「
迷亭はあの時分から法螺吹だったな」と
主人は
羊羹を食い
了って再び二人の話の中に割り込んで来る。
「
約束なんか履行した事がない。それで詰問を受けると決して詫びた事がない何とか蚊とか言う。あの寺の境内に百日紅が咲いていた時分、この百日紅が散るまでに美学原論と言う著述をすると言うから、駄目だ、到底出来る気遣はないと言ったのさ。すると迷亭の答えに僕はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い男である、そんなに疑うなら賭をしようと言うから僕は真面目に受けて何でも神田の西洋料理を奢りっこかなにかに極めた。きっと書物なんか書く気遣はないと思ったから賭をしたようなものの内心は少々恐ろしかった。僕に西洋料理なんか奢る金はないんだからな。ところが先生一向稿を起す景色がない。七日立っても二十日立っても一枚も書かない。いよいよ百日紅が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるから、いよいよ西洋料理に有りついたなと思って契約履行を逼ると迷亭すまして取り合わない」
「
また何とか理屈をつけたのかね」と君が相の手を入れる。
「
うん、実にずうずうしい男だ。吾輩はほかに能はないが意志だけは決して君方に負けはせんと剛情を張るのさ」
「
一枚も書かんのにか」と今度は
迷亭君自身が質問をする。
「
無論さ、その時君はこう言ったぜ。吾輩は意志の一点においてはあえて何人にも一歩も譲らん。しかし残念な事には記憶が人一倍無い。美学原論を著わそうとする意志は充分あったのだがその意志を君に発表した翌日から忘れてしまった。それだから百日紅の散るまでに著書が出来なかったのは記憶の罪で意志の罪ではない。意志の罪でない以上は西洋料理などを奢る理由がないと威張っているのさ」
「
なるほど迷亭君一流の特色を発揮して面白い」と
鈴木君はなぜだか面白がっている。
迷亭のおらぬ時の語気とはよほど違っている。これが利口な人の特色かも知れない。
「
何が面白いものか」と
主人は今でも
怒っている様子である。
「
それは御気の毒様、それだからその埋合せをするために孔雀の舌なんかを金と太鼓で探しているじゃないか。まあそう怒らずに待っているさ。 [
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(1 / 128)
しかし著書と言えば君、今日は一大珍報を齎らして来たんだよ」
「
君はくるたびに珍報を齎らす男だから油断が出来ん」
「
ところが今日の珍報は真の珍報さ。正札付一厘も引けなしの珍報さ。君寒月が博士論文の稿を起したのを知っているか。寒月はあんな妙に見識張った男だから博士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったら、あれでやっぱり色気があるからおかしいじゃないか。君あの鼻に是非通知してやるがいい、この頃は団栗博士の夢でも見ているかも知れない」
鈴木君は
寒月の名を聞いて、話してはいけぬ話してはいけぬと
顋と眼で
主人に合図する。
主人には
一向意味が通じない。さっき
鈴木君に逢って説法を受けた時は
金田の娘の事ばかりが気の毒になったが、今
迷亭から鼻々と言われるとまた先日喧嘩をした事を思い出す。思い出すと滑稽でもあり、また少々は
悪らしくもなる。しかし
寒月が博士論文を草しかけたのは何よりの
御見やげで、こればかりは
迷亭先生自賛のごとくまずまず近来の珍報である。
啻に珍報のみならず、嬉しい快よい珍報である。
金田の娘を貰おうが貰うまいがそんな事はまずどうでもよい。とにかく
寒月の博士になるのは結構である。自分のように出来損いの木像は仏師屋の隅で虫が喰うまで
白木のまま
燻っていても
遺憾はないが、これは
旨く仕上がったと思う彫刻には一日も早く
箔を塗ってやりたい。
「
本当に論文を書きかけたのか」と
鈴木君の合図はそっち
除けにして、熱心に聞く。
「
よく人の言う事を疑ぐる男だ。――もっとも問題は団栗だか首縊りの力学だか確と分らんがね。とにかく寒月の事だから鼻の恐縮するようなものに違いない」
さっきから
迷亭が鼻々と無遠慮に言うのを聞くたんびに
鈴木君は不安の様子をする。
迷亭は少しも気が付かないから平気なものである。「
その後鼻についてまた研究をしたが、この頃トリストラム・シャンデーの中に鼻論があるのを発見した。金田の鼻などもスターンに見せたら善い材料になったろうに残念な事だ。鼻名を千載に垂れる資格は充分ありながら、あのままで朽ち果つるとは不憫千万だ。今度ここへ来たら美学上の参考のために写生してやろう」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(2 / 128)
と相変らず口から
出任せに
喋舌り立てる。
「
しかしあの娘は寒月の所へ来たいのだそうだ」と
主人が今
鈴木君から聞いた通りを述べると、
鈴木君はこれは迷惑だと言う顔付をしてしきりに
主人に目くばせをするが、
主人は不導体のごとく
一向電気に感染しない。
「
ちょっと乙だな、あんな者の子でも恋をするところが、しかし大した恋じゃなかろう、大方鼻恋くらいなところだぜ」
「
鼻恋でも寒月が貰えばいいが」
「
貰えばいいがって、君は先日大反対だったじゃないか。今日はいやに軟化しているぜ」
「
軟化はせん、僕は決して軟化はせんしかし……」
「
しかしどうかしたんだろう。ねえ鈴木、君も実業家の末席を汚す一人だから参考のために言って聞かせるがね。あの金田某なる者さ。あの某なるものの息女などを天下の秀才水島寒月の令夫人と崇め奉るのは、少々提灯と釣鐘と言う次第で、我々朋友たる者が冷々黙過する訳に行かん事だと思うんだが、たとい実業家の君でもこれには異存はあるまい」
「
相変らず元気がいいね。結構だ。君は十年前と様子が少しも変っていないからえらい」と
鈴木君は柳に受けて、
胡麻化そうとする。
「
えらいと褒めるなら、もう少し博学なところを御目にかけるがね。昔しの希臘人は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出して百方奨励の策を講じたものだ。しかるに不思議な事には学者の知識に対してのみは何等の褒美も与えたと言う記録がなかったので、今日まで実は大に怪しんでいたところさ」
「
なるほど少し妙だね」と
鈴木君はどこまでも調子を合せる。
「
しかるについ両三日前に至って、美学研究の際ふとその理由を発見したので多年の疑団は一度に氷解。漆桶を抜くがごとく痛快なる悟りを得て歓天喜地の至境に達したのさ」
あまり
迷亭の言葉が
仰山なので、さすが
御上手者の
鈴木君も、こりゃ手に合わないと言う顔付をする。
主人はまた始まったなと言わぬばかりに、
象牙の
箸で菓子皿の縁をかんかん叩いて
俯つ
向いている。
迷亭だけは大得意で弁じつづける。
「
そこでこの矛盾なる現象の説明を明記して、暗黒の淵から吾人の疑を千載の下に救い出してくれた者は誰だと思う。学問あって以来の学者と称せらるる彼の希臘の哲人、逍遥派の元祖アリストートルその人である。彼の説明に曰くさ――おい菓子皿などを叩かんで謹聴していなくちゃいかん。――彼等希臘人が競技において得るところの賞与は彼等が演ずる技芸その物より貴重なものである。 [
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(3 / 128)
それ故に褒美にもなり、奨励の具ともなる。しかし知識その物に至ってはどうである。もし知識に対する報酬として何物をか与えんとするならば知識以上の価値あるものを与えざるべからず。しかし知識以上の珍宝が世の中にあろうか。無論あるはずがない。下手なものをやれば知識の威厳を損する訳になるばかりだ。彼等は知識に対して千両箱をオリムパスの山ほど積み、クリーサスの富を傾け尽しても相当の報酬を与えんとしたのであるが、いかに考えても到底釣り合うはずがないと言う事を観破して、それより以来と言うものは奇麗さっぱり何にもやらない事にしてしまった。黄白青銭が知識の匹敵でない事はこれで十分理解出来るだろう。さてこの原理を服膺した上で時事問題に臨んで見るがいい。金田某は何だい紙幣に眼鼻をつけただけの人間じゃないか、奇警なる語をもって形容するならば彼は一個の活動紙幣に過ぎんのである。活動紙幣の娘なら活動切手くらいなところだろう。翻って寒月君は如何と見ればどうだ。辱けなくも学問最高の府を第一位に卒業して毫も倦怠の念なく長州征伐時代の羽織の紐をぶら下げて、日夜団栗のスタビリチー【スタビリティー:安定性】を研究し、それでもなお満足する様子もなく、近々の中ロード・ケルヴィンを圧倒するほどな大論文を発表しようとしつつあるではないか。たまたま吾妻橋を通り掛って身投げの芸を仕損じた事はあるが、これも熱誠なる青年に有りがちの発作的所為で毫も彼が知識の問屋たるに煩いを及ぼすほどの出来事ではない。迷亭一流の喩をもって寒月君を評すれば彼は活動図書館である。知識をもって捏ね上げたる二十八珊の弾丸である。この弾丸が一たび時機を得て学界に爆発するなら、――もし爆発して見給え――爆発するだろう――」迷亭はここに至って
迷亭一流と自称する形容詞が思うように出て来ないので俗に言う
竜頭蛇尾の感に多少ひるんで見えたがたちまち「
活動切手などは何千万枚あったって粉な微塵になってしまうさ。それだから寒月には、あんな釣り合わない女性は駄目だ。僕が不承知だ、百獣の中でもっとも聡明なる大象と、もっとも貪婪なる小豚と結婚するようなものだ。そうだろう苦沙弥君」と言って
退けると、
主人はまた黙って菓子皿を叩き出す。
鈴木君は少し
凹んだ気味で
「
そんな事も無かろう」と
術なげに答える。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(4 / 128)
さっきまで
迷亭の悪口を随分ついた揚句ここで
無暗な事を言うと、
主人のような無法者はどんな事を
素っ
破抜くか知れない。なるべくここは
好加減に
迷亭の鋭鋒をあしらって無事に切り抜けるのが上分別なのである。
鈴木君は利口者である。いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが当世で、無要の口論は封建時代の遺物と心得ている。人生の目的は
口舌ではない実行にある。自己の思い通りに着々事件が
進捗すれば、それで人生の目的は達せられたのである。苦労と心配と争論とがなくて事件が進捗すれば人生の目的は
極楽流に達せられるのである。
鈴木君は卒業後この極楽主義によって成功し、この極楽主義によって金時計をぶら下げ、この極楽主義で
金田夫婦の依頼をうけ、同じくこの極楽主義でまんまと首尾よく
苦沙弥君を説き落して
当該事件が十中八九まで
成就したところへ、
迷亭なる常規をもって律すべからざる、普通の人間以外の心理作用を有するかと怪まるる
風来坊が飛び込んで来たので少々その突然なるに
面喰っているところである。極楽主義を発明したものは明治の紳士で、極楽主義を実行するものは
鈴木藤十郎君で、今この極楽主義で困却しつつあるものもまた
鈴木藤十郎君である。「
君は何にも知らんからそうでもなかろうなどと澄し返って、例になく言葉寡なに上品に控え込むが、せんだってあの鼻の主が来た時の様子を見たらいかに実業家贔負の尊公でも辟易するに極ってるよ、ねえ苦沙弥君、君大に奮闘したじゃないか」
「
それでも君より僕の方が評判がいいそうだ」
「
アハハハなかなか自信が強い男だ。それでなくてはサヴェジ・チーなんて生徒や教師にからかわれてすまして学校へ出ちゃいられん訳だ。僕も意志は決して人に劣らんつもりだが、そんなに図太くは出来ん敬服の至りだ」
「
生徒や教師が少々愚図愚図言ったって何が恐ろしいものか、サントブーヴは古今独歩の評論家であるが巴里大学で講義をした時は非常に不評判で、彼は学生の攻撃に応ずるため外出の際必ず匕首を袖の下に持って防御の具となした事がある。ブルヌチェルがやはり巴里の大学でゾラの小説を攻撃した時は……」
「
だって君ゃ大学の教師でも何でもないじゃないか。高がリードルの先生でそんな大家を例に引くのは雑魚が鯨をもって自ら喩えるようなもんだ、そんな事を言うとなおからかわれるぜ」
「
黙っていろ。サントブーヴだって俺だって同じくらいな学者だ」
「
大変な見識だな。しかし懐剣をもって歩行くだけはあぶないから真似ない方がいいよ。大学の教師が懐剣ならリードルの教師はまあ小刀くらいなところだな。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(5 / 128)
しかしそれにしても刃物は剣呑だから仲見世へ行っておもちゃの空気銃を買って来て背負ってあるくがよかろう。愛嬌があっていい。ねえ鈴木君」と言うと
鈴木君はようやく話が
金田事件を離れたのでほっと一息つきながら
「
相変らず無邪気で愉快だ。十年振りで始めて君等に逢ったんで何だか窮屈な路次から広い野原へ出たような気持がする。どうも我々仲間の談話は少しも油断がならなくてね。何を言うにも気をおかなくちゃならんから心配で窮屈で実に苦しいよ。話は罪がないのがいいね。そして昔しの書生時代の友達と話すのが一番遠慮がなくっていい。ああ今日は図らず迷亭君に遇って愉快だった。僕はちと用事があるからこれで失敬する」と
鈴木君が立ち
懸けると、
迷亭も「
僕もいこう、僕はこれから日本橋の演芸 矯風会に行かなくっちゃならんから、そこまでいっしょに行こう」「
そりゃちょうどいい久し振りでいっしょに散歩しよう」と両君は手を
携えて帰る。
五
二十四時間の出来事を
洩れなく書いて、洩れなく読むには少なくも二十四時間かかるだろう、いくら写生文を
鼓吹する
吾輩でもこれは到底猫の
企て及ぶべからざる芸当と自白せざるを得ない。従っていかに
吾輩の
主人が、二六時中精細なる描写に価する奇言奇行を
弄するにも
関らず逐一これを読者に報知するの能力と根気のないのははなはだ
遺憾である。遺憾ではあるがやむを得ない。休養は猫といえども必要である。
鈴木君と
迷亭君の帰ったあとは
木枯しのはたと吹き
息んで、しんしんと降る雪の夜のごとく静かになった。
主人は例のごとく書斎へ引き
籠る。
小供は六畳の
間へ枕をならべて寝る。一間半の
襖を隔てて南向の
室には
細君が数え年三つになる、
めん子さんと
添乳して横になる。花曇りに暮れを急いだ日は
疾く落ちて、表を通る駒下駄の音さえ手に取るように茶の間へ響く。
隣町の下宿で
明笛を吹くのが絶えたり続いたりして眠い
耳底に折々鈍い刺激を与える。
外面は大方
朧であろう。晩餐に
半ぺんの
煮汁で
鮑貝をからにした腹ではどうしても休養が必要である。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(6 / 128)
ほのかに
承われば世間には猫の恋とか称する
俳諧趣味の現象があって、春さきは町内の同族共の夢安からぬまで浮かれ
歩るく夜もあるとか言うが、
吾輩はまだかかる心的変化に
遭逢した事はない。そもそも恋は宇宙的の活力である。
上は在天の神ジュピターより
下は土中に鳴く
蚯蚓、おけらに至るまでこの道にかけて浮身を
窶すのが万物の習いであるから、
吾輩どもが
朧うれしと、物騒な風流気を出すのも無理のない話しである。回顧すればかく言う
吾輩も
三毛子に思い
焦がれた事もある。三角主義の張本
金田君の令嬢阿倍川の
富子さえ
寒月君に恋慕したと言う
噂である。それだから千金の
春宵を心も空に満天下の
雌猫雄猫が狂い廻るのを
煩悩の
迷のと
軽蔑する念は毛頭ないのであるが、いかんせん誘われてもそんな心が出ないから仕方がない。
吾輩目下の状態はただ休養を欲するのみである。こう眠くては恋も出来ぬ。のそのそと
小供の
布団の
裾へ廻って
心地快く眠る。……
ふと眼を
開いて見ると
主人はいつの間にか書斎から寝室へ来て
細君の隣に延べてある
布団の中にいつの間にか
潜り込んでいる。
主人の癖として寝る時は必ず横文字の
小本を書斎から
携えて来る。しかし横になってこの本を二
頁と続けて読んだ事はない。ある時は持って来て枕元へ置いたなり、まるで手を触れぬ事さえある。一行も読まぬくらいならわざわざ
提げてくる必要もなさそうなものだが、そこが
主人の
主人たるところでいくら
細君が笑っても、止せと言っても、決して承知しない。毎夜読まない本をご苦労千万にも寝室まで運んでくる。ある時は慾張って三四冊も抱えて来る。せんだってじゅうは毎晩ウェブスターの大字典さえ抱えて来たくらいである。思うにこれは
主人の病気で
贅沢な人が
竜文堂に鳴る松風の音を聞かないと寝つかれないごとく、
主人も書物を枕元に置かないと眠れないのであろう、して見ると
主人に取っては書物は読む者ではない眠を誘う器械である。活版の睡眠剤である。
今夜も何か有るだろうと
覗いて見ると、赤い薄い本が
主人の
口髯の先につかえるくらいな地位に半分開かれて転がっている。
主人の左の手の
拇指が本の間に
挟まったままであるところから
推すと奇特にも今夜は五六行読んだものらしい。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(7 / 128)
赤い本と並んで例のごとくニッケルの
袂時計が春に似合わぬ寒き色を放っている。
細君は
乳呑児を一尺ばかり先へ放り出して口を
開いていびきをかいて枕を
外している。およそ人間において何が見苦しいと言って口を開けて寝るほどの不体裁はあるまいと思う。猫などは
生涯こんな恥をかいた事がない。元来口は音を出すため鼻は空気を
吐呑するための道具である。もっとも北の方へ行くと人間が無精になってなるべく口をあくまいと倹約をする結果鼻で言語を使うようなズーズーもあるが、鼻を
閉塞して口ばかりで呼吸の用を弁じているのはズーズーよりも見ともないと思う。第一天井から
鼠の
糞でも落ちた時危険である。
小供の方はと見るとこれも親に劣らぬ
体たらくで寝そべっている。姉の
とん子は、姉の権利はこんなものだと言わぬばかりにうんと右の手を延ばして妹の耳の上へのせている。妹の
すん子はその
復讐に姉の腹の上に片足をあげて
踏反り返っている。双方共寝た時の姿勢より九十度はたしかに回転している。しかもこの不自然なる姿勢を維持しつつ両人とも不平も言わずおとなしく熟睡している。
さすがに春の
灯火は格別である。天真
爛漫ながら無風流極まるこの光景の
裏に良夜を惜しめとばかり
床しげに輝やいて見える。もう
何時だろうと
室の中を見回すと四隣はしんとしてただ聞えるものは柱時計と
細君のいびきと遠方で下女の
歯軋りをする音のみである。この下女は人から歯軋りをすると言われるといつでもこれを否定する女である。私は生れてから
今日に至るまで歯軋りをした
覚はございませんと強情を張って決して直しましょうとも御気の毒でございますとも言わず、ただそんな覚はございませんと主張する。なるほど寝ていてする芸だから覚はないに違ない。しかし事実は覚がなくても存在する事があるから困る。世の中には悪い事をしておりながら、自分はどこまでも善人だと考えているものがある。これは自分が罪がないと自信しているのだから無邪気で結構ではあるが、人の困る事実はいかに無邪気でも滅却する訳には行かぬ。こう言う紳士淑女はこの下女の系統に属するのだと思う。――夜は
大分更けたようだ。
台所の雨戸にトントンと二返ばかり軽く
中った者がある。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(8 / 128)
はてな今頃人の来るはずがない。大方例の鼠だろう、鼠なら
捕らん事に極めているから勝手にあばれるが
宜しい。――またトントンと
中る。どうも鼠らしくない。鼠としても大変用心深い鼠である。
主人の内の鼠は、
主人の出る学校の生徒のごとく
日中でも
夜中でも乱暴
狼藉の練修に余念なく、
憫然なる
主人の夢を
驚破するのを天職のごとく心得ている連中だから、かくのごとく遠慮する訳がない。今のはたしかに鼠ではない。せんだってなどは
主人の寝室にまで
闖入して高からぬ
主人の鼻の頭を
囓んで
凱歌を奏して引き上げたくらいの鼠にしてはあまり臆病すぎる。決して鼠ではない。今度はギーと雨戸を下から上へ持ち上げる音がする、同時に腰障子を出来るだけ
緩やかに、溝に添うて
滑らせる。いよいよ鼠ではない。人間だ。この深夜に人間が案内も乞わず
戸締を
外ずして御光来になるとすれば
迷亭先生や
鈴木君ではないに
極っている。御高名だけはかねて
承わっている
泥棒陰士ではないか知らん。いよいよ陰士とすれば早く
尊顔を拝したいものだ。陰士は今や勝手の上に大いなる泥足を上げて
二足ばかり進んだ模様である。三足目と思う頃
揚板に
蹶いてか、ガタリと
夜に響くような音を立てた。
吾輩の背中の毛が
靴刷毛で逆に
擦すられたような心持がする。しばらくは足音もしない。
細君を見ると
未だ口をあいて太平の空気を夢中に
吐呑している。
主人は赤い本に
拇指を
挟まれた夢でも見ているのだろう。やがて台所でマチを
擦る音が聞える。陰士でも
吾輩ほど夜陰に眼は
利かぬと見える。勝手がわるくて定めし不都合だろう。
この時
吾輩は
蹲踞まりながら考えた。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(9 / 128)
陰士は勝手から茶の間の方面へ向けて出現するのであろうか、または左へ折れ玄関を通過して書斎へと抜けるであろうか。――足音は
襖の音と共に縁側へ出た。陰士はいよいよ書斎へ這入った。それぎり音も沙汰もない。
吾輩はこの間に早く
主人夫婦を起してやりたいものだとようやく気が付いたが、さてどうしたら起きるやら、
一向要領を得ん考のみが頭の中に
水車の勢で回転するのみで、何等の分別も出ない。
布団の
裾を
啣えて振って見たらと思って、二三度やって見たが少しも効用がない。冷たい鼻を頬に
擦り付けたらと思って、
主人の顔の先へ持って行ったら、
主人は眠ったまま、手をうんと延ばして、
吾輩の鼻づらを
否やと言うほど突き飛ばした。鼻は猫にとっても急所である。痛む事おびただしい。
此度は仕方がないからにゃーにゃーと二返ばかり鳴いて起こそうとしたが、どう言うものかこの時ばかりは
咽喉に物が
痞えて思うような声が出ない。やっとの思いで渋りながら低い奴を少々出すと驚いた。
肝心の
主人は
覚める
気色もないのに突然陰士の足音がし出した。ミチリミチリと縁側を
伝って近づいて来る。いよいよ来たな、こうなってはもう駄目だと
諦らめて、
襖と
柳行李の間にしばしの間身を忍ばせて動静を
窺がう。
陰士の足音は寝室の障子の前へ来てぴたりと
已む。
吾輩は息を
凝らして、この次は何をするだろうと一生懸命になる。あとで考えたが鼠を
捕る時は、こんな気分になれば訳はないのだ、
魂が両方の眼から飛び出しそうな
勢である。陰士の御蔭で二度とない
悟を開いたのは実にありがたい。たちまち障子の
桟の三つ目が雨に濡れたように真中だけ色が変る。それを
透して
薄紅なものがだんだん濃く写ったと思うと、紙はいつか破れて、赤い舌がぺろりと見えた。舌はしばしの間に暗い中に消える。入れ代って何だか恐しく光るものが一つ、破れた
孔の向側にあらわれる。疑いもなく陰士の眼である。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(10 / 128)
妙な事にはその眼が、部屋の中にある何物をも見ないで、ただ柳行李の
後に隠れていた
吾輩のみを見つめているように感ぜられた。一分にも足らぬ間ではあったが、こう
睨まれては寿命が縮まると思ったくらいである。もう我慢出来んから行李の影から飛出そうと決心した時、寝室の障子がスーと明いて待ち兼ねた陰士がついに眼前にあらわれた。
吾輩は叙述の順序として、不時の珍客なる泥棒陰士その人をこの際諸君に御紹介するの栄誉を有する
訳であるが、その前ちょっと卑見を
開陳してご高慮を
煩わしたい事がある。古代の神は全智全能と
崇められている。ことに
耶蘇教の神は二十世紀の
今日までもこの全智全能の
面を
被っている。しかし俗人の考うる全智全能は、時によると無知無能とも解釈が出来る。こう言うのは明かにパラドックスである。しかるにこのパラドックスを
道破した者は
天地開闢以来
吾輩のみであろうと考えると、自分ながら
満更な猫でもないと言う虚栄心も出るから、是非共ここにその理由を申し上げて、猫も馬鹿に出来ないと言う事を、高慢なる人間諸君の
脳裏に叩き込みたいと考える。天地万有は神が作ったそうな、して見れば人間も神の御製作であろう。現に聖書とか言うものにはその通りと明記してあるそうだ。さてこの人間について、人間自身が数千年来の観察を積んで、
大に玄妙不思議がると同時に、ますます神の全智全能を承認するように傾いた事実がある。それは
外でもない、人間もかようにうじゃうじゃいるが同じ顔をしている者は世界中に一人もいない。顔の道具は無論
極っている、
大さも大概は似たり寄ったりである。換言すれば彼等は皆同じ材料から作り上げられている、同じ材料で出来ているにも関らず一人も同じ結果に出来上っておらん。よくまああれだけの簡単な材料でかくまで異様な顔を思いついた者だと思うと、製造家の
技量に感服せざるを得ない。よほど独創的な想像力がないとこんな変化は出来んのである。一代の画工が精力を
消耗して変化を求めた顔でも十二三種以外に出る事が出来んのをもって
推せば、人間の製造を
一手で
受負った神の
手際は格別な者だと驚嘆せざるを得ない。到底人間社会において目撃し得ざる
底の技量であるから、これを全能的技量と言っても
差し
支えないだろう。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(11 / 128)
人間はこの点において
大に神に恐れ入っているようである、なるほど人間の観察点から言えばもっともな恐れ入り方である。しかし猫の立場から言うと同一の事実がかえって神の無能力を証明しているとも解釈が出来る。もし全然無能でなくとも人間以上の能力は決してない者であると断定が出来るだろうと思う。神が人間の数だけそれだけ多くの顔を製造したと言うが、当初から胸中に成算があってかほどの変化を示したものか、または猫も
杓子も同じ顔に造ろうと思ってやりかけて見たが、とうてい
旨く行かなくて出来るのも出来るのも作り
損ねてこの乱雑な状態に
陥ったものか、分らんではないか。彼等顔面の構造は神の成功の紀念と見らるると同時に失敗の
痕迹とも判ぜらるるではないか。全能とも言えようが、無能と評したって差し支えはない。彼等人間の眼は平面の上に二つ並んでいるので左右を
一時に見る事が出来んから事物の半面だけしか視線内に這入らんのは気の毒な次第である。立場を
換えて見ればこのくらい単純な事実は彼等の社会に日夜間断なく起りつつあるのだが、本人
逆せ上がって、神に
呑まれているから悟りようがない。製作の上に変化をあらわすのが困難であるならば、その上に徹頭徹尾の
模傚を示すのも同様に困難である。ラファエルに寸分違わぬ聖母の像を二枚かけと注文するのは、全然似寄らぬマドンナを
双幅見せろと
逼ると同じく、ラファエルにとっては迷惑であろう、否同じ物を二枚かく方がかえって困難かも知れぬ。弘法大師に向って
昨日書いた通りの筆法で空海と願いますと言う方がまるで書体を
換えてと注文されるよりも苦しいかも分らん。人間の用うる国語は全然
模傚主義で伝習するものである。彼等人間が母から、
乳母から、他人から実用上の言語を習う時には、ただ聞いた通りを繰り返すよりほかに毛頭の野心はないのである。出来るだけの能力で人真似をするのである。かように人真似から成立する国語が十年二十年と立つうち、発音に自然と変化を生じてくるのは、彼等に完全なる
模傚の能力がないと言う事を証明している。純粋の
模傚はかくのごとく至難なものである。従って神が彼等人間を区別の出来ぬよう、
悉皆焼印の
御かめのごとく作り得たならばますます神の全能を表明し得るもので、同時に
今日のごとく勝手次第な顔を
天日に
曝らさして、目まぐるしきまでに変化を生ぜしめたのはかえってその無能力を推知し得るの具ともなり得るのである。
吾輩は何の必要があってこんな議論をしたか忘れてしまった。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(12 / 128)
本を忘却するのは人間にさえありがちの事であるから猫には当然の事さと大目に見て貰いたい。とにかく
吾輩は寝室の障子をあけて敷居の上にぬっと現われた泥棒陰士を
瞥見した時、以上の感想が自然と胸中に
湧き出でたのである。なぜ湧いた?――なぜと言う質問が出れば、今一応考え直して見なければならん。――ええと、その訳はこうである。
吾輩の眼前に
悠然とあらわれた陰士の顔を見るとその顔が――
平常神の製作についてその
出来栄をあるいは無能の結果ではあるまいかと疑っていたのに、それを一時に打ち消すに足るほどな特徴を有していたからである。特徴とはほかではない。彼の
眉目がわが親愛なる好男子水島
寒月君に
瓜二つであると言う事実である。
吾輩は無論泥棒に多くの
知己は持たぬが、その行為の乱暴なところから
平常想像して
私かに胸中に
描いていた顔はないでもない。小鼻の左右に展開した、一銭銅貨くらいの眼をつけた、
毬栗頭にきまっていると自分で勝手に
極めたのであるが、見ると考えるとは天地の相違、想像は決して
逞くするものではない。この陰士は
背のすらりとした、色の浅黒い一の字眉の、意気で立派な泥棒である。年は二十六七歳でもあろう、それすら
寒月君の写生である。神もこんな似た顔を二個製造し得る
手際があるとすれば、決して無能をもって目する訳には行かぬ。いや実際の事を言うと
寒月君自身が気が変になって深夜に飛び出して来たのではあるまいかと、はっと思ったくらいよく似ている。ただ鼻の下に薄黒く
髯の
芽生えが植え付けてないのでさては別人だと気が付いた。
寒月君は
苦味ばしった好男子で、活動小切手と
迷亭から称せられたる、
金田富子嬢を優に吸収するに足るほどな念入れの製作物である。しかしこの陰士も人相から観察するとその婦人に対する引力上の作用において決して
寒月君に一歩も譲らない。もし
金田の令嬢が
寒月君の眼付や口先に迷ったのなら、同等の熱度をもってこの泥棒君にも
惚れ込まなくては義理が悪い。義理はとにかく、論理に合わない。ああ言う才気のある、何でも早分りのする
性質だからこのくらいの事は人から聞かんでもきっと分るであろう。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(13 / 128)
して見ると
寒月君の代りにこの泥棒を差し出しても必ず満身の愛を捧げて
琴瑟調和の実を挙げらるるに相違ない。万一
寒月君が
迷亭などの説法に動かされて、この千古の良縁が破れるとしても、この陰士が健在であるうちは大丈夫である。
吾輩は未来の事件の発展をここまで予想して、
富子嬢のために、やっと安心した。この泥棒君が天地の間に存在するのは
富子嬢の生活を幸福ならしむる一大要件である。
陰士は小脇になにか抱えている。見ると
先刻主人が書斎へ放り込んだ
古毛布である。
唐桟の
半纏に、
御納戸の
博多の帯を尻の上にむすんで、
生白い
脛は
膝から下むき出しのまま今や片足を挙げて畳の上へ入れる。
先刻から赤い本に指を
噛まれた夢を見ていた、
主人はこの時寝返りを
堂と打ちながら「
寒月だ」と大きな声を出す。陰士は
毛布を落して、出した足を急に引き込ます。障子の影に細長い
向脛が二本立ったまま
微かに動くのが見える。
主人はうーん、むにゃむにゃと言いながら例の赤本を突き飛ばして、黒い腕を
皮癬病みのようにぼりぼり
掻く。そのあとは静まり返って、枕をはずしたなり寝てしまう。
寒月だと言ったのは全く我知らずの寝言と見える。陰士はしばらく縁側に立ったまま室内の動静をうかがっていたが、
主人夫婦の熟睡しているのを
見済してまた片足を畳の上に入れる。今度は
寒月だと言う声も聞えぬ。やがて残る片足も踏み込む。
一穂の
春灯で豊かに照らされていた六畳の
間は、陰士の影に鋭どく二分せられて
柳行李の
辺から
吾輩の頭の上を越えて壁の
半ばが真黒になる。振り向いて見ると陰士の顔の影がちょうど壁の高さの三分の二の所に
漠然と動いている。好男子も影だけ見ると、
八つ
頭の
化け
物のごとくまことに妙な
格好である。陰士は
細君の寝顔を上から
覗き込んで見たが何のためかにやにやと笑った。笑い方までが
寒月君の模写であるには
吾輩も驚いた。
細君の枕元には四寸角の一尺五六寸ばかりの
釘付けにした箱が大事そうに置いてある。これは肥前の国は
唐津の住人
多々良三平君が先日帰省した時
御土産に持って来た山の
芋である。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(14 / 128)
山の芋を枕元へ飾って寝るのはあまり例のない話しではあるがこの
細君は煮物に使う
三盆を
用箪笥へ入れるくらい場所の適不適と言う観念に乏しい女であるから、
細君にとれば、山の芋は
愚か、
沢庵が寝室に
在っても平気かも知れん。しかし神ならぬ陰士はそんな女と知ろうはずがない。かくまで
丁重に肌身に近く置いてある以上は大切な品物であろうと鑑定するのも無理はない。陰士はちょっと山の芋の箱を上げて見たがその重さが陰士の予期と合して
大分目方が
懸りそうなのですこぶる満足の
体である。いよいよ山の芋を盗むなと思ったら、しかもこの好男子にして山の芋を盗むなと思ったら急におかしくなった。しかし
滅多に声を立てると危険であるからじっと
怺えている。
やがて陰士は山の芋の箱を
恭しく
古毛布にくるみ初めた。なにかからげるものはないかとあたりを見回す。と、幸い
主人が寝る時に
解きすてた
縮緬の
兵古帯がある。陰士は山の芋の箱をこの帯でしっかり
括って、苦もなく背中へしょう。あまり女が
好く体裁ではない。それから
小供のちゃんちゃんを二枚、
主人のめり
安の
股引の中へ押し込むと、股のあたりが丸く
膨れて
青大将が
蛙を飲んだような――あるいは青大将の
臨月と言う方がよく形容し得るかも知れん。とにかく変な
格好になった。嘘だと思うなら試しにやって見るがよろしい。陰士はめり安をぐるぐる
首っ
環へ
捲きつけた。その次はどうするかと思うと
主人の
紬の上着を大風呂敷のように
拡げてこれに
細君の帯と
主人の羽織と
繻絆とその他あらゆる
雑物を奇麗に畳んでくるみ込む。その熟練と器用なやり口にもちょっと感心した。それから
細君の帯上げとしごきとを
続ぎ合わせてこの包みを
括って片手にさげる。まだ
頂戴するものは無いかなと、あたりを見回していたが、
主人の頭の先に「
朝日」の袋があるのを見付けて、ちょっと
袂へ投げ込む。またその袋の中から一本出してランプに
翳して火を
点ける。
旨まそうに深く吸って吐き出した煙りが、乳色のホヤを
繞ってまだ消えぬ間に、陰士の足音は縁側を次第に遠のいて聞えなくなった。
主人夫婦は依然として熟睡している。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(15 / 128)
人間も存外
迂濶なものである。
吾輩はまた
暫時の休養を要する。のべつに
喋舌っていては身体が続かない。ぐっと寝込んで眼が
覚めた時は
弥生の空が朗らかに晴れ渡って勝手口に
主人夫婦が巡査と対談をしている時であった。
「
それでは、ここから入って寝室の方へ廻ったんですな。あなた方は睡眠中で一向気がつかなかったのですな」
「
ええ」と
主人は少し
極りがわるそうである。
「
それで盗難に罹ったのは何時頃ですか」と巡査は無理な事を聞く。時間が分るくらいなら
何にも盗まれる必要はないのである。それに気が付かぬ
主人夫婦はしきりにこの質問に対して相談をしている。
「
何時頃かな」
「
そうですね」と
細君は考える。考えれば分ると思っているらしい。
「
あなたは夕べ何時に御休みになったんですか」
「
俺の寝たのは御前よりあとだ」
「
ええ私しの伏せったのは、あなたより前です」
「
眼が覚めたのは何時だったかな」
「
七時半でしたろう」
「
すると盗賊の這入ったのは、何時頃になるかな」
「
なんでも夜なかでしょう」
「
夜中は分りきっているが、何時頃かと言うんだ」
「
たしかなところはよく考えて見ないと分りませんわ」と
細君はまだ考えるつもりでいる。巡査はただ形式的に聞いたのであるから、いつ這入ったところが
一向 痛痒を感じないのである。嘘でも何でも、いい加減な事を答えてくれれば
宜いと思っているのに
主人夫婦が要領を得ない問答をしているものだから少々
焦れたくなったと見えて
「
それじゃ盗難の時刻は不明なんですな」と言うと、
主人は例のごとき調子で
「
まあ、そうですな」と答える。巡査は笑いもせずに
「
じゃあね、明治三十八年何月何日戸締りをして寝たところが盗賊が、どこそこの雨戸を外してどこそこに忍び込んで品物を何点盗んで行ったから右告訴及 候也という書面をお出しなさい。届ではない告訴です。名宛はない方がいい」
「
品物は一々かくんですか」
「
ええ羽織何点代価いくらと言う風に表にして出すんです。――いや入って見たって仕方がない。盗られたあとなんだから」と平気な事を言って帰って行く。
主人は
筆硯を座敷の真中へ持ち出して、
細君を前に呼びつけて「
これから盗難告訴をかくから、盗られたものを一々言え。さあ言え」とあたかも喧嘩でもするような口調で言う。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(16 / 128)
「
あら厭だ、さあ言えだなんて、そんな権柄ずくで誰が言うもんですか」と細帯を巻き付けたままどっかと腰を
据える。
「
その風はなんだ、宿場女郎の出来損い見たようだ。なぜ帯をしめて出て来ん」
「
これで悪るければ買って下さい。宿場女郎でも何でも盗られりゃ仕方がないじゃありませんか」
「
帯までとって行ったのか、苛い奴だ。それじゃ帯から書き付けてやろう。帯はどんな帯だ」
「
どんな帯って、そんなに何本もあるもんですか、黒繻子と縮緬の腹合せの帯です」
「
黒繻子と縮緬の腹合せの帯一筋――価はいくらくらいだ」
「
六円くらいでしょう」
「
生意気に高い帯をしめてるな。今度から一円五十銭くらいのにしておけ」
「
そんな帯があるものですか。それだからあなたは不人情だと言うんです。女房なんどは、どんな汚ない風をしていても、自分さい宜けりゃ、構わないんでしょう」
「
まあいいや、それから何だ」
「
糸織の羽織です、あれは河野の叔母さんの形身にもらったんで、同じ糸織でも今の糸織とは、たちが違います」
「
そんな講釈は聞かんでもいい。値段はいくらだ」「
十五円」
「
十五円の羽織を着るなんて身分不相当だ」
「
いいじゃありませんか、あなたに買っていただきゃあしまいし」
「
その次は何だ」
「
黒足袋が一足」
「
御前のか」
「
あなたんでさあね。代価が二十七銭」
「
それから?」
「
山の芋が一箱」
「
山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
「
どうするつもりか知りません。泥棒のところへ行って聞いていらっしゃい」
「
いくらするか」
「
山の芋のねだんまでは知りません」
「
そんなら十二円五十銭くらいにしておこう」
「
馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津から掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか」
「
しかし御前は知らんと言うじゃないか」
「
知りませんわ、知りませんが十二円五十銭なんて法外ですもの」
「
知らんけれども十二円五十銭は法外だとは何だ。まるで論理に合わん。それだから貴様はオタンチン・パレオロガスだと言うんだ」
「
何ですって」
「
オタンチン・パレオロガスだよ」
「
何ですそのオタンチン・パレオロガスって言うのは」
「
何でもいい。それからあとは――俺の着物は一向出て来んじゃないか」
「
あとは何でも宜うござんす。オタンチン・パレオロガスの意味を聞かして頂戴」
「
意味も何にもあるもんか」
「
教えて下すってもいいじゃありませんか、あなたはよっぽど私を馬鹿にしていらっしゃるのね。きっと人が英語を知らないと思って悪口をおっしゃったんだよ」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(17 / 128)
「
愚な事を言わんで、早くあとを言うが好い。早く告訴をせんと品物が返らんぞ」
「
どうせ今から告訴をしたって間に合いやしません。それよりか、オタンチン・パレオロガスを教えて頂戴」
「
うるさい女だな、意味も何にも無いと言うに」
「
そんなら、品物の方もあとはありません」
「
頑愚だな。それでは勝手にするがいい。俺はもう盗難告訴を書いてやらんから」
「
私も品数を教えて上げません。告訴はあなたが御自分でなさるんですから、私は書いていただかないでも困りません」
「
それじゃ廃そう」と
主人は例のごとくふいと立って書斎へ這入る。
細君は茶の間へ引き下がって針箱の前へ坐る。
両人共十分間ばかりは何にもせずに黙って障子を
睨め付けている。
ところへ威勢よく玄関をあけて、山の芋の寄贈者
多々良三平君が上ってくる。多々良
三平君はもとこの
家の
書生であったが今では法科大学を卒業してある会社の鉱山部に雇われている。これも実業家の
芽生で、
鈴木藤十郎君の後進生である。
三平君は以前の関係から時々旧先生の
草廬を訪問して日曜などには一日遊んで帰るくらい、この家族とは遠慮のない間柄である。
「
奥さん。よか天気でござります」と
唐津訛りか何かで
細君の前に
ズボンのまま立て膝をつく。
「
おや多々良さん」
「
先生はどこぞ出なすったか」
「
いいえ書斎にいます」
「
奥さん、先生のごと勉強しなさると毒ですばい。たまの日曜だもの、あなた」
「
わたしに言っても駄目だから、あなたが先生にそうおっしゃい」
「
そればってんが……」と言い掛けた
三平君は座敷中を見回わして「
今日は御嬢さんも見えんな」と半分妻君に聞いているや否や次の
間から
とん子と
すん子が馳け出して来る。
「
多々良さん、今日は御寿司を持って来て?」と姉の
とん子は先日の約束を覚えていて、
三平君の顔を見るや否や催促する。
多々良君は頭を
掻きながら
「
よう覚えているのう、この次はきっと持って来ます。今日は忘れた」と白状する。
「
いやーだ」と姉が言うと妹もすぐ真似をして「
いやーだ」とつける。
細君はようやく御機嫌が直って少々笑顔になる。
「
寿司は持って来んが、山の芋は上げたろう。御嬢さん喰べなさったか」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(18 / 128)
「
山の芋ってなあに?」と姉がきくと妹が今度もまた真似をして「
山の芋ってなあに?」と
三平君に尋ねる。
「
まだ食いなさらんか、早く御母あさんに煮て御貰い。唐津の山の芋は東京のとは違ってうまかあ」と
三平君が国自慢をすると、
細君はようやく気が付いて
「
多々良さんせんだっては御親切に沢山ありがとう」
「
どうです、喰べて見なすったか、折れんように箱を誂らえて堅くつめて来たから、長いままでありましたろう」
「
ところがせっかく下すった山の芋を夕べ泥棒に取られてしまって」
「
ぬす盗が? 馬鹿な奴ですなあ。そげん山の芋の好きな男がおりますか?」と
三平君
大に感心している。
「
御母あさま、夕べ泥棒が這入ったの?」と姉が尋ねる。
「
ええ」と
細君は
軽く答える。
「
泥棒が入って――そうして――泥棒が入って――どんな顔をして這入ったの?」と今度は妹が聞く。この奇問には
細君も何と答えてよいか分らんので
「
恐い顔をして入りました」と返事をして
多々良君の方を見る。
「
恐い顔って多々良さん見たような顔なの」と姉が気の毒そうにもなく、押し返して聞く。
「
何ですね。そんな失礼な事を」
「
ハハハハ私の顔はそんなに恐いですか。困ったな」と頭を
掻く。
多々良君の頭の後部には直径一寸ばかりの
禿がある。一カ月前から出来だして医者に見て貰ったが、まだ容易に
癒りそうもない。この禿を第一番に見付けたのは姉の
とん子である。
「
あら多々良さんの頭は御母さまのように光かってよ」
「
だまっていらっしゃいと言うのに」
「
御母あさま夕べの泥棒の頭も光かってて」とこれは妹の質問である。
細君と
多々良君とは思わず吹き出したが、あまり
煩わしくて話も何も出来ぬので「
さあさあ御前さん達は少し御庭へ出て御遊びなさい。今に御母あさまが好い御菓子を上げるから」と
細君はようやく子供を追いやって
「
多々良さんの頭はどうしたの」と真面目に聞いて見る。
「
虫が食いました。なかなか癒りません。奥さんも有んなさるか」
「
やだわ、虫が食うなんて、そりゃ髷で釣るところは女だから少しは禿げますさ」
「
禿はみんなバクテリヤですばい」
「
わたしのはバクテリヤじゃありません」
「
そりゃ奥さん意地張りたい」
「
何でもバクテリヤじゃありません。しかし英語で禿の事を何とか言うでしょう」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(19 / 128)
「
禿はボールドとか言います」
「
いいえ、それじゃないの、もっと長い名があるでしょう」
「
先生に聞いたら、すぐわかりましょう」
「
先生はどうしても教えて下さらないから、あなたに聞くんです」
「
私はボールドより知りませんが。長かって、どげんですか」
「
オタンチン・パレオロガスと言うんです。オタンチンと言うのが禿と言う字で、パレオロガスが頭なんでしょう」
「
そうかも知れませんたい。今に先生の書斎へ行ってウェブスターを引いて調べて上げましょう。しかし先生もよほど変っていなさいますな。この天気の好いのに、うちにじっとして――奥さん、あれじゃ胃病は癒りませんな。ちと上野へでも花見に出掛けなさるごと勧めなさい」
「
あなたが連れ出して下さい。先生は女の言う事は決して聞かない人ですから」
「
この頃でもジャムを舐めなさるか」
「
ええ相変らずです」
「
せんだって、先生こぼしていなさいました。どうも妻が俺のジャムの舐め方が烈しいと言って困るが、俺はそんなに舐めるつもりはない。何か勘定違いだろうと言いなさるから、そりゃ御嬢さんや奥さんがいっしょに舐めなさるに違ない――」「
いやな多々良さんだ、何だってそんな事を言うんです」
「
しかし奥さんだって舐めそうな顔をしていなさるばい」
「
顔でそんな事がどうして分ります」
「
分らんばってんが――それじゃ奥さん少しも舐めなさらんか」
「
そりゃ少しは舐めますさ。舐めたって好いじゃありませんか。うちのものだもの」
「
ハハハハそうだろうと思った――しかし本の事、泥棒は飛んだ災難でしたな。山の芋ばかり持って行たのですか」
「
山の芋ばかりなら困りゃしませんが、不断着をみんな取って行きました」
「
早速困りますか。また借金をしなければならんですか。この猫が犬ならよかったに――惜しい事をしたなあ。奥さん犬の大か奴を是非一丁飼いなさい。――猫は駄目ですばい、飯を食うばかりで――ちっとは鼠でも捕りますか」
「
一匹もとった事はありません。本当に横着な図々図々しい猫ですよ」
「
いやそりゃ、どうもこうもならん。早々棄てなさい。私が貰って行って煮て食おうか知らん」
「
あら、多々良さんは猫を食べるの」
「
食いました。猫は旨うござります」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(20 / 128)
「
随分豪傑ね」
下等な
書生のうちには猫を食うような野蛮人がある
由はかねて伝聞したが、
吾輩が平生
眷顧【特別に目をかける】を
辱うする
多々良君その人もまたこの同類ならんとは今が今まで夢にも知らなかった。いわんや同君はすでに
書生ではない、卒業の日は浅きにも
係わらず堂々たる一個の法学士で、
六つ
井物産会社の役員であるのだから
吾輩の
驚愕もまた一と通りではない。人を見たら泥棒と思えと言う格言は
寒月第二世の行為によってすでに証拠立てられたが、人を見たら猫食いと思えとは
吾輩も
多々良君の御蔭によって始めて感得した真理である。世に住めば事を知る、事を知るは嬉しいが日に日に危険が多くて、日に日に油断がならなくなる。
狡猾になるのも卑劣になるのも表裏二枚合せの護身服を着けるのも皆事を知るの結果であって、事を知るのは年を取るの罪である。老人に
碌なものがいないのはこの理だな、
吾輩などもあるいは今のうちに
多々良君の
鍋の中で
玉葱と共に
成仏する方が得策かも知れんと考えて
隅の方に小さくなっていると、
最前細君と喧嘩をして
一反書斎へ引き上げた
主人は、
多々良君の声を聞きつけて、のそのそ茶の間へ出てくる。
「
先生泥棒に逢いなさったそうですな。なんちゅ愚な事です」と
劈頭一番にやり込める。
「
這入る奴が愚なんだ」と
主人はどこまでも賢人をもって自任している。
「
這入る方も愚だばってんが、取られた方もあまり賢こくはなかごたる」
「
何にも取られるものの無い多々良さんのようなのが一番賢こいんでしょう」と
細君が
此度は
良人の肩を持つ。
「
しかし一番愚なのはこの猫ですばい。ほんにまあ、どう言う了見じゃろう。鼠は捕らず泥棒が来ても知らん顔をしている。――先生この猫を私にくんなさらんか。こうしておいたっちゃ何の役にも立ちませんばい」
「
やっても好い。何にするんだ」
「
煮て喰べます」
主人は猛烈なるこの
一言を聞いて、うふと気味の悪い胃弱性の笑を
洩らしたが、別段の返事もしないので、
多々良君も是非食いたいとも言わなかったのは
吾輩にとって望外の幸福である。
主人はやがて話頭を転じて、
「
猫はどうでも好いが、着物をとられたので寒くていかん」と
大に
消沈の
体である。なるほど寒いはずである。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(21 / 128)
昨日までは綿入を二枚重ねていたのに今日は
袷に
半袖のシャツだけで、朝から運動もせず
枯坐したぎりであるから、不充分な血液はことごとく胃のために働いて手足の方へは少しも巡回して来ない。
「
先生教師などをしておったちゃとうていあかんですばい。ちょっと泥棒に逢っても、すぐ困る――一丁今から考を換えて実業家にでもなんなさらんか」
「
先生は実業家は嫌だから、そんな事を言ったって駄目よ」
と
細君が
傍から
多々良君に返事をする。
細君は無論実業家になって貰いたいのである。
「
先生学校を卒業して何年になんなさるか」
「
今年で九年目でしょう」と
細君は
主人を
顧みる。
主人はそうだとも、そうで無いとも言わない。
「
九年立っても月給は上がらず。いくら勉強しても人は褒めちゃくれず、郎君 独寂寞ですたい」と中学時代で覚えた詩の句を
細君のために朗吟すると、
細君はちょっと分りかねたものだから返事をしない。「
教師は無論嫌だが、実業家はなお嫌いだ」と
主人は何が好きだか心の
裏で考えているらしい。
「
先生は何でも嫌なんだから……」
「
嫌でないのは奥さんだけですか」と
多々良君
柄に似合わぬ
冗談を言う。
「
一番嫌だ」
主人の返事はもっとも簡明である。
細君は横を向いてちょっと
澄したが再び
主人の方を見て、
「
生きていらっしゃるのも御嫌なんでしょう」と充分
主人を
凹ましたつもりで言う。
「
あまり好いてはおらん」と存外
呑気な返事をする。これでは手のつけようがない。
「
先生ちっと活発に散歩でもしなさらんと、からだを壊してしまいますばい。――そうして実業家になんなさい。金なんか儲けるのは、ほんに造作もない事でござります」
「
少しも儲けもせん癖に」
「
まだあなた、去年やっと会社へ這入ったばかりですもの。それでも先生より貯蓄があります」
「
どのくらい貯蓄したの?」と
細君は熱心に聞く。
「
もう五十円になります」
「
一体あなたの月給はどのくらいなの」これも
細君の質問である。
「
三十円ですたい。その内を毎月五円宛会社の方で預って積んでおいて、いざと言う時にやります。――奥さん小遣銭で外濠線の株を少し買いなさらんか、今から三四個月すると倍になります。ほんに少し金さえあれば、すぐ二倍にでも三倍にでもなります」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(22 / 128)
「
そんな御金があれば泥棒に逢ったって困りゃしないわ」
「
それだから実業家に限ると言うんです。先生も法科でもやって会社か銀行へでも出なされば、今頃は月に三四百円の収入はありますのに、惜しい事でござんしたな。――先生あの鈴木藤十郎と言う工学士を知ってなさるか」
「
うん昨日来た」
「
そうでござんすか、せんだってある宴会で逢いました時先生の御話をしたら、そうか君は苦沙弥君のところの書生をしていたのか、僕も苦沙弥君とは昔し小石川の寺でいっしょに自炊をしておった事がある、今度行ったら宜しく言うてくれ、僕もその内尋ねるからと言っていました」
「
近頃東京へ来たそうだな」
「
ええ今まで九州の炭坑におりましたが、こないだ東京詰になりました。なかなか旨いです。私なぞにでも朋友のように話します。――先生あの男がいくら貰ってると思いなさる」
「
知らん」
「
月給が二百五十円で盆暮に配当がつきますから、何でも平均四五百円になりますばい。あげな男が、よかしこ取っておるのに、先生はリーダー専門で十年一狐裘じゃ馬鹿気ておりますなあ」
「
実際馬鹿気ているな」と
主人のような超然主義の人でも金銭の観念は普通の人間と
異なるところはない。否困窮するだけに人一倍金が欲しいのかも知れない。
多々良君は充分実業家の利益を
吹聴してもう言う事が無くなったものだから
「
奥さん、先生のところへ水島寒月と言う人が来ますか」
「
ええ、善くいらっしゃいます」
「
どげんな人物ですか」
「
大変学問の出来る方だそうです」
「
好男子ですか」
「
ホホホホ多々良さんくらいなものでしょう」
「
そうですか、私くらいなものですか」と
多々良君真面目である。「
どうして寒月の名を知っているのかい」と
主人が聞く。
「
せんだって或る人から頼まれました。そんな事を聞くだけの価値のある人物でしょうか」
多々良君は聞かぬ先からすでに
寒月以上に構えている。
「
君よりよほどえらい男だ」
「
そうでございますか、私よりえらいですか」と笑いもせず
怒りもせぬ。これが
多々良君の特色である。
「
近々博士になりますか」
「
今論文を書いてるそうだ」
「
やっぱり馬鹿ですな。博士論文をかくなんて、もう少し話せる人物かと思ったら」
「
相変らず、えらい見識ですね」と
細君が笑いながら言う。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(23 / 128)
「
博士になったら、だれとかの娘をやるとかやらんとか言うていましたから、そんな馬鹿があろうか、娘を貰うために博士になるなんて、そんな人物にくれるより僕にくれる方がよほどましだと言ってやりました」
「
だれに」
「
私に水島の事を聞いてくれと頼んだ男です」
「
鈴木じゃないか」
「
いいえ、あの人にゃ、まだそんな事は言い切りません。向うは大頭ですから」
「
多々良さんは蔭弁慶ね。うちへなんぞ来ちゃ大変威張っても鈴木さんなどの前へ出ると小さくなってるんでしょう」
「
ええ。そうせんと、あぶないです」
「
多々良、散歩をしようか」と突然
主人が言う。
先刻から
袷一枚であまり寒いので少し運動でもしたら暖かになるだろうと言う考から
主人はこの先例のない動議を呈出したのである。行き当りばったりの
多々良君は無論
逡巡する訳がない。
「
行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を
揮ってるうちに
主人はもう帽子を被って
沓脱へ下りる。
吾輩はまた少々休養を要する。
主人と
多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また
尾行する勇気もないからずっと略してその
間休養せんければならん。休養は万物の
旻天から要求してしかるべき権利である。この世に生息すべき義務を有して
蠢動する者は、生息の義務を果すために休養を得ねばならぬ。もし神ありて
汝は働くために生れたり寝るために生れたるに非ずと言わば
吾輩はこれに答えて言わん、
吾輩は仰せのごとく働くために生れたり故に働くために休養を乞うと。
主人のごとく器械に不平を吹き込んだまでの
木強漢ですら、時々は日曜以外に自弁休養をやるではないか。多感多恨にして日夜心神を労する
吾輩ごとき者は
仮令猫といえども
主人以上に休養を要するは勿論の事である。ただ
先刻多々良君が
吾輩を目して休養以外に何等の能もない
贅物のごとくに
罵ったのは少々気掛りである。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(24 / 128)
とかく
物象にのみ使役せらるる俗人は、五感の刺激以外に何等の活動もないので、他を評価するのでも形骸以外に
渉らんのは厄介である。何でも尻でも
端折って、汗でも出さないと働らいていないように考えている。
達磨と言う坊さんは足の腐るまで座禅をして澄ましていたと言うが、
仮令壁の
隙から
蔦が這い込んで大師の眼口を
塞ぐまで動かないにしろ、寝ているんでも死んでいるんでもない。頭の中は常に活動して、
廓然無聖などと乙な理屈を考え込んでいる。儒家にも静坐の工夫と言うのがあるそうだ。これだって一室の
中に閉居して安閑と
躄の修行をするのではない。脳中の活力は人一倍
熾に燃えている。ただ外見上は至極沈静端粛の
態であるから、天下の凡眼はこれらの知識巨匠をもって
昏睡仮死の
庸人と
見做して無用の長物とか
穀潰しとか入らざる
誹謗の声を立てるのである。これらの凡眼は皆形を見て心を見ざる不具なる視覚を有して生れついた者で、――しかも
彼の多々良
三平君のごときは形を見て心を見ざる第一流の人物であるから、この
三平君が
吾輩を目して
乾屎橛同等に心得るのももっともだが、恨むらくは少しく古今の書籍を読んで、やや事物の真相を解し得たる
主人までが、浅薄なる
三平君に一も二もなく同意して、
猫鍋に故障を
挟む
景色のない事である。しかし一歩退いて考えて見ると、かくまでに彼等が
吾輩を
軽蔑するのも、あながち無理ではない。大声は
俚耳に入らず、陽春白雪【中国の楚で最も高尚とされた歌曲】の詩には和するもの少なしの
喩も古い昔からある事だ。形体以外の活動を見る
能わざる者に向って
己霊の光輝を見よと
強ゆるは、
坊主に髪を
結えと
逼るがごとく、
鮪に演説をして見ろと言うがごとく、電鉄に脱線を要求するがごとく、
主人に辞職を勧告するごとく、
三平に金の事を考えるなと言うがごときものである。
必竟無理な注文に過ぎん。しかしながら猫といえども社会的動物である。社会的動物である以上はいかに高く
自ら標置するとも、或る程度までは社会と調和して行かねばならん。
主人や
細君や
乃至御さん、
三平連が
吾輩を
吾輩相当に評価してくれんのは残念ながら致し方がないとして、不明の結果皮を
剥いで三味線屋に売り飛ばし、肉を刻んで
多々良君の膳に
上すような無分別をやられては
由々しき大事である。
吾輩は頭をもって活動すべき天命を受けてこの
娑婆に出現したほどの
古今来の猫であれば、非常に大事な身体である。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(25 / 128)
千金の
子は
堂陲に坐せずとの
諺もある事なれば、好んで
超邁を
宗として、
徒らに吾身の危険を求むるのは単に自己の
災なるのみならず、また大いに天意に
背く訳である。猛虎も動物園に入れば
糞豚の隣りに居を占め、
鴻雁も鳥屋に
生擒らるれば
雛鶏と
俎を
同じゅうす。
庸人と
相互する以上は
下って
庸猫と化せざるべからず。庸猫たらんとすれば鼠を
捕らざるべからず。――
吾輩はとうとう鼠をとる事に
極めた。
せんだってじゅうから日本は
露西亜と大戦争をしているそうだ。
吾輩は日本の猫だから無論日本
贔負である。出来得べくんば
混成猫旅団を組織して露西亜兵を引っ
掻いてやりたいと思うくらいである。かくまでに元気
旺盛な
吾輩の事であるから鼠の一疋や二疋はとろうとする意志さえあれば、寝ていても訳なく
捕れる。
昔しある人当時有名な禅師に向って、どうしたら悟れましょうと聞いたら、猫が鼠を
覘うようにさしゃれと答えたそうだ。猫が鼠をとるようにとは、かくさえすれば
外ずれっこはござらぬと言う意味である。女
賢しゅうしてと言う諺はあるが猫
賢しゅうして鼠
捕り
損うと言う格言はまだ無いはずだ。して見ればいかに
賢こい
吾輩のごときものでも鼠の捕れんはずはあるまい。とれんはずはあるまいどころか捕り損うはずはあるまい。今まで捕らんのは、捕りたくないからの事さ。春の日はきのうのごとく暮れて、折々の風に誘わるる
花吹雪が台所の腰障子の破れから飛び込んで
手桶の中に浮ぶ影が、薄暗き勝手用のランプの光りに白く見える。今夜こそ大手柄をして、うちじゅう驚かしてやろうと決心した
吾輩は、あらかじめ戦場を見回って地形を飲み込んでおく必要がある。戦闘線は
勿論あまり広かろうはずがない。畳数にしたら四畳敷もあろうか、その一畳を仕切って半分は流し、半分は酒屋八百屋の御用を聞く土間である。へっついは貧乏勝手に似合わぬ立派な者で赤の
銅壺がぴかぴかして、
後ろは羽目板の
間を二尺
遺して
吾輩の
鮑貝の所在地である。茶の間に近き六尺は
膳椀 皿小鉢を入れる戸棚となって
狭き台所をいとど狭く仕切って、横に差し出すむき出しの棚とすれすれの高さになっている。その下に
摺鉢が
仰向けに置かれて、摺鉢の中には小桶の尻が
吾輩の方を向いている。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(26 / 128)
大根卸し、
摺小木が並んで
懸けてある
傍らに火消壺だけが
悄然と
控えている。真黒になった
樽木の交差した真中から一本の
自在を下ろして、先へは平たい大きな
籠をかける。その籠が時々風に揺れて
鷹揚に動いている。この籠は何のために釣るすのか、この
家へ来たてには
一向要領を得なかったが、猫の手の届かぬためわざと食物をここへ入れると言う事を知ってから、人間の意地の悪い事をしみじみ感じた。
これから作戦計画だ。どこで鼠と戦争するかと言えば無論鼠の出る所でなければならぬ。いかにこっちに
便宜な地形だからと言って一人で待ち構えていてはてんで戦争にならん。ここにおいてか鼠の出口を研究する必要が生ずる。どの方面から来るかなと台所の真中に立って四方を見回わす。何だか
東郷大将のような心持がする。下女はさっき湯に行って戻って
来ん。
小供はとくに寝ている。
主人は
芋坂の団子を喰って帰って来て相変らず書斎に引き
籠っている。
細君は――
細君は何をしているか知らない。大方居眠りをして山芋の夢でも見ているのだろう。時々門前を
人力が通るが、通り過ぎた後は一段と淋しい。わが決心と言い、わが意気と言い台所の光景と言い、
四辺の
寂寞【静粛】と言い、全体の感じが
悉く悲壮である。どうしても
猫中の
東郷大将としか思われない。こう言う
境界に入ると
物凄い内に一種の愉快を覚えるのは誰しも同じ事であるが、
吾輩はこの愉快の底に一大心配が
横わっているのを発見した。鼠と戦争をするのは覚悟の前だから何疋来ても
恐くはないが、出てくる方面が明瞭でないのは不都合である。周密なる観察から得た材料を
総合して見ると
鼠賊の
逸出するのには三つの行路がある。彼れらがもしどぶ鼠であるならば土管を沿うて流しから、へっついの裏手へ廻るに相違ない。その時は火消壺の影に隠れて、帰り道を絶ってやる。あるいは
溝へ湯を抜く
漆喰の穴より風呂場を
迂回して勝手へ不意に飛び出すかも知れない。そうしたら釜の
蓋の上に陣取って眼の下に来た時上から飛び下りて
一攫みにする。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(27 / 128)
それからとまたあたりを見回すと戸棚の戸の右の下隅が
半月形に喰い破られて、彼等の
出入に便なるかの疑がある。鼻を付けて
臭いで見ると少々鼠
臭い。もしここから
吶喊【つきつらぬく】して出たら、柱を
楯にやり過ごしておいて、横合からあっと爪をかける。もし天井から来たらと上を仰ぐと真黒な
煤がランプの光で輝やいて、地獄を裏返しに釣るしたごとくちょっと
吾輩の
手際では
上る事も、
下る事も出来ん。まさかあんな高い処から落ちてくる事もなかろうからとこの方面だけは警戒を
解く事にする。それにしても三方から攻撃される
懸念がある。一口なら片眼でも退治して見せる。二口ならどうにか、こうにかやってのける自信がある。しかし三口となるといかに本能的に鼠を
捕るべく予期せらるる
吾輩も手の付けようがない。さればと言って車屋の
黒ごときものを助勢に頼んでくるのも
吾輩の威厳に関する。どうしたら好かろう。どうしたら好かろうと考えて好い
知恵が出ない時は、そんな事は起る
気遣はないと決めるのが一番安心を得る近道である。また法のつかない者は起らないと考えたくなるものである。まず世間を見渡して見給え。きのう貰った花嫁も今日死なんとも限らんではないか、しかし
聟殿は玉椿千代も八千代もなど、おめでたい事を並べて心配らしい顔もせんではないか。心配せんのは、心配する価値がないからではない。いくら心配したって法が付かんからである。
吾輩の場合でも三面攻撃は必ず起らぬと断言すべき相当の論拠はないのであるが、起らぬとする方が安心を得るに便利である。安心は万物に必要である。
吾輩も安心を欲する。よって三面攻撃は起らぬと
極める。
それでもまだ心配が取れぬから、どう言うものかとだんだん考えて見るとようやく分った。三個の計略のうちいずれを選んだのがもっとも得策であるかの問題に対して、
自ら明瞭なる答弁を得るに苦しむからの
煩悶である。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(28 / 128)
戸棚から出るときには
吾輩これに応ずる策がある、風呂場から現われる時はこれに対する
計がある、また流しから這い上るときはこれを迎うる成算もあるが、そのうちどれか一つに
極めねばならぬとなると
大に当惑する。
東郷大将はバルチック艦隊が
対馬海峡を通るか、
津軽海峡へ出るか、あるいは遠く
宗谷海峡を廻るかについて
大に心配されたそうだが、今
吾輩が
吾輩自身の境遇から想像して見て、ご困却の段実に御察し申す。
吾輩は全体の状況において
東郷閣下に似ているのみならず、この格段なる地位においてもまた
東郷閣下とよく苦心を同じゅうする者である。
吾輩がかく夢中になって知謀をめぐらしていると、突然破れた腰障子が
開いて
御三の顔がぬうと出る。顔だけ出ると言うのは、手足がないと言う訳ではない。ほかの部分は
夜目でよく見えんのに、顔だけが著るしく強い色をして判然
眸底に落つるからである。
御三はその平常より赤き頬をますます赤くして洗湯から帰ったついでに、
昨夜に
懲りてか、早くから勝手の
戸締をする。書斎で
主人が俺のステッキを枕元へ出しておけと言う声が聞える。何のために枕頭にステッキを飾るのか
吾輩には分らなかった。まさか
易水の壮士を気取って、
竜鳴を聞こうと言う酔狂でもあるまい。きのうは山の芋、今日はステッキ、明日は何になるだろう。
夜はまだ浅い鼠はなかなか出そうにない。
吾輩は大戦の前に一と休養を要する。
主人の勝手には引窓がない。座敷なら
欄間と言うような所が幅一尺ほど切り抜かれて夏冬吹き通しに引窓の代理を勤めている。惜し気もなく散る
彼岸桜を誘うて、
颯と吹き込む風に驚ろいて眼を
覚ますと、
朧月さえいつの間に差してか、
竈の影は斜めに
揚板の上にかかる。寝過ごしはせぬかと二三度耳を振って家内の様子を
窺うと、しんとして昨夜のごとく柱時計の音のみ聞える。もう鼠の出る時分だ。どこから出るだろう。
戸棚の中でことことと音がしだす。小皿の縁を足で抑えて、中をあらしているらしい。ここから出るわいと穴の横へすくんで待っている。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(29 / 128)
なかなか出て来る
景色はない。皿の音はやがてやんだが今度はどんぶりか何かに掛ったらしい、重い音が時々ごとごととする。しかも戸を隔ててすぐ向う側でやっている、
吾輩の鼻づらと距離にしたら三寸も離れておらん。時々はちょろちょろと穴の口まで足音が近寄るが、また遠のいて一匹も顔を出すものはない。戸一枚向うに現在敵が暴行を
逞しくしているのに、
吾輩はじっと穴の出口で待っておらねばならん随分気の長い話だ。鼠は
旅順椀の中で盛に舞踏会を催うしている。せめて
吾輩の這入れるだけ
御三がこの戸を開けておけば善いのに、気の利かぬ山出しだ。
今度はへっついの影で
吾輩の
鮑貝がことりと鳴る。敵はこの方面へも来たなと、そーっと忍び足で近寄ると
手桶の間から
尻尾がちらと見えたぎり流しの下へ隠れてしまった。しばらくすると風呂場でうがい茶碗が
金盥にかちりと当る。今度は
後方だと振りむく途端に、五寸近くある
大な奴がひらりと歯磨の袋を落して縁の下へ
馳け込む。逃がすものかと続いて飛び下りたらもう影も姿も見えぬ。鼠を
捕るのは思ったよりむずかしい者である。
吾輩は先天的鼠を捕る能力がないのか知らん。
吾輩が風呂場へ廻ると、敵は戸棚から馳け出し、戸棚を警戒すると流しから飛び上り、台所の真中に
頑張っていると三方面共少々ずつ騒ぎ立てる。
小癪と言おうか、
卑怯と言おうかとうてい彼等は君子の敵でない。
吾輩は十五六回はあちら、こちらと気を疲らし
心を
労らして奔走努力して見たがついに一度も成功しない。残念ではあるがかかる
小人を敵にしてはいかなる
東郷大将も
施こすべき策がない。始めは勇気もあり
敵愾心もあり悲壮と言う崇高な美感さえあったがついには面倒と馬鹿気ているのと眠いのと疲れたので台所の真中へ坐ったなり動かない事になった。しかし動かんでも
八方睨みを
極め込んでいれば敵は小人だから大した事は出来んのである。目ざす敵と思った奴が、存外けちな野郎だと、戦争が名誉だと言う感じが消えて
悪くいと言う念だけ残る。
悪くいと言う念を通り過すと張り合が抜けてぼーとする。ぼーとしたあとは勝手にしろ、どうせ気の
利いた事は出来ないのだからと
軽蔑の
極眠たくなる。
吾輩は以上の径路をたどって、ついに眠くなった。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(30 / 128)
吾輩は眠る。休養は敵中に
在っても必要である。
横向に
庇を向いて開いた引窓から、また
花吹雪を
一塊りなげ込んで、烈しき風の吾を
遶ると思えば、戸棚の口から弾丸のごとく飛び出した者が、避くる
間もあらばこそ、風を切って
吾輩の左の耳へ喰いつく。これに続く黒い影は
後ろに廻るかと思う間もなく
吾輩の
尻尾へぶら下がる。
瞬く間の出来事である。
吾輩は何の目的もなく器械的に
跳上る。満身の力を毛穴に込めてこの怪物を振り落とそうとする。耳に喰い下がったのは中心を失ってだらりと吾が横顔に懸る。
護謨管のごとき柔かき尻尾の先が思い掛なく
吾輩の口に這入る。
屈竟の
手懸りに、
砕けよとばかり尾を
啣えながら左右にふると、尾のみは前歯の間に残って胴体は古新聞で張った壁に当って、揚板の上に
跳ね返る。起き上がるところを
隙間なく
乗し
掛れば、
毬を
蹴たるごとく、
吾輩の鼻づらを
掠めて釣り段の縁に足を縮めて立つ。彼は棚の上から
吾輩を見おろす、
吾輩は板の間から彼を見上ぐる。距離は五尺。その中に月の光りが、
大幅の帯を
空に張るごとく横に差し込む。
吾輩は前足に力を込めて、やっとばかり棚の上に飛び上がろうとした。前足だけは首尾よく棚の縁にかかったが
後足は宙にもがいている。尻尾には最前の黒いものが、死ぬとも離るまじき勢で喰い下っている。
吾輩は
危うい。前足を
懸け
易えて
足懸りを深くしようとする。懸け易える度に尻尾の重みで浅くなる。
二三分滑れば落ちねばならぬ。
吾輩はいよいよ危うい。棚板を爪で
掻きむしる音ががりがりと聞える。これではならぬと左の前足を抜き易える拍子に、爪を見事に懸け損じたので
吾輩は右の爪一本で棚からぶら下った。自分と尻尾に喰いつくものの重みで
吾輩のからだがぎりぎりと廻わる。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(31 / 128)
この時まで身動きもせずに
覘いをつけていた棚の上の怪物は、ここぞと
吾輩の額を目懸けて棚の上から石を投ぐるがごとく飛び下りる。
吾輩の爪は
一縷のかかりを失う。三つの
塊まりが一つとなって月の光を
竪に切って下へ落ちる。次の段に乗せてあった
摺鉢と、摺鉢の中の
小桶とジャムの
空缶が同じく
一塊となって、下にある火消壺を誘って、半分は
水甕の中、半分は板の間の上へ転がり出す。すべてが深夜にただならぬ物音を立てて死物狂いの
吾輩の魂をさえ寒からしめた。
「
泥棒!」と
主人は
胴間声を張り上げて寝室から飛び出して来る。見ると片手にはランプを
提げ、片手にはステッキを持って、寝ぼけ
眼よりは身分相応の
炯々たる光を放っている。
吾輩は
鮑貝の
傍におとなしくして
蹲踞る。二疋の怪物は戸棚の中へ姿をかくす。
主人は手持無沙汰に「
何だ誰だ、大きな音をさせたのは」と怒気を帯びて相手もいないのに聞いている。月が西に傾いたので、白い光りの一帯は
半切ほどに細くなった。
六
こう暑くては猫といえどもやり切れない。皮を脱いで、肉を脱いで骨だけで涼みたいものだと
英吉利のシドニー・スミスとか言う人が苦しがったと言う話があるが、たとい骨だけにならなくとも好いから、せめてこの淡灰色の
斑入の
毛衣だけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分の
中質にでも入れたいような気がする。人間から見たら猫などは年が年中同じ顔をして、春夏秋冬一枚看板で押し通す、至って単純な無事な
銭のかからない
生涯を送っているように思われるかも知れないが、いくら猫だって相応に暑さ寒さの感じはある。たまには
行水の一度くらいあびたくない事もないが、何しろこの毛衣の上から湯を使った日には乾かすのが容易な事でないから汗臭いのを我慢してこの年になるまで洗湯の
暖簾を
潜った事はない。折々は
団扇でも使って見ようと言う気も起らんではないが、とにかく握る事が出来ないのだから仕方がない。それを思うと人間は
贅沢なものだ。なまで食ってしかるべきものをわざわざ煮て見たり、焼いて見たり、
酢に
漬けて見たり、
味噌をつけて見たり好んで余計な
手数を懸けて御互に恐悦している。着物だってそうだ。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(32 / 128)
猫のように一年中同じ物を着通せと言うのは、不完全に生れついた彼等にとって、ちと無理かも知れんが、なにもあんなに雑多なものを皮膚の上へ
載せて暮さなくてもの事だ。羊の御厄介になったり、
蚕の御世話になったり、綿畠の
御情けさえ受けるに至っては
贅沢は無能の結果だと断言しても好いくらいだ。衣食はまず大目に見て勘弁するとしたところで、生存上直接の利害もないところまでこの調子で押して行くのは
毫も
合点が行かぬ。第一頭の毛などと言うものは自然に生えるものだから、
放っておく方がもっとも簡便で当人のためになるだろうと思うのに、彼等は入らぬ算段をして種々雑多な
格好をこしらえて得意である。
坊主とか自称するものはいつ見ても頭を青くしている。暑いとその上へ日傘をかぶる。寒いと
頭巾で包む。これでは何のために青い物を出しているのか主意が立たんではないか。そうかと思うと
櫛とか称する無意味な
鋸様の道具を用いて頭の毛を左右に等分して嬉しがってるのもある。等分にしないと七分三分の割合で
頭蓋骨の上へ人為的の
区画を立てる。中にはこの仕切りが
つむじを通り過して
後ろまで
食み出しているのがある。まるで
贋造の
芭蕉葉のようだ。その次には脳天を平らに刈って左右は真直に切り落す。丸い頭へ四角な
枠をはめているから、植木屋を入れた杉垣根の写生としか受け取れない。このほか五分刈、三分刈、一分刈さえあると言う話だから、しまいには頭の裏まで刈り込んでマイナス一分刈、マイナス三分刈などと言う新奇な奴が流行するかも知れない。とにかくそんなに
憂身を
窶してどうするつもりか分らん。第一、足が四本あるのに二本しか使わないと言うのから贅沢だ。四本であるけばそれだけはかも行く訳だのに、いつでも二本ですまして、残る二本は到来の
棒鱈のように手持無沙汰にぶら下げているのは馬鹿馬鹿しい。これで見ると人間はよほど猫より
閑なもので退屈のあまりかようないたずらを考案して楽んでいるものと察せられる。ただおかしいのはこの
閑人がよると
障わると多忙だ多忙だと触れ廻わるのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほど
こせついている。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(33 / 128)
彼等のあるものは
吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどと言うが、気楽でよければなるが好い。そんなにこせこせしてくれと誰も頼んだ訳でもなかろう。自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいと言うのは自分で火をかんかん起して暑い暑いと言うようなものだ。猫だって頭の刈り方を二十通りも考え出す日には、こう気楽にしてはおられんさ。気楽になりたければ
吾輩のように夏でも
毛衣を着て通されるだけの修業をするがよろしい。――とは言うものの少々熱い。毛衣では全く
熱つ過ぎる。
これでは一手専売の昼寝も出来ない。何かないかな、永らく人間社会の観察を
怠ったから、今日は久し振りで彼等が酔興に
齷齪する様子を拝見しようかと考えて見たが、
生憎主人はこの点に関してすこぶる猫に近い
性分である。昼寝は
吾輩に劣らぬくらいやるし、ことに暑中休暇後になってからは何一つ人間らしい仕事をせんので、いくら観察をしても
一向観察する張合がない。こんな時に
迷亭でも来ると胃弱性の皮膚も幾分か反応を呈して、しばらくでも猫に遠ざかるだろうに、先生もう来ても好い時だと思っていると、誰とも知らず風呂場でざあざあ水を浴びるものがある。水を浴びる音ばかりではない、折々大きな声で相の手を入れている。「
いや結構」「
どうも良い心持ちだ」「
もう一杯」などと
家中に響き渡るような声を出す。
主人のうちへ来てこんな大きな声と、こんな
無作法な真似をやるものはほかにはない。
迷亭に
極っている。
いよいよ来たな、これで今日半日は
潰せると思っていると、先生汗を
拭いて肩を入れて例のごとく座敷までずかずか上って来て「
奥さん、苦沙弥君はどうしました」と呼ばわりながら帽子を畳の上へ
抛り出す。
細君は隣座敷で針箱の
側へ突っ伏して好い心持ちに寝ている最中にワンワンと何だか鼓膜へ答えるほどの響がしたのではっと驚ろいて、
醒めぬ眼をわざと
睜って座敷へ出て来ると
迷亭が
薩摩上布を着て勝手な所へ陣取ってしきりに扇使いをしている。
「
おやいらしゃいまし」と言ったが少々
狼狽の気味で「
ちっとも存じませんでした」と鼻の頭へ汗をかいたまま御辞儀をする。「
いえ、今来たばかりなんですよ。今風呂場で御三に水を掛けて貰ってね。ようやく生き帰ったところで――どうも暑いじゃありませんか」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(34 / 128)
「
この両三日は、ただじっとしておりましても汗が出るくらいで、大変御暑うございます。――でも御変りもございませんで」と
細君は依然として鼻の汗をとらない。「
ええありがとう。なに暑いくらいでそんなに変りゃしませんや。しかしこの暑さは別物ですよ。どうも体がだるくってね」「
私しなども、ついに昼寝などを致した事がないんでございますが、こう暑いとつい――」「
やりますかね。好いですよ。昼寝られて、夜寝られりゃ、こんな結構な事はないでさあ」とあいかわらず
呑気な事を並べて見たがそれだけでは不足と見えて「
私なんざ、寝たくない、質でね。苦沙弥君などのように来るたんびに寝ている人を見ると羨しいですよ。もっとも胃弱にこの暑さは答えるからね。丈夫な人でも今日なんかは首を肩の上に載せてるのが退儀でさあ。さればと言って載ってる以上はもぎとる訳にも行かずね」と
迷亭君いつになく首の処置に窮している。「
奥さんなんざ首の上へまだ載っけておくものがあるんだから、坐っちゃいられないはずだ。髷の重みだけでも横になりたくなりますよ」と言うと
細君は今まで寝ていたのが髷の
格好から露見したと思って「
ホホホ口の悪い」と言いながら頭をいじって見る。
迷亭はそんな事には頓着なく「
奥さん、昨日はね、屋根の上で玉子のフライをして見ましたよ」と妙な事を言う。「
フライをどうなさったんでございます」「
屋根の瓦があまり見事に焼けていましたから、ただ置くのも勿体ないと思ってね。バタを溶かして玉子を落したんでさあ」「
あらまあ」「
ところがやっぱり天日は思うように行きませんや。なかなか半熟にならないから、下へおりて新聞を読んでいると客が来たもんだからつい忘れてしまって、今朝になって急に思い出して、もう大丈夫だろうと上って見たらね」「
どうなっておりました」「
半熟どころか、すっかり流れてしまいました」「
おやおや」と
細君は八の字を寄せながら感嘆した。
「
しかし土用中あんなに涼しくって、今頃から暑くなるのは不思議ですね」「
ほんとでございますよ。せんだってじゅうは単衣では寒いくらいでございましたのに、一昨日から急に暑くなりましてね」「
蟹なら横に這うところだが今年の気候はあとびさりをするんですよ。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(35 / 128)
倒行して逆施すまた可ならずやと言うような事を言っているかも知れない」「
なんでござんす、それは」「
いえ、何でもないのです。どうもこの気候の逆戻りをするところはまるでハーキュリスの牛ですよ」と図に乗っていよいよ変ちきりんな事を言うと、果せるかな
細君は分らない。しかし最前の倒行して逆施すで少々
懲りているから、今度はただ「
へえー」と言ったのみで問い返さなかった。これを問い返されないと
迷亭はせっかく持ち出した
甲斐がない。「
奥さん、ハーキュリスの牛を御存じですか」「
そんな牛は存じませんわ」「
御存じないですか、ちょっと講釈をしましょうか」と言うと
細君もそれには及びませんとも言い兼ねたものだから「
ええ」と言った。「
昔しハーキュリスが牛を引っ張って来たんです」「
そのハーキュリスと言うのは牛飼ででもござんすか」「
牛飼じゃありませんよ。牛飼やいろはの亭主じゃありません。その節は希臘にまだ牛肉屋が一軒もない時分の事ですからね」「
あら希臘のお話しなの? そんなら、そうおっしゃればいいのに」と
細君は希臘と言う国名だけは心得ている。「
だってハーキュリスじゃありませんか」「
ハーキュリスなら希臘なんですか」「
ええハーキュリスは希臘の英雄でさあ」「
どうりで、知らないと思いました。それでその男がどうしたんで――」「
その男がね奥さん見たように眠くなってぐうぐう寝ている――」「
あらいやだ」「
寝ている間に、ヴァルカンの子が来ましてね」「
ヴァルカンて何です」「
ヴァルカンは鍛冶屋ですよ。この鍛冶屋のせがれがその牛を盗んだんでさあ。ところがね。牛の尻尾を持ってぐいぐい引いて行ったもんだからハーキュリスが眼を覚まして牛やーい牛やーいと尋ねてあるいても分らないんです。分らないはずでさあ。牛の足跡をつけたって前の方へあるかして連れて行ったんじゃありませんもの、後ろへ後ろへと引きずって行ったんですからね。鍛冶屋のせがれにしては大出来ですよ」と
迷亭先生はすでに天気の話は忘れている。
「
時に御主人はどうしました。相変らず午睡ですかね。午睡も支那人の詩に出てくると風流だが、苦沙弥君のように日課としてやるのは少々俗気がありますね。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(36 / 128)
何の事あない毎日少しずつ死んで見るようなものですぜ、奥さん御手数だがちょっと起していらっしゃい」と催促すると
細君は同感と見えて「
ええ、ほんとにあれでは困ります。第一あなた、からだが悪るくなるばかりですから。今御飯をいただいたばかりだのに」と立ちかけると
迷亭先生は「
奥さん、御飯と言やあ、僕はまだ御飯をいただかないんですがね」と平気な顔をして聞きもせぬ事を
吹聴する。「
おやまあ、時分どきだのにちっとも気が付きませんで――それじゃ何もございませんが御茶漬でも」「
いえ御茶漬なんか頂戴しなくっても好いですよ」「
それでも、あなた、どうせ御口に合うようなものはございませんが」と
細君少々厭味を並べる。
迷亭は悟ったもので「
いえ御茶漬でも御湯漬でも御免蒙るんです。今途中で御馳走を誂らえて来ましたから、そいつを一つここでいただきますよ」ととうてい
素人には出来そうもない事を述べる。
細君はたった
一言「
まあ!」と言ったがその
まあの
中には驚ろいた
まあと、気を悪るくした
まあと、
手数が省けてありがたいと言う
まあが合併している。
ところへ
主人が、いつになくあまりやかましいので、寝つき掛った眠をさかに
扱かれたような心持で、ふらふらと書斎から出て来る。「
相変らずやかましい男だ。せっかく好い心持に寝ようとしたところを」と
欠伸交りに
仏頂面をする。「
いや御目覚かね。鳳眠を驚かし奉ってはなはだ相済まん。しかしたまには好かろう。さあ坐りたまえ」とどっちが客だか分らぬ挨拶をする。
主人は無言のまま座に着いて
寄木細工の
巻煙草入から「
朝日」を一本出してすぱすぱ吸い始めたが、ふと
向の
隅に転がっている
迷亭の帽子に眼をつけて「
君帽子を買ったね」と言った。
迷亭はすぐさま「
どうだい」と自慢らしく
主人と
細君の前に差し出す。「
まあ奇麗だ事。大変目が細かくって柔らかいんですね」と
細君はしきりに撫で廻わす。「
奥さんこの帽子は重宝ですよ、どうでも言う事を聞きますからね」と
拳骨をかためてパナマの横ッ腹をぽかりと張り付けると、なるほど意のごとく
拳ほどな穴があいた。
細君が「
へえ」と驚く
間もなく、この
度は拳骨を裏側へ入れてうんと突ッ張ると
釜の頭がぽかりと
尖んがる。次には帽子を取って
鍔と鍔とを両側から
圧し
潰して見せる。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(37 / 128)
潰れた帽子は
麺棒で
延した
蕎麦のように平たくなる。それを片端から
蓆でも巻くごとくぐるぐる畳む。「
どうですこの通り」と丸めた帽子を懐中へ入れて見せる。「
不思議です事ねえ」と
細君は
帰天斎正一【明治時代の奇術師】の手品でも見物しているように感嘆すると、
迷亭もその気になったものと見えて、右から懐中に収めた帽子をわざと左の
袖口から引っ張り出して「
どこにも傷はありません」と元のごとくに直して、人さし指の先へ釜の底を
載せてくるくると廻す。もう
休めるかと思ったら最後にぽんと
後ろへ
放げてその上へ
堂っさりと尻餅を突いた。「
君大丈夫かい」と
主人さえ
懸念らしい顔をする。
細君は無論の事心配そうに「
せっかく見事な帽子をもし壊わしでもしちゃあ大変ですから、もう好い加減になすったら宜うござんしょう」と注意をする。得意なのは持主だけで「
ところが壊われないから妙でしょう」と、くちゃくちゃになったのを尻の下から取り出してそのまま頭へ載せると、不思議な事には、頭の
格好にたちまち回復する。「
実に丈夫な帽子です事ねえ、どうしたんでしょう」と
細君がいよいよ感心すると「
なにどうもしたんじゃありません、元からこう言う帽子なんです」と
迷亭は帽子を被ったまま
細君に返事をしている。
「
あなたも、あんな帽子を御買になったら、いいでしょう」としばらくして
細君は
主人に勧めかけた。「
だって苦沙弥君は立派な麦藁の奴を持ってるじゃありませんか」「
ところがあなた、せんだって小供があれを踏み潰してしまいまして」「
おやおやそりゃ措しい事をしましたね」「
だから今度はあなたのような丈夫で奇麗なのを買ったら善かろうと思いますんで」と
細君はパナマの
価段を知らないものだから「
これになさいよ、ねえ、あなた」としきりに
主人に勧告している。
迷亭君は今度は右の
袂の中から赤いケース入りの
鋏を取り出して
細君に見せる。「
奥さん、帽子はそのくらいにしてこの鋏を御覧なさい。これがまたすこぶる重宝な奴で、これで十四通りに使えるんです」この鋏が出ないと
主人は
細君のためにパナマ責めになるところであったが、幸に
細君が女として持って生れた好奇心のために、この
厄運を
免かれたのは
迷亭の機転と言わんよりむしろ
僥倖の仕合せだと
吾輩は看破した。「
その鋏がどうして十四通りに使えます」と聞くや否や
迷亭君は大得意な調子で「
今一々説明しますから聞いていらっしゃい。いいですか。ここに三日月形の欠け目がありましょう、ここへ葉巻を入れてぷつりと口を切るんです。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(38 / 128)
それからこの根にちょと細工がありましょう、これで針金をぽつぽつやりますね。次には平たくして紙の上へ横に置くと定規の用をする。また刃の裏には度盛がしてあるから物指の代用も出来る。こちらの表にはヤスリが付いているこれで爪を磨りまさあ。ようがすか。この先きを螺旋鋲の頭へ刺し込んでぎりぎり廻すと金槌にも使える。うんと突き込んでこじ開けると大抵の釘付の箱なんざあ苦もなく蓋がとれる。まった、こちらの刃の先は錐に出来ている。ここん所は書き損いの字を削る場所で、ばらばらに離すと、ナイフとなる。一番しまいに――さあ奥さん、この一番しまいが大変面白いんです、ここに蠅の眼玉くらいな大きさの球がありましょう、ちょっと、覗いて御覧なさい」「
いやですわまたきっと馬鹿になさるんだから」「
そう信用がなくっちゃ困ったね。だが欺されたと思って、ちょいと覗いて御覧なさいな。え? 厭ですか、ちょっとでいいから」と
鋏を
細君に渡す。
細君は
覚束なげに鋏を取りあげて、例の蠅の眼玉の所へ自分の眼玉を付けてしきりに
覘をつけている。「
どうです」「
何だか真黒ですわ」「
真黒じゃいけませんね。も少し障子の方へ向いて、そう鋏を寝かさずに――そうそうそれなら見えるでしょう」「
おやまあ写真ですねえ。どうしてこんな小さな写真を張り付けたんでしょう」「
そこが面白いところでさあ」と
細君と
迷亭はしきりに問答をしている。最前から黙っていた
主人はこの時急に写真が見たくなったものと見えて「
おい俺にもちょっと覧せろ」と言うと
細君は鋏を顔へ押し付けたまま「
実に奇麗です事、裸体の美人ですね」と言ってなかなか離さない。「
おいちょっと御見せと言うのに」「
まあ待っていらっしゃいよ。美くしい髪ですね。腰までありますよ。少し仰向いて恐ろしい背の高い女だ事、しかし美人ですね」「
おい御見せと言ったら、大抵にして見せるがいい」と
主人は
大に
急き込んで
細君に食って掛る。「
へえ御待遠さま、たんと御覧遊ばせ」と
細君が鋏を
主人に渡す時に、勝手から
御三が御客さまの
御誂が参りましたと、二個の
笊蕎麦を座敷へ持って来る。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(39 / 128)
「
奥さんこれが僕の自弁の御馳走ですよ。ちょっと御免蒙って、ここでぱくつく事に致しますから」と
丁寧に御辞儀をする。真面目なような
巫山戯たような動作だから
細君も応対に窮したと見えて「
さあどうぞ」と軽く返事をしたぎり拝見している。
主人はようやく写真から眼を放して「
君この暑いのに蕎麦は毒だぜ」と言った。「
なあに大丈夫、好きなものは滅多に中るもんじゃない」と
蒸籠の
蓋をとる。「
打ち立てはありがたいな。蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのは由来たのもしくないもんだよ」と
薬味を
ツユの中へ入れて無茶苦茶に
掻き廻わす。「
君そんなに山葵を入れると辛らいぜ」と
主人は心配そうに注意した。「
蕎麦はツユと山葵で食うもんだあね。君は蕎麦が嫌いなんだろう」「
僕は饂飩が好きだ」「
饂飩は馬子が食うもんだ。蕎麦の味を解しない人ほど気の毒な事はない」と言いながら
杉箸をむざと突き込んで出来るだけ多くの分量を二寸ばかりの高さにしゃくい上げた。「
奥さん蕎麦を食うにもいろいろ流儀がありますがね。初心の者に限って、無暗にツユを着けて、そうして口の内でくちゃくちゃやっていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ。何でも、こう、一としゃくいに引っ掛けてね」と言いつつ箸を上げると、長い奴が
勢揃いをして一尺ばかり空中に釣るし上げられる。
迷亭先生もう善かろうと思って下を見ると、まだ十二三本の尾が蒸籠の底を離れないで
簀垂れの上に
纏綿している。「
こいつは長いな、どうです奥さん、この長さ加減は」とまた奥さんに相の手を要求する。奥さんは「
長いものでございますね」とさも感心したらしい返事をする。「
この長い奴へツユを三分一つけて、一口に飲んでしまうんだね。噛んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉を滑り込むところがねうちだよ」と思い切って
箸を高く上げると蕎麦はようやくの事で地を離れた。
左手に受ける茶碗の中へ、箸を少しずつ落して、尻尾の先からだんだんに
浸すと、アーキミジスの理論によって、蕎麦の
浸った分量だけ
ツユの
嵩が増してくる。ところが茶碗の中には元から
ツユが八分目入っているから、
迷亭の箸にかかった蕎麦の
四半分も
浸らない先に茶碗はツユで一杯になってしまった。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(40 / 128)
迷亭の箸は茶碗を
去る五寸の上に至ってぴたりと留まったきりしばらく動かない。動かないのも無理はない。少しでも
卸せば
ツユが
溢れるばかりである。
迷亭もここに至って少し
躊躇の
体であったが、たちまち
脱兎の勢を以て、口を箸の方へ持って行ったなと思う
間もなく、つるつるちゅうと音がして
咽喉笛が一二度
上下へ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなっておった。見ると
迷亭君の両眼から涙のようなものが一二滴
眼尻から頬へ流れ出した。
山葵が
利いたものか、飲み込むのに骨が折れたものかこれはいまだに判然しない。「
感心だなあ。よくそんなに一どきに飲み込めたものだ」と
主人が敬服すると「
御見事です事ねえ」と
細君も
迷亭の
手際を激賞した。
迷亭は何にも言わないで箸を置いて胸を二三度
敲いたが「
奥さん笊は大抵三口半か四口で食うんですね。それより手数を掛けちゃ旨く食えませんよ」とハンケチで口を拭いてちょっと一息入れている。
ところへ
寒月君が、どう言う
了見かこの暑いのに御苦労にも冬帽を
被って両足を
埃だらけにしてやってくる。「
いや好男子の御入来だが、喰い掛けたものだからちょっと失敬しますよ」と
迷亭君は
衆人環座の
裏にあって
臆面もなく残った蒸籠を
平げる。今度は
先刻のように
目覚しい食方もしなかった代りに、ハンケチを使って、中途で息を入れると言う不体裁もなく、
蒸籠二つを安々とやってのけたのは結構だった。
「
寒月君博士論文はもう脱稿するのかね」と
主人が聞くと
迷亭もその後から「
金田令嬢がお待ちかねだから早々 呈出したまえ」と言う。
寒月君は例のごとく薄気味の悪い笑を
洩らして「
罪ですからなるべく早く出して安心させてやりたいのですが、何しろ問題が問題で、よほど労力の入る研究を要するのですから」と本気の沙汰とも思われない事を本気の沙汰らしく言う。「
そうさ問題が問題だから、そう鼻の言う通りにもならないね。もっともあの鼻なら充分鼻息をうかがうだけの価値はあるがね」と
迷亭も
寒月流な挨拶をする。比較的に真面目なのは
主人である。「
君の論文の問題は何とか言ったっけな」「
蛙の眼球の電動作用に対する紫外光線の影響と言うのです」「
そりゃ奇だね。さすがは寒月先生だ、蛙の眼球は振ってるよ。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(41 / 128)
どうだろう苦沙弥君、論文脱稿前にその問題だけでも金田家へ報知しておいては」主人は
迷亭の言う事には取り合わないで「
君そんな事が骨の折れる研究かね」と
寒月君に聞く。「
ええ、なかなか複雑な問題です、第一蛙の眼球のレンズの構造がそんな単簡なものでありませんからね。それでいろいろ実験もしなくちゃなりませんがまず丸い硝子の球をこしらえてそれからやろうと思っています」「
硝子の球なんかガラス屋へ行けば訳ないじゃないか」「
どうして――どうして」と
寒月先生少々
反身になる。「
元来円とか直線とか言うのは幾何学的のもので、あの定義に合ったような理想的な円や直線は現実世界にはないもんです」「
ないもんなら、廃したらよかろう」と
迷亭が口を出す。「
それでまず実験上差し支えないくらいな球を作って見ようと思いましてね。せんだってからやり始めたのです」「
出来たかい」と
主人が訳のないようにきく。「
出来るものですか」と
寒月君が言ったが、これでは少々矛盾だと気が付いたと見えて「
どうもむずかしいです。だんだん磨って少しこっち側の半径が長過ぎるからと思ってそっちを心持落すと、さあ大変今度は向側が長くなる。そいつを骨を折ってようやく磨り潰したかと思うと全体の形がいびつになるんです。やっとの思いでこのいびつを取るとまた直径に狂いが出来ます。始めは林檎ほどな大きさのものがだんだん小さくなって苺ほどになります。それでも根気よくやっていると大豆ほどになります。大豆ほどになってもまだ完全な円は出来ませんよ。私も随分熱心に磨りましたが――この正月からガラス玉を大小六個磨り潰しましたよ」と嘘だか本当だか見当のつかぬところを
喋々と述べる。「
どこでそんなに磨っているんだい」「
やっぱり学校の実験室です、朝磨り始めて、昼飯のときちょっと休んでそれから暗くなるまで磨るんですが、なかなか楽じゃありません」「
それじゃ君が近頃忙がしい忙がしいと言って毎日日曜でも学校へ行くのはその珠を磨りに行くんだね」「
全く目下のところは朝から晩まで珠ばかり磨っています」「
珠作りの博士となって入り込みしは――と言うところだね。しかしその熱心を聞かせたら、いかな鼻でも少しはありがたがるだろう。実は先日僕がある用事があって図書館へ行って帰りに門を出ようとしたら偶然老梅君に出逢ったのさ。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(42 / 128)
あの男が卒業後図書館に足が向くとはよほど不思議な事だと思って感心に勉強するねと言ったら先生妙な顔をして、なに本を読みに来たんじゃない、今門前を通り掛ったらちょっと小用がしたくなったから拝借に立ち寄ったんだと言ったんで大笑をしたが、老梅君と君とは反対の好例として新撰蒙求に是非入れたいよ」と
迷亭君例のごとく長たらしい注釈をつける。
主人は少し真面目になって「
君そう毎日毎日珠ばかり磨ってるのもよかろうが、元来いつ頃出来上るつもりかね」と聞く。「
まあこの様子じゃ十年くらいかかりそうです」と
寒月君は
主人より
呑気に見受けられる。「
十年じゃ――もう少し早く磨り上げたらよかろう」「
十年じゃ早い方です、事によると廿年くらいかかります」「
そいつは大変だ、それじゃ容易に博士にゃなれないじゃないか」「
ええ一日も早くなって安心さしてやりたいのですがとにかく珠を磨り上げなくっちゃ肝心の実験が出来ませんから……」
寒月君はちょっと句を切って「
何、そんなにご心配には及びませんよ。金田でも私の珠ばかり磨ってる事はよく承知しています。実は二三日前行った時にもよく事情を話して来ました」としたり顔に述べ立てる。すると今まで三人の談話を分らぬながら傾聴していた
細君が「
それでも金田さんは家族中残らず、先月から大磯へ行っていらっしゃるじゃありませんか」と不審そうに尋ねる。
寒月君もこれには少し
辟易の
体であったが「
そりゃ妙ですな、どうしたんだろう」ととぼけている。こう言う時に重宝なのは
迷亭君で、話の
途切れた時、
極りの悪い時、眠くなった時、困った時、どんな時でも必ず横合から飛び出してくる。「
先月大磯へ行ったものに両三日前東京で逢うなどは神秘的でいい。いわゆる霊の交換だね。相思の情の切な時にはよくそう言う現象が起るものだ。ちょっと聞くと夢のようだが、夢にしても現実よりたしかな夢だ。奥さんのように別に思いも思われもしない苦沙弥君の所へ片付いて生涯恋の何物たるを御解しにならん方には、御不審ももっともだが……」「
あら何を証拠にそんな事をおっしゃるの。随分軽蔑なさるのね」と
細君は中途から不意に
迷亭に切り付ける。「
君だって恋煩いなんかした事はなさそうじゃないか」と
主人も正面から
細君に助太刀をする。「
そりゃ僕の艶聞などは、いくら有ってもみんな七十五日以上経過しているから、君方の記憶には残っていないかも知れないが――実はこれでも失恋の結果、この歳になるまで独身で暮らしているんだよ」と一順列座の顔を公平に見回わす。「
ホホホホ面白い事」と言ったのは
細君で、「
馬鹿にしていらあ」と庭の方を向いたのは
主人である。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(43 / 128)
ただ
寒月君だけは「
どうかその懐旧談を後学のために伺いたいもので」と相変らずにやにやする。
「
僕のも大分神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しい事に先生は永眠されたから、実のところ話す張合もないんだが、せっかくだから打ち開けるよ。その代りしまいまで謹聴しなくっちゃいけないよ」と念を押していよいよ本文に取り掛る。「
回顧すると今を去る事――ええと――何年前だったかな――面倒だからほぼ十五六年前としておこう」「
冗談じゃない」と
主人は鼻からフンと息をした。「
大変物覚えが御悪いのね」と
細君がひやかした。
寒月君だけは約束を守って
一言も言わずに、早くあとが聴きたいと言う風をする。「
何でもある年の冬の事だが、僕が越後の国は蒲原郡 筍谷を通って、蛸壺峠へかかって、これからいよいよ会津領へ出ようとするところだ」「
妙なところだな」と
主人がまた邪魔をする。「
だまって聴いていらっしゃいよ。面白いから」と
細君が制する。「
ところが日は暮れる、路は分らず、腹は減る、仕方がないから峠の真中にある一軒屋を敲いて、これこれかようかようしかじかの次第だから、どうか留めてくれと言うと、御安い御用です、さあ御上がんなさいと裸蝋燭を僕の顔に差しつけた娘の顔を見て僕はぶるぶると悸えたがね。僕はその時から恋と言う曲者の魔力を切実に自覚したね」「
おやいやだ。そんな山の中にも美しい人があるんでしょうか」「
山だって海だって、奥さん、その娘を一目あなたに見せたいと思うくらいですよ、文金の高島田に髪を結いましてね」「
へえー」と
細君はあっけに取られている。「
入って見ると八畳の真中に大きな囲炉裏が切ってあって、その周りに娘と娘の爺さんと婆さんと僕と四人坐ったんですがね。さぞ御腹が御減りでしょうと言いますから、何でも善いから早く食わせ給えと請求したんです。すると爺さんがせっかくの御客さまだから蛇飯でも炊いて上げようと言うんです。さあこれからがいよいよ失恋に取り掛るところだからしっかりして聴きたまえ」「
先生しっかりして聴く事は聴きますが、なんぼ越後の国だって冬、蛇がいやしますまい」「
うん、そりゃ一応もっともな質問だよ。しかしこんな詩的な話しになるとそう理屈にばかり拘泥してはいられないからね。鏡花【日本の小説家:泉 鏡花】の小説にゃ雪の中から蟹が出てくるじゃないか」と言ったら
寒月君は「
なるほど」と言ったきりまた謹聴の態度に復した。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(44 / 128)
「
その時分の僕は随分悪もの食いの隊長で、蝗、なめくじ、赤蛙などは食い厭きていたくらいなところだから、蛇飯は乙だ。早速御馳走になろうと爺さんに返事をした。そこで爺さん囲炉裏の上へ鍋をかけて、その中へ米を入れてぐずぐず煮出したものだね。不思議な事にはその鍋の蓋を見ると大小十個ばかりの穴があいている。その穴から湯気がぷうぷう吹くから、旨い工夫をしたものだ、田舎にしては感心だと見ていると、爺さんふと立って、どこかへ出て行ったがしばらくすると、大きな笊を小脇に抱い込んで帰って来た。何気なくこれを囲炉裏の傍へ置いたから、その中を覗いて見ると――いたね。長い奴が、寒いもんだから御互にとぐろの捲きくらをやって塊まっていましたね」「
もうそんな御話しは廃しになさいよ。厭らしい」と
細君は眉に八の字を寄せる。「
どうしてこれが失恋の大源因になるんだからなかなか廃せませんや。爺さんはやがて左手に鍋の蓋をとって、右手に例の塊まった長い奴を無雑作につかまえて、いきなり鍋の中へ放り込んで、すぐ上から蓋をしたが、さすがの僕もその時ばかりははっと息の穴が塞ったかと思ったよ」「
もう御やめになさいよ。気味の悪るい」と
細君しきりに
怖がっている。「
もう少しで失恋になるからしばらく辛抱していらっしゃい。すると一分立つか立たないうちに蓋の穴から鎌首がひょいと一つ出ましたのには驚ろきましたよ。やあ出たなと思うと、隣の穴からもまたひょいと顔を出した。また出たよと言ううち、あちらからも出る。こちらからも出る。とうとう鍋中蛇の面だらけになってしまった」「
なんで、そんなに首を出すんだい」「
鍋の中が熱いから、苦しまぎれに這い出そうとするのさ。やがて爺さんは、もうよかろう、引っ張らっしとか何とか言うと、婆さんははあーと答える、娘はあいと挨拶をして、名々に蛇の頭を持ってぐいと引く。肉は鍋の中に残るが、骨だけは奇麗に離れて、頭を引くと共に長いのが面白いように抜け出してくる」「
蛇の骨抜きですね」と
寒月君が笑いながら聞くと「
全くの事骨抜だ、器用な事をやるじゃないか。それから蓋を取って、杓子でもって飯と肉を矢鱈に掻き交ぜて、さあ召し上がれと来た」「
食ったのかい」と
主人が冷淡に尋ねると、
細君は
苦い顔をして「
もう廃しになさいよ、胸が悪るくって御飯も何もたべられやしない」と愚痴をこぼす。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(45 / 128)
「
奥さんは蛇飯を召し上がらんから、そんな事をおっしゃるが、まあ一遍たべてご覧なさい、あの味ばかりは生涯忘れられませんぜ」「
おお、いやだ、誰が食べるもんですか」「
そこで充分御饌も頂戴し、寒さも忘れるし、娘の顔も遠慮なく見るし、もう思いおく事はないと考えていると、御休みなさいましと言うので、旅の労れもある事だから、仰に従って、ごろりと横になると、すまん訳だが前後を忘却して寝てしまった」「
それからどうなさいました」と今度は
細君の方から催促する。「
それから明朝になって眼を覚してからが失恋でさあ」「
どうかなさったんですか」「
いえ別にどうもしやしませんがね。朝起きて巻煙草をふかしながら裏の窓から見ていると、向うの筧の傍で、薬缶頭が顔を洗っているんでさあ」「
爺さんか婆さんか」と
主人が聞く。「
それがさ、僕にも識別しにくかったから、しばらく拝見していて、その薬缶がこちらを向く段になって驚ろいたね。それが僕の初恋をした昨夜の娘なんだもの」「
だって娘は島田に結っているとさっき言ったじゃないか」「
前夜は島田さ、しかも見事な島田さ。ところが翌朝は丸薬缶さ」「
人を馬鹿にしていらあ」と
主人は例によって天井の方へ視線をそらす。「
僕も不思議の極内心少々怖くなったから、なお余所ながら様子を窺っていると、薬缶はようやく顔を洗い了って、傍えの石の上に置いてあった高島田の鬘を無雑作に被って、すましてうちへ這入ったんでなるほどと思った。なるほどとは思ったようなもののその時から、とうとう失恋の果敢なき運命をかこつ身となってしまった」「
くだらない失恋もあったもんだ。ねえ、寒月君、それだから、失恋でも、こんなに陽気で元気がいいんだよ」と
主人が
寒月君に向って
迷亭君の失恋を評すると、
寒月君は「
しかしその娘が丸薬缶でなくってめでたく東京へでも連れて御帰りになったら、先生はなお元気かも知れませんよ、とにかくせっかくの娘が禿であったのは千秋の恨事ですねえ。それにしても、そんな若い女がどうして、毛が抜けてしまったんでしょう」「
僕もそれについてはだんだん考えたんだが全く蛇飯を食い過ぎたせいに相違ないと思う。蛇飯てえ奴はのぼせるからね」「
しかしあなたは、どこも何ともなくて結構でございましたね」「
僕は禿にはならずにすんだが、その代りにこの通りその時から近眼になりました」と金縁の眼鏡をとってハンケチで
丁寧に
拭いている。しばらくして
主人は思い出したように「
全体どこが神秘的なんだい」と念のために聞いて見る。「
あの鬘はどこで買ったのか、拾ったのかどう考えても未だに分らないからそこが神秘さ」と
迷亭君はまた眼鏡を元のごとく鼻の上へかける。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(46 / 128)
「
まるで噺し家の話を聞くようでござんすね」とは
細君の批評であった。
迷亭の駄弁もこれで一段落を告げたから、もうやめるかと思いのほか、先生は
猿轡でも
嵌められないうちはとうてい黙っている事が出来ぬ
性と見えて、また次のような事をしゃべり出した。
「
僕の失恋も苦い経験だが、あの時あの薬缶を知らずに貰ったが最後生涯の目障りになるんだから、よく考えないと険呑だよ。結婚なんかは、いざと言う間際になって、飛んだところに傷口が隠れているのを見出す事がある者だから。寒月君などもそんなに憧憬したり惝怳したり独りでむずかしがらないで、篤と気を落ちつけて珠を磨るがいいよ」といやに異見めいた事を述べると、
寒月君は「
ええなるべく珠ばかり磨っていたいんですが、向うでそうさせないんだから弱り切ります」とわざと
辟易したような顔付をする。「
そうさ、君などは先方が騒ぎ立てるんだが、中には滑稽なのがあるよ。あの図書館へ小便をしに来た老梅君などになるとすこぶる奇だからね」「
どんな事をしたんだい」と
主人が調子づいて
承わる。「
なあに、こう言う訳さ。先生その昔静岡の東西館へ泊った事があるのさ。――たった一と晩だぜ――それでその晩すぐにそこの下女に結婚を申し込んだのさ。僕も随分呑気だが、まだあれほどには進化しない。もっともその時分には、あの宿屋に御夏さんと言う有名な別嬪がいて老梅君の座敷へ出たのがちょうどその御夏さんなのだから無理はないがね」「
無理がないどころか君の何とか峠とまるで同じじゃないか」「
少し似ているね、実を言うと僕と老梅とはそんなに差異はないからな。とにかく、その御夏さんに結婚を申し込んで、まだ返事を聞かないうちに水瓜が食いたくなったんだがね」「
何だって?」と
主人が不思議な顔をする。
主人ばかりではない、
細君も
寒月も申し合せたように首をひねってちょっと考えて見る。
迷亭は構わずどんどん話を進行させる。「
御夏さんを呼んで静岡に水瓜はあるまいかと聞くと、御夏さんが、なんぼ静岡だって水瓜くらいはありますよと、御盆に水瓜を山盛りにして持ってくる。そこで老梅君食ったそうだ。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(47 / 128)
山盛りの水瓜をことごとく平らげて、御夏さんの返事を待っていると、返事の来ないうちに腹が痛み出してね、うーんうーんと唸ったが少しも利目がないからまた御夏さんを呼んで今度は静岡に医者はあるまいかと聞いたら、御夏さんがまた、なんぼ静岡だって医者くらいはありますよと言って、天地玄黄とかいう千字文を盗んだような名前のドクトルを連れて来た。翌朝になって、腹の痛みも御蔭でとれてありがたいと、出立する十五分前に御夏さんを呼んで、昨日申し込んだ結婚事件の諾否を尋ねると、御夏さんは笑いながら静岡には水瓜もあります、御医者もありますが一夜作りの御嫁はありませんよと出て行ったきり顔を見せなかったそうだ。それから老梅君も僕同様失恋になって、図書館へは小便をするほか来なくなったんだって、考えると女は罪な者だよ」と言うと
主人がいつになく引き受けて「
本当にそうだ。せんだってミュッセの脚本を読んだらそのうちの人物が羅馬の詩人を引用してこんな事を言っていた。――羽より軽い者は塵である。塵より軽いものは風である。風より軽い者は女である。女より軽いものは無である。――よく穿ってるだろう。女なんか仕方がない」と妙なところで
力味んで見せる。これを
承った
細君は承知しない。「
女の軽いのがいけないとおっしゃるけれども、男の重いんだって好い事はないでしょう」「
重いた、どんな事だ」「
重いと言うな重い事ですわ、あなたのようなのです」「
俺がなんで重い」「
重いじゃありませんか」と妙な議論が始まる。
迷亭は面白そうに聞いていたが、やがて口を開いて「
そう赤くなって互に弁難攻撃をするところが夫婦の真相と言うものかな。どうも昔の夫婦なんてものはまるで無意味なものだったに違いない」とひやかすのだか
賞めるのだか
曖昧な事を言ったが、それでやめておいても好い事をまた例の調子で
布衍して、
下のごとく述べられた。
「
昔は亭主に口返答なんかした女は、一人もなかったんだって言うが、それなら唖を女房にしていると同じ事で僕などは一向ありがたくない。やっぱり奥さんのようにあなたは重いじゃありませんかとか何とか言われて見たいね。同じ女房を持つくらいなら、たまには喧嘩の一つ二つしなくっちゃ退屈でしようがないからな。僕の母などと来たら、おやじの前へ出てはいとへいで持ち切っていたものだ。そうして二十年もいっしょになっているうちに寺参りよりほかに外へ出た事がないと言うんだから情けないじゃないか。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(48 / 128)
もっとも御蔭で先祖代々の戒名はことごとく暗記している。男女間の交際だってそうさ、僕の小供の時分などは寒月君のように意中の人と合奏をしたり、霊の交換をやって朦朧体で出合って見たりする事はとうてい出来なかった」「
御気の毒様で」と
寒月君が頭を下げる。「
実に御気の毒さ。しかもその時分の女が必ずしも今の女より品行がいいと限らんからね。奥さん近頃は女学生が堕落したの何だのとやかましく言いますがね。なに昔はこれより烈しかったんですよ」「
そうでしょうか」と
細君は真面目である。「
そうですとも、出鱈目じゃない、ちゃんと証拠があるから仕方がありませんや。苦沙弥君、君も覚えているかも知れんが僕等の五六歳の時までは女の子を唐茄子のように籠へ入れて天秤棒で担いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」「
僕はそんな事は覚えておらん」「
君の国じゃどうだか知らないが、静岡じゃたしかにそうだった」「
まさか」と
細君が小さい声を出すと、「
本当ですか」と
寒月君が本当らしからぬ様子で聞く。
「
本当さ。現に僕のおやじが価を付けた事がある。その時僕は何でも六つくらいだったろう。おやじといっしょに油町から通町へ散歩に出ると、向うから大きな声をして女の子はよしかな、女の子はよしかなと怒鳴ってくる。僕等がちょうど二丁目の角へ来ると、伊勢源と言う呉服屋の前でその男に出っ食わした。伊勢源と言うのは間口が十間で蔵が五つ戸前あって静岡第一の呉服屋だ。今度行ったら見て来給え。今でも歴然と残っている。立派なうちだ。その番頭が甚兵衛と言ってね。いつでも御袋が三日前に亡くなりましたと言うような顔をして帳場の所へ控えている。甚兵衛君の隣りには初さんという二十四五の若い衆が坐っているが、この初さんがまた雲照律師【真言宗の僧】に帰依して三七二十一日の間蕎麦湯だけで通したと言うような青い顔をしている。初さんの隣りが長どんでこれは昨日火事で焚き出されたかのごとく愁然と算盤に身を凭している。長どんと併んで……」
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(49 / 128)
「
君は呉服屋の話をするのか、人売りの話をするのか」「
そうそう人売りの話しをやっていたんだっけ。実はこの伊勢源についてもすこぶる奇譚があるんだが、それは割愛して今日は人売りだけにしておこう」「
人売りもついでにやめるがいい」「
どうしてこれが二十世紀の今日と明治初年頃の女子の品性の比較について大なる参考になる材料だから、そんなに容易くやめられるものか――それで僕がおやじと伊勢源の前までくると、例の人売りがおやじを見て旦那女の子の仕舞物はどうです、安く負けておくから買っておくんなさいと言いながら天秤棒をおろして汗を拭いているのさ。見ると籠の中には前に一人後ろに一人両方とも二歳ばかりの女の子が入れてある。おやじはこの男に向って安ければ買ってもいいが、もうこれぎりかいと聞くと、へえ生憎今日はみんな売り尽してたった二つになっちまいました。どっちでも好いから取っとくんなさいなと女の子を両手で持って唐茄子か何ぞのようにおやじの鼻の先へ出すと、おやじはぽんぽんと頭を叩いて見て、ははあかなりな音だと言った。それからいよいよ談判が始まって散々価切った末おやじが、買っても好いが品はたしかだろうなと聞くと、ええ前の奴は始終見ているから間違はありませんがね後ろに担いでる方は、何しろ眼がないんですから、ことによるとひびが入ってるかも知れません。こいつの方なら受け合えない代りに価段を引いておきますと言った。僕はこの問答を未だに記憶しているんだがその時小供心に女と言うものはなるほど油断のならないものだと思ったよ。――しかし明治三十八年の今日こんな馬鹿な真似をして女の子を売ってあるくものもなし、眼を放して後ろへ担いだ方は険呑だなどと言う事も聞かないようだ。だから、僕の考ではやはり泰西文明の御蔭で女の品行もよほど進歩したものだろうと断定するのだが、どうだろう寒月君」
寒月君は返事をする前にまず
鷹揚な
咳払を一つして見せたが、それからわざと落ちついた低い声で、こんな観察を述べられた。「
この頃の女は学校の行き帰りや、合奏会や、慈善会や、園遊会で、ちょいと買って頂戴な、あらおいや? などと自分で自分を売りにあるいていますから、そんな八百屋のお余りを雇って、女の子はよしか、なんて下品な依託販売をやる必要はないですよ。人間に独立心が発達してくると自然こんな風になるものです。老人なんぞはいらぬ取越苦労をして何とかかとか言いますが、実際を言うとこれが文明の趨勢ですから、私などは大に喜ばしい現象だと、ひそかに慶賀の意を表しているのです。買う方だって頭を敲いて品物は確かかなんて聞くような野暮は一人もいないんですからその辺は安心なものでさあ。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(50 / 128)
またこの複雑な世の中に、そんな手数をする日にゃあ、際限がありませんからね。五十になったって六十になったって亭主を持つ事も嫁に行く事も出来やしません」寒月君は二十世紀の青年だけあって、
大に当世流の考を
開陳しておいて、
敷島の煙をふうーと
迷亭先生の顔の方へ吹き付けた。
迷亭は敷島の煙くらいで
辟易する男ではない。「
仰せの通り方今の女生徒、令嬢などは自尊自信の念から骨も肉も皮まで出来ていて、何でも男子に負けないところが敬服の至りだ。僕の近所の女学校の生徒などと来たらえらいものだぜ。筒袖を穿いて鉄棒へぶら下がるから感心だ。僕は二階の窓から彼等の体操を目撃するたんびに古代希臘の婦人を追懐するよ」「
また希臘か」と
主人が冷笑するように言い放つと「
どうも美な感じのするものは大抵希臘から源を発しているから仕方がない。美学者と希臘とはとうてい離れられないやね。――ことにあの色の黒い女学生が一心不乱に体操をしているところを拝見すると、僕はいつでも Agnodice の逸話を思い出すのさ」と物知り顔にしゃべり立てる。「
またむずかしい名前が出て来ましたね」と
寒月君は依然としてにやにやする。「
Agnodice はえらい女だよ、僕は実に感心したね。当時亜典の法律で女が産婆を営業する事を禁じてあった。不便な事さ。Agnodice だってその不便を感ずるだろうじゃないか」「
何だい、その――何とか言うのは」「
女さ、女の名前だよ。この女がつらつら考えるには、どうも女が産婆になれないのは情けない、不便極まる。どうかして産婆になりたいもんだ、産婆になる工夫はあるまいかと三日三晩手を拱いて考え込んだね。ちょうど三日目の暁方に、隣の家で赤ん坊がおぎゃあと泣いた声を聞いて、うんそうだと豁然大悟して、それから早速長い髪を切って男の着物をきて Hierophilus の講義をききに行った。首尾よく講義をきき終せて、もう大丈夫と言うところでもって、いよいよ産婆を開業した。ところが、奥さん流行りましたね。あちらでもおぎゃあと生れるこちらでもおぎゃあと生れる。それがみんな Agnodice の世話なんだから大変儲かった。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(51 / 128)
ところが人間万事塞翁の馬、七転び八起き、弱り目に祟り目で、ついこの秘密が露見に及んでついに御上の御法度を破ったと言うところで、重き御仕置に仰せつけられそうになりました」「
まるで講釈見たようです事」「
なかなか旨いでしょう。ところが亜典の女連が一同連署して嘆願に及んだから、時の御奉行もそう木で鼻を括ったような挨拶も出来ず、ついに当人は無罪放免、これからはたとい女たりとも産婆営業勝手たるべき事と言う御布令さえ出てめでたく落着を告げました」「
よくいろいろな事を知っていらっしゃるのね、感心ねえ」「
ええ大概の事は知っていますよ。知らないのは自分の馬鹿な事くらいなものです。しかしそれも薄々は知ってます」「
ホホホホ面白い事ばかり……」と
細君相形を崩して笑っていると、
格子戸のベルが相変らず着けた時と同じような音を出して鳴る。「
おやまた御客様だ」と
細君は茶の間へ引き下がる。
細君と入れ違いに座敷へ入って来たものは誰かと思ったらご存じの
越智東風君であった。
ここへ
東風君さえくれば、
主人の
家へ
出入する変人はことごとく網羅し
尽したとまで行かずとも、少なくとも
吾輩の
無聊を慰むるに足るほどの
頭数は
御揃になったと言わねばならぬ。これで不足を言っては
勿体ない。運悪るくほかの家へ飼われたが最後、生涯人間中にかかる先生方が一人でもあろうとさえ気が付かずに死んでしまうかも知れない。
幸にして
苦沙弥先生門下の
猫児となって
朝夕虎皮の前に
侍べるので先生は無論の事
迷亭、
寒月乃至東風などと言う広い東京にさえあまり例のない一騎当千の豪傑連の挙止動作を寝ながら拝見するのは
吾輩にとって千載一遇の光栄である。御蔭様でこの暑いのに毛袋でつつまれていると言う難儀も忘れて、面白く半日を消光【日を過ごす】する事が出来るのは感謝の至りである。どうせこれだけ集まれば
只事ではすまない。何か持ち上がるだろうと
襖の陰から
謹んで拝見する。
「
どうもご無沙汰を致しました。しばらく」と御辞儀をする
東風君の顔を見ると、先日のごとくやはり奇麗に光っている。頭だけで評すると何か
緞帳役者のようにも見えるが、白い
小倉の
袴のゴワゴワするのを御苦労にも
鹿爪らしく
穿いているところは
榊原健吉【幕臣・剣術家】の内弟子としか思えない。従って
東風君の身体で普通の人間らしいところは肩から腰までの間だけである。「
いや暑いのに、よく御出掛だね。さあずっと、こっちへ通りたまえ」と
迷亭先生は自分の
家らしい挨拶をする。「
先生には大分久しく御目にかかりません」「
そうさ、たしかこの春の朗読会ぎりだったね。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(52 / 128)
朗読会と言えば近頃はやはり御盛かね。その後御宮にゃなりませんか。あれは旨かったよ。僕は大に拍手したぜ、君気が付いてたかい」「
ええ御蔭で大きに勇気が出まして、とうとうしまいまで漕ぎつけました」「
今度はいつ御催しがありますか」と
主人が口を出す。「
七八両月は休んで九月には何か賑やかにやりたいと思っております。何か面白い趣向はございますまいか」「
さよう」と
主人が気のない返事をする。「
東風君僕の創作を一つやらないか」と今度は
寒月君が相手になる。「
君の創作なら面白いものだろうが、一体何かね」「
脚本さ」と
寒月君がなるべく押しを強く出ると、案のごとく、三人はちょっと毒気をぬかれて、申し合せたように本人の顔を見る。「
脚本はえらい。喜劇かい悲劇かい」と
東風君が歩を進めると、
寒月先生なお澄し返って「
なに喜劇でも悲劇でもないさ。近頃は旧劇とか新劇とか大部やかましいから、僕も一つ新機軸を出して俳劇と言うのを作って見たのさ」「
俳劇たどんなものだい」「
俳句趣味の劇と言うのを詰めて俳劇の二字にしたのさ」と言うと
主人も
迷亭も多少
煙に
捲かれて
控えている。「
それでその趣向と言うのは?」と聞き出したのはやはり
東風君である。「
根が俳句趣味からくるのだから、あまり長たらしくって、毒悪なのはよくないと思って一幕物にしておいた」「
なるほど」「
まず道具立てから話すが、これも極簡単なのがいい。舞台の真中へ大きな柳を一本植え付けてね。それからその柳の幹から一本の枝を右の方へヌッと出させて、その枝へ烏を一羽とまらせる」「
烏がじっとしていればいいが」と
主人が
独り
言のように心配した。「
何わけは有りません、烏の足を糸で枝へ縛り付けておくんです。でその下へ行水盥を出しましてね。美人が横向きになって手拭を使っているんです」「
そいつは少しデカダンだね。第一誰がその女になるんだい」と
迷亭が聞く。「
何これもすぐ出来ます。美術学校のモデルを雇ってくるんです」「
そりゃ警視庁がやかましく言いそうだな」と
主人はまた心配している。「
だって興行さえしなければ構わんじゃありませんか。そんな事をとやかく言った日にゃ学校で裸体画の写生なんざ出来っこありません」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(53 / 128)
「
しかしあれは稽古のためだから、ただ見ているのとは少し違うよ」「
先生方がそんな事を言った日には日本もまだ駄目です。絵画だって、演劇だって、おんなじ芸術です」と
寒月君大いに
気炎を吹く。「
まあ議論はいいが、それからどうするのだい」と
東風君、ことによると、やる
了見と見えて筋を聞きたがる。「
ところへ花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い灯心入りの帽子を被って、透綾の羽織に、薩摩飛白の尻端折りの半靴と言うこしらえで出てくる。着付けは陸軍の御用達見たようだけれども俳人だからなるべく悠々として腹の中では句案に余念のない体であるかなくっちゃいけない。それで虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生大に俳味に感動したと言う思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。――どうだろう、こう言う趣向は。御気に入りませんかね。君御宮になるより虚子になる方がよほどいいぜ」
東風君は何だか物足らぬと言う顔付で「
あんまり、あっけないようだ。もう少し人情を加味した事件が欲しいようだ」と真面目に答える。今まで比較的おとなしくしていた
迷亭はそういつまでもだまっているような男ではない。「
たったそれだけで俳劇はすさまじいね。上田敏君の説によると俳味とか滑稽とか言うものは消極的で亡国の音だそうだが、敏君だけあってうまい事を言ったよ。そんなつまらない物をやって見給え。それこそ上田君から笑われるばかりだ。第一劇だか茶番だか何だかあまり消極的で分らないじゃないか。失礼だが寒月君はやはり実験室で珠を磨いてる方がいい。俳劇なんぞ百作ったって二百作ったって、亡国の音じゃ駄目だ」
寒月君は少々
憤として、「
そんなに消極的でしょうか。私はなかなか積極的なつもりなんですが」どっちでも構わん事を弁解しかける。「
虚子がですね。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(54 / 128)
虚子先生が女に惚れる烏かなと烏を捕えて女に惚れさしたところが大に積極的だろうと思います」「
こりゃ新説だね。是非御講釈を伺がいましょう」「
理学士として考えて見ると烏が女に惚れるなどと言うのは不合理でしょう」「
ごもっとも」「
その不合理な事を無雑作に言い放って少しも無理に聞えません」「
そうかしら」と
主人が疑った調子で割り込んだが
寒月は一向頓着しない。「
なぜ無理に聞えないかと言うと、これは心理的に説明するとよく分ります。実を言うと惚れるとか惚れないとか言うのは俳人その人に存する感情で烏とは没交渉の沙汰であります。しかるところあの烏は惚れてるなと感じるのは、つまり烏がどうのこうのと言う訳じゃない、必竟自分が惚れているんでさあ。虚子自身が美しい女の行水しているところを見てはっと思う途端にずっと惚れ込んだに相違ないです。さあ自分が惚れた眼で烏が枝の上で動きもしないで下を見つめているのを見たものだから、ははあ、あいつも俺と同じく参ってるなと癇違いをしたのです。癇違いには相違ないですがそこが文学的でかつ積極的なところなんです。自分だけ感じた事を、断りもなく烏の上に拡張して知らん顔をしてすましているところなんぞは、よほど積極主義じゃありませんか。どうです先生」「
なるほど御名論だね、虚子に聞かしたら驚くに違いない。説明だけは積極だが、実際あの劇をやられた日には、見物人はたしかに消極になるよ。ねえ東風君」「
へえどうも消極過ぎるように思います」と真面目な顔をして答えた。
主人は少々談話の局面を展開して見たくなったと見えて、「
どうです、東風さん、近頃は傑作もありませんか」と聞くと
東風君は「
いえ、別段これと言って御目にかけるほどのものも出来ませんが、近日詩集を出して見ようと思いまして――稿本を幸い持って参りましたから御批評を願いましょう」と懐から紫の
袱紗包を出して、その中から五六十枚ほどの原稿紙の帳面を取り出して、
主人の前に置く。
主人はもっともらしい顔をして拝見と言って見ると第一頁に
世の人に似ずあえかに見え給う
富子嬢に捧ぐ
と二行にかいてある。
主人はちょっと神秘的な顔をしてしばらく一頁を無言のまま
眺めているので、
迷亭は横合から「
何だい新体詩かね」と言いながら
覗き込んで「
やあ、捧げたね。東風君、思い切って富子嬢に捧げたのはえらい」としきりに
賞める。
主人はなお不思議そうに「
東風さん、この富子と言うのは本当に存在している婦人なのですか」と聞く。「
へえ、この前迷亭先生とごいっしょに朗読会へ招待した婦人の一人です。ついこの御近所に住んでおります。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(55 / 128)
実はただ今詩集を見せようと思ってちょっと寄って参りましたが、生憎先月から大磯へ避暑に行って留守でした」と真面目くさって述べる。「
苦沙弥君、これが二十世紀なんだよ。そんな顔をしないで、早く傑作でも朗読するさ。しかし東風君この捧げ方は少しまずかったね。このあえかにと言う雅言は全体何と言う意味だと思ってるかね」「
蚊弱いとかたよわくと言う字だと思います」「
なるほどそうも取れん事はないが本来の字義を言うと危う気にと言う事だぜ。だから僕ならこうは書かないね」「
どう書いたらもっと詩的になりましょう」「
僕ならこうさ。世の人に似ずあえかに見え給う富子嬢の鼻の下に捧ぐとするね。わずかに三字のゆきさつだが鼻の下があるのとないのとでは大変感じに相違があるよ」「
なるほど」と
東風君は
解しかねたところを無理に
納得した
体にもてなす。
主人は無言のままようやく一頁をはぐっていよいよ巻頭第一章を読み出す。
倦んじて薫ずる香裏に君の
霊か相思の煙のたなびき
おお我、ああ我、辛きこの世に
あまく得てしか熱き口づけ
「
これは少々僕には解しかねる」と
主人は嘆息しながら
迷亭に渡す。「
これは少々振い過ぎてる」と
迷亭は
寒月に渡す。
寒月は「
なああるほど」と言って
東風君に返す。
「
先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。注釈や訓義は学究のやる事で私共の方では頓と構いません。せんだっても私の友人で送籍と言う男が一夜という短編をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので、当人に逢って篤と主意のあるところを糺して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと言って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「
詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と
主人が言うと、
迷亭が「
馬鹿だよ」と
単簡に送籍君を打ち留めた。
東風君はこれだけではまだ弁じ足りない。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(56 / 128)
「
送籍は吾々仲間のうちでも取除けですが、私の詩もどうか心持ちその気で読んでいただきたいので。ことに御注意を願いたいのはからきこの世と、あまき口づけと対をとったところが私の苦心です」「
よほど苦心をなすった痕迹が見えます」「
あまいとからいと反照するところなんか十七味調 唐辛子調で面白い。全く東風君独特の技量で敬々服々の至りだ」としきりに正直な人をまぜ返して喜んでいる。
主人は何と思ったか、ふいと立って書斎の方へ行ったがやがて一枚の半紙を持って出てくる。「
東風君の御作も拝見したから、今度は僕が短文を読んで諸君の御批評を願おう」といささか本気の沙汰である。「
天然居士の墓碑銘ならもう二三遍拝聴したよ」「
まあ、だまっていなさい。東風さん、これは決して得意のものではありませんが、ほんの座興ですから聴いて下さい」「
是非伺がいましょう」「
寒月君もついでに聞き給え」「
ついででなくても聴きますよ。長い物じゃないでしょう」「
僅々六十余字さ」と
苦沙弥先生いよいよ手製の名文を読み始める。
「
大和魂! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」
「
起し得て突兀【高く突き出ている】ですね」と
寒月君がほめる。
「
大和魂! と新聞屋が言う。大和魂! と掏摸が言う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」
「
なるほどこりゃ天然居士以上の作だ」と今度は
迷亭先生がそり返って見せる。
「
東郷大将が大和魂を有っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有っている」
「
先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「
大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと言う声が聞こえた」「
その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「
三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「
先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と
東風君が注意する。「
賛成」と言ったのは無論
迷亭である。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(57 / 128)
「
誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」
主人は
一結杳然と言うつもりで読み終ったが、さすがの名文もあまり短か過ぎるのと、主意がどこにあるのか分りかねるので、三人はまだあとがある事と思って待っている。いくら待っていても、うんとも、すんとも、言わないので、最後に
寒月が「
それぎりですか」と聞くと
主人は
軽く「
うん」と答えた。うんは少し気楽過ぎる。
不思議な事に
迷亭はこの名文に対して、いつものようにあまり駄弁を振わなかったが、やがて向き直って、「
君も短編を集めて一巻として、そうして誰かに捧げてはどうだ」と聞いた。
主人は事もなげに「
君に捧げてやろうか」と聴くと
迷亭は「
真平だ」と答えたぎり、
先刻細君に見せびらかした
鋏をちょきちょき言わして爪をとっている。
寒月君は
東風君に向って「
君はあの金田の令嬢を知ってるのかい」と尋ねる。「
この春朗読会へ招待してから、懇意になってそれからは始終交際をしている。僕はあの令嬢の前へ出ると、何となく一種の感に打たれて、当分のうちは詩を作っても歌を詠んでも愉快に興が乗って出て来る。この集中にも恋の詩が多いのは全くああ言う異性の朋友からインスピレーションを受けるからだろうと思う。それで僕はあの令嬢に対しては切実に感謝の意を表しなければならんからこの機を利用して、わが集を捧げる事にしたのさ。昔しから婦人に親友のないもので立派な詩をかいたものはないそうだ」「
そうかなあ」と
寒月君は顔の奥で笑いながら答えた。いくら駄弁家の寄合でもそう長くは続かんものと見えて、談話の火の手は
大分下火になった。
吾輩も彼等の変化なき雑談を終日聞かねばならぬ義務もないから、失敬して庭へ
蟷螂を探しに出た。
梧桐の緑を
綴る間から西に傾く日が
斑らに
洩れて、幹にはつくつく
法師が懸命にないている。晩はことによると一雨かかるかも知れない。
七
吾輩は近頃運動を始めた。猫の癖に運動なんて
利いた風だと一概に
冷罵し去る
手合にちょっと申し聞けるが、そう言う人間だってつい近年までは運動の何者たるを解せずに、食って寝るのを天職のように心得ていたではないか。
無事是貴人とか
称えて、
懐手をして
座布団から腐れかかった尻を離さざるをもって旦那の名誉と
脂下って暮したのは覚えているはずだ。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(58 / 128)
運動をしろの、牛乳を飲めの冷水を浴びろの、海の中へ飛び込めの、夏になったら山の中へ
籠って当分霞を
食えのとくだらぬ注文を連発するようになったのは、西洋から神国へ伝染しした
輓近の病気で、やはりペスト、肺病、神経衰弱の一族と心得ていいくらいだ。もっとも
吾輩は去年生れたばかりで、当年とって一歳だから人間がこんな病気に
罹り出した当時の有様は記憶に存しておらん、のみならずその
砌りは浮世の
風中にふわついておらなかったに相違ないが、猫の一年は人間の十年に
懸け合うと言ってもよろしい。吾等の寿命は人間より二倍も三倍も短いに
係らず、その短日月の間に猫一疋の発達は十分
仕るところをもって推論すると、人間の年月と猫の
星霜を同じ割合に打算するのははなはだしき
誤謬【まちがい】である。第一、一歳何ヵ月に足らぬ
吾輩がこのくらいの見識を有しているのでも分るだろう。
主人の第三女などは数え年で三つだそうだが、知識の発達から言うと、いやはや鈍いものだ。泣く事と、寝小便をする事と、おっぱいを飲む事よりほかに何にも知らない。世を憂い時を
憤る
吾輩などに
較べると、からたわいのない者だ。それだから
吾輩が運動、海水浴、転地療養の歴史を方寸のうちに畳み込んでいたって
毫も驚くに足りない。これしきの事をもし驚ろく者があったなら、それは人間と言う足の二本足りない
野呂間に
極っている。人間は昔から野呂間である。であるから近頃に至って
漸々運動の功能を
吹聴したり、海水浴の利益を
喋々して大発明のように考えるのである。
吾輩などは生れない前からそのくらいな事はちゃんと心得ている。第一海水がなぜ薬になるかと言えばちょっと海岸へ行けばすぐ分る事じゃないか。あんな広い所に魚が何
疋おるか分らないが、あの魚が一疋も病気をして医者にかかった
試しがない。みんな健全に泳いでいる。病気をすれば、からだが
利かなくなる。死ねば必ず浮く。それだから魚の往生を
あがると言って、鳥の
薨去を、
落ちると
唱え、人間の
寂滅を
ごねると号している。洋行をして印度洋を横断した人に君、魚の死ぬところを見た事がありますかと聞いて見るがいい、誰でもいいえと答えるに極っている。それはそう答える訳だ。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(59 / 128)
いくら往復したって一匹も波の上に今
呼吸を引き取った――
呼吸ではいかん、魚の事だから
潮を引き取ったと言わなければならん――潮を引き取って浮いているのを見た者はないからだ。あの
渺々たる、あの
漫々たる、
大海を日となく夜となく続けざまに石炭を
焚いて
探がしてあるいても古往
今来一匹も魚が
上がっておらんところをもって推論すれば、魚はよほど丈夫なものに違ないと言う断案はすぐに下す事が出来る。それならなぜ魚がそんなに丈夫なのかと言えばこれまた人間を待ってしかる
後に知らざるなりで、
訳はない。すぐ分る。全く
潮水を呑んで始終海水浴をやっているからだ。海水浴の功能はしかく魚に取って
顕著である。魚に取って顕著である以上は人間に取っても顕著でなくてはならん。一七五〇年にドクトル・リチャード・ラッセルがブライトンの海水に飛込めば四百四病
即席全快と
大袈裟な広告を出したのは遅い遅いと笑ってもよろしい。猫といえども相当の時機が到着すれば、みんな鎌倉あたりへ出掛けるつもりでいる。
但し今はいけない。物には時機がある。
御維新前の日本人が海水浴の功能を味わう事が出来ずに死んだごとく、
今日の猫はいまだ裸体で海の中へ飛び込むべき機会に
遭遇しておらん。せいては事を
仕損んずる、今日のように
築地へ打っちゃられに行った猫が無事に帰宅せん間は
無暗に飛び込む訳には行かん。進化の法則で吾等猫輩の機能が
狂瀾怒濤に対して適当の抵抗力を生ずるに至るまでは――換言すれば猫が
死んだと言う代りに猫が
上がったと言う語が一般に使用せらるるまでは――容易に海水浴は出来ん。
海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取り
極めた。どうも二十世紀の
今日運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きがわるい。運動をせんと、運動せんのではない。運動が出来んのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。昔は運動したものが
折助【さむらいの家で使われる下男】と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と
見做されている。吾人の評価は時と場合に応じ
吾輩の眼玉のごとく変化する。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(60 / 128)
吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の
品隲とくると
真逆かさまにひっくり返る。ひっくり返っても
差し
支えはない。物には両面がある、
両端がある。両端を
叩いて
黒白の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。
方寸を
逆かさまにして見ると
寸方となるところに
愛嬌がある。
天の
橋立を
股倉から
覗いて見るとまた格別な
趣が出る。セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。
偶には股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに言う者がないと、文界も進歩しないだろう。だから運動をわるく言った連中が急に運動がしたくなって、女までがラケットを持って往来をあるき廻ったって
一向不思議はない。ただ猫が運動するのを
利いた風だなどと笑いさえしなければよい。さて
吾輩の運動はいかなる種類の運動かと不審を
抱く者があるかも知れんから一応説明しようと思う。御承知のごとく不幸にして機械を持つ事が出来ん。だからボールもバットも取り扱い方に困窮する。次には金がないから買う
訳に行かない。この二つの源因からして
吾輩の選んだ運動は
一文いらず器械なしと名づくべき種類に属する者と思う。そんなら、のそのそ歩くか、あるいは
鮪の切身を
啣えて
馳け出す事と考えるかも知れんが、ただ四本の足を力学的に運動させて、地球の引力に
順って、大地を横行するのは、あまり
単簡で興味がない。いくら運動と名がついても、
主人の時々実行するような、読んで字のごとき運動はどうも運動の神聖を
汚がす者だろうと思う。
勿論ただの運動でもある刺激の
下にはやらんとは限らん。
鰹節競争、
鮭探しなどは結構だがこれは
肝心の対象物があっての上の事で、この刺激を取り去ると
索然として没趣味なものになってしまう。懸賞的興奮剤がないとすれば何か芸のある運動がして見たい。
吾輩はいろいろ考えた。台所の
廂から
家根に飛び上がる方、家根の
天辺にある
梅花形の
瓦の上に四本足で立つ術、
物干竿を渡る事――これはとうてい成功しない、竹がつるつる
滑べって爪が立たない。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(61 / 128)
後ろから不意に
小供に飛びつく事、――これはすこぶる興味のある運動の
一だが
滅多にやるとひどい目に逢うから、
高々月に三度くらいしか試みない。
紙袋を頭へかぶせらるる事――これは苦しいばかりではなはだ興味の
乏しい方法である。ことに人間の相手がおらんと成功しないから駄目。次には書物の表紙を爪で引き
掻く事、――これは
主人に見付かると必ずどやされる危険があるのみならず、割合に手先の器用ばかりで総身の筋肉が働かない。これらは
吾輩のいわゆる旧式運動なる者である。新式のうちにはなかなか興味の深いのがある。第一に
蟷螂狩り。――蟷螂狩りは
鼠狩りほどの大運動でない代りにそれほどの危険がない。夏の
半から秋の始めへかけてやる遊戯としてはもっとも上乗のものだ。その方法を言うとまず庭へ出て、一匹の
蟷螂をさがし出す。時候がいいと一匹や二匹見付け出すのは
雑作もない。さて見付け出した蟷螂君の
傍へはっと風を切って
馳けて行く。するとすわこそと言う
身構をして鎌首をふり上げる。蟷螂でもなかなか
健気なもので、相手の力量を知らんうちは抵抗するつもりでいるから面白い。振り上げた鎌首を右の前足でちょっと参る。振り上げた首は軟かいからぐにゃり横へ曲る。この時の蟷螂君の表情がすこぶる興味を添える。おやと言う思い入れが充分ある。ところを
一足飛びに
君の
後ろへ廻って今度は背面から君の羽根を
軽く引き
掻く。あの羽根は平生大事に
畳んであるが、引き掻き方が
烈しいと、ぱっと乱れて中から吉野紙のような薄色の下着があらわれる。君は夏でも御苦労千万に二枚重ねで
乙に
極まっている。この時君の長い首は必ず後ろに向き直る。ある時は向ってくるが、大概の場合には首だけぬっと立てて立っている。こっちから手出しをするのを待ち構えて見える。先方がいつまでもこの態度でいては運動にならんから、あまり長くなるとまたちょいと一本参る。これだけ参ると眼識のある蟷螂なら必ず逃げ出す。それを
我無洒落に向ってくるのはよほど無教育な野蛮的蟷螂である。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(62 / 128)
もし相手がこの野蛮な振舞をやると、向って来たところを
覘いすまして、いやと言うほど張り付けてやる。大概は二三尺飛ばされる者である。しかし敵がおとなしく背面に前進すると、こっちは気の毒だから庭の立木を二三度飛鳥のごとく廻ってくる。
蟷螂君はまだ五六寸しか逃げ延びておらん。もう
吾輩の力量を知ったから手向いをする勇気はない。ただ右往左往へ逃げ
惑うのみである。しかし
吾輩も右往左往へ追っかけるから、君はしまいには苦しがって羽根を
振って一大活躍を試みる事がある。元来蟷螂の羽根は彼の首と調和して、すこぶる細長く出来上がったものだが、聞いて見ると全く装飾用だそうで、人間の英語、仏語、
独逸語のごとく
毫も実用にはならん。だから無用の長物を利用して一大活躍を試みたところが
吾輩に対してあまり功能のありよう訳がない。名前は活躍だが事実は地面の上を引きずってあるくと言うに過ぎん。こうなると少々気の毒な感はあるが運動のためだから仕方がない。
御免蒙ってたちまち前面へ
馳け抜ける。君は惰性で急回転が出来ないからやはりやむを得ず前進してくる。その鼻をなぐりつける。この時蟷螂君は必ず羽根を広げたまま
仆れる。その上をうんと前足で
抑えて少しく休息する。それからまた放す。放しておいてまた抑える。
七擒七縦 孔明の軍略で攻めつける。約三十分この順序を繰り返して、身動きも出来なくなったところを見すましてちょっと口へ
啣えて振って見る。それからまた吐き出す。今度は地面の上へ寝たぎり動かないから、こっちの手で突っ付いて、その勢で飛び上がるところをまた抑えつける。これもいやになってから、最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。ついでだから蟷螂を食った事のない人に話しておくが、蟷螂はあまり
旨い物ではない。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(63 / 128)
そうして滋養分も存外少ないようである。
蟷螂狩りに次いで
蝉取りと言う運動をやる。単に蝉と言ったところが同じ物ばかりではない。人間にも
油野郎、みんみん野郎、おしいつくつく野郎があるごとく、蝉にも油蝉、みんみん、おしいつくつくがある。油蝉はしつこくて
行かん。みんみんは
横風【遠慮がない】で困る。ただ取って面白いのはおしいつくつくである。これは夏の末にならないと出て来ない。
八つ
口の
綻びから
秋風が断わりなしに
膚を
撫でてはっくしょ
風邪を引いたと言う頃
熾に尾を
掉り立ててなく。
善く鳴く奴で、
吾輩から見ると鳴くのと猫にとられるよりほかに天職がないと思われるくらいだ。秋の初はこいつを取る。これを称して蝉取り運動と言う。ちょっと諸君に話しておくがいやしくも蝉と名のつく以上は、地面の上に
転がってはおらん。地面の上に落ちているものには必ず
蟻がついている。
吾輩の取るのはこの蟻の領分に寝転んでいる奴ではない。高い木の枝にとまって、おしいつくつくと鳴いている連中を
捕えるのである。これもついでだから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究上少なからざる関係があると思う。人間の猫に
優るところはこんなところに存するので、人間の
自ら誇る点もまたかような点にあるのだから、今即答が出来ないならよく考えておいたらよかろう。もっとも蝉取り運動上はどっちにしても
差し
支えはない。ただ声をしるべに木を
上って行って、先方が夢中になって鳴いているところをうんと捕えるばかりだ。これはもっとも簡略な運動に見えてなかなか骨の折れる運動である。
吾輩は四本の足を有しているから大地を行く事においてはあえて他の動物には劣るとは思わない。少なくとも二本と四本の数学的知識から判断して見て人間には負けないつもりである。しかし木登りに至っては
大分吾輩より巧者な奴がいる。本職の猿は別物として、猿の
末孫たる人間にもなかなか
侮るべからざる
手合がいる。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(64 / 128)
元来が引力に逆らっての無理な事業だから出来なくても別段の
恥辱とは思わんけれども、蝉取り運動上には少なからざる不便を与える。幸に爪と言う利器があるので、どうかこうか登りはするものの、はたで見るほど楽ではござらん。のみならず蝉は飛ぶものである。
蟷螂君と違って一たび飛んでしまったが最後、せっかくの木登りも、木登らずと何の
択むところなしと言う悲運に際会する事がないとも限らん。最後に時々蝉から小便をかけられる危険がある。あの小便がややともすると眼を
覘ってしょぐってくるようだ。逃げるのは仕方がないから、どうか小便ばかりは垂れんように致したい。飛ぶ
間際に
溺りを
仕るのは一体どう言う心理的状態の生理的器械に及ぼす影響だろう。やはりせつなさのあまりかしらん。あるいは敵の不意に出でて、ちょっと逃げ出す余裕を作るための方便か知らん。そうすると
烏賊の墨を吐き、ベランメーの
刺物を見せ、
主人が
羅甸語を弄する
類と同じ
綱目に入るべき事項となる。これも蝉学上
忽かせにすべからざる問題である。充分研究すればこれだけでたしかに博士論文の価値はある。それは余事だから、そのくらいにしてまた本題に帰る。蝉のもっとも集注するのは――集注がおかしければ集合だが、集合は
陳腐だからやはり集注にする。――蝉のもっとも集注するのは
青桐である。漢名を
梧桐と号するそうだ。ところがこの青桐は葉が非常に多い、しかもその葉は皆
団扇くらいな
大さであるから、彼等が
生い重なると枝がまるで見えないくらい茂っている。これがはなはだ蝉取り運動の妨害になる。声はすれども姿は見えずと言う
俗謡はとくに
吾輩のために作った者ではなかろうかと怪しまれるくらいである。
吾輩は仕方がないからただ声を知るべに行く。下から一間ばかりのところで梧桐は注文通り
二叉になっているから、ここで
一休息して葉裏から蝉の所在地を探偵する。もっともここまで来るうちに、がさがさと音を立てて、飛び出す気早な連中がいる。一羽飛ぶともういけない。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(65 / 128)
真似をする点において蝉は人間に劣らぬくらい馬鹿である。あとから続々飛び出す。
漸々 二叉に到着する時分には満樹
寂として
片声をとどめざる事がある。かつてここまで登って来て、どこをどう見回わしても、耳をどう振っても
蝉気がないので、出直すのも面倒だからしばらく休息しようと、
叉の上に陣取って第二の機会を待ち合せていたら、いつの間にか眠くなって、つい
黒甜郷裡に遊んだ。おやと思って眼が
醒めたら、二叉の
黒甜郷裡から庭の敷石の上へどたりと落ちていた。しかし大概は登る度に一つは取って来る。ただ興味の薄い事には樹の上で口に
啣えてしまわなくてはならん。だから下へ持って来て吐き出す時は
大方死んでいる。いくらじゃらしても引っ
掻いても確然たる手答がない。蝉取りの妙味はじっと忍んで行っておしい
君が一生懸命に
尻尾を延ばしたり
縮ましたりしているところを、わっと前足で
抑える時にある。この時つくつく
君は悲鳴を揚げて、薄い透明な羽根を縦横無尽に振う。その早い事、美事なる事は言語道断、実に蝉世界の一偉観である。余はつくつく君を抑える
度にいつでも、つくつく君に請求してこの美術的演芸を見せてもらう。それがいやになるとご免を
蒙って口の内へ
頬張ってしまう。蝉によると口の内へ入ってまで演芸をつづけているのがある。蝉取りの次にやる運動は
松滑りである。これは長くかく必要もないから、ちょっと述べておく。松滑りと言うと松を滑るように思うかも知れんが、そうではないやはり木登りの一種である。ただ蝉取りは蝉を取るために登り、松滑りは、登る事を目的として登る。これが両者の差である。元来松は
常磐にて
最明寺の
御馳走をしてから以来
今日に至るまで、いやにごつごつしている。従って松の幹ほど滑らないものはない。手懸りのいいものはない。足懸りのいいものはない。――換言すれば
爪懸りのいいものはない。その爪懸りのいい幹へ
一気呵成に
馳け上る。馳け上っておいて馳け下がる。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(66 / 128)
馳け下がるには二法ある。一はさかさになって頭を地面へ向けて下りてくる。一は
上ったままの姿勢をくずさずに尾を下にして降りる。人間に問うがどっちがむずかしいか知ってるか。人間のあさはかな
了見では、どうせ降りるのだから
下向に馳け下りる方が楽だと思うだろう。それが間違ってる。君等は義経が
鵯越を
落としたことだけを心得て、義経でさえ下を向いて下りるのだから猫なんぞは無論
下た向きでたくさんだと思うのだろう。そう
軽蔑するものではない。猫の爪はどっちへ向いて
生えていると思う。みんな
後ろへ折れている。それだから
鳶口【棒の先にカギが付いた道具】のように物をかけて引き寄せる事は出来るが、逆に押し出す力はない。今
吾輩が松の木を勢よく馳け登ったとする。すると
吾輩は元来地上の者であるから、自然の傾向から言えば
吾輩が長く松樹の
巓に
留まるを許さんに相違ない、ただおけば必ず落ちる。しかし手放しで落ちては、あまり早過ぎる。だから何等かの手段をもってこの自然の傾向を幾分かゆるめなければならん。これ
即ち降りるのである。落ちるのと降りるのは大変な違のようだが、その実思ったほどの事ではない。落ちるのを遅くすると降りるので、降りるのを早くすると落ちる事になる。落ちると降りるのは、
ちと
りの差である。
吾輩は松の木の上から落ちるのはいやだから、落ちるのを
緩めて降りなければならない。
即ちあるものをもって落ちる速度に抵抗しなければならん。
吾輩の爪は
前申す通り皆
後ろ向きであるから、もし頭を上にして爪を立てればこの爪の力は
悉く、落ちる勢に
逆って利用出来る訳である。従って落ちるが変じて降りるになる。実に
見易き道理である。しかるにまた身を
逆にして義経流に松の木
越をやって見給え。爪はあっても役には立たん。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(67 / 128)
ずるずる滑って、どこにも自分の体量を持ち答える事は出来なくなる。ここにおいてかせっかく降りようと
企てた者が変化して落ちる事になる。この通り
鵯越はむずかしい。猫のうちでこの芸が出来る者は恐らく
吾輩のみであろう。それだから
吾輩はこの運動を称して松滑りと言うのである。最後に
垣巡りについて
一言する。
主人の庭は竹垣をもって四角にしきられている。縁側と平行している
一片は八九間もあろう。左右は双方共四間に過ぎん。今
吾輩の言った垣巡りと言う運動はこの垣の上を落ちないように一周するのである。これはやり
損う事もままあるが、首尾よく行くとお
慰になる。ことに所々に根を焼いた丸太が立っているから、ちょっと休息に
便宜がある。今日は出来がよかったので朝から昼までに三
返やって見たが、やるたびにうまくなる。うまくなる
度に面白くなる。とうとう四返繰り返したが、四返目に半分ほど
巡りかけたら、隣の屋根から烏が三羽飛んで来て、一間ばかり向うに列を正してとまった。これは推参な奴だ。人の運動の
妨をする、ことにどこの烏だか
籍もない
分在で、人の塀へとまるという法があるもんかと思ったから、通るんだおい
除きたまえと声をかけた。真先の烏はこっちを見てにやにや笑っている。次のは
主人の庭を
眺めている。三羽目は
嘴を垣根の竹で
拭いている。何か食って来たに違ない。
吾輩は返答を待つために、彼等に三分間の
猶予を与えて、垣の上に立っていた。烏は通称を
勘左衛門と言うそうだが、なるほど
勘左衛門だ。
吾輩がいくら待ってても挨拶もしなければ、飛びもしない。
吾輩は仕方がないから、そろそろ歩き出した。すると真先の
勘左衛門がちょいと羽を広げた。やっと
吾輩の威光に恐れて逃げるなと思ったら、右向から左向に姿勢をかえただけである。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(68 / 128)
この野郎! 地面の上ならその分に捨ておくのではないが、いかんせん、たださえ骨の折れる道中に、
勘左衛門などを相手にしている余裕がない。といってまた立留まって三羽が立ち
退くのを待つのもいやだ。第一そう待っていては足がつづかない。先方は羽根のある身分であるから、こんな所へはとまりつけている。従って気に入ればいつまでも
逗留するだろう。こっちはこれで四返目だたださえ
大分労れている。いわんや綱渡りにも劣らざる芸当兼運動をやるのだ。何等の障害物がなくてさえ落ちんとは保証が出来んのに、こんな
黒装束が、三個も前途を
遮っては容易ならざる不都合だ。いよいよとなれば
自ら運動を中止して垣根を下りるより仕方がない。面倒だから、いっそさよう仕ろうか、敵は大勢の事ではあるし、ことにはあまりこの辺には見馴れぬ
人体である。
口嘴が
乙に
尖がって何だか
天狗の
啓し
子のようだ。どうせ
質のいい奴でないには
極っている。退却が安全だろう、あまり深入りをして万一落ちでもしたらなおさら恥辱だ。と思っていると
左向をした烏が
阿呆と言った。次のも真似をして阿呆と言った。最後の奴は
御鄭寧にも阿呆阿呆と二声叫んだ。いかに温厚なる
吾輩でもこれは
看過出来ない。第一自己の邸内で
烏輩に侮辱されたとあっては、
吾輩の名前にかかわる。名前はまだないから係わりようがなかろうと言うなら体面に係わる。決して退却は出来ない。
諺にも
烏合の衆と言うから三羽だって存外弱いかも知れない。進めるだけ進めと度胸を
据えて、のそのそ歩き出す。烏は知らん顔をして何か御互に話をしている様子だ。いよいよ
肝癪に
障る。垣根の幅がもう五六寸もあったらひどい目に合せてやるんだが、残念な事にはいくら
怒っても、のそのそとしかあるかれない。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(69 / 128)
ようやくの事
先鋒を去る事約五六寸の距離まで来てもう一息だと思うと、
勘左衛門は申し合せたように、いきなり
羽搏をして一二尺飛び上がった。その風が突然余の顔を吹いた時、はっと思ったら、つい踏み
外ずして、すとんと落ちた。これはしくじったと垣根の下から見上げると、三羽共元の所にとまって上から
嘴を
揃えて
吾輩の顔を見下している。図太い奴だ。
睨めつけてやったが
一向利かない。背を丸くして、少々
唸ったが、ますます駄目だ。俗人に霊妙なる象徴詩がわからぬごとく、
吾輩が彼等に向って示す怒りの記号も何等の反応を呈出しない。考えて見ると無理のないところだ。
吾輩は今まで彼等を猫として取り扱っていた。それが悪るい。猫ならこのくらいやればたしかに
応えるのだが
生憎相手は烏だ。烏の勘公とあって見れば致し方がない。実業家が主人
苦沙弥先生を圧倒しようとあせるごとく、
西行【西行法師】に銀製の
吾輩を進呈するがごとく、西郷隆盛君の銅像に勘公が
糞をひるようなものである。機を見るに敏なる
吾輩はとうてい駄目と見て取ったから、奇麗さっぱりと縁側へ引き上げた。もう晩飯の時刻だ。運動もいいが度を過ごすと
行かぬ者で、からだ全体が何となく
緊りがない、ぐたぐたの感がある。のみならずまだ秋の取り付きで運動中に照り付けられた毛ごろもは、西日を思う存分吸収したと見えて、ほてってたまらない。毛穴から
染み出す汗が、流れればと思うのに毛の根に
膏のようにねばり付く。背中がむずむずする。汗でむずむずするのと
蚤が
這ってむずむずするのは判然と区別が出来る。口の届く所なら
噛む事も出来る、足の達する領分は引き
掻く事も心得にあるが、
脊髄の縦に通う真中と来たら自分の及ぶ
限でない。こう言う時には人間を見懸けて
矢鱈にこすり付けるか、松の木の皮で充分摩擦術を行うか、二者その一を
択ばんと不愉快で安眠も出来兼ねる。人間は
愚なものであるから、猫なで声で――猫なで声は人間の
吾輩に対して出す声だ。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(70 / 128)
吾輩を
目安にして考えれば猫なで声ではない、なでられ声である――よろしい、とにかく人間は愚なものであるから
撫でられ声で膝の
傍へ寄って行くと、大抵の場合において彼もしくは彼女を愛するものと誤解して、わが
為すままに任せるのみか折々は頭さえ
撫でてくれるものだ。しかるに近来
吾輩の
毛中にのみと号する一種の寄生虫が繁殖したので
滅多に寄り添うと、必ず
頸筋を持って向うへ
抛り出される。わずかに眼に
入るか
入らぬか、取るにも足らぬ虫のために
愛想をつかしたと見える。手を
翻せば雨、手を
覆せば雲とはこの事だ。高がのみの千
疋や二千疋でよくまあこんなに現金な真似が出来たものだ。人間世界を通じて行われる愛の法則の第一条にはこうあるそうだ。――自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし。――人間の取り扱が
俄然豹変したので、いくら
痒ゆくても人力を利用する事は出来ん。だから第二の方法によって
松皮 摩擦法をやるよりほかに分別はない。しからばちょっとこすって参ろうかとまた縁側から降りかけたが、いやこれも利害相償わぬ愚策だと心付いた。と言うのはほかでもない。松には
脂がある。この
脂たるすこぶる執着心の強い者で、もし一たび、毛の先へくっ付けようものなら、雷が鳴ってもバルチック艦隊が全滅しても決して離れない。しかのみならず五本の毛へこびりつくが早いか、十本に
蔓延する。十本やられたなと気が付くと、もう三十本引っ懸っている。
吾輩は
淡泊を愛する
茶人的猫である。こんな、しつこい、毒悪な、ねちねちした、
執念深い奴は大嫌だ。たとい天下の
美猫といえどもご免蒙る。いわんや
松脂においてをやだ。車屋の
黒の両眼から北風に乗じて流れる目糞と
択ぶところなき身分をもって、この
淡灰色の
毛衣を
大なしにするとは
怪しからん。少しは考えて見るがいい。といったところできゃつなかなか考える
気遣はない。あの皮のあたりへ行って背中をつけるが早いか必ずべたりとおいでになるに
極っている。こんな無分別な
頓痴奇を相手にしては
吾輩の顔に係わるのみならず、引いて
吾輩の毛並に関する訳だ。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(71 / 128)
いくら、むずむずしたって我慢するよりほかに致し方はあるまい。しかしこの二方法共実行出来んとなるとはなはだ心細い。今において
一工夫しておかんとしまいにはむずむず、ねちねちの結果病気に
罹るかも知れない。何か分別はあるまいかなと、
後と
足を折って思案したが、ふと思い出した事がある。うちの
主人は時々手拭と
石鹸をもって
飄然【ふらり】といずれへか出て行く事がある、三四十分して帰ったところを見ると彼の
朦朧たる
顔色が少しは活気を帯びて、晴れやかに見える。
主人のような
汚苦しい男にこのくらいな影響を与えるなら
吾輩にはもう少し
利目があるに相違ない。
吾輩はただでさえこのくらいな器量だから、これより色男になる必要はないようなものの、万一病気に
罹って一歳
何が
月で
夭折するような事があっては天下の
青生に対して申し訳がない。聞いて見るとこれも人間のひま
潰しに案出した
洗湯なるものだそうだ。どうせ人間の作ったものだから
碌なものでないには
極っているがこの際の事だから試しに入って見るのもよかろう。やって見て功験がなければよすまでの事だ。しかし人間が自己のために設備した浴場へ異類の猫を入れるだけの
洪量があるだろうか。これが疑問である。
主人がすまして這入るくらいのところだから、よもや
吾輩を断わる事もなかろうけれども万一お気の毒様を食うような事があっては外聞がわるい。これは
一先ず様子を見に行くに越した事はない。見た上でこれならよいと当りが付いたら、手拭を
啣えて飛び込んで見よう。とここまで思案を定めた上でのそのそと洗湯へ出掛けた。
横町を左へ折れると向うに高いとよ竹のようなものが
屹立して先から薄い煙を吐いている。これ
即ち洗湯である。
吾輩はそっと裏口から忍び込んだ。裏口から忍び込むのを
卑怯とか未練とか言うが、あれは表からでなくては訪問する事が出来ぬものが
嫉妬半分に
囃し立てる
繰り
言である。昔から利口な人は裏口から不意を襲う事にきまっている。紳士養成
方の第二巻第一章の五ページにそう出ているそうだ。その次のページには裏口は紳士の遺書にして自身徳を得るの門なりとあるくらいだ。
吾輩は二十世紀の猫だからこのくらいの教育はある。あんまり
軽蔑してはいけない。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(72 / 128)
さて忍び込んで見ると、左の方に松を割って八寸くらいにしたのが山のように積んであって、その隣りには石炭が岡のように盛ってある。なぜ
松薪が山のようで、石炭が岡のようかと聞く人があるかも知れないが、別に意味も何もない、ただちょっと山と岡を使い分けただけである。人間も米を食ったり、鳥を食ったり、
肴を食ったり、
獣を食ったりいろいろの
悪もの食いをしつくしたあげくついに石炭まで食うように堕落したのは
不憫である。行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中を
覗くとがんがらがんのがあんと物静かである。その
向側で何かしきりに人間の声がする。いわゆる洗湯はこの声の発する
辺に相違ないと断定したから、松薪と石炭の間に出来てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に
硝子窓があって、そのそとに丸い
小桶が三角形
即ちピラミッドのごとく積みかさねてある。丸いものが三角に積まれるのは不本意千万だろうと、ひそかに小桶諸君の意を
諒とした。小桶の南側は四五尺の
間板が余って、あたかも
吾輩を迎うるもののごとく見える。板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには
御誂えの上等である。よろしいと言いながらひらりと身を
躍らすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。天下に何が面白いと言って、
未だ食わざるものを食い、未だ見ざるものを見るほどの愉快はない。諸君もうちの
主人のごとく一週三度くらい、この洗湯界に三十分
乃至四十分を暮すならいいが、もし
吾輩のごとく風呂と言うものを見た事がないなら、早く見るがいい。親の
死目に
逢わなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。世界広しといえどもこんな
奇観はまたとあるまい。
何が奇観だ? 何が奇観だって
吾輩はこれを口にするを
憚かるほどの奇観だ。この
硝子窓の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことごとく裸体である。台湾の
生蕃である。二十世紀のアダムである。そもそも
衣装の歴史を
繙けば――長い事だからこれはトイフェルスドレック君に譲って、繙くだけはやめてやるが、――人間は全く服装で持ってるのだ。十八世紀の頃大英国バスの温泉場においてボー・ナッシが厳重な規則を制定した時などは浴場内で男女共肩から足まで着物でかくしたくらいである。今を去る事六十年
前これも英国の去る都で図案学校を設立した事がある。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(73 / 128)
図案学校の事であるから、裸体画、裸体像の模写、模型を買い込んで、ここ、かしこに陳列したのはよかったが、いざ開校式を挙行する一段になって当局者を初め学校の職員が大困却をした事がある。開校式をやるとすれば、市の淑女を招待しなければならん。ところが当時の貴婦人方の考によると人間は服装の動物である。皮を着た猿の子分ではないと思っていた。人間として着物をつけないのは象の鼻なきがごとく、学校の生徒なきがごとく、兵隊の勇気なきがごとく全くその本体を
失している。いやしくも本体を失している以上は人間としては通用しない、獣類である。
仮令模写模型にせよ獣類の人間と伍するのは貴女の品位を害する訳である。でありますから
妾等は出席御断わり申すと言われた。そこで職員共は話せない連中だとは思ったが、何しろ女は東西両国を通じて一種の装飾品である。
米舂にもなれん志願兵にもなれないが、開校式には欠くべからざる
化装道具である。と言うところから仕方がない、呉服屋へ行って
黒布を三十五反
八分七買って来て例の獣類の人間にことごとく着物をきせた。失礼があってはならんと念に念を入れて顔まで着物をきせた。かようにしてようやくの事
滞りなく式をすましたと言う話がある。そのくらい衣服は人間にとって大切なものである。近頃は裸体画裸体画と言ってしきりに裸体を主張する先生もあるがあれはあやまっている。生れてから
今日に至るまで一日も裸体になった事がない
吾輩から見ると、どうしても間違っている。裸体は
希臘、
羅馬の遺風が文芸復興時代の
淫靡の
風に誘われてから
流行りだしたもので、希臘人や、羅馬人は
平常から裸体を
見做れていたのだから、これをもって風教上の利害の関係があるなどとは
毫も思い及ばなかったのだろうが北欧は寒い所だ。日本でさえ裸で道中がなるものかと言うくらいだから
独逸や
英吉利で裸になっておれば死んでしまう。死んでしまってはつまらないから着物をきる。みんなが着物をきれば人間は服装の動物になる。一たび服装の動物となった
後に、突然裸体動物に出逢えば人間とは認めない、
獣と思う。それだから欧洲人ことに北方の欧洲人は裸体画、裸体像をもって獣として取り扱っていいのである。猫に劣る獣と認定していいのである。美しい? 美しくても構わんから、美しい獣と
見做せばいいのである。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(74 / 128)
こう言うと西洋婦人の礼服を見たかと言うものもあるかも知れないが、猫の事だから西洋婦人の礼服を拝見した事はない。聞くところによると彼等は胸をあらわし、肩をあらわし、腕をあらわしてこれを礼服と称しているそうだ。
怪しからん事だ。十四世紀頃までは彼等の
出で
立ちはしかく滑稽ではなかった、やはり普通の人間の着るものを着ておった。それがなぜこんな下等な
軽術師流に転化してきたかは面倒だから述べない。知る人ぞ知る、知らぬものは知らん顔をしておればよろしかろう。歴史はとにかく彼等はかかる異様な風態をして夜間だけは
得々たるにも係わらず内心は少々人間らしいところもあると見えて、日が出ると、肩をすぼめる、胸をかくす、腕を包む、どこもかしこもことごとく見えなくしてしまうのみならず、足の爪一本でも人に見せるのを非常に恥辱と考えている。これで考えても彼等の礼服なるものは一種の
頓珍漢的 作用によって、馬鹿と馬鹿の相談から成立したものだと言う事が分る。それが
口惜しければ
日中でも肩と胸と腕を出していて見るがいい。裸体信者だってその通りだ。それほど裸体がいいものなら娘を裸体にして、ついでに自分も裸になって上野公園を散歩でもするがいい、できない? 出来ないのではない、西洋人がやらないから、自分もやらないのだろう。現にこの不合理極まる礼服を着て威張って帝国ホテルなどへ
出懸けるではないか。その
因縁を尋ねると何にもない。ただ西洋人がきるから、着ると言うまでの事だろう。西洋人は強いから無理でも馬鹿気ていても真似なければやり切れないのだろう。長いものには
捲かれろ、強いものには折れろ、重いものには
圧されろと、そう
れろ尽しでは気が
利かんではないか。気が
利かんでも仕方がないと言うなら勘弁するから、あまり日本人をえらい者と思ってはいけない。学問といえどもその通りだがこれは服装に関係がない事だから以下略とする。
衣服はかくのごとく人間にも大事なものである。人間が衣服か、衣服が人間かと言うくらい重要な条件である。人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあらず、血の歴史にあらず、単に衣服の歴史であると申したいくらいだ。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(75 / 128)
だから衣服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで
化物に
邂逅したようだ。化物でも全体が申し合せて化物になれば、いわゆる化物は消えてなくなる訳だから構わんが、それでは人間自身が
大に困却する事になるばかりだ。その
昔し自然は人間を平等なるものに製造して世の中に
抛り出した。だからどんな人間でも生れるときは必ず
赤裸である。もし人間の
本性が平等に安んずるものならば、よろしくこの赤裸のままで生長してしかるべきだろう。しかるに赤裸の一人が言うにはこう誰も彼も同じでは勉強する
甲斐がない。骨を折った結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと言うところが目につくようにしたい。それについては何か人が見てあっと
魂消る物をからだにつけて見たい。何か工夫はあるまいかと十年間考えてようやく
猿股を発明してすぐさまこれを
穿いて、どうだ恐れ入ったろうと威張ってそこいらを歩いた。これが
今日の車夫の先祖である。
単簡なる猿股を発明するのに十年の長日月を
費やしたのはいささか
異な感もあるが、それは今日から古代に
溯って身を
蒙昧の世界に置いて断定した結論と言うもので、その当時にこれくらいな大発明はなかったのである。デカルトは「
余は思考す、故に余は存在す」という
三つ
子にでも分るような真理を考え出すのに十何年か懸ったそうだ。すべて考え出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明に十年を費やしたって車夫の
知恵には出来過ぎると言わねばなるまい。さあ猿股が出来ると世の中で幅のきくのは車夫ばかりである。あまり車夫が猿股をつけて天下の大道を我物顔に横行
濶歩するのを憎らしいと思って負けん気の化物が六年間工夫して羽織と言う無用の長物を発明した。すると猿股の勢力は
頓に衰えて、羽織全盛の時代となった。八百屋、
生薬屋、呉服屋は皆この大発明家の
末流である。猿股期、羽織期の後に来るのが
袴期である。これは、何だ羽織の癖にと
癇癪を起した化物の考案になったもので、昔の武士今の官員などは皆この種属である。
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(76 / 128)
かように化物共がわれもわれもと
異を
衒い
新を
競って、ついには
燕の尾にかたどった
奇形まで出現したが、退いてその由来を案ずると、何も無理矢理に、
出鱈目に、偶然に、漫然に持ち上がった事実では決してない。皆勝ちたい勝ちたいの勇猛心の
凝ってさまざまの
新形となったもので、おれは手前じゃないぞと振れてあるく代りに
被っているのである。して見るとこの心理からして一大発見が出来る。それはほかでもない。自然は真空を
忌むごとく、人間は平等を嫌うと言う事だ。すでに平等を嫌ってやむを得ず衣服を骨肉のごとくかようにつけ
纏う今日において、この本質の一部分たる、これ等を打ちやって、元の
杢阿弥の公平時代に帰るのは狂人の沙汰である。よし狂人の名称を甘んじても帰る事は到底出来ない。帰った連中を
開明人の目から見れば化物である。
仮令世界何億万の人口を
挙げて化物の域に引ずりおろしてこれなら平等だろう、みんなが化物だから恥ずかしい事はないと安心してもやっぱり駄目である。世界が化物になった翌日からまた化物の競争が始まる。着物をつけて競争が出来なければ化物なりで競争をやる。
赤裸は赤裸でどこまでも差別を立ててくる。この点から見ても衣服はとうてい脱ぐ事は出来ないものになっている。
しかるに今
吾輩が
眼下に
見下した人間の一団体は、この脱ぐべからざる猿股も羽織も
乃至 袴もことごとく棚の上に上げて、無遠慮にも本来の狂態を
衆目環視の
裡に露出して
平々然と談笑を
縦まにしている。
吾輩が
先刻一大奇観と言ったのはこの事である。
吾輩は文明の諸君子のためにここに
謹んでその一般を紹介するの栄を有する。
何だかごちゃごちゃしていて
何にから記述していいか分らない。化物のやる事には規律がないから秩序立った証明をするのに骨が折れる。まず
湯槽から述べよう。湯槽だか何だか分らないが、
大方湯槽というものだろうと思うばかりである。幅が三尺くらい、
長は一間半もあるか、それを二つに仕切って一つには白い湯が入っている。何でも
薬湯とか号するのだそうで、
石灰を溶かし込んだような色に濁っている。もっともただ濁っているのではない。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(77 / 128)
膏ぎって、重た
気に濁っている。よく聞くと腐って見えるのも不思議はない、一週間に一度しか水を
易えないのだそうだ。その隣りは普通一般の湯の
由だがこれまたもって透明、
瑩徹などとは誓って申されない。
天水桶を
攪き
混ぜたくらいの価値はその色の上において充分あらわれている。これからが化物の記述だ。
大分骨が折れる。天水桶の方に、突っ立っている
若造が二人いる。立ったまま、向い合って湯をざぶざぶ腹の上へかけている。いい
慰みだ。双方共色の黒い点において
間然するところなきまでに発達している。この化物は
大分逞ましいなと見ていると、やがて一人が手拭で胸のあたりを
撫で廻しながら「
金さん、どうも、ここが痛んでいけねえが何だろう」と聞くと金さんは「
そりゃ胃さ、胃て言う奴は命をとるからね。用心しねえとあぶないよ」と熱心に忠告を加える。「
だってこの左の方だぜ」た
左肺の方を指す。「
そこが胃だあな。左が胃で、右が肺だよ」「
そうかな、おらあまた胃はここいらかと思った」と今度は腰の辺を
叩いて見せると、金さんは「
そりゃ疝気だあね」と言った。ところへ二十五六の薄い
髯を
生やした男がどぶんと飛び込んだ。すると、からだに付いていた
石鹸が
垢と共に浮きあがる。
鉄気のある水を
透かして見た時のようにきらきらと光る。その隣りに頭の
禿げた爺さんが五分刈を
捕えて何か弁じている。双方共頭だけ浮かしているのみだ。「
いやこう年をとっては駄目さね。人間もやきが廻っちゃ若い者には叶わないよ。しかし湯だけは今でも熱いのでないと心持が悪くてね」「
旦那なんか丈夫なものですぜ。そのくらい元気がありゃ結構だ」「
元気もないのさ。ただ病気をしないだけさ。人間は悪い事さえしなけりゃあ百二十までは生きるもんだからね」「
へえ、そんなに生きるもんですか」「
生きるとも百二十までは受け合う。御維新前牛込に曲淵と言う旗本があって、そこにいた下男は百三十だったよ」「
そいつは、よく生きたもんですね」「
ああ、あんまり生き過ぎてつい自分の年を忘れてね。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(78 / 128)
百までは覚えていましたがそれから忘れてしまいましたと言ってたよ。それでわしの知っていたのが百三十の時だったが、それで死んだんじゃない。それからどうなったか分らない。事によるとまだ生きてるかも知れない」と言いながら
槽から上る。
髯を
生やしている男は
雲母のようなものを自分の廻りに
蒔き散らしながら
独りでにやにや笑っていた。入れ代って飛び込んで来たのは普通一般の化物とは違って背中に模様画をほり付けている。岩見
重太郎が
大刀を振り
翳して
蟒を
退治るところのようだが、惜しい事に
未だ
竣功の期に達せんので、蟒はどこにも見えない。従って
重太郎先生いささか拍子抜けの気味に見える。飛び込みながら「
箆棒に温るいや」と言った。するとまた一人続いて乗り込んだのが「
こりゃどうも……もう少し熱くなくっちゃあ」と顔をしかめながら熱いのを我慢する
気色とも見えたが、
重太郎先生と顔を見合せて「
やあ親方」と
挨拶をする。
重太郎は「
やあ」と言ったが、やがて「
民さんはどうしたね」と聞く。「
どうしたか、じゃんじゃんが好きだからね」「
じゃんじゃんばかりじゃねえ……」「
そうかい、あの男も腹のよくねえ男だからね。――どう言うもんか人に好かれねえ、――どう言うものだか、――どうも人が信用しねえ。職人てえものは、あんなもんじゃねえが」「
そうよ。民さんなんざあ腰が低いんじゃねえ、頭が高けえんだ。それだからどうも信用されねえんだね」「
本当によ。あれで一っぱし腕があるつもりだから、――つまり自分の損だあな」「
白銀町にも古い人が亡くなってね、今じゃ桶屋の元さんと煉瓦屋の大将と親方ぐれえな者だあな。こちとらあこうしてここで生れたもんだが、民さんなんざあ、どこから来たんだか分りゃしねえ」「
そうよ。しかしよくあれだけになったよ」「
うん。どう言うもんか人に好かれねえ。人が交際わねえからね」と徹頭徹尾
民さんを攻撃する。
天水桶はこのくらいにして、白い湯の方を見るとこれはまた非常な
大入で、湯の中に人が入ってると言わんより人の中に湯が入ってると言う方が適当である。しかも彼等はすこぶる
悠々閑々たる物で、
先刻から這入るものはあるが出る物は一人もない。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(79 / 128)
こう這入った上に、一週間もとめておいたら湯もよごれるはずだと感心してなおよく
槽の中を見渡すと、左の隅に
圧しつけられて
苦沙弥先生が
真赤になってすくんでいる。
可哀そうに誰か路をあけて出してやればいいのにと思うのに誰も動きそうにもしなければ、
主人も出ようとする
気色も見せない。ただじっとして赤くなっているばかりである。これはご苦労な事だ。なるべく二銭五厘の湯銭を活用しようと言う精神からして、かように赤くなるのだろうが、早く上がらんと
湯気にあがるがと
主思いの
吾輩は窓の
棚から少なからず心配した。すると
主人の一軒置いて隣りに浮いてる男が八の字を寄せながら「
これはちと利き過ぎるようだ、どうも背中の方から熱い奴がじりじり湧いてくる」と暗に列席の化物に同情を求めた。「
なあにこれがちょうどいい加減です。薬湯はこのくらいでないと利きません。わたしの国なぞではこの倍も熱い湯へ入ります」と自慢らしく説き立てるものがある。「
一体この湯は何に利くんでしょう」と手拭を
畳んで
凸凹頭をかくした男が一同に聞いて見る。「
いろいろなものに利きますよ。何でもいいてえんだからね。豪気だあね」と言ったのは
瘠せた
黄瓜のような色と形とを兼ね得たる顔の所有者である。そんなに利く湯なら、もう少しは丈夫そうになれそうなものだ。「
薬を入れ立てより、三日目か四日目がちょうどいいようです。今日等は入り頃ですよ」と物知り顔に述べたのを見ると、
膨れ返った男である。これは多分
垢肥りだろう。「
飲んでも利きましょうか」とどこからか知らないが黄色い声を出す者がある。「
冷えた後などは一杯飲んで寝ると、奇体に小便に起きないから、まあやって御覧なさい」と答えたのは、どの顔から出た声か分らない。
湯槽の方はこれぐらいにして
板間を見渡すと、いるわいるわ絵にもならないアダムがずらりと並んで
各勝手次第な姿勢で、勝手次第なところを洗っている。その中にもっとも驚ろくべきのは
仰向けに寝て、高い
明かり
取を
眺めているのと、
腹這いになって、
溝の中を
覗き込んでいる両アダムである。これはよほど
閑なアダムと見える。
坊主が石壁を向いてしゃがんでいると
後ろから、小
坊主がしきりに肩を
叩いている。これは師弟の関係上
三介の代理を
務めるのであろう。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(80 / 128)
本当の
三介もいる。
風邪を引いたと見えて、このあついのにちゃんちゃんを着て、
小判形の
桶からざあと旦那の肩へ湯をあびせる。右の足を見ると親指の股に
呉絽の
垢擦りを
挟んでいる。こちらの方では
小桶を慾張って三つ抱え込んだ男が、隣りの人に
石鹸を使え使えと言いながらしきりに長談議をしている。何だろうと聞いて見るとこんな事を言っていた。「
鉄砲は外国から渡ったもんだね。昔は斬り合いばかりさ。外国は卑怯だからね、それであんなものが出来たんだ。どうも支那じゃねえようだ、やっぱり外国のようだ。和唐内の時にゃ無かったね。和唐内はやはり清和源氏さ。なんでも義経が蝦夷から満洲へ渡った時に、蝦夷の男で大変学のできる人がくっ付いて行ったてえ話しだね。それでその義経のむすこが大明を攻めたんだが大明じゃ困るから、三代将軍へ使をよこして三千人の兵隊を借してくれろと言うと、三代様がそいつを留めておいて帰さねえ。――何とか言ったっけ。――何でも何とか言う使だ。――それでその使を二年とめておいてしまいに長崎で女郎を見せたんだがね。その女郎に出来た子が和唐内さ。それから国へ帰って見ると大明は国賊に亡ぼされていた。……」何を言うのかさっぱり分らない。その
後ろに二十五六の陰気な顔をした男が、ぼんやりして股の所を白い湯でしきりにたでている。
腫物か何かで苦しんでいると見える。その横に年の頃は十七八で君とか僕とか生意気な事をべらべら
喋舌ってるのはこの近所の
書生だろう。そのまた次に妙な背中が見える。尻の中から
寒竹を押し込んだように
背骨の節が
歴々と出ている。そうしてその左右に十六むさしに似たる形が四個ずつ行儀よく並んでいる。その十六むさしが赤く
爛れて
周囲に
膿をもっているのもある。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(81 / 128)
こう順々に書いてくると、書く事が多過ぎて到底
吾輩の
手際にはその
一斑【一端】さえ形容する事が出来ん。これは厄介な事をやり始めた者だと少々
辟易していると入口の方に
浅黄木綿の着物をきた七十ばかりの
坊主がぬっと
見われた。
坊主は
恭しくこれらの裸体の化物に一礼して「
へい、どなた様も、毎日相変らずありがとう存じます。今日は少々御寒うございますから、どうぞ御緩くり――どうぞ白い湯へ出たり這入ったりして、ゆるりと御あったまり下さい。――番頭さんや、どうか湯加減をよく見て上げてな」とよどみなく述べ立てた。番頭さんは「
おーい」と答えた。和唐内は「
愛嬌ものだね。あれでなくては商買は出来ないよ」と
大に爺さんを激賞した。
吾輩は突然この
異な爺さんに逢ってちょっと驚ろいたからこっちの記述はそのままにして、しばらく爺さんを専門に観察する事にした。爺さんはやがて今上り
立ての四つばかりの男の子を見て「
坊ちゃん、こちらへおいで」と手を出す。小供は大福を踏み付けたような爺さんを見て大変だと思ったか、わーっと悲鳴を
揚げてなき出す。爺さんは少しく不本意の気味で「
いや、御泣きか、なに? 爺さんが恐い? いや、これはこれは」と感嘆した。仕方がないものだからたちまち
機鋒を転じて、小供の親に向った。「
や、これは源さん。今日は少し寒いな。ゆうべ、近江屋へ這入った泥棒は何と言う馬鹿な奴じゃの。あの戸の潜りの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずに行んだげな。御巡りさんか夜番でも見えたものであろう」と
大に泥棒の無謀を
憫笑したがまた一人を
捉らまえて「
はいはい御寒う。あなた方は、御若いから、あまりお感じにならんかの」と老人だけにただ一人寒がっている。
しばらくは爺さんの方へ気を取られて他の化物の事は全く忘れていたのみならず、苦しそうにすくんでいた
主人さえ記憶の
中から消え去った時突然流しと板の間の中間で大きな声を出すものがある。見ると
紛れもなき
苦沙弥先生である。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(82 / 128)
主人の声の図抜けて大いなるのと、その濁って聴き苦しいのは今日に始まった事ではないが場所が場所だけに
吾輩は少からず驚ろいた。これは
正しく熱湯の
中に長時間のあいだ我慢をして
浸っておったため
逆上したに相違ないと
咄嗟の際に
吾輩は鑑定をつけた。それも単に病気の
所為なら
咎むる事もないが、彼は逆上しながらも充分本心を有しているに相違ない事は、何のためにこの法外の
胴間声を出したかを話せばすぐわかる。彼は取るにも足らぬ
生意気書生を相手に
大人気もない喧嘩を始めたのである。「
もっと下がれ、おれの小桶に湯が入っていかん」と怒鳴るのは無論
主人である。物は見ようでどうでもなるものだから、この怒号をただ逆上の結果とばかり判断する必要はない。万人のうちに一人くらいは
高山彦九郎【江戸時代後期の武士・尊皇思想家】が山賊を
叱したようだくらいに解釈してくれるかも知れん。当人自身もそのつもりでやった芝居かも分らんが、相手が山賊をもって
自らおらん以上は予期する結果は出て来ないに
極っている。
書生は
後ろを振り返って「
僕はもとからここにいたのです」とおとなしく答えた。これは尋常の答で、ただその地を去らぬ事を示しただけが
主人の思い通りにならんので、その態度と言い言語と言い、山賊として
罵り返すべきほどの事でもないのは、いかに逆上の気味の
主人でも分っているはずだ。しかし
主人の怒号は
書生の席そのものが不平なのではない、
先刻からこの両人は少年に似合わず、いやに高慢ちきな、
利いた風の事ばかり
併べていたので、始終それを聞かされた
主人は、全くこの点に立腹したものと見える。だから先方でおとなしい挨拶をしても黙って板の間へ上がりはせん。今度は「
何だ馬鹿野郎、人の桶へ汚ない水をぴちゃぴちゃ跳ねかす奴があるか」と
喝し去った。
吾輩もこの小僧を少々心憎く思っていたから、この時心中にはちょっと
快哉を呼んだが、学校教員たる
主人の言動としては
穏かならぬ事と思うた。元来
主人はあまり堅過ぎていかん。石炭のたき
殻見たようにかさかさしてしかもいやに硬い。むかしハンニバルがアルプス山を
超える時に、路の真中に当って大きな岩があって、どうしても軍隊が通行上の不便邪魔をする。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(83 / 128)
そこでハンニバルはこの大きな岩へ
醋をかけて火を
焚いて、柔かにしておいて、それから
鋸でこの大岩を
蒲鉾のように切って
滞りなく通行をしたそうだ。
主人のごとくこんな
利目のある薬湯へ
煮だるほど入っても少しも功能のない男はやはり醋をかけて
火炙りにするに限ると思う。しからずんば、こんな
書生が何百人出て来て、何十年かかったって
主人の
頑固は
癒りっこない。この
湯槽に浮いているもの、この流しにごろごろしているものは文明の人間に必要な服装を脱ぎ棄てる化物の団体であるから、無論常規常道をもって律する訳にはいかん。何をしたって構わない。肺の所に胃が陣取って、和唐内が清和源氏になって、
民さんが不信用でもよかろう。しかし一たび流しを出て板の間に上がれば、もう化物ではない。普通の人類の
生息する
娑婆へ出たのだ、文明に必要なる着物をきるのだ。従って人間らしい行動をとらなければならんはずである。今
主人が踏んでいるところは敷居である。流しと板の間の境にある敷居の上であって、当人はこれから
歓言愉色、
円転滑脱の世界に逆戻りをしようと言う
間際である。その間際ですらかくのごとく
頑固であるなら、この頑固は本人にとって
牢として抜くべからざる病気に相違ない。病気なら容易に
矯正する事は出来まい。この病気を
癒す方法は愚考によるとただ一つある。校長に依頼して免職して貰う事
即ちこれなり。免職になれば融通の
利かぬ
主人の事だからきっと路頭に迷うに
極ってる。路頭に迷う結果はのたれ死にをしなければならない。換言すると免職は
主人にとって死の遠因になるのである。
主人は好んで病気をして喜こんでいるけれど、死ぬのは
大嫌である。死なない程度において病気と言う一種の
贅沢がしていたいのである。それだからそんなに病気をしていると殺すぞと
嚇かせば臆病なる
主人の事だからびりびりと
悸え上がるに相違ない。この悸え上がる時に病気は奇麗に落ちるだろうと思う。それでも落ちなければそれまでの事さ。
いかに馬鹿でも病気でも
主人に変りはない。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(84 / 128)
一飯君恩を重んずと言う詩人もある事だから猫だって
主人の身の上を思わない事はあるまい。気の毒だと言う念が胸一杯になったため、ついそちらに気が取られて、流しの方の観察を
怠たっていると、突然白い
湯槽の方面に向って口々に
罵る声が聞える。ここにも喧嘩が起ったのかと振り向くと、狭い
柘榴口に
一寸の余地もないくらいに化物が取りついて、毛のある脛と、毛のない股と入り乱れて動いている。折から
初秋の日は暮るるになんなんとして流しの上は天井まで一面の湯気が立て
籠める。かの化物の
犇く
様がその間から
朦朧と見える。熱い熱いと言う声が
吾輩の耳を
貫ぬいて左右へ抜けるように頭の中で乱れ合う。その声には黄なのも、青いのも、赤いのも、黒いのもあるが互に
畳なりかかって一種名状すべからざる音響を浴場内に
漲らす。ただ混雑と迷乱とを形容するに適した声と言うのみで、ほかには何の役にも立たない声である。
吾輩は
茫然としてこの光景に
魅入られたばかり立ちすくんでいた。やがてわーわーと言う声が混乱の極度に達して、これよりはもう一歩も進めぬと言う点まで張り詰められた時、突然無茶苦茶に押し寄せ押し返している
群の中から一大長漢がぬっと立ち上がった。彼の
身の
丈を見ると
他の先生方よりはたしかに三寸くらいは高い。のみならず顔から
髯が
生えているのか髯の中に顔が同居しているのか分らない赤つらを
反り返して、日盛りに
破れ
鐘をつくような声を出して「
うめろうめろ、熱い熱い」と叫ぶ。この声とこの顔ばかりは、かの
紛々と
縺れ合う群衆の上に高く傑出して、その瞬間には浴場全体がこの男一人になったと思わるるほどである。超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ。魔中の大王だ。化物の
頭梁だ。と思って見ていると
湯槽の
後ろでおーいと答えたものがある。おやとまたもそちらに
眸をそらすと、
暗憺として物色も出来ぬ中に、例のちゃんちゃん姿の
三介が砕けよと
一塊りの石炭を
竈の中に投げ入れるのが見えた。竈の
蓋をくぐって、この塊りがぱちぱちと鳴るときに、
三介の半面がぱっと明るくなる。同時に
三介の
後ろにある
煉瓦の壁が
暗を通して燃えるごとく光った。
吾輩は少々
物凄くなったから
早々窓から飛び下りて
家に帰る。帰りながらも考えた。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(85 / 128)
羽織を脱ぎ、猿股を脱ぎ、
袴を脱いで平等になろうと
力める赤裸々の中には、また赤裸々の豪傑が出て来て他の群小を圧倒してしまう。平等はいくらはだかになったって得られるものではない。
帰って見ると天下は太平なもので、
主人は湯上がりの顔をテラテラ光らして
晩餐を食っている。
吾輩が縁側から上がるのを見て、のんきな猫だなあ、今頃どこをあるいているんだろうと言った。膳の上を見ると、
銭のない癖に二三品
御菜をならべている。そのうちに
肴の焼いたのが一
疋ある。これは何と称する肴か知らんが、何でも
昨日あたり
御台場近辺でやられたに相違ない。肴は丈夫なものだと説明しておいたが、いくら丈夫でもこう焼かれたり煮られたりしてはたまらん。多病にして
残喘を
保つ方がよほど結構だ。こう考えて膳の
傍に坐って、
隙があったら何か頂戴しようと、見るごとく見ざるごとく
装っていた。こんな装い方を知らないものはとうていうまい肴は食えないと
諦めなければいけない。
主人は肴をちょっと突っついたが、うまくないと言う顔付をして
箸を置いた。正面に
控えたる妻君はこれまた無言のまま箸の
上下に運動する様子、
主人の
両顎の
離合開闔の具合を熱心に研究している。
「
おい、その猫の頭をちょっと撲って見ろ」と
主人は突然
細君に請求した。
「
撲てば、どうするんですか」
「
どうしてもいいからちょっと撲って見ろ」
こうですかと
細君は
平手で
吾輩の頭をちょっと
敲く。痛くも何ともない。
「
鳴かんじゃないか」「
ええ」
「
もう一返やって見ろ」
「
何返やったって同じ事じゃありませんか」と
細君また平手でぽかと
参る。やはり何ともないから、じっとしていた。しかしその何のためたるやは智慮深き
吾輩には
頓と了解し難い。これが了解出来れば、どうかこうか方法もあろうがただ撲って見ろだから、撲つ
細君も困るし、撲たれる
吾輩も困る。
主人は二度まで思い通りにならんので、少々
焦れ
気味で「
おい、ちょっと鳴くようにぶって見ろ」と言った。
細君は面倒な顔付で「
鳴かして何になさるんですか」と問いながら、またぴしゃりとおいでになった。こう先方の目的がわかれば訳はない、鳴いてさえやれば
主人を満足させる事は出来るのだ。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(86 / 128)
主人はかくのごとく
愚物だから
厭になる。鳴かせるためなら、ためと早く言えば二返も三返も余計な
手数はしなくてもすむし、
吾輩も一度で放免になる事を二度も三度も繰り返えされる必要はないのだ。ただ
打って見ろと言う命令は、打つ事それ自身を目的とする場合のほかに用うべきものでない。打つのは向うの事、鳴くのはこっちの事だ。鳴く事を始めから予期して懸って、ただ打つと言う命令のうちに、こっちの随意たるべき鳴く事さえ含まってるように考えるのは失敬千万だ。他人の人格を重んぜんと言うものだ。猫を馬鹿にしている。
主人の
蛇蝎のごとく嫌う
金田君ならやりそうな事だが、赤裸々をもって誇る
主人としてはすこぶる卑劣である。しかし実のところ
主人はこれほどけちな男ではないのである。だから
主人のこの命令は
狡猾の
極に
出でたのではない。つまり
知恵の足りないところから
湧いた
孑孑のようなものと
思惟する。飯を食えば腹が張るに
極まっている。切れば血が出るに極っている。殺せば死ぬに極まっている。それだから
打てば鳴くに極っていると速断をやったんだろう。しかしそれはお気の毒だが少し論理に合わない。その格で行くと川へ落ちれば必ず死ぬ事になる。
天麩羅を食えば必ず
下痢する事になる。月給をもらえば必ず出勤する事になる。書物を読めば必ずえらくなる事になる。必ずそうなっては少し困る人が出来てくる。打てば必ずなかなければならんとなると
吾輩は迷惑である。目白の時の鐘と同一に
見傚されては猫と生れた
甲斐がない。まず腹の中でこれだけ
主人を
凹ましておいて、しかる後にゃーと注文通り鳴いてやった。
すると
主人は
細君に向って「
今鳴いた、にゃあと言う声は感投詞か、副詞か何だか知ってるか」と聞いた。
細君はあまり突然な問なので、何にも言わない。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(87 / 128)
実を言うと
吾輩もこれは洗湯の逆上がまださめないためだろうと思ったくらいだ。元来この
主人は
近所合壁有名な変人で現にある人はたしかに神経病だとまで断言したくらいである。ところが
主人の自信はえらいもので、おれが神経病じゃない、世の中の奴が神経病だと
頑張っている。近辺のものが
主人を犬々と呼ぶと、
主人は公平を維持するため必要だとか号して彼等を
豚々と呼ぶ。実際
主人はどこまでも公平を維持するつもりらしい。困ったものだ。こう言う男だからこんな奇問を
細君に
対って呈出するのも、
主人に取っては
朝食前の小事件かも知れないが、聞く方から言わせるとちょっと神経病に近い人の言いそうな事だ。だから
細君は
煙に
捲かれた気味で何とも言わない。
吾輩は無論何とも答えようがない。すると
主人はたちまち大きな声で
「
おい」と呼びかけた。
細君は
吃驚して「
はい」と答えた。
「
そのはいは感投詞か副詞か、どっちだ」
「
どっちですか、そんな馬鹿気た事はどうでもいいじゃありませんか」
「
いいものか、これが現に国語家の頭脳を支配している大問題だ」
「
あらまあ、猫の鳴き声がですか、いやな事ねえ。だって、猫の鳴き声は日本語じゃあないじゃありませんか」
「
それだからさ。それがむずかしい問題なんだよ。比較研究と言うんだ」
「
そう」と
細君は利口だから、こんな馬鹿な問題には関係しない。「
それで、どっちだか分ったんですか」
「
重要な問題だからそう急には分らんさ」と例の
肴をむしゃむしゃ食う。ついでにその隣にある豚と
芋のにころばしを食う。「
これは豚だな」「
ええ豚でござんす」「
ふん」と
大軽蔑の調子をもって飲み込んだ。「
酒をもう一杯飲もう」と
杯を出す。
「
今夜はなかなかあがるのね。もう大分赤くなっていらっしゃいますよ」
「
飲むとも――御前世界で一番長い字を知ってるか」
「
ええ、前の関白太政大臣でしょう」
「
それは名前だ。長い字を知ってるか」
「
字って横文字ですか」
「
うん」
「
知らないわ、――御酒はもういいでしょう、これで御飯になさいな、ねえ」
「
いや、まだ飲む。一番長い字を教えてやろうか」
「
ええ。そうしたら御飯ですよ」「
Archaiomelesidonophrunicherata と言う字だ」
「
出鱈目でしょう」
「
出鱈目なものか、希臘語だ」
「
何という字なの、日本語にすれば」
「
意味はしらん。 [
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(88 / 128)
ただ綴りだけ知ってるんだ。長く書くと六寸三分くらいにかける」
他人なら酒の上で言うべき事を、正気で言っているところがすこぶる奇観である。もっとも今夜に限って酒を
無暗にのむ。平生なら
猪口に二杯ときめているのを、もう四杯飲んだ。二杯でも随分赤くなるところを倍飲んだのだから顔が
焼火箸のようにほてって、さも苦しそうだ。それでもまだやめない。「
もう一杯」と出す。
細君はあまりの事に
「
もう御よしになったら、いいでしょう。苦しいばかりですわ」と
苦々しい顔をする。
「
なに苦しくってもこれから少し稽古するんだ。大町桂月が飲めと言った」
「
桂月って何です」さすがの
桂月も
細君に逢っては
一文の価値もない。
「
桂月は現今一流の批評家だ。それが飲めと言うのだからいいに極っているさ」
「
馬鹿をおっしゃい。桂月だって、梅月だって、苦しい思をして酒を飲めなんて、余計な事ですわ」
「
酒ばかりじゃない。交際をして、道楽をして、旅行をしろといった」
「
なおわるいじゃありませんか。そんな人が第一流の批評家なの。まああきれた。妻子のあるものに道楽をすすめるなんて……」
「
道楽もいいさ。桂月が勧めなくっても金さえあればやるかも知れない」
「
なくって仕合せだわ。今から道楽なんぞ始められちゃあ大変ですよ」
「
大変だと言うならよしてやるから、その代りもう少し夫を大事にして、そうして晩に、もっと御馳走を食わせろ」
「
これが精一杯のところですよ」
「
そうかしらん。それじゃ道楽は追って金が入り次第やる事にして、今夜はこれでやめよう」と飯茶椀を出す。何でも茶漬を三ぜん食ったようだ。
吾輩はその夜豚肉
三片と塩焼の頭を頂戴した。
八
垣巡りと言う運動を説明した時に、
主人の庭を
結い
繞らしてある竹垣の事をちょっと述べたつもりであるが、この竹垣の外がすぐ隣家、即ち
南隣の次郎ちゃんとこと思っては誤解である。家賃は安いがそこは
苦沙弥先生である。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(89 / 128)
与っちゃんや次郎ちゃんなどと号する、いわゆるちゃん付きの連中と、薄っ
片な垣一重を隔てて御隣り同志の親密なる交際は結んでおらぬ。この垣の外は五六間の
空地であって、その尽くるところに
檜が
蓊然と五六本
併んでいる。縁側から拝見すると、向うは茂った森で、ここに往む先生は野中の一軒家に、無名の猫を友にして
日月を送る
江湖の
処士であるかのごとき感がある。
但し檜の枝は
吹聴するごとく密生しておらんので、その
間から
群鶴館という、名前だけ立派な安下宿の安屋根が遠慮なく見えるから、しかく先生を想像するのにはよほど骨の折れるのは無論である。しかしこの下宿が群鶴館なら先生の
居はたしかに
臥竜窟くらいな価値はある。名前に税はかからんから御互にえらそうな奴を勝手次第に付ける事として、この幅五六間の空地が竹垣を添うて東西に走る事約十間、それから、たちまち
鉤の手に屈曲して、臥竜窟の北面を取り囲んでいる。この北面が騒動の種である。本来なら空地を行き尽してまたあき地、とか何とか威張ってもいいくらいに家の
二側を包んでいるのだが、
臥竜窟の
主人は無論窟内の
霊猫たる
吾輩すらこのあき地には手こずっている。南側に
檜が幅を
利かしているごとく、北側には
桐の木が七八本行列している。もう周囲一尺くらいにのびているから下駄屋さえ連れてくればいい
価になるんだが、
借家の悲しさには、いくら気が付いても実行は出来ん。
主人に対しても気の毒である。せんだって学校の小使が来て枝を一本切って行ったが、そのつぎに来た時は新らしい桐の
俎下駄を
穿いて、この間の枝でこしらえましたと、聞きもせんのに
吹聴していた。ずるい奴だ。桐はあるが
吾輩及び
主人家族にとっては一文にもならない桐である。玉を
抱いて罪ありと言う古語があるそうだが、これは桐を
生やして
銭なしと言ってもしかるべきもので、いわゆる宝の持ち
腐れである。
愚なるものは
主人にあらず、
吾輩にあらず、
家主の
伝兵衛である。いないかな、いないかな、下駄屋はいないかなと桐の方で催促しているのに知らん
面をして
屋賃ばかり取り立てにくる。
吾輩は別に
伝兵衛に
恨もないから彼の
悪口をこのくらいにして、本題に戻ってこの
空地が騒動の種であると言う
珍譚を紹介
仕るが、決して
主人にいってはいけない。これぎりの話しである。そもそもこの空地に関して第一の不都合なる事は垣根のない事である。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(90 / 128)
吹き払い、吹き通し、抜け裏、通行御免天下晴れての空地である。
あると言うと嘘をつくようでよろしくない。実を言うと
あったのである。しかし話しは過去へ
溯らんと源因が分からない。源因が分からないと、医者でも
処方に迷惑する。だからここへ引き越して来た当時からゆっくりと話し始める。吹き通しも夏はせいせいして心持ちがいいものだ、不用心だって金のないところに盗難のあるはずはない。だから
主人の家に、あらゆる
塀、垣、
乃至は
乱杭、
逆茂木の類は全く不要である。しかしながらこれは空地の向うに
住居する人間もしくは動物の種類
如何によって決せらるる問題であろうと思う。従ってこの問題を決するためには勢い向う側に陣取っている君子の性質を明かにせんければならん。人間だか動物だか分らない先に君子と称するのははなはだ早計のようではあるが大抵君子で間違はない。
梁上の君子などと言って泥棒さえ君子と言う世の中である。
但しこの場合における君子は決して警察の厄介になるような君子ではない。警察の厄介にならない代りに、数でこなした者と見えて沢山いる。うじゃうじゃいる。
落雲館と称する私立の中学校――八百の君子をいやが上に君子に養成するために毎月二円の月謝を徴集する学校である。名前が落雲館だから風流な君子ばかりかと思うと、それがそもそもの間違になる。その信用すべからざる事は
群鶴館に鶴の下りざるごとく、臥竜窟に猫がいるようなものである。学士とか教師とか号するものに主人
苦沙弥君のごとき気違のある事を知った以上は落雲館の君子が風流漢ばかりでないと言う事がわかる
訳だ。それがわからんと主張するならまず三日ばかり
主人のうちへ
宿りに来て見るがいい。
前申すごとく、ここへ引き越しの当時は、例の
空地に垣がないので、落雲館の君子は車屋の
黒のごとく、のそのそと
桐畠に入り込んできて、話をする、弁当を食う、
笹の上に
寝転ぶ――いろいろの事をやったものだ。それからは弁当の死骸
即ち竹の皮、古新聞、あるいは
古草履、古下駄、ふると言う名のつくものを大概ここへ棄てたようだ。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(91 / 128)
無頓着なる
主人は存外平気に構えて、別段抗議も申し込まずに打ち過ぎたのは、知らなかったのか、知っても
咎めんつもりであったのか分らない。ところが彼等諸君子は学校で教育を受くるに従って、だんだん君子らしくなったものと見えて、次第に北側から南側の方面へ向けて
蚕食を企だてて来た。蚕食と言う語が君子に不似合ならやめてもよろしい。
但しほかに言葉がないのである。彼等は
水草を追うて居を変ずる
沙漠の住民のごとく、
桐の木を去って
檜の方に進んで来た。檜のある所は座敷の正面である。よほど大胆なる君子でなければこれほどの行動は取れんはずである。一両日の
後彼等の大胆はさらに一層の大を加えて
大々胆となった。教育の結果ほど恐しいものはない。彼等は単に座敷の正面に
逼るのみならず、この正面において歌をうたいだした。何と言う歌か忘れてしまったが、決して
三十一文字の
類ではない、もっと
活発で、もっと
俗耳に入り
易い歌であった。驚ろいたのは
主人ばかりではない、
吾輩までも彼等君子の才芸に
嘆服して覚えず耳を傾けたくらいである。しかし読者もご案内であろうが、嘆服と言う事と邪魔と言う事は時として両立する場合がある。この両者がこの際
図らずも合して一となったのは、今から考えて見ても返す返す残念である。
主人も残念であったろうが、やむを得ず書斎から飛び出して行って、ここは君等の這入る所ではない、出給えと言って、二三度追い出したようだ。ところが教育のある君子の事だから、こんな事でおとなしく聞く訳がない。追い出されればすぐ這入る。這入れば活発なる歌をうたう。
高声に談話をする。しかも君子の談話だから
一風違って、
おめえだの
知らねえのと言う。そんな言葉は
御維新前は
折助と
雲助と
三助の専門的知識に属していたそうだが、二十世紀になってから教育ある君子の学ぶ唯一の言語であるそうだ。一般から
軽蔑せられたる運動が、かくのごとく
今日歓迎せらるるようになったのと同一の現象だと説明した人がある。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(92 / 128)
主人はまた書斎から飛び出してこの君子流の言葉にもっとも
堪能なる一人を
捉まえて、なぜここへ這入るかと詰問したら、君子はたちまち「
おめえ、知らねえ」の上品な言葉を忘れて「
ここは学校の植物園かと思いました」とすこぶる下品な言葉で答えた。
主人は将来を
戒めて放してやった。放してやるのは亀の子のようでおかしいが、実際彼は君子の
袖を
捉えて談判したのである。このくらいやかましく言ったらもうよかろうと
主人は思っていたそうだ。ところが実際は
女媧氏の時代から予期と違うもので、
主人はまた失敗した。今度は北側から邸内を横断して表門から抜ける、表門をがらりとあけるから御客かと思うと桐畠の方で笑う声がする。形勢はますます不穏である。教育の功果はいよいよ顕著になってくる。気の毒な
主人はこいつは手に合わんと、それから書斎へ立て
籠って、
恭しく一書を落雲館校長に奉って、少々御取締をと哀願した。校長も
丁重なる返書を
主人に送って、垣をするから待ってくれと言った。しばらくすると二三人の職人が来て半日ばかりの間に
主人の屋敷と、落雲館の境に、高さ三尺ばかりの四つ目垣が出来上がった。これでようよう安心だと
主人は喜こんだ。
主人は愚物である。このくらいの事で君子の挙動の変化する訳がない。
全体人にからかうのは面白いものである。
吾輩のような猫ですら、時々は当家の令嬢にからかって遊ぶくらいだから、落雲館の君子が、気の
利かない
苦沙弥先生にからかうのは
至極もっともなところで、これに不平なのは恐らく、からかわれる当人だけであろう。からかうと言う心理を解剖して見ると二つの要素がある。第一からかわれる当人が平気ですましていてはならん。第二からかう者が勢力において人数において相手より強くなくてはいかん。この間
主人が動物園から帰って来てしきりに感心して話した事がある。聞いて見ると
駱駝と小犬の喧嘩を見たのだそうだ。小犬が駱駝の周囲を疾風のごとく回転して
吠え立てると、駱駝は何の気もつかずに、依然として背中へ
瘤をこしらえて突っ立ったままであるそうだ。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(93 / 128)
いくら吠えても狂っても相手にせんので、しまいには犬も
愛想をつかしてやめる、実に駱駝は無神経だと笑っていたが、それがこの場合の適例である。いくらからかうものが上手でも相手が駱駝と来ては成立しない。さればと言って
獅子や
虎のように先方が強過ぎても者にならん。からかいかけるや否や八つ裂きにされてしまう。からかうと歯をむき出して
怒る、怒る事は怒るが、こっちをどうする事も出来ないと言う安心のある時に愉快は非常に多いものである。なぜこんな事が面白いと言うとその理由はいろいろある。まずひまつぶしに適している。退屈な時には
髯の数さえ勘定して見たくなる者だ。
昔し獄に投ぜられた囚人の一人は
無聊のあまり、
房の壁に三角形を重ねて
画いてその日をくらしたと言う話がある。世の中に退屈ほど我慢の出来にくいものはない、何か活気を刺激する事件がないと生きているのがつらいものだ。
からかうと言うのもつまりこの刺激を作って遊ぶ一種の娯楽である。
但し多少先方を怒らせるか、じらせるか、弱らせるかしなくては刺激にならんから、昔しから
からかうと言う娯楽に
耽るものは人の気を知らない馬鹿大名のような退屈の多い者、もしくは自分のなぐさみ以外は考うるに
暇なきほど頭の発達が幼稚で、しかも活気の使い道に窮する少年かに限っている。次には自己の優勢な事を実地に証明するものにはもっとも簡便な方法である。人を殺したり、人を
傷けたり、または人を
陥れたりしても自己の優勢な事は証明出来る訳であるが、これらはむしろ殺したり、傷けたり、陥れたりするのが目的のときによるべき手段で、自己の優勢なる事はこの手段を
遂行した
後に必然の結果として起る現象に過ぎん。だから一方には自分の勢力が示したくって、しかもそんなに人に害を与えたくないと言う場合には、
からかうのが一番
御格好である。多少人を傷けなければ自己の
えらい事は事実の上に証拠だてられない。事実になって出て来ないと、頭のうちで安心していても存外快楽のうすいものである。人間は自己を
恃むものである。否恃み難い場合でも恃みたいものである。それだから自己はこれだけ恃める者だ、これなら安心だと言う事を、人に対して実地に応用して見ないと気がすまない。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(94 / 128)
しかも
理屈のわからない俗物や、あまり自己が恃みになりそうもなくて落ちつきのない者は、あらゆる機会を利用して、この証券を握ろうとする。柔術使が時々人を投げて見たくなるのと同じ事である。柔術の怪しいものは、どうか自分より弱い奴に、ただの一
返でいいから出逢って見たい、
素人でも構わないから
抛げて見たいと至極危険な了見を
抱いて町内をあるくのもこれがためである。その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから略する事に致す。聞きたければ
鰹節の
一折も持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる。以上に説くところを参考して推論して見ると、
吾輩の
考では
奥山の
猿と、学校の教師がからかうには一番手頃である。学校の教師をもって、奥山の猿に比較しては
勿体ない。――猿に対して勿体ないのではない、教師に対して勿体ないのである。しかしよく似ているから仕方がない、御承知の通り奥山の猿は
鎖で
繋がれている。いくら歯をむき出しても、きゃっきゃっ騒いでも引き
掻かれる
気遣はない。教師は鎖で繋がれておらない代りに月給で縛られている。いくらからかったって大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐる事はない。辞職をする勇気のあるようなものなら最初から教師などをして生徒の
御守りは勤めないはずである。
主人は教師である。落雲館の教師ではないが、やはり教師に相違ない。
からかうには
至極適当で、至極
安直で、至極無事な男である。落雲館の生徒は少年である。
からかう事は自己の鼻を高くする
所以で、教育の功果として至当に要求してしかるべき権利とまで心得ている。のみならず
からかいでもしなければ、活気に
充ちた五体と頭脳を、いかに使用してしかるべきか
十分の休暇中
持てあまして困っている連中である。これらの条件が備われば
主人は
自から
からかわれ、生徒は自から
からかう、誰から言わしても
毫も無理のないところである。それを
怒る
主人は
野暮の極、間抜の骨頂でしょう。これから落雲館の生徒がいかに
主人にからかったか、これに対して
主人がいかに野暮を極めたかを逐一かいてご覧に入れる。
諸君は四つ目垣とはいかなる者であるか御承知であろう。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(95 / 128)
風通しのいい、簡便な垣である。
吾輩などは目の間から自由自在に往来する事が出来る。こしらえたって、こしらえなくたって同じ事だ。然し落雲館の校長は猫のために四つ目垣を作ったのではない、自分が養成する君子が
潜られんために、わざわざ職人を入れて
結い
繞らせたのである。なるほどいくら風通しがよく出来ていても、人間には
潜れそうにない。この竹をもって組み合せたる四寸角の穴をぬける事は、
清国の奇術師
張世尊その人といえどもむずかしい。だから人間に対しては充分垣の功能をつくしているに相違ない。
主人がその出来上ったのを見て、これならよかろうと喜んだのも無理はない。しかし
主人の論理には
大なる穴がある。この垣よりも大いなる穴がある。
呑舟の魚をも
洩らすべき大穴がある。彼は垣は
踰ゆべきものにあらずとの仮定から出立している。いやしくも学校の生徒たる以上はいかに粗末の垣でも、垣と言う名がついて、分界線の区域さえ判然すれば決して乱入される気遣はないと仮定したのである。次に彼はその仮定をしばらく打ち
崩して、よし乱入する者があっても大丈夫と論断したのである。四つ目垣の穴を
潜り得る事は、いかなる小僧といえどもとうてい出来る気遣はないから乱入の
虞は決してないと
速定してしまったのである。なるほど彼等が猫でない限りはこの四角の目をぬけてくる事はしまい、したくても出来まいが、乗り
踰える事、飛び越える事は何の事もない。かえって運動になって面白いくらいである。
垣の出来た翌日から、垣の出来ぬ前と同様に彼等は北側の空地へぽかりぽかりと飛び込む。
但し座敷の正面までは深入りをしない。もし追い懸けられたら逃げるのに、少々ひまがいるから、
予め逃げる時間を勘定に
入れて、
捕えらるる危険のない所で
遊弋をしている。彼等が何をしているか東の離れにいる
主人には無論目に
入らない。北側の
空地に彼等が遊弋している状態は、木戸をあけて反対の方角から
鉤の手に曲って見るか、または
後架の窓から垣根越しに
眺めるよりほかに仕方がない。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(96 / 128)
窓から眺める時はどこに何がいるか、
一目明瞭に見渡す事が出来るが、よしや敵を
幾人見出したからと言って捕える訳には行かぬ。ただ窓の
格子の中から叱りつけるばかりである。もし木戸から
迂回して敵地を突こうとすれば、足音を聞きつけて、ぽかりぽかりと
捉まる前に向う側へ下りてしまう。
膃肭臍がひなたぼっこをしているところへ密猟船が向ったような者だ。
主人は無論後架で張り番をしている訳ではない。と言って木戸を開いて、音がしたら直ぐ飛び出す用意もない。もしそんな事をやる日には教師を辞職して、その方専門にならなければ追っつかない。
主人方の不利を言うと書斎からは敵の声だけ聞えて姿が見えないのと、窓からは姿が見えるだけで手が出せない事である。この不利を看破したる敵はこんな軍略を講じた。
主人が書斎に立て
籠っていると探偵した時には、なるべく大きな声を出してわあわあ言う。その中には
主人をひやかすような事を聞こえよがしに述べる。しかもその声の出所を極めて不分明にする。ちょっと聞くと垣の内で騒いでいるのか、あるいは向う側であばれているのか判定しにくいようにする。もし
主人が出懸けて来たら、逃げ出すか、または始めから向う側にいて知らん顔をする。また
主人が後架へ――
吾輩は最前からしきりに後架後架ときたない字を使用するのを別段の光栄とも思っておらん、実は迷惑千万であるが、この戦争を記述する上において必要であるからやむを得ない。――
即ち
主人が後架へまかり越したと見て取るときは、必ず桐の木の附近を
徘徊してわざと
主人の眼につくようにする。
主人がもし後架から
四隣【となり近所】に響く大音を揚げて怒鳴りつければ敵は
周章てる
気色もなく
悠然と根拠地へ引きあげる。この軍略を用いられると
主人ははなはだ困却する。たしかに入っているなと思ってステッキを持って出懸けると
寂然として誰もいない。いないかと思って窓からのぞくと必ず一二人入っている。
主人は裏へ廻って見たり、後架から
覗いて見たり、後架から覗いて見たり、裏へ廻って見たり、何度言っても同じ事だが、何度言っても同じ事を繰り返している。
奔命に疲れるとはこの事である。教師が職業であるか、戦争が本務であるかちょっと分らないくらい
逆上して来た。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(97 / 128)
この逆上の頂点に達した時に
下の事件が起ったのである。
事件は大概逆上から出る者だ。逆上とは読んで字のごとく
逆かさに
上るのである、この点に関してはゲーレンもパラセルサスも旧弊なる
扁鵲も異議を
唱うる者は一人もない。ただどこへ
逆かさに
上るかが問題である。また何が逆かさに上るかが議論のあるところである。古来欧洲人の伝説によると、吾人の体内には四種の液が循環しておったそうだ。第一に
怒液と言う
奴がある。これが逆かさに上ると
怒り出す。第二に
鈍液と名づくるのがある。これが逆かさに上ると神経が
鈍くなる。次には
憂液、これは人間を陰気にする。最後が
血液、これは
四肢を
壮んにする。その
後人文が進むに従って鈍液、怒液、憂液はいつの間にかなくなって、現今に至っては血液だけが昔のように循環していると言う話しだ。だからもし逆上する者があらば血液よりほかにはあるまいと思われる。しかるにこの血液の分量は個人によってちゃんと
極まっている。性分によって多少の増減はあるが、まず大抵一人前に付五升五合の割合である。だによって、この五升五合が逆かさに上ると、上ったところだけは
熾んに活動するが、その他の局部は欠乏を感じて冷たくなる。ちょうど交番焼打の当時巡査がことごとく警察署へ集って、町内には一人もなくなったようなものだ。あれも医学上から診断をすると警察の逆上と言う者である。でこの逆上を
癒やすには血液を従前のごとく体内の各部へ平均に分配しなければならん。そうするには逆かさに上った奴を下へ
降さなくてはならん。その方にはいろいろある。今は故人となられたが
主人の先君などは
濡れ
手拭を頭にあてて
炬燵にあたっておられたそうだ。
頭寒足熱は延命息災の徴と
傷寒論にも出ている通り、濡れ手拭は長寿法において一日も欠くべからざる者である。それでなければ
坊主の慣用する手段を試みるがよい。
一所不住の
沙門 雲水行脚の
衲僧は必ず樹下石上を
宿とすとある。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(98 / 128)
樹下石上とは難行苦行のためではない。全く
のぼせを
下げるために
六祖が米を
舂きながら考え出した秘法である。試みに石の上に坐ってご覧、尻が冷えるのは当り前だろう。尻が冷える、のぼせが下がる、これまた自然の順序にして
毫も疑を
挟むべき余地はない。かようにいろいろな方法を用いて
のぼせを下げる工夫は
大分発明されたが、まだ
のぼせを引き起す良方が案出されないのは残念である。一概に考えるとのぼせは損あって益なき現象であるが、そうばかり速断してならん場合がある。職業によると逆上はよほど大切な者で、逆上せんと何にも出来ない事がある。その
中でもっとも逆上を重んずるのは詩人である。詩人に逆上が必要なる事は汽船に石炭が欠くべからざるような者で、この供給が一日でも途切れると彼れ等は手を
拱いて飯を食うよりほかに何等の能もない凡人になってしまう。もっとも逆上は気違の
異名で、気違にならないと
家業が立ち行かんとあっては
世間体が悪いから、彼等の仲間では逆上を呼ぶに逆上の名をもってしない。申し合せてインスピレーション、インスピレーションとさも
勿体そうに
称えている。これは彼等が世間を
瞞着するために製造した名でその実は正に逆上である。プレートーは彼等の肩を持ってこの種の逆上を神聖なる狂気と号したが、いくら神聖でも狂気では人が相手にしない。やはりインスピレーションと言う新発明の売薬のような名を付けておく方が彼等のためによかろうと思う。しかし
蒲鉾の種が
山芋であるごとく、
観音の像が一寸八分の
朽木であるごとく、
鴨南蛮の材料が烏であるごとく、下宿屋の
牛鍋が馬肉であるごとくインスピレーションも実は逆上である。逆上であって見れば臨時の気違である。巣鴨へ入院せずに済むのは単に
臨時気違であるからだ。ところがこの臨時の気違を製造する事が困難なのである。
一生涯の狂人はかえって出来安いが、筆を
執って紙に向う
間だけ気違にするのは、いかに
巧者な神様でもよほど骨が折れると見えて、なかなか
拵えて見せない。神が作ってくれん以上は自力で拵えなければならん。そこで昔から
今日まで逆上術もまた逆上とりのけ術と同じく
大に学者の頭脳を悩ました。ある人はインスピレーションを得るために毎日渋柿を十二個ずつ食った。これは渋柿を食えば便秘する、便秘すれば逆上は必ず起るという理論から来たものだ。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(99 / 128)
またある人はかん徳利を持って
鉄砲風呂へ飛び込んだ。湯の中で酒を飲んだら逆上するに
極っていると考えたのである。その人の説によるとこれで成功しなければ
葡萄酒の湯をわかして這入れば一
返で功能があると信じ切っている。しかし金がないのでついに実行する事が出来なくて死んでしまったのは気の毒である。最後に古人の真似をしたらインスピレーションが起るだろうと思いついた者がある。これはある人の態度動作を真似ると心的状態もその人に似てくると言う学説を応用したのである。酔っぱらいのように
管を
捲いていると、いつの間にか酒飲みのような心持になる、座禅をして線香一本の間我慢しているとどことなく
坊主らしい気分になれる。だから昔からインスピレーションを受けた有名の大家の
所作を真似れば必ず逆上するに相違ない。聞くところによればユーゴーは
快走船の上へ
寝転んで文章の趣向を考えたそうだから、船へ乗って青空を見つめていれば必ず逆上
受合である。スチーヴンソンは
腹這に寝て小説を書いたそうだから、
打つ
伏しになって筆を持てばきっと血が
逆かさに
上ってくる。かようにいろいろな人がいろいろの事を考え出したが、まだ誰も成功しない。まず
今日のところでは人為的逆上は不可能の事となっている。残念だが致し方がない。早晩随意にインスピレーションを起し得る時機の到来するは
疑もない事で、
吾輩は人文のためにこの時機の一日も早く来らん事を切望するのである。
逆上の説明はこのくらいで充分だろうと思うから、これよりいよいよ事件に取りかかる。しかしすべての大事件の前には必ず小事件が起るものだ。大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常に
陥る
弊竇である。
主人の逆上も小事件に逢う度に一層の
劇甚を加えて、ついに大事件を引き起したのであるからして、幾分かその発達を順序立てて述べないと
主人がいかに逆上しているか分りにくい。分りにくいと
主人の逆上は空名に帰して、世間からはよもやそれほどでもなかろうと見くびられるかも知れない。せっかく逆上しても人から
天晴な逆上と
謡われなくては張り合がないだろう。これから述べる事件は大小に
係らず
主人に取って名誉な者ではない。事件その物が不名誉であるならば、
責めて逆上なりとも、
正銘の逆上であって、決して人に劣るものでないと言う事を明かにしておきたい。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(100 / 128)
主人は他に対して別にこれと言って誇るに足る性質を有しておらん。逆上でも自慢しなくてはほかに骨を折って書き立ててやる種がない。
落雲館に群がる敵軍は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、
十分の休暇、もしくは放課後に至って
熾に北側の
空地に向って砲火を浴びせかける。このダムダム弾は通称をボールと
称えて、
擂粉木の大きな奴をもって任意これを敵中に発射する仕掛である。いくらダムダムだって落雲館の運動場から発射するのだから、書斎に立て
籠ってる
主人に
中る
気遣はない。敵といえども弾道のあまり遠過ぎるのを自覚せん事はないのだけれど、そこが軍略である。旅順の戦争にも海軍から間接射撃を行って偉大な功を奏したと言う話であれば、空地へころがり落つるボールといえども相当の功果を収め得ぬ事はない。いわんや一発を送る
度に総軍力を合せてわーと
威嚇性 大音声を
出すにおいてをやである。
主人は恐縮の結果として手足に通う血管が収縮せざるを得ない。
煩悶の
極そこいらを
迷付いている血が
逆さに
上るはずである。敵の
計はなかなか巧妙と言うてよろしい。
昔し
希臘にイスキラスと言う作家があったそうだ。この男は学者作家に共通なる頭を有していたと言う。
吾輩のいわゆる学者作家に共通なる頭とは
禿と言う意味である。なぜ頭が禿げるかと言えば頭の営養不足で毛が生長するほど活気がないからに相違ない。学者作家はもっとも多く頭を使うものであって大概は貧乏に
極っている。だから学者作家の頭はみんな営養不足でみんな禿げている。さてイスキラスも作家であるから自然の
勢禿げなくてはならん。彼はつるつる然たる
金柑頭を有しておった。ところがある日の事、先生例の頭――頭に
外行も
普段着もないから例の頭に極ってるが――その例の頭を振り立て振り立て、太陽に照らしつけて往来をあるいていた。これが間違いのもとである。禿げ頭を日にあてて遠方から見ると、大変よく光るものだ。高い木には風があたる、光かる頭にも何かあたらなくてはならん。この時イスキラスの頭の上に一羽の
鷲が舞っていたが、見るとどこかで
生捕った一
疋の亀を爪の先に
攫んだままである。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(101 / 128)
亀、スッポンなどは美味に相違ないが、希臘時代から堅い
甲羅をつけている。いくら美味でも甲羅つきではどうする事も出来ん。
海老の
鬼殻焼はあるが亀の子の甲羅煮は今でさえないくらいだから、当時は無論なかったに極っている。さすがの
鷲も少々持て余した
折柄、
遥かの下界にぴかと光った者がある。その時鷲はしめたと思った。あの光ったものの上へ亀の子を落したなら、甲羅は
正しく砕けるに
極わまった。砕けたあとから舞い下りて
中味を
頂戴すれば訳はない。そうだそうだと
覗を定めて、かの亀の子を高い所から挨拶も無く頭の上へ落した。
生憎作家の頭の方が亀の甲より軟らかであったものだから、禿はめちゃめちゃに砕けて有名なるイスキラスはここに
無惨の最後を遂げた。それはそうと、
解しかねるのは鷲の了見である。例の頭を、作家の頭と知って落したのか、または禿岩と間違えて落したものか、解決しよう次第で、落雲館の敵とこの鷲とを比較する事も出来るし、また出来なくもなる。
主人の頭はイスキラスのそれのごとく、また
御歴々の学者のごとくぴかぴか光ってはおらん。しかし六畳敷にせよいやしくも書斎と号する一室を
控えて、居眠りをしながらも、むずかしい書物の上へ顔を
翳す以上は、学者作家の同類と
見傚さなければならん。そうすると
主人の頭の禿げておらんのは、まだ禿げるべき資格がないからで、その内に禿げるだろうとは
近々この頭の上に落ちかかるべき運命であろう。して見れば落雲館の生徒がこの頭を目懸けて例のダムダム
丸を集注するのは策のもっとも
時宜に適したものと言わねばならん。もし敵がこの行動を二週間継続するならば、
主人の頭は
畏怖と
煩悶のため必ず営養の不足を訴えて、
金柑とも
薬缶とも
銅壺とも変化するだろう。なお二週間の砲撃を
食えば金柑は
潰れるに相違ない。薬缶は
洩るに相違ない。銅壺ならひびが入るにきまっている。この
睹易き結果を予想せんで、あくまでも敵と戦闘を継続しようと苦心するのは、ただ本人たる
苦沙弥先生のみである。
ある日の午後、
吾輩は例のごとく縁側へ出て
午睡をして虎になった夢を見ていた。
主人に
鶏肉を持って来いと言うと、
主人がへえと恐る恐る鶏肉を持って出る。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(102 / 128)
迷亭が来たから、
迷亭に
雁が食いたい、
雁鍋へ行って
誂らえて来いと言うと、
蕪の
香の
物と、
塩煎餅といっしょに召し上がりますと雁の味が致しますと例のごとく
茶羅ッ
鉾を言うから、大きな口をあいて、うーと
唸って
嚇してやったら、
迷亭は青くなって
山下の雁鍋は廃業致しましたがいかが取り
計いましょうかと言った。それなら牛肉で勘弁するから早く
西川へ行ってロースを一斤取って来い、早くせんと貴様から食い殺すぞと言ったら、
迷亭は尻を
端折って
馳け出した。
吾輩は急にからだが大きくなったので、縁側一杯に寝そべって、
迷亭の帰るのを待ち受けていると、たちまち
家中に響く大きな声がしてせっかくの
牛も食わぬ間に夢がさめて吾に帰った。すると今まで恐る恐る
吾輩の前に平伏していたと思いのほかの
主人が、いきなり
後架から飛び出して来て、
吾輩の横腹をいやと言うほど
蹴たから、おやと思ううち、たちまち庭下駄をつっかけて木戸から廻って、落雲館の方へかけて行く。
吾輩は虎から急に猫と収縮したのだから何となく
極りが悪くもあり、おかしくもあったが、
主人のこの権幕と横腹を蹴られた痛さとで、虎の事はすぐ忘れてしまった。同時に
主人がいよいよ出馬して敵と交戦するな面白いわいと、痛いのを我慢して、後を慕って裏口へ出た。同時に
主人が
ぬすっとうと怒鳴る声が聞える、見ると制帽をつけた十八九になる
倔強な奴が一人、四ツ目垣を向うへ乗り越えつつある。やあ遅かったと思ううち、
彼の制帽は馳け足の姿勢をとって根拠地の方へ
韋駄天のごとく逃げて行く。
主人は
ぬすっとうが
大に成功したので、またも
ぬすっとうと高く叫びながら追いかけて行く。しかしかの敵に追いつくためには
主人の方で垣を越さなければならん。深入りをすれば
主人自らが泥棒になるはずである。
前申す通り
主人は立派なる逆上家である。こう
勢に乗じて
ぬすっとうを追い懸ける以上は、
夫子自身が
ぬすっとうに成っても追い懸けるつもりと見えて、引き返す
気色もなく垣の根元まで進んだ。今一歩で彼は
ぬすっとうの領分に入らなければならんと言う
間際に、敵軍の中から、薄い
髯を勢なく
生やした将官がのこのこと出馬して来た。
両人は垣を境に何か談判している。聞いて見るとこんなつまらない議論である。
「
あれは本校の生徒です」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(103 / 128)
「
生徒たるべきものが、何で他の邸内へ侵入するのですか」
「
いやボールがつい飛んだものですから」
「
なぜ断って、取りに来ないのですか」
「
これから善く注意します」
「
そんなら、よろしい」
竜騰虎闘の壮観があるだろうと予期した交渉はかくのごとく散文的なる談判をもって無事に迅速に結了した。
主人の
壮んなるはただ意気込みだけである。いざとなると、いつでもこれでおしまいだ。あたかも
吾輩が虎の夢から急に猫に返ったような観がある。
吾輩の小事件と言うのは
即ちこれである。小事件を記述したあとには、順序として是非大事件を話さなければならん。
主人は座敷の障子を開いて
腹這になって、何か思案している。恐らく敵に対して
防御策を講じているのだろう。落雲館は授業中と見えて、運動場は存外静かである。ただ校舎の一室で、倫理の講義をしているのが手に取るように聞える。朗々たる音声でなかなかうまく述べ立てているのを聴くと、全く
昨日敵中から出馬して談判の
衝に当った将軍である。「
……で公徳と言うものは大切な事で、あちらへ行って見ると、仏蘭西でも独逸でも英吉利でも、どこへ行っても、この公徳の行われておらん国はない。またどんな下等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。悲しいかな、我が日本に在っては、未だこの点において外国と拮抗する事が出来んのである。で公徳と申すと何か新しく外国から輸入して来たように考える諸君もあるかも知れんが、そう思うのは大なる誤りで、昔人も夫子の道一 以て之を貫く、忠恕のみ矣と言われた事がある。この恕と申すのが取りも直さず公徳の出所である。私も人間であるから時には大きな声をして歌などうたって見たくなる事がある。しかし私が勉強している時に隣室のものなどが放歌するのを聴くと、どうしても書物の読めぬのが私の性分である。であるからして自分が唐詩選でも高声に吟じたら気分が晴々してよかろうと思う時ですら、もし自分のように迷惑がる人が隣家に住んでおって、知らず知らずその人の邪魔をするような事があってはすまんと思うて、そう言う時はいつでも控えるのである。こう言う訳だから諸君もなるべく公徳を守って、いやしくも人の妨害になると思う事は決してやってはならんのである。……」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(104 / 128)
主人は耳を傾けて、この講話を謹聴していたが、ここに至ってにやりと笑った。ちょっとこの
にやりの意味を説明する必要がある。皮肉家がこれをよんだらこの
にやりの
裏には冷評的分子が交っていると思うだろう。しかし
主人は決して、そんな人の悪い男ではない。悪いと言うよりそんなに
知恵の発達した男ではない。
主人はなぜ笑ったかと言うと全く嬉しくって笑ったのである。倫理の教師たる者がかように痛切なる訓戒を与えるからはこの
後は永久ダムダム弾の乱射を
免がれるに相違ない。当分のうち頭も禿げずにすむ、逆上は一時に直らんでも時機さえくれば
漸次回復するだろう、
濡れ
手拭を頂いて、
炬燵にあたらなくとも、樹下石上を
宿としなくとも大丈夫だろうと鑑定したから、にやにやと笑ったのである。借金は必ず返す者と二十世紀の
今日にもやはり正直に考えるほどの
主人がこの講話を真面目に聞くのは当然であろう。
やがて時間が来たと見えて、講話はぱたりとやんだ。他の教室の課業も皆一度に終った。すると今まで室内に密封された八百の同勢は
鬨の声をあげて、建物を飛び出した。その
勢と言うものは、一尺ほどな
蜂の巣を
敲き落したごとくである。ぶんぶん、わんわん言うて窓から、戸口から、開きから、いやしくも穴の
開いている所なら何の容赦もなく我勝ちに飛び出した。これが大事件の発端である。
まず蜂の陣立てから説明する。こんな戦争に陣立ても何もあるものかと言うのは間違っている。普通の人は戦争とさえ言えば
沙河とか
奉天とかまた
旅順とかそのほかに戦争はないもののごとくに考えている。少し詩がかった野蛮人になると、アキリスがヘクトーの死骸を引きずって、トロイの城壁を
三匝したとか、
燕ぴと張飛【中国三国時代の将軍】が
長坂橋に
丈八の
蛇矛を
横えて、
曹操の軍百万人を
睨め返したとか
大袈裟な事ばかり連想する。連想は当人の随意だがそれ以外の戦争はないものと心得るのは不都合だ。
太古蒙昧の時代に
在ってこそ、そんな馬鹿気た戦争も行われたかも知れん、しかし太平の
今日、大日本国帝都の中心においてかくのごとき野蛮的行動はあり得べからざる奇跡に属している。
[
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(105 / 128)
いかに騒動が持ち上がっても交番の焼打以上に出る
気遣はない。して見ると
臥竜窟主人の
苦沙弥先生と落雲館
裏八百の健児との戦争は、まず東京市あって以来の大戦争の一として数えてもしかるべきものだ。
左氏が
鄢陵の
戦を記するに当ってもまず敵の陣勢から述べている。古来から叙述に巧みなるものは皆この筆法を用いるのが通則になっている。だによって
吾輩が蜂の陣立てを話すのも
仔細なかろう。それでまず蜂の陣立ていかんと見てあると、四つ目垣の外側に縦列を
形ちづくった一隊がある。これは
主人を戦闘線内に誘致する職務を帯びた者と見える。「
降参しねえか」「
しねえしねえ」「
駄目だ駄目だ」「
出てこねえ」「
落ちねえかな」「
落ちねえはずはねえ」「
吠えて見ろ」「
わんわん」「
わんわん」「
わんわんわんわん」これから先は縦隊総がかりとなって
吶喊【つきつらぬく】の声を揚げる。縦隊を少し右へ離れて運動場の方面には砲隊が形勝の地を占めて陣地を
布いている。
臥竜窟に面して一人の将官が
擂粉木の大きな奴を持って
控える。これと相対して五六間の間隔をとってまた一人立つ、擂粉木のあとにまた一人、これは臥竜窟に顔をむけて突っ立っている。かくのごとく一直線にならんで向い合っているのが砲手である。ある人の説によるとこれはベースボールの練習であって、決して戦闘準備ではないそうだ。
吾輩はベースボールの何物たるを解せぬ
文盲漢である。しかし聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、
今日中学程度以上の学校に行わるる運動のうちでもっとも流行するものだそうだ。米国は
突飛な事ばかり考え出す国柄であるから、砲隊と間違えてもしかるべき、近所迷惑の遊戯を日本人に教うべくだけそれだけ親切であったかも知れない。また米国人はこれをもって真に一種の運動遊戯と心得ているのだろう。しかし純粋の遊戯でもかように四隣を驚かすに足る能力を有している以上は使いようで砲撃の用には充分立つ。
吾輩の眼をもって観察したところでは、彼等はこの運動術を利用して砲火の功を収めんと企てつつあるとしか思われない。物は言いようでどうでもなるものだ。慈善の名を借りて
詐偽を働らき、インスピレーションと号して逆上をうれしがる者がある以上はベースボールなる遊戯の
下に戦争をなさんとも限らない。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(106 / 128)
或る人の説明は世間一般のベースボールの事であろう。今
吾輩が記述するベースボールはこの特別の場合に限らるるベースボール
即ち攻城的砲術である。これからダムダム弾を発射する方法を紹介する。直線に
布かれたる砲列の中の一人が、ダムダム弾を右の手に握って擂粉木の所有者に
抛りつける。ダムダム弾は何で製造したか局外者には分らない。堅い丸い石の団子のようなものを
御鄭寧に皮でくるんで縫い合せたものである。
前申す通りこの弾丸が砲手の一人の手中を離れて、風を切って飛んで行くと、向うに立った一人が例の擂粉木をやっと振り上げて、これを
敲き返す。たまには敲き
損なった弾丸が流れてしまう事もあるが、大概はポカンと大きな音を立てて
弾ね返る。その勢は非常に猛烈なものである。神経性胃弱なる
主人の頭を
潰すくらいは容易に出来る。砲手はこれだけで事足るのだが、その周囲附近には
弥次馬兼援兵が
雲霞のごとく付き添うている。ポカーンと擂粉木が団子に
中るや否やわー、ぱちぱちぱちと、わめく、手を
拍つ、やれやれと言う。
中ったろうと言う。これでも
利かねえかと言う。恐れ入らねえかと言う。降参かと言う。これだけならまだしもであるが、
敲き返された弾丸は三度に一度必ず臥竜窟邸内へころがり込む。これがころがり込まなければ攻撃の目的は達せられんのである。ダムダム弾は近来諸所で製造するが随分高価なものであるから、いかに戦争でもそう充分な供給を仰ぐ訳に行かん。大抵一隊の砲手に一つもしくは二つの割である。ポンと鳴る度にこの貴重な弾丸を消費する訳には行かん。そこで彼等はたま
拾と称する一部隊を設けて
落弾を拾ってくる。落ち場所がよければ拾うのに骨も折れないが、草原とか人の邸内へ飛び込むとそう
容易くは戻って来ない。だから平生ならなるべく労力を避けるため、拾い
易い所へ打ち落すはずであるが、この際は反対に出る。目的が遊戯にあるのではない、戦争に存するのだから、わざとダムダム弾を
主人の邸内に降らせる。邸内に降らせる以上は、邸内へ入って拾わなければならん。邸内に這入るもっとも簡便な方法は四つ目垣を越えるにある。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(107 / 128)
四つ目垣のうちで騒動すれば
主人が
怒り出さなければならん。しからずんば
兜を脱いで降参しなければならん。苦心のあまり頭がだんだん禿げて来なければならん。
今しも敵軍から打ち出した一弾は、
照準 誤たず、四つ目垣を通り越して
桐の下葉を振い落して、第二の城壁
即ち竹垣に命中した。随分大きな音である。ニュートンの運動律第一に
曰くもし他の力を加うるにあらざれば、
一度び動き出したる物体は均一の速度をもって直線に動くものとす。もしこの律のみによって物体の運動が支配せらるるならば
主人の頭はこの時にイスキラスと運命を同じくしたであろう。
幸にしてニュートンは第一則を定むると同時に第二則も製造してくれたので
主人の頭は危うきうちに一命を取りとめた。運動の第二則に曰く運動の変化は、加えられたる力に比例す、しかしてその力の働く直線の方向において起るものとす。これは何の事だか少しくわかり兼ねるが、かのダムダム弾が竹垣を突き通して、
障子を裂き破って
主人の頭を破壊しなかったところをもって見ると、ニュートンの
御蔭に相違ない。しばらくすると案のごとく敵は邸内に乗り込んで来たものと覚しく、「
ここか」「
もっと左の方か」などと棒でもって
笹の葉を敲き廻わる音がする。すべて敵が
主人の邸内へ乗り込んでダムダム弾を拾う場合には必ず特別な大きな声を出す。こっそり入って、こっそり拾っては
肝心の目的が達せられん。ダムダム弾は貴重かも知れないが、
主人にからかうのはダムダム弾以上に大事である。この時のごときは遠くから弾の所在地は判然している。竹垣に
中った音も知っている。中った場所も分っている、しかしてその落ちた地面も心得ている。だからおとなしくして拾えば、いくらでもおとなしく拾える。ライプニッツの定義によると空間は出来得べき同在現象の秩序である。
いろはにほへとはいつでも同じ順にあらわれてくる。柳の下には必ず
鰌がいる。
蝙蝠に夕月はつきものである。垣根にボールは不似合かも知れぬ。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(108 / 128)
しかし毎日毎日ボールを人の邸内に
抛り込む者の眼に映ずる空間はたしかにこの配列に
慣れている。
一眼見ればすぐ分る訳だ。それをかくのごとく騒ぎ立てるのは
必竟ずるに
主人に戦争を
挑む策略である。
こうなってはいかに消極的なる
主人といえども応戦しなければならん。さっき座敷のうちから倫理の講義をきいてにやにやしていた
主人は奮然として立ち上がった。猛然として
馳け出した。
驀然として敵の一人を
生捕った。
主人にしては大出来である。大出来には相違ないが、見ると十四五の小供である。
髯の
生えている
主人の敵として少し不似合だ。けれども
主人はこれで沢山だと思ったのだろう。
詫び入るのを無理に引っ張って縁側の前まで連れて来た。ここにちょっと敵の策略について
一言する必要がある、敵は
主人が
昨日の
権幕を見てこの様子では今日も必ず自身で出馬するに相違ないと察した。その時万一逃げ損じて
大僧がつらまっては事面倒になる。ここは一年生か二年生くらいな小供を玉拾いにやって危険を避けるに越した事はない。よし
主人が小供をつらまえて
愚図愚図理屈を
捏ね廻したって、落雲館の名誉には関係しない、こんなものを
大人気もなく相手にする
主人の
恥辱になるばかりだ。敵の考はこうであった。これが普通の人間の考で
至極もっともなところである。ただ敵は相手が普通の人間でないと言う事を勘定のうちに入れるのを忘れたばかりである。
主人にこれくらいの常識があれば昨日だって飛び出しはしない。逆上は普通の人間を、普通の人間の程度以上に釣るし上げて、常識のあるものに、非常識を与える者である。女だの、小供だの、車引きだの、馬子だのと、そんな
見境いのあるうちは、まだ逆上を以て人に誇るに足らん。
主人のごとく相手にならぬ中学一年生を
生捕って戦争の人質とするほどの了見でなくては逆上家の仲間入りは出来ないのである。
可哀そうなのは捕虜である。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(109 / 128)
単に上級生の命令によって玉拾いなる
雑兵の役を勤めたるところ、運わるく非常識の敵将、逆上の天才に追い詰められて、垣越える
間もあらばこそ、庭前に引き
据えられた。こうなると敵軍は安閑と味方の恥辱を見ている訳に行かない。我も我もと四つ目垣を乗りこして木戸口から庭中に乱れ入る。その数は約一ダースばかり、ずらりと
主人の前に並んだ。大抵は
上衣もちょっ
着もつけておらん。白シャツの腕をまくって、腕組をしたのがある。
綿ネルの洗いざらしを申し訳に背中だけへ乗せているのがある。そうかと思うと白の
帆木綿に黒い縁をとって胸の真中に花文字を、同じ色に縫いつけた
洒落者もある。いずれも一騎当千の猛将と見えて、
丹波の国は笹山から昨夜着し立てでござると言わぬばかりに、黒く
逞しく筋肉が発達している。中学などへ入れて学問をさせるのは惜しいものだ。
漁師か船頭にしたら定めし国家のためになるだろうと思われるくらいである。彼等は申し合せたごとく、素足に
股引を高くまくって、近火の手伝にでも行きそうな
風体に見える。彼等は
主人の前にならんだぎり
黙然として
一言も発しない。
主人も口を
開かない。しばらくの間双方共
睨めくらをしているなかにちょっと殺気がある。
「
貴様等はぬすっとうか」と
主人は尋問した。
大気焰である。奥歯で
囓み
潰した
癇癪玉が炎となって鼻の穴から抜けるので、小鼻が、いちじるしく
怒って見える。
越後獅子の鼻は人間が
怒った時の
格好を
形どって作ったものであろう。それでなくてはあんなに恐しく出来るものではない。
「
いえ泥棒ではありません。落雲館の生徒です」
「
うそをつけ。落雲館の生徒が無断で人の庭宅に侵入する奴があるか」
「
しかしこの通りちゃんと学校の記章のついている帽子を被っています」
「
にせものだろう。落雲館の生徒ならなぜむやみに侵入した」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(110 / 128)
「
ボールが飛び込んだものですから」
「
なぜボールを飛び込ました」
「
つい飛び込んだんです」
「
怪しからん奴だ」
「
以後注意しますから、今度だけ許して下さい」
「
どこの何者かわからん奴が垣を越えて邸内に闖入するのを、そう容易く許されると思うか」
「
それでも落雲館の生徒に違ないんですから」
「
落雲館の生徒なら何年生だ」
「
三年生です」
「
きっとそうか」
「
ええ」
主人は奥の方を
顧みながら、おいこらこらと言う。
埼玉生れの
御三が
襖をあけて、へえと顔を出す。
「
落雲館へ行って誰か連れてこい」
「
誰を連れて参ります」
「
誰でもいいから連れてこい」
下女は「
へえ」と答えたが、あまり庭前の光景が妙なのと、使の
趣が判然しないのと、さっきからの事件の発展が馬鹿馬鹿しいので、立ちもせず、坐りもせずにやにや笑っている。
主人はこれでも大戦争をしているつもりである。逆上的敏腕を
大に
振っているつもりである。しかるところ自分の召し使たる当然こっちの肩を持つべきものが、真面目な態度をもって事に臨まんのみか、用を言いつけるのを聞きながらにやにや笑っている。ますます逆上せざるを得ない。
「
誰でも構わんから呼んで来いと言うのに、わからんか。校長でも幹事でも教頭でも……」
「
あの校長さんを……」下女は校長と言う言葉だけしか知らないのである。
「
校長でも、幹事でも教頭でもと言っているのにわからんか」
「
誰もおりませんでしたら小使でもよろしゅうございますか」
「
馬鹿を言え。小使などに何が分かるものか」
ここに至って下女もやむを得んと心得たものか、「
へえ」と言って出て行った。使の主意はやはり飲み込めんのである。小使でも引張って来はせんかと心配していると、あに計らんや例の倫理の先生が表門から乗り込んで来た。平然と座に
就くを待ち受けた
主人は直ちに談判にとりかかる。
「
ただ今邸内にこの者共が乱入致して……」と忠臣蔵のような古風な言葉を使ったが「
本当に御校の生徒でしょうか」と少々皮肉に語尾を切った。
倫理の先生は別段驚いた様子もなく、平気で庭前にならんでいる勇士を一通り見回わした上、もとのごとく
瞳を
主人の方にかえして、
下のごとく答えた。
「
さようみんな学校の生徒であります。 [
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(111 / 128)
こんな事のないように始終訓戒を加えておきますが……どうも困ったもので……なぜ君等は垣などを乗り越すのか」
さすがに生徒は生徒である、倫理の先生に向っては
一言もないと見えて何とも言うものはない。おとなしく庭の隅にかたまって羊の
群が雪に逢ったように
控えている。
「
丸が這入るのも仕方がないでしょう。こうして学校の隣りに住んでいる以上は、時々はボールも飛んで来ましょう。しかし……あまり乱暴ですからな。仮令垣を乗り越えるにしても知れないように、そっと拾って行くなら、まだ勘弁のしようもありますが……」
「
ごもっともで、よく注意は致しますが何分多人数の事で……よくこれから注意をせんといかんぜ。もしボールが飛んだら表から廻って、御断りをして取らなければいかん。いいか。――広い学校の事ですからどうも世話ばかりやけて仕方がないです。で運動は教育上必要なものでありますから、どうもこれを禁ずる訳には参りかねるので。これを許すとつい御迷惑になるような事が出来ますが、これは是非御容赦を願いたいと思います。その代り向後はきっと表門から廻って御断りを致した上で取らせますから」
「
いや、そう事が分かればよろしいです。球はいくら御投げになっても差支えはないです。表からきてちょっと断わって下されば構いません。ではこの生徒はあなたに御引き渡し申しますからお連れ帰りを願います。いやわざわざ御呼び立て申して恐縮です」と
主人は例によって例のごとく
竜頭蛇尾の挨拶をする。倫理の先生は丹波の笹山を連れて表門から落雲館へ引き上げる。
吾輩のいわゆる大事件はこれで一とまず落着を告げた。何のそれが大事件かと笑うなら、笑うがいい。そんな人には大事件でないまでだ。
吾輩は
主人の大事件を写したので、
そんな人の大事件を
記したのではない。尻が切れて
強弩の
末勢だなどと悪口するものがあるなら、これが
主人の特色である事を記憶して貰いたい。
主人が滑稽文の材料になるのもまたこの特色に存する事を記憶して貰いたい。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(112 / 128)
十四五の小供を相手にするのは馬鹿だと言うなら
吾輩も馬鹿に相違ないと同意する。だから大町
桂月は
主人をつらまえて
未だ
稚気を免がれずと言うている。
吾輩はすでに小事件を叙し
了り、今また大事件を述べ了ったから、これより大事件の後に起る
余瀾を
描き出だして、全篇の結びを付けるつもりである。すべて
吾輩のかく事は、口から
出任せのいい加減と思う読者もあるかも知れないが決してそんな軽率な猫ではない。一字一句の
裏に宇宙の一大哲理を包含するは無論の事、その一字一句が
層々連続すると首尾相応じ前後相照らして、
瑣談繊話と思ってうっかりと読んでいたものが
忽然 豹変して容易ならざる法語となるんだから、決して寝ころんだり、足を出して五行ごとに一度に読むのだなどと言う無礼を演じてはいけない。
柳宗元【中国唐代の文学者】は
韓退之【唐代の詩人】の文を読むごとに
薔薇の
水で手を清めたと言うくらいだから、
吾輩の文に対してもせめて
自腹で雑誌を買って来て、友人の御余りを借りて間に合わすと言う不始末だけはない事に致したい。これから述べるのは、
吾輩自ら余瀾と号するのだけれど、余瀾ならどうせつまらんに
極っている、読まんでもよかろうなどと思うと飛んだ後悔をする。是非しまいまで精読しなくてはいかん。
大事件のあった翌日、
吾輩はちょっと散歩がしたくなったから表へ出た。すると向う横町へ曲がろうと言う角で
金田の旦那と
鈴木の
藤さんがしきりに立ちながら話をしている。
金田君は車で
自宅へ帰るところ、
鈴木君は
金田君の留守を訪問して引き返す途中で
両人がばったりと出逢ったのである。近来は
金田の邸内も珍らしくなくなったから、
滅多にあちらの方角へは足が向かなかったが、こう御目に懸って見ると、何となく
御懐かしい。
鈴木にも
久々だから
余所ながら拝顔の栄を得ておこう。こう決心してのそのそ御両君の
佇立しておらるる
傍近く歩み寄って見ると、自然両君の談話が耳に
入る。これは
吾輩の罪ではない。先方が話しているのがわるいのだ。
金田君は探偵さえ付けて
主人の動静を
窺がうくらいの程度の良心を有している男だから、
吾輩が偶然君の談話を拝聴したって
怒らるる
気遣はあるまい。もし怒られたら君は公平と言う意味を御承知ないのである。とにかく
吾輩は両君の談話を聞いたのである。聞きたくて聴いたのではない。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(113 / 128)
聞きたくもないのに談話の方で
吾輩の耳の中へ飛び込んで来たのである。
「
只今御宅へ伺いましたところで、ちょうどよい所で御目にかかりました」と
藤さんは
鄭寧に頭をぴょこつかせる。
「
うむ、そうかえ。実はこないだから、君にちょっと逢いたいと思っていたがね。それはよかった」
「
へえ、それは好都合でございました。何かご用で」「
いや何、大した事でもないのさ。どうでもいいんだが、君でないと出来ない事なんだ」
「
私に出来る事なら何でもやりましょう。どんな事で」
「
ええ、そう……」と考えている。
「
何なら、御都合のとき出直して伺いましょう。いつが宜しゅう、ございますか」
「
なあに、そんな大した事じゃ無いのさ。――それじゃせっかくだから頼もうか」
「
どうか御遠慮なく……」
「
あの変人ね。そら君の旧友さ。苦沙弥とか何とか言うじゃないか」
「
ええ苦沙弥がどうかしましたか」
「
いえ、どうもせんがね。あの事件以来胸糞がわるくってね」
「
ごもっともで、全く苦沙弥は剛慢ですから……少しは自分の社会上の地位を考えているといいのですけれども、まるで一人天下ですから」
「
そこさ。金に頭はさげん、実業家なんぞ――とか何とか、いろいろ小生意気な事を言うから、そんなら実業家の腕前を見せてやろう、と思ってね。こないだから大分弱らしているんだが、やっぱり頑張っているんだ。どうも剛情な奴だ。驚ろいたよ」
「
どうも損得と言う観念の乏しい奴ですから無暗に痩我慢を張るんでしょう。昔からああ言う癖のある男で、つまり自分の損になる事に気が付かないんですから度し難いです」
「
あはははほんとに度し難い。いろいろ手を易え品を易えてやって見るんだがね。とうとうしまいに学校の生徒にやらした」
「
そいつは妙案ですな。利目がございましたか」
「
これにゃあ、奴も大分困ったようだ。もう遠からず落城するに極っている」
「
そりゃ結構です。いくら威張っても多勢に無勢ですからな」
「
そうさ、一人じゃあ仕方がねえ。それで大分弱ったようだが、まあどんな様子か君に行って見て来てもらおうと言うのさ」
「
はあ、そうですか。なに訳はありません。 [
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(114 / 128)
すぐ行って見ましょう。様子は帰りがけに御報知を致す事にして。面白いでしょう、あの頑固なのが意気消沈しているところは、きっと見物ですよ」
「
ああ、それじゃ帰りに御寄り、待っているから」
「
それでは御免蒙ります」
おや今度もまた
魂胆だ、なるほど実業家の勢力はえらいものだ、石炭の
燃殻のような
主人を逆上させるのも、
苦悶の結果
主人の頭が
蠅滑りの難所となるのも、その頭がイスキラスと同様の運命に
陥るのも皆実業家の勢力である。地球が地軸を回転するのは何の作用かわからないが、世の中を動かすものはたしかに金である。この金の
功力を心得て、この金の威光を自由に発揮するものは実業家諸君をおいてほかに一人もない。太陽が無事に東から出て、無事に西へ入るのも全く実業家の御蔭である。今まではわからずやの
窮措大の家に養なわれて実業家の
御利益を知らなかったのは、我ながら不覚である。それにしても
冥頑不霊の
主人も今度は少し悟らずばなるまい。これでも冥頑不霊で押し通す了見だと
危ない。
主人のもっとも貴重する命があぶない。彼は
鈴木君に逢ってどんな挨拶をするのか知らん。その模様で彼の悟り具合も
自から
分明になる。愚図愚図してはおられん、猫だって
主人の事だから
大に心配になる。早々
鈴木君をすり抜けて御先へ帰宅する。
鈴木君はあいかわらず調子のいい男である。今日は
金田の事などはおくびにも出さない、しきりに当り
障りのない世間話を面白そうにしている。
「
君少し顔色が悪いようだぜ、どうかしやせんか」
「
別にどこも何ともないさ」
「
でも青いぜ、用心せんといかんよ。時候がわるいからね。よるは安眠が出来るかね」
「
うん」
「
何か心配でもありゃしないか、僕に出来る事なら何でもするぜ。遠慮なく言い給え」
「
心配って、何を?」
「
いえ、なければいいが、もしあればと言う事さ。心配が一番毒だからな。世の中は笑って面白く暮すのが得だよ。どうも君はあまり陰気過ぎるようだ」
「
笑うのも毒だからな。無暗に笑うと死ぬ事があるぜ」
「
冗談言っちゃいけない。笑う門には福来るさ」
「
昔し希臘にクリシッパスと言う哲学者があったが、君は知るまい」
「
知らない。それがどうしたのさ」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(115 / 128)
「
その男が笑い過ぎて死んだんだ」
「
へえー、そいつは不思議だね、しかしそりゃ昔の事だから……」
「
昔しだって今だって変りがあるものか。驢馬が銀の丼から無花果を食うのを見て、おかしくってたまらなくって無暗に笑ったんだ。ところがどうしても笑いがとまらない。とうとう笑い死にに死んだんだあね」
「
はははしかしそんなに留め度もなく笑わなくってもいいさ。少し笑う――適宜に、――そうするといい心持ちだ」
鈴木君がしきりに
主人の動静を研究していると、表の門ががらがらとあく、
客来かと思うとそうでない。
「
ちょっとボールが入りましたから、取らして下さい」
下女は台所から「
はい」と答える。
書生は裏手へ廻る。
鈴木は妙な顔をして何だいと聞く。「
裏の書生がボールを庭へ投げ込んだんだ」
「
裏の書生? 裏に書生がいるのかい」
「
落雲館と言う学校さ」
「
ああそうか、学校か。随分騒々しいだろうね」
「
騒々しいの何のって。碌々勉強も出来やしない。僕が文部大臣なら早速閉鎖を命じてやる」
「
ハハハ大分怒ったね。何か癪に障る事でも有るのかい」
「
あるのないのって、朝から晩まで癪に障り続けだ」
「
そんなに癪に障るなら越せばいいじゃないか」
「
誰が越すもんか、失敬千万な」
「
僕に怒ったって仕方がない。なあに小供だあね、打ちゃっておけばいいさ」
「
君はよかろうが僕はよくない。昨日は教師を呼びつけて談判してやった」
「
それは面白かったね。恐れ入ったろう」
「
うん」
この時また
門口をあけて「
ちょっとボールが入りましたから取らして下さい」と言う声がする。
「
いや大分来るじゃないか、またボールだぜ君」
「
うん、表から来るように契約したんだ」
「
なるほどそれであんなにくるんだね。そうーか、分った」
「
何が分ったんだい」
「
なに、ボールを取りにくる源因がさ」
「
今日はこれで十六返目だ」
「
君うるさくないか。来ないようにしたらいいじゃないか」
「
来ないようにするったって、来るから仕方がないさ」
「
仕方がないと言えばそれまでだが、そう頑固にしていないでもよかろう。人間は角があると世の中を転がって行くのが骨が折れて損だよ。 [
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(116 / 128)
丸いものはごろごろどこへでも苦なしに行けるが四角なものはころがるに骨が折れるばかりじゃない、転がるたびに角がすれて痛いものだ。どうせ自分一人の世の中じゃなし、そう自分の思うように人はならないさ。まあ何だね。どうしても金のあるものに、たてを突いちゃ損だね。ただ神経ばかり痛めて、からだは悪くなる、人は褒めてくれず。向うは平気なものさ。坐って人を使いさえすればすむんだから。多勢に無勢どうせ、叶わないのは知れているさ。頑固もいいが、立て通すつもりでいるうちに、自分の勉強に障ったり、毎日の業務に煩を及ぼしたり、とどのつまりが骨折り損の草臥儲けだからね」
「
ご免なさい。今ちょっとボールが飛びましたから、裏口へ廻って、取ってもいいですか」
「
そらまた来たぜ」と
鈴木君は笑っている。
「
失敬な」と
主人は
真赤になっている。
鈴木君はもう大概訪問の意を果したと思ったから、それじゃ失敬ちと
来たまえと帰って行く。
入れ代ってやって来たのが
甘木先生である。逆上家が自分で逆上家だと名乗る者は
昔しから例が少ない、これは少々変だなと
覚った時は逆上の
峠はもう越している。
主人の逆上は
昨日の大事件の際に最高度に達したのであるが、談判も竜頭蛇尾たるに
係らず、どうかこうか始末がついたのでその晩書斎でつくづく考えて見ると少し変だと気が付いた。もっとも落雲館が変なのか、自分が変なのか
疑を存する余地は充分あるが、何しろ変に違ない。いくら中学校の隣に居を構えたって、かくのごとく年が年中
肝癪を起しつづけはちと変だと気が付いた。変であって見ればどうかしなければならん。どうするったって仕方がない、やはり医者の薬でも飲んで
肝癪の
源に
賄賂でも使って
慰撫するよりほかに道はない。こう
覚ったから平生かかりつけの
甘木先生を迎えて診察を受けて見ようと言う量見を起したのである。賢か愚か、その辺は別問題として、とにかく自分の逆上に気が付いただけは
殊勝の志、
奇特の心得と言わなければならん。
甘木先生は例のごとくにこにこと落ちつき払って、「
どうです」と言う。医者は大抵どうですと言うに
極まってる。
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(117 / 128)
吾輩は「
どうです」と言わない医者はどうも信用をおく気にならん。
「
先生どうも駄目ですよ」
「
え、何そんな事があるものですか」
「
一体医者の薬は利くものでしょうか」
甘木先生も驚ろいたが、そこは温厚の
長者だから、別段激した様子もなく、
「
利かん事もないです」と
穏かに答えた。
「
私の胃病なんか、いくら薬を飲んでも同じ事ですぜ」
「
決して、そんな事はない」
「
ないですかな。少しは善くなりますかな」と自分の胃の事を人に聞いて見る。
「
そう急には、癒りません、だんだん利きます。今でももとより大分よくなっています」
「
そうですかな」
「
やはり肝癪が起りますか」
「
起りますとも、夢にまで肝癪を起します」
「
運動でも、少しなさったらいいでしょう」
「
運動すると、なお肝癪が起ります」
甘木先生もあきれ返ったものと見えて、
「
どれ一つ拝見しましょうか」と診察を始める。診察を終るのを待ちかねた
主人は、突然大きな声を出して、
「
先生、せんだって催眠術のかいてある本を読んだら、催眠術を応用して手癖のわるいんだの、いろいろな病気だのを直す事が出来ると書いてあったですが、本当でしょうか」と聞く。
「
ええ、そう言う療法もあります」
「
今でもやるんですか」
「
ええ」
「
催眠術をかけるのはむずかしいものでしょうか」
「
なに訳はありません、私などもよく懸けます」
「
先生もやるんですか」
「
ええ、一つやって見ましょうか。誰でも懸らなければならん理屈のものです。あなたさえ善ければ懸けて見ましょう」
「
そいつは面白い、一つ懸けて下さい。私もとうから懸かって見たいと思ったんです。しかし懸かりきりで眼が覚めないと困るな」
「
なに大丈夫です。それじゃやりましょう」 相談はたちまち一決して、
主人はいよいよ催眠術を懸けらるる事となった。
吾輩は今までこんな事を見た事がないから心ひそかに喜んでその結果を座敷の隅から拝見する。先生はまず、
主人の眼からかけ始めた。その方法を見ていると、
両眼の
上瞼を上から下へと
撫でて、
主人がすでに眼を
眠っているにも
係らず、しきりに同じ方向へくせを付けたがっている。しばらくすると先生は
主人に向って「
こうやって、瞼を撫でていると、だんだん眼が重たくなるでしょう」と聞いた。
主人は「
なるほど重くなりますな」と答える。先生はなお同じように撫でおろし、撫でおろし「
だんだん重くなりますよ、ようござんすか」
[
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(118 / 128)
と言う。
主人もその気になったものか、何とも言わずに黙っている。同じ摩擦法はまた三四分繰り返される。最後に
甘木先生は「
さあもう開きませんぜ」と言われた。
可哀想に
主人の眼はとうとう
潰れてしまった。「
もう開かんのですか」「
ええもうあきません」
主人は
黙然として目を眠っている。
吾輩は
主人がもう
盲目になったものと思い込んでしまった。しばらくして先生は「
あけるなら開いて御覧なさい。とうていあけないから」と言われる。「
そうですか」と言うが早いか
主人は普通の通り
両眼を開いていた。
主人はにやにや笑いながら「
懸かりませんな」と言うと
甘木先生も同じく笑いながら「
ええ、懸りません」と言う。催眠術はついに不成功に
了る。
甘木先生も帰る。
その次に来たのが――
主人のうちへこのくらい客の来た事はない。交際の少ない
主人の家にしてはまるで
嘘のようである。しかし来たに相違ない。しかも珍客が来た。
吾輩がこの珍客の事を
一言でも記述するのは単に珍客であるがためではない。
吾輩は先刻申す通り大事件の
余瀾を
描きつつある。しかしてこの珍客はこの余瀾を描くに
方って逸すべからざる材料である。何と言う名前か知らん、ただ顔の長い上に、
山羊のような
髯を
生やしている四十前後の男と言えばよかろう。
迷亭の美学者たるに対して、
吾輩はこの男を哲学者と呼ぶつもりである。なぜ哲学者と言うと、何も
迷亭のように自分で振り散らすからではない、ただ
主人と対話する時の様子を拝見しているといかにも哲学者らしく思われるからである。これも
昔しの同窓と見えて
両人共応対振りは
至極打ち
解けた有様だ。
「
うん迷亭か、あれは池に浮いてる金魚麩のようにふわふわしているね。 [
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(119 / 128)
せんだって友人を連れて一面識もない華族の門前を通行した時、ちょっと寄って茶でも飲んで行こうと言って引っ張り込んだそうだが随分呑気だね」
「
それでどうしたい」
「
どうしたか聞いても見なかったが、――そうさ、まあ天稟の奇人だろう、その代り考も何もない全く金魚麩だ。鈴木か、――あれがくるのかい、へえー、あれは理屈はわからんが世間的には利口な男だ。金時計は下げられるたちだ。しかし奥行きがないから落ちつきがなくって駄目だ。円滑円滑と言うが、円滑の意味も何もわかりはせんよ。迷亭が金魚麩ならあれは藁で括った蒟蒻だね。ただわるく滑かでぶるぶる振えているばかりだ」
主人はこの
奇警な
比喩を聞いて、
大に感心したものらしく、久し振りでハハハと笑った。
「
そんなら君は何だい」
「
僕か、そうさな僕なんかは――まあ自然薯くらいなところだろう。長くなって泥の中に埋ってるさ」
「
君は始終泰然として気楽なようだが、羨ましいな」
「
なに普通の人間と同じようにしているばかりさ。別に羨まれるに足るほどの事もない。ただありがたい事に人を羨む気も起らんから、それだけいいね」
「
会計は近頃豊かかね」
「
なに同じ事さ。足るや足らずさ。しかし食うているから大丈夫。驚かないよ」
「
僕は不愉快で、肝癪が起ってたまらん。どっちを向いても不平ばかりだ」
「
不平もいいさ。不平が起ったら起してしまえば当分はいい心持ちになれる。人間はいろいろだから、そう自分のように人にもなれと勧めたって、なれるものではない。箸は人と同じように持たんと飯が食いにくいが、自分の麺麭は自分の勝手に切るのが一番都合がいいようだ。上手な仕立屋で着物をこしらえれば、着たてから、からだに合ったのを持ってくるが、下手の裁縫屋に誂えたら当分は我慢しないと駄目さ。しかし世の中はうまくしたもので、着ているうちには洋服の方で、こちらの骨格に合わしてくれるから。今の世に合うように上等な両親が手際よく生んでくれれば、それが幸福なのさ。しかし出来損こなったら世の中に合わないで我慢するか、または世の中で合わせるまで辛抱するよりほかに道はなかろう」
「
しかし僕なんか、いつまで立っても合いそうにないぜ、心細いね」
「
あまり合わない背広を無理にきると綻びる。 [
:
栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(120 / 128)
喧嘩をしたり、自殺をしたり騒動が起るんだね。しかし君なんかただ面白くないと言うだけで自殺は無論しやせず、喧嘩だってやった事はあるまい。まあまあいい方だよ」
「
ところが毎日喧嘩ばかりしているさ。相手が出て来なくっても怒っておれば喧嘩だろう」
「
なるほど一人喧嘩だ。面白いや、いくらでもやるがいい」
「
それがいやになった」
「
そんならよすさ」
「
君の前だが自分の心がそんなに自由になるものじゃない」
「
まあ全体何がそんなに不平なんだい」
主人はここにおいて落雲館事件を始めとして、
今戸焼の
狸から、
ぴん助、
きしゃごそのほかあらゆる不平を挙げて
滔々と哲学者の前に述べ立てた。哲学者先生はだまって聞いていたが、ようやく口を
開いて、かように
主人に説き出した。「
ぴん助やきしゃごが何を言ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。どうせ下らんのだから。中学の生徒なんか構う価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。僕はそう言う点になると西洋人より昔しの日本人の方がよほどえらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的と言って近頃大分流行るが、あれは大なる欠点を持っているよ。第一積極的と言ったって際限がない話しだ。いつまで積極的にやり通したって、満足と言う域とか完全と言う境にいけるものじゃない。向に檜があるだろう。あれが目障りになるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪に触る。どこまで行っても際限のない話しさ。西洋人の遣り口はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭へ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦ったって片付く事があるものか。寡人政治がいかんから、代議政体にする。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(121 / 128)
代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと言って隧道を堀る。交通が面倒だと言って鉄道を布く。それで永久満足が出来るものじゃない。さればと言って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと言う一大仮定の下に発達しているのだ。親子の関係が面白くないと言って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとして、その関係の下に安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物を観るのもその通り。――山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと言う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと言う工夫をする。山を越さなくとも満足だと言う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。禅家でも儒家でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日を回らす事も、加茂川を逆に流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚な事を言ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細なかろう。何でも昔しの坊主は人に斬り付けられた時電光影裏に春風を斬るとか、何とか洒落れた事を言ったと言う話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。」「
僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっているようだ。 [
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(122 / 128)
現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。君の権力であの学校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢に無勢の問題になる。換言すると君が金持に頭を下げなければならんと言う事になる。衆を恃む小供に恐れ入らなければならんと言う事になる。君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと言うのがそもそも君の不平の種さ。どうだい分ったかい」 主人は分ったとも、分らないとも言わずに聞いていた。珍客が帰ったあとで書斎へ入って書物も読まずに何か考えていた。
鈴木の
藤さんは金と衆とに従えと
主人に教えたのである。
甘木先生は催眠術で神経を沈めろと
助言したのである。最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法したのである。
主人がいずれを
択ぶかは
主人の随意である。ただこのままでは通されないに
極まっている。
九
主人は
痘痕面である。
御維新前は
あばたも
大分流行ったものだそうだが日英同盟の
今日から見ると、こんな顔はいささか時候
後れの感がある。
あばたの衰退は人口の増殖と反比例して近き将来には全くその
迹を絶つに至るだろうとは医学上の統計から精密に割り出されたる結論であって、
吾輩のごとき猫といえども
毫も疑を
挟む余地のないほどの名論である。現今地球上にあばたっ
面を有して生息している人間は何人くらいあるか知らんが、
吾輩が交際の区域内において打算して見ると、猫には一匹もない。人間にはたった一人ある。しかしてその一人が
即ち
主人である。はなはだ気の毒である。
吾輩は
主人の顔を見る度に考える。まあ何の因果でこんな妙な顔をして
臆面なく二十世紀の空気を呼吸しているのだろう。
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(123 / 128)
昔なら少しは幅も
利いたか知らんが、あらゆる
あばたが二の腕へ立ち
退きを命ぜられた昨今、依然として鼻の頭や頬の上へ陣取って
頑として動かないのは自慢にならんのみか、かえって
あばたの体面に関する訳だ。出来る事なら今のうち取り払ったらよさそうなものだ。
あばた自身だって心細いに違いない。それとも党勢不振の際、誓って落日を
中天に
挽回せずんばやまずと言う意気込みで、あんなに
横風【遠慮がない】に顔一面を占領しているのか知らん。そうするとこの
あばたは決して
軽蔑の意をもって
視るべきものでない。
滔々たる流俗に抗する
万古不磨の穴の集合体であって、
大に吾人の尊敬に値する
凸凹と言って
宜しい。ただきたならしいのが欠点である。
主人の小供のときに牛込の山伏町に浅田
宗伯と言う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ず
かごに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが
宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、
かごがたちまち人力車に変じた。だから養子が死んでそのまた養子が跡を
続いだら
葛根湯がアンチピリンに化けるかも知れない。
かごに乗って東京市中を練りあるくのは
宗伯老の当時ですらあまり見っともいいものでは無かった。こんな真似をして
澄していたものは旧弊な
亡者と、汽車へ積み込まれる豚と、
宗伯老とのみであった。
主人の
あばたもその振わざる事においては
宗伯老の
かごと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる
頑固な
主人は依然として孤城落日の
あばたを天下に
暴露しつつ毎日登校してリードルを教えている。
かくのごとき前世紀の紀念を満面に
刻して教壇に立つ彼は、その生徒に対して授業以外に
大なる訓戒を垂れつつあるに相違ない。彼は「
猿が手を持つ」を反覆するよりも「
あばたの顔面に及ぼす影響」と言う大問題を
造作もなく解釈して、
不言の
間にその答案を生徒に与えつつある。もし
主人のような人間が教師として存在しなくなった
暁には彼等生徒はこの問題を研究するために図書館もしくは博物館へ馳けつけて、吾人がミイラによって
埃及人を
髣髴すると同程度の労力を
費やさねばならぬ。この
点から見ると
主人の
痘痕も
冥々の
裡に妙な
功徳を施こしている。
もっとも
主人はこの功徳を施こすために顔一面に
疱瘡を
種え付けたのではない。これでも実は種え疱瘡をしたのである。不幸にして腕に種えたと思ったのが、いつの間にか顔へ伝染していたのである。
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(124 / 128)
その頃は小供の事で今のように
色気もなにもなかったものだから、
痒い痒いと言いながら
無暗に顔中引き
掻いたのだそうだ。ちょうど噴火山が破裂してラヴァが顔の上を流れたようなもので、親が生んでくれた顔を台なしにしてしまった。
主人は折々
細君に向って疱瘡をせぬうちは玉のような男子であったと言っている。浅草の
観音様で西洋人が振り
反って見たくらい奇麗だったなどと自慢する事さえある。なるほどそうかも知れない。ただ誰も保証人のいないのが残念である。
いくら功徳になっても訓戒になっても、きたない者はやっぱりきたないものだから、
物心がついて以来と言うもの
主人は
大に
あばたについて心配し出して、あらゆる手段を尽してこの醜態を
揉み
潰そうとした。ところが
宗伯老の
かごと違って、いやになったからと言うてそう急に打ちやられるものではない。今だに歴然と残っている。この歴然が多少気にかかると見えて、
主人は往来をあるく度毎に
あばた面を勘定してあるくそうだ。今日何人
あばたに出逢って、その
主は男か女か、その場所は小川町の
勧工場であるか、上野の公園であるか、ことごとく彼の日記につけ込んである。彼は
あばたに関する知識においては決して誰にも譲るまいと確信している。せんだってある洋行帰りの友人が来た折なぞは、「
君西洋人にはあばたがあるかな」と聞いたくらいだ。するとその友人が「
そうだな」と首を曲げながらよほど考えたあとで「
まあ滅多にないね」と言ったら、
主人は「
滅多になくっても、少しはあるかい」と念を入れて聞き返えした。友人は気のない顔で「
あっても乞食か立ん坊だよ。教育のある人にはないようだ」と答えたら、
主人は「
そうかなあ、日本とは少し違うね」と言った。
哲学者の意見によって落雲館との喧嘩を思い留った
主人はその後書斎に立て
籠ってしきりに何か考えている。彼の忠告を
容れて静坐の
裡に霊活なる精神を消極的に修養するつもりかも知れないが、元来が気の小さな人間の癖に、ああ陰気な
懐手ばかりしていては
碌な結果の出ようはずがない。それより英書でも質に入れて芸者から
喇叭節でも習った方が
遥かにましだとまでは気が付いたが、あんな
偏屈な男はとうてい猫の忠告などを聴く
気遣はないから、まあ勝手にさせたらよかろうと五六日は近寄りもせずに暮した。
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(125 / 128)
今日はあれからちょうど
七日目である。禅家などでは
一七日を限って大悟して見せるなどと
凄じい
勢で
結跏する連中もある事だから、うちの
主人もどうかなったろう、死ぬか生きるか何とか片付いたろうと、のそのそ縁側から書斎の入口まで来て室内の動静を
偵察に及んだ。
書斎は南向きの六畳で、日当りのいい所に大きな机が
据えてある。ただ大きな机ではわかるまい。長さ六尺、幅三尺八寸高さこれにかなうと言う大きな机である。無論出来合のものではない。近所の建具屋に談判して寝台
兼机として製造せしめたる
希代の品物である。何の故にこんな大きな机を新調して、また何の故にその上に寝て見ようなどという
了見を起したものか、本人に聞いて見ない事だから
頓とわからない。ほんの一時の出来心で、かかる難物を
担ぎ込んだのかも知れず、あるいはことによると一種の精神病者において吾人がしばしば
見出すごとく、縁もゆかりもない二個の観念を連想して、机と寝台を勝手に結び付けたものかも知れない。とにかく奇抜な考えである。ただ奇抜だけで役に立たないのが欠点である。
吾輩はかつて
主人がこの机の上へ昼寝をして寝返りをする
拍子に縁側へ転げ落ちたのを見た事がある。それ以来この机は決して寝台に転用されないようである。
机の前には薄っぺらなメリンスの
座布団があって、
煙草の火で焼けた穴が三つほどかたまってる。中から見える綿は薄黒い。この座布団の上に
後ろ向きにかしこまっているのが
主人である。鼠色によごれた
兵児帯をこま結びにむすんだ左右がだらりと足の裏へ垂れかかっている。この帯へじゃれ付いて、いきなり頭を張られたのはこないだの事である。
滅多に寄り付くべき帯ではない。
まだ考えているのか
下手の考と言う
喩もあるのにと
後ろから
覗き込んで見ると、机の上でいやにぴかぴかと光ったものがある。
吾輩は思わず、続け様に二三度
瞬をしたが、こいつは変だとまぶしいのを我慢してじっと光るものを見つめてやった。するとこの光りは机の上で動いている鏡から出るものだと言う事が分った。しかし
主人は何のために書斎で鏡などを振り舞わしているのであろう。
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(126 / 128)
鏡と言えば風呂場にあるに
極まっている。現に
吾輩は今朝風呂場でこの鏡を見たのだ。
この鏡ととくに言うのは
主人のうちにはこれよりほかに鏡はないからである。
主人が毎朝顔を洗ったあとで髪を分けるときにもこの鏡を用いる。――
主人のような男が髪を分けるのかと聞く人もあるかも知れぬが、実際彼は
他の事に
無精なるだけそれだけ頭を
丁寧にする。
吾輩が当家に参ってから今に至るまで
主人はいかなる炎熱の日といえども五分刈に刈り込んだ事はない。
必ず二寸くらいの長さにして、それを
御大そうに左の方で分けるのみか、右の
端をちょっと
跳ね返して
澄している。これも精神病の徴候かも知れない。こんな気取った分け方はこの机と
一向調和しないと思うが、あえて他人に害を及ぼすほどの事でないから、誰も何とも言わない。本人も得意である。分け方のハイカラなのはさておいて、なぜあんなに髪を長くするのかと思ったら実はこう言う
訳である。彼の
あばたは単に彼の顔を
侵食せるのみならず、とくの
昔しに脳天まで食い込んでいるのだそうだ。だからもし普通の人のように五分刈や三分刈にすると、短かい毛の根本から何十となく
あばたがあらわれてくる。いくら
撫でても、さすってもぽつぽつがとれない。枯野に
蛍を放ったようなもので風流かも知れないが、
細君の
御意に入らんのは
勿論の事である。髪さえ長くしておけば露見しないですむところを、好んで自己の非を
曝くにも当らぬ訳だ。なろう事なら顔まで毛を生やして、こっちの
あばたも
内済にしたいくらいなところだから、ただで
生える毛を
銭を出して刈り込ませて、私は
頭蓋骨の上まで
天然痘にやられましたよと
吹聴する必要はあるまい。――これが
主人の髪を長くする理由で、髪を長くするのが、彼の髪をわける原因で、その原因が鏡を見る訳で、その鏡が風呂場にある
所以で、しこうしてその鏡が一つしかないと言う事実である。
風呂場にあるべき鏡が、しかも一つしかない鏡が書斎に来ている以上は鏡が
離魂病に
罹ったのかまたは
主人が風呂場から持って来たに相違ない。持って来たとすれば何のために持って来たのだろう。あるいは例の消極的修養に必要な道具かも知れない。
昔し或る学者が何とかいう知識を
訪うたら、
和尚両肌を抜いで
甎を
磨しておられた。
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(127 / 128)
何をこしらえなさると質問をしたら、なにさ今鏡を造ろうと思うて一生懸命にやっておるところじゃと答えた。そこで学者は驚ろいて、なんぼ名僧でも甎を磨して鏡とする事は出来まいと言うたら、和尚からからと笑いながらそうか、それじゃやめよ、いくら書物を読んでも道はわからぬのもそんなものじゃろと
罵ったと言うから、
主人もそんな事を聞き
噛って風呂場から鏡でも持って来て、したり顔に振り廻しているのかも知れない。
大分物騒になって来たなと、そっと
窺っている。
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栞] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(128 / 128)
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