ドグラ・マグラ
夢野久作


巻頭歌

胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか

 …………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
 がウスウスと眼を覚ました時、こうした蜜蜂みつばちうなるような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、の耳の穴の中にハッキリと引き残していた。
 それをジッと聞いているうちに……今は真夜中だな……と直覚した。そうしてどこか近くでボンボン時計が鳴っているんだな……と思い思い、又もウトウトしているうちに、その蜜蜂のうなりのような余韻は、いつとなく次々に消え薄れて行って、そこいら中がヒッソリと静まり返ってしまった。
 はフッと眼を開いた。
 かなり高い、白ペンキ塗の天井裏から、薄白い塵埃ほこりおおわれた裸の電球がタッタ一つブラ下がっている。その赤黄色く光る硝子球ガラスだまの横腹に、大きなはえが一匹とまっていて、死んだように凝然じっとしている。その真下の固い、冷めたい人造石の床の上に、は大の字なりに長くなって寝ているようである。
 ……おかしいな…………。
 は大の字なり凝然じっとしたまま、まぶたを一パイに見開いた。そうして眼のたまだけをグルリグルリと上下左右に回転さしてみた。
 青黒い混凝土コンクリートの壁で囲まれた二けん【約3.6m】四方ばかりの部屋である。
 その三方の壁に、黒い鉄格子と、鉄網かなあみで二重に張り詰めた、大きな縦長い磨硝子すりガラスの窓が一つずつ、都合三つ取付けられている、トテも要心ようじん堅固に構えた部屋の感じである。
 窓の無い側の壁の附け根には、やはり岩乗がんじょうな鉄の寝台が一個、入口の方向を枕にして横たえてあるが、その上の真白な寝具が、キチンと敷きならべたままになっているところを見ると、まだ誰も寝たことがないらしい。
 ……おかしいぞ…………。ほこり
 は少し頭を持ち上げて、自分の身体からだを見回わしてみた。
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 白い、新しいゴワゴワした木綿の着物が二枚重ねて着せてあって、短かいガーゼの帯が一本、胸高に結んである。そこから丸々とふとって突き出ている四本の手足は、全体にドス黒く、垢だらけになっている……そのキタナラシサ……。
 ……いよいよおかしい……。
 右手めてをあげて、自分の顔をでまわしてみた。
 ……鼻がんがって……眼が落ちくぼんで……頭髪あたま蓬々ぼうぼう【伸びてモサモサ】と乱れて……顎鬚あごひげがモジャモジャと延びて……。
 ……はガバと跳ね起きた。
 モウ一度、顔を撫でまわしてみた。
 そこいらをキョロキョロと見回わした。
 ……誰だろう……俺はコンナ人間を知らない……。
 胸の動悸がみるみる高まった。早鐘をくように乱れ撃ち初めた……呼吸が、それに連れて荒くなった。やがて死ぬかと思うほどあえぎ出した。……かと思うと又、ヒッソリと静まって来た。
 ……こんな不思議なことがあろうか……。
 ……自分で自分を忘れてしまっている……。
 ……いくら考えても、どこの何者だか思い出せない。……自分の過去の思い出としては、たった今聞いたブウ――ンンンというボンボン時計の音がタッタ一つ、記憶に残っている。……ソレッ切りである……。
 ……それでいて気はたしかである。森閑しんかんとした暗黒が、部屋の外を取巻いて、どこまでもどこまでも続き広がっていることがハッキリと感じられる……。
 ……夢ではない……たしかに夢では…………。
 は飛び上った。
 ……窓の前に駈け寄って、磨硝子すりガラスの平面を覗いた。そこに映った自分の容貌かおかたちを見て、何かの記憶をび起そうとした。……しかし、それは何にもならなかった。磨硝子すりガラスの表面には、髪の毛のモジャモジャした悪鬼のような、自身の影法師しか映らなかった。
 は身をひるがえして寝台の枕元に在る入口のドアに駈け寄った。
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鍵穴だけがポツンと開いている真鍮しんちゅうの金具に顔を近付けた。けれどもその金具の表面は、の顔を写さなかった。只、黄色い薄暗い光りを反射するばかりであった。
 ……寝台の脚を探しまわった。寝具を引っくり返してみた。着ている着物までも帯を解いて裏返して見たけれども、の名前はおろか、頭文字らしいものすら発見し得なかった。
 呆然ぼうぜんとなった。は依然として未知の世界に居る未知のであった。自身にも誰だかわからないであった。
 こう考えているうちに、は、帯を引きずったまま、無限の空間を、ス――ッと垂直に、どこへか落ちて行くような気がしはじめた。臓腑はらわたの底から湧き出して来る戦慄せんりつと共に、我を忘れて大声をあげた。
 それは金属性を帯びた、突拍子とっぴょうしもない甲高かんだかい声であった……が……その声はに、過去の何事かを思い出させる間もないうちに、四方のコンクリート壁に吸い込まれて、消え失せてしまった。
 又叫んだ。……けれども矢張やはり無駄であった。その声が一しきりはげしく波動して、渦巻いて、消え去ったあとには、四つの壁と、三つの窓と、一つの扉が、いよいよ厳粛に静まり返っているばかりである。
 又叫ぼうとした。……けれどもその声は、まだ声にならないうちに、咽喉のどの奥の方へ引返してしまった。叫ぶたんびに深まって行く静寂の恐ろしさ……。
 奥歯がガチガチと音を立てはじめた。膝頭ひざがしらが自然とガクガクし出した。それでも自分自身が何者であったかを思い出し得ない……その息苦しさ。
 は、いつの間にかあえぎ初めていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られぬ恐怖に包まれて、部屋の中央まんなかに棒立ちになったまま喘いでいた。
 ……ここは監獄か……精神病院か……。
 そう思えば思うほど高まる呼吸の音が、こがらしのように深夜の四壁に反響するのを聞いていた。
 そのうちには気が遠くなって来た。眼の前がズウ――と真暗くなって来た。
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そうして棒のように強直ごうちょくした全身に、生汗をビッショリと流したまま仰向あおむざまにスト――ンと、倒れそうになったので、吾知らず観念の眼を閉じた……と思ったが……又、ハッと機械のように足を踏み直した。両眼をカッと見開いて、寝台の向側の混凝土コンクリート壁を凝視した。
 その混凝土コンクリート壁の向側から、奇妙な声が聞えて来たからであった。
 ……それは確かに若い女の声と思われた。けれども、その音調はトテも人間の肉声とは思えないほどしゃがれてしまって、ただ、底悲しい、痛々しいひびきばかりが、混凝土コンクリートの壁を透して来るのであった。
「……お兄さま。お兄さま。お兄さま お兄さま お兄さま お兄さま お兄さま。……モウ一度……今のお声を……聞かしてエ――ッ…………」
 愕然がくぜんとして縮み上った。思わずモウ一度、背後うしろを振り返った。この部屋の中に、以外の人間が一人も居ない事を承知し抜いていながら……それから又も、その女の声をみ透して来る、コンクリート壁の一部分を、穴のあく程、凝視した。
「……お兄さま お兄さま お兄さま お兄さま お兄さま……お隣りのお部屋に居らっしゃるお兄様……あたしです。あたしです。お兄様の許嫁いいなずけだった……貴方あなたの未来の妻でしたあたし……あたしです。あたしです。どうぞ……どうぞ今のお声をモウ一度聞かして……聞かして頂戴……聞かして……聞かしてエ――ッ……お兄様 お兄様 お兄様 お兄様……おにいさまア――ッ……」
 眼瞼まぶたが痛くなるほど両眼を見開いた。唇をアングリと開いた。その声に吸い付けられるようにヒョロヒョロと二三歩前に出た。そうして両手で下腹をシッカリと押え付けた。そのまま一心に混凝土コンクリートの壁を白眼にらみ付けた。
 それは聞いている者の心臓を虚空に吊るし上げる程のモノスゴイ純情の叫びであった。臓腑はらわたをドン底まで凍らせずにはかないくらいタマラナイ絶体絶命の声であった。
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……いつからを呼び初めたかわからぬ……そうしてこれから先、何千年、何万年、呼び続けるかわからない真剣な、深いうらみの声であった。それが深夜の混凝土コンクリート壁の向うから? を呼びかけているのであった。
「……お兄さま……お兄さま お兄さま お兄さま。なぜ……なぜ返事をして下さらないのですか。あたしです、あたしです、あたしです あたしです。お兄さまはお忘れになったのですか。あたしですよ。あたしですよ。お兄様の許嫁いいなずけだった……あたし……あたしをお忘れになったのですか。……あたしはお兄様と御一緒になる前の晩に……結婚式を挙げる前の晩の真夜中に、お兄様のお手にかかって死んでしまったのです。……それがチャント生き返って……お墓の中から生き返ってここに居るのですよ。幽霊でも何でもありませんよ……お兄さま お兄さま お兄さま お兄さま。……ナゼ返事をして下さらないのですか……お兄様はあの時の事をお忘れになったのですか……」
 はヨロヨロと背後うしろ蹌踉よろめいた。モウ一度眼を皿のようにしてその声の聞こえて来る方向を凝視した……。
 ……何という奇怪な言葉だ。
 ……壁の向うの少女はを知っている。許嫁いいなずけだと言っている。……しかもと結婚式を挙げる前の晩に、の手にかかって殺された……そうして又、生き返った女だと自分自身で言っている。そうしてと壁一重ひとえを隔てた向うの部屋にめられたまま、ああして夜となく、昼となく、を呼びかけているらしい。想像も及ばない怪奇な事実を叫びつづけながら、の過去の記憶をび起すべく、死物狂しにものぐるいに努力し続けているらしい。
 ……キチガイだろうか。
 ……本気だろうか。
 いやいや。キチガイだ キチガイだ……そんな馬鹿な……不思議な事が……アハハハ……。
 は思わず笑いかけたが、その笑いはの顔面筋肉に凍り付いたまま動かなくなった。
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……又も一層悲痛な、深刻な声が、混凝土コンクリートの壁を貫いて来たのだ。笑うにも笑えない……たしかにを私と知っている確信にみちみちた……真剣な……悽愴せいそうとした……。
「……お兄さま お兄さま お兄さま。何故なぜ、御返事をなさらないのですか。あたしがこんなに苦しんでいるのに……タッタ一言……タッタ一言……御返事を……」
「……………………」
「……タッタ一言……タッタ一言……御返事をして下されば……いいのです。……そうすればこの病院のお医者様に、あたしがキチガイでない事が……わかるのです。そうして……お兄様もあたしの声が、おわかりになるようになった事が、院長さんにわかって……御一緒に退院出来るのに………お兄様 お兄様 お兄様お兄さま……何故……御返事をして下さらないのですか……」
「……………………」
「……あたしの苦しみが、おわかりにならないのですか……毎日毎日……毎夜毎夜、こうしてお呼びしている声が、お兄様のお耳に入らないのですか……ああ……お兄様 お兄様 お兄様 お兄様……あんまりです、あんまりです あんまりです……あ……あ……あたしは……声がもう……」
 そう言ううちに壁の向側から、モウ一つ別の新しい物音が聞え初めた。それは平手か、コブシかわからないが、とにかく生身なまみの柔らかい手で、コンクリートの壁をポトポトとたたく音であった。皮膚が破れ、肉が裂けても構わない意気組いきぐみ【意気込み】で叩き続ける弱々しい女の手の音であった。はその壁の向うに飛び散り、粘り付いているであろう血の痕跡あとを想像しながら、なおも一心に眼をみはり、奥歯を噛み締めていた。
「……お兄様 お兄様 お兄様 お兄様……お兄様のお手にかかって死んだあたしです。そうして生き返っているあたしです。お兄様よりほかにお便たよりする方は一人もない可哀想な妹です。
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一人ポッチでここに居る……お兄様はあたしをお忘れになったのですか……」
「お兄様もおんなじです。世界中にタッタ二人のあたしたちがここに居るのです。そうして他人ひとからキチガイと思われて、この病院に離れ離れになって閉じ籠められているのです」
「……………………」
「お兄様が返事をして下されば……あたしの言う事がホントの事になるのです。あたしを思い出して下されば、あたしも……お兄様も、精神病患者でない事がわかるのです……タッタ一言……タッタ一コト……御返事をして下されば……モヨコと……あたしの名前を呼んで下されば……ああ……お兄様 お兄様 お兄様 お兄様 お兄様……ああ……あたしは、もう声が……眼が……眼が暗くなって……」
 は思わず寝台の上に飛乗った。その声のあたりと思われる青黒い混凝土コンクリート壁にすがり付いた。すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを助けてやりたい……そうして自身がどこの何者かという事実を一刻も早く確かめたいという、タマラナイ衝動に駆られてそうしたのであった。……が……又グット唾液つばんで思いとどまった。
 ソロソロと寝台の上からすべり降りた。その壁の一点を凝視したまま、出来るだけその声から遠ざかるべく、正反対の位置に在る窓の処までジリジリと後退あとしざりをして来た。
 ……は返事が出来なかったのだ。否……返事をしてはいけなかったのだ。
 は彼女がの妻なのかどうか全然知らない人間ではないか。あれ程に深刻な、痛々しい彼女の純情の叫び声を聞きながらその顔すらも思い出し得ないではないか。自分の過去の真実の記憶としてび起し得るものはタッタ今聞いた……ブウウン……ンンン……という時計の音一つしか無いという世にも不可思議な痴呆患者のではないか。
 そのが、どうして彼女のおっととして返事してやる事が出来よう。
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たとい返事をしてやったおかげで、の自由が得られるような事があったとしても、その時にのホントウ【本当】の氏素性うじすじょうや、間違いのない本名が聞かれるかどうか、わかったものではないではないか。……彼女が果して正気なのか、それとも精神病患者なのかすら、判断する根拠を持たないではないか……。そればかりじゃない。
 万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものにほかならない としたら、どうであろう。がウッカリ返事でもしようものなら、それが大変な間違いの原因もとにならないとは限らないではないか。……まして彼女が呼びかけている人間が、たしかにこの世に現在している人間で、しかも、それが以外の人間であった としたらどうであろう。は自分の軽率かるはずみから、他人の妻を横奪よこどりした事になるではないか。他人の恋人を冒涜ぼうとくした事になるではないか……といったような不安と恐怖に、次から次に襲われながら、くり返し くり返し 唾液つばみ込んで、両手をシッカリと握り締めているうちにも、彼女の叫び声は引っ切りなしに壁を貫いて、の真正面から襲いかかって来るのであった。
「お兄様 お兄様 お兄様 お兄様 お兄様。あんまりです あんまりです あんまりです あんまりです あんまりです……」
 そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情のうらみの叫び……。
 頭髪かみを両手で引つかんだ。長く伸びた十本のつめで、血の出るほどきまわした。
「……お兄さま お兄さま お兄さま。あたし貴方あなたのものです。貴方のものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」
 てのひらで顔を烈しくコスリまわした。
 ……違う違う……違います違います。貴女あなたは思い違いをしているのです。僕は貴女あなたを知らないのです……。
 ……とモウすこしで叫びかけるところであったが、又ハッと口をつぐんだ。
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そうした事実すらハッキリと断言出来ない今の……自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生れ故郷は勿論の事……自分が豚だったか人間だったかすら、今の今まで知らずにいた……。
 拳骨げんこつを固めて、耳の後部うしろの骨をコツンコツンとたたいた。けれどもそこからは何の記憶も浮び出て来なかった。
 それでも彼女の声は絶えなかった。息も切れ切れに……ほとんど聞き取る事が出来ないくらい悲痛に深刻に高潮して行った。
「……お兄さま……おにいさま……どうぞ……どうぞあたしを……助けて……助けて……ああ……」
 はその声に追立てられるように今一度、四方の壁と、窓と、ドアを見まわした。駈け出しかけて又、立止まった。
 ……何にも聞えない処へ逃げて行きたい……。
 と思ううちに、全身がゾーッと粟立あわだって来た。
 入口のドアに走り寄って、鉄かと思われるほど岩乗がんじょうな、青塗の板の平面に、全力をげて衝突ぶつかってみた。暗い鍵穴を覗いてみた。……なおも引続いて聞こえて来る執念深い物音と、絶え絶えになりかけている叫び声に、しびれ上るほどおびやかされながら……窓の格子を両手でつかんでちから一パイゆすぶってみた。やっと下の方の片隅だけ引歪ひきゆがめる事が出来たが、それ以上は人間の力で引抜けそうになかった。
 はガッカリして部屋の真中に引返して来た。ガタガタふるえながらモウ一度、部屋の隅々を見まわした。
 はイッタイ人間世界に居るのであろうか……それともはツイ今しがたから幽瞑あのよの世界に来て、何かの責苦せめくを受けているのではあるまいか。
 この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の無間むげん地獄……何の反響も無い……聞ゆるものは時計の音ばかり……。
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 ……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに苛責かしゃくなまれ初めた絶体絶命のいき地獄……この世の事とも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げる事も出来ない永劫えいごう苛責かしゃく【永遠に続く責め苦や苦しみ】……。
 かかとが痛くなるほど強く地団駄じだんだを踏んだ……ベタリと座り込んだ…………仰向けに寝た……又起上って部屋の中を見まわした。……聞えるか聞えぬかわからぬ位、弱って来た隣室となりの物音と、切れ切れに起るむせび泣きの声から、自分の注意を引き離すべく……そうして出来るだけ急速に自分の過去を思い出すべく……この苦しみの中から自分自身を救い出すべく……彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。
 こうしては何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。けれどもの頭の中は依然として空虚からっぽであった。彼女に関係した記憶は勿論のこと、自身にいても何一つとして思い出した事も、発見した事もなかった。カラッポの記憶の中に、からっぽのが生きている。それがアラレもない女の叫び声にいまわされながら、ヤミクモに藻掻もがきまわっているばかりのであった。
 そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。次第次第に糸のように甲走かんばしって来て、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、とうとう以前もとの通りの森閑しんかんとした深夜の四壁に立ち帰って行った。
 同時にも疲れた。狂いくたびれて、考えくたびれた。ドアの外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が突立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったやら わからない最初の無意識状態に、ズンズン落ち帰って行った……。

 ……コトリ……と音がした。
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 気が付くとは入口と反対側の壁の隅に身体からだを寄せかけて、手足を前に投げ出して、首をガックリと胸の処まで項垂うなだれたまま、鼻の先に在る人造石の床の上の一点を凝視していた。
 見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。
 ……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……。
 という静かなすずめの声……遠くにすべって行く電車の音……天井裏の電灯はいつの間にか消えている。
 ……夜が明けたのだ……。
 はボンヤリとこう思って、両手で眼のたまをグイグイとコスリ上げた。グッスリと睡ったせいであったろう。今朝、暗いうちに起った不可思議な、恐ろしい出来事の数々を、キレイに忘れてしまっていたは、そこいら中が変にこわばって痛んでいる身体を、思い切ってモリモリモリと引き伸ばして、ちから一パイの大きな欠伸あくびをしかけたが、まだ充分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。
 向うの入口のドアの横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と、銀色の皿を載せた白木のぜんが入って来るようである。
 それを見た瞬間に、は何かしらハッとさせられた。無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し初めたのであろう。……われを忘れて立上った。爪先走りに切戸のかたわらに駈け寄って、白木の膳を差入れている、赤い、丸々と肥った女の腕をねらいすまして無手むずと引っつかんだ。……と……お膳とトースト麺麭パンと、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶とがガラガラと床の上に落ち転がった。
 はシャれた声を振り絞った。
「……どうぞ……どうぞ教えて下さい。僕は……僕の名前は、何というのですか」
「……………………」
 相手は身動き一つしなかった。白い袖口そでぐちから出ている冷めたい赤大根みたような二の腕が、の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。
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「……僕は……僕の名前は……何というのですか。……僕は狂人きちがいでも……何でもない……」
「……アレエ――ッ……」
 という若い女の悲鳴が切戸の外で起った。つかまれた紫色の腕が、力なく藻掻もがき初めた。
「……誰か……誰か来て下さい。七号の患者さんが……アレッ。誰か来てェ――ッ……」
「……シッシッ。静かに静かに……黙って下さい。僕は誰ですか。ここは……今はいつ……ドコなんですか……どうぞ……ここは……そうすれば離します……」
 ……ワ――アッ……という泣声が起った。その瞬間にの両手の力がゆるんだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へけ出したと思うと、同時に泣声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞えた。

 一所懸命にすがり付いていた腕を引き抜かれて、ハズミをくらったは、固い人造石の床の上にドタリと尻餅しりもちを突いた。あぶなく引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたようにそこいらを見まわした。
 すると……又、不思議な事が起った。
 今まで一所懸命に張り詰めていた気もちが、尻餅を突くと同時に、みるみる弛んで来るにれて、何とも知れない可笑おかしさが、腹の底からムクムクと湧き起り初めるのを、どうすることも出来なくなった。それはとてもタマラナイ程、変テコに可笑しい……頭の毛が一本ごとにザワザワとふるえ出すほどの可笑しさであった。魂のドン底からセリ上って、全身をゆすぶり上げて、あとからあとからもなく湧き起って、骨も肉もバラバラになるまで笑わなければ、笑い切れない可笑しさであった。
 ……アッハッハッハッハッ。ナアーンだ馬鹿馬鹿しい。名前なんてどうでもいいじゃないか。忘れたってチットモ不自由はしない。俺は俺に間違いないじゃないか。アハアハアハアハアハ………。
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 こう気が付くと、は いよいよ たまらなくなって、床の上に引っくり返った。頭を抱えて、胸をたたいて、足をバタバタさせて笑った。笑った……笑った……笑った。涙をんではせかえって、身体からだじらせ、じりまわしつつ、ノタ打ちまわりつつ笑いころげた。
……アハハハハ。こんな馬鹿な事が又とあろうか。
……天から降ったか、地から湧いたか。エタイのわからない人間がここに一人居る。俺はこんな人間を知らない。アハハハハハハハ……。
……今までどこで何をしていた人間だろう。そうしてこれから先、何をするつもりなんだろう。何が何だか一つも見当が附かない。俺はタッタ今、生れて初めてこんな人間とり合いになったのだ。アハハハハハ…………。
……これはどうした事なのだ。何という不思議な、何という馬鹿げた事だろう。アハ……アハ……可笑おかしい可笑しい……アハアハアハアハアハ……。
……ああ苦しい。やり切れない。俺はどうしてコンナに可笑しいのだろう。アッハッハッハッハッハッハッ……。
 はこうしてもなく笑いながら、人造石の床の上を転がりまわっていたが、そのうちにの笑い力が尽きたかして、やがてフッツリと可笑しくなくなったので、そのままムックリと起き上った。そうして眼のたまをコスリまわしながらよく見ると、すぐ足の爪先の処に、今の騒動のお名残りの三切れのパンと、野菜の皿と、一本のフォークと、せんをしたままの牛乳の瓶とが転がっている。
 はそんな物が眼に付くと、何故という事なしにタッタ一人で赤面させられた。
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同時に堪え難い空腹に襲われかけている事に気が付いたので、傍に落ちていた帯を締め直すや否や、右手を伸ばして、生温かい牛乳の瓶を握りつつ、左手でバタをすくった焼麺麭パンつかんでガツガツと喰いはじめた。それから野菜サラダをフォークに突っかけて、そのトテモたまらないお美味いしさをグルグルとほお張って、グシャグシャと噛んで、牛乳と一緒にゴクゴクとみ込んだ。そうしてスッカリ満腹してしまうと、背後うしろに横わっている寝台の上に這い上って、新しいシーツの上にゴロリと引っくり返って、長々と伸びをしながら眼を閉じた。
 それからは約十五分か、二十分の間ウトウトしていたように思う。満腹したせいか、全身の力がグッタリと脱け落ちて、てのひらと、足の裏がポカポカと温かくなって、頭の中がだんだんと薄暗いガラン洞になって行く……その中の遠く近くを、いろんな朝の物音が行きかい、飛び違っては消え失せて行く……そのカッタルサ……やる瀬なさ……。
 ……往来のざわめき。急ぐ靴の音。ゆっくりと下駄を引きずる音。自転車のベル……どこか遠くの家で、ハタキをかける音……。
 ……遠い、高い処でからすがカアカアといている……近くの台所らしい処で、コップがガチャガチャと壊れた……と思うと、すぐ近くの窓の外で、不意に甲走かんばしった女の声……。
「……イヤラッサナア……マアホンニ……タマガッタガ……トッケムナカア……ゾウタンノゴト……イヒヒヒヒヒ……」
 ……そのあとから追いかけるように、の腹の中でグーグーと胃袋が、よろこびまわる音……。そんなものが一つ一つに溶け合って、次第次第に遥かな世界へ遠ざかって、ウットリした夢心地になって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……。
 ……すると、そのうちに、たった一つハッキリした奇妙な物音が、非常に遠い処から聞え初めた。
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それはたしかに自動車の警笛サイレンで、大きな呼子の笛みたように……ピョッ……ピョッ……ピョッピョッピョッピョッ……と響く一種特別の高いであるが、何だか恐ろしく急な用事があって、の処へ馳け付けて来るように思えて仕様がなかった。それが朝の静寂しじまを作る色んな物音をピョッピョッピョッピョッと超越し威嚇しつつ、市街らしい辻々をあっちへ曲り、こっちに折れつつ、驚くべき快速力での寝ている頭の方向へ駈け寄って来るのであったが、やがて、それが見る見るに迫り近付いて来て、今にもの頭のモシャモシャした髪毛かみのけの中に走り込みそうになったところで、急に横にれて、大まわりをした。高い高いうなり声をあげて徐行しながら、一町ばかり遠ざかったようであったが、やがて又方向を換えて、の耳の穴にみ入るほどの高い悲鳴をげつつ、急速度で迫り近付いて来たと思うと、間もなくピッタリと停車したらしい。何の物音も聞えなくなった。……同時に世界中がシンカンとなって、の睡眠がシックリとこまやかになって行く…………。
 ……と思い思い、ものの五分間もいい心地になっていると、今度はの枕元の扉の鍵穴が、突然にピシンと音を立てた。続いて扉が重々しくギイイ――ッと開いて、何やらガサガサと音を立てて入って来た気はいがしたので、は反射的に跳ね起きて振り返った。……が……眼を定めてよく見るとギョッとした。
 の眼の前で、ゆるやかに閉じられた頑丈な扉の前に、小型な籐椅子とういすが一個えられている。そうしてその前に、一個の驚くべき異様な人物が、を眼下に見下しながら、雲をくばかりに突立っているのであった。


 それは身長六しゃく【約180cm】を超えるかと思われる巨人おおおとこであった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。
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薄く、長く引いたまゆの下に、くじらのような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は瀕死ひんしの病人みたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。鼻は外国人のように隆々とそびえていて、鼻筋がピカピカと白光りに光っている。その下に大きく、横一文字に閉ざされた唇の色が、そこいらの皮膚の色とと続きに生白く見えるのは、何か悪い病気にかかっているせいではあるまいか。ことにその寺院の屋根に似たダダッ広いひたいの斜面と、軍艦の舳先へさきを見るような巨大なあごの格好の気味のわるいこと……見るからに超人的な、一種の異様な性格の持主としか思えない。それが黒い髪毛をテカテカと二つに分けて、贅沢なものらしい黒茶色の毛皮の外套がいとうを着て、その間から揺らめく白金色プラチナいろたくましい時計のくさりの前に、細長い、蒼白あおじろい、毛ムクジャラのゆびみ合わせつつ、婦人用かと思われる華奢きゃしゃな籐椅子の前に突立っている姿はさながらに魔法か何かを使って現われた西洋の妖怪のように見える。
 はそうした相手の姿を恐る恐る見上げていた。初めて卵から孵化かえった生物いきもののように、息を詰めて眼ばかりパチパチさして、口の中でオズオズと舌を動かしていた。けれどもそのうちに……サテはこの紳士が、今の自動車に乗って来た人物だな……と直覚したように思ったので、れ知らずその方向に向き直って座り直した。
 すると間もなく、その巨大な紳士の小さな、ドンヨリと曇った瞳の底から、一種の威厳を含んだ、冷やかな光りがあらわれて来た。そうして、あべこべにの姿をジリジリと見下し初めたので、は何故となく身体からだが縮むような気がして、自ずと項垂うなだれさせられてしまった。
 しかし巨大な紳士は、そんな事をすこしも気にかけていないらしかった。極めて冷静な態度で、とわたりの全身を検分し終ると、今度は眼をあげて、部屋の中の様子をソロソロと見まわし初めた。
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その青白く曇った視線が、部屋の中を隅から隅まで横切って行く時、は何故という事なしに、今朝眼をましてからの浅ましい所業を、一つ残らず看破かんぱられているような気がして、一層身体を縮み込ませた。……この気味の悪い紳士は一体、何の用事があっての処へ来たのであろう……と、心の底で恐れ惑いながら……。
 するとその時であった。巨大な紳士は突然、何かにおびやかされたように身体を縮めて前屈まえこごみになった。慌てて外套のポケットに手を突込んで、白いハンカチをつかみ出して、大急ぎで顔に当てた。……と思う間もなくの方に身体を反背そむけつつ、全身をゆすり上げて、姿に似合わない小さな、弱々しい咳嗽せきを続けた。そうしてやや暫らくしてから、やっと呼吸いきが落ち付くと、又、おもむろにの方へ向き直って一礼した。
「……ドウモ……身体が弱う御座いますので……外套のまま失礼を……」
 それは矢張やはり身体に釣り合わない、女みたような声であった。しかしは、その声を聞くと同時に何かしら安心した気持になった。この巨大な紳士が見かけに似合わない柔和な、親切な人間らしく思われて来たので、ホッと溜息をしいしい顔を上げると、そのの鼻の先へ、うやうやしく一葉の名刺を差出しながら、紳士は又もき入った。
「……私はコ……ホンホン……御免……ごめん下さい……」
 はその名刺を両手で受け取りながらチョットお辞儀の真似型をした。


九州帝国大学法医学教授
             若林鏡太郎
医学部長


 この名刺を二三度繰り返して読み直したは、又も唖然あぜんとなった。眼の前に咳嗽せきを抑えて突立っている巨大な紳士の姿をモウ一度、見上げ、見下ろさずには いられなかった。そうして、
「……ここは……九州大学……」
 と独言ひとりごとのようにつぶやきつつ、キョロキョロと左右を見回わさずには おられなくなった。
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 その時に巨人、若林博士の左の眼の下の筋肉が、かすかにビクリビクリと震えた。あるいはこれが、この人物独特の微笑ではなかったかと思われる一種異様な表情であった。続いてその白い唇が、ゆるやかに動き出した。
「……さよう……ここは九州大学、精神病科の第七号室で御座います。どうもおやすみのところをお妨げ致しまして恐縮に堪えませぬが、かように突然にお伺い致しました理由と申しますのは他事ほかでも御座いませぬ。……早速ですが貴方は先刻さきほど、食事係の看護婦に、御自分のお名前をお尋ねになりましたそうで……その旨を宿直の医員から私に報告して参りましたから、すぐにお伺い致しました次第で御座いますが、如何いかがで御座いましょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」
 は返事が出来なかった。やはりポカンと口を開いたまま、白痴のように眼を白黒さして、鼻の先の巨大なあごを見上げていた……ように思う。
 ……これが驚かずにいられようか。は今朝から、まるで自分の名前の幽霊に附きまとわれているようなものではないか。
 が看護婦に自分の名前を訊ねてから今までの間はまだ、どんなに長くとも一時間と経っていない、そのわずかな間に病気を押して、これだけの身支度をして、が自分の名前を思い出したかどうかを問いただすべく駈け付けて来る……その薄気味のわるいスバシコサと不可解な熱心さ……。
 が、自身の名前を思い出すという、タッタそれだけの事が、この博士にとって何故に、それ程の重大事件なのであろう……。
 は二重三重に面喰めんくらわせられたまま、てのひらの上の名刺と、若林博士の顔を見比べるばかりであった。
 ところが不思議なことに若林博士も、のそうした顔を、またたき一つしないで見下しているのであった。
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の返事を待つつもりらしく、口をピッタリと閉じて、穴のあく程の顔を凝視しているのであったが、その緊張した表情には、何かしらの返事に対して、重大な期待を持っている心構えが、アリアリと現われているのであった。が自分自身の名前を、過去の経歴と一緒に思い出すか、出さないかという事が、若林博士自身と何かしら、深い関係を持っているに違いない事が、いよいよ たしかにその表情から読み取られたので、は一層固くなってしまったのであった。
 二人はこうして、ちょっとのにらみ合いの姿になった……が……そのうちに若林博士は、が何の返事もし得ない事を察したかして、如何いかにも失望したらしくソット眼を閉じた。けれども、そのまぶたが再び、ショボショボと開かれた時には、前よりも一層深い微笑が、左のほおから唇へかけて現われたようであった。同時に、呆然ぼうぜんとなっているのを、何か他の意味で面喰めんくらっているものと感違いしたらしく、かすかに二三度うなずきながら唇を動かした。
「……御尤ごもっともです。不思議に思われるのは御尤ごもっとも千万です。元来、法医学の立場を厳守して いなければ なりませぬ私が、かように精神病科の仕事に立入りますのは、全然、筋違いに相違ないので御座いますが、しかし、これにつきましては、万止むを得ませぬ深い事情が……」
 と言いさした若林博士は、又も、咳嗽せきが出そうな身構えをしたが、今度は無事に落付いたらしい。ハンカチの蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けた。
「……と申しますのは、ほかでも御座いません。
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……実を申しますとこの精神病科教室には、ついこの頃まで正木まさき 敬之けいしという名高いお方が、主任教授として在任しておられたので御座います」
「……マサキ……ケイシ……」
「……さようで……この正木敬之けいしというお方は、独り吾国のみならず、世界の学界に重きをなしたお方で、従来から行詰ゆきつまったままになっております精神病の研究に対して、根本的の革命を起すべき『精神科学』に対する新学説を、敢然かんぜんとして【困難や危険を伴うことは覚悟のうえで】樹立されました、偉大な学者で御座います……と申しましても、それは無論、今日まで行われて参りましたような心霊学とか、降神術とか申しますような非科学的な研究では御座いませぬ。純然たる科学の基礎に立脚して編み出されました、画時代的かくじだいてきの【エポックメイキングな】新学理に相違ありませぬ事は、正木先生がこの教室内に、世界に類例の無い精神病の治療場を創設されまして、その学説の真理である事を、着々として立証して来られました一事を見ましても、たやすく首肯しゅこう出来る【うなずける】ので御座います。……申すまでもなく貴方あなたも、その新式の治療を受けておいでになりました、お一人なのですが……」
「僕が……精神病の治療……」
「さようで……ですから、その正木先生が、責任をもって治療しておられました貴方に対して、法医学専門の私が、かように御容態をお尋ねするというのは、取りも直さず、はなはだしい筋違いに相違ないので、只今のように貴方から御不審を受けますのも、重々御尤ごもっとも千万と存じているので御座いますが……しかし……ここに遺憾千万な事には、その正木先生が、この一個月以前に、突然、私に後事を托されたまま永眠されたので御座います。
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……しかも、その後任教授がまだ決定致しておりませず、適当な助教授も以前から居ないままに なっておりました結果、総長の命を受けまして、当分の間、私がこの教室の仕事を兼任致しているような次第で御座いますが……その中でも特に大切に、全力を尽して御介抱申上げるように、正木先生から御委託を受けまして、お引受致しましたのが、ほかならぬ貴方で御座いました。言葉を換えて申しますれば、当精神病科の面目、否、九大医学部全体の名誉は目下のところただ一つ……あなたが過去の御記憶を回復されるか否か……御自身のお名前を思い出されるか、否かにかかっていると申しましても、よろしい理由があるので御座います」
 若林博士がこう言い切った時、はそこいら中が急にまぶしくなったように思って、眼をパチパチさした。の名前の幽霊が、後光を輝やかしながら、どこかそこいらから現われて来そうな気がしたので……。
 ……けれども……その次の瞬間には、顔を上げる事も出来ないほどの情ない気持に迫られて、われ知らず項垂うなだれてしまったのであった。
……ここはたしかに九州帝国大学の中の精神病科の病室に違いない。そうしては一個の精神病患者として、この七号室? に収容されている人間に相違ないのだ。
……の頭が今朝、眼をさました時から、どことなく変調子なように思われて来たのは、何かの精神病にかかっていた……否。現在も罹っている証拠なのだ。……そうだ。はキチガイなのだ。
……鳴呼ああが浅ましい狂人きちがい……。
 ……というような、あらゆるタマラナイはずかしさが、丁寧ていねい過ぎるくらい丁寧な若林博士の説明によって、初めて、ハッキリと意識されて来たのであった。それにれて胸が息苦しい程ドキドキして来た。
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はずかしいのか、怖ろしいのか、又は悲しいのか、自分でも判然わからない感情のために、全身をチクチクと刺されるような気がして、耳から首筋のあたりが又もカッカと火熱ほてって来た。……眼の中が自然おのずと熱くなって、そのままベッドの上に突伏したいほどの思いにみたされつつ、かなしく両掌りょうてを顔に当てて、眼がしらをソッと押え付けたのであった。
 若林博士は、そうしたの態度を見下しつつ、二度ばかりゴクリゴクリと音を立てて、唾液つばを呑み込んだようであった。それから、あたかも、たっとい身分の人に対するように、両手を前にたばねて、今までよりも一層親切なひびきをこめながら、ほとんど猫撫で声かと思われる口調でなぐさめた。
御尤ごもっともです。重々、御尤ごもっともです。どなたでもこの病室に御自分自身を発見されます時には、一種の絶望に近い、打撃的な感じをお受けになりますからね。……しかし御心配には及びませぬ。貴方はこの病棟に入っている他の患者とは、全く違った意味で入院しておいでになるのですから……」
「……ボ……僕が……ほかの患者と違う……」
「……さようで……あなたは只今申しました正木先生が、この精神病科教室で創設されました『狂人きちがいの解放治療』と名付くる画時代的かくじだいてきな精神病治療に関する実験の中でも、最貴重な研究材料として、御一身を提供された御方で御座いますから……」
「……僕が……私が……狂人きちがいの解放治療の実験材料……狂人きちがいを解放して治療する……」
 若林博士は心持ち上体を前に傾けつつ首肯うなずいた。「狂人きちがい解放治療」という名前に敬意を表するかのように……。
「さようさよう。その通りで御座います。
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その『狂人きちがい解放治療』の実験を創始されました正木先生の御人格と、その編み出されました学説が、如何いか画時代的かくじだいてきなものであったかという事は、もう間もなくお解りになる事と思いますが、しかも……貴方は既に、貴方御自身の脳髄の正確な作用によって、その正木博士の新しい精神科学の実験を、驚くべき好成績のうちに御完成になりまして、当大学の名前を全世界の学界に印象させておいでになったので御座います。……のみならず貴方は、その実験の結果としてあらわれました強烈な精神的の衝動ショックのために御自身の意識を全く喪失しておられましたのを、現在、只今、あざやかに回復なされようとしておいでになるので御座います。……で御座いますから、申さば貴方は、その解放治療場内で行われました、る驚異すべき実験の中心的な代表者でおいでになりますと同時に、当九大の名誉の守り神とも申すべきお方に相違ないので御座います」
「……そ……そんな恐ろしい実験の中心に……どうして僕が……」
 とは思わずき込んで、寝台の端にニジリ出した。あまりにも怪奇を極めた話の中心にグングン捲き込まれて行く自身が恐ろしくなったので……。そのの顔を見下しながら、若林博士は今迄いままでよりも一層、冷静な態度でうなずいた。
「それは誠に御尤ごもっとも千万な御不審です。……が……しかしその事につきましては遺憾ながら、只今ハッキリと御説明申上る訳に参りませぬ。いずれ遠からず、あなた御自身に、その経過を思い出されます迄は……」
「……僕自身に思い出す。……そ……それはドウして思い出すので……」
 とは一層き込みながら口籠くちごもった。若林博士のそうした口ぶりによって、又もハッキリと精神病患者の情なさを思い出させられたように感じたので……。
 しかし若林博士は騒がなかった。静かに手をげてを制した。
「……ま……ま……お待ち下さい。それは斯様かよう仔細わけで御座います。
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……実を申しますと貴方が、この解放治療場にお入りになりました経過に就きましては、実に、一朝一夕に尽されぬ深刻複雑な、不可思議を極めた因縁が伏在しておるので御座います。しかもその因縁のお話と申しますのは、私一個の考えで前後の筋をまとめようと致しますと、全部が虚構うそになってしまおそれがありますので……つまるところそのお話の筋道に、直接の体験を持っておいでになる貴方が、その深刻不可思議な体験を御自身に思い出されたものでなければ、誰しも真実のお話として信用する事が出来ないという……それほど左様に幻怪げんかい、驚異を極めた因縁のお話が貴方の過去の御記憶の中に含まれているので御座います……がしかし……当座の御安心のために、これだけの事は御説明申上ても差支えあるまいと思われます。……すなわち……その『狂人きちがいの解放治療』と申しますのは、本年の二月に、正木先生が当大学に赴任されましてから間もなく、その治療場の設計に着手されましたもので、同じく七月に完成致して、僅々きんきん四箇月間の実験を行われましたのち、今からちょうど一箇月前の十月二十日に、正木先生が亡くなられますと同時に閉鎖される事になりましたものですが、しかも、そのわずかの間に正木先生が行われました実験と申しますのは、取りも直さず、貴方の過去の御記憶を回復させる事を中心と致したもので御座いました。そうしてその結果、正木先生は、ズット以前から一種の特異な精神状態に陥っておられました貴方が、遠からず今日の御容態に回復されるに相違ない事を、明白に予言しておられたので御座います」
「……亡くなられた正木博士が……僕の今日の事を予言……」
「さようさよう。貴方を当大学の至宝として、大切に御介抱申上げているうちには、キット元の通りの精神意識に立ち帰られるであろう。
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その正木先生の偉大な学説の原理を、その原理から生れて来た実験の効果を、御自身に証明されるであろうことを、正木先生は断々乎【きっぱり】として言明しておられたので御座います。……のみならず、果して貴方が、正木先生のお言葉の通りに、過去の御記憶の全部を回復される事に相成りますれば、その必然的な結果として、貴方がかつて御関係になりました、殆んど空前とも申すべき怪奇、悽愴せいそうを極めた犯罪事件の真相をも、同時に思い出されるであろう事を、かく申す私までも、信じて疑わなかったので御座います。むろん、只今も同様に、その事を固く信じているので御座いますが……」
「……空前の……空前の犯罪事件……僕が関係した……」
「さよう。とりあえず空前とは申しましたものの、あるいは絶後になるかも知れぬと考えられておりますほどの異常な事件で御座います」
「……そ……それは……ドンナ事件……」
 と、は息を吐く間もなく、寝台の端に乗り出した。
 しかし若林博士は、どこまでも落付いていた。端然たんぜん【整然】として佇立ちょりつした【たたずんだ】ままスラスラと言葉を続けて行った。その青白い瞳で、静かにを見下しながら……。
「……その事件と申しますのは、ほかでも御座いませぬ。……何をお隠し申しましょう。只今申しました正木先生の精神科学に関する御研究に就きましては、かく申す私も、久しい以前から御指導を仰いでおりましたので、現に只今でも引続いて『精神科学応用の犯罪』に就いて、研究を重ねている次第で御座いますが……」
「……精神科学……応用の犯罪……」
「さようで……しかし単にそれだけでは、余りに眼新しい主題テーマで御座いますから、内容がお解かりにならぬかも知れませぬが、斯様かよう申上げましたならば大凡おおよそ、御了解が出来ましょう。
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……すなわち私が、斯様かよう主題テーマに就いて研究を初めました抑々そもそもの動機と申しますのは、正木先生の唱え出された『精神科学』そのものの内容が、あまりに恐怖的な原理、原則に みちみちている ことを察知致しましたからで御座います。たとえば、その精神科学の一部門となっております『精神病理学』の中には、一種の暗示作用によって、人間の精神状態を突然、別人のように急変化させ得る……その人間の現在の精神生活を一瞬間に打ち消して、その精神の奥底の深い処に潜在している、何代か前の祖先の性格と入れ換させ得る……といったような戦慄すべき理論と実例が、数限りなく含まれておりますので……しかもその理論と申しますのは、その応用、実験の効果が、飽く迄も科学的に的確、深刻なものがありますにもかかわらず、その作用の説明とか、実行の方法とかいうものは、従来の科学と違いまして極めて平々凡々な……説明の仕様によっては女子供にでも面白可笑おかしく首肯しゅこう出来る程度のものでありますからして、考えようによりましては、これ程の危険な研究、実験はないので御座います。……もちろんその詳細な内容は遠からず貴方の眼の前に、歴々ありありと展開致して来る事と存じますから、ここには説明致しませぬが……」
「……エッ……エッ……そんな恐ろしい研究の内容が……僕の眼の前に……」
 若林博士は、いとも荘重そうちょう【おごそか】にうなずいた。
「さようさよう。
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貴方は、その学説の真理である事を、身をもって証明されたお方ですから、そうした原理が描きあらわす恐怖、戦慄に対しては一種の免疫になって おいでになります ばかりでなく、近い将来において、御自分の過去に関する御記憶を回復されましたあかつきには、必然的に、この新学理の研究に参加される権利と、資格を持っておいでになる事を自覚される訳で御座いますが、しかし、それ以外の人々に、万一、この秘密の研究の内容がれましたならば、どのような事変が発生するか、全然、予想が出来ないので御座います。……たとえばる人間の心理の奥底に潜在している一つの恐ろしい遺伝心理を発見して、これに適応した一つの暗示を与える時は、一瞬間にその人間を発狂させる事が出来る。同時にその人間を発狂させた犯人に対する、その人間の記憶力までも消滅させ得るような時代が来たとしましたならば、どうでしょうか。その害毒というものは到底、ノーベル氏が発明しました綿火薬の製造法が、世界の戦争を激化した比では御座いますまい。」
「……で御座いますからして私は、本職の法医学の立場から考えまして、将来、このような精神科学の理論が、現代に於ける唯物ゆいぶつ科学の理論と同様に一般社会の常識として普及されるような事になっては大変である。その時には、現代におい唯物ゆいぶつ科学応用の犯罪が横行しているのと同様に、精神科学応用の犯罪が流行するであろう事を、当然の帰結として覚悟しなければ ならない訳であるが、しかしそうなったら最早もはや、取返しの附けようがないであろう。この精神科学応用の犯罪が実現されるとなれば、昨今の唯物ゆいぶつ科学応用の犯罪とは違って、ほとんど絶対に検察、調査の不可能な犯罪が、世界中の到る処に出現するに相違ない事が、前もって、わかり切っているのでありますからして、とりあえず正木先生の新学説は、絶対に外部に公表されないように注意して頂かねばならぬ。
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……と同時に、はなは得手えて勝手な申し分のようでは御座いますが、万一の場合を予想しまして、この種の犯罪の予防方法と、犯罪の検出探索方法とを、出来る限り周到に研究しておかねばならぬ……と考えましたので、久しい以前から正木先生の御指導の下に『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と題しまするテーマの下に、極度の秘密を厳守しつつ、あらゆる方面から調査を進めておったところで御座います。つまるところ正木先生と私と二人の共同の事業といったような格好で……。」
「……ところが、その正木先生と、私と二人の間に如何いかなる油断が在ったので御座いましょうか……それ程に用心致しておりましたにもかかわらず、いつ、如何いかなる方法で盗み出したものか、その精神科学のうちでも最も強烈、深刻な効果を現わす理論を、いとも鮮やかに実地に応用致しました、一つの不可思議な犯罪事件が、当大学から程遠からぬ処で、突然に発生したので御座います。……すなわちその犯罪の外観アウトラインと申しますは、る富裕な一家の血統に属する数名の男女を、何等の理由も無いままお互い同志に殺し合わせ、又は発狂させ合ってしまったという、残忍冷血、この上もない凶行を中心として構成されているので御座います。……しかも、その凶行の手段が、私どもの研究致しております精神科学と関係を保っております事実が、確認されるようになりました端緒たんしょと申しますのは、やはりその富裕な一家の最後の血統に属する一人の温柔おとなしい、頭脳の明晰めいせきな青年の身の上に起った事件で御座います。……つまりその青年が、滅びかかっている自分の一家の血統をつなぎ止めるべく、自分を恋い慕っている美しい従妹いとこと結婚式を挙げる事になりました、その前の晩の夜半よなか過ぎに、その青年が、思いもかけぬ夢中遊行むちゅうゆうこうを起しまして、その少女を絞殺しめころしてしまいました。
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そうしてその少女の死体したいを眼の前に横たえながら、冷静な態度で紙を拡げて写生をしていた……という、非常に特異な、不可思議な事実が暴露されまして、大評判になってからの事で御座います……が……同時に、その青年の属する一家の血統を、そんなにまで悲惨な状態におとしいれてしまったのが、何の目的であったかという事実とその犯人が何人なんぴとであるかという、この二つの根本問題だけは、今日までも依然として不明のままになっているという……どこまで奇怪、深刻を極めているか判然わからない事件で御座います。……九州の警視庁と呼ばれております福岡県の司法当局も、この事件に限っては徹頭徹尾、無能と同じ道を選んだ形になっておりますので、同時に、正木先生の御援助の下に、全力をげてがい事件の調査に着手致しました私も、今日に到るまで、事件の真相に対して何等の手掛りもつかみ得ないまま、五里霧中に彷徨ほうこうさせられているような状態で御座います。」
「……で……そのような次第で御座いますからして、現在、私の手に残っておりまする該事件探究の方法は、ただ一つ……すなわち、その事件の中心人物となって生き残っておいでになる貴方御自身が、正木先生の御遺徳によって過去の御記憶を回復されました時に、直接御自身に、その事件の真相を判断して頂くこと……その犯行の目的と、その犯人の正体を指示して頂くこと……この一途いっとよりほかに方法は無い事に相成りました。それほど左様に神変自在な手段をもって、その事件の犯人たる怪魔人は、踪跡そうせきくらましているので御座います。……こう申しましたならば、もはやお解かりで御座いましょう。その事件に就いて、私自身の口から具体的の説明を申上げかねる理由と申しますのは、私自身が、その事件の真相を確かめておりませぬからで御座います。
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又……かように私が、専門外の精神病科の仕事に立ち入って、自身に貴方の御介抱を申上げておりますのも、そうした重大な秘密の漏洩を警戒致したいからで、同時に、万一、貴方の御記憶が回復いたしました節には、時を移さず駈け付けまして、誰よりも先に、その事件の真相も聞かして頂かねばならぬ……その事件の真相をおおくらましている怪魔人の正体を暴露して頂かねばならぬ……という考えからで御座います。」「……しかも万一、貴方が過去の御記憶を回復されましたお蔭で、この事件の真相が判明致すことに相成りますれば、その必然の結果として、実に、二重、三重の深長な意味を持つ研究発表が、現代の科学界と、一般社会との双方に投げかけられまして、世界的のセンセーションを捲き起すことに相成りましょう。すなわち正木先生が表面上、仮に『狂人きちがいの解放治療』と名付けておられました御研究……実は、現代の物質文化を一撃の下に、精神文化に転化し得る程の大実験の、最後的な結論とするべきる重大な事実が、科学的に立証されまするばかりでなく、同時に、同先生の御指導の下に、私が研究を続けております『精神科学応用の犯罪と、その証跡』と名付くる論文のうちの、最も重要な例証の一つをも、遺憾なく完備させて頂ける事になるので御座います。そうして正木先生と私とが、この二十年の間、心血を傾注して参りました精神科学に関する研究が、同時に公表され得る機会を与えて頂ける事に相成るので御座います。……で御座いますからして、あなたが果して御自身のお名前を思い出されるかどうか。過去の御記憶を回復されて、その事件の真相を明らかにされるかどうか……という事にきましては、そのような二重、三重の意味から、当大学の内部、もしくは福岡県の司法当局のみならず、満天下の視聴が集中致しております次第で御座います。
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……しかるに……」
 ここまで一気に説明して来た若林博士は、フト奇妙な、青白い一瞥いちべつに与えた。……と思うと、又もやクルリと横を向いて、ハンカチを顔に押し当てながら、一所懸命に咳入り初めたのであった。
 そのしわだらけに痙攣ひきつった横顔を眺めながら、は煙に捲かれたように茫然ぼうぜんとなっていた。今朝からの周囲にゴチャゴチャと起って来る出来事が、何一つとしてに、新らしい不安と、驚きとを与えないものは無い……しかも、それに対する若林博士の説明が又、みるみる大袈裟おおげさに、超自然的に拡大して行くばかりで、とても事実とは思えない……の身の上に関係した事ばかりのように聞えながら、実際はと全く無関係な、夢物語みたような感じに変って行くように感じつつ……。

 すると、そのうちに咳嗽せきを収めた若林博士は又一つジロリと青白い目礼をした。
「御免下さい。疲れますので……」
 と言ううちに、やおら背後うしろ華奢きゃしゃ籐椅子とういすを振り返って、ソロソロと腰をおろしたのであったが、その風付ふうつき【風体】を見るとは又、思わず眼をらさずには いられなかった。
 初め、その籐椅子が、若林博士の背後に据えてあるのを見た時には、すこし大きな人が腰をかけたら、すぐにもつぶれそうに見えたので、まだほかに誰か、女の人でも来るのか知らん……くらいに考えていた。ところが今見ていると、若林博士の長大な胴体は、その椅子の狭い肘掛けの間に、何の苦もなくスッポリと入った。そうして胸と、腹とを二重に折り畳んで、ハンカチから眼ばかり出した顔を、ひざ小僧に乗っかる位低くして来ると、さながらに……私が、その怪事件の裏面にひそむ怪魔人で御座います……というかのように、グズグズと縮こまって、チョコナンと椅子の中に納まってしまった。
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その全体の大きさは、どう見ても今までの半分ぐらいしかないので、どんなにやせこけているにしても……その外套の毛皮が如何いかに薄いものであるにしても、とても尋常な人間の出来る芸当とは思えない。しかも、その中から声ばかりが元の通りに……否……腰を落ち付けたせいか一層冷静に……何もかも私が存じております……という風に響いて来るのであった。
「……どうも失礼を……しかるに私が、只今お伺い致しまして、あなたの御様子を拝見してみますと、正木先生の予言が神の如くに的中して参りますことが、専門外私にもよくわかるので御座います。貴方は現在、御自分の過去に関する御記憶を回復しよう回復しようと、おつとめになりながら、何一つ思い出す事が出来ないので、お困りになっていられるで御座いましょう。それは貴方が、この実験におかかりになる以前の健康な精神意識に立ち帰られる途中の、一つの過程に過ぎないので御座います。……すなわち正木先生の御研究によりますと、貴方の脳髄の中で、過去の御記憶を反射、交感致しております部分の中でも、一番古い記憶に属する潜在意識を支配しておりますところのる一個所に、遺伝的の弱点、すなわち非常な敏感さを持ったる一点が存在しておったので御座います。」
「……ところが又一方に、そうした事実を以前からよく知っている、不可思議な人物が、どこかにったので御座いましょう。ちょうどその最も敏感な弱点をドン底まで刺激する、極めて強烈な精神科学的の暗示材料を用いまして、その一点を極度の緊張におとしいれました結果、そこに遺伝、潜在しておりました貴方の古い古い一千年前の御先祖の、怪奇、深刻を極めたローマンスに関する記憶が、スッカリ遊離してしまいまして、貴方の意識の表面に浮かみ現われながら、貴方を深い深い夢中遊行むちゅうゆうこう状態におとしいれる事に相成りました。
32/596
……そうして今日に立ち到りますと、その潜在意識の中から遊離し現われました夢中遊行むちゅうゆうこう心理が残らず発揮しつくされまして、空無の状態に立ち帰りましたために、只今のようにその夢遊状態から離脱される事になった訳で御座いますが、しかしその異状な活躍を続けて参りました潜在意識の部分と、その附近に在る過去の御記憶を反射交感する脳髄の一部分は、長い間の緊張から来た、深刻な疲労が残っておりますために、只今のところでは全く自由が利かなくなっております。つまり古い記憶であればある程、思い出せない状態に陥っておられるので御座います。……そこで、今まで、さほどに疲れていなかった、極めて印象の新しい、最近の出来事を反射交感する部分だけが今朝ほどから取りあえず覚醒致しまして、もっと以前の記憶を回復しよう回復しようと焦燥あせりながら、何一つ思い出せないでいる……というのが現在の貴方の精神意識の状態であると考えられます。正木先生はそのような状態を仮りに『自我忘失症』と名付けておられましたが……」
「……自我……忘失症……」
「さようで……あなたはその怪事件の裏面に隠れている怪犯人の精神科学的な犯罪手段にかかられました結果、その以後、数箇月の間というもの、現在の貴方とは全く違った別個の人間として、る異状な夢中遊行むちゅうゆうこう状態を続けておられたので御座います。……もちろんこのような深い夢中遊行むちゅうゆうこう状態、もしくは極端な二重人格の実例は、普通人によくあらわれる軽度の二重人格的夢遊……すなわち『ネゴト』とか『ネトボケ』とかいう程度のものとは違いまして、極めて希有けうのものではありますが、それでも昔からの記録文献には、明瞭に残っている事実が発見されます。
33/596
たとえば『五十年目に故郷を思い出した老人』とか又は『証拠を突き付けられてから初めて、自分が殺人犯人であった事を自覚した紳士の感想録』とか『生んだ記憶おぼえの無い実子に会った孤独の老嬢の告白』『列車の衝突で気絶したと思っているに、禿頭とくとうの大富豪になっていた貧青年の手記』『たった一晩一緒に睡った筈の若い夫人が、翌朝になると白髪しらがの老婆に変っていた話』『夢と現実とを反対に考えたために、大罪を犯すに到った聖僧の懺悔譚ざんげものがたり』なぞいう奇怪な実例が、色々な文献に残存しておりまして、世人を半信半疑の境界さかいに迷わせておりますが、そのような実例を、只今申しました正木先生独創の学理に照してみますと、もはや何人も疑う余地がなくなるので御座います。そのような現象の実在が、科学的に可能であることが、明白、切実に証拠立てられますばかりでなく、そんな人々が、以前もとの精神意識に立ち帰ります際には、キットる長さの『自我忘失症』を経過することまでも、学理と、実際の両方から立証されて来るので御座います。……すなわち厳密な意味で申しますと、吾々われわれの日常生活の中で、吾々われわれの心理状態が、見るもの聞くものによって刺激されつつ、引っ切りなしに変化して行く。そうしてタッタ一人で腹を立てたり、悲しんだり、ニコニコしたりするのは、やはり一種の夢中遊行むちゅうゆうこうでありまして、その心理が変化して行く刹那せつな 刹那せつなの到る処には、こうした『夢中遊行むちゅうゆうこう』『自我忘失』『自我覚醒』という経過が、極度の短かさで繰返されている。」「……一般の人々は、それを意識しないでいるだけだ……という事実をも、正木先生はあわせて立証していられるので御座います。
34/596
……ですから、申すまでもなく貴下あなたも、その経過をとられまして、遠からず、今日只今の御容態に回復されるであろう事を、正木先生は明かに予知しておられましたので、残るところはただ、時日の問題となっていたので御座います」
 若林博士はここで又、ちょっと息を切って、唇をめたようであった。
 しかしがこの時に、どんな顔をしていたかは知らない。ただ、何が何やら解らないまま一句一句に学術的な権威をもって、急角度に緊張しつつ迫って来る、若林博士の説明におびやかされて、高圧電気にかけられたように、全身をこわばらせていた。……さては今の話の怪事件というのは、矢張やはり自分の事であったのか……そうして今にも、その恐ろしい過去の事件を、自分の名前と一緒に思い出さなければならぬ立場に、自分が立っているのか……といったような、言い知れぬ恐怖からしたたり落つる冷汗を、左右の腋の下ににじませつつ、眼の前の蒼白長大な顔面に全神経を集中していた……ように思う。
 その時に若林博士は、その仄青ほのあおひとみを少しばかり伏せて、今までよりも一層低い調子になった。
「……くり返して申しますが、そのような正木先生の予言は、今日まで一つ一つに寸分の狂いもなく的中して参りましたので御座います。あなたは最早もはや、今朝から、完全に、今までの夢中遊行むちゅうゆうこう的精神状態を離脱しておられまして、今にも昔の御記憶を回復されるであろう間際に立っておられるので御座います。……で御座いますから私は、とりあえず、先刻、看護婦にお尋ねになりました、貴下あなた御自身のお名前を思い出させて差上げるために、斯様かようにお伺いした次第で御座います」
「……ボ……僕の名前を思い出させる……」
 こう叫んだは、突然、息詰るほどドキッとさせられた。……もしかしたら……その怪事件の真犯人というのが自身ではあるまいか。
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……若林博士が特に、の名前について緊張した注意を払っているらしいのは、その証拠ではあるまいか……というような刹那せつな的な頭のヒラメキに打たれたので……。しかし若林博士はさり気なく静かに答えた。
「……さよう。あなたのお名前が、御自身に思い出されますれば、それにつれて、ほかの一切の御記憶も、貴下あなたの御意識の表面に浮かみ現われて来る筈で御座います。その怪事件の前後を一貫して支配している精神科学の原理が、如何いかに恐るべきものであるか。如何いかなる理由で、如何いかなる動機の下にそのような怪犯罪が遂行されたか。その事件の中心となっている怪魔人が何者であるかという真相の底の底までも同時に思い出される筈で御座います。……ですから、それを思い出して頂くように、お力添えを致しますのが、正木先生から貴方をお引受け致しました私の、責任の第一で御座いまして……」
 は又も、何かしら形容の出来ない、もの怖ろしい予感に対して戦慄させられた。思わず座り直して頓狂とんきょうな声を出した。
「……何というんですか……僕の名前は……」
 が、こう尋ねた瞬間に、若林博士はあたかも器械か何ぞのようにピッタリと口をつぐんだ。の心の中から何ものかを探し求めるかのように……又は、何かしら重大な事を暗示するかのように、ドンヨリと光る眼で、の眼の底をジーッと凝視した。
 後から考えるとはこの時、若林博士の測り知れない策略に乗せられていたに違いないと思う。若林博士がここまで続けて来た科学的な、同時に、極度に扇情【感情をあおりたてる】的な話の筋道は、決して無意味な筋道ではなかったのだ。皆「の名前」に対する「の注意力」を極点にまで緊張させて、是非ともソレを思い出さずにはいられないように仕向けるための一つの精神的な刺激方法に相違なかったのだ。
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……だからが夢中になって、自分の名前を問うと同時に、ピッタリと口を噤んで、無言のうちに、の焦燥をイヨイヨの最高潮にまで導こうと試みたのであろう。の脳髄の中に凝固している過去の記憶の再現作用を、自身に鋭く刺激させようとしたのであろう。
 しかし、その時のは、そんなデリケートな計略にミジンも気付き得なかった。ただ若林博士が、すぐにもの名前を教えてくれるものとばかり思い込んで、その生白い唇を一心に凝視しているばかりであった。
 すると、そうしたの態度を見守っていた若林博士は、又も、何やら失望させられたらしく、ヒッソリと眼を閉じた。頭をゆるゆると左右に振りながら軽いため息を一つしたが、やがて又、静かに眼を開きながら、今までよりも一層つめたい、繊細かぼそい声を出した。
「……いけませぬ……。私が、お教え致しましたのでは何にもなりませぬ。そんな名前は記憶せぬと仰言おっしゃれば、それ迄です。やはり自然と、御自身に思い出されたのでなくては……」
 は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。
「……思い出すことが出来ましょうか」
 若林博士はキッパリと答えた。
「お出来になります。きっとお出来になります。しかもその時には、只今まで私が申述べました事が、決して架空なお話でない事が、お解りになりますばかりでなく、それと同時に、貴方はこの病院から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわち立派な御家庭と、そのお家に属する一切の幸福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているので御座います。つまり、それ等のものの一切を相違なく貴方へお引渡し致しますのが又、正木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」
 若林博士は斯様かよう言い切ると、確信あるものの如くモウ一度、その青冷めたい瞳でを見据えた。
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はその瞳の力にされて、余儀なく項垂うなだれさせられた……又も何となく自分の事ではないような……妙なヤヤコシイ話ばかり聞かされて、訳が判然わからないままに疲れてしまったような気持ちになりながら……。
 しかし若林博士は、のそうした気持ちに頓着【気にすること】なく、軽い咳払いを一つして、話の調子を改めた。
「……では……只今から、貴方のお名前を思い出して頂く実験に取りかかりたいと存じますが……私どもが……正木先生も同様で御座いましたが……貴方の過去の御経歴に最も深い関係を持っているに相違ないと信じております色々なものを、順々にお眼にかけまして、それによって貴方の過去の御記憶がび起されたか否かを実験させて頂きたいので御座いますが、如何いかがで御座いましょうか」
 と言ううちに籐椅子の両ひじに手をかけて、姿勢をグッと引伸ばした。
 はその顔を見守りながら、すこしばかり頭を下げた。……ちっとも構いません。どうなりと御随意に……という風に……。
 しかし心の中ではすくなからず躊躇ちゅうちょしていた。否、むしろ一種の馬鹿馬鹿しさをさえ感じていた。
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……今朝からを呼びかけたあの六号室の少女も、現在眼の前に居る若林博士も同様に、人違いをしているのではあるまいか。
……を誰か、ほかの人間と間違えて、こんなに熱心に呼びかけたり、責め附けたりしているのではあるまいか……だから、いつまで経っても、いくら責められてもこの通り、何一つとして思い出し得ないのではあるまいか。
……これから見せ付けられるであろうの過去の記念物というのも、実をいうと、とは縁もゆかりもない赤の他人の記念物ばかりではあるまいか。……どこかにひそみ隠れている、正体のわからない、冷血兇悪な精神病患者……其奴そいつが描きあらわした怪奇、残虐を極めた犯罪の記念品……そんなものを次から次に見せ付けられて、思い出せ思い出せと責め立てられるのではあるまいか。
……といったような、あられもない想像をたくましくしながら、思わず首を縮めて、小さくなっていたのであった。

 その時に若林博士は、あくまでもその学者らしい上品さと、謙遜さとを保って、静かにに一礼しつつ、籐椅子から立ち上った。おもむろに背後うしろの扉を開くと、待ち構えていたように一人の小男がツカツカと大股に入って来た。
 その小男は頭をクルクル坊主の五分刈にして、黒い八の字ひげをピンとやして、白い詰襟つめえり上衣うわぎに黒ズボン、古靴で作ったスリッパという見慣れない扮装いでたちをしていた。四角い黒革の手提鞄てさげかばんと、薄汚ない畳椅子たたみいすを左右の手にひっさげていたが、あとから入って来た看護婦が、部屋の中央まんなかに湯気の立つボール鉢【タライ】を置くと、その横に活発な態度で畳椅子を拡げた。それから黒い手提鞄てさげかばんを椅子の横に置いて、パッと拡げると、その中にゴチャゴチャに投げ込んであった理髪用のはさみや、ブラシをふたの上につまみ出しながら、を見てヒョッコリとお辞儀をした。
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「ササ、どうぞ」という風に……。すると若林博士も籐椅子を寝台の枕元に引き寄せながら、に向って「サア、どうぞ」というような眼くばせをした。
 ……さてはここで頭を刈らせられるのだな……とは思った。だから素跣足すはだしのまま寝台を降りて畳椅子の上に乗っかると、ほとんど同時に八字ひげの小男が、白い布片きれをパッと周囲まわりに引っかけた。それから熱湯で絞ったタオルをの頭にグルグルと巻付けてシッカリと押付けながら若林博士を振返った。
「この前の通りの刈方かりかたで、およろしいので……」
 この質問を聞くと若林博士は、何やらハッと したらしかった。チラリとの顔を盗み見たようであったが、間もなくない口調で答えた。
「あ。この前の時も君にお願いしたんでしたっけね。記憶しておりますか。あの時の刈方を……」
「ヘイ。ちょうど丸一個月前の事で、特別の御注文でしたから、まだよく存じております。まん中を高く致しまして、お顔全体が温柔おとなしい卵型に見えますように……まわりは極く短かく、東京の学生さん風に……」
「そうそう。その通りに今度も願います」
「かしこまりました」
 そう言ううちにモウの頭の上ではさみが鳴出した。若林博士は又も寝台の枕元の籐椅子に埋まり込んで、何やら赤い表紙の洋書を外套のポケットから引っぱり出している様子である。
 は眼を閉じて考え初めた。
 の過去はこうしてにもかくにもイクラカずつ明るくなって来る。若林博士から聞かされた途方もない因縁話や何かは、全然別問題としても、が自分で事実と信じて差支えないらしい事実だけはこうして、すこしずつ推定されて来るようだ。
 は大正十五年(それはいつの事だか わからないが)以来、この九州帝国大学、精神病科の入院患者になっていたもので、昨日きのうが昨日まで夢中遊行むちゅうゆうこう状態の無我夢中で過して来たものらしい。
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そうしてその途中か、又は、その前かわからないが、一個月ぐらい以前まえに、頭をハイカラの学生風に刈っていた事があるらしい。その時の姿には今、復旧しつつあるのだ……なぞと……。
 ……けれども……そうは思われるものの、それは一人の人間の過去の記憶としては何という貧弱なものであろう。しかも、それとても赤の他人の医学博士と、理髪師から聞いた事に過ぎないので、真実ほんとうに、自分の過去として記憶しているのは今朝、あの……ブーンンン……という時計の音を聞いてから今までの、数時間の間に起った事柄だけである。その……ブーン……以前の事は、にとっては全くの虚無で、自分が生きていたか、死んでいたかすら判然しない。
 はいったいどこで生まれて、どうしてコンナに成長おおきくなったか。あれは何、これは何と、一々見分け得る判断力だの……知識だの……又は、若林博士の説明を震え上るほど深刻に理解して行く学力だの……そんなものはどこで自分の物になって来たのか。そんなにおびただしい、限りもないであろう、過去の記憶を、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまったのか……。
 ……そんな事を考えまわしながら眼を閉じて、自分の頭の中の空洞がらんどうをジッと凝視していると、霊魂たましいは、いつの間にか小さく小さく縮こまって来て、無限の空虚の中を、当てもなくさまよいまわる微生物アトムのように思われて来る。……淋しい……つまらない……悲しい気持ちになって……眼の中が何となく熱くなって……。
 ……ヒヤリ……としたものが、の首筋に触れた。それは、いつの間にか頭を刈ってしまった理髪師が、襟筋えりすじるべくシャボンの泡をなすり付けたのであった。
 はガックリと項垂うなだれた。
 ……けれども……又考えてみるとは、その一箇月以前にも今一度、若林博士からこの頭を復旧された事があるわけである。
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それならばは、その一箇月以前にも、今朝みたような恐ろしい経験をした事があるのかも知れない。しかも博士の口ぶりによると、博士がの頭の復旧を命じたのは、この理髪師ばかりではないようにも思える。もしそうとすればは、その前にも、その又以前にも……何遍も何遍もこんな事を繰返した事があるのかも知れないので、とどのつまは、そんな事ばかりを繰返し繰返しっている、つまらない夢遊病患者みたような者ではあるまいか……とも考えられる。
 若林博士は又、そんな試験ばかりをやっている冷酷無情な科学者なのではあるまいか?……否。今朝から今まで引き続いて周囲まわりに起って来た事柄も、みんなという夢遊病患者の幻覚に過ぎないのではあるまいか?……は現在、ここで、こうして、頭をハイカラに刈られて、モミアゲからまゆの上下を手入れしてもらっているような夢を見ているので、ホントウのは……の肉体はここに居るのではない。どこか非常に違った、飛んでもない処で、飛んでもない夢中遊行むちゅうゆうこうを……。
 ……はそう考えるうちにハッとして椅子から飛び上った。……白いキレをくびに巻き付けたまま、一直線に駈け出した……と思ったが、それは違っていた。……不意に大変な騒ぎが頭の上で初まって、眼も口も開けられなくなったので、思わず浮かしかけた尻を椅子の中に落ち付けて、首をギュッと縮めてしまったのであった。
 それは二個ふたつの丸いくしが、の頭の上に並んで、息もかれぬ程メチャクチャに駈けまわり初めたからであった……が……その気持ちのよかったこと……自分がキチガイだか、誰がキチガイだか、一寸ちょっとにわからなくなってしまった。
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……嬉しいも、悲しいも、恐ろしいも、口惜しいも、過去も、現在も、宇宙万象も何もかもから切り離された亡者もうじゃみたようになって、グッタリと椅子にたれ込んで底もはてしもないムズがゆさを、ドン底までき回わされる快感を、全身の毛穴の一ツ一ツから、骨の髄まで滲み透るほど感銘させられた。……もうこうなっては仕方がない。何だかわからないが、これから若林博士の命令に絶対服従をしよう。前途さきはどうなっても構わない……というような、一切合財をスッカリ諦らめ切ったような、ガッカリした気持ちになってしまった。
「コチラへおでなさい」
 という若い女の声が、すぐ耳の傍でしたので、ビックリして眼を開くと、いつの間にか二人の看護婦が入って来て、の両手を左右から、罪人か何ぞのようにシッカリととらえていた。首の周囲まわりの白い布切きれは、の気づかぬうちに理髪師が取外とりはずして、扉の外で威勢よくハタイていた。
 その時に何やら赤い表紙の洋書に読みふけっていた若林博士は、パッタリとページを伏せて立ち上った。長大な顔を一層長くして「ゴホンゴホン」とせきをしつつ「どうぞあちらへ」という風に扉の方へ両手を動かした。
 顔一面の髪の毛とフケの中から、かろうじて眼を開いたは、看護婦に両手を引かれたまま、冷めたい敷石を素足で踏みつつ、生れて初めて……?……扉の外へ出た。
 若林博士は扉の外まで見送って来たが、途中でどこかへ行ってしまったようであった。

 扉の外は広い人造石の廊下で、の部屋の扉と同じ色格好をした扉が、左右に五つずつ、向い合って並んでいる。その廊下の突当りの薄暗い壁のくぼみの中に、やはりの部屋の窓と同じような鉄格子と鉄網かなあみで厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが、今朝早くの真夜中に……ブウンンンとうなって、の眼をまさした時計であろう。
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どこから手を入れて螺旋ねじをかけるのか解らないが、旧式な唐草模様の付いた、物々しい格好の長針と短針が、六時四分を指し示しつつ、カックカックと巨大な真鍮しんちゅう振子球ふりこだまを揺り動かしているのが、何だか、そんな刑罰を受けて、そんな事を繰り返させられている人間のように見えた。その時計に向って左側がの部屋になっていて、扉の横に打ち付けられた、長さ一尺ばかりの白ペンキ塗の標札には、ゴジック式の黒い文字で「精、東、第一病棟」と小さく「第七号室」とその下に大きく書いてある。患者の名札は無い。
 は二人の看護婦に手を引かれるまにまに、その時計に背中を向けて歩き出した。そうして間もなく明るい外廊下に出ると、正面に青ペンキ塗、二階建の木造西洋館があらわれた。その廊下の左右は赤い血のような豆菊や、白い夢のようなコスモスや、紅と黄色の奇妙な内臓の形をした鶏頭けいとうが咲き乱れている真白い砂地で、その又むこうは左右とも、深緑色の松林になっている。その松林の上を行く薄雲に、朝日の光りがホンノリと照りかかって、どこからともない遠い浪の音が、静かに静かに漂って来る気持ちのよさ……。
「……ああ……今は秋だな」
 とは思った。冷やかに流るる新鮮な空気を、腹一パイに吸い込んでホッとしたが、そんな景色を見まわして、立ち止まる間もなく二人の看護婦は、グングンの両手を引っぱって、向うの青い洋館の中の、暗い廊下に連れ込んだ。そうして右手の取付とっつきの部屋の前まで来ると、そこに今一人待っていた看護婦が扉を開いて、たちと一緒に内部なかに入った。
 その部屋はかなり大きい、明るい浴室であった。向うの窓際に在る石造いしづくり浴槽ゆぶねから湧出す水蒸気が三方の硝子ガラス窓一面にキラキラとしたたり流れていた。
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その中で三人のほっぺたの赤い看護婦たちが、三人とも揃いのマン丸い赤い腕と、赤い脚を高々とマクリ出すと、イキナリを引っとらえてクルクルと丸裸体まるはだかにして、浴槽ゆぶねの中に追い込んだ。そうしてい加減、暖たまったところで立ち上るとすぐに、を流し場の板片いたぎれの上に引っぱり出して、前後左右から冷めたい石鹸シャボンとスポンジを押し付けながら、遠慮会釈もなくゴシゴシとコスリ回した。それからダシヌケにの頭を押え付けると、ハダカの石鹸をコスリ付けて泡沫あわを山のように盛り上げながら、女とは思えない乱暴さで無茶苦茶に引っきまわしたあとから、断りもなしにザブザブと熱い湯を引っかけて、眼も口も開けられないようにしてしまうと、又も、有無うむを言わさずの両手を引っ立てて、
「コチラですよ」
 と金切声で命令しながら、モウ一度、浴槽ゆぶねの中へ追い込んだ。そのやり方の乱暴なこと……もしかしたら今朝ほどに食事を持って来て、非道ひどい目に会わされた看護婦が、三人のうちまじっていて、復讐かたきを取っているのではないかと思われる位であったが、なおよく気を付けてみると、それが、毎日毎日 キ印【キチガイ】を扱い慣れている扱いぶりのようにも思えるので、はスッカリ悲観させられてしまった。
 けれどもそのおしまいがけに、長く伸びた手足の爪をってもらって、竹柄たけえのブラシと塩で口の中を掃除して、モウ一度暖たまってから、新しいタオルで身体からだ中をぬぐい上げて、新しい黄色い櫛で頭をゴシゴシとき上げてもらうと、流石さすがに生れ変ったような気持になってしまった。こんなにサッパリした確かな気持になっているのに、どうして自分の過去を思い出さないのだろうかと思うと、不思議で仕様がないくらい、いい気持になってしまった。
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「これとお着換なさい」
 と一人の看護婦が言ったので、ふり返ってみると、板張りの上に脱いでおいた、今までの患者服は、どこへか消え失せてしまって、代りに浅黄色の大きな風呂敷包みが置いてある。結び目を解くと、白いボール箱に入れた大学生の制服と、制帽、霜降しもふのオーバーと、メリヤスの襯衣シャツ、ズボン、茶色の半靴下、新聞紙に包んだ編上靴あみあげくつなぞ……そうしてその一番上に置いてある小さな革のサック【袋】を開くと銀色に光る小さな腕時計まで出て来た。
 はそんなものを怪しむ間もなく、一つ一つに看護婦から受取って身に着けたが、そのついでに気を附けてみると、そんな品物のどれにも、の所持品である事をあらわす頭文字のようなものは見当らなかった。しかし、そのどれもこれもは、ほとん仕立卸したておろしと同様にチャンとした折目が附いている上に、身体をゆすぶってみると、さながらに昔馴染むかしなじみでもあるかのようにシックリと着心地がいい。ただ上衣の詰襟つめえりの新しいカラ【えりカラー】が心持ち詰まっているように思われるだけで、真新しい角帽、ピカピカ光る編上靴あみあげぐつ、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボン【バンド】の寸法までも、ピッタリと合っているのには驚いた。あんまり不思議なので上衣のポケットに両手を突込んでみると、右手には新しい四ツ折のハンカチと鼻紙【ちり紙】、左手には幾何いくら入っているか わからないが、やわらかに膨らんだ小さな蟇口がまぐちさわった。
 は又も狐につままれたようになった。どこかに鏡はないか知らんと、キョロキョロそこいらを見まわしたが、生憎あいにく破片かけららしいものすら見当らぬ。そのの顔をやはりキョロキョロした眼付きで見返り見返り三人の看護婦が扉を開けて出て行った。
 するとその看護婦と入れ違いに若林博士が、鴨居よりも高い頭を下げながら、ノッソリと入って来た。
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の服装を検査するかのように、一わたり見上げ見下すと、黙ってを部屋の隅に連れて行って、向い合った壁の中途に引っかけてある、洗いざらしの浴衣ゆかたを取りけた。その下から現われたものは、思いがけない一面の、巨大おおきな姿見鏡であった。
 は思わず背後うしろによろめいた。……その中に映っている自身の年格好が、あんまり若いのに驚いたからであった。
 今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の鬚武者ひげむしゃで、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入れをして もらったにしても、てのひらで撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。
 眼の前の等身大の鏡の中に突立っているは、まだやっと二十歳はたちかそこいらの青二才としか見えない。額の丸い、あごの薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。制服がなければ中学生と思われるかも知れない。こんな青二才がだったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。
 その時に背後うしろから若林博士が、催促をするように声をかけた。
「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」
 かむりかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷めたい唾液つばをグッとみ込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻からを、色々な不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっと判明わかった。若林博士はに、自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まずに、の過去の姿を引合わせて見せたのだ。つまり若林博士は、の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿にを復旧してから、突然にの眼の前に突付けて、昔の事を思い出させようとしているのに違いなかった。……成る程これなら間違いはない。
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たしかにの過去の記念物に相違ない。……ほかの事は全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、自身の思い出の姿……。
 しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながらむくいられなかった。初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにもかかわらず、は元の通り何一つ思い出す事が出来なかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような……馬鹿にされたような……空恐ろしいような……何ともいえない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭き うなだれていたのであった。
 そのの顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細しさいらしく点頭うなずいた。
「……御尤ごもっともです。以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられるようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れませぬ……では、こちらへお出でなさい。次の方法を試みてみますから……。今度は、きっと思い出されるでしょう……」
 は新らしい編上靴を穿いた足首と、膝頭ひざがしらこわばらせつつ、若林博士の背後に跟随くっついて、鶏頭けいとうの咲いた廊下を引返して行った。そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコツとノックをした。それから大きな真鍮しんちゅう把手ノッブを引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十位の附添人らしい婆さんが出て来て、丁寧に一礼した。その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、
「只今、よくおやすみになっております」
 とつつましやかに報告しつつ、たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。
 若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして内部なかに入った。
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片手での手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせつつ、向うの壁の根方ねかたに横たえてある、鉄の寝台に近付いた。そうしてそこで、の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔を、毛ムクジャラのゆびでソッと指し示しながら、ジロリとを振り返った。
 は両手で帽子のひさしをシッカリと握り締めた。自分の眼を疑って、二三度パチパチとまばたきをした。
 ……それ程に美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。


 その少女は艶々つやつやしたおびただしい髪毛かみのけを、黒い、大きな花弁はなびらのような、奇妙な格好に結んだのを白いタオルで包んだ枕の上に蓬々ぼうぼうと乱していた。肌にはツイが今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい包帯ほうたいで包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、を悩まし苦しめたのは、たしかにこの少女であったろう。むろん、そこいらの壁には、が今朝ほど想像したような凄惨な、血のにじんだ痕跡を一つも発見する事が出来なかったが、それにしても、あれ程の物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三日月まゆ、長い濃い睫毛まつげ、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさしたほお、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い格好に透きとおった二重顎ふたえあごまで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。……否。その時のはホントウにそう疑いつつ、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。
 すると……そのの眼の前で、不思議とも何とも形容の出来ない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り初めたのであった。
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 新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、で包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛まつげを正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。しかも、その細長いまゆや、濃い睫毛まつげや、クローバ型の小さな唇の輪郭りんかくのすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていたほおの色が、何となくさびしい薔薇ばら色に移り変って行くだけであったが、それだけの事でありながら、たった今まで十七八に見えていた、あどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人かと思われる、気品の高い表情に変って来た。そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の神々こうごうしいこと……。
 は又も、自分の眼を疑いはじめた。けれども、眼をこすることは愚か、呼吸いきも出来ないような気持になって、なおもまたたき一つせずに、見惚みとれていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。それが見る見るうちに大きい露のたまになって、長い睫毛まつげにまつわって、キラキラと光って、あなや【あらまあ】と思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、かすかにふるえながら動き出して、夢のように淡い言葉が、切れ切れにれ出した。
「……お姉さま……お姉さま……すみません すみません。……あたしは……あたしは心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。お姉様の大事な 大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんな事に……ああ……済みません 済みません……どうぞ……どうぞ……許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」
 それは、そのふるえ わななく唇の動き方で、やっと推察が出来たかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。
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けれども、その涙は、あとからあとから新らしく湧き出して、長い睫毛まつげの間を左右のめじりへ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした両鬢りょうびんの、すきとおるようなぎわへ消え込んで行くのであった。
 しかし、その涙はやがて止まった。そうして左右のほおに沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くにつれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、健康すこやかな、十七八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。……わずかな夢の間に五六年も年を取って悲しんだ。そうして又、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがてなごやかな微笑さえ浮かみ出たのであった。
 は又も心の底から、ホ――ッと長い溜め息をさせられた。そうして、まだ自分自身が夢からめ切れないような気持ちで、おずおずと背後うしろをふり返った。
 の背後に突立った若林博士は、最前さっきからの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、をジッと見下していた。しかし内心は非常に緊張しているらしい事が、その蝋石ろうせきのように固くなっている顔色でわかったが、そのうちにが振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッとめて、今までとはまるで違った、ひびきの無い声を出した。
「……この方の……お名前を……御存じですか」
 は今一度、少女の寝顔を振り返った。あたりをはばかるように、ヒッソリと頭を振った。
 ……イイエ……チットモ……。
 という風に……。すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声でささやいた。
「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」
 はそう言う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きくまばたきをして見せた。
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 ……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかったが、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう……
 といわんばかりに……。
 すると、がそうした瞬間に、又も言い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、を凝視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、と一緒に、静かに少女の方に向き直った。極めて荘重そうちょうな足取で、半歩ほど前に進み出て、あたかも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつを見下した。暗示的な、ゆるやかな口調で言った。
「……それでは……申します。この方は、あなたのタッタ一人のお従妹いとこさんで、あなたと許嫁いいなずけの間柄になっておられる方ですよ」
「……アッ……」
 とは驚きの声を呑んだ。ひたいを押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。
「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」
「……さよう、世にもまれな美しいお方です。しかし間違い御座いませぬ。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりました貴方あなたの、たった一人のお従妹さんです。その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日まで斯様かようにお気の毒な生活をしておられますので……」
「……………………」
「……ですから……このお方と貴方のお二人を無事に退院されまするように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正木先生から御委託を受けました私の、最後の重大な責任となっているので御座います」
 若林博士の口調は、を威圧するかのようにゆるやかに、荘重そうちょうであった。
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 しかしはもとの通り、狐につままれたように眼をみはりつつ、寝台の上を振り返るばかりであった。……見た事もない天女のような少女を、だしぬけに、お前のものだといってゆびさされたその気味の悪さ……疑わしさ……そうして、その何とも知れない馬鹿らしさ……。
「……僕の……たった一人の従妹……でも……今……姉さんと言ったのは……」
「あれは夢を見ていられるのです。……今申します通りこの令嬢には最初から御同胞ごきょうだいがおいでに ならない、タッタ一人のお嬢さんなのですが……しかし、この令嬢の一千年前の祖先に当る婦人には、一人のお姉さんがられたという事実が記録に残っております。それを直接のお姉さんとして只今、夢に見ておられますので……」
「……どうして……そんな事が……おわかりに……なるのですか……」
 といううちには声を震わした。若林博士の顔を見上げながらジリジリと後退あとずさりせずにはおられなかった。若林博士の頭脳あたまが急に疑わしくなって来たので……他人の見ている夢の内容を、ほかから見て言い当てるなぞいう事は、魔法使いよりほかに出来る筈がない……して【なおさら】推理も想像も超越した……人間の力では到底、測り知る事の出来ない一千年も前の奇怪な事実を、平気で、スラスラと説明しているその無気味さ……若林博士は最初から当り前の人間ではない。事によるとと同様に、この精神病院に収容されている一種特別の患者の一人ではないか知らんと疑われ出したので……。
 けれども若林博士は、ちっとも不思議な顔をしていなかった。依然として科学者らしい、何でもない口調で答えた。依然として響の無い、切れ切れの声で……。
「……それは……この令嬢が、眼をさましておられる間にも、そんな事を言ったり、たりしておられるから判明わかるのです。……この髪の奇妙ない方を御覧なさい。
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この結髪のし方は、この令嬢の一千年ぜんの御先祖が居られた時代の、夫を持った婦人の髪の格好で、時々御自身に結い換えられるのです……つまりこの令嬢は、只今でも、清浄無垢の処女でおられるのですが、しかし、御自身で、かような髪の形に結い変えておられる間は、この令嬢の精神生活の全体が、一千年前の御先祖であったる既婚婦人の習慣とか、記憶とか、性格とかいうものに立返っておられる証拠と認められますので、むろんその時には、眼付から、身体からだのこなしまでも、処女らしいところが全然見当らなくなります。年齢としごろまでも見違えるくらい成熟された、優雅みやびやかな若夫人の姿に見えて来るのです。……もっとも、そのような夢を忘れておいでになる間は、附添人の結うがまにまに、一般の患者と同様のグルグルまきにしておられるのですが……」
 いた口がふさがらなかった。その神秘的な髪の格好と、若林博士の荘重そうちょうな顔付きとを惘々然ぼうぼうぜん【茫茫然】と見比べない訳に行かなかった。
「……では……では……兄さんと言ったのは……」
「それは矢張やはり貴方の、一千年ぜんの御先祖に当るお方の事なのです。その時のお姉様の御主人となっておられた貴方の御先祖……すなわち、この令嬢の一千年前の義理の兄さんであった貴方と、同棲しておられる情景ありさまを、現在夢に見ておられるのです」
「……そ……そんな浅ましい……不倫な……」
 と叫びかけて、はハッと息を詰めた。若林博士がゆるやかに動かした青白い手に制せられつつ……。
「シッ……静かに……貴方が今にも御自分のお名前を思い出されますれば、何もかも……」
 と言いさして若林博士もピッタリと口をつぐんだ。二人とも同時に寝台の上の少女をかえりみた。けれども最早もう、遅かった。
 達の声が、少女の耳に入ったらしい。
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その小さい、紅い唇をムズムズと動かしながら、ソッと眼を見開いて、ちょうどその真横に立っているの顔を見ると、パチリパチリと大きく二三度まばたきをした。そうしてその二重瞼の眼を一瞬間キラキラと光らしたと思うと、何かしら非常に驚いたと見えて、そのほおの色が見る見る真白になって来た。その潤んだ黒い瞳が、大きく大きく、殆んどこの世のものとは思われぬ程の美しさにまで輝やきあらわれて来た。それにれてほおの色がにわかに、耳元までもパッと燃え立ったと思ううちに、
「……アッ……お兄さまッ……どうしてここにッ……」
 と魂消たまぎるように叫びつつ身を起した。素跣足すはだしのまま寝台から飛び降りて、すそもあらわにすがり付こうとした。
 は仰天した。無意識のうちにその手を払いけた。思わず二三歩飛び退いてにらみ付けた……スッカリ面喰めんくらってしまいながら……。
 ……すると、その瞬間に少女も立ち止まった。両手をさし伸べたまま電気に打たれたように固くなった。顔色が真青になって、唇の色まで無くなった……と見るうちに、眼を一パイに見開いて、の顔を凝視みつめながら、よろよろと、うしろに退さがって寝台の上に両手をいた。唇をワナワナと震わせて、なおも一心にの顔を見た。
 それから少女は若林博士の顔と、部屋の中の様子を恐る恐る見回わしていた……が、そのうちに、その両方の眼にキラキラと光る涙を一パイに溜めた。グッタリとうなだれて、石の床の上に崩折くずおれ座りつつ、白い患者服のそでを顔に当てたと思うと、ワッと声を立てながら、寝台の上に泣き伏してしまった。
 は いよいよ面喰めんくらった。顔中一パイに湧き出した汗をぬぐいつつ、シャれた声でシャクリ上げシャクリ上げ泣く少女の背中と、若林博士の顔とを見比べた。
 若林博士は……しかし顔の筋肉すじ一つ動かさなかった。呆然ぼうぜんとなっているの顔を、冷やかに見返しながら、悠々と少女に近付いて腰をかがめた。
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耳に口を当てるようにして問うた。
「思い出されましたか。この方のお名前を……そうして貴女あなたのお名前も……」

 この言葉を聞いた時、少女よりもの方が驚かされた。……さてはこの少女もと同様に、夢中遊行むちゅうゆうこう状態からめかけた「自我忘失状態」に陥っているのか……そうして若林博士は、現在、にかけているのと同じ実験を、この少女にも試みているのか……と思いつつ、耳の穴がシイ――ンと鳴るほど緊張して少女の返事を期待した。
 けれども少女は返事をしなかった。ただ、ちょっとの、泣き止んで、寝台に顔を一層深く埋めながら、頭を左右に振っただけであった。
「……それではこの方が、貴方とお許嫁いいなずけになっておられた、あのお兄さまということだけは記憶おぼえておいでになるのですね」
 少女はうなずいた。そうして前よりも一層はげしい、高い声で泣き出した。
 それは、何も知らずに聞いていても、まことに悲痛を極めた、はらわたを絞るような声であった。自分の恋人の名前を思い出す事が出来ないために、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうして折角せっかくその相手にめぐり合ってすがり付こうとしても、素気そっけなく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し初めているらしい少女の、身も世もあられぬなげきの声であった。
 男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、おなじ苦しみを体験させられているは、心の底までそのれ果てた泣声にき付けられてしまった。今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは全然まるで違った……否 あの時よりも数層倍した、息苦しい立場におとしいれられてしまったのであった。
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この少女の顔も名前も、依然として思い出す事が出来ないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければまらないほど痛々しい少女の泣声と、そのいじらしい背面うしろ姿が、白い寝床の上に泣伏して、わななき狂うのを、どうする事も出来ないのが、全く一人の責任であるかのような心苦しさに苛責かしゃくなまれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになった位であった。
 けれども若林博士は、そうしたの苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。
「……さ……さ……落ち付いて……おちついて……もうきに思い出されます。この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでになるのです。しかし、もう間もなく思い出されます。そうしたら直ぐに貴女あなたにお教えになるでしょう。そうして御一緒に退院なさるでしょう。……さ……静かにおやすみなさい。時期の来るのをお待ちなさい。それは決して遠いことではありませんから……」
 こう言い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。……驚いて、弱って、暗涙あんるい【人知れず流すなみだ】をぬぐぬぐい立ちすくんでいるの手を引いて、サッサと扉の外に出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。廊下の向うの方で、鶏頭けいとうの花をいじっている附添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何かしら躊躇ちゅうちょしているを促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。
 耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。その歔欷すすり上げる呼吸の切れ目切れ目に、附添の婆さんが何か言い聞かせている気はいである。
 人造石の床の上に突立ったは、深い溜息を一つホーッときながら気を落ち付けた。とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。
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……今の今までが夢にも想像し得なかったばかりか、恐らく世間の人々も人形以外には見た事のないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、と壁一重ひとえを隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。
……しかもその美少女は、のタッタ一人の従妹いとこで、許嫁いいなずけの間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお婿むこさんであった」というような奇怪極まると同棲している夢を見ている。
……のみならずその夢からめて、の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。
……それをから払いけられたために、床の上へ崩折くずおれて、はらわたを絞るほどなげき悲しんでいる……
 というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。
 けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急におしにでもなったかのように、ピッタリと口をつぐんでしまった。そうして冷たい、青白い眼付きで、チラリと一瞥いちべつしただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手で胴衣チョッキのポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出して、てのひらの上に載せた。それからその左の手くびに、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈拍を計り初めたのであった。
 身体からだの悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。しかし、それにしても、そうしている若林博士の態度には、今の今まで、あれ程に緊張していた気持が、あとかたも残っていなかった。その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷淡さが、あらわれていた。
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小さな眼を幽霊のように伏せて、白い唇を横一文字に閉じて、左手の脈拍の上の中ゆびを、強く押えたり、ゆるめたりしている姿を見ると、あたかもタッタ今、隣りの部屋で見せ付けられた、不可思議な出来事に対するの興奮を、そうした態度で押え付けようとしているかのように見えた。……事もあろうに過去と現在と未来と……夢と現実とをゴッチャにした、変妙奇怪【きわめて不思議で、理解できない】な世界で、二重三重の恋にもだえている少女……想像の出来ないほど不義不倫な……この上もなく清浄純真な……同時に処女とも人妻ともつかず、正気ともキチガイとも区別されない……実在不可能とも形容すべき絶世の美少女を「お前の従妹で、同時に許嫁いいなずけだ」と言って紹介するばかりでなく、その証拠を現在、眼の前に見せ付けておきながら、そうした途方もない事実に対するの質問を、故意に避けようとしているかのように見えたのであった。
 だからは、どうしていいかわからない不満さを感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのであった。
 ……しかも……が、何だかこの博士から小馬鹿まわし【愚か者扱い】にされているような気持を感じたのは、実に、そのうつむいた瞬間であった。
 何故という事は解らないけれども若林博士は、の頭がどうかなっているのに付け込んで、人がビックリするような作り話を持かけて、根も葉もない事を信じさせようと試みているのじゃないか知らん。そうして何かしら学問上の実験に使おうとしているのではあるまいか……というような疑いが、チラリと頭の中に湧き起ると、見る見るその疑いが真実でなければ ならないように感じられて、頭の中一パイに拡がって来たのであった。
 何も知らないつかまえて、思いもかけぬ大学生に扮装させたり、美しい少女を許嫁いいなずけだなぞと言って紹介ひきあわせたり、いろいろ苦心しているところを見るとドウモ可怪おかしいようである。
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この服や帽子は、が夢うつつになっているうちに、身体からだに合せて仕立てたものでは ないかしらん。又、あの少女というのも、この病院に収容されている色情狂か何かで、誰を見ても、あんな変テコな素振りをするのじゃ ないかしらん。この病院も、九州帝国大学ではないのかもしれぬ。ことによると、眼の前に突立っている若林博士も、何かしらエタイのわからないつかませもの【いかさま者】で、何かの理由で脳味噌を蒸発させるかどうかしているを、どこからか引っぱって来て、る一つの勿体もったいらしい錯覚におとしいれて、何かの役に立てようとしているのでは ないかしらん。そうでもなければ、自身の許嫁いいなずけだという、あんな美しい娘に出会いながら、が何一つ昔の事を思い出さない筈はない。なつかしいとか、嬉しいとか……何とかいう気持を、感じない筈はない。
 ……そうだ、はたしかに一パイ喰わされかけていたのだ。
 ……こう気が付いて来るに連れて、今までの頭の中一パイにコダワっていた疑問だの、迷いだの、驚ろきだのいうものが、みるみるうちにスースーと頭の中から蒸発して行った。そうしての頭の中は、いつの間にか又、もとの木阿弥もくあみのガンガラガンに立ち帰って行ったのであった。何等の責任も、心配もない……。
 けれども、それに連れて、自身が全くの一人ポッチになって、何となくタヨリないような、モノ淋しいような気分に襲われかけて来たので、は今一度、細い溜息をしいしい顔を上げた。すると若林博士も、ちょうど脈拍の診察を終ったところらしく、左掌ひだりての上の懐中時計を、やおらもとのポケットの中に落し込みながら、今朝、一番最初に会った時の通りの丁寧な態度に帰った。
「いかがです。
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お疲れになりませんか」
 は又も少々面喰めんくららわせられた、あんまり何でもなさそうな若林博士の態度を通じて、いよいよ馬鹿にされている気持を感じながらも、つとめて何でもなさそうに うなずいた。
「いいえ。ちっとも……」
「……あ……それでは、あなたの過去の御経歴を思い出して頂く試験を、もっと続けてもよろしいですね」
 は今一度、何でもなく うなずいた。どうでもなれ……という気持で……。それを見ると若林博士も調子を合わせて うなずいた。
「それでは只今から、この九大精神病科本館の教授室……先程申しました正木まさき 敬之けいし先生が、御臨終の当日までられました部屋に御案内いたしましょう。そこに陳列してあります、あなたの過去の記念物を御覧になって おいでになるうちには、必ずや貴方の御一身に関する奇怪な謎が順々に解けて行きまして、最後には立派に、あなたの過去の御記憶の全部を御回復になることと信じます。そうして貴方と、あの令嬢にからまる怪奇を極めた事件の真相をも、一時に氷解させて下さる事と思いますから……」
 若林博士のこうした言葉には、鉄よりも固い確信と共に、何等かの意味深い暗示が含まれているかのように響いた。
 しかしは、そんな事には無頓着なまま、頭を今一つ下げた。……どこへでも連れて行くがいい。どうせ、なるようにしか ならないのだから……というような投げやりな気持で……。同時に今度はドンナ不思議なものを持出して来るか……といったような、多少の好奇心にもられながら……。
 すると若林博士も満足げに うなずいた。
「……では……こちらへどうぞ……」

 九州帝国大学、医学部、精神病科本館というのは、最前の浴場を含んだ青ペンキぬり、二階建の木造洋館であった。
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 その中央まんなかを貫く長い廊下を、今しがた来た花畑添いの外廊下づたいに、一直線に引返して、向う側に行抜けると、監獄の入口かと思われる物々しい、鉄張りの扉に行き当った……と思ううちにその扉は、どこからかこっちを覗いているらしい番人の手でゴロゴロと一方に引き開いて、二人は暗い、ガランとした玄関に出た。
 その玄関の扉はピッタリと閉め切ってあったが 多分まだ朝が早いせいであったろう。その扉の上の明窓あかりまどかられ込んで来る、仄青ほのあおい光線をたよりに、両側に二つ並んでいる急な階段の向って左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になって、右側に「実験室」とか「図書室」とかいう木札をかけた、いくつものへやが並んでいる。その廊下の突当りに「出入厳禁……医学部長」と筆太に書いた白紙を貼り附けた茶褐色の扉が見えた。
 先に立った若林博士は、内ポケットから大きな木札の付いた鍵を出してその扉を開いた。背後うしろを振り返ってを招き入れると、謹しみ返った態度で外套がいとうを脱いで、扉のすぐ横の壁に取付けてある帽子掛にかけた。だからもそれにならって、霜降しもふりのオーバーと角帽をかけ並べた。たちの靴の痕跡あとが、そのまま床に残ったところを見ると、部屋中が薄いホコリにおおわれているらしい。
 それはステキに広い、明るい部屋であった。北と、西と、南の三方に、四ツずつ並んだ十二の窓の中で、北と西の八ツの窓は一面に、濃緑色の松の枝でおおわれているが、南側に並んだ四ツの窓は、何もさえぎるものが無いので、青い青い朝の空の光りが、程近い浪の音と一所に、洪水のようにまぶしく流れ込んでいる。その中に並んで突立っている若林博士の、非常に細長いモーニング姿と、チョコナンとしたの制服姿とは、そのままに一種の奇妙な対照をあらわして、何となく現実世界から離れた、遠い処に来ているような感じがした。
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 その時に若林博士は、その細長い右手をあげて、部屋の中をグルリと指さしまわした。同時に、高い処から出る弱々しい声が、部屋の隅々に、ゆるやかな余韻を作った。
「この部屋は元来、この精神病科教室の図書室と、標本室とを兼ねたものでしたが、その図書や標本と申しますのは、いずれもこの精神病科の前々主任教授をつとめていられました斎藤寿八さいとうじゅはち先生が、苦心をして集められました精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこの病院に居りました患者の製作品、もしくは身の上に関係した物品書類なぞで、中には世界の学界に誇るに足るものがすくなくありませぬ。ところがその斎藤先生が他界されましたのち、本年の二月に、正木先生が主任教授となって着任されますと、この部屋の方が明るくて良いというので、こちらの東側の半分を埋めていた図書文献の類を全部、今までの教授室に移して、その跡を御覧の通り、御自分の居間に改造してあのような美事な暖炉ストーブまで取付けられたものです。しかも、それが総長の許可も受けず、正規のとどけも出さないまま、自分勝手にされたものであることが判明しましたので、本部の塚江事務官が大きに狼狽しまして、大急ぎで届書とどけしょを出して正規の手続きをしてもらうように、言葉をひくうして頼みに来たものだそうですが、その時に正木先生は、用向きの返事は一つもしないまま、済ましてこんな事を言われたそうです。
『なあに……そんなに心配するがものはないよ。ちょっと標本の位置を並べ換えたダケの事なんだからね。総長にそう云っといてくれたまえ……というのはコンナ理由わけなんだ。聞きたまえ。……何を隠そう、かく言う吾輩わがはい自身の事なんだが、おかげでこうして大学校の先生に納まりは納まったものの、正直のところ、考えまわしてみると吾輩は、一種の研究狂、兼 誇大妄想狂に相違ないんだからね。
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そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分に在るという事実を、自分自身でチャント診断しているんだ。……しかしそうかといって今更、自分自身で名乗を上げて自分の受持の病室に入院する訳にも行かないからね。とりあえずこんな参考材料と一所いっしょに、自分自身の脳髄を、生きた標本として陳列してみたくなったダケの事なんだ。……むろん内科や外科なぞいう処ではコンナ必要がないかも知れないが、精神病科に限っては、その主任教授の脳髄も研究材料の一つとして取扱わなければならぬ……徹底的の研究を遂げておかねばならぬ……というのが吾輩一流の学術研究態度なんだから仕方がない。この標本室を作った斎藤先生も、むろん地下で双手もろてげて賛成して御座ると思うんだがね……』
 と言って大笑されましたので、流石さすが老練の塚江事務官もけむまかれたまま引退ひきさがったものだそうです」
 こうした若林博士の説明は、極めて平調にスラスラと述べられたのであったが、しかしそれでも度胆どぎもを抜くのには充分であった。今までは形容詞ばかりで聞いていた正木博士の頭脳のホントウの素破すばらしさが、こうした何でもない諧謔かいぎゃく【ユーモア】の中からマザマザと輝やき現われるのを感じた一刹那せつなに、は思わずゾッとさせられたのであった。世間一般が大切だいじがる常識とか、規則とかいうものを遥かに超越しているばかりでなく、冗談半分とはいいながら、自分自身をキチガイの標本ぐらいにしか考えていない気持を通じて、大学全体、否、世界中の学者たちを馬鹿にし切っている、そのアタマの透明さ……その皮肉の辛辣しんらつ、偉大さが、にわかり過ぎるほどハッキリとわかったので、ただ呆然ぼうぜんとしていた口がふさがらなくなるばかりであった。
 しかし若林博士は、例によって、そうしたの驚きとは無関係に言葉を続けて行った。
「……ところで、貴方あなたをこの部屋にお伴いたしました目的と申しますのは他事ほかでも御座いませぬ。
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只今も階下したの七号室で、ちょっとお話いたしました通り、何よりもまず第一に、かように一パイに並んでおります標本や、参考品の中で、どの品が最も深く、貴方の御注意をくかという事を、試験させて頂きたいのです。これは人間の潜在意識……すなわち普通の方法では思い出す事の出来ない、深い処に在る記憶を探り出す一つの方法で御座いますが、しかもその潜在意識というものは、いつも、本人に気付かれないままに常住不断ふだん【日ごろ】【へいぜい、ふだん】の活躍をして、その人間を根強く支配している事実が、既に数限りなく証明されているのですから、貴方の潜在意識の中に封じ込められている、貴方の過去の御記憶も同様に、きっとこの部屋の中のどこかに陳列して在る、あなたの過去の記念物の処へ、貴方を導き近づけて、それに関する御記憶を、鮮やかにび起すに違いないと考えられるので御座います。」「……正木先生はかつて、バルカン半島を御旅行中に、その地方特有のイスメラと称する女祈祷師からこの方法を伝授されまして、度々の実験に成功されたそうですが……もちろん万が一にも、あなたが最前の令嬢と、何等の関係も無い、赤の他人でおいでになると致しますれば、この実験は、絶対に成功しない筈で御座います。何故かと申しますと、貴方の過去の御記憶をび起すべき記念物は、この部屋の中に一つも無い訳ですから……ですから何でも構いませぬ、この部屋の中で、お眼に止まるものについて順々に御質問なすって御覧なさい。あなた御自身が、精神病に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればそのうちに、やがて何かしら一つの品物について、電光のように思い当られるところが出来て参りましょう。
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それが貴方の過去の御記憶をび起す最初のヒントになりますので、それから先は恐らく一瀉千里いっしゃせんりに【またたくまに】、貴方の過去の御記憶の全部を思い出される事に相成りましょう」
 若林博士のこうした言葉は、やはり極めて無造作に、スラスラと流れ出たのであった。
 あたかも大人が小児こどもに言って聞かせるような、手軽い、親切な気持ちをこめて……しかし、それを聞いているうちには、今朝からまだ一度も経験しなかった新らしい戦慄が、心の底から湧き起って来るのを、押え付ける事が出来なくなった。
 先刻さっきから感じていた……何もかも出鱈目でたらめではないか……といったような、あらゆる疑いの気持は、若林博士の説明を聞いているうちに、ドン底から引っくり返されてしまったのであった。
 若林博士は流石さすがに権威ある法医学者であった。を真実に彼女の恋人と認めているにしても、決して無理押し付けに、そう思わせようとしているのではなかった。最も公明正大な、且つ、最も遠まわしな科学的の方法によって、一分一厘いちぶいちりん【ごくわずか】の隙間すきまもなくの心理を取り囲んで、自身の手で直接に、自身を彼女の恋人としてゆびささせようとしている。その確信の底深さ……その計画の冷静さ……周到さ……。
 ……それならば先刻さっきから見たり聞いたりした色々な出来事は、やっぱり真実ほんとうに、の身の上に関係した事だったのか知らん。そうしてあの少女は、やはりの正当な従妹いとこで、同時に許嫁いいなずけだったのか知らん……。
 ……もしそうとすればは、いやでもおうでも彼女のために、自身の過去の記念物を、この部屋の中から探し出してやらねばならぬ責任が在ることになる。そうしては、それによって過去の記憶をび起して、彼女の狂乱を救うべく運命づけられつつ、今、ここに突立っている事になる。
 ……ああ。
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「自分の過去」を「狂人きちがい病院の標本室」の中から探し出さねばならぬとは……絶対に初対面としか思えない絶世の美少女が、自分の許嫁いいなずけでなければならなかった証拠を「精神病研究用の参考品」の中から発見しなければならぬとは……何という奇妙なの立場であろう。何というはずかしい……恐ろしい……そうして不可解な運命であろう。
 こんな風に考えが変って来たは、われ知らずひたいにニジミ出る汗を、ポケットの新しいハンカチでぬぐいながら、今一度部屋の内部なかを恐る恐る見回しはじめた。思いもかけない過去のが、ツイ鼻の先に隠れていはしまいかという、世にも気味の悪い想像を、心の奥深くおののかせ、縮みこませつつ、今一度オズオズと部屋の中を見まわしたのであった。

 部屋の中央から南北に区切った西側は、普通の板張で、標本らしいものが一パイに並んだ硝子ガラス戸棚の行列が立塞たちふさがっているが、反対に東側の半分の床は、薄いホコリをかぶった一面のリノリウム張りになっていて、その中央に幅四五尺、長さ二けんぐらいに見える大卓子テーブルが、中程を二つの肘掛回転椅子に挟まれながら横たわっている。その大卓子テーブルの表面に張詰めてある緑色の羅紗らしゃは、やはり薄いホコリをかぶったまま、南側の窓からさし込む光線をまぶしく反射して、この部屋の厳粛味を一層、高潮させているかのようである。又、その緑色の反射の中央にカンバス【帆布・ズック】張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の綴込つづりこみらしいものと、青い、四角いメリンス【毛織物】の風呂敷包みが、勿体らしくキチンと置き並べてあるが、その上から卓子テーブルの表面と同様の灰色のホコリが一面におおかぶさっているのを見ると、何でも余程以前から誰も手を触れないまま置き放しにしてあるものらしい。
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しかもその前には瀬戸物の赤い達磨だるまの灰落しが一個、やはり灰色のホコリを被ったまま置き放しにしてあるが、それが、その書類に背中を向けながら、毛だらけの腕を頭の上に組んで、大きな口を開きながら、永遠の欠伸あくびを続けているのが、何だか故意わざと、そうした位置に置いてあるかのようで、妙にの気にかかるのであった。
 その赤い達磨だるまの真正面にき立っている東側の壁面かべは一面に、塗上げてから間もないらしい爽かな卵色で、中央に人間一人が楽にかがまれる位の大暖炉ストーブが取付けられて、黒塗の四角い蓋がしてある。その真上には差渡し二尺以上もあろうかと思われる丸型の大時計がかっているが、セコンド【秒】の音も何も聞えないままに今の時間……七時四十二分を示しているところを見ると、多分、電気仕掛か何かになっているのであろう。その向って右には大きな油絵の金縁額面、又、左側には黒い枠に囲まれた大きな引伸し写真の肖像と、カレンダーがかっている。その又肖像写真の左側には今一つ、隣りの部屋に通ずるらしい扉が見えるが、それ等のすべてが、清々すがすがしい朝の光りの中に、あるいまぶしく、又はクッキリと照し出されて、大学教授の居室らしい、厳粛な静寂しじまを作っている光景を眺めまわしているうちに、は自から襟を正したい気持ちになって来た。
 事実……はこの時に、ある崇高なインスピレーションに打たれた感じがした。最前から持っていたような一種のなげやりな気持ちや、彼女の運命に対する好奇心なぞ いうものは、どこへか消え失せてしまって……何事も天命のまま……というような神聖な気分に充たされつつ詰襟つめえりのカラを両手で直した。それから、やはり神秘的な運命の手によって導かれる行者のような気持ちでソロソロと前に進み出て、参考品を陳列した戸棚の行列の中へ歩み入った。
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 はまず一番明るい南側の窓に近く並んでいる戸棚に近付いて行ったが、その窓に面した硝子戸の中には、色々な奇妙な書類や、掛軸のようなものが、一々簡単な説明を書いた紙を貼付けられて並んでいた。若林博士の説明によると、そんなものは皆「私の頭も、これ位に治癒なおりましたから、どうぞ退院させて下さい」という意味で、入院患者から主任教授宛に提出されたものばかり……という話であった。
――歯齦はぐきの血で描いたお雛様ひなさまの掛軸――(女子大学卒業生作)
――火星征伐の建白書――(小学教員提出)
――唐詩選五言絶句「竹里館ちくりかん隷書れいしょ――(無学文盲の農夫が発病後、曽祖父に当る漢法医の潜在意識を隔世的に再現、揮毫きごう【創作】せしもの)
――大英百科全書の数十ページを暗記筆記した西洋半紙数十枚――(高文試験に失格せし大学生提出)
――「カチューシャ可愛や別れのらさ」という同一文句の繰返しばかりで埋めた学生用ノート・ブックの数十冊――(大芸術家をもって任ずる失職活動俳優の自称「創作」)
――紙で作った懐中日時計――(老理髪師製作)
――竹片たけきれで赤煉瓦レンガに彫刻した聖母像――(天主教を信ずる小学校長製作)
――鼻糞で固めた観音像、硝子ガラス箱入り――(曹洞宗布教師作)
 は、あんまりミジメな、痛々しいものばかりが次から次に出て来るので、その一列の全部を見てしまわないうちに、思わず顔を反向そむけて通り抜けようとしたが、その時にフト、その戸棚の一番おしまいの、硝子戸の壊れている片隅に、ほかの陳列品から少し離れて、妙なものが置いてあるのを発見した。それは最初には硝子が破れているお蔭でヤット眼に止まった程度の、眼に立たない品物であったが、しかし、よく見れば見る程、奇妙な陳列物であった。
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 それは五寸【15cm】ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の綴込つづりこみで、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れよごれてボロボロになりかけている。硝子の破れ目から怪我けがをしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとにあかインキの一頁大の亜剌比亜アラビア数字で、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴと番号が打ってある。その一番上の一冊の半分千切れた第一頁をめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にしてある。

  巻頭歌
胎児よ胎児よ何故躍る 母親の
     心がわかっておそろしいのか

 その次のページに黒インキのゴジック体で『ドグラ・マグラ』と標題が書いてあるが、作者の名前は無い。
 一番最初の第一行が……ブウウ――ンンン……ンンンン……という片仮名の行列から初まっているようであるが、最終の一行が、やはり……ブウウ――ンンン……ンンンン……という同じ片仮名の行列で終っているところを見ると、全部一続きの小説みたような物ではないかと思われる。何となく人を馬鹿にしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。
「……これは何ですか先生……このドグラ・マグラというのは……」
 若林博士は今までになく気軽そうに、背後うしろから うなずいた。
「ハイ。それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを表現あらわした珍奇な、面白い製作の一つです。当科ここの主任の正木先生が亡くなられますと間もなく、やはりこの付属病室に収容されております一人の若い大学生の患者が、一気呵成かせいに書上げて、私の手許てもとに提出したものですが……」
「若い大学生が……」
「そうです」
「……ハア……やはり退院さしてくれといったような意味で、自分の頭の確かな事を証明するために書いたものですか」
「イヤ。
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そこのところが、まだハッキリ致しませぬので、実は判断に苦しんでいるのですが、要するにこの内容と申しますのは、正木先生と、かく申す私とをモデルにして、書いた一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」
「……超常識的な科学物語……先生と正木博士をモデルにした……」
「さようで……」
「論文じゃないのですか……」
「……さようで……その辺が、やはり何とも申上げかねますので……一体に精神病者の文章は理屈ばったものが多いものだそうですが、この製作だけは一種特別で御座います。つまり全部が一貫した学術論文のようにも見えまするし、今までに類例の無い形式と内容の探偵小説といったような読後感も致します。そうかと思うと単に、正木先生と私どもの頭脳を嘲笑し、翻弄するために書いた無意味な漫文【とりとめのない文章】とも考えられるという、実に奇怪極まる文章で、しかも、その中に盛込まれている事実的な内容がまた非常に変っておりまして科学趣味、猟奇りょうき趣味、色情表現エロチシズム、探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味なぞというものが、全篇の隅々まで百パーセントに重なり合っているという極めて眩惑的な構想で、落付いて読んでみますと流石さすがに、精神異常者でなければトテモ書けないと思われるような気味の悪い妖気が全篇に横溢おういつしております。……もちろん火星征伐の建白なぞとは全然、性質をことにした、精神科学上研究価値の高いものと認められましたところから、とりあえずここに保管してもらっているのですが、恐らくこの部屋の中でも……否。世界中の精神病学界でも、一番珍奇な参考品ではないかと考えているのですが……」
 若林博士はにこの原稿を読ませたいらしく、次第に能弁に説明し初めた。その熱心振りが異様だったのでは思わず眼をパチパチさせた。
「ヘエ。
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そんなに若いキチガイが、そんなに複雑な、むずかしい筋道を、どうして考え出したのでしょう」
「……それは斯様かような訳です。その若い学生は尋常一年生から高等学校を卒業して、当大学に入学するまで、ズッと首席で一貫して来た秀才なのですが、非常な探偵小説好きで、将来の探偵小説は心理学と、精神分析と、精神科学方面に在りと信じました結果、精神に異状をていしましたものらしく、自分自身でる幻覚錯覚にとらわれた一つの驚くべき惨劇を演出しました。そうしてこの精神病科病室に収容されると間もなく、自分自身をモデルにした一つの戦慄的な物語を書いてみたくなったものらしいのです。……しかもその小説の構想は前に申しました通り極めて複雑、精密なものでありますにもかかわらず、大体の本筋というのは驚ろくべき簡単なものなのです。つまりその青年が、正木先生と私とのために、この病室に幽閉とじこめられて、想像も及ばない恐ろしい精神科学の実験を受けている苦しみを詳細に描写したものに過ぎないのですが」
「……ヘエ。先生にはソンナ記憶おぼえが、お在りになるのですか」
 若林博士の眼の下に、最前の通りの皮肉な、淋しい微笑のしわが寄った。それが窓から来る逆光線を受けて、白く、ピクピクと輝いた。
「そんな事は絶対に御座いませぬ」
「それじゃ全部が出鱈目でたらめなのですね」
「ところが書いてある事実を見ますと、トテモ出鱈目とは思えない記述ばかりが出て来るのです」
「ヘエ。妙ですね。そんな事があり得るでしょうか」
「さあ……実はその点でも判断に迷っているのですが……読んで御覧になれば、おわかりになりますが……」
「イヤ。読まなくてもいいですが、内容は面白いですか」
「さあ……その点もチョット説明に苦しみますが、すくなくとも専門家にとっては面白いという形容では追付おいつかない位、深刻な興味を感ずる内容らしいですねえ。
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専門家でなくとも精神病とか、脳髄とかいうものについて、多少共に科学的な興味や、神秘的な趣味を持っている人々にとっては非常な魅力の対象になるらしいのです。現に当大学の専門家諸氏の中でも、これを読んだものは最小限、二三回は読み直させられているようです。そうして、やっと全体の機構がわかると同時に、自分の脳髄が発狂しそうになっている事に気が付いたと言っております。はなはだしいのになるとこの原稿を読んでから、精神病の研究がイヤになって、私の受持っております法医学部へ転じて来た者が一人、それからモウ一人はやはりこの原稿を読んでから自分の脳髄の作用に信用がけなくなったから自殺すると言って鉄道往生をした者が一人居る位です」
「ヘエ。何だかモノスゴイ話ですね。正気の人間がキチガイに顔負けしたんですね。よっぽどキチガイじみた事が書いてあるんですね」
「……ところが、その内容の描写が極めて冷静で、理路整然としている事は普通の論文や小説以上なのです。しかも、その見た事や聞いた事に対する、精神異状者特有の記憶力の素晴しさには、私も今更ながら感心させられておりますので、只今御覧になりました『大英百科全書の暗記筆記』なぞの遠く及ぶところでは御座いませぬ。……それから今一つ、今も申します通り、その構想の不可思議さが又、普通人の所謂いわゆる、推理とか想像とかを超越しておりまして、読んでいるうちにこちらの頭が、いつの間にか一種異様、幻覚錯覚、倒錯【逆になる】観念に捲き込まれそうになるのです。その意味で、斯様かような標題を附けたものであろうと考えられるのですが……」
「……じゃ……このドグラ・マグラという標題は本人が附けたのですね」
「さようで……まことに奇妙な標題ですが……」
「……どういう意味なんですか……このドグラ・マグラという言葉のホントウの意味は……日本語なのですか、それとも……」
「……さあ……それにつきましても私は迷わされましたもので、要するにこの一文は、標題から内容に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれているものとしか考えられませぬ。……と申します理由は外でも御座いませぬ。
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この原稿を読み終りました私が、その内容の不思議さに眩惑されました結果、もしやこの標題の中に、この不思議な謎語なぞを解決する鍵が隠されているのではないか。このドグラ・マグラというのは、そうした意味の隠語ではあるまいかと考えましたからで御座います。……ところが、これを書きました本人の青年患者は、この原稿をわずか一週間ばかりの間に、精神病者特有の精力を発揮しまして、不眠不休で書上げてしまいますと、流石さすがに疲れたと見えまして、夜も昼もなくグウグウと眠るようになりましたために、この標題の意味を尋ねる事が、当分の間、出来なくなってしまいました。」「……といって斯様かような不思議な言葉は、字典や何かには一つも発見出来ませぬし、語源等もむろんハッキリ致しませぬので、私は一時、行き詰まってしまいましたが、そのうちに又、はからず面白い事に気付きました。元来この九州地方には『ゲレン』とか『ハライソ』とか『バンコ』『ドンタク』『テレンパレン』なぞいうような旧欧羅巴ヨーロッパ系統のなまり言葉が、方言として多数に残っているようですから、あるいは、そんなものの一種ではあるまいかと考え付きましたので、そのような方言を専門に研究している篤志家【ボランティア】の手で、色々と取調べてもらいますと、やっとわかりました。……このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは切支丹伴天連キリシタンバテレンの使う幻魔術のことをいった長崎地方の方言だそうで、只今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。語源、系統なんぞは、まだ判明致しませぬが、いて訳しますれば今の幻魔術もしくは『堂回目眩どうめぐりめぐらみ』『戸惑面喰とまどいめんくらい』という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話ですが、いずれにしましてもそのような意味の全部を引っくるめたような言葉には相違御座いません。
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……つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説式な、同時にドコドコまでもノンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために、斯様かような名前を附けたものであろうと考えられます」
「……脳髄の地獄……ドグラ・マグラ……まだよく解かりませぬが……つまりドンナ事なのですか」
「……それはこの原稿の中に記述されている事柄をお話し致しましたら、幾分、御想像がつきましょう。……すなわちこのドグラ・マグラ物語の中に記述しるされております問題というものは皆、一つ残らず、常識で否定出来ない、わかり易い、興味の深い事柄でありますと同時に、常識以上の常識、科学以上の科学ともいうべき深遠な真理の現われを基礎とした事実ばかりで御座います。
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たとえば、」
……『精神病院はこの世のいき地獄』という事実を痛切に唄いあらわした阿呆陀羅経あほだらきょうの文句……
……『世界の人間は一人残らず精神病者』という事実を立証する精神科学者の談話筆記……
……胎児を主人公とする万有進化の大悪夢に関する学術論文……
……『脳髄は一種の電話交換局に過ぎない』と喝破した【非を大声でしかった】精神病患者の演説記録……
……冗談半分に書いたような遺言書……
……唐時代の名工が描いた死美人の腐敗画像……
……その腐敗美人の生前に生写しともいうべき現代の美少女に恋い慕われた一人の美青年が、無意識のうちに犯した残虐、不倫、見るに堪えない傷害、殺人事件の調査書類……
「……そのようなものが、様々の不可解な出来事と一緒に、本筋と何の関係もないような姿で、百色眼鏡ひゃくいろめがね【万華鏡】のように回転し現われて来るのですが、読んだ後で気が付いてみますと、それが皆、一言一句、極めて重要な本筋の記述そのものになって おりますので……のみならず、そうした幻魔作用ドグラ・マグラの印象をその一番冒頭になっている真夜中の、タッタ一つの時計の音から初めまして、次から次へといかけて行きますと、いつの間にか又、一番最初に聞いた真夜中のタッタ一つの時計の音の記憶に立帰って参りますので……それは、ちょうど真に迫った地獄のパノラマ絵を、一方から一方へ見まわして行くように、おんなじ恐ろしさや気味悪さを、同じ順序で思い出しつつ、いつまでもいつまでも繰返して行くばかり……逃れ出す隙間がどこにも見当りませぬ。……というのは、それ等の出来事の一切合財が、とりも直さず、只一点の時計の音を、る真夜中に聞いた精神病者が、ハッとした一瞬間に見た夢に過ぎない。
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しかも、その一瞬間に見た夢の内容が、実際は二十何時間の長さに感じられたので、これを学理的に説明すると、最初と、最終の二つの時計の音は、真実のところ、同じ時計の、同じただ一つの時鐘じしょうの音【同じ一つの時報の音】であり得る……という事が、そのドグラ・マグラの全体によって立証されている精神科学上の真理によって証明され得る……という……それ程左様さようにこのドグラ・マグラの内容は玄妙、不可思議に出来上っておるので御座います。……論より証拠……読んで御覧になれば、すぐにおわかりになる事ですが……」
 といううちに若林博士は進み寄って一番上の一冊を取上げかけた。
 しかしは慌てて押し止めた。
「イヤ。モウ結構です」
 と言ううちに両手を烈しく左右に振った。若林博士の説明を聞いただけで、最早もはやのアタマが「ドグラ・マグラ」にかかってしまいそうな気がしたので……同時に……
……どうせキチガイの書いたものなら結局無意味なものにきまっている。「百科全書の丸暗記」と「カチューシャ可愛や」と「火星征伐」をゴッチャにした程度のシロモノに過ぎないのであろう。……現在のが直面しているドグラ・マグラだけでも沢山なのに、他人のドグラ・マグラまでも背負い込まされて、この上にヘンテコな気持にでもなっては大変だ。……こんな話は最早もはや、これっきり忘れてしまうに限る……。
 ……と思ったので、ポケットに両手を突込みながら頭を強く左右に振った。そうして戸棚の出外ではずれの窓際に歩み寄ると、そこいらに貼り並べて在る写真だの、一覧表みたようなものを見まわしながら、引続いて若林博士の説明を求めて行った。
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それは……
――精神病者の発病前後に於ける表情の比較写真――
――同じく発病前後に於ける食物と排泄物の分析比較表――
 といったような珍らしい研究に属するものから……
――幻覚錯覚に基く絵画――
――ヒステリー婦人の痙攣けいれん、発作が現わす怪姿態、写真各種――
――各種の精神病に於ける患者の扮装、仮装写真、種類別――
 なぞいう、痛々しい種類のもの等々であったが、そんなものが三方の壁から、戸棚の横腹まで、一面に、ゴチャゴチャと貼りぜてある光景は、一種特別のグロテスクな展覧会を見るようであった。
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又その先に並んだ数層の硝子戸棚の中に陳列して在るものは……
――並外れて巨大な脳髄と、小さな脳髄と、普通の脳髄との比較(巨大な方は普通の分の二倍、小さい方の三倍ぐらいの容積。いずれもフォルマリン漬)――
――色情狂、殺人狂、中風患者、一寸法師等々々の精神異状者の脳髄のフォルマリン漬(いずれも肥大、萎縮、出血、又は黴毒ばいどくに犯された個所の明瞭なもの)――
――精神病で滅亡した家の宝物になっていた応挙おうきょ筆の幽霊画像――
――ぐとその家の主人が発狂するという村正むらまさの短刀――
――精神病者が人魚の骨と信じて売り歩いていた鯨骨の数片――
――同じく精神病者が一家を毒殺する目的の下にせんじていた金銀の黒猫の頭――
――同じく精神病者が自分で斬り棄てた左手の五指と、それに使用した藁切包丁わらきりほうちょう――
――寝台から逆様さかさまに飛降りて自殺した患者の亀裂した頭蓋骨――
――女房に擬して愛撫した枕と毛布製の人形――
――手品を使うと称して、嚥下のみくだした真鍮煙管しんちゅうきせる――
――素手すでで引裂いた錻力板ブリキいた――
――女患者が捻じ曲げた檻房の鉄柵――
 ……といったようなモノスゴイ品物が、やはり狂人きちがいの作った優美な、精巧な編物や、造花や、刺繍ししゅうなぞと一緒に押し合いへし合い並んでいるのであった。
 は、そんな物の中で、どれが自分に関係の在るものだろうとヒヤヒヤしながら、若林博士の説明を聞いて行った。こんな飛んでもないものの中の、どれか一つでも、に関係の在るものだったらどうしようと、心配しいしいのぞきまわって行ったが、幸か不幸か、それらしい感じを受けたものは一つも無いようであった。かえって、そんなものの中に含まれている、精神病者特有のアカラサマな意志や感情が、一つ一つにヒシヒシとの神経に迫って来て、一種、形容の出来ない痛々しい、心苦しい気持ちになっただけであった。
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 はそうした気持ちを一所懸命に我慢しいしい一種の責任観念みたようなものにとらわれながら戸棚の中を覗いて行ったが、そのうちにヤットの思いで一通り見てしまって、以前の大卓子テーブルの片脇に出て来ると、思わずホッと安心の溜息をした。又もニジミ出して来る額の生汗なまあせをハンカチでいた。そうして急に靴のかかとで半回転をして西の方に背中を向けた。
 ……同時に部屋の中の品物が全部、右から左へグルリと半回転して、右手の入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大卓子テーブル越しに、の真正面まですべって来てピッタリと停止した。さながらにその額面と向い合うべく、が運命附けられていたかのように……。
 は前こごみになっていた身体からだをグッと引き伸ばした。そうして改めて、長い長い深呼吸をしいしい、その古ぼけた油絵具の、黄色と、茶色と、薄ぼやけた緑色の配合に見惚みとれた。

 その図は、西洋の火焙ひあぶりか何かの光景らしかった。
 三本並んだ太い生木なまきの柱の中央に、白髪、白髯はくぜんの神々しい老人が、高々とくくり付けられている。その右に、せこけたあお白い若者……又、老人の左側には、花輪をいただいた乱髪の女性が、それぞれに丸裸体まるはだかのまま縛り付けられて、足の下に積み上げられたまきから燃え上るほのおと煙に、むせび狂っている。
 そのむごたらしい光景を額面の向って右の方から、黄金色の輿こしに乗った貴族らしい夫婦が、美々しく装うた眷族けんぞくや、臣下らしいものに取巻かれつつも如何いかにも興味深そうに悠然と眺めているのであるが、これに反して、その反対側の左の端には、ほのおと煙の中から顔を出している母親を慕う一人の小児が、両手を差し伸べて泣き狂うている。それを父親らしい壮漢と、祖父らしい老翁ろうおうが抱きすくめて、大きなてのひらで小児の口を押えながら、貴人達を恐るるかのように振り返っている表情が、それぞれに生き生きと描きあらわしてある。
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 又、その中央の広場の真中には、赤い三角型の頭巾ずきんかぶって、黒い長い外套を羽織はおりった鼻の高い老婆がタッタ一人、撞木杖しゅもくづえを突いて立ちとどまっているが、如何いかにも手柄顔に火刑柱ひあぶりばしらの三人の苦悶を、貴人に指し示しつつ、まばらな歯を一パイにき出してニタニタと笑っている……という場面で、見ているうちに だんだんと真に迫って来る薄気味の悪い画面であった。
「これは何の絵ですか」
 はその画面をゆびさして振り返った。若林博士は最前からそうして来た通りに、両手をズボンのポケットに入れたまま冷然として答えた。
「それは欧洲の中世期に行われました迷信の図で、風俗から見るとフランスあたりかと思われます。精神病者を魔者にかれたものとして、片端かたっぱしからき殺している光景を描きあらわしたもので、中央にりまする、赤頭巾に黒外套の老婆が、その頃の医師、兼祈祷師、兼卜筮者うらないしゃであった巫女婆みこばばあです。昔は狂人きちがいをこんな風に残酷に取扱っていたという参考資料として正木先生が柳河やながわ骨董店こっとうてんから買って来られたというお話です。筆者はレムブラントだという人がこの頃、二三出て来たようですが、もしそうであればこの絵は、美術品としても容易ならぬ貴重品でありますが……」
「……ハア……焚き殺すのがその頃の治療法だったのですね」
「さようさよう。精神病という捉えどころのない病気には用いる薬がありませんので、むしろ徹底した治療法というべきでしょう」
 は笑いも泣きも出来ない気持ちになった。
 そう言ってを見下した若林博士の青白い瞳の中に、学術のためとあれば今にもを引っとらえて、黒焼きにしかねない冷酷さがこもっていたので……。は平手で顔を撫でまわしながら挨拶みたように言った。
「今の世の中に生れた狂人きちがいは幸福ですね」
 すると又も、若林博士の左のほおに、微笑みたようなものが現われて、すぐに又消え失せて行った。
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「……いや……必ずしもそうでないのです。あるいと思いに焚き殺された昔の精神病者の方が幸福であったかも知れません」
 は又も余計な事を言った事を後悔しいしい肩をすぼめた。そういう若林博士の気味のわるい視線を避けつつ、ハンカチで顔をいたが、その時に、ゆくりなくも、正面左手の壁にかかっている大きな、黒い木枠の写真が眼についた。
 それは額の禿げ上った、胡麻塩髯ごましおひげを長々と垂らした、福々しい六十格好の老紳士の紋服姿で、いかにも温厚な、好人物らしい微笑を満面にたたえている。はその写真に気が付いた最初に、これが正木博士ではないかと思って、わざわざその真正面に行って、正しく向い合ってみたが、どうも違うような気がするので、又も若林博士を振り返った。
「この写真はどなたですか」
 若林博士の顔は、がこう尋ねると同時に、いちじるしく柔らいだように見えた。何故だかわからないけれども、今までにない満足らしい輝やきを見せつつ、ゆっくりと頭を下げた。
「……ハイ……その写真ですか。ハイ……それは斎藤寿八先生です。最前も、ちょっとお話をしました通り、正木先生の前にこの精神病科の教室を受持っておられましたお方で、私どもの恩師です」
 そう言ううちに若林博士は軽い、感傷的な嘆息たんそくをしたが、やがてその長大な顔に、深い感銘の色をあらわしつつ、悠々との方に近付いて来た。
「……やっとお眼に止まりましたね」
「……エッ……」
 とは驚きながら若林博士の顔を見上げた。そう言う若林博士の言葉の意味がわからなかったので……。しかし若林博士は構わずに、なおも悠々とに接近すると、上半身を心持ち前に傾けながら、の顔と写真を見比べて、一層真剣な、丁寧な口調で言葉を続けた。
「この写真がやっとお眼に止まりました事を申上げているので御座います。
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何故かと申しますとこの写真こそは、貴方の過去の御生涯と、最も深い関係を結んでいるものに相違ないので御座いますから……」
 こう言われると同時にはハッと気が付いた。この部屋に入って来た最初の目的を、いつの間にか忘れていた事を思い出したのであった。そうして、それと同時に何かしら軽い、けれども深い胸の動悸を、心の奥底に感じさせられたのであった。
 けれども又、それと同時に、まだ何一つ思い出したような気がしない、自分の頭の中の状態を考えまわすと、何となく安心したような、又は失望したような気持になって、ほっと一つ肩をゆすり上げた。そうして心持ち俛首うなだれながら若林博士の言葉に耳を傾けた。
「……あなたの中に潜伏しております過去の御記憶は、最前から、極めて微妙に眼醒めざめかけているように思われるのです。貴方が只今、あの、ドグラ・マグラの原稿からこの狂人きちがい焚殺ふんさつ【焼き殺し】の絵を見ておいでになるうちに、眼ざめかけて来ました貴方御自身の潜在意識が、只今、貴方を導いて、この写真の前に連れて来たものとしか思われないのです。何故かと申しますと、狂人きちがい焚殺ふんさつの名画と、この斎藤先生の御肖像をここに並べて掲げた人は、ほかでも御座いませぬ。あなたの精神意識の実験者、正木先生だからで御座います。……正木先生はあの狂人きちがい焚殺ふんさつの絵に描いてあるような残酷非道な精神病者の取扱い方が、二十世紀の今日においても、公然の秘密として、到る処に行われている事実に憤慨されまして、生涯を精神病の研究に捧ぐる決心をされたのですから……。そうして斎藤先生の御指導と御援助の下にトウトウその目的を達しられたのですから……」
狂人きちがい焚殺ふんさつ……狂人きちがい虐殺ぎゃくさつが今でも行われているのですか」
 と独言ひとりごとのようにつぶやいた。又も底知れぬ恐怖にとらわれつつ……。しかし若林博士は平気でうなずいた。
「……行われております。
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遺憾なく昔の通りに行われております。否。き殺す以上の残虐ざんぎゃくが、世界中、到る処の精神病院で、堂々と行われているので御座います。今日只今でも……」
「……そ……それはあんまり……」
 と言いさしては言葉をみ込んだ。あんまり非道ひどい言い方だと思ったので……。しかし若林博士は動じなかった。と肩を並べて、狂人きちがい焚殺ふんさつの油絵と、斎藤博士の写真を見比べながら冷然とした口調でに言い聞かせた。
「あんまりではありませぬ。厳然げんぜんたる事実に相違ないのです。その事実は追々おいおいと、おわかりになる事と思いますが、正木先生は、そうした虐待ぎゃくたいを受けている憐れな狂人きちがいの大衆を救うべく、非常な苦心をされました結果、遂に精神科学に関する空前の新学説をてられる事になったのです。その驚異的な新学説の原理原則と申しますのは、前にもちょっとお話しました通り、極めてわかり易い、女子供にでも理解され得るような、興味深い、卑近ひきん【高尚でない】な種類のもので……その学説の原理を実際に証明すべく『狂人きちがい解放』の実験を初められた訳です……が……しかも、その実験は、もはや、ほかならぬ貴方御自身の御提供によって、申分もうしぶんなく完成されておりますので……あとに残っている仕事と申しますのはただ一つ、貴方が昔の御記憶を回復されまして、その実験の報告書類に、署名さるるばかりの段取りとなっておるので御座います」
 は又も呆然ぼうぜんとなった。いた口がふさがらないまま、並んで立っている若林博士の横顔を見上げた。そういうが、何とも形容の出来ない厳粛な、恐ろしい因縁にとらわれつつ、この部屋の中に引寄せられて来て、その因縁を作った二つの額縁がくぶちに向い合わせられたまま、動く事が出来ないように仕向けられているような気がしたので……。しかし若林博士は依然として、そうしたの気持ちに無関係のままスラスラと言葉を続けた。
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「……で御座いますからして、斎藤先生と正木先生と、あの狂人きちがい焚殺ふんさつの因果関係をお話し致しますと、そのお話が一々、貴方の過去の御経歴に触れて来るので御座います。すなわち正木先生が、解放治療場において、貴方を精神科学の実験にかけるために、どれ程の周到な準備を整えてこの九大に来られたか……この実験に関する準備と研究のために、どのような恐ろしい苦心と努力を払って来られたか……」
「エッ。エッ。僕を実験するために、そんなに恐ろしい準備……」
「そうです、正木先生は実に二十余年の長い時日を、この実験の準備のために費されたので御座います」
「……二十年……」
 こう叫びかけたの声は、まだ声にならないうちに、一種の唸り声みたような ものになって、咽喉のどの奥に引返した。その正木博士の二十年間の苦心が、そのままくび筋に捲き付いて来るような気がしたので……。
 すると今度は若林博士もそうした、の気持ちを察したらしく又もゆっくりと うなずいた。
「そうです。正木先生は、まだ貴方が、お生れにならない以前から、貴方のためにこの実験を準備して来られたのです」
「……まだ生れない僕のために……」
「さよう。こう申しますと、わざわざ奇矯な言い回しを致しているように思われるかも知れませぬが、決してそのような訳では御座いませぬ。正木先生はたしかに、貴方がまだお生れにならないズット以前から、貴方の今日ある事を予期しておられたのです。貴方が只今にも、過去の御記憶を回復されましたのちに……否……たとい過去の御記憶を思い出されませずとも、これから私が提供致します事実によって、単に貴方御自身のお名前を推定されましただけでもよろしい。その上で前後の事実を照合てらしあわされましたならば、私の申します事が、決して誇張でありませぬ事実を、御首肯出来る事と信じます。
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……又……そう致しますのが、貴方御自身のお名前をホントウに思い出して頂く、最上の、最後の手段ではないかと、私は信じている次第で御座いますが……」
 若林博士は、こう説明しつつ大卓子テーブルの前に引返して、ストーブに面した小型な回転椅子を指しつつを振り返った。はその命令に従って手術を受ける患者のように、恐る恐るその椅子に近付くと、オズオズ腰をおろすには卸したが、しかし腰をかけているような気持ちはチットモしなかった。余りの気味悪さと不思議さに息苦しくなった胸を押えて、唾液つばを呑込み呑込みしているばかりであった。
 その間に若林博士はグルリと大卓子テーブルをまわって、の向側の大きな回転椅子の上に座った。最前あの七号室で見た通りの格好に、小さくなって曲り込んだのであったが、今度は外套を脱いでいるためにモーニング姿の両手と両脚が、あらわに細長く折れ曲っている間へ、長い頸部くびと、細長い胴体とがグズグズと縮み込んで行くのがよく見えた。そうしてそのまん中に、顔だけがもとの通りの大きさでわっているので、全体の感じが何となく妖怪じみてしまった。たとえば大きな、あお白い人間の顔を持った大蜘蛛ぐもが、その背後の大暖炉の中からタッタ今、餌食えさにすべく、モーニングコートを着てい出して来たような感じに変ってしまったのであった。
 はそれを見ると、自ずと回転椅子の上に居住居いずまいを正した。するとその大蜘蛛の若林博士は、悠々と長い手をさし伸ばして、最前から大卓子テーブルの真中に置いたままになっている書類の綴込つづりこみのようなものを引寄せて、ひざの下でソッとごみを払いながら、小さな咳払いを一つ二つした。
「……ところでその正木先生が、生涯をして完成されました、その実験の前後に関するお話を致しますについては、誠に恐縮で御座いますが、かく申す私の事を引合いに出させて頂かなければなりませぬので……と申します理由は、ほかでも御座いませぬ。
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正木先生と私とは元来、同郷の千葉県出身で御座いまして、この大学の前身でありました京都帝国大学、福岡医科大学と申しましたのが、明治三十六年に福岡の県立病院を改造して新設されました当初に、第一回の入学生として机を並べましたものです。そうして同じく明治四十年に、同時に卒業致しましたのですから、申さば同窓の同輩とも申すべき間柄だったので御座います。しかも、今日まで二人とも独身生活を続けまして、学術研究の一方に生涯を打ち込んでおりますところまで、そっくりそのまま、似通っているので御座いましたが……しかしその正木先生の頭脳の非凡さと、その資産の莫大さとの二つの点に到っては、トテモ私どもの思い及ぶところでは御座いませんでした。取りあえず学問の方だけで申しましても、その頃の私どもの研究というものは、只今のように外国の書物が自由自在に得られませぬために、あらゆる苦心を致しましたものです。学校の図書館の本を借りて来て、昼夜兼行で筆写したりなぞしておりましたのに、正木先生だけはタッタ一人、すこぶる呑気な状態で自費で外国から取寄せられた書物でも、一度眼を通したら、あとは惜し気もなく他人ひとに貸してやったりしておられたものでした。そうして御自身は道楽半分ともいうべき古生物の化石を探しまわったり、医学とは何の関係もない、神社仏閣の縁起を調べてわったりしておられたような事でした。」「……もっともこうした正木先生の化石集めや、神社仏閣の縁起調べは、その当時から、決して無意義な道楽ではありませんでした。……『狂人きちがい解放治療』の実験と、重大な関係を持っている計画的な仕事であった。……という事が、二十年後の今日に到って、やっと私にだけ解かりかけて参りましたので、今更のように正木先生の頭脳の卓抜、深遠さに驚目駭心きょうもくがいしんさせられているような次第で御座います。
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いずれに致しても、そのような訳で、正木先生はその当時から、一風変った人物として、学生教授間の注目をいておられた次第ですが、しかも、そのように偉大な正木先生の頭脳を真先に認められましたのがここに掲げてありますこの写真の主、斎藤寿八先生と申しても過言では御座いませんでした。」
「……と申しますのは斯様かような次第で御座います。元来この斎藤先生と申しますのは、この大学の創立当初から勤続しておられたお方で、現在、この部屋に在ります標本の大部分を、独力で集められた程の、非常に篤学【学問に熱心】な方で御座いましたが、ことに非常な熱弁家で、余談ではありますが、こんな逸話が残っている位であります。かつて、当大学創立の三週年記念祝賀会が、大講堂で行われました際に、学生を代表された正木先生が、こんな演説をされた事があります。
『近頃当大学の学生や、諸先生が、よく花柳かりゅう【芸者街・遊郭】のちまたに出入したり、賭博にふけったりされる噂が、新聞でタタカレているようであるが、これは決して問題にするには当らないと思う。そもそも学生、学者たるものの第一番の罪悪は、酒色にふける事でもなければ、花札をもてあそぶことでもない。学士になるか博士になるかすると、それっきり忘れたように学術の研究をやめてしまう事である。これは日本の学界の一大弊害と思う』」
「と喝破された【非を大声でしかられた】時には、満堂の学生教授の顔色が一変してしまったものでした。ところが、その中にタッタ一人斎藤先生が、自席から立上って熱狂的な拍手を送って、ブラボーを叫ばれました姿を、只今でも私はハッキリと印象しておりますので、この一事だけでもその性格の一端をうかがうのに十分で御座いましょう。
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 ……しかし先生が当大学に奉職をされました当初のうちは、まだ、九大に精神病科なぞいう分科もありませず、斎藤先生は学内で、ただ一人の精神病の専攻家として、助教授格で、わずかな講座を受持っておられました位のことでしたので、この点に就いては大分、御不平らしく見えておりました。いつもお気に入りの正木先生と、その頃から御指導を仰いでおりました私との二人をつかまえては、現代の唯物ゆいぶつ科学万能主義を罵倒したり、国体の将来を憂えたりしておられたものですが、そのような場合に私はどのような受け答えを致してよいのか解らなかったにもかかわらず、正木先生はいつも奇想天外式な逆襲をして、斎藤先生を閉口させておられたもので……その中でも特に私の記憶に残っておりますのは かような言葉で御座いました。」
「……ソ――ラ、又、先生一流の愚痴の紋切型が初まった。安月給取りの蓄音器じゃあるまいし、もうソロソロ蝋管ろうかん【レコード盤】を取り換えちゃどうです。今の人間は、みんな西洋崇拝で、一人残らず唯物ゆいぶつ科学の中毒にかかっているのですから、先生の愚痴を注射した位ではナカナカなおりませんよ。……まあまあ、そんなにヤキモキなさらずに、今から二十年ほど待っていらっしゃい。二十年経つうちには、もしかするとこの日本に一人のスバラシイ精神病患者が現われるかも知れないのです。……そうするとその患者は、自分の発病の原因と、その精神異常が回復して来た経過とを、自分自身に詳細に記録、発表して全世界の学者を驚倒きょうとう【非常に驚くこと】させると同時に、今日まで人類が総がかりで作り上げて来た宗教、道徳、芸術、法律、科学なぞいうものは勿論のこと、自然主義、虚無主義、無政府主義、その他のアラユル唯物ゆいぶつ的な文化思想を粉微塵こなみじんに踏みつぶして、その代りに人間の魂をドン底まで赤裸々に解放した、痛快この上なしの精神文化をこの地上にタタキ出すべく、そのキチガイが騒ぎ初めるのです。
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……そのキチガイ先生の騒ぎが、マンマと首尾よく成功したあかつきには、先生のお望み通りに精神科学が、この地上に於ける最高の学問となって来るのです。同時にこの大学みたように精神病科を継子ままこ扱いにする【いじめる】学校は、全然無価値なものになってしまうのです。……ですから、それを楽しみにして、精々せいぜい長生をして待っていらっしゃい。学者に停年はありませんからね」
「といったような事だったと記憶しておりますが、これには流石さすが斎藤先生もあきれておられましたようで……一緒に聞いておりました私も、少なからず驚かされた事でした。第一、こんな予言者めいた事を、正木先生が果して本気で言っておられるのか、どうかすら判然致しませんでしたので……正木先生がこの時、既に、自分自身で、そのような精神病者を作り出して、学界を驚ろかそうと計画しておられた……なぞいうような事が、その時代にどうして想像出来ましょう。……のみならず正木先生が、かような突拍子もない事を言って人を驚かされる事は、その頃から決して珍らしい事ではありませんでしたので、斎藤先生も私も、この事に就いては格別に不審を起した事もなく、深く突込んで質問した事なぞもありませんでした。
 ……ところが間もなく、斯様かよう斎藤先生の御不満が、正木先生の天才的頭脳と相俟あいまって、当時の大学部内に、異常な波瀾はらんを捲き起す機会が参りました。それは、ちょうど、私共が当大学を卒業致します時で、正木先生が卒業論文として『胎児の夢』と題する怪研究を発表されたのに、たんを発したので御座いました」
「……胎児……胎児が夢を見るのですか」
 とは突然に頓狂とんきょうな声を出した。それ程に胎児の夢という言葉が、異様な響きをの耳に与えたのであった……が……しかし若林博士は矢張やはりチットモ驚かなかった。が驚くのが如何いかにも当然という風にうなずいた。
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手にした書類を一枚一枚、念入りに繰り拡げては、青白い眼で覗き込みながら……。
「……さようで……その『胎児の夢』と申します論文の内容も、追付おっつけお眼に触れる事と存じますが、単にその標題を見ましただけでも尋常一様の論文でない事がわかります。普通人が見る、普通の夢でさえも、今日までその正体が判然わかっておりませぬのに、して【なおさら】今から二十年も昔にさかのぼった……貴方がお生れになるか、ならない頃に、学術研究の論文として斯様かような標題が選まれたのですからね。……のみならず正木先生の頭脳が尋常でない事は、ねてから定評がありましたので、この論文の標題はたちまち、学内一般の評判になりまして、ドンナ内容だろうと眼をみはらぬ者はないくらいで御座いました。」
「……ところがサテこの論文が、当時の規定に従って、学内全教授の審査を受ける段取りになりますと、その文体からして全然、従来の型を破ったもので、教授の諸先生を唖然たらしむるものがありました。……と申しますのは、元来、正木先生は語学の天分にも十二分に恵まれておられましたので、英独仏の三箇国語で書かれたものは、専門外の難解な文学書類でも平気で読破して行かれるというのが、学生仲間の評判になっていた程です。……ですから卒業論文なぞも無論、その頃まで学術用語と称せられていた独逸ドイツ語で書かれている事と期待されておりましたのに、案に相違して、その頃まではまだ普及されていなかった言文一致体の、しかも、俗語や方言まじりで書いてあるのでした。その上にその主張してある主旨というものが又、極端に常軌を逸しておりまして、その標題と同様に、人を愚弄ぐろうしているかの如く見えましたので、流石さすがに当時の新知識を網羅した新大学の諸教授も、ことごとく面喰めんくらわされてしまいました。
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その中でも八釜やかまし屋をもって鳴る某教授の如きは憤激の余りに……
『……こんな不真面目な論文を吾々われわれに読ませる学長からして間違っている。正木の奴は自分のアタマに慢心しておるから、こんなものを平気で提出するのだ。当大学第一回の卒業論文選考せんこうの神聖をけがす者は、この正木という青二才にほかならない。こんな学生は将来の見せしめのために放校してやるがいい』
 と敦圉いきまいているという風評が、学生仲間に伝わった位でありました。むろんこれは事実であったろうと思いますが……。」
「……斯様かような事情で、卒業論文選考の教授会議に対しては、学内一般の緊張した耳目が集中していたのでありますが、サテ、愈々いよいよ当日となりますと果して各教授とも略々ほぼ、同意見で、放校はともかくもとして、この論文を卒業論文としてパスさせる事だけは即決否決という形勢になりました。するとその時に、当時の最年少者として席末に控えておられました斎藤先生が、突然に立上られまして、今でも評判に残っておりますほどの有名な反対意見を吐かれました。
『……暫く待って頂きたい。席末からはなは僭越せんえつと思うけれども、学術のためには止むを得ないと思うから敢えて発言するのであるが、私は諸君と全然正反対の意見を、この論文に対して持っている者である。その理由を次に述べる。
 ……第一にこの論文を批難する諸君は、文章がたいを成しておらぬ。規定に合っていない。……と主張されているようであるが、これは殆んど議論にならない議論で、特に弁護の必要はないと思う。ただ学術論文というものは『どうぞ卒業させて下さい』とか『博士にして下さい』とかいって御役所に差出す願書なぞとは全然、性質の違ったものである。規定された書式とか、文体とかいうものはどこにもない……という一言を添えておけば十分であると思う。
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 ……次にはこの論文の内容であるが、これもまた、諸君が攻撃されるような不真面目なものでは絶対にないのである。この論文の価値が認められないのは、現代の医学者が、余りに唯物ゆいぶつ的【物質的】な肉体の研究にのみとらわれて、人間の精神というものを科学的に観察する学術……すなわち精神科学に対する知識が欠けているからである。この論文に発表されているような根本的な精神、もしくは生命、もしくは遺伝の研究方法を発見すべく、全世界の精神科学者が、如何いかに焦慮し、苦心しているかという事実を諸君が御存じない。そのためにこの論文の真価値が理解されないものである事を、私は専門の名誉にかけて主張する者である。』」
「『……すなわちこの論文は、人間が、母の胎内に居る十箇月の間に一つの想像を超絶した夢を見ている。それは胎児自身が主役となって演出するところの『万有進化の実況』とも題すべき数億年、乃至ないし数十億年の長時間にわたる連続活動写真のようなもので、既に化石となっている有史以前の異様奇怪を極めた動植物や、又は、そんな動植物を惨死滅亡させた天変地妖てんぺんちようの、形容を絶する偉観、壮観までも、一違わぬ実感をもって、さながらに描きあらわすのみならず、引続いては、その天変地妖てんぺんちようの中から生み出された原始人類、すなわち胎児自身の遠い先祖たちから、現在の両親に到る迄の代々の人間が、その深刻な生存競争のためにどのような悪業を積み重ねて来たか。どんなに残忍非道な所業を繰返しつつ、他人の耳目をくらまして来たか……そうしてそのような因果に因果を重ねた心理状態を、ドンナ風にして胎児自身に遺伝して来たかというような事実を、胎児自身の直接の主観として、詳細、明白に描きあらわすところの、驚駭きょうがいと、戦慄とを極めた大悪夢である事が、人間の肉体、および、精神の解剖的観察によって、直接、間接に推定され得る……と主張している。
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ただし、それは胎児自身が記録した事実でもなければ、大人の記録に残っている事でもないので、いわば一つの推測に過ぎない。だから学術上の価値は認められない。卒業論文としての点数もゼロである……という事に諸君の御意見は一致しているようである。「
「……これは一応、御尤ごもっとも千万のように聞こえるが……しかし……私は失礼ながら、ここで一つ諸君にお尋ねしたい事がある。それは諸君が中学時代において、必ず一度は眼を通されたであろう『世界歴史』というものを諸君はドウ思って読んで来られたかという事である。……そもそも世界歴史というものは、人類生活の過去に属する部分の記録で、これを個人にとってみると、自分自身の過去の経歴に関する記憶と同様のものである……くらいの事は、今更、諸君の前で説明するさえ失礼な位に、わかり切った事であろう。いやしくも過去を持たない人間でない限り、否定し得ないところであろう。」
「……ところでもしそうとすれば、その歴史的の記録が残っていない、所謂いわゆる、有史以前の人類が、その宗教に、その芸術に、その社会組織に、如何いかなる夢を描きあらわしておったか。如何いかなる夢を見つつ自分達の歴史を記録し得るまでに進化して来たかという事を、現在の世界に残っている各種の遺跡に照し合わせて推測するところの学術……たとえば文化人類学、先史考古学、原始考古学なぞいう学問は学術上無価値のものといえようか。科学的の研究でないといえようか。……いわんや【言うまでもなく】人類出現以前の地球の生活として記録されている地質の変遷や、古生物の盛衰興亡は、誰が見て来て、誰が記録しておいたものであろうか。現在の地球表面上に残る各種の遺跡によって、そんな事実を推定して行く地質学者や、古生物学者は皆、想像のみを事とするお伽話とぎばなしの作者といえようか。科学者でないといえようか。」
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「……すなわち、この論文『胎児の夢』の一篇は、吾々われわれの頭脳の記録に残っていない、みごもり時代の吾々われわれの夢の内容を、吾々われわれ成人の肉体、および、精神の到る処に残存し、充満している無量無数の遺跡によって推定するという、最も嶄新ざんしんな学術の芽生えでなければならぬ。最先鋭、徹底した空前の新研究でなければならぬ。……のみならずこの論文中に含まれている人間の精神の組み立てに関する解剖的な説明の如きは、実に破天荒なこころみで、全世界の精神科学者が絶対不可能事と認めながらも、明け暮れ翹望ぎょうぼうし、渇望して止まなかった精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞというものを包含している事が明らかに認められるので、本篇の主題たる『胎児の夢』の研究がモウ一歩進展して、この方面にまで分科して来たならば、恐らく将来の人類文化に大革命が与えられはしまいかと思われる位である。すくなくとも従来の精神科学が問題にして来た幽霊現象とか、メスメリズム、透視術、読心術なぞとは全く違った純科学的な研究態度をもって、精神科学の進むべき大道を切り開いているものである事を、私は特に、今一度、私の専門の立場から、強く裏書きしておく者である。』」
「『……私は確信する、この『胎児の夢』の一篇は元来、一学生の卒業論文として提出されているのであるが、実は、現在ありふれている、所謂いわゆる、博士論文なぞとは到底、比較にならない程の高級、且つ深遠な科学的価値を有する発表である。無論、今期、当大学第一回の卒業論文中の第一位に推して、当学部の誇りとすべきもので、これを無価値だなぞと批評する学者は、新しい学術が如何いかにして生まれて来たか……偉大な真理が、その発表の当初において、如何いかに空想の産物視せられて来たかという、歴史上の事実を知らない人々でなければならぬ』
 ……云々といったような主旨であったと、後に斎藤先生が私に話しておられました。
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 ……ところで斎藤先生の斯様かような主張が、ほかの諸教授たちの反感を買ったのは無論の事でありました。斎藤先生はたちまちのうちに満座の諸教授の論難攻撃の焦点に立たれたのでありますが、しかし先生は一歩も退かずに、該博がいはく深遠なる議論をもって、一々相手の攻撃を逆襲、粉砕して行かれましたので、午後の三時から始まった会議が、日が暮れても片付きませぬ。何をいうにも新興医学部の最高の使命と名誉とを中心とする、必死の論争なのですから、真に血湧き肉躍るものがありましたでしょう。止むを得ず、他の論文の選考せんこうを全部、翌日に回わして、ラムプをけて議論を続行しました結果、やっと午後九時に到って一同が完全に沈黙させられてしまいました。その時に、のちに名総長とうたわれました盛山学部長が裁決をしまして、この『胎児の夢』の一篇を、一個の学術研究論文と認める旨を宣言しまして、やっとこの日の会議を終る事になりました。そうしてその翌日と、その翌々日と三日がかりで全部十六通の論文を選考致しました結果、正木先生の『胎児の夢』が斎藤先生の御主張通りに、卒業論文中の第一位に推さるる事になったのであります。
 ……が……こうして評判に評判を重ねた、医学部の卒業式の当日になりますと、意外にも、恩賜おんしの銀時計を拝受すべき当の本人の正木医学士が、いつの間にか行衛ゆくえ不明になっている事が発見されまして、又も、人々を驚かしました」
「ホウ。卒業式の当日に行衛ゆくえ不明……どうしてでしょう」
 が思わずこう口走ると、同時に若林博士は、何故かしら フッと口をつぐんだ。あたかも何かしら重大な事を言い出す前のように、の顔を凝視していたが、やがて、又、今までよりも一層 つつましやかに口をひらいた。
正木先生が何故なにゆえに、かかる光栄ある機会を前にして、行衛ゆくえ不明になられたかという真個ほんとの原因については今日まで、何人なんぴとも考え及んだ者が在るまいと思います。
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無論、にもその真相は解かっていないので御座いますが、しかしその正木先生の行衛ゆくえ不明事件と、今申上げました『胎児の夢』の論文との間に、何等かの因果関係がひそんでいるらしい推測が可能であることは疑をれないようであります。……換言致しますれば、正木先生は、御自分の書かれた卒業論文『胎児の夢』の主人公におびやかされて行衛ゆくえくらまされたものではないかと考えられるので御座います」
「……胎児の夢の主人公……胎児におびやかされて……何だか僕にはよく解りませんが……」
「イヤ。今のうちは、ハッキリとお解りにならぬ方がよろしいと思いますが」
 と若林博士はをなだめるように椅子の中から右手を上げた。そうして例の異様な微笑を左の眼の下に痙攣ひきつらせながら、依然として謹厳【つつしみ深い】な口調で言葉を続けた。
「……今のうちは、お解りにならぬ方が宜しいと思います。こう申上げては失礼ですが、いずれ貴方が、御自身の過去の記憶を、残りなく回復されました暁には、その『胎児の夢』と題する恐怖映画の主人公が何人なんぴとであるかというような裏面の消息を、明らかにお察しになる事と存じますから、その時の御参考のために、特にこの際 御注意を促しておきます次第で御座います。……ところで、て、その当学部第一回の卒業式が、正木先生の御欠席のままで終了致しますと、その翌日になって盛山学部長の手許てもとに、正木先生からの書信が参りましたが、その中には斯様かような意味の抱負が述べてありましたそうです。
 ――自分は胎児の夢の一篇を理解してくれる人間が、現代の科学界に存在していようとは思わなかった。恐らく、そんな人間は一人も居ないであろう事を確信しつつ、落第を覚悟して提出したものであったが、意外千万にも、それが学部長閣下と、斎藤先生に推薦されたという事を聞いて、長嘆これを久しうした【しばらくの間、長い嘆息たんそくをした】。
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あの論文の価値が、こんなに易々やすやす看破かんぱされるようでは、まだまだの研究が浅薄あさはかであったに違いない。こんな事では吾が福岡大学の名誉を不朽に伝える事は出来ないと思った。
――は閣下と斎藤先生に合わせる面目がないから姿を隠す。恩賜おんし【たまもの】の時計は御迷惑ながら、当分お手許てもとに御保管願いたい。この次にはキット、何人なんぴとにも理解されないほどの大研究を遂げて、この御恩報じをするつもりであるから――
 云々というのでした。盛山学部長はこの手紙を斎藤先生に見せて『どこまでも人を喰った男だ』と言って大笑いをされたという事ですが……。
 ……ところで正木先生は、それから丸八年の間、欧洲各地を巡遊して、オウ【オーストリア】、独、仏、三箇国の名誉ある学位を取られたのですが、そのうちに大正四年になって、コッソリと帰朝されますと、今度は宿所やどを定めずに漂浪生活を初められました。全国各地の精神病院を訪問したり、各地方の精神病者の血統に関する伝記、伝説、記録、系図等を探って、研究材料を集められる傍ら『キチガイ地獄外道祭文げどうさいもん』と題する小冊子を、一般民衆に配布して回られたのです」
「……キチガイ地獄……外道祭文さいもん……それはドンナ事が書いてあるのですか」
「……その内容は只今お眼にかけますが、やはり前の胎児の夢と同様、未だかつて発表された事のない恐ろしい事実が書いてあるので御座います。要約つづめて申しますと、その祭文さいもんの中には、前にもちょっと申しました現代社会に於ける精神病者虐待ぎゃくたいの実情と、監獄以上に恐ろしい精神病院のインチキ治療の内幕ないまくが暴露してありますので……言葉を換えて申しますれば、現代文化の裏面に横たわる戦慄すべき『狂人きちがいの暗黒時代』の内容を俗謡化した一種の建白書、もしくは宣言書とでも申しましょうか。
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正木先生はこれを政府当局、その他、各官衙かんがや学校へあまねく配布されたばかりでなく、自分自身で木魚をたたいて、その祭文さいもん歌を唄いながら、その祭文さいもん歌を印刷したパンフレットを民衆に頒布はんぷしてわられたのです」
「……自分自身で……木魚をたたいて……」
「さようさよう……ずいぶん常軌を逸したお話ですが、しかし正木先生にとっては、それが極めて真剣なお仕事だったらしいのです……のみならず正木先生のそうした御事業に就いては、恩師の斎藤先生も、かげひなた正木先生と連絡を取って、御自分の地位と名誉を投げ出す覚悟で声援をしておられた形跡があります。しかし、遺憾ながらその祭文さいもん歌の内容が、あまりに露骨な事実の摘発で、考えようにっては非常識なものに見えましたためか、真剣になって共鳴する者が無かったらしく、とうとう世間から黙殺されてしまいましたのは返す返すもお気の毒な次第で御座いました。……もっとも、その祭文さいもん歌の中に摘発してあります精神病院の精神病者に対する虐待ぎゃくたいの事実なぞが、一般社会に重大視される事になりますと、現代の精神病院は一つ残らず破棄はきされて、世界中に精神異状者の氾濫が起るかも知れない事実が想像され得るのでありますが、しかし正木先生は、左様な結果なぞは少しも問題にしてはおられなかったようで、ただ、将来御自分の手で開設されるであろう『狂人きちがい解放治療』の実験に対する準備事業の一つとして、斯様かような宣伝をされたものと考えられるので御座います」
「それじゃり……」
 と言いさしたは、思わずドキンとして座り直さずにはおられなかった。そうして唾液つばみ込み み込み つぶやいた。
「それじゃ……やっぱり……僕を実験にかける準備……」
「さようさよう……」
 と若林博士は猶予もなく引取ってうなずいた。
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「前にも申しました通り、正木先生の頭脳は、吾々われわれの測り知り得る範囲を遥かに超越しているのでありますが、しかし、正木博士のそうした突飛とっぴな、大袈裟おおげさな行動の中に、解放治療の開設に関する何等かの準備的な御苦心が含まれている事は、いなまれない事実と考えられます。これからお話致します正木先生の変幻出没的な御行動の一つ一つにも皆、そうした意味が含まれておりますようで、言葉を換えて申しますと、正木先生の後半の御生涯は、その一挙手一投足までも、貴方を中心として動いておられたものとしか考えられないので御座います」
 若林博士はコンナ風に言いまわしつつ、その青冷めたい、力ない視線をフッとの顔に向けた。そうしてがモウ一度座り直さずには おられなくなるまで、の顔を凝視していたが、そのうちにが身動きは愚か、返事の言葉すら出なくなっている様子を見ると、又、気をかえるようにハンカチを取出して、小さな咳払せきばらいをしつつ、スラスラと話を進めた。
「……しかるに去る大正十三年の三月の末の事で御座います。忘れもしませぬ二十六日の午後一時頃の事でした。卒業されてから十八年の長い間、全く消息を絶っておられた正木先生が、思いがけなく当大学、法医学部の居室へやをノックされましたのには、流石さすがもビックリ致しました。まるで幽霊にでも出会ったような気持ちで、何はともあれ無事を祝し合った訳でしたが、それにしても、どうしてコンナに突然に帰って来られたのかとお尋ねしますと、正木先生は昔にかわらぬ磊落らいらくな態度で、頭をきこんなお話をされました。
『イヤ。その事だよ。実は面目ない話だがね。二三週間ぜん門司もじ駅の改札口で、今まで持っていた金側きんがわ時計を掏摸すりにしてられてしまったのだ。モバド会社の特製で時価千円【約百万円/2025年】位のモノだったが惜しい事をしたよ。
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そこでヒョイッと思い出して、十八年前にお預けにしておいた銀時計がもし在るならばと思って貰いに来た訳だがね。……ところでそのついでに、何か一つ諸君をアッといわせるような手土産をと思ったが、格別かんばしいものも思い当らないので、そのまま門司の伊勢源いせげん旅館の二階に滞在して、詰らない論文みたようなものを全速力で書き上げて来た。そこでまずこれを新総長にお眼にかけようと思って、斎藤先生に紹介してもらいに行ったら、それはこっちから紹介してもいいが、役目柄、学部長の若林君の手を経て提出した方がよかろうと言われたから、こっちへ担ぎ込んで来た訳だ。面倒だろうがどうか一つ宜しく頼む』
 というお話です。そこで……申すまでもなく保管してありました時計は、すぐに下附かふ【支給】される事になりましたが、その時に正木博士が提出されました論文こそ、ダーウィンの『種の起源』や、アインスタインの『相対性原理』と同様……否、それ以上に世界の学界を震駭しんがい【おどろきふるえあがる】させるであろうと斎藤先生が予言されました『脳髄論』であったのです」
「……脳髄論……」
「さよう。脳髄論と名づくる三万字ばかりの論文でしたが、その内容は、最前お話いたしました『胎児の夢』とは正反対に、厳粛、荘重そうちょうを極めたもので、意味の取り違えを防ぐために、独逸ドイツ語と、羅甸ラテン語の二種類で書かれておりますが、これを文献も何も無い宿屋の二階で僅々きんきん二三週間の間に書き上げられた正木先生の頭脳と、精力からして既に非凡以上と申さねばなりますまい。……しかも正木先生はこの論文によって、今日まで何人なんぴとも説明し得ず、立証も実験もし得なかった脳髄の不可思議な機能を鏡にかけて見るように明白にされたのです。そうして同時に今日まで、精神病学界の疑問とされておった幾多の奇怪現象を、極めて簡明直截かんめいちょくせつ【わかりやすく、回りくどくなく、はっきりと】に説明してしまわれたのです。
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……ですから専門の関係上、この論文を一番最初に見られた斎藤先生は、無論、非常に驚かれまして、それから約一年ばかりの間寝食を忘れてこの論文を研究されたのですが、やっと昨年……大正十四年の二月の末に、と通りの審査、考究を終られますと、その翌日の早朝に、現、松原総長を自宅に訪問されまして、
『……私は今日限り、九大精神病科の教授の椅子を引退しまして、後任に正木君を推薦致したいと思います。もし他の大学に同君を取られるようなことがありますと、この大学の恥辱になると思いますから……』
 と暗涙あんるい【人知れず流すなみだ】をうかめて懇願されました。しかし正木先生はそれっきり宿所も告げずに、又も行衛ゆくえくらましてしまわれた折柄おりからですし、こと斎藤先生の御人格に今更に深く敬服しました現、松原総長は、き込んでおられる斎藤先生を押しなだめて、留任を希望する一方に、この論文を学位論文として、正木先生に学位を授くる事に内定した……という事が、やはり学界の美談として伝えられております。もっともこの事は、誰かの口かられたと見えまして、新聞に掲載されたそうですが……私はツイ、うっかりしてその記事を見ませんでしたけれども……」
 若林博士はここまで物語って来ると、その時の思い出に打たれたらしく、いかにも感動したようにヒッソリと眼を閉じた。私も敬慕の念に満たされつつ斎藤博士の肖像を仰いだが、そう思って見たせいか、神様のような気高い姿に見えたので、思わず軽いため息をさせられながらつぶやいた。
「それじゃこの斎藤先生は、正木先生に後を譲るために、お亡くなりになったようなものですね」
 若林博士は、こういったの質問が耳に入ると一層深く感動したらしく、眼を閉じたままのまゆの間のしわが一層深くなった。
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そうして今にも咳が飛出しそうな長い、太い溜息をいたが、やがて静かに眼を開くと、その青白い視線を、の視線と意味あり気に合わせつつ、すこしばかり語気を強めた。
「その通りです。あの斎藤先生は、正木先生が学位を受けられてから間もない、昨年……大正十四年の十月十九日に、突然に亡くなられたのです。しかも変死をされたのです」
「……エ……変死……」
 と空虚うつろな声を出した。話の模様があんまり唐突とっぴに変化したのに面喰めんくらいながら若林博士のあお白い顔と、額縁がくぶちの中の斎藤博士の微笑とをかわる交る見比べた。そんなにまで人格の高い立派な人が、何で変死なんかしたんだろうと疑いながら……。
 しかし若林博士は、そうしたの疑いを押し付けるかのように静かにの顔を見据えた。又もすこしばかり語気を強めた。
「……そうです。斎藤先生は変死をされたのです。斎藤先生は昨、大正十四年の十月十八日……すなわち変死される前の日の午後五時頃に、平生いつもの通り仕事を片附けて、医局の連中に二三の用務を頼んで、この部屋を出られたのですが、それっきり筥崎はこざき網屋町あみやちょうの自宅には帰られませんでした。そうしてそのあくる朝早く、筥崎はこざき水族館裏手の海岸に溺死体となって浮き上っておられたのです。発見者は水族館の掃除女でしたが、急報によって警察当局や、私共が駈け付けまして調査致しました結果、多量に飲酒しておられた事が判明致しましたので、多分、自宅へお帰りになる途中で、誰か極めて懇意な人に出会って、久方振りに脱線された結果、帰り道を間違えて、あすこの石垣の上から落ちられたものであろう……という事になっております。……もっともあの辺は、行って御覧になればわかりますが、街外れ特有の一面の塵芥捨場ごみすてばと、草原くさはらと、畠続きの大学裏で、よほどの泥酔者でなければ迷い込む気づかいの無い処です。
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……ですから、むろん他殺の疑いも充分にかけて、所持品等も遺憾なく調査してみましたが、紛失したものは一つも在りませんでした。……又、遺族の方々や、友人たちのお話を総合してみますと、斎藤先生が外で酒杯さかずきを手にされるのは、学内でも極めて懇意な、気心のわかった連中から誘われた場合に限っているので、そうした相手の顔は一人残らず判明している位である。それ以外にタッタ一人でお酒を飲まれるのは自宅の晩酌以外に絶対に無いと言ってもいい。……のみならず、そんな風に外で深酔いをされた場合には、いつでも誰か、お相手の中の一人が、自宅まで送り付けて来るのが慣例のようになっているので、今度ばかりは全く不思議な例外としか考えられない……といったようなお話もありましたので、その意味でも色々な場合を想像して、充分に研究を遂げてみましたが、何しろ先生が海に落ちておられた附近は千代町ちよまち方向から長く続いた防波堤になっておりますので、どこからどんな風に歩いて来られて、どこで踏外ふみはずして海へ落ちられたものか、足跡一つ発見出来ませぬ。同伴者の在る無しは勿論のこと、仮りに他殺としましても犯人の手がかりが全然つかめないのです……。」
「……一方に、只今お話し致しましたような斎藤先生の御人格から考えましても、他人のうらみを受けられるような事は、まず無いとしか考えられませぬので、結局、やはり過失であろうという事になってしまいました。
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斎藤先生は滅多に酒を用いられぬ代りに、酔うと前後を忘れられるのがただ一つの欠点であったのですが、実に惜しい人を死なしたものです」
「……その一緒にお酒を飲んだ人は、まだ判明わからないのですか」
「……左様……今だに判明致しませぬが、これは余程デリケートな良心を持った人でなければ、名乗って出られますまい」
「……でも……でも……名乗って出ないと一生涯、息苦しい思いをしなければ ならないでしょう」
「近頃の人達の常識から申しますと、そんなにまで良心的に物事を考える必要がないらしいのです。……たとい名乗って出たにしたところが、斎藤先生が墓の下から蘇生して来られる訳ではなし、ただ、自分一人が不愉快な汚名の下に、何かの制裁を受けるだけの事に過ぎないのだから、結局、社会の損害を増す意味になる……といったような考え方をしているのじゃないでしょうか……否。むしろ今頃はモウとっくの昔に忘れてしまっているかも知れないのですが……」
「……でも卑怯ひきょうじゃないですか。それは……」
「……申すまでもない事です」
「……第一、忘れられる事でしょうか……そんな事が……」
「……さあ……そのような問題は、故、正木先生の所謂いわゆる『記憶と良心』の関係に属する、面白い研究事項ではないかと考えられるのですが……」
「それでは斎藤先生の死は、それだけの意味で、おしまいになったのですね」
「さよう。それだけの意味で終ったのです。まことに呆気あっけないものであったのですが、しかし、その結果から申しますと、誠に大きな意味を含む事になったのです。すなわち斎藤先生の死は、やがて正木先生が、当、九大精神病科の仕事を担任されて、この椅子に座られる直接の因縁となり、更に、貴方と、あの六号室の令嬢とを、この教室に結び付ける間接の因縁ともなったのです。さよう……ここでは仮りに因縁と申しておきましょう。
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しかしこの因縁が、果して人為のものか、それとも天意にでたものであるかは、やはり貴方が御自身の過去の御記憶を回復されましたのちでないと、確定的な推測が出来ませぬので……」
「アッ……そ……そんな事まで、僕の記憶の中に……」
「そうです。貴方の過去の御記憶の中には、そのような疑問の数々を解くのに必要な、大切な鍵までも含まれているのです」
 は次から次に落ちかかって来る疑問の氷塊ひょうかいに、全身を埋め込まれるような気がした。思わず眼を閉じながら、頭を左右に振り動かしてみた。けれどもそこからは、何等の記憶も湧き出して来なかった。ただ、それに連れて眼の前に惨酷むごたらしい『狂人きちがい焚殺ふんさつ』の絵額や、ニコニコしている斎藤博士の肖像や、あお白い、真面目な若林博士や、緑色に光る大卓子テーブルや、その上に欠伸あくびをし続けている赤い達磨だるまの灰落しまでもが、一つ一つにの過去と、深い関係を持っているものであるかのように思われて来た。同時に、それにつれて、そんな因縁深い品物ばかりに取巻かれていながら、何一つとして思い出すことの出来ないの頭のカラッポさを自覚させられて、シミジミと物悲しくなって来るばかりであった。
 一寸ちょっとの間、途方に暮れたような気持になって、眼ばかりパチパチさせていたようであったが、やがて又、フト思い出したように問うた。
「ハア。ではその行衛ゆくえ不明になられた正木先生は、どうしてこの大学に来られるようになったのですか」
「それは斯様かよう仔細わけです」
 と言ううちに若林博士は、出しかけていた時計を又ポケットの中に落し込んだ。弱々しい咳払いを一つして話を続けた。
「ちょうど斎藤先生の葬儀の式場に、正木先生がどこからともなく飄然ひょうぜんと参列しに来られたのです。多分、新聞の広告を見られたものと思われますが……それを松原総長が、葬式の済んだ後でつかまえまして、その場で斎藤先生の後任を押付けてしまったものです。
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これは非常な異式だったのですが、あれ程に人格の高かった斎藤先生の遺志を、外ならぬ総長が取次とりついだのですから、誰一人として総長の斯様かようり方を、異様に思う者はありませんでした。かえって感激の拍手をもって迎えられた位です。……その当時の新聞を御覧になれば、このかんの消息が詳しく素破抜すっぱぬいてありますが、その時に正木先生は、見窶みすぼらしい紋付もんつきはかまの姿で、教授連の拍手に取巻かれながら、頭を抱えて、こんな不平を言われたものです。
『弱ったなあ。僕はく迄も独力で研究したかったんだがなあ。大学の先生になると、好きな木魚が叩かれないし、チョンガレ節も唄えなくなるだろう。第一、持って生れた漂浪性が発揮出来ないからナア……』
 としょげ返って言われましたが、これを聞いた松原総長が……
『……今更、文句を言われても取返しが附きませんよ。これは斎藤先生の霊に招き寄せられた貴方の方が悪いのですからね……木魚ぐらいはイクラ叩かれても宜しいから、是非一つ成仏して頂きたい』
 と言われましたので、皆、場所柄を忘れて腹を抱えた事でした。」
「……正木先生は、それから間もなく当大学に就任して来られますと、今までキチガイ地獄のチョンガレ祭文さいもんの中で唄っておられた『狂人きちがいの解放治療』という実験を、実際に着手されまして、又も異常な反響を一般社会に喚起される事になったのです。同時にその実験を初められた事が機縁となりまして正木先生御自身と、貴方と、あの六号室の令嬢との、最近の運命的な御関係を結ばれる事にもなりましたのです。これも矢張やっぱり天意と申せば申されましょうが、……しかしいずれに致しましても斯様かように偉大な正木先生を、当大学に迎えて、思う存分に仕事をさせられたのは、やはり故斎藤先生の御遺徳に相違御座いません。
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正木先生もそのような意味からして、この肖像をここに掲げられたものに相違ないと考えられるのですが……」
 は又も深く嘆息たんそくして斎藤博士の肖像を仰がずには いられなかった。これ程の人格者、斎藤博士と、これ程の偉人正木博士と、眼の前の若林博士と、あの六号室の美少女と、そうして白痴同様のとを一つに繋ぎ合わせているという因縁の糸の不可思議さを考えずにはおられなかった。
 る感銘深い静寂が、少時しばらくの間、部屋の中を流れた。けれども、それは間もなく、が何の気もなく発した質問で破られた。
「……あッ……大正十五年の十月十九日……あの斎藤先生の写真の下にかっているカレンダーの日付は、斎藤先生が亡くなられてから、ちょうど丸一年目の日付ですね」
 がこう言って振り返った……その瞬間に変化した若林博士の表情の恐ろしかった事……それは、ほんの一瞬間ではあったが……大きな、白い唇をピッタリと閉じて、あごをグッと突き出すと同時に、青白い瞳を一パイにき出してにらみ付けた。しかも、それが余りに突然であったために、も思わず若林博士と同じ表情になって、にらみ合ったような気がしたのであったが、そのうちに若林博士は次第に落付いて来たらしく、今度は如何いかにも満足にえないという風にひたいを輝やかして、幾度も幾度もうなずいた。
「……よくあれにお気が付かれましたね。あなたの過去の御記憶は、いよいよ鋭く眼ざめて参ります。もはや皮一重というところまで御回復になっておりますようで……。実は只今の御質問が出ると同時に、今度こそ貴方の過去の御記憶が、一時に目めて来はしまいか……そうしたらドンナ風に御介抱申上げようかと、ちょっと心配致しました次第で……。何をお隠し申しましょう。あのカレンダーは、今から約一箇月前の日付を示しているので御座います。
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今日は大正十五年の十一月二十日ですから……」
「それが……どうして、そのまんまになっているのですか」
 若林博士はこの時に、又も荘重そうちょうにうなずいた。最前、六号室の少女の前で示した、神に祈るような態度で、かがんだ胸をグッと伸ばしつつ、両手をシッカリと握り合わした。
「その御不審が又、あなたの過去に関する大きな謎を解く鍵の一つとなっているので御座います。つまり正木先生は、あのカレンダーをあそこまで破って来られますと、あとを破ることを止められたのです」
「……そ……それは又なぜ……」
正木先生は、あの翌日亡くなられたのです……しかも、ちょうど一年前に、斎藤先生が溺死を遂げられた、筥崎はこざき水族館裏の同じ処で、投身自殺をされたのです」
 ……青天の霹靂へきれき……とでも形容しようか。何とも言いようのない奇妙な驚きに打たれたは、この時、何かしら一種の叫び声をあげたように思う。そうして、やっと気を落付けた時には、譫言うわごとのように口を動かしていたように思う。
「……正木先生が……自殺……」
 その声が自分の耳に入るとは又、自分の耳を疑った。正木先生のような偉大な、達人ともいうべき人が自殺する……そんな事が果して在り得ようか。
 そればかりでない。この精神病科教室の主任教授となった人が二人とも、ちょうど一年おきに、しかも場所まで同じ海岸の潮水に陥って変死する……そんな恐ろしい暗合【偶然の一致】が、果して在り得るものであろうか……と驚き迷い、呆れつつ若林博士のあお白い顔を凝視した。
 そうすると若林博士も今までになく、厳然げんぜんと姿勢を正してを凝視し返した。又も、神様に祈るような敬虔けいけんな声を出した。
「……繰り返して申します。……正木先生は自殺されたのです。
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只今お話し致しましたような順序で二十年の長い間、準備に準備を重ねて、前代未聞の解放治療の大実験を向うにまわして悪戦苦闘して来られた正木先生は、ついに、その刀を打ち折り、その箭種やだね【矢の全て】を射尽いつくされたとでも申しましょうか……どうしても自殺され なければならぬ破目はめに陥って来られたのです。……と申しましただけでは、まだおわかりになりますまいから、今すこし具体的に申しますと、正木先生の独創にかかわ曠古こうこの精神科学の実験は、貴方とあの六号室の令嬢が、めいめいに御自分の過去の記憶を回復されまして、この病院を御退院になって、楽しい結婚生活に入られる事になって完成される手筈になっていたので御座いますが、それがる思いもかけぬ悲劇的な出来事のために、途中で行き詰まりになりましたのです。……しかもその悲劇的な出来事が、果して正木先生の過失に属するものであったか、どうかというような事は誰一人、知っている者は居なかったのです。……けれどもその日が偶然にも、何かの天意であるかのように、斎藤先生の一週忌、正命日に当っておりましたために、一種の『無常』といったようなものを感じられたからでも御座いましょうか……正木先生は、その責任の全部を負われて、人間界を去られたのです。その実験の中心材料となられた貴方と、あの六号室の令嬢と、それ等に関する書類、事務、その他の一切を私に委託されて……」
「……そ……それでは……」
 と言いさして口籠くちごもった。形容の出来ない興奮に全身が青褪あおざめたように感じつつかろうじて唇を動かした。
「……それじゃ……もしや僕が……正木先生の生命を呪ったのでは……」
「……イヤ。違います。その正反対です」
 と若林博士は儼乎げんこたる【おごそかで威厳のある】口調で言い切った。依然としてを凝視しつつ、頭をゆるやかに左右に振った。
「その反対です。
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正木先生は、当然あなたから御自分の運命をのろわれるのを覚悟されて、この研究に着手されたのです。……否……今一歩、突込んで申しますと、正木先生は、そうした結果になるように二十年前から覚悟をきめて、順序正しく仕事を運んで来られたのです。御自身に発見された曠古こうこの大学理の実験と、貴方の御運命とを完全に一致させるべく、動かすべからざる計画を立てて、その研究を進めて来られたのです」
 それはにとって一層の恐怖と、戦慄に値する説明であった。われ知らず息苦しくなって来る胸を押えつつ、吐き出すように問うた。
「……それは……ドンナ手順……」
「それはここに在ります書類を御覧になれば、お解かりになります」
 と言ううちに若林博士は、今まで話片手はなしかたてに眼を通していた書類の綴込つづりこみをパタンと閉じて、うやうやしくの前に押し進めた。
 も、それが何かしら重要な書類の集積に違いない事を察していたので、同じように丁重ていちょうな態度で受取った。そうして、とりあえずパラパラと繰って内容をあらためてみたが、それは赤い表紙のパンフレットみたようなものを一番上にして、西洋大判罫紙けいし【洋紙製の、大きなサイズの、罫線入り用紙】や、新聞の切抜を貼り付けた羅紗紙らしゃがみの綴じたものと一緒に、カンバス【帆布・ズック】張りのボール紙【布張りの硬い台紙】に挟んだもので、表紙には何も書いてない。けれどもかなり重たいものなので、はモウ一度パタリと表紙を閉じて、卓子テーブルの上に置き直した。
 その向うから若林博士は、その青白い瞳をピッタリとの瞳の上に据えた。
「……それは申さば正木先生の遺稿とも申すべき貴重な書類で御座います。
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すなわち、只今までお話致しました正木先生の精神科学に関する御研究のうちでも、一番大切な精神解剖学、精神生理学、同病理学と、それからそのような御研究のエッセンスともいうべき心理遺伝学と、この四種類の原稿は、以前から手許てもとに引取っておられました『脳髄論』の本文と一緒に、自殺の直前に焼棄ててしまわれましたので、現在、正木先生の御研究の内容をうかがうのに必要な文献としましては、わずかにソレだけしか残っていないのです。それを正木先生は、やはりその自決さるる直前に、その通りの順序に重ね合わせて行かれましたので、その書類の発表された年代順にはなっていないようでありますが、しかもその順序通りに読んで行きますと、正木先生の御研究の内容が、その研究を進めて行かれた順序通りに、容易たやすく、面白く理解されて行く仕掛になっているようで御座います。
 ……すなわち、その一番初めに綴込つづりこんであります赤い表紙のパンフレットは、正木先生が日本内地を遍歴される片手間に、到る処の大道で、人を集めて配布された『キチガイ地獄外道祭文げどうさいもん』と題しまする阿呆陀羅経あほだらきょうの歌で、現代に於ける精神病者虐待ぎゃくたいの実情を見て、これを救済すべく、精神病の研究を初められた、その そもそも の動機が歌ってあるので御座います。」
「……それから次に羅紗紙らしゃがみの台紙に貼付けてありますのは、当地の新聞に掲載されました正木先生の談話を、御自身に保存しておかれた切抜記事で御座いますが、そのうちでも最初に『地球表面上は狂人きちがいの一大解放治療場』云々と題してありますのは、正木先生が、今申しました狂人きちがい救済の動機から、精神病の研究に着手された、その最初の研究的立場を、辛辣しんらつ諧謔かいぎゃく【ユーモア】まじりに、新聞記者へ説明されましたもので『この地球表面上に棲息している人間の一人として精神異状者でないものはない』という精神病理学の根本原理が、極めて痛快、卒直に論証してあります。
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……又……その次に『脳髄は物を考える処にあらず』云々と題してありますのは、そうした原理に立脚された正木先生が、今日まで研究不可能と目されていた『脳髄』の真実の機能をドン底まで明らかにされると同時に、従来の科学が絶対に解決出来なかった精神病その他に関する心霊界の奇怪現象を一つ残らず、やすやすと解決して行かれた大論文『脳髄論』の内容を、面白おかしく新聞記者に説明されたもので御座います。」
「……それからその下の方の日本罫紙けいし罫線けいせんが引かれた用紙】の綴じたのに、毛筆で書いてありますのは、その『脳髄論』の逆定理とも見るべき『胎児の夢』の論文で御座います。つまり自分を生んだ両親の心理生活を初めとして、先祖代々の様々の習慣とか、心理の集積とかいうものが、どうして胎児自身に伝わって来たかという『心理遺伝』の内容が明示してありますので、当大学第一回の卒業論文の選考せんこうに一大センセーションを捲き起したのは実に、この一篇に外ならないので御座います。……同時に正木先生が、あれ程の偉材を抱きながら、遂に自決さるるの止むなきに立到りました遠い原因もまた、実にこの一篇の中に胚胎していると申しましょうか……その次に在ります西洋大判罫紙フールスカップの走り書きは、その正木先生がそれ等の研究に、最後の結論を附けるべく書き残されました『解放治療の実験の結果報告』とも見るべき正木先生の遺言書です……ですから貴方は、それ等の書類を、その順序に御覧になりさえすれば、正木先生が精神科学の大道を開拓すべく、生涯をして研究して行かれた痛快な事跡が、たやすく、順序正しくおわかりになるで御座いましょう。
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同時に、あなた御自身の御経歴を、裏面から支配して、今日の御運命に立ち到らせた、曠古こうこの大学理の流動、旋転【回転】が、一々大光明を発して、万華鏡まんげきょうの如く華やかに、グルリグルリと回転しつつ、あなたの眼の前に……」
 若林博士の説明を、ここいらまでしか記憶していない。そんな説明を聞きながらも、何気なく一番初めの赤い表紙の小冊子を開いて、第一ページの標題から眼を通して行くうちに、いつの間にか本文に釣り込まれて、無我夢中に読み続けていたので……

キチガイ地獄外道祭文さいもん

――一名、狂人きちがいの暗黒時代――

オウ国【オーストリア】理学博士         
独国哲学博士 面黒楼万児めんくろうまんじ 作歌
仏国文学博士         

 ▼ああア――アア――あああ。右や左の御方様おんかたさまへ。旦那だんな 御新造ごしんぞ、紳士や淑女、お年寄がた、お若いお方。お立ち会い衆の皆さん諸君。トントその後は御無沙汰ごぶさたばっかり。なぞと言うたらビックリなさる。なさる筈だよ三千世界が。出来ぬ前から御無沙汰続きじゃ。きょうが初めてこの道傍みちばたに。まかりでたるキチガイ坊主……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ……
……サアサ寄った寄った。寄ってみてくんなれ。聞いてもくんなれ。話の種だよ。お金は要らない。ホンマの無代償ただだよ。こちらへ寄ったり。押してはいけない。チャカポコ チャカポコ……
……サッサ来た来た。来て見てビックリ……スチャラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ……
 ▼ア――あ――。まかり出でたるキチガイ坊主じゃ。背丈せいが五尺と一寸そこらで。年の頃なら三十五六の。それが頭がクルクル坊主じゃ。眼玉落ち込み歯は総入歯で。
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せた肋骨あばらが洗濯板なる。着ている布子ぬのこが畑の案山子かかしよ。足に引きずる草履ぞうりと見たれば。泥で固めたカチカチ山だよ。まるで狸の泥舟どろぶねまがいじゃ。乞食まがいのケッタイ坊主が。流れ渡って来た国々の。風にさらされ天日てんぴに焼かれて。きょうもおんなじ青天井あおてんじょうだよ。道のほとりにかばんを拡げて。スカラカ、チャカポコ外聞【恥】さらす。いわく因縁、故事、来歴をば。たたく木魚に尋ねてみたら……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ……
 ▼ア――あ。曰く因縁、木魚に聞いたら。親子兄弟、親類眷族けんぞくかかあめかけも もちろん持たない。タッタ一人のスカラカチャンだよ。うじ素性すじょうもスカラカ、チャカポコ。かばん一つが身上しんじょう一つじゃ。親は木の股キラクな風の。吹くに任かせた暢気のんきな身の上。流れ渡った世界の旅行たびじゃ。北京ペキン、ハルピン、ペテルスブルグじゃ。赤いモスコー、四角い伯林ベルリン、酔うがミュンヘン、歌うが維納ウインナ、躍る巴里パリーや居眠る倫敦ロンドン、海を渡れば自由の亜米利加アメリカ。女の市場がアノ紐育ニューヨークじゃ。桑港シスコ賭博ばくちよ。市俄古シカゴの酒よと。千鳥足まで米利堅メリケン気取りの。阿呆つくした十年がかりじゃ。見たり聞いたりして来た中でも。タッタ一つの土産みやげというのが。ナント恐ろし地獄の話じゃ……スカラカ、ポクポク。チャチャラカ、ポクポク……
 ▼あ――ア。さても恐ろし地獄の話じゃ。しかも私のへこんだこの眼で、チャンと見て来た事実の話じゃ。今日が封切、お金は要らない。要らぬばかりかその聞き賃には、こんな書物かきものを一冊上げます。私が只今唄うております。歌の文句の活版刷りです。あとで何やらマヤカシ物をば。無理に買わせる手段てだてじゃないかと。疑うお方があるかも知れぬが。ソンナ心配一切御無用。これは私の道楽仕事じゃ。人類文化の宣伝事業じゃ。何も参考、話の種だよ。サアサ寄ったり、聞いたり見たり……外道――ア――エ――もん
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キチガ――ア――イ――ごくウ――……スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……

       一

 ▼あ――ア。外道祭文さいもんキチガイ地獄。さても地獄をどこぞと問えば。娑婆しゃばというのがここいらあたりじゃ。ここで作った吾が身の因果が。やがて迎えに来るクル、クルリと。眼玉まわして乗る火の車じゃ。めぐりめぐって落ち行く先だよ。修羅しゅらや畜生、餓鬼道越えて。ドンと落ちたが地獄の姿じゃ。針の山から血の池地獄。大寒地獄に焦熱地獄。剣樹けんじゅ地獄や石斫いしきり地獄【衆合地獄】。火煩かぼん、熱湯、倒懸さかづり地獄と。数をつくした八万地獄じゃ。娑婆しゃばで作った因果のむくいで。切られ、砕かれ、あぶられ、煮られ。阿鼻あびや叫喚七転八倒。死ぬに死なれぬ無限の責め苦じゃ。もしもその声、聞いたら最後じゃ。頭張り裂けクタバルなんぞと。高いとこから和尚おしょうの談義じゃ。……スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。高いとこから和尚のお談義。なれどコイツは当てにはならない。死なにゃ行かれぬ地獄の噂じゃ。生きた坊主の賽銭さいせん集めじゃ。釈迦しゃかも知らないうそ八百だよ。わしが見て来た地獄というのは。ソンナ地獄と品事しなことかわって。かねを叩かず、念仏唱えず。十万億土の汽車賃使わず。そんじょそこらに幾らもあります。生きたながらのこの世の地獄じゃ……チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。生きたながらのこの世の地獄じゃ。それも貧乏暇なし地獄や。浮いた浮いたの川竹かわたけ地獄。義理と人情にんじょカスガイ地獄。又は犯した悪事のむくいで。御用、ったぞ、キリキリ歩めと。タタキ込まれる有期や、無期の。地獄なんぞと大きな違いじゃ。そんな道理がミジンも通らぬ。息もかれず、日の目も見えぬ。広さ、深さもわからぬ地獄じゃ。そこの閻魔えんまは医学の博士で。学士連中が牛頭馬頭ごずめずどころじゃ。但し地獄で名物道具の。
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昔の罪科つみとが、見分けてぎ出す。見る眼、ぐ鼻、閻魔の帳面。人の心を裏から裏まで。透かし見通す清浄せいじょう玻璃はりの。鏡なんぞは影さえ見えない。罪があろうが、又、無かろうが。本気、狂気の見分けも附けずに。滅多矢鱈めったやたらに追い込み蹴込むと。聞いただけでも身の毛が逆立よだつ。地獄というのがそこらに在ります。見かけは立派な精神病院。うそというなら入って見なされ。責め苦の数々お望み次第じゃ。ナント恐ろしキチガイ地獄……チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。ナント恐ろしキチガイ地獄じゃ。サテモ恐ろし精神病院。なぞと言うても皆様方には。まだまだ合点がてんが行きかねましょうが。物は順序じゃお聞きなされよ。聞いているうち如何いかにも、もっとも、そんな事とは知らずにいたわい。成る程そうかと合点が行きます。合点が行ったら八万四千の。身内の毛穴がゾクゾク粟立あわだつ。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ……チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。そんじょ、そこらの地獄の話じゃ。さても斯様かような地獄の起りが。いわく因縁イロハのイの字の。そもや初めと尋ねるならば。文明開化のおかげと御座る。そこで世界の文明開化の。日進月歩の由来と申せば。科学知識のたっとい賜物たまもの。中にたっといお医者の仕事じゃ。人の病気を治癒なおすが役目じゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。人の病気を治癒なおすが役目じゃ。そこでお医者の仕事の中でも。人の身体からだの狂いをなおす。外科や内科の治療の仕方と。人の心の狂いをなおす。精神病院の手当ての仕方と。違うところを比べてみます。アッとビックリ、シャクリが止まるよ。トテも驚く進歩の違いじゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。トテモ驚く進歩の違いじゃ。違う筈だよ相手が違う。人の身体からだは形が見えます。手足胴体触ればわかるよ。五臓六腑も解剖ひらけば見えます。打診、聴診、エッキス光線。
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ピルケ反応【ツベルクリン反応】、血液検査と。数をつくした診察道具じゃ。たとい何やら解らぬ病気や。薬ちがいや診察ちがいや。又は手当ての違いで死んでも。あとで死体したいを解剖したなら。どこが悪いと、すぐさまわかるよ。そこで診察治療の仕方が。日進月歩で開けて行きます。これに引き換え神様とても。人の心は診察出来ない……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。人の心は診察出来ない。たとい如何いかなる名医じゃとても。人の精神、心の狂いの。どこの脈見て、どの舌出させて。どこの苦労に注射をするやら。どこの心配切解せっかいするやら。かんの虫見る眼鏡も無ければ。あなた恋しで上った熱度が。寒暖計にも上った事かや。にせのキチガイ真実ほんとのキチガイ。レントゲンでも透かして見えない。声も聞えず姿も見えない。より不思議な心の正体。これがどうして診察されよか。馬鹿に附けよう薬は無いと。昔のたとえは今でも真実ほんまじゃ。つまるところが精神病は。診察治療が絶対不可能。科学知識で研究出来ない。わけのわからぬ物じゃとわかる……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。わけのわからぬ物じゃと解かると。ここでも一つ理屈のわからぬ。奇妙不思議な事実に気が付く。そもやソモソモ一体全体。人の精神、心の狂いは。診察、治療が出来ぬとなったら。現在世界のどこでもここでも。精神病院、神経治療じゃ。又は瘋癲ふうてん、脳病院じゃと。四角四面の看板ひろげて。意匠らした玄関構えじゃ。高価たかい診察、治療のしろだよ。入院、看護の料金取り立て。肩で風切る精神病医は。どんな仕事をしているものかや。あれは詐欺師やましつかませものかと。どなたも御不審なさるであろうが。チョット待ったり話は順序じゃ。世にも馬鹿げた内幕話じゃ。診察治療が出来ないお蔭で。お医者がステキにもうかる話じゃ。
118/596
これがホンマの阿呆陀羅経あほだらきょうだよ……スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……

       二

スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア――ああア。さても昔のその又昔。むかし昔のその大昔。科学知識の進まぬ頃では。人の身体からだの病気というても。人の心の病気と同様。何が何やら解らぬために。診察治療が当てズッポーだよ。家相、方角、星占いだよ。んぞんぞのさわりというては。祈祷、禁嫌まじない御神水おみずじゃ、お守札ふだじゃ。御符ごふうなんぞを頂戴させて。どうぞ、こうぞで済まして来たが。それじゃ治療なおらぬ病気の数々。そこで薬が発見されます。めば病気がケロリとよくなる。それをたよりに調べた揚句あげくが。人の病気は身体の中の。ここが斯様かように狂うが原因もとじゃと。わかった理屈が医学のはじまり。今では解剖、生理に病理。医化学、細菌、薬物そのほか。外科じゃ内科じゃ、皮膚科じゃ、耳鼻科じゃ。眼科、整形、婦人や小児と。隅から隅まで手に品かえて。水もらさぬ器械やお薬。人の身体の狂いを治療なおす。科学知識の大光明が。日々に明るく輝やき渡るよ……スカラカ、チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。日々に明るく輝やき渡るが。これに引き換え精神病だよ。人の心の狂いを治癒なおす。医者の診察、手当ての仕方は。ドンナ進歩をしたかと見ますと。ズント昔は精神病者を。神の心が移ったものと。おそれ敬い礼拝したり。又は生き霊、死霊の所業しわざと。物をそなえて大切だいじにかけたが。それはまだしも処によっては。こいつに悪魔がいたというので。その頃お医者と裁判官の。役目をしていた僧侶ぼうず巫女みこが。見付け次第のゆびさし次第に。やり刀剣かたなや、投げ縄、弓矢。棍棒こんぼうかついだ役人共が。かたぱしから頭を砕いて。手足胴体チリチリバラバラ。焼いて棄てたり樹の根に埋めたり。ちょうどこの節おかみでなさる。
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狂犬退治とおんなじ仕置しおきじゃ。これが精神病者に対する。最初の診察最初の治療じゃ。キチガイ地獄のイロハのイの字じゃ……スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。これがキチガイ地獄のはじまり。そこで斯様かように精神病の。原因もとが何やら解からぬとこから。出来た迷信邪法を使って。悪い事する奴等が出て来た。しかも余っぽど怜悧りこう【利口】な奴等じゃ。物のうらみや嫉妬や毛嫌い。又は政敵、商売讐仇がたきと。道理はずれた憎しみそねで。彼奴きゃつが邪魔じゃと思うた揚句が。何のおぼえもない人間をば。巫女や坊主や役人ばらに。賄賂わいろ使うて引っくくらせます。有無うむを言わさずキチガイ扱い。国のおきての死刑にさせます。軽いところで牢屋の住居すまいじゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。軽いところで牢屋の住居じゃ。世界の歴史を調べてみますと。高い身分や爵位しゃくいや名誉や。又は財産、領地の引継ぎ。女出入りや跡取り世取りの。お家騒動、内輪うちわめから。邪魔な相手を片付けたさに。こうした手段を使った実例ためしが。チラリチラリと残っております。ならば今では、どうかと見ますと。おなじ事じゃと言いたいなれども。言えぬどころか、今少もちっ非道ひどいよ……スカラカ、チャカポコ。スチャラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ……

       三

……スカラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あアア――ああ……アアア。今は文明開化の御代みよだよ。科学知識の万能時代じゃ。そうしたサナカに精神病だけ。昔のまんまの暗黒時代で。診察治療が出来ないなんぞと。ウッカリ言うたら言い出しコキじゃ。そういう奴こそキチガイだろうと。仰言おっしゃるお方が在るかも知れぬが。そういうお方が私は好きだよ。理知と常識、科学の知識を。いつも忘れぬ立派なお方じゃ。そんなお方にお頼みしまする。
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物は試しじゃお閑暇ひまの時分に。ちょっとそこらの精神病院。又は学校、図書館あたりで。世界各地の博士や学士が。寄ってたかって研究し出した。キチガイ病気の書物を拡げて。ザット中味を調べて御覧よ。サテモ並んだ病気の名前じゃ。丸い洋文字、四角い漢字と。押し合いヘシ合い何百何千。ゆびを折るさえ難儀な位じゃ。さては今では精神病者も。外科や内科の患者と同様。科学知識の光りに照され。底を見透す診察治療や。道理つくした介抱手当ての。数をつくしてもらっているかと。有難がるのは素人ばかりじゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。有難がるのは素人ばっかり。憎まれ口をばたたくじゃないが。お魂消たまげなさるな西洋日本で。天の際涯はてから地のドン底まで。調べ抜いたる科学者連中が。寄ってたかって研究しても。カンジンカナメの一番大切だいじな。オノレが頭蓋あたま空洞うつろの中に。トグロ巻いてる脳味噌ばかりは。ドンナ作用しているものやら。真実ほんとのところが全くわからぬ。それを嘘言うそじゃと思うたお方は。古今東西あらゆる学者が。人の脳髄調べた書物を。読んで御覧になったらわかるよ。これは物事聞いたり見たり。判断して行くところで御座るの。知識、経験、昔の記憶を。保存しておく倉庫で御座るの。何が何して何じゃらじゃら。浪花節なにわぶしなら前置きばっかり。エライ議論が出ておりますけれど。確かな事実は一つもわからん……チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。確かな事実は一つもわからぬ。わからぬ筈だよ不思議は御座らぬ。およそ天下が広いというても。人の脳髄ホントに調べて。腹の立つほど簡単明瞭。奇妙キテレツ珍妙無類【無比】な。脳の作用を見貫みぬいた者なら。問わず語りで烏滸おこがましいが。ここに居りますわたくしばっかり。……なぞと言うたら皆さん方は。そういうお前の脳味噌だけが。毎日天日てんぴに焼かれたお蔭で。しょうが変ってきたものダンベイ。
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なぞとお笑いなさるか知らぬが。真実ほんとにそうダンベイかも知れぬが。そこが私の道楽仕事じゃ。世界各地の博士や学者を。アッといわせる研究仕遂しとげて。二十億万人類社会の。アタマの入れ換えするのが楽しみ。いずれそのうちその論文なら。る大学から発表されます。それを御覧になったらわかるよ。ほかのあらゆる世界の学者は。脳の研究しかたを知らない。見当違いの思惑ずくめで。多分だろうと思った位の。真実まことめかした当筒砲あてずっぽうだよ。一つの道理は説明出来ても。ほかの事実が解釈出来ない。あちらを立てればこちらが立たない。九尺二間に雨戸が二枚じゃ……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。九尺二間に雨戸が二枚じゃ。ましていわんや【言うまでもなく】朝から晩まで。走馬灯籠まわりどうろう百色眼鏡ひゃくいろめがね【万華鏡】か。猫の眼玉じゃ、七面鳥じゃと。泣いて笑いつクルクルチラチラ。千変万化せんぺんばんかの秘術をつくす。人の心のその正体が。どんな姿の形のものやら。それがどうして狂うたものやら。酒屋の半七半七さんではないが。どこにどうして御座ろうものやら。ただの一つも解かっていませぬ。それが証拠は何より眼の前。今の精神病科の書物に。並び並んだ病気の名前じゃ。そんな書物を作った学者が。何が何やらわからぬまんまに。ザッと患者の表面うわつら眺めて。身振り素振りを引当て目当てに。つけもつけたり素人欺瞞しろうとだましじゃ。色気狂いろけぐるいが色情狂だよ。人を殺せば殺人狂です。舞踏狂なら踊りを踊るの。放火狂ならをするのと。何の科学で調べた事かや。わかり切ったる名前の附け方。医者でなくとも誰でも附けます。おこ上戸じょうごやアノ泣き上戸。笑い上戸に後引き上戸。梯子はしご上戸と世間の人が。酔うた姿を見かけの通りに。名前つけるとおんなじ流儀じゃ。これで診察出来るが奇妙じゃ……チャカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ。
 ▼あ――ア。これで診察出来るが奇妙じゃ。サテモ精神病者を受け持つ。
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博士、学士の医者様たちは。人の心の狂うた処や。又は狂わぬ確かな証拠を。どこで調べて見分けて行くかと。不思議がるのは又素人だよ。そこは商売、心配無用じゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。そこは商売、心配御無用。すべて精神病者と名付けて。遠方はるばるお医者の玄関げんかへ。連れて来られた人間ならば。誰が見たとて正気に見えない。かなりこうじた連中ばかりじゃ。又は見かけが普通と変らぬ。落付き払った病人とても。家族連中や掛りのお医者が。チャントおかみへ手続き済まして。精神病者に相違が御座らぬ。不法監禁お構いなしじゃと。法律ずくめの許可証揃えて。正々堂々連れて来るから。お医者側では手数がかからぬ。家族連中の話の模様や。又は患者の態度ようすを眺めて。書物拡げて照し合わせて。似合相当の名前を付けたら。それで診察おわりというので。赤い煉瓦レンガち込むだけだよ。中には診察違いの者なぞ。ポツリポツリと居るかも知れぬが。これもやっぱり心配御無用。ほかの種類の病気と違うて。こいつばかりは誤診がわからぬ。一度「キの字」ときまるが最後じゃ。二度と出られぬ煉瓦レンガの地獄じゃ。「違う違う」と言い訳したとて。それが、そのまま「キの字」の証拠と。今も昔も変らぬ運命さだめじゃ。放火狂じゃと診察みこみをつけて。八百屋お七を解剖したらば。何ぞはからん色情狂だよ。窃盗狂者どろぼうマニア標本みほんと思って。石川五右衛門入院させたら。誇大妄想狂者とわかった。なぞとお尻がハジケル心配。決してないから気楽なものだよ。テンカラ診察出来ない患者じゃ。何が何やらわからぬ病気じゃ。サテモ気楽なキチガイ医者だよ……スカラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。さても気楽な精神病キチガイ医者だよ。ならば治療の仕方はどうかと。心配するだけ野暮天やぼてん、素人。これも、やっぱり診察同様。盲目めくら探りの真っ暗闇だよ。すぐに脳天砕かぬところが。
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開け行く世のお蔭か知らぬが。患者側から言わせて見たなら。どうか解からぬ証拠は眼の前。どこでも構わぬソンジョのそこらの。精神病院のぞいて御覧よ。鉄の格子の牢屋はもちろん。今の未決監みけつや監獄なぞには。影も見せない道具の数々。鉄の鎖にそで無し襯衣シャツだよ。手枷てかせ、足枷。磔刑はりつけ寝台じゃ。小窓開いた石箱なんぞが。ズラリズラット並んだ光景ありさま。どんな極重悪人とても。五体震わす拷問道具じゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。五体震わす拷問道具じゃ。それに引換え入院患者の。心の狂いをホントに治癒なおす。薬器械のたぐいというたら。只の一つも見当りませぬ。眠らぬ患者に麻酔まやくの注射じゃ。騒ぐ者には鎮静剤だよ。物を喰わねば栄養物の。注射、浣腸かんちょうぐらいのものです。下手な内科や外科にも劣る。あとは治癒なおればお医者の手柄で。死ねば運じゃと済ましたもんだよ。アハハのエヘヘの平気の平左へいざじゃ。サテモ恐ろしキチガイ地獄じゃ……スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。サテモ恐ろしキチガイ地獄じゃ。なれどここらはまだ小手調べじゃ。キチガイ地獄の三途さんずの川だよ。聞いたばかりで身の毛がザワ付く。八万地獄は愚かな事だよ。阿呆メチャクチャ出鱈目でたらめ放題。あらん限りの虐待ぎゃくたいつづける。この世からなる精神病者の。地獄ゥ――めぐりィ――はァ――サテこれェ――かァ――ら――じゃァ――い……スカラカ、チャカポコ。スカラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……

       四

 ▼スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ。あ――ア。なんと皆さん魂消たまげなさるなよ。これは日本の話じゃ御座らぬ。から天竺てんじく【インドの旧称】あちらの話じゃ。世界各地の精神病医が。こんな無慈悲な心で建てたる。外観みかけ立派な病院地獄は。こんな愚かな亡者の患者で。一つ残らず満員している。
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それも道理かその第一には。そんな地獄の寝台ねだいの数をば。今の千倍、万倍したとて。人間世界のそこでもここでも。ヒョクリヒョクリとあらわれ飛び出す。精神病者の数には足りない。しかも一旦入院したなら。治癒なおる期間が長いは まだしも。一生出られぬ患者もあるので。いやが応でも大入満員。そこでお医者が威張るわ威張るわ。どんな事でも患者に仕向けて。面倒臭いか納める金が。すこし渋るかするその時は。直ぐにドシドシ退院させます。自宅治療のお許し附きで。無事に出て来る患者もあれば。ほかの病気の診断書おみたて付きで。ひつぎに入って出るのも在るが。後の代りはアトカラ アトカラ。押すな押すなの改札口だよ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。押すな押すなの改札口だよ。なれどソイツは話が怪訝おかしい。奇妙、不思議じゃ一体全体。そんな処へお金を出して。何がためなら入院させるか。なぞと御不審なされるお方は。われと身内に精神病者が。出来た経験持たない方だよ。まずはゆっくりお聞きなされませ。モット驚く話がこれから。チャカラカ、チャカポコ飛び出しまする。私ゃ知らんが木魚が知っとる。……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。わたしゃ知らんが木魚が知っとる。もっと驚く事実があります。しかもどこでも共通平等。精神病院関係者ならば。言わず語りで誰でも知っとる。極秘親展正直正銘。ここを限りの話というたら。ちょっと辻褄つじつま合わぬか知らぬが。チャント合うのが木魚の話じゃ。すべてキチガイ患者を連れて。赤い煉瓦レンガのお玄関先げんかさきへ。お辞儀しに来る連中の中でも。親や兄弟、妻子つまこやなんぞは。どうか治癒なおして下さりませと。涙流して溜息ついて。頼み入るのがすくなくないが。そんな骨肉みうちの連中の中でも。ホンニしんから真情まごころめて。治療なおすつもりで介抱するのは。実のところが母親ばっかり。それも真実わが腹痛めた。息子か娘が患者の場合じゃ。ほかの骨肉みうちの連中と来たなら。
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同じ血分けたおや兄弟でも。実に冷淡無情なものだよ。ことにお若い妻君なんぞは。申訳もうしわけだけ二三日位は。側で溜息くかと思えば。里の方から迎えに来るのを。待っていたようにハイチャイ【「はい、さようなら」がなまった幼児語で別れの挨拶】め込む。それもまだまだ最極上だよ。医者に患者を渡すと間もなく。部屋がどこやら決定きまりもせぬうち。電話かけにか便所に行くのか。帯の間の鏡を覗いて。鼻のアタマをパタパタやるうち。スラリと姿を消したが別れじゃ。二度と姿を見せないものだよ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。二度と姿を見せぬが普通じゃ。ドウセ治癒なおらぬ病気と決定きまれば。医師に見せるは体裁だけだよ。棄てに来るのが本当の腹だよ。生きて生き甲斐ないこの病気。どうぞよろしく頼みますると。頼む挨拶ウラから聞くと。もしも治癒なおれば迷惑千万。なろう事なら殺してしいと。言わぬ心がハッキリ見え透く。ここが患者の生死の境いで。医者が大いに儲かるところじゃ。……オットそんなに眼の色かえて。そんな事が……と お白眼にらみなさるな。現にこの眼で見て来た事です。但し日本の事では御座らぬ。から天竺てんじく西洋あちらの事だよ。耳も無ければ眼玉も持たない。物も言わない木魚の話じゃ。……スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。物を言わない木魚の話じゃ。唐や天竺あちらの話じゃ。男、女の区別を問わない。一度発狂した人間なら。ドンナ平気な顔しておっても。思いがけなく乱暴したり。人を斬ったり放火つけびをしたり。嫌な気持やオカシナ所業しわざを。あたり八方ひろげてサラゲル。人の姿の犬畜生だよ。人間扱いするには及ばぬ。ドンナ手酷てひどい仕置きをするとも。石やかわらの投げ撃ちしても。罪にゃならない相手も記憶おぼえぬ。たとい立派に治癒なおったようでも。いつが何時なんどき、再発するやら。油断がならぬと今の世までも。昔ながらにいうその上に。
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あれは血統ちすじじゃさておそろしやの。何のたたりじゃ応酬むくいじゃなんどと。眼指めざゆびさしするのが世間じゃ。そんなサナカに自分の身内に。思いがけない精神病者が。ヒョイと出て来るサア一大事じゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。ヒョイと出て来るサア大変だよ。それも上流、金持ち社会で。ものに不自由せぬうちだったら。座敷牢でも作れば片付く。治癒なおる当てどもない病院へ。入れる必要あるまいなんぞと。アッサリ言うのは上流社会の。つらいところを知らない人だよ。すこし世間に知られた一家で。一度キの字を出したら最後じゃ。万劫まんごう【未来永劫】末代血統ちすじさわる。早い話がせがれや娘の。縁があぶなくなるその上に。近所隣りの目下の連中に。あれは非道ひどうなお金のたたりよ。無理な出世のむくいよなんどと。白い眼をされ舌さし出され。うしろゆびをばさるるらさ。御門構えの估券こけん【体面・品位】にかかわる。そこで情実じょうじつ【実状】、権柄けんぺい【権力】ずくだの。縁故辿たどった手数をつくして。赤い煉瓦レンガへコッソリ入れます。もしも満員している時は。もっと届いた手数をつくして。無理な都合を院長に頼む。とかくこの世はお金の沙汰だよ。して【なおさら】キチガイ地獄の沙汰だよ。閻魔面えんまづらした院長さんでも。すぐに地蔵の笑顔に変って。慈悲の御手おんてで迎える代りに。ほかの患者を極楽まわしじゃ。金があってもまずこの通りじゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。金があってもまずこの通りじゃ。身分家柄、名誉や地位なぞ。あれば在るほど精神病者の。自宅治療は いよいよ困難。赤い煉瓦レンガへ人目を忍んで。封じておかねば安心出来ない。ところが中流社会となったら。きまり切ったる月給年俸。細い収入生命いのちの綱ぞと。頼む主人や家族の中で。だれか一人が発狂しますと。借家だったら追い立て喰います。座敷牢なぞ思いも寄らない。すこし患者に手数がかかると。貯金、恩給、たちまち煙じゃ。しかもその上介抱人が。
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主人だったら出勤でかたかなわず。奥さんだったら仕事が出来ない。又は子供が学校に行けば。あれは「キの字」の卵よなんどと。寄ってたかって嘲弄ちょうろう【ばかに】されます。言うに言われぬ切なさらさが。たった一度に皆落ちかかるよ。残る一つの頼みの綱なら。赤い煉瓦レンガの院長様よと。出来ぬ算段して来て見れば。どこへ行っても満員ばかりじゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。どこへ行っても満員ばっかり。しかもコイツが一段落ちて。その日暮しのシガナイ稼ぎじゃ。かかあは内職、娘は工場こうば。なぞというような一家となったら。むご悲惨みじめさ話にならない。介抱どころか、お薬どころか。すぐにそのまま一家が揃うて。あごを天井に吊るさにゃならぬ。いっそ狂うて死んでもくれたら。まだも増しよとうらんでみても。当の本人キチガイ殿は。死ぬるどころか大飯喰ろうて。治癒なおもない顔つきだよ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。治癒なおる当てどもない顔付きだよ。こんな調子で人間世界に。麦の黒穂【麦にできる黒い病害】か菜種の馬か。花や野菜の狂いと同様。わけもわからず理屈も立てずに。ヒョクリヒョクリと現われ飛び出す。数え切れない精神病者を。無料ただで引受け入院させるは。広い世間に大学ばっかり。それも寝台が何百あろうか。しかも慈善でするのじゃ御座らぬ。学生教授の研究材料。生きた標本講義の参考に。都合よいのをり取り見取りで。アトは要らぬと玄関払いじゃ。ならば私立はどうかと見ますと。これは何しろ商売本位じゃ。みんな金ずく権柄けんぺいずくめの。オエライ患者で超満員だよ……チャカラカ、チャカポコ……
 ▼あ――ア。エライ患者の大入満員。さても斯様かように持て余されたる。数も知れない狂人きちがいたちは。どこでどうして片付けられるか。さても不思議としらべてみたれば。サアサこれから又聞き事だよ。耳も聞こえず眼玉も見えない。口も動かぬ片輪かたわの木魚が。見たり聞いたりして来た話が。
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腹はからッポ公平無私だよ。タタキ出します阿呆陀羅経あほだらきょうだよ。地獄めぐりのチョンガレ文句が。ドンと一段、深みへ落ちます。……サアサ寄った寄った話の種だよ。お金は要らない。聞いたらビックリ……スカラカ、チャカポコ チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……

       五

 ▼スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ。あ――ア――あア――ア。エ――エ。さても皆さん斯様かような次第で。一人のキチガイ患者が出ますと。ほかの病気と品事しなことかわって。あとに残った正気の家族が。あるにあられぬ責め苦を受けます。トテモこうして自宅うちへは置けない。どうかせねばと思案をしても。どうも仕様が見当りませぬ。とかくするうち無理算段した。金は無くなる、仕事は出来ない。やがて一家が干乾ひぼしは眼の前。さても切なや、悲しや、らや……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。さても切なや、悲しや、辛らや、それも吾身はつゆ【少しも】いとわねど、お年寄られた親様はじめ。可愛い吾児わがこの行末までも。生きて甲斐ない一人のために。棄てて介抱するのが道理か。人に迷惑かけないうちに。患者もろとも首でもくくって。一家揃うて死ぬのが道かや。何の因果で斯様かようき目と泣いてうらめど肝心カナメの。当の患者はアラレヌ眼付きで。キョロリキョロリとしているばっかり……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。キョロリキョロリとしているばかりじゃ。もとの姿は残っていても。元の心は藻抜もぬけの殻だよ。人の形をしているだけに。犬や猫より始末が悪いよ。情ないとも何ともとも。なろう事なら代ろうものをと。なげもだえた揚句あげくの果てが。切羽せっぱ、詰まった大罪犯す……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ……。
 ▼あ――ア。切羽詰まった大罪犯す。どこか遠国とおく移転ひっこすふりや。知らぬ処の病院さして。
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入れに行く振り人には見せて。又と帰らぬ野山の涯へ。泣きの涙で患者を棄てます。なれどコイツは捨児すてごと違うて。拾い育てる仏は居ませぬ。居らぬどころか行く先々では。打たれ たたかれ 追いこくられます。飢えてこごえてたおれた処の。木の根、草の根、肥やすか知れない。それを承知で見棄てる鬼をば。キョロリキョロリと探して見まわす。憐れな患者の名残りの姿を。はるか離れた物蔭、木蔭で。両手合わせる千万無量【見当がつけられないほど数が多い】……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。両手合わせる千万無量じゃ。古い伝えは延喜えんぎの昔に。あのや蝉丸せみまる逆髪さかがみ様が。何の因果か二人も揃うて。盲人めくらと狂女のあられぬ姿じゃ。父の御門みかどに棄てられたまい。花の都をあとはるばると。知らぬ憂目に逢坂おうさか山の。お物語りは勿体もったいないが。斯様かような浮世のせつないならわし。切羽詰まった秘密の処分さばきは。古今東西いずくを問わない。金の有る無し身分の上下。是非と道理を問わないものだよ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。是非と道理がいえないものだよ。そんな事情で野山の涯に。迷う憐れな患者の中でも。すこし正気の残った者なら。他所の掃溜はきだめあさってみたり。物を貰うて又生き延びるよ。そのうち正気に帰るにしても。そこでこの世の悲しさ辛らさが。遣瀬やるせないほど身にみ渡る。又は吾身の姿にじて。残る家族のためぞと思い。人を諦らめ世を諦らめて。流す涙が乞食の姿じゃ。三日続けば止められないと。聞いた気楽な世界に落ち込む。それがそこらの名物乞食じゃ。又は野臥のぶせ 山窩さんかにまじって。寺の門前。鎮守の森蔭。橋のたもと蒲鉾小舎かまぼこごや【簡易的な小屋】で。しらみ取り取り暮しているのを。一人二人と集めてみたなら。とても大した人数にんずになります。しかも左様なミジメな姿は。みんなこうした地獄のあわれを。知らぬ顔する国家や社会が。いっそ死ねよといわないばかりの。冷めたい仕打ちに消え行く数の。
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千か万かの一人か二人じゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。千か万かの一人か二人じゃ。なんと皆さん如何いかがで御座る。これが普通の病気であったら。達者な者より大切だいじにされて。医者よ薬よ看護婦さんだよ。やわい寝床じゃ、良い食べ物じゃと。あるが上にもお見舞受けます。人間ばかりか犬畜生でも。小鳥、金魚も場合によっては。後生大切ごしょうだいじに介抱されます。それに引換え精神病者は。病気の正体わからぬお蔭で。赤い煉瓦レンガか野山の涯か。いずれのがれぬ地獄の責め苦じゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。いずれ のがれぬ地獄の責め苦じゃ。なれど皆さんお聞きなされませ。私が今まで木魚をチャカポコ。たたき出したる地獄のお話。病院地獄と野山の地獄は。正直正銘、金箔きんぱく付きの。精神病者が落ち行く地獄じゃ。尋常普通のキチガイ地獄じゃ。さてもこれから今馬力ばりきと。親に不孝な馬鹿声張り上げ。弁じ上げます地獄の話は。それにも一つしんにゅうませた【解釈を加えた】。スゴイ、ドエライ地獄の話じゃ。罪もむくいも何にも知らない。正気狂わぬ普通の男女が。チャント物事わきまえながらに。不意に手足の自由を奪われ。声も出されぬ無理往生おうじょうだよ。無理や無体に引擦り込まれて。タタキ込まれるキチガイ地獄じゃ。しかもよくよく調べてみますと。から天竺てんじく、西洋あたりに。ズラリ並んだ大建築だよ。チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。とても立派な大建築だよ。磨き立てたる金看板にも。新聞紙上の大広告にも、何々病院何々治療と。四角四面の能書のうがきばっかり。別に地獄と書いてはないが。警察新聞探偵社なぞが。チャント中味を知り抜きながらに。知らぬ顔する不思議な商売。天下御免の扉の内側へ。ウカ【うっかり】と片足入れたが最後じゃ。泣けど叫べど狂えど藻掻もがけど。二度と出られぬ暗黒世界じゃ。そんな処が在るとも知らずに。二十世紀の文化の世界じゃ。科学知識の万能時代じゃ。
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法律道徳礼儀の世界と。威張り腐って歩るけた ものだよ。明日あすは自分が落ちるか知れない。キチガイ地獄のドン底地獄じゃ……スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ……

       六

 ▼チャカポコ チャカポコ。チャカラカチャカポコ。あ――ア。よもや日本にゃ無いとは思うが。人を殺すにゃ短刀ピストル。麻酔薬まやく、毒薬、絹紐きぬひも、ハンカチ。数を尽くした瓦落多がらくた道具が。あるが中にも文明国では。一と呼ばれるホントウ【本当】国だよ。そこの首都みやこのタマゲタシチーで。わしが見て来た新式手段が。意気で高尚こうとでハイカラ道具は。昼の日中に公々然と。巡査お医者を立会いさせて。血潮残さず指紋も止めない。ドンナ検事や探偵連中が。不審抱いて調べて見たとて。ゆびもさされぬステキナ手段じゃ。但しお金が少々かかるが。かかる代りに利益もうけが大きい。とかくこの世はお金が讐敵かたき【深い恨みで敵対する相手】じゃ……チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。とかくこの世はお金が讐敵かたきじゃ。まずは財産相続事件じゃ。政治、外交、軍機の秘密と。何か素敵すてきな大金儲けで。彼奴あいつが邪魔じゃと思うた一念。ねらう相手が一人で歩るく。情婦いろ棲家すみか賭博ばくちの打場か。又は秘密の相談場所だの。ソッと入込む息抜き場所に。近いあたりの道筋突き止め。かねて雇うた精神病医の。欲の深いを同伴させて。ソンジョそこらの巡査に頼む。実は私の親友ですが。すこし精神異状をていし。家に帰らず淋しい処を。ブラリブラリと歩くが病い。そこでお医者に見せたいなれど。俺は何ともないなぞいうて。得物えもの【武器・道具】振り立て暴れまするで。止むを得ませぬ非常の手段。いつもここらを通るとわかり。取って押えに張り込みまする。そこでお仲間両三人の。お手が拝借願えましょうか。なぞと言ううちお金をいくらか。医師の口添え右から左と。思う通りに手順を運んで。ドンと落せばドンデン返し。
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狙う相手は千仞せんじん【きわめて高い・深いこと】奈落ならく【どん底・地獄】。生きて出られぬキチガイ地獄じゃ……スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。出るに出られぬキチガイ地獄じゃ。これがお家の騒動なんかで。狙う相手がまだウラ若い。息子か娘と来ているならば。もっと気取った手段があります。ことに近代思想にカブレた。頭の過敏の連中だったら。ズット手数が省ける訳だよ。すこし皮肉に取扱ったり。又は立場をコミ入らせると。すぐに神経衰弱式だよ。ほお青褪あおざめ眼玉がキラキラ。挙動そぶり言語ことばが変って来まする。これをシコタマつかんだお医者に。せてしまえばこっちのものだよ。静養させるは表面うわべの口実。花のつぼみが開かぬまんまに。あわれ落ち行く無間むげんの地獄じゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。あわれ落ち行く無間の地獄じゃ。こんな患者を専門にして。やって行くのがホントウ国でも。音に名高いマッタク博士じゃ。それも初めは普通のお医者で。やっていたのがこの種の患者は。貰う謝礼がステキに大きい。そこでだんだんそちらの専門。今じゃ大入おおいり大繁昌だよ。ナント吃驚びっくりタマゲタシチーに。善美【立派で美しい】つくした病院構えて。中に並ぶが現代文化の。すいを揃えた拷問道具に。息もらさぬ殺人設備じゃ。一眼見たらば真夏の土用も。零下何度の大寒地獄じゃ。それに引換え表の通りは。光り輝やく玄関構えに。並ぶ自動車その数知れない。しかも富豪や名士の家庭の。秘密握っているのが強味じゃ。強請ゆすり次第にお金が取れます。もしもその手が利かない時には。当の本人、秘密の正体。無理に作った正気の患者を。誤診だったと発表するぞよ。すぐに全快退院させるぞ。又は患者の味方となって。そちらの秘密を世間へあばくぞ。なんぞかんぞと絞った揚句あげくに。ゆする相手が破産をしたり。こちらの不正がれると見込めば。当の秘密の入院患者に。
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注射一本、水薬ポッタリ【気づかれない形で行われる処置】。あとで解剖してみるとても。そんな薬を使わにゃならぬ。ほどに暴れた患者かどうだか。今の医学の力じゃわからぬ。そこがマッタク博士の附け目じゃ。精神病医の手品のたねだよ……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。精神病医の手品の種だよ。しかもまだまだ不思議の数々。流石さすがキチガイ地獄の本場じゃ。ホントウ国でもタマゲタシチーで。マッタク博士が大胆不敵に。そんな商売しておりながら。同じ仲間の地道なお医者に。ゆびを一本指されぬばかりか。文句言われず批難を受けない。政府、警察、新聞記者まで。鳴りを静めて見ているばっかり……スチャラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。鳴りを静めて見ているばかりじゃ。つづく不思議がホントウ国の。機密費用の大弗箱ドルばこだよ。そこをれ出す巨万のお金が。マッタク博士のポケットの中へ。ソロリソロリと音さえ立てない。それかばかりかマッタク博士の。広い肩幅大きな胸には。並ぶメタルや勲章の数々。それも国家に偉大な功労。捧げた文官武官の連中が。滅多めったに貰えぬドエライ奴だよ。独逸ドイツ仏蘭西フランス英吉利イギリス露西亜ロシヤ。日本なんぞは無かったようだが。それにつけてもマッタク博士が。そんな世界の強国相手に。ドンナ偉大な功労つくせば。コンナ勲章貰えたものかや。これはドウジャと魂消たまげるばっかり……スカラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ……

       七

 ▼スカラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ。あ――ア。さても皆さん退屈様とは。思いますれど ここらで止めては。仏作って魂入れずじゃ。破れカブレの封切序ふうきりじゅんに。並べ上げたる不思議の数々。眼にも止まらず耳にも聞こえぬ。科学文化の地獄の正体。底のドン底のドンドコドンまで。タタキ破ってらげて拡ろげて。これはホントにタマゲタ話じゃ。
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マッタクすごいよ成る程そうかと。お立会いしゅ合点がてんの行くまで。ザット御機嫌伺いまする。又と聞かれぬ地獄のチョンガレ。世にも不思議な木魚の話じゃ……スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。又と聞かれぬ地獄のチョンガレ。聾唖おしの木魚の阿呆陀羅経あほだらきょうだよ。さてもしかるにスカラカ、チャカポコ。そもやホントウ民衆国は。表向きでは世界の強国。世界一ならお国の自慢じゃ。自由正義の本場ときまった。民権本位の理想の国じゃと。呼ばれまするが日本と違うて。国の元首に誰でもなれます。お金本位の勢力本位じゃ。忠義という字も言葉も無いから。一から十までお金が物言う。正義、法律、お金で買えます。良心、貞操、むろんの事だよ。自由民権手段を撰ばず。つかんで離さぬ熊鷹くまたか根性の。億万長者の一流どころが。国の利益は自分の利益と。盤石ばんじゃく動かぬ算盤そろばんずくめで。政治の実権握っているから。いくら政府が交代したとて。億万長者の威光は変らぬ。上は大臣、議員をはじめて。下は巡査や兵隊たちまで。国の繁昌一手に握った。一流どころの億万長者の。お金儲けの番頭手先じゃ。法律正義の仮面をかむって。弱い正しい人間たちの。自由、道徳、義理人情をば。かたぱしから踏み付けまわる。そこで斯様かような富豪たちの。非道な栄華をしんから憎しむ。正義の味方の学者や牧師が。言論自由の権利の下に。富豪いじめの演説はじめる。又は書物に書いたりしますと。エライエライと皆め立てます。下層社会の人気が集まる。資本家倒せの輿論よろんが高まる……スカラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。富豪倒せの輿論よろんが高まる。そこで富豪が厄鬼やっきとなります。そんな主張や輿論よろんを掲げた。雑誌新聞デスクに投げ出し。これをどうしてくれるかなんどと。葉巻片手に政府を責めます。そこで政府は大いに困る。困る筈だよ政府の連中は。そんな富豪の番頭さんなら。御機嫌取らなきゃ立場があぶない。
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次の選挙の費用が貰えぬ。なれど個人の自由は自由じゃ。国の掟にちっとも触れない。筋道通った立派な人物。正義の味方の学者や牧師を。まさか追立て喰わせもならず。して【なおさら】牢屋へ入れたりしたらば。エライ輿論よろんの反対受けます。そこで思案に詰まった揚句が。裏の裏行くキチガイ地獄じゃ。そんな学者や牧師の中でも。首領株だけ眼星をつけて。お手の物なら刑事を使って。狙うているとは夢露ゆめつゆ知らずに。タッタ一人で淋しい処を。歩く後から足音忍ばせ。アットいう間に引ずり倒して。精神病者を押えた形式かたちで。大きな手錠と足錠かけます。顔に当てがう麻酔薬まやくのハンカチ。蔭に待たせたマッタク博士の。病院自動車眼がけて投込む。あとは皆まで言わずとわかる……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。あとは皆まで言わずとわかるよ。これを感付く文明諸国じゃ。国家個人の区別を問わない。わるい思案に詰まった連中が。こんな便利な手段は無いぞと。われも われも と秘密ないしょの頼みじゃ。入る患者は政治家、学者。軍事探偵、大発明家。富豪、名家の跡取り世取り。又は名優スターの類だよ。他人の野心や不正の利得や。又は秘密の計画事業の。邪魔をする程手腕があったか。エライ立場におったが因果じゃ。予審、公判、宣告無しの。無期や有期の徒刑は勿論。電気椅子より手軽い死刑も。注文次第の何やら次第じゃ。ほんにこれこそ地獄の沙汰だよ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。ホンニこれこそ地獄の沙汰だよ。そこに落ち行く患者の中には。無論、狂人きちがい瘋癲ふうてん病者も。申訳もうしわけだけ居るには居るが。中にまじった優れた人物。英雄、豪傑、天才なんどを。白い服着た鹿爪しかつめらしい【いかにもまじめそう】。キチガイ地獄の牛頭馬頭ごずめずどもが。手取り足取りして行くあとから。金や勲章の山築やまつく上から。ニヤリ見送るマッタク博士じゃ……チャチャラカ、チャカポコ。
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スチャラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ……

       八

 ▼チャチャラカ、チャカポコ チャカポコ チャカポコ。あ――ア。ナント皆さん紳士や淑女よ。お立ち会いしゅの大勢さまよ。これが私の洋行土産みやげじゃ。現代文化の影身かげみに付添う。この世からなる地獄の話じゃ。鳥がさえずり木の葉が茂り。花に紅葉もみじに極楽浄土の。中にさまよう精神病者じゃ。身寄りたよりに突きはなされて。罪も報いも泣こうに泣かれぬ。キチガイ乞食のあわれな姿じゃ。ここの村里、彼処かしこの町で。夜毎日毎よごとひごとに追いまくられては。石や瓦の投げ打ちされては。雨にたたかれ風にさらされ。雪や氷に消え入るばっかり。そんな地獄をこの世に作った。丸い明るい天道様まで。クルリクルリと顔をば背向そむけて。俺は知らぬと言うたか言わぬか。ピカリピカリと笑って御座るよ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。ピカリピカリと笑って御座るが。それはまだしも気楽な地獄じゃ。昼夜不断ふだん【日ごろ】の電灯瓦斯ガス灯。唯物ゆいぶつ科学の文化の光りが。明るく光れば光って来るだけ。暗くなるのが精神文化じゃ。金じゃ女じゃ。権利じゃ義務じゃと。手段撰ばぬ悪知恵比べじゃ。道理外れた生存競争。電車自動車ソラ飛行機じゃと。縦横無尽に行きい飛び交う。人の運命一寸先だよ。暗に隠るる秘密の扉じゃ。連れて来られた老若男女は。狂気本気の区別を問わない。馬鹿も怜悧りこう【利口】も一列平等。ドンと蹴込けこんでピタリと閉じたら。タッタ一呑み文句を言わせぬ。音ももなく落ち行く先だよ。娑婆しゃばの道理や人情の光りが。影もさない暗黒世界じゃ。鉄筋煉瓦レンガやセメント造りの。科学知識のこの世の地獄じゃ。中に重なるキチガイ地獄の。上に在るのが親切地獄で。次が軽蔑、冷笑地獄じゃ。下は虐待ぎゃくたい、暗殺地獄の。底は何やらわからぬ地獄じゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。あとは何やらわからぬ地獄の。
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次に並ぶはモひとつスゴイよ。これは何でもわかった地獄じゃ。おのれ彼奴あいつが正気の俺をば。こんな処へ投げ込みおるかと。歯噛み、身もだえ、地団駄じだんだ、踏んでも。踏めば踏む程、親切地獄じゃ。それでもめねば虐待ぎゃくたい地獄じゃ。あとは無念の白骨地獄で。化けても出られぬ奈落へ抜けます……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。化けて出られぬ奈落へ抜けるよ。そんな危い地獄の扉が。もしも本当ほんとにそこいら中に。あるとなったらさてどうなるか。お立会い衆は無論の事だよ。政府当局、天下の学者。知識階級の誰かれ問わない。血あり涙のある方々が。知らぬ顔して捨ててはおけまい。古い川柳に座敷の牢屋で。薬飲むにも油断がされぬと。(註にいわく――座敷牢薬をのむに油断せず――柳樽やなぎだる――)御座りまするはお江戸の昔じゃ。して【なおさら】いわんや【言うまでもなく】近代文化の。科学知識の進歩の中でも。人の脳髄、心の正体。何が何やらわからぬために。精神病学研究し方が。八方ふさがり昔のままだよ。にせのキチガイ真実ほんとのキチガイ。ハッキリ区別も出来ない癖に。ほかの医学の体裁真似して。治療診察なんどというては。四角四面の病院作って。器械標本、薬に書物と。並べ飾って威張っているなら。こんな地獄が出来るは当然。これを防ぐが目下の急務じゃ。そんな病院見当り次第に。タタキつぶすが何より急務じゃ……スカラカ、チャカポコ、チャカラカ、チャカポコ。チャカポコ チャカポコ チャカポコ チャカポコ……

       九

 ▼チャチャラカ、ポコポコ。スカラカ、ポコポコ……さても左様なイカサマ病院。キチガイ地獄が出来ないように。防ぐ工夫があるかというたら。タッタ一つの手段があります。しかもなかなか大きな仕事じゃ。どこか気候と景色のよろしい。交通便利な離れた島へ。ザット一千万円かけて。かくいう私が新案工夫の。デッカイ精神病院建てます。そこへ研究試験所つけます。
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患者を無料で入院させます。地獄なんぞが出来ないように。解放治療というのをやります。これも私の新案工夫じゃ。すなわち正しい精神科学の。正しいキチガイ病気の治療じゃ。薬使わず手術もしませぬ。鉄の鎖や、石箱、鉄箱。袖無襯衣そでなしシャツ拘束ベスト】なぞ一切使わず。ありとあらゆる精神病者を。広い処へ追い放しにして。一番自然な正しい治療を。しようというのが解放治療じゃ。いわば精神病者の牧場まきばじゃ。キチガイ患者の極楽世界じゃ。奇妙キテレツ珍妙無類【無比】の。世界初めの精神病院。むろん誰でも参観随意じゃ。ドンナ素敵な観物みものになるかは。ふたを開けねば私もわからぬ。何から何まで新発明だよ。スカラカ、チャカポコ。スカラカ、チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。何から何まで新発明だよ。いずれそのうち発表しますが。世界の学者が一人も知らない。キチガイ病気の出て来る原理じゃ。しかもすこぶる簡単明瞭。ステキ滅法愉快な学理を。そこで実地の試験にかけます。診察予防が絶対不可能。薬も無ければ手術も出来ない。キチガイ病気の正体調べて。診察治療が出来るとなったら。トテモ評判大したものだよ。世界に人種が数ある中で。日本人種は見上げたものだよ。正義人道たっとぶ国だよ。精神科学の先進国だと。言わせたいのが私の願いじゃ……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。言わせたいのが私の願いじゃ。なれど何しろ一千万の。金というたら大したもんだよ。私が親から引譲られた。田地田畑でんちでんぱた、貯金や証文。古いふんどしお金に換えても。やっと半分そこらのものだよ。あとは政府のお助け仰いで。それにも一つ皆様方の。清いたっといお志を。たよりすがりにりたい考え。五厘一銭、わら一筋でも。多寡たかいとわぬ願人坊主じゃ。頭たたいて頂きまする……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。アタマたたいて頂戴しまする。なれど、そういう願人坊主が。やはり「キの字」の片割かたわれらしいぞ。
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眼付き風付ふうつき【風体】何やらおかしい。非人乞食に劣らぬ姿で。道のほとりにかばんを投げ出し。駄声だごえはり上げ木魚をチャカポコ。昼の日中ひなかに外聞さらす。しかも文句が常識外れた。世界文化の千万円じゃの。耳に聞こえず眼にさえ見せない【よく分からない】。人の心の狂いを直すの。古今独歩の研究なんどと。途方途轍とてつもない事並べて。寄付を集めるイカサマ坊主じゃ。そんな古手にかかると思うか。要らぬ処で道草喰うたぞ。早く行こうと仰言おっしゃるならば。これは如何いかさまもっとも千万。道理至極じゃスカラカ、チャカポコ。頭たたいてお詫びをしまする……チャカポコ チャカポコ……
 ▼あ――ア。頭たたいてお詫びをしまする。そもや そもそも 一体全体。こんなスカラカ、チャカポコ頭が。身の程知らない木魚をたたいて。頼み手も無い金にもならない。要らぬ赤恥、天日てんぴにさらげる。事の起りはキチガイ地獄じゃ。文明社会の裏面に拡がる。無茶と野蛮の底抜け地獄じゃ。筆も言葉も木魚も及ばぬ。むごさ、せつなさ、悲しさらさを。底の底まで見て来たお蔭で。こちらの頭が少々変テコ。これをこのまま棄ててはおけぬと。思い込んだが因果のはじまり。これを助ける方法手段を。あれよこれよと思案のあげくが。精神病者を無料であずかる。デカイ病院建てるが第一。それを建てるにゃ皆様方の。輿論よろんのお力借りねばならぬ。又は一厘一銭たりとも。無駄に使わぬ思案の果だよ。思い付いたる乞食の姿が。お眼に障わったお詫びの印じゃ。今のキチガイ地獄の歌をば。印刷はんに起した斯様かような書物を。お立ち会い衆へおわかちしまする。お金は要らないお願いしまする。持って帰ってお読みなされて。これはどうやら真実ほんとうらしいぞ。寄付をしようかと思うたお方や。さては私の一生仕事の。狂人きちがい救済事業の中味を。もっと詳しく調べてみたい。又は世界の漫遊みやげの。眼先変ったキチガイ話や。家のたたりや血統ちすじさわりや。生霊、死霊のうらみやなんぞが。
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人の心を狂わせ惑わす。スゴイ因果の因縁話を。聞いてみようかそれとも又は。何か大勢集まる場所で。そんな話をやらせて見たらば。奇抜な余興になるかも知れぬと。思召おぼしめしたらお手数ながら。ここに挟んだ葉書が一枚。これにお名前お所番地。それとこれなるページの終りに。止めましたる宛名を書いて。ぽんとポストにお願いしまする。願うところはこの世の中に。こんな事実があります事を。向う三軒両お隣りや。どなたこなたの噂の種に。語り伝えて下さりませよ。すれば今言うキチガイ地獄や。人類文化の裏面の秘密が。いやが応でも世間へ広まる。悪い事する精神病院。キチガイ地獄を片端なぐりに。タタキつぶせと輿論よろんが高まる……チャカポコ チャカポコ……
 ▼そこで政府も黙っておれない。棄てておけない重大問題。社会事業の急務というので。私が投げ出す財産全部の。五百余万のお金を基本に。精神病者を無料で預かる。国立精神病院建てます。到る処の精神病者の。生産過剰の緩和を初める……チャカポコ チャカポコ……
 ▼人に忘られ世に忘られて。狂い藻掻もがいて生命いのちを終る。あわれな精神病者が助かる……ポコチャカ ポコチャカ……
 ▼それかばかりかその病院で。研究し出したキチガイ病気の。治療のし方が世間に広まる。世界各地のキチガイ地獄が。一つ残らず引っくり返って。ありとあらゆる精神病者の。なぶり殺しが止みますならば。こんな本懐至極しごくは御座らぬ……ポコポコチャカチャカ……
 ▼あ――ア。こんな本懐至極は御座らぬ。そこで成る程貴様の仕事は。実に道理もっとも千万至極じゃ。奇特、感心、立派な了簡りょうけん【考え】。俺が付いてる心配するなよ。ウント踏張り勉強やらかせ。狂人きちがい地獄をスカラカ、チャンまで。タタキつぶせよフレ――やフレーと。おめなされて下さるならば。
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私の喜び天井知らずじゃ……チャカチャカポコ ポコポコ ポコチャカ チャカポコ ポコ……

       十

 ▼スチャラカ、チャカポコ。チャチャラカ、チャカポコ。あ――ア。さても皆さん相済みませぬ。御用、お急ぎ、散歩の足をば。変な姿や奇妙な文句で。お引止めして気の毒千万。なれど つらつら おもんみまするに。三千世界を流るる時間が。何万、何億、何兆年とも。知れぬ無限の時間のうちなら。五十、七十、百まで生きても。アッという間の一生涯だよ。何が何やら わからぬまんまに。会うて別れて生まれて死に行く。数え切れない人数にんずの中だよ。今日が只今この道傍みちばたで。お眼にかかるも何かの御縁じゃ。お許しなされて下さりませよ。よしやこのままお別れしても。残る名残りがスカラカ チャカポコ。もしもこののち世間の噂や。雑誌新聞、小説なんぞで。キチガイ話を御覧になったり。又はホンマの精神病者を。通りすがりに御覧になったら。思い出しても下されませよ。月の光りや太陽の輝やき。星の光りもき消すばかりに。まなこくらめくモダーン文化や。又は博愛仁慈はくあいじんじの光明。正義道理のサーチライトも。昔ながらに照らさぬ世界じゃ。地獄以上のキチガイ地獄に。音ももなく消え行く先だよ。広さ深さも無限のやみの。底に青ずみ漂う血の海。上にさまよう陰火おにびほのおは。罪も報いも無いまま死に行く。精神病者の無念の思いじゃ。聞いて聞こえぬうらみの数々。聞いた心がクドキの文句じゃ。念仏代りの阿呆陀羅経あほだらきょうだよ。無調法【そこつ】なる木魚に合わせて。チョット御機嫌伺いまする。げどう――さア――えエ――もオ――んンン。キチガイ――イ――地獄ウ。
――ヘイ。御退屈様――


 ◆葉書は左記へお出し下さい。
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 九州帝国大学医学部精神病学教授

  斎藤寿八氏自室気付


  面黒楼万児宛



┌───┐
│   │
└───┘



  地球表面は

   狂人きちがいの一大解放治療場


九州帝国大学       
       正木敬之けいし氏談
精神病科教室       

去る三月初旬以来、九州帝国大学精神病科本館裏手に起工されて、その付属病院の工事と共に着々進捗しんちょくしつつある「狂人きちがい解放治療場」は、過般来かはんらい【先頃からずっと】その内容が厳秘中であったが、右は同科新任教授正木博士が私費を投じて開設したものである事が判明した。右に正木博士は同教授室において、往訪の記者に対し かく語った。

 世間では今度、吾輩が九大で開始した「解放治療」を吾輩の独創だとか、嶄新ざんしん奇抜だとかいって騒いでいるようであるが、正直のところを言うと決して吾輩の独創でもなければ、嶄新ざんしん奇抜な療法でもないのだ。すなわちこの地球表面上は、昔々の大昔の、歴史にも伝説にも残っていない以前から、狂人きちがいの一大解放治療場になっているので、太陽はその院長、空気はその看護婦、土はその賄係まかないがかりに見立てられ得るのだ。
 ……といっても吾輩は別に奇矯な言辞をろうしているのではない。そうした事実を断言し得る相当の理由があるから言うので、何を隠そう吾輩の「精神病研究」の第一歩はこの「地球表面上が狂人きちがいの一大解放治療場になっている」という事実に立脚していると言ってもいいのだ。
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 それは何故かというと、元来この地上に生み付けられている人間は、身分の高下、老若男女の区別を問わず、ゆび一本でも自分の自由にならぬか、又はどこか足りないか、多過ぎるかした人間を発見すると、すぐに「片輪かたわ」という名前を附けて軽蔑したり、気の毒がったり、特別扱いにしたりする事にきめている。同様に、頭のハタラキが本人の自由にならぬか、又は、頭の働きのどこか足りないか、多過ぎるかした人間を見付けると、早速、精神病患者、すなわちキチガイの烙印やきいんを押し付けて差別待遇を与える事にきめているようである。禽獣きんじゅう、虫ケラ以下の軽蔑、虐待ぎゃくたいを加えてもいいものと考えているらしく考えられる……が……しからばその精神病者を侮蔑ぶべつし、冷笑している所謂いわゆる、普通の人間様たちの精神は、果して、何もかも満足に備わっているであろうか。すべての人々の脳髄は、隅々までも本人の意志の命令通りに、自由自在に動いているであろうか。
 吾輩はあえて言う。公平、つ厳正な学問の眼から見ると、決してそうは思えない。それは手足の曲ったのや、眼鼻の欠け落ちたのと同様に、外から肉眼で見わける事が出来ないだけで、実際のところをいうとこの地球表面上に生きとし生ける人間は、一人残らず精神的の片輪者かたわものばかりと断言して差支えないのである。曲ったり、くねったり、大き過ぎたり、小さ過ぎたり、又は知恵や情欲が多過ぎたり、足りなかったりする、所謂いわゆる、精神的の片輪者ばかりで、押すな押すなの満員状態をていしていると考えても、断然間違いはないのである。
 早い話がなくて七癖、あって四十八癖というではないか。見っともない、下らない習慣が、いくら他人に笑われても止まない。
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又は出世の妨げになったり、他人に迷惑をかけたりするので、是非とも止める決心をして、神や仏にがんをかけたり、新聞に広告までしてちかいを立てても悪い癖が止められないのは取りも直さず、自分の頭が、自分の自由にならない事を実地に証明しているのではないか。自分の頭の間違っているところを、自分の意志で直す事の出来ない、精神病的発作の根強いあらわれを見せているのではないか。又は泣くまいと思ってもツイ涙が出る。おこる場合でないと思ってもついムカムカッと来て前後を忘却したりするのは、やはり一時的の精神のかたよりを、自分で持ち直す事が出来ないという、アタマの弱点を暴露しているのではないか。
 そのほかしょうき性、ムラ気、お日和ひより機嫌、胴忘どうわすれ、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、変態心理なぞの数をつくして、出会う人ごとに、知るも知らぬも、多少のキチガイ的傾向を帯びていない者は無い。頭の働らきの不叶ふかないな【思うように働かない】ところを持っていない者は無い。すなわち精神病者と五十歩百歩の人間でない者は居ないのだ。
 その証拠には、そんな連中のそうした弱点……すなわち頭の不叶ふかないなところを指摘してやると、誰でもヒヤリとして赤面するか、青すじを立てて弁明するか、腕まくりをして喰ってかかるかする。これはキチガイが自分自身をキチガイでないと主張するのと同じ心理で、まことに馬鹿馬鹿しい極みであるが又、人情の止むを得ないところであろう。……しかもその人情の止むを得ないところを、そのままにしてったらかしておくと、そんな精神病的傾向が当り前の事のように思えて来る。いわんや【言うまでもなく】当世流行の紳士待遇でも与えようものならイヨイヨ病癖が増長して、イヨイヨ止むを得なくなって来る。そうしてトウトウ絶対に取り止めが出来なくなったのが、家庭悲劇や、犯罪事件となって社会に暴露する。
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軽いので社会的制裁、重いのになると法律の手にかかる。それでも反省出来ない、ブレーキの利かなくなったガタガタ自動車みたいな奴が、何々狂と名付けられて、精神病院に担ぎ込まれる事になるのだ。
 誤解しては困るが、何もそれが悪いと言うのじゃない。万物の霊長諸氏を侮辱ぶじょくする意味で言ったのでは毛頭ないが、しかし、そんな風に生れ付いたり、習慣付けられたりしている所謂いわゆる、紳士淑女連中が、自分のアタマと五十歩百歩の精神病患者を見るとヤタラに軽蔑したり、恐れたりする。自分だけは誰が何と言っても精神病的傾向をミジンも持たない、完全無欠なアタマの持主だと自惚うぬぼれ切っているから、ツイ吾輩も冷やかしてみたくなるのだ。……そんな紳士淑女連中からアラユル残酷な差別待遇を受けている、罪もむくいも無い精神病患者を弁護してみたくなるのだ。
 すなわち、いずれにしても斯様かように観察して来ると、普通人と狂人きちがいの区別がつけられないのは、刑務所の中に居る人間と、外を歩いている者との区別が付けられないのと同じ事になって来るであろう。平ったく言えば赤い煉瓦レンガに入る程度にまで露骨でない悪党と、キチガイとを一緒にしたものが、所謂いわゆる、普通人……もしくは紳士淑女という事になるであろう。
 もちろんこれは一種の暴言である。実に失礼とも無作法とも、何ともカンとも申上げようのない遺憾千万な言い草ではあるが、事実はどこまでも事実に相違ないのだから仕方がない。こうした観察点に立脚しなければ、精神病に関する真個ほんとうの科学的研究がやって行けないのはあたかも、人間が一個の動物に過ぎないという見地に立脚しなければ、すべての医学の研究が遂げられないのと同じ事なんだから止むを得ない。もし又、万が一にも「俺ばかりはキチガイじゃないんだぞ。絶対に完全無欠な精神を持っている人間なんだぞ」という自信を持っているお方があったら、イツ何時でも吾輩の処へおで下さいだ。
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そのお方は当大学の研究患者として、官費で入院さして上げる。ちょうどその式の患者が、学生の講義に必要なところだからね……。
 太陽は、これ等無限の精神病患者の大群を、地上一面に生み付けて、永久に無言の解放治療を続けている。そうするとその禽獣きんじゅう、虫ケラ以下の半狂人である人類たちは、永い年月のうちに自然と自分たちがキチガイの大群集である事を自覚し初めて、宗教とか、道徳とか、法律とか、又は赤い主義とか青い主義とかいう御丁寧なものを作って「お互いに無茶を止しましょう……変な真似をやめましょう」をやっている。だから吾輩もその小さな模型を作って、僭越せんえつながら太陽氏になり代って「無薬の解放治療」を試みている。「人類全部がキチガイ」という観察点に立脚した、ホントウの科学的な精神病の研究治療を試みているのだ。
 ……ナニ……その解放治療場にはドンナ種類の精神病患者を収容するのか……それはまだわからないよ。いずれ吾輩の学説……新しい精神科学の学理実験材料として差支えない患者を選み出して収容する予定にはなっているんだがね……。
 ……その学説はドンナ学説……吾輩が唱え出した精神科学の内容かね。それあトテモ大変な質問だ、なかなか一朝一夕に説明し切れる訳のものじゃないよ。しかし要するに今日までの精神病の研究法を根本から引っくり返した行き方だという事は断言しておいてもいいね。まず人間の脳髄の作用から研究し直して「脳髄は物を考える処」という従来の迷信的な学説をドン底から訂正する。それからその新しい「脳髄の作用」に反映して行く精神の遺伝作用を明らかにする。そこで出来上った精神解剖学、精神生理学、精神病理学から観察診断した、最もわかり易い最も興味深い、精神病患者の標本ばかりを集めて、吾輩独特の精神的な暗示と刺激を応用した治療法を試みてみたいと思っているんだがね。ドンナ標本が集まるか……ドンナ騒動が初まるか、吾輩自身にも予断出来ないんだよ。ハハハ……。
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 但し念のためにお断りしておくが、その実験をやっている吾輩ばかりが、精神に異状の無い、太平無事のデクノ坊だと誤診されては迷惑だよ。
 あの太陽が、一旦、ギラギラと光り出して、地獄と名づくる精神病者の一大解放治療場の全面をあぶりまわし初めたらナカナカ止めない。いい加減なところで醤油でも附けたら……と思ってもソンナ余裕なんか持たないらしく、どこまでもどこまでもピカピカジリジリとあぶり回し続けている。それと同様に一度狂人きちがいの研究を初めた吾輩は、それ以外の事が考えられなくなった。往来で小便をし初めたのと同様に、殿様がお通りになろうが、巡査がお見えになろうが、お手討ちも罰金も覚悟の前で、根の切れるまでシャアシャアやり続けている。
 だから地上のほかの狂人きちがい治療なおるとも、吾輩の精神異状だけは永遠に全快しないだろうと思う。これだけはたしかに保証出来る。云々。


  絶対探偵小説

   脳髄は物を考える処にあら


    ===正木博士の学位論文内容===


一記者

 ナニ。吾輩の学位論文「脳髄論」の内容がナゼ学界に発表されないかッテ……アハハ。馬鹿にするな。物議を起すのを怖がって発表を差控えるような吾輩じゃないよ。実はチョット書き添えたい事があるから、手許てもとに引取っている迄の事さ。
 その内容を話せって言うのか。ウン。それあ話せない事はないさ。……しかし話したら直ぐに新聞に書くだろう。実はこのまいに吾輩が話した「地球表面上は狂人きちがいの一大解放治療場」云々の記事を、君の新聞に書かれたんで、少々弱らされたよ。自家広告の宣伝記事だというので、ダイブ方々で八釜やかましかったらしいんだ。
 ナアニ。吾輩は平気さ。何と言われたってビクともするんじゃないが、吾輩がすこし大きな事を言うと、事なかれ主義の総長や、臆病者の学部長が青くなって心配するのが気の毒でね。
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鶴川君の「万有還金」の研究や、赤井君の「若返り手術」以来、九大には山師【さぎ師】ばかり居るように誤解されているからね。ましていわんや【言うまでもなく】今度の「脳髄論」の内容と来たら、前の解放治療の話に何層倍輪をかけた物騒なテーマを吹き立てているんだから……。
 フン。書かないから話せというのか。新聞記者の書かない口上【言い訳】も久しいもんだ【習慣になってしまった】が大丈夫かい。ウン……そんなら話そう。ところでドウダイ……葉巻を一本……上等のハバナだ。吾輩の気炎の聞き賃、兼、新聞記事の差止め料だ。チット安いかね。ハハハハハハ。きょうは吾輩閑散ひまだからね。少々メートルを上げるかも知れないよ。
 ……時に君は探偵小説を読むかい。ナニ読まない。読まなくちゃいかんね。近代文学の神経中枢とも見るべき探偵小説を読まない奴はモダンたあ言えないぜ。ナニ……読み飽きたんだ……ウハハハ。コイツは失敬失敬。さもなくとも君の商売は新聞記者だったっけね。アハハハハ。イヤ失敬失敬。
 それじゃここに吾輩が秘蔵している、もっとも嶄新ざんしん奇抜な探偵事実談があるが一つ拝聴してみないか。実はどこかの科学雑誌にでも投稿してやろうかと思って、腹案していたものなんだが、小手調べに君の批評を聞いてみてもいい。筋の複雑、微妙さと、解決の痛快皮肉さは恐らく前代未聞だろうと思うがね。むろん他に類例があったら、二度とお眼にかからないという、すこぶる非常的プレミヤム付きの……。
 ナアニ。胡魔化ごまかすんじゃないよ。今言う吾輩の脳髄論と大関係があるんだ。探偵小説というものは要するに脳髄のスポーツだからね。犯人の脳髄と、探偵の脳髄とが、秘術をつくして鬼ゴッコやいたちゴッコをやる。そのかんに生まれる色々な錯覚や、幻覚、倒錯観念とうさくかんねんの魅力でもって、読者のアタマを引っぱって行くのが、探偵小説の身上じゃないか。ねッ。そうだろう。
 ところがだ。
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吾輩の探偵小説というのはソンナ有り触れた種類の筋書とは断然ダンチガイのシロモノなんだ。すなわち「脳髄ソノモノ」が「脳髄ソノモノ」を追っかけまわすという……宇宙間最高の絶対的科学探偵小説なんだ。しかもその絶対的科学探偵小説のドンドンのドンガラガンの種明かしをして、人類二十億の脳髄をアッといわせるトリックそのものが、ソックリそのまま吾輩の「脳髄論」のテーマになっているんだからスゴイだろう。
 ナニ。わからない。ハハハハハ。わからない筈だ。まだ何も話していないんだからね。ハッハッ。
 ああ いいとも いいとも。速記に取ったって構わないよ。吾輩が「脳髄論」を学位論文として正式に発表する時まで、新聞に掲載するのを待っていて くれさえすれば いいのだ。何ならアトで吾輩が筆を入れてやってもいい。談話として発表するよりも吾輩の創作として発表する方が都合がよくはないか……。
 もっとも前もって断っておくが、この探偵事実談を聞いても、わかるか解からないかは保証の限りでないよ。何しろ脳髄が脳髄を追っかけまわすという、絶対、最高度の探偵小説なんだからね。解決が最初から立派についていながら、読者には絶対にわからない。ただ無暗矢鱈むやみやたらに奇抜突飛な、幻覚、錯覚、倒錯観念とうさくかんねんの渦巻きのゴチャゴチャだけしか感じられない……かも知れないというのが、トップのトップを切った脳髄小説のミソなんだからね。ハハハハハハハ。

 ところでだ……まず劈頭へきとう【まっさきに】第一に一つの難解を極めた謎々をタタキ付けて、読者のアタマをガアンと一つ面喰めんくらわせてしまうのが、探偵小説の紋切型だろう。しかもその「人間の脳髄」を極度に面喰めんくらわせ得る謎というのは、取りも直さず「脳髄」そのものに関するソレでなくてはならぬ事が必然的に考えられて来るだろう。
 果然かぜんと【案の定】‼ ……一つおどかしておくかね。ハハハハハハ。
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何を隠そうその「脳髄」こそは現代の科学界に於ける最大、最高の残虐、横道おうどうを極めた「謎の御本尊」なんだ。人体の各器官の中でもタッタ一つ正体のわからない、巨大な蛋白質製のスフィンクスなんだ。地上二十億の頭蓋骨を朝から晩までガンガンいわせ続けている怪物そのものにほかならないのだ。
 人間の脳髄と称する怪物は、身体の中でも一番高い処に鎮座して、人間全身の各器官を奴僕ぬぼく【召使い】の如く追い使いつつ、最上等の血液と、最高等の営養分をフンダンに搾取している。脳髄の命ずるところ行われざるなく、脳髄のほっするところ求められざるなし。何の事はない、脳髄のために人間が存在しているのか、人間のために脳髄が設けられているのか、イクラ考えても見当が付かないという……それ程左様に徹底した専制ぶりを発揮している人体各器官の御本尊、人類文化の独裁君主がこの脳髄様々に外ならないのだ。
 ところが、それはそれとして ここに一つ不思議な事があるのだ。
 それは他事ほかでもない、その脳髄と自称する蛋白質の固形物かたまり自身が、古往今来こおうこんらい【昔から今まで】、人体の中でドンナ役割をつとめているのか、何の役に立っているものか……という事実を、厳正なる科学的の研究にかけて調べてみると、トドのつまり「わからない」という一点に帰着する事だ。逆にいうとこの脳髄と名付くる怪物は、古今東西の学者たちの脳髄自身に、脳髄ソレ自身のホントウの機能をミジンも感付かせていない事だ。……のみならず……その脳髄自身は、ソレ自身がトテモ一キロや二キロの物質の一塊いっかいとは思えないほどの超科学的な怪能力、神秘力、魔力を上下八方に放射して、そうした科学者たちの脳髄ソノモノに対する科学的の推理研究を、片端からメチャメチャに引きまわしている。モット手短かにいうと「脳髄が、脳髄ソレ自身の機能を、脳髄ソレ自身に解からせないように解からせないように努力している」とでも形容しようか。
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従ってその脳髄は、脳髄ソレ自身によって作り出された現代の人類文化の中心を、次第次第にノンセンス化させ、各方面にわたって末梢神経化させ、退廃たいはいさせ、堕落だらくさせ、迷乱化めいらんかさせ、悶絶もんぜつ化させつつ、何喰わぬ顔をして頭蓋骨の空洞の中にトグロを巻いているという、悪魔中の悪魔ソレ自身が脳髄ソレ自身になって来るという一事だ。
 むろんこれは吾輩一流の法螺ほらやヨタじゃない。吾輩の専門の名誉にかけて断言するのだから……。
 エッ……脳髄は物を考える処だ……と言うのかい。
 そうだよ。みんなそう思っているんだよ。現代一流の科学者は勿論のこと、全世界のありとあらゆる種類、階級の人々は、プロ【プロレタリアート】とブル【ブルジョアジー】とを押しなべて皆、脳髄で物を考えているつもりで生きているんだ。ラジオも、飛行機も、相対性原理も、ジャズも、安全剃刀かみそりも、赤い理論も、毒瓦斯ガスも何もかも、この一二〇〇グラム以上、一九〇〇グラム以下の蛋白質のカタマリから生み出されたものと確信し切っているのだ。
 成る程、人間の死体を解剖して、脳髄なるものを覗いてみると、そうした考え方は万々間違いないように見える。大脳、小脳、延髄松果腺しょうかせんなんどと、無量無辺むりょうむへんに重なり合っている、奇妙キテレツな格好をした細胞が、やはり、奇想天外式に変形した神経細胞の突起によって、全身三十兆の細胞の隅から隅までつながり合っている。その連絡系統を研究して行くと結局、人体各部を総合する細胞の全体が、脳髄を中心にして周到、緻密ちみつ、且つ整然たる糸を引合った形になっているのだ。だから人間一切の行動を支配する精神もしくは、生命意識なるものは、脳髄の中に立てもっているのじゃ ないかしらんと考えられる。すくなくとも「脳髄は物を考える処」と考えて差支えないように考えられるのだ。
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 こうした考え方は現在ではもう人類全般の動かすべからざる信念……もしくは常識となってしまっているのだ。この「脳髄が物を考える処」という事実について今更めかしく疑いを起すものは、ドコを探しても一人も居ない事になっているのだ。現代の燦然さんぜんたる文化文物は針一本、紙一枚に到るまでも、一つ残らずこうした「物を考える脳髄」によって考え出されたものである……と演説しても「ノーノー」を叫ぶ者は一人も居ない位にアタマ万能主義の世の中になってしまっているのだ。
 ……しかるにだ……ここで吾輩の脳髄探偵小説は、こうした世界的の大勢を横眼に白眼にらんだ一人の青年名探偵、兼、古今未曽有式超特急の脳髄学大博士を飛び出させているのだ。脳髄に関する従来の汎世界的【地球上の広い範囲の】迷信を一挙に根底から覆滅ふくめつ【完全に滅ぼす】させて、この大悪魔「脳髄」の怪作用……ノンセンスの行き止まり……アンポンタンの底抜けとも形容すべき簡単、明瞭な錯覚作用の真相を、煌々こうこうたる科学の光明下にらけ出し、読者の頭をグワ――ンと一撃……ホームランにまで戞飛かっとばさせている……という筋書なんだがドウダイ……読者に受けるか受けないか……。
 ナニ。まだわからない……もうすこし聞いてみなければ……。
 何だって……空想小説じゃないかって……。しからん……。だから一番最初に「科学探偵事実小説」と断っているじゃないか。空想なんてものをコレンバカリも取入れたら、全篇の興味がゼロになってしまうじゃないか。むろんそうだとも……初めから一分一厘ノンセンスものじゃないんだから安心して聞きたまえ。そんな甘物じゃない事が、そのうちにわかって来るんだよ。いいかい……。
 ところでその青年名探偵、兼、脳髄学の大博士は、吾輩が仮りにアンポンタン・ポカン君と名付けている二十歳ばかりの美青年なんだ。いいかい……むろん実在の人物なんだよ。
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しかもその美青年は古今無双のいい頭を持っているにもかかわらず、非常に危険な遺伝的、精神病の発作にかかったので、この大学に入学すると間もなく、この教室の付属病院に収容する事になった。
 ……ナアニ……ヨタじゃないったら……恐ろしく疑い深い読者だね君は……虚構うそだと思うならイツ何時なんどきでも本人に紹介してやるよ。スグこの向うの七号室に居るのだから訳はない。「オイ。ポカン君……」と呼ぶと、ビックリしたように振り返る横顔がタマラなく可愛いよ。
 ところでこのシークボーイ……アンポンタン・ポカン君は、その遺伝発作を起して人事不省に陥ったあとで、ヤット正気を取返すと間もなく、自分の生れ故郷や、両親の名前は勿論のこと、自分自身の名前までもキレイに忘れてしまっている事を、自分自身に気が付いた。そこで取りあえず吾輩からアンポンタン・ポカン博士の名誉ある称号を頂戴している訳だが、ポカン博士自身も元来のアタマがいだけに、この事が非常に気になるらしく、毎日毎日夜も昼もブッ通しに、病室の中の人造石の床を歩るき回って、自分の脳髄の事ばかり考えているらしいのだ。……「わからない わからない。いったい僕の脳髄は今まで何をしていたのだろう……何を考えていたのだろう」とか又は「僕の脳髄が僕の全身を支配しているのか……それとも僕の全身が僕の脳髄を支配しているのか……解らない解らない」……といったような事を口走っては、蓬々ぼうぼうと伸びた自分の頭の毛をきまわしたり、拳固げんこでコツンコツンと後頭部をなぐり付けたりしいしい、一分間も休まずに、部屋の中をグルグルと歩きまわっているのだ。
 ところが、そのうちに、ソンナ発作がダンダンと高潮して来るとポカン博士は、やがて部屋のマン中の人造石の床の上に立止まって不思議そうにキョロキョロとそこいらを見回わし初める。
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そうして自分の蓬々ぼうぼうたる頭の毛の中から、何かしら眼に見えないものをつかみ出して、床の上にちから一パイ叩きつける真似をする。それからその床の上にタタキ付けたものを指して、脳髄に関する演説を滔々とうとうと、身振ゼスチュアまじりに初めるのであるが、そのうちに自分の演説に感激して、興奮の絶頂クライマクスに達して来ると、ツイ今しがた自分の頭の中からつかみ出して床の上にタタキ付けた眼に見えないるものを、片足を揚げて一気に踏みつぶす真似をすると同時に、ウーンと眼をわして床の上に引っくり返ってしまう。そうして約三四十時間も前後不覚の状態に陥って、昏々こんこんと眠り続けると、又もや、アンポンタン・ポカン然として眼球めだまをコスリコスリ起上るのだ。そうして前の通りに「わからない わからない」を繰返しながら部屋の中をグルグルと歩るきまわる。そのうちに又も、頭の中から眼に見えないものを取り出して足下の床の上にタタキ付ける。前後左右を見まわして、拳固げんこを振り上げながら脳髄の演説を開始する。そうして何だか解からないものを床の上で踏みつぶしては、ウーンと言って引っくり返る……というのが、この青年名探偵アンポンタン氏の日課になっているのだ。

 ……ところで面白いのはこのポカン博士の演説なんだ。
 ポカン博士が演説をする時は、何でもどこかの往来のはげしい、電車の交差点か何かで、繁華な人ゴミの中に立ち止まっているつもりらしい。交通巡査みたいに大手を拡げて、前後左右の群集をにらみまわす格好をすると、イキナリ拳固げんこを空中にわしながら、金切声を振り絞り初めるのだ。
 ……止まれッ……。
 ……止まれッ……。
 電車も、自動車も、自転車も、オートバイも、バスも、トラックも、人力車も皆止まれッ……。紳士も、淑女も、モガ【モダン・ガール】も、モボ【モダン・ボーイ】も、サラリマンも職業婦人も、ブルもプロも、掏摸すりも、巡査も動いてはいけない。
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 ……諸君はタッタ今、非常な危険と直面しているのだ。
 ……諸君は現在タッタ今、脳髄で物を考えつつ歩いているだろう。……その脳髄の判断力でもって交通巡査のゴー・ストップを聞き分け、旗振りの青と赤を見分け、飾窓ショーウインドの最新流行を批判し、ポスターに新人の出現を知り、夕刊記事の貼出しに話題トピックを発見し、掏摸すりを警戒し、債権者を避け、イットの芳香を追跡【フロイト心理学への関心を向け】しつつ……イヤが上にもその脳髄の感触を高潮させつつ、文化人のプライドをステップしている……つもりでいるだろう。
 ……それが危険だと言うのだ。それが非常だと警告するのだ。……脳髄の非常時……。

 ……見よ。聞け。驚け。あきれよ……
 ……現代二十億の人類はことごとく、諸君と同様の阿呆である。郵便局に自分の引越し先を尋ねに行く頓馬とんまである。電話口でこちらの番号を怒鳴る慌て者である。『脳髄』を『物を考えるところ』と錯覚している低能児である。
 そうして、そんなトンチンカンな幻覚錯覚を得意然と肩の上に乗っけて、その錯覚のタッタ一つを唯一ゆいつ無上のタヨリにしつつ『アタマは最上の、最後の資本』『現代はアタマのスピード時代』という倒錯観念とうさくかんねんの競争場裡じょうり【~の中】に、かくもおびただしい電車、自動車、オートバイを飛ばせて、夜を日に継いで人類文化を、ゴチャゴチャの悶絶もんぜつ界に追い込みつつある、諸君自身の脳髄である。
 とてもケンノンで見ていられないではないか。

 ……見よ。聞け。驚け。呆れよ……。
 アンポンタン・ポカンのスローガンだ。
 人類文化の罵倒だ。
 脳髄文明の覆滅だ。
 唯物ゆいぶつ的科学思想の建てかえ建て直しだ。

 ポカンは宣言する。
 ……『物を考える脳髄』はにんげんの最大の敵である。……宇宙間、最大最高級の悪魔中の悪魔である。
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……天地開闢かいびゃくの始め、イーブに知恵のこのみを喰わせたサタンの蛇が、更に、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いてひそみ隠れた……それが『物を考える脳髄』の前身である……と……。

 ……眼を開け……。
 ……この戦慄すべき脳髄の悪魔振りを正視せよ。
 ……そうして脳髄に関する一切の迷信、妄信を清算せよ。

 人間の脳髄は自ら誇称【自慢して大げさに言う】している。
『脳髄は物を考える処である』
『脳髄は科学文明の造物主である』
『脳髄は現実世界に於ける全智全能の神である』
 ……と……。
 脳髄はこうして宇宙間最大最高級の権威を僭称せんしょうしつつ、人体の最高所に鎮座して、全身の各器官を奴僕ぬぼくの如く駆使している。最上等の血液と、最高等の営養物を全身から搾取しつつ王者のおごりを極めている。そうして脳髄自身の権威を、どこまでも どこまでも高めて行く一方に、その脳髄の権威を迷信している人類を、日に日に、一歩一歩と堕落だらくの淵に沈淪ちんりん【おちぶれ】させている。
 その『脳髄の罪悪史』のモノスゴサを見よ。

 吾輩……アンポンタン・ポカンは、アラユル方向から世界歴史を研究した結果、左の如き断定を下すことを得た。
 いわく……脳髄の罪悪史は左の五項に尽きている……と……。
 『人間を神様以上のものと自惚うぬぼれさせた』
 これが脳髄の罪悪史の第一ページであった。
 『人間を大自然界に反抗させた』
 これが、その第二ページであった。
 『人類を禽獣きんじゅうの世界にい返した』
 というのがその第三ページであった。
 『人類を物質と本能ばかりの虚無世界に狂い回らせた』
 というのがその第四ページであった。
 『人類を自滅の斜面スロープへ逐い落した』
 それでおしまいであった。

 事実は何よりも雄弁である。
 医学の歴史をひもどけばわかる……。
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 人間の脳髄というものを、初めて人間の死体の中に発見したのは西洋医学中興の祖と呼ばれている大科学者ヘポメニアス【(実在なし)】氏であった。
 ところがその近代科学の泰斗たいとポメニアス氏の偉大なる脳髄は、すこぶる大胆巧妙を極めたトリックを使って、自分が発見した死人の脳髄の機能を、絶対の秘密裡に封じてしまったものである。
 すなわちヘポメニアス氏の脳髄は『俺の正体がわかるものか』といわむばかりに、灰白色はいいろの渦巻きをヌタクラせている『死人の脳髄』と、ヘポメニアス氏自身の毛髪蓬々ぼうぼうたる頭蓋骨の中の『生きた脳髄』とをにらみ合わせて、あらゆる推理の真剣勝負を開始させたのだ。
 ……ハテ。これは一体、何の役に立つものであろう。造化の神は何のために、コンナ灰白色の蛇のトグロ巻きみたようなものを、頭蓋骨の屋根裏に納めて御座るのだろう……。
 という難問に引っかけて、ヘポメニアス氏の頭を幾日幾夜となく悩まし苦しめたのだ。
 ……ハアテ……この蛋白質の団塊かたまりは、なみだと鼻汁の製造場のようにも見えるし、所謂いわゆる章魚たこくそに類似した物のようにも思える。人間と名付くる建築物たてものの屋根裏に在るところを見ると、貴重な滋養分の貯蔵タンクではないかとも思えるし、小腸とおんなじような曲線でヌタクッているところから想像すると、何かの消化器官のようにも考えられる。……ハテ。何だろう……わからない わからない……。
 といった風に散々に首をひねらせ、苦心惨憺さんたんさせ、混迷疲労させた。そうしてトウトウ何が何だか解らなくしてしまったあげく、ヘポメニアス氏の頭蓋骨の内側を、シンシンと痛み出させたのであった。
 偉大なる天才科学者ヘポメニアス氏はここにおいて、トウトウ物の美事に、自分の脳髄のトリックに引っかかってしまったのであった。そうして机を叩いて躍り上がったのであった。
「……わかったッ……脳髄は物を考える処だッ。
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その脳髄を使い過ぎたためにコンナに頭が痛み出して来たんだッ……」
 ……と……。

 そこでその科学者は直ちにメスをって、その脳髄を取出した死体の全部を十万分の一ミリメートルの薄さに切りきざんだ。そうして人体の各器官を形成する三十兆の細胞群が、隅から隅まで一粒残らず、脳髄を中心とした神経細胞の糸を引き合っている事実を確かめるや否や、死人の脳髄を両手に捧げて、一気に往来へ飛び出した。
「……わかったぞッ。わかったぞッ。何もかも わかったぞッ……。
 生命の本源を神様の摂理だなぞというのはうそだ。神様は人間の脳髄が考え出したものに過ぎないのだ。
 ……この脳髄を見よ……。
 生命の本源はこの千二百グラム乃至ないし、千九百瓦の蛋白質のかたまりの中に宿っているのだ。吾々われわれの精神意識というものは、この蛋白質の分解作用によって生み出された、一種の化学的エネルギーの刺激に外ならないのだ。
 ……すべては脳髄の思召おぼしめしなのだ……。
 科学の発見した脳髄こそ、現実世界に於ける全知全能の神様なのだ」
 ……と……。

 当時の基督キリスト教の迷信と僧侶の堕落だらく腐敗に飽きてていた先端人種は、これを聞くや否や大喝采に共鳴した。れも吾れもとヘポメニアス氏の迷説を丸呑みにした。『脳髄は物を考えるところ』という錯覚を、プレミヤム付きで迷信してしまった。
「そうだそうだ。この世界には神様なんか存在しないんだ。すべては物質の作用に外ならないんだ。吾々われわれ吾々われわれの頭蓋骨の中に在る蛋白質の化学作用でもって、新しい唯物ゆいぶつ文化を創造してゆくんだぞッ……」
 ……と……。

 かくして物の美事に人間世界から神様を抹消ノックアウトした『物を考える脳髄』は、引続いて人間を大自然界に反逆させた。そうして人間のための唯物ゆいぶつ文化を創造し初めた。
 脳髄はまず人間のためにアラユル武器を考え出して殺し合いを容易にしてやった。
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 あらゆる医術を開拓して自然の健康法に反逆させ、病人をふやし、産児制限を自由自在にしてやった。
 あらゆる器械を走らせて世界を狭くしてやった。
 あらゆる光りを工夫し出して、太陽と、月と、星を駆逐してやった。
 そうして自然のである人間をかたぱしから、鉄と石の理詰めの家にもぐり込ませた。瓦斯ガスと電気の中に呼吸させて動脈を硬化させた。鉛と土で化粧させて器械人形ロボットと遊戯させた。
 そうしてアルコールと、ニコチンと、阿片アヘンと、消化剤と、強心剤と、催眠薬と、媚薬と、貞操消毒剤【(実在なし)】と、毒薬の使い方を教えて、そんなもののゴチャゴチャが生み出す不自然の倒錯美をホントウの人類文化と思い込ませた。……不自然なしには一日も生存出来ないように、人類を習慣づけてしまった。
 ……そればかりでない……。

 人間世界から『神様』をタタキ出し、次いで『自然』を駆逐し去った『物を考える脳髄』は、同時に人類の増殖と、進化向上と、慰安幸福とを約束する一切の自然な心理のあらわれを、人間世界から奪い去った。すなわち父母の愛、同胞の愛、恋愛、貞操、信義、羞恥しゅうち、義理、人情、誠意、良心なぞの一切合財を『唯物ゆいぶつ科学的に見て不合理である。だから不自然である』という錯覚の下に否定させて、物質と野獣的本能ばかりの個人主義の世界を現出させた。そうして人類文化を日に日に無中心化させ、自涜じとく化させ、神経衰弱化させ、精神異状化させて、遂に全人類を精神的に自滅、自殺化させた虚無世界の十字街頭に、赤い灯、青い灯を慕うノンセンスの幽霊ばかりを彷迷さまよわせるようになってしまった。
『物を考える脳髄』は、かくして知らずらずのうちに、人類を滅亡させようとしているのだ。

 その脳髄文化の冷血、残酷さを見よ。
 これが放任しておかれようか。
 そればかりじゃない……。
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『物を考える脳髄』は、かくして人間の一人一人を、錯覚の虚無世界に葬り去るべく害悪をたくましくする一方に、人類全体のアタマを特別念入りの手品にかけて、ミジンに翻弄しつくしているのだ。
 そうして同時に吾輩……アンポンタン・ポカンの探偵眼を徹底的にくらますべく試みているのだ。
 ……見よ……。
 ……『脳髄のトリック』に翻弄されつつある『脳髄の悲喜劇』が、いかにおびただしく諸君の鼻の先に転がりまわっているかを見よ。『脳髄のノンセンス劇』が如何いかに真剣に、全世界を舞台として展開されつつあるかを看取かんしゅ【見てとる】せよ。
 ……よ……。
『物を考える脳髄』はこの通り人類世界の文化に君臨している。……宇宙万有の秘奥に到るまで、考え得ざるものなし……と誇称しつつ、科学文化のドン底までも支配し指導しつつある。
 ……ところがドウダ……。
 その『アラユル物を考え得る脳髄』が、自分自身に考え出した学理学説と、その学理学説によって生み出した唯物ゆいぶつ文化の産物を、地球表面上、眼も遥かに、気も遠くなる程ギラギラピカピカと積上げ、並べ立てているそのマッタダ中に、タッタ 一ツ、カンジン、カナメの『脳髄自身』に関する科学的の研究ばっかりを、疑問の真暗まっくらがりの中にホッタラかしているのはドウシタ事か。宇宙万有の神秘をドン底までも考えつくして来ている脳髄が、脳髄自身の事だけをタッタ一つ考え残しているのはドウシタ訳か。……今日までの科学者の学説、論文の中に、脳髄の作用を的確に説明し得た文献が只の一篇も無いのは何という不思議な現象であろう。
 のみならず諸君……もしくは諸君の脳髄の代表者たる全世界の科学者たちの脳髄が、きょうが今日までこの矛盾、不可思議に気付かないでいたのは、何という迂濶うかつさであろう。

 ……見よ……人間の脳髄は、人間の肉体に関する研究をドコドコ迄も行き届かせている。
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解剖、生理、病理、遺伝と、あらゆる方面に手を分けて、微に入り、細にわたらせているではないか。病気の治療も同様に、内科、外科、耳鼻科、皮膚科、眼科、歯科と数をくして研究を競わせているではないか。
 しかもそのマッタダ中に、そんな研究を編み出した脳髄と、その脳髄に関する病気の研究ばかりを大昔のマンマの『盲目探めくらさぐりの状態』に放置しているのは、何という間の抜けた片手落ちか……精神病の研究のために是非とも必要な精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞいう研究科目を、世界中のドコの大学にも分科させないで、所謂いわゆる、脳病とか、精神病とかの治療に、あらゆる医者のさじを投げさせてしまっているのは、何という脳髄の不行届ふゆきとどきであろう。……『人間の生命、もしくは生命意識はドコにドウして宿っているのか』『幻覚はドウして見えるのか』『早発性痴呆とはドコがドウなった事をいうのか』……といったような、誰でも不思議がる『脳髄』関係の重要問題を、これ程に賢明な人間の脳髄が、かたぱしから不得要領【何が何だかよく分からない】の大欠伸おおあくびの中に葬り去っているのはソモソモ何という大きな無調法【そこつ】であろう。
 占筮者うらないしゃが自分の運命を占い得ないのと同様に、脳髄が脳髄の事を考え得ないのは、当り前の事として誰も怪しまなく なってしまっている。
 これが脳髄の悲喜劇でなくて何であろう。
 脳髄に翻弄されつつある脳髄たちの大ノンセンス劇でなくて何であろう。

 モット手近い、痛切なところでは俗に所謂いわゆる『泣き中気ちゅうき中風ちゅうぶ】』とか『笑い中気』とかいうのがある。これは腹が立とうが、ビックリしようが、何でもカンでも感情が動きさえすればおなじ事……泣くか、笑うかの一本槍で、ほかの感情の一切を外へあらわし得ない病気であるが、この病気の説明を脳髄はヤハリ『脳髄が物を考える』式で押し通して行くべく、全世界の科学者に厳命している。
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だからこの厳命を奉戴ほうたい【うやうやしく承る】した世界中の科学者たちは、こうした中風の症状を「これは脳髄の全体が、出血のためにしびれてしまっているのだ。そうしてその中で『泣く』とか『笑う』とかいうタッタ一つの感情を動かす部分だけが生き残って活動しているのだ。だからその人間に起るすべての感情はその『泣く』か『笑う』かの一箇所の神経細胞の活動によって、表現されるよりほかに行き道がなくなっているのだ。……脳髄は物を考える処……という前提を前提とする以上、ドウしてもそれ以外に説明の仕様がないのだ」としか説明が出来なくなっているではないか。
 ところが生憎あいにくな事に、そうした中風患者の脳髄を病理解剖に附した結果を見ると、いつも豈計あにはからんやの正反対になっている。脳出血でやられているのは、脳髄の全体ではない。わずかに脳髄の中のる小さな、狭い、一箇所だけに限られている場合が極めて多いのだから皮肉ではないか。泣きも笑いも出来ない脳髄のイタズラ劇にしかなり得ないから悲惨ではないか。
 モット皮肉で奇抜な例には夢中遊行むちゅうゆうこうというのがある。この病気は無論アタマ万能宗の科学者達には寄っても附けない【相手にされない】不可解病として諦らめられ、敬遠されているのであるが、しかもその上に、そのフラフラの夢中遊行むちゅうゆうこう患者は、そんな科学者たちのアタマをイヨイヨ馬鹿にすべく、色々な奇跡を演出する事があるのだ……たとえばこの種の患者は、その夢中遊行むちゅうゆうこうの発作にかかっている最中に限って、トテモその人間のアタマとは思えない素晴らしい知恵や技巧をあらわして、人間わざでは出来そうにないスゴイ仕事をやって退けたりする。……のみならず その人間があくる朝 眼をますと、いつの間にやら元の木阿弥もくあみのケロリン漢に立ち帰って、そんな素敵な記憶の数々を、ミジンも脳髄に残していないというような摩訶まか不思議をあらわす。
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そうして『脳髄は物を考える処』とか『感ずる処』とか『記憶する処』とかいう迷信を迷信しているその方面の専門家連中の脳髄の判断力を一つ残さず、絶対、永久のフン詰まり状態にフン詰まらせている。
「トテモ人間の脳髄では考えられない」
 なぞと悲鳴をげさせているからモノスゴイではないか。
 ヤリキレナイ脳髄の恐怖劇ではないか。

 しかも唯物ゆいぶつ宗の牧師、科学万能教の宣教師をもって自ら任じている科学者のすべては、それでもまだりないで、脳髄の絶対礼讃を高唱している。
「脳髄の大きさはその持ち主の進化程度をあらわし、その渦紋【うずまき模様】の多寡たか【多いか少ないか】はその文化程度を示している。すなわち人類は、その大きな、発達した脳髄のために存在しているので、その脳髄は又、物を考えるために存在しているのだ。だから脳髄は文化の神、科学世界の造物主、唯物ゆいぶつ宗の守り本尊である」
 とか何とかいう迷説を聖書以上に尊重して、一所懸命に自己の脳髄の権威を擁護しているが、しかも、そんな科学者たちの顕微鏡の下で、脳髄どころか、頭も尻も無い下等動物の連中が、暑い寒いを正確に判断したり、喰い物のり好みをするのは まだしも、人間の脳髄なんぞが寄っても附けない【まるで当たらない】鋭敏な天気予報までも、ハッキリと現わして見せるから痛快ではないか。
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