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迷亭はあの時分から法螺吹ほらふきだったな」と主人羊羹ようかんを食いおわって再び二人の話の中に割り込んで来る。
約束なんか履行りこうした事がない。それで詰問を受けると決してびた事がない何とかとか言う。あの寺の境内に百日紅さるすべりが咲いていた時分、この百日紅が散るまでに美学原論と言う著述をすると言うから、駄目だ、到底出来る気遣きづかいはないと言ったのさ。すると迷亭の答えに僕はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い男である、そんなに疑うならかけをしようと言うから僕は真面目に受けて何でも神田の西洋料理をおごりっこかなにかにめた。きっと書物なんか書く気遣はないと思ったから賭をしたようなものの内心は少々恐ろしかった。僕に西洋料理なんか奢る金はないんだからな。ところが先生一向いっこう稿を起す景色けしきがない。七日なぬか立っても二十日はつか立っても一枚も書かない。いよいよ百日紅が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるから、いよいよ西洋料理に有りついたなと思って契約履行をせまると迷亭すまして取り合わない
また何とか理屈りくつをつけたのかね」と君が相の手を入れる。
うん、実にずうずうしい男だ。吾輩はほかに能はないが意志だけは決して君方に負けはせんと剛情を張るのさ
一枚も書かんのにか」と今度は迷亭君自身が質問をする。
無論さ、その時君はこう言ったぜ。吾輩は意志の一点においてはあえて何人なんぴとにも一歩も譲らん。しかし残念な事には記憶が人一倍無い。美学原論を著わそうとする意志は充分あったのだがその意志を君に発表した翌日から忘れてしまった。それだから百日紅の散るまでに著書が出来なかったのは記憶の罪で意志の罪ではない。意志の罪でない以上は西洋料理などを奢る理由がないと威張っているのさ
なるほど迷亭君一流の特色を発揮して面白い」と鈴木君はなぜだか面白がっている。迷亭のおらぬ時の語気とはよほど違っている。これが利口な人の特色かも知れない。
何が面白いものか」と主人は今でもおこっている様子である。
それは御気の毒様、それだからその埋合うめあわせをするために孔雀くじゃくの舌なんかを金と太鼓で探しているじゃないか。まあそうおこらずに待っているさ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(1 / 128)
しかし著書と言えば君、今日は一大珍報をもたらして来たんだよ」
君はくるたびに珍報を齎らす男だから油断が出来ん
ところが今日の珍報は真の珍報さ。正札付一厘も引けなしの珍報さ。君寒月が博士論文の稿を起したのを知っているか。寒月はあんな妙に見識張った男だから博士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったら、あれでやっぱり色気があるからおかしいじゃないか。君あの鼻に是非通知してやるがいい、この頃は団栗博士どんぐりはかせの夢でも見ているかも知れない
 鈴木君は寒月の名を聞いて、話してはいけぬ話してはいけぬとあごと眼で主人に合図する。主人には一向いっこう意味が通じない。さっき鈴木君に逢って説法を受けた時は金田の娘の事ばかりが気の毒になったが、今迷亭から鼻々と言われるとまた先日喧嘩をした事を思い出す。思い出すと滑稽でもあり、また少々はにくらしくもなる。しかし寒月が博士論文を草しかけたのは何よりの御見おみやげで、こればかりは迷亭先生自賛のごとくまずまず近来の珍報である。ただに珍報のみならず、嬉しい快よい珍報である。金田の娘を貰おうが貰うまいがそんな事はまずどうでもよい。とにかく寒月の博士になるのは結構である。自分のように出来損いの木像は仏師屋の隅で虫が喰うまで白木しらきのままくすぶっていても遺憾いかんはないが、これはうまく仕上がったと思う彫刻には一日も早くはくを塗ってやりたい。
本当に論文を書きかけたのか」と鈴木君の合図はそっちけにして、熱心に聞く。
よく人の言う事を疑ぐる男だ。――もっとも問題は団栗どんぐりだか首縊くびくくりの力学だかしかと分らんがね。とにかく寒月の事だから鼻の恐縮するようなものに違いない
 さっきから迷亭が鼻々と無遠慮に言うのを聞くたんびに鈴木君は不安の様子をする。迷亭は少しも気が付かないから平気なものである。「その後鼻についてまた研究をしたが、この頃トリストラム・シャンデーの中に鼻論はなろんがあるのを発見した。金田の鼻などもスターンに見せたら善い材料になったろうに残念な事だ。鼻名びめい千載せんざいに垂れる資格は充分ありながら、あのままでち果つるとは不憫千万ふびんせんばんだ。今度ここへ来たら美学上の参考のために写生してやろう
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(2 / 128)
と相変らず口から出任でまかせに喋舌しゃべり立てる。
しかしあの娘は寒月の所へ来たいのだそうだ」と主人が今鈴木君から聞いた通りを述べると、鈴木君はこれは迷惑だと言う顔付をしてしきりに主人に目くばせをするが、主人は不導体のごとく一向いっこう電気に感染しない。
ちょっとおつだな、あんな者の子でも恋をするところが、しかし大した恋じゃなかろう、大方鼻恋はなごいくらいなところだぜ
鼻恋でも寒月が貰えばいいが
貰えばいいがって、君は先日大反対だったじゃないか。今日はいやに軟化しているぜ
軟化はせん、僕は決して軟化はせんしかし……
しかしどうかしたんだろう。ねえ鈴木、君も実業家の末席ばっせきけがす一人だから参考のために言って聞かせるがね。あの金田某なる者さ。あの某なるものの息女などを天下の秀才水島寒月の令夫人とあがめ奉るのは、少々提灯ちょうちんと釣鐘と言う次第で、我々朋友ほうゆうたる者が冷々れいれい黙過する訳に行かん事だと思うんだが、たとい実業家の君でもこれには異存はあるまい
相変らず元気がいいね。結構だ。君は十年前と様子が少しも変っていないからえらい」と鈴木君は柳に受けて、胡麻化ごまかそうとする。
えらいとめるなら、もう少し博学なところを御目にかけるがね。むかしの希臘人ギリシャじんは非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出して百方奨励の策を講じたものだ。しかるに不思議な事には学者の知識に対してのみは何等の褒美ほうびも与えたと言う記録がなかったので、今日こんにちまで実はおおいに怪しんでいたところさ
なるほど少し妙だね」と鈴木君はどこまでも調子を合せる。
しかるについ両三日前に至って、美学研究の際ふとその理由を発見したので多年の疑団ぎだんは一度に氷解。漆桶しっつうを抜くがごとく痛快なる悟りを得て歓天喜地かんてんきちの至境に達したのさ
 あまり迷亭の言葉が仰山ぎょうさんなので、さすが御上手者おじょうずもの鈴木君も、こりゃ手に合わないと言う顔付をする。主人はまた始まったなと言わぬばかりに、象牙ぞうげはしで菓子皿の縁をかんかん叩いていている。迷亭だけは大得意で弁じつづける。
そこでこの矛盾なる現象の説明を明記して、暗黒のふちから吾人の疑を千載せんざいもとに救い出してくれた者は誰だと思う。学問あって以来の学者と称せらるる希臘ギリシャの哲人、逍遥派しょうようはの元祖アリストートルその人である。彼の説明にいわくさ――おい菓子皿などを叩かんで謹聴していなくちゃいかん。――彼等希臘人が競技において得るところの賞与は彼等が演ずる技芸その物より貴重なものである。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(3 / 128)
それ故に褒美ほうびにもなり、奨励の具ともなる。しかし知識その物に至ってはどうである。もし知識に対する報酬として何物をか与えんとするならば知識以上の価値あるものを与えざるべからず。しかし知識以上の珍宝が世の中にあろうか。無論あるはずがない。下手なものをやれば知識の威厳を損する訳になるばかりだ。彼等は知識に対して千両箱をオリムパスの山ほど積み、クリーサスの富をかたむつくしても相当の報酬を与えんとしたのであるが、いかに考えても到底とうてい釣り合うはずがないと言う事を観破かんぱして、それより以来と言うものは奇麗さっぱり何にもやらない事にしてしまった。黄白青銭こうはくせいせんが知識の匹敵ひってきでない事はこれで十分理解出来るだろう。さてこの原理を服膺ふくようした上で時事問題にのぞんで見るがいい。金田某は何だい紙幣さつに眼鼻をつけただけの人間じゃないか、奇警なる語をもって形容するならば彼は一個の活動紙幣かつどうしへいに過ぎんのである。活動紙幣の娘なら活動切手くらいなところだろう。ひるがえって寒月君は如何いかんと見ればどうだ。かたじけなくも学問最高の府を第一位に卒業してごう倦怠けんたいの念なく長州征伐時代の羽織の紐をぶら下げて、日夜団栗どんぐりのスタビリチー【スタビリティー:安定性】を研究し、それでもなお満足する様子もなく、近々きんきんの中ロード・ケルヴィンを圧倒するほどな大論文を発表しようとしつつあるではないか。たまたま吾妻橋あずまばしを通り掛って身投げの芸を仕損じた事はあるが、これも熱誠なる青年に有りがちの発作的ほっさてき所為しょいごうも彼が知識の問屋とんやたるにわずらいを及ぼすほどの出来事ではない。迷亭一流のたとえをもって寒月君を評すれば彼は活動図書館である。知識をもってね上げたる二十八サンチの弾丸である。この弾丸が一たび時機を得て学界に爆発するなら、――もし爆発して見給え――爆発するだろう――」迷亭はここに至って迷亭一流と自称する形容詞が思うように出て来ないので俗に言う竜頭蛇尾りゅうとうだびの感に多少ひるんで見えたがたちまち「活動切手などは何千万枚あったって微塵みじんになってしまうさ。それだから寒月には、あんな釣り合わない女性にょしょうは駄目だ。僕が不承知だ、百獣のうちでもっとも聡明なる大象と、もっとも貪婪たんらんなる小豚と結婚するようなものだ。そうだろう苦沙弥」と言って退けると、主人はまた黙って菓子皿を叩き出す。鈴木君は少しへこんだ気味で
そんな事も無かろう」とじゅつなげに答える。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(4 / 128)
さっきまで迷亭の悪口を随分ついた揚句ここで無暗むやみな事を言うと、主人のような無法者はどんな事を破抜ぱぬくか知れない。なるべくここはいい加減に迷亭の鋭鋒をあしらって無事に切り抜けるのが上分別なのである。鈴木君は利口者である。いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが当世で、無要の口論は封建時代の遺物と心得ている。人生の目的は口舌こうぜつではない実行にある。自己の思い通りに着々事件が進捗しんちょくすれば、それで人生の目的は達せられたのである。苦労と心配と争論とがなくて事件が進捗すれば人生の目的は極楽流ごくらくりゅうに達せられるのである。鈴木君は卒業後この極楽主義によって成功し、この極楽主義によって金時計をぶら下げ、この極楽主義で金田夫婦の依頼をうけ、同じくこの極楽主義でまんまと首尾よく苦沙弥君を説き落して当該とうがい事件が十中八九まで成就じょうじゅしたところへ、迷亭なる常規をもって律すべからざる、普通の人間以外の心理作用を有するかと怪まるる風来坊ふうらいぼうが飛び込んで来たので少々その突然なるに面喰めんくらっているところである。極楽主義を発明したものは明治の紳士で、極楽主義を実行するものは鈴木藤十郎君で、今この極楽主義で困却しつつあるものもまた鈴木藤十郎君である。「君は何にも知らんからそうでもなかろうなどと澄し返って、例になく言葉寡ことばずくなに上品にひかえ込むが、せんだってあの鼻の主が来た時の様子を見たらいかに実業家贔負びいきの尊公でも辟易へきえきするにきまってるよ、ねえ苦沙弥君、君おおいに奮闘したじゃないか
それでも君より僕の方が評判がいいそうだ
アハハハなかなか自信が強い男だ。それでなくてはサヴェジ・チーなんて生徒や教師にからかわれてすまして学校へ出ちゃいられん訳だ。僕も意志は決して人に劣らんつもりだが、そんなに図太くは出来ん敬服の至りだ
生徒や教師が少々愚図愚図言ったって何が恐ろしいものか、サントブーヴは古今独歩の評論家であるが巴里パリ大学で講義をした時は非常に不評判で、彼は学生の攻撃に応ずるため外出の際必ず匕首あいくちそでの下に持って防御ぼうぎょの具となした事がある。ブルヌチェルがやはり巴里の大学でゾラの小説を攻撃した時は……
だって君ゃ大学の教師でも何でもないじゃないか。高がリードルの先生でそんな大家を例に引くのは雑魚ざこくじらをもってみずかたとえるようなもんだ、そんな事を言うとなおからかわれるぜ
黙っていろ。サントブーヴだって俺だって同じくらいな学者だ
大変な見識だな。しかし懐剣をもって歩行あるくだけはあぶないから真似まねない方がいいよ。大学の教師が懐剣ならリードルの教師はまあ小刀こがたなくらいなところだな。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(5 / 128)
しかしそれにしても刃物は剣呑けんのんだから仲見世なかみせへ行っておもちゃの空気銃を買って来て背負しょってあるくがよかろう。愛嬌あいきょうがあっていい。ねえ鈴木君」と言うと鈴木君はようやく話が金田事件を離れたのでほっと一息つきながら
相変らず無邪気で愉快だ。十年振りで始めて君等に逢ったんで何だか窮屈な路次ろじから広い野原へ出たような気持がする。どうも我々仲間の談話は少しも油断がならなくてね。何を言うにも気をおかなくちゃならんから心配で窮屈で実に苦しいよ。話は罪がないのがいいね。そして昔しの書生時代の友達と話すのが一番遠慮がなくっていい。ああ今日ははからず迷亭君にって愉快だった。僕はちと用事があるからこれで失敬する」と鈴木君が立ちけると、迷亭も「僕もいこう、僕はこれから日本橋の演芸えんげい 矯風会きょうふうかいに行かなくっちゃならんから、そこまでいっしょに行こう」「そりゃちょうどいい久し振りでいっしょに散歩しよう」と両君は手をたずさえて帰る。


     

 二十四時間の出来事をれなく書いて、洩れなく読むには少なくも二十四時間かかるだろう、いくら写生文を鼓吹こすいする吾輩でもこれは到底猫のくわだて及ぶべからざる芸当と自白せざるを得ない。従っていかに吾輩主人が、二六時中精細なる描写に価する奇言奇行をろうするにもかかわらず逐一これを読者に報知するの能力と根気のないのははなはだ遺憾いかんである。遺憾ではあるがやむを得ない。休養は猫といえども必要である。鈴木君と迷亭君の帰ったあとは木枯こがらしのはたと吹きんで、しんしんと降る雪の夜のごとく静かになった。主人は例のごとく書斎へ引きこもる。小供は六畳のへ枕をならべて寝る。一間半のふすまを隔てて南向のへやには細君が数え年三つになる、めん子さんと添乳そえぢして横になる。花曇りに暮れを急いだ日はく落ちて、表を通る駒下駄の音さえ手に取るように茶の間へ響く。隣町となりちょうの下宿で明笛みんてきを吹くのが絶えたり続いたりして眠い耳底じていに折々鈍い刺激を与える。外面そとは大方おぼろであろう。晩餐にはんぺんの煮汁だし鮑貝あわびがいをからにした腹ではどうしても休養が必要である。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(6 / 128)
 ほのかにうけたまわれば世間には猫の恋とか称する俳諧はいかい趣味の現象があって、春さきは町内の同族共の夢安からぬまで浮かれるく夜もあるとか言うが、吾輩はまだかかる心的変化に遭逢そうほうした事はない。そもそも恋は宇宙的の活力である。かみは在天の神ジュピターよりしもは土中に鳴く蚯蚓みみず、おけらに至るまでこの道にかけて浮身をやつすのが万物の習いであるから、吾輩どもがおぼろうれしと、物騒な風流気を出すのも無理のない話しである。回顧すればかく言う吾輩三毛みけこに思いがれた事もある。三角主義の張本金田君の令嬢阿倍川の富子さえ寒月君に恋慕したと言ううわさである。それだから千金の春宵しゅんしょうを心も空に満天下の雌猫雄猫めねこおねこが狂い廻るのを煩悩ぼんのうまよいのと軽蔑けいべつする念は毛頭ないのであるが、いかんせん誘われてもそんな心が出ないから仕方がない。吾輩目下の状態はただ休養を欲するのみである。こう眠くては恋も出来ぬ。のそのそと小供布団ふとんすそへ廻って心地快ここちよく眠る。……
 ふと眼をいて見ると主人はいつの間にか書斎から寝室へ来て細君の隣に延べてある布団ふとんの中にいつの間にかもぐり込んでいる。主人の癖として寝る時は必ず横文字の小本こほんを書斎からたずさえて来る。しかし横になってこの本を二ページと続けて読んだ事はない。ある時は持って来て枕元へ置いたなり、まるで手を触れぬ事さえある。一行も読まぬくらいならわざわざげてくる必要もなさそうなものだが、そこが主人主人たるところでいくら細君が笑っても、止せと言っても、決して承知しない。毎夜読まない本をご苦労千万にも寝室まで運んでくる。ある時は慾張って三四冊も抱えて来る。せんだってじゅうは毎晩ウェブスターの大字典さえ抱えて来たくらいである。思うにこれは主人の病気で贅沢ぜいたくな人が竜文堂りゅうぶんどうに鳴る松風の音を聞かないと寝つかれないごとく、主人も書物を枕元に置かないと眠れないのであろう、して見ると主人に取っては書物は読む者ではない眠を誘う器械である。活版の睡眠剤である。
 今夜も何か有るだろうとのぞいて見ると、赤い薄い本が主人口髯くちひげの先につかえるくらいな地位に半分開かれて転がっている。主人の左の手の拇指おやゆびが本の間にはさまったままであるところからすと奇特にも今夜は五六行読んだものらしい。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(7 / 128)
赤い本と並んで例のごとくニッケルの袂時計たもとどけいが春に似合わぬ寒き色を放っている。
 細君乳呑児ちのみごを一尺ばかり先へ放り出して口をいていびきをかいて枕をはずしている。およそ人間において何が見苦しいと言って口を開けて寝るほどの不体裁はあるまいと思う。猫などは生涯しょうがいこんな恥をかいた事がない。元来口は音を出すため鼻は空気を吐呑とどんするための道具である。もっとも北の方へ行くと人間が無精になってなるべく口をあくまいと倹約をする結果鼻で言語を使うようなズーズーもあるが、鼻を閉塞へいそくして口ばかりで呼吸の用を弁じているのはズーズーよりも見ともないと思う。第一天井からねずみふんでも落ちた時危険である。
 小供の方はと見るとこれも親に劣らぬていたらくで寝そべっている。姉のとん子は、姉の権利はこんなものだと言わぬばかりにうんと右の手を延ばして妹の耳の上へのせている。妹のすん子はその復讐ふくしゅうに姉の腹の上に片足をあげて踏反ふんぞり返っている。双方共寝た時の姿勢より九十度はたしかに回転している。しかもこの不自然なる姿勢を維持しつつ両人とも不平も言わずおとなしく熟睡している。
 さすがに春の灯火ともしびは格別である。天真爛漫らんまんながら無風流極まるこの光景のうちに良夜を惜しめとばかりゆかしげに輝やいて見える。もう何時なんじだろうとへやの中を見回すと四隣はしんとしてただ聞えるものは柱時計と細君のいびきと遠方で下女の歯軋はぎしりをする音のみである。この下女は人から歯軋りをすると言われるといつでもこれを否定する女である。私は生れてから今日こんにちに至るまで歯軋りをしたおぼえはございませんと強情を張って決して直しましょうとも御気の毒でございますとも言わず、ただそんな覚はございませんと主張する。なるほど寝ていてする芸だから覚はないに違ない。しかし事実は覚がなくても存在する事があるから困る。世の中には悪い事をしておりながら、自分はどこまでも善人だと考えているものがある。これは自分が罪がないと自信しているのだから無邪気で結構ではあるが、人の困る事実はいかに無邪気でも滅却する訳には行かぬ。こう言う紳士淑女はこの下女の系統に属するのだと思う。――夜は大分更だいぶふけたようだ。
 台所の雨戸にトントンと二返ばかり軽くあたった者がある。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(8 / 128)
はてな今頃人の来るはずがない。大方例の鼠だろう、鼠なららん事に極めているから勝手にあばれるがよろしい。――またトントンとあたる。どうも鼠らしくない。鼠としても大変用心深い鼠である。主人の内の鼠は、主人の出る学校の生徒のごとく日中にっちゅうでも夜中やちゅうでも乱暴狼藉ろうぜきの練修に余念なく、憫然びんぜんなる主人の夢を驚破きょうはするのを天職のごとく心得ている連中だから、かくのごとく遠慮する訳がない。今のはたしかに鼠ではない。せんだってなどは主人の寝室にまで闖入ちんにゅうして高からぬ主人の鼻の頭をんで凱歌がいかを奏して引き上げたくらいの鼠にしてはあまり臆病すぎる。決して鼠ではない。今度はギーと雨戸を下から上へ持ち上げる音がする、同時に腰障子を出来るだけゆるやかに、溝に添うてすべらせる。いよいよ鼠ではない。人間だ。この深夜に人間が案内も乞わず戸締とじまりずして御光来になるとすれば迷亭先生や鈴木君ではないにきまっている。御高名だけはかねてうけたまわっている泥棒陰士どろぼういんしではないか知らん。いよいよ陰士とすれば早く尊顔そんがんを拝したいものだ。陰士は今や勝手の上に大いなる泥足を上げて二足ふたあしばかり進んだ模様である。三足目と思う頃揚板あげいたつまずいてか、ガタリとよるに響くような音を立てた。吾輩の背中の毛が靴刷毛くつばけで逆にすられたような心持がする。しばらくは足音もしない。細君を見るとだ口をあいて太平の空気を夢中に吐呑とどんしている。主人は赤い本に拇指おやゆびはさまれた夢でも見ているのだろう。やがて台所でマチをる音が聞える。陰士でも吾輩ほど夜陰に眼はかぬと見える。勝手がわるくて定めし不都合だろう。
 この時吾輩蹲踞うずくまりながら考えた。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(9 / 128)
陰士は勝手から茶の間の方面へ向けて出現するのであろうか、または左へ折れ玄関を通過して書斎へと抜けるであろうか。――足音はふすまの音と共に縁側へ出た。陰士はいよいよ書斎へ這入った。それぎり音も沙汰もない。
 吾輩はこの間に早く主人夫婦を起してやりたいものだとようやく気が付いたが、さてどうしたら起きるやら、一向いっこう要領を得ん考のみが頭の中に水車みずぐるまの勢で回転するのみで、何等の分別も出ない。布団ふとんすそくわえて振って見たらと思って、二三度やって見たが少しも効用がない。冷たい鼻を頬にり付けたらと思って、主人の顔の先へ持って行ったら、主人は眠ったまま、手をうんと延ばして、吾輩の鼻づらをやと言うほど突き飛ばした。鼻は猫にとっても急所である。痛む事おびただしい。此度こんどは仕方がないからにゃーにゃーと二返ばかり鳴いて起こそうとしたが、どう言うものかこの時ばかりは咽喉のどに物がつかえて思うような声が出ない。やっとの思いで渋りながら低い奴を少々出すと驚いた。肝心かんじん主人める気色けしきもないのに突然陰士の足音がし出した。ミチリミチリと縁側をつたって近づいて来る。いよいよ来たな、こうなってはもう駄目だとあきらめて、ふすま柳行李やなぎごうりの間にしばしの間身を忍ばせて動静をうかがう。
 陰士の足音は寝室の障子の前へ来てぴたりとむ。吾輩は息をらして、この次は何をするだろうと一生懸命になる。あとで考えたが鼠をる時は、こんな気分になれば訳はないのだ、たましいが両方の眼から飛び出しそうないきおいである。陰士の御蔭で二度とないさとりを開いたのは実にありがたい。たちまち障子のさんの三つ目が雨に濡れたように真中だけ色が変る。それをすかして薄紅うすくれないなものがだんだん濃く写ったと思うと、紙はいつか破れて、赤い舌がぺろりと見えた。舌はしばしの間に暗い中に消える。入れ代って何だか恐しく光るものが一つ、破れたあなの向側にあらわれる。疑いもなく陰士の眼である。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(10 / 128)
妙な事にはその眼が、部屋の中にある何物をも見ないで、ただ柳行李のうしろに隠れていた吾輩のみを見つめているように感ぜられた。一分にも足らぬ間ではあったが、こうにらまれては寿命が縮まると思ったくらいである。もう我慢出来んから行李の影から飛出そうと決心した時、寝室の障子がスーと明いて待ち兼ねた陰士がついに眼前にあらわれた。
 吾輩は叙述の順序として、不時の珍客なる泥棒陰士その人をこの際諸君に御紹介するの栄誉を有するわけであるが、その前ちょっと卑見を開陳かいちんしてご高慮をわずらわしたい事がある。古代の神は全智全能とあがめられている。ことに耶蘇教ヤソきょうの神は二十世紀の今日こんにちまでもこの全智全能のめんかぶっている。しかし俗人の考うる全智全能は、時によると無知無能とも解釈が出来る。こう言うのは明かにパラドックスである。しかるにこのパラドックスを道破どうはした者は天地開闢てんちかいびゃく以来吾輩のみであろうと考えると、自分ながら満更まんざらな猫でもないと言う虚栄心も出るから、是非共ここにその理由を申し上げて、猫も馬鹿に出来ないと言う事を、高慢なる人間諸君の脳裏のうりに叩き込みたいと考える。天地万有は神が作ったそうな、して見れば人間も神の御製作であろう。現に聖書とか言うものにはその通りと明記してあるそうだ。さてこの人間について、人間自身が数千年来の観察を積んで、おおいに玄妙不思議がると同時に、ますます神の全智全能を承認するように傾いた事実がある。それはほかでもない、人間もかようにうじゃうじゃいるが同じ顔をしている者は世界中に一人もいない。顔の道具は無論きまっている、おおきさも大概は似たり寄ったりである。換言すれば彼等は皆同じ材料から作り上げられている、同じ材料で出来ているにも関らず一人も同じ結果に出来上っておらん。よくまああれだけの簡単な材料でかくまで異様な顔を思いついた者だと思うと、製造家の技量ぎりょうに感服せざるを得ない。よほど独創的な想像力がないとこんな変化は出来んのである。一代の画工が精力を消耗しょうこうして変化を求めた顔でも十二三種以外に出る事が出来んのをもってせば、人間の製造を一手いって受負うけおった神の手際てぎわは格別な者だと驚嘆せざるを得ない。到底人間社会において目撃し得ざるていの技量であるから、これを全能的技量と言ってもつかえないだろう。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(11 / 128)
人間はこの点においておおいに神に恐れ入っているようである、なるほど人間の観察点から言えばもっともな恐れ入り方である。しかし猫の立場から言うと同一の事実がかえって神の無能力を証明しているとも解釈が出来る。もし全然無能でなくとも人間以上の能力は決してない者であると断定が出来るだろうと思う。神が人間の数だけそれだけ多くの顔を製造したと言うが、当初から胸中に成算があってかほどの変化を示したものか、または猫も杓子しゃくしも同じ顔に造ろうと思ってやりかけて見たが、とうていうまく行かなくて出来るのも出来るのも作りそこねてこの乱雑な状態におちいったものか、分らんではないか。彼等顔面の構造は神の成功の紀念と見らるると同時に失敗の痕迹こんせきとも判ぜらるるではないか。全能とも言えようが、無能と評したって差し支えはない。彼等人間の眼は平面の上に二つ並んでいるので左右を一時いちじに見る事が出来んから事物の半面だけしか視線内に這入らんのは気の毒な次第である。立場をえて見ればこのくらい単純な事実は彼等の社会に日夜間断なく起りつつあるのだが、本人のぼせ上がって、神にまれているから悟りようがない。製作の上に変化をあらわすのが困難であるならば、その上に徹頭徹尾の模傚もこうを示すのも同様に困難である。ラファエルに寸分違わぬ聖母の像を二枚かけと注文するのは、全然似寄らぬマドンナを双幅そうふく見せろとせまると同じく、ラファエルにとっては迷惑であろう、否同じ物を二枚かく方がかえって困難かも知れぬ。弘法大師に向って昨日きのう書いた通りの筆法で空海と願いますと言う方がまるで書体をえてと注文されるよりも苦しいかも分らん。人間の用うる国語は全然模傚主義もこうしゅぎで伝習するものである。彼等人間が母から、乳母うばから、他人から実用上の言語を習う時には、ただ聞いた通りを繰り返すよりほかに毛頭の野心はないのである。出来るだけの能力で人真似をするのである。かように人真似から成立する国語が十年二十年と立つうち、発音に自然と変化を生じてくるのは、彼等に完全なる模傚もこうの能力がないと言う事を証明している。純粋の模傚もこうはかくのごとく至難なものである。従って神が彼等人間を区別の出来ぬよう、悉皆しっかい焼印の御かめのごとく作り得たならばますます神の全能を表明し得るもので、同時に今日こんにちのごとく勝手次第な顔を天日てんぴらさして、目まぐるしきまでに変化を生ぜしめたのはかえってその無能力を推知し得るの具ともなり得るのである。
 吾輩は何の必要があってこんな議論をしたか忘れてしまった。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(12 / 128)
もとを忘却するのは人間にさえありがちの事であるから猫には当然の事さと大目に見て貰いたい。とにかく吾輩は寝室の障子をあけて敷居の上にぬっと現われた泥棒陰士を瞥見べっけんした時、以上の感想が自然と胸中にき出でたのである。なぜ湧いた?――なぜと言う質問が出れば、今一応考え直して見なければならん。――ええと、その訳はこうである。
 吾輩の眼前に悠然ゆうぜんとあらわれた陰士の顔を見るとその顔が――平常ふだん神の製作についてその出来栄できばえをあるいは無能の結果ではあるまいかと疑っていたのに、それを一時に打ち消すに足るほどな特徴を有していたからである。特徴とはほかではない。彼の眉目びもくがわが親愛なる好男子水島寒月君にうり二つであると言う事実である。吾輩は無論泥棒に多くの知己ちきは持たぬが、その行為の乱暴なところから平常ふだん想像してひそかに胸中にえがいていた顔はないでもない。小鼻の左右に展開した、一銭銅貨くらいの眼をつけた、毬栗いがぐりあたまにきまっていると自分で勝手にめたのであるが、見ると考えるとは天地の相違、想像は決してたくましくするものではない。この陰士はせいのすらりとした、色の浅黒い一の字眉の、意気で立派な泥棒である。年は二十六七歳でもあろう、それすら寒月君の写生である。神もこんな似た顔を二個製造し得る手際てぎわがあるとすれば、決して無能をもって目する訳には行かぬ。いや実際の事を言うと寒月君自身が気が変になって深夜に飛び出して来たのではあるまいかと、はっと思ったくらいよく似ている。ただ鼻の下に薄黒くひげ芽生めばえが植え付けてないのでさては別人だと気が付いた。寒月君は苦味にがみばしった好男子で、活動小切手と迷亭から称せられたる、金田富子嬢を優に吸収するに足るほどな念入れの製作物である。しかしこの陰士も人相から観察するとその婦人に対する引力上の作用において決して寒月君に一歩も譲らない。もし金田の令嬢が寒月君の眼付や口先に迷ったのなら、同等の熱度をもってこの泥棒君にもれ込まなくては義理が悪い。義理はとにかく、論理に合わない。ああ言う才気のある、何でも早分りのする性質たちだからこのくらいの事は人から聞かんでもきっと分るであろう。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(13 / 128)
して見ると寒月君の代りにこの泥棒を差し出しても必ず満身の愛を捧げて琴瑟きんしつ調和の実を挙げらるるに相違ない。万一寒月君が迷亭などの説法に動かされて、この千古の良縁が破れるとしても、この陰士が健在であるうちは大丈夫である。吾輩は未来の事件の発展をここまで予想して、富子嬢のために、やっと安心した。この泥棒君が天地の間に存在するのは富子嬢の生活を幸福ならしむる一大要件である。
 陰士は小脇になにか抱えている。見ると先刻さっき主人が書斎へ放り込んだ古毛布ふるげっとである。唐桟とうざん半纏はんてんに、御納戸おなんど博多はかたの帯を尻の上にむすんで、生白なまじろすねひざから下むき出しのまま今や片足を挙げて畳の上へ入れる。先刻さっきから赤い本に指をまれた夢を見ていた、主人はこの時寝返りをどうと打ちながら「寒月」と大きな声を出す。陰士は毛布けっとを落して、出した足を急に引き込ます。障子の影に細長い向脛むこうずねが二本立ったままかすかに動くのが見える。主人はうーん、むにゃむにゃと言いながら例の赤本を突き飛ばして、黒い腕を皮癬病ひぜんやみのようにぼりぼりく。そのあとは静まり返って、枕をはずしたなり寝てしまう。寒月だと言ったのは全く我知らずの寝言と見える。陰士はしばらく縁側に立ったまま室内の動静をうかがっていたが、主人夫婦の熟睡しているのを見済みすましてまた片足を畳の上に入れる。今度は寒月だと言う声も聞えぬ。やがて残る片足も踏み込む。一穂いっすい春灯しゅんとうで豊かに照らされていた六畳のは、陰士の影に鋭どく二分せられて柳行李やなぎごうりへんから吾輩の頭の上を越えて壁のなかばが真黒になる。振り向いて見ると陰士の顔の影がちょうど壁の高さの三分の二の所に漠然ばくぜんと動いている。好男子も影だけ見ると、がしらもののごとくまことに妙な格好かっこうである。陰士は細君の寝顔を上からのぞき込んで見たが何のためかにやにやと笑った。笑い方までが寒月君の模写であるには吾輩も驚いた。
 細君の枕元には四寸角の一尺五六寸ばかりの釘付くぎづけにした箱が大事そうに置いてある。これは肥前の国は唐津からつの住人 多々良たたら三平さんぺい君が先日帰省した時御土産おみやげに持って来た山のいもである。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(14 / 128)
山の芋を枕元へ飾って寝るのはあまり例のない話しではあるがこの細君は煮物に使う三盆さんぼん用箪笥ようだんすへ入れるくらい場所の適不適と言う観念に乏しい女であるから、細君にとれば、山の芋はおろか、沢庵たくあんが寝室にっても平気かも知れん。しかし神ならぬ陰士はそんな女と知ろうはずがない。かくまで丁重ていちょうに肌身に近く置いてある以上は大切な品物であろうと鑑定するのも無理はない。陰士はちょっと山の芋の箱を上げて見たがその重さが陰士の予期と合して大分だいぶ目方がかかりそうなのですこぶる満足のていである。いよいよ山の芋を盗むなと思ったら、しかもこの好男子にして山の芋を盗むなと思ったら急におかしくなった。しかし滅多めったに声を立てると危険であるからじっとこらえている。
 やがて陰士は山の芋の箱をうやうやしく古毛布ふるげっとにくるみ初めた。なにかからげるものはないかとあたりを見回す。と、幸い主人が寝る時にきすてた縮緬ちりめん兵古帯へこおびがある。陰士は山の芋の箱をこの帯でしっかりくくって、苦もなく背中へしょう。あまり女がく体裁ではない。それから小供のちゃんちゃんを二枚、主人のめりやす股引ももひきの中へ押し込むと、股のあたりが丸くふくれて青大将あおだいしょうかえるを飲んだような――あるいは青大将の臨月りんげつと言う方がよく形容し得るかも知れん。とにかく変な格好かっこうになった。嘘だと思うなら試しにやって見るがよろしい。陰士はめり安をぐるぐるくびたまきつけた。その次はどうするかと思うと主人つむぎの上着を大風呂敷のようにひろげてこれに細君の帯と主人の羽織と繻絆じゅばんとその他あらゆる雑物ぞうもつを奇麗に畳んでくるみ込む。その熟練と器用なやり口にもちょっと感心した。それから細君の帯上げとしごきとをぎ合わせてこの包みをくくって片手にさげる。まだ頂戴ちょうだいするものは無いかなと、あたりを見回していたが、主人の頭の先に「朝日」の袋があるのを見付けて、ちょっとたもとへ投げ込む。またその袋の中から一本出してランプにかざして火をける。まそうに深く吸って吐き出した煙りが、乳色のホヤをめぐってまだ消えぬ間に、陰士の足音は縁側を次第に遠のいて聞えなくなった。主人夫婦は依然として熟睡している。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(15 / 128)
人間も存外迂濶うかつなものである。
 吾輩はまた暫時ざんじの休養を要する。のべつに喋舌しゃべっていては身体が続かない。ぐっと寝込んで眼がめた時は弥生やよいの空が朗らかに晴れ渡って勝手口に主人夫婦が巡査と対談をしている時であった。
それでは、ここから入って寝室の方へ廻ったんですな。あなた方は睡眠中で一向いっこう気がつかなかったのですな
ええ」と主人は少しきまりがわるそうである。
それで盗難にかかったのは何時なんじ頃ですか」と巡査は無理な事を聞く。時間が分るくらいならにも盗まれる必要はないのである。それに気が付かぬ主人夫婦はしきりにこの質問に対して相談をしている。
何時頃かな
そうですね」と細君は考える。考えれば分ると思っているらしい。
あなたはゆうべ何時に御休みになったんですか
俺の寝たのは御前よりあとだ
ええわたくしの伏せったのは、あなたより前です
眼が覚めたのは何時だったかな
七時半でしたろう
すると盗賊の這入ったのは、何時頃になるかな
なんでも夜なかでしょう
夜中よなかは分りきっているが、何時頃かと言うんだ
たしかなところはよく考えて見ないと分りませんわ」と細君はまだ考えるつもりでいる。巡査はただ形式的に聞いたのであるから、いつ這入ったところが一向いっこう 痛痒つうようを感じないのである。嘘でも何でも、いい加減な事を答えてくれればいと思っているのに主人夫婦が要領を得ない問答をしているものだから少々れたくなったと見えて
それじゃ盗難の時刻は不明なんですな」と言うと、主人は例のごとき調子で
まあ、そうですな」と答える。巡査は笑いもせずに
じゃあね、明治三十八年何月何日戸締りをして寝たところが盗賊が、どこそこの雨戸をはずしてどこそこに忍び込んで品物を何点盗んで行ったから右告訴及みぎこくそにおよび  候也そうろうなりという書面をお出しなさい。届ではない告訴です。名宛なあてはない方がいい
品物は一々かくんですか
ええ羽織何点代価いくらと言う風に表にして出すんです。――いや入って見たって仕方がない。られたあとなんだから」と平気な事を言って帰って行く。
 主人筆硯ふですずりを座敷の真中へ持ち出して、細君を前に呼びつけて「これから盗難告訴をかくから、盗られたものを一々言え。さあ言え」とあたかも喧嘩でもするような口調で言う。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(16 / 128)
あらいやだ、さあ言えだなんて、そんな権柄けんぺいずくで誰が言うもんですか」と細帯を巻き付けたままどっかと腰をえる。
その風はなんだ、宿場女郎の出来損できそこない見たようだ。なぜ帯をしめて出て来ん
これで悪るければ買って下さい。宿場女郎でも何でも盗られりゃ仕方がないじゃありませんか
帯までとって行ったのか、ひどい奴だ。それじゃ帯から書き付けてやろう。帯はどんな帯だ
どんな帯って、そんなに何本もあるもんですか、黒繻子くろじゅす縮緬ちりめんの腹合せの帯です
黒繻子と縮緬の腹合せの帯一筋――あたいはいくらくらいだ
六円くらいでしょう
生意気に高い帯をしめてるな。今度から一円五十銭くらいのにしておけ
そんな帯があるものですか。それだからあなたは不人情だと言うんです。女房なんどは、どんな汚ない風をしていても、自分さいけりゃ、構わないんでしょう
まあいいや、それから何だ
糸織いとおりの羽織です、あれは河野こうのの叔母さんの形身かたみにもらったんで、同じ糸織でも今の糸織とは、たちが違います
そんな講釈は聞かんでもいい。値段はいくらだ」「十五円
十五円の羽織を着るなんて身分不相当だ
いいじゃありませんか、あなたに買っていただきゃあしまいし
その次は何だ
黒足袋が一足
御前のか
あなたんでさあね。代価が二十七銭
それから?
山の芋が一箱
山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか
どうするつもりか知りません。泥棒のところへ行って聞いていらっしゃい
いくらするか
山の芋のねだんまでは知りません
そんなら十二円五十銭くらいにしておこう
馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津からつから掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか
しかし御前は知らんと言うじゃないか
知りませんわ、知りませんが十二円五十銭なんて法外ですもの
知らんけれども十二円五十銭は法外だとは何だ。まるで論理に合わん。それだから貴様はオタンチン・パレオロガスだと言うんだ
何ですって
オタンチン・パレオロガスだよ
何ですそのオタンチン・パレオロガスって言うのは
何でもいい。それからあとは――俺の着物は一向いっこう出て来んじゃないか
あとは何でもうござんす。オタンチン・パレオロガスの意味を聞かして頂戴ちょうだい
意味もにもあるもんか
教えて下すってもいいじゃありませんか、あなたはよっぽど私を馬鹿にしていらっしゃるのね。きっと人が英語を知らないと思って悪口をおっしゃったんだよ
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(17 / 128)
な事を言わんで、早くあとを言うが好い。早く告訴をせんと品物が返らんぞ
どうせ今から告訴をしたって間に合いやしません。それよりか、オタンチン・パレオロガスを教えて頂戴
うるさい女だな、意味も何にも無いと言うに
そんなら、品物の方もあとはありません
頑愚がんぐだな。それでは勝手にするがいい。俺はもう盗難告訴を書いてやらんから
私も品数しなかずを教えて上げません。告訴はあなたが御自分でなさるんですから、私は書いていただかないでも困りません
それじゃそう」と主人は例のごとくふいと立って書斎へ這入る。細君は茶の間へ引き下がって針箱の前へ坐る。両人ふたり共十分間ばかりは何にもせずに黙って障子をにらめ付けている。
 ところへ威勢よく玄関をあけて、山の芋の寄贈者 多々良たたら三平さんぺい君が上ってくる。多々良三平君はもとこの書生であったが今では法科大学を卒業してある会社の鉱山部に雇われている。これも実業家の芽生めばえで、鈴木藤十郎君の後進生である。三平君は以前の関係から時々旧先生の草廬そうろを訪問して日曜などには一日遊んで帰るくらい、この家族とは遠慮のない間柄である。
奥さん。よか天気でござります」と唐津訛からつなまりか何かで細君の前にズボンのまま立て膝をつく。
おや多々良さん
先生はどこぞ出なすったか
いいえ書斎にいます
奥さん、先生のごと勉強しなさると毒ですばい。たまの日曜だもの、あなた
わたしに言っても駄目だから、あなたが先生にそうおっしゃい
そればってんが……」と言い掛けた三平君は座敷中を見回わして「今日は御嬢さんも見えんな」と半分妻君に聞いているや否や次のからとん子とすん子が馳け出して来る。
多々良さん、今日は御寿司おすしを持って来て?」と姉のとん子は先日の約束を覚えていて、三平君の顔を見るや否や催促する。多々良君は頭をきながら
よう覚えているのう、この次はきっと持って来ます。今日は忘れた」と白状する。
いやーだ」と姉が言うと妹もすぐ真似をして「いやーだ」とつける。細君はようやく御機嫌が直って少々笑顔になる。
寿司は持って来んが、山の芋は上げたろう。御嬢さん喰べなさったか
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(18 / 128)
山の芋ってなあに?」と姉がきくと妹が今度もまた真似をして「山の芋ってなあに?」と三平君に尋ねる。
まだ食いなさらんか、早く御母おかあさんに煮て御貰い。唐津からつの山の芋は東京のとは違ってうまかあ」と三平君が国自慢をすると、細君はようやく気が付いて
多々良さんせんだっては御親切に沢山ありがとう
どうです、喰べて見なすったか、折れんように箱をあつらえて堅くつめて来たから、長いままでありましたろう
ところがせっかく下すった山の芋をゆうべ泥棒に取られてしまって
ぬすが? 馬鹿な奴ですなあ。そげん山の芋の好きな男がおりますか?」と三平おおいに感心している。
御母おかあさま、夕べ泥棒が這入ったの?」と姉が尋ねる。
ええ」と細君かろく答える。
泥棒が入って――そうして――泥棒が入って――どんな顔をして這入ったの?」と今度は妹が聞く。この奇問には細君も何と答えてよいか分らんので
こわい顔をして入りました」と返事をして多々良君の方を見る。
恐い顔って多々良さん見たような顔なの」と姉が気の毒そうにもなく、押し返して聞く。
何ですね。そんな失礼な事を
ハハハハわたしの顔はそんなに恐いですか。困ったな」と頭をく。多々良君の頭の後部には直径一寸ばかりの禿はげがある。一カ月前から出来だして医者に見て貰ったが、まだ容易になおりそうもない。この禿を第一番に見付けたのは姉のとん子である。
あら多々良さんの頭は御母おかあさまのようにかってよ
だまっていらっしゃいと言うのに
御母あさま夕べの泥棒の頭も光かってて」とこれは妹の質問である。細君多々良君とは思わず吹き出したが、あまりわずらわしくて話も何も出来ぬので「さあさあ御前さん達は少し御庭へ出て御遊びなさい。今に御母あさまが好い御菓子を上げるから」と細君はようやく子供を追いやって
多々良さんの頭はどうしたの」と真面目に聞いて見る。
虫が食いました。なかなか癒りません。奥さんも有んなさるか
やだわ、虫が食うなんて、そりゃまげで釣るところは女だから少しは禿げますさ
禿はみんなバクテリヤですばい
わたしのはバクテリヤじゃありません
そりゃ奥さん意地張りたい
何でもバクテリヤじゃありません。しかし英語で禿の事を何とか言うでしょう
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(19 / 128)
禿はボールドとか言います
いいえ、それじゃないの、もっと長い名があるでしょう
先生に聞いたら、すぐわかりましょう
先生はどうしても教えて下さらないから、あなたに聞くんです
わたしはボールドより知りませんが。長かって、どげんですか
オタンチン・パレオロガスと言うんです。オタンチンと言うのが禿と言う字で、パレオロガスが頭なんでしょう
そうかも知れませんたい。今に先生の書斎へ行ってウェブスターを引いて調べて上げましょう。しかし先生もよほど変っていなさいますな。この天気の好いのに、うちにじっとして――奥さん、あれじゃ胃病は癒りませんな。ちと上野へでも花見に出掛けなさるごと勧めなさい
あなたが連れ出して下さい。先生は女の言う事は決して聞かない人ですから
この頃でもジャムをめなさるか
ええ相変らずです
せんだって、先生こぼしていなさいました。どうもさいが俺のジャムの舐め方が烈しいと言って困るが、俺はそんなに舐めるつもりはない。何か勘定違いだろうと言いなさるから、そりゃ御嬢さんや奥さんがいっしょに舐めなさるに違ない――」「いやな多々良さんだ、何だってそんな事を言うんです
しかし奥さんだって舐めそうな顔をしていなさるばい
顔でそんな事がどうして分ります
分らんばってんが――それじゃ奥さん少しも舐めなさらんか
そりゃ少しは舐めますさ。舐めたって好いじゃありませんか。うちのものだもの
ハハハハそうだろうと思った――しかしほんこと、泥棒は飛んだ災難でしたな。山の芋ばかり持ってたのですか
山の芋ばかりなら困りゃしませんが、不断着をみんな取って行きました
早速困りますか。また借金をしなければならんですか。この猫が犬ならよかったに――惜しい事をしたなあ。奥さん犬のふとやつを是非一丁飼いなさい。――猫は駄目ですばい、飯を食うばかりで――ちっとは鼠でもりますか
一匹もとった事はありません。本当に横着な図々図々ずうずうしい猫ですよ
いやそりゃ、どうもこうもならん。早々棄てなさい。わたしが貰って行って煮て食おうか知らん
あら、多々良さんは猫を食べるの
食いました。猫はうもうござります
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(20 / 128)
随分豪傑ね
 下等な書生のうちには猫を食うような野蛮人があるよしはかねて伝聞したが、吾輩が平生眷顧けんこ【特別に目をかける】をかたじけのうする多々良君その人もまたこの同類ならんとは今が今まで夢にも知らなかった。いわんや同君はすでに書生ではない、卒業の日は浅きにもかかわらず堂々たる一個の法学士で、物産会社の役員であるのだから吾輩驚愕きょうがくもまた一と通りではない。人を見たら泥棒と思えと言う格言は寒月第二世の行為によってすでに証拠立てられたが、人を見たら猫食いと思えとは吾輩多々良君の御蔭によって始めて感得した真理である。世に住めば事を知る、事を知るは嬉しいが日に日に危険が多くて、日に日に油断がならなくなる。狡猾こうかつになるのも卑劣になるのも表裏二枚合せの護身服を着けるのも皆事を知るの結果であって、事を知るのは年を取るの罪である。老人にろくなものがいないのはこの理だな、吾輩などもあるいは今のうちに多々良君のなべの中で玉葱たまねぎと共に成仏じょうぶつする方が得策かも知れんと考えてすみの方に小さくなっていると、最前さいぜん細君と喧嘩をして一反いったん書斎へ引き上げた主人は、多々良君の声を聞きつけて、のそのそ茶の間へ出てくる。
先生泥棒に逢いなさったそうですな。なんちゅな事です」と劈頭へきとう一番にやり込める。
這入る奴がなんだ」と主人はどこまでも賢人をもって自任している。
這入る方も愚だばってんが、取られた方もあまりかしこくはなかごたる
何にも取られるものの無い多々良さんのようなのが一番賢こいんでしょう」と細君此度こんど良人おっとの肩を持つ。
しかし一番愚なのはこの猫ですばい。ほんにまあ、どう言う了見じゃろう。鼠はらず泥棒が来ても知らん顔をしている。――先生この猫をわたしにくんなさらんか。こうしておいたっちゃ何の役にも立ちませんばい
やっても好い。何にするんだ
煮て喰べます
 主人は猛烈なるこの一言いちごんを聞いて、うふと気味の悪い胃弱性の笑をらしたが、別段の返事もしないので、多々良君も是非食いたいとも言わなかったのは吾輩にとって望外の幸福である。主人はやがて話頭を転じて、
猫はどうでも好いが、着物をとられたので寒くていかん」とおおい消沈しょうちんていである。なるほど寒いはずである。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(21 / 128)
昨日きのうまでは綿入を二枚重ねていたのに今日はあわせ半袖はんそでのシャツだけで、朝から運動もせず枯坐こざしたぎりであるから、不充分な血液はことごとく胃のために働いて手足の方へは少しも巡回して来ない。
先生教師などをしておったちゃとうていあかんですばい。ちょっと泥棒に逢っても、すぐ困る――一丁いっちょう今から考をえて実業家にでもなんなさらんか
先生は実業家はきらいだから、そんな事を言ったって駄目よ
 と細君そばから多々良君に返事をする。細君は無論実業家になって貰いたいのである。
先生学校を卒業して何年になんなさるか
今年で九年目でしょう」と細君主人かえりみる。主人はそうだとも、そうで無いとも言わない。
九年立っても月給は上がらず。いくら勉強しても人はめちゃくれず、郎君ろうくん 独寂寞ひとりせきばくですたい」と中学時代で覚えた詩の句を細君のために朗吟すると、細君はちょっと分りかねたものだから返事をしない。「教師は無論きらいだが、実業家はなお嫌いだ」と主人は何が好きだか心のうちで考えているらしい。
先生は何でも嫌なんだから……
嫌でないのは奥さんだけですか」と多々良がらに似合わぬ冗談じょうだんを言う。
一番嫌だ主人の返事はもっとも簡明である。細君は横を向いてちょっとすましたが再び主人の方を見て、
生きていらっしゃるのも御嫌おきらいなんでしょう」と充分主人へこましたつもりで言う。
あまり好いてはおらん」と存外呑気のんきな返事をする。これでは手のつけようがない。
先生ちっと活発かっぱつに散歩でもしなさらんと、からだをこわしてしまいますばい。――そうして実業家になんなさい。金なんかもうけるのは、ほんに造作ぞうさもない事でござります
少しも儲けもせん癖に
まだあなた、去年やっと会社へ這入ったばかりですもの。それでも先生より貯蓄があります
どのくらい貯蓄したの?」と細君は熱心に聞く。
もう五十円になります
一体あなたの月給はどのくらいなの」これも細君の質問である。
三十円ですたい。その内を毎月五円ずつ会社の方で預って積んでおいて、いざと言う時にやります。――奥さん小遣銭で外濠線そとぼりせんの株を少し買いなさらんか、今から三四個月すると倍になります。ほんに少し金さえあれば、すぐ二倍にでも三倍にでもなります
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(22 / 128)
そんな御金があれば泥棒に逢ったって困りゃしないわ
それだから実業家に限ると言うんです。先生も法科でもやって会社か銀行へでも出なされば、今頃は月に三四百円の収入はありますのに、惜しい事でござんしたな。――先生あの鈴木藤十郎と言う工学士を知ってなさるか
うん昨日きのう来た
そうでござんすか、せんだってある宴会で逢いました時先生の御話をしたら、そうか君は苦沙弥くしゃみ君のところの書生をしていたのか、僕も苦沙弥君とはむかし小石川の寺でいっしょに自炊をしておった事がある、今度行ったらよろしく言うてくれ、僕もその内尋ねるからと言っていました
近頃東京へ来たそうだな
ええ今まで九州の炭坑におりましたが、こないだ東京づめになりました。なかなかうまいです。わたしなぞにでも朋友のように話します。――先生あの男がいくら貰ってると思いなさる
知らん
月給が二百五十円で盆暮に配当がつきますから、何でも平均四五百円になりますばい。あげな男が、よかしこ取っておるのに、先生はリーダー専門で十年一狐裘いちこきゅうじゃ馬鹿気ておりますなあ
実際馬鹿気ているな」と主人のような超然主義の人でも金銭の観念は普通の人間とことなるところはない。否困窮するだけに人一倍金が欲しいのかも知れない。多々良君は充分実業家の利益を吹聴ふいちょうしてもう言う事が無くなったものだから
奥さん、先生のところへ水島寒月と言うじんが来ますか
ええ、善くいらっしゃいます
どげんな人物ですか
大変学問の出来る方だそうです
好男子ですか
ホホホホ多々良さんくらいなものでしょう
そうですか、わたしくらいなものですか」と多々良君真面目である。「どうして寒月の名を知っているのかい」と主人が聞く。
せんだって或る人から頼まれました。そんな事を聞くだけの価値のある人物でしょうか多々良君は聞かぬ先からすでに寒月以上に構えている。
君よりよほどえらい男だ
そうでございますか、わたしよりえらいですか」と笑いもせずおこりもせぬ。これが多々良君の特色である。
近々きんきん博士になりますか
今論文を書いてるそうだ
やっぱり馬鹿ですな。博士論文をかくなんて、もう少し話せる人物かと思ったら
相変らず、えらい見識ですね」と細君が笑いながら言う。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(23 / 128)
博士になったら、だれとかの娘をやるとかやらんとか言うていましたから、そんな馬鹿があろうか、娘を貰うために博士になるなんて、そんな人物にくれるより僕にくれる方がよほどましだと言ってやりました
だれに
わたし水島の事を聞いてくれと頼んだ男です
鈴木じゃないか
いいえ、あの人にゃ、まだそんな事は言い切りません。向うは大頭ですから
多々良さんは蔭弁慶かげべんけいね。うちへなんぞ来ちゃ大変威張っても鈴木さんなどの前へ出ると小さくなってるんでしょう
ええ。そうせんと、あぶないです
多々良、散歩をしようか」と突然主人が言う。先刻さっきからあわせ一枚であまり寒いので少し運動でもしたら暖かになるだろうと言う考から主人はこの先例のない動議を呈出したのである。行き当りばったりの多々良君は無論逡巡しゅんじゅんする訳がない。
行きましょう。上野にしますか。芋坂いもざかへ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁をふるってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱くつぬぎへ下りる。
 吾輩はまた少々休養を要する。主人多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また尾行びこうする勇気もないからずっと略してそのあいだ休養せんければならん。休養は万物の旻天びんてんから要求してしかるべき権利である。この世に生息すべき義務を有して蠢動しゅんどうする者は、生息の義務を果すために休養を得ねばならぬ。もし神ありてなんじは働くために生れたり寝るために生れたるに非ずと言わば吾輩はこれに答えて言わん、吾輩は仰せのごとく働くために生れたり故に働くために休養を乞うと。主人のごとく器械に不平を吹き込んだまでの木強漢ぼくきょうかんですら、時々は日曜以外に自弁休養をやるではないか。多感多恨にして日夜心神を労する吾輩ごとき者は仮令たとい猫といえども主人以上に休養を要するは勿論の事である。ただ先刻さっき多々良君が吾輩を目して休養以外に何等の能もない贅物ぜいぶつのごとくにののしったのは少々気掛りである。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(24 / 128)
とかく物象ぶっしょうにのみ使役せらるる俗人は、五感の刺激以外に何等の活動もないので、他を評価するのでも形骸以外にわたらんのは厄介である。何でも尻でも端折はしょって、汗でも出さないと働らいていないように考えている。達磨だるまと言う坊さんは足の腐るまで座禅をして澄ましていたと言うが、仮令たとい壁のすきからつたが這い込んで大師の眼口をふさぐまで動かないにしろ、寝ているんでも死んでいるんでもない。頭の中は常に活動して、廓然無聖かくねんむしょうなどと乙な理屈を考え込んでいる。儒家にも静坐の工夫と言うのがあるそうだ。これだって一室のうちに閉居して安閑といざりの修行をするのではない。脳中の活力は人一倍さかんに燃えている。ただ外見上は至極沈静端粛のていであるから、天下の凡眼はこれらの知識巨匠をもって昏睡仮死こんすいかし庸人ようじん見做みなして無用の長物とか穀潰ごくつぶしとか入らざる誹謗ひぼうの声を立てるのである。これらの凡眼は皆形を見て心を見ざる不具なる視覚を有して生れついた者で、――しかもの多々良三平君のごときは形を見て心を見ざる第一流の人物であるから、この三平君が吾輩を目して乾屎橛かんしけつ同等に心得るのももっともだが、恨むらくは少しく古今の書籍を読んで、やや事物の真相を解し得たる主人までが、浅薄なる三平君に一も二もなく同意して、猫鍋ねこなべに故障をさしはさ景色けしきのない事である。しかし一歩退いて考えて見ると、かくまでに彼等が吾輩軽蔑けいべつするのも、あながち無理ではない。大声は俚耳りじに入らず、陽春白雪【中国の楚で最も高尚とされた歌曲】の詩には和するもの少なしのたとえも古い昔からある事だ。形体以外の活動を見るあたわざる者に向って己霊これいの光輝を見よとゆるは、坊主に髪をえとせまるがごとく、まぐろに演説をして見ろと言うがごとく、電鉄に脱線を要求するがごとく、主人に辞職を勧告するごとく、三平に金の事を考えるなと言うがごときものである。必竟ひっきょう無理な注文に過ぎん。しかしながら猫といえども社会的動物である。社会的動物である以上はいかに高くみずから標置するとも、或る程度までは社会と調和して行かねばならん。主人細君乃至ないしさん、三平づれ吾輩吾輩相当に評価してくれんのは残念ながら致し方がないとして、不明の結果皮をいで三味線屋に売り飛ばし、肉を刻んで多々良君の膳にのぼすような無分別をやられては由々ゆゆしき大事である。吾輩は頭をもって活動すべき天命を受けてこの娑婆しゃばに出現したほどの古今来ここんらいの猫であれば、非常に大事な身体である。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(25 / 128)
千金の堂陲どうすいに坐せずとのことわざもある事なれば、好んで超邁ちょうまいそうとして、いたずらに吾身の危険を求むるのは単に自己のわざわいなるのみならず、また大いに天意にそむく訳である。猛虎も動物園に入れば糞豚ふんとんの隣りに居を占め、鴻雁こうがんも鳥屋に生擒いけどらるれば雛鶏すうけいまないたおなじゅうす。庸人ようじん相互あいごする以上はくだって庸猫ようびょうと化せざるべからず。庸猫たらんとすれば鼠をらざるべからず。――吾輩はとうとう鼠をとる事にめた。
 せんだってじゅうから日本は露西亜ロシアと大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔負びいきである。出来得べくんば混成こんせい猫旅団ねこりょだんを組織して露西亜兵を引っいてやりたいと思うくらいである。かくまでに元気旺盛おうせい吾輩の事であるから鼠の一疋や二疋はとろうとする意志さえあれば、寝ていても訳なくれる。むかしある人当時有名な禅師に向って、どうしたら悟れましょうと聞いたら、猫が鼠をねらうようにさしゃれと答えたそうだ。猫が鼠をとるようにとは、かくさえすればずれっこはござらぬと言う意味である。女さかしゅうしてと言う諺はあるが猫さかしゅうして鼠そこなうと言う格言はまだ無いはずだ。して見ればいかにかしこい吾輩のごときものでも鼠の捕れんはずはあるまい。とれんはずはあるまいどころか捕り損うはずはあるまい。今まで捕らんのは、捕りたくないからの事さ。春の日はきのうのごとく暮れて、折々の風に誘わるる花吹雪はなふぶきが台所の腰障子の破れから飛び込んで手桶ておけの中に浮ぶ影が、薄暗き勝手用のランプの光りに白く見える。今夜こそ大手柄をして、うちじゅう驚かしてやろうと決心した吾輩は、あらかじめ戦場を見回って地形を飲み込んでおく必要がある。戦闘線は勿論もちろんあまり広かろうはずがない。畳数にしたら四畳敷もあろうか、その一畳を仕切って半分は流し、半分は酒屋八百屋の御用を聞く土間である。へっついは貧乏勝手に似合わぬ立派な者で赤の銅壺どうこがぴかぴかして、うしろは羽目板のを二尺のこして吾輩鮑貝あわびがいの所在地である。茶の間に近き六尺は膳椀ぜんわん 皿小鉢さらこばちを入れる戸棚となってせまき台所をいとど狭く仕切って、横に差し出すむき出しの棚とすれすれの高さになっている。その下に摺鉢すりばち仰向あおむけに置かれて、摺鉢の中には小桶の尻が吾輩の方を向いている。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(26 / 128)
大根卸し、摺小木すりこぎが並んでけてあるかたわらに火消壺だけが悄然しょうぜんひかえている。真黒になった樽木たるきの交差した真中から一本の自在じざいを下ろして、先へは平たい大きなかごをかける。その籠が時々風に揺れて鷹揚おうように動いている。この籠は何のために釣るすのか、このうちへ来たてには一向いっこう要領を得なかったが、猫の手の届かぬためわざと食物をここへ入れると言う事を知ってから、人間の意地の悪い事をしみじみ感じた。
 これから作戦計画だ。どこで鼠と戦争するかと言えば無論鼠の出る所でなければならぬ。いかにこっちに便宜べんぎな地形だからと言って一人で待ち構えていてはてんで戦争にならん。ここにおいてか鼠の出口を研究する必要が生ずる。どの方面から来るかなと台所の真中に立って四方を見回わす。何だか東郷大将のような心持がする。下女はさっき湯に行って戻ってん。小供はとくに寝ている。主人芋坂いもざかの団子を喰って帰って来て相変らず書斎に引きこもっている。細君は――細君は何をしているか知らない。大方居眠りをして山芋の夢でも見ているのだろう。時々門前を人力じんりきが通るが、通り過ぎた後は一段と淋しい。わが決心と言い、わが意気と言い台所の光景と言い、四辺しへん寂寞せきばく【静粛】と言い、全体の感じがことごとく悲壮である。どうしても猫中ねこちゅう東郷大将としか思われない。こう言う境界きょうがいに入ると物凄ものすごい内に一種の愉快を覚えるのは誰しも同じ事であるが、吾輩はこの愉快の底に一大心配がよこたわっているのを発見した。鼠と戦争をするのは覚悟の前だから何疋来てもこわくはないが、出てくる方面が明瞭でないのは不都合である。周密なる観察から得た材料を総合そうごうして見ると鼠賊そぞく逸出いっしゅつするのには三つの行路がある。彼れらがもしどぶ鼠であるならば土管を沿うて流しから、へっついの裏手へ廻るに相違ない。その時は火消壺の影に隠れて、帰り道を絶ってやる。あるいはみぞへ湯を抜く漆喰しっくいの穴より風呂場を迂回うかいして勝手へ不意に飛び出すかも知れない。そうしたら釜のふたの上に陣取って眼の下に来た時上から飛び下りて一攫ひとつかみにする。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(27 / 128)
それからとまたあたりを見回すと戸棚の戸の右の下隅が半月形はんげつけいに喰い破られて、彼等の出入しゅつにゅうに便なるかの疑がある。鼻を付けていで見ると少々鼠くさい。もしここから吶喊とっかん【つきつらぬく】して出たら、柱をたてにやり過ごしておいて、横合からあっと爪をかける。もし天井から来たらと上を仰ぐと真黒なすすがランプの光で輝やいて、地獄を裏返しに釣るしたごとくちょっと吾輩手際てぎわではのぼる事も、くだる事も出来ん。まさかあんな高い処から落ちてくる事もなかろうからとこの方面だけは警戒をく事にする。それにしても三方から攻撃される懸念けねんがある。一口なら片眼でも退治して見せる。二口ならどうにか、こうにかやってのける自信がある。しかし三口となるといかに本能的に鼠をるべく予期せらるる吾輩も手の付けようがない。さればと言って車屋のごときものを助勢に頼んでくるのも吾輩の威厳に関する。どうしたら好かろう。どうしたら好かろうと考えて好い知恵ちえが出ない時は、そんな事は起る気遣きづかいはないと決めるのが一番安心を得る近道である。また法のつかない者は起らないと考えたくなるものである。まず世間を見渡して見給え。きのう貰った花嫁も今日死なんとも限らんではないか、しかし聟殿むこどのは玉椿千代も八千代もなど、おめでたい事を並べて心配らしい顔もせんではないか。心配せんのは、心配する価値がないからではない。いくら心配したって法が付かんからである。吾輩の場合でも三面攻撃は必ず起らぬと断言すべき相当の論拠はないのであるが、起らぬとする方が安心を得るに便利である。安心は万物に必要である。吾輩も安心を欲する。よって三面攻撃は起らぬとめる。
 それでもまだ心配が取れぬから、どう言うものかとだんだん考えて見るとようやく分った。三個の計略のうちいずれを選んだのがもっとも得策であるかの問題に対して、みずから明瞭なる答弁を得るに苦しむからの煩悶はんもんである。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(28 / 128)
戸棚から出るときには吾輩これに応ずる策がある、風呂場から現われる時はこれに対するはかりごとがある、また流しから這い上るときはこれを迎うる成算もあるが、そのうちどれか一つにめねばならぬとなるとおおいに当惑する。東郷大将はバルチック艦隊が対馬海峡つしまかいきょうを通るか、津軽海峡つがるかいきょうへ出るか、あるいは遠く宗谷海峡そうやかいきょうを廻るかについておおいに心配されたそうだが、今吾輩吾輩自身の境遇から想像して見て、ご困却の段実に御察し申す。吾輩は全体の状況において東郷閣下に似ているのみならず、この格段なる地位においてもまた東郷閣下とよく苦心を同じゅうする者である。
 吾輩がかく夢中になって知謀をめぐらしていると、突然破れた腰障子がいて御三おさんの顔がぬうと出る。顔だけ出ると言うのは、手足がないと言う訳ではない。ほかの部分は夜目よめでよく見えんのに、顔だけが著るしく強い色をして判然眸底ぼうていに落つるからである。御三はその平常より赤き頬をますます赤くして洗湯から帰ったついでに、昨夜ゆうべりてか、早くから勝手の戸締とじまりをする。書斎で主人が俺のステッキを枕元へ出しておけと言う声が聞える。何のために枕頭にステッキを飾るのか吾輩には分らなかった。まさか易水えきすいの壮士を気取って、竜鳴りゅうめいを聞こうと言う酔狂でもあるまい。きのうは山の芋、今日はステッキ、明日は何になるだろう。
 夜はまだ浅い鼠はなかなか出そうにない。吾輩は大戦の前に一と休養を要する。
 主人の勝手には引窓がない。座敷なら欄間らんまと言うような所が幅一尺ほど切り抜かれて夏冬吹き通しに引窓の代理を勤めている。惜し気もなく散る彼岸桜ひがんざくらを誘うて、さっと吹き込む風に驚ろいて眼をますと、朧月おぼろづきさえいつの間に差してか、へっついの影は斜めに揚板あげいたの上にかかる。寝過ごしはせぬかと二三度耳を振って家内の様子をうかがうと、しんとして昨夜のごとく柱時計の音のみ聞える。もう鼠の出る時分だ。どこから出るだろう。
 戸棚の中でことことと音がしだす。小皿の縁を足で抑えて、中をあらしているらしい。ここから出るわいと穴の横へすくんで待っている。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(29 / 128)
なかなか出て来る景色けしきはない。皿の音はやがてやんだが今度はどんぶりか何かに掛ったらしい、重い音が時々ごとごととする。しかも戸を隔ててすぐ向う側でやっている、吾輩の鼻づらと距離にしたら三寸も離れておらん。時々はちょろちょろと穴の口まで足音が近寄るが、また遠のいて一匹も顔を出すものはない。戸一枚向うに現在敵が暴行をたくましくしているのに、吾輩はじっと穴の出口で待っておらねばならん随分気の長い話だ。鼠は旅順椀りょじゅんわんの中で盛に舞踏会を催うしている。せめて吾輩の這入れるだけ御三がこの戸を開けておけば善いのに、気の利かぬ山出しだ。
 今度はへっついの影で吾輩鮑貝あわびがいがことりと鳴る。敵はこの方面へも来たなと、そーっと忍び足で近寄ると手桶ておけの間から尻尾しっぽがちらと見えたぎり流しの下へ隠れてしまった。しばらくすると風呂場でうがい茶碗が金盥かなだらいにかちりと当る。今度は後方うしろだと振りむく途端に、五寸近くあるおおきな奴がひらりと歯磨の袋を落して縁の下へけ込む。逃がすものかと続いて飛び下りたらもう影も姿も見えぬ。鼠をるのは思ったよりむずかしい者である。吾輩は先天的鼠を捕る能力がないのか知らん。
 吾輩が風呂場へ廻ると、敵は戸棚から馳け出し、戸棚を警戒すると流しから飛び上り、台所の真中に頑張がんばっていると三方面共少々ずつ騒ぎ立てる。小癪こしゃくと言おうか、卑怯ひきょうと言おうかとうてい彼等は君子の敵でない。吾輩は十五六回はあちら、こちらと気を疲らししんつからして奔走努力して見たがついに一度も成功しない。残念ではあるがかかる小人しょうじんを敵にしてはいかなる東郷大将もほどこすべき策がない。始めは勇気もあり敵愾心てきがいしんもあり悲壮と言う崇高な美感さえあったがついには面倒と馬鹿気ているのと眠いのと疲れたので台所の真中へ坐ったなり動かない事になった。しかし動かんでも八方睨はっぽうにらみをめ込んでいれば敵は小人だから大した事は出来んのである。目ざす敵と思った奴が、存外けちな野郎だと、戦争が名誉だと言う感じが消えてくいと言う念だけ残る。くいと言う念を通り過すと張り合が抜けてぼーとする。ぼーとしたあとは勝手にしろ、どうせ気のいた事は出来ないのだからと軽蔑けいべつきょくねむたくなる。吾輩は以上の径路をたどって、ついに眠くなった。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(30 / 128)
吾輩は眠る。休養は敵中にっても必要である。
 横向にひさしを向いて開いた引窓から、また花吹雪はなふぶき一塊ひとかたまりなげ込んで、烈しき風の吾をめぐると思えば、戸棚の口から弾丸のごとく飛び出した者が、避くるもあらばこそ、風を切って吾輩の左の耳へ喰いつく。これに続く黒い影はうしろに廻るかと思う間もなく吾輩尻尾しっぽへぶら下がる。またたく間の出来事である。吾輩は何の目的もなく器械的に跳上はねあがる。満身の力を毛穴に込めてこの怪物を振り落とそうとする。耳に喰い下がったのは中心を失ってだらりと吾が横顔に懸る。護謨管ゴムかんのごとき柔かき尻尾の先が思い掛なく吾輩の口に這入る。屈竟くっきょう手懸てがかりに、くだけよとばかり尾をくわえながら左右にふると、尾のみは前歯の間に残って胴体は古新聞で張った壁に当って、揚板の上にね返る。起き上がるところを隙間すきまなくかかれば、まりたるごとく、吾輩の鼻づらをかすめて釣り段の縁に足を縮めて立つ。彼は棚の上から吾輩を見おろす、吾輩は板の間から彼を見上ぐる。距離は五尺。その中に月の光りが、大幅おおはばの帯をくうに張るごとく横に差し込む。吾輩は前足に力を込めて、やっとばかり棚の上に飛び上がろうとした。前足だけは首尾よく棚の縁にかかったが後足あとあしは宙にもがいている。尻尾には最前の黒いものが、死ぬとも離るまじき勢で喰い下っている。吾輩あやうい。前足をえて足懸あしがかりを深くしようとする。懸け易える度に尻尾の重みで浅くなる。二三分にさんぶ滑れば落ちねばならぬ。吾輩はいよいよ危うい。棚板を爪できむしる音ががりがりと聞える。これではならぬと左の前足を抜き易える拍子に、爪を見事に懸け損じたので吾輩は右の爪一本で棚からぶら下った。自分と尻尾に喰いつくものの重みで吾輩のからだがぎりぎりと廻わる。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(31 / 128)
この時まで身動きもせずにねらいをつけていた棚の上の怪物は、ここぞと吾輩の額を目懸けて棚の上から石を投ぐるがごとく飛び下りる。吾輩の爪は一縷いちるのかかりを失う。三つのかたまりが一つとなって月の光をたてに切って下へ落ちる。次の段に乗せてあった摺鉢すりばちと、摺鉢の中の小桶こおけとジャムの空缶あきかんが同じく一塊ひとかたまりとなって、下にある火消壺を誘って、半分は水甕みずがめの中、半分は板の間の上へ転がり出す。すべてが深夜にただならぬ物音を立てて死物狂いの吾輩の魂をさえ寒からしめた。
泥棒!」と主人胴間声どうまごえを張り上げて寝室から飛び出して来る。見ると片手にはランプをげ、片手にはステッキを持って、寝ぼけまなこよりは身分相応の炯々けいけいたる光を放っている。吾輩鮑貝あわびがいそばにおとなしくして蹲踞うずくまる。二疋の怪物は戸棚の中へ姿をかくす。主人は手持無沙汰に「何だ誰だ、大きな音をさせたのは」と怒気を帯びて相手もいないのに聞いている。月が西に傾いたので、白い光りの一帯は半切はんきれほどに細くなった。


     

 こう暑くては猫といえどもやり切れない。皮を脱いで、肉を脱いで骨だけで涼みたいものだと英吉利イギリスのシドニー・スミスとか言う人が苦しがったと言う話があるが、たとい骨だけにならなくとも好いから、せめてこの淡灰色の斑入ふいり毛衣けごろもだけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分のうち質にでも入れたいような気がする。人間から見たら猫などは年が年中同じ顔をして、春夏秋冬一枚看板で押し通す、至って単純な無事なぜにのかからない生涯しょうがいを送っているように思われるかも知れないが、いくら猫だって相応に暑さ寒さの感じはある。たまには行水ぎょうずいの一度くらいあびたくない事もないが、何しろこの毛衣の上から湯を使った日には乾かすのが容易な事でないから汗臭いのを我慢してこの年になるまで洗湯の暖簾のれんくぐった事はない。折々は団扇うちわでも使って見ようと言う気も起らんではないが、とにかく握る事が出来ないのだから仕方がない。それを思うと人間は贅沢ぜいたくなものだ。なまで食ってしかるべきものをわざわざ煮て見たり、焼いて見たり、けて見たり、味噌みそをつけて見たり好んで余計な手数てすうを懸けて御互に恐悦している。着物だってそうだ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(32 / 128)
猫のように一年中同じ物を着通せと言うのは、不完全に生れついた彼等にとって、ちと無理かも知れんが、なにもあんなに雑多なものを皮膚の上へせて暮さなくてもの事だ。羊の御厄介になったり、かいこの御世話になったり、綿畠の御情おなさけさえ受けるに至っては贅沢ぜいたくは無能の結果だと断言しても好いくらいだ。衣食はまず大目に見て勘弁するとしたところで、生存上直接の利害もないところまでこの調子で押して行くのはごう合点がてんが行かぬ。第一頭の毛などと言うものは自然に生えるものだから、ほうっておく方がもっとも簡便で当人のためになるだろうと思うのに、彼等は入らぬ算段をして種々雑多な格好かっこうをこしらえて得意である。坊主とか自称するものはいつ見ても頭を青くしている。暑いとその上へ日傘をかぶる。寒いと頭巾ずきんで包む。これでは何のために青い物を出しているのか主意が立たんではないか。そうかと思うとくしとか称する無意味な鋸様のこぎりようの道具を用いて頭の毛を左右に等分して嬉しがってるのもある。等分にしないと七分三分の割合で頭蓋骨ずがいこつの上へ人為的の区画くかくを立てる。中にはこの仕切りがつむじを通り過してうしろまでみ出しているのがある。まるで贋造がんぞう芭蕉葉ばしょうはのようだ。その次には脳天を平らに刈って左右は真直に切り落す。丸い頭へ四角なわくをはめているから、植木屋を入れた杉垣根の写生としか受け取れない。このほか五分刈、三分刈、一分刈さえあると言う話だから、しまいには頭の裏まで刈り込んでマイナス一分刈、マイナス三分刈などと言う新奇な奴が流行するかも知れない。とにかくそんなに憂身うきみやつしてどうするつもりか分らん。第一、足が四本あるのに二本しか使わないと言うのから贅沢だ。四本であるけばそれだけはかも行く訳だのに、いつでも二本ですまして、残る二本は到来の棒鱈ぼうだらのように手持無沙汰にぶら下げているのは馬鹿馬鹿しい。これで見ると人間はよほど猫よりひまなもので退屈のあまりかようないたずらを考案して楽んでいるものと察せられる。ただおかしいのはこの閑人ひまじんがよるとわると多忙だ多忙だと触れ廻わるのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほどこせついている。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(33 / 128)
彼等のあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどと言うが、気楽でよければなるが好い。そんなにこせこせしてくれと誰も頼んだ訳でもなかろう。自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいと言うのは自分で火をかんかん起して暑い暑いと言うようなものだ。猫だって頭の刈り方を二十通りも考え出す日には、こう気楽にしてはおられんさ。気楽になりたければ吾輩のように夏でも毛衣けごろもを着て通されるだけの修業をするがよろしい。――とは言うものの少々熱い。毛衣では全くつ過ぎる。
 これでは一手専売の昼寝も出来ない。何かないかな、永らく人間社会の観察をおこたったから、今日は久し振りで彼等が酔興に齷齪あくせくする様子を拝見しようかと考えて見たが、生憎あいにく主人はこの点に関してすこぶる猫に近い性分しょうぶんである。昼寝は吾輩に劣らぬくらいやるし、ことに暑中休暇後になってからは何一つ人間らしい仕事をせんので、いくら観察をしても一向いっこう観察する張合がない。こんな時に迷亭でも来ると胃弱性の皮膚も幾分か反応を呈して、しばらくでも猫に遠ざかるだろうに、先生もう来ても好い時だと思っていると、誰とも知らず風呂場でざあざあ水を浴びるものがある。水を浴びる音ばかりではない、折々大きな声で相の手を入れている。「いや結構」「どうも良い心持ちだ」「もう一杯」などと家中うちじゅうに響き渡るような声を出す。主人のうちへ来てこんな大きな声と、こんな無作法ぶさほうな真似をやるものはほかにはない。迷亭きまっている。
 いよいよ来たな、これで今日半日はつぶせると思っていると、先生汗をいて肩を入れて例のごとく座敷までずかずか上って来て「奥さん、苦沙弥くしゃみ君はどうしました」と呼ばわりながら帽子を畳の上へほうり出す。細君は隣座敷で針箱のそばへ突っ伏して好い心持ちに寝ている最中にワンワンと何だか鼓膜へ答えるほどの響がしたのではっと驚ろいて、めぬ眼をわざとみはって座敷へ出て来ると迷亭薩摩上布さつまじょうふを着て勝手な所へ陣取ってしきりに扇使いをしている。
おやいらしゃいまし」と言ったが少々狼狽ろうばいの気味で「ちっとも存じませんでした」と鼻の頭へ汗をかいたまま御辞儀をする。「いえ、今来たばかりなんですよ。今風呂場で御三おさんに水を掛けて貰ってね。ようやく生き帰ったところで――どうも暑いじゃありませんか
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(34 / 128)
この両三日りょうさんちは、ただじっとしておりましても汗が出るくらいで、大変御暑うございます。――でも御変りもございませんで」と細君は依然として鼻の汗をとらない。「ええありがとう。なに暑いくらいでそんなに変りゃしませんや。しかしこの暑さは別物ですよ。どうも体がだるくってね」「わたくしなども、ついに昼寝などを致した事がないんでございますが、こう暑いとつい――」「やりますかね。好いですよ。昼寝られて、夜寝られりゃ、こんな結構な事はないでさあ」とあいかわらず呑気のんきな事を並べて見たがそれだけでは不足と見えて「わたしなんざ、寝たくない、たちでね。苦沙弥君などのように来るたんびに寝ている人を見るとうらやましいですよ。もっとも胃弱にこの暑さは答えるからね。丈夫な人でも今日なんかは首を肩の上にせてるのが退儀でさあ。さればと言って載ってる以上はもぎとる訳にも行かずね」と迷亭君いつになく首の処置に窮している。「奥さんなんざ首の上へまだ載っけておくものがあるんだから、坐っちゃいられないはずだ。まげの重みだけでも横になりたくなりますよ」と言うと細君は今まで寝ていたのが髷の格好かっこうから露見したと思って「ホホホ口の悪い」と言いながら頭をいじって見る。
 迷亭はそんな事には頓着なく「奥さん、昨日きのうはね、屋根の上で玉子のフライをして見ましたよ」と妙な事を言う。「フライをどうなさったんでございます」「屋根の瓦があまり見事に焼けていましたから、ただ置くのも勿体ないと思ってね。バタを溶かして玉子を落したんでさあ」「あらまあ」「ところがやっぱり天日てんぴは思うように行きませんや。なかなか半熟にならないから、下へおりて新聞を読んでいると客が来たもんだからつい忘れてしまって、今朝になって急に思い出して、もう大丈夫だろうと上って見たらね」「どうなっておりました」「半熟どころか、すっかり流れてしまいました」「おやおや」と細君は八の字を寄せながら感嘆した。
しかし土用中あんなに涼しくって、今頃から暑くなるのは不思議ですね」「ほんとでございますよ。せんだってじゅうは単衣ひとえでは寒いくらいでございましたのに、一昨日おとといから急に暑くなりましてね」「かになら横にうところだが今年の気候はあとびさりをするんですよ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(35 / 128)
倒行とうこうして逆施げきしすまた可ならずやと言うような事を言っているかも知れない」なんでござんす、それは」「いえ、何でもないのです。どうもこの気候の逆戻りをするところはまるでハーキュリスの牛ですよ」と図に乗っていよいよ変ちきりんな事を言うと、果せるかな細君は分らない。しかし最前の倒行して逆施すで少々りているから、今度はただ「へえー」と言ったのみで問い返さなかった。これを問い返されないと迷亭はせっかく持ち出した甲斐かいがない。「奥さん、ハーキュリスの牛を御存じですか」「そんな牛は存じませんわ」「御存じないですか、ちょっと講釈をしましょうか」と言うと細君もそれには及びませんとも言い兼ねたものだから「ええ」と言った。「むかしハーキュリスが牛を引っ張って来たんです」「そのハーキュリスと言うのは牛飼ででもござんすか」「牛飼じゃありませんよ。牛飼やいろはの亭主じゃありません。その節は希臘ギリシャにまだ牛肉屋が一軒もない時分の事ですからね」「あら希臘のお話しなの? そんなら、そうおっしゃればいいのに」と細君は希臘と言う国名だけは心得ている。「だってハーキュリスじゃありませんか」「ハーキュリスなら希臘なんですか」「ええハーキュリスは希臘の英雄でさあ」「どうりで、知らないと思いました。それでその男がどうしたんで――」「その男がね奥さん見たように眠くなってぐうぐう寝ている――」「あらいやだ」「寝ている間に、ヴァルカンの子が来ましてね」「ヴァルカンて何です」「ヴァルカンは鍛冶屋かじやですよ。この鍛冶屋のせがれがその牛を盗んだんでさあ。ところがね。牛の尻尾しっぽを持ってぐいぐい引いて行ったもんだからハーキュリスが眼をまして牛やーい牛やーいと尋ねてあるいても分らないんです。分らないはずでさあ。牛の足跡をつけたって前の方へあるかして連れて行ったんじゃありませんもの、うしろへうしろへと引きずって行ったんですからね。鍛冶屋のせがれにしては大出来ですよ」と迷亭先生はすでに天気の話は忘れている。
時に御主人はどうしました。相変らず午睡ひるねですかね。午睡も支那人の詩に出てくると風流だが、苦沙弥君のように日課としてやるのは少々俗気がありますね。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(36 / 128)
何の事あない毎日少しずつ死んで見るようなものですぜ、奥さん御手数おてすうだがちょっと起していらっしゃい」と催促すると細君は同感と見えて「ええ、ほんとにあれでは困ります。第一あなた、からだが悪るくなるばかりですから。今御飯をいただいたばかりだのに」と立ちかけると迷亭先生は「奥さん、御飯と言やあ、僕はまだ御飯をいただかないんですがね」と平気な顔をして聞きもせぬ事を吹聴ふいちょうする。「おやまあ、時分どきだのにちっとも気が付きませんで――それじゃ何もございませんが御茶漬でも」「いえ御茶漬なんか頂戴しなくっても好いですよ」「それでも、あなた、どうせ御口に合うようなものはございませんが」と細君少々厭味を並べる。迷亭は悟ったもので「いえ御茶漬でも御湯漬でも御免蒙るんです。今途中で御馳走をあつらえて来ましたから、そいつを一つここでいただきますよ」ととうてい素人しろうとには出来そうもない事を述べる。細君はたった一言ひとことまあ!」と言ったがそのまあうちには驚ろいたまあと、気を悪るくしたまあと、手数てすうが省けてありがたいと言うまあが合併している。
 ところへ主人が、いつになくあまりやかましいので、寝つき掛った眠をさかにかれたような心持で、ふらふらと書斎から出て来る。「相変らずやかましい男だ。せっかく好い心持に寝ようとしたところを」と欠伸交あくびまじりに仏頂面ぶっちょうづらをする。「いや御目覚おめざめかね。鳳眠ほうみんを驚かし奉ってはなはだ相済まん。しかしたまには好かろう。さあ坐りたまえ」とどっちが客だか分らぬ挨拶をする。主人は無言のまま座に着いて寄木細工よせぎざいく巻煙草まきたばこ入から「朝日」を一本出してすぱすぱ吸い始めたが、ふとむこうすみに転がっている迷亭の帽子に眼をつけて「君帽子を買ったね」と言った。迷亭はすぐさま「どうだい」と自慢らしく主人細君の前に差し出す。「まあ奇麗だ事。大変目が細かくって柔らかいんですね」と細君はしきりに撫で廻わす。「奥さんこの帽子は重宝ちょうほうですよ、どうでも言う事を聞きますからね」と拳骨げんこつをかためてパナマの横ッ腹をぽかりと張り付けると、なるほど意のごとくこぶしほどな穴があいた。細君が「へえ」と驚くもなく、このたびは拳骨を裏側へ入れてうんと突ッ張るとかまの頭がぽかりとんがる。次には帽子を取ってつばと鍔とを両側からつぶして見せる。
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潰れた帽子は麺棒めんぼうした蕎麦そばのように平たくなる。それを片端からむしろでも巻くごとくぐるぐる畳む。「どうですこの通り」と丸めた帽子を懐中へ入れて見せる。「不思議です事ねえ」と細君帰天斎正一きてんさいしょういち【明治時代の奇術師】の手品でも見物しているように感嘆すると、迷亭もその気になったものと見えて、右から懐中に収めた帽子をわざと左の袖口そでぐちから引っ張り出して「どこにも傷はありません」と元のごとくに直して、人さし指の先へ釜の底をせてくるくると廻す。もうめるかと思ったら最後にぽんとうしろへげてその上へっさりと尻餅を突いた。「君大丈夫かい」と主人さえ懸念けねんらしい顔をする。細君は無論の事心配そうに「せっかく見事な帽子をもしわしでもしちゃあ大変ですから、もう好い加減になすったらうござんしょう」と注意をする。得意なのは持主だけで「ところが壊われないから妙でしょう」と、くちゃくちゃになったのを尻の下から取り出してそのまま頭へ載せると、不思議な事には、頭の格好かっこうにたちまち回復する。「実に丈夫な帽子です事ねえ、どうしたんでしょう」と細君がいよいよ感心すると「なにどうもしたんじゃありません、元からこう言う帽子なんです」と迷亭は帽子を被ったまま細君に返事をしている。
あなたも、あんな帽子を御買になったら、いいでしょう」としばらくして細君主人に勧めかけた。「だって苦沙弥君は立派な麦藁むぎわらの奴を持ってるじゃありませんか」「ところがあなた、せんだって小供があれを踏みつぶしてしまいまして」「おやおやそりゃ措しい事をしましたね」「だから今度はあなたのような丈夫で奇麗なのを買ったら善かろうと思いますんで」と細君はパナマの価段ねだんを知らないものだから「これになさいよ、ねえ、あなた」としきりに主人に勧告している。
 迷亭君は今度は右のたもとの中から赤いケース入りのはさみを取り出して細君に見せる。「奥さん、帽子はそのくらいにしてこの鋏を御覧なさい。これがまたすこぶる重宝ちょうほうな奴で、これで十四通りに使えるんです」この鋏が出ないと主人細君のためにパナマ責めになるところであったが、幸に細君が女として持って生れた好奇心のために、この厄運やくうんまぬかれたのは迷亭の機転と言わんよりむしろ僥倖ぎょうこうの仕合せだと吾輩は看破した。「その鋏がどうして十四通りに使えます」と聞くや否や迷亭君は大得意な調子で「今一々説明しますから聞いていらっしゃい。いいですか。ここに三日月形みかづきがたの欠け目がありましょう、ここへ葉巻を入れてぷつりと口を切るんです。
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それからこの根にちょと細工がありましょう、これで針金をぽつぽつやりますね。次には平たくして紙の上へ横に置くと定規じょうぎの用をする。またの裏には度盛どもりがしてあるから物指ものさしの代用も出来る。こちらの表にはヤスリが付いているこれで爪をりまさあ。ようがすか。このきを螺旋鋲らせんびょうの頭へ刺し込んでぎりぎり廻すと金槌かなづちにも使える。うんと突き込んでこじ開けると大抵の釘付くぎづけの箱なんざあ苦もなくふたがとれる。まった、こちらの刃の先はきりに出来ている。ここんとこは書き損いの字をけずる場所で、ばらばらに離すと、ナイフとなる。一番しまいに――さあ奥さん、この一番しまいが大変面白いんです、ここにはえの眼玉くらいな大きさのたまがありましょう、ちょっと、のぞいて御覧なさい」いやですわまたきっと馬鹿になさるんだから」「そう信用がなくっちゃ困ったね。だがだまされたと思って、ちょいと覗いて御覧なさいな。え? いやですか、ちょっとでいいから」とはさみ細君に渡す。細君覚束おぼつかなげに鋏を取りあげて、例の蠅の眼玉の所へ自分の眼玉を付けてしきりにねらいをつけている。「どうです」「何だか真黒ですわ」「真黒じゃいけませんね。も少し障子の方へ向いて、そう鋏を寝かさずに――そうそうそれなら見えるでしょう」「おやまあ写真ですねえ。どうしてこんな小さな写真を張り付けたんでしょう」「そこが面白いところでさあ」と細君迷亭はしきりに問答をしている。最前から黙っていた主人はこの時急に写真が見たくなったものと見えて「おい俺にもちょっとせろ」と言うと細君は鋏を顔へ押し付けたまま「実に奇麗です事、裸体の美人ですね」と言ってなかなか離さない。「おいちょっと御見せと言うのに」「まあ待っていらっしゃいよ。美くしい髪ですね。腰までありますよ。少し仰向あおむいて恐ろしいせいの高い女だ事、しかし美人ですね」「おい御見せと言ったら、大抵にして見せるがいい」と主人おおいき込んで細君に食って掛る。「へえ御待遠さま、たんと御覧遊ばせ」と細君が鋏を主人に渡す時に、勝手から御三おさんが御客さまの御誂おあつらえが参りましたと、二個の笊蕎麦ざるそばを座敷へ持って来る。
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奥さんこれが僕の自弁じべんの御馳走ですよ。ちょっと御免蒙って、ここでぱくつく事に致しますから」と丁寧ていねいに御辞儀をする。真面目なような巫山戯ふざけたような動作だから細君も応対に窮したと見えて「さあどうぞ」と軽く返事をしたぎり拝見している。主人はようやく写真から眼を放して「君この暑いのに蕎麦そばは毒だぜ」と言った。「なあに大丈夫、好きなものは滅多めったあたるもんじゃない」と蒸籠せいろふたをとる。「打ち立てはありがたいな。蕎麦そばの延びたのと、人間のが抜けたのは由来たのもしくないもんだよ」と薬味やくみツユの中へ入れて無茶苦茶にき廻わす。「君そんなに山葵わさびを入れるとらいぜ」と主人は心配そうに注意した。「蕎麦はツユと山葵で食うもんだあね。君は蕎麦が嫌いなんだろう」「僕は饂飩うどんが好きだ」「饂飩は馬子まごが食うもんだ。蕎麦の味を解しない人ほど気の毒な事はない」と言いながら杉箸すぎばしをむざと突き込んで出来るだけ多くの分量を二寸ばかりの高さにしゃくい上げた。「奥さん蕎麦を食うにもいろいろ流儀がありますがね。初心しょしんの者に限って、無暗むやみツユを着けて、そうして口の内でくちゃくちゃやっていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ。何でも、こう、としゃくいに引っ掛けてね」と言いつつ箸を上げると、長い奴が勢揃せいぞろいをして一尺ばかり空中に釣るし上げられる。迷亭先生もう善かろうと思って下を見ると、まだ十二三本の尾が蒸籠の底を離れないで簀垂すだれの上に纏綿てんめんしている。「こいつは長いな、どうです奥さん、この長さ加減は」とまた奥さんに相の手を要求する。奥さんは「長いものでございますね」とさも感心したらしい返事をする。「この長い奴へツユ三分一さんぶいちつけて、一口に飲んでしまうんだね。んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉のどすべり込むところがねうちだよ」と思い切ってはしを高く上げると蕎麦はようやくの事で地を離れた。左手ゆんでに受ける茶碗の中へ、箸を少しずつ落して、尻尾の先からだんだんにひたすと、アーキミジスの理論によって、蕎麦のつかった分量だけツユかさが増してくる。ところが茶碗の中には元からツユが八分目入っているから、迷亭の箸にかかった蕎麦の四半分しはんぶんつからない先に茶碗はツユで一杯になってしまった。
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迷亭の箸は茶碗をる五寸の上に至ってぴたりと留まったきりしばらく動かない。動かないのも無理はない。少しでもおろせばツユこぼれるばかりである。迷亭もここに至って少し躊躇ちゅうちょていであったが、たちまち脱兎だっとの勢を以て、口を箸の方へ持って行ったなと思うもなく、つるつるちゅうと音がして咽喉笛のどぶえが一二度上下じょうげへ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなっておった。見ると迷亭君の両眼から涙のようなものが一二滴眼尻めじりから頬へ流れ出した。山葵わさびいたものか、飲み込むのに骨が折れたものかこれはいまだに判然しない。「感心だなあ。よくそんなに一どきに飲み込めたものだ」と主人が敬服すると「御見事です事ねえ」と細君迷亭手際てぎわを激賞した。迷亭は何にも言わないで箸を置いて胸を二三度たたいたが「奥さんざるは大抵三口半か四口で食うんですね。それより手数てすうを掛けちゃうまく食えませんよ」とハンケチで口を拭いてちょっと一息入れている。
 ところへ寒月君が、どう言う了見りょうけんかこの暑いのに御苦労にも冬帽をかぶって両足をほこりだらけにしてやってくる。「いや好男子の御入来ごにゅうらいだが、喰い掛けたものだからちょっと失敬しますよ」と迷亭君は衆人環座しゅうじんかんざうちにあって臆面おくめんもなく残った蒸籠をたいらげる。今度は先刻さっきのように目覚めざましい食方もしなかった代りに、ハンケチを使って、中途で息を入れると言う不体裁もなく、蒸籠せいろ二つを安々とやってのけたのは結構だった。
寒月君博士論文はもう脱稿するのかね」と主人が聞くと迷亭もその後から「金田令嬢がお待ちかねだから早々そうそう 呈出ていしゅつしたまえ」と言う。寒月君は例のごとく薄気味の悪い笑をらして「罪ですからなるべく早く出して安心させてやりたいのですが、何しろ問題が問題で、よほど労力のる研究を要するのですから」と本気の沙汰とも思われない事を本気の沙汰らしく言う。「そうさ問題が問題だから、そう鼻の言う通りにもならないね。もっともあの鼻なら充分鼻息をうかがうだけの価値はあるがね」と迷亭寒月流な挨拶をする。比較的に真面目なのは主人である。「君の論文の問題は何とか言ったっけな」「蛙の眼球めだまの電動作用に対する紫外光線しがいこうせんの影響と言うのです」「そりゃ奇だね。さすがは寒月先生だ、蛙の眼球はふるってるよ。
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どうだろう苦沙弥君、論文脱稿前にその問題だけでも金田家へ報知しておいては」主人迷亭の言う事には取り合わないで「君そんな事が骨の折れる研究かね」と寒月君に聞く。「ええ、なかなか複雑な問題です、第一蛙の眼球のレンズの構造がそんな単簡たんかんなものでありませんからね。それでいろいろ実験もしなくちゃなりませんがまず丸い硝子ガラスたまをこしらえてそれからやろうと思っています」「硝子の球なんかガラス屋へ行けば訳ないじゃないか」「どうして――どうして」と寒月先生少々反身そりみになる。「元来えんとか直線とか言うのは幾何学的のもので、あの定義に合ったような理想的な円や直線は現実世界にはないもんです」「ないもんなら、したらよかろう」と迷亭が口を出す。「それでまず実験上つかえないくらいな球を作って見ようと思いましてね。せんだってからやり始めたのです」「出来たかい」と主人が訳のないようにきく。「出来るものですか」と寒月君が言ったが、これでは少々矛盾だと気が付いたと見えて「どうもむずかしいです。だんだんって少しこっち側の半径が長過ぎるからと思ってそっちを心持落すと、さあ大変今度は向側むこうがわが長くなる。そいつを骨を折ってようやくつぶしたかと思うと全体の形がいびつになるんです。やっとの思いでこのいびつを取るとまた直径に狂いが出来ます。始めは林檎りんごほどな大きさのものがだんだん小さくなっていちごほどになります。それでも根気よくやっていると大豆だいずほどになります。大豆ほどになってもまだ完全な円は出来ませんよ。私も随分熱心に磨りましたが――この正月からガラス玉を大小六個磨り潰しましたよ」と嘘だか本当だか見当のつかぬところを喋々ちょうちょうと述べる。「どこでそんなに磨っているんだい」「やっぱり学校の実験室です、朝磨り始めて、昼飯のときちょっと休んでそれから暗くなるまで磨るんですが、なかなか楽じゃありません」「それじゃ君が近頃忙がしい忙がしいと言って毎日日曜でも学校へ行くのはその珠を磨りに行くんだね」「全く目下のところは朝から晩まで珠ばかり磨っています」「珠作りの博士となって入り込みしは――と言うところだね。しかしその熱心を聞かせたら、いかな鼻でも少しはありがたがるだろう。実は先日僕がある用事があって図書館へ行って帰りに門を出ようとしたら偶然老梅ろうばい君に出逢ったのさ。
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あの男が卒業後図書館に足が向くとはよほど不思議な事だと思って感心に勉強するねと言ったら先生妙な顔をして、なに本を読みに来たんじゃない、今門前を通り掛ったらちょっと小用こようがしたくなったから拝借に立ち寄ったんだと言ったんで大笑をしたが、老梅君と君とは反対の好例として新撰蒙求しんせんもうぎゅうに是非入れたいよ」迷亭君例のごとく長たらしい注釈をつける。主人は少し真面目になって「君そう毎日毎日珠ばかり磨ってるのもよかろうが、元来いつ頃出来上るつもりかね」と聞く。「まあこの様子じゃ十年くらいかかりそうです」と寒月君は主人より呑気のんきに見受けられる。「十年じゃ――もう少し早く磨り上げたらよかろう」「十年じゃ早い方です、事によると廿年くらいかかります」「そいつは大変だ、それじゃ容易に博士にゃなれないじゃないか」「ええ一日も早くなって安心さしてやりたいのですがとにかく珠を磨り上げなくっちゃ肝心の実験が出来ませんから……
 寒月君はちょっと句を切って「何、そんなにご心配には及びませんよ。金田でも私の珠ばかり磨ってる事はよく承知しています。実は二三日にさんち前行った時にもよく事情を話して来ました」としたり顔に述べ立てる。すると今まで三人の談話を分らぬながら傾聴していた細君が「それでも金田さんは家族中残らず、先月から大磯へ行っていらっしゃるじゃありませんか」と不審そうに尋ねる。寒月君もこれには少し辟易へきえきていであったが「そりゃ妙ですな、どうしたんだろう」ととぼけている。こう言う時に重宝なのは迷亭君で、話の途切とぎれた時、きまりの悪い時、眠くなった時、困った時、どんな時でも必ず横合から飛び出してくる。「先月大磯へ行ったものに両三日りょうさんち前東京で逢うなどは神秘的でいい。いわゆる霊の交換だね。相思の情の切な時にはよくそう言う現象が起るものだ。ちょっと聞くと夢のようだが、夢にしても現実よりたしかな夢だ。奥さんのように別に思いも思われもしない苦沙弥君の所へ片付いて生涯しょうがい恋の何物たるを御解しにならん方には、御不審ももっともだが……」「あら何を証拠にそんな事をおっしゃるの。随分軽蔑けいべつなさるのね」と細君は中途から不意に迷亭に切り付ける。「君だって恋煩こいわずらいなんかした事はなさそうじゃないか」と主人も正面から細君に助太刀をする。「そりゃ僕の艶聞えんぶんなどは、いくら有ってもみんな七十五日以上経過しているから、君方きみがたの記憶には残っていないかも知れないが――実はこれでも失恋の結果、この歳になるまで独身で暮らしているんだよ」と一順列座の顔を公平に見回わす。「ホホホホ面白い事」と言ったのは細君で、「馬鹿にしていらあ」と庭の方を向いたのは主人である。
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ただ寒月君だけは「どうかその懐旧談を後学こうがくのために伺いたいもので」と相変らずにやにやする。
僕のも大分だいぶ神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しい事に先生は永眠されたから、実のところ話す張合もないんだが、せっかくだから打ち開けるよ。その代りしまいまで謹聴しなくっちゃいけないよ」と念を押していよいよ本文に取り掛る。「回顧すると今を去る事――ええと――何年前だったかな――面倒だからほぼ十五六年前としておこう」「冗談じょうだんじゃない」と主人は鼻からフンと息をした。「大変物覚えが御悪いのね」と細君がひやかした。寒月君だけは約束を守って一言いちごんも言わずに、早くあとが聴きたいと言う風をする。「何でもある年の冬の事だが、僕が越後の国は蒲原郡かんばらごおり  筍谷たけのこだにを通って、蛸壺峠たこつぼとうげへかかって、これからいよいよ会津領あいづりょうへ出ようとするところだ」「妙なところだな」と主人がまた邪魔をする。「だまって聴いていらっしゃいよ。面白いから」と細君が制する。「ところが日は暮れる、路は分らず、腹は減る、仕方がないから峠の真中にある一軒屋をたたいて、これこれかようかようしかじかの次第だから、どうか留めてくれと言うと、御安い御用です、さあ御上がんなさいと裸蝋燭はだかろうそくを僕の顔に差しつけた娘の顔を見て僕はぶるぶるとふるえたがね。僕はその時から恋と言う曲者くせものの魔力を切実に自覚したね」「おやいやだ。そんな山の中にも美しい人があるんでしょうか」「山だって海だって、奥さん、その娘を一目あなたに見せたいと思うくらいですよ、文金ぶんきん高島田たかしまだに髪をいましてね」「へえー」と細君はあっけに取られている。「入って見ると八畳の真中に大きな囲炉裏いろりが切ってあって、そのまわりに娘と娘のじいさんとばあさんと僕と四人坐ったんですがね。さぞ御腹おなか御減おへりでしょうと言いますから、何でも善いから早く食わせ給えと請求したんです。すると爺さんがせっかくの御客さまだから蛇飯へびめしでもいて上げようと言うんです。さあこれからがいよいよ失恋に取り掛るところだからしっかりして聴きたまえ」「先生しっかりして聴く事は聴きますが、なんぼ越後の国だって冬、蛇がいやしますまい」「うん、そりゃ一応もっともな質問だよ。しかしこんな詩的な話しになるとそう理屈りくつにばかり拘泥こうでいしてはいられないからね。鏡花【日本の小説家:泉 鏡花】の小説にゃ雪の中からかにが出てくるじゃないか」と言ったら寒月君は「なるほど」と言ったきりまた謹聴の態度に復した。
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その時分の僕は随分あくもの食いの隊長で、いなご、なめくじ、赤蛙などは食いきていたくらいなところだから、蛇飯はおつだ。早速御馳走になろうと爺さんに返事をした。そこで爺さん囲炉裏の上へなべをかけて、その中へ米を入れてぐずぐず煮出したものだね。不思議な事にはそのなべふたを見ると大小十個ばかりの穴があいている。その穴から湯気がぷうぷう吹くから、うまい工夫をしたものだ、田舎いなかにしては感心だと見ていると、爺さんふと立って、どこかへ出て行ったがしばらくすると、大きなざるを小脇にい込んで帰って来た。何気なくこれを囲炉裏のそばへ置いたから、その中をのぞいて見ると――いたね。長い奴が、寒いもんだから御互にとぐろきくらをやってかたまっていましたね」「もうそんな御話しはしになさいよ。厭らしい」と細君は眉に八の字を寄せる。「どうしてこれが失恋の大源因になるんだからなかなか廃せませんや。爺さんはやがて左手に鍋の蓋をとって、右手に例の塊まった長い奴を無雑作むぞうさにつかまえて、いきなり鍋の中へほうり込んで、すぐ上から蓋をしたが、さすがの僕もその時ばかりははっと息の穴がふさがったかと思ったよ」「もう御やめになさいよ。気味きびの悪るい」と細君しきりにこわがっている。「もう少しで失恋になるからしばらく辛抱しんぼうしていらっしゃい。すると一分立つか立たないうちに蓋の穴から鎌首かまくびがひょいと一つ出ましたのには驚ろきましたよ。やあ出たなと思うと、隣の穴からもまたひょいと顔を出した。また出たよと言ううち、あちらからも出る。こちらからも出る。とうとう鍋中なべじゅう蛇のつらだらけになってしまった」「なんで、そんなに首を出すんだい」「鍋の中が熱いから、苦しまぎれに這い出そうとするのさ。やがて爺さんは、もうよかろう、引っ張らっしとか何とか言うと、婆さんははあーと答える、娘はあいと挨拶をして、名々めいめいに蛇の頭を持ってぐいと引く。肉は鍋の中に残るが、骨だけは奇麗に離れて、頭を引くと共に長いのが面白いように抜け出してくる」「蛇の骨抜きですね」と寒月君が笑いながら聞くと「全くの事骨抜だ、器用な事をやるじゃないか。それから蓋を取って、杓子しゃくしでもって飯と肉を矢鱈やたらぜて、さあ召し上がれと来た」「食ったのかい」と主人が冷淡に尋ねると、細君にがい顔をして「もうしになさいよ、胸が悪るくって御飯も何もたべられやしない」と愚痴をこぼす。
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奥さんは蛇飯を召し上がらんから、そんな事をおっしゃるが、まあ一遍たべてご覧なさい、あの味ばかりは生涯しょうがい忘れられませんぜ」「おお、いやだ、誰が食べるもんですか」「そこで充分御饌ごぜんも頂戴し、寒さも忘れるし、娘の顔も遠慮なく見るし、もう思いおく事はないと考えていると、御休みなさいましと言うので、旅のつかれもある事だから、おおせに従って、ごろりと横になると、すまん訳だが前後を忘却して寝てしまった」「それからどうなさいました」と今度は細君の方から催促する。「それから明朝あくるあさになって眼をさましてからが失恋でさあ」「どうかなさったんですか」「いえ別にどうもしやしませんがね。朝起きて巻煙草まきたばこをふかしながら裏の窓から見ていると、向うのかけひそばで、薬缶頭やかんあたまが顔を洗っているんでさあ」「爺さんか婆さんか」と主人が聞く。「それがさ、僕にも識別しにくかったから、しばらく拝見していて、その薬缶がこちらを向く段になって驚ろいたね。それが僕の初恋をした昨夜ゆうべの娘なんだもの」「だって娘は島田にっているとさっき言ったじゃないか」「前夜は島田さ、しかも見事な島田さ。ところが翌朝は丸薬缶さ」「人を馬鹿にしていらあ」と主人は例によって天井の方へ視線をそらす。「僕も不思議のきょく内心少々こわくなったから、なお余所よそながら様子をうかがっていると、薬缶はようやく顔を洗いおわって、かたえの石の上に置いてあった高島田のかずらを無雑作にかぶって、すましてうちへ這入ったんでなるほどと思った。なるほどとは思ったようなもののその時から、とうとう失恋の果敢はかなき運命をかこつ身となってしまった」「くだらない失恋もあったもんだ。ねえ、寒月君、それだから、失恋でも、こんなに陽気で元気がいいんだよ」と主人寒月君に向って迷亭君の失恋を評すると、寒月君は「しかしその娘が丸薬缶でなくってめでたく東京へでも連れて御帰りになったら、先生はなお元気かも知れませんよ、とにかくせっかくの娘が禿はげであったのは千秋せんしゅう恨事こんじですねえ。それにしても、そんな若い女がどうして、毛が抜けてしまったんでしょう」「僕もそれについてはだんだん考えたんだが全く蛇飯を食い過ぎたせいに相違ないと思う。蛇飯てえ奴はのぼせるからね」「しかしあなたは、どこも何ともなくて結構でございましたね」「僕は禿にはならずにすんだが、その代りにこの通りその時から近眼きんがんになりました」と金縁の眼鏡をとってハンケチで丁寧ていねいいている。しばらくして主人は思い出したように「全体どこが神秘的なんだい」と念のために聞いて見る。「あの鬘はどこで買ったのか、拾ったのかどう考えてもいまだに分らないからそこが神秘さ」と迷亭君はまた眼鏡を元のごとく鼻の上へかける。
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まるではなの話を聞くようでござんすね」とは細君の批評であった。
 迷亭の駄弁もこれで一段落を告げたから、もうやめるかと思いのほか、先生は猿轡さるぐつわでもめられないうちはとうてい黙っている事が出来ぬたちと見えて、また次のような事をしゃべり出した。
僕の失恋もにがい経験だが、あの時あの薬缶やかんを知らずに貰ったが最後生涯の目障めざわりになるんだから、よく考えないと険呑けんのんだよ。結婚なんかは、いざと言う間際になって、飛んだところに傷口が隠れているのを見出みいだす事がある者だから。寒月君などもそんなに憧憬しょうけいしたり惝怳しょうきょうしたりひとりでむずかしがらないで、とくと気を落ちつけてたまるがいいよ」といやに異見めいた事を述べると、寒月君は「ええなるべく珠ばかり磨っていたいんですが、向うでそうさせないんだから弱り切ります」とわざと辟易へきえきしたような顔付をする。「そうさ、君などは先方が騒ぎ立てるんだが、中には滑稽なのがあるよ。あの図書館へ小便をしに来た老梅ろうばい君などになるとすこぶる奇だからね」「どんな事をしたんだい」と主人が調子づいてうけたまわる。「なあに、こう言う訳さ。先生その昔静岡の東西館へ泊った事があるのさ。――たった一と晩だぜ――それでその晩すぐにそこの下女に結婚を申し込んだのさ。僕も随分呑気のんきだが、まだあれほどには進化しない。もっともその時分には、あの宿屋に御夏おなつさんと言う有名な別嬪べっぴんがいて老梅君の座敷へ出たのがちょうどその御夏さんなのだから無理はないがね」「無理がないどころか君の何とか峠とまるで同じじゃないか」「少し似ているね、実を言うと僕と老梅とはそんなに差異はないからな。とにかく、その御夏さんに結婚を申し込んで、まだ返事を聞かないうちに水瓜すいかが食いたくなったんだがね」「何だって?」と主人が不思議な顔をする。主人ばかりではない、細君寒月も申し合せたように首をひねってちょっと考えて見る。迷亭は構わずどんどん話を進行させる。「御夏さんを呼んで静岡に水瓜はあるまいかと聞くと、御夏さんが、なんぼ静岡だって水瓜くらいはありますよと、御盆に水瓜を山盛りにして持ってくる。そこで老梅君食ったそうだ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(47 / 128)
山盛りの水瓜をことごとく平らげて、御夏さんの返事を待っていると、返事の来ないうちに腹が痛み出してね、うーんうーんとうなったが少しも利目ききめがないからまた御夏さんを呼んで今度は静岡に医者はあるまいかと聞いたら、御夏さんがまた、なんぼ静岡だって医者くらいはありますよと言って、天地玄黄てんちげんこうとかいう千字文せんじもんを盗んだような名前のドクトルを連れて来た。翌朝あくるあさになって、腹の痛みも御蔭でとれてありがたいと、出立する十五分前に御夏さんを呼んで、昨日きのう申し込んだ結婚事件の諾否を尋ねると、御夏さんは笑いながら静岡には水瓜もあります、御医者もありますが一夜作りの御嫁はありませんよと出て行ったきり顔を見せなかったそうだ。それから老梅君も僕同様失恋になって、図書館へは小便をするほか来なくなったんだって、考えると女は罪な者だよ」と言うと主人がいつになく引き受けて「本当にそうだ。せんだってミュッセの脚本を読んだらそのうちの人物が羅馬ローマの詩人を引用してこんな事を言っていた。――羽より軽い者はちりである。塵より軽いものは風である。風より軽い者は女である。女より軽いものはである。――よく穿うがってるだろう。女なんか仕方がない」と妙なところで力味りきんで見せる。これをうけたまわった細君は承知しない。「女の軽いのがいけないとおっしゃるけれども、男の重いんだって好い事はないでしょう」「重いた、どんな事だ」「重いと言うな重い事ですわ、あなたのようなのです」「俺がなんで重い」「重いじゃありませんか」と妙な議論が始まる。迷亭は面白そうに聞いていたが、やがて口を開いて「そう赤くなって互に弁難攻撃をするところが夫婦の真相と言うものかな。どうも昔の夫婦なんてものはまるで無意味なものだったに違いない」とひやかすのだかめるのだか曖昧あいまいな事を言ったが、それでやめておいても好い事をまた例の調子で布衍ふえんして、しものごとく述べられた。
昔は亭主に口返答なんかした女は、一人もなかったんだって言うが、それならおしを女房にしていると同じ事で僕などは一向いっこうありがたくない。やっぱり奥さんのようにあなたは重いじゃありませんかとか何とか言われて見たいね。同じ女房を持つくらいなら、たまには喧嘩の一つ二つしなくっちゃ退屈でしようがないからな。僕の母などと来たら、おやじの前へ出てはいへいで持ち切っていたものだ。そうして二十年もいっしょになっているうちに寺参りよりほかに外へ出た事がないと言うんだから情けないじゃないか。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(48 / 128)
もっとも御蔭で先祖代々の戒名かいみょうはことごとく暗記している。男女間の交際だってそうさ、僕の小供の時分などは寒月君のように意中の人と合奏をしたり、霊の交換をやって朦朧体もうろうたいで出合って見たりする事はとうてい出来なかった」御気の毒様で」と寒月君が頭を下げる。「実に御気の毒さ。しかもその時分の女がかならずしも今の女より品行がいいと限らんからね。奥さん近頃は女学生が堕落したの何だのとやかましく言いますがね。なに昔はこれよりはげしかったんですよ」「そうでしょうか」と細君は真面目である。「そうですとも、出鱈目でたらめじゃない、ちゃんと証拠があるから仕方がありませんや。苦沙弥君、君も覚えているかも知れんが僕等の五六歳の時までは女の子を唐茄子とうなすのようにかごへ入れて天秤棒てんびんぼうかついで売ってあるいたもんだ、ねえ君」「僕はそんな事は覚えておらん」「君の国じゃどうだか知らないが、静岡じゃたしかにそうだった」「まさか」と細君が小さい声を出すと、「本当ですか」と寒月君が本当らしからぬ様子で聞く。
本当さ。現に僕のおやじがを付けた事がある。その時僕は何でも六つくらいだったろう。おやじといっしょに油町あぶらまちから通町とおりちょうへ散歩に出ると、向うから大きな声をして女の子はよしかな、女の子はよしかなと怒鳴どなってくる。僕等がちょうど二丁目の角へ来ると、伊勢源いせげんと言う呉服屋の前でその男に出っ食わした。伊勢源と言うのは間口が十間でくら戸前とまえあって静岡第一の呉服屋だ。今度行ったら見て来給え。今でも歴然と残っている。立派なうちだ。その番頭が甚兵衛と言ってね。いつでも御袋おふくろが三日前にくなりましたと言うような顔をして帳場の所へひかえている。甚兵衛君の隣りにははつさんという二十四五の若いしゅが坐っているが、この初さんがまた雲照律師うんしょうりっし【真言宗の僧】に帰依きえして三七二十一日の間蕎麦湯そばゆだけで通したと言うような青い顔をしている。初さんの隣りがちょうどんでこれは昨日きのう火事でき出されたかのごとく愁然しゅうぜん算盤そろばんに身をもたしている。長どんとならんで……
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君は呉服屋の話をするのか、人売りの話をするのか」「そうそう人売りの話しをやっていたんだっけ。実はこの伊勢源についてもすこぶる奇譚きだんがあるんだが、それは割愛かつあいして今日は人売りだけにしておこう」「人売りもついでにやめるがいい」「どうしてこれが二十世紀の今日こんにちと明治初年頃の女子の品性の比較についてだいなる参考になる材料だから、そんなに容易たやすくやめられるものか――それで僕がおやじと伊勢源の前までくると、例の人売りがおやじを見て旦那女の子の仕舞物しまいものはどうです、安く負けておくから買っておくんなさいと言いながら天秤棒てんびんぼうをおろして汗をいているのさ。見ると籠の中には前に一人うしろに一人両方とも二歳ばかりの女の子が入れてある。おやじはこの男に向って安ければ買ってもいいが、もうこれぎりかいと聞くと、へえ生憎あいにく今日はみんな売りつくしてたった二つになっちまいました。どっちでも好いから取っとくんなさいなと女の子を両手で持って唐茄子とうなすか何ぞのようにおやじの鼻の先へ出すと、おやじはぽんぽんと頭をたたいて見て、ははあかなりな音だと言った。それからいよいよ談判が始まって散々さんざ価切ねぎった末おやじが、買っても好いが品はたしかだろうなと聞くと、ええ前の奴は始終見ているから間違はありませんがねうしろにかついでる方は、何しろ眼がないんですから、ことによるとひびが入ってるかも知れません。こいつの方なら受け合えない代りに価段ねだんを引いておきますと言った。僕はこの問答をいまだに記憶しているんだがその時小供心に女と言うものはなるほど油断のならないものだと思ったよ。――しかし明治三十八年の今日こんにちこんな馬鹿な真似をして女の子を売ってあるくものもなし、眼を放してうしろへかついだ方は険呑けんのんだなどと言う事も聞かないようだ。だから、僕の考ではやはり泰西たいせい文明の御蔭で女の品行もよほど進歩したものだろうと断定するのだが、どうだろう寒月
 寒月君は返事をする前にまず鷹揚おうよう咳払せきばらいを一つして見せたが、それからわざと落ちついた低い声で、こんな観察を述べられた。「この頃の女は学校の行き帰りや、合奏会や、慈善会や、園遊会で、ちょいと買って頂戴な、あらおいや? などと自分で自分を売りにあるいていますから、そんな八百屋やおやのお余りを雇って、女の子はよしか、なんて下品な依託販売いたくはんばいをやる必要はないですよ。人間に独立心が発達してくると自然こんな風になるものです。老人なんぞはいらぬ取越苦労をして何とかかとか言いますが、実際を言うとこれが文明の趨勢すうせいですから、私などはおおいに喜ばしい現象だと、ひそかに慶賀の意を表しているのです。買う方だって頭をたたいて品物は確かかなんて聞くような野暮やぼは一人もいないんですからその辺は安心なものでさあ。
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またこの複雑な世の中に、そんな手数てすうをする日にゃあ、際限がありませんからね。五十になったって六十になったって亭主を持つ事も嫁に行く事も出来やしません」寒月君は二十世紀の青年だけあって、おおいに当世流の考を開陳かいちんしておいて、敷島しきしまの煙をふうーと迷亭先生の顔の方へ吹き付けた。迷亭は敷島の煙くらいで辟易へきえきする男ではない。「仰せの通り方今ほうこんの女生徒、令嬢などは自尊自信の念から骨も肉も皮まで出来ていて、何でも男子に負けないところが敬服の至りだ。僕の近所の女学校の生徒などと来たらえらいものだぜ。筒袖つつそで穿いて鉄棒かなぼうへぶら下がるから感心だ。僕は二階の窓から彼等の体操を目撃するたんびに古代希臘ギリシャの婦人を追懐するよ」「また希臘か」と主人が冷笑するように言い放つと「どうも美な感じのするものは大抵希臘から源を発しているから仕方がない。美学者と希臘とはとうてい離れられないやね。――ことにあの色の黒い女学生が一心不乱に体操をしているところを拝見すると、僕はいつでも Agnodice の逸話を思い出すのさ」と物知り顔にしゃべり立てる。「またむずかしい名前が出て来ましたね」と寒月君は依然としてにやにやする。「Agnodice はえらい女だよ、僕は実に感心したね。当時亜典アテンの法律で女が産婆を営業する事を禁じてあった。不便な事さ。Agnodice だってその不便を感ずるだろうじゃないか」「何だい、その――何とか言うのは」「女さ、女の名前だよ。この女がつらつら考えるには、どうも女が産婆になれないのは情けない、不便極まる。どうかして産婆になりたいもんだ、産婆になる工夫はあるまいかと三日三晩手をこまぬいて考え込んだね。ちょうど三日目の暁方あけがたに、隣の家で赤ん坊がおぎゃあと泣いた声を聞いて、うんそうだと豁然大悟かつぜんたいごして、それから早速長い髪を切って男の着物をきて Hierophilus の講義をききに行った。首尾よく講義をききおおせて、もう大丈夫と言うところでもって、いよいよ産婆を開業した。ところが、奥さん流行はやりましたね。あちらでもおぎゃあと生れるこちらでもおぎゃあと生れる。それがみんな Agnodice の世話なんだから大変もうかった。
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ところが人間万事塞翁さいおうの馬、七転ななころ八起やおき、弱り目にたたり目で、ついこの秘密が露見に及んでついに御上おかみ御法度ごはっとを破ったと言うところで、重き御仕置しおきに仰せつけられそうになりました」まるで講釈見たようです事」「なかなかうまいでしょう。ところが亜典アテンの女連が一同連署して嘆願に及んだから、時の御奉行もそう木で鼻をくくったような挨拶も出来ず、ついに当人は無罪放免、これからはたとい女たりとも産婆営業勝手たるべき事と言う御布令おふれさえ出てめでたく落着を告げました」「よくいろいろな事を知っていらっしゃるのね、感心ねえ」「ええ大概の事は知っていますよ。知らないのは自分の馬鹿な事くらいなものです。しかしそれも薄々は知ってます」「ホホホホ面白い事ばかり……」と細君相形そうごうを崩して笑っていると、格子戸こうしどのベルが相変らず着けた時と同じような音を出して鳴る。「おやまた御客様だ」と細君は茶の間へ引き下がる。細君と入れ違いに座敷へ入って来たものは誰かと思ったらご存じの越智おち東風とうふう君であった。
 ここへ東風君さえくれば、主人うち出入でいりする変人はことごとく網羅しつくしたとまで行かずとも、少なくとも吾輩無聊ぶりょうを慰むるに足るほどの頭数あたまかず御揃おそろいになったと言わねばならぬ。これで不足を言っては勿体もったいない。運悪るくほかの家へ飼われたが最後、生涯人間中にかかる先生方が一人でもあろうとさえ気が付かずに死んでしまうかも知れない。さいわいにして苦沙弥先生門下の猫児びょうじとなって朝夕ちょうせき虎皮こひの前にはんべるので先生は無論の事迷亭寒月乃至ないし東風などと言う広い東京にさえあまり例のない一騎当千の豪傑連の挙止動作を寝ながら拝見するのは吾輩にとって千載一遇の光栄である。御蔭様でこの暑いのに毛袋でつつまれていると言う難儀も忘れて、面白く半日を消光【日を過ごす】する事が出来るのは感謝の至りである。どうせこれだけ集まれば只事ただごとではすまない。何か持ち上がるだろうとふすまの陰からつつしんで拝見する。
どうもご無沙汰を致しました。しばらく」と御辞儀をする東風君の顔を見ると、先日のごとくやはり奇麗に光っている。頭だけで評すると何か緞帳役者どんちょうやくしゃのようにも見えるが、白い小倉こくらはかまのゴワゴワするのを御苦労にも鹿爪しかつめらしく穿いているところは榊原健吉さかきばらけんきち【幕臣・剣術家】の内弟子としか思えない。従って東風君の身体で普通の人間らしいところは肩から腰までの間だけである。「いや暑いのに、よく御出掛だね。さあずっと、こっちへ通りたまえ」と迷亭先生は自分のうちらしい挨拶をする。「先生には大分だいぶ久しく御目にかかりません」「そうさ、たしかこの春の朗読会ぎりだったね。
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朗読会と言えば近頃はやはり御盛おさかんかね。その御宮おみやにゃなりませんか。あれはうまかったよ。僕はおおいに拍手したぜ、君気が付いてたかい」ええ御蔭で大きに勇気が出まして、とうとうしまいまでぎつけました」「今度はいつ御催しがありますか」と主人が口を出す。「七八両月ふたつきは休んで九月には何かにぎやかにやりたいと思っております。何か面白い趣向はございますまいか」「さよう」と主人が気のない返事をする。「東風君僕の創作を一つやらないか」と今度は寒月君が相手になる。「君の創作なら面白いものだろうが、一体何かね」「脚本さ」と寒月君がなるべく押しを強く出ると、案のごとく、三人はちょっと毒気をぬかれて、申し合せたように本人の顔を見る。「脚本はえらい。喜劇かい悲劇かい」と東風君が歩を進めると、寒月先生なお澄し返って「なに喜劇でも悲劇でもないさ。近頃は旧劇とか新劇とか大部だいぶやかましいから、僕も一つ新機軸を出して俳劇はいげきと言うのを作って見たのさ」「俳劇たどんなものだい」「俳句趣味の劇と言うのを詰めて俳劇の二字にしたのさ」と言うと主人迷亭も多少けむかれてひかえている。「それでその趣向と言うのは?」と聞き出したのはやはり東風君である。「根が俳句趣味からくるのだから、あまり長たらしくって、毒悪なのはよくないと思って一幕物にしておいた」「なるほど」「まず道具立てから話すが、これもごく簡単なのがいい。舞台の真中へ大きな柳を一本植え付けてね。それからその柳の幹から一本の枝を右の方へヌッと出させて、その枝へからすを一羽とまらせる」「烏がじっとしていればいいが」と主人ひとごとのように心配した。「何わけは有りません、烏の足を糸で枝へしばり付けておくんです。でその下へ行水盥ぎょうずいだらいを出しましてね。美人が横向きになって手拭を使っているんです」「そいつは少しデカダンだね。第一誰がその女になるんだい」と迷亭が聞く。「何これもすぐ出来ます。美術学校のモデルを雇ってくるんです」「そりゃ警視庁がやかましく言いそうだな」と主人はまた心配している。「だって興行さえしなければ構わんじゃありませんか。そんな事をとやかく言った日にゃ学校で裸体画の写生なんざ出来っこありません
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しかしあれは稽古のためだから、ただ見ているのとは少し違うよ」「先生方がそんな事を言った日には日本もまだ駄目です。絵画だって、演劇だって、おんなじ芸術です」と寒月君大いに気炎きえんを吹く。「まあ議論はいいが、それからどうするのだい」と東風君、ことによると、やる了見りょうけんと見えて筋を聞きたがる。「ところへ花道から俳人高浜虚子きょしがステッキを持って、白い灯心とうしん入りの帽子をかぶって、透綾すきやの羽織に、薩摩飛白さつまがすり尻端折しりっぱしょりの半靴と言うこしらえで出てくる。着付けは陸軍の御用達ごようたし見たようだけれども俳人だからなるべく悠々ゆうゆうとして腹の中では句案に余念のないていであるかなくっちゃいけない。それで虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生おおいに俳味に感動したと言う思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木ひょうしぎを入れて幕を引く。――どうだろう、こう言う趣向は。御気に入りませんかね。君御宮おみやになるより虚子になる方がよほどいいぜ東風君は何だか物足らぬと言う顔付で「あんまり、あっけないようだ。もう少し人情を加味した事件が欲しいようだ」と真面目に答える。今まで比較的おとなしくしていた迷亭はそういつまでもだまっているような男ではない。「たったそれだけで俳劇はすさまじいね。上田うえだびん君の説によると俳味とか滑稽とか言うものは消極的で亡国のいんだそうだが、敏君だけあってうまい事を言ったよ。そんなつまらない物をやって見給え。それこそ上田君から笑われるばかりだ。第一劇だか茶番だか何だかあまり消極的で分らないじゃないか。失礼だが寒月君はやはり実験室でたまを磨いてる方がいい。俳劇なんぞ百作ったって二百作ったって、亡国のいんじゃ駄目だ寒月君は少々むっとして、「そんなに消極的でしょうか。私はなかなか積極的なつもりなんですが」どっちでも構わん事を弁解しかける。「虚子がですね。
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虚子先生が女に惚れる烏かなと烏をとらえて女に惚れさしたところがおおいに積極的だろうと思います」こりゃ新説だね。是非御講釈を伺がいましょう」「理学士として考えて見ると烏が女に惚れるなどと言うのは不合理でしょう」「ごもっとも」「その不合理な事を無雑作むぞうさに言い放って少しも無理に聞えません」「そうかしら」と主人が疑った調子で割り込んだが寒月は一向頓着しない。「なぜ無理に聞えないかと言うと、これは心理的に説明するとよく分ります。実を言うと惚れるとか惚れないとか言うのは俳人その人に存する感情で烏とは没交渉の沙汰であります。しかるところあの烏は惚れてるなと感じるのは、つまり烏がどうのこうのと言う訳じゃない、必竟ひっきょう自分が惚れているんでさあ。虚子自身が美しい女の行水ぎょうずいしているところを見てはっと思う途端にずっと惚れ込んだに相違ないです。さあ自分が惚れた眼で烏が枝の上で動きもしないで下を見つめているのを見たものだから、ははあ、あいつも俺と同じく参ってるなと癇違かんちがいをしたのです。癇違いには相違ないですがそこが文学的でかつ積極的なところなんです。自分だけ感じた事を、断りもなく烏の上に拡張して知らん顔をしてすましているところなんぞは、よほど積極主義じゃありませんか。どうです先生」「なるほど御名論だね、虚子に聞かしたら驚くに違いない。説明だけは積極だが、実際あの劇をやられた日には、見物人はたしかに消極になるよ。ねえ東風」「へえどうも消極過ぎるように思います」と真面目な顔をして答えた。
 主人は少々談話の局面を展開して見たくなったと見えて、「どうです、東風さん、近頃は傑作もありませんか」と聞くと東風君は「いえ、別段これと言って御目にかけるほどのものも出来ませんが、近日詩集を出して見ようと思いまして――稿本こうほんを幸い持って参りましたから御批評を願いましょう」と懐から紫の袱紗包ふくさづつみを出して、その中から五六十枚ほどの原稿紙の帳面を取り出して、主人の前に置く。主人はもっともらしい顔をして拝見と言って見ると第一頁に

世の人に似ずあえかに見え給う
   富子嬢に捧ぐ

と二行にかいてある。主人はちょっと神秘的な顔をしてしばらく一頁を無言のままながめているので、迷亭は横合から「何だい新体詩かね」と言いながらのぞき込んで「やあ、捧げたね。東風君、思い切って富子嬢に捧げたのはえらい」としきりにめる。主人はなお不思議そうに「東風さん、この富子と言うのは本当に存在している婦人なのですか」と聞く。「へえ、この前迷亭先生とごいっしょに朗読会へ招待した婦人の一人です。ついこの御近所に住んでおります。
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実はただ今詩集を見せようと思ってちょっと寄って参りましたが、生憎あいにく先月から大磯へ避暑に行って留守でした」と真面目くさって述べる。「苦沙弥君、これが二十世紀なんだよ。そんな顔をしないで、早く傑作でも朗読するさ。しかし東風君この捧げ方は少しまずかったね。このあえかにと言う雅言がげんは全体何と言う意味だと思ってるかね」「蚊弱かよわいとかたよわくと言う字だと思います」「なるほどそうも取れん事はないが本来の字義を言うと危う気にと言う事だぜ。だから僕ならこうは書かないね」「どう書いたらもっと詩的になりましょう」「僕ならこうさ。世の人に似ずあえかに見え給う富子嬢の鼻の下に捧ぐとするね。わずかに三字のゆきさつだが鼻の下があるのとないのとでは大変感じに相違があるよ」「なるほど」と東風君はしかねたところを無理に納得なっとくしたていにもてなす。
 主人は無言のままようやく一頁をはぐっていよいよ巻頭第一章を読み出す。

んじてくんずる香裏こうりに君の
霊か相思の煙のたなびき
おお我、ああ我、からきこの世に
あまく得てしか熱き口づけ

これは少々僕には解しかねる」と主人は嘆息しながら迷亭に渡す。「これは少々振い過ぎてる」と迷亭寒月に渡す。寒月は「なああるほど」と言って東風君に返す。
先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日こんにちの詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。注釈や訓義くんぎは学究のやる事で私共の方ではとんと構いません。せんだっても私の友人で送籍そうせきと言う男が一夜という短編をかきましたが、誰が読んでも朦朧もうろうとして取りめがつかないので、当人に逢ってとくと主意のあるところをただして見たのですが、当人もそんな事は知らないよと言って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が言うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡たんかんに送籍君を打ち留めた。東風君はこれだけではまだ弁じ足りない。
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送籍は吾々仲間のうちでも取除とりのけですが、私の詩もどうか心持ちその気で読んでいただきたいので。ことに御注意を願いたいのはからきこの世と、あまき口づけとついをとったところが私の苦心です」「よほど苦心をなすった痕迹こんせきが見えます」「あまいからいと反照するところなんか十七味調じゅうしちみちょう  唐辛子調とうがらしちょうで面白い。全く東風君独特の技量で敬々服々の至りだ」としきりに正直な人をまぜ返して喜んでいる。
 主人は何と思ったか、ふいと立って書斎の方へ行ったがやがて一枚の半紙を持って出てくる。「東風君の御作も拝見したから、今度は僕が短文を読んで諸君の御批評を願おう」といささか本気の沙汰である。「天然てんねん居士こじ墓碑銘ぼひめいならもう二三遍拝聴したよ」「まあ、だまっていなさい。東風さん、これは決して得意のものではありませんが、ほんの座興ですから聴いて下さい」「是非伺がいましょう」「寒月君もついでに聞き給え」「ついででなくても聴きますよ。長い物じゃないでしょう」「僅々六十余字さ」と苦沙弥先生いよいよ手製の名文を読み始める。
大和魂やまとだましい! と叫んで日本人が肺病やみのようなせきをした
起し得て突兀とっこつ【高く突き出ている】ですね」と寒月君がほめる。
大和魂! と新聞屋が言う。大和魂! と掏摸すりが言う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸ドイツで大和魂の芝居をする
なるほどこりゃ天然てんねん居士こじ以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。
東郷大将が大和魂をっている。肴屋さかなやの銀さんも大和魂を有っている。詐偽師さぎし山師やまし、人殺しも大和魂を有っている
先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい
大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと言う声が聞こえた」「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は
三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている
先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と言ったのは無論迷亭である。
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誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰もった者がない。大和魂はそれ天狗てんぐたぐい
 主人一結杳然いっけつようぜんと言うつもりで読み終ったが、さすがの名文もあまり短か過ぎるのと、主意がどこにあるのか分りかねるので、三人はまだあとがある事と思って待っている。いくら待っていても、うんとも、すんとも、言わないので、最後に寒月が「それぎりですか」と聞くと主人かろく「うん」と答えた。うんは少し気楽過ぎる。
 不思議な事に迷亭はこの名文に対して、いつものようにあまり駄弁を振わなかったが、やがて向き直って、「君も短編を集めて一巻として、そうして誰かに捧げてはどうだ」と聞いた。主人は事もなげに「君に捧げてやろうか」と聴くと迷亭は「真平まっぴら」と答えたぎり、先刻さっき細君に見せびらかしたはさみをちょきちょき言わして爪をとっている。寒月君は東風君に向って「君はあの金田の令嬢を知ってるのかい」と尋ねる。「この春朗読会へ招待してから、懇意になってそれからは始終交際をしている。僕はあの令嬢の前へ出ると、何となく一種の感に打たれて、当分のうちは詩を作っても歌をんでも愉快に興が乗って出て来る。この集中にも恋の詩が多いのは全くああ言う異性の朋友ほうゆうからインスピレーションを受けるからだろうと思う。それで僕はあの令嬢に対しては切実に感謝の意を表しなければならんからこの機を利用して、わが集を捧げる事にしたのさ。むかしから婦人に親友のないもので立派な詩をかいたものはないそうだ」「そうかなあ」と寒月君は顔の奥で笑いながら答えた。いくら駄弁家の寄合でもそう長くは続かんものと見えて、談話の火の手は大分だいぶ下火になった。吾輩も彼等の変化なき雑談を終日聞かねばならぬ義務もないから、失敬して庭へ蟷螂かまきりを探しに出た。梧桐あおぎりの緑をつづる間から西に傾く日がまだらにれて、幹にはつくつく法師ぼうしが懸命にないている。晩はことによると一雨かかるかも知れない。


     

 吾輩は近頃運動を始めた。猫の癖に運動なんていた風だと一概に冷罵れいばし去る手合てあいにちょっと申し聞けるが、そう言う人間だってつい近年までは運動の何者たるを解せずに、食って寝るのを天職のように心得ていたではないか。無事是貴人ぶじこれきにんとかとなえて、懐手ふところでをして座布団ざぶとんから腐れかかった尻を離さざるをもって旦那の名誉と脂下やにさがって暮したのは覚えているはずだ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(58 / 128)
運動をしろの、牛乳を飲めの冷水を浴びろの、海の中へ飛び込めの、夏になったら山の中へこもって当分霞をくらえのとくだらぬ注文を連発するようになったのは、西洋から神国へ伝染しした輓近ばんきんの病気で、やはりペスト、肺病、神経衰弱の一族と心得ていいくらいだ。もっとも吾輩は去年生れたばかりで、当年とって一歳だから人間がこんな病気にかかり出した当時の有様は記憶に存しておらん、のみならずそのみぎりは浮世の風中かざなかにふわついておらなかったに相違ないが、猫の一年は人間の十年にけ合うと言ってもよろしい。吾等の寿命は人間より二倍も三倍も短いにかかわらず、その短日月の間に猫一疋の発達は十分つかまつるところをもって推論すると、人間の年月と猫の星霜せいそうを同じ割合に打算するのははなはだしき誤謬ごびゅう【まちがい】である。第一、一歳何ヵ月に足らぬ吾輩がこのくらいの見識を有しているのでも分るだろう。主人の第三女などは数え年で三つだそうだが、知識の発達から言うと、いやはや鈍いものだ。泣く事と、寝小便をする事と、おっぱいを飲む事よりほかに何にも知らない。世を憂い時をいきどお吾輩などにくらべると、からたわいのない者だ。それだから吾輩が運動、海水浴、転地療養の歴史を方寸のうちに畳み込んでいたってごうも驚くに足りない。これしきの事をもし驚ろく者があったなら、それは人間と言う足の二本足りない野呂間のろまきまっている。人間は昔から野呂間である。であるから近頃に至って漸々ようよう運動の功能を吹聴ふいちょうしたり、海水浴の利益を喋々ちょうちょうして大発明のように考えるのである。吾輩などは生れない前からそのくらいな事はちゃんと心得ている。第一海水がなぜ薬になるかと言えばちょっと海岸へ行けばすぐ分る事じゃないか。あんな広い所に魚が何びきおるか分らないが、あの魚が一疋も病気をして医者にかかったためしがない。みんな健全に泳いでいる。病気をすれば、からだがかなくなる。死ねば必ず浮く。それだから魚の往生をあがると言って、鳥の薨去こうきょを、落ちるとなえ、人間の寂滅じゃくめつごねると号している。洋行をして印度洋を横断した人に君、魚の死ぬところを見た事がありますかと聞いて見るがいい、誰でもいいえと答えるに極っている。それはそう答える訳だ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(59 / 128)
いくら往復したって一匹も波の上に今呼吸いきを引き取った――呼吸いきではいかん、魚の事だからしおを引き取ったと言わなければならん――潮を引き取って浮いているのを見た者はないからだ。あの渺々びょうびょうたる、あの漫々まんまんたる、大海たいかいを日となく夜となく続けざまに石炭をいてがしてあるいても古往今来こんらい一匹も魚が上がっておらんところをもって推論すれば、魚はよほど丈夫なものに違ないと言う断案はすぐに下す事が出来る。それならなぜ魚がそんなに丈夫なのかと言えばこれまた人間を待ってしかるのちに知らざるなりで、わけはない。すぐ分る。全く潮水しおみずを呑んで始終海水浴をやっているからだ。海水浴の功能はしかく魚に取って顕著けんちょである。魚に取って顕著である以上は人間に取っても顕著でなくてはならん。一七五〇年にドクトル・リチャード・ラッセルがブライトンの海水に飛込めば四百四病即席そくせき全快と大袈裟おおげさな広告を出したのは遅い遅いと笑ってもよろしい。猫といえども相当の時機が到着すれば、みんな鎌倉あたりへ出掛けるつもりでいる。ただし今はいけない。物には時機がある。御維新前ごいっしんまえの日本人が海水浴の功能を味わう事が出来ずに死んだごとく、今日こんにちの猫はいまだ裸体で海の中へ飛び込むべき機会に遭遇そうぐうしておらん。せいては事を仕損しそんずる、今日のように築地つきじへ打っちゃられに行った猫が無事に帰宅せん間は無暗むやみに飛び込む訳には行かん。進化の法則で吾等猫輩の機能が狂瀾怒濤きょうらんどとうに対して適当の抵抗力を生ずるに至るまでは――換言すれば猫がんだと言う代りに猫ががったと言う語が一般に使用せらるるまでは――容易に海水浴は出来ん。
 海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取りめた。どうも二十世紀の今日こんにち運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きがわるい。運動をせんと、運動せんのではない。運動が出来んのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。昔は運動したものが折助おりすけ【さむらいの家で使われる下男】と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見做みなされている。吾人の評価は時と場合に応じ吾輩の眼玉のごとく変化する。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(60 / 128)
吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲ひんしつとくると真逆まっさかさまにひっくり返る。ひっくり返ってもつかえはない。物には両面がある、両端りょうたんがある。両端をたたいて黒白こくびゃくの変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。方寸かさまにして見ると寸方となるところに愛嬌あいきょうがある。あま橋立はしだて股倉またぐらからのぞいて見るとまた格別なおもむきが出る。セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。たまには股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに言う者がないと、文界も進歩しないだろう。だから運動をわるく言った連中が急に運動がしたくなって、女までがラケットを持って往来をあるき廻ったって一向いっこう不思議はない。ただ猫が運動するのをいた風だなどと笑いさえしなければよい。さて吾輩の運動はいかなる種類の運動かと不審をいだく者があるかも知れんから一応説明しようと思う。御承知のごとく不幸にして機械を持つ事が出来ん。だからボールもバットも取り扱い方に困窮する。次には金がないから買うわけに行かない。この二つの源因からして吾輩の選んだ運動は一文いちもんいらず器械なしと名づくべき種類に属する者と思う。そんなら、のそのそ歩くか、あるいはまぐろの切身をくわえてけ出す事と考えるかも知れんが、ただ四本の足を力学的に運動させて、地球の引力にしたがって、大地を横行するのは、あまり単簡たんかんで興味がない。いくら運動と名がついても、主人の時々実行するような、読んで字のごとき運動はどうも運動の神聖をがす者だろうと思う。勿論もちろんただの運動でもある刺激のもとにはやらんとは限らん。鰹節競争かつぶしきょうそう鮭探しゃけさがしなどは結構だがこれは肝心かんじんの対象物があっての上の事で、この刺激を取り去ると索然さくぜんとして没趣味なものになってしまう。懸賞的興奮剤がないとすれば何か芸のある運動がして見たい。吾輩はいろいろ考えた。台所のひさしから家根やねに飛び上がる方、家根の天辺てっぺんにある梅花形ばいかがたかわらの上に四本足で立つ術、物干竿ものほしざおを渡る事――これはとうてい成功しない、竹がつるつるべって爪が立たない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(61 / 128)
うしろから不意に小供に飛びつく事、――これはすこぶる興味のある運動のひとつだが滅多めったにやるとひどい目に逢うから、高々たかだか月に三度くらいしか試みない。紙袋かんぶくろを頭へかぶせらるる事――これは苦しいばかりではなはだ興味のとぼしい方法である。ことに人間の相手がおらんと成功しないから駄目。次には書物の表紙を爪で引きく事、――これは主人に見付かると必ずどやされる危険があるのみならず、割合に手先の器用ばかりで総身の筋肉が働かない。これらは吾輩のいわゆる旧式運動なる者である。新式のうちにはなかなか興味の深いのがある。第一に蟷螂狩とうろうがり。――蟷螂狩りは鼠狩ねずみがりほどの大運動でない代りにそれほどの危険がない。夏のなかばから秋の始めへかけてやる遊戯としてはもっとも上乗のものだ。その方法を言うとまず庭へ出て、一匹の蟷螂かまきりをさがし出す。時候がいいと一匹や二匹見付け出すのは雑作ぞうさもない。さて見付け出した蟷螂君のそばへはっと風を切ってけて行く。するとすわこそと言う身構みがまえをして鎌首をふり上げる。蟷螂でもなかなか健気けなげなもので、相手の力量を知らんうちは抵抗するつもりでいるから面白い。振り上げた鎌首を右の前足でちょっと参る。振り上げた首は軟かいからぐにゃり横へ曲る。この時の蟷螂君の表情がすこぶる興味を添える。おやと言う思い入れが充分ある。ところを一足いっそく飛びにきみうしろへ廻って今度は背面から君の羽根をかろく引きく。あの羽根は平生大事にたたんであるが、引き掻き方がはげしいと、ぱっと乱れて中から吉野紙のような薄色の下着があらわれる。君は夏でも御苦労千万に二枚重ねでおつまっている。この時君の長い首は必ず後ろに向き直る。ある時は向ってくるが、大概の場合には首だけぬっと立てて立っている。こっちから手出しをするのを待ち構えて見える。先方がいつまでもこの態度でいては運動にならんから、あまり長くなるとまたちょいと一本参る。これだけ参ると眼識のある蟷螂なら必ず逃げ出す。それを我無洒落がむしゃらに向ってくるのはよほど無教育な野蛮的蟷螂である。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(62 / 128)
もし相手がこの野蛮な振舞をやると、向って来たところをねらいすまして、いやと言うほど張り付けてやる。大概は二三尺飛ばされる者である。しかし敵がおとなしく背面に前進すると、こっちは気の毒だから庭の立木を二三度飛鳥のごとく廻ってくる。蟷螂君かまきりくんはまだ五六寸しか逃げ延びておらん。もう吾輩の力量を知ったから手向いをする勇気はない。ただ右往左往へ逃げまどうのみである。しかし吾輩も右往左往へ追っかけるから、君はしまいには苦しがって羽根をふるって一大活躍を試みる事がある。元来蟷螂の羽根は彼の首と調和して、すこぶる細長く出来上がったものだが、聞いて見ると全く装飾用だそうで、人間の英語、仏語、独逸語ドイツごのごとくごうも実用にはならん。だから無用の長物を利用して一大活躍を試みたところが吾輩に対してあまり功能のありよう訳がない。名前は活躍だが事実は地面の上を引きずってあるくと言うに過ぎん。こうなると少々気の毒な感はあるが運動のためだから仕方がない。御免蒙ごめんこうむってたちまち前面へけ抜ける。君は惰性で急回転が出来ないからやはりやむを得ず前進してくる。その鼻をなぐりつける。この時蟷螂君は必ず羽根を広げたままたおれる。その上をうんと前足でおさえて少しく休息する。それからまた放す。放しておいてまた抑える。七擒七縦しちきんしちしょう 孔明こうめいの軍略で攻めつける。約三十分この順序を繰り返して、身動きも出来なくなったところを見すましてちょっと口へくわえて振って見る。それからまた吐き出す。今度は地面の上へ寝たぎり動かないから、こっちの手で突っ付いて、その勢で飛び上がるところをまた抑えつける。これもいやになってから、最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。ついでだから蟷螂を食った事のない人に話しておくが、蟷螂はあまりうまい物ではない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(63 / 128)
そうして滋養分も存外少ないようである。蟷螂狩とうろうがりに次いで蝉取せみとりと言う運動をやる。単に蝉と言ったところが同じ物ばかりではない。人間にも油野郎あぶらやろう、みんみん野郎、おしいつくつく野郎があるごとく、蝉にも油蝉、みんみん、おしいつくつくがある。油蝉はしつこくてかん。みんみんは横風おうふう【遠慮がない】で困る。ただ取って面白いのはおしいつくつくである。これは夏の末にならないと出て来ない。くちほころびから秋風あきかぜが断わりなしにはだでてはっくしょ風邪かぜを引いたと言う頃さかんに尾をり立ててなく。く鳴く奴で、吾輩から見ると鳴くのと猫にとられるよりほかに天職がないと思われるくらいだ。秋の初はこいつを取る。これを称して蝉取り運動と言う。ちょっと諸君に話しておくがいやしくも蝉と名のつく以上は、地面の上にころがってはおらん。地面の上に落ちているものには必ずありがついている。吾輩の取るのはこの蟻の領分に寝転んでいる奴ではない。高い木の枝にとまって、おしいつくつくと鳴いている連中をとらえるのである。これもついでだから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究上少なからざる関係があると思う。人間の猫にまさるところはこんなところに存するので、人間のみずから誇る点もまたかような点にあるのだから、今即答が出来ないならよく考えておいたらよかろう。もっとも蝉取り運動上はどっちにしてもつかえはない。ただ声をしるべに木をのぼって行って、先方が夢中になって鳴いているところをうんと捕えるばかりだ。これはもっとも簡略な運動に見えてなかなか骨の折れる運動である。吾輩は四本の足を有しているから大地を行く事においてはあえて他の動物には劣るとは思わない。少なくとも二本と四本の数学的知識から判断して見て人間には負けないつもりである。しかし木登りに至っては大分だいぶ吾輩より巧者な奴がいる。本職の猿は別物として、猿の末孫ばっそんたる人間にもなかなかあなどるべからざる手合てあいがいる。
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元来が引力に逆らっての無理な事業だから出来なくても別段の恥辱ちじょくとは思わんけれども、蝉取り運動上には少なからざる不便を与える。幸に爪と言う利器があるので、どうかこうか登りはするものの、はたで見るほど楽ではござらん。のみならず蝉は飛ぶものである。蟷螂君かまきりくんと違って一たび飛んでしまったが最後、せっかくの木登りも、木登らずと何のえらむところなしと言う悲運に際会する事がないとも限らん。最後に時々蝉から小便をかけられる危険がある。あの小便がややともすると眼をねらってしょぐってくるようだ。逃げるのは仕方がないから、どうか小便ばかりは垂れんように致したい。飛ぶ間際まぎわいばりをつかまつるのは一体どう言う心理的状態の生理的器械に及ぼす影響だろう。やはりせつなさのあまりかしらん。あるいは敵の不意に出でて、ちょっと逃げ出す余裕を作るための方便か知らん。そうすると烏賊いかの墨を吐き、ベランメーの刺物ほりものを見せ、主人羅甸語ラテンごを弄するたぐいと同じ綱目こうもくに入るべき事項となる。これも蝉学上ゆるかせにすべからざる問題である。充分研究すればこれだけでたしかに博士論文の価値はある。それは余事だから、そのくらいにしてまた本題に帰る。蝉のもっとも集注するのは――集注がおかしければ集合だが、集合は陳腐ちんぷだからやはり集注にする。――蝉のもっとも集注するのは青桐あおぎりである。漢名を梧桐ごとうと号するそうだ。ところがこの青桐は葉が非常に多い、しかもその葉は皆団扇うちわくらいなおおきさであるから、彼等がい重なると枝がまるで見えないくらい茂っている。これがはなはだ蝉取り運動の妨害になる。声はすれども姿は見えずと言う俗謡ぞくようはとくに吾輩のために作った者ではなかろうかと怪しまれるくらいである。吾輩は仕方がないからただ声を知るべに行く。下から一間ばかりのところで梧桐は注文通り二叉ふたまたになっているから、ここで一休息ひとやすみして葉裏から蝉の所在地を探偵する。もっともここまで来るうちに、がさがさと音を立てて、飛び出す気早な連中がいる。一羽飛ぶともういけない。
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真似をする点において蝉は人間に劣らぬくらい馬鹿である。あとから続々飛び出す。漸々ようよう 二叉ふたまたに到着する時分には満樹せきとして片声へんせいをとどめざる事がある。かつてここまで登って来て、どこをどう見回わしても、耳をどう振っても蝉気せみけがないので、出直すのも面倒だからしばらく休息しようと、またの上に陣取って第二の機会を待ち合せていたら、いつの間にか眠くなって、つい黒甜郷裡こくてんきょうりに遊んだ。おやと思って眼がめたら、二叉の黒甜郷裡こくてんきょうりから庭の敷石の上へどたりと落ちていた。しかし大概は登る度に一つは取って来る。ただ興味の薄い事には樹の上で口にくわえてしまわなくてはならん。だから下へ持って来て吐き出す時は大方おおかた死んでいる。いくらじゃらしても引っいても確然たる手答がない。蝉取りの妙味はじっと忍んで行っておしいくんが一生懸命に尻尾しっぽを延ばしたりちぢましたりしているところを、わっと前足でおさえる時にある。この時つくつくくんは悲鳴を揚げて、薄い透明な羽根を縦横無尽に振う。その早い事、美事なる事は言語道断、実に蝉世界の一偉観である。余はつくつく君を抑えるたびにいつでも、つくつく君に請求してこの美術的演芸を見せてもらう。それがいやになるとご免をこうむって口の内へ頬張ほおばってしまう。蝉によると口の内へ入ってまで演芸をつづけているのがある。蝉取りの次にやる運動は松滑まつすべりである。これは長くかく必要もないから、ちょっと述べておく。松滑りと言うと松を滑るように思うかも知れんが、そうではないやはり木登りの一種である。ただ蝉取りは蝉を取るために登り、松滑りは、登る事を目的として登る。これが両者の差である。元来松は常磐ときわにて最明寺さいみょうじ御馳走ごちそうをしてから以来今日こんにちに至るまで、いやにごつごつしている。従って松の幹ほど滑らないものはない。手懸りのいいものはない。足懸りのいいものはない。――換言すれば爪懸つまがかりのいいものはない。その爪懸りのいい幹へ一気呵成いっきかせいけ上る。馳け上っておいて馳け下がる。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(66 / 128)
馳け下がるには二法ある。一はさかさになって頭を地面へ向けて下りてくる。一はのぼったままの姿勢をくずさずに尾を下にして降りる。人間に問うがどっちがむずかしいか知ってるか。人間のあさはかな了見りょうけんでは、どうせ降りるのだから下向したむきに馳け下りる方が楽だと思うだろう。それが間違ってる。君等は義経が鵯越ひよどりごえとしたことだけを心得て、義経でさえ下を向いて下りるのだから猫なんぞは無論た向きでたくさんだと思うのだろう。そう軽蔑けいべつするものではない。猫の爪はどっちへ向いてえていると思う。みんなうしろへ折れている。それだから鳶口とびぐち【棒の先にカギが付いた道具】のように物をかけて引き寄せる事は出来るが、逆に押し出す力はない。今吾輩が松の木を勢よく馳け登ったとする。すると吾輩は元来地上の者であるから、自然の傾向から言えば吾輩が長く松樹のいただきとどまるを許さんに相違ない、ただおけば必ず落ちる。しかし手放しで落ちては、あまり早過ぎる。だから何等かの手段をもってこの自然の傾向を幾分かゆるめなければならん。これすなわち降りるのである。落ちるのと降りるのは大変な違のようだが、その実思ったほどの事ではない。落ちるのを遅くすると降りるので、降りるのを早くすると落ちる事になる。落ちると降りるのは、の差である。吾輩は松の木の上から落ちるのはいやだから、落ちるのをゆるめて降りなければならない。すなわちあるものをもって落ちる速度に抵抗しなければならん。吾輩の爪はぜん申す通り皆うしろ向きであるから、もし頭を上にして爪を立てればこの爪の力はことごとく、落ちる勢にさからって利用出来る訳である。従って落ちるが変じて降りるになる。実に見易みやすき道理である。しかるにまた身をさかにして義経流に松の木ごえをやって見給え。爪はあっても役には立たん。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(67 / 128)
ずるずる滑って、どこにも自分の体量を持ち答える事は出来なくなる。ここにおいてかせっかく降りようとくわだてた者が変化して落ちる事になる。この通り鵯越ひよどりごえはむずかしい。猫のうちでこの芸が出来る者は恐らく吾輩のみであろう。それだから吾輩はこの運動を称して松滑りと言うのである。最後に垣巡かきめぐりについて一言いちげんする。主人の庭は竹垣をもって四角にしきられている。縁側と平行している一片いっぺんは八九間もあろう。左右は双方共四間に過ぎん。今吾輩の言った垣巡りと言う運動はこの垣の上を落ちないように一周するのである。これはやりそこなう事もままあるが、首尾よく行くとおなぐさみになる。ことに所々に根を焼いた丸太が立っているから、ちょっと休息に便宜べんぎがある。今日は出来がよかったので朝から昼までに三べんやって見たが、やるたびにうまくなる。うまくなるたびに面白くなる。とうとう四返繰り返したが、四返目に半分ほどまわりかけたら、隣の屋根から烏が三羽飛んで来て、一間ばかり向うに列を正してとまった。これは推参な奴だ。人の運動のさまたげをする、ことにどこの烏だかせきもない分在ぶんざいで、人の塀へとまるという法があるもんかと思ったから、通るんだおいきたまえと声をかけた。真先の烏はこっちを見てにやにや笑っている。次のは主人の庭をながめている。三羽目はくちばしを垣根の竹でいている。何か食って来たに違ない。吾輩は返答を待つために、彼等に三分間の猶予ゆうよを与えて、垣の上に立っていた。烏は通称を勘左衛門と言うそうだが、なるほど勘左衛門だ。吾輩がいくら待ってても挨拶もしなければ、飛びもしない。吾輩は仕方がないから、そろそろ歩き出した。すると真先の勘左衛門がちょいと羽を広げた。やっと吾輩の威光に恐れて逃げるなと思ったら、右向から左向に姿勢をかえただけである。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(68 / 128)
この野郎! 地面の上ならその分に捨ておくのではないが、いかんせん、たださえ骨の折れる道中に、勘左衛門などを相手にしている余裕がない。といってまた立留まって三羽が立ち退くのを待つのもいやだ。第一そう待っていては足がつづかない。先方は羽根のある身分であるから、こんな所へはとまりつけている。従って気に入ればいつまでも逗留とうりゅうするだろう。こっちはこれで四返目だたださえ大分だいぶつかれている。いわんや綱渡りにも劣らざる芸当兼運動をやるのだ。何等の障害物がなくてさえ落ちんとは保証が出来んのに、こんな黒装束くろしょうぞくが、三個も前途をさえぎっては容易ならざる不都合だ。いよいよとなればみずから運動を中止して垣根を下りるより仕方がない。面倒だから、いっそさよう仕ろうか、敵は大勢の事ではあるし、ことにはあまりこの辺には見馴れぬ人体にんていである。口嘴くちばしおつとんがって何だか天狗てんぐもうのようだ。どうせたちのいい奴でないにはきまっている。退却が安全だろう、あまり深入りをして万一落ちでもしたらなおさら恥辱だ。と思っていると左向ひだりむけをした烏が阿呆あほうと言った。次のも真似をして阿呆と言った。最後の奴は御鄭寧ごていねいにも阿呆阿呆と二声叫んだ。いかに温厚なる吾輩でもこれは看過かんか出来ない。第一自己の邸内で烏輩からすはいに侮辱されたとあっては、吾輩の名前にかかわる。名前はまだないから係わりようがなかろうと言うなら体面に係わる。決して退却は出来ない。ことわざにも烏合うごうの衆と言うから三羽だって存外弱いかも知れない。進めるだけ進めと度胸をえて、のそのそ歩き出す。烏は知らん顔をして何か御互に話をしている様子だ。いよいよ肝癪かんしゃくさわる。垣根の幅がもう五六寸もあったらひどい目に合せてやるんだが、残念な事にはいくらおこっても、のそのそとしかあるかれない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(69 / 128)
ようやくの事先鋒せんぽうを去る事約五六寸の距離まで来てもう一息だと思うと、勘左衛門は申し合せたように、いきなり羽搏はばたきをして一二尺飛び上がった。その風が突然余の顔を吹いた時、はっと思ったら、つい踏みずして、すとんと落ちた。これはしくじったと垣根の下から見上げると、三羽共元の所にとまって上からくちばしそろえて吾輩の顔を見下している。図太い奴だ。にらめつけてやったが一向いっこうかない。背を丸くして、少々うなったが、ますます駄目だ。俗人に霊妙なる象徴詩がわからぬごとく、吾輩が彼等に向って示す怒りの記号も何等の反応を呈出しない。考えて見ると無理のないところだ。吾輩は今まで彼等を猫として取り扱っていた。それが悪るい。猫ならこのくらいやればたしかにこたえるのだが生憎あいにく相手は烏だ。烏の勘公とあって見れば致し方がない。実業家が主人苦沙弥くしゃみ先生を圧倒しようとあせるごとく、西行さいぎょう【西行法師】に銀製の吾輩を進呈するがごとく、西郷隆盛君の銅像に勘公がふんをひるようなものである。機を見るに敏なる吾輩はとうてい駄目と見て取ったから、奇麗さっぱりと縁側へ引き上げた。もう晩飯の時刻だ。運動もいいが度を過ごすとかぬ者で、からだ全体が何となくしまりがない、ぐたぐたの感がある。のみならずまだ秋の取り付きで運動中に照り付けられた毛ごろもは、西日を思う存分吸収したと見えて、ほてってたまらない。毛穴からみ出す汗が、流れればと思うのに毛の根にあぶらのようにねばり付く。背中がむずむずする。汗でむずむずするのとのみってむずむずするのは判然と区別が出来る。口の届く所ならむ事も出来る、足の達する領分は引きく事も心得にあるが、脊髄せきずいの縦に通う真中と来たら自分の及ぶかぎりでない。こう言う時には人間を見懸けて矢鱈やたらにこすり付けるか、松の木の皮で充分摩擦術を行うか、二者その一をえらばんと不愉快で安眠も出来兼ねる。人間はなものであるから、猫なで声で――猫なで声は人間の吾輩に対して出す声だ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(70 / 128)
吾輩目安めやすにして考えれば猫なで声ではない、なでられ声である――よろしい、とにかく人間は愚なものであるからでられ声で膝のそばへ寄って行くと、大抵の場合において彼もしくは彼女を愛するものと誤解して、わがすままに任せるのみか折々は頭さえでてくれるものだ。しかるに近来吾輩毛中もうちゅうにのみと号する一種の寄生虫が繁殖したので滅多めったに寄り添うと、必ず頸筋くびすじを持って向うへほうり出される。わずかに眼にるからぬか、取るにも足らぬ虫のために愛想あいそをつかしたと見える。手をひるがえせば雨、手をくつがえせば雲とはこの事だ。高がのみの千びきや二千疋でよくまあこんなに現金な真似が出来たものだ。人間世界を通じて行われる愛の法則の第一条にはこうあるそうだ。――自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし。――人間の取り扱が俄然豹変がぜんひょうへんしたので、いくらゆくても人力を利用する事は出来ん。だから第二の方法によって松皮しょうひ 摩擦法まさつほうをやるよりほかに分別はない。しからばちょっとこすって参ろうかとまた縁側から降りかけたが、いやこれも利害相償わぬ愚策だと心付いた。と言うのはほかでもない。松にはやにがある。このやにたるすこぶる執着心の強い者で、もし一たび、毛の先へくっ付けようものなら、雷が鳴ってもバルチック艦隊が全滅しても決して離れない。しかのみならず五本の毛へこびりつくが早いか、十本に蔓延まんえんする。十本やられたなと気が付くと、もう三十本引っ懸っている。吾輩淡泊たんぱくを愛する茶人的猫ちゃじんてきねこである。こんな、しつこい、毒悪な、ねちねちした、執念深しゅうねんぶかい奴は大嫌だ。たとい天下の美猫びみょうといえどもご免蒙る。いわんや松脂まつやににおいてをやだ。車屋のの両眼から北風に乗じて流れる目糞とえらぶところなき身分をもって、この淡灰色たんかいしょく毛衣けごろもだいなしにするとはしからん。少しは考えて見るがいい。といったところできゃつなかなか考える気遣きづかいはない。あの皮のあたりへ行って背中をつけるが早いか必ずべたりとおいでになるにきまっている。こんな無分別な頓痴奇とんちきを相手にしては吾輩の顔に係わるのみならず、引いて吾輩の毛並に関する訳だ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(71 / 128)
いくら、むずむずしたって我慢するよりほかに致し方はあるまい。しかしこの二方法共実行出来んとなるとはなはだ心細い。今において一工夫ひとくふうしておかんとしまいにはむずむず、ねちねちの結果病気にかかるかも知れない。何か分別はあるまいかなと、あしを折って思案したが、ふと思い出した事がある。うちの主人は時々手拭と石鹸シャボンをもって飄然ひょうぜん【ふらり】といずれへか出て行く事がある、三四十分して帰ったところを見ると彼の朦朧もうろうたる顔色がんしょくが少しは活気を帯びて、晴れやかに見える。主人のような汚苦むさくるしい男にこのくらいな影響を与えるなら吾輩にはもう少し利目ききめがあるに相違ない。吾輩はただでさえこのくらいな器量だから、これより色男になる必要はないようなものの、万一病気にかかって一歳なんげつ夭折ようせつするような事があっては天下の青生そうせいに対して申し訳がない。聞いて見るとこれも人間のひまつぶしに案出した洗湯せんとうなるものだそうだ。どうせ人間の作ったものだからろくなものでないにはきまっているがこの際の事だから試しに入って見るのもよかろう。やって見て功験がなければよすまでの事だ。しかし人間が自己のために設備した浴場へ異類の猫を入れるだけの洪量こうりょうがあるだろうか。これが疑問である。主人がすまして這入るくらいのところだから、よもや吾輩を断わる事もなかろうけれども万一お気の毒様を食うような事があっては外聞がわるい。これは一先ひとまず様子を見に行くに越した事はない。見た上でこれならよいと当りが付いたら、手拭をくわえて飛び込んで見よう。とここまで思案を定めた上でのそのそと洗湯へ出掛けた。
 横町を左へ折れると向うに高いとよ竹のようなものが屹立きつりつして先から薄い煙を吐いている。これすなわち洗湯である。吾輩はそっと裏口から忍び込んだ。裏口から忍び込むのを卑怯ひきょうとか未練とか言うが、あれは表からでなくては訪問する事が出来ぬものが嫉妬しっと半分にはやし立てるごとである。昔から利口な人は裏口から不意を襲う事にきまっている。紳士養成ほうの第二巻第一章の五ページにそう出ているそうだ。その次のページには裏口は紳士の遺書にして自身徳を得るの門なりとあるくらいだ。吾輩は二十世紀の猫だからこのくらいの教育はある。あんまり軽蔑けいべつしてはいけない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(72 / 128)
さて忍び込んで見ると、左の方に松を割って八寸くらいにしたのが山のように積んであって、その隣りには石炭が岡のように盛ってある。なぜ松薪まつまきが山のようで、石炭が岡のようかと聞く人があるかも知れないが、別に意味も何もない、ただちょっと山と岡を使い分けただけである。人間も米を食ったり、鳥を食ったり、さかなを食ったり、けものを食ったりいろいろのあくもの食いをしつくしたあげくついに石炭まで食うように堕落したのは不憫ふびんである。行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中をのぞくとがんがらがんのがあんと物静かである。その向側むこうがわで何かしきりに人間の声がする。いわゆる洗湯はこの声の発するへんに相違ないと断定したから、松薪と石炭の間に出来てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に硝子窓ガラスまどがあって、そのそとに丸い小桶こおけが三角形すなわちピラミッドのごとく積みかさねてある。丸いものが三角に積まれるのは不本意千万だろうと、ひそかに小桶諸君の意をりょうとした。小桶の南側は四五尺のあいだ板が余って、あたかも吾輩を迎うるもののごとく見える。板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには御誂おあつらえの上等である。よろしいと言いながらひらりと身をおどらすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。天下に何が面白いと言って、いまだ食わざるものを食い、未だ見ざるものを見るほどの愉快はない。諸君もうちの主人のごとく一週三度くらい、この洗湯界に三十分乃至ないし四十分を暮すならいいが、もし吾輩のごとく風呂と言うものを見た事がないなら、早く見るがいい。親の死目しにめわなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。世界広しといえどもこんな奇観きかんはまたとあるまい。
 何が奇観だ? 何が奇観だって吾輩はこれを口にするをはばかるほどの奇観だ。この硝子窓ガラスまどの中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことごとく裸体である。台湾の生蕃せいばんである。二十世紀のアダムである。そもそも衣装いしょうの歴史をひもとけば――長い事だからこれはトイフェルスドレック君に譲って、繙くだけはやめてやるが、――人間は全く服装で持ってるのだ。十八世紀の頃大英国バスの温泉場においてボー・ナッシが厳重な規則を制定した時などは浴場内で男女共肩から足まで着物でかくしたくらいである。今を去る事六十年ぜんこれも英国の去る都で図案学校を設立した事がある。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(73 / 128)
図案学校の事であるから、裸体画、裸体像の模写、模型を買い込んで、ここ、かしこに陳列したのはよかったが、いざ開校式を挙行する一段になって当局者を初め学校の職員が大困却をした事がある。開校式をやるとすれば、市の淑女を招待しなければならん。ところが当時の貴婦人方の考によると人間は服装の動物である。皮を着た猿の子分ではないと思っていた。人間として着物をつけないのは象の鼻なきがごとく、学校の生徒なきがごとく、兵隊の勇気なきがごとく全くその本体をしっしている。いやしくも本体を失している以上は人間としては通用しない、獣類である。仮令たとい模写模型にせよ獣類の人間と伍するのは貴女の品位を害する訳である。でありますから妾等しょうらは出席御断わり申すと言われた。そこで職員共は話せない連中だとは思ったが、何しろ女は東西両国を通じて一種の装飾品である。米舂こめつきにもなれん志願兵にもなれないが、開校式には欠くべからざる化装道具けしょうどうぐである。と言うところから仕方がない、呉服屋へ行って黒布くろぬのを三十五反八分七はちぶんのしち買って来て例の獣類の人間にことごとく着物をきせた。失礼があってはならんと念に念を入れて顔まで着物をきせた。かようにしてようやくの事 とどこおりなく式をすましたと言う話がある。そのくらい衣服は人間にとって大切なものである。近頃は裸体画裸体画と言ってしきりに裸体を主張する先生もあるがあれはあやまっている。生れてから今日こんにちに至るまで一日も裸体になった事がない吾輩から見ると、どうしても間違っている。裸体は希臘ギリシャ羅馬ローマの遺風が文芸復興時代の淫靡いんびふうに誘われてから流行はやりだしたもので、希臘人や、羅馬人は平常ふだんから裸体を見做みなれていたのだから、これをもって風教上の利害の関係があるなどとはごうも思い及ばなかったのだろうが北欧は寒い所だ。日本でさえ裸で道中がなるものかと言うくらいだから独逸ドイツ英吉利イギリスで裸になっておれば死んでしまう。死んでしまってはつまらないから着物をきる。みんなが着物をきれば人間は服装の動物になる。一たび服装の動物となったのちに、突然裸体動物に出逢えば人間とは認めない、けだものと思う。それだから欧洲人ことに北方の欧洲人は裸体画、裸体像をもって獣として取り扱っていいのである。猫に劣る獣と認定していいのである。美しい? 美しくても構わんから、美しい獣と見做みなせばいいのである。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(74 / 128)
こう言うと西洋婦人の礼服を見たかと言うものもあるかも知れないが、猫の事だから西洋婦人の礼服を拝見した事はない。聞くところによると彼等は胸をあらわし、肩をあらわし、腕をあらわしてこれを礼服と称しているそうだ。しからん事だ。十四世紀頃までは彼等のちはしかく滑稽ではなかった、やはり普通の人間の着るものを着ておった。それがなぜこんな下等な軽術師かるわざし流に転化してきたかは面倒だから述べない。知る人ぞ知る、知らぬものは知らん顔をしておればよろしかろう。歴史はとにかく彼等はかかる異様な風態をして夜間だけは得々とくとくたるにも係わらず内心は少々人間らしいところもあると見えて、日が出ると、肩をすぼめる、胸をかくす、腕を包む、どこもかしこもことごとく見えなくしてしまうのみならず、足の爪一本でも人に見せるのを非常に恥辱と考えている。これで考えても彼等の礼服なるものは一種の頓珍漢的とんちんかんてき 作用さようによって、馬鹿と馬鹿の相談から成立したものだと言う事が分る。それが口惜くやしければ日中にっちゅうでも肩と胸と腕を出していて見るがいい。裸体信者だってその通りだ。それほど裸体がいいものなら娘を裸体にして、ついでに自分も裸になって上野公園を散歩でもするがいい、できない? 出来ないのではない、西洋人がやらないから、自分もやらないのだろう。現にこの不合理極まる礼服を着て威張って帝国ホテルなどへ出懸でかけるではないか。その因縁いんねんを尋ねると何にもない。ただ西洋人がきるから、着ると言うまでの事だろう。西洋人は強いから無理でも馬鹿気ていても真似なければやり切れないのだろう。長いものにはかれろ、強いものには折れろ、重いものにはされろと、そうれろ尽しでは気がかんではないか。気がかんでも仕方がないと言うなら勘弁するから、あまり日本人をえらい者と思ってはいけない。学問といえどもその通りだがこれは服装に関係がない事だから以下略とする。
 衣服はかくのごとく人間にも大事なものである。人間が衣服か、衣服が人間かと言うくらい重要な条件である。人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあらず、血の歴史にあらず、単に衣服の歴史であると申したいくらいだ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(75 / 128)
だから衣服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで化物ばけもの邂逅かいこうしたようだ。化物でも全体が申し合せて化物になれば、いわゆる化物は消えてなくなる訳だから構わんが、それでは人間自身がおおいに困却する事になるばかりだ。そのむかし自然は人間を平等なるものに製造して世の中にほうり出した。だからどんな人間でも生れるときは必ず赤裸あかはだかである。もし人間の本性ほんせいが平等に安んずるものならば、よろしくこの赤裸のままで生長してしかるべきだろう。しかるに赤裸の一人が言うにはこう誰も彼も同じでは勉強する甲斐かいがない。骨を折った結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと言うところが目につくようにしたい。それについては何か人が見てあっと魂消たまげる物をからだにつけて見たい。何か工夫はあるまいかと十年間考えてようやく猿股さるまたを発明してすぐさまこれを穿いて、どうだ恐れ入ったろうと威張ってそこいらを歩いた。これが今日こんにちの車夫の先祖である。単簡たんかんなる猿股を発明するのに十年の長日月をついやしたのはいささかな感もあるが、それは今日から古代にさかのぼって身を蒙昧もうまいの世界に置いて断定した結論と言うもので、その当時にこれくらいな大発明はなかったのである。デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」というにでも分るような真理を考え出すのに十何年か懸ったそうだ。すべて考え出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明に十年を費やしたって車夫の知恵ちえには出来過ぎると言わねばなるまい。さあ猿股が出来ると世の中で幅のきくのは車夫ばかりである。あまり車夫が猿股をつけて天下の大道を我物顔に横行濶歩かっぽするのを憎らしいと思って負けん気の化物が六年間工夫して羽織と言う無用の長物を発明した。すると猿股の勢力はとみに衰えて、羽織全盛の時代となった。八百屋、生薬屋きぐすりや、呉服屋は皆この大発明家の末流ばつりゅうである。猿股期、羽織期の後に来るのが袴期はかまきである。これは、何だ羽織の癖にと癇癪かんしゃくを起した化物の考案になったもので、昔の武士今の官員などは皆この種属である。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(76 / 128)
かように化物共がわれもわれもとてらしんきそって、ついにはつばめの尾にかたどった奇形きけいまで出現したが、退いてその由来を案ずると、何も無理矢理に、出鱈目でたらめに、偶然に、漫然に持ち上がった事実では決してない。皆勝ちたい勝ちたいの勇猛心のってさまざまの新形しんがたとなったもので、おれは手前じゃないぞと振れてあるく代りにかぶっているのである。して見るとこの心理からして一大発見が出来る。それはほかでもない。自然は真空をむごとく、人間は平等を嫌うと言う事だ。すでに平等を嫌ってやむを得ず衣服を骨肉のごとくかようにつけまとう今日において、この本質の一部分たる、これ等を打ちやって、元の杢阿弥もくあみの公平時代に帰るのは狂人の沙汰である。よし狂人の名称を甘んじても帰る事は到底出来ない。帰った連中を開明人かいめいじんの目から見れば化物である。仮令たとい世界何億万の人口をげて化物の域に引ずりおろしてこれなら平等だろう、みんなが化物だから恥ずかしい事はないと安心してもやっぱり駄目である。世界が化物になった翌日からまた化物の競争が始まる。着物をつけて競争が出来なければ化物なりで競争をやる。赤裸あかはだかは赤裸でどこまでも差別を立ててくる。この点から見ても衣服はとうてい脱ぐ事は出来ないものになっている。
 しかるに今吾輩眼下がんか見下みおろした人間の一団体は、この脱ぐべからざる猿股も羽織も乃至ないし はかまもことごとく棚の上に上げて、無遠慮にも本来の狂態を衆目環視しゅうもくかんしうちに露出して平々然へいへいぜんと談笑をほしいままにしている。吾輩先刻さっき一大奇観と言ったのはこの事である。吾輩は文明の諸君子のためにここにつつしんでその一般を紹介するの栄を有する。
 何だかごちゃごちゃしていてにから記述していいか分らない。化物のやる事には規律がないから秩序立った証明をするのに骨が折れる。まず湯槽ゆぶねから述べよう。湯槽だか何だか分らないが、大方おおかた湯槽というものだろうと思うばかりである。幅が三尺くらい、ながさは一間半もあるか、それを二つに仕切って一つには白い湯が入っている。何でも薬湯くすりゆとか号するのだそうで、石灰いしばいを溶かし込んだような色に濁っている。もっともただ濁っているのではない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(77 / 128)
あぶらぎって、重たに濁っている。よく聞くと腐って見えるのも不思議はない、一週間に一度しか水をえないのだそうだ。その隣りは普通一般の湯のよしだがこれまたもって透明、瑩徹えいてつなどとは誓って申されない。天水桶てんすいおけぜたくらいの価値はその色の上において充分あらわれている。これからが化物の記述だ。大分だいぶ骨が折れる。天水桶の方に、突っ立っている若造わかぞうが二人いる。立ったまま、向い合って湯をざぶざぶ腹の上へかけている。いいなぐさみだ。双方共色の黒い点において間然かんぜんするところなきまでに発達している。この化物は大分だいぶ逞ましいなと見ていると、やがて一人が手拭で胸のあたりをで廻しながら「金さん、どうも、ここが痛んでいけねえが何だろう」と聞くと金さんは「そりゃ胃さ、胃て言う奴は命をとるからね。用心しねえとあぶないよ」と熱心に忠告を加える。「だってこの左の方だぜ」た左肺さはいの方を指す。「そこが胃だあな。左が胃で、右が肺だよ」「そうかな、おらあまた胃はここいらかと思った」と今度は腰の辺をたたいて見せると、金さんは「そりゃ疝気せんきだあね」と言った。ところへ二十五六の薄いひげやした男がどぶんと飛び込んだ。すると、からだに付いていた石鹸シャボンあかと共に浮きあがる。鉄気かなけのある水をかして見た時のようにきらきらと光る。その隣りに頭の禿げた爺さんが五分刈をとらえて何か弁じている。双方共頭だけ浮かしているのみだ。「いやこう年をとっては駄目さね。人間もやきが廻っちゃ若い者にはかなわないよ。しかし湯だけは今でも熱いのでないと心持が悪くてね」「旦那なんか丈夫なものですぜ。そのくらい元気がありゃ結構だ」「元気もないのさ。ただ病気をしないだけさ。人間は悪い事さえしなけりゃあ百二十までは生きるもんだからね」「へえ、そんなに生きるもんですか」「生きるとも百二十までは受け合う。御維新前ごいっしんまえ牛込に曲淵まがりぶちと言う旗本はたもとがあって、そこにいた下男は百三十だったよ」「そいつは、よく生きたもんですね」「ああ、あんまり生き過ぎてつい自分の年を忘れてね。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(78 / 128)
百までは覚えていましたがそれから忘れてしまいましたと言ってたよ。それでわしの知っていたのが百三十の時だったが、それで死んだんじゃない。それからどうなったか分らない。事によるとまだ生きてるかも知れない」と言いながらふねから上る。ひげやしている男は雲母きららのようなものを自分の廻りにき散らしながらひとりでにやにや笑っていた。入れ代って飛び込んで来たのは普通一般の化物とは違って背中に模様画をほり付けている。岩見重太郎大刀だいとうを振りかざしてうわばみ退治たいじるところのようだが、惜しい事に竣功しゅんこうの期に達せんので、蟒はどこにも見えない。従って重太郎先生いささか拍子抜けの気味に見える。飛び込みながら「箆棒べらぼうるいや」と言った。するとまた一人続いて乗り込んだのが「こりゃどうも……もう少し熱くなくっちゃあ」と顔をしかめながら熱いのを我慢する気色けしきとも見えたが、重太郎先生と顔を見合せて「やあ親方」と挨拶あいさつをする。重太郎は「やあ」と言ったが、やがて「民さんはどうしたね」と聞く。「どうしたか、じゃんじゃんが好きだからね」「じゃんじゃんばかりじゃねえ……」「そうかい、あの男も腹のよくねえ男だからね。――どう言うもんか人に好かれねえ、――どう言うものだか、――どうも人が信用しねえ。職人てえものは、あんなもんじゃねえが」「そうよ。民さんなんざあ腰が低いんじゃねえ、けえんだ。それだからどうも信用されねえんだね」「本当によ。あれでっぱし腕があるつもりだから、――つまり自分の損だあな」「白銀町しろかねちょうにも古い人がくなってね、今じゃ桶屋おけやの元さんと煉瓦屋れんがやの大将と親方ぐれえな者だあな。こちとらあこうしてここで生れたもんだが、民さんなんざあ、どこから来たんだか分りゃしねえ」「そうよ。しかしよくあれだけになったよ」「うん。どう言うもんか人に好かれねえ。人が交際つきあわねえからね」と徹頭徹尾民さんを攻撃する。
 天水桶はこのくらいにして、白い湯の方を見るとこれはまた非常な大入おおいりで、湯の中に人が入ってると言わんより人の中に湯が入ってると言う方が適当である。しかも彼等はすこぶる悠々閑々ゆうゆうかんかんたる物で、先刻さっきから這入るものはあるが出る物は一人もない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(79 / 128)
こう這入った上に、一週間もとめておいたら湯もよごれるはずだと感心してなおよくおけの中を見渡すと、左の隅にしつけられて苦沙弥先生が真赤まっかになってすくんでいる。可哀かわいそうに誰か路をあけて出してやればいいのにと思うのに誰も動きそうにもしなければ、主人も出ようとする気色けしきも見せない。ただじっとして赤くなっているばかりである。これはご苦労な事だ。なるべく二銭五厘の湯銭を活用しようと言う精神からして、かように赤くなるのだろうが、早く上がらんと湯気ゆけにあがるがと主思しゅうおもいの吾輩は窓のたなから少なからず心配した。すると主人の一軒置いて隣りに浮いてる男が八の字を寄せながら「これはちとき過ぎるようだ、どうも背中の方から熱い奴がじりじりいてくる」と暗に列席の化物に同情を求めた。「なあにこれがちょうどいい加減です。薬湯はこのくらいでないときません。わたしの国なぞではこの倍も熱い湯へ入ります」と自慢らしく説き立てるものがある。「一体この湯は何に利くんでしょう」と手拭をたたんで凸凹頭でこぼこあたまをかくした男が一同に聞いて見る。「いろいろなものに利きますよ。何でもいいてえんだからね。豪気ごうぎだあね」と言ったのはせた黄瓜きゅうりのような色と形とを兼ね得たる顔の所有者である。そんなに利く湯なら、もう少しは丈夫そうになれそうなものだ。「薬を入れ立てより、三日目か四日目がちょうどいいようです。今日等きょうなどは入り頃ですよ」と物知り顔に述べたのを見ると、ふくれ返った男である。これは多分垢肥あかぶとりだろう。「飲んでも利きましょうか」とどこからか知らないが黄色い声を出す者がある。「えた後などは一杯飲んで寝ると、奇体きたいに小便に起きないから、まあやって御覧なさい」と答えたのは、どの顔から出た声か分らない。
 湯槽ゆぶねの方はこれぐらいにして板間いたまを見渡すと、いるわいるわ絵にもならないアダムがずらりと並んでおのおの勝手次第な姿勢で、勝手次第なところを洗っている。その中にもっとも驚ろくべきのは仰向あおむけに寝て、高いかりとりながめているのと、腹這はらばいになって、みぞの中をのぞき込んでいる両アダムである。これはよほどひまなアダムと見える。坊主が石壁を向いてしゃがんでいるとうしろから、小坊主がしきりに肩をたたいている。これは師弟の関係上三介さんすけの代理をつとめるのであろう。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(80 / 128)
本当の三介もいる。風邪かぜを引いたと見えて、このあついのにちゃんちゃんを着て、小判形こばんなりおけからざあと旦那の肩へ湯をあびせる。右の足を見ると親指の股に呉絽ごろ垢擦あかすりをはさんでいる。こちらの方では小桶こおけを慾張って三つ抱え込んだ男が、隣りの人に石鹸シャボンを使え使えと言いながらしきりに長談議をしている。何だろうと聞いて見るとこんな事を言っていた。「鉄砲は外国から渡ったもんだね。昔は斬り合いばかりさ。外国は卑怯だからね、それであんなものが出来たんだ。どうも支那じゃねえようだ、やっぱり外国のようだ。和唐内わとうないの時にゃ無かったね。和唐内はやはり清和源氏さ。なんでも義経が蝦夷えぞから満洲へ渡った時に、蝦夷の男で大変がくのできる人がくっ付いて行ったてえ話しだね。それでその義経のむすこが大明たいみんを攻めたんだが大明じゃ困るから、三代将軍へ使をよこして三千人の兵隊をしてくれろと言うと、三代様さんだいさまがそいつを留めておいて帰さねえ。――何とか言ったっけ。――何でも何とか言う使だ。――それでその使を二年とめておいてしまいに長崎で女郎じょろうを見せたんだがね。その女郎に出来た子が和唐内さ。それから国へ帰って見ると大明は国賊に亡ぼされていた。……」何を言うのかさっぱり分らない。そのうしろに二十五六の陰気な顔をした男が、ぼんやりして股の所を白い湯でしきりにたでている。腫物はれものか何かで苦しんでいると見える。その横に年の頃は十七八で君とか僕とか生意気な事をべらべら喋舌しゃべってるのはこの近所の書生だろう。そのまた次に妙な背中が見える。尻の中から寒竹かんちくを押し込んだように背骨せぼねの節が歴々ありありと出ている。そうしてその左右に十六むさしに似たる形が四個ずつ行儀よく並んでいる。その十六むさしが赤くただれて周囲まわりうみをもっているのもある。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(81 / 128)
こう順々に書いてくると、書く事が多過ぎて到底吾輩手際てぎわにはその一斑いっぱん【一端】さえ形容する事が出来ん。これは厄介な事をやり始めた者だと少々辟易へきえきしていると入口の方に浅黄木綿あさぎもめんの着物をきた七十ばかりの坊主がぬっとあらわれた。坊主うやうやしくこれらの裸体の化物に一礼して「へい、どなた様も、毎日相変らずありがとう存じます。今日は少々御寒うございますから、どうぞ御緩ごゆっくり――どうぞ白い湯へ出たり這入ったりして、ゆるりと御あったまり下さい。――番頭さんや、どうか湯加減をよく見て上げてな」とよどみなく述べ立てた。番頭さんは「おーい」と答えた。和唐内は「愛嬌あいきょうものだね。あれでなくては商買しょうばいは出来ないよ」とおおいに爺さんを激賞した。吾輩は突然このな爺さんに逢ってちょっと驚ろいたからこっちの記述はそのままにして、しばらく爺さんを専門に観察する事にした。爺さんはやがて今上りての四つばかりの男の子を見て「坊ちゃん、こちらへおいで」と手を出す。小供は大福を踏み付けたような爺さんを見て大変だと思ったか、わーっと悲鳴をげてなき出す。爺さんは少しく不本意の気味で「いや、御泣きか、なに? 爺さんがこわい? いや、これはこれは」と感嘆した。仕方がないものだからたちまち機鋒きほうを転じて、小供の親に向った。「や、これは源さん。今日は少し寒いな。ゆうべ、近江屋おうみやへ這入った泥棒は何と言う馬鹿な奴じゃの。あの戸のくぐりの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずにんだげな。御巡おまわりさんか夜番でも見えたものであろう」とおおいに泥棒の無謀を憫笑びんしょうしたがまた一人をらまえて「はいはい御寒う。あなた方は、御若いから、あまりお感じにならんかの」と老人だけにただ一人寒がっている。
 しばらくは爺さんの方へ気を取られて他の化物の事は全く忘れていたのみならず、苦しそうにすくんでいた主人さえ記憶のうちから消え去った時突然流しと板の間の中間で大きな声を出すものがある。見るとまぎれもなき苦沙弥先生である。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(82 / 128)
主人の声の図抜けて大いなるのと、その濁って聴き苦しいのは今日に始まった事ではないが場所が場所だけに吾輩は少からず驚ろいた。これはまさしく熱湯のうちに長時間のあいだ我慢をしてつかっておったため逆上ぎゃくじょうしたに相違ないと咄嗟とっさの際に吾輩は鑑定をつけた。それも単に病気の所為せいならとがむる事もないが、彼は逆上しながらも充分本心を有しているに相違ない事は、何のためにこの法外の胴間声どうまごえを出したかを話せばすぐわかる。彼は取るにも足らぬ生意気なまいき書生を相手に大人気おとなげもない喧嘩を始めたのである。「もっと下がれ、おれの小桶に湯が入っていかん」と怒鳴るのは無論主人である。物は見ようでどうでもなるものだから、この怒号をただ逆上の結果とばかり判断する必要はない。万人のうちに一人くらいは高山彦九郎たかやまひこくろう【江戸時代後期の武士・尊皇思想家】が山賊をしっしたようだくらいに解釈してくれるかも知れん。当人自身もそのつもりでやった芝居かも分らんが、相手が山賊をもってみずからおらん以上は予期する結果は出て来ないにきまっている。書生うしろを振り返って「僕はもとからここにいたのです」とおとなしく答えた。これは尋常の答で、ただその地を去らぬ事を示しただけが主人の思い通りにならんので、その態度と言い言語と言い、山賊としてののしり返すべきほどの事でもないのは、いかに逆上の気味の主人でも分っているはずだ。しかし主人の怒号は書生の席そのものが不平なのではない、先刻さっきからこの両人は少年に似合わず、いやに高慢ちきな、いた風の事ばかりならべていたので、始終それを聞かされた主人は、全くこの点に立腹したものと見える。だから先方でおとなしい挨拶をしても黙って板の間へ上がりはせん。今度は「何だ馬鹿野郎、人のおけへ汚ない水をぴちゃぴちゃねかす奴があるか」とかっし去った。吾輩もこの小僧を少々心憎く思っていたから、この時心中にはちょっと快哉かいさいを呼んだが、学校教員たる主人の言動としてはおだやかならぬ事と思うた。元来主人はあまり堅過ぎていかん。石炭のたきがら見たようにかさかさしてしかもいやに硬い。むかしハンニバルがアルプス山をえる時に、路の真中に当って大きな岩があって、どうしても軍隊が通行上の不便邪魔をする。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(83 / 128)
そこでハンニバルはこの大きな岩へをかけて火をいて、柔かにしておいて、それからのこぎりでこの大岩を蒲鉾かまぼこのように切ってとどこおりなく通行をしたそうだ。主人のごとくこんな利目ききめのある薬湯へだるほど入っても少しも功能のない男はやはり醋をかけて火炙ひあぶりにするに限ると思う。しからずんば、こんな書生が何百人出て来て、何十年かかったって主人頑固がんこなおりっこない。この湯槽ゆぶねに浮いているもの、この流しにごろごろしているものは文明の人間に必要な服装を脱ぎ棄てる化物の団体であるから、無論常規常道をもって律する訳にはいかん。何をしたって構わない。肺の所に胃が陣取って、和唐内が清和源氏になって、民さんが不信用でもよかろう。しかし一たび流しを出て板の間に上がれば、もう化物ではない。普通の人類の生息せいそくする娑婆しゃばへ出たのだ、文明に必要なる着物をきるのだ。従って人間らしい行動をとらなければならんはずである。今主人が踏んでいるところは敷居である。流しと板の間の境にある敷居の上であって、当人はこれから歓言愉色かんげんゆしょく円転滑脱えんてんかつだつの世界に逆戻りをしようと言う間際まぎわである。その間際ですらかくのごとく頑固がんこであるなら、この頑固は本人にとってろうとして抜くべからざる病気に相違ない。病気なら容易に矯正きょうせいする事は出来まい。この病気をなおす方法は愚考によるとただ一つある。校長に依頼して免職して貰う事すなわちこれなり。免職になれば融通のかぬ主人の事だからきっと路頭に迷うにきまってる。路頭に迷う結果はのたれ死にをしなければならない。換言すると免職は主人にとって死の遠因になるのである。主人は好んで病気をして喜こんでいるけれど、死ぬのは大嫌だいきらいである。死なない程度において病気と言う一種の贅沢ぜいたくがしていたいのである。それだからそんなに病気をしていると殺すぞとおどかせば臆病なる主人の事だからびりびりとふるえ上がるに相違ない。この悸え上がる時に病気は奇麗に落ちるだろうと思う。それでも落ちなければそれまでの事さ。
 いかに馬鹿でも病気でも主人に変りはない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(84 / 128)
一飯いっぱん君恩を重んずと言う詩人もある事だから猫だって主人の身の上を思わない事はあるまい。気の毒だと言う念が胸一杯になったため、ついそちらに気が取られて、流しの方の観察をおこたっていると、突然白い湯槽ゆぶねの方面に向って口々にののしる声が聞える。ここにも喧嘩が起ったのかと振り向くと、狭い柘榴口ざくろぐち一寸いっすんの余地もないくらいに化物が取りついて、毛のある脛と、毛のない股と入り乱れて動いている。折から初秋はつあきの日は暮るるになんなんとして流しの上は天井まで一面の湯気が立てめる。かの化物のひしめさまがその間から朦朧もうろうと見える。熱い熱いと言う声が吾輩の耳をつらぬいて左右へ抜けるように頭の中で乱れ合う。その声には黄なのも、青いのも、赤いのも、黒いのもあるが互にかさなりかかって一種名状すべからざる音響を浴場内にみなぎらす。ただ混雑と迷乱とを形容するに適した声と言うのみで、ほかには何の役にも立たない声である。吾輩茫然ぼうぜんとしてこの光景に魅入みいられたばかり立ちすくんでいた。やがてわーわーと言う声が混乱の極度に達して、これよりはもう一歩も進めぬと言う点まで張り詰められた時、突然無茶苦茶に押し寄せ押し返しているむれの中から一大長漢がぬっと立ち上がった。彼のたけを見るとほかの先生方よりはたしかに三寸くらいは高い。のみならず顔からひげえているのか髯の中に顔が同居しているのか分らない赤つらをり返して、日盛りにがねをつくような声を出して「うめろうめろ、熱い熱い」と叫ぶ。この声とこの顔ばかりは、かの紛々ふんぷんもつれ合う群衆の上に高く傑出して、その瞬間には浴場全体がこの男一人になったと思わるるほどである。超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ。魔中の大王だ。化物の頭梁とうりょうだ。と思って見ていると湯槽ゆぶねうしろでおーいと答えたものがある。おやとまたもそちらにひとみをそらすと、暗憺あんたんとして物色も出来ぬ中に、例のちゃんちゃん姿の三介さんすけが砕けよと一塊ひとかたまりの石炭をかまどの中に投げ入れるのが見えた。竈のふたをくぐって、この塊りがぱちぱちと鳴るときに、三介の半面がぱっと明るくなる。同時に三介うしろにある煉瓦れんがの壁がやみを通して燃えるごとく光った。吾輩は少々物凄ものすごくなったから早々そうそう窓から飛び下りていえに帰る。帰りながらも考えた。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(85 / 128)
羽織を脱ぎ、猿股を脱ぎ、はかまを脱いで平等になろうとつとめる赤裸々の中には、また赤裸々の豪傑が出て来て他の群小を圧倒してしまう。平等はいくらはだかになったって得られるものではない。
 帰って見ると天下は太平なもので、主人は湯上がりの顔をテラテラ光らして晩餐ばんさんを食っている。吾輩が縁側から上がるのを見て、のんきな猫だなあ、今頃どこをあるいているんだろうと言った。膳の上を見ると、ぜにのない癖に二三品御菜おかずをならべている。そのうちにさかなの焼いたのが一ぴきある。これは何と称する肴か知らんが、何でも昨日きのうあたり御台場おだいば近辺でやられたに相違ない。肴は丈夫なものだと説明しておいたが、いくら丈夫でもこう焼かれたり煮られたりしてはたまらん。多病にして残喘ざんぜんたもつ方がよほど結構だ。こう考えて膳のそばに坐って、すきがあったら何か頂戴しようと、見るごとく見ざるごとくよそおっていた。こんな装い方を知らないものはとうていうまい肴は食えないとあきらめなければいけない。主人は肴をちょっと突っついたが、うまくないと言う顔付をしてはしを置いた。正面にひかえたる妻君はこれまた無言のまま箸の上下じょうげに運動する様子、主人両顎りょうがく離合開闔りごうかいこうの具合を熱心に研究している。
おい、その猫の頭をちょっとって見ろ」と主人は突然細君に請求した。
撲てば、どうするんですか
どうしてもいいからちょっと撲って見ろ
 こうですかと細君平手ひらて吾輩の頭をちょっとたたく。痛くも何ともない。
鳴かんじゃないか」「ええ
もう一ぺんやって見ろ
何返やったって同じ事じゃありませんか」と細君また平手でぽかとまいる。やはり何ともないから、じっとしていた。しかしその何のためたるやは智慮深き吾輩にはとんと了解し難い。これが了解出来れば、どうかこうか方法もあろうがただ撲って見ろだから、撲つ細君も困るし、撲たれる吾輩も困る。主人は二度まで思い通りにならんので、少々気味ぎみで「おい、ちょっと鳴くようにぶって見ろ」と言った。
 細君は面倒な顔付で「鳴かして何になさるんですか」と問いながら、またぴしゃりとおいでになった。こう先方の目的がわかれば訳はない、鳴いてさえやれば主人を満足させる事は出来るのだ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(86 / 128)
主人はかくのごとく愚物ぐぶつだからいやになる。鳴かせるためなら、ためと早く言えば二返も三返も余計な手数てすうはしなくてもすむし、吾輩も一度で放免になる事を二度も三度も繰り返えされる必要はないのだ。ただって見ろと言う命令は、打つ事それ自身を目的とする場合のほかに用うべきものでない。打つのは向うの事、鳴くのはこっちの事だ。鳴く事を始めから予期して懸って、ただ打つと言う命令のうちに、こっちの随意たるべき鳴く事さえ含まってるように考えるのは失敬千万だ。他人の人格を重んぜんと言うものだ。猫を馬鹿にしている。主人蛇蝎だかつのごとく嫌う金田君ならやりそうな事だが、赤裸々をもって誇る主人としてはすこぶる卑劣である。しかし実のところ主人はこれほどけちな男ではないのである。だから主人のこの命令は狡猾こうかつきょくでたのではない。つまり知恵ちえの足りないところからいた孑孑ぼうふらのようなものと思惟しいする。飯を食えば腹が張るにまっている。切れば血が出るに極っている。殺せば死ぬに極まっている。それだからてば鳴くに極っていると速断をやったんだろう。しかしそれはお気の毒だが少し論理に合わない。その格で行くと川へ落ちれば必ず死ぬ事になる。天麩羅てんぷらを食えば必ず下痢げりする事になる。月給をもらえば必ず出勤する事になる。書物を読めば必ずえらくなる事になる。必ずそうなっては少し困る人が出来てくる。打てば必ずなかなければならんとなると吾輩は迷惑である。目白の時の鐘と同一に見傚みなされては猫と生れた甲斐かいがない。まず腹の中でこれだけ主人へこましておいて、しかる後にゃーと注文通り鳴いてやった。
 すると主人細君に向って「今鳴いた、にゃあと言う声は感投詞か、副詞か何だか知ってるか」と聞いた。
 細君はあまり突然な問なので、何にも言わない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(87 / 128)
実を言うと吾輩もこれは洗湯の逆上がまださめないためだろうと思ったくらいだ。元来この主人近所合壁きんじょがっぺき有名な変人で現にある人はたしかに神経病だとまで断言したくらいである。ところが主人の自信はえらいもので、おれが神経病じゃない、世の中の奴が神経病だと頑張がんばっている。近辺のものが主人を犬々と呼ぶと、主人は公平を維持するため必要だとか号して彼等を豚々ぶたぶたと呼ぶ。実際主人はどこまでも公平を維持するつもりらしい。困ったものだ。こう言う男だからこんな奇問を細君むかって呈出するのも、主人に取っては朝食前あさめしまえの小事件かも知れないが、聞く方から言わせるとちょっと神経病に近い人の言いそうな事だ。だから細君けむかれた気味で何とも言わない。吾輩は無論何とも答えようがない。すると主人はたちまち大きな声で
おい」と呼びかけた。
 細君吃驚びっくりして「はい」と答えた。
そのはいは感投詞か副詞か、どっちだ
どっちですか、そんな馬鹿気た事はどうでもいいじゃありませんか
いいものか、これが現に国語家の頭脳を支配している大問題だ
あらまあ、猫の鳴き声がですか、いやな事ねえ。だって、猫の鳴き声は日本語じゃあないじゃありませんか
それだからさ。それがむずかしい問題なんだよ。比較研究と言うんだ
そう」と細君は利口だから、こんな馬鹿な問題には関係しない。「それで、どっちだか分ったんですか
重要な問題だからそう急には分らんさ」と例のさかなをむしゃむしゃ食う。ついでにその隣にある豚といものにころばしを食う。「これは豚だな」「ええ豚でござんす」「ふん」と大軽蔑だいけいべつの調子をもって飲み込んだ。「酒をもう一杯飲もう」とさかずきを出す。
今夜はなかなかあがるのね。もう大分だいぶ赤くなっていらっしゃいますよ
飲むとも――御前世界で一番長い字を知ってるか
ええ、さきの関白太政大臣でしょう
それは名前だ。長い字を知ってるか
字って横文字ですか
うん
知らないわ、――御酒はもういいでしょう、これで御飯になさいな、ねえ
いや、まだ飲む。一番長い字を教えてやろうか
ええ。そうしたら御飯ですよ」「Archaiomelesidonophrunicherata と言う字だ
出鱈目でたらめでしょう
出鱈目なものか、希臘語ギリシャご
何という字なの、日本語にすれば
意味はしらん。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(88 / 128)
ただつづりだけ知ってるんだ。長く書くと六寸三分くらいにかける」
 他人なら酒の上で言うべき事を、正気で言っているところがすこぶる奇観である。もっとも今夜に限って酒を無暗むやみにのむ。平生なら猪口ちょこに二杯ときめているのを、もう四杯飲んだ。二杯でも随分赤くなるところを倍飲んだのだから顔が焼火箸やけひばしのようにほてって、さも苦しそうだ。それでもまだやめない。「もう一杯」と出す。細君はあまりの事に
もう御よしになったら、いいでしょう。苦しいばかりですわ」と苦々にがにがしい顔をする。
なに苦しくってもこれから少し稽古するんだ。大町桂月けいげつが飲めと言った
桂月って何です」さすがの桂月細君に逢っては一文いちもんの価値もない。
桂月は現今一流の批評家だ。それが飲めと言うのだからいいにきまっているさ
馬鹿をおっしゃい。桂月だって、梅月だって、苦しい思をして酒を飲めなんて、余計な事ですわ
酒ばかりじゃない。交際をして、道楽をして、旅行をしろといった
なおわるいじゃありませんか。そんな人が第一流の批評家なの。まああきれた。妻子のあるものに道楽をすすめるなんて……
道楽もいいさ。桂月が勧めなくっても金さえあればやるかも知れない
なくって仕合せだわ。今から道楽なんぞ始められちゃあ大変ですよ
大変だと言うならよしてやるから、その代りもう少しおっとを大事にして、そうして晩に、もっと御馳走を食わせろ
これが精一杯のところですよ
そうかしらん。それじゃ道楽は追って金が入り次第やる事にして、今夜はこれでやめよう」と飯茶椀を出す。何でも茶漬を三ぜん食ったようだ。吾輩はその夜豚肉三片みきれと塩焼の頭を頂戴した。


     

 垣巡かきめぐりと言う運動を説明した時に、主人の庭をめぐらしてある竹垣の事をちょっと述べたつもりであるが、この竹垣の外がすぐ隣家、即ち南隣みなみどなりの次郎ちゃんとこと思っては誤解である。家賃は安いがそこは苦沙弥くしゃみ先生である。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(89 / 128)
っちゃんや次郎ちゃんなどと号する、いわゆるちゃん付きの連中と、薄っぺらな垣一重を隔てて御隣り同志の親密なる交際は結んでおらぬ。この垣の外は五六間の空地あきちであって、その尽くるところにひのき蓊然こんもりと五六本ならんでいる。縁側から拝見すると、向うは茂った森で、ここに往む先生は野中の一軒家に、無名の猫を友にして日月じつげつを送る江湖こうこ処士しょしであるかのごとき感がある。ただし檜の枝は吹聴ふいちょうするごとく密生しておらんので、そのあいだから群鶴館ぐんかくかんという、名前だけ立派な安下宿の安屋根が遠慮なく見えるから、しかく先生を想像するのにはよほど骨の折れるのは無論である。しかしこの下宿が群鶴館なら先生のきょはたしかに臥竜窟がりょうくつくらいな価値はある。名前に税はかからんから御互にえらそうな奴を勝手次第に付ける事として、この幅五六間の空地が竹垣を添うて東西に走る事約十間、それから、たちまちかぎの手に屈曲して、臥竜窟の北面を取り囲んでいる。この北面が騒動の種である。本来なら空地を行き尽してまたあき地、とか何とか威張ってもいいくらいに家の二側ふたがわを包んでいるのだが、臥竜窟がりょうくつ主人は無論窟内の霊猫れいびょうたる吾輩すらこのあき地には手こずっている。南側にひのきが幅をかしているごとく、北側にはきりの木が七八本行列している。もう周囲一尺くらいにのびているから下駄屋さえ連れてくればいいになるんだが、借家しゃくやの悲しさには、いくら気が付いても実行は出来ん。主人に対しても気の毒である。せんだって学校の小使が来て枝を一本切って行ったが、そのつぎに来た時は新らしい桐の俎下駄まないたげた穿いて、この間の枝でこしらえましたと、聞きもせんのに吹聴ふいちょうしていた。ずるい奴だ。桐はあるが吾輩及び主人家族にとっては一文にもならない桐である。玉をいだいて罪ありと言う古語があるそうだが、これは桐をやしてぜになしと言ってもしかるべきもので、いわゆる宝の持ちぐされである。なるものは主人にあらず、吾輩にあらず、家主やぬし伝兵衛である。いないかな、いないかな、下駄屋はいないかなと桐の方で催促しているのに知らんかおをして屋賃やちんばかり取り立てにくる。吾輩は別に伝兵衛うらみもないから彼の悪口あっこうをこのくらいにして、本題に戻ってこの空地あきちが騒動の種であると言う珍譚ちんだんを紹介つかまつるが、決して主人にいってはいけない。これぎりの話しである。そもそもこの空地に関して第一の不都合なる事は垣根のない事である。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(90 / 128)
吹き払い、吹き通し、抜け裏、通行御免天下晴れての空地である。あると言うと嘘をつくようでよろしくない。実を言うとあったのである。しかし話しは過去へさかのぼらんと源因が分からない。源因が分からないと、医者でも処方しょほうに迷惑する。だからここへ引き越して来た当時からゆっくりと話し始める。吹き通しも夏はせいせいして心持ちがいいものだ、不用心だって金のないところに盗難のあるはずはない。だから主人の家に、あらゆるへい、垣、乃至ないし乱杭らんぐい逆茂木さかもぎの類は全く不要である。しかしながらこれは空地の向うに住居すまいする人間もしくは動物の種類如何いかんによって決せらるる問題であろうと思う。従ってこの問題を決するためには勢い向う側に陣取っている君子の性質を明かにせんければならん。人間だか動物だか分らない先に君子と称するのははなはだ早計のようではあるが大抵君子で間違はない。梁上りょうじょうの君子などと言って泥棒さえ君子と言う世の中である。ただしこの場合における君子は決して警察の厄介になるような君子ではない。警察の厄介にならない代りに、数でこなした者と見えて沢山いる。うじゃうじゃいる。落雲館らくうんかんと称する私立の中学校――八百の君子をいやが上に君子に養成するために毎月二円の月謝を徴集する学校である。名前が落雲館だから風流な君子ばかりかと思うと、それがそもそもの間違になる。その信用すべからざる事は群鶴館ぐんかくかんに鶴の下りざるごとく、臥竜窟に猫がいるようなものである。学士とか教師とか号するものに主人苦沙弥君のごとき気違のある事を知った以上は落雲館の君子が風流漢ばかりでないと言う事がわかるわけだ。それがわからんと主張するならまず三日ばかり主人のうちへ宿とまりに来て見るがいい。
 ぜん申すごとく、ここへ引き越しの当時は、例の空地あきちに垣がないので、落雲館の君子は車屋ののごとく、のそのそと桐畠きりばたけに入り込んできて、話をする、弁当を食う、ささの上に寝転ねころぶ――いろいろの事をやったものだ。それからは弁当の死骸すなわち竹の皮、古新聞、あるいは古草履ふるぞうり、古下駄、ふると言う名のつくものを大概ここへ棄てたようだ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(91 / 128)
無頓着なる主人は存外平気に構えて、別段抗議も申し込まずに打ち過ぎたのは、知らなかったのか、知ってもとがめんつもりであったのか分らない。ところが彼等諸君子は学校で教育を受くるに従って、だんだん君子らしくなったものと見えて、次第に北側から南側の方面へ向けて蚕食さんしょくを企だてて来た。蚕食と言う語が君子に不似合ならやめてもよろしい。ただしほかに言葉がないのである。彼等は水草すいそうを追うて居を変ずる沙漠さばくの住民のごとく、きりの木を去ってひのきの方に進んで来た。檜のある所は座敷の正面である。よほど大胆なる君子でなければこれほどの行動は取れんはずである。一両日ののち彼等の大胆はさらに一層の大を加えて大々胆だいだいたんとなった。教育の結果ほど恐しいものはない。彼等は単に座敷の正面にせまるのみならず、この正面において歌をうたいだした。何と言う歌か忘れてしまったが、決して三十一文字みそひともじたぐいではない、もっと活発かっぱつで、もっと俗耳ぞくじに入りやすい歌であった。驚ろいたのは主人ばかりではない、吾輩までも彼等君子の才芸に嘆服たんぷくして覚えず耳を傾けたくらいである。しかし読者もご案内であろうが、嘆服と言う事と邪魔と言う事は時として両立する場合がある。この両者がこの際はからずも合して一となったのは、今から考えて見ても返す返す残念である。主人も残念であったろうが、やむを得ず書斎から飛び出して行って、ここは君等の這入る所ではない、出給えと言って、二三度追い出したようだ。ところが教育のある君子の事だから、こんな事でおとなしく聞く訳がない。追い出されればすぐ這入る。這入れば活発なる歌をうたう。高声こうせいに談話をする。しかも君子の談話だから一風いっぷう違って、おめえだの知らねえのと言う。そんな言葉は御維新前ごいっしんまえ折助おりすけ雲助くもすけ三助さんすけの専門的知識に属していたそうだが、二十世紀になってから教育ある君子の学ぶ唯一の言語であるそうだ。一般から軽蔑けいべつせられたる運動が、かくのごとく今日こんにち歓迎せらるるようになったのと同一の現象だと説明した人がある。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(92 / 128)
主人はまた書斎から飛び出してこの君子流の言葉にもっとも堪能かんのうなる一人をつらまえて、なぜここへ這入るかと詰問したら、君子はたちまち「おめえ知らねえ」の上品な言葉を忘れて「ここは学校の植物園かと思いました」とすこぶる下品な言葉で答えた。主人は将来をいましめて放してやった。放してやるのは亀の子のようでおかしいが、実際彼は君子のそでとらえて談判したのである。このくらいやかましく言ったらもうよかろうと主人は思っていたそうだ。ところが実際は女媧氏じょかしの時代から予期と違うもので、主人はまた失敗した。今度は北側から邸内を横断して表門から抜ける、表門をがらりとあけるから御客かと思うと桐畠の方で笑う声がする。形勢はますます不穏である。教育の功果はいよいよ顕著になってくる。気の毒な主人はこいつは手に合わんと、それから書斎へ立てこもって、うやうやしく一書を落雲館校長に奉って、少々御取締をと哀願した。校長も丁重ていちょうなる返書を主人に送って、垣をするから待ってくれと言った。しばらくすると二三人の職人が来て半日ばかりの間に主人の屋敷と、落雲館の境に、高さ三尺ばかりの四つ目垣が出来上がった。これでようよう安心だと主人は喜こんだ。主人は愚物である。このくらいの事で君子の挙動の変化する訳がない。
 全体人にからかうのは面白いものである。吾輩のような猫ですら、時々は当家の令嬢にからかって遊ぶくらいだから、落雲館の君子が、気のかない苦沙弥先生にからかうのは至極しごくもっともなところで、これに不平なのは恐らく、からかわれる当人だけであろう。からかうと言う心理を解剖して見ると二つの要素がある。第一からかわれる当人が平気ですましていてはならん。第二からかう者が勢力において人数において相手より強くなくてはいかん。この間主人が動物園から帰って来てしきりに感心して話した事がある。聞いて見ると駱駝らくだと小犬の喧嘩を見たのだそうだ。小犬が駱駝の周囲を疾風のごとく回転してえ立てると、駱駝は何の気もつかずに、依然として背中へこぶをこしらえて突っ立ったままであるそうだ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(93 / 128)
いくら吠えても狂っても相手にせんので、しまいには犬も愛想あいそをつかしてやめる、実に駱駝は無神経だと笑っていたが、それがこの場合の適例である。いくらからかうものが上手でも相手が駱駝と来ては成立しない。さればと言って獅子ししとらのように先方が強過ぎても者にならん。からかいかけるや否や八つ裂きにされてしまう。からかうと歯をむき出しておこる、怒る事は怒るが、こっちをどうする事も出来ないと言う安心のある時に愉快は非常に多いものである。なぜこんな事が面白いと言うとその理由はいろいろある。まずひまつぶしに適している。退屈な時にはひげの数さえ勘定して見たくなる者だ。むかし獄に投ぜられた囚人の一人は無聊ぶりょうのあまり、へやの壁に三角形を重ねていてその日をくらしたと言う話がある。世の中に退屈ほど我慢の出来にくいものはない、何か活気を刺激する事件がないと生きているのがつらいものだ。からかうと言うのもつまりこの刺激を作って遊ぶ一種の娯楽である。ただし多少先方を怒らせるか、じらせるか、弱らせるかしなくては刺激にならんから、昔しからからかうと言う娯楽にふけるものは人の気を知らない馬鹿大名のような退屈の多い者、もしくは自分のなぐさみ以外は考うるにいとまなきほど頭の発達が幼稚で、しかも活気の使い道に窮する少年かに限っている。次には自己の優勢な事を実地に証明するものにはもっとも簡便な方法である。人を殺したり、人をきずつけたり、または人をおとしいれたりしても自己の優勢な事は証明出来る訳であるが、これらはむしろ殺したり、傷けたり、陥れたりするのが目的のときによるべき手段で、自己の優勢なる事はこの手段を遂行すいこうしたのちに必然の結果として起る現象に過ぎん。だから一方には自分の勢力が示したくって、しかもそんなに人に害を与えたくないと言う場合には、からかうのが一番御格好おかっこうである。多少人を傷けなければ自己のえらい事は事実の上に証拠だてられない。事実になって出て来ないと、頭のうちで安心していても存外快楽のうすいものである。人間は自己をたのむものである。否恃み難い場合でも恃みたいものである。それだから自己はこれだけ恃める者だ、これなら安心だと言う事を、人に対して実地に応用して見ないと気がすまない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(94 / 128)
しかも理屈りくつのわからない俗物や、あまり自己が恃みになりそうもなくて落ちつきのない者は、あらゆる機会を利用して、この証券を握ろうとする。柔術使が時々人を投げて見たくなるのと同じ事である。柔術の怪しいものは、どうか自分より弱い奴に、ただの一ぺんでいいから出逢って見たい、素人しろうとでも構わないからげて見たいと至極危険な了見をいだいて町内をあるくのもこれがためである。その他にも理由はいろいろあるが、あまり長くなるから略する事に致す。聞きたければ鰹節かつぶし一折ひとおりも持って習いにくるがいい、いつでも教えてやる。以上に説くところを参考して推論して見ると、吾輩かんがえでは奥山おくやまさると、学校の教師がからかうには一番手頃である。学校の教師をもって、奥山の猿に比較しては勿体もったいない。――猿に対して勿体ないのではない、教師に対して勿体ないのである。しかしよく似ているから仕方がない、御承知の通り奥山の猿はくさりつながれている。いくら歯をむき出しても、きゃっきゃっ騒いでも引きかれる気遣きづかいはない。教師は鎖で繋がれておらない代りに月給で縛られている。いくらからかったって大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐる事はない。辞職をする勇気のあるようなものなら最初から教師などをして生徒の御守おもりは勤めないはずである。主人は教師である。落雲館の教師ではないが、やはり教師に相違ない。からかうには至極しごく適当で、至極安直あんちょくで、至極無事な男である。落雲館の生徒は少年である。からかう事は自己の鼻を高くする所以ゆえんで、教育の功果として至当に要求してしかるべき権利とまで心得ている。のみならずからかいでもしなければ、活気にちた五体と頭脳を、いかに使用してしかるべきか十分じっぷんの休暇中てあまして困っている連中である。これらの条件が備われば主人おのずからからかわれ、生徒は自からからかう、誰から言わしてもごうも無理のないところである。それをおこ主人野暮やぼの極、間抜の骨頂でしょう。これから落雲館の生徒がいかに主人にからかったか、これに対して主人がいかに野暮を極めたかを逐一かいてご覧に入れる。
 諸君は四つ目垣とはいかなる者であるか御承知であろう。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(95 / 128)
風通しのいい、簡便な垣である。吾輩などは目の間から自由自在に往来する事が出来る。こしらえたって、こしらえなくたって同じ事だ。然し落雲館の校長は猫のために四つ目垣を作ったのではない、自分が養成する君子がくぐられんために、わざわざ職人を入れてめぐらせたのである。なるほどいくら風通しがよく出来ていても、人間にはくぐれそうにない。この竹をもって組み合せたる四寸角の穴をぬける事は、清国しんこくの奇術師張世尊ちょうせいそんその人といえどもむずかしい。だから人間に対しては充分垣の功能をつくしているに相違ない。主人がその出来上ったのを見て、これならよかろうと喜んだのも無理はない。しかし主人の論理にはおおいなる穴がある。この垣よりも大いなる穴がある。呑舟どんしゅうの魚をもらすべき大穴がある。彼は垣はゆべきものにあらずとの仮定から出立している。いやしくも学校の生徒たる以上はいかに粗末の垣でも、垣と言う名がついて、分界線の区域さえ判然すれば決して乱入される気遣はないと仮定したのである。次に彼はその仮定をしばらく打ちくずして、よし乱入する者があっても大丈夫と論断したのである。四つ目垣の穴をくぐり得る事は、いかなる小僧といえどもとうてい出来る気遣はないから乱入のおそれは決してないと速定そくていしてしまったのである。なるほど彼等が猫でない限りはこの四角の目をぬけてくる事はしまい、したくても出来まいが、乗りえる事、飛び越える事は何の事もない。かえって運動になって面白いくらいである。
 垣の出来た翌日から、垣の出来ぬ前と同様に彼等は北側の空地へぽかりぽかりと飛び込む。ただし座敷の正面までは深入りをしない。もし追い懸けられたら逃げるのに、少々ひまがいるから、あらかじめ逃げる時間を勘定にれて、とらえらるる危険のない所で遊弋ゆうよくをしている。彼等が何をしているか東の離れにいる主人には無論目にらない。北側の空地あきちに彼等が遊弋している状態は、木戸をあけて反対の方角からかぎの手に曲って見るか、または後架こうかの窓から垣根越しにながめるよりほかに仕方がない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(96 / 128)
窓から眺める時はどこに何がいるか、一目いちもく明瞭に見渡す事が出来るが、よしや敵を幾人いくたり見出したからと言って捕える訳には行かぬ。ただ窓の格子こうしの中から叱りつけるばかりである。もし木戸から迂回うかいして敵地を突こうとすれば、足音を聞きつけて、ぽかりぽかりとつらまる前に向う側へ下りてしまう。膃肭臍おっとせいがひなたぼっこをしているところへ密猟船が向ったような者だ。主人は無論後架で張り番をしている訳ではない。と言って木戸を開いて、音がしたら直ぐ飛び出す用意もない。もしそんな事をやる日には教師を辞職して、その方専門にならなければ追っつかない。主人方の不利を言うと書斎からは敵の声だけ聞えて姿が見えないのと、窓からは姿が見えるだけで手が出せない事である。この不利を看破したる敵はこんな軍略を講じた。主人が書斎に立てこもっていると探偵した時には、なるべく大きな声を出してわあわあ言う。その中には主人をひやかすような事を聞こえよがしに述べる。しかもその声の出所を極めて不分明にする。ちょっと聞くと垣の内で騒いでいるのか、あるいは向う側であばれているのか判定しにくいようにする。もし主人が出懸けて来たら、逃げ出すか、または始めから向う側にいて知らん顔をする。また主人が後架へ――吾輩は最前からしきりに後架後架ときたない字を使用するのを別段の光栄とも思っておらん、実は迷惑千万であるが、この戦争を記述する上において必要であるからやむを得ない。――すなわ主人が後架へまかり越したと見て取るときは、必ず桐の木の附近を徘徊はいかいしてわざと主人の眼につくようにする。主人がもし後架から四隣しりん【となり近所】に響く大音を揚げて怒鳴りつければ敵は周章あわてる気色けしきもなく悠然ゆうぜんと根拠地へ引きあげる。この軍略を用いられると主人ははなはだ困却する。たしかに入っているなと思ってステッキを持って出懸けると寂然せきぜんとして誰もいない。いないかと思って窓からのぞくと必ず一二人入っている。主人は裏へ廻って見たり、後架からのぞいて見たり、後架から覗いて見たり、裏へ廻って見たり、何度言っても同じ事だが、何度言っても同じ事を繰り返している。奔命ほんめいに疲れるとはこの事である。教師が職業であるか、戦争が本務であるかちょっと分らないくらい逆上ぎゃくじょうして来た。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(97 / 128)
この逆上の頂点に達した時にしもの事件が起ったのである。
 事件は大概逆上から出る者だ。逆上とは読んで字のごとくかさにのぼるのである、この点に関してはゲーレンもパラセルサスも旧弊なる扁鵲へんじゃくも異議をとなうる者は一人もない。ただどこへかさにのぼるかが問題である。また何が逆かさに上るかが議論のあるところである。古来欧洲人の伝説によると、吾人の体内には四種の液が循環しておったそうだ。第一に怒液どえきと言うやつがある。これが逆かさに上るとおこり出す。第二に鈍液どんえきと名づくるのがある。これが逆かさに上ると神経がにぶくなる。次には憂液ゆうえき、これは人間を陰気にする。最後が血液けつえき、これは四肢ししさかんにする。その人文が進むに従って鈍液、怒液、憂液はいつの間にかなくなって、現今に至っては血液だけが昔のように循環していると言う話しだ。だからもし逆上する者があらば血液よりほかにはあるまいと思われる。しかるにこの血液の分量は個人によってちゃんとまっている。性分によって多少の増減はあるが、まず大抵一人前に付五升五合の割合である。だによって、この五升五合が逆かさに上ると、上ったところだけはさかんに活動するが、その他の局部は欠乏を感じて冷たくなる。ちょうど交番焼打の当時巡査がことごとく警察署へ集って、町内には一人もなくなったようなものだ。あれも医学上から診断をすると警察の逆上と言う者である。でこの逆上をやすには血液を従前のごとく体内の各部へ平均に分配しなければならん。そうするには逆かさに上った奴を下へおろさなくてはならん。その方にはいろいろある。今は故人となられたが主人の先君などは手拭てぬぐいを頭にあてて炬燵こたつにあたっておられたそうだ。頭寒足熱ずかんそくねつは延命息災の徴と傷寒論しょうかんろんにも出ている通り、濡れ手拭は長寿法において一日も欠くべからざる者である。それでなければ坊主の慣用する手段を試みるがよい。一所不住いっしょふじゅう沙門しゃもん 雲水行脚うんすいあんぎゃ衲僧のうそうは必ず樹下石上を宿やどとすとある。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(98 / 128)
樹下石上とは難行苦行のためではない。全くのぼせげるために六祖ろくそが米をきながら考え出した秘法である。試みに石の上に坐ってご覧、尻が冷えるのは当り前だろう。尻が冷える、のぼせが下がる、これまた自然の順序にしてごうも疑をさしはさむべき余地はない。かようにいろいろな方法を用いてのぼせを下げる工夫は大分だいぶ発明されたが、まだのぼせを引き起す良方が案出されないのは残念である。一概に考えるとのぼせは損あって益なき現象であるが、そうばかり速断してならん場合がある。職業によると逆上はよほど大切な者で、逆上せんと何にも出来ない事がある。そのうちでもっとも逆上を重んずるのは詩人である。詩人に逆上が必要なる事は汽船に石炭が欠くべからざるような者で、この供給が一日でも途切れると彼れ等は手をこまぬいて飯を食うよりほかに何等の能もない凡人になってしまう。もっとも逆上は気違の異名いみょうで、気違にならないと家業かぎょうが立ち行かんとあっては世間体せけんていが悪いから、彼等の仲間では逆上を呼ぶに逆上の名をもってしない。申し合せてインスピレーション、インスピレーションとさも勿体もったいそうにとなえている。これは彼等が世間を瞞着まんちゃくするために製造した名でその実は正に逆上である。プレートーは彼等の肩を持ってこの種の逆上を神聖なる狂気と号したが、いくら神聖でも狂気では人が相手にしない。やはりインスピレーションと言う新発明の売薬のような名を付けておく方が彼等のためによかろうと思う。しかし蒲鉾かまぼこの種が山芋やまいもであるごとく、観音かんのんの像が一寸八分の朽木くちきであるごとく、鴨南蛮かもなんばんの材料が烏であるごとく、下宿屋の牛鍋ぎゅうなべが馬肉であるごとくインスピレーションも実は逆上である。逆上であって見れば臨時の気違である。巣鴨へ入院せずに済むのは単に臨時気違であるからだ。ところがこの臨時の気違を製造する事が困難なのである。一生涯いっしょうがいの狂人はかえって出来安いが、筆をって紙に向うあいだだけ気違にするのは、いかに巧者こうしゃな神様でもよほど骨が折れると見えて、なかなかこしらえて見せない。神が作ってくれん以上は自力で拵えなければならん。そこで昔から今日こんにちまで逆上術もまた逆上とりのけ術と同じくおおいに学者の頭脳を悩ました。ある人はインスピレーションを得るために毎日渋柿を十二個ずつ食った。これは渋柿を食えば便秘する、便秘すれば逆上は必ず起るという理論から来たものだ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(99 / 128)
またある人はかん徳利を持って鉄砲風呂てっぽうぶろへ飛び込んだ。湯の中で酒を飲んだら逆上するにきまっていると考えたのである。その人の説によるとこれで成功しなければ葡萄酒ぶどうしゅの湯をわかして這入れば一ぺんで功能があると信じ切っている。しかし金がないのでついに実行する事が出来なくて死んでしまったのは気の毒である。最後に古人の真似をしたらインスピレーションが起るだろうと思いついた者がある。これはある人の態度動作を真似ると心的状態もその人に似てくると言う学説を応用したのである。酔っぱらいのようにくだいていると、いつの間にか酒飲みのような心持になる、座禅をして線香一本の間我慢しているとどことなく坊主らしい気分になれる。だから昔からインスピレーションを受けた有名の大家の所作しょさを真似れば必ず逆上するに相違ない。聞くところによればユーゴーは快走船ヨットの上へ寝転ねころんで文章の趣向を考えたそうだから、船へ乗って青空を見つめていれば必ず逆上受合うけあいである。スチーヴンソンは腹這はらばいに寝て小説を書いたそうだから、しになって筆を持てばきっと血がかさにのぼってくる。かようにいろいろな人がいろいろの事を考え出したが、まだ誰も成功しない。まず今日こんにちのところでは人為的逆上は不可能の事となっている。残念だが致し方がない。早晩随意にインスピレーションを起し得る時機の到来するはうたがいもない事で、吾輩は人文のためにこの時機の一日も早く来らん事を切望するのである。
 逆上の説明はこのくらいで充分だろうと思うから、これよりいよいよ事件に取りかかる。しかしすべての大事件の前には必ず小事件が起るものだ。大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常におちい弊竇へいとうである。主人の逆上も小事件に逢う度に一層の劇甚げきじんを加えて、ついに大事件を引き起したのであるからして、幾分かその発達を順序立てて述べないと主人がいかに逆上しているか分りにくい。分りにくいと主人の逆上は空名に帰して、世間からはよもやそれほどでもなかろうと見くびられるかも知れない。せっかく逆上しても人から天晴あっぱれな逆上とうたわれなくては張り合がないだろう。これから述べる事件は大小にかかわらず主人に取って名誉な者ではない。事件その物が不名誉であるならば、めて逆上なりとも、正銘しょうめいの逆上であって、決して人に劣るものでないと言う事を明かにしておきたい。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(100 / 128)
主人は他に対して別にこれと言って誇るに足る性質を有しておらん。逆上でも自慢しなくてはほかに骨を折って書き立ててやる種がない。
 落雲館に群がる敵軍は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、十分じっぷんの休暇、もしくは放課後に至ってさかんに北側の空地あきちに向って砲火を浴びせかける。このダムダム弾は通称をボールととなえて、擂粉木すりこぎの大きな奴をもって任意これを敵中に発射する仕掛である。いくらダムダムだって落雲館の運動場から発射するのだから、書斎に立てこもってる主人あた気遣きづかいはない。敵といえども弾道のあまり遠過ぎるのを自覚せん事はないのだけれど、そこが軍略である。旅順の戦争にも海軍から間接射撃を行って偉大な功を奏したと言う話であれば、空地へころがり落つるボールといえども相当の功果を収め得ぬ事はない。いわんや一発を送るたびに総軍力を合せてわーと威嚇性いかくせい 大音声だいおんじょういだすにおいてをやである。主人は恐縮の結果として手足に通う血管が収縮せざるを得ない。煩悶はんもんきょくそこいらを迷付まごついている血がさかさにのぼるはずである。敵のはかりごとはなかなか巧妙と言うてよろしい。むか希臘ギリシャにイスキラスと言う作家があったそうだ。この男は学者作家に共通なる頭を有していたと言う。吾輩のいわゆる学者作家に共通なる頭とは禿はげと言う意味である。なぜ頭が禿げるかと言えば頭の営養不足で毛が生長するほど活気がないからに相違ない。学者作家はもっとも多く頭を使うものであって大概は貧乏にきまっている。だから学者作家の頭はみんな営養不足でみんな禿げている。さてイスキラスも作家であるから自然のいきおい禿げなくてはならん。彼はつるつる然たる金柑頭きんかんあたまを有しておった。ところがある日の事、先生例の頭――頭に外行よそゆき普段着ふだんぎもないから例の頭に極ってるが――その例の頭を振り立て振り立て、太陽に照らしつけて往来をあるいていた。これが間違いのもとである。禿げ頭を日にあてて遠方から見ると、大変よく光るものだ。高い木には風があたる、光かる頭にも何かあたらなくてはならん。この時イスキラスの頭の上に一羽のわしが舞っていたが、見るとどこかで生捕いけどった一ぴきの亀を爪の先につかんだままである。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(101 / 128)
亀、スッポンなどは美味に相違ないが、希臘時代から堅い甲羅こうらをつけている。いくら美味でも甲羅つきではどうする事も出来ん。海老えび鬼殻焼おにがらやきはあるが亀の子の甲羅煮は今でさえないくらいだから、当時は無論なかったに極っている。さすがのわしも少々持て余した折柄おりからはるかの下界にぴかと光った者がある。その時鷲はしめたと思った。あの光ったものの上へ亀の子を落したなら、甲羅はまさしく砕けるにわまった。砕けたあとから舞い下りて中味なかみ頂戴ちょうだいすれば訳はない。そうだそうだとねらいを定めて、かの亀の子を高い所から挨拶も無く頭の上へ落した。生憎あいにく作家の頭の方が亀の甲より軟らかであったものだから、禿はめちゃめちゃに砕けて有名なるイスキラスはここに無惨むざんの最後を遂げた。それはそうと、しかねるのは鷲の了見である。例の頭を、作家の頭と知って落したのか、または禿岩と間違えて落したものか、解決しよう次第で、落雲館の敵とこの鷲とを比較する事も出来るし、また出来なくもなる。主人の頭はイスキラスのそれのごとく、また御歴々おれきれきの学者のごとくぴかぴか光ってはおらん。しかし六畳敷にせよいやしくも書斎と号する一室をひかえて、居眠りをしながらも、むずかしい書物の上へ顔をかざす以上は、学者作家の同類と見傚みなさなければならん。そうすると主人の頭の禿げておらんのは、まだ禿げるべき資格がないからで、その内に禿げるだろうとは近々きんきんこの頭の上に落ちかかるべき運命であろう。して見れば落雲館の生徒がこの頭を目懸けて例のダムダムがんを集注するのは策のもっとも時宜じぎに適したものと言わねばならん。もし敵がこの行動を二週間継続するならば、主人の頭は畏怖いふ煩悶はんもんのため必ず営養の不足を訴えて、金柑きんかんとも薬缶やかんとも銅壺どうことも変化するだろう。なお二週間の砲撃をくらえば金柑はつぶれるに相違ない。薬缶はるに相違ない。銅壺ならひびが入るにきまっている。この睹易みやすき結果を予想せんで、あくまでも敵と戦闘を継続しようと苦心するのは、ただ本人たる苦沙弥先生のみである。
 ある日の午後、吾輩は例のごとく縁側へ出て午睡ひるねをして虎になった夢を見ていた。主人鶏肉けいにくを持って来いと言うと、主人がへえと恐る恐る鶏肉を持って出る。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(102 / 128)
迷亭が来たから、迷亭がんが食いたい、雁鍋がんなべへ行ってあつらえて来いと言うと、かぶこうものと、塩煎餅しおせんべいといっしょに召し上がりますと雁の味が致しますと例のごとく茶羅ちゃらぽこを言うから、大きな口をあいて、うーとうなっておどかしてやったら、迷亭は青くなって山下やましたの雁鍋は廃業致しましたがいかが取りはからいましょうかと言った。それなら牛肉で勘弁するから早く西川へ行ってロースを一斤取って来い、早くせんと貴様から食い殺すぞと言ったら、迷亭は尻を端折はしょってけ出した。吾輩は急にからだが大きくなったので、縁側一杯に寝そべって、迷亭の帰るのを待ち受けていると、たちまち家中うちじゅうに響く大きな声がしてせっかくのぎゅうも食わぬ間に夢がさめて吾に帰った。すると今まで恐る恐る吾輩の前に平伏していたと思いのほかの主人が、いきなり後架こうかから飛び出して来て、吾輩の横腹をいやと言うほどたから、おやと思ううち、たちまち庭下駄をつっかけて木戸から廻って、落雲館の方へかけて行く。吾輩は虎から急に猫と収縮したのだから何となくきまりが悪くもあり、おかしくもあったが、主人のこの権幕と横腹を蹴られた痛さとで、虎の事はすぐ忘れてしまった。同時に主人がいよいよ出馬して敵と交戦するな面白いわいと、痛いのを我慢して、後を慕って裏口へ出た。同時に主人ぬすっとうと怒鳴る声が聞える、見ると制帽をつけた十八九になる倔強くっきょうな奴が一人、四ツ目垣を向うへ乗り越えつつある。やあ遅かったと思ううち、の制帽は馳け足の姿勢をとって根拠地の方へ韋駄天いだてんのごとく逃げて行く。主人ぬすっとうおおいに成功したので、またもぬすっとうと高く叫びながら追いかけて行く。しかしかの敵に追いつくためには主人の方で垣を越さなければならん。深入りをすれば主人みずからが泥棒になるはずである。ぜん申す通り主人は立派なる逆上家である。こういきおいに乗じてぬすっとうを追い懸ける以上は、夫子ふうし自身がぬすっとうに成っても追い懸けるつもりと見えて、引き返す気色けしきもなく垣の根元まで進んだ。今一歩で彼はぬすっとうの領分に入らなければならんと言う間際まぎわに、敵軍の中から、薄いひげを勢なくやした将官がのこのこと出馬して来た。両人ふたりは垣を境に何か談判している。聞いて見るとこんなつまらない議論である。
あれは本校の生徒です
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(103 / 128)
生徒たるべきものが、何でひとの邸内へ侵入するのですか
いやボールがつい飛んだものですから
なぜ断って、取りに来ないのですか
これからく注意します
そんなら、よろしい
 竜騰虎闘りゅうとうことうの壮観があるだろうと予期した交渉はかくのごとく散文的なる談判をもって無事に迅速に結了した。主人さかんなるはただ意気込みだけである。いざとなると、いつでもこれでおしまいだ。あたかも吾輩が虎の夢から急に猫に返ったような観がある。吾輩の小事件と言うのはすなわちこれである。小事件を記述したあとには、順序として是非大事件を話さなければならん。
 主人は座敷の障子を開いて腹這はらばいになって、何か思案している。恐らく敵に対して防御策ぼうぎょさくを講じているのだろう。落雲館は授業中と見えて、運動場は存外静かである。ただ校舎の一室で、倫理の講義をしているのが手に取るように聞える。朗々たる音声でなかなかうまく述べ立てているのを聴くと、全く昨日きのう敵中から出馬して談判のしょうに当った将軍である。「……で公徳と言うものは大切な事で、あちらへ行って見ると、仏蘭西フランスでも独逸ドイツでも英吉利イギリスでも、どこへ行っても、この公徳の行われておらん国はない。またどんな下等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。悲しいかな、我が日本にっては、だこの点において外国と拮抗きっこうする事が出来んのである。で公徳と申すと何か新しく外国から輸入して来たように考える諸君もあるかも知れんが、そう思うのはだいなる誤りで、昔人せきじん夫子ふうし道一みちいつ もっこれつらぬく、忠恕ちゅうじょのみと言われた事がある。このじょと申すのが取りも直さず公徳の出所しゅっしょである。私も人間であるから時には大きな声をして歌などうたって見たくなる事がある。しかし私が勉強している時に隣室のものなどが放歌するのを聴くと、どうしても書物の読めぬのが私の性分である。であるからして自分が唐詩選とうしせんでも高声こうせいに吟じたら気分が晴々せいせいしてよかろうと思う時ですら、もし自分のように迷惑がる人が隣家に住んでおって、知らず知らずその人の邪魔をするような事があってはすまんと思うて、そう言う時はいつでもひかえるのである。こう言う訳だから諸君もなるべく公徳を守って、いやしくも人の妨害になると思う事は決してやってはならんのである。……
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(104 / 128)
 主人は耳を傾けて、この講話を謹聴していたが、ここに至ってにやりと笑った。ちょっとこのにやりの意味を説明する必要がある。皮肉家がこれをよんだらこのにやりうちには冷評的分子が交っていると思うだろう。しかし主人は決して、そんな人の悪い男ではない。悪いと言うよりそんなに知恵ちえの発達した男ではない。主人はなぜ笑ったかと言うと全く嬉しくって笑ったのである。倫理の教師たる者がかように痛切なる訓戒を与えるからはこののちは永久ダムダム弾の乱射をまぬがれるに相違ない。当分のうち頭も禿げずにすむ、逆上は一時に直らんでも時機さえくれば漸次ぜんじ回復するだろう、手拭てぬぐいを頂いて、炬燵こたつにあたらなくとも、樹下石上を宿やどとしなくとも大丈夫だろうと鑑定したから、にやにやと笑ったのである。借金は必ず返す者と二十世紀の今日こんにちにもやはり正直に考えるほどの主人がこの講話を真面目に聞くのは当然であろう。
 やがて時間が来たと見えて、講話はぱたりとやんだ。他の教室の課業も皆一度に終った。すると今まで室内に密封された八百の同勢はときの声をあげて、建物を飛び出した。そのいきおいと言うものは、一尺ほどなはちの巣をたたき落したごとくである。ぶんぶん、わんわん言うて窓から、戸口から、開きから、いやしくも穴のいている所なら何の容赦もなく我勝ちに飛び出した。これが大事件の発端である。
 まず蜂の陣立てから説明する。こんな戦争に陣立ても何もあるものかと言うのは間違っている。普通の人は戦争とさえ言えば沙河しゃかとか奉天ほうてんとかまた旅順りょじゅんとかそのほかに戦争はないもののごとくに考えている。少し詩がかった野蛮人になると、アキリスがヘクトーの死骸を引きずって、トロイの城壁を三匝さんそうしたとか、えんぴと張飛【中国三国時代の将軍】が長坂橋ちょうはんきょうに 丈八じょうはち蛇矛だぼうよこたえて、曹操そうそうの軍百万人をにらめ返したとか大袈裟おおげさな事ばかり連想する。連想は当人の随意だがそれ以外の戦争はないものと心得るのは不都合だ。太古蒙昧たいこもうまいの時代にってこそ、そんな馬鹿気た戦争も行われたかも知れん、しかし太平の今日こんにち、大日本国帝都の中心においてかくのごとき野蛮的行動はあり得べからざる奇跡に属している。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(105 / 128)
いかに騒動が持ち上がっても交番の焼打以上に出る気遣きづかいはない。して見ると臥竜窟がりょうくつ主人の苦沙弥先生と落雲館八百の健児との戦争は、まず東京市あって以来の大戦争の一として数えてもしかるべきものだ。左氏さし鄢陵えんりょうの たたかいを記するに当ってもまず敵の陣勢から述べている。古来から叙述に巧みなるものは皆この筆法を用いるのが通則になっている。だによって吾輩が蜂の陣立てを話すのも仔細しさいなかろう。それでまず蜂の陣立ていかんと見てあると、四つ目垣の外側に縦列をかたちづくった一隊がある。これは主人を戦闘線内に誘致する職務を帯びた者と見える。「降参しねえか」「しねえしねえ」「駄目だ駄目だ」「出てこねえ」「落ちねえかな」「落ちねえはずはねえ」「吠えて見ろ」「わんわん」「わんわん」「わんわんわんわん」これから先は縦隊総がかりとなって吶喊とっかん【つきつらぬく】の声を揚げる。縦隊を少し右へ離れて運動場の方面には砲隊が形勝の地を占めて陣地をいている。臥竜窟がりょうくつに面して一人の将官が擂粉木すりこぎの大きな奴を持ってひかえる。これと相対して五六間の間隔をとってまた一人立つ、擂粉木のあとにまた一人、これは臥竜窟に顔をむけて突っ立っている。かくのごとく一直線にならんで向い合っているのが砲手である。ある人の説によるとこれはベースボールの練習であって、決して戦闘準備ではないそうだ。吾輩はベースボールの何物たるを解せぬ文盲漢もんもうかんである。しかし聞くところによればこれは米国から輸入された遊戯で、今日こんにち中学程度以上の学校に行わるる運動のうちでもっとも流行するものだそうだ。米国は突飛とっぴな事ばかり考え出す国柄であるから、砲隊と間違えてもしかるべき、近所迷惑の遊戯を日本人に教うべくだけそれだけ親切であったかも知れない。また米国人はこれをもって真に一種の運動遊戯と心得ているのだろう。しかし純粋の遊戯でもかように四隣を驚かすに足る能力を有している以上は使いようで砲撃の用には充分立つ。吾輩の眼をもって観察したところでは、彼等はこの運動術を利用して砲火の功を収めんと企てつつあるとしか思われない。物は言いようでどうでもなるものだ。慈善の名を借りて詐偽さぎを働らき、インスピレーションと号して逆上をうれしがる者がある以上はベースボールなる遊戯のもとに戦争をなさんとも限らない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(106 / 128)
或る人の説明は世間一般のベースボールの事であろう。今吾輩が記述するベースボールはこの特別の場合に限らるるベースボールすなわち攻城的砲術である。これからダムダム弾を発射する方法を紹介する。直線にかれたる砲列の中の一人が、ダムダム弾を右の手に握って擂粉木の所有者にほうりつける。ダムダム弾は何で製造したか局外者には分らない。堅い丸い石の団子のようなものを御鄭寧ごていねいに皮でくるんで縫い合せたものである。ぜん申す通りこの弾丸が砲手の一人の手中を離れて、風を切って飛んで行くと、向うに立った一人が例の擂粉木をやっと振り上げて、これをたたき返す。たまには敲きそこなった弾丸が流れてしまう事もあるが、大概はポカンと大きな音を立ててね返る。その勢は非常に猛烈なものである。神経性胃弱なる主人の頭をつぶすくらいは容易に出来る。砲手はこれだけで事足るのだが、その周囲附近には弥次馬やじうま兼援兵が雲霞うんかのごとく付き添うている。ポカーンと擂粉木が団子にあたるや否やわー、ぱちぱちぱちと、わめく、手をつ、やれやれと言う。あたったろうと言う。これでもかねえかと言う。恐れ入らねえかと言う。降参かと言う。これだけならまだしもであるが、たたき返された弾丸は三度に一度必ず臥竜窟邸内へころがり込む。これがころがり込まなければ攻撃の目的は達せられんのである。ダムダム弾は近来諸所で製造するが随分高価なものであるから、いかに戦争でもそう充分な供給を仰ぐ訳に行かん。大抵一隊の砲手に一つもしくは二つの割である。ポンと鳴る度にこの貴重な弾丸を消費する訳には行かん。そこで彼等はたまひろいと称する一部隊を設けて落弾おちだまを拾ってくる。落ち場所がよければ拾うのに骨も折れないが、草原とか人の邸内へ飛び込むとそう容易たやすくは戻って来ない。だから平生ならなるべく労力を避けるため、拾いやすい所へ打ち落すはずであるが、この際は反対に出る。目的が遊戯にあるのではない、戦争に存するのだから、わざとダムダム弾を主人の邸内に降らせる。邸内に降らせる以上は、邸内へ入って拾わなければならん。邸内に這入るもっとも簡便な方法は四つ目垣を越えるにある。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(107 / 128)
四つ目垣のうちで騒動すれば主人おこり出さなければならん。しからずんばかぶとを脱いで降参しなければならん。苦心のあまり頭がだんだん禿げて来なければならん。
 今しも敵軍から打ち出した一弾は、照準しょうじゅん  あやまたず、四つ目垣を通り越してきりの下葉を振い落して、第二の城壁すなわち竹垣に命中した。随分大きな音である。ニュートンの運動律第一にいわくもし他の力を加うるにあらざれば、一度ひとたび動き出したる物体は均一の速度をもって直線に動くものとす。もしこの律のみによって物体の運動が支配せらるるならば主人の頭はこの時にイスキラスと運命を同じくしたであろう。さいわいにしてニュートンは第一則を定むると同時に第二則も製造してくれたので主人の頭は危うきうちに一命を取りとめた。運動の第二則に曰く運動の変化は、加えられたる力に比例す、しかしてその力の働く直線の方向において起るものとす。これは何の事だか少しくわかり兼ねるが、かのダムダム弾が竹垣を突き通して、障子しょうじを裂き破って主人の頭を破壊しなかったところをもって見ると、ニュートンの御蔭おかげに相違ない。しばらくすると案のごとく敵は邸内に乗り込んで来たものと覚しく、「ここか」「もっと左の方か」などと棒でもってささの葉を敲き廻わる音がする。すべて敵が主人の邸内へ乗り込んでダムダム弾を拾う場合には必ず特別な大きな声を出す。こっそり入って、こっそり拾っては肝心かんじんの目的が達せられん。ダムダム弾は貴重かも知れないが、主人にからかうのはダムダム弾以上に大事である。この時のごときは遠くから弾の所在地は判然している。竹垣にあたった音も知っている。中った場所も分っている、しかしてその落ちた地面も心得ている。だからおとなしくして拾えば、いくらでもおとなしく拾える。ライプニッツの定義によると空間は出来得べき同在現象の秩序である。いろはにほへとはいつでも同じ順にあらわれてくる。柳の下には必ずどじょうがいる。蝙蝠こうもりに夕月はつきものである。垣根にボールは不似合かも知れぬ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(108 / 128)
しかし毎日毎日ボールを人の邸内にほうり込む者の眼に映ずる空間はたしかにこの配列にれている。一眼ひとめ見ればすぐ分る訳だ。それをかくのごとく騒ぎ立てるのは必竟ひっきょうずるに主人に戦争をいどむ策略である。
 こうなってはいかに消極的なる主人といえども応戦しなければならん。さっき座敷のうちから倫理の講義をきいてにやにやしていた主人は奮然として立ち上がった。猛然としてけ出した。驀然ばくぜんとして敵の一人を生捕いけどった。主人にしては大出来である。大出来には相違ないが、見ると十四五の小供である。ひげえている主人の敵として少し不似合だ。けれども主人はこれで沢山だと思ったのだろう。び入るのを無理に引っ張って縁側の前まで連れて来た。ここにちょっと敵の策略について一言いちげんする必要がある、敵は主人昨日きのう権幕けんまくを見てこの様子では今日も必ず自身で出馬するに相違ないと察した。その時万一逃げ損じて大僧おおぞうがつらまっては事面倒になる。ここは一年生か二年生くらいな小供を玉拾いにやって危険を避けるに越した事はない。よし主人が小供をつらまえて愚図愚図ぐずぐず理屈りくつね廻したって、落雲館の名誉には関係しない、こんなものを大人気おとなげもなく相手にする主人恥辱ちじょくになるばかりだ。敵の考はこうであった。これが普通の人間の考で至極しごくもっともなところである。ただ敵は相手が普通の人間でないと言う事を勘定のうちに入れるのを忘れたばかりである。主人にこれくらいの常識があれば昨日だって飛び出しはしない。逆上は普通の人間を、普通の人間の程度以上に釣るし上げて、常識のあるものに、非常識を与える者である。女だの、小供だの、車引きだの、馬子だのと、そんな見境みさかいのあるうちは、まだ逆上を以て人に誇るに足らん。主人のごとく相手にならぬ中学一年生を生捕いけどって戦争の人質とするほどの了見でなくては逆上家の仲間入りは出来ないのである。可哀かわいそうなのは捕虜である。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(109 / 128)
単に上級生の命令によって玉拾いなる雑兵ぞうひょうの役を勤めたるところ、運わるく非常識の敵将、逆上の天才に追い詰められて、垣越えるもあらばこそ、庭前に引きえられた。こうなると敵軍は安閑と味方の恥辱を見ている訳に行かない。我も我もと四つ目垣を乗りこして木戸口から庭中に乱れ入る。その数は約一ダースばかり、ずらりと主人の前に並んだ。大抵は上衣うわぎもちょっもつけておらん。白シャツの腕をまくって、腕組をしたのがある。綿めんネルの洗いざらしを申し訳に背中だけへ乗せているのがある。そうかと思うと白の帆木綿ほもめんに黒い縁をとって胸の真中に花文字を、同じ色に縫いつけた洒落者しゃれものもある。いずれも一騎当千の猛将と見えて、丹波たんばの国は笹山から昨夜着し立てでござると言わぬばかりに、黒くたくましく筋肉が発達している。中学などへ入れて学問をさせるのは惜しいものだ。漁師りょうしか船頭にしたら定めし国家のためになるだろうと思われるくらいである。彼等は申し合せたごとく、素足に股引ももひきを高くまくって、近火の手伝にでも行きそうな風体ふうていに見える。彼等は主人の前にならんだぎり黙然もくねんとして一言いちごんも発しない。主人も口をひらかない。しばらくの間双方共にらめくらをしているなかにちょっと殺気がある。
貴様等はぬすっとう」と主人は尋問した。大気焰だいきえんである。奥歯でつぶした癇癪玉かんしゃくだまが炎となって鼻の穴から抜けるので、小鼻が、いちじるしくいかって見える。越後獅子えちごじしの鼻は人間がおこった時の格好かっこうかたどって作ったものであろう。それでなくてはあんなに恐しく出来るものではない。
いえ泥棒ではありません。落雲館の生徒です
うそをつけ。落雲館の生徒が無断で人の庭宅に侵入する奴があるか
しかしこの通りちゃんと学校の記章きしょうのついている帽子をかぶっています
にせものだろう。落雲館の生徒ならなぜむやみに侵入した
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(110 / 128)
ボールが飛び込んだものですから
なぜボールを飛び込ました
つい飛び込んだんです
しからん奴だ
以後注意しますから、今度だけ許して下さい
どこの何者かわからん奴が垣を越えて邸内に闖入ちんにゅうするのを、そう容易たやすく許されると思うか
それでも落雲館の生徒に違ないんですから
落雲館の生徒なら何年生だ
三年生です
きっとそうか
ええ
 主人は奥の方をかえりみながら、おいこらこらと言う。
 埼玉生れの御三おさんふすまをあけて、へえと顔を出す。
落雲館へ行って誰か連れてこい
誰を連れて参ります
誰でもいいから連れてこい
 下女は「へえ」と答えたが、あまり庭前の光景が妙なのと、使のおもむきが判然しないのと、さっきからの事件の発展が馬鹿馬鹿しいので、立ちもせず、坐りもせずにやにや笑っている。主人はこれでも大戦争をしているつもりである。逆上的敏腕をおおいふるっているつもりである。しかるところ自分の召し使たる当然こっちの肩を持つべきものが、真面目な態度をもって事に臨まんのみか、用を言いつけるのを聞きながらにやにや笑っている。ますます逆上せざるを得ない。
誰でも構わんから呼んで来いと言うのに、わからんか。校長でも幹事でも教頭でも……
あの校長さんを……」下女は校長と言う言葉だけしか知らないのである。
校長でも、幹事でも教頭でもと言っているのにわからんか
誰もおりませんでしたら小使でもよろしゅうございますか
馬鹿を言え。小使などに何が分かるものか
 ここに至って下女もやむを得んと心得たものか、「へえ」と言って出て行った。使の主意はやはり飲み込めんのである。小使でも引張って来はせんかと心配していると、あに計らんや例の倫理の先生が表門から乗り込んで来た。平然と座にくを待ち受けた主人は直ちに談判にとりかかる。
ただ今邸内にこの者共が乱入致して……」と忠臣蔵のような古風な言葉を使ったが「本当に御校おんこうの生徒でしょうか」と少々皮肉に語尾を切った。
 倫理の先生は別段驚いた様子もなく、平気で庭前にならんでいる勇士を一通り見回わした上、もとのごとくひとみ主人の方にかえして、しものごとく答えた。
さようみんな学校の生徒であります。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(111 / 128)
こんな事のないように始終訓戒を加えておきますが……どうも困ったもので……なぜ君等は垣などを乗り越すのか」
 さすがに生徒は生徒である、倫理の先生に向っては一言いちごんもないと見えて何とも言うものはない。おとなしく庭の隅にかたまって羊のむれが雪に逢ったようにひかえている。
たまが這入るのも仕方がないでしょう。こうして学校の隣りに住んでいる以上は、時々はボールも飛んで来ましょう。しかし……あまり乱暴ですからな。仮令たとい垣を乗り越えるにしても知れないように、そっと拾って行くなら、まだ勘弁のしようもありますが……
ごもっともで、よく注意は致しますが何分多人数たにんずの事で……よくこれから注意をせんといかんぜ。もしボールが飛んだら表から廻って、御断りをして取らなければいかん。いいか。――広い学校の事ですからどうも世話ばかりやけて仕方がないです。で運動は教育上必要なものでありますから、どうもこれを禁ずる訳には参りかねるので。これを許すとつい御迷惑になるような事が出来ますが、これは是非御容赦を願いたいと思います。その代り向後こうごはきっと表門から廻って御断りを致した上で取らせますから
いや、そう事が分かればよろしいです。たまはいくら御投げになっても差支さしつかえはないです。表からきてちょっと断わって下されば構いません。ではこの生徒はあなたに御引き渡し申しますからお連れ帰りを願います。いやわざわざ御呼び立て申して恐縮です」と主人は例によって例のごとく竜頭蛇尾りゅうとうだびの挨拶をする。倫理の先生は丹波の笹山を連れて表門から落雲館へ引き上げる。吾輩のいわゆる大事件はこれで一とまず落着を告げた。何のそれが大事件かと笑うなら、笑うがいい。そんな人には大事件でないまでだ。吾輩主人大事件を写したので、そんな人の大事件をしるしたのではない。尻が切れて強弩きょうど末勢ばっせいだなどと悪口するものがあるなら、これが主人の特色である事を記憶して貰いたい。主人が滑稽文の材料になるのもまたこの特色に存する事を記憶して貰いたい。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(112 / 128)
十四五の小供を相手にするのは馬鹿だと言うなら吾輩も馬鹿に相違ないと同意する。だから大町桂月主人をつらまえていま稚気ちきを免がれずと言うている。
 吾輩はすでに小事件を叙しおわり、今また大事件を述べ了ったから、これより大事件の後に起る余瀾よらんえがき出だして、全篇の結びを付けるつもりである。すべて吾輩のかく事は、口から出任でまかせのいい加減と思う読者もあるかも知れないが決してそんな軽率な猫ではない。一字一句のうちに宇宙の一大哲理を包含するは無論の事、その一字一句が層々そうそう連続すると首尾相応じ前後相照らして、瑣談繊話さだんせんわと思ってうっかりと読んでいたものが忽然こつぜん 豹変ひょうへんして容易ならざる法語となるんだから、決して寝ころんだり、足を出して五行ごとに一度に読むのだなどと言う無礼を演じてはいけない。柳宗元りゅうそうげん【中国唐代の文学者】は韓退之かんたいし【唐代の詩人】の文を読むごとに薔薇しょうびみずで手を清めたと言うくらいだから、吾輩の文に対してもせめて自腹じばらで雑誌を買って来て、友人の御余りを借りて間に合わすと言う不始末だけはない事に致したい。これから述べるのは、吾輩みずから余瀾と号するのだけれど、余瀾ならどうせつまらんにきまっている、読まんでもよかろうなどと思うと飛んだ後悔をする。是非しまいまで精読しなくてはいかん。
 大事件のあった翌日、吾輩はちょっと散歩がしたくなったから表へ出た。すると向う横町へ曲がろうと言う角で金田の旦那と鈴木とうさんがしきりに立ちながら話をしている。金田君は車で自宅うちへ帰るところ、鈴木君は金田君の留守を訪問して引き返す途中で両人ふたりがばったりと出逢ったのである。近来は金田の邸内も珍らしくなくなったから、滅多めったにあちらの方角へは足が向かなかったが、こう御目に懸って見ると、何となく御懐おなつかしい。鈴木にも久々ひさびさだから余所よそながら拝顔の栄を得ておこう。こう決心してのそのそ御両君の佇立ちょりつしておらるるそば近く歩み寄って見ると、自然両君の談話が耳にる。これは吾輩の罪ではない。先方が話しているのがわるいのだ。金田君は探偵さえ付けて主人の動静をうかがうくらいの程度の良心を有している男だから、吾輩が偶然君の談話を拝聴したっておこらるる気遣きづかいはあるまい。もし怒られたら君は公平と言う意味を御承知ないのである。とにかく吾輩は両君の談話を聞いたのである。聞きたくて聴いたのではない。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(113 / 128)
聞きたくもないのに談話の方で吾輩の耳の中へ飛び込んで来たのである。
只今御宅へ伺いましたところで、ちょうどよい所で御目にかかりました」ととうさんは鄭寧ていねいに頭をぴょこつかせる。
うむ、そうかえ。実はこないだから、君にちょっと逢いたいと思っていたがね。それはよかった
へえ、それは好都合でございました。何かご用で」「いや何、大した事でもないのさ。どうでもいいんだが、君でないと出来ない事なんだ
私に出来る事なら何でもやりましょう。どんな事で
ええ、そう……」と考えている。
何なら、御都合のとき出直して伺いましょう。いつがよろしゅう、ございますか
なあに、そんな大した事じゃ無いのさ。――それじゃせっかくだから頼もうか
どうか御遠慮なく……
あの変人ね。そら君の旧友さ。苦沙弥とか何とか言うじゃないか
ええ苦沙弥がどうかしましたか
いえ、どうもせんがね。あの事件以来胸糞むなくそがわるくってね
ごもっともで、全く苦沙弥は剛慢ですから……少しは自分の社会上の地位を考えているといいのですけれども、まるで一人天下ですから
そこさ。金に頭はさげん、実業家なんぞ――とか何とか、いろいろ小生意気な事を言うから、そんなら実業家の腕前を見せてやろう、と思ってね。こないだから大分だいぶ弱らしているんだが、やっぱり頑張がんばっているんだ。どうも剛情な奴だ。驚ろいたよ
どうも損得と言う観念のとぼしい奴ですから無暗むやみに痩我慢を張るんでしょう。昔からああ言う癖のある男で、つまり自分の損になる事に気が付かないんですからがたいです
あはははほんとにがたい。いろいろ手をえ品をえてやって見るんだがね。とうとうしまいに学校の生徒にやらした
そいつは妙案ですな。利目ききめがございましたか
これにゃあ、奴も大分だいぶ困ったようだ。もう遠からず落城するにきまっている
そりゃ結構です。いくら威張っても多勢たぜい無勢ぶぜいですからな
そうさ、一人じゃあ仕方がねえ。それで大分だいぶ弱ったようだが、まあどんな様子か君に行って見て来てもらおうと言うのさ
はあ、そうですか。なに訳はありません。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(114 / 128)
すぐ行って見ましょう。様子は帰りがけに御報知を致す事にして。面白いでしょう、あの頑固がんこなのが意気消沈いきしょうちんしているところは、きっと見物みものですよ」
ああ、それじゃ帰りに御寄り、待っているから
それでは御免蒙ごめんこうむります
 おや今度もまた魂胆こんたんだ、なるほど実業家の勢力はえらいものだ、石炭の燃殻もえがらのような主人を逆上させるのも、苦悶くもんの結果主人の頭が蠅滑はえすべりの難所となるのも、その頭がイスキラスと同様の運命におちいるのも皆実業家の勢力である。地球が地軸を回転するのは何の作用かわからないが、世の中を動かすものはたしかに金である。この金の功力くりきを心得て、この金の威光を自由に発揮するものは実業家諸君をおいてほかに一人もない。太陽が無事に東から出て、無事に西へ入るのも全く実業家の御蔭である。今まではわからずやの窮措大きゅうそだいの家に養なわれて実業家の御利益ごりやくを知らなかったのは、我ながら不覚である。それにしても冥頑不霊めいがんふれい主人も今度は少し悟らずばなるまい。これでも冥頑不霊で押し通す了見だとあぶない。主人のもっとも貴重する命があぶない。彼は鈴木君に逢ってどんな挨拶をするのか知らん。その模様で彼の悟り具合もおのずから分明ぶんみょうになる。愚図愚図してはおられん、猫だって主人の事だからおおいに心配になる。早々鈴木君をすり抜けて御先へ帰宅する。
 鈴木君はあいかわらず調子のいい男である。今日は金田の事などはおくびにも出さない、しきりに当りさわりのない世間話を面白そうにしている。
君少し顔色が悪いようだぜ、どうかしやせんか
別にどこも何ともないさ
でもあおいぜ、用心せんといかんよ。時候がわるいからね。よるは安眠が出来るかね
うん
何か心配でもありゃしないか、僕に出来る事なら何でもするぜ。遠慮なく言い給え
心配って、何を?
いえ、なければいいが、もしあればと言う事さ。心配が一番毒だからな。世の中は笑って面白く暮すのが得だよ。どうも君はあまり陰気過ぎるようだ
笑うのも毒だからな。無暗に笑うと死ぬ事があるぜ
冗談じょうだん言っちゃいけない。笑うかどには福きたるさ
むか希臘ギリシャにクリシッパスと言う哲学者があったが、君は知るまい
知らない。それがどうしたのさ
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(115 / 128)
その男が笑い過ぎて死んだんだ
へえー、そいつは不思議だね、しかしそりゃ昔の事だから……
昔しだって今だって変りがあるものか。驢馬ろばが銀のどんぶりから無花果いちじゅくを食うのを見て、おかしくってたまらなくって無暗むやみに笑ったんだ。ところがどうしても笑いがとまらない。とうとう笑い死にに死んだんだあね
はははしかしそんなにもなく笑わなくってもいいさ。少し笑う――適宜てきぎに、――そうするといい心持ちだ
 鈴木君がしきりに主人の動静を研究していると、表の門ががらがらとあく、客来きゃくらいかと思うとそうでない。
ちょっとボールが入りましたから、取らして下さい
 下女は台所から「はい」と答える。書生は裏手へ廻る。鈴木は妙な顔をして何だいと聞く。「裏の書生がボールを庭へ投げ込んだんだ
裏の書生? 裏に書生がいるのかい
落雲館と言う学校さ
ああそうか、学校か。随分騒々しいだろうね
騒々しいの何のって。碌々ろくろく勉強も出来やしない。僕が文部大臣なら早速閉鎖を命じてやる
ハハハ大分だいぶおこったね。何かしゃくさわる事でも有るのかい
あるのないのって、朝から晩まで癪に障り続けだ
そんなに癪に障るなら越せばいいじゃないか
誰が越すもんか、失敬千万な
僕に怒ったって仕方がない。なあに小供だあね、うっちゃっておけばいいさ
君はよかろうが僕はよくない。昨日きのうは教師を呼びつけて談判してやった
それは面白かったね。恐れ入ったろう
うん
 この時また門口かどぐちをあけて「ちょっとボールが入りましたから取らして下さい」と言う声がする。
いや大分だいぶ来るじゃないか、またボールだぜ君
うん、表から来るように契約したんだ
なるほどそれであんなにくるんだね。そうーか、分った
何が分ったんだい
なに、ボールを取りにくる源因がさ
今日はこれで十六返目だ
君うるさくないか。来ないようにしたらいいじゃないか
来ないようにするったって、来るから仕方がないさ
仕方がないと言えばそれまでだが、そう頑固がんこにしていないでもよかろう。人間は角があると世の中をころがって行くのが骨が折れて損だよ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(116 / 128)
丸いものはごろごろどこへでもなしに行けるが四角なものはころがるに骨が折れるばかりじゃない、転がるたびに角がすれて痛いものだ。どうせ自分一人の世の中じゃなし、そう自分の思うように人はならないさ。まあ何だね。どうしても金のあるものに、たてを突いちゃ損だね。ただ神経ばかり痛めて、からだは悪くなる、人はめてくれず。向うは平気なものさ。坐って人を使いさえすればすむんだから。多勢たぜい無勢ぶぜいどうせ、かなわないのは知れているさ。頑固もいいが、立て通すつもりでいるうちに、自分の勉強に障ったり、毎日の業務にはんを及ぼしたり、とどのつまりが骨折り損の草臥儲くたびれもうけだからね」
ご免なさい。今ちょっとボールが飛びましたから、裏口へ廻って、取ってもいいですか
そらまた来たぜ」と鈴木君は笑っている。
失敬な」と主人真赤まっかになっている。
 鈴木君はもう大概訪問の意を果したと思ったから、それじゃ失敬ちとたまえと帰って行く。
 入れ代ってやって来たのが甘木あまき先生である。逆上家が自分で逆上家だと名乗る者はむかしから例が少ない、これは少々変だなとさとった時は逆上のとうげはもう越している。主人の逆上は昨日きのうの大事件の際に最高度に達したのであるが、談判も竜頭蛇尾たるにかかわらず、どうかこうか始末がついたのでその晩書斎でつくづく考えて見ると少し変だと気が付いた。もっとも落雲館が変なのか、自分が変なのかうたがいを存する余地は充分あるが、何しろ変に違ない。いくら中学校の隣に居を構えたって、かくのごとく年が年中肝癪かんしゃくを起しつづけはちと変だと気が付いた。変であって見ればどうかしなければならん。どうするったって仕方がない、やはり医者の薬でも飲んで肝癪かんしゃくみなもと賄賂わいろでも使って慰撫いぶするよりほかに道はない。こうさとったから平生かかりつけの甘木先生を迎えて診察を受けて見ようと言う量見を起したのである。賢か愚か、その辺は別問題として、とにかく自分の逆上に気が付いただけは殊勝しゅしょうの志、奇特きどくの心得と言わなければならん。甘木先生は例のごとくにこにこと落ちつき払って、「どうです」と言う。医者は大抵どうですと言うにまってる。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(117 / 128)
吾輩は「どうです」と言わない医者はどうも信用をおく気にならん。
先生どうも駄目ですよ
え、何そんな事があるものですか
一体医者の薬はくものでしょうか
 甘木先生も驚ろいたが、そこは温厚の長者ちょうじゃだから、別段激した様子もなく、
利かん事もないです」とおだやかに答えた。
わたしの胃病なんか、いくら薬を飲んでも同じ事ですぜ
決して、そんな事はない
ないですかな。少しは善くなりますかな」と自分の胃の事を人に聞いて見る。
そう急には、なおりません、だんだん利きます。今でももとより大分だいぶよくなっています
そうですかな
やはり肝癪かんしゃくが起りますか
起りますとも、夢にまで肝癪を起します
運動でも、少しなさったらいいでしょう
運動すると、なお肝癪が起ります
 甘木先生もあきれ返ったものと見えて、
どれ一つ拝見しましょうか」と診察を始める。診察を終るのを待ちかねた主人は、突然大きな声を出して、
先生、せんだって催眠術のかいてある本を読んだら、催眠術を応用して手癖のわるいんだの、いろいろな病気だのを直す事が出来ると書いてあったですが、本当でしょうか」と聞く。
ええ、そう言う療法もあります
今でもやるんですか
ええ
催眠術をかけるのはむずかしいものでしょうか
なに訳はありません、わたしなどもよく懸けます
先生もやるんですか
ええ、一つやって見ましょうか。誰でもかからなければならん理屈りくつのものです。あなたさえければ懸けて見ましょう
そいつは面白い、一つ懸けて下さい。わたしもとうから懸かって見たいと思ったんです。しかし懸かりきりで眼がめないと困るな
なに大丈夫です。それじゃやりましょう」 相談はたちまち一決して、主人はいよいよ催眠術を懸けらるる事となった。吾輩は今までこんな事を見た事がないから心ひそかに喜んでその結果を座敷の隅から拝見する。先生はまず、主人の眼からかけ始めた。その方法を見ていると、両眼りょうがん 上瞼うわまぶたを上から下へとでて、主人がすでに眼をねむっているにもかかわらず、しきりに同じ方向へくせを付けたがっている。しばらくすると先生は主人に向って「こうやって、まぶたを撫でていると、だんだん眼が重たくなるでしょう」と聞いた。主人は「なるほど重くなりますな」と答える。先生はなお同じように撫でおろし、撫でおろし「だんだん重くなりますよ、ようござんすか
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(118 / 128)
と言う。主人もその気になったものか、何とも言わずに黙っている。同じ摩擦法はまた三四分繰り返される。最後に甘木先生は「さあもうきませんぜ」と言われた。可哀想かわいそう主人の眼はとうとうつぶれてしまった。「もう開かんのですか」「ええもうあきません主人黙然もくねんとして目を眠っている。吾輩主人がもう盲目めくらになったものと思い込んでしまった。しばらくして先生は「あけるなら開いて御覧なさい。とうていあけないから」と言われる。「そうですか」と言うが早いか主人は普通の通り両眼りょうがんを開いていた。主人はにやにや笑いながら「懸かりませんな」と言うと甘木先生も同じく笑いながら「ええ、懸りません」と言う。催眠術はついに不成功におわる。甘木先生も帰る。
 その次に来たのが――主人のうちへこのくらい客の来た事はない。交際の少ない主人の家にしてはまるでうそのようである。しかし来たに相違ない。しかも珍客が来た。吾輩がこの珍客の事を一言いちごんでも記述するのは単に珍客であるがためではない。吾輩は先刻申す通り大事件の余瀾よらんえがきつつある。しかしてこの珍客はこの余瀾を描くにあたって逸すべからざる材料である。何と言う名前か知らん、ただ顔の長い上に、山羊やぎのようなひげやしている四十前後の男と言えばよかろう。迷亭の美学者たるに対して、吾輩はこの男を哲学者と呼ぶつもりである。なぜ哲学者と言うと、何も迷亭のように自分で振り散らすからではない、ただ主人と対話する時の様子を拝見しているといかにも哲学者らしく思われるからである。これもむかしの同窓と見えて両人共ふたりとも応対振りは至極しごくけた有様だ。
うん迷亭か、あれは池に浮いてる金魚麩きんぎょふのようにふわふわしているね。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(119 / 128)
せんだって友人を連れて一面識もない華族の門前を通行した時、ちょっと寄って茶でも飲んで行こうと言って引っ張り込んだそうだが随分呑気のんきだね」
それでどうしたい
どうしたか聞いても見なかったが、――そうさ、まあ天稟てんぴんの奇人だろう、その代り考も何もない全く金魚麩だ。鈴木か、――あれがくるのかい、へえー、あれは理屈りくつはわからんが世間的には利口な男だ。金時計は下げられるたちだ。しかし奥行きがないから落ちつきがなくって駄目だ。円滑えんかつ円滑と言うが、円滑の意味も何もわかりはせんよ。迷亭が金魚麩ならあれはわらくくった蒟蒻こんにゃくだね。ただわるくなめらかでぶるぶるふるえているばかりだ
 主人はこの奇警きけい比喩ひゆを聞いて、おおいに感心したものらしく、久し振りでハハハと笑った。
そんなら君は何だい
僕か、そうさな僕なんかは――まあ自然薯じねんじょくらいなところだろう。長くなって泥の中にうまってるさ
君は始終泰然として気楽なようだが、うらやましいな
なに普通の人間と同じようにしているばかりさ。別に羨まれるに足るほどの事もない。ただありがたい事に人を羨む気も起らんから、それだけいいね
会計は近頃豊かかね
なに同じ事さ。足るや足らずさ。しかし食うているから大丈夫。驚かないよ
僕は不愉快で、肝癪かんしゃくが起ってたまらん。どっちを向いても不平ばかりだ
不平もいいさ。不平が起ったら起してしまえば当分はいい心持ちになれる。人間はいろいろだから、そう自分のように人にもなれと勧めたって、なれるものではない。はしは人と同じように持たんと飯が食いにくいが、自分の麺麭パンは自分の勝手に切るのが一番都合がいいようだ。上手じょうずな仕立屋で着物をこしらえれば、着たてから、からだに合ったのを持ってくるが、下手へた裁縫屋したてやあつらえたら当分は我慢しないと駄目さ。しかし世の中はうまくしたもので、着ているうちには洋服の方で、こちらの骨格に合わしてくれるから。今の世に合うように上等な両親が手際てぎわよく生んでくれれば、それが幸福なのさ。しかし出来損できそこなったら世の中に合わないで我慢するか、または世の中で合わせるまで辛抱するよりほかに道はなかろう
しかし僕なんか、いつまで立っても合いそうにないぜ、心細いね
あまり合わない背広せびろを無理にきるとほころびる。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(120 / 128)
喧嘩けんかをしたり、自殺をしたり騒動が起るんだね。しかし君なんかただ面白くないと言うだけで自殺は無論しやせず、喧嘩だってやった事はあるまい。まあまあいい方だよ」
ところが毎日喧嘩ばかりしているさ。相手が出て来なくっても怒っておれば喧嘩だろう
なるほど一人喧嘩ひとりげんかだ。面白いや、いくらでもやるがいい
それがいやになった
そんならよすさ
君の前だが自分の心がそんなに自由になるものじゃない
まあ全体何がそんなに不平なんだい
 主人はここにおいて落雲館事件を始めとして、今戸焼いまどやきたぬきから、ぴん助きしゃごそのほかあらゆる不平を挙げて滔々とうとうと哲学者の前に述べ立てた。哲学者先生はだまって聞いていたが、ようやく口をひらいて、かように主人に説き出した。「ぴん助きしゃごが何を言ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。どうせ下らんのだから。中学の生徒なんか構う価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。僕はそう言う点になると西洋人よりむかしの日本人の方がよほどえらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的と言って近頃大分だいぶ流行はやるが、あれはだいなる欠点を持っているよ。第一積極的と言ったって際限がない話しだ。いつまで積極的にやり通したって、満足と言う域とか完全と言うさかいにいけるものじゃない。むこうひのきがあるだろう。あれが目障めざわりになるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家がしゃくに触る。どこまで行っても際限のない話しさ。西洋人のくちはみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭ほうていへ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまであせったって片付く事があるものか。寡人政治かじんせいじがいかんから、代議政体だいぎせいたいにする。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(121 / 128)
代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと言って隧道トンネルを堀る。交通が面倒だと言って鉄道をく。それで永久満足が出来るものじゃない。さればと言って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋とおおいに違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと言う一大仮定のもとに発達しているのだ。親子の関係が面白くないと言って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとして、その関係のもとに安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物をるのもその通り。――山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと言う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと言う工夫をする。山を越さなくとも満足だと言う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。禅家ぜんけでも儒家じゅかでもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日らくじつめぐらす事も、加茂川をさかに流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。ぴん助なんかな事を言ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細しさいなかろう。何でも昔しの坊主は人にり付けられた時電光影裏でんこうえいり春風しゅんぷうを斬るとか、何とか洒落しゃれた事を言ったと言う話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。」僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっているようだ。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(122 / 128)
現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。君の権力であの学校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢たぜい無勢ぶぜいの問題になる。換言すると君が金持に頭を下げなければならんと言う事になる。衆をたのむ小供に恐れ入らなければならんと言う事になる。君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと言うのがそもそも君の不平の種さ。どうだい分ったかい」 主人は分ったとも、分らないとも言わずに聞いていた。珍客が帰ったあとで書斎へ入って書物も読まずに何か考えていた。
 鈴木とうさんは金と衆とに従えと主人に教えたのである。甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言じょごんしたのである。最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法したのである。主人がいずれをえらぶかは主人の随意である。ただこのままでは通されないにまっている。


     

 主人痘痕面あばたづらである。御維新前ごいっしんまえあばた大分だいぶ流行はやったものだそうだが日英同盟の今日こんにちから見ると、こんな顔はいささか時候おくれの感がある。あばたの衰退は人口の増殖と反比例して近き将来には全くそのあとを絶つに至るだろうとは医学上の統計から精密に割り出されたる結論であって、吾輩のごとき猫といえどもごうも疑をさしはさむ余地のないほどの名論である。現今地球上にあばたっつらを有して生息している人間は何人くらいあるか知らんが、吾輩が交際の区域内において打算して見ると、猫には一匹もない。人間にはたった一人ある。しかしてその一人がすなわ主人である。はなはだ気の毒である。
 吾輩主人の顔を見る度に考える。まあ何の因果でこんな妙な顔をして臆面おくめんなく二十世紀の空気を呼吸しているのだろう。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(123 / 128)
昔なら少しは幅もいたか知らんが、あらゆるあばたが二の腕へ立ち退きを命ぜられた昨今、依然として鼻の頭や頬の上へ陣取ってがんとして動かないのは自慢にならんのみか、かえってあばたの体面に関する訳だ。出来る事なら今のうち取り払ったらよさそうなものだ。あばた自身だって心細いに違いない。それとも党勢不振の際、誓って落日を中天ちゅうてん挽回ばんかいせずんばやまずと言う意気込みで、あんなに横風おうふう【遠慮がない】に顔一面を占領しているのか知らん。そうするとこのあばたは決して軽蔑けいべつの意をもってるべきものでない。滔々とうとうたる流俗に抗する万古不磨ばんこふまの穴の集合体であって、おおいに吾人の尊敬に値する凸凹でこぼこと言ってよろしい。ただきたならしいのが欠点である。
 主人の小供のときに牛込の山伏町に浅田宗伯そうはくと言う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ずかごに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、かごがたちまち人力車に変じた。だから養子が死んでそのまた養子が跡をいだら葛根湯かっこんとうがアンチピリンに化けるかも知れない。かごに乗って東京市中を練りあるくのは宗伯老の当時ですらあまり見っともいいものでは無かった。こんな真似をしてすましていたものは旧弊な亡者もうじゃと、汽車へ積み込まれる豚と、宗伯老とのみであった。
 主人あばたもその振わざる事においては宗伯老のかごと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる頑固がんこ主人は依然として孤城落日のあばたを天下に暴露ばくろしつつ毎日登校してリードルを教えている。
 かくのごとき前世紀の紀念を満面にこくして教壇に立つ彼は、その生徒に対して授業以外にだいなる訓戒を垂れつつあるに相違ない。彼は「猿が手を持つ」を反覆するよりも「あばたの顔面に及ぼす影響」と言う大問題を造作ぞうさもなく解釈して、不言ふげんかんにその答案を生徒に与えつつある。もし主人のような人間が教師として存在しなくなったあかつきには彼等生徒はこの問題を研究するために図書館もしくは博物館へ馳けつけて、吾人がミイラによって埃及人エジプトじん髣髴ほうふつすると同程度の労力をついやさねばならぬ。このてんから見ると主人痘痕あばた冥々めいめいうちに妙な功徳くどくを施こしている。
 もっとも主人はこの功徳を施こすために顔一面に疱瘡ほうそうえ付けたのではない。これでも実は種え疱瘡をしたのである。不幸にして腕に種えたと思ったのが、いつの間にか顔へ伝染していたのである。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(124 / 128)
その頃は小供の事で今のように色気いろけもなにもなかったものだから、かゆい痒いと言いながら無暗むやみに顔中引きいたのだそうだ。ちょうど噴火山が破裂してラヴァが顔の上を流れたようなもので、親が生んでくれた顔を台なしにしてしまった。主人は折々細君に向って疱瘡をせぬうちは玉のような男子であったと言っている。浅草の観音様かんのんさまで西洋人が振りかえって見たくらい奇麗だったなどと自慢する事さえある。なるほどそうかも知れない。ただ誰も保証人のいないのが残念である。
 いくら功徳になっても訓戒になっても、きたない者はやっぱりきたないものだから、物心ものごころがついて以来と言うもの主人おおいあばたについて心配し出して、あらゆる手段を尽してこの醜態をつぶそうとした。ところが宗伯老のかごと違って、いやになったからと言うてそう急に打ちやられるものではない。今だに歴然と残っている。この歴然が多少気にかかると見えて、主人は往来をあるく度毎にあばたづらを勘定してあるくそうだ。今日何人あばたに出逢って、そのぬしは男か女か、その場所は小川町の勧工場かんこうばであるか、上野の公園であるか、ことごとく彼の日記につけ込んである。彼はあばたに関する知識においては決して誰にも譲るまいと確信している。せんだってある洋行帰りの友人が来た折なぞは、「君西洋人にはあばたがあるかな」と聞いたくらいだ。するとその友人が「そうだな」と首を曲げながらよほど考えたあとで「まあ滅多めったにないね」と言ったら、主人は「滅多になくっても、少しはあるかい」と念を入れて聞き返えした。友人は気のない顔で「あっても乞食かたちぼうだよ。教育のある人にはないようだ」と答えたら、主人は「そうかなあ、日本とは少し違うね」と言った。
 哲学者の意見によって落雲館との喧嘩を思い留った主人はその後書斎に立てこもってしきりに何か考えている。彼の忠告をれて静坐のうちに霊活なる精神を消極的に修養するつもりかも知れないが、元来が気の小さな人間の癖に、ああ陰気な懐手ふところでばかりしていてはろくな結果の出ようはずがない。それより英書でも質に入れて芸者から喇叭節らっぱぶしでも習った方がはるかにましだとまでは気が付いたが、あんな偏屈へんくつな男はとうてい猫の忠告などを聴く気遣きづかいはないから、まあ勝手にさせたらよかろうと五六日は近寄りもせずに暮した。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(125 / 128)
 今日はあれからちょうど七日目なぬかめである。禅家などでは一七日いちしちにちを限って大悟して見せるなどとすさまじいいきおい結跏けっかする連中もある事だから、うちの主人もどうかなったろう、死ぬか生きるか何とか片付いたろうと、のそのそ縁側から書斎の入口まで来て室内の動静を偵察ていさつに及んだ。
 書斎は南向きの六畳で、日当りのいい所に大きな机がえてある。ただ大きな机ではわかるまい。長さ六尺、幅三尺八寸高さこれにかなうと言う大きな机である。無論出来合のものではない。近所の建具屋に談判して寝台けん机として製造せしめたる希代きたいの品物である。何の故にこんな大きな机を新調して、また何の故にその上に寝て見ようなどという了見りょうけんを起したものか、本人に聞いて見ない事だからとんとわからない。ほんの一時の出来心で、かかる難物をかつぎ込んだのかも知れず、あるいはことによると一種の精神病者において吾人がしばしば見出みいだすごとく、縁もゆかりもない二個の観念を連想して、机と寝台を勝手に結び付けたものかも知れない。とにかく奇抜な考えである。ただ奇抜だけで役に立たないのが欠点である。吾輩はかつて主人がこの机の上へ昼寝をして寝返りをする拍子ひょうしに縁側へ転げ落ちたのを見た事がある。それ以来この机は決して寝台に転用されないようである。
 机の前には薄っぺらなメリンスの座布団ざぶとんがあって、煙草たばこの火で焼けた穴が三つほどかたまってる。中から見える綿は薄黒い。この座布団の上にうしろ向きにかしこまっているのが主人である。鼠色によごれた兵児帯へこおびをこま結びにむすんだ左右がだらりと足の裏へ垂れかかっている。この帯へじゃれ付いて、いきなり頭を張られたのはこないだの事である。滅多めったに寄り付くべき帯ではない。
 まだ考えているのか下手へたの考と言うたとえもあるのにとうしろからのぞき込んで見ると、机の上でいやにぴかぴかと光ったものがある。吾輩は思わず、続け様に二三度まばたきをしたが、こいつは変だとまぶしいのを我慢してじっと光るものを見つめてやった。するとこの光りは机の上で動いている鏡から出るものだと言う事が分った。しかし主人は何のために書斎で鏡などを振り舞わしているのであろう。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(126 / 128)
鏡と言えば風呂場にあるにまっている。現に吾輩は今朝風呂場でこの鏡を見たのだ。この鏡ととくに言うのは主人のうちにはこれよりほかに鏡はないからである。主人が毎朝顔を洗ったあとで髪を分けるときにもこの鏡を用いる。――主人のような男が髪を分けるのかと聞く人もあるかも知れぬが、実際彼はほかの事に無精ぶしょうなるだけそれだけ頭を丁寧ていねいにする。吾輩が当家に参ってから今に至るまで主人はいかなる炎熱の日といえども五分刈に刈り込んだ事はない。かならず二寸くらいの長さにして、それを御大ごたいそうに左の方で分けるのみか、右のはじをちょっとね返してすましている。これも精神病の徴候かも知れない。こんな気取った分け方はこの机と一向いっこう調和しないと思うが、あえて他人に害を及ぼすほどの事でないから、誰も何とも言わない。本人も得意である。分け方のハイカラなのはさておいて、なぜあんなに髪を長くするのかと思ったら実はこう言うわけである。彼のあばたは単に彼の顔を侵食しんしょくせるのみならず、とくのむかしに脳天まで食い込んでいるのだそうだ。だからもし普通の人のように五分刈や三分刈にすると、短かい毛の根本から何十となくあばたがあらわれてくる。いくらでても、さすってもぽつぽつがとれない。枯野にほたるを放ったようなもので風流かも知れないが、細君御意ぎょいに入らんのは勿論もちろんの事である。髪さえ長くしておけば露見しないですむところを、好んで自己の非をあばくにも当らぬ訳だ。なろう事なら顔まで毛を生やして、こっちのあばた内済ないさいにしたいくらいなところだから、ただでえる毛をぜにを出して刈り込ませて、私は頭蓋骨ずがいこつの上まで天然痘てんねんとうにやられましたよと吹聴ふいちょうする必要はあるまい。――これが主人の髪を長くする理由で、髪を長くするのが、彼の髪をわける原因で、その原因が鏡を見る訳で、その鏡が風呂場にある所以ゆえんで、しこうしてその鏡が一つしかないと言う事実である。
 風呂場にあるべき鏡が、しかも一つしかない鏡が書斎に来ている以上は鏡が離魂病りこんびょうかかったのかまたは主人が風呂場から持って来たに相違ない。持って来たとすれば何のために持って来たのだろう。あるいは例の消極的修養に必要な道具かも知れない。むかし或る学者が何とかいう知識をうたら、和尚おしょう両肌を抜いでかわらしておられた。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(127 / 128)
何をこしらえなさると質問をしたら、なにさ今鏡を造ろうと思うて一生懸命にやっておるところじゃと答えた。そこで学者は驚ろいて、なんぼ名僧でも甎を磨して鏡とする事は出来まいと言うたら、和尚からからと笑いながらそうか、それじゃやめよ、いくら書物を読んでも道はわからぬのもそんなものじゃろとののしったと言うから、主人もそんな事を聞きかじって風呂場から鏡でも持って来て、したり顔に振り廻しているのかも知れない。大分だいぶ物騒になって来たなと、そっとうかがっている。
[] 夏目漱石-吾輩は猫である_2(128 / 128)

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