序
特にすることもなく、手持ちぶさたなまま一日中、
硯に向かって、心に浮かんでは消えていく とりとめのないことを、まとまりもなく書きつけていると、なんだか妙に気がおかしくなってくるものだ。
一
さてさて、この世に生まれたからには、願わしく思うべきことが たくさんあるようだ。天皇の御位は、本当におそれ多く尊い。その血筋を引く方々は、竹の皇族の末端に至るまで、人間という種族を超越しているようで、まことに尊い。
摂政・
関白といった最高位の方々の様子は言うまでもなく、普通の貴族であっても、
舎人を
賜るような身分の方は、実に堂々として立派に見える。その子や孫の代になると、
零落してはいても、なお優雅な気品が残っているものだ。それより下の階層の人々は、それぞれの身分に応じて、時流に乗って得意顔をしているが、自分では「俺はすごいぞ」と思っていても、(高い境地から見れば)実に情けないものだ。
法師ほど、
羨ましくない存在は他にいないだろう。「人からは木の端くれ(役立たず)のように思われている」と
清少納言が『枕草子』に書いているが、本当にその通りである。権勢を振るって威張っている法師がいても、決して立派には見えない。
増賀上人が言ったように、名声を求めるのは苦しいだけであり、仏の教えにも背いているように思われる。(ただ、同じ法師でも)ひたすら世俗を離れて
隠遁している人は、かえって理想的で好ましいと思える部分もあるだろう。
人は、容姿や立ち振る舞いが優れているに越したことはない。何かちょっとした話をした時、聞き苦しくなく、愛嬌があって、言葉数が多すぎない人こそ、いつまでも向かい合っていたいと思われるものだ。
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立派だと思っていた人の、内面の劣った本性が見えてしまうのは、なんとも残念なことである。家柄や容姿は生まれつき決まっているものだが、心はどうして、
賢い手本を学んで より
賢い方向へと導くことが できないだろうか(いや、できるはずだ)。容姿も性格も良い人であっても、教養がなくなってしまうと、身分が低く、顔つきも
醜い人の中に混じって、取り立ててもらえず押しのけられてしまうのは、実にもったいないことである。
身につけておきたいことは、きちんとした学問であり、文章作成、和歌、そして音楽の道である。また、朝廷の儀式や先例に詳しく、人々の手本となるような人物であれば最高だ。文字をさらさらと見事に書き、歌声が素晴らしく リズム感もあり、誘われれば(あるいは自分から)それらをさりげなく披露する。また、
下戸ではない、というのが 男としては理想的である。
二
昔の
聖人が治めた立派な政治を忘れ、民衆の苦しみや国が衰退していくことにも気づかず、あらゆることに
贅沢の限りを尽くして「自分は素晴らしい」と思い込み、領域を支配して威張っている人は、嘆かわしいように見える。「衣服や
冠から、乗る馬、車に至るまで、身の丈に合ったものを用いなさい。豪華さを求めてはならない」と、九条殿(
藤原師輔)の遺言にもある。また、
順徳院が宮中の作法についてお書きになったもの(
禁秘御抄)にも、「公の場で身につけるものは、少し控えめで質素なくらいが良い」とある。
三
あらゆる点において優れていて立派であっても、恋愛に興味を持たない(色気のない)男というのは、ひどく物足りなく、例えるなら「底のない玉の
杯」(肝心なものが抜け落ちている)のような虚しい心地がするものだ。
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夜
露や
霜に濡れてぐっしょりになり、あてもなく(恋人のもとへ)迷い歩き、親の小言や世間の噂を気にして一息つく
暇もなく、あちらを立てれば こちらが立たずと悩み乱れる。しかも、それほど苦労しているのに、結局は(会えずじまいで)独り寝をすることが多く、悶々として眠れない夜を過ごす……それこそが、実に風情があって素晴らしいのだ。
そうはいっても、ただ一途にだらしなく
浮ついている(女好きである)というのではなく、女性から「一筋縄ではいかない、容易には心を許さない」と思われるような男であることこそが、理想的なあり方というものだ。
四
死後のこと(来世の
安寧)を常に心にかけ、仏の道に
疎くない(信仰心や哲学を持っている)様子は、奥ゆかしく、深い魅力を感じさせるものだ。
五
不幸に見舞われて悲しみに沈んでいる人が、いきなり
出家するなどと 極端な決心をするのではなく、生きているのか 死んでいるのか 分からないほどに、ひっそりと門を閉ざし、誰を待つこともなく 日を明かし 暮らしている……そんな様子こそ、遠くから見ていても理想的で、心
惹かれるものだ。
顕基中納言(
源顕基)が言ったという、「流罪の地で眺める月を、何の罪も犯していない身で(自由な立場で)見てみたいものだ」という言葉。それは、本当にその通りだとしみじみ感じられる。(たとえば同じ景色でも、気がかりがあると楽しめないし、気持ちが晴れていると素直に美しいと感じられる、という意味)
六
自分の身分が高貴である場合でも、ましてや(
私のように)取るに足りない身分であるならば なおさら、子供というものは 持たないほうが良い。
前
中書王(
具平親王)、苦情
太政大臣(
藤原良経)、花園左大臣(
源有仁)は、みな一族が途絶えてしまうことを願われた。
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染殿大臣(
藤原良房)も、「子孫がいらっしゃらないのが 良いのです。末裔が(先祖に)劣って見劣りするのは、実に良くないことです」と、『大鏡(
世継の翁の物語)』の中で言っている。聖徳太子が、ご自身の墓をあらかじめ造らせていた時も、「ここを切れ、あそこを断て。(家系のつながりを断ち切って)子孫を残すつもりはない」とおっしゃったということだ。(自分の死後の
名残や、家の存続に執着しないことを意味)
七
あだし野の
露が消えることがなく、
鳥部山の(火葬の)煙が立ちのぼり続けることもなく、人がこの世に永遠に生き続ける習わしであったなら、どれほど情緒(もののあわれ)もなくなってしまうことだろう。この世は、無常(定まっていないこと)であるからこそ、素晴らしいのだ。
生きているものを見渡すと、人間ほど寿命が長いものはない。
陽炎は夕方を待たずに死に、夏の蝉は春秋という季節すら知らずに一生を終える。そんな短命な生き物だっているのだ。つくづくと(落ち着いて)一年を過ごすだけでも、この上なく のどかで 長く感じられるものだ。もし「満足できない、命が惜しい」と思い始めたら、たとえ千年生きたとしても、終わってみれば 一夜の夢のような心地がするだろう。永遠に生きられるわけではないこの世で、老いて
醜くなった姿をさらしてまで、一体何をしようというのか。「命長ければ恥多し」という言葉もある。長く生きるとしても、
四十歳に届かないくらいで死ぬのが、見栄えもよくて適当だろう。その年齢を過ぎてしまうと、自分の容姿の衰えを恥じる心もなくなり、人混みの中に平気で出て行こうとし、人生の晩年になって(執着の象徴である)子孫を可愛がり、彼らが繁栄する末路を見届けようと 長生きを願い、ただただ 現世への欲ばかりが深くなって、物の風情(もののあわれ)も
解さない人間になっていく。それは実にあさましいことだ。
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八
人の心を惑わすもので、色欲(男女の情欲)に及ぶものはない。人の心というものは、実におろかなものだなあ。香りなどは、ほんの一時的な偽りものに過ぎないのに、しばらくの間、衣装に(人工的な)香を
焚き染めているだけだ と分かっていながら、なんとも言えない良い香りがすると、男は必ず胸をときめかせて しまうものだ。(かつて飛行の術を持っていた)
久米の仙人が、川で洗濯をしている女の ふくらはぎの白さを見て、神通力を失って(空から落ちて)しまったというのは、本当に納得がいく。手足や肌などが清らかで美しく、肉付きがよくて艶やかであるのは、作り物の色(化粧や衣装)ではなく 本物の肉体なのだから、仙人が理性を失ったのも無理のないことだ。
九
女というものは、髪が美しくて立派であるのが、一番人目に立ち、魅力的に見えるようだ。その人の身分や性格などは、物越しに言葉を交わした時の様子で 自然と分かるものである。何かの折に、ふとした何気ない振る舞いで 男の心を惑わし、およそ女というものが、ぐっすりと油断した寝顔も見せず、(恋のためなら)自分の身を大切にしようとも思わず、到底耐えられそうにない 無理なことでも じっと耐え忍ぶのは、ただひとえに「恋心」のためである。
本当に、男女が互いに
惹かれ合い、執着する「
愛着の道」というものは、その根が深く、源も遠く(はるか古くから続いていて)底知れないものである。人間の五感や意識を惑わす「
六塵」の煩悩による欲望はたくさんあるけれども、それらはすべて(修行や悟りによって)嫌い離れることができるはずだ。しかし、その数ある煩悩の中でも、ただあの一筋縄ではいかない「色恋の迷い」だけは、断ち切ることが難しい。老人も若者も、知恵のある者も愚かな者も、これに関しては全く変わりがないように見受けられる。
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だからこそ、「女の髪の毛をより合わせた綱には、巨大な象も(その力に引かれて)しっかりと
繋ぎとめられてしまい、女が履く
足駄を削って作った笛を吹けば、秋の鹿が(その音に誘われて)必ず寄ってくる」と言い伝えられている。自らを
戒めて、恐れ、慎重に避けなければ ならないのは、まさにこの(色欲という)迷いなのである。
一〇
住まいは、その人にふさわしく、しっくりしているのが望ましい。仮の住まいだとは思っていても、そこに
趣が生まれるものだ。。教養があり品格のある人が、ゆったりと落ち着いて住んでいる所は、差し込んでくる月の光までもが、一段としみじみと感じられるものである。最新の流行を取り入れた豪華な造りではないけれど、木立がどこか古びていて、ことさら手入れをしたわけではない 庭の草も
趣深い。また、縁側や透かし垣の配置が工夫されていて、さりげなく置かれた調度品も 古風で落ち着いていて、奥ゆかしく感じられる。多くの職人が知恵を絞って磨き上げ、中国産や和製の、珍しく言いようもなく立派な家具を並べ立て、庭の草木までも自然のままではなく(人工的に)作り変えているのは、見るからに不快で、実にやりきれない。「そんな家で、いつまでも長生きして住めるわけでも あるまいに。どうせすぐに(火事などで)一時の煙となって 消えてしまうだろうに」と、ちょっと見ただけで 思わずには いられない。およそ、その人がどのような人間であるかは、住まいの様子によって 推し量ることができるものだ。
後徳大寺大臣(藤原
実定)が、
寝殿の屋根に
鳶が止まらないようにと 縄を張られたのを、西行が見て、「
鳶が止まっているからといって、一体何の不都合があるというのだ。この殿下のお心は、その程度の(器の小さい)ものだったのだな」と言って、その後は訪問しなくなったと聞いております。
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そんな折、
綾小路宮がいらっしゃる
小坂殿の屋根に、いつだったか縄を引いてあったので、あの大臣の例を思い出し、「もしや(宮も器が小さいのだろうか)」と思っておりましたところ、実は「烏が群がって、池の
蛙を捕まえていたのを、宮が御覧になってお悲しみになられたから(縄を張ったのだ)」と人が語ったのを聞き、それならば実に見事な(慈悲深い)お心遣いだと 感じ入ったことでした。(そう思うと、西行に批判された)徳大寺の大臣にも、もしかしたら何か深い理由が あったのかもしれません。
一一
十月(神無月:現代の10月下旬〜12月上旬頃)のころ、
栗栖野という所を通り過ぎて、ある山里を訪ねて 分け入ったことがありましたが、はるか遠くまで続く
苔の細道を踏み分けていくと、いかにも心細げな(ひっそりとした)佇まいの
庵がありました。(積もった)木の葉に埋もれている
筧から滴り落ちる水の音以外には、全く音を立てるものも(訪ねてくるものも)ありません。仏に供える水を置く棚に、菊や紅葉などが無造作に折って供えてあるのは、やはりここに住む人が いるからなのでしょう。
「こんな風(に世俗を離れて)暮らしていくことも できるのだなあ」としみじみ感動して眺めていたところ、向こうの庭に、大きな
柑子(みかんの一種)の木で、枝もたわわに実がなっているのがあったのだが、その周りを厳重に柵で囲っていた。それを見た途端、少し興ざめしてしまい、「せめてこの木さえなかったならば(どれほど素晴らしかっただろうに)」と思われたのであった。
一二
自分と同じ価値観や感性を持つ人と、しんみりと語り合って、興味深いことも、この世の虚しさも、心隔てなく話し合って
慰め合えたなら、どんなに嬉しいことだろう。しかし、実際にはそんな(完璧に心を通わせられる)相手など いるはずもない。
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だからといって、相手が自分の意見に少しも逆らわずに(顔色をうかがって)向かい合っているとしたら、それは結局、一人でいるのと同じような 寂しい心地がするだろう。
お互いに言おうとする言葉を、「本当にその通りだ」と語り合う甲斐がある一方で、少しばかり意見が違うところも あるような人こそ、「自分はそうは思わない」などと言い争ったり、「そういう理由だから、こうなのだ」などと
説き合ったりすれば、(手持ち無沙汰な)退屈も紛れるだろうと思うのだが。しかし実際には、自分と(教養や価値観が)等しくないような人とは、世間並みの たわいもない話をしている間は いいだろうけれど、すこし不満を聞いてもらいたいときや、真面目な話をする相手としては、どうしても大きな隔たりがあり、それは実につらく寂しいことだ。
一三
たった一人、
灯火のそばで書物を広げて、見知らぬ遠い時代の(亡き)人々を友とすることこそ、この上なく心が安らぐことである。
書物としては、『
文選』の中のしみじみと
趣深い巻々や、『
白氏文集』、『
老子』の言葉、そして『
荘子』。我が国(日本)の学者たちが書いたものも、昔の人の書いたものは、情緒豊かなことが多い。
一四
和歌こそは、やはり(何といっても)
趣深いものである。
卑しい身分の、山里に住む粗末な男の様子も、その
労働も、歌に
詠み上げれば
趣き深く感じられ、恐ろしい
猪であっても、「伏し猪の床(イノシシが伏せて寝る場所)」などと
詠めば、優雅で上品なものになってしまう。
最近の歌は、一箇所くらいは上手く言い当てている と思えるものはあるけれど、古い歌のように、どういうわけか、言葉に表れた以上の深い
趣や、情景が立ち昇ってくるようなものは(一つも)ない。
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紀貫之の「
糸による物ならなくに(糸を
撚ったものではないのに(=物理的に細いわけではないのに)、別れ道は心細く感じられる)」という歌は、『
古今和歌集』の中の「歌
屑(カスのような駄作)」だと(専門家の間で)言い伝えられているそうだが、
私には今の世の人が 到底
詠めるような内容とは思えない。あの時代の歌には、その姿も言葉も、この歌と同じようなレベルのものが 実に多いのだ。この歌だけが特に「駄作」と決めつけられている理由は、理解しがたい。ちなみに『源氏物語』には(この歌が引用されて)「物とはなしに(特別な理由があるわけでもないのに)」と書いてある。また、『新古今和歌集』では、(
藤原家隆の)「残る松さへ峰にさびしき(秋の夕暮れは、生き残った松までもが峰に寂しく立っている)」という歌が(技巧的すぎると)言われているそうだが、なるほど確かに、少し品格が崩れた(技巧に走りすぎた)姿にも見えるかもしれない。しかし、この歌も(選考のための)衆議判(会議)の時には「よろしい」と判定され、後にも(
後鳥羽上皇から)格別なお
褒めの言葉があったことが、
源家長の日記には書かれている。
「和歌の道だけは、昔から変わっていない」などと言うこともあるけれど、はたしてどうだろうか。今の人も
詠み合っている同じ言葉や歌枕(名所)であっても、昔の人が
詠んだものは、今のものとは全く別物である。無理がなく素直で、調べも清らかで美しく、風情(あわれ)も深く感じられる。また、『
梁塵秘抄』に収められている今様の歌謡の言葉こそ、これもしみじみと
趣深いものが多いようだ。昔の人は、ただ、何気なく言い捨てたような言葉であっても、すべてが素晴らしく(格調高く)聞こえるものである。
一五
どこであっても、少しの間でも、旅に出るというのは、目が覚める(リフレッシュする)ような心地がする。
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その旅先のあちこちを見歩くと、田舎びた所や山里などは、見慣れない珍しいことばかりが多い。(そんな場所から)都へついでを求めて手紙を送る。「あの事やこの事、ついでに忘れないでくれ」などと(日常の用事を)書き送るのも、また
趣がある。そのような(旅先の)場所でこそ、あらゆることに心が動かされるものだ。持っている道具まで、良いものはより良く見え、才能のある人や容姿の美しい人も、普段よりいっそう素晴らしく見えるものだ。寺や神社などに、人目を忍んで
参籠しているのも、また
趣深い。
一六
神楽は、優雅で、奥ゆかしく
趣がある。
およそ、楽器の音色としては、笛(横笛)や
篳篥が良い。
(一方で、特別な時だけでなく)常に聞いていたいと思うのは、琵琶や
和琴である。
一七
山寺にひっそりと閉じこもって、仏にお
仕え(修行や勤行)していると、手持ち無沙汰で退屈することもなく、心の濁りも 澄み渡っていくような 心地がするものだ。
一八
人は自分自身を
謙虚で つつましくし、
贅沢を退けて財産を持たず、世俗の欲を むさぼらない ことこそ、素晴らしいことである。昔から、賢い人で富を築いた者は 稀である。中国の
許由という人は、身の回りに蓄えを一切持たず、水も手ですくって飲んでいた。それを見たある人が、「
生瓢(ひょうたんの器)」を贈ったところ、ある時、それを木の枝に掛けておいた。ところが、風に吹かれて鳴る音が うるさいと言って、捨ててしまった。そしてまた、手で水をすくって 飲んだということだ。その心の内は、一体どれほど清々しく 涼やかだったことだろうか。また、
孫晨という人は、冬の寒い月日に 掛け布団もなく、ただ一束の
藁があるだけで、夜にはこれに寝て、朝には片付けていた。
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中国の人は、こうした生き方を素晴らしいと思うからこそ、記録に留めて後世に伝えたのだろうが、今の(日本の)人たちに、こうした生き方を語り伝えても(到底理解されず、言うだけ無駄なことだ)。
一九
季節が移り変わっていく様子こそ、あらゆることにおいて、しみじみと
趣深いものだ。
「もののあわれ(風情)は、やはり秋が一番だ」と誰もが言うようだけれど、それも もっともなことではあるが、いっそう心が うきうきと落ち着かなく なるものは、春の景色であるようだ。鳥の声なども、格別にはっきりと春らしくなり、のどかな日差しの中で、垣根の草が
芽生え始めるころから、次第に春が深まって あたり一面が
霞みわたり、桜の花も ようやく咲きそうな 気配を見せるころなどは 最高だ。(ところが、そう思っていると)折悪しく雨や風が降り続いて、心穏やかでないうちに(花は)慌ただしく散り過ぎてしまう。そうして青葉に変わっていくまで、万事につけて、ただもう(花のことを心配して)心を悩ませるばかりだ。
橘(ミカン類の総称)の花は、その香りの素晴らしさで有名だけれど、やはり梅の香りに こそ、昔のことが昨日のことのように 恋しく思い出される。
山吹の清らかな様子や、藤の花のぼんやりと
霞んだような姿など、すべてにおいて(春は)未練がましく、思い捨てがたいことが多いものだ。
「(四月八日の)
釈迦の誕生日(
灌仏会)のころや、(五月の)
賀茂祭のころ、若葉が枝先に 涼しげに生い茂っていく時期こそ、この世の風情も、人への恋しさもいっそう募るものだ」と、ある方がおっしゃったが、本当にその通りである。五月、屋根に
菖蒲を
葺くころや、早苗を植えるころ、そして
クイナが 門を叩くような音を立てて 鳴くのを聞くときなど、どうして 心細く感じないことが あろうか。
11/136
六月のころ、
卑しい(粗末な)家の垣根に
夕顔の白い花が咲いていて、
蚊を追い払う火がくすぶっている様子も、しみじみと
趣深い。六月の末に行われる「
夏越の祓」も、また
趣がある。
七夕を(
祭壇をしつらえて)お
祀りするのは、優雅で奥ゆかしい。だんだんと夜の寒さが身にしみるようになり、
雁が鳴きながら渡ってくるころ、
萩の下の方の葉が色づき始めるころ、
早稲田を刈って干す様子など、(風情を誘うものを)あれこれ集めてみれば、やはり秋にこそ多いものだ。また、野分(台風)が吹き去った翌朝の景色こそ、格別に
趣がある。
(これまでの四季の描写を)言い続けていくと、すべて『源氏物語』や『枕草子』などで 言い古されてしまったこと ばかりだけれど、だからといって 同じことを今さら言わないでおこう というわけでもない。心に思っていることを言わないでいるのは、お腹がふくれる(苦しくてたまらなくなる)ような思いがするものだから、筆にまかせて、つまらない
慰みごととして書き散らしているのだ。どうせすぐに破り捨ててしまう はずのもの なのだから、他人が見るべき性質のものでもない。
さて、冬枯れの景色こそ、秋にはちっとも劣らないはずである。水際の草に紅葉が散ってとどまって、
霜がたいそう白く降りている朝、
遣水(庭に引き入れた小川)から(水温の差で)湯気が立ちのぼっている様子こそ、
趣がある。一年もすっかり暮れ果てて、誰もが(正月の準備に)急ぎ合っている時期は、またとないほど しみじみとした風情がある。
趣がなくて寂しく、それを楽しむ人もいない、空気が冷たく透明に澄みきった 二十日過ぎの月(美しい時期を過ぎた“衰えの月”)は、まことに寂しく感じられるものだ。(宮中での)
仏名会の行事や、伊勢神宮などへ供え物を届ける
荷前の使者が出発する様子などは、情緒があって尊い。
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朝廷の行事が次々と重なり、新春の準備も並行して慌ただしく行われている様子は、実に見事なものだ。(大晦日の)
追儺の儀式から、そのまま(元日の朝の)
四方拝へと続いていく流れこそ、興味深い。
大晦日の夜、ひどく暗い中で、(あちこちで)
松明を灯して、夜中が過ぎるまで人の家の門を叩き、走り回って、一体何事なのだろうか、物々しく騒ぎ立てて、地に足もつかない様子で慌ただしく動き回っているが、夜明け方ごろから、やはり(パタリと)音がしなくなったのこそ、去りゆく年の
名残が惜しまれて心細いものだ。(大晦日は)亡くなった人が帰ってくる夜だといって、先祖の霊を
祀る行事(魂まつり)は、最近の都では行われなくなってしまったが、坂東(関東地方)の方では 今でも行っているという ことであったのは、しみじみと心
惹かれることであった。
こうして明けていく元日の空の様子は、昨日(大晦日)と比べて急に何かが変わったようには見えないけれど、気分ががらりと変わって、すべてが新しく(新鮮に)感じられるものだ。大通りの様子も、門松がずっと立て並べられて、華やかで嬉しそうな雰囲気であるのは、またしみじみと良いものである。
二〇
どこかの誰と言っただろうか、ある
隠遁者が「(私は出家して)この世への執着を何も持たない身ではあるけれど、ただ、死にゆく際に この空の
名残(美しい景色との別れ)だけが惜しまれるのだ」と言ったそうだが、本当に、まったくその通りだと思われる。
二一
何事も、月を眺めることこそが(何より心を)
慰めてくれるものである。ある人が「月ほど
趣深いものは他にないだろう」と言ったところ、別の人が「いや、
露こそが(
儚く)しみじみとした風情があるのだ」と言い争っていたのは、面白い(興味深い)ことだ。
13/136
しかし、折に触れれば、どんなものであっても 風情がないものなどあろうか(いや、すべてに
趣はある)。月や花(の美しさ)は言うまでもないが、ただ「風(季節の気配・匂い・温度・音)」こそが、人の心をいっそう強く惹きつけるものだ。また、岩に砕けて清らかに流れる水の景色こそ、季節を問わず素晴らしいものである。「
沅湘の水の流れは、日夜、東へと流れ去っていく。悲しみに沈む人のために、一時もとどまることはない」という詩(『
和漢朗詠集』所収)を見たときは、本当にしみじみと心を打たれた。
嵆康も「山や沢で遊び、魚や鳥を見れば、心が楽しむ」と言っている。人里離れて、水や草が清らかな所をさまよい歩くことほど、心が
慰められることは他にないだろう。
二二
どんなことであっても、昔の時代の様子こそが
慕わしく感じられる。最近の流行は、むやみやたらに、ただ
卑しく(品がなく)なっていく一方であるようだ。あの木工(建築や工芸)の職人が造る、見事な器物にしても、古い時代の形(古代の姿)こそが
趣深く見えるものである。
手紙の言葉遣いなども、昔の書き損じの紙などを見ると、実に素晴らしい。それが今では、普段使う言葉も、だんだんと残念な(品のない)感じになっていくようだ。「昔は、
牛車の前を持ち上げるのを『もたげよ』と言い、灯明の火を明るくするのを『かかげよ』と言ったものだが、今の時代の人は『もてあげよ』『かきあげよ』と言う。また、
主殿寮(殿中の清掃などを司る役所)の役人を並ばせることを『人数(ひとかず)立て』と言うべきところを、『たちあかし白くせよ(明かりを灯して白くせよ)』と言い、
最勝講(宮中の仏教行事)の御聴聞所(お聞きになる場所)を『
御講の
廬』と言ったものを、(縮めて)『こうろ』などと言うのは、情けないことだ」と、ある古老はおっしゃっていた。
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二三
(今はもう)衰退してしまった末の世である とはいっても、やはり宮中の神々しく、古風な
趣を保っている様子こそ、俗世離れしていて、この上なく素晴らしいものである。
露台、
朝餉の間の、何々殿、何々門といった(宮中の立派な)名称は、いかにも素晴らしいと 感じられるのは当然だが、なんてことのない場所にもありそうな
小蔀、
小板敷、
高遣戸なども、(宮中にあるというだけで)実に素晴らしく聞こえるものだ。「
陳に夜の設けせよ(
御簾を上げて、夜の寝る準備をしなさい)」と言う(独特の言い回し)などは、実にかっこいい。
夜御殿の明かりを灯すのを、「かい ともし とうよ(火を灯せ)」などと言うのも、また素晴らしい。
上卿(高官)が詰所で政務を執り行っている様子は 言うまでもないが、各官庁の下役人たちが、いかにも心得た顔つきで(宮中の作法に)慣れている様子も興味深い。あれほど寒い夜に、一晩中あちこちで居眠りしている姿さえ、
趣がある。「
内侍所(
賢所)の御鈴の音は、実に尊く優雅なものである」と、徳大寺太政大臣(
実基)はおっしゃっていた。
二四
(未婚の
内親王が伊勢神宮へ向かう前に)
野宮に
籠もっていらっしゃる様子こそ、優雅で
趣深いことの極みであると 感じられたものだ。(そこでは神聖な場所を汚さないよう、仏教用語を避ける「忌み言葉」の習慣があり、)「経」を「
中子」、「仏」を「
染紙」などと言い換えているのも、また
趣がある。
総じて、神の
社というものは、どれも捨てがたく、優雅で奥ゆかしいものであるなあ。古びた森の様子も ただならぬ雰囲気であるのに、その周りに
玉垣をずっとめぐらし、
榊に木綿を掛け垂らしている様子などは、実に見事ではないか。格別に
趣があるのは、伊勢、賀茂、春日、平野、住吉、三輪、貴布禰、吉田、大原野、松尾、梅宮である。
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二五
(昨日の淵が今日は瀬になるという)飛鳥川の淵や瀬が一定でないように、無常なこの世であるから、時は移り、事態は去り、楽しみや悲しみも やって来ては過ぎ去っていく。かつて華やかだった場所も、今は誰も住まない野原となり、(形だけは)変わらない家であっても、住む人は入れ替わってしまった。(庭の)桃や
李の木は 何も語らないので、一体誰と ともに昔のことを語り合えばよいのだろうか。ましてや、自分が見たこともない遠い昔の、立派だったという(宮殿などの)跡は、ただただ
儚く感じられるばかりだ。
京極殿や
法成寺などの(今の荒れ果てた)様子を見るのは、かつての志がとどまりつつも、事態がすっかり変わってしまった有様が しみじみと悲しいものだ。
御堂殿(
藤原道長)が精魂込めて造り上げ、多くの荘園を寄進し、自分の親族だけが天皇の後見役となり、世を支える者として、末永く繁栄するようにと 思い定めていらっしゃったとき、一体どのような世が来ようとも、これほど(無残に)壊れてしまうとは お思いになっただろうか。大門や金堂などは(鎌倉時代の)近いころまで残っていたが、
正和( 1312年)のころに南門は焼けてしまった。金堂はその後に倒れたままで、再建する動きもない。ただ
無量寿院だけが、かつての面影を残している。
丈六(約4.85m)の九体の阿弥陀如来像が、たいそう尊い姿で並んでいらっしゃる。行成大納言(
藤原行成)が書いた額の文字、
藤原兼行が書いた扉の文字が、今もはっきりと鮮やかに見えるのは、しみじみと心に染みるものだ。。
法華堂などもまだ残っているようだが、これもまた いつまで持ちこたえるだろうか。これほどの(仏像などの)
名残さえない場所は、たまに
礎だけが残っていることもあるが、それが何の跡か 正確に知っている人もいない。
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だからこそ、何事においても、自分が見ることもない 遠い未来のことまで 計画を立てておくようなことは、実に虚しいことなのだ。
二六
風が吹きすぎるのを待つ間もなく、色あせてしまう人の心という花。その心と親しみ、慣れ親しんできた年月を思うと、(かつて)「なるほど(その通りだ)」と深く共感して聞いた言葉の一つひとつが 忘れられないだけに、相手が(生きながらにして)自分とは 無縁の世界の人になっていく 世の常こそ、死に別れた人との別離よりも、いっそう悲しいものである。
だからこそ、真っ白な糸が(何色にでも)染まってしまうことを悲しみ、分かれ道でどちらへ行くべきか 迷うことを嘆く人もいたのだろう。(そんな心の移ろいを
詠んだ)『堀河院御時百首和歌(
堀河百首)』の中の歌に……
昔見し 妹が垣根は 荒れにけり
つばなまじりの すみれのみして
【訳】
(かつて目を楽しませてくれた花々も消え去り、今はただ)つばな(茅花)が混じって生い茂る中に、すみれの花だけが(ひっそりと)咲いているばかりで。
(その和歌に
詠まれたような)寂しい光景というものは、本当にあったことなのだろうなあ。
二七
(天皇が位を譲られる)
譲国の
節会が行われて、
三種の神器が(新天皇のもとへ)移し
奉られる時こそ、この上なく寂しく感じられるものだ。
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新院が(天皇の位を)お降りになって初めての春、お
詠みになったとかいう(歌に)……
殿守の とものみやつこ よそにして
掃はぬ庭に 花ぞ散りしく
【訳】
誰も掃き清めることのないこの庭には、ただただ(主を失ったかのように)桜の花が散り敷いていることだよ。
今の世の(新体制の)雑多な用事に紛れて、院(譲位されたばかりの上皇)の御所へ参上する人もいないのは、実に寂しそうな様子である。このような(相手が権力を失った)時にこそ、その人の本当の心が、はっきりと現れてしまうものだ。
二八
(先帝を亡くし、喪に服す)
諒闇の年ほど、しみじみと悲しく(あわれに)感じられる時期はあるまい。
(新天皇が喪に
籠もる)
椅廬の御所の様子などは、板敷を低く下げ、
葦の
御簾をかけている。布製の
帽額(幕の上部の横布)も粗末に作られ、調度品なども質素に整えられて、人々の装束から太刀、
平緒(帯)にいたるまで、普段とは異なる(質素で無彩色な)様子なのは、実におごそかで、身が引き締まる思いがする。
二九
(これらすべてのことを)静かに思い返してみれば、何事につけても、過ぎ去ってしまった過去のことが恋しく、懐かしくてならない。その切なさは、どうしようもない ほどである。
世の中の物音が静まったあと、長い夜のつれづれに、何ということもない 身の回りの道具を整理し、(自分が死んだ後に)残したくないと思う 古紙などを破り捨てている最中に、亡き人が習字をしたものや、何気なく描き散らした 絵を見つけたりした時は、まさにその当時の記憶が、そのままの感覚で
蘇ってくるものだ。(亡くなった人だけでなく)今も生きている人の手紙でさえ、月日が経ってから読み返し、「これはどのような折、いつの年だったろうか」
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と思いを馳せるのは、しみじみと切ないものである。(持ち主は変わったり 死んだりしたのに)使い慣れた道具などだけが、昔と変わらぬ姿で 長く残り続けているのは、本当に かえすがえすも悲しい。
三〇
人が亡くなったあとの時期ほど、悲しいものはない。
中陰(四十九日までの間)のほど、山里の寺などに場所を移し、不便で狭い所に大勢が一緒に閉じこもって、死後の供養などをあれこれと 忙しく営んでいるのは、心落ち着かないものだ。そうしているうちに 日数が早く過ぎていくのは、他に例えようがないほど(呆気ないもの)だ。四十九日の
満中陰(
忌明け)の日は、本当になんとも情けなく感じられる。互いに言葉を交わすこともなく、誰もが自分のことのように 手際よく自分の荷物をまとめ、散り散りに別れて帰っていく。(人々が去り)もとの家に戻ってからこそ、さらに悲しいことが 数多くあるはずだ。(そんな中で親戚などが)「これこれの事は、決して故人の後のために
忌むべきことだそうですよ」などと(迷信めいたことを)言っているのは、この期に及んで何を言っているのかと、人間の心というものは、やはり嫌なものだと 感じられてしまう。
年月が経っても、少しも忘れてしまうわけでは ないけれど、「去る者は日々に
疎し(亡くなった人は 日を追うごとに 記憶が薄れていく)」という言葉の通り、そうは言っても、亡くなった直後の あの切実な悲しみほどには 感じられなくなって いくのだろうか、何ということもない雑談をして、ふと笑い合ったりも するようになる。
亡骸は、人里離れた気味の悪い山の中に納めて、決まった命日などにだけ お参りして見れば、ほどなくして
卒塔婆も
苔むし、落ち葉が降り積もって 埋もれてしまい、夕方に吹きつける嵐や、夜を照らす月だけが、亡き人に語りかける 唯一の手がかりとなっていくのである。
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(故人を)思い出して懐かしむ人が 生きている間こそ(まだ救いも)あろうが、その人もやがて亡くなり、噂に聞くだけの 後の世代の人たちが、どうして(会ったこともない故人を)しみじみと尊く思うだろうか。いや、思いはしない。そうなると、墓を弔う行事も 絶えてしまうので、一体誰の墓なのか 名前さえ分からなくなり、ただ毎年萌え出る 春の草だけが、(故人の末路を察する)心ある人には 哀れに感じられるはずだが、それも最後には、嵐にむせぶように鳴っていた 松の木も、千年を待たずに
薪として砕かれ、古い墓所は耕されて 田んぼになってしまう。(そこが誰かの安らぎの地であったという)面影さえも、跡形なく消え去ってしまうことこそが、悲しいのである。
三一
雪が
趣深く降り積もった朝、ある人のもとへ、どうしても伝えなければ ならない 用事があって 手紙を出した。その際、(あまりに急いでいたので)雪のことには 一言も触れなかったのだが、その返事に、「この雪をどう見ているかという(挨拶の)一筆さえ お書きにならないような、そんな風情を
解さない(ひねくれた)方の仰ることを、どうして聞き入れることが できましょうか。いや、できません。本当にお恥ずかしい(残念な)お心根ですね」と言われてしまった。それがなんとも、風流で面白かった。
(あの時、
私を厳しく、かつ風流に叱ってくれたあの方は)今はもう亡き人なので、これっぽっちの(些細な)出来事であっても、忘れがたい思い出となっている。
三二
九月二十日(陰暦の晩秋)のころ、あるお方に誘われ申し上げて、夜明けまで 月を眺めて歩きまわることが ありましたが、そのお方が(ふと)思い出しなさる所があって、取次をさせて(あるお宅へ)お入りになりました。
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(そのお宅の)荒れた庭には
露がしっとりと降りていて、いかにも「用意しました」という風ではない(さりげない)香が、しめやかに漂い、忍んでいらっしゃる(住人の)気配が、たいそうしみじみと
趣深いものでした。
(誘ってくださったお方は)ちょうど良い加減で(長居せずに)お出ましになったけれど、
私は なおも その場の様子が優雅に感じられて、物陰からしばらく(そのお宅を)じっと見守っていた。すると、(中にいた住人が)
妻戸をもう少し押し開けて、月を眺めている様子である。(客が帰ったあと)すぐに そのまま鍵を掛けて 閉じこもってしまったとしたら、がっかりしたことだろう。(来客は)去っていく客を 最後まで見送っている人がいるとは、どうして知るだろうか(いや、知るはずもない)。このような(さりげない)振る舞いは、ただその人の日頃の心がけ次第で(自然に)現れるものなのだ。
(その風雅な振る舞いを見せた)あの方は、それから間もなく 亡くなってしまったと
承りました。
三三
今の内裏(皇居)が新築され、有識者たちに見せたところ、「どこにも不備はない」ということになって、すでに(天皇が移られる)遷幸の日も近づいていた時のこと。
玄輝門院がご覧になって、「(かつての里内裏であった)
閑院殿の『櫛形の穴(
欄間の装飾)』は、丸くて、縁取りもなかったはずですよ」とおっしゃった。これは実に見事な指摘であった。今回の新しい内裏では、(櫛形の穴が)木の葉の形をしていて、木で縁取りがされていたので、間違いとして作り直されたのであった。
三四
(お香の原料となる)
甲香は、
法螺貝のような形で、小さくて、口のあたりが細長く突き出ている貝の「
蓋」である。武蔵の国(現在の神奈川県)の金沢という浦にいたものを、地元の者は「『へだなり』と申しております」と言っていた。
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三五
字の書き方が下手な人が、恥ずかしがったり遠慮したりせずに、自分でせっせと手紙を書き散らしているのは、むしろ好ましいことだ。(自分の字が)見苦しいからといって、他人に代筆させるのは、わざとらしくて鼻につくものだ。
三六
「(親しくしていた人のところへ)長いこと訪ねなかった頃、『あの方はどれほど恨んでいるだろうか』と、自分の不義理が身に染みて思い出されて、合わせる顔がない(言葉も出ない)ような心地でいる時に、あちらの方から、『
仕丁はいますか? それとも、お一人ですか?』などと言ってきたのは、滅多にないほど嬉しく、有り難いことだ。そのような心遣いができる人こそが、素晴らしい」と、ある人が申しておりましたが、全くその通りである。
三七
朝から晩まで、分け隔てなく すっかり親しみ慣れている人が、他人が同席している時に、自分に対して(普段の馴れ馴れしさを捨てて)気兼ねをし、少し距離を置いた、礼儀正しい様子を見せること。それを見て、「今更、他人行儀に そんなことをしなくても いいのに」などと言う人も いるだろうけれど、(
私には)やはりそれこそが(分きまえのある)本当に感心な、立派な人だなあと 思われるのである。
逆に、(それほど親しくない)
疎遠な人が、ふと打ち解けた様子で内緒話などをしてくれるのも、また、「(この人は)良い人だ」と、すっかり心を許してしまう きっかけになるものだ。
三八
名誉や利益にこき使われて、心静かな
暇もなく、一生を苦しみ抜くことほど、愚かなことはない。財産が多ければ、かえって自分の身を守るのには 不十分となる。財宝は、害を買い、災いを招く仲立ちに過ぎないのだ。
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死んだ後に、黄金を積み上げて 北斗七星を支える(北斗七星に届く)ほどの 大富豪であったとしても、残された人々の(相続争いや管理の)ために、ただ煩わしさを残すだけである。愚かな人々の目を喜ばせるだけの
贅沢も、また全くつまらないものだ。立派な
牛車、肥えた馬、金銀珠玉の飾り立ても、思慮ある人は、不快で愚かなことだと 見るはずである。金は山に捨て、宝石は淵に投げ捨てるべきだ。利欲に迷う者は、この上なく愚かな人間である。
「埋もれることのない名を 後世に残すことこそが、理想的なことだ」と人は言う。しかし、位が高く尊い人を、必ずしも「優れた人」と言えるだろうか。いや、言えはしない。愚かで 能力のない人でも、良い家系に生まれ、運に恵まれれば、高い位に登り、
贅沢を極めることもある。逆に、素晴らしく賢い人や聖人が、自ら低い地位に身を置き、チャンスに恵まれず死んでいった例も、また非常に多いのだ。だから、ただひたすらに高い官職や位を望むのは、次に愚かなことである。(位はともかく)「知恵と人徳こそは、世に優れた名声として残したい」という願いについても、よくよく考えてみれば、名声を愛するのは、単に他人の評判を喜んでいるに過ぎない。
褒めてくれる人も、悪口を言う人も、共にこの世に長く留まることはなく、その噂を伝え聞くあとの世代の人々も、またすぐにこの世を去っていく。(誰もいなくなるのに)一体誰に対して恥じ、誰に知られることを願うというのか。名声は、またそしり(悪口)の原因にもなる。死んだあとに名前が残ったところで、自分には何の利益もない。これを願うのも、また次に愚かなことである。
ただし、無理にでも知恵を求め、賢くなりたいと願う人のために(あえて真理を)言うならば、知恵が生まれると(それを悪用する)偽りも生じる。才能とは、実は
煩悩が増大したものに過ぎない。
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人から伝え聞き、本で学んで得た知識は、本当の知恵ではない。では、一体何を「知」と言うべきなのか。「正しい」と「正しくない」は、突き詰めれば同じ一つのものである。一体何を「善」と言うべきか(それも相対的なものに過ぎない)。真の聖人は、知恵を誇らず、徳を見せびらかさず、功績を立てず、名声も持たない。(存在が透明であるから)誰がその人を知り、誰が後世に伝えるだろうか。いや、誰も知らない。これは、わざと徳を隠して 愚か者のふりを しているのではない。最初から「賢い・
愚かい」「得か・失か」という二元論の境界に立っていないからである。
迷いの心を持って、名誉や利益という(世の中で重要とされる)ものを追い求めたところで、結局はこれ(今述べてきたような虚しさ)と同じことである。世の中のあらゆる出来事は、みな偽りであり、虚妄である。語るに値せず、願うにも値しない。
三九
ある人が
法然上人に、「念仏を唱えているとき、どうしても眠気に襲われて 修行を怠ってしまうのですが、どうすればこの妨げを止められるでしょうか」と相談したところ、上人は「目が覚めている間だけ、念仏をなさい」とお答えになった。これは実に尊いことだ。また、「往生(極楽へ行けること)は、間違いないと思えば間違いなく、不確かだと思えば不確かなものだ」ともおっしゃった。これも尊い。さらに、「(本当に救われるのかと)疑いながらであっても、念仏さえ唱えれば往生できる」ともおっしゃった。これもまた、実に尊いことだ。
四〇
因幡の国(現在の鳥取県)に、何とか入道という者の娘がいた。容姿が美しいと評判で、多くの男たちが言い寄ってきたけれども、この娘は、ただ栗ばかりを食べて、全く米の類を食べなかった。父親は、「こんな変わった体質の者を、
人様(嫁ぎ先)に見せるわけにはいかない」
24/136
と言って、結婚を許さなかったのである。
四一
五月五日、賀茂の
競馬を見に行きましたところ、見物車の前に 一般の人々が立ちふさがって 何も見えなかったので、
私たちは それぞれ車を降りて、馬場の柵のそばに寄ってみましたが、とにかく人が多く混み合っていて、中へ分け入れそうもありません。そんな折、向かい側にある「
栴檀の木」に法師が登って、枝の二股になったところに座り込んで 見物しているのが見えます。その法師は、枝にしがみついたまま、ひどく居眠りをして、今にも落ちそうになるたびに 目を覚ますということを、何度も繰り返しているのでした。
これを見た人々は、呆れ果て、馬鹿にして「世にも稀な愚か者だ。あんな危うい枝の上で、のんきな心で居眠りなんて していられるものだ」と言う。その言葉を聞いて、
私の心に ふと思い浮かんだままに、「我々の死が訪れるのも、今この瞬間かもしれない。それを忘れて 競馬見物に日を暮らしている。我々の愚かさの方が、あの法師よりも さらに勝っているのではないか」と言ったところ、目の前にいた人々は、「本当にその通りでございます。もっとも愚かなことでございます」と言って、皆うしろを振り返り、「こちらへお入りください」と言って、場所を譲って(
私たちを)呼び入れてくれたのだった。
これくらいの理屈は、誰だって思いつかない はずはない。けれども、(競馬に夢中になっている)その場にふさわしくない、思いがけない言葉として響いたので、人々の胸に深く突き刺さったのだろうか。人間は、木や石のような(感情のない)存在ではないのだから、その時その折の状況に応じて、心に深く感じ入ることが ないわけではない。
四二
唐橋中将という人の子で、
行雅僧都という、仏教の儀式や理論に精通し、多くの僧の師匠となっている 高僧がいた。
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彼は「気が上る(のぼせ)」という持病があったのだが、年をとるにつれて、鼻の中が塞がって 息をするのも困難になった。様々に治療を尽くしたが、病状は悪化する一方で、目や眉、
額までもが ひどく腫れ上がって 顔を覆い隠してしまった。そのため物を見ることもできず、その顔は(
舞楽で使う)
「二の舞」の面のようになってしまった。ただただ恐ろしく、鬼の顔のようになり、目は頭の頂の方に寄り、
額のあたりが 鼻のようになるなどして、最後には寺の者にも姿を見せず 引きこもってしまい、何年も苦しみ続けた末に死んでしまった。
このような(恐ろしい)病も、この世には現にあることなのだなあ。
四三
春も終わろうとする頃、のどかで艶やかな空模様の下、品格のある家の、奥深く木立が古びて
趣ある庭に、花びらが散り しおれている様子が(あまりに美しく)見過ごしがたくて、門内に入って見てみると……。南側の格子は すべて下ろされていて寂しげだが、東を向いた
妻戸が ほどよく開いている。その
御簾の破れ目から中を覗き見ると、容姿の
端麗な男で、年は
二十歳ほど、くつろいだ格好ながらも、奥ゆかしく落ち着いた様子で、机の上に書物を繰り広げて 見入っている。
一体どのような人だったのだろうか。尋ねて確かめてみたいものだ。
四四
見窄らしい竹の
編戸の中から、とても若い男が、月明かりの下で 服の色こそ はっきりしないが、艶のある
狩衣に、濃い色の
指貫という、たいそう由緒ありげな
格好で現れた。小さな子供を一人連れて、
遥か先まで続く 田んぼの中の細道を、稲の葉の
露に濡れながら 分けて行く。その道すがら、笛を何とも言えず 素晴らしく吹き鳴らしている。
「この風情を理解できる者など、こんな田舎には誰もいないだろうに」
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と思うと、彼がどこへ行くのか知りたくなって、見送りながらついて行くと、彼は笛を吹きやめて、山の端にある
総門の中へ入っていった。門内に、屋根の下に立ててある
牛車が見えるのも、都で見るより いっそう目に留まる心地がして、下人に尋ねると、「これこれの宮様が おいでになっておりまして、法要などが行われているのでしょうか」と言う。
御堂の方へ、僧たちが参集してきた。夜寒の風に誘われて漂ってくる、どこからともなく香る
焚き物の匂いも、深く身に染みる心地がする。
寝殿から御堂の廊下へと 通り過ぎる
女房たちがまとう衣の香(追風用意)なども、人目のない山里とは思えないほど、細やかに心遣いされている。思いのままに生い茂っている秋の野原は、降りた
露に埋もれんばかりで、虫の声は何かを恨んでいるかのようにしきりに鳴き、
遣水の音はのどかに響いている。都で見る空よりも、雲の行き来が速いような気がして、月が晴れたり曇ったりする様子は、片時も予測がつかない。
四五
公世の
従二位の兄で、
良覚僧正と呼ばれる人は、極めて短気な人であった。寺の坊のそばに大きな
榎の木があったので、人々は彼のことを「榎の木の
僧正」と呼んでいた。「(
僧正ともあろう者が、木の名前で呼ばれるのは)けしからん」と言って、その木を切らせてしまった。すると、今度は切り株が残ったので、人々は「切り株の
僧正」と呼んだ。
僧正はますます腹を立てて、その切り株を掘り起こして捨てさせたところ、その跡が大きな堀(穴)になったので、人々は「堀池(ほりいけ)の
僧正」と呼んだということだ。
四六
柳原(現在の京都市上京区付近)のあたりに、「
強盗法印」と呼ばれている僧がいた。何度も強盗に遭ったために、人々がこのような(不名誉な)名前を付けてしまったということだ。
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四七
ある人が清水寺へ参拝したとき、年老いた尼が連れ立って歩いていた。その尼が道中ずっと、「くさめ、くさめ(クシャミ、クシャミ)」と唱えながら行くので、「尼御前、何をそのように仰っているのですか」と尋ねた。しかし尼は答えもせず、相変わらず唱え続けている。何度も重ねて問われて、ついに腹を立てて こう言った。「これこれ、クシャミをした時、こうしておまじないを唱えないと 死んでしまうと申します。私の大切にお育てしている若君が、比叡山で
児として 修行していらっしゃいますが、もしや 今この瞬間も クシャミをなさっているのではないかと思うと、心配でこう唱えているのです!」。なんとも、めったにないほど 尊い真心であったことよ。
四八
藤原光親卿が、
後鳥羽上皇の「
最勝講」の奉行を務めていた際、御前へ召し出されてお食事を
賜った。さて、
光親は食べ散らかした状態の器を、そのまま
御簾の中へと 差し入れて 退出してしまった。それを見た
女房たちが、「まあ汚らしい、一体誰に これを片付けろと 言って置いていかれたのかしら」などと陰口を叩き合っていたところ、上皇は、「これこそが有職(儀式や作法に精通した者)の振る舞いであり、実に尊いことだ」と、繰り返し感心なさったということだ。
四九
老いが来てから、いよいよ修行を始めようなどと 待っていてはいけない。古い墓に眠っているのは、多くが若くして亡くなった 人々である。思いがけず病に倒れ、たちまちこの世を去ろうとする時にこそ、はじめてこれまでの人生の「誤り」に 気づくものである。その「誤り」というのは他でもない。すぐにすべきことを後回しにし、ゆっくりでよいことに 急いで取り組んで、人生をやり過ごしてしまったことへの 後悔である。その時に悔やんだとしても、何の手出しができようか。
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人はただ、死が常に身に迫っていることを 心に深く刻み、一瞬たりとも忘れてはならない。そうであれば、この世の悩みや俗事もだいぶ薄れ、仏道に努める心も、より誠実で熱心なものに なろうではないか。昔いたという
聖なる僧の所に、人が来ていろいろの用事を語り始めたところ、『今、火急の用事があり、人生の締め切りが朝夕に迫っているので、他人の話に耳を傾ける暇などない』と言って、耳をふさいで念仏を唱え続け、ついに往生を遂げたと、『
禅林の十因』に書いてある。また、
心戒という
聖は、この世が かりそめの宿であることを深く思い、静かに座っていることさえせず、常に(すぐ立ち上がれるよう)
蹲って過ごしていたということだ。
五〇
応長(一三一一年〜一三一二年)の頃、伊勢の国から「女が鬼になったのを連れて上京した」という噂が流れ、それから二十日ほどの間、毎日、京都や白河の人々が「鬼を見よう」として、あちこち騒ぎまわった。「昨日は西園寺(
公経の邸宅)に現れたそうだ」「今日は院(御所)へ参上するらしい」「たった今は、あそこにいたそうだ」などと、皆が言い合っている。
しかし、「はっきりとこの目で見た」という人もいなければ、「あれは嘘だ」と断言する人もいない。身分の高い者も低い者も、ただひたすら鬼のことばかりを話題にし、噂は止むことがなかった。
その頃、
私が東山から
安居院のあたりへ向かって 歩いていましたところ、四条から北(上の町)の人々が、皆、北を目指して走っていく。「一条室町に鬼が出たぞ!」と口々に叫びあっている。今出川のあたりから見渡すと、院の御
桟敷(見物席)のあたりは、到底通り抜けることもできないほど、人で埋め尽くされている。「どうやら、全くのデマというわけでも なさそうだ」と思って、人をやって確かめさせてみると、(鬼に)出会ったという者は一人もいない。
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日が暮れるまで こうして大騒ぎを続け、挙句の果てには(混乱の中で)小競り合いや 喧嘩が起き、情けないことばかりが 起こったのだった。
その頃、世間一般に、二、三日ほど(熱が出たりして)人々が患うことが ございましたが、それを指して、「あの鬼の噂というデマは、この疫病が流行する 前触れだったのだなあ」と言う人もございました。
五一
亀山殿の御庭の池に、大井川(桂川)の水を引き入れようとして、大井の土地の農民たちに命じて、水車を造らせなさった。多額の報酬を与え、数日かけて立派なものを造り上げて設置したのだが、これが全く回らない。あちこち修理してみたけれども、結局回ることはなく、ただ突っ立っているだけの 無用の長物になってしまった。そこで、今度は宇治(川の急流で知られる地)の里人を召し出して造らせたところ、いとも簡単に組み立てて献上した。それが思い通りにくるくると回り、水を汲み入れる様子は、実に見事なものであった。
何事においても、その道を深く知っている専門家というものは、尊く、素晴らしいものである。
五二
仁和寺のある法師が、年をとるまで
石清水八幡宮を参拝したことが なかったので、それを残念に思って、ある時思い立ち、たった一人、徒歩でお参りに行った。(麓にある)
極楽寺や
高良大明神などを参拝して、これだけ(が石清水の全て)だと思い込んで帰ってしまった。さて、仲間の僧に会って、「長年思っていたことを、ついに果たしました。聞いていた以上に、尊いお姿でいらっしゃいました。それにしても、参拝していた人々が皆、山の方へ登っていったのは、一体何事があったのでしょうか。気にはなりましたが、神にお参りするのが本来の目的だと思って、山の上までは見ませんでした」と言ったということだ。
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ちょっとした事であっても、やはりその道の案内人(先達)は いてほしいものである。
五三
これもまた
仁和寺の法師の話であるが、ある
稚児が成長して 法師になろうとする 門出の別れを惜しもうと、皆で宴会をして遊ぶことがあった。酒に酔い、面白さに夢中になるあまり、一人の法師が 傍らにあった足のついた
鼎を手に取り、頭に被ってしまった。鼎の縁が(首に)つかえるのを、鼻を無理やり押しつぶして、顔をグイと中に差し入れて舞い出てきたところ、座にいた一同の盛り上がりようといったら、この上ないほどであった。
しばらく舞い踊った後、抜こうとしたが、全く抜けない。酒宴の興もすっかり冷めてしまい、「どうしたものか」と皆うろたえ
惑った。あれこれと いじっているうちに、首のまわりが傷ついて血が
滴り、ただもう腫れに腫れ上がって、息も詰まってきたので、(
鼎を)打ち割ろうとしたが、簡単には割れない。(叩く音が頭の中に)響いて耐えがたかったので、それもできず、どうしようもなくなって、三つの足がついた角の上に、
帷子をひょいと被せ、手を引き杖をつかせて、京の医者のところへ連れて行く道中、人々が不審がって見ることは この上なかった。医者のところに入って、向かい合って座っていた時の有様は、さぞかし異様であったろう。物を言うのも(
鼎の中で)こもって響き、聞き取れない。医者は「このようなことは医書にも見えず、伝え聞いた教えもありません」と言うので、また
仁和寺へ帰って、親しい者や、老いた母などが枕元に 寄り添って泣き悲しんだが、(本人の耳に)聞こえているようにも見えない。
そうしているうちに、ある人が言うには、「たとえ耳や鼻がちぎれ失せようとも、命だけはどうして助からないことがあろうか(いや、助かるはずだ)。ただひたすら 力を込めてお引きなさい」と。
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そこで、
藁のしべ(葉の部分)を首の周りに差し入れて、鉄と肌との隙間を作ってから、首がちぎれんばかりに 強く引いたところ、耳や鼻は欠け、もげながらも、(
鼎は)ようやく抜けたのだった。(法師は)辛うじて命拾いをしたものの、その後長い間、病床に伏せることとなった。
五四
御室(
仁和寺の寺の長の住まい)に、大変美しい
男児がいた。なんとかして誘い出して 遊ぼうと企む法師たちがいて、芸の達者な遊行僧などを仲間に引き入れて、おしゃれな仕切り弁当のようなものを、ていねいに作り上げ、その弁当を箱のような物にきちんとしまい、『
双の丘(仁和寺の南にある三つの丘)』の都合のよい場所に埋めておき、その上に紅葉を散らしかけて、誰も気づかないように隠しておいて、それから御所へ参って、その男児をそそのかして 連れ出して遊びに出かけた。(一同は)嬉しいと思って、あちこち遊びまわった後、用意していた
苔のむしろに並んで座り、「ひどく疲れましたね」「ああ、紅葉を
焚いて 酒を温めてくれる人でも いればなあ」「霊力のあるお坊様方、祈って出してみせなさいよ」などと口々に言い合い、例の埋めておいた木の下に向かって、数珠をすり合わせ、仰々しく
印を結んだりして、大げさに振る舞って 木の葉をかき分けたが、全く何も見当たらない。場所を間違えたかと思って、掘っていない場所がないほど 山中を捜し回ったが、やはりない。埋めているのを誰かが見ていて、彼らが御所へ
男児を迎えに行っている間に、盗んでしまったのであった。法師たちは、かける言葉もなく、聞き苦しいほど口論し、腹を立てて帰ってしまった。
あまりにも面白く見せようと(趣向を凝らしすぎて)することは、必ずつまらない結果に終わるものである。
五五
家を造るなら、夏を基準にするのがよい。
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冬は(寒くても)どんな所でも 住むことができるが、夏の暑い盛りに、風通しの悪い住まいにいるのは 耐え難いことだ。(庭に水を引き入れるなら)深い水面は涼しげではない。浅く流れている方が、はるかに涼しく感じられる。細かなものを見るには、引き戸の方が
蔀よりも明るくてよい。天井が高いのは、冬は寒く、
灯火も暗く感じられるものだ。家を建てる際、一見何のためでもない「無駄なスペース」を造ってあるのは、見た目にも
趣があり、また様々な用途に役立って良いものだと、ある人が語り合っていた。
五六
久しぶりに会った人が、自分の身の回りに起きた出来事を、数え上げるように 残りなく語り続けるのは、なんとも興ざめなものだ。隔てなく親しくなった人でさえ、しばらく経って会う時は、(相手への敬意から)気恥ずかしさを感じるのが 当然ではないか。教養のない人は、ちょっと出かけただけでも、「今日こんなことがあってね」と、息もつかせぬ勢いで面白そうに語るものだ。品格のある人が話をする時は、聞き手が大勢いたとしても、特定の一人に向かって 語りかけるように話す。それを周りの人が 自然と耳にする、というのが美しい形なのだ。逆に、品格のない人は、誰に向けるでもなく、大勢の中で「今見てきたこと」のように 大げさに語りたてる。すると皆が一緒になって 笑い騒ぐ。それは実に見苦しく、騒々しいものだ。面白いことを言っても、自分では それほど得意げにならず、また、つまらないことを言われても、愛想よく笑って流す。そんな振る舞いの中にこそ、その人の品格が推し量られるのである。
人の見た目の良し悪しや、才能のある人が その才能についてなど、(座にいる人々が)あれこれと批評し合っている時に、自分のことを引き合いに出して 語り出すのは、実に情けなく、見苦しいものだ。
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五七
人が語り始めた歌物語(歌にまつわるエピソード)で、肝心の歌が下手なのは、実になんとも がっかりするものだ。少しでもその道(和歌の道)を 心得ている人であれば、ひどい歌を「素晴らしい出来事」として 語るようなことは しないだろう。
総じて、それほど詳しくもない分野について(知ったかぶりをして)話をしているのは、そばで見ていてハラハラし、聞いていても不愉快なものだ。
五八
「仏道を求める心があるならば、住む場所に左右されることはない。家に住み、世俗の人と交わっていても、来世の幸せ(悟り)を願うのに 何の差し支えがあろうか」と言う人がいるが、そういう人は 全くもって 悟りの道を知らない人である。本当に、この世を
儚いものと思い、必ずや迷いの世界を脱しようと思うならば、一体何の面白みがあって、朝晩主君に仕え、家を維持する営みに精を出せるだろうか。人の心は、周囲の環境に引きずられて 移ろいやすいものであるから、静かな場所でなくては、道を修めることは難しい。
今の時代の修行者は、昔の人(聖者)には及ばない。山林に入ったとしても、飢えを
凌ぎ、嵐を防ぐ手立てがなくては 生きていけないのが 人間というものだ。だから、機会があれば、ついつい世俗に未練があるような 振る舞いをしてしまうことも、どうしてもあるだろう。だからといって、「これでは俗世を捨てた甲斐がない。そんなことなら、どうして家を捨てたのだ」などと言うのは、あまりにもひどい言い草だ。そうは言っても、一度仏道に入り、世を
嫌おう(世から逃れよう)とした人が、たとえ多少の欲望を持ったとしても、権勢ある人が 強欲に
耽るのとは 比べものにならない。
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紙の夜具、
麻の
衣、一つの鉢に盛った食事、
藜の草の汁物‥‥これらで、どれほど人に費用の迷惑をかけることがあろうか(いや、ほとんどかけない)。求めるものは安上がりであり、その心はすぐに満たされるはずだ。(僧侶という)その姿に恥じるところもあるので、何だかんだ言っても、悪からは遠ざかり、善に近づくことの方が多くなる。人として生まれた証には、何とかして 世俗の執着から逃れたいと 願うことこそ、あるべき姿だ。ただひたすらに物欲に励み、悟りに向かおうと しないのであれば、それはあらゆる動物と 変わるところが ないのではないだろうか。
五九
大事な志を立てようとする人は、日常の雑事(用事)は愛着があって気になるが、大事のためには「本意を果たさないうちに潔く捨てる」ことが必要。「少しこの用事を片付けてから」「あちらのことは後でゆっくり片付けてから」「しかしあれを放っておくと人から笑いものになるかもしれないし、後々面倒になるから先に済ませておこう」「もう年もそこそこになったし、あのことは待てないだろうから、物騒にならないうちに済ませておこう」などと考えていると、どうしてもできないことがどんどん積み重なって、事が終わる見込みはなく、志を立てる日も来ない。ああ、多くの人を見ると、少しでも心に迷いのある者は、みなこのようなあり方で一生を過ごしてしまうのだ。
近所の火事などから逃げる人は、「ちょっと待ってくれ」などと言うだろうか。(いや、言いはしない。)自分の命を助けようと思えば、恥をさらすことも顧みず、財産も投げ捨てて、一目散に逃げ去るものである。命というものは、人の都合を待ってくれるものだろうか。(いや、待ってはくれない。)「無常(死)」がやって来ることは、洪水や火災が襲ってくるよりも素早く、逃れがたいものである。その時になって、「年老いた親が」「幼い子が」
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「主君への恩義が」「人情として捨てがたい」などと言って、捨てずにいられるだろうか。(いや、否応なしにすべてを捨てて、
死出の旅路へ出ねばならないのだ。)
六〇
真乗院に、
盛親僧都という、大変高名な学僧がいた。彼は「
芋頭」という食べ物が大好きで、大量に食べていた。講義の席でも、大きな鉢に山盛りにして膝元に置き、食べながら書物を読んでいた。体調が悪い時には、一週間、二週間と「療治」と称してこもり、思う存分、質の良い
芋頭を選んで、特別に多く食べることで、あらゆる病気を治してしまった。他の人に分け与えることは 決してせず、ただ一人で食べていた。彼は極めて貧しかったが、師匠が亡くなる際、
二百貫の金と坊(住居)を一つ譲ってくれた。彼はその坊を百貫で売り、合わせて三百貫をすべて「芋頭代」と決め、京の人に預けておいて、十貫ずつ取り寄せては 芋頭を欠かさず食べていた。そうするうちに、他のことには一切使わず、その金もすべて使い果たしてしまった。人々は、「三百貫もの大金を貧しい身で手に入れながら、このように(芋のためだけに)使い切ったのは、本当に稀に見る、道を究めた風流人(道心者)である」と
褒め
称えたという。
この僧都(
盛親)は、ある法師を見て、「しろうるり」というあだ名をつけた。「それは一体何のことですか」と人が問うと、「そんなものが実在するかどうか、私も知らない。だが、もしあるとしたら、この僧の顔に似ているだろうよ」と言った。この
僧都(ある法師)は、容姿が美しく、力も強く、大食漢で、書道にも優れ、学識も深く、弁舌も人に抜きん出ていた。一宗派の重鎮として 寺の中でも重んじられていたが、世俗の権威を軽く見ている「くせもの」で、万事において自由奔放であり、決して人に従うということがなかった。
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宮中などに出仕して
供応の膳 鎌倉時代につく時も、全員の前に配膳が終わるのを待たず、自分の前に置かれるやいなや、すぐに一人で食べ始め、帰りたくなれば 一人でさっさと立って 帰ってしまうのだった。定められた食事の時間にも従わず、自分が食べたい時に 夜中だろうが明け方だろうが食べ、眠たくなれば昼間でも閉じこもって、どんな大事な用があっても 人の言うことなど聞き入れない。逆に目が冴えれば何夜も眠らず、心を澄まして 詩を口ずさんで歩き回るなど、およそ常識外れの様子であったが、不思議と人から嫌われることはなく、すべてが許されていた。それは、彼の徳が高みに達していたからであろうか。
六一
出産の時に(屋根から)
甑(米を蒸す道具)を落とすという儀式は、必ずしなければならないと 決まっていることではない。あれは胎盤がなかなか出ない時の「まじない」であって、安産で滞りがない時には、する必要のないことなのだ。庶民の間から始まった習慣で、これといった正式な根拠があるわけではない。(宮中の儀式では)大原の里の
甑を召し寄せて 使うことになっている。古い宝蔵にある絵巻物を見ると、身分の低い者の出産シーンに、
甑を落としている様子が描かれている。
六二
延政門院がまだ幼くおいでだった時、
後嵯峨院のもとへ参上する人に「ことづてをお願いします」とおっしゃって
詠まれたお歌。
ふたつもじ(『こ』:「二」のような形)
牛の角もじ(『ひ(い)』:牛の角のような形)
すぐなもじ(『し』:まっすぐな形)
ゆがみもじ(『く』:曲がった形)
とぞ、君はおぼゆる
(つまり『こ・い・し・く』思っております、という意味である。)
離れている院のことを、恋しく
慕い申し上げていらっしゃるのであった。
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六三
後七日の
御修法の際、
阿闍梨が武士を大勢集めるようになったのは、いつだったか、阿闍梨が盗賊に襲われたことがあって以来、用心棒として、このように仰々しくなったのだという。その一年の吉凶(相)は、この御修法の様子に現れると言われている。そうであれば、修行の場に兵士を用いるなどというのは、穏やかでない 不穏な予兆に思えてならない。
六四
「
牛車の
五緒(格の高い車)は、必ずしもその人の資質や人格によって決まるのではなく、時節や状況に応じて官位に就けば、自然と乗ることのできるものだ」と、ある人が仰ったものだ。
六五
最近の
冠は、昔のものよりもずっと高くなっている。そのため、古い時代の
冠桶(冠を収めるケース)を持っている人は、高さが足りないので(桶の)縁に継ぎ足しをして、今の高い
冠に合わせて使っているのである。
六六
岡本関白(
藤原師通)殿が、見頃の紅葉の枝に、「鳥を一つがい添えて、この枝に結びつけて献上せよ」と、鷹匠の
下毛野武勝にお命じになった。すると武勝は、「(和歌などの雅な趣向として)花に鳥を添える作法は存じ上げません。それに、一枝に二羽の鳥を結びつけるというやり方も、聞いたことがございません」と答えた。関白殿は、膳部(料理人)に尋ねたり、周囲の人々に問わせたりしたが、結局誰も 確かな作法を知らなかった。そこで再び武勝に、「それならば、お前が正しいと思うように 結びつけて献上せよ」と仰せられた。すると武勝は、(華やかな紅葉ではなく)花も咲いていない梅の枝に、鳥をただ一羽だけ結びつけて 献上したのである。
武勝が申しましたことには、「(獲物の鳥を贈る際は)柴の枝や、梅の
蕾のついたもの、あるいは花が散った後の枝に 結びつけます。五葉松などにも付けます。
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枝の長さは七尺(約2.1m)、または六尺(約1.8m)とし、枝の端を『返し刀』という手法で 五分(約1.5cm)ほど切り込みます。枝の真ん中あたりに鳥を付けますが、鳥を載せる枝と、足を踏ませる枝の区別があります。結びつけるのは、割っていない『
つづら藤の蔓』で、二箇所を縛ります。藤の端は、鷹の羽の長さに合わせて切り、牛の角のように美しくたわめます。初雪の朝、その枝を肩に担いで、中門から堂々と振る舞って参上します。
大砌の石畳を伝い歩き、せっかくの雪に足跡をつけないようにします。獲物の毛を少しむしり散らして、御所の
高欄(防護柵)に立てかけます。
褒美を
賜れば、また枝を肩に担ぎ、拝礼して退散します。初雪といっても、靴の鼻が隠れない程度の 浅い雪では参上しません。羽毛を散らすのは、鷹が獲物の腰のあたりを掴んで 仕留める習性があるため、『この獲物は 御鷹が自ら仕留めたものです』という証拠を示すためなのです」とのことであった。
(武勝はあんなふうに断言していたが)「花に鳥を添えない」というのは、一体どういう根拠があるのだろうか。『伊勢物語』の中には、九月の頃に、梅の造花を挿した枝に
雉を結びつけて、「あなたのために祈る花は、季節を選ばず(いつでも咲いているのです)」という歌を添えて贈った話がある。(武勝が言ったのは 本物の花の話であって)造花であれば問題ないという ことなのだろうか。
六七
上賀茂神社の
摂社である岩本神社と橋本神社は、それぞれ(歌人の)
在原業平と
藤原実方を
祀ったものである。世間の人がいつも この二つを言い間違えているので、ある年、参拝したついでに、通りかかった年配の宮司を呼び止めて 尋ねてみたところ、
「実方は、
御手洗川に自分の姿が映った(という伝説がある)方ですから、やはり水に近い『橋本』がそうではないかと存じます。
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吉水
和尚(
慈円)が、
月をめで 花をながめし いにしへの
やさしき人は ここにありはら
【訳】
『風流な心は過去の人だけにあるのではなく、今の自分にも受け継がれている』
と
詠まれたのは、岩本神社のことだと
承っております。
……とはいえ、私どものような者(現場の人間)よりは、かえって貴方様のようなお方(都の知識人である
兼好)の方が、よくご存じで いらっしゃるかも しれませんね」
と、非常にうやうやしく謙虚に言ったのが、実に見事(素晴らしい)と感じられた。
六八
九州(筑紫)に、どこそこの
押領使(警察・軍事担当の官職)というような者がいた。彼は大根を あらゆる病に効く素晴らしい薬だと信じて、毎朝二つずつ焼いて食べることを、もう何年も続けていた。ある時、館の中に人がいなかった隙を突いて、敵が襲来し、囲んで攻めてきた。すると、館の中から見知らぬ兵士が二人現れ、命を惜しまず戦って、敵をすべて追い返してしまった。
押領使は大変不思議に思い、「普段 ここに おいでになるのも 見たことがない方々が、このように戦ってくださったのは、一体どなたなのですか」と問うた。すると、「私たちは、あなたが長年頼りにして、毎朝 毎朝 召し上がっていた大根たちでございます」と言って、姿を消してしまった。
深く信じていれば、このような(大根の精が助けてくれるといった)御利益もあるものなのだなあ。
六九
書写山(
円教寺)の上人は、法華経を読み続けた 功徳が積み重なり、
六根(五感と心)が清らかになって、普通の人には聞こえないものまで 聞こえる境地に達した人であった。ある時、旅先で仮小屋に立ち寄られたところ、豆の殻を燃やして豆を煮ている音が「つぶつぶ」と聞こえてきた。
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上人がその音に耳を傾けると、豆たちが、「他人ではない(同じ根から生まれた兄弟である)お前たちが、恨めしいことに私を煮て、こんなに辛い目に遭わせるのだなあ」と言っているのが聞こえた。すると、燃やされている豆の殻が「はらはら」と
爆ぜる音は、「私たちが 自分の意思でやっていることでしょうか(いいえ、違います)。焼かれるのは どれほど耐え難いことか。けれど、どうしようもないことなのです。どうかそんなに恨まないでください」と答えているように聞こえたという。
七〇
元応年間の
清暑堂での御遊(
管弦の会)でのこと。名器「
玄上」が行方不明になっていた頃、
菊亭大臣(西園寺
実兼)が、もう一つの名器「
牧馬」を弾奏なさることになった。大臣が座に着いて、まず
琵琶の柱(弦を支える部品)を確かめられたところ、一つが外れて落ちてしまっていた。大臣はあらかじめ懐に
膠を持っておられたので、すぐにそれをつけて固定された。ちょうど神供(神へのお供え物)が供えられている間に 糊がよく乾いたので、演奏には何ら支障がなかった。ところが、いったい何の恨みがあったのか、見物していた衣をかぶった女が、そっと近寄って(その柱を)外し、もとのように置いておいたということだ。
七一
人の名前を聞いただけで、すぐにその人の面影(顔立ち)を想像してしまうものだが、実際に会ってみると、あらかじめ想像していた通りの顔をした人など 一人もいない。昔の物語を聞いても、「(あの場面は)今の時代の あの人の家の、あのあたりだった のだろうな」と思い浮かべたり、登場人物も「今知っている あの人に似ているのだろうな」と重ね合わせたりしてしまう。誰でも、そのように感じるものなのだろうか。
また、一体どういう時なのだろうか。
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たった今、人が言ったことも、目に映る光景も、自分の心に浮かんだ思いも、「あぁ、これと同じことが いつだったか以前にもあったな」と感じられて、それがいつだったかは 思い出せないのだけれど、間違いなくあった という心地がするのは、
私だけが このように思うのだろうか。
七二
下品に見えるもの。
- 自分の居座っている周りに、道具(調度品)がたくさん置いてあること。
- 硯に、筆がたくさん立ててあること。
- 仏堂に、仏像がたくさん安置してあること。
- 庭に、石や草木がたくさん植えてあること。
- 家の中に、子供や孫がたくさん溢れていること。
- 人に会った時に、言葉数が多いこと。
- 願文(神仏への祈願文)に、自分の行った善行を これ見よがしに たくさん書き連ねること。
(何事も多いのは見苦しいものだが)たくさんあっても見苦しくないものは、
文車(書物を運ぶ車)に積まれた書物と、ゴミ捨て場のゴミである。
七三
世間に語り伝えられていることは、ありのままの真実では面白くない(風情がない)からだろうか、その多くは作り話(嘘)である。人は、実際にあること以上に大げさに言いたてるものだが、まして年月が過ぎ、場所も遠く離れてしまえば、自分の言いたい放題に語り作り、それを筆で書きとどめてしまえば、それがいつの間にか事実として定着してしまう。各分野の専門家の素晴らしい功績などについても、その道を知らない無知な人は、やたらと神様のように
崇めて言うけれども、その道を知っている(本物の専門家)人は、決してそんなことは信じない。噂で聞くのと、実際に自分の目で見るのとでは、何事も全く異なるものなのである。
すぐに嘘だとバレるのも構わず、口から出まかせに言い散らすのは、いかにも浮ついた話(浅い嘘)だとすぐに分かる。
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また、自分でも本当ではないと思いながら、人が言っていた通りに、さも得意げな様子で語るのは、語り手自身の嘘ではない(単なる伝聞の拡散である)。恐ろしいのは、いかにも本当らしく、所々でわざと思い出せないふりをしたり、詳しく知らないふりを装ったりしながら、その実、話の
辻褄をうまく合わせて語る嘘である。自分にとって名誉になるように語られた嘘は、人はそれほど強く否定しない。皆が面白がっている嘘は、一人だけ「事実はそうではなかったのに」と言うのも甲斐がないので、黙って聞いているうちに、いつのまにか(その場にいたというだけで)証人にまで仕立て上げられてしまい、いよいよその嘘が事実として確定してしまうのである。
とにかく、この世は作り話(嘘)が多いものだ。何事も、ただ平凡で珍しくもない「あるがままの道理」として理解しておけば、万事間違いはない。教養のない人は、耳を疑うような驚くべきことばかりを語りたがる。徳の高い立派な人は、怪しげなことなど語らないものだ。とはいえ、仏や神の奇跡や、尊い高僧の伝記などを、むやみに否定すべきでもない。世間のくだらない嘘を 熱心に信じるのも馬鹿げているが、かといって「まさか、そんなことはあるまい」と頭から否定してかかるのも、また意味のないことだ。大抵のことは「なるほど」と真面目に受け流しておいて、ひたすら信じ込むこともせず、かといって疑って馬鹿にしたりもしないのがよい。
七四
(人々は)まるで
蟻のように集まって、東へ西へと急ぎ、南へ北へと走り回っている。地位の高い者も、低い者もいる。老いた者も、若い者もいる。行くべき所があり、帰るべき家がある。夕方になれば寝て、朝になれば起きる。そうして懸命に励んでいるのは、一体何のためなのか。ただ生に執着し、利益を求めて、休まる時がない。
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こうして体を養って(生きて)、一体何を待っているというのか。その行き着く先は、ただ「老い」と「死」があるだけだ。それらがやって来るのは 驚くほど速く、一瞬一瞬もとどまることはない。これを待っている間、一体何の楽しさがあるというのだろうか。
迷いの中にいる者は、この(死の速さを)恐れない。名誉や利益に溺れて、人生の終点がすぐ近くにあることを 顧みないからだ。また、愚かな人は、これをただ悲しむ。いつまでもこの生が続くと思い込んで、万物が移り変わるという 道理を知らないからである。
七五
「退屈でたまらない」と嘆く人は、一体どのような心持ちなのだろうか。邪魔するものがなく、ただ一人でいることこそが、最高に素晴らしいというのに。
世間に従っていれば、心は外の世界の
煩わしい物事に奪われて 惑いやすく、人と付き合えば、言葉は相手の反応をうかがうばかりになって、自分自身の心ではなくなってしまう。人とふざけ合い、物事を争い、ある時は恨み、ある時は喜ぶ。その感情には、定まったところがない。あれこれと思い悩み、損得勘定が止まる時がない。迷いの上に酔い、酔いの中に夢を見ているようなものだ。誰もが、ただ忙しく走り回り、大事なことを忘れて ぼんやりしている。世の人は皆、このような有様である。
まだ本当の悟りの道を知らないとしても、俗世との縁を切り、身を静かな環境に置いて、余計な事に関わらず 心を穏やかにすることこそ、ひとときの楽しみ(安らぎ)と呼ぶにふさわしい。
天台宗の修行書である『
摩訶止観』にも、「生きるための仕事、人付き合い、芸事、学問といった、あらゆる執着の縁を止めよ」と記されている。
七六
世間の評判が高く、威勢のいい人の家で、不幸や慶事があって、大勢の人がひっきりなしに訪ねてくる。
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その人混みの中に、徳の高そうな僧侶が混じって、何か口上を述べたり、立ちすくんでいたりするのは、そこまでしなくてもいいのに(場違いで見苦しい)と思える。たとえそれなりの理由があるにしても、僧侶というものは、人付き合いから遠ざかり、
疎んじられるくらいの存在であるのがよい。
七七
世間でその当時、誰もが話題にして噂し合っている事柄について、本来関わるべき立場でもない人が、さも事情通であるかのように振る舞い、人に語り聞かせたり、根掘り葉掘り聞き出したりするのは、実に見苦しく、受け入れがたいものだ。特に、片田舎の僧侶などに限って、世間の噂話を まるで自分のことのように探し回り、一体どうやって そこまで調べたのかと思うほど、ペラペラと言い散らしているようである。
七八
現代風の新しい流行り事などを、いち早く言い広めて、さも価値があるようにもてはやすのも、また受け入れがたい。世間で既に古臭くなっているような事を 知らないままでいる人も、それはそれで不快なものだ。(しかし最も見苦しいのは)新参者がいるような場所で、最近流行っている言い回しや 物の名前などを、事情を知っている仲間同士だけで、言葉の端々で交わし合い、目配せをして笑ったりして、事情を知らない人に 疎外感を味わわせることだ。これは、世慣れていない、品性の
卑しい人が必ずやることである。
七九
何事も、出しゃばらず控えめであるのがよい。豊かな教養のある人は、自分がよく知っていることだからといって、それほど得意顔で語るだろうか(いや、語らない)。田舎から出てきたばかりのような人こそ、あらゆる道に通じているかのような顔をして、知ったかぶりの受け答えをするものだ。
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そのため、世の中には(その知識に)感服させられる場面もあるにはあるが、自分自身ですごいと思っている様子が 透けて見えるのは、ひどく教養がなく、見苦しい。本当にその道を深くわきまえている人は、必ずその件については 口が重くなり、問われない限りは 自分から言わないことこそが、実に見事なのである。
八〇
誰もが皆、自分の本来の立場とは縁遠い(不得意な)事ばかりを好むものである。法師(出家者)が武芸の道を説き、東国の武士は弓を引く技術も知らないくせに、仏法を知っているような顔をしたり、
連歌をしたり、音楽(管絃)を
嗜んだりしている。しかし、たとえそれらが多少上手くいったとしても、自分が本分とする道が
疎かであれば、やはり人からは見くびられ、
侮られてしまうものである。
法師だけではない。
公卿や
殿上人、さらには天皇に至るまで、総じて武芸を好む人が多い。しかし、たとえ百度戦って百度勝ったとしても、それで「真の武勇の主」であると断定することはできない。なぜなら、勢いに乗って敵を打ち負かしている間は、誰だって「勇者」に見えるもの だからだ。兵が尽き、矢も底をついて、追い詰められた絶体絶命の時に、それでも敵に屈せず、死を平然と受け入れて 初めて、その名は歴史に刻まれるものだ。それが武士の道というものである。生きている間は、安易に武勇を誇るべきではない。人の道から遠ざかり、獣に近い振る舞いをする武の道は、それを家業とする者(本職の武士)でない限り、好んで首を突っ込んだところで 何ら利益はないのである。
八一
屏風や障子などに描かれた絵や文字が、無風流で品のない
筆致で書かれているのは、ただそれが見苦しいというだけでなく、その家の主人の人間性までが
拙く、底が浅いように感じられてしまう。
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およそ身の回りにある調度品にしても、その選び方によって 持ち主の品格が下がってしまうことは 確かにある。とはいえ、ただ高価な名品を持てばよい と言っているのではない。「壊れないように」と実用性ばかりを優先して、品格のない 無骨で見苦しい形に作り変えたり、「珍しく見せよう」として、余計な機能や装飾を付け加え、
煩わしく 凝り固まったデザインにしたりすることを 言っているのだ。どこか古風で、過剰な主張がなく、費用もかかっていないのに、素材や質そのものが良いというのが、本当によいものなのだ。
八二
「薄い紙の表紙は、すぐに傷んでしまうのが情けない」とある人が言ったのに対し、歌人の
頓阿が、「薄織物の表紙は上下がほつれ、
螺鈿の軸は貝が剥がれ落ちて、そのようになってからこそ、
趣があって 素晴らしいのです」と申し上げたのは、なんと深い心構えだろうと 感じ入った。また、何冊かで一組になっている 草子(本)などで、
装丁が揃っていないのを「見苦しい」と言う人がいるけれど、
弘融僧都が、「物を必ず一揃いに整えようとするのは、教養のない未熟な者がすることだ。不揃いであることこそが 良いのだ」と言ったのも、実に見事な見識だと思われた。
「すべて何事も、完全に整いすぎているのは良くないことだ。あえてやり残したところを作って、そのままにしておくのが、
趣深く、命を長らえさせる(発展の余地を残す)方法なのだ。内裏(皇居)を造営する際にも、必ず作り終えない場所を残しておくものなのだ」と、ある人が申し上げていた。昔の賢人が
遺した、仏教や儒教のあらゆる書物を見ても、章や段が欠けて不完全なものばかりである。
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八三
竹林院入道左大臣殿(徳大寺
実定)は、太政大臣に昇進なさるのに、何の差し障りも おありにならなかった はずだが、「(太政大臣になることは、先祖も通った道であり)今さら珍しいことでもない。左大臣という地位のままで現役を終えよう」とおっしゃって、出家してしまわれた。そうして、最高位である太政大臣への望みをお持ちにならなかったのである。
「高いところに登りつめた龍には、後悔が伴う」といった言葉がある。月は満ちれば欠け始め、物事は全盛期を迎えれば 必ず衰えに向かう。万事、すべてが行き着くところまで 行き着いてしまった状態というのは、崩壊への道が すぐ近くに迫っている ということである。
八四
法顕三蔵が
天竺へ渡った際、故郷の扇を見ては(懐かしさに)悲しみ、病に伏したときには 漢(中国)の食べ物を食べたいと願われた。その話を聞いて、「あれほどの高僧でありながら、なんとまあ、むやみに心弱い様子を 異国の地で見せられたものだ」と批判した人がいた。それに対して、
弘融僧都が、「なんと優雅で、人情味のある三蔵様だろうか」と言ったのは、通り一遍の僧侶の考え方とは違い、奥ゆかしく感じられた。
八五
人の心は真っ直ぐではないから、嘘が全くないわけではない。しかし、自然と正直である人が、どうして いないことがあろうか(いや、いるはずだ)。自分自身は素直でなくても、他人の賢明な姿を見て
羨むのは、世の常である。しかし、極めて愚かな人は、たまたま
賢い人を見ると、これを憎んでこう
罵る。「大きな利益を得ようとして、目先の小さな利益を わざと受け取らないフリをしているだけだ。自分を偽り飾って、名声を立てようとしているのだ」と。その人が自分の(
卑しい)心と比較して 他人を
嘲っていることで、正体が知れてしまう。
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このような人は、愚かな性質が治ることはない。偽ってでも 小さな利益を捨てることすらできず、かりそめにも賢者の真似をすることさえ できないのだ。狂人の真似だと言って 大通りを走れば、それは即ち狂人である。悪人の真似だと言って人を殺せば、それは即ち悪人である。名馬を模範として学べば 名馬の類であり、聖人を模範として学べば 聖人の仲間である。偽りであっても、賢者の振る舞いを学ぶ者を、まさに賢者と呼ぶべきなのだ。
八六
惟継中納言は、漢詩や和歌の才能に
溢れた人であった。生涯、
精進潔斎して読経を欠かさず、
三井寺の僧である
円伊僧正と同じ宿坊にいた時のこと。文保の年(1318年)に三井寺が焼失してしまった際、
惟継は坊主(
円伊)に向かってこう言った。「これまでは、あなた様を『
寺法師』と呼んでまいりましたが、お寺がなくなって しまいました。これからは、ただの『法師』とお呼びすることにいたしましょう」。なんとも見事な、気の利いた冗談である。
八七
使用人や目下の者に酒を飲ませることは、十分に注意しなければ ならないことである。
宇治に住んでいた男が、京都にいる
具覚坊という、風流で上品な
隠遁僧を、妻の叔父にあたる縁で いつも親しくしていた。ある時、宇治の男が
具覚坊を迎えようと 馬を差し向けると、
具覚坊は「(宇治までは)遠い道のりだ。まずは馬の口取り(馬の口元にある綱を持って引く仕事)の男に 一杯飲ませてやってくれ」と言って酒を出した。男は差し出されるままに、ぐいぐいと大量に飲んでしまった。その男は 太刀を腰に帯びていて、いかにも頼もしそうな様子だったので、具覚坊も安心して 連れ立って出発したのだが、
木幡のあたりで、奈良の僧兵が 多くの兵士を引き連れてやって来るのに 出くわした。
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すると、この酔った男が立ちふさがり、「日の暮れた山中で 怪しい奴らだ、止まれ!」と言って太刀をぶらりと引き抜いた。相手側も皆、刀を抜き、矢を
番えるなどして 一触即発の状態になった。
具覚坊は慌てて 手をすり合わせ、「この者は正体なく酔っ払っております。どうか、どうかお許しを!」と懇願したので、僧兵たちは
嘲笑いながら 通り過ぎていった。ところが、この男は
具覚坊に向かって「お坊さんは なんて情けないことをしてくれたんだ。私は酔ってなどいない。手柄を立てようとしたのに、抜いた太刀を無駄にしやがって!」と激怒し、あろうことか
具覚坊を ひた切りに 切り倒してしまった。その後、男は「山賊が出たぞ!」と叫び散らし、駆けつけた里人たちに「俺こそが山賊だ!」と言い放って 斬りかかったが、大勢に取り押さえられ、叩きのめされて 縛り上げられた。
具覚坊の乗っていた馬は、血を浴びた姿で 宇治の家へと走り込んだ。宇治の男が驚いて人を走らせると、
具覚坊はクチナシ原で 酔い潰れて倒れているところを 発見され、担ぎ込まれた。かろうじて命は助かったものの、腰を切り付けられた傷が元で、一生障害の残る体になってしまった。
八八
ある者が、
小野道風が書いた『
和漢朗詠集』だと言って、大切に持っていた。それを見たある人が、「お宅に伝わっているものですから、根拠のないことでは ないのでしょうが、そもそも『和漢朗詠集』を撰集したのは
藤原公任(四条大納言)です。その
公任の選んだものを、時代がずっと前の
道風が書くというのは、時代が合わないのではありませんか? どうも疑わしいですね」と指摘した。すると持ち主は、「(時代が合わないほど古いから)それゆえにこそ、世にも稀な、有り難い品なのでございますよ」と言って、いよいよ秘蔵して大切にした。
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八九
「奥山には『
猫また』という怪物がいて、人を食うそうだ」と誰かが言ったのに対し、「山でなくても、ここらへんでも猫が年老いて『猫また』になり、人を襲うことがあるそうだぞ」と付け加える者がいた。
何阿弥陀仏とかいう
連歌師の法師は、
行願寺の近くに住んでいたが、これを聞いて「一人歩きをする時は気をつけねば」と思っていた。ちょうどそんな折、ある場所で夜更けまで連歌の会があり、たった一人で帰宅していた時のこと。小川のふちで、噂に聞いた「猫また」が、あろうことか足元へふと寄ってきて、そのまま飛びつくと同時に首のあたりを食おうとした。法師は肝をつぶし、防ごうとする力も出ず、足も立たなくなって、小川の中へ転がり落ちた。「助けてくれ!猫まただ!猫またが出たぞ!」と叫ぶと、近所の家々から松明を掲げて人々が駆けつけてきた。見てみれば、この辺りで顔見知りの僧ではないか。「これはいったい どうしたことか」と川の中から抱き起こしたところ、連歌の賞品として手に入れた 扇や小箱などを懐に持っていたのも、すべて水浸しになってしまった。法師は、九死に一生を得たといった様子で、
這う
這うの体で家へと逃げ帰った。
(法師を襲ったものの正体は)その家で飼っていた犬が、暗かったけれども主人だと分かって、嬉しくて飛びついたのだったということだ。
九〇
大納言
法印(僧侶に与えられる最高位の僧階・僧位)が召し使っていた
乙鶴丸という少年が、「やすら殿」という人物と知り合って、いつもそこへ通っていた。ある時、外出から帰ってきた
乙鶴丸に、
法印が「どこへ行っていたのだ」と尋ねると、「やすら殿のところへ行って参りました」と答える。
法印がさらに「そのやすら殿というのは、男(俗人)か、それとも法師(僧侶)か」
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と重ねて問うたところ、
乙鶴丸は(かしこまって)
袖を合わせながら、「さて、どうでございましょうか。(帽子や頭巾を被っていたので)頭までは拝見しておりません」と答えた。(
兼好のツッコミ:)どうして、頭だけが見えない なんてことが あっただろうか(いや、そんなはずはない。髪があるか剃っているかくらい、すぐわかるだろうに)。
九一
「
赤舌日」という凶日は、正式な陰陽道には 本来ないものだ。昔の人はこんな日を気にしてはいなかった。近ごろ、誰が言い出したのか知らないが、人々がこれを忌み嫌い始め、「この日にした事は、最後まで成就しない」と言っている。その日に言ったことや、したことが叶わず、手に入れた物は失い、計画していた事は失敗すると言うが、じつに馬鹿げたことだ。もしそう言うのなら、反対に「吉日を選んで行った事」が、結局うまくいかなかったケースを数えてみれば、その数は(凶日に失敗した数と)全く同じになるはずである。
その理由は、この世は常ならず、移り変わる境遇であり、存在していると見えるものも いつまでも存続せず、始まったことも(形を変えてしまい)終わりという区切りも ないからだ。志は遂げられず、望みは尽きることがない。人の心は定まらず、万物はすべて 幻や変化のようなものだ。いったい何事が、わずかな間でも そのまま留まっていることが あろうか。人々は、この(無常の)理を知らないのだ。「吉日に悪事を行えば 必ず凶となり、凶日に善行を行えば 必ず吉となる」と言われている。吉凶というものは、その人自身の行いによるのであって、日の善し悪しによるのではない。
九二
ある人が、
弓術を習う際、二本の矢を手にはさんで 的に向かった。師匠が言うには、「初心者は、二本の矢を持ってはいけない。
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後の矢があると思うと、どうしても一本目の矢を
疎かにする(なおざりの心)が出てしまうものだ。毎回、当たるか外れるかを考えるのではなく、『この一本で全てを決める』と思わなければならない」と。わずか二本の矢だ。師匠の前で、一本目を
疎かにしようなどと、自分から思うはずが あろうか(いや、思わない)。しかし、自分でも気づかないうちに 忍び寄る「怠けの心」を、師匠は見抜いているのだ。この
戒めは、あらゆる全ての事に通じるものである。
仏道を修行する人は、夕方には「明日の朝がある」と思い、朝には「今日の夕方がある」と思って、その時になれば 改めて丁寧に修行しようと 心に決める。(だが、そんな風に先送りにする者が)ましてや、ほんの一瞬の間にさえ、怠けの心が忍び込んでいることに、どうして気づけるだろうか。どうして、ただ今この一瞬において、すぐさま実行することが、これほどまでに難しいのだろうか。
九三
「牛を売ろうとする人がいた。買う人が、『明日、代金を支払って牛を引き取ろう』と言う。ところがその夜の間に 牛が死んでしまった。買うはずだった人には(金を払わずに済んで)得があり、売ろうとした人には損が出た」と語る人がいた。これを聞いて、そばにいた者が言うには、「牛の飼い主は、確かに損をしたといえるが、実は大きな得をしたのだ。その理由は、生きているものが『死がすぐ隣にあること』に気づかないのは、牛も人間も同じである。思いがけず牛は死に、思いがけず飼い主は(今日も)生きている。一日の命は万金よりも重く、牛の代金などは 鳥の羽よりも軽い。万金(命)を得て、一銭(牛の代金)を失ったような人を、損をしたなどと言うべきではない」これを聞いて、皆は「その理屈は、なにも牛の飼い主(損をした人)に限った話じゃないだろう」とあざけり笑った。
男はさらに続けて言った。
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「だからこそ、人が死を憎むのであれば、生をこそ愛すべきなのだ。生きている喜びを、日々楽しまないで いられようか(いや、楽しむべきだ)。愚かな人は、この(生きているという)楽しみを忘れ、この(命という)財産を ないがしろにして、危うい他人の財産を むさぼるから、いつまで経っても 心が満たされることがない。生きている間に生を楽しまず、いざ死に直面したときになって 死を恐れるというのは、筋が通らない。人が皆、生を楽しまないのは、死を恐れていないからだ。いや、死を恐れていないのではない、死がすぐそばまで 来ていることを 忘れているのだ。もし、生にも死にも執着しない という境地に至っていると言うのなら、それこそが真理を得たと言えるのだが」と言うと、人々はますます(男を)あざけり笑った。
九四
常盤井相国(西園寺
実氏)が
参内しようとされた時、天皇の命令書(勅書)を持った
北面の武士に出くわした。その武士は、
相国という高官(
実氏)に敬意を表して、わざわざ馬から降りて挨拶をした。しかし、
相国(
実氏)は後にこう奏上された。「あの北面の某という者は、勅書を持ちながら、途中で馬から降りた者です。これほど(公務の重さを理解していない)者が、どうして主君にお仕えできましょうか」その結果、その武士は北面の職を解雇されてしまった。
(正しい作法としては、)勅書を馬の上から高く掲げて(高官に)お見せすべきであって、決して馬から降りてはならない、ということだ。
九五
「箱の蓋の
切り欠きに紐を通す際、結び目をどちら側に作るべきでしょうか」
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と、ある有識者に尋ねたところ、次のようなお答えをいただいた。「軸側で結ぶという説と、表紙側で結ぶという説の両方があり、どちらでも間違いではない。ただ、
文箱の場合は、多くは表紙側で結ぶ。手箱(化粧道具などを入れる箱)の場合は、軸側に結び目を作るのが一般的である」とおっしゃった。
九六
「
めなもみ」という草がある。マムシに噛まれた人が、その草を揉んで傷口につけたところ、すぐに治ったということだ。ぜひその姿を見て、覚えておくのがよい。
九七
「付き従っているはずのものが、むしろ本体を損なう」という逆説があります。
・体には、シラミがいる。
・家には、ネズミがいる。
・国には、盗賊がいる。
・小人(徳のない者)には、財産がある。
・君子(指導者・徳のある者)には、仁義がある。
・僧侶には、仏法がある。
九八
一、しようか、よそうか、と迷うことは、だいたいは「しない」のが良い。
(迷う時点で、それは切実な必要性がないという判断です。)
一、悟りを願う者は、ゴミ箱一つさえ持ってはいけない。お経や本尊に至るまで、上等なものを持つのは感心しない。
(道具への執着が 目的を曇らせるという警告です。)
一、世捨て人は、何も持たなくても 困らないように工夫して過ごすのが、最高の方法である。
(持たないことを不便とせず、むしろ「持たないことで身軽になる」という思想です。)
一、身分の高い人は低くなり、
賢い者は愚かになり、富める者は貧しく、才能ある者は無能になるべきである。
(自分の「属性」や「ステータス」に固執せず、それらを捨て去ることで 初めて本質が見えるという、逆転の美学です。)
一、仏道を願うとは、特別なことではない。
暇のある身になって、世間の雑事を 心にかけないのを第一とする。
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(最大の
贅沢は「何もしなくてよい時間」を確保すること。情報の洪水から離れることの重要性を説いています。)
九九
堀川相国久我基具)は、美男子で裕福な方であり、何事につけても 人並み外れた
贅沢や華やかさを好まれた。その息子である
基俊卿が
検非違使(警察)別当(司法の長)として政務を行っていた際、庁屋にある
唐櫃(収納箱)が見苦しいほど古びているというので、
相国(
久我基具)は「立派に作り替えなさい」と命じられた。
しかし、この唐櫃は古代から伝わるもので、いつからあるのかも分からず、数百年も経ったものであった。「代々受け継がれてきた公物(官有財産)は、古びていること自体に価値があり、それが伝統の規範となるものです。軽々しく作り替えることはできません」と、
有職故実に詳しい役人たちが こぞって反対したため、作り替えの話は沙汰止みとなった。
一〇〇
久我相国が、宮中の殿上の間で飲み水をお召しになった時のこと。
主殿司(宮中の雑務を司る役人)が、普通の
土器(使い捨ての杯)を差し上げたところ、
久我相国は「まがり(薄い木を曲げて作った上品な器)を持ってきなさい」とおっしゃって、まがりで水を飲まれた。
一〇一
ある人が、大臣就任の儀式の進行役を務めた時のこと。読み上げるべき重要な書類を、担当の役人から受け取るのを忘れたまま、階段を上がって儀式の場に出てしまった。これは途方もない失態であるが、今さら引き返して取りに行くわけにもいかず、その人は内心ひどく悩み苦しんでいた。その様子に気づいた 六位外記(主に実務を担当した六位相当の官人)の
康綱という者が、衣を頭から被った
女房を抱き込み、こっそりとその宣命を持たせて、目立たないように本人に届けさせた。本当に、見事な計らいであった。
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一〇二
尹大納言
光忠入道(
藤原光忠)が、
追儺(節分の鬼払いの儀式)の責任者を務められた時のこと。儀式の進め方を
洞院の右大臣(
洞院実雄)殿に相談されたところ、右大臣は「(私に聞くよりも)
又五郎男を師匠にするのが、一番の近道でしょう」とおっしゃった。その
又五郎というのは、年老いた衛士(宮中の警備兵)で、公務の作法に深く精通している者であった。また別の時、近衛殿が儀式のために着陣された際、儀式の道具である
軾(膝をつく敷物)を忘れて、事務官(外記)を呼ばれた。すると、そばで火を
焚いていた(身分の低い)者が、「(外記を呼ぶよりも)まずは
軾をお取り寄せになるのが 先決でございましょうな」と、ひそかにつぶやいた。それが実に
趣深く、感心させられた。
一〇三
大覚寺殿(
後宇多上皇の御所)で、近臣たちが なぞなぞを作って
解き合って楽しんでいたところへ、医師の
忠守(
丹波忠守)が参上した。すると、侍従大納言
公明卿(
三条公明)が、即座に「我が国(日本)の者とも見えない
忠守(地方官を指す称号)だな」と、
忠守を題材に なぞなぞを出した。これに対し、誰かが「
唐瓶子(中国風の徳利)」と
解いたところ、一同は大笑いになった。
忠守はこれを聞いて激怒し、退出してしまった。
一〇四
荒れ果てた家で、人目も届かない所に、ある女性が差し障りのある事情があって、所在なく静かに引きこもっている。そこへ、ある人が見舞おうとして、夕月夜のぼんやりと薄暗い時分に、忍んで訪ねて行った。犬が激しく吠え立てるので、下働きの女が出てきて「どちらからですか」と尋ねる。そのまま案内をさせて、中へお入りになった。心細そうな家の様子に、「一体どうやって 過ごしているのだろう」と、ひどく気の毒に思われる。
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粗末な板敷きに、しばらく立っておられると、落ち着き払った気配の、それでいて若々しい声で「こちらへ」と言う人がいる。立て付けが悪く、窮屈そうな引き戸から、その人は中へ入っていかれた。
室内の様子は、外見ほど殺風景ではなく、奥ゆかしく整えられている。
灯火は あちらの方で かすかに灯っているだけだが、調度品のきらめきなどが それとなく見えて、急に
焚き染めたのではない、長い時間をかけて染み付いた香りの 残り香が、実になじみ深く、心
惹かれる住まい方である。(女性が)「門をしっかり閉めておくれ。雨が降るかもしれないから。お車は門の下へ、お供の方は あちらこちらに適当に」と言うと、(供の者が)「今夜こそは、安心してぐっすり眠れそうだ」と内緒話をしているのも、忍んではいるものの、距離が近いために、かすかに聞こえてくる。
さて、これまでの経緯などを(二人が)細やかに語り合っているうちに、早くも夜深い頃の鳥が鳴いた。過去のこと、未来のことまで、真剣に語り合ううちに、今度は鳥がはっきりとした声でしきりに鳴いたので、「もう夜が明けるのだろうか」とお聞きになった。とはいえ、夜明けと共に急いで立ち去らねば ならないような(世俗的な)場所でもないので、少しゆったりと過ごされていたが、戸の隙間が白々と明るくなってきたので、
名残惜しい言葉などを交わして 立ち出でられた。
梢も庭も、目新しく一面に青々と輝いている四月ごろの
曙(明けがた)。その優雅で
趣深い情景を、桂の木の大きな木影が隠れてしまうまで、いまでさえも、その場所を振り返って見送っていらっしゃるのだと、いわれている。
一〇五
北側の屋根の陰に消え残っている雪が、ひどく凍りついている。
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そこに差し寄せた
牛車の
轅(突き出ている2本の長い柄)にも、
霜が激しくきらめき、有明の月(夜が明けてもまだ空に残っている月)が明るく照らしているものの、すべてが明るいわけではない(陰影がある)。そんな人けのない御堂の廊下で、並々ならぬ身分と思われる男が、女と
長押(廊下の板の上)に腰をかけて語り合っている。一体、何を話しているのだろうか。尽きることのない話のようである。男の頭の形や後ろ姿なども、たいそう立派に見えて、言いようもなく良い香が、ふわっと漂ってくるのが 実に素晴らしい。二人の話し声が、途切れ途切れに聞こえてくるのも、もっと知りたいという気持ちにさせられる。
一〇六
高野山の
証空上人が京都へ向かう途中、狭い道で馬に乗った女の一行と行き合った。その女の馬の
手綱を引いていた男が、引き方を誤って、上人の馬を堀へ落としてしまった。上人はひどく立腹して、「これはとんでもない乱暴(狼藉)だ! 仏弟子の四つの身分(
四部弟子)を知らぬのか。
比丘(男性出家者)よりも
比丘尼(女性出家者)は格下、それより
優婆塞(男性信徒)は下、さらに
優婆夷(女性信徒)は一番下である。それほど低い身分の
優婆夷(女)の分際で、
比丘である私を堀へ蹴り落とさせるとは、前代未聞の悪行だ!」と叱り飛ばした。しかし、馬を引いていた男は「何をおっしゃっているのか、さっぱり分かりませんな」と答えた。上人はますます激高して、「何だと、この
非修非学(修行も学問もしていない)の男め!」と荒々しく言い放った。上人は、これで「究極の罵倒」をしてやったぞ、という満足げな様子で、馬を走らせて逃げるように去っていった。
一〇七
「女性から話しかけられた際、即座に、かつ出過ぎず控えめな返答ができる男は、めったにいない貴重なものだ」
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ということで、亀山院の時代、いたずら好きな
女房たちが、若い貴公子たちが参上するたびに、「ホトトギスの声は もうお聞きになりましたか?」と問いかけて、彼らの対応を試していた。ある大納言は、「私のような しがない身分の者は、お聞きすることは できません」と答えられた。一方、
堀川内大臣殿(
堀川殿)は、「岩倉(地名)あたりで聞いたのでしたかな……」と答えられた。
女房たちはこれを聞いて、「
堀川殿の答えは合格。大納言の『しがない身分』なんて言い回しは、わざとらしくて鼻につくわね」と評価し合ったということだ。
総じて、男というものは、女に笑われないように 育て上げるべきだということだ。「浄土寺の前関白(
九条師教)殿は、幼い頃に
安喜門院(皇太后)が教育をなさったので、言葉遣いなどが大変優美なのだ」と、ある人がおっしゃっていた。山階左大臣(
洞院実雄)殿も、「
卑しい下女が自分を見ているときでさえ、ひどく恥ずかしく思われ、細かく気を遣ってしまう」とおっしゃった。もしこの世に女性という存在がいなかったならば、衣服の着こなしも、冠の形も、どうでもよくなって、身なりを整えようとする人など一人もいないだろう。
これほどまでに 男に恥ずかしい思いをさせる(=自分を律させる)女性とは、一体どれほど素晴らしいものかと思えば、その性質はみな歪んでいる。
自意識が強く、欲深く、物事の道理もわかっていない。ただ、迷いの道へとすぐに心移りし、言葉だけは巧みだ。答えても差し支えないことは言わず、かと思えば、こちらが呆れるような(隠しておくべき)ことを自分からペラペラと話し出す。巧妙に人を欺き、飾り立てる術は 男の知恵以上かと思えば、その嘘が 後からすぐバレることに気づいていない。素直でなくて、それでいて浅知恵なのが女性というものだ。彼女たちの心に合わせて 気に入られようとすることは、ひどく情けない(苦痛な)ことだろう。
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そう考えれば、どうして女性の目を気にする必要があろうか。もし本当に
賢い女性がいたとしても、それはそれで可愛げがなく、興ざめだろう。結局のところ、自分の内面に「迷い」を持って、その迷いを認めて生きているとき、その心が、柔らかく(優しく)、また、面白く感じられる。
一〇八
ほんのわずかな時間を惜しむ人はいない。これは、時間の価値をよく知っているからなのか、それとも、ただ
愚かなだけなのか。
愚かゆえに 時間を無駄にしている人のために言うならば、一銭は軽いものだが、これを積み重ねれば 貧しい人を富豪にすることができる。だからこそ、商人が一銭を惜しむ心は切実なのだ。それと同じように、
刹那は意識されないほど短いものだが、これが絶え間なく積み重なっていけば、命が終わる時は、たちまちのうちにやってくる。
だからこそ、道を求める者(仏道の修行をする人)は、遠い月日を惜しむのではなく、ただ今、この一瞬の思いが空しく過ぎ去ることを惜しまねばならない。もし誰かがやってきて、「お前の命は明日、必ず失われる」と告げたなら、今日の日が暮れるまでの間、一体何を頼みとし、何をしようとするだろうか。だが、我々が生きている「今日」という日は、その「死を宣告された日」と一体何が違うというのか(いつ終わるか分からない点では同じではないか)。一日のうちに、食事、排泄、睡眠、会話、移動といった、どうしても避けられない事柄だけで、多くの時間を失ってしまう。その残された わずかな「いとま」のうちに、無益なことをし、無益なことを言い、無益なことを考えて時を過ごすだけでなく、そのまま日を送り、月を重ねて一生を終えてしまうのは、あまりにも愚かなことだ。
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謝霊運は、『法華経』の翻訳に携わるほどの才人であったが、その心は常に俗世の風流や雑念に捉われていたので、(高僧の)
恵遠は、彼が清らかな「
白蓮社(仏教結社)」に加わることを許さなかった。(真理を観ずる)思索が、しばらくの間でも途絶えてしまう時は、死んでいるのも同じである。
私たちが時間を惜しむのは、一体何のためか。それは、内面に雑念がなく、外部に
煩わしい世事がない状態を作り、心静かに居たい人は その静寂に留まり、修行したい人は その道に打ち込めるように するためなのだ。
一〇九
木登りの名人と呼ばれた男が、ある人に指図をして、高い木に登らせて
梢を切らせた。はた目にも非常に危なく見えた間は、名人は何も言わずに じっと見ていたが、作業が終わって降りてくるとき、家の軒先ほどの高さ(約2〜3メートル)になって初めて、「ミスをするなよ。気をつけて降りてこい」と言葉をかけた。(見ていた
私が)「これくらいの高さなら、飛び降りたって降りられる。どうして今さらそんなことを言うのか」と尋ねたところ、名人はこう答えた。「そこが肝心なのです。目がくらみ、枝が折れそうなほど高い場所では、本人が自ら恐れて注意しているので、
私は何も言いません。失敗というものは、必ず、もう安心だと思える易しい場所で 起こるものなのです」
(この木登りの男は)身分の低い者ではあるが、その言葉は聖人の教えにも通じている。
蹴鞠においても、「難しい局面を切り抜けた後、もう大丈夫だと安心した瞬間に、必ず
鞠を落としてしまうものだ」と言われているそうだ。
一一〇
双六の名人と呼ばれた人に、その上達の秘訣を尋ねたところ、こう答えた。「『勝とう』と思って打ってはいけない。『負けないように』と打つべきである。
62/136
どの指し手が、最も早く負けてしまうかをよく考えて、その手は使わないようにし、
一目でも遅く負けるような手を 選ぶべきである」芸の道を知る者の教えは 素晴らしい。自分を律し、国を維持していくための道も、まったくこれと同じである。
一一一
「囲碁や
双六(といった勝負事)に熱中して、明けても暮れてもそればかりして過ごす人は、仏教でいう『
四重』や『
五逆』といった最も重い罪よりも、さらに勝る悪事であると思う」と、ある高徳な僧侶がおっしゃったことが、ずっと耳に残っていて、本当にその通りだと深く感じ入っております。
一一二
「明日は遠い国へ旅立つ」と聞いている人に対して、わざわざ心を乱すような 面倒な頼み事を言いかける人がいるだろうか(いや、いない)。また、急な一大事に対応していたり、切実に嘆くことがあったりする人は、他のことなど耳に入らず、人の悲しみや喜びに見舞いに行くこともしない。周囲もそれを知っているから、「どうしてお見舞いに来ないのか」と恨む人もいない。だとするならば、年を重ね、病が身にまとわり、ましてや俗世を離れた(出家した)ような人は、その「一大事の最中にある人」と全く同じ はずなのだ。
人間の付き合いや儀礼というものは、どれをとっても断り難いものばかりだ。しかし、世間のしがらみを無視できず、それらをすべて「必須項目」として こなしていれば、要求(願い)は増え続け、身は疲れ、心のゆとり(いとま)もなくなり、一生はつまらない雑事の積み重ねに邪魔されて、空しく終わってしまうだろう。日は暮れようとしているのに、道はまだ遠い(死が迫っているのに、成すべきことは終わっていない)。
私の人生は、すでに
躓き、回り道をしてしまった。今こそ、あらゆる執着を投げ捨てるべき時なのだ。もはや、約束を守ろうとも思わない。礼儀を重んじようとも思わない。
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この真意を理解できない人は、
私のことを「狂人」とでも言うがよい。「正気ではない」「人情がない」と思われても構わない。悪口を言われても苦にしないし、
褒められても聞き入れはしない。
一一三
四十歳を過ぎたような人が、色恋に関することを、心のうちで密かに思っている くらいなら まだしも、言葉に出して、男がどうの女がどうのと、他人の噂話までして ふざけ合っているのは、その年齢にふさわしくなく、実に見苦しいものだ。
およそ、聞いていて耳障りで、見ていて見苦しいことといえば、老人が、若者の輪の中に混じって、自分も面白い人間だと思われようとして、しゃしゃり出て話している様子。身分の低い者が、世間で名声のある人のことを、まるで親友であるかのように(敬意を欠いた)馴れ馴れしい様子で語っている有様。貧しい家なのに、盛んに酒宴を催して、客人を豪華にもてなそうと、きらびやかに飾り立てて見せびらかしている様子。
一一四
今出川の大殿(西園寺
実兼)が
嵯峨へお出かけになった際、有栖川のあたりで水が流れている場所を通りかかった。牛飼の
賽王丸が牛を
急き立てて追ったところ、跳ね上がった水が大殿の車の前板まで「ささっ」とかかってしまった。車の後ろに従っていた為則という男が、「なんてとんでもない子供だ。こんな(水のある)場所で牛を
急かすものか!」と叱りつけると、大殿は不機嫌になり、「お前ごときが、車を走らせることについて、
賽王丸以上に知っているはずが なかろう。とんでもない(知ったかぶりをする)男だ!」と仰って、怒りのあまり 御車に頭をぶつけんばかりに激高された。この名高い
賽王丸という男は、
太秦殿(源
定清)の召使いで、お抱えの(超一流の)牛飼いだったのである。
この
太秦殿に仕えていた
女房たちの名前は、一人は「ひざさち(膝の幸)」
64/136
、一人は「ことづち(事の槌)」、一人は「はふばら(這ふ腹)」、一人は「おとうし(御通し)」と名付けられていた(‥身内のスタッフに、ちょっとした身体的特徴や日常のダジャレで、おかしなニックネームをつけていたよう)。
一一五
宿河原という所で、
ぼろぼろ(無宿の念仏者)たちが大勢集まって 九品の念仏(極楽往生を願う厳かな念仏)を唱えていた。そこへ、外から入ってきた一人の
ぼろぼろが、「もし、この中に『
いろをし房』という名の
ぼろは いらっしゃいますか」と尋ねた。中から「
いろをしは ここにいる。そう言うお前は誰だ」と答えると、「『しら
梵字』という者だ。私の師匠である某という人が、東国で
いろをしという
ぼろに 殺されたと聞いた。その人に会って、仇を討ちたいと思って探していたのだ」と言う。
いろをしは、「わざわざよく尋ねてこられた。確かにその通りだ。だが、ここ(念仏の場)で対面しては 道場を汚してしまう。前の河原へ行って立ち合おう。他の方々、決してどちらの加勢もなさるな。大勢の争いになれば、仏事の妨げになる」と言い定めた。二人は河原へ出て、気の済むまで互いに突き合い、共に死んだ。
「
ぼろぼろ」という者は、昔はいなかったのだろうか。近頃になって、「ぼろんじ」「梵字」「漢字」などと呼ばれる者たちが現れたのが 始まりだという。彼らのありさまは、俗世を捨てた
隠遁者のようでありながら
我執が強く、仏道を求めているようでありながら 争い事ばかりしている。
奔放で、恥を知らない ひどい様子ではあるが、死を軽く考えて、少しも執着しない点の 潔さが立派に感じられたので、人が語った そのままを書き留めたのである。
65/136
一一六
寺院の名前をはじめ、そのほか あらゆるものに名前をつける際、昔の人は(凝った名前を)少しも求めず、ただありのままに、わかりやすく付けたものだ。それに引きかえ、最近の人は、深く考え込み、自分の教養や才能を ひけらかそうとしているように 聞こえる名前をつける。それは実に
煩わしいことだ。人の名前にも、見慣れない珍しい漢字を使おうとするが、そんなことは全く無益なことである。
何事においても、珍しいこと(目新しいこと)を追い求め、一般的ではない変わった説を好んで振りかざすのは、浅はかな才能しかない人が 必ずやってしまうことだ、と言われている。
一一七
友だちにするのに ふさわしくないものが七つある。
- 高貴で身分の高い人(気疲れし、対等でいられない)
- 若すぎる人(価値観が合わず、振り回される)
- 健康で体が強すぎる人(こちらの弱さや病みを理解してくれない)
- お酒を好みすぎる人(時間と理性を奪われる)
- 猛々しく勇猛な武士(トラブルに巻き込まれるリスクが高い)
- 嘘をつく人(信頼関係のベースが崩れる)
- 欲深い人(利用されるだけで終わる)
逆に、良い友だちは三つある。
- 物をくれる友(現実的な助けをくれる)
- 医者(身体というハードウェアのメンテナンスに不可欠)
- 知恵のある友(思考の間違いを助けてくれる)
一一八
鯉の吸い物を食べた日には、髪の毛のほつれが起きないという。鯉は「
膠」の原料になるものだから、その粘りけのある成分が体に作用するのだろう。
鯉だけは、天皇の御前でさばくことも許される、格別に高貴な魚である。鳥の中では雉(きじ)が、並ぶものがないほど優れている。
66/136
雉や松茸などは、御湯殿の上(調理場近くの棚)にそのまま吊るしてあっても苦にはならない。しかし、それ以外のものが置いてあるのは、情けないことだ。(ある時)中宮様の御湯殿の上の黒檀の棚に、
雁がそのままの姿で置かれているのを、北山入道殿(西園寺
実兼)がご覧になった。お帰りになってからすぐに手紙を差し上げ、「あのような(野暮な)鳥が、そのままの姿で棚に鎮座していたのは、見たこともないほど体裁の悪いことです。しっかりとした(教養のある)家臣がついていないせいでしょう」と苦言を呈されたそうだ。
一一九
鎌倉の海で獲れる鰹(かつお)という魚は、あちらの地方では並ぶものがないほど珍重され、最近では(都でも)もてはやされている。しかし、鎌倉の老人が申していたことには、「この魚は、我々が若かった頃までは、身分の高い方の前へ出るようなものではなかった。頭にいたっては、下男たちでさえ食べず、切り捨てていたものだ」ということであった。
こうした(かつては
卑しかった)物までもが、世も末になると、高貴な身分の人々の生活にまで 入り込んでくるように なるものなのだなあ。
一二〇
中国(唐)の品物は、薬以外は、なくても困ることはない。書物などは、すでにこの国にたくさん広まっているのだから、それを書き写せば済むことだ。中国船が、決して容易ではない航路を 命がけで渡ってくるというのに、必要のない代物ばかりを詰め込んで、船内を狭くしてまで運んでくるのは、実におろかなことである。
「遠くにある珍しいものを宝としてはならない」とも、また「手に入れにくい宝を
貴んではならない」とも、中国の古い書物に書かれているということだ。
一二一
養い飼うべきものといえば、まずは馬と牛だ。
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つないで不自由な思いをさせるのは可哀想だが、生きていく上でなくてはならない(生活基盤を支える)ものだから、こればかりはどうしようもない。犬は、家を守り外敵を防ぐという役割において、人間よりも優れているから、必ず飼っておくべきだ。とはいえ、どこの家にもいるものだから、わざわざ(血眼になって)探し求めてまで飼う必要はないだろう。そのほかの鳥や獣は、すべて(実用性のない)無用なものである。
走る獣は
檻に閉じ込められ、鎖に
繋がれる。飛ぶ鳥は羽を切られ、籠に入れられて、雲を恋しがり、野山を思う嘆きが止むときはない。その苦しみを自分自身の身に置き換えて考えてみて、耐え難いと思うならば、心ある人がどうして これを(眺めて)楽しむことができようか。生き物を苦しめて、自分の目を楽しませようとするのは、(古代の暴君である)
桀王や
紂王のような残酷な心である。
王子猷が鳥を愛したのは、林の中で自由に遊ぶ姿を見て、共に連れ立って歩く友としたのだ。決して捕らえて苦しめたのではない。「およそ珍しい鳥や、奇妙な獣を、国で飼ってはならない」と、書物(古典)にも書かれているのだ。
一二二
人の才能として、第一にすべきは、学問を修めて聖人の教えを理解することだ。次には、字を書くこと。専門家になるほどではなくても、習っておくべきだ。学問を助けるための便利な道具になるからだ。次に、医術を習うべきだ。自分の健康を管理し、人を助け、親や主君への務めを果たすにも、医学の知識は欠かせない。次に、弓術と馬術。これらは「
六芸(古代の基本教養)」に含まれている。必ずこれらを身につけるよう努めるべきだ。文(学問)、武(武芸)、医(医学)の道は、本当に欠かしてはならないものだ。これらを学ぶ人を「無為な人(暇人)」と言ってはならない。次に、食は人の命の根本である。
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料理の味をよく整える方法を知っている人は、大きな徳を持っていると言える。次に、手細工(工作・技術)。あらゆる場面で必要とされることが多い。
これら(文・武・医・食・細工)以外の事については、あまりに多くの才能を持つことは、教養ある者がむしろ恥とするところだ。詩歌に巧みで、楽器の演奏に優れていることは、奥深い「幽玄の道」であり、主君も臣下もこれを重んじてはいる。しかし、今の世において、これらの芸をもって世を治めようとするのは、いかにも愚かなことに思える。それは、
金という金属は 確かに優れていて高価だが、実用的な利益の多さにおいては、
鉄の便利さには及ばないようなものだ。
一二三
無益なことに熱中して時間を浪費する人を、愚かな人、あるいは道理に外れた人と言うべきだ。国のため、主君のために、どうしても なさねばならない公務は多い。その余りの自由な時間(暇)は、実はいくらも残されていないのだ。よく考えるべきだ。人が生きていく上で、どうしても営まなければ ならないことは、第一に食べること、第二に着ること、第三に住む場所を確保することだ。人間の大事なことは、この三つに過ぎない。飢えず、寒からず、風雨にさらされず、静かに過ごすこと。これをこそ「楽しみ」とすべきだ。ただし、人間には皆、病気という障害がある。病に冒されれば、その苦しみは耐え難い。だから医療を忘れてはならない。最初の三つに「薬」を加えて、この四つを手に入れられないことを「貧しい」と言い、この四つが欠けていないことを「富んでいる」と言うのだ。この四つのほかに何かを求め、追い求めることを「贅沢」という。この四つのことについて節約(シンプルに)しているならば、誰が「足りない」などと言うだろうか。
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一二四
是法法師は、浄土宗の教えに背いているわけではないが、かといって「自分は学者である」といった肩書きを立てることもない。ただ、明け暮れ念仏を唱え、安らかに一生を過ごしている。そのありさまは、本当に理想的なものだ。
一二五
知人の葬儀のあと、四十九日の法要に、ある高名な僧侶をお招きしたところ、その説法が実に見事で、参列者は皆、感動して涙を流した。その僧侶が帰られた後、聞いていた人々が「いつもより、今日は格別に尊く感じられましたね」と感動を分かち合っていたのだが、その返事にある男がこう言った。「何はともあれ、あのお方の顔つきが、立派な『
唐犬(中国産の大型犬)』にそっくりだったのが、何よりでしたな」この一言で、せっかくの感動も冷めてしまい、おかしな空気になってしまった。それにしても、説法の素晴らしさを褒めるのに、そんな言い方があるだろうか(いや、ない)。
また、その男はこうも言った。「人に酒を勧めようとして、自分からまず飲んで、そのあと相手に無理やり飲ませようとするのは、剣で人を斬ろうとするのと似たようなものだ。剣というものは、両方に刃がついている(諸刃の剣)。だから、高く振り上げた瞬間に、まず自分の頭を斬ってしまう。だから相手を斬ることなどできないのだ。自分が先に酔っ払って寝込んでしまえば、相手はもう飲まされることはないのだから」本当に剣で斬りつけて試してみたのだろうか。その例えがあまりに奇妙で、面白かった。
一二六
「博打で、相手が負けが込んでしまい、残りの全財産を すべてつぎ込もうとしている時には、勝負をしてはならない。(そのどん底の状態こそが)運気が反転して、立て続けに勝ち出すタイミングが来ている と知るべきだ。
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その『時の転換点』を見極めることができる者こそを、優れた博打打ちと言うのである」と、ある人が申していた。
一二七
改めたところで特にプラス(益)にならないようなことは、改めないのが一番良い。
一二八
雅房大納言(
土御門雅房)は、才能豊かで
賢く、立派な人物だったので、天皇(
後二条院)は大将の職に就けようと お考えになっていた。そんな折、院の側近が「たった今、呆れ果てたことを見てしまいました」と申し上げた。「何事だ」とお尋ねになると、「
雅房卿が、鷹の餌にしようとして、生きた犬の足を切り取っておりました。垣根の穴から確かに見てしまったのです」と報告した。院はこれを聞いて、
雅房を
疎ましく、憎らしくお思いになり、これまでのご
寵愛も一変して、
雅房が昇進することもなく終わってしまった。そもそも、あれほど立派な人が鷹を飼っていたということ自体、意外なことではあるが、「犬の足を切った」というのは 全くの根も葉もない嘘であった。
雅房にとっては、嘘のせいで昇進を逃したのは 気の毒なことだが、そのような残忍な話を聞いて、すぐさま激しい怒りを感じられた院のお心は、実に尊く立派なことである。
およそ、生きているものを殺したり、痛めつけたり、戦わせたりして、それを遊びとして楽しむような人は、
獣のように 残酷な連中と同じである。あらゆる鳥や獣、そして小さな虫までも、心を込めてその様子を観察してみると、子を思い、親を
慕い、夫婦で連れ添い、嫉妬し、怒り、欲にかられ、自分の体を
慈しみ、命を惜しむ。そのありさまは、理屈(知性)で制御できない分、むしろ人間よりも強烈でさえある。それほどの思いを持っている彼らに苦しみを与え、命を奪うことが、どうして「痛ましい」と思わずにいられようか(いや、耐え難いことだ)。
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すべて、この世に生きている あらゆるものを見て、
慈しみ憐れむ心が湧かないのであれば、それはもはや人間とは言えないのである。
一二九
孔子の弟子である
顔回は、「自分の苦労を人に押し付けない」という志を持っていた。すべてにおいて、人を苦しめ、生き物を
虐げることはもちろん、身分の低い民の意志であっても、それを無理やり奪ってはならない。また、幼い子供をだましたり、脅したり、あるいは言い負かして恥をかかせたりして、それを面白がる大人がいる。
分別のある大人は「嘘なのだから、大したことではない」と思うだろうが、幼い心にとっては、身にしみて恐ろしく、恥ずかしく、情けないという思いは、本当に切実なものなのだ。子供を困らせて面白がるのは、決して「慈悲の心」ではない。大人が喜んだり、怒ったり、悲しんだり、楽しんだりするのも、仏教から見ればすべては「虚妄(実体のない幻)」ではある。だからといって、誰もがそれを「本当のこと」として 執着せずにはいられない。
体に傷を負わせるよりも、心に傷を負わせる人の方が、相手を害する度合いは はるかに大きい。病にかかるのも、その多くは心(精神的な要因)から生じるものだ。外部からやってくる病(感染症など)は、実は少ないのである。薬を飲んで汗を出そう(発汗療法)としても、効果が出ないこともあるが、一方で、ふとした瞬間にひどく恥じたり、恐ろしい思いをしたりすると、必ずどっと汗が流れる。これは、発汗という現象が「心のしわざ」であることの 何よりの証拠だと知るべきだ。(
魏の時代の名筆家が)「
凌雲台」の
額の文字を、高所で命がけで書いたあまり、その恐怖で一晩のうちに髪が 真っ白になってしまったという例も、決して作り事ではないのだ。
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一三〇
何事においても人と争わず、自分の意地を曲げてでも人に従い、自分を後回しにして他人を優先すること。これに勝る(処世の)策はない。
あらゆる遊びにおいて勝負を好む人は、勝って面白がりたいからだ。自分の技術(芸)が勝っていることを喜びたいのである。だからこそ、負ければ面白くないと感じることも、当然のこととして わかっているはずだ。(それなのに)「自分が負けて相手を喜ばせてやろう」などと思えば、遊びそのものが全く面白くなくなってしまうだろう。かといって、相手に不本意な思い(悔しさ)をさせて、自分の心を
慰めるというのは、「徳」に
背く行為である。親しい仲で冗談を言い合う時も、相手を出し抜いたり
騙したりして、自分の知恵が勝っていることを面白がる。これもまた「礼」ではない。だから、最初は楽しい宴会から始まったことが、結局は長く続く恨みに 変わってしまう例が多いのだ。これらはすべて、争いを好むという「過ち」から生じている。
もし、どうしても他人より勝りたいと思うのなら、ただ学問に励み、その知恵において他人を上回ることを目指すべきだ。正しい道を学ぶのであれば、「自分は
善いことをした」と
自惚れず、仲間と争ってはならない、という
理を
自ずと知ることになるからだ。高い地位を辞退し、目先の利益を捨てることができるのも、ひとえに学問によって得られた 精神の力なのである。
一三一
貧しい者は、無理をして高価な品を贈るのではなく、わずかな「財」を誠意としてもって「礼」とすればよい。老いた者は、若者のように機敏に動くのではなく、残されたわずかな「力」を尽くすことこそが「礼」なのである。
自分の能力(分)を正しく把握して、これ以上は及ばない(無理だ)と判断したときに、
速やかに
潔くやめること。これこそを「知恵」というべきだ。
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もし、それを周りが許さないのであれば、それは周囲の側の誤りである。しかし、自分の限界をわきまえずに、無理をして励み続けるのは、自分自身の誤りである。
貧しいのに自分の経済的な限度(分)をわきまえなければ、やがて(追い詰められて)盗みを働くようになる。体力が衰えているのに自分の限界(分)をわきまえなければ、無理がたたって病気になってしまう。
一三二
「鳥羽の作道」という名称は、鳥羽殿(
鳥羽上皇の離宮)が建てられた後に付いた名前ではない。ずっと昔からの名称である。
元良親王が、元日の儀式で祝辞を述べる声があまりに素晴らしく、
大極殿から鳥羽の作道まで聞こえてきたという話が、
李部王(
醍醐天皇の皇子、重明親王)の日記に書かれているということだ。
一三三
天皇の夜の寝所では、枕を東に向けるのが定石である。そもそも、東を枕にすることで 太陽のエネルギーを受けるべきだという理由から、聖人である孔子も東を枕にして寝ていた。
寝殿造りの一般的なしつらえでは、南向きに寝るのが普通のことである。しかし、
白河院は(あろうことか)北を枕にしてお休みになっていた。周りの人はこれを見て、「北枕は(死者の方向であり)
忌むべきことです。また、伊勢神宮は(京都から見て)南の方角にあります。
太神宮に足を向ける形になるのは いかがなものでしょうか」と進言した。ただし、(実際の配置を計算してみると)太神宮を
遥拝する(向かって拝む)方角は「
巽(東南)」であって、真南ではないのである。
一三四
高倉院の法華堂に仕えていた
三昧僧で、
何某の
律師(徳望の高い僧に対する尊称)という者がいた。ある時、彼は鏡を手に取って 自分の顔をつくづく眺めてみたところ、自分の
形貌(容姿)があまりに
醜く、情けないことに心底嫌気がさしてしまった。
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鏡を見ることさえ
疎ましくなった彼は、その後、長い間鏡を恐れて手に取ることすらなくなり、さらに他人と交際することも一切やめてしまった。ただ御堂での
勤行の時だけ姿を見せ、それ以外は 部屋に引きこもっていたと 聞き及んでいるが、その生き方は実に尊く(ありがたく)感じられた。
賢そうな人でも、他人のことばかり批評して自分自身のことを知らない。自分のことを知らずに、世界の理を知るなどということはあり得ない。ゆえに、自分自身を正しく知っている人こそ、本当に「物知り」と呼べるのだ。人は、自分の容姿が
醜いことも、心が愚かなことも、技術(芸)が未熟なことも、自分の地位が取るに足らないことも知らない。年老いたことも、病に冒されていることも、死が迫っていることも、修行が未熟なことも知らない。自分の欠点を知らないのだから、まして他人が 自分をどう批判しているかなど 知るはずもない。ただし、容姿は鏡を見ればわかるし、年齢は数えればわかる。自分のことを「知らない」わけではないのだが、どうしようもない(解決策がない)ので、知らないふりをしているだけだ とも言える。だが、容姿を変えろ、若返れと言っているのではない。自分の未熟さを知っているなら、なぜすぐに(表舞台から)退かないのか。老いたと知っているなら、なぜ静かに隠居して、心身を安らかにしないのか。修行が足りないと知っているなら、なぜ他のことは差し置いて そのことに専念しないのか。
およそ、人から好かれもしないのに人混みに交じっているのは、恥ずべきことである。容姿が
醜く、気も利かないのに
出仕し、無知なのに天才たちに交じり、未熟な芸しか持たないのに達人の座に並び、白髪の頭で若者たちと肩を並べる。ましてや、分不相応な望みを持ち、叶わないことを嘆き、来もしない幸運を待ち、人を恐れ、人に
媚びるのは、他人が与える恥ではない。
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自分の貪欲な心に引きずられて、自分自身を
辱めているのだ。
貪る心が止まらないのは、「死」という人生最大の大事が、今まさに目の前に来ているということを、確信を持って理解していないからである。
一三五
資季大納言入道という人が、
具氏宰相中将に向かって、「お前が尋ねるようなことなら、何であっても答えられないことは ないぞ」と言い放った。
具氏が「はたしてそうでしょうか」と返すと、「それなら、賭けをしようではないか」と言い出した。
具氏は「本格的な学問のことは少しも存じませんので、お尋ねするまでもありません。何ということもない、たわいもない事の中から、ふと疑問に思うことをお聞きしましょう」と答えた。大納言は「ましてや、その程度の浅いことなら、何でも
解き明かして見せよう」と言い、
近習(主君の近くに仕える 人)や
女房たちも「これは面白い勝負だ」と盛り上がった。「せっかくなら帝の御前で争うべきだ。負けた方が宴会の料理を振る舞うことにしよう」と決まり、御前で対決することになった。
具氏が問いかけた。「幼い頃から聞き慣れておりますが、その意味を知らぬ言葉がございます。『
むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんとう』というのは、一体どういう意味でしょうか。お教えください」大納言入道は、はたと思い詰まってしまい、「そんなものはデタラメだから、説明するにも足りない」とはぐらかした。
具氏は「最初から、深い学問のことは知らないと申しました。そぞろごとを尋ねると約束したはずです」と追及した。結局、大納言入道は負けとなり、豪華な宴会を催す羽目になったということだ。
一三六
医師の
篤成(
和気篤成)が、亡き法皇(
後醍醐天皇など)の御前に控えていた。
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食事が運ばれてきた際、
篤成はこう豪語した。「今ここに並んでおりますお食事の品々について、その漢字の書き方も効能も、陛下に一つずつお尋ねいただければ、私は何も見ずに空で答えてみせましょう。どうぞ『本草(医学書)』と照らし合わせてみてください。一つとして言い誤ることはございません」ちょうどその時、六条内府(
有房公)が参上され、「ならば、ついでに私も教わりたいものだ」と言って、こう問いかけた。「まず、『しほ(塩)』という文字は、
何偏でしょうか」
篤成は(自信満々に)「土偏でございます」と答えた。すると内府は、「お前の才能のほどは、もう知れた。これ以上聞く必要はない。何も期待できんわ」と言い放った。あたりは(
篤成の無知を笑う)どよめきに包まれ、彼は(恥をかいて)退出してしまった。(ちなみに「塩」の漢字は本来「鹽」で、何偏かは現在でも議論の対象になっている)
一三七
桜の花は満開の時だけを、月は曇りのない満月だけを見るべきもの だろうか。いや、そうではない。雨の夜に(見えない)月を想い、部屋に閉じこもったままで、また 春が過ぎ去るのを知らずにいるのも、またしみじみと
趣深く、情緒があるものだ。今にも咲きそうな
梢や、散ってしおれた花の散る庭などにこそ、見るべきところは多い。和歌の
詞書に、「花見に出かけたが、すでに散り過ぎていたので」とか「差し支えがあって 行けなかったので」などと書いてあるのは、「花を見て」と題して
詠まれた歌に劣るものだろうか。決してそんなことはない。花が散り、月が沈むのを
名残惜しく思うのは当然のことだが、とりわけ教養のない無風流な人に限って、「この枝もあの枝も散ってしまった。もう見る価値はない」などと言うのである。
あらゆる物事は、その始まりと終わりこそが
趣深いものだ。
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男女の愛も、ただ実際に逢って 添い遂げることだけを言うのだろうか。いや、そうではない。逢えないまま終わってしまった辛さを想い、
儚い約束を嘆き、長い夜を独り眠れずに明かし、遠い空の彼方にいる相手に思いを
馳せ、草の生い茂る荒れた宿で かつての恋を懐かしむ。これこそが、本当の「ロマンチスト(恋の風情を
解する人)」と言えるのだ。
満月が
隈なく照らしているのを 遠くまで眺めるよりも、明け方近くなって ようやく待ちわびた月が現れるほうが、格段に心深く感じられる。その月が青みがかった色をして、深い山の杉の
梢に見え隠れする様子や、木々の間に落ちる影、そして、しとしとと降る
雨の 雲に隠れようとする瞬間の風情は、比べるものがないほど しみじみと
趣深い。
椎や
樫の、雨に濡れて光る葉の上に 月の光がキラキラと反射している様子などは、身に染みるほど美しく、「この感動を分かち合える、風情のわかる友がいてほしい」と切実に思われ、都の暮らしが恋しく思い出されるのだ。
およそ月や花を、ただ目だけで見るものだろうか。春は家から一歩も出ず、月の夜は寝室の中にいながらにして、外の情景を想像することこそ、心
強く、
趣深いものなのだ。教養のある人は、いかにも「好きです」という風を露骨に見せず、面白がる様子もあっさりとしている。それに対して、無粋な田舎者ほど、何事も大げさに面白がり、執着を見せるものだ。花の下では、ねじり寄るように近づき、わき見もせずに じっと見つめて、酒を飲み、連歌に興じ、最後には情け容赦なく大きな枝を折り取ってしまう。泉を見れば手足を突っ込み、雪が降れば わざわざ外に出て足跡をつけたりする。あらゆる物を、離れたところから静かに眺めるということが できないのだ。
そういう無粋な人たちが祭を見る様子は、実に奇妙なものだった。「行列が来るのが遅い。それまでは
桟敷にいても無駄だ」
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と言って、奥の部屋で酒を飲み、食事をし、囲碁や
双六に興じている。
桟敷には見張りを置いておき、「行列が参りました!」という知らせが入ると、誰もが肝をつぶしたように争って走り上がり、今にも落ちんばかりに
簾から身を乗り出し、一事も見逃すまいと見守って、「ああだ、こうだ」と一々口出しをする。そして行列が通り過ぎると、「次が来るまで」と言ってまた部屋へ下りてしまう。
彼らは、ただ「物」だけを見ようとしているのだ。一方、都の教養ある立派な人々は、うとうとと居眠りなどして、それほど熱心には見ない。若い侍従や下仕えの者たちも、主人の後ろに控えている者は、見苦しく身を乗り出したり、無理に見ようとしたりする者もいない。何となく
葵を飾り立てて優雅な雰囲気の中、夜が明けきらぬうちから、人目を忍んで車を寄せる様子などは、一体誰だろうかと興味をそそられる。あちらの車、こちらの車と推測していると、牛飼いや従者などに見覚えがある者もいる。
趣深く、また華やかに、様々な人々が行き交うのを眺めるだけでも退屈しない。日が暮れる頃には、隙間なく並んでいた車も、場所がないほど並んでいた見物人も、どこへ行ってしまったのか、ほどなく
疎らになる。車の騒がしさも静まり、
桟敷の
簾や畳も取り払われて、目の前が寂しくなっていく様子こそ、この世の
常理が思い知られて、しみじみと
趣深い。こうした大路の様子を眺めることこそが、本当に「祭を見た」ということなのだ。
祭の
桟敷の前を行き交う大勢の人の中に、見知った顔がいくつもあるのを見て、
私は悟った。この世に生きている人間の数など、それほど多くはないのだ。この人々が皆死に絶えた後、
私の番が来ると決まっているとしても、その時はすぐにやってくるだろう。大きな器に水を入れて細い穴を開ければ、
滴る水は少なくとも、絶え間なく漏れ続ければ、やがて水は尽きてしまう。
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都の中にこれほど多くの人がいれば、誰一人死なない日などあるはずがない。一日に死ぬのは一人二人どころではないだろう。
鳥部野や舟岡、その他の野山にも、葬送の列が多い日はあっても、列のない日はない。だから棺を売る者は、作っても置いておく暇がないほどだ。若さも強さも関係ない。思いがけずやってくるのが死期である。今日まで生き延びてこられたのは、めったにない不思議な奇跡なのだ。ほんの少しの間でも、この世をのんびり
安穏なものだと思っていられようか。「
継子立て」という遊びがある。
双六の駒を並べている間は、次にどの駒が取られるか分からないが、数え当てて一つ取られれば、他の駒は助かったように見える。しかし、また数え直せば、あちらこちらと間引かれていき、結局どれも逃れられないのと似ている。兵士が戦場へ出る時は、死が近いことを悟って、家も身も忘れて戦う。俗世を離れた草の
庵で、静かに水石を
愛でて「死は自分とは無関係だ」と思っているのは、実にはかない錯覚である。静かな山の奥であっても、無常という名の敵が襲いかかってこないだろうか。死に直面していることは、戦場の最前線にいるのと全く同じなのだ。
一三八
「祭が終わってしまえば、後に残った
葵など不要だ」と言って、ある人が
御簾に飾っていた葵を すべて取り外させてしまった。
私はそれを、なんと風情のないことだろうと思ったが、身分の高い立派な方が なさることなので、そういうもの なのだろうかとも考えた。しかし、
周防内侍の歌に、
かくれども かひなき物は もろともに
みすの葵の 枯葉なりけり
【訳】
(どれほど身を隠そうとしても)隠しきれず、甲斐がないのは、あなたと一緒に見た 御簾にかかっている 葵の枯葉だったのだなあ
とあるのも、母屋の
御簾にかかっていた葵の枯葉を
詠んだものだと、彼女の家集に書かれている。
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古い歌の
詞書にも、「枯れた葵に添えて贈った」という例がある。『枕草子』にも、「過ぎ去った日々が恋しく思い出されるもの、それは枯れた葵である」と書いてあるのは、実になつかしく素晴らしい着眼点だ。
鴨長明の『四季物語』にも、「
御簾に祭の後の葵が残っている」と書かれている。自然に枯れていくのを待つのさえ
趣があるというのに、わざわざ跡形もなく取り捨ててしまうなんて、どうしてそんなことが できようか。
(御室の物知りの人が言うには、)
御帳台(寝所)に掛けられている薬玉(五月五日の端午の節句の魔除け)も、九月九日(
重陽の節句)に菊に取り換えられると言うのだから、端午の
菖蒲は、秋の菊の季節まで(枯れたまま)ずっと掛けられているものなのだろう。(現に、このような古い話がある。)枇杷皇太后宮(
藤原延子)が崩御なさった後、(主を失った)古い御帳台の中に、当時の菖蒲や薬玉などが すっかり枯れたまま残っていたのを見て、「(もう五月でもないのに)季節外れのあやめの根を、今でもなお 心にかけて恋い慕っております」と、
弁の乳母が詠んだのに対し、その返歌として、「(主人は亡くなってしまいましたが)あの楽しかった五月のあやめの草は、当時のまま枯れて残っております(あなたと同じように、私もお慕いしております)」と、
江侍従が詠んだ、あの有名な歌の通りなのだよ。
一三九
自宅に植えておきたい木は、松と桜だ。松は五葉松も良い。桜の花は、
一重のものが良い。八重桜はかつて奈良の都にだけあったものだが、最近は世間に多く出回っているようだ。吉野の桜も、京都御所の左近の桜も、みな一重である。八重桜はどこか異様な感じがする。くどくて、ひねくれているようだ。あえて植えなくてもよいだろう。時期外れに咲く遅桜も興ざめだし、虫がついているのも不快だ。梅は白梅、あるいは薄紅梅が良い。
81/136
一重の梅が早くに咲いたのも、八重の紅梅の香りが素晴らしいのも、どちらも
趣がある。ただ、遅咲きの梅が、桜の開花時期と重なってしまい、桜に見劣りし、圧倒されて枝にしぼみついている様は情けない。「一重の梅が真っ先に咲いて、潔く散るのが、気が利いていて素晴らしい」と言って、
京極入道中納言(藤原
定家)は、わざわざ一重の梅を軒近くに植えられた。京極の屋敷の南向きに、今も二本あるようだ。柳もまた
趣深い。四月ごろの若々しい
楓は、およそすべての花や紅葉よりも、何にも勝って素晴らしいものだ。
橘や
桂などは、いかにも年月を経て、大木になっているのが良い。
草花で植えておきたいのは、
山吹、
かきつばた、
なでしこ。池には、
蓮。秋の草なら、
荻、すすき、
桔梗、
萩、
女郎花、
ふじばかま、
紫苑、
われもこう、
かるかや、
りんどう、そして菊。黄菊も良い。つた、
くず、朝顔などは、どれもあまり高くなく、ささやかな垣根に、繁りすぎない程度に絡んでいるのが良い。これら以外の、世間に滅多にない珍しいものや、唐(中国)風の聞き慣れない名前で花も見慣れないようなものは、全く心
惹かれるものではない。
およそ、何事であっても、珍しくて滅多にないものを ありがたがって面白がるのは、教養のない、見識の低い人である。そのような(見栄を張るための)珍品などは、なくて済むものなら、ない方がよほど良い。
一四〇
自分が死んだ後に財産が残っているというのは、知恵のある者のすることではない。つまらない物を溜め込んでいるのも見苦しいし、立派な物であれば「さぞかし執着していたのだろう」と思われて、それもまた虚しいことだ。ましてや遺品が
仰々しく多いのは、実に情けない。死後に「これこそ俺がもらおう」などと言う者たちが現れて、奪い合いの争いをするのは、目も当てられない惨状である。
82/136
もし、死後に誰かに譲りたいと思う物があるのなら、生きているうちに譲ってしまうべきだ。日々の暮らしに欠かせない最小限の物はあるだろうが、それ以外は何も持たずに いたいものである。
一四一
悲田院の尭蓮上人は、俗名(出家前の名前)を三浦の何某(なにがし)といったそうで、並ぶ者のないほど勇猛な武士であった。
尭蓮上人の同郷(関東)の人がやってきて、こんな話をしていた。「やはり
坂東武者こそ、言ったことに責任を持つので頼りになります。都の人は、口先ばかりの返事は良いのですが、誠実さがありません」これを聞いた上人は、こう言われた。「あなたはそうお思いでしょうが、私は都に長く住んで 慣れ親しんで見ておりますと、都の人の心が劣っているとは思いません。全般的に心が柔軟で、情に厚いために、相手の言うことをきっぱりと拒絶しにくく、何事も言い放つことができず、つい気弱に引き受けてしまうのです。決して最初から 嘘をつこうと思っているわけでは ありませんが、生活が苦しく余裕のない人が多いので、自然と(約束を守りたくても)思い通りにいかないことが多いのでしょう。一方、坂東武者は私の同郷ではありますが、実際のところ風情がなく、風情に欠け、ただひたすら無骨で頑固なものですから、最初から『できない』と言って終わらせてしまうだけなのです。彼らは生活が豊かですから、結果として人から頼りにされる だけのことですよ」上人がこのように道理を説かれたのを聞いて、
私は驚いた。この上人は、声もなまっていて荒々しく、
難しい仏教の理論など 細かくは理解していない のではないかと 思っていたのだが、この一言を聞いてから、上人が奥ゆかしく立派な人に思えてきた。
83/136
多くの僧がいる中で、大きな寺を任されているのは、このように柔軟で包容力のある一面があり、それが徳となっているからなのだな、と感銘を受けたのである。
一四二
教養がないように見える者でも、時に素晴らしい一言を言うものだ。ある荒々しい東国武士で、いかにも恐ろしげな男が、知人に会って「お子様はいらっしゃいますか」と尋ねた。知人が「一人もおりません」と答えたところ、その男はこう言った。「それでは、あなたは『もののあわれ(人の情愛や情緒)』をご存じないでしょう。情けのない冷酷な心をお持ちに違いないと思うと、実におそろしいことです。子を持ってこそ、あらゆる深い情愛というものが、身に染みて理解できるものなのですよ」この言葉は、実にもっともなことである。親子という執着の強い愛情という きっかけがなければ、このような無骨な者の心に、慈悲の心が芽生えることがあるだろうか。(いや、ないだろう。)親孝行の心がない者であっても、自分が子を持って初めて、かつての親の深い愛情を思い知るものなのだ。
出家して世俗のしがらみを捨て、身軽に生きている人が、家族などの「束縛」が多く、方々にへつらって野心の深い生活をしている人を見て、むやみに見下すのは間違いである。その人の立場になって考えてみれば、本当に愛する親のため、妻子のためであれば、恥を捨て、時には盗みだって しかねないのが人間というものだ。だから、盗人を縛り上げ、その過ちだけを罪として処罰するよりは、世の中の人が飢えず、寒さに凍えることのないように 政治を行ってほしいものである。人は、安定した資産がない時は、安定した心を保てない。人は困窮しきって、初めて盗みを働くのだ。世が治まらず、飢えや凍えの苦しみがあるならば、罪を犯す者は絶えることがない。
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人を苦しめ、法を犯さざるを得ない状況に追い込んでおいて、それを処罰するというのは、あまりに
不憫で理不尽なことである。
では、どのようにして人々を恵み、救済すべきかといえば、上の者が贅沢や無駄遣いをやめて、庶民を
慈しみ農業を奨励すれば、民間に利益が回ることは疑いようがない。そうして、衣食住が世間並みに満たされている にもかかわらず、それでも過ちを犯すような人こそを、本当の「盗人」と呼ぶべきなのだ。
一四三
誰かの最期の様子が 立派だったという話を 人が語るのを聞くに、ただ「静かに落ち着いて、乱れることがなかった」とだけ言えば、それこそが奥ゆかしく、真実味があるというものだ。しかし、浅はかな人は、不思議で風変わりな兆候を勝手に付け加え、最期の言葉や振る舞いも、自分が「こうあってほしい」と思う方向に脚色して
褒めそやす。それこそが、亡くなった本人が 日頃から抱いていた真意(本意)にも背くことだと思われてならない。
この(死の間際の心の在り方という)重大な事柄は、仏や
菩薩の化身のような尊い人でさえ 決定することはできない。どんなに博識な学者であっても、推し量ることはできない。自分自身の心に(日頃の信念と)食い違うところがなければ、他人がどう見たり聞いたりするかなど、全く関係のないことなのだ。
一四四
栂尾(京都市右京区梅ケ畑にある地名)の
明恵上人が道を通りかかられた際、川で馬を洗っていた男が(馬を制止しようとして)「あし、あし(脚に気をつけろ)」と言っていた。上人はそれを聞いて立ち止まり、「ああ、なんと尊いことか。前世からの執着が消え、悟りの心が芽生えた人なのだな。『
阿字、阿字(あじ、あじ)』と
真言を唱えている。一体どなたの馬なのだ。あまりに尊く感じられる」とお尋ねになった。男が「
府生殿の馬でございます」
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と答えると、上人は、「これはなんと素晴らしいことか。まさに『
阿字本不生』ではないか。嬉しいご縁を結べたものだ」と言って、感涙を
拭われたということだ。
一四五
随身(
近衛府の官人)である
秦の
重躬が、北面(上皇の警護武士)の
下野入道信願を見て、「この人は落馬して死ぬ相が出ている。十分にご用心なさい」と言った。
信願はそれを全く本気にしていなかったが、果たして(その後)
信願は馬から落ちて死んでしまった。人々は「その道の達人の一言は、神の
託宣(お告げ)のようだ」と驚嘆した。後に、「一体どのような根拠があったのですか」とある人が尋ねたところ、
重躬はこう答えた。「
信願は極端に『桃尻(乗馬が不安定で、すぐにお尻が浮き上がるタイプ)』であるくせに、好んで『
沛艾(気性の激しい暴れ馬)』に乗るのが好きでした。だから『落馬の相がある』と判定したのです。今まで一度も外したことはありませんよ」
一四六
天台座主の
明雲大僧正が、
人相見に会った際、「私にも、もしや戦で死ぬような難があるだろうか」とお尋ねになった。相人は、「確かに、その相がおありです」と答えた。
明雲が「それはどのような人相なのか」と(具体的な根拠を)尋ねると、相人はこう言った。「(本来、僧侶であるあなたは)刃物による傷害の恐れなど あるはずのないお身分です。それなのに、ふとそんなことを思いつき、わざわざ尋ねておられる。その『不安の芽生え』こそが、すでに危険が迫っている何よりの兆候なのです」
果たして(相人の予言通り)、
明雲は大衆の争いに巻き込まれ、矢に当たって亡くなってしまわれた。
一四七
お灸を
据えた跡が多くの場所に残っていると、神事に参列する際に「
穢れ(不浄)」とされるという説は、最近になって、誰かが言い出したことである。
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古い律令(格式など)のどこを探しても、そのような決まりは見当たらないそうだ。
一四八
四十歳を過ぎた人は、自分でお灸を据えて、(特に足の)「三里」のツボを焼いておかないと、のぼせ などの体調不良が起きるものである。ぜひとも、欠かさずにお灸を据えるべきだ。
一四九
鹿の角を鼻に近づけて、匂いを嗅いではいけない。小さな虫がいて、鼻から入り込んで脳を食い荒らすと言われている。
一五〇
芸を身につけようとする人が、「下手なうちは、中途半端に人に知られたくない。自分の中でしっかり習得してから、満を持して披露するのが奥ゆかしく、格好いいのだ」と常に言っているようだが、そう言う人で、一つの芸さえ身につけた例はない。まだ未熟で形になっていない段階から、上手な人たちの輪の中に混じり、馬鹿にされ笑われても恥じることなく、平然と努力を続ける人。そんな人は、たとえ天性の才能がなくても、その道で立ち止まることなく、いい加減に流さずに年月を重ねれば、才能はあっても努力しない人を超えて、最後には達人の域に達する。人格も円熟し、世間に認められ、並ぶ者のない名声を得るのである。
天下一の達人と言われるような人であっても、活動を始めたばかりの頃は、「下手くそだ」という評判が立ったり、とんでもない失敗をしたりしたものである。しかし、その人がその道の「基本原則」を正しく守り、その道を何よりも大切にして、決して投げ出したりしなかったからこそ、今や世の権威となり、万人の師匠と仰がれるようになったのだ。これはどのような道であっても、変わることのない真理である。
一五一
ある人が言うには、「五十歳になるまで上達しなかった芸は、もう思い切って捨てるべきだ。これから一生懸命励んだところで、上達を見込める先などない。
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老人が下手なことをしているのを、周囲の人は(気の毒がって)笑うことすら できないものだ。そんな人が人混みに混じっているのは、なんとも場違いで見苦しい。だいたい、あらゆる余計な活動はやめて、心に暇(ゆとり)がある状態こそが、見た目もよく、理想的なあり方だ。世俗の雑事に追われて生涯を終えるのは、最も愚かな人のすることである。もし何か知りたいことがあれば、人に尋ねてその理屈さえ理解したなら、それ以上 深追いせずに止めるのがよい。最初から何も望まずに、静かに過ごすことこそが、何より一番なのだ」
一五二
西大寺の
静然上人は、腰が曲がり、眉も白く、いかにも 徳の高い高僧といった様子で 宮中へ参上された。それを見た西園寺の内大臣(
実兼)殿が、「ああ、なんと尊いお姿だ」と深く感動し、
信仰心を
露わにされた。それを見ていた日野
資朝卿(
公卿)が、ボソリとこう言った。「(あれは徳が高いのではなく)単に年をとっているだけで ございますよ」後日、
資朝は、ひどく
老いさらぼうて 毛も抜けた見苦しい「
むく犬」を引いてきて、「この犬の様子こそ、尊く見えるものでございます」と言って、内大臣殿のもとへ送り届けたということだ。
一五三
京極為兼大納言入道が、幕府に捕らえられ、武士たちが大勢で取り囲んで
六波羅(幕府の拠点)へ連行していった時のこと。日野
資朝卿が、一条あたりでその様子を見かけて、こう言った。「ああ、なんと
羨ましいことだ。この世に生きた思い出として、これほど素晴らしい光景は他にないではないか」
一五四
資朝卿が東寺の門で雨宿りをしていた際、体の不自由な人々が集まっていた。手足がねじ曲がり、反り返るなど、どこもかしこも異様なその姿を見て、「これこそ類いまれな、究極に屈折した美だ。鑑賞するに値する」と思って、じっと見守っていた。
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しかし、見ているうちにすぐに興ざめしてしまい、ただただ
醜く、不快に感じられるようになった。そして、「ただありのままで、珍しくもない普通の姿に勝るものはない」と思い至った。帰り道、彼はこう考えた。「これまで自分は植木を好み、わざと異様に枝を曲げたものを 探しては楽しんできたが、それはあの門の下にいた 不自由な人々の姿を愛でていたのと 同じことだったのだ」と。そう思うと急に興ざめしてしまい、鉢植えにしていた木々を すべて掘り起こして 捨ててしまったということだ。
まことに、もっともなことである。
一五五
世の中にうまく適応しようとするなら、まずは「タイミング」を知るべきだ。状況が悪い時に物事を行えば、人の耳障りにもなり、感情を害して、目的を達成することはできない。そうした
折節を心得ておくべきである。ただし、病にかかること、出産、そして死ぬことだけは、タイミングを図ってはくれないし、状況が悪いからといって止まってくれることもない。存在が生まれ、変わり、滅びゆくという、人生における真の重大事は、
猛り狂う河が みなぎり流れるようなものだ。一瞬たりとも滞らず、ひたすら真っ直ぐに進んでいく。だからこそ、出家の道であれ 世俗の仕事であれ、必ず成し遂げようと思うことがあるならば、タイミングなどと言っている場合ではない。あれこれと準備が整うのを待つことなく、ただちに足を踏み出すべきなのだ。
春が暮れてから夏になり、夏が終わってから秋が来るのではない。春は(その最中から)早くも夏の気配を催し、夏のうちに既に秋が通い、秋になればすぐさま寒くなる。十月は小春日和の天気となり、草も青くなって梅も
蕾をつける。木の葉が落ちるのも、まず落ちてから芽吹くのではない。下から次なる芽が
兆し、膨らんでくる勢いに耐えきれなくなって、古い葉が落ちるのだ。
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(次の季節を)迎える準備が内側で整っているからこそ、入れ替わりのタイミングは極めて速い。「生・老・病・死」がやってくるのは、これ(四季の移り変わり)よりもさらに激しい。四季にはまだ決まった順序がある。しかし、死の時期は順序など待ってくれない。死は必ずしも前方からやってくるのではなく、気づかぬうちに背後から迫っているのだ。人は皆、いつか死ぬことを知っていて、それを待っているが、差し迫ったこととは考えもしないうちに、不意にそれはやってくる。沖の
干潟がはるか遠くまで続いていても、足元の磯から潮が満ちてくるようなものだ。
一五六
大臣が就任の際などに行う大規模な宴会は、ふさわしい場所をあらかじめ申し出て、そこを借りて執り行うのが通例である。宇治の左大臣(
藤原頼長)殿は、東三条殿(藤原氏の正邸)で この宴会を行われた。当時、東三条殿には天皇がいらっしゃった(内裏として使われていた)のだが、頼長がそこを貸してほしいと申し出たために、わざわざ天皇が他所へお出ましになるという 異例の事態になった。特別な縁故がなくても、女院(上皇の妃など)の御所などを拝借して 宴会を行うことは、古くからの先例であるということだ。
一五七
筆を手に取れば「何かを書こう」と思い、楽器を手に取れば「音を鳴らそう」と思う。
盃を手に取れば「(酒席の遊びである)サイコロを振ろう」と思う。人の心というものは、必ず、触れる対象に引きずられて 湧き上がってくるものだ。だから、たとえ一時的な遊びであっても、良くないことに近づいてはいけない。
ふとした拍子に聖教(仏教の経典)の一句を目にすれば、なんとなく その前後の文も目に入ってくる。その何気ないきっかけで、長年の間違いを改めることだってある。
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もし今、この瞬間に この書物を開かなかったならば、この真理を知ることはなかっただろう。これこそが「(良いものに)触れること」による利益なのだ。たとえ、やる気が全く起きなかったとしても、仏前に身を置いて数珠を手に取り、お経を手に取れば、ダラダラしている最中でも自然と「善い行い」が実践される。心が乱れたままでも、(禅頂のための)椅子に座りさえすれば、いつの間にか深い瞑想の状態に入っているものなのだ。
「物事の形」と「その本質」は、もともと別々のものではない。外面的な姿が教えに背かないものであれば、内面的な悟りも必ず成熟してくるものだ。だから、まずは形から入ることを、強く重んじるべきである。
一五八
「盃の底に残った酒を捨てる(すすぐ)ことについて、どう心得ているか」と、あるお方が尋ねられた。
私は「『
凝当』と申しますのは、底に凝り固まった
滓を捨てることでしょうか」とお答えした。するとそのお方は、「そうではない。それは『
魚道』なのだ。わざと少し流れを残しておくことで、唇の触れた部分を(その流れで)すすぎ清めるのだ」とおっしゃった。
一五九
「『
皆結び』というのは、糸を結び重ねた形が、『
蜷』という貝に似ているからそう言うのだ」と、ある高貴な方が(得意そうに)おっしゃった。(しかし)「にな(蜷)」と言うのは、間違いである。(本当は「
水名(みな)」という言葉に由来する結び方)
一六〇
門に掲げる
額を(設置することを)「打つ」と言うのは、あまり良くないことだろうか。
勘解由小路の
二品禅門殿は、「
額を
懸くる」とおっしゃっていた。また、見物用の
桟敷を「打つ」と言うのも良くないだろうか。「
平張(幕のこと)を打つ」などは普通の言い方だが、
桟敷の場合は「
構える」などと言うべきである。「
護摩を
焚く」
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と言うのも良くない。「
護摩を
修する」あるいは「
護摩する」と言うのが正しい。「
行法」についても、「法の字を清音(ほう)で言うのは良くない。濁音(ぼう)で言うべきだ」と、
清閑寺の
僧正がおっしゃっていた。普段使っている言葉の中に、こうした(不適切な)間違いは非常に多いものである。
一六一
花(桜)の盛りは、冬至から百五十日目とも、春の彼岸の中日から数えて七日目とも言われているけれど、実際には「立春から七十五日目」というのが、だいたい間違いがない。
一六二
遍照寺の
承仕法師(下級の僧侶)が、池の鳥を日頃から餌付けして手なずけていた。堂の内側まで餌を撒き、戸を一つ開けておいたところ、数え切れないほどの鳥が中に入り込んだ。その後、法師自らも中に入って戸を閉め切り、鳥を捕らえては殺していた。その様子があまりに物々しく不気味であると、草を刈っていた子供が聞きつけて人に告げた。村の男たちが怒って踏み込んで見ると、大きな
雁たちが騒ぎ狂う中に法師が混じり、鳥を打ち伏せ、ねじ殺していた。この法師は
捕らえられ、地元の役所から
検非違使庁(警察)へ突き出された。法師は殺した鳥を首にかけさせられたまま、投獄されたということだ。
藤原基俊大納言が別当(司法の長)であった時のことでございました。
一六三
「
太衝(陰暦9月)」の「太」の字に、点を打つか打たないか ということについて、
陰陽師たちの間で激しい論争があった。(その際)
盛親入道が申し上げたことには、「(伝説的な
陰陽師である)
安倍吉平の自筆の
占文の裏に、近衛関白殿が書き残された記録がある。それには、点を打った状態で書かれていた」ということであった。
一六四
世間の人が顔を合わせたとき、少しの間も黙っていることがない。必ず言葉を交わす。
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しかし、その内容を聞いてみると、多くは無益な雑談である。世の中の根も葉もない噂や、他人の善し悪しなど、自分にとっても相手にとっても、損失が多く、得るところは少ないものだ。
こうした(無益な)話をしている時、互いの心の中で、これがどれほど無駄なことであるか ということに、全く気づいていないのである。
一六五
東国(地方)の人が、都の人の風習に無理に交わろうとしたり、逆に都の人が、東国に行って身を立てようとしたりすること。また、本来所属すべき寺(本寺)や山(本山)を離れた、
顕教や
密教の僧侶。こうした、自分の本来の立場(属性)を守らずに、世俗の人間と不自然に交わっている姿は、すべて見苦しいものである。
一六六
人間が(あれこれと将来の計画を立てて)忙しく営み合っている様子を見るにつけ、それはまるで、春の(うららかな)日に雪で仏像を作って、その仏のために金銀や宝石の飾りを大急ぎで用意し、立派なお堂を建てようと しているようなものだ。(そんなことをしている間に、肝心の雪の仏は溶けてしまうというのに、)そのお堂の完成を待って、無事に仏像を安置することなどできるだろうか。(いや、できるはずがない。)人の命がまだあると思っていても、その命は足元から(刻一刻と)消えていくこと、まるで雪が溶けるかのようである。それなのに、人間が「そのうちやろう」と先延ばしにして、準備ばかりしている事は、あまりにも多すぎる。
一六七
ある一つの道を究めようとする人が、専門外の席に臨んで、「ああ、これが自分の専門分野だったなら、こんなに傍観者として(情けなく)見ていたりは しないものを」と口に出したり、心の中で思ったりすること。これはよくあることだが、非常に見苦しく思われるものだ。
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もし知らない分野のことが
羨ましく思えるなら、「ああ、
羨ましい。どうして習っておかなかったのだろう」と(素直に)言ってしまえばいいのだ。
自分の知識をひけらかして他人と争うのは、
角のある
獣が角を向け、牙のある獣が牙を
剥き出しにするのと同類である。人間としては、自分の善行を誇らず、他人と争わないことを徳とする。他人より優れている点があるということは、(それだけで慢心を生む)大きな欠点でもあるのだ。人品の高さ、才能の優劣、先祖の
誉れ……。そうしたことで「自分は人より勝っている」と思っている人は、たとえ言葉に出さずとも、内心に多くの過ちを抱えている。
慎んで これを忘れるべきだ。愚かに見え、他人に見下され、わざわいを招くのは、すべてこの「慢心」が原因である。一つの道に本当に精通した人は、自分自身の至らなさを はっきりと知っている。ゆえに、志が満たされることは常になく、ついに他人に誇るようなことはないのである。
一六八
年老いた人が、ある一つの優れた才能(専門知識)を持っていて、「この人が亡くなった後は、一体誰に質問すればよいのだろう」などと(世間から)頼りにされるのは、老人にとっての心の支えであり、生きていることも無駄ではない。そうではあるけれど、その人が(自分の専門分野について)少しも衰えたところがなく、完璧に答えすぎるのは、「この人は一生、この一事だけのために 暮らしてきてしまったのだな」と、かえって器が小さく見えてしまう。(聞かれたら)「いや、もう今となっては忘れてしまいましたよ」と言って(とぼけて)いるくらいがちょうど良い。
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だいたい、知っているからといって、やたらと知識を言い散らすのは、それほど大した才能では ないのではないかと思われ、自然と間違いも出てくるに違いない。「はっきりとは見分けられません」などと言っている人の方が、やはり本当の「その道の大家」と思われるものだ。ましてや、知りもしないことを知ったかぶりをして、年配で(こちらから)反論もできそうにない立派な人が、もっともらしく言い聞かせているのを、「本当はそうではないのに」と思いながら(我慢して)聞いているのは、実にやりきれないことである。
一六九
「『何事の式』という言い方は、
後嵯峨天皇の御代までは言わなかったことで、ごく最近になってから言うようになった言葉だ」と、ある人が申しておりました。(しかし)
建礼門院右京大夫が、
後鳥羽院が退位された後に、再び内裏(皇居)にお仕えした時のことを綴った文章の中に、「世の中の様子(世の式)も変わったことはないけれど」と書いてあります。
一七〇
さしたる用事もないのに、他人の所へ行くのは良くないことだ。用事があって行ったとしても、その件が済んだならば、すぐに帰るべきである。長居をするのは、非常に
煩わしく、相手にとって迷惑なものである。
人と向き合っていると、言葉数が多くなり、体も疲れ、心も落ち着かなくなる。あらゆることに差し障りが出て、時間ばかりが過ぎていくのは、互いにとって利益がない。とはいえ、あからさまに嫌そうに言うのも良くない。もし気に食わない(長居しそうな)気配がある時は、いっそはっきりと その旨を伝えてしまうのがよいだろう。ただし、気の合う者同士が、手持ち無沙汰な時に「もう少し、今日は落ち着いて話をしよう」などと言い合うような場合は、この(長居を禁じる)ルールの限りではない。
阮籍が、気に入った客には「青い目(好意的な目)」
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を向けたというのも、誰しもが持つべき自然な振る舞いである。
特にこれといった用事もない人が ふらりとやって来て、のんびりと世間話をして帰っていく。それはとても良いものだ。また、手紙でも、「久しくご無沙汰しておりますので(気になって)」といった一言だけを寄越してくれるのは、本当に嬉しいものである。
一七一
貝おおい(貝合わせ)をする人が、自分の目の前にある貝を放っておいて、他の場所を見渡し、他人の
袖に隠れたものや 膝の下まで目を配っている間に、目の前の貝を人に取られてしまう。上手な人は、遠くのものまで 無理に取ろうとしているようには見えず、ただ手近なものだけを取っているようでありながら、結果として多くの貝を手にするものだ。碁盤の隅に石を立てて
弾き当てるゲームでも、ターゲットである向こう側の石を じっと見て弾くと うまく当たらない。自分の手元をよく見て、ここぞという急所をまっすぐに弾けば、立てた石には必ず当たるのである。(要するに、ボウリングでストライクを出すための狙い目は、遠くのピンではなく、レーン手前にあるスパット(三角形のマーク)であることと同じ)
あらゆることは、外側に(原因や解決を)求めてはならない。ただ、自分の足元(現在、内面)を正しくすべきだ。
清献公の言葉に、「良い行いをして、その先の結果がどうなるかを 問うてはならない」とある。天下を治める道も、おそらく このようなものであろう。自分の内側を慎まず、軽はずみで、わがまま勝手に乱れているからこそ、遠い国が背いた時に 初めて慌てて対策を練るのだ。「風に当たり、湿気のある場所に寝て(不摂生をして)おきながら、病気になったら 神仏に祈って 治してもらおうとするのは、愚かな人である」と医書にある通りだ。
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目の前の人の苦しみを取り除き、
慈しみを与え、正しい道を行えば、その感化は(わざわざ遠くへ働きかけずとも)遠くまで広がるということを、人々は知らないのである。(古代中国の聖王)
大禹が
三苗を
征伐しようとした時も、軍を引いて自らの徳を広めることに 勝る策はなかったのである。
一七二
若い時は、血気が体内に満ちあふれ、心は物事に動揺しやすく、欲求も多い。その身を危険にさらして壊しやすい様子は、まるで(滑りやすい盤の上で)真珠を転がすような危うさだ。華やかさを好んで財産を浪費したかと思えば、急にそれを捨てて世捨て人のような格好をしたり、勇み立った心で 他愛もないことで人と争ったり、心の中で他人の幸運を
羨んだり、好みの対象も日ごとに定まらない。異性に溺れ、情愛に心を奪われ、一時の潔い振る舞いのために 一生を台無しにしたり、あるいは命を捨てるような 無謀な例を(英雄的だと)憧れたりして、自分の身を 長く安全に保とうとは考えない。執着するものに心を引かれ、それが(悪い意味で)後世までの語り草になる。人生を誤る原因の多くは、こうした若い時のしわざなのである。
老いた人は、気力が衰え、物事への執着も薄く淡白になり、心がむやみに動揺することがなくなる。心が自然と静まるので、無益なことを実行しなくなる。自分の身を大切にして 悩みを減らし、他人の
煩わしさに ならないようにと 考えるようになるのだ。老人が(経験によって得る)知恵が 若者より優れているのは、若者が(外見的な)美しさにおいて老人に勝っているのと同じことである。
一七三
小野小町の最期の様子については、極めて不確かであって(これといった定説はない)。
小野小町が衰え果てた様子は、『
玉造小町壮衰書』という書物に見えている。
97/136
この書物は、
三善清行が書いたという説もあるが、
高野大師(空海)の著作目録にも入っている。(しかし)大師は
承和の初め(835年)に亡くなられている。小町が全盛期だったのは、それよりも後のことではないだろうか。(だとすれば 空海が書けるはずもなく、やはり
清行の作なのか)やはり、はっきりしなくて疑わしい。
一七四
小鷹(コダカ/小鳥を狩る小回りの利く鷹)の相棒として優秀な犬を、一度大鷹(オオタカ/鶴や雁など大物を狩る猛禽)の狩りに使ってしまうと、もう小鷹の狩りでは役に立たなくなると言う。大きな目的(大鷹の狩り)に馴染んだことで、小さな目的(小鷹の狩り)を捨て去ってしまうという道理は、本当にその通り(人間にも当てはまること)である。人間の営みには多くの事があるけれど、人としての「真実の道」を追求し、それを楽しむことほど、心の底から味わい深く、価値のあることはない。これこそが、人生における本当の大事なのだ。一度でもこの「真実の道」について聞き、これに
志そうとする人であるならば、どうして他の(世俗のくだらない)諸芸や雑務を
棄てないでいられようか。(いや、すべて
棄て去るはずだ。)一体これ以上、何をあれこれと忙しく営む必要があるというのか。(大鷹を知って小鷹を忘れるという)あの賢い犬の心に、いくら愚かな人間だからといって、劣っていて良いはずがあろうか。(いや、人間だって、真の道を知ったなら、世俗の小事はすべて忘れ去るべきなのだ。)
一七五
世の中には、納得のいかないことが多い。集まりがあるたびに、まず酒を勧めて、強引に飲ませることを面白がるのは、いったいどういう理由なのか理解に苦しむ。飲む本人が、実につらそうな顔をして眉をひそめ、隙を見ては捨てようとしたり、逃げようとしたりするのを、捕まえて引き止めて、むやみに飲ませてしまう。
98/136
そうなると、きちんとした立派な人も、たちまち狂人のようになって 無様な姿を
晒し、健康だった人も、目の前で重病人のようになって 意識を失い倒れ伏す。お祝いの日などに そんなことが起きれば、目も当てられない惨状だ。翌日まで頭痛に苦しみ、食事も取れず、死んだように寝込み、昨日の記憶も失い、仕事の大事な予定を台無しにしてしまう。他人に こんなひどい目に遭わせることは、慈悲の心もなく、礼儀にも背いている。こんな苦しい目に遭わされた人が、相手を恨めしく、悔しいと思わないはずがあろうか。「他国にはこんな風習があるそうだ」と、この場にいない人から伝聞で聞いたとしたら、きっと「なんて奇妙で不思議な(野蛮な)話だ」と思うに違いない。
他人が酔っている姿を見るだけでも、情けなく嫌なものだ。普段は思慮深く、奥ゆかしいと思っていた人も、分別をなくして大声で笑い、言葉数が多くなり、
烏帽子は
歪み、着物の
紐を外し、
脛を高く
剥き出しにして、およそ慎みのない様子は、いつものあの人とは思えない。女性もまた、
額の髪を無造作にかき上げ、恥ずかしがる様子もなく顔を上げて笑い、相手が持つ盃の手にしがみつく。見苦しい輩にいたっては、
肴を手に取って相手の口に押し当て、自分でもそれを食べるなど、有様がひどい。皆が声の限りを尽くして歌い舞い、年老いた法師が呼び出されては、黒く汚れた体を肌脱ぎにして、目も当てられないほど不格好に踊り、それを面白がる周囲の人までが
疎ましく、憎らしく思える。ある者は自分の手柄話を見苦しいほど語り、ある者は酔って泣き出し、身分の低い者は
罵り合って争う。その様子は呆れるほど恐ろしい。恥ずかしく情けないことばかりが起きて、最後には、手放してはいけない 大切な物を勝手に持ち出し、縁側から転げ落ち、馬や車から落ちて怪我をしたりもする。
99/136
車に乗らない者は、大通りをふらふらと歩き、塀や門の下に向かって、口にするのも
憚られるような
粗相をし散らかす。年老いて、
袈裟をかけた立派なはずの法師が、
童の肩に寄りかかって、聞き取れない世迷言を言いながら よろめいている姿は、本当にいたわしく、見るに堪えない。
これほどまでに(酒を)嫌なものだと思っているけれど、自然と捨てがたい折もある。月の夜、雪の朝、あるいは花の下などで、心を落ち着かせて語り合いながら盃を出すのは、あらゆる
趣を深めてくれる。手持ち無沙汰な日に、思いがけず友人が訪ねてきて、酒宴の用意をしてくれるのも 心が
慰められる。あまり馴染みのない高貴な方の
御簾の内側から、お菓子や酒などが、品の良い気配で差し出されるのも、実に素晴らしい。冬、狭い部屋で火を囲んで
肴を
炙りながら、気心の知れた者同士で向かい合って、たっぷり飲むのも非常に
趣がある。旅先の仮住まいや野山などで、「肴は何がいいかな」などと言い合いながら、芝生の上で飲むのも良いものだ。ひどく(酒を)嫌がっている人が、強く勧められて少しだけ飲んだ様子も、また微笑ましい。高貴な方が、格別に目をかけて「もう一杯。注ぎ方が少ないよ」などと おっしゃってくださるのも嬉しい。近づきたいと思っていた人が、実は酒好き(上戸)で、酒を介して一気に親しくなれるのも、また嬉しいことである。
そうは言っても、酒好きというのは、どこか
可笑しく、その罪も許されてしまうものだ。酔い潰れて朝寝をしているところを、主人が(障子や襖を)引き開けた際、慌てふためき、
呆然とした顔のまま、細い
髻(
髷)を突き出し、服もまともに着られずに抱え持ち、もがくようにして逃げていく。その
掻取姿の後ろ姿や、毛の生えた細い
脛のあたりなどは、なんとも滑稽で、その場にふさわしい
趣がある。
100/136
一七六
『
黒戸』とは、
光孝天皇(
小松御門)が即位された後、かつて臣下であった時代に、ご自身で自炊などの
卑しい仕事をなさっていた頃のことを お忘れにならず、常に(その時と同じように)御膳の用意をさせていた場所のことである。調理の薪の煙で黒く
煤けていたので、「黒戸」と呼ばれたということだ。
一七七
鎌倉の
中書王(
金沢貞顕)の邸宅で
蹴鞠の会があった時のこと。雨が降った後で、まだ庭が乾いていなかったので、「どうしたものか」と皆が相談していた。すると、佐々木隠岐入道(
佐々木政義)が、
鋸の
屑を車に積んでたくさん持ってきたので、それを庭一面に敷き詰めると、泥に足を取られる
煩わしさもなくなった。人々は「(いざという時のために)これほどの量を取り溜めていた用意の良さは、実にありがたく、素晴らしい」と感心し合った。
このエピソードを、ある席で誰かが語り出したところ、
吉田中納言が「(そんな時こそ)乾いた砂の用意はなかったのかね」とおっしゃったので、(それを聞いていた
私は)恥ずかしくなってしまった。(その場しのぎとして)素晴らしいと思っていた「
鋸の
屑」は、実は品がなく、おかしな(正規の手段ではない)ものだったのだ。庭の行事を担当する者が、乾いた砂をあらかじめ準備しておくことこそが、正しい「
故実(先例とするに足る事例)」なのだそうだ。
一七八
ある場所の侍たちが、
内侍所の
御神楽を見て、人に語る際に、「宝剣を、あの方がお持ちになっていた」などと言うのを聞いて、奥にいた
女房の中の一人が、「別殿への行幸の際には、(宝剣ではなく)
昼御座の御剣ですよ」と、控えめに言ったのが、非常に奥ゆかしく、感銘を受けた。その人は、経験豊かな古い
典侍であったということだ。
101/136
一七九
宋(中国)へ渡った僧である
道眼上人が、一切経(仏教聖典の全集)を持ち帰り、京都の六波羅のあたりにある「やけ野」と呼ばれる場所に安置した。そこで特に『
首楞厳経』を講義して、その場所を(古代インドの最高学府の名にちなんで)「
那蘭陀寺」と名付けた。
その
道眼上人がおっしゃるには、「(インドの)
那蘭陀寺の大門は北向きである、と
大江匡衡の説として言い伝えられているけれど、『
大唐西域記』や『
法顕伝』といった主要な史書を調べても、どこにもそんな記述は見当たらず、全く根拠がない。
匡衡ほどの学者が、どのような根拠でそんなことを おっしゃったのか、疑わしい限りだ。ちなみに、
中国の西明寺が北向きであることは、議論の余地なく確実なのだが」とのことだった。
一八〇
左義長とは、正月に(遊びで)使った
毬杖を、
真言院から
神泉苑へ持ち出し、そこで焼き上げる儀式のことである。(その際)「
法成就の池にこそ」とはやし立てるのは、神泉苑にある池のことを指しているのである。
一八一
「『降れ降れ
粉雪、たんばの粉雪』という歌のフレーズについて。粉雪は米を
搗いて
篩い落とした様子に似ているから『粉雪』と言うのだ。(本来は)『たまれ粉雪(積もれ、粉雪よ)』と言うべきところを、聞き誤って『たんばの』と言っているのだ。『垣根や木の股に(積もれ)』と歌うのが正しいのだ」と、ある物知りがおっしゃった。
(この歌のフレーズは)昔から言い伝えられてきたことなのだろうか。
鳥羽院がまだ幼少でいらした頃、雪が降るのをご覧になって(「降れ降れ粉雪……」と)そのように おっしゃられたということが、
讃岐典侍の日記に書き残されている。
一八二
四条大納言
隆親卿が、「
乾鮭」というものを帝の御膳に献上した。
102/136
すると周囲の人が、「このような(粗末で)
卑しいものを、差し上げるなど あってはならないことだ」と非難した。これを聞いて大納言は、「『鮭』という魚自体が 献上されないという 決まりならともかく(実際は鮭も献上されるのだから)、それを白乾し(乾燥)にしたからといって、何の問題があろうか。それなら、
鮎の白乾しは献上されないというのか(いや、鮎なら献上されているではないか)」と反論された。
一八三
人を突く牛は角を切り、人を噛む馬は耳を切って、その印とする。印を付けないままにしておいて、他人に怪我をさせたなら、それは飼い主の過失である。また、人を噛む犬などは、そもそも飼い続けてはならない。これらはすべて、飼い主の罪となる。法律でも禁じられていることである。
一八四
北条
時頼の母は、
松下禅尼という方であった。
時頼を自宅に招くことになった際、
煤けて汚れ、破れた障子の部分を、
禅尼は自ら小刀で切り回しながら(パッチを当てるように)張り替えておられた。兄の
城介義景が、その日の準備のために伺っていたが、「(その仕事は私に)お任せください。下男に張らせましょう。そういうことに慣れた者がおりますので」と申し上げた。すると
禅尼は、「その男が、私の細工に勝ることはありますまい」と言って、なおも
一間ずつ丁寧に張り続けられた。義景が「(破れた所だけではなく)全部を一気に張り替えてしまう方が、ずっと簡単ですよ。まだらに見えるのも見苦しいですし」と重ねて申し上げると、「私も後で 全部さっぱりと 張り替えようとは思っています。でも、今日だけはあえてこう(継ぎはぎに)しておくべきなのです。『物は破れたところだけを修理して使うものだ』ということを、若い人(
時頼)に見せて教え、心づかせるためなのです」とおっしゃった。
103/136
なんとも尊く、滅多にないほど立派なことである。世を治める道は、倹約を根本とする。女性ではあるが、その考えは聖人の心に通じている。天下を治めるほどの人(
時頼)を子に持たれたのは、本当にただの人ではなかったのだなぁ。
一八五
城陸奥守泰盛(
安達泰盛)は、並ぶ者のない馬術の名手であった。(ある時、乗るために)馬を引き出させたところ、足を揃えて敷居をゆらりと(軽やかに)越えるのを見て、「これは勇み立っている馬だ」と言って、鞍を置き換えさせた(=自分で乗ることに決めた)。また別の馬が、足を伸ばして敷居に蹴り当ててしまったのを見ては、「これは動作が鈍く、不注意で失敗をするに違いない」と言って、乗るのをやめてしまった。
(
泰盛のような)道の奥義を極めた人でなければ、これほどまでに(その行為の
醜さを)恐ろしく感じ、批判することができただろうか。いや、できない。
一八六
吉田という馬術の名手が語ったことには、「馬というものは、どんな馬であっても恐ろしい(制御不能なエネルギーを持つ)ものだ。人間の力で対抗しようなどと思ってはならない。乗る馬については、まず事前によく観察して、その馬の強み(癖)や弱点を知っておくべきだ。次に、
轡や鞍といった 馬具に不具合や危険な箇所がないかを確認し、少しでも気になる点があるなら、その馬を走らせてはならない。この『事前の用意』を決して忘れないこと、それこそが真の馬乗りというものだ。これこそが、馬術の秘伝なのだ」とのことだった。
一八七
あらゆる道の専門家は、たとえ(その道の中で)未熟であったとしても、その道が専門ではない多才な人と並んだ時には、必ず勝るものである。
104/136
その理由は、(専門家は)常に気を引き締め、慎みを持って、決して物事を軽々しく扱わないのに対し、(器用なだけの素人は)ひたすら自分勝手に振る舞うという、その姿勢の差があるからだ。
(このことは)芸事や技術的な所作に限った話ではない。全般的な振る舞いや、心の持ちようにおいても、「自分はまだ足りない(愚かだ)」と自覚して、慎重に構えることは、物事を得る(成功する)根本である。逆に、器用であることを頼みとして、思いのままに(自分勝手に)振る舞うことは、物事を失う(失敗する)根本である。
一八八
ある人が、息子を法師にして、「学問をして因果の道理を知り、説教などをして世を渡る手段(生計の道)にしなさい」と言った。息子は教え通りに説教師になるため、まずは(移動手段として)馬の乗り方を習い始めた。「
輿や車を持たない身分で、導師として招かれた際、迎えに馬をよこされたのに、桃尻(不安定な乗り方)ですぐに落ちてしまうようでは情けない」と思ったからだ。次に、仏事の後に酒などが勧められた際、法師が全く芸がないのでは、
檀家も興ざめするだろうと思って、「早歌(宴会の歌)」を習い始めた。この二つの芸が だんだんと上達してくると、いよいよ極めたくなって 熱中しているうちに、肝心の説教を習う暇がないまま、年をとってしまった。
この法師(馬乗り法師)に限ったことではない。世間の人は、概して皆このような過ちを犯している。若いうちは、何事においても立身出世し、大きな道を成し遂げ、芸を身につけ、学問もしようと、遠い未来に向けて多くの計画を心にかけながらも、「人生は まだたっぷりある」と のんびり構えて怠けてしまう。そして、まずは差し当たった目の前の雑務にばかり紛れて月日を送っていると、結局何一つ成し遂げられないまま、身は老いてしまう。
105/136
ついにその道の達人にもなれず、思い描いたような人生も送れず、後悔しても取り返せる年齢ではない。人生は、「走りて坂をくだる輪」のように、猛スピードで衰えへと転げ落ちていくのだ。
京都に住む人が、急ぎの用で東山へ行き、すでに目的地に到着したとしよう。しかしその時、西山へ行く方がずっと利益が大きい(価値がある)と思いついたなら、東山の門の前からでも、すぐさま引き返して西山へ行くべきなのだ。「せっかくここまで来たのだから、この用事だけでも先に済ませてしまおう。今日中にやらなければ ならないことでもないし、西山のことは帰ってからまた考えればいい」……そう思う心、その一時の「
懈怠」こそが、そのまま一生の
懈怠へと
繋がっていく。これをこそ、恐れるべきなのだ。もし、一つの大事を必ず成し遂げようと思うなら、他のことが
破綻するのを惜しんではならない。人のあざけり(批判)を恥じてもならない。万事を犠牲にする覚悟がなくては、一つの大きな事は決して成し遂げられないのだ。
大勢の人が集まっていた中で、ある人がこう語った。「『
ますほの薄』とか『まそほの薄』という言葉がある。渡辺の
聖が、この言葉の真の意味を伝承し知っているそうだ」その座にいた
登蓮法師はこれを聞くと、
折悪しく雨が降っていたが、「
蓑や笠はないか、貸してくれ。そのススキのことを教わりに、今すぐ渡辺の
聖のところへ尋ねて行こう」と言い出した。周りの人が「あまりに気が
急きすぎだ。雨が止んでからにすればいい」となだめたところ、「とんでもないことをおっしゃる。人の命は、雨が止むのを待ってくれるものか。
私自身が死ぬかもしれないし、
聖も亡くなってしまうかもしれない。そうなれば、二度と聞き知ることは できないではないか」と言って、そのまま走り出て行って、ついに教わり遂げたということだ。
106/136
この語り草は、実に素晴らしく、めったにない尊いことだと感じられる。『論語』という本にも、「機敏であれば、必ず功績があがる」とあるそうだ。
登蓮法師がススキの正体を疑問に思い、すぐに行動したように、
私たちも「一大事の因縁(悟りや人生の最重要課題)」に対して、それほどの切実さを持つべきなのだ。
一八九
今日こそは「あの事」を成し遂げようと思っていても、別の急用がまず飛び込んできて、それに対応しているうちに一日が暮れてしまう。待っていた人は都合が悪くて来ず、予期していなかった人が訪ねてくる。当てにしていた計画は外れ、思いもよらなかった道ばかりがトントン拍子に進む。面倒だと思っていたことは案外すんなりと片付き、簡単だと思っていたことが非常に骨が折れる。日々が過ぎていく様子は、事前に計画していたこととは全く似ていない。一年のうちも、そして一生の間も、また同じようなものなのだ。
前もって立てていた計画は、みな外れていくものだと思っていると、たまには外れずに、思い通りにいくこともある。そうなると、いよいよ物事は予測がつかないと感じる。つまり、「この世はすべてが不確定である」と覚悟すること。それだけが、唯一、間違いのない真実なのである。
一九〇
妻というものは、男が持つべきでは ないものだ。「いつも独り暮らしで……」などと聞くと、その人は奥ゆかしく感じられるが、「誰それの婿になった」とか「どのような女を自宅に据えて一緒に住んでいる」などと聞くと、途端にガッカリしてしまう。「大したこともない女を 良いと思い定めて 一緒に暮らしているのだろう」と、その男の程度まで低く推測されてしまうし、もし相手が素晴らしい女性なら、それはそれで可愛がって「我が仏」のように大切に守り、執着しているのだろう。
107/136
……結局のところ、その程度のものだと思えてしまうのだ。ましてや、家の中をテキパキと切り盛りしている女などは、実に見苦しい。子供などが生まれて、それを可愛がっている様子も、興ざめである。さらには、夫が死んだ後に尼になって年老いている姿などは、死んだ後の評判まで台無しにするほど、あきれた光景である。
どのような素晴らしい女性であっても、朝から晩まで四六時中一緒にいれば、どうしても嫌気が差し、憎らしく思えてしまうものだ。またそれは、女性側にとっても(男に飽きられて)中途半端で、落ち着かない境遇になってしまうだろう。離れて暮らしながら、時々通って一緒に過ごす。それこそが、年月が経っても絶えることのない(良好な)関係を築くコツなのだ。
たまにやって来て、一晩泊まっていく。それくらいが、お互いにとって新鮮で、心ときめくものなのである。
一九一
「夜になると、物の見栄えがしなくなる」などと言う人は、実にもったいない。あらゆる物のきらびやかさ、飾り、色合いの美しさは、夜こそが素晴らしいのだ。昼間は、簡素で、落ち着いた姿であってもよいだろう。しかし夜は、きらびやかで、華やかな装いこそが、実によい。人の様子も、夜の
火影に映し出されるのが最高であり、話している声も、暗闇の中で聞く方が、相手の気遣いや奥ゆかしさが感じられて、心
惹かれる。香りも、楽器の音色も、ただ、夜こそが一際素晴らしいのである。
さして特別な用事もない夜、更けてから訪ねてきた人が、さっぱりと小綺麗に整えた姿でいるのは、実によいものだ。若い者同士で、互いに心を寄せているような間柄なら、なおさら時は関係ない。特に、打ち
解けて くつろぐような時こそ、普段着と
余所行きの区別なく、きちんとした身なりをして いたいものだ。
108/136
立派な男が、日が暮れてから身を清めるのもよいし、女も、夜が更けてから、こっそりと鏡を手に取って 顔を整えてから人の前に出るのは、なんとも
趣がある。
一九二
神社や寺に参詣するのも、他の人が誰もいない日や、夜に参拝するのが、実によい。
一九三
物事の道理に
疎く、心の暗い人が、相手を勝手に推測して「あの人の知恵の程度はこれくらいだ」と分かったつもりでいるのは、全くの的外れである。
愚かな人が、たまたま囲碁などの勝負事だけに
聡く、長けているとする。すると、
賢い人がその芸に
疎いのを見て、「この人は自分の知恵に及ばない」と決めつけてしまう。また、あらゆる道の専門家が、自分の専門分野を他人が知らないのを見て、「自分の方が優れている」と思うのも、大きな間違いである。(経典の)文字の解釈に詳しい法師と、文字に頼らず(座禅などの)悟りを重視する禅師が、互いの不十分な点だけを測って「自分の方が勝っている」と思い合っているのも、どちらも的外れなのだ。
自分の能力や知識の 及ばない領域にある物事については、他人と争ってはならない。また、安易に善し悪しを判定してもいけない。
一九四
その道を極めた達人が、人(の本質や能力)を見抜く眼力というものは、微塵も誤ることがないはずだ。
例えば、ある人が世間に作り話(嘘)を流して人を
騙そうとした時、それに対する反応はさまざまである。
109/136
- 素直に本当だと思い込み、言われるがままに騙される人。
- 深く信じすぎて、さらに自分勝手な解釈(尾ひれ)を付け加えてしまう人。
- 何とも思わず、そもそも関心を払わない(スルーする)人。
- 少し疑わしく思い、信じるでも疑うでもなく、考え込んでいる人。
- 本当とは思えないが、人が言うことだから「そういうこともあるか」と納得して終わる人。
- 分かったふりをして賢そうに頷き、微笑んでいるが、実はさっぱり理解していない人。
- 「なるほど、そのようだ」と思いながらも、やはり間違いがあるのではと疑い続ける人。
- 「なーんだ、たいした話じゃなかった」と、手を打って笑い飛ばす人。
- すべてを見抜いているが、知っているとも言わず、何も知らない人と同じように振る舞って過ごす人。
- 最初から嘘の本質を見抜き、騙されもしないが、作り出した本人と同じ心境になって、協力までしてしまう人。
愚かな者同士の たわいもない
騙し合いでさえ、事情を知っている人の前では、どのように
騙そうとしているか、その言葉つきや表情から すべて筒抜けになってしまうものだ。ましてや、道理に明るい達人が、迷いの中にいる我々の姿を見ることは、まるで手のひらの上の物を見るように、はっきりと(すべてを)見抜いているに違いない。ただし、このような(人間心理の)推測をもって、仏法の深い真理までも 同じように語ろうと しているわけではない(仏法は さらにその先にあるものだ)。
一九五
ある人が、
久我縄手(現在の京都市伏見区付近の道)を通りかかったところ、
小袖に大口袴という、身なりの良い格好をした男が、木彫りの地蔵を 田んぼの中の水に押し浸して、丁寧に、熱心に洗っていた。通りかかった人が「一体何をしているのだろう」
110/136
と不思議に思って見ていると、
狩衣姿の男たちが二、三人現れて、「こちらに いらっしゃいましたか」と言って、その男を連れて去っていった。後で分かったことだが、そのお方は
久我内大臣殿であったのだ。
そのお方は、普段の落ち着いた状態でいらっしゃる時は、非常にしっかりとした、気高く高貴な方でいらっしゃった。
一九六
東大寺の
神輿が(八幡宮の移徒から)帰座する際、源氏の
公卿たちが参列された。その時、この殿(
内大臣・通光)が、大府(右
近衛大将[
近衛府のナンバー2])として先払いの声を上げさせようとされた。すると、
土御門相国(
源定実)が、「神社の社頭で、
警蹕(先払いの声)を上げるのは いかがなものでしょうか(儀式として適切ですか)」と尋ねられた。(それに対し、
通光は)「随身(
近衛兵)の振舞いについては、
兵杖の家(武を司る家系である我が家)が熟知していることでございます」とだけお答えになった。
さて、(その場が済んだ)後に
通光公がおっしゃるには、「あの
土御門相国は、『
北山抄』は読んでいても、『
西宮記』にある説までは知らなかったのだな。(神の)
眷属であっても、悪鬼や悪神を恐れることがある。だからこそ、神社においてこそ、一際厳重に先払いの声を上げて(邪気を払い)進むべき理由があるのだ」とのことであった。
一九七
「定額(じょうがく)」という言葉は、諸々の寺院の僧侶(定額僧)だけに用いられるものではない。「定額の
女孺」という呼び名が、『
延喜式』にも見えている。結局のところ、これは(僧侶に限らず)定員が定められた公職の人々の共通した呼び名(通称)なのである。
一九八
「
揚名」という肩書きは、「
揚名介」に限ったものではない。「
揚名目」という役職も存在することを、『
政事要略』に見ることができる。
111/136
一九九
(音楽について)横川の
行宣法師が、次のように申しておりました。「唐土(中国)は、『
呂』の国である。したがって『
律』の音が存在しない。対して我が国(日本)は『
単律』の国であり、『呂』の音が存在しないのだ」と。
- 呂(りょ): 明るく堂々とした響き(長調・メジャーのようなもの)
- 律(りつ): 哀愁を帯びた、少し寂しげな響き(短調・マイナーのようなもの)
という違い
二〇〇
呉竹は葉が細く、
河竹は葉が広い。
清涼殿の御
溝に近い方に植えられているのが河竹であり、
仁寿殿の方に寄って植えられているのが呉竹である。
二〇一
「
退凡」と「
下乗」の卒塔婆について。寺の外側に立てられているのが「下乗」、より内側にあるのが「退凡」である。
二〇二
十月を「神無月」と呼んで、神事(神様に関する行事)を遠慮すべきだとする根拠は、どの文献にも記されていない。そのような記述がある典拠(本文)も見当たらない。おそらく、単にこの月には諸々の神社でお祭りが(他月ほど多く)行われないために、このような名前がついたのであろうか。
「十月には、あらゆる神々が伊勢神宮に集まるのだ」という説もあるが、その根拠となる確かな文献はない。もし本当にそうであるなら、伊勢神宮では十月を特別な祭りの月とすべきだが、そのような例もない。また、十月に天皇が神社へ行幸(参拝)される例も多くある。ただし、(十月の行幸については)不吉な結果に終わった例が多いのも事実である。
二〇三
朝廷からお
咎めを受けた者の家に「
靫(矢を入れ背負う道具)」を懸けるという古い作法は、今では完全に途絶えてしまい、詳しいやり方を知っている人は誰もいない。
112/136
天皇がご病気の時や、おおかた世の中が不穏で騒がしい時には、五条の天神(現在の五条天神社)に
靫を懸けなさる。
鞍馬にある「
靫の明神」というのも、かつて(疫病退散などのために)
靫が懸けられた神なのだ。
看督長(検非違使の下級官吏)が背負っている
靫をその(罪人の)家に懸けられてしまうと、もう人は 誰も出入りすることができなくなる。この作法が完全に途絶えた後、今の時代(鎌倉末期)には、ただ(門扉に)「封(紙の封印)」を貼り付けるだけのことに なってしまったのだなぁ。
二〇四
犯人を「
笞」で打つ刑罰を行う時は、「
拷器(責め具、縛り台)」に寄せて縛り付けるものである。しかし、その拷器がどのような形をしていたか、また、どのようにして罪人を そこに縛り付けたのかという作法も、今では正確に理解している人はいないということだ。
二〇五
比叡山にある「
大師勧請の
起請(
最澄の神霊に誓う文書)」という形式は、
慈恵僧正が書き始められたものである。そもそも「起請文」という形式は、法曹(律令に基づいた本来の裁判制度)には存在しない。古き良き時代には、すべてにおいて 起請文に基づいて行われる政治などは なかったのだが、近頃になって、このやり方が広く世に広まってしまったのだ。
また、法令(律令などの公的な規則)においては、水や火そのものには「
穢れ」を認めない。ただし、それらを入れる「入れ物」には、
穢れが付くものとされる。
二〇六
徳大寺の故大臣殿(藤原
実定)が
検非違使別当(警察・司法の長)であった時、中門で役所の会議が行われていた。その最中、官人の
中原章兼の牛が放たれ、役所の中に入り込んでしまった。あろうことか、裁判官が座る「
浜床」の上に登り、
反芻しながら横たわってしまったのだ。居合わせた者たちは「重大な怪異だ」
113/136
として、牛を(お
祓いのために)
陰陽師のもとへ送るべきだと主張した。それを聞いた父の
相国は、こうおっしゃった。「牛に分別などない。足があるのだから、どこへでも登るだろう。貧しい下級官吏が、たまの出仕に使っている わずかな牛を取り上げるようなことが あってはならない」そして、牛を飼い主に返し、牛が寝ていた畳だけを新しいものに交換させた。結局、その後は何の不吉なことも起こらなかったという。
「怪異(異常な事象)を目の当たりにしても、それを怪しいと思わずに(冷静に、あるいは無関心に)対処する時は、その怪異の側が(力を失って)かえって自滅してしまうものだ」という言葉がある。
二〇七
亀山殿を造営しようとして地ならしをしていたところ、巨大な蛇が数えきれないほど集まって 固まっている大きな塚が見つかった。「これはこの地の神であろう」と言って、事の次第を報告したところ、天皇から「どうすべきか」との
諮問があった。人々は皆、「古くからこの地を占拠している
主ならば、簡単には掘り捨てられません」と(開発の中止や設計変更を)具申した。しかし、この大臣(
実定)だけは、たった一人でこう断言した。「王の領土に住まう虫けらごときが、天皇の住まいを建てようという時に、どうして
祟りなど起こせましょうか。正しい神や霊(鬼神)というものは、
邪なことはしないものです。気にする必要はありません。ただ、すべて掘り捨てなさい」そこで塚を崩し、蛇をすべて大井川に流してしまった。
その後も、全く
祟りなどは起こらなかった。
二〇八
お経の巻物などの
紐を結ぶ際、上下からタスキ状に交差させて、二本の紐の間から輪っかの頭を横向きに引き出すやり方は、今では当たり前に行われている。しかし、
華厳院の
弘舜僧正は、そのような結び方を見つけると、わざわざ
解いて直させていた。
114/136
「これは最近の流行りのやり方だ。実に見苦しい。正しくは、ただくるくると巻いて、上から下へ
紐の端を挟み込むだけにするものだ」と言っていた。
弘舜僧正は、昔ながらの正しい作法を 熟知しているお方であったのだ。
二〇九
他人と田んぼの所有権を争っていた者が、裁判に負けてしまった。彼は悔しさのあまり、「その田の稲を刈り取ってしまえ」と言って人を遣わした。ところが、遣わされた者たちは、目的地へ行く道中にある 無関係な田んぼまで 次々と刈り取っていく。「ここは争っている場所ではない。なぜこんな事をするのか」と(周囲の者が)
咎めると、刈り取っている者たちはこう答えた。「いや、そもそも本来の目的地(争っている田んぼ)だって、刈り取る正当な理由なんてないんですよ。私たちは、初めから『道理に合わないこと』をやろうとして出向いている者たちです。ならば、どこの田んぼを刈ろうが、道理に合わないという点では同じことでしょう」その理屈は、実におもしろい(筋が通っている)。
二一〇
「
喚子鳥は春の鳥である」とだけ書かれた本は多いが、それが具体的に どのような鳥なのかを はっきりと記したものは(これまで)なかった。ところが、ある真言宗の書物の中に、「
喚子鳥が鳴く時に、死者の魂を呼び戻す『
招魂の法』を行う手順」についての記述があった。そこには「これは鵺(
トラツグミ)のことである」と記され、続けて『万葉集』の長歌「
霞立つ 長き春日の……(に鳴く、ぬえ鳥の悲しき声……)」という歌が引用されていた。確かに、鵺(トラツグミ)の鳴き声の様子は、人を呼ぶような「喚子鳥」のイメージに合致しているように思われる。
二一一
あらゆる物事に、執着して頼り切ってはならない。
115/136
愚かな人は、深く頼り込んでしまうからこそ、それが裏切られた時に恨んだり怒ったりするのだ。
- 権勢があるからといって、頼りにしてはいけない。強い者から先に滅びるものだ。
- 財産が多いからといって、頼りにしてはいけない。一瞬のうちに失いやすいものだ。
- 才能があるからといって、頼りにしてはいけない。あの孔子ですら、時流に恵まれなかった。
- 徳があるからといって、頼りにしてはいけない。最高の徳を持った顔回も、若くして不幸に死んだ。
- 主君の寵愛も頼りにしてはいけない。罰を受けるのは あっという間だ。
- 部下を従えているからといって、頼りにしてはいけない。背いて逃げ出すことがある。
- 人の厚意を頼りにしてはいけない。必ず変わるものだ。
- 約束を頼りにしてはいけない。誠実なことなど滅多にないのだ。
自分自身も他人も当てにしなければ、物事がうまくいった時は(思いがけない幸運として)喜び、うまくいかなかった時も(想定内なので)恨むことはない。左右のスペースが広ければ、何かにぶつかって遮られることはなく、前後の距離が遠ければ、行き止まりに塞がれることもない。逆に、空間が狭ければ、押しつぶされ砕けてしまう。心の使い方が窮屈で厳しすぎる(余裕がない)時は、物事と衝突し、争いが生じて破綻してしまう。逆に、心がゆったりと
柔らかであれば、細い毛一本ほどの傷もつくことはない。
人間は、天地の間に存在する あらゆるものの中で、最も優れた霊的な存在(万物の
霊長)である。そして、天地(宇宙)というものには、限界という境目がない。ならば、その天地の一部である人間の本性もまた、どうして天地と異なり、限界などあろうか(いや、ない)。
116/136
心が寛大で、無限の広がりを持っている時は、喜びや怒りといった 一時的な感情に妨げられることもなく、外的な事象によって
煩わされることもないのである。(ちなみに地動説が日本に伝わったのは、遥か後の江戸時代)
二一二
秋の月は、この上なく素晴らしいものである。「月なんて、いつだって同じように そこにあるものだろう」と言って、秋の月の格別な美しさを 理解しようとしない人は、本当になんとも情けなく、興ざめなことである。
二一三
主君の御前にある
火炉(いろりや火鉢)に新しい炭を置くときは、火箸で挟んで置いてはいけない。(あらかじめ炭を盛った)
土器から、直接、火炉へと移すべきである。だからこそ、移したときに炭が転び落ちたりしないよう、あらかじめ土器の上で しっかりとバランスを考えて 炭を積んでおかねばならない。
八幡宮の
御幸に
供奉していたある人が、
汚れのない真っ白な装束を着ていた際、直接 手で炭を扱っていたところ、ある有職の専門家がこう教え
諭した。「白い服を着ている日には、火箸を使っても差し支えないのですよ」
二一四
「
相夫恋」という雅楽の曲名は、「女が男を恋い
慕う」という意味ではない。本来は「
相府蓮」であり、同じ読みの文字が通じ合って使われているだけなのだ。昔、晋の王倹という人が大臣(相府)だった時、邸宅に蓮を植えて深く愛でた。その時に作られた音楽なのだ。このことから、大臣(の役所や邸宅)を「
蓮府」と呼ぶようになったのである。
「
回忽」という雅楽の曲名も、本来は「
回鶻」と書く。
回鶻国という、外国の非常に屈強な国がある。その異民族が漢(中国)に降伏して従った後、漢の都へやってきて、自分たちの国の音楽を奏上した。それがこの楽の正体なのである。
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二一五
平宣時朝臣が、年老いてからの昔語りにこう言った。「最明寺入道(北条
時頼)様から、ある日の宵の口にお呼び出しが かかったことがあった。私は『すぐにお伺いします』と返事をしたものの、正装の
直垂が見当たらず、もたもたと探していた。するとまた使いが来て、『
直垂がないのですか? 夜のことですから、格好が悪くても構わない。早く来なさい』とのことだったので、私は
着古してよれよれの
直垂を、普段着のまま着て参上した。すると入道様は、お酒の入った銚子と盃を持って現れ、『この酒を一人で飲むのが寂しかったので、あなたを呼んだのだ。つまみ(肴)がないのだが、家の者は皆寝静まってしまったようだ。何か適当なものがないか、どこまでも探してきてくれ』とおっしゃった。私は
紙燭を灯して、あちこち隅々まで探し回ったところ、台所の棚にあった小さな器に、味噌が少し こびりついているのを見つけて、『これを見つけて参りました』と申し上げた。入道様は『それで十分だ』とおっしゃって、機嫌よく何度も杯を重ね、大変盛り上がったものだ。昔の世の中とは、このように(質素で風流なもの)であったのだよ」
二一六
最明寺入道(北条
時頼)が、鶴岡八幡宮への参拝のついでに、
足利左馬入道(足利
義氏)の屋敷へ、あらかじめ使いを出した上で立ち寄られた。主人である
義氏が用意したもてなしは、一献目に
打ち鮑、二献目に海老、三献目に「かいもちひ(おはぎ、あるいは ぼたもちのようなもの)」が出ただけで、それでおしまいという簡素なものだった。その席には、亭主夫婦と、主人側の身内として
隆弁僧正だけが同席していた。さて、入道様が「毎年いただいている足利の染物が、待ち遠しく思っております」とおっしゃったところ、
義氏は「用意しております」
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と答え、いろいろな染物を三十点、入道様の目の前で、
女房たちに(即座に)小袖へと仕立てさせて、後ほどお送りしたのだった。
その時(足利の屋敷で)実際にその様子を見た人が、つい最近まで生きておられたのだが、その方が語って聞かせてくれたことなのである。
二一七
ある大金持ちが言うには、「人は他のことはさておき、ひたすら富(徳)を積むべきだ。貧しければ生きている甲斐がない。富んでいてこそ人間と言える。富を築こうと思うなら、まずその精神の持ち方を修行せよ。その心得とは他でもない。人間は永遠に生きるものだと思い込み、ゆめゆめ『無常(いつか死ぬ)』などと考えてはならない。これが第一の用心だ。次に、あらゆる用事を済ませよう(金を使おう)としてはいけない。人の願望には際限がない。欲に従って志を遂げようとすれば、百万銭あっても一瞬でなくなる。願いに終わりはないが、財産には限りがある。限りのある財で、限りのない願いを叶えるのは不可能だ。何か願いが心に浮かんだら、『自分を滅ぼす悪念が来た』と固く慎み恐れて、小さな用事さえしてはならない。次に、金を『奴隷のように使うもの』だと思っているうちは、貧しさから逃れられない。金を『主君』や『神』のように
畏れ敬い、決して使って(従えて)はならない。次に、恥をかかされても、怒ったり恨んだりしてはいけない。次に、正直であれ。約束を固く守れ。この教えを守って利を求めるなら、富がやってくるのは、火が乾いたものに燃え移り、水が低い方へ流れるのと同じくらい当然のことだ。金が積まれて尽きない時は、宴会や遊びにふけらず、住まいを飾ることもない。願いは叶えていなくても、心は永遠に安らかで楽しいものだ」と言った。
そもそも、人は願いを叶えるために財を求める。銭を財宝とする理由は、それが願いを叶えてくれるからだ。
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願いがあっても叶えず、銭があっても使わないのであれば、それは全くの貧乏人と同じである。それのどこに楽しみがあるというのか。(前段の長者の)教えは、結局のところ「人間の欲望を断ち切って、貧乏を嘆くな」と言っているように聞こえる。だが、欲を満たして楽しもうとするよりは、最初から財産などない(欲を持たない)ほうがマシだ。腫れ物を患う者が、それを水で洗って「ああ気持ちいい」と言うよりは、最初から病気にかからないほうが良いのと同じことだ。ここに至っては、貧乏も富豪も区別がなくなる。結局のところ、この長者の極論は仏法の「
理即(悟りの第一段階)」に等しい。「大きな強欲」は、もはや「無欲」と同じ姿をしているのだ。
二一八
狐というのは、人間に噛みつくものである。
堀川殿では、
舎人(役人)が寝ていたところ、その足を狐に噛まれた。また
仁和寺では、夜、本堂の前を通っていた下働きの法師に、三匹の狐が飛びかかって噛みついた。法師は刀を抜いて防戦し、狐二匹を突いた。そのうち一匹は突き殺し、もう一匹は逃げていった。法師は、あちこちを噛まれはしたが、命に別状はなかった。
二一九
四条黄門様が、かつて こうおっしゃった。「
豊原竜秋は、音楽の道において 極めて尊い人物である。先日彼が来てこう言ったのだ。『浅はかな考えで、恐縮な申し分ではございますが、横笛の
五の
穴については、いささか疑問に思うところがございます。理由はこうです。
干の穴は平調、五の穴は
下無調で、その間には
勝絶調という音律が 一つ隔てられています。また、
上の穴、
夕の穴、
中の穴といった他の穴の間にも、それぞれ一つずつ音律が隠されています。しかし、この五の穴だけは、上の穴との間に他の調子を挟んでいない(半音の距離が近すぎる)のです。それなのに、穴を空ける間隔を他の穴と同じにしてしまっている。
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だから、出る音が不快なのです。ゆえに、この穴を吹く時は、吹奏の加減で音を下げなければなりません。それができないと、
アンサンブルが合いません。吹きこなせる人は、滅多にいないのです』彼のこの考察は、実に見事である。まさに『
先達は後生(若手・次世代)を恐れる』とは、このような探究心のことを言うのだ」
後日、景茂がこう言った。「
笙という楽器は、あらかじめ完璧に調律を済ませておけば、あとはただ吹くだけで正しい音が出る。だが、笛は違う。吹きながら、その息の中で刻一刻と音律を調整していくものなのだ。だから、穴の一つ一つに対して、伝授された作法の上に、さらに自らの本質的な技量を加えて心を込めるべきであって、それは何も『五の穴』に限ったことではない。単に『この穴は音を下げるべきだ』と決めつけるのも良くない。下手に吹けば、どの穴だって不快な音になるし、上手い人なら どんな穴でも周囲と調和させて 吹くものだ。ピッチが合わないのは、吹く人間の責任であって、楽器の欠陥ではないのだ」
二二〇
「何事においても田舎は下品で
頑ななものだが、天王寺(四天王寺)の舞楽だけは都に引けを取らない」と言われている。その理由について、天王寺の楽師がこう語った。「当寺の楽が、楽譜と音を完璧に一致させ、素晴らしい調べを奏でられるのは、他よりも優れた点があるからです。その理由は、聖徳太子の御代に定められた『基準』が今も残っているからです。それは、
六時堂の前にある鐘です。その鐘の音は、まさに『
黄鐘調』のど真ん中の音なのです。音というのは 寒さや暑さによって 微妙に上がったり下がったりするものですから、二月の
涅槃会から四月の
聖霊会までの、気候が安定した中間時期の音を『正解』としています。これは当寺の秘伝です。この一つの基準音を元にして、あらゆる音律を調律しているのです」
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およそ、鐘の音というものは「
黄鐘調」であるべきだ。なぜなら、これは「無常(すべては移り変わる)」を象徴する調べであり、あの祇園精舎の無常院で鳴り響いた音だからである。西園寺の鐘を造る際、どうしてもこの黄鐘調に鋳造しようとして、何度も何度も
鋳直したが、どうしても上手くいかなかった。結局、(都ではなく)遠い地方から その音のする鐘を探し出してきたのである。
浄金剛院の鐘の音もまた、見事な黄鐘調である。
二二一
「建治、弘安のころ(鎌倉時代中期)は、祭りの日に
検非違使の下役たちが担ぎ出す飾り物として、風変わりな紺色の布を四、五反も使って巨大な馬を作り、その尾や髪には灯心(火を灯す芯)をあしらっていた。また、
蜘蛛の巣を描いた
水干を着て、歌の趣向などを凝らして 練り歩いたものだ。そのような光景を常々目にしていたが、どれも実に面白く、風流な趣向を凝らしていたものだ」と、年老いた道志たちが、今日も懐かしそうに語っている。それに引き換え、このごろの「付け物(祭りの飾り)」は、年を追うごとに
贅沢が度を超えてしまっている。何でもかんでも重々しい飾りをたくさん付け、そのあまりの重さに(中の演者は)左右の
袖を他人に持たせ、自分では托鉢の鉢一つ持てず、肩で息をして苦しんでいる。その有り様は、実に見苦しいものだ。
二二二
竹谷の
乗願房が、
東二条院に参上された際のこと。院から「亡くなった人の
追善供養には、どのようなことが最も功徳が多いのでしょうか」とお尋ねがあった。
乗願房は「
光明真言と、
宝篋印陀羅尼でございます」と答えた。下がった後、弟子たちが「なぜあのような答え方をなさったのですか。わが宗派の教えである『念仏』に勝るものはないと、どうして おっしゃらなかったのですか」と詰め寄った。
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すると
乗願房はこう答えた。「自分もわが宗の僧侶なのだから、本当はそう言いたかった。しかし、『念仏を唱えることが追善供養として絶大な利益がある』とはっきりと説いている経文を、私はまだ見たことがないのだ。もし院から『どの経典にそう書いてあるのか』と重ねて問われたら、答えに詰まってしまう。だから、私は出典の確かな
光明真言や
陀羅尼を申し上げたのだ」
二二三
「鶴の大臣」と呼ばれた
源師忠殿の幼名は、「たづ君」である。世間では「鶴を飼っていたから そう呼ばれたのだ」と言われているが、それは間違いである。(人間は、何か特徴的な名前や現象があると、「そこには何か深い理由(ドラマ)があるはずだ」と脳内で勝手にストーリーを補完してしまいがちだ、ということを語っているよう)
二二四
陰陽師の
有宗入道が、鎌倉から京へ上ってきた折、
私のところを訪ねてきた。彼は部屋に入るなり、まずこう言った。「この庭が無駄に広いことは、驚きあきれるばかりで、あってはならないことだ。道をわきまえている者は、植物を植えることに励むもの。細い道を一本だけ残して、あとはすべて畑にしなさい」と、
私をいさめたのであった。
本当に、わずかな土地であっても、何にも使わずに放置しておくことは、全く利益のないことである。(そこに観賞用の草木を植えるくらいなら)食べられるものや、薬草などを植えておくべきだ。
二二五
多久資(雅楽の権威)が語ったことには、
信西(
藤原通憲)入道が、既存の舞の手の中から面白い部分をセレクトして、
磯の禅師という女性に教えて舞わせた。白い
水干を着せ、
鞘巻の刀を差させ、烏帽子を深く被らせた格好だったので、これを「
男舞」と呼んだ。禅師の娘である
静(
静御前)が、この芸を継承した。これが「白拍子」の
根本である。
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当初は、仏や神の縁起を歌っていた。その後、
源光行が多くの新作を作り、
後鳥羽上院による作品もある。上院は、お気に入りの
亀菊という白拍子に これを教えられたということだ。
二二六
後鳥羽上院の
御代、信濃の
前司行長という、学問の
誉れ高い人物がいた。彼が「
楽府(漢詩の一種)」の議論の場に召された際、あろうことか「
七徳の舞」のうちの二つを忘れてしまった。そのため「五徳の冠者(五つしか知らない若造)」という屈辱的なあだ名を付けられてしまった。
行長はこれを深く恥じて、学問を捨てて出家し、
隠遁してしまった。そんな彼を、
慈鎮和尚(慈円)が放っておかなかった。
和尚は「一芸ある者は、下働きの者に至るまで側に置いて面倒を見る」という、優れた才能を保護する方針を持っていたため、この信濃の入道(
行長)を扶持し、
養ったのである。
この
行長入道が『平家物語』を執筆し、
生仏という盲目の僧に教えて語らせた。その内容は、比叡山のことは特に重々しく書いている。また、源義経のことは詳しく知っており、詳細に書き載せている。一方、
源範頼のことは、よく知らなかったのだろうか、多くの事柄を書き漏らしている。武士のことや、弓馬の術(戦闘描写)については、
生仏が東国の出身であったため、
生仏が実際の武士に取材して 聞き出したことを
行長に書かせたのだ。今の
琵琶法師たちは、その
生仏の生まれ持った声をモデルにして 語り継いでいるのである。
二二七
「
六時礼讃(一昼夜を六つに分けて行う勤行)」は、法然上人の弟子である
安楽という僧が、経文の中から ふさわしい箇所を収集・編集して作り、日々の勤行としたものである。その後、
太秦の
善観房という僧が、これに
節博士(旋律や音程を示す記号)を定めて、
声明(仏教音楽)として形式化した。これが、いわゆる「
一念の念仏」の起源である。
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後嵯峨上院の御代から公式に始まった。また「
法事讃」も、同じく
善観房が始めたものである。
二二八
京都の千本
釈迦堂(
大報恩寺)で行われる「
釈迦念仏」は、文永のころ(13世紀後半)、
如輪上人が始められたものである。
二二九
優れた細工師は、少し切れ味の鈍い刀を使うという。名工として知られた妙観の刀も、それほど鋭くはなかった。
二三〇
五条内裏には、化け物が出たという。
藤大納言殿が語られたことには、
殿上人たちが
黒戸で囲碁を打っていたところ、
御簾を持ち上げて覗き見ている者がいる。「誰だ?」と思って見向いたところ、一匹の狐が、人間のように ちょこんと座っていた。「おい、狐だぞ!」と皆で騒ぎ立てたところ、狐は慌てて逃げ去ってしまった。まだ修行が足りない(未練な)狐が、化けるのに失敗してしまったのだろう。
二三一
「
園の
別当(家元当主)入道は、並ぶ者のない包丁の達人である。ある人の家で、素晴らしい鯉が出された際、同席した人々は皆、別当入道の包丁さばきを見たいと思ったが、軽々しく依頼するのも失礼かと ためらっていた。すると別当入道は事情を察し、『私は近頃、百日連続で鯉を
捌くという誓いを立てておりまして、今日欠かすわけには参りません。ぜひ私に
捌かせてください』と言って鯉を切った。その振る舞いは非常にその場にふさわしく、風情があるものだと人々は感心した」……という話を、ある人が北山の太政入道(西園寺
実氏)殿に語り聞かせたところ、「そのようなことは、私には実に鼻持ちならないと思えるのだ。『切れる者がいないなら、私が切りましょう』と言えば、それで十分ではないか。わざわざ『百日の誓い』などと、どうして嘘をつく必要があるのだ」とおっしゃったという。
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その言葉こそが、何とも
趣を感じられた、とある人が語ってくれた。これもまた、非常に興味深い話である。
およそ、わざとらしく振る舞って面白いと思われるよりも、面白みはなくても安らかで自然である方が、勝っているものだ。来客の接待なども、何かのついでを装って風流に取りなすのも、なるほど悪くはないが、ただ(特別な理由を付けずに)素直に差し出すのが、一番良い。人に物を贈るのも、何かのついでという言い訳をせず、「これを差し上げましょう」と言うのが、本当の真心というものだ。惜しむふりをして相手にねだらせようとしたり、勝負事の負けの罰ゲームに託して贈ったりするのは、
煩わしく、見苦しい。
二三二
およそ、人間というものは(中途半端に知恵を回さず)無知・無能であるべきものだ。ある人の息子で、身なりや立ち居振る舞いも悪くない者が、父の前で客人と話をしていたとき、歴史書の文章を引用して見せた。利口そうには聞こえたが、徳の高い人の目から見れば、そんなことを しなくてもいいのに、と思われたことだろう。また、ある人の家で 琵琶法師の語りを聞こうとして 琵琶法師を召し寄せたところ、
柱(弦を支える駒)が一つ落ちていた。主人が「作って付けなさい」と言ったところ、居合わせた男の中に、そこそこの人物と見える者がいたのだが、その男が「古い
柄杓の柄はありませんか」などと言い出した。見れば、その男は爪を長く伸ばしている。琵琶などを弾くのだろう。しかし、盲目の琵琶法師が使う琵琶に、そんな素人細工をする必要などない。「自分は専門の道に心得があるのだ」と言いたげな様子は、端で見ていて痛々しい(かたはらいたき)ものだった。後で、ある通人が「
柄杓の柄はヒノキの類で、琵琶の柱(通常はカエデやツゲ)にするには 質の良くないものだ」とおっしゃっていた。
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若い人(あるいは経験の浅い人)というのは、ほんの些細な言動によって、非常に良くも見えれば、反対にひどく悪くも見えてしまうものだ。
二三三
あらゆる過失をなくそうと思うならば、何事にも誠実であって、相手を選ばず礼儀正しく、言葉を控えめにすることに越したことはない。男女、老若を問わず、そのような人は素晴らしいものだが、特に若く容姿の端正な人が きちんとしているのは、忘れがたく心
惹かれるものである。あらゆる過失の原因は、慣れたふりをして通人ぶったり、何かを自分のものにしたような顔をして、他人を
侮ったりすることにあるのだ。
二三四
人が何かを尋ねてきたとき、知らないはずはないのに、「ありのままに答えるのは馬鹿げている(あるいは底が浅い)」とでも思うのか、相手を惑わせるような、はぐらかした返答をするのは良くないことだ。相手は、知っていることでも 念のためにと思って 尋ねているのかもしれない。また、本当に知らない人だっているはずだ。そんなとき、包み隠さず明快に説明してあげる方が、よほど大人らしく立派に聞こえるものだ。また、相手がまだ聞いていない情報を、自分だけが知っているからといって、「それにしても、あの人の事件は驚きですね」とだけ(概要も告げずに)言い送る人がいる。受け取った方は、一体何があったのかと、わざわざ聞き返さなければならず、実に不愉快なものだ。世間では周知の事実でも、たまたま聞き漏らしている人もいるものだ。だから、状況がはっきり分かるように告げてあげるのが、どうして悪いことだろうか(いや、良いことだ)。こういう「もったいぶった情報の出し方」をするのは、世慣れていない、品のない者のすることである。
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二三五
主人が(ちゃんと管理して)住んでいる家には、見ず知らずの他人が勝手気ままに入ってくるようなことはない。しかし、主人のいない(空き家となった)場所には、通りすがりの旅人が勝手に立ち入り、狐や
梟といった獣や鳥たちも、人間の気配に邪魔されないので、我が物顔で入り込んで住み着き、
木霊(妖怪)などの不気味な怪異も姿を現すものである。
また、鏡には(それ自体に)決まった色も形もないからこそ、あらゆるものの姿(よろづの影)がやって来て、そのまま映し出される。もしも鏡自体に、最初から固有の色や形があったなら、他のものを映し出すことなどできないだろう。ガランとした虚空(大空・スペース)は、何もないからこそ、よく物を中に受け入れることができるのだ。(これらと同じように)
私たちの心に、様々な雑念がコントロールもできず 勝手気ままに湧き上がって浮かんでくるのも、実は「心」という確固たる実体(主)が、元々どこにも無いからではないだろうか。もしも心に、最初からしっかりとした主人(コントロールタワー)がいたならば、胸の中にこれほど多くのくだらない雑念が、勝手に入り込んでくることなど ないはずなのだ。
二三六
丹波の国(現在の京都府亀岡市付近)に、「出雲」という場所がある。本家の出雲大社を勧請(神仏の来臨を請い願う)して、立派に造ってある。
志田某という者が領有している場所なので、秋のころ、
聖海上人が、他にも大勢の人を誘って、「さあ、行きましょう。出雲を拝みに。ぼた餅をご馳走しましょう」と言って、連れて行った。一行はそれぞれ参拝して、たいそう信仰心を起こした。
社殿の前に置かれた獅子と狛犬が、互いに背を向けて、後ろ向きに立っていたので、上人はひどく感動して、「ああ、素晴らしい。この獅子の立ち方は、実に珍しい。深い理由があるのだろう」
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と涙ぐんで、「皆さん、この尊い奇跡をどうして見逃すのですか。情けないことです」と言うと、同行の人々も不思議がって、「本当だ、他とは違っている。都への土産話にしよう」などと言った。上人はさらにその理由が知りたくなって、いかにも年配で物知りそうな神官を呼び寄せて、「この神社の獅子の立て方は、きっと由緒ある伝承があるのでしょう。ぜひ伺いたい」とおっしゃった。すると神官は、「ああ、そのことですか。いたずらな子供たちがやってしまったことで、とんでもないことです」と言って、近寄って獅子を 元の向きに据え直して 立ち去ってしまった。おかげで上人の感動の涙は、すっかり無駄になってしまった。
二三七
柳筥(柳の枝で編んだ箱)の中に物を置くときは、縦向きに置くべきか、横向きに置くべきか。それは物によるのだろうか。「巻物などは縦向きに置いて、編み目の隙間に
紙縒を通して結びつけるのがよい。また、
硯も縦向きに置いたほうが、筆が箱の中で転がらず、具合が良い」と、
三条右大臣殿が仰っていた。
(先ほどの三条家の話とは対照的に)代々書道の家柄である
勘解由小路家の人々は、決して(
硯を)縦に置くようなことは なさらなかった。必ず、横向きに据えられていたものである。
二三八
近衛府の役人である
近友が、「自慢話」として七ヶ条を書き留めたものがある。しかし、どれも馬術に関する、大して取り立てるほどでもない 些細なことばかりだ。そこで、その例にならって、自分(
兼好)なりに「自慢できること」を七つ考えてみた。
一つ。大勢の人を連れて花見をして歩いていたとき、
最勝光院のあたりで、一人の男が馬を走らせているのを見て、
私はこう言った。「もし もう一度馬を走らせるなら、馬は倒れて、乗り手は落ちるはずだ。しばらく見ていなさい」
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そこで立ち止まって見ていると、男は再び馬を走らせた。そしてちょうど馬を止めようとした場所で、案の定、馬を引き倒してしまい、乗っていた人は泥の中に転がり落ちた。
私の言葉が寸分違わなかったことに、居合わせた人々は皆 感心した。
一つ。今の天皇(
後醍醐皇)が まだ皇太子でいらした頃、
万里小路殿を御所とされていた時のこと。
堀川大納言殿の部屋へ用事があって参ったところ、大納言殿は『論語』の四・五・六巻を繰り広げて、「たった今、御所で『紫の朱を奪ふことを悪む(まがいものが本物を浸食することを嫌う)』という一文を確認したいと仰せがあったのだが、お手元の本をいくら探しても見つからないのだ。『もっとよく探せ』との仰せで、困って探しているのだよ」とおっしゃった。そこで
私が「それは第九巻のどこそこにございます」と申し上げたところ、「ああ、嬉しい」と、その本を持って参内された。この程度のことは子供でも知っているような常識だが、昔の人は些細なことでも、見事にやってのけた時は自画自賛したものだ。例えば
後鳥羽院が、自作の歌について「一首の中に『
袖』と『
袂』が両方入るのは良くないだろうか」と藤原
定家卿にお尋ねになった際、
定家が「『秋の野の草の
袂か……』という古歌(本歌)がございますから、何の問題もございません」と即答したことも、後に
定家は「瞬時に本歌を思い出したのは、芸道の神仏の加護であり、幸運であった」と、大げさに書き残している。九条
相国藤原伊通公の嘆願書にも、大したことのない実績を書き連ねて、自慢されているのだ。
一つ。
常在光院の鐘の銘文は、
在兼卿が下書きしたものだった。
行房朝臣が清書して、いよいよ鋳型に写そうとしていたとき、奉行の入道が その下書きを取り出して
私に見せてくれた。すると「花のほかに夕を送れば、声百里に聞こゆ」という句があった。
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私は「これは
陽唐の韻の詩だと思われますが、『百里』の『
里』では韻が合わず、誤りではないでしょうか」と指摘した。入道は「見せておいて本当に良かった。私(入道)の手柄だ」と言って、すぐに筆者のところへ使いを出した。すると筆者から「確かに間違いでした。『数行』と直してください」と返事が来た。しかし「数行」とはどういう意味だろうか。もしかして「
数歩」のつもりだろうか。よく分からず、気がかりなことだ。
「数行」という修正案には、やはり疑問が残る。「数」というのは、四つか五つほどを指す言葉だ。鐘の音が「四、五歩(数歩)」しか聞こえないというのは、あまりにも距離が短すぎて、おかしいではないか。ここは、ただ単に「遠くまで聞こえる」という意味の言葉であるべきなのだ。
一つ。大勢を連れて比叡山三塔を巡礼したときのこと。
横川の常行堂の中に「
竜華院」と書かれた古い
額があった。堂の僧が「これは
藤原佐理か
藤原行成か、どちらの筆跡か疑いがあって、未だに決着がついていないと伝わっております」ともったいぶって説明した。そこで
私は「行成の筆ならば裏書があるはずだ。佐理ならば裏書はないはずだ」と言った。
額の裏は
塵が積もり、虫の巣が張っていて薄汚れていたが、綺麗に掃き拭いて皆で見たところ、行成の
位階、姓名、年号がはっきりと書かれていた。人々は皆、深く感心した。
一つ。
那蘭陀寺で、
道眼上人が説法をしていた際、「
八災」という用語の中身をど忘れしてしまい、「皆さんはこれを覚えておいでですか」と問いかけた。並み居る修行僧たちが誰も答えられずにいたところ、
私は仕切りの内側から「それは これこれのことでは ありませんか」と小声で教え出した。導師はたいそう感心して、このことを誉め称えた。
一つ。
賢助僧正に連れられて、
加持香水の儀式を見学していた時のこと。
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儀式がまだ終わらないうちに
僧正が退出されたのだが、お供の
僧都の姿が陣の外まで見当たらない。
僧正が部下の法師たちを戻して探させたのだが、彼らは「同じような格好をしたお坊さんが大勢いて、見つけ出すことができません」と言って、長いことかかって戻ってきた。
僧正が困り果てて、「ああ、困った。お前(
兼好)が探してきてくれ」とおっしゃるので、
私は会場に戻り、すぐさま
僧都を連れて出てきた。
一つ。二月十五日の月が明るい夜、更けてから
千本の釈迦堂へ参拝した。裏口から入り、一人で顔を深く隠して法話を聴聞していたところ、優雅な女で、姿も香りも人より格別に優れた者が、人混みを分けて入ってきて
私の膝に寄りかかってきた。香りがこちらに移るほどだったので、
私は「都合が悪い(修行の妨げだ)」と思って少し退いたが、女はさらに寄ってくる。同じことの繰り返しだったので、
私は席を立って帰ってしまった。その後、ある御所に仕える年配の
女房が、世間話のついでに「あなたは本当に風情のない方だと、見損なってしまいましたわ。あなたの無情さを恨んでいる人がいますよ」と言い出した。
私は「全く身に覚えがありません」と答えてそのままにしておいた。この件について後で聞いたところでは、あの日、法話の会場で高貴な方が
私を見つけ、身近な
女房を着飾らせて差し向け、「もし隙があるようなら、言葉でもかけてくるだろう。その様子を報告しなさい。面白いことになりそうだ」と、
私を試されたのだそうだ。
二三九
八月十五日(中秋の名月)と九月十三日(後の月)は、月が
婁宿という星のエリアに位置する。この宿(星座)にある間は、空気が清らかで晴れ渡るため、月を鑑賞して楽しむのに最適な夜とされているのだ。
二四〇
(歌に
詠まれる)「しのぶの浦」の「海藻」ではないが、世間の「人目」
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がどこもかしこも窮屈なほど厳しく、また「鞍馬の暗ぶ山」のように(二人の仲を遮る)監視の目がこれでもかと多く、隙もないような状況の中で、(それでもなお、なんとかしてあの人に逢いたいと)無理を押し通してでも通おうとする執念こそが、本当に(通り一遍のものではなく)深く、しみじみと胸を打つのだ。そのような恋の道中には、ハラハラした瞬間瞬間の忘れがたい思い出もきっと多くあることだろう。(それなのに、)親や兄弟が二人の仲をあっさりと許して、大手を振って正式な妻として家に迎え入れ、落ち着いてしまったならば、(その途端にこれまでの風情は消え失せてしまい)実に見るに堪えないほど、つまらないものに なってしまうに違いない。
生活に困っている女が、自分には不釣り合いな老法師や、無骨で風情のない東国武士であっても、相手が裕福であることに
惹かれて、「誘う水があるならば(ついていきましょう)」などと言う。仲人は仲人で、双方の欠点を隠して「奥ゆかしい方ですよ」などと体裁よく取り繕い、正体も知らない者同士を引き合わせる。そうして迎えた新生活の、なんと味気ないことか。そんな二人が、一体何を言葉にして語り合えばよいのか。
長年募った恋の辛さや、「分け入ってきた葉山の……」といった和歌を分かち合ってこそ、尽きることのない会話も生まれるというものなのに。
総じて、他人がお膳立てをしたような関係というものは、不快で嫌なことが多いものだ。相手がどれほど素晴らしい女性であったとしても、家柄も低く、容姿も
醜く、年老いた男が、「このむさくるしい自分のために、彼女の貴重な一生を台無しにして良いものだろうか」と考えないだろうか。周囲の人は「(そんな女性を妻にするなんて)
解せない」と軽蔑するだろうし、自分自身も、彼女と向かい合って座っているだけで、自分の姿が恥ずかしくて たまらなくなる はずだ。
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それこそ、本当につまらなく、やりきれないことではないか。
梅の花が香る夜の
朧月の下で
佇んだり、あるいは(恋人のもとから)
御垣が原の
露を分けて 帰ってゆく有明の空を見上げたり……そんな情景を、自分自身の心に 深く引き寄せて 感じることができないような人は、ただもう、色恋沙汰には関わらないでいるのが一番だ。
二四一
満月が円く完成した状態は、ほんのひと時も留まることはなく、すぐさま欠け始める。注意深く見ていない人は、一晩のうちに それほど月が変わったとは 思わないのだろう。(人間の)病が重くなっていくのも、一瞬の休みもなく進んでおり、死の瞬間はすでに間近に迫っている。それなのに、まだ病状が急変せず、死に直面していない間は、日常の のんびりした気分に流されて、「生きているうちに、あれこれの用事を済ませてから、落ち着いて道を修めよう」などと思っている。そうして病を受けて いよいよ死の門に臨む時、願っていたことは何ひとつ成し遂げられていない。言葉にならないほど、これまでの年月の
怠惰を悔やんで、「もし今回、病が治って命が助かったら、今度こそ夜を日に継いで、あれもこれも休まず成し遂げよう」と決意するだろうが、そのまま病状が重くなれば、正気を失い、取り乱したまま死んでしまう。ほとんどの人間が、このような末路を
辿るものだ。このことを、人々よ、まず何よりも急いで心に留めておくべきである。
「願いをすべて叶えてから、暇ができてから悟りの道に向かおう」などと考えていれば、願いが尽きることなど永遠にない。幻のような短い一生のうちに、一体何ができようか。そもそも、あらゆる「願い」はすべて迷いの妄想である。何かやりたいという思いが心に浮かんだら、「ああ、また迷いの心が乱れているのだ」と自覚して、何一つ手をつけてはならない。
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ただちに万事を放り出して本質に向かう時、邪魔するものもなく、余計な振る舞いも消えて、心も体も末永く静かになるのだ。
二四二
私たちが常に「思い通りになること」と「思い通りにならないこと」に振り回されているのは、ひとえに苦しみと楽しみのためである。「楽しみ」とは、自分の好むものを愛することだ。これを求める心には、休まる時がない。人が心から欲するものは、第一に「名声」である。名声には二種類ある。行いに対する誉れと、才能や技術に対する誉れだ。第二には「性愛」、第三には「食の愉しみ」である。あらゆる願いの中でも、この三つに及ぶものはない。しかし、これらはすべて価値観が逆転した「錯覚」から起こるもので、多くの
煩わしさを伴う。
結局のところ、これらを「求めない」ことに越したことはないのである。
二四三
八歳になった年、
私は父に尋ねた。「仏様とは、一体どのようなものなのですか」父は答えた。「仏様というのは、人間がなったものだよ」
私はまた尋ねた。「人間はどうやって仏様になるのですか」父は「仏様の教えに従うことでなるのだよ」と答えた。
私はさらに尋ねた。「では、その教えを説いた仏様は、誰に教わったのですか」父はまた答えた。「それもまた、前の代の仏様の教えによって おなりになったのだよ」そこで
私は尋ねた。「それでは、一番最初に教えを始められた『第一の仏様』は、どのような仏様だったのですか」すると父は、「空から降ってきたのか、土から湧いてきたのかねぇ」と言って笑った。父は「息子に問い詰められて、答えられなくなってしまったよ」と周囲の人々に語って面白がっていた。
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底本:-
出典(原本):https://classicstudies.jimdofree.com/%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89/
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