「どうして、おれはこう不運なんだろう」
病院の門を出ると、
怺えこらえた
鬱憤をアスファルトの路面に
叩きつけた
月田半平だった。
院長は、なーに大丈夫ですよ、こんな病気なら注射の五十本もやれば造作なく治りますよ。ただし五十本が一本欠けても駄目ですよ、それをお忘れのないように――と言った。一回三円【約1万円弱/2025年】として、百五十円の金がいるわけだ。ああ、これがたった一度の代償なんだ。
たった一度――というのは、すこし説明を要するが、この
半平は元来、貞操堅固【純潔を強く守る】の男だったのを友人達が引っ張り出して、東都名物の
私娼窟 玉の
井へ連れていったのだった。これは友人にも多少の悪巧みはあったにしても、主たる動機は
半平という男が
細君に死別してからまる二年この方、
空閨【寂しいひとり寝】を貞淑【ひっそりと静かに】に守りつづけているのを 見ちゃいられなかったせいだった。そして
半平は、あくまでも亡妻への貞操を死守するつもりだったのである。彼のエネルギッシュな
敵娼【相手となる遊女】の理解を得ることができず、ついに暴力をもって征服されちまったのである。
そして、数日後に
半平は
身体の一部に異常を発見したのだった。彼にとって、それは踏んだり
蹴ったりの不運だった。
いや、それよりも差し当たり大問題なのは、あと四十九回の治療代をどうして
捻出すべきかということだった。
これが五年前なら五千円の貯金があった。その年の暮れ、三千円というものを
費って新妻を持った。その
細君はさらに次の年に慢性病になり、転地療養をすることになって残額の二千円は ばたばたとなくなってしまった。そして貯金通帳から、最後の五十銭までが奇麗に払い出されると、間もなく
細君の寿命も、天国に回収されてしまった。彼はまったく無一文になったのだった。
(四十九回の注射をやらなければ、この身がだんだん腐っていく!)
こうなると、
半平は泣いてばかりも いられなかった。
三日三晩考え抜いた揚句、やっとの思いで彼は案外手近に一つの案を発見したのだった。
「どうだったね。貸してくれたかい」
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半平は下宿の二階に待っていてくれた友人、
川原剛太郎の顔を見るが早いか、こう声をかけたのだった。その友人は××生命へ出ている男だった。
「うん、貸してくれたがね」
友人は
煙草の煙を
忙しそうに
喫った。
「きみの言うほどは駄目だったよ」
「じゃ、いくら貸したい。二百円か」
「うんにゃ、その半分。百円だあ」
「ちぇっ、百円ぽっちか、それじゃ治療代にも足りゃしない」
半平は
川原の××生命へ、一万円の保険を掛けているのだった。この際、払込金の一部を低利で貸してもらおうと思って
川原に交渉を頼んだのだったが、それが最高百円ではすっかり予想を裏切ってしまった。
「どうも気の毒だがね、どうにも仕様がないよ。これがきみの
細君の保険だったら、ここんとこできみは一万円の
紙幣束を
掴んでいるはずだった」
「そういえば、なるほど。どうしておれはこう不運なんだろう!」
「不運といえば、思い出したがね」
友人の
川原は改まった口調で語りだした。「
神竜子という
観相家【占い師】の話を聞いたんだが、きみ、幸運の
黒子というのがあるんだ。顔にできている黒子といえば普通、鼻筋を中心として左側にあるに決まっていて、右側にあるのは非常に
稀なんだそうだ。そう言われて気をつけて人の顔を見ていると、なるほど顔の黒子はみな左側にあるね。ところで、右側に黒子のある人間が全然いないかというと、そうでもないのだ。極めて稀だが、あるにはある。そして右側に黒子のある人はたいへん幸運なんだそうだよ。きみもいつまでも
鰥夫【独身】でいずに、今度は幸運の黒子のある若い女でも探し当てて再婚してはどうかね」
たいへん耳寄りな話だった。
自分の顔に幸運の黒子を植えつけるわけには いかないが、鮮やかな幸運の黒子を持つ若い女を女房に持てば相当運が向いてくるだろう。
「そりゃ本当かい」
半平は問い返さずにはいられなかった。
「
神竜子の言うことだもの、絶対に信用が置けるさ」
友人は
半平の懐疑を
嘲るように言った。
「それでも、五分間ほどこのまま安静にしていてください」
院長は注射器とアンプル【ガラス製の容器】の殻とを、
看護婦に手渡しながら言った。
「最初のうちは、どうしても注射の反応は強いですよ。まだ二回目だからな。では、お静かに」
そう言って、
院長は部屋を出ていった。
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あとには
看護婦が残って、手術器械をカチャカチャと片づけているばかりだった。
「あ、そんなに――」
頓狂な声を上げて、
看護婦が飛んできた。
「お動きになってはいけません。痛みますか。もし……」
目を閉じていた
半平の顔のあたりに、若い女の体臭がむんむん
匂ってきた。彼は
興奮で締めつけられるようだった。
狡く目を閉じたまま、
嗅覚で若い
看護婦の全身を
舐めまわしている
半平であった。
「声を出しちゃ、いけませんよ」
看護婦の熱い
呼吸がいきなり
半平の耳もとでしたかと思うと、彼の一方の手首はぎゅっと握られてしまった。
「これを、あとでお読みになってください!」
「?」
半平はことの意外に驚いて、
看護婦の顔を見上げた。
「おお……」
彼はもう少しで大声を出すところだった。逃げるように急ぎ足で部屋を出ていくその
看護婦の肉づきのいい
顎の右側に、黒大豆をそっと
貼りつけたような黒子が明らかに認められた。おお、幸運の黒子!
往来へ出ると、
半平は若い
看護婦から
掌のうちに握らされた いくつにも折り畳まれてある紙片を開いてみた。そこには鉛筆の走り書きで、こんな文面が
認められてあった。
『失礼ごめんあそばせ。病院で一回三円かかる注射を、あたしの下宿へ午前八時二十分までにおいでくだせれば半額でいたします。
小石川区××町つぼみアパート七号室
唐崎みどり』
半平の顔が、だらしなく解けた。行人の
巷に
曝すのが苦しい にこにこ顔だった。(幸運の黒子を持った女をひと目見ただけで、こうも運がよくなるものか!)
注射料は半額で済むことにはなるし、幸運に恵まれた若い女は探し当てるし、それに、あの唐崎さんという
看護婦の素晴らしい性感はどうだ!
彼はすぐにも飛んで帰って、唐崎さんと握手をしたくてたまらなかった。
筋書どおりに、唐崎さんといつしか
同棲するようになった
半平だった。新婚旅行も唐崎さん――ではない新妻
みどりの稼ぎ
貯めた財布のお陰で
南伊豆まで遠出をし、温泉気分と夫婦生活とを満喫することができた。
だが、東京に帰ってくると
半平は重病になって、どっと床に就いてしまった。高熱がいつまでも下がらなかった。
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食物も ろくろく口へ入らなくなって、とうとう新婚後三十日と
経たないのに、
「ななな、何が幸運の黒子だ!」
と
呻りながら、
半平は鬼籍【地獄の
閻魔大王の帳面】に入ってしまったのだった。哀れな
半平だった。
話はこれでおしまいである。
蛇足を加えるならば、
半平の考えは間違っていた。幸運の黒子は、やっぱり幸運の黒子だった。なぜなら
半平の死とともに、一カ月で未亡人になった
みどりは××生命から現金で金一万円也を受け取った。それが亡夫の掛けていた生命保険だったことは、読者諸君のよく承知のところである。
幸運の黒子は
みどりにあったので、
半平にあるのではなかった。
半平の認識不足が、この物語を生んだのだった。
底本:「赤外線男 他6編」春陽文庫、春陽堂書店
1996(平成8)年4月10日初版発行
入力:大野晋
校正:しず
2000年2月26日公開
2005年9月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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大変ありがとうございました。感謝致します。(
シン文庫追記)
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