「……………」
「すなわち、まずその時の呉青秀の心理的要素を包んでいる『忠君愛国の観念』という、表面的な意識を一枚引っいで見ると、その下から第一番に現われて来るのは燃え立つような名誉欲だ。その次にはげ付くような芸術欲……その又ドン底には沸騰点を突破した愛欲、兼、性欲と、この四つの欲望の徹底したものが一つに固まり合って、超人間的な高熱を発していた。つまるところ、呉青秀のスバラシイ忠君愛国精神の正体は、やはりスバラシク下等深刻な、変態性欲の固まりに過ぎなかった事が、ザラリと判明して来るのだ」
 は思わずハンカチで鼻を撫でた。自分の心理を解剖されているような気がしたので……。
「こいつを具体的に説明するとこうであったろうと思う。すなわち……李太白【李白のあだ名】が玄宗げんそう皇帝の淫蕩いんとう【酒色などの享楽にふけること】と、栄耀栄華えいようえいがへつらった詩を作って、御寵愛をこうむったお蔭で、天下の大詩人となったのを見た呉青秀は、よろしい。それならば俺は一つその正反対の行き方でもって名を丹青たんせい竹帛ちくはくに垂れてやろう【芸術によって、歴史に名を刻んでやる】。自分の筆力で前代未聞の怪画を描いて、天下後世【この世と来世】を震駭しんがい【おどろきふるえあがる】させてくれようと思った……これがこうした若い、天才肌な芸術家にあり勝ちの、最も高潮した名誉欲だ。又、呉青秀自身の男ぶりと、天才に相応した名声に惚れ込んで、ゾッコンくびたけになっている新夫人から、身も心も捧げられた、新婚早々の幸福さに有頂天になった呉青秀は、わずか数箇月の間にあらゆる愛し方と、愛され方をあじわいつくしてしまった。
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この上はその美しい愛人を、極度に残忍な方法で虐待ぎゃくたいするかどうか しなければ、この上の感激は求められ られ られ られないといった程度にまで高潮した欲求を、夜毎日毎よごとひごとに感じ初めて来た。これがやはり天才肌の青年……ことに頭の優れた芸術家なぞに在り勝ちの超自然的な愛欲、兼、性欲だ。……それから今一つ……嘆美の極はこれを破壊するにあり。そうしてその醜怪しゅうかいな内容をドン底までも暴露さして冷やかに観察するに在り……という芸術欲のドン詰まりと、この四ツの欲望が白熱的の焦点を作ってこの計画の中に集中されていた。しかもその強烈な欲求を呉青秀はやはり純忠純誠の欲求として錯覚していたものと考えられるのだが、そうした呉青秀の心理状態の裏面を、端的に解り易く説明しているものは、矢張やはりこの絵巻物の絵だ。腐敗して行く美人の姿だ」
 の眼の前に又しても最前の死美人の幻覚が現われ出て来そうになった。思わず両手で眼をこすると、鼻の先の絵巻物に視線を落して、表装の中に光っている黄金こがね色の唐獅子からじしの一匹をにらみ付けた。出て来る事はならぬ……というように……。
「……その死美人の腐敗して行く姿を、次から次へと丹念に写して行くうちに呉青秀は、何ともいえない快感を受け初めたのだ。画像の初めから終りへかけて、次から次へと細かくえて行っているその筆致ふでつきを見てもわかる。人体という最高の自然美……色と形との、透きとおる程に洗練された純美な調和を表現している美人のが、少しずつ 少しずつ明るみを失って、仄暗ほのくらく、気味わるく変化して、ついには浅ましくただれ破れて、見る見る乱脈な凄惨むごたらしい姿に陥って行く、そのかん表現あらわれて来る色と、形との無量無辺むりょうむへんの変化と、推移は、ほとんど形容に絶した驚異的な観物みものであったろうと思われる。
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そのかんに千万無量にあじわわれる『美の滅亡』の交響楽を眼の前に眺めつつ、静かに紙の上に写して行く心持は、とても一国の衰亡史を記録する歴史家の感想なぞとは比較にならなかったろうと思われる。呉青秀の忠義も、この名誉も、愛欲も、性欲も、その芸術欲も、何もかもを打ち込んだ無我夢中の気持の中に、この快感と美感とを、どこまでも細かく筆にかけつつ、飽くところを知らず惜しみ味わったに違いない。そうしてその残骸が、最早もはやこの上には白骨になるよりほかに変化の仕様がないところまで腐ってしまったのを見ると、決然筆をなげうってった。今一度、この快美感を味いたい白熱的な願望に、全霊をわななかしつつ さ迷い出た。しかも……呉青秀のこうした心理の裡面うらめんには、その永い間の禁欲生活によって鬱積うっせき圧搾あっさく【圧縮】された性欲が、疼痛うずく程の強烈な刺激を続けていたに違いないのだ。その刺激が疲労し切った、え切った神経によって盛んに屈折分析され、変形、遊離させられつつ、辛辣、鋭敏を極めた変態的の興奮を、呉青秀の全身に渦巻かせていたに相違ないのだ。そうしてそのじれ狂うた性欲の変態的習性と、その形容を絶した痛烈な記憶とを、その全身の細胞の一粒ひとつぶ一粒ごとに、張り裂けるほど充実感銘させていた事と思う」
 び沈んだ、一種の凄味すごみを帯びた正木博士の声は、ここで一寸ちょっと中絶した。
 は眼の前に在る獅子の刺繍ぬいとりが、視力の疲労のためにボーッとなるのを、なおも飽かず飽かず見詰めていた。そのボーッとした色の中に、たった一つ浮出している草色の一つに何故ともなく心をかれながら耳を傾けていた。
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「……こうして忠君も、愛国も、名誉も、芸術も、夫婦愛も、何もかも超越してしまって、ただ極度に異常な変態性欲の刺激だけで、生きて、さ迷うていた呉青秀は、一年振りに帰って来た我家の中でこれも同じく一種の変態性欲にとらわれている処女……義妹いもうとふんしに引っかけられて美事な背負しょい投げを一本喰わされると、その強烈深刻な刺激から一ペンに切り離されてしまった。最後の最後まで自分の意識を突張り支えていた烈火のような変態性欲が、その燃料と共に消え失せて、伽藍洞がらんどうの痴呆状態に成り果てた。そうしてその変態的にじれ曲るべく長い間、習慣づけられて来た性欲と、これに絡み付いている、あらゆるモノスゴイ記憶の数々を一パイに含んだ自分のたねを後世に残して死んだ……するとこの胤が又、生き代り死に代り明かし暮して来て、呉一郎 に到って又も、愕然がくぜんとして覚醒する機会をつかんだ。呉一郎 の全身の細胞の意識のドン底にひそみ伝わっていた心理遺伝……先祖の呉青秀以下の代々によって繰返し繰返し味い直されて来た変態性欲と、これに関する記憶とは、その六個の死美人像によって鮮やかに眼ざめさせられた……すなわち、この絵巻物を見たのちの呉一郎 は、呉一郎 の形をした呉青秀であった。一千年前の呉青秀の欲求と記憶が、現在の呉一郎 の現実の意識と重なり合って活躍する……それが夢中遊行むちゅうゆうこう以後の呉一郎 の存在であった。『取憑とりつく』とか『乗移る』とかいう精神病理的な事実を、科学的に説明し得る状態はこの以外にないのだ」
「……………」
「……この深刻、痛烈を極めた変態性欲の刺激の前には、呉一郎 自身に属する一切の記憶や意識が、何の価値もない影法師同然なものになってしまった。今まで呉一郎 を支配して来た現代的な理知や良心の代りに、一千年月の天才青年の超無軌道的な、強烈奔放ほんぽうな欲求が入れ代ったのだ。
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そうしてその記憶のうちにタッタ一つ美しいモヨ子……一千年前の犠牲であったたい夫人に生写いきうつしの姿がアリアリと浮出した」
「……………」
「……一千年後に現われた呉青秀の変態性欲の幽霊はかくして現代青年の判断力や、記憶や、習慣を使って無軌道的な活躍を初めた。姪の浜の石切場を出ると飛ぶように急いで家に帰って、モヨ子と何かしら打合わせた。多分、母屋おもやの雨戸の掛金を内側からはずしておく事や、土蔵くらの鍵だの、蝋燭ろうそくだのいうものを用意しておく事であったろうと思われるが……それから呉一郎 は家中が寝鎮ねしずまるのを待って母屋へ忍び込んで、そっとモヨ子を呼び起した。……ところで無論モヨ子はこの時まで、こうした新郎の要求の真実ほんとうの意味を知らなかったようである。言う迄もなく呉一郎 も、イザというドタン場までは故意わざと真実の事を話さずに、高圧的な命令の形で、熱心に迫ったものらしいので、モヨ子真逆まさかにそれ程の恐ろしい計画とは知らずに、ただ当り前の意味に解釈して、非常にはずかしい事に思い思い躊躇ちゅうちょしていたらしい事が、戸倉仙五郎の話に出ている前後の状況で察せられる。……けれどもモヨ子気質きだて温柔おとなしいままに結局、唯々いいとして【ただひたすら】新郎の命令に従う事になった。そいつを呉一郎呉青秀蝋燭ろうそくの光りを便たよりにして土蔵の二階に誘い上げた……という順序になるんだ。そこでその現場に関する調査記録を開いてみたまえ」
「……………」
「……それそれ。そこん処だ。階下より蝋燭ろうそくの滴下起り【下の階から、蝋燭の蝋が滴り落ちる気配がしてきた】……云々と書いて在るだろう。その百蝋燭ろうそくの光りの前で、新郎と差向いになったモヨ子は、初めてその絵巻物を突き付けられながら……この絵巻物を完成するために死んでくれ……という意味の熱烈な要求を受けたに相違ない。
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しかもその絵を見ると、眼鼻立から年頃まで自分に生写しの裸体少女の腐敗像の、真に迫った名画と来ているのだからタマラない。はらわたのドン底まで震え上ると同時に卒倒して、そのまま仮死の状態に陥ってしまったものと考えられる……という事実を、その調査記録は『抵抗、苦悶の形跡なし』とか『意識喪失後において絞首』云々の文句で明かに想像させているではないか」
「……のみならずモヨ子がその後において、程度は余り深くないながらに自分と同姓の祖先に当る花清宮裡かせいきゅうり双蛺姉妹そうきょうしまいの心理遺伝を、あの六号室でき現わしている事実に照してみると、その仮死に陥った瞬間というのは、の土蔵の二階で、呉一郎 がサナガラに描き現わした一千年前の呉青秀の心理遺伝の身ぶり素振りによって、モヨ子が先祖のたいふん姉妹きょうだいから受け伝えていたマゾヒスムス的変態心理の欲望と記憶とを、ソックリそのままに喚起よびおこされた刹那せつなであったろうという事も、あわせて想像されて来るではないか」
「……………」
「……ただし。こういうと不思議に思うかも知れないが心理遺伝の発作と消滅の前後に、仮死状態や無意識、昏睡状態なぞいうものが伴う例は古来、幾多の記録や伝説に残されているので、この方面の専門的研究眼から見ると、少しも不思議な事ではないのだ。……すなわち昔はこれを『神憑かみうつり』とか『神気かみげ』とか『神上かみあがり』とか称していたもので、はなはだしいのになるとその期間が余り長いために、真実ほんとうに死んだものと思って土葬した奴が、墓の下で蘇った……なぞいう記録さえ珍らしくない。能楽のうがく歌占うたうら』の曲の主人公になっている伊勢の神官、渡会わたらえなにがしは三日も土の中で苦しんだために白髪しらがとなってい出して来た……なぞいうのは、そんな伝説の中でも最も有名な一つで、これを精神科学的に説明すると電気のスイッチを一方から一方へ切り換える刹那せつなに生ずる暗黒状態みたようなものだ。
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勿論その気持の変化の強弱、又はその人間の体質、性格等によって時間の長短の差はあるが、普通の場合、突然の驚きに似た卒倒と、それに引続く身神しんしん【身体と精神の両方】の全機能の停止があってのちに、やがて息を吹き返すと、挙動が全く別人のようになる……すなわち心理遺伝の夢遊発作を初める……又はそうした発作を続けて来た人間が同じ暗黒状態の経過ののちに、正気に立帰ったりするので、前に述べた狐憑きつねつきなどの場合は、夢中遊行むちゅうゆうこう発作の程度が割合に浅いだけに、無意識状態に陥る時間も短かいのが通例になっているのだ。……なおこの仮死の間に於ける栄養作用や、新陳代謝の具合なぞの研究は、この呉モヨ子のモデルにって、若林が充分な研究をげている事と思うし、吾輩も他人の受売りなら多少出来るが、この話には直接の必要がないから略する。いずれにしても呉モヨ子が仮死状態に陥った直接の原因が、呉一郎夢中遊行むちゅうゆうこうから来た暗示であったろうという事は、この若林の手に成った調査書類の文句が言わず語らずのうちに表明している推論で、吾輩も双手もろてげて賛成せざるを得ないところだ」
「……………」
「なお又、これは吾輩一個人としての想像であるが、従来の呉家くれけにはモヨ子のように、女性としての祖先であるたいふん、両夫人から来た心理遺伝をあらわした婦人の話が一つも残っていないようである。又、この絵巻物を警戒して、人に見せないようにした勝空しょうくうという坊さんも、呉家の中興の祖である虹汀こうていも、この点には全然注意を払っていないようであるが、しかしこれはこの絵巻物が現わしている変態心理の暗示が、男性にだけ有効な事がわかり切っていると同時に、これに刺激された男性たちの心理遺伝の発作が、相手の女性の心理遺伝に影響するような場合が全く想像され得なかったからだ。……ところが今度は場合が全く違う。違うにも何にもお互に他人同志ではない。
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千載の一遇と言おうか、奇跡中の奇跡とでも考えられようか、相手のモヨ子の姿が、その絵巻物の主人公と寸分違わなかったために、呉一郎 の心理遺伝も、今までに類例の無い、ほとんど完全に近い暗示に支配される事になった。従ってその一言一句、一挙一動の極く細かいところまでも、その当時の呉青秀の動作と寸分違わぬ感じを現わし続けたために、ゆくりなくもモヨ子の心理遺伝を誘発する事になったのではあるまいかと考えられる。これは余りにも奇怪に過ぎる事実の暗合【偶然の一致】を想像したものだが、しかし満更の想像ばかりではない。相当の根拠を持って言う事なのだ。……というのは外でもない。すなわちその調査書が証明している通り、呉一郎 が死人同様になって倒れているモヨ子頸部くびを、わざわざ西洋手拭で絞め上げたものとすると、この変態性欲は女を殺すばかりが目的でなかった事がわかる。死んでいても構わないから、女の首を絞め付けるという特異な快感をあじわいたい……という願望のために、コンナ余計な事をしたものと考える事が出来る。……どうだい。一千年ぜんにいたる一人の男の変態性欲の心理遺伝が、こんなに細かいところまでも正確に伝わっている としたら 実に面白い研究材料ではないか」
「……………」
「……ところでサテ。こうしてこの発作が済むと、呉一郎 は、その死体をモデルにするつもりで腐るのを待った。それを土蔵の窓から伯母おば八代子が覗いた時に、呉一郎 は平気で振り返って『モウじき腐ります』云々と言った。この言葉には吾々われわれが聞くと実に一千年間……一千里にわたる時間と空間の矛盾が含まれているんだが、彼、呉一郎 自身にとっては、どちらも現在の、眼の前の事であった。
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彼がモヨ子絞殺しめころした目的が、そうした大昔の遠方の先祖である呉青秀の、超自然的な心理の満足以外になかった事は、モヨ子の死体解剖の結果が、情交の形跡なしとあるのを見てもわかる……」
 一気に続いて来たモノスゴイ説明が、やっとここで中絶すると、は長い、ふるえた深呼吸をしいしい顔を上げた。正木博士はやはり偉大な精神科学者であった。……というような最初の尊敬を取返すと同時に、何となく安心したような気持になって……それに連れて全身がどことなく冷え冷えと汗を掻いているのに気が附いた。
 はそのまま今一度ホッとして問うた。
「しかし……あの呉一郎 の頭は……治りましょうか」
「呉一郎 の頭かね。それあ回復するとも……吾輩には自信がある」
 こう言い放った正木博士は、皮肉な表情でニヤニヤと笑って見せた。の顔をかして見るような暗い眼付を真正面から浴びせかけた。
「あの呉一郎 の頭が回復するのは、ちょうど君の頭が回復するのと同時だろうと思うがね」
 は又しても一郎 と同一人という暗示を与えられたような気がしてドキンとした。……のみならず二人の頭の病気が、全然おなじ経過をって回復して行きつつあるような正木博士の口吻くちぶりに、言い知れぬ気味わるさを感じたのであった。……が……しかし、さりげなくハンカチで顔をいて又問うた。
「ハア……でも仲々困難でしょうね」
「ナニ訳はない。発病の原因と経過とが、今まで述べて来たように、精神病理学的に判然しておれば治療なおす方法もチャントわかって来る。ことにこの呉一郎 みたように、原因のハッキリした精神異状が、治癒なおらなければ、吾輩の精神病理学は机上の空論だ」
「……ヘエ。それで……ドンナ方法で治療するんですか」
「ウン。適当な暗示という薬を臨機応変に用いて治療するのだ。それも禁嫌まじないとか御祈祷とかいうような非科学的なものじゃない。
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……つまり今まで話して来たように呉一郎 は、黴毒ばいどく【梅毒】とか、結核とかいう肉体的の疾患に影響されて神経を狂わしたのじゃない。純粋な精神的な暗示だけで発狂したんだ。すなわちこの絵巻物を見たのちの呉一郎 は、時間も、空間も、呉一郎 も、呉青秀も、支那も、日本もわからなくなって、ただ濃厚、深刻を極めた支那一流の変態性欲の刺激と、これを渦巻きめぐる錯覚、幻覚、倒錯観念とうさくかんねんばかりで生きる事になったんだ。そうしてその変態性欲もまた呉青秀が一千年前に経過して来た通りの順序で変化して来て、ついにはただ『女の死体が見たい』というような単純な、且つ、率直な欲望だけになっている事が、その解放治療場内に於ける夢中遊行むちゅうゆうこうの状態で察せられるようになった。……呉一郎 の遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性欲……すなわち一千年前の呉青秀怨霊おんりょうの眼で見ると、世界中、到る処の土の下には、女の死体がベタ一面にかくされているように思われて来たのだ。だから土さえ見れば鍬が欲しくなったのだ。そうして鍬を貰うと毎日毎日死物狂いに土を掘返す事になったのだ。」
「……こうしてその、時間も空間も超越した変態性欲の幽霊が、先刻も話した通り毎日毎日、当てなしの労働を続けて行くうちに、迫々おいおい屁古垂へこたれて来た。人間の性欲の刺激を高める燃料ホルモン……俗に精力と称する内分泌の刺激液は、激しい労働を続行すると、その方の精力に消耗されてしまうのだからね。そんな性欲の刺激をダンダン感じなくなって、ただ、疲れ切った神経の端々に、一種の惰力みたように浮出して来る女の死体の幻覚に釣られながら、あえぎ喘ぎ鍬を動かすというミジメな状態に陥っている。今まで一切の精神作用を圧倒していた変態性欲の怨霊おんりょうが、消え消えになって来たお蔭で、その下から……ああ苦しい。り切れない。
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いったい俺は、どうしてコンナに非道ひどい労働を続けなければ ならないのだろう……といったような、正気に近い意識が次第次第に浮上りはじめた。時々鍬を休めてボンヤリとそこいらを見まわしては又、思い出したように仕事にかかるらしい気振けぶりが見えて来た。その潮合しおあいを見て、吾輩が出て行って、その眼の底に在る疲れ切った意識の力と、吾輩の眼の底に在る理知的の意識力とをピッタリと合わせながら『その女の死体が、土の底に埋まったのはいつの事だ』と問いかけたものだから、サアわからなくなった。つまり今まで、全く忘れていた『時間』という観念が『いつ』という言葉の暗示力で反射的に復活しかけて来たのだ。それに連れて『ハテ。ここは一体、どこなんだろう』といったような空間的の観念も動き出して来たので、不思議そうにそこいらを見まわし初めた。同時に『ハテ。おかしいぞ。自分は今まで何をしていたのだろう』といったような自己意識も、それにつれて頭をもたげて来たので、何となく不可思議な淋しい気持になった。悲し気に頸低うなだれると、今まで大切に抱えていた鍬を力なく取落して、自分の部屋へ引込んで行った……というのが、この遺言書に出ている呉一郎 の治療順序の説明だ。狂人きちがいの解放治療というのは、そういう風に患者の自由行動にあらわれた心理状態を観察して、病気の経過を察しながら、適当な暗示を与えつつ治療して行く意味から付けた名前に外ならないのだ。」
「……勿論こうした治療法をこころみるには、相当の頭が要る。すくなくとも今までのように当てズッポーの病名を付けて、浅薄あさはかな外科や内科の療法を応用したり、そいつが巧く当らなかった時には縛り上げたり、監禁したりなぞ、原始時代をそのままの手当を試みたりするような低級な頭では駄目の皮だ。今後の世界において行わるべき、正しい精神病の治療法というものは、そんな曖昧あやふやなもんじゃない。
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即ち精神というものの解剖、生理、病理の原則を、心理遺伝の学理に照してドン底まで理解すると同時に、解放されている患者の自由奔放ほんぽうな一挙一動によって、その心理遺伝の夢中遊行むちゅうゆうこう発作が、如何いかに推移し変化しつつ在るかを隅から隅まで看破かんぱしつつ、適当な時機に、適当な暗示を与えて、一歩一歩と正しい時間と空間の観念……正気に導いて行くだけの鋭敏さを持った頭でなくちゃならぬ。アハハハハ。思わず手前味噌に脱線してしまったが……ところでだ……。」
「……ところで、話を前に戻すと、それから後一個月の間、呉一郎 が一回も解放治療場に出て来ないで、例の七号室に閉じこももってばかりいたのは、そのかんに色んな意識を回復していたものと考えられるのだ。すなわち時間の意識、空間の意識、自己の存在を認める意識なぞが、吾輩の暗示をキッカケにして次第次第に夜が明けるようによみがえりはじめた。『ハテナ……ここはどこで、今はいつで、俺は何という名前の人間なんだろう』とか『おれは一体、何のためにこんな処に閉籠とじこめられているんだろう』といった風にネ……それに連れて又、それに伴う色んな疑問や不可解が、雲の如く渦巻き起って、迷っては考え、考えては迷いしていたものだ。これは呉一郎 の毎日の言動を、特に医員に命じて、細大らさず病床日誌に記録させてあるから、それに就いて観察して見れば、その迷い具合が手に取る如くわかる。君が最前若林博士に読まされたアンポンタン・ポカン博士の街頭演説なぞも、その時分の出来事を吾輩が実例に取って、新聞記者に説明しただけのものなんだが、それでも最近になったら、そんなような観念が呉一郎 の頭の中で、次第に一つの焦点に統一されて、余程、正気に近付いて来たらしい。つまり『考えても解らないが、いずれそのうちに解るだろう』というような、一種の諦らめに似た安心が付いて来たらしく見える。
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……というのは一箇月前に鍬を棄てて、自分の部屋に引込んだ当時は、かなり非道ひど憂鬱ゆううつ状態に陥っていた。食欲が非常に減退して排泄の具合が悪くなり、体量なぞもかなり減少していたが、その後だんだんと回復して来て、今では涼しくなったせいでもあろうが、旧来もと以上になっている事が、病床日誌にチャンと出ている。だから目下はあのとおり、ステキにい栄養状態で、精神状態もすこぶ明朗めいろうになったらしく、アンナにニコニコしている訳なのだ。
 ……そうして昨日きのうまで部屋に閉じこももっていた奴が、思い出したようにヒョッコリとあそこへ出て来たのは、そうした意識の秩序の回復が、一段落のところまで落付いたか、それとも栄養が良くなったために再び頭をもたげて来た性欲の刺激が、以前の変態にまで高潮して来たので、又もあの鍬を振回しに出て来たのか……という事は、もう暫く模様を見ていないと、わからないがね……いずれにしても呉一郎 の精神状態の回復はここいらで、又、一転機を描くらしい予感が、先刻からシキリに吾輩の頭を襲って来るようだがね。ハッハッハッ」
 はこんな言葉や笑い声を、耳にはたしかに聞いていた。……窓の下で又も、何やら唄い出している舞踏狂の少女の声と一緒に……けれども眼は一心に大卓子テーブルの燃え上るような緑色を見詰めていた。
……如何いかなる名探偵が出て来ても探り得ない精神科学応用の犯罪……お前自身に名探偵となって、この事件の真相を探って見よ……
 と言った正木博士の言葉を頭の中で繰返しつつ……。その時に正木博士の言葉が途絶とだえて、何やらカチッという音がした。ビクリとして頭を上げてみると、それは正木博士の頭の上に掛っている電気時計の針が、十時五十六分から七分へ移った音であった。
「……どうだ。愉快な話だろう。この一例を見ても、今までの精神病学者の治療法が、全然、見当違いをやっていた事が解るだろう。
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同時に、吾輩のこの解放治療の実験が、如何いかに素晴らしい、学界空前の……」
「ちょっと待って下さい」
 は右手を揚げて、滝のようにほとばしり出て来る正木博士の言葉をさえぎり止めた。得意に輝く骸骨がいこつソックリの顔を仰ぎつつ、回転椅子の上に座り直して問うた。
「……ちょっと……待って下さい。……しかし……先生の、そうした治療の実験は、純粋な学術研究の目的でなさるのですか、それとも……」
「……無論……むろん純粋の学術研究を目的としているんだよ。精神病の治療というものはこうするものだ……という事を、あまねく全世界のヘゲタレ学者たちに……」
「マ……待って下さい。そうじゃありません。僕がお尋ねしているのは……」
「……何だ……」
 正木博士は不満そうに眼の球をへこました。肩を一つ揺り上げて椅子の背にり返った。
「僕がお尋ねしようと思っている事は、こうなんです。呉一郎 を発狂さした暗示が、この絵巻物だって事は、まだ誰も知らないでいるんですね」
「……ア。その話はまだ、しなかったっけね。無論、誰も知ってやしないよ。司法当局の奴等だって知らないも同然だよ。テンデ問題にしていないんだからね」
 正木博士は又、ツルリと顔を撫でまわして、鼻眼鏡をかけ直した。
「最前からも話した通り、この絵巻物は、呉一郎伯母おば八代子が、土蔵の二階から取って来て隠していたのを、若林にらんで捲上げて、そのまんま吾輩に引渡したものだから、若林と吾輩以外にこの絵を見た者は君だけだ。裁判所や警察の連中は、八代子が現場の机の上の、この絵巻物が置いてあった所に、自分の鼻紙【ちり紙】を拡げておいたので、見事に一パイ喰わされている上に『迷宮破りの若林博士が、事件の真相の説明に窮して迷信をかつぎ出した』と言って笑っているそうだ。
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たしかその当時の新聞の編集余録といったような欄の中に、素破抜すっぱぬいてあったと思うが……かえって仙五郎爺から巻物の話を聞いた村の者が、色んな事を言っているそうだ。一郎 が夢のおつげを受けて石切場に行ったら、巻物が高岩の蔭に置いてあったんだとか、その時がちょうど日暮狭暗ひぐれさぐれ【日が暮れて光が差さない】の逢魔おうまときだったとか言ってね……又、そんな迷信を担がない連中は、誰かモヨ子に惚れ込んでいた奴が、かなわぬ恋の意趣【恨み】晴らしに、古い言い伝えから思い付いて、一郎 にコンナ悪戯いたずらをしかけたのが、マンマと首尾よく図に当ったんだとか何とか……」
「アッ……」
 とは突然に叫んで立上りかけた。大卓子テーブルの端に両手を突張って、穴の明くほど正木博士の顔を見た。正木博士もの叫び声に驚いたらしく、吐きかけた煙をほお張ったまま、眼を丸くした。
 の呼吸と胸の動悸が、見る見る息苦しく高まって来た。
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……わかった。わかった……正木博士が、何気もなく言ったらしい一言が、事件の真相らしいものをチラリとの頭にひらめかしてくれた……。
……という人間は、一件記録の上には出ていないけれども、やはり呉青秀の血を引いた、呉一郎 と瓜二つの青年に違いないのだ。
……二人の博士は、千世子が一人しか子を生んでいないという死体解剖の結果によって、そんな事実の存在を否認しているようだけれども、事によると、それはをこの実験にかけるための一つのトリックに過ぎないかも知れない。真実のの過去は、やはり呉一郎双生児ふたごで、幼い時に何かの理由で別れ別れになっていたその片割かたわれかも知れないのだ。
……それが人知れず故郷に帰って来て、人知れずモヨ子を恋していた。あるいは呉一郎 と瓜二つなのを利用して、真物ほんものの呉一郎さとられないように絡み合って、奇抜巧妙な二人一役を演じながら所在ありかくらましていたものかも知れない。そうしてそのうちに、呉家にまつわる不思議な因縁話を聞き知って、呉一郎 の結婚式の前日に、こんな残虐を試みた。……それがこのであったのだ。
……けれども、そうした自身も、呉青秀の心理遺伝を受け継いでいたために呉一郎 と同時にか、又は相前後して、同じような発狂をしたために、真物ほんものの呉一郎 と入れ違ってしまったのだ。ドッチがドウなのか本人同志にも解らなくなってしまったのだ。
……正木若林の両博士は、それを見別けようとしているのだ。被害者と加害者を鑑別しようとして苦心しているのだ。
……そうだ。そう考えれば疑問の根本が立派に解ける。そうだ。それに違いない。それに違いない。それ以外に一切の不思議の解決方法がないではないか。
……ああ。はやはりこの事件の神秘の正体であったか。……ああこのが……。
 一瞬間にコンナ事を考え回らしつつおびえ、わなないているの顔を、椅子の上にり返った正木博士は依然として微笑を含みつつ眺めていた。
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そうして呼吸いきしずまりかけると間もなく、わざとらしい驚いた顔付きで問うた。
「……どうしたんだい。急に立上ったりして……」
 あえぎながら答えた。
「……もし僕が……呉一郎 に……この絵巻物を……見せた本人……」
「アッハッハッハッハッ……ワッハッハッハッハッハッ……」
 正木博士は、の言う事を半分聞かぬうちに大袈裟おおげさに吹き出してりかえった。
「ハッハッハッハッ。君が加害者で、呉一郎 が被害者か。これあいい。探偵小説なら古今の名トリックだが、多分そんな事になるだろうと思っていた。アッハッハッハッハッ。しかしだね。事実はその正反対だったら、どうなるかね、この事件は……」
「……エッ……正反対?……」
「ハッハッハッ。何も君が、そんなに遠慮して、加害者の憎まれ役を引受けなくとも、いいじゃないか。どうせ君と呉一郎 とは瓜二つなんだから、御都合によっては吾輩の小手先一つで、加害者側へでも、被害者側へでも、どちらへでも回せるんだがどうだい。どうせ同じ事なら、被害者側へまわった方が、この事件では得になるんだがドウダイ。アハアハアハアハ……」
 はドシンと椅子に腰をおろした。又しても何が何やらわからなくなったまま……。
「……どうも、そう一々泡を喰っちゃ困るぜ。……だから最初っから注意しておいたじゃないか。この事件は、よほど頭をしっかりさせて研究しないと、途中で飛んでもない錯覚に陥るおそれがあると言って警告しといたじゃないか……吾輩は姪の浜、浦山の祭神、うず権現ごんげん御前おんまえにかけて誓う。君はそんな浅薄あさはかな意味で、この事件に関係しているのじゃない。もっと重大深刻な意味で……」
「……でも……でも……それ以上に重大深刻な意味で関係が……」
「……出来ないと言うんだろう。ところが出来るから奇妙なんだ。クドイようだがモウ一度断っておく。
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吾々われわれが住んでいる、この世界は現代の所謂いわゆる唯物ゆいぶつ科学の原則ばかりで支配されているんじゃないんだよ。同時に唯心科学……即ち精神科学の原則によって何から何まで支配されている事を肝に銘じて記憶していないと、この事件の真相はわからないよ。……早い話が純客観式唯物ゆいぶつ科学の眼で見るとこの世界は長さと、幅と、高さの三つを掛け合わせた三次元の世界に過ぎないんだが、純主観式精神科学の感ずる世界は、その上に更に『認識』もしくは『時間』を掛け合わせた四次元もしくは五次元の世界が現在吾々われわれの住んでいる世界なんだ。その高次元の精神科学の世界で行われている法則は、唯物ゆいぶつ世界の法則とは全然正反対と言ってもいい位違うのだ。その不可思議な法則の活躍状態は、既に今まで君がこの部屋で見たり聞いたりして来た話だけでも、十分に察しられるだろう。……その中からこの事件の解決の鍵を探し出せばいいのだ。……否……この事件の鍵は、もうトックの昔に、君のポケットに落ち込んでいる筈だがね。ツイ今しがたたしかにその鍵を君の手に渡した事を、吾輩はハッキリと記憶しているのだがね」
「……そ……それはドンナ鍵……」
離魂病りこんびょうの話さ」
離魂病りこんびょう……離魂病りこんびょうがどうしたんですか」
「ハハハハ。まだわからないと見えるね」
「……わ……わかりません」
「……いいかい……この事件で差当り一番不思議に思えるところは、君とソックリの人間がモウ一人居る事であろう。そのモウ一人の君自身のお蔭で、スッカリ事件がコグラカッてしまっている訳だろう。しかも、それは君の離魂病りこんびょうのせいだっていう事をツイ今しがた、説明して聞かせたばかりのところじゃないか」
「だって……だって……そんな不思議な……馬鹿馬鹿しい事が……」
「ハッハッハッ。まだ離魂病りこんびょうが信じられないと見えるね。まあまあ無理もないさ。誰でも自分の頭が一番、確実たしかだと信じているんだからね。その方が結局、無事でいいし、お蔭で話の筋道もステキに面白くなって来る訳だから、そう慌てて結論を付ける必要もないだろうよ。
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一郎 を発狂さした犯人はあらゆる人間の中の一人か、又は呉一郎 自身か、それとも又、絵巻物が独り手に弥勒みろく様のお像から脱け出して活躍したものか……というこの三つを前提にしてユックリと考えた方がいい。そうして冷静な気持で君の過去を思い出した方が早道だ」
「……しかし……そんな神秘的な……不思議な事実が……」
 ここまで言いかけるとは、自分自身の考えにえられなくなって言葉を切った。
「だから慌てるなと言うんだよ。今に神秘でも何でもなくなるから……」
「……でも……今っていつです」
「いつだか解らないが、きょうは駄目だよ。吾輩は君の記憶力を回復すべく、先刻さっきからの話のうちに、かなり強烈な精神科学の実験を君に対して、かけ通しにして来たんだけれども、君はどうしても過去の記憶を思い出さないのだから仕方がない。きょうの実験はこれで中止だ。つまり君の頭が、そこまで回復していないのだから、この上、実験を続けても無駄だと吾輩は……」
「しかし……それじゃ最前のお約束に……」
「約束はしたが仕方がない。お互いに無駄骨を折るよりも、今すこし君に休養してもらってから、今一度実験をやり直す事に……」
「待って下さい……チョット……それじゃ先生は、その神秘の正体をスッカリ御存じなんですね」
「そうさ。知っているからこそ、君と関係があると言うんじゃないか」
「……じゃ……それをスッカリ僕に話して下さい」
「……イケナイ……」
 正木博士は、こうキッパリと言い切ると、葉巻を横ッチョにくわえ直した。腕を組んでり返りつつ冷やかに笑った。すこしムッとしているの顔を見ながら……。
「……何故って考えて見給たまえ。この事件の神秘の正体を明かにするためには、是非とも呉一郎 を発狂させた犯人の名前を明かにする必要があるだろう。
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ところがその犯人の名前は、君自身か、呉一郎 か、どちらかが過去の記憶を回復すると同時に思い出したのでなければ、真実ほんものとは言えないだろう。たとい法医学者の若林博士が、如何いかに動かすべからざる確証をつかんでいるにしても、又は吾輩自身がその犯人と、犯行の現状を確認しているにしても、君か、もしくは呉一郎 が万一過去の記憶を回復した際に、その犯人を否定してしまえば何にもならないじゃないか。姪の浜の石切場で、私に絵巻物を見せてくれた人はこの人じゃありませんと言い張れば、それっ切りの千秋楽じゃないか。そこがこの事件の普通の犯罪事件と違うところだからね。……だから吾輩は、そんな無価値な事を饒舌しゃべるのは御免だ」
 は、われ知らず長大息ちょうたいそくさせられた。自分の判断力が見る見る迷妄に陥って行くのを自覚しながら……。
「……まだ解らないかい。……それじゃ、もう一つ深刻な事実を説明してやろう。いいかね。……この事件で、是非ともその不可思議な犯人の正体を突止めなくちゃならぬ当面の責任者は、誰が何といっても法医学者たる若林だろう。仮令たとい、警察当局の方では、単なる呉一郎 の発狂から起った事件として放棄しているにしても、精神科学応用の犯罪を研究する学者として、ここまで深入りして来た以上カンジンカナメの点をったらかしたまま、後へ退く事は、学者としての良心が第一、許さないだろう。つまり若林の立場としては、いやでもおうでも、この事件の真犯人を有耶無耶うやむやに葬り去る事が、どうしても出来ない立場におるのだ。……しかるにだ。……一方に吾輩の立場はどうかというと、必ずしもそうでない。そうした若林の探偵的な努力、苦心に対しては助手ほどの責任もない。単なる私的の相談役の仕事をして来たに過ぎないのだ。
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……いいかい……それよりも吾輩の専門上、当然の責任として、全力をげて来たのは君自身、もしくは呉一郎 の『頭の回復』であったんだが、しかしそれにしてもその犯人の名前とか、顔とかを是非とも思い出させなければならぬ責任とか、必要とかいうものは全然こっちにはないのだ。……というのは精神病学者としての吾輩の立場から見ると、発病の原因と経過さえ判明すれば、発狂さした犯人の名前は、目下不明と書いておいても、研究発表上、何等の差支さしつかえがないのだからね。……呉一郎 の発病の状態と、この絵巻物との関係は、心理遺伝学的な立場から立派に説明が付く事だし、学術上の発表としての価値は、もう十分、十二分に備わっている訳だからね。それを若林躍気やっきになって、是非とも犯人を探し出してもらいたいと言ってヤイヤイ騒ぎ立てるために、ツイこんな事になってしまったんだが……とにかく吾輩は、そんな訳で、犯人なぞに用はないんだ……ハハン……」
 こう言い放った正木博士は、悠然と椅子の上に両ひじを張った。呆れているを眼下に見下しながら葉巻の煙を輪に吹いた。
 は、その如何いかにも学者然たる冷やかな風付ふうつき【風体】に、言い知れぬ反感をそそられない訳に行かなかった。そればかりでなく、その 人を愚弄しておいて突放すような態度に対して、たまらない不愉快を感じ初めたので、は思わず座り直して咳払いをした。
「……そ……それあしからんじゃないですか先生。……いくら学者だってアンマリ冷淡過ぎはしませんか」
「冷淡過ぎたって仕方がない。よしんば吾輩が大負けに負けて、若林の加勢をして、その犯人を探し出したにしたところが、そいつをフン縛る法律が在るか無いか……」
 は眼の中が何となく熱くなって来るのを感じた。言いたい事を一ペンに言ってしまおうとして、言えなくなったような気がして……。
「……法律……法律なんてものは、どうでもいいんです。
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……その犯人を突止めて八裂やつざきにでも しなければ、浮かばれない人間がイクラでもいるじゃないですか。八代子だって、モヨ子だって、又あの呉一郎 だって……僕も連累まきぞえを喰っているんなら僕もです。……何の罪もとがも無いのに、殺される以上の残虐を受けているじゃないですか」
「……フン……それで……」
 と色も味もなく言い棄てたまま正木博士は、自分の吹いた煙の行衛ゆくえをウットリと見送った。は自分の魂を吐き出すような気持で言った。
「……それで、僕の魂がもし、この身体からだを脱け出せるものなら、僕は今でも、る一人に乗り移ってその人間の記憶に残っている犯人の名前を怒鳴ってやります。白昼の大道で、公表してやります。死ぬが死ぬまでその犯人に跟随くっついて行って、殺す以上の復讐をしてやります」
「……フーン。左様さよう願えたら面白いがね。しかし誰に乗り移ろうと言うんだい」
「誰って……わかり切ってるじゃありませんか。犯人の顔を直接に見知っている呉一郎 がいるじゃありませんか」
「ハッハッハッ。こいつは面白いな、遠慮なく乗り移るがいい。しかしマンマと首尾よく乗り移れたらお手拍子喝采どころじゃない。吾輩の精神科学の研究は全部り直しだよ。魂が『乗り移る』とか『取りく』とか『生れ変る』とかいう事実は、その本人の『心理遺伝』の作用以外の何ものでもないというのが、吾輩の学説の中でも、最重要な一箇条になっているんだからね。……フン……」
「それは解っています。しかし仮令たとい、先生の方で犯人に用がなくとも、若林先生の方では用があるでしょう。若林先生が、貴方にこの調査書類を引渡されたのは、その最後の一点を、呉一郎 の過去の記憶の中から取出して頂きたいばっかりが目的じゃなかったですか」
「それはそうだ。百も承知だ。
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今朝けさから吾輩と若林が、君をこの部屋に引張り込んで、色々と試みた実験も、帰するところ、同じ目的一つのためにほかならなかったんだが……しかし吾輩は最早もう、これ以上にこの事件の真相を突込んで行きたくないのだ。その理由は、犯人の名前が判明わかると同時にわかるんだがね」
 正木博士は又も長々と煙を吹き上げて空嘯そらうそぶいた。はそのあごにらみつつ腕を組んだ。
「それじゃ、僕が勝手にこの犯人を探し出すのは、お差支えありませんね」
「それは無論、君の自由だ。御随意に遊ばせだが……」
「ありがとう御座います。それじゃ済みませんが、僕を此病院ここから解放して下さい。ちょっと出かけて来たいのですから……」
 と言ううちには立上って、卓子テーブルの端に両手をいてお辞儀をした。しかし正木博士は平気でいた。お辞儀を返そうともしないまま悠々と椅子に踏反ふんぞり返って、葉巻の煙を思い切り高々と吹上げた。
「出かけるって、どこへ出かけるんだい」
「どこだか、まだ考えていませんけど……帰って来る迄には事件の真相を根こそげえぐり付けてお眼にかけます」
「フフン。えぐり付けて胆をつぶすなよ」
「……エッ……」
「この絵巻物の神秘は、お互いに破らない方がよかろうぜ」
「……………」

 は思わず立竦たちすくんだ。そういう正木博士の態度の中には、を押え付けて動かさないる力が満ち満ちていた。……曠古こうこの大事業……空前の強敵……絶後の怪事件……そんなものに取巻かれて、うそか本当か自殺の決心までさせられながら、それをかたぱしから茶化ちゃかしてしまっている。その物凄い度胸の力……その力に押え付けられるようには又、ソロソロと椅子に腰をかけた。そうして改めてその力に反抗するように居住居いずまいを正した。
「……よござんす……それじゃ僕は出かけますまい。その代りこの犯人を発見するまで、僕はここを動きません。
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僕の頭が回復して、この絵巻物の神秘を見破り得るまで、この椅子を離れませんが……いいですか先生……」
 正木博士は返事をしなかった。そうして何と思ったか、急に腰を落して、グズグズと椅子の中にかがまり込み初めた。短かくなった葉巻を灰落しの達磨だるまの口へ突込んで、背中を丸めて、卓子テーブルほお杖を突いたが、その時にジロリとを見た狡猾ずるそうな眼付と、鼻の横に浮かんだ小さな冷笑と、一文字に結んだ唇の奥に、何かしら重大な秘密を隠しているらしい気振けぶりを見せた。
 は思わず身体からだを乗り出した。身体中の皮膚が火照ほてるほどの異状な興奮に包まれてしまった。
「いいですか先生……その代りに、万一、僕がこの犯人を発見し得たら、僕が勝手な時に、勝手な処でその名前を発表しますよ。そうして呉一郎 を初め、モヨ子八代子千世子仇敵かたきを取りますよ。そのためには、僕がドンな眼に会おうとも、又、犯人が如何いかなる人間であろうとも驚きませんが……いいですか、先生……。その残忍非道な人間のために、こんな狂人きちがい地獄におとしいれられて、一生涯、飼い殺しにされているなんて……僕にはトテモ我慢が出来ないのですから……」
「ウン……まあやって見るさ」
 正木博士は如何いかにも気のなさそうにこう言った。そうしてアヤツリ人形のようにピッタリと眼を閉じた、一種異様な冷笑を鼻の横に残して……。
 は今一度座り直した。自分の無力を眼の前に自覚させられたような気がして、思わずカーッとなった。
「……いいですか先生。僕が自分で考えてみますよ。……まず仮りにこの犯人が僕でないとすればですね。
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まさか村の者の言うように、この絵巻物がひとり手に弥勒みろく様の仏像から抜け出して、呉一郎 の手に落ちるような事は、有り得る筈がないでしょう」
「……ウフン……」
「……又……伯母おば八代子と、母の千世子も、呉一郎 をこの上もなく愛して、便たよすがりにしている女ですから、こんな恐ろしい言い伝えのある絵巻物を呉一郎 に見せる筈はありますまい。雇人やといにん仙五郎というじじいも、そんな事をする人間ではないようです。……お寺の坊さんは又、呉家の幸福を祈るために呉家に仕えているようなものですから、巻物があると判ったらかえって隠す位でしょう。そうとすれば、他にまだ誰にも気付かれていない、意外な人間の中に、嫌疑者がある筈です」
「……ウフン。自然、そういう事になる訳だね」
 正木博士は変なねばっこい口調で、不承不承にこう言った。それからチョット眼をいてを見た。その眼の色は、鼻の横の微笑とは無関係に、いかにも青白く残忍であった……と思う間もなく又、もとの通りにピッタリと閉じた。
 は一層き込んだ。
若林博士のその調査書類の中には、そんな嫌疑者について色々と心当りが、調べてあるんですね」
「……ないようだ」
「……エッ……一つも……」
「……ウ……ウン……」
「……じゃ……その他の事は、みんな念入りに調べてあるんですか」
「……ウ……ウン……」
「……何故ですか……それは……」
「……ウ……ウン……」
 正木博士は微笑を含んだまま、ウトウトと眠りかけているようである。その顔を見詰めたままは唖然となった。
「……そ……そ……それは怪訝おかしいじゃないですか先生……犯人の事をお留守にして、他の事ばかりに念を入れるなんて……仏作って魂入れずじゃないですか。
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ねえ先生……」
「……………」
「……ねえ先生……たとい悪戯いたずらにしろ何にしろ、これ程に残忍な……そうしてコンナにまで非人道的に巧妙な犯罪が、ほかに在り得ましょうか。……本人が発狂しなければ無論、罪にはならないし、万一発狂すれば何もかも解らなくなる。又、万が一犯人として捕まったとしても、法律はもとより、道徳上の罪までも胡魔化ごまかせるかも知れないというのですから、これ位アクドイ、残酷な悪戯いたずらは又と在るまいと思われるじゃないですか先生……」
「……ウ……フン……」
「その根本問題にちっとも触れないで調査した書類を、先生に引渡すのは、どう考えても怪訝おかしいじゃないですか」
「……ウ……フン。……おかしいね……」
「……この事件の真犯人を明かにするには、是非とも呉一郎 か、僕かの頭を回復さして、犯人を指示ゆびささせるより他に方法はないのでしょうか……先生みたような偉い方が二人も掛り切っておられながら……」
「……ないよ……」
 正木博士は乞食を断るように、面倒臭そうな口ぶりで答えた。サモサモ眠たそうに眼を閉じたまま……。はグイと唾液つば嚥込のみこんだ。
「……一体、この絵巻物を呉一郎 に見せた目的というのは何でしょうか」
「……ウ……ウン……」
「ほんとうの心から出た親切か……又は悪戯いたずらか……恋の遺恨か……何かののろいか……それとも……それとも……」
 はギョッとした。呼吸が絞め上げられるように苦しくなった。胸を波打たせつつ正木博士の顔を凝視した。
 博士の鼻の横の微笑がスッと消えた。……と同時に、眼をパッチリと開いてを見た。心持ち蒼い顔に、黒い瞳を凝然じっと据えたまま静かに部屋の入口を振返った……が、やがて又おもむろにの方へ向き直ると、やおら椅子の上に居住居いずまいを正した。
 その黒いは博士独特の鋭い光りを失って、何ともいえない柔らかい静けさを帯びていた。
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その態度にも今までの横着な、図々しい感じが全くなくなっていた。見る見る一種の神々しい気品を帯びて来ると同時に、何ともいえず淋しい、悲しい心持を肩のあたりに見せている。その態度を見ているうちにの呼吸がだんだんと静まって来た。そうして吾にもあらず眼を伏せて、頭をれてしまったのであった。
「……犯人は俺だよ……」
 と博士は空洞ほらあなの中でつぶやくような声で言った。
 は思わずビクリとして顔を上げた。弱々しい、物悲しい微笑をただよわしている博士の顔を仰いだが又、ハッと眼を伏せた。
 ……の眼の前が灰色に暗くなって来た。全身の皮膚がゾワゾワと毛穴を閉じ初めたような……。
 はヒッソリと眼を閉じた。わななくゆびを額に当てた。心臓がドキンドキンと空に躍りまわっているのに、額は冷めたくれている。その耳元に正木博士の悄然しょうぜん【元気がなく、うちしおれている】たる声が響く。
「……君がそこまで判断力を回復しているならば止むを得ない。一切を打明けよう」
「……………」
「何を隠そう。吾輩はうから覚悟を決めていたのだ。この調査書類の内容の全部が、吾輩をこの事件の犯人として指していることを、最初から明かに認めていながら、知らぬ顔をし通して来たのだ」
「……………」
「この調査書類の内容は一字一句、吾輩を指して『お前だお前だ。お前以外にこの犯人はない』と主張しているのだ。……すなわち……第一回に直方のうがたで起った惨劇は、高等な常識を持っている思慮周密しりょしゅうみつな人間が、あらゆる犯跡をき消しつつ、事件が迷宮に入るように、故意に呉一郎 が帰省した時を選んで、巧みに麻酔剤を使用して行った犯罪である。呉一郎夢中遊行むちゅうゆうこうでは断じてない……と……」
 正木博士はここで一つ、静かな咳払いをした。は又もビクリとさせられたが、それでも顔を上げる事が出来なかった。
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正木博士が吐き出す一句一句の重大さに、しかかられたようになって……。
「……その犯行の目的というのは外でもない。呉一郎 を母親の千世子から切離して、モヨ子と接近させるべく、伯母おばの手によって姪の浜へ連れて来させるにある……モヨ子は姪の浜小町と唄われている程の美人だから、とやかく思っている者が、その界隈かいわいに多いにきまっているし、同時に、絵巻物の本来の所在地で、大部分の住民は多小にかかわらず、それに関する伝説を知っている。一方に呉一郎モヨ子の縁組は、九十九パーセントまではずれる気遣いがないのだから、この実験を試みるにも、又は、その跡をくらますにも、この姪の浜以上に適当な処はない訳である」
「……………」
「……だから第二回の姪の浜事件というのも、決して神秘的な出来事ではない。直方のうがた事件以来の計画通り、る人間が、石切場附近で呉一郎 の帰りを待伏せて、絵巻物を渡したにきまっている……すなわちこの直方のうがたと、姪の浜の二つの事件は、る一つの目的のために、同一の人間の頭脳によって計画されたものである。その人間は、この絵巻物に関する伝説に対して、非常に高等な理解と、興味とをあわせ持っている者で、これを実地に試験すべく最適当した時機……すなわち被害者、呉一郎る大きな幸福に対する期待に充たされている最高潮のところを狙って、その完全な発狂を予期しつつ、この曠古こうこの学術実験を行った……と言えば、吾輩より以外ほかに誰があるか……」
「ありますッ……」
 は突然に椅子を蹴って立上った。顔が火のようにカ――ッと充血した。全身の骨と筋肉が、力に満ち満ちておののいた。愕然がくぜんとしている正木博士の鼻眼鏡をにらみ付けた。
「……ワ……ワ……若林……」
「馬鹿ッ……」
 という大喝が木魂こだま返しに正木博士の口からほとばしり出た。同時に黒い、くぼんだ眼でジリジリとにらみ据えた。
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……がその真黒い眼の光りの強烈さ……罪人を見下す神様のような厳粛さ……怒った猛獣かと思われる凄じさ……。怒髪天をくばかりのいきおいであったは一たまりもなくふるえ上った。ヨロヨロと背後うしろによろめく間もなくドタリと椅子に尻餅を突いた。その恐ろしい瞳に、自分の眼を吸い付けられたまま……。
「……馬鹿ッ……」
 は左右の耳朶みみたぼに火が附いたように感じつつ、ガックリと低頭うなだれた。
「……無考むかんがえにも程がある……」
 その声はの頭の上から大磐石だいばんじゃくのようにしかかって来た。しかも今までのタヨリない、淋しい態度とは打って変って、父親の言葉かと思われるほどの威厳と慈悲とが、その底にこもっていた。
 は又、何故ともなく胸が一パイになりかけて来た。正木博士の筋ばった両手のゆびが机の端を押え付けて、一句一句に力を入れて行くのを見詰めながら……。
「……これ程の恐ろしい実験を、ここまで突込んでり得る者が、吾輩でなければ、外には今一人しかいないであろうという事は誰でも考え得る事じゃないか。又それがわかればその人間の名前が、ウッカリ歯から外へ出されない事も、直ぐに考え付く筈じゃないか。……何という軽率さだ」
「……………」
いわんや【言うまでもなく】本人は既に……一切を自白している」
「……エッ……エッ……」
 愕然がくぜんとして顔を上げた。
 見ると正木博士は、青いメリンス【毛織物】の風呂敷に包まれた調査書類を、右手でシッカリと押え付けながら、冷然として唇を噛んでいた。それは何の意味か知らず、る神聖な言葉を発する前提と思われる。その緊張した態度に打たれて、は又も頭を垂れてしまった。
「その自白の記録が、この調査書類である。これは本人が、自分で犯した罪跡を、自分で調査して吾輩に報告したものだ」
 ……スラリ……と冷めたいものが一筋、の背中を走り降りて行った。
509/596
「……君はまだ犯罪の隠覆おんぷく心理とか、自白心理とかいうものが、ドンナものだか詳しくは知るまいが……よく聞いておきたまえ。人間の知恵が進むに連れて……又は社会機構が、複雑過敏になって来るに連れて、こんな恐ろしい犯罪心理が、有触ありふれたものと成って来るに、きまっているんだから……よろしいか……」
「……………」
「……この調査書が如何いかに恐るべきものであるか……この調査書類の中に含まれている犯罪の隠覆おんぷく心理と自白心理の二つが、如何いかに深刻な、眩惑的な、水もらさぬ魔力をもって吾輩に、この罪を引受るべく迫って来たか……という理由を、これから説明するから……」
 は、私の全身の筋肉が、みるみる冷え固って行くのを感じた。両眼の視線は又も、眼の前に横たわる緑色の羅紗らしゃに吸い寄せられて、動かす事が出来なくなった。
 その時に正木博士は軽い咳払いを一つした。
「……仮りにる人間が一つの、罪を犯したとすると、その罪は、如何いかに完全に他人の眼から回避し得たものとしても、自分自身の『記憶の鏡』の中に残っている。罪人としての浅ましい自分の姿は、永久にぬぐい消す事が出来ないものである。これは人間に記憶力というものがある以上、止むを得ないので、誰でも軽蔑する位よく知っている事実ではあるが……サテ実際の例に照してみると、なかなか軽蔑なぞしておられない。この記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿なるものは、常に、五分もすきのない名探偵の威嚇力と、絶対に逃れみちのない共犯者の脅迫力とを同時にあらわしつつ、あらゆる犯罪に共通した唯一、絶対の弱点となって、最後の息を引取る間際まぎわまで、人知れず犯人に附纏つきまとって来るものなのだ。……しかもこの名探偵と共犯者の追求から救われ得る道は唯二つ『自殺』と『発狂』以外にないと言ってもい位、その恐ろしさが徹底している。
510/596
世俗に所謂いわゆる、『良心の苛責かしゃく』なるものは、畢竟ひっきょうするところ【結局】こうした自分の記憶から受ける脅迫観念にほかならないので、この脅迫観念から救われるためには、自己の記憶力を殺してしまうより外に方法はない……という事になるのだ。」
「……だから、あらゆる犯罪者はその頭が良ければいい程、この弱点を隠覆おんぷくして警戒しようと努力するのだが、その隠覆おんぷくの手段が又、十人が十人、百人が百人共通的に、最後の唯一絶対式の方法に帰着している。すなわち自分の心の奥の、奥のドン底に一つの秘密室を作って、その暗黒の中に、自分の『罪の姿』を『記憶の鏡』と一緒に密閉して、自分自身にも見えないようにしようと試みるのであるが、生憎あいにくな事に、この『記憶の鏡』という代物しろものは、周囲を暗くすればする程、アリアリと輝き出して来るもので、見まいとすればする程、見たくてたまらないという奇怪極まる反逆的な作用と、これに伴う底知れぬ魅力とを持っているものなのだ。しかもそれをそうと知れば知るほど、その魅力がたまらないものとなって来るので、死物狂いに我慢をした揚句あげく、やり切れなくなってチラリとその記憶の鏡を振返る。そうするとその鏡に映っている自分の罪の姿も、やはり自分を振り返っているので、双方の視線が必然的にピッタリと行き合う。思わずゾッとしながら自分の罪の姿の前にうなだれる事になる……こんな事が度重なるうちに、とうとうり切れなくなって、この秘密室をタタキ破って、人の前にサラケ出す。記憶の鏡に映る自分の罪の姿を公衆に指さして見せる。『犯人は俺だ。この罪の姿を見ろ』……と白日の下に告白する。そうするとその自分の罪の姿が、鏡の反逆作用でスッと消える……初めて自分一人になってホッとするのだ。」
「……又は、自分の罪悪に関する記憶を、一つの記録にして、自分の死後に発表されるようにしておくのも、この苛責かしゃくを免れる一つの方法だ。
511/596
そうしておいて記憶の鏡を振返ると、鏡の中の『自分の罪の姿』も、その記録を押え付けつつ自分を見ている。それでイクラか安心して淋しく笑うと『自分の罪の姿』も自分を見て、あわれむように微苦笑している。それを見ると又、いくらか気が落付いて来る……これが吾輩の所謂いわゆる自白心理だ……いいかい……。」
「……それから今一つ、やはり極く頭のいい……地位とか信用とかを持っている人間が、自分の犯罪を絶対安全の秘密地帯に置きたいと考えたとする。その方法のうちでも最も理想的なものの一つとして今言った自白心理を応用したものがある。即ち、自分の犯罪の痕跡という痕跡、証拠という証拠をことごとく自分の手で調べ上げて、どうしても自分が犯人でなければならぬ事が、言わず語らずの中にわかる……という紙一枚のところまで切詰きりつめる。そうしてその調査の結果を、自分の最も恐るる相手……すなわち自分の罪跡を最も早く看破かんぱし得る可能性を持った人間の前に提出する。そうするとその相手の心理に、人情の自然と、論理の焦点の見損ないから生ずる極めて微細な……実は『無限大』と『れい』ほどの相違を持つ眩惑的な錯覚を生じて、どうしても眼の前の人間が罪人と思えなくなる。その瞬間にその犯罪者は、今までの危険な立場を一転して、ほとんど絶対の安全地帯に立つことが出来る。そうなったら最早もうめたものである。一旦、この錯覚が成立すると、容易に旧態もとに戻すことが出来ない。事実を明らかにすればする程、相手の錯覚を深めるばかりで、自分が犯人である事を主張すればする程、その犯人が立つ安全地帯の絶対価値が高まって行くばかりである。しかもこの錯覚に引っかかる度合いは、相手の頭が明晰めいせきであればある程、深いのだ……いいかい……。
 ……この『犯罪自白心理』の最も深刻なものと『犯罪隠覆おんぷく心理』の最も高等なものとが、一緒になって現出したのが、この調査書類なのだ。
512/596
正に、これこそ、吾輩の遺言以上の、前代未聞の犯罪学研究資料であろうと思われるのだ……いいかい……そうして更に……」
 ここまで言って言葉を切ったと思うと、正木博士は不意に身軽く、如何いかにも自由そうに回転椅子から飛降りた。自分の考えを踏み締めるように両手を背後うしろに組んで、一足一足に力を入れて、大卓子テーブルと大暖炉ストーブの間の狭いリノリウムの上を往復し初めた。
 矢張やっぱもとの通りに、回転椅子の中に小さくなって、眼の前の緑色の羅紗らしゃの平面を凝視していた。そのまぶしい緑色の中に、ツイ今しがた発見した黒い、留針ピンの頭ほどの焼けげが、だんだんと小さな黒ん坊の顔に見えて来る……大きな口をいてゲラゲラ笑っているような……それを一心に凝視していた。
「そうして更に恐るべき事には、この書類に現われている自白と、犯罪の隠覆おんぷく手段は、一分一厘の隙間すきまもなく吾輩をシッカリと押え付けておるのだ。……即ち、もしもこの書類が公表されるか、又は司直の手に渡るかした暁には、如何いかぼんクラな司法官でも、直ぐに吾輩を嫌疑者として挙げずには おられないように出来ているのだ。……のみならず……万一そうして吾輩が法廷に立つような事があった場合には、仮令たとい文殊もんじゅの知恵、富楼那フルナの弁が吾輩に在りといえども、一言も弁解が出来ないように、この調査書は仕掛けてあるのだ。そのカラクリ仕掛の恐ろしい内容を今から説明する……いいかい……吾輩がこの戦慄すべき学術実験の張本人として名乗りを上げずに おられなくなった、その理由を説明するんだよ」
 こう言ううちに正木博士は大卓子テーブルの北の端にピタリと立止まった。両腕を縛られているかのようにシッカリと背後うしろに組んだまま、の方を振返ってニヤニヤと冷笑した。その瞬間に、その鼻眼鏡の二つの硝子ガラス玉が、南側の窓から射込む青空の光線をマトモに受けて、真白くき出された義歯いればと共に、気味悪くギラギラピカピカと光った。
513/596
それを見るとは思わず視線をらして、眼の前の小さな焼焦やけこげを見たが、その中から覗いていた黒ん坊の顔はもうアトカタもなく消え失せていた……と同時にほおや、首筋や、横腹あたりが、ザワザワザワと粟立あわだって来るのを感じた。

 正木博士はそのまま、黙って北側の窓の処まで歩いて行った。そこでチョイト外を覗くと直ぐに大卓子テーブルの前の方へ引返して来たが、その態度は、今までよりも又ズットくだけた調子になっていた。これ程の大事件を依然として馬鹿にし切って、もてあそんでいるような、なめらかな、若々しい声で言葉を続けた。
「……そこでだ。いいかい。まず君が裁判長の頭になって、この前代未聞の精神科学応用の犯罪事件を、厳正、公平に審理してみたまえ。吾輩が検事、兼、被告人という一人二役を兼ねた立場になってこの事件の最後の嫌疑者、即ち『』と『』の行動に関する一切の秘密を、知っている限り摘発すると同時に、告白するから……君は結局、双方の弁護士であると同時に裁判長だ。同時に精神科学の原理原則に精通した名探偵の立場に立ってもいい……いいかい……」
 の直ぐ傍に立佇たちどまった正木博士は、リノリウムの床の上を、北側から南側へコツリコツリと往復しながら咳一咳せき ひとせきした。
「……まず……呉一郎 が、その絵巻物を見せられて、精神病的の発作におとしいれられた当時の事から話すと……その大正十五年の四月の二十五日……呉一郎モヨ子との結婚式の前日には『』も『』も姪の浜から程遠からぬこの福岡市内に確かに居た。……はまだ九州大学に着任匆々そうそうで、下宿が見付からなかったために、博多駅前の蓬莱館ほうらいかんという汽車待合兼業の旅宿はたごに泊っていたが、この蓬莱館というのは かなりの大きなうちで、部屋の数が多い上に、客の出入りがナカナカはげしい。
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おまけに博多一流で客待遇あしらいが乱暴と来ているから、金払いをキチンキチンとして飯をチャンチャンと喰ってさえおれば、半日や一晩いなくたって、気にも止めてくれないという、現場不在証明アリバイ胡魔化ごまかしには持って来いの場所だ。……ところでこれに対するはと見ると、いつも九大医学部の法医学教授室に立てこもって勉強ばかりしている。仕事の忙がしい時は内側から鍵をかけていて、一切の用事は電話で弁ずる。鍵穴がふさがっている時は、決して外からノックしないのが、法医学部関係者の規則みたような習慣になっている。こうしたの神経質は、小使や友人は勿論の事、新聞記者仲間でも評判になっている位だから、これも現場不在証明アリバイの製造には最も便利な習慣だ。」
「……サア又、一方に……呉一郎 が、結婚式の前日に出席する筈になっていたという、福岡高等学校の英語演説会の日取や、時刻は、新聞に気を付けておればキットわかる。呉一郎 が軌道に乗らずに歩いて帰るという習慣も、いちじるしい習慣だから、前もって調査しておれば直ぐに気が付く……そこで石切場に働いている石切男いしやの一家族に、何かしら検出の困難な毒物を喰わせて、その日を中心にした二三日か一週間も休ませて、そのすきに仕事をするという段取りになるのだ。もっともこの姪の浜という処は半漁村で、鮮魚を福岡市に供給している関係から、よく虎列剌コレラとか、赤痢せきりとかいう流行病の病源地と認められる事があるので、その手の病原菌を使うと手軽でいいのだが、しかしこの種のバクテリヤは、その人間の体質や、その時その時の健康の状態によって利かない事があるから困る。いずれにしても九大の法医学教室は衛生、細菌の教室と共同長屋で、細菌や毒物の研究が盛だから、その方の手筈にはすこぶる便利な訳だと思う。とにかく微塵みじんも狂いのないようにして取りかかったところに、この事件の特徴があるのだからね。」
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「……次に当日、呉一郎 が福岡市の出外ではずれの今川橋から姪の浜まで、約一里の間を歩いて帰るとすれば、是非ともあの石切場の横の、山と田圃たんぼに挟まれた国道を通らなければならぬ事は、戸倉仙五郎の話にも出ていたが、これは実地を見ても直ぐにうなずける。麦はもう大分伸びている頃だが、深い帽子に色眼鏡、薄い襟巻とマスク、夏マントなぞいうものを取合わせて、往来に近い石の間か何かに腰をかけて、動かない事にしておれば、顔形や背格好までもかなり違った人間に見せかける事が出来たであろう。……そこで帰って来る呉一郎 を呼び止めて、言葉巧みに誘惑するんだね。たとえば……実は私は貴方あなたの亡くなられたお母様を存じている者ですが、まだ貴方あなたがお幼少ちいさいうちに、貴方あなたの事に就いて極く秘密のお頼みを受けている事がありました。そのお約束を果すために、斯様かような処でお待ち受けしていたのです……テナ事を言えばイクラ呉一郎 が人見知り屋のお坊ちゃんでも引付けられずにはいられないだろう。そこでその絵巻物を勿体らしく出して見せて……これは呉家の宝物で、お母様が家中うちに置いておくと教育上悪いからというので、私に預けておかれたものですが、最早もう明日あしたからは貴方あなたが一軒の御家庭の主人公になられるとうけたまわりましたから、御返却おかえしに参りました。つまり貴方あなたが、モヨ子さんと式をお挙げになる前に、是非とも見ておかれ なければならぬ品物で、貴方あなたの遠い御先祖に当るる御夫婦があらわされた、この上もない忠義心と愛情との極致をこの中に描きあらわして在るのです。これについては色々な恐ろしい噂や伝説がまつわり付いている程の御宝物なのですが、それはウッカリした者が見ないように言いらしたのが一種の迷信みたようになってしまったので、実はトテモ素晴らしい名画と名文章なのです。うそだと思われるならば今、ここで御覧になっても宜しい。その上で御不用だったら今一度、私が御預りしても構いません。
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あすこの高い岩の蔭なら、誰も来はしないでしょう……と言ったかどうか知らないが、吾輩だったら、そんな風に言いまわして好奇心をそそるのが一番だと思うね。果せるかな、呉一郎 は美事に蹄係わなに引っかかった。岩の蔭で夢中になって絵巻物を繰り展げているうちに、スラリと姿を消してしまうくらい何でもない芸当であったろう……いいかね……。」
「……それから次にその二年前のこと……すなわち大正十三年の三月二十六日に起った直方のうがた事件に移ると、あの当夜も、は、たしかに福岡市に居たことになっている。……というのはその三月二十六日の前日の二十五日には、久方振りでこの大学の門をもぐって、当時、精神病学教授として存命中であった斎藤博士初め、同窓や旧知の先輩、後輩に面会したのち、総長に会って論文を提出して、卒業以来預けておいた銀時計を受取っている。宿はやはり蓬莱館に泊る事にした。またもその当時から今の春吉はるよし六番町の広い家に、飯爨婆めしたきばあさん一人を相手の独身生活をやっているんだから、日が暮れてからソッと脱け出して、朝方帰って来る位、何でもない仕事だ。つまり二人とも現場不在証明アリバイ胡魔化ごまかすには持って来いの処に居た訳だ。……それか あらぬか その晩の九時頃に一台の新しい箱自動車セダンが、曇り空の暗黒を東にいて福岡を出た。乗っている人物は炭坑成金らしい風采で『ちょうど直方のうがたへ連絡する汽車が無くなったところへ、急用が出来たものだから止むを得ない。一つ全速力で直方のうがたまでってくれ』と言って……」
「……エッ……そ……それじゃあの呉一郎 の夢遊病は……」
 正木博士はの前を通り抜けつつ振り返って冷笑した。
「……ウソさ……真赤なうそだよ」
「……………」
 の脳髄の全部がたちま煽風機せんぷうきのような回転を初めた。身体からだ自然おのずと傾いて一方に倒れそうになったのを、かろうじて椅子の肘掛けで支え止めた。
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「……あんな夢中遊行むちゅうゆうこうがあったら二度とお眼にかからないよ。……第一、台所の入口の竹の心張棒しんばりぼう【つっかい棒】が落ちた説明からしてはなはだ明瞭を欠いているじゃないか。いずれ手袋を穿めた手を、戸の間から差し入れてゆびの股でつかもうと試みたものだろうが、その時に誤って取落した……とでも考えれば説明が付くが……又は難なく無事にはずしておいて、あとで自然に落ちたように見せかけておいた……と考える事も出来るが……しかし、まあいい。イクラ際どいところが抜きにしてあっても、吾輩の説明を聞いておれば一ペンに解るから……。それを吾輩が何故なにゆえ夢中遊行むちゅうゆうこう病と断定してしまったかという理由も、同時に判明するんだから……」
 の脳味噌の中の回転が次第に静まって、やがてヒッソリと停止した。同時に頭の毛がザワザワザワとし初めたのを奥歯でギュッと噛み締めながら眼を閉じた。
「……裁判長……シッカリしないと駄目だぞ。これから先が いよいよ解らない、恐ろしい事ずくめになって来るんだから……ハハ……」
「……………」
「……そこでだ……次にこの調査書類を、よくよく読み味わって見ると、異様に感ぜられる点が二つある。その一ツはツイ今しがた君が疑ったところで、犯人の捜索方法を、ただ呉一郎 の記憶回復後の陳述のみに期待して、その他の捜索方法を全然放棄している事である。……それから今一つは呉一郎 の生年月日に就いて特別の注意が払ってある点と……この二つだ。いいかい……」
「……ところでその呉一郎 の年齢に就いて、この調査書には一つの新聞記事の切抜を参考として挿入してあるのであるが、その記事にると、呉一郎 の母親の千世子は、明治三十八年頃に家出をしてから一年ばかりの間、福岡市外水茶屋みずぢゃやの何とかいう、気取った名前の裁縫女塾に通っていたが、その間には子供を生まなかったように見える。
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……で……もしその頃に生まなかったものとすれば呉一郎 が生まれたのは、明治三十九年の後半から、四十年一パイぐらいの間だ……という推測が出来る。……ただし、こんな年齢の推定材料の切抜記事は、常識的に考えると、呉一郎 が私生児だから、特に念のために挿入したものと考えられるかも知れぬ。又はその当時の話題になっていたこの『美人後家ごけ殺しの迷宮事件』の真相を、古い色情関係とにらんでいた新聞記者が、そんなネタを探し出した。ところが又その記事の中に、虹野にじのミギワなぞいうくれ虹汀こうていちなんだ名前が出て来たりしたので、傍々かたがたもってこの調査書の中に取入れたものとも考えられるようでもある。……が……しかし吾輩の眼から見るとそこにモットモット意味深長な、別個の暗示が含まれているように思える。……というのは外でもない。その呉一郎 が生まれた年らしく推定される明治四十年の十二月は、この九州帝大の前身たる福岡医科大学が、第一回の卒業生……即ち吾々われわれを生んだ年に当るのだ。……いいかい……」
「……………」
「……ところでこれが又、局外者の眼から見るとチョット根拠の薄弱な、余計な疑いのように見えるかも知れないが実はそうでない。当時の大学生の中に怪しい奴がいた。そいつがこの事件のソモソモの発頭人で、直方のうがた事件の下手人も其奴そやつに相違ないという事を、この調査書は言いたくて言い得ずにおるように見える。……これが吾輩の所謂いわゆる、自白心理だ。問うに落ちずして語るに落ちる【問い詰められると用心して秘密を話さないが、自分から話し始めると不用意に真実をしゃべってしまうという意味のことわざ】という千古不磨せんこふまの格言のあらわれだ。呉一郎 が生まれた真実の時日と場所を知っているのは、母親の千世子を除いてはの二人きりだからね」
 は強く肩をユスリ上げた、自分でも意味がわからないままに……。
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正木博士もその時にチョット沈黙したが、その沈黙はを無限の谷底におとしいれるように深く、の胸を打った……と思うと正木博士は又、言葉を続けた。
「……そうと気が付いた時に吾輩はゾッとしたよ。おのれと思ったが弁解の余地がない。しかも呉一郎 の血液を検査して誰の子かを決定する法医式鑑定法の世界的権威はの手中に在る」
 正木博士は南側の窓の所で向うむきにハタと立止まった。悄然しょうぜん【元気がなく、うちしおれている】とうつむいて唾液つばみ込んでいるように見えた。
 は又もわななき出した片手を額に当てた。湧き起り 湧き起り して来る胴ぶるえを 押え付け 押え付け しながら片手でシッカリとひざ頭をつかんでいた。

 正木博士はやがて太い溜息を一つした。あたかも窓の外を見るのを恐れるかのようにクルリとこっちを向いた。……黙って……うつむいて……心の動揺を落付けるかのように、大卓子テーブルを隔ててコトリコトリとの前を横切って行った。そうして北側の窓の処で今度は直角にむきを換えて、窓側とスレスレに往復し初めたのであったが、その心持ち うつむいた姿は、眩しい窓の前を通り過ぎる度ごとに、チラリチラリとした投影を、の眼の前の大卓子テーブルの縁にひらめかすのであった。
 正木博士は又も念入りに咳一咳せき ひとせきした。
「……今から二十余年前……福岡の県立病院が医科大学に改造されてこの松原に建直たてなおされた当時の事、その大学の第一回の入学生として入って来た青年の中に、という二人がいた。
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その中でもは法医学、は精神病学という…いずれもその当時の医学界で発達の十分でない方向を志しつつ、互いに首席を争い続けていたが、は元来の結核系統のうちに生れたせいか、その当時の学生のうちでも一二を争う好男子の偉丈夫いじょうふ【体が立派で、すぐれた男】で、性質は念に念を入れる神経質の実際家……はまたその頃から矮躯チビ醜男ぶおとこで、空想家の早飲込みのドチラかといえば天才肌という風に、各自正反対の特徴を持っていた……それが互いにしのぎけずって学業のを争っていたのであった。
 ……しかるに今も言う通りは法医学、は精神病学と、その志す最後の目標は違っていたが、唯一の、その頃はまだソンナ名前すら人が知らなかった精神科学方面の研究に対する二人の興味は、一種の宿命であるかのように一致していた。あるいは二人の頭脳の正反対の特徴の極端と極端とが偶然に一致していたせいかも知れないが……とにかくそのために、特に当時のその方面の権威者、斎藤博士に就いて指導を仰ぐ事になった訳であるが、その中でも又、特に専門の医学と縁の薄い、迷信とか、暗示とかいう問題に対する二人の研究熱は、ほとんど沸騰点を突破しているかの観があった。もっともこれは東洋哲学に造詣ぞうけいの深い斎藤先生の指導に影響されたせいでもあるが、その結果、福岡から程遠からぬ所に在るこの有名な、恐ろしい伝説に、二人とも相前後して惹付ひきつけられて行くようになったのは、寧ろ当然の帰結と言うべきであったろう。」
「……今まで一種の敵愾心てきがいしんをもって、どことなく折合いかねていた二人は、この伝説に着眼すると同時に、何もかも忘れて握手してしまった。
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そうして互いに意見を交換して、この問題に対する研究手段の一般方略をきめた結果、は『迷信、伝説の起原と精神異状』といったような比較的質実じみな方面から……又、これに対するの方は『の研究の結果から見た、仏教の因果応報論』もしくは『印度インドおよび埃及エジプトの各宗教に含まれたる輪回転生りんねてんしょう説の科学的研究』といったような途方もない派手な題目で……いずれにしても相関連した裏と表の二方面から狙いを付けて、どこまでも突貫して見ようという事になった……が……何しろまだその伝説の正体も突止めないうちから、こんな恐ろしい研究主題テーマを決めて掛った位だから、その当時の二人の意気組いきぐみが、如何いかに素晴らしいものであったかが想像出来るであろう。事実二人とも、この研究を完成するためには、あらゆる人情も良心も、神も仏も踏みつぶ蹴散けちらして行く決心であった。毛唐けとうじんの中でも科学の新境地を開拓した連中の中には、随分思い切った研究手段をった者がある。特に医学方面の大家の中には学術のために良心を殺して極度に残忍な犠牲を取った例が無数に在って、社会の非難を受けた連中も相当あるが皆、学術のためとか人類文化のためとかいう名の下に敢然かんぜんとして非人道的な研究を断行して来たものらしい。その通りにも、あらゆる犠牲をかえりみずに、この実験を徹底して行こうではないか……と固く約束した事であった。」
「……二人はコンナ訳で、互いに首席を争う以上の熱度を上げて、協力一致、この伝説の調査を開始したものであったが、ちょうど都合のいい事に、呉家の長女で子というのが最早もう妙齢みょうれいになっていて、婿むこを探しているところであったけれども、田舎の癖として呉家の精神病系統きちがいすじの噂がどこまでも附きまとって行くので、婿むこに来てくれる者がない。
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そこで色々と手を尽して探しているうちにヤットの事で、当時、福岡の簀子町すのこまちという処に京染悉皆屋しっかいやの小店を開いていた渡り者のGという三十男を引っ張って来て間に合わせる事になったが、そんな経緯いきさつのために、一時絶えかけていた呉家の血統ちすじに絡まる伝説が、八釜やかましく復活していたところだったので研究上、非常に便宜であった。
 ……は、そこでそのような噂や伝説をグングンと突込んで行った。古跡調査に名をりた如月寺にょげつじの和尚に取り入って縁起文を盗み写している間に、同じようにして和尚の信用を得たは、問題の御本尊の弥勒みろく様の首を引抜いて見るといった調子で、グングンと求心的に肉迫して行くと実に意外千万な事実を発見した。すなわち如月にょげつ寺の縁起文の中では、くれ虹汀こうていの手で焼棄てられた事になっている絵巻物が、実は焼棄てられていなかった……ツイこの間まで御本尊の胴体の中に厳存していたのみならず、それを最近になって何者かが発見して、どこかへスッパ抜きに持って行ってしまっているに相違ない事実が発見されたのだ。
 ……これは呉家の系図と、これに絡まる伝説の史実的調査だけで満足するつもりであった二人にとって実に思い設けぬ発見であると同時に、非常な失望をもたらしたものであった。けれども、その失望は一時の事であった。若い二人は間もなく前に倍した勇気を盛り返しつつ、今までよりも一層、申合わせを厳重にして、あらゆる方面から手を回して絵巻物の行衛ゆくえを探索した。そうしてその結果を総合してみると、その泥亀すっぽん抜きの犯人というのは又、意外千万にも子の妹の子という美しい女学生に違いないという目星が付いたので、サア事がややこしくなった。少々てられるかも知れないが、裁判長だから仕方があるまい……ハハハ……」
「……………」
「……ところでの二人の提携はここまで来ると又、キレイに断絶する事になった。
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……アノ子に絵巻物を握られていては事が面倒だ。お寺の御本尊の中に在るのと違って、生きた人間が保管しているのだから盗み出すにしても容易な事ではない。ここいらでこの研究は一時中止しようじゃないか。ウン。そうしよう。いずれ又……とか何とかいうので最初の意気組いきぐみにも似合わない、恐ろしくアッサリとした別れ方であったが……しかし内実は決してアッサリでない事を、お互いにチャンと見透みすかし合っていた。アッサリどころか、前に何層倍した熱烈な決心をもってこの実験を突きいてくれよう、どうするか見ろ……と思っている事を、互いに感付き過ぎる程、感付いていた。もっとも二人のそうした決心には子の美貌が反映していた事を否定出来ない。……がしかしながら呉青秀の忠志と違ってこの実験に対するの誠意ばかりは、今日までも断々乎だんだんことして一貫している筈だ。むろん二人ともだよ。いいかい……」
「……………」
「……ところでその頃の福岡附近は所謂いわゆる、角帽の草分け時代で『末は博士か院長さんか』と芸者連が唄うくらい大学生大持ての時代であった。一般家庭でも『学士様なら娘を遣るか』といった調子で、紅葉山人の金色夜叉こんじきやしゃや、小杉天外の魔風恋風まかぜこいかぜが到る処にウロウロしていた。もこれに紛れて子嬢を張合った訳だが、その結果がどうなったかというと、矢張やはり遺憾なく二人の特徴を発揮している。
 ……まず最初のうちはが勝利を占めた。何しろはその当時の角帽連の中でも、特別あつらえの好男子、兼秀才で、おまけに物腰が応揚おうようで、丁寧で、透きとおる程親切……だという、この方面に対する絶好の条件ばかり、倶有ぐゆうしていた【兼ね備えていた】んだからかなわない。手もなくタタキ付けられた揚句あげく、到底二人の仲には歯が立たぬものと諦らめさせられたは、学業も何も放り出して、野山を馳けめぐって、化石なぞを探しながら、かろうじてる気持をなぐさめていた。
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 ……しかも一方には、決して成功の美酒に酔い痴れるような単純な男ではなかった。子を手馴付てなづけてしまうと間もなく、兼ねての計画どおりに『貴女あなた家系いえすじまつわる、悪い因縁の絵巻物があるそうですが、それは今のうちに、よく調査してみようではありませんか。そうして一番新らしい科学の知識で研究して、その悪因縁を断ち切っておこうではありませんか。そうしないと、もし二人の間に男のが生まれるような事があった時に、剣呑けんのんな思いをしなければなりませんから』といったような塩梅あんばい式に、言葉を巧みにして絵巻物を手に入れようとした。……けれども流石さすが子さんも、こればかりは手離しかねたと見えて『そんなものは知りません』と言うのでナカナカ出さない。第一その絵巻物を隠している場所が判らないので、今度は手段を変えて子を福岡へ連れ出しにかかった。連れ出しさえすればキット、その絵巻物を持って来るに違いない……というのがの見込みであったろう事は言う迄もない。」
「……すると又都合のいい事には、子の姉婿あねむこのGという京染悉皆屋しっかいやが、仕様のないニヤケ男の好色すけべい野郎で、婿むこ入りをすると間もなく、義妹いもうと子に言い寄りはじめて、恐ろしく執拗しつこいので困っている矢先だったから、に誘いをかけられた子は二つ返事でうちを飛出して、福岡でとコッソリ同棲する事になった。一方に姉の子もハッキリかウスウスかそんな事情を心得ていたらしく、あまり追求しなかったのでイヨイヨ好都合であったが、しかし肝心カナメの絵巻物の所在は依然として不明であった。彼の眼力をもってしても、果して子が絵巻物を持っているか、いないかすら看破かんぱし得ない有様であったらしい。
 ……しかしは失望しなかった。
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なおも子の身のまわりを探ると同時に、時折は学校の仕事をったらかしてまでも子の行動を附けまわしていたのであったが、これはとしては無理もない事であった。子が、如月にょげつ寺の和尚様と、自分の姉の子以外には誰も気付まいと思って使っていた『虹野ミギワ』の変名や、品評会に出した支那古代の刺繍ぬいとりなぞが、絵巻物の故事来歴を知り抜いている彼の眼を逃れ得よう筈はないので、どうしても子がどこかに隠し持っているに違いないという推測は、当然過ぎるくらい当然な推測であった。
 ……しかし一方に、怜悧りこう【利口】そのもののような子自身も、そうしたの態度の中から、ひそかにる事を察していた。
 ……つまりハッキリとは わからないが、が自分に近付いて来た目的が単純ではないらしい。事によるとその目的は絵巻物かも知れない。そうしてその絵巻物をしがる目的は……といったような漠然たる疑いを抱くようになったものらしいが、しかし、そんな疑いを抱いている気ぶりも見せないように気を付けていたので、流石さすがも歯が立たなくなった。全く立往生の姿にされてしまったらしい。……のみならずそのうちは又、それ以上の手厳しい打撃を受けて、涙を呑んで退却しなければならぬ破目はめに陥った。すなわち絵巻物探索の唯一無上の手がかりとして、手を換え、品を変えて機嫌を取っていた子から、抵抗不可能ともいうべき自分の急所に、思いもかけぬ肘鉄砲を一発ズドンと喰わされたのであった。」
「……というのは別の事でもない。
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子が相手の恋を敵本主義の裏打ちもの【相手が見せている恋愛感情が、純粋な愛ではなく、利害に裏打ちされた打算的なものだ】とウスウス感付いていた事は、今話した通りであるが、今一つにはそのが、はなはだしい肺病の家筋で、本人の体質がその事実を遺憾なく証明している事を、その頃になって初めて聞き知ったからで、この点について子に対して全然、事実を偽っていた事が、同時に判明したからであった。……しかも、これは余談ではあるが、こうした事実に照してみると、子のこうしたふしだらが、決して尋常一様の浮気から出たものでない事がわかると同時に、その薄情な態度もあながちにとがめられなくなる。その浮気の裡面うらめんには呉家の血統の継続という痛々しい、悲しい観念が有力に動いていた。それが魔風恋風まかぜこいかぜ以来の自由恋愛の風潮に乗って具体化されたものにほかならない。かよわい女の判断ながら、出来るだけ人格の正しい、健康な血統ちすじの子孫を設けたいものと、一心に憧憬あこがれ願っていた心情がハッキリと首肯うなずかれる訳で、子が家出をした当時に、その界隈の人々が『どうせい自宅うちに居て婿むこどんを探しても、旅烏たびがらすのGぐらいの男が関の山じゃろうけに』というような冷評的な噂をしていた事実も、やはり、こうした子の心情を裏書きしていたと言うべきであろう。同時に子が如何いかに純情と、理知とを兼ね備えた、怜悧りこう【利口】そのものともいうべき性格の持主であったかという事実も首肯うなずかれる訳で、斯様かような点から見ると子は生れながらにして不幸薄命な女性であったとも考えられるようである。」
「……それから、なおここに今一つ、是非とも告白して おかなければならぬ事がある。というのはほかでもない。最早もはや察しているかも知れないが血統ちすじと、現在の健康状態に関する秘密を、手紙で子に密告したのは外ならぬ恋敵のであった……という事である。
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これは依然として子に対する愛着と、この研究に関する未練を棄て得なかったが、と別行動をって、子以外に絵巻物を隠している者がいはしまいかと、色々探索しているうちに、今言ったような村人の噂から子の心中を推測して、もしやと思って試みた、反間苦肉はんかんくにくの密告が図星に当ったものであるが、むろん、これは卑怯ひきょうとも何とも言いようのない所業しわざで、に対して弁解の余地は毛頭もうとうない。いわんや【言うまでもなく】その手紙をチャンスとして又も子に接近し初めたにおいてをやである。……が……しかし……この時の所業しわざ卑怯ひきょうさが、それからのち、今日までのの生涯に、どれ程の恐ろしい代償を要求しつつたたり続けて来たか……という事実を回顧すると、実に身の毛も竦立よだつばかりである。『因果応報』の研究に志して来た者が、その因果応報の実物に悩まされて、自殺まで決心させられている。その運命の皮肉さ……笑う力もない事をあわせてここに告白しておく。」
「……とはいうものの……その時のが、どうしてそんな将来を予知し得よう。この伝説が含んでいる精神科学的の魅力と、子の美貌に引かされつつ、学術のためならば後事あとはドウなっても構わないという、最初の意気組いきぐみをそのままに盲進した。そうして半年足らずの間子と同棲していると、そのうちに子の姙娠の徴候がだんだんと著しくなって来た。そうしてその年の暑中休暇に入ると間もなく、明らかに胎動が感じられるようになったのであるが……しかも……この胎動こそは、それからのち二十年の長日月ちょうじつげつわたって、の二人の運命を徹底的に掌握しようと藻掻もがいているるもの……運命の魔神とでも形容すべきものの胎動であった。の二人の心臓をガッシリとつかんで手玉に取ろうと焦燥あせっている胎児のワインド・アップであった。
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……精神科学の研究を中心とする血も涙も、義理も人情も超越した邪妖劇……長い長い息苦しい、毒悪不倫劇の中心的な主役を引受けて、登場俳優を片端かたっぱしから生死のドタン場にまで翻弄しようとしている運命の魔神の、お目見得めみえの所作に外ならなかったのだ。……ところでその無言の所作が、開幕の皮切りに、大衆に投げかけた疑問というのは『は誰のか』という質問であった。……しかもその当時から今日までの間に、この質問に対して与えられた回答は、有形的にも無形的にも絶無ノンという事になっているのである。」
「……無論、この質問に対する回答はも、も持合せている筈である。しかしその回答が、果して確実、動かすべからざる事実に立脚したものかどうかという事は、それからのちに『血液型による親子の鑑別法』の大家となったも、調査が出来ないでいる筈だ。自分の血液もの血液もウッカリ取る訳に行かないからね……のみならず一方には、この事実を、何人なんぴとよりも明白に証言し得るであろう胎児の母親の子も、そんな調査が出来ないでいるうちに所謂いわゆる『死人に口なし』となってしまって、あとには何等の証拠も残っていない。せめて子が生前に、その児の父親と認めた人間の苗字を、その児に附けて、何かに書き残してでもいるならば文句もなく面倒もない筈であるが、遺憾ながらソンナものが一つも残っていない。戸籍面にも簡単に『父不詳――呉一郎 』としか書いてない今日となっては、とが、その子との関係を、肯定するのも否定するのも自由自在の勝手次第となっている。いわんや【言うまでもなく】子が、以外の男には一人も関係していなかったか、どうかという事は、死んだ子の良心以外に何者が記憶していよう。
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これを要するに子の腹に宿った胎児の父親は、子がこの世に蘇生して来て、明白に証言するか、又は何かに動かすべからざる記録として書き止めていない限り、永久に、絶対にわからず仕舞じまいになる外はないのだ。」
「……その運命の魔神……胎児が出生してみると、それこそ文字通りに玉のような男の児であった。明治四十年十一月の二十二日に、それまで二人が隠れ住んでいた福岡市外の松園まつぞのという処の皮革商かわや離座敷はなれで生れたのであったが、その生声うぶごえを聞くと間もなく、今まで隠忍自重していたは、初めて子に謎をかけてみた。『呉家の男の児を呪う絵巻物があるそうだが』と持ちかけてみたが、ここのところはチョットにお株を取られた形であった。すると流石さすが子も初めて知った母親の情でたまらなくなったと見えてスッカリ白状する事になった。その告白にいわく……。」
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 ……私は小さい時から本を読んだり、絵をいたりする事が三度の御飯よりも好きでしたので、物心が付く頃からショッチュウ、たった一人でお寺へ行って、虹汀こうてい様が自分でおきになったという襖の絵や、自分でお彫りになった欄間らんまの天人なぞを眺めたり、写したりしていたのですが、そのうちに参詣しに来た村の人や何かが私の居る事を知らないで、御寺の縁起について色々とお話をしているのを聞いて、子供心に非常に感動しました。そうしてソンナお話の中に、この御寺の縁起の事を詳しく書いたものが残っているゲナ。和尚さんが大切にしまって御座ござるゲナ。……というような話を聞きますと、それが見たくて見たくてたまらなくなりましたので、人の居ない頃を見計みはからって、絵や何かを見まわる振りをしながら方々を探しておりますと、案の定和尚様のお部屋の本箱の抽出ひきだしから縁起の書附けを見付け出しました。
 ……それを見ると又、その焼棄てられたという絵巻物が惜しくて惜しくてたまらないような気がしましたので、何心なく本堂に来て、御本尊様をゆすぶって見ますと、どうでしょう。確かに巻物らしいものが入っているのがコトコトと手にこたえて来ましたので、余りの事にビックリして胸がドキドキしました。
 ……けれどもこの事を和尚様に話したら一ペンに叱られてしまいましたので、それから一週間ばかり経ってのちに、学校の帰りがけにお線香を上げに行く振りをして、御本尊様の首を抜いて、絵巻物を取出して来ました。
 ……ところがその絵巻物を持って帰って、人の居ない倉庫おくらの二階で開いてみますと、思いもかけない怖ろしい、胸がムカムカするような絵ばかりでしたので、私は二度ビックリしまして、直ぐにも御寺に返しに行こうと思いましたが、その時にフト気が付いて絵巻物の表装を見ますと、何ともいえない見事なものなので、返すのが惜しくなりました。そうして、それからのちは一人で留守番をするたんびに、少しずつ裏面うらの紙を引きいで壊れた幻灯の眼鏡めがねで糸の配りを覗いては、絳絹もみ布片きれに写しておりましたが、見付かると大変ですから、作ったものはみんな焼き棄てたり、室見川むろみがわへ流したりしてしまいました。
 ……そうしてイヨイヨその刺繍ぬいとりの作り方を自分の手に覚え込んでしまいますと、引剥ひきはがした紙をもとの通りに修繕つくろって、絵巻物を御本尊様の胎内に返してしまいましたが、盗む時よりも返す時の方が、よっぽど怖う御座いました……そうして、それから間もなく福岡へ出て来たのですから、絵巻物はやっぱりあの、如月寺にょげつじ弥勒みろく様の胎内に在る筈です。
 ……けれどもこうして吾児わがこというものが出来て見ますと、つくづくあの絵巻物の恐ろしさがわかって来ました。姉の子でも私のように男の児を生んで、あの絵巻物の在る事を知っているとしましたならば、同じ思いをするにきまっております。虹汀こうてい様が、あの絵巻物を焼かれなかった未練なお心をうらむにきまっております。
 ……とはいえあの絵巻物が在るという事を知っている者は誰もいないのです。たった私一人だけなのです。ですから私の一存で、あの絵巻物を貴方の御学問の研究材料に差上げますから、私の家の血統ちすじを引いた男の児にだけたたるという、その恐ろしい、不思議な絵巻物の力を、科学の力で打ち破って、その呪咀のろいがこの児にかからないようにして下さい。是非是非お頼みしますから……。

「……という涙ながらの話だ。
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 ……は呆れた。つ喜んだ。なる程それではイクラ探しても判明わからない筈だ。吾々われわれの捜索方針と絵巻物の隠れ処が、ちょうどいたちゴッコ式に入り違いになって行ったので、二人とも絵巻物の無い方へ無い方へと捜索して行った訳だ。偶然の作用を推理の力で追っかけたんだから見付からないのも無理はない。……なぞと独りで北叟笑ほくそえみながら、子にも内証でコッソリ姪の浜へ来て、如月にょげつ寺の本堂へ忍び込んで、御本尊の首を抜いてみると……。」
「……あとは説明しない……しても説明にならないから……」
「……………」
「裁判長の判断に任せる」
「……………」
「……のその後の行動によって……否、今日只今、この仮法廷において……吾輩という検事の論告と、という被告の陳述を憑拠ひょうきょ【根拠】として、絵巻物の行衛ゆくえを推断してもらうよりほかに方法はない」
「……………」

「……は黙々として寒風に吹かれながら姪の浜から帰って来た。いつかはその絵巻物の魔力……六体の腐敗美人像に呪咀のろわれて……学術の名においてする実験の十字架に架けられて、うつつない姿に成果なりはてるであろう、その可愛らしい男の児の顔を眼の前に彷彿させつつ……同時にその母子おやこの将来に、必然的に落ちかかって来るであろう大悲劇に直面した場合に、ビクともしない覚悟と方針とを考えまわしつつ……」
「……………」
「……彼は松園の隠れ家に何喰わぬ顔をして帰って来ると、何も知らずに添乳そえぢちをしている子に向って誠しやかな出鱈目でたらめを並べた。……絵巻物は和尚か誰かが、取出してどこかに隠したものと見えて、弥勒みろく様の胎内にはモウ見当らなかった。しかしこっちから請求して貰って来る訳にも行かない品物なので、そのまま諦らめて帰って来た。いずれ自分が学士になって大学に奉職する事にでもなったならば、その時に大学の権威で、学術研究の材料として提供させても遅くはないであろう。
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ところで絵巻物の問題はそれでいいとして、実は自分の故郷の財産の整理がこの歳暮に押し迫っているので、困っている。にもかくにも大急ぎで帰って来なければ ならないのだ。そのついでに、お前達の戸籍の事も都合よく片付けて来たいと思うから、用事が出来たらコレコレ斯様斯様かようかようの処へ通信をするがいい……といったような事で話の辻褄つじつまを合わせて、渋々ながら納得をさせると、その翌々日の福岡大学最初の卒業式をスッポカシて上京してしまった。しかもそのまま故郷へは帰らずに東京へ転籍の手続をして、全速力で旅行免状を手に入れて海外に飛び出した。これがこの時、既にの心中に出来上っていた、来るべき悲劇に対する戦闘準備の第一着手であった。にだけわかる宣戦の布告であったのだ」
「……………」
しかるに、これに対するの応戦態度はというと、すこぶる落付き払ったものであった。殊勝気しゅしょうげに白い服を着込んで、母校の研究室に居据ってしまった。そうして一切を洞察していながら、何喰わぬ顔で顕微鏡を覗いていたのであった」
「……………」
の性格の相違は、その後も引続いて発揮された。すなわちは、欧米各地の大学校を流れ渡って、心理学や遺伝学、又はその頃から勃興しかけていた精神分析学なぞを研究しつつ、一方に内地の官報や新聞を通じて、の動静に注意を払いつつ時季を待っていた。これはその男の児に、の苗字をかぶせるのを嫌ったのと、モウ一つは、子の追求を避けるためであった。……というのは女としては珍らしいえた頭脳あたまを持っている子がもし、行衛ゆくえ不明と、如月にょげつ寺の絵巻物の紛失事件を総合して考えた場合には、遅かれ早かれる恐ろしい、一つの疑いに直面ぶつかるにきまっている。が何故にあの絵巻物をしがったかという理由を色々と考えまわすにきまっている。
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そうして万に一つも女の頭の敏感さと、母性愛の一所懸命さとで、二人が絵巻物をしがっている、そのホントウの下心を想像し得るような事があったならば、何はともあれに疑いをかけて、眼の色を変えて追いかけて来るであろう。場合によっては国境だろうが何だろうが乗越えて追求しかねない女である事が、には解り過ぎるくらい解っていたからである。」
「……しかるにこれに対するは、それと知ってか知らずにか、相も変らず悠々と落付き払っていた。自分の名前や行動を公々然と暴露していたのは無論のこと、『犯罪心理』だの『二重人格』だの『心理的証跡と物的証跡』なぞいう有名な研究を次から次に発表して、これ見よがしに海外にまで名をげていた……が……これが又、の最も得意とする常套手段で、こうしてこの方面に大家の名を売り広めておけば将来、この恐るべき精神科学の実験が行われた暁でも、かえって世間から疑われない、一種の『精神的現場不在証明アリバイ』になるばかりでなく、事件が発生した時にすかさず飛び込んで行ける口実が出来るという、一流の両天秤をかけた思い付であったろうと考えられる。いずれにしてもその思切って大胆な、同時に透き通るほど細心な行き方は、後年のちになって、その恐るべき実験の経過報告を、当の相手の面前に投出した手口によっても察しられるではないか。
 ……こうして十年の歳月が飛んだ大正の六年になると、その二三年前から英国に留学していた帰朝する。それと知ったまた、すぐに後を追うて帰って来たのであるが、このの留学と、帰朝の時季というのが、にとっては仲々の重大問題であった。何故かと言うと外でもない。母子おやこに振棄てられたのちの十中八九は松園の隠れ家を引払って、どこかへ姿を隠している筈であるが、たとい天に隠れ、地にひそんでも、その行衛ゆくえを見逃がすようなでは絶対にない筈である。
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……と同時に、もしそのが、海外に留学するような事があれば、それは取りも直さずが、母子おやこを確実に掌握し得た証拠になる。換言すれば母子おやこがどこかに定住して、当分、動く気遣きづかいはないという見込みがハッキリと付けばこそ、安心して留学出来る訳で、そうとすれば又、その帰朝するという事は疑いの眼をもって見れば何かしら、その点に関するる種類の心配か、又はる種の計画を発動させる時季が来た事を意味していないとは断言出来ないであろう。今一つ言葉を換えて言えば、のそうした行動によって、母子おやこ行衛ゆくえを割合に楽に探り出す事が出来る訳で、海外留学中のが絶えず内地の新聞や官報に気を附けていたというのは、そうした注意が必要だからであった。」
「……が……しかし、がそんな気振けぶりでも見せるような男でない事は無論であった。帰朝後はチョットした出張以外には福岡を離れる模様もなく、毎日毎日大学に腰弁こしべん【毎日、弁当を持って出勤する】をきめ込んでいるうちに、間もなく助教授から教授に進む。引続いて色々な難事件を解決する。名声は いよいよあがる。その合間合間には喘息ぜんそくが起る……といった調子でなかなか忙がしかったのであるが、しかしその態度は依然として悠々たるもので、れもこれと昔の夢という風に、明暮れ 試験管と血液に親しんでいた。
 ……が……しかし又一方にも困らなかった。そうした帰朝後の態度から、母子おやこが福岡市を中心とする一日旅程以内の処に住んでいるに違いない事をアラカタ読んでしまっていた。……のみならず子はまだ三十になるかならずで、相変らず美しいとすれば、どこに居るにしたところが、多少の噂の種にはなっているに相違ない。
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又その子のも、父親は誰だか わからないまま 無事に母親の膝下しっか【親のもと】で育っているとすれば、格別の事情がない限り、の計画通りに母方の姓を名乗っている筈である。年齢は私生児の事だから届出がおくれているかも知れないが、多分、尋常校の三四年程度であろうという事が帰朝当時から見当が附いていた。あとは足まかせの根気任せというので、福岡を中心としたの出張先を第一の目標として、虱殺しらみつぶしに調べて行くと、果せるかな帰朝後半年も経たぬうちに、直方のうがた小学校の七夕会の陳列室で、五年生の成績品のうちにの名前を発見した。もっともその時まではウッカリしていて、の成績が抜群の結果、年齢としはまだ十一歳のままに、一級飛んだ五年生になっている事に気付かずにいたので、もしかすると別人ではないかと疑ってみた事であった。」
「……が……そこに如何いかなる天意が動いたのであろう。間もなくその陳列室へ入って来た一人の生徒が、偶然にも背後うしろを振り返った視線がピッタリとの視線と行き合ったのであったが、その時には、吾ともなく視線を背向そむけずにはおられなかった。逃げるようにして校門を出ると、思わず眼を覆うて、科学者としての自分の生涯を呪わずにはおられなかった。その生徒が全くの母親似で、眼鼻立ちから風付ふうつき【風体】のどこにも、の子らしい面影がないと同時に、に似たところさえもなかった事を思い確かめて、ホウと安心の溜息をきながらも、直ぐに後から、その溜息を呪咀のろわずにはおられなかった。
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……遠からず学術実験の十字架に架けられて、無残な姿に変るであろうその児の顔立ちの、抜ける程可愛らしくて綺麗であったこと……その発育の円満であったこと……そうしてその風付き【風体】のタマラない程温柔おとなしくて、無邪気であったこと……菩提心ぼだいしんとはこれを言うのであろうか……その児の清らかな澄み切った眼付きが、自分の眼の前にチラ付くのを、払っても払っても払い切れなくなったは、その児が将来、間違いなく投込まれるであろう『キチガイ地獄』の歌を唄って、われと我がはじを大道にさらしつつ、罪亡ぼしをしてまわった。木魚をたたきたたきその児の後生ごしょうとむらってまわった。……それ程にその児は美しく清らかに育っていたのであった。」
「……は、こうしたの行動を、九州帝国大学、法医学教室の硝子ガラス窓越しに見透かして、あの蒼白な顔に人知れず、彼一流の冷笑を浮かめていた事と思う。彼はが海外に逃げ出した心理を通じて、は遅かれ早かれ、必ず日本に帰って来る。が思春期に達する以前に、しかもこの九州に帰って来るであろう事を確信していたに違いないのだ。そうしてこの実験に関連するあらゆる研究をげ、一切の準備を整えつつ待っていたに違いないのだ。
 ……というのはも実際のところ、頭から爪の先まで学術の奴隷であった。がその生涯の研究目標としている『因果応報』もしくは『輪回転生りんねてんしょう』の科学的原理……すなわち『心理遺伝』の結論として、是非ともこの実験の成績を取入れねばならぬと、あくがれ望んでいるその熱度は、当の相手のが心血を傾注している名著『精神科学応用の犯罪とその証跡』の実例として、この絵巻物の魔力を取入れたがっているその熱度に、優るとも劣る気遣いはなかった。それ程の研究価値と魅力とをこの絵巻物が持っている事を、はどこまでも信じて疑わなかったのだ。
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 ……けれども……けれども……はそれでもなお、どれくらい深刻な煩悶はんもんをその以後に重ねた事か。学術のために良心を犠牲にして、罪もむくいもない可憐の一少年が、生きながら魂を引き抜かれて行くのを正視する……その生きた死骸を自分の手にかけて検査する……そうしてその結果を手柄顔に公表する……という決心がドレ位つきにくい事を思い知ったか。彼が大学卒業後の十数年間に於ける死物狂いの研究は、こうした良心の苛責かしゃくを忘れたいという一念からではなかったか……自分が死刑立会人である苦痛を忘れるために、一心不乱に断頭刃ギロチンみがくのと同じ悲惨な心理のあらわれではなかったか。そうしての学術研究……断頭刃ギロチンぎを断然打切るべく、彼が母校に提出した学位論文の根本主張は、何であったか……いわく……『脳髄は物を考える処にあらず……』」
「……………」
「……かくしての個人としての煩悶はんもんついに、学術の研究欲に負けた。全世界にわたる『狂人きちがいの暗黒時代』と、そのうち蔓延まんえんする『キチガイ地獄』を、自分の学説の力で打ち破るべく、何もかも打ち忘れて盲進する当初の意気組いきぐみを回復した。恐らくに負けないであろう程の冷静、残忍さをもっての年齢を指折り数え得るようになった」
「……………」
子の運命は風前の灯火ともしびである。……子はもうその頃までには、かつて自分を中心として描かれたとの恋のローマンスが何を意味しておったかを、底の底まで考え抜いている筈であった。その頃の二人の自分に対する情熱が、揃いも揃って絵巻物の魔力と、自分の肉体の魅力との両道ふたみちかけたもので、しかも、それ以外の何ものでもなかった事を露ほども疑わなくなっている頃であった。そうして絵巻物を奪い去ったものは、自分から絵巻物の所在ありかを聞いたかもしくは失恋のうらみを呑んでいるであろうのどちらか、一人に相違ない事を、余りにも深く確信していた。
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……同時にその二人が揃いも揃って、繊弱かよわい女の手で刃向はむかうべく、余りに恐ろしい相手である事を、知って知り抜きながらも必死と吾児を抱き締めつつ、ふるおののいていた筈である。
 ……だから彼女、子の想像の奥の奥に、よもやと思いつつもおののき描かれていたであろう絵巻物の魔力の実地試験が、万に一つもに対して行われたとなれば、子はすぐに二ツの名前を思い出すにきまっている。か……。
 ……だから……子の死は、この空前の学術実験の準備として是非とも必要な第一条件……」
「……あアッ……先生ッ……待って下さいッ……もうして下さい……ソ……そんな怖ろしい……事が……」
 は思わず悲鳴をあげた。ピッタリと大卓子テーブルの上に突伏つっぷした。頭の中は煮えるように……額は氷のように……てのひらは火のように感じつつ、あえぎに喘ぎかかる息を殺した。
「……何だ……何を言うのだ……そっちから突込んで質問して来たから説明しているのじゃないか」
 こうした正木博士の、不可抗的な弾力を含んだ声が、の頭の上から落ちかかって来た。……が、直ぐに調子を変えて、さとすような口ぶりになった。
「そんな気の弱い事でどうする。他人の生涯の浮沈に関する重大な秘密を、一旦、聞くと約束して話させておきながら、途中で理由もなしに、モウいいという奴があるか。実際にこの事件と闘っている俺の立場にもなって見ろ……あらゆる不利な立場を切抜けて来た、俺の苦しみを察してみろ……まだまだ恐ろしい事が出て来るんだぞ……これから……」
「……………」
「……いいか……子もこの事件の第一条件の存在をる程度までは察していたに違いないのだ。
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その子のに『お前が大学校を卒業する迄、私が無事でいたら、何もかも話して上げる』と言ったのは、子が吾子わがこ可愛さの余りに、色々と考えまわした揚句あげくに、とうとうそこまで気をまわしていた何よりの証拠だ。つまるところそのかん子の生活というのは全くの生命いのちがけであったに違いないので、一方にはこの呪いから極力を遠ざけて、自身がこの呪いの正体を理解し、且つ警戒し得る頭が出来るまで、何事も話さずに……そんな絵巻物や、物語から来る誘惑を感じさせないようにしてジッと待っていなくては ならないし、一方には、人知れず行衛ゆくえを探し求めて、絵巻物の有無うむを突止めなければならなかった。さもなければ自分の力と工夫で、を突合わせて、何もかも泥を吐かせてしまいたい。この恐ろしい学術の研究欲と、愛欲の葛藤を解消さしてしまいたい。そうして出来る事ならば絵巻物を、自分の手で消滅させておきたい……なぞいうアラユル惨憺さんたんたる母性愛を、頭の中に渦巻かせていたに違いないのだ。」
「……しかし、その子の昔の情人は、二人とも二十年来の……否、宿命的の仇讐あだがたき同志であった。人情世界の怨敵おんてき、学界の怨敵同志であった。そうして母子おやこを仲に挟んで、お互いにお互いを呪咀のろい合って来た結果、その時はもう二人とも救うべからざる学術の鬼となってしまっていた。……お互いに精神的に噛み殺し合うより外に、生きる道をなくしてしまっている二人であった。……しかもその怨敵を呪咀のろい合う心の、積極と消極の力の限りを合わせて、二人のうちのドチラかの子供であるべきに、絵巻物の魔力を試みるべく……そうしてその結果を学界に公表する名誉を自分のものにすると同時に、そうした非人道に関する罪責ざいせきの一切合財を、相手の頸部くびに捲き付けるべく、一心不乱に爪牙つめぎ澄ましている二人であったのだ。
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その犠牲が誰の児か……なぞいう事は、モウとっくの昔に問題でなくなっていたのだ。ただその児が、確実に呉家の血統を引いた男の児でさえあれば、学術研究上、申分もうしぶんないと思っていただけなのだ」
 今度こそは最早もはや、とても我慢出来ない戦慄が、の全身に湧き起った。頭をシッカリと抱えて、緑色の羅紗らしゃの上に突伏した。悽愴せいそうたる正木博士の声……解剖刀メスのように鋭い言葉の一句一句に全神経をおびやかされつつ……。
「……結果はついに来た。二十年前にが予想していたところに落ちて来た。が恐れ、おののき、藻掻もがき狂いつつ、逃げよう逃げようとしていたその恐ろしいスタートの決勝点に、悪魔的な不可抗力をもって立還たちかえるべく余儀なくされて来た。二十年前にの……い走らしたの卒業論文『胎児の夢』が、眼に見えぬ宿命の力をもって確実に彼をモトのところへグングンと引戻して来たのだ」
 は椅子から飛上って部屋の外へ逃出にげだしたかった。けれども身体からだは不思議な力で椅子に密着して、ひたすらに戦慄を続けているばかりであった。耳をふさぐ事すら出来なかった。そのの耳の穴へ正木博士のカスレた声が、一句一句明瞭に飛込んで来た。
「……かくしてこの実験の進行に関する第一の障害……子の生命いのちは、完全に取除とりのぞかれた。との過去を結び付け得る唯一人の証人……が誰の児かという事を的確に証言し得ると同時に、この恐ろしい科学実験の遂行者を一言の下に立証し得るであろう『生き証拠』の子は、予定通り完全な迷宮のうちに葬り去られた。続いて起る問題は、この実験に必要な第二の条件……即ち……がこの九州帝国大学、医学部、精神病科教室の教授の椅子に座ることであった。
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これは換言すればこの実験の結果として、万一追求されるかも知れないであろうその事件の下手人の所在をくらますためにも……お互いの秘密を完全に保護して、絶対の安全を保つためにも……又は、そうして適当な時機を見計らってその犯行を相手にナスリ付けるためにも、極めて完全無欠な、用心に用心を重ねた、必要欠くべからざる条件であった」
 今までコツコツと床の上を歩きまわっていた正木博士は、こう言い切ると同時に、ピタリと立止まった。そこはちょうど東側の壁にかかっている斎藤博士の肖像と「大正十五年十月十九日」の日付を表わしているカレンダーの前である事が、突伏しているによくわかった。そこで正木博士の足音が急に止まると同時に、言葉もプッツリと絶えて、部屋の中が思いがけない静寂にとざされたために、その足音と声ばかりに耳を澄ましていたは、正木博士が突然にどこかへ消え失せたように感じられた。
 ……が……そう思ったままジッと耳を澄ましていたのは、ほんの二三秒の間であったろう。間もなくヒシヒシと解り初めたその静寂の意味の恐ろしかったこと……。
 ……さては……さては……と気付く間もなく、の頭の中に又も、今朝けさからのアラユル疑問が一時に新しくひらめき出て来た。思わず両手で頭の毛をつかみ締めつつ、次に出て来る正木博士の言葉を、針の先端のようにおびえつつ待っていた。
 ……十月十九日の秘密……。
 ……その日に発見された斎藤博士の変死体の秘密……。
 ……その斎藤博士の変死に因果された正木博士の精神科教授就任に関する裏面のカラクリの秘密……。
 ……それから一週年目の同月同日に当る昨日きのうという日に、正木博士を自殺の決心にまで追い詰めた運命の魔手の秘密……。
 ……その正木博士を奇怪にも、既に一箇月前に自殺していると明言した若林博士の意識溷濁こんだく的、心理状態の秘密……。
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 ……そうして……それ等の秘密の裏面に隠れて、それらの秘密の全部を支配しているに違いないであろうモウ一つの大きな秘密……。
 ……すべては唯一人の所業……。
 ……か……か……。
 ……それが次に発せられるであろう正木博士のタッタ一言によって、電光の如く闡明せんめいされはしまいかと思われる……その言い知れぬ恐怖の前の暗黒的な沈黙……静寂……。
 ……けれども正木博士は間もなく、そこから何気もない足取りでコトリコトリと歩き出した。そうしてわずかの沈黙の間に、の恐れていた説明の箇所を飛越とびこして説明を続けた。
「……かくしてが、この斎藤博士の後任となって九大に着任すると間もなく、この学界空前の実験は決行された。そうしてその結果の全部が、この通り吾輩の前に投出なげだされた」
「……………」
「……だから……目下のところの二人は同罪である。同罪でないと言っても、言い免れるだけの証拠がない」
「……………」
「……だから吾輩は覚悟を決めた。そうして君が先刻さっきから読んだその心理遺伝の付録の草案によって直方のうがた事件の真相までも、すっかり覆い隠してしまった。ロクロ首や、死体鬼しびとつかみまでも引合いに出して、苦辛惨憺さんたんを重ねた結果、学術研究の参考材料として公表しても、無罪と言える程度にまで辻褄つじつまを合わせておいた」
「……………」
「……そんな裏面の消息を、ただ二人の間の絶対の秘密として葬り去るべく……うらみも、そねみも忘れて……学術のために……人類のために……」
「……………」
「……これも矢張やは菩提心ぼだいしんと言えば言えるであろう。……あの呉一郎 の狂うた姿を見て、たまらなくなったからであろう……」
 正木博士の声は、ここまで来ると急に涙に曇りつつ、机の上に突伏したままのの真正面に近付いて来た。……ドッカリと回転椅子に腰を卸す音がした。
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……と……間もなくカラリと鼻眼鏡を大卓子テーブルの縁に置いて、ポケットからハンカチを取出して、涙を拭う気はいである。
 ……けれどもこの時……何故だか解らないけれども、の全身を伝わっていた戦慄が、一時にピッタリと止まってしまった。その代りに、今までとは丸で違った、何ともいえない不愉快な感情が、正木博士の涙声にそそられて、はらわたのドン底からムラムラと湧き起って来るのを、どうする事も出来なかった。そうしてただ、今までの通りの姿勢で、ほとんど形式的に机の上に突伏しているような……正木博士に対して「何とでも饒舌しゃべるなり、泣くなり勝手になさい。とは全然無関係の事ですけれども、聞くだけはイクラでも聞いて上げますよ」と言ってやりたいような、どこまでも冷淡な、赤の他人じみた気持になってしまった。これは後から考えても不思議千万な心理状態の変化であった。自分自身にも、どうしてソンな気持に変ったか解らなかったが、しかしはそのまんま、身動き一つしないで突伏していたので、自分の話に夢中になっている正木博士には、のそんな気持の変化を気取けどられよう筈がなかった。
 正木博士は、そうしているの前で、軽い咳払いみたようなものを一つして声をつくろった……と思うと今度は調子を改めて、極めて荘重そうちょうな語気になった。の頭の上から圧付おしつけるように、一句一句を切って言った。
「……ただ……ここに一人……君という人間が居る……」
「……………」
「君は吾輩と若林とに選まれた、この事業の後継者である。……否……吾輩や若林は実を言うと、この事業の最後の成績を社会に公表し得べき資格を持った人間でない。ただそこに居る君だけが、その神聖なる使命をになうべく選まれて、吾々われわれの前に差遣さしつかわされた唯一、無上の天使である。
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自分でその天命の何たるかを知らない……徹底的に何も知らない……ホントウの意味の純真無垢の青年である」
「……………」
「……というのは、ほかでもない。吾輩も若林も、正直正銘のところを告白すると、この事件の真相をコンナ風に偽った形にして、自分達の手で発表したくない。出来得べくは自分達の死後に、しかるべき第三者の手で、真実の形に直して発表してもらいたい……というのが吾々われわれ二人の畢生ひっせい【一生】の願である。純誠無二の学者としての良心から出た二人の希望である。……だから吾輩と若林とは、言わず語らずのうちに協力一致して、この事件に重大な関係を持っている君の頭脳あたまを回復すべく、全力をげているのだ。……今にも君が君自身の過去の記憶を回復して、以前の意識状態に立帰り得たならば、必ずやこの仕事の後継者が、君以外に一人もいない事を、明白に自覚してくれるであろう。そうして君が死ぬ程の驚愕きょうがくと感激のうちに、この空前絶後の大研究の発表を引受けて、全人類を驚倒きょうとう【非常に驚くこと】、震駭しんがい【おどろきふるえあがる】させてくれるであろう……その発表によって太古以来の狂人きちがい暗黒あんこく時代を一時に照し破り、全世界のキチガイ地獄をドン底から転覆、絶滅させて、この唯物ゆいぶつ科学万能の暗黒世界を、一斉に、精神文化の光明世界にまで引っくり返してくれるであろう。
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……と同時に、それに引続いて来るべき精神科学応用の犯罪の横行時代を未然に喰い止めて、の可憐の一少年呉一郎 その他の犠牲を、無用の犠牲として葬り去らないのみならず、全人類の感謝と弔慰ちょういとを彼等に捧げさしてくれるであろう……そうして最後に……永劫えいごう消ゆる事のない極地の氷のような『冷笑』を、吾々われわれ二人の死後の唇に含ませてくれるであろう事を確信しつつ、幾何いくばくもない余命を一刹那せつなに縮めつつ、努力しているのだ」
「……………」
「……とはいえ……これは現在の君の頭から考えると、実に不可解と不合理とを極めた注文と思われるかも知れない。吾輩と若林とが、あの呉一郎 と瓜二つによく似ている君を換え玉か何かに使って、虚偽の学術研究を完成して、それを又、虚偽の方法で発表しようと試みているかのように誤解されるかも知れない。しかし……しかし……吾輩は天地の霊に誓って言う。それは吾々われわれ二人の間の私的の駆引にこそ凡百あらゆる虚偽が含まれておれ、その行っている学術の実験と、それによって証明さるべき学理、原則の中には、一点、微塵みじんの虚偽も含まれていないのだ。ただ、その内容とは全然無関係な発表の形式方法にだけ、やむを得ない虚偽が混っていた訳であるが、それもタッタ今、真実の形に訂正して、君に報告してしまったばかりのところである。」
「……だから……これだけは、どこまでも吾々われわれを信じてもらいたい。……君は疑いもなくこの実験の経過を、真実の形に直して発表すべき、唯一の責任者なのだ。すなわち若林の調査書類と、吾輩の遺言書とを、一まとめにしてこれに一つの結論をつけて、学界に発表すべく、神様の思召おぼしめしによって選まれた無二の資格者である事が、君の過去の記憶の回復と共に判明するであろうことを、吾輩も若林も信じて疑わないのだ……否、吾輩と若林ばかりでない。
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一般社会の人々とても、万一君の姓名を知り得るような事があったならば……君の名前は既に、今までの話の中に幾度となく出て来た名前で、世間にも相当記憶されている筈であるが……単にその名前を聞いただけでも、すぐに君より以外に、この仕事の適任者が絶対にいない事を確認するであろう事が、火をるよりも明らかに解り切っているのだ。……だから吾輩は、君が精神状態を回復しかけている事がわかると同時に、いよいよ安心してこの遺言書を書く事が出来たのだ。」
「……しかし吾輩が自殺の決心をしたのは全く別の理由からである。それは昨日の正午を期して、あの解放治療場内に勃発した大悲惨事が、吾輩の責任感を刺激したからでもなければ、又は、この日が偶然に、斎藤先生の祥月しょうつき命日に当っていたために、一種の天意とか、無常とかをかんじた【『感じた』の古風な言い方】からでもない。正直なところを言うと吾輩は人間がイヤになったのだ。こんな研究でもしていなければ、ほかに頭の使い道のない人間世界の浅薄あさはか、低級さに、たまらない程うんざりさせられてしまったのだ。
 ……それもこの出来そこないの世界を、新発明の火薬で爆発させるとか、蛙の卵から人間を孵化ふかさせるといったような、一端いっぱし、気の利いた研究なら まだしもの事、心理遺伝なんていう三つ児にでもわかる位、簡単明瞭な原則をタッタ一つ証明するために、足が棒になって、脳味噌が石になる程の苦労を重ねなければならぬ。あらゆるタチの悪い因果因縁に、執念深く附纏つきまとわれて、それこそ地獄の苦しみにちながら、やっと真理の証明が出来たにしても、その報酬として何が残るか。妻子眷族けんぞくに取捲かれてシンミリした余生を送るどころか、その研究が世に出る時は、自分の一生涯の破滅の時だ。飛んでもない野郎だというので、んでられて、唾液つばを吐きかけられる時だ。
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……ザマア見やがれとはこの事だ」
「……………」
「……こんな見っともない、ダラシのない結論になって来る事を、今日がきょうまで気付かずに来た吾輩は、つくづく自分の馬鹿さ加減に愛想あいそが尽きたのだ。人間も学者も同時に御免こうむって、モトのアトムに帰りたくなったのだ。当の相手の前に一切をタタキ付けて……」
「……………」
「……こうした吾輩の現在の気持は、無論、若林の目下のソレとは全然正反対でなければならぬ。若林はあくまでもこの実験を固執して徹底的に吾輩と闘うべく腰を据えているに違いないのだ。……こと若林は自分自身が結核に取付かれて、余命幾何いくばくもない事を知っている。……だからこの事件の最後の結論の発表を引受るべき君の精神状態が、今朝けさから回復しかけている事を見て取るや否や、頭を刈ってやったり、大学生の服を着せたり、彼女に引会わせたりなぞ、いろんな事をして、出来るだけ早く君自身を呉一郎 と認めさして、自分の味方に取付けて、都合のいい発表をしてもらおうと焦燥あせっていたのだ。……否……現在でも君と吾輩の上下左右に、眼に見えぬ網を張詰めて、グングンと自分の方へ手繰たぐり寄せつつあるのだ」
「……………」
「……しかし吾輩は元来そんな面倒な闘いにお相手になる必要はなかったのだ。どうせ自分自身は電子か何かになって、箒星ほうきぼしのお先走りでもうけたまわるつもりでいたし、一切の財産は軽少ながら、この真相の発表に対するお礼の印として、書類と一緒に一旦若林に預けて、君の頭が回復したのちに改めて引渡してもらう考えでいたし、又、発表の内容だって同様に、心理遺伝そのものの大体の要領さえ得ておれば、付録の実例に出て来る事件の犯人の名前なんぞは、どうでもいい……勝手にしやがれという了簡りょうけん【考え】で、つい今さっきまでいたんだが……。」
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「……しかし、これが前世のごうとでもいうんだろう……先刻さっきから若林が、彼奴きゃつ一流の御丁寧なり口で、そろりそろりと催眠術みたような暗示を君に与えながら、自分の勝手のいい方向に、君の頭を引っぱり込もうとしている態度を見ているうちに、吾輩の持って生れたかんの虫がジリジリして来た。その若林の見え透いた手のうちがゾクゾクする程イヤ味になって来たので、一つ逆襲してやれという気になって、ここへ出て来た訳なんだが……。
 ……ところが又……こうやって君と話しているうちに……つい今しがたから、何だか又気が変って来たようだ。理屈はかくとして、何もかもがヤタラに面倒臭くなって来たようだ。どうせ破れカブレの罰当り仕事だ。後は野となれ山となれだ。何もかも一思いにブチこわしてやれという気になって来たようだ……。
 ……こうなれあ訳はない……。
 ……吾輩は 今日 只今 即刻に、君とあのモヨ子とを、この病室から解放してやろう。そうしてコンナ書類を残らず焼棄て、玉無たまなしにしてくれよう。
 ……吾輩は断言しておく……。
 ……あの六号室の少女モヨ子は、あの解放治療場の一角に突立っている美青年の、妻となるべき少女では断然ないのだ。法律上から言っても道徳上から見ても確かに、そこにいる君の未来の妻たるべく運命付けられている女性なんだ。君のベターハーフたるべく、明暮あけくれ、身をもだえて、恋いこがれている可憐の少女に相違ない事が、科学的立場から見ても寸分間違いのない事を、若林と吾輩の専門の名誉にかけて誓言しておく。」
「……同時に吾輩は、吾輩の専門の立場から今一つ、断言しておく……。
 ……君はそうしない限り……君自身が進んでモヨ子さんとの結婚生活に入ってみない限り、若林と吾輩がイクラ他所はたから苦心努力しても、現在の自己障害……『自我忘失症』から離脱出来ないであろう事が、やっと今になって判ったのだ。
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それがモヨ子さんと君自身とを救い得るタッタ一つの最後の手段である事が、最前からの色々な実験の結果やっと判明して来たのだ。……むろん、これは決して君を無理に押付るために言うのではない。君自身の堅固な童貞生活から来ている現在の自家障害――『自我忘失症』を回復させるためには、これが最有効な、最後の最後の取っときの精神科学的療法である。この療法の原理原則に関しては、精神分析屋のフロイドでも、性科学専門のスタイナハでも全然吾輩と説を同じくしているのだから……。」
「……こうした最後的な治療手段の効果が、二と二を加えて四になる以上に的確なことは、直ぐにわかる。論より証拠だ。吾輩の言葉の全部が虚構でない証拠は、彼女と君とが幸福な結婚生活に入ると同時に、回復して来る君の記憶力の中に、無量無辺むりょうむへんに思い出されて来るであろう。今までの神秘と怪奇とを極めた出来事の数々が、決しての解放治療場の片隅で微笑している、君とソックリの美青年に関係した事でない事が、君自身にはっきりと自覚されることによって証明されるであろう。それ等の驚くべき出来事のすべてが、直接に君自身と関係を持った話であることが、ほとん電灯でんきのスイッチをひねるのと同様な鮮やかさで、一時に判明して来るであろう。……何故なにゆえかと言うと、君はの令嬢との新婚生活に入ると同時に、現在、君の頭の中に鬱積うっせき、緊張して、そうした自家障害を与えているその生理的の原因から解放される事になるのだから……今まで、どうしても思い出し得なかった過去の記憶の全部を、一時にズラリと思い出すにきまっているのだから。
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同時に現在、君が疑い、迷い、苦しんでいる事件の真相を裏の裏まで看破かんぱし、思い出して……成る程……そうであったかと長大息ちょうたいそくするに違いないのだから……そうして物質的にも精神的にも恵まれた、真実に幸福な家庭生活に入ると同時に、他人に頼まれる迄もなく、君自身の理知に立脚した公平な立場から観察した、この事件の真実の記録を学界に発表して、吾輩と若林の苦心努力の実情を正義の審判にかけると同時に、その発表によって、現代の脱線的な邪悪文化に一大転期を画さずには おられない であろうことを、吾輩は今一度、吾輩の専門の名にかけて……君とモヨ子さんとの名誉と幸福のために……」
「……いけませんッ……」
 は突然に非常な力で跳ね起きた。火のような憤激に、全身を わななかせつつ回転椅子から立上った。正木博士の口をアングリと開いて、呆気あっけに取られている顔を見下しつつ、ギリギリと歯切はぎしりをして、唇を震わした。
「……イ……イ……嫌です。……ま……真平まっぴら御免です。……ゼゼ……絶対にお断りします」
「……………」
 先刻さっきから一所懸命に我慢していた、あらゆる不愉快な思いが、口をいてほとばしり出るのを止める事が出来なくなった。
「……ボ……僕は精神病者キチガイかも知れません。……痴呆バカかも知れません。けれども自尊心だけは持っています。良心だけは持っているつもりです。……たとい、それが、どんなに美しい人でありましょうとも、僕自身にまだ、誰の恋人だか認める事が出来ないような女と、たかが治療のために一緒になるような事は断じて出来ません。法律上、道徳上、学術上、間違いない事がわかっていても、僕の良心が承知しません。……たといその女の人が、僕を正当の夫と認めて、恋いこがれているにしてもです。僕自身に、そんな記憶がない限り……そんな記憶を回復しない限り、どうしてそんな浅ましい、はじ知らずな事が出来ましょう。
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……して【なおさら】……まして……こんなけがらわしい研究の発表なんぞ……ダ……誰が……エエッ……」
「……マ……待て……」
 正木博士が座ったまま、真青になって両手を上げた。
「……が……学術のために……」
「……ダ……駄目です……駄目です……絶対に駄目です」
 の眼から、涙が止め度もなく溢れ流れはじめた。そのために正木博士の顔も、部屋の中の光景もボンヤリして見えなくなったが、それをぬぐいもあえずには叫び続けた。
「学術が何です。……研究が何です。毛唐けとうの科学者がどうしたんです。……僕はキチガイかも知れませんが日本人です。日本民族の血をけているという自覚だけは持っています。そんな残忍な……はじ知らずな……毛唐けとう式の学術の研究や、実験の御厄介になるのは死んでも嫌です。……学術の研究というものが、どうしてもコンナけがらわしい、はじ知らずな事をしなければ ならない ものならば……そうして僕が是非ともコンナ研究に関係しなければ ならない 人間ならば、僕はそんな過去の記憶と一緒に、この頭をブッつぶしてしまいます……今……直ぐに……」
「……ソ……ソ……そんな訳じゃない……実はお前は……君は呉一郎 の……呉一郎 が……」
 こう言ううちに正木博士の態度が、シドロモドロに崩れて来た。天地が引っくり返っても平気の平左へいざと思われたその大胆不敵な、浅黒い顔色が、みるみる真赤になり、又たちまち真青に変化した。中腰になって両手を伸ばしつつ、の言葉をさえざり止めようとして狼狽ろうばいしている態度が、新しく新しく湧き出る涙越なみだごしにユラユラと揺らめき泳いだ。しかしは皆まで聞かなかった。
「嫌です嫌です。僕が呉一郎 の何に当ろうが……どんな身の上だろうが同じ事です。
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誰が聞いたって罪悪は罪悪です」
「……………」
「先生方は、そんな学術研究でも何でも好き勝手な真似をして、御随意に死んだり生きたりなすったらいいでしょう……しかし先生方が、その学術研究のオモチャにしておしまいになった呉家の人達はドウなるのですか……呉家の人達は先生方に対して何一つわるい事をしなかったじゃありませんか。そればかりじゃありません。先生方を信じて、尊敬して、慕ったり、便たよすがったりしているうちに、その先生方に欺瞞だまされたり、キチガイにされたりしているじゃないですか。この世に又とないくらい恐ろしい学術実験用の子供を生まされたりしているじゃないですか。そんな人々の数えても数え切れないうらみの数々を、先生方は一体どうして下さるのですか。……死ぬ程、愛し合っている親子同志や恋人同志が、先生方の手で無理やりに引離されて、地獄よりも、非道ひどい責苦を見せられているのを、先生方はどうして旧態もとに返して下さるのです。ただ、学術の研究さえ出来れば、ほかの事はドウなっても構わないと仰言おっしゃるのですか」
「……………」
「御自分で手を下しておいでにならなくとも、おんなじ事ですよ。その罪の告白を、他人に発表させておけば、それで何もかも帳消しになると思っておいでになるのですか……良心に責められているだけで、罪はきよめられると思っておいでになるのですか」
「……………」
「……あんまり……あんまり……非道ひどいじゃありませんか」
「……………」
「……セ……先生ッ……」
 と叫ぶと眼がくらみそうになったは、思わず大卓子テーブルの上に両手を支えた。新しく湧き出す熱い涙で何もかも見えなくなったまま、呼吸いきはずませた。
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「……後生ですから……後生ですから……その罰を受けて下さいませんか……そうして……そんな気の毒な人達の犠牲を無駄にしないようにして下さいませんか……喜んで……心から感謝してその研究の発表を、僕に引受けさして下さいませんか」
「……………」
「その罰の手初めには、若林博士を僕が引張って来て、先生の前で謝罪させます。恋のうらみだったかドウか……どうしてコンナ恐ろしい……非道ひどい事をしたか……白状させます……」
「……………」
「……それから先生と、若林博士とお二人で、被害者の人達に謝罪して下さい。その斎藤先生の肖像と、直方のうがたで殺された千世子の墓と、それからあの狂人きちがいの呉一郎 と、モヨ子と、お八代さんの前に行って、一人一人になすった事を懺悔ざんげして下さい。学術研究のためだった……と言って、心からお二人であやまって下さい……」
「……………」
「お願いというのはそれだけです。……ドウゾ……ドウゾ……後生ですから……僕が……こうして……お願いしますから……」
「……………」
「……ソ……そうすれば……僕はドウなっても構いません。手でも足でも、生命いのちでも何でも差上げます。……この研究を引継げと仰言おっしゃれば……一生涯かかっても……一切の罪を引き受けても……」
 はタマラなくなって両手で顔をおおうた。そのゆびの間を涙がほとばしり流れた。
「……コ……コンナ非道ひどい……冷血な罪悪……ああ……ああ……僕はモウ頭が……」
 は大卓子テーブルの上に崩折くずおれ伏した。声を立てまいとしても押え切れない声が両手の下からむせび出た。
「……ス……済みませんが……僕に……みんなの……か……かたきを取らして下さい……」
「……………」
「……この研究を……シ……神聖にして下さい……」
「……………」
「……………」
 ……コツコツ……コツコツ……と入口のドアをたたく音……。
 ……はハッと気が付いた。
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慌ててポケットからハンカチを取り出して、涙にれた顔をぬぐいまわしながら、正木博士の顔を見上げると……ギョッとして息が詰った……。
 それは興奮の絶頂まで昇りつめていたの感情を、一時に縮み込ませてしまった程恐ろしい、鬼のような形相であった。……瀬戸物のように血の気をうしなった顔面かお一パイに、あお白い汗が輝やき流れて……ひたいしわを逆さに釣り上げて……乱脈な青筋をウネウネと走らせて……眼をシッカリと閉じて……義歯いればをガッチリと喰い締めて……両手でシッカリと椅子のひじつかまりながら、首と、ひじと、ひざを、それぞれ別々の方向にワナワナと わななかせて……。
 ……コトコトコトコトコトコトとドアをたたく音…………。
 ……はドタリと回転椅子に落ち込んだ。
 何かの宣告のような……地獄のおとづれのような……この世のおわりのような……自分の心臓に直接に触れるようなそのノックの音をにらつめ聾唖者おしのように藻掻もがおののいた。……ドアの向うに突立っている者の姿を透視しようとして透視出来ないまま……救援を叫ぼうにも叫びようがないまま……。
 コツコツコツコツコツ……。
 ……と……やがて正木博士が、全身の戦慄を押し鎮めるべく、一層烈しく戦慄しながら、物凄い努力を初めた。……すこしばかり身体からだをゆるぎ起して、桃色に充血した眼を力なく見開いた。灰色の唇をふるわして返事をすべく振り返ったが、その声は、たんに絡まれたようになって二三度上ったり下ったりしたまま、咽喉のどの奥の方へ落ち込んで行った。……と思ううちに見る見る椅子の中にかがまり込んで死人のようにグッタリと首を垂れてしまった。
 コツコツコツ……コトコトコトコト……コツンコツンコツンコツン……。
 はこの時、自分で返事をしたような気がしない。何だか鳥ともつかず、けものともつかぬ奇妙な声が、どこからか飛び出して、へや中に響き渡ったように思った。
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それと同時に頭の毛が一本一本にザワザワと走り出したように感じたが、そのザワザワが消えないうちに、入口の扉が半分ばかり開かれると、ガタガタと動く真鍮しんちゅうのノッブの横合いから、赤茶色のマン丸いものがテカテカと光って現われた。それは最前カステラを持って来た老小使の禿頭はげあたまであった。
「……ヘイヘイ……御免なさいまっせい。お茶が冷えましつろう。遅うなりまして……ヘイヘイ……ヘイ……」
 と言い言いまだ湯気を吹いている新らしい土瓶を大卓子テーブルの上に置いた。そうして只さえ弓なりに曲った腰を一層低くして、白くかすんだ眼をショボショボとしばたたきながら、しわだらけの首をさし伸べて恐る恐る正木博士の顔を覗き込んだ。
「……ヘヘ……ヘイヘイ。ちっと遅うなりまして……ヘイ……。昨晩ゆうべからほかの小使がみんな休みまして、今朝から私一人で御座いますもんじゃけん。ヘイ。まことに……」
 老小使の言葉がまだ終らないうちに、正木博士は最後の努力かと思われる弱々しい力で、椅子からヒョロヒョロと立ち上った。死人のように力無い表情でを振り返って、何か言いたそうに唇を引き釣らせつつ、かすかに頭を左右に振ったようであったが、たちまち涙をハラハラと両ほおに流すと、に目礼をするように眼を伏せて、又も頭をグッタリとうなだれた。そうして小使が明け放しておいたドアの縁につかまりながらフラフラとへやを出て行ったが、今にも倒れそうによろめきつつ、入口の柱に手をかけて、ようやっと、廊下の板張りの上に立ち止まった。するとその後から追いかけるようにギイギイと閉まって行ったドアが、たちまちバラバラに壊れたかと思うほどはげしい音を立てると、へや中の硝子ガラス窓が向うの隅まで一斉に共鳴して、ドット大笑いをするかのように震動し、鳴動し、戦慄した。
 そのあとを振り返って見送っていた小使は、やがてオズオズとこちらに向き直りながら、呆れたようにを見上げた。
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「……先生は……どこか、お加減が、お悪いので……」
 も最後の努力ともいうべき勇気を振い起して、無理に、泣くような笑い声を絞り出した。
「ハハハハハ。何でもないんだよ。今チョット喧嘩をしたんだ。……ツイ先生をおこらしちゃったんだ。心配しなくともいいよ。じきに仲直りが出来るんだから……」
 と言ううちに両方の腋の下から、冷たい水滴がバラバラと落ちた。うそを言うのがこんなにタマラないものとは知らなかった。
「……ヘエイ……左様さようで御座いましたか。それならば安堵あんど致しました。はじめてあのようなお顔をばお見上げ申しましたもんじゃけん……ヘイヘイどうぞ御ゆるりと、なさいまっせえ。私一人で誠に行き届きまっせんで……ヘイ。先生はホンニよいお方で御座います。ようお叱りになりますが、まことに御親切なお方で……それに昨日からは又あの解放治療場で大層もない御心配ごとが出来ましてそのために今一人しかおりませぬ小使が足を踏みくじきまして休んでおりますようなことで……先生様もお気の毒で御座います……ヘイヘイ……ヘイ……どうぞ御ゆるりと……」
 禿頭はげあたまの小使は冷めた方の茶瓶をげて、曲った腰を一つヤットコサと伸ばしつつ、ヨチヨチと出て行った。は、私の魂を喰いに来た鬼が出て行くかのように、その後姿を見送った。

 小使が出て行ったあとのドアがガチャガチャと閉まると、は又、思い出したようにグッタリとなった。長い長い うるえた【震えた】呼吸いきを腹の底から吐き出しながら、大卓子テーブルに両ひじを突いた。両掌りょうてでシッカリと顔をおおうて、ゆび先で強く二つの眼のたまを押えた。頭のしん乾燥ひからびたような、一種 名状めいじょう【状態を言葉で言い表すこと】の出来ない疲労を覚えると共に、強く押えた眼の球の前にいろいろな幻像があらわれるのを見た。その中を縦横無尽に、電光のように馳けめぐる…… ? ……を見た。
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そうしてその……?……を頭の中で押え付けよう押え付けようと焦燥あせった。
 ……解放治療場の白い砂の光り……?……
 ……そのまん中の枯れ葉を一パイに着けたきりの木……?……
 ……その向うに突立っている呉一郎 の姿……?……
 ……その向うの煉瓦レンガ塀の上の、屋根の上の、巨大な二本の煙突……?……
 ……その上から吐き出されて行く黒い煤烟ばいえんのうねりと、青い青い空の色……?……
 ……白いベッドの上に泣き伏した、白い患者服の少女の姿……?……
 ……緑の平面の上に開いたまま置き忘れられている若林博士の調査書類……?……
 ……紫色に渦巻く葉巻の煙……?……
 ……若林博士の奇妙な微笑……?……
 ……正木博士の鼻眼鏡の反射……?……
 ……?……?……???????……
 ……?……
 は頭を一つ強く振った。……そんなものをつなぎ合わせて、飽く迄もを学術の餌食にしようとしている、眼にも見えず、手にも取られぬ因果の網をき払うかのように、眼を閉じたまま両手を動かした。
 ……狂人きちがいの暗黒時代を背景にして、を捉えるべく糸を操っているその網の主というのは、学術界に棲息している二匹の大きな毒蜘蛛どくぐもである。曠古こうこの精神科学者と、無双の名法医学者である。……その中でもに投げかけた網の恐ろしかった事……は今の今まで全力をげて抵抗して来た。全身の血を逆行させて、冷たい汗と、熱い涙のあらん限りを絞って闘って来た。そうして何かしらその相手に非常な打撃を与えて追い払ったようであるが、しかし、それと同時にも力が尽きた。自分の行為の善悪を判断する力はおろか、この大テーブルから離れる元気さえなくなった。精神的にも肉体的にも、再び起つ勇気が あるかないか すら解らない位疲れてしまっている。
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 ……けれども……けれどもの背後には今一つの強敵が控えている。その強敵は、あるいはこの場の光景までも見透かして、冷笑しているかも知れぬ。それ程に抜け目のない、堅実な網を張って、が落ち込んで来るのを待ち構えているに違いない。自身は勿論のこと、あの正木博士すら気付かぬ位巧妙な、行き届いた、偉大な知恵の力でシッカリとを押え付けて、血も涙も、骨も抜き取って、虚偽とけがれによって作り上げられた学術の犠牲に供すべく、刻一刻にの背後から迫りつつある事がヒシヒシと全神経に感じられる。
 ……あのあお白い、大きな、毛ムクジャラな手につかまれる位なら、正木博士に反抗するのじゃなかった。は何故かわからぬけれども、若林博士よりも正木博士の方が好きだ。二人ともを餌食にしようとしている学界の毒蜘蛛であるにしても、正木博士の方が何となく懐かしくて親しみ易い気がする。今でも正木博士が引返して来てただ一言……
「吾輩が悪かった……」
 と言ってくれさえすれば、は一も二もなく喜んで、何もかも忘れて正木博士の奴隷になるかも知れぬ。若林博士の卑怯ひきょうさをあばいて、正木博士に同情した記録を発表するかも知れぬ。……若林博士のあのあお白い手で、の心臓を握られたくないために……。
 しかし……四囲あたりはシンとしている。正木博士が引返して来るような音も聞えぬ。……運命を待つよりほかはない。その運命と闘う力をなくしたまま……。
 ああ……どうしよう……。
 の呼吸が又一しきり胸を圧迫して来た。
 そうして、やがて又、ふるえ、わななきつつ、力無く静まって来た。……身体からだ中が空虚になったような……耳の穴の奥だけがシイ――ンと鳴るような……。
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「…………………………
 …………………………
 ウろいウろいまっ黒い
 トットの眼玉を食べたらば
 イろいイろい真白い
 ホントの眼玉が飛び出した
    ポンチキポンチキポンチキチ……

 イろい眼玉は可愛いよ
 お口の中から飛び出して
 おはしの先から逃げ出して
 コロコロコロコロ転がって
 どこかへ見えなくなっちゃったア
    ラアラアラアラアポンチキチ……

 イろい眼玉は可愛いよ
 トットの眼玉は可愛いよ
 ホントの眼玉は可愛いよ
 可愛い可愛い可愛いよオ――
    ラアラアラアラアポンチキチ……
    ポンチキポンチキポンチキチ……

 可愛いヨオ――可愛いヨオ――
 ……」
 という最前の舞踏狂の少女の澄み切った声が、南側の硝子ガラス窓越しにれて来る……。
……突然……一つの素晴らしい考えが頭の中にひらめいた。の頭の中心にコビリ付いていた千万無数の…… ? ……が一時にパッと光って消え失せたような気がした。器械人形のように顔から手を離して、回転椅子の上に腰かけ直した。正木博士が出て行った入口のドアを見た。正面の壁にかかった黄金と黒の二つの額ぶちを見た。眼の前に散らばっている様々の書類を見まわした。秋の正午に近い光りが、へや中一パイにこもった葉巻の煙を青白く透かして、色々な品物の一つ一つにハッキリした反射を作っているのを見た。
「……ナア――ンダ……ナア――ンのコッタイ。……これあ……アッハッハッハッハッハッハッハッハッ……」
 は両方の横腹から、たまらない可笑おかしさがコミ上げて来るのを両手で押え付け押え付けして笑い続けた。
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……馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿……大馬鹿の大馬鹿の三太郎だったんだぞ俺……アッハッハッハッハッ……
……若林博士も、正木博士もそうなんだ。イヤ、俺よりもモットモット念入りの大馬鹿なんだ。俺たちは三人共、飛んでもない誤解をし合っているのだ。何という馬鹿馬鹿しい間違いだ、……これは……。
……誰が千世子を殺したか。誰が呉一郎 に絵巻物を渡したか。……誰が呉一郎 の本当の親なのか。か……それとも外にモウ一人チャンと控えているのか……そんな謎はまだ、丸っきり一つも解かれていないのだ。みんないい加減な第三者の仕事かも知れないのだ……
……否々、この事件には初めっから一人も犯人がいないのに違いない。この事件の内容というのは偶然に離れ離れに起った、原因不明の出来事の色々を、一つに重ね合わせで覗いたものに過ぎないのだ。千世子縊死いしだって……斎藤博士の溺死だって……呉一郎 の発狂だって……みんな自分勝手にし出かした事かも知れないのだ……でなければ、こんなに神秘的な、不可解な、底の知れない事件があり得る筈はないじゃないか。
……それを二人の博士が感違いをして、無理に一枚に重ね合わせて、一つの焦点を作ろうとしているのだ。お互いに相手を恐れて……自分の大切な研究材料を相手に取られまいとして、色眼鏡をかけてにらみ合ったために、何もかも相手がタッタ一人でして来た事のように見えたに過ぎないのだ。
……可哀相に……めいめい自分で覚えがあり過ぎるために……否……否……今まで手応えのある相手を発見し得なかった古今無双の二つの脳髄同志が、ここで互いに好敵手を発見し合って、本能的に戦闘欲を発揮し初めたんだ。ちから一パイ四ツに取組んで、動く事が出来なくなっているのだ。
……アハ……アハ……こんな馬鹿馬鹿しい……間の抜けた……トンチンカンな争いが又とこの世にあり得ようか。事件そのものの内容よりも、二人の博士の研究と争闘の方が、ズット真剣で、深刻で恐ろしいのだもの。もしかすると学者なんてものは皆、こんな詰らない事ばかりを本気になって争い合っているものじゃないかしら……。
……しかし考えて見れば無理もないだろう。あの呉一郎 と、この俺とはドウしても双生児ふたごとしか思えないくらい肖通にかよっているんだもの。おまけにあの呉モヨ子と、この絵巻物の死美人像とが、瓜二つどころじゃない。ソックリそのままなんだもの……こんなに在りそうにもない二重の偶然同志がこの地方で、しかも同じ血統ちすじの中に固まり合っているのを発見したら、誰だってビックリするに違いないだろう。そうしてこれには何か深い原因わけがあるに違いないと思って、最初から色眼鏡をかけて研究を初めるだろう。……本人はそんなつもりでなくても、研究を初める気持が既に色眼鏡をかけたのと同じ気持だから仕方がない。その証拠には、この事件を組み立てている色々な出来事を一つ一つに離してみると、別に二人の博士が手伝わなくても、それぞれ勝手次第に、自由自在に起り得る事件ばかりではないか。それを二人の博士がお互いに相手の所業しわざと思って疑い合っているお蔭で、一つに重なり合って見えているだけの事で、二人の博士の八釜やかましい説明が付いていなければ、単純な二つの変死事件と、一つの発狂事件の寄り集まりに過ぎないじゃないか……。
……そうだそうだ。それに違いない。ソレに違いない。みんな根のない事件のブツカリ合いに過ぎないのだ。それを俺が気付かずにいたんだ。そうしてウンウン言っていじめ付けられていたんだ……馬鹿馬鹿馬鹿。馬鹿の、馬鹿の、大馬鹿揃いだったんだ……三人が三人とも……。
……ウッカリするとこの事件の犯人は、ヤッパリ俺になるのかも知れないぞ……。
「……アハハハハハハハハ……」
 へやじゅうに反響する自分の笑い声を聞くと、フイと口をつぐんだ。
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そうしていつの間にかほお杖を突いていたの眼は、鼻の先の緑色の平面に転がっている絵巻物に、ピッタリと吸い寄せられているのに気が付いた。
 ……これが霊感というものであろうか……。
 ……は不意にドキンとして、今一度回転椅子の上に座り直した。今までにない……何とも言えない神聖な気持に満たされつつ、うやうやしく絵巻物を取り上げると、ジッと見詰めて考えた。
 ……最後に残るものはこの絵巻物の魔力である。……すべては否定出来る。……しかしこの絵巻物の魔力ばかりは最後の最後まで否定出来ない……と……
 ……この事件は表面から見ると、すべてがノンセンスに出来上っていると言える。実に詰まらない小事件の寄せ集めに過ぎないと考えられるので、ただ、その間に正木若林の両博士が引っかかり合ってこの絵巻物の魔力を中心にしてる怪事業を成しげようと試みているために、全体が非常に有意義な、戦慄すべき緊張味を示しているかのように見えるのであるが、しかし一歩退いて、この事件を裏から覗いてみると、実は二人の博士が二人とも、この絵巻物にコキ使われているのだ。自分たちが持っているだけの知恵も、度胸も、学問も、地位も、名誉も、生命いのちまでも投げ出して、この絵巻物の魔力の前に三拝九拝さんぱいきゅうはい【何回もお辞儀をすること】しているのだ。その以外の人間の生死も、流転も、煩悶はんもんも、万一もし正木博士の話が真実とすれば、やはりこの絵巻物から引き起された事件に相違ないので、結局するところ、一切の摩訶まか不思議を支配する中心的の魔力は、この絵巻物一つから現われている事になる。すべての現実的事実と一切の科学的説明はノンセンス化し得るとも、この絵巻物の魔力ばかりは絶対に、何人なんぴとノンセンス化する事が出来ない事になるであろう。
 ……だから……この絵巻物にしてもし霊があるならば、すべてを知っているに違いない。
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同時に自分自身の経歴を、何者よりもよく知っている筈である。……この事件にドンナ風に関係して来たか。どんな手順で呉一郎 の手に落ち込んで来たかを一分一厘、間違いなく知っている筈である。そうして又、如何いかにして両博士を悩まし、且つ、までも苦めているかという、その裏面の消息をも残らず心得ている筈である。
 ……この絵巻物の一巻は、今までの間に多くの人々を狂乱させ、迷動させ、互いにあい殺傷させ合いつつ知らん顔をして来た。同様に現在の今日只今も、何一つ知らぬかの如くよそおうて、てのひらに乗っかっている……が……しかし……。
 ……今から一千百余年前、大唐の玄宗げんそう皇帝の淫蕩いんとう【酒色などの享楽にふけること】は、青年紳士、呉青秀の忠志に反映して、六体の美人の腐敗像をこの一巻の中に顕現あらわした。……しかるにその怪画像にこもった、怪芸術家の一念は、はるばる日本に渡って来てのちまでも、呉家の血統に絡み付いて、恐るべき因果の姿を現実に描きあらわすこと幾十代。しかも十数世紀を隔てた今日に到って、何等の血縁もない正木若林両博士の手に移って、科学知識の無上の大光明に照らされる時節にうても、ついにその魔力をうしなわないどころか、かえってその怪作用を数層倍してその両博士の全生涯をアラユル方向に蹂躙じゅうりん嘲弄ちょうろう【ばかに】している。のみならず今日只今、処もあろうに現代文化の淵叢えんそう【物事の多く集まる所】であり権威である九州帝国大学のまん中の、まひるの真只中まっただなかに、ほとんど仮初かりそめ【その場限り】にゆび先に触れたと思う間もなく、早くもその眼に見えぬ魔手をさし伸ばして、の心臓をギューギューと握り締めて、生血なまち生汗なまあせを絞りつくす程の苦しみを投げかけている……不可解の因縁をもっに絡み付いて、不可思議の運命の渦にを吸い込みつつある。
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……事実の真相に白い曇りを吹きかけつつ、その白い曇りの魅力にかけてを散々にもてあそんでいるではないか……思い出されない事を思い出させ、考えられない事を考えさせ、見えないものを見させようとしているではないか……消え失せた過去の記憶を求めさせ、自分でない自分の身の上を考えさせ、ありもしない事件の真相を無理やりに探させつつ、迷わせ、狂わせ、泣かせ、笑わせているではないか……。キチガイ地獄以上のキチガイ地獄の中にノタ打ち回らせているではないか……。
 ……おお……何という恐ろしい魔力……。
 ……眼の前の空間を凝視して、ここまで考えて来たの、大きく見開いた眼の底の大虚空に、あの死後五十日目のたい夫人の冷笑のまぼろしが、又もアリアリと現われて来た。
 それをは消え失せるまで白眼にらみ付けた。
 ……畜生……どうするか見ろ……。
 こう思うとは、何かしらこの絵巻物の中から、一切の神秘と不可解とを、一挙に打ち破るに足るる恐るべき秘密の鍵を発見しそうな予感に打たれつつ、唇を強く噛み締めた。二人の博士とを苦しめている魔力の正体を一撃の下に暴露するに足るあるもの……まだ何んにも気付かれずに残っている意外千万なあるものがこの絵巻物のどこかにひそんでいそうな一種の霊感に満たされつつ手早く絵巻物のひもを解いた。そのついでに腕時計を見ると、ちょうど十二時に十分前である。正面の電気時計は十一分前であるが、これはもう長い針がXの字の処へ飛ぼうとしている間際かも知れない。

 絵巻物の軸になっている緑色の石の処に息を吐きかけてみると、誰のともわからぬ指紋が重なり合って見えるようであるが、これは先刻さっきがイジクリまわした跡だと気が付いたので苦笑しいしい巻物を取り直した。こんな迂濶うかつな事では駄目だぞ……と自分で自分を冷罵れいば【あざけりののしること】しながら……。
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 表装の刺繍ぬいとりと内部の紺色の紙の上に、細く光る繊維みたようなものが、数限りなく粘り付いているが、これはかつてこの絵巻物を真綿か何かで包んでいた遺跡であろう。鼻に当てて嗅いでみると、黴臭かびくさいにおいと、軽い樟脳しょうのうみたような香気が一緒になった中から、どこともなく奥床おくゆかしい別の匂いがして来るようであるが、なおよく気を落ち付けて嗅ぎ直して見ると、それはが初めて嗅ぎ出したものではないかと思われる程の淡い、上品な香水の匂いに違いない事が解った。
……面白いナ。この調子で行くと、まだ色んな物が発見出来そうだぞ。この黴臭かびくさい匂いと樟脳に似た木の弥勒みろく様の木像の中でみ込んだものである事は、誰でも考え付く事であろうが、しかし、この香水の匂いにはチョット気の付く者がいなかったであろう。そうしてこのゆかしい芳香は、この絵巻物の前の持主を暗示するものでなくて何であろう。
……占めた。もしもこの上に、まだ誰にも気付かれていない何物かが在ったら最後……それは一本の髪の毛でも煙草の屑でもいい……犯人を決定する有力な材料になるのだぞ……
 ……とさながらに自分自身が名探偵にでもなったように考えつつ、一層勢付いきおいづいて来たは、絵巻物を頭の方から、逆に捲き込みながら、絵の処から由来記の文章の終っているところまで、裏表とも丁寧に見て行ったが、先刻さっきは意地にも我慢にも正視出来なかった死美人の腐敗像が、今度は愛想あいそこそもない【何もない】只の顔料の配列としか見えなくなっているのにはすくなからず驚かされた。しかも、それは決して光線の具合でも何でもなかった。たい夫人の腐れ破れた唇から見え透く歯並の美しいところ、臓腑はらわた瓦斯ガスを包んで滑らかに膨れ光っているところまで、細かに注意して見たが、何ともないものは、いくら見ても何ともない。
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は人間の神経作用の馬鹿馬鹿しさにスッカリ張り合いが抜けてしまった。
 ……しかし……と思ってなおよく注意してみると、初めの方は紙の地が幾分ボヤケているが、由来記のおしまいの方に近づけば近づく程、紙の表面がスベスベして上光りがしている。これは無理もない話で、最初に筆を執った呉青秀からして、初めの方ほど余計に開いたり捲いたりしたに決っている。又、そののちこの絵巻物を開いて見た呉家の先祖代々の者も同様で、最初がした通りに、初めの完全な姿に近い所ほど念を入れて見たわけで、これは人情からいっても止むを得ないであろう……巻物の裏一面に何かキラキラ光る淡褐色の液体を塗ってある上にゆびの跡みたような白い丸いものが処々附いているようであるが、あまり滑らかでない紙の下から、粗い布目が不規則に浮き出しているのだから、何の痕跡あとだかハッキリと見分けがたい。……結局、がこの絵巻物から発見したものは、今の上品な香水の匂いだけであった。
 は今一度、絵巻物に顔を近付けて、ほのかにほのかに何事かをに話しかけるような香気を繰返し繰返し、腹の底まで吸い込んでみた……が……それは何という香水か知らないが、ホントウに上品な、清浄そのもののような香気と思えるばかりでなく、の記憶の底の底から何かしら なつかしいような 又はのない夢のような……正直に言えば吸い付きたいような思い出をび起すらしい気持のする匂いであった。言うまでもなくそれは女性のソレらしく思われるが、しかしそれがの昔の恋人か、それとも母か姉か……というような見当がつく程まざまざとした感じではない。……は念のために立ち上って、入口のドアの横から自分の角帽を取って来て、その内側のにおいと、絵巻物の香気とを嗅ぎ較べて見た。けれどもの帽子の内側は、いくら嗅いでも新しい羅紗らしゃと、エナメル皮と、薄いかびの匂いしかしなかった。
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が絵巻物のソレと同じ香水を使っていたという証拠にも参考にもならなかった。
 は帽子を横に置きながら軽い嘆息たんそくをして、絵巻物を捲き返そうとしたが、又……ビクリ……とすると手を止めた。思わず空間を凝視しながら……。
 ……実に意外千万な暗示が頭の中にひらめき込んで来たからであった……。
 ……姪の浜の石切場で、呉家の常雇じょうやといの老農夫戸倉仙五郎が呉一郎 を発見した時には、絵巻物の白い処ばかりを呉一郎 が凝視していたという……その不可思議な事実のホントの意味が、チラリと判りかけて来たからであった……。

 ……というのは外でもない……。
 この絵巻物の中でも、おしまいの漢文の由来記が書いてある処までは、度々人間の手によって拡げられたり、捲かれたりしたものに違いない事がわかり切っている。従って、その一丈いちじょう【約3m】近い長さの間には、何かしらこの絵巻物を覗いた人間の身に附いたものが落ち込んでいるべき可能性のある処である……がしかし、それと同時に、万人の中に一人でも、これから先の白い紙ばかりの処を、ズット先の方まで開いて見る人間があったとすれば、その人間の頭は、余程普通と違った頭でなければならぬ訳で、どちらかといえば、そんな人間は絶無に近い事が、常識で考えても直ぐに判るであろう。……とはいえ又、万一にもソンナ常識で想像出来ないる場合とか、又はその余程アタマの構造の違った人間とかが実際に出現して、由来記の後の白紙ばかりの処をズット先の方まで開いて見た事があった としたら ドウであろうか。早い話が、この絵巻物の筆者呉青秀は、たい夫人の白骨になった姿だけを、悠々と落ち付いて、一番おしまいの処に描いているような事がありはしまいか。
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……それをたい夫人の妹のふん女を初め、呉家の代々の人々から正木博士に到るまで、ただ、常識で考えて、この中に描いてある死像を六体限りとアッサリきめているような事がありはしまいか。……そうして更に、その中でも、この絵巻物が人を発狂させる程の魔力を持っていることを看破かんぱするような頭を持った人間だけが、そこまで気を回して開いて見ている としたら、どんなものであろう……もしそんな事が在り得るとしたら、そこに何かしら落ち込んでいないとはドウして言えよう。……しかもその落ち込でいる何かしらは、たといそれがドンナに微細なものであろうとも、スバラシク重大な意味をあらわす事になるではないか。この絵巻物を使って、この事件を捲き起した犯人の正体をズバリと指す事になるかも知れないではないか。否。もしかするとこの絵巻物の神秘力を一挙に打ち破って、一切の迷いを真実にかえす程の力を持った者であるかも知れない。……すくなく共そこまで調べて見た上でなければ、この絵巻物の中から何も発見出来なかったとはどうして言えよう。
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……呉一郎 は姪の浜の石切場でこの絵巻物の白い処を一心に凝視していたという。しかもその時は既に半分呉青秀、半分は呉一郎 の気持ちでいたものと推定されているから果して、どちらの気持ちでそうしていたものか判然しないのであるが、しかしいずれにしても、この絵巻物の白い処をズットおしまいの処まで見て行った……そうしてそこに落ち込んでいる何ものかを発見したに違いない事は容易に推定出来ると思う。
……その証拠に呉一郎 は「この絵巻物の預り主の正体を知っている」と仙五郎爺さんに話しているではないか……。
……どうして……どうしては今の今までこの事実に気付かなかったのだろう……。
 こうしたかんがえを一瞬間のうちに頭にひらめかしたは、又も、何者かに追駈おいかけられているような予感がして、チョット腕時計と電気時計を見較べた。どちらも十二時に四分前である。
 の手は再び反射的に絵巻物を持ち直して白い処を捲き拡げ始めた。そうして最初の一分間かそこらは、できるだけ冷静に調べて行くつもりであったが、どこまで行ってもただ 真白いばかりの唐紙の上を一心に見つめて行かなければならぬ事が、判り切っているように思えるので、は間もなく、はてしもない白い砂漠を、あてもないのにタッタ一人で旅行させられているような苛立たしさと、馬鹿らしさを感じ初めた。自分一人で名探偵を気取っているような自分の心が見え透いて、何だか急に気がさして来た。やっとの思いで三尺ばかり行くともうウンザリしてしまった。
 それにつれて……かどうか知らないが、呉青秀が一番おしまいに白骨の絵を書いているかも知れない……という推量も怪しくなって来た。
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 呉青秀が痴呆状態に陥ったものとすれば、自分が古今無類【無比】の馬鹿者であった、当もない忠義立てのために最愛の妻を犬死にさせた……という事を、義妹の女の説明でハッキリ思い当った刹那せつなに、茫然ぼうぜん自失してからの事であろう。そうすればその数分間前、もしくはその数秒前までは正気でいた筈だから、もし言い忘れたのでなければ、一番おしまいに白骨の絵を描いたか如何どうかを説明していない筈はない。又、女にしてからが同じ事で、自分の恋い慕っている男が、大事な大事な姉を犠牲にして企てた事業の成績品をひらいて見ながら、千年も経った今日になって赤の他人のが思い付く位の事を気付かずにいるような事は万に一つもありそうにない……こう思うとは一遍に気が抜けてゲンナリとしてしまった。
 ……しかし……それでもは、つまらない一種の惰力みたような、気の抜けた義務心に義務附けられたような気持と、今までの気疲れが一時に出初めてウトウト睡くなって行くような気持とを一緒に感じながら、あと一丈いちじょう【約3m】ばかりもあろうかと思われる白い処を両手で一気に繰り拡げながら、ほんの申訳もうしわけ同様に追いかけ追いかけ見て行った。そうしてやっと二丈か三丈位ありそうに思われる長い巻物の白いところを、最終の処まで追い詰めて来ると意外にも、黒い汚染しみのようなものがチラリと見えたので、思わずドキンとして眼をみはった。
 よく見ると、それは一番おしまいの紺色の紙に、金絵具で波紋を描いたところから一寸ちょっとばかり離れた個所に、五行に書かれた肉細い、品のいい女文字であった。
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これが小野鵞堂おのがどう流というのであろうか……

子を思う心のやみも照しませ【子を思う親心の中にある暗さ(迷い・不安)さえも照らしてほしい】
   ひらけ行く世の知恵のみ光り【文明が進んでいくこの世の、知恵という光よ】

  明治四十年十一月二十六日
福岡にて 正木一郎 母 千世子
  正木敬之けいし様 みもとに【あなたのそばに】
 ……
 ……の頭髪は皆、逆立さかだった……。
 ……慌てて絵巻物を捲き返そうとしたが……手がふるえて取り落した……。
 ……と、その絵巻物がさながら生きているもののように、ひとりでに捲き拡がって、大卓子テーブルの上から床の上に這い落ちて、リノリウムの上をクルクルクルと伸びて行くのを見ているうちに、ゾーッとして来て夢中になったは、どうしてドアを開いたか、いつ廊下を走ったか判らぬまま階段を一散に駆け降りて、玄関から外へ飛び出した。
 トタンに非常な大音響が、を追い散らすかのように、九大構内の松原にとどろき渡った。
 それは午砲ドンであった。

 それは一つの奇跡であったとしか思えない……る目に見えぬ偉大な力が、空中から手を差し伸ばして、を自由自在に引きずり回していたとしか思えない。それほどに、不思議な出来事であった。
 は九大医学部の正門を飛び出してのち、どこをどう歩き回ったかまるっきり記憶しない。そうして何を目標にして、又もとの九大精神病科の教授室に帰って来たものか全くわからない。
 ……背後から絶叫して来る自動車の警笛を聞いた。眼の前に急停車する電車の唸りにおどかされた。自転車のベルに追い散らされた。叱咤しったする人の声や吠えつく犬の声をきいた。グルグル回る太陽と、前後左右に吹きめぐる風と、戦争のように追いつ追われつする砂ほこりを見た。雲の中からブラ下っている電柱を見た。軒の下まで鮮血をしたたらしている絵看板を見た。
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地平線の向うが透明な山に続く広い広い平野を眺めた。何千、何万、何億あるか判らぬおびただしい赤煉瓦レンガの堆積の中へ迷い込んだ。その紫色の陰影の中に、手足をうごめかして藻掻もがいている孩児あかんぼ幻影まぼろしを見た。青澄んだ空の只中を黄色く光って行く飛行機を仰いだ……そのあとから白い輪郭ばかりの死美人の裸体像が六個むっつほど、行儀よく並んですべって行くのを見た。
 人の頭のように……又は眼の形……鼻の格好……唇の姿なぞ取り取り様々の形に尾を引いて流るる白い雲……黒い雲……黄色い雲……その切れ目切れ目に薬液のように苦々しく澄み渡っている青い青い空……そんなものの下にえにえ返る神経と、入り乱れて火花を散らす感情を包んだ頭の毛を、むしり、き乱しつつ……時々飛び上る程の痛みを前額部に感じつつ……まぶしさと砂ほこりとでチクチク痛み出した眼をコスリコスリ、どこへ行くのか自分でも判らないまま、無茶苦茶によろめいて行った。
 ……川……橋……鉄道……赤い鳥居……その赤い鳥居の左右に、青白い顔をして立っている正木博士と若林博士の姿……ついには駆け出したくなるのを押え付け押え付けして歩いて行った。
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…………何もかも真実であった……虚偽の学術研究でも、捏造ねつぞうの告白でもなかった。しかも、それは初めから終りまで正木博士がタッタ一人で計画して、実行して来た事ばかりであった。
……若林博士は何でもなかったのだ……。
……若林博士は初めから何も知らずに、正木博士の研究の手先に使われていたのだ。
……正木博士が行った巧妙奇怪を極めた犯罪に魅惑されて、自分から進んで調査をしているうちにいつの間にか正木博士の研究発表の材料を集める役回りを引受けさせられていたのだ。正木博士が仕掛けておいた蹄係わなに美事に引っかかって、スッカリ馬鹿回ばかまわしにされていたのだ……。
……けれども若林博士はその結論として、あの絵巻物の最終に残されている千世子の筆跡を発見した。あらゆる疑問を重ね合わせた最後の疑問の焦点となるべき、ただ一点を発見してと同じようにビックリしたに違いない。そうしてと同じように一瞬間のうちに一切を解決したに違いない。すべてが正木博士の所業しわざである事を発見したに違いないのだ。
……しかしそこで若林博士がった態度の如何いかに立派であった事よ……若林博士は、かくして事件の真相を奥の奥の核心まで看破かんぱすると同時に、その同窓同郷の友人として、又は学者としての有らん限りの同情と敬意とを正木博士に払うべく決心をしたのであった。そうしてその事件の内容の、要点だけを解らなくした。正しい調査記録を当の本人の正木博士に引き渡して、焼くも棄てるも、その自由にまかした。……又は態々わざわざ茶菓子を持たして寄越して、「私は遠くに離れ退いておりますから、どうか御心配なく御自由にお話し下さい」という心持ちを、言わず語らずのうちに知らせたりした。
……「正木博士は一箇月前に自殺した」なぞいうような口から出任せなうそいたのも、やっぱりそんな意味の親切気から、立ち聞きをしている正木博士が、あの場面に出て来ないように……そうしてアンナ苦しい破目はめに陥らないように……もしくは回復しかけているの頭を、又も取り返しのつかぬ混乱に陥らせないように警戒するつもりで言った事であろう……あとでうそだと判ってもいいつもりで……。
……実に男らしい尊い、申分もうしぶんのない紳士的態度を、若林博士はって来たのであった。
……しかるにこれに反して正木博士は、この実験のために、その全生涯と、全霊魂とを犠牲に供して来たのであった。最初から自分一人でこの伝説に興味を持って、千世子だまして、子供を生まして、絵巻物を提供させたのであった。そうして一切をかえりみずにこの計画を遂行したのであった。
……けれども千世子が、あの絵巻物を提供する時に、あの和歌と、年月日と、子供の名前と生れた処とを、その父親の名前と一緒に奥付の処に書込んで、意味深長な釘を刺している事を正木博士は夢にも気付かずにいたのだ。世にもミジメに深刻な母性愛と、ステキな才智の結晶とも見るべき彼女の悲しい頭の働らきが、そこまで行き届いていようとは露程つゆほども想像し得なかったのだ。大胆な、眩惑的な、そうして飽く迄も天才的なその事業計画の中心に、ただ一点、致命的な疎漏そろう【手抜かり】がある事を考え得なかったのだ。……そうして学術のため、人類のためと思って、神も仏も、血も涙も冷笑しにじって行きながらも、尚も、あとから追いかけて来る良心の苛責かしゃくと人情の切なさに、寝てもめても悩まされ抜いて来たのだ……死人に心臓をつかまれたまま、跳ね回って来たのだ。
……これが正木博士の全生涯なのだ。極度にけがされると同時に、極度にきよめられている……飽く迄も悲しく、飽く迄も痛快な……。
……しかもその正木博士は、その呪われた研究が いよいよ最後の場面に入ると同時に、若林博士から投げ与えられたの調査書類を見ると流石さすがに胆を冷してしまった。その相手の恐るべき透徹とうてつ【筋が通っていてすみずみまではっきりしていること】した脳髄が、極めて遠回しに……一分一厘の隙間すきまもなく自分を取り囲んでいる事を知った。そうしてその恐るべき明察の重囲に陥った苦しさにえ得ないままに、極めて卑怯ひきょうな、且つ徹底的に皮肉巧妙な手段をもって逆襲を試みようとした。お手のものの患者の中から選み出した第三者のを使って極めて冒険的な発表を決行させるべく、一切をの前に告白した。
……が……その告白は初めから終りまで自分一人で計画して、タッタ一人で実行した事を二人に分割したものであった。その独特の機知をもって、相手の性質や行動を巧みに描写しつつ取り入れた、空前の巧妙精緻を極めた……そうして、それと同じ程度に浅薄あさはか幼稚を極めた思い付きであった。……その自縄自縛じじょうじばく【(自分が作ったなわで自分をしばるように)自分の言行で自分の動きがとれなくなり、苦しむこと】を切り抜けている一人二役式の思い付きの非凡さ……の使い分けの大胆さ、巧妙さ……そうして、やはりもと自縄自縛じじょうじばくに陥ってしまっているそのミジメさ……愚昧おろかさ……。
「……アブナイッ……」
「馬鹿ッ……」
「アターッ……」
 という怒号と悲鳴が、の直ぐ背後うしろから重なり合って飛びかかって来た。
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と同時に、
 ……ガラガラガラガラ……ガチャンガチャン……パーン……パチーン……
 という激しい物音が、引き続いての足の下に起った。……ハッとして振り返ると、其処そこいらに立っている人が皆、の顔をにらみつけている。……の直ぐ背後うしろには青塗の巨大おおきな貨物自動車が向うむきに停車している……くの字形になった自転車と、無残に壊れた空瓶の群がの足下に散らばって、茶褐色の醤油がダラダラとただようている。……浅黄色あさぎいろ事業服しごとふくを着た大男が自動車の上から飛び降りて、タイヤの蔭に手を突込みながら、紙のように血の気を失くした印絆纏しるしばんてんの小僧を、まぶしい日陽ひなたに引きずり出している……人々がその方へ駆け寄って行く……。
 はスタスタと歩き出しながら又も考え続けた。
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……トテモ恐ろしい……考え切れないくらい恐ろしい秘密だ。一千年前に死んだ呉青秀の悪霊と、現代に生きている正木博士の科学知識との闘争たたかいは今たけなわなんだ。
……しかも正木博士は、この研究に志した当初の一瞬間から、その良心の急所を呉青秀の悪霊につかまれてしまっている。人間愛のうちでも最大最高の親子の情と、夫婦の愛とを握り殺されてしまっている。そうして自分自身にはそれを気付かないで、どんな事があっても自分だけは決して呉青秀の悪霊に呪われまいと頑張り通して来ている……その呪われた心理状態を、色々な論文や、談話やチョンガレ歌なぞの形に現わして、次から次に公表して来ている……その一方には千世子を初めとして呉一郎モヨ子八代子と次から次に痛ましい犠牲を作り出しつつ、勇敢にもそれを踏み越え踏み越えして、科学の勝利を確信しつつ……呉青秀の悪霊を向うに回しつつ、一心不乱に斬って斬って切り結んでいる。……ああ何という凄惨な、冷血な、あくどい執念深い闘争たたかいであろう。……魂からしたたり落ちる血と汗の臭気においがわかるような……。
……けれども……。
……けれども……。
 ここまで考えて来ると、はパッタリと立ち止った。……賑やかな往来を見た。……不思議そうな目付きや顔付きでを振り返って行く人々を見まわした。高い高い広告塔の絶頂でグルグルグルグルまわり出した光の渦巻を見上げた。その上に横たわる鮮肉のような夕映ゆうばえの雲を凝視した。
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……けれども……。
……けれども……。
……よく考えてみると、はまだその中から、の過去の記憶の一片だも、思い出していないのであった――は何者――という解答を自分自身に与える事が出来ない。憐れな健忘症の状態にとどまっているのであった。今朝けさあの七号室で眼を開いた時と少しも変らない……依然としてタッタ一人で宇宙間を浮游ふゆうする、悲しい、淋しい、無名の一微塵みじんに過ぎないのであった。
……は何者?……。
……ああ……これを思い出したらはすぐにも呉青秀の呪いからめそうに思われるのに……あの絵巻物の魔力から切離されてしまいそうに思われるのに……どうしてもそれが思い出せない。いくら考えてもコレダケが最後の、唯一の疑問として残って行く……。
……は誰だろう……誰だろう……の過去とこの事件の間にはドンナ因果関係が結ばれているのだろう……。
 ……とこう考えては今日の記憶を繰返し、くり返しては又考え直しつつ、暗雲やみくもに足を早めたり、ゆるめたりして歩いて行った。……遠く近くで打出す半鐘はんしょうの音……自動車ポンプのうなり……子供の泣き声、はたを織るひびき……どこかの工場で吹出す汽笛の音……と次から次へ無意識のうちに耳にしながら、右に曲り、左に折れしていたが、そのうちには又、突然に土を蹴って立ち止った。気絶する程ドキンとして首を縮めながら立ちすくんだ。
 ……大変だ。あの絵巻物を、あのままにして来た。
 ……あの絵巻物のおしまいの処にある千世子の筆跡は誰にも見せてはならぬ……。
 ……正木博士が見たら発狂するか……本当に自殺するかも知れぬ……。
 ……タタ大変だッ……。
 は思わず飛び上った。
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そうしてその次の瞬間にはクルリとうしろを向いて、どこか判らぬ真暗まっくらになった田舎道を一直線に駆け出していた。
 やがて明るい、美しい街筋に走り込んだ……。
 間もなく暗いゴミゴミした横町を突き抜けた……。
 三味線や太鼓の音の聞えるまぶしい通りを飛んで行った……。
 電灯の並んだ防波堤を三方海原うなばらの行き止まりまで来てビックリして引き返した……。
 いろんな店の品物や、電車や、自動車や人ゴミが走馬灯まわりどうろうのようにうしろへ後へとすべった……。
 汗と涙で見えなくなる眼をコスリコスリ元来た方へ元来た方へと急いだ……。
 ……眼がくらんで、息が切れて、そこいらが明るくなったり暗くなったりしたように思う。
 ……眼の前に灰色の鳥が無数に乱れ飛んでは消えて行ったように思う。
 ……いつの間にか往来に倒れているのを誰かたすけ起してくれたように思う。そうしてそれを振り離して、又駆け出したようにも思う。
 そんな事を繰り返して行くうちにはとうとう何もかも判らなくなってしまった。何のために走って行くのか。どっちの方向へ行こうとしているのか考えようとも しないようになった。時々見えたり聞えたりするものを夢うつつのように感じたが、しまいにはその夢うつつさえ感じられなくなるまで恍惚こうこつとして蹌踉よろめいて行った……ように思う。

 それから何時間経ったか、何日経ったか判らない……。
 フト身体からだ中がゾクゾクと寒気立さむけだって来たようなので気がついて見ると、はいつの間にか最前さっきの九州帝国大学精神病科の教授室に帰っていて、最前腰をかけていた回転椅子に、最前のように腰をかけて、大卓子テーブルの緑色の羅紗らしゃの上に両手を投げ出したまま突伏つっぷしているのであった。
 はチョットの間、夢を見ているのではないかと疑った。
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先刻さっき……正午ひる頃にこのへやを飛び出してから、方々を歩きまわって、見たり聞いたりした色々の出来事や、考えまわしたいろんな不思議な事……又はその間に感じたタマラナイ恐ろしさや息苦しさは、みんなここにこうして気絶している間に見た夢ではなかったかと疑ってみた。そうして気味わる気味わると自分の身のまわりを見まわして見たのであった。
 の服もシャツも、穿いている靴も、汗と塵埃ほこりにまみれて真白になっている。両方のひじひざは大きく破れたり泥まみれになったりして、ボタンが二つ程ちぎれて、カラーが右の肩にブラ下っている姿は丁度ちょうど酔漢よいどれと乞食との混血児あいのこを見るようである。左の手の甲に真黒く血が固まり附いているのはどこを怪我したのであろう。別段に痛い処もかゆい処もないが……しかし眼と口の中が砂ホコリで一パイになっているらしく、まぶたがヒリヒリして歯の間がガリガリするその不愉快さ……。
 はその眼と口を今一度、机の上に突伏せながら、ジット後先あとさきを考えて見たが、一体何しにここへ帰って来たのか、どうしても思い出せなかった。机の端に置き忘れて行った新しい角帽を凝視みつめながらその時の気持を思い出そう思い出そうと努力したが、この時に限って不思議な程、の連想力が弱っていた……何かしら非常に重大な品物か何かをこのへやに忘れて、それを取りに帰って来たようにも思うのだが……と思い思いソロソロと頭を上げて前後左右を見まわして見ると、の頭の上には大きな白熱電球が煌々こうこうと輝いている。
 入口のドアは半分いたままになっている。
 しかし、大卓子テーブルの上の書類は誰が片附けたものか、もとの通りにキチンと置き並べてあった。今朝けさ若林博士と一緒に入って来て、初めて見た時の並び具合と一分一厘違わず……いじり散らした形跡なぞは微塵みじんもないように見えた。
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その横に座っている赤い達磨だるまの灰落しも、今朝最初に見た時の通りの方向を向いて、永遠の欠伸あくびを続けているのであった。
 もっともそのうちでもカンバス【帆布・ズック】張りの厚紙に挟まった「狂人きちがいの暗黒時代」のチョンガレ歌や「胎児の夢」の論文なぞいう書類の綴込つづりこみだけは、よく見ると確かに誰かが、ツイこの頃手を触れているらしく、少し横すじかいのX形に重なり合ったまま、投出されているようであるが、もう一つの方の、今日の午前中に正木博士がの眼の前でちりを払ったに相違ない、青いメリンス【毛織物】の風呂敷包みの上には、やはり初めて見た時の通りに、灰色の細かいほこりが一面にかぶさっていて、久しく人間の手が触れていない事を証拠立てている。そのほか大卓子テーブルの上には、茶を飲んだ形跡あともなければ、物を食べた痕跡なごりもない。念のために、赤い達磨の灰落しを覗いてみると、中には葉巻の灰の一片すらなく、相も変らぬ大欠伸を続けたまま、黄金色きんいろと黒の瞳でグリグリとにらみ上げている。
……不思議だ……きょうの午前中の出来事の大部分は夢だったのか知ら。……は確かにあの風呂敷包みの内容なかみを見たのだが……わずかの間に、あんなにほこりがたかる筈はないわけだが……。
 やおら立上った。ひざ頭が気味悪くブラブラして脱け落ちそうになるのを、大卓子テーブルの縁に突いた両手でかろうじて支えながら、綿のような身体からだを無理矢理に引立てた。ヒクヒクとわななゆびでメリンス【毛織物】の風呂敷包みをつかんで引寄せると、あとに四角いほこりのアトカタがクッキリと残った。その結び目に落込んでいるほこりしまを今一度よく見たが、どう考えても最近に人の手が触れた形跡はない。そうして、その結び目を解いているうちに、白いほこりの縞は跡型もなく消え飛んでしまったのであった。
 は唖然となった。
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 眼の前の空間を凝視みつめたまま、今朝けさからの記憶を今一度頭の中で繰り返して見た。けれども、この風呂敷の中のものを正木博士から見せられて、あの恐ろしい説明を聞いた記憶と、この結び目の白いほこりは永久に両立しない二つの事実に相違なかった。正確に矛盾した二つの出来事であった。
 は全身に伝わる悪感おかんを奥歯で噛み締めながら、なおもワイワイと痙攣けいれんする両手のゆびで、青い風呂敷包みを引き拡げた。するとその中から最前見た通りの新聞紙包みと、若林博士の調査書類の原本とがやはり最近見た通りの形にキチンと重なり合って出て来た。そればかりでなくメリンス【毛織物】の目かられ込んだ細かいほこりは、調査書類の原本の表紙になっている黒いボール紙の上にもウッスリとかぶさっていて、絵巻物の新聞包みを取除とりのけると、又も長方型のアトカタがクッキリと残った。
 は又も唖然となった。余りの不思議さに狐につままれたようになりつつ、自分が正気でいるか如何どうかを確かめるような気持ちで、まず絵巻物の新聞包みをソロソロと開いた。その新聞紙の折れ具合、箱の蓋の合い加減、巻物のようひもの止め方まで細かに調べてみたが、余程几帳面な人間の手でしまい込んであったものらしく、どこもここもキチンとしていて、二重に折れ曲った処や、折目のゆがんだ処は一個所もないのみならず、巻物を繰り拡げて見ると、防虫剤らしい、強い香気を放つ白い粉が、サラサラと光って机の上に散り落ちた。次に開いた調査書類も同様で防虫剤こそほどこしてないが、パラパラとページを繰って行くうちに、ほこり臭いかおりがウッスリと鼻に迫って来る。いずれにしても最近に人の手が触れなかった事は確かである。
 はそれからなお念のために、フールスカップを綴じ合せた正木博士の遺言書を開いて見た。
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そうして最後の二三頁を繰り返して見たが、今朝けさまではインキが乾いて間もない、青々としたペンの痕跡あとに見えたのが、今はスッカリ真黒くなって、行と行との間には黄色いかびさえ付いているようである。どう見ても二日や三日前に書いたものとは思えないのであった。
 は不思議から不思議へ釣り込まれつつ、最前正木博士がした通りにその調査書類を風呂敷の外へ抱え出してみた。すると意外にもその下に、一枚の古ぼけた新聞の号外が下敷になっているのを発見した。これは最前、正木博士がこの風呂敷をハタイタ時には、確かに存在していなかったものであった。
 はキョロキョロとそこいらを見回した。
 はこのへやの中のどこかに、眼に見えぬ奇術師が居て、手品を使っているとしか思えなかった。それともの精神が又も変調を起して、何かの幻覚に陥っているのではないか知らんと思い思い、こわごわその号外を取上げて見たが、八ツに折られた新聞紙一頁大の右肩にトテツもない大きな活字で印刷してある標題を読むと思わず「アッ」と叫び声を挙げた。背後の回転椅子に引っかかってヨロメキ倒れそうになった。
 それは大正十五年の十月二十日……正面の壁のカレンダーが示す斎藤博士の命日の翌日……正木博士が自殺したと若林博士が言ったその日に、福岡市の西海新聞から発行されたもので、頁の左肩には鼻眼鏡を光らして、義歯いればをクワット剥出むきだした正木博士の笑い顔が、五寸【15cm】四方位の大きさに目の荒いあらい写真版で刷り出してあった。
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  九大精神病学教授

   正木博士投身自殺す

    同時に狂人きちがいの解放治療場内に勃発せし希有けうの惨殺事件暴露す



こん二十日午後五時頃、九州帝国大学精神病学教授、従六位医学博士 正木敬之けいし氏が溺死体となって、同大学医学部裏手、馬出浜まえだしはま、水族館附近の海岸に漂着している事が発見されたので、同大学部内は目下非常な混雑を極めている。しかるにその混雑にって、その以前の昨十九日正午頃、同精神病学教室に於ける同博士独特の創設に係る「狂人きちがいの解放治療場」内において、一狂少年が一狂少女を惨殺し、引続いて場内にありし数名の狂人きちがいに即死、もしくは瀕死の重傷又は軽傷を負わしめ、これを制止せむとした看視人までも重傷せしめた事件がはしなくも暴露したので、大学当局は勿論、司法当事者においても狼狽ろうばいくところをらず、目下極秘密裡に厳重なる調査を進めている。


 狂少年鍬をふるって

  五名の男女を殺傷

   治療場内一面の流血!!!



昨十九日(火曜日)正午頃、事件勃発当時、同科担任教授正木博士は同科教授室におい午睡ひるねしおり、同解放治療場内には平常の通り十名の患者が散在して各自思い思いの狂態を演じつつあったが、その時一隅に畠を耕していた足立儀作(仮名六〇)が午砲と同時に看護婦が昼食を報ずる声を聞いて、使用していた鍬を投げ棄てて病室に去るや、以前から儀作動静ようすうかがっていたらしい狂少年、福岡県早良さわらめいはま町一五八六番地農業、呉八代の養子にして同女の甥に当る一郎 (二〇)は突然、その鍬を拾い上げて、かたわらに草を植えていた狂少女、浅田シノ(仮名一七)の後頭部を乱打し、血飛沫ちしぶきの中に声も立て得ず絶息せしめた。
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かくと見た同治療場の監視人で柔道四段の力量を有する甘粕藤太あまかすとうた氏は、直ちに急を呼びつつ場内に駆け入ったが、時既に遅く、場内に居った政治狂の某、および、敬神狂の某の二名は、少女シノを救うべく呉一郎 に肉迫すると見る間に、前者は横ほおを、後者は前額部を呉一郎 の鍬の刃先にかけられ、あけに染まって砂の上に昏倒こんとうした。この時、隙間すきまを発見した甘粕氏は一郎 の背後から組み付いて、一気に締め落そうと試みたが、一郎 の抵抗力意想外に強く、鍬を投げ棄てて甘粕氏の両腕をつかみ、体量二十貫の同氏の全身を縦横上下に水車みずぐるまの如く振り回しつつ引き離そうとするので、流石さすが甘粕氏も必死となり、振り離されまいとのみ努力するうち、呉一郎あやまって狂女の作った落し穴に片足を踏み込んだ拍子に肩をかされて同体に倒れると、身をかわす暇もなく本館軒下の敷石に肋骨を打ち付けて人事不省に陥った。この時同治療場の入口には甘粕氏の声を聞き付けた数名の男看護人、及小使、医員等が駆け付けおり、中には柔道の心得のある者も在ったが、再び治療場の中央に進み出で、落した鍬を拾い上げた呉一郎 が、返り血を浴びたまま顔色蒼白となって四辺あたり睥睨へいげい【威圧するように周囲をにらみまわす】しつつ「俺の事業しごとを邪魔するかッ」と叫んだ剣幕に呑まれて一人も入場し得なくなった。そのかんに場内の一隅に眼を転じた一郎 は顔色たちまもとに帰り、ニコニコ然と微笑し初め、血に染まった鍬を取り直しつつそこに佇立していた【たたずんでいた】二名の女に迫り、まず舞踏狂の少女某を畑の隅に追い詰めて眉間みけんを打ち砕き、続いて最前から女王の姿に扮装しつつ平然として場内を逍遥しょうよう【ぶらぶら歩く】し続けていた年増としま女に近づいて行ったが、同女が厲声れいせい一番、「無礼者。わらわを知らぬか」と一睨いちげいすると、呉一郎愕然がくぜんたるおももちで鍬を控えて立止ったが、「アッ。貴女あなたは楊貴妃様」と叫びつつ砂の上に跪座きざした。
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その時にかろうじて意識を回復した甘粕氏は苦痛を忍びつつ起き上り、じょうの入口を開いて逃げ迷うていた狂人きちがいたちを外へ出すと、又も安心のためか気が遠くなって打ち倒れた。そのあとから呉一郎 も鍬を片手に、片脇には最初の犠牲、浅田シノの死骸を軽々と引き抱えつつ、女王姿の狂女に一礼して流血淋漓りんりたる場内を出で、悠々と自分の病室、七号室に帰って行ったが、皆手をつかねて戦慄しつつ遠くから傍観するばかりであったという。


  狂少年の自殺

   平然たる正木博士



この時急を聞いて駆け付けた正木博士は、極めて平然たる態度で医員を指揮しつつ暴れ狂う一郎 の手からシノの死骸と鍬を奪い取り、一郎狂人きちがい制御せいぎょそで無しシャツを着せ、足枷あしかせを加えて七号室に監禁する一方、被害者シノ以下四名の男女患者に応急の手当をほどこしたが、その中二名の男子患者はいずれも致命傷ではないが生死の程はまだ見込み立たず、又、二名の少女は共に頭蓋骨を粉砕されているので手の下しようなく、このむねそれぞれの近親に急報した。同時に正木博士は単身七号室に引返し、前に監禁した一郎 の様子を見に行ったところ、同人は病室の壁に頭を打ち付けて絶息【絶命】しているのを発見し、急遽きゅうきょ医員を呼んだので又も大騒ぎとなった。しかしてその騒ぎが一先ひとまず落着し、それぞれの処置を終ると間もなく、正木博士は同教室を出たものらしく、午後二時半頃、医員山田学士が「呉一郎 は回復の見込あり」という報告をすべく、同教授を探しまわった時には、最早もはや、同科教室及病院内のどこにも正木博士の姿を発見し得なかったという。


  解放治療は

   予想通りの大成功

    正木博士放言す!



しかるにそのかんおい正木博士は同大学本部に到り、松原総長に面会して声高に議論していた事実がある。
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その議論の内容の詳細は判明しないが「狂人きちがいの解放治療の実験は今回の出来事にって予想通りの大成功に終りました」と繰り返して放言し「同解放治療場は今日限り閉鎖を命じておきました。永々 御厄介ごやっかいをかけましたが御蔭おかげで都合よく実験を終りまして感謝に堪えませぬ。(註=同治療場は正木博士が総長の許可を得て、私費をもって開設していたもので、これに付属する雇員等も同博士から直接に給与されていたものである)なお私の辞表は明日提出致します。あとの事は若林学部長に委託してありますから」云々と言い棄てて、呵然かぜん大笑しつつドアを押し開き、どこへか立ち去ったとの事で、総長室の隣室で聞いていた事務員連は皆、同教授の発狂を疑いつつ顔を見合わせつつ震え上ったという。


  鼾声かんせいらいの如く

   酔臥すいがしてのち行衛ゆくえくらます

【雷のようないびきをかいて酔いつぶれて眠り、行方不明になる】


正木博士は総長室を出ると無責任にも死傷せる患者を医員連の看護に一任したまま帰途に就いた模様であるが、その途中どこかで飲酒泥酔したらしく、その夕方、福岡市湊町みなとまちの下宿に帰って二三時間のあいだらいの如き鼾声かんせい【いびきの音】を放って熟睡していた。それから同夜九時頃になると「飯喰いに行って来る」と称して飄然ひょうぜんとして下宿を出でそのまま行衛ゆくえくらましたとの事であるが、仄聞そくぶんする【人づてに聞く】ところにればひそかに九大精神病科の自室に引返し徹宵てっしょう書類を整理していたともいう。
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  狂人きちがいを模倣した

   気味悪い死体



しかるに本日午後五時頃、大学裏海岸を通りかかった沙魚はぜ釣り帰りの二名の男が、海岸に漂着している一個の奇妙な溺死体を発見し、このむね箱崎署に届出たので万田まんだ部長、光川みつかわ巡査が出張して取調べたところ、懐中の名刺により正木博士である事が判明したので又々大騒ぎとなり、福岡地方裁判所から熱海判事、松岡書記、福岡警察署より津川警部、長谷川警察医外一名、又、大学側からは若林学部長を初め川路かわじ安楽あんらく太田西久保の諸教授、田中書記等が現場に駆け付けたが、検案の結果同博士は、同海岸水族館裏手の石垣の上に帽子と葉巻きの吸いさしを置き、診察服を着けたまま手足を狂人きちがい用鉄製の手枷足枷てかせあしかせもって緊縛し、折柄おりからの満潮に身を投じたものらしく、死後約三時間を経過しているので救急の法もほどこしようがなかった。しかして右に就いては若林学部長その他関係者一同口をかんして【口をとじて】一語をもらさず、前記の大惨事と共に極力秘密裡に葬り去ろうとした模様であるが、本社の機敏なる調査にって、かく真相が暴露したものである。ちなみに正木博士の自殺原因については遺書等も見当らぬらしく、下宿の書庫机上等も平生の通りに整頓してあって何等の異状をも認めなかったそうである。又飲酒泥酔して下宿に帰り、あるいは散歩と称して外出して帰宅しない事も、従来毎月一二回ずつあった事とて下宿の者も何等怪しまなかったという。


  奇怪な謎

   狂少年の一語


右について同解放治療場の監視人であった甘粕藤太氏は、負傷した胸部に包帯をほどこしたまま市内鳥飼とりかい村自宅においてかく語った。
 全く不意の出来事で、こんな事なら初めからあのような役目を引き受けなければよかったと後悔しています。
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しかし責任は無論私にあるでしょうし、こと狂人きちがいの解放治療場は昨日限り閉鎖されているそうですから、取りあえ正木先生の手許てもとへ辞表を出して謹んでおります。あれが気違い力というものでしょうか、意想外の強力ごうりきで力を入れ切っておりますところへ不意に肩をすかされましたために思わぬ不覚を取りまして二度も気絶して面目次第も御座いません。しかし二度目の気絶からはすぐに覚醒しましたので、私は三名の医員と共に七号病室に駆け付けまして、一郎 を取り押えようとしましたが、血に狂った一郎 は手にせるくわ竹片たけぎれの如くブンブンと振りまわして「見に来てはいけない見に来てはいけない」と叫びますので、非常に危険で近寄れません。そこへあとから駆け付けられた正木先生の顔を見ると、呉一郎たちまち鎮静しまして、嬉し気に一礼しつつ血にまみれて床の上に横たわっている少女シノの半裸体の死体を指して「お父さん、この間あの石切場で、僕に貸して下すった絵巻物を、も一ペン貸して下さいませんか。こんないいモデルが見つかりましたから……」という奇怪な一語を発しました。これを聞かされた正木先生は何故か非常に興奮された模様で、今思い出しても物凄いほど真青な顔になって私たちを見まわされましたが、そのまま「何をタワケた事を言うかッ」と大喝されますと、単身呉一郎 に組み付いて取押えられたのであります。それから暫くはお顔の色が悪いようでしたが、呉一郎 が壁に頭を打付けて絶息しましたのちは気力を回復されたらしく、あれ程の大事件のさなかにもかかわらず、快活かいかつにキビキビと種々いろいろの指図をしておられました。(記者が一郎 の蘇生せる旨を告ぐれば)ヘエ。それは本当ですか。私が見ました時は顔中血だらけになっておりましたし、正木先生も急激な脳震盪のうしんとうで呼吸も止まっているからとても助からぬと言うておられましたが、やはり、手足が不自由なまま、壁に頭を打ち付けたのですから、そう強くなかったのでしょう。
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(次いで正木博士の自殺を告げ死因についての心当りを問えば甘粕氏は愕然がくぜん蒼白となり流涕りゅうていして唇を震わしつつ)それは本当ですか。本当ならば私はこうしておられません。正木先生には大恩があります。私が先年亜米利加アメリカで流浪しておりますうちに市俄古シカゴ附近で肺炎にかかり誰も構ってくれ手がなくなりましたところを正木先生に拾われまして入院さして頂きました。その時に正木先生はもしこの恩が報じたければ福岡へ住んで俺が帰るのを待っておれと言われまして沢山の旅費まで頂きましたので、帰国匆々そうそう当地の英和学院の柔道師範を奉職していたのですが、正木先生が大学に来られるとすぐに辞職して治療場の監視をお引き受けした位です。正木先生は何でも楽観される方で私も私淑ししゅくしておりましたが人格の高い方でしたから責任観念も強かったのでしょう。云々。


  姪の浜の大火

   名刹めいさつ如月寺にょげつじに延焼

    放火女無残の焼死を



 本日午後六時頃福岡県早良郡姪の浜一五八六呉ヤヨ方母屋奥座敷より発火し、人々驚きて駆け付ける間もなく打ち続く晴天と折柄おりからの烈風にあおられて火勢たちまち猛烈となり、数棟の借家を含みたる同家は見る見る一団の大火炎に包まれると見るうちに程近き如月寺にょげつじ本堂裏手に飛火とびひし目下盛んに延焼中であるが、遠距離の事とて市中の消防は間に合わず、附近の消防のみにては手に余る模様である。しかして右放火者と認めらるる呉ヤヨ(前記呉一郎 伯母四〇)は寺院本堂の猛火に飛び入り衆人環視のうちに無残の焼死をげたが、同女は今春、ただ一人の娘をうしないたる際より多少精神に異状をていしおりたるところ、本日又最愛の甥一郎 が変死した噂が同地方に伝わっていたのを耳にしたために一層錯乱興奮してこの始末に及んだものであろうと。
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 この号外から顔を上げたは、頭を押え付けられたようになったまま、オズオズとそこいらを見まわした。
 すると間もなく、すぐ鼻の先に拡げられた青い風呂敷のまん中に、今まで号外の下になっていたらしい一枚のカードみたようなものが見つかった。……オヤ……まだこんなものが残っていたのか……と思い思い立ち上って覗き込んでみると、それは一枚の官製端書はがきの裏面で見覚えのある右肩上りのペン字が、五六行ほど書きなぐってあった。


 面目無い

 先生と酒を飲んだのも僕だ
 生れかわってり直す
 せがれと嫁の将来を頼む
    二十日午後一時    より
 兄 足下


 の手から号外が力なくヒラヒラとすべり落ちた。それと同時にへや全体が、身体からだと一緒にだんだんと地の底へ沈んで行くように感じた。
 はヨロヨロとよろめきながら立ち上った。われともなくヨチヨチと南側の窓に近付いた。
 向うの屋根から突き出た二本の大煙突の上に満月がギラギラとえ返っている。その下に照し出された狂人きちがいの解放治療場は闃寂げきじゃくとして人影もなく、今朝けさまでは一面の白砂ばかりの平地に見えていたのが、今は処々に高く低く、枯れ草を生やした空地となって、そのまん中に、いつの間にか一枚も残らず葉を振い落した五六本のきりの木が、星の光りを仰ぎつつ妙な枝ぶりを躍らしている。
「……不思議だ……」
 と独語ひとりごとらしつつ頭に手をって見ると……又も不思議……今朝からが感じていた奇怪な頭の痛みは、どこを探しても撫でまわしてもない。ぬぐいて取ったように消え失せていた。
 はその痛みの行衛ゆくえを探すかのように、片手で頭を押えたまま、黄色い光線と、黒い陰影かげ沈黙しじまを作っている部屋の中を見まわした。そうして又、白金色プラチナえ返っている窓の外の月光を見た……。
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 ……その時であった……。
 ……一切の真相が、氷のように透きとおって、の前に立ち並んで見えて来たのは……。
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……不思議ではない。
……チットモ不思議ではない。
……今朝けさから二重の幻覚に陥っていたのだ。正木博士の所謂いわゆる離魂病りこんびょうにかかっていたのだ。
……は今から一箇月前の十月二十日にも、やはり、きょうとソックリの夢遊を行ったに違いないのであった。
……その一箇月前の十月二十日の早朝の、やはりまだ真暗まっくらいうちのこと……の七号室のタタキの上に、今朝の通りの姿で寝ていて、今朝の通りの状態で眼を見開いたのであった。自分の名前を探すべくウロタエまわったのであった。
それから……若林博士に会って、の過去の記憶を回復すべく、今朝の通りの実験を色々と受けた揚句あげくに、このへやに連れ込まれて、やはり今朝と同じ順序で、いろんな物を見たり聞いたりしたのであった。
……それから遺言書を読み終ったは間もなく、その遺言書を書いた当の本人の正木博士に会って、きょうの通りに肝をつぶした。そうしてその正木博士の案内で、南側の窓の外を覗くと、その前日限りに閉鎖されたまんまの解放治療場内の光景を見ると同時には、自分の過去の記憶の中でも、一番最近の記憶に支配された夢中遊行むちゅうゆうこうに陥って、やはりその前日のちょうど、その時刻に、そこで、そうしていた通りに、爺さんの畠打はたうちを見物している自分の姿を窓の外に幻覚した。そうして、それと同時に、やはり、その前の晩に、頭を壁に打ち付けた際に出来た頭の痛みを、無意識に手に触れて飛び上ったのであった。
……その時に正木博士は、やはり、今日と同じように離魂病りこんびょうの説明を聴かしてくれたのであるが、その説明は矢張やはり真実であったのだ。
……とはいえ……その時に、あまりに深い幻覚にとらわれていたために、それを信ずる事が出来なかったは、それから正木博士と対座して、あの通りの議論をした揚句に、正木博士をメチャクチャにっ付けてしまった。トウトウ本当に自殺の決心をさせてしまったのであった。
……けれどもは、そんな事とは気付かないままこのへやに居残って、この絵巻物の一番おしまいに書いてある千世子の和歌を発見した。そうして今日の通りに驚いて外に飛び出して、福岡の町々を歩きまわっているうちにこのへやに拡げたままにして来た絵巻物の事を思い出して、又も、きょうの通りに無我夢中で飛んで帰ったのであった。……もしかすると正木博士は、後で今一度このへやに引返して来て、拡げたままの絵巻物のおしまいに書いてある千世子の和歌を発見したのかも知れない。そうして、そこでイヨイヨの覚悟を決めたのかも知れないけれども…………。
……そうした出来事を一箇月後の今日になって、は又、その通りの暗示の下に、寸分たがわず正確に繰り返しつつ夢遊して来たに過ぎないのだ。……否……事によると、今朝あんなに早く、時計の音に眼をました事からして一種の暗示に支配されていたのかも知れない……若林博士がホンノ思い付きで言った「一箇月後」という言葉をその通りに記憶していたの潜在意識が、その一箇月後の今朝になってキッカリとを呼びましてくれたのかも知れない……が……いずれにしても今日の午前中、が色んな書類を夢中になって読んでいるうちに、若林博士がコッソリと立ち去った後にはこのへやの中に誰も居なかったのだ。正木博士も、禿頭はげあたまの小使も、カステラも、お茶も、絵巻物も、調査書類も、葉巻の煙も何もかも、みんなの一箇月前の記憶の再現に過ぎないのだ。たった一人で夢遊中の夢遊を繰返していたに過ぎなかったのだ。
……の頭は、そこまで回復して来たまま、同じ処ばかりをグルグルまわっているのだ。
……そうでないと思おうとしても、そうした不思議な事実の証拠の数々が、現在、生き生きとの眼の前に展開して、に迫って来るのをどうしよう。ほかに解決のし方がないのをどうしよう……。
……若林博士は、そうしたの頭を実験するために、一箇月前と同じ手順を繰り返しつつ、をこのへやに連れ込んだものに違いない。そうして多分一箇月ぜんもそうしたであろう通りに、どこからかを監視していて、の夢遊状態の一挙一動を細大らさず記録しているに違いない……否々……否々……きょうは、大正十五年の十一月二十日、と言った若林博士の言葉までもうそだとすれば、はもっともっと前から……ホントウの「大正十五年の十月二十日」以来、何度も何度も数限りなく、同じ夢遊状態を繰り返させられている事になるではないか……そうしてその一挙一動を記録に残されている事になるではないか……
……オオ……若林博士こそ世にも恐ろしい学術の権化ごんげなのだ。……精神科学の実験と、法医学の研究とを同時に行っている……。
……極悪人と名探偵とを兼ねている……。
……正木博士と、呉家の運命と、福岡県司法当局と、九大の名誉と……この事件に関する出来事の一切合財をタッタ一人で人知れず支配し、翻弄している……。
……そうして知らん顔をしている怪魔人…………。
 は言い知れぬ戦慄が、全身の皮膚を暴風のように這いまわり、駆けめぐるのを感じ初めた。
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歯の一枚一枚がカチカチと打ち合うのを止める事が出来なくなった。……部屋の中の全体がどことなく、大きく開いた若林博士の口腔の格好に似て来たように思いつつ……そのまん中に突立って、煽風機せんぷうきのように回転する自分の頭の中を、眼の奥底に凝視しつつ…………。
……けれども……。
……けれども、もしそうとすれば、は是非とも呉一郎 でなければならぬ…………。
……お……オオ……が……アノ呉一郎 …………。
……あの正木博士がの父親……。
……あの千世子の母親……。
……そうしてアノ狂える美少女……モヨ子…………モヨ子は…………。
……おお……おお…………。
……は親を呪い、恋人を呪い、最後に見ずらずの男女数名の生命いのちまでも奪うべく運命づけられた、希有けうの狂青年であったのか…………。
……死んだ父親の罪悪を、白昼公然とあばき立てている、冷酷無残な精神病者であったのか……。
「アアッ……お父オさア――ン……お母アさ――ン……」
 と叫んだが、その声は自分の耳には入らなかった。ただあざけるような反響をへやの隅々に聞いただけであった。
 はそのまま下あご固張こわばらせつつ、森閑しんかんとゆらめく電灯の光りを振り返った。大きな嘆息たんそくをした後のように静まり返っているへやの中を見まわした。
 ……意識の力はどこまでもハッキリしたまま……うつつともなく、夢ともなく、の眼の前の床が向うの方に傾くにつれて、半分なかば開いた入口の方向を眼指めざしつつ蹌踉ひょろひょろ【ふらふらとよろけるさま】と歩み出した。
「出入厳禁」と書かれた白紙をドアの外から振り返った。
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 ……しっかりせねばならぬ……どこまでも理性を働かせねばならぬ……と思いつつ白い月の光りがさし込んでいる窓付きの廊下を、右に左に傾き歩いた。
 玄関の左右に並んだ真暗な階段の左側を、棒のように強直ごうちょくしつつ……ゴト――ン……ゴト――ン……という自分の足音を聞きつつ……一段一段と降りて行った。そのおしまいがけに、もう床に行き着いたと思うと、の足は空を踏んで、全身が軽々とモンドリを打った……ように思う。
 それからはどうして起き上ったか、どこをどう歩いて行ったかわからない。いつの間にか自然と七号室のドアの前に来て、石像のように突立っている自身を発見した。
 は何かしら思い出せない事を、一所懸命に考え詰めた揚句あげくに、思い切ってその扉を開いて中に入った。今朝けさのままになっている寝台の上に、靴穿きのまま這い上って、仰向けにドタリと寝た。その頭の処で、扉がひとりでに閉まって来て重々しい陰鬱な反響を部屋の内外にとどろかした。
 ……すると、それとほとんど同時に、混凝土コンクリートの厚い壁を隔てた隣りの六号室から、魂切たまぎるような甲高かんだかい女の声が起った。
「兄さん 兄さん……兄さんに会わして下さい。今お帰りになったようです。あのドアの音がそうです。兄さんに会わして下さい……イイエ イイエ……あたし狂女きちがいじゃありません……兄さんの妹です。妹です 妹です……兄さん 兄さん。
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返事して頂戴……あたしです あたしです あたしです あたしです」
……これが胎児の夢なんだ……。
……とは眼を一パイに見開いたまま寝台の上に仰臥ぎょうが【仰向けで寝た状態】して考えた。
……何もかもが胎児の夢なんだ……あの少女の叫び声も……この暗い天井も……あの窓の日の光も……否々……今日中の出来事はみんなそうなんだ……。
……俺はまだ母親の胎内に居るのだ。こんな恐ろしい「胎児の夢」を見て藻掻もがき苦しんでいるのだ……。
……そうしてこれから生れ出ると同時に大勢の人をかたぱしから呪い殺そうとしているのだ……。
……しかしまだ誰も、そんな事は知らないのだ……ただ俺のモノスゴイ胎動を、母親が感じているだけなのだ。
 の寝ている横のコンクリートの壁を向側からたたく音がし初めた。
「……兄さん兄さん。一郎 兄さん。あなたはまだあたしを思い出さないのですか。あたしです あたしです……モヨ子ですよ……モヨ子ですよ。返事して下さい……返事して……」
 と二三度連続して叩いたと思うと、痛々しい泣声にかわって、何かの上にひれ伏した気はいである。
 は寝台の上に長々と仰臥ぎょうが【仰向けで寝た状態】したまま、死人のように息を詰めていた。眼ばかりを大きく見開いて…………………………………。
 ……ブ…………ンンンンン……
 という時計の音が、廊下の行き当りから聞えて来た。
 隣室となりの泣声がピッタリと止んだ。それにつれて又一つ……
 ……ブ――――ン……
 という音が聞えて来た。前よりもこころもち長いような……は一層大きく眼を見開いた。
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 ……ブ――――ン……
 ……という音につれての眼の前に、正木博士の骸骨がいこつみたような顔が、生汗なまあせをポタポタとらしながら鼻眼鏡をかけて出て来た……と思うと、目礼をするように眼を伏せて、力なくニッと笑いつつ消え失せた。
 ……ブ――――ン……
 おびただしい髪毛かみのけを振り乱しつつ、下唇を血だらけにした千世子の苦悶の表情が、ツイ鼻の先に現われたが、細ひもで首を締め上げられたまま、血走った眼を一パイに見開いて、の顔をよくよく見定めると、一所懸命で何か言おうとして唇をわななかす間もなく、悲し気に眼を閉じて涙をハラハラと流した。下唇をギリギリと噛んだまま見る見るうちに青褪あおざめて行くうちに、白い眼をすこしばかり見開いたと思うと、ガックリとあおむいた。
 ……ブ――――ン……
 少女浅田シノのグザグザになった後頭部が、黒い液体をドクドクと吐き出しながらうつむいて……。
 ……ブ――――ン……
 八代子の血まみれになった顔が、眼を引き釣らして……。
 ……ブ――ンブ――ンブ――ンブ――ンブ――ン……
 ほおを破られたイガ栗頭が……眉間みけんを砕かれたお垂髪さげの娘が……前額部の皮を引きがれたひげだらけの顔が……。
 は両手で顔をおおうた。そのまま寝台から飛び降りた。……一直線に駆け出した。
 するとの前額部が、何かしら固いものに衝突ぶっつかって眼の前がパッと明るくなった。……と思うと又たちまち真暗になった。
 その瞬間にとソックリの顔が、頭髪かみのけと鬚を蓬々ぼうぼうとさしてくぼんだをギラギラと輝やかしながら眼の前のやみの中に浮き出した。そうしてと顔を合わせると、たちまあかい大きな口を開いて、カラカラと笑った……が……
「……アッ……呉青秀……」
 とが叫ぶ間もなく、き消すように見えなくなってしまった。
 ……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。
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底本:「夢野久作全集9」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年4月22日第1刷発行
   2002(平成14)年9月5日第4刷発行
初出:「ドグラ・マグラ」松柏館書店
   1935(昭和10)年1月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※このファイル中で注記している最大の文字は「6段階大きな文字」です。6段階大きな文字は、高さと幅が本文で使われている文字の2倍強程度の大きさです。
なお、文字の大きさの注記は、論文のタイトルや新聞の見出しを想定している箇所など、文字が本文より特に大きい箇所のみにつけました。
※「キチガイ地獄外道|祭文《さいもん》」「十」の葉書中、切手を貼る位置を示す罫は、底本では波線です。
入力:砂場清隆
校正:ドグラマグラを世に出す会
2007年11月29日作成
2011年5月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました.入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
----- (以下、シン文庫 追記) -----
関係者の皆様、大変ありがとうございました。感謝致します。

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