発動機船は桟橋を離れようとし、若い船員は
纜【船を繋ぎとめておく綱】を解いていた。
惶てて切符を買って桟橋へ駈け出すところを
私は呼びとめられた。いま休んでいた待合室内の茶店の
婆さんが、膳の端に
私の置いて来た銀貨を
掌にしながら、勘定が足りないという。足りない筈はない、四五十銭ばかり茶代の積りに余分に置いて来た。
「
そんな筈はない、よく数えてごらん。」
振返って
私はいった。
「
足らんらん【足らん足らん】、なアこれ……」
其処を掃除していた
爺さんをも呼んで、酒が幾らで
肴【酒のつまみ】が幾らでこの銭はこれ/゛\で、と勘定を始めた。
私はそれを捨てておいて船へ乗ろうとした。
爺さんと
婆さんは追っかけて来た。切符売場からも男が出て来た。船の窓からも二三の顔が出た。止むなく
私は立ち留った。そして
婆さんの掌の上の四五枚の銀貨を数えた。どうも足りない筈はない。
「
これでいいじゃァないか、四十銭ばかり多いよ。」
「
馬鹿なことを……」
婆さんの声は
愈々尖った。そして、酒が幾らで、
肴が幾らで、と指を折り始めた。
私もそれを数えてみた。そして、オヤオヤと思いながら一二度数え直して見ると、矢っ張り
私の間違いであった。茶代抜きにして丁度五十銭ほど足りなかった。
私は帽子を脱いだ。そして五十銭銀貨二枚を
婆さんの掌に載せた。載せながら
婆さんの眼の
心底から
険しくなっているのに驚いた。汗がぐっしょり
私の身体に湧いた。
船は思いのほかに揺れながら走った。船内の腰掛には十人ほどの男女が掛けていた。
「
間違いというものはあるもんで……」
私の前に掛けていた
双肌【上半身】ぬぎの
爺さんは
私に言った。この
爺さんは茶店で
私が酒を飲んでいる時から二三度
私に声をかけていた。
「
イヤ、どうも、……」
私は改めて
額の汗を
拭いた。
今日は もう一つ
私は失敗をやっていた。
鷲津までの切符を買っていながら一つ手前の
新居町駅で汽車を降りた。浜名湖が見え出すと妙に気がせいて、ともすると新居町から汽船が出るのではないか知らという気になったからであった。が、
矢張り淡い記憶の通り、
鷲津から出るのであった。そして通りがかりの自動車を雇って
鷲津の汽船発着所へ着いたのである。
然しその時の船はもう出ていた。次の正午発まで一時間半ほど待たねばならぬ。そして
私は酒をとった。朝飯を五時に済まして来たので妙に食欲があり、茶店で出した
肴だけでは足りなかった。茶店の
婆さんは附近の宿屋だか料理屋だかに電話をかけて二三品のものを取り寄せて
呉れた。それこれの勘定が間違のもととなったわけである。
永年の酒の毒が
漸く身体に表れて来た。ことに大厄だという今年の正月あたりから めっきりと五体の
其処此処に出て来た。この半年、外出らしい外出すらしないで
私は部屋に
籠っていた。花のころ、若葉のころ、毎年必ず出かけていた旅にもよう出ないで【出かけることができずに】、我慢していた。それがこの梅雨の季節に入って いよいよ頭が
鬱して【心が沈んで】来た。いっそ息抜きに何処かへ出かけてでも見るがよくはないかと自分にも思い、家人も言うので
企てられた今度のこの浜名湖めぐりから三河行の小さな旅行であった。そして その第一日 早々から重ねられたこれらの失敗であった。
湖全体を一周するには別に船を仕立てねばならなかった。
私の乗ったのは
鷲津から湖の西岸に沿って
気賀町まで行くものであった。肌ぬぎの
爺さんは いろいろと山や土地の名などを教えて
呉れた。梅雨晴とも梅雨曇とも言い得る重い日和で、うす濁りの波の色は黒く見えた。湖を囲む低い
端山【人里近くの低い山】の列も黒かった。物洗い場かとも見ゆる簡単な船着場に二三度船は止って、一時間もした頃
館山寺に着いた。
私は裾を
端折って【引き上げて帯に挟んで】
降り仕度をしながら、いかにも酒ずきらしいこの
爺さんに言った。
「
お爺さん、一緒に降りませんか、次の船の来る間、一杯御馳走しましょう。」
爺さんは
仰山【大げさ】に打ち消した。
「
とんでもねェ、わしはこれで気賀で降りて、其処から荷物を背負ってまだ五里も歩かなくちゃならねェ。」
館山寺は古い由緒のある寺だとかだが、ひどくすたれて、
此頃では ただ新しい遊覧地として聞え出して来た、と
謂った所であった。殆んど島かと見ゆる小さな半島全体が
円やかな岡となり、
汀【波打ちぎわ】からいただきにかけ、みっちりと
稚松が茂っていた。寺の横から岡を越えて裏に出ると、広い湖面に
臨んだ小さな断崖となっていた。腰をおろし、
帽【帽子】をぬげば、よく風が吹いた。そして
漸く
私は、
『ヤレ、ヤレ。』
という気になった。
湖には釣舟が幾つか浮び、三味線 太鼓の起って居る
所謂 遊覧船も
一艘見えていた。風のためか日光のせいか、湖いちめんがほの白く輝いて見えた。岡の松はみな赤松であった。そして その下草にところ/″\
山梔子が咲いていた。花の頃の思わるるほど、
躑躅の木も多かった。岡のあちこちに設けられた
小径はまだ真新しく、新聞紙など散らばっていた。惜しいと思ったは稚松の間に混っていた
椎の老木を幾つとなく伐り倒したことで、みな
一抱え
二抱えの大きいものであったらしい。恐らく美しい小松ばかりの山にせんために伐ったものであろう。
二十分もかかったか、
私は岡を巡って寺に出た。次の船の来る迄には まだ二時間もある。止むなく寺の前の料理兼旅館の山水館というに寄った。上にあがれば めんどうになると思ったので、庭づたいに奥に通って
其処の縁側に腰かけながら、
兎に
角く 一杯を注文した。
庭さきの水際の
生簀に一人の男が出て行った。
私のために何か料理するものらしい。そして当然 鯉か鮒が
其処から
掬い上げられるものとのみ思って何気なく眺めていた
私は 少なからず驚いた。思わず立ち上ってその手網を見に行った。見ごとな
鯒がその中に跳ねていた。
「
ホヽウ、此処に海の魚がいるのかネ。」
番頭の方が
寧ろ不思議そうに
私を見た。
「
よく釣れます、今朝お立ちになったお客様は ほんの立ちがけに子鯖を二十から釣ってお持ちになりました。」
宿屋の前は背後の岡と同じ様な小松の岡にとりかこまれた小さな入江になっていた。入江というより大きな淵か池である。青んで
湛えた水面には岸の松樹の影が つばらか【つまびらか】に映って居る。
其処から鯖の子を釣りあぐる……、何としても
私には変な気がした。聞けば今は子鯖と
かわはぎの釣れる盛りだという。
かわはぎは皮剥ぎの
謂【由来の名前】で、形の可笑しな魚だが、肉がしまっていておいしい。
私の好物の一つである。
兎に
角、浜名湖は淡水湖【湖水の塩分濃度が1リットルあたり0.5グラム以下の湖】なりや
鹹水湖【塩分が海水と同程度(約35グラム/L)かそれ以上の濃度】なりやとむずかしく考えずとも、汽船で一時間も奥に入り込んで来た此処等のこの山の蔭にこれらの魚が
棲んでいようとは どうも考えにくい事であった。
館山寺前の入江を出た船は袋の口の様な細い入口を通って また他の入江に入って行った。此処はやや大きく、
引佐細江という。細江の奥、
下気賀で船を乗換えた。今度の小さな発動機船は入江を離れて、堀割りに似た
都田川というを溯るのである。川の西岸にうち開けて、ひたひたに水をたたえている広田には 何やら
藺【イグサ】の様ものが いちめんに植え込んである。乗合の婦人に尋ねると、あれは
ルイキユウですとのことであった。
気賀町に上った
私は迷った。予定どおりだと
其儘 軽便鉄道【一般的な鉄道よりも規格が簡便で、安価に建設された鉄道】に乗って終点 奥山村に到り
半僧坊【天狗のような姿をした山の守り神を祀った寺】に
詣でて一泊、翌日は
陣座峠というを越えて三河に入り、
新城町に
病臥【病気で床につく】している
友人を見舞い、天気都合がよければ
鳳来寺山に登って仏法僧【『森の宝石』と呼ばれる美しさから、フクロウの仲間のコノハズクが鳴く『ブッポウソウ(仏法僧)』の声の主と間違われ、霊鳥とされていた】を聴く、というのであった。が、気賀町には我等の歌の 結社 創作社 社友
Y――君が住んでいた。自分の身体の具合もあるので 今度は途中 誰にも逢わないで行き過ぎるつもりで出て来たのだが、サテ、実際その人の土地に入り込んで見ると
一寸でも逢っていきたい。それこそ玄関ででも逢って、それから軽便鉄道に急いでも遅くはあるまいと、通りがかりの女学生に訊くと この友の家は直ぐ解った。
私の名を聞いて奥から出て来た背の高い
友の白髪は、この前逢った時より一層ひどいものに眼についた。その細君には初対面であった。
頻りに固辞したが、
終に下駄をぬがせられ、やがて一晩 厄介になる事になってしまった。そして夕飯の仕度の出来るまで、近くを散歩した。公園の何山とかいうに登れば眺望がいいとの事であったが、
労れていて出来なかった。銭湯に行くすら
億劫であった。労れるわけはないのだが、久し振に家を出た気づかれとでもいうであろう。或は失敗労れであったかも知れない。
気賀町は
寂びて【古めかしい味わい】静かな町に見えた。昔、何街道とかの要所に当り、関所の
趾をそのままにとってある家などあった。町はずれを浅く清らかな
伊井谷川が流れていた。橋に立って見ると、鮎や
鮠の群れて遊んでいるのがよく見えた。泳いでいる魚の姿を久し振に見た。
この
友は この附近で小学校の校長を長い間やっていた。それをこの四月にやめて、今は土地に新設された実科女学校に出ているとの事であった。広くもない庭に、植えも植えたり、蟻の這う隙間もないまでに色々なものが植えてあった。いま花の眼についたは、
罌粟、
菖蒲、孔雀草、百日草、鳳仙花、其他、梅から 柿 梨
茱萸のたぐいまで植え込んである。その間にはまた、ちしゃ【レタス】、きゃべつ、こんにゃくだま、などの野菜ものも雑居しているのである。それでいて何処か落ちついている。妙に調和した寂びが感じられた。
夜は酒嫌いで言葉少なのこの
友を前に
私は一人して飲み一人して
喋舌った、これだから誰にも逢ってはいけないと思ったのにと思いながら。
六月二十二日。
学校を一日なまけて
Y――君も今日一日
私と歩こうということになった。停車場の附近にも昨日見た
ルイキユウの田が広い。聞けばこれは琉球から取り寄せた
藺だそうで、それを土地の人は
ルイキユウと呼び、稲よりもこれを作る者が多くなっているそうだ。
畳表 其他の材料として
支那の方にも行くという。
伊井谷神社の深い森を車窓に眺めて過ぎた。
宗良親王を
祀るところという。親王のお歌は若い頃
私の
愛誦【詩文などを好んで口ずさむ】したものであった。程なく奥山終点着。
奥山半僧坊の名は かなり聞えている。で、
私は何とはなしに成田の不動の様な盛り場を想像していたが、案外に静かな山の中の寺であった。門前町に三四軒並んでいる宿屋なども、なつかしい古び様を見せていた。
奥山の村を外れて陣座峠の
路にかかる。
路は
伊井谷川の源とも見受けられる
渓に沿っていた。渓は細く、岩の床で、岸の一方は直ちに雑木林となっていた。流れつ
湛えつしている水際には
岩躑躅が到るところに咲いていた。いよいよ登りにかかろうとするあたりで水を飲もうと谷ばたに降りていくと、
其処の
澱みには大きな
やまと鮠が四五
疋、影も静かに浮んでいた。谷のいよいよ細くなったあたりの岩の蔭には
あぶらめといふ魚が遊んでいた。幼い時、三尺か四尺の釣竿でこれらの魚を釣って歩いた故郷の山奥の渓が思い出された。空は昨日と同じく晴とも曇ともつかない梅雨の空であった。
陣座峠は
遠江と三河との国境に当って居る。国境の山というと大きく聞えるが、
僅か一千五百尺ほど【約455m弱】の高さ、登りも下りも穏かな傾斜で、明るい峠であった。ことに
遠州路の方は木立が深くて登るに涼しかった。その深い木立の下草に
諸所【あちこち】
木苺の
実がまっ黄に熟れていた。いい歳をした二人、ことに一人は半白以上の白髪、あとの一人にも この頃めっきりそれが見えだして来たという二人は われさきにとその小さい粒の実を摘みとってたべた。
八合目ほどの所の
路ばたに よく
囀る
眼白鳥の声を聞いた。見れば
其処の木の枝に
籠がかけてあった。見
廻すと近くの木蔭に壮年の
男がしゃがんで険しい眼をして我等を見ていた。声をかけて通りすぎると程なく峠、丁度時間もいいので用意の
握飯を出して昼にした。
私は半僧坊で二合
壜【約360ml】を仕入れて来ていたので 先ず それにかかった。すると
Y――君も
亦た一本とり出して、とても一本では足るまいと思って……、と笑いながら差出した。
松の蔭で、あたりには遅い
蕨などが萌え立って居り、三河路の方から涼しい風が吹きあげて来た。
其処へ先刻の
男が
眼白籠【メジロを飼うための籠】を
提げてやって来た。そして変な顔をして立ちどまっていたが、
其儘其処に坐ってしまった。
Y――君は持っていた
盃をさした【差し出したが】が、酒は大嫌いだとて受けなかった。三十前後の屈強な身体で、眼尻のたるんだ、唇の厚ぼったい
男であった。話好きと見え、ほぼ三四十分の間、一人で
喋舌っていた。おめェたちは一体何処で何の身分で、何をしに
斯んなところに来たのか、というのが
彼の話題の第一であった。根掘り葉掘り訊いた上、
「
どうも、さっぱり解らねェ。」
と諦めた。そして代りに自分自身の事を語り始めた。何処何処の生れで、何処
其処とさんざ苦労をした
揚句、今では斯んな所に引っ込んで何とか線の線路工夫をしていると語った。
「
線路工夫……?」
と聞きとがめると、
Y――君が、
「
いいエ、電灯線の線路工夫でしょう、此頃この辺に引かれた電灯線があるのです。」
と説明した。
眼白でも飼はねばなァ、斯んな山の中では何の楽しみもねェ、と言いながら
彼は立ちがけに、
私のころがして置いた空壜を取りあげて、これ、貰って行くよ、酢を入れとくにいいからナ、と どんぶりに入れた。
我等も程なく
其処を立った。するとまた
眼白籠が
路ばたの枝に懸けられ、鳥ばかりが
高音を張って、見
廻しても その
主人公はいなかった。
「
ア、あんな所に!」
見れば成程、
路から
一寸 離れた
櫟や小松の雑木林の中に立ててある真新しい電柱の上に登って
彼は何やら為しつつある所であった。
下りつけば
其処は幾つかの小山の裾の落ち合った様なところで、狭い沢となっていた。片寄りに一すじの渓が流れ、あちらの山こちらの山の根が たに すべてで十二三軒もあろうかと思われる
藁家【藁を圧縮してブロック状にしたものを壁材として用いて建てられた家】が見えた。それらの家に囲まれた様な沢は みな麦の畑で、黄いろくも黒くも見えるそれを せっせといま刈っていた。
黄柳野村というのであった。
村に一本の
路を急いで居ると ツイ路ばたにすっかり戸障子をあけ放した一軒の家があった。
そして部屋の中にも
軒端【軒先】にも いっぱいに
眼白籠が懸けてあり、とり/″\に
囀り交していた。部屋の中には酌婦あがりとも見られる色の黒い三十年増【娘盛りを過ぎた女性】が一人坐って針をとっていた。
友人と
私とは
相顧みて【お互いが過去を振り返って】、微笑した。
狭い村を通り終れば
路はまた登りとなった。
吉川峠という。
山は陣座峠より浅かった【低かった】。そして雑木の茂った
灌木【背丈の低い木】林の中に沢山の
黄楊が見かけられた。
犬黄楊らしかったが、殆んどその木ばかりの茂った所もあった。さっき通った村の名もこれから出たのだと思われた。陣座峠でも見かけたが、
私には珍しい山百合があちこちと咲いていた。茎は極めて細く、花もしなやかで、色がうすもも色であった。普通の、白い百合も
稀に咲いていた。
労れて来たせいか、今度の
下りは長かった。
自ずと話がはずんだが、元気のいい話ではなかった。自分の
為事【仕事】の不平、朝夕の暮しの愚痴、健康の不安、中にもこの
友が自分の子供に対する心配などは身にしみて聞かれた。
やがて、麦刈り、
田鋤き、桑摘みの忙しそうな村に出た。
埃の立つ道を急ぐともなく急いで、漸く豊川の岸に出た。偶然にも道はこの前同じく
新城の
友を訪ねて来た時 散歩に出て渡った弁天橋の上に出た。高い橋、深い淵、淵の尻の真白な瀬、
私たちは
暫く橋の上に坐って帽子をぬいだ。
ともすると その
枕許に坐って話をする事になりはしないかと気遣って来た新城町の友
K――君は幸にも起きていた。
而かも
私の訪問が だしぬけであったので、
呆気にとられながら小躍りして喜んだ。
然し、いつもながら声はろくに出なかった。結核性の
咽喉【のど】の病気にかかって六七年も
私の沼津に来て
養生していたのだが、この数ケ月前、
其処を引上げて郷里に帰っていたのである。その
姉も、その
父も、
友に劣らずこの突然の訪問を喜んだ。
姉も、
父も、この病人のために全てを犠牲にしていると
謂った様な境遇に在る人たちなのである。
突然ではあり、時間ではあり、ことに初めての気賀町の客人のために町の料理屋に出て夕飯をとろうという事になった。
それを聞くと
Y――君は驚いて、イイエ
私は帰りますという。これからどうして帰れます、それに折角の事だから、と家の人たちも総がかりで留めたが、一日はまだしも二日とはどうも学校が休めない、と言って立ち上った。なァに四五里の道だし自転車ならわけはありません、と
私の顔を見て笑いながら言った。
私には いま漸く
彼があの乗れもしない
山坂路を一生懸命になって自転車を押して来たわけが解った。帰りは無論その山坂路でなく、他にいい道路があるのだそうである。そしてその車のベルを鳴らしながら、たけ高い【背の高い】うしろ姿を見せて
彼は帰って行った。夏のことだで、まだざっと二時間は明るいが、楽ではないぞ など此処の老
父はそれを見送りながら言った。
然し、夕飯には町へ出る事になった。たって止めたが早や立ち上ったこの
友の、両手を振りながら出もしない声を絞って、
先生、
後生【お願いですから】ですから
私のために
だし になって下さい、
私だって たまには明るい所へ出て行きたいですよ、というのを聞くと、矢張りいなめなかった【断れなかった】。その
父と
姉と
友と
私と、わざと町裏の田圃路を通って この前来た時も行った事のある遠い料理屋へ出かけて行った。新城町は桑畑の中に在り、
兵児帯【男物の帯の一種】の様な長いながい一筋町【1本の通りに沿って家や店が並んでいる長い町】である。
杯をなめながら、席に出た芸者たちから
私は意外な事を聞いた。
鳳来寺山の仏法僧聴きが
近来【最近】急に流行り出し、なお その宣伝のため土地の有志に招かれて わたしたち一組は昨夜出かけ、残る一組は今夜鳳来寺に仏法僧聞きに行っている、というのだ。呆れながら、お前たちがあの鳥を聞いて何にするのだ、と言えば、いいえ、お客様ごとにその事を
吹聴して勧めるのですよ、という。その代り仏法僧は
近来頻りに啼くのだそうだ。この前、
私の聴きに来た時は山の上の寺に
九晩泊って辛うじて二晩だけ聴き得たのであった。今は行きさえすれば毎晩聞けるという。声を絞って
友人は言った、仏法僧もえらく商売気を出したもんですネ、と。
「
それも先生のおかげサ。」
早や酔って顔は真赤に、豊かな
頬鬚のつやつやと白い老
父は笑った。この前来た時、
私は『鳳来寺紀行』にこの鳥の事を書いて雑誌『改造』に出した。それが今まで殆んど無関心であったこの附近の人たちに意外な反響を
喚んだのだそうだ。
現に主要な停車場には仏法僧の絵をかいたポスターが張られ、
私の文章の中の文句が大きな字で引かれてあるという。
六月二十三日。
私の居る事は この
友人の身体によくない様に思いながら昼過ぎまでも
愚図々々していた。その間、
私の膝の側には朝からずっと盃と
徳利とが置いてあったのである。豊川の鮎の
蓼酢【ヤナギタデの葉をすりつぶし、酢でのばした調味料】など、
近来になくうまいものであった。
昨夜の芸者の話で鳳来寺行きは かなり興が醒めたが、
然し毎晩啼くという仏法僧を楽しみに矢張り出かける事にした。電気に変った豊川鉄道で長篠駅下車、驚くべし
其処には鳳来寺行 乗合自動車【バス】が出来ていた。沿って走る
寒狭川の岸の岩には、昨日名も無い渓で見て来たと同じく岩躑躅が咲きこぼれていた。
直ぐ鳳来寺の山に登り、寺に一二泊を頼もうかと思ったが、今では
其処にも毎晩十人位いの泊客があると聞いたので遠慮され、とりあえず麓の宿屋に一泊することにした。この宿屋もこの前の紀行には『これも
広重の絵などに見るべき造りの家である』と書いてある通り、
曽木板葺き【木を薄く削った板を重ねて屋根を
葺く工法】の古び果てた宿であったが 今は一枚ガラスの大戸を玄関に立てた立派な宿館に新築されてあった。通された二階はまだ
荒壁【仕上げを施していない壁】のままで、
唐紙【ふすま】もろくに入れてなかった。ようよう【やっと】畳だけは入れました、と宿の者は言った。
一ぷく吸ったまま
私は宿から二三軒先の
硯造りの家に出かけて二三の硯を買った。この山から出る
鳳鳴石というので その質のいい事をば かねて聞いていながら この前は荷になるのを恐れて買わなかった。今度は自動車 電車だから大丈夫である。
恐れていた
相合客【同じ部屋に宿泊する複数の客】は夜に入るまで来なかった。不思議なことです、と宿の主婦は呟いたが、
私は ほっかりした【
安堵した】。取り寄せた晩酌の酒のさまで でないのも嬉しかった。此処にも豊川の鮎が入っていた。
窓から見る宿の前の渓端に一つ二つと飛ぶ蛍が見えだした。それまでに山の方で啼いていた いろいろの鳥の声も静まった。軒を仰ぐと、曇っているが月明りのある空である。その空を限って【縁取るように】
嶮しく
聳え立った
鳳来寺山の
山の
端は次第に墨色深く見えて来た。
其処へ、心おぼえの啼声が聞えて来た。
[
:
しおり] 若山牧水-梅雨紀行(10 / 14)
まさしくあの鳥である。仏法僧の声である。月を負うた山の闇から、闇の底から落ちて来る、とらえどころのない深い/\声である。聴き入れば聴き入るだけ魂の誘われてゆく声である。玉をまろがす【丸める】と言っては明るきに過ぎ、
帛を裂くと言っては鋭きに過ぐる。無論、
仏、
法、
僧などの乾いた
音色では ゆめさら無く、
郭公、
筒鳥の寂びた声に
較べて【比べて】は更に数段の強みがあり、つやがある。眼前に見る大きな山全体のたましいの さまよい歩く声だとも言いたいほど、何とも形容する事の出来ない声である。
「
ア、啼く、啼く、……」
私はいつか窓際にすり出て、両手を耳にあて、息を引きながら聴き入った。相変らず所を移して啼く。一声二声啼いては所を変える。
暫くも同じところに留らない。ともすれば、山そのものが動いているかとも聞きなさるることすらある。
私は膳を窓側の縁に移した。一杯飲んでは耳に手をあて、一杯飲んでは眼を
瞑った。二三本も飲んだが、一向に酔わない。
「
よう啼きますやろ。」
宿のお婆さんが笑いながらお銚子を持って来た。
流石に
私もきまりが悪くなり、それを済ますと床についた。
この鳥の啼声を文字に移し得ざる事を
憾む【恨む】。
内田清之助博士著『鳥の研究』の中に『高野山中学校教諭
榎本氏が幾年かに渉って聞かれた所によれば次の如くである。』として、
この鳥の啼く声はギョブッコー、ギョブッコー、或はグブックォーと聴えるものを凡そ一秒弱の間を揷んで繰返し、時々はギョブックォー、コー、或はギョブッ、ギョブッ、クォーを加える。ギョブックォー、コー、の場合には第二音クォーと第三音コーとの間に、第一音と第二音との間よりも、少し長い間を置き、且つ第三音コーは第二音よりも調子低く、またギョブッ、ギョブッ、クォーの場合には各間隙に長短はなく、殆んど三音を連唱する。下略。
云々と書いてある。流石によく調べてある。
強いて書けば先ず
斯うであろう。
[
:
しおり] 若山牧水-梅雨紀行(11 / 14)
が、
本物とこれとの差は雀と仏法僧との差に相等しい。
枕許の水を飲むために眼を覚す。
啼いている。
夜の更けたためか、或は麓近く移って来たか、
宵の口【日が暮れたばかりのころ】より一層澄んで聞える。
起きて窓に
凭る【もたれる】と、月も曇を
拭って【消し去って】照っていた。山の森の茂みにも月の光があった。そして、
宵の口は多く右の、ギョブッコー、ギョブッコー、の二声ずつを啼いたに夜の更けてからは、ギョブッ、ギョブッ、コーの三声を続ける啼きかたをしていた。この啼きかたは非常に迫って聞える。
六月二十四日。
朝、洗面所で顔を洗っていると、その横の部屋から一人の泊客、痩せた
青年が出て来て
私を見ているらしかったが、不意に牧水
先生ではないか、と言う。君は、と問う返すと意外にも前の
Y――君や
K――君たちと同じく我等の創作社々友
T――君であった。この人は入社して何年にもならないが、歌に異色【特色】があり、印象の深い人であった。同じく昨夜 仏法僧聞きに来ていたのであると。
彼は名古屋の八高の生徒である。
朝食を共にし、一緒に山に登った。実は昨夜よく聞いたには聞いたが、耳の悪い
私には、もう少し近かったら、の
慾【欲】が出たのである。そして山の寺に一二泊を頼もうと思ったのであった。寺には この前の時の知合の
僧侶がいた。
彼も少なからず驚いて上へ招じて
呉れた。そして、朝から酒ばかり飲んで何をする人か あの時はさっぱり解らなんだが、という四年前の
囘顧談【過去の話】などが出た。あの時は三度々々 梅干ばかりさしあげたが、今では寺でも相当の用意がしてある故、どうぞゆっくりして行って
呉れ、と勧められた。実は梅干すらその時は出し惜しまれたのであった。そして明けても暮れても
麩ばかりであった。天気も悪く、寺は毎日
雲霧に包まれていた。で、
私は
麩化登仙【
羽化登仙をもじった】の熟語を作って自ら慰めたものである。人に眼だたない廊下の隅がその時の
私の居場所であり飲場所であった。
[
:
しおり] 若山牧水-梅雨紀行(12 / 14)
その隅を眺めつつ四年の昔を恋しく思った。
寺の中もすっかり綺麗になっていた。それとなく聞いてみると今夜 豊橋の実業家たちが登って来て仏法僧を聞き
乍ら寺で謡曲会を開くのだという。
T――君と相顧み、麦酒など勧められるのをも辞して別れた。東照宮の方に行く
途【道】で、見覚えのある
老爺に出会った。寺の
寺男である。毎日
私のために飲料を麓から運んで
呉れた恩人であった。銀貨を紙に
捻り、不審がる
彼に渡して別れた。
宿屋に帰り、
折柄【その時】の自動車に飛び乗り、長篠に出で、折角の奇遇をこのまま別れるも辛く、
其処より二三駅
上手の
湯谷温泉まで行って共にゆっくり話そうということになり、電車に乗った。車内は相当にこんでいたが、湯谷駅に近づくや みな降り仕度をし始めた。名古屋辺から来た所謂 散財の客【金銭を惜しまずに使う客】らしい。また相苦笑して
其処を乗越し、終点駅川合まで出てしまった。そして
其処に
唯だ一軒の宿屋 二木屋 というに荷物を置き、行く所もないままに
百間滝などという辺を散歩した。このあたり豊川も もうほんの渓谷となり、下駄ばきのまま
徒渉【川などを歩いてわたる】出来るのであった。岸の岩には相変らず
躑躅が咲き、河鹿が
頻頻りに鳴いた。
夜、柄にもなく
旅愁【旅先で感じる物寂しい気持ち】を覚え、この病身の初対面の
友を相手に
私は酒を過した。そして
終に芸者と名乗る女をも呼んで伊奈節を聞いたり唄ったりした。宿屋の前の
往還【街道】が信州伊奈に通ずるものであることを聞いて思いついた事であったろう。
「
先生、いっそ伊奈まで行きましょうか。」
四五杯の酒に酔った年若い
友は その痩せた手を挙げて言った。
六月二十五日。
頭をよくするどころか、へとへとになって、夜遅く沼津に帰った。静かになろう、静かになろうと努めつつ いつか知ら結果はその反対になる、いつもの癖を身にしみじみと感じながら。
硯はよき土産であった、机の上に静かである。鳳来寺の山よ。
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しおり] 若山牧水-梅雨紀行(13 / 14)
希くは永久に静かな山であって
呉れ。
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底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月8日公開
2012年12月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、
シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。感謝致します。
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しおり] 若山牧水-梅雨紀行(14 / 14)