その他、この種の心理の発露の特異なるものに到っては、自己の名前、肖像等の抹殺破棄……鏡面の理由なき破壊……模擬戦、又は劇等に於ける傷者、死者等の役回り志願……各種の芸術作品中、自己にせる人物に対する作者の残忍なる描写……等の軽度なるものより、遺書なき自殺……他人もしくは公衆の面前に於ける自殺……自己及び環境を美化粉飾ふんしょくしたる自殺……同情の情死……同性同胞の情死……自殺倶楽部クラブの存在……等、その欲求の変幻、その発露の怪奇、ほとん端倪たんげいすべからざるものあり【予測不可能である】。その他、人類生活の日常到るところの起臥きが談笑の間においても、本来自然の自己愛着心と不即不離【つきも離れもしない】の関係を保ちつつ、知不知【知っていることを知っていると認識し、知らないことを知らないと自覚する】、不言不語【何も言わず、黙って物事を行う】のうちにこの種の変態心理が流露反映しつつあるものなるをもって 一々枚挙にいとまあらず、故に、ここにはただかくの如き極端なる変態心理がその研究価値のすこぶる高度、非常なるものあるにもかかわらず、その発露する事例は決して希有珍奇けうちんき【非常に珍しく、滅多にない】なるものにあらず、他の中間的なる変態性欲よりも却って普遍的なる傾向を有しおるものにして、相当の自省力を有する人士は常に、自己の心理生活の到るところに この種の変態心理を 発見し得べき【発見することができる】事を 証するに止むべし【それ以上は言うまい】。
 以上述ぶるところにって、この事件の示す特徴を研究考察するに、呉一郎 は、その夢中遊行むちゅうゆうこうの第一段たる絞首行為の前後において、その被害者の風貌が自己に酷似せる事を認めたるべきは 推測にかたからざるべし【難しくない】。
336/596
しかして同時にその夢中遊行むちゅうゆうこうの本源たる深刻痛切なる性欲の衝動が、その夢遊行動によって解除さるるを得ざるがために【されてしまうしかないので】、飽く事なき翻弄を続行中にも、幾回となく、その死体の風貌の自己に彷彿ほうふつたるものあるを認めしに相違なかるべく、その結果、おのずから自己虐殺の錯覚、幻覚に誘致され、死体を自己にし、数回にわたりてこれを絞首したるものと認むるは、決して不自然なる推測にあらざるべし【でないわけがない】。かくして最後に、自己の死体幻視の夢遊に移り、自己に擬したる被害者の死体を階上の手摺てすりより吊り下し、相対あいたいする階段附近よりこれを正視して歓興かんこう【喜び楽しむ】したるものと察するをべく、かくの如く観察し来る時は、被害者が二重三重に絞首されしのち縊死いしに擬せられたる等の、本事件の最重要なる各種の特徴は極めて自然に、且つ明白に説明され得るを見るべし。本事件の検案調査が、かかる諸点に留意されず、尋常一般の犯罪と同一視されたる結果、この方面に関する指紋、足跡等の事跡が大略看過かんかされたる傾向あり。ために、かかる珍奇なる夢中遊行むちゅうゆうこう特有の怪奇なる行動の詳細にわたりて 推測するあたわざるものあるは【できないものがあるのは】 またやむを得ざる遺憾事と言うべし。
 ちなみに、呉一郎夢中遊行むちゅうゆうこうの発作をここまで支持し来りし性欲衝動の最高潮状態は、この自己の死体幻視を終極的として、解除されたるものと推測し得べき理由あり。爾後じごの呉一郎 の行動は、この夢中遊行むちゅうゆうこう症の余波ともいうべき夢中遊行むちゅうゆうこうにして、筆者の所謂いわゆる蹌踉そうろう【よろめき】状態に陥りたるものと認むるを得べし。れども、その蹌踉そうろう状態の下に行われたる夢遊行動中にもまた、本事件の表面上に現われたる、重要なる疑問的特徴を作りしものあるを推測され得るをもって、特に項を改めて記述すべし。
337/596
  {七} 呉一郎 の悪夢、口臭、その他が表わす夢中遊行むちゅうゆうこう症の特徴

 呉一郎 が悪夢を見たりという事実と、覚醒後の頭痛、眩暈げんうん【めまい】、悪寒、口臭、嘔気おうき【吐き気】等を感じたる事実等を総合して、麻酔剤の使用を疑われたる事は一面の理由あるものの如し。れども、これを精神科学的の見地より観察する時は、これまた、現代の科学知識の発達程度に照して、誠に止むを得ざるに出でたる錯誤と評するを得べし。すなわち、畢竟ひっきょうするところ【結局】右は、夢、および夢中遊行むちゅうゆうこうなるものの真相の学理的に闡明せんめいされ、且つ、常識的に理解されおる程度が、はなは浅薄あさはか低級なる結果にして、下記二段の説明をもってこれを判断する時は、右の諸現象が麻酔剤の使用にって起りしものにあらず、却って夢遊病の併発へいはつ症状ともいうべき諸特徴を最も顕著に示しおる事を認め得べし。
338/596
 (イ)口臭その他と轆轤首ろくろくびの怪談 呉一郎 が覚醒後に感じたりという頭痛、嘔気おうき【吐き気】、疲労等は前述の如く、皆夢遊病の特徴として起り易き併発へいはつ症状なれども、就中なかんずく【とりわけ】、特に興味ある観察材料として ここに掲げむとほっするものは……口中に不快なる臭気を感じたり……という当該本人の陳述なり。しかしてかくの如き夢遊病者の口臭その他に関しては他日稿を改めて「妖怪論」中に詳論すべきも、その腹案の一部をここに披瀝ひれきすれば、一般にる夢遊病者が、る発作を遂行し終るまでは、その夢中遊行むちゅうゆうこうの本源たる各種の内的衝動に駆られて、何等の疲労をも自覚せざるのみならず 普通人の想像を超越したる精力と忍耐力を続行し得たる事例、またすくなしとせず【結構ある】。れども、その発作の最高潮時、もしくは発作の主要部分を経過したるのちは、精神の弛緩しかんと共に異常なる疲労を感じ、且つ、いたしき【ひどく】かつを覚ゆる【渇きを感じる】は 生理上当然の帰結なり。(苦悶、呻吟しんぎん【苦しみうめく】等の軽き夢中遊行むちゅうゆうこうを伴いたる悪夢等の覚醒後においても また然り)しかしてこの道理を根拠としてこの事件と比較研究さるべき絶好の参考材料は、日本の巷間こうかん【世間】に伝うる轆轤首(ロクロクビ)もしくは抜け首と称せらるる怪談なり。
 ロクロ首の怪談、又は絵画が、人間の夢、又は夢中遊行むちゅうゆうこうの心理を象徴せるものなる事は、ここにあらためて呶々どど【多言】するを要せざるべし。しかして同時に、このロクロ首が、油、又は下水その他の不浄の水をめる習癖あるがため、翌朝に到りて口中に悪臭を感ずるものなる事は、この種の怪談、又は絵画等にって説明され来りたるところにして、一見、荒唐無稽【でたらめ】の空説なるが如く見ゆるも決してあらず。すなわち、この怪談において、単にその首だけが脱出蜿蜒えんえん【うねり曲がって長く続く】して、何ものかを舐めたるが如く推断されたるは、夢、もしくは、夢中遊行むちゅうゆうこうの真相をらざるがために附会ふかい【こじつけて関係をつける】したる一個の想像にして、実は本人が夢中遊行むちゅうゆうこう中、生理上当然の欲求に駆られて、何等かの液体を渇望しつつ探し回り、且つ、これを口にしたる結果に外ならず。しかも右は、必ずや、発作の最高潮を経過したるのちに起るべき欲求にして、単にいたしき【ひどく】かつの刺激にって かろうじて夢中遊行むちゅうゆうこうを続行しおるが如き 状態なるべきをもって、意識の明瞭度は著しく減退しおり、且つ捜索探求の能力等も著しく薄弱となりおれる筈なり。従ってその液体の何たるかを問わず、単に水に似たるもの、もしくは、それが何等かの液体なる事を認めたるのみにて 直ちにこれをみ下すことは、あり得べき道理なり。夢中遊行むちゅうゆうこう中に、油、又は下水溝の汚水の如きものを口にして 自らこれを知らず、翌朝に到りて異状の口臭を感じ、又は嚥下物えんかぶつの不消化等にる頭痛、嘔気おうき【吐き気】等を訴えて 家人に怪しまれ、仏壇、又は行灯あんどんの油の減少せる等の事実と、想像とが結び付けられたる結果、当該本人の首のみが脱出したるが如き疑いを受くることは、人智未開の往昔おうせき【いにしえ】において、当然あり得べき事なりと考えらる。なお、このロクロ首、即ち夢中遊行むちゅうゆうこうの主人公が、平生あらゆる本能的自我的心理の発動を抑圧し、又は抑圧されがちなる妙齢みょうれいの美人と 人間の祖先たる下等動物中STEGOCEPHALIAを象徴したる 三ツ眼の怪物との二種類によって代表されおり、且つ、長き舌を出して液体を舐むるという動物的の挙動が、これに結び付けられおる諸点は心理遺伝学中、動物心理の遺伝発露について研究すべき好参考材料なれども、ここにははんを避けて冗説せざるべし【面倒(煩雑)を避けて、余計な説明はしないでおこう】。以上 ぶるところによって見る時は、呉一郎 の覚醒後の口臭は、吸入、又は注射に用いられたる麻酔薬の影響によって起りたる嗅神経の異状、又は、使用せられたる薬剤の口中粘膜よりの再分泌等によってきたれるものにあらず。同夜、何等かの水にあらざる液体(例えば香水、化粧水、又はクリーニング用の揮発油の如きもの)等を口にしたる証左にして、その他の病的現象の大部分も、該【あてはまる】液体の作用と認むるを自然に近きものと思惟しいさる。れども、この点に関する諸般の調査が、全然閑却かんきゃく【重視しないで打ち捨てておく】されあるは、止むを得ざる事とはいえ、千秋【千年】の遺憾と言うべし。
 (ロ)悪夢 又 呉一郎 が、事件当夜一時五分前後に覚醒し、次いで就寝したる以後に連続して見たりと信じおれる悪夢は、実は第二回の覚醒以前の僅少時間に見たるものが記憶に止まりたるものなる事、普通の夢と同様にして、夢中遊行むちゅうゆうこうの内容とは直接の関係を有せず。却って夢中遊行むちゅうゆうこう中に口にせし、何者かの影響なるべき事は前段の説明によって明かなるべし。

  {八} 夢中遊行むちゅうゆうこうの行われたる時間、その他

 如上じょじょう【上述】述べ来れる理由にり、この事件を考察する時は、呉一郎 の当夜の発作は、第一回と、第二回の覚醒の間において行われたるものと推定するを得べく、被害者の絶命時間が、二時――三時の間とすれば、呉一郎 は第二次の就寝後三十分乃至一時間ののちに、かかる夢中遊行むちゅうゆうこう状態の起り得べき、最深度の熟睡に陥りたるものなる事を察し得べし。
339/596
しかして、第二回の払暁時ふつぎょうじ【明け方】の覚醒は、平生の覚醒時に於ける習慣的の潜在意識の発露と見るを得べく、その後の睡眠において、呉一郎 は初めて夢中遊行むちゅうゆうこうの余波、もしくは夢中遊行むちゅうゆうこう中の嚥下物えんかぶつ【飲み込んだ物】にって刺激せられたる悪夢より離脱し、真の熟睡、休養に入りたる事を、その発汗現象によりても察知するを得べし。

  {九} 夢中遊行むちゅうゆうこうに関する覚醒後の自覚、及び二重人格に関する考察

 次に呉一郎 が覚醒後、警察において、母殺しの嫌疑の下に尋問を受けし際、茫然ぼうぜん自失しながらも「そんなら、自分が殺しておいて忘れているのじゃないかしら」というが如き、極めて軽微なる疑問が動きおりし事を告白せるは、一見、同人が自己の夢中遊行むちゅうゆうこうの幾分を記憶にとどめおれる重大なる証左なるが如く思惟しいさるべし。すなわち第四項に略説せし通り、同人の当夜に於ける夢中遊行むちゅうゆうこうの事実は、同人の有意識的の記憶には存在せざる筈なれども、脳髄以外の細胞が作りし無意識的記憶のうちるもの……たとえば当時のいたしき【ひどい】疲労感等が、警部の尋問の暗示力によって 意識に浮み出でしものに あらざるなきやも疑い得べし。れども、これを他の一面より見る時は、気質の純真と、良心の澄明ちょうめい【澄みきって明るい】とが反映したる、極めて明敏なる頭脳の所有者にして且つ、小説類の愛好者たる呉一郎 が、かかる局面に立ちたる結果起したる、この種の頭脳特有の錯覚にあらざるなきやを 保し難し【保てそうもない】。したがって、這般しゃはん【これら】の疑問は、呉一郎夢中遊行むちゅうゆうこうの存在を的確に立証し得るものにあらず。ただ、一箇の補遺的【補完的】参考としてここに掲ぐるを得るのみ。
 なお、以上述ぶるところにって、古来、夢中遊行むちゅうゆうこう病者が一種の二重人格の所有者なるが如く思惟しいせられおる事が、真に近き理由をも理解するを得べし。
340/596
すなわち、祖先代々より遺伝し来りたる無量の記憶と、その血統中に包含されたる各人種、各家系、各個性等の無数の性能の統一体たる一個の人間の性格のうち、その一部が覚醒中に分離してあらわれたるものが所謂いわゆる二重人格にして、同じく睡眠中に発露されたるものが夢中遊行むちゅうゆうこう症なり。しかしてかかる夢遊病者の素質が、遺伝性を帯びおるものなるは無論なるをもって、夢遊病者が夢中遊行むちゅうゆうこう中に行いし犯罪に対する責任は、夢遊病者本人が負うべき場合 はなはすくなく、これを遺伝せしめたる祖先及びその時代の社会等が、負うべき場合多き事を、この事件に対する法律的考察の参考として付記しおくべし。

  {十} 呉家の血統に関する謎語

 劈頭へきとうに【まっさきに】掲げし四項の談話中、右に摘出したる以外にもまた、呉一郎 の心理に、かかる夢中遊行むちゅうゆうこうを発作し得べき遺伝的のるものが存在せる事を暗示せる個所すくなからざるが如し。即ち左の如し。
341/596
=呉一郎 の談話中= 同人母 千世子は、女性にしては珍らしき明晰めいせきなる頭脳を有し、且つ、気強き性格の持ち主なる事が説明されおり、且つ、迷信家にあらざる旨を弁護しあるにもかかわらず、母子二人の宿命、もしくは運命に関しては、極めて平凡、且つ愚昧【物の道理がわからないこと】に属する迷信を極度に固執しおれる事実より推して、同女の心理に何等か不可抗的の憂悶【苦悶】不安の、不断ふだん【日ごろ】に存在せるにあらざるなきやを疑い得る事。
=同= 狸穴の先生と呼ばるる占断者うらないしゃの言に「お前達は、何者かにのろわれている」とあるは、同占断者うらないしゃが、同女との対話中に、同女の言葉の中に含まれたるる事実を推測して、く言いたるにあらずやと疑わるる事。
八代子の談話中= 直方のうがた署の留置場において、初めて呉一郎 に面会したる際「お前は何か夢を見ていやしなかったか」と尋ねしは「かつて夢遊病の事を耳にせしためなり」云々と弁明せるが、一婦人、特に農家の一主婦としての教養以外に、何等の高等なる学識を有せざるべき筈の八代子が、かくの如き非常事件に際し、かかる超常識的に高等なる、精神科学的現象の存在の、可能なる事を考え得るさえも、不可思議というべきに、更にこれを実地に当てめて、直ちに事件の裡面うらめんの真相を穿うがたん【うたがおう】と試みたるが如きは、真に驚くべき事実にして、仮令たとい同婦人が如何いか慧敏けいびん【知恵があって聡明】、且つ果敢なる判断力を有するものと見るも、尚且つ、不自然の感を免れず。但し、同婦人が常に、何等かの痛切なる事情に迫られて、かかる問題を念頭にかけおり、かくの如き事実に関する風説又は説明等について、鋭き注意を傾注しおりたるものとすれば、かかる際、かかる質問を発するはあながちに不自然と言い得べからざること。
=同= 同婦人は、めいはまなる実家に、近き親戚のすくなき旨をらせるが、田舎の富家には往々にしてかくの如く血縁的に孤立せる家系あり。しかして、その孤立の原因は多くの場合、その家柄もしくはその血統に絡まる伝統的の悪風評もしくは、むべき遺伝的の素質あるがために、附近の者が姻戚関係を結ぶを好まざる結果なるをもって、呉家も、あるいはその種の家柄にあらずやと疑わるる事。
=同= 妹千世子が家出の原因は刺繍ぬいとりと絵画の修業を目的とせるものにほかならざる旨、繰返して弁明せるも、前項の疑点と照合する時は、尚、別の意味をも含まれいるものの如し。すなわち千世子は、姉と共に同家に居りては、到底結婚の不可能なるべきを予感し、又は他国において、呉家の血統をつなぎ残すべく、姉との黙契もっけいの下に家出したるものにして、これあるがために、その行衛ゆくえ捜索に対する姉の態度は、稍々やや不熱心のきらいなきにあらざりしやの疑を存する余地あり。且つ、同姉妹が二人共、女性としては珍らしき気嵩きがさなる性格の所有者なる事実より これを推せば、両人の間にかかる黙契もっけいの成立し得べき事は 想像にかたからざる事。
松村マツ子女史の談話中= 「千世子が有名なる男喰いなりとの噂」云々の事実と、前記の疑問とを総合する時は、かくの如き事情を負うて家出せる同女の、その後の行動の一斑【物事の一部分】をうかがうに足るべき事。
 如上じょじょう【上述】の各項の疑点を通じて、姪の浜の呉家に伝統的の、しかも、極めて恐怖すべきるものが存在せる事、及び同家の最後の血統を有せる八代子千世子の姉妹が、この事を熟知しおるらしき事は、この事件の当初より既に、充分に暗示しありたるものと見るを得べし。
342/596
{十一} 残るところは、この事件に於ける呉一郎夢中遊行むちゅうゆうこうの発作が「如何いかなる種類の心理遺伝の如何いかなる程度の発露にりて行われたるものなりや」という問題なり

 即ち這般しゃはん【これら】の第一回の発作は、その夢中遊行むちゅうゆうこうの直接誘因とも見るべき有形的の暗示が「一女性の寝顔の美」という簡単なるものに過ぎず、且つその刺激が、異性的魅惑力の最も薄弱なる母親によって与えられたるものなりしため、呉家の固有に属する驚異的の心理遺伝に対する暗示の度もまたはなはだ浅かりしものと察せらる。従って、その夢中遊行むちゅうゆうこうの内容も、同家固有の心理遺伝の内容(後段参照)と合致せるはただ「絞首」の一事あるのみ。爾余じよ【それ以外】はその死体、及びその容貌の暗示より来れる脱線的の夢中遊行むちゅうゆうこうに移りて、それ以上の心理遺伝の内容を示さざりしものと思惟しいし得べし。
 しかして、前記諸項に関する一切の根本的の疑問に対する解決と説明は、この直方のうがた事件の発生後、約二箇年目に現われたる左記、第二回の発作に現われたる諸般の事情にって、徹底的に明らかにするを得べし。


     第二回の発作

◇第一参考 戸倉仙五郎の談話
◇聴取日時 大正十五年四月二十六日(所謂いわゆる姪之浜めいのはまの花嫁殺し事件発生当日)午後一時頃――
◇聴取場所 福岡県早良郡姪之浜町二四二七番地、同人自宅において――
◇同席者 戸倉仙五郎(呉八代子常雇じょうやとい農夫、当時五十五歳)――同人妻子数名――W氏)――以上――

   {注意」 いたしき【ひどい】方言なるをもって標準語に近づけて記載す。

 ――ええもう、このような恐ろしい事は御座いませなんだ。その時に梯子はしごのテッペンから落ちて打ちました腰が、この通り痛みまして、小用こようにもうて参ります位で、すんでの事に生命喪いのちうしないをするところで御座いました。
343/596
しかし、今朝けさ程から茄子なすびの黒焼を酒で飲みまして、御覧の通り、妙薬のふなつぶして貼っておりますけに、おかげで余程痛みがくつろいだようで御座います。
 ――呉様のお家は、千俵余米【千俵を超える量の米】と申しまして、この界隈でも一といわれる名うての大百姓で御座います。そのほか、養蚕かいこから、養鶏にわとりから何から何まで、今の後家【未亡人】さんのお八代さんが、たった一人で算盤そろばんはじかっしゃるので、身代しんだいは太るばかり……何十万か、何百万かわからぬと申しますが、えらいもので御座います。学校も自分で建てた学校なら、お寺も御先祖が建てさっしゃったお寺で、跡目相続人あととりの若旦那(呉一郎 )は大幸福者おおしあわせもので御座いますのに、思いがけない事が出来ましたもので……。
 ――若旦那様は、温柔おとなしい、口数のすくな御仁おひとで御座いました。直方のうがたからこちらへ御座ってのちというもの、いつも奥座敷で勉強ばっかりして御座ったようですが、雇人やといにんや近所の者にも権式【権威】を取らしゃらず、まことに評判がよろしゅう御座いました。それに今までは呉家の人と申しましても後家のお八代さんと十七になる娘のオモヨさんと二人切りで、うちの中が何となく陰気で御座いましたが、一昨年おととしの春から若旦那が御座らっしゃるようになると、妙なもので、家内がどことなく陽気になりまして、私共も働らき甲斐があるような気持が致して参りましたような訳で……ヘイ……。そのうちに、今年の春になりましてからは又、若旦那様が福岡の高等学校を一番の成績で卒業して、福岡の大学に又やはり一番で入らっしゃると、そのお祝を兼ねて、若旦那とオモヨさんの祝言おめでたがあるというような事で、呉さんのお家はもう、何とのう浮き上るような あんばいで……ヘイ……。
 ――ところが丁度ちょうど昨日きのう(四月二十五日)の事で御座います。
344/596
福岡因幡町いなばちょうの記念館という大きな西洋館の中で、高等学校の生徒さんの英語の演説会がありましたそうですが、若旦那様はその時に、卒業生の総代になって、一番初めの演説を受持って御座るとかで、高等学校の服を着て行こうとなさるのを お八代さんが引止めて、大学校生徒の新しい服を着せてやろうとしました。その時に若旦那は苦笑いをしながら、どうしても着て行かぬ。まだ早いと言うて逃げようとされますのを、お八代さんが無理矢理に着せて、あとを見送りながら、さも嬉しそうにして涙をいておりました態度ようすが、今でも眼にすがって【残って】おります。今から思えばあの時が、若旦那の大学服の着納めで御座いましたろう。
 ――ところで又、そのあくる日のきょうは今も申します通り、若旦那様とオモヨさんの、お芽出度めでたい日取りになっておりましたので、私共も一昨日おとといから泊り込みで手伝いに参っておりました。オモヨさんも高島田にうて、草色の振袖ふりそで赤襷あかだすきがけで働いておりましたが、何に致せ容色きりょうはあの通り、御先祖の六美むつみ様の画像も及ばぬという、もっぱらの評判で御座いますし、それに気質きだてがまことに柔和すなおで、「綺倆きりょう器量きりょう】千両、気質が千両、あとの千両は婿むこ次第」と子守女が唄うている位で御座いました。又、若旦那様はと申しますと年は二十歳はたちという事で御座いますが、分別といい、物ごしといい、三十近い者でも追い付かぬ位シッカリして御座って、ことに男ぶりが又御覧でも御座いましつろうが、お公卿くげ様にも無かろうと思われる位、品行がよろしゅう御座いましたので、これ位の夫婦は博多にもあるまいという噂で御座いました。……それにお支度が又金にかしたもので、若旦那の方から婿むこ入りの形にするために、地境じざかいの畠をつぶしまして、見事な離家はなれが一軒建ちました位で、そのほか着物は、福岡一の京屋呉服店から仕立てて来る。
345/596
お料理の方も昨日きのうから、やはり福岡一の魚吉うおきちという仕出し屋が持ち込んで騒いでいるという勢いで、後家さんの気張りようというたなら大したもので御座いました。
 ――ところが昨日きのうの演説会での若旦那様のお役目というのはホンのチョットで、どんなに遅うなっても二時までには間違わずに帰ると言いおいて行かれたので御座いますが、とやかく致しておりますうちに三時が過ぎましても、お帰りの姿が見えませぬ。若旦那はこのような事は決して御間違いにならぬ性分で御座いましたので、私は年寄役に、チョットこの事を不審を打ちます【疑いを示します】と 皆の者は「おおかた演説の初まりが遅うなったとじゃろう」なんぞと申しまして格別気にかけませなんだ。しかし今までにこのような事は一度も無いので、折柄おりからが折柄では御座いますし、私も心配せぬでは御座いませんでしたが、ツイせわしいのにまぎれておりますと、そのうちに日和癖ひよりぐせ【その場の空気次第で判断を変える癖】で、空が一面に曇って参りまして、長い春の日がにわかに夕方のように暗くなりました。すると、それで気がついたものと見えまして、明日あすからは母親のお八代さんが、れ手を拭き拭き私を物蔭に呼びまして「二十歳はたちにもなっとるけん間違いはなかろうが、まだ帰らぬ模様ごとあるけん、そこいらまで見に行ってくれまいか」という頼みで御座います。私もちょうどそう思うているところで御座いましたけに、やりかけておりました蒸籠せいろ修繕つくろいを片づけまして、煙草を一服吸うてから草鞋わらじ穿きのまま出かけましたのが、かれこれ四時頃で御座いましつろうか。軽便鉄道けいべん西新町にしじんまちまで行きまして、今川橋の電車の行き詰りの処に、煮売屋にうりやを開いております私の弟の処へ立ち寄りまして「うちの若旦那を見かけなんだか」とたずねますと「おお……その若旦那なら、今から二時間ばかり前にここを通って、軌道には乗らずに歩いて西の方へ行かっしゃった。
346/596
初めて大学の服をば着て御座るのを見たけん、二人が表に出て、しばアらく見送っておった。婿むこどんじゃなア」と夫婦で申します。
 ――若旦那は平生ふだんからこの軌道の煙のにおいがお嫌いだそうで、高等学校に行かっしゃる時も運動になるからちうて、毎日毎日姪の浜から田圃たんぼ伝いに歩かっしゃった位で御座います。しかし、それにしても今川橋から姪の浜までは一里そこらで御座いますから、二時間もかかる筈はないが……と心配しいしい帰りかけましたのが四時半頃で御座いましつろうか。国道沿いの軌道伝いに帰って参りましたところが、ちょうど姪浜ここから程近い道傍みちばたの海岸側に在る山のすそに石切場が御座います。切っております石は姪浜石めいのはまいしと申しまして黒い柔かい石で、お帰りに御覧になればお解りになりますが、福岡の方から参りますにも、又、こっちから福岡の方角に出ますにも、是非とも通らなければならぬ処で御座います。……あの石切場の石が屏風のように突立って、西日を赤々と受けております奥の方の薄暗い処へ、四角い帽子をかぶった洋服の姿がチラリと動いて見えたように思いました。
 ――私は眼が悪う御座いますが、これこそと思って近寄って見ますと、あんじょう若旦那様で、高岩の蔭に腰をかけて、何か巻物のようなものを見ておいでになります。私は、そこいらに積み重ねてある切石の上を伝うて、ちょうど若旦那の頭の上に出ましたので、ソロ――ッと首を伸ばして覗いて見ますと、それは長い長い巻物の途中と思われる処で御座いましたが、不思議なことには、それは只の白い紙ばかりで、何一つ書いて無いもののように見えました。しかし若旦那の眼には、何か見えておりましたらしく、その白い処を一心になって見て御座る様子で御座います。
 ――私は呉様のお家にたたる絵巻物がある という事を かねてから噂には聞いておりました。
347/596
けれどもそれはもう余程大昔の事で、今の世の中に、そのような事があろう筈はない。あっても話ばかりと思うておりましたけに、真逆まさかその巻物がソレであろうとは夢にも思いつきません。やはり眼が悪いのだろうと思いまして、若旦那に気取けどられぬように、出来るだけ顔を近付けて見ましたけれども、白い紙はやはり白い紙で、いくら眼をこすりましても、物が書いてある模様は見えません。
 ――サア私は不思議でならなくなりました。若旦那が何を見て御座るのか、一つ聞いて見ようと思いますと、急いで岩角を降りました。そうしてワザと遠回りをして、若旦那の前に出てヒョッコリ顔を合わせますと、若旦那は私が近寄りましたのに気もつかれぬ様子で、半開きの巻物を両手に持ったまま、西の方の真赤になった空を見て何かボンヤリと考えて御座るようで御座います。そこで私が咳払いを一つ致しまして「モシ若旦那」と声をかけますと、ビックリさっしゃった様子で、私の顔をツクヅク見ておいでになりましたが「おお、仙五郎か。どうしてここへ来た」と初めて気が附いたようにニッコリ笑われますと、裏向きにして持って御座った巻物を捲き納めながら、グルグルとひもで巻いてしまわれました。私はその時若旦那が、何か余程大切な事を考え御座ったものとばかり思っておりましたから、何の気もつかずに、お八代さんが心配して御座る事を話しまして「一体それは何の巻物で御座いますか」と手に持って御座るのを指して尋ねました。そうすると、又いつの間にか背振山せぶりやまの方をふり返って、何か考えて御座った若旦那様は、又、ハッとしたように私の顔と、巻物とを見比べておられましたが「これかね。これは僕がこれから仕上げねばならぬ巻物で、出来上ったら天子様に差し上げねばならぬ大切な品物だ。誰にも見せる訳に行かん」と言い言い外套の下の洋服のポケットにお入れになりました。
348/596
 ――私は いよいよ訳がわからぬようになりましたが「しかし、その中には何が書いて御座いますので……」と申しますと、若旦那は心持ち赤くなられまして、苦笑いをしながら「それは今にわかる。とても面白いお話と、恐ろしい絵がいてある。僕達が式を挙げる前に是非とも見ておかねばならぬものだと その人が言われた……今にわかる……今にわかる……」と言われました。私は何だか訳がわかったような、わからぬような妙な気持ちになりましたが、しかし、その若旦那のものの仰言おっしゃりようが、何とのううわそらで、平生いつもとは余程違うて御座る事に気が附いて参りましたので、執拗しつこいようでは御座いましたが今一度念のために「ヘエー。そのようなものを誰が差し上げました」と尋ねますと、又も穴のあく程、私の顔を凝視みつめておられました若旦那様は、やがて又、ハッと正気づかれたように眼を丸くして、二三度パチパチとまたたきをされました。そうして何を考えられましたものか、すこし涙ぐんで口籠くちごもりながら「これを僕にれた人かね……それは死んだお母さんの知り合いの人で、お母さんから秘密に預かった巻物を私に返しに来たのだ。その人は又そのうちにキット私にめぐり会おう。名前はその時に言って聞かせよう……と言ったきりで、どこかへ消え失せてしまったが、私はその人が誰だかチャンと知っている。しかし……まだ何も言われん言われん。お前もこの事を他人に言う事はならん。よいか……サア行こう行こう」と言われるうちに若旦那はにわかにソワソワとなられて、石の上を飛び飛びに往来に出て、私の先に立ってズンズンお歩きになりましたが、そのおみ足の早かった事……まるで物に取りかれたようで、平生いつもとまるで違うておりました。今から思いますと、あの時からもう、いくらか妙なきざしがありましたようで……。
349/596
 ――若旦那が家へお着きになりますと、すぐにお八代さんに「只今……遅うなりました」と言われましたが、お八代さんが「仙五郎に会いなすったか」と尋ねますと「ハイ。石切場の所で会いました。今そこに帰って来ております」と言うて、うしろから入って来た私を指示ゆびさされまして、サッサと離家はなれの方へ行かれました。お八代さんは、それで安心したらしく、私には別に何にも尋ねずに、ただ「御苦労」を言うただけで、横の板張に親椀おやわんを並べていていたオモヨさんに眼顔めがお【目の表情や顔つき】で、差図さしずをしますと、オモヨさんは大勢に見られながら、はずかしそうに立上って、若旦那の後から鉄瓶をげて、離家はなれの方へ行きました。
 ――それからもう一つ、これは後から訳が判ったように思うので御座いますが、日が暮れるまえにチョット妙な事が御座いました。……私はそれから裏口の梔子くちなしの蔭にむしろを敷きまして、煙管きせるくわえながら先刻さいぜん蒸籠せいろつくろい残りをつづくっておりましたが、そこから梔子くちなしの枝越しに、離家はなれの座敷の内部ようす真正面まむきに見えますので、見るともなく見ておりますと、若旦那は離家はなれのお座敷の机の前で着物を着換えさっしゃってから、オモヨさんが入れたお茶を飲みながら、何かしらオモヨさんに言い聞かせて御座るようで……硝子ガラス雨戸の中ですから声はわかりませぬが、お顔の色が平生いつもになく青ざめて、まゆがヒクヒクと動いているあんばいは、まるで何か叱って御座るようにも見えましたが、しかしよく気をつけて見ますと、そうでも御座いません。当の相手のオモヨさんはその前で洋服を畳みながら、赤い顔をして笑い笑い「イヤイヤ」と頭を横に振っているようで、まことに変なアンバイで御座いました。
 ――ところがそれを見ると若旦那は いよいよ青い顔になられまして、オモヨさんにピッタリとニジリ寄って行かれました。
350/596
そうしてここから見えます、あの三ツ並んだ土蔵おくらの方角を指さして見せながら、片手をオモヨさんの肩にかけて、二三度ゆすぶられますと、最前から火のように赤うなって身体からだをすぼめていたオモヨさんが、やっとのこと顔をあげて、若旦那と一緒に土蔵おくらの方を見ましたが、やがて嬉しいのか悲しいのか解らぬような風付ふうつき【風体】で、水々しい島田の頭をチョットばかりたてに振ったと思うと、首のつけ根まで紅くなりながら、ガックリとうなだれてしまいました……まるで新派の芝居でも見ておりますようなアンバイで……ヘイ……。
 ――するとその態度ようすをジット見て御座った若旦那は、オモヨさんの肩に手をかけたまま中腰になって硝子ガラス雨戸越しにそこいらをジロジロと見まわして御座るようでしたが、やがて軒先のきさきの夕空を見上げながら、思い出したように白い歯を出して、ニッタリと笑われました。そうして赤い舌を出してペロペロと舌なめずりをさっしゃったようでしたが、その笑顔の青白くて気味の悪う御座いました事というものは、思わずゾッと致しました位で……ヘイ……けれども真逆まさか、それがあのような事の起る前兆まえおきとは夢にも思い寄りませなんだ。ただ学問のある人はあのような奇妙な素振りをするものか……と思い思いせわしさにまぎれて忘れておりましたような事で……ヘイ……。
 ――それから昨晩、家中うちじゅうの者が一人残らず寝静まってしまいましたのが午前の二時頃の事で御座いましたろうか。花嫁御のオモヨさんと、母親のお八代さんとは母屋おもやの奥座敷に……それから花婿はなむこどんの若旦那と、親代りの附添役になりました私は、離家はなれに床を取ってやすみました。
351/596
もっとも私は若旦那よりもズット遅れまして、十二時過ぎに湯に入りまして、離家はなれの戸締りを致しますと、若旦那のお次の間の、茶の間になっている処へ床を取って寝みましたが、年寄りの癖で、今朝けさほど、まだ薄暗いうちに眼がめましたので、便所へ行こうと思いまして、二方硝子ガラス雨戸の薄ら明りを便たよりに若旦那のおへやの前の縁側まで来ますと、そこの新しい障子が一枚開いて、その前の硝子雨戸が又一枚開いてあります。それからおへやの中を覗きますと、寝床の中に若旦那のお姿が見えません。……ハテ妙な事……と思いますとチョット胸騒ぎが致しましたが、外は小雨が降っておりましたので、新しい台所の上り口から自分の下駄を持って参りまして、飛び石伝いに母屋の方へ参りますと、奥座敷の戸袋の処が一枚開いて、そこにすこしばかり砂のついた下駄の跡が薄明りなりに見えるようで御座います。私はそこで又チョット考えましたが、間もなく思い切って下駄を脱いで、抜き足さし足で廊下を伝って行って、奥座敷の硝子障子を覗き込みますと、暗い電灯の下に、お八代さんは片手を投げ出して寝ておりますが、その横に敷いてあるオモヨさんの寝床は藻抜もぬけの殻で、夜具がすその方に畳み寄せてありまして、ぐくしの高枕が床のまん中に置いてある切りで御座います。
 ――私はその時にようやっと最前日暮れ方に見た事を思い出しまして……ナアンダ、そんな事だったか。それなら別段心配せんでもよかったに……と、どうやら胸を撫でおろしました。……が……しかし又考えてみますと、この道ばかりは別とはいえ、あの若旦那のなさる事にしてはチョット様子が可怪おかしいと気がつきましたので、又、何とのう胸騒ぎがし初めました。やっぱり虫が知らせるというもので御座いましつろうか……とにかく自分の手落ちになってはならぬ。
352/596
皆が起きぬうちに……と思いましたから、お八代さんを起したので御座いますが、私がオモヨさんの寝床をゆびさしまして、コレコレと申しますと、眼をこすっておりましたお八代さんはハッとした様子で……「この頃一郎 が、何か巻物のようなものをば持っとるのを見かけはせんじゃったか」……と不意に妙な事を尋ねながら、寝床の上にピタリと座り直しました。私は、しかし、その時までは何も心付きませんので「……ヘエ……昨日きのう、石切場で会いました時に、何か存じませんが白い紙ばかりの、長い巻物を読んで御座ったようで……」と申しましたが、その時のお八代さんの血相の変りようばっかりは今でも忘れません……「又出て来たか――ッ」とカスレたような声で申しますと、唇をギリギリと噛んで、両手を握り固めてブルブルとふるわして、眼を逆様さかさまに釣り上げて、チョット取り詰めた(逆上喪神の意【少し逆上して、我を忘れた状態になった】)ようになりました。私は何事か判らぬままにきもつぶしまして、尻餅しりもちをついたまま見ておりますと、やがてお八代さんは気を取り直した様子で、涙をハラハラと流したのをたもとぬぐい上げまして、泣き笑いのような顔をしながら「イヤイヤ。私の思い違いかも知れぬ。お前の見違いかも知れぬ。とにかくどこに居るか探しておくれ」と言うて立ち上りました。その時はもう平生いつもとかわらぬ風付ふうつき【風体】で、先に立って縁側から降りて行きましたが、実はよほど周章うろたえて御座ったと見えまして、跣足はだしで表口の方へ行かっしゃる後から、私が下駄を穿いていて行きました。
 ――小雨はもうその時には降りやんでおりましたようですが、間もなく離家はなれの前の……ここから見えますあの一番右側の三番土蔵ぐらの前まで来ました時に、私は土蔵くらの北向きになっている銅張あかがねばりのが、開いたままになっているのに気が付きまして、先へ行くお八代さんを引止めてゆびをさして見せました。
353/596
あとから考えますとこの三番土蔵は、麦秋むぎ頃まで空倉あきぐらで、色々な農具が投げ込んでありまして出入りがはげしゅう御座いますので、若い者がウッカリして窓を明け放しにしておく事がチョイチョイ御座いました。この時なぞも そうだったかも知れませぬので、別に不思議がる事はなかった筈で御座いますが、昼間の事を思い出しましたせいか、思わずハッとして立ち止りましたので……するとお八代さんも うなずきまして、土蔵くらの戸前の処へまわって行きましたが、内側からどうかしてあると見えまして、土戸つちど微塵みじんも動きません。すると、お八代さんは又うなずいて、すぐ横の母屋の腰板に引っかけてある一間半の梯子はしごを自分で持って来て、土蔵の窓の下にソッと立てかけて、私に登って見よと手真似で言いつけましたが、その顔付きが又、尋常で御座いません。その上に、その窓を仰いで見ておりますと、何かチラチラ灯火あかりがさしている模様で御座います。
 ――私は御承知の通り大の臆病者で御座いますから、どうもい心地が致しませんでしたが、お八代さんの顔付きが、生やさしい顔付では御座いませんので、余儀なく下駄を脱ぎまして、尻を端折からげまして【はしょりまして】、梯子を登り詰めますと、その窓の縁に両手をかけながら、ソロッと中の様子を覗いたので御座いますが……覗いているうちに足の力が抜けてしもうて、梯子が降りられぬようになりました。それと一緒に窓の所にかけておりました両手の力が無くなりましたようで、スッテンコロリと転げ落ちますと、腰をしたたかに打ちまして、立ち上る事も逃げ出す事も出来なくなりました。
 ――ヘイ。その時に見ました窓の中の光景ありさまは、一生涯忘れようとして忘れられません。
354/596
そのもようを申しますと、土蔵くらの二階の片隅に積んでありましたあきかます【むしろで作った袋】で、板張りの真中に四角い寝床のようなものが作ってありまして、その上にオモヨさんの派手な寝巻きや、赤いゆもじが一パイに拡げて引っかぶせてあります。その上に、水のしたたるような高島田にうたオモヨさんの死骸が、丸裸体まるはだかにして仰向けに寝かしてありまして、その前に、母屋おもやの座敷に据えてありました古い経机きょうづくえが置いてあります。その左側には、お持仏じぶつ様の真鍮しんちゅう燭台しょくだいが立って匁蝋燭めろうそくが一本 ともれておりまして、右手には学校道具の絵の具や、筆みたようなものが並んでいるように思いましたが、細かい事はよく記憶おぼえませぬ。そうして そのまん中の若旦那様の前には、昨日きのう石切場で見ました巻物が行儀よく長々と拡げてありました……ヘイ……それは間違い御座いませぬ。たしかに昨日見ました巻物で、はじ金襴きんらんの模様や心棒(軸)の色に見覚えが御座います。何も書いてない、真白い紙ばかりで御座いましたようで……ヘイ……若旦那様は その巻物の前に向うむきに真直に座って、白絣しろがすりの寝巻をキチンと着ておられたようで御座いますが、私が覗きますと、どうしてどられたものか 静かにこちらをふり向いて ニッコリと笑いながら「見てはいかん」という風に手を左右に振られました。もっとも、斯様かようにお話は致しますものの、みんな後から思い出した事なので、その時は電気にかかったように鯱張しゃちばってしまって、どんな声を出しましたやら、一切夢中で御座いました。
 ――お八代さんはその時に私を抱え起しながら何か尋ねたようで御座いますが、返事を致しましたかどうか、よく覚えませぬ。土蔵の窓をゆびさして何か言うておったようにも思いますが……そうするとお八代さんは何か合点がてんをしたようで、倒れかかった梯子を掛け直して自分で登って行きました。
355/596
私は止めようとしましたが腰が立たぬ上に歯の根が合わず、声も出ませぬので、冷い土の上に、うしろ手を突いたまま見上げておりますと、お八代さんは前褄まえづまをからげたまま【すそをまくり上げたまま】サッサと梯子を登って、窓のふちに手をかけながら、矢張やっぱり私と同じようにソロッと覗き込みました。……が……その時のお八代さんの胆玉きもたまわりようばっかりは、今思い出しても身の毛が竦立よだちます。
 ――お八代さんは窓から、中の様子をジッと見まわしておりましたが「お前はそこで何事なんごとしおるとな」と落付いた声で尋ねました。そうすると中から若旦那様が、いつもの通りの平気な声で「お母さん……ちょっと待って下さい。もうすこしすると腐り初めますから……」と返事なさるのがよく聞えます。四囲あたりがシンとしておりますけに……そうするとお八代さんは、チョット考えておるようで御座いましたが「まあだナカナカ腐るもんじゃない。それよりも最早もう夜が明けとるけん、御飯をば食べに降りて来なさい」と言いますと、中から「ハイ」と言う返事がきこえまして、若旦那が立上られた様子で、窓際に映っている火影ほかげがフッと暗くなりました……が……これが現在の娘の死骸を眼の前に置いた母親の言えた事で御座いましょうか……それから、お八代さんは急いで梯子から降りて来て、私に「お医者お医者」と言いながら、土蔵くらの戸前の処に走って行きましたが……おはずかしい事ながら、その時は何の事やら解りませんでしたので、又、解ったにしたところが、腰が抜けておりますから行かれもしません。只、恐ろしさの余り、立っても居てもいられずにふるえておりましたようで御座います。
 ――土蔵の戸前が開きますと、中から若旦那が片手に鍵を持って、庭下駄を穿いて出て来られて、私共を見てニッコリ笑われましたが、その眼付きはもう、平常いつもと全く違うておりました。
356/596
待ちかねていたお八代さんは、その手からソッと鍵を取り上げて、何かだますかすような風付ふうつき【風体】で、耳に口を当てて二言三言言いながら、サッサと若旦那の手を引いて、離家はなれに連れ込んで寝かして御座るのが、私の処からよく見えました。
 ――それからお八代さんは引返して、土蔵くらの二階へ上って、何かコソコソやっているようで御座いましたが、私はその間、たった一人になりますと、生きた空もない位 恐ろしゅうなりましたので、這うようにして土蔵のうしろの裏木戸まで来まして、そこに立っている朱欒じゃがたら【ブンタン】の樹にすがり付いて、やっとこさと抜けた腰を伸ばして立ち上りました。すると頭の上の葉の蔭で、土蔵の窓の銅張あかがねばりの扉がパタンとまる音が致しましたから、又ギックリして振り返りますと、今度は土蔵の戸前にガッキリと鍵をかけた音が致しまして、間もなく左手に、巻物をシッカリとつかんだお八代さんが裸足はだしのまま髪を振り乱して離家はなれの方へ走って行きました。そうして泥足のまま縁側から馳け上りまして、たった今寝たばかりの若旦那を引き起して巻物をさしつけながら恐ろしい顔になって、何か二言三言責め問うているのが、もう明るくなった硝子ガラス戸越しによく見えました。
 ――若旦那はその時に、昨日きのうの石切場の方を指して、頭を振ったり、奇妙な手真似や身ぶりをぜたりして、何かしら一所懸命に話して御座るように見えました。そのお話はよく聞いてもおりませんでしたし、六ヶ敷むずかしい言葉ばかりで、私共にはよく判りませんでしたが「天子様のため」とか「人民のため」とかいう言葉が何遍も何遍も出て来たようで御座いました。お八代さんも眼をまん丸くしてうなずきながら聞いているようで御座いましたが、そのうちに若旦那はフイと口をつぐんで、お八代さんが突きつけている巻物をジイッと見ていられたと思うとイキナリそれを引ったくって、懐中ふところへ深く押込んでしまわれました。
357/596
するとそれを又お八代さんは無理矢理に引ったくり返したので御座いましたが、あとから考えますと、これが又よくなかったようで……若旦那様は巻物をられると気抜けしたようになって、パックリと口を開いたまま、お八代さんの顔をギョロギョロと見ておられましたが、その顔付きの気味のわるかった事……流石さすがお八代さんも怖ろしさに、身を退いて、ソロソロと立ち上って出て行こうとしました。するとそのたもとを素早くつかんだ若旦那様は、お八代さんを又、ドッカリと畳の上に引据えまして、やはりギョロギョロと顔を見ておられたと思うと、さも嬉しそうに眼を細くしてニタニタと笑われました。
 ――その顔を見ますと、私は思わず水を浴びせられたようにゾッとしました。お八代さんもふるえ上ったらしく、無理に振り切って行こうとしますと、若旦那はスックリと立ち上って、縁側を降りかけていたお八代さんの襟髪えりがみを、うしろから引っ捉えましたが、そのまま仰向けにき倒して、お縁側から庭の上にズルズルときずりおろすと、やはりニコニコと笑いながら、有り合う【たまたまそこにある】下駄を取り上げて、お八代さんの頭をサモ気持さそうに打って打って打ち据えられました。お八代さんは見る見る土のように血のがなくなって、頭髪がザンバラになって、顔中にダラダラと血を流して土の上に這いまわりながら死に声をあげましたが……それを見ますと私は生きた心が無くなって、ガクガクする膝頭を 踏み締め 踏み締め 腰を抱えて此家ここへ帰りまして「お医者お医者」とかないに言いながら夜具をかぶってふるえておりました。そうしたらそのお医者の宗近むねちかどんが、戸惑とまどいをして私の家へ参りましたので「呉さんのとこだ呉さんのとこだ」と追いりました。
 ――私が見ました事はこれだけで御座います……ヘイ……皆 正真正銘で、掛け値なしのところで御座います。
358/596
あとから聞きますと、お八代さんの叫声さけびごえを聞きつけた若い者が二三人起きて参りまして、若旦那を押えつけて、細引ほそびき【細いロープ】で縛ったそうで御座いますが、その時の若旦那の暴れ力というものは、とても三人力や五人力ではなかったそうで、細引ほそびきが二度も引っ切れた位だそうで御座います。それをやっとの事で動けないようにして、離家はなれの床柱の根方ねもとくくり付けますと、若旦那は疲れが出たらしく、そのままグウグウ眠って御座ったそうですが、やがてそのうちに又眼がめますと不思議にも、若旦那の様子がガラリと違いまして、警察の人が物を尋ねられても、ただ何という事なしにキョロキョロして御座るばかり、返事も何もなさらなかったそうで御座います。……この前、直方のうがたでも、あの病気が出たそうで御座いますが、その時はやはり大学の先生のお調べで、麻痺薬まやくをかけられていた事が判りましたそうで、その後も何とも御座いませんので連れて来たと、お八代さんは言うておりましたが、血統ちすじというものは恐ろしいもので今度の模様を見て見ますと、やはりあの巻物のたたりに違いないようで御座います。
 ――もっともこの巻物のたたりと申しますのも久しい 事出ませんので、私共も、どんな事か存じません位で御座いますが……何でもあの巻物は、向うに屋根だけ見えております……あの如月寺にょげつじというお寺様の、御本尊の腹の中に納っておりましたものだそうで、それを見ますと、呉家の血統の男に生れたものならば、きっと正気を取り失いまして、親でも姉妹きょうだいでも、又は赤の他人でも、女でさえあれば殺すような事を致しますのだそうで、その由来ことわけを書いたものが、あのお寺にあるとか……ないとか言うておるようで御座いますが……その巻物が、どうして若旦那様のお手に入りましたものか不思議と申すほか御座いません。
359/596
……ヘイ……あの如月にょげつ寺の只今の御住持様は、法倫ほうりん様と申しまして、博多の聖福寺しょうふくじ様と並んだ名高いお方だそうで御座いますから、こんな因縁事なら何でもおわかりの事と思いますが……ヘイ……もう余程のお年寄りで、鶴のようにせたお身体からだに、まゆひげが、雪のように白く垂れ下がった、それはそれは、有り難いお姿の、和尚おしょう様で御座います。何ならお会いになりまして、お話をお聞きになって御覧なされませ。かかあに御案内を致させますから……。
 ――ヘイ……お八代さんは 今では半狂乱きちがいのようになったまま 足をくじいて 床に就いているそうで御座います。頭の怪我けがは大した事はないとの事で御座いますが、言う事は辻褄つじつまが合うたり合わなんだりするそうで、道理もっともとも何とも申しようが御座いません。腰が抜けておりますので、お見舞いにも行かれませんで……。
 ――私が宗近むねちか(医師の姓)へ走らなかったので万事が手遅れになったように申した者もあったそうで御座いますが、これは無理で御座います。オモヨさんが絞め殺されたのは今朝の三時から四時の間だと、宗近むねちかさんが私の腰をに来た時に言うておりました。蝋燭ろうそくの減り加減がやっぱりそれ位の見当で御座いましたそうで。……ヘエ……あとは只今お話し申し上げた通りで御座います。お八代さんが たしかにしておれば 何もかもわかる筈で御座いますが、今も申上げました通り、若旦那をうらんだような事を言うかと思えば……早う気を取り直してくれよ。お前一人が杖柱つえはしら【最も頼りにするもののたとえ】……なぞと夢うつつに申しておりますそうで、トント当てになりませぬ。
 ――まだ警察の方は一人も私の処へ尋ねてお出でになりませぬ。……と申しますのは、この騒動に一番先に気が付きました者は、お八代さんの金切声をきいて馳け付けた、泊り込みの若い者しか居りませぬ。
360/596
警察の方はそれからのちの話を詳しく調べてお帰りになりましたそうで……私はもうその前から用心を致しまして、もし自分が疑われてはならぬと思いましたから、宗近むねちか先生に口止めを頼みましたが僥倖しあわせと 大騒動にまぎれて、誰が宗近むねちか先生をびに行ったやら、わからずにおりましたところへ、思いがけない先生のお尋ねでもう もう恐れ入りました。ヘイ。何一つ隠し立ては致しません。なろう事なら先生のお力で この上 警察に呼ばれぬようにお願い出来ますまいか。この通り腰が抜けておりますし、警察と聞いただけでも私は身ぶるいが出る性分で御座いますから……ヘイ……。

◇第二参考 青黛山如月寺縁起せいたいざんにょげつじえんぎ
       (開山 一行いちぎょう上人しょうにん手記)
       ――註――同寺は姪浜めいのはま町二十四番地に在り。呉家四十九代の祖虹汀こうてい氏の建立に係る――

 あしたに金光をちりばめし満目まんもくの雪【朝の光が散りばめられ、視界を埋め尽くす、幻想的な雪景色】、ゆうべには濁水じょくすいして河海かかいに落滅す【夕方にはドロドロの水になって、川や海に流れて消える】。今宵こんしょう銀燭をつらねし栄耀えいようの花【今夜、あかりに囲まれて派手に咲く栄華の花】、暁には塵芥じんかいとなつて泥土にす【夜が明けるころには、ゴミみたいになって土に還る】。三界は波上のもん【この世は全部、泡みたいなものだ】、一生は空裡くうりの虹とかや【人生なんて、空に出る虹みたいなものだよな】。いわんや一旦の悪因縁を結んで念々に解きやらず【一度悪い縁を作って、それをいつまでも心で引きずっていたら】。生きては地獄の転変に堕在し【生きている間じゅう、地獄みたいな状態に落ち込んで】、叫喚鬼畜の相をげんし【生の苦が極まると、人は鬼畜の姿をむき出しにする】、死しては悪果を子孫に伝へて業報ごっぽう永劫えいごう苛責かしゃくに狂はしむ【死んでも終わらず、悪い因果が子や孫に残って、永遠に人を狂わせる】。
361/596
その懼怖くふ、その苦患くげん、何にたとへ、何にたくらべむ【こんな恐ろしさや苦しみは、何にもたとえようがない】。
 こゝにこの因果を観じて如是にょぜ本末の理趣ことわり究竟くきょうし【ここまで因果を考え抜いて、始まりから終わりまでの理屈を全部理解し】、根元こんげんを断証して菩提心に転じ【悪い因果の元を完全に断ち切り、それを悟って、悟りを求める心に切り替える】、一宇の伽藍がらんを起して仏知恵ぶつちえ荘儼しょうごんたてまつり【寺を建てて、仏の智慧を立派にまつり】、一念称名しょうみょう【心を込めて一度、仏の名を唱えること】、人天咸供敬にんてんげんくぎょうの浄道場となせる事あり【人間も天の存在も敬い供養する、清らかな場になることもある】。
その縁起をたずぬるに、慶安の頃ほひ【江戸時代初期(17世紀半ば)あたり】、山城国【現在の京都府南部】、京洛【京都を指す雅称】、祇園の精舎しょうじゃに近く【無常を象徴する祇園の寺の近辺に】、貴賤群集きせんくんじゅ【身分の高い者も低い者も寄り集まる】のちまたに 年経て住める茶舗【茶屋】美登利屋みどりやというがあり。毎年宇治のめいを選んで雲上うんじょうたてまつり【雲上の方へ差し上げ】、「玉露」と名付けてほうを全国に伝ふ【よい評判を全国に広める】。当主を坪右衛門つぼえもんと言い一男三女を持つ。なん坪太つぼたろうと名づけ、鍾愛しょうあい【あつい寵愛ちょうあいこの上無かりしが、この男子なんし生得しょうとく【生まれつき】商売あきないの道を好まず、いとけなき時より宇治黄檗おうばくの道人【当時としては最先端かつ異色の仏僧】、隠元いんげん禅師に参じて学才人に超えたり【学問の才が人並み以上であった】。かたはら【その一方】柳生の剣法に達し、又画流を土佐派にみ、俳体を蕉風しょうふう【松尾芭蕉の俳諧はいかいの作風】に受けて別に一風格を成す【独特の風格を備えていた】。長じて空坪くうへいと号し、ひたすら山水をしたいてまた、家をぐの志無し。しかれども年長ずるにしたがい 他に男子無きの故をもって 妻帯を強いらるゝ事 一次ならず【一度だけでない】、学業未到の故をもって固辞す といえどもかん葛藤を避くるに いとまあらず【内輪のもめ事を避ける余裕がない】。
362/596
ついに、父坪右衛門こいにより 隠元老師の諭示【教えさとし】を受くるに到るや、心機一転する処あり、
「二十五の今日まで聞かず不如帰ほととぎす
 という一句を吾家わがいえ門扉もんぴに付して 家を出で法体ほったいとなりて一笠一杖いちりゅういちじょうに身を托し【出家して、笠と杖だけの行脚僧になって】、名勝旧跡を探りつゝ西を志す事一年に近く、長崎路より肥前唐津からつに入り来る。時に延宝二年春四月の末つかた、空坪くうへい 年二十六歳なり。
 空坪くうへい 此地このちの景勝を巡りて賞翫しょうがんする事一方ならず【激しくなるばかり】。虹の松原にちなんで名を虹汀こうていと改め、八景を選んで筆紙をべ【風雅な題材を選び、いよいよ文章を書き始めて】、自ら版に起してあまねく江湖こうこわかたん事をおもへり【自分で出版して、広く世間一般に配布しようと考えた】。かくて滞留すること半載はんさい【半年】あまり、折ふし晩秋の月まどかなる【折しも晩秋で、月がまるく美しく輝いていた】に誘はれて旅宿を出で、虹の松原に上る。銀波、銀砂につらなる千古の名松は【月光に照らされた銀色の波と砂浜に沿って、太古から名高い松並木が連なっており】、清光のうちに風姿をくして【澄んだ月光に包まれて、その姿の美しさを余すところなく現し】、宛然えんぜん【さながら】、名工の墨技ぼくぎ天籟てんらいを帯びたるが如し【名匠の水墨技に、自然そのものの妙味が加わったかのようだ】。行く事一里、漁村浜崎はまさきを過ぎてきょう【面白み】なお尽きず。更に流霜りゅうそうふ事半里にしてえびすはなに到り【さらに、白く流れる月光を追うように半里ほど進んで、夷の岬に着き】、巌角につて【岩の突き出たところにもたれかかって】遥かに湾内の風光を望み、雁影を数へつゝ半宵はんしょうに到りぬ【がんの影を数えながら、いつのまにか夜半になってしまった】。
 折しも あれ 一人の女性にょしょうあり。
363/596
年の頃二八には過ぎじと思はるゝが、華やかなるたもとひるがえし、白く小さき足もと痛ましげに、荒磯の岩畳を渡りて虹汀こうていかたわらに近づききたり、見る人ありとも知らず西方に向いて手を合わせ、良久しばし 祈念きねんらすよと見えしが、涙を払いて両そでをかき抱き、あわや海中に身を投ぜむ気色きしょくなり。虹汀こうていおどろき馳せ寄りて抱き止め、程近き松原の砂清らかなる処に伴い、事の仔細しさいを問いただすに、かの乙女おとめ、はじめは ひたぶる【ひたすら】に打ち泣くのみ なりしが、やう/\にして語り出づるやう【ようやくのことで話し始めた有様】。わらわの浜崎という処に、くれなにがしという家の一人娘にて 六美むつみじょと申す者にはべり【ございます】。吾家わがいえ、代々此処ここの長をつとめて 富み栄えそうらいしが、満つれば欠くる世の習い とかや【らしいが】。さるにてもまた【そうだとしても、やはり】、世に恐ろしき因縁とこそ申しつれ【世間では、まさに恐ろしい因縁だと言われてきたものだ】。昔より吾家わがいえに乱心の血脈尽きず。只今に及びそうらては、わらわただ一人、悲しくも生きて残り居る有様にて さむらう【ございます】。
 その最初はじめ如何いかにと申すに、吾家わがいえに祖先より伝われる一軸の絵巻物のはべり【がございます】。中に美婦人の裸像を描きとどめたり。うけたまわり及びたる処によれば、呉家の祖先なにがしと申せし人、最愛の夫人に死別せしを悲しみ、そのしかばねの姿を丹青たんせいに写しとどめ、電光朝露でんこうちょうろの世の形見にせむと【稲妻や朝露のようにはかないこの世の、せめてもの形見にしようとして】、心を尽して描きめしが、如何いかなる故にか ありけむ【~だったのだろう】、その亡骸なきがらみる/\うちに壊乱えらん【ばらばらに】して、いまだその絵のなかばにも及ばざるに、早くも一片の白骨と成り果てそうらいぬ。あるじのなげ一方ひとかたならず、遂に狂ほしき心地と相成りそうらいしを、亡き夫人の妹くれがしうじ、いろ/\に介抱しはべりし【ございます】が力及ばず、遂に夫人と同じ道に入りそうらいぬ。
364/596
その時 妹のくれがし氏は、その狂える人のたねを宿し、既に生み月に近き身にそうらいしが、同じなげきを悲しびて【同じ嘆きを、ともに悲しみ合って】、やがて又、めいを終らむばかりなりしを、やう/\に取り止めそうらいしとか 承り及びてそうろう
 去る程にその折ふし【さて、そうこうしているうちに】、筑前太宰府、観世音寺かんぜおんじの仏体奉修の為め【筑前の太宰府にある観世音寺の仏像を、修復するために】、京師けいしより罷下まかりくだそうらいし【京都から下って参りました】、勝空しょうくうとなん呼ばるゝ客僧かくそうあり【勝空という名で呼ばれている客僧がいた】。奉修の事へて帰るさ、行脚あんぎゃついでのあたりに立ちまはりたまいしが、仔細しさいを聞き及ばれて不憫ふびんの事とやおぼされけむ。吾家わがいえしゃくとどたまいてその巻物を披見ひけんせられ【その僧は、私の家に逗留なさり、その巻物を開いてご覧になって】、仏前に引摂結縁いんじょうけちえんたまいてねんごろ読経供養どきょうくようを賜はりしのち【仏前で導き救う縁を結ぶ儀式を行ってくださり、心を込めて読経供養をしていただいた後で】、裏庭に在りし大栴檀樹だいせんだんじゅつて其の赤肉せきにくを選み【裏庭にあった大きな栴檀せんだん(霊木)の木を切り、その赤身の良い部分を選び取って】、手づから弥勒菩薩みろくぼさつの座像をきざみて其の胎内にの絵巻物を納め【自分の手で弥勒菩薩みろくぼさつの坐像を彫り、その中に例の絵巻物を納め】、吾家わがいえの仏壇の本尊に安置し、向後こうご【今後】この仏壇の奉仕と、の巻物の披見【開いて見ること】は、の家の女人のみをもっつかまつし。そのほか一切の男子の者を構へて近づくる事なかれと固くいましめて立ち去りたまいぬ。
 その後、かの狂へる人のたね、玉の如き男子なりしが、事無く此世こんせに生まれ出で、長じて妻を迎へ、吾家わがいえ名跡みょうせきを継ぎそうらいしが、勝空上人しょうにんの戒めにり、仏壇には余人を近づけしめず。閼伽あか香華こうげの供養をば、その妻女一人につかさどらしめつゝ【その妻一人にだけ管理させながら】、ひたすらに現世げんぜの安穏、後生の善所を祈願しはべり【ございます】。
365/596
されども狂人きちがいの血をはべりし【ございます】故にか ありけむ【~だったのだろう】。この男子壮年に及びて子宝こだから幾人いくたりを設けしのち、又も妻女の早世【若死】にうと ひとしく乱心つかまつりて相果あいはそうろう。その後 代々の男子の中に、折にふれ、事にさわりて狂気つかまつるもの、一人二人と有之これあり。その病態さま世の常ならず。あるいは女人をあやめむと致し、又は女人の新墓にいはか鋤鍬すきくわを当つるなぞ、安からぬ事のみ致し、人々これむる時は、その人をも撃ち殺し、傷つけそうろうのみならず、吾身もあるいは舌を噛み、又はくびれて【首をくくって】死するなぞ、代々かわる事なく、誠に恐ろしき極みにはべり【ございます】。
 かようの仕儀にそうらえば、見る人、聞く人、などかは恐れ、危ぶまざらむ【このような成り行きである以上、それを見聞きする者が、どうして恐れたり不安に思わずにいられようか】。あるひは男子の身にての絵巻物をうかがいたるたたりと申し聞え【あるいは、男の身でありながら例の絵巻を盗み見たことによる祟りだ、と言い伝えられ】、又は不浄の女人の【あるいは、けがれているとされた女の】、の仏像に近づけるさわりかと怪しむなぞ【あの仏像に近づくことを妨げるたたりなのではないか、と人々は怪しんだりするなど】、遠きも近きもあい伝へて血縁を結ぶことをみ嫌いそうろう為め、吾家わがいえ血統ちすじの絶えなむとする【途絶えてしまいそうな】事 度々に及びそうろう。さそうらえば、あるひは金銀に明かし、又は人を遠き国々に求めてからくも名跡みょうせき【家名】を相立てそうらいしが、近年に及びそうらいては下賤【身分や生活が非常に低い】乞食こつじきに到るまでも、吾家わがいえの縁辺と申せば 舌をふるわし身をわなゝかす様にはべり【ございます】。只今にては血縁の者残らず絶え果て、わらわただ一人と相成りてそうろう
366/596
わけてもわらわの兄御前ごぜん二人は、これ程 引続きて悩乱のていとなり、長兄は介隈かいわいの墓所をあばき、次兄はわらわを石にて打たむとつかまつるなぞ、恐ろしき事のみ致したるはて、相次ぎて生命いのちを早めはべりし【ございます】ばかりにて、さる噂、一際ひときわ高まりたる折節にそうらえば大抵およその家の者はいとまを請ひ去り、永年召し使いたる者も、わらわを見そうらてため息をつかまつるのみ。はか/″\しく物言う者すらなく【ちゃんと説明する人さえ いなくなって】、わびしくも情なき極みと相成り果てそうろう
 さる程に、かゝる折柄おりからの唐津藩の御家老職、雲井なにがしと申す人、この事を聞き及ばれそうらいて、御三男の喜三郎となん言える御仁ごじんをば、わらわ婿むこがね【候補者】に賜はり、名跡みょうせきがせらるき御沙汰あり。召し使いたる男女なんにょ共、あたゞに立ち騒ぎ打ち喜びて、かほどの首尾しあわせは よもあらじと、今までに引き換へて さゞめき合い【賑やかに】そうらいしが、そが中にただ一人、わらわり育てそうろう乳母めのとの者、さまで嬉しからぬおももちにて打ち沈み居りそうろう故、その仔細しさいを尋ねそうらいしに、ため息して 申しはべるやう【ような様子で】。は ゆめ/\喜ばしき御沙汰にはそうろうはず、わらわの夫にて 御屋敷奉公 致せる者より卒度そとらし参りしやうには、喜三郎と言える御仁は、雲井様の妾腹の御子にて剣術の達者、藩内随一の聞え高き御方なるが、若き時より御行跡穏やか ならず、長崎御番ごばん御伴おともしての地に行かれしより 丸山の遊びに浮かれ、ついには よからぬともがらまじわりを結びて 彼処此処かしこここの道場を破りまわり、茶屋小屋の押し借りするなぞ、狼籍ろうぜきの限りを尽して身の置き処 無きまゝに、これひそかに御帰国ありしおもむきそうろう。さりながら御家中の誰あつて、嫁婿よめむこの御望みを承るものなき のみならず、蛇、毛虫の如くみ恐れ居りそうらいし処、当家の事を聞き及ばれ、かく御沙汰ありしものにはべり【ございます】。
367/596
のみならず、其のまことの下心は、御事済おんことずみののち、御家老の御威光をもちて、呉家の物なりを家倉いえくらともに 押領せられむ結構とこそ承りそうらえ【力ずくで奪い取られてしまうような仕組みだと、確かに聞いております】。御運とは申せ、力無き事とは申せ、御行末おんゆくすえの痛わしさを思へば、眼もれ【目もくらみ】、心も消えなむばかり【心も消えてしまいそう】と、涙を流して申しそうろうわらわも いかゞは せむと打ちまどい【どうすればよいのかと、すっかり取り乱して】 はべりし【ございます】が、かよわき身の詮方せんかたもなく【か弱い自分には、どうする手立てもなく】、案じび【思い悩み、困り果てて】そうらいし折柄おりからこれ程の秋の取り入れごと相済みそうらいて、やや落ち付きはべりし【ございます】今宵こよいの事、の雲井喜三郎という御仁、御供人おんともびとも召し連れたまはず、御羽織はおりはかまも召されぬまま、ただお一人にて、思いもかけず吾家わがいえへお見えなされそうろう
368/596

 如何いかにとて皆々せまどひ、御酒肴ごしゅこう取りあへず奥座敷にしょうじ参らするうち、わらわも化粧をあらためて御席にまかり出ではべりしが、の御仁体を見奉みたてまつるに、半面は焼けただれてひとへに土くれの如く、又残る片側かたつらは、まゆ千切ちぎれ絶え、まなじり白く出で、唇ななめかたよりて、まことに鬼のすがたとや云はむ。あまつさ何方いずかたにて召されしものか、御酒気あたりをくんじ払ひて、そのおそろしさ、身うちわなゝくばかりにはべり。そをやう/\にへ忍びて、心も危ふく御酌おしゃくに立ちそうらいしに、御盃の数いく程も無きうちに、無手むずわらわの手をたまいつ。その時、わらわ、思はず手を引きそうらいしに、御盃の中のもの、御ひざに打ちこぼれしより、たちまち御酒乱のていとならせたまい、押しとどむる乳母を抜く手を見せず討ち放されそうろうわらわは其の間に逃れ出で、やう/\に此処ここ《ここ》まで参りはべりしが、かばかり打ち続く吾家わがいえの不祥、又は、この身の不倖ふしあわせのがれ方なく、たゞ死なむとのみ思い入りはべりしを、かくとどめられまいらせそうろう。この上はただ尼とやならむ。巡礼とやならむ。何国いずくの御方か存じ参らせねど、の上の御慈悲おんなさけに、そのすべ教へて賜はれかしと、砂にひれ伏して声を忍ぶていなり。

【訳】
これは一体どうしたことかと、皆が走り回って取り乱し、酒や肴の用意もろくにできぬまま、奥座敷へお招きするうち、私も化粧を整え直して席へ出ました。ところが、そのお方のお姿を拝見すると、顔の半分は焼けただれて、まるで土くれのようであり、もう片側は眉がちぎれ落ち、目尻は白くむき出し、唇は斜めに歪み、まことに鬼の姿としか言いようがありません。そのうえ、どこで召し上がってきたのか、酒の匂いをぷんぷんさせておられ、その恐ろしさに、身の震えが止まりませんでした。

それでもどうにか耐え忍び、気も遠くなりそうになりながらお酌に立ちましたが、盃もいくつと重ならぬうちに、突然、乱暴に私の手を取られました。思わず手を引いた拍子に、盃の酒がその方のひざにこぼれると、たちまち酒乱の様相となり、止めに入った乳母を、あっという間に斬り捨ててしまわれました。

私はその隙に逃げ出し、ようやくここまで参ったのですが、これほど続く我が家の不幸、あるいはこの身の不運からは逃れようもなく、ただ死のうとばかり思い詰めていたところを、こうしてお引き留めいただきました。もはや尼になろうか、巡礼になろうか。どこのお方かも存じ上げませんが、どうかこの上のご慈悲として、進むべき道をお教えください――そう言って、砂の上にひれ伏し、声を殺して泣いている有様なのです。


369/596

 虹汀こうてい聞き果てゝ打ち案ずる事稍久ややしばし、やがて乙女おとめたすけ起して言いけるやう。よし/\吾にすべあり。今はさばかり歎かせたまうな。づ其の絵巻物を披見して、御身おんみの因果を明らめ参らせむと、六美むつみじょの手をきて立ち去らむとする折しもあれ、松の陰より現はれ出でし半面鬼相の荒くれ武士、物をも云はず虹汀こうていに斬りかゝる。虹汀こうてい、修禅の機鋒きほうもって、身を転じてくうを斬らせ、咄嵯とっさに大喝一下するに、の武士白刃と共に空を泳いで走る事数歩、懸崖の突端より踏みはずし、月光漫々たる海中に陥つて、水烟すいえんと共に消え失せぬ。

【訳】
虹汀こうていは、すっかり聞き終えてからしばらくの間、思い悩んでいたが、やがて乙女おとめを助け起こしてこう言った。「よい、よい。私に考えがある。今はそれほど嘆きなさるな。まずはその絵巻物を開いて拝見し、あなたの因縁を明らかにして差し上げよう。」

そう言って、六美むつみじょの手を引いて立ち去ろうとした、まさにその時である。松の木陰から、半分鬼のような恐ろしい顔をした荒武者が現れ出て、何も言わずに虹汀こうていに斬りかかってきた。

虹汀こうていは、修行で鍛えた禅の鋭い機転によって身をひるがえし、空を斬らせると、瞬間的に大喝一声を放った。すると、その武士は白刃もろとも宙を舞い、数歩走ったかと思うと、断崖の先端から足を踏み外し、月光が満ちあふれる海へと落ち、水しぶきとともに跡形もなく消え失せた。


 かくて虹汀こうてい六美むつみじょを伴いて呉家に到り、家人と共にの乳母の亡骸なきがらを取り収め、自ら法事読経どきょうして固く他言をいましめつ。
370/596
さて仏間に入りて人を遠ざけ、本尊弥勒仏みろくぶつの体中よりの絵巻物を取りいだし、畏敬いきょう礼拝をげつゝ披見するに、美人の五体の壊乱えらん膿滌のうできせる【うみを洗い流す】様、只管ひたすら寒毛樹立かんもうじゅりつする【恐怖・驚愕・畏怖・強烈な感動によって、全身の毛が逆立つ】ばかりなり。すなはち仏前に座定ざじょうして精魂をしずめ、三昧さんまいに入る事十日余り、延宝二年十一月晦日みそかの暁の一点というに、忽然こつぜんとしてまなこを開きていわく、

凡夫【悟りの境地に達していない平凡で愚かな人】の妄執を晴らすは 念仏にくは無し【及ぶものはない】 南無阿弥陀なむあみだ 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ 南無阿弥陀 南無阿弥陀仏/\

 と声高らかに詠誦えいじゅ【朗読】する事三べんにして、くだんの絵巻物をかたわらの火炉中に投じ、一片の煙と化しおわんぬ。
371/596

 かくて虹汀こうていは心静かに座定を出で、家人を招き集めてべけるやうは「われ、法力によつて、呉家の悪因縁を断つ事を得たり。すなはちこの灰を仏像に納めて三界の万霊と共に供養くようし、自身は俗体となつて、この家に婿むことなり、勝果しょうかを万代にのこさむと欲す。家人の思はるゝ処あらば差し置かず承らまほし」とありけるが、一人も所存を申し出づるもの無く、ひたぶるに国老雲井家のとがめをおそるゝてい也。虹汀こうてい其心を察し、その日のうちに厚くねぎらひて家人にいとまを与へ、家屋倉廩そうりんを封じて「公儀に返還す。坪太くれつぼた」と大書したる木札を打ち、ただ、金銀、書画の類のみを四駄に負はせて高荷たかにに作り、屈竟くっきょう壮夫わかものに口を取らせ、其身は弥勒みろくの仏像を負ひて呉家の系図をふところにし、六美むつみじょの手を引きて、あくる日の昧爽まだきに浜崎を立ち出で、あずまの方を志す。折ふし延宝二年臘月ろうげつ朔日ついたちの雪、繽紛ひんぷんとして六美むつみじょの名にちなむが如く、長汀曲浦ちょうていきょくほ五里にわたる行路の絶勝は、須臾たちまちにして長連ちょうれん銀屏ぎんぺいと化して、虹汀こうてい彩管さいかんまがふかと疑はる。

【訳】
こうして虹汀こうていは、静かに座禅を終えると、家人たちを呼び集めて次のように語った。「私は法力によって、呉家にまとわりついていた悪しき因縁を断ち切ることができた。そこで、この灰を仏像の中に納め、三界のあらゆる霊とともに供養しよう。そして私は僧をやめて俗人となり、この家の婿となって、めでたい果報を末代まで残したいと思う。家人たちに何か意見があれば、遠慮なく申し出てほしい。」

しかし、誰ひとりとして自分の考えを口にする者はなく、ただひたすら国老・雲井家からのとがめを恐れている様子であった。虹汀こうていはその心情を察し、その日のうちに家人たちを手厚くねぎらって暇を与え、家屋や倉を封鎖し、「公儀に返還す 呉坪太」と大書した木札を打ち付けた。

そして金銀や書画類だけを四頭の荷駄にだ【馬で運送する荷物】に載せ、高荷【うず高く積み上げた大きな荷物】としてまとめ、屈強な若者に先導させた。自らは弥勒みろくの仏像を背負い、呉家の系図を懐に収め、六美むつみじょの手を引いて、翌朝まだ夜の名残があるうちに浜崎を出立し、東国を目指した。

折しも延宝二年十二月一日の雪が、激しく舞い散り、六美むつみじょの名にふさわしいかのように、長い浜辺と曲がりくねった入り江が五里にわたって続くその絶景は、たちまち長大な銀の屏風と化し、まるで虹汀こうていの絵筆によって描かれたものではないかと疑われるほどであった。


372/596

 かくてやや一里を出でし頃ほひ、東天ようやくれないならむとする折しもあれ、うしろの方に当つて人音ひとおとおびただしく近づき来るものあり。虹汀こうてい、何事ぞと振り返るに、その数二三十と思しき捕吏とりての面々、手に/\獲物をたずさへたる中に、の海中に陥りし半面鬼相の雲井喜三郎如何いかにしてかよみがえりけむ、白鉢巻、小具足、陣羽織はおり野袴のばかま扮装いでたち物々しく、長刀を横たへて目前に追ひ迫り来り、大音げてののしるやう、やをれ悪僧其処そこ《そこ》動くな。この間はなんじを大公儀の隠目付かくしめつけと思いあやまり、一旦の遠慮に惜しきやいばを収めしが、其後そののち藩命をこうむりて、あまねく汝の素性行跡を探りしに、画工といつわつて当城下の地形ちぎょううかがふのみならず、法体ほったいと装ひて諸国を渡り、有徳うとくの家をたばかつて金品をかすめ、児女をいざなひて行衛ゆくえ【行方】をくらます、不敵無頼ぶらいぶらい白徒しれものなる事、天地に照して明らかなり、汝空をかけり土にひそむとも今はのがるゝに道あるまじ、いでや者輩ものども、当藩の物を奪ひ去る無法狼藉ろうぜき坪太はそれよ。女人を誘拐かどわか卑怯ひきょう未練の賊僧はそれよ。容赦なく踏み込んで召捕れやつと大喝すれば、声を合せて配下の同心、雪を蹴立てゝきおひかゝる。一方は峨々ががたる絶壁半天にかかれり。一面は断崖海に臨みて足もたまらず。背後には繊弱かよわき女人と人馬を控へたり。のがれつべうもこそあらじと見えつるが、虹汀こうてい少しも騒ぐ気色けしきなく、ひ奉りし仏像を馬士まごに渡し、網代笠あじろがさの雪を払ひて六美むつみじょに持たせつ、手に慣れし竹杖を突き、衣紋えもんつくろ珠数じゅず爪繰つまぐりつゝ、しづ/\と引返し進み出でければ、案にたがひし捕手の面々、気先を呑まれてぞ見えたりける。

【訳】
こうして、やや一里ほど進んだ頃、東の空がしだいに紅く染まり始めた、まさにその時である。背後の方から、人の足音がおびたたしく近づいてくるのが聞こえた。虹汀こうていが何事かと振り返ると、二、三十人ほどと思われる捕り方の一団が、各々武器を手にして迫ってくる。その中には、先ほど海に落ちたはずの、半面鬼のような顔の雲井喜三郎がいた。どうやって生き延びたのか、白鉢巻に小具足こぐそく甲冑かっちゅうの補助的な防具】、陣羽織はおり野袴といういかにも物々しい姿で、長刀を携え、目前に迫り来る。

そして大声でののしり叫んだ。「おのれ悪僧、そこを動くな。この前は、お前を公儀の隠密目付と誤解し、一度は惜しい刀を収めて引いたが、その後、藩命を受けてお前の素性と行跡を調べたところ、絵師と偽って城下の地形を探るだけでなく、僧の姿を装って諸国を巡り、富裕な家を騙して金品を奪い、女子供を誘い出して行方をくらます、ふてぶてしい無頼ぶらい者であることが天地に照らして明らかになった。

たとえ空を飛び、地に潜ろうとも、もはや逃げ道はない。さあ者ども、この藩の財を奪い去り、狼藉を働いた坪太はこやつだ。女人をさらう卑劣な賊僧はこやつだ。容赦なく踏み込んで捕えよ!」そう大喝すると、配下の同心【仲間】たちが声を揃え、雪を蹴散らして一斉に襲いかかる。

一方は険しい絶壁が空高く迫り、一方は断崖が海に臨んで足場もない。背後には、か弱い女たちと人馬を控えている。
もはや逃げようもないと見えたが、虹汀こうていは少しも動揺する様子を見せなかった。背負っていた仏像を馬方に渡し、網代笠あじろがさの雪を払って六美むつみじょに持たせ、使い慣れた竹杖を突き、衣を整え、数珠を繰りながら、静々せいせいと引き返して前に進み出た。すると、思いもよらぬその態度に、捕り方たちは気勢をそがれ、思わず ひるんだように見えた。


373/596

 その時 虹汀こうてい、大勢に打ち向ひて慇懃いんぎんに一礼をほどこしつゝ、咳一咳せき ひとせきしてべけるやう、は御遠路のところ、まことに御苦労千万也。かゝる不届ふとどきの狼藉者を、かほどの大勢にて御見送り賜はる、貴藩の御政道の明らかなる事、まことに感服にへたりと言うし。さは言え折角の御芳志ならば、今すこしばかり彼方かなたの筑前領まで御見送り賜はりてむや。さすれば御役目とどこり無く相済みて、無益むやく殺生せっしょうも御座なかるく、御藩の恥辱とも相成るまじ。この如何いかや。御返答承りしと言葉さわやかにえみを含めば、一同あきるゝ事稍久ややしばし焉。たちまちにして雲井喜三郎は満面に朱を注ぎつ。おのれ口の横さまに裂けたる雑言哉ぞうごんかなこの間こそ酔ひれて不覚をも取りたれ、今日は吾が刀のさびまでもあるまじ。かゝれや物共、相手は一人ぞ。女のほかは斬り棄つるとも苦しからず。かゝれ/\と刀柄つかをたゝけば、応と意気込む覚えの面々、人甲斐ひとがいも無き旅僧たびそう一人。何程の事やあらむとあなどりつゝ、雪影うつらふ氷のやいばを、抜きれ抜き連れきそひかゝる。虹汀こうていさらば詮方せんかたなしと、竹の杖を左手ゆんでに取り、空拳を舞はして真先まっさきかけし一人のやいばを奪ひ、続いてかゝる白刃を払ひ落し、群がり落つる毬棒いがぼう刺叉さすまた戞矢かっし/\と斬落して、道幅一杯に立働らきつゝ人馬のかたわらに寄せ付けず、其のほか峯打ち当て身の数々に、あるいは気絶し又は悶絶もんぜつして、雪中を転び、海中に陥るなど早くも十数人に及びける。

【訳】
その時、虹汀こうていは大勢の捕り方に向かって、丁重に一礼しながら、軽く咳払いを一つして、次のように述べた。「これはこれは、遠路はるばる、まことにご苦労千万に存じます。このような不届きな狼藉者を、これほどの大勢でお見送りくださるとは、貴藩の政道がいかに行き届いているか、まことに感服いたしました。

さて、せっかくのご厚意でございますれば、今しばらく先の筑前領まで、さらにお見送りいただけませんでしょうか。そうなれば、皆さまのお役目も滞りなく果たされ、無用な殺生も起こらず、ひいては御藩の恥ともならずに済みましょうが、いかがでございましょう。ぜひご返答を賜りたく存じます。」そう言って、言葉も爽やかに微笑みを含ませると、一同はしばし呆然ぼうぜんとした。

やがて雲井喜三郎は、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。「この野郎、口の端が裂けるほどの減らず口を叩きおって。この前は酒に酔って油断したが、今日はこの刀が錆びることもあるまい。かかれ、者ども。相手は一人だ。女以外は斬り捨てても構わぬ。かかれ、かかれ!」そう言って刀の柄を打ち鳴らすと、配下の者たちは気勢を上げた。相手は取るに足らぬ旅僧一人、何ほどのことがあろうかとあなどりながら、雪に映る氷のような刃を、次々に抜いて斬りかかってきた。

虹汀こうていは「もはや仕方がない」とばかりに、竹の杖を左手に取り、空手で舞うように動き、真っ先にかかってきた一人の刀を奪い取った。続いて襲い来る白刃を払い落とし、群がる毬棒いがぼう【江戸時代の捕物で使われた武器・捕具】や刺股さすまたを、がきんがきんと音を立てて斬り落とし、道幅いっぱいに立ち働いて、人馬のそばへ一歩も近づけなかった。そのほかにも、峰打ちや体当たりを次々と繰り出し、ある者は気を失い、ある者は苦しみもだえ、雪の中に転げ落ち、あるいは海へ落ちるなどして、早くも十数人に及んだ。


374/596

 思いもかけぬ旅僧の手練てなみに、さしもの大勢あしらひ兼ね、しらみ渡つて見えたりければ、雲井喜三郎今は得堪えたへず、小癪こしゃくなる坊主の腕立てかな。いでや新身あらみの切れ味見せて、逆縁の引導いんどう渡しれむと陣太刀じんだちながやかに抜き放ち、青眼に構へて足法そくほう乱さず、切尖きっさきするどく詰め寄り来る。虹汀こうてい何とか思いけむ。奪ひ持ちたる刀を投げ棄て、竹杖かろげに右手めてに取り直し、血にかっしたる喜三郎の凶刃に接して一糸一髪いっしいっぱつゆるめず放たず、冷々れいれい水の如く機先を制し去り、切々せつせつ氷霜ひょうそうの如く機後きごを圧し来るに、音に聞えし喜三郎業物わざものも、大盤石だいばんじゃくに挟まれたるが如く、ひたすらに気息を張つて唖唖ああ切歯せっしするのみ。虹汀こうていこれを見て莞爾にっこりと打ち笑みつ。如何いか喜三郎ぬし。早やさとたまいしか。弥陀みだの利剣とは竹杖ちくじょうの心ぞ。不動の繋縛けばくとはの親切の呼吸ぞや。たとひ百練千練の精妙なりとも、虚実生死しょうじの境を出でざるつるぎは悟道一片の竹杖にも劣る。眼前の不可思議かくの如し、疑はしくは其刀を棄て、悪心をひるがえして仏道に入り、念々に疑はず、刻々に迷はざる濶達かったつ自在の境界に入りたまえ。然らずは一殺多生いっせつたしょうの理に任せ、御身おんみを斬つて両段となし、唐津藩当面の不祥を除かむ。されば今こそは生死しょうじ断末魔の境ぞ。地獄天上の分るゝ刹那せつなぞ。如何いかに/\と詰め寄れば、さしもに剛気無敵の喜三郎も、顔色青褪あおざまなこ血走り、白汗はっかんを流してあえぐばかりなりしが、流石さすがに積年の業力ごうりき尽きずやありけむ【~だったのだろう】。又は一点の機微に転身をやしたりけむ、忽然こつぜん衝天しょうてんの勇をふるひ起して大刀を上段真向まっこうに振りかむり、精鋭一呵いっか、電光の如く斬り込み来るをひらりと避けつゝはたと打つ。竹杖のあやまたず。喜三郎眉間みけんに当れば、まなこくるめき飛び退き様、横に払ひし虚につけ入りたる虹汀こうてい喜三郎の腰に帯びたる小刀のつかに手をかくるとひとしく、さらば望みに任せするぞと、言いも終らず一間余り走り退くよと見えけるが、再び大刀を振り上げし喜三郎は、そのまま虚空にのけぞりて、仏だふれにあおのきたふれつ。大袈裟おおげさがけに斬り放されし右の肩より湧き出づる血に、雪を染めつゝ息絶えける。

【訳】
思いもよらぬ旅僧の熟練した腕前に、さすがの大人数も手を焼き、皆が顔色を失って見えた。それを見て、雲井喜三郎は もはや堪えきれず叫んだ。「小癪こしゃくな坊主め、生意気な腕前よ。さあ、新しいこの身の切れ味を見せてやり、逆縁ぎゃくえん【本来 人を送るべき仏法を操る人を、逆に送る】の引導を渡してくれよう!」そう言って、陣太刀をゆったりと抜き放ち、青眼に構え、足並みを乱さず、鋭い切っ先を突き詰めて迫ってくる。

虹汀こうていはどう考えたのか。奪っていた刀を投げ捨て、竹杖を軽々と右手に持ち替え、血に飢えた喜三郎凶刃きょうじんに対して、一瞬の隙も与えず、冷たい水のように先手を制し、氷霜のように後の動きを押さえ込んだ。その結果、名高い喜三郎の名刀も、大岩に挟まれたかのように動かせず、ただ歯を食いしばって息を張るばかりであった。それを見て、虹汀こうていは にっこりと微笑んだ。

「いかがかな、喜三郎殿。もう悟られましたか。阿弥陀の利剣りけん【鋭くよく切れるつるぎ】とは、この竹杖の心なのです。不動の縛りとは、この慈悲の呼吸なのです。たとえ百戦錬磨の妙剣みょうけん【剣の道の高次の境地や技を意味する】であっても、生死や虚実の境を超えぬ剣は、悟りの一片を得た竹杖にも及びません。目の前の不思議はこの通り。疑うなら刀を捨て、悪心をひるがえして仏道に入り、疑わず迷わぬ自在の境地に入りなさい。さもなくば、一人を斬って多くを生かすという理に従い、あなたを斬り捨てて唐津藩当面の不祥を除きましょう。今こそ生死の分かれ目、地獄と天上の分かれる一瞬です。どうなさいますか。」

そう詰め寄られ、剛勇無敵の喜三郎も顔色を失い、目を血走らせ、冷や汗を流してあえぐばかりであったが、さすがに長年の業の力は尽きなかったのか、あるいは一瞬の機に賭けたのか、突如として天をく勇気を奮い起こし、大刀を上段真向まっこうに振りかぶり、気合一声、電光のように斬りかかってきた。それをひらりと避けつつ、虹汀こうていがはたと打つ。竹杖のえは少しも外れず、喜三郎の眉間を打った。

目を回してよろめき退くところへ、横薙よこなぎ【横ざまにぎ払う】に斬った虚を突いて虹汀こうてい喜三郎の腰の小刀の柄に手を掛け、「それでは望み通りにしよう」と言い終わらぬうちに、一間ほど走り退いたかと思われたが、再び大刀を振り上げた喜三郎は、そのまま虚空にのけぞり、仏のように仰向けに倒れた。大きく振り下ろされた太刀によって、右肩から噴き出した血が雪を染め、ついに息絶えた。


375/596

 の勢ひに怖れをなしけむ。残りし者は遠く逃れて、はむとする者も見えざりければ、虹汀こうてい今は心安しと、奪ひし小刀を亡骸なきがらに返し、たなごころを合はせ珠数じゅずみつゝ、念仏両三遍となへけるが、やがて黒衣の雪を打ち払ひて、いざやとばかり仏像をひ取り、人心ひとごころも無き六美むつみじょをいたわりなぐさめつ、笠を傾け、人馬を急がして行く程もなく筑前領に入り、深江ふかえというに一泊し、翌暁まだまぬ雪をんで東する事又五里、の姪の浜に来りて足をとゞめぬ。

【訳】
この一連の出来事の勢いに恐れをなしたのだろう、残った者たちは遠くへ逃げ去り、追おうとする者もいなかった。虹汀こうていは、もはや心配はないと感じ、奪い取っていた小刀を亡骸なきがらに返し、手を合わせて数珠を揉みながら、念仏を二、三遍唱えた。やがて黒衣に積もった雪を払い落とし、「さあ行こう」と言わんばかりに仏像を背負い直し、心というものを持たぬかのように従う六美むつみじょをいたわりなぐさめつつ、笠を傾け、人馬を急がせて進む。ほどなく筑前領に入り、深江という土地で一泊し、翌朝もまだ止まぬ雪を踏みしめて東へ向かうことさらに五里、姪の浜に至って、そこで足を止めた。


376/596

 虹汀こうていの所の形相けいそうを見て思うやう。この地、北に愛宕あたごの霊山半空にそびえつゝ、南方背振せぶり雷山らいさん浮岳うきだけの諸名山と雲烟うんえんを連ねたり。万頃ばんけいの豊田眼路めじはるかにして児孫万代を養ふに足るく、室見川むろみがわの清流又杯をうかぶるにへたり。衵浜あこめはま小戸おどの旧跡、芥屋けやいくの松原の名勝を按配して、しかも黒田五十五万石の城下に遠からず。まさに山海地形のすいを集めたるものと。すなはち従ひ来れる馬士まごを養ひて家人となし、田野を求めて家屋倉廩そうりんを建て、故郷京師けいし音信いんしんを開きて万代のはかりごとをなすかたわら、一地を相して雷山背振の巨木を集め、自ら縄墨じょうぼくつかさどつて一宇の大伽藍がらん建立こんりゅうし、負ひ来りたる弥勒菩薩みろくぼさつの座像を本尊として、末代迄の菩提寺、永世の祈願所たらしめむとほっす。山門高くそびえては真如実相しんにょじっそうの月を迎へ、殿堂いらかつらねては仏土金色こんじき日相観じっそうかんを送る。林泉奥深うして水あおく砂白きほとり、鳥き、魚おどつて、念仏、念法、念僧するありさま、まこと末世まっせ奇特きどく希代きたいの浄地とおぼえたり。

【訳】
虹汀こうていはこの地の様子を見て、次のように思った。この土地は、北には愛宕の霊山が半ば天空にそびえ、南には背振・雷山・浮岳といった名山が雲を連ねている。広大な田園は はるかに見渡せ、子孫を万代にわたって養うに十分であり、室見川の清らかな流れは、杯を浮かべて酒をむ【器につぐ】にも ふさわしい。あこめ浜や小戸おどの古跡、芥屋けや生の松原といった名勝をほどよく配し、しかも黒田五十五万石の城下にも遠くない。まさに山・海・地形の精髄せいずい【一番すぐれた大切なところ】を集めた場所である。

そこで、従ってきた馬方たちを養って家人とし、田畑を求めて家屋や倉を建て、故郷の都へも連絡を取り、万代にわたる計画を進めるかたわら、この地を定めて雷山・背振の巨木を集め、自ら縄と墨を取って一宇の大伽藍を建立し、背負ってきた弥勒菩薩みろくぼさつの坐像を本尊として、末代までの菩提寺、永遠の祈願所としようと考えた。高くそびえる山門は、真如実相しんにょじっそうの月を迎え、連なる堂宇のいらかは、仏国土の金色の太陽を見送る。林泉は奥深く、水はあおく砂は白く、鳥は鳴き、魚は跳ね、念仏・念法・念僧の声が響くありさまは、まことに末世における奇跡、比類なき浄らかな地であると思われた。


377/596

 かくて
 人皇にんのう百十一代霊元天皇の延宝五年丁巳ひのとみ霜月しもつき初旬に及んで其業おわるや、京師の本山より貧道ひんどうを招き開山住持じゅうじの事を付属せむとす。貧道寡聞かもん浅学の故をもって固辞再三に及べども不聴ゆるさず。遂に其の奇特に感じ、荷笈下向かきゅうげこうして住職となり、寺号を青黛山如月寺せいたいざんにょげつじと名付く。すなはち翌延宝六年戊午つちのえうま二月二十一日の吉辰きっしんぼくして往生講式七門の説法を講じ、浄土三部経を読誦どくじゅして七日にわたる大供養大施餓鬼だいせがき執行しゅぎょうす。当日 虹汀こうていは自ら座に上り、略して上来の因縁を述べて聴衆に懺悔ざんげし、二首の和歌を口吟くちずさむ。

【訳】
こうして、人皇百十一代・霊元天皇の延宝五年(1677年)霜月【11月】初旬に至り、虹汀こうていの一連の業は一応の区切りを迎えた。京の本山から、貧道ひんどうという僧を招き、開山兼住持として補佐させようとした。貧道ひんどうは学識が浅いことを理由に固辞を繰り返したが、許されなかった。

やがてその奇特【殊勝】さに感じ入った貧道ひんどうは、荷を背負って下向【低い方へくだること】し、住職となった。寺号は 青黛山如月寺(せいたいざんにょげつじ) と名付けられた。そして翌年、延宝六年(1678年)二月二十一日の吉日を占って、往生講式七門の説法を行い、浄土三部経読誦し、七日間にわたる 大供養・大施餓鬼だいせがき を執行した。当日、虹汀こうてい自身も座に上り、これまでの因縁を簡略に述べて聴衆に懺悔ざんげし、さらに二首の和歌を口ずさんだ。


378/596
唱  六っの道今は迷はじっの文字【六つの道、今は迷わない、六という文字よ】
   み仏の世にくれ竹の杖      坪太
       
和  くれ竹のよゝを重ねてみほとけの【くれ竹の葉(杖)を重ねて、み仏のもとに】
   すぐにむなしき道に帰らむ     六美むつみじょ


 続いて貧道ひんどう座に上り、くわしく縁起の因果を弁証し、六道りくどう流転るてん、輪回転生(りんねてんしょう)のことわりを明らめて、一念弥陀仏みだぶつ、即滅無量罪障(そくめつむりょうざいしょう)の真諦しんたいを授け、終つて一句のを連らぬ。
  一念称名声(いちねんしょうみょうのこえ) 功徳万世伝(くどくばんせいにつたう) 青黛山寺鐘(せいたいさんじのかね) 迎得真如月(むかええたりしんにょのつき)
 なほ六美むつみじょは当時十八歳なりしが、かねてより六字の名号みょうごうを紙に写すこと三万葉に及びしを、当来の参集にわかちしに、三日に足らずしてくせりという。
 かくの如きの物語、六道りくどうちまた娑婆しゃばにあらはし、業報ごっぽう理趣ことわりを眼前に転ず。聞く煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)、六塵即浄土(ろくじんそくじょうど)と、呉家祖先の冥福、末代正等正覚(まつだいしょうとうしょうがく)の結縁けちえんまことにかぎりあるべからず。呉家ののちに生るゝ男女なんにょにして鴻恩こうおんを報ぜむとほっせば、深くこの旨を心に収め、法事念仏を怠る事なかれ。事他聞たもんを許さず、あやまつてるゝ時は、あるいは他藩のうらみを求めむ事を恐る。当寺当時の住職、および、呉家の当主夫妻にのみとどし。穴賢あなかしこ

【訳】
その後、貧道ひんどうは座に上がり、縁起の因果について詳しく説き、六道の流転や輪廻転生の理を明らかにした。そして、一心に弥陀仏を称えることが、無量の罪障を滅する真理であることを教えた。説法の最後には、次の【詩】をんだ:
「一念称名の声、功徳は万世に伝わる青黛山せいたいさんの寺の鐘は、真如の月を迎える【阿弥陀仏の名を一心に称える声は、功徳として永遠に伝わり、青黛山せいたいさんの寺の鐘は、真理の光を迎える】」
なお、六美女は当時18歳であったが、以前から六字名号(南無阿弥陀仏の六文字)を書き写すこと三万枚に及んでいた。その写経を参集者に配ったところ、三日も経たぬうちにすべてなくなったという。

このような物語は、六道の理を娑婆しゃばに現し、業報ごうほう理趣りしゅ【道理】を目の前に示すものである。聞くところによれば、煩悩はそのまま菩提【悟り】であり、六塵(欲・しん【怒り、憎しみ、嫌悪】・【おろか】など六つの塵)はそのまま浄土である。呉家の祖先の冥福や、末代に至る正等正覚しょうとうしょうがく【偏りや誤りのない完全な悟り】との結縁は、限りなく続く。呉家の後に生まれる子孫が、この大いなる恩に報いようとするなら、この教えを心に深く留め、法事や念仏を怠ってはならない。また、他人に伝えてはいけない。もし誤って漏らせば、他藩からの恨みを招くこともある。この教えは、当時の住職と、呉家の当主夫妻にのみ伝えられるべきものである。
穴賢あなかしこ=敬具}

 延宝七年七月七日一行いちぎょうしるす

◇第三参考 野見山法倫のみやまほうりん氏談話
 ◇聴取日時 前同日午後三時頃
 ◇聴取場所 如月にょげつ方丈ほうじょうおい
 ◇同席者 野見山法倫氏(同寺の住職にして当時七十七歳 同年八月歿ぼつ
   W氏)=以上二人=

 ――その御不審は誠に御尤ごもっともで御座います。
379/596
この縁起の本文にも書いて御座いまする通り、今より百余年の昔に、呉家の中興の祖とも申すべき虹汀こうてい様が、残らず焼いて灰にして、弥勒みろくの世までもと封じておかれました絵巻物が、如何いかようなる仔細しさいもとの絵巻物の形に立ち帰って、今の世に現われまして、呉一郎 殿のお手に渡って、あられもない御乱心の種と相成りましたか……という事に就きましては、実は、お尋ねがなくとも申し上げて貴方様あなたさまW氏)の御分別を仰ぎたいと思うておったところで御座いました。
 ――元来この縁起の書付かきつけと申しますのは、呉家の名跡みょうせきがるる御主人夫婦が初めての御墓参の時に人を払って御覧に入れる事に相成っております。そのほか呉家の御血統に関係致しました事は、尋常きたりの事のほか、一切他人にらしませぬのが、開山 一行いちぎょう 上人しょうにん 以来このかた、当寺の住職たるものの本分の秘密と定められておるので御座いますが、余儀ない御方の御尋ねで御座いますし、殊更ことさらには、呉一郎 殿がまことの狂気かいつわりかが相判あいわかりますることが、罪人となられるか、なられぬかの境い目とうけたまわりますれば、何をお隠し申しましょう……。
 ――と申しまする仔細しさいは ほかでも御座いませぬ。この寺の御本尊様の御胎内に、灰となって納まっている筈のあの絵巻物が、実は、もとの形のままでおります事を、ずっと以前から探り出しておった人が在ったので御座います。のみならず、その絵巻物を御本尊の胎内から取り出して、呉一郎 殿の御病気を誘い出す原因もとを作られたのも、やはり、そのお方に違いないと思われる人物を、私はよう存じているので御座います。
380/596
それは申す迄もなく私の心当りだけで申上げるので御座いますから、どなたでも意外に思召おぼしめすか存じませぬが、外ならぬ呉一郎 殿の実の母御ははごで、先年直方のうがたで不思議の横死おうしげられた千世子殿の事で御座います……さよう……これは誠にしからぬお話で、何よりも第一に、そんな恐ろしい申伝もうしつたえのある品物を、かけ換えのない吾児わがこに渡すような無慈悲な母親が、この世に在ろうとは思われぬので御座いますが、これには何か深い仔細しさいがありそうに思われますので、いずれに致しましても、これから申述べまするお話をお聴き取り下されますれば、やがて何事もお解りになるであろうと存じます。
 ――思いますればもうた昔……イヤ……もう三十年ほどにもなりましょうか。まことに古い事で御座います。もはや御承知か存じませぬが千世子という御婦人は、幼ない時から何事にらず怜悧りこう【利口】発明【知恵の働きがよい】な上に、手先の仕事にえたお方で、中にも絵をく事と、刺繍ぬいとりをする事が取分けてお上手だったそうで、まだお合羽かっぱさん【おかっぱ頭】に振袖ふりそでのイタイケ盛り【可愛らしい盛り】の頃から、この寺の本堂の片隅なぞにタッタ一人でチョコナンと座って、ふすまに描いてある四季の花模様や、欄間らんまの天人【天女・飛天】の彫刻ほりものなぞを写して御座る姿を、よく見受けたもので御座います。その頃からもう それはそれは 可愛らしい、人形のような眼鼻立ちで御座いましてナ……。
 ――ところがやがて十四か五になられた頃であったかと思います。学校の帰りと見えまして、海老茶えびちゃはかま穿かれた千世子殿が、風呂敷包みを抱えたままこの方丈ほうじょうに入って来られまして、ただ一人で茶を飲んでおりました私に向って……和尚おしょう様……あの御本尊の真黒い仏様の中には美しい絵巻物が入っておるとの事じゃげなが、ソッと私に見せて下さらぬか……という御話で御座います。
381/596
この絵巻物の事はこの寺の開山当時の大法要以来、この界隈の名高い話と相成っておりまして、この村でも心得ている者がいくらも居る筈で御座いますから、そんな者からでも聞かれたので御座いましょうか……その時に私は笑いまして……それはもうズットの昔に灰にしてしまってあるゆえ、今は見せとうても見せられぬ……と申しますと……それでも、たった今、あの仏様を私がゆすぶって見たら腹の中でコトコトと音がした。何かキット入っているに違いない……とお千世殿が言われます。私はビックリ致しまして……そんな事をする者でい。仏罰ぶつばちが当りますぞ……と叱って返しました……が……お千世殿が帰られてからタッタ一人になりますとさて、何とのう心配になって参りましたので、コッソリと本堂に参りまして、勿体もったいのうは御座いましたが、御本尊の弥勒みろく様をゆすぶり立てて見ますると、成る程コトコトと音が致します。ちょうど巻物のような形のものが、内部なかに納まっているに違いない、と思われる手応えで……。
 ――私は余りの不思議に胸がとどろくほど驚き入りました。御本尊様の胎内は、この縁起の本文に書いてありまする通りに、絵巻物を焼いた灰ばかりと思い入っておりましたので……なれども、その時に私は又思案を致しまして、これは昔虹汀こうてい様が、その絵巻物を焼いたといつわって実は、もとの形のままにして仏像へ納めておかれたものではあるまいか。その周囲まわりの詰め物が、年代に連れて乾きゆるんで、このように音を立てるのではあるまいか。絵の好きな人に、ありそうな事で、絵巻物を惜しむの余りにそんな事にして、年月を重ねて供養していたならば、次第次第に因縁も薄らぎ、たたりもむであろうと思うて、一存ではからわれた事ではあるまいか。それならば改めて取り出して焼き棄てるべきものであろうか。
382/596
どうしたものであろうか……なぞと、様々に思わぬでは御座いませんでしたが、それにしても、ちっとに落ちかねるところもあるようで、空恐ろしい気持ちも致しましたので、真逆まさかに御本尊の仏体を破って内部なかを見るような者もあるまいと思い思い、そのままに致しておりました。
 ――ところがそのうちに、月日の経つのはお早い事で、昨年の秋に相成りますと、ちょうどお彼岸の前の日の夕方の事、お八代殿と、一郎 殿と、オモヨさんの三人が連れ立ってお墓掃除に見えました。その時にお八代さんはただ一人でお霊屋たまや【亡くなった人を祀るための建物】の掃除をされるついでに、この方丈ほうじょうに立ち寄られて、茶を飲まれましたが、四方八方よもやまのお話のついでに……まだちっと早いようじゃけれど、来年の春、一郎 が六本松の学校(福岡高等学校)を卒業したならば、すぐに、モヨ子と祝言をさせようと思うが、どうであろうか……という相談で御座いました。お八代さんは、いつもこんな事を披露される前には、必ず私に話をされましたので、私は、まことに結構な事と御返事を致した事で御座いましたが、それから二人で立って本堂の縁側へ出てみますと、の山門の横の墓所はかしょの前に、お掃除を仕舞しまわれた学校服姿の一郎 殿と赤い帯を締めたオモヨさんとが、仲よさそうに並んでかがみながら、両手を合わせて御座るところが見えました。それを見るとお八代さんは何やら胸がふさがりましたらしく、急いで顔を押えながらお霊屋たまやの方へ行かれましたが、私はあとに残りまして、まことにお似つかわしいお二人の姿を見守りながら、呉様のお家の行く末の事なぞを考えるともなく考えておりますと、そのうちに、ゆくりなくもた昔以前のお千世殿のお話を思い出しましたので、思わずハッと致した事で御座いました。
383/596
……もっともその折に、これは年寄の要らざる気苦労ではないかと考えぬでも御座いませなんだが、それでも気にかかっておりましたものと見えて、その夜になりますとどうしても寝つかれなくなったので御座います。
 ――そこで私はソロソロと起き上りましてナ……窓からさし込む月のあかりと、お灯明とうみょうの光を便たよりに、ただ一人で本堂に参りまして、御本尊様を勿体もったいのうは御座いましたが両手をかけて、ゆすぶり動かしてみますと、この前の時にはたしかに聞えておりました物音が、すこしも致しませぬ。……のみならず何とのう中味が空虚からになっているような手応えでは御座いませぬか。
 ――その時にも虫が知らせたとでも申しましょうか、私は何やら空恐ろしい気持ちが致した事で御座いました。なれども思い切って御本尊様を厨子ずしの中から抱え卸して、この方丈ほうじょうに持って参りまして、眼鏡をかけてよくよくあらためて見ますと、一面の塵埃ちりほこりでチョット解りにくうは御座いますが、お像の首が襟の処で切りめになっておりまして、力を入れて揺すぶりますと抜けるようになっております。私はその時に成る程と思いました。そうしてとどろく胸を押ししずめながら廊下伝いに土間に持ち出して音を立てぬようにちりを払うて参りまして、この電灯あかりの下に毛氈もうせんを敷いて、その切嵌きりはめの処から御像の首を抜いて見ますと、ちょうどお経筒きょうづつの形にり抜いてあります底の方に、古い唐紙とうしに包んだ灰があるにはありますが、その灰包みのまん中は、チャント巻物の軸の形にくぼんでおります。それを見ますと虹汀こうてい様は絵巻物を焼いたと言うてはおかれましたが、別に何か深いお考えがあった事で御座いましょう。真実は焼かずに、もとの形のままにして納めておかれましたもので、それを又、誰かが盗んで行ったもの……という事は、もはや疑いもない事と相成りました。ハイ……その外には、周囲まわりに詰めてありましたらしい古綿のほか、紙屑かみくず一つ見当りませぬ……こちらへお出で下さい。
384/596
御本尊をお眼にかけましょうから。=後段備考参照
 ――御覧の通りで御座います……これは私の不念ぶねんと申しましょうか、何と申しましょうか……ああ……何か事が起らねばよいがと、胸を痛めました事は一通りでは御座いませなんだ。しかし又、一方から考えますと、もしお千世殿が持って行かれたものとすれば、何の必要があっての事であろうか。又、直方のうがたであのような最後をげられたのち、今日までの間、誰が隠し持っていたものであろうか。お千世殿の亡き跡を片付けられたお八代さんが、見付け出しておらるれば一言なりとも私に話されぬ筈はないが……なぞと、とつおいつ【あれこれと手だてを尽くして】思案に暮れておりましたところへ、このたびの事が起りましたので、最早もはや心も言葉も及ばぬ不思議と申すよりほかに致し方が御座いませぬ。……うけたまわりますればその絵巻物は、一郎 殿の御乱心ののち行衛ゆくえが知れませぬとの事で、これもまた、不思議の一つで御座います。村の者の中には、一郎 殿の乱心の前と後とに、絵巻物が蛇のように波を打って虚空を渡るのを見た……なぞと申している者があるそうで御座いますが如何いかなもので御座いましょうか。これと申すも私の不念より起りました事で、亡くなられましたオモヨ殿と、狂気された一郎 殿の御痛わしさ。老い先の短かい生命いのちに代られるものならばと思うて、涙にかき暮れまするばかり……云々。

◇第四参考 呉八代子の談話概要
 ◇聴取時刻 前同日午後五時頃
 ◇聴取場所 同人宅奥座敷におい
 ◇同席者 呉八代子、余(W氏)――以上二人――

 ――ああ先生……ようお出でで下さいました。どのように待っておりました事か……イエイエ。私の傷は構いませぬ。生命いのちも何も要りませぬ。
385/596
どうぞどうぞお願いで御座いますからこの絵巻物を(……と固く秘めたる懐中より取り出して渡しつつ)お寺から盗み出して、あの石切場で待ち伏せして一郎 に渡して、この家中の者を取り殺そうとたくらんだ奴を、ゼヒゼヒ探し出して下さいませ。そうして其奴そやつが見付かりましたならば、タッタ一言でよろしう御座いますから、何のうらみでこのようなムゴイ事をしたかと(涕泣すすりなき)タッタ一言でよろしう御座いますからキットお尋ね下さいませ(涕泣)……一郎 が正気でおりますうちにその人間の事を尋ね出し得ませなんだのが残念で残念で……わかったら骨を噛み砕いても飽き足らぬと(涕泣)……イエイエ。直方のうがたを引き上げる時には、そんな物は御座いませなんだ。一郎 の身のまわりは、私が残らず調べております。……警察の奴が何が解りましょう。一郎 をあんな非道ひどい眼に会わせたりして……私は尋ねられても返事もしてやりませなんだ。……私はもう諦らめました。一郎 が正気になろうがなるまいが、娘が生き返ろうがかえるまいが、私の生命がどうなろうが知りません。ただ妹の千世と、一郎 と、娘の讐敵かたきは同じ奴……この絵巻物の事情わけを知りながら、あの一郎 に見せた奴が……(興奮、錯乱して問答を継続し得ず。
386/596
爾後ややのち、約一週間ののちに到り、漸次ぜんじ【次第に】平静に帰すると共に、放神状態になり行く傾向を認められつつあり)

◇備考 (イ)事件発生当日午前十時半、出入を禁じありたる呉家の土蔵くら(三番倉と呼ばれおるもの)の内部を検するに、階下の板の間の入口に敷かれたる古新聞の上に、呉一郎朴歯ほおば下駄げたの跡と、モヨ子の外出穿きの赤きコルク草履ぞうりが正しく並びおり、そのかたわらより蝋燭ろうそく滴下したたり起り、急なる階段の上まで点々としてつらなれり。
 階上の状況、及、被害者の死体には格闘、抵抗、苦悶等の形跡を認めず。
 死体したい頸部くびには絞縛こうばくしたる褶痕しゅうこん【ひだやしわ】と鬱血うっけつ、その他の索溝さっこう相交あいまじって纏繞てんじょう【まといつく】せり、しかれども気管喉頭こうとう部、及、頸動脈等も外部より損傷を認むるあたわず。なお 脂粉【紅とおしろい】のにおいある新しき西洋手拭タオル一本、死体の前に置かれたる机の下に落在らくざいせるが、右は加害者の所持品にして、右凶行に使用したるものと認めらる。
 机上中央には鼻紙【ちり紙】とおぼしく、婦人の体臭ある四ツ折の半紙十数枚を重ねて拡げあり。その向って左端に同家の仏具の一たる真鍮しんちゅうの燭台を置き、百蝋燭ろうそく一本を立てて点火したる跡あるが、後日検査の結果、点火後約二時間四十分を経て、消されたるものと推定されたり。
 なお、この他に新しき三本の百匁ひゃくめ蝋燭ろうそく燐寸マッチの箱と共に机の下に置きありたるが、以上四本の蝋燭ろうそくの上部、及、中央部附近に印せられおる数多の指紋は、ことごとく、被害者モヨ子の左右手各ゆびの指紋のみにして、加害者呉一郎 のものは一個も存在せず。つ、燐寸マッチの箱よりも被害者の指紋のみが検出されたる事実より見れば、前記四本の蝋燭ろうそくは、被害者自身が持ち来りたるものにして、手ずから燐寸マッチりてその中の一本に点火し、机の左端に置きたる事疑う余地なし。(その他八代子の足跡等に関する記述略)
 (ロ)同夜九時、被害者の死体、九州帝国大学医学部法医学教室に到着、直ちに余(W氏)執刀、舟木医学士立会の下に解剖、同十一時終了の結果、死因は頸部くびの圧迫、絞扼こうやく死と判明す。且つ、被害者が何等かの原因にて意識喪失後、絞首したるものと推定さる。なお処女膜には異常を認めず。(その他略)
◇備考 (A)如月にょげつ寺の本尊弥勒みろく菩薩の座像を調査するに、頭大にして身小さく、形相怪異にして、後光も無く偏袒へんたん【片肌を脱ぐこと】もせず。普通の法衣の如く輪袈裟わげさをかけ、結跏趺座けっかふざして弥勒みろくいんを結びたるが、作者の自像かと思わるるふしあり。全体の刀法【彫り方】すこぶ簡勁かんけい【簡潔で力強い】、雄渾ゆうこん【雄々しくて勢いがいい】にして、鋸歯状きょしじょう【のこぎりの歯状の形態】、波状の鑿痕さっこん【のみあと】到る処に存す。底面中央に、極めて謹厳なる【つつしみ深い】刀法をもって「勝空しょうくう」の二字を一寸角大に陰刻しあり。
 (B)中央の空虚は縦深一尺、横径三寸三分余の円筒型にして、上部、及、底部に詰めたる綿と、灰の厚さを差引く時は、高さ一尺六分強となり、絵巻物(別参考品)の体積と相違なく適合せり。尚、その蓋に当る首の根の方形部には糊付けのあと残存せるを見る。
 (C)灰を包みたる唐紙、及上下左右に詰めたるものと思しき綿を検するに、古色等、記録の時代とやや相当するを認む。灰は検鏡【顕微鏡】分析の結果、普通の和紙と、絹布とを焼きたる形跡を認むるのみ。表装用の金糸、又は軸に用いられたるべき木材、その他の痕跡絶無也(その他略)
◇備考 (一)姪浜めいのはま入口の国道沿い、海岸側に在る山すその石切場附近を調査の結果、前日 呉一郎 が絵巻物を披見しつつ腰かけいたりという石は、切り残されたる粗石あらいしの蔭に位置しおりて、街道を通過する者の注意をき難き個所に在り。
 (二)石切場内には大小無数の石片石塊と、石工いしくの作業の跡、及、街道より散入したるわら、紙、草鞋わらじ、蹄鉄片、その他凡百の塵芥じんかい類似の物のほか、特に注意すべき遺物を認めず。なお、小雨に洗われたるがためか、呉一郎 その他一切の人物の足跡類似のものを認むるあたわず。
 (三)平生、同所にて作業せる石工にして、姪浜町七五番地ノ一に居住せる脇野軍平は、前々日来、その妻女ミツ、及、養子格市と共に腹痛下痢を発し、流行病のうたがいを受けて交通を遮断されおりしが、日ならずして本服後、二人に問い試みしところを総合するに、頃日来けいじつらい、作業中、疑わしき人物の石切場に立ち入り、又は附近を徘徊はいかいせしようの記憶無し。又同人等の疫病に関しては同所の魚類等は常に新鮮なるをもって、食物中毒等の原因は考慮し得ず。結局病原不明に帰せりと。

――――――――――

 ◇ 絵巻物写真版挿入の事
 ◇ 右絵巻物由来記記入の事
 ◇ 右第二回の発作全般にわたる、観察研究事項記入の事

 ×  ×  ×

 ハッハッハッハッ……。
387/596
 ……どうです諸君。面喰めんくらいましたかね。
 これが吾輩の遺言書の中の最重要なる一部分なぞいうことは、もういい加減忘れて読んでいたでしょう。悲劇あり。喜劇あり。チャンバラあり。デカモノあり。これに加うるに有難屋ありがたやの宣伝もありという塩梅あんばいで、ずいぶん共にオカカの感心、オビビのビックリに価する、奇妙奇天烈きてれつな記録の内容でげしょう。ことにその心理遺伝のあらわれ方の奇抜なことは、真に、お負けなしの古今無類【無比】で、現代の所謂いわゆる常識や科学知識の如何いかなる虎の巻をひっくり返して来ても到底歯が立ちそうにない。流石さすがの名法医学者若林鏡太郎博士も、この事件には少々手古摺てこずったと見えて、その調査書類の中に、こんな嘆息たんそくもらしている。いわく……
 余はこの事件の犯人を敢えて仮想の犯人と呼ばむとほっす。何となれば、当該事件の犯人は、現代に於ける一切の学術は勿論、あらゆる道徳、習慣、義理、人情を超越せる、恐るべき神変不可思議なる性格の所有者と想像する以外に、想像の余地なければなり。即ち、かくの如く、僅々きんきん二箇年の間に、三名の婦人と一人の青年とをあるいは殺し、あるいは発狂せしめて、その一家の血統を再び起つあたわざる【起き上がることができない】迄に破滅せしむるが如き残虐を敢えてせるにもかかわらず、その残虐の遂行手段は、いずれも偶然の出来事か、もしくは、る超科学的なる神秘作用を装いて、それ以外の推測を許さず。犯人の存在はもとより、かくの如き犯行を一貫したる目的の存在さえも疑わしきものあり……云々。
 ……と……。ところでどうです。前に御覧に入れた記録と、この文句を照し合わせて御覧になった諸君は、最早とっくにお気付きになっているであろう。
388/596
法医学専門の立場にいる若林君の主張と、精神病学者としての吾輩の、該事件に対する主張の中心は、事件の勃発当初からハッキリと正反対になっていて、今日に到るまでも一致せずにいることを……。すなわち若林君はその法医学者特有の眼光に照して、この事件には是非とも別に、隠れたる犯人が居るに相違ない。その犯人がどこからか糸をあやつって、この事件に関するあらゆる不思議な現象を自由自在にもてあそびつつ衆目しゅうもくくらましているに違いない……と初めからきめてかかっているのに対して、吾輩の方はドッコイそうは行かぬ。精神科学の立場から見ると、これは所謂いわゆる「犯人無き犯罪事件」だ。外形内容共に奇抜な精神病の発作のあらわれに過ぎないので、被害者も犯人も共に、る錯覚の下に同一の人間となって行った凶行に外ならぬのだ。それでも是非に犯人が必要だというのなら、呉一郎 にこんな心理を遺伝せしめた先祖を捕えて牢屋へブチ込めと主張している。ここにこの事件の中心的興味がつながっている訳だが……。
 エッ……ナナ何だって……ブルブル……もうこの事件の真犯人がわかったというのかね……。
 ……イヤ……これあドウモ驚いた。いくら名探偵だってそう敏活に頭が働らいちゃ困る。第一吾輩と若林が飯の喰い上げになる。
 まあまあき込まずと待ってくれたまえ。たとい諸君の目指す人間が、正真正銘間違いなしのこの事件の真っ黒星で、若林君の所謂いわゆる仮想の怪魔人であるにしても、要するにそれは一つの推測で、確乎かっこたる証跡があるわけではなかろう。又、たとい確乎かっこ動かすべからざる証跡があって、犯人は現在どこに居って、どんな事をしているという事まで、諸君の方で知って御座るにしても、その犯人を取って押えてタタキ上げて御覧になった揚げ句に、アッとビックリ二の句が告げない新事実を、事件の裏面に発見されたならば、如何いか遊ばす おつもりかね。フフフフフ……。
 だからいわない事じゃない。
389/596
こんな深刻不可思議な事件を、一寸ちょっとした証拠や、概念的な推理で判断するのは絶対危険の大禁物である。すくなくともこの事件が、前記の通りの状態で勃発してのち如何いかなる径路をんで吾輩の手にズルズルベッタリにすべり込んで来たか。それに対して吾輩が如何いかなる観察を下し、如何いかなる方法にって研究の歩武ほぶを進めて来たか、且つ又、その研究によって摘発されたる第二回の発作の内容の説明が、如何いか悽惨せいさん、痛烈、絢爛けんらん、奇怪にして、且つ、ノンセンスを極めたものがあるか。しかも、そうした研究の道程が、何故なにゆえに吾輩の自殺の原因にまで急変し、進展して来たか……というような事を徹底的に観察したのちでなければ、犯人の有無は決定されぬ筈だ。「サテはそんな事だったか……ウ――ン」と眼をまわされる筈だ……とまず一本へこましておいて……サテ、この事件に対する吾輩の研究が、その後どんな風に進展して行ったかという実況を、引き続き天然色浮出し映画について「御座います」抜きで説明する段取りとなる。
 ところで吾輩みたいな田舎活弁の、しかも新米の映画説明の口上から「御座います」を抜いてしまったら、何の事はない素人の書いたシナリオの朗読みたいなものになるだろう。吾輩不幸にしてシナリオだの支那料理だのいうものを製造した事がないから 様子がよく わからないが、まだ夜が明ける迄には、だいぶ時間が余っているから、今生こんじょうのふざけついでにそのシナリオなるものを一つやっつけてみよう。ただし、ここで改めて断っておくが、こんな風に事件の核心である心理遺伝の内容を一番あとまわしにして、外側の事実から順々に中味へ中味へと支那料理……オット、シナリオにして行くのは筋がチャンポンという洒落しゃれではない。
390/596
この事件に関する吾輩の記録は、ことごとく、事件そのものが、吾輩の眼界に入って来た当時のプロット【物語】によって並列されているので、この順序を研究しただけでもこの事件の真相はあらかたわかるという……この点についてははばかりながら、極めて科学的な、絶対に誤魔化ごまかしの無い俯仰ふぎょう天地じざる真実の記録と信ずる次第で……御座います……かね……ヤレヤレ。

 {字幕} 呉一郎 の精神鑑定=大正十五年五月三日午前九時、福岡地方裁判所応接室に於ける。
 {映画} 正木博士は羊羹ようかん色の紋付もんつき羽織はおりセル単衣ひとえにセルばかま、洗いざらしの白足袋たびという村長然たる扮装いでたちで、入口と正反対の窓に近い椅子の上に、悠然と葉巻を吹かしつつ踏んりかえっている。
 中央の丸卓子テーブルの上には正木博士所持のものらしい古洋傘コウモリと、古山高やまたかほうり出してある。その傍に、フロック姿の若林博士が突立っていて、いかめしい制服姿の警部と、セルずくめの優形やさがたの紳士を、正木博士に紹介している。
大塚警部……鈴木予審判事……いずれもこの事件に最初から関係しておられる方々で……」
 正木博士は立ち上って二人の名刺を受取ると、如何いかにも気軽そうにペコペコと頭を下げた。
「私が、お召しにって罷出まかりいでました正木で……生憎あいにく名刺を持ちませんが……」
 警部と予審判事は一層威儀いぎ【立ち居振る舞い】を正して礼を返した。
 ところへ紺飛白こんがすりあわせ一枚を、素肌にまとうた呉一郎 が、二人の廷丁ていてい【裁判所事務官】に腰縄を引かれて入って来ると、三人の紳士は左右に道を開いて正木博士に侍立じりつした【つき従って立つ】形になった。
 呉一郎 はその前に立ち止まったまま、黒ずんだ憂鬱ゆううつな眼付きでへやの中をマジリマジリと見まわした。その白い腕や首の周囲まわりには大暴れに暴れながら無理に取押えられた時のかすり傷や、あざ幾個いくつとなく残っていて、世にも稀な端麗たんれいな姿を一際ひときわ異様に引っ立てているかのように見える。
391/596
その背後うしろから二人の廷丁ていてい【裁判所事務官】が揃って挙手の礼をした。
 正木博士は目礼を返しつつ、葉巻の煙を長々と吹かし終ると、手錠のかかった呉一郎 の両手を無雑作に取って引き寄せながら、顔と顔を一尺位に近寄せて瞳と瞳とをピッタリと合わせた。その瞳の底を覗き込みつつ何事かを暗示するかのように……又は呉一郎 の眼の光りを、自分の眼の光りで押し返して、その瞳孔の底に押し込むかのように……。こうして二人は眼と眼を合わせたまま暫くの間動かなかった。
 そのうちに正木博士の表情が、どことなく緊張して来た。……立ち会っている紳士たちの表情も、それにつれて緊張して来た。
 しかしその中で若林博士だけはまゆ一つ動かさずに、青白い瞳を冷やかに伏せて、正木博士の横顔を凝視していた。正木博士の表情の中から、人知れず何ものかを探し求めるかのように……。
 けれども呉一郎 は平気であった。正気を失った人間特有の澄み切った眼付きで、何の苦労もなげに正木博士の顔から視線をらすと、すぐ横に突立っている若林博士の長大なフロック姿を下から上の方へソロソロと見上げて行った。
 正木博士の表情が、みるみる柔らいで行った。呉一郎 の横ほおを見ながらニッコリとして、消えかかった葉巻を吸立てつつ、気軽い調子で口を開いた。
「そのオジサンを知っているかね君は……」
 呉一郎 は、若林博士の蒼い、長い顔を見上げたまま、こころもち うなずいた。夢を見るような眼つきになりつつ……。それを見ると正木博士の微笑が一層深くなった。その時に呉一郎 の唇がムズムズと動いた。
「……知っています。僕のお父さんです」
 ……と……。けれどもこの言葉が終るか終らぬかに変った若林博士の表情の物凄さ……只さえ青い顔が見る間に血のうしなって白亜はくあのように光りを失った額のまん中に青筋が二本モリモリと這い出した。
392/596
憤怒ふんぬとも驚愕きょうがくとも形容の出来ない形相ぎょうそうになったと思うとヒクヒクと顳顬こめかみを震わしつつ正木博士を振り返った。今にも噛み付きそうな凄まじい眼色をして……。
 しか正木博士はそんな事には気が附かぬかのように、四方あたり構わぬ大声をあげて笑い出した。
「ハッハッハッハッ。お父さんはよかったね。……それじゃこのオジサンは誰だか知っているかね」
 と言い言い自分の鼻を指した。
 呉一郎 はそのまま、矢張りマジマジとした眼付きで正木博士の顔を見ていたが、間もなく唇をムズムズと動かした。
「……お父さん……です……」
「アッハッハッハッハッハッハッハッ」
 と正木博士は一層愉快そうに……しまいには呉一郎 の手を離してトテモたまらなさそうに笑いこけた。
「アーッハッハッハッハッ。どうも驚いたな。それじゃ君のお父さんは二人いる訳だね」
 呉一郎 は考えるともなく躊躇ちゅうちょしたが、間もなく黙ってうなずいた。正木博士は いよいよ腹を抱えた。
「ワッハッハッハッ。トテモ素敵だ。珍無類【無比】だ。……それじゃ君は、その二人のお父さんの名前を記憶おぼえているかね」
 正木博士が冗談半分見たようにこう言い出すと、今までけむに捲かれて面くらい気味の一座の人々の顔が一時にサッと緊張味を示した。
 しかし、呉一郎 はこう尋ねられるとフッと暗い顔になった。静かに眼をらして、窓の外一パイに輝いている五月晴さつきばれの空を飽かず飽かず眺めているようであったが、やがて何事かを思い出したらしく、その大きな眼に涙を一パイに浮き出させた。その様子を見ていた正木博士は又も呉一郎 の手をりながら、葉巻の煙を一服ユッタリと吐き出した。
「イヤ。もういいもういい。無理に君のお父さんの名前を思い出さなくともいいよ。どちらを先に思い出しても、エライ不公平なことになるわけだからね。
393/596
ハハハハハハ」
 今まで異様な緊張味にとらわれていた人々が一時に笑い出した。やっとの事で、もとの表情を回復していた若林博士も、変に泣きそうな、こわばった笑い方をした。
 その笑い顔の一つ一つを、如何いかにも注意深い眼付きで見まわしていた呉一郎 は、やがて何やら失望したように、溜め息をしたまま伏し目になると、涙をハラハラと落した。その涙のたまは、手錠の上から、汚れた床の上に落ち散って行った。
 その手を取ったまま正木博士は、無雑作に人々の顔を見まわした。
「とにかくこの患者は私がお預りしたいと思いますが如何いかがでしょうか。この患者の頭の中には、事件の真相に関する何等かの記憶がキット残っていると思います。只今御聞きの通り、誰の顔でも、父の顔に見えるという事は、あるいはこの事件の裏面の真相を暗示している、る重要な心理のあらわれかも知れませんからね……出来れば私の力で、この少年の頭を回復させて、事件の真相に関する記憶を取出してみたいと思うのですが、如何いかがでしょうか……」

 {字幕} 解放治療場に呉一郎 が現われた最初の日(大正十五年七月七日撮影)
 {映画} 解放治療場のまん中に立った五六本のきりの木の真青な葉が、真夏の光りにヒラヒラと輝いている。
 その東側の入口から八名の狂人きちがいが行列を立てて順々に入って来る。中には不思議そうに、そこいらを見まわしている者もあるが、やがてめいめいに取りどり様々の狂態を初める。
 その一番最後に呉一郎 が入って来る。
 如何いかにも憂鬱ゆううつな淋しい顔で、暫くの間 呆然ぼうぜんと、四方の煉瓦レンガ塀や、足元の砂を見まわしていたが、そのうちにフト自分の足の下の砂の中から何やら発見したらしく、急に眼をキラキラと光らして拾い上げると、両手の間に挟んでクルクルとんでから、まぶしい太陽に透かしてみた。
 それは青い、美しいラムネの玉であった。
394/596
 呉一郎真正面まともに太陽に向けた顔をニッコリとさせながら、その玉を黒い兵児帯へこおびの中にクルクルと捲き込んだが、大急ぎですそをからげて前にかがみながら、両手でザクザクと焼けた砂を掘返し初めた。
 最前から入口の処に突立って、その様子を見ていた正木博士は、小使に命じてくわちょう持って来さして呉一郎 に与えた。
 呉一郎 は さも嬉しそうにお辞儀しいしい鍬を受け取って、前よりも数倍の熱心さでギラギラ光る砂を掘り返し初めた。それにつれてれた砂が日光にさらされると片端かたっぱしから白く乾いて行った。
 その態度を熱心に見守っていた、正木博士はやがてニヤリと笑ってうなずきつつ、サッサと入口の方へ立ち去った。

 {字幕} それから約二個月後の解放治療場に於ける呉一郎 (同年九月十日撮影)
 {映画} 解放治療場中央のきりの葉にチョイチョイ枯れた処が見える。その周囲の場内の平地の処々に真黒く、墓穴のように砂を掘り返したところが、重なり合って散在している。
 その穴と穴の間の砂の平地の一角に突立った呉一郎 は、鍬を杖にしつつ腰を伸ばして、苦しそうにホッと一息した。その顔は真黒く秋日にけている上に、連日の労働に疲れ切っているらしく、見違えるほどやつれてしまって、眼ばかりがギョロギョロと光っている。流るる汗は止め度もなく、あえぐ呼吸は火炎のよう……ことに、その手に杖ついている鍬の刃先はさきが、この数十日の砂掘り作業の如何いかに熱狂的に猛烈であったかを物語るべく、波形に薄くり減って、銀のようにギラギラと輝いている物凄さ……生きながらの焦熱地獄にちた、亡者の姿とはこの事であろう。
 その呉一郎 はやがて又、何者かに追いかけられるように、真黒な腕で鍬を取り直した。
395/596
新しい石英質の砂の平地に、ザックとばかり打ち込んで別の穴を掘り初めたが、そのうちに大きな魚の脊椎せきつい骨を一個ひとつ掘り出すと、又急に元気付いて、前に倍した勢いで鍬をふるい続けるのであった。
 舞踏狂の女学生が、呉一郎 の背後に在る大きな穴の一つに落ち込んで、両足を空中に振りまわしながら悲鳴をあげた。ほかの患者たちが手をって喝采した。
 しかし呉一郎 は、ふり向きもせずに、なおも一心不乱に掘って掘って掘り続けて行くと、やがて今度は何か眼に見えぬものを掘り出したらしく、両手のゆびでしきりにねくっていたが、すぐに鍬を取り直して、眼を火のように光らし、白い歯を砕けるほど噛み締めつつ、死に物狂いの体で足の下を掘り返しはじめた。
 そのうしろから正木博士が悠々と入って来た。鼻眼鏡をキラキラと光らせつつ、暫く呉一郎 の作業振りを見守っていた。がやがて傍近く歩み寄って来て、鍬を振り上げた右の肩をポンとたたいた。
 呉一郎 は驚いて鍬を下し、呆然ぼうぜんとなって正木博士を振り返りつつ、流るる汗をぬぐい上げた。
 そのすきを見た正木博士は、眼にも止らぬ早さで、片手を呉一郎ふところに突込んで、汚いハンカチで包んだ丸いものと、最前掘り出した魚の脊椎せきつい骨をつかみ出すと、素早く背後うしろに隠してしまった。しかし呉一郎 はチットモ気付かぬらしく、なおも流るる汗をぬぐい上げぬぐい上げして眼をしばたたきつつ、穴の中から見上げた。その顔を穴のふちから見下して正木博士はニッコリした。
「今掘り出したのは何だね」
 呉一郎 は気まり悪る気に顔を赤くしつつ、左手の食指を博士の鼻の先に突き出して見せた。博士が鼻眼鏡を近づけてみると、そのゆびの頭には、女の髪の毛が一本グルグルと捲きつけてあった。
396/596
 正木博士は、それが何を意味するかを知っているらしく、真面目な顔でうなずいたが、今度はうしろ手に隠していた汚れたハンカチの包みを解いて、中味を左のてのひらに取ると、呉一郎 の鼻の先に突き出した。その掌の中には、二個月ぜんにこの解放治療場に入ると直ぐに拾ったラムネの玉と、きょう掘り出した魚の骨との外に、赤いゴムくしの破片と、小ゆびほどの硝子ガラス管の折れたのが光っていた。
「これは、お前が土の中から掘り出したのだろう」
 呉一郎あえぎ喘ぎうなずいた。博士の顔と四ツの品物とを見比べつつ……。
「ウム……ところでこれは何だね。何の役に立つのかね、これは……」
「それは青琅玕せいろうかんの玉【透き通った青緑色の玉】と、水晶のくだと、人間の骨と、珊瑚さんごの櫛です」
 呉一郎 は別段考えるでもなく、無雑作にそう答えると間もなく、博士の手から四個のガラクタとハンカチを受け取って、石のように固く結び固めると、如何いかにも大切だいじそうに懐中ふところの奥深く押し込んだ。
「フーム。……ではお前は何のためにそんなに一所懸命になって、土を掘り返しているのだね」
 呉一郎 は又も土に打ち込みかけた鍬の左手に杖ついて、右手で足の下を指した。
「ここいらに女の死体が埋まっているのです」
「ウーム。ナルホド。ウーム」
 と正木博士は唸った。そのまま鼻眼鏡ごしに呉一郎 の両眼を穴のあく程深く覗き込みつつ、厳格なハッキリした言葉付きで、一句一句、相手の耳に押し込むように問うた。
「……フーム……ナルホド……。しかし……その女の屍骸が、土の下に埋められたのは……イッタイいつの事だね……」
 呉一郎 は両手に鍬を支えたまま、ビックリしたように博士の顔を見上げた。そのほおの赤い色がスーと消え失せて、唇をムズムズと動かした。
「……イツ……イツ……イツ……いつの事……」
 とおびえたような口調で繰り返し初めた。
397/596
そうしてやや暫くの間、茫然ぼうぜんとして、そこいらを見まわしていたが、やがて何ともいえない淋し気な、途方に暮れた表情にかわった。……パタリと鍬を取り落して、力なく眼を伏せると、ガックリとうなだれて穴を這い上りながら、ソロソロと入口の方へ歩み去った。
 そのあとを見送った正木博士は、腕を組んで会心のえみらした。
「果せるかなだ。心理遺伝が寸分の狂いもなく現われて来るわい。……しかし、もう一辛棒ひとしんぼうしなくちゃなるまい。これからが本当の見物だからな……」

 {字幕} 再び同年十月十九日(前の場面から約一箇月後)の解放治療場内の光景。
 {映画} 一番最初に映写した通りの、平らな砂地になった場内の煉瓦レンガ塀の前に、畠を打っている老人の鉢巻はちまき儀作ぎさくがあらわれる。ただし儀作は、最初の場面に現われた時よりも一畝ひとうねほど余計に畠を作っているが、かたわらに居るせた少女も、その半分の処まで、枯れ枝や瓦の破片かけらを植えつけている。
 その前に突立っている呉一郎 も、最初の場面の通りに微笑を含んで、両手をうしろに回したまま、老人の打ち振る鍬の上げ下しを一心に見守っているが、わずか一箇月ほど経過した間にスッカリ色が白くなって、肉が丸々と付いているのは、その間じゅう穴掘りの労働を中止して、自分のへや……第七号室に閉じこもっていたからであろう。
 その背後うしろから正木博士がニコニコしながら近付いて来て、やおら肩の上に手を置くと、呉一郎 はハッとしたように振り返った。
「……どうだい……久し振りに出て来たじゃないか。スッカリ色が白くなって……おまけに肥って」
「……ハイ……」
 と呉一郎 も相変らずニコニコしながら、又も鍬の上り下りを見守り初める。
「何をしているんだね。ここで……」
 と正木博士はその顔を覗き込むようにして尋ねた。……と、呉一郎 は鍬に眼を注いだまま静かに答えた。
398/596
「……あの人の畠打はたうちを見ているのです」
「フーム。だいぶ意識がハッキリして来たな」
 と正木博士は独言ひとりごとのように言いつつ、その横顔を見上げ見下していたが、やがて心持ち語勢を強めて言った。
「……そうじゃあるまい。あの鍬が借りたいのだろう」
 この言葉が終らぬうちに一郎ほおがサッと白くなった。眼を丸くして正木博士の顔を見たが、間もなく又、鍬の方を振り返りつつ独言ひとりごとのようにつぶやいた。
「……そうです……あれは僕の鍬なのです」
「ウン。それは解っているよ」
 と正木博士はうなずいて見せた。
「……あの鍬は君のものなんだ。しかし折角せっかくああやって熱心に稼いでいるんだから、もうすこし待っていてくれないか。そのうちに十二時のドンが鳴れば、あの爺さんはキットあの鍬を放り出して、飯を喰いに行くにきまっているんだから……そうして午後はもう日が暮れるまで決して出て来ないのだから」
「キットですか」
 こう言って正木博士をふり返った呉一郎 の眼は何となく不安そうに光った。正木博士は安心せよという風に深くうなずいて見せた。
「キットだよ。……そのうちに今一丁、新しいのを買ってやるよ」
 呉一郎 は、それでも何かしら不安そうに鍬の上げ下げを凝視していたが、間もなく独言ひとりごとのように口籠くちごもりつつ つぶやいた。
「僕は今 しいんです……」
「フーム。何故だね……それは……」
 しかし呉一郎 は答えなかった。ピッタリと口を閉じて、又も、鍬の上下を見守り初めた。
 正木博士はその横顔を、緊張した表情でジッとにらみつけた。その表情の中から、何かを探り出そうと思っているらしい。
 大きなとびの影が、二人の前の砂地をスーッとすべって行く。
399/596
――――――――――

 エート……ここまで御覧に入れましたところによって、呉一郎 の心理遺伝のソモソモが青琅玕せいろうかんの玉、水晶の管、珊瑚さんごの櫛なぞいうものを身に着ける、古代の高貴な婦人と関係があるらしい事と、その婦人をモデルと致しましたる絵巻物を完成さすべく、呉一郎斯様かように熱心に、女の死骸を求めているらしい事が、やっと判明して来たようであります。
 しかし、その死骸が土中に埋められたのはいつかという正木博士の質問に対して呉一郎茫然ぼうぜん、答うるところを知らず、そのまま自分のへやに帰って考え込んでしまったのは何故か……。
 それが又、一箇月後のきょう……大正十五年の十月十九日に到って、フラリとこの解放治療場に出て参りまして、老人の鍬がくのを一心に待ち構えているのは何故か……。
 ……こういうにもこの狂人きちがい解放治療場の危機は、現在 如何いかなるところから、如何いかにして迫りつつあるのか……。
 この疑問を明らかにし得るものは、只今のところ、この事件を調査した若林博士と、その相談相手となっている私だけ……否、スクリーンの中の正木博士……ではない……イヤそうでもない……エエ面倒臭い、吾輩にしちまえ……ついでに活動写真も止めちまえ。もう一つついでに九大精神病科の教授室の深夜に、たった一人でこの遺言書を書いている、正木キチガイ博士に帰っちまえだ。
 少々ヨタが強過ぎるかも知れないが、どうせ死ぬ前の暇潰ひまつぶしに書く遺言書だ。ウイスキーがいくら利いたって構うこたあない。あとは野となれ山となれだ……ここいらで又、一服さしてもらうかね。
 ……ああ愉快だ。こうやって自殺の前夜に、宇宙万有をオヒャラかした気持ちで遺言書を書いて行く。書きくたびれるとスリッパのまま、回転椅子の上に座り込んで、ひざを抱えながらプカリプカリと、ウルトラマリン【群青】や、【藤黄】の煙を吐き出す。
400/596
……そうするとその煙が、朝雲、夕雲の棚引たなびくように、ユラリユラリと高く高く天井を眼がけて渦巻き昇って、やがて一定の高さまで来ると、水面に浮く油のようにユルリユルリと散り拡がって、霊あるものの如く結ぼれつ解けつ、悲しそうに、又は嬉しそうに、とりどり様々の非幾何学的な曲線を描きあらわしつつ薄れ薄れて消えて行く。それを大きな回転椅子の中からボンヤリと見上げている、小さな骸骨がいこつみたような吾輩の姿は、さながらにアラビアンナイトに出て来る魔法使いをそのままだろう…………ああねむい。ウイスキーが利いたそうな。ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ……窓の外は星だらけだ。……エ――ト……何だったけな……ウンウン。星一つか……「星一つ、見付けて博士世を終り」か……ハハン……あまり有り難くないナ……
ムニャムニャムニャムニャムニャ……
ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ……
ムニャムニャ ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ……。

   ×   ×   ×

「どうだ……読んでしまったか」
 という声が、不意にの耳元で起った……と思ううちにへやの中を……ア――ン……と反響して消え失せた。
 その瞬間には、若林博士の声かと思ったが、すぐに丸で違った口調で、快活な、若々しい余韻を持っている事に気が付いたので、ビックリして背後うしろを振り向いた。けれどもへやの中は隅々までガランとして、鼠一匹見えなかった。
 ……不思議だ……。
 明るい秋の朝の光線が、三方の窓から洪水のように流れ込んで、数行に並んだ標本棚の硝子ガラスや、塗料のニスや、リノリウムの床にまぶしく反射しつつ静まり返っている。
 ……チチチチチチチ……クリクリクリクリクリクリ……チチ……
 という小鳥の群が、松の間を渡る声が聞えるばかり……。
401/596
 ……おかしいな……と思って、読んでしまった遺言書をパタリと伏せながら、自分の眼の前を見るともなしに見ると……ギョッとして立ち上りそうになった。
 のツイ鼻の先に奇妙な人間が居る……最前から、若林博士が腰かけているものとばかり思い込んでいた、大卓子テーブルの向うの肘掛回転椅子の上に、若林博士の姿は影も形もなく消え失せてしまって、その代りに、白い診察服を着た、小さな骸骨がいこつじみた男が、と向い合いになって、チョコナンと座っている。
 それは頭をクルクル坊主に刈った……まゆ毛をツルツルに剃り落した……全体に赤黒く日にけた五十格好の紳士であるが、本当はモット若いようにも思える……高い鼻の上に大きな縁無しの鼻眼鏡をかけて……大きなへの字型の唇に、火をけたばかりの葉巻をギュッとくわえ込んで、両腕を高々と胸の上に組んでりかえっている……骸骨がいこつソックリの小男……それがと視線を合わせると、悠々と葉巻を右手に取りながら、真白な歯を一パイにき出してクワッと笑った。
 は飛び上った。
「ワッ……正木先生……」
「アハハハハハ……驚いたか……ハハハハハハハ。イヤえらい豪い。吾輩の名前をチャンと記憶していたのは豪い。おまけに幽霊と間違えて逃げ出さないところはイヨイヨ感心だ。ハッハッハッハッハッ。アッハッハッハッ」
 はその笑い声の反響に取り捲かれているうちに全身が、おのずとしびれて行くように感じた。右手につかんでいた正木博士の遺言書をパタリと大卓子テーブルの上に取り落した……と同時に、それを書いた正木博士の出現によって、今朝けさからの出来事の一切合財がキレイに否定されてしまったような気がして、急に全身の力が抜けて来て、又も、元の回転椅子の中へ、ドタンと尻餅を突いてしまった。幾度も幾度も唾液つばを呑みながら……。
402/596
 そうしたの態度を見ると、正木博士は いよいよ愉快そうに、椅子の上にりかえって哄笑こうしょう【大口をあけて笑う】した。
「アッハッハッハッハッ。ヒドク吃驚びっくりしているじゃないか。アハハハハハ。何もそう魂消たまげる事はないんだよ。君は今、飛んでもない錯覚に陥っているんだよ」
「……飛んでもない……錯覚……」
「……まだわからないかね。フフフフフ。それじゃ考えてみたまえ。君は先程……八時前だったと思うが……若林に連れられてこのへやに来てから色んな話を聞かされたろう。吾輩が死んでから一箇月目だとか何とか……ウンウン……あのカレンダーの日付けがドウとかコウとか……ハハハハハ驚いたか、何でも知っているんだからな……吾輩は……。それから君がその『キチガイ地獄の祭文さいもん』だの『胎児の夢』だの新聞記事だの、遺言書だのを読まされているうちに、吾輩はもうっくの昔の一箇月前に死んでいるものと、本当に思い込んでしまったろう……そうだろう」
「……………」
「アハハハハハ。ところがソイツは折角だが若林のヨタなんだ。君は若林のペテンにマンマと首尾よく引っかかってしまっているんだ。その証拠に見たまえ。その遺言書の一番おしまいの処を見ればわかる。ちょうどそこの処がいているだろう。……どうだい……昨夜から吾輩が夜通しがかりで書いていた証拠に、まだ青々としたインキの匂いがしているだろう。ハハハハハ。どんなもんだい。遺言書というものは、是非とも本人が死んだ後から現われて来なければならぬものと、きまってやしないぜ。吾輩がまだ生きていたって、何も不思議はなかろうじゃないか。アッハッハッハッハッ」
「……………」
 いた口がふさがらなかった。正木若林の両博士が、何のためにコンナ奇妙なイタズラをするのかと思い迷った。
403/596
悪戯いたずらにしても余りに奇妙な、不合理な事ばかり……一体今朝けさから見た色んな出来事や、様々の書類の内容は、みんな真剣な事実なのか知らん。それとも二人の博士が馴れ合いで、戯弄からかうために仕組んだ、芝居に過ぎないのじゃ ないかしらん……と……そんな風に考えまわして来るうちに、今の今までの頭の中に一パイになっていた感激や、驚きや、好奇心なぞの山積が、同時にユラユラグラグラと崩れ初めて、自分の身体からだと一緒にスウーとどこかへ消え失せて行くように感じたのであった。
 それをジッと踏みこたえて、大卓子テーブルの端に両手をシッカリと突いたは、鼻の先にニヤニヤしている正木博士の顔を、夢のようにボンヤリと眺めていた。
「ウッフッフッフッフッ」
 と正木博士は噴飯ふきだした。その拍子にみ込みかけていた葉巻の煙にせて、苦しさと可笑おかしさをゴッチャにした表情をしながら、慌てて鼻眼鏡を押え付けた。
「アッハッハッハッハッ……ゴホンゴホン……妙な顔をしているじゃないか……ウフフフフフフ是非とも吾輩が死んでいないと具合がわるいと……ゲッヘンゲッヘン……言うのかね。ゲヘゲヘ弱ったなドウモ……こうなんだよ。いいかい。君は今朝早く……多分午前一時頃だったと思うが、あの七号室のまん中に大の字なりに寝ていた。そうして眼をますと、イキナリ自分の名前を忘れているのに驚いて、タッタ一人で騒ぎ回ったろう」
「……エッ……どうしてそれを御存じ……」
「御存じにも何も大きな声を出して怒鳴どなり散らしたじゃないか。他の奴はみんな寝ていたが、このへやでこの遺言書を書いていた吾輩が聞き付けて行ってみると、君はあの七号室で、一所懸命に自分の名前を探しまわっている様子だ。
404/596
……さてはヤット今までの夢遊状態からめかけているんだナ……と思って、なおも大急ぎで遺言書を書き上げるべく、二階へ引返して来た訳だが、そのうちに夜が明けてから、やっと居睡いねむりから眼をました吾輩が、少々気抜けのていでボンヤリしていると、間もなく若林が例の新式サイレンの自動車で馳け付けて来る様子だ。……こいつは面黒おもくろい。君が夢中遊行むちゅうゆうこうの状態からめかけている事を、早くも誰かが発見して若林に報告したと見える。ナカナカ機敏なものだが、さて馳け付けて来てドウするつもりか……となおも物蔭から様子を見ていると、若林は君の頭を散髪さして湯に入れて、堂々たる大学生の姿に仕立て上げてから、君のへやと隣り合わせの六号室に入院している一人の美少女に引き合わせたろう。……しかも、それは君の許嫁いいなずけだというのでスッカリ君を面喰めんくらわせたろう」
「エッ……それじゃあの娘は、やっぱり精神病患者……」
「そうさ。しかも学界の珍とするに足る精神異状さ。大事の大事の結婚式の前の晩にカンジンカナメの花婿はなむこさんから、思いもかけぬ『変態性欲の心理遺伝』なぞいう途方とほうトテツもない夢遊発作を見せられたために、吾れ知らずその夢遊発作の暗示作用に引っかけられて、その花婿はなむこさんと同じ系統の心理遺伝の発作を起して、とりあえず仮死の状態に陥ってしまった。ところが、若林の怪手腕によって、そこから息を吹き返して来ると、今度は千年も前に死んだ玄宗げんそう皇帝や楊貴妃を慕ったり、居もしない姉さんに済まないと言い出したり、又は赤ん坊を抱く真似をして、お前は日本人になるんだよと言ったりしていた……もっとも今では、よほど正気付いてはいるがね……」
「……ソ……それじゃ……ア……あの娘の……名前は……何というので……」
「ナニ。名前……聞かなくたってわかっているだろう。
405/596
音に聞えた姪の浜小町さ……呉モヨ子さ……」
「……エッ……ソ……それじゃ……僕は呉一郎 ……」
 が、こう言いかけた時、正木博士はその大きなへの字口をピッタリとつぐんだ。葉巻の煙に顔をしかめたまま、黒い瞳の焦点をピッタリとの顔に静止さした。
 は全身の血が見る見る心臓へ集中して、消え込んで行くように感じた。額から生汗がポタポタとしたたり落ちて、唇がわなわなとふるえ出して、又もフラフラとなりかけたように思った。大卓子テーブルに両手を支えて立っている自分の身体からだが空気と一緒に散り薄れて、あとにはただ眼のたまだけが消え残ってシッカリと正木博士を凝視しているような……そんな気持ちの中にの魂は、無限の時間と空間の中を、死ぬほどの高速度で駈けめぐっていた……呉一郎 としての自分の過去を、もしや思い出しはしまいかと恐れおののきつつ……自分の肺臓と心臓が、どこかわからぬ遠い処から、大浪を打たせて責めかかって来る音に耳を澄ましつつ……ワナワナブルブルとおののきふるえていた。
 けれども……その心臓と肺臓がイクラ騒ぎ立てて、あえぎまわっても、の魂はどうしても、呉一郎 としての過去の思い出をび起し得なかった。そのあいだに何遍頭の中で繰り返したか知れない、「呉一郎 」という名前に対して「これが自分の名前だ」というようななつかし味や親しみが微塵みじんほども感ぜられなかった。の過去の記憶はイクラ考え直しても、今朝けさ暗いうちに聞いた「ブーン」という音のところまでさかのぼって来ると、ソレッキリ行き詰まりになってしまうのであった。……は他人が何と思おうとも……どんな証拠を見せつけられようとも、自分自身を呉一郎 と認める事が出来ないのであった。
 ……はホーッと深いため息を一つした。それと一緒に全身の意識が次第次第にのまわりに立ち帰って来た。心臓と肺臓の波動が静まり初めた。
406/596
やがてドタリと椅子の上に腰をかけるトタンに、両方の腋の下からタラタラと冷汗がしたたった。
 すると、それと同時にの鼻の先で、澄まし返った顔をしていた正木博士はプーッと一服、紫の煙を吹き出した。
「どうだい。自分の過去を思い出したかい」
 は無言のまま頭を左右に振った。そうしてポケットから新しいハンカチを引き出して顔の汗をいているうちに、よほど気が落ち付いて来たように思った。……しかし、それにしても訳のわからない事があんまり多過ぎるようで、身動きするのさえ恐ろしくなりつつ、椅子の中へヒッソリとずくまった。……と……間もなく正木博士が大きな咳払いを一つしたのでは又ビックリして飛び上りそうになった。
「……エヘン……思い出さなければモウ一度言って聞かせるが、いいかい……気を落ち付けてよく聞きたまえよ。君は現在、一つのトリックに引っかけられているのだよ。つまり……吾輩の同輩若林鏡太郎博士は、君自身を呉一郎 と認めさせて、充分に間違いのない事を確信させた上で、吾輩に面会させようとしているのだ。そうして吾輩をこの世に二人といない、極悪無道の人非人にんぴにんとして君に指摘させようとしているのだよ」
「エッ。あなたを……」
「ウン。まあ聞け。君がよく気を落ちつけて、今朝けさから起った出来事を今一度ハッキリと頭の中で考え合わせて来さえすれば、万事が何の苦もなく解決するのだ。……いいかい」
 正木博士は改めて真面目に帰ったように、落ち付いた調子で咳一咳せき ひとせきした。椅子の上にり返って濃い煙をあとからあとから吹き上げると、悠然として大暖炉の横にかかったカレンダーを振り返った。
「いいかい。改めて言っておくが、今日は大正十五年の十月二十日だよ。いいかい。もう一度、繰り返して言っておく。
407/596
きょうは大正十五年の十月二十日……この遺言書に書いてある通り、呉一郎 が一個月振でこの解放治療場にヒョックリと出て来て、鉢巻儀作爺の畠打ちを見物していた、十月十九日のその翌日なんだよ。……その証拠にあのカレンダーを見たまえ。……OCTOBER……19……すなわち昨日きのうの日付になっている。これは吾輩が昨日からあまり忙がしかったので、あの一枚を破るのを忘れていたからで、同時に吾輩が昨日から徹夜してここに居た事を証明しているのだ……いいかい。解ったね。……それから、ついでに吾輩の頭の上の電気時計を見たまえ。今は十時十三分だろう。ウン。吾輩のとピッタリ合っている。つまり吾輩が今朝になって、その遺言書を書きさしたまま、居睡いねむりを初めてから、まだ五時間しか経過していない理屈になるんだ。……こうした事実と、その遺言書のおしまいの処のインキがまだ青々としている事実とを総合したら、吾輩がこうしてケロリとしていたって別に不思議がる事はなかろうじゃないか。いいかい、……この点をまずシッカリ頭に入れとかないと、あとで又大変な錯覚に陥るかも知れないおそれがあるんだよ」
「……しかし……若林先生が先刻さっき……」
「いけない……」
 と一際ひときわ大きな声で言ううちに、正木博士の右手の拳骨げんこつが高く揚がると、の頭の中の迷いを一気にたたきけるように空間で躍った。……活発な……万事を打ち消すような元気を横溢おういつさして……。
「いけない。吾輩の言う事を信じたまえ。若林の言う事を本当にしてはいけない。若林はサッキからこの一点でタッタ一つの大失敗を演じているんだ。彼奴きゃつ先刻さっき、このへやに入ると間もなく、吾輩がこの大暖炉の中で焼き棄てた著述の原稿の、げ臭いにおいを嗅ぎ付けたに違いないのだ。
408/596
それからこの遺言書をこの卓子テーブルの上で見付けると直ぐに一つのトリックを思い付て、その通りに君へ説明をしたんだ」
「……でも……けれども……今日は先生がお亡くなりになってから一箇月後の十一月二十日だと……」
「チェッ……仕様しようがないな。ドウモそういう風にどこまでも先入主になって来られちゃかなわない……いいかい。聞きたまえ……こうなんだよ」
 と噛んで含めるように言いつつ正木博士はさも忌々いまいまし気に、舌に粘り付いた葉巻の屑を床の上に吐き棄てた。それから机の上にのしかかって両肱りょうひじを立てると、呆然ぼうぜんとなっているの鼻の先に、煙草のやにで黄色くなった右手のゆびを突きつけて一句一句の頭の中へ押し込むようにして説明した。
「いいかね。よく聞きたまえよ。間違わないようにね……今日は吾輩の死後一箇月目だなんて、あられもないヨタを若林が飛ばしたのは、君を騒がせないための小細工に過ぎないんだよ。いいかね……もし吾輩がこの遺言書をこんな風に書きさしたまま、どこかへ消え失せてから、まだ幾時間も経っていないという事が君にわかれば、君はキット吾輩が自殺に出かけたものと思ってハラハラするだろう。又実際そうとなったら彼奴きゃつだってジッとしてはおられまい。友人の義務としても、又は、学部長の責任としても否応いやおうなしに万事を打ち棄てて、吾輩の行衛ゆくえを突き止めて、自殺を喰い止めなくちゃ ならない事になるだろう。……ところで又そうなると若林は、自分の手一つで君の過去の記憶を呼び返させ得る唯一無二の機会を失う事になるかも知れないだろう……ね……そうだろう……君が過去の記憶を思い出すか出さないかは、若林の身にとってみると生涯の一大事になる訳があるんだからね。
409/596
しかも今朝けさが絶好の機会と来ているんだから……」
「……………」
「……だから若林は、吾輩がどこからか耳を澄ましているのをチャント知り抜いていながら、今日はこの遺言書が書かれてから一箇月後の十一月二十日だなぞと、法医学者にも似合わない尻の割れた出鱈目でたらめを言って、とにも角にも君を落ち付かせようとしたんだ。そうしてゆっくりとこの実験をげて、呉一郎 としての君の記憶を回復させさえすれば、モウ何もかもこっちのものだと考え付いたんだ。……君が若林の見込み通りに、呉一郎 としての過去の記憶を回復しさえすれば、その次に、かく言う吾輩を君の不倶戴天ふぐたいてんの親の仇、兼、女房の仇と認めさせる位の事は、説明の仕様で何の雑作もない事になるんだからね。……又、実際吾輩は有難い事に精神科学者なんだから、何も知らない呉一郎 に催眠術でもかけて、親や女房を絞め殺させて、これだけの実験材料をこしらえ上げる位の仕事はいつでも出来る自信があるんだからね。この事件の嫌疑者には持って来いの人物なんだ。ね。そうだろう」
「……………」
「そうして、もし又、万が一にもその実験がうまく行かなかったらだね。……つまりそんな書類を君に読ませても、君自身が何にも思い出さなかったら、最後の手段を用いてくれよう……今度は君に気付かれないようにソット姿を隠して、あとからキットここに出て来るに違いないであろう吾輩と君を突き合わせて、吾輩の顔を君が思い出すか出さないか……そうして思い出したら、その印象によって君自身の過去の記憶が回復されるかどうかを試験してやろう……そうして万が一にもその試験がうまく行ったら、究極するところ、吾輩の力で吾輩を恐れ入らしてやろうという、実に巧妙辛辣しんらつを極めた計略をたくらんだ訳だ。その辺の呼吸の鋭どい事というものは、実に彼奴きゃつ一流の専売特許なんだよ。
410/596
いいかい」
「……………」
「元来彼奴きゃつはコンナ策略にかけては独特のスゴ腕を持っているんだ。ドンナに身に覚えのない嫌疑者でも、彼奴きゃつの手に引っかかって責め立てられて来ると、頭がゴチャゴチャになって、考え切れないような心理状態に陥ってしまうんだ。とうとうしまいには何が何だかわからなくなったり、到底逃れられぬと観念したり、そうかと思うと慌てた奴は、成程御尤ごもっとも千万と感心してしまったりして、知りもしない罪を引き受けたりする位だからね。近頃亜米利加アメリカ八釜やかましい第三等の尋問法なんかは河童かっぱだ。彼奴きゃつの使う手は第一等から第百等まで、ありとあらゆる裏表を使い別けて来るんだからたまらない。……現に今だってそうだ。仮りに吾輩が彼奴きゃつの見込み通りに斎藤先生を殺して、その後釜あとがまに座って、コンナ実験をこころみて失敗をして自殺を思い立った人間とするかね。その吾輩がどこからか耳を澄ましている前で、だんだんと吾輩がそんな大悪人と認められて来るように……そうして君自身が、その吾輩の当の怨敵おんてきである呉一郎 自身と認められて来るように、合理的に話が進められて行く。同時に、その吾輩の生涯をした事業の功績が、スウーッと奪い去られて行くのを、手も足も出ないまま見たり聞いたりして いなければ ならない状態に陥って行くとしたら、吾輩にとってコレ以上の拷問があり得るかドウか考えてみるがいい。そのまま黙って自殺するか、飛び出して来て白状するか、二つに一つの道しかないだろうじゃないか……彼奴きゃつ若林り口は早い話がザットこんな塩梅あんばい式だから堪らないのだ。ドンナ難事件でも一旦彼奴きゃつの手にかけるとなると、キットどこからか犯人をヒネリ出して来る。そのために彼奴きゃつが『迷宮破り』なぞと新聞に唄われている事実の裏面には、こうした消息がひそんでいるんだよ」
「……………」
「ところがだ。ところが今度という今度ばかりはそう行かないらしいんだ。
411/596
今朝から連続的にこころみて来た彼奴きゃつの実験が、一々見込み外れになってしまって、君自身に何等の反応を現わさなかったばかりでなく、彼奴きゃつお得意の尋問法のトリックが、コンナ風にテッペンから尻を割っているところを見ると、そんなに恐怖おっかながる程の事もないようだね。……流石さすがの古今無双の法医学者先生も、相手が吾輩というので緊張し過ぎたせいか、今朝から少々慌てて御座るようだ。あるいはこれこそ先生の『空前絶後の失敗』かも知れないがね。ハッハッ……」
「でも……でも……でも……」
「まだ『でも』が残っているのかい……何だい……その『でも』は……」
「……でも……その実験は先生がなさるのが当り前……」
「そうさ。無論、君の過去を思い出させる実験は吾輩がやるのが当然さ。だから彼奴きゃつはこんなトリックを用いて、この実験の結果を独り占めにしようとしたんだ……彼奴きゃつは出来る限り吾輩を見殺しにしようとしたんだよ」
「エッ……ソ……そんな無茶な事が……」
「チャント実行されているから面白いだろう。第一吾輩が、その手を喰わずに、こうやって生き長らえて、ここへ出て来て喋舌しゃべっているのが何よりの証拠じゃないか」
 こう言い終ると正木博士は、如何いかにも憎々しい、皮肉を極めた冷笑を浮めた。回転椅子の上にりかえって傲然ごうぜんと腕を組んだ。葉巻の煙を高々と吹き上げつつうそぶいた。あたか若林博士が、どこからか耳を澄まして聞いているのをチャント予期しているかのように……。
 それを見るとの心臓は又も、新しい恐怖に打たれて、一たまりもなく縮み上がってしまったのであった。……何という物凄い両博士の闘いであろう。何という深刻執拗な知恵比べであろう。
412/596
今の今まで、そんな恐ろしい闘争の間に自分自身が挟まれている事を夢にも知らなかったは……今の今まで見て来た苦しさや、せつなさ、恐ろしさや物狂おしさなぞが、みんなこの二人の博士の悪魔のようなトリックの引っかけ合いに引っかけられて、引きずりまわされて来たせいである事を、初めて気が付いたは……もう悲鳴をあげて逃げ出したいような衝動に満ちたされてしまったのであった。今にも立ち上りそうに腰を浮かしかけたのであった。……が……。
 ……しかしこの時のは、どうしたわけか一寸も椅子から離れる事が出来なかった。額にニジミ出る汗をハンカチでぬぐいつつ、又も腰を落ちつけてため息した。そうして、正木博士の顔を一心に凝視しつつ、その黒ずんだ、気味のわるい唇が動き出すのを、生命いのちがけの気持ちで待って いなければならぬ ような心理状態に陥ってしまったのであった。……それは恐らく、この二人の博士が、全力というよりもむしろ死力をつくして奪い合っているほどの怪奇を極めた精神科学の実験そのものの魅力のためにの魂がもう、スッカリ吸い付けられてしまっていたせいかも知れない……その話の底を流るる形容の出来ない不可思議な真実性が、グッとの心臓を引っつかんで、言い知れぬ好奇心の血を波打たせているせいかも知れない。……なぞと……そんな事を考えつつ茫然ぼうぜんとして、眼の前の空間を凝視しているの耳元に、又も咳一咳せき ひとせきした正木博士の声が、新しく、き活きと響いて来た。

「ハハハハハハ……どうだい。もうわかったかい、錯覚の原因が……ウン。わかった。……しかしまだ少々解らないところが在るだろう。ウン。在る……なかなか頭がいいね。……第一そこに居る君自身が、どこの何という青年で、如何いかなる因果因縁でもってこの事件に捲込まれるに到ったか……という事が君にはテンキリ解っていない筈だからね。ハッハッハッ……しかし心配したまうな。
413/596
吾輩がこれから話すことを聞いておれば、一切の疑問が櫛の歯でくようにパラリと解けて来る。その話というのは、少々重複するかも知れないが、その吾輩の遺言書の続きになる話で、この実験に関する吾輩と若林の過去の秘密から、だんだんと呉一郎 の心理遺伝の内容に立ち入って行って、一番おしまいに君自身が何者であるかという事が、やっとわかる段取りになるのだ。もっともその途中で君自身が自分の身の上を感付くとすれば止むを得ない。話はそれ切りの芽出度めでたし芽出度しになる訳だが、その時はその時として、まずそれまでのお楽しみとして聞いていたまえ。……しかし、もう一度念を押しておくが、もうこの上になお、錯覚を起したりしちゃいけないよ。吾輩が幽霊だとか、吾輩が死んでから一箇月目だとかいうような飛んでもない気もちになってくれちゃ困るよ。ハッハッハッ、いいかい。これから先の話を聞いてそんな錯覚や妄想に陥ると、もう永久に取り返しが付かなくなるかも知れないからね。いいかい……ほんとに大丈夫かい。……ウンよしよし。それじゃ安心して話を進めるが……」
 と言い言い正木博士は消えかけた葉巻に火をつけた。それからポケットに両手を突込んでサモ美味うまそうにスパスパと吸立てたが、やがて葉巻をくわえ直すと、濛々もうもうたる煙の中にヤッコラサと座り直した。
「……ところでだ。……ところで、こいつはいずれ社会に暴露される事と思うから、その時に新聞で見ればわかるが……いや。もう昨日きのうの夕刊か、今朝あたりの新聞に出ているかも知れないが……実は、昨日、あの狂人きちがいの解放治療場に一大事変が勃発したのだ。
414/596
つまり吾輩がこの事件を中心とする心理遺伝の実験の結論をつけるために、あの解放治療場の精神病者の群れの中に仕掛けておいた精神科学応用の爆弾の導火線が、この間からジリジリと燃えつまって来たのが、昨日の正午――すなわち大正十五年の十月の十九日の午砲ドンが鳴るとほとんど同時に物の美事に爆発したのだ……ナアニ。種を明かせば何でもない。その導火線というのは一丁の鍬に仕かけてあったに過ぎないのだが、何といっても精神科学を応用した導火線で煙も立てず、火も見えないのだから普通人の眼には、そんな種仕掛けがあるものとは思えない。どこまでも普通の鍬としか見えていなかったのだ。……しかも、その結果は、正直のところ爆発し過ぎたと言ってもいい位で、吾輩も一時面喰めんくらった位の意外な惨劇になってしまったので、その責任を負うた吾輩は、即刻、総長室に出頭して辞職を申し出たんだが……なおよく考えてみると……何でもここいらが吾輩の実験の切り上げ時らしい。吾輩の今日までの研究に関する一切の発表はあとに若林が控えているから……実は吾輩もその時までは若林を、それほど腹の黒い奴と思っていなかったもんだからね……若林が、どうにかしてくれるだろう。ついでに面倒臭いから人間の方も辞職しちまえ……というので吾輩は一旦、下宿へ帰って、あとを片付けて、それから東中洲ひがしなかすの賑やかな処で一杯引っかけてスッカリいい心持ちになりながら、書類を整理すべくここへ引返して見ると……又驚いたね。つい今先刻さっき、吾輩がここを出かける時まで空室あきべやであった、あの六号の病室にアカアカと電灯がいている。おかしいなと思って帰りかけている小使に様子を聞いてみると、若林先生がどこからか一人のお嬢さんを連れて来て、当直の医員に頼んで、たった今入院おさせになったところだと言う。おまけにそのお嬢さんというのは、今までに見た事もない、何ともかんとも言えない美しい綺倆きりょう器量きりょう】だと言うんだ。」
415/596
「……その時には流石さすがの吾輩も、思わずアッと感嘆のひざを打ったね。コイツは面黒おもくろい事になった。この様子でみると彼奴きゃつ若林鏡太郎はどうして一筋縄にも二筋縄にもかかる奴じゃない。彼奴きゃつの法医学者としての価値に相当する……否、それ以上かも知れない大悪党だ。第一、吾輩の前ではスッカリ猫をかぶっているが、ウッカリすると吾輩に敗けない位の精神病学者で、おまけに人情の弱点を利用する事にすこぶる妙を得ているという事が一ペンにわかってしまったのだ。……というのはほかでもない。この遺言書にも書いておいた通り、若林鏡太郎が、この事件の勃発当時に、学長の権威を利用しての少女を生きた亡者にしてしまって、自分の手中に握り込んだ目的がどこにあるかという事は、その当時から今日までどうしてもわからなかったのであるが、今となってみると何の事はない。彼奴きゃつは、君がる程度まで本性を回復した時を見澄まして、コッソリとあの娘に引き会わせて、色と、欲と、理詰めの三方から、君自身に君自身を無理にも呉一郎 と認めさせよう。そうして今も言ったように、吾輩を君の不倶戴天ふぐたいてん仇敵かたきと思い込ませて、その事実を公式に言明させよう……彼の思い通りに引きゆがめた事件の真相を社会に暴露させてやろう。……のみならず、その君の言明を、自分の畢生ひっせい【一生】の事業としている『精神科学的犯罪とその証跡』の第一例として掲げようとたくらんでいるスジミチが手に取る如くわかって来たのだ。」
「……そこで吾輩も考えた。……よろしい。そっちがそんな考えなら、こっちにも了簡りょうけん【考え】がある。もともと若林の精神科学的犯罪の研究は、吾輩独創の心理遺伝の学理原則を土台にして組み立てられているんだから、まぜっ返しをしようと思えば訳はない。
416/596
ここで思い切って吾輩の精神科学の研究発表の原稿を全部焼き棄ててしまって、あとにその内容の概略を書いたヒヤカシ半分の遺言書を残しておけば、彼奴きゃつ若林は嫌でも応でもその著述の中に、この遺言書を組み込まなければ研究発表の筋が立たなくなる訳だ。しかし、果して彼奴きゃつが吾輩の遺言書を公表し得るかどうか……公表するとすれば、どんな風に手品を使って公表するかは、ずいぶん面白い見物だぞ……事にると吾輩の遺言書は恐らく空前絶後のタチのわるい置き土産になるかも知れないぞ……。
 ……と……こう考えると吾輩、急に嬉しくなったね。大急ぎでこのへやへ来て書類をスッカリ焼き棄てて、この遺言書を書き初めたんだが、そのうちに夜が明けてみると、君が覚醒しかけたというので、兼ねてから待ちかねて準備していた若林が時を移さず馳けつけて、早速の美少女に引き合わせた。……が……こいつはまんまと首尾よく失敗した。もっとも先方は君を恋しい恋しい兄さんと認めてくれたので、まず半分は成功した訳だが、御本尊の君自身が、あの美少女にズドンと肘鉄砲ひじでっぽうを喰わせた……自分の従妹いとことも許嫁いいなずけとも、何とも認めなかったので、今度は手段をかえて、君をこのへやに連れて来る様子だ。」
「……ところで、実を言うとこの時には吾輩もいささ狼狽ろうばいしたね。恐るべきは彼奴きゃつ若林鏡太郎だ。彼奴きゃつは吾輩のこうした心事を、もうっくに見抜いていたんだ。彼奴きゃつは吾輩が遅かれ早かれこの危険千万な放れ業式の解放治療の実験を切り上げて、その内容を学界に発表すると同時に、行衛ゆくえくらますであろう事を、ずっと前から察していたんだね。しかも、それと同時に、このめいはまの花嫁殺し事件も、吾輩一人の実験材料に使い棄てて、あとから誰が見ても犯罪事件と見えないようにして、学界に報告するであろう事までもチャンと看破かんぱしていたんだね。そこで彼奴きゃつは全力をげて電光石火式に事を運んだ。
417/596
そうして吾輩がまだ行衛ゆくえくらまさないうちに吾輩を押え付けてギャフンと参らせようと、たくらんだ訳だ。
 ……彼奴きゃつは吾輩が昨夜からここに居据いずわりで居る事を、今朝けさ本館の玄関を入ると同時に見貫みぬいていたに違いない。そうして何等かの策略で吾輩をへこませるために、君をここへ連れて来るんだな……と気が付いたから、ドッコイその手は桑名くわなの何とかだ。一つ驚かしてやれと思って、その遺言書や、焼き残りの書類をそこに置きっ放しにしたまま、ウイスキーの瓶と一緒に姿を消してしまったのだ。無論窓から飛び出したのでもなければ、向うの扉から抜け出した訳でもない。一歩もこのへやから出ないまま誰にも気付かれないように消え失せた……というと何だか又精神科学応用の手品じみて来るが、そんな事じゃない。種というのはこの大暖炉ストーブだ。」
「この大暖炉は、万一この実験が失敗するか、又は吾輩の研究の内容を他人に盗まれそうになった時に、そんな著述の原稿を全部、この中で焼き棄ててくれよう。事にったら吾輩自身もこの大暖炉を利用して天下をけむに巻きながら、ヒュードロドロドロと行衛ゆくえを晦ましてくれようと思って、最初から瓦斯ガスと電気併用へいようの自動点火式に設計したものだが……見給たまえ……この鉄の蓋を取ると、内部なかはこんなに広々して、底一面の電熱装置の間から瓦斯ガスが噴き出すようになっている。何の事はないブンゼンラムプの大きなヤツを二百ばかり併列へいれつした形だ。この上に生きた物でもせて、瓦斯ガスのコックを開いて電気のスイッチをじると、取りあえず瓦斯ガスが飛び出して窒息させてしまう。そのうちに電熱器が熱して来て、ドカンと瓦斯ガスに点火したら一時間経たぬうちに骨までボロボロになってしまうだろう。その上に石でも瓦でも積み重ねておくと全部白熱して強烈な輻射熱ふくしゃねつを出すのだからね。見給たまえ、肉よりも焼けにくいという西洋紙の原稿ばかり、本箱に四杯近くもあったのが、どうだい。
418/596
たったこれんばかりの白い灰になってしまっているだろう。これで吾輩が又けむになれば、折角の大学理が、又、もとの空中に還元されてしまうわけだ。ハッハッハッ。……吾輩は、君と若林が、あの階段を上って来る音を耳にすると同時に、ウイスキーの瓶と一緒にこの中に逃げ込んで、この灰の上にこうして新聞紙を敷いて楽々と胡座あぐらいたまま、いつ何時でも煙になる覚悟で、葉巻を吹かし吹かし耳を澄ましていた訳だ。」
「……ところが流石さすが彼奴きゃつだ。天下の名法医学者だ。吾輩の姿が見えなくても平気の平左でいるばかりか、すぐにその機会を利用して君を錯覚におとしいれ初めた。……彼奴きゃつのアタマは聖徳太子と同様二重三重に働くんだからね。だから吾輩や斎藤先生の事を色々と君に話して行く片手間に、この遺言書の内容を大急ぎで検査してみると、少々都合のわるい処もあるが、結論まで書いてないのだからまず安全である。のみならず、こいつを君に読ませれば、自分で説明するよりも遥かに都合よく、君自身を呉一郎 と思い込ませ得るという見込みが付いたので、わざと君に押し付けておいて、君が夢中になって読んでいるうちにコッソリ姿を消してしまったのだ。そうしてこれに対して吾輩がドンナ処置をるかを試験しているらしい様子だ。」
「……そこで吾輩 いよいよ面白くなったね。……よし……その儀ならばこっちも一つその計略の裏を行って、あべこべに彼奴きゃつの挑戦に逆襲してやれと思って、暖炉ストーブの中からソーッとここへ出て来て、この椅子に腰を卸しながら、君がその遺言書を読み終るのを待っていた訳なんだが……。ハッハッ……どうだい。今君と吾輩とは天下の名法医学者、若林鏡太郎氏の計画の下に対決しているんだよ。
419/596
そうして君がどこの何という名前の青年であるか……この事件と如何いかなる因果関係によって結び付けられて、現在その椅子に座らせられているのかという事は、まだ学理上にも実際上にも明白に決定されていないのだよ。
 ……だから彼奴きゃつ若林の予想通りに、君がその自我忘失症から、姪の浜の一青年呉一郎 として覚醒して、吾輩をその事件の裏面に活躍している怪魔人……血も涙もない極悪非道の精神科学の手品使いとして指摘すれば、この対決は吾輩の負けになる。しかし、これに反して、君がドウシテモ呉一郎 としての過去の記憶を思い出さなければ、早い話が吾輩の勝になる……君は『自我忘失症』と名づくる一種の自家意識障害を起して、九大の精神科に収容されている、第三者の立場から若林の手にかかって突然にこの事件に捲き込まれて来た無名の一青年という事実が公表され得る事になって、若林の計画がオジャンになるという、その際どい土俵際に立っているんだよ君は……。ドウダイ面白いだろう。古今無双の名法医学者と、空前絶後の精神科学者の、痛快深刻を極めた知恵比べだ。しかも、その勝負を決すべき呉一郎 が、君自身だかどうだかは、今も言う通りまだ決定しないでいる。ハッケヨイヤ残った残ったというところだね。ハッハッハッ……」
 正木博士の高笑いは、へやの中の色々なものにケタタマシク反響しつつ、の耳に飛び込んで来た。そうして二人の博士の言う事の、どちらが本当かうそか解らないままボンヤリとなっているの頭の中を、メチャメチャに引っかき回すとそのまま、どこかへシインと消え失せて行った。

 しかし正木博士はのそうした気持ちに頓着【気にすること】なく、又も片眼をシッカリとつぶって、さも美味うまそうに葉巻の煙を吸い込んだ。それから回転椅子の肘掛けに両手を突張って、ソロソロと立ち上りかけた。
420/596
「……や……ドッコイショ……と……そこで いよいよ本勝負に取りかからなければ、ならないのだ。まず是非とも吾輩の手で君の過去の記憶を回復さして、君が誰であるかを君自身に確かめさせなくちゃ、若林の手前、卑怯ひきょうに当るからね。……とりあえずこっちに来てみたまえ。今度は吾輩自身が、君の過去を思い出させる第一回の実験をやってみるんだから……」
 はもう半分夢遊病にかかっている気持ちでフワフワと椅子から離れた。どこからか若林博士の青白い瞳が覗いているような気味わるさの中を、正木博士に導かれるままに南側の窓に近づいた……が……正木博士の白い診察服の肩ごしに窓の外を一眼見ると、はハッとして立ち止まった。
 眼の下に狂人きちがい解放治療場の全景が展開されているのであった。……そうしてその一隅にまぎれもない呉一郎 が突立っているのであった。……老人の畠打はたうちを見守りながら、背中をこっちに向けている……髪毛かみのけ蓬々ぼうぼうとさした……色の白い……ほっぺたの赤い……黒い着物をダラシなくまとうた青年の姿……。
 その悽惨みじめな姿をアリアリと現実に見た一瞬間、は思わず眼を閉じた。その上から両手でピッタリと顔をおおうた。……とても正視出来ないほどの驚きと……恐れと……言い知れぬ神経の緊張に打たれて……。
421/596
……呉一郎 はあそこに居るじゃないか。あれはの遺言書の中に書いてあった呉一郎 の姿に違いないじゃないか。そうしてあれが呉一郎 に間違いないとすれば……ここに立っているは一体、何者であろう……。
……たった今窓の外を覗いた一瞬間に、自身が、自身から脱け出して行って、姿をかえてあそこに突立っているような……それを、あとに残った魂魄たましいだけが眺めているような……そんなような陰惨な、悽愴せいそうとした感じ……。
……もしや今見たのはの幻覚ではなかったろうか。白昼の夢というものではなかったろうか……。
 頭の中で電光のように、こう考えまわしつつ……何ともいえず息苦しい、不可思議な興奮にとらわれつつ、は又も、しずかに眼を開いてみた。
 しかし解放治療場内の光景は、どう見直しても夢とは思えなかった。……青い青い空……赤い煉瓦レンガ塀……白くまぶしく光る砂……その上を逍遥さまよう黒い人影……。
 その時に、の前に立って、何かしら考え込んでいた正木博士は、やおらをふり返って、何気なく窓の外をゆびさした。
「……どうだい……ここがどこだか知っているかね君は……」
 けれどもは返事が出来なかった。只かすかに首肯うなずいて見せたばかりであった。それほど左様さようは眼を開いた次の瞬間から、何ともいえぬ異様な場内の光景に魅せられてしまったのであった。
 青空の光りと照し合っている場内一面の白砂の上を、ウロウロと動きまわっている患者たちの黒い影は、ほとんど全部が、最前の遺言書に描き あらわして あった通りの仕事を、そのままに繰返していた。
422/596
あたかも、その一人一人の一挙一動が、正木博士の心理遺伝の原則を、実地に証明する芝居ででもあるかのように……儀作老人は依然としてくわふるいつつ、今一本の新らしい砂のうねを作り……青年呉一郎 はやはり、こっちに背中を向けながら、老人の前に突立って、鍬を動かす手許てもとを一心に見守っている。……年増女としまおんなは、ボール紙の王冠を落したのを気付かぬまま、威張ってあるきまわり……それを拝んでいた髯面ひげづらの大男は、拝みくたびれたかして、砂の中にひたいを突込んで眠り……小男の演説家は煉瓦レンガ塀に拳固げんこを押し当てて祈り……痩せた青黒い少女は、老人の作った新しいうねに植えるものを探すらしく、キョロキョロと場内を物色してまわっている。そのほかの連中も、その位置が違っているように思えるだけで、やっている仕事の意味は、最前読んだ遺言書の説明とすこしも違わない。ただ……最前から歌を唄って踊りまわっていた筈の、舞踏狂らしいお垂髪さげの女学生が、たちの立っている窓のすぐ下に、肩まで手が入るような砂の穴を掘って、ボール紙の王冠と、松の枯れ枝を利用しながら、小さな陥穽おとしあなを作りかけているのが、少々脱線しているように思われるだけである。しかし、いずれにしても正木博士がたった今話した、昨日きのうの正午の大惨事というのは、いつ、どこで、どの狂人きちがいが起したものか、そんな形跡さえ見えないのが、には不思議に思われて仕様がなかった。舞踏狂の少女が歌をやめたせいか、それとも硝子ガラス窓越しに眺めているせいか、すべてが影のようにヒッソリと静り返っている。その薄気味わるさ……こころみに人数を数えてみると、やはり遺言書に書いてある通りの十人で、えても減ってもいないのはどうした事であろう。
423/596
 しかも、更に不思議な事には、その何も変った事のない、静かにハッキリした光景を見下しているうちに、この十人の狂人きちがいの心理遺伝を利用して、正木博士が仕掛けておいたという精神科学的の大爆発……正木博士の辞職の原因となった大惨事が、もうじきに初まろうとしている……それは昨日の事でもなければ一昨日おとといの事でもない。たった今、眼の前に起りかけている事実なのだ……という予感がして、しようがないのであった。否……場内に居る狂人きちがいばかりではない。向うの屋根の上に二本並んで、藍色の大空を支えている赤煉瓦レンガの大煙突……その上から、たった今吐き出され初めた黒い黒い煤煙ばいえんのうねり……その上にまん丸くピカピカ光っている太陽までもが、何等かの神秘的な精神科学の原則に支配されつつ、時々刻々にその空前絶後の大事変の方へ切迫して行きつつあるのではないか……というような底知れぬ冷やかな、厳粛な感じが、しきりに首すじの処へ襲いかかって、全身がゾクゾクして来るのを我慢する事が出来なかった。そんな馬鹿な事が……と思えば思う程そう思えて仕様がなくなって来るのであった。はそうした神秘的な……息苦しい気持を押え付けよう押え付けようと焦燥あせりつつ、なおも、解放治療場内の光景に眼を注いだ。老人の畠打ちを見ている呉一郎 のうしろ姿を、異様な胸のとどろきのうちに凝視した……。
 その時であった。の耳の傍で突然に、低い、ささやくような声がしたのは……。
「何を見ているのだね……君は……」

 その声の調子は、今までの正木博士のソレとは丸で違っていたので、は又もドキンとして振り返った。
 見ると正木博士は、いつの間にかのすぐ傍に来て、細い煙の立つ葉巻を手にして突立っていたが、その顔からは今までの微笑が、あとかたもなく消え失せていて、鼻眼鏡の下に真黒い瞳を据えたまま穴のあく程の横顔をにらみつけているのであった。
424/596
 ……は深い溜息を一つした。そうして出来るだけ気を落ち付けて返事をした。
「解放治療場を見ているのです」
「フ――ウ――ム」
 と腹の底でうなった正木博士は、やはり瞬き一つせずにの瞳を見据えた。
「フ――ム。……そうして何か見えているかね……解放治療場の中に……」
 正木博士の尋ね方が何となく異様なので、静かにその瞳を見返した。
「ハイ……狂人きちがいが十人居るようです」
「……ナニ……狂人きちがいが十人……」
 と慌てた声で言いさした正木博士は、何かしら余程驚いたらしく、今一度グッとにらみ付けた。
 その視線を横ほおに感じながら、は又も解放治療場内をふり返って、呉一郎 のうしろ姿を凝視しはじめた。……今にもこっちを振り向いて、と顔を合わせそうな気がして……そうしたら、何かしら大変な事が起りそうに思えて……身体からだじゅうが自然おのずと固くなるように感じつつ……。
「ウーム……」
 と正木博士はの横で気味のわるい程ハッキリと唸った。
「あの中で狂人きちがいが遊んでいるのが、アリアリと見えるかね君には……」
 は無言のまま うなずいた。いよいよ奇妙な質問の仕方だとは思いながら、別段気にも止めないで……。
「フ――ム。そうして人数はやっぱり十人いるというのかね」
 は又、うなずきつつ振り返った。
「ハイ。キッチリ十人おります」
「……ウ――ム……」
 と正木博士は唸った。真黒い眼のたまを奥の方へへこませながら……。
「フーム。こいつは妙だ。……トテモ面白い現象だぞこれは……」
 と独言ひとりごとのように言いつつ、おもむろにの顔から視線をらして窓の外を見た。そうして心持ち青白い顔になって、ジッと考え込んでいるようであった。がやがて以前の通りに元気のいい顔色に返ると、ニッコリと白い歯を見せつつを振り返った。窓の外を指しつつ快活かいかつな口調で問うた。
425/596
「それじゃモウ一つ尋ねるが、あの畠の一角に立って、老人の鍬の動きを見ている青年がいるだろう」
「ハイ。おります」
「……ウム……いる……ところでその青年は今、ドッチを向いて突立っているかね」
 正木博士の質問が、いよいよ出でてイヨイヨ変テコになって来るので、妙な気持ちになりながら答えた。
「こちらに背中を向けて突立っております。ですから顔はわかりません」
「ウン……多分そうだろうと思った。……しかし見ていたまえ。今にこちらを向くかも知れないから……。その時にあの青年が、どんな顔をしているかを君は……」
 正木博士がこう言いさした時、の全身は何故なにゆえか知らずビクリとして強直した。心臓の鼓動と呼吸とが、同時に止まったように思った。
 その時に正木博士にゆびざされていた青年……呉一郎 のうしろ姿は、あたかも、何等かの暗示を受けたかのように、フッとこちらを振りかえった。達の覗いている硝子ガラス窓越しに、とピッタリ視線を合わした……と……その顔に、今まで含まれていたらしい微笑がスーと消え失せて……今朝けさ程、あの湯殿の鏡の中で見たの顔と寸分違わない、ビックリしたような表情にかわった。……顔の丸い、眼の大きい、あごの薄い……と思う間もなく、又も、ニコニコと微笑を含みながら、しずかに老人の畠打ちの方に向き直ってしまった……ように思う……。
 ……はいつの間にか両手で顔をおおうていた。
「……呉一郎 は……だ……は……」
 と叫びつつヨロヨロとうしろに、よろめいた……ように思う……。
 それを正木博士が抱き止めてくれた。そうしてせかえるほど芳烈ほうれつな、火のように舌を刺す液体をドクドクと口の中へ注ぎ込んでくれた……ように思うが、何が何であったかハッキリとは記憶しない。ただ、その時に正木博士が、の耳の傍で怒鳴どなっていた言葉だけが、切れ切れに記憶に残っているだけであった。
426/596
「……しっかりしろ。しっかりしろ。そうして今一度よく、あの青年の顔を見直すのだ。……サアサア……そんなに震えてはいけない。そんなに驚くんじゃない。ちっとも不思議な事はないんだ。……確りしろシッカリ……あの青年が君にソックリなのは当り前の事なんだ。学理上にも理屈上にも在り得る事なんだ。……気を落ちつけて気を、サアサア……」
 はこの時、よく気絶してしまわなかったものと思う。おおかたこの時までに、いろんな不思議な出来事に慣らされていたせいかも知れないが、それでも、どこか遠い処へ散り薄れかけている自分の魂を、一所懸命の思いで、すこしずつ すこしずつ 呼び返して、もとの硝子ガラス窓の前にシッカリと立たせる迄には何遍眼を閉じたりいたりして、ハンカチで顔をコスリまわしたか知れない。しかも、それでもには今一度窓の外を見直す勇気がどうしても出なかった。こうべれて床のリノリウム凝視みつめたまま、何回も何回もふるえた溜め息をして、舌一面に燃え上る強烈なウイスキーの芳香においを吹き散らし吹き散らし していたのであった。
 正木博士は、その間に手に持っていたウイスキーの平べったい瓶を診察着のポケットに落し込んだ。そうして自分自身もやっと落ち付いたように咳払いをした。
「イヤ。驚くのも無理はない。あの青年は君と同年の、しかも同月同日の同時刻に、同じ女の腹から生れたのだからね」
「……エッ……」
 と叫んで正木博士の顔をにらんだ。同時に一切がわかりかけたような気がして、やっと窓の外の呉一郎 をふり返るだけの勇気が出た。
「……ソ……それじゃ僕と、あの呉一郎 とは双生児ふたご……」
「イイヤ違う……」
 と正木博士は厳格な態度で首を振った。
双生児ふたごよりもモット密接な関係を持っているのだ。
427/596
……無論他人の空似でもない」
「……ソ……そんな事が……」
 と言い終らぬうちにの頭は又、何が何やら解らなくなってしまった。一種の皮肉な微笑を含みかけた正木博士の顔の、鼻眼鏡の下の、黒い瞳を凝視した。冷かしているのか、それとも真面目なのか……と疑いつつ……。
 正木博士の顔には見る見るあわれむような微笑が浮かみあらわれた。幾度も幾度もうなずきつつ、葉巻の煙を吸い込んでは、又吐き出した。
「ウンウン。迷う筈だよ。……君は昔から物の本に載っている、有名な離魂病りこんびょうというのにかかっているのだからね……」
「……エ……離魂病りこんびょう……」
「……そうだよ。離魂病りこんびょうというのは、今一人別の自分があらわれて、自分と違った事をするので、昔から色んな書物に怪談として記録されているが、精神科学専門の吾輩に言わせると、学理上実際にあり得る事なんだ。しかし、そいつを現実に、眼の前に見ると、何ともいえない不思議な気持ちがするだろう」
 は慌てて、今一度眼をコスリ直した。恐る恐る窓の外を見たが……青年はもとのまま、もとの位置に突立っている。今度はすこしばかり横顔を見せて……。
「……あれが僕……呉一郎 と……僕と……どっちが呉一郎 ……」
「ハハハハハハハ、どうしても思い出さないと見えるね。まだ夢からめ得ないのだね」
「エッ夢……僕が夢……」
 は眼を真ン丸にして振り返った。得意そうにり身になっている正木博士を見上げ見下した。
「そうだよ。君は今夢を見ているんだよ。夢の証拠には、吾輩の眼で見ると、あの解放治療場内には先刻さっきから人ッ子一人いないんだよ。ただ、枯れ葉をつけたきりの木が五六本立っているきりだ……解放治療場は、昨日の大事変勃発以来、厳重に閉鎖されているんだからね……」
「……………」
「……こうなんだ……いいかい。これは、すこし専門的な説明だがね。
428/596
君の意識の中で、現在眼をまして活躍しているのは現実に対する感覚機能が大部分なんだ。すなわち現在の事実を見る、聞く、ぐ、あじわう、感ずる。そいつを考える。記憶する……といったような作用だけで、過去に関する記憶を、ああだった、こうだったと呼び返す部分は、まだ夢を見得る程度にしか眼をさましていないのだ。……そこで君がこの窓から、あの場内の光景を覗くと、その一刹那せつなに、昨日まであそこに、あんな風をして突立っていた君の記憶が、夢の程度にまでよみがえって、今見ている通りのハッキリした幻影となって君の意識に浮き出している。そうしてそこに突立っている君自身の現在の意識と重なり合って見えているのだ。つまり、窓の外に立っている君は、君の記憶の中から夢となって現われて来た、君自身の過去の客観的映像で、硝子ガラス窓の中にいる君は現在の君の主観的意識なのだ。夢と現実とを一緒に見ているのだよ君は……今……」
 はもう一度シッカリと眼をこすった。大きく瞬きをしいしい正木博士の妙な笑い顔をにらんだ。
「……そんなら……僕は……やはり呉一郎 ……」
「……そうだよ。理論上から言っても、実際上から見ても、君はどうしても呉一郎 と名乗る青年でなくては、ならなくなるんだよ。不思議に思うのは無理もないが仕方がない。それで……その上に君が君自身の過去の記憶を、今見ているような夢の程度でない、ハッキリした現実にまでスッカリ回復してしまったとなれば、残念ながらこの実験は若林の大勝利で吾輩の敗北だ……かどうだかは、まだ結果を見ないと解らないがね。フフフフ」
「……………」
「……とにかく奇妙奇態だろう。変妙不可思議だろう。しかし、これを学理的に説明すると、何でもない事なんだよ。普通人でも頭が疲れている時とか、神経衰弱にかかっている時なぞには、よくこんな事があるんだよ。
429/596
もっとも程度は浅いがね……白昼まひるの往来を歩きながら、昨夜ゆうべ自分が女にチヤホヤされて、大持てに持てていた光景を眼の前に思い浮かめてニヤリニヤリと笑ったり、淋しい通りを辿たどってゆくうちにこの間、電車にかれそこなった刹那せつなの光景を幻視して、ハッと立ち止まったりする。女は又女で、古くなった嫁入道具の鏡の中に自分の花嫁姿を再現してポーッとなったり、女学生時代の自分の思い出の後影うしろかげうて、ウッカリ用もない学校の門の前まで来たり……まだ色々とあるだろう。ちょうど夢の中で、自分の未来の姿である葬式の光景を描いているのと同じ心理で、自分の過去に対する客観的の記憶が生んだ虚像と、現在の主観的意識に映ずる実像とを、二枚重ねて覗いているのだ。しかも君のは、その夢を見ている部分の脳髄の昏睡が、普通の睡眠よりもズット程度が深いのだから、その解放治療場内の幻覚も、今、君が見ている通り、極めてハッキリとしている。熟睡している時の夢と同様に、現実とかわらない程の……否、それ以上の深い魅力をもって君に迫っているので、現実の意識との区別がなかなかつけにくいのだ」
「……………」
「……おまけに今も言う通り、君の頭の中で永い間昏睡状態に陥っている脳髄の機能のる一部分が、ごく最近の事に関する記憶から初めて、少しずつ 少しずつよみがえらせながら見せている夢だと思われるから、事によると、まだなかなかめないかも知れない。
430/596
……める時はいずれ、窓の外の君と、現在そこにいる君とが、互いにこれは自分だなと気が付いて来た時に、ハッと驚くか、又は気絶するかして覚醒するだろうと思うが、しかし、その時にはこのへやも、吾輩も、現在の君自身も一ペンにどこかへ消え去って、飛んでもない処で、飛んでもない姿の君自身を発見するかも知れない……実は今しがた君が失神しかけた時に、サテは最早もう覚醒するのかと思っていたわけだがね……ハハハハハハ」
「……………」
 いつの間にか又眼を閉じていたは、ただ正木博士の声ばかりを聞いていた。その言葉が含む二重三重の不可思議な意味に、あとからあとから混迷させられつつ、一所懸命に両足を踏み締めて立っていた。今にも眼をいたら、何もかも消えてなくなりはしないかとビクビクしながら、口の中でソロソロと舌を動かしていた。
 その時であった。ほとんど無意識に頭を押えていたの右手が、やはり無意識のまま前額部の生え際の処まで撫で卸して来ると、突然、背骨にみ渡るほどの痛みを感じたのは……。
 は思わず「アッ」と声を立てた。閉じていた眼を一層強く閉じて、歯を喰い締めた。そうして、なおも念入りにそこを撫でまわしてみると、気のせいか少しふくらんでいるようであるが、しかしれ物ではないようである。たしかに何かと強くぶつかるか、又は打たれるかした痕跡あとである……今の今まで、こんな痛みは感じなかったが……そうして又、今朝けさから今までの間に、そんなに非道ひどく頭を打ったおぼえは一つもないのだが……。
 夢に夢見る心地とは、こんな場合をいうのであろう。はその痛みの上にソッと手を当てて、シッカリと眼を閉じたまま頭を強く左右に振った。……絶壁から飛び降りるような気持ちで、思い切って眼をパッチリと大きく見開いて、自分の上下左右を念入りに見まわしてみたが……眼を閉じた前と何一つ変ったところはなかった。
431/596
ただ最前から解放治療場の附近を舞いまわっているらしい、一匹の大きなとびの投影が、又も場内の砂地の上を、スーッと横切っただけであった。
 それを見た時には、どうしても一切が現実としか思えない事を自覚せずにはおられなかった。たといそれがドンナに不思議な、又は、恐ろしい精神科学的現象の重なりあいであるにせよ、自身にとっては決して、夢でもなければうつつでもない。たしかに実在の姿をこの眼で見、実在の音をこの耳で聴いている事を確信しない訳に行かなかった。……その確信を爪の垢ほども疑う気になれなかった。は、今一人の自分自身としか思えないほどによく肖通にかよっている窓の外の青年、呉一郎 の立っている姿を、何等の恐怖も感じないままに、今一度冷然とにらみ付ける事が出来た。それからおもむろに正木博士をふり返ると、博士はたちまち眼を細くして、義歯いればを奥の方までアングリとあらわした。
「ハッハッハッハッ。これだけの暗示を与えても解らないかい。君自身を呉一郎 とは思えないかい」
 は無言のまま、キッパリと首肯うなずいた。
「ハッハッハッ。イヤえらい豪い。実は今言ったのは……みんなうそだよ……」
「エッ……うそ……」
 と言いさしては思わず頭を押えていた手を離した。その手を二本ともダラリとブラ下げたまま……口をポカンと開いたまま正木博士と向き合って、大きな眼をき出していたように思う、恐らく「あっ」という文字をそのままの格好で……。
 そのの眼の前で正木博士は、さもたまらなさそうに腹を抱えた。小さな身体からだから、あらん限りの大きな声をゆすり出して笑いけ初めた。葉巻の煙にせて、ネクタイを引きゆるめて、チョッキのぼたんを外して、鼻眼鏡をかけ直して、その一声ごとに、室中へやじゅうの空気が消えたり現われたりするかと思う程徹底的に仰ぎつ伏しつ笑い続けた。
「ワッハッハッハッ。トテモ痛快だ。君は徹底的に正直だから面白いよ。
432/596
アッハッハッハッハッハッ。ああ可笑おかし……ああたまらない……おこってはいけないよ君……今まで言ったのはうそにも何にも、真赤な真赤な金箔きんぱく付のヨタなんだよ……アハ……アハ……しかし決して悪気で言ったんじゃないんだよ。本当はあの青年……呉一郎 と君とが、瓜二つに肖通にかよっているのを利用してチョット君の頭を試験して見たんだよ」
「……ボ……僕の頭を試験……」
「そうだよ。実を言うと吾輩はこれから、あの呉一郎 の心理遺伝のドン詰まりの正体を君に話して聞かせようと思っているんだが、それにはもっともっと解らない事がブッ続けに出て来るんだからね。よほど頭をシッカリしていないと飛んでもない感違いに陥るおそれがあるんだ。現に今でも君の方から先にあの青年を『自分と双生児ふたごに違いない』なぞと信じて来られると、吾輩の話の筋道がスッカリこんがらがって滅茶めちゃになってしまうから一寸ちょっと予防注射をこころみた訳さ。アハハハハ」
 は本当に夢からめたように深呼吸をした。今更に正木博士の弁力に身ぶるいさせられつつ、今一度、頭の痛い処に手をった。
「……しかし、僕のここんとこが、今急に……うずき出したのは……」
 と言いさしては口をつぐんだ。又笑われはしまいかと思って、恐る恐る眼をパチつかせた。
 しかし正木博士は笑わなかった。あたかもそうした痛い処がの頭の上に在るのを、ズット以前まえからチャンと知っていたかのように、事もなげな口調で、
「ウン……その痛みかい」
 と言ってのけたので、笑われるよりも一層気味がわるくなった。
「それはね……それは今急に痛み出したのではない。今朝けさ、君が眼をました前から在ったのを、今まで気が付かずにいたんだよ」
「……でも……でも……」
 とは まだふるえているゆびを一本ずつ正木博士の前で折りかがめた。
433/596
「……今朝から理髪師とこやが一ペン……と、看護婦が一度と……その前に自分で何遍も何遍も……すくなくとも十遍以上ここんとこきまわしているんですけど……ちっとも痛くはなかったんですが……」
「何遍引っきまわしていたって、おんなじ事だよ。自分が呉一郎 と全然無関係な、赤の他人だと思っている間は、その痛みを感じないが、一度、呉一郎 の姿と、自分の姿が生き写しだという事がわかると、その痛みを突然に思い出す。……そこに精神科学の不可思議な合理作用が現われて来る……宇宙万有はことごとく『精神』を対象とする精神科学的の存在に過ぎないので、所謂いわゆる唯物ゆいぶつ科学では、絶対、永久に説明出来ない現象が存在する事を如実に証拠立て得る事になるという、トテモ八釜やかましいこぶなんだよ、それは……すなわち君の頭の痛みは、あの呉一郎 の心理遺伝の終極の発作と密接な関係があるのだ。というのは呉一郎昨夜ゆうべ、その心理遺伝の終極点まで発揮しつくして、壁に頭を打ち付けて自殺を企てたのだからね。その痛みが現在、君の頭に残っているのだ」
「……エッ……エッ……それじゃ……僕は……やはり呉一郎 ……」
「ママ……まあソンナに慌てるなってこと……あぶの心ははち知らず。豚の心は犬知らず。張三【中国でありふれた名前】が頭を打たれても李四【中国でありふれた名前】は痛くも何ともないというのが普通の道理だ。すなわち唯物ゆいぶつ科学式の考え方なんだが」
 正木博士は突然に、こんな謎のような言葉を、葉巻の煙と一緒にパクパク吐き出した。そうしてがその意味を飲み込めずに面喰めんくらっているうちに、片眼をつぶってしかめながらニヤニヤと笑い出した。
434/596
しかるにだ……現在、君自身には赤の他人としか思えない呉一郎 の頭の痛みが、如何いかなる精神科学の作用で、君自身の顱頂骨ろちょうこつ【頭頂部】の上に残っているか……」
 は今一度窓の外を振り向いて、解放治療場の一隅にニコニコ笑いながら突立っている呉一郎 の姿を凝視しない訳には行かなかった。しかも、それと同時にの頭の痛みが、何となく神秘的な脈動をこめて、あらたきとうずき出したように思えてならなかった。
 その眼の前に正木博士は、又も一ぷく巨大なけむりの一団を吹き出した。
「……どうだい。この疑問が君自身で解決出来そうかい」
「出来ません」
 とはキッパリ返事をした。頭を押えたまま……今朝けさ眼がめた時と同じような情ない気もちになって……。
「出来なければ仕方がない。君はいつまでも、どこの誰やらわからない、風来坊でいる迄の事さ」
 は急に胸が一パイになって来た。それは親に手を引かれて知らない処を歩いていた小児が、急に親から手を放されて、逃げられてしまったような悲しさであった。思わず頭から手を放して両手を握り合わせた。拝むように言った。
「教えて下さい……先生。どうぞ、お願いですから……僕はもう、これ以上不思議な事に出会でっくわしたら死んでしまいます」
意気地いくじのない事を言うな。ハハハハハ。そんなに眼の色を変えないでも教えてやるよ」
「どうぞ……誰ですか……僕は……」
「まあ待て……それを解らせる前に一ツ約束しておかなくちゃならん事がある」
「……ど……どんな約束でも守ります」
 正木博士の顔から微笑が消え失せた。吐き出しかけた煙を口の中へ引っこめて、の顔をピッタリと見据えた。
「……キット守るか……」
「キット守ります……どんな約束です……」
 正木博士の顔には又、博士独特の皮肉な冷笑が浮んだ。
「ナニ。
435/596
君が今の通りのたしかな気持ちで『俺はどんなに間違っても呉一郎 じゃないぞ』という確信をもって聞けば、別に大した骨の折れる約束ではないと思うが……つまり吾輩はこれから呉一郎 の心理遺伝事件について、ドンドコドンのドンづまりまで突込んだ、ステキな話を進めるつもりだが、その話の内容が、どんなに怖ろしい……又は……あり得べからざる事であろうとも我慢しておしまいまで聞くか」
「聞きます」
「ウン……そうしてその吾輩の話が済んでから、その話の全部が一点の虚偽をまじえない事実である事を君が認め得ると同時に、その事実を記録して、あの吾輩の遺言書と一緒に社会に公表するのが君の一生涯の義務である……人類に対する君の大責任である……という事がわかったならば、仮令たとい、それが如何いかに君自身にとって迷惑な、且つ、戦慄に価する仕事であろうとも必ずその通りに実行するか」
「誓って致します」
「ウム……それから今一つ……もしそうなった暁には、君は当然、あの六号室の少女と結婚して、あの少女の現在の精神異状の原因を取り除いてやる責任があることも同時に判明するだろうと思うが、そうした責任も君はその通りに果せるか」
「……そんな責任が本当に……僕にあるんでしょうか」
「それはその場になって、君自身が考えてみればいい……とにかく、そんな責任があるかないか……言葉を換えて言えば、呉一郎 の頭の痛みが、どうして君のオデコの上に引っ越したかという理由を明らかにする方法は、すこぶる簡単明瞭なんだからね。物の五分間とかからないだろう」
「……そんな……そんな容易やさしい方法なんですか」
「ああ、雑作ない事なんだ。しかも理屈は小学生にでもわかる位で、吾輩の説明なぞ一言も加えないでいい。ただ、君がる処へ行って、る人間とピッタリ握手するだけでいいのだ。
436/596
そうするとそこに吾輩が予期している、る素晴しい精神科学の作用が電光の如くきらめき起って……オヤッ……そうだったかッ……俺はこんな人間だったのかッ……と思うと同時に、今度こそホントウに気絶するかも知れぬ。もしかすると、まだ握手しないうちに、その作用が起るかも知れないがね」
「……それを今やってはいけないんですか……」
「いけない。断じていけない。今君が誰だという事がわかると、今言った通り飛んでもない錯覚に陥って、吾輩の実験をメチャメチャに打ち壊すおそれがあるんだ。だから君がスッカリ前後の事実を飲み込んで、それを一つの記録にして社会に公表すべく、吾輩の指図通りの手段を取るのをチャント吾輩の眼で見届けた上でなくちゃ、その実験をやる訳に行かないと言うのだ。……どうだ。出来るかい……その約束が……」
「……出来……ます……」
「よろしい……それじゃ話そう……イヤ。話が篦棒べらぼうに固苦しくなった。こっちへ来たまえ……」
 と言ううちに正木博士は、の手をグングンと引っぱって、大卓子テーブルの処へ連れて来て座らせた。自分ももとの肘掛回転椅子にと差し向いに座ると、白い服のポケットからマッチを出して新しい葉巻に火をつけた。吸い残りの短いのは達磨だるまの灰落しの口へタタキ込んだ。
 は窓の外が見えなくなったので、ホット重荷を卸したような気持ちになった。どうしても解けそうにない疑問の数々が、益々深刻に交錯して来るのを、頭の中心にハッキリと感じながら…………。

「イヤ。馬鹿に話が固苦しくなった」
 と今一度わざとらしく繰り返した正木博士は、今までよりもずっと砕けた態度になって机の上に両ひじをついた。その上にあごを載せて、長い葉巻を横啣よこくわえにしながら、ニヤニヤとの顔をのぞき込んだ。
「ところでどうだい。
437/596
君自身が何者かというような問題はとりあえず別にしておくとして、君は今朝けさ見たあの少女をどう思うね」
 は質問の意味が解りかねて眼をパチパチさせた。
「どう思う……とは……」
「美しいとは思わなかったかね」
 不意打ちにこうした方角違いの質問を浴びせられた狼狽ろうばいせずにはおられなかった。頭の中を羽虫のように飛びめぐっていた大小無数の「?」が一時に消えうせて、その代りに黒くうるんだ眼……小さな紅い唇……青い長い三日月まゆ……ポーッと薄毛に包まれた耳……なぞがかわるがわる眼の前に浮かんで来たと思うと、の首すじのあたりがポカポカと暖かくなるのを感じた。それにつれて、今しがた気絶しかけた時に飲まされたウイスキーの酔いが、グングンと身体からだ中をめぐり初めたように思って、われ知らずハンカチで顔をいた。顔中から一面に湯気が湧き出すような気がして……。
 正木博士はニヤニヤしたままあごでうなずいた。
「フーム……そうだろう……そうだろう。あの少女が美しいかどうかとかれて平気で返事の出来る青年は、恋愛遊戯に疲れた不良連中か、又は八犬伝や水滸伝すいこでんに出て来る性的不能患者の後裔こうえいだからね……しかし君はあの少女を、それっきり何とも思わなかったかね」
 は本当を言うと、この時のの心持ちをここに記録したくない。……がしかし、事実を偽ることは出来ない。正木博士からこう尋ねられたお蔭で、あの少女に対するの気持ちが、今朝けさ初めて会った時以上に一歩も進み出ていないことを、この時初めて気が付いたのであった。ただ、その気味のわるいほどの初々ういういしさと、眼も当てられぬイジラシイ美しさに打たれただけであった。どうかして正気に返してやりたい……この病院から救い出してやりたい……そうして思っている青年に会わしてやりたいと思い思いして来ただけであった。
438/596
そうしてそれが果して彼女に対するの「恋の表現」の「変形」であったかどうか……なぞいう事を考えてみるいとまがなかったのであった。否……それ以上に深く自分の心を解剖するのを彼女に対する冒涜ぼうとくとさえ考えて、心の奥の奥で警戒していた……その図星を正木博士に指されたような気がしたので、は何のタワイもなく赤面させられてしまったのであった。石のように固くなって、切口上きりこうじょう【改まった堅苦しい話し方】で返事をしたのであった。
「え……可哀想とは……思いました」
 正木博士はこう聞くとサモ満足気に幾度いくたびも幾度もうなずいた。その態度を見ると正木博士はこの時にが あの少女を恋しているものと思い込んでしまったらしかったが、それを打ち消すだけの心の余裕もは持たなかった。何とかして誤解をさせぬようにとヤキモキ考えているうちに正木博士は、なおも悠々と念入りに点頭うなずき直してしまった。
「そうだろうとも そうだろうとも。美しいと思ったのは、すなわち恋した事だからね。そうでないという奴は似非えせ道徳屋……」
「……ソ……そんな乱暴な……セ……先生……誤解です……」
 と周章あわてて半布ハンケチを持った手をあげつつ叫んだ。
「……異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情欲とはみんな別物です。そんなのをゴッチャにした恋は錯覚の恋です……異性に対する冒涜ぼうとくです……精神科学者にも似合わない乱暴な言い草です……無茶苦茶です。それは……」
 というような反駁はんばく【論じ返す】の言葉を一時に頭の中でひらめかしながら……。しかし正木博士はビクともしないでニヤニヤを続けた。
「わかってる わかってる。弁解しなくともいい。君の方ではあの少女に恋なぞされるのは迷惑かも知れないが、まあ任せたまえ。君があの少女を恋しているいないにかかわらず運命に任せたまえ。
439/596
そうしてその運命の結論をつけるべく、あらわれて来た君の頭の痛みと、あの少女とがドンナ関係において結ばれているかという話を聞きたまえ……少々取り合せが変テコだが。……そいつを聞いて行くうちには、法律と道徳のドッチから見ても、君とあの少女とは、る運命の一直線上に向い合って立っていることがわかるからね。この病院を出ると同時に結婚しなければならぬ事が、一切の矛盾や不可思議が解けるにつれて、逐一判明して来るからね」
 こうした正木博士の言葉を聞いているうちに、は又も、ガックリとうなだれさせられてしまった……しかし、それは赤面してうつむいたのではなかった。その時のの気持ちは赤面どころではなかった。正木博士の言葉の中に含まれている、あらゆる不可思議な事実の中から、の現在の立場を解決すべき焦点を、どうして発見しようかと、又も一所懸命に眼を閉じ、唇を噛み締めたのであった。今朝けさからの出来事を順々に、思い浮めては考え合せ、考え合せては分解してみたのであった。
440/596
……正木若林の両博士は、表面上無二の親友のように見せかけているが、内実は互いに深刻な敵意を抱き合っている仇讐かたき同志である。
……その仲違なかたがいの原因は、と呉一郎 を実験材料とした精神科学に関する研究から端を発しているらしく、今はその闘いが、白昼公々然とこの教室で行われる位にまで高潮して来ている。
……しかし、とあの六号室の少女とを無理にも結婚させようとする意志だけは二人とも奇妙に一致しているようである。
……しかも、万に一つが、あの呉一郎 と同一人か、もしくは呉一郎 と同名、同年の、同じ姿の青年であって、あの少女が又、呉モヨ子に相違ないとすれば、実に変テコな事になるのだ。すなわち達二人をその結婚の前夜に、る精神科学的の犯罪手段に引っかけて、このような浅ましい運命におとしいれたものは、この二人の博士以外に在り得ないように思われるではないか。……コンナ矛盾した事が又とほかに在り得ようか。
……もっとも強いて解釈をつけようとすれば付かぬ事もない。二人の博士は何等かの学理研究の目的で一人の少女と、双生児ふたごの片ッ方か何かとを、見ず知らずの赤の他人同志のまま、わざわざ精神病患者にして、る念の入った錯覚におとしいれて、二人が本気でクッ付き合うように仕向けている……と考えられぬ事もないが、しかし、いくら何でもソンナ残忍不倫を極めた、奇怪千万な学理実験が、人間の心と、人間の手で行われ得るとは考えられない。
……そもそも こうした矛盾と不可解は、どこの行き違いから来たものであろう。
……二人の博士はドウシテこんなにを中心にして騒ぎまわるのであろう……。
 ……と……。
 けれども、それは詰るところ無用の努力であった。
441/596
そんな風に考えれば考えるほど一切がこんがらがって来て、推測すればする程不可解にもつれ乱れて来るばかりであった。しまいには考える事も推測する事も出来なくなって、ただまゆをしかめて、唇を噛んでいる石像のような自分の姿を頭の中で想像しつつ、凝然と眼を閉じているばかりとなった……。
 ……コツコツ……コツコツ……扉をたたく音……。
 はギクンとして眼を見開いた、おびえたようになって入口の扉を見た。もしや若林博士ではないかと思って……けれども正木博士は見向きもしないでほお杖を突いたまま、ビックリする程大きな声を出した。
「オーイ……入れエーッ……」
 その声が室中へやじゅうに響き渡ると間もなく鍵穴をガチャガチャいわせて、扉を半分ばかり開きながら入って来た者を見ると、それは九州帝国大学の紺のお仕着せを着たテカテカ頭の小使いであった。もう余程の老人らしく、腰を真二つに折りかがめていたが、右手に支えた塗盆ぬりぼんの上にすすけた土瓶と粗末な茶碗二個ふたつとを載せて、左手にはカステラを山盛りにした菓子器を捧げながら、ヨチヨチと大卓子テーブルに近づいて、不思議そうな顔をして見ている正木博士の前に置いた。そうして何かにおびえているかのようにオドオドと禿頭はげあたまを下げたが、み手をしいしい首をもたげて、正木博士との顔をかすんだ眼で等分にキョロキョロと見比べると、又一つ、床に手が届くくらい馬鹿丁寧なお辞儀をした。
「ヘイヘイ、今日はまことによいお天気様で……ヘイヘイ……これはあの、学部長様からのお使いで、お二方ふたかた様のお茶受けに差し上げてくれいとの、お申し付けで御座いましたが……ヘヘイ……」
「アハハハハハハ。そうかい。若林がよこしたのかい。フーム……イヤ御苦労御苦労。
442/596
若林が自分で持って来たんかい」
「イエ……あの、学部長様が先刻さきほどからお電話で御座いまして、正木先生がまだおいでになるかとお尋ねで御座いましたから、はビックリ致しまして、如何いかがか存じませぬがチョット見て参りましょうと申しまして、おへやの外まで参りますと、お二人様のお声が聞えました。それで学部長様に左様さよう申し上げましたれば、それならば後から物を持たしてやるから、お茶受けに差し上げてくれいとのことで……ヘイ」
「ウン。そうかそうか。たしかに受け取った。暇なら話しに来いと電話で云っとけ。イヤ御苦労御苦労……入口の鍵は掛けなくともいいぞ」
「ヘヘヘイ。先生方がおいでになりますことはチョットも存じませんで……きょうは一人で御座いますもんじゃけん、まだお掃除も致しませんで……まことに不行届きで……申訳御座いませんで……ヘイヘイ……」
 小使のじじいは二人の前に、あぶなっかしい手附きで茶をいで出すと、何遍もお辞儀しいしい禿頭を光らせて出て行った。
 そのあとを見送って、扉の閉まるのを見届けた正木博士はイキナリ前屈まえこごみになってカステーラの一片を手掴てづかみにすると、たった一口にほお張り込んで熱い茶をグイグイと呑んだ。そうしてにも食えという風に眼くばせをした。
 しかしは動かなかった。両手をひざの上に束ねて眼をみはったまま、正木博士のする事を見ていた。何かは知らずには解らない別の意味で、互いに火花を散らしているらしい二人の博士の緊張ぶりに心をかれながら……。
「アハハハハハ。何もそんなに気味わるがる事はないよ。これだから吾輩は悪党が好きなんだ。彼奴きゃつめ吾輩が昨夜から徹夜をして、何も喰っていない事を知っていやがるんだ。そこで吾輩の大好物の長崎のカステラをよこして上杉謙信を気取りやがったんだ。病院の前で患者の見舞用に売っているシロモノだから何も心配する事はない。猫イラズも何も入ってやしないよ。
443/596
ハハハハハハハ」
 と言ううちに又二きれきれ口の中へ押し込んで茶を立て続けに飲んだ。
「ああ美味うまい。時にどうだい。これからもっと話を進めるんだが、その前に、今さっき読んだ呉一郎 の前後二回の発作については、もう何も疑問の点は残っていないかい」
「あります」
 と鸚鵡おうむ返しに返事をした。ところがその返事は、の思いもかけないハッキリした声で飛び出してへや中に大きな反響を起したので、れながらハッとした。思わず座り直して下腹へ力を入れた。
 それはたった今眼の前で起った小さな波瀾はらん……カステーラ事件のために、今まで行き詰まっていたの気持ちがクルリと転換させられたのかも知れない。それともツイ今しがた失神しかけた時に飲まされたウイスキーが、この時やっと、本当の利き目を現わして来たのであったかも知れないが、いずれにしてもこの時に、の返事がへやの中で「ウワ――ン」と反響して消え失せたのを耳にすると急に勇気付けられたような気持ちになりつつ、熱い茶を一杯グッと飲み込んだ……が、その又お茶の美味おいしかった事……舌から食道へと煮え伝わって行くかんばしいかおりを、クリ返しクリ返し味わって行くうちに、全身の関節がフンワリとゆるんで、血の循環がズンズンとよくなって来るのがわかった。気持ちがユッタリとなって、頭がポッカリと軽くなって、吾れにもあらずれた唇をめまわしながら、正木博士の顔を見据えたのであった。ウイスキー臭い、熱い鼻息をフ――ッと吹きながら……。
「……たとい理屈がどうなっていようとも自分自身を呉一郎 と思う事は絶対に出来ない……」
 と大きな声で宣言したいような気持ちになりつつ……。すると又、不思議にも、それにつれて今の今までの身の上に起って来た色々の出来事が、まるで赤の他人の事のように考えられて何ともいえず面白くなって来たのであった。
444/596
今朝から見たり聞いたりした色々様々な事が、さながら百色眼鏡でも覗いているかのように、言い知れぬ興味と色彩とを帯びつつ、クルリクルリと眼の前で回転し初めると同時に、たった今まで、とてもオッカナイ、物騒な相手に見えていた二人の博士が、チットモ怖くなくなったばかりでなく、ステキに面白いオモチャ見たような存在に見えて来たのであった。
……二人の博士はキット何かしら飛んでもない大きな感違いをしているのだ。
……事によるとこの事件の真相は、思いもかけぬ阿呆あほらしい喜劇かも知れないぞ。
「……と瓜二つの青年がいて、二人共奇想天外式の精神病にかかっている。そのためにその二人が混線してしまって、ドッチがドッチだか解らなくなったのを、二人の博士が競争で見分けようとしてウンウン言っているが、どうしても解らない。とうとう苦しまぎれに、そのドッチかの許嫁いいなずけであった少女をそのドッチかにくっつけて結論にして、その手柄を自分のものにすべく、あらゆるペテンを尽してしのぎを削っている……というような、途方もなく愉快奇抜な筋書とも見れば見られるではないか。……面白いな……いよいよソンナ事に違いないと決定きまれば二人の博士がかたきだろうが味方だろうが、その二人がにかけているダマシの手段が、如何いかに巧妙な恐ろしいものであろうが、チットモ恟々びくびくする事はない。是非とも自身にこの事件の正体がわかるところまで突込んで行かなければうそだ。そうして事件の真相をトコトンまでえぐり付けて、あの少女をこのキチガイ地獄から救い出して、二人の博士の鼻を明したら、どんなにか痛快至極だろう……」
 ……というような、無暗むやみに大胆な、浮き浮きした気分にかわってしまったのであった。
445/596
……へやの中の爽快な明るさ……窓一パイの松の青さ……その中に満ち満ちている白昼の静けさなぞが、今更に気持ちよく、身にみて来たのであった。
 しかし、こんな風にの頭の中が変化してしまったのは ほんの数秒の間の事であったように思う。間もなく吾に帰ってみると、正木博士は、そうしたの顔を鼻眼鏡ごしにニヤリと眺めながら頭のうしろに両手をまわしてりかえっていた。の質問を待っているかのように……。
 はちょっと間誤付まごついた。どっちにしても質問したい事があんまり多過ぎるので……しかし、どこからでも構わない気で、眼の前の遺言書を取り上げてバラバラと繰って行くうちに、やがて事件記録抜粋の一番おしまいの処まで来ると、そこを指して正木博士に見せた。
「この……絵巻物の写真版と、その由来記を挿入のこと……と書いてあります。その本物は、どうなっているのですか」
「アッ。そいつは……」
 と言い終らぬうちに正木博士は両手を卸して、大卓子テーブルの端をドシンと叩いた。
「……そいつはうっかりしていたよ。ハッハッハッ。君の記憶を回復させようというので夢中になっていたもんだから、カンジンカナメのものを見せるのを忘れていた。そいつを見なくっちゃ呉一郎 の心理遺伝の正体はわからない。吾輩の遺言書も、仏作って魂入れずだ。ハハハハハハ……イヤ失敗失敗。睡眠不足で頭が少々御座ったかナ……イヤ。早速お眼にかけよう。コレ……ここにあるがね」
 正木博士はこう言って頭をきつつ、片手を伸ばして横に在るメリンス【毛織物】の風呂敷包みを引き寄せた。手早く結び目を解いて、中から長方形の新聞包みと、厚さ二寸位の西洋大判罫紙フールスカップ綴込つづりこみを抱え出すと、わざわざ北側の窓の処まで持って行って風呂敷をハタイた。
「……プッ……プップッ……どうもヒドイホコリだ。長い事ストーブの穴に放り込みっ放しだったもんだからね。
446/596
……ところで見給たまえ。この綴込つづりこみが姪の浜事件に関する若林の調査書で、君が読んだその抜粋の原本だ。あの肺病患者特有のえ返った神経で、二重にも三重にも、透きとおるほど綿密に調べ抜いてあるんだからトテモり切れたものじゃない。だから読むにしても いずれあとからユックリの事にしてもらって、今日は取り敢えずこの絵巻物と、その由来記を見てもらう事にしよう……ところでまず由来記の方から読んでもらうかナ。そのあとで絵巻物を見た方が面白いだろうからナ……」
 こうした言葉のうちに新聞の包みが開かれると、その中の白木の箱の上に置いてある日本紙一帖位の綴込つづりこみが、無雑作にの前に投げ出された。
「それはこの絵巻物の奥付になっている由来記の写しだ。つまりこの如月寺にょげつじの縁起ものがたりの前に起った出来事で、今からおよそ一千百年前の大昔から初まった呉一郎 の心理遺伝のソモソモが書いてあるんだが、君がそれを読んでいるうちに……ハテナ……これはズット以前にコンナ処でこうして読んだ事があるぞ……という事実をハッキリと思い出すか出さないかが、矢張やは若林と吾輩の生死の別れ目になるんだ。ね。そうだろう。それを読んだ記憶が一分一厘でも君のアタマに残っておれば、君は呉一郎 に相違ないのだからね……ハハハハ……とにかく読んでみたまえ。遠慮する事はない。素敵に面白い話だから……」
 はそれが如何いかに貴重な内容の書類であるかを百も承知していながら……しかもその書類によって正木博士が、に試みつつある精神科学の実験が、如何いかに重大深刻な意味を持っているかを、察し過ぎる位 察していながら、すこしもそんな緊張した気持ちになれなかったのは不思議であった。
447/596
あるいは飲んだばかりのウイスキーが、いくらか利いていたせいでもあったろうが、かえって正木博士の真似でもするかのように無雑作に、その綴込つづりこみを取り上げて、矢張り無雑作にその第一ページひるがえしたが、見ると中には四角い漢字が真黒に押し固まって、隙間もなく並んでいるのであった。
「ワー。これあ漢文……しかも白文【漢文の原文そのままの状態】じゃありませんか。句読くぎり送仮名おくりがなも何も付いてない……トテモ僕には読めません。これは……」
「フーン。そうかい。フーン、それじゃ仕方がないから、取りあえずその内容の概要あらましを、吾輩が記憶している範囲で話しておくかね」
「ドウカそうして下さい」
「……ウーイ……」
 と正木博士は曖気おくび【げっぷ】をしながらり返った。スリッパを穿いたまま椅子の上に乗って、両ひざを抱えるとクルリと南側を向いて、頭の中を整理するように眼を半開はんびらきにして窓の光りを透かしながら、ホッカリと青い煙を吐いた。
 もウイスキーがまわったせいか、何となくだるいような、睡たいような気持ちになりつつ、机の上に両ひじを立ててあごを載せた。
「……ゲップ……ウ――イイ……と、そこでだ。そこで大唐【唐王朝】の玄宗げんそう皇帝というと今からちょうど一千一百年ばかり前の話だがね。その玄宗げんそう皇帝の御代みよも終りに近い、天宝十四年に、安禄山あんろくさんという奴が謀反むほんを起したんだが、その翌年の正月に安禄山僭号せんごうをして、六月、賊、かんる、みかど出奔しゅっぽんして馬嵬ばかいこうず【死ぬ】。
448/596
楊国忠ようこくちゅう楊貴妃ようきひちゅうに伏す【罪を責めて服従させる】……と年代記に在る」
「……ハア……よく記憶おぼえておられるんですねえ先生は……」


「歴史の面白くない処は、暗記しとくもんだよ。……ところでその玄宗げんそう皇帝がこうじたのは年代記の示す通り天宝十五年に相違ないらしいが、それより七年以前まえの天宝八年に、范陽はんよう進士しんし呉青秀ごせいしゅうという十七八歳の青年が、玄宗げんそう皇帝の命を奉じ、彩管さいかんうてしょくの国にり、嘉陵江水かりょうこうすいを写し、転じて巫山巫峡ふざんふきょうを越え、揚子江を逆航ぎゃっこうして奇勝名勝を探り得て帰り、あつむるところの山水百余景を五巻に表装して献上した。帝これを嘉賞かしょうし、故翰林かんりん学士、ほうれんの遺子たいじょを賜う。たいは即ちふんの姉にして互いに双生児ふたごたり。相並んで貴妃きひの侍女となる。時人じじんこれを呼んで花清宮裡かせいきゅうり双蛺そうきょうと称す。時に天宝十四年三月。呉青秀二十有五歳。たい十有七歳とある」

【訳】
「歴史の退屈なところは、暗記しておくものだよ。
さて、その玄宗げんそう皇帝が亡くなったのは、年代記の通り天宝十五年で間違いないらしい。しかし、それより七年前の天宝八年、范陽はんよう出身の進士しんし【科挙の登第者(合格者)】で呉青秀ごせいしゅうという十七、八歳の青年が、玄宗げんそうの命を受け、筆を携えてしょくの国に入り、嘉陵江かりょうこうの景色を写し取り、さらに巫山ふざん巫峡ふきょうを越えて、揚子江をさかのぼり、名だたる景勝地を巡って帰還した。
彼は集めた百余の山水画を五巻に仕立てて献上した。皇帝はこれを大いに賞し、すでに亡くなっていた翰林かんりん学士芳九連ほうきゅうれんの娘、たいじょを与えた。女はふんの姉で、二人は双子であり、並んで楊貴妃の侍女となった。人々は彼女たちを『花清宮の双蝶そうちょう』と呼んだ。時は天宝十四年三月。呉青秀ごせいしゅうは二十五歳、芳は十七歳であった。」


「これあ驚いた。
449/596
トテモ記憶おぼえ切れない。それもヤッパリ年代記ですか」
「イヤ。これは違う。『たいじょを賜う』という一件の前後までは『牡丹亭秘史ぼたんていひし』という小説に出ている。その小説には玄宗げんそう皇帝と楊貴妃が、牡丹亭で喋々喃々ちょうちょうなんなん【男女がうちとけて小声で楽しげに語りあう様子】の光景を、詩人の李太白りたいはく【李白のあだ名】がよだれを垂らして牡丹の葉蔭から見ている絵なぞがあって、支那一流の大甘物あまもの【抗えないほど甘美で、思考を鈍らせる毒】だが、その中でも、呉青秀に関する記述の冒頭だけは、この由来記の内容と一字一句違わないから面白いよ。そのうち文科の奴に研究させてやろうと思うが、第一非常な名文で、思わずらず暗記させられる位だ」
「そうですかねえ。でも何だか、漢文口調のお話は、耳で聞いただけでは解らないようですね。その使ってある字を一々見て行かないと……」
「ウン。それじゃモット柔かく行くかナ」
「ドウゾ……助かります」
「ハハハハハハ。要するにこの玄宗げんそう皇帝というおやじは、楊貴妃と一緒にお祭りの行灯絵あんどんえに描かれる位で、古今のデレリック大帝【(架空の名前)】だ。四夷しい【四方に居住する異民族(東夷・南蛮・西戎せいじゅう北狄ほくてき)】を平らげ、天下を治め、兵農を分ち、悪銭を禁じ……と来たまではよかったが、楊貴妃に鼻毛を読まれて何でもオーライで、兄貴の楊国忠ようこくちゅうを初め、その一味のろくでなし連中をドンドン要職に引き上げた。つまり忠臣をい出して奸臣かんしんを取り巻きにして、太平楽を歌った訳だね。あげくの果は驪山宮りさんきゅうという広大もない宮殿の中に、金銀珠玉をちりばめた浴場バスを作って、玉のような温泉を引いて、貴妃ヤンと一緒に飛び込んで……お前とオーナラバ、ドコマデモオ……と来たね」
「ウワア。やわらか過ぎます。……それじゃア」
「イヤ。真面目に聞いてくれなくちゃ困る。チャン公一流のヨタなんかコレンバカリもまざっていないんだぜ。
450/596
これがあの四五年前に流行した『ドコマデモ』という俗謡の本家本元なんだ。チャント記録に残っているんだ」
「……ヘエ。そんなもんですかね」
「そうだとも。第一お前さんと一緒ならサハラだのナイヤガラ見たような野暮やぼな処へは行かない。一緒に天に昇って並んだ星になって、下界の人間をトコトンまで羨やましがらせましょうというんだからり切れないよ。覗いて聞いていた奴もタイシタ奴に違いないが……」
「しかし、それが絵巻物とドンナ関係があるんですか」
「大ありだ。まあかないで聞きたまえ。大陸の話だからナカナカ焦点がまとまらないんだよ。いいかい……こんな文化式の天子だから玄宗げんそう皇帝は芸術ごとが大好きで、李太白【李白のあだ名】なぞいう、呑んだくれの禿頭とくとう詩人を贔屓ひいきにして可愛がる一方に、当時、十九か十八位の青年進士しんし呉青秀に命じて、あまねく天下の名勝をスケッチして回らせた。すなわち居ながらにして天下を巡狩じゅんしゅしようという、有難い思召おぼしめしだ……ドウヤラ貴妃様の御注文らしいがね」
「絵の天才だったのですねその青年は……」
「無論さ。十八九の青年の癖に、古今に名高い禿頭の大詩人、李太白【李白のあだ名】の詩と並ぶ絵を描く奴だから、生優しい腕前じゃないよ。もっとも運が悪くて夭死わかじにしたために、名前も描いたものも余り残っていない。前にも言った通りその頃の記録には勿論の事、近頃の年代記類にも記載してあるにはあるが、書物によって年代や名前が少しずつ違っていて、確実なところはわからないようになっている。
451/596
しかし、何しろここに詳しい事を記載した実物の証拠があるんだから、将来の史学家はイヤでもこの方を本当にしなければなるまいて」
「そうするとその絵巻物はトテモ貴重な参考史料なんですね」
「貴重などころの騒ぎじゃない……ところで話はすこし前に帰るが、その青年進士しんし呉青秀は、天子の命を奉じてスケッチ旅行を続けている間がチョウド六年で、久し振りの天宝十四年に長安の都に帰って来ると、そのお土産の風景絵巻が、すこぶる天子の御意ぎょいに召して、御機嫌ななめならず、芸術家としての無上の面目をほどこした上に、たいこさんという別嬪べっぴんの妻君を貰った。おまけにチョウド水入らずで暮せるような、美しいお庭付きの小ヂンマリした邸宅を拝領したりして、トテモ有り難い事ずくめだったので、暫くは夢うつつのように暮していた訳だね。ところがそのうちに、だんだんと落ち付いて来ると、時あたかも大唐朝没落の前奏曲時代で、兇徴きょうちょう【凶徴】、妖孼ようげつ【あやしい災いや災厄】、頻々ひんぴんとして起り、天下大乱の兆が到る処に横溢おういつしている【あふれている】のに気が付いた。しかも天子様はイクラお側の者がいましめてもぬかに釘どころか、ウッカリ御機嫌に触れたために、冤罪えんざいで殺される忠臣が続々という有様だ。……これを見た呉青秀喟然きぜん【突然】として決するところあり、一番自分の彩筆の力で天子の迷夢をまして、国家を泰山の安きに置いてやろうというので、新婚匆々そうそうたい夫人に心底を打ち明けて、ここで一つ天下のために、お前の生命いのちを棄ててくれないか。いずれ自分も、あとから死んで行くつもりだが……と言ったところが……あなたのおためなら……という嬉しそうな返事だ……」
「トテモ素敵ですね」
「純然たる支那式だよ。それから呉青秀は大秘密で大工や左官を雇って、帝都の長安をる数十里の山中に一ツの画房を建てた。つまりアトリエだね。
452/596
しかしその構造は大分風変りで、窓を高く取って外から覗かれないようにして、真ン中に白布をおおうた寝台を据え、薪炭菜肉しんたんさいにく【日常生活に必要な燃料と食料】、防寒防蠅ぼうよう【ハエ(蠅)の侵入や発生を防ぐための対策全般】の用意残るところなく、籠城ろうじょうの準備が完全に整うと、たい夫人と一緒にコッソリ引き移った。そうしてその年の十一月の何日であったかに、夫婦は更に幽界でめぐり会う約束を固め、別離の盃、哀傷あいしょう【悲しみいたむこと】の涙よろしくあって、やがて斎戒沐浴さいかいもくよくしてあらたに化粧をらしたたい夫人が、香煙縷々るるたる【絶え間ない】うちに、白衣をまとうて寝台の上に横たわったのを、呉青秀が乗りかかって絞め殺す。それからその死骸を丸裸体はだかにして肢体を整え、香華こうげさん神符しんぷ【おふだ】を焼き、屍鬼しきはらい去った呉青秀は、やがて紙をべ、丹青たんせい按配あんばい塩梅あんばい】しつつ、畢生ひっせい【一生】の心血を注いで極彩色の写生を始めた」
「……ワア……凄い事になったんですね。さっきの縁起書とは大違いだ」
「……呉青秀は、こうして十日目ごとにかわって行く夫人の姿を、白骨になるまで約二十枚ほどこの絵巻物に写しとどめて、玄宗げんそう皇帝に献上し、その真に迫った筆の力で、人間の肉体の果敢はかなさ、人生の無常さを目の前に見せてゾッとさせる計画であったという。ところが何しろ防腐剤なぞいうものが無い頃なので、冬分ふゆぶんではあったが、腐るのがだんだん早くなって、一つの絵の写し初めと写し終りとは丸で姿が違うようになった。とうとう予定の半分もき上げないうちに死体は白骨と毛髪ばかりになってしまった……というのだ。……あるいは科学的の知識が幼稚なために、土葬した死体の腐り加減を標準にして計画したのかも知れないが……何にしても恐ろしい忍耐力だね」
「あんまり寒いから火をいてへやを暖めたせいじゃないでしょうか」
「……ア……ナルホド。暖房装置か、そいつはウッカリして気が付かずにいた。
453/596
零下何度じゃ絵筆が凍るからね……とにかく忠義一遍にり固まって、そんな誤算がある事を全く予期していなかった呉青秀狼狽ろうばい驚愕きょうがくは察するにあまりありだね。新品卸し立ての妻君を犠牲にして計画した必死の事業が、ミスミス駄目になって行くのだから……号哭ごうこくあたわず【深い悲しみや絶望のあまり、声も出せず、立ち上がることもできないほどの状態】とあるが道理もっとも千万……ついに思えらく、吾、一度天下のために倫常りんじょうを超ゆ【ついに私は考えた。たとえ一度だけでも、世のため人のためなら、人としての道徳を踏み越えてもよいのではないかと】。また、何をかかえりみんという破れかぶれの死に物狂いだ【もう何を気にする必要がある。どうなっても構わない、捨て身の狂乱状態だ】。そこいら界隈の村里へ出て、美しい女を探し出すと、れ馴れしく側へ寄って、あなたの絵姿を描いて差上げるからといつわって、山の中へ連れ込んで、打ち殺してモデルにしようと企てたが……」
「ウワア……トテモ物騒な忠君愛国ですね」
「ウン。こんな執念深さは日本人にはないよ。けれども何をいうにも、ソウいう呉青秀風釆ふうさい風貌ふうぼう】が大変だ。ほおが落ちこけて、鼻がんがって、眼光竜鬼りゅうきの如しとある。おまけに蓬髪垢衣ほうはつこうい【よもぎのように乱れた髪とあかまみれの顔、そしてぼろぼろの衣服】、骨立こつりゅう【骨ばる】悽愴せいそう【悲惨】と来ていたんだからたまらない。そでを引かれた女はみんな仰天して逃げ散ってしまう。これを繰り返す事累月るいげつ。足跡遠近に及んだので、評判が次第に高くなって、どの村でも この村でも 見付け次第に追い散らしたが、幸いにして山の中の隠れ家を誰も知らなかったので、生命いのちだけはかろうじて助かっていた。れ共 呉青秀の忠志はつい退かず、至難に触れて益々る。つい淫仙いんせん【仮面仙人】の名を得たりとある。
454/596
淫仙いんせんというのはつまり西洋の青髯ブルーベヤード【仮面紳士】という意味らしいね」
「ヘエ……しかし淫仙いんせんは可哀相ですね」
「ところがこの淫仙いんせん先生はチットモ驚かない。今度は方針を変えて婦女子の新葬を求め、夜陰に乗じて墓をあばき、死体を引きずり出して山の中に持って行こうとした。ところが俗にも死人かつぎは三人力という位で、強直の取れたグタグタの死体は、重量の中心がないから、ナカナカ担ぎ上げにくいものだそうな。それを一所懸命とはいいながら、絵筆しか持ったことのない柔弱な腕力で、出来るだけ傷をつけないように、山の中まで担いで行こうというのだから、並大抵の苦労ではない。あっちに取り落し、こっちへ担ぎ直して、あえぎ喘ぎ抱きかかえて行くうちに、早くも夜が明けて百姓たちの眼に触れた。かねてから淫仙いんせん先生の噂を耳にしていた百姓たちは、これを見て驚くまい事か、テッキリ屍姦しかんだ。極重悪人だというので、ワイワイ追いかけて来たから淫仙いんせん先生も止むを得ず死体を放棄ほうきして、山の中に姿を隠したが、もう時候は春先になっていたのに、二三日は、その背中に担いだ死体の冷たさが忘れられなくて いくら火をいても歯の根が合わなかったという」
「よく病気にならなかったものですね」
「ウン。風邪ぐらい引いていたかも知れないがね。思い詰めている人間の体力は超自然の抵抗力をあらわすもんだよ。いわんや【言うまでもなく】呉青秀の忠志は氷雪よりもはげしとある。四五日も画房の中にジッとして、気分を取り直した呉青秀は、又も第二回の冒険をこころみるべく、コッソリと山を降って、前とは全然方角を違えた村里に下り、一ちょうくわを盗み、ある森蔭の墓所に忍び寄ると、意外にも一人の女性が新月の光りに照らされた一基の土饅頭の前に、花を手向たむけているのが見える。
455/596
この夜更けに不思議な事と思って、ひそかに近づいてみると、くだんの女性は、遠い処の妓楼ぎろうから脱け出して来た妓女おんならしく、春装を取り乱したまま土盛りの上にヒレ伏して『あなたは何故なにゆえわたしを振り棄てて死んだのですか』と口説くどく様子を見ると、いかさま【どうみても】、相思の男の死をうらむ風情である。忠義に凝った呉青秀は、この切々の情を見聞して流石さすが惻懚そくいん【哀れみ】の情に動かされたが、強いて心を鬼にして、その女の背後うしろに忍び寄り、持っていた鍬で一撃の下に少女の頭骨を砕き、用意して来た縄で手足を縛って背中に背負い上げ、鍬を棄てて逃げ去ろうとした。するとたちま背後うしろの森の中に人音が聞えて、女の追手とおぼしき荒くれ男の数名が口々に『素破すわ【さあ】こそ【まさに】淫仙いんせんよ』『殺人魔よ』『屍鬼しきだっしきよ』とののしりつつ立ち現われ、前後左右を取り巻いて、取り押えようとした。呉青秀は、これを見ていかり心頭に発し、死体を投げ棄てて大喝一番『吾が天業を妨ぐるかッ』と叫ぶなり、百倍の狂暴力をあらわし、組み付いて来た男を二三人、墓原はかばらにタタキ付け、鍬を拾い上げて残る人数をタタキ伏せ追い散らしてしまった。そのひまに、又も妓女おんなの死体を肩にかけてドンドン山の方へ逃げ出したが、エライもので、とうとう山伝いに画房まで逃げて来ると、担いで来た死体をきよめてたい夫人の残骸の代りに床上に安置し、香華こうげそなえ、屍鬼しきはらいつつ、悠々と火を焚いて腐乱するのを待つ事になった。ところがそのうちに又、二三日経つと、思いもかけぬ画房の八方から火烟ひけむりが迫って来て、鯨波ときのこえがドッと湧き起ったので、何事かと驚いて窓から首をさし出してみると、画房の周囲はまきが山の如く、その外を百姓や役人たちが雲霞うんかの如く取り巻いて気勢を揚げている様子だ。」「つまり何者かが、コッソリ呉青秀の跡をけて来て、画房を発見した結果、こんなに人数をり催して、火攻めにして追い出しにかかった訳だね。
456/596
その時に呉青秀は、この未完成の絵巻物の一巻と、たい夫人の髪毛かみのけの中から出て来た貴妃の賜物たまもの夜光珠やこうじゅ……ダイヤだね……それから青琅玕せいろうかんの玉、水晶のくだなぞの数点を身に付けて、生命いのちからがら山林に紛れ込んだが、それから追捕を避けつつ千辛万苦【多くの苦労】する事 数箇月、やっと一ヶ年振りの十一月の何日かに都に着くと蹌踉そうろう【ふらふらとよろけるさま】として吾家わがいえの門をもぐった。既に死生を超越した夢心地で、恍惚こうこつ求むるところなし。何のために帰って来たのか、自分でも解らなかったという」
「……ハア。ホントに可哀相ですね。そこいらは……」
「ウム。ちょうど生きた人魂ひとだまだね。て門を入ってみると 北風ほくふう枯梢こしょう悲断ひだんして寒庭かんていなげうち、柱傾き瓦落ちて流熒りゅうけいいたむ【北風が枯れ木の枝先を無慈悲に折り取って寒々とした庭に投げ捨て、柱は傾き、屋根瓦は落ちて、そこを飛び交うほたるの命さえ危うく見えるほどに荒廃している】という、散々な有様だ。呉青秀はその中を踏みわけて、自分のへやに来て見るには見たものの、サテどうしていいかわからない。妻の姿はおろかからすの影さえ動かず。錦繍きんしゅう帳裡ちょうり枯葉こようさんず【美しく刺繍された絹のとばりの中に、今ではカサカサの枯葉が散らばっている】。珊瑚さんご枕頭ちんとう呼べども応えず【かつては珊瑚で飾られた贅沢な枕元で(かしずく者たちが)声をかけていたが、今はいくら呼んでも、もう主の答えが返ってくることはない】だ。涙滂沱ぼうだ【とめどもなく流れ出る様】として万感初めて到った呉青秀は、長恨悲泣ちょうこんひきゅうついに及ばず【長く続くこの深いうらみや、声をあげての悲しい泣き声も、もはやどうしようもなく、ついに(亡き主君や過ぎ去った日々には)届くことはないのだ】。
457/596
几帳きちょうひもを取って欄間らんまにかけ、妻の遺物をふところにしたまま首を引っかけようとしたが、その時遅くの時早く、思いもかけぬ次のへやから、真赤な服を着けた綽約しゃくやくたる【やさしく美しい】別嬪べっぴんさんが馳け出して来て……マア……アナタッと叫ぶなり抱き付いた」
「ヘエ――。それは誰なんですか一体……」
「よく見ると、それは、自分が手ずから絞め殺して白骨にしてけた筈のたい夫人で、しかも新婚匆々そうそう時代の濃艶【つやっぽく美しい】を極めた装おいだ」
「……オヤオヤ……たい夫人を殺したんじゃなかったんですか」
「まあ黙って聞け。ここいらが一番面白いところだから……そこで呉青秀はスッカリ面喰めんくらったね。ウ――ンと言うなり眼をわしてしまったが、そのたい夫人の幽霊に介抱をされてヤット息を吹き返したので、今一度、気を落ち付けてよく見ると、又驚いた。タッタ今まで新婚匆々そうそう時代の紅い服を着ていたたい子さんが、今度は今一つ昔の、可憐な宮女時代の姿に若返って、白いもすそを長々と引きはえている。鬢鬟びんかん雲の如く、清楚せいそ新花しんかに似たり【艶やかな髪は雲のように豊かに美しく、その清楚な立ち振る舞いは、咲いたばかりの みずみずしい花に似ていた】。年の頃もやっと十六か七位の、無垢むくの少女としか見えないのだ」
「……不思議ですね。そんな事が在り得るものでしょうか」
「ウン。呉青秀も君と同感だったらしいんだ。危くまた引っくり返るところであったが、そのうちに、ようようの思いで気を取り直して、どうしてここに……と抱き上げながら、その少女を頭のテッペンから、爪の先までヨクヨク見上げ見下してみると、何の事だ……それはたい夫人の妹で、双生児ふたごの片われのふんこ嬢であった」
「ナアンダ。やっぱりそうか。しかし面白いですね。芝居のようで……」
「どこまでも支那式だよ。
458/596
そこでヤット仔細わけがわかりかけた呉青秀は、子さんを取り落したまま、いた口がふさがらずにいると、そのひざに両手を支えた子さん、真赤になっての物語にいわく……ほんとに済まない事を致しました。さぞかしビックリなすった事で御座んしょう。何をお隠し申しましょう。あたしはズット前からタッタ一人でこのうちに住んでいて、姉さんが置いて行った着物を身に着けて、スッカリ姉さんに化け込みながら、毎日毎日お義兄にいさまに仕える真似事をしていたんです。……あたしの主人の呉青秀はこの頃毎日へやに閉じこもって、大作を描いておりますと言い触らして、食料も毎日二人前ずつ見計みはからって買い入れるし、時折りは顔料えのぐや筆なぞを仕入れに行ったりして誤魔化ごまかしていましたので、近所の人々はみんな……この天下大乱のサナカに、そんなに落ち付いて絵をくとは、何というえらい人だろうと……眼を丸くして感心していた位です。」「……あたしはそんなにまでして苦心しいしい、お二人のお留守番をして、お帰りになるのを今か今かと待ちながら、この一年を過したのですが、今日も今日とてツイ今しがた、買物に行って帰って来ますと、このへやに物音がします。その上に誰か大きな声でオイオイ泣いているようなので、怪しんで覗いて見たら、お義兄にいさまが死のうとしていらっしゃるのでビックリして、そのままの姿で抱き止めたのです。それから気絶なすった貴方を介抱しておりますと、ゆるんだ貴方の懐中ふところから、固く封じた巻物らしい包みと、姉さんが大切にしていた宝石や髪飾りが転がり出して来ました。それと一緒に貴方が夢うつつのまま、どこかを拝む真似をしながら……たいよ。許してくれ。
459/596
お前一人は殺さない……と泣きながら譫言うわごと仰言おっしゃったので、サテは姉さんはモウお義兄にいさまの手にかかって、お亡くなりになったのだ……そうしてお義兄にい様はあたしを姉さんの幽霊と間違えていらっしゃるのだ……という事がヤット解りましたから、お義兄にいさまの惑いを晴らすために、急いで自分の一帳羅いっちょうら服に着かえてしまったのです。……ですが一体お義兄にいさまは、どうしてたい子姉さんをお殺しになったのですか。そうして今日が日まで一年もの長い間、どこで何をしていらっしたんですか……と涙ながらに詰め寄った」
「ハア……しかし何ですね。……その前にその子という妹は、何だってソンナ奇怪おかしな真似をしたんでしょうか。姉さんの着物を着て、その夫に仕える真似事をしたりなんか」
「ウンウン……その疑問ももっともだ。呉青秀もやっぱり同感だったろうと思われるね。それともまだいた口がふさがらずにいたのかも知れないが、何の答えもあらばこそだ。依然として子嬢の顔を見下したまま唖然あぜん放神のていでいると、やがて涙をいた子嬢は、幾度もうなずきながら又いわく……御もっともで御座います。これだけ申上げたばかりではまだ御不審が晴れますまいから、順序を立ててお話しましょうが……お話はずっと前にさかのぼって丁度去年の暮の事です。……姉さんが宮中を去ってからというものは、ほかに身寄り便たよりのないあたしの淋しさ心細さが、日に増しつのって行くばかりでした。そのうちに又、ちょうど去年の今月の、しかも今日の事……大切な大切なお義兄にいさま達 御夫婦が、ほかならぬあたしにまでも音沙汰おとさたなしで、不意に行衛ゆくえくらましておしまいになったと聞いた時のあたしの驚きと悲しみは どんなでしたろう。一晩中寝ずに考えては泣き、泣いては考え明かしましたが、思いに余ったその翌る日の事、楊貴妃様から暫時しばしのお暇を頂いたあたしは、お二人の行衛ゆくえを探し出すつもりで、とりあえずこの家に来て見ました。」
460/596
「そうしてあたしを見送って来た二人の宦官かんがんと、うちの番をしていた掃除人をかえしてから、ただ一人で家内の様子を隈なく調べてみますと、姉さんは死ぬ覚悟をして家を出られたらしく、結婚式の時に使った大切な飾り櫛を、真二つに折って白紙に包んだまま、化粧台の奥に仕舞ってあります。けれども義兄にいさんの方は、そんな模様がないばかりか、絵をく道具をスッカリ持ち出していらっしゃる様子……これには何か深い仔細わけがある事と思いながら、そのままこの家に落ち付く事にきめましたが、それからというものは今も申しました通り、スッカリ姉さんに化けてしまって、義兄にいさんと一緒に帰って来ているような風に出来るだけ見せかけておりました。仕合しあわせと義兄にいさんは子供の時から絵をき初められると、何日も何日もへやに閉じこもって、決して人にお会いにならない。御飯もろくに召し上らない事が多かったと聞いていましたから、近所の人や、お客様をだますのには、ホントに都合がよかったのです。……しかし何故なにゆえあたしがこんな奇怪おかしな事をしていたのかと申しますと、これはジッとしていながら、お二人の行衛ゆくえを探すのに一番都合の良い工夫だと思ったからです。つまりこうしておりますと、お二人とも世にも名高い御夫婦ですから、万一ほかでお姿を見た者があるとしたら、すぐにあたしが怪しまれます。そうしたらそれと一緒に、お二人の行衛ゆくえもわかる事になるのですから、その時にあとを追うて行けばよい。女の一人身で知らぬ他国を当てどもなく探しまわったとて、なかなか見付かるものではない……と思い付いたからの事です」
「……ヘエ……その妹はなかなかの名探偵ですね」
「ウン……この妹の方は姉と違ってチョットきゃんなところがあるようだが、なおも言葉を続けていわくだ……しかしあたしのこうした計画は余り利き目がありませんでした。
461/596
……というのはあたしがこの家に来てから十日も経たぬうちに天下はたちまち麻と乱れて兵馬へいば都巷とこうに満ち、迂濶うかつに外へも出られないようになった。……のみならず、お金はなくなる。家は荒廃する。仕方なしにあたし此家ここの台所に寝起きをして、自分の身に附いたものは勿論のこと、義兄にいさん夫婦の家具家財や衣類なんぞを売り喰いにしていましたが、そのうちでも一番最後に残しておいたのが姉の新婚匆々そうそう時代の紅い服一着と、自分が着ていた宮女の服一着でした。その中でも又、この紅い服は、あく迄もあたしを姉さんと認めさせるために外出着としていたものです。又、宮女の服というのは、あたしの忘れられない思い出と一緒に取っといたのですが、楊貴妃時代のスタイルで、ウッカリ持ち出すと反逆者の下役人に見咎みとがめられるおそれもありますので、ソックリそのまま寝間着ねまきに使っていたのでした。あたしはこの一年の長い間、こんなにまで苦心してお帰りを待っていたのです。……それだのに、あなたはイッタイ何のために、姉さんを殺しておしまいになったんですか。そうして此家ここへ何しに帰って見えたんですか。そのお姿はどうなすったんです。姉さんを殺されたくらいなら、あたしついでに殺してちょうだい……といううちに、ワッとばかりに泣出した」
「ずいぶん姉思いの妹ですね」
「ナアニ。前から呉青秀にモーションをかけていたんだよ」
「……ヘエ……どうして解ります」
「……どうしてって素振そぶりが第一おかしいじゃないか。生娘きむすめの癖に、亭主持ちの真似をして、一年近くも物凄い廃屋あばらやに納まっているなんてナカナカ義理や物好きでは出来るものじゃないよ。その間に人知れぬ希望と楽しみがなくちゃ……しかも姉の新婚匆々そうそう時代の紅い服を着て歩きまわるところなんぞは、ドウ見ても支那一流の、思い切った変態性欲じゃないか。
462/596
あるいは玄宗げんそう皇帝時代に、空閨くうけいに泣いていたおびただしい宮女たちから受けた感化かも知れないが」
「……ですけども、自分はそう思っていないじゃないですか」
「無論、そんな自省力を持ち得る年頃じゃないさ。ことに女だから、どんなデリケートな理屈でも自由自在に作り上げて、勝手気ままな自己陶酔に陥って行ける訳さ。気持ちの純な、頭のいい人間の変態心理は、ナカナカ見分けが付きにくいんだよ。……その代りこっちの眼さえ利いて来れば、そこいらの無邪気な赤ん坊や、釈迦、孔子、基督キリストにでも色んな変態心理を見出すことが出来る」
「……驚いたなあ。……そんなもんですかナア……」
「まだまだ驚く話が、今までの話の裏面に隠れているんだが、それは、あとから説明するとして、サテ、少々話が長くなったから端折はしおって話すと、その時に呉青秀に迫って、根掘り葉掘り、これまでの事情を聞いた上に、現実の証拠として、自分とソックリの姉の死像を描いた絵巻物を開いて見せられた子嬢は、実に断腸だんちょう股栗こりつ驚駭きょうがいこれを久しうした【この長い時間を経た】。けれども結局、義兄夫婦の忠勇義烈ちゅうゆうぎれつ【正義感があり、忠義に厚く勇敢なこと】ぶりにスッカリ感激して号泣慟哭どうこく【声を上げて激しく泣く】して言うには、蒼天蒼天【あおいそら、あおいそら】、何ぞかくの如く無情なる。あなたは御存知あるまいが、あなたが姉さんの亡骸なきがらを写生し初めた昨年の十一月というのが安禄山謀反むほんを起した月で、天宝の年号は去年限り、今は安禄山の世の至徳元年だ。天子様も楊貴妃様も、この六月に馬嵬ばかいで殺されておしまいになった。折角の忠義も水の泡です。それよりもあたしと一緒に、どこかへ逃げて下さらない……とキワドイところで口説くどき立てた」
「無鉄砲な女ですね。又殺されようと思って……」
「イヤ。今度は大丈夫なんだ。
463/596
……というのは呉青秀先生、自分の全部を投げ出してかかった仕事がテンからペケだった事が、子の説明で初めて解ったのだ。そこでアメリカをなくしたコロンブスみたいにドッカリとそこへ座ると、茫然ぼうぜん自失のアンポンタン状態に陥ったまま、永久に口が利けなくなってしまったのだ。旧式の術語で言うと心理の急変から来る自家障害という奴だね。……そいつを見ると子さんイヨイヨ気の毒になって、天を白眼にらんで安禄山かん【わるもの】をにくんだね。同時にこの忠臣のお守りをして、玄宗げんそう皇帝や楊貴妃の冥福を祈りつつ一生を終ろうという清冽せいれつ【澄んでいて清らかなこと】晶玉しょうぎょく【きらきら輝く、水晶のようなもの】の如き決心を固めた……と告白しているが、実は大馬力をかけたお惚気のろけだね」
「……まさか……」
「イヤ。それに違いないんだ。後で説明するがね……そこで呉青秀ふところにしていた姉の遺品かたみの宝玉類を売り払って、画像だけを懐に入れて、妖怪ばけもの然たる呉青秀の手を引きながら、方々を流浪したあげく、その年のつかた、どこへ行くつもりであったか忘れたが舟に乗ってこうを下り、海に浮んだ。すると暴風雨数日ののち、たった二人だけ生き残って絶海に漂流する事又十数日、ついる天気晴朗な払暁あけがたに到って、遥か東の方の水平線上に美々しく艤装ぎそうした大船が、旗差物はたさしものあさひに輝やかしつつ南下して行くのを発見した。そこで息も絶え絶えのまま、手招きをして救われると、その美しい船の中で、手厚い介抱を受ける事になったが、この船こそは日本の唐津を経て、難波なにわの津に向う勃海使ぼっかいしの乗船であった。勃海国というのはその時分、今の満洲の吉林キーリン辺にあった独立国で、時々こうして日本に貢物みつぎものを持って来た事が正史にも載っているがね」
「何だかお伽話とぎばなしみたいになりましたね」
「ウム。何となく夢幻的なところがやはり支那式だよ。
464/596
それから子さんの涙ながらの物語りで詳しい事情を聞いた船中の者は、勃海使を初め皆、満腔まんこう【全身】の同情を寄せた。一様に呉氏の生き甲斐のない姿を憐れみ、夫人の身の上に同情して、手厚い世話をしながら日本に連れて行く事になったが、その途中のこと、船中が皆眠って、月が氷のようにえ返った真夜半まよなかに、呉青秀は海に落ちたか、天に昇ったか、二十八歳を一期いちごとして船の中から消え失せてしまった。……夫人は時に十九歳、共に後をおうとして狂い悶えたが、この時、既に呉青秀たねを宿して最早もはや臨月になっていたので、人々に押し止められながらかろうじて思いとどまると、やがて船の中で玉のような男のを生んだ」
「やっと芽出度めでたくなって来たようですね」
「ウン、船中でも死人が出来て気を悪くしているところへ、お産があったと聞いたので喜ぶまい事か、に色々なお祝いの物をれて盛に芽出度めでたがった上に、勃海使の何とかいう学者が名付け親となって、呉忠雄ごちゅうゆうと命名し、大袈裟おおげさな命名式をげて前途を祝福しつつ、唐津に上陸させて、土地の豪族、松浦某に托した。そこで夫人はその由来をこの絵巻物に手記して子孫に伝えた……めでたしめでたしというわけだ」
「じゃその名文は夫人が書いたんですね」
「イヤ。文字はたしかに女の筆附きだが、文章の方はとてもシッカリしたもので、どうしても女とは思えない。処々にいんんであったり、熟字の使い方や何かが日本人離れをしているところなぞを見ると、やっぱりその名付親の勃海使が夫人のものがたりに感激して、船中の徒然つれづれに文案を作ってやったのを、夫人が浄書【清書】したものではあるまいかと思う。
465/596
若林はその字体が、弥勒みろく像の底に刻んである字と似ているから勝空しょうくうという坊主が自分で聴いた話と、昔の文書とを照し合わせて文をわしたのじゃないかと言っているが、しかし肉筆と彫刻とは非常に字体が違う事があるから当てにはならない」
「何にしても唐津の港では大評判だったでしょうね……夫人の身の上が……」
「無論、大いに一般の同情をいたろうと思われる。何しろ日本人の大好きな忠勇義烈譚ちゅうゆうぎれつたん【忠義と勇敢をテーマにした物語】と来ているからね」
「そうですねえ。……それから今ヒョット思い出したんですが、その勝空という坊さんは、その絵巻物を弥勒みろく像に納めてから、男は一切近づいてはいけないと言ったそうですが、それはどうした理由わけでしょう」
「……ソ……そこだて……そこがトテモ面白いこの話の眼目になるところで、いては大正の今日に於けるめいはま事件の根本問題にまで触れて来るところなんだ。手っ取り早く言えばその勝空というお坊様は、今から一千年近くもの大昔に、心理遺伝チウものがある事をチャンと知って御座ったのだ」
「ヘエ――ッ……そんなに大昔から心理遺伝の学問が……」
「あったどころの騒ぎじゃない。あり過ぎて困る位あった。……すなわち宇宙間一切のガラクタは皆、めいめい勝手な心理遺伝と戦いつつ、植物・動物・人間と進化して来たもので、コイツにとらわれている奴ほど自由の利かない下等な存在という事になる。だから思い切って今のうちにキレイサッパリと心理遺伝から超越しちまえ。ホントウに解放された青天井の人間になれ……という宣言プロパガンダを、新生アラキのまま民衆にタタキ付けたのが基督キリストで、オブラートに包んでほうり出したのが孔子で、おいしいお菓子に仕込んで、デコデコと飾り立てて、虫下しみたように鐘や太鼓ではやし立てて売り出したのがお釈迦様という事になるんだ。
466/596
そこで、そんな連中の専売特許のウマイところだけを失敬して『心理遺伝』なぞいう当世向きの名前で大々的に売り出して百パーセントの剰余価値をむさぼろうと企てているのが、ここにいる吾輩という事になるがね……ハッハッハッ……まあ、そんな事はドウでもいいとして、勝空という坊さんの名前はどうやら天台宗らしいから、多分法華経あたりを読んでこの理屈を悟ったんだろう……。」
「この絵巻物を見るとタッタ一眼で過去、現在、未来の三世の因果因縁がナアール程とわかった。呉青秀ごせいしゅうの子孫がこれを見ると同時に遺伝心理を刺激されて、先祖の真似を初めるのは無理もない。ケンノン ケンノン……不憫ふびん至極な事と思ったのであろう。世界の一番おしまいに出て来るという弥勒菩薩みろくぼさつの像をきざんで、その中に封じ込めて『男見るべからず』と固く禁制しておいた。……ところが見てはいけないと言われるとイヨイヨ見たくてたまらなくなるのが『安達あだちはら』以来の人情だもんだから、呉青秀の子孫のうちにコッソリと、弥勒みろく様の首を引き抜いて、絵巻物を取り出して見る奴が出て来た。そいつがみんなキチガイになって暴れ出した訳なんだが、そこへやって来たのがくれ虹汀こうてい美登利みどり屋坪つぼた郎だ……こいつが又、禅学か何かの力で、この心理遺伝の作用を看破かんぱして、一思いに絵巻物を焼いてしまおうとした。……か、どうか知らないが、おおかたおしかったんだろう……表面は焼いたふりをして、実は焼かずに元の穴へ納めて、巻物の供養を大々的にやったりしてお茶を濁しておいた。その絵巻物が又、現代の物質万能の世界に大見得おおみえを切って出現して、恐るべき悲劇を捲き起した……というのが大体の筋道だがね……」
「ハア……やっと解ったようですが……しかしその絵巻物を見てキチガイになるのが男に限っているのは何故なにゆえでしょうか」
「ウムッ……えらい。
467/596
豪いぞ君は……ステキな質問だぞ、それは……」
 と言ううちに正木博士は突然にテーブルを平手でタタイたので、はビックリして座り直した。何だか解らないままに胸をドキンとさせながら……。しかし正木博士は委細構わずに言葉を続けた。
「イヤ感心感心。この事件の興味のクライマックスは実にそこに在るんだ。スッカリ心理遺伝学の大家になっちゃったナ。君は……」
「……ドウしてですか……」
「ドウシテじゃない。まあこの絵巻物を開いて見給たまえ。今の疑問は一ペンに解けてしまうから……もっとも、それと同時に君がホントウの呉一郎 ならば、呉青秀の子孫としての心理遺伝的夢遊をフラフラと初めるか初めないか……又は自分はどこそこの何のそれがしという者で、ドンナ来歴でこの事件に関係して来たかという過去の記憶を一ペンにズラリと回復するかしないか……それとも又『この絵巻物はこの前に、いつどこで、どんな奴から見せられた事がある』という、この事件の黒星のまん中をピカリと思い出すか出さないか……若林と吾輩のドッチが勝つか負けるか……そうして最後に君の将来は如何いかなる因果因縁の下に、イヤでもあの美しい令嬢とスイートホームを作らなければならぬのか……というようなアラユル息苦しい重大問題がこの絵巻物を見ると同時に、一ペンに解決される事になるかも知れないのだからね。ハッハッハッハッ」
 正木博士は一息にこう言ってしまうと口一パイの白い義歯いればあらわしつつ高らかに笑って見せた。その片手に眼の前の新聞の包みを引き寄せて、無雑作にガサガサ引きひらくと、中から長方形の白木の箱が出た。その蓋を今度は丁寧な手付きで開いて、直径三寸、長さ六寸位の鬱紺木綿うこんもめんの包みを取り出すと箱のふちに一端を載せて、その上からソッと蓋を置きながら、の前に押し進めた。
468/596
 今までゆるみ加減になっていたの全神経は、正木博士の高やかな笑いの波動のうちに、見る見る一パイに緊張して来たのであった。
 ……ひやかしているのか……威嚇いかくしているのか……又は何等かの暗示を与えているのか、それともまた……心安立こころやすだてに冗談を言っているのか……全く見当のつかないその笑い顔を見ているうちに、は又もその笑い顔の持ち主が、世にも恐るべく、戦慄すべき魔法使いその者のように見えて来て仕様がなかった。しかし又それと同時に……
……何を糞ッ……高の知れた絵巻物の一巻に、男一匹が発狂するまで翻弄されるような事が、あり得よう筈はない……ドンナ名人の手に成った如何いかにモノスゴイ絵であるにしろ、要するに色と線との配合以外の何者でもないだろう。いわんや【言うまでもなく】こっちで覚悟をしている以上、何の恐ろしい事があろう……ヨシッ……
 というような反抗心が見る見る高まって来るのを押え付ける事が出来なかった。
 ……だからはできるだけ冷静な態度で箱を引き寄せた。そうして木の蓋と、鬱紺木綿うこんもめんを開くと、又も、どことなく緊張しかけて来た感情を押え付けようとつとめつつ、まず絵巻物の外側から見まわした。
 巻物の軸は美しい緑色の石で八角形に磨いてあるが、あまり美しいので思わずゆびを触れて撫で回してみた位であった。表装の布地きれはチョット見たところ織物のようであるが、眼を近づけて見るとそれは見えるか見えぬ位の細かい彩糸いろいとや金銀の糸で、極く薄い絹地の目を拾いつつ、一寸大の唐獅子からじしの群れを一匹ごとに色を変えて隙間すきまなく刺した物で、貴いものである事がシミジミとわかって来る。千年も昔のものだというのにピカピカと新しく見えるのは、丁寧にしまってあったせいであろう。その一隅には小さな短冊型の金紙が貼りつけてあるが、何も書いたあとはない。
「それが問題のつぶしという刺繍ぬいとりなんだよ。
469/596
一郎 の母の千世子は、それを手本にして勉強したに違いないのだ」
 と正木博士は投げ遣るように説明しつつ、クルリと横を向いて葉巻を吹かし初めた。しかしも丁度そんなような連想を頭に浮かめていたところだったので、格別驚きもせずに うなずいた。
 象牙のへらを結び付けた暗褐色のひもを解いて巻物をすこしばかり開くと、紫黒色の紙に金絵具きんえのぐで、右上から左下へ波紋を作って流れて行く水が描いてあるが、非常に優雅な筆致ふでつきに見えた。はその青暗い平面に浮き出している夢のような、又は細い煙のような柔らかい金線の美しい渦巻きに魅せられながら、何の気もなくズルズルと右から左へ巻物を拡げて行ったのであったが……やがて眼の前に白い紙が五寸【15cm】ばかりズイとあらわれると、は思わず……
「……アッ……」
 と叫びかけた。けれどもその声は、まだ声にならない次の瞬間に咽喉のどの奥へ引返してしまった。……巻物を両手に引き拡げたまま動けなくなってしまった。息苦しい程胸の動悸が高まって……。
 そこに横たわっている裸体婦人の寝顔……細いまゆ……長い睫毛まつげ……品のいい白い鼻……小さな朱唇しゅしん【赤く美しいくちびる】……清らかなあご……それはあの六号室の狂美少女の寝顔に生き写しではないか……黒い、大きな花弁はなびらの形にい上げられたおびただしい髪毛かみのけが、雲のように濛々もうもうと重なり合っている……そのびんの格好から、生え際のホツレ具合までも、ソックリそのままあの六号室の少女の寝姿を写生したものとしか思われないではないか…………。
 しかしこの時のには「何故」というような疑問を起す余裕がなかった。その寝顔……否、眠っているかのように見える表情の下から、微妙な彩色や線の働らきによって見え透いて来る死人の相好そうごうの美くしさ……一種たとえようのない魅力の深さに、全霊を吸い寄せられ吸い奪われてしまって、今にもその眼がパッチリと開きはしまいか。
470/596
そうして最前のように「アッ……お兄様ッ……」と叫んで飛び付いて来はしまいか……というような、あり得べからざる予感に全神経を襲われつづけていたのであった。まばたき一つ出来ず、唾液一つ呑み込み得ないままに、その臙脂えんじの薄ぼけたほおから、青光りする珊瑚さんご色の唇のあたりを凝視していたのであった。
「ハッハッハッ。馬鹿に固くなっているじゃないか。エー……オイ。どうだい。大したものだろう。呉青秀ごせいしゅうの筆力は……」
 絵巻物の向うから正木博士がこんな風に気軽く声をかけた。しかしは依然として身動きが出来なかった。ただやっと切れ切れに口を利く事が出来ただけであった。今までと丸で違った妙なカスレた声で……。
「……この顔は……さっきの……呉モヨ子と……」
「生き写しだろう……」
 と正木博士はすぐに引き取って言った。その途端には、やっと絵巻物から眼をらして、正木博士のこっちに振り向いた顔を見る事が出来たが、その顔には一種の同情とも、誇りとも、皮肉とも何ともつかぬ笑いが一面に浮き出していた。
「……どうだい面白いだろう。心理遺伝が恐ろしいように肉体の遺伝も恐ろしいものなんだ。姪の浜の一農家の娘、呉モヨ子の眼鼻立ちが、今から一千百余年ぜん、唐の玄宗げんそう皇帝の御代みよに大評判であった花清宮裡かせいきゅうり双蛺姉妹そうきょうきょうだいに生き写しなんていう事は、造化の神でも忘れているだろうじゃないか」
「……………」
「歴史は繰り返すというが、人間の肉体や精神もこうして繰り返しつつ進歩して行くものなんだよ。もっともコンナのはその中でも特別あつらえの一例だがね……呉モヨ子は、ふん夫人の心理を夢中遊行むちゅうゆうこうで繰り返すと同時に、その姉のたい夫人が、喜んで夫の呉青秀に絞め殺された心理も一緒に繰り返しているらしい形跡があるのを見ると、二人の先祖にソンナ徹底したマゾヒスムスの女がいて、その血脈を二人が表面にあらわしたものかも知れぬ。
471/596
又は呉青秀を慕う女の熱情が、思う男の手にかかって死んだ姉の身の上を羨ましがる位にまで高潮していたと認められるふしもある。しかしそこまで突込んで行かずともその絵巻物の一巻が、呉青秀と、たいふん姉妹の夫婦愛の極致をあらわしていることはたやすく解るだろう……とにかくズット先まで開いて見たまえ。呉一郎 の心理遺伝の正体が、ドン底まで暴露して来るから……」
 はこの言葉に追い立てられるように、半ば無意識に絵巻物を左の方へ開いて行った。
 それから順々に白紙の上に現われて来た極彩色の密画を、ただ、真に迫っているという以外に何等の誇張も加えないで説明すると、それは右を頭にして、両手を左右に伏せて並べて、ななめにこっち向きに寝かされた死美人の全長一尺二三寸と思われる裸体像で、周囲が白紙になっているために空間に浮いているように見える。それが間隔三四寸を隔てて次から次へと合わせて六体在るのであるが、皆ほとんど同じ姿勢の寝姿で、只違うのは、初めから終りへかけて姿が変って行っている事である。
 すなわち巻頭の第一番に現われてを驚かした絵は、死んでから間もないらしい雪白せっぱくの肌で、ほおや耳には臙脂えんじの色がなまめかしく浮かんでいる。その切れ目の長い眼と、濃い睫毛まつげを伏せて、口紅で青光りする唇を軽く閉じた、温柔おとなしそうなみめかたちを凝視していると、夫のために死んだ神々しい喜びの色が、一パイにかがやき出しているかのように見えて来る。
 しかるに第二番目の絵になると、皮膚はだの色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体にいくらかれぼったく見える上に、眼のふちのまわりに暗い色がうかただよい、唇もやや黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味にかわっている。
472/596
 その次の第三番目の像では、もう顔面の中で、額と、耳の背後うしろと、腹部の皮膚の処々が赤く、又は白くただれはじめて、眼はウッスリと輝き開き、白い歯がすこし見え出し、全体がものものしい暗紫色にかわって、腹が太鼓のようにふくらんで光っている。
 第四の絵は総身が青黒とも形容すべき深刻な色に沈みかわり、ただれた処は茶褐色、又は卵白色が入りまじり、乳がすべり流れて肋骨が青白くあらわれ、腹は下側の腰骨の近くから破れほころびて、臓腑はらわたの一部がコバルト色に重なり合って見え、顔は眼球が全部露出している上に、唇が流れて白い歯を噛み出しているために鬼のような表情に見えるばかりでなく、ベトベトにれて脱け落ちた髪毛かみのけの中からは、美しい櫛や珠玉の類がバラバラと落ち散っている。
 第五になると、今一歩進んで、眼球がついえ縮み、歯の全部が耳のつけ根まで露われて冷笑したような表情をしている。一方に臓腑はらわたは腹の皮と一緒に襤褸切ぼろきれを見るように黒ずみ縮んでピシャンコになってしまい、肋骨あばらぼねや、手足の骨が白々と露われて、毛の粘り付いた恥骨ちこつ【骨盤の前面中央にある硬い骨】のみが高やかに、男女の区別さえ出来なくなっている。
 最終の第六図になると、ただ、青茶色の骨格に、黒い肉が海藻のように固まり附いた、難破船みたようなガランドウになって、猿とも人ともつかぬ頭が、全然こっち向きに傾き落ちているのに、歯だけが白く、ガックリと開いたままくっ付いている。
 ……うそを記録する事は出来ない。あとから考えてもはずかしい限りであるが、はおしまいの方ほど急いで見た。
 勿論、この絵巻物を開いた最初のうちこそ、一種の反抗心と共に落ち付いた態度を保っていたが、死美人の絵が出て来ると間もなくそんな気持ちはどこへやら消えうせて、巻物を開き進める手がだんだんと早くなるのを自覚しながら、どうしてもそれを押し止める事が出来なくなった。
473/596
それでも眼の前の正木博士に笑われてはいけないと思って一所懸命に息を詰めて、出来るだけ念を入れて見たつもりであったが、それでもとうとうしまいには我慢出来なくなって、第六番目の絵なぞはほとんど眼の前を通過させただけと言ってよかった。画面から湧き出して来る底知れぬ鬼気と、神経から匂って来るえ難い悪臭に包まれて、ほとんど窒息しそうな思いをしながら、やっと、おしまいの由来記の頭が見える処まで来ると、思わずホッとして吾に返った。それから四五尺の長さにメッキリと書き詰めた漢文の上を形式ばかり眼を通して、その結末にある、

大倭朝やまとちょう天平宝字てんぴょうほうじねん癸亥きがいがつおいて(二)【日本の大倭朝、天平宝字三年(西暦759年)癸亥の年、五月に】西海さいかい火国ひのくに末羅潟まつらがた法麻殺几駅はまさきえきに(一)【九州地方(西海道)、肥後国の、松浦潟にある浜崎駅において】
大唐だいとう翰林学士かんりんがくし芳九連ほうきゅうれんじょふん しるす

 という文字を二三度繰り返して読んで、いくらか気を落付けてから、もとの通りに巻き返して箱の横に置いた。それから神経をしずめるべく椅子に背をたせて、両手でピッタリと顔を押えながら眼を閉じた。
「……どうだ。驚いたろう。ハハハハハ。これだけ描いてもまだ足りないと思った、呉青秀の心理がわかるかね」
「……………」
「常識から考えれば天子を驚かすには、そこに描いてある六ツの死美人像だけで沢山なんだ。大抵の奴はその半分を見ただけでも参ってしまうんだ。それに呉青秀が、なおも新しい女の死体を求めたというのは、彼が病的の心理に堕落だらくしていた証拠だ。自分の描いた死美人の腐敗像にのろわれて精神に異状を来たしたんだ。
474/596
その心理がわかるかね君には……」
 こうした言葉を鼓膜にピンピンと受け付けながら、眼をシッカリと閉じて、両手でグッと押え付けている、まぶたの内側の薄赤いやみの中に、たった今見たばかりの死美人の第一番目の絵像が、白い光りを帯びてウッスリと現われた。……と思う間もなく第二図、第三図と左から右へ順々にすべり初めたが、ちょうど第五番目の死後五十日目にあらわしている、白茶気た笑い顔のところまで来ると、ピタリと眼の前に静止してしまった。
 は思わず身ぶるいをした。パッと眼を開くと、いつの間にか椅子を回転さして、こっちを正面に腕を組んでいる正木博士と視線がカチ合った……途端に博士は黒ずんだ唇の間から義歯いればを光らしてニッと笑いつつ、その顔の両脇に在る赤い薄っペラな耳朶みみたぶをズッと上の方へ動かしたので、は又、思わずゾッとして眼を伏せた。
「ウフフフフフフ。ぞっとしたろう。ウフフフフフフ……ゾッとする筈だ。……あの呉一郎 も初めてこれを見た時には、君と同じようにふるえ上がったに違いないのだ。……あたかも太古の生物の遺骸が、石油となって地層の底に残っているように、あの呉一郎 の心理の底に隠れ伝わっていた祖先の一念は、この絵巻物を見てゾッとすると同時に点火されたんだ。……そうしてみるみるうちに一切の現実の意識を打ち消すほどの大光明となって燃え上って来た。過去も、現在も、未来も、日月星辰じつげつせいしんの光りもことごとくその大光明にき消されてしまって、自分自身が呉青秀と同じ心理……すなわち呉青秀自身になり切ってしまうまでゾッとし続けたのだ……姪の浜の石切場の赤い夕日の中に立ち上って、この絵巻物を捲き納めながら、ホッと溜め息をして西の空を凝視していた呉一郎 は、最早もはや、今までの呉一郎 ではなかったのだ。
475/596
呉青秀の熱烈な欲求そのものを全身の細胞にび起した、る青年の記憶力、判断力、習慣性なぞの残骸に過ぎなかったのだ……呉一郎 が発狂以後今日まで、呉青秀と同じ心理で暮して来たことは、この由来記に現われている呉青秀の心理の推移と、呉一郎 の今日までに於ける精神病状態の経過が、全然同一であるところを見ても遺憾なく推察される。否、二人の行動に現われた心理の推移を精神病理的に観察してみると、呉一郎 は、一千年後の呉青秀に相違ないのだ」
 は又、別の気持ちでゾッとして腰をかけ直した。
「この驚くべき奇怪な現象を理解するには、まず、呉一郎呉青秀とがどんな順序で入れかわって行ったかという、その精神病理的の階梯かいてい【階段】から明かにして行かねばならぬ。平たく言えば、如何いかに秀才とはいえ、中学卒業以来漢文を勉強しなかったという呉一郎 が、純粋の漢文の白文【漢文の原文そのままの状態】で、四五尺近くも細かに書き続けてあるこの由来記を、発狂するほど深刻な程度にまでドウして読みこなし得たか……という事から疑ってかからねばならぬ。……どうだ……わかるかね。その理由が」
 正木博士の底光りする眼を凝視みつめたまま、乾燥した咽喉のどに唾液を押しやった。どうしてこれが気付かなかったろうと驚きつつ……。
「……わかるまいナ……わからない筈だ。呉一郎 が自分の学力でこの由来記を読んだと思うと誰でも理屈がわからなくなる」
「……じゃ誰か……読んで聞かせた……」
 と言いも終らぬうちに愕然がくぜんとしてふるえ上がった。
……誰か……何者かが傍に附いていたんだ……今しがたが聞いたような説明をして聞かせた奴が居たんだ……居たんだ……そいつが……そいつが……そいつは……そいつは……
 こう思ううちに一しきり高まっていた心臓の鼓動が又ピッタリと静まった。
476/596
そうして、それと同時に正木博士の厳粛な眼の光りが次第次第に柔らいで行くのを見た。一文字に結ばれた唇が見る見るゆるんで、あわれむような微笑ほほえみにかわって行くのを見た……と思うと、無雑作に投げ出すような言葉が葉巻の煙と一緒に飛び出した。
「……『狐憑きつねつき、落つればもとの無筆むひつなり【狐にかれたように一時的に賢く見えても、憑き物が落ちれば元の愚かさに戻るものだ】』……という川柳を知っているかね君は……」
 面喰めんくらった。不意に横ほおに何か見えないものをタタキ付けられたような気持ちがして、暫く眼をパチパチさせていた。
「……そ……そんな川柳は知りません」
「……フ――ン……この句を知らなけあ川柳を知っているたあ言えないぜ。柳樽やなぎだる【江戸時代の川柳句集『誹風柳多留はいふうやなぎだる』】の中でもパリパリの名吟なんだ」
 こう言うと正木博士は得意の色を鼻の先にほのめかしながら、片ひざをぐっと椅子の上に抱え上げた。
「……ソ……それが……どうしたんです」
「ドウしたんじゃない。この川柳があらわしている心理遺伝の原則を呑み込んでいない以上、シャイロック・ホルムスとアルセーヌ・ルパンのエキスみたいな名探偵が出て来ても、この疑問は解けっこない」
 冷やかにこう言い放った正木博士の口から、小さな煙の輪が一ツクルクルと湧き出して、の頭の上の方へ消えて行った。は又、眼をパチパチさした。
 ……狐憑きつねつき……落つれば……落つれば……もとの無筆……もとの無筆……
 と心の中で繰り返したが、わからないものはいくら考えても解らなかった。
若林先生は知っているんですか……その理屈を……」
「吾輩が説明してやった。感謝していたよ」
「……ヘエ……どういう訳なんで……」
「どういう訳ったって……こうだ。いいかい……」
 正木博士はユッタリと椅子の背に身をたせて足を長々と踏み伸ばした。
477/596
「……この川柳は狐憑きつねつきが、心理遺伝の発作である事を遺憾なく説明しているのだ……すなわち狐憑きつねつきはその発作の最中に妙なけものじみた身振りをしたり飯櫃めしびつつらを突込んだり、床下に這い込んで寝たがったりして、眼の玉を釣り上がらせつつ、遠い遠い大昔の先祖の動物心理を発揮するから、狐憑きつねつきという名前を頂戴しているんだが、同時にこの狐憑きつねつきはソンナ性質と一緒に、何代か前の祖先の人間の記憶や学力なぞいうものまでも発揮する場合が多いのだ。一字も知らなかった奴が狐憑きつねつきになるとスラスラと読んだり書いたり、祖先のいろんな才能や知識を発揮したりして人を驚かす例がイクラでもあるから、こんな川柳にまで読まれているんだ」
「ヘエ――。そんなに細かいところまで先祖の記憶が……」
「……出て来るから心理遺伝と名付けるんだ。無学文盲の土百姓が狐にかれると歌をんだり、詩を作ったり、医者の真似をして不治の難病を治したりする。一寸ちょっと不思議に思えるが心理遺伝の原則に照せば何でもない。当り前の事なんだ……ことにこの絵巻物は、絵の方が先になっているんだから、それを見ているうちに呉一郎 はスッカリ興奮して、あらかた呉青秀の気持ちになってしまっている。そうしているうちに自分の先祖代々が、何度も何度も発狂する程深く読んで来た由来記の内容に対する記憶までも一緒に呼び起しているんだから訳はない。范陽はんよう進士しんし呉青秀の学力が、自分の経歴を暗記した奴を、又読み返すようなもんだ。白紙を突きつけても間違わずに読める訳だ」
「……驚いた……成る程……」
「こいつが第一段の暗示になった訳だが、次に、第二段の暗示となって呉一郎 を混迷させたものは、その六個の死美人像のうちに盛り込まれている思想である」
「思想というと……やはり呉青秀の……」
「そうだ。
478/596
この心理遺伝の そもそも というものは、呉青秀の忠君愛国から初まって、その自殺に終る事になっているが、それはその由来記の表面だけの事実で、その事実の裡面うらめんに今一歩深く首を突込んでみると豈計あにはからんや。呉青秀忠勇義烈ちゅうゆうぎれつ【正義感があり、忠義に厚く勇敢なこと】がいつの間にか変化して、純然たる変態性欲ばかりになって行く過程が遺憾なくうかがわれるのだ。ちょうど材木が乾留かんりゅうされて、アルコールに変って行くようにね」
「……………」
「……ところでこの経過を説明すると、とても一年や二年ぐらいの講座では片付かないのだが、吾輩が昨夜ゆんべ焼いてしまった心理遺伝論のおしまいに、付録にして載せようと思っていた腹案の骨組みだけをつまんで話すと、こうだ。……呉青秀がこの仕事を思い立ったソモソモの動機というのは今も言った通り、天下万生のためという神聖無比な、純誠純忠なもののように思えるが、これは皮相の観察で、その後の経過から推測して研究すると、その神聖無比、純誠純忠の裏面に、芸術家らしい変態心理の深刻なものの色々が異分子として含まれているのを、御本人の呉青秀も気付かずにいた。……と考えなければ、その絵巻物の存在の意義に就いて、いろんな不合理があるのを、どうしても説明出来なくなって来るのだ」
「この絵巻物の存在の意義……」
「そうだよ。その絵巻物の絵と、由来記に書いてある事実とを、よくよく比較研究してみると、この絵巻物はその根本義において、存在の意義が怪しくなって来るのだ。……すなわち……この絵巻物は、この六体の画像をき並べただけで、天子をいさめるだけの目的は充分に達し得るのだ。女の肉体美が如何いか果敢はかないものか……無常迅速なものか という事を悟らせるには この六個の腐敗美人像だけで沢山なのだ。……論より証拠だ。
479/596
現在、たった今、君がひとわたり眼を通しただけでもゾッとさせられた位だからね……」
「……それは……そう……ですねえ……」
「そうだろう。その第六番目の乾物みたような姿のあとに、今一つ白骨の絵か何かをき添えたら、それでモウ充分にその絵巻物は完成していると言っていい。そうして残った白い処へ諫言かんげんの文だの、苦心談だのを書いて献上しておいて、自分はあとで自殺でもすれば、気の弱い文化天子きもたまをデングリ返らせる効果は十分、十二分であったろうものを、そうしないで、なおも飽く事を知らずに、必要もない新しい犠牲を求めて歩いたのは何故か……たい夫人の遺骸が白骨になり終るのを、温和おとなしく待っておりさえすれば、何の苦もなく完成するであろうその絵巻物を、未完成のままに後代に伝えて、呉家くれけを呪いつくす程の恐ろしい心理遺伝の暗示材料としたのは何故か……一千百年後の今日、吾々われわれの学術研究の材料として珍重さるべき因果因縁を作ったのは何故か……」
 は思わず溜息をさせられた。正木博士の話から湧出わきだして来る一種の異妖な気分に魅せられて、何となく狂人きちがいじみた不可思議な疑いが、だんだんこうじて来るのを感じながら……。
「どうだ……不思議だろう。小さな問題のようで仲々重大な問題だろう。しかもこの問題は、考えれば考える程、わからなくなって来る筈だからね。ハハハハハ。だから吾輩は言うのだ。この問題を解くには、やはり呉青秀がこの絵巻物の作製を思い立った最初の心理的要素にまで立返って観察して見なければならぬ。その時の呉青秀の心理状態を解剖して、こうした矛盾のって起ったその そもそも を探って見なければならぬ……しかもそれは決して難かしい問題ではないのだ」
480/596

3/4分割、前へ次へ