おまけにソンナ下等動物は、口にこそ言わねメイメイに身ぶり素振りで、
「脳髄が無くとも物は考えられますよ」
「私たちは全身が脳髄なのですよ」
「私たちは脳髄の全体をソックリそのまま変形して、手足にしたり、胴体にしたり、又は耳、眼、口、鼻、消化排泄、生殖器官なんどの色々に使い分けているのですよ」
「あなた方は、そんな作用を分業にして、別々の器官に受持たせておられるだけの事ですよ」
「あなた方の手足だってチャント物を考えているのですよ」
「お尻でも見たり聞いたりしているのですよ」
「股を
抓ねれば股だけが痛いのですよ」
「
蚤が食えばそこだけが
痒いのですよ」
「脳髄は痛くも痒ゆくも何ともないのですよ」
「まだお解りになりませんか」
「アハハハハハハハハ」
「オホホホホホホホホホ」
「イヒヒヒヒヒヒヒ」
と笑い転げているからベラボーではないか。
これが脳髄の風刺劇でなくて何であろう。
これが脳髄のトリック芝居でなくて何であろう。
それかあらぬか一方には、この
唯物文化のまっただ中に、精神や霊魂関係の、怪奇劇や神秘劇が大昔のまんまに現われて来る。しかも、モウ沢山というくらいに、後から後から現われて来て、一々人間のアタマを冷笑して行くから愉快ではないか。
唯物資本主義の黄金時代、科学文化で打ち固めた大都会のマッタダ中で、死んだ人間が電話をかけたり、知らない人間が一緒に写真に映ったりする。又は宝石が美人の寿命を吸い減らしたり、魔の踏切が汽車を
脅やかしたりするは まだしも、
大奈翁の幽霊が
アメロンゲン城の壁を撫でて、老カイゼル【皇帝】に
嘆息して聞かせたり、
ツタンカーメン王の
木乃伊が
埃及探検家に
祟ったりする。
165/596
現に科学的推理の天才的巨人、指紋、足跡、煙草の灰式、
唯物的探偵法の創始者シャーロック・ホルムズさえも、晩年に到ってはトウトウこの種の怪現象に引きずり込まれて、心霊学の研究に夢中になったまま息を引取った……のみならず、あの世からイーサーの波動【不可視のエネルギー】を用いない音波をもって、生き残った妻子に話しかけた……という位である。みんな不思議だ不思議だというが、そんな事実が在り得るとか、在り得ないとか断言し得る者は一人も居ない。あっても
終いには
水掛論になってしまうので、結局、お互いの脳髄を怪しみ合いつつ物別れになる事が、最初から解り切っている。そうして、あーでもない。コウでも駄目だと、あらゆる推理や想像を
捏ねくりまわしたあげく、トウトウ悲鳴をあげ初めて『脳髄が、脳髄の事を考えるとはコレ
如何に』なぞと、場末の寄席みたようなコンニャク問答の鉢合せを繰り返している現状ではないか。
ドウダ諸君……ザットしたところがコンナ調子である。
『人間の脳髄』が何よりも先に研究を遂げておかねばならぬ『人間の脳髄の病理』……精神病学の基礎、中心となるべき重要な諸問題は、御覧の通り『物を考える脳髄』のために、
片っ
端からフン詰まりの状態を現出させられているではないか。地上、一切の精神病学者と、一切の精神病院の診断、治療を、無能、無意義の嘲笑の中に立往生させているではないか。そうして地上、無数の精神病者を、永久、絶対に救われ得ない
侮蔑、
虐待の世界に放置させているではないか。この世からなるキチガイ地獄を、全地球表面上に現出させているではないか。
これが偉大なる『脳髄のイタズラ劇』でなくて何であろう。『物を考える脳髄』が『物を考える脳髄』に自作自演さした一大恐怖
ノンセンス劇のドン詰めでなくて何であろう。
拍手するものは拍手せよ。
喝采するものは喝采せよ。
泣くものは泣け。笑う者は笑え。
166/596
吾輩……アンポンタン・ポカンはこの脳髄文化の現状に気が付くと同時に、歯の根が合わなくなった【怖さで歯が震えだした】のだ。この恐怖戦慄に価する脳髄社会の光景を、人知れず嘲笑しているポカン自身の脳髄の冷めたさを自覚すると同時に、左右の
膝頭の骨がガタガタと
外れそうになったのだ。この脳髄のトリックをタタキ破って、脳髄に対する汎世界的【地球上の広い範囲】の
唯物科学的迷信をドン底から引っくり返して、かくも残忍、
悽愴を極めた大恐怖
ノンセンス劇の興行を停止させずには おられなくなったのだ。
吾輩……アンポンタン・ポカンはここに
於て立ち上った。奮然として腕に
綟をかけた。猛然、
畢生【一生】の心血を傾注した最高等の探偵術を応用しつつ、無限の時空に
亘って捜索の歩を進めた結果、遂にこの脳髄と称する大悪魔の正体……『呪われたる
唯物文化の偶像』の正体を徹底的に
看破する事が出来たのだ。全人類界の大悪夢……『物を考える脳髄』に関する迷信、
妄執を
喚び
醒ますべく『絶対無上の大真理』に
逢着する【でくわす】事が出来たのだ。
……しかも……その大真理なるものは、それが余りに簡単で、平凡であり過ぎるために、
却って誰にも気付かれなかった程の驚異的な大真理であった。初めて脳髄が発見されて以来、
ベーコン、
ロック、
ダーウィン、
スペンサー、
ベルグソンなんどに到るまでのアラユル非凡な脳髄たちが、彼等自身に認識し得なかったところの『脳髄の真活躍』そのものでなければ ならなかった。地上二十億の生霊を
弄殺しつつある『脳髄の大悪呪文』を焼き棄てる一本の
燐寸棒に外ならなかったのだ。
諸君よ。
欣喜雀躍【大喜びで、こおどり】せよ。勇敢に飛び上り、逆立ち、宙返りせよ。フォックストロット【社交ダンスの種目】、ジダンダ、ステップせよ。
交通巡査も安全地帯も
蹴飛ばしてしまえ。
167/596
古来今に
亘る脳髄の専制横暴……人類最後の迷信から解放された凱歌を歌え。
吾輩……アンポンタン・ポカンは遂に
此の如くにして、地上の大悪魔を諸君の眼前にまで追究して来たのだ。神出鬼没、変幻自在の怪犯人、残忍非道のイタズラ者のトリックの真相をドン底まで突き止めて来たのだ。そうしてタッタ今、その大悪魔の正体……ポカン自身の脳髄を、諸君の眼の前にタタキ付けて、絶叫する光栄を有するのだ。
「……
曰く……
……脳髄は物を考える処に
非ず……
……と……」
× × ×
アッハッハッハッハッハッ。どうだい。痛快だろう。超特急だろう。絶対的ブラボーだろう。全世界二十億の脳髄をダアとなすに足る、超特急探偵小説だろう。
……ナニイ。まだ解らない……?……。
アハアハアハ。それは脳髄で考える癖がまだ抜け切れないからだよ。「精神は物質也」式の
唯物科学的迷信が、まだ頭の隅のドコかにコビリ付いている せいだよ。
聞き
給え。吾が青年名探偵アンポンタン・ポカン博士は、タッタ今地上にタタキ付けたばかりの泥ダラケの脳髄を指して、コンナ論証を続けているのだ。
× × ×
……見よ……聞け……驚け……呆れよ。
この脳髄のトリックの真相を……悪魔以上の悪魔の
横道ぶりを……。
吾々人類は、脳髄を発見した最初の科学者ヘ
ポメニアス以来、この『物を考える脳髄』のために翻弄され続けて来たのだ。明けても暮れてもこの脳髄の前に、自分のアタマを
拝脆【取るに足らぬ、脆弱なものとして
卑下】させられるべく……自分の肉体と、精神の全部を
挙げて奉仕させられるべく、錯覚させられ続けて来たのだ。そうして
斯く言うアンポンタン・ポカン自身の頭も、そうした頭の中の一個であったのだ。
……しかし……今やその錯覚は打ち破られなければ ならぬ時が来たのだ。
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脳髄を発見した最初の科学者ヘ
ポメニアス氏の錯覚が清算されねばならぬ機会が来たのだ。ポカンの足下に横たわるポカンの脳髄と同様に、
泥塗みれになって
終わねばならぬ時機が来たのだ。
……ポカンはこの十字街頭に
於て、地上最初の宣言を高唱する。すなわち最先端の学術……最末期の科学的宗教……アンポンタン・ポカン式『脳髄論』を公表する光栄を有するのだ。
吾輩ポカンは断言する。『物を考える脳髄が、物を考える脳髄の事を考え得ない』という事は『二つの物体が、同時に、同所に存在し得ない』という物理学上の原則と同様に、
万古不易の公理でなければならぬ。だから『物を考える脳髄』の事を考える『物を考える脳髄』は、一番最初に脳髄を発見した科学者ヘ
ポメニアスが、自分の脳髄の作用を錯覚した『脳髄の幽霊』に悩まされ続けて来たのである。そうして今や
将に、自分の脳髄の幽霊に取り殺されようとしている現状である。
だから吾輩……アンポンタン・ポカンはこれに対して堂々と挑戦したのである。
……物を考える処は脳髄ではない……。
……物を感ずる処も脳髄ではない……。
……脳髄は無神経、無感覚の蛋白質の
固形体に過ぎない……。
……と……。
……これあ
怪しからん。諸君は何が
可笑しくて、そんなに笑い転げるのだ。
……何でソンナに往来を転がりまわるのだ。
何だって交番に這い込むのだ。……電柱に抱き付くのだ。……赤いポストに接吻するのだ。……諸君は精神に異状を
来したのではないか。
……ナニナニ……?????……。
……『脳髄で考えなくてドコで考える』と言うのか……。
……『脳髄で感じなくてどこで感ずるのだ』と言うのか……。
……『
吾々の精神意識はどこに在る』……『
吾々はドウして生きている』というのか……。
……ナアンダ……。
チットモ可笑しい問題ではないではないか。
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不思議でもなければ奇抜でもない。極めて平々凡々の問題ではないか。
……パンツの泥を払え。
……シャッポを
冠り直せ。
……クラバアツ【ネクタイ】を正して聞け……。
吾々の精神……もしくは生命意識はドコにも無い。
吾々の全身の到る処に満ち満ちているのだ。脳髄を持たない下等動物とオンナジ事なんだ。
お尻を
抓ねればお尻が痛いのだ。お腹が
空くとお腹が空くのだ。
頗る簡単明瞭なんだ。
しかしこれだけでは、あんまり簡単明瞭過ぎて、わかり
難いかも知れないから、今すこし砕いて説明すると、
吾々が
常住不断【日ごろ】【へいぜい、ふだん】に意識しているところのアラユル欲望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、
吾々の全身三十兆の細胞の一粒一粒
毎に、絶対の平等さで、おんなじように
籠もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒
毎に
洩れなく反射交感する仲介の機能だけを受持っている細胞の一団に過ぎないのだ。
赤い主義者は、その党員の一人一人を細胞と呼んでいる。それと同様に細胞の一粒一粒を人間の一人一人と見て、人間の全身を一つの大都会になぞらえると、脳髄はその中心に在る電話交換局に相当する事になる。そうしてソレ以外の何物でもあり得ない事がわかるのだ。
……それでもまだ
合点が行かなければ吾輩、ポカンと一緒にこっちへ来るがいい。時間と空間のあらん限りを馳けめぐって、脳髄の正体を突止めて行ったポカンの苦心
惨憺の
蹤跡をモウ一度くり返して
辿ってみるがいい。
まず第一に脳髄が
如何なる処から、
如何なる理由の下に、
如何にして生まれて来たかを探るべく、アタマ航空会社専用の超スピード機『推理号』の銀翼の間に、吾輩アンポンタン・ポカンと相並んで同乗するのだ。
170/596
そうして爆音勇ましくアタマ飛行場を離陸すると、無限の時空を一気に
翔破【長い距離を飛びきる】しつつ、諸君の眼下に横たわる雄大、荘厳を極めた万有進化の大長流を六億年ほど逆航するのだ。
見たまえ。……現在の人類全盛の世界は一瞬間に未来の夢となって、マンモス、エレファス、ステゴドンなぞいう巨獣が、
時を
得顔にノサバリ回っている百万年前の象の世界が、脚下に展開して来るであろう。
それから更に、その百万年前の竜の世界、その又以前の鳥の世界、その又ズット以前の魚の世界、貝類の世界、スポンジの世界と、次第に進化の度の低い、小さな生物ばかりの世界へ超スピードで引返して、遂に六億万年前の古世代までやって来ると……ドウダ……天地を
覆す大噴火、大雷雨、
大海嘯、大地震の
火煙、水けむり、
土煙が、あとからあとから日月を
覆いながら渦巻きのぼっているこの世界の若々しさはドウダ。地球の元気さはドウダ。
そこでこの地表に泡立ち漂っている塩分の薄い、摂氏四十度内外の温度を保っている海水の一滴を採取して、顕微鏡にかけて覗いてみたまえ。諸君は眼の前に、無量無数に浮游している単細胞生物の拡大像を発見するであろう。将来一切の生命の共同の祖先となるべき元始細胞の大群集を、さながらに見渡し得るであろう。……しかもこの元始細胞こそは地球の表面が、御覧の通りの
天変地妖を起しながら、少し
宛少し宛冷却して来るうちに、あとからあとから作り出して来た色々な化合物の中でも、一番最後に出来た最高等複雑なものであった。諸原素の活力を最も円満、敏活に発揮し得るように化合させた微妙精英の有機体……
あめ、
の、
みなかぬし【
天之御中主神】の正統、
エホバの
愛し
児、日の神の王子
ホルスとも
称うべき、地上最初の生命の群れに外ならなかったのだ。
171/596
だからこの元始細胞の一粒一粒は、その環境の変化に応じてアラユル意識だの、感情だの、判断力だのを現わし得る、無限の霊能を持っていたものである。自分以外の無機物、有機物を同化して、自己を増大し分裂すると同時に、その分裂した
近所合壁の細胞同志に、お互いの感覚や意識を反射交感させ合う霊能までも一緒に持っていたのだ。
その証拠に見たまえ……諸君の眼の前で、今の元始細胞が盛んに自己を分裂増大して、その形態と能力をグングン進化させ初めたではないか。その霊能でもって見る見るうちに成長し、分裂し、結合し、反射交感して、一心同体となって共鳴、活躍しつつ、自分達の共産的霊能を飽くまでも地上に発揮すべく、次第に高等複雑な姿に進化し初めたではないか。そうして……
「
最早、ここまで進化したら天下無敵だろう。オレサマ以上に進化した奴は他にいないであろう」
と安心して、
自惚れ切った奴が、そうした得意時代の姿をソックリそのまま、スポンジ、貝類、魚、鳥、
獣という風に、それぞれの子孫に伝えて来るうちに……ドウダ……いつの間にか今日の通りの複雑多様、
千変万化のありとあらゆる生物界を、諸君の眼の前に展開させて来たではないか。
……ところで見たまえ。
コンナに色々と千差万別している動物たちの中でも、進化の度合いの極めて低い、
海月以下の動物連中は、御覧の通り脳髄とか、神経
粒とかいうハイカラなものを持っていないだろう。大昔の通りに全身の細胞同志の反射交感作用でもって、あらゆる感覚を全身同時に意識し合いつつ、考えて、動いて、喰って、寝て、生きているだろう。
ところが
吾々みたように高等複雑な進化を遂げた動物になって来ると、御承知の通り、意識の内容が非常に立て込んで来る。
172/596
細胞同志の
距離間隔もだんだんと遠くなって『あんな処まで俺の
身体かしら』なぞと、
湯槽の中で
趾を動かしてみる位にまで長大な姿になっている。だから、手足や、眼鼻が専門専門で分業になっているように、意識の方でも『脳髄』と名付くる自動式、複式、反射交感局を作って、全身三十兆の細胞同志の感覚や、意識を縦横ムジンに反射交感させつつ、全身一斉に……俺は俺だぞ……俺はこうして生きているんだぞ……という気持になっているのだ。
吾々の全身三十兆の細胞は、かようにして、流れまわっている赤血球、白血球から、固い骨や、毛髪の先端に到るまでも、
吾々が感じている意識の内容をソックリそのままの意識内容を、その一粒一粒
毎に、同時に感じ合って、意識し合っているのだ。
眼の
球ばかりで物を見る事は出来ない。耳ばかりで音は聞えない。その
背後には必ずや、全身の細胞の判断感覚がなければならぬ。
同様に脳髄が、脳髄ばかりで物を考えたり、感じたりする事は不可能である。その
背後には必ずや全身の細胞相互の主観、客観がなければならぬ。さもなければ人間の脳髄は、銀幕と観衆を
喪失した活動写真機と同様の無意義なものになってしまうのだ。
しかも、その脳髄によって仲介された全身の意識の、反射交感作用の敏活な事というものは、真に驚くばかりである。トテモ電信電話、ラジオぐらいで繋がり合っている人間の社会組織なぞの追付くところでない。……背筋がヒヤリとすると同時に全身がゾ――ッと
粟立つ……お尻がチクリとするかしないかに『アッ』と飛び上る……という、それ程左様に迅速敏活を極めているのだ。
吾々の全身の各器官を形成する三十兆の細胞の一団は、こうしてメイメイに各自専門の仕事を分担しつつ、脳髄の反射交感機能を使って、一斉に、直接に物を見て、聞いて、
嗅いで、味わっているのだ。
173/596
脳髄を中心として一斉に意識し、感激し、闘い、歌い、舞い、
喚めき、叫んでいるのだ。
……嬉しいと食欲が進む。胃袋も一緒にハシャイでいるからだ。
……飯を喰うと、まだ消化もしないうちに元気が付く。全身の細胞が同時に満腹するからだ。
だから
吾々が自分の生命、もしくは精神として意識しているものの正体は、全身無数の細胞の一粒一粒が描きあらわすところの主観客観が、脳髄の反射交感作用仲介で、タッタ一つにマン丸く重なり合ったのを、透かして覗いているだけのものだ……という事が、もはや文句なしにわかるだろう。同時に
吾々が今日まで迷信させられて来た脳髄の偉大な内容は、実は全身の細胞の一粒一粒に含まれている無限の霊知霊能が、そこで反射交感されているのを錯覚していたものだ……ちょうど電話交換局が、都会を支配していると考えるように……という事実が、何のタワイもなく
点頭かれるだろう。
……ナント諸君……簡単明瞭ではないか。
……
開いた口が
閉がらぬではないか。
……現代の科学者たちが、最大、最高級の不可思議とし、驚異としている生命意識の根本問題は、こうして『脳髄が物を考える』という考えを引っくり返して考えると同時に、何の苦もなく氷解して
終うではないか。脳髄の受持っている役割が、手足のソレと同様にハッキリして来るではないか。
……それでも、まだわからなければモウ一度、こちらへ来てみたまえ。ポカンの足の下に横たわっているこの脳髄と名づくるアンポンタン・ポカン式、自動式、反射交換局の内部を覗いてみたまえ。この交換局の中に詰めかけている親切
明敏を極めた交換嬢……神経細胞たちの仕事振りを参観して
見給え……。
174/596
彼女たち……神経細胞の大集団は、御覧の通り自分自身に電線となり、スイッチとなり、コードとなり、交換台、中継台となり、又はアンテナ、真空管、ダイヤル、コイル等に変形すると同時に、全身の細胞各個に含まれている意識感覚の各種類にそれぞれ相当する、泣き係り、笑い係り、見係り、聞係り、記憶係り、惚れ係りなぞいう、あらん限りの細かい専門に別れながら、アノ通り 夜となく昼となく、浮世を離れた気持になって、全身三十兆の市民の気持を隅から隅まで、反射交感させられているのだ。
……諸君は彼女たちに話しかけてはいけない。
彼女たちは全身の細胞群の中から選み出された反射交感術の専門技手なのだ。だから彼女たちは、普通の交換局の彼女たちと同様に、自分がドンナ事を反射交感しているか……なぞいう事は全然知らないまま、一分一秒の休みもなく呼び出され、呼び出し、切り換え、継ぎ直させられているのだ。……内閣が代ろうが戦争が初まろうが、大地震が初まろうが、大火事になろうが、又は、暑かろうが寒かろうが、頭に蜂が
螫そうが、尻に火が付こうが、頓着【気にすること】している
隙は無いのだ。彼女たちはタダそうした意識や、判断や、感覚を、全身に反射交感するアンポンタン・ポカン式電池、コード、交感台、コイル、ダイヤル、真空管、等々々に過ぎないのだから……。
だから諸君は彼女たちに話しかけては いけないのだ。彼女たちに物を考えさせては いけないのだ。彼女たちにソンナ受持以外の仕事をさせて、彼女たちを二重に疲れさしては いけないのだ。
そうして彼女たちが、ほかの事を考えなければ考えないほど……単純な反射交感の仕事だけに一心不乱になれば なる程、全身の反射交感機能が敏活、迅速を極めて行く。アタマが疲れない。チラチラしなくなる。頭脳
明晰……シーク……ホガラカという事になって行くのだ。
ナント簡単明瞭ではないか。アタマが、アンポンタン・ポカンとなるではないか。
吾輩……アンポンタン・ポカン局長はここに
於て明言する事が出来る。
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この簡単明瞭なる脳髄局のアンポンタン・ポカン式、反射交感組織にシャッポを脱いで、頭脳
明晰……意識ホガラカとなったアンポンタン諸君のアタマならば、
最早、二度と再び脳髄のトリックに引っかからないであろう。脳髄で物を考えないであろう。……そうして最先端式脳髄学のトップのトップを切った大博士となって、アラユル脳髄関係の不可思議現象を、一挙にアンポンタン・ポカン化し得ると同時に、この人類文化の死命を掌握する大怪魔『脳髄』の正体をここまで、的確に探偵し、暴露して来た吾輩……かくいうアンポンタン・ポカンの名脳髄振りに、今一度シャッポを脱がずにはいられなくなるであろう……と……。
しかしながら諸君の中には、まだシャッポを脱がない人が居るかも知れない。
これだけではまだ十分な説明が出来ないであろうところの精神病関係、もしくは心霊に関する各種の怪奇、不可思議現象に
就て、首をひねっている篤学【学問に熱心】の士が居るかも知れない。
……
宜しい……大いによろしい。
そういう人々こそ共に怪奇を語るに足る人々である。この地上、最大の怪奇的神秘の正体……一切のエロ、グロ、
ノンセンスの主人公たる脳髄を、徹底的にアンポンタン・ポカン化しなければ止まない最新、最鋭、最高級の先端人種でなければならぬ。
……宜しい……大いに宜しい。
そのような人々は済ないがモウ一度シャッポを
冠り直して、脳髄局の大玄関に引返してくれ
給え。そうして ここだ ここだ……ここに掲示してある『脳髄局、ポカン式反射交感事務、加入規約』なるものを読んでみたまえ。
ドウダイ諸君……この規約箇条はこの通り
僅かに三箇条しかない。普通の電話交換局加入規約の何十分の一にも足りない。
頗るアッサリしたものである。
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しかもこの三箇条の加入規約は、人間の全身三十兆の細胞が、祖先伝来の不文律【暗黙の了解】として、非常識なほど極端に遵奉しているものであるが、しかもこの簡単な三箇条が呑み込めさえすれば、諸君はモウ立派な一人前の、押しも押されもせぬ脳髄学大博士になれるのだ。現在、地球の全表面に
亘って演出されつつある脳髄関係のあらゆる不可解劇、皮肉劇、
侮辱虐待劇、
ノンセンス劇、恐怖劇、等々々の楽屋裏が、
如何にタワイもないものであるかを何のタワイもなく
看破する事が出来るのだ。
◇第一条 脳髄局ヨリ反射交感シ来ル諸般ノ報道ハ、仮令、事実ニ非ズトモ、事実ト信ジテ記憶スベシ。
……泥棒が入った夢を見て、大声を揚げて
家中を呼び起す連中は、この第一箇条に支配されている連中に
外ならないのだ。
◇第二条 脳髄局ヨリ反射交感シ来ラザル事ハ、仮令自身ニ行イタル事ト雖モ、事実ト認ムベカラズ。記憶ニモ止ムベカラズ。
……『
昨夜、君の
蒲団を引ったくった覚えはない』なぞと頑張る連中は、この第二箇条を厳守している正直者に相違ない。
ところで右の二箇条は、現在の精神病学界で二重圏点付きの重大疑問となっている『
ねぼけ状態』を引き起す規約である。むろん普通のアタマの人間にも、よくある事だし、文句も簡潔だから記憶し易いが、第三条となると御覧の通り、文句が少々ヤヤコシイようである。しかし意味は前の二箇条と同様すこぶる簡明である。すなわち……
『脳髄の反射交感機能に異状が起った場合には、脳髄の無い下等動物と同様に、脳髄以外の全身の細胞の反射交感作用を脳髄の代りに活躍させよ』
という意味の規約で、いわば脳髄の非常時に対する応急手段とでもいおうか。
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……しかも
彼の『物を考える脳髄』が今日まで、幽霊、妖怪、幻覚錯覚、精神異状、泣き
中気、笑い中気、
夢中遊行、
朦朧状態なぞいう あらゆる超科学的、もしくは超説明的な怪現象を演出して、全世界の科学者の脳髄をドン底まで翻弄して来たモノスゴイ手品の種シカケは、実にこの簡単明瞭な第三条の規約の逆用そのものに外ならなかったのである。
曰く、
◇第三条 脳髄局ノ反射交感機能ニ 故障ヲ生ジタル場合、ソノ故障ヲ 生ジタル一個所ニ於テ 反射交感サレツツアリシ或ル意識ハ、他ノ意識トノ連絡ヲ絶チ、全身ノ細胞各個ガ 元始以来保有セル反射交感作用ヲ 直接ニ 元始下等動物ト同様ノ状態ニ於テ(脳髄ノ反射交感作用ト 無関係ニ)使用シ、他ノ意識ニ先ンジテ 感覚シ、判断シ、考慮シ、又ハ全身ヲ 支配シテ 運動活躍セシムルヲ得ベシ。
[附則](イ)脳髄局ガ 反射交感スル暇ナキ 急迫ノ場合……例エバ 無意識ニ眼ヲ閉ジ 又ハ 飛ビ退ク場合等。(ロ)麻酔セル場合……例エバ 麻酔剤ニテ 脳髄ノ全体ガ 反射交感機能ヲ停止シイル場合ニ、全身ノ細胞ノ感覚、意識記憶等ニヨリテ 行ウ無意識ノ挙動言語等。(ハ)脳髄ガ 異状ノ深度ニ 熟睡セル場合……例エバ 夢中遊行、寝言、歯ギシリ等。以上ノ 三種類ノ場合モ コレニ準ズ。
忘れないうちにノートか何かに書き止めておき
給え。学生諸君には特におすすめする。この第三条が脳髄衛生学の初め終りで、諸君の持病といってもいい神経衰弱は、要するにこの規約から生まれた病気に外ならない……否……人類の中でも文化民族と自称する者の大部分は現在、この第三条の規約に引っかかって、精神的の破産、滅亡状態に陥りつつあるのだから……。
と……いうのは他の理由でもない。
178/596
今まで説明して来たところでもアラカタ想像が付くであろう通りに脳髄局のポカン式反射交感機は、構造が非常にデリケートに出来ているのだから色んな故障を起し易いばかりでなく、その故障箇所の取換えが、なかなか急に行かない。だから止むを得ずコンナ応急手段的な規約が設けられているのだ。
しかも、こうした脳髄局に於ける反射交感の応急規約、第三条の存在を最も有力に、簡単明瞭に証拠立てて、脳髄が作り出した地上一切の怪奇現象のカラクリの種明しをするのに持って来いの第一例というのが、ツイ今しがた引合いに出した『泣き中気』『笑い中気』だから愉快ではないか。
すなわち脳髄の中の
或る一個所……たとえば『笑い係り』の交感台が、脳出血のために麻痺して、反射交感が不能になると、そこで反射交感されていた『笑いの電流』だけが第三条の規約通り、ほかの意識との連絡を失って遊離してしまう。そうして脳髄以外の全身の細胞が元始以来遺伝して来ている反射交感の機能を先回りに使用しながら、何でもカンでも
無暗矢鱈に笑わせるのだ。ほかの『怒り』や『悲しみ』の電流が動きかけても、その電流が中央の反射交感台を遠まわりして来るうちに、遊離している『笑いの電流』の方が、直接に全身の細胞を馳けまわって、先へ先へと笑い散らかして行くのでほかの感情が外へあらわれる
隙が無いのだ。これが俗に『笑い中気』という奴で『怒り中気』でも『泣き中気』でも、みんな、おなじ理屈で起るのだ。
いうまでもなく、これは脳出血から来た故障だから、病理解剖をして頭の
蓋を取ってみればすぐにわかる。……『ハハア。ここが笑いの電流を交感する処だな』……という事実が一目瞭然する訳であるが、しかし、実をいうとコンナ風に、肉眼で見える脳髄の故障というものはドチラかといえば例外に近い方で、まだこのほかに眼に見えない脳髄の故障が演出する怪奇現象の種類がドレ位あるか、わからない。
179/596
所謂エロ、グロ、
ノンセンスのモノスゴイところを
取交ぜて科学文明の屋根裏から地下室……アタマ文化の電車通りから横路地に到るまで、
昼夜不断【日ごろ】にウヨウヨヒョロヒョロと、さまよい回っているのだ。……のみならず、その怪奇現象ソレ自身の一つ一つが又、ソックリそのままに、聴診器にも入らず、レントゲンにも感じないデリケートな脳髄の故障を、一つ一つにハッキリと証拠立てているから面白いではないか。
まず第一に、何よりも
憤懣【いきどおってもだえる】に堪えないのは、現代の
所謂『物を考える脳髄』諸君が、その脳髄ソレ自身と全身の細胞との間に、こうした第三条の応急規約が存在している事実を、夢にも気付かないでいることだ。……だから『脳髄なんかイクラ使ったって減るもんじゃない』とか何とか言って、ヤタラに頭を抱えたり、首をひねったりして、無理にも脳髄に物を考えさせようとする習慣を一人残らず持っていることだ。……脳髄が物を考える処でない……単純な反射交感専門のアンポンタン・ポカン局……という事実にミジンも気付かないで、物を考える専門のお役所みたいに心得て何でもカンでも脳髄に考えさせようと努力している事だ。……電話交換局に市役所の仕事を押し付けて平気でいることだ。
そのために脳髄局の交換手たちがドレ位、事務の過重負担に悩まされているか……そのためにドレくらい思い切った反射交感事務の間違い……幻覚、錯覚、
倒錯観念の渦巻きを渦巻かせているか、
殆ど想像も及ばないであろう。
論より証拠……事実は眼の前だ。
アンマリ脳髄で物を考え過ぎると、電流を通じ過ぎたコイルと同様に、脳髄の組織の全体が熱を持って来て、その反射交感の機能が弱り初める。そうすると全身の細胞に含まれている色んな意識が、お互い同志に連絡を
喪って、めいめい勝手な自由行動を
執りはじめる事になる。
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ソイツが軽い、半自覚的な、意識の
夢中遊行となって、全身の細胞が作り出している意識の空間を
無辺際【はてしなく広大】に馳けまわるのだ。……諸君が何か知ら考え詰めてアタマの疲れた時分にウットリと凝視している、アノ取止めのない空想とか、妄想とかいうものがソレで、そのうちに脳髄がイヨイヨ疲れて眠り込んで来ると、そんな意識同志の連絡もイヨイヨ絶え絶えになって来る。そうして次第次第に辻褄の合わない夢になって行く状態は、諸君が小説を読みさして眠りかける時だの、教室や電車の中で舟を
漕いだりする際にマザマザと体験しているところであろう。
昔の人は迷信が深かったから、暗闇の中なぞを行く時には、恐怖のために脳髄を疲らして色々な幻覚や
倒錯観念に陥ったものだ。そんな幻視や幻感が、幽霊になったり、妖怪
変化になったりして、物の話に伝わり残っているのであるが、しかも、そんな事実を笑う連中はお気の毒ながら現代式のハイカラな神経の持主とはいえないのだ。神経衰弱とヒステリーと、制限剤と睡眠薬を持ちまわる紳士淑女の仲間に入れないのだ。
諸君みたような近代人の
中でも、特に目まぐるしい都会生活をやっている人間たちは、真昼さ中でも脳髄の機能を疲らしているから、色んな意識作用や、判断感覚なぞいうものが遊離して、全身の神経末梢……細胞相互間の反射交感機能を這いまわりつつ、フラフラチラチラとした
夢中遊行状態になりかけているのだ。……だから、大きな煙突の傍を通ると、今にも頭の上に倒れかかって来るような気がして、思わず急ぎ足になるのだ。……眠っている枕元に、往来の電車の音が走りかかって来るような気がして、ツイ電灯を
灯けてみたくなるのだ。
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そのほか、ストーブが
欠伸をしたの、卵の黄味が皿の中から
白眼んだの、昨夜帰りがけに、向うの辻の赤いポストの位置が違っていたの、パン
焼竈が深夜に溜息をしたの、画像が汗を流したの、机の
抽出しから白い手があらわれてオイデオイデをしたの、ピストルが自分の方を向いてズドンといったの……というような奇怪現象が、科学文化のマン中に引っ切りなしに起って来るのは、みんな脳髄の疲労から起る、反射交感事務の間違い……すなわち意識の
夢中遊行に外ならないのだ。
ところで前にも断った通り、この程度の精神異常だったら諸君の中にもザラに在るのだ。しかもこの程度の連中は、自分でもウスウス自分の精神異常を自覚しているので、ウッカリ気違い扱いにすると、益々病状を昂進させる
虞れがあるから、わざと精神病者の数に入れてないのであるが、コイツが今一歩進んで来るとトテも放ったらかしておけなくなる。
金箔付の発狂となって、赤
煉瓦のアパート生活に、護衛付の資格が出来て来るのだ。
吾輩……アンポンタン・ポカンが今日まで御厄介になっている九州帝国大学の精神病科教室には、ソンナ連中がウジャウジャ居たもんだ。しかも、ソンナ連中を代る代る教壇へ引っぱり出して、そこの主任の
正木キチガイ博士が生徒に講義をするのを聞いてみると、チョウドこの吾輩、アンポンタン・ポカンが考えている通りの事を
饒舌っているから面白い。
「……エヘン……人間の脳髄というものは、今も説明した通り、全身の細胞の意識の内容を細大
洩さず反射交感して、一つの焦点を作って行くところの複合式球体反射鏡みたようなものである。人間の脳髄が全身三十兆の細胞の一粒一粒の中を動きまわる意識感覚の
森羅万象【この世の全て】を同時に照しあらわしている有様は、
蜻蛉の眼玉が大千世界【全宇宙】の上下八方を一眼で見渡しているのと同じ事である。
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……ところでその人間の脳髄によって、時々刻々に反射交感されて、時々刻々に一つの焦点を作って行くところの精神……すなわちその人間の全身の細胞の一粒一粒の中に平等に含まれている、その人間の個性とか、特徴とかいうものは、吾輩の実験によると一つ残らず、その人間が先祖代々から遺伝して来た、心理作用の集積に外ならないのだ……すなわち、その先祖代々が体験して来た、千万無量の心理的習慣性のあらわれが、脳髄の反射交感作用によって統一されてお互いに調和を保ち合いつつ、焦点を作って行くのを
所謂、普通人と名付けているのであるが、しかし……人間の心理作用というものは一人一人ごとに、それぞれ違った癖があるもので、その癖を先祖が矯正しないまま子孫に伝えて来ると、代を重ねるうちにダンダン
非道くなる事がある。たとえば
或る一つの事をどこまでも思い詰める癖を遺伝した女が、どうかした拍子に
或る一人の男を
見初めたとする……寝ても
醒めても会いたい、見たい……一緒になりたいといったような事ばかりを繰返し繰返し考え続けて行く事になると、そうした『恋しい意識』を反射交感する脳髄の一部分がトウトウくたびれて動けなくなる。そこでその一部分で反射交感されていた恋しい意識が、次第次第に遊離して、空想、妄想と
凝り固まった
挙句、執念の蛇式の
夢中遊行を初める。夜も昼も
さまのお姿を空中に描きあらわして、その事ばかりを口走らせるようになる。そうなると又、その恋しい係りの交感台の交感嬢がイヨイヨやり切れなくなってヘタバリ込む。恋しい意識がイヨイヨ完全に遊離して活躍空転する。ますます発狂の度合が深くなる。……往来へ馳け出す……取押えられる。鉄の格子をゆすぶって狂いまわる……又は何々狂乱と名付けられて
花四天の下に振付けられ、
百載【永遠】の
後までも大衆の喝釆を浴びる……という順序になる。」
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「もっとも、これは普通の人間が普通に発狂して行く順序で、こうした傾向をチットばかり持っている人間が普通人で、多分に持っている人間を
所謂、
精神病系統の人間と呼んでいるに過ぎない。だから発明狂、研究狂、収集狂、そのほか何々狂、何々キチガイと呼ばれている人間は程度の相違こそあれ皆、このお仲間に相違ない。手当が早ければ救われ得る場合が無きにしもあらずであるが、サテコイツがモウ一段開き直って、本格の
夢中遊行病となるとガラリと趣が違って来る。……無論、精神病の一種に相違ないし、その活躍ぶりも普通の
狂人以上にモノスゴイものがあるのだが、しかしその当の本人は普通人とチットモ変らない。否、
寧ろ、鼻の病気か何かで少々ボンヤリしていたり、頭が素敵にデリケートで学問が出来過ぎたり、気が弱過ぎて虫も殺せなかったりするような、特別
誂えの善人の中に往々にして発見される珍病で、キチガイなぞいう名前はドウしてもつけられないのであるが、それでいてその人間が真夜中になると、ムクムクと起上って、キチガイ以上の奇抜滑稽や、残忍無道をヤッツケルのだから、イヨイヨ モノスゴくて面白い事になるのだ。
すなわちその人間が眼を
醒している間の意識状態は普通の人間とチットモ変らない。その全身の細胞の意識は、脳髄の反射交感作用によって万遍なく統一、調和されて行くのであるが、サテ日が暮れて夜が更けて、その人間の脳髄が、全部休止の熟睡状態に陥ることになると、その熟睡状態なるものが普通人のソレと違って来る……つまり普通の熟睡の程度をズット通り越して、死の世界の方へ近付いて行くので、当り前のユスブリ方や怒鳴り声では絶対に眼を
醒まさない
所謂、死人同様の状態にまで落ち込んでしまう……というのがこの
夢中遊行病患者の特徴になっているのだ。
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ところでソンナ風に睡眠の度が深くなって来ると、その必然的な結果として、全身の細胞の意識の中に、そこまで深く
睡り切れない奴が一つか二つ出来る事になる。しかもその眠り
後れた意識は、背景が黒くなれば なる程、前景が光り出して来るように、睡眠が深くなれば なる程ハッキリと眼を
醒して、色々な活躍を初める事になるのだ。」
「たとえば
或る人間が、
或る感情とか、意志とかの一つだけを、極度に興奮させたまま眠りに落ちたとする……『あのダイヤが
欲しいナア』とか……『憎いアンチキショウを殺してやりたい』とか思って興奮しいしい眼をつむっていると、やがて、その脳髄が熟睡のドン底に落ちた時に、その脳髄と一所に睡っている細胞の中でも、その意識だけがタッタ一つ
睡り
後れて眼を
醒している。そうしてその意識は、良心とか、常識とか、理知とかいうものと連絡を失った、片チンバの姿のままで起き上って、全身の細胞が持っている反射交感作用を脳髄の代りに使いながら動き出す。そうして全身の細胞の中から、必要に応じて勝手気ままに呼び起した判断、感覚なぞいうものと連絡を取りつつ、見たり聞いたり、考えたりして、望み通りの仕事をする。
欲しいダイヤを失敬したり、憎いアンチキショウを殺したりするのであるが、しかし、そんな仕事をしている途中の出来事は、脳髄を通過した印象でないからチットモ記憶していない。あとで眼を
醒してもケロリとして、平生とチットモ変らないアンポンタン・ポカン人種に立ち帰っている。たとい盗んだダイヤモンドや殺した相手の死骸を突付けられても、知らない事は白状出来ないので、いよいよアンポンタン・ポカンとなるばかりだ。」
「その代り、そうした
夢中遊行の最中は、全身の細胞が、脳髄の役目と、自分たちの専門専門の役目と両方を、同時に引受けて活躍している訳だから、眼が
醒たあとで一種異様な疲労を自覚するのが通例になっている。
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この道理は薬を使って、脳髄だけを麻酔させた場合と全然同一であるのを見ても、容易に
首肯出来るのであるが、しかし又、この麻酔後の疲労と、
夢中遊行後の疲労とは、そんな風に全然同じ性質の疲労でナカナカ鑑別が出来にくいものだから、非常に面白い法医学上の研究問題となる事がある。」
「その好適例として持て来いの標本は、現在、ここに突立って、吾輩の講義を傾聴しているこの青年である。この青年は諸君の中に見知っている人が居るかも知れない。住所姓名は例によって公表を差控えるが、まだやっと
二十歳になった今年の春に、この大学の入学試験を受けて、最高級の成績でパスすると間もなく、可哀相に先祖から遺伝して来た
夢中遊行病の発作にかかって、結婚式の前夜に、自分の花嫁を
絞殺してしまった。しかもこの青年はそればかりでなく、その前に十六の年にも同じ発作にかかって、実の母親を絞め殺したという、この方面でも稀に見る英雄児であるが、しかもその後、この教室にやって来て、吾輩独特の解放治療にかかっているうちに、次第に正気を回復して来たらしく、この頃は自分の
頭髪を
掻きまわしたり、耳の上を挙固でコツンコツンとなぐったりして ここがドウかなっているに違いない違いないと言い出しはじめた。そうして時々部屋の中で立止って、脳髄の演説を初める事があるが、その演説が又、一から十まで、この教室で聞いた吾輩の受け
売だから痛快で、吾輩も時々参考のために拝聴に行く位だ。この種類の人間の記憶力のスバラシサというものはトテモ想像を超越したモノスゴイものがあるのだからね……何故かというとこの青年は強烈な夢遊病の発作に
罹った結果、過去の記憶から完全に切離されているので、現在の出来事に対する記憶作用は、何ものにも邪魔されない絶対の自由世界に浮いて遊んでいる。だから一旦注意力を集中するとなるとドンナ細かい事でも超人的の正確さをもって記憶する事が出来るのだ。
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しかし平生はこの通り、初めて卵から這い出した生物のように、ビックリした表情を続けているから、とりあえずアンポンタン・ポカン博士という尊称を奉っている訳であるが……」
正木教授がここまで講義して来ると、学生連中が一度にこっちを見てゲラゲラ笑い出したものである。だから吾輩は、そのままポカンと精神病院を飛び出してしまった。そうして今日只今、この十字街頭に立って、諸君の脳髄の異状振りを観察しているうちに、断然、棄てておけなくなったからこんな警告を発したのだ。時空を超越したポカン式脳髄論を、思い切って公表したのだ。
……ナント諸君感心したか。見たか。聞いたか。驚いたか。
吾輩アンポンタン・ポカンが一たび『脳髄は物を考える処に
非ず』と喝破する【非を大声でしかる】や、樹々はその緑を失い、花はその
紅を
消たではないか。一切の
唯物文化は根底から
覆えされ、アラユル精神病学は
悉く机上の空論となってしまったではないか。
……繰返して言う。
人類は物を考える脳髄によって神を否定した。大自然に反逆して
唯物文化を創造した。自然の心理から生れた人情、道徳を排斥して個人主義の
唯物宗を迷信した。そうしてその
唯物文化を日に日に虚無化し、無中心化し、動物化し、
自涜【自分を堕落させる】化し、神経衰弱化し、発狂化し、自殺化した。
これは悉く『物を考える脳髄』のイタズラであった。『脳髄の幽霊』を迷信する
唯物宗の害毒であった。
けれども今や、この迷信は清算されねばならぬ時が来た。神に対する迷信を否定した人類は、今や『物を考える脳髄』を否定しなければならぬドタン場に追い詰められて来た。
唯物科学の不自然から唯心科学の自然に立帰らなければならぬスバラシイ時節が到来したのだ。
だからそのスローガンの実行の
皮切に、吾輩アンポンタン・ポカンはこの通り、自分自身の『物を考える脳髄』を地上にタタキ付けて見せたのだ。
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そうしてこの通り踏み
潰してしまうのだ。
「……エイッ……ウ――ン……」
× × ×
……と……。
アハハハハハ……ドウダイ驚いたか。……見たか。聞いたか。感心したか。
これが吾輩の
所謂、絶対科学探偵の事実小説なんだ。超脳髄式の青年名探偵アンポンタン・ポカン博士が、博士自身の脳髄を
追かけまわして、物の美事に引っ捕えて、地ビタにタタキ付けて、引導を渡すまでの経過報告だ。世界最高級の科学ロマンス「脳髄
-脳髄」の高次方程式の分解公式なんだ。
だからこの小説のトリックの面白さが、ホントウにわかる頭ならば……ホラ……この間君に貸してやったろう。あの「胎児の夢」と名付くる論文の正体の恐ろしさがわかる。その胎児が、母の胎内で見ているスバラシイ大悪夢を支配する原理原則がわかる。そのモノスゴイ原理原則を実験している解放治療の内容だの、そこに収容されているアンポンタン・ポカン博士の正体や、その戦慄すべき経歴なぞが、手に取るごとく理解されて来るのだ。
しかもその上に、モウ一つオマケのお
慰みとしては……「脳髄が物を考える」という従来の考え方を、脳髄の中で突き詰めて来ると「脳髄は物を考える処に
非ず」という結論が生れて来る……という事実はモウわかったとして、その「考える処に
非ず」をモウ一つタタキ上げて行くと、トドの詰りが又もや最初の「物を考えるところ」に逆戻りして来るという奇々妙々、怪々不可思議を極めた吾輩独特の精神科学式ドウドウメグリの原則までおわかりになるという……この儀お眼止まりましたならばよろしくお
手拍子……。
……ナニイ。眼が
眩って来たア……。
アハハハハハ……それあ
眩るだろう。吾輩の気炎を聞かされたら、大抵の奴がフラフラフラと……。
……ナ……なんだ。そうじゃない。葉巻に酔ったんだと?……
アッハッハッハッ……コイツは大笑いだ。
ワッハッハッハッハッハッハッ。
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(文責在記者【ぶんせき・きしゃにあり】)
胎児の夢
――人間の胎児によって、他の動植物の胚胎の全部を代表させる。
――宗教、科学、芸術、その他、無限の広範に亘るべき考証、引例、及、文献に関する註記、説明は、省略、もしくは極めて大要に止める。
人間の胎児は、母の胎内に居る十箇月の間に一つの夢を見ている。
その夢は、胎児自身が主役となって演出するところの「万有進化の実況」とも題すべき、数億年、
乃至、数百億年に
亘るであろう恐るべき
長尺の連続映画のようなものである。すなわちその映画は、胎児自身の最古の祖先となっている、元始の単細胞式微生物の生活状態から初まっていて、引き続いてその主人公たる単細胞が、次第次第に人間の姿……すなわち胎児自身の姿にまで進化して来る間の想像も及ばぬ長い長い年月に
亘る間に、悩まされて来た
驚心【精神を根底から揺さぶる衝撃】、
駭目すべき【目を驚かせる】
天変地妖、又は自然
淘汰、生存競争から受けて来た息も
吐かれぬ災難、迫害、辛苦、
艱難に関する体験を、胎児自身の直接、現在の主観として、さながらに描き現わして来るところの、一つの素晴しい、想像を超越した怪奇映画である。……その中には、既に化石となっている有史以前の怪動植物や、又は、そんな動植物を惨死、絶滅せしめた天変地異の、形容を絶する偉観、壮観が、そのままの実感を
以て映写し出される事はいう迄もない。
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引続いては、その
天変地妖の中に、生き残って進化して来た元始人類から、現在の胎児の直接の両親に到るまでの代々の先祖たちが、その深刻、痛烈な生存競争や、種々雑多の欲望に駆られつつ犯して来た、
無量無辺の罪業の数々までも、一々、胎児自身の現実の所業として描き現わして来るところの、
驚駭と戦慄とを極めた大悪夢でなければならぬ事が、次に述べる通りの「
胎生学」と「夢」に関する二つの大きな不可思議現象を解決する事によって、直接、間接に立証されて来るのである。
まず第一に、人間の胎児が母の胎内に宿った時、その一番最初にあらわしている形は、すべての生物の共同の祖先である元始動物と同様に、タッタ一つのマン丸い細胞である。
そのマン丸い細胞の一粒は、母胎に宿ると間もなく、左右の二粒に分裂増殖する。そうしてそのまま密着し合って、やはり一個の生物となっている。
その左右の二個はやがて又、
各々上下の二個ずつに分裂、増殖する。そうして
矢張り、その四個とも一つに密着し合って、母胎から栄養を
摂りつつ、一個の生物の機能を営んでいる。
かようにして四個、八個、十六個、三十二個、六十四個……以上無数……という風に、倍数
宛に分裂しては密着し合って、次第次第に大きくなりつつ、人類の最初の祖先である単細胞の微生物から、人間にまで進化して来た先祖代々の姿を、その進化して来た順序通りに、間違いなく母胎内で繰返して来る。
まず魚の形になる。
次にはその魚の前後の
鰭を四足に変化さして
匐いまわる水陸両棲類の姿にかわる。
次には、その四足を強大にして駈けまわる
獣の形態をあらわす。
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そうして遂には、その
尻尾を引っこめて、前足を持上げて手の形にして、後足で直立して歩きまわる人間の形……普通の胎児の姿にまで進化してからオギャアと生まれる……という段取りになるので、そうした順序から、これに要する時間までも、万人が万人、
殆ど大差ないのが通例になっている。
これは
胎生学上、既にわかり切っている事実で、誰一人、否定し得ない現象であるが、
扨、それならば、あらゆる胎児は
何故に、そのような手数のかかる
胎生の順序を母胎内で繰返すのであろうか。何故に、直ぐさま小さな人間の形になって、そのままに大きくなって、生まれて来ないのであろうか。又は、最初のタッタ一粒の細胞が何故に、そんなに万人が万人申合せたように、寸分
違わぬ
胎生の順序を繰返して来るのであろうか。すなわち……
「何が胎児をそうさせたか」
という問題になると、誰一人として適当の解釈を下し得るものが居ない。現代の科学書類の隅から隅まで探しまわってもこの解釈だけは発見されない。
唯、不思議というより ほかに説明の仕様がない事になっている。
次に、一切の胎児は
斯様にして、自分の先祖代々が進化して来た姿を、その順序通りに寸分の間違いなく母の胎内で繰返して来るのであるが、しかしその経過時間は非常に短かめられているので、人間の先祖代々の動物が、何百万年か もしくは 何千万年がかりで
鰭を手足に、
鱗を毛髪に……といった順序に、少しずつ 少しずつ進化させて来た各時代時代の姿を、
僅かに分とか、秒とかで数え得る短時間のうちに繰返して、経過して来る事さえある。これは既に一つの説明の出来ない不思議として数えられ得るのであるが、更に今一歩進んだ不思議な事には、その縮められている時間と、実際の進化に要した時間の割合が、決して
出鱈目の割合になっていないらしい事である。
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すなわち人間の胎児は
凡そ十箇月間で、元始以来の先祖代々の進化の道程を繰返す事になっているのであるが、その他の動物は概して、進化の度合が低ければ低いだけ、その
胎生に要する時間が短かくなっているので、進化の度の最も低い……すなわち元始時代の姿のままの、細菌、その他の単細胞動物は大部分、
胎生の時間を全然持たない。そのままの姿で分裂して二つの新しい生物になって行く……というのが事実上の事実になっているのであるが、これは一体、どうした理由であろうか。進化の度の最も高い人間の胎児は
何故に、最も長い
胎生の時間を要するのであろうか。換言すれば、
「何が胎児をそうさせるか」
という問題に就いて 適当の解釈を加えようとすると、現代の科学知識では 絶対に不可能である事が発見される。やはり
唯、不思議というより ほかに説明の仕様がない事になっているのである。
以上は胎児に関する不可思議現象の実例であるが、次に、こうして出来上った人間の「肉体」を、解剖学方面から研究、観察してみると又、同じような不可思議現象が数限りなく現われて来る。
すなわち人間の肉体なるものを表面から観察してみると、その進化の度が高いだけに……換言すればその
胎生に念が入っているだけに、他の動物よりも遥かに高尚優美に出来上っている事が、とりあえず
首肯かれるであろう。その柔和な、威厳を含んだ眼鼻立から、綺麗な皮膚、美的に均整した骨格や肉付きまで、
如何にも万物の霊長らしく見受けられるのであるが、しかし
一度その肉体の表皮を
剥くって、肉を引き離し、内臓を検査し、脳髄や五官の内容を解剖して細かに観察してみると、その各部分部分の構成は一つ一つに、下等動物から進化して来た
吾々の先祖代々、魚、
爬虫、猿等の生活器官の「お譲り」である事が、判明して来る。
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すなわち一本の歯の形にも、一筋の毛髪の組織にまでも、それをそこまで洗練し、進化させて来た、驚くべき長年月に
亘る自然淘汰の大迫害、もしくは生存競争の辛苦
艱難の歴史がアリアリと記録されているので、そんな歴史を一々刻明に記念して、その通りに胎児の姿を繰返して進化させて、人間の姿にまで仕上げて来た
あるものの偉大、深刻なる記憶作用が、完成した人間の細胞の隅々までも、明瞭に刻み付けられているのである。
いう迄もなく
斯様な現象は進化論、遺伝学、又は解剖学等々で如実に証明されている事柄だから、ここには詳細な説明は加えないが、しかし、それは何者が記憶していて、そのような歴史を繰返させたか。
「何が胎児をそうさせたか」
という事に就いては、まだ、何一つ説明が与えられていない。やはり
唯、一つの不思議というよりほかに説明出来ない事になっている。
しかも、そればかりではない。
更に今一歩突込んで、人間の精神なるものの内容を観察すると、
斯様な事実が、更に一層、深刻痛切に立証されて来る。
すなわち人間の精神も
亦、これを表面から観察すると、他の動物とはトテモ比較出来ない程、段違いの美しさを現わしている。
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「人間は万物の霊長である」という自覚、もしくは「文化的プライド」と名付くる、
所謂「人間の皮」一枚を
以て、自己の精神生活の内容を
覆い包んで、常識とか、人格とか名付くるお化粧を
施して、
超然と澄まし返っているのであるが、しかし一旦、その表皮、すなわち人間の皮なるものを一枚剥ぎ取ってみると、その下から現われて来るものは、やはりその人間の遠い遠い祖先である微生物が、現在の人間にまで
鍛い上げられて来た、驚くべき長年月に
亘る自然淘汰、生存競争の大迫害に対する警戒心理、もしくは生存競争心理が、その時代時代の動物心理の姿で、ソックリそのままに遺伝されたものばかりである事実が、余りにも露骨に発見されて来るのである。
まず
所謂、文化人の表皮……
博愛仁慈、正義人道、礼儀作法なぞで
粉飾してある人間の皮を一枚
剥くると、その下からは野蛮人、もしくは原始人の生活心理があらわれて来る。
この事実を最もよく立証している者は無邪気な小児である。まだ文化の皮の
被り方を知らない小児は、同じように文化の皮の被り方を知らない古代民族の性格を到るところに発揮して行くので、棒切れを拾うと戦争ゴッコをしたくなるのは、部落と部落、種族と種族の間の戦争行為によって生存競争を続けて来た、
所謂、好戦的な原始人の性質の遺伝、すなわち細胞の中に潜在して伝わって来た野蛮人時代の本能的な記憶が、棒切れという武器に似た格好のものの暗示によって刺激され、
眼醒めさせられたものである。
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虫ケラを見付けると、何の意味もなしに追い回してみるのは、動くものを見れば、何でも追いかけてみるという狩猟時代の心理の遺跡を、虫ケラの暗示によって刺激誘発されたもので、そうして捕え得た虫ケラの手足を
捥ぎ取り、羽翼を奪い、腹を裂き、火に
焙りなぞして、喜び
戯れるのは、そうした方法に
依って獲物や、
俘虜【捕虜】を処分し、翻弄し、
侮辱して、勝利感、優越感を徹底的に満足させようとした古代民族の残忍性の記憶を、そのままに再現しているものに外ならないのである。又、赤ん坊を暗い処に置くと泣き出すのは、やはり火を持たぬ時代の原始人が、猛獣毒蛇に満ち満ちた暗黒に対する恐怖の復活で、どこへでも大小便を
洩らすのが大昔、樹の根や、草の中に寝ていた時代の習慣の再現である事は、現代の進歩した心理学の研究によって説明されている通りである。
次にこの野蛮人もしくは、原始人の皮を今一度
剥くってみると、その下には畜生……すなわち
禽獣の性格が一パイに
横溢している事が発見される。
たとえば同性……すなわち知らない男同志か、女同志が初対面をすると、一応は人間らしい挨拶をするが、腹の中では妙に眼の
球を白くし合って、ウソウソと相手の周囲を嗅ぎまわる心理状態をあらわす。油断をすると相手の尻のあたりまで気を回して、微細な処から不愉快な点を発見して、お互いに鼻に
皺を寄せ合ったり、歯を
剥き出し合ったりする気持をほのめかす。ウッカリすると吠え立てる。噛み付く……町の辻で出会った犬猫の心理と全然同一である。そのほか自分より弱いものを見付けると、ちょっと
苛めてみたくなる。すこし邪魔になる奴は殺してくれようかと思う。誰も居なければ盗んでやろうか。
他の小便を
嗅でおこうか。
195/596
自分の遺物は埋めておこうか……なぞいった畜生のままの心理の表現を、
吾人は日常生活の到る処に発揮しているので、誰でも口にする「コン畜生」とか「この
獣め」とかいう罵倒詞に当て
嵌る心理のあらわれは皆、これに他ならぬのである。
次に、この
禽獣性の下に在る
隔膜を、今一つ切開くと今度は、その下から虫の心理がウジャウジャと現われて来る。
たとえば、仲間を押し落しても高い処へ
匐い上ろうとする。誰にも見えない処を這い回って
美味い事をしようとする。うまい事をすると、すぐに安全第一の穴へ
潜り込もうとする。栄養のいい奴を見付けるとコッソリ近付いて寄生しようと試みる。あたり構わぬ不愉快な姿や動作をして一身を保護しようとする。固い殻に隠れて寄せ付けまいとする。敵と見ると、ほかの者を犠牲にしても自分だけ助かろうとする。いよいよとなると毒針を振回す。
墨汁を吹く。小便を放射し、悪臭を放散する。又はそこいらの
地物や、自分より強い者の姿に化ける……なぞ、低級、
卑怯な人間のする事は皆、かような虫の本能の丸出しで、
俗諺【ことわざ】にいう弱虫、
蛆虫、
米喰虫、泣虫、
血吸虫、
雪隠虫、
屁放虫、ゲジゲジ野郎、ボーフラ野郎なぞいう言葉は、こうした虫ケラ時代の心理の遺伝したものの
あらわれを指した軽蔑詞に外ならない。
次に……最後に、この虫の心理の核心……すなわち人間の本能の最も奥深いところに在る、一切の動物心理の核心を切開いてみると、
黴菌、その他の微生物と共通した原生動物の心理があらわれて来る。それは無意味に生きて、無意味に動きまわっているとしか思えない動き方で、
所謂群集心理、流行心理もしくは、弥次馬心理というものによって、あらわされている場合が多い。その動きまわっている行動の一つ一つを引離してみると、全然無意味なもののように見えるが、それが多数に集まると、色々な
黴菌と同様の恐るべき作用を起す事になる。
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すなわち光るもの、立派なもの、声の高いもの、理屈の簡単なもの、刺激のハッキリしているもの、なぞいう新しい、わかり易いものの方へ方へと群がり寄って行くのであるが、無論判断力もなければ、理解力もない。顕微鏡下に置かれた微生物と同様の無自覚、
無定見のまま
恍惚として、大勢に引かれながら大勢が行く。そこに無意味な感激があり、誇りと安心があるのであるが、しまいには何という事なしに感激のあまり夢中になって、惜し気もなく
生命を捨てて行く……暴動……革命等に陥って行く有様は、さながらに
林檎酸の一滴に集中する
精虫の観がある。
人間の心理はここに到って初めて物理や、化学式の運動変化の法則に近づいて来る。すなわち無生物と皮一重のところまで来るので、政治家、その他の人気取りを職業とするものが利用するのは、かような人間性の中心となっている
黴菌性の
流露に外ならないのである。
斯様な心理の中で、最単純、低級なものを中心にして、外へ外へと高級、複雑な動物心理で包み上げて、その上を
所謂、人間の皮なるもので包装して、社交、体裁、身分家柄、面目人格なぞいうリボンやレッテルを
以て飾り立て、お化粧を塗って、香水を振かけて大道を闊歩して行くのが、
吾々人類の精神生活であるが、その内容を解剖してみると大部分は右の通りに、人体細胞の中に潜在している祖先代々の動物心理の記憶が、再現したものに他ならない事が発見されるのである。しかしこれとても前に述べた肉体の解剖的観察と同様、胎児が
如何にしてそんな千万無量の複雑多様の心理の記憶を、その細胞の潜在意識、もしくは本能の中に包み込んで来ているのか、
「何が胎児をそうさせたか」
というような事柄は全く説明されていない。
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否、一個の人間の精神の内容が、そんなような過去数億年間に於ける、万有進化の遺跡そのものであるという事実すらも「人間は万物の霊長」とか「俺は人間様だぞ」とかいう
浅薄な
自惚れに
覆い隠されて、全然、注意されていない状態である。
以上は胎児の
胎生と、その
胎生によって完成された成人の肉体と、精神上に現われている、万有進化の遺跡に関する不可思議現象を列挙したものであるが、次にはその人間が見る「夢」の不可思議現象に就いて観察する。
夢というものは昔から不思議の代表と認められているので、少しでも意外な事に出会うと、直ぐに「これは夢ではないか」と考えられる位である。実物とすこしも違わぬ
森羅万象【この世の全て】が見えるかと思うと、想像も及ばぬ奇抜、不自然な風景や、品物がゴチャゴチャと現われたり、その現われた風物に、現実世界に於ける心理や、物理の法則が、その通りに行われて行くかと思うと、神話、伝説にもないような
突飛な法則によって、その風物が行きなり放題に
千変万化したりするので、その夢の正体と、そうした夢の中の心理、景象の変化の法則については古来、幾多の学者が、頭を悩まして来たものであるが、ここにはそのような夢の特徴の中でも、夢の本質、正体を明らかにする手がかりとして最も重要な、左の三項を挙げる。
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(一)夢の中の出来事は、その進行して行く移り変りの間に非常に突飛な、辻褄の合ないところが屡々出て来る。否。そのような場合の方がズッと多いので、そんな超自然な景象、物体の不合理極まる活躍、転変が、すなわち夢であると考えた方が早い。にも拘わらず、その夢を見ているうちには、そうした超自然、不合理を怪しむ気が殆ど起らないばかりでなく、その出来事から受ける感じがいつでも真剣、真面目で、現実もしくは現実以上に深刻痛切なものがあること。
(二)未だ曽て、見た事も聞いた事もない風景や、ステキもない天変地妖が、実際と同様の感じをもって現われて来ること。
(三)夢の中に現われて来る出来事は、それが何年、何十年の長い間に感じられる連続的な事件であっても、それを見ている時間は僅に分、もしくは秒を以て数え得る程に短かいものである事が近代の科学によって証明されていること。
以上列挙して来たところの「胎児」と「夢」とに関する各種の不可思議現象は、
何人も否定し得ない科学界の大疑問となっているのであるが、しかも、そうした不可思議現象が、
何故に今日まで解決されていないか。これらの不思議を解決する鍵が、どうして今日まで、誰にも見当らなかったかという疑問について考えてみると、これには二つの原因がある。
その一つは人間を
胎生させ、
且つ、その
胎生によって完成した成人に夢を見せるところの人体細胞に関する従来の学者の考え方が、全然間違っていること、それから今一つは、この宇宙を流れている「時間」というものに対する人類一般の観念が、根本的に間違っていること……とこの二つである。
言葉を換えて言えば、人体を組織している細胞の一粒一粒の内容は、その主人公である一個の人間の内容よりも偉大なものである。否。
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全宇宙と比較されるほどのスバラシク偉大複雑な内容、性能を持っているものである。だからその細胞の一粒の内容を外観から顕微鏡で覗き、その成分を化学的に分析し、その分裂、繁殖の状況をその形態や、色彩の変化によって研究する従来の
唯物科学式の行き方では到底、細胞の内容、性能の偉大さは解るものでない。それは英雄、偉人の生前の業績を無視して、単にその死体の外貌を観察し、内部を解剖する事のみによって、その偉大な性格や、性能を確かめようとするのと同様の無理な注文である。……又、時間というものに
就ても同様の事がいえる。……中央気象台や、
吾々の持っている時計の針や、地球、太陽の自転、公転なぞによって示されて行く時間というものは真実の時間ではない。
唯物科学が勝手に製作し出した人工の時間である。錯覚の時間、インチキの時間である。……真実の時間というものは、そんな窮屈な、寸法で計られるような固苦しいものではない。モットモット
変通自在な、玄怪不可思議【深く怪しく、理性では触れることすらできない領域】なものである……という事実が実際に
首肯出来れば、同時に「胎児の夢」の実在が、
首肯出来る筈である。生命の神秘、宇宙の謎を解く鍵を握ったも同然である。
元来細胞なるものは、人間の身体の何十兆分の一という小さい
粒々で、度の弱い顕微鏡にはかからない位の微粒子である。だからその内容の複雑さや、そのあらわし得る能力の程度なぞも、やはり人間全体の能力の何十兆分の一ぐらいのものであろう……いずれにしても極度に単純な、無力なものであろう……というのが今日までの科学者の頭の大部分を支配して来た考えであった。
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だからその後その細胞の不可思議な生活、繁殖、遺伝等の能力が、次から次に発見されて科学者を驚異させて来たけれども、その研究は依然として顕微鏡で覗かれ、化学で分析され得る範囲……すなわち
唯物科学で説明され得る範囲の研究に限られて来たもので、大体の考え方は、やはり人体の何十兆分の一という程度の単純な、無力なもの……という概念を一歩も踏出していない。そうしてソレ以上の研究をするのは
唯物科学を
冒涜するものである。学者として一つの罪悪を犯すものであるとさえ考えられて来た。
しかしこれは現代の
所謂、
唯物科学的な論法に
囚われて来た学者連中が、細胞の内容や能力を、その形や大きさから考えて「多分これ位のものだろう」という風に見当をつけた、極めて不合理な一つの当て推量が、先入主となったところから起った
量見違いである。生命の神秘、夢の不可思議なぞいう科学界の大きな謎が、いつまで経っても不可解のままに取残されているのは、そうした「
葭の髄から天井覗く」式の
囚われた、
唯物論的に不自由、不合理な……モウ一つ換言すれば科学に
囚われ過ぎた非科学的な研究方法によって、広大無辺な生命の主体である細胞を研究するからである事が、ここに
於て
首肯され なければならぬ。そんな旧式の学問常識や、
囚われたコジツケ論に対する従来の迷信を一掃して、もっと自由な、
囚われない態度で、宇宙万有を観察すると同時に、この問題を、もっと適切明瞭な、実際的な現象に照し合せて考えてみると、その一粒の細胞の内容には、顕微鏡や、化学実験室で観測、計量し得るよりも遥かに偉大、深刻な、実に宇宙全体と比較しても等差を認められない程の内容が含まれている事実が、現代を超越した真実の科学知識によって気付かれ なければならぬ。
所謂、
唯物科学的な研究、考察方法を、
生命の綱と迷信している人々が、
如何に否定しようとしても否定出来ない事実に直面しなければならぬ。
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その第一に挙げなければならぬのは細胞が、人間を造り上げる能力である。すなわち
生命の
種子として母胎に宿った
唯一粒の細胞は、前に述べた通りの順序で、分裂して生長しながら、先祖代々の進化の跡を次から次へと
逐うて成長して来る。あそこはああであった。ここはこうであったと思い出し思い出し、魚、
蜥蜴、猿、人間という順序に寸分間違いなく自分自身を造り上げて来る。しかも一概には言えないが、なるべく両親の美点や長所を総合して、すこしでも進歩したものにしようとするので、耳、目、鼻、口の位置は万人が万人同様でありながら……これは
妾の
児だ。誰にも似ている。彼にも
肖ている。
癇癪の起し具合はお父さんに生き写しだ。物覚えのいいところは
妾にソックリだ……なぞと極めて細かいところまで微妙に取合せて行く。その細胞一粒一粒の記憶力の凄まじさ。相互間の共鳴力、判断力、推理力、向上心、良心、もしくは霊的芸術の批判力等の深刻さはどうであろう。更にその細胞の大集団である人間が、宇宙間の
森羅万象【この世の全て】に接してこれを理解し、又はこれに共鳴感激して、国家とか社会とかいう大集団を作って共同一致、人類文化を形成して行く。その創造力の深遠広大さはどうであろう。そのような、
殆ど全智全能ともいうべき大作用のすべては、帰納するところ、結局、最初のタッタ一粒の細胞の霊能の
顕現でなければならぬ。換言すれば現代人類の、かくも広大無辺な文化と
雖も、その根元を考えてみると、こうした顕微鏡的な存在に過ぎない細胞の一粒の中に含まれている霊能が全地球表面上に反映したものに外ならぬのである。
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◇備考 斯様に偉大な内容を持つ細胞の大集団が、脳髄の仲介によって、その霊能を唯一つ、即ち各細胞共通、共同の意識下に統一したものが人間である。だからその人間があらわす知識、感情、意志なぞいうものは、細胞一粒一粒のソレよりも遥かに素晴しいものでなければ ならない筈であるが、事実はその正反対になっているので、世界初まって以来、如何なる賢人、又は偉人と雖も、細胞の偉大な霊能の前には無力同然……太陽の前の星の如く拝跪【ひざまずいておがむ】しなければ ならない。すなわち人間の形に統一された細胞の大集団の能力は、その何十兆分の一に当る細胞の能力の、その又何十兆分の一にも相当しないという奇現象を呈している。これは人間の身体各部に於ける細胞の霊能の統一機関……すなわち脳髄の作用が、まだ十分の進化を遂げていないために、細胞の霊能の全分的な活躍が妨げられているものと考えられる。同時に、地上最初に出現した生命の種子である単細胞が、地上に最初に出現した時の初一念? とその無限の霊能が、その霊能を地上に具体的に反映さすべく種々の過程を経て、最有利、有能な人間にまで進化して来て、まだまだ有利、有能な生物に進化して行きつつある。その過渡期の未完成の生物が現在の人間であるがために、斯様な矛盾、不都合な奇現象があらわれて来るものとも考えられる次第である。しかしこの事は極めて重大な研究事項で、一朝一夕に説き尽し得べき限りでないから ここには唯参考として一言しておくに止める。
而して人間の肉体、及び精神と、細胞の霊能との関係が、
斯様に明白となった以上「夢」なるものの本質に関する説明も
亦、極めて容易となって来るのである。
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すべての細胞はその一個一個が、
吾々一個人の生命と同等、もしくはそれ以上の意識内容と、霊能を持っている一個の生命である。だから、すべての細胞は、それが何か仕事をしている限り、その労作に伴うて養分を吸収し、発育し、分裂、増殖し、疲労し、老死し、分解、消滅して行きつつある事は近代医学の証明しているところである。しかもその細胞の一粒一粒自身が、その労作し、発育し、分裂し、増殖し、疲労し、分解し、消滅して行く間に、その仕事に対する苦しみや、楽しみを
吾々個人と同等に、否それ以上に意識している……と同時に、そうした楽しみや苦しみに対して、
吾々個人が感ずると同等、もしくはそれ以上の連想、想像、空想等の奇怪、変幻を極めた感想を
無辺際【はてしなく広大】に
逞しくして行く事は、
恰も一個の国家が興って亡びて行くまでの間に千万無量の芸術作品を残して行くのと同じ事である。
この事実を端的に立証しているものが、即ち
吾々の見る夢である。
そもそも夢というものは、人間の全身が眠っている間に、その体内の
或る一部分の細胞の霊能が、何かの刺激で眼を覚まして活躍している。その眼覚めている細胞自身の意識状態が、脳髄に反映して、記憶に残っているものを
吾々は「夢」と名付けているのである。
たとえば人間が、不消化物を
嚥み込んだまま眠っていると、その間に、胃袋の細胞だけが眼を
醒ましてウンウンと労働している。……ああ苦しい。やり切れない。これは一体どうなる事か。どうして俺達ばっかりコンナに
非道い眼に逢わされるのか……なぞと不平満々でいると、その胃袋の細胞の
涯しもない苦しい、不満な気持が、一つの連想となって脳髄に反映されて行く。
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すなわちその苦しい思いの主人公が、罪の無いのに刑務所に入れられて、重たい鎖に
繋がれて、自分の力以上の石を
担がせられてウンウン
唸りながら働いているところ………不可抗的な大きな地震で、家の下敷になって、
藻掻きまわって、悲鳴を上げているところなぞ……そのうちにその苦しい消化の仕事が楽になって来るとヤレヤレという気持になる。……そうすると夢の中の気持……脳髄に反映されて行く連想や空想の内容も楽になって、山の絶頂で日の出を拝んでいるところだの、スキーに乗って素晴しいスロープを一気に
辷り下る気持だのに変る。
或は又、寝がけに「彼女に会いたいな」と思って眼を閉じていると、その一念の官能的な刺激だけが眠り残っていて、彼女の処へ行きたくてたまらないのに、どうしても行けない
自烈度い気持を、夢として描きあらわす。彼女の姿は美しい花とか、鳥とか、風景とかいうものによって象徴されつつ彼の前に
笑み輝いているが、それを手に入れようとすると、色々な邪魔が出て来てなかなか近附けない。その細胞の記憶に残っている太古時代の
天変地妖が、突然、眼の前に現われて来るかと思うと、祖先の原人が住んでいた地方の物凄い高山、断崖が見えて来る。その中を祖父が
落ぶれて乞食していた時の気持になったり、
親父が泳ぎ渡った大川の光景を、同じ思いをして泳ぎ渡ったりする。又は猿になって山を越えたり、魚になって海に
潜ったりしつつ、千辛万苦【多くの苦労】してヤット彼女を……花、もしくは鳥を手に入れる事が出来た……と思うと、最初の
自烈度い気持がなくなるために、その夢もお
終いになって目を
醒ます。
そのほか寝小便のお蔭で、太古の大洪水の夢を見る。鼻が詰まったお蔭で、溺れ死にかかった少年時代の苦しみを今一度、夢に描かせられる。なぞ……
斯様にして手でも足でも、内臓でも、皮膚の一部でも、どこでも構わない。
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全身が眠っている間に、何等かの刺激を受けて目を
醒ましている細胞は、きっとその刺激に
相応しい対象を連想し、空想し、妄想している……何かの夢を見ている。すなわちその時その時の細胞の気持に相応した、又は似通った場面や、光景を、その細胞自身が先祖代々から
稟け伝えて来た記憶や、その細胞の主人公自身の過去の記憶の中から、手当り次第に
喚び起して、勝手気ままに重ね合せたり、繋ぎ合せたりしつつ、そうした気持を最も深刻、痛切に描きあらわしている。もしそうした気分が非常識、もしくは変態的なもので、それに相応した感じをあらわす連想の材料が見当らない場合には、すぐに想像の品物や、風景で間に合せ、埋め合せて行く。人体内に於ける細胞独特の恐怖、不安をあらわすために、
蚯蚓や蛇のようにのたくりまわる台所道具を連想したり、苦痛をあらわすために、鮮血の
滴る大木や、火炎の中に咲く花を描きあらわしたりする事は、
恰も神秘の正体を知らない人間が、羽根の生えた天使を考えるのと同様である。
これは
吾々の眼が
醒めている間の気分が、周囲の状況によって支配されつつ変化して行くのとは正反対で、夢の中では気分の方が先に立って移り変って行く。そうしてその気分にシックリする光景、風物、場面を、その気分の変って行く通りに、あとから追いかけ追いかけ
千変万化させて行くのであるから、その
千変万化が
如何に
突飛な、
辻褄の合ないものであろうとも、その
間に何等の矛盾も、不自然も感じない。のみならず現実式の印象よりも
却って自然な、深刻、痛切な感じを受けるように思うのは当然の事である。
換言すれば夢というものは、その夢の主人公になっている細胞自身にだけわかる気分や感じを象徴する形象、物体の記憶、幻覚、連想の群れを、理屈も筋もなしに組み合せて、そうした気分の移り変りを、極度にハッキリと描きあらわすところの、細胞独特の芸術という事が出来るであろう。
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◇備考 欧米各国に於ける各種の芸術運動の近代的傾向は、無意味なもしくは断片的な色彩音響、又は突飛な景象物体の組合せ等によって、従来の写実的、もしくは常識的の表現法以上の痛切、深刻な気分を表現しようとする事によって、漸次【次第に】、夢の表現法と接近しつつある。
夢の正体が、細胞の発育、分裂、増殖に伴う、細胞自身の意識内容の脳髄に対する反映である事は以上説明する通りであるが、次に夢の内容に
於て感ずる時間と、実際の時間とが一致しない理由を明かにする。すなわち一般の人々が、時計とか、太陽とかに
依って示される時間を、真実の時間と信じているために、
如何に大きな錯覚を起して、厳正な科学的の判断に錯覚を
来し、
驚愕し、
面喰いつつあるかを説明すれば、この疑問は
立所に氷解する筈である。
現代医学に
依ると普通人の平静な呼吸の約十八、もしくは脈拍の七十幾つを経過する時間を標準として一分間と定めている。その六十倍が一時間、その二十四倍が一日、その又三百六十幾倍が一年と規定してある。同時にその一年は又、地球が太陽を一周する時間に相当する事になっているので、信用ある会社で出来る時計が示す時間は、万人一様に同じ一時間という事になっているのであるが、しかしこれは要するに人工の時間で、真実の時間の正体というものは、そんなものではない。その証拠には、その同じ長さの人工の時間を各個人が別々に使ってみると、そこに非常な相違が現われて来るから不思議である。
手近い例を挙ぐれば、同じ時計で計った一時間でも、面白い小説を読んでいる一時間と、停車場でボンヤリ汽車を待っている一時間との間には驚くべき長さの相違がある。
尺竹で計った品物の一尺の長さが、万人一様に一尺に見えるような訳には行かないのである。
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又は水に
潜って息を詰めている一分間と、雑談をしている一分間とを比較しても思い半ばに過ぐる事で、前者はたまらない程長く感ずるのに反して、後者は一瞬間ほどにも感じない……というのが偽らざる事実でなければならぬ。
更に今一歩進んでここに死人があるとする。その死人は、その死んだ
後に
於ても、その無感覚の感覚によって、時間の流れを感じているとすれば、一秒時間も、一億年も同じ長さに感じている筈である。又そう感ずるのが死後の真実の感覚でなければならぬので、すなわち一秒の
中に一億年が含まれていると同時に、宇宙の寿命の長さと
雖も一秒の
中に感ずる事が出来る訳である。この無限の宇宙を流れている無限の時間の正体は、そんなような極端な錯覚、すなわち無限の真実の
裡に、矢の如く静止し、石の如く疾走しているものに外ならないのである。
真実の時間というものは、普通に考えられている人工の時間とは全く別物である。むしろ太陽、地球、その他の天体の運行、又は時計の針の回転なぞとは全然無関係のままに、ありとあらゆる
無量無辺の生命の、個々別々の感覚に対して、同時に個々別々に、無限の伸縮自在さを
以て静止し、同時に流れているもの……という事が、ここに
於て理解されるのである。
次に、地上に存在している生命の長さを比較してみると、何百年の間、茂り栄える植物や、百年以上生きる大動物から、何分、何秒の間に生れかわり死にかわる微生物まであるが、大体に
於て、形の小さい者ほど寿命が短かいようである。細胞も
亦同様で、人体各別の細胞の中で寿命の長いものと短かいものとの平均を取って、人間全体の生命の長さに比較してみると、国家の生命と個人の生命ほどの相違があるものと考え得る。
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しかし、それ等の長い、又は短かい色々の細胞の生命が、主観的に感ずる一生涯の長さは同じ事で、その生れて死ぬまでの間が、人工の時間で計って一分間であろうが百年であろうが、そんな事には関係しない。生まれて、成長して、生殖し老衰して、死滅して行きつつ感ずる実際の時間の長さは、どれも、これも同じ一生涯の長さに相違ないのである。この道理を知らないで、朝生まれて夕方死ぬ
嬰児の哀れさを、同じく朝生まれて日暮れ方に老死する虫の生命と比較して諦めようとするのは馬鹿馬鹿しく不自然、
且、不合理な話で、
畢竟するところ【結局】、融通の利かない人工の時間と、無限に伸縮自在な天然の時間とを混同して考えるところから起る悲喜劇に過ぎない。
一切の自然……一切の生物は、かように無限に伸縮自在な天然の時間を、各自、勝手な長さに占領して、その長さを一生の長さとして呼吸し、生長し、繁殖し、老死している。同様に人体を作る細胞の寿命が、人工の時間で計って
如何に短かくとも、その領有している天然の時間は無限でなければならぬ。だからその細胞が、その無限の記憶の内容と、無限の時間とを使って、大車輪で「夢」を描くとすれば、五十年や、百年の間の出来事を一瞬、一秒の間に描き出すのは何の造作もない事である。支那の古伝説として日本に伝わっている「
邯鄲夢枕物語」に……
盧生が
夢の五十年。実は粟飯一炊の間……とあるのは事実、何の不思議もない事である。
以上述ぶるところによって、タッタ一粒の細胞の霊能が、
如何に絶大無限なものであるか、その中でも特に、そのタッタ一粒の「細胞の記憶力」なるものが、
如何に深刻、無量なものがあるかという事実の大要が理解されるであろう。
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人間の精神と肉体とを同時に
胎生し、作り上げて行く「細胞の記憶力」の大作用を如実に
首肯されると同時に……何が胎児をそうさせたか……という「胎児の夢」の存在に関する疑問の数々も、大部分氷解されたであろうと信ずる。
胎児は母の胎内に在って、外界に対する感覚から完全に絶縁されているために、深い深い睡眠と同様の状態に在る。その間に
於て、胎児の全身の細胞は盛んに分裂し、繁殖し、進化して、一斉に「人間へ人間へ」と志しつつ……先祖代々が進化して来た当時の記憶を繰返しつつ、その当時の情景を次から次へと胎児の意識に反映させつつある。しかもその胎児は、前述の通り、母胎によって完全に外界の刺激から遮断されていると同時に、極めて平静、順調に保育されて行くために、ほかの事は全く考えなくてよろしい。ただ一心に「人間へ人間へ」という夢一つを守って行けば宜しいので、その夢の内容も
亦、極めて順調、正確に、精細をきわめつつ移りかわって行く。この点が、勝手気ままな、
奔放自在な成人の夢と違っているところである。
これを逆に説明すれば、胎児を創造するものは、胎児の夢である。そうして胎児の夢を支配するものは「細胞の記憶力」という事になる。すべての胎児が母胎内で繰返す進化の道程と、これに要する時間が共通一定しているのはこのためで、現在の人類が、
或る共同の祖先から進化して来たために、細胞の記憶、即ち「胎児の夢」の長さが共通一定しているからである。又その無慮【おおよそ】数億、もしくは数十億年に
亘るべき「胎児の夢」が、
僅に十個月の間に見てしまわれるのも、前述の細胞の霊能を参考すれば、決して怪しむべき事ではないので、進化の程度の低い動物の
胎生の時間が、割合に短かいのは、そんな動物の進化の思い出が比較的簡単だからである。……だから元始以来、何等の進化も遂げていない下等微生物になると全然「胎児の夢」を
有たない。
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祖先そのままの姿で一瞬の間に分裂、繁殖して行くという理由も、ここに
於て
容易く
首肯される筈である。
◇備考 如上【上述】の事実、すなわち「細胞の記憶力」その他の細胞の霊能が、如何に深刻、微妙なものがあるか。そうしてそれが一切の生物の子々孫々の輪回転生に、如何に深遠微妙な影響を及ぼしつつ万有の運命を支配して行くものであるかという事に就ては、既に数千年以前から、埃及の一神教を本源とする、各種の経典に説かれているので、現在、世界各地に余喘【虫の息】を保っている所謂、宗教なるものは、こうした科学的の考察を粉飾して、未開の人民に教示した儀礼、方便等の迷信化された残骸である。だからこの胎児の夢の存在も、決して新しい学説でない事を特にここに付記しておく。
然らば、その
吾々の記憶に残っていない「胎児の夢」の内容を、具体的に説明すると、大要どのようなものであろうか。
これはここまで述べて来た各項に照し合せて考えれば、
最早、充分に推測され得る事と思うが、尚参考のために、筆者自身の推測を説明してみると大要、次のようなもので なければならぬと思う。
人間の胎児が、母の胎内で見て来る先祖代々の進化の夢の中で、一番よけいに見るのは悪夢でなければならぬ。
何故かというと、人間という動物は、今日の程度まで進化して来る間に、牛のような頭角も持たず、虎のような
爪牙もなく、鳥の翼、魚の保護色、虫の毒、貝の殻なぞいう天然の護身、攻撃の道具を一つも自身に
備付けなかった。ほかの動物と比較して、はるかに弱々しい、無害、無毒、無特徴の肉体でありながら、それをそのまま、あらゆる激烈な生存競争場
裡に暴露して、あらゆる恐ろしい
天変地妖と闘いつつ、遂に今日の如き最高等の動物にまで進化し、
成上って来た。
211/596
その間には、
殆ど他の動物と比較にならない程の生存競争の苦痛や、自然淘汰の迫害等を体験して来た筈で、その
艱難辛苦の思い出は実に
無量無辺、息も
吐かれぬ位であったろうと思われる。その中でも自分の過去に属する、自分と同性の先祖代々の、何億、何千万年に
亘る深刻な思い出を、一々ハッキリと夢に見つつ……それを事実と同じ長さに感じつつ……ジリジリと大きくなって行く、胎児の苦労というものは、とてもその親達がこの世で受けている、短かい、
浅墓な苦労なぞの及ぶところではないであろう。
まず人間のタネである一粒の細胞が、すべての生物の共同の祖先である微生物の姿となって、子宮の内壁の
或る一点に付着すると間もなく、自分がそうした姿をしていた何億年前の無生代に、同じ仲間の無数の微生物と一緒に、生暖かい水の中を
浮游している夢を見初める。その無数とも、無限とも数え切れない微生物の大群の一粒一粒には、その透明な身体に、大空の激しい光りを吸収したり反射したりして、
或は七色の虹を放ち、又は金銀色の
光芒を散らしつつ、地上最初の生命の自由を享楽【謳歌】しつつ、どこを当ともなく浮游し、旋回し、
揺曳【ゆらゆらとなびく】しつつ、その瞬間瞬間に分裂し、生滅して行く、その
果敢なさ。その楽しさ。その美しさ……と思う間もなく自分達の住む水に起った
僅かな変化が、形容に絶した大苦痛になって襲いかかって来る。仲間の大群が見る見る
中に死滅して行く。自分もどこかへ逃げて行こうとするが、全身を包む苦痛に縛られて動く事が出来ない。その苦しさ、堪まらなさ……こうした
苛責が、やっと通り過ぎたと思うと、
忽ち元始の太陽が烈火の如く追い迫り、
蒼白い月の光が氷の如く透過する。
或は風のために
無辺際【はてしなく広大】の虚空に吹き散らされ、又は雨のために
無間の
奈落に打落される。
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こうして想像も及ばぬ恐怖と苦悩の世界に生死も知らず翻弄されながら……ああどうかしてモット頑丈な姿になりたい。寒さにも熱さにも堪えられる
身体になりたい……と身も世もあられず
悶え
戦いているうちに、その細胞は次第に分裂増大して、やがてその次の人間の先祖である魚の形になる。即ち暑さ寒さを
凌ぎ得る皮肌、
鱗、泳ぎ回る
鰭や
尻尾、口や眼の玉、物を判断する神経なぞが残らず備わった、驚くべき進歩した姿になる。……ああ有難い、これなら
申分はない。俺みたような気の利いた生物はいまい……と大得意になって波打際を散歩していると、コワ
如何に、自分の身体の何千倍もある
章魚入道が、天を
覆うばかりの巨大な手を拡げて追い迫って来る。……ワッ――助けてくれ……と海藻の森に逃込んで、息を殺しているうちにヤット助かる。そこでホッと安心してソロソロ頭を持上げようとすると、今度は、思いもかけぬ鼻の先に、前の章魚よりも何十層倍大きな
海蠍の
鋏が詰め寄って来る。スワ又一大事と身を翻えして逃げようとすると背中から雲かと思われる三葉虫が覆いかかる。横の方からイソギンチャクが毒槍を
閃めかす。その間を
生命からがら逃出して、小石の下に
潜り込むと……ブルブル。ああ驚いた。情ない事だ。コンナ調子では未だ安心して生きておられない。一緒に進化して来た生物仲間は物騒だというので、自分の身体を固い殻で包んだり、岩の間から手足だけ出したりしているが、自分はあんな事までしてこの暗い、重苦しい水の中に辛棒しているのは
嫌だ。それよりも早く
陸に上りたい。あの軽い、明るい空気の中で自由に、伸び伸びと
跳回られる身体になりたい……と一所懸命に祈っているとその御蔭で、小さな三つ眼の
蜥蜴みたような ものになって チョロチョロと
陸の上に
匍い上る事が出来た。
……ヤレ嬉しや。
213/596
ありがたや……とキョロキョロ チョロチョロと駈けまわる間もなく、今度は世界が消え失せるばかりの大地震、大噴火、
大海嘯が四方八方から渦巻き起る。海は湯のように沸き返って逃込む処もない。焼けた砂の上で息も絶え絶えに跳ねまわっているその息苦しさ。セツナサ……その苦しみをヤッと通り越したと思うと今度は、山のような
歩竜の
趾の下になる。
飛竜の翼に跳ね飛ばされる。
始祖鳥の妖怪然たる
嘴にかけられそうになる。……アアたまらない。やり切れない。一緒に進化して来た連中は、身体中に
刺を生やしたり、近まわりの者に色や形を似通わせたり、
甲羅を
被ったり毒を吹いたりしているが、あんな
片輪じみた、
卑怯な、
意久地のない真似をしなくとも、もっと正しい、
囚われない、
温柔しい姿のまんまで、この地獄の中に落付いていられる工夫はないか知らんと……石の間に
潜んで、息を殺して念じ詰ていると、頭の上の
顱頂孔の処に在る眼玉が一つ消え失せて、二つ眼の猿の形に出世して、樹から樹へ飛び渡れるようになった。
……サア
占めたぞ。モウ大丈夫だぞ。俺ぐらい自由自在な、進歩した姿の生物はいまいと、木の空から小手を
翳していると、思いもかけぬ
背後から
蟒蛇が呑みに来ている。ビックリ仰天して逃出すと、頭の上から大鷲が蹴落しに来る。枝の間を
伝って逃げ
了せたと思うと、今度は
身体中に
虱がウジャウジャとタカリ初める。
山蛭が吸付きに来る。寝ても
醒ても油断が出来ない
中に、やがて天地も
覆る大雷雨、大
颶風【超大型台風】、大氷雪が
落かかって、樹も草もメチャメチャになった地上を、死ぬ程、狂いまわらせられる。……ああ……セツナイ。
堪らない。自分は何も悪い事はしないのに、どうしてコンナに
非道い目にばかり遭うのであろう。
214/596
どうかしてモット
豪い者になって、コンナ災難を平気で見ておられる身体になりますように……と木の
空洞に頭を突込んで、胸をドキドキさせながら祈っていると、ようようの事で
尻尾が落ちて、人間の姿になる事が出来た。
……ヤレ嬉しや。有難や。これから
愈々極楽生活が出来るのかと思っていると、どうしてどうして、夢はまだお
終いになっていない。人間の姿になると直ぐに又、人間としての悪夢を見初めるのである。
胎児の先祖代々に当る人間たちは、お互い同志の生存競争や、原人以来遺伝して来た残忍
卑怯な獣畜心理、そのほか色々勝手な私利私欲を遂げたいために、直接、間接に他人を苦しめる大小様々の罪業を
無量無辺に重ねて来ている。そんな血みどろの息苦しい記憶が一つ一つ胎児の現在の主観となって眼の前に再現されて来るのである。……主君を
弑して城を乗取るところ……忠臣に
詰腹を切らして酒の
肴に眺めているところ……奥方や若君を毒害して、自分の孫に跡目を取らせるところ……病気の夫を
乾し殺して、
仇し男と戯れるところ……生んだばかりの私生児を圧殺するたまらなさ……
嫁女に
濡衣を着せて、首を
縊らせる気持よさ……憎い
継子を井戸に突落す痛快さなぞ……そのほか大勢で
生娘を
苛める、その面白さ……妻子ある男を失恋自殺させる、その誇らしさ……美少年、美少女を集めて
虐待する、その気味のよさ……大事な金を遣い棄てる、その愉快さ……同性愛の深刻さ……人肉の
美味さ……毒薬実験……裏切行為……
試斬り……弱い者
苛め……なぞ種々様々のタマラナイ光景が、眼の前の夢となって、クラリクラリと移り変って行く。
215/596
又は自分の先祖たち……過去の胎児自身が、隠し
了せた犯罪や、人に言い得ずに死んだ秘密の数々が、
血塗れの顔や、首無しの胴体や、井戸の中の
髪毛、天井裏の短刀、沼の底の白骨なぞいうものになって、次から次に夢の中へ現われて来るので、そのたんびに胎児は驚いて、
魘えて、苦しがって、母の胎内でビクリビクリと手足を動かしている。
こうして胎児は自分の親の代までの夢を見て来て、いよいよ見るべき夢がなくなると、やがて静かな眠りに落ちる。そのうちに母体に陣痛が初まって子宮の外へ押し出される。胎児の肺臓の中にサッと空気が入る。その拍子に
今迄の夢は、胎児の潜在意識のドン底に逃げ込んで、今までと丸で違った表面的な、強烈、痛切な現実の意識が全身に
滲み渡る。ビックリして、
魘えて、メチャクチャに泣き出す。かようにしてその胎児……赤ん坊はヤットのこと限りない父母の慈愛に接して、人間らしい平和な夢を結び初める。そうしてやがて「胎児の夢」の続きを自分自身に創作すべく現実に
眼醒め初めるのである。
何の記憶もない筈の赤ん坊が、眠っているうちに突然に
魘えて泣き出したり、又は何か思い出したようにニッコリ笑ったりするのは、母胎内で見残した「胎児の夢」の名残を見ているのである。生れながらの
片輪であったり、精神の欠陥が在ったりするのに対しても、それぞれに相当の原因を説明する夢が、その
胎生の時代に在った筈である。又は胎児の骨ばかりが母胎内に残っていたり、
或は固まり合った毛髪と、歯だけしか残っていないような
所謂、
鬼胎なるものが、時々発見されるのは、その胎児の夢が、何かの原因で停頓【停滞】するか、又は急劇に発展したために、やり切なくなって断絶した残骸でなければならぬ。
――以上――
空前絶後の遺言書
――大正十五年十月十九日夜
――キチガイ博士手記
ヤアヤア。
216/596
遠からむ者は望遠鏡にて見当をつけい。近くむば寄って顕微鏡で覗いて見よ。
吾こそは九州帝国大学精神病科教室に、キチガイ博士としてその名を得たる
正木敬之とは吾が事也。今日しも満天下の常識屋どもの
胆っ玉をデングリ返してくれんがために、突然の自殺を思い
立たるその
序に、古今無類【無比】の遺言書を発表して、これを読む奴と、書いた奴のドチラが馬鹿か、気違いか、真剣の勝負を決すべく、一筆 見参
仕るもの……吾と思わむ常識屋は、
眉に
唾して
出で会い
候え
候え……。
……と書き出すには書き出してみたがサテ、一向に張合がない。
……ない筈だ。吾輩は今、九大精神病学教室、本館階上教授室の、自分の
卓子の前の、自分の回転椅子に腰をかけて、ウイスキーの角瓶を手近に
侍らして、万年筆を
斜に構えながら
西洋大判罫紙の数帖と
睨めっくらをしている。頭の上の電気時計はタッタ今午後の十時をまわったばかり……
横啣えをした葉巻からは、紫色の煙がユラリユラリ……何の事はない、糞勉強のヘッポコ教授が、居残りで研究をしている格好だ。トテモ
明日の今頃には、お
陀仏になっている人間とは思えないだろう。……アハハハ……。
吾輩は、いつもコンナ風に、常識を超越していないと虫が納まらない性分でね。
兎にも
角にも吾輩を一種の
狂人と認めている満天下の常識屋諸君に同情するよ。
そこでだ……そこで何から書き初めていいかトント見当が付かないが……何しろ遺言書なぞを書くのは後にも先にも今度が初めてだからね。
併し、ここいらでチョイト普通人の真似をして、常識的の順序を立てて書く事にすると……まず第一に明かに しなければ ならぬのは吾輩の自殺の動機であろう。
ソモソモ吾輩の自殺の動機というものは一人の可憐な少女に関連している……という事が断言出来る……エヘン。笑っちゃいけない。
217/596
そもそも その少女の美しい事といったら
迚も 迚も 迚も 迚も と二三十行書いて止めておいた方が早わかりする位だ。世界中のハンケチの
上箱、化粧品のレッテル、婦人雑誌の表紙、衣装屋の広告人形、ビール店、百貨店のポスターなんどの在らん限りを引っぱり出して来ても……欧米のキネマ撮影所を全部引っくり返して来ても、こんなに
勿体ないほど清らかな、痛々しいほど匂やかな、気味の悪いほどウイウイしい……アハハハハハ。これ位にしておこう。年甲斐もなくソンナ
別嬪に
肱鉄砲を喰って、この世をダアと
観じた【『感じた』の古風な言い方】な……なぞと感違いされては困るから……。そんな御心配はコッチから願い下げで御座る。何を隠そう、その少女は今から半年ばかり前に、人間の戸籍から
削られているのだから……。
そんならその少女が死んだためにこの世を
果敢なんで【はかないと思って】……なぞと又、早飲込みをする常識屋が出て来るかも知れないが
一寸待ったり……慌ててはいけない。現在、死人の戸籍に入っているその少女は、近いうちに自分のシャン振り【美しい振る舞い】と負けず劣らずの、ステキ
滅法界もない玉の如き美少年と、
偕老同穴の
契を結ぶ事になっているのだ。そこで吾輩のこの世に於ける用事もハイチャイを
告る【終わりを告げる】事になるのだ……と言ったら又、頭のいい痴呆患者が出て来て……そんならイヨイヨ発狂自殺だ。おおかた死んだ美少女と、
生た美少年のラブシーンを夢に見るか何かして、気が変になったのだろう……何かと考えるかも知れない。
……どうも驚いたな。遺言書なんてものはコンナ書きにくい、
自烈度いものとは知らなかった。
218/596
しかしそれでも
折角自殺するのだから、何とか書いておかないと、アトで張合がないだろうと思って、お
負のつもりで書く訳だが、何を隠そう、その
鬼籍に入った美少女とピンピン生きている美少年とが、現実に接吻、抱擁する事に
依て、吾輩が
畢生【一生】の研究事業である精神科学の根本原理……即ち心理遺伝と名づくる研究発表の結論となるべき実験が、
芽出度し芽出度しになる手筈になっているのだ。
どうだい。コンナ面白い、痛快な学術実験が、又とほかに在りますかい。アハハハ……。
イヤ。恐らく無い筈だ。……というのは第一に、この実験の基礎となっている精神科学という学問が、吾輩独特の新規新発明に属するものなんだから……のみならずその中でも
亦、吾輩専売の精神病学の実験というのが、普通の医学や何かのソレと違って、鳥や
獣や、人間の死体なぞを相手に研究は出来ない。何故かというと鳥や獣は、
或る種の精神病患者と同様、最初から動物性の丸出しで研究材料に不適当だし、死んだ人間には肝心の実験材料になる魂が無い。必ずやピンピン
溌剌たる人間の、正しい、健康な精神を材料に使わねばならぬ。そんな立派な精神が、突然に発狂して、やがて又、次第次第に回復して行く……その前後の移り変りをコクメイに研究して、記録して行かなければ ならない のだから大変である。ことに吾輩が研究の
主題として選んだ材料を、今の学者の流儀で名付けると、遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性欲とも名付くべき、世にもややこしい
代物と来ているんだから厄介この上もない。
そんな実験の材料として選まれる人物はトテモ生やさしい御方ではない。ウッカリするとこっちがギューとやられるかも知れないのだから、吾輩は
冒頭から
生命がけで、この実験に取りかかったものだが、とうとうその実験の
煽りを喰って、自分自身が、自殺にまで追い詰められる事になって……イヤ。
219/596
まだ自殺までには大分時間があるから、充分、十二分に落ち付いて、紫の煙と、
琥珀色の液体を相手に悠々と万年筆を
揮う事にする。
諸君もユックリ読んでくれ
給え。遺言とか何とかいったって気楽なもんだ。ナマンダ式やアーメン式、又は無念残念式とはネタが違う。キチガイ博士のキチガイ実験の余興みたいなもんだ。残る煙がお笑いの種明しだ。……吾輩の研究の中心となっている希代の美少年と、絶世の美少女との変態性欲に関する破天荒の怪実験が、ドンナ学理の原則に支配されて、ドンナ風に緊張し、白熱化しつつ、実験者たる吾輩の全生涯を粉砕すべく爆発しかけて来たかという、その自然発火の裏面のカラクリが、次第次第に手に取る如く判明して来るんだから……。
話はすこし
以前にさかのぼる。
今年の十月の何日であったかに、福岡の某新聞の学術欄で、吾輩の「脳髄は物を考える処に
非ず」という意味の談話が連載された時の、世論の反響のドエラサには正直のところタジタジと来たね。「人間という動物は
自惚れと迷信で固まっているものだ」ぐらいの事はウスウス知っていないではなかったが、それにしてもコンナまで
篦棒なものであろうとは、この時がこの時まで気が付かなかった。彼等、すなわち常識屋は、新聞に、雑誌に、念入りなのは書信に、もっと御念入りなのは吾輩に直接面会などいう、ありとあらゆる手段を
以て、吾輩の放言をタタキ
潰すべく試みた。
殊に
肝を
潰すべきは、研究の自由をモットーとしているこの大学の中で、お上品な顔をして、アゴを撫でたり、ヒゲを
捻ったりしている教授連中までが、一斉に奮起して、「あの非常識にして暴慢、不謹慎な、
狂人学者をタタキ出せ。
然らずむば赤
煉瓦の中へタタキ込んでしまえ」というので、机を叩いて総長に迫ったという。
これを聞いた時には
流石に海千山千の吾輩も、尻に帆を上げ【逃げ出そうとし】かけたね。
220/596
大学の中だけは学術研究の安全地帯だと思っていたのが、
豈計らんやのビックリ箱と来たもんだからね。幸いにして総長が、行政官じみた事なかれ主義の男で、
体よくマアマア式に切り抜けたお蔭で、吾輩も今日までマアマアに有り付いて来た訳だが、それにしても考えて見れば
阿呆らしい話じゃないか。ドウセ博士とか、大学教授とかになる人物なら、一番上等のところで名誉狂か、研究狂程度の連中にきまっている。それを
恥かしいとも思わないで、今一枚
上わ
手の名誉狂、兼、研究狂である吾輩を
捉まえて、キチガイ呼ばわりをするんだから、片腹痛からざるを得ないではないか。この時に吾輩が、
如何に片腹痛かったかは、吾輩の親友
若林学部長が知っている。
「コンナ
塩梅式では吾輩の精神解剖学や精神生理、精神病理、心理遺伝なぞいうものは、とても
剣呑で発表出来ないね。普通の人間よりも、精神病者の方が、気が
慥かだという学説なんだからね。ハハハハ……」
「そうですねえ。科学ぐらい人類を
侮辱しているものはない という事を、大抵の人間は知らずにいるのですからね」
「そうだとも、しかし『人間は猿の子孫也』と聞いてソレ見ろと得意になっている連中が……お前達はみんなキチガイだと言われると、慌てて
憤り出すところは奇観【奇妙な光景】じゃないか。猿の進化したものが人間で、人間の進化したものがキチガイだという事実を知らないばかりじゃない。全然反対の順序に考えているらしいんだからね。ワッハッハッハッハ……」
なぞと笑い合った位だから……。
だから吾輩は訂正追加のために、
手許に取り寄せていた「脳髄論」の公表までも差し控えてしまった。そうして約半年後の今日只今、そんな著述の原稿を一緒に、みんな引っくるめて焼き棄ててしまった。
ナニ。別に理由は無い。つまらないからサ。
人類の文化は、吾輩の研究を受け入れるべく、余りにアホラシク幼稚だからサ。
221/596
……しかも、そんな大きな事実に二十年もの永い間、気付かないで、コンナ
桁外れの研究に
黒煙を立て続けて来た吾輩のアホラシサが、今更にシミジミとわかって来たからサ。
或は吾輩の精神異状が、こうして静まりかけているのかも知れないが……
呵々【ゲラゲラと声高に笑うさま】……。
……但し……そんな著述の中でも一番
美味しいロースのクラシタどころ【核心部分】だけは、この遺言書の中に留めておいて、適当の時代に、こうした研究を想い立つであろうキチガイ学者の参考に供する事にした。その中でも吾輩の「脳髄論」の内容は、ここに挟んだ切抜きの通り、既に新聞に
素ッ
破抜かれているので、これ以上の内容がある訳でもないから、
惜しい事はちっともない。又、精神解剖学以下、精神病理学に到る研究のヒレどころも、既に、二十年前に吾輩が、卒業論文として九大に提出したこの「胎児の夢」の論文の中に含まれているのだから大略するとして、ここには只、吾輩大得意の「
狂人の解放治療」と「心理遺伝」の関係に
就て略記しておきたいと思う。
これを前の新聞記事や、胎児の夢の論文と一緒に読めば、前述の美少年と美少女を材料とする怪実験が、大正十五年の十月十九日……すなわち今日の正午を期して、空前の成功を告げると同時に、絶後の失敗に終ったという、奇々怪々な精神科学の学理原則の活躍が、明々、歴々と判明して来る。同時に現代文化の粋を極めた常識とか、学識とかいうものが、一挙に
木ッ
葉微塵となって、あとには
空っぽの頭蓋骨だけが、
累々として残る事になる……という訳なんだが……。
……ところで……エート。ここいらでチョット失敬して、消えた葉巻に火をつけるかな。……実は大好物でね。どんなに貧乏生活をしている時でも、コイツとアルコール分だけは座右に欠かさなかったものだが……もはや死ぬまでに何本というところまで漕ぎ付けたんだから、一つ勘弁して頂きたい。
222/596
ハハハハ……。
お待ち遠さま……サテ
然るにだ……吾輩の極楽行きの直接原因を生んだ
彼の「
狂人解放治療場」を見た人々は、誰でも
狂人の散歩場ぐらいにしか思っていないようである。中には新聞の記事なぞを読んで「ハハア成る程」なぞと
首肯く者が居るかと思うと、すぐにあとから「いかにもねえ。こうしておけば
狂人も興奮しませんね」とか「ハハア。一種の光線治療ですね」なぞと、知ったか振りを言うくらいの事で、誰一人としてこの実験の正体を
看破した者は居ないから面白い。否。この実験の秘密はこの教室で仕事をしている副手や助手にさえも
洩した事はないのだから、彼等は
唯、何か非常に高遠【高尚】な実験らしい……ぐらいにしか心得ていないのであるが、実は他愛ない……しかもステキに面白い実験なのだ。「解放治療」なぞいう
鹿爪らしい【いかにもまじめそうな】名前は、世を忍ぶ仮の名に過ぎないのだ。
何を隠そうこの「解放治療」の実験は、吾輩が
嘗て、当大学の前身であった福岡医科大学を卒業する時に書いた「胎児の夢」と名付くる一篇の論文の実地試験に外ならないのだ。
但し吾輩が「胎児の夢」の中に並べ立てた引例は皆、人類各個お互い同志に共通した、喰いたい、寝たい、遊びたい、喧嘩したい、勝ちたいといった程度の心理の遺伝で、極く極く有り触れた種類のものばかりであるが、ここで研究しているのは、それよりもモットモット突込んだ、個人個人特有の極端、奇抜な心理遺伝の発作なんだ。近頃流行の
猟奇趣味とか、探偵趣味なぞいうものが、足元にも寄り付けないくらい神秘的な、先端的な、グロテスクな、怪奇、
毒悪を極めた……ナニ、まだ見た事がないから見せてくれ。お易い御用だ。タッタ今お眼にかけよう……。
……サアサア
入らっしゃい入らっしゃい。
223/596
世界中、どこを探しても見られぬ生きた魂の因果者の標本、日中の幽霊、真昼の化け物、ヒュ――ドロドロの科学実験はこれじゃこれじゃ……
見料は大人が十銭、小供なら半額、
盲人は
無料……アッ……そんなに押してはいけない。
狂人連中に笑われますぞ。お静かにお静かに……。
……エヘン……。
ここに御紹介致しまするは、九州帝国大学、医学部、精神病科本館の裏手に当って、同科教授、
正木先生が開設されましたる、
狂人解放治療場の「天然色、浮出し、発声映画」と御座います。映写致しまする器械は、最近、九大、医学部に於きまして、眼科の
田西博士と、耳鼻科の
金壺教授とが、
正木博士と協力致しまして、医学研究上の目的に使用すべく製作されましたもので、実に
精巧無比……目下米国で研究中の発声映画なぞはトーキー及ばない……画面と実物とに寸分の相違もないところに お
眼止め あらむ事を希望致します。
まず……開巻第一に九州帝国大学、医学部の全景をスクリーンに現わして御覧に入れます。
御覧の通り九大の構内と構外とは一面に、
一と続きの松原の緑に埋められておりますが、その西端に二本並んだ大煙突の
下に見えます見すぼらしい青ペンキ塗り、二階建の西洋館が、天下に有名なるキチガイ博士、
正木先生の
居られる精神病学教室の本館で、そのすぐ南側に見えます二百坪ほどの四角い平地が、これから御紹介申上げます「
狂人の解放治療場」で御座います。……撮影機と技師とを搭載致しました飛行機はだんだんと下降致しまして、精神病科本館階上、教授室の南側の窓の縁に着陸致します。……まるで
蜻蛉か
蠅なんぞのようで……時に大正十五年十月十九日……の午前正九時と致しておきましょうか。
この解放治療場を取巻いておりまする赤
煉瓦の塀は、高さが
一丈【約3m】五尺。
224/596
これに囲まれました四角い平地は全部この地方特有の真白い、石英質の砂で御座いますから、清浄この上もありませぬ。真中に
桐の木が五本ほど、黄色い枯れ葉を一パイにつけて立っております。この
桐の木はズット以前からここに立っておりまして、本館の中庭の風情となっておったもので御座いますが、この解放治療場開設のため周囲を
地均し致しまして以来、
斯様に
著しい衰弱の色を見せて参りましたのは、何かの
凶い前兆と申せば申されぬ事もないようであります。
或はこの
桐の木が、
斯様な思いがけないところに封じ込られたために精神に異状を
呈したものではないかとも考えられるのでありますが、しかしその辺の診断は、当教室でもまだ気が付きかねております。……無駄を申上げまして恐れ入りました。
治療場の入口は、東側の病室に近い処に只一つ開いておりまして、便所への通路を兼ておりますが、その入口板戸の横に切り
明られた小さな、横長い穴から、黒い制服制帽の、人相の悪い巨漢が、御覧の通り朝から晩まで、冷たい眼付で場内を覗いているところを御覧になりますると、この四角い解放治療場の全体が、さながらに緑の波の中に据えられた巨大な魔術の箱みたように感じられましょう。
この魔術の箱の底に敷かれました白い砂が、一面に真青な空の光りを受て、キラキラと輝いております上を、黒い人影が、立ったり、座ったりして動いております。一人……二人……三人……四人……五人……六人……都合十人居ります。
これが
正木博士の
所謂「脳髄論」から割出された「胎児の夢」の続きである「心理遺伝」の原則に支配されて動いている
狂人たちであります。
225/596
……しかも、これから三時間後……大正十五年十月十九日の正午となりまして、海向うのお台場から、
轟然たる一発の
午砲が響き渡りますと、それを合図にこの十人の
狂人たちの中から、思いもかけぬスバラシイ心理遺伝の大惨劇が爆発致しまして、天下の耳目を
聳動させる【恐れおののかせる】と同時に、
正木先生を自殺の決心にまで
逐い詰める事に相成るのでありますが、その大惨劇の前兆とも申すべき現象は、既に只今から、この解放治療場内にアリアリと
顕われているので御座いますから、よくお眼を止められまして、
狂人たちの一挙一動を精細に御観察あらむ事を希望いたします。
そこでその精細な御観察の便宜と致しまして、この十人の
狂人たちの一人一人の姿を大写しにして御覧に入れます。
まず、最初に現わしまするは、西側の
煉瓦塀の横で、
双肌脱ぎになって、セッセと働いている白髪の老人で御座います。この老人は御覧の通り、両手に一丁の
鍬を
掴んで
打振ながら、
煉瓦塀に並行した長い畑を
二畝半ほど耕しておりますが、しかしその
体躯を見ますと御覧の通り、腕も、
脛も生白くて、ホッソリ致しておりまするのみならず、老齢の労働者に特有の、首筋をめぐる深い
皺も見えませぬので、いずれに致しましても、こんな百姓の仕事に経験のある者とは思われませぬ。ことにミジメなのはその
掌で、鍬を握っておりますから、よくは見えませぬが、その鍬の
柄の処々に、黒い
汚染がボツボツとコビリ付て見えましょう。あれは、その掌の破れた処からニジミ出している血の
痕跡で御座います。しかも……老人は、それでも屈せず、
撓まず【心折れず】、セッセと鍬を打ち振て行くところを見ますと、
正木博士の発見にかかる、心理遺伝の実験が、
如何に残忍、冷厳なものであるかという事が、あらかた、お解りになるで御座いましょう。
226/596
次にあらわしまするはその横に
突立て、老人の
畠打を見物致しております一人の青年で御座います。お見かけの通り黒っぽい木綿着物に白木綿の古
兵児帯を
締て、
頭髪を
蓬々と【伸び乱れ】さしておりますから、多少
老けて見えるかも知れませぬが、よく御覧になりましたならば、二十歳前後のういういしい若者であることが、おわかりになりましょう。久し振りに
日陽に出て来ましたせいか、肌が女のように白く、ホンノリした紅い
頬に、何かしらニコニコと微笑を含みながら、鍬を振り回す白髪の老人の
手許を一心に見守っております。その表情だけを見ますと、ちょっと普通人かと思われますが、なおよくお眼を止めて御覧下さい。その
眼眸と、瞳の光りの清らかなこと……まるで
深窓に育った姫君のように静かに澄み切って見えましょう。これは
或る種類の精神病者が、正気に帰る前か、又は発作を起す少し前に、あらわしまする特徴で、
正木博士が始終手にかけておられました、
真狂と、
偽狂の鑑定の中でも特に鑑別し難い眼付なので御座います。
次には今の老人と青年の、遥か
背後の方に
屈まっている一人の少女にレンズを近付てみます。お見かけの通り、幽霊みたように青白く
瘠せこけたソバカスだらけの顔で、赤茶気た髪を
括り下げに致しておりますが、老人が作りました畠の
縁に
屈みまして、
繊細い手で色んなものを植え付ております。
桐の落葉、松の枯枝、
竹片、瓦の破片なぞ……中にはどこで見付たものか、青い草なぞもあります。しかし何しろ相手の畠が、サラサラした白砂の
畝で御座いますから、竹の棒なぞはウッカリすると倒れそうになるのを、御覧の通り色々と世話を焼いて真直に立てております。
227/596
あんな面倒臭い事をせずとも、グッと砂の中に突込んだら良さそうなもの……と思われる方があるかも知れませぬが、それは失礼ながら素人考えで……この少女は
瓦片や竹の棒なぞを、やはり普通の草花か何かの苗だと信じ切っておりますので、決してそんな乱暴な扱いを致しませぬ。さも大切そうに
根方に砂を被せておりまするところが
ねうちで……しかし、それでも折角、世話してやった竹の棒が二三度も倒れますと……アレ、あの通り
癇癪を起しまして、柔かい草の苗と同じように、竹の棒を何の苦もなく
引千切って棄ててしまいます。あの
繊細い、細い腕から、どうしてあんな恐ろしい、男も及ばぬ
力量が出るかと、怪しまるるばかりで御座いますが、実は人間というものは、どんな優しい御婦人でも、大抵あれ位の力は持ておられますので……ただ……人間は、ほかの動物に比べて上品な、弱いもの……
殊に女は……といったような暗示が、先祖代々から積み重なって来た結果、それだけの力を出し得ずにおりますので、それが精神に異状を来すか、地震、火事といったような一大事にぶつかるか致しますと、その暗示が一時的に破れまするために、本来の腕力に立帰りまする事が、現在、只今、この少女によって証拠立られているので御座います。毎度説明が脱線致しまして
申訳ありませぬが、これは
正木博士の「心理遺伝」を逆に証明する実例で御座いますから、特に申添えました次第で御座います。
その次にあらわしまするは、破れた
モーニング・コートを着た
毬栗頭の小男で、今の老人と、青年と、少女の
一群が居る処とは正反対側の、東側の赤
煉瓦塀に向って演説をしているところで御座います。
「……
達摩は面壁九年にして、少林の
熊耳と言われました【達磨は少林寺で九年間、壁に向かって坐禅し続けた結果、『少林寺の熊耳』と呼ばれるようになった】。
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故に
吾人は九年間面壁して弁論を練り、
糊塗縦横【一時しのぎに取り繕う】の政界を打破りまして【ごまかしとその場しのぎが縦横無尽に横行している政界を、突き破って改革して】、あらゆる不平等を平面にすべく……
来るべき普選の時代に
於て……即ち、その……
吾人が……」
と大声をあげるかと思うと、思い出したように右手を高くあげて左右に動かしております。
その背後を一人の奇妙な姿をした女が通って行きます。御覧の通り、まことに下品な、シャクレた顔をした
中年増で、顔一面に塗り
附ております泥は、厚化粧のつもりだそうで御座います。着物の
裾も
露わな
素跣足で、ボロボロの丸帯を長々と引ずっておりますが、誰がこしらえてやりましたものか、ボール紙に赤インキを塗った王冠の形の物を、ザンバラの頭の上に載せて、落ちないように あおのきつつ ジロリジロリと左右を
睨めまわしながら女王気取りで、行きつ戻りつ致しておりますところはナカナカの奇観【奇妙な光景】で御座います。
その女が前を横切る
度毎に、
桐の木の
根方に土下座をして、あまたたび【何度も】礼拝を捧げておりまする
髯だらけの大男は、長崎の某小学校の校長で御座います。親代々の
耶蘇教信心が、この男に到って最高潮に達しました結果、この病院へ収容されますと、
煉瓦や屋根瓦の破片に聖像を彫って、同室の患者たちに拝ませたり致しておりましたが、只今は又、
彼の女王気取の狂女を、マリヤ様の再来と信じまして、
随喜、
渇仰の涙を流しているところで御座います。
それから又、あの土下座している髯男の
周囲を跳まわっておりますお
垂髪の少女は、高等女学校の二年生で、元来、内気な、
憂鬱な性格で御座いましたが、芸術方面に非常な才能を あらわして おりまするうちに、
所謂、早発性痴呆となったもので御座います。
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……ところが、その発病と同時に、今までの性格がガラリと一変致しましたもので、ここへ入院致しました当時、
正木院長から名前を尋ねられた時にも「
妾は舞踏狂よ……
アンナ・パブロワよ」と答えたという病院切っての愛嬌者で、いつも御覧の通り、自作の歌を唄いながら、踊りまわっているので御座います。
「青アオい空オラを見イたら
白イロい雲ウモが高アかく
黒ウロい雲ウモが低イクく
仲アカア良オくウ並アらんで
フウラリフウラリ飛んで行よ
フウララフウララフゥ――ララ……
あたいも一緒に並アラんでエ
フウラリフウラリ歩るいたらア
赤アカい壁アべにぶつかったア
フウララフウララフゥ――ララ……
フウララフウララフゥ――ララ……」
又、こちらの方では四十位の職人風の男が二人、親密そうに肩を組んで、最前の
年増女と直角の方向に、行きつ戻りつしております。もっとも右側の男は東京見物、左側の一人は南極探検の意味で、
斯様に意気が投合して、大旅行を続けているのだそうですから、まことに世話が焼けません。それからこちらの入口の処に座っております肥ったお婆さんは、相当な身分の人らしい事が、その上品な着物の柄で推量出来ますが、しかし御本人は、そんなつもりではないらしく、いつもあのように貧民窟に住んでいるような格好で、居りもせぬ
虱を一所懸命に取っては
潰し、
抓んでは棄てております……かと思うとアレ……あの通り帯を解いて
丸裸体になりまして、大きな音を立てながら着物をハタキ初めますので、そのたんびに演説屋も、二人の職人も、女学生も、心理遺伝の発作を中止して、
指さし、眼さし、腹を抱えております。
さて……以上、映写致しましたところの
狂人たちの一挙一動を御覧になりました方々の中には、必ずや意外に思われた方が、おありになるに相違ないと存じます。
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「……ナアンダイ……これあ。当り前の
狂人じゃないか。何もこの解放治療場に限った事はない。どこの精神病院の散歩場に行っても、こんな光景が見られるじゃないか。
狂人の解放治療場という位だから、眼もはるかな
広っ
場に、何百か何千かわからぬ
狂人の群れが、ウジャウジャして、あらん限りの狂態を演じている光景が見られるのかと思っていたが、これじゃあチットモ張合がない。第一心理遺伝なんて、どこが心理遺伝なのかサッパリ解らないじゃないか」
……と……失望、落胆、軽蔑、冷笑される方がキットお在りになる事と存じますが、まあ、そう急がずにお待ち下さい。実を申しますと
正木先生の御研究に
係る、心理遺伝の実験に使う人物はこれだけで沢山なので、この中の二三人の狂態が、
如何なる心理遺伝によって演出されつつあるものであるかを、映画に
就て簡単に説明致しましただけでも、世界中のありとあらゆる精神異状の原因は残らずおわかりになろうという……申さばこの十人の精神病患者は地上千万無数の
狂人の中から選み出された精神異状の代表的チャムピオン……もしくは
正木博士の過去二十年間の御研究に係る心理遺伝の原理を、身を
以て直接に証明すべく現われた、世界的の標本とも見られるので御座います。
その先頭第一に御紹介致しまするは、最前から赤
煉瓦塀の横で畠を打っております、あの
白髪頭の老人で御座います。
この老人は、名前を
鉢巻儀作と申しますが、その五代前の祖先、すなわちこの
儀作の
曽々祖父に当ります者は、福岡の御城下、
鳥飼村に居りました名高い豪農で、同名
儀十と申す者で御座いました。その
儀十という男は、生れ付き左利きで御座いましたが、仲々の体力と精力の持主で、自分一代のうちに鍬一本で、大
身代を作り上げて、御領主黒田の殿様から鉢巻という苗字と、帯刀を許されたという立志伝中の人物だそうで御座います。
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ところで又、何が故にそのような奇妙な苗字を頂戴に及んだかと尋ねますると、この鉢巻と申しまするのは元来、この男の若い時分の
綽名で御座いました。つまり汗を拭う時間が惜しいというので、田畠の仕事を致します時には、いつも
眉の上の処に、
手拭で
後鉢巻を致しておりましたところから来た
綽名だというので御座いますから、
如何にその働らき振りが猛烈であったかが、おわかりになるでしょう。夜が明けてから暮れる迄の間に休むのはタッタ一度だけ……福岡、舞鶴城の天守の
櫓で、
午の刻……只今の正午のお太鼓がド――ンと聞えますと、すぐに鍬を放り出して、近くの
堤か
草原の木蔭か
軒下に行って弁当を使う。それから約
半刻……と申しますと只今の一時間で御座いますな。その間、
午睡をしてから、ムックリ眼を
醒ましますと又、日が落ちて、手元が見えなくなるまで休まないというのですから豪気なもので……多分この男も一種の
偏執性性格といったような素質を持った人間で御座いましたろうか。その赤黒い額に残った白い、横一文字の鉢巻の
痕跡が、息を引き取った
後迄も消えなかった。殿様の前に出た時も同様で御座いましたので、お側に居った慌て者が「コレコレ鉢巻を取れ」と申しましたところから、殿様が大層、
興がらせられて、
斯様な苗字を賜わったという、世にも名誉ある鉢巻で御座いました。
ところが、それから物変り 星移り【年月が経ち】まして、その
鉢巻儀右衛門から五代目に当るこの
儀作爺さんになりますと、その名誉ある鉢巻も左利きも、それから惜しい事にその大身代も、どこかへ なくして しまいまして、博多名物の筆屋の職人に成り下りました。
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そうして
斯様に老年に及びまして、眼が
霞んで細かい筆毛が扱えないように なりましたために、余儀なく失職する事に相成りますと、それを苦に致しました結果、精神に異状を来しまして、一週間ばかり前に、当大学に連れ込まれるという、憐れな身の上と相成ったので御座います。
ところが不思議で御座います。
正木先生がこの爺さんの発狂の動機、すなわち心理遺伝の内容を探るべく、解放治療場に解放されましてから間もなくの事で御座いました。場内の片隅に、小使が蛇を殺したまま置き忘れて行った鍬を見付けますと、早速先祖の真似を初めました。もっとも鉢巻は致しませぬが、御覧の通り最前から一度も汗を
拭いませぬ。又、鍬を持っている手附きも、発狂前と正反対の左利きになっておりまして、十二時の
午砲を聞きますと同時に、鍬を投げ出して病室に帰って、サッサと食事を済まして、ゴロリと寝台の上に横になるところまで、五代前の
儀十の生れ代りとしか思えませぬ。但し一度寝てしまいますと、疲労が
甚しいせいか、あくる朝までブッ通しに
白河夜舟で、晩飯も何も喰いませぬ。おおかた夢の中で、
曽々祖父の
儀十になって、大身代でも作っているので御座いましょう。
……これが心理遺伝の第一例……御質問がありましたら御遠慮なくお手をお上げ下さい。
次に御紹介致しまするは最前から、赤
煉瓦の壁に向って演説を致しております破れモーニングの小男で御座います。これは、あの空中で振り動かしております右の手附と、物を支え持ったような格好にしている左の手と、それからあの、演説の
中に使っている言葉が、有力な参考になるので御座います。
「……これは帝国の前途に横たわる一大障壁であります。
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今日の如く
上塗りの思想が横行し、
糊塗縦横【一時しのぎに取り繕う】の政治が永続しているならば、
吾々日本民族の団結は、あの
切藁【きりわら】を交えぬ土塀の如く、外来思想の風雨のために、遠からず
土崩瓦解の運命に……」
いかがです。最前からお聞きの通り、この
毬栗のフロック先生の演説の中には、壁という文句や、又は壁に関係した言葉が、度々出て参ります。すなわちこの小男の母方の祖父は、黒田藩御用の左官職であった……お笑いになっては困ります。落語では御座いません……でありまして、その祖父の左官職人が、
或る時、福岡城の天守
櫓の上で仕事を致しておりますうちに、過って足を
辷らして墜落惨死を致したので御座いますが、しかも、その祖父というのは元来、何事につけても身の軽いのが自慢だったそうで……天守台の屋根に
漆喰のかけ直しをする時なぞは、殿様が
遠眼鏡で、その離れ
業を御上覧になった位だそうで御座います。そのほか平生の時にも足場を極めて簡略にして仕事をする癖がありましたために、出来上りは早う御座いましたが、何度も足がかりを誤ったり、途中に引っかかったりして
生命を
喪いかけましたのを、いつも奇跡的に助かって来たので御座いました。
然るに、それが
幾歳の時で御座いましたか、やはり天守の御屋根の絶頂に登って、殿様の遠眼鏡の中で働らいておりまする
中に、ウッカリ殿様の方へお尻を向けました。すると、それを下から見上げておりました係りの役人が、止せばいいのに大音を揚げまして「心せいや――い。御本丸から御上覧ぞ――う」と余計な注意を致しましたために、思わず固くなったもので御座いましょう。
忽ち足を踏み
辷らしまして、数丈の石垣から転がり落ちつつ、
粉微塵となって相果てました。それ以来、その家の左官の職は絶えたので御座いますが、サテその祖父の血が、その娘を通じて、このモーニングの小男に伝わりますと、恐ろしいもので御座います。
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この男は中学時代までも時々、夜中に寝呆けて跳ね起きまして「助けてくれ」とか何とか言って叫び出す癖がありました。その
都度に家族の者が驚かされて「どうしたのか」と落ち付かせて聞いてみますと「何だか高い屋根か、雲の上みたような処から、
真逆様に落ちて行くような気がした」と申しましたそうですが……ナント奇妙では御座いませんか。
斯様に普通人の眼から見れば何でもない、軽い、
夢中遊行の発作にまでも、何代か前の先祖が幾度となく「ハッ」とした
刹那の、徹底した恐怖の記憶が再現しているところなぞは、何という不思議な心理遺伝の実例で御座いましょう。……否、
豈【どうして】、
独りこの演説男のみに限らんやであります。一般に
吾々が睡眠中に、どこか高い処から落ちたような気がして、ハッと眼を
醒ますことが ありますのも この例に照してみますと、格別、不思議では御座いませぬ。
吾々の両親でも祖父母でも、誰でも一度や二度は経験しているであろう「シマッタ」とか「俺は死ぬんだッ」とか思う瞬間の、
悽愴、悲痛を極めた観念の記憶が、一つの心理遺伝となって、
吾々子孫に伝わったものの再現であろう事は、誰しも疑い得なくなるで御座いましょう。
御質問は御座いませんか……。
序に今一つ御紹介致しますると、あのボール紙の王冠を頭に
戴いて、行きつ戻りつしている年増女で御座います。これはあの
衣紋のクリコミ加減【着付けの具合】でもお解りになります通り、
或る
町家の娘で、
芸妓に売られておった者で御座いますが、なかなかの手取りと見えて、間もなく
或る若い銀行家に
落籍【身請け】される事になりました。
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ところがその銀行家の両親が
昔気質の頑固者揃いで「身分違い」という理由の下に、彼女を正妻に迎える事を許しませんでしたので、彼女はそればかりを無念がりました結果、
或る宴会の席上で、初めてのお客に向って「アンタが何ナ……
妾に
盃指すなんて生意気バイ」と
啖呵を切りますと、イキナリその盃を相手にタタキ付けて、三味線を踏み折ってしまった……そのまま
当病室へ連れて来られたという痛快なローマンスの持ち主で御座います。しかし、思案の
外とは申しながら、昔と違いました新思想の今日で、ことに浮気稼業の身の上で御座いますから、それくらいの事で取り乱すのはチト気が
狭過ぎるように思われるかも知れませぬが、そこが「心理遺伝」の恐ろしいところで、「身分違い」という言葉が、彼女のプライドを傷つける以上に深い打撃を与えたであろう事が、彼女の発病後の態度を御覧になるとわかります。あの通りトテモ見識ばった【見識がある】お上品ずくめで、腰附きから眼づかい、足どりまでも
上つ
方【上流の人人】のお
上﨟【身分の高い女官】ソックリで御座います。すなわち彼女の家筋が、御維新前までは京都の
鍋取公卿【名ばかり幹部】……貧乏華族の成り
損ねであった事を、彼女はその精神異状によって証明致しておりますので、本籍の名前も町人らしくない
清河原という苗字で御座います。つまり彼女は、発病致しませぬ前までは、
環境の風俗にカブレて町家の娘らしく振舞っていたで御座いましょうが、一旦、精神に異状を
呈してしまいますと、最近、一二代の間に出来た
町家風の習性をケロリと忘れて、先祖代々の堂上方【上流階級】の気風を、そのままに あらわしているので御座います。
……ハイ……御質問ですか。サアどうぞ……。
……ナナ……ナル……ナルホド……
如何にも
御尤も千万……よくわかりました。
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つまり「心理遺伝」というものはタッタそれだけのものか……タッタそれんばかりの研究のために、
正木博士は
生命がけの騒ぎをやっているのか……と
仰言るのですね。
……恐れ入りました。多分その御質問が出る頃と存じましたから、このフィルムの編集者の方でも気を利かしまして、次には心理遺伝の発見者である当の
正木博士を、正面のスクリーンに映写致しますと同時に、只今の御質問について一場の講演をさせる順序に
取計らっております。……九大の
狂人博士として、
アインスタイン、
スタインナハ以上に有名な
正木博士がスクリーンに現われましたならば、何卒、
割むばかりの拍手を
以て、お迎えあらむ事を希望致します。何故かと申しますと当の御本人が非常な拍手好きで、講義中でも学生に拍手させるのを何よりの
楽みに致しておった位で御座いますから……ナニ……何ですか……スクリーンの中からじゃ、手を叩いても聞えまい……?……。アハハ。これは
御尤も千万……ところが聞えるから不思議で御座います。論より証拠……たたいて御覧になればわかる事で……どこに
種仕掛があるかは、
眉に
唾をつけて御覧になれば、すぐに、おわかりになる事と存じますが……エヘンエヘン…………。
……エエ……これが天下に有名な九州帝国大学、医学部、精神病科教授、医学博士、
正木敬之氏で御座います。背景は九州帝国大学、精神病科本館、講堂のボールドで、白い診察服を着ておりますのは、平生の講義姿をそのままに画面にあらわしたもので御座います。
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お
眼止りました通り、身長は五尺一寸【154.5cm】キッカリしかない、色の浅黒い小男で御座いますが、丸い
胡麻塩頭を光る程短かく刈込んだところから、高い鼻の左右にピカピカ光る大きな鼻眼鏡と、その下に深く
落凹んだ鋭い眼付き、横一文字にピッタリと結んだ大きな口元、又は鼻眼鏡をかけた
骸骨ソックリの表情で、テーブルの前に立ちはだかって、諸君を一渡り見まわしてから、総入れ歯をカッと
剥き出して笑うところまで、満身これ精力【全身が生命力の塊】、全身これ
胆【恐れを知らぬ行動力】、
渾身これ智【存在そのものが知恵】……。
……どうも……そうお笑いになっては困ります。……ナニ。質問……ハイハイ何ですか。ハハア。説明している私と、画面の中の
正木博士と同一人か別人か……。
アハハハハハ。これは失敗……早速退散致しまして画面の中の私……否。
正木博士に説明させる事に致します。{説明者消失}
{映写幕上の
正木博士、身振りに従って発声}
……エヘン……オホン……。
……吾輩は満天下の新人諸君と、この銀幕上に
於て
相見ゆる事を生涯の光栄とし、
且、無上の満足とする者である。
諸君は常識の世界に住んでいながら、非常識の世界に
憧憬れている人々である。現在、地上の到る処……汽車、汽船の行き尽す きわみ、自動車、飛行機の飛びつくす
隈々【
隅々】に
厳然とコビリ付き、冷え固まっている社交上の因襲【しきたり】、科学に対する迷信、外国の模倣、死んだ道徳観念……なぞいう現代社会の
所謂常識なるものに飽き
果て、変化
溌剌、
奔放自在なる生命の真実性そのものの表現を渇望する心……すなわち溢るるばかりの好奇心に輝く
眼を
以て、吾輩の
畢生【一生】の研究事業たる「心理遺伝」の実験を見られると、
立所にこれを理解された。
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一般の精神病者なるものが、
如何なる力に支配されて、何事を行っている者であるかという事実を何の苦もなく
首肯された。……のみならず諸君の好奇心は、それだけに満足しないで、更に、
百尺竿頭一歩を進めた質問を発せしめた。
曰く……「心理遺伝はタッタそれだけのものか」……と……。すなわち諸君の頭脳は、吾輩の二十年分の研究と相
伯仲する……否……
正木キチガイ博士の頭のスピード以上の明快なるスピードを
以て……イヤ……有難う。まだ拍手するには早いよ……この点に
就て吾輩は特に、
満腔【全身】の敬意と、感謝とを表明する次第である。
……何を隠そう。吾輩の
所謂「極端な心理遺伝」が、ただ、そんな風にして精神病者にだけ現われるものならば、大して驚く事も、心配する事もないのだ。
尤も今まで説明して来た程度の研究でも、そこいらにウジャウジャしているオタマジャクシ学者なんかにとっては眼の玉がデングリ返る程の大発見かも知れないが、しかし、
斯く申す吾輩、キチガイ博士にとっては、
躄【足のたたない】の乞食が駈け出した位にしか感じない程度の新発見に過ぎないのだ。
吾輩が「心理遺伝」の恐しい事を、
大声疾呼して主唱する
所以の第一は、それが
斯様にして精神病者に現われるばかりでない。普通人……すなわち諸君や吾輩にも精神病者と同様に、フンダンに現われている事が、明かに証明出来るからなのだ。
……ナニ。質問……イヤ。ちょっと待ってくれ
給え。質問の意味はアラカタ解っている……それでは精神病者と、普通人との区別が、わからなくなるではないか。そんな
篦棒な話があるものか……と言うんだろう。
……ところが純正な科学者の立場からいうと、そんなベラボーな話が「ある」という以外に返事の仕様がないから困るのだ。しかも精神病者とおんなし程度どころの騒ぎではない。
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吾々……むろん諸君も含んでいるんだよ……の精神生活の中には、精神病者と寸分違わない……もしくはソレ以上のモノスゴイ「心理遺伝」が、朝から晩まで、一分、一秒の
隙間もなく活躍している……眠っている間も夢となって
立現われて、執念深く
吾々の心理を支配しているから困るのだ。そのために自分の心が、自分で自由にならない場合が非常に多いから困るのだ。おかげで新聞、雑誌の社会記事が、無限に提供されて行く事になるのだから、問題にしない訳に行かなくなって来るのだ。
……これはズット以前、新聞記者にチョット話した事がある、心理遺伝の中でも極く極く手軽い実例ではあるが、
無くて七癖、あって四十八癖という奴は、精神病者と同様に、自分の気持が、自分で自由にならない好適例である。しかも、それを他人からドンナに笑われても、又は自分自身で是非とも改めなければならぬ必要を感じていても、どうしても止める事が出来ないのは、ソレが今いう心理遺伝のあらわれだからである。……泣くまいと思ってもツイ涙が出る。
憤る場合でないと思っても、思わずムラムラッと来て、前後を忘却してしまうのも、やはり一時的の精神の
偏りを、自分で持ち直す事が出来ない……という性格を、先祖の誰からか遺伝して来ているので、取りも直さず心理遺伝のあらわれに
外ならないから困るのだ。
そのほか、
凝り性、
嫌き性、ムラ気、お
日和機嫌、
胴忘れ【ドわすれ】、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、男あさり、女たらし、変態心理なぞの数を尽して百人が百人、千人が千人とも多少の精神異状的傾向を持たない者はない。心理遺伝に支配されていない者はないから大変なのだ。
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この道理は吾輩がズット前に書いた「胎児の夢」という論文を読めば一層よくわかるが、人間の精神とか霊魂とかいうヤツは要するに、その先祖代々の動物や人間から遺伝して来た、色々な動物心理や民衆心理なぞの
無量無辺の集まりに過ぎないのだ。その表面を「コンナ事をしたら笑われる」とか「もし見付かったら大変だ」とかいう
所謂人間の皮一枚で包んで、その上から又、倫理、道徳、法律、習慣なぞいうテープで縛って、社交、礼節、身分、人格なぞいう様々なリボンやレッテルで飾り立てて、更にその上からもう一つ、お化粧や油で塗りこくって、パラソルやステッキを振り回しながら「貴殿が紳士なら拙者もゼントルマンで御座る」「あなたがレデーなら
妾も淑女だわ」「ウヌが人間なら俺様も人間だ」といった風に、肩で風を切って白昼の大道を濶歩するのが
所謂普通人……もしくは文化人に外ならないのだ。
ところが、こうしたアイタイ【欲望・虚栄心】ずくめの文化人の包装は、その低級深刻にして、
奔放無頼なる心理遺伝の内容を
洩らすまいとして、いつも一パイに緊張している。その苦し
紛れに、ソッと少し
宛、息を抜きながら、人前だけを
繕って知らぬ顔をしているのが普通人であるが、それがトテも我慢し切れなくなって、どうかした拍子に大きく破れる事がある。それが個人では
癇癪、脱線、喧嘩、殺傷、詐欺、泥棒、
姦通その他の背徳行為【道徳や倫理に反する行為】となり、破れて復旧しないものは精神異状者となり、大勢の間では暴動となり、戦争となり、悪思想となり、
退廃的風潮となる。こうした心理遺伝の暴露の実例は、毎日の新聞でウンザリするほど見せ付けられているであろう。
吾輩は
敢て断言する……諸君も吾輩も共々に、精神病者と五十歩百歩の心理状態で生きているのだ。
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普通人と精神病者との区別が付けられないのは、刑務所の中に居る人間と、外を歩いている人間との善悪の区別が付けられないのと同じ事である。即ち地球表面上は
古往今来【昔から今まで】ソックリそのまま「
狂人の一大解放治療場」となっているので、九大の解放治療場は、その小さな模型に過ぎないのだ。その証拠には、その中に居る患者たちも、やはり諸君や
吾々と同様に「俺はキチガイではないぞ」と確信しつつ、盛んに心理遺伝を発揮しているではないか……と……。
ハハハハハ……どうだい諸君。少々腹が立ちはしないか。ナニ。……立たない……エライエライ。成る程諸君は立派な常識屋だ。現代文化を代表するに足る紳士淑女たちだ……エッ。何だって……? そうじゃない。相手がキチガイ博士だから、初めから本当にして聞いていない……?……ウハッ。こいつは恐れ入った。そこまで常識が発達していちゃ
敵わない。
よろしい。その儀ならばこっちにも覚悟がある。由来、科学の研究は
厚顔無恥、
無礼無作法を
以て本領とする。御免を
蒙り【お許しをいただき】
序にモット手近いところで人間諸君の赤恥を
突つき出して、是非とも一つ腹を立てさせて進ぜる事にしよう。
これはドナタでも御経験の事と思うが、すこし頭がボンヤリして来ると、色々な空想や幻覚が、次から次に浮き出して来るものである。
ところでこの空想とか、幻覚とかいう奴が、取りも直さず心理遺伝の幽霊に他ならないので、学問的に説明すると、脳髄の反射交感機能が疲労、
凝帯【とどこおる】したために、理知や、常識との連絡を失った色々な心理遺伝のアラレもない連中が、全身の反射交感機能の中で我勝ちに、勝手気ままな
夢中遊行を初めたものに相違ないのである。
242/596
……とりあえず女ならば、障子の蔭で、洗濯物か何かをツヅクリ回しながら、
来し方、行く末の事を考えまわしているうちに、いつの間にか取止めもない事を考え初める……あのデパートのあの指輪を万引して、もし見付からないものだったらナアとか……今の亭主が、今のうちに財産を残して死んだら、あんな
好い人とコンナ面白い生活が出来るんだけどナアとか……憎いアン畜生を、こんな風に
嬲り殺しにしたらナアとか……お
義母さんに猫イラズを
服ませたらドンナにか
清々するだろうにナアとか……あんな役者と心中したらとか……いっその事ヴァンパイヤになってやろうか知らん……なぞと……。又、男は男で、電車の窓から外を見て、長々と
欠伸でもしながら……あの紳士の横ッ
面を
引っ
叩いたらドンナ顔をするだろう……この町に風上から火を
放けて、火の海にして
終ったらドンナに綺麗だろう。あの群集を撫で斬りにしたらドンナに痛快だろう。あの瀬戸物屋にダイナマイトをブチ込んだら……あの巡査の
向う
脛をタタキ折ったら……あの金魚屋の金魚を電車通りにブチ
撒けたら……あんなお嬢さんを
妾にしたら……あの銀行の金庫をポケットに入れたら……なぞいう、飛んでもない光景を、その人間の鼻の鼻の先で描いている。そうしてハッと気が付いては、
独りで赤面したりしている。
これはみんな、自分の先祖代々の連中が、やってみたくて
堪まらないままに、ジッと我慢して来た残忍性、争闘性、野獣性、又は変態心理なんどの面々が、入れ代り立ち代り現代式の姿で、
吾々の意識の中に立ち現われているので、そんな事はないなぞいうのは、内省力のない石頭か、あっても忘れている低能連中に過ぎない。その証拠には、そんな夢遊心理のドレカ一つが昂進し過ぎて、精神異状にまで出世したのを見ると解る。
243/596
ちょうど小説の濃厚な場面に読み入って、そうした光景を意識の
中に描きながら、思わず
涎を垂らす時のように、精神病者の病み疲れた反射交感機能の中では、そんな遺伝心理が、現実の気持ちや感じ以上に強烈、深刻に夢遊し あらわれている……と同時に、それ以外の意識は
殆ど打ち消されてしまっているから、本人はシラ真剣になってその夢遊意識をその通りに実行する。だからそのする事、なす事が、一々先祖から伝わって来た気持の通りになって行くのだ。ソックリそのまま吾輩の学説とピッタリ一致して来る事になるのだ。
今を去る事三千余年。ここを
距る事三千里。【今からおよそ三千年以上昔、ここから三千里も離れた遠い場所で】
天竺は
仏陀迦耶なる
菩提樹下に
於て、過去、現在、未来、
三世の実相を
明らめられて、
無上正等正覚に
入らせられた大聖
釈迦牟尼仏様が「
因果応報」と
宣うたのはここの事じゃ。親の因果が子に
報いじゃア……エエカナア……。アハハハハハハハ。白骨の御
文章ではない。投げ
銭も放り銭も
要らぬ。現代科学の
中でも最新、最鋭の精神科学の講義だ。諸君が日常フンダンに経験している恐ろしい精神生活の説明だ。
しかし諸君。まだ驚いては早過ぎるよ。精神科学の原理原則は、もっともっと恐ろしい、驚目、
駭心に
価する事実を提供しているんだよ。
今まで説明して来たところによって既に、アラカタ理解されているであろう。人間の代が変るのは、
吾々が眠って又、
醒めるようなものである。一夜眠ったら
昨日の事なぞ、キレイに忘れていそうなものだが、サテ起き上ってみると、
殆ど無意識に、大工は昨日建てかけた家の続きを建てに行き、左官も同様に昨日の壁の続きを塗りに行く。
244/596
そうすると又、昨日の事を思い出して……ハテ昨日、ここで十銭玉をオッコトシタが……とか、きのうの丁度今時分に、向うを
別嬪が通ったっけが……とかいうので、昨日のその時分に、そこでそうした通りに、キョロキョロしたり、ポカンとなったりする。
精神の遺伝もその通り……親は昨日の自分で、子は
明日の自分じゃ。夜は昨日の自分から、今日の自分が生まれて来る、暗い、無自覚の
みごもりの姿になる時間じゃ。
されば男女を問わず人間は、自分の先祖が
嘗て、そんな気分、精神状態になった場面、品物、時候、天候なぞいう、
所謂、
暗示にブツカルと、今の大工や左官と同様に、ありし昔の心理状態に立ち帰る……しかも、そんな風にして先祖代々から遺伝して来た心理は、一つや二つじゃないぞよ。又、そうした心理の
暗示となるべき場面、品物、天候なぞいうものも、そこいら中にベタ一面に充満していて、夜となく、昼となく
吾々の心理遺伝を刺激し続けていて、眼の見える限り、耳の聞える限り、一刻一
刹那も休んでいないのだから恐ろしいぞよ。
吾々の一生を支配している「
艮の金神」というのは、実にこの「心理遺伝」の原則であるぞよ。今にドエライ証拠を出すぞよ……。
アハハハハハ。
大本教のお筆先と間違えてはいけない。
吾々が日常に経験している極めて平凡な事実だ。
245/596
吾々の気持が朝から晩までフンダンにクラリクラリと変化し、入れ換って行く……活動見に出かけるつもりが、途中でフイッと縁日の夜店に引っかかったり……旅支度で家を飛び出した奴が、図書館にモグリ込んだり……
好いた同志が結婚間際でイヤになったり……
鉄の草鞋で探し当てたタッタ一つの就職口をハガキ一本で断ったりするような、重大な心理の変化が引っきりなしに起るのは、そうした種々雑多な、無量辺【
無量無辺】の暗示が、引っきりなしに
吾々の心理遺伝を支配しているからで、それを自分自身に気付かないでいるのは、そうした暗示と心理遺伝の関係の
千変万化が、あまりに
刹那的で、微妙、深刻を極めているからだ。
……ところで……どうだい諸君。こうした暗示と心理遺伝の関係をモット深く、学理的に研究したら、イロンナ面白いイタズラが出来そうには思えないかね。ちょうど物理や化学の実験を見るように他人の精神に対して、思い通りの変化が与えられそうには思わないかね。
手近い例を
挙ると、人間の犯罪心理というものは、実に
詰らない……又は全然、何の関係もないと思われる暗示のお蔭で、意想外に大きな刺激を与えられている場合が、非常に多いものである。
246/596
……たとえば赤インキを附けたペン先をジッと見詰めているうちに何故ともなく横に在る女優の写真の眼玉に、突き刺してみたくなったり……青い空や、白い壁を見つめているうちに、フイッと残忍な気持になったり……窓の外の霧を見ると、ピストルの
手入をしてみたくなったり……大風の音を
聞ているうちに、短刀を
懐にして歩いてみたくなったり……よく切れる
剃刀を見ると、鏡の中の自分の顔と見比べてニヤニヤと笑ってみたり……寝床の中で女が冗談に「殺してもいいわよ」と言った笑顔を見てホントウに殺す気になったり……応接間に聞えて来る小鳥の
啼き声が、今の今まで真面目であった男女の間に、不倫な情緒を起させるキッカケになったり……なぞする。そんな気持の変化を見ると、別段に、何故という理屈の附けようのないところが、心理遺伝のあらわれに相違ないので、しかもそのいずれもが、スバラシク大きな犯罪心理の最初の芽生えである事は言う迄もない。
又は、古い講談、随筆、伝説、記録なぞいうものを読んでいると先祖が見てはいけないと言い残した幽霊の掛軸を見てから、妙な事を口走るようになったの、抜いてはならぬと
禁しめられている伝家の宝刀を抜いて見ているうちに、血相が変って来たの……というような話が、いくらでも出て来るのは、そうした恐しい心理遺伝の暗示の力を、誰にでもよくわかる品物であらわしてあるので、吾輩が調査記録した書類の中にも、そんな例が山を積む程ある。
ところで、こんな暗示の怖るべき作用を、学理的に研究して、ドシドシ実際に応用する事が出来るとなったら、ドンナ事になるだろう。
犬山道節、石川五右衛門、
天竺徳兵衛、
自来也以上の幻魔術が現代に行われ得る事に なりはしまいか。
それ程でなくとも、この種類の暗示を巧みに利用すると、出会い頭に他人を発狂させる事が出来る。
247/596
無調法【そこつ】な現代の科学応用の凶器みたように、音を立てたり血を流したりしないから、白昼の往来で
傍を通っている者でも怪しまない。当代の
如何なる名探偵が駈け付けて来ても全然
目星の付けようのない犯罪が行える……否、現在そこいらでドシドシ行われている としたらどうだね。
フフフフ……そんなに固くなって座り直さなくともいい。イクラ吾輩が精神科学の大家でも、このスクリーンの中から暗示を与えて、満場の諸君を一斉に発狂させる術は、まだ発見していないからね。
尤も、そんな事が出来たら面白いだろう……とは思っているんだが……ハッハッハッ……。
イヤ、これは冗談だが、こうした犯罪手段は既に、空想や、推測の範囲を通り越して、眼の前の問題となって来ている。事実は常に研究に先立って存在するものである……と言ったらチョット
眉に
唾液を付けてみたくなるであろう。
ところが驚く
勿れだ。現に吾輩の
畏友【尊敬する友】、九州帝国大学医学部長、
若林鏡太郎君の名著『精神科学応用の犯罪とその証跡』と題する草稿の中に、緒論として、コンナ
愚痴が並べてある。ちょうどその緒論だけが、吾輩の処へ校閲を頼んで来ているから、ちょいと失敬して抜き読みをしてみると、コンナあんばいだ。
248/596
……
曰く……
――余ノ調査研究セルトコロニ依レバ、既ニ往昔【いにしえ】ヨリコノ種ノ犯罪ガ行ワレツツアリシ事実ヲ認ムルヲ得ベシ。例エバ役行者(えんのぎょうじゃ)、阿部晴明(あべのせいめい)、弘法大師等ノ密教、陰陽術ノ流ヲ伝ウル者、真言秘密ノ行者、修験者、祈祷師、代人、巫女、ソノ他、何々教、何々様ト称スル 神仏類似ノモノニ 奉仕スル輩ノ中ニハ、積年ノ経験ヨリ得タル 一種ノ精神科学的ノ暗示法ヲ 口伝心伝シオリ、コレヲ理知、理性ノ発達不充分ナル女子、小児、モシクハ無知、蒙昧ナル男子等ニ応用シテ、ソノ精神作用ニ 何等カノ変化、傷害ヲ与エツツ、利得ヲ恣ニセシ形跡アリ、即チ、古来 伝ウルトコロノ「狐ヲ使ウ」「真言秘密ノ呪法ニカケル」 又ハ 「生霊、死霊ヲ憑ケル」「神罰、仏罰ヲ当テル」等ノ霊験、神業、行力等ニ 類似シタル所業ハ、精神科学ノ立場ヨリ見ルモ 絶対 不可能ノ事ニ 非ザレバナリ【不可能ということではない】、ソノ高等ナルモノニ到リテハ、催眠術、心霊術、降神術等ノ技術者ガ、文明社会ノ裏面ニ於テ 異常ナル勢力ヲ保有シオリ、玄怪【常識では考えられないほど不思議なこと】ニシテ 捕捉シ難キ 犯罪事件ノ裏面ニ 往々ニシテ コノ種ノ技術ノ活躍セル証拠ヲ 見ルトキハ、ソノ全部ガ 理知的詐術ナリトハ 断ジ難キ モノアリ――
――現今、我国内ニ於テモ、到ル処ノ精神病院、行路病者収容所、又ハ 街頭ヲ彷徨スル精神異常者ノ中ニ、カカル犯罪行為ノ犠牲者ガ存在シ オラズトハ 断言シ難シ、唯、コレヲ合理的ニ探査追求シテ、犯人ヲ検挙スル事ガ、目下ノトコロ、殆ンド不可能ナルガタメニ、実例トシテ 列挙シ難キノミ。何トナレバ、此ノ如キ手段ヲ用イテ、精神的ニ 人ヲ 殺傷スル場合ニハ、他ノ犯罪手段ニ於ケルガ如キ 物的証拠ヲ厘毫【極めてわずかな差や微量なこと】モ留メズ、一滴ノ血、一刹那ノ音響、一片ノ煙ダモ認ムル能ワザル ノミナラズ、当該被害者モ 亦、直チニ一切ノ証言ヲ 為シ得ベキ資格ヲ 喪失スルト同時ニ、ソノ精神ノ異状ヲ 回復セムガ タメニハ カナリノ長日月ヲ要シ、又ハ 永久ニ 回復セズ、万一コレヲ回復スルモ、ソノ被害当時ノ回想、又ハ 犯罪手段ニ 対スル記憶ノ残留 セルモノアリヤ否ヤ、甚ダ疑問ト スベキモノアリ、調査上 甚シキ困難ニ遭遇スベキ事、予想ニ 難カラザレバ ナリ――
――思ウニ 現代ノ文化ハ所謂、唯物科学ノ文化ナリ。故ニ、随ッテ ソノ間ニ行ワルル犯罪ノ種類モ 亦、唯物科学ノ原理ヲ 応用セルモノ多カルベキハ 自然ノ理ナリ。然レバ 将来、精神科学ノ 諸般ノ学理ガ、一般ノ 常識トシテ 普及スルニ到ラムカ、同様ニコレヲ 応用セル犯罪ガ、旺盛ナル流行ヲ 示スベキハ 論ヲ俟タザルベク、而シテ ソノ犯行ノ恐怖、戦慄ニ 値スベキ事、現代ノ所謂、唯物科学応用ノ 犯罪ノ比ニ非ザルベキモ 亦 自明ノ理ナルベシ。而シテ 此ノ如キ 犯罪ニ対シテ、吾人 法医学者ハ、如何ニシテ 犯罪ヲ調査シ、凶器ヲ 研究スベキヤ。如何ナル基礎知識ニ 照シテ、犯行ノ径路、手段ノ内容ヲ明カニ スベキヤ――云々――
……どうです諸君。
249/596
吾が
畏敬すべき法医学者、
若林鏡太郎君は、遠からず全世界に大流行を
来すべき「精神科学応用の犯罪」を研究して、その流行を未然に喰い止めるべく、その実例を
蚤取眼で探している。その犯罪の被害者らしい精神病者や自殺者が、地上到る処にウヨウヨしているに
拘わらず、その犯行の手がかりとなるべき暗示材料、その他の証拠が見当らないために、本当の研究が発表出来ないという悲惨事に直面して、あらゆる苦心
惨憺を続けている。そうして、あらゆる人間の身振り、素振り、眼付き、手付き、口つき、言葉つきの
端々に到るまでも、精神科学応用の犯罪ではないかと疑い続けているのだ。
……
然るにだ……。
……諸君どうです……。
ここに一つドエライ研究材料が、吾輩の処へ転がり込んで来たものだ。……もっともコイツを最初に発見したのは、今の
若林鏡太郎君で、同君はこれを空前の「精神科学応用の犯罪」に相違ないと
睨んで、調査を
遂げて来たものなんだが、一方に、吾輩の
所謂「心理遺伝」の参考材料としても、その価値は形容の出来ない程に素晴らしいものがある。しかも、そいつに釣り込まれて、ウッカリ手を出したのが運の尽きで、
流石の吾輩も
十万億土行きの片道切符を買って、裸一貫で逃げ出さなければ ならない破目に立到ったほど、それほど左様に恐しい研究材料だったのだ。……その発狂の動機となっているモノスゴイ暗示材料の正体は勿論の事、その心理遺伝に支配された
夢中遊行開始前後の怪奇、
悽愴を極めた状況。もしくは心臓がトロトロと溶解して、流れて行くくらい気持のいい、心理遺伝の内容の詳細まで、何一つ遺憾なく完備した、途方もない調査記録が手に入ったのだ。
250/596
実に、国宝とも世界宝とも何とも言いようのない……極度に科学的で、徹底的にローマンチックな、エロ、グロ、
ノンセンス共に百二十パーセント以上の含有量をもった……空前絶後の超々特作的スケールの雄大さと、ストーリーの深刻さをあらわした……実にソノ何とも
彼とも……。
アハアハアハ。イヤ失敬失敬。わかったわかった……拍手は
止してくれ
給え。形容詞ばかり並べて済まなかった。どうもアルコールが欠乏して来ると、アタマの反射交感機能が遅鈍になるのでね。チョット失敬してキング・オブ・キングス【ウイスキー】の
喇叭を
吹してもらおう。
序にハバナ【葉巻】の方も一つ輪に
吹して……オットット……これはしたり。吾輩はまだ教壇の前に居るんだっけね。早速スクリーンの中から引退して、代りに今言った怪事件の内容を映写しながら弁士の役を引受ける事にする。そうして諸君の常識を一撃の下にコッパ・ミジンに……。
……ナニ……吾輩がスクリーンの外へ出たって、おんなじ事じゃないかって……?……。ウワア。コイツは又一本参られた。ソウ頭がよくちゃ始末が悪いね。……実はモウ暫くすると今一人、別の吾輩が銀幕の中に現われて、その怪奇を極めた心理遺伝事件の内容を「解放治療」の実験にかけて行く実況を演出する事になるのだ。だからその時にそのモウ一人の吾輩である吾輩は、是非とも映写幕の外に出て、説明役にまわらないとドウモ具合が悪いのだ。未来派の芝居とは違うからね……。
251/596
……
勿体なくも
K・
C・
MASARKEY会社の超々特作と題しまして『
狂人の解放治療』という、勿論、今回が封切の天然色、浮出し【立体的】、発声映画と御座いまして、出演俳優は皆、関係者本人の実演に係る実物応用ばかり……希代の美少年と、絶世の美少女を中心として、渦巻き起る不可解に続く不可思議、戦慄に続く驚異の
裡に、二十余名の男女の血と、肉と、霊魂とがいつからともなく、どこからともなく
卍巴【互いに相手方を追うような形に】と入り乱れて参りまして、遂にはこの「
狂人解放治療場」に
於て、
悽惨、無残、眼も当られぬ結末を告げるか、告げぬかの際どいクライマックスに到達しようという……よろしく
満腔【全身】の御期待をもって……{
溶暗【フェード アウト】}……
{
字幕} 実母と
許嫁と、二人の婦人を
絞殺した怪事件の嫌疑者、
呉一郎
(明治四十年十一月二十日生)大正十五年十月十九日、九州帝国大学、精神病科教室付属、
狂人解放治療場に
於て撮影――
{
説明} まず最初に御紹介致しまする、この事件の若い主人公……すなわち最前、小手調としてお眼にかけました十名の
狂人の中でも、老人の
畠打を見物致しておりました青年の、正面向きの大写しで御座います。字幕にあらわしました通り、名前を呉
一郎
と申しまして、当年取て二十歳で御座いますが、御覧の通り、男が見ましても吸付いてみたいほどの
ういういしい美少年で御座います。
ところでこの事件の内容に立入りまするに先立って、
何故に事件の主人公の顔を、
斯様に大写しにして御覧に入れたかと申しますと、ほかの理由でも御座いませぬ。この少年の骨相が、この事件の根本を支配致しております心理遺伝と、重大な関係を持っているからで御座います。
252/596
御承知の通り骨相学と申しますのは、目下のところ、まだ純正な科学とは申しかねるのでありますが、しかし、その中の
或る部分部分は、確かに実際と一致することが判明致しておりますので、
正木先生はかようにして、新しい精神病患者の顔を見る
毎に、その骨相を詳細に
亘って研究されまして、その血液の中に、
如何なる人種の特徴が混入しているかを、
怠らず調査しておられるので御座います。換言致しますれば、一切の人間の心理遺伝は、その近い先祖たちの各個人個人の特徴をあらわすと同時に、ずっと大昔の野蛮未開時代に、各方面から入れ
混って来た、各人種の心理的特徴をも、
併せて現わしておりますので、一口に日本と申しましても、その骨相と性格の中には、
蒙古、
印度、
馬来、
猶太、
拉甸、アイヌ、スラブ等の各民族の風采と性格が、切っても切れない因果関係をもって結ばり合つつその人間の特徴を作り出しているので御座います。……すなわち人間の骨相というものは、その先祖代々の血統の縮図……又、
或る一人の性格というものは、その人間の先祖代々の精神生活の
凝り固まりとも考えらるべきもので御座いますから、そのような点を考慮致しまして、その人間の表面的の性格は勿論のこと、本人自身にも気付れずにいる、隠れた性格を探し出して、その人間の発狂の状態と照し合せるという事は、研究上、誠に必要な事で御座います。……
彼の愛犬家や愛馬家が、市場に並んでいる動物の顔付き、毛並み、骨格なぞを、ただ一眼見回しただけで、その血統や性質、習慣、又は隠れたる性癖までも、星を
指す如く言い当てるのは、この原理を動物に応用したものに過ぎませぬので、将来の探偵術や、法医学者の研究は、是非ともここまで突込んで来なければ
嘘であるという確信を、
正木先生はズット以前から持っておられるので御座います。
253/596
そこでその
正木先生の診断メモによって、この少年の骨相を解剖的に説明致しまして、引続き暴露致して参ります物凄い事件の特徴と、対照して頂く事に致しますと、どなたでも、第一に気付かれます事は、この少年の血色が、日本人としては白すぎる事で御座います。御覧の通り、
頬にポーッと
紅味がさしておりますのは、まだ童貞でいる証拠で御座いますから、除外するとしましても、その皮膚にあらわれた日本人独特の健康色の
下を流るる透明な乳白色は、明らかに
白皙人種の血が、この少年の血統に
交っている事を推定させますので……しかも……そうとしますれば余程以前に、少なくとも一千数百年以前に、
天山山脈を越えて支那地方に入り込んで来たもので、
所謂、
胡人と称せられているものの血が加わっていたものが、現代に
於てこの少年の骨相上に復活したものではあるまいか……という事が、
後に出て参りますこの少年の祖先に関する記録によって推測されるので御座います。
次に、この少年の骨相の
中で、純粋に蒙古人種系統を代表致しておりますのは、素直な、黒い髪毛の生え際と、鼻の中の内部の形だけであります。この少年の鼻の穴は、曲りが少のう御座いますので、器械で覗きますと一直線に奥までわかる……お笑いになってはいけません。これは遺伝学上から申しましても大切な調査なので、もし白人の系統を引いた鼻の穴だと、恐ろしく曲りくねっているので御座います。
さて……以上の蒙古人系統の特徴を除外した、この少年の骨相をよくよく観察致しますと、そこにあらゆる異人種系統の寄り合所帯が発見されるので御座います。
まず……大体の顔の形は
拉甸系統のふくらみを持った卵型でありますが、
眉と、
睫毛が、絵筆で描いたように濃く長くて、眼の縁の隈がドコとなく青ずんで見えまするところは、何といってもアイヌ式であります。
254/596
又、鼻の外見的な格好は純然たる
希臘型で、
頬から
腮へかけての
放物線と、小さな薄い唇が、ハッキリと波打っている格好を見ますると、我国の古い仏像などに残っている
アリアン系統の手法を連想させますが……よく御覧下さい。こころもち薄い
腮の
中央に、北欧人種式の
凹みがありますから……「
頬の
笑凹がルビーなら
腮の笑凹はダイヤモンド」と申しますアレで、男にはあまり必要のない美的要素で御座いますが……御覧の通り微笑を含みますと一層よく解るので御座いますが……。
ところで
斯様に、一人一人の人間の骨相を調べましてから、その人間の特徴と照し合せてみますと まことによく一致いたします。その中でも一番よく一致いたしますのは性癖、その次は趣味、その次が才能という順序になっておりますようで……すなわちこの少年は、日本人式の
順良さと、アイヌ式の
尊崇心と、
拉甸人種式の頭の良さとを同時に持っているので御座いますが、それが又……あの通りウットリとした
瞬のし方でもお察し出来ます通りに、どことなく北欧人種式の
隠遁的な、
高雅な気風によって包まれておりますために、表面にパッと現われていないのであります。……つまり一口に申しますとこの少年は、どちらかといえば年齢の割合に
落付た、物静かな性格と見るべきで御座いましょう。
然るに、そのような表面的に冷静な性格が、一朝にして心理遺伝の暗示によって、撃破、
転覆されてしまいますと、今まで内部に
潜み流れておりました大陸民族式の、想像も及ばない執拗深刻、
且、凶暴残忍な血が、
驀然に表面へ躍り出して、
摩訶不思議な大活躍を演ずる事に相成ましたので、つまり只今から御紹介致します空前絶後的な怪事件の真相と申しますのは、要するにこの少年の鼻の穴の中に隠れておりました
蒙古人種系統の心理遺伝が、一時に暴れ出したものと、お考え下されば宜しいので御座います。
255/596
なお又、このほかに、この少年の骨相の中には、見逃してはならぬ大切なものが残っております。それは一面に極めて楽天的な、呑気なところがありながら、チョットした刺激や、
僅かな環境の変化にもすぐに感激興奮して、あたり構わず笑ったり、泣いたり、怒ったりする……一口に申せば極めて気の変り易い、
仏蘭西人みたいな性格を象徴している、純
拉甸型の薄い
腮を持っている事でありますが、しかし、この特徴も、この少年の平生の性格には、あまり現われていないようであります。やはり前に述べました極めて
明晰な頭脳と、
嫌人【人付き合いを避ける】的にハニカミ
勝な性格に押え付けられているらしく思われるのであります。……とは申せ、随分と
著しい特徴でありますから、この少年が解放治療場に参りましてから
後の、長い長い心理遺伝の発作の途中、もしくはその回復期に
於て、いつかはそうしたこの少年の
腮の性格……感傷的な、もしくは激情的な気質が、あらわれるに違いないであろう事を、
正木博士は楽しみにして待っておられた次第で御座います。
……以上述べましたところで、この呉
一郎
と申す少年の骨相は、あらかた、おわかりになった事と存じます。
斯様に色々な人種系統の特徴を、造化の神は
如何にして、これ程まで
端麗明朗に、且つ、純真
美妙に取り合わせたか という事を考えますと、誠に気味が悪くなります位で……科学の権威とか、人智の進歩とかを一枚看板にしてオマンマを頂いております私共も、こうした生きた芸術の傑作に接しましては、
唯、気を呑み、声を呑んで、頭を下るよりほかに
致方がないのであります。
次にはこの少年の心理遺伝を中心とする事件の推移が、
如何に奇々怪々なるプロット【物語】を
以て
正木博士の眼界に……オット違った。
256/596
同博士が自分の頭蓋骨と名付くる「天然色、浮出し、発声映画撮影機の暗箱」に取付けている二つの眼球のレンズと、左右の
耳朶【耳】のマイクロフォンに、
如何なる順序で、そうした事件の推移が印画されて来たかという事を、その順序通りに回転して行くフィルムに
就て説明して参ります。……{
溶暗【フェード アウト】}
{
字幕} 九州帝国大学、法医学教室、
死体解剖室内の奇怪事……大正十五年四月二十六日夜撮影――
{
説明} あらわれましたる映画は御覧の通り隅から隅まで、どこがドコやら、何が何やらわかりませぬ。
漆のような
暗黒な場面で御座います。従って説明の致しようもない訳で御座いますが、しかしよく御覧下さい。
繻子か
天鵞絨か、
暗夜の
鴉模様かと思われるほど真黒いスクリーンの左上の隅に、
殆ど見えるか見えない位の
仄青い、蛍のような光りの群れが、不規則な環の形になって漂うているのが、お眼に止まりましょう。……あれは最近大流行を致しておりまする猫イラズで自殺を遂げた
芸妓の胃袋の中のものが、
硝子の皿の中から
燐光を放っているので御座います。
あれをお認めになりましたならば、賢明なる諸君は、もはやこの暗黒が、尋常一様の暗黒でない事を充分に御推察になった事と信じます。……すなわちこの暗黒は九州帝国大学、法医学教室の一隅に在る、死体解剖室内の暗夜の状態を、すぐ横の階段下の物置から、天井裏へ
潜り込んだ処に在る、板の隙間から
窺いている光景で御座います。
257/596
この天井裏の
覗き穴は、よく
出歯亀心理に
囚われた小使や、又は好奇心に駆られた新聞記者なぞがコッソリと死体解剖を覗く処で御座いますが、よほど古くから在るものと見えまして、穴の内側の処が、爪やナイフでY字形に
削り拡げられておりまして、すこし顔の向きを換えさえすれば、部屋の下半部の隅々までも手に取る如く見回されます……のみならず、少々窮屈では御座いますが、物置の棚の上に足を伸ばしますると、三等列車に乗ったのよりもズット楽な気分で寝ている事が出来ますからまことに重宝で……
件の燐光を放っておる不浄な皿は、実は向側の隅の机の上に置いてあるので御座いますが、真上から見下して撮影致しておりますために、あのようにフィルムの上方に見えておるので御座います。
なおこの室内に在りますものが、あの皿一つでない事は申すまでもありませぬ。しかも両側の窓の
鎧戸や、入口の扉が、固く
鎖されておりまするために、この部屋の暗黒の度合は極めて深くなっておりますので、あの汚物の燐光が辛うじて認められます以外には、何一つ発見出来ませぬ。どこかでシイ――インと湯が湧いているような、死んだような静寂の
裡に、
正木博士撮影の「天然色、浮出し、発声映画」のフィルムはただ、漆のように黒く、時の流れのように
秘やかに流れて行くばかり……五十尺……百尺……二百尺……三百尺…………。
258/596
……そもそも
正木博士は、何の必要があってか、御苦労千万にも、その双耳、双眼式、天然色、浮出し、発声映画の撮影
暗箱を、この解剖室の天井裏まで
担ぎ上げたものであろう……
如何なる目的の下に、
斯様な詰らない暗黒の場面を、いつまでもいつまでも辛棒強く凝視した……否、撮影し続けたものであろう……堂々たる大学教授の身分でありながら、
斯様な鼠と同様の所業に
憂身をやつす【やつれるほど苦労を重ねる】とは、何という
醜体【
無様な姿】であろう……と諸君は定めし不審に思われるで御座いましょうが、この説明は
後になってから自然とおわかりになる事と存じますから、ここには略さして頂きます。
……時は大正十五年四月二十六日の午後十時前後……呉
一郎
の心理遺伝を中心とする怪事件が勃発致しましてから約二十時間後の光景……フィルムは依然として真黒なまま、秘やかに
辷っております。五百尺……八百尺……一千尺……一千五百尺……画面の静けさと暗黒さとは以前の通りで、ただあの汚物の燐光が、次第に青白く、明瞭の度を加えて来るばかりであります。折りしもあれ、この教室を包む一棟の
中の、遥かに遠くの小使室で打ち出す時計の音が、
陰に
籠って……一ツ……二ツ……三ツ……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ンボ――ンボ――ンボ――ン…………ボオ――オオ――ンン……。
……十一時を打ち終りますと同時に、眼の前の暗黒の中で、何かしら分厚い、大きな木の箱を閉したような音がバッタリと致しますと、間もなくパアッと大光明がさして、眼も
眩むほどギラギラと輝やくものが、そこいら中一面にユラメキ現われました。
259/596
それは御覧の通り、部屋の中央に近く、四ツほど吊されております二百
燭光【200カンデラ:ろうそく200本分】の電球のスイッチが、最前からこの部屋の中に息を殺していたらしい人間の手で、次から次に
捻られたからで御座います……が、よく眼を止めて見ますと……。
……おお……その室内の光景の
如何に物々しい事よ……。
まず第一に視神経を吸い寄せられまするのは、部屋の中央を楕円形に区切って、気味の悪い
野白色【異様な白】の光りを放っている解剖台で御座います。この解剖台は元来、美事な白大理石で出来ているので御座いますが、今日までにこの上で数知れず処分されました死人の血とか、脂肪とか、
垢とかいうものが少しずつ 少しずつ大理石の
肌目に浸み込んで、
斯様な陰気な色に変化してしまったもので御座います。
その解剖台上に投げ出された、黒い、
凹字型の木枕に近く、映画面の左手に当ってギラギラと眼も
眩むほど輝いておりますのは背の高い円筒形、ニッケル
鍍金の
湯沸器で御座います。これは特別注文の品でも御座いましょうか、欧洲中世紀の巨大な寺院、もしくは牢獄の模型とも見える円筒型の塔の無数の窓から、糸のような水蒸気がシミジミと
洩れ出している光景は、何かしらこの世ならぬ場面を連想させるに充分で御座います。それから今一つ……初めの
中はチョットお気が付きかねるかも知れませぬが、やがて何となく異様に眼に映って来るであろうと思われまする品物は、右手の窓の下に、壁に接して横たえられております長方型の大きな箱で御座います。その上に白い布が
覆われているところを見ますと、いか様これは死人を納めた
寝棺に相違御座いますまい。
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……もっとも死体解剖室に
寝棺といえば、必然過ぎるくらい必然的な取り合わせでは御座いますが、それが何となく異様に眼を
惹きますのは、その上に掛かっております白い覆いが、高価な絹地らしい、上品な光りを放っているせいでも御座いましょうか……。これは余談かも知れませぬが、このような立派な
寝棺が、法医の解剖室に運び込まれるような事は、まずないと申しても宜しい位で、大抵の場合、松か何かの薄い荒板製に、
白墨で番号を書き放した程度のものが多いのですが……。
そうした解剖台と、
湯沸器と、白い
寝棺と、三通りの異様な物体の光りの反射を、四方八方から取り巻く試験管、レトルト【首の曲がったガラス製実験器具】、ビーカー、フラスコ、大瓶、小瓶、刃物等の
夥しい陰影の行列……その間に散在する金色、銀色、白、黒の機械、器具のとりどり様々の格好や身構え……床の上から机の端、棚の上まで
犇めき並んでいる紫、茶、乳白、無色の
硝子鉢、又は暗褐色の陶器の壺。その中に盛られている人肉の灰色、骨のコバルト色【コバルトブルー】、血のセピア色……それらのすべてが放つ
眩しい……冷たい……刺すような、斬るような、
抉るような
光芒と、その異形な投影の交響楽が作る、身に
滲み渡るような静寂さ……。
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しかも……見よ……その光景の中心に近く、白絹に包まれた
寝棺と、白大理石の解剖台の間から、スックリと突立ち上った真黒な怪人物の姿……頭も、顔も、胴体も
悉く、灰黒色の
護謨布で包んで、手にはやはり
護謨と、絹の二重の黒手袋を、又、両脚にも寒海の漁夫が
穿くような巨大なゴムの長靴を
穿っておりますが、その中に、ただ眼の処だけが黄色く
縁取られた、透明なセルロイドになっております姿は、さながらに死人の心臓を取って喰うという魔性の者のような物々しさ……又は
籔の中に
潜んでいる黒蝶の
仔虫を何万倍かに拡大したような無気味さ……のみならず、あんなに高い処に在る電球のスイッチを、楽々と手を伸して
捻って行った、その素晴しい
背丈の高さ……。こう申しましたならば諸君はお察しになりましたでしょう。この怪人物こそは、
彼の有名な「
血液に依る親子の鑑別法」の世界最初の発見者であると同時に、現在『
精神科学応用の犯罪と、
その証跡』と題しまする、空前の名著を起草しつつある現代法医学界の第一人者、
若林鏡太郎氏その人であります。
その名法医学者、
若林鏡太郎氏は、只今申しました呉
一郎
少年の心理遺伝を中心とする精神科学界空前の大犯罪事件が勃発後、約二十時間を経過致しましたこの
深更になりますと、何等かの仕事をすべく、コッソリとこの解剖室に入りまして、
斯様に物々しい準備を整えたまま、時計の針が十一時……宿直の医員や、当番の小使が寝静まる時刻を
指すのを、今や遅しと待っていた者である事が、現在の状況に
依って、お察し出来る事と思いますが……サテ
斯様に電灯を
点けてみますと……ナント諸君。ここに又一つ奇妙な事実があらわれているのに、お気付きになりませんか。
この部屋の内部の状況は、御覧になりまする通り初めてのお方にとっては、何一つとして奇怪でないものはない。
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無気味でないものはない……と思われるので御座いますが、それでも今まで御覧になりましたところによって、「
若林博士は何かしら解剖台に向って仕事を始めようとしているのだナ」とか「その仕事の材料になる死体は、多分あの
寝棺の中に納まっているのだナ」というぐらいの事は、もはや十分に御推察になっている事と思います。
しかし……もし
左様と致しますれば、その
若林博士の助手となるべき人間が、この部屋の中に一人も見当らないのは、どうした事で御座いましょうか。
斯様な死体の解剖には、大抵の場合何等かの意味で、一人か二人の人間が立会っている事は、
殆ど原則ともいうべき通例となっているのでありますが……にも
拘わらず、御覧の通り
若林博士は、そのような人間を一人も室内に近づけていないところを見ますると、
何故か
判明りませぬが
若林博士は、今夜に限ってタッタ一人で、或る重大な、極めて秘密の仕事を決行せねばならぬ必要に迫られているのではありますまいか……否……解剖台の前後に在る二つの扉の双方ともに、鍵を挿し放しにしている事実に照しますと無論そうでなければならぬ。普通の事件で持ち込まれた死体の解剖や検案なぞとは違った、非常的な秘密事項が今夜の仕事に含まれているに相違ない……という事が、明らかに推測されるで御座いましょう。
……と思ううちに、部屋の隅の洗面器の処へ行って、手袋を
穿めたままの両手を念入りに洗って参りました
若林博士は、
やおら身を
屈めまして、
寝棺の白い
覆布を取り
除けて、これとてもこのような
室には滅多に見受けられぬ、分厚い白木の棺の蓋を開きますと、中から一個の
盛装した少女の死体を取り出しました。
前からの説明を御記憶の諸君には、
最早、この少女が何者であるかという、あらかたの御推察が付いている事と存じます。
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この少女こそは、前回に御紹介致しました本事件の主人公、呉
一郎
の花嫁となって、
華燭の典を挙げるばかりに相成っておりましたその少女で、名前を
呉モヨ子と申します。当年取って十七歳に相成りまする絶世の美少女で御座います。その
許嫁になっておりまする呉
一郎
……
K・
C・
MASARKEY会社の超特作は、超時代的、超常識的、精神科学映画『
狂人解放治療』の主人公たる無双の美少年俳優の相手役となりまして、互いに、あらゆる精神科学的の妖美と、戦慄とを描き出すべきそのエース花形女優は、かくして取りあえず、
寝棺の中の死体の姿となって、諸君にお目見得をする次第で御座います。
当年流行の新月色に、眼も
眩ゆい春霞と、五葉の松の
刺繍を浮き出させた
裲襠。紫地、
羽二重【高級絹織物】の千羽鶴、
裾模様の振袖三枚
襲ねの、まだシツケ【しつけ糸】の掛かっているのを逆さに着せて、金銀の地紙を織出した
糸錦の、これも
仕立卸しと見える丸帯でグルグルグルと棒巻にしたまま、白木の
寝棺に納めてある……その異様な美しさ、痛々しさ。この事件の並々ならぬ内容が
窺われますばかりでなく、そうした死骸を、こうして棺に納めた人々の思いまでも察せられまして、そぞろに胸が
塞がるばかりで御座います。
しかし
最早すでに、学術の権化ともいうべき心理状態になっているらしい
若林博士は、そんな事を気にかけるような態度を
微塵も見せませぬ。
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衣装なんぞには用はないという風に、極めて無造作に、
裲襠と、帯と、
振袖の三枚
襲を
掴みのけて、棺の
傍に押し込みますと、その下から現われましたのは
素絹に覆われました顔、合掌した手首を白木綿で縛られている清らかな二の腕、
紅友禅の
長襦袢、
緋鹿子絞りの
扱帯、燃え立つような
緋縮緬の
湯もじ、白
足袋を穿かされた白い足首……そのようなものがこうした死体解剖室の冷酷、残忍の表現そのものともいうべき器械、器具類の物々しい配列と相対照して、一種形容の出来ないムゴタラシサと、なまめかしさとを引きはえつつ、黒装束の腕に抱えられて、
煌々たる電灯の下に引き出されて参ります。中にも
一際もの凄くも
亦、憐れに見えますのは、
丈なす黒髪を水々しく引きはえて、グッタリと
瞑目している少女の顔に乱れ残った、厚化粧と口紅で御座います。そうして……おお……あれを御覧なさい。
あの襟化粧をした
頸部の
周囲に、生々しい斑点となって群がり残っている
絞殺の痕跡……紫や赤のダンダラ【まだら模様】を畳んでいる
索溝【くぼみ】を……。
……それを静かに、大理石の解剖台上に横たえました黒怪人物の
若林博士は、やはり何の容赦もなく、合掌した手首の白木綿の緊縛を引きほどき、
緋鹿子絞りの
扱帯を解き放って、
長襦袢の胸をグイグイと引き はだけました。そうして
流石は
斯界【この分野】の権威と
首肯かれる
手練さと周到さをもって、一点の曇りもない、
玲瓏【美しく照り輝く】玉のような少女の全身を、残る
隈なく検査して
終いましたが、やがてホッとしたように肩で息をつきますと、両腕を高やかに組んで、少女の死体をジッと見下したまま、真黒い鉄像のように動かなくなりました。
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……この深夜に、
斯様な場所に
於て、世にも稀な美少女の死体と、こうしてタッタ一人で向い合っている黒装束の
若林博士は、果して何事を考えているので御座いましょうか……この少女の死に
絡まる残酷と奇怪を極めた事情を、死体を前にしつつ今一度考え直して、そこに博士独特の
透徹【筋が通っていてすみずみまではっきりしていること】、鋭利なる観察の焦点を発見すべく、苦心
惨憺しているので御座いましょうか……それともこの死体が、この教室に
於て
未だ
曽て発見された事のない程に、無残な美くしさと、深刻な
あでやかさとを あらわして おりますために、生涯を学術のために捧げている独身の同博士も、思わず
凝然【直立不動の姿勢で】、
恍惚として、何等かの感慨無量に及んでいるので御座いましょうか……否々。そのような想像は、厳正周密なる同博士の平生の人格に対して、敬意を失する
所以で御座いますから、これ以上に深く立入らぬ事に致します。
……と……やがて突然、
吾に帰ったようにハッとして、誰も居ない筈の部屋の中をグルリと見回しました
若林博士は、黒装束の右のポケットに手を突込んで、何やら探し
索めているようで御座いましたが、そのうちにフト又、思い出したように
寝棺の箱に近付いて、美しく堆積した着物の下から、子供の玩具ほどの大きさをした黒い、
喇叭型の筒を一本取り出しました。これはこの節の医者は余り用いませぬ旧式の聴診器で、人体内の極く微細な音響まで聴き取ろうと致します場合には、現今のゴム管式のものよりも こちらの方が有利なので御座います。
若林博士は、その
喇叭型の小さい方の一端を、少女の死体の左の乳房の下に当てがいまして、他の一端を覆面の下から、自分の耳に押当てて、一心に聴神経を集中しているようで御座います。
死体の心音を聴く。……おお……何という奇怪な
若林博士の所業で御座いましょう。
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見ている者の胸の方が、
却ってオドロオドロしくなりますくらいで……。
……けれども御覧なさい。
若林博士は依然として
旧式聴診器に
耳朶を押当てたまま、片手で解剖着の下から、銀色の大きな懐中時計を取り出して、一心に凝視しております……確かに心臓の鼓動音が聞えているので御座います。すなわち、この解剖台上の少女の肉体は、まだ生きているに違いないのであります。……そういえば最前、
若林博士がこの少女の全身を検査した時に、死後相当の時間を経過した死体の特徴として、どこかに、是非とも現われて いなければ ならぬ薄青い死斑が、どこにも影を見せなかった……又、強直した模様もなかったところを見ますると、多分、この少女はあの
寝棺に納まっているうちから……否。あの棺箱に納められる以前から、死んではいなかったに違いないという事が考えられるのであります。
頸部の
周囲には歴然たる
索溝――
絞殺の痕跡を止めたまま……。
……何という不可思議な出来事で御座いましょうか……。
しかし
若林博士は格別、驚いた様子も見せませぬ。間もなくステトスコープを耳から離して、時計と一緒にチョッキのポケットに突込みましたが、
如何にも満足そうに二ツ三ツ大きくうなずきながら、改めて少女の姿を見下しているので御座います。
こうした態度から察しますると
若林博士は、一番最初に、この少女の死体を検案致しました時から、この少女が医学上、希有とされている仮死状態に陥ったものである事を、早くも
看破していたものと見えます。勿論それは、その以前に馳付けたであろう附近の医師や、警察医が、充分に診察を遂げた
後の事でなければなりませぬが、それにも
拘わらず、仮死である事を確認致しましたのは、
如何なる点に着眼したもので御座いましょうか。
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しかも、その上に、その仮死体を、
如何なる名目の下に
斯様な棺桶に
詰て、この部屋へ運び込ませたものか……のみならずその奇怪な少女の仮死体を、こうしてタッタ一人で極秘密裡に いじくりまわしている というのは、
如何なる理由と目的があっての事で御座いましょうか。尋ねる よすが もありませぬが、何に致せ一代の名法医学者、
若林鏡太郎氏の事で御座いますから、古今東西に於ける仮死の例証を、既に充分に研究し尽しているので御座いましょう。そうしてこの少女の死体が、仮死体であるという事実を、単に自分一個限りの絶対秘密にしておくという事が、この空前の怪事件の解決のために必要、止むを得ないであろう何等かの重大な理由を、彼自身に確認しているからの事で御座いましょう。
そればかりでは御座いませぬ。……その
若林博士が扮装しました、この黒怪人物は、先刻から
暗黒の中に
潜んでおりました際に、
彼の
寝棺の蓋をソッと開きまして、この少女を仮死状態から覚醒せしむべく、同博士独特の何等かの刺激手段を
施しつつ、時々ステトスコープでもって少女の心音を
窺っていた事が、疑いなく察せられるのであります。……というのはツイ今しがた、その
若林博士の黒怪人物が、十一時の時計の音を聞いて電灯を
点けます前に、何やらパタリと音を立てましたのは、同博士が棺の蓋を閉じた音に違い御座いませんので、ステトスコープもその時に、着物の下へ置き忘れて来たものと考えられるからであります。……が、それと同時に、極めて些細な事ではありますけれども、
斯様な大切な商売道具を置き忘れるという事は、平生の同博士の極度に冷静周密な性格から推して考えますと、真に意外と思われる出来事で、今夜の
若林博士は、確かに平常と違った心理状態にある。
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少くとも同博士が
如何に夢中になって、この少女をこの世に呼び
活かすべく暗黒の中で苦心、熱中していたかという事は、この一事を
以てしても、十二分に察せられる訳では御座いますまいか。
しかし
若林博士の手腕が、
如何に卓抜恐るべきものがあるかという事は、まだまだこれから
追々とお解りになりますので、
今迄のところはホンの
皮切に過ぎないので御座います。
若林博士は、解剖台上の少女が、その仮死状態から時々刻々に
眼醒めつつある事を知りますと、御覧の通り極めて緊張した態度で、左右の手袋を脱ぎました。解剖着の下にまん丸く膨れております
洋袴のポケットにその手を突込んで、色々な品物を取出しながら、一つ一つ
傍の木机の上に並べました。
白髪染の薬瓶と竹の歯ブラシ。三四本の新しい筆。小さな
墨汁の
鑵。
頬紅と口紅を容れたコンパクト。化粧水。香油。クリーム。
練白粉の色々……等々々。いずれも、
斯様な部屋に似合しからぬ品物ばかりで……。それから入口に近い棚の奥に隠してありました茶色の紙包を開きますと、中から白木綿と白ネル【フランネルという柔らかく軽い毛織物】の筒
袖の着物、安っぽい
博多織の腰帯、
都腰巻、白い看護婦服と帽子、バンドの一揃い、スリッパ、看護婦帽、ヘヤピンなぞの、いずれも新しいものばかりを取出しまして、やはり傍の木机の上に置き並べました。
斯様な品物は皆、昼間から準備していたもので、多分、解剖台上の少女に着せるつもりではないか とも思われますけれども、何のために、そんな事をするのかという事はまだ判明致しませぬ。
次に
若林博士は、今一度ステトスコープを取り出して、少女の心音を念入りに聴き直した上で、向うの薬棚から小さな茶色の瓶を取って参りまして、その中の無色透明な液体を、心持ち顔を
反けながら、脱脂綿の一片の上にポトポトと
滴しました。
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それをまだお白粉の残っている少女の鼻の処へ、ソロソロと近付けつつ、左手で
静に脈を取っているので御座います。申すまでもなく、これは麻酔剤を
嗅しているので……あまり早く少女が覚醒しては困る事があると見えます。しかしこの少女を麻酔さしておいて、どうするつもりか……というような事は、やはり只今のところでは判明致しませぬので、そうした
若林博士の行動ばかりが、
愈々出でて、いよいよ奇怪に見えて来るばかり……。
……と思う
中に、麻酔剤を
嗅がせ終りました
若林博士は、はだけたままの少女の胸を
掻き合せますと、今度はツカツカと正面の薬棚に近づいてその片隅に突込んである美濃型【和本・帳面の判型の一種】、日本
綴の帳面を一冊取り出しました。その表紙には「死体台帳……九大医学部」と大字で楷書【漢字の標準的な書体】してありまして、その表紙を開くと、各
頁ごとに「死体番号」「受取年月日」「引取人住所氏名」「引渡年月日」なぞいうものが、一面に行列を立てて書込んである上と下に、一々
若林という検印が
捺してあります。……ところでその帳面の半分に近い、書込みの残っている頁まで、バラバラと繰って参りました
若林博士は、やがて最終から二番目の死体番号「四一四」、容器番号「七」と書いたのを
指で押えますと、そのまま帳面を傍の机の上に投げ出しまして、長々とした手をさし伸しながら、頭の上の二百
燭光のスイッチを四個とも切ってしまいました。
室内は、もとの通りの暗黒状態に立ち帰ったので御座います。
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しかも、このフィルムの暗黒状態は、ソックリこのまま、他の部屋の暗黒状態に入れ変って行くので御座いますが、果して、どのような意味の暗黒がフィルムの前途に待ち構えているで御座いましょうか……【
暗転】
……暗黒のフィルムが依然として諸君の眼の前に連続して行きます……十尺……十五尺……三十尺……五十尺……諸君の眼の前に
凝り固まって行く暗黒の核心に、やがて黄色い、小さい、薄汚れた電球が
灯りました。御覧の通り、どこかの鍵穴から覗いた陰気な室内の光景が現われました。
……ナント諸君……このような部屋を御覧になった事がありますか。
右手に見えております
混凝土の暗い階段は、この部屋が地下室である事を示しておりますので、正面に並んだ白ペンキ塗の十数個の大きな
抽斗は、皆、死体の容器なので御座います。すなわちこの部屋は、九大医学部長の責任管理の下にある死体冷蔵室で、真夏の日中と
雖も、
肌膚が粟立つばかりの低温を保っているのでありますが、
殊に只今は深夜の事とて、その気味の悪い静けさは、死人の呼吸も聞えるかと疑われるくらい……。
ここに姿を現わしました当の責任者、医学部長、
若林博士が扮しました黒怪人物は、室内の冷気に打たれたものと見えまして、暫くの間、絶え入るばかりに苦しい
咳を続けておりますが、そのうちに ようようの事【やっとのこと】で、それを押し
鎮めますと、ポケットから合鍵を取出して「七」と番号を打った死体容器に取付けてある堅固な南京錠を取除きました。それから車仕掛になった頑丈な容器をゴロゴロと、有り合う【たまたまそこにある】台の上に引出しましたが、一息吐く
間もなく、
やおら上半身を傾けまして、全身を包帯で棒のように巻き立てられた少女の
強直死体を、ズルズルと床の上に抱え下しました。
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見るとその
強直死体は、最前の仮死体の少女とは似ても似つかぬ色の黒い、醜い顔立ちではありますけれども、年格好や背丈け、肉付き、又は生え際の具合なぞは、どうやら似通っているようで御座います。
若林博士は前からこの死体に眼星をつけていたものらしく、よく
検めもせず、又は、少しの
躊躇も見せずに、容器をピッタリと元に
復して、南京錠を引っかけますと、その死体を材木か何ぞのように担ぎ上げて、一歩一歩とコンクリートの階段を昇り詰めながら、片手で壁際のスイッチを切って、地下室の電灯を消してしまいました。【
暗転】
ここで又、暫くの間、暗黒の場面が続くので御座いますが、しかし……お聞き下さい。あの
夥しい犬の吠え声を……。
あれは今の死体冷蔵室と、法医学教室の裏手に連なる松原の
暗黒伝いに、人眼を避けつつ死体を担いで行く、
若林博士の異様な姿を、その松原の附近に設けられている実験用の動物の檻の中から、野犬の群が発見して、吠え立てているところであります。それに
魘えて狂いまわる
猿輩の
裂帛の叫び……呑気な羊や、
鶏の類までも眼を
醒して、声を限りに啼き立て、
喚めき立てている。その暗黒の騒がしさ……モノスゴサ……。けれども
斯様な動物どもが騒ぎまわる事は、
殆ど毎晩といっても宜しいので、誰一人として怪しむ者はありませぬ。
況して【なおさら】堂々たる大学の医学部長が、自分の責任管理に属する死体をコッソリ盗んで行く……という前代未聞の怪事実を吠え立てていようなぞと、誰が思い及びましょう。九州帝国大学構内を包む春の夜の闇は、すさまじい動物どもの絶叫、悲鳴の
裡に、いよいよ
闃寂として
更け渡って行くばかりで御座います。
やがてその声が次第に遠ざかって、ピッタリと静まったと思う間もなく、又もパッパッと四個の二百
燭光の電灯が
点きますと、場面は以前の法医学の解剖台の処に立ち帰ります。
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みると四百十四号の少女の
強直死体は、もうコンクリートの床の上に横たわっておりますが、一方に入口の扉を
以前の通りに厳重に
鎖し終った
若林博士は、解剖台の前に突立ったまま、黒い覆面の上から汗を押え押え息を切らしております。
大正十五年四月二十七日夜の、九大法医学部、解剖室には、かくして二個の少女の肉体が並べられた事になります。美しく
蘇りかけている少女と、醜くく強直している少女と……中にも解剖台上に
紅友禅を引きはえました少女の肉体は、ほんの暫くの間に著しく血色を回復しておりまして、麻酔をかけられたままに細々と呼吸しはじめている、そのふくよかな胸の高低が見える位になっております。その異常な平和さ、なまめかしさ……台の下の醜い少女の顔と相対照しておりますせいか、その美しさは一層美しく、ほとんど気味の悪いくらい、あでやかに感じられるようであります。
その脈拍を取り上げた
若林博士は、時計のセコンド【秒】と
睨み合せつつ、麻酔の効果を検診し初めました。その真黒い博士の姿が、心持ち頭を傾けたまま、石像のように動かなくなりますと、それに連れてこの室内の空虚が、ソックリこのまま、地下千尺の処に在る墓穴のような、言い知れぬ静寂に満たされてまいります。
そのうちに脈を取っていた少女の手を投げ出して、時計をポケットに納めました
若林博士は、その少女の
身体をそっと抱え上げて、部屋の隅に横たえてある
寝棺の蓋の上に寝かしました。
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そうしてその代りに四一四号の少女の
強直死体を解剖台の上に抱え上げて、
凹字型の古びた木枕を頭部に当てがいますと、大きな銀色の
鋏を取上げて、全身を巻立てている包帯をブツブツと
截り開く
片端から、取除いて行きましたが……御覧なさい……その蒼黒い少女の皮膚の背中から胸へ、胸から股へと、縦横にタタキ付けられている大小長短色々の
疵痕を……殴打、
烙傷【やけど】、
擦傷の痕跡を……それらの褐色、黒色、暗紫色の直線、曲線は腰部にあらわれている著明な死斑と共に、
煌々たる白光下に照し出されると同時に、そのままの色と形の蛇や、
蜥蜴や、
蟇となって、今にも彼女の皮肌の上を
匐いまわり初めるかと疑われるくらい……。
御承知の御方も御座いましょうが、全国の各大学や、専門学校の研究用の解剖死体には、こうした種類の死体がよく持込まれるので御座います。
殊に、この九大に収容されるのは、同地方に多い炭鉱や紡績、その他の工場、又は魔窟なぞへ誘拐
虐待されたもの、又は自殺者、
行路病者なぞの各種類に
亘っておりまして、中には引取人のないのも珍しくありませぬが、九大側では、そんなのを
片っ
端から研究材料にして切り散らしたあげく、大学付属の火葬場で焼いて
骨にして、五円の香典を添えて遺族に引渡す。又、引取人のないものは共同墓地へ埋めて、年に一度の
供養法会を
執行う事になっておりますので、この死体も、そうした種類の一つと考えられるのであります。
こう申しますうちに、死体の全身を手早く検査し終りました
若林博士は、今一度ホーッとばかり、
喘ぐように溜息しつつ、覆面ごしに顔の汗を押えておりましたが、やがて部屋の隅の洗面器の処に近付いて、水道栓から直接にゴクゴクと水を飲んでは
噎せかえり、呼吸を落付けては水を飲んで、暫くの間は息も絶え絶えに
咳入っております。
274/596
永年の肺病に
囚われて、衰弱に衰弱を重ねております同博士にとりまして、これだけの
労作は、
如何ばかりか
辛く、骨身にこたえた事でしょう。
けれども同博士の
怪より出でて怪に入る仕事は、まだ半分も進行していないので御座います。
程もなく洗面器の処から引返しました
若林博士は、まず死体の足の処にボール鉢を置いて、そこに取付けてあります水道栓のホースを突込んで、死体の脚部から背中へかけた解剖台面に水を放流し初めました。次いで今一つのボール鉢に湯を取りまして、スポンジと石鹸を使いながら、解剖台上の少女の
虐殺死体を、隅から隅まで丁寧に洗い
浄めましたが、次いでその皮膚の全面を、ガーゼと脱脂綿とでスッカリ
拭い乾かしますと、その貧しい赤茶色の髪の毛を真二つに引分けて、
傍に光り並んでいるメスの一つを取上ると見る間に、死体の
眉間の処をブスリと一突き……それから次第に後頭部に到る頭の皮を、一直線にキリキリと
截り開いて行きました。
ところで多少共にこの方面に関する知識を持っていられる方は、定めしここで「オヤ」と思われる事と存じます。
若林博士のこうしたやり方は、普通の場合に於ける死体解剖の手順になっております胸部、腹部から頭部、次に背部という順序を無視して、頭部から初めている事になりますから……。
そもそも古今の名法医学者
若林博士は、何の目的の下に、このような勝手気ままな順序を
以てメスを
揮いはじめたのか……と疑う間もなく四一四号の少女の頭の皮は
巧にクルリと裏返しにされまして、
髪毛と一緒に靴下を脱ぐように両眼の下まで引卸されました。
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次に、その下から現われました白い坊主頭を、
鋸で鉢巻形に引切りました
若林博士は、その下から現われた脳髄を、器用な手附で
鋏を使いながら
硝子の皿の上に取出しますと、そこで同博士一流の念入りな調査をこころみるか、それとも標本にして取っておくのか……と思われましたが、これが又案に相違して、まるでビフテキかオムレツでも取扱うような無関心さで、皿の中の脳髄をクルリと宙返りさせますと、そのまま
旧の空洞に納めまして、頭蓋骨を
冠せて、皮と髪毛をクルリと
覆うて、針と糸を迅速に
捌き働かせつつ、
粗っぽく縫い合せてしまいました。
……これは意外である。一種の
狼藉とも見るべき所業である。厳格方正を
以て聞えた
若林博士は、
何故に今夜に限って、
斯様な不誠意を極めた死体解剖を試みるのであろうか……と疑いの眼を
瞠っているうちに、死体は間もなく……ゴロリと
俯向けに引っくり返されました……と見ると、
疵だらけの背筋の中央、
脊椎の左右の筋肉が円
刃刀でもってゴリゴリと切り開かれました。そこから
二股の
鋸を突込んで、左右の
肋骨を切り
除けた
若林博士は、取出した背骨を縦に真二つに切り開いただけで、ロクに検査もせずに、もとの処に当てがいまして、太い針でブスブスと縫い合せてしまいました。その
一気呵成的なゾンザイサというものは、やはり前とおんなじ事なので……。
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次に
若林博士は今一度、死体をあお向けにして、汚れた処をザッと洗い浄めてから、腹部の皮の厚さを押えこころみている……と思ううちに、新しいメスをキラリと取上げて、
咽頭の処をブスリと一突き……乳の間から
鳩尾腹部へと
截り【切り】進んで、
臍の処を左へ半回転……
恥骨【骨盤の前面中央にある硬い骨】の処まで一息に
截り下げて参りますと、まず胸の軟骨を離して胸骨を
取除け、両手を敏活に働らかせつつ、胸壁から下へ腹壁まで開いて参りましたが、只一刀で腹壁、腹膜が同時に、切開かれておりまして、内臓には一点の
疵も附いていない。……五臓六腑の配置が歴々整然として、
蒼白い光りに輝き
濡れている光景は、気味悪いと申しましょうか、物凄いと形容致しましょうか……その肺臓の一面にあらわれている黒い
汚染は、この少女が炭坑労働に従事しておった事をあらわし、その致死の直接原因と見られる肝臓の破裂と内出血は、この少女に加えられた
虐待、もしくは迫害が、
如何に激烈であったかを証明しているのでありますが、しかし
若林博士は相も変らず、そんな事には眼もくれませぬ。ただ、それ等の内臓の一つ一つを手当り次第に回転さしたり、
掻き乱したりしただけで、その最後に胃袋と、大小腸と、
膀胱とを、ほんの形式だけ
截り破るなぞ、あらゆる検査の真似型だけを終りますと、普通の解剖のように、各臓器の一部
宛を標本に取るような事もせずに、又も、太い針と麻糸を取り上げまして、下腹部から順次に咽頭部まで縫い上げて行きました……が……その間に於ける
刀の
揮い方の思い切って残忍痛烈なこと……その針と、糸の使い方の驚くべき巧妙迅速を極めていること……そうしてその手付きや態度にあらわれて来る、たまらないほど辛辣な満足の
わななき……それはこうした仕事によって、
或る深刻痛烈な欲望を満足させつつある、精神異常者そのままの表現ではないかと疑われるくらい……。
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先刻から、かような一挙一動を、詳しく見ておいでになりました諸君は、もはやハッキリとお気付きになっているで御座いましょう。今や
若林博士の態度は、その平生の冷静、
荘重な物腰を全然
喪ってしまって、
殆ど別人かと思われる残忍、
酷烈な、且つ一種異様な興味に駆られた、元気
溌剌たる人間に変って来ておりますことを……。
しかし、これは決して怪しむべき現象ではありませぬ。昔から
或る仕事の大家とか、又は
或る技術の名人とか天才とか呼ばれる人間が、自分の仕事に熱中して参りますと、その疲労から来る異常な興奮と、超自然的な神経の
冴えが生み出す
妄覚等によって、平生とはまるで違った心理状態になって、一見極めて非常識に見える事に深刻な興味を持ったり、又は変態怪奇を極めた
所業を平気で演じて行く
例は、随分沢山に伝わっておりますので……
況んや【言うまでもなく】
若林博士のような特殊な体質と頭脳を持った人間が、
斯様な古今に類のないであろう事業……暗黒の中に絶世の美少女の仮死体を蘇生させるという、玄怪微妙な仕事が済むと間もなく、今度は世にも珍らしく、
酷たらしい少女の
虐殺死体を、無二無三に斬りさいなむという、異常を超越した異常な作業にかかっているのですから、その神経が、どんな程度にまで昂進して、その心理が
如何なる方向に変形して来ているかは到底常人の想像し得るところではありますまい。
そうした不可解な心理を包んだ黒怪人物……
若林博士は、かくして間もなく、少女の胸腹部を、咽頭の処まで縫合せ終りますと、最後に
一際鋭い小型のメスを取上げて、四一四号の少女の顔面に立向いました。
まず、右の眼の縁へズクリとメスを突立てますと、
恰も同博士独特の毒物の反応検査を試みるかのように、両眼をグルリグルリと
抉り出してしまいましたが、例によって、別に眼底を
検めるでもなく、そのまま直ぐに元の
眼窩に押込んでしまいました。
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次には、その中間の
鼻梁【はなばしら】を、奥の方の粘膜が見える処までガリガリと
截ち割りました。それから唇の両端を耳の近くまで切り裂いて、咽頭が露われるまでガックリと下
顎を引卸しました。
死体の顔はかようにしてトテモ人間とは思われぬまでに変形してしまいましたが、これを又モトの通りに一個所
毎に縫い合せました黒衣の巨人は、ホッと一息する間もなく、ガーゼと海綿【スポンジ】を取上げてアルコールをタップリと含ませながら、汚れた処を一々丁寧に拭上げますと、やがて今までとはまるで
相好の変った、誰が誰やらわからぬ奇妙な格好の死体が一個出来上ってしまいました。
黒衣の博士はここでヤット一息入れますと、解剖台の上と下とに横たわる二人の少女の肉体を繰返し繰返し見較べておりましたが、そのうちに、二重の手袋を左右とも脱ぎ棄てまして、
傍の机の上に在る
固練白粉を
掌で溶きながら、一滴も
澪さないように注意しいしい、四一四号の少女の顔、両肩、両腕と、腰から下の全部にお化粧を
施し初めました。
……ところでその手附を御覧下さい。いかがです。
粗い縫目や、又は毛髪の
生際なぞに白粉が停滞しないように注意しつつ、デリケートに
指を働らかせて行くところは、
如何にも
斯様な化粧品を扱い慣れている手附では御座いませんか。
これは恐らくこの博士が、自身に何回となく変相をした経験があるせいでは御座いますまいか。それともこの博士の裏面的性格から来た、飽く事を知らぬ変態的趣味と、法医学的研究趣味とが
相俟って、伝え聞く数千年前の「
木乃伊の化粧」式な怪奇趣味にまで、ズット
以前から高潮しておりましたのが、
斯様な機会に暴露したもので御座いましょうか。
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いずれに致しましてもあのように青黒い、又は茶色に変色した
虐待致死の
瘢痕【傷跡】を
砥の粉で
覆うて、皮膚の
皺や、包帯の
痕を 押し伸ばし 押し伸ばし お
白粉を
施して行く手際なぞは、実に驚くべきもので、多分遊郭の
遣手婆が、
娼妓の病毒を
隠覆する手段なぞから学んだもので御座いましょうか……とうとう色の黒い、傷だらけの少女の肌を、色の白い少女の皮膚の色と変らない程度にまで綺麗に塗上げてしまいました。それから口紅、
頬紅、
黛、粉白粉なぞを代る代る取上げて、身体各部の極く細かい色の変化を似せて、大小の
黒子までを一つ残らずモデルの通りに染め付けた上に、全身の局部局部の毛を床の上の少女と比較しつつ、理髪師も及ばぬくらい巧みに染め上げて、一々香油を
施しました。
……と思うと今度は、手近い机の
抽斗を開いて赤、青、紫、その他の検鏡用の
アニリン染料を、梅鉢型のパレットに取って、新しい筆でチョイチョイチョイと配合しながら、首のまわりの
絞殺の斑痕を、実物と対照して寸分違わぬ色と形に染付け始めましたが、これとても実に巧妙、精緻を極めたもので、浮上ったような
蚯蚓腫れや、
蜥蜴のような血斑が、見ているうちに
頸のまわりを取巻いてしまいました。
しかし黒怪人物の黒怪事業はまだまだ進行する模様で御座います。
黒怪人物は、それから大急ぎで二重の手袋を
穿め直しまして机の下から一包みの包帯を取出しました。その包帯でもって化粧済みの死体の顔から頭へかけて真白に巻き
潰してしまいましたが、続いて
頸、肩、上
膊部【肩から肘】、胸、腹部、両脚という順序に、全身をグルグルグルグルグルと巻上げますと、御覧の通り
木乃伊の出来
損ねか又は、子供の作るテルテル坊主の
裸体ん
坊を見るような姿にしてしまいました。
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それから今度は、
寝棺の蓋の上に寝ている美少女の派手な下着を剥ぎ取って、白坊主に着せまして、その上から
緋鹿子絞りの
扱帯をキリキリと巻付けてやりましたが、その姿の奇妙さ、滑稽さ……そうして、それと向い合って見下している黒怪人物の、今更に眼に立つ物々しい妖異さ……。
しかしまだテルテル坊主の死体には、
節の高いカサカサに荒れた両手が、ニューと突出されたまま残っております。これをどうして
胡麻化すかと見ておりますと、
流石は絶代の怪人物黒衣博士です。何の造作もないこと……その両腕の肘の関節をポキンポキンと押曲げてチャンと合掌させて、白木綿でシッカリと縛り包んでしまいました。成る程。これなら大丈夫と思ううちに、これも同じく隠しようのないままに残されていた
皸だらけの足の
踵も、美少女の小さな
足袋の中に無理やりに押込んでヒシヒシと
コハゼをかけてしまいました。そうして
愈々強直してしまった、
艶めかしい姿の白坊主をヤットコサと抱き上げて、
寝棺の中にソッと落し込んで、三枚
襲ねの
振袖と
裲襠を逆さに着せて、
糸錦の帯で巻立ててやりますと、今度は多量のスポンジと湯と、水と、石鹸と、アルコールとで解剖台面を残る
隈なく洗い
浄めました。その上に意識を回復しかけている美少女の裸身をソロッと抱え上げまして、その下敷になっていた分厚い棺の蓋を、テルテル坊主の上からシックリと当てがって、その上を白絹の覆いでスッポリと覆い包んでしまいました。
しかし黒怪人物の怪事業は、まだ残っておりました。しかも今度こそは、その黒怪手腕中の黒怪手腕を現わすホントの怪事業とでも申しましょうか。
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ここで
寝棺と解剖台との間に突立って、又もホッとばかり肩を
戦かして一息しました黒衣の巨人はやがて又大急ぎで手袋を脱ぎ棄てますと、まず
鋏を取上げて、解剖台上の少女の長やかに房々とした頭髪を
掻分けながら、まん中あたりの
髪毛を
一抓み程プッツリと切取りました。それを机の
抽斗から取出した半紙でクルクルと包みまして、同じ
抽出から出した死体検案書の
刷物や二三の文房具と一緒に先刻の死体台帳の横に置並べましたが、やがて鉄製の円型腰掛を引寄せながら、新しい筆を取上げて
墨汁を含ませますと、今の半紙の包みの上に
恭しく「遺髪」「呉
モヨ子殿」と書きました。それから、ちょっと時計を出して見ながらジッと考えている様子でしたが、死体検案書の書込みの方は後回しにする決心をしたらしくソッと横の方へ
押遣って、死体台帳の方を繰拡げますと、その中央に近い処にある「四百十四号……七」と書いた一枚をほかの書込みの行列と一緒に丁寧に破って、抜取ってしまいました。
それから別の皿へ
墨汁を溶かして、色々の墨色を作りながら、破った
頁文字とソックリの筆跡で十数個の死体に関する名前、年月日、番号等を書入れて参りました……が……その中でも今の「四百十四号……七」に関する書込みは全部飛ばして、次の「四百二十三号……四」の分を記入して、一々「
若林」という
認印を
捺してしまいました。……すなわち、今しがた
寝棺の中に納められたばかりの少女の変装死体に関する記入は、かくしてこの死体台帳から完全に追出されてしまった訳で御座います。
……諸君はここに
於てか、
今迄の
若林博士の苦心
惨憺の怪所業の一々が、何を意味しておったか……という事を、
悉く明白に理解されたで御座いましょう。
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美少女、呉
モヨ子の身代りとなって、棺の中に納められておりますのは、もともと身よりたよりの無い、
行衛も知らぬ少女の
虐殺死体で、こちらから通知を出さない限り、遺骨を受取りに来る気づかいのない種類のものである事が、容易に察せられるのであります。
一方に当大学内に
於て、死体解剖を行われました人間の
身寄の者は、大抵、その翌日のうちに遺骨を受取りに来るように通知が出されるのでありますが、実は、解剖が済みますと直ぐに、裏手の松原に在る当大学専用の火葬場の人夫が受取って行って、立会人も何も無いままに
荼毘に附して、灰のようになった骨と、保存してあった遺髪だけを受取りに来た者に引渡す……という、一般の火葬の場合とは全然違った、信用一点張りの制度になっておりますので、死体の替玉に気付かれる心配は万に一つもないといってよろしい。
尤も、その火葬以前にやって来て、今一度、死人の顔を見せてくれと要求するような、取乱した親達がないという断言は出来ないのでありますが、
仮令そのような場合があるにしても、
彼のメチャメチャに縫い
潰した顔を見せたら、
二タ目と見得る肉親の者はまずありますまい。
但、
唯一つここに懸念されるのは、その筋の係官や、関係医師なぞが、今一度、念のために検分に来る場合でありますが、これ程に二重三重の念を入れて、巧妙、精緻な手を入れた
換玉である事を、どうして見破り得ましょう。いずれに致しましてもその人格に
於て、又はその名声に
於て、天下に
嘖々【盛んに褒めそやす】たる
若林博士が、九大医学部長の職権を利用しつつ、念を入れ過ぎる位に念を入れて仕上げた仕事ですから誰が疑点を
挿み得ましょう。
283/596
どこに手ぬかりがありましょう……九大、死体冷蔵室の死体紛失事件が、
若林博士以外にはタッタ一人しか居ない係りの医員に、不審の頭を傾けさしたまま、永久の闇から闇に葬られて行く時分には、
行衛不明になった少女の
虐殺死体は既に、一片の白骨となって、立派な墓の下に葬られて、
香華を
手向けられている訳であります。
同時に現在、気息を回復しつつある解剖台上の少女……呉
モヨ子と名付くる美少女は、戸籍面から抹殺された、生きた亡者となって、あの蒼白長大な
若林博士の手中に握り込まれつつ、呼吸する事になるので御座いますが、しかし、それが
後になって何の役に立つのか、
若林博士は何の目的でこの少女を、生きた亡者にして
終ったのか。……その説明は
後のお楽しみ……と申上げたいのですが、実はこの時までは天井裏から覗いておりました
正木博士にもサッパリ見当が
附ておりませんでしたので……恐らく諸君とても御同様であろうと思います……が……。
……しかし同時に、新聞紙上で、迷宮破りとまで称賛されている絶代のモノスゴイ頭脳の持主、
若林鏡太郎博士が、かほどの
惨憺たる苦心と、超常識的なトリックを用いて挑戦しつつある事件の内容……もしくはその犯人の頭脳が、
如何に怪奇と不可解を極めた、凄絶なものであろうか……という事実に就いては
最早、十分十二分の御期待が出来ている事と存じます。しかも、この御期待に
背かない事件の驚くべき内容と、その過程の具体的なものが、順序を
逐うて諸君の眼前に展開して参りますのは、最早、程もない事と思われますので……。
すなわち御覧の通り、事件は最早、既に、九大法医学部、解剖室内の黒怪人物、
若林博士の手に落ちているので御座います。そうして同博士は今や、一代の智脳と精力を傾注しつつ、その怪事件を
捲起した裏面の怪人物に対する、戦闘準備を整えているところですから……。
284/596
却説……
斯様にして死体台帳の書換えを終りました
若林博士は、その台帳を
無記入の死体検案書と一緒に、無雑作に机の上に投出しました。疲れ切った
身体を起して室内に散らばっているガーゼ、スポンジ、脱脂綿なぞを一つ残らず拾い集めて、文房具、化粧品等と一緒に新しい
晒布に包み込んで、包帯で厳重に
括り上げてしまいました。多分、どこかへ人知れず投棄して、出来る限り今夜の仕事を秘密にする計画で御座いましょう。四一四号の死体の各局部の標本を取らなかったのも、そうした考えからではなかったかと考えられます。
こうした仕事を終りまして今一度そこいらを念入りに見回しました
若林博士は、やがて
傍の机の上に置いた新しい看護婦服と白木綿の着物を取上げて、まだ麻酔から
醒ずにいる少女に着せるべく、解剖台に近づきました……が……
若林博士は思わず立止まりました。手に持っている物を取落して
背後によろめきそうになりました。
今更に眼を
瞠らせる少女の全身の美しさ……否、最前の仮死体でいた時とは
全然違った清らかな
生命の光りが、その一呼吸
毎に全身に輝き満ちて来るかと思われるくらい……その
頬は……唇は……かぐわしい
花弁の如く……又は甘やかなジェリーのように、あたたかい血の色に
蘇っております。中にもその
愛ずらかな【すばらしい】格好の乳房は、神秘の国に生れた大きな貝の
剥き
肉かなぞのように
活き活きとした薔薇色に盛り上って、
煌々たる光明の下に、夢うつつの心を
仄めかしております。
……冷たい……物々しい、九大法医学部死体解剖室の大理石盤の上に、又と再び見出されないであろう絶世の美少女の麻酔姿……地上の何者をも
平伏さしてしまうであろう、その清らかな胸に波打つふくよかな呼吸……。
その呼吸の
香に酔わされたかのように
若林博士はヒョロヒョロと立直りました。
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そうして少女の呼吸に共鳴するような弱々しい
喘ぎを、黒い肩の上で波打たせ初めたと思うと、上半身をソロソロと前に傾けつつ、力無くわななく
指先で、その顔の黒い
覆いを額の上にマクリ上げました。
……おお……その表情の物凄さ……。
白熱光下に現われたその長大な顔面は、解剖台上の少女とは正反対に、死人のように疲れ
弛んだまま青白い汗に
濡れクタレ【へたれ】ております。その眼には極度の衰弱と、極度の興奮とが、熱病患者のソレの如く血走り輝やいております。その唇には普通人に見る事の出来ない
緋色が、病的に
干乾び付いております。そうした表情が黒い
髪毛を額に粘り付かせたまま、コメカミをヒクヒクと波打たせつつ、黒装束の中から見下している……。
彼はこうして暫くの間、動きませんでした。何を考えているのか……何をしようとしているのか解らないまま……。
……と見る
中に突然に、彼の右の眼の下が、深い
皺を刻んで
痙攣り【ひきつり】始めました……と思う間もなく顔面全体に、その
痙攣の波動がヒクヒクと拡大して行きました。泣いているのか、笑っているのか
判然らないまま……洋紙のように
蒼褪めた顔色の中で、左右の赤い眼が代る代る開いたり閉じたりし初めました。何事かを喜ぶように……
緋色に乾いた唇が狼のようにガックリと開いて、白茶気た舌がその中からダラリと垂れました。何者かを
嘲けるように……それは平生の謹厳【つつしみ深い】な、紳士的な
若林博士を知っている者が、夢にだも想像し得ないであろう別人の顔……否……彼がタッタ一人で居る時に限って現われる悪魔の形相……。
けれどもその
中に彼はソロソロと顔を上げて参りました。いつの間にか乾いている額の乱髪を、両手で押上げつつ、青白い瞳をあげて、頭の上に輝く四個の電球を
睨み詰ました。
その呼吸が又も次第次第に高く喘ぎ初めました。
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その
頬に一種異様の赤味がホノボノとさし初めました。空中の
或者と物語っているかのように眼を細くして、腹の底から低い気味の悪い音を立てつつ 切れ切れに、
「……アハ……アハ……アハアハ……」
と笑っておりましたが、やがてその唇を
凝と噛んで、美少女の寝顔を見下しますと、ワナワナと震える
指をさし上げて、頭の上の電灯のスイッチを一ツ……二ツ……三ツ……と切って、最後に四ツ目をパッと消してしまいました。
しかし室内はモトの
暗黒には帰りませんでした。閉じられた窓の
鎧扉の
僅かの
隙間から暁の色が白々と流れ込んで、
室の中のすべての物を、海底のように青々と透きとおらせております。
……
茫然と、その光りを見つめておりました彼は、やがてその両手の
指を わななかせつつ、ピッタリと顔に押当てました。ヨロヨロと
背後によろめいて壁に行き当りました。そのままズルズルと床の上に座り込みますと、失神したように両手を床の上に落して、両脚を投出して、グッタリと
項垂れてしまいました。
その時に解剖台上の少女の唇が、微かにムズムズと動き出しました。ほのかな……夢のような声を
洩らしました。
「……お兄さま……どこに……」……{
溶暗【フェード アウト】}……
{
字幕}
正木若林両博士の会見。
{
説明} 次に映写し出されましたるは、九州帝国大学精神病学教室本館階上、教授室に於ける
正木博士の
居睡り姿で御座います。時は大正十五年の五月二日……すなわち前回の映画にあらわしました
若林博士の死体スリ換えの場面が、
正木博士の
天然色浮出発声映画カメラのフィルムに収められましてから丁度一週間目の、お天気のいい午後の事で御座います。
287/596
教授室の三方の窓には強い日光を受けた松の緑が
眩しく波打っておりまして、早くも暑苦しい
松蝉の声さえ聞えて来るのでありますが、南側に並んだ窓の一つ一つには、
胡粉絵の色をした
五月晴れの空が横たわって、その下を吹く明るい風が、目下工事中の解放治療場の作業の音を、次から次に吹込んで参ります。
正面の大
卓子と、大暖炉との中間に在る、
巨大な肘掛回転椅子に乗っかった
正木博士は、白い診察服の右手の
指に葉巻の消えたのを挟み、左には当日の新聞紙を
掴みながら鼻眼鏡をかけたままコクリコクリと居
睡りをしております。トント外国の漫画に出てまいります
屁っぽこドクトルそのままで……読みさしの新聞の裏面に「花嫁殺し迷宮に入る」という標題が、初号三段抜きで掲げてありますところを特に大うつしにして御覧に入れておきます。そのうちに大暖炉の上の電気時計の針が、カチリと音を立てて三時三分を
指しますと、大学のお仕着せを着た四十格好の頭を分けた小使が、一葉の名刺を持って入って来て、
恭しく
正木博士の前に捧げました。
扉の
閉った音で眼を
醒ました
正木博士は、その名刺を受取ってチョット見ますと
如何にも不機嫌らしく両眼を
凹ませました。
「ナアーンだ。何遍言って聞かせてもわからない
唐変木だ。馬鹿丁寧にも程がある。これから、こんなものを一々持って来なくとも、黙って勝手に入って来いと、そう言え」
と言いながら、その名刺を大
卓子の上に投げ出しました。ナカナカ威張ったもので……そのまま眼を閉じて、又もウトウトと
睡りこけております。
ところへ、青いメリンス【毛織物】の風呂敷を一個、大切そうに抱えた
若林博士が、長大なフロック姿を音もなく運んで入って来まして、
正木博士と向い合った小さな回転椅子に腰をかけました。
288/596
矮小【背たけが低く小さい】な
正木博士が、大きな椅子の中一パイにハダカッている【だらしない格好をしている】のに対して、
巨大な
若林博士が、小さな椅子の中に
恭しく
畏っている光景は、いよいよ 絶好の漫画材料で御座います。……と、やがて
若林博士は例によって持病の咳に引っかかりまして、白いハンカチを口に当てたまま、ゴホンゴホンと苦しみ始めました。
正木博士はその騒ぎでやっと眼を
醒ましたものと見えまして、新聞と葉巻を空中にヤーッとさし上げて、眼の前の
若林博士は勿論のこと、この
室も、九州大学も、しまいには自分自身までも一呑みにしてしまいそうな、素敵もない【どうということもない】大
欠伸を一つしました。
斯くして事件勃発以後に於ける二人の博士の最初の会見は、この大欠伸によって皮切られたのでありますが、続いて始まる二人の会話が、表面から見ますと何等の隔意もないように思われまするにも
拘らず、その裏面には何かしら互いに痛烈な皮肉を含ませて、出来るだけ深刻に相手を
脅威すべく火花を散らしている……らしい事にお気が付かれましたならば、この事件の
裡面に横たわっている暗流が
如何に大きく、且つ、深いものがあるかを御推察になるのに充分であろうと信じまする次第で……。
「アーッ……アーッと。イヤア。とうとうやって来たね。
289/596
ハハハハハハ多分もうやって来る時分だと思っていたが」
「ハア……ではもう、事件の内容は御存じなので……」
「知っているぐらいじゃない……これだろう……
花嫁殺し迷宮に入る……という……無論記事の内容にはヨタが多いだろうが……」
「さようで……
併し私がこの事件に関係致しておりますことは、どうして御存じで……」
「……ナアニ……この間
一寸用事があって君に電話をかけたら、午後の講義をブッ
潰して、自動車でどこかへフッ飛んで行ったというから、
扨は何か初まったナ……と思っていると、その日の夕刊に……
結婚式の前夜に花嫁を絞殺す……とか何とかいう特号四段抜きか何かの記事が出たから、
扨はこの事件に引っかかったナ……と察していた訳なんだがね」
「ナルホド。しかし今日 私がこちらに伺いますことは、どうして御存じで……」
「ウン……それあ今日かいつか知らないがキッと来るには間違いないと思っていた。……というのはこの事件は……ホラ……例の
心理遺伝に違いないと最初から
睨んでいたからね。君が調べ上げて吾輩の処へ持込んで来るのを実は待っていた訳だ。ハハハハハ」
「恐れ入ります。お察しの通りで……実は私は二年前からこの事件に関係致しておりましたので……」
「エッ。二年以前から……」
「さようで……」
「……フ――ン。二年前にも、こんな事件があったんかい」
「ハイ、それも同じ少年が、実母を
絞殺致しました事件で……」
「ウーム。おんなじ奴が、おんなじ手段で……しかも実母を……ウーム……」
「実はその時に、こちらから進んで事件に関係致しました私は……この事件の犯人は別にいる。
290/596
この少年が殺したのではない……と主張致しておったので御座いますが、その犯人がその後どうしても見つかりませぬ」
「君の
炯眼【鋭い眼力】を
以てしてかい」
「……お
恥かしい次第ですが、このような難解な事件に接しました事は、私も生れて初めてで……何と説明致したら宜しう御座いましょうか……犯跡が歴然と致しておりながら、犯人が居た形跡がないとでも……」
「……フ――ン。面白いナ……」
「……で御座いますから、その少年が前回の実母
絞殺事件で無罪と相成りました
後も私は決して安心致しませんで、何とかして犯人の
目星をつけたいと考えました結果、被害者の実の姉で、少年の
伯母に当る
八代子という者や、警察方面とも連絡を取りまして、もしこの
後に、この少年の起居動作、又は一身上の出来事なぞに すこしでも変った事があったら、
直に知らせてくれるように頼んだりなぞ致して、絶えず注意を払っていたので御座いますが、とかくする
中に二年後の今日と相成りますと、果して又も同じ少年が、今度は自分の
伯母に当る
八代子の娘でしかも自分の花嫁となるべき呉
モヨ子という少女をその結婚式の前夜に
絞殺致しましたので、二年前の実母殺しも、やはりこの少年が、同じような精神病的発作に駆られてやったものに違いない……というような事になりました。お蔭で二年前に……この少年の母を殺した犯人は別にいる……と申しました私の言葉は、目下のところスッカリ信用を失っておりますような訳で……」
「アハハハハハ痛快痛快……。そう来なくっちゃ面白くない。君の腕試しには持って来いの事件らしいね」
「イヤどうも……腕試しどころでは御座いませんので……。
291/596
実は私もこの事件を、
兼ねてから御指導によって研究致しております
精神科学的犯罪の好研究材料と信じまして、一ツの事を三ツも四ツもの各方面から調査致しまして、スッカリ書類にしておいたので御座いますが……この風呂敷包みの中のがそれで……」
「……ウワッ……オッソロシイ大部なモンじゃないかそれあ……事件が始まってから、まだ一週間しか経たないのによく、それだけの書類が……」
「イヤ、この中には、二年前の事件に関する調査書類も一緒になっておりますので……又今度の事件の分も、いつ
何時私が重態に陥りましても差支えないように、調べる
片端から不眠不休でノートに致して参りましたのですが……おかげで持病の
喘息が急に悪化しまして、
幾何もない私の余命が、一層たよりなくなったような気が致します」
「ウ――ム。そういえば近来 急に影が薄くなったようだ。気をつけなくちゃいけないぜ。
木乃伊取が木乃伊式に、自分自身が精神科学の幽霊になったんじゃ
鳧のつけようがないからね。アハハハハ、イヤ御苦労御苦労……ところで、その包の上にツン張り返っている四角い箱は何だいソレア……」
「ハイ。これが今回の心理遺伝事件の暗示に使われました一巻の絵巻物で、箱は私が
指物屋に命じて作らせたもので御座います。……その呉
一郎
と申す青年は、誰かにこの絵巻物を見せられた結果、精神異常を
来したものに相違ないと考えられるので御座いますが、今も申します通り、当局者と私の見込が全く違ってしまいまして、呉
一郎
の精神異状は自然的の発病か、もしくは精神病者を装っているものと認められておりますために、この絵巻物を当局者に参考材料として見せましても、頭から一笑に附しているので御座います。
併し又、一方から申しますと、そのお蔭で、
斯様な貴重な参考材料が、都合よくこちらの手に入りましたような訳で……」
「アハハハハ。そいつはよかったね。
292/596
君がその風采で、警察や裁判所の奴等の前にそんな巻物を持出して、ソモソモこれが恐れ多くも
勿体なくも
正木博士独特の御研究にかかる前代未聞の新学理、心理遺伝の暗示材料で御座る……なぞ言い出したら、大抵
面喰ってしまったろう。よく
香具師と間違えられなかったね、アハハハハハハ」
「ハハハハハ。イヤ実は例の
隠覆になりませぬように形式だけ見せたので御座いますが、実はこちらの物にしたくてたまりませんでしたので……」
「
如何にも……そこに抜かりはない男だからね……」
「イヤ……どうも……」
「……ところで今日の用事というのは、その書類と事件とを吾輩に押しつけに来たんかい」
「ハイ。それも御座いますが今一つ……現在、花嫁殺しの犯人と目されて、福岡
土手町の未決監に入れられております少年呉
一郎
の精神鑑定がお願い致したいので……」
「ウン。あの少年かい。あの少年の精神状態なら新聞記事だけで大抵様子は判っているよ。
所謂発作後の健忘状態という奴だ。つまりその絵巻物の暗示か何かで精神異状を来した結果、
或る
夢中遊行を起して、花嫁を殺したりしている奴を、無理矢理に取押えて
夢中遊行を中絶させようとしたために大暴れに暴れ出した。そうして、そんな興奮から来た神経細胞の極度の疲労のために、発作以前にもさかのぼったアラユル過去の記憶がタタキ付けられて活躍不能になってしまった。すなわち『逆行性健忘症』に陥った……というぐらいの事は新聞記事を読んだだけでチャント見当がついている。そこいらによくある奴で、何も別に吾輩を呼出さなくとも君が説明してやれば、それで沢山だと思うがね」
「ハイ。
293/596
それがその……今度の事件では私の信用が
覆えりまして、私の鑑定だけでは
当にならなくなりましたために、裁判所の方でも弱っておりますようで……事に
依ると呉
一郎
少年は殺人狂ではないか……なぞと申しておるようで御座いますが……」
「フーム。そいつは
怪しからんナ。素人とは言い条【とはいえども】、司法官の癖に無知にも程がある。第一殺人狂なぞいう精神病がこの世の中に存在すると思っているからして人を馬鹿にしているじゃないか。人を殺したからといって、すぐに殺人狂だなぞいうのは故殺【故意に殺すこと】と謀殺【計画して殺すこと】とを一緒にするよりも
非道い間違いだぜ」
「それはそうで……」
「そうだとも……君なぞは
疾っくに気が付いているだろうが、精神病鑑定の参考材料としてその発病前後の言動が
如何に有力なものであるかという事は、ちょうど犯罪検挙に於ける嫌疑者の犯行前後に於ける言動と同様だという事を、今の学者は一人も知らんから困るのだ。精神病者というものは、いくらキチガイだからといって、決して無茶苦茶な乱暴の仕方をするものでない。その発病のキッカケとなった刺激、心理遺伝の内容、精神異常状態の深さ等によって、キッチリとした筋道を立てて、いろんな脱線をして行くもので、その
間に
些しの
誤魔化しもないから、普通人の犯罪の跡なんぞよりもずっと合理的で順序が立っている。ことに人でも殺したとなると、その凶行の前後の様子は、普通の犯罪以上に有力な参考として見なければならぬ」
「
御尤もで……初めて伺いました」
「この理屈を知らないもんだから、人を殺すと、イキナリ殺人狂なぞいう名前をつける。二人も殺すと
尚更間違いないことになるんだ。……
成程人を殺したという結果から考えると、殺人狂とでも言えるかも知れないが、その殺人狂が寒暖計の代りに人間の頭をタタキ割った【手段と目的が完全に狂っている】もの としたらどうだい。
294/596
ハハハハハハ。それでも殺人狂と名づけ得る学者があったらお眼にかかるよ。……精神病者から見ると自分以外の存在は、人間でも、動物でも、風景でも、天地万象の一切合財がみんな影法師か、又は動く絵ぐらいにしか見えない場合がある。たとえば赤い絵具が
欲しいという欲望が起れば、その精神病者は他人の頭をタタキ割るのも、赤いアルコール入りの寒暖計をブチ壊すのも同じ事に心得ているのだからね。その真実の目的が、赤い液体を手に入れて赤い花の絵を描きたいためであったと解れば、決して殺人狂なぞいう名前はつけられないであろう。だから吾輩の眼で見ればこの少年の凶行も、目的はほかにあると思う。換言すれば、この少年を支配している心理遺伝の内容次第だ」
「
御尤もで……実は私も、そんな事ではないかと思いましたので、これは全然 私の畠ではない、先生の御領分と存じまして、かように御参考用として、関係書類を全部持参致しました訳で御座いますが……それに尚、今一つ……この事件に関する疑問の最後の一点だけが、当然 私の受持になっておりますので、その点に
就て特に御援助を仰ぎたいために、今日実はお伺い致しました次第で……」
「フーム。何だか話が恐しく緊張して来たね。何だいその最後の一点というのは……」
「ハイ……それはこの絵巻物を使って呉
一郎
に暗示を与えた人間……」
「アッ……ナルホドね。そんな人間がもし居るとすれば、
其奴はトテモ素晴しい新式の犯罪者だよ。たしかに君の受持だね。そいつを探り出すのは……」
「さようで……けれども、この一点が今のところではカイモク判りませぬために、事件の全体が隅から隅まで、神秘の雲に奥深く包み込まれた形になっておりますので……」
「それあ そうだろうさ。心理遺伝に支配された事件は大抵神秘の雲に包まれたっきり、わからず
仕舞になるのが、昔からの吉例になっているんだからね。
295/596
新聞に出た奴だけでも、どれ位あるか判らん」
「しかし……私が考えますと、今度の事件に限っては、その神秘の雲を破り得る可能性がありますようで……と申しますのは外でも御座いませぬ。その最後の疑問の一点というのは、必ずやその少年の記憶の底に……」
「ヤッ……わかったわかった。重々
相判った……つまりその少年の精神状態を回復さしたら、その絵巻物を見せてくれた人の顔や姿を思い出すだろう……だからその記憶を探し出す目的で、とりあえず精神鑑定をやってくれというのだろう」
「さようで……まことに恐入りますが、こればかりは、どうしても私の力に及びませぬので……」
「イヤ。わかったわかった。重々相わかった。
流石は一代の名法医学者だ。よいところへお気が付かれました……かね。ハハハハ。イヤ引受けた。たしかに引受けた」
「ドウモ……まことに……」
「ウンウン。心得た心得た。万事心得た。
最早この事件をスッカリ頭から取り去て悠々自適の
裡にビタミンを摂取したまえ……イヤ、ビタミンといえば、どうだい一ツ今から吉塚へ
鰻を喰いに行かないか。久振りに一杯……といっても、飲むのは吾輩だけだが……まあいいや。この事件に対する君の慰労の意味で……」
「ハイ、それはどうも……しかし、その少年の精神鑑定には いつ頃 御出張願えましょうか。私から裁判所へ通告致しておきますが……」
「ウン。それあいつでもいいよ。何も面倒な事じゃない。その少年の
面をたった一目見ただけで、コレは殺人狂でも偽狂でも御座らぬ。しかし、なお細かい鑑定のために入院させる必要が御座るというので、この精神科へ連れてくる手筈が、今からチャンときまっているから
他愛ないね。
若林博士の評判地に落ちるに反して、
正木の名声隆々たりかネ……ハハハハハハ」
「恐れ入ります……ではこの書類はどう致しましょうか」
「……ア……そいつは吾輩が預かるんだっけね。ハテ、どうしようか……ウン。
296/596
いい事がある。こちらへよこし
給え……このストーブの中へ
投り込んで、こうして蓋をしておこう。今年の冬までは火を
焚く気遣いないからね。お
釈迦ア様アでも気が付くめえ……と来やがった……」
「ハア……それは何の
声色ですか」
「声色じゃない。謡曲勧進帳の一節だ。法医学者の癖に何も知らないんだナア君は。アハ……」――{
溶暗【フェード アウト】}――
オーヤオーヤ……ナアーンのコッタイ……。天然色
浮出発声活動写真が、とうとう会話ばかりになってしまった。これじゃ下手なラジオか蓄音機と一緒だ。活弁もやって見るとナカナカ楽じゃないね。一々「御座います」とくっ付けるだけでも大変なお手数だ。ツイ面倒臭くなって「御座います」を抜きにしようとするもんだから、こんな事になるんだが……。おかげで少々くたびれたから今度は一ツ「御座います」抜きの「説明
要らず」という映画を御覧に入れる。否……「説明要らず」どころではない。「スクリーン要らず」の「映写機要らず」の「フィルム要らず」の……これを要するに「何も
彼も要らずの映画」と言っても差支ないという……とても
独逸製の無字幕映画なぞいう時代遅れな
代物が追付く話ではない。……というのはどんなシロモノかと言うと、種を明かせば何でもない。すなわち今の
若林君が、吾輩に引渡して、吾輩が
空ストーブの中に
抛り込んでおいた一件の調査書を、吾輩が後から読んで要点だけを抜書きにして、自分一個の意見を書き加えた
所謂抜粋の各
頁を、一枚
毎に順序を
逐うて、映画として御覧に入れるのだ……というと又、ドエライ手数がかかるようだが、実は何でもない。ただ、その抜粋の原本を、この遺言書のココントコへ挿入しておくだけの手数で……エヘン……諸君もただ、それを読むだけで訳がわかるという……吾輩最近の発明にかかるトリック映画だ。
297/596
今にこの式の映画が大流行を
来すと思うから、何ならパテントをお譲りしても
宜敷い。御賛成の諸君がありましたら……ハイ只今……
一寸お待ち下さい。
実はこの抜粋記録は吾輩の「心理遺伝論」の中に挿入しようと思っていたものであるが、そんな論文の原稿は最前すっかり焼棄てたけれども、特にこの一部だけは残しておいたものだ。諸君は
今迄吾輩が説明したところによって、現在
天晴れの精神科学者を兼ねた名探偵となって御座るわけだから、その力でこの記録を読んで行かれたならば、徹底的にこの事件の真相を
看破して、ギャフンとまいる位の事は、何の雑作もあるまいと思う。
……この事件は
如何なる心理遺伝の爆発に
依て生じたものか? その心理遺伝を故意に爆発させた者が居るか居ないか。又、居るとすればどこに居るか。そうしてこの事件に対する
若林と吾輩の態度はこの事件の解決に対して、
如何なる暗示を投げかけているか……という風にね。
併し、よっぽど
緊りと
褌を締めてかからないと駄目だよ……なぞと
脅かしておいて、その間に吾輩は悠々とスコッチを
呷り、ハバナを
燻そうという寸法だ……ハハン…………。
298/596
◇心理遺伝論付録…………
◇各種実例
その一 呉一郎の発作顛末
――
W氏の手記に拠る――
第一回の発作
◇第一参考 呉
一郎
の談話
◇聴取時日 大正十三年四月二日午后零時半頃。同人母にして、左記女塾の主人たる被害者千世子(三十六歳)の初七日仏事終了後――
◇聴取場所 福岡県鞍手郡直方町日吉町二〇番地ノ二、つくし女塾の二階八畳、呉一郎
の自習室兼寝室に於て――
◇同席者 呉一郎
(十八歳)被害者千世子の実子、伯母八代子(三十七歳)福岡県早良郡姪の浜町一五八六番地居住、農業――余(W氏)――以上三人――
――ありがとう御座いました。先生があの時「どんな夢を見ていた?」と尋ねて下さるまでは、僕はどうしてもあの夢の事を思い出さなかったのです。先生(
W氏)のおかげで、僕は親殺しにならずに済みました。
――母を殺した者が僕でない事が皆さんにわかれば、僕はもうそれで沢山です。何も言う事はありません。けれども、その犯人をお探しになる参考になりますのなら、何でも尋ねて下さい。ずっと昔の事は母が話さずに死にましたから、僕が大きくなって
後の事しか知らないんですけど、お話して悪いような事は一つも無いと思います。
――僕は明治四十年の末に、東京の近くの駒沢村で生れたのだそうです。父のことは何も知りません。(註に曰く……呉
一郎
の生所は事実と相違せる疑あり。
然れども研究上には別に差支えなきを
以てここには訂正せず。)
――母は生れた時からこの
伯母と二人で姪の浜に住んでいたそうですが、十七の年に、絵と
刺繍を勉強するといってこの
伯母の家を出たのだそうで、その
後、僕の父を尋ねながら東京へ行って、方々を探している
中に僕が生れたのだそうです。
299/596
「男ってものは、
偉ければ
偉いほど
嘘を
吐く」って母はよくそう言っておりましたが、大方、父の事を
怨んでそう言ったのでしょう(赤面)。ですけど父の事を尋ねますと母はすぐに泣きそうな顔になりますので、大きくなってからは、あまり尋ねませんでした。
――けれども母が一所懸命で、父の
行衛を探しているらしい事は、僕にもよく判りました。僕が四ツか五ツの時だったと思いますが、母と一緒に東京のどこかの大きな停車場から汽車に乗って長い事行くと、今度は馬車に乗って、
田圃の中や、山の間の広い道を、どこまでもどこまでも行った事がありました。一度眠ってから眼を
醒ましたら、まだ馬車に乗っていた事を
記憶えています。そうして夕方、
真暗になってから
或町の宿屋へ着きました。それから母は僕を背負って、毎日毎日方々の
家を訪ねていたようですが、どっちを向いても山ばかりだったので、毎日毎日帰ろう帰ろうと言って泣いては叱られていたようです。それから又、馬車と汽車に乗って東京へ帰りましてから、山の中で馬車屋が吹いていたのと、おんなじ
音のする
喇叭を買ってもらった事を記憶しています。
――それから、ずっと
後になって、これは母が、父の故郷に尋ねて行ったものに違いないと気が付きましたから「あの時汽車に乗った
停車場はどこだったの」と尋ねましたら母は又、涙を流しまして「そんな事を聞いたって何にもならない。お母さんは、あの時までに三度も、あそこへ行ったんだけど、今ではスッカリ諦めているから、お前も諦めておしまい。お前が大学を出る時まで、お母さんが無事に生きていたら、お前のお父さんの事を、みんな話してあげる」と言いましたから、それっきり尋ねませんでした。もうその時に見た山の形や町の様子なぞもボンヤリしてしまって、只、ガタ馬車【がたがたと音をたてて動く粗末な乗合馬車】の
喇叭の
音が耳に残っている切りです。
300/596
しかし、それから
後、いろんな地図を買って来まして、あの時に乗った汽車や、馬車の走った時間の長さを計ったりして調べて見ますと、どうしても千葉県か、栃木県の山の中に違いないと思うんです。エエ。線路の近くに海は見えなかったようです。けども汽車の窓の反対側ばかり見ていたかも知れませんから、ホントの事はわかりません。
――東京で住んでいた処ですか。それは方々に居りましたようです。僕が
記憶えているだけでも駒沢や、金杉や、小梅、三本木という順に引越して行きまして、一番おしまいに居た麻布の
笄町からこっちへ来たのです。いつでも二階だの、
土蔵の中だの、
離座敷みたような処だのを二人で間借りをして、そこで母はいろんな
刺繍をした細工物を作るのでしたが、それが幾つか出来上りますと、僕を
背負って、日本橋伝馬町の
近江屋という
家に持って行きました。そうするとその家の綺麗にお化粧をしたお
神さんが、キット僕にお菓子を
呉れました。今でもその家と、お神さんの顔をおぼえております。
――母がその時に作っていた細工物の種類ですか? サアそれはハッキリおぼえませんけども、神様の垂れ幕だの、
半襟だの、
袱紗だの、着物の
裾模様だの、
羽織の
縫紋だのいろんなものがあったように思います。それをどんなにして縫っていましたか……どれ位のお金で売れていたか、その時はまだチッチャかったものですから、一つもわかりませんでしたけれども……たった一つ、今でもハッキリ
記憶えておりますのは、東京から
直方へ来る時に、母が近江屋のお神さんに
遣りました小さな
袱紗の模様です。
301/596
それは薄い薄い、向うが透かして見えるような絹一面に、いろんな色と形の菊の花を
刺繍した、とてもとても綺麗なもので、毎日
指の頭ぐらい
宛しか出来ませんでしたが、それが出来上ったのを持って行って僕の手からお神さんに
遣りますと、お神さんはビックリして、大きな声で
家中の人を呼びましたが、みんな眼を丸くして感心しながら見ておりました。あとから聞きましたら、それは
真物の「
縫い潰し」といって、今の人が誰も作り方を知らない昔の
刺繍だったのだそうです。それからそのお神さんの御主人が母にお金を
呉れたようでしたが、お辞儀をして返して、お菓子だけ貰って帰りました。母とお神さんがいつまでも門口に立って泣いているので、僕は困ってしまいました。
――東京から
直方へ来たわけは、母が
卜筮を立てたんだそうです。「
狸穴【東京・麻布狸穴町】の先生はよく
適中る」って言っていましたから大方、その先生が言ったのでしょう。「お前達親子は東京に居るといつまでも不運だ。きっと何かに呪われているのだから、その
厄を落すためには故郷へ帰ったがいい。今年の旅立ちは西の方がいいと この通り易のオモテに出ている。お前は
三碧木星で、菅原道真や市川左団次なぞと同じ
星回りだから、三十四から四十までの間が一番災難の多い大切な時だ。尋ね人は
七赤金星で、三碧木星とは
相克だから早く諦めないと大変な事になる。双方の
所持品同志でも近くに置くとお互いに傷つけ合おうとする位で、相克の中でも一番恐ろしい相克なのだから、忘れても相手の
遺品なぞを傍近くに置いてはいけない。そうして四十を越せば平運になって、四十五を越せば人並はずれたいい運が開けて来る」と言ったんだそうです。それで僕が八ツの年に、こっちへ来たのだそうですが、「ホントにその通りだ。
302/596
私は天神様や何かとおんなじ星回りだから、文学や芸術事が好きなのだろう」って母は何遍も塾生に話して笑っていましたので、僕はそんな言い草をスッカリ
空でおぼえてしまったのです。……でも七赤金星の話は僕ばかりにしか しなかったそうで、誰にも話してはいけないと口止めされていたのですけども……。
――母は
直方へ来ると間もなく、この
家を借りて塾を開きました。生徒はいつも二十人位なのを、夜と昼の二組にわけて下の表の八畳で教えていましたが、大変にいい処のお嬢さん方が見えると言って母は喜んでいました。けれども母は気が短かいので、よく生徒を叱りました。又よく
無頼漢や不良少年見たような者が生徒をからかいに来たり、母を
脅迫してお金を
強請ったりしましたが、そんな時も母は一人で叱り付けて追い払いました。……ですから、この
家の中に入って来た男の人は家主のお爺さんと、中学時代の僕の受持の
鴨打先生と、電灯工夫ぐらいしかありません。そのほかには、母へ手紙が来た事もなければ、こっちから出した模様もありません。あんなに懇意だった近江屋のお神さんにも便りをしなかったようで、何でもかんでも自分の居所を人に知られるのを怖がっていたようです。その
理由は何故だか、僕にも話しませんでしたけれども、大方
狸穴の
占者の言った事を本当にし過ぎて、誰かが自分を狙っているように思ったのじゃないかと思います。母は迷信家ではありませんでしたが、
狸穴の先生だけは真剣に信じていたようですから……。
――けれども僕は本当の事を言いますと、この
直方を好きませんでした。それは東京からこっちへ来ます途中で、
身体の具合がわるかったせいか、汽車にヒドク酔いまして、あの石炭の煙のにおいが大嫌いになってしまいましたのに、こっちへ来ますと、そこら中が炭坑だらけで、朝から晩までそんな臭いばかり するからだろうと思います。
303/596
けれども、母が折角いい処だと言って喜んでおりましたから、仕方なしに我慢しておりました。そうするとそのうちに慣れてしまって、汽車にも酔わなくなりましたけれども、空気の悪いのと、石炭の臭いだけはシンから嫌でした。それから学校に入りますと、生徒の言葉が色々になっていて乱暴でわからないので困りました。日本中から集まった人の子供がいるんですから……。
――それに又、僕は小さい時から方々を引越していたせいか、友達が
些いのです。こっちへ来ましても学校友達はあまり出来ませんでしたが、その
中に中学の四年になりますと、すぐに一所懸命の思いをして、福岡の六本松の高等学校へ入りましたら、空気がトテモ綺麗で見晴しが素敵なので嬉しくて嬉しくて
堪りませんでした……エエ……そんなに早く試験を受けましたのは
直方が嫌いだったからでもありますけど、ホントの事を言いますと、早く大学が卒業したかったんです。そうして母と約束していた父の話を出来るだけ早く聞いてみたいような気持がして仕様がなかったのです……母にはそんな事は言いませんでしたけれども……中学へ入る時もそうだったのです。何故っていうわけは ありませんでしたけども……そうしてやっと文科の二年になったばかしのところです(赤面、
暗涙【人知れず流すなみだ】)。
――ですけど不思議なことに、母は試験が出来ても、あまり嬉しそうな顔をしませんでした。これはずっと前からそうでしたけど、母は僕が勉強をして成績がよくなるのは何とも言いませんでしたが、成績が貼出されたり、僕の名前が新聞や雑誌に載ったりするのは
心から
嫌だったらしいのです。僕もそんな事は好きませんでしたので、学校の規則で成績品を出さなければならない時には、母がわざわざ僕を連れて「なるたけ隅っこの人眼につかない処へ出して下さい」と先生の処へ頼みに行った事もある位です。
304/596
先生の方では「なかなか
奥床しい方だ」なぞ言って母を
賞めていましたけれども、母の方は奥床しいどころでなく真剣に嫌がっていたようでした。高等学校へ入る時も、僕の名前が福岡の新聞に出るのを
無暗に心配しているようでしたので「そんなら東北かどこか遠方のつまらない私立の専門学校か何かを受ける事にして、そこへ僕と一緒に、引越したらどうです。そうすれば福岡の新聞には出ないかも知れませんよ」と言いましたら、暫く考えてから「お前はどうしても大学へ入れなければならないし、これだけの塾生を見捨てるのも惜しいから」と言って、とうとう福岡を受ける事に決めました。けども、それでも「福岡には不良少年や不良少女がタントいるから、無暗に寄宿舎から出てはいけない」とか「途中で知らない人から話かけられても無暗に口を利いてはいけない」なぞと言って聞かせておりましたが、今から考えますと、やはりあの
狸穴の先生が言った事は
適中っていたので、母は何か人に、つけ狙われるような憶えがありましたために、自分達の居所をできるだけ隠そうとして、いろいろと気を
揉んでいたのだろうと思います。
――学校に居る間は寄宿舎に入っていましたが、土曜の晩から日曜へかけてはキット
直方へ帰って来ました。休暇の間もずっと
家に居て毎朝すこし早く起きて母の
手伝をしたり何かしましたが、その代り夜は九時か十時頃に寝るのでした。母はずいぶん気の強い女で、
人気の悪い
直方に住んでいながら、僕の居ない時はたった一人でこの
室に寝るのでしたが「朝は八時半頃からボツボツ生徒が来るし、夜は十一時頃まで休む間もないから、ちっとも淋しいとは思わない。勉強の
忙しい時なぞは無理に帰って来なくてもいいよ」なぞとよく言っておりました。
――ついこの頃になっても別にかわった事はありませんでした。
305/596
ただ、去年の夏でしたか、母が
刺繍材料の包み紙になって来た
亜米利加の新聞を持って来て「これは何という人か」と尋ねますので、そこの処の記事を読んで見ましたら、ロンチェニーという活動俳優が扮した
道化役だとわかりましたので、母はつまらなさそうに「フン。そうかい」と言って降りて行きました。その時に僕の父は、あんな顔をした人間で外国に居るのだなと思いましたから、その写真は細かい処までよく
記憶えています。チョット見ると大きなお
蚕様みたような顔でしたから、
私はソッと下へ降りて、六畳に置いてある母の鏡台の前に行って、自分の顔を覗いて見ましたが、ちっとも似ていませんでした(赤面)。
――あの晩も別に変った事はありませんでした。僕はいつもの通り九時頃に寝てしまいましたが、母がやすんだのは何時頃だったかおぼえません。いつもの通りなら十一時頃に寝たのでしょう。
――それから、これは警察では言いませんでしたが、あの晩僕は夜中に目を
醒しました。こんな事は今まで滅多になかったのですから、話して疑われると
詰らないと思いましたから……何だかわかりませんけれども、ゴトーンと大きな音がしたように思いましたから、フイと目を
醒しましたが、真暗でわかりませんので、寝しなに枕許に近づけておきましたこの電気を
捻って、読みさしたままの書物の下になっている腕時計を見ますと、一時に五分過ていました。……それからお
小用に行こうと思って起上りがけに、こっちを向いてスヤスヤ眠っている母の顔を何の気もなく見ますと、口を少し
開いて、
頬が真赤で、額が瀬戸物のように真白く透きとおっていて、不思議なくらい若く見えました。
丁度、家に来る大きい生徒位にしか見えませんでした。それから下に降りて用を足して、六畳と八畳の電灯をつけて見ましたが、何も変った事はありません。
306/596
最前、ゴトーンといったのは何だったのか知らんと考えて見ましたが、もしかしたら僕の思違いかも知れないと思いましたから又、二階に上って来て母の顔を見ますと、もう向うを向いて布団に
潜っていて、
櫛巻きの頭だけしか見えませんでした。僕はそれから、すぐに電灯を消して寝ましたが、母の顔はそれっきり見ません。
――それから警察署で先生(
W氏)にお話しましたように変な夢ばかり見ていたのです。僕は夢なんか滅多に見た事はないのに、あの晩はホントに不思議でした。イイエ。人を殺すような夢は見なかったようですけど、汽車が線路から
外れてウンウン唸りながら僕を追っかけて来たり、
巨大な黒い牛が紫色の長い長い舌を出してギョロギョロと僕を
睨んだり、青い青い空のまん中で太陽が真黒な
煤煙をドンドン噴き出して転げまわったり、富士山の絶頂が二つに裂けて、真赤な血が洪水のように流れ出して僕の方へ大浪を打って来たりして、とても恐しくて恐しくてたまりませんけど、何故だか足が動かなくなって、いくら逃げようとしても逃げられないのです。その
中に
家主さんの養鶏所から
鶏の
啼き声が二三度きこえたように思いましたが、それでも、そんな恐しい夢が、あとからあとからハッキリと見えて来ますので、どうしても
醒める事ができません。ですから一所懸命になって苦しがって
藻掻いておりますと、そのうちにやっとの思いで眼を開ける事が出来ました。
――その時にはもう、この窓の格子が明るくなっておりましたから、僕はホッと安心しまして、起上ろうとしますと、頭が急にズキンズキンと痛みました。それと一緒に口の中が変に臭いようで、胸がムカムカして来ましたので、これはきっと病気になったんだと思って又寝てしまいました。その時はちょっとのつもりでしたが、今度は夢も何も見ずに、汗をビッショリ掻いて、グーグー睡っていたようでした。
307/596
――すると又そのうちに、誰だかわかりませんが不意に僕を引きずり起して、右の手をシッカリと押えつけて、どこかへ連れて行こうとする者がいます。僕は寝ぼけたまま、やはり夢を見ているのかと思って、振り放して逃げようとしますと、又一人誰か来て、僕の左手を押えてズンズン
梯子段の方へ引っぱって行きました。その時にやっと気がついて振り返って見ますと、背広を着た人と、サアベルを引きずった巡査とが母の枕元に
屈まって、何か調べているようでした。
――それを見ると僕は、キット母が
虎烈剌か何かに
罹ったのに違いない。そうして僕も同じ病気になっているから、こんな
身体の具合が変なのだろうと半分夢うつつのように思い思い、二人の男に引っぱられて行きましたが、その時の苦しかった事は
未だに忘れません。何だか身体中が溶けるように
倦るくって、骨がみんな抜け落ちそうで、段々を一つ降りる
毎に眼の前が真暗になって、頭の中が水か何ぞのようにユラユラして痛みます。それを立止まって我慢しようとしますと、下から急に片手を引っぱられましたので、思い切って転がるように段々を降りて行ったのですが、その途中でヒョイと顔を上げますと、
階子段に向い合った頭の上の
手摺から、
私の母の色の
褪めた
扱帯が輪の形になってブラ下がっているのが眼に入りました。
――けれどもその時は、それが何故そうしてあるのか考える力もありませんでしたし、そのうちに又附いている男からヒドク小突かれて眼が
眩みそうになりましたので、そのまま勝手口に来て、母が
平生穿きにしておりました赤い
鼻緒の
下駄を穿いて横路次に出ました。
308/596
その時に、もしや母はもう死んでいるのじゃないか知らんと思いましたから、ハッとして立止って左右を見ましたら、両手を押えている男というのは、顔だけよく知っている
直方署の刑事と巡査で、怖い顔をして僕を
睨みつけながら、グングン両手を引張って行きましたから、何も尋ねる事はできませんでした。
――往来は
眩しい程日が照っていましたが、家の前には大勢の人が
集っていて、僕が出て行きますと一斉にこっちを見ました。近くにいる人は逃げ
退いたりしましたが、僕はそんな人達の黄色く光っている顔を見ますと、又、眼がまわって倒れそうになりました。それと一緒に、頭の中がシインと痛くなって
嘔きそうになりましたので、
額を押えようとしましたが、両手を押えられているので何も出来ません。その時に母は病気じゃない。殺されるかどうかしていて自分に
疑をかけられているのだなと思いましたから、そのまま
温柔しく引かれて行きました。
――僕はその時にキット頭がどうかなっていたのでしょう。ちっとも悲しくも恐ろしくもありませんでした。けれども身体中が汗だらけで、背中や腰のまわりがビショビショになった白い浴衣の寝巻き一枚しか着ていませんでしたので、たまらない程ゾクゾクしました。その上に、頭の上から照りかかる太陽の光りが、変に
黄臭いような、息苦しいような感じがして気が遠くなりかけたり、口の中が
腥くて嘔きそうになったりしましたので、時々眼をあけて、キラキラ光る
地面を見ながら、唾を吐き吐き歩きました。そうしたら、やっぱりお医者の処へ行くのじゃなくて警察の方へ曲って行きましたので、急に胸がドキドキしましたが、警察の入口の段々を上ると又、スッカリ落付いてしまいました。
309/596
そうして何だか自分の事を書いた探偵小説を読んでいるような、夢見ているような気持になって、汚ならしい床板を見つめておりますと、不意に僕の
背後で大きな声が聞えましたから、ビックリして振向きますと、それは僕を連れて来た刑事が
怒鳴ったので、あとから
跟いて来た大勢の人が警察の中へ入ろうとするのを叱っているのでした。その中には知っている顔もあったように思いますが、誰だったかはっきり
記憶えません。
――僕はそれから、奥の方にある狭い
室で、木製のバンコ(九州地方の方言。腰掛の事)に腰かけさせられて、巡査部長や刑事から色々な事を
訊かれました。けれども、頭が割れるように痛んでいましたのでどんな返事をしたかスッカリ忘れてしまいました。「
嘘だろう
嘘だろう」って何遍も言われましたから「
嘘じゃない
嘘じゃない」と言い張った事だけは
記憶ていますけれど…………。
――そうすると間もなく、この
直方の町中で知らない人はない「
鰐警部」と
綽名のついている谷警部が入って来まして、ダシヌケに「お前の
母親は殺されたんだぞ」と言いました。その時に僕は急に胸が一パイになって、どんなに我慢しても、声を立てて泣かずにはいられないような気持になりましたのを、一所懸命に我慢をして涙を
拭いておりますと、暫らく黙っていた谷警部は「お前が知らない筈はない」と言って僕の前にある汚い木机の上に何か投げ出しました。それは母がいつも寝床の上に置いて寝る
平生着の帯締めで、紫色の
打紐に、鉄の
茄子が附いているのでした。何でもよっぽど古いもので、母が故郷を出る時から締めていたのだそうですが、しかし、それがどうしたのか、よく解りませんでしたから
俯向いていますと「お前はこれで母親を締め殺したんだろう」と谷警部が
雷のような声で怒鳴りました。
310/596
アンマリ
非道いので僕はカッとなって、思わず立上って谷警部を
睨みつけましたが、その時に又、頭が割れるように痛んで嘔き気がつきましたので、机の上に両手をついて、
身体をブルブル震わして我慢していました。けれども
口惜しくて口惜しくて涙がポロポロ出て来るのを、どうしても止める事が出来ませんでした。
――谷警部はそれから又、いろんな事を言って僕を責めました。この警部はここいらの炭坑中の悪党が「鬼」とか「鰐」とか言って怖がっているのだそうですが、僕は何ともありませんでしたから、黙って聞いておりますと……今朝八時半頃、いつもの通り塾生が二三人お稽古に来たが、いつになく裏表の戸が
閉まっているのを見て、裏の
家主さんに知らせた。それで家主のお爺さんが勝手口の戸の
隙間から大きな声で呼んでみたが、どうしても起きない。そのうちに勝手口の方へ降りて来る階段の昇り口の処に白い足が二本ブラ下がっているのが
薄明るく見えたので、お爺さんは真青になって警察へ駆込んで来た。……それから警察の人が行って見ると、勝手口の突かい棒が落ちているのが一番先に解った。それから二階に上ろうとすると、母が寝巻一つのまま階段の上の手摺に細帯を結んで、それに首を引っかけて手足を垂らしているのが発見されたが、お前はそんな事は知らないような風に、床から半分脱け出して大の字になったままグーグー寝ていた。しかし母親の死体を調べて見ると、首の
周囲の
疵痕は細帯と一致しないし、寝床も取り乱してあるしするのだから、たしかに
絞殺した後で首を
縊ったように見せかけたものに違いない。又
家の中には何も盗まれたような跡が無いようだし、外から人が入って来た様子もないから、お前より
外に怪しい者はいない事になる………。
――それからまだある。
311/596
お前の母は寝床の中で
絞殺されがけに随分苦しんでいるらしく、その絞めた
疵痕が二重にも三重にもなっている位だから、横に寝ているお前が眼を
醒さない筈はない。第一お前は
平常と違って三時間以上余計に朝寝をしていたのはどういう訳か。絞め殺しておいて
胡魔化すつもりで寝ていたのが、つい寝過したのじゃないか。お前はほかに、お前を好いている女がいるのじゃないか。それとも塾生の中にお前が好いている娘がいて、その事に
就いて母親と喧嘩したのじゃないか。母親にお金を
強請ったのじゃないか。毎月
小遣を幾ら貰っているか。一体あれはお前の本当の母親なのかどうか。情婦を親に見せかけていたのじゃないか。スッカリ白状し
給え……なんて飛んでもない事を色々と言いかけるのです。……ですけれども、僕はそんな事を聞いている
中に、頭が
痺れたようになりまして、それじゃ人間てものは自分でも知らない間に、人を殺すような事がホントウにあるのか知らん。僕は夢うつつのうちに母親を殺して忘れているのじゃないかしら……なぞとボンヤリ考えたりしながら、
俯向いておりますと「そんならここで考えていろ」と留置場に入れられました。
――それからその日と、その晩の一夜は何も食べずに眠ったり
醒めたりして、あくる朝の御飯も頭が痛むのでそのままにしていましたが、あんまりお腹が
空いて来ましたので、お昼のを頂きますと大変にお
美味くて頭の痛いのがすっかり
癒りました。それから夕方になりますと、僕の母ソックリの女の人が面会に来ましたのでビックリしましたが、それはこの
伯母でしたので、僕は生れて初めて会った訳なのです。その時にこの
伯母も先生(
W氏)と同じ事を言いました。「何か夢を見ていやしなかったか」って……。けれどもその時はどうしても思い出せなかったものですから、何も知らないと答えました。……でも麻酔剤を
嗅がされていた事なんか、ちっとも知らなかったものですから……。
312/596
――あくる日になると先生(
W氏)がお
出でになるし、中学にいた時の僕の受持ちの
鴨打先生も会いに来て下さいました。その又あくる日になったら裁判所からも人が来て親切にいろんな事を聞いたりして何だか
赦されそうなので、僕は母がどんなになっているか、見に行きたくて
堪りませんでしたが、
一昨日帰って見ますと、母の
遺骸はもう火葬にしてありましたのでガッカリしました。僕の
家には写真が一枚もないので母の顔はもう見られないのです。けれども
明日はこの
伯母が、僕を
姪の
浜の
自宅に連れて行ってくれると言いますし、
モヨ子っていう
従妹もいるそうですから、そんなに淋しくはないだろうと思います。
――僕が一番好きなのは語学ですが、その
中でも一番面白いのは外国の小説を読むことで、特にその
中でもポーと、スチブンソンと、ホーソンが好きです。みんな古いって言いますけど……今に大学に入ったら精神病を研究してみようかとも思っている位です。ホントウは文科に入って各国の言葉を研究して、母と一緒に父の
行衛を探しに行きたいと考えていましたが、父の事に就いては母が極く少しばかりしか話さずに死んでしまいましたのでガッカリしています。その外に、今のところでは、どんな者になろうとも思っておりません。国語や漢文も嫌いではありませんが、中学を出た
後にはわざわざ勉強しようとは思いませんでした。その次に好きなのは歴史と博物で、つまらないと思ったのは地理と物理と数学でした。一番できないのは唱歌ですが、それでも聴くのは大好きです。いい西洋音楽のレコードを聴いたりしますと、名画を見ているような気持になります。民謡なぞも母が機嫌がいいと、よく塾生と一緒に
謡いましたから、
好いなあと思って聞いていました(赤面)。
――僕は
今迄に病気した事は一度もありません。母も寝たことはないようです。
313/596
――僕はこれから、警察へ訪ねて来て下すった
鴨打先生の処へお礼に行きます。
◇第二参考 呉
一郎
伯母
八代子の談話
▼同所同時刻に
於て、呉
一郎
が外出後――
――まったく何もかも夢のようで御座います。
一郎
は私の妹の子に
相違御座いません。眼鼻立ちが母親に生きうつしで、声までが私共の父親にそっくりで御座います。
――ずっと古い昔の事は存じませぬが、私の家は代々
姪の
浜で農業を致しておりました。私共
姉妹は母に早く別れましたが、父も私が十九の年の正月に亡くなりましたので、家の
血統は私と、この妹(
位牌をかえり見て)の
千世子と二人切りになってしまいました。それで、その年の暮に私は、亡くなりました夫の
源吉を迎えますと間もなく妹は「東京へ行って絵と
刺繍の稽古をして、生涯独身で暮すから構わないでくれ」という置手紙をして家を出ました。それが明治四十年の新の正月頃の事で御座いましたが、その後、福岡で妹を見かけたという人もありましたけれどもハッキリした事はわかりません。やはり全く絵と
刺繍が好きなためで御座いましたろうと思います。
一郎
が申しますように、人並はずれて勝気な娘で、十七年の年に県立の女学校を一番で出た位で御座いますが、何か始めますと夢中になる
性質で、夜通し寝ないで小説を読んだり、絵を
描いたりする事がよく御座いました。ことに
刺繍は小学校にいました時から好きで、夕方暗くなりましても縁側に出て、図画用紙にお寺の
襖の絵を写して来たのを木綿の糸屑で縫っている位で御座いましたから、私が夫を迎えたのを
見澄してその方の稽古を
念がけて行ったものと存じます。今から思いますとその時が
今生のお別れで御座いました。
314/596
もっとも、
田圃や畑の荒仕事を嫌いますので、よく留守番をさせましたが、私の家は門の処から町並では御座いますし、出入りもかなりに多い方で御座いましたから、別に
可怪気ない事を仕出かして出て行ったものとも思われませぬ。
――それから
後の妹のたよりは、明治四十年の暮に、東京の近くの駒沢村という処で、
一郎
という男の子が生れましたといって、村役場から知らせて参りましただけで御座います。その時もすぐに警察にお頼みして捜して頂きましたが、届出てあった所番地の家は、ずっと前から貸家になっておりましたものだそうで、なお、念のために私が出しておりました手紙も戻って参りましたので力を落しました。
一郎
が小学校へ入学致しました時の戸籍の
書類なぞはどうして取りましたものか わからないままに 全くの音沙汰なしになっておりました。そうして私が二十三になりました年の正月に夫と別れますと間もなく、今 居ります
モヨ子と申します娘を一人生みましたから、それから後は娘と二人切りで暮しておりました。
――今度の事を新聞で見ました時は夢心地で馳付けて参りました。いろいろお調べを受けましたが、只今の通りお答を申上げておきました。
――初めて
一郎
を見ました時は思わず涙が出ました。その時に夢の事を尋ねましたのは、私の処に居ります若い者が読んでおりました活動の話に、夢遊病の事が書いて御座いましたからです。何か
西洋の事で、私どもにはよく解りませぬけれども、夢遊病に
罹ってした事なら罪にならぬから、これから夢遊病の真似をして悪い事をしようか……なぞ若い者が申して笑っておりましたから、その事を思出しまして、もしやと思って尋ねて見たので御座いますが、女の癖に差出がましいとは存じましたけれども助けたいが一心で御座いましたから(赤面)。
315/596
おかげ様で
一郎
が元の潔白な
身体になります
許りでなく、妹にも久しく
不品行な事が御座いません事が、
亡骸をお調べ下さいましてから、お判りになりましたとの事で、これがせめてもの
心遣りで御座います。……で御座いますから私はここで立派に法事を営みましてから、お世話になりました皆様へも、世間並の御挨拶をして立ちたいと思います。
――
昨日、東京の
近江屋の御主人からお
香典に添えてこのようなお手紙(略)が参りました。「宮内省のお役人から、お装束の
修繕がさせたいからと頼まれて、妹の
行衛を探しているところへ、警察から人が来られたので、初めて知ってビックリした」と申して参りましたが、その手紙の様子で見ますと妹が色々と身の上話をお聞かせしたその奥様は、もう亡くなっておられるようで御座います。妹もせめて今少し生きておりましたならば、よい目に逢ったかも知れませんが……何の
怨か存じませぬが、このような
酷い事を致しました者が捕えられましたならば、
八ツ
裂にしてやりたい位に思います(落涙)。
――私の家は只今のところでは遠い親類しか居りませぬので、只今では親身の者と申しましては娘と私と二人切りで御座います。
一郎
はこれから私の子供分に致しまして、私の
力一パイ立派な人間に育て上げて行きたいと存じますが……
父無子と
位牌子をたよりに、暮すことを思いますと……(
涕泣)。
◇第三参考 松村マツ子女史(福岡市外
水茶屋、
翠糸女塾主)談
◇同年同月四日 玄洋新報社 朝刊切抜 抜粋再録
――その
刺繍の上手なお嬢さんが、この
翠糸女塾に通っていたのは、もう二昔前の日露戦争頃の事で、私が三十代の時ですから、詳しい事は判りませんねえ。エエ、通っていた事はたしかですよ。その頃が十七か八位でしたろうかねえ。ちょっと眼立たぬ風をしておられましたが、小柄なキリリとした
別嬪さんで、名前は
虹野ミギワさんと言いました。
316/596
イイエ、間違いはありません。珍しい名前ですからよく憶えております。又今お話しになりました「縫い
潰し」なぞいう
刺繍のできる人は
虹野さんより外に見た事がありません。
――
虹野さんの作品は私の処には一つも残っておりません。その頃はまだ、そんな贅沢なものの値打ちが判りませんでしたので手間損だったのです。たった一度、
二月ばかり かかってこしらえた五寸【15cm】四方ばかりの
小袱紗を、私の塾の展覧会に出した事がありましたが二十円という値段付けだったので 売れ残ってしまいました。今あったら大変なものでしょう。私も習っておけば良かったと思います。
虹野さんはそんな風に
技術が良かった上に、小野
鵞堂【書家】さんの字をお手本よりもズッと綺麗に書きましたので、私の弟子の
刺繍に使う字をよく書いてもらいました。絵も
却々上手で、私の処にある下絵の中でも良いのは大抵写して行かれました。けれども かれこれ半年余りかよって来たと思うとパッタリ見えなくなりました。エ……その時姙娠の模様は見えなかったかって……いいえ、小柄な方でしたから直ぐに判る筈ですが……その色男が
虹野さんを棄てて逃げたのですって? ヘエー左様ですか。ヘエー……。
――その頃住んでいた家ですか。サア、それは存じておればですが……その頃いた生徒はみんなもう四十近くのお婆さんになっているんですからネエ。ヘヘヘヘヘ。マア、その男が
虹野さんを殺したらしいんですって。……おお
怖わ! あんな
別嬪さんを、まあ
惜いこと……そういえば思い当る事があります。誰にも
仰言っては困りますがね。
虹野さんは大変な男喰いで、大学生の中でも失恋させられた人が二三人あったそうですよ。
尤もこれは噂だけですがね。その頃の
虹野さんの
家もどこか判らず、東から来たり西から来たり、帰りがけもその通りで、誰も本当の
家を知っているものは ありませんでしたよ。
317/596
私の塾には品行の悪い人は一切入れませんでしたが、そんな風でどこが悪いといって取り止めた事は一つもなかった上に、本人がシッカリした風で仕事が上手だったもんですからね。いいえ写真なぞもありません。けれどもその頃の
怨みにしちゃ、チット古過ぎますわねえ。ホホ……。
――ヘエッ、それがあの有名な迷宮事件の呉さんですって?……マアどうしましょう。どうして
虹野さんが、呉さんという事が判ったんですか。ヘエ、東京の袋物屋のお神さんに身の上を話していた。只、男の名前だけが判らない……ヘエ、そうですか。どうぞこの事は内証にして下さい。云々。
▲付記 呉一郎
の第一回の発作に関する事件記録の要点は前掲三項の断片に残らず包含されおるを以て詳細は省略す。但、第三参考「松村女史の断片」は、余の所謂「呉一郎
の第一回発作」の参考としては全然不必要の範囲に属するも、この記録を作製したるW氏の主張を尊重する意味に於て、且又、該事件に関する司法当局の探査方針、及び当時の各新聞の記事が暗黙の裡にW氏の意見に影響されつつありし証左としてここに掲ぐるものなり。
◆右に関する
W氏の意見摘要
余(
W氏)は初め、この事件に関する報道を新聞紙上に発見するや、極めて稀に存在する夢遊病の好適例に
非ずやと
思惟して出張したるところ、この
直方地方は元来 筑豊炭田の中心地に位置し、日本屈指の殺傷事件の本場たり。従って警察方面の捜索方針も単純
且粗放にして、現場の証拠等は事件発生の翌日に
於て、
完膚なき迄に
攪乱蹂躙されおり、充分なる調査を
遂ぐるを得ず、
然れ共
尚、現場の形況及び前記各項の談話、警察当事者の記憶、近隣の噂等を総合したる結果、この事件の特徴として左の諸項を認め得たり。
318/596
(
甲)犯行の現場たる女塾内には、呉
一郎
母子と塾生に関する事跡及び勝手口の
唯一の締りとされ おりたる径 約一
寸【約3cm】、長さ四尺一寸
余【約124cm】の竹の
支棒が、不明の原因にて土間に脱落し おりたる以外に、犯人の指紋、足跡等の一切を認め居ず、
拭い消したるものなるや否やも不明なり。
尚、右支棒は外より板戸を強く押せば、
指をさし入れて
外し得る位置に在りたる ものなる事を推定し得たり。
而して右板戸の
縁辺の支棒に接触する部分は、摩滅を防ぐためと支棒の作用の
堅確を期するため、新しく
亜鉛板を
以て
覆いありたるも、
這は
却って軽微の力を
以て、支棒を脱落せしめ得る原因となりたるものの如し。
(
乙)被害者
千世子は同夜午前二時――三時の間に、背面より絹製の
帯締を
以て
絞殺され、寝具を
蹴散らし、畳の上を
輾転【ころがる】して
藻掻き苦しむなど、
甚しき【ひどい】苦悶の跡を残したるまま絶命せるものを、更に階段の処に持行きて
手摺より細帯にて吊し下げ、階段の降り口に正面させて
縊死と見せかけたる事明らかなり。しかも、その絞首の跡を示す斑痕が、二重もしくは三重となりおる状況は、犯行当時に
於ても明瞭に認められし事を察し得るに
拘わらず、更にこれに
縊死を
装わしめたるは、一見、
浅薄なる犯行
隠覆の手段なるが如きも、実は
左に
非ず、他の指紋等を消去りたる犯人の行動と比較考慮する時は、その矛盾せる行為の相互間に生ずる一種の錯覚を
以て、犯人に対する
目星を誤らしめんがために
執りたる極めて巧妙なる手段なりと
思惟し得べし。
尚、被害者の手中その他には何物も
止めず。
或は軽き麻酔を施されたるものに
非ずやとも疑わる。
尚又、当時犯行用と認められし帯締めは、その後、数名の警官の手に転々したる
後なりしを
以て、何等犯人に関する証跡を検出するを得ず。
319/596
(
丙)呉
一郎
は、麻酔を施されたるものなる事を、同人の談話に現われたる予後の諸徴候に
依りて推測し得べし。
(
丁)死体は死後約四十時間目に、同女塾の裏庭に
於て、舟木医学士立会、余(
W氏)執刀の下に解剖の結果、最近に於ける性交の形跡なく、子宮には、
嘗て一児を
孕みたる痕跡を
止むるのみなる事を確かめ得たり。
如上【上述】の事実に
依り犯人及び犯行の目的等に関する推定は殆んど困難なり。
然れども、犯人は相当の学識あり、麻酔剤の使用に慣れ、思慮深く、且つ腕力
逞ましからざる者なる事、及び犯行が呉
一郎
に及ぶ事を好まざりし者なる事を推測し
得べし。(中略)。その筋の捜索方針は、初め
如上【上述】の推定に
基きて進行し、呉
一郎
を釈放したるも結局、再びこの方針を放棄し、純然たる見込捜索に移りたるため、
遂に何等
得るところなく、事件は
所謂迷宮
裡に遺棄さるるに到りたり。
320/596
(下略)
▼右に関する精神科学的観察
この事件は著者(正木)自身が直接に調査したるものに非ざるを以て、専門の精神科学的の考察と説明には多少の不便を感ずるものなり。然れどもW氏が、同氏独特の法医学的の見地に立ちて調査記録したる、この事件の各種の特徴に依て観察する時は、この事件の真相が現代の所謂、科学知識及び、これに伴う所謂常識の発達範囲に於ては、到底判断し且、説明し得べからざる「心理遺伝の発作」にあること疑を容れず【疑いはない】。筆者の所謂「犯人無き犯罪」の最も顕著なる好適例なり。すなわちW氏の最初の直覚が適中しおりたる事を、一切の事象が指しいる事を一々摘出、明示し得べし。W氏が事件後も尚、この点に関する疑念を捨てず、前掲の如き貴重なる談話を記録せる、その用意の周到なるに、劈頭の【まっさきに】敬意を表せざるを得ざるものなり。
乃ち前記W氏の観察と、三項の談話とを通じて、この事件の真相を究むべき、観察要項を列挙すれば左の如し。
{一} 呉
一郎
の性格と性的生活
呉
一郎
は当時満十六年四ヶ月の少年なるが、
此の如き母性愛を主とせる家庭に人となり、且つ平生 若き女性に接する機会を有する 文弱明敏【知的に鋭く、繊細で頭が良い】、且つ発育円満なる少年に有り勝ちの特徴として事件発生前より、既に十分の性的充実を
来しおりたるも、その母性愛の純美さと、自己の頭脳の
明晰さとに品性を浄化されて、これを肉体的に発露し得るが如き心理の欠陥を有せず、
無垢の童貞を保ちおりたるものと認めらる。
321/596
異性の唱歌を傾聴したる旨を告白し且つ赤面せるが如きは、かかる性格を有する
斯る時代の少年の特徴と認むるを得べく、又、談話中の到る処に発見さるる可憐なる率直さ、及び自身が犯人として
眼指さるるべき理由の動かすべからざるもの あるを自覚しつつも、自己の立場に対する何等の恐怖を感ぜざりし事実等より推して、その心理に微小の暗影をも
止めざる、清浄純真の童貞生活を送り
来りし者なる事を察知し得べし。
而して右年齢と性的生活の推定は、この事件に関する精神科学的観察の全部に影響する、重要なる断定の基礎となるべきものなるを
以て、特に冒頭に掲げて、注意を促す
所以なり。
{二} 夢遊状態を誘発せし暗示
事件発生の当夜、午前一時前後に覚醒して、母の寝顔を見たる時、異常の美しさを感じたりという呉
一郎
の告白は、前記の観察の妥当なる事を裏書せると同時に、同夜に於ける呉
一郎
の心理遺伝の発作、即ち夢遊状態発生の
暗示が
如何なる性質のものなりしかを説明しおるものと認め得べし。即ち、夜半の覚醒が、性的の衝動の高潮と切実なる関係を有せる事実に
徴する【(隠れているものを表に)呼び出す】時は、当時の呉
一郎
の精神状態は、
或る危機の最高潮に
瀕しおりたるものなる事、前記の告白によって明かなるべし。
而してその危機は、同人が一度階下に降りて用便し、再び二階に昇り
来りたる間に著しく緩和されたる筈なり。且つ、その刺激の対象たる母親
千世子が、
後向きになりたる姿を見たるがために、
些なからず
幻滅【幻想からさめる】されて、平生の
埋智【潜在している知性】に帰りて就寝したるものなる事も
亦察するに
難からず。
322/596
然れども
此の如くにして一時抑圧されたる性的の衝動は、呉
一郎
が熟睡に陥るや、その無意識界に潜在せる、
或る恐るべき心理遺伝を刺激して、
夢中遊行状態を誘発し(後出第二回の発作の項参照)、
遂に
斯かる凶行を演ぜしめたるものなる事を、以下
縷述する【こまごまと述べる】ところの各項の理由に照して、逐次了解するを
得べし。
{三} 呉
一郎
の第一回覚醒と
夢中遊行との関係
呉
一郎
が、同夜に限りて夜半の覚醒を見たるは、同人が従来あまり経験したる事なき異状なる出来事なる旨陳述せるが、右は又、
適々以て、その後の睡眠間に於ける夢遊状態の存在を指示しおれる一徴候と認め得べき理由あり。
然れども、この理由を明かにする以前に
於て、必然的に考慮せられざる べからざる一事は、勝手口の
支棒の落ちたる音が、呉
一郎
の第一回の覚醒の原因となりおれる如く
思惟されおることなり。右は呉
一郎
本人も、
然かく【そのように】信じおれるが如くなるも、
這は【この】睡眠中の感覚作用と、覚醒時の知覚作用とを同一視せるより出でたる誤解にして、
甚だ軽率なる判断なりと認むるに
躊躇せず。何となれば睡眠中に
或る音響を耳にして、直ちに覚醒したりと信じたるものが、覚醒後の正確なる判断力に
依ってこれを検する時は、その
間に数分、
甚だしきに到っては一二時間の睡眠を経過せる事を発見する例、
些なからず。その最極端なる一例は、
所謂、朝寝坊が起さるる時にして、数回に
亘る呼び声に応答しつつ、又も熟睡に陥り、日
三竿に及びて【太陽が三本の竿ほど高く昇った時分に】
決起して【意を決して立ち上がり】、今日は
唯一回の呼声にて覚醒したりなぞ主張する事 珍らしからざるは、世人の周知せる【世間の人々が広く知っている】事例なり。
323/596
睡眠中に感じたる音響と、これに
依って刺激されたる覚醒との間に於ける、経過時間に対する錯誤の
如何に
甚だしきかは、この一事を
以てしても充分に立証し得べし。
況んや【言うまでもなく】、夢中に
於て、明かに物音を知覚して覚醒したるにも
拘らず、その後の冷静なる検査に
依りて何事も なかりしを知る場合 極めて多きに
於てをや。これに
依ってこれを
観れば、
支棒の落ちたる音と、呉
一郎
の覚醒との間に必然的の因果関係を認むるは、正確なる推理の進行上
頗る危険なる所業にして、
寧ろ、右二ツの現象を全然無関係のものとして、この事件を観察する方、自然に近きものと言うを得べし。
況んや【言うまでもなく】更に、これを呉
一郎
の覚醒後の異常なる気持ちと直接に結び付けて、外より何者かが入り来りて、麻酔剤を
施しつつ、この凶行を演じたりと速断するが如きは、非常なる冒険、且つ、不合理と評するも
敢て過言に
非ざるべし【でないはずがない】。
而して、右の支棒の脱落と 思い誤られたる夢中の音響の正体に
就ては、別に発表し得べき重要なる研究資料を有すれども、右は
頗る広範なる実例と、極めて精密詳細なる心理学的の説明を要するを
以て、ここには大略し、
唯「夢中に
於て実在せざる音響を感ずる場合」のうち、睡眠自体を破る程に著しき実例の二三を
挙げて参考とするに
止むべし。
324/596
(a) 夢中に感ぜられつつある幻象の進行が、急に或る行詰まりを生じたる場合……たとえば、或る一種の感情(喜怒哀楽等)が急速に高潮して極点に達すると同時に、何物かの爆発、散乱、又は落下の光景を幻視せし瞬間……等……。
(b) 夢の進行が突然、或る無限の深さを有する空虚に陥りたる場合……たとえば、世界の涯より踏み外し、又は、暗黒の谷に墜落したる刹那……等……。
(c) 夢中に進行しつつありし或る二つの心理現象が、突然に交差し、又は衝突したる場合……たとえば、或る者を恐れつつ行いおりし秘密の仕事が、その恐れおりし或る者に発見されし刹那、又は、衝突を憂慮しつつありし汽船、又は自動車等が、果して急激に進路を曲げ来りて、眼前に衝突したる瞬間……等……。
(d) 夢の中に進行しつつありし事象が、全然予期せざる、正反対の心理の対象たるべく急変したる場合……たとえば、親友が凶漢なる事を発見し、又は、同伴者が急に恐ろしき者に変じ、或は又、快適なる室内の諸器物、楽しき花園の花等が、自己の最も恐怖嫌忌する形象物体等に変化したる刹那……等……。
右に
依って観察する時は、夢の中に感ぜられる、非実際的の音響の正体なるものは他に
非ず。すなわち
夢の進行中に於て、
突然、
不可抗的に受けたる驚愕、
恐怖、
歓喜、
その他の心境の急変化と、
覚醒時に於て不意に大音響に打たれたる心理の急変化とが酷似せるがために、逆に錯覚されて一ツの音響と感ぜられたるもの なる事を知るを得べし。
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更に右の事例に照して、この事件を考察する時は、呉
一郎
の第一回の覚醒なるものは、その直前に
於て、同人の心理に高潮充満しおりたる、性的の衝動に
依って描かれつつありし
或る種の夢の進行が、これに
依って刺激喚起されたる良心的の衝動を象徴する
或る幻像の出現と不可抗的に交差衝突したる
刹那の恐怖的心理状態が、音響的の錯覚を与えたるものに
非ずやとも考えらる。
而して、この仮定を認むる時は、その性的衝動の危機の
裡に眼覚めたる呉
一郎
が、その母の寝顔を見て、異常の美を感じたりという事実は、極めて自然なる心理の
帰趨にして、特に、春季に於ける年少の童貞に有り勝ちの秘密的、心的経験に関する、純潔、偽らざる告白というを得べく、同時にその後の熟睡中に
於て、同じ衝動によって刺激誘発されたる
夢中遊行の存在し得べき可能性は、一層、底強く裏書きせられ得るものと言うべし。
尚又、
支棒が落ちたる事実は、本人が
夢中遊行中の無意識的理知の発動に
依って行いたる犯罪の
隠覆手段に非ざるなき
乎。凶行その他の不正行為を敢てする事多き
夢中遊行者が、かかる行為を
併せ行う例は、
甚だ珍らしからず。しかも、その大部分は、この事例に於けるが如く、常に笑うべき
浅薄なる手段なるに照しても、
這般【これら】の疑問が不自然に非ざるを知り得べし。又、
或は、外より何者かが入り来らむとしたる際、誤って支棒を落し、様子を覗いおるうち、呉
一郎
が降り来りたるを
以て逃亡したる等の、偶然の事跡の暗合【一致】せるものに
非ずやとも考え得べし。
然れども
這般【これら】の疑点に
就いては調査が欠如しおるが如くなるを
以て
姑く疑問として保留しおくべし。
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{四} 夢遊状態発作当初の行動……
絞殺……
この事件の根本的説明となるべき凶行の目的が、今日に到るまで
茫乎【はっきりしない】として、推理の範囲外にある事実と同時に「つくし女塾内には呉
一郎
母子と、女塾生に関する以外の事跡を認めず」云々という
W氏の調査諸項を
併せ考うる時は、この事件の真相が呉
一郎
のその母に対する
夢中遊行の発作なる事を、最も簡単、且つ適切に
首肯し得ると同時に、その他の犯人に関する推断が、強いて第三者を仮想せむと試みたるより生じたる一種の錯覚なる事をも、遺憾なく説明し得べし。すなわち呉
一郎
は前記の性的衝動を心理に包みて熟睡後、これに
依りて刺激誘発されたる心理遺伝の発作のために
夢中遊行状態となりて起き上り、その意識
裡に現われたる夢幻(その内容はこの時まで不明)の欲求に従って、眼に当りたる被害者の帯締めを拾い取りて、その夢幻の対象たる一女性……実は母親……に対する凶行を遂げ、
尚後に述ぶるが如く学術上の珍とすべき奇怪なる
夢中遊行の若干を続行したる
後、就寝したるものと推測さる。
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而して右の凶行は、同人の脳髄の作用、即ち意識的精神作用が熟睡に
依て休止しおる間に
於て、全身の細胞相互間の反射交感作用が、脳髄の代用となりて(主として交感、迷走神経と連絡せる内臓の諸機関がこの役をつとめ、筋肉、結締組織、脂肪、血液等もこれに参加して、事後に於ける異常の疲労状態を呈す――拙著『精神病理学』参照)五官と直接に連絡し、見、聞き、判断し、且つ実行せるものなるを
以て、覚醒後の有我的意識には、
殆ど何等の記憶の痕跡を留めず、この点を混同して、一切の判断力を要する行動を、有我的意識(脳髄の覚醒時に於ける意識作用)に
依ってのみ行われ得るものと妄信せられたるがために、前記の如く、仮想の犯人を
拈出する【ひねり出す】が如き、推断上の錯誤を生じたるものにして、現代に於ける科学知識の発達程度に
於ては、誠に止むを得ざるに出でたる帰結と言うを得べし。
因みに、この事件に
依って研究さるべき呉
一郎
の
夢中遊行状態中、第二回の発作(後段参照)に
依て演出さるべき、この事件の眼目たる心理遺伝の内容と直接の連絡関係を有せる発作は、この……
絞首……の一事のみにして、
爾後【その後】の
夢中遊行は寧ろ脱線的のものと言うを得べし。
然れども、その
爾後の脱線的
夢中遊行なるものの正体は、実に学界の珍とも称すべきものにして、精神科学上の研究価値
甚だ高く、且つ
此の如く親近なる参考事例を他に発見し得ざるを
以て、
聊か脱線を共にするの
嫌あれども特にここに記述し、
併せてこの事件の真相が、呉
一郎
の
夢中遊行発作によって一貫せられおる事実を、徹底的に明白ならしめんと
欲する
所以なり。
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{五} 絞首に引続く第二段の
夢中遊行……死体翻弄……
被害者が、床上その他を
輾転【ころがる】して苦悶したる痕跡及び
絞殺の
跡顕著なるにも
拘らず、更にこれを
縊死と見せかけたるは
浅薄なる犯罪
隠覆行為なるが如くにして実は
然らず【そうではない】……云々として、犯人たる仮想の第三者の智力の尋常ならざるを疑われたるは、一面の理由ある判断なるが如くなるも、これ
亦、余りに
穿ち過ぎたる不自然の観察なりと信ずるに
躊躇せず。何となれば右の事象は又、
偶々以て
夢中遊行状態特有の怪異なる行動が当夜、同所に
於て行われたる事跡を物語るものにして、著者の
所謂……
死体翻弄……が当夜の呉
一郎
に
依って演ぜられたるものと認めて
些の不自然を感ぜざるのみならず、
却って右の事象に対する説明の簡単適切、疑うべからざるもの あるを
以てなり。
但し
夢中遊行中の死体翻弄なる現象に関しては古来、明確なる記録の
憑拠【根拠】するに足るべきもの
殆ど存在せず。
唯、かかる超
唯物科学的なる現象に対して深き興味を有する
拉甸人種間に伝われる記録及び迷信深き東洋諸民族間に残存せる伝説等に散見するあるのみ。
而してその記録なるものも
所謂、実見記等の類に
非ず。
或る特異の頭脳を有する僧侶、医師等が他人より聞知し、又は探聞し得たる事を記載せる随筆程度のものに過ぎざるのみならず、その記事の十中八九は死体を使用して人を
脅威し、電力を与えて死者を動かし試み、死人を
装うて悪事を働らく等、その他、迷信的の薬物たる臓器の獲得、埋葬品の
奪略、
屍姦等の事跡の誤認、誤伝せられたるものなるを
以て、容易に真相を捕捉し難き
憾み【心残り】あり。
然れども
斯かる
死体翻弄の事実の古来より存在せる事は
疑を
容れず【疑いがない】。
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即ち支那、
印度、日本等に
於て
屍神【死体が神格化された存在】、
屍鬼、もしくは
火車【死体や棺を奪い去る怪物】等と称する妖異
譚の内容を検する時は、この種の夢遊行為……すなわち死体翻弄が誤伝せられたるものなる事を、自然科学、精神科学等の各方面より推知するを得べし。
而して
斯る事実の詳細に関しては他日「妖怪篇」なる一篇に集積して研究論証すべく、目下材料の整理中に属すれども、その一班を摘要すれば、元来この
屍神、
屍鬼、もしくは
火車等と称する妖異現象は、
狐猫【昔の人が、正体不明の狂気を説明するために使った妖怪名】の類族、又は
鴉、
梟等の
怪禽妖獣【妖怪めいた鳥や獣】の族の所業なるが如く信ぜられおる傾向あり。
然れども事実は
左に
非ず。すなわちそれ等の伝説記録等に拠って、死体翻弄の状況を
按見するに、まず
劈頭に【まっさきに】、
棺柩中、もしくは床上に
静臥安居しおりたる【静かに横になっている】死体が
忽然として立上り、虚空を走るという形容あり。続いて眼を閉じ、毛髪と両手とを力無く
垂下したる亡者が、
或は
逆立し、
或は
翻筋斗返りし、
斜立したるまま静止し、又は
行歩し、丸太転び、
尺蠖歩み【
尺取虫の動きのような歩き方】、宙釣り、
逆釣り、
錐揉み、
文回し回転、
逆反り、
仏倒し【仏像のように、前後左右に硬直したまま倒れること】、うしろ返り、又は跳ね上り、
翻落する【ひっくり返りながら落ちる】なぞ、
恰も何者かが手を加えて操縦せるが如くなる、あらゆる奇抜なる形状と運動とを描き現わすものとなせるが、尚よく冷静、
仔細に この形容を観察する時は、
此の如き形状と運動とは、
恰も
彼の無邪気なる小児が、人形、生物体、もしくは人像に類せる物体を翻弄して、あらゆる残忍なる姿勢動作を演ぜしめつつ、
嬉戯満悦せる情態に酷似せるを
看取【見てとる】し得べし。
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しかも当該小児は
此の如き遊戯に際し、自ら手を加えて翻弄しつつある事実を
殆ど忘れおり、さながらに人形が自己の意志を直感して、好むがままに変化躍動しつつあるかの如く錯覚しつつ、一種の残忍性を満足せしめおる心理は、
吾人の日常随所に発見し得るところなり。
而して
此の如き生物、もしくは擬生物体 翻弄の心理は、
吾々人類の祖先が、その野蛮
蒙昧時代に
於て獲物、もしくは敵手を征服捕獲し、又は
斃し得たる際の満悦と勝利感の高潮によって、
恰も現在の食肉
禽獣、虫類間に遺伝残存しおるが如き獲物翻弄の高等なるものを行いたる習性が変形遺伝せしもの(敵手の首級【敵将】を 投げ上げ 投げ上げ歓喜したる史実厳存す。且つ、かかる擬生物体翻弄の習性が主として男児に現われ易き事実に注意すべし――拙著、心理遺伝本論中、変型遺伝の部参照)なる事実と照合する時は、かかる心理遺伝が、
斯の如き死体翻弄の
夢中遊行を誘起し得べき事、
疑を容れざるべし。
次に、
如上【上述】の考察を事実と照合して具体的に説明すれば、まず、
或る瀕死の病人に最後迄附添いおりたる者、又は、死体の始末をなしたる人間が睡眠後……特に介抱その他に
依る
身神【身体と精神の両方】の疲労又は一種の安心等のために平常よりも深き熟睡に陥りたる場合に
於て、その死体より受けたる深刻なる暗示のために、前記の如き残忍性を帯びたる夢遊心理を誘起され、未葬もしくは既葬の死体を取り出して翻弄したりとせむか。自身は
殆どその自ら手を下したる事実を記憶せざるべきは当然と見るを得べし。
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或は、半ば
朦朧状態に
於て意識せるものとするも、
彼の小児の人形翻弄の如く、自己が手を下したるものとは
思惟せずして、死体そのものの活躍なりと錯覚し、一種の悪夢の如きものと信じつつ死体を翻弄して、どこへか遺棄し去り、又は棺桶等に投入返還したるまま、床に帰りて就寝したる者が、翌朝に到りて死体の変位、紛失等を発見するや大いに驚き、妖異の
所業と解釈して
斯かる伝説の
由縁を作るべき事は疑を
容れず【疑いがない】、すなわち かかる伝説、
口碑【昔からの言いつたえ】の
殆ど全部が、死体に側近する者の
些なき【少なき】貧家の不幸事、もしくは死体一個、側近者一個を題材として伝えられおるを見ても、その妖異の主人公が死体そのもの、もしくは他の獣鬼等に
非ず、
傍に眠りおりたる者の
夢中遊行に
依るものなる事を察するに足るべく、現今、行われおる多人数の通夜の習慣は、この種の妖異の
防遏【ふせぎとめ】に最も有効なる事が古来
幾多の人々の経験に
依って知、不知の間に確認せられおりし事を 今日に立証しおるものと見るを得べし。又、死者の
枕頭【枕元】に刃物を置く習慣は、その刃物の
光鋩【鋭い光】、もしくは、その形状の
凄味より来る視覚上の刺激暗示を
以て、この種の夢遊病者の幻覚を破るに有効なるもの ありしより 起りし習慣に非ざるなき
乎【定着したものではないか】。いずれにしても
斯の如く観察し来る時は、この死体翻弄なる夢遊状態の存在は疑う余地なきところにして、特に通夜の習慣及び火葬の流行以前には、死体の側近者によりて かなり多数に この種の夢遊状態が実現されおりし事は自明の理なるべし。
次に
如上【上述】の研究考察をこの事件と照合するに、当夜に於ける呉
一郎
の女性
絞殺行為後の
夢中遊行症は
殆ど右と同様のものなるべけれども、更に、ここに変態性欲的内容を有する
夢中遊行を添加したる形跡の明らかなるものあるは 特に珍重含味すべきところなり。
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即ち呉
一郎
は、自己の血統に伝われる、独特固有の、変態性欲的「心理遺伝」の
夢中遊行発作(後段第二回の発作参照)に
依って、まずその夢幻の相手たる異性を
絞殺して第一段の満足を得、
然る
後、その死体の暗示により、前述の如き一般的なる夢遊状態……死体翻弄に移りたるものなる事を、察するに
難からざるべく【容易に推測できるだろう】……死体の
甚だしく
煩悶輾転【ころがる】せる痕跡、云々と認められしは、その翻弄の痕跡と混同しおる疑あり、
或は被害者の苦悶に属するものは、その中の極めて小なる一部分なりしやも計り難し。同時に、その死体翻弄が一種の変態性欲的の快適を求むる特殊の深刻味を含めるものなりし事は、その翻弄が転々飽くところを知らず、究極するところついに、変態性欲中に
於ても最高度の変態(次項参照)に到達したるを見て察知すべし。
{六} 死体翻弄に引続く第三段の
夢中遊行……
自己虐殺の幻覚と自己の死体幻視……
「
自己虐殺の幻覚」
及「
自己の死体幻視」と称する変態心理は、
夢中遊行に
非ざる一般の場合に
於ても、特異中の特異例に属すべきものなるを
以て、その
斯の如き変態にまで陥り来りたる心理経過を一々説述し来るは容易の
業に
非ず。
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然れども当座の参考のためにこれを要約して説明すれば、元来性欲もしくは恋愛なるものは、自己以外の異性に恋着する心理を指すものなれども、これをその本源に
溯りて考察する時は、
如何に没我【無我夢中】的なる恋愛、もしくは性欲の発露なりと
雖も、
畢竟するところ【結局】、自己の生ける霊肉の要求を
愛惜【愛して大切にする】し尊重する本能的主義的、もしくは利己的心理の表現に外ならず、故に、その性欲もしくは恋愛が、体質、性格及び境遇等に影響されて
常住不断【日ごろ】【へいぜい、ふだん】に飽く【十分に満足する】
能わず【できない】……又は飽く方法を知らず……又は飽く事を知らざる(これと正反対なる性欲
耄衰【老衰】の場合にも
略同一の結果に達すれどもここには省略す)場合は、その欲求が極度に高潮先鋭化し、深刻痛烈化し来る結果、
遂に尋常の手段にては満足を得る
能わず【できない】、究極するところ
遂に変態性欲の境界に脱線し去りて
尚飽き足らず【満足せず】、更に究極の極、その心理の本源に逆転し来りて、自己を恋着、
愛惜する心理に陥り来るべきは必然の帰結なり。
すなわちまず、これを積極方面より例示せむか。飽く事なき異性の愛撫欲が 極度に高潮辛辣化すれば 平凡なる性交の満足に
倦み【飽き】て、
異性の虐待、
乃至、
虐殺の快適味愛好(サジスムス【
サディズム】)又は
屍好(ネクロヒリ【
ネクロフィリア】)となり、更に進んで
異性の肉体覗見【のぞき見】、
異性の形状愛好(ビクマリオニスムス【
ピグマリオニズム】)、
異性の付属物嘆美(フェチシスムス【
フェティシズム】)等の順序を
以て
漸次【次第に】、異性より直接に受くる刺激、もしくは感覚より
背き遠ざかりつつ、却って深刻味ある快美感を受け得るに到るべく、
而も尚、それ以上の異端、もしくは
猟奇的深刻味を求めて止まざる結果は、
遂に人間本来の自己
愛惜の本能に吸引せられて
自己恋着に陥り来るに到るべし。
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又、これを消極方面より観察する時は、被愛撫的満足の飽く事なき願望が超自然的に高潮すれば被
虐待の要望(マゾヒスムス【
マゾヒズム】)となり、一転して異性の汚物愛好(
コプロラグニー)に進み、
異性よりの侮蔑冷視、
嘲笑嫌忌の甘受欲(エキシビステン【
エキシビショニズム】その他)等の経過を見て結局、前者と同様の結末に陥り来るべきは自然の
帰趨【ゆきつくところ】なり。
所謂NARZISMUS(
自己恋着)はこれにして、筆者の
所謂 積極消極両様の変態恋愛の交差 帰一【ばらばらのものが一つに帰する】 点そのものの発露と見るを得べし。
しかもこの「自己恋着」と名づくるものの中にも
亦、積極消極、両極端の合一せる変態あり。すなわち自己に対する極度の愛撫【陶酔】、
粉飾等は進んで自己の
虐待、自己の一部露出、もしくは
覗見【のぞき見】等の変態趣味に移り、一転して自己の軽視、冷遇、嘲笑、嫌忌もしくは自己恐怖等の心理を感ずるに到り、更に進んで
自己虐殺の快適、もしくは自己の死体幻視の
快美感 耽溺者【快い美の感覚に溺れている人】となり来るものなり。事実、この種の心理の実例は極めて広範
多端【複雑で多方面にわたっている】、且つ普遍的の性質を有しおるものにして、
往昔【いにしえ】の切腹、義死【義のために死ぬ】、憤死【憤慨して死ぬ】等の心理又は、普通の自殺者の遺書等の中に発見さるる夢の如き「自己
嘆美【ほめそやすこと】」又は、甘美なる涙を含む「自己陶酔」の心理の裏面には この種の変態心理の多少を認め得ざる事なく、
殊に失恋自殺者の心理にして、この種の変態的欲求に最後の、且つ、
唯一最高の満足を求めおらざるもの 一人も無し と断言するも
敢て過言に
非ず。
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