勤前、なるほど これでは
敵いようがない。
私は勤め人ではない。だから
就床【床に就く】とか起床とかについてだけは自由主義者だ。春眠暁をおぼえず、別にその季節に限ったこともないが、毎朝の新聞といっても、それを手にするのは大概正午の時報前後だ。それからゆっくり顔を洗う、落ちついて朝飯を認める。しずかに珈琲を
啜る。こうして
私のその日がはじまる。だから広告を見て駆け付けたといっても、午後の三時は過ぎてしまっている、七時と三時では四時間の違いのようだが、午前と午後だから八時間だ。一日八時間の労働とすれば、正に一日だけ遅れているようなものだ。
さすがの
私もつくづく引け目を感じる。
折柄【その時】 街ではもう夕刊を売っている。『アルバニア王
蒙塵す【逃げ出す】』と大きく書いたビラが、アルバニア人のような顔をした老人の夕刊売りの前でひらひらしている。だが
私にはもう、バルカンの運命など どうだっていい。そんな事をでかでかと報道するよりも、あの『案内広告』というやつを夕刊の紙面へ移してくれた方がどんなにありがたいかしれやしない。夕刊だったら出勤前の駆付けでは遅いことになる。どうしたって退勤後ということになる。それだったらこの
私にだって競争ができるだろう。
いまのような時世に、きちんとした勤め口を持っていないという事が第一にいけないらしい。やっと一軒まだ決っていない貸家があった。やれ嬉しやと、早速 間取その他の拝見を願うと、お待ちなさいと来た。裏木戸を開ける鍵でも取りに行くのかと思うと、そうではなくて、お勤めは何処ですかという質問なのであった。相手は五十を過ぎて もう還暦にも近い
婆さんである。眼鏡をかけていた。眼鏡の
支えのところで太い横皺が三本くっきりとしていた。原稿を書いたり芝居の稽古をつけたりしているので、勤めといっては別にないのですが、と正直に答えると、
忽ちその横皺へ縦筋が入って、
私どもの
家作【貸家】は すべて
拓務省【1929年から1942年まで日本の内閣に存在した官庁】 大蔵省あるいは 三井 三菱 というようなところへお勤めの方ばかり入っていられるのでして、という言い方だった。
売り言葉というものがある。こんなのをいうのだろう。よろしい、売家は買えなくとも売り言葉なら買える。ではその拓務 大蔵 三井 三菱 へ勤めている人間に保証さしたら貸しますか、と
私はその横皺と縦筋とこんがらかった鼻の上の格子縞のようなものを目がけて切り込んだ。
だがなかなかそんなことで動じるような
婆さんじゃなく ほほほほほ といきなり甲高い声をあげて、じろり眼鏡の中からこっちを見据えながら、そういう方達とお附合いがおありになりまして? 保証というのは判を押すことでございますよ。さあ そういわれて見ると、
私はふだんの心掛けを誤っていたのである。三、四の顔見知りがないではないが、店受け保証をさせるほどの懇意はない。ううと口詰まっているうちに、
婆さんの方でぴしゃりと、格子を閉めてしまった。この格子は玄関の本物の方の格子である。その格子の間から、
婆さんの鼻の上の格子縞が、海草のように揺れて見えていた。向こうからはこっちが、判この押してない紙屑みたいに見えたかもしれない。
拓務省といえば、
私の郷里から出た代議士が大臣になったことのある役所である。その折に同郷の
誼みというキッカケで鯛の一尾も贈って置けば、下役の一人位とは知合いになっていたかも知れない。チャンスというものは後頭部に毛が無いというが、その折に掴んで置けば こんな辱かしめを受けずとも済んでいたのである。大蔵省といえば つい先日、事変公債 売出し宣伝のための浪花節募集で選者を頼まれたところだ。その折の選者委員の長が理財局長というのだったが、世事に疎い
私は、その局長がその後すぐさまに次官になるほどの人物とは知らなかった。次官になったからというので慌てて駆付けたのでは
料簡【了見】が卑劣すぎよう。先見の明を欠いてこれは手後れである。三井銀行には むかし
私の家内へ恋文をつけたりしたのがいるが、これはこっちから交際を求めたら気味わるがって逃げるかもしれない。三菱にだって学校の同窓で いまは相当な地位にいる奴があるが、これは学生時代、どうしてあんな奴が文科などを志望してやって来たのだろうかと、不思議がった末に軽蔑しつづけた相手だから、今となって急に尊敬するのも義理が欠ける。一歩誤ったが最後 踏み直しの出来ぬのが世渡りの道だというが、誤ってしまうと家を借りることだって出来やしないのか。
保証ということは判を押すことですよ、とは しかし
婆さんも確かなことを教えてくれたものである。保証はしてくれても なかなか判は押して貰えるものではない。
私も世渡りの道を誤ったが、よしんば誤らずにあの 拓務 大蔵 三井 三菱 と交際を持っていたとしても、しかし彼等は容易に判を押して
呉れたであろうか。人生を甘く考えることは禁物である。連れ添う女房ですら いざという場合にはこちらを信用しやしない。人生を甘く考えなかった
廉【理由】によって今日 拓務 大蔵 三井 三菱 に勤め口を持っているところの彼等ではないか。人生を甘く考えて原稿書きになった
私などとは人種が違う。人種の相違は今日大きな問題である。
ここで
私は同じ人種である一人の友人をおもい出した。彼はある日、
私を訪ねて来て、いきなり こういい出した。君、僕の判は要らんかね? 僕は今日区役所へ行って実印届というのをして来たんだよ、見給え、こいつだ。見かけは詰らん ただの木彫の印形だが、届けが済んで これが役所の台帳にぺたんと押されると、もうただの印形じゃない。ちゃんと一つの人格を持ってくるんだ。こいつが口を利く。こいつが物をいう。どうだね君、愉快じゃないか、面白いじゃないか。よかったら君、何にでも押してやるぜ。つまりこの友人は、その小さな印形が一つの魔力を持ちはじめた、という事で嬉しくて堪らんのであった。でその嬉しさのお裾分を
私にもして進ぜようというのであった。当時 生憎と
私には押して貰う何物も無かったので、あり合せた新聞紙の欄外に押して貰っただけであったが、もう一人の別な友人は、それほどに君がいうならといって、連れ立って高利貸のところへ行った。いうまでもなく その魔力を持った印形が口を利いて お金を借りたのである。
文芸家協会というものがある。そこで協会員に金を貸すと決めたことがある。ではというので協会員が申し込んだ。なぜ借りるのかと事務所の役員が尋ねた。貸すというから借りるんじゃないかと協会員達は答えた。
だがこれもずっとの昔のことである。いまの文芸家諸君は、論理よりも常識の方に親んでいるから、あんな馬鹿げた問答もせず、あんな非常識な借り方もしようとはしないに違いない。その頃にしても、仮りにも金銭の貸借だからというので保証人を必要とした。が 文芸家にとっては保証なぞは何でもない。判さえ押せば それで済むことじゃないか。で 誰でもが誰でもの保証をした。その結果は、甲が乙のために保証をすると同時に、乙が甲のために保証人となって、極めて和やかに円満に事が運んだものなのである。お互いに保証し合う。なんと見事な親和ではないか。一方が一方を保証しただけでは完全といわれまい。お互いが信じ合うというところに すばらしい人生がある、すばらしい社会の調和がある。どうだ君、この金で一杯祝盃を挙げようじゃないかと、双方ともに重たくなったポケットを叩いたものなのであった。だがもうそんな時代は十八世紀よりも もっともっと遠い処へまで行ってしまっている。文芸家協会は依然として存在するのであるが、文芸の代が変ってしまった。代が変ると家主の性質なども一変するものである。メンデルの法則などというが、遺伝というものは肉体の上にだけ現われるものであろう。文芸や家賃の取立てなどというものは精神上の仕事である。
家主といえば親みたいもので、と講釈師や落語家は喋り出す。彼等の時勢遅れがこのようなところにも暴露されている、といってしまえばそれまでのことだが、古風な家主さんというのも、稀にはいないことではない。
私の友人で新国劇の文芸部にいるのが、この借家難の折柄に一軒格好なのを見つけ出した。芝居へ勤めているなぞは勤め人の部類に入ることではないのに、これは奇跡みたいな話である。次第を聞くと、新国劇だといったらすぐ、それはお堅いところでと、うなずいてくれて、
沢田正二郎という人は立派な方でしたといったのだそうである。
沢田正二郎が死んで今年は十年になる。それなのに この
沢田の人格に信頼して即座に貸してくれたなどとは まことに美談ではないか。
で
聊か恐縮しながら、保証人はというと、新国劇が保シヨウしていれば それでもう充分ですとの返事だったのだそうである。保シヨウ。諸君はこのシヨウの字をどう判断する? 新国劇は彼の生活を保障している。生活の保障があるかぎり保証なんぞは要らないじゃないか。ああ 保障は保証であるのだ。そう考えて来ると
私はまたあの 拓務 大蔵 というのを思い出す、官吏には身分保障令というのがある。官吏の方に限り金融などというのがあるが、法律という格子が彼等を保証しているのだ。格子づくりの囲い者というが、格子の向うに居る人間ならば安心と考えるのは人情であろう。格子の外にいる奴等はいつ逃げ出さんとも限らない。あの
婆さんが、格子の中から
私を見て、横皺縦皺を海草のごとく揺がしたのも
謂れなきことではないかもしれない。よしんば
私に格子の縁があるにしても、それは原稿紙の角格子である。紙の格子では誰も信用してくれる筈がない。
とはいえ 世は様々なものである。
私が以前に借りていた大森の家の
家主さんなぞは、古風、大古風の部に属していたのだろう。率直に
私が原稿書きである旨を述べると、では入るときには入るが入らんときには入らん御商売ですなといった。その通りですと答えると、しかし入るときには入るのだから安心なものですなといって承知してくれた。人間が人間を信ずるのは、いつの場合でもかくのごとく
鷹揚【おおらか】でありたいものである。
さて、ここで
私は
頌徳【徳をたたえる】の意をもって この大古風 鷹揚の
家主さんについて
一寸語りたく思う。語りたく思うのは一寸であるが、しかし これは一つの長い物語でもある。いや単なる物語ではない。それは、優しい人情というものが いかに他人を
溺歿【溺没・おぼれて死ぬ】させ、細やかな心遺いというものが いかに他人の処世を
謬【誤】らせ、鷹揚の徳というものも遂に店賃を滞らせることに役立つのみで
却って損となり、つまりは すなわち古風は結局が古風であって
今様当世【今の時流】のものではあり得ないという教訓を含むところの
道話【人の道を説いた話】ですらあるのである。
事実が語る。
事実は何よりも雄弁なものだ。だから
私は立派な道話であり見事な小説でさえ あるといったところで、何もこれを道話的に もしくは小説的に話す必要はあるまい。偉大なる傑作というものは、その簡単な
梗概【あらすじ】だけでさえも充分に人を感動せしめるものだ。いや何も傑作とは限らない。その辺の大衆小説などは却ってその梗概だけの方が面白かったりするものだ。だから競って映画会社が原作料を払って脚色する。脚色とは、脚がかりだけを拾って、それを色づけることだ。原作の
俤をつたえるとか つたえぬとかいうが、脚がかりなどというものは どの作品も大概が
千篇一律【かわりばえしない】のものである。だから脚色映画のどれもが千篇一律の体を見せたとしても それは映画の責任ではない。だが
私がいま話し出すことだけは 到底
常凡【ありふれた】の脚がかり【出発点】ではない筈だ。平凡な三面記事の間に交って、時折 信じられないニュースが現われるように、そして それがニュースというべきものだが、とにかく、ざっとのあらましを伝えただけで諸君は早くも仰天するに違いなかろうと思う。
門があった。
私は中へ入った。庭があった。
私はその庭を眺めた。一目で
私は気に入ってしまった。なぜなら それは他人に見せるために作られたのではなく、その家の主人が楽しむためだけに作られたものであることが判ったからだ。この流儀の造園術というものは今日ひどく
廃れてしまっている。どこへ行っても庭は装飾の中に粉れこんでしまっている。結城織というような反物でさえが今日では見てくれのために着られて来ているように、茶室というものさえ風雅のためよりも交際のために用いられている。
岡倉天心は『茶の本』を書いたが、いまの世の人々にとっては、それを読むことが良識を語り合うための便宜であるからにすぎない。ああ 良識というものさえが人間の装飾物となってしまったのだ。
私は
感慨居士【感性が鋭い人間】だから、
忽ちにして雑然といろいろなことを思い浮べる。
私は家の中へ入った。木口がよろしい。古いがしかし木口がよろしい。古いからよろしいのかも知れぬ。新しい建築だったらどこかにアメリカニズムの影響があろう。米国材というやつは どう日本的に工作して見ても どこかで区別がつく。
私の知っているアメリカ人は、毎朝味噌汁を喜んでいたが、しかしいつもその中へ一塊のバタを叩き込んでいた。そしていつの場合でも おのれが女房に
憚ってばかりいた。その女房というのは生枠の日本の女であったのであるが。
便所は水洗式になっている。ああ このアメリカニズムだけはよろしい。しかし
私は気に入ってしまったのはそんなことではない。全体が二棟になっていて、しかも母家が平家で離家の方が二階であったことだ。
私は勤め人ではないから自然と家庭主義者ではない。勤め口を待っていれば
余儀なく【やむを得ず】家庭を外にして出かけねばならぬ。余儀なくさせられたとき 反発の感情が起る。自然と勤め人諸君は家庭を恋うる心理へと落されるではないか。しかし
私にはその余儀なさがない。その結果
私の義務として
私は余儀ないことの無い限り家庭に止まっていなければ
不可ぬことになる。これもまた一つの余儀なさである。そこで順序として反発の感情が起る。用事もないのに外を出歩きたい気持になることは止むを得んではないか。
私が今日この温泉へ来て ぼんやりしているのも、早く引越しをして気を変えたいにも
拘らず、どうあっても貸家が見つからん余儀なさからの事である。決して贅沢などというものではない。その証拠には こうしてここにいながらも貸家のことで屈托【くよくよ】しているではないか。二十年も昔のことだが、学校の教室で
私は、当時巴里から帰られたばかりの島崎
藤村さんに会ったことがある。その教室の窓へ その頃組織されたばかりの学生オーケストラの、極めて下手くそな音楽が流れて来た。
が
藤村さんは、話半ばにその音楽の方へ耳を傾けて、ああ ああいう音楽を聴きつけても
私は巴里を思い出します。昨日も
私は
雑司谷の森を歩いていて、ふっとブウローニュの森を歩いているような気になっている自分を見出して驚きました。それなのに
私は巴里にいるとき、何かにつけ東京をばかり思い出していたものなのです。ブウローニュを歩きながら
私は雑司谷を歩いていたことが何度もあります。巴里にいては東京を、東京にいては巴里を、これが人生というものの姿ででもあるのでしょうか? こういって この詩人は
私達の前でうっとりとその眼を窓の外のぽつんと浮いた白雲の方へ流して見せた。ああ あの雲が巴里なのかと、
私達もまたその方へ眼を向けた。だがこの事が二十年後にもなって、貸家という主題の下に蘇って来たのも微妙なことである。貸家を探しては温泉宿をおもい、温泉宿へ来ては貸家のことを考える。
さて、
私は概ね家庭主義者ではない。だから離家の二階が気に入ったということについて、簡単に説明をしてしまおう。離家の方にいれば それだけ
私は家庭から遠ざかっていられる訳である。その上に二階と来た。そこへ陣どれば、平面的な距離ばかりではなく、立体的に上下の差別さえついて、
私はここに安穏なる書斎を設けることが出来るじゃないか。
私は
家主さんに向っていった。気に入りました。お借りしたいと思います。だが
私はここで、しかし、と附け加えたのである。と
家主さんの方でも、同時に、しかしといった。
『しかし』というのは
端倪すべからざる【簡単ではない】言葉である。それは奥底を持っている。政治家のような性格である。たとえば、
平沼さんは立派な人格政治家だが しかし、と また場合を考えみるがいい。問題はその『しかし』以下に潜むことになる。その『しかし』以下を引きめくることで折角の立派な人格政治家という履歴も減茶苦茶になってしまうではないか、否定なのか肯定なのか、甚だ漠然として極めて曖昧な妖気だけがそこに漂うのである。
もしもこの『しかし』という言葉が存在しなかったならば、この世の人生は極めて簡単なものとなっていたに相違ないと
私は思う。犬の吠えるのを見るがいい。馬の
嘶くのを聞くがいい。彼等は吠えたり嘶いたりするとき、まったく純真にそれ一方であって、決して、しかし、などとはいわないものだ。とすればこの『しかし』こそ人間性とでもいうべきであろうか。英国の劇作家に『もしも』という題で脚本を書いた男がある。だかこの『しかし』に比べれば『もしも』など
浅薄【薄っぺらな】 低俗極まるものと言うことができる、『しかし』こそ現実的であって、『もしも』なぞはたわいなき浪漫派であるにすぎない。ところで
私も しかし といい、
家主の方も しかし といった。この二つの『しかし』は しかし果たして一つの『しかし』であったろうか?
両者の間の最初の一致が、『しかし』から以下で不一致になり決裂する例を、わたしは しばしばならず見てしっている。ヒットラーもチェンバーレンも、平和を愛好するということでは一致したのだ。しかし、と それから問題が
紛乱【混乱】したのである。
私は声を呑んだ。そして先方の しかし から以下を聴こうとした。だが
家主さんの方も同じく声を控えた。
私の方は柄にもない警戒心からであったが、
家主さんの方は
慇懃【礼儀正しい】なる儀礼からであったろう。
私はその時のその人の人相に感動した。円満な顔つきの上に福徳の微笑をたたえながら、
私のいい出す しかし以下の言葉を迎えようとしていたのだ。ああ このことがすでに世の常の
家主ではない。こういう
長者【徳のある人】に対して、どうして家賃の高下などいい出せようぞ。
しかし、と
私はやっといった。敷金は幾つですか? はい、三つということにしてはあるのですがな、と長者は答えた。この語法を
篤と【念を入れて】吟味して戴きたいと思う。してあるのですというのと、してはあるのですが、というのとでは天と地の相違ではないか。
だが
私は途端に、三つにも幾つにもまだ肝心の家賃について尋ねていなかったことに気がついたのであった。しかしその一体、家賃はいかほどなのでしょうか? すると長者はまたその語法に従ってこう答えた。はい、七十五円ということにしてはあるのですが。
ニュース映画で
私は、ミュンヘン協定調印の場というのを観たことがある。どのような凄惨な劇映画もかつてあれほどの感動を
私に与えたことはない。談判が成立してお互いが握手した筈の場面でありながら、それは拳闘場のような空気であった。なにやら不穏な不安な暗澹たるものがその広間中一杯に
漲って写っていた。どのような名優も かつて あれほどの真剣な表情で現われて来たことはない。ヒットラーは豹のように眼を光らせて歩いてい、ムッソリーニは闘牛のように張り切って一隅に突っ立ってい、そしてチェンバーレンは馬のように やや暗いところでその背を
跼めていた【からだを前へかがめ背を丸くしていた】。フランスの宰相などは叱られた事務員のように どこかへ姿を隠してしまっていた感じでもあった。勿論
私がこの映画を観たのは あの
家主さんと会談した時よりもずっと後年のことである。だか
私はそれを観ながら、しみじみと思い出していたのであった。同じ会談でありながら、どうしてこうも夜と昼、もう一つ いわして貰えれば天国と地獄、なのであろうか。思うに多分あのミュンヘンでは、長者的語法などというものが用いられなかったのであろう。長者的語法は人を
寛闊【度量が広く寛大】な精神の中に導き入れ、
隔心【気がね】のない声で語らせ、そして赤裸々に正直なところを打ち明けさせる。
私は
家主さんに自分の貧乏を話した。貯金が一銭もないことを語った。だから出来れば家賃も負けて貰いたく、敷金も数を減らして貰いたいという意中を申し述べた。すると
家主さんは依然として長者風に、
御尤もですとうなずいてくれた。そうしてから、しかし、と己がしかしについて語りはじめたのである。
しかし、奥さんと御相談なさらずにお決めになってもよろしいのですか? 何んのこった。
家主さんの しかし はそんな しかし であったのか、
私は笑った。いや、
私んとこでは
私が主人ですよ、すると長者さんは、いかにも長者らしく顔をしかめて、それはいけませんよ、男というものは外へ出て得手勝手ができるのだから、せめて家のこと位は奥さんの御勝手を認めておやりなさい。
家庭は平和が大切ですぜ。
家主さんのこの御忠告は道理である。だが ここにそんな事まで書くことは
聊か余計な事ではないかとお思いになる諸君がおありかもしれない。が それはそれとして、次の
一挿話【一つの話】を読んで戴きたい。
三つの敷金を二つにしてくれた。七十五円という家賃は、その建物としてすでに相当以下に安値なのであったが、長者の日く、折角あなたが安くしろとお言い出しになったのに安くしないでは、お顔をつぶすことになる。そこで二円五十銭引いて七十二円五十銭ということにしてくれた。それでも
私の家内は仰天したような顔で、ああ七十二円五十銭と溜息をついて、もっと手頃な家と思って探してましたのにといった。離れ家があって二階になっていて七間もあって これこそ手頃な家じゃないかと言い返すと、いいえ、手頃というのは間取りや間数の事じゃありません。じゃ何んだ? お家賃の事です。いわれてみれば なるほど七十二円五十銭は手頃ではない。
さて、それは九月のことであった。月の十日を過ぎて引っ越したので、その月末は五十円ほどの家賃で済んだ。だが十月からが七十二円五十銭である。いつか十二月になったのであるが、手頃でないままに、早くも
私は続けての御無沙汰をしてしまったのである。十、十一、十二の三月となれば、二つ分の敷金ではもう追いつくことではない。憂鬱な季節の冬空の下で、
私は少し恥じ入った。だがこれは
私のみの責任であったろうか?
取り立てという言葉があるが、月末になると
家主さんから使いの小僧さんがやって来たものである。だが何としたことか、この小僧さんは台所口へ現われて、ただ、御用はございませんでしょうかと尋ねただけであったのである。雨樋も別に壊れてはいない。庭木の刈込みは始めから
私の方でやることになっている。だから御用はと尋かれても、格別御座いませんと返事するより外はない。もしも御座いましたらいつでも伺いますからという口上を言い置いて帰って行ってしまう。
これが いわゆる家賃取り立ての部に属するであろうか?
私は少しも取り立てを感じない。そこで
私のような人物は つい支払いを忘れる。自発的に郵便局の窓口まで持って行かなければ納められん税金というものが、つい忘れられ勝ちになるのと同様である。税金の方は しかしやがて督促状がやって来る。だがわが
家主さんは依然として御用を聞かせに小僧さんを寄越すだけであった。こうして格別の用事のない月が三つ重なって十二月となった。仏の顔も三度というが、あの
福徳円満【何もかも満ち足りている】な
家主さんも、三つも溜めたら少しは人間的な顔を見せるかもしれない。冬空の下で
私は ようやく真顔になった。長者に対する
徳義【礼儀】として、よろしい、一つこれは
私の方から出向いて行こう。
年越し諸払い いろいろのためにやっと才覚し得た金の中から、この三つ分を差引いてしまうと餅代さえも残りかねる。が 餅は喰はねど高敷居とでもいおうか、ぜひともこの際に長者の家の敷居を跨いで置かねばなるまい。やや悲痛な思いで
私はそれを
掻き集めた。
敢然【勇ましく】として一つの
徳心【道徳心】を果さんとする場合の人間は、いつも一種悲痛なものである。この悲痛味があればこそ、徳心はいよいよ徳なのかもしれない。とにかく こうして
私は
家主さんの門を叩いた。
やあ、ようこそと
私は座敷へ招じ入れられた。
私は早速この三ヶ月の間の御無沙汰について語りはじめた。だが わが
家主さんは、軽くそれを抑えるようにして、奥さんの淹れて来たお茶をすすめてくれた。しとやかなその奥さんは やがて
一揖【軽いおじぎ】ののちにお消えになった。するとである。ここでわが長者が、意外な言葉を
私の耳に囁くようにしてくれたのである。
高田さん、あなたなぞは随分、御家内に内証で支払わなければならん筋のものが おありになるんじゃないのですか。
はあ、と
私は当然 面喰うより外はなかった。事実それはその通りに、あるにはあるのであるが、この
節季【年末】にさしかかっては、どうあったにしても仕方のあることではない。
はあ、と
私はもう一遍返事して、苦笑しながら、いやどうにも、元来、だらしのない人間なもんですから。
それそれ、と
家主さんは透かさずいった。その方を先きにお払いにならなくちゃいけませんぞ。詰まらんところから夫婦不仲などということは起り勝ちなものです。なあに
私のとこなんぞは御家内さんだって御承知の支払いだ。だからそんなものは後にして、その内密の方を、よござんすか。つまらんところから男の尻尾というやつは出易いものでしてな。お判りですかな?
一挿話と
私がいったのはこの事である。
私は仕方なくこの長者の言に従って、わが家の平和を重んずることにし折角の家賃ではあったが、その日のうちにそれを別途の支払いの方に差し向けた。勿論この別途は特別な別途である。何もここで公開する必要はない。読者諸君はただこの一挿話を通して、このありがたい
家主さんの世にもめでたい風格を推察して、尊敬
欽慕【敬い慕う】の情をお抱きになればよろしい。もしまた諸君の中に自身家主であられる方があるならば、一応その御自身の所業
乃至は心境とこれとを比較して反省なされるがよろしい。最初に
私がこれを一つの道話ですらもあると述べたのは、正にそのことを諸君に
強いたいがためであった。
だが諸君、それにしても諸君は、ここで一つの御不審をお抱きになりはしなかったであろうか? それほどまでの長者の店子となりながら、どうしてこの
私はその恩寵から今は離れてしまったのかと。
私は近頃になって、人生に対する見方を訂正しはじめている。自由は決してわれわれの幸福ではない。
頻りに催促されたりすることは決して愉快なものではないが、しかし そのためにわれわれは常凡に軌道の上を間違わずに走ることが出来るのである。時代は自由主義というものから別なものへと移りはじめた。自由というものの災害が、今や ようやく人々に気づかれはじめたからであろう。早い話がこの
私である。
あの長者の寛大かぎりなき恩寵の結果、どうなったかといえば、自然にあの七十二円五十銭を滞らせつつ、果てはどうにも
踠けなくなってしまったではないのか? この間の自然の情理については別に説明する必要もないであろうと思う。もしも長者でなく、極めて小心冷酷の
債鬼【借金取り】であったならば、あの二つの敷金も依然敷金として残ってい、今日こうして貸家探しなどをして飽いた末に温泉宿へなど来て寝転んでいることもなく、つまりはその方が何事もなく平和に、安穏に今日までが続いたに相違ない。とするならば この道話から引き出されて来る教訓は、一体どんなことになるであろうか。折角
頌徳【徳をたたえる】の意をもって
私はこの大古風 鷹揚の
家主さんについて語りはじめたのであったが。
さて、伊豆の海も暮れはじめた。今日の日はここに終る。
私もいつまでも温泉宿に寝転んでいられるものでもない。では明日は またまた東京に帰って貸家探しか、さはさりながら【それはそうだが】時代は変っても、そして よしや ふたたびあの二進も三進も出来なくなる恩寵の不仕合せに落ち込もうとも、できることなら あのような長者
家主さんにめぐり合いたいと思う。
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底本:「日本の名随筆 別巻24 引越」作品社
1993(平成5)年2月25日第1刷発行
底本の親本:「高田保著作集 第三巻」創元社
1952(昭和27)年11月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2007年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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大変ありがとうございました。感謝致します。(
シン文庫追記)