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嘘アつかねえ
山本周五郎



 浅草の馬道を吉原土堤どてのほうへいって、つきあたる二丁ばかり手前の右に、山の宿へと続く狭い横丁があった。付近には猿若町とか浅草寺とか新吉原など、遊興歓楽の地が多いので、そのあたりは全般的に活気もあり、家数こそ少ないがかなり繁華でもあった。……しかしその横丁だけはまるで違う。狭い うねくね した道は 昼間でも殆んど人通りがないし、両側の家は軒が低く、おそろしく古ぼけて、片方へかしいだり前へ のめりそうになったりして、五六軒ぐらいずつ途切れ途切れに並んでいる。その途切れたところは草の生えた空地だの、塵芥ごみ捨て場だの、汚ならしい水溜みずたまりだの、家を取壊した跡だの、また気紛れに作りかけたまま放りだしたような畑だのになっていて、ぜんたいが じめじめと暗い、陰気くさい、ひどく うらさびれた眺めであった。


 この横丁の 馬道からはいった左側の空地に、夜になると『やなぎ屋』という袖行灯そであんどん【小さい灯り】を掛けて、煮込みかん酒を売る店が出た。夕方になると六十五六になる爺さんが車屋台をいて来て、葭簾よしずで三方を囲い、腰掛けを二つ並べて商売を始める。夜が明けると片づけて、車屋台を曳いて帰ってゆく。どこに住んでいるのか、いつ頃からそこへ店を出しているのか、どんな身の上か、家族があるかないか、すべてわからない。爺さんも話さないし尋ねる客もない。……客はただ「爺さん」とか「とっさん」とか「おやじ」などと呼ぶだけだし、爺さんのほうは殆んど口をきかない。実際には腰は曲ってはいないのだが、腰の曲っているような たどたどしい動作で、酒のかんをしたり、なべの下をあおいだり、煮込みを皿へつけたり、はしさかずきを洗ったり、絶えず なにか かにか しているが、それはできるだけ客と話すことを避けているようにみえる。そして事実そのとおりであって、くどい客などが相当しつく話しかけても、ほんのおあいそ返辞へんじをするくらいで、身を入れて聞くとか自分から話しだすなど ということは決してなかった。


 信吉は うらぶれた【落ちぶれた】ような気持になると、よくその『やなぎ屋』へいって酒を飲んだ。
 彼はその横丁ぜんたいが好きだった。両側の家に住む人たちはどんな生業なりわいをしているものか、彼の ゆくじぶん にはどの家も雨戸を閉めて、隙間だらけのあばら家なのに灯の漏れるようすもない。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(1 / 14)
ときたま赤児の泣く声や、病人らしい力のないせきや、がたごと雨戸をあけたてする音などが聞えるほかは、みんな空家のようにひっそりとしていた……その横丁へ はいってゆくと、信吉はふしぎな心のやすらぎを覚えた。そこにはつつましい落魄らくはく【おちぶれ】と、あきらめの溜息が感じられた。絶望への郷愁といったふうなものが、生きることのむなしさ、生活の苦しさ、この世にあるものすべてのはかなさ。病気、死、悲嘆、そんなおもいが胸にあふれてきて、酔うような あまい やるせない気分になるのであった。
 初めて『やなぎ屋』へいったのは二年まえの冬のことだろう。酒もさかなも安いだけがとりえで、決して美味うまくはない。ぶあいそな、うす汚れた爺さんのようすも、ふだんなら眉をしかめるところだったが、そのときは新吉原の茶屋で友達と飲んで、そこで口論になって、ひどくやけな孤独な気持でとびだした。このまま旅へで もとびだすか、いっそ身投げでもするかといったような気持だった。……そんなときだったので、葭簾よしずで囲った屋台店も、不味まずい酒や肴も、よぼよぼした爺さんのようすも気にならなかった。むしろ遠い親類の家へでもいったような感じで、――なにか泣き言も言ったらしい――、空の白むじぶんまで乱暴に飲み続けた。
 それからときどき飲みにでかけた。いつも客はあまりいないし、爺さんは無口で、こっちが話しかけない限り いつまででも黙っている。手酌で勝手に酔うことができるし、誰に気兼ねもなく邪魔もされず、いたければ朝までいられるし、自由にもの思いにふけることもできた。
 客はたいていがふと紛れこんで来たといったふうな者ばかりで、長い馴染なじみらしい者はなかった。馬道の通りにも夜明しの飲屋がある。安くて美味い酒肴があって、給仕に小女などを置いている店が、とびとびに四五軒はあった。場所柄もあるだろうが、それらの店では客はだいたい馴染なじみが多く、客同志で話したり唄ったり、陽気に飲んで酔うといったふうであった。しかし『やなぎ屋』の客は殆んどが一度きりであった。そして信吉が初めてとびこんで来たときのように、それぞれが暗い重苦しいかげをもっていた。
――おやじ、強いのはねえか
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(2 / 14)
 ぶすっとそんなことを言って、濁酒どぶろく焼酎しょうちゅうを入れたのを取って、それをすぐには飲もうともせず、蒼黒あおぐろいような疲れた顔を俯向うつむけて、なにか ぶつぶつ 独りでつぶやいたり、なんども深い太息といきをしたりする。それから突然その酒をあおり、銭を投げだして、暗い夜半のちまたへ消えてゆく。……そういった者が多かった。
いまの男は首でも くくるんじゃないのか
 信吉は半ば冗談によくそんなことを言った。爺さんはたいがい気のない相槌あいづちをうつか、にやにや笑うくらいのものであるが、ときには独り言のような調子で、「――なあに、珍しかぁありませんや
 などと言うことがある。おそらくそんな経験が幾たびかあったのだろう、なにかをじっとみとおしているような言いかたで、信吉は急に寒気のするような気持になったこともあった。……いちどなどは人を斬ったがはいって来た。残暑の頃で、もう東の空が明るみだす時刻だったが、そのは足音もさせずに ぬっと はいって来て、酒を冷のまま湯呑へ注がせ、続けさまに三杯もあおった。こまかい白飛絣しろがすり【白地に藍や黒でかすり(かすれた)模様の織物】の帷子かたびら【夏の薄物着物】に【透け感を出した高級夏用生地】の夏羽折を着ていた、せた小柄なからだつきで、眼が血ばしっていた。
くだらないな、実にくだらない」四杯めを飲みながら そんなことを呟いた、「――世の中も人間も、生きていることも、……みんなくだらぬ たわけた【バカげた】ことだ
 はその血ばしった眼で、ときどき信吉のほうを見た。警戒するのでもなく相手を求めるのでもない。信吉を見はするが実は信吉を見るのではなく、心はまったくべつのほうにあるという眼つきだった。
ばかなものだ、ちえっ、ばかなものだ
 そんな呟きも殆んど無意識だったろう、酒を五杯飲むと、途方もないほど多額な金を置いて、来たときのように足音もさせずに出ていった。
ふられて来たというかたちだね
 信吉はそう言った。爺さんは苦笑しただけであるが、それからまもなく役人が来た。いまくるわで人を三人斬ったがある、人相風態はこれこれだが見かけなかったか。こう言うのを聞いて、信吉は危なく声が出そうになった。……役人が去ったあと、信吉の血ばしった眼や、とりとめのない呟きを思い返しながら、爺さんが店を片づけ始めるまで、沈んだぼんやりした気持で飲み続けた。
 という男に初めて会ったのは、北風の吹き荒れる寒い晩だった。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(3 / 14)
色のめた つぎはぎだらけの股引半纒ももひきはんてんに、草鞋わらじがけ頬冠ほおかぶりで、腰には弁当のからとみえるのを小風呂敷に包んでくくり着けていた。年は自分で三十七だと言ったが、五十以下とは思えないくらい老けてみえた。……もうどこかで飲んで来たのだろう、いい気持そうに鼻唄などやりながら、「強いのを」一杯取って、「しばらくだったなあ、おやじ、おめえ生きててれて、おらあ有難え、生きてせえすりゃあ また会えるってよ、こんな有難えこたぁねえや
 舌ったるい調子で饒舌しゃべりだした。彼は自分の名や年や、妻と子供が三人あることや、今は人足に雇われていることなど、二度も三度も繰り返して、そのたびに「嘘アつかねえ」と念を押した。
がきは三人よ、みんな可愛い畜生だ、可愛い畜生だが、暮しは楽じゃあねえ、楽じゃあねえさ、こちとら人足の日雇銭にまで、お上の運上【上納金(税)】が掛るってんだから、文句を言うわけじゃあねえが、お上ってっても どんな心持でいるものかさ

 信吉が『やなぎ屋』へゆくのは不規則で、三日も四日も続けさまにいったり、十日も二十日もゆかなかったりした。しかしまる二年近くも通っているのだから、もう馴染なじみという感じになってもいい筈であるが、爺さんには少しも そんなふうはなかった。いつも初めてはいったときと同じ態度で、べつにおあいそも言わず親しむようすもない。そしてこちらでも、――まえにいったとおり、――客がいつも新顔ばかりで、二度三度と会うような者はめったにないから、しぜん馴染なじみの店という感じはもてなかったのかもしれない。だが、そのなかでという男は、幾たびか顔の合った例外の客の一人であった。
 二度めは暑い季節だったろう。蚊いぶしの煙が葭簾よしずの隙間からしまのようになって外へながれ出るのを、信吉はぼんやり眺めながら、いつもの隅の場所に腰掛けて、飲んでいた。は彼のゆくまえに来て、もうだいぶ飲んだのだろう、もつれるような舌でしきりにきえん【威勢のいい言葉】をあげていた。
この阿魔あま、起きろ、起きてかまの下をきつけろ、……おらあこの式だ、女はこれでなくっちゃいけねえ、日に二三度は横っ面をはりとばしてやる、やかましいっ文句ぅぬかすな、黙れこの野郎、……っとばすこともあるが、いちどなんざあ土間へ蹴落してれたが、……そのくれえにして女はちょうどなんだ、嘘アつかねえ、おいらぁいつもこの式だ
 信吉はぼんやり聞きながら、思わずそっと苦笑し、横眼で男を観察した。初めに会ったときと同様、年は五十くらいに老けてみえるし、皮膚はたるんでつやがなく、肥えているのに肉にしまりがない。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(4 / 14)
まるっこい顔つき、気の弱そうな尻下りの眼つき、すべてが典型的な好人物の相貌【顔立ち】である。
 ――よっぽと女房の尻に敷かれてるな。
 信吉はそう思った。男の言葉は逆であろう、いろいろな点で女房に頭があがらず、常に ぽんぽん やりこめられているに違いない。そのありさまが信吉には見えるようで、つい苦笑せずにはいられなかったのである。……その次にいったときのことであるが、男が馴染なじみらしい口をきいていたのを思いだして、「いつかのとかいう客は古くから此処ここへ来るのかい
 信吉はそうきいてみた。爺さんはいつもの調子で、なにか洗いながら、ええまあ、などとあいまいな返辞へんじしか しなかった。
 それから秋までに三度ばかりと顔が合った。そして話しかけられて口をきくようになったが、彼の話題はいつも必ず、「女は殴りつけて蹴とばすに限る」というところへおちた。物価の高いことや、幕府の政治の悪いこと、老中の誰某はどうだとか、世間の風儀【行儀作法】がみだれるばかりだとか。そういう飲屋の客に共通した社会批評が、しまいにはきまってそこへおちるのである。
旦那なんぞはあまそうだな、うん、隠したって ちゃあんと わからあ、顔のね、ここんところとここんところがね、へっ、おらあ嘘アつかねえ、だめだよ旦那ぁ、あめえあめえ、そんなこっちゃあね、一家てもなぁ 立ちあ しねえんだよ」そしてぐっと細い眼をくのであった、「――女ってえやつぁね、がみがみどなってあばれるにしろ、温和おとなしそうに はいはいと猫をかぶってるにしろ、どっちみち男にくつわませて、手綱をしばって、けつっぺたむちでぴしゃぴしゃ叩くもんなんだ、かせげ稼げってよ、……稼げ、稼げ、……旦那はなんの商売か おらあ 知らねえ、けれども理屈にゃぁ変りはねえと思うんだ、人間同志ならそこはわかってれると思うんだ。……男は悲しい、可哀そうなもんだ。だから、だから おらあ かかあをはり倒す、拳骨げんこつでも平手でも、……この阿魔あまっふざけるな、蹴ころがしてやることもあるさ
 まるっこい顔をふくらませて力むのだが、人の好さそうな尻下りの眼は、そんなときふと異様な光りを帯びて、彼の言葉にかなりな実感を与えた。
 寒くなりだしてから、よいのうちとか夜半過ぎなどに、夜鷹よたか【売買春を行う女性】の紛れこんで来ることがあった。一人はのだぶつくような肥えた女で、もう一人はまだ十五くらいの、病的にせた、殆んど男の子のようなからだつきをしていた。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(5 / 14)
肥えた女はお吉といい、少女はお琴という名だった。初めは二人いっしょにはいって来て、爺さんに焼酎を貰い、お吉が少女のすそまくって太腿ふとももの傷の手当をしてやった。……客の奪いあいをして、相手の女のひもに短刀で突かれたのだと、お吉爺さんに話した。少女は手当の終るまでひっきりなしに饒舌しゃべっていた。傷を焼酎で洗われたりしたら痛いだろうのに、眉をしかめもしなかった。
あたい ああいうの好きさ、へたな文句なんぞ言わずに、いきなり、ずぶっとやりゃぁがった、それがいい気持だったらないの、からだじゅうがぞぅっとしちゃった、今でもおへその下んところがぴくぴく動いてるわ、おなかの奥のほうの此処ここんとこ、ねえ、此処ここんところになにがあるの、この ぴくんぴくん 動くものなによぅ、ねえさん、いいからもっとぎゅうぎゅうこすってよ、痛くなんかありゃしないんだから、力いっぱい擦って、畜生、これから毎晩あの女と張合ってやる、あの女からあの男をふんだくってやるんだ、あんな女にゃ勿体もったいないよあの人
 まだ子供のようだが、言うことだけ聞いているとあばずれた年増としま女としか思えなかった。そしてそのように饒舌しゃべりながら、ときどき信吉のほうへながし眼を向け、まくっているすそをもっと上へあげたり、細い腰を露骨に揺ってみせたりした。……当時も私娼街【売春行為が非合法または黙認されている場所】は指定地区に限られていたし、夜鷹よたかとか けころ【最下層の女】などの名で呼ばれる街娼【街頭で客引きをして売春を行う女性】も、黙認ではあるが出る場所が定っていて、その他の地域ではつかまると罪が重かった。特に新吉原の付近などは、――くるわ【遊郭】からの要請で、――厳しく禁じられていたのである。
こんな処へ あんなのが出て やかましくはないのかい
 二人が去ってから信吉がそうきいた。爺さんなべの下をあおぎながら、食うためには危ない橋も渡るわけだろう、というようなことを、口の中で不明瞭に呟いた。
 それから彼女たちは しばしば『やなぎ屋』へ あらわれるようになったのだが、寒さと空腹しのぎに寄るらしい、お吉は酒を熱くして一杯、お琴は煮込をべた。二人で来るときもあるし、どっちか一人のときもあった。お琴の太腿の傷はどうなったものか、まるでそんな事はなかったかのように、いつも元気でよく饒舌しゃべった。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(6 / 14)
二度めに信吉が ゆきあわせたとき、お琴は子供っぽく笑いかけて、
おじさん こないだいたお客さんだね
 ちょっと懐かしそうに言ったが、それから突然その笑いが娼婦の誘いに変った。
あぁあ、誰かあたい買ってんないかな
 妙な身振りをしてそんなふうに言うこともあった。

 その夜はひどいてだった。夕方までかなり強い木枯しが吹いていたが、それがやむと急に気温が下りだして、道などよいのうちに凍ってしまった。……わけもなく気の沈む晩で、暗い絶望的なことばかり頭にうかび、酒もむやみに不味かった。『やなぎ屋』のは安酒のなかの安酒で、いつもはそれが一種のわびしい魅力だったのだが、その夜はそんな気分のせいか、二本ばかり飲むとやりきれなくなり、いっそ よそへいって飲みなおそうと思った。そして財布を取り出そうとしたとき、という男がはいって来た。
ようっ生きてたな、おやじ、有難え有難え」彼は よろよろと台板へ のめりかかった、「――人間、生きてせえすりゃあ こうして会えるんだ、おらあ これが嬉しくってしょうがねえ、この、また会えるってことがよ、そうだろうおやじ、有難え有難え
 そして「強いの」を注文して、ふと信吉をみつけて頓狂な声をあげた。信吉もその声にすぐ答えた。古い友達にでもめぐり会ったような、ふしぎな親しさが感じられ、出るのを思いとまって彼も「強いの」を取った。
おらあ旦那のこたぁ覚えてる、嘘アつかねえ、ちゃんと覚えてるよ、男は哀れなもんだってね……旦那はそう言った
それはおまえの言ったことだろう
へっ、御冗談、ふざけちゃぁいけねえ
 はその晩は社会批評ぬきで、いきなり彼の本論をもちだした。信吉を女房にあまい男だと言い、信吉に限らず、一般に世間の男は女房にあまくて、そのだらしのなさは見られたものではないと言った。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(7 / 14)
女ってえものはね、日に二三度は横っ面を はっとばして やらなくっちゃあ いけね、拳骨ゲンコツでも平手でも、まきざっぽ【木切れ】でも構やしねえ、ぱんぱんってね、……遠慮も会釈もねえ、まず いせえよく ぶっくらわすこった、ぱんぱんってね、おらあその式だ、……やい阿魔あまっ酒を買って来い、釜の下あ 焚きつけろ、すべた野郎、来ておれの足を洗え、……おらあ いつもこの式さ
旦那は本気にしねえかも しれねえは強いのをひと口飲んで続けた、「――だがね、旦那、おれがこんな式をやるにゃぁ、それ相当のわけがあるんだ、人間が酒を飲んで酔うには、酔うだけのわけがあるように、嘘アつかねえ、おらあね、……おれのちゃんでそいつをよく見たんだ、おれのこの眼でよ、旦那、おらあ これだけは旦那に言わずにゃぁいられねえ
おれの父は温和おとなしい人間だったは舌ったるく話しだした、「――酒も煙草もろくろく口にしねえ、桶屋おけやだったが、腕はよかった、仲間の職人からそねまれる【うらやましく思われ、かつ憎らしく思われる】くれえの仕事をした、浅草橋からこっちの番手桶【長屋などで共有される手桶】は父でなくっちゃあならねえ、と言われたくれえなんだが、仏性【仏のような性質】で、……そこは自分でも じれったかったらしい、頭がこすく【ずるがしこく】まわらねえ、仕事には ばかな念をいれるが、どうしてもあこぎな【あくどい】銭が取れねえ、おまけに人をだますより騙されるってえ、くちだった。……いくら腕がよくったって、それじゃぁ蔵の立つ道理はねえ、蔵どころか、正直のところ女房子に満足な着物も着せられなかった
 の話はたどたどしく、前後したり、つじつまの合わないことが とびだしたり、同じことを繰り返したりした。だがそのためにかえって誇張のない実感が感じられた。……信吉には一人の愚直な職人の姿がみえるようであった。そこにいるのような、肉のしまらないからだつきで、眼尻の下ったまるっこい顔で、いつも諦めたような卑屈な笑いをうかべている。仕事の腕はあるが、頭が悪いので人に利用され、ばかにされるだけである。狡猾こうかつ【悪かしこさ】の勝つ世の中では、こういう人間は一種の敗者であろう。勘定の催促でも強くはできない、割の悪い仕事はみな押付けられる。彼にはすべてがあとまわし、取るものは びしびし取立てられる。そしてしぜん生活はいつも苦しく、いつまでも苦しく、彼は溜息をつくばかりである。……信吉には今、その途方にくれたような、力のない溜息が聞えるようであった。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(8 / 14)
おふくろは、気のまさった女だったろう、生れつきの性分はしようがねえ、だが仮にも、稼ぎにいく亭主に、飯を炊かせる、水をませる、ときには洗濯までさせるってなあ、……こいつは おらあ めたこっちゃねえと思う、旦那のめえだが、こいつだけあ おらあ はっきり言いてえんだ
 はこう言って眼をきらきらさせた。相変らず舌ったるいが、顔にはかなりな怒りの表情が現われていた。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(9 / 14)
こんな暮しは御免だ、飽き飽きした、……おふくろはいつもそう言ってた、満足に食いてえ物も食えねえ、着てえ物も着られねえ、おまえさんなんかと一緒になるんじゃぁなかった、……こいつを口癖のように言った、いつも頭が痛え、腰が痛え、眩暈めまいがする腹がやめる、疲れて起きられねえから、おまえさん起きて釜の下を焚きつけてれ、……そして、そのくせ夜中になれば、父をそっと寝かしたこたぁねえ、むりむてえ【無茶苦茶】 かかってくんだ、否も応も【いやでも応でも】ねえ、むりむてえ、文句なしなんだ、……たまには父もいやだでと おすことがあった、誰にだって、どんなに強くったって、そこは男は女たぁ違う、どういきんでも いきみきれねえ時があらぁ、……知れたこったが無事にゃぁおさまらねえ、おれの口じゃぁ言えねえような悪態だ、帝釈たいしゃく様【柴又帝釈天】も耳を押えたくなるような悪態の始まりだ
女はつまらねえもんだ、まるで下女下男みてえだ、……これがおふくろのもう一つの口癖だった」彼はひと口飲んで続けた、「男は外で勝手な事をする、ちっとばかりの稼ぎで酒も飲む、隠れて悪遊びもするが、女は家にひっこんでぼろつくろい、煮炊き洗濯、子供の世話から暮しの心配から、いやな事はみんな女の役だ、下女下男なら給銀てえものがあるが、女房にゃぁそれもねえ、働きどおし働いて、これっぽちも楽しい思いをしねえで、亭主にこき使われ、牛馬のように一生を終っちまう、これが女の一生だ、……ああ、……だが おらあ 知ってるんだ、おらあ、……この眼で見て、この耳で聞いて知ってるんだ、おふくろは父が稼ぎに出ると のこのこ起きだして来る、父の炊いてった飯を食う、それから近所のかかあたちを呼ぶか、こっちから押掛けるかして、十文が菓子を買って がぶがぶ茶を飲みながら、……緞帳どんちょう芝居【格式の低い小劇場】の役者評判か色ばなしか、近所合壁がっぺき【かべ一重でへだたっている隣】の悪口が始まる、……恥も外聞もねえような、男も顔が赤くなるような下劣なことを饒舌しゃべって、げらげら笑って、しめえにゃぁてんでんが、てめえの亭主を裸にするようなことをぬかしゃぁがる、……嘘アつかねえ、おらあこの眼で見た、この耳で聞いた、おらあ ちゃんと知ってるんだ
父はいい人間だった」ひと息いれては話し継いだ、「――おふくろになんと言われても、決して口答えはしなかった、……済まねえ、おれに甲斐性かいしょうがなくって申し訳がねえ、もうちっとだから辛抱してんねえ、……だが旦那、父だって人間だ、一寸じゃねえかもしれねえ、五分ぐれえかもしれねえが、五分の虫にだって二分五厘の魂はあらぁ、たまにゃあ むしゃくしゃして はらも立つだろう、やけくそなような気持にだってなるこたぁ あらぁ、……稼いでも稼いでも、正直一方でこすい【ずるい】事が出来ねえ、いつも下積みでうだつがあがらねえ【ぱっとしない】、女ぁ知らねえから外で勝手なまねをしていると思ってる。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(10 / 14)
好きなことをしていると思ってるが、それどころじゃぁねえ、……女房 子を抱えて、今日の日を食ってくってなあ道楽じゃぁねえんだ、それこそ血の涙の出るような思いをすることもあるんだ、……女も苦労だろう、そこは貧乏人は なんともしようがねえ、けれども、男は、男の身になってみりゃぁ そんな苦労どころの話じゃぁねえ、そんなもんじゃぁねえんだ、段が違うんだ、……父が酒を飲みだした心持は、おらにゃぁわかる、誰だって飲まずにゃぁいられねえ、現に旦那がそうじゃねえか。ええ、旦那みてえな人だって、ただむやみに飲みてえから飲むってわけじゃねえんだ、ねえ、そうでしょう旦那」
飲むったって父のは ごくときたまだったはぐっとあおって言った、「――そうしていくらか気が紛れて帰って来る、酒だけは人間をだまさねえ、飲めばいくらかは気を紛らしてれる、……だが帰ってみると戸が閉ってるんだ、隙間からのぞいたって灯も見えねえ、戸をぴしゃっと閉めてみんな寝ちまっているんだ、……阿母おっかぁけえったぜ、父はそっとこう呼ぶんだ、低い声でよ、そおっと指の爪で戸を叩きながら、……阿母ぁおれだ、あけてんな、けえったぜ阿母ぁ、済まねえがあけてんな、……おふくろは寝ちゃぁいねえんだ、眼をさましてちゃんと聞いてるんだ、父はいつまでも呼んでる。トントン、トントン、爪でそっと戸を叩きながら、低い声でそおっと、阿母ぁ けえったぜ、……嘘アつかねえ、おらあ 聞いていたんだ。聞いていて涙が出たもんだ、父っ 戸なんか蹴破けやぶってはいんねえ、此処ここは父の家じゃねえか、おらあ こうどなりたかった、本当にこえっ限りどなりたかった、……けれども どなるなぁおれじゃねえ、いつもおふくろだ、さんざっぱら父に呼ばせてえてから、寝とぼけたような声で誰だえと言う……いまじぶん誰だえ、なにか用があるのかえってよ、それからわめきだすんだ、町内じゅうが眼をさますような声で、ありったけのざんそ【事実をまげてその人が悪いように訴える】と悪態を並べるんだ、そうしてから、……それから言うんだ、戸が閉ってて はいれなきゃ はいるにゃぁ及ばねえ、どうせくらい酔ってるんだから外で寝て酔をますがいい、あたしの知ったこっちゃねえよってさ
 の両方の眼から、そのとき涙がだらしなくこぼれ落ちた。太くて黒くて がさがさに節くれ立った指の手の平を返して頬をで、それから湯呑のもう底になったのをすすった。
おふくろが寝返りをうつまで、おらあ 黙って動かねえ、それからそおっと寝床をぬけ出すんだ、そおっとよ、……そして勝手口をあける、そろそろとあけるんだ、……父は寒そうな格好で尻尾しっぽを垂れた迷子犬みてえに、しょんぼりと闇の中に立ってる、……おらあ 低い声で呼ぶんだ、父、……早くはいんなよ、早く、ああ、……旦那がもしこいつを知ったら、そうしたおれの式が嘘でねえ、むりはねえってことがわかって貰える筈なんだ、おらあ それだけは言わずにゃいられねえんだ
 信吉爺さんめくばせをして、空になった彼の湯呑へもう一杯「強いの」を注がせた。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(11 / 14)
は急に顔のひもを解き、眼尻を下げて、片方の手で濡れた頬を擦りながら、ぺちゃぺちゃと音をさせてそれをすすった。話で抑えられていた酔が、みるみる盛返し ふくれあがるらしい。
おらあ 父のようにゃぁしねえ、この眼で見てるんだ、いやってくれえ耳で聞いてるんだ、まっぴら御免くそくらえだ、……女に桶が作れるか、腰っ骨の折れるような人足稼ぎが出来るかってんだ、……おらあ 横っ面ぁ はっとばしてやる、ぱんぱん、……こうだ、ぐっとも言わしゃしねえ、頭からどなる、やい阿魔あまっ 釜の下あ焚きつけろ、足を洗うんだっ水を持って来い、ぐずぐずしやぁがると足の骨をぶっくじくぞ、……こうだ、飲みたくなりゃぁ酒を買いにやる、夜中だってなんだって会釈はねえ、やい阿魔あまっいって酒を買って来い、……嘘アつかねえ、おらあ この式よ、父はそれが出来なかった、父は、……だが おらあ まっぴらだ、へい、まっぴら御免候だ
 はぐらぐらと頭を垂れ、右手には湯呑を持ったまま、台板へ俯伏ふっぷしてしまった。
へえ、まっぴらだよ、なにょぅ ぬかしゃぁがる、けつでもくらえだ、……べらぼうめ、女がなんだ、かかあがなんだってんで
お客さん、あたい買っとれよ
 耳のそばでこうささやかれて、信吉は殆んど吃驚びっくりして振返った。いつ来たものか、お琴がぴったりとを寄せて立っていた。
あたい遊ばせるの上手よ、ねえ、好きなことだったら どんなことだってさせてあげるわ、まだ骨が固まってないから普通のねえさんじゃ出来ないことが出来るわ、いちど遊んだお客さんはみんな忘れられないって言うわ、ねえ、いちどでいいからあたいを買ってよ
 せて骨だけのような腰を押付け、すばやく信吉の手を取って自分の股の中へ入れようとした。信吉はそれを振放し、財布を出して、幾らかをつかんでお琴の手に握らせた。
これを持って帰りな、おじさんは意気地なしでだめなんだ
ふん、きれぇみたいなことを言うわね
 お琴は銭を握ると うしろへとび退いた。そして若い毛物のような ぎらぎらする眼でこちらをにらみ、憎悪をこめてののしった。
これを持ってけ があきれるよ、ひとの股へ手を入れて唯呉ただくれるようなこと云やぁがる、あたいはそんなあまいん【甘っちょろいもん】じゃないんだよ、見そくなっちゃぁいけないよ
 そしていたちのように外へとびだしていった。
――食うため、か信吉は眼をつむってそう呟いた、「――食うために、お互いがだまし、お互いが憎み、汚しあい、……いつまでも、子も孫も、この世が終るまで、同じことを繰り返してゆく、いつまでも、……食うために
 が勘定をして出ていった。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(12 / 14)
信吉はそれをぼんやり見ていたが、凍った道でつまずきでもしたのだろう、がぶっ倒れて、なにか喚きたてているのを聞くと、信吉はすぐ戻って来ると言って外へ出た。
さあ殺せ、野郎、どうともしやぁがれ
 は道の上へ仰向きになって、手を振廻しながら叫びたてていた。信吉は彼を抱き起こしてやり、はだけた半纒はんてんを合わせてやり、それから左の腕をこっちの肩へ掛けさせて、一緒によろめきながら歩きだした。彼はいきり立ち、右の腕をしきりに振廻した。
くそったれ阿魔あまめ、唯じゃぁおかねえ
 それを飽きずに繰り返した。
 そんなにも酔っているのか、曲り角を三度も間違えて、山の宿のごみごみしたその一画へゆくまでに、――まっすぐにゆけばひとまたぎだったが、――殆んど半刻はんときちかくも時間をとった。凛寒りんかん【厳寒】なてと、それだけ歩いたためだろう、は道の四つつじになった処で、もういいからと別れを告げた。
今夜は酔ってるんだから、乱暴をしないで温和おとなしく寝るがいいぜ信吉はそう言った、「――おめえの式も いいが時と場合があるからな、今夜は温和おとなしく寝るんだぜ
わかってるよ、おれだって 程てぇものぁ 知ってらあな、大丈夫だから、……それじゃぁまあ、旦那も、……風邪をひかねえようにね、ひどく冷えるから、じゃぁひとつ、そこはなにぶん……
 あとは口の中でもぐもぐ言って、かなりしっかりした足つきで、は歩いていった。
 ――危ないな、悪く暴れるんじゃないかな。
 信吉はちょっと不安になり、それとなく あとからついていった。は横丁へ曲ったが、そこは家が三四軒しかなく、向うは空地で、つまりその貧しい一画の隅に当るらしい。は左側の長屋の、いちばん端の家の前へ寄っていった。
 ――戸を蹴破ってはいんなよ。
 が子供のときそう思ったという、その言葉がふっと信吉の頭にうかんだ。しかし、は閉っている雨戸の前で、遠慮がちな、低い よわよわしい声で呼んだ。
――阿母ぁ、けえったぜ、あけてんな、けえったぜ阿母ぁ」そして指のさきで、トントンと軽く、ほんの軽く雨戸を叩いた。
 信吉は 逃げだしたくなるのを がまんした。歯をくいしばるような思いで、の哀しい呼声と、訴えるような戸を叩く音を聞いていた。
[ しおり] 山本周五郎-嘘アつかねえ(13 / 14)
やがて家の中から女が だみ声でどなる、あけすけな、仮借かしゃく【容赦】のない罵詈ばり【口汚いののしり】が聞える。だが信吉はがまんして苦行でもするかのように耳を澄ましていた。
そんなこと言わねえでよ、あやまるからよ、なあ阿母ぁ、外は寒くって、……おらあ こごえ死んじまうよ、なあ阿母ぁ、おらあ このとおり あやまるからよ、なあ、……なあ
 彼が雨戸に向って、実際におじぎをするのを、信吉は見た。そして、それからどのくらい経ってか、彼はこの情景の点睛てんせい【物事を完成させる重要なこと】ともいうべき声を聞いたのである。……どこかの戸が きしみながら あいた、そうして低いささやくような声で、――それは十二三の少年のもの のようであったが、――こう呼びかけた。
はいんなよ、ちゃん、……早く……


 正月も近くなった或る夜。曇った、なま暖たかいような晩だったが、信吉は『やなぎ屋』の台板へもたれかかって、いい気持そうに酔っているきえん【意気が盛んな様子】を、なんの感動もなく、聞いていた。はすばらしい機嫌だった。彼は尻下りの眼をいからかし【威圧的にし】、右手の拳骨でなにかを殴りつけるような身振りを繰り返した。
この阿魔あま、早くしろ、文句ぅぬかすな、すべた【ぶおんな】野郎め、来ておれの足を洗え、……女ってやつぁこれに限るんだ、おらあこの式だ、本当だぜおやじ、女ぁね、女ってやつぁそれでちょうどなんだ、……嘘だと思うんなら
 信吉の唇がふるえながらゆがんだ。のどがごくっとなり、鼻の奥が熱くなった。
そうだ、そのとおりだ」彼は口の中でそっとこう呟いた、「――おまえの言うとおりだよ、さん、いいから酔おう、……酒だけはおれたちをだまさねえからな



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底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
   1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「オール読物」文芸春秋新社
   1950(昭和25)年12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年10月28日作成
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