梅雨紀行
若山牧水


 発動機船は桟橋を離れようとし、若い船員はともづなを解いていた。あわてて切符を買って桟橋へ駈け出すところをは呼びとめられた。いま休んでいた待合室内の茶店の婆さんが、膳の端にの置いて来た銀貨をてのひらにしながら、勘定が足りないという。足りない筈はない、四五十銭ばかり茶代の積りに余分に置いて来た。
「そんな筈はない、よく数えてごらん。」
 振返ってはいった。
「足らんらん、なアこれ……」
 其処を掃除していた爺さんをも呼んで、酒が幾らで肴が幾らでこの銭はこれ/゛\で、と勘定を始めた。はそれを捨てておいて船へ乗ろうとした。
 爺さんと婆さんは追っかけて来た。切符売場からも男が出て来た。船の窓からも二三の顔が出た。止むなくは立ち留った。そして婆さんの掌の上の四五枚の銀貨を数えた。どうも足りない筈はない。
「これでいいじゃァないか、四十銭ばかり多いよ。」
「馬鹿なことを……」
 婆さんの声は愈々いよいよとがった。そして、酒が幾らで、肴が幾らで、と指を折り始めた。もそれを数えてみた。そして、オヤオヤと思いながら一二度数え直して見ると、矢っ張りの間違いであった。茶代抜きにして丁度五十銭ほど足りなかった。は帽子を脱いだ。そして五十銭銀貨二枚を婆さんの掌に載せた。載せながら婆さんの眼の心底しんそこからけわしくなっているのに驚いた。汗がぐっしょりの身体に湧いた。
 船は思いのほかに揺れながら走った。船内の腰掛には十人ほどの男女が掛けていた。
「間違いというものはあるもんで……」
 の前に掛けていた双肌もろはだ【上半身】ぬぎの爺さんはに言った。この爺さんは茶店でが酒を飲んでいる時から二三度に声をかけていた。
「イヤ、どうも、……」
 は改めて額の汗を拭いた。
1/14
今日は もう一つは失敗をやっていた。鷲津までの切符を買っていながら一つ手前の新居町駅で汽車を降りた。浜名湖が見え出すと妙に気がせいて、ともすると新居町から汽船が出るのではないか知らという気になったからであった。が、矢張やはり淡い記憶の通り、鷲津から出るのであった。そして通りがかりの自動車を雇って鷲津の汽船発着所へ着いたのである。しかしその時の船はもう出ていた。次の正午発まで一時間半ほど待たねばならぬ。そしては酒をとった。朝飯を五時に済まして来たので妙に食欲があり、茶店で出したさかな【酒のつまみ】だけでは足りなかった。茶店の婆さんは附近の宿屋だか料理屋だかに電話をかけて二三品のものを取り寄せて呉れた。それこれの勘定が間違のもととなったわけである。
 永年の酒の毒がようやく身体に表れて来た。ことに大厄だという今年の正月あたりから めっきりと五体の其処此処そこここに出て来た。この半年、外出らしい外出すらしないでは部屋に籠っていた。花のころ、若葉のころ、毎年必ず出かけていた旅にもよう出ないで、我慢していた。それがこの梅雨の季節に入って いよいよ頭がうっして来た。いっそ息抜きに何処かへ出かけてでも見るがよくはないかと自分にも思い、家人も言うので 企てられた今度のこの浜名湖めぐりから三河行の小さな旅行であった。そして その第一日 早々から重ねられたこれらの失敗であった。
 湖全体を一周するには別に船を仕立てねばならなかった。の乗ったのは鷲津から湖の西岸に沿って気賀町まで行くものであった。肌ぬぎの爺さんは いろいろと山や土地の名などを教えてれた。梅雨晴とも梅雨曇とも言い得る重い日和で、うす濁りの波の色は黒く見えた。湖を囲む低い端山はやまの列も黒かった。物洗い場かとも見ゆる簡単な船着場に二三度船は止って、一時間もした頃 館山寺かんざんじに着いた。は裾を端折はしょってり仕度をしながら、いかにも酒ずきらしいこの爺さんに言った。
「お爺さん、一緒に降りませんか、次の船の来る間、一杯御馳走しましょう。」
 爺さんは仰山ぎょうさん【大げさ】に打ち消した。
2/14
「とんでもねェ、わしはこれで気賀で降りて、其処から荷物を背負ってまだ五里も歩かなくちゃならねェ。」
 館山寺かんざんじは古い由緒のある寺だとかだが、ひどくすたれて、此頃では ただ新しい遊覧地として聞え出して来た、と謂った所であった。殆んど島かと見ゆる小さな半島全体がまろやかな岡となり、みぎわからいただきにかけ、みっちりと稚松わかまつが茂っていた。寺の横から岡を越えて裏に出ると、広い湖面に臨んだ小さな断崖となっていた。腰をおろし、帽をぬげば、よく風が吹いた。そして漸くは、
『ヤレ、ヤレ。』
 という気になった。
 湖には釣舟が幾つか浮び、三味線 太鼓の起って居る所謂いわゆる 遊覧船も一艘見えていた。風のためか日光のせいか、湖いちめんがほの白く輝いて見えた。岡の松はみな赤松であった。そして その下草にところ/″\山梔子くちなしが咲いていた。花の頃の思わるるほど、躑躅ツツジの木も多かった。岡のあちこちに設けられた小径はまだ真新しく、新聞紙など散らばっていた。惜しいと思ったは稚松の間に混っていたしいの老木を幾つとなく伐り倒したことで、みな一抱ひとかか二抱ふたかかえの大きいものであったらしい。恐らく美しい小松ばかりの山にせんために伐ったものであろう。
 二十分もかかったか、は岡を巡って寺に出た。次の船の来る迄には まだ二時間もある。止むなく寺の前の料理兼旅館の山水館というに寄った。上にあがれば めんどうになると思ったので、庭づたいに奥に通って其処の縁側に腰かけながら、く 一杯を注文した。
 庭さきの水際の生簀いけすに一人の男が出て行った。のために何か料理するものらしい。そして当然 鯉か鮒が其処からすくい上げられるものとのみ思って何気なく眺めていたは 少なからず驚いた。思わず立ち上ってその手網を見に行った。見ごとなこちがその中に跳ねていた。
「ホヽウ、此処に海の魚がいるのかネ。」
3/14
 番頭の方がむしろ不思議そうにを見た。
「よく釣れます、今朝お立ちになったお客様は ほんの立ちがけに子鯖を二十から釣ってお持ちになりました。」
 宿屋の前は背後の岡と同じ様な小松の岡にとりかこまれた小さな入江になっていた。入江というより大きな淵か池である。青んでたたえた水面には岸の松樹の影が つばらか【つまびらか】に映って居る。其処から鯖の子を釣りあぐる……、何としてもには変な気がした。聞けば今は子鯖とかわはぎの釣れる盛りだという。かわはぎは皮剥ぎのいいで、形の可笑しな魚だが、肉がしまっていておいしい。の好物の一つである。兎に角、浜名湖は淡水湖なりや鹹水湖かんすいこなりやとむずかしく考えずとも、汽船で一時間も奥に入り込んで来た此処等のこの山の蔭にこれらの魚が棲んでいようとは どうも考えにくい事であった。
 館山寺前の入江を出た船は袋の口の様な細い入口を通って また他の入江に入って行った。此処はやや大きく、引佐細江いなさほそえという。細江の奥、下気賀しもけがで船を乗換えた。今度の小さな発動機船は入江を離れて、堀割りに似た都田川というを溯るのである。川の西岸にうち開けて、ひたひたに水をたたえている広田には 何やら【イグサ】の様ものが いちめんに植え込んである。乗合の婦人に尋ねると、あれはルイキユウですとのことであった。
 気賀町けがまちに上ったは迷った。予定どおりだと其儘そのまま 軽便鉄道けいべんてつどう【一般的な鉄道よりも規格が簡便で、安価に建設された鉄道】に乗って終点 奥山村に到り半僧坊はんそうぼうに詣でて一泊、翌日は陣座峠というを越えて三河に入り、新城町しんしろまち病臥びょうが【病気で床につく】している友人を見舞い、天気都合がよければ鳳来寺山に登って仏法僧を聴く、というのであった。が、気賀町には我等の歌の 結社 創作社 社友――君が住んでいた。自分の身体の具合もあるので 今度は途中 誰にも逢わないで行き過ぎるつもりで出て来たのだが、サテ、実際その人の土地に入り込んで見ると一寸ちょっとでも逢っていきたい。それこそ玄関ででも逢って、それから軽便鉄道に急いでも遅くはあるまいと、通りがかりの女学生に訊くと この友の家は直ぐ解った。
4/14
 の名を聞いて奥から出て来た背の高い友の白髪は、この前逢った時より一層ひどいものに眼についた。その細君には初対面であった。しきりに固辞したが、ついに下駄をぬがせられ、やがて一晩 厄介になる事になってしまった。そして夕飯の仕度の出来るまで、近くを散歩した。公園の何山とかいうに登れば眺望がいいとの事であったが、つかれていて出来なかった。銭湯に行くすら億劫おっくうであった。労れるわけはないのだが、久し振に家を出た気づかれとでもいうであろう。或は失敗労れであったかも知れない。
 気賀町はびて【古めかしい味わい】静かな町に見えた。昔、何街道とかの要所に当り、関所のあとをそのままにとってある家などあった。町はずれを浅く清らかな伊井谷川が流れていた。橋に立って見ると、鮎やはやの群れて遊んでいるのがよく見えた。泳いでいる魚の姿を久し振に見た。
 この友は この附近で小学校の校長を長い間やっていた。それをこの四月にやめて、今は土地に新設された実科女学校に出ているとの事であった。広くもない庭に、植えも植えたり、蟻の這う隙間もないまでに色々なものが植えてあった。いま花の眼についたは、罌粟けし、菖蒲、孔雀草、百日草、鳳仙花、其他、梅から 柿 梨 茱萸ぐみのたぐいまで植え込んである。その間にはまた、ちしゃ【レタス】、きゃべつ、こんにゃくだま、などの野菜ものも雑居しているのである。それでいて何処か落ちついている。妙に調和した寂びが感じられた。
 夜は酒嫌いで言葉少なのこの友を前には一人して飲み一人して喋舌しゃべった、これだから誰にも逢ってはいけないと思ったのにと思いながら。
 六月二十二日。
 学校を一日なまけて――君も今日一日と歩こうということになった。停車場の附近にも昨日見たルイキユウの田が広い。聞けばこれは琉球から取り寄せただそうで、それを土地の人はルイキユウと呼び、稲よりもこれを作る者が多くなっているそうだ。
5/14
畳表 其他の材料として支那の方にも行くという。
 伊井谷神社の深い森を車窓に眺めて過ぎた。宗良親王を祀るところという。親王のお歌は若い頃愛誦あいしょう【詩文などを好んで口ずさむ】したものであった。程なく奥山終点着。
 奥山半僧坊の名は かなり聞えている。で、は何とはなしに成田の不動の様な盛り場を想像していたが、案外に静かな山の中の寺であった。門前町に三四軒並んでいる宿屋なども、なつかしい古び様を見せていた。
 奥山の村を外れて陣座峠の路にかかる。路は伊井谷川の源とも見受けられるたにに沿っていた。渓は細く、岩の床で、岸の一方は直ちに雑木林となっていた。流れつ湛えつしている水際には岩躑躅いわつつじが到るところに咲いていた。いよいよ登りにかかろうとするあたりで水を飲もうと谷ばたに降りていくと、其処のよどみには大きなやまとはやが四五疋、影も静かに浮んでいた。谷のいよいよ細くなったあたりの岩の蔭にはあぶらめといふ魚が遊んでいた。幼い時、三尺か四尺の釣竿でこれらの魚を釣って歩いた故郷の山奥の渓が思い出された。空は昨日と同じく晴とも曇ともつかない梅雨の空であった。
 陣座峠は遠江と三河との国境に当って居る。国境の山というと大きく聞えるが、僅か一千五百尺ほどの高さ、登りも下りも穏かな傾斜で、明るい峠であった。ことに遠州路の方は木立が深くて登るに涼しかった。その深い木立の下草に諸所しょしょ【あちこち】 木苺きいちごがまっ黄に熟れていた。いい歳をした二人、ことに一人は半白以上の白髪、あとの一人にも この頃めっきりそれが見えだして来たという二人は われさきにとその小さい粒の実を摘みとってたべた。
 八合目ほどの所の路ばたに よくさえず眼白鳥めじろの声を聞いた。見れば其処の木の枝に籠がかけてあった。見������すと近くの木蔭に壮年の男がしゃがんで険しい眼をして我等を見ていた。声をかけて通りすぎると程なく峠、丁度時間もいいので用意の握飯を出して昼にした。は半僧坊で二合びんを仕入れて来ていたので 先ず それにかかった。すると――君もた一本とり出して、とても一本では足るまいと思って……、と笑いながら差出した。
6/14
松の蔭で、あたりには遅いわらびなどが萌え立って居り、三河路の方から涼しい風が吹きあげて来た。
 其処へ先刻の男が眼白籠を提げてやって来た。そして変な顔をして立ちどまっていたが、其儘そのまま其処そこに坐ってしまった。――君は持っていた盃をさしたが、酒は大嫌いだとて受けなかった。三十前後の屈強な身体で、眼尻のたるんだ、唇の厚ぼったい男であった。話好きと見え、ほぼ三四十分の間、一人で喋舌っていた。おめェたちは一体何処で何の身分で、何をしにんなところに来たのか、というのが彼の話題の第一であった。根掘り葉掘り訊いた上、
「どうも、さっぱり解らねェ。」
 と諦めた。そして代りに自分自身の事を語り始めた。何処何処の生れで、何処其処とさんざ苦労をした揚句、今では斯んな所に引っ込んで何とか線の線路工夫をしていると語った。
「線路工夫……?」
 と聞きとがめると、――君が、
「いいエ、電灯線の線路工夫でしょう、此頃この辺に引かれた電灯線があるのです。」
 と説明した。
 眼白でも飼はねばなァ、斯んな山の中では何の楽しみもねェ、と言いながら彼は立ちがけに、のころがして置いた空壜を取りあげて、これ、貰って行くよ、酢を入れとくにいいからナ、と どんぶりに入れた。
 我等も程なく其処を立った。するとまた眼白籠が路ばたの枝に懸けられ、鳥ばかりが高音たかねを張って、見������してもその主人公はいなかった。
「ア、あんな所に!」
 見れば成程、路から一寸ちょっと 離れたくぬぎや小松の雑木林の中に立ててある真新しい電柱の上に登って彼は何やら為しつつある所であった。
 下りつけば其処は幾つかの小山の裾の落ち合った様なところで、狭い沢となっていた。片寄りに一すじの渓が流れ、あちらの山こちらの山の根が たに すべてで十二三軒もあろうかと思われる藁家が見えた。それらの家に囲まれた様な沢は みな麦の畑で、黄いろくも黒くも見えるそれを せっせといま刈っていた。黄柳野村つげのむらというのであった。
 村に一本の路を急いで居ると ツイ路ばたにすっかり戸障子をあけ放した一軒の家があった。
7/14
そして部屋の中にも軒端にも いっぱいに眼白籠が懸けてあり、とり/″\にさえずり交していた。部屋の中には酌婦あがりとも見られる色の黒い三十年増が一人坐って針をとっていた。友人ととは相顧あいかえりみて【お互いが過去を振り返って】、微笑した。
 狭い村を通り終れば路はまた登りとなった。吉川峠という。
 山は陣座峠より浅かった。そして雑木の茂った灌木林の中に沢山の黄楊つげが見かけられた。犬黄楊らしかったが、殆んどその木ばかりの茂った所もあった。さっき通った村の名もこれから出たのだと思われた。陣座峠でも見かけたが、には珍しい山百合があちこちと咲いていた。茎は極めて細く、花もしなやかで、色がうすもも色であった。普通の、白い百合も稀に咲いていた。
 労れて来たせいか、今度のくだりは長かった。おのずと話がはずんだが、元気のいい話ではなかった。自分の為事しごと【仕事】の不平、朝夕の暮しの愚痴、健康の不安、中にもこの友が自分の子供に対する心配などは身にしみて聞かれた。
 やがて、麦刈り、田鋤たすき、桑摘みの忙しそうな村に出た。埃の立つ道を急ぐともなく急いで、漸く豊川の岸に出た。偶然にも道はこの前同じく新城しんしろの友を訪ねて来た時 散歩に出て渡った弁天橋の上に出た。高い橋、深い淵、淵の尻の真白な瀬、たちは暫く橋の上に坐って帽子をぬいだ。
 ともすると その枕許まくらもとに坐って話をする事になりはしないかと気遣って来た新城町の友――君は幸にも起きていた。かもの訪問が だしぬけであったので、呆気あっけにとられながら小躍りして喜んだ。しかし、いつもながら声はろくに出なかった。結核性の咽喉いんこうの病気にかかって六七年もの沼津に来て養生していたのだが、この数ケ月前、其処を引上げて郷里に帰っていたのである。その姉も、その父も、友に劣らずこの突然の訪問を喜んだ。姉も、父も、この病人のために全てを犠牲にしていると謂った様な境遇に在る人たちなのである。
 突然ではあり、時間ではあり、ことに初めての気賀町の客人のために町の料理屋に出て夕飯をとろうという事になった。
8/14
それを聞くと――君は驚いて、イイエは帰りますという。これからどうして帰れます、それに折角の事だから、と家の人たちも総がかりで留めたが、一日はまだしも二日とはどうも学校が休めない、と言って立ち上った。なァに四五里の道だし自転車ならわけはありません、との顔を見て笑いながら言った。には いま漸く彼があの乗れもしない山坂路を一生懸命になって自転車を押して来たわけが解った。帰りは無論その山坂路でなく、他にいい道路があるのだそうである。そしてその車のベルを鳴らしながら、たけ高いうしろ姿を見せて彼は帰って行った。夏のことだで、まだざっと二時間は明るいが、楽ではないぞ など此処の老父はそれを見送りながら言った。
 然し、夕飯には町へ出る事になった。たって止めたが早や立ち上ったこの友の、両手を振りながら出もしない声を絞って、先生、後生ですからのためにだし になって下さい、だって たまには明るい所へ出て行きたいですよ、というのを聞くと、矢張りいなめなかった【断れなかった】。その父と姉と友とと、わざと町裏の田圃路を通って この前来た時も行った事のある遠い料理屋へ出かけて行った。新城町は桑畑の中に在り、兵児帯の様な長いながい一筋町である。
 杯をなめながら、席に出た芸者たちからは意外な事を聞いた。鳳来寺山の仏法僧聴きが近来急に流行り出し、なお その宣伝のため土地の有志に招かれて わたしたち一組は昨夜出かけ、残る一組は今夜鳳来寺に仏法僧聞きに行っている、というのだ。呆れながら、お前たちがあの鳥を聞いて何にするのだ、と言えば、いいえ、お客様ごとにその事を吹聴ふいちょうして勧めるのですよ、という。その代り仏法僧は近来頻りに啼くのだそうだ。この前、の聴きに来た時は山の上の寺に九晩ここのばん泊って辛うじて二晩だけ聴き得たのであった。今は行きさえすれば毎晩聞けるという。声を絞って友人は言った、仏法僧もえらく商売気を出したもんですネ、と。
「それも先生のおかげサ。」
 早や酔って顔は真赤に、豊かな頬鬚ほおひげのつやつやと白い老父は笑った。この前来た時、は『鳳来寺紀行』にこの鳥の事を書いて雑誌『改造』に出した。それが今まで殆んど無関心であったこの附近の人たちに意外な反響をんだのだそうだ。
9/14
現に主要な停車場には仏法僧の絵をかいたポスターが張られ、の文章の中の文句が大きな字で引かれてあるという。
 六月二十三日。
 の居る事は この友人の身体によくない様に思いながら昼過ぎまでも愚図々々ぐずぐずしていた。その間、の膝の側には朝からずっと盃と徳利とっくりとが置いてあったのである。豊川の鮎の蓼酢たですなど、近来になくうまいものであった。
 昨夜の芸者の話で鳳来寺行きは かなり興が醒めたが、然し毎晩啼くという仏法僧を楽しみに矢張り出かける事にした。電気に変った豊川鉄道で長篠駅下車、驚くべし 其処には鳳来寺行乗合自動車が出来ていた。沿って走る寒狭川の岸の岩には、昨日名も無い渓で見て来たと同じく岩躑躅が咲きこぼれていた。
 直ぐ鳳来寺の山に登り、寺に一二泊を頼もうかと思ったが、今では其処にも毎晩十人位いの泊客があると聞いたので遠慮され、とりあえず麓の宿屋に一泊することにした。この宿屋もこの前の紀行には『これも広重の絵などに見るべき造りの家である』と書いてある通り、曽木板葺そぎいたぶきの古び果てた宿であったが 今は一枚ガラスの大戸を玄関に立てた立派な宿館に新築されてあった。通された二階はまだ荒壁のままで、唐紙もろくに入れてなかった。ようよう畳だけは入れました、と宿の者は言った。
 一ぷく吸ったままは宿から二三軒先のすずり造りの家に出かけて二三の硯を買った。この山から出る鳳鳴石というので その質のいい事をばかねて聞いていながら この前は荷になるのを恐れて買わなかった。今度は自動車 電車だから大丈夫である。
 恐れていた相合客あいあいきゃくは夜に入るまで来なかった。不思議なことです、と宿の主婦は呟いたが、はほっかりした。取り寄せた晩酌の酒のさまで でないのも嬉しかった。此処にも豊川の鮎が入っていた。
 窓から見る宿の前の渓端に一つ二つと飛ぶ蛍が見えだした。それまでに山の方で啼いていた いろいろの鳥の声も静まった。軒を仰ぐと、曇っているが月明りのある空である。その空を限って嶮しく聳え立った鳳来寺山のやまは次第に墨色深く見えて来た。
 其処へ、心おぼえの啼声が聞えて来た。
10/14
まさしくあの鳥である。仏法僧の声である。月を負うた山の闇から、闇の底から落ちて来る、とらえどころのない深い/\声である。聴き入れば聴き入るだけ魂の誘われてゆく声である。玉をまろがす【丸める】と言っては明るきに過ぎ、きぬを裂くと言っては鋭きに過ぐる。無論、ブツポウソウなどの乾いた音色ねいろでは ゆめさら無く、郭公カッコウ筒鳥ツツドリの寂びた声にくらべて【比べて】は更に数段の強みがあり、つやがある。眼前に見る大きな山全体のたましいの さまよい歩く声だとも言いたいほど、何とも形容する事の出来ない声である。
「ア、啼く、啼く、……」
 はいつか窓際にすり出て、両手を耳にあて、息を引きながら聴き入った。相変らず所を移して啼く。一声二声啼いては所を変える。暫くも同じところに留らない。ともすれば、山そのものが動いているかとも聞きなさるることすらある。
 は膳を窓側の縁に移した。一杯飲んでは耳に手をあて、一杯飲んでは眼をつむった。二三本も飲んだが、一向に酔わない。
「よう啼きますやろ。」
 宿のお婆さんが笑いながらお銚子を持って来た。流石さすがもきまりが悪くなり、それを済ますと床についた。
 この鳥の啼声を文字に移し得ざる事をうらむ【恨む】。内田清之助博士著『鳥の研究』の中に『高野山中学校教諭榎本氏が幾年かに渉って聞かれた所によれば次の如くである。』として、

この鳥の啼く声はギョブッコー、ギョブッコー、或はグブックォーと聴えるものをおよそ一秒弱の間をはさんで繰返し、時々はギョブックォー、コー、或はギョブッ、ギョブッ、クォーを加える。ギョブックォー、コー、の場合には第二音クォーと第三音コーとの間に、第一音と第二音との間よりも、少し長い間を置き、且つ第三音コーは第二音よりも調子低く、またギョブッ、ギョブッ、クォーの場合には各間隙に長短はなく、殆んど三音を連唱する。下略。

 云々と書いてある。流石によく調べてある。いて書けば先ずうであろう。
11/14
が、本物ほんものとこれとの差は雀と仏法僧との差に相等しい。
 枕許の水を飲むために眼を覚す。
 啼いている。
 夜の更けたためか、或は麓近く移って来たか、宵の口より一層澄んで聞える。
 起きて窓にもたる【もたれる】と、月も曇を拭って照っていた。山の森の茂みにも月の光があった。そして、宵の口は多く右の、ギョブッコー、ギョブッコー、の二声ずつを啼いたに夜の更けてからは、ギョブッ、ギョブッ、コーの三声を続ける啼きかたをしていた。この啼きかたは非常に迫って聞える。
 六月二十四日。
 朝、洗面所で顔を洗っていると、その横の部屋から一人の泊客、痩せた青年が出て来てを見ているらしかったが、不意に牧水先生ではないか、と言う。君は、と問う返すと意外にも前の――君や――君たちと同じく我等の創作社々友――君であった。この人は入社して何年にもならないが、歌に異色があり、印象の深い人であった。同じく昨夜 仏法僧聞きに来ていたのであると。彼は名古屋の八高の生徒である。
 朝食を共にし、一緒に山に登った。実は昨夜よく聞いたには聞いたが、耳の悪いには、もう少し近かったら、のよく【欲】が出たのである。そして山の寺に一二泊を頼もうと思ったのであった。寺には この前の時の知合の僧侶がいた。
 彼も少なからず驚いて上へ招じて呉れた。そして、朝から酒ばかり飲んで何をする人か あの時はさっぱり解らなんだが、という四年前の囘顧談かいこだん【過去の話】などが出た。あの時は三度々々 梅干ばかりさしあげたが、今では寺でも相当の用意がしてある故、どうぞゆっくりして行って呉れ、と勧められた。実は梅干すらその時は出し惜しまれたのであった。そして明けても暮れてもばかりであった。天気も悪く、寺は毎日 雲霧うんむに包まれていた。で、麩化登仙ふかとうせん羽化登仙うかとうせんをもじった】の熟語を作って自ら慰めたものである。人に眼だたない廊下の隅がその時のの居場所であり飲場所であった。
12/14
その隅を眺めつつ四年の昔を恋しく思った。
 寺の中もすっかり綺麗になっていた。それとなく聞いてみると今夜 豊橋の実業家たちが登って来て仏法僧を聞きながら寺で謡曲会を開くのだという。――君と相顧み、麦酒など勧められるのをも辞して別れた。東照宮の方に行く【道】で、見覚えのある老爺に出会った。寺の寺男である。毎日のために飲料を麓から運んで呉れた恩人であった。銀貨を紙にひねり、不審がる彼に渡して別れた。
 宿屋に帰り、折柄おりから【その時】の自動車に飛び乗り、長篠に出で、折角の奇遇をこのまま別れるも辛く、其処より二三駅上手かみての湯谷温泉まで行って共にゆっくり話そうということになり、電車に乗った。車内は相当にこんでいたが、湯谷駅に近づくや みな降り仕度をし始めた。名古屋辺から来た所謂 散財の客らしい。また相苦笑して其処を乗越し、終点駅川合まで出てしまった。そして其処にだ一軒の宿屋 二木屋 というに荷物を置き、行く所もないままに百間滝などという辺を散歩した。このあたり豊川も もうほんの渓谷となり、下駄ばきのまま徒渉としょう【川などを歩いてわたる】出来るのであった。岸の岩には相変らず躑躅ツツジが咲き、河鹿が頻りに鳴いた。
 夜、柄にもなく旅愁を覚え、この病身の初対面の友を相手には酒を過した。そしてついに芸者と名乗る女をも呼んで伊奈節を聞いたり唄ったりした。宿屋の前の往還おうかん【街道】が信州伊奈に通ずるものであることを聞いて思いついた事であったろう。
「先生、いっそ伊奈まで行きましょうか。」
 四五杯の酒に酔った年若い友は その痩せた手を挙げて言った。
 六月二十五日。
 頭をよくするどころか、へとへとになって、夜遅く沼津に帰った。静かになろう、静かになろうと努めつつ いつか知ら結果はその反対になる、いつもの癖を身にしみじみと感じながら。
 硯はよき土産であった、机の上に静かである。鳳来寺の山よ。
13/14
ねがわくは永久に静かな山であって呉れ。




底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月8日公開
2012年12月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
大変ありがとうございました。感謝致します。(シン文庫追記)
14/14