その他、この種の心理の発露の特異なるものに到っては、自己の名前、肖像等の抹殺破棄……鏡面の理由なき破壊……模擬戦、又は劇等に於ける傷者、死者等の役回り志願……各種の芸術作品中、自己に
擬せる人物に対する作者の残忍なる描写……等の軽度なるものより、遺書なき自殺……他人もしくは公衆の面前に於ける自殺……自己及び環境を美化
粉飾したる自殺……同情の情死……同性同胞の情死……自殺
倶楽部の存在……等、その欲求の変幻、その発露の怪奇、
殆ど
端倪すべからざるものあり【予測不可能である】。その他、人類生活の日常到るところの
起臥談笑の間に
於ても、本来自然の自己愛着心と不即不離【つきも離れもしない】の関係を保ちつつ、知不知【知っていることを知っていると認識し、知らないことを知らないと自覚する】、不言不語【何も言わず、黙って物事を行う】の
裡にこの種の変態心理が
流露反映しつつあるものなるを
以て 一々枚挙に
遑あらず、故に、ここには
唯、
斯の如き極端なる変態心理がその研究価値の
頗る高度、非常なるものあるにも
拘らず、その発露する事例は決して
希有珍奇【非常に珍しく、滅多にない】なるものに
非ず、他の中間的なる変態性欲よりも却って普遍的なる傾向を有しおるものにして、相当の自省力を有する人士は常に、自己の心理生活の到るところに この種の変態心理を 発見し得べき【発見することができる】事を 証するに止むべし【それ以上は言うまい】。
以上述ぶるところに
依って、この事件の示す特徴を研究考察するに、呉
一郎
は、その
夢中遊行の第一段たる絞首行為の前後に
於て、その被害者の風貌が自己に酷似せる事を認めたるべきは 推測に
難からざるべし【難しくない】。
336/596
而して同時にその
夢中遊行の本源たる深刻痛切なる性欲の衝動が、その夢遊行動に
依て解除さるるを得ざるがために【されてしまうしかないので】、飽く事なき翻弄を続行中にも、幾回となく、その死体の風貌の自己に
彷彿たるものあるを認めしに相違なかるべく、その結果、おのずから自己虐殺の錯覚、幻覚に誘致され、死体を自己に
擬し、数回に
亘りてこれを絞首したるものと認むるは、決して不自然なる推測に
非ざるべし【でないわけがない】。かくして最後に、自己の死体幻視の夢遊に移り、自己に擬したる被害者の死体を階上の
手摺より吊り下し、
相対する階段附近よりこれを正視して
歓興【喜び楽しむ】したるものと察するを
得べく、
此の如く観察し来る時は、被害者が二重三重に絞首されし
後、
縊死に擬せられたる等の、本事件の最重要なる各種の特徴は極めて自然に、且つ明白に説明され得るを見るべし。本事件の検案調査が、かかる諸点に留意されず、尋常一般の犯罪と同一視されたる結果、この方面に関する指紋、足跡等の事跡が大略
看過されたる傾向あり。ために、かかる珍奇なる
夢中遊行特有の怪奇なる行動の詳細に
亘りて 推測する
能わざるものあるは【できないものがあるのは】
復やむを得ざる遺憾事と言うべし。
因みに、呉
一郎
の
夢中遊行の発作をここまで支持し来りし性欲衝動の最高潮状態は、この自己の死体幻視を終極的として、解除されたるものと推測し得べき理由あり。
爾後の呉
一郎
の行動は、この
夢中遊行症の余波ともいうべき
夢中遊行にして、筆者の
所謂、
蹌踉【よろめき】状態に陥りたるものと認むるを得べし。
然れども、その
蹌踉状態の下に行われたる夢遊行動中にも
亦、本事件の表面上に現われたる、重要なる疑問的特徴を作りしものあるを推測され得るを
以て、特に項を改めて記述すべし。
337/596
{七} 呉
一郎
の悪夢、口臭、その他が表わす
夢中遊行症の特徴
呉
一郎
が悪夢を見たりという事実と、覚醒後の頭痛、
眩暈【めまい】、悪寒、口臭、
嘔気【吐き気】等を感じたる事実等を総合して、麻酔剤の使用を疑われたる事は一面の理由あるものの如し。
然れども、これを精神科学的の見地より観察する時は、これ
亦、現代の科学知識の発達程度に照して、誠に止むを得ざるに出でたる錯誤と評するを得べし。すなわち、
畢竟するところ【結局】右は、夢、
及、
夢中遊行なるものの真相の学理的に
闡明され、且つ、常識的に理解されおる程度が、
甚だ
浅薄低級なる結果にして、下記二段の説明を
以てこれを判断する時は、右の諸現象が麻酔剤の使用に
依って起りしものに
非ず、却って夢遊病の
併発症状ともいうべき諸特徴を最も顕著に示しおる事を認め得べし。
338/596
(イ)口臭、その他と轆轤首の怪談 呉一郎
が覚醒後に感じたりという頭痛、嘔気【吐き気】、疲労等は前述の如く、皆夢遊病の特徴として起り易き併発症状なれども、就中【とりわけ】、特に興味ある観察材料として ここに掲げむと欲するものは……口中に不快なる臭気を感じたり……という当該本人の陳述なり。而して此の如き夢遊病者の口臭その他に関しては他日稿を改めて「妖怪論」中に詳論すべきも、その腹案の一部をここに披瀝すれば、一般に或る夢遊病者が、或る発作を遂行し終るまでは、その夢中遊行の本源たる各種の内的衝動に駆られて、何等の疲労をも自覚せざるのみならず 普通人の想像を超越したる精力と忍耐力を続行し得たる事例、亦、尠しとせず【結構ある】。然れども、その発作の最高潮時、もしくは発作の主要部分を経過したる後は、精神の弛緩と共に異常なる疲労を感じ、且つ、甚しき【ひどく】渇を覚ゆる【渇きを感じる】は 生理上当然の帰結なり。(苦悶、呻吟【苦しみうめく】等の軽き夢中遊行を伴いたる悪夢等の覚醒後に於ても 亦然り)而してこの道理を根拠としてこの事件と比較研究さるべき絶好の参考材料は、日本の巷間【世間】に伝うる轆轤首(ロクロクビ)もしくは抜け首と称せらるる怪談なり。
ロクロ首の怪談、又は絵画が、人間の夢、又は夢中遊行の心理を象徴せるものなる事は、ここに更めて呶々【多言】するを要せざるべし。而して同時に、このロクロ首が、油、又は下水その他の不浄の水を舐める習癖あるがため、翌朝に到りて口中に悪臭を感ずるものなる事は、この種の怪談、又は絵画等に依って説明され来りたるところにして、一見、荒唐無稽【でたらめ】の空説なるが如く見ゆるも決して左に非ず。すなわち、この怪談に於て、単にその首だけが脱出蜿蜒【うねり曲がって長く続く】して、何ものかを舐めたるが如く推断されたるは、夢、もしくは、夢中遊行の真相を識らざるがために附会【こじつけて関係をつける】したる一個の想像にして、実は本人が夢中遊行中、生理上当然の欲求に駆られて、何等かの液体を渇望しつつ探し回り、且つ、これを口にしたる結果に外ならず。しかも右は、必ずや、発作の最高潮を経過したる後に起るべき欲求にして、単に甚しき【ひどく】渇の刺激に依って 辛うじて夢中遊行を続行しおるが如き 状態なるべきを以て、意識の明瞭度は著しく減退しおり、且つ捜索探求の能力等も著しく薄弱となりおれる筈なり。従ってその液体の何たるかを問わず、単に水に似たるもの、もしくは、それが何等かの液体なる事を認めたるのみにて 直ちにこれを嚥み下すことは、あり得べき道理なり。夢中遊行中に、油、又は下水溝の汚水の如きものを口にして 自らこれを知らず、翌朝に到りて異状の口臭を感じ、又は嚥下物の不消化等に依る頭痛、嘔気【吐き気】等を訴えて 家人に怪しまれ、仏壇、又は行灯の油の減少せる等の事実と、想像とが結び付けられたる結果、当該本人の首のみが脱出したるが如き疑いを受くることは、人智未開の往昔【いにしえ】に於て、当然あり得べき事なりと考えらる。尚、このロクロ首、即ち夢中遊行の主人公が、平生あらゆる本能的自我的心理の発動を抑圧し、又は抑圧され勝なる妙齢の美人と 人間の祖先たる下等動物中STEGOCEPHALIAを象徴したる 三ツ眼の怪物との二種類によって代表されおり、且つ、長き舌を出して液体を舐むるという動物的の挙動が、これに結び付けられおる諸点は心理遺伝学中、動物心理の遺伝発露に就て研究すべき好参考材料なれども、ここには煩を避けて冗説せざるべし【面倒(煩雑)を避けて、余計な説明はしないでおこう】。以上 述ぶるところによって見る時は、呉一郎
の覚醒後の口臭は、吸入、又は注射に用いられたる麻酔薬の影響によって起りたる嗅神経の異状、又は、使用せられたる薬剤の口中粘膜よりの再分泌等によって来れるものに非ず。同夜、何等かの水に非ざる液体(例えば香水、化粧水、又はクリーニング用の揮発油の如きもの)等を口にしたる証左にして、その他の病的現象の大部分も、該【あてはまる】液体の作用と認むるを自然に近きものと思惟さる。然れども、この点に関する諸般の調査が、全然閑却【重視しないで打ち捨てておく】されあるは、止むを得ざる事とはいえ、千秋【千年】の遺憾と言うべし。
(ロ)悪夢 又 呉一郎
が、事件当夜一時五分前後に覚醒し、次いで就寝したる以後に連続して見たりと信じおれる悪夢は、実は第二回の覚醒以前の僅少時間に見たるものが記憶に止まりたるものなる事、普通の夢と同様にして、夢中遊行の内容とは直接の関係を有せず。却って夢中遊行中に口にせし、何者かの影響なるべき事は前段の説明によって明かなるべし。
{八}
夢中遊行の行われたる時間、その他
如上【上述】述べ来れる理由に
依り、この事件を考察する時は、呉
一郎
の当夜の発作は、第一回と、第二回の覚醒の間に
於て行われたるものと推定するを得べく、被害者の絶命時間が、二時――三時の間とすれば、呉
一郎
は第二次の就寝後三十分乃至一時間の
後に、かかる
夢中遊行状態の起り得べき、最深度の熟睡に陥りたるものなる事を察し得べし。
339/596
而して、第二回の
払暁時【明け方】の覚醒は、平生の覚醒時に於ける習慣的の潜在意識の発露と見るを得べく、その後の睡眠に
於て、呉
一郎
は初めて
夢中遊行の余波、もしくは
夢中遊行中の
嚥下物【飲み込んだ物】に
依って刺激せられたる悪夢より離脱し、真の熟睡、休養に入りたる事を、その発汗現象によりても察知するを得べし。
{九}
夢中遊行に関する覚醒後の自覚、及び二重人格に関する考察
次に呉
一郎
が覚醒後、警察に
於て、母殺しの嫌疑の下に尋問を受けし際、
茫然自失しながらも「そんなら、自分が殺しておいて忘れているのじゃないかしら」というが如き、極めて軽微なる疑問が動きおりし事を告白せるは、一見、同人が自己の
夢中遊行の幾分を記憶に
止めおれる重大なる証左なるが如く
思惟さるべし。すなわち第四項に略説せし通り、同人の当夜に於ける
夢中遊行の事実は、同人の有意識的の記憶には存在せざる筈なれども、脳髄以外の細胞が作りし無意識的記憶の
中の
或るもの……たとえば当時の
甚しき【ひどい】疲労感等が、警部の尋問の暗示力によって 意識
裡に浮み出でしものに
非ざるなきやも疑い得べし。
然れども、これを他の一面より見る時は、気質の純真と、良心の
澄明【澄みきって明るい】とが反映したる、極めて明敏なる頭脳の所有者にして且つ、小説類の愛好者たる呉
一郎
が、かかる局面に立ちたる結果起したる、この種の頭脳特有の錯覚に
非ざるなきやを 保し難し【保てそうもない】。
随って、
這般【これら】の疑問は、呉
一郎
の
夢中遊行の存在を的確に立証し得るものに
非ず。
唯、一箇の補遺的【補完的】参考としてここに掲ぐるを得るのみ。
尚、以上述ぶるところに
依って、古来、
夢中遊行病者が一種の二重人格の所有者なるが如く
思惟せられおる事が、真に近き理由をも理解するを得べし。
340/596
すなわち、祖先代々より遺伝し来りたる無量の記憶と、その血統中に包含されたる各人種、各家系、各個性等の無数の性能の統一体たる一個の人間の性格のうち、その一部が覚醒中に分離してあらわれたるものが
所謂二重人格にして、同じく睡眠中に発露されたるものが
夢中遊行症なり。
而してかかる夢遊病者の素質が、遺伝性を帯びおるものなるは無論なるを
以て、夢遊病者が
夢中遊行中に行いし犯罪に対する責任は、夢遊病者本人が負うべき場合
甚だ
些なく、これを遺伝せしめたる祖先及びその時代の社会等が、負うべき場合多き事を、この事件に対する法律的考察の参考として付記しおくべし。
{十} 呉家の血統に関する謎語
劈頭に【まっさきに】掲げし四項の談話中、右に摘出したる以外にも
亦、呉
一郎
の心理に、かかる
夢中遊行を発作し得べき遺伝的の
或るものが存在せる事を暗示せる個所
尠からざるが如し。即ち左の如し。
341/596
=呉一郎
の談話中= 同人母 千世子は、女性にしては珍らしき明晰なる頭脳を有し、且つ、気強き性格の持ち主なる事が説明されおり、且つ、迷信家に非ざる旨を弁護しあるにも拘らず、母子二人の宿命、もしくは運命に関しては、極めて平凡、且つ愚昧【物の道理がわからないこと】に属する迷信を極度に固執しおれる事実より推して、同女の心理に何等か不可抗的の憂悶【苦悶】不安の、不断【日ごろ】に存在せるに非ざるなきやを疑い得る事。
=同= 狸穴の先生と呼ばるる占断者の言に「お前達は、何者かに咀われている」とあるは、同占断者が、同女との対話中に、同女の言葉の中に含まれたる或る事実を推測して、斯く言いたるに非ずやと疑わるる事。
=八代子の談話中= 直方署の留置場に於て、初めて呉一郎
に面会したる際「お前は何か夢を見ていやしなかったか」と尋ねしは「嘗て夢遊病の事を耳にせしためなり」云々と弁明せるが、一婦人、特に農家の一主婦としての教養以外に、何等の高等なる学識を有せざるべき筈の八代子が、此の如き非常事件に際し、かかる超常識的に高等なる、精神科学的現象の存在の、可能なる事を考え得るさえも、不可思議というべきに、更にこれを実地に当て嵌めて、直ちに事件の裡面の真相を穿たん【疑おう】と試みたるが如きは、真に驚くべき事実にして、仮令同婦人が如何に慧敏【知恵があって聡明】、且つ果敢なる判断力を有するものと見るも、尚且つ、不自然の感を免れず。但し、同婦人が常に、何等かの痛切なる事情に迫られて、かかる問題を念頭にかけおり、此の如き事実に関する風説又は説明等に就て、鋭き注意を傾注しおりたるものとすれば、かかる際、かかる質問を発するは強ちに不自然と言い得べからざること。
=同= 同婦人は、姪の浜なる実家に、近き親戚の尠き旨を洩らせるが、田舎の富家には往々にして此の如く血縁的に孤立せる家系あり。而して、その孤立の原因は多くの場合、その家柄もしくはその血統に絡まる伝統的の悪風評もしくは、或る忌むべき遺伝的の素質あるがために、附近の者が姻戚関係を結ぶを好まざる結果なるを以て、呉家も、或はその種の家柄に非ずやと疑わるる事。
=同= 妹千世子が家出の原因は刺繍と絵画の修業を目的とせるものに外ならざる旨、繰返して弁明せるも、前項の疑点と照合する時は、尚、別の意味をも含まれいるものの如し。すなわち千世子は、姉と共に同家に居りては、到底結婚の不可能なるべきを予感し、又は他国に於て、呉家の血統を繋ぎ残すべく、姉との黙契の下に家出したるものにして、これあるがために、その行衛捜索に対する姉の態度は、稍々不熱心の嫌なきに非ざりしやの疑を存する余地あり。且つ、同姉妹が二人共、女性としては珍らしき気嵩なる性格の所有者なる事実より これを推せば、両人の間にかかる黙契の成立し得べき事は 想像に難からざる事。
=松村マツ子女史の談話中= 「千世子が有名なる男喰いなりとの噂」云々の事実と、前記の疑問とを総合する時は、此の如き事情を負うて家出せる同女の、その後の行動の一斑【物事の一部分】を窺うに足るべき事。
如上【上述】の各項の疑点を通じて、姪の浜の呉家に伝統的の、しかも、極めて恐怖すべき
或るものが存在せる事、及び同家の最後の血統を有せる
八代子と
千世子の姉妹が、この事を熟知しおるらしき事は、この事件の当初より既に、充分に暗示しありたるものと見るを得べし。
342/596
{十一} 残るところは、この事件に於ける呉一郎
の夢中遊行の発作が「如何なる種類の心理遺伝の、如何なる程度の発露に依りて行われたるものなりや」という問題なり
即ち
這般【これら】の第一回の発作は、その
夢中遊行の直接誘因とも見るべき有形的の
暗示が「一女性の寝顔の美」という簡単なるものに過ぎず、且つその刺激が、異性的魅惑力の最も薄弱なる母親によって与えられたるものなりしため、呉家の固有に属する驚異的の心理遺伝に対する暗示の度も
亦、
甚だ浅かりしものと察せらる。従って、その
夢中遊行の内容も、同家固有の心理遺伝の内容(後段参照)と合致せるは
唯「絞首」の一事あるのみ。
爾余【それ以外】はその死体、及びその容貌の暗示より来れる脱線的の
夢中遊行に移りて、それ以上の心理遺伝の内容を示さざりしものと
思惟し得べし。
而して、前記諸項に関する一切の根本的の疑問に対する解決と説明は、この
直方事件の発生後、約二箇年目に現われたる左記、第二回の発作に現われたる諸般の事情に
依って、徹底的に明らかにするを得べし。
第二回の発作
◇第一参考 戸倉
仙五郎の談話
◇聴取日時 大正十五年四月二十六日(所謂、姪之浜の花嫁殺し事件発生当日)午後一時頃――
◇聴取場所 福岡県早良郡姪之浜町二四二七番地、同人自宅に於て――
◇同席者 戸倉仙五郎(呉八代子方常雇農夫、当時五十五歳)――同人妻子数名――余(W氏)――以上――
{注意」
甚しき【ひどい】方言なるを
以て標準語に近づけて記載す。
――ええもう、このような恐ろしい事は御座いませなんだ。その時に
梯子のテッペンから落ちて打ちました腰が、この通り痛みまして、
小用にも
這うて参ります位で、すんでの事に
生命喪いをするところで御座いました。
343/596
しかし、
今朝程から
茄子の黒焼を酒で飲みまして、御覧の通り、妙薬の
鮒を
潰して貼っておりますけに、おかげで余程痛みが
寛いだようで御座います。
――呉様のお家は、千俵余米【千俵を超える量の米】と申しまして、この界隈でも一といわれる名うての大百姓で御座います。そのほか、
養蚕から、
養鶏から何から何まで、今の後家【未亡人】さんの
お八代さんが、たった一人で
算盤を
弾かっしゃるので、
身代は太るばかり……何十万か、何百万かわからぬと申しますが、
豪いもので御座います。学校も自分で建てた学校なら、お寺も御先祖が建てさっしゃったお寺で、
跡目相続人の若旦那(呉
一郎
)は
大幸福者で御座いますのに、思いがけない事が出来ましたもので……。
――若旦那様は、
温柔しい、口数の
尠い
御仁で御座いました。
直方からこちらへ御座って
後というもの、いつも奥座敷で勉強ばっかりして御座ったようですが、
雇人や近所の者にも権式【権威】を取らしゃらず、まことに評判がよろしゅう御座いました。それに今までは呉家の人と申しましても後家の
お八代さんと十七になる娘の
オモヨさんと二人切りで、
家の中が何となく陰気で御座いましたが、
一昨年の春から若旦那が御座らっしゃるようになると、妙なもので、家内がどことなく陽気になりまして、私共も働らき甲斐があるような気持が致して参りましたような訳で……ヘイ……。そのうちに、今年の春になりましてからは又、若旦那様が福岡の高等学校を一番の成績で卒業して、福岡の大学に又やはり一番で入らっしゃると、そのお祝を兼ねて、若旦那と
オモヨさんの
祝言があるというような事で、呉さんのお家はもう、何とのう浮き上るような あんばいで……ヘイ……。
――ところが
丁度昨日(四月二十五日)の事で御座います。
344/596
福岡
因幡町の記念館という大きな西洋館の中で、高等学校の生徒さんの英語の演説会がありましたそうですが、若旦那様はその時に、卒業生の総代になって、一番初めの演説を受持って御座るとかで、高等学校の服を着て行こうとなさるのを
お八代さんが引止めて、大学校生徒の新しい服を着せてやろうとしました。その時に若旦那は苦笑いをしながら、どうしても着て行かぬ。まだ早いと言うて逃げようとされますのを、
お八代さんが無理矢理に着せて、あとを見送りながら、さも嬉しそうにして涙を
拭いておりました
態度が、今でも眼に
縋って【残って】おります。今から思えばあの時が、若旦那の大学服の着納めで御座いましたろう。
――ところで又、そのあくる日のきょうは今も申します通り、若旦那様と
オモヨさんの、お
芽出度い日取りになっておりましたので、私共も
一昨日から泊り込みで手伝いに参っておりました。
オモヨさんも高島田に
結うて、草色の
振袖に
赤襷がけで働いておりましたが、何に致せ
容色はあの通り、御先祖の
六美様の画像も及ばぬという、もっぱらの評判で御座いますし、それに
気質がまことに
柔和で、「
綺倆【
器量】千両、気質が千両、あとの千両は
婿次第」と子守女が唄うている位で御座いました。又、若旦那様はと申しますと年は
二十歳という事で御座いますが、分別といい、物ごしといい、三十近い者でも追い付かぬ位シッカリして御座って、ことに男ぶりが又御覧でも御座いましつろうが、お
公卿様にも無かろうと思われる位、品行がよろしゅう御座いましたので、これ位の夫婦は博多にもあるまいという噂で御座いました。……それにお支度が又金に
飽かしたもので、若旦那の方から
婿入りの形にするために、
地境の畠を
潰しまして、見事な
離家が一軒建ちました位で、そのほか着物は、福岡一の京屋呉服店から仕立てて来る。
345/596
お料理の方も
昨日から、やはり福岡一の
魚吉という仕出し屋が持ち込んで騒いでいるという勢いで、後家さんの気張りようというたなら大したもので御座いました。
――ところが
昨日の演説会での若旦那様のお役目というのはホンのチョットで、どんなに遅うなっても二時までには間違わずに帰ると言いおいて行かれたので御座いますが、とやかく致しておりますうちに三時が過ぎましても、お帰りの姿が見えませぬ。若旦那はこのような事は決して御間違いにならぬ性分で御座いましたので、私は年寄役に、チョットこの事を不審を打ちます【疑いを示します】と 皆の者は「おおかた演説の初まりが遅うなったとじゃろう」なんぞと申しまして格別気にかけませなんだ。しかし今までにこのような事は一度も無いので、
折柄が折柄では御座いますし、私も心配せぬでは御座いませんでしたが、ツイ
忙しいのに
紛れておりますと、そのうちに
日和癖【その場の空気次第で判断を変える癖】で、空が一面に曇って参りまして、長い春の日が
俄かに夕方のように暗くなりました。すると、それで気がついたものと見えまして、
明日からは母親の
お八代さんが、
濡れ手を拭き拭き私を物蔭に呼びまして「
二十歳にもなっとるけん間違いはなかろうが、まだ帰らぬ
模様ある
故、そこいらまで見に行ってくれまいか」という頼みで御座います。私もちょうどそう思うているところで御座いましたけに、やりかけておりました
蒸籠の
修繕を片づけまして、煙草を一服吸うてから
草鞋穿きのまま出かけましたのが、かれこれ四時頃で御座いましつろうか。
軽便鉄道で
西新町まで行きまして、今川橋の電車の行き詰りの処に、
煮売屋を開いております私の弟の処へ立ち寄りまして「うちの若旦那を見かけなんだか」と
問ねますと「おお……その若旦那なら、今から二時間ばかり前にここを通って、軌道には乗らずに歩いて西の方へ行かっしゃった。
346/596
初めて大学の服をば着て御座るのを見た
故、二人が表に出て、しばアらく見送っておった。
良え
婿どんじゃなア」と夫婦で申します。
――若旦那は
平生からこの軌道の煙のにおいがお嫌いだそうで、高等学校に行かっしゃる時も運動になるからちうて、毎日毎日姪の浜から
田圃伝いに歩かっしゃった位で御座います。しかし、それにしても今川橋から姪の浜までは一里そこらで御座いますから、二時間もかかる筈はないが……と心配しいしい帰りかけましたのが四時半頃で御座いましつろうか。国道沿いの軌道伝いに帰って参りましたところが、ちょうど
姪浜から程近い
道傍の海岸側に在る山の
裾に石切場が御座います。切っております石は
姪浜石と申しまして黒い柔かい石で、お帰りに御覧になればお解りになりますが、福岡の方から参りますにも、又、こっちから福岡の方角に出ますにも、是非とも通らなければならぬ処で御座います。……あの石切場の石が屏風のように突立って、西日を赤々と受けております奥の方の薄暗い処へ、四角い帽子を
冠った洋服の姿がチラリと動いて見えたように思いました。
――私は眼が悪う御座いますが、これこそと思って近寄って見ますと、
案の
定若旦那様で、高岩の蔭に腰をかけて、何か巻物のようなものを見ておいでになります。私は、そこいらに積み重ねてある切石の上を伝うて、ちょうど若旦那の頭の上に出ましたので、ソロ――ッと首を伸ばして覗いて見ますと、それは長い長い巻物の途中と思われる処で御座いましたが、不思議なことには、それは只の白い紙ばかりで、何一つ書いて無いもののように見えました。しかし若旦那の眼には、何か見えておりましたらしく、その白い処を一心になって見て御座る様子で御座います。
――私は呉様のお家に
祟る絵巻物がある という事を かねてから噂には聞いておりました。
347/596
けれどもそれはもう余程大昔の事で、今の世の中に、そのような事があろう筈はない。あっても話ばかりと思うておりましたけに、
真逆その巻物がソレであろうとは夢にも思いつきません。やはり眼が悪いのだろうと思いまして、若旦那に
気取られぬように、出来るだけ顔を近付けて見ましたけれども、白い紙はやはり白い紙で、いくら眼をこすりましても、物が書いてある模様は見えません。
――サア私は不思議でならなくなりました。若旦那が何を見て御座るのか、一つ聞いて見ようと思いますと、急いで岩角を降りました。そうしてワザと遠回りをして、若旦那の前に出てヒョッコリ顔を合わせますと、若旦那は私が近寄りましたのに気もつかれぬ様子で、半開きの巻物を両手に持ったまま、西の方の真赤になった空を見て何かボンヤリと考えて御座るようで御座います。そこで私が咳払いを一つ致しまして「モシ若旦那」と声をかけますと、ビックリさっしゃった様子で、私の顔をツクヅク見ておいでになりましたが「おお、
仙五郎か。どうしてここへ来た」と初めて気が附いたようにニッコリ笑われますと、裏向きにして持って御座った巻物を捲き納めながら、グルグルと
紐で巻いてしまわれました。私はその時若旦那が、何か余程大切な事を考え御座ったものとばかり思っておりましたから、何の気もつかずに、
お八代さんが心配して御座る事を話しまして「一体それは何の巻物で御座いますか」と手に持って御座るのを指して尋ねました。そうすると、又いつの間にか
背振山の方をふり返って、何か考えて御座った若旦那様は、又、ハッとしたように私の顔と、巻物とを見比べておられましたが「これかね。これは僕がこれから仕上げねばならぬ巻物で、出来上ったら天子様に差し上げねばならぬ大切な品物だ。誰にも見せる訳に行かん」と言い言い外套の下の洋服のポケットにお入れになりました。
348/596
――私は いよいよ訳がわからぬようになりましたが「しかし、その中には何が書いて御座いますので……」と申しますと、若旦那は心持ち赤くなられまして、苦笑いをしながら「それは今にわかる。とても面白いお話と、恐ろしい絵が
描いてある。僕達が式を挙げる前に是非とも見ておかねばならぬものだと その人が言われた……今にわかる……今にわかる……」と言われました。私は何だか訳がわかったような、わからぬような妙な気持ちになりましたが、しかし、その若旦那のものの
仰言りようが、何とのう
上の
空で、
平生とは余程違うて御座る事に気が附いて参りましたので、
執拗ようでは御座いましたが今一度念のために「ヘエー。そのようなものを誰が差し上げました」と尋ねますと、又も穴のあく程、私の顔を
凝視ておられました若旦那様は、やがて又、ハッと正気づかれたように眼を丸くして、二三度パチパチと
瞬をされました。そうして何を考えられましたものか、すこし涙ぐんで
口籠りながら「これを僕に
呉れた人かね……それは死んだお母さんの知り合いの人で、お母さんから秘密に預かった巻物を私に返しに来たのだ。その人は又そのうちにキット私にめぐり会おう。名前はその時に言って聞かせよう……と言ったきりで、どこかへ消え失せてしまったが、私はその人が誰だかチャンと知っている。しかし……まだ何も言われん言われん。お前もこの事を他人に言う事はならん。よいか……サア行こう行こう」と言われるうちに若旦那は
俄にソワソワとなられて、石の上を飛び飛びに往来に出て、私の先に立ってズンズンお歩きになりましたが、その
おみ足の早かった事……まるで物に取り
憑かれたようで、
平生とまるで違うておりました。今から思いますと、あの時からもう、いくらか妙な
萌しがありましたようで……。
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――若旦那が家へお着きになりますと、すぐに
お八代さんに「只今……遅うなりました」と言われましたが、
お八代さんが「
仙五郎に会いなすったか」と尋ねますと「ハイ。石切場の所で会いました。今そこに帰って来ております」と言うて、うしろから入って来た私を
指示されまして、サッサと
離家の方へ行かれました。
お八代さんは、それで安心したらしく、私には別に何にも尋ねずに、
唯「御苦労」を言うただけで、横の板張に
親椀を並べて
拭いていた
オモヨさんに
眼顔【目の表情や顔つき】で、
差図をしますと、
オモヨさんは大勢に見られながら、
恥かしそうに立上って、若旦那の後から鉄瓶を
提げて、
離家の方へ行きました。
――それからもう一つ、これは後から訳が判ったように思うので御座いますが、日が暮れるまえにチョット妙な事が御座いました。……私はそれから裏口の
梔子の蔭に
莚を敷きまして、
煙管を
啣えながら
先刻の
蒸籠の
繕い残りを
綴くっておりましたが、そこから
梔子の枝越しに、
離家の座敷の
内部が
真正面に見えますので、見るともなく見ておりますと、若旦那は
離家のお座敷の机の前で着物を着換えさっしゃってから、
オモヨさんが入れたお茶を飲みながら、何かしら
オモヨさんに言い聞かせて御座るようで……
硝子雨戸の中ですから声はわかりませぬが、お顔の色が
平生になく青ざめて、
眉がヒクヒクと動いている
あんばいは、まるで何か叱って御座るようにも見えましたが、しかしよく気をつけて見ますと、そうでも御座いません。当の相手の
オモヨさんはその前で洋服を畳みながら、赤い顔をして笑い笑い「イヤイヤ」と頭を横に振っているようで、まことに変なアンバイで御座いました。
――ところがそれを見ると若旦那は いよいよ青い顔になられまして、
オモヨさんにピッタリとニジリ寄って行かれました。
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そうしてここから見えます、あの三ツ並んだ
土蔵の方角を指さして見せながら、片手を
オモヨさんの肩にかけて、二三度ゆすぶられますと、最前から火のように赤うなって
身体をすぼめていた
オモヨさんが、やっとのこと顔をあげて、若旦那と一緒に
土蔵の方を見ましたが、やがて嬉しいのか悲しいのか解らぬような
風付き【風体】で、水々しい島田の頭をチョットばかり
竪に振ったと思うと、首のつけ根まで紅くなりながら、ガックリとうなだれてしまいました……まるで新派の芝居でも見ておりますようなアンバイで……ヘイ……。
――するとその
態度をジット見て御座った若旦那は、
オモヨさんの肩に手をかけたまま中腰になって
硝子雨戸越しにそこいらをジロジロと見まわして御座るようでしたが、やがて
軒先の夕空を見上げながら、思い出したように白い歯を出して、ニッタリと笑われました。そうして赤い舌を出してペロペロと舌なめずりをさっしゃったようでしたが、その笑顔の青白くて気味の悪う御座いました事というものは、思わずゾッと致しました位で……ヘイ……けれども
真逆、それがあのような事の起る
前兆とは夢にも思い寄りませなんだ。ただ学問のある人はあのような奇妙な素振りをするものか……と思い思い
忙しさに
紛れて忘れておりましたような事で……ヘイ……。
――それから昨晩、
家中の者が一人残らず寝静まってしまいましたのが午前の二時頃の事で御座いましたろうか。花嫁御の
オモヨさんと、母親の
お八代さんとは
母屋の奥座敷に……それから
花婿どんの若旦那と、親代りの附添役になりました私は、
離家に床を取って
寝みました。
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尤も私は若旦那よりもズット遅れまして、十二時過ぎに湯に入りまして、
離家の戸締りを致しますと、若旦那のお次の間の、茶の間になっている処へ床を取って寝みましたが、年寄りの癖で、
今朝ほど、まだ薄暗いうちに眼が
醒めましたので、便所へ行こうと思いまして、二方
硝子雨戸の薄ら明りを
便りに若旦那のお
室の前の縁側まで来ますと、そこの新しい障子が一枚開いて、その前の硝子雨戸が又一枚開いてあります。それからお
室の中を覗きますと、寝床の中に若旦那のお姿が見えません。……ハテ妙な事……と思いますとチョット胸騒ぎが致しましたが、外は小雨が降っておりましたので、新しい台所の上り口から自分の下駄を持って参りまして、飛び石伝いに母屋の方へ参りますと、奥座敷の戸袋の処が一枚開いて、そこにすこしばかり砂のついた下駄の跡が薄明りなりに見えるようで御座います。私はそこで又チョット考えましたが、間もなく思い切って下駄を脱いで、抜き足さし足で廊下を伝って行って、奥座敷の硝子障子を覗き込みますと、暗い電灯の下に、
お八代さんは片手を投げ出して寝ておりますが、その横に敷いてある
オモヨさんの寝床は
藻抜けの殻で、夜具が
裾の方に畳み寄せてありまして、
緋ぐくしの高枕が床のまん中に置いてある切りで御座います。
――私はその時にようやっと最前日暮れ方に見た事を思い出しまして……ナアンダ、そんな事だったか。それなら別段心配せんでもよかったに……と、どうやら胸を撫で
卸しました。……が……しかし又考えてみますと、この道ばかりは別とはいえ、あの若旦那のなさる事にしてはチョット様子が
可怪しいと気がつきましたので、又、何とのう胸騒ぎがし初めました。やっぱり虫が知らせるというもので御座いましつろうか……とにかく自分の手落ちになってはならぬ。
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皆が起きぬうちに……と思いましたから、
お八代さんを起したので御座いますが、私が
オモヨさんの寝床を
指さしまして、コレコレと申しますと、眼をこすっておりました
お八代さんはハッとした様子で……「この頃
一郎
が、何か巻物のようなものをば持っとるのを見かけはせんじゃったか」……と不意に妙な事を尋ねながら、寝床の上にピタリと座り直しました。私は、しかし、その時までは何も心付きませんので「……ヘエ……
昨日、石切場で会いました時に、何か存じませんが白い紙ばかりの、長い巻物を読んで御座ったようで……」と申しましたが、その時の
お八代さんの血相の変りようばっかりは今でも忘れません……「又出て来たか――ッ」とカスレたような声で申しますと、唇をギリギリと噛んで、両手を握り固めてブルブルと
慄わして、眼を
逆様に釣り上げて、チョット取り詰めた(逆上喪神の意【少し逆上して、我を忘れた状態になった】)ようになりました。私は何事か判らぬままに
胆を
潰しまして、
尻餅をついたまま見ておりますと、やがて
お八代さんは気を取り直した様子で、涙をハラハラと流したのを
袂で
拭い上げまして、泣き笑いのような顔をしながら「イヤイヤ。私の思い違いかも知れぬ。お前の見違いかも知れぬ。とにかくどこに居るか探しておくれ」と言うて立ち上りました。その時はもう
平生とかわらぬ
風付き【風体】で、先に立って縁側から降りて行きましたが、実はよほど
周章えて御座ったと見えまして、
跣足で表口の方へ行かっしゃる後から、私が下駄を
穿いて
蹤いて行きました。
――小雨はもうその時には降りやんでおりましたようですが、間もなく
離家の前の……ここから見えますあの一番右側の三番
土蔵の前まで来ました時に、私は
土蔵の北向きになっている
銅張りの
扉が、開いたままになっているのに気が付きまして、先へ行く
お八代さんを引止めて
指をさして見せました。
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あとから考えますとこの三番土蔵は、
麦秋頃まで
空倉で、色々な農具が投げ込んでありまして出入りが
烈しゅう御座いますので、若い者がウッカリして窓を明け放しにしておく事がチョイチョイ御座いました。この時なぞも そうだったかも知れませぬので、別に不思議がる事はなかった筈で御座いますが、昼間の事を思い出しましたせいか、思わずハッとして立ち止りましたので……すると
お八代さんも うなずきまして、
土蔵の戸前の処へまわって行きましたが、内側からどうかしてあると見えまして、
土戸は
微塵も動きません。すると、
お八代さんは又うなずいて、すぐ横の母屋の腰板に引っかけてある一間半の
梯子を自分で持って来て、土蔵の窓の下にソッと立てかけて、私に登って見よと手真似で言いつけましたが、その顔付きが又、尋常で御座いません。その上に、その窓を仰いで見ておりますと、何かチラチラ
灯火がさしている模様で御座います。
――私は御承知の通り大の臆病者で御座いますから、どうも
快い心地が致しませんでしたが、
お八代さんの顔付きが、生やさしい顔付では御座いませんので、余儀なく下駄を脱ぎまして、尻を
端折げまして【はしょりまして】、梯子を登り詰めますと、その窓の縁に両手をかけながら、ソロッと中の様子を覗いたので御座いますが……覗いている
中に足の力が抜けてしもうて、梯子が降りられぬようになりました。それと一緒に窓の所にかけておりました両手の力が無くなりましたようで、スッテンコロリと転げ落ちますと、腰をしたたかに打ちまして、立ち上る事も逃げ出す事も出来なくなりました。
――ヘイ。その時に見ました窓の中の
光景は、一生涯忘れようとして忘れられません。
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その
もようを申しますと、
土蔵の二階の片隅に積んでありました
空叺【むしろで作った袋】で、板張りの真中に四角い寝床のようなものが作ってありまして、その上に
オモヨさんの派手な寝巻きや、赤い
ゆもじが一パイに拡げて引っかぶせてあります。その上に、水の
滴るような高島田に
結うた
オモヨさんの死骸が、
丸裸体にして仰向けに寝かしてありまして、その前に、
母屋の座敷に据えてありました古い
経机が置いてあります。その左側には、お
持仏様の
真鍮の
燭台が立って
百匁蝋燭が一本 ともれておりまして、右手には学校道具の絵の具や、筆みたようなものが並んでいるように思いましたが、細かい事はよく
記憶えませぬ。そうして そのまん中の若旦那様の前には、
昨日石切場で見ました巻物が行儀よく長々と拡げてありました……ヘイ……それは間違い御座いませぬ。たしかに昨日見ました巻物で、
端の
金襴の模様や心棒(軸)の色に見覚えが御座います。何も書いてない、真白い紙ばかりで御座いましたようで……ヘイ……若旦那様は その巻物の前に向うむきに真直に座って、
白絣の寝巻をキチンと着ておられたようで御座いますが、私が覗きますと、どうして
気どられたものか 静かにこちらをふり向いて ニッコリと笑いながら「見てはいかん」という風に手を左右に振られました。
尤も、
斯様にお話は致しますものの、みんな後から思い出した事なので、その時は電気にかかったように
鯱張ってしまって、どんな声を出しましたやら、一切夢中で御座いました。
――
お八代さんはその時に私を抱え起しながら何か尋ねたようで御座いますが、返事を致しましたかどうか、よく覚えませぬ。土蔵の窓を
指して何か言うておったようにも思いますが……そうすると
お八代さんは何か
合点をしたようで、倒れかかった梯子を掛け直して自分で登って行きました。
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私は止めようとしましたが腰が立たぬ上に
歯の根が合わず、声も出ませぬので、冷い土の上に、うしろ手を突いたまま見上げておりますと、
お八代さんは
前褄をからげたまま【
裾をまくり上げたまま】サッサと梯子を登って、窓の
ふちに手をかけながら、
矢張り私と同じようにソロッと覗き込みました。……が……その時の
お八代さんの
胆玉の
据わりようばっかりは、今思い出しても身の毛が
竦立ちます。
――
お八代さんは窓から、中の様子をジッと見まわしておりましたが「お前はそこで
何事しおるとな」と落付いた声で尋ねました。そうすると中から若旦那様が、いつもの通りの平気な声で「お母さん……ちょっと待って下さい。もうすこしすると腐り初めますから……」と返事なさるのがよく聞えます。
四囲がシンとしておりますけに……そうすると
お八代さんは、チョット考えておるようで御座いましたが「まあだナカナカ腐るもんじゃない。それよりも
最早夜が明けとる
故、御飯をば食べに降りて来なさい」と言いますと、中から「ハイ」と言う返事がきこえまして、若旦那が立上られた様子で、窓際に映っている
火影がフッと暗くなりました……が……これが現在の娘の死骸を眼の前に置いた母親の言えた事で御座いましょうか……それから、
お八代さんは急いで梯子から降りて来て、私に「お医者お医者」と言いながら、
土蔵の戸前の処に走って行きましたが……お
恥しい事ながら、その時は何の事やら解りませんでしたので、又、解ったにしたところが、腰が抜けておりますから行かれもしません。只、恐ろしさの余り、立っても居てもいられずに
慄えておりましたようで御座います。
――土蔵の戸前が開きますと、中から若旦那が片手に鍵を持って、庭下駄を
穿いて出て来られて、私共を見てニッコリ笑われましたが、その眼付きはもう、
平常と全く違うておりました。
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待ちかねていた
お八代さんは、その手からソッと鍵を取り上げて、何か
欺し
賺すような
風付き【風体】で、耳に口を当てて二言三言言いながら、サッサと若旦那の手を引いて、
離家に連れ込んで寝かして御座るのが、私の処からよく見えました。
――それから
お八代さんは引返して、
土蔵の二階へ上って、何かコソコソやっているようで御座いましたが、私はその間、たった一人になりますと、生きた空もない位 恐ろしゅうなりましたので、這うようにして土蔵のうしろの裏木戸まで来まして、そこに立っている
朱欒【ブンタン】の樹に
縋り付いて、やっとこさと抜けた腰を伸ばして立ち上りました。すると頭の上の葉の蔭で、土蔵の窓の
銅張りの扉がパタンと
閉まる音が致しましたから、又ギックリして振り返りますと、今度は土蔵の戸前にガッキリと鍵をかけた音が致しまして、間もなく左手に、巻物をシッカリと
掴んだ
お八代さんが
裸足のまま髪を振り乱して
離家の方へ走って行きました。そうして泥足のまま縁側から馳け上りまして、たった今寝たばかりの若旦那を引き起して巻物をさしつけながら恐ろしい顔になって、何か二言三言責め問うているのが、もう明るくなった
硝子戸越しによく見えました。
――若旦那はその時に、
昨日の石切場の方を指して、頭を振ったり、奇妙な手真似や身ぶりを
交ぜたりして、何かしら一所懸命に話して御座るように見えました。そのお話はよく聞いてもおりませんでしたし、
六ヶ敷い言葉ばかりで、私共にはよく判りませんでしたが「天子様のため」とか「人民のため」とかいう言葉が何遍も何遍も出て来たようで御座いました。
お八代さんも眼をまん丸くしてうなずきながら聞いているようで御座いましたが、そのうちに若旦那はフイと口を
噤んで、
お八代さんが突きつけている巻物をジイッと見ていられたと思うとイキナリそれを引ったくって、
懐中へ深く押込んでしまわれました。
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するとそれを又
お八代さんは無理矢理に引ったくり返したので御座いましたが、あとから考えますと、これが又よくなかったようで……若旦那様は巻物を
奪られると気抜けしたようになって、パックリと口を開いたまま、
お八代さんの顔をギョロギョロと見ておられましたが、その顔付きの気味のわるかった事……
流石の
お八代さんも怖ろしさに、身を退いて、ソロソロと立ち上って出て行こうとしました。するとその
袖を素早く
掴んだ若旦那様は、
お八代さんを又、ドッカリと畳の上に引据えまして、やはりギョロギョロと顔を見ておられたと思うと、さも嬉しそうに眼を細くしてニタニタと笑われました。
――その顔を見ますと、私は思わず水を浴びせられたようにゾッとしました。
お八代さんも
慄え上ったらしく、無理に振り切って行こうとしますと、若旦那はスックリと立ち上って、縁側を降りかけていた
お八代さんの
襟髪を、うしろから引っ捉えましたが、そのまま仰向けに
曳き倒して、お縁側から庭の上にズルズルと
曳きずり
卸すと、やはりニコニコと笑いながら、有り合う【たまたまそこにある】下駄を取り上げて、
お八代さんの頭をサモ気持
快さそうに打って打って打ち据えられました。
お八代さんは見る見る土のように血の
気がなくなって、頭髪がザンバラになって、顔中にダラダラと血を流して土の上に這いまわりながら死に声をあげましたが……それを見ますと私は生きた心が無くなって、ガクガクする膝頭を 踏み締め 踏み締め 腰を抱えて
此家へ帰りまして「お医者お医者」と
妻に言いながら夜具を
冠って
慄えておりました。そうしたらそのお医者の
宗近どんが、
戸惑いをして私の家へ参りましたので「呉さんの
処だ呉さんの
処だ」と追い
遣りました。
――私が見ました事はこれだけで御座います……ヘイ……皆 正真正銘で、掛け値なしのところで御座います。
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あとから聞きますと、
お八代さんの
叫声を聞きつけた若い者が二三人起きて参りまして、若旦那を押えつけて、
細引【細いロープ】で縛ったそうで御座いますが、その時の若旦那の暴れ力というものは、
迚も三人力や五人力ではなかったそうで、
細引が二度も引っ切れた位だそうで御座います。それをやっとの事で動けないようにして、
離家の床柱の
根方へ
括り付けますと、若旦那は疲れが出たらしく、そのままグウグウ眠って御座ったそうですが、やがてその
中に又眼が
醒めますと不思議にも、若旦那の様子がガラリと違いまして、警察の人が物を尋ねられても、ただ何という事なしにキョロキョロして御座るばかり、返事も何もなさらなかったそうで御座います。……この前、
直方でも、あの病気が出たそうで御座いますが、その時はやはり大学の先生のお調べで、
麻痺薬をかけられていた事が判りましたそうで、その後も何とも御座いませんので連れて来たと、
お八代さんは言うておりましたが、
血統というものは恐ろしいもので今度の模様を見て見ますと、やはりあの巻物の
祟りに違いないようで御座います。
――もっともこの巻物の
祟りと申しますのも久しい 事出ませんので、私共も、どんな事か存じません位で御座いますが……何でもあの巻物は、向うに屋根だけ見えております……あの
如月寺というお寺様の、御本尊の腹の中に納っておりましたものだそうで、それを見ますと、呉家の血統の男に生れたものならば、きっと正気を取り失いまして、親でも
姉妹でも、又は赤の他人でも、女でさえあれば殺すような事を致しますのだそうで、その
由来を書いたものが、あのお寺にあるとか……ないとか言うておるようで御座いますが……その巻物が、どうして若旦那様のお手に入りましたものか不思議と申すほか御座いません。
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……ヘイ……あの
如月寺の只今の御住持様は、
法倫様と申しまして、博多の
聖福寺様と並んだ名高いお方だそうで御座いますから、こんな因縁事なら何でもおわかりの事と思いますが……ヘイ……もう余程のお年寄りで、鶴のように
瘠せたお
身体に、
眉と
髯が、雪のように白く垂れ下がった、それはそれは、有り難いお姿の、
和尚様で御座います。何ならお会いになりまして、お話をお聞きになって御覧なされませ。
嬶に御案内を致させますから……。
――ヘイ……
お八代さんは 今では半
狂乱のようになったまま 足を
挫いて 床に就いているそうで御座います。頭の
怪我は大した事はないとの事で御座いますが、言う事は
辻褄が合うたり合わなんだりするそうで、
道理とも何とも申しようが御座いません。腰が抜けておりますので、お見舞いにも行かれませんで……。
――私が
宗近(医師の姓)へ走らなかったので万事が手遅れになったように申した者もあったそうで御座いますが、これは無理で御座います。
オモヨさんが絞め殺されたのは今朝の三時から四時の間だと、
宗近さんが私の腰を
診に来た時に言うておりました。
蝋燭の減り加減がやっぱりそれ位の見当で御座いましたそうで。……ヘエ……あとは只今お話し申し上げた通りで御座います。
お八代さんが
たしかにしておれば 何もかもわかる筈で御座いますが、今も申上げました通り、若旦那を
怨んだような事を言うかと思えば……早う気を取り直してくれよ。お前一人が
杖柱【最も頼りにするもののたとえ】……なぞと夢うつつに申しておりますそうで、トント当てになりませぬ。
――まだ警察の方は一人も私の処へ尋ねてお出でになりませぬ。……と申しますのは、この騒動に一番先に気が付きました者は、
お八代さんの金切声をきいて馳け付けた、泊り込みの若い者しか居りませぬ。
360/596
警察の方はそれから
後の話を詳しく調べてお帰りになりましたそうで……私はもうその前から用心を致しまして、もし自分が疑われてはならぬと思いましたから、
宗近先生に口止めを頼みましたが
僥倖と 大騒動に
紛れて、誰が
宗近先生を
招びに行ったやら、わからずにおりましたところへ、思いがけない先生のお尋ねでもう もう恐れ入りました。ヘイ。何一つ隠し立ては致しません。なろう事なら先生のお力で この上 警察に呼ばれぬようにお願い出来ますまいか。この通り腰が抜けておりますし、警察と聞いただけでも私は身ぶるいが出る性分で御座いますから……ヘイ……。
◇第二参考 青黛山如月寺縁起
(開山
一行上人手記)
――註――同寺は
姪浜町二十四番地に在り。呉家四十九代の祖
虹汀氏の建立に係る――
晨に金光を
鏤めし
満目の雪【朝の光が散りばめられ、視界を埋め尽くす、幻想的な雪景色】、
夕には
濁水と
化して
河海に落滅す【夕方にはドロドロの水になって、川や海に流れて消える】。
今宵銀燭を
列ねし
栄耀の花【今夜、
灯りに囲まれて派手に咲く栄華の花】、暁には
塵芥となつて泥土に
委す【夜が明けるころには、ゴミみたいになって土に還る】。三界は波上の
紋【この世は全部、泡みたいなものだ】、一生は
空裡の虹とかや【人生なんて、空に出る虹みたいなものだよな】。
況んや一旦の悪因縁を結んで念々に解きやらず【一度悪い縁を作って、それをいつまでも心で引きずっていたら】。生きては地獄の転変に堕在し【生きている間じゅう、地獄みたいな状態に落ち込んで】、叫喚鬼畜の相を
現し【生の苦が極まると、人は鬼畜の姿をむき出しにする】、死しては悪果を子孫に伝へて
業報永劫の
苛責に狂はしむ【死んでも終わらず、悪い因果が子や孫に残って、永遠に人を狂わせる】。
361/596
その
懼怖、その
苦患、何にたとへ、何にたくらべむ【こんな恐ろしさや苦しみは、何にもたとえようがない】。
こゝに
此因果を観じて
如是本末の
理趣を
究竟し【ここまで因果を考え抜いて、始まりから終わりまでの理屈を全部理解し】、
根元を断証して菩提心に転じ【悪い因果の元を完全に断ち切り、それを悟って、悟りを求める心に切り替える】、一宇の
伽藍を起して
仏知恵を
荘儼し
奉り【寺を建てて、仏の智慧を立派に
祀り】、一念
称名【心を込めて一度、仏の名を唱えること】、
人天咸供敬の浄道場となせる事あり【人間も天の存在も敬い供養する、清らかな場になることもある】。
その縁起を
源ぬるに、慶安の頃ほひ【江戸時代初期(17世紀半ば)あたり】、山城国【現在の京都府南部】、京洛【京都を指す雅称】、祇園の
精舎に近く【無常を象徴する祇園の寺の近辺に】、
貴賤群集【身分の高い者も低い者も寄り集まる】の
巷に 年経て住める茶舗【茶屋】
美登利屋というがあり。毎年宇治の
銘を選んで
雲上に
献り【雲上の方へ差し上げ】、「玉露」と名付けて
芳を全国に伝ふ【よい評判を全国に広める】。当主を
坪右衛門と言い一男三女を持つ。
男を
坪太郎と名づけ、
鍾愛【あつい
寵愛】
此上無かりしが、
此男子、
生得【生まれつき】
商売の道を好まず、
稚き時より宇治
黄檗の道人【当時としては最先端かつ異色の仏僧】、
隠元禅師に参じて学才人に超えたり【学問の才が人並み以上であった】。かたはら【その一方】柳生の剣法に達し、又画流を土佐派に
酌み、俳体を
蕉風【松尾芭蕉の
俳諧の作風】に受けて別に一風格を成す【独特の風格を備えていた】。長じて
空坪と号し、ひたすら山水を
慕いて
復、家を
嗣ぐの志無し。
然れども年長ずるに
随い 他に男子無きの故を
以て 妻帯を強いらるゝ事 一次ならず【一度だけでない】、学業未到の故を
以て固辞す と
雖、
間葛藤を避くるに
遑あらず【内輪のもめ事を避ける余裕がない】。
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遂に、父
坪右衛門の
請により
隠元老師の諭示【教えさとし】を受くるに到るや、心機一転する処あり、
「二十五の今日まで聞かず
不如帰」
という一句を
吾家の
門扉に付して 家を出で
法体となりて
一笠一杖に身を托し【出家して、笠と杖だけの行脚僧になって】、名勝旧跡を探りつゝ西を志す事一年に近く、長崎路より肥前
唐津に入り来る。時に延宝二年春四月の末つかた、
空坪 年二十六歳なり。
空坪 此地の景勝を巡りて
賞翫する事一方ならず【激しくなるばかり】。虹の松原に
因んで名を
虹汀と改め、八景を選んで筆紙を
展べ【風雅な題材を選び、いよいよ文章を書き始めて】、自ら版に起して
洽ねく
江湖に
頒たん事を
念へり【自分で出版して、広く世間一般に配布しようと考えた】。かくて滞留すること
半載【半年】あまり、折ふし晩秋の月
円かなる【折しも晩秋で、月がまるく美しく輝いていた】に誘はれて旅宿を出で、虹の松原に上る。銀波、銀砂に
列なる千古の名松は【月光に照らされた銀色の波と砂浜に沿って、太古から名高い松並木が連なっており】、清光の
裡に風姿を
悉くして【澄んだ月光に包まれて、その姿の美しさを余すところなく現し】、
宛然【さながら】、名工の
墨技の
天籟を帯びたるが如し【名匠の水墨技に、自然そのものの妙味が加わったかのようだ】。行く事一里、漁村
浜崎を過ぎて
興【面白み】
尚尽きず。更に
流霜を
逐ふ事半里にして
夷の
岬に到り【さらに、白く流れる月光を追うように半里ほど進んで、夷の岬に着き】、巌角に
倚つて【岩の突き出たところにもたれかかって】遥かに湾内の風光を望み、雁影を数へつゝ
半宵に到りぬ【
雁の影を数えながら、いつのまにか夜半になってしまった】。
折しも あれ 一人の
女性あり。
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年の頃二八には過ぎじと思はるゝが、華やかなる
袖を
翻し、白く小さき足もと痛ましげに、荒磯の岩畳を渡りて
虹汀の
傍に近づき
来り、見る人ありとも知らず西方に向いて手を合わせ、
良久 祈念を
凝らすよと見えしが、涙を払いて両
袖をかき抱き、あわや海中に身を投ぜむ
気色なり。
虹汀駭き馳せ寄りて抱き止め、程近き松原の砂清らかなる処に伴い、事の
仔細を問い
訊すに、かの
乙女、はじめは ひたぶる【ひたすら】に打ち泣くのみ なりしが、やう/\にして語り出づるやう【ようやくのことで話し始めた有様】。
妾は
此の浜崎という処に、
呉の
某という家の一人娘にて
六美女と申す者に
侍り【ございます】。
吾家、代々
此処の長をつとめて 富み栄え
候いしが、満つれば欠くる世の習い とかや【らしいが】。さるにても
亦【そうだとしても、やはり】、世に恐ろしき因縁とこそ申しつれ【世間では、まさに恐ろしい因縁だと言われてきたものだ】。昔より
吾家に乱心の血脈尽きず。只今に及び
候ては、
妾唯一人、悲しくも生きて残り居る有様にて さむらう【ございます】。
その
最初を
如何にと申すに、
吾家に祖先より伝われる一軸の絵巻物のはべり【がございます】。中に美婦人の裸像を描き
止めたり。
承り及びたる処によれば、呉家の祖先なにがしと申せし人、最愛の夫人に死別せしを悲しみ、その
屍の姿を
丹青に写し
止め、
電光朝露の世の形見にせむと【稲妻や朝露のようにはかないこの世の、せめてもの形見にしようとして】、心を尽して描き
初めしが、
如何なる故にか ありけむ【~だったのだろう】、その
亡骸みる/\うちに
壊乱【ばらばらに】して、いまだその絵の
半にも及ばざるに、早くも一片の白骨と成り果て
候いぬ。あるじの
歎き
一方ならず、遂に狂ほしき心地と相成り
候いしを、亡き夫人の妹くれがし
氏、いろ/\に介抱し
侍りし【ございます】が力及ばず、遂に夫人と同じ道に入り
候いぬ。
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その時 妹のくれがし氏は、その狂える人の
胤を宿し、既に生み月に近き身に
候いしが、同じ
歎きを悲しびて【同じ嘆きを、ともに悲しみ合って】、やがて又、
命を終らむばかりなりしを、やう/\に取り止め
候いしとか 承り及びて
候。
去る程にその折ふし【さて、そうこうしているうちに】、筑前太宰府、
観世音寺の仏体奉修の為め【筑前の太宰府にある観世音寺の仏像を、修復するために】、
京師より
罷下り
候いし【京都から下って参りました】、
勝空となん呼ばるゝ
客僧あり【
勝空という名で呼ばれている客僧がいた】。奉修の事
終へて帰るさ、
行脚の
次に
此のあたりに立ちまはり
給いしが、
此の
仔細を聞き及ばれて
不憫の事とや
思されけむ。
吾家に
錫を
止め
給いてその巻物を
披見せられ【その僧は、私の家に逗留なさり、その巻物を開いてご覧になって】、仏前に
引摂結縁し
給いて
懇に
読経供養を賜はりし
後【仏前で導き救う縁を結ぶ儀式を行ってくださり、心を込めて読経供養をしていただいた後で】、裏庭に在りし
大栴檀樹を
伐つて其の
赤肉を選み【裏庭にあった大きな
栴檀(霊木)の木を切り、その赤身の良い部分を選び取って】、手づから
弥勒菩薩の座像を
刻みて其の胎内に
彼の絵巻物を納め【自分の手で
弥勒菩薩の坐像を彫り、その中に例の絵巻物を納め】、
吾家の仏壇の本尊に安置し、
向後【今後】この仏壇の奉仕と、
此の巻物の披見【開いて見ること】は、
此の家の女人のみを
以て
仕る
可し。そのほか一切の男子の者を構へて近づくる事
勿れと固く
禁めて立ち去り
給いぬ。
その後、かの狂へる人の
胤、玉の如き男子なりしが、事無く
此世に生まれ出で、長じて妻を迎へ、
吾家の
名跡を継ぎ
候いしが、
勝空上人の戒めに
依り、仏壇には余人を近づけしめず。
閼伽、
香華の供養をば、その妻女一人に
司らしめつゝ【その妻一人にだけ管理させながら】、ひたすらに
現世の安穏、後生の善所を祈願し
侍り【ございます】。
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されども
狂人の血を
稟け
侍りし【ございます】故にか ありけむ【~だったのだろう】。この男子壮年に及びて
子宝幾人を設けし
後、又も妻女の早世【若死】に
遭うと ひとしく乱心
仕りて
相果て
候。その後 代々の男子の中に、折にふれ、事に
障りて狂気
仕るもの、一人二人と
有之。その
病態世の常ならず。
或は女人を
殺めむと致し、又は女人の
新墓に
鋤鍬を当つるなぞ、安からぬ事のみ致し、人々
之を
止むる時は、その人をも撃ち殺し、傷つけ
候のみならず、吾身も
或は舌を噛み、又は
縊れて【首をくくって】死するなぞ、代々かわる事なく、誠に恐ろしき極みに
侍り【ございます】。
かようの仕儀に
候えば、見る人、聞く人、などかは恐れ、危ぶまざらむ【このような成り行きである以上、それを見聞きする者が、どうして恐れたり不安に思わずにいられようか】。あるひは男子の身にて
彼の絵巻物を
窺いたる
祟りと申し聞え【あるいは、男の身でありながら例の絵巻を盗み見たことによる祟りだ、と言い伝えられ】、又は不浄の女人の【あるいは、
穢れているとされた女の】、
彼の仏像に近づける
障りかと怪しむなぞ【あの仏像に近づくことを妨げる
祟りなのではないか、と人々は怪しんだりするなど】、遠きも近きも
相伝へて血縁を結ぶことを
忌み嫌い
候為め、
吾家の
血統の絶えなむとする【途絶えてしまいそうな】事 度々に及び
候。さ
候えば、あるひは金銀に明かし、又は人を遠き国々に求めて
辛くも
名跡【家名】を相立て
候いしが、近年に及び
候いては下賤【身分や生活が非常に低い】
乞食に到るまでも、
吾家の縁辺と申せば 舌をふるわし身をわなゝかす様に
侍り【ございます】。只今にては血縁の者残らず絶え果て、
妾、
唯一人と相成りて
候。
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わけても
妾の兄
御前二人は、
此程 引続きて悩乱の
態となり、長兄は
介隈の墓所を
発き、次兄は
妾を石にて打たむと
仕るなぞ、恐ろしき事のみ致したる
果、相次ぎて
生命を早め
侍りし【ございます】ばかりにて、さる噂、
一際高まりたる折節に
候えば
大抵の家の者は
暇を請ひ去り、永年召し使いたる者も、
妾を見
候てため息を
仕るのみ。はか/″\しく物言う者すらなく【ちゃんと説明する人さえ いなくなって】、わびしくも情なき極みと相成り果て
候。
さる程に、かゝる
折柄、
此の唐津藩の御家老職、
雲井なにがしと申す人、
此事を聞き及ばれ
候いて、御三男の
喜三郎となん言える
御仁をば、
妾が
婿がね【候補者】に賜はり、
名跡を
嗣がせらる
可き御沙汰あり。召し使いたる
男女共、あたゞに立ち騒ぎ打ち喜びて、かほどの
首尾は よもあらじと、今までに引き換へて さゞめき合い【賑やかに】
候いしが、そが中に
唯一人、
妾を
守り育て
候乳母の者、さまで嬉しからぬ
面もちにて打ち沈み居り
候故、その
仔細を尋ね
候いしに、ため息して 申し
侍るやう【ような様子で】。
這は ゆめ/\喜ばしき御沙汰には
候はず、
妾の夫にて 御屋敷奉公 致せる者より
卒度洩らし参りしやうには、
彼の
喜三郎と言える御仁は、
雲井様の妾腹の御子にて剣術の達者、藩内随一の聞え高き御方なるが、若き時より御行跡穏やか ならず、長崎
御番の
御伴して
彼の地に行かれしより 丸山の遊び
女に浮かれ、
遂には よからぬ
輩と
交りを結びて
彼処此処の道場を破りまわり、茶屋小屋の押し借りするなぞ、
狼籍の限りを尽して身の置き処 無きまゝに、
此 程
窃かに御帰国ありし
趣に
候。さりながら御家中の誰あつて、
嫁婿の御望みを承るものなき のみならず、蛇、毛虫の如く
忌み恐れ居り
候いし処、当家の事を聞き及ばれ、かく御沙汰ありしものに
侍り【ございます】。
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のみならず、其のまことの下心は、
御事済みの
後、御家老の御威光をもちて、呉家の物なりを
家倉ともに 押領せられむ結構とこそ承り
候え【力ずくで奪い取られてしまうような仕組みだと、確かに聞いております】。御運とは申せ、力無き事とは申せ、
御行末の痛わしさを思へば、眼も
眩れ【目もくらみ】、心も消えなむ
計り【心も消えてしまいそう】と、涙を流して申し
候。
妾も いかゞは せむと打ち
惑い【どうすればよいのかと、すっかり取り乱して】
侍りし【ございます】が、かよわき身の
詮方もなく【か弱い自分には、どうする手立てもなく】、案じ
佗び【思い悩み、困り果てて】
候いし
折柄、
此程の秋の取り入れごと相済み
候いて、
稍落ち付き
侍りし【ございます】
今宵の事、
彼の雲井
喜三郎という御仁、
御供人も召し連れ
給はず、御
羽織袴も召されぬまま、
唯お一人にて、思いもかけず
吾家へお見えなされ
候。
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這は如何にとて皆々走せまどひ、御酒肴取りあへず奥座敷に請じ参らするうち、妾も化粧をあらためて御席にまかり出で侍りしが、彼の御仁体を見奉るに、半面は焼け爛れて偏へに土くれの如く、又残る片側は、眉千切れ絶え、眥白く出で、唇斜に偏りて、まことに鬼の形とや云はむ。剰へ何方にて召されしものか、御酒気あたりを薫じ払ひて、そのおそろしさ、身うちわなゝくばかりに侍り。そをやう/\に堪へ忍びて、心も危ふく御酌に立ち候いしに、御盃の数いく程も無きうちに、無手と妾の手を執り給いつ。その時、妾、思はず手を引き候いしに、御盃の中のもの、御膝に打ちこぼれしより、忽ち御酒乱の体とならせ給い、押し止むる乳母を抜く手を見せず討ち放され候。妾は其の間に逃れ出で、やう/\に此処《ここ》まで参り侍りしが、かばかり打ち続く吾家の不祥、又は、此身の不倖のがれ方なく、たゞ死なむとのみ思い入り侍りしを、かく止められまいらせ候。この上は唯尼とやならむ。巡礼とやならむ。何国の御方か存じ参らせねど、此の上の御慈悲に、そのすべ教へて賜はれかしと、砂にひれ伏して声を忍ぶ体なり。
【訳】
これは一体どうしたことかと、皆が走り回って取り乱し、酒や肴の用意もろくにできぬまま、奥座敷へお招きするうち、私も化粧を整え直して席へ出ました。ところが、そのお方のお姿を拝見すると、顔の半分は焼けただれて、まるで土くれのようであり、もう片側は眉がちぎれ落ち、目尻は白くむき出し、唇は斜めに歪み、まことに鬼の姿としか言いようがありません。そのうえ、どこで召し上がってきたのか、酒の匂いをぷんぷんさせておられ、その恐ろしさに、身の震えが止まりませんでした。
それでもどうにか耐え忍び、気も遠くなりそうになりながらお酌に立ちましたが、盃もいくつと重ならぬうちに、突然、乱暴に私の手を取られました。思わず手を引いた拍子に、盃の酒がその方の膝にこぼれると、たちまち酒乱の様相となり、止めに入った乳母を、あっという間に斬り捨ててしまわれました。
私はその隙に逃げ出し、ようやくここまで参ったのですが、これほど続く我が家の不幸、あるいはこの身の不運からは逃れようもなく、ただ死のうとばかり思い詰めていたところを、こうしてお引き留めいただきました。もはや尼になろうか、巡礼になろうか。どこのお方かも存じ上げませんが、どうかこの上のご慈悲として、進むべき道をお教えください――そう言って、砂の上にひれ伏し、声を殺して泣いている有様なのです。
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虹汀聞き果てゝ打ち案ずる事稍久、やがて乙女を扶け起して言いけるやう。よし/\吾に為ん術あり。今はさばかり歎かせ給うな。先づ其の絵巻物を披見して、御身の因果を明らめ参らせむと、六美女の手を曳きて立ち去らむとする折しもあれ、松の陰より現はれ出でし半面鬼相の荒くれ武士、物をも云はず虹汀に斬りかゝる。虹汀、修禅の機鋒を以て、身を転じて虚を斬らせ、咄嵯に大喝一下するに、彼の武士白刃と共に空を泳いで走る事数歩、懸崖の突端より踏み外し、月光漫々たる海中に陥つて、水烟と共に消え失せぬ。
【訳】
虹汀は、すっかり聞き終えてからしばらくの間、思い悩んでいたが、やがて乙女を助け起こしてこう言った。「よい、よい。私に考えがある。今はそれほど嘆きなさるな。まずはその絵巻物を開いて拝見し、あなたの因縁を明らかにして差し上げよう。」
そう言って、六美女の手を引いて立ち去ろうとした、まさにその時である。松の木陰から、半分鬼のような恐ろしい顔をした荒武者が現れ出て、何も言わずに虹汀に斬りかかってきた。
虹汀は、修行で鍛えた禅の鋭い機転によって身を翻し、空を斬らせると、瞬間的に大喝一声を放った。すると、その武士は白刃もろとも宙を舞い、数歩走ったかと思うと、断崖の先端から足を踏み外し、月光が満ちあふれる海へと落ち、水しぶきとともに跡形もなく消え失せた。
かくて
虹汀は
六美女を伴いて呉家に到り、家人と共に
彼の乳母の
亡骸を取り収め、自ら法事
読経して固く他言を
戒めつ。
370/596
さて仏間に入りて人を遠ざけ、本尊
弥勒仏の体中より
彼の絵巻物を取り
出し、
畏敬礼拝を
遂げつゝ披見するに、美人の五体の
壊乱、
膿滌せる【
膿を洗い流す】様、
只管に
寒毛樹立する【恐怖・驚愕・畏怖・強烈な感動によって、全身の毛が逆立つ】ばかりなり。すなはち仏前に
座定して精魂を
鎮め、
三昧に入る事十日余り、延宝二年十一月
晦日の暁の一点というに、
忽然として
眼を開きて
曰く、
凡夫【悟りの境地に達していない平凡で愚かな人】の妄執を晴らすは 念仏に若くは無し【及ぶものはない】 南無阿弥陀 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀 南無阿弥陀仏/\
と声高らかに
詠誦【朗読】する事三
遍にして、
件の絵巻物を
傍の火炉中に投じ、一片の煙と化し
了んぬ。
371/596
かくて虹汀は心静かに座定を出で、家人を招き集めて演べけるやうは「吾、法力によつて、呉家の悪因縁を断つ事を得たり。すなはち此灰を仏像に納めて三界の万霊と共に供養し、自身は俗体となつて、此家に婿となり、勝果を万代に胎さむと欲す。家人の思はるゝ処あらば差し置かず承らまほし」とありけるが、一人も所存を申し出づるもの無く、ひたぶるに国老雲井家の咎めを懼るゝ体也。虹汀其心を察し、その日の裡に厚く労ひて家人に暇を与へ、家屋倉廩を封じて「公儀に返還す。呉坪太」と大書したる木札を打ち、唯、金銀、書画の類のみを四駄に負はせて高荷に作り、屈竟の壮夫に口を取らせ、其身は弥勒の仏像を負ひて呉家の系図を懐にし、六美女の手を引きて、あくる日の昧爽に浜崎を立ち出で、東の方を志す。折ふし延宝二年臘月朔日の雪、繽紛として六美女の名に因むが如く、長汀曲浦五里に亘る行路の絶勝は、須臾にして長連の銀屏と化して、虹汀が彩管に擬ふかと疑はる。
【訳】
こうして虹汀は、静かに座禅を終えると、家人たちを呼び集めて次のように語った。「私は法力によって、呉家にまとわりついていた悪しき因縁を断ち切ることができた。そこで、この灰を仏像の中に納め、三界のあらゆる霊とともに供養しよう。そして私は僧をやめて俗人となり、この家の婿となって、めでたい果報を末代まで残したいと思う。家人たちに何か意見があれば、遠慮なく申し出てほしい。」
しかし、誰ひとりとして自分の考えを口にする者はなく、ただひたすら国老・雲井家からの咎めを恐れている様子であった。虹汀はその心情を察し、その日のうちに家人たちを手厚くねぎらって暇を与え、家屋や倉を封鎖し、「公儀に返還す 呉坪太」と大書した木札を打ち付けた。
そして金銀や書画類だけを四頭の荷駄【馬で運送する荷物】に載せ、高荷【うず高く積み上げた大きな荷物】としてまとめ、屈強な若者に先導させた。自らは弥勒の仏像を背負い、呉家の系図を懐に収め、六美女の手を引いて、翌朝まだ夜の名残があるうちに浜崎を出立し、東国を目指した。
折しも延宝二年十二月一日の雪が、激しく舞い散り、六美女の名にふさわしいかのように、長い浜辺と曲がりくねった入り江が五里にわたって続くその絶景は、たちまち長大な銀の屏風と化し、まるで虹汀の絵筆によって描かれたものではないかと疑われるほどであった。
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かくて稍一里を出でし頃ほひ、東天漸く紅ならむとする折しもあれ、後の方に当つて人音夥しく近づき来るものあり。虹汀、何事ぞと振り返るに、その数二三十と思しき捕吏の面々、手に/\獲物を携へたる中に、彼の海中に陥りし半面鬼相の雲井喜三郎、如何にしてか蘇りけむ、白鉢巻、小具足、陣羽織、野袴の扮装物々しく、長刀を横たへて目前に追ひ迫り来り、大音揚げて罵るやう、やをれ悪僧其処《そこ》動くな。此間は汝を大公儀の隠目付と思いあやまり、一旦の遠慮に惜しき刃を収めしが、其後藩命を蒙りて、あまねく汝の素性行跡を探りしに、画工と佯つて当城下の地形を窺ふのみならず、法体と装ひて諸国を渡り、有徳の家を騙つて金品を掠め、児女を誘ひて行衛【行方】を晦ます、不敵無頼の白徒なる事、天地に照して明らかなり、汝空を翹り土に潜むとも今は遁るゝに道あるまじ、いでや者輩、当藩の物を奪ひ去る無法狼藉の坪太はそれよ。女人を誘拐す卑怯未練の賊僧はそれよ。容赦なく踏み込んで召捕れやつと大喝すれば、声を合せて配下の同心、雪を蹴立てゝ勢ひかゝる。一方は峨々たる絶壁半天に懸れり。一面は断崖海に臨みて足もたまらず。背後には繊弱き女人と人馬を控へたり。遁れつべうもこそあらじと見えつるが、虹汀少しも騒ぐ気色なく、負ひ奉りし仏像を馬士に渡し、網代笠の雪を払ひて六美女に持たせつ、手に慣れし竹杖を突き、衣紋を繕ひ珠数を爪繰りつゝ、しづ/\と引返し進み出でければ、案に違ひし捕手の面々、気先を呑まれてぞ見えたりける。
【訳】
こうして、やや一里ほど進んだ頃、東の空がしだいに紅く染まり始めた、まさにその時である。背後の方から、人の足音が夥しく近づいてくるのが聞こえた。虹汀が何事かと振り返ると、二、三十人ほどと思われる捕り方の一団が、各々武器を手にして迫ってくる。その中には、先ほど海に落ちたはずの、半面鬼のような顔の雲井喜三郎がいた。どうやって生き延びたのか、白鉢巻に小具足【甲冑の補助的な防具】、陣羽織、野袴といういかにも物々しい姿で、長刀を携え、目前に迫り来る。
そして大声で罵り叫んだ。「おのれ悪僧、そこを動くな。この前は、お前を公儀の隠密目付と誤解し、一度は惜しい刀を収めて引いたが、その後、藩命を受けてお前の素性と行跡を調べたところ、絵師と偽って城下の地形を探るだけでなく、僧の姿を装って諸国を巡り、富裕な家を騙して金品を奪い、女子供を誘い出して行方をくらます、ふてぶてしい無頼者であることが天地に照らして明らかになった。
たとえ空を飛び、地に潜ろうとも、もはや逃げ道はない。さあ者ども、この藩の財を奪い去り、狼藉を働いた坪太はこやつだ。女人をさらう卑劣な賊僧はこやつだ。容赦なく踏み込んで捕えよ!」そう大喝すると、配下の同心【仲間】たちが声を揃え、雪を蹴散らして一斉に襲いかかる。
一方は険しい絶壁が空高く迫り、一方は断崖が海に臨んで足場もない。背後には、か弱い女たちと人馬を控えている。
もはや逃げようもないと見えたが、虹汀は少しも動揺する様子を見せなかった。背負っていた仏像を馬方に渡し、網代笠の雪を払って六美女に持たせ、使い慣れた竹杖を突き、衣を整え、数珠を繰りながら、静々と引き返して前に進み出た。すると、思いもよらぬその態度に、捕り方たちは気勢をそがれ、思わず ひるんだように見えた。
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その時 虹汀、大勢に打ち向ひて慇懃に一礼を施しつゝ、咳一咳して陳べけるやう、這は御遠路のところ、まことに御苦労千万也。かゝる不届の狼藉者を、かほどの大勢にて御見送り賜はる、貴藩の御政道の明らかなる事、まことに感服に堪へたりと言う可し。さは言え折角の御芳志ならば、今些しばかり彼方の筑前領まで御見送り賜はりてむや。さすれば御役目滞り無く相済みて、無益の殺生も御座なかる可く、御藩の恥辱とも相成るまじ。此儀如何や。御返答承り度しと言葉爽やかに笑を含めば、一同呆るゝ事稍久焉。忽ちにして雲井喜三郎は満面に朱を注ぎつ。おのれ口の横さまに裂けたる雑言哉。此間こそ酔ひ痴れて不覚をも取りたれ、今日は吾が刀の錆までもあるまじ。かゝれや物共、相手は一人ぞ。女のほかは斬り棄つるとも苦しからず。かゝれ/\と刀柄をたゝけば、応と意気込む覚えの面々、人甲斐も無き旅僧一人。何程の事やあらむと侮りつゝ、雪影うつらふ氷の刃を、抜き連れ抜き連れ競ひかゝる。虹汀さらば詮方なしと、竹の杖を左手に取り、空拳を舞はして真先かけし一人の刃を奪ひ、続いてかゝる白刃を払ひ落し、群がり落つる毬棒、刺叉を戞矢/\と斬落して、道幅一杯に立働らきつゝ人馬の傍に寄せ付けず、其のほか峯打ち当て身の数々に、或は気絶し又は悶絶して、雪中を転び、海中に陥るなど早くも十数人に及びける。
【訳】
その時、虹汀は大勢の捕り方に向かって、丁重に一礼しながら、軽く咳払いを一つして、次のように述べた。「これはこれは、遠路はるばる、まことにご苦労千万に存じます。このような不届きな狼藉者を、これほどの大勢でお見送りくださるとは、貴藩の政道がいかに行き届いているか、まことに感服いたしました。
さて、せっかくのご厚意でございますれば、今しばらく先の筑前領まで、さらにお見送りいただけませんでしょうか。そうなれば、皆さまのお役目も滞りなく果たされ、無用な殺生も起こらず、ひいては御藩の恥ともならずに済みましょうが、いかがでございましょう。ぜひご返答を賜りたく存じます。」そう言って、言葉も爽やかに微笑みを含ませると、一同はしばし呆然とした。
やがて雲井喜三郎は、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。「この野郎、口の端が裂けるほどの減らず口を叩きおって。この前は酒に酔って油断したが、今日はこの刀が錆びることもあるまい。かかれ、者ども。相手は一人だ。女以外は斬り捨てても構わぬ。かかれ、かかれ!」そう言って刀の柄を打ち鳴らすと、配下の者たちは気勢を上げた。相手は取るに足らぬ旅僧一人、何ほどのことがあろうかと侮りながら、雪に映る氷のような刃を、次々に抜いて斬りかかってきた。
虹汀は「もはや仕方がない」とばかりに、竹の杖を左手に取り、空手で舞うように動き、真っ先にかかってきた一人の刀を奪い取った。続いて襲い来る白刃を払い落とし、群がる毬棒【江戸時代の捕物で使われた武器・捕具】や刺股を、がきんがきんと音を立てて斬り落とし、道幅いっぱいに立ち働いて、人馬のそばへ一歩も近づけなかった。そのほかにも、峰打ちや体当たりを次々と繰り出し、ある者は気を失い、ある者は苦しみもだえ、雪の中に転げ落ち、あるいは海へ落ちるなどして、早くも十数人に及んだ。
374/596
思いもかけぬ旅僧の手練に、さしもの大勢あしらひ兼ね、白み渡つて見えたりければ、雲井喜三郎今は得堪へず、小癪なる坊主の腕立て哉。いでや新身の切れ味見せて、逆縁の引導渡し呉れむと陣太刀長やかに抜き放ち、青眼に構へて足法乱さず、切尖するどく詰め寄り来る。虹汀何とか思いけむ。奪ひ持ちたる刀を投げ棄て、竹杖軽げに右手に取り直し、血に渇したる喜三郎の凶刃に接して一糸一髪を緩めず放たず、冷々水の如く機先を制し去り、切々氷霜の如く機後を圧し来るに、音に聞えし喜三郎の業物も、大盤石に挟まれたるが如く、ひたすらに気息を張つて唖唖切歯するのみ。虹汀之を見て莞爾と打ち笑みつ。如何に喜三郎ぬし。早や悟り給いしか。弥陀の利剣とは此の竹杖の心ぞ。不動の繋縛とは此の親切の呼吸ぞや。たとひ百練千練の精妙なりとも、虚実生死の境を出でざる剣は悟道一片の竹杖にも劣る。眼前の不可思議此の如し、疑はしくは其刀を棄て、悪心を翻して仏道に入り、念々に疑はず、刻々に迷はざる濶達自在の境界に入り給え。然らずは一殺多生の理に任せ、御身を斬つて両段となし、唐津藩当面の不祥を除かむ。されば今こそは生死断末魔の境ぞ。地獄天上の分るゝ刹那ぞ。如何に/\と詰め寄れば、さしもに剛気無敵の喜三郎も、顔色青褪め眼血走り、白汗を流して喘ぐばかりなりしが、流石に積年の業力尽きずやありけむ【~だったのだろう】。又は一点の機微に転身をやしたりけむ、忽然衝天の勇を奮ひ起して大刀を上段真向に振り冠り、精鋭一呵、電光の如く斬り込み来るを翻りと避けつゝ礑と打つ。竹杖の冴え過またず。喜三郎の眉間に当れば、眼くるめき飛び退き様、横に払ひし虚につけ入りたる虹汀、喜三郎の腰に帯びたる小刀の柄に手をかくるとひとしく、さらば望みに任せするぞと、言いも終らず一間余り走り退くよと見えけるが、再び大刀を振り上げし喜三郎は、そのまま虚空にのけぞりて、仏だふれに仰のきたふれつ。大袈裟がけに斬り放されし右の肩より湧き出づる血に、雪を染めつゝ息絶えける。
【訳】
思いもよらぬ旅僧の熟練した腕前に、さすがの大人数も手を焼き、皆が顔色を失って見えた。それを見て、雲井喜三郎は もはや堪えきれず叫んだ。「小癪な坊主め、生意気な腕前よ。さあ、新しいこの身の切れ味を見せてやり、逆縁【本来 人を送るべき仏法を操る人を、逆に送る】の引導を渡してくれよう!」そう言って、陣太刀をゆったりと抜き放ち、青眼に構え、足並みを乱さず、鋭い切っ先を突き詰めて迫ってくる。
虹汀はどう考えたのか。奪っていた刀を投げ捨て、竹杖を軽々と右手に持ち替え、血に飢えた喜三郎の凶刃に対して、一瞬の隙も与えず、冷たい水のように先手を制し、氷霜のように後の動きを押さえ込んだ。その結果、名高い喜三郎の名刀も、大岩に挟まれたかのように動かせず、ただ歯を食いしばって息を張るばかりであった。それを見て、虹汀は にっこりと微笑んだ。
「いかがかな、喜三郎殿。もう悟られましたか。阿弥陀の利剣【鋭くよく切れるつるぎ】とは、この竹杖の心なのです。不動の縛りとは、この慈悲の呼吸なのです。たとえ百戦錬磨の妙剣【剣の道の高次の境地や技を意味する】であっても、生死や虚実の境を超えぬ剣は、悟りの一片を得た竹杖にも及びません。目の前の不思議はこの通り。疑うなら刀を捨て、悪心を翻して仏道に入り、疑わず迷わぬ自在の境地に入りなさい。さもなくば、一人を斬って多くを生かすという理に従い、あなたを斬り捨てて唐津藩当面の不祥を除きましょう。今こそ生死の分かれ目、地獄と天上の分かれる一瞬です。どうなさいますか。」
そう詰め寄られ、剛勇無敵の喜三郎も顔色を失い、目を血走らせ、冷や汗を流して喘ぐばかりであったが、さすがに長年の業の力は尽きなかったのか、あるいは一瞬の機に賭けたのか、突如として天を衝く勇気を奮い起こし、大刀を上段真向に振りかぶり、気合一声、電光のように斬りかかってきた。それをひらりと避けつつ、虹汀がはたと打つ。竹杖の冴えは少しも外れず、喜三郎の眉間を打った。
目を回してよろめき退くところへ、横薙ぎ【横ざまに薙ぎ払う】に斬った虚を突いて虹汀は喜三郎の腰の小刀の柄に手を掛け、「それでは望み通りにしよう」と言い終わらぬうちに、一間ほど走り退いたかと思われたが、再び大刀を振り上げた喜三郎は、そのまま虚空にのけぞり、仏のように仰向けに倒れた。大きく振り下ろされた太刀によって、右肩から噴き出した血が雪を染め、ついに息絶えた。
375/596
此の勢ひに怖れをなしけむ。残りし者は遠く逃れて、逐はむとする者も見えざりければ、虹汀今は心安しと、奪ひし小刀を亡骸に返し、掌を合はせ珠数を揉みつゝ、念仏両三遍唱へけるが、やがて黒衣の雪を打ち払ひて、いざやとばかり仏像を負ひ取り、人心も無き六美女をいたわり慰めつ、笠を傾け、人馬を急がして行く程もなく筑前領に入り、深江というに一泊し、翌暁まだ熄まぬ雪を履んで東する事又五里、此の姪の浜に来りて足をとゞめぬ。
【訳】
この一連の出来事の勢いに恐れをなしたのだろう、残った者たちは遠くへ逃げ去り、追おうとする者もいなかった。虹汀は、もはや心配はないと感じ、奪い取っていた小刀を亡骸に返し、手を合わせて数珠を揉みながら、念仏を二、三遍唱えた。やがて黒衣に積もった雪を払い落とし、「さあ行こう」と言わんばかりに仏像を背負い直し、心というものを持たぬかのように従う六美女をいたわり慰めつつ、笠を傾け、人馬を急がせて進む。ほどなく筑前領に入り、深江という土地で一泊し、翌朝もまだ止まぬ雪を踏みしめて東へ向かうことさらに五里、姪の浜に至って、そこで足を止めた。
376/596
虹汀此の所の形相を見て思うやう。此地、北に愛宕の霊山半空に聳えつゝ、南方背振、雷山、浮岳の諸名山と雲烟を連ねたり。万頃の豊田眼路はるかにして児孫万代を養ふに足る可く、室見川の清流又杯を泛ぶるに堪へたり。衵浜、小戸の旧跡、芥屋、生の松原の名勝を按配して、しかも黒田五十五万石の城下に遠からず。正に山海地形の粋を集めたるものと。すなはち従ひ来れる馬士を養ひて家人となし、田野を求めて家屋倉廩を建て、故郷京師に音信を開きて万代の謀をなす傍、一地を相して雷山背振の巨木を集め、自ら縄墨を司つて一宇の大伽藍を建立し、負ひ来りたる弥勒菩薩の座像を本尊として、末代迄の菩提寺、永世の祈願所たらしめむと欲す。山門高く聳えては真如実相の月を迎へ、殿堂甍を連ねては仏土金色の日相観を送る。林泉奥深うして水碧く砂白きほとり、鳥啼き、魚躍つて、念仏、念法、念僧するありさま、真に末世の奇特、希代の浄地とおぼえたり。
【訳】
虹汀はこの地の様子を見て、次のように思った。この土地は、北には愛宕の霊山が半ば天空にそびえ、南には背振・雷山・浮岳といった名山が雲を連ねている。広大な田園は はるかに見渡せ、子孫を万代にわたって養うに十分であり、室見川の清らかな流れは、杯を浮かべて酒を酌む【器につぐ】にも ふさわしい。衵浜や小戸の古跡、芥屋、生の松原といった名勝をほどよく配し、しかも黒田五十五万石の城下にも遠くない。まさに山・海・地形の精髄【一番すぐれた大切なところ】を集めた場所である。
そこで、従ってきた馬方たちを養って家人とし、田畑を求めて家屋や倉を建て、故郷の都へも連絡を取り、万代にわたる計画を進めるかたわら、この地を定めて雷山・背振の巨木を集め、自ら縄と墨を取って一宇の大伽藍を建立し、背負ってきた弥勒菩薩の坐像を本尊として、末代までの菩提寺、永遠の祈願所としようと考えた。高くそびえる山門は、真如実相の月を迎え、連なる堂宇の甍は、仏国土の金色の太陽を見送る。林泉は奥深く、水は碧く砂は白く、鳥は鳴き、魚は跳ね、念仏・念法・念僧の声が響くありさまは、まことに末世における奇跡、比類なき浄らかな地であると思われた。
377/596
かくて
人皇百十一代霊元天皇の延宝五年丁巳霜月初旬に及んで其業了るや、京師の本山より貧道を招き開山住持の事を付属せむとす。貧道、寡聞浅学の故を以て固辞再三に及べども不聴。遂に其の奇特に感じ、荷笈下向して住職となり、寺号を青黛山如月寺と名付く。すなはち翌延宝六年戊午二月二十一日の吉辰を卜して往生講式七門の説法を講じ、浄土三部経を読誦して七日に亘る大供養大施餓鬼を執行す。当日 虹汀は自ら座に上り、略して上来の因縁を述べて聴衆に懺悔し、二首の和歌を口吟む。
【訳】
こうして、人皇百十一代・霊元天皇の延宝五年(1677年)霜月【11月】初旬に至り、虹汀の一連の業は一応の区切りを迎えた。京の本山から、貧道という僧を招き、開山兼住持として補佐させようとした。貧道は学識が浅いことを理由に固辞を繰り返したが、許されなかった。
やがてその奇特【殊勝】さに感じ入った貧道は、荷を背負って下向【低い方へくだること】し、住職となった。寺号は 青黛山如月寺(せいたいざんにょげつじ) と名付けられた。そして翌年、延宝六年(1678年)二月二十一日の吉日を占って、往生講式七門の説法を行い、浄土三部経を読誦し、七日間にわたる 大供養・大施餓鬼 を執行した。当日、虹汀自身も座に上り、これまでの因縁を簡略に述べて聴衆に懺悔し、さらに二首の和歌を口ずさんだ。
378/596
唱 六っの道今は迷はじ六っの文字【六つの道、今は迷わない、六という文字よ】
み仏の世にくれ竹の杖 坪太郎
和 くれ竹のよゝを重ねてみほとけの【くれ竹の葉(杖)を重ねて、み仏のもとに】
すぐに空しき道に帰らむ 六美女
続いて貧道座に上り、委しく縁起の因果を弁証し、六道の流転、輪回転生(りんねてんしょう)の理を明らめて、一念弥陀仏、即滅無量罪障(そくめつむりょうざいしょう)の真諦を授け、終つて一句の偈を連らぬ。
一念称名声(いちねんしょうみょうのこえ) 功徳万世伝(くどくばんせいにつたう) 青黛山寺鐘(せいたいさんじのかね) 迎得真如月(むかええたりしんにょのつき)
なほ六美女は当時十八歳なりしが、かねてより六字の名号を紙に写すこと三万葉に及びしを、当来の参集に頒ちしに、三日に足らずして悉くせりという。
かくの如きの物語、六道の巷を娑婆にあらはし、業報の理趣を眼前に転ず。聞く煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)、六塵即浄土(ろくじんそくじょうど)と、呉家祖先の冥福、末代正等正覚(まつだいしょうとうしょうがく)の結縁まことに涯あるべからず。呉家の後に生るゝ男女にして此の鴻恩を報ぜむと欲せば、深く此旨を心に収め、法事念仏を怠る事なかれ。事他聞を許さず、過つて洩るゝ時は、或は他藩の怨を求めむ事を恐る。当寺当時の住職、及、呉家の当主夫妻にのみ止む可し。穴賢。
【訳】
その後、貧道は座に上がり、縁起の因果について詳しく説き、六道の流転や輪廻転生の理を明らかにした。そして、一心に弥陀仏を称えることが、無量の罪障を滅する真理であることを教えた。説法の最後には、次の偈【詩】を詠んだ:
「一念称名の声、功徳は万世に伝わる青黛山の寺の鐘は、真如の月を迎える【阿弥陀仏の名を一心に称える声は、功徳として永遠に伝わり、青黛山の寺の鐘は、真理の光を迎える】」
なお、六美女は当時18歳であったが、以前から六字名号(南無阿弥陀仏の六文字)を書き写すこと三万枚に及んでいた。その写経を参集者に配ったところ、三日も経たぬうちにすべてなくなったという。
このような物語は、六道の理を娑婆に現し、業報の理趣【道理】を目の前に示すものである。聞くところによれば、煩悩はそのまま菩提【悟り】であり、六塵(欲・瞋【怒り、憎しみ、嫌悪】・痴【おろか】など六つの塵)はそのまま浄土である。呉家の祖先の冥福や、末代に至る正等正覚【偏りや誤りのない完全な悟り】との結縁は、限りなく続く。呉家の後に生まれる子孫が、この大いなる恩に報いようとするなら、この教えを心に深く留め、法事や念仏を怠ってはならない。また、他人に伝えてはいけない。もし誤って漏らせば、他藩からの恨みを招くこともある。この教えは、当時の住職と、呉家の当主夫妻にのみ伝えられるべきものである。
{穴賢=敬具}
延宝七年七月七日
一行しるす
◇第三参考 野見山法倫氏談話
◇聴取日時 前同日午後三時頃
◇聴取場所 如月寺
方丈に
於て
◇同席者 野見山法倫氏(同寺の住職にして当時七十七歳 同年八月
歿)
余(
W氏)=以上二人=
――その御不審は誠に
御尤もで御座います。
379/596
この縁起の本文にも書いて御座いまする通り、今より百余年の昔に、呉家の中興の祖とも申すべき
虹汀様が、残らず焼いて灰にして、
弥勒の世までもと封じておかれました絵巻物が、
如何ようなる
仔細で
旧の絵巻物の形に立ち帰って、今の世に現われまして、呉
一郎
殿のお手に渡って、あられもない御乱心の種と相成りましたか……という事に就きましては、実は、お尋ねがなくとも申し上げて
貴方様(
W氏)の御分別を仰ぎたいと思うておったところで御座いました。
――元来この縁起の
書付と申しますのは、呉家の
名跡を
嗣がるる御主人夫婦が初めての御墓参の時に人を払って御覧に入れる事に相成っております。そのほか呉家の御血統に関係致しました事は、尋常
在り
来りの事のほか、一切他人に
洩らしませぬのが、開山
一行 上人 以来、当寺の住職たるものの本分の秘密と定められておるので御座いますが、余儀ない御方の御尋ねで御座いますし、
殊更には、呉
一郎
殿が
真の狂気か
佯りかが
相判りますることが、罪人となられるか、なられぬかの境い目と
承りますれば、何をお隠し申しましょう……。
――と申しまする
仔細は ほかでも御座いませぬ。この寺の御本尊様の御胎内に、灰となって納まっている筈のあの絵巻物が、実は、
旧の形のままでおります事を、ずっと以前から探り出しておった人が在ったので御座います。のみならず、その絵巻物を御本尊の胎内から取り出して、呉
一郎
殿の御病気を誘い出す
原因を作られたのも、やはり、そのお方に違いないと思われる人物を、私はよう存じているので御座います。
380/596
それは申す迄もなく私の心当りだけで申上げるので御座いますから、どなたでも意外に
思召すか存じませぬが、外ならぬ呉
一郎
殿の実の
母御で、先年
直方で不思議の
横死を
遂げられた
千世子殿の事で御座います……さよう……これは誠に
怪しからぬお話で、何よりも第一に、そんな恐ろしい
申伝えのある品物を、かけ換えのない
吾児に渡すような無慈悲な母親が、この世に在ろうとは思われぬので御座いますが、これには何か深い
仔細がありそうに思われますので、いずれに致しましても、これから申述べまするお話をお聴き取り下されますれば、やがて何事もお解りになるであろうと存じます。
――思いますればもう
二た昔……イヤ……もう三十年ほどにもなりましょうか。まことに古い事で御座います。もはや御承知か存じませぬが
彼の
千世子という御婦人は、幼ない時から何事に
依らず
怜悧【利口】発明【知恵の働きがよい】な上に、手先の仕事に
冴えたお方で、中にも絵を
描く事と、
刺繍をする事が取分けてお上手だったそうで、まだお
合羽さん【おかっぱ頭】に
振袖のイタイケ盛り【可愛らしい盛り】の頃から、この寺の本堂の片隅なぞにタッタ一人でチョコナンと座って、
襖に描いてある四季の花模様や、
欄間の天人【天女・飛天】の
彫刻なぞを写して御座る姿を、よく見受けたもので御座います。その頃からもう それはそれは 可愛らしい、人形のような眼鼻立ちで御座いましてナ……。
――ところが
軈て十四か五になられた頃であったかと思います。学校の帰りと見えまして、
海老茶の
袴を
穿かれた
千世子殿が、風呂敷包みを抱えたままこの
方丈に入って来られまして、
唯一人で茶を飲んでおりました私に向って……
和尚様……あの御本尊の真黒い仏様の中には美しい絵巻物が入っておるとの事じゃげなが、ソッと私に見せて下さらぬか……という御話で御座います。
381/596
この絵巻物の事はこの寺の開山当時の大法要以来、この界隈の名高い話と相成っておりまして、この村でも心得ている者がいくらも居る筈で御座いますから、そんな者からでも聞かれたので御座いましょうか……その時に私は笑いまして……それはもうズットの昔に灰にして
終ってある
故、今は見せとうても見せられぬ……と申しますと……それでも、たった今、あの仏様を私がゆすぶって見たら腹の中でコトコトと音がした。何かキット入っているに違いない……と
お千世殿が言われます。私はビックリ致しまして……そんな事をする者で
勿い。
仏罰が当りますぞ……と叱って返しました……が……
お千世殿が帰られてからタッタ一人になりますと
扨、何とのう心配になって参りましたので、コッソリと本堂に参りまして、
勿体のうは御座いましたが、御本尊の
弥勒様をゆすぶり立てて見ますると、成る程コトコトと音が致します。ちょうど巻物のような形のものが、
内部に納まっているに違いない、と思われる手応えで……。
――私は余りの不思議に胸が
轟くほど驚き入りました。御本尊様の胎内は、この縁起の本文に書いてありまする通りに、絵巻物を焼いた灰ばかりと思い入っておりましたので……なれども、その時に私は又思案を致しまして、これは昔
虹汀様が、その絵巻物を焼いたと
佯って実は、
旧の形のままにして仏像へ納めておかれたものではあるまいか。その
周囲の詰め物が、年代に連れて乾き
寛んで、このように音を立てるのではあるまいか。絵の好きな人に、ありそうな事で、絵巻物を惜しむの余りにそんな事にして、年月を重ねて供養していたならば、次第次第に因縁も薄らぎ、
祟りも
熄むであろうと思うて、一存で
計らわれた事ではあるまいか。それならば改めて取り出して焼き棄てるべきものであろうか。
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どうしたものであろうか……なぞと、様々に思わぬでは御座いませんでしたが、それにしても、ちっと
腑に落ちかねるところもあるようで、空恐ろしい気持ちも致しましたので、
真逆に御本尊の仏体を破って
内部を見るような者もあるまいと思い思い、そのままに致しておりました。
――ところがその
中に、月日の経つのはお早い事で、昨年の秋に相成りますと、ちょうどお彼岸の前の日の夕方の事、
お八代殿と、
一郎
殿と、
オモヨさんの三人が連れ立ってお墓掃除に見えました。その時に
お八代さんは
唯一人でお
霊屋【亡くなった人を祀るための建物】の掃除をされる
序に、この
方丈に立ち寄られて、茶を飲まれましたが、
四方八方のお話の
序に……まだちっと早いようじゃけれど、来年の春、
一郎
が六本松の学校(福岡高等学校)を卒業したならば、すぐに、
モヨ子と祝言をさせようと思うが、どうであろうか……という相談で御座いました。
お八代さんは、いつもこんな事を披露される前には、必ず私に話をされましたので、私は、まことに結構な事と御返事を致した事で御座いましたが、それから二人で立って本堂の縁側へ出てみますと、
彼の山門の横の
墓所の前に、お掃除を
仕舞われた学校服姿の
一郎
殿と赤い帯を締めた
オモヨさんとが、仲よさそうに並んで
屈みながら、両手を合わせて御座るところが見えました。それを見ると
お八代さんは何やら胸が
塞がりましたらしく、急いで顔を押えながらお
霊屋の方へ行かれましたが、私はあとに残りまして、まことにお似つかわしいお二人の姿を見守りながら、呉様のお家の行く末の事なぞを考えるともなく考えておりますと、そのうちに、ゆくりなくも
二た昔以前の
お千世殿のお話を思い出しましたので、思わずハッと致した事で御座いました。
383/596
……
尤もその折に、これは年寄の要らざる気苦労ではないかと考えぬでも御座いませなんだが、それでも気に
懸っておりましたものと見えて、その夜になりますとどうしても寝つかれなくなったので御座います。
――そこで私はソロソロと起き上りましてナ……窓からさし込む月のあかりと、お
灯明の光を
便りに、
唯一人で本堂に参りまして、御本尊様を
勿体のうは御座いましたが両手をかけて、ゆすぶり動かしてみますと、この前の時には
慥かに聞えておりました物音が、すこしも致しませぬ。……のみならず何とのう中味が
空虚になっているような手応えでは御座いませぬか。
――その時にも虫が知らせたとでも申しましょうか、私は何やら空恐ろしい気持ちが致した事で御座いました。なれども思い切って御本尊様を
厨子の中から抱え卸して、この
方丈に持って参りまして、眼鏡をかけてよくよく
検めて見ますと、一面の
塵埃でチョット解り
難うは御座いますが、お像の首が襟の処で切り
嵌めになっておりまして、力を入れて揺すぶりますと抜けるようになっております。私はその時に成る程と思いました。そうして
轟く胸を押し
鎮めながら廊下伝いに土間に持ち出して音を立てぬように
塵を払うて参りまして、この
電灯の下に
毛氈を敷いて、その
切嵌めの処から御像の首を抜いて見ますと、ちょうどお
経筒の形に
刳り抜いてあります底の方に、古い
唐紙に包んだ灰があるにはありますが、その灰包みのまん中は、チャント巻物の軸の形に
凹んでおります。それを見ますと
虹汀様は絵巻物を焼いたと言うてはおかれましたが、別に何か深いお考えがあった事で御座いましょう。真実は焼かずに、
旧の形のままにして納めておかれましたもので、それを又、誰かが盗んで行ったもの……という事は、もはや疑いもない事と相成りました。ハイ……その外には、
周囲に詰めてありましたらしい古綿のほか、
紙屑一つ見当りませぬ……こちらへお出で下さい。
384/596
御本尊をお眼にかけましょうから。=
後段備考参照=
――御覧の通りで御座います……これは私の
不念と申しましょうか、何と申しましょうか……ああ……何か事が起らねばよいがと、胸を痛めました事は一通りでは御座いませなんだ。しかし又、一方から考えますと、もし
お千世殿が持って行かれたものとすれば、何の必要があっての事であろうか。又、
直方であのような最後を
遂げられた
後、今日までの間、誰が隠し持っていたものであろうか。
お千世殿の亡き跡を片付けられた
お八代さんが、見付け出しておらるれば一言なりとも私に話されぬ筈はないが……なぞと、とつおいつ【あれこれと手だてを尽くして】思案に暮れておりましたところへ、この
度の事が起りましたので、
最早心も言葉も及ばぬ不思議と申すよりほかに致し方が御座いませぬ。……
承りますればその絵巻物は、
一郎
殿の御乱心の
後、
行衛が知れませぬとの事で、これも
亦、不思議の一つで御座います。村の者の中には、
一郎
殿の乱心の前と後とに、絵巻物が蛇のように波を打って虚空を渡るのを見た……なぞと申している者があるそうで御座いますが
如何なもので御座いましょうか。これと申すも私の不念より起りました事で、亡くなられました
オモヨ殿と、狂気された
一郎
殿の御痛わしさ。老い先の短かい
生命に代られるものならばと思うて、涙にかき暮れまするばかり……云々。
◇第四参考 呉
八代子の談話概要
◇聴取時刻 前同日午後五時頃
◇聴取場所 同人宅奥座敷に
於て
◇同席者 呉
八代子、余(
W氏)――以上二人――
――ああ先生……ようお出でで下さいました。どのように待っておりました事か……イエイエ。私の傷は構いませぬ。
生命も何も要りませぬ。
385/596
どうぞどうぞお願いで御座いますからこの絵巻物を(……と固く秘めたる懐中より取り出して渡しつつ)お寺から盗み出して、あの石切場で待ち伏せして
一郎
に渡して、この家中の者を取り殺そうとたくらんだ奴を、ゼヒゼヒ探し出して下さいませ。そうして
其奴が見付かりましたならば、タッタ一言でよろしう御座いますから、何の
怨みでこのようなムゴイ事をしたかと(
涕泣)タッタ一言でよろしう御座いますからキットお尋ね下さいませ(涕泣)……
一郎
が正気でおりますうちにその人間の事を尋ね出し得ませなんだのが残念で残念で……わかったら骨を噛み砕いても飽き足らぬと(涕泣)……イエイエ。
直方を引き上げる時には、そんな物は御座いませなんだ。
一郎
の身のまわりは、私が残らず調べております。……警察の奴が何が解りましょう。
一郎
をあんな
非道い眼に会わせたりして……私は尋ねられても返事もしてやりませなんだ。……私はもう諦らめました。
一郎
が正気になろうがなるまいが、娘が生き返ろうがかえるまいが、私の生命がどうなろうが知りません。ただ妹の
千世と、
一郎
と、娘の
讐敵は同じ奴……この絵巻物の
事情を知りながら、あの
一郎
に見せた奴が……(興奮、錯乱して問答を継続し得ず。
386/596
爾後、約一週間の
後に到り、
漸次【次第に】平静に帰すると共に、放神状態になり行く傾向を認められつつあり)
◇備考 (イ)事件発生当日午前十時半、出入を禁じありたる呉家の土蔵(三番倉と呼ばれおるもの)の内部を検するに、階下の板の間の入口に敷かれたる古新聞の上に、呉一郎
の朴歯の下駄の跡と、モヨ子の外出穿きの赤きコルク草履が正しく並びおり、その傍より蝋燭の滴下起り、急なる階段の上まで点々として連なれり。
階上の状況、及、被害者の死体には格闘、抵抗、苦悶等の形跡を認めず。
死体頸部には絞縛したる褶痕【ひだやしわ】と鬱血、その他の索溝相交って纏繞【まといつく】せり、然れども気管喉頭部、及、頸動脈等も外部より損傷を認むる能わず。尚 脂粉【紅とおしろい】の香ある新しき西洋手拭一本、死体の前に置かれたる机の下に落在せるが、右は加害者の所持品にして、右凶行に使用したるものと認めらる。
机上中央には鼻紙【ちり紙】と覚しく、婦人の体臭ある四ツ折の半紙十数枚を重ねて拡げあり。その向って左端に同家の仏具の一たる真鍮の燭台を置き、百匁蝋燭一本を立てて点火したる跡あるが、後日検査の結果、点火後約二時間四十分を経て、消されたるものと推定されたり。
尚、この他に新しき三本の百匁蝋燭が燐寸の箱と共に机の下に置きありたるが、以上四本の蝋燭の上部、及、中央部附近に印せられおる数多の指紋は、悉く、被害者モヨ子の左右手各指の指紋のみにして、加害者呉一郎
のものは一個も存在せず。且つ、燐寸の箱よりも被害者の指紋のみが検出されたる事実より見れば、前記四本の蝋燭は、被害者自身が持ち来りたるものにして、手ずから燐寸を擦りてその中の一本に点火し、机の左端に置きたる事疑う余地なし。(その他八代子の足跡等に関する記述略)
(ロ)同夜九時、被害者の死体、九州帝国大学医学部法医学教室に到着、直ちに余(W氏)執刀、舟木医学士立会の下に解剖、同十一時終了の結果、死因は頸部の圧迫、絞扼死と判明す。且つ、被害者が何等かの原因にて意識喪失後、絞首したるものと推定さる。尚処女膜には異常を認めず。(その他略)
◇備考 (A)如月寺の本尊弥勒菩薩の座像を調査するに、頭大にして身小さく、形相怪異にして、後光も無く偏袒【片肌を脱ぐこと】もせず。普通の法衣の如く輪袈裟をかけ、結跏趺座して弥勒の印を結びたるが、作者の自像かと思わるる節あり。全体の刀法【彫り方】頗る簡勁【簡潔で力強い】、雄渾【雄々しくて勢いがいい】にして、鋸歯状【のこぎりの歯状の形態】、波状の鑿痕【のみあと】到る処に存す。底面中央に、極めて謹厳なる【つつしみ深い】刀法を以て「勝空」の二字を一寸角大に陰刻しあり。
(B)中央の空虚は縦深一尺、横径三寸三分余の円筒型にして、上部、及、底部に詰めたる綿と、灰の厚さを差引く時は、高さ一尺六分強となり、絵巻物(別参考品)の体積と相違なく適合せり。尚、その蓋に当る首の根の方形部には糊付けの痕残存せるを見る。
(C)灰を包みたる唐紙、及上下左右に詰めたるものと思しき綿を検するに、古色等、記録の時代と略相当するを認む。灰は検鏡【顕微鏡】分析の結果、普通の和紙と、絹布とを焼きたる形跡を認むるのみ。表装用の金糸、又は軸に用いられたるべき木材、その他の痕跡絶無也(その他略)
◇備考 (一)姪浜入口の国道沿い、海岸側に在る山裾の石切場附近を調査の結果、前日 呉一郎
が絵巻物を披見しつつ腰かけいたりという石は、切り残されたる粗石の蔭に位置しおりて、街道を通過する者の注意を惹き難き個所に在り。
(二)石切場内には大小無数の石片石塊と、石工の作業の跡、及、街道より散入したる藁、紙、草鞋、蹄鉄片、その他凡百の塵芥類似の物のほか、特に注意すべき遺物を認めず。尚、小雨に洗われたるがためか、呉一郎
その他一切の人物の足跡類似のものを認むる能わず。
(三)平生、同所にて作業せる石工にして、姪浜町七五番地ノ一に居住せる脇野軍平は、前々日来、その妻女ミツ、及、養子格市と共に腹痛下痢を発し、流行病の疑を受けて交通を遮断されおりしが、日ならずして本服後、二人に問い試みしところを総合するに、頃日来、作業中、疑わしき人物の石切場に立ち入り、又は附近を徘徊せしようの記憶無し。又同人等の疫病に関しては同所の魚類等は常に新鮮なるを以て、食物中毒等の原因は考慮し得ず。結局病原不明に帰せりと。
――――――――――
◇ 絵巻物写真版挿入の事
◇ 右絵巻物由来記記入の事
◇ 右第二回の発作全般に
亘る、観察研究事項記入の事
× × ×
ハッハッハッハッ……。
387/596
……どうです諸君。
面喰いましたかね。
これが吾輩の遺言書の中の最重要なる一部分なぞいうことは、もういい加減忘れて読んでいたでしょう。悲劇あり。喜劇あり。チャンバラあり。デカモノあり。これに加うるに
有難屋の宣伝もありという
塩梅で、ずいぶん共にオカカの感心、オビビのビックリに価する、奇妙
奇天烈な記録の内容でげしょう。
殊にその心理遺伝のあらわれ方の奇抜なことは、真に、お負けなしの古今無類【無比】で、現代の
所謂常識や科学知識の
如何なる虎の巻を
引くり返して来ても到底歯が立ちそうにない。
流石の名法医学者
若林鏡太郎博士も、この事件には少々
手古摺ったと見えて、その調査書類の中に、こんな
嘆息を
洩している。
曰く……
余はこの事件の犯人を敢えて仮想の犯人と呼ばむと欲す。何となれば、当該事件の犯人は、現代に於ける一切の学術は勿論、あらゆる道徳、習慣、義理、人情を超越せる、恐るべき神変不可思議なる性格の所有者と想像する以外に、想像の余地なければなり。即ち、此の如く、僅々二箇年の間に、三名の婦人と一人の青年とを或は殺し、或は発狂せしめて、その一家の血統を再び起つ能わざる【起き上がることができない】迄に破滅せしむるが如き残虐を敢えてせるにも拘わらず、その残虐の遂行手段は、いずれも偶然の出来事か、もしくは、或る超科学的なる神秘作用を装いて、それ以外の推測を許さず。犯人の存在は固より、此の如き犯行を一貫したる目的の存在さえも疑わしきものあり……云々。
……と……。ところでどうです。前に御覧に入れた記録と、この文句を照し合わせて御覧になった諸君は、最早
疾くにお気付きになっているであろう。
388/596
法医学専門の立場にいる
若林君の主張と、精神病学者としての吾輩の、該事件に対する主張の中心は、事件の勃発当初からハッキリと正反対になっていて、今日に到るまでも一致せずにいることを……。すなわち
若林君はその法医学者特有の眼光に照して、この事件には是非とも別に、隠れたる犯人が居るに相違ない。その犯人がどこからか糸を
操って、この事件に関するあらゆる不思議な現象を自由自在に
弄びつつ
衆目を
晦ましているに違いない……と初めからきめてかかっているのに対して、吾輩の方はドッコイそうは行かぬ。精神科学の立場から見ると、これは
所謂「犯人無き犯罪事件」だ。外形内容共に奇抜な精神病の発作のあらわれに過ぎないので、被害者も犯人も共に、
或る錯覚の下に同一の人間となって行った凶行に外ならぬのだ。それでも是非に犯人が必要だというのなら、呉
一郎
にこんな心理を遺伝せしめた先祖を捕えて牢屋へブチ込めと主張している。ここにこの事件の中心的興味が
繋がっている訳だが……。
エッ……ナナ何だって……ブルブル……もうこの事件の真犯人がわかったというのかね……。
……イヤ……これあドウモ驚いた。いくら名探偵だってそう敏活に頭が働らいちゃ困る。第一吾輩と
若林が飯の喰い上げになる。
まあまあ
急き込まずと待ってくれ
給え。たとい諸君の目指す人間が、正真正銘間違いなしのこの事件の真っ黒星で、
若林君の
所謂仮想の怪魔人であるにしても、要するにそれは一つの推測で、
確乎たる証跡があるわけではなかろう。又、たとい
確乎動かすべからざる証跡があって、犯人は現在どこに居って、どんな事をしているという事まで、諸君の方で知って御座るにしても、その犯人を取って押えてタタキ上げて御覧になった揚げ句に、アッとビックリ二の句が告げない新事実を、事件の裏面に発見されたならば、
如何遊ばす おつもりかね。フフフフフ……。
だからいわない事じゃない。
389/596
こんな深刻不可思議な事件を、
一寸した証拠や、概念的な推理で判断するのは絶対危険の大禁物である。すくなくともこの事件が、前記の通りの状態で勃発して
後、
如何なる径路を
履んで吾輩の手にズルズルベッタリに
辷り込んで来たか。それに対して吾輩が
如何なる観察を下し、
如何なる方法に
依って研究の
歩武を進めて来たか、且つ又、その研究によって摘発されたる第二回の発作の内容の説明が、
如何に
悽惨、痛烈、
絢爛、奇怪にして、且つ、
ノンセンスを極めたものがあるか。しかも、そうした研究の道程が、
何故に吾輩の自殺の原因にまで急変し、進展して来たか……というような事を徹底的に観察した
後でなければ、犯人の有無は決定されぬ筈だ。「サテはそんな事だったか……ウ――ン」と眼を
眩される筈だ……とまず一本
凹ましておいて……サテ、この事件に対する吾輩の研究が、その後どんな風に進展して行ったかという実況を、引き続き天然色浮出し映画について「御座います」抜きで説明する段取りとなる。
ところで吾輩みたいな田舎活弁の、しかも新米の映画説明の口上から「御座います」を抜いてしまったら、何の事はない素人の書いたシナリオの朗読みたいなものになるだろう。吾輩不幸にしてシナリオだの支那料理だのいうものを製造した事がないから 様子がよく わからないが、まだ夜が明ける迄には、だいぶ時間が余っているから、
今生のふざけ
序にそのシナリオなるものを一つ
やっつけてみよう。
但、ここで改めて断っておくが、こんな風に事件の核心である心理遺伝の内容を一番あとまわしにして、外側の事実から順々に中味へ中味へと支那料理……オット、シナリオにして行くのは筋がチャンポンという
洒落ではない。
390/596
この事件に関する吾輩の記録は、
悉く、事件そのものが、吾輩の眼界に入って来た当時のプロット【物語】によって並列されているので、この順序を研究しただけでもこの事件の真相はあらかたわかるという……この点に
就ては
憚りながら、極めて科学的な、絶対に
誤魔化しの無い
俯仰天地に
恥じざる真実の記録と信ずる次第で……御座います……かね……ヤレヤレ。
{
字幕} 呉
一郎
の精神鑑定=大正十五年五月三日午前九時、福岡地方裁判所応接室に於ける。
{
映画}
正木博士は
羊羹色の
紋付羽織、
セルの
単衣にセル
袴、洗い
晒しの白
足袋という村長然たる
扮装で、入口と正反対の窓に近い椅子の上に、悠然と葉巻を吹かしつつ踏ん
反りかえっている。
中央の丸
卓子の上には
正木博士所持のものらしい古
洋傘と、古
山高が
投り出してある。その傍に、フロック姿の
若林博士が突立っていて、
厳めしい制服姿の警部と、
セルずくめの
優形の紳士を、
正木博士に紹介している。
「
大塚警部……
鈴木予審判事……いずれもこの事件に最初から関係しておられる方々で……」
正木博士は立ち上って二人の名刺を受取ると、
如何にも気軽そうにペコペコと頭を下げた。
「私が、お召しに
依って
罷出でました
正木で……
生憎名刺を持ちませんが……」
警部と予審判事は一層
威儀【立ち居振る舞い】を正して礼を返した。
ところへ
紺飛白の
袷一枚を、素肌に
纏うた呉
一郎
が、二人の
廷丁【裁判所事務官】に腰縄を引かれて入って来ると、三人の紳士は左右に道を開いて
正木博士に
侍立した【つき従って立つ】形になった。
呉
一郎
はその前に立ち止まったまま、黒ずんだ
憂鬱な眼付きで
室の中をマジリマジリと見まわした。その白い腕や首の
周囲には大暴れに暴れながら無理に取押えられた時の
擦り傷や、
痣が
幾個となく残っていて、世にも稀な
端麗な姿を
一際異様に引っ立てているかのように見える。
391/596
その
背後から二人の
廷丁【裁判所事務官】が揃って挙手の礼をした。
正木博士は目礼を返しつつ、葉巻の煙を長々と吹かし終ると、手錠のかかった呉
一郎
の両手を無雑作に取って引き寄せながら、顔と顔を一尺位に近寄せて瞳と瞳とをピッタリと合わせた。その瞳の底を覗き込みつつ何事かを暗示するかのように……又は呉
一郎
の眼の光りを、自分の眼の光りで押し返して、その瞳孔の底に押し込むかのように……。こうして二人は眼と眼を合わせたまま暫くの間動かなかった。
そのうちに
正木博士の表情が、どことなく緊張して来た。……立ち会っている紳士たちの表情も、それにつれて緊張して来た。
しかしその中で
若林博士だけは
眉一つ動かさずに、青白い瞳を冷やかに伏せて、
正木博士の横顔を凝視していた。
正木博士の表情の中から、人知れず何ものかを探し求めるかのように……。
けれども呉
一郎
は平気であった。正気を失った人間特有の澄み切った眼付きで、何の苦労もなげに
正木博士の顔から視線を
外らすと、すぐ横に突立っている
若林博士の長大なフロック姿を下から上の方へソロソロと見上げて行った。
正木博士の表情が、みるみる柔らいで行った。呉
一郎
の横
頬を見ながらニッコリとして、消えかかった葉巻を吸立てつつ、気軽い調子で口を開いた。
「そのオジサンを知っているかね君は……」
呉
一郎
は、
若林博士の蒼い、長い顔を見上げたまま、こころもち うなずいた。夢を見るような眼つきになりつつ……。それを見ると
正木博士の微笑が一層深くなった。その時に呉
一郎
の唇がムズムズと動いた。
「……知っています。僕のお父さんです」
……と……。けれどもこの言葉が終るか終らぬかに変った
若林博士の表情の物凄さ……只さえ青い顔が見る間に血の
気を
喪って
白亜のように光りを失った額のまん中に青筋が二本モリモリと這い出した。
392/596
憤怒とも
驚愕とも形容の出来ない
形相になったと思うとヒクヒクと
顳顬を震わしつつ
正木博士を振り返った。今にも噛み付きそうな凄まじい眼色をして……。
併し
正木博士はそんな事には気が附かぬかのように、
四方構わぬ大声をあげて笑い出した。
「ハッハッハッハッ。お父さんはよかったね。……それじゃこのオジサンは誰だか知っているかね」
と言い言い自分の鼻を指した。
呉
一郎
はそのまま、矢張りマジマジとした眼付きで
正木博士の顔を見ていたが、間もなく唇をムズムズと動かした。
「……お父さん……です……」
「アッハッハッハッハッハッハッハッ」
と
正木博士は一層愉快そうに……しまいには呉
一郎
の手を離してトテモ
堪らなさそうに笑いこけた。
「アーッハッハッハッハッ。どうも驚いたな。それじゃ君のお父さんは二人いる訳だね」
呉
一郎
は考えるともなく
躊躇したが、間もなく黙ってうなずいた。
正木博士は いよいよ腹を抱えた。
「ワッハッハッハッ。トテモ素敵だ。珍無類【無比】だ。……それじゃ君は、その二人のお父さんの名前を
記憶えているかね」
正木博士が冗談半分見たようにこう言い出すと、今まで
煙に捲かれて面
喰い気味の一座の人々の顔が一時にサッと緊張味を示した。
しかし、呉
一郎
はこう尋ねられるとフッと暗い顔になった。静かに眼を
外らして、窓の外一パイに輝いている
五月晴れの空を飽かず飽かず眺めているようであったが、やがて何事かを思い出したらしく、その大きな眼に涙を一パイに浮き出させた。その様子を見ていた
正木博士は又も呉
一郎
の手を
執りながら、葉巻の煙を一服ユッタリと吐き出した。
「イヤ。もういいもういい。無理に君のお父さんの名前を思い出さなくともいいよ。どちらを先に思い出しても、エライ不公平なことになるわけだからね。
393/596
ハハハハハハ」
今まで異様な緊張味に
囚われていた人々が一時に笑い出した。やっとの事で、もとの表情を回復していた
若林博士も、変に泣きそうな、
剛ばった笑い方をした。
その笑い顔の一つ一つを、
如何にも注意深い眼付きで見まわしていた呉
一郎
は、やがて何やら失望したように、溜め息をしたまま伏し目になると、涙をハラハラと落した。その涙の
珠は、手錠の上から、汚れた床の上に落ち散って行った。
その手を取ったまま
正木博士は、無雑作に人々の顔を見まわした。
「とにかくこの患者は私がお預りしたいと思いますが
如何でしょうか。この患者の頭の中には、事件の真相に関する何等かの記憶がキット残っていると思います。只今御聞きの通り、誰の顔でも、父の顔に見えるという事は、
或はこの事件の裏面の真相を暗示している、
或る重要な心理のあらわれかも知れませんからね……出来れば私の力で、この少年の頭を回復させて、事件の真相に関する記憶を取出してみたいと思うのですが、
如何でしょうか……」
{
字幕} 解放治療場に呉
一郎
が現われた最初の日(大正十五年七月七日撮影)
{
映画} 解放治療場のまん中に立った五六本の
桐の木の真青な葉が、真夏の光りにヒラヒラと輝いている。
その東側の入口から八名の
狂人が行列を立てて順々に入って来る。中には不思議そうに、そこいらを見まわしている者もあるが、やがてめいめいに取りどり様々の狂態を初める。
その一番最後に呉
一郎
が入って来る。
如何にも
憂鬱な淋しい顔で、暫くの間
呆然と、四方の
煉瓦塀や、足元の砂を見まわしていたが、そのうちにフト自分の足の下の砂の中から何やら発見したらしく、急に眼をキラキラと光らして拾い上げると、両手の間に挟んでクルクルと
揉んでから、
眩しい太陽に透かしてみた。
それは青い、美しいラムネの玉であった。
394/596
呉
一郎
は
真正面に太陽に向けた顔をニッコリとさせながら、その玉を黒い
兵児帯の中にクルクルと捲き込んだが、大急ぎで
裾をからげて前に
屈みながら、両手でザクザクと焼けた砂を掘返し初めた。
最前から入口の処に突立って、その様子を見ていた
正木博士は、小使に命じて
鍬一
挺持って来さして呉
一郎
に与えた。
呉
一郎
は さも嬉しそうにお辞儀しいしい鍬を受け取って、前よりも数倍の熱心さでギラギラ光る砂を掘り返し初めた。それにつれて
濡れた砂が日光に
曝されると
片端から白く乾いて行った。
その態度を熱心に見守っていた、
正木博士はやがてニヤリと笑ってうなずきつつ、サッサと入口の方へ立ち去った。
{
字幕} それから約二個月後の解放治療場に於ける呉
一郎
(同年九月十日撮影)
{
映画} 解放治療場中央の
桐の葉にチョイチョイ枯れた処が見える。その周囲の場内の平地の処々に真黒く、墓穴のように砂を掘り返したところが、重なり合って散在している。
その穴と穴の間の砂の平地の一角に突立った呉
一郎
は、鍬を杖にしつつ腰を伸ばして、苦しそうにホッと一息した。その顔は真黒く秋日に
焦けている上に、連日の労働に疲れ切っているらしく、見違えるほど
窶れてしまって、眼ばかりがギョロギョロと光っている。流るる汗は止め度もなく、
喘ぐ呼吸は火炎のよう……
殊に、その手に杖ついている鍬の
刃先が、この数十日の砂掘り作業の
如何に熱狂的に猛烈であったかを物語るべく、波形に薄く
磨り減って、銀のようにギラギラと輝いている物凄さ……生きながらの焦熱地獄に
堕ちた、亡者の姿とはこの事であろう。
その呉
一郎
はやがて又、何者かに追いかけられるように、真黒な腕で鍬を取り直した。
395/596
新しい石英質の砂の平地に、ザックとばかり打ち込んで別の穴を掘り初めたが、そのうちに大きな魚の
脊椎骨を
一個掘り出すと、又急に元気付いて、前に倍した勢いで鍬を
揮い続けるのであった。
舞踏狂の女学生が、呉
一郎
の背後に在る大きな穴の一つに落ち込んで、両足を空中に振りまわしながら悲鳴をあげた。ほかの患者たちが手を
拍って喝采した。
しかし呉
一郎
は、ふり向きもせずに、なおも一心不乱に掘って掘って掘り続けて行くと、やがて今度は何か眼に見えぬものを掘り出したらしく、両手の
指でしきりに
捻ねくっていたが、すぐに鍬を取り直して、眼を火のように光らし、白い歯を砕けるほど噛み締めつつ、死に物狂いの体で足の下を掘り返しはじめた。
そのうしろから
正木博士が悠々と入って来た。鼻眼鏡をキラキラと光らせつつ、暫く呉
一郎
の作業振りを見守っていた。がやがて傍近く歩み寄って来て、鍬を振り上げた右の肩をポンとたたいた。
呉
一郎
は驚いて鍬を下し、
呆然となって
正木博士を振り返りつつ、流るる汗を
拭い上げた。
その
隙を見た
正木博士は、眼にも止らぬ早さで、片手を呉
一郎
の
懐に突込んで、汚いハンカチで包んだ丸いものと、最前掘り出した魚の
脊椎骨を
掴み出すと、素早く
背後に隠してしまった。しかし呉
一郎
はチットモ気付かぬらしく、なおも流るる汗を
拭い上げ
拭い上げして眼をしばたたきつつ、穴の中から見上げた。その顔を穴のふちから見下して
正木博士はニッコリした。
「今掘り出したのは何だね」
呉
一郎
は気まり悪る気に顔を赤くしつつ、左手の食指を博士の鼻の先に突き出して見せた。博士が鼻眼鏡を近づけてみると、その
指の頭には、女の髪の毛が一本グルグルと捲きつけてあった。
396/596
正木博士は、それが何を意味するかを知っているらしく、真面目な顔でうなずいたが、今度はうしろ手に隠していた汚れたハンカチの包みを解いて、中味を左の
掌に取ると、呉
一郎
の鼻の先に突き出した。その掌の中には、二個月
前にこの解放治療場に入ると直ぐに拾ったラムネの玉と、きょう掘り出した魚の骨との外に、赤いゴム
櫛の破片と、小
指ほどの
硝子管の折れたのが光っていた。
「これは、お前が土の中から掘り出したのだろう」
呉
一郎
は
喘ぎ喘ぎうなずいた。博士の顔と四ツの品物とを見比べつつ……。
「ウム……ところでこれは何だね。何の役に立つのかね、これは……」
「それは
青琅玕の玉【透き通った青緑色の玉】と、水晶の
管と、人間の骨と、
珊瑚の櫛です」
呉
一郎
は別段考えるでもなく、無雑作にそう答えると間もなく、博士の手から四個のガラクタとハンカチを受け取って、石のように固く結び固めると、
如何にも
大切そうに
懐中の奥深く押し込んだ。
「フーム。……ではお前は何のためにそんなに一所懸命になって、土を掘り返しているのだね」
呉
一郎
は又も土に打ち込みかけた鍬の左手に杖ついて、右手で足の下を指した。
「ここいらに女の死体が埋まっているのです」
「ウーム。ナルホド。ウーム」
と
正木博士は唸った。そのまま鼻眼鏡ごしに呉
一郎
の両眼を穴のあく程深く覗き込みつつ、厳格なハッキリした言葉付きで、一句一句、相手の耳に押し込むように問うた。
「……フーム……ナルホド……。しかし……その女の屍骸が、土の下に埋められたのは……イッタイいつの事だね……」
呉
一郎
は両手に鍬を支えたまま、ビックリしたように博士の顔を見上げた。その
頬の赤い色がスーと消え失せて、唇をムズムズと動かした。
「……イツ……イツ……イツ……いつの事……」
と
魘えたような口調で繰り返し初めた。
397/596
そうしてやや暫くの間、
茫然として、そこいらを見まわしていたが、やがて何ともいえない淋し気な、途方に暮れた表情にかわった。……パタリと鍬を取り落して、力なく眼を伏せると、ガックリとうなだれて穴を這い上りながら、ソロソロと入口の方へ歩み去った。
そのあとを見送った
正木博士は、腕を組んで会心の
笑を
洩らした。
「果せる
哉だ。心理遺伝が寸分の狂いもなく現われて来るわい。……しかし、もう
一辛棒しなくちゃなるまい。これからが本当の見物だからな……」
{
字幕} 再び同年十月十九日(前の場面から約一箇月後)の解放治療場内の光景。
{
映画} 一番最初に映写した通りの、平らな砂地になった場内の
煉瓦塀の前に、畠を打っている老人の
鉢巻儀作があらわれる。
但、
儀作は、最初の場面に現われた時よりも
一畝ほど余計に畠を作っているが、
傍に居る
痩せた少女も、その半分の処まで、枯れ枝や瓦の
破片を植えつけている。
その前に突立っている呉
一郎
も、最初の場面の通りに微笑を含んで、両手をうしろに回したまま、老人の打ち振る鍬の上げ下しを一心に見守っているが、
僅か一箇月ほど経過した間にスッカリ色が白くなって、肉が丸々と付いているのは、その間じゅう穴掘りの労働を中止して、自分の
室……第七号室に閉じ
籠っていたからであろう。
その
背後から
正木博士がニコニコしながら近付いて来て、
やおら肩の上に手を置くと、呉
一郎
はハッとしたように振り返った。
「……どうだい……久し振りに出て来たじゃないか。スッカリ色が白くなって……おまけに肥って」
「……ハイ……」
と呉
一郎
も相変らずニコニコしながら、又も鍬の上り下りを見守り初める。
「何をしているんだね。ここで……」
と
正木博士はその顔を覗き込むようにして尋ねた。……と、呉
一郎
は鍬に眼を注いだまま静かに答えた。
398/596
「……あの人の
畠打ちを見ているのです」
「フーム。だいぶ意識がハッキリして来たな」
と
正木博士は
独言のように言いつつ、その横顔を見上げ見下していたが、やがて心持ち語勢を強めて言った。
「……そうじゃあるまい。あの鍬が借りたいのだろう」
この言葉が終らぬうちに
一郎
の
頬がサッと白くなった。眼を丸くして
正木博士の顔を見たが、間もなく又、鍬の方を振り返りつつ
独言のようにつぶやいた。
「……そうです……あれは僕の鍬なのです」
「ウン。それは解っているよ」
と
正木博士はうなずいて見せた。
「……あの鍬は君のものなんだ。しかし
折角ああやって熱心に稼いでいるんだから、もうすこし待っていてくれないか。そのうちに十二時のドンが鳴れば、あの爺さんはキットあの鍬を放り出して、飯を喰いに行くにきまっているんだから……そうして午後はもう日が暮れるまで決して出て来ないのだから」
「キットですか」
こう言って
正木博士をふり返った呉
一郎
の眼は何となく不安そうに光った。
正木博士は安心せよという風に深くうなずいて見せた。
「キットだよ。……そのうちに今一丁、新しいのを買ってやるよ」
呉
一郎
は、それでも何かしら不安そうに鍬の上げ下げを凝視していたが、間もなく
独言のように
口籠りつつ つぶやいた。
「僕は今
欲しいんです……」
「フーム。何故だね……それは……」
しかし呉
一郎
は答えなかった。ピッタリと口を閉じて、又も、鍬の上下を見守り初めた。
正木博士はその横顔を、緊張した表情でジッと
睨みつけた。その表情の中から、何かを探り出そうと思っているらしい。
大きな
鳶の影が、二人の前の砂地をスーッと
辷って行く。
399/596
――――――――――
エート……ここまで御覧に入れましたところによって、呉
一郎
の心理遺伝のソモソモが
青琅玕の玉、水晶の管、
珊瑚の櫛なぞいうものを身に着ける、古代の高貴な婦人と関係があるらしい事と、その婦人をモデルと致しました
或る絵巻物を完成さすべく、呉
一郎
が
斯様に熱心に、女の死骸を求めているらしい事が、やっと判明して来たようであります。
しかし、その死骸が土中に埋められたのはいつかという
正木博士の質問に対して呉
一郎
が
茫然、答うるところを知らず、そのまま自分の
室に帰って考え込んでしまったのは何故か……。
それが又、一箇月後のきょう……大正十五年の十月十九日に到って、フラリとこの解放治療場に出て参りまして、老人の鍬が
空くのを一心に待ち構えているのは何故か……。
……こういう
間にもこの
狂人解放治療場の危機は、現在
如何なるところから、
如何にして迫りつつあるのか……。
この疑問を明らかにし得るものは、只今のところ、この事件を調査した
若林博士と、その相談相手となっている私だけ……否、スクリーンの中の
正木博士……ではない……イヤそうでもない……エエ面倒臭い、吾輩にしちまえ……
序に活動写真も止めちまえ。もう一つ
序に九大精神病科の教授室の深夜に、たった一人でこの遺言書を書いている、
正木キチガイ博士に帰っちまえだ。
少々ヨタが強過ぎるかも知れないが、どうせ死ぬ前の
暇潰しに書く遺言書だ。ウイスキーがいくら利いたって構うこたあない。あとは野となれ山となれだ……ここいらで又、一服さしてもらうかね。
……ああ愉快だ。こうやって自殺の前夜に、宇宙万有をオヒャラかした気持ちで遺言書を書いて行く。書きくたびれるとスリッパのまま、回転椅子の上に座り込んで、
膝を抱えながらプカリプカリと、ウルトラマリン【
群青】や、【
藤黄】の煙を吐き出す。
400/596
……そうするとその煙が、朝雲、夕雲の
棚引くように、ユラリユラリと高く高く天井を眼がけて渦巻き昇って、やがて一定の高さまで来ると、水面に浮く油のようにユルリユルリと散り拡がって、霊あるものの如く結ぼれつ解けつ、悲しそうに、又は嬉しそうに、とりどり様々の非幾何学的な曲線を描きあらわしつつ薄れ薄れて消えて行く。それを大きな回転椅子の中からボンヤリと見上げている、小さな
骸骨みたような吾輩の姿は、さながらにアラビアンナイトに出て来る魔法使いをそのままだろう…………ああ
睡い。ウイスキーが利いたそうな。ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ……窓の外は星だらけだ。……エ――ト……何だったけな……ウンウン。星一つか……「星一つ、見付けて博士世を終り」か……ハハン……あまり有り難くないナ……
ムニャムニャムニャムニャムニャ……
ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ……
ムニャムニャ ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ……。
× × ×
「どうだ……読んでしまったか」
という声が、不意に
私の耳元で起った……と思ううちに
室の中を……ア――ン……と反響して消え失せた。
その瞬間に
私は、
若林博士の声かと思ったが、すぐに丸で違った口調で、快活な、若々しい余韻を持っている事に気が付いたので、ビックリして
背後を振り向いた。けれども
室の中は隅々までガランとして、鼠一匹見えなかった。
……不思議だ……。
明るい秋の朝の光線が、三方の窓から洪水のように流れ込んで、数行に並んだ標本棚の
硝子や、塗料のニスや、
リノリウムの床に
眩しく反射しつつ静まり返っている。
……チチチチチチチ……クリクリクリクリクリクリ……チチ……
という小鳥の群が、松の間を渡る声が聞えるばかり……。
401/596
……おかしいな……と思って、読んでしまった遺言書をパタリと伏せながら、自分の眼の前を見るともなしに見ると……ギョッとして立ち上りそうになった。
私のツイ鼻の先に奇妙な人間が居る……最前から、
若林博士が腰かけているものとばかり思い込んでいた、大
卓子の向うの肘掛回転椅子の上に、
若林博士の姿は影も形もなく消え失せてしまって、その代りに、白い診察服を着た、小さな
骸骨じみた男が、
私と向い合いになって、チョコナンと座っている。
それは頭をクルクル坊主に刈った……
眉毛をツルツルに剃り落した……全体に赤黒く日に
焦けた五十格好の紳士であるが、本当はモット若いようにも思える……高い鼻の上に大きな縁無しの鼻眼鏡をかけて……大きなへの字型の唇に、火を
点けたばかりの葉巻をギュッと
啣え込んで、両腕を高々と胸の上に組んで
反りかえっている……
骸骨ソックリの小男……それが
私と視線を合わせると、悠々と葉巻を右手に取りながら、真白な歯を一パイに
剥き出してクワッと笑った。
私は飛び上った。
「ワッ……
正木先生……」
「アハハハハハ……驚いたか……ハハハハハハハ。イヤ
豪い豪い。吾輩の名前をチャンと記憶していたのは豪い。おまけに幽霊と間違えて逃げ出さないところはイヨイヨ感心だ。ハッハッハッハッハッ。アッハッハッハッ」
私はその笑い声の反響に取り捲かれているうちに全身が、おのずと
痺れて行くように感じた。右手に
掴んでいた
正木博士の遺言書をパタリと大
卓子の上に取り落した……と同時に、それを書いた
正木博士の出現によって、
今朝からの出来事の一切合財がキレイに否定されてしまったような気がして、急に全身の力が抜けて来て、又も、元の回転椅子の中へ、ドタンと尻餅を突いてしまった。幾度も幾度も
唾液を呑みながら……。
402/596
そうした
私の態度を見ると、
正木博士は いよいよ愉快そうに、椅子の上に
反りかえって
哄笑【大口をあけて笑う】した。
「アッハッハッハッハッ。ヒドク
吃驚しているじゃないか。アハハハハハ。何もそう
魂消る事はないんだよ。君は今、飛んでもない錯覚に陥っているんだよ」
「……飛んでもない……錯覚……」
「……まだわからないかね。フフフフフ。それじゃ考えてみたまえ。君は先程……八時前だったと思うが……
若林に連れられてこの
室に来てから色んな話を聞かされたろう。吾輩が死んでから一箇月目だとか何とか……ウンウン……あのカレンダーの日付けがドウとかコウとか……ハハハハハ驚いたか、何でも知っているんだからな……吾輩は……。それから君がその『キチガイ地獄の
祭文』だの『胎児の夢』だの新聞記事だの、遺言書だのを読まされているうちに、吾輩はもう
夙っくの昔の一箇月前に死んでいるものと、本当に思い込んでしまったろう……そうだろう」
「……………」
「アハハハハハ。ところがソイツは折角だが
若林のヨタなんだ。君は
若林のペテンにマンマと首尾よく引っかかってしまっているんだ。その証拠に見たまえ。その遺言書の一番おしまいの処を見ればわかる。ちょうどそこの処が
開いているだろう。……どうだい……昨夜から吾輩が夜通しがかりで書いていた証拠に、まだ青々としたインキの匂いがしているだろう。ハハハハハ。どんなもんだい。遺言書というものは、是非とも本人が死んだ後から現われて来なければならぬものと、きまってやしないぜ。吾輩がまだ生きていたって、何も不思議はなかろうじゃないか。アッハッハッハッハッ」
「……………」
私は
開いた口が
閉がらなかった。
正木、
若林の両博士が、何のためにコンナ奇妙なイタズラをするのかと思い迷った。
403/596
悪戯にしても余りに奇妙な、不合理な事ばかり……一体
今朝から見た色んな出来事や、様々の書類の内容は、みんな真剣な事実なのか知らん。それとも二人の博士が馴れ合いで、
私を
戯弄うために仕組んだ、芝居に過ぎないのじゃ ないかしらん……と……そんな風に考えまわして来るうちに、今の今まで
私の頭の中に一パイになっていた感激や、驚きや、好奇心なぞの山積が、同時にユラユラグラグラと崩れ初めて、自分の
身体と一緒にスウーとどこかへ消え失せて行くように感じたのであった。
それをジッと踏みこたえて、大
卓子の端に両手をシッカリと突いた
私は、鼻の先にニヤニヤしている
正木博士の顔を、夢のようにボンヤリと眺めていた。
「ウッフッフッフッフッ」
と
正木博士は
噴飯した。その拍子に
嚥み込みかけていた葉巻の煙に
咽せて、苦しさと
可笑しさをゴッチャにした表情をしながら、慌てて鼻眼鏡を押え付けた。
「アッハッハッハッハッ……ゴホンゴホン……妙な顔をしているじゃないか……ウフフフフフフ是非とも吾輩が死んでいないと具合がわるいと……ゲッヘンゲッヘン……言うのかね。ゲヘゲヘ弱ったなドウモ……こうなんだよ。いいかい。君は今朝早く……多分午前一時頃だったと思うが、あの七号室のまん中に大の字
形に寝ていた。そうして眼を
醒ますと、イキナリ自分の名前を忘れているのに驚いて、タッタ一人で騒ぎ回ったろう」
「……エッ……どうしてそれを御存じ……」
「御存じにも何も大きな声を出して
怒鳴り散らしたじゃないか。他の奴はみんな寝ていたが、この
室でこの遺言書を書いていた吾輩が聞き付けて行ってみると、君はあの七号室で、一所懸命に自分の名前を探しまわっている様子だ。
404/596
……
扨はヤット今までの夢遊状態から
醒めかけているんだナ……と思って、なおも大急ぎで遺言書を書き上げるべく、二階へ引返して来た訳だが、そのうちに夜が明けてから、やっと
居睡りから眼を
醒ました吾輩が、少々気抜けの
体でボンヤリしていると、間もなく
若林が例の新式サイレンの自動車で馳け付けて来る様子だ。……こいつは
面黒い。君が
夢中遊行の状態から
醒めかけている事を、早くも誰かが発見して
若林に報告したと見える。ナカナカ機敏なものだが、
扨馳け付けて来てドウするつもりか……となおも物蔭から様子を見ていると、
若林は君の頭を散髪さして湯に入れて、堂々たる大学生の姿に仕立て上げてから、君の
室と隣り合わせの六号室に入院している一人の美少女に引き合わせたろう。……しかも、それは君の
許嫁だというのでスッカリ君を
面喰らわせたろう」
「エッ……それじゃあの娘は、やっぱり精神病患者……」
「そうさ。しかも学界の珍とするに足る精神異状さ。大事の大事の結婚式の前の晩にカンジンカナメの
花婿さんから、思いもかけぬ『変態性欲の心理遺伝』なぞいう
途方トテツもない夢遊発作を見せられたために、吾れ知らずその夢遊発作の暗示作用に引っかけられて、その
花婿さんと同じ系統の心理遺伝の発作を起して、とりあえず仮死の状態に陥ってしまった。ところが、
若林の怪手腕によって、そこから息を吹き返して来ると、今度は千年も前に死んだ
玄宗皇帝や楊貴妃を慕ったり、居もしない姉さんに済まないと言い出したり、又は赤ん坊を抱く真似をして、お前は日本人になるんだよと言ったりしていた……
尤も今では、よほど正気付いてはいるがね……」
「……ソ……それじゃ……ア……あの娘の……名前は……何というので……」
「ナニ。名前……聞かなくたってわかっているだろう。
405/596
音に聞えた姪の浜小町さ……呉
モヨ子さ……」
「……エッ……ソ……それじゃ……僕は呉
一郎
……」
私が、こう言いかけた時、
正木博士はその大きなへの字口をピッタリと
噤んだ。葉巻の煙に顔を
しかめたまま、黒い瞳の焦点をピッタリと
私の顔に静止さした。
私は全身の血が見る見る心臓へ集中して、消え込んで行くように感じた。額から生汗がポタポタと
滴り落ちて、唇がわなわなとふるえ出して、又もフラフラとなりかけたように思った。大
卓子に両手を支えて立っている自分の
身体が空気と一緒に散り薄れて、あとにはただ眼の
球だけが消え残ってシッカリと
正木博士を凝視しているような……そんな気持ちの中に
私の魂は、無限の時間と空間の中を、死ぬほどの高速度で駈けめぐっていた……呉
一郎
としての自分の過去を、もしや思い出しはしまいかと恐れ
戦きつつ……自分の肺臓と心臓が、どこかわからぬ遠い処から、大浪を打たせて責めかかって来る音に耳を澄ましつつ……ワナワナブルブルと
戦きふるえていた。
けれども……その心臓と肺臓がイクラ騒ぎ立てて、
喘ぎまわっても、
私の魂はどうしても、呉
一郎
としての過去の思い出を
喚び起し得なかった。そのあいだに何遍頭の中で繰り返したか知れない、「呉
一郎
」という名前に対して「これが自分の名前だ」というような
懐かし味や親しみが
微塵ほども感ぜられなかった。
私の過去の記憶はイクラ考え直しても、
今朝暗いうちに聞いた「ブーン」という音のところまで
溯って来ると、ソレッキリ行き詰まりになって
終うのであった。……
私は他人が何と思おうとも……どんな証拠を見せつけられようとも、自分自身を呉
一郎
と認める事が出来ないのであった。
……
私はホーッと深いため息を一つした。それと一緒に全身の意識が次第次第に
私のまわりに立ち帰って来た。心臓と肺臓の波動が静まり初めた。
406/596
やがてドタリと椅子の上に腰をかけるトタンに、両方の腋の下からタラタラと冷汗が
滴たった。
すると、それと同時に
私の鼻の先で、澄まし返った顔をしていた
正木博士はプーッと一服、紫の煙を吹き出した。
「どうだい。自分の過去を思い出したかい」
私は無言のまま頭を左右に振った。そうしてポケットから新しいハンカチを引き出して顔の汗を
拭いているうちに、よほど気が落ち付いて来たように思った。……しかし、それにしても訳のわからない事があんまり多過ぎるようで、身動きするのさえ恐ろしくなりつつ、椅子の中へヒッソリと
居ずくまった。……と……間もなく
正木博士が大きな咳払いを一つしたので
私は又ビックリして飛び上りそうになった。
「……エヘン……思い出さなければモウ一度言って聞かせるが、いいかい……気を落ち付けてよく聞きたまえよ。君は現在、一つのトリックに引っかけられているのだよ。つまり……吾輩の同輩
若林鏡太郎博士は、君自身を呉
一郎
と認めさせて、充分に間違いのない事を確信させた上で、吾輩に面会させようとしているのだ。そうして吾輩をこの世に二人といない、極悪無道の
人非人として君に指摘させようとしているのだよ」
「エッ。あなたを……」
「ウン。まあ聞け。君がよく気を落ちつけて、
今朝から起った出来事を今一度ハッキリと頭の中で考え合わせて来さえすれば、万事が何の苦もなく解決するのだ。……いいかい」
正木博士は改めて真面目に帰ったように、落ち付いた調子で
咳一咳した。椅子の上に
反り返って濃い煙をあとからあとから吹き上げると、悠然として大暖炉の横にかかったカレンダーを振り返った。
「いいかい。改めて言っておくが、今日は大正十五年の十月二十日だよ。いいかい。もう一度、繰り返して言っておく。
407/596
きょうは大正十五年の十月二十日……この遺言書に書いてある通り、呉
一郎
が一個月振でこの解放治療場にヒョックリと出て来て、鉢巻
儀作爺の畠打ちを見物していた、十月十九日のその翌日なんだよ。……その証拠にあのカレンダーを見たまえ。……OCTOBER……19……すなわち
昨日の日付になっている。これは吾輩が昨日からあまり忙がしかったので、あの一枚を破るのを忘れていたからで、同時に吾輩が昨日から徹夜してここに居た事を証明しているのだ……いいかい。解ったね。……それから、
序に吾輩の頭の上の電気時計を見たまえ。今は十時十三分だろう。ウン。吾輩のとピッタリ合っている。つまり吾輩が今朝になって、その遺言書を書きさしたまま、
居睡りを初めてから、まだ五時間しか経過していない理屈になるんだ。……こうした事実と、その遺言書のおしまいの処のインキがまだ青々としている事実とを総合したら、吾輩がこうしてケロリとしていたって別に不思議がる事はなかろうじゃないか。いいかい、……この点をまずシッカリ頭に入れとかないと、あとで又大変な錯覚に陥るかも知れない
虞があるんだよ」
「……しかし……
若林先生が
先刻……」
「いけない……」
と
一際大きな声で言ううちに、
正木博士の右手の
拳骨が高く揚がると、
私の頭の中の迷いを一気にたたき
除けるように空間で躍った。……活発な……万事を打ち消すような元気を
横溢さして……。
「いけない。吾輩の言う事を信じ
給え。
若林の言う事を本当にしてはいけない。
若林はサッキからこの一点でタッタ一つの大失敗を演じているんだ。
彼奴は
先刻、この
室に入ると間もなく、吾輩がこの大暖炉の中で焼き棄てた著述の原稿の、
焦げ臭いにおいを嗅ぎ付けたに違いないのだ。
408/596
それからこの遺言書をこの
卓子の上で見付けると直ぐに一つのトリックを思い付て、その通りに君へ説明をしたんだ」
「……でも……けれども……今日は先生がお亡くなりになってから一箇月後の十一月二十日だと……」
「チェッ……
仕様がないな。ドウモそういう風にどこまでも先入主になって来られちゃ
敵わない……いいかい。聞き
給え……こうなんだよ」
と噛んで含めるように言いつつ
正木博士はさも
忌々し気に、舌に粘り付いた葉巻の屑を床の上に吐き棄てた。それから机の上にのしかかって
両肱を立てると、
呆然となっている
私の鼻の先に、煙草の
脂で黄色くなった右手の
指を突きつけて一句一句
私の頭の中へ押し込むようにして説明した。
「いいかね。よく聞き
給えよ。間違わないようにね……今日は吾輩の死後一箇月目だなんて、あられもないヨタを
若林が飛ばしたのは、君を騒がせないための小細工に過ぎないんだよ。いいかね……もし吾輩がこの遺言書をこんな風に書きさしたまま、どこかへ消え失せてから、まだ幾時間も経っていないという事が君にわかれば、君はキット吾輩が自殺に出かけたものと思ってハラハラするだろう。又実際そうとなったら
彼奴だってジッとしてはおられまい。友人の義務としても、又は、学部長の責任としても
否応なしに万事を打ち棄てて、吾輩の
行衛を突き止めて、自殺を喰い止めなくちゃ ならない事になるだろう。……ところで又そうなると
若林は、自分の手一つで君の過去の記憶を呼び返させ得る唯一無二の機会を失う事になるかも知れないだろう……ね……そうだろう……君が過去の記憶を思い出すか出さないかは、
若林の身にとってみると生涯の一大事になる訳があるんだからね。
409/596
しかも
今朝が絶好の機会と来ているんだから……」
「……………」
「……だから
若林は、吾輩がどこからか耳を澄ましているのをチャント知り抜いていながら、今日はこの遺言書が書かれてから一箇月後の十一月二十日だなぞと、法医学者にも似合わない尻の割れた
出鱈目を言って、とにも角にも君を落ち付かせようとしたんだ。そうしてゆっくりとこの実験を
遂げて、呉
一郎
としての君の記憶を回復させさえすれば、モウ何もかもこっちのものだと考え付いたんだ。……君が
若林の見込み通りに、呉
一郎
としての過去の記憶を回復しさえすれば、その次に、かく言う吾輩を君の
不倶戴天の親の仇、兼、女房の仇と認めさせる位の事は、説明の仕様で何の雑作もない事になるんだからね。……又、実際吾輩は有難い事に精神科学者なんだから、何も知らない呉
一郎
に催眠術でもかけて、親や女房を絞め殺させて、これだけの実験材料を
拵え上げる位の仕事はいつでも出来る自信があるんだからね。この事件の嫌疑者には持って来いの人物なんだ。ね。そうだろう」
「……………」
「そうして、もし又、万が一にもその実験がうまく行かなかったらだね。……つまりそんな書類を君に読ませても、君自身が何にも思い出さなかったら、最後の手段を用いてくれよう……今度は君に気付かれないようにソット姿を隠して、あとからキットここに出て来るに違いないであろう吾輩と君を突き合わせて、吾輩の顔を君が思い出すか出さないか……そうして思い出したら、その印象によって君自身の過去の記憶が回復されるかどうかを試験してやろう……そうして万が一にもその試験がうまく行ったら、究極するところ、吾輩の力で吾輩を恐れ入らしてやろうという、実に巧妙
辛辣を極めた計略を
謀らんだ訳だ。その辺の呼吸の鋭どい事というものは、実に
彼奴一流の専売特許なんだよ。
410/596
いいかい」
「……………」
「元来
彼奴はコンナ策略にかけては独特のスゴ腕を持っているんだ。ドンナに身に覚えのない嫌疑者でも、
彼奴の手に引っかかって責め立てられて来ると、頭がゴチャゴチャになって、考え切れないような心理状態に陥ってしまうんだ。とうとうしまいには何が何だかわからなくなったり、到底逃れられぬと観念したり、そうかと思うと慌てた奴は、成程
御尤も千万と感心してしまったりして、知りもしない罪を引き受けたりする位だからね。近頃
亜米利加で
八釜しい第三等の尋問法なんかは
屁の
河童だ。
彼奴の使う手は第一等から第百等まで、ありとあらゆる裏表を使い別けて来るんだから
堪らない。……現に今だってそうだ。仮りに吾輩が
彼奴の見込み通りに
斎藤先生を殺して、その
後釜に座って、コンナ実験をこころみて失敗をして自殺を思い立った人間とするかね。その吾輩がどこからか耳を澄ましている前で、だんだんと吾輩がそんな大悪人と認められて来るように……そうして君自身が、その吾輩の当の
怨敵である呉
一郎
自身と認められて来るように、合理的に話が進められて行く。同時に、その吾輩の生涯を
賭した事業の功績が、スウーッと奪い去られて行くのを、手も足も出ないまま見たり聞いたりして いなければ ならない状態に陥って行くとしたら、吾輩にとってコレ以上の拷問があり得るかドウか考えてみるがいい。そのまま黙って自殺するか、飛び出して来て白状するか、二つに一つの道しかないだろうじゃないか……
彼奴、
若林の
遣り口は早い話がザットこんな
塩梅式だから堪らないのだ。ドンナ難事件でも一旦
彼奴の手にかけるとなると、キットどこからか犯人をヒネリ出して来る。そのために
彼奴が『迷宮破り』なぞと新聞に唄われている事実の裏面には、こうした消息が
潜んでいるんだよ」
「……………」
「ところがだ。ところが今度という今度ばかりはそう行かないらしいんだ。
411/596
今朝から連続的にこころみて来た
彼奴の実験が、一々見込み外れになってしまって、君自身に何等の反応を現わさなかったばかりでなく、
彼奴お得意の尋問法のトリックが、コンナ風にテッペンから尻を割っているところを見ると、そんなに
恐怖がる程の事もないようだね。……
流石の古今無双の法医学者先生も、相手が吾輩というので緊張し過ぎたせいか、今朝から少々慌てて御座るようだ。
或はこれこそ先生の『空前絶後の失敗』かも知れないがね。ハッハッ……」
「でも……でも……でも……」
「まだ『でも』が残っているのかい……何だい……その『でも』は……」
「……でも……その実験は先生がなさるのが当り前……」
「そうさ。無論、君の過去を思い出させる実験は吾輩がやるのが当然さ。だから
彼奴はこんなトリックを用いて、この実験の結果を独り占めにしようとしたんだ……
彼奴は出来る限り吾輩を見殺しにしようとしたんだよ」
「エッ……ソ……そんな無茶な事が……」
「チャント実行されているから面白いだろう。第一吾輩が、その手を喰わずに、こうやって生き長らえて、ここへ出て来て
喋舌っているのが何よりの証拠じゃないか」
こう言い終ると
正木博士は、
如何にも憎々しい、皮肉を極めた冷笑を浮めた。回転椅子の上に
反りかえって
傲然と腕を組んだ。葉巻の煙を高々と吹き上げつつ
嘯いた。
恰も
若林博士が、どこからか耳を澄まして聞いているのをチャント予期しているかのように……。
それを見ると
私の心臓は又も、新しい恐怖に打たれて、一たまりもなく縮み上がってしまったのであった。……何という物凄い両博士の闘いであろう。何という深刻執拗な知恵比べであろう。
412/596
今の今まで、そんな恐ろしい闘争の間に自分自身が挟まれている事を夢にも知らなかった
私は……今の今まで見て来た苦しさや、せつなさ、恐ろしさや物狂おしさなぞが、みんなこの二人の博士の悪魔のようなトリックの引っかけ合いに引っかけられて、引きずりまわされて来たせいである事を、初めて気が付いた
私は……もう悲鳴をあげて逃げ出したいような衝動に満ち
充たされてしまったのであった。今にも立ち上りそうに腰を浮かしかけたのであった。……が……。
……しかしこの時の
私は、どうしたわけか一寸も椅子から離れる事が出来なかった。額にニジミ出る汗をハンカチで
拭いつつ、又も腰を落ちつけてため息した。そうして、
正木博士の顔を一心に凝視しつつ、その黒ずんだ、気味のわるい唇が動き出すのを、
生命がけの気持ちで待って いなければならぬ ような心理状態に陥ってしまったのであった。……それは恐らく、この二人の博士が、全力というよりも
寧ろ死力を
竭して奪い合っているほどの怪奇を極めた精神科学の実験そのものの魅力のために
私の魂がもう、スッカリ吸い付けられてしまっていたせいかも知れない……その話の底を流るる形容の出来ない不可思議な真実性が、グッと
私の心臓を引っ
掴んで、言い知れぬ好奇心の血を波打たせているせいかも知れない。……なぞと……そんな事を考えつつ
茫然として、眼の前の空間を凝視している
私の耳元に、又も
咳一咳した
正木博士の声が、新しく、
活き活きと響いて来た。
「ハハハハハハ……どうだい。もうわかったかい、錯覚の原因が……ウン。わかった。……
併しまだ少々解らないところが在るだろう。ウン。在る……なかなか頭がいいね。……第一そこに居る君自身が、どこの何という青年で、
如何なる因果因縁でもってこの事件に捲込まれるに到ったか……という事が君にはテンキリ解っていない筈だからね。ハッハッハッ……しかし心配し
給うな。
413/596
吾輩がこれから話すことを聞いておれば、一切の疑問が櫛の歯で
梳くようにパラリと解けて来る。その話というのは、少々重複するかも知れないが、その吾輩の遺言書の続きになる話で、この実験に関する吾輩と
若林の過去の秘密から、だんだんと呉
一郎
の心理遺伝の内容に立ち入って行って、一番おしまいに君自身が何者であるかという事が、やっとわかる段取りになるのだ。
尤もその途中で君自身が自分の身の上を感付くとすれば止むを得ない。話はそれ切りの
芽出度し芽出度しになる訳だが、その時はその時として、まずそれまでのお楽しみとして聞いていたまえ。……しかし、もう一度念を押しておくが、もうこの上に
尚、錯覚を起したりしちゃいけないよ。吾輩が幽霊だとか、吾輩が死んでから一箇月目だとかいうような飛んでもない気もちになってくれちゃ困るよ。ハッハッハッ、いいかい。これから先の話を聞いてそんな錯覚や妄想に陥ると、もう永久に取り返しが付かなくなるかも知れないからね。いいかい……ほんとに大丈夫かい。……ウンよしよし。それじゃ安心して話を進めるが……」
と言い言い
正木博士は消えかけた葉巻に火をつけた。それからポケットに両手を突込んでサモ
美味そうにスパスパと吸立てたが、
軈て葉巻を
啣え直すと、
濛々たる煙の中にヤッコラサと座り直した。
「……ところでだ。……ところで、こいつはいずれ社会に暴露される事と思うから、その時に新聞で見ればわかるが……
否。もう
昨日の夕刊か、今朝あたりの新聞に出ているかも知れないが……実は、昨日、あの
狂人の解放治療場に一大事変が勃発したのだ。
414/596
つまり吾輩がこの事件を中心とする心理遺伝の実験の結論をつけるために、あの解放治療場の精神病者の群れの中に仕掛けておいた精神科学応用の爆弾の導火線が、この間からジリジリと燃え
詰って来たのが、昨日の正午――すなわち大正十五年の十月の十九日の
午砲が鳴ると
殆ど同時に物の美事に爆発したのだ……ナアニ。種を明かせば何でもない。その導火線というのは一丁の鍬に仕かけてあったに過ぎないのだが、何といっても精神科学を応用した導火線で煙も立てず、火も見えないのだから普通人の眼には、そんな種仕掛けがあるものとは思えない。どこまでも普通の鍬としか見えていなかったのだ。……しかも、その結果は、正直のところ爆発し過ぎたと言ってもいい位で、吾輩も一時
面喰った位の意外な惨劇になってしまったので、その責任を負うた吾輩は、即刻、総長室に出頭して辞職を申し出たんだが……なおよく考えてみると……何でもここいらが吾輩の実験の切り上げ時らしい。吾輩の今日までの研究に関する一切の発表はあとに
若林が控えているから……実は吾輩もその時までは
若林を、それほど腹の黒い奴と思っていなかったもんだからね……
若林が、どうにかしてくれるだろう。
序に面倒臭いから人間の方も辞職しちまえ……というので吾輩は一旦、下宿へ帰って、あとを片付けて、それから
東中洲の賑やかな処で一杯引っかけてスッカリいい心持ちになりながら、書類を整理すべくここへ引返して見ると……又驚いたね。つい今
先刻、吾輩がここを出かける時まで
空室であった、あの六号の病室にアカアカと電灯が
灯いている。おかしいなと思って帰りかけている小使に様子を聞いてみると、
若林先生がどこからか一人のお嬢さんを連れて来て、当直の医員に頼んで、たった今入院おさせになったところだと言う。おまけにそのお嬢さんというのは、今までに見た事もない、何ともかんとも言えない美しい
綺倆【
器量】だと言うんだ。」
415/596
「……その時には
流石の吾輩も、思わずアッと感嘆の
膝を打ったね。コイツは
面黒い事になった。この様子でみると
彼奴若林鏡太郎はどうして一筋縄にも二筋縄にもかかる奴じゃない。
彼奴の法医学者としての価値に相当する……否、それ以上かも知れない大悪党だ。第一、吾輩の前ではスッカリ猫を
冠っているが、ウッカリすると吾輩に敗けない位の精神病学者で、おまけに人情の弱点を利用する事に
頗る妙を得ているという事が一ペンにわかってしまったのだ。……というのはほかでもない。この遺言書にも書いておいた通り、
彼れ
若林鏡太郎が、この事件の勃発当時に、学長の権威を利用して
彼の少女を生きた亡者にしてしまって、自分の手中に握り込んだ目的がどこにあるかという事は、その当時から今日までどうしてもわからなかったのであるが、今となってみると何の事はない。
彼奴は、君が
或る程度まで本性を回復した時を見澄まして、コッソリとあの娘に引き会わせて、色と、欲と、理詰めの三方から、君自身に君自身を無理にも呉
一郎
と認めさせよう。そうして今も言ったように、吾輩を君の
不倶戴天の
仇敵と思い込ませて、その事実を公式に言明させよう……彼の思い通りに引き
歪めた事件の真相を社会に暴露させてやろう。……のみならず、その君の言明を、自分の
畢生【一生】の事業としている『精神科学的犯罪とその証跡』の第一例として掲げようと
巧らんでいるスジミチが手に取る如くわかって来たのだ。」
「……そこで吾輩も考えた。……よろしい。そっちがそんな考えなら、こっちにも
了簡【考え】がある。もともと
若林の精神科学的犯罪の研究は、吾輩独創の心理遺伝の学理原則を土台にして組み立てられているんだから、まぜっ返しをしようと思えば訳はない。
416/596
ここで思い切って吾輩の精神科学の研究発表の原稿を全部焼き棄ててしまって、あとにその内容の概略を書いたヒヤカシ半分の遺言書を残しておけば、
彼奴、
若林は嫌でも応でもその著述の中に、この遺言書を組み込まなければ研究発表の筋が立たなくなる訳だ。しかし、果して
彼奴が吾輩の遺言書を公表し得るかどうか……公表するとすれば、どんな風に手品を使って公表するかは、ずいぶん面白い見物だぞ……事に
依ると吾輩の遺言書は恐らく空前絶後のタチのわるい置き土産になるかも知れないぞ……。
……と……こう考えると吾輩、急に嬉しくなったね。大急ぎでこの
室へ来て書類をスッカリ焼き棄てて、この遺言書を書き初めたんだが、そのうちに夜が明けてみると、君が覚醒しかけたというので、兼ねてから待ちかねて準備していた
若林が時を移さず馳けつけて、早速
彼の美少女に引き合わせた。……が……こいつはまんまと首尾よく失敗した。
尤も先方は君を恋しい恋しい兄さんと認めてくれたので、まず半分は成功した訳だが、御本尊の君自身が、あの美少女にズドンと
肘鉄砲を喰わせた……自分の
従妹とも
許嫁とも、何とも認めなかったので、今度は手段をかえて、君をこの
室に連れて来る様子だ。」
「……ところで、実を言うとこの時には吾輩も
聊か
狼狽したね。恐るべきは
彼奴、
若林鏡太郎だ。
彼奴は吾輩のこうした心事を、もう
疾っくに見抜いていたんだ。
彼奴は吾輩が遅かれ早かれこの危険千万な放れ業式の解放治療の実験を切り上げて、その内容を学界に発表すると同時に、
行衛を
晦ますであろう事を、ずっと前から察していたんだね。しかも、それと同時に、この
姪の
浜の花嫁殺し事件も、吾輩一人の実験材料に使い棄てて、あとから誰が見ても犯罪事件と見えないようにして、学界に報告するであろう事までもチャンと
看破していたんだね。そこで
彼奴は全力を
挙げて電光石火式に事を運んだ。
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そうして吾輩がまだ
行衛を
晦まさないうちに吾輩を押え付けてギャフンと参らせようと、
巧らんだ訳だ。
……
彼奴は吾輩が昨夜からここに
居据わりで居る事を、
今朝本館の玄関を入ると同時に
見貫いていたに違いない。そうして何等かの策略で吾輩を
凹ませるために、君をここへ連れて来るんだな……と気が付いたから、ドッコイその手は
桑名の何とかだ。一つ驚かしてやれと思って、その遺言書や、焼き残りの書類をそこに置きっ放しにしたまま、ウイスキーの瓶と一緒に姿を消してしまったのだ。無論窓から飛び出したのでもなければ、向うの扉から抜け出した訳でもない。一歩もこの
室から出ないまま誰にも気付かれないように消え失せた……というと何だか又精神科学応用の手品じみて来るが、そんな事じゃない。種というのはこの大
暖炉だ。」
「この大暖炉は、万一この実験が失敗するか、又は吾輩の研究の内容を他人に盗まれそうになった時に、そんな著述の原稿を全部、この中で焼き棄ててくれよう。事に
依ったら吾輩自身もこの大暖炉を利用して天下を
煙に巻きながら、ヒュードロドロドロと
行衛を晦ましてくれようと思って、最初から
瓦斯と電気
併用の自動点火式に設計したものだが……
見給え……この鉄の蓋を取ると、
内部はこんなに広々して、底一面の電熱装置の間から
瓦斯が噴き出すようになっている。何の事はない
ブンゼンラムプの大きなヤツを二百ばかり
併列した形だ。この上に生きた物でも
戴せて、
瓦斯のコックを開いて電気のスイッチを
捻じると、取りあえず
瓦斯が飛び出して窒息させてしまう。そのうちに電熱器が熱して来て、ドカンと
瓦斯に点火したら一時間経たぬうちに骨までボロボロになって
終うだろう。その上に石でも瓦でも積み重ねておくと全部白熱して強烈な
輻射熱を出すのだからね。
見給え、肉よりも焼け
難いという西洋紙の原稿ばかり、本箱に四杯近くもあったのが、どうだい。
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たったこれんばかりの白い灰になってしまっているだろう。これで吾輩が又
煙になれば、折角の大学理が、又、もとの空中に還元されて
終うわけだ。ハッハッハッ。……吾輩は、君と
若林が、あの階段を上って来る音を耳にすると同時に、ウイスキーの瓶と一緒にこの中に逃げ込んで、この灰の上にこうして新聞紙を敷いて楽々と
胡座を
掻いたまま、いつ何時でも煙になる覚悟で、葉巻を吹かし吹かし耳を澄ましていた訳だ。」
「……ところが
流石は
彼奴だ。天下の名法医学者だ。吾輩の姿が見えなくても平気の平左でいるばかりか、すぐにその機会を利用して君を錯覚に
陥れ初めた。……
彼奴のアタマは聖徳太子と同様二重三重に働くんだからね。だから吾輩や
斎藤先生の事を色々と君に話して行く片手間に、この遺言書の内容を大急ぎで検査してみると、少々都合のわるい処もあるが、結論まで書いてないのだからまず安全である。のみならず、こいつを君に読ませれば、自分で説明するよりも遥かに都合よく、君自身を呉
一郎
と思い込ませ得るという見込みが付いたので、わざと君に押し付けておいて、君が夢中になって読んでいるうちにコッソリ姿を消してしまったのだ。そうしてこれに対して吾輩がドンナ処置を
執るかを試験しているらしい様子だ。」
「……そこで吾輩 いよいよ面白くなったね。……よし……その儀ならばこっちも一つその計略の裏を行って、あべこべに
彼奴の挑戦に逆襲してやれと思って、
暖炉の中からソーッとここへ出て来て、この椅子に腰を卸しながら、君がその遺言書を読み終るのを待っていた訳なんだが……。ハッハッ……どうだい。今君と吾輩とは天下の名法医学者、
若林鏡太郎氏の計画の下に対決しているんだよ。
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そうして君がどこの何という名前の青年であるか……この事件と
如何なる因果関係によって結び付けられて、現在その椅子に座らせられているのかという事は、まだ学理上にも実際上にも明白に決定されていないのだよ。
……だから
彼奴、
若林の予想通りに、君がその自我忘失症から、姪の浜の一青年呉
一郎
として覚醒して、吾輩をその事件の裏面に活躍している怪魔人……血も涙もない極悪非道の精神科学の手品使いとして指摘すれば、この対決は吾輩の負けになる。しかし、これに反して、君がドウシテモ呉
一郎
としての過去の記憶を思い出さなければ、早い話が吾輩の勝になる……君は『自我忘失症』と名づくる一種の自家意識障害を起して、九大の精神科に収容されている、第三者の立場から
若林の手にかかって突然にこの事件に捲き込まれて来た無名の一青年という事実が公表され得る事になって、
若林の計画がオジャンになるという、その際どい土俵際に立っているんだよ君は……。ドウダイ面白いだろう。古今無双の名法医学者と、空前絶後の精神科学者の、痛快深刻を極めた知恵比べだ。しかも、その勝負を決すべき呉
一郎
が、君自身だかどうだかは、今も言う通りまだ決定しないでいる。ハッケヨイヤ残った残ったというところだね。ハッハッハッ……」
正木博士の高笑いは、
室の中の色々なものにケタタマシク反響しつつ、
私の耳に飛び込んで来た。そうして二人の博士の言う事の、どちらが本当か
嘘か解らないままボンヤリとなっている
私の頭の中を、メチャメチャに引っかき回すとそのまま、どこかへシインと消え失せて行った。
しかし
正木博士は
私のそうした気持ちに頓着【気にすること】なく、又も片眼をシッカリとつぶって、さも
美味そうに葉巻の煙を吸い込んだ。それから回転椅子の肘掛けに両手を突張って、ソロソロと立ち上りかけた。
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「……や……ドッコイショ……と……そこで いよいよ本勝負に取りかからなければ、ならないのだ。まず是非とも吾輩の手で君の過去の記憶を回復さして、君が誰であるかを君自身に確かめさせなくちゃ、
若林の手前、
卑怯に当るからね。……とりあえずこっちに来てみたまえ。今度は吾輩自身が、君の過去を思い出させる第一回の実験をやってみるんだから……」
私はもう半分夢遊病にかかっている気持ちでフワフワと椅子から離れた。どこからか
若林博士の青白い瞳が覗いているような気味わるさの中を、
正木博士に導かれるままに南側の窓に近づいた……が……
正木博士の白い診察服の肩ごしに窓の外を一眼見ると、
私はハッとして立ち止まった。
眼の下に
狂人解放治療場の全景が展開されているのであった。……そうしてその一隅に
紛れもない呉
一郎
が突立っているのであった。……老人の
畠打ちを見守りながら、背中をこっちに向けている……
髪毛を
蓬々とさした……色の白い……
頬ぺたの赤い……黒い着物をダラシなく
纏うた青年の姿……。
その
悽惨な姿をアリアリと現実に見た一瞬間、
私は思わず眼を閉じた。その上から両手でピッタリと顔を
覆うた。……とても正視出来ないほどの驚きと……恐れと……言い知れぬ神経の緊張に打たれて……。
421/596
……呉一郎
はあそこに居るじゃないか。あれは彼の遺言書の中に書いてあった呉一郎
の姿に違いないじゃないか。そうしてあれが呉一郎
に間違いないとすれば……ここに立っている私は一体、何者であろう……。
……たった今窓の外を覗いた一瞬間に、私自身が、私自身から脱け出して行って、姿をかえてあそこに突立っているような……それを、あとに残った魂魄だけが眺めているような……そんなような陰惨な、悽愴とした感じ……。
……もしや今見たのは私の幻覚ではなかったろうか。白昼の夢というものではなかったろうか……。
頭の中で電光のように、こう考えまわしつつ……何ともいえず息苦しい、不可思議な興奮に
囚われつつ、
私は又も、
徐かに眼を開いてみた。
しかし解放治療場内の光景は、どう見直しても夢とは思えなかった。……青い青い空……赤い
煉瓦塀……白く
眩しく光る砂……その上を
逍遥う黒い人影……。
その時に、
私の前に立って、何かしら考え込んでいた
正木博士は、
やおら私をふり返って、何気なく窓の外を
指した。
「……どうだい……ここがどこだか知っているかね君は……」
けれども
私は返事が出来なかった。只
微かに
首肯いて見せたばかりであった。それほど
左様に
私は眼を開いた次の瞬間から、何ともいえぬ異様な場内の光景に魅せられてしまったのであった。
青空の光りと照し合っている場内一面の白砂の上を、ウロウロと動きまわっている患者たちの黒い影は、
殆ど全部が、最前の遺言書に描き あらわして あった通りの仕事を、そのままに繰返していた。
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恰も、その一人一人の一挙一動が、
正木博士の心理遺伝の原則を、実地に証明する芝居ででもあるかのように……
儀作老人は依然として
鍬を
揮いつつ、今一本の新らしい砂の
畝を作り……青年呉
一郎
はやはり、こっちに背中を向けながら、老人の前に突立って、鍬を動かす
手許を一心に見守っている。……
年増女は、ボール紙の王冠を落したのを気付かぬまま、威張ってあるきまわり……それを拝んでいた
髯面の大男は、拝みくたびれたかして、砂の中に
額を突込んで眠り……小男の演説家は
煉瓦塀に
拳固を押し当てて祈り……痩せた青黒い少女は、老人の作った新しい
畝に植えるものを探すらしく、キョロキョロと場内を物色してまわっている。そのほかの連中も、その位置が違っているように思えるだけで、やっている仕事の意味は、最前読んだ遺言書の説明とすこしも違わない。
唯……最前から歌を唄って踊りまわっていた筈の、舞踏狂らしいお
垂髪の女学生が、
私たちの立っている窓のすぐ下に、肩まで手が入るような砂の穴を掘って、ボール紙の王冠と、松の枯れ枝を利用しながら、小さな
陥穽を作りかけているのが、少々脱線しているように思われるだけである。しかし、いずれにしても
正木博士がたった今話した、
昨日の正午の大惨事というのは、いつ、どこで、どの
狂人が起したものか、そんな形跡さえ見えないのが、
私には不思議に思われて仕様がなかった。舞踏狂の少女が歌をやめたせいか、それとも
硝子窓越しに眺めているせいか、すべてが影のようにヒッソリと静り返っている。その薄気味わるさ……こころみに人数を数えてみると、やはり遺言書に書いてある通りの十人で、
殖えても減ってもいないのはどうした事であろう。
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しかも、更に不思議な事には、その何も変った事のない、静かにハッキリした光景を見下しているうちに、この十人の
狂人の心理遺伝を利用して、
正木博士が仕掛けておいたという精神科学的の大爆発……
正木博士の辞職の原因となった大惨事が、もうじきに初まろうとしている……それは昨日の事でもなければ
一昨日の事でもない。たった今、眼の前に起りかけている事実なのだ……という予感がして、しようがないのであった。否……場内に居る
狂人ばかりではない。向うの屋根の上に二本並んで、藍色の大空を支えている赤
煉瓦の大煙突……その上から、たった今吐き出され初めた黒い黒い
煤煙のうねり……その上にまん丸くピカピカ光っている太陽までもが、何等かの神秘的な精神科学の原則に支配されつつ、時々刻々にその空前絶後の大事変の方へ切迫して行きつつあるのではないか……というような底知れぬ冷やかな、厳粛な感じが、
頻りに首すじの処へ襲いかかって、全身がゾクゾクして来るのを我慢する事が出来なかった。そんな馬鹿な事が……と思えば思う程そう思えて仕様がなくなって来るのであった。
私はそうした神秘的な……息苦しい気持を押え付けよう押え付けようと
焦燥りつつ、なおも、解放治療場内の光景に眼を注いだ。老人の畠打ちを見ている呉
一郎
のうしろ姿を、異様な胸の
轟きのうちに凝視した……。
その時であった。
私の耳の傍で突然に、低い、
囁やくような声がしたのは……。
「何を見ているのだね……君は……」
その声の調子は、今までの
正木博士のソレとは丸で違っていたので、
私は又もドキンとして振り返った。
見ると
正木博士は、いつの間にか
私のすぐ傍に来て、細い煙の立つ葉巻を手にして突立っていたが、その顔からは今までの微笑が、あとかたもなく消え失せていて、鼻眼鏡の下に真黒い瞳を据えたまま穴のあく程
私の横顔を
睨みつけているのであった。
424/596
……
私は深い溜息を一つした。そうして出来るだけ気を落ち付けて返事をした。
「解放治療場を見ているのです」
「フ――ウ――ム」
と腹の底で
唸った
正木博士は、やはり瞬き一つせずに
私の瞳を見据えた。
「フ――ム。……そうして何か見えているかね……解放治療場の中に……」
私は
正木博士の尋ね方が何となく異様なので、静かにその瞳を見返した。
「ハイ……
狂人が十人居るようです」
「……ナニ……
狂人が十人……」
と慌てた声で言いさした
正木博士は、何かしら余程驚いたらしく、今一度グッと
私を
睨み付けた。
その視線を横
頬に感じながら、
私は又も解放治療場内をふり返って、呉
一郎
のうしろ姿を凝視しはじめた。……今にもこっちを振り向いて、
私と顔を合わせそうな気がして……そうしたら、何かしら大変な事が起りそうに思えて……
身体じゅうが
自然と固くなるように感じつつ……。
「ウーム……」
と
正木博士は
私の横で気味のわるい程ハッキリと唸った。
「あの中で
狂人が遊んでいるのが、アリアリと見えるかね君には……」
私は無言のまま うなずいた。いよいよ奇妙な質問の仕方だとは思いながら、別段気にも止めないで……。
「フ――ム。そうして人数はやっぱり十人いるというのかね」
私は又、うなずきつつ振り返った。
「ハイ。キッチリ十人おります」
「……ウ――ム……」
と
正木博士は唸った。真黒い眼の
球を奥の方へ
凹ませながら……。
「フーム。こいつは妙だ。……トテモ面白い現象だぞこれは……」
と
独言のように言いつつ、
徐ろに
私の顔から視線を
外らして窓の外を見た。そうして心持ち青白い顔になって、ジッと考え込んでいるようであった。がやがて以前の通りに元気のいい顔色に返ると、ニッコリと白い歯を見せつつ
私を振り返った。窓の外を指しつつ
快活な口調で問うた。
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「それじゃモウ一つ尋ねるが、あの畠の一角に立って、老人の鍬の動きを見ている青年がいるだろう」
「ハイ。おります」
「……ウム……いる……ところでその青年は今、ドッチを向いて突立っているかね」
私は
正木博士の質問が、いよいよ出でてイヨイヨ変テコになって来るので、妙な気持ちになりながら答えた。
「こちらに背中を向けて突立っております。ですから顔はわかりません」
「ウン……多分そうだろうと思った。……しかし見ていたまえ。今にこちらを向くかも知れないから……。その時にあの青年が、どんな顔をしているかを君は……」
正木博士がこう言いさした時、
私の全身は
何故か知らずビクリとして強直した。心臓の鼓動と呼吸とが、同時に止まったように思った。
その時に
正木博士に
指されていた青年……呉
一郎
のうしろ姿は、あたかも、何等かの暗示を受けたかのように、フッとこちらを振りかえった。
私達の覗いている
硝子窓越しに、
私とピッタリ視線を合わした……と……その顔に、今まで含まれていたらしい微笑がスーと消え失せて……
今朝程、あの湯殿の鏡の中で見た
私の顔と寸分違わない、ビックリしたような表情にかわった。……顔の丸い、眼の大きい、
腮の薄い……と思う間もなく、又も、ニコニコと微笑を含みながら、しずかに老人の畠打ちの方に向き直ってしまった……ように思う……。
……
私はいつの間にか両手で顔を
覆うていた。
「……呉
一郎
は……
私だ……
私は……」
と叫びつつヨロヨロとうしろに、よろめいた……ように思う……。
それを
正木博士が抱き止めてくれた。そうして
噎せかえるほど
芳烈な、火のように舌を刺す液体をドクドクと口の中へ注ぎ込んでくれた……ように思うが、何が何であったかハッキリとは記憶しない。
唯、その時に
正木博士が、
私の耳の傍で
怒鳴っていた言葉だけが、切れ切れに記憶に残っているだけであった。
426/596
「……しっかりしろ。
確りしろ。そうして今一度よく、あの青年の顔を見直すのだ。……サアサア……そんなに震えてはいけない。そんなに驚くんじゃない。ちっとも不思議な事はないんだ。……確りしろシッカリ……あの青年が君にソックリなのは当り前の事なんだ。学理上にも理屈上にも在り得る事なんだ。……気を落ちつけて気を、サアサア……」
私はこの時、よく気絶して
終わなかったものと思う。おおかたこの時までに、いろんな不思議な出来事に慣らされていたせいかも知れないが、それでも、どこか遠い処へ散り薄れかけている自分の魂を、一所懸命の思いで、すこしずつ すこしずつ 呼び返して、もとの
硝子窓の前にシッカリと立たせる迄には何遍眼を閉じたり
開いたりして、ハンカチで顔をコスリまわしたか知れない。しかも、それでも
私には今一度窓の外を見直す勇気がどうしても出なかった。
頭を
低れて床の
リノリウムを
凝視たまま、何回も何回もふるえた溜め息をして、舌一面に燃え上る強烈なウイスキーの
芳香を吹き散らし吹き散らし していたのであった。
正木博士は、その間に手に持っていたウイスキーの平べったい瓶を診察着のポケットに落し込んだ。そうして自分自身もやっと落ち付いたように咳払いをした。
「イヤ。驚くのも無理はない。あの青年は君と同年の、しかも同月同日の同時刻に、同じ女の腹から生れたのだからね」
「……エッ……」
と叫んで
私は
正木博士の顔を
睨んだ。同時に一切がわかりかけたような気がして、やっと窓の外の呉
一郎
をふり返るだけの勇気が出た。
「……ソ……それじゃ僕と、あの呉
一郎
とは
双生児……」
「イイヤ違う……」
と
正木博士は厳格な態度で首を振った。
「
双生児よりもモット密接な関係を持っているのだ。
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……無論他人の空似でもない」
「……ソ……そんな事が……」
と言い終らぬうちに
私の頭は又、何が何やら解らなくなってしまった。一種の皮肉な微笑を含みかけた
正木博士の顔の、鼻眼鏡の下の、黒い瞳を凝視した。冷かしているのか、それとも真面目なのか……と疑いつつ……。
正木博士の顔には見る見る
私を
憫れむような微笑が浮かみあらわれた。幾度も幾度もうなずきつつ、葉巻の煙を吸い込んでは、又吐き出した。
「ウンウン。迷う筈だよ。……君は昔から物の本に載っている、有名な
離魂病というのに
罹っているのだからね……」
「……エ……
離魂病……」
「……そうだよ。
離魂病というのは、今一人別の自分があらわれて、自分と違った事をするので、昔から色んな書物に怪談として記録されているが、精神科学専門の吾輩に言わせると、学理上実際にあり得る事なんだ。しかし、そいつを現実に、眼の前に見ると、何ともいえない不思議な気持ちがするだろう」
私は慌てて、今一度眼をコスリ直した。恐る恐る窓の外を見たが……青年はもとのまま、もとの位置に突立っている。今度はすこしばかり横顔を見せて……。
「……あれが僕……呉
一郎
と……僕と……どっちが呉
一郎
……」
「ハハハハハハハ、どうしても思い出さないと見えるね。まだ夢から
醒め得ないのだね」
「エッ夢……僕が夢……」
私は眼を真ン丸にして振り返った。得意そうに
反り身になっている
正木博士を見上げ見下した。
「そうだよ。君は今夢を見ているんだよ。夢の証拠には、吾輩の眼で見ると、あの解放治療場内には
先刻から人ッ子一人いないんだよ。ただ、枯れ葉をつけた
桐の木が五六本立っているきりだ……解放治療場は、昨日の大事変勃発以来、厳重に閉鎖されているんだからね……」
「……………」
「……こうなんだ……いいかい。これは、すこし専門的な説明だがね。
428/596
君の意識の中で、現在眼を
醒まして活躍しているのは現実に対する感覚機能が大部分なんだ。すなわち現在の事実を見る、聞く、
嗅ぐ、
味う、感ずる。そいつを考える。記憶する……といったような作用だけで、過去に関する記憶を、ああだった、こうだったと呼び返す部分は、まだ夢を見得る程度にしか眼を
醒していないのだ。……そこで君がこの窓から、あの場内の光景を覗くと、その一
刹那に、昨日まであそこに、あんな風をして突立っていた君の記憶が、夢の程度にまで
甦って、今見ている通りのハッキリした幻影となって君の意識に浮き出している。そうしてそこに突立っている君自身の現在の意識と重なり合って見えているのだ。つまり、窓の外に立っている君は、君の記憶の中から夢となって現われて来た、君自身の過去の客観的映像で、
硝子窓の中にいる君は現在の君の主観的意識なのだ。夢と現実とを一緒に見ているのだよ君は……今……」
私はもう一度シッカリと眼をこすった。大きく瞬きをしいしい
正木博士の妙な笑い顔を
睨んだ。
「……そんなら……僕は……やはり呉
一郎
……」
「……そうだよ。理論上から言っても、実際上から見ても、君はどうしても呉
一郎
と名乗る青年でなくては、ならなくなるんだよ。不思議に思うのは無理もないが仕方がない。それで……その上に君が君自身の過去の記憶を、今見ているような夢の程度でない、ハッキリした現実にまでスッカリ回復して
終ったとなれば、残念ながらこの実験は
若林の大勝利で吾輩の敗北だ……かどうだかは、まだ結果を見ないと解らないがね。フフフフ」
「……………」
「……とにかく奇妙奇態だろう。変妙不可思議だろう。しかし、これを学理的に説明すると、何でもない事なんだよ。普通人でも頭が疲れている時とか、神経衰弱にかかっている時なぞには、よくこんな事があるんだよ。
429/596
尤も程度は浅いがね……
白昼の往来を歩きながら、
昨夜自分が女にチヤホヤされて、大持てに持てていた光景を眼の前に思い浮かめてニヤリニヤリと笑ったり、淋しい通りを
辿ってゆくうちにこの間、電車に
轢かれ
損なった
刹那の光景を幻視して、ハッと立ち止まったりする。女は又女で、古くなった嫁入道具の鏡の中に自分の花嫁姿を再現してポーッとなったり、女学生時代の自分の思い出の
後影を
逐うて、ウッカリ用もない学校の門の前まで来たり……まだ色々とあるだろう。ちょうど夢の中で、自分の未来の姿である葬式の光景を描いているのと同じ心理で、自分の過去に対する客観的の記憶が生んだ虚像と、現在の主観的意識に映ずる実像とを、二枚重ねて覗いているのだ。しかも君のは、その夢を見ている部分の脳髄の昏睡が、普通の睡眠よりもズット程度が深いのだから、その解放治療場内の幻覚も、今、君が見ている通り、極めてハッキリとしている。熟睡している時の夢と同様に、現実とかわらない程の……否、それ以上の深い魅力をもって君に迫っているので、現実の意識との区別がなかなかつけにくいのだ」
「……………」
「……おまけに今も言う通り、君の頭の中で永い間昏睡状態に陥っている脳髄の機能の
或る一部分が、ごく最近の事に関する記憶から初めて、少しずつ 少しずつ
甦らせながら見せている夢だと思われるから、事によると、まだなかなか
醒めないかも知れない。
430/596
……
醒める時はいずれ、窓の外の君と、現在そこにいる君とが、互いにこれは自分だなと気が付いて来た時に、ハッと驚くか、又は気絶するかして覚醒するだろうと思うが、しかし、その時にはこの
室も、吾輩も、現在の君自身も一ペンにどこかへ消え去って、飛んでもない処で、飛んでもない姿の君自身を発見するかも知れない……実は今しがた君が失神しかけた時に、サテは
最早覚醒するのかと思っていたわけだがね……ハハハハハハ」
「……………」
いつの間にか又眼を閉じていた
私は、
唯、
正木博士の声ばかりを聞いていた。その言葉が含む二重三重の不可思議な意味に、あとからあとから混迷させられつつ、一所懸命に両足を踏み締めて立っていた。今にも眼を
開いたら、何もかも消えてなくなりはしないかとビクビクしながら、口の中でソロソロと舌を動かしていた。
その時であった。
殆ど無意識に頭を押えていた
私の右手が、やはり無意識のまま前額部の生え際の処まで撫で卸して来ると、突然、背骨に
滲み渡るほどの痛みを感じたのは……。
私は思わず「アッ」と声を立てた。閉じていた眼を一層強く閉じて、歯を喰い締めた。そうして、なおも念入りにそこを撫でまわしてみると、気のせいか少し
膨んでいるようであるが、しかし
腫れ物ではないようである。たしかに何かと強くぶつかるか、又は打たれるかした
痕跡である……今の今まで、こんな痛みは感じなかったが……そうして又、
今朝から今までの間に、そんなに
非道く頭を打ったおぼえは一つもないのだが……。
夢に夢見る心地とは、こんな場合をいうのであろう。
私はその痛みの上にソッと手を当てて、シッカリと眼を閉じたまま頭を強く左右に振った。……絶壁から飛び降りるような気持ちで、思い切って眼をパッチリと大きく見開いて、自分の上下左右を念入りに見まわしてみたが……眼を閉じた前と何一つ変ったところはなかった。
431/596
ただ最前から解放治療場の附近を舞いまわっているらしい、一匹の大きな
鳶の投影が、又も場内の砂地の上を、スーッと横切っただけであった。
それを見た時に
私は、どうしても一切が現実としか思えない事を自覚せずにはおられなかった。たといそれがドンナに不思議な、又は、恐ろしい精神科学的現象の重なり
合であるにせよ、
私自身にとっては決して、夢でもなければ
うつつでもない。たしかに実在の姿をこの眼で見、実在の音をこの耳で聴いている事を確信しない訳に行かなかった。……その確信を爪の垢ほども疑う気になれなかった。
私は、今一人の自分自身としか思えないほど
私によく
肖通っている窓の外の青年、呉
一郎
の立っている姿を、何等の恐怖も感じないままに、今一度冷然と
睨み付ける事が出来た。それから
徐ろに
正木博士をふり返ると、博士は
忽ち眼を細くして、
義歯を奥の方までアングリと
露わした。
「ハッハッハッハッ。これだけの暗示を与えても解らないかい。君自身を呉
一郎
とは思えないかい」
私は無言のまま、キッパリと
首肯いた。
「ハッハッハッ。イヤ
豪い豪い。実は今言ったのは……みんな
嘘だよ……」
「エッ……
嘘……」
と言いさして
私は思わず頭を押えていた手を離した。その手を二本ともダラリとブラ下げたまま……口をポカンと開いたまま
正木博士と向き合って、大きな眼を
剥き出していたように思う、恐らく「
呆」という文字をそのままの格好で……。
その
私の眼の前で
正木博士は、さも
堪らなさそうに腹を抱えた。小さな
身体から、あらん限りの大きな声をゆすり出して笑い
痴け初めた。葉巻の煙に
噎せて、ネクタイを引き
弛めて、チョッキの
釦を外して、鼻眼鏡をかけ直して、その一声
毎に、
室中の空気が消えたり現われたりするかと思う程徹底的に仰ぎつ伏しつ笑い続けた。
「ワッハッハッハッ。トテモ痛快だ。君は徹底的に正直だから面白いよ。
432/596
アッハッハッハッハッハッ。ああ
可笑し……ああたまらない……
憤ってはいけないよ君……今まで言ったのは
嘘にも何にも、真赤な真赤な
金箔付のヨタなんだよ……アハ……アハ……
併し決して悪気で言ったんじゃないんだよ。本当はあの青年……呉
一郎
と君とが、瓜二つに
肖通っているのを利用してチョット君の頭を試験して見たんだよ」
「……ボ……僕の頭を試験……」
「そうだよ。実を言うと吾輩はこれから、あの呉
一郎
の心理遺伝のドン詰まりの正体を君に話して聞かせようと思っているんだが、それにはもっともっと解らない事がブッ続けに出て来るんだからね。よほど頭をシッカリしていないと飛んでもない感違いに陥る
虞があるんだ。現に今でも君の方から先にあの青年を『自分と
双生児に違いない』なぞと信じて来られると、吾輩の話の筋道がスッカリこんがらがって
滅茶になって
終うから
一寸予防注射をこころみた訳さ。アハハハハ」
私は本当に夢から
醒めたように深呼吸をした。今更に
正木博士の弁力に身ぶるいさせられつつ、今一度、頭の痛い処に手を
遣った。
「……しかし、僕のここん
処が、今急に……
疼き出したのは……」
と言いさして
私は口を
噤んだ。又笑われはしまいかと思って、恐る恐る眼をパチつかせた。
しかし
正木博士は笑わなかった。
恰もそうした痛い処が
私の頭の上に在るのを、ズット
以前からチャンと知っていたかのように、事もなげな口調で、
「ウン……その痛みかい」
と言ってのけたので、笑われるよりも一層気味がわるくなった。
「それはね……それは今急に痛み出したのではない。
今朝、君が眼を
醒ました前から在ったのを、今まで気が付かずにいたんだよ」
「……でも……でも……」
と
私は まだふるえている
指を一本ずつ
正木博士の前で折り
屈めた。
433/596
「……今朝から
理髪師が一ペン……と、看護婦が一度と……その前に自分で何遍も何遍も……すくなくとも十遍以上ここん
処を
掻きまわしているんですけど……ちっとも痛くはなかったんですが……」
「何遍引っ
掻きまわしていたって、おんなじ事だよ。自分が呉
一郎
と全然無関係な、赤の他人だと思っている間は、その痛みを感じないが、一度、呉
一郎
の姿と、自分の姿が生き写しだという事がわかると、その痛みを突然に思い出す。……そこに精神科学の不可思議な合理作用が現われて来る……宇宙万有は
悉く『精神』を対象とする精神科学的の存在に過ぎないので、
所謂唯物科学では、絶対、永久に説明出来ない現象が存在する事を如実に証拠立て得る事になるという、トテモ
八釜しい
瘤なんだよ、それは……すなわち君の頭の痛みは、あの呉
一郎
の心理遺伝の終極の発作と密接な関係があるのだ。というのは呉
一郎
は
昨夜、その心理遺伝の終極点まで発揮しつくして、壁に頭を打ち付けて自殺を企てたのだからね。その痛みが現在、君の頭に残っているのだ」
「……エッ……エッ……それじゃ……僕は……やはり呉
一郎
……」
「ママ……まあソンナに慌てるなってこと……
虻の心は
蜂知らず。豚の心は犬知らず。張三【中国でありふれた名前】が頭を打たれても李四【中国でありふれた名前】は痛くも何ともないというのが普通の道理だ。すなわち
唯物科学式の考え方なんだが」
正木博士は突然に、こんな謎のような言葉を、葉巻の煙と一緒にパクパク吐き出した。そうして
私がその意味を飲み込めずに
面喰っているうちに、片眼をつぶって
顰めながらニヤニヤと笑い出した。
434/596
「
然るにだ……現在、君自身には赤の他人としか思えない呉
一郎
の頭の痛みが、
如何なる精神科学の作用で、君自身の
顱頂骨【頭頂部】の上に残っているか……」
私は今一度窓の外を振り向いて、解放治療場の一隅にニコニコ笑いながら突立っている呉
一郎
の姿を凝視しない訳には行かなかった。しかも、それと同時に
私の頭の痛みが、何となく神秘的な脈動をこめて、
新に
活き
活きと
疼き出したように思えてならなかった。
その眼の前に
正木博士は、又も一ぷく巨大な
烟の一団を吹き出した。
「……どうだい。この疑問が君自身で解決出来そうかい」
「出来ません」
と
私はキッパリ返事をした。頭を押えたまま……
今朝眼が
醒めた時と同じような情ない気もちになって……。
「出来なければ仕方がない。君はいつまでも、どこの誰やらわからない、風来坊でいる迄の事さ」
私は急に胸が一パイになって来た。それは親に手を引かれて知らない処を歩いていた小児が、急に親から手を放されて、逃げられてしまったような悲しさであった。思わず頭から手を放して両手を握り合わせた。拝むように言った。
「教えて下さい……先生。どうぞ、お願いですから……僕はもう、これ以上不思議な事に
出会したら死んでしまいます」
「
意気地のない事を言うな。ハハハハハ。そんなに眼の色を変えないでも教えてやるよ」
「どうぞ……誰ですか……僕は……」
「まあ待て……それを解らせる前に一ツ約束しておかなくちゃならん事がある」
「……ど……どんな約束でも守ります」
正木博士の顔から微笑が消え失せた。吐き出しかけた煙を口の中へ引っこめて、
私の顔をピッタリと見据えた。
「……キット守るか……」
「キット守ります……どんな約束です……」
正木博士の顔には又、博士独特の皮肉な冷笑が浮んだ。
「ナニ。
435/596
君が今の通りのたしかな気持ちで『俺はどんなに間違っても呉
一郎
じゃないぞ』という確信を
以て聞けば、別に大した骨の折れる約束ではないと思うが……つまり吾輩はこれから呉
一郎
の心理遺伝事件について、ドンドコドンのドン
詰まで突込んだ、ステキな話を進めるつもりだが、その話の内容が、どんなに怖ろしい……又は……あり得べからざる事であろうとも我慢してお
終いまで聞くか」
「聞きます」
「ウン……そうしてその吾輩の話が済んでから、その話の全部が一点の虚偽を
交えない事実である事を君が認め得ると同時に、その事実を記録して、あの吾輩の遺言書と一緒に社会に公表するのが君の一生涯の義務である……人類に対する君の大責任である……という事がわかったならば、
仮令、それが
如何に君自身にとって迷惑な、且つ、戦慄に価する仕事であろうとも必ずその通りに実行するか」
「誓って致します」
「ウム……それから今一つ……もしそうなった暁には、君は当然、あの六号室の少女と結婚して、あの少女の現在の精神異状の原因を取り除いてやる責任があることも同時に判明するだろうと思うが、そうした責任も君はその通りに果せるか」
「……そんな責任が本当に……僕にあるんでしょうか」
「それはその場になって、君自身が考えてみればいい……とにかく、そんな責任があるかないか……言葉を換えて言えば、呉
一郎
の頭の痛みが、どうして君のオデコの上に引っ越したかという理由を明らかにする方法は、
頗る簡単明瞭なんだからね。物の五分間とかからないだろう」
「……そんな……そんな
容易しい方法なんですか」
「ああ、雑作ない事なんだ。しかも理屈は小学生にでもわかる位で、吾輩の説明なぞ一言も加えないでいい。
唯、君が
或る処へ行って、
或る人間とピッタリ握手するだけでいいのだ。
436/596
そうするとそこに吾輩が予期している、
或る素晴しい精神科学の作用が電光の如く
閃めき起って……オヤッ……そうだったかッ……俺はこんな人間だったのかッ……と思うと同時に、今度こそホントウに気絶するかも知れぬ。もしかすると、まだ握手しないうちに、その作用が起るかも知れないがね」
「……それを今やってはいけないんですか……」
「いけない。断じていけない。今君が誰だという事がわかると、今言った通り飛んでもない錯覚に陥って、吾輩の実験をメチャメチャに打ち壊す
虞れがあるんだ。だから君がスッカリ前後の事実を飲み込んで、それを一つの記録にして社会に公表すべく、吾輩の指図通りの手段を取るのをチャント吾輩の眼で見届けた上でなくちゃ、その実験をやる訳に行かないと言うのだ。……どうだ。出来るかい……その約束が……」
「……出来……ます……」
「よろしい……それじゃ話そう……イヤ。話が
篦棒に固苦しくなった。こっちへ来たまえ……」
と言ううちに
正木博士は、
私の手をグングンと引っぱって、大
卓子の処へ連れて来て座らせた。自分も
旧の肘掛回転椅子に
私と差し向いに座ると、白い服のポケットからマッチを出して新しい葉巻に火をつけた。吸い残りの短いのは
達磨の灰落しの口へタタキ込んだ。
私は窓の外が見えなくなったので、ホット重荷を卸したような気持ちになった。どうしても解けそうにない疑問の数々が、益々深刻に交錯して来るのを、頭の中心にハッキリと感じながら…………。
「イヤ。馬鹿に話が固苦しくなった」
と今一度わざとらしく繰り返した
正木博士は、今までよりもずっと砕けた態度になって机の上に両
肱をついた。その上に
顎を載せて、長い葉巻を
横啣えにしながら、ニヤニヤと
私の顔をのぞき込んだ。
「ところでどうだい。
437/596
君自身が何者かというような問題はとりあえず別にしておくとして、君は
今朝見たあの少女をどう思うね」
私は質問の意味が解りかねて眼をパチパチさせた。
「どう思う……とは……」
「美しいとは思わなかったかね」
不意打ちにこうした方角違いの質問を浴びせられた
私は
狼狽せずにはおられなかった。頭の中を羽虫のように飛びめぐっていた大小無数の「?」が一時に消えうせて、その代りに黒く
潤んだ眼……小さな紅い唇……青い長い三日月
眉……ポーッと薄毛に包まれた耳……なぞが
交るがわる眼の前に浮かんで来たと思うと、
私の首すじのあたりがポカポカと暖かくなるのを感じた。それにつれて、今しがた気絶しかけた時に飲まされたウイスキーの酔いが、グングンと
身体中をめぐり初めたように思って、われ知らずハンカチで顔を
拭いた。顔中から一面に湯気が湧き出すような気がして……。
正木博士はニヤニヤしたまま
顎でうなずいた。
「フーム……そうだろう……そうだろう。あの少女が美しいかどうかと
訊かれて平気で返事の出来る青年は、恋愛遊戯に疲れた不良連中か、又は八犬伝や
水滸伝に出て来る性的不能患者の
後裔だからね……しかし君はあの少女を、それっきり何とも思わなかったかね」
私は本当を言うと、この時の
私の心持ちをここに記録したくない。……が
併し、事実を偽ることは出来ない。
私は
正木博士からこう尋ねられたお蔭で、あの少女に対する
私の気持ちが、
今朝初めて会った時以上に一歩も進み出ていないことを、この時初めて気が付いたのであった。ただ、その気味のわるいほどの
初々しさと、眼も当てられぬイジラシイ美しさに打たれただけであった。どうかして正気に返してやりたい……この病院から救い出してやりたい……そうして思っている青年に会わしてやりたいと思い思いして来ただけであった。
438/596
そうしてそれが果して彼女に対する
私の「恋の表現」の「変形」であったかどうか……なぞいう事を考えてみる
暇がなかったのであった。否……それ以上に深く自分の心を解剖するのを彼女に対する
冒涜とさえ考えて、心の奥の奥で警戒していた……その図星を
正木博士に指されたような気がしたので、
私は何のタワイもなく赤面させられてしまったのであった。石のように固くなって、
切口上【改まった堅苦しい話し方】で返事をしたのであった。
「え……可哀想とは……思いました」
正木博士はこう聞くとサモ満足気に
幾度も幾度もうなずいた。その態度を見ると
正木博士はこの時に
私が あの少女を恋しているものと思い込んでしまったらしかったが、それを打ち消すだけの心の余裕も
私は持たなかった。何とかして誤解をさせぬようにとヤキモキ考えているうちに
正木博士は、なおも悠々と念入りに
点頭き直してしまった。
「そうだろうとも そうだろうとも。美しいと思ったのは、すなわち恋した事だからね。そうでないという奴は
似非道徳屋……」
「……ソ……そんな乱暴な……セ……先生……誤解です……」
と
私は
周章てて
半布を持った手をあげつつ叫んだ。
「……異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情欲とはみんな別物です。そんなのをゴッチャにした恋は錯覚の恋です……異性に対する
冒涜です……精神科学者にも似合わない乱暴な言い草です……無茶苦茶です。それは……」
というような
反駁【論じ返す】の言葉を一時に頭の中で
閃めかしながら……。しかし
正木博士はビクともしないでニヤニヤを続けた。
「わかってる わかってる。弁解しなくともいい。君の方ではあの少女に恋なぞされるのは迷惑かも知れないが、まあ任せ
給え。君があの少女を恋しているいないに
拘わらず運命に任せ
給え。
439/596
そうしてその運命の結論をつけるべく、あらわれて来た君の頭の痛みと、あの少女とがドンナ関係に
於て結ばれているかという話を聞き
給え……少々取り合せが変テコだが。……そいつを聞いて行くうちには、法律と道徳のドッチから見ても、君とあの少女とは、
或る運命の一直線上に向い合って立っていることがわかるからね。この病院を出ると同時に結婚しなければならぬ事が、一切の矛盾や不可思議が解けるにつれて、逐一判明して来るからね」
こうした
正木博士の言葉を聞いているうちに、
私は又も、ガックリとうなだれさせられてしまった……しかし、それは赤面してうつむいたのではなかった。その時の
私の気持ちは赤面どころではなかった。
正木博士の言葉の中に含まれている、あらゆる不可思議な事実の中から、
私の現在の立場を解決すべき焦点を、どうして発見しようかと、又も一所懸命に眼を閉じ、唇を噛み締めたのであった。
今朝からの出来事を順々に、思い浮めては考え合せ、考え合せては分解してみたのであった。
440/596
……正木、若林の両博士は、表面上無二の親友のように見せかけているが、内実は互いに深刻な敵意を抱き合っている仇讐同志である。
……その仲違いの原因は、私と呉一郎
を実験材料とした精神科学に関する研究から端を発しているらしく、今はその闘いが、白昼公々然とこの教室で行われる位にまで高潮して来ている。
……しかし、私とあの六号室の少女とを無理にも結婚させようとする意志だけは二人とも奇妙に一致しているようである。
……しかも、万に一つ私が、あの呉一郎
と同一人か、もしくは呉一郎
と同名、同年の、同じ姿の青年であって、あの少女が又、呉モヨ子に相違ないとすれば、実に変テコな事になるのだ。すなわち私達二人をその結婚の前夜に、或る精神科学的の犯罪手段に引っかけて、このような浅ましい運命に陥れたものは、この二人の博士以外に在り得ないように思われるではないか。……コンナ矛盾した事が又とほかに在り得ようか。
……尤も強いて解釈をつけようとすれば付かぬ事もない。二人の博士は何等かの学理研究の目的で一人の少女と、双生児の片ッ方か何かとを、見ず知らずの赤の他人同志のまま、わざわざ精神病患者にして、或る念の入った錯覚に陥れて、二人が本気でクッ付き合うように仕向けている……と考えられぬ事もないが、併し、いくら何でもソンナ残忍不倫を極めた、奇怪千万な学理実験が、人間の心と、人間の手で行われ得るとは考えられない。
……そもそも こうした矛盾と不可解は、どこの行き違いから来たものであろう。
……二人の博士はドウシテこんなに私を中心にして騒ぎまわるのであろう……。
……と……。
けれども、それは詰るところ無用の努力であった。
441/596
そんな風に考えれば考えるほど一切がこんがらがって来て、推測すればする程不可解に
縺れ乱れて来るばかりであった。しまいには考える事も推測する事も出来なくなって、
唯、
眉をしかめて、唇を噛んでいる石像のような自分の姿を頭の中で想像しつつ、凝然と眼を閉じているばかりとなった……。
……コツコツ……コツコツ……扉をたたく音……。
私はギクンとして眼を見開いた、
魘えたようになって入口の扉を見た。もしや
若林博士ではないかと思って……けれども
正木博士は見向きもしないで
頬杖を突いたまま、ビックリする程大きな声を出した。
「オーイ……入れエーッ……」
その声が
室中に響き渡ると間もなく鍵穴をガチャガチャいわせて、扉を半分ばかり開きながら入って来た者を見ると、それは九州帝国大学の紺のお仕着せを着たテカテカ頭の小使いであった。もう余程の老人らしく、腰を真二つに折り
屈めていたが、右手に支えた
塗盆の上に
煤けた土瓶と粗末な茶碗
二個とを載せて、左手にはカステラを山盛りにした菓子器を捧げながら、ヨチヨチと大
卓子に近づいて、不思議そうな顔をして見ている
正木博士の前に置いた。そうして何かに
魘えているかのようにオドオドと
禿頭を下げたが、
揉み手をしいしい首を
擡げて、
正木博士と
私の顔を
霞んだ眼で等分にキョロキョロと見比べると、又一つ、床に手が届くくらい馬鹿丁寧なお辞儀をした。
「ヘイヘイ、今日はまことによいお天気様で……ヘイヘイ……これはあの、学部長様からのお使いで、お
二方様のお茶受けに差し上げてくれいとの、お申し付けで御座いましたが……ヘヘイ……」
「アハハハハハハ。そうかい。
若林がよこしたのかい。フーム……イヤ御苦労御苦労。
442/596
若林が自分で持って来たんかい」
「イエ……あの、学部長様が
先刻からお電話で御座いまして、
正木先生がまだおいでになるかとお尋ねで御座いましたから、
私はビックリ致しまして、
如何か存じませぬがチョット見て参りましょうと申しまして、お
室の外まで参りますと、お二人様のお声が聞えました。それで学部長様に
左様申し上げましたれば、それならば後から物を持たしてやるから、お茶受けに差し上げてくれいとのことで……ヘイ」
「ウン。そうかそうか。たしかに受け取った。暇なら話しに来いと電話で云っとけ。イヤ御苦労御苦労……入口の鍵は掛けなくともいいぞ」
「ヘヘヘイ。先生方がおいでになりますことはチョットも存じませんで……きょうは
私一人で御座いますもんじゃけん、まだお掃除も致しませんで……まことに不行届きで……申訳御座いませんで……ヘイヘイ……」
小使の
爺は二人の前に、
危っかしい手附きで茶を
注いで出すと、何遍もお辞儀しいしい禿頭を光らせて出て行った。
そのあとを見送って、扉の閉まるのを見届けた
正木博士はイキナリ
前屈みになってカステーラの一片を
手掴みにすると、たった一口に
頬張り込んで熱い茶をグイグイと呑んだ。そうして
私にも食えという風に眼くばせをした。
しかし
私は動かなかった。両手を
膝の上に束ねて眼を
瞠ったまま、
正木博士のする事を見ていた。何かは知らず
私には解らない別の意味で、互いに火花を散らしているらしい二人の博士の緊張ぶりに心を
惹かれながら……。
「アハハハハハ。何もそんなに気味わるがる事はないよ。これだから吾輩は悪党が好きなんだ。
彼奴め吾輩が昨夜から徹夜をして、何も喰っていない事を知っていやがるんだ。そこで吾輩の大好物の長崎のカステラを
遣して上杉謙信を気取りやがったんだ。病院の前で患者の見舞用に売っているシロモノだから何も心配する事はない。猫イラズも何も入ってやしないよ。
443/596
ハハハハハハハ」
と言ううちに又二
片三
片口の中へ押し込んで茶を立て続けに飲んだ。
「ああ
美味い。時にどうだい。これからもっと話を進めるんだが、その前に、今さっき読んだ呉
一郎
の前後二回の発作については、もう何も疑問の点は残っていないかい」
「あります」
と
私は
鸚鵡返しに返事をした。ところがその返事は、
私の思いもかけないハッキリした声で飛び出して
室中に大きな反響を起したので、
私は
吾れながらハッとした。思わず座り直して下腹へ力を入れた。
それはたった今眼の前で起った小さな
波瀾……カステーラ事件のために、今まで行き詰まっていた
私の気持ちがクルリと転換させられたのかも知れない。それともツイ今しがた失神しかけた時に飲まされたウイスキーが、この時やっと、本当の利き目を現わして来たのであったかも知れないが、いずれにしてもこの時に、
私の返事が
室の中で「ウワ――ン」と反響して消え失せたのを耳にすると急に勇気付けられたような気持ちになりつつ、熱い茶を一杯グッと飲み込んだ……が、その又お茶の
美味しかった事……舌から食道へと煮え伝わって行く
芳ばしい
薫りを、クリ返しクリ返し味わって行くうちに、全身の関節がフンワリと
弛んで、血の循環がズンズンとよくなって来るのがわかった。気持ちがユッタリとなって、頭がポッカリと軽くなって、吾れにもあらず
濡れた唇を
嘗めまわしながら、
正木博士の顔を見据えたのであった。ウイスキー臭い、熱い鼻息をフ――ッと吹きながら……。
「……たとい理屈がどうなっていようとも自分自身を呉
一郎
と思う事は絶対に出来ない……」
と大きな声で宣言したいような気持ちになりつつ……。すると又、不思議にも、それにつれて今の今まで
私の身の上に起って来た色々の出来事が、まるで赤の他人の事のように考えられて何ともいえず面白くなって来たのであった。
444/596
今朝から見たり聞いたりした色々様々な事が、さながら百色眼鏡でも覗いているかのように、言い知れぬ興味と色彩とを帯びつつ、クルリクルリと眼の前で回転し初めると同時に、たった今まで、とてもオッカナイ、物騒な相手に見えていた二人の博士が、チットモ怖くなくなった
許りでなく、ステキに面白いオモチャ見たような存在に見えて来たのであった。
……二人の博士はキット何かしら飛んでもない大きな感違いをしているのだ。
……事によるとこの事件の真相は、思いもかけぬ阿呆らしい喜劇かも知れないぞ。
「……私と瓜二つの青年がいて、二人共奇想天外式の精神病に罹っている。そのためにその二人が混線してしまって、ドッチがドッチだか解らなくなったのを、二人の博士が競争で見分けようとしてウンウン言っているが、どうしても解らない。とうとう苦し紛れに、そのドッチかの許嫁であった少女をそのドッチかにくっつけて結論にして、その手柄を自分のものにすべく、あらゆるペテンを尽して鎬を削っている……というような、途方もなく愉快奇抜な筋書とも見れば見られるではないか。……面白いな……いよいよソンナ事に違いないと決定れば二人の博士が私の敵だろうが味方だろうが、その二人が私にかけているダマシの手段が、如何に巧妙な恐ろしいものであろうが、チットモ恟々する事はない。是非とも私自身にこの事件の正体がわかるところまで突込んで行かなければ嘘だ。そうして事件の真相をトコトンまで抉り付けて、あの少女をこのキチガイ地獄から救い出して、二人の博士の鼻を明したら、どんなにか痛快至極だろう……」
……というような、
無暗に大胆な、浮き浮きした気分にかわってしまったのであった。
445/596
……
室の中の爽快な明るさ……窓一パイの松の青さ……その中に満ち満ちている白昼の静けさなぞが、今更に気持ちよく、身に
沁みて来たのであった。
しかし、こんな風に
私の頭の中が変化してしまったのは ほんの数秒の間の事であったように思う。間もなく吾に帰ってみると、
正木博士は、そうした
私の顔を鼻眼鏡
越にニヤリと眺めながら頭のうしろに両手をまわして
反りかえっていた。
私の質問を待っているかのように……。
私はちょっと
間誤付いた。どっちにしても質問したい事があんまり多過ぎるので……しかし、どこからでも構わない気で、眼の前の遺言書を取り上げてバラバラと繰って行くうちに、やがて事件記録抜粋の一番おしまいの処まで来ると、そこを指して
正木博士に見せた。
「この……絵巻物の写真版と、その由来記を挿入のこと……と書いてあります。その本物は、どうなっているのですか」
「アッ。そいつは……」
と言い終らぬうちに
正木博士は両手を卸して、大
卓子の端をドシンと叩いた。
「……そいつはうっかりしていたよ。ハッハッハッ。君の記憶を回復させようというので夢中になっていたもんだから、カンジンカナメのものを見せるのを忘れていた。そいつを見なくっちゃ呉
一郎
の心理遺伝の正体はわからない。吾輩の遺言書も、仏作って魂入れずだ。ハハハハハハ……イヤ失敗失敗。睡眠不足で頭が少々御座ったかナ……イヤ。早速お眼にかけよう。コレ……ここにあるがね」
正木博士はこう言って頭を
掻きつつ、片手を伸ばして横に在るメリンス【毛織物】の風呂敷包みを引き寄せた。手早く結び目を解いて、中から長方形の新聞包みと、厚さ二寸位の
西洋大判罫紙の
綴込みを抱え出すと、わざわざ北側の窓の処まで持って行って風呂敷をハタイた。
「……プッ……プップッ……どうもヒドイ
ホコリだ。長い事ストーブの穴に放り込みっ放しだったもんだからね。
446/596
……ところで
見給え。この
綴込みが姪の浜事件に関する
若林の調査書で、君が読んだその抜粋の原本だ。あの肺病患者特有の
冴え返った神経で、二重にも三重にも、透きとおるほど綿密に調べ抜いてあるんだからトテモ
遣り切れたものじゃない。だから読むにしても いずれ
後からユックリの事にしてもらって、今日は取り敢えずこの絵巻物と、その由来記を見てもらう事にしよう……ところでまず由来記の方から読んでもらうかナ。そのあとで絵巻物を見た方が面白いだろうからナ……」
こうした言葉の
中に新聞の包みが開かれると、その中の白木の箱の上に置いてある日本紙一帖位の
綴込みが、無雑作に
私の前に投げ出された。
「それはこの絵巻物の奥付になっている由来記の写しだ。つまりこの
如月寺の縁起
譚の前に起った出来事で、今から
凡そ一千百年前の大昔から初まった呉
一郎
の心理遺伝のソモソモが書いてあるんだが、君がそれを読んでいるうちに……ハテナ……これはズット以前にコンナ処でこうして読んだ事があるぞ……という事実をハッキリと思い出すか出さないかが、
矢張り
若林と吾輩の生死の別れ目になるんだ。ね。そうだろう。それを読んだ記憶が一分一厘でも君のアタマに残っておれば、君は呉
一郎
に相違ないのだからね……ハハハハ……とにかく読んでみたまえ。遠慮する事はない。素敵に面白い話だから……」
私はそれが
如何に貴重な内容の書類であるかを百も承知していながら……しかもその書類によって
正木博士が、
私に試みつつある精神科学の実験が、
如何に重大深刻な意味を持っているかを、察し過ぎる位 察していながら、
些しもそんな緊張した気持ちになれなかったのは不思議であった。
447/596
或は飲んだばかりのウイスキーが、いくらか利いていたせいでもあったろうが、
却って
正木博士の真似でもするかのように無雑作に、その
綴込みを取り上げて、矢張り無雑作にその第一
頁を
翻したが、見ると中には四角い漢字が真黒に押し固まって、隙間もなく並んでいるのであった。
「ワー。これあ漢文……しかも白文【漢文の原文そのままの状態】じゃありませんか。
句読も
送仮名も何も付いてない……トテモ僕には読めません。これは……」
「フーン。そうかい。フーン、それじゃ仕方がないから、取りあえずその内容の
概要を、吾輩が記憶している範囲で話しておくかね」
「ドウカそうして下さい」
「……ウーイ……」
と
正木博士は
曖気【げっぷ】をしながら
反り返った。スリッパを
穿いたまま椅子の上に乗って、両
膝を抱えるとクルリと南側を向いて、頭の中を整理するように眼を
半開にして窓の光りを透かしながら、ホッカリと青い煙を吐いた。
私もウイスキーがまわったせいか、何となく
倦いような、睡たいような気持ちになりつつ、机の上に両
肱を立てて
顎を載せた。
「……ゲップ……ウ――イイ……と、そこでだ。そこで大唐【唐王朝】の
玄宗皇帝というと今からちょうど一千一百年ばかり前の話だがね。その
玄宗皇帝の
御代も終りに近い、天宝十四年に、
安禄山という奴が
謀反を起したんだが、その翌年の正月に
安禄山は
僭号をして、六月、賊、
関に
入る、
帝出奔して
馬嵬に
薨ず【死ぬ】。
448/596
楊国忠、
楊貴妃、
誅に伏す【罪を責めて服従させる】……と年代記に在る」
「……ハア……よく
記憶えておられるんですねえ先生は……」
「歴史の面白くない処は、暗記しとくもんだよ。……ところでその玄宗皇帝が薨じたのは年代記の示す通り天宝十五年に相違ないらしいが、それより七年以前の天宝八年に、范陽の進士で呉青秀という十七八歳の青年が、玄宗皇帝の命を奉じ、彩管を笈うて蜀の国に入り、嘉陵江水を写し、転じて巫山巫峡を越え、揚子江を逆航して奇勝名勝を探り得て帰り、蒐むるところの山水百余景を五巻に表装して献上した。帝これを嘉賞し、故翰林学士、芳九連の遺子黛女を賜う。黛は即ち芬の姉にして互いに双生児たり。相並んで貴妃の侍女となる。時人これを呼んで花清宮裡の双蛺と称す。時に天宝十四年三月。呉青秀二十有五歳。芳黛十有七歳とある」
【訳】
「歴史の退屈なところは、暗記しておくものだよ。
さて、その玄宗皇帝が亡くなったのは、年代記の通り天宝十五年で間違いないらしい。しかし、それより七年前の天宝八年、范陽出身の進士【科挙の登第者(合格者)】で呉青秀という十七、八歳の青年が、玄宗の命を受け、筆を携えて蜀の国に入り、嘉陵江の景色を写し取り、さらに巫山・巫峡を越えて、揚子江を遡り、名だたる景勝地を巡って帰還した。
彼は集めた百余の山水画を五巻に仕立てて献上した。皇帝はこれを大いに賞し、すでに亡くなっていた翰林学士・芳九連の娘、黛女を与えた。黛女は芬の姉で、二人は双子であり、並んで楊貴妃の侍女となった。人々は彼女たちを『花清宮の双蝶』と呼んだ。時は天宝十四年三月。呉青秀は二十五歳、芳黛は十七歳であった。」
「これあ驚いた。
449/596
トテモ
記憶え切れない。それもヤッパリ年代記ですか」
「イヤ。これは違う。『
黛女を賜う』という一件の前後までは『
牡丹亭秘史』という小説に出ている。その小説には
玄宗皇帝と楊貴妃が、牡丹亭で
喋々喃々【男女がうちとけて小声で楽しげに語りあう様子】の光景を、詩人の
李太白【李白のあだ名】が
涎を垂らして牡丹の葉蔭から見ている絵なぞがあって、支那一流の大
甘物【抗えないほど甘美で、思考を鈍らせる毒】だが、その中でも、
呉青秀に関する記述の冒頭だけは、この由来記の内容と一字一句違わないから面白いよ。そのうち文科の奴に研究させてやろうと思うが、第一非常な名文で、思わず
識らず暗記させられる位だ」
「そうですかねえ。でも何だか、漢文口調のお話は、耳で聞いただけでは解らないようですね。その使ってある字を一々見て行かないと……」
「ウン。それじゃモット柔かく行くかナ」
「ドウゾ……助かります」
「ハハハハハハ。要するにこの
玄宗皇帝という
おやじは、楊貴妃と一緒にお祭りの
行灯絵に描かれる位で、古今のデレリック大帝【(架空の名前)】だ。
四夷【四方に居住する異民族(東夷・南蛮・
西戎・
北狄)】を平らげ、天下を治め、兵農を分ち、悪銭を禁じ……と来たまではよかったが、楊貴妃に鼻毛を読まれて何でもオーライで、兄貴の
楊国忠を初め、その一味の
碌でなし連中をドンドン要職に引き上げた。つまり忠臣を
逐い出して
奸臣を取り巻きにして、
太平楽を歌った訳だね。あげくの果は
驪山宮という広大もない宮殿の中に、金銀珠玉を
鏤めた
浴場を作って、玉のような温泉を引いて、貴妃ヤンと一緒に飛び込んで……お前とオーナラバ、ドコマデモオ……と来たね」
「ウワア。やわらか過ぎます。……それじゃア」
「イヤ。真面目に聞いてくれなくちゃ困る。チャン公一流のヨタなんかコレンバカリも
混っていないんだぜ。
450/596
これがあの四五年前に流行した『ドコマデモ』という俗謡の本家本元なんだ。チャント記録に残っているんだ」
「……ヘエ。そんなもんですかね」
「そうだとも。第一お前さんと一緒ならサハラだのナイヤガラ見たような
野暮な処へは行かない。一緒に天に昇って並んだ星になって、下界の人間をトコトンまで羨やましがらせましょうというんだから
遣り切れないよ。覗いて聞いていた奴もタイシタ奴に違いないが……」
「しかし、それが絵巻物とドンナ関係があるんですか」
「大ありだ。まあ
急かないで聞き
給え。大陸の話だからナカナカ焦点が
纏まらないんだよ。いいかい……こんな文化式の天子だから
玄宗皇帝は芸術ごとが大好きで、李太白【李白のあだ名】なぞいう、呑んだくれの
禿頭詩人を
贔屓にして可愛がる一方に、当時、十九か十八位の青年
進士呉青秀に命じて、
遍ねく天下の名勝をスケッチして回らせた。すなわち居ながらにして天下を
巡狩しようという、有難い
思召だ……ドウヤラ貴妃様の御注文らしいがね」
「絵の天才だったのですねその青年は……」
「無論さ。十八九の青年の癖に、古今に名高い禿頭の大詩人、李太白【李白のあだ名】の詩と並ぶ絵を描く奴だから、生優しい腕前じゃないよ。もっとも運が悪くて
夭死にしたために、名前も描いたものも余り残っていない。前にも言った通りその頃の記録には勿論の事、近頃の年代記類にも記載してあるにはあるが、書物によって年代や名前が少し
宛違っていて、確実なところはわからないようになっている。
451/596
しかし、何しろここに詳しい事を記載した実物の証拠があるんだから、将来の史学家はイヤでもこの方を本当にしなければなるまいて」
「そうするとその絵巻物はトテモ貴重な参考史料なんですね」
「貴重などころの騒ぎじゃない……ところで話はすこし前に帰るが、その青年
進士呉青秀は、天子の命を奉じてスケッチ旅行を続けている間がチョウド六年で、久し振りの天宝十四年に長安の都に帰って来ると、そのお土産の風景絵巻が、
頗る天子の
御意に召して、御機嫌
斜ならず、芸術家としての無上の面目を
施した上に、
黛子さんという
別嬪の妻君を貰った。おまけにチョウド水入らずで暮せるような、美しいお庭付きの小ヂンマリした邸宅を拝領したりして、トテモ有り難い事ずくめだったので、暫くは夢うつつのように暮していた訳だね。ところがその
中に、だんだんと落ち付いて来ると、時
恰かも大唐朝没落の前奏曲時代で、
兇徴【凶徴】、
妖孼【あやしい災いや災厄】、
頻々として起り、天下大乱の兆が到る処に
横溢している【あふれている】のに気が付いた。しかも天子様はイクラお側の者が
諫めても
糠に釘どころか、ウッカリ御機嫌に触れたために、
冤罪で殺される忠臣が続々という有様だ。……これを見た
呉青秀は
喟然【突然】として決するところあり、一番自分の彩筆の力で天子の迷夢を
醒まして、国家を泰山の安きに置いてやろうというので、新婚
匆々の
黛夫人に心底を打ち明けて、ここで一つ天下のために、お前の
生命を棄ててくれないか。いずれ自分も、あとから死んで行くつもりだが……と言ったところが……あなたのおためなら……という嬉しそうな返事だ……」
「トテモ素敵ですね」
「純然たる支那式だよ。それから
呉青秀は大秘密で大工や左官を雇って、帝都の長安を
距る数十里の山中に一ツの画房を建てた。つまりアトリエだね。
452/596
しかしその構造は大分風変りで、窓を高く取って外から覗かれないようにして、真ン中に白布を
覆うた寝台を据え、
薪炭菜肉【日常生活に必要な燃料と食料】、防寒
防蠅【ハエ(蠅)の侵入や発生を防ぐための対策全般】の用意残るところなく、
籠城の準備が完全に整うと、
黛夫人と一緒にコッソリ引き移った。そうしてその年の十一月の何日であったかに、夫婦は更に幽界でめぐり会う約束を固め、別離の盃、
哀傷【悲しみいたむこと】の涙よろしくあって、やがて
斎戒沐浴して
新に化粧を
凝らした
黛夫人が、香煙
縷々たる【絶え間ない】
裡に、白衣を
纏うて寝台の上に横たわったのを、
呉青秀が乗りかかって絞め殺す。それからその死骸を丸
裸体にして肢体を整え、
香華を
撒じ
神符【お
札】を焼き、
屍鬼を
祓い去った
呉青秀は、やがて紙を
展べ、
丹青を
按配【
塩梅】しつつ、
畢生【一生】の心血を注いで極彩色の写生を始めた」
「……ワア……凄い事になったんですね。さっきの縁起書とは大違いだ」
「……
呉青秀は、こうして十日目
毎にかわって行く夫人の姿を、白骨になるまで約二十枚ほどこの絵巻物に写し
止めて、
玄宗皇帝に献上し、その真に迫った筆の力で、人間の肉体の
果敢なさ、人生の無常さを目の前に見せてゾッとさせる計画であったという。ところが何しろ防腐剤なぞいうものが無い頃なので、
冬分ではあったが、腐るのがだんだん早くなって、一つの絵の写し初めと写し終りとは丸で姿が違うようになった。とうとう予定の半分も
描き上げないうちに死体は白骨と毛髪ばかりになってしまった……というのだ。……
或は科学的の知識が幼稚なために、土葬した死体の腐り加減を標準にして計画したのかも知れないが……何にしても恐ろしい忍耐力だね」
「あんまり寒いから火を
焚いて
室を暖めたせいじゃないでしょうか」
「……ア……ナルホド。暖房装置か、そいつはウッカリして気が付かずにいた。
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零下何度じゃ絵筆が凍るからね……とにかく忠義一遍に
凝り固まって、そんな誤算がある事を全く予期していなかった
呉青秀の
狼狽と
驚愕は察するに
余ありだね。新品卸し立ての妻君を犠牲にして計画した必死の事業が、ミスミス駄目になって行くのだから……
号哭、
起つ
能わず【深い悲しみや絶望のあまり、声も出せず、立ち上がることもできないほどの状態】とあるが
道理千万……
遂に思えらく、吾、一度天下のために
倫常を超ゆ【ついに私は考えた。たとえ一度だけでも、世のため人のためなら、人としての道徳を踏み越えてもよいのではないかと】。
復、何をか
顧んという破れかぶれの死に物狂いだ【もう何を気にする必要がある。どうなっても構わない、捨て身の狂乱状態だ】。そこいら界隈の村里へ出て、美しい女を探し出すと、
馴れ馴れしく側へ寄って、あなたの絵姿を描いて差上げるからと
佯って、山の中へ連れ込んで、打ち殺してモデルにしようと企てたが……」
「ウワア……トテモ物騒な忠君愛国ですね」
「ウン。こんな執念深さは日本人にはないよ。けれども何をいうにも、ソウいう
呉青秀の
風釆【
風貌】が大変だ。
頬が落ちこけて、鼻が
突んがって、眼光
竜鬼の如しとある。おまけに
蓬髪垢衣【よもぎのように乱れた髪と
垢まみれの顔、そしてぼろぼろの衣服】、
骨立【骨ばる】
悽愴【悲惨】と来ていたんだから
堪らない。
袖を引かれた女はみんな仰天して逃げ散ってしまう。これを繰り返す事
累月。足跡遠近に及んだので、評判が次第に高くなって、どの村でも この村でも 見付け次第に追い散らしたが、幸いにして山の中の隠れ家を誰も知らなかったので、
生命だけは
辛うじて助かっていた。
然れ共
呉青秀の忠志は
遂に
退かず、至難に触れて益々
凝る。
遂に
淫仙【仮面仙人】の名を得たりとある。
454/596
淫仙というのはつまり西洋の
青髯【仮面紳士】という意味らしいね」
「ヘエ……しかし
淫仙は可哀相ですね」
「ところがこの
淫仙先生はチットモ驚かない。今度は方針を変えて婦女子の新葬を求め、夜陰に乗じて墓を
発き、死体を引きずり出して山の中に持って行こうとした。ところが俗にも死人
担ぎは三人力という位で、
強直の取れたグタグタの死体は、重量の中心がないから、ナカナカ担ぎ上げ
難いものだそうな。それを一所懸命とはいいながら、絵筆しか持ったことのない柔弱な腕力で、出来るだけ傷をつけないように、山の中まで担いで行こうというのだから、並大抵の苦労ではない。あっちに取り落し、こっちへ担ぎ直して、
喘ぎ喘ぎ抱きかかえて行くうちに、早くも夜が明けて百姓たちの眼に触れた。かねてから
淫仙先生の噂を耳にしていた百姓たちは、これを見て驚くまい事か、テッキリ
屍姦だ。極重悪人だというので、ワイワイ追いかけて来たから
淫仙先生も止むを得ず死体を
放棄して、山の中に姿を隠したが、もう時候は春先になっていたのに、二三日は、その背中に担いだ死体の冷たさが忘れられなくて いくら火を
焚いても歯の根が合わなかったという」
「よく病気にならなかったものですね」
「ウン。風邪ぐらい引いていたかも知れないがね。思い詰めている人間の体力は超自然の抵抗力をあらわすもんだよ。
況んや【言うまでもなく】
呉青秀の忠志は氷雪よりも
励しとある。四五日も画房の中にジッとして、気分を取り直した
呉青秀は、又も第二回の冒険をこころみるべく、コッソリと山を降って、前とは全然方角を違えた村里に下り、一
挺の
鍬を盗み、
唯ある森蔭の墓所に忍び寄ると、意外にも一人の女性が新月の光りに照らされた一基の土饅頭の前に、花を
手向けているのが見える。
455/596
この夜更けに不思議な事と思って、
窃かに近づいてみると、
件の女性は、遠い処の
妓楼から脱け出して来た
妓女らしく、春装を取り乱したまま土盛りの上にヒレ伏して『あなたは
何故に
妾を振り棄てて死んだのですか』と
掻き
口説く様子を見ると、いか
様【どうみても】、相思の男の死を
怨む風情である。忠義に凝った
呉青秀は、この切々の情を見聞して
流石に
惻懚【哀れみ】の情に動かされたが、強いて心を鬼にして、その女の
背後に忍び寄り、持っていた鍬で一撃の下に少女の頭骨を砕き、用意して来た縄で手足を縛って背中に背負い上げ、鍬を棄てて逃げ去ろうとした。すると
忽ち
背後の森の中に人音が聞えて、女の追手と
覚しき荒くれ男の数名が口々に『
素破【さあ】こそ【まさに】
淫仙よ』『殺人魔よ』『
奪屍鬼よ』と
罵しりつつ立ち現われ、前後左右を取り巻いて、取り押えようとした。
呉青秀は、これを見て
怒心頭に発し、死体を投げ棄てて大喝一番『吾が天業を妨ぐるかッ』と叫ぶなり、百倍の狂暴力をあらわし、組み付いて来た男を二三人、
墓原にタタキ付け、鍬を拾い上げて残る人数をタタキ伏せ追い散らしてしまった。その
隙に、又も
妓女の死体を肩にかけてドンドン山の方へ逃げ出したが、エライもので、とうとう山伝いに画房まで逃げて来ると、担いで来た死体を
浄めて
黛夫人の残骸の代りに床上に安置し、
香華を
供え、
屍鬼を
祓いつつ、悠々と火を焚いて腐乱するのを待つ事になった。ところがそのうちに又、二三日経つと、思いもかけぬ画房の八方から
火烟が迫って来て、
鯨波がドッと湧き起ったので、何事かと驚いて窓から首をさし出してみると、画房の周囲は
薪が山の如く、その外を百姓や役人たちが
雲霞の如く取り巻いて気勢を揚げている様子だ。」「つまり何者かが、コッソリ
呉青秀の跡を
跟けて来て、画房を発見した結果、こんなに人数を
馳り催して、火攻めにして追い出しにかかった訳だね。
456/596
その時に
呉青秀は、この未完成の絵巻物の一巻と、
黛夫人の
髪毛の中から出て来た貴妃の
賜物の
夜光珠……ダイヤだね……それから
青琅玕の玉、水晶の
管なぞの数点を身に付けて、
生命からがら山林に紛れ込んだが、それから追捕を避けつつ千辛万苦【多くの苦労】する事 数箇月、やっと一ヶ年振りの十一月の何日かに都に着くと
蹌踉【ふらふらとよろけるさま】として
吾家の門を
潜った。既に死生を超越した夢心地で、
恍惚求むるところなし。何のために帰って来たのか、自分でも解らなかったという」
「……ハア。ホントに可哀相ですね。そこいらは……」
「ウム。ちょうど生きた
人魂だね。
扨て門を入ってみると
北風枯梢を
悲断して
寒庭に
抛ち、柱傾き瓦落ちて
流熒を
傷む【北風が枯れ木の枝先を無慈悲に折り取って寒々とした庭に投げ捨て、柱は傾き、屋根瓦は落ちて、そこを飛び交う
螢の命さえ危うく見えるほどに荒廃している】という、散々な有様だ。
呉青秀はその中を踏みわけて、自分の
室に来て見るには見たものの、サテどうしていいかわからない。妻の姿はおろか
烏の影さえ動かず。
錦繍帳裡に
枯葉を
撒ず【美しく刺繍された絹の
帳の中に、今ではカサカサの枯葉が散らばっている】。
珊瑚枕頭呼べども応えず【かつては珊瑚で飾られた贅沢な枕元で(かしずく者たちが)声をかけていたが、今はいくら呼んでも、もう主の答えが返ってくることはない】だ。涙
滂沱【とめどもなく流れ出る様】として万感初めて到った
呉青秀は、
長恨悲泣遂に及ばず【長く続くこの深い
恨みや、声をあげての悲しい泣き声も、もはやどうしようもなく、ついに(亡き主君や過ぎ去った日々には)届くことはないのだ】。
457/596
几帳の
紐を取って
欄間にかけ、妻の遺物を
懐にしたまま首を引っかけようとしたが、その時遅く
彼の時早く、思いもかけぬ次の
室から、真赤な服を着けた
綽約たる【やさしく美しい】
別嬪さんが馳け出して来て……マア……アナタッと叫ぶなり抱き付いた」
「ヘエ――。それは誰なんですか一体……」
「よく見ると、それは、自分が手ずから絞め殺して白骨にして
除けた筈の
黛夫人で、しかも新婚
匆々時代の濃艶【つやっぽく美しい】を極めた装おいだ」
「……オヤオヤ……
黛夫人を殺したんじゃなかったんですか」
「まあ黙って聞け。ここいらが一番面白いところだから……そこで
呉青秀はスッカリ
面喰ったね。ウ――ンと言うなり眼を
眩わして
終ったが、その
黛夫人の幽霊に介抱をされてヤット息を吹き返したので、今一度、気を落ち付けてよく見ると、又驚いた。タッタ今まで新婚
匆々時代の紅い服を着ていた
黛子さんが、今度は今一つ昔の、可憐な宮女時代の姿に若返って、白い
裳を長々と引きはえている。
鬢鬟雲の如く、
清楚新花に似たり【艶やかな髪は雲のように豊かに美しく、その清楚な立ち振る舞いは、咲いたばかりの みずみずしい花に似ていた】。年の頃もやっと十六か七位の、
無垢の少女としか見えないのだ」
「……不思議ですね。そんな事が在り得るものでしょうか」
「ウン。
呉青秀も君と同感だったらしいんだ。危くまた引っくり返るところであったが、そのうちに、ようようの思いで気を取り直して、どうしてここに……と抱き上げながら、その少女を頭のテッペンから、爪の先までヨクヨク見上げ見下してみると、何の事だ……それは
黛夫人の妹で、
双生児の片われの
芬子嬢であった」
「ナアンダ。やっぱりそうか。しかし面白いですね。芝居のようで……」
「どこまでも支那式だよ。
458/596
そこでヤット
仔細がわかりかけた
呉青秀は、
芬子さんを取り落したまま、
開いた口が
閉がらずにいると、その
膝に両手を支えた
芬子さん、真赤になっての物語に
曰く……ほんとに済まない事を致しました。
嘸かしビックリなすった事で御座んしょう。何をお隠し申しましょう。
妾はズット前からタッタ一人でこの
家に住んでいて、姉さんが置いて行った着物を身に着けて、スッカリ姉さんに化け込みながら、毎日毎日お
義兄さまに仕える真似事をしていたんです。……
妾の主人の
呉青秀はこの頃毎日
室に閉じ
籠って、大作を描いておりますと言い触らして、食料も毎日二人前
宛、
見計らって買い入れるし、時折りは
顔料や筆なぞを仕入れに行ったりして
誤魔化していましたので、近所の人々は
皆……この天下大乱のサナカに、そんなに落ち付いて絵を
描くとは、何という
豪い人だろうと……眼を丸くして感心していた位です。」「……
妾はそんなにまでして苦心しいしい、お二人のお留守番をして、お帰りになるのを今か今かと待ちながら、この一年を過したのですが、今日も今日とてツイ今しがた、買物に行って帰って来ますと、この
室に物音がします。その上に誰か大きな声でオイオイ泣いているようなので、怪しんで覗いて見たら、お
義兄さまが死のうとしていらっしゃるのでビックリして、そのままの姿で抱き止めたのです。それから気絶なすった貴方を介抱しておりますと、
弛んだ貴方の
懐中から、固く封じた巻物らしい包みと、姉さんが大切にしていた宝石や髪飾りが転がり出して来ました。それと一緒に貴方が夢うつつのまま、どこかを拝む真似をしながら……
黛よ。許してくれ。
459/596
お前一人は殺さない……と泣きながら
譫言を
仰言ったので、サテは姉さんはモウお
義兄さまの手にかかって、お亡くなりになったのだ……そうしてお
義兄様は
妾を姉さんの幽霊と間違えていらっしゃるのだ……という事がヤット解りましたから、お
義兄さまの惑いを晴らすために、急いで自分の
一帳羅服に着かえてしまったのです。……ですが一体お
義兄さまは、どうして
黛子姉さんをお殺しになったのですか。そうして今日が日まで一年もの長い間、どこで何をしていらっしたんですか……と涙ながらに詰め寄った」
「ハア……しかし何ですね。……その前にその
芬子という妹は、何だってソンナ
奇怪な真似をしたんでしょうか。姉さんの着物を着て、その夫に仕える真似事をしたりなんか」
「ウンウン……その疑問も
尤もだ。
呉青秀もやっぱり同感だったろうと思われるね。それともまだ
開いた口が
塞がらずにいたのかも知れないが、何の答えもあらばこそだ。依然として
芬子嬢の顔を見下したまま
唖然放神の
体でいると、やがて涙を
拭いた
芬子嬢は、幾度もうなずきながら又
曰く……御もっともで御座います。これだけ申上げたばかりではまだ御不審が晴れますまいから、順序を立ててお話しましょうが……お話はずっと前にさかのぼって丁度去年の暮の事です。……姉さんが宮中を去ってからというものは、
外に身寄り
便りのない
妾の淋しさ心細さが、日に増し
募って行くばかりでした。そのうちに又、ちょうど去年の今月の、しかも今日の事……大切な大切なお
義兄さま達 御夫婦が、
外ならぬ
妾にまでも
音沙汰なしで、不意に
行衛を
晦ましておしまいになったと聞いた時の
妾の驚きと悲しみは どんなでしたろう。一晩中寝ずに考えては泣き、泣いては考え明かしましたが、思いに余ったその翌る日の事、楊貴妃様から
暫時のお暇を頂いた
妾は、お二人の
行衛を探し出すつもりで、とりあえずこの家に来て見ました。」
460/596
「そうして
妾を見送って来た二人の
宦官と、
家の番をしていた掃除人を
還してから、
唯一人で家内の様子を隈なく調べてみますと、姉さんは死ぬ覚悟をして家を出られたらしく、結婚式の時に使った大切な飾り櫛を、真二つに折って白紙に包んだまま、化粧台の奥に仕舞ってあります。けれども
義兄さんの方は、そんな模様がないばかりか、絵を
描く道具をスッカリ持ち出していらっしゃる様子……これには何か深い
仔細がある事と思いながら、そのままこの家に落ち付く事にきめましたが、それからというものは今も申しました通り、スッカリ姉さんに化けてしまって、
義兄さんと一緒に帰って来ているような風に出来るだけ見せかけておりました。
仕合せと
義兄さんは子供の時から絵を
描き初められると、何日も何日も
室に閉じ
籠って、決して人にお会いにならない。御飯も
碌に召し上らない事が多かったと聞いていましたから、近所の人や、お客様を
欺すのには、ホントに都合がよかったのです。……しかし
何故妾がこんな
奇怪な事をしていたのかと申しますと、これはジッとしていながら、お二人の
行衛を探すのに一番都合の良い工夫だと思ったからです。つまりこうしておりますと、お二人とも世にも名高い御夫婦ですから、万一ほかでお姿を見た者があるとしたら、すぐに
妾が怪しまれます。そうしたらそれと一緒に、お二人の
行衛もわかる事になるのですから、その時にあとを追うて行けばよい。女の一人身で知らぬ他国を当てどもなく探しまわったとて、なかなか見付かるものではない……と思い付いたからの事です」
「……ヘエ……その妹はなかなかの名探偵ですね」
「ウン……この妹の方は姉と違ってチョット
お侠なところがあるようだが、なおも言葉を続けて
曰くだ……しかし
妾のこうした計画は余り利き目がありませんでした。
461/596
……というのは
妾がこの家に来てから十日も経たぬうちに天下は
忽ち麻と乱れて
兵馬都巷に満ち、
迂濶に外へも出られないようになった。……のみならず、お金はなくなる。家は荒廃する。仕方なしに
妾は
此家の台所に寝起きをして、自分の身に附いたものは勿論のこと、
義兄さん夫婦の家具家財や衣類なんぞを売り喰いにしていましたが、その
中でも一番最後に残しておいたのが姉の新婚
匆々時代の紅い服一着と、自分が着ていた宮女の服一着でした。その中でも又、この紅い服は、あく迄も
妾を姉さんと認めさせるために外出着としていたものです。又、宮女の服というのは、
妾の忘れられない思い出と一緒に取っといたのですが、楊貴妃時代のスタイルで、ウッカリ持ち出すと反逆者の下役人に
見咎められる
虞れもありますので、ソックリそのまま
寝間着に使っていたのでした。
妾はこの一年の長い間、こんなにまで苦心してお帰りを待っていたのです。……それだのに、あなたはイッタイ何のために、姉さんを殺してお
終いになったんですか。そうして
此家へ何しに帰って見えたんですか。そのお姿はどうなすったんです。姉さんを殺されたくらいなら、
妾も
序に殺してちょうだい……といううちに、ワッとばかりに泣出した」
「ずいぶん姉思いの妹ですね」
「ナアニ。前から
呉青秀にモーションをかけていたんだよ」
「……ヘエ……どうして解ります」
「……どうしてって
素振りが第一
訝しいじゃないか。
生娘の癖に、亭主持ちの真似をして、一年近くも物凄い
廃屋に納まっているなんてナカナカ義理や物好きでは出来るものじゃないよ。その間に人知れぬ希望と楽しみがなくちゃ……しかも姉の新婚
匆々時代の紅い服を着て歩きまわるところなんぞは、ドウ見ても支那一流の、思い切った変態性欲じゃないか。
462/596
あるいは
玄宗皇帝時代に、
空閨に泣いていた
夥しい宮女たちから受けた感化かも知れないが」
「……ですけども、自分はそう思っていないじゃないですか」
「無論、そんな自省力を持ち得る年頃じゃないさ。
殊に女だから、どんなデリケートな理屈でも自由自在に作り上げて、勝手気ままな自己陶酔に陥って行ける訳さ。気持ちの純な、頭のいい人間の変態心理は、ナカナカ見分けが付きにくいんだよ。……その代りこっちの眼さえ利いて来れば、そこいらの無邪気な赤ん坊や、釈迦、孔子、
基督にでも色んな変態心理を見出すことが出来る」
「……驚いたなあ。……そんなもんですかナア……」
「まだまだ驚く話が、今までの話の裏面に隠れているんだが、それは、あとから説明するとして、サテ、少々話が長くなったから
端折って話すと、その時に
呉青秀に迫って、根掘り葉掘り、これまでの事情を聞いた上に、現実の証拠として、自分とソックリの姉の死像を描いた絵巻物を開いて見せられた
芬子嬢は、実に
断腸、
股栗、
驚駭これを久しうした【この長い時間を経た】。けれども結局、義兄夫婦の
忠勇義烈【正義感があり、忠義に厚く勇敢なこと】ぶりにスッカリ感激して号泣
慟哭【声を上げて激しく泣く】して言うには、蒼天蒼天【あおいそら、あおいそら】、何ぞ
此の如く無情なる。あなたは御存知あるまいが、あなたが姉さんの
亡骸を写生し初めた昨年の十一月というのが
安禄山が
謀反を起した月で、天宝の年号は去年限り、今は
安禄山の世の至徳元年だ。天子様も楊貴妃様も、この六月に
馬嵬で殺されてお
終いになった。折角の忠義も水の泡です。それよりも
妾と一緒に、どこかへ逃げて下さらない……とキワドイところで
口説き立てた」
「無鉄砲な女ですね。又殺されようと思って……」
「イヤ。今度は大丈夫なんだ。
463/596
……というのは
呉青秀先生、自分の全部を投げ出してかかった仕事がテンからペケだった事が、
芬子の説明で初めて解ったのだ。そこでアメリカをなくしたコロンブスみたいにドッカリとそこへ座ると、
茫然自失のアンポンタン状態に陥ったまま、永久に口が利けなくなってしまったのだ。旧式の術語で言うと心理の急変から来る自家障害という奴だね。……そいつを見ると
芬子さんイヨイヨ気の毒になって、天を
白眼んで
安禄山の
奸【わるもの】を
悪んだね。同時にこの忠臣のお守りをして、
玄宗皇帝や楊貴妃の冥福を祈りつつ一生を終ろうという
清冽【澄んでいて清らかなこと】
晶玉【きらきら輝く、水晶のようなもの】の如き決心を固めた……と告白しているが、実は大馬力をかけたお
惚気だね」
「……まさか……」
「イヤ。それに違いないんだ。後で説明するがね……そこで
呉青秀が
懐にしていた姉の
遺品の宝玉類を売り払って、画像だけを懐に入れて、
妖怪然たる
呉青秀の手を引きながら、方々を流浪したあげく、その年の
暮つかた、どこへ行くつもりであったか忘れたが舟に乗って
江を下り、海に浮んだ。すると暴風雨数日の
後、たった二人だけ生き残って絶海に漂流する事又十数日、
遂に
或る天気晴朗な
払暁に到って、遥か東の方の水平線上に美々しく
艤装した大船が、
旗差物を
旭に輝やかしつつ南下して行くのを発見した。そこで息も絶え絶えのまま、手招きをして救われると、その美しい船の中で、手厚い介抱を受ける事になったが、この船こそは日本の唐津を経て、
難波の津に向う
勃海使の乗船であった。勃海国というのはその時分、今の満洲の
吉林辺にあった独立国で、時々こうして日本に
貢物を持って来た事が正史にも載っているがね」
「何だかお
伽話みたいになりましたね」
「ウム。何となく夢幻的なところがやはり支那式だよ。
464/596
それから
芬子さんの涙ながらの物語りで詳しい事情を聞いた船中の者は、勃海使を初め皆、
満腔【全身】の同情を寄せた。一様に呉氏の生き甲斐のない姿を憐れみ、
且つ
芬夫人の身の上に同情して、手厚い世話をしながら日本に連れて行く事になったが、その途中のこと、船中が皆眠って、月が氷のように
冴え返った
真夜半に、
呉青秀は海に落ちたか、天に昇ったか、二十八歳を
一期として船の中から消え失せてしまった。……
芬夫人は時に十九歳、共に後を
逐おうとして狂い悶えたが、この時、既に
呉青秀の
胤を宿して
最早臨月になっていたので、人々に押し止められながら
辛うじて思い
止まると、やがて船の中で玉のような男の
児を生んだ」
「やっと
芽出度くなって来たようですね」
「ウン、船中でも死人が出来て気を悪くしているところへ、お産があったと聞いたので喜ぶまい事か、
手ん
手に色々なお祝いの物を
呉れて盛に
芽出度がった上に、勃海使の何とかいう学者が名付け親となって、
呉忠雄と命名し、
大袈裟な命名式を
挙げて前途を祝福しつつ、唐津に上陸させて、土地の豪族、
松浦某に托した。そこで
芬夫人はその由来をこの絵巻物に手記して子孫に伝えた……めでたしめでたしというわけだ」
「じゃその名文は
芬夫人が書いたんですね」
「イヤ。文字はたしかに女の筆附きだが、文章の方はとてもシッカリしたもので、どうしても女とは思えない。処々に
韻を
践んであったり、熟字の使い方や何かが日本人離れをしているところなぞを見ると、やっぱりその名付親の勃海使が
芬夫人の
譚に感激して、船中の
徒然に文案を作ってやったのを、
芬夫人が浄書【清書】したものではあるまいかと思う。
465/596
若林はその字体が、
弥勒像の底に刻んである字と似ているから
勝空という坊主が自分で聴いた話と、昔の文書とを照し合わせて文を
舞わしたのじゃないかと言っているが、しかし肉筆と彫刻とは非常に字体が違う事があるから当てにはならない」
「何にしても唐津の港では大評判だったでしょうね……
芬夫人の身の上が……」
「無論、大いに一般の同情を
惹いたろうと思われる。何しろ日本人の大好きな
忠勇義烈譚【忠義と勇敢をテーマにした物語】と来ているからね」
「そうですねえ。……それから今ヒョット思い出したんですが、その
勝空という坊さんは、その絵巻物を
弥勒像に納めてから、男は一切近づいてはいけないと言ったそうですが、それはどうした
理由でしょう」
「……ソ……そこだて……そこがトテモ面白いこの話の眼目になるところで、
延いては大正の今日に於ける
姪の
浜事件の根本問題にまで触れて来るところなんだ。手っ取り早く言えばその
勝空というお坊様は、今から一千年近くもの大昔に、心理遺伝チウものがある事をチャンと知って御座ったのだ」
「ヘエ――ッ……そんなに大昔から心理遺伝の学問が……」
「あったどころの騒ぎじゃない。あり過ぎて困る位あった。……すなわち宇宙間一切のガラクタは皆、めいめい勝手な心理遺伝と戦いつつ、植物・動物・人間と進化して来たもので、コイツに
囚われている奴ほど自由の利かない下等な存在という事になる。だから思い切って今のうちにキレイサッパリと心理遺伝から超越しちまえ。ホントウに解放された青天井の人間になれ……という
宣言を、
新生のまま民衆にタタキ付けたのが
基督で、オブラートに包んで
投り出したのが孔子で、おいしいお菓子に仕込んで、デコデコと飾り立てて、虫下しみたように鐘や太鼓で
囃し立てて売り出したのがお釈迦様という事になるんだ。
466/596
そこで、そんな連中の専売特許のウマイところだけを失敬して『心理遺伝』なぞいう当世向きの名前で大々的に売り出して百パーセントの剰余価値を
貪ぼろうと企てているのが、ここにいる吾輩という事になるがね……ハッハッハッ……まあ、そんな事はドウでもいいとして、
勝空という坊さんの名前はどうやら
天台宗らしいから、多分法華経あたりを読んでこの理屈を悟ったんだろう……。」
「この絵巻物を見るとタッタ一眼で過去、現在、未来の三世の因果因縁がナアール程とわかった。
呉青秀の子孫がこれを見ると同時に遺伝心理を刺激されて、先祖の真似を初めるのは無理もない。
ケンノン ケンノン……
不憫至極な事と思ったのであろう。世界の一番おしまいに出て来るという
弥勒菩薩の像を
刻んで、その中に封じ込めて『男見るべからず』と固く禁制しておいた。……ところが見てはいけないと言われるとイヨイヨ見たくてたまらなくなるのが『
安達ヶ原』以来の人情だもんだから、
呉青秀の子孫の
中にコッソリと、
弥勒様の首を引き抜いて、絵巻物を取り出して見る奴が出て来た。そいつがみんなキチガイになって暴れ出した訳なんだが、そこへやって来たのが
呉虹汀の
美登利屋坪
太郎だ……こいつが又、禅学か何かの力で、この心理遺伝の作用を
看破して、一思いに絵巻物を焼いて
終おうとした。……か、どうか知らないが、おおかた
惜かったんだろう……表面は焼いたふりをして、実は焼かずに元の穴へ納めて、巻物の供養を大々的にやったりしてお茶を濁しておいた。その絵巻物が又、現代の物質万能の世界に
大見得を切って出現して、恐るべき悲劇を捲き起した……というのが大体の筋道だがね……」
「ハア……やっと解ったようですが……しかしその絵巻物を見てキチガイになるのが男に限っているのは
何故でしょうか」
「ウムッ……
豪い。
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豪いぞ君は……ステキな質問だぞ、それは……」
と言ううちに
正木博士は突然にテーブルを平手でタタイたので、
私はビックリして座り直した。何だか解らないままに胸をドキンとさせながら……。しかし
正木博士は委細構わずに言葉を続けた。
「イヤ感心感心。この事件の興味のクライマックスは実にそこに在るんだ。スッカリ心理遺伝学の大家になっちゃったナ。君は……」
「……ドウしてですか……」
「ドウシテじゃない。まあこの絵巻物を開いて
見給え。今の疑問は一ペンに解けてしまうから……もっとも、それと同時に君がホントウの呉
一郎
ならば、
呉青秀の子孫としての心理遺伝的夢遊をフラフラと初めるか初めないか……又は自分はどこそこの何の
某という者で、ドンナ来歴でこの事件に関係して来たかという過去の記憶を一ペンにズラリと回復するかしないか……それとも又『この絵巻物はこの前に、いつどこで、どんな奴から見せられた事がある』という、この事件の黒星のまん中をピカリと思い出すか出さないか……
若林と吾輩のドッチが勝つか負けるか……そうして最後に君の将来は
如何なる因果因縁の下に、イヤでもあの美しい令嬢とスイートホームを作らなければならぬのか……というようなアラユル息苦しい重大問題がこの絵巻物を見ると同時に、一ペンに解決される事になるかも知れないのだからね。ハッハッハッハッ」
正木博士は一息にこう言ってしまうと口一パイの白い
義歯を
露わしつつ高らかに笑って見せた。その片手に眼の前の新聞の包みを引き寄せて、無雑作にガサガサ引き
披くと、中から長方形の白木の箱が出た。その蓋を今度は丁寧な手付きで開いて、直径三寸、長さ六寸位の
鬱紺木綿の包みを取り出すと箱のふちに一端を載せて、その上からソッと蓋を置きながら、
私の前に押し進めた。
468/596
今まで
弛み加減になっていた
私の全神経は、
正木博士の高やかな笑いの波動のうちに、見る見る一パイに緊張して来たのであった。
……
冷かしているのか……
威嚇しているのか……又は何等かの暗示を与えているのか、それとも
亦……
心安立てに冗談を言っているのか……全く見当のつかないその笑い顔を見ているうちに、
私は又もその笑い顔の持ち主が、世にも恐るべく、戦慄すべき魔法使いその者のように見えて来て仕様がなかった。しかし又それと同時に……
……何を糞ッ……高の知れた絵巻物の一巻に、男一匹が発狂するまで翻弄されるような事が、あり得よう筈はない……ドンナ名人の手に成った如何にモノスゴイ絵であるにしろ、要するに色と線との配合以外の何者でもないだろう。況んや【言うまでもなく】こっちで覚悟をしている以上、何の恐ろしい事があろう……ヨシッ……
というような反抗心が見る見る高まって来るのを押え付ける事が出来なかった。
……だから
私はできるだけ冷静な態度で箱を引き寄せた。そうして木の蓋と、
鬱紺木綿を開くと、又も、どことなく緊張しかけて来た感情を押え付けようと
力めつつ、まず絵巻物の外側から見まわした。
巻物の軸は美しい緑色の石で八角形に磨いてあるが、あまり美しいので思わず
指を触れて撫で回してみた位であった。表装の
布地はチョット見たところ織物のようであるが、眼を近づけて見るとそれは見えるか見えぬ位の細かい
彩糸や金銀の糸で、極く薄い絹地の目を拾いつつ、一寸大の
唐獅子の群れを一匹
毎に色を変えて
隙間なく刺した物で、貴いものである事がシミジミとわかって来る。千年も昔のものだというのにピカピカと新しく見えるのは、丁寧に
蔵ってあったせいであろう。その一隅には小さな短冊型の金紙が貼りつけてあるが、何も書いた
痕はない。
「それが問題の
縫い
潰しという
刺繍なんだよ。
469/596
呉
一郎
の母の
千世子は、それを手本にして勉強したに違いないのだ」
と
正木博士は投げ遣るように説明しつつ、クルリと横を向いて葉巻を吹かし初めた。しかし
私も丁度そんなような連想を頭に浮かめていたところだったので、格別驚きもせずに うなずいた。
象牙の
篦を結び付けた暗褐色の
紐を解いて巻物をすこしばかり開くと、紫黒色の紙に
金絵具で、右上から左下へ波紋を作って流れて行く水が描いてあるが、非常に優雅な
筆致に見えた。
私はその青暗い平面に浮き出している夢のような、又は細い煙のような柔らかい金線の美しい渦巻きに魅せられながら、何の気もなくズルズルと右から左へ巻物を拡げて行ったのであったが……やがて眼の前に白い紙が五寸【15cm】ばかりズイとあらわれると、
私は思わず……
「……アッ……」
と叫びかけた。けれどもその声は、まだ声にならない次の瞬間に
咽喉の奥へ引返してしまった。……巻物を両手に引き拡げたまま動けなくなってしまった。息苦しい程胸の動悸が高まって……。
そこに横たわっている裸体婦人の寝顔……細い
眉……長い
睫毛……品のいい白い鼻……小さな
朱唇【赤く美しいくちびる】……清らかな
腮……それはあの六号室の狂美少女の寝顔に生き写しではないか……黒い、大きな
花弁の形に
結い上げられた
夥しい
髪毛が、雲のように
濛々と重なり合っている……その
鬢の格好から、生え際のホツレ具合までも、ソックリそのままあの六号室の少女の寝姿を写生したものとしか思われないではないか…………。
しかしこの時の
私には「何故」というような疑問を起す余裕がなかった。その寝顔……否、眠っているかのように見える表情の下から、微妙な彩色や線の働らきによって見え透いて来る死人の
相好の美くしさ……一種
譬えようのない魅力の深さに、全霊を吸い寄せられ吸い奪われてしまって、今にもその眼がパッチリと開きはしまいか。
470/596
そうして最前のように「アッ……お兄様ッ……」と叫んで飛び付いて来はしまいか……というような、あり得べからざる予感に全神経を襲われつづけていたのであった。
瞬一つ出来ず、唾液一つ呑み込み得ないままに、その
臙脂色の薄ぼけた
頬から、青光りする
珊瑚色の唇のあたりを凝視していたのであった。
「ハッハッハッ。馬鹿に固くなっているじゃないか。エー……オイ。どうだい。大したものだろう。
呉青秀の筆力は……」
絵巻物の向うから
正木博士がこんな風に気軽く声をかけた。しかし
私は依然として身動きが出来なかった。
唯やっと切れ切れに口を利く事が出来ただけであった。今までと丸で違った妙なカスレた声で……。
「……この顔は……さっきの……呉
モヨ子と……」
「生き写しだろう……」
と
正木博士はすぐに引き取って言った。その途端に
私は、やっと絵巻物から眼を
外らして、
正木博士のこっちに振り向いた顔を見る事が出来たが、その顔には一種の同情とも、誇りとも、皮肉とも何ともつかぬ笑いが一面に浮き出していた。
「……どうだい面白いだろう。心理遺伝が恐ろしいように肉体の遺伝も恐ろしいものなんだ。姪の浜の一農家の娘、呉
モヨ子の眼鼻立ちが、今から一千百余年
前、唐の
玄宗皇帝の
御代に大評判であった
花清宮裡の
双蛺姉妹に生き写しなんていう事は、造化の神でも忘れているだろうじゃないか」
「……………」
「歴史は繰り返すというが、人間の肉体や精神もこうして繰り返しつつ進歩して行くものなんだよ。
尤もコンナのはその中でも特別
誂えの一例だがね……呉
モヨ子は、
芬夫人の心理を
夢中遊行で繰り返すと同時に、その姉の
黛夫人が、喜んで夫の
呉青秀に絞め殺された心理も一緒に繰り返しているらしい形跡があるのを見ると、二人の先祖にソンナ徹底したマゾヒスムスの女がいて、その血脈を二人が表面に
顕わしたものかも知れぬ。
471/596
又は
呉青秀を慕う
芬女の熱情が、思う男の手にかかって死んだ姉の身の上を羨ましがる位にまで高潮していたと認められる
節もある。しかしそこまで突込んで行かずともその絵巻物の一巻が、
呉青秀と、
黛芬姉妹の夫婦愛の極致を
顕わしていることはたやすく解るだろう……とにかくズット先まで開いて見たまえ。呉
一郎
の心理遺伝の正体が、ドン底まで暴露して来るから……」
私はこの言葉に追い立てられるように、半ば無意識に絵巻物を左の方へ開いて行った。
それから順々に白紙の上に現われて来た極彩色の密画を、ただ、真に迫っているという以外に何等の誇張も加えないで説明すると、それは右を頭にして、両手を左右に伏せて並べて、
斜にこっち向きに寝かされた死美人の全長一尺二三寸と思われる裸体像で、周囲が白紙になっているために空間に浮いているように見える。それが間隔三四寸を隔てて次から次へと合わせて六体在るのであるが、皆
殆ど同じ姿勢の寝姿で、只違うのは、初めから終りへかけて姿が変って行っている事である。
すなわち巻頭の第一番に現われて
私を驚かした絵は、死んでから間もないらしい
雪白の肌で、
頬や耳には
臙脂の色がなまめかしく浮かんでいる。その切れ目の長い眼と、濃い
睫毛を伏せて、口紅で青光りする唇を軽く閉じた、
温柔しそうな
みめかたちを凝視していると、夫のために死んだ神々しい喜びの色が、一パイにかがやき出しているかのように見えて来る。
然るに第二番目の絵になると、
皮膚の色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体にいくらか
腫れぼったく見える上に、眼の
ふちのまわりに暗い色が
泛み
漂い、唇も
稍黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味にかわっている。
472/596
その次の第三番目の像では、もう顔面の中で、額と、耳の
背後と、腹部の皮膚の処々が赤く、又は白く
爛れはじめて、眼はウッスリと輝き開き、白い歯がすこし見え出し、全体がものものしい暗紫色にかわって、腹が太鼓のように
膨らんで光っている。
第四の絵は総身が青黒とも形容すべき深刻な色に沈みかわり、
爛れた処は茶褐色、又は卵白色が入り
交り、乳が
辷り流れて肋骨が青白く
露われ、腹は下側の腰骨の近くから破れ
綻びて、
臓腑の一部がコバルト色に重なり合って見え、顔は眼球が全部露出している上に、唇が流れて白い歯を噛み出しているために鬼のような表情に見えるばかりでなく、ベトベトに
濡れて脱け落ちた
髪毛の中からは、美しい櫛や珠玉の類がバラバラと落ち散っている。
第五になると、今一歩進んで、眼球が
潰え縮み、歯の全部が耳のつけ根まで露われて冷笑したような表情をしている。一方に
臓腑は腹の皮と一緒に
襤褸切れを見るように黒ずみ縮んでピシャンコになってしまい、
肋骨や、手足の骨が白々と露われて、毛の粘り付いた
恥骨【骨盤の前面中央にある硬い骨】のみが高やかに、男女の区別さえ出来なくなっている。
最終の第六図になると、
唯、青茶色の骨格に、黒い肉が海藻のように固まり附いた、難破船みたようなガランドウになって、猿とも人ともつかぬ頭が、全然こっち向きに傾き落ちているのに、歯だけが白く、ガックリと開いたままくっ付いている。
……
私は
嘘を記録する事は出来ない。あとから考えても
恥かしい限りであるが、
私はおしまいの方ほど急いで見た。
勿論、この絵巻物を開いた最初のうちこそ、一種の反抗心と共に落ち付いた態度を保っていたが、死美人の絵が出て来ると間もなくそんな気持ちはどこへやら消えうせて、巻物を開き進める手がだんだんと早くなるのを自覚しながら、どうしてもそれを押し止める事が出来なくなった。
473/596
それでも眼の前の
正木博士に笑われてはいけないと思って一所懸命に息を詰めて、出来るだけ念を入れて見たつもりであったが、それでもとうとうしまいには我慢出来なくなって、第六番目の絵なぞは
殆ど眼の前を通過させただけと言ってよかった。画面から湧き出して来る底知れぬ鬼気と、神経から匂って来る
堪え難い悪臭に包まれて、
殆ど窒息しそうな思いをしながら、やっと、おしまいの由来記の頭が見える処まで来ると、思わずホッとして吾に返った。それから四五尺の長さにメッキリと書き詰めた漢文の上を形式ばかり眼を通して、その結末にある、
大倭朝天平宝字三年癸亥五月於(二)【日本の大倭朝、天平宝字三年(西暦759年)癸亥の年、五月に】西海火国末羅潟法麻殺几駅(一)【九州地方(西海道)、肥後国の、松浦潟にある浜崎駅において】
大唐翰林学士芳九連二女芬 識
という文字を二三度繰り返して読んで、いくらか気を落付けてから、もとの通りに巻き返して箱の横に置いた。それから神経を
鎮めるべく椅子に背を
凭たせて、両手でピッタリと顔を押えながら眼を閉じた。
「……どうだ。驚いたろう。ハハハハハ。これだけ描いてもまだ足りないと思った、
呉青秀の心理がわかるかね」
「……………」
「常識から考えれば天子を驚かすには、そこに描いてある六ツの死美人像だけで沢山なんだ。大抵の奴はその半分を見ただけでも参ってしまうんだ。それに
呉青秀が、なおも新しい女の死体を求めたというのは、彼が病的の心理に
堕落していた証拠だ。自分の描いた死美人の腐敗像に
咀われて精神に異状を来たしたんだ。
474/596
その心理がわかるかね君には……」
こうした言葉を鼓膜にピンピンと受け付けながら、眼をシッカリと閉じて、両手でグッと押え付けている、
瞼の内側の薄赤い
暗の中に、たった今見たばかりの死美人の第一番目の絵像が、白い光りを帯びてウッスリと現われた。……と思う間もなく第二図、第三図と左から右へ順々に
辷り初めたが、ちょうど第五番目の死後五十日目にあらわしている、白茶気た笑い顔のところまで来ると、ピタリと眼の前に静止してしまった。
私は思わず身ぶるいをした。パッと眼を開くと、いつの間にか椅子を回転さして、こっちを正面に腕を組んでいる
正木博士と視線がカチ合った……途端に博士は黒ずんだ唇の間から
義歯を光らしてニッと笑いつつ、その顔の両脇に在る赤い薄っペラな
耳朶をズッと上の方へ動かしたので、
私は又、思わずゾッとして眼を伏せた。
「ウフフフフフフ。ぞっとしたろう。ウフフフフフフ……ゾッとする筈だ。……あの呉
一郎
も初めてこれを見た時には、君と同じように
慄え上がったに違いないのだ。……
恰も太古の生物の遺骸が、石油となって地層の底に残っているように、あの呉
一郎
の心理の底に隠れ伝わっていた祖先の一念は、この絵巻物を見てゾッとすると同時に点火されたんだ。……そうしてみるみるうちに一切の現実の意識を打ち消すほどの大光明となって燃え上って来た。過去も、現在も、未来も、
日月星辰の光りもことごとくその大光明に
掻き消されてしまって、自分自身が
呉青秀と同じ心理……すなわち
呉青秀自身になり切ってしまうまでゾッとし続けたのだ……姪の浜の石切場の赤い夕日の中に立ち上って、この絵巻物を捲き納めながら、ホッと溜め息をして西の空を凝視していた呉
一郎
は、
最早、今までの呉
一郎
ではなかったのだ。
475/596
呉青秀の熱烈な欲求そのものを全身の細胞に
喚び起した、
或る青年の記憶力、判断力、習慣性なぞの残骸に過ぎなかったのだ……呉
一郎
が発狂以後今日まで、
呉青秀と同じ心理で暮して来たことは、この由来記に現われている
呉青秀の心理の推移と、呉
一郎
の今日までに於ける精神病状態の経過が、全然同一であるところを見ても遺憾なく推察される。否、二人の行動に現われた心理の推移を精神病理的に観察してみると、呉
一郎
は、一千年後の
呉青秀に相違ないのだ」
私は又、別の気持ちでゾッとして腰をかけ直した。
「この驚くべき奇怪な現象を理解するには、まず、呉
一郎
と
呉青秀とがどんな順序で入れかわって行ったかという、その精神病理的の
階梯【階段】から明かにして行かねばならぬ。平たく言えば、
如何に秀才とはいえ、中学卒業以来漢文を勉強しなかったという呉
一郎
が、純粋の漢文の白文【漢文の原文そのままの状態】で、四五尺近くも細かに書き続けてあるこの由来記を、発狂するほど深刻な程度にまでドウして読みこなし得たか……という事から疑ってかからねばならぬ。……どうだ……わかるかね。その理由が」
私は
正木博士の底光りする眼を
凝視めたまま、乾燥した
咽喉に唾液を押しやった。どうしてこれが気付かなかったろうと驚きつつ……。
「……わかるまいナ……わからない筈だ。呉
一郎
が自分の学力でこの由来記を読んだと思うと誰でも理屈がわからなくなる」
「……じゃ誰か……読んで聞かせた……」
と言いも終らぬうちに
私は
愕然として
慄え上がった。
……誰か……何者かが傍に附いていたんだ……今しがた私が聞いたような説明をして聞かせた奴が居たんだ……居たんだ……そいつが……そいつが……そいつは……そいつは……
こう思ううちに一しきり高まっていた心臓の鼓動が又ピッタリと静まった。
476/596
そうして、それと同時に
正木博士の厳粛な眼の光りが次第次第に柔らいで行くのを見た。一文字に結ばれた唇が見る見る
弛んで、
私を
憫れむような
微笑にかわって行くのを見た……と思うと、無雑作に投げ出すような言葉が葉巻の煙と一緒に飛び出した。
「……『
狐憑き、落つればもとの
無筆なり【狐に
憑かれたように一時的に賢く見えても、憑き物が落ちれば元の愚かさに戻るものだ】』……という川柳を知っているかね君は……」
私は
面喰った。不意に横
頬に何か見えないものをタタキ付けられたような気持ちがして、暫く眼をパチパチさせていた。
「……そ……そんな川柳は知りません」
「……フ――ン……この句を知らなけあ川柳を知っているたあ言えないぜ。
柳樽【江戸時代の川柳句集『
誹風柳多留』】の中でもパリパリの名吟なんだ」
こう言うと
正木博士は得意の色を鼻の先にほのめかしながら、片
膝をぐっと椅子の上に抱え上げた。
「……ソ……それが……どうしたんです」
「ドウしたんじゃない。この川柳があらわしている心理遺伝の原則を呑み込んでいない以上、シャイロック・ホルムスとアルセーヌ・ルパンのエキスみたいな名探偵が出て来ても、この疑問は解けっこない」
冷やかにこう言い放った
正木博士の口から、小さな煙の輪が一ツクルクルと湧き出して、
私の頭の上の方へ消えて行った。
私は又、眼をパチパチさした。
……
狐憑き……落つれば……落つれば……もとの無筆……もとの無筆……
と心の中で繰り返したが、わからないものはいくら考えても解らなかった。
「
若林先生は知っているんですか……その理屈を……」
「吾輩が説明してやった。感謝していたよ」
「……ヘエ……どういう訳なんで……」
「どういう訳ったって……こうだ。いいかい……」
正木博士はユッタリと椅子の背に身を
凭たせて足を長々と踏み伸ばした。
477/596
「……この川柳は
狐憑きが、心理遺伝の発作である事を遺憾なく説明しているのだ……すなわち
狐憑きはその発作の最中に妙な
獣じみた身振りをしたり
飯櫃に
面を突込んだり、床下に這い込んで寝たがったりして、眼の玉を釣り上がらせつつ、遠い遠い大昔の先祖の動物心理を発揮するから、
狐憑きという名前を頂戴しているんだが、同時にこの
狐憑きはソンナ性質と一緒に、何代か前の祖先の人間の記憶や学力なぞいうものまでも発揮する場合が多いのだ。一字も知らなかった奴が
狐憑きになるとスラスラと読んだり書いたり、祖先のいろんな才能や知識を発揮したりして人を驚かす例がイクラでもあるから、こんな川柳にまで読まれているんだ」
「ヘエ――。そんなに細かいところまで先祖の記憶が……」
「……出て来るから心理遺伝と名付けるんだ。無学文盲の土百姓が狐に
憑かれると歌を
詠んだり、詩を作ったり、医者の真似をして不治の難病を治したりする。
一寸不思議に思えるが心理遺伝の原則に照せば何でもない。当り前の事なんだ……
殊にこの絵巻物は、絵の方が先になっているんだから、それを見ているうちに呉
一郎
はスッカリ興奮して、あらかた
呉青秀の気持ちになってしまっている。そうしているうちに自分の先祖代々が、何度も何度も発狂する程深く読んで来た由来記の内容に対する記憶までも一緒に呼び起しているんだから訳はない。
范陽の
進士呉青秀の学力が、自分の経歴を暗記した奴を、又読み返すようなもんだ。白紙を突きつけても間違わずに読める訳だ」
「……驚いた……成る程……」
「こいつが第一段の暗示になった訳だが、次に、第二段の暗示となって呉
一郎
を混迷させたものは、その六個の死美人像の
中に盛り込まれている思想である」
「思想というと……やはり
呉青秀の……」
「そうだ。
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この心理遺伝の そもそも というものは、
呉青秀の忠君愛国から初まって、その自殺に終る事になっているが、それはその由来記の表面だけの事実で、その事実の
裡面に今一歩深く首を突込んでみると
豈計らんや。
呉青秀の
忠勇義烈【正義感があり、忠義に厚く勇敢なこと】がいつの間にか変化して、純然たる変態性欲ばかりになって行く過程が遺憾なく
窺われるのだ。ちょうど材木が
乾留されて、アルコールに変って行くようにね」
「……………」
「……ところでこの経過を説明すると、とても一年や二年ぐらいの講座では片付かないのだが、吾輩が
昨夜焼いてしまった心理遺伝論のおしまいに、付録にして載せようと思っていた腹案の骨組みだけを
掻い
抓んで話すと、こうだ。……
呉青秀がこの仕事を思い立ったソモソモの動機というのは今も言った通り、
天下万生のためという
神聖無比な、
純誠純忠なもののように思えるが、これは皮相の観察で、その後の経過から推測して研究すると、その神聖無比、純誠純忠の裏面に、芸術家らしい変態心理の深刻なものの色々が異分子として含まれているのを、御本人の
呉青秀も気付かずにいた。……と考えなければ、その絵巻物の存在の意義に就いて、いろんな不合理があるのを、どうしても説明出来なくなって来るのだ」
「この絵巻物の存在の意義……」
「そうだよ。その絵巻物の絵と、由来記に書いてある事実とを、よくよく比較研究してみると、この絵巻物はその根本義に
於て、存在の意義が怪しくなって来るのだ。……すなわち……この絵巻物は、この六体の画像を
描き並べただけで、天子を
諫めるだけの目的は充分に達し得るのだ。女の肉体美が
如何に
果敢ないものか……
無常迅速なものか という事を悟らせるには この六個の腐敗美人像だけで沢山なのだ。……論より証拠だ。
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現在、たった今、君が
一わたり眼を通しただけでもゾッとさせられた位だからね……」
「……それは……そう……ですねえ……」
「そうだろう。その第六番目の乾物みたような姿のあとに、今一つ白骨の絵か何かを
描き添えたら、それでモウ充分にその絵巻物は完成していると言っていい。そうして残った白い処へ
諫言の文だの、苦心談だのを書いて献上しておいて、自分はあとで自殺でもすれば、気の弱い
文化天子の
胆っ
玉をデングリ返らせる効果は十分、十二分であったろうものを、そうしないで、なおも飽く事を知らずに、必要もない新しい犠牲を求めて歩いたのは何故か……
黛夫人の遺骸が白骨になり終るのを、
温和しく待っておりさえすれば、何の苦もなく完成するであろうその絵巻物を、未完成のままに後代に伝えて、
呉家を呪いつくす程の恐ろしい心理遺伝の暗示材料としたのは何故か……一千百年後の今日、
吾々の学術研究の材料として珍重さるべき因果因縁を作ったのは何故か……」
私は思わず溜息をさせられた。
正木博士の話から
湧出して来る一種の異妖な気分に魅せられて、何となく
狂人じみた不可思議な疑いが、だんだん
嵩じて来るのを感じながら……。
「どうだ……不思議だろう。小さな問題のようで仲々重大な問題だろう。しかもこの問題は、考えれば考える程、わからなくなって来る筈だからね。ハハハハハ。だから吾輩は言うのだ。この問題を解くには、やはり
呉青秀がこの絵巻物の作製を思い立った最初の心理的要素にまで立返って観察して見なければならぬ。その時の
呉青秀の心理状態を解剖して、こうした矛盾の
因って起ったその そもそも を探って見なければならぬ……しかもそれは決して難かしい問題ではないのだ」
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