井深君という青年が 赤坂の溜池通りを散歩している。
これは
一昔 若しくはもっと古い話である。今時の世の中に こんな種類の青年を考えることは あまり ふさわしくない。
中山帽子をかぶって、縁とりのモーニング・コートを着て、太い
籐の
洋杖を持って、そして口にはダンヒルのマドロス・パイプを
銜えている。これが
井深君の散歩姿である。
井深君は銀座の散歩の続きか、或は活動写真を見た帰りか何かで、その春の夕暮れ時、あの物静かな通りを赤坂見付の方に向って、
当もなく ただ一人でぶらぶら歩いていたものと見える。日が落ちたばかりで、水浅黄色【水
浅葱色】の空の底には
黄昏の薄明りが
未だ消えきらなかったのに、月は早い月なので もう可なり上っていた。一体、あすこいら辺はガレージだとか倉庫みたいなもの ばかりあって、
灯影が割合に乏しく、道を歩く人も わけて【とくに】日暮れ頃なぞには少いのだが、その夕方はどうしたものか
井深君はたった一人も、とにかく自分の体の付近には たった一つの人影をも見ることが出来なかったのである。勿論車道の方には時折電車も通れば自動車も
疾っていたが、
併し その電車や自動車の内側の明るい光や乗客の姿は、無心に たあいもなく【あっけなく】走り去ってしまうので、一人の生きた人間の数にも入らなかった。車道は何の係りもない別の世界で、電車にしろ自動車にしろ 暗がりの幕の上に映った活動写真みたいに、全く少しの音もたてずに ひっそりと動いているようにさえ思えた。そこで、その薄暗い山王下あたりへ続く まことに寂しい並木のある
甃石道を、うしろから青っぽい
靄をふくんだ月の光に照らされながら 歩いているうちに、
井深君は何時しか そんな場合に似合わしい気分に 落ち入って行ったのである。
と言ったところで、
井深君は
未だ少年の域を脱け切らない年頃ではない。
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毎日々々 のらくらしているばかりで 何一つ
為事らしいものも 持ってはいなかったが、それでも立派な法学士で――そんな肩書なぞは 全くどうでもいいのだが――とにかく三十歳近い大人であった。
併し、時々、少年になろうと言う意識は動いた。それと言うのが、
井深君は丁度恋愛をしていた。それも――
井深君は
殊の外 内気な
性向で、かつ多分それ故に
謹直【きまじめ】で、ついぞ遊びもしないし、酒も飲まないし、女の噂さえも滅多に口にすることのない人間なのだが、どう言う事のはずみか
井深君が
屡々遊びに行く友だちの妹で、やっと十八位にしかならない少女に 生まれてない
恋慕の情を覚え そめていた【はじめていた】のである。
恋慕の情を覚えそめていた――と言うだけの話だから、その少女の方では どんな風に感じていたのかも判らない。
甚だ もの
果無い恋愛である。
井深君自身もそう思った。が、
井深君の気質にしてみれば、そして又別の恋も知らずに 三十歳もの年を重ねてしまった身にして見れば、それ程のもの
果無い恋の方が いっそ心に
叶っていた【沿っていた】のではあるまいか……。
井深君は、自分のひきずっているステッキが
甃石にカラカラ、カラカラと鳴る音ばかりでは もの足りない気がした。そこで、あらためて前後左右を見返して、人影のないのを確めると、さて――(何しろ春の
黄昏で、月がさしていたことだし……)と心の
裡に言いわけをして、その少女が好んで唄っている「
汝が像」と言うハイネの詩に シューベルトが曲をつけた歌を口笛で吹いてみた。
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Ich stand in dunkeln Träummen und
starrt, ihr Bildness an,
Und das gelibte Antlitz
hoimlich zu leben begann.
……………………………………
…………………………
【訳】
私は暗い夢の中に立ち、
彼女の肖像をじっと見つめていた。
すると愛しいその顔が、
ひそかに生き始めたのだった。
ところが、一章唄い切らない中に
井深君はやめた。
行くての向う側の家並に切れ目が見えて、つまり横通りがあって、
其処の角の 赤と緑との明るい灯がついている下に 何やら人々が ごたごたと たかっているのである。色のついた灯は Owl Grill & Restaurant と大きく切り抜いた西洋料理店の
軒灯であった。おや――喧嘩かな。
アウル・グリル・エンド・レストラントか? 上海にいた時分には、あすこへよく飯を食いに行ったものだったが……。と、
井深君は、平常ならば 銀座の真中で土地の人気者たちの大喧嘩があって、どんなに黒山の人だかりがしていたにしろ、足をとめたりなぞしないのだが、その晩に限ってどうしたわけか、その大袈裟な
軒灯につられたものか、つい電車道を横切って、そっちの方へ近寄ってみたのであった。その西洋料理店は名前こそ堂々としていたが、もとよりペンキ臭い安普請のけちな店構えであった。植木会社の貸物らしい 大きな
糸杉の植木を飾った入口の
仏蘭西扉の前に十人位の者が立って 中を覗き込んでいた。
仏蘭西扉の
傍には、何のつもりか 舶来の酒の
壜や前菜料理の材料なぞと一緒に 大きくふくらました ゴム風船の
沢山浮んでいる
見世飾があって、それらの透き間から垣間見ている者もいた。
――帰れ! やい、けえれねえのか、てめえ宿なしじゃあるめえな!』
先ず だみた男の声でそう怒鳴るのが
井深君の耳に入った。
井深君も人々の後から内部の出来事をうかがった。
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井深君は人並より丈が高かったので、溝板か何かを足場にして少し背延びをすると すっかり見ることが出来た。
井深君は 入口に近い
卓子の一つに顔を伏せている 小ざっぱりした空色の
水兵服を着て 赤い飾り玉のついた
仏蘭西様の
水兵帽をかぶった十七八の少女と、その
傍に立って二人の女給らしい、ひどくまるまると肥って赤ら顔の女と、それとまるであべこべに痩せこけて
蒼い女と、それに主人とも見える背広服を着て頭の頂を てかてかに禿げ上らせた男とを見た。
――あんた、泣いたって、泣き真似なんかいくらしたって、
誰あれも可哀相だなんて思やしなくってよ。早くお帰んなさいよ。』と肥った女が言った。
なる程、安物の
置電灯のうす紫の
笠の下で、水兵帽子の赤い玉の かすかに揺れているのが わかった。
――交番へそう言うじゃなし、帰ってもいいなんて、有難いと思わないのかね。いけ
洒々と泣いて見せたり しやがったって、そんな手なんかに乗って
堪るかってんだ、ほんとうに。足元の明るいうちに、さっさと帰れ、帰れ!』と今度は痩せた女が、そう
罵ると、見物の方を向いて
哂って見せた。
――足許はとっくに暗えや、日が暮れてるぞ! 帰る家がなかったら俺ん家へ来い。ただで泊めてやらあな。』と見物の一人が怒鳴った。それで、見物人たちは、一斉に笑い出した。
――全くしぶとい小娘だ。
服装こそちゃんといい服装をしているんだが、不良少女なんて図々しいもんだな。』と主人らしいのが感心したように言った。
すると、
水兵服の娘は突然顔を上げて
井深君を見たのである。
恰も
井深君が
其処に見物人たちの後から覗き込んでいるのを はっきり知っていたかのように。――(けれども、部屋の中は明るくて戸外は暗いのだから、
井深君の方では見たと思っても 先方では見えなかったかも知れない。
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まして
井深君が
其場に居合せたことに 気の付こう道理なぞは ないのだが、何しろあまり突然に、ぴったり二人の眼が出会ったのだ)青ざめて、眼が先の広がった
睫毛まで涙に輝いて、可愛らしい輪郭をもった顔である。
井深君は、そこで危く声を上げようとする程 驚いた。突然見つめられたため ばかりではない。
井深君は、実に
其処に自分の恋渡っている【恋している】少女と 他ならぬ少女を見出したのである。――いやいや、こんな風に不器用な言い回しは 決して許されない。第一それでは この話は 話にならなくなってしまう……。上品な額や、
花車な
頤や、さては振分け髪を一束づつ載せた 細りとした肩のあたりと言い、
瓜二つどころか 全く豆と豆との如くと言っても 足りない位である。こんなにもよく似た顔が二つ以上も、この世に存在して差閊えないものであろうか! と
井深君は思った。
井深君は知らず識らず人々の一番前に出てしまった。そして、どうして
井深君に そんな
敢為な志が湧き起こったのであろうか、それはただ その少女があまりにも自分の恋人にそっくりであったから――と言う理由だけに過ぎない。
井深君はその頭の禿げ抜けた主人らしい男に 事の
顛末を訊ねたのである。頭の禿げた男は
井深君の
中山帽子や その他の身なりに対して敬意を表しながら 可なり丁寧に説明して聞かせた。その少女は夕食のために定食を食べたのだが、食べてしまうと、金入れを
紛失くしたと言って 代を払わなかったと言うのである。
――二円? それ位の金で、こんな年のいかないお嬢さんに こんな恥をかかせるものではない。僕が払いましょう。』
井深君は話が存外やさしい事柄であったのに 安心しながら言った。
――あなたさま、お知り合いでいらっしゃいますか?』
――そう、まあ知り合いですね。……江戸川の立派なお
邸のお嬢さんだよ、お父さんは男爵でね。電話をかけましょう。
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――君は不良少女なぞと言ったことを、勿論みんなの前でお詫びする気でしょうね。』
井深君は、この少女の身元を証明するために 本物の恋人の兄のところへ電話をかけよう、そしてあとで訳を言って あやまればいいと思ったのである。
井深君はこの思いつきに嬉しくなって
水兵服の少女の方をみた。しかし、少女は
井深君と顔を合せることを 恐れでもしているように、部屋の隅っこの方へ体を向けて顔をふせていた。
――モシモシ、
園田男爵ですか、
園田君いますか、こちら
井深です。ええ
井深。……ああ
園田君、今ね、赤坂見付で妹さんと――ああ
ちえ子さんとお会いしたんだがね。これからすぐ送って帰るよ。さよなら、くわしい事はあとで話すよ、さよなら……』と
井深君は相手の声が何を言おうとお構いなしに、大きな声で おっかぶせるように それだけしゃべって すぐ電話を切った。
果して、その電話のおかげで、主人や女給はひどく申訳のないような顔をして ひたあやまりに、
井深君と
水兵服の少女とにあやまるし、入口に立っていた野次馬も こそこそとそれぞれ散らばってしまった。
ところでさて、
井深君はその
水兵服の少女を連れて
其処を出なければ ならなかった。
中山帽をかぶってステッキをついた紳士と 空色の
水兵服を着た少女とは、やがて赤坂見付の方へ、うす暗い歩道を歩いて行った。月は今は真上から静かに さしかけていた。
――君、どうして、あんなところへ入って ご飯を食べなければ ならなかったの?』と二人っきりになると、そんな少女に対しても
井深君は固くなって口をきいた。
――あたし、でも、おなかが空いたんですもの。虎の門の裏でお友達とテニスをしたのよ……』と甘えるような声で少女は答えた。何て しゃあしゃあ していることだろう――と
井深君は思った。しかし、まあなんてその声までが、そっくり自分の恋人 そのままであることよ――と感嘆した。
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そして、もしも、あのようなところで遇ったのではなくして、はじめから、恋人と二人で
此処を散歩していたものとしたならば、(――何と言う幸福な仮想であろう!)自分は決してこの少女が、自分の恋人と別人かも知れない なぞと言う疑をさえ 差し挟まなかったのだが……それにしても、なぜこんなにまで よく似た人間が二人もいるものであろう、恐しい事だ――
――君、家で食べればいいじゃないか。君の家どこ?』
――ご存じのくせに……』
――どうして? 僕知るもんか。』と
井深君はドギマギとして言った。
――あら、だって、さっき電話をおかけになったでしょう。』
――電話だって? あれは君をたすけるための
出鱈目さ。』
――ああら、どうして出鱈目なんか
仰有るの。』
――どうしてって、その方が君のためだもの。』
――…………。』
――君の名前はなんて言うの?』
――
ソノダチエ子。どうしてきくの
イブカさん。』
――
止したまえ! ふざけるのにも程がある。電話まで聞きのがさない。』
純良な青年の
井深君は、不良少女と言うものは 実におそるべきものであると感じた。
井深君はそれで黙ってしまった。姿や声はこれ程よく
相似ているのにも拘らず、どうして一方にはこんな末恐しい少女が育てられて来たのであろうか。外にあらわれているところが似ているように、心だって
屹度、生まれた時は素直な上品な子だったに 違いなかったのだろうに――
井深君は境遇や周囲の不良少女に及ぼす影響に就いて、法学士らしく考えてみたりした。
――君はどっちへ帰るの。』と
井深君は立止ってきいた。
――それは小石川よ、どうしてそんな判り切ったことをきくの?
イブカさん……』と
水兵服の少女は、もうすっかり晴れやかな様子になっていて、
井深君の腕につかまり
乍ら 一層甘えるような声で言った。
井深君はあたりを見回した。
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――ばか、ばかなことを言うのはお
止し。そして、いい子にならなくてはいけない……ねえ、わかったかい……じゃあ、さよなら……』と言うと、いきなり、その
水兵服の少女を抱きしめて強く接吻した。そしてすぐ、はるかに平河町の方から坂を下ってくる電車をめがけて 後をも見ずに駈け出した。
ところが、その翌朝のこと、
園田の声で電話がかかった。
(――
井深君、
井深君。昨晩は妹がとんだ厄介になって、どうも有難う。あいつはお転婆だからね、いい薬だったろうよ。それでも、妹は君がとても親切にしてくれていい人だって、ひどく喜んでいたよ――)と言うのである。
井深君はそれで、三十分も電話の前に黙って立ちつくしていた。
――僕はなぜ、はじめ見た瞬間に、その空色の
水兵服の少女が、
園田の妹に(似ている――)なぞと思ってしまったのでしょうかね、わかりませんよ。なぜ、
園田の妹だ、とすなおに思わなかったのでしょうかね、全くわかりませんよ。――僕は人間の、しかも自分自身の目でも耳でも頭でも、あんまり信用出来ないものだと、しみじみ思いましたね……』
と言う
井深君の話である。
底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「三田文芸陣」1925年11月号
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年5月14日公開
2007年11月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。
©シン文庫
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