おい勝彦かつひこ! これが、お前のお母様だよ。さあ/\挨拶するのだ。」
 勝彦は、瑠璃子の顔を、ジロ/\と見詰めていたが、父にそううながされると急に気が付いたように、
「お母様じゃないや。お母様は死んでしまったよ。お母様は、もっときたなばばあだったよ。この人は綺麗きれいだよ。此人は美奈ちゃんと同じように、綺麗だよ。お母様じゃないや、ねえそうだろう、美奈ちゃん。」彼は妹に同意を求めるように言った。妹は顔を、火のように赤くしながら、兄を制するように言った。
「お母様と申上げるのでございますよ。お父様のお嫁になって下さるのでございますよ。」
「何んだ、お父様のお嫁! お父様は、ずるいや。わしに、お嫁を取ってれると言っていながら、取って呉れないんだもの。」
 彼は、約束した菓子をもらえなかった子供のように、すねて見せた。
 瑠璃子は、その白痴な息子の不平を聞くと、勝平が中途から、世間体をはばかって、自分を息子の嫁にと、言い出したことを、思い出した。金でもって、こんな白痴の妻――いなもてあそび物に、自分をしようとしたのだと思うと、勝平に対する憎悪ぞうおが又新しく心の中に蒸し返された。


     

 勝彦美奈子とが、彼等自身の部屋へ去った頃には、夜は十一時に近く、新郎新婦が新婚の床に入るべき時刻は、刻々に迫っていた。
 勝平は、先刻さっきから全力を尽くして、瑠璃子歓心かんしんを買おうとしていた。彼は、急に思い出したように、
「おゝそう/\、貴女あなたに、結婚進物マリエイジプレゼントとして、差し上げるものがありましたっけ。」
 そう言いながら、彼は自分の背後に据え付けてある小形の金庫から、一束の証書を取り出した。
「貴女のお父様に対する債権の証文は、みんなあつめたはずです。さあ、これを今貴女に進上しますよ。」
 彼は、その十五万円に近い証書の金額に、何の執着もないように、無造作に、瑠璃子の前に押しやった。
 瑠璃子は、その一束を、チラリと見たが、さすがにその白い頬に、興奮の色が動いた。彼女は、二三分の間、それを見るともなく見詰めていた。
「あのマッチは、ございますまいか。」彼女は、突如そういた。
「マッチ?」
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勝平は、瑠璃子の突然な言葉を解し得なかった。
「あのマッチでございますの。」
「あゝマッチ! マッチなら、幾何いくらでもありますよ。」彼は、そう言いながら、身をらして、其処そこ炉棚マンテルピースの上から、マッチの小箱を取って、瑠璃子の前へ置いた。
「マッチで、何をするのです。」勝平は不安らしくたずねた。
 瑠璃子は、その問を無視したように、黙って椅子いすから立ち上ると、鉄盤でおおうてあるストーヴの前に先刻三度目に着替えた江戸紫の金紗縮緬きんしゃちりめんそでを気にしながら、うずくまった。
貴君あなた瓦斯ガスが出ますかしら。」彼女は、其処そこで突然勝平を、見上げながら、馴々なれなれしげな微笑を浴びせた。
 初めて、貴君あなたと呼ばれたうれしさに、勝平は又相好そうごうを崩しながら、
「出るとも、出るとも。瓦斯ガスは止めてはない筈ですよ。」
 勝平が、そう答えおわらないうちに、瑠璃子華奢きゃしゃな白い手の中に燐寸マッチは燃えて、ほとばしり始めた瓦斯ガスに、軽い爆音を立てゝ、移っていた。
 瑠璃子は、その火影ほかげに白い顔をほてらせて、しばらく立っていたが、ふと身体をひるがえすと、卓の上にあった証書を、軽く無造作に、まきをでも投げるように、ようやく燃えさかりかけた火の中に投じてしまった。
 呆気あっけに取られている勝平を、嫣然にっこりと振り向きながら、瑠璃子は言った。
「水に流すと言うことがございますね。わたくし達は、の証文を火で焼いたように、これまでのいろいろな感情の行き違いを、火に焼いてしまおうと思いますの……ほゝゝゝ、火に焼く! その方がよろしゅうございますわ。」
「あゝそう/\、火に焼く、そうだ、後へ何も残さないと言うことだな。そりゃ結構だ。今までの事は、スッカリ無いものにして、お互に信頼し愛し合って行く。貴女あなたが、その気でいてれゝば、こんな嬉しいことはない。」
 そう言いながら、勝平瑠璃子に最初の接吻せっぷんをでも与えようとするように、そのひとみを異常に、輝かしながら、彼女の傍へ近よって来た。
 そう言う相手の気勢けはいを見ると、瑠璃子は何気ないように、元の椅子に帰りながら、端然たんぜんたる様子に帰ってしまった。
 その時に、ドアが開いた。
彼方あちらの御用意が出来ましたから。」
 女中は、しとやかにそう言った。
 絶体絶命の時が迫って来たのだ。
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「じゃ、瑠璃さん! 彼方あちらへ行きましょう。古風に盃事さかずきごとをやるそうですから、はゝゝゝゝゝ。」
 勝平が、いやしい肉に飢えたけだもののように笑ったとき、さすが瑠璃子の顔はあおざめた。
 が、彼女の態度は少しも乱れなかった。
「あの、一寸ちょっと電話をかけたいと思いますの。父のその後の容体が気になりますから。」
 それは、此の場合突然ではあるが、もっともな希望だった。


     

「電話なら、女中にかけさせるがいゝ。おい唐沢さんへ……」
 と、勝平が早くも、女中に命じようとするのを、瑠璃子は制した。
「いゝえ! わたくしが自身で掛けたいと思いますの。」
「自身で、うむ、それなら、其処そこに卓上電話がある。」
 と、言いながら、勝平瑠璃子背後うしろを指し示した。
 いかにも、今迄いままで気が付かなかったが、其処そこの小さい桃花心木マホガニイの卓の上に、卓上電話が置かれていた。
 瑠璃子は、しとやかに椅子いすから、身を起したとき、彼女の眉宇びうの間には、すさまじい決心の色が、アリアリと浮んでいた。
「あのう。番町の二八九一番!」
 瑠璃子は、送話器にその紅の色の美しい唇を、間近く寄せながら、低くつぶやくように言った。
「番町の二八九一番!」
 そう繰り返しながら、送話器を持っている瑠璃子の白い手は、かすかに/\ふるえていた。彼女はしばらくの間、耳を傾けながら待っていた。やっと相手が出たようだった。
「あゝ唐沢ですか。わたくし瑠璃子なのよ、貴女あなたばあや。」
 相手の言葉に聞き入るように、彼女は受話器にじっと、耳を押し付けた。
「そう。あなたの方から、電話を掛けるところだったの。それは、丁度よかったのね。それでお父様の御容体は。」
 そういい捨てると、彼女は又じっと聞き入った。
「そう!……それで……入沢さんが、入らしったの!……それで、なるほど……」
 彼女は、短い言葉で受け答をしながらも、その白いおもては、だん/\深い憂慮ゆうりょに包まれて行った。
「えぃ! 重体! 今夜中が……もっと、ハッキリと言って下さい! 聞えないから。
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なに、なに、お父様は帰って来てはいけないって! でもお医者は何とおっしゃるの? えぃ! 呼んだ方がいゝって! わたくしうしようかしら。あゝあゝ。」
 彼女は、もうスッカリ取りみだしてしまったように、身をもだえた。
うしたのだ。何うしたのだ。」
 勝平は、さすがに色を変えながら、瑠璃子の傍に、近づいた。
「あのう、お父様が、宅の玄関で二度目の卒倒を致しましてから、容体が急変してしまったようでございますの。わたくしこうしてはおられませんわ。ねえ! 一寸ちょっと帰って来ましてもようございましょう。お願いでございますわ。ねえ貴方あなた!」
 瑠璃子は、涙にれた頬に、さびしい哀願あいがんの微笑をたたえた。
「あゝいゝとも、いゝとも。お父様の大事には代えられない。ぐ自動車で行って、しっかり介抱して上げるのだ。」
「そう言って下さると、わたくし本当にうれしゅうございますわ。」
 そう言いながら、瑠璃子勝平に近づいて、ふとった胸に、その美しい顔をうずめるような容子ようすをした。勝平は、心の底から感激してしまった。
「ゆっくりと行っておいで、向うへ行ったら、電話で容体を知らしてれるのだよ。」
「直ぐお知らせしますわ。でも、此方こちらからたずねて下さると困りますのよ。父は、荘田へは決して知らせてはならない。大切な結婚の当夜だから、死んでも知らしてはならないと申しているそうでございますから。」
「うむよし/\。じゃ、よく介抱して上げるのだよ。出来るだけの手当をして上げるのだよ。」
 自動車の用意は、直ぐ整った。
「容体がよろしかったら、今晩中に帰って参りますわ。悪かったら、明日になりましても御免あそばしませ。」
 瑠璃子は、自動車の窓から、親しそうに勝平を見返った。
「もう遅いから、今宵は帰って来なくってもいゝよ。明日は、わしが容子を見に行って上げるから。」
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 勝平は、もういつの間にか、親切な溺愛できあいする夫になり切ってしまっていた。
「そう。それは有難うございますわ。」
 彼女は、さわやかな声を残しながら、戸外のやみに滑り入った。が、自動車が英国大使館前の桜並樹なみき樹下闇このしたやみを縫うている時だった。彼女のおもてには、父の危篤きとくうれうるような表情は、あととどめていなかった。人を思うとおりに、もてあそんだ妖女ウィッチの顔に見るような、必死な薄笑いが、その高貴な面に宿っていた。

まもりの騎士[#「護りの騎士」は大見出し]



     

 名ばかりの妻、これは瑠璃子るりこが最初考えていたように、生易なまやさしいことではなかった。彼女は、自分のみさおを守るために、あらゆる手段と謀計とをめぐらさねばならなかった。
 結婚後しばらくは、父の容体を口実に、瑠璃子荘田しょうだの家に帰って行かなかった。勝平は毎日のように、瑠璃子を訪れた。日にっては、午前午後の二回に、の花嫁の顔を見ねば気が済まぬらしかった。
 彼は訪問の度ごとに、瑠璃子の歓心を買うために、高価な贈物おくりものを用意することを、忘れなかった。
 それが、ある時は金剛石ダイヤ入りの指輪だった。ある時は、白金プラチナの腕時計だった。ある時は、真珠の頸飾くびかざりだった。瑠璃子は、そうした贈物を、子供が玩具おもちゃもらうときのように、無邪気に何の感謝なしに受取った。
 が、父の容体を口実に、いつまでも、実家にとどまることは、許されなかった。それは、事情が許さないばかりでなく、彼女の自尊心が許さなかった。敵を避けていることが、勝気な彼女に心苦しかった。もっと、身体を危険にさらして勇ましく戦わなければならぬと思った。形式的にでも、結婚した以上、形の上だけでは飽くまでも、妻らしくしなければならないと思った。敵の卑怯ひきょうむくいるに卑怯をもってしてはならない。此方こちらは、飽くまでも、正々堂々と戦って勝たねばならない。そう思いながら、彼女は勝平が迎えの自動車に同乗した。
 久しぶりに、瑠璃子と同乗したうれしさに、勝平は訳もなく笑い崩れながら、
「あはゝゝゝゝ。そんなに、実家おさとを恋しがらなくてもいゝよ。親一人子一人のお父様に別れるのはさびしいだろう。が、何も心配することはないよ。わしこわがらなくってもいゝよ。
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わしだって、こんな顔をしているが、お前さんを取って喰おうと言うのじゃないよ。娘! そうだ、美奈子みなこに新しい姉が出来たと思って、可愛かわいがって上げようと思うのだ。あはゝゝゝゝ。」と、勝平うかして、瑠璃子の警戒を解こうとして、心にもないことを言った。
 勝平の言葉を聴くと、今迄いままで捗々はかばかしい返事もしなかった瑠璃子は、よみがえったように、快活な調子で言った。
「おほゝゝ、ほんとうに、娘にして下さるの、わたくしのお父様になって下さるの! 妾本当にそうお願いしたいのよ。ほんとうのお父様になっていたゞきたいのよ。」
 そう言いながら、彼女はこぼるゝような嬌羞きょうしゅうを、そのしなやか身体からだ一面にたたえた。
「あゝ、いゝとも、いゝとも。」勝平は、人のい本当の父親てておやのようにうなずいて見せた。
「ほゝゝゝ、それは嬉しゅうございますわ、本当に、わたくしを娘にして下さいませ。それも、ほんの少しの間ですの。お約束しますわ。半年、本当に半年でいゝのよ。でも、そうじゃございませんか。妾、まだ年弱の十八でございましょう。学校を出てから、まだ半年にしかなりませんのですもの。それに、今度の話でございましょう、それに、いろ/\な事件で、興奮して、まだその興奮が続いているのでございましょう。結婚生活に対する何の準備も出来なかったのでございますもの。貴君あなたの本当の妻になるのには、もう少し心の準備が欲しいと思いますの。貴君に対する愛情と信頼とを、もっと心の中で、準備したいと思いますの。だから、暫らくの間、本当に美奈子さんの姉にして置いて下さいませ。『源氏物語』に、末摘花すえつむはなと言うのがございましょう。あれでございますの。」
 そう言いながら、瑠璃子嫣然にっこりと笑った。勝平は、妖術ようじゅつにでもかゝったように、ぼんやりと相手の美しい唇を見詰めていた。瑠璃子は相手を人とも思わないように傍若無人ぼうじゃくぶじんだった。
「ねえ! お父様! わたくしの可愛いお父様! そうして下さいませ。」
 そう言いながら、彼女はそのスラリとした身体を、勝平にしなだれるように、寄せかけながら、その白い手を、勝平ひざの上に置いてしずかに軽くたたいた。
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 瑠璃子の処女のごとつつましく娼婦しょうふの如く大胆な媚態びたいに、心を奪われてしまった勝平は、自分の答がう言うことを約束しているかも考えずに答えた。
「あゝいゝとも、いゝとも。」


     

 勝平は心のうちで思った。どうせかごの中に入れた鳥である。そのうちには、自分の強い男性としての力で征服して見せる。男性の強い腕の力には、すべての女性は、何時いつの間にか、つかつぶされているのだ。彼女も、しばらくの間、自分の掌中しょうちゅうで、小鳥らしい自由を楽しむがいゝ。その裡に、男性の腕の力がどんなに信頼すべきかが、だん/\分って来るだろう。
 勝平はそうした余裕のある心持で、瑠璃子こいれた。
 が、それが勝平の違算であったことが、わかった。十日ち二十日経つ裡に、瑠璃子の美くしさは勝平の心を、日に夜についで悩した。若い新鮮な女性の肉体から出るにおい勝平旺盛おうせいな肉体の、あらゆる感覚を刺激しげきせずにはいなかった。
 その夜も、勝平は若い妻を、帝劇に伴った。彼はボックスの中に瑠璃子と並んで、席を占めながら眼は舞台の方から、しば/\帰って来て、愛妻の白い美しい襟足えりあしから、そのほっそりとした撫肩なでがたを伝うて、ひざの上に、つつましやかに置かれた手や、その手を載せているふくよかな、両膝を、むさぼるように見詰めていた。彼は、こうして妻と並んでいると、身も心も溶けてしまうような陶酔を感じた。そうした陶酔のぎわに、彼のはげしい情火が、ムラ/\と彼の身体からだ全体を、あらしのように包むのだった。
 瑠璃子は、勝平のそうした悩みなどを、少しも気が付かないように、雲雀ひばりのように快活だった。彼女は、勝平との感情の経緯いきさつを、もうスッカリ忘れてしまったように、ほんとうの娘にでも、なりきったように、勝平に甘えるようにまつわっていた。
「おい瑠璃さん。もう、お父様ごっこも大抵にしてよそうじゃないか、貴女あなたも、少しは私が判っただろう。はゝゝゝゝ。約束の半年を一月とか二月とかに、縮めてもらえないものかねえ!」
 勝平は、その夜自動車での帰途、冗談のように、妻の柔かい肩を軽くたたきながら、ささやいた。
「まあ! 貴君あなたも、性急せっかちですのねえ。妾達わたくしたちには約婚時代というものが、なかったのですもの。もっと、こうして楽しみたいと思いますもの。何かが来ると言うことの方が、何かが来たと言うことよりも、どんなに楽しいか。
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それに妾本当はもっと処女でいたいのよ。ねえ、いいでしょう。妾のわがままを、許して下さってもいゝでしょう!」
 そう言う言葉と容子とには、あふれるようなびがあった。そうした言葉を、聴いていると、勝平は、タジ/\となってしまって、一言でも逆うことは出来なかった。
 が、その夜、勝平は自分一人寝室に入ってからも、若い妻のすべてが、彼の眼にも、鼻にも、耳にもこびり付いて離れなかった。眼の中には、彼女の柔い白い肉体が、人魚のように、なまめかしい媚態びたいを作って、何時までも何時までも、浮んでいた。鼻には、彼女の肉体の持っている芳香ほうこうが、ほのぼのと何時までも、漂っていた。耳には、そうだ! 彼女の快活な湿しめりのある声や、機知きちに富んだ言葉などが、何時までも何時までも消えなかった。
 彼は、そうした妄想もうそうを去って、うかして、眠りを得ようとした。が、彼が努力すれば努力するほど、眼も耳もえてしまった。おしまいには、見上げて居る天井てんじょうに、幾つも/\妻の顔が、現れて、媚びのある微笑を送った。
『彼女は、たゞ恥かしがっているのだ。処女としての恥かしさに過ぎないのだ。それは、此方こちらから取り去ってやればそれでいゝのだ!』
 彼は、そう思い出すと、一刻も自分の寝台にじっと、身体を落ち着けていることが出来なかった。子供らしい処女らしい恥らいを、そのままに受け入れていた自分が、あまりにお人好ひとよしのように思われ始めた。
 彼は、フラ/\として、寝台を離れて、夜更よふけの廊下へ出た。


     

 廊下へ出て見ると、家人達はみんな寝静まっていた。まだ十月のなかばではあったが、広い洋館の内部には、深夜の冷気が、ひや/\と、流れていた。が、はげしい情火に狂っている勝平身体からだには、夜の冷たさも感じられなかった。彼は、自分の家の中を、盗人ぬすびとのように、忍びやかに、夢遊病者のように覚束おぼつかなく、瑠璃子の部屋の方向へ歩いた。
 彼女の部屋は、階下に在った。廊下の灯火とうかは、大抵消されていたが、階段に取り付けられている電灯が、階上にも階下にも、ほのかな光を送っていた。
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 勝平は、彼女に与えた約束を男らしくもなく、取り消すことが心苦しかった。彼女に示すべき自分の美点は、男らしいと言う事より、外には何もない。彼女の信頼を得るように、男らしく強く堂々と、行動しなければならない。それが、彼女の愛を得る唯一ゆいいつの方法だと勝平は心の中で思っていた。それだのに、彼女に一旦いったん与えた約束を、取り消す。男らしくもなく破約する。が、そうした心苦しさも、勝平の身体全体に、今潮のようにみなぎって来る烈しい慾望を、うすることも出来なかった。
 階段を下りて、左へ行くと応接室があった。右へ行くと美奈子みなこの部屋があり、その部屋と並んで瑠璃子に与えた部屋があった。
 瑠璃子の部屋に近づくに従って、勝平の心には烈しい動揺があった。それは、年若い少年が初めて恋人の唇を知ろうとする刹那せつな【瞬間】のような、烈しい興奮だった。彼は、そうした興奮を抑えて、じっと瑠璃子の部屋へ忍び寄ろうとした。
 丁度、その時に、勝平は我を忘れて『アッ』と叫び声を挙げようとした。それは、今彼が近づこうとしたそのドアに、一人の人間が紛れもない一人の男性が、ピッタリと身体を寄せていたからである。冷たい悪寒おかんが、勝平の身体を流れて、つめの先までをもふるわせた。彼は、電気に掛けられたように廊下の真中へ立ちすくんでしまった。
 が、相手は勝平の近づくのを知っているはずだのに、ピクリとも身体を動かさなかった。ドアに彫り付けられている木像か何かのように、やみの中にじっと立ち尽しているようだった。
盗賊どろぼう!』最初勝平は、そう叫ぼうかとさえ思ったが、彼の四十男に相当した冷静が彼の口を制したが、その次ぎに、ムラ/\と彼の心を閉したものは、漠然たる嫉妬しっとだった。一人の男性が、妻の寝室のドアの前に立っている。それだけで、勝平の心を狂わすのに十分だった。
 彼は、握りしめたこぶしを、顫わしながら、必死になって、一歩々々ドアに近づいた。が、相手は気味の悪いほど、冷静にピクリとも動かない。勝平が、最後の勇気を鼓して、相手の胸倉をつかみながら、低く、
「誰だ!」と、しっした時、相手は勝平の顔を見て、ニヤリと笑った。それは紛れもなく勝彦かつひこだったのである。
 自分の子のいやしい笑い顔を見たときに、剛愎ごうふく勝平も、ガンと鉄槌てっついで殴られたように思った。
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言い現し方もないような不快な、あさましいと言った感じが、彼の胸のうちに一杯になった。自分の子があさましかった。が、あさましいのは、自分の子けではなかった。もっと、あさましいのは、自分自身であったのだ。
「お前! 何をしているのだ! ここで。」
 勝平は、低くうめくようにいた。が、それは勝彦に訊いているのではなく、自分自身に訊いているようにも思われた。
 勝彦は、離れの日本間の方で寝ている筈なのだ。が、それがもう夜の二時過であるのに、瑠璃子の部屋の前に立っている。それは、勝平に取っては、えられないほど、不快なあさましい想像の種だった。
「何をしているのだ! こんなところで。こんなに遅く。」何時いつもは、馬鹿ばかな息子に対し可なり寛大である父であったが、今宵こよいに限っては、彼は息子に対して可なり烈しい憎悪ぞうおを感じたのである。
「何をしていたのだ! おい!」
 勝平は、鋭い眼で勝彦にらみながら、その肩の所を、グイと小突こづいた。


     

ここに何をしていたのだ、茲に!」
 父が、必死になって責め付けているのにもかかわらず、勝彦はたゞニヤリ/\と、たわいもなく笑い続けた。薄気味のわるいとりとめもなき子の笑いが、丁度自分の恥しい行為を、嘲笑あざわらっているかのように、勝平には思われた。
 彼は、瑠璃子やまた、ぐ次ぎのドアうちに眠っている美奈子の夢を破らないようにと、気を付けながらも、声がだんだん激しくなって行くのを抑えることが出来なかった。
「おい! こんなに遅く、ここに何をしていたのだ。おい!」
 そう言いながら、勝平は再び子の肩を突いた。父にそう突き込まれると、白痴相当に、勝彦は顔をあからめて、口ごもりながら言った。
「姉さんの所へ来たのだ。姉さんの所へ来たのだ。」姉さん、勝彦はこの頃、瑠璃子をそう呼びならっていた。
「姉さん! 姉さんの所へ!」
 勝平は、そう言いながらも、自分自身地の中へ、入ってしまいたいような、浅ましさと恥しさとを感じた。が、それと同時に、にらむような嫉妬しっとが、ホンのわずかではあるが、心の裡にきざして来るのを、うすることも出来なかった。が、父のそうした心持を、あざけるように、勝彦は又ニタリ/\と愚かな笑いを、笑いつゞけている。
「姉さんの所へ何をしに来たのだ。何の用があって来たのだ。こんなに夜遅く。」
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 勝平は、心の中の不愉快さを、じっと抑えながら、く所まで、訊きたださずにはいられなかった。
「何も用はない。たゞ顔を見たいのだ。」
 勝彦は、平然とそれが普通な当然な事ででもあるように言った。
「顔を見たい!」
 勝平は、そう口では言ったものの、眼がくらむように思った。他人は、誰も居合わさない場所ではあったが、自分の顔を、両手でおおい隠したいとさえ思った。
 彼は、もうの上、勝彦に言葉を掛ける勇気もなかった。が、今にして、息子のこうした心を、刈り取って置かないと、どんな恐ろしい事が起るかも知れないと思った。彼は不快と恥しさとを制しながら言った。
「おい! 勝彦これから、夜中などに、お姉さんの部屋へなんか来たら、いけないぞ! 二度とこんな事があると、お父様が承知しないぞ!」
 そう言いながら、勝平は、わが子を、恐ろしい眼でにらんだ。が、子はケロリとして言った。
「だって、お姉さまは、来てもかまわない! と言ったよ。」勝平は、頭からガンとなぐられたように思った。
「来てもかまわない! 何時いつ、そんな事を言った? 何時そんなことを言った?」
 勝平は、思わず平常ふだんの大声を出してしまった。
「何時って、何時でも言っている。部屋の前になら、何時まで立っていてもいゝって、番兵になって呉れるのならいゝって!」
「じゃ、お前は今夜だけじゃないのか。馬鹿ばかやつめ! 馬鹿な奴め!」
 そう言いながらも、勝平は子に対して、可なり激しい嫉妬をいだかずにはいられなかった。
 それと同時に、瑠璃子に対しても、うらみに似た烈しい感情を持たずにはいられなかった。
「そんな事を姉さんが言った! 馬鹿な! 瑠璃子に訊いて見よう。」
 彼は、息子を押し退けながら、その背後うしろドアを、右の手で開けようとした。が、それは釘付くぎづけにでもされたように、ピタリとして、少しも動かなかった。彼は声を出して、叫ぼうとした。
 その途端に、ガタリとドアが開く音がした。が、開いたのはそのドアではなくして、美奈子の寝室のドアであった。
 純白の寝衣ねまきを付けた少女はまろぶように、父の傍に走り寄った。
「お父様! 何と言うことでございます。
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何も言わないで、お休みなさいませ。お願いでございます。お姉様にこんなところを見せては親子の恥ではございませんか。」
 美奈子の心からの叫びに、打たれたように、勝平は黙ってしまった。
 勝彦は、相変らず、ニヤリ/\と妹の顔を見て笑っていた。
 丁度此の時、ドア彼方あなたの寝台の上に、夢を破られた女は、親子の間の浅ましい葛藤かっとうを、聞くともなく耳にすると、その美しい顔に、すごい微笑を浮べると、雪のような羽蒲団はねぶとんを又再び深々と、かぶった。


     

 自分の寝室へ帰って来てからも、勝平悶々もんもんとして、眠られぬ一夜を過してしまった。恋する者の心が、競争者の出現にって、あせり出すように、勝平の心も、今迄いままでの落着、冷静、剛愎ごうふくすべてを無くしてしまった。競争者、それが何と言うたまらない競争者であろう。それが自分の肉親の子である。肉親の父と子が、一人の女をめぐって争っている。親が女のもとへ忍ぶと子が先回りしている。それは、勝平のような金の外には、物質の外には、何物をも認めないような堕落だらくした人格者に取っても堪らないほどあさましいことだった。
 もし、勝彦が普通の頭脳があり、道義の何物かを知っていれば、ののしり恥かしめて、反省させることも容易なことであるかも知れない。(もっとも、勝平に自分の息子の不道徳を責め得る資格があるかうかは疑問であった。)が、勝彦は盲目的な本能とはげしい慾望の外は、何も持っていない男である。相手が父の妻であろうが、何であろうが、たゞ美しい女としか映らない男である。それに人並外れた強力ごうりきを持っている彼は、どんな乱暴をするかも分らなかった。
 その上に、勝平は自分の失言に対する苦い記憶があった。彼は、一時瑠璃子勝彦の妻にと思ったとき、その事を冗談のように勝彦に、言い聴かせたことがある。何事をも、ぐ忘れてしまう勝彦ではあったが、事柄が事柄であった丈に、その愚な頭の何処どこかにこびり付かせているかも知れない。そう考えると、勝平の頭は、いよいよ重苦しく濁ってしまった。
『そうだ! 勝彦を遠ざけよう。葉山の別荘へでも追いやろう。何とかすかして、東京を遠ざけよう。
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勝平はわが子に対して、そうした隠謀をさえ考え始めていた。
 興奮と煩悶はんもんとにつかれた勝平の頭も、四時を打つ時計の音を聴いた後は、何時いつしか朦朧もうろうとしてしまって、寝苦しい眠りに落ちていた。
 眼が覚めた時、それはもう九時を回っていた。朗かな十月の朝であった。青いしゃの窓掛をすかした明るい日の光が、室中に快い明るさをたたえた。
 朝のさわやかな心持に、勝平は昨夜の不愉快な出来事を忘れていた。尨大ぼうだいな身体を、寝台から、ムクムクと起すと、上草履ぞうり《うわぞうり》を突っかけて、朝の快い空気に吸い付けられたように、縁側ヴェランダに出た。彼は自分の広大こうだいな、広々と延びている庭園を見ながら、両手を高くひろげて、快い欠伸あくびをした。が、彼が拡げた両手を下した時だった。十間ばかり離れた若いかえでの植込の中を、泉水の方へ降りて行く勝彦の姿を見た。彼に似て、尨大な立派な体格だった。が、歩いて行くのは勝彦一人ではなかった。勝彦の大きい身体のかげから、時々ちら/\美しい色彩の着物が、見えた。勝平は、最初、それが美奈子であることを信じた。勝彦は白痴ではあったが、美奈子だけには、やさしい大人しい兄だった。勝平は何時もの通り兄妹きょうだいの散歩であると思っていた。が、植込の中の道が右に折れ、勝平の視線と一直線になったとき、その男女は相並んで、後姿を勝平に見せた。女は紛れもなき瑠璃子だった。しかも彼女の白い、遠目にも、くっきりと白い手は、勝彦の肩、そうだ、肩よりも少し低い所へ、そっと後から当てられているのだった。
 それを見たとき、勝平は煮えたぎっている湯を、飲まされたような、すさまじい気持になっていた。ニヤリ/\とえつに入っているらしいわが子の顔が、アリ/\と目に見えるように思った。彼は、縁側ヴェランダから飛び降りて、わが子の顔を思うさま、殴り付けてやりたいような恐ろしい衝動を感じた。
 が、それにも増して、瑠璃子の心持が、グッと胸に堪えて来た。昨夜ゆうべの騒ぎを知らぬはずがない、親子の間の、浅ましい情景シーンを知らぬ筈がない。隣の部屋の美奈子さえ、眼を覚しているのに、瑠璃子が知らない筈はない。知っていながら、昨夜ゆうべの今日勝彦をあんなに近づけている。
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 そう思うと、勝平は、瑠璃子の敵意を感ぜずにはいられなかった。そうだ! 自分が小娘として、つまらない油断や、約束をしたのが悪かったのだ。言わば降伏した敵将の娘を、妻にしているようなものである。美しい顔の下に、どんな害心を蔵しているかも知れない。
 が、そう警戒はしながら、瑠璃子を愛する心は、少しも減じなかった。それと同時に、眼前の情景シーンに対する嫉妬しっとの心は少しも減じなかった。


     

 勝平が、縁側ヴェランダの欄干に、釘付くぎづけにされながら、二人の後姿が全く見えなくなった若いかえでの林を、じっと見詰めている時に、その林の向うにある泉水のほとりから、瑠璃子の華やかな笑いが手に取るように聞えて来た。
 それは、雲雀ひばりの歌うように、自由な快活な笑いだった。結婚して以来、もう一月以上の日がつ内、勝平に対しては決して笑ったことのないような自由な快活な笑い声であった。ここからは見えない泉水のほとりで、縦令たとえ馬鹿ばかではあるにしろ年齢としだけは若い、身体だけは堂々と立派な勝彦が、瑠璃子と相並んで、打ち興じている有様が、勝平の眼に、マザ/\と映って来るのであった。
 彼は苦々しげに、二人に向ってでも吐くように、つばはるかな地上へ吐いてから、その太いまゆに、深い決心の色をめながら、階下へ降りて行った。
 勝平は、抑え切れない不快な心持に、悩まされつゝ、罪のない召使を、しかり飛ばしながら、ようやく顔を洗ってしまうと、苦り切った顔をして、朝の食卓に就いた。いつも朝食を一緒にするはず瑠璃子はまだ庭園から、帰って来なかった。
「奥さんはうしたのだ。奥さんは!」勝平は、オド/\している十五六の小間使を、み付けるように叱り飛した。
「お庭でございます。」
「庭から、早く帰って来るように言って来るのだ。わしが起きているじゃないか。」
「ハイ。」小さい小間使は、勝平すさまじい様子に、縮み上りながら、瑠璃子を呼びに出て行った。
 瑠璃子が、入って来れば、の押え切れないいきどおりを、彼女に対しても、もらそう。白痴の子をもてあそんでいるような、彼女の不謹慎ふきんしんを思い切り責めてやろう。勝平はそう決心しながら、瑠璃子が入って来るのを待っていた。
 二三分も経たないうちに、きぬずれの音が、廊下にしたかと思うと、瑠璃子は少女のようにいそいそと快活に、け込んで来た。
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「まあ! お早う! もう起きていらしったの。わたくしちっとも、知らなかったのよ。お寝坊の貴方あなたの事だから、どうせ十一時近くまでは大丈夫だと思っていたのよ。昨夜ゆうべあんなに遅く帰って来たのに、よくまあ早くお目覚めざめになったこと。この花美しいでしょう。一番大きくて、一番色のはげしい花なのよ。妾これが大好き。」
 そう言いながら、瑠璃子は右の手に折り持っていた、真紅しんくの大輪のダリヤを、食卓テーブルの上の一輪挿いちりんざしに投げ入れた。
 勝平は、何うかして瑠璃子をたしなめようと思いながらも、彼女の快活な言葉と、矢継早の微笑に、面と向うと、彼は我にもあらず、すべての言葉が咽喉のどのところに、からんでしまうように思った。
「昨夜、よくお眠りになって? わたくし芝居で疲れましたでしょう、今朝まで、グッスリと寝入ってしまいましたのよ。こんなに、よく眠られたことはありませんわ、近頃。」
 昨夜の騒ぎを、親子三人のあさましい騒ぎを、知っているのか知らないのか、瑠璃子はその美しい顔の筋肉を、一筋も動かさずに、華奢きゃしゃな指先で、軽くはしを動かしながら、勝平に話しかけた。
 勝平は、心の裡に、わだかまっている気持を、瑠璃子に向って、洩すべきいとぐち見出みいだすのに苦しんだ。相手が、昨夜の騒ぎを、少しも知らないと言うのに、それを材料として、話を進めることも出来なかった。
 彼は、瑠璃子には、一言も答えないで、そのいら/\しい気持を示すように、自棄やけせわしく箸を動かしていた。
 勝平の不機嫌を、瑠璃子は少しも気に止めていないように、平然と、その美しい微笑を続けながら、
わたくし、今日三越みつこしへ行きたいと思いますの。連れて行って下さらない?」
 彼女は、プリ/\している勝平に、なお小娘か何かのように、甘えかゝった。
「駄目です。今日は東洋造船の臨時総会だから。」
 勝平は、瑠璃子に対して、初めて荒々しい言葉を使った。彼女はその荒々しい語気を跳ね返すように言った。
「あら、そう。それでは、勝彦さんに一緒に行っていたゞくわ。……いゝでしょう。」


     

 勝彦の名が瑠璃子の唇をれると、勝平おおきい顔は、ますます苦り切ってしまった。
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 相手のそうした表情を少しも眼中に置かないように、瑠璃子は無邪気にしつこく言った。
勝彦さんに、連れて行っていたゞいたらいけませんの。一人だと何だか心細いのですもの。わたくし一人だと買物をするのに何だかきまりが付かなくって困りますのよ。表面うわべだけでもいゝからいゝとか何とか合槌あいづちを打って下さる方が欲しいのよ。」
「それなら、美奈子と一緒に行らっしゃい。」
 勝平は、怒った牡牛おうしのようにプリ/\しながら、それでも正面から瑠璃子たしなめることが出来なかった。
美奈子さん。だって、美奈子さんは、三時過ぎでなければ学校から、帰って来ないのですもの。それから支度をしていては、遅くなってしまいますわ。」
 瑠璃子は、大きい駄々っ子のような表情を見せながら、その癖顔だけは、微笑を絶たなかった。勝平は又黙ってしまった。瑠璃子は追撃するように言った。
うして勝彦さんに一緒に行っていたゞいては、いけませんの。」
 勝平の顔色は、咄嗟とっさに変った。その顳顬こめかみの筋肉が、ピク/\動いたかと思うと、彼はふるえる手ではしを降しながら、それでも声けは、平静な声を出そうと努めたらしかったが、変に上ずッてしまっていた。
勝彦勝彦勝彦と、貴女あなたはよく口にするが、貴女は勝彦を一体何だと思っているのです。もう、一月以上この家にいるのだから、気が付いたでしょう。親の身として、口にするさえ恥かしいが、あれは白痴ですよ。白痴も白痴も、御覧のとおり東西も弁じない白痴ですよ。あゝ言う者を三越に連れて行く。それは此の荘田の恥、荘田一家の恥を、世間へ広告して歩くようなものですよ。貴女も、動機はかく一旦いったん此の家の人となった以上、こう言う馬鹿ばか息子があると言うことを、広告して下さらなくってもいゝじゃありませんか。」
 勝平は、結婚して以来、初めて荒々しい言葉を、瑠璃子に対して吐いた。が、象牙ぞうげの箸を飯椀めしわんの中に止めたまゝ、じっと聴いていた瑠璃子は、まゆ一つさえ動かさなかった。勝平の言葉が終ると、彼女はおどろいたように、眼を丸くしながら、
「まあ! あんなことを。そんな邪推じゃすいしていらっしゃるの。
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わたくし勝彦さんを馬鹿だとか白痴だとかいやしめたことは、一度もありませんわ。あんな無邪気な純な方はありませんわ。それは、少し足りないことは足りないわ。それは、お父様の前でも申し上げねばなりません。でも、あんなに正直な方に、妾初めてお目にかゝりましたのよ。それに妾の言ったことなら、何でもして下さるのですもの。此間、お家が広いので、夜寝室の中に、一人いると何だか寂しく心細くなると、申しますと、勝彦さんは、それなら毎晩部屋の外で番をしてやろうとおっしゃるのですよ、妾冗談だとばかり、思っていますと、一昨夜二時過ぎに、廊下に人の気勢けはいがするので、ドアを開けて見ますと、勝彦さんが立っていらっしゃるじゃありませんか。それが、丁度中世紀の騎士ナイトが、貴婦人をまもる時のように、厳然げんぜんとして立っていらっしゃるのですもの。妾可笑おかしくもあれば、有難くも思ったわ。妾此の頃、智恵ちえのある怜悧れいりな方には、飽き/\していますの。また、その智恵を、人を苦しめたりおとしいれたりする事に使う人達に、飽き/\していますのよ。また、人がきずつけ合ったり陥れ合ったりする世間その物にも、愛想あいそが尽きていますのよ。妾、勝彦さんのような、のんびりとした太古の心で、生きている方が、大好きになりましたのよ。貴方あなたの前でございますが、何うして勝彦さんを捨てゝ、貴方を選んだかと思うと、後悔していますのよ。おほゝゝゝゝゝ。」
 さわやかな五月さつきの流が、あおい野を走るように、瑠璃子は雄弁だった。黙って聴いていた勝平の顔は、いかり嫉妬しっとのために、黒ずんで見えた。

余りにもろき[#「余りに脆き」は大見出し]



     

 勝平は、冗談かそれとも真面目まじめかは分らないが、人を馬鹿ばかにしているように、からかっているように、勝彦かつひこを賞める瑠璃子るりこの言葉を聞いていると、思わずカッとなってしまって、手に持っている茶碗ちゃわんはしを、彼女になげつけてやりたいようなはげしい嫉妬しっとと怒とを感じた。が、口先ではそんないやがらせを言いながらも、顔だけの頃の秋の空のように、澄み渡ったうららかな瑠璃子を見ていると、不思議に手がすくんで、茶碗を投げ付くることは愚か、一指を触るゝことさえも、し得なかった。
 が、勝平は心の中で思った。此のままにして置けば、瑠璃子勝彦とは、日増に親しくなって行くに違いない。そして自分を苦しめるのに違いない。
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少くとも、当分の間、自分と瑠璃子とが本当の夫婦となるまで、うしても二人を引き離して置く必要がある。勝平は、咄嗟とっさにそう考えた。
「あはゝゝゝゝ。」彼は突然取って付けたように笑い出した。「まあいゝ! 貴女あなたがそんなに馬鹿が好きなら連れて行くもよかろう。貴女のようなのは、天邪鬼あまのじゃくと言うのだ。あはゝゝゝゝ。」
 勝平は、嫉妬と憤怒ふんぬとを心の底へと、押し込みながら、何気ないように笑った。
「何うも、有難う。やっと、お許しが出ましたのね。」瑠璃子も、サラリと何事もなかったように微笑した。
 その時に、勝平は急に思い付いたように言った。
「そう/\。貴女あなたに話すのを忘れていた。此間中頭が重いので、一昨日おととい近藤もらうと、神経衰弱の気味らしいと言うのだ。海岸へでも行って、少し静養したら何うだと言うのだがね、そう言われると、わしも此の七月以来会社の創立や何かで、毎日のように飛び回っていたものだからね、精力主義のわしも可なりグダ/\になっているのだ。神経衰弱だなんて、大したこともあるまいと思うが、まあしばらく葉山へでも行って、一月ばかり遊んで来ようかと思うのだ。もっとも、彼処あそこからじゃ、毎日東京に通っても訳はないからね。それに就いては、是非貴女に一緒に行っていたゞきたいと思うのだがね。」勝平は、熱心に、退引のっぴきならないように瑠璃子に言った。
「葉山へ!」と言ったまゝ、さすがに彼女は二の句を言いよどんだ。
「そうです! 葉山です。彼処に、林子爵ししゃくが持っていた別荘を、此春譲って貰ったのだが、此夏美奈子みなこが避暑に行っただけで、わしはまだ二三度しか宿とまっていないのだ。秋の方が、しずかでよいそうだから、ゆっくり滞在したいと思うのだが。」
 勝平は、落着いた口調で言った。葉山へ行くことは、何の意味もないように言った。が、瑠璃子には、その言葉の奥に潜んでいる勝平のよからぬ意思を、明かに読み取ることが出来た。葉山で二人だけになる。
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それが何う言う結果になるかは瑠璃子には可なりハッキリ分るように思った。が、彼女はそうした危機を、未然に避くることを、いさぎよしとしなかった。どんな危機に陥っても、自分自身を立派に守って見せる。彼女には、女ながらそうした烈しい最初の意気が、ピクリとも揺いでいなかった。
「結構でございますわ、わたくしも、そんな所で静かな生活を送るのが大好きでございますのよ。」
 彼女は、その清麗な面に、少しの曇も見せないで、さわやかに答えた。
「あゝ行ってれるのか。それは有難い。」
 勝平は、心からうれしそうにそう言った。葉山へさえ、伴って行けば、当分勝彦と引き離すことが出来る上に、其処そこでは召使を除いた外は、瑠璃子と二人切りの生活である。ことに、かぎのかかり得るような西洋室はない。瑠璃子を肉体的に支配してしまえば、高が一個の少女である。普通の処女がどんなに嫌い抜いていても、結婚してしまえば、男の腕にすがり付くように、彼女も一旦いったんその肉体を征服してしまえば、余りにもろき一個の女性であるかも知れない。勝平はそう思った。
「それなら丁度ようございますわ。三越みつこしへ行って、彼方あちらで入用な品物をそろえて参りますわ。」
 彼女は、身に迫る危険な場合を、少しも意に介しないように、むしろいそ/\としながら言った。


     

 愛し合った夫であるならば、それは楽しい新婚旅行であるはずだけれども、瑠璃子の場合は、そうではなかった。勝平と二人きりで、東京を離れることは、彼女に取っては死地に入ることであった。東京のやしきでは、人目が多いだけに、勝平一旦いったん与えた約束の手前、理不尽な振舞に出ることは出来なかったが、葉山では事情が違っていた。今迄いままでは敵と戦うのに、地の利を得ていた。小さいながらも、彼女の城郭じょうかくがあった。ことに盲目的に、彼女をまもっている勝彦と言う番兵もあった。が、葉山には、何もなかった。彼女は赤手にして、敵と渡り合わねばならなかった。勝敗は、天にまかせて、かくに、最後の必死的な戦いを、戦わねばならなかった。
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 そうした不安な期待に、心をみだされながらも、彼女はいろ/\と、別荘生活に必要な準備を整えた。彼女は、当座の着替や化粧道具などを、一杯に詰め込んだ大きなトランクの底深く、一口ひとふりの短剣を入れることを忘れなかった。それが、夫と二人りの別荘生活に対する第一の準備だった。
 父の男爵だんしゃくが、瑠璃子はげしい執拗しつような希望に、到頭動かされて、不承々々に結婚の承諾を与えて、最愛の娘を、憎みいやしんでいた男に渡すとき、男爵は娘に最後の贈り物として、一口の短剣を手渡した。
「これは、お前のお母様が家へ来るときに持って来た守り刀なのだ。昔の女は、常に懐刀ふところがたなを離さずに、それで自分のみさおを守ったものだ。貴女あなたも普通の結婚をするのなら、こんなものは不用だが、今度のような結婚には、是非必要かも知れない。これで、貴女の現在の決心を、しっかりと守るようになさい。」
 父の言葉は簡単だった。が、意味は深かった。彼女はその匕首あいくちを身辺から離さないで、最後の最後の用意としていた。そうした最後の用意が、如何いかなる場合にも、彼女を勇気付けた。牡牛おうしのようにおおきい勝平と相対していながら、彼女は一度だって、おそれたことはなかった。
 瑠璃子しばらく東京を離れると言うことが分ると、一番に驚いたのは勝彦だった。彼は瑠璃子が準備をし始めると、自分も一緒に行くのだと言って、父の大きいトランクを引っぱり出して来て、自分の着物や持物を滅茶苦茶めちゃくちゃに詰め込んだ。おしまいには、自分の使っている洗面器までも、詰め込んで召使達を笑わせた。彼は、瑠璃子に捨てゝ置かれないようにと、一瞬の間も瑠璃子を見失わないようにあとへ/\と付きまとった。
 それを見ると、勝平まゆひそめずにはいられなかった。
 出立しゅったつの朝だった。自分が捨てゝ置かれると言うことが分ると、勝彦は狂人のようにあばれ出した。毎年一度か二度は、発作的に狂人のようになってしまう彼だった。彼は瑠璃子と父とが自動車に乗るのを見ると、自分も跣足はだしけ降りて来ながら、ドアを無理矢理に開けようとした。執事や書生が三四人で抱き止めようとしたが、馬鹿ばか力の強い彼は、後から抱き付こうとする男を、二三人も其処そこへ振り飛ばしながら、自動車にすがり付いて離れなかった。
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 白痴でありながらも、必死になっている顔色を見ると、瑠璃子は可なり心を動かされた。主人に慕いまつわって来る動物に対するようないじらしさを、無知むち勝彦に対して、いだかずにはいられなかった。
「あんなに行きたがっていらっしゃるのですもの。連れて行って上げてはいけないのですか。」
 瑠璃子は夫を振返りながら言った。その微笑が、一寸ちょっと皮肉な色を帯びるのを、彼女自身制することが出来なかった。
「馬鹿な!」
 勝平は、苦り切って、一言にしりぞけると、自動車の窓から顔を出しながら言った。
「遠慮をすることはない。グン/\引き離して彼方あっちへ連れて行け。暴れるようだったら、何時いつかの部屋へ監禁してしまえ。当分の間、監視人を付けて置くのだぞ、いゝか。」
 勝平は、しかり付けるように怒鳴ると、丁度勝彦身体からだが、多勢の力で車体から引き離されたのをさいわいに、運転手に発車の合図を与えた。
 動き出した車の中で瑠璃子は一寸居ずまいを正しながら、背後うしろに続いている勝彦のあさましい怒号に耳をおおわずにはいられなかった。


     

 葉山へ移ってから、二三日の間は、うららかな秋日和びよりが続いた。東京では、とても見られないような薄緑の朗かな空が、山と海とをおおうていた。海は毎日のように静かで波の立たない海面は、時々緩やかなうねりが滑かに起伏していた。海の色も、真夏に見るような濃藍のうらんの色を失って、それだけ親しみやすい軽い藍色あいいろに、はる/″\と続いていた。そのはてに、伊豆いずの連山が、淡くほのかに晴れ渡っているのだった。
 十月も終に近い葉山の町は、洗われたように静かだった。どの別荘も、どの別荘も堅く閉されて人の気勢けはいがしなかった。
 御用邸に近い海岸にある荘田しょうだ別荘は、裏門を出ると、もう其処そこの白い砂地には、くずれた波の名残りが、白い泡沫ほうまつを立てているのだった。
 勝平は、葉山からも毎日のように、東京へ通っていた。夫の留守の間、瑠璃子何人なんぴとにもわずらわされない静寂のうちに、浸っていることが出来た。
 瑠璃子はよく、一人海岸を散歩した。人影のまれな海岸には、自分一人の影が、寂しく砂の上に映っていた。
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はるかに/\悠々とひろがっている海や、その上をかぎりなく広大に掩うている秋の朗かな大空を見詰めていると、人間の世のあさましさが、しみ/″\と感ぜられて来た。自分自身が、復讐ふくしゅう狂奔きょうほんして、心にもない偽りの結婚をしていることが、あさましい罪悪のように思われて、とりとめもなく、心を苦しめることなのであった。
 葉山へ移ってから、三四日の間、勝平瑠璃子を安全地帯に移し得たことに満足したのであろう。人のよい好々爺こうこうやになり切って、夕方東京から帰って来る時には、瑠璃子の心をよろこばすような品物や、おいしい食物などをお土産にすることを忘れなかった。
 葉山へ移ってから、丁度五日目の夕方だった。その日は、ひる過ぎから空模様があやしくなって、海岸へ打ち寄せる波の音が、刻一刻すさまじくなって来るのだった。
 海にれない瑠璃子には、高く海岸に打ち寄せる波の音が、何となく不安だった。別荘番の老爺おやじは暗くよどんでいる海の上を、低く飛んで行く雲の脚を見ながら、『今宵こよい時化しけかも知れないぞ。』と、幾度も/\口ずさんだ。
 夕刻になるに従って、風は段々吹き募って来た。暗く暗く暮れて行く海のおもてに、白い大きいなみがしらが、後から/\走っていた。瑠璃子硝子戸ガラスどの裡から、不安なまゆをひそめながら、海の上を見詰めていた。はげしい風が砂をいて、パラ/\と硝子ガラス戸に打ち突けて来た。
「あゝ早く雨戸を閉めておくれ。」
 瑠璃子は、狼狽ろうばいして、召使に命じると、ピッタリと閉ざされた部屋の中に、今宵に限って、妙に薄暗く思われる電灯でんとうの下に、小さく縮かまっていた。人間同士の争いでは、非常に強い瑠璃子も、こうした自然の脅威の前には、普通の女らしく臆病おくびょうだった。海岸に立っている、地形の脆弱ぜいじゃくな家は、時々今にも吹き飛ばされるのではないかと思われるほど、打ち揺いだ。海岸に砕けている波は、今にもの家をみそうに轟々ごうごうたる響を立てゝいる。
 瑠璃子には、結婚して以来、初めて夫の帰るのが待たれた。何時いつもは、夫の帰るのを考えると、妙に身体からだが、引きしまってムラ/\とした悪感おかんが、胸をいて起るのであったが、今宵に限っては、不思議に夫の帰るのが待たれた。勝平の鉄のようなかいなが何となく頼もしいように思えた。逗子ずしの停車場から自動車で、危険な海岸伝いに帰って来ることが何となくあやぶまれ出した。
「こう荒れていると、鐙摺あぶずりのところなんか、危険じゃないかしら。」
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と女中に対して瑠璃子は、我にもあらず、そうした心配を口に出してしまった。
 その途端に、吹き募ったあらしは、可なり広壮こうそうな建物を打ち揺すった。鎖で地面へつながれているひさしが、吹きちぎられるようにメリ/\と音を立てた。


     

「こんなに荒れると、本当に自動車はお危のうございますわ。一層こんな晩は、彼方あちらでお宿とまりになるとおよろしいのでございますが。」
 女中も主人の身を案ずるようにそう言った。が、瑠璃子は是非にも帰ってもらいたいと思った。何時いつもは、顔を見ている丈でも、ともすればムカ/\して来る勝平が、何となく頼もしく力強いように感ぜられるのであった。
 日が、トップリ暮れてしまった頃から、あらしますます吹きつのった。海はしきりに轟々ごうごうえ狂った。波は岸を超え、常には干乾ひからびた砂地を走って、別荘の土堤どての根元まで押し寄せた。
「潮が満ちて来ると、もっと波がひどくなるかも知れねえぞ!」
 海の模様を見るために出ていた、別荘番の老爺おやじは、漆のように暗い戸外から帰って来ると、不安らしくつぶやいた。
「まさか、この間のような大暴風雨おおあらしにはなりますまいね。」
 女中も、それに釣り込まれたように、オド/\しながらいた。皆の頭に、まだ一月ひとつきにもならない十月一日の暴風雨の記憶がマザ/\と残っていた。それは、東京の深川本所に大海嘯おおつなみを起して、多くの人命を奪ったばかりでなく、湘南しょうなん各地の別荘にも、可なりヒドイ惨害さんがいこうむらせたのであった。
「まさか先度せんどのような大暴風雨おおあらしにはなるまいかと思うが、時刻も風の方向むきもよく似ているでなあ!」
 老爺おやじは、心なしか瑠璃子達をおどすように、首をかしげた。
 夜に入ってから、間もなく雨戸を打つ雨の音が、ボツリ/\と聞え出したかと思うと、それがたちまち盆をくつがえすような大雨となってしまった。天地を洗い流すような雨の音が、瑠璃子達の心を一層不安にたしめた。
 恐ろしい風が、グラ/\と家を吹き揺すったかと思う途端に、電灯でんとうがふっと消えてしまった。こうした場合に、灯火あかりの消えるほど、心細いものはない。女中はやみの中から手探りにやっと、洋灯ランプを探し当てゝ火を点じたが、ほの暗い光は、一層瑠璃子の心を滅入めいらしてしまった。
 暗い灯火あかりの下にあつまっている瑠璃子と女中達を、もっと脅かすように、風は空を狂い回り、波はしきりなしに岸をんで殺到した。
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 風は少しも緩みを見せなかった。雨を交えてからは、有力な味方でもが加わったように、益々ますます暴威を加えていた。風と雨と波とが、三方から人間の作った自然の邪魔物を打ち砕こうとでもするように力をあわせて、此建物を強襲した。
 ガラ/\と、何処どこかで物の砕け落ちる音がしたかと思うと、それに続いて海に面しているひさしが吹き飛ばされたと見え、ベリ/\と言うすさまじい音が、家全体を震動した。今迄いままでは、それでも、つつましく態度の落着を失っていなかった瑠璃子もつい度を失ったように立ち上った。
うしようかしら、今のうちに避難しなくてもいゝのかしら。」
 そう言う彼女の顔には、恐怖の影がアリ/\と動いていた。人間同士の交渉では、烈女のように、強い彼女も、自然の恐ろしい現象に対しては、女らしく弱かった。
 女中達も、色を失っていた。女中は声を挙げて別荘番の老爺おやじを呼んだけれども、風雨の音にさえぎられて、別荘番の家までは、届かないらしかった。
 ベリ/\と言う廂の飛ぶ音は、なお続いた。その度に、家がグラ/\と今にも吹き飛ばされそうに揺いだ。
 丁度、此の時であった。瑠璃子の心が、不安と恐怖のどん底に陥って、わらにでもすがり付きたいように思っている時だった。凄じい風雨の音にも紛れない、勇ましい自動車の警笛サイレンが、暗い闇をいてかすかに/\聞えて来た。
「あゝお帰りになった!」瑠璃子よみがえったように、思わず歓喜に近い声を挙げた。その声には、夫に対する妻としての信頼と愛とがこもっていることを否定することが出来なかった。


     

 風雨のはげしい音にも消されずに、警笛サイレンの響はたちまちに近づいた。門内のやみがパッと明るく照されて、その光のうちに雨が銀糸をつらねたように降っていた。
 瑠璃子と女中達二人とは、その燦然さんぜんと輝く自動車の頭光ヘッドライトに吸われたように、玄関へけ付けた。
 微醺びくんを帯びた勝平は、その赤いおおきい顔に、暴風雨あらしなどは、少しも心に止めていないような、悠然たる微笑をたたえながら、のっそりと車から降りた。
「お帰りなさいまし、まあ大変でございましたでしょうね。お道が。」
 瑠璃子のそうした言葉は、平素いつものように形式だけのものではなく、それに相当した感情が、ピッタリと動いていた。
「なに、大したことはなかったよ。
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それよりもね、貴女あなたあおくなっているだろうと思ってね。この間の大暴風雨おおあらしで、みんなビク/\している時だからね。いや、鎌倉かまくらまで一緒に乗り合わして来た友人にね、此の暴風雨あらしじゃ道が大変だから、鎌倉で宿まって行かないかと、言われたけれどもね。やっぱり此方こっちが心配でね。是非葉山へ行くと言ったら、冷かされたよ。美しい若い細君をもらうと、それだから困るのだと、はゝゝゝゝゝ。」
 すさまじい風の音、烈しい雨の音を、聞き流しながら、勝平は愉快に哄笑こうしょうした。自然の脅威を跳ね返しているような勝平の態度に接すると、瑠璃子は心強く頼もしく思わずにはいられなかった。男性の強さが、今始めて感ぜられるように思った。
わたくしうしようかと思いましたの。ひさしがベリベリと吹き飛ばされるのですもの。」
 瑠璃子は、まだ不安そうな眼付をしていた。
「なに、心配することはない。十月一日の暴風雨あらしの時だって、土堤どてが少しばかり、崩されただけなのだ。あんな大暴風雨が、二度も三度も続けて吹くものじゃない。」
 勝平は、瑠璃子が後から、着せかけた褞袍どてらに、くるまりながら、どっかりと腰を降ろした。
 が、勝平のそうした言葉を、裏切るように、風は刻々吹き募って行った。可なり、ピッタリと閉されている雨戸までが、今にも吹き外されそうに、バタ/\と鳴り響いた。
「さあ! お酒の用意をして下さらんか、こうした晩は、お酒でも飲んで、おおいに暴風雨と戦わなければならん、はゝゝゝ。」
 勝平は、暴風雨の音に、おびえたように耳をそばだてゝいる瑠璃子にそう言った。
 酒盃さかずきの用意は、整った。勝平は吹きすさぶ暴風雨の音に、耳を傾けながら、チビリ/\とさかずきを重ねていた。
わたくし、本当に早く帰って下さればいゝと思っていましたのよ。男手がないと何となく心細くってよ。」
「はゝゝ、瑠璃子さんが、わしを心から待ったのは今宵こよいが始めてだろうな、はゝゝゝゝ。」
 勝平は機嫌よく哄笑した。
「まあ! あんなことを、毎日心からお待ちしているじゃありませんか。」
 瑠璃子は、ついそうした心易こころやすい言葉を出すような心持ちになっていた。
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うだか。分りゃしませんよ。老爺おやじめ、なるべく遅く帰って来ればいゝのに。こう思っているのじゃありませんか。はゝゝゝゝ。」
 瑠璃子の今宵に限って、温かい態度に、勝平は心からえつに入っているのだった。
「それも、無理はありません。貴女あなたが内心わしを嫌っているのも、全く無理はありません。当然です、当然です。わしも嫌がる貴女あなたを、何時いつまでも名ばかりの妻として、束縛そくばくしていたくはないのです。これが、どんな恐ろしい罪かと言うことが分っているのです。所がですね。初めはホンの意地から、結婚した貴女が、一旦いったん形式だけでも同棲どうせいして見ると、……一旦貴女を傍に置いて見ると、死んでも貴女を離したくないのです。いや、死んでも貴女から離れたくないのです。」
 余程酒が進んで来たと見え、勝平くだくようにそう言った。


     

 風は益々ますます吹き荒れ雨は益々降り募っていた。が、勝平は戸外のそうした物音に、少しも気を取られないで、瑠璃子いでやった酒を、チビリ/\とめながら、熱心に言葉を継いだ。
「まあ、簡単に言って見ると、スッカリ心から貴女あなたれてしまったのです! わしは今年四十五ですが、この年まで、本当に女と言うものに心を動かしたことはなかったのです。勝彦美奈子の母などとも、たゞ、在来ありきたりの結婚で、給金のらない高等な女中をでも、やとったように考うて、接していたのです。金が出来るのに従って、金で自由になる女とも沢山接して見ましたが、どの女もどの女も、たゞ玩具おもちゃか何かのように、もてあそんでいたのに過ぎないのです。わしは女などと言うものは、酒や煙草たばこなどと同じに、我々男子の事業の疲れを慰めるために存在している者に過ぎないとまで高をくくっていたのです。所がです、俺のそうした考えは貴女に会った瞬間に、見事に打ち破られていたのです。男子のために作られた女でなくして、女自身のために作られた女、俺は貴女に接していると、ぐそう言う感じが頭に浮かんだのです。男の玩具として作られた女ではなくして、男を支配するために作られた女、俺は貴女を、そう思っているのです。
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それと一緒に、今まで女に対していだいていた侮蔑ぶべつや軽視は、貴女に対してはだん/\無くなって行くのです。その反対に、一種の尊敬、まあそう言った感じが、だん/\胸の中にきざして来たのです。結婚した当座は、何の此の小娘が、俺を嫌うなら嫌って見ろ! 今に、征服してやるから。と、こう思っていたのです。所が、今では貴女の前でなら、どんなに頭を下げても、いいと思い出したのです。貴女の愛情を、得るためになら、どんなに頭を下げても、いゝと思い始めたのです。うです、瑠璃子さん! 俺の心が少しはお分りになりますか。」
 勝平は、そう言って言葉を切った。酔ってはいたが、その顔には、一本気な真面目まじめさが、アリ/\と動いていた。こうした心の告白をするために、故意わざ酒盃さかずきを重ねているようにさえ、瑠璃子に思われた。
わしは、世の中に金より貴いものはないと思っていました。俺は金さえあれば、どんな事でも出来ると思っていました。実際貴女を妻にすることが、出来た時でさえ、金があればこそ、貴女のような美しい名門の子女を、自分の思いどおりにすることが出来るのだと思っていたのです。が、俺が貴女を、金で買うことが出来たとおもったのは、俺の考違かんがえちがいでした。金で俺の買い得たのは、たゞ妻と言う名前だけです。貴女の身体からだをさえ、まだ自分の物に、することが出来ないで苦しんでいるのです。まして、貴女の愛情の断片きれはしでも、俺の自由にはなっていないのです。わしは貴女の俺に対する態度を見て、つく/″\さとったのです。俺の全財産を投げ出しても、貴女の心の断片きれはしをも、買うことが出来ないと言うことを、つく/″\悟ったのです。が、そう思いながらも、俺は貴女を思い切ることが出来ないのです。俺は金で買い損ったものを、俺の真心で、買おうと思い立ったのです。いや、買うのではない、貴女の前にひざまずいて、買うことの出来なかったものを哀願しようとさえ思っているのです。また、そうせずにはいられないのです。先刻さっきも申しましたとおり、もう一刻も貴女なしには生きられなくなったのです。」
 変に言葉までが改まった勝平は、恋人の前に跪いている若い青年か、何かのように、激していた。彼のおおきい真赤な顔は、何処どこにもいつわりの影がないように、真面目に緊張していた。
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彼は大きい眼をきながら、瑠璃子の顔を、じっと見詰めていた。敵意のある凝視なら、にらみ返し得る瑠璃子であったが、そうした火のような熱心の凝視にはかえってえかねたのであろう、彼女は、まぶしいものを避けるように、じっと顔をうつむけた。
「何うです! 瑠璃子さん! わしの心を、少しは了解して下さいますか。」
 勝平の声は、瑠璃子の心臓をくような力がこもっていた。


     

 酒の力を借りながら、その本心を告白しているらしい勝平の言葉を、聴いていると、今までは獣的ブルータルな、俗悪な男、精神的には救われるところのない男だと思い捨てゝいた勝平にも、人間的な善良さや弱さを、感ぜずにはいられなかった。
 あれだけ傲岸ごうがんで黄金の万能を、主張していた男が、金で買えない物が、世の中にげんとして存在していることを、いさぎよく認めている。金では、人の心の愛情の断片かけらをさえ、買い得ないことを告白している。彼は、今自分の非を悟って、瑠璃子の前に平伏して彼女の愛を哀願している。敵はもろくも、くだったのだ。そうだ! 敵は余りにも、脆くも降ったのだ、瑠璃子は心のうちで思わず、そう叫ばずにはいられなかった。
瑠璃子さん! わしはお願いするのだ。俺は、俺の前非を悔いて貴女あなたに、お願いするのじゃ。貴女は、心から俺の妻になって下さることは出来んでしょうか。これまでの偽りの結婚を、俺の真心できよめることは出来んでしょうか。俺は、この結婚を浄めるために、どんなことをしてもいゝ。俺の財産を、みんな投げ出してもいゝ。いや俺の身体からだ生命いのちもみんな投げ出してもいゝ。俺は、貴女から、夫として信頼され愛されさえすれば、どんな犠牲を払ってもいゝと思っているのです。俺は、先刻さっき自動車から降りて、貴女と顔を見合せた時、俺は結婚して以来初めて幸福を感じたのです。今日だけは、貴女が心から俺を迎えてれている。貴女の笑顔が心からの笑顔だと思うと、俺は初めて結婚の幸福を感じたのです。が、それも落着いて考えて見ると、貴女が俺を喜んで迎えて呉れたのも、夫としてではない、たゞこんな恐ろしい晩に必要な男手として喜んでいるのだと思うと、又急に情なくなるのです。俺が貴女を、いやしい手段で、妻にしたと言う罪を、俺の貴女に対する現在の真心で浄めさせて下さい!」
 勝平は、酒のために、気が狂ったのではないかと思われるほどに激高げっこうしていた。
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瑠璃子は相手の激しい情熱にせたように何時いつの間にか知らず/\、それに動かされていた。
瑠璃子さん、貴女も今までの事は、心から水に流して、わしの本当の妻になって下さい。貴女が心ならずも、わしの妻になったことは、不幸には違いない。が、一旦いったん妻になった以上、貴女が肉体的には、妻でないにしろ、世間では誰も、そうは思っていないのです。社会的に言えば、貴女は飽くまでも、荘田勝平の妻です。貴女も、こうした羽目に陥ったことを、不幸だとあきらめて、心から俺の妻になって下さらんでしょうか。」
 勝平の眼は、熱のあるように輝いていた。瑠璃子も、相手の熱情に、ついフラ/\と動かされて、思わず感激の言葉を口走ろうとした。が、その時に彼女の冷たい理性が、やっとそれを制した。
『相手が余りに脆いのではない! お前の方が余りに脆いのではないか。お前は、最初のあれほどはげしい決心を忘れたのか。正義のために、私憤ではなくして、むしろ公憤のために、相手を倒そうと言う強い決心を忘れたのか。勝平の口先だけ懺悔ざんげに動かされて、余りに脆くお前の決心を捨てゝしまうのか。お前は勝平の態度を疑わないのか。彼は、お前に降伏したような様子を見せながら、お前を肉体的に、征服しようとしているのだ。かぶとを脱いだような風をよそおいながら、お前に飛び付こうとしているのだ。お前が、勝平の告白に感激して、お前の手を与えて御覧! 彼は、その手をいただくような風をしながら、何時の間にかお前をにじってしまうのだ。お前は敵の暴力と戦うばかりでなく、敵の甘言とも戦わなければならぬ。敵は、お前のプライドびながら、逆にお前を征服しようとしているのだ。余りに脆いのは敵でなくしてお前だ。』
 瑠璃子の冷たい理性は、覚めながらそう叫んだ。彼女は、ハッと眼が覚めたように、居ずまいを正しながら言った。
「あら、あんな事をおっしゃって? 最初から、本当の妻ですわ。心からの妻ですわ。」
 そう言いながら、彼女は冷たい、しかしながら、美しい笑顔を見せた。

あらしいて[#「嵐を衝いて」は大見出し]



     

 勝平は、瑠璃子るりこの言葉だけは、打ち解けていても、笑顔は氷のように冷たいのを見ると、絶望したように言った。
「あゝ貴女あなたは、うしてもわしを理解して下さらぬのじゃ。
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わしの最初の罪を何うしても許して下さらぬのじゃ。貴女は、俺と勝彦とを、あやつって俺に、畜生道の苦しみを見せようとしているのじゃ。よい、それならよい! それならそれでよい! 貴女が、何時いつまでも俺をかたきと見るのなら、俺も、俺も敵になっていてもいゝ。俺が貴女の前に、ひざまずいてこれほどお願しているのに、貴女は俺の真心を受けれて下さらんのじゃから。」
 もう先刻さっきから、一升以上も飲みしている勝平は、濁ったひとみを見据えながら、威丈高に瑠璃子にのしかゝるような態度を見せた。相手が下手したでから出ると、ついホロリとしてしまう瑠璃子であったが相手が正面からかゝってれゝば、一足だって踏み退しりぞく彼女ではなかった。
 相手の態度が急変すると、瑠璃子は先刻の勝平の神妙な態度は、たゞ自分を説き落すための、偽りの手段であったことが、ハッキリしたように思った。
「あら、あんな事をおっしゃって、貴君あなたの真心は、はじめから分っているじゃありませんか。」
 瑠璃子は、相手のおどしを軽く受け流すように、嫣然にっこりと笑った。
「あゝ、貴女のその笑顔じゃ。それは俺を悩ますと同時に、あざけり恥しめののしっているのじゃ。あゝ俺は貴女のその笑顔にえない。俺は貴女のその笑顔を、初はどんなに楽しんでいたか分らないが、だん/\見ていると、貴女のその美しい笑顔の皮一つ下には、俺に対する憎悪ぞうお嘲笑ちょうしょうとが、一杯にちているのだ。貴女の笑顔ほど皮肉なものはない。貴女の笑顔ほど、俺の心を突き刺すものはない。貴女は、その笑顔で俺を悩まし殺そうとしているのだ。いや、俺ばかりじゃない! あの馬鹿ばか勝彦をまで悩ましておるのじゃ。」
 勝平の態度には、愈々いよいよ乱酔のきざしが見えていた。彼の眸は、怪しい輝きを帯び、狂人か何かのように瑠璃子をジロ/\と見詰めていた。
 風も雨も、海岸のこの一角に、その全力をあつめたかのように、益々ますます吹きすさび降りまさった。が瑠璃子は人と人との必死の戦いのために、そうした暴風雨の音をも、聞き流すことが出来た。
「疑心暗鬼と言うことがございますね。貴君のは、それですよ。わたしを疑ってかかるから、妾の笑顔までが、夜叉やしゃの面か何かのように見えるのでございますよ。」
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 そう言いながらも、瑠璃子はその美しい冷たい笑いを絶たなかった。勝平は、そのおおきい身体からだをのたうつようにして言った。
「貴女は、俺を飽くまでも、馬鹿にしておられるのじゃ。貴女は人間としての俺を信用しておられんのじゃ。貴女は、俺の人格を信じておられないのじゃ。俺に人間らしい心のあることを信じておられないのじゃ。よし、貴女が俺を人間として扱って下さらないなら、俺はけだものとして、貴女に向って行くのじゃ。俺は獣のように、貴女に迫って行くのじゃ。」
 勝平の眸は燃ゆるように輝やいた。
「そうだ! 俺は獣として貴女に迫って行く外はない!」
 そう言ったかと思うと、勝平ひぐまが人間を襲う時のように、のッと立ち上った。
 瑠璃子はじかれたように、立ち上った。
 立ち上った勝平は、フラ/\とよろめいてやっと踏みこらえた。彼はそのすさまじい眸を、真中に据えながら、瑠璃子の方へジリ/\と迫って来た。
 かよわい瑠璃子の顔は、真蒼まっさおだった。身体はかすかにふるえていたけれども、わるびれた所は少しもなかった。その美しい眉宇びうは、きっと、きしまって、許すまじき色が、アリ/\と動いた。
 丁度、その時だった。風にあおられた大雨が一頻ひとしき沛然はいぜんとして降り注いで来た。


     

 荒るゝまゝに、夜は十二時に近かった。
 台所にいるはずの女中達は、眠りこけてでもいるのだろう、話声一つ聞えて来なかった。ただ吹きるゝ大風雨のうち勝平瑠璃子だけが、取り残されたように、にらみながら、相対していた。
 空に風と雨とが、戦っているように、地に彼等は戦っているのだった。瑠璃子は戦うべき力もなかった。武器も持ってはいなかった。たゞ彼女の態度に備る天性の美しい威厳一つが、勝平の獣的な攻撃を躊躇ちゅうちょさせていた。が、その躊躇も、永く続く筈はなかった。勝平の眼が、段々狂暴な色を帯びると共に、彼はいきおいもう瑠璃子に迫って来た。彼女は、相手の激しい勢にされるようにジリ/\と後退あとずさりをせずにはいられなかった。
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 勝平の今少し前の懺悔ざんげや告白が、こうした態度に出るまでの径路であった――一旦いったん下手から説いて見て、それで行かなければ腕力に訴える――かと思うと、勝平に対して、いだいていた一時の好感は、煙のようになくなって、たゞ苦い苦い憎悪ぞうおかす丈が、残っていた。指一つ触れさせてなるものか、そうした堅い決意が、彼女の繊細な心臓を、鉄のように堅くしていた。
 が、彼女の精神的な強さも、勝平の肉体の上の優越に打ち勝つことが出来なかった。何時いつの間にか追い詰められたように、部屋の一方に、海に面した硝子戸ガラスどの方へ、逃るゝ道のない硝子戸の方へ、瑠璃子は圧し付けられている自分を見出みいだした。
 其処そこで、追い詰められた牝鹿めじか獅子ししとのように、二人はしばらくは相対していた。
 暴風雨は、少しも勢いを減じていなかった。岸をんで殺到する波濤はとうの響が、前よりも、もっと恐ろしく聞えて来た。が、相争っている二人の耳には、波の音も風の音も聞えては来なかった。
「何をなさるのです。貴君あなたは?」
 勝平が、その堅肥かたぶとりのおおきい手を差し出そうとした時、瑠璃子は初めて声を出してしっした。
「何をしようと、わしの勝手だ。夫が妻を、いかそうが殺そうが。」
 勝平は、そう言いながら、再び猿臂えんぴを延して、瑠璃子の柔かな、やさ肩をつかもうとしたが、軽捷けいしょうな彼女に、ひらりと身体を避けられると、酒に酔った足元は、ふら/\と二三歩よろめいて、のめりそうになった。
「恥をお知りなさい! 恥を! 妻ではございましても奴隷どれいではありませんよ。暴力を振うなんて。」
 彼女は、汚れた者を叱するように、吐き捨てるように言った。彼女の声は、さすがにわな/\とふるえていた。
「なに! 恥を! 恥も何もあるものか、俺はもう獣になり切っているのじゃ。」
 勝平は、そう言ったかと思うと前よりももっとはげしい勢で瑠璃子に迫った。こうしたあさましい人間の争いを、賛美さんびするかのように、風は空中にすさまじい歓声を挙げ続けている。
 瑠璃子は、ふとその時まもり刀のことを思い出した。こうした非常な場合には、それを抜き放って自分を護る外はない。が、そう思い付いたものの、それはトランクの底深く、しまってあるので、急場の今は、何のたすけにもならなかった。
 彼女は、最後の手段として、声を振りしぼって女中を呼んだ。が、彼女の呼び声は、風雨の音に消されてしまって、台所の方からは、物音も聞えて来なかった。
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 瑠璃子が、いよいよ窮したのを見ると、勝平は愈威丈高になった。彼は、獣そのまゝの形相を現していた。ほの暗い洋灯ランプの光で、眼が物凄ものすごく光った。
「あれ!」と、瑠璃子が身を避けようとした時、勝平の強い腕は、彼女の弱い二の腕を、グッと握り占めていた。
「何をするのです。お放しなさい!」
 彼女は必死になって、振りほどこうとした。が、強い把握はあくは、容易に解けそうもなかった。
「何を! 何をするのです!」
 瑠璃子は、死者狂いになって突き放した。が、突き放された勝平は、前よりも二倍の狂暴さで、再び瑠璃子に飛びかゝった。
 その時だった。瑠璃子背後うしろの雨戸と硝子戸とが、バタ/\と音を立てゝ外れると、恐ろしい一陣の風が、サッとへやの中へ吹き込んだ。
 洋灯はたちまちに消えてしまった。が、灯の消える刹那せつな【瞬間】だった。風と共に飛び込んで来た一個の黒影が今瑠璃子に飛びかゝろうとする勝平に、横合からどうと組み付くのが、灯の消ゆるたゆたいの瞬間に瞥見べっけんされた。


     

 硝子戸ガラスどの外れるのと共に、へやの中へ吹き入った風と雨とは、たちまちに、二十畳に近い大広間にうず巻いた。床の間の掛軸が、バラ/\と吹きまくられて、ね落ちると、ガタ/\とはげしい音がして、鴨居かもいの額が落ちる、六曲の金屏風きんびょうぶが吹き倒される。一旦いったん吹き込んだ風は逃れ口がないために、室内のやみを縦横にめぐって、何時いつまでも何時までも狂奔した。
 しかも、の風雨のれ狂う漆黒の闇の中に、勝平は飛び込んだ黒影と、必死の格闘を続けていたのだ。
「貴様は誰だ! 誰だ!」
 不意の襲撃に驚いたらしく勝平は、狼狽ろうばいして怒号した。が、相手は黙々として返事をしなかった。
 肉と肉とが、相搏あいうつ音が、風雨の音にもまぎれず、すさまじい音を立てた。身体と身体とが、打ち合う音、筋肉と筋肉とが、きしみ合う音、それは風雨の争いにも、負けないほどに恐ろしかった。
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 うちどうと家中を揺がせる地響を打って、一方が投げ出される音が聞えた、それに続いて転がり合いながら、格闘する凄じい音が続いた。
「強盗だ! 強盗だ! 早く老爺じいやを呼んで来い! 瑠璃子瑠璃子!」
 戦いが不利と見えて、勝平の声は悲鳴に近かった。
 瑠璃子は、物事の烈しい変化に、気をられたように、ボンヤリ闇の中に立っていた。身に迫った危険を、思いがけなく脱し得た安心と、新しく突発した危険に対する不安とで、心が一種不思議な動乱の中に在った。
 勝平の悲鳴を聴いていると、助けてやらねばならぬと思いながら、一種の小気味よさを感ぜずにはいられなかった。自分に獣のごとく迫って来た彼が、突然の侵入者にって、もろくも取って伏せられている。そう思うと瑠璃子の動乱した胸にも皮肉な快感が、ぞく/\とこみ上げて来る。
 格闘はなお続いた。組み合いながら、座敷中をのたくっている恐ろしい物音が絶えなかった。
瑠璃子瑠璃子! 早く、早く。」
 たすけを呼ぶ勝平の声は、だん/\苦しそうにあえいで来た。
 瑠璃子の心のうちに、もっと勝平を苦しませてやれ、こうした不意の出来事に依って、もっと彼をこらしてやれと言う、勝平に対する憎悪ぞうおの心持と、平生の憎悪はかく、不時の災難に苦しんでいる相手を、援けてやろうと言う人間的な心持とが、相争った。
 其裡に、ゼイ/\と息も絶えそうに、喘ぎ始めた勝平の声が、聞え出した。
「苦しい! 苦しい! 人殺し! 人殺し!」
 勝平は、到頭最後の悲鳴を出してしまった。そうした声を聞くと、瑠璃子の心にも、勝平に対する憐憫あわれみかずにはいなかった。彼女は、始めて我に返ったように、台所の方に駆け出しながら、大声を出した。
老爺じいや! 老爺! 早く来ておくれ! 泥棒! 泥棒!」
 瑠璃子の声も、スッカリ上ずッてしまっていた。が、そう叫んだ時、彼女の頭の中に突然恋人の直也なおやの事がひらめいた。彼は、勝平とうとして誤って、美奈子みなこを傷つけたため、危く罪人となろうとしたのを、勝平に対する父の子爵ししゃくの哀訴のために、告訴されることを免れた。が、彼はかたき勝平からそうした恩恵を受けたことを、死ぬほど恥しがって、学業を捨ててしまって、遠縁の親戚しんせきが経営しているボルネオの護謨ゴム園に走ろうとしている。
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瑠璃子は、そんなうわさを、耳にはさんでいる。が、あの多血性な恋人は、そうした逃避的な態度を、捨てゝ、その恋の敵を倒すために、再び風雨の夜に乗じて迫ったのであろうか。いな、自分に決別けつべつするため、よそながら自分を見ようとした時、偶然自分が危難に遭遇したため、前後の思慮もなく飛び込んだのではないだろうか。
 強盗! 泥棒! 強盗や泥棒が、あゝした襲撃をすだろうか。もし、あれが直也だったら、縦令たとい勝平を倒したにしろ、彼の一生はムザ/\と埋れてしまうのだ。もっとも、今でも自分のために、半分埋れかけているのだが。
 そう思うと、瑠璃子は老爺を呼ぶ声も出なくなってしまって、再び其処そこへ立ちすくんだ。
 が、瑠璃子の声に騒ぎ立った女中は、声を振りしぼって老爺を呼んだ。


     

 叫び立てる女中達の声に、別荘番の老爺は驚いてけ付けて来た。強盗だと聴くと、いきなり取って返して、古い猟銃用の村田銃を持って来た。彼は手早く台所の棚から、カンテラを取り出すと、取り乱す容子もなく、灯を点じて、戸外同様に風雨のれ狂う広間の方へと、勇ましく立ち向った。もう六十を越した老人ではあったが、根が漁師育ちである丈けに、胆力たんりょくはガッシリと据っていた。
 瑠璃子は、勝平と相っている相手が、もしや恋人の直也でありはしないかと思うと、の一徹の老人が、一気に銃口を向けやしないかと思う心配で、心が怪しくみだれた。それかと言って、強盗であるかも知れぬ闖入者ちんにゅうしゃを、かばうような口はけなかった。台所にふるえている女中を後に残しながら、固唾かたずを飲みながら、老人の後から、いて行った。
 座敷は、風雨で滅茶苦茶めちゃくちゃになっていた。室の中に渦巻く風のために、硝子戸ガラスどが三枚も外れていた。其処そこから吹き入る雨のために、水を流したように、れた畳が、カンテラの光に物凄ものすごく映っていた。今にも、天井が吹き抜かれるように、バリ/\と恐ろしい音を立てゝ、鳴り続けた。
 老人は、カンテラの光をかざしながら、
旦那だんな! 旦那! 喜太郎が参りましたぞ!」と次ぎの間から、ず大声で怒鳴った。
 が、勝平はそれに対して、何とも答えなかった。たゞ勝平が発しているらしい低いうめき声が聞える丈だった。
「旦那! 旦那! しっかりなさい!」
 そう言いながら、喜太郎は暗い座敷の中を、カンテラで照しながら、け込んだ。
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その光で、ほの暗く照し出された大広間の中央まんなかに、勝平は仰向に打ち倒れながら、苦しそうにうめいているのだった。
「旦那! 旦那! しっかりなさい! 喜太郎が参りましたぞ! 泥棒はうしただ!」
 喜太郎は、勝平耳許みみもとで勢よく叫んだ。が、勝平はたゞ低く、喘息ぜんそく病みか何かのように咽喉のところで、低くうめく丈だった。
「旦那! 怪我けがをしたか。何処どこだ! 何処だ!」
 老人は、狼狽ろうばいしながら、その太い堅い手で、勝平の身体をで回した。が、何処にも傷らしい傷はなかった。が、それにもかかわらず、半眼に開かれている勝平の眼は、白く釣り上がっている。
「あゝ! こりゃいけねえ。奥様、こりゃいけねえぞ。」
 そう言いながら、老人は勝平の身体をなかば抱き起すようにした。が、おおきい身体は少しの弾力もなく石のかたまりか何かのように重かった。
 瑠璃子は、さすがに驚いた。
「もし、貴君あなた! もし貴君! 貴君!」
 彼女は、名ばかりの夫の胸に、すがり付くようにして叫んだ。が、勝平の身体に残っている生気は、こうしている間にも、だん/\消えて行くように思われた。
 おず/\顫えながら、座敷へ近づいて来た女中を顧みながら、瑠璃子はハッキリと少しも取りみださない口調で言った。
「ブランデーのびんを大急ぎで持っておいで。それから、吉川様へぐおいで下さるように電話をおかけなさい! 直ぐ! 主人が危篤きとくでございますからと。」
 女中の一人は、直ぐブランデーの壜を持って来た。瑠璃子は、それをコップにぐと、甲斐甲斐かいがいしく勝平の口を割って、口中へ注ぎ入れた。
 勝平あおざめていた顔が、心持赤く興奮するように見えた。彼の釣り上った眼が、ほんの僅かばかり、人間の眼らしい光を回復かいうくしたように見えた。
「旦那! 旦那! 相手は何うしただ。強盗ですか。何方どちらへ逃げました。」
 老人の別荘番は、主人のかたきを取りたいような意気込でいた。
 勝平はその大きい声が、消えかゝる聴覚に聞えたのだろう、口をモグ/\させ初めた。
「何でございますか。何でございますか。」
 瑠璃子も、勝平を励ますために、そう叫ばずにはいられなかった。
 その時に、へやの薄暗い一隅で、何者とも知れずカラ/\と悪魔のわらうように声高く笑った。
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 カンテラの光の届かない部屋の一隅から、急にカラ/\と頓狂とんきょうに笑い出す声を聴くと、元気のある度胸の据った喜太郎までが、ハッと色を変えた。村田銃の方へ差し延した左の手が、二三度銃身をつかみ損っていた。勝気な瑠璃子の襟元をも、気味の悪い冷たさが、ぞっとおそって来た。
「誰だ! 誰だ!」
 喜太郎狼狽うろたえながら、しわがれた声でやみの中の見知らぬ人間を誰何すいかした。が、相手はまだ笑い声を収めたまゝ、じっとしている。
「誰だ! 誰だ! 黙っていると、ち殺すぞ!」
 相手が黙っているので、勢いを得た喜太郎は、村田銃を取り上げながら、その方へ差し向けた。
 暗い片隅にうずくまっている人間の姿が、差し向けられたカンテラの灯で、おぼろげながらわかって来た。
「誰だ! 誰だ! 出て来い! 出て来い! 出て来ないと射つぞ!」
 喜太郎は、益々ますます勢を得ながらそれでも飛び込んで行くほどの勇気もないと見えて、間をへだてながら、叫んでいた。
 相手が、割に落着いているところを見ると、それが強盗でないことは、判っていた。が、不意に耳を襲った頓狂な笑い声にっては、それが何人なんぴとであるかは、瑠璃子にも判らなかった。彼女は、じっとひとみこらして、それが自分のおそれているごとく、恋人の直也ではありはしないかと、闇の中を見詰めていた。
 丁度その時に、喜太郎の大きい怒声に依って、朧気な意識を回復したらしい勝平は、低くうめくように言った。
「射つな、射ったらいけないぞ!」
 それは、一生懸命な必死な言葉だった。そう言ってしまうと、勝平はまたグタリと死んだようになってしまった。
 主人の言葉を聴くと、喜太郎は何かをさとったように鉄砲を、投げ出すと、じり/\と見知らぬ男の方に近づいた。男は、喜太郎が近づくと、だん/\蹲まったまゝで、身を退かしていたが、壁の所まで、追い詰められると、矢庭に、スックと立ち上った。瑠璃子は、また恐ろしい格闘の光景シーンを想像した。が、瑠璃子の想像はたちまち裏切られた。
「やあ! 若旦那わかだんなじゃねえか!」
 喜太郎は、驚駭おどろきとも何とも付かない、調子外れの声を出した。
 瑠璃子も、その刹那せつな【瞬間】はじかれたように立ち上った。
「奥様! 若旦那だ! 若旦那だ。」
 喜太郎は、意外なる発見に、狂ったように叫び続けた。
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瑠璃子も思わず、瀕死ひんし勝平の傍を離れると、二人が突っ立ちながら、相対している方へ近づいた。
 いかにも、その男は勝彦だった。何時いつ見馴みなれている大島の不断着が、雨でズブれに濡れている。髪の毛も、雨を浴びて黒くすごく光っている。日頃は、無気味グロテスクな顔ではあるが、何となく温和であるのが、今宵こよいは殺気を帯びている。それでも、瑠璃子の顔を見ると、少し顔をあからめながら、ニタリと笑った。
 しばらくの間は、瑠璃子も言葉が出なかった。が、すべては明かだった。東京の家に監禁せられていた彼は、瑠璃子を慕うの余り、監禁を破って、東京から葉山まで、風雨をいて、やって来たのに違いなかった。
「お父様をあんなにしたのは、貴君あなたでしたか。」
 瑠璃子は、可なり厳粛げんしゅくな態度でそういた。
 勝彦は、黙ってうなずいた。
「東京から、一人で来たのですか。」
 勝彦は黙って肯いた。
「汽車に乗ったのですか。」
 勝彦は、又黙って肯いた。
「お父様を、うしてあんなにしたのです。何うしてあんなにしたのです。」
 瑠璃子に、そう問い詰められると、勝彦は顔を赤めながら、モジ/\していた。もし勝彦が、聡明そうめいな青年であったならば、簡単に率直に、しかも貴夫人を救った騎士ナイトのように勇ましく、
『貴女を救うために。』と答え得たのであるが。


     

 瑠璃子から、何とかれても、勝彦は何とも返事はしないで、たゞニタリ/\と笑い続けている丈だった。
 老人の喜太郎は、張り詰めていた勇気が、急に抜け出してしまったように言った。
「仕様のない若旦那わかだんなだ。こんな晩に東京から、飛び出して来て、旦那をとっちめるなんて、理屈りくつのねえ事をするのだから、始末にえねえや。奥様! こんな人に介意かまっているよりか旦那の容体が大事だ!」
 喜太郎は、勝彦んで捨てるように非難しながら、座敷の真中に、生死もわからずよこたわり続けている勝平の方へ行った。
 が、瑠璃子喜太郎のように心から勝彦を、非難する気には、なれなかった。
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口では勝彦とがめるようなことを言いながら、心の中ではの勇敢な救い主に、一味いちみ温かい感謝の心を持たずにはいられなかった。
 丁度、その時に、勝平のうめき声が、急に高くなった。瑠璃子は思わず、その方に引き付けられた。
 彼の顔面の筋肉が、しきりに痙攣けいれんし、太いおおきい四肢は、最後のあり丈の力をめたように、はげしく畳の上にのたうった。
「水! 水!」
 勝平は、苦しそうなうめき声をもらした。
 女中が、転がるように持って来た水を、コップのまゝ口へ注ごうとしたが、思いどおりにはならないらしい口辺の筋肉は、あてがわれたコップの水を、咽喉のどの辺から胸にかけてこぼしてしまった。瑠璃子は、それを見ると、コップの水を一息飲みながら、口移しに勝平の口中へ注いでやった。名ばかりではあるが、妻としての情であった。
 水にって、湿うるおされた勝平の咽喉は、初めてハッキリした苦悶くもんの言葉を発した。
「あゝ苦しい。胸が苦しい。切ない。」
 彼は、そう叫びながら、心臓のあたりを幾度もきむしった。
ぐ医者が参ります。もう少しの御辛抱です。」
 瑠璃子も、オロ/\しながら、そう答えた。瑠璃子の言葉が、耳に通じたのだろう。彼は、空虚うつろな視線を妻の方に差し向けながら、
瑠璃子さん、わしが悪かった。みんな、俺が悪かった。許して下さい!」
 彼は、身体中からだじゅうに残った精力をあつめながら、やっと切々に言った。つい一時間前の告白を疑った瑠璃子にも、男子のこうした瀕死ひんしの言葉は疑えなかった。瑠璃子の冷たく閉じた心臓にも、それが針のように刺し貫いた。
「あゝ苦しい。切ない! 心臓が裂けそうだ!」
 勝平は、心臓を両手で抱くようにしながら、畳の上を、二三回転げ回った。
美奈子美奈子はいないか!」
 彼は、突如いきなり苦しそうに、半身を起しながら、座敷中を見回した。しか美奈子其処そこにいる訳はなかった。二三秒間身体を支え得た丈で、またどうと後へ倒れた。
美奈子さんも直ぐ来ます。電話で呼びますから。」
 瑠璃子は、耳許みみもとに口を寄せながら、そう言った。
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「あゝ苦しい! もういけない! 苦しい! 瑠璃子さん! 頼みます、美奈子勝彦のこと。貴女あなたは、俺を憎んでいても、子供達は憎みはしないでしょう。貴女を頼むより外はない! 俺の罪を許して子供達を見てやって下さい! 頼みます! 勝彦勝彦!」
 彼は、そう言いながら、再び身体を起そうとした。愚かなる子に、最後の言葉をかけようとしたのであろう。が、愚なる子は、父の臨終の苦しみをよそに、以前のまゝに、ケロリとして立ったまゝ、此場の異常な光景シーンを、ボンヤリと凝視している丈であった。
「あゝ苦しい! 切ない!」
 勝平は最後の苦痛に入ったように、何物かをつかもうとして、二三度虚空こくうを掴んだ。瑠璃子は、その時始めて心から、夫のために、その白い二つの手を差し延べた。勝平は、瑠璃子の白い腕に触れるとそれを生命いのちの最後の力で握りしめながら、また差し延べられた手に、瑠璃子からのゆるしを感じながら、妻からの情を感じながら、最後の呼吸いきを引き取ってしまったのである。


     

 勝平の最後の息が絶えようとしている時に、医師がやって来た。レインコートの下へまで、激しい雨がみ入ったと見え、洋服の所々から、しずくがタラ/\と落ちていた。
「車で来ようと思ったのですが、家を二間ばかり離れると、ぐ吹き倒されそうになりましたから、徒歩で来ました。風が北へ回ったようですから、もう大丈夫です。まさか、先度のようなことはありませんでしょう。」
 医師は、さすがに職業的な落着を見せながら、女中達の出迎えを受けて、座敷へ通って来た。
「お電話じゃ十分わかりませんでしたが、うなさったのです。強盗と組打ちをなさったと言うのは本当ですか。」
 医師は、横わっている勝平の傍近く、膝行いざり寄りながら、瑠璃子にそういた。
 瑠璃子は、遉に落着きを失わなかった。
「いゝえ! 女中が狼狽うろたえて、そんなことを申したのでございましょう。強盗などとはうそでございます。お恥かしいことでございますが、つい息子と……」
 そう言ったものの、後は続け得なかった。医師は直ぐその場の事情をみ込んだように、勝平の身体に手をやって、一通ひととおりあらためた。
何処どこもお負傷けがはないのですね。」
「はい! 負傷はないようでございます。」瑠璃子は静かに答えた。
「御心配はありません。何処か打ち所が悪くって気絶をなさったのです。」
 医師は事もなげにそう言いながら、その夜目にも白い手を脈に触れた。五秒十秒、医師はじっと耳を傾けていた。
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それと同時に、彼のひとみに、勝平あおざめて行く顔色が映ったのだろう。彼は、急に狼狽ろうばいしたように前言を打ち消した。
「あゝこりゃいけない!」
 そう言いながら、彼は手早く聴診器ちょうしんきを、かばんの中から、引きずり出しながら、勝平ふとり切った胸の中の心臓を、探るように、幾度も/\当がった。
「あゝこりゃいけない!」
 彼は再び絶望したような声を出した。
「いけませんでございましょうか。」
 そう訊いた瑠璃子の声にも、深い憂慮うれいが含まれていた。
「こりゃいけない! 心臓麻痺まひらしいです。何時いつか診察したときにも、よく御注意して置いたはずですが、可なりひどい脂肪心だから、よく御注意なさらないと、直ぐ心臓麻痺を起しやすいと、幾度も言った筈ですが。喧嘩けんかだとか格闘だとか、興奮するようなことは、一切してはならないと、注意して置いたのですがね。」
 医師は、いかにも、自分の与えた注意が守られなかったのが、遺憾いかんえないように、耳は聴診器に当がいながら、幾度も繰り返した。
「心臓の周囲に、脂肪がたまると、非常に心臓が弱くなってしまうのです。火事の時などに、け出した丈で、倒れてしまう人があるのです。それに酒を召し上っていたのですね。酒を飲んでいる上に、はげしい格闘をやっちゃたまりません。お子さんとなら、また何だって早くお止めにならなかったのです。」
 そう言われると、瑠璃子の良心は、グイと何かで突き刺されるように感じた。
「もう駄目だとは思いますが、あきらめのために、カンフル注射をやって見ましょう。」
 医師は、手早くその用意をしてしまうと、今肉体を去ろうとして、たゆとうている魂を、呼び返すために、巧みに注射針をあやつって、一筒のカンフルを体内に注いだ。
 医師は、注射の反応を待ちながらも、二三度人工呼吸を試みた、が、勝平の身体は、刻一刻、人間特有の温みと生気とを失いつゝあった。そのおおきい顔に、死相がアリ/\と刻まれていた。
「お気の毒ですが、もう何とも仕方がありません。」
 医師は、死に対する人間の無力を現すように、悄然しょうぜんと最後の宣告を下した。


     

 戦は終った。不意に突然に意外に、敵は今彼女の眼前に、何の力もなく何の意地もなく土塊つちくれごとくに横わっている。
 彼女は見事に勝った。勝ったのに違いなかった。
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傲岸ごうがんな、金の力にって、人間の道をなみしようとした相手は倒れている。そうだ! 勝利は明かだ。
 が、勝平の死顔をじっと見詰めている時に、彼女の心にいて来たものは、勝のよろこびではなくしてむしろ勝の悲しみだった。勝利の悲哀だった。確に勝っている。が、勝平の肉体に勝った如く、彼の精神にも勝ち得ただろうか。勝平は、その瀕死ひんし刹那せつな【瞬間】において、精神的にも瑠璃子に破られていただろうか。
 いな! 否! 瑠璃子自身の良心が、それを否定している。愈々いよいよ、死が迫って来た時の勝平の心は、彼の一生のすべての罪悪をつぐない得るほどに、美しく輝いていたではないか。
 彼は、自分のゆるしを瑠璃子うた上、二人の愛児の行末を、瑠璃子に頼んでいる。彼は名ばかりの妻から、夫としてえがたき反抗を受けながら、なお彼女に美しき信頼を置こうとしている。
 それよりも、もっと瑠璃子の心を穿うがったものは、彼が臨終の時に示した子供に対する、綿々たる愛だった。格闘の相手が――従って彼の死の原因が――勝彦であることを知りながらも、の愚なる子の行末を、苦しき臨終の刹那せつな【瞬間】に気遣っている。彼の人間らしい心は、その死床に於て、燦然さんぜんとして輝いたではないか。
 彼を敵として結婚し、結婚してからも、彼に心身を許さないことに依って、彼に悶々もんもんの悩みをめさせ、それが半ば偶然であるとは言え、勝彦を操ることに依って、畜生道の苦しみを味わせた自分を死の刹那せつな【瞬間】に於て心から信頼している。そうした言葉を聴いたとき、瑠璃子の良心は、可なり深い痛手を負わずにはいられなかった。
 悪魔だと思って刺し殺したものは、意外にも人間の相を現している。が、刺し殺した瑠璃子自身は、刺し殺す径路けいろに於て、刺し殺した結果に於て、悪魔に近いものになっている。
 自分の一生を犠牲にして、倒したものは、意外にも倒し甲斐がいのないものだった。恋人を捨てゝ、処女としての誇を捨てゝ、世の悪評を買いながら、全力を尽くして、戦った戦いは、戦いばえのしない無名のいくさだった。
 負けた勝平は、負けながら、その死床に人間として救われている。
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が、見事に勝った瑠璃子は、救われなかった。
 自分の一生をしてかゝった仕事が、空虚な幻影であることが、分った時ほど、人間の心が弛緩しかんし堕落することはない。
 彼女の心は、その時以来別人のようにすさんだ。清浄しょうじょうなる処女時代に立ち帰ることは、その肉体は許しても、心が許さなかった。敵と戦うために、自分自身心に塗った毒は、いつの間にか、心のうち深くみ入って消えなかった。
 その上に、もっと悪いことには、名ばかりの妻として、ほしいままにした物質上の栄華が、何時いつの間にか、彼女の心に魅力を持ち始めていた。
 彼女は、荒んだ心と、処女としての新鮮さと、未亡人としての妖味ようみとを兼ね備えた美しさと、その美を飾るあらゆる自由とをもって、何時となく、世間のあらゆる男性の間に、孔雀くじゃくの如く、その双翼をひろげていた。
 怪頭醜貌かいとうしゅうぼうの女怪ゴルゴンは、見る人をしてことごとく石に化せしめたと希臘ギリシヤ神話は伝えている。
 黒髪皎歯こうし清麗真珠の如く、艶容えんよう人魚の如き瑠璃子は、その聡明そうめいなる機知きちと、その奔放自由なる所作とを以て、彼女を見、彼女に近づくものを、果して何物に化せしめるであろうか。

魅惑



     

 奇禍のために死んだ青年の手記を見た後も、美しき瑠璃子るりこ夫人は、なお信一郎の心に、一つのなぞとしてとどまっていた。手記にれば、青年を翻弄ほんろうし、彼をして、形は奇禍であるが、心持の上では、自殺を遂げしめた彼女なる女性が、瑠璃子夫人であるようにも思われた。が、夫人その人は、信一郎の目前で、青年の最後のうらみがこもっているはずの、時計の持主であることを否定していた。
 信一郎は、夫人の白いしなやかな手で、軽く五里霧中のうちへ、突き放されたように思った。血腥ちなまぐさ青木じゅんの死と、美しい夫人とを、不思議な糸が、結び付けて、その周囲を、神秘な霧が幾重にも閉ざしている。その霧の中に、チラ/\と時折、瞥見べっけんするものは、半面紫色になった青年の死顔と、艶然えんぜんたる微笑を含んだ夫人の皎玉こうぎょくごとき美観とであった。
 青年から、瀕死の声で、返すことを頼まれた時計は、――青年の怨みを籠めて、返さなければならぬ時計は、あやふやな口実のもとに、謎の夫人の手に、手軽に手渡されている。信一郎は、死んだ青年に対する責任感からも、の謎を一通ひととおりは解かねばならぬと思った。時計が、その真の持主に、青年の望んだ通の意味で、返されることのために、出来る丈は尽さねばならぬことを感じた。
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 が、その謎を解くべき、唯一ゆいいつの手がかりなる時計は、既に夫人の手に渡っている。たゞ、それの受取のように、夫人から贈られた慈善音楽会の一葉の入場券が、信一郎の紙入に、何の不思議もなく残っている丈である。
 が、此の何の奇もない入場券と、『是非おいで下さいませ。その節お目にかゝりますから。』と言う夫人の言葉とが、今の場合夫人に近づく、従って夫人の謎を解くべき唯一の心細い頼りない手がかりだった。夫人と信一郎とを結び付けている細い/\蜘蛛くもの糸のような、つなぎであった。もっとも、どんなに細くとも、蜘蛛の糸には、それ相応の粘着力はあるものだが。
 音楽会の期日は、六月の最後の日曜だった。その日の朝までも、信一郎の心には、妙に躊躇ちゅうちょする心持もあった。お前は、青年に対する責任感からだと、お前の行為を解釈しているが、本当は一度言葉を交えた瑠璃子夫人の美貌びぼうき付けられているのではないか。彼の心の裡で、反噬はんぜいするそうした叫びもあった。その上、今日までは、こうした会合へ出るときは、屹度きっと新婚の静子を伴わないことはなかった。が、今日は妻を伴うことは、考えられないことだった。会場で出来る丈、夫人に接近して夫人を知ろうとするためには、妻を同伴することは、足手まといだった。
 昼食を済ましてからも、信一郎は音楽会に行くことを、妻に打ち明けかねた。が、外出をするためには、着替をすることが、必要だった。
一寸ちょっと散歩に。」と言ってブラリと、着流しのまま、外出する訳には行かなかった。
「一寸音楽会に行って来るよ。着物を出しておくれ。」
 そうした言葉が、うしても気軽に出なかった。それは、何でもない言葉だった。が、信一郎に取っては、妻に対して吐かねばならぬ最初の冷たい言葉だった。
「音楽会に行くから、お前も支度をおしなさい。」
 そうした言葉丈しか、聞かなかった静子には、それが可なり冷たく響くことは、信一郎には余りによくわかっていた。
 彼は、ぼんやり縁側に立っているかと思うと、また、何かを思い出したように二階へ上った。が、机の前にすわっても、少しも落着かなかった。
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彼は、思い切って妻に言う積りで、再び階下したへ降りて来た。
 が、ほどき物をしながら、階段を降りて来る夫の顔を見ると、心の裡の幸福が、自然と弾み出るような微笑を浮べる妻の顔を見ると、手軽に言って退けるはずの言葉が、またグッと咽喉のどにからんでしまった。
「あら! 貴君あなた先刻さっきから何をそんなに、ソワソワしていらっしゃるの?」
 無邪気な妻は夫の図星を指してしまった。指さゝれてしまうと、信一郎かえって落着いた。
「うっかり忘れていたのだ。今日は専務が米国へ行くのを送って行かなければならないのだった!」
 彼は、咄嗟とっさに今日出発する筈の専務のことを思い出したのだ。
「何時の汽車? これから行っても、間に合うのでございますか?」
 静子は一寸心配そうに言った。
「間に合うかも知れない。確か二時に新橋を立つ筈だから。」
 そう言いながら、信一郎は柱時計を見上げた。それは、一時を回ったばかりだった。
「じゃ、早くお支度なさいまし。」解き物を、きやって、妻は、甲斐々々かいがいしく立ち上った。
 信一郎は、最初の冷たい言葉を言う代りに、最初の嘘を言ってしまった。その方が、ズッと悪いことだが。


     

 その日の音楽会は、露西亜ロシアのピアニスト若きセザレヴィッチ兄妹の独奏会だった。
 去年から今年にかけて、故国の動乱を避けて、漂泊さすらいの旅に出た露西亜の音楽家達が、幾人も幾人も東京の楽壇をにぎわした。其中そのなかには、ピアノやセロやヴァイオリンの世界的名手さえ交っていた。セザレヴィッチ兄妹もやっぱり、漂泊の旅の寂しさを、背負っている人だった。ことに、妹のアンナ・セザレヴィッチの何処どこか東洋的な、日本人向きの美貌びぼうが、兄妹の天才的な演奏と共に、楽壇の人気をさらっていた。その日の演奏は、確か三四回目の演奏会だった。上流社会の貴夫人達の主催にかゝる、その日の演奏会の純益は、東京にいる亡命ぼうめいの露人達の窮状を救うために、とうぜられる筈だった。
 信一郎が、その日の会場たる上野の精養軒の階上の大広間の入口に立った時、会場はザッと一杯だった。が、人数は三百人にも足らなかっただろう。七円と言う高い会費が、今日の聴衆を、可なり貴族的に制限していた。
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極楽鳥のように着飾った夫人や令嬢が、ズラリと静粛せいしゅくに並んでいた。その中に諸所瀟洒しょうしゃなモオニングを着て、楽譜を手に持っている、音楽研究の若殿様と言ったような紳士が、二三人ずつ交じっていた。信一郎は聴衆を一瞥いちべつした刹那せつな【瞬間】に、ぐ油に交じった水のような寂しさを感じた。こうした華やかなグループの中に、女王クインのように立ち働いている荘田しょうだ夫人が、自分に――片隅に小さく控えている自分に、少しでも注意を向けてれるかと思うと、妻の手前を繕ろってまで、出席した自分が、何だか心細く馬鹿々々ばかばかしくなって来た。
 信一郎が、席に着くと間もなく、妹の方のアンナが、華やかな拍手に迎えられて壇上に現われた、スラヴ美人の典型と言ってもいゝような、あおひとみと、白い雪のような頬とを持った美しい娘だった。彼女は微笑を含んだ会釈えしゃく喝采かっさいこたえると、水色のスカートをひるがえしながら、快活にピアノに向って腰を降した。と、思うと、その白いろうのような繊手は、直ぐ霊活な蜘蛛くもか何かのように、鍵盤けんばんの上を、け回り始めた。曲は、露西亜の国民音楽家の一人として名高いボロディンの譚歌バラッドだった。
 その素朴な、軽快な旋律に、耳を傾けながら、信一郎の注意は、半ば聴衆席の前半の方に走っていた。彼は、若い婦人の後姿を、それからそれと一人々々あらためた。が、たった一度、相見た丈の女は、後姿にっては、直ぐそれと分りかねた。
 妹の演奏が終ると、美しい花環はなわが、幾つも幾つも、壇上へ運ばれた。露西亜の少女は、それを一々あふれるような感謝で受取ると、子供のようによろこびながら、ピアノの上へ幾つも/\置き並べた。余り沢山置き並べるので、演奏の邪魔になりそうなので、司会者が周章あわてて取り降した。聴衆が、の少女の無邪気さをどっと笑った。信一郎も、少女の美しさと無邪気さとに、引きずられて、つい笑ってしまった。
 丁度その途端、信一郎の肩を軽く軟打パットするものがあった。彼はおどろいて、振りかえった。そこに微笑する美しき瑠璃子夫人の顔があった。
「よくいらっしゃいましたのね。先刻からお探ししていましたのよ。」
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 信一郎の言うべきことを、向うで言いながら、瑠璃子は、信一郎と並んで其処そこに空いていた椅子いすに腰を下した。
「あまりお見えにならないものですから、いらっしゃらないのかと思っていましたのよ。」
 信一郎の方から、改めて挨拶あいさつする機会のないほど、向うは親しく馴々なれなれしく、友達か何かのように言葉をかけた。
「先日は、うも失礼しました。」
 信一郎は、遅ればせに、ドギマギしながら、挨拶した。
「いゝえ! わたくしこそ。」
 彼女は、小波さざなみ一つ立たない池の面か何かのように、落着いていた。
 丁度、その時に兄のニコライ・セザレヴィッチが壇上に姿を現した。が、瑠璃子夫人は立とうとはしなかった。
「妾、しばらくここで聴かせていただきますわ。」
 彼女は、信一郎に言うともなく独語ひとりごとのようにつぶやいた。


     

 丁度その時、兄のセザレヴィッチのき初めた曲は、ショパンの前奏曲プレリュウドだった。聴衆は、水を打ったような静寂しじまうちに、全身の注意を二つの耳にあつめていた。が、その中で、信一郎の注意丈は、彼の左半身の触覚に、あふれるように満ち渡っていた。彼の左側には、瑠璃子夫人が、すわっていたからである。彼女は、故意にそうしているのかと思われるほどに、その華奢きゃしゃな身体を、信一郎の方へ寄せかけるように、坐っていた。
 信一郎は、淡彩に夏草を散らした薄葡萄色うすぶどういろの、金紗縮緬きんしゃちりめんの着物の下に、軽く波打っている彼女の肉体の暖かみをさえ、感じ得るように思った。
 彼女は、演奏が初まると、ぐ独語のように、「雨滴レインドロップスのプレリュウドですわね。」と、軽く小声で言った。それは、いかにもショパンの数多い前奏曲のうち、『雨滴の前奏曲』として、知られたる傑作だった。
 彼女は、演奏が進むに連れて、彼女のひざの、夏草模様に、実物剥製はくせいちょうが、群れ飛んでいるあたりを、其処そこに目に見えぬ鍵盤けんばんが、あるかのように、白い細い指先で、軽くしなやかに、打ち続けているのだった。しかも、それと同時に、彼女の美しい横顔プロフィイルは、本当に音楽がわかるものゝ感ずる恍惚こうこつたる喜悦で輝いているのだった。其処そこには日本の普通の女性には見られないような、精神的な美しさがあった。
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思想的にも、感覚的にも、開発された本当に新しい女性にしか、許されていないような、神々こうごうしい美しさがあった。
 信一郎は、時々彼女の横顔を、そのくっきりと通った襟足を、そっと見詰めずにはいられないほど、彼女独特の美しさに、心をかされずにはいられなかった。
 曲が、終りかけると、彼女は何人なんぴとよりも、先につつましい拍手を送った。
 快い緊張から夢のようにめながら、彼女は信一郎を顧みた。
「妹の方が、技巧は確ですけれども、どうも兄の方が、奔放で、自由で、それ丈天才的だと思いますのよ。」
「僕も同感です。」信一郎も、心からそう答えた。
貴君あなた、音楽お好き? ほゝゝゝ、わざ/\来て下さったのですもの、お好きにきまっていますわね。」
 彼女は、二度目に会ったばかりの信一郎に、少しの気兼もないように、話した。
「好きです。高等学校にいたときは、音楽会の会員だったのです。」
「ピアノおきになって?」
「簡単なバラッドや、マーチ位は奏けます。はゝゝゝゝ。」
「ピアノお持ちですか。」
「いいえ。」
「じゃ、わたくしの宅へ時々、奏きにいらっしゃいませ。誰も気の置ける人はいませんから。」
 彼女は、薄気味の悪いほど、馴々なれなれしかった。その時に、壇上には、妹のアンナが立っていた。
「バラキレフの『イスラメイ』をるのですね。随分難しいものを。」
 そう言いながら、彼女は立ち上った。
「みんなが、妾を探しているようですから、失礼いたしますわ。会が終りましたら、階下したの食堂でお茶を一緒に召上りませんか。約束して下さいますでしょうね。」
「はあ! 結構です。」
 信一郎は、何かの命令をでも、受けたように答えた。
「それでは後ほど。」
 彼女は、軽く会釈えしゃくすると、静まり返っている聴衆の間の通路を、わるびれもせずはるか前方の自分の席へ帰って行った。信一郎は可なり熱心な眼付で、彼女を見送った。
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 彼女が、席に着こうとしたとき彼女の席の周囲にいた、多くの男性と女性とは、彼女が席に帰って来たのを、女王でもが、帰還したように、銘々に会釈した。彼女が多くの男性に囲まれているのを見ると、信一郎の心は、妙な不安と動揺とを感ぜずにはいられなかったのである。


     

 それから、演奏が終ってしまうまで、信一郎は、ピアノの快い旋律せんりつと、瑠璃子夫人の残して行った魅惑的な移り香との中に、恍惚こうこつとして夢のような時間を過してしまった。
 最後の演奏が終って、華やかな拍手と共に、皆が立ち上ったとき、信一郎は夢から、さめたように席を立ち上った。
 彼は、自分から先刻さっきの約束を守るために、瑠璃子夫人を探し求めるほど大胆ではなかった。それかと言って、そのまま帰ってしまうには、彼は夫人の美しさに、支配され過ぎていた。彼は聴衆に先立って階段を降りたものゝ、階段の下で誰かを待ってでもいるように、躊躇ちゅうちょしていた。
 美しい女性の流れが、しばらくは階段を滑っていた。が、待っても、待っても夫人の姿は見えなかった。
 彼が、待ちあぐんでいるうちに、聴衆は降り切ってしまったと見え、下足の前にたたずんでいる人の数がだん/\まばらになって来た。
 彼は『一緒にお茶を飲もう。』と言うことが、ただ一寸ちょっとした、夫人のお世辞であったのではないかと思った。それを金科玉条のように、一生懸命に守って、待ちつゞけていた自分が、少し馬鹿ばからしくなった。夫人は、屹度きっと混雑を避けて、別の出口から、もうとっくに帰り去ったに違いない。そう思って、彼は軽い失望を感じながら、きびすを返そうとした時だった。階段の上から、軽い靴音と、やさしい衣擦きぬずれの音と、流暢りゅうちょう仏蘭西フランス語の会話とが聞えて来た。彼が、軽いおどろきを感じて、見上げると、階段の中途を静に降りかかっているのは、今日の花形スタアなるアンナ・セザレヴィッチと瑠璃子夫人とだった。その二人の洗い出したような鮮さが、信一郎の心を、深く深く動かした。一種敬虔けいけんな心持をさえいだかせた。白皙はくせき露西亜ロシア美人と並んでも、瑠璃子夫人の美しさは、その特色を立派に発揮していた。ことに、そのスラリとして高い長身は、すべての日本婦人が白人の女性と並び立った時の醜さから、彼女を救っていた。
 信一郎は、うっとりとして、名画の美人画をでも見るように、暫らくは見詰めていた。
 それと同じように、彼を駭かしたものは瑠璃子夫人の暢達ちょうたつ仏蘭西フランス語であった。
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仏法出の法学士である信一郎は、可なり会話にも自信があった。が、水のほとばしるように、自然に豊富に、美しい発音をもって、語られている言葉は、信一郎の心を魅し去らずにはいなかった。
 瑠璃子は、階段の傍に、ボンヤリ立っている信一郎には、一瞥いちべつも与えないで、アンナを玄関まで送って行った。
 其処そこで、後から来た兄のセザレヴィッチを待ち合わすと、兄妹が自動車に乗ってしまうまで、主催者の貴婦人達と一緒に見送っていた。彼女一人、兄妹を相手に、始終快活に談笑しながら。
 兄妹を乗せた自動車が、去ってしまうと、彼女は、初めて信一郎を見付けたように、いそいそと彼の傍へやって来た。
「まあ! 待っていて下さいましたの。随分お待たせしましたわ。でも兄妹を送り出すまで、幹事として責任がございますの。」
 彼女は、そう言いながら、帯の間から、時計を取り出して見た。それはやっぱり白金プラチナの時計だった。それを見た刹那せつな【瞬間】、不安ないやな連想が、電火いなずまのように、信一郎の心を走せ過ぎた。
「おやもう、六時でございますわ。お茶なんか飲んでいますと、遅くなってしまいますわ。如何いかがでございます。あのお約束は、またのことにして下さいませんか。ねえ! それでいゝでございましょう。」
「はあ! それで結構です。」
 信一郎は、従順なしもべのように答えた。
貴君あなた! お宅は何方どちら!」
信濃町しなのまちです。」
「それじゃ、院線で御帰りになるのですか。」
「市電でも、院線でもどちらでゞも帰れるのです。」
「それじゃ、院線で御帰りなさいませ。万世橋でお乗りになるのでしょう。わたくしの自動車で万世橋までお送りいたしますわ。」
 彼女は、それが何でもないことのように、微笑しながら言った。
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 わずか二度しか逢っていない、しかも確かな紹介もなく妙な事情から、知己ちき【知り合いしりあいになっている男性に――その職業も位置も身分も十分分っていない男性に、突然自動車の同乗を勧める瑠璃子夫人の大胆さに、勧められる信一郎の方が、かえってタジ/\となってしまった。信一郎は、一寸ちょっと狼狽ろうばいしながら、急いでそれを断ろうとした。
「いゝえ恐れ入ります。電車で帰った方が勝手ですから。」
「あら、そんなに改まって遠慮して下さると困りますわ。わたくし本当は、お茶でもいたゞきながら、ゆっくりお話がしたかったのでございますよ。それだのに、ついこんなに遅くなってしまったのですもの。せめて、一緒に乗っていたゞいて、お話したいと思いますの。死んだ青木さんのことなども、お話したいことがございますのよ。」
「でも御迷惑じゃございませんか。」
 信一郎は、もう可なり、同乗する興味に、動かされながら、それでも口先ではこう言って見た。
「あら、御冗談でございましょう。御迷惑なのは、貴君あなたではございませんか。」
 夫人の言葉は、銘刀のように鮮かなさえを持っていた。信一郎が、夫人の奔放な言葉に圧せられたように、モジ/\している間に、夫人はボーイに合図した。ボーイは、玄関に立って、声高く自動車を呼んだ。
 暮れなやむ初夏の宵の夕暗ゆうやみに、今点火したばかりの、まぶしいような頭光ヘッドライトを輝かしながら、青山の葬場で一度見たことのある青色大型の自動車は、軽い爆音を立てながら、玄関へ横付になった。会衆はことごとく散じ去って、供待するくるまも自動車一台も残っていなかった。
「さあ! 貴君から。」
 信一郎の確な承諾をも聴かないのにもかかわらず、夫人はそれにきまった事のように、信一郎を促した。
 そう勧められると、信一郎は不安と幸福とが、半分ずつ交ったような心持で、胸がき乱された。彼は、心から同乗することを欲していたのにも拘わらず、乗ることが何となく不安だった。その踏み段に足をかけることが、何だか行方知らぬ運命の岐路へ、一歩を踏み出すように不安だった。
「あら、何をそんなに遠慮していらっしゃるの。じゃ、妾が御先に失礼しますわ。」
 そう言うと、夫人は軽やかに、紫のフェルトの草履ぞうりで、踏台ステップを軽く踏んで、ヒラリと車中の人になってしまった。
「さあ! 早くお乗りなさいませ。」
 彼女は振りかえって、微笑と共に信一郎さしまねいた。
 相手が、そうまで何物にもとらわれないように、奔放に振舞っているのに、男でありながら、こだわり通しにこだわっていることが、信一郎自身にも、いやになった。
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彼は、思い切って、踏台ステップに足を踏みかけた。
 信一郎は、車中に入ると、夫人と対角線的に、前方の腰かけを、引き出しながら、腰を掛けようとした。
 夫人はおどろいたように、それを制した。
「あら、そんなことをなさっちゃ、困りますわ。まあ、殿方にも似合わない、何と言う遠慮深い方でしょう。さあ此方こちらへおかけなさい! 妾と並んで。そんなに遠慮なさるものじゃありませんよ。」
 信一郎を、たしなめるように、しかるように、夫人の言葉は力を持っていた。信一郎は、今はむを得ないと言ったように、夫人と擦れ/\に腰を降した。夫人の身体をおおうている金紗縮緬きんしゃちりめんいじりかゆいような触感が、衣服きもの越しに、彼の身体にみるように感ぜられた。
 給仕やボーイなどの挨拶あいさつに送られて、自動車は滑るように、玄関前の緩い勾配こうばいを、公園の青葉のやみへと、進み始めた。
 給仕人達の挨拶が、耳に入らないほど、信一郎は、はげしい興奮のうちに、夢みる人のように、恍惚こうこつとしていた。


     

 つい知り合ったばかりの女性、しかも美しく高貴な女性と、たった二度目に会ったときに、もう既に自動車に、同乗すると言うことが、信一郎には、さながら美しい夢のような、二十世紀の伝奇譚ロマンスの主人公になったような、不思議なよろこびを与えてれた。万世橋駅までの三四分が、彼の生涯に再び得がたい貴重な三四分のように思われた。彼の生涯を通じて、宝石のように輝く、尊い瞬間のように思われた。彼は、その時間を心の底から、け入れようと思っていた。が、そう決心した刹那せつな【瞬間】に、もう自動車は、公園のあお樹下闇このしたやみを、後に残して、上野山下にひろがる初夏の夜、そうだ、豊に輝ける夏の夜の描けるがごとき、光と色との中に、け入っているのだった。時は速い翼を持っている。が、の三四分の時間は、電光その物のように、アッと言う間もなく過ぎ去ろうとしている。
 試験の答案を書く時などに、時間が短ければ短いほど、冷静に筆を運ばなければならないのに、時間があまりに短いと、かえってわく/\して、少しも手が付かないように、信一郎も飛ぶが如くに、過ぎ去ろうとする時間を前にして、たゞ茫然ぼうぜんと手をこまぬいている丈だった。
 しかるに、瑠璃子夫人は悠然と、落着いていた。
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親しい友達か、でなければ自分の夫とでも、一緒に乗っているように、微笑を車内の薄暗うすやみに、漂わせながら、急に話しかけようともしなかった。
 丁度、自動車が松坂屋の前にさしかゝった時、信一郎は、やっと――と言っても、たゞ一分間ばかり黙っていたのに過ぎないが――会話のいとぐちを見付けた。
「先刻、一寸ちょっと立ち聴きした訳ですが、大変仏蘭西フランス語が、お上手でいらっしゃいますね。」
「まあ! お恥かしい。聴いていらしったの。動詞なんか滅茶苦茶めちゃくちゃなのですよ。単語を並べる丈。でもあのアンナと言う方、大変感じのいい方よ。大抵お話が通ずるのですよ。」
うして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。」
 信一郎は心でもそう思った。
「まあ! おめにあずかって有難いわ。でも、本当にお恥かしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古けいこした丈なのですよ。貴君あなたは仏法の出身でいらっしゃいますか。」
「そうです。高等学校時代から、六七年もやっているのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へ仏蘭西人が来ると、私丈が仏蘭西語が出来ると言うので、応接を命ぜられるのですが、その度ごとに、閉口するのです。奥さんなんか、このまゝぐ外交官夫人として、巴里パリー辺の社交界へ送り出しても、立派なものだと思います。」
 信一郎は、つい心からそうした賛辞さんじを呈してしまった。
「外交官の夫人! ほゝゝ、わたくしなどに。」
 そう言ったまゝ、夫人の顔は急に曇ってしまった。外交官の夫人。彼女の若き日のあこがれは、未来の外交官たる直也なおやの妻として、遠く海外の社交界に、日本婦人の華として、咲きいずることではなかったか。彼女が、仏蘭西語の稽古をしたことも、みんなそうした日のための、準備ではなかったか。それもこれも、今では煙の如くむなしい過去の思出となってしまっている。外交官の夫人と言われて、彼女の華やかな表情が、急に光を失ったのも無理はなかった。
 瞬間的な沈黙が、二人を支配した。
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自動車は御成おなり街道の電車の右側の坦々たんたんたる道を、速力を加えて疾駆しっくしていた。万世橋迄は、もう三町もなかった。
 信一郎は、もっとピッタリするような話がしたかった。
「仏蘭西文学は、お好きじゃございませんか。」
 信一郎は、夫人の顔をうかがうようにいた。
「あのう――好きでございますの。」
 そう言ったとき、夫人の曇っていた表情が、華やかな微笑で、ぬぐい取られていた。
「大好きでございますの。」
 夫人は、再び強く肯定した。


     

仏蘭西フランス文学が大好きですの。」と、夫人が答えた時、信一郎其処そこに夫人に親しみ近づいて行ける会話の範囲が、急に開けたように思った。文学の話、芸術の話ほど、人間を本当に親しませる話はない。同じ文学なり、同じ作家なりを、両方で愛していると言うことは、ある未知の二人を可なり親しみ近づける事だ。
 信一郎は、初めて夫人と交すべき会話の題目が見付かったようによろこびながら、勢よくき続けた。
「やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。」
「はい、近代のものとか、古典クラシックスとか申し上げるほど、沢山はよんでおりませんの。でも、モウパッサンなんか大嫌いでございますわ。うも日本の文壇などで、仏蘭西文学とか露西亜ロシア文学だとか申しましても、英語の廉価版チープエジションのある作家ばかりが、流行はやっているようでございますわね。」
 信一郎は、瑠璃子夫人の辛辣しんらつな皮肉に苦笑しながら訊いた。
「モウパッサンが、お嫌いなのは僕も同感ですが、じゃ、どんな作家がお好きなのです?」
「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌いではありませんわ。」
「メリメは、どんなものがお好きです。」
「みんないゝじゃありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になってしまいましたが、原作はほんとうにいゝじゃありませんか。」
「あの女主人公ヒロインを何うお考えになります。」
「好きでございますよ。」
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 言下にそう答えながら、夫人は嫣然にっこりと笑った。
わたくしそう思いますのよ。女に捨てられて、女を殺すなんて、本当に男性の暴虐ぼうぎゃくだと思いますの。男性の甚だしい我まわがままだと思いますの。大抵の男性は、女性から女性へと心を移していながら、平然と済していますのに、女性が反対に男性から男性へと、心を移すと、ぐ何とか非難を受けなければなりませんのですもの。妾、ホセに刺し殺されるカルメンのことを考える度ごとに、男性の我ままと暴虐とを、いきどおらずにはいられないのです。」
 夫人の美しい顔が、興奮していた。やゝ薄赤くほてった頬が、悩しいほどに、魅惑的チャーミングであった。
 信一郎は生れて初めて、男性と対等に話し得る、立派な女性に会ったように思った。彼は、はしなくも、自分の愛妻の静子のことを考えずにはいられなかった。彼女は、愛らしくつつましく従順貞淑な妻には違いない。が、趣味や思想の上では、自分の間に手の届かないように、広い/\へだたりが横わっている。天気の話や、衣類の話や、食物の話をするときには立派な話相手に違いない。
 が、話が少しでも、高尚になり精神的になると、もう小学生と話しているような、もどかしさと頼りなさがあった。同伴の登山者が、わずか一町か二町か、離れているのなら、さしまねいてやることも出来れば、声を出して呼んでやることも出来た。が、二十町も三十町も離れていれば、何うすることも出来ない。信一郎は、趣味や思想の生活では、静子に対してそれほどの隔を感ぜずにはいられなかった。
 が、彼は今までは、あきらめていた。日本婦人の教養が現在の程度で止まっている以上、そうしたことを、妻に求めるのは無理である。それは妻一人の責任ではなくして、日本の文化そのものの責任であると。
 が、彼は今瑠璃子夫人と会って話していると、日本にも初めて新しい、趣味の上から言っても、思想の上から言っても優に男性と対抗し得るような女性の存在し始めたことを知ったのである。夫人と話していると、妻の静子ってみたされなかった欲求が、わずか三四分の同乗に依って、十分に充たされたように思った。
 そう思ったとき、その貴い三四分間は、過ぎていた。
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自動車は、万世橋の橋上を、やゝ速力を緩めながら、走っていた。
「いやどうも、大変有難うございました。」
 信一郎は、そう挨拶あいさつしながら、降りるために、腰を浮かし始めた。
 その時に、瑠璃子夫人は、突然何かを思い出したように言った。
貴君あなた! 今晩お暇じゃなくって?」


     

「貴君! 今晩おひまじゃなくって?」
 と、言う思いがけない問に、信一郎は立ち上ろうとした腰を、つい降してしまった。
「暇と言いますと。」
 信一郎は、夫人の問の真意をしかねて、ついそうき返さずにはいられなかった。
「何かお宅に御用事があるかどうか、お伺いいたしましたのよ。」
「いゝえ! 別に。」
 信一郎は夫人が、何を言い出すだろうかと言う、軽い好奇心に胸を動かしながら、そう答えた。
「実は……」夫人は、微笑を含みながら、一寸ちょっと言いよどんだが、「今晩、演奏が済みますと、あの兄妹の露西亜ロシア人を、晩餐ばんさんかたがた帝劇へ案内してやろうと思っていましたの。それでボックスを買って置きましたところ、向うがむを得ない差支さしつかえがあると言って、辞退しましたからわたくし一人でこれから参ろうかと思っているのでございますが、一人ボンヤリ見ているのも、何だか変でございましょう。如何いかがでございます、もし、およろしかったら、付き合って下さいませんか。どんなに有難いか分りませんわ。」
 夫人は、心から信一郎の同行を望んでいるように、余儀ないように誘った。
 信一郎の心は、そうした突然の申出を聴いた時、可なり動揺どうようせずにはいなかった。今までの三四分間でさえ彼に取ってどれほど貴重な三四分間であるか分らなかった。夫人の美しい声を聞き、その華やかな表情に接し、女性として驚くべきほど、進んだ思想や趣味を味わっていると、彼には今まで、閉されていた楽しい世界が、夫人との接触にって、洋々と開かれて行くようにさえ思われた。
 そうした夫人と、今宵こよい一夜を十分に、語ることが出来ると言うことは、彼にとってどれほどな、幸福とよろこびを意味しているか分らなかった。
 彼は、ぐ同行を承諾しようと思った。が、その時に妻の静子の面影が、チラッと頭をかすめ去った。
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新橋へ、人を見送りに行ったと言う以上、二時間もすれば帰って来るべきはずの夫を、夕餉ゆうげの支度をえて、ボンヤリと待ちあぐんでいる妻の邪気あどけない面影が、しばらく彼の頭を支配した。その妻を、十時過ぎ、恐らく十一時過ぎ迄も待ちあぐませることが、どんなに妻の心をいたませることであるかは、彼にもハッキリと分っていた。
「如何でございます。そんなにお考えなくっても、手軽にめて下さっても、およろしいじゃありませんか。」
 夫人は躊躇ちゅうちょしている信一郎の心に、拍車はくしゃを加えるように、やゝ高飛車にそう言った。信一郎の顔をじっと見詰めている夫人の高貴ノーブルおごそかに美しい面が、信一郎の心の内の静子つつましい可愛かわいい面影を打ち消した。
「そうだ! 静子と過すべき晩は、これからの長い結婚生活に、幾夜だってある。飽き/\するほど幾夜だってある。が、こんな美しい夫人と、一緒に過すべき機会がそう幾度もあるだろうか。こんな浪漫的ロマンチックな美しい機会が、そう幾度だってあるだろうか。生涯に再びとは得がたいたゞ一度の機会であるかも知れない。こうした機会を逸しては……」
 そう心の中で思うと、信一郎の心は、かごを放れたはとか何かのように、フワ/\となってしまった。彼は思い切って言った。
「もし貴女あなたさえ、御迷惑でなければお伴いたしてもいゝと思います。」
「あらそう。付き合って下さいますの。それじゃ、直ぐ、丸の内へ。」
 夫人は、後の言葉を、運転手へ通ずるように声高く言った。
 自動車は、緩みかけた爆音を、再び高く上げながら、車首を転じて、夜の須田町すだちょうの混雑の中を泳ぐように、けり始めた。
 電車道の、鋪石ペーヴメントが悪くなっているせいか、車台はしきりに動揺した。信一郎の心も、それに連れて、軽い動揺を続けている。
 車が、小川町の角を、急に曲ったとき、夫人は思い出したように、とぼけたように訊いた。
「失礼ですが、奥様おありになって?」
「はい。」
「御心配なさらない! 黙って行らしっては?」
「いゝえ。決して。」
 信一郎は、言葉丈は強く言った。が、その声には一種の不安が響いた。
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 帝劇の南側の車寄の階段を、夫人と一緒に上るとき、信一郎の心は、再び動揺した。この晴れがましい建物の中に、其処そこにはどんな人々がいるかも知れない群衆の中へ、こうした美しい、それ丈人目をやすい女性と、たった二人連れ立って、公然と入って行くことが、可なり気になった。
 が、信一郎のそうした心遣いを、たすけるように、舞台では今丁度幕が開いたと見え、廊下には、遅れた二三の観客が、急ぎ足に、座席シートへ帰って行くところだった。
 夫人と並んで、広いむなしいボックスの一番前方に、腰を下したとき、信一郎はやっと、自分の心が落着いて来るのを感じた。舞台が、煌々こうこうと明るいのに比べて、観客席が、ほの暗いのがうれしかった。
 夫人は席へ着いたとき、二三分ばかり舞台を見詰めていたが、ふと信一郎の方を振り返ると、
「本当に御迷惑じゃございませんでしたの。芝居はお嫌いじゃありませんの。」
「いゝえ! 大好きです。もっとも、今の歌舞伎かぶき芝居には可なり不満ですがね。」
わたくしも、そうですの。外に行くところもありませんからよく参りますが、妾達の実生活と歌舞伎芝居の世界とは、もう丸きり違っているのでございますものね。歌舞伎に出て来る女性と言えば、みんな個性のない自我のない、古い道徳の人形のような女ばかりでございますのね。」
「同感です。全く同感です。」
 信一郎は、心から夫人のすぐれた見識を賛嘆さんたんした。
「親や夫に臣従しないで、もっと自分本位の生活を送ってもいゝと思いますの。古い感情や道徳にとらわれないで、もっと解放された生活を送ってもいゝと思いますの。英国のある近代劇の女主人公が、男が雲雀スカイラークのように、多くの女とたわむれることが出来るのなら、女だって雲雀スカイラークのように、多くの男と戯れる権利があると申しておりますが、そうじゃございませんでしょうか。妾もそう思うことがございますのよ。」
 夫人は、周囲の静けさをみださないように、出来る丈信一郎の耳に口を寄せて語りつゞけた。夫人の温いかおるような呼吸が、信一郎のほてった頬を、柔かにでるごとに、信一郎身体中からだじゅうが、とろけてしまいそうな魅力を感じた。
「でも、貴君あなたなんか、そうした女性は、お好きじゃありませんでしょうね。」そう、信一郎の耳に、あたゝかくささやいて置きながら、夫人は顔を少し離して嫣然にっこりと笑って見せた。
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男の心を、みだしてしまうようなこびが、そのスラリとした身体全体に動いた。
 夫人の大胆な告白と、美しい媚のために、信一郎は、目がくらんだように、フラ/\としてしまった。美しい妖精ようせいに魅せられた少年のように、信一郎は顔を薄赤く、ほてらせながら、たゞ茫然ぼうぜんと黙っていた。
 夫人は、ひらりと身をかわすように、真面目まじめなしんみりとした態度に帰っていた。
「でも、妾、こんな打ち解けたお話をするのは、貴君が初めてなのよ、文学や思想などに、理解のない方に、こんなお話をすると、ぐ誤解されてしまうのですもの、妾、かねてから、貴君のようなお友達が欲しかったの、本当に妾の心持を、聴いて下さるような男性のお友達が、欲しかったの、二人の異性の間には、真の友情は成り立たないなどと言うのは嘘でございますわね、異性の間の友情は、恋愛への階段だなどと言うのは、嘘でございますわね。本当に自覚している異性の間なら、立派な友情が何時いつまでも続くと思いますの。貴方と妾との間で、先例を開いてもいゝと思いますわ。ほゝゝゝ。」
 夫人は、真の友情を説きながらも、その美しい唇は、悩ましきまでに、信一郎の右の頬近く寄せられていた。信一郎は、うっとりとした心持で、阿片アヘン吸入者が、毒と知りながら、その恍惚こうこつたる感覚に、身体をまかせるように、夫人のみつのように甘い呼吸と、音楽のように美しい言葉とに全身を浸していた。

客間の女王



     

 帝劇のボックスに、夫人と肩を並べて、過した数時間は、信一郎に取っては、夢ともうつつとも分ちがたいような恍惚こうこつたる時間だった。
 夫人の身体全体から出る、馥郁ふくいくたる女性の香が、彼の感覚をただらし、彼の魂を溶かしたと言ってもよかった。
 彼は、その夜、半蔵門まで、夫人と同乗して、其処そこで新宿行の電車に乗るべく、彼女と別れたとき、自動車の窓から、夜目にもくっきりと白い顔を、のぞかしながら、
「それでは、この次の日曜に屹度きっとお訪ね下さいませ。」と、びるような美しい声で叫んだ夫人の声が、彼の心の底の底まで徹するように思った。彼は、其処そこに化石した人間のように立ち止まって、葉桜の樹下闇このしたやみを、ほの/″\と照し出しながら、遠く去って行く自動車の車台の後の青色の灯を、何時いつまでも何時までも見送っていた。彼の頬には、なお夫人の甘い快い呼吸いきにおいが漂うていた。彼の耳の底には、夫人の此世ならぬ美しい声の余韻が残っていた。彼の感覚も心も、夫人に酔うていた。
 彼の耳にささやかれた夫人の言葉が、甘いみつのような言葉が、一つ/\記憶のうちよみがえって来た。
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『自分を理解してれる最初の男性』とか、『そんな女性をお好きじゃありませんの』と言ったような馴々なれなれしい言葉が、それが語られた刹那せつな【瞬間】の夫人の美しいこびのある表情と一緒に、信一郎の頭を悩ました。
 自分が、生れて始めて会ったと思うほどの美しい女性から、ただ一人の理解者として、馴々しい信頼を受けたことが、彼の心を攪乱かくらんし、彼の心を有頂天にした。
 彼の頭の裡には、もう半面紫色になった青木じゅんの顔もなかった。なぞ白金プラチナの時計もなかった。愛している妻の静子の顔までが、此の﨟《ろう》たけた瑠璃子るりこ夫人の美しい面影のために、屡々しばしばき消されそうになっていた。
 十二時近く帰って来た夫を、妻は何時ものように無邪気に、何の疑念もないように、いそいそと出迎えた。そうしたしとやかな妻の態度に接すると、信一郎は可なり、心の底に良心の苛責かしゃくを感じながらも、しかも今迄は可なり美しく見えた妻の顔が、平凡に単純に、見えるのをうともすることが出来なかった。
 その次ぎの日曜まで、彼は絶えず、美しい夫人の記憶に悩まされた。食事などをしながらも、彼の想像は美しい夫人を頭の中に描いていることが多かった。
「あら、何をそんなにぼんやりしていらっしゃいますの、今度の日曜は何日? と言ってお尋ねしているのに、たゞ『うむ! うむ!』と言っていらっしゃるのですもの。何をそんなに考えていらっしゃるの?」
 静子は、夫がボンヤリしているのが、可笑おかしいと言いながら、給仕をする手を止めて、笑いこけたりした。夫が、他の女性のことを考えて、ボンヤリしているのを、可笑しいと言って無邪気に笑いこける妻のいじらしさが、分らない信一郎ではなかったが、それでも彼は刻々に頭の中に、浮んで来る美しい面影をぬぐい去ることが出来なかった。
 到頭夫人と約束した次ぎの日曜日が来た。その間の一週間は、信一郎に取っては、一月も二月もに相当した。彼は、自分がその日曜を待ちあぐんでいるように、夫人がやっぱりその日曜を待ち望んでいて呉れることを信じて疑わなかった。
 夫人が、自分を唯一人の真実の友達として、選んで呉れる。夫人と自分との交情こうじょうが発展して行く有様が、いろ/\に頭の中に描かれた。異性の間の友情は、恋愛の階段であると、夫人が言った。
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もしそれがそうなったら、何うしたらよいだろう。あの自由奔放な夫人は、屹度きっと言うだろう。
「それが、そうなったって、別に差支さしつかえはないのよ。」
 夫のない夫人はそれで差支がないかも知れない。が、自分は何うしたらいゝだろう。妻のある自分は。結婚して間もない愛妻のある自分は。
 信一郎は、そうした取りとめもない空想に頭を悩ましながら、七月の最初の日曜の午後に、夫人を訪ねるべく家を出た。
 夫人を訪ねるのも、二度目であった。が、妻をあざむくのも二度目であった。
「社の連中と、午後から郊外へ行く約束をしたのでね。新宿で待ち合わして、多摩川へ行くはずなのだよ。」
 帽子を持って送って出た静子に、彼は何気なくそう言った。


     

 電車に乗ってからも、妻を欺いたと言う心持が、可なり信一郎を苦しめた。が、あの美しい夫人が自分が尋ねて行くのを、じっと待っていて呉れるのだと思うと、電車の速力さえ平素いつもよりは、鈍いように思われた。
 夫人と会ってからの、談話の題目などが、頭の中に次から次へと、浮んで来た。文芸や思想の話に就ても、今日はもっと、自分の考えも話して見よう。自分の平生の造詣ぞうけいを、十分披瀝ひれきして見よう。信一郎はそう考えながら、夫人のそれに対する溌剌はつらつたる受答や表情を絶えず頭の中に描き出しながら何時いつの間にか五番町の広壮こうそうな夫人の邸宅の前に立っている自分を見出みいだした。
 おほりどての青草や、向う側の堤の松や、大使館前の葉桜の林などには、十日ほど前に来たときなどよりも、もっと激しい夏の色が動いていた。
 十日ほど前には、可なりビク/\とくぐった花崗石みかげいしらしい大石門を、今日は可なり自信にちた歩調で潜ることが出来た。
 かえでを植え込んである馬車回しの中に、たゞ一本の百日紅さるすべりが、もう可なり強い日光の中に、赤く咲き乱れているのが目に付いた。
 さすがに、大理石の柱が、並んでいる車寄せに立ったとき、胸があやしく動揺するのを感じた。
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が、夫人が別れぎわに、再び繰り返して、
「本当にお暇なとき、何時でもいらしって下さい。誰も気の置ける人はいませんのよ。わたくしがお山の大将をしているのでございますから。」と、言った言葉が、彼に元気を与えた。その上に、あれほど堅く約束した以上、屹度きっと心から待っていてれるに違ない。心から、よろこび迎えて呉れるに違ない。そう思いながら、彼は「押プッセ!」と、仏蘭西フランス語で書いてある呼鈴に手を触れた。
 この前、来たときと同じように、小さい軽い靴音が、それに応じた。ドアが静に押し開けられると、一度見たことのある少年が、名刺受の銀の盆を、手にしながら、笑靨えくぼのある可愛かわいい顔を現した。
「あのう、奥様にお目にかゝりたいのですが。」
 信一郎が、そう言うと少年は待っていたと言わんばかりに、
「失礼でございますが、渥美あつみさまとおっしゃいますか。」
 信一郎は軽く肯いた。
渥美さまなら、うかお通り下さいませ。」
 少年は、慇懃いんぎんドアを開けて、奥をゆびさした。
「何うか此方こちらへ。今日は奥の方の客間にいらっしゃいますから。」
 敷き詰めてある青い絨毯じゅうたんの上を、少年の後から歩む信一郎の心は、可なり激しく興奮した。自分の名前を、ちゃんと玄関番へ伝えてある夫人の心遣いが、うれしかった。一夜夫人と語り明したことさえ生涯に二度と得がたい幸福であると思っていた。それが、一夜限りのむなしい夢と消えないで、実生活の上に、ちゃんとした根を下して来たことが、信一郎にはこの上なく嬉しかった。彼は絨毯の上を、しっかりと歩んでいたつもりであったが、もし傍観者があったならば、その足付が、宛然まるきり躍っているように見えたかも知れない。夫人と、美しい客間で二人り、何の邪魔もなしに、日曜の午後を愉快に語り暮すことが出来る。そうした楽しい予感で、信一郎の心は、はち切れそうに一杯だった。
 長い廊下を、十間ばかり来たとき、少年は立ち止まって、其処そこの扉を指した。
此方こちらでございます。」
 信一郎は、その中に瑠璃子夫人が、腕椅子いすに身体を埋ませるように掛けながら、自分を待っているのを想像した。
 彼は、興奮の余り、かすかにふるえそうな手を扉の把手ハンドルにかけた。
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彼が、胸一杯の幸福と歓喜とに充されて、その扉を静かに開けたとき、部屋の中から、波の崩れるように、ワーッと彼を襲って来たものは、数多い男性が一斉に笑った笑い声だった。
 彼は、不意に頭から、水をかけられたように、ゾッとして立ちすくんだ。


     

 彼がハッと立ちすくんだ時には、もう半身は客間の中に入っていた。
 すべてが、意外だった。瑠璃子夫人の華奢きゃしゃなスラリとした、身体の代りに、其処そこに十人に近い男性が色々な椅子いすに、いろいろな姿勢でって陣取っていた。瑠璃子夫人はと見ると、これらの惑星に囲まれた太陽のように、客間の中央に、女王のような美しさと威厳とを以て、大きい、彼女の身体をうずめてしまいそうな腕椅子に、ゆったりと腰を下していた。
 楽しい予想が、滅茶々々になってしまった信一郎は、もし事情が許すならば、一目散に逃げ出したいと思った。が、彼が一足踏み入れた瞬間に、もうみんなの視線は、彼の上にあつまっていた。
「あゝ、お前もやって来たのだな。」と、言ったような表情が、薄笑いと共に、彼等の顔の上に浮んでいた。信一郎は、そうした表情にって可なり傷つけられた。
 瑠璃子夫人は、さすが目敏めざとく彼を見ると、ぐ立ち上った。
「あ、よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ。お掛け下さいまし。先刻からお待ちしていました。」
 そう言いながら、彼女は部屋の中を見回して、空椅子を見付けると、その空椅子の直ぐ傍にいた学生に、
「あゝ阿部あべさん一寸ちょっとその椅子を!」と、言った。
 するとその学生は、命令をでも受けたように、
「はい!」と、言って気軽に立ち上ると、その椅子を、夫人の美しい眼で、命ずるまゝに、夫人の腕椅子の直ぐ傍へ持って来た。
「さあ! お掛けなさいませ。」
 そう言って、夫人は信一郎さしまねいた。どちらかと言えば、小心な信一郎は、多くの先客を押し分けて、夫人の傍近くすわることが、可なり心苦しかった。彼は、自分の頬が、可なりほてって来るのに気が付いた。
 信一郎が椅子に着こうとすると夫人は一寸押し止めるようにしながら言った。
「そう/\。一寸御紹介して置きますわ。
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この方、法学士の渥美信一郎さん。三菱みつびしへ出ていらっしゃる。それから、茲にいらっしゃる方は、――そう右の端から順番に起立していたゞくのですね、さあ小山さん!」
 と彼女は傍若無人と言ってもよいように、一番縁側の近くに坐っている、若いモーニングを着た紳士を指した。紳士は、柔順すなおにモジ/\しながら立ち上った。
「外務省に出ていらっしゃる小山男爵だんしゃく。その次の方が、洋画家の永島龍太さん。の次の方が、帝大の文科の三宅さん、作家志望でいらっしゃる。その次の方が、慶応の理財科の阿部さん、第一銀行の重役の阿部保さんのお子さん。その次の方が日本生命へ出ていらっしゃる深井さん、高商出身の。その次の方が、寺島さん、御存じ? 近代劇協会にいたことのある方ですわ。其の次の方は、芳岡さん! 芳岡伯爵の長男でいらっしゃる。彼処あそこに一人離れていらっしゃる方が、富田さん! 政友会の少壮代議士として有名な方ですわ。みんな私のお友達ですわ。」
 夫人は、夫人の眼に操られて、次から次へと立ち上る男性を、出席簿でも調べるように、よどみなく紹介した。
 信一郎は、可なり激しい失望と幻滅とで、夫人の言葉が、耳に入らぬ程不愉快だった。自分一人を友達として選ぶと言った夫人が、十人に近い男性を、友人として自分に紹介しようとは、彼は憤怒ふんぬ嫉妬しっととの入り交じったような激高で、眼がくらめくようにさえ感じた。彼は直ぐ席をって帰りたいと思った。が、何事もないように、こぼれるように微笑している夫人の美しい顔を見ていると、胸の中の激しい憤怒が春風に解くるように、何時いつの間にか、消えてゆくのを感じた。
 コロネーションに結った黒髪は、夫人の長身にピッタリと似合っていた。黒地に目もめるような白い棒縞ぼうじまのお召が、夫人の若々しさを一層引立てゝいた。白地の仏蘭西縮緬フランスちりめんの丸帯に、施された薔薇ばら刺繍ししゅうは、におい入りと見え、人の心を魅するような芳香が、夫人の身辺を包んでいる。
 信一郎の失望も憤怒も、夫人のあざやかな姿を見ていると、何時の間にかでられるように、和んで来るのだった。


     

渥美さん! 今大変な議論が始まっているのでございますよ。
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明治時代第一の文豪は、誰だろうと言う問題なのでございますよ。貴君あなたの御説も伺わして下さいませな。」
 夫人は、信一郎を会話の圏内けんないに入れるように、取りしてれた。が、初めて顔を合わす未知の人々を相手にして、ぐおいそれ! と文学談などをやる気にはなれなかった。その上に、夫人から、帝劇のボックスで聴いた「こんなに打ち解けた話をするのは、貴君が初めてなのよ。」と、言うような、今となっては白々しいうそが、彼の心をえぐるように思い出された。
「だって奥さん! 独歩には、いゝ芽があるかも知れません。が、しかしあの人は先駆者だと思うのです。本当に完成した作家ではないと思うのです。」
 信一郎が、何も言い出さないのを見ると、三宅と言う文科の学生が、可なり熱心な口調でそう言った。先刻から続いて、明治末期の小説家国木田独歩を論じているらしかった。
「それに、独歩のような作品は、外国の自然派の作家には幾何いくらでもあるのだからね。先駆者と言うよりも、ある意味では移入者だ。日本の文学に対して、ある新鮮さを寄与したことは確だが、それがあの人の創造であるとは言われないね。外国文学の移植なのだ。ねえ! そうではありませんか、奥さん!」
 モーニングを着た小山男爵だんしゃくは、自分の見識に対する夫人の賞賛しょうさんを期待しているように、自信にちて言った。
「でもわたくし、可なり独歩を買っていますのよ。明治時代の作家で、本当に人生を見ていた作家は、独歩の外にそう沢山はないように思いますのよ。ねえ、そうじゃございませんか。渥美さん。」
 夫人は、多くの男性の中から、信一郎丈を、選んだように、信一郎の賛意を求めた。が、信一郎は不幸にも、独歩の作品を、余り沢山読んでいなかった。四五年も前に、『運命論者』や『牛肉と馬鈴薯ばれいしょ』などを読んだことがあるが、それがう言う作品であったか、もう記憶にはなかった。が、夫人に話しかけられて、たゞ盲従的もうじゅうてきに返答することも出来なかった。その上、彼は周囲の人達に対する手前、何かにか自分の意見を言わねばならぬと思った。
「そうかも知れません。
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が、明治文壇の第一の文豪として推すのには、少し偏しているように思うのです。やはり、月並ですが、明治の文学は紅葉などに代表させたいと思うのです。」
「尾崎紅葉!」小山男爵は、『クスッ』と冷笑するような口調で言った。
「『金色夜叉やしゃ』なんか、今読むと全然通俗小説ですね。」
 文科の学生の三宅が、その冷笑を説明するように、吐出すように言った。
 瑠璃子夫人は、三宅の思い切った断定を嘉納かのうするように、ニッと微笑びしょうもらした。信一郎は初めて、口を入れて、直ぐ横面よこっつらたたかれたように思った。瑠璃子夫人までが、微笑でもって、相手の意見を裏書したことが、更に彼の心を傷けた。彼は思わず、ムカ/\となって来るのをうともすることが出来なかった。彼は、自分の顔色が変るのを、自分で感じながら、死身になって口を開いた。
「『金色夜叉』を通俗小説だと言うのですか。」
 彼の口調は、詰問きつもんになっていた。
「無論、それは読む者の趣味の程度にることだが、僕には全然通俗小説だと思われるのです。」
 若い文科大学生は、何の遠慮もしないで、彼の信念を昂然こうぜんと語った。
「それは、貴君あなたが作品と時代と言うことを考えないからです。現在の文壇の標準から言えば、『金色夜叉』の題目テーマなんか、通俗小説にちがいないです。が、然しそれは『金色夜叉』の書かれた明治三十五年から、現在まで二十年も経過していることを忘れているからです。現在の文壇で、貴君が芸術的小説だと信じているものでも、二十年もてば、みんな通俗小説になってしまうのです。過去の作品を論ずるのには、時代と言うことを考えなければ駄目です。『金色夜叉』は今読めば通俗小説かも知れませんが、明治時代の文学としては、立派な代表的作品です。」
 信一郎は、思いの外に、スラ/\と出て来る自分の雄弁に興奮していた。
「過去の文学を論ずるには、やはり文学史的に見なければ駄目です。」
 彼は、きっぱりと断定するように言った。
「それもそうですわね。」
 瑠璃子夫人は、信一郎素人しろうと離れした主張を、感心したように、しみ/″\そう言った。信一郎にわかに勇敢になって来た。


     

 瑠璃子夫人が、新来の信一郎ことに文学などの分りそうもない会社員の信一郎の言葉に、賛成したのを見ると、今度は三宅小山男爵だんしゃくとの二人が、躍気になった。
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 殊に青年の三宅は、その若々しい浅黒い顔を、心持薄赤くしながら可なり興奮した調子で言った。
「時代がてば、どんな芸術的小説でも、通俗小説になる。そんな馬鹿ばかな話があるものですか。芸術的小説は何時いつが来たって、芸術的小説ですよ。日本の作家でも、西鶴さいかくなどの小説には、何時が来てもほろびない芸術的分子がありますよ。天才的なひらめきがありますよ。それに比べると、尾崎紅葉なんか、徹頭徹尾通俗小説ですよ。紅葉の考え方とか物の観方みかたと言うものは、常識の範囲を、一歩も出ていないのですからね。たゞ、洗練せんれんされた常識に過ぎないのですよ。例えば『三人妻』など言う作品だって如何いかにも三人の妻の性格を描き分けてあるけれども、それが世間に有り触れた常識的タイプに過ぎないのですからね。紅葉をもって、明治時代の文学的常識を、代表させるのなら差支さしつかえないが、第一の文豪として、紅葉を推す位なら、むしろ露伴柳浪美妙、そんな人の方を僕は推したいね。」
 三宅の語り終るのを待ち兼ねたように、小山男爵は、横から口を入れた。
「第一『金色夜叉やしゃ』なんか、あんなに世間で読まれていると言うことが、通俗小説である第一の証拠だよ。万人向きの小説なんかに、ろくなものがある訳はないからね。」
 二人の、攻撃的な挑戦的な口調を聴いていると、信一郎もつい、ムカ/\となってしまった。瑠璃子夫人はと見ると、その平静な顔に、けしかけるような微笑をたたえて、『貴君あなたも負けないで、しっかりおやりなさい。』と、言うように信一郎の顔を見ていた。
「それは可笑おかしいですな。」
 そう言いながら、信一郎何処どこか貴族的な傲慢ごうまんさが、ただようている小山男爵の顔をじっと見た。
「そんな暴論はありませんよ。広く読まれているのが、通俗小説の証拠ですって、そんな暴論はないと思いますね。そう言う議論をすれば、沙翁シェクスピアの戯曲だって、通俗戯曲だと言うことになるじゃありませんか。ホーマアの詩だって、ダンテの神曲だって、みんな広く読まれていると言う点で、通俗的作品と言うことになりそうですね。僕は、そうは思いませんよ。それと反対に、立派な芸術的作品ほど、時代が経てば、だん/\通俗化して行くのだと思うのですね。
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トルストイの作品が日本などでも段々通俗化して来たように、通俗化して行かない作品こそ、かえって何かの欠陥があると思うのですね。御覧なさい! 馬琴でも西鶴でも、通俗化して行けばこそ、後代に伝わるのじゃありませんか。『金色夜叉』が通俗化しているからと言って、あの小説の芸術的価値を否定することは出来ませんよ。僕は芸術的にすぐれていればこそ、民衆の教養が進むに従って、段々通俗化して行ったのだと思うのです。紅葉の考え方や、観方はいかにも常識的かも知れません。が、然し作品全体の味とかその表現などにこそ、却って芸術的な価値があるのじゃありませんか。あの作品の規模きぼの大きさから言っても、画面的に描き出す手腕から言っても、明治時代無二の作家と言ってもよいと思うのです。いや、あの鼈甲牡丹べっこうぼたんのように、絢爛けんらん華麗な文章丈を取っても、優に明治文学の代表者として、推す価値が十分だと思うのです。」
 信一郎は、可なり熱狂してしゃべった。法科に籍を置いていたが、高等学校に入学の当時には、父の反対さえなければ、よろこんで文科をやったはず信一郎は、文学に就ては自分自身の見識を持っていた。
 信一郎の意外な雄弁に、半可な文学通に過ぎない小山男爵は、もうとっくに圧倒されたと見え、その白い頬を、心持赤くしながら、不快そうに黙ってしまった。
 三宅は、言い込められた口惜しさを、うかして晴そうと、駁論ばくろんの筋道を考えているらしく口の辺りをモグ/\させていた。
渥美さんは、本当に立派な文芸批評家でいらっしゃる。わたくし全く感心してしまいましたわ。」
 瑠璃子夫人は、心から感心したように、賞賛しょうさんの微笑を信一郎に注いだ。
 信一郎は、女王の御前仕合で、見事な勝利をた騎士のように、晴れがましい揚々たる気持になっていた。
「然し……」と、三宅と言う青年が、必死になって駁論を初めようとした時だった。
 廊下に面したドアを、外からコツ/\とたたく音がした。


     

誰方どなた?」
 夫人は、扉をたたく音に応じてそう言った。
「僕です。」
 外の人は明晰めいせきな、美しい声でそう答えた。
「あら、秋山さんなの。丁度よいところへ。」
 夫人は、そう言いながら、いそ/\と椅子いすを離れた。信一郎が、入って来たときは、夫人はたゞ椅子から、腰を浮かした丈だったのに。
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 夫人が、手ずから扉を開けると、『僕です。』と、名乗った男は、軽く会釈えしゃくをしながら、入って来た。信一郎は、一目見たときに、何処どこかで見覚えのある顔だと思ったが、一寸ちょっと思い出せなかった。が、一目見た丈で、作家か美術家であることは、わかった。白い面長な顔に、黒い長髪を獅子ししの立髪か何かのように、振り乱していた。が、頭は極端に奔放であるにもかかわらず、薩摩さつま上布の衣物きものに、鉄無地のの薄羽織はおりを着た姿は、可なり瀟洒しょうしゃたるものだった。夫人はその男とは、立ちながら話した。
しばら御無沙汰ごぶさた致しました。」
「ほんとうに長い間お見えになりませんでしたのね。箱根へおでになったって、新聞に出ていましたが、行らっしゃらなかったの。」
「いや、何処へも行きやしません。」
「それじゃ、やっぱり例の長編で苦しんでいらしったの。本当に、わたくしの家へいらっしゃる道を忘れておしまいになったのかと思っていましたの。ねえ! 三宅さん。」
 夫人は、三宅と言う学生を顧みた。
「やあ!」
「やあ!」
 三宅とその男とは顔を見合して挨拶あいさつした。
「本当に、暫らくお見えになりませんでしたね。貴君あなたが、いらっしゃらないと、此処ここ客間サロンさみしくていけない。」
 三宅は、後輩が先輩に迎合するような、口のき方をした。
「さあ! 秋山さん! 此方こっちへお掛けなさいませ。本当によい所へらしったわ。今貴君に断定を下していたゞきたい問題が、起っていますのよ。」
 そう言いながら、今度は夫人自ら、空いた椅子を、自分の傍へ、置き換えた。
「さあ! お掛けなさいませ! 貴君の御意見が、伺いたいのよ。ねえ! 三宅さん!」
 信一郎に、説きされていた三宅は、援兵を得たように、勇み立った。
「さあ、是非秋山さんの御意見を伺いたいものです。ねえ! 秋山さん、今明治時代の第一の小説家は、誰かと言う問題が、起っているのですがね、貴君のお考えは、うでしょう。こう言う問題は、専門家でなければ駄目ですからね。」
 三宅は、最後の言葉を、信一郎に当てこするように言った。瑠璃子夫人までが、その最後の言葉を説明するように信一郎に言った。
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の方、秋山正雄さん、御存じ! あの赤門派あかもんはの新進作家の。」
 秋山正雄、そう言われて見れば、最初見覚えがあると思ったのは、間違っていなかったのだ。信一郎が一高の一年に入った時、その頃三年であった秋山氏は文科の秀才として、何時いつも校友会雑誌に、詩や評論を書いていた。それが、大学を出ると、見る間に、メキ/\と売り出して、今では新進作家の第一人者として文壇を圧倒するような盛名をせている。その上、教養の広く多方面な点では若い小説家としては珍らしいと言われている人だった。
 信一郎は、自分が有頂天になって、しゃべった文学論が、こうした人にって、批判される結果になったかと思うと、可なりイヤなはずかしい気がした。有頂天になっていた彼の心持はたちま奈落ならくの底へまで、引きずり落された。場合に依っては、此の教養の深い文学者――しかも先輩に当っている――と、文学論を戦わせなければならぬかと思うと、彼は思わず冷汗が背中にいて来るのを感じた。
 信一郎の心が、不快な動揺に悩まされているのをよそに、秋山氏は、今火をけた金口の煙草たばこくゆらしながら、落着いた調子で言った。
「それは、大問題ですな。僕の意見を述べる前に、かく皆様の御意見を承わろうじゃありませんか。」
 そう言いながら、秋山氏はひたいおおいかゝる長髪を、二三度続けざまに後へき上げた。


     

「大分いろ/\な御意見が出たのですがね。ここにいらっしゃる渥美あつみ君、確かそうおっしゃいましたね。」三宅は、一寸ちょっと信一郎の方を振りかえった。「大変紅葉をお説きになるのです。紅葉をいて明治時代の文豪は、外にないだろうと、こう仰しゃるのです。文章丈を取っても、鼈甲牡丹べっこうぼたんのような絢爛けんらんさがあるとか何とか仰しゃるのです。」
 三宅が、秋山氏に信一郎の持説を伝えている語調の中には、『素人しろうとが』と言った語気が、ありありと動いていた。秋山氏は、いかにも小説家らしく澄んだ眼で、信一郎の方をジロリと一瞥いちべつしたが、吸いさしの金口の火を、鉄の灰皿で、擦り消しながら、「鼈甲牡丹の絢爛さ! なるほど、うまい形容だな。だが、まがいの鼈甲牡丹なら三四十銭で、其処そこらの小間物屋に売っていそうですね。」
 瑠璃子夫人を初め、一座の人々が、秋山氏の皮肉を、どっと笑った。
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「紅葉山人の絢爛さも、きィちゃん、みィちゃん的読者をよろこばせる擬の鼈甲牡丹じゃありませんかね。一寸見は、光沢つやがあっても、触って見ると、牛の骨か何かだと言うことが、ぐ分りそうな。」
 秋山氏が、文壇での論戦などでも、自分自身のあふれるような才気に乗じて、常に相手を馬鹿ばかにしたような、おひゃらかしてしまうような態度に出ることは、信一郎予々かねがね知っていた。それが、妙な羽目から、自分一人に向けられているのだと思うと、信一郎は不愉快とも憤怒とも付かぬ気持で、胸が一杯だった。が、こうした文学者を相手に、議論を戦わす勇気も自信もなかった。相手の辛辣しんらつな皮肉を黙々として、聴いている外はなかった。たゞ、文壇の花形ともある秋山氏が、自分などの素人を捕えて、真向から皮肉を浴びせているのが、可なり大人気ないようにも思われて、それが恨めしくも、いきどおろしくもあった。
「第一『金色夜叉やしゃ』なんか、今読んで見ると全然通俗小説ですね。」
 秋山氏は、一刀の下に、何かを両断するように言った。
 瑠璃子夫人は、『おや。』と言ったような軽い叫びを挙げながら言った。
三宅さんも、先刻そんなことを言ったのよ。あ、分った! 三宅さんのは秋山さんの受売だったのね。」
 三宅は、赤面したように、頭をいた。一座は、信一郎を除いて、皆ドッと笑った。
 秋山氏は、皮肉な微笑を浮べながら、
「いや、三宅君と期せずして意見を同じくしたのは、光栄ですね。」
 一座は、秋山氏の皮肉を、又ドッと笑った。その笑が静まるのを待ち兼ねて、三宅が言った。
「今僕が、その『金色夜叉』通俗小説論を持ち出したのです。すると、渥美さんが言われるのです。現在の我々の標準で律すれば、『金色夜叉』は通俗小説かも知れない。が、作品を論ずるには、その時代を考えなければならない。文学史的に見なければならない。こう仰しゃるのです。」
「文学史的に見る。それは卓見たくけんだ。」秋山氏は、ニヤ/\と冷笑とも微笑とも付かぬ笑いを浮べながら言った。
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「だが、紅葉山人と同時代の人間が、みんな我々の眼から見て、通俗小説を書いているのなら、『金色夜叉』が通俗小説であっても、一向差支さしつかえないが、紅葉山人と同時代に生きていて、我々の眼から見ても、立派な芸術小説をかいている人が外にあるのですからね。幾何いくら文学史的に見ても、紅葉を第一の小説家として、許すことは僕には出来ませんね。文学史的に見れば、紅葉山人などは、明治文学の代表者と言うよりも、徳川時代文学の殿将でんしょうですね。あの人の考え方にも、観方みかたにも描き方にも、徳川時代文学の殻が、こびりついているじゃありませんか。」
 さすが信一郎も、黙っていることは出来なかった。
「そう言う観方をすれば、明治時代の文学は、全体として徳川時代の文学の伝統を引いているじゃありませんか。何も、紅葉一人丈じゃないと思いますね。」
「いや、徳川時代文学の糟粕そうはくなどを、少しもめないで、明治時代独特の小説をかいている作家がありますよ。」
「そんな作家が、本当にありますか。」
 信一郎も可なり激した。
「ありますとも。」
 秋山氏は、水のごとく冷たく言い放った。

なんじ妖婦ようふよ![#「汝妖婦よ!」は大見出し]



     

「誰です。一体その人は。」
 信一郎は、可なりき込んでいた。
 が、秋山氏は落着いたまゝ、冷然として言った。
しかし、こう言う問題は、銘々めいめいの主観の問題です。僕が、の人がこうだと言っても、貴君あなたにそれが分らなければ、それまでの話ですが、かく言って見ましょう。それは、誰でもありません。あの樋口ひぐち一葉です。」
 秋山氏は、それに少しの疑問もないように、ハッキリと言い切った。
 瑠璃子るりこ夫人は、それを聴くと、躍り上るようにしてよろこんだ。
「一葉! わたくしスッカリ忘れていましたわ。そう/\一葉がいますね。妾が、今まで読んだ小説の女主人公の中で、あの『たけくらべ』の中の美登利みどりほど好きな女性はないのですもの。」
御尤ごもっともです。
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勝気で意地っ張なところが貴女あなたに似ているじゃありませんか。」
 秋山氏は、夫人を揶揄やゆするように言った。
「まさか。」
 と、夫人は打ち消したが、の比較が、彼女の心持にび得たことは明かだった。
「一葉! そう/\あれは天才だ、夭折ようせつした天才だ! 一葉に比べると、紅葉なんか才気のある凡人に過ぎませんよ。」
 小山男爵だんしゃくは、信一郎に言い伏せられた腹癒はらいせがやっと出来たように、得々として口を挟んだ。
「そうだ! 『たけくらべ』と『金色夜叉やしゃ』とを比べて見ると、どちらが通俗小説で、どちらが芸術小説だか、ハッキリと分りますね。渥美あつみさんの御意見じゃ、『金色夜叉』よりも六七年も早く書かれた『たけくらべ』の方が、もっと早く通俗小説になっているはずだが、我々が今読んでも『たけくらべ』は通俗小説じゃありませんね。決してありませんね。」
 三宅も、信一郎の方を意地悪く見ながら、そう言った。
 其処そこにいた多くの人々も、銘々に口を出した。
「『たけくらべ』! ありゃ明治文学第一の傑作ですね。」
「ありゃ、僕も昔読んだことがある。ありゃ確にいゝ。」
「あゝそう/\、吉原よしわらの附近が、光景になっている小説ですか、それなら私も読んだことがある。坊さんの息子か何かがいたじゃありませんか。」
「女主人公が、それをひそかに恋している。が、勝気なので、口には言い出せない。そのうちに、一寸ちょっとした意地から不和になってしまう。」
信如しんにょとか何とか言う坊さんの子が、下駄げたの緒を切らして困っていると、美登利が、紅入友禅か何かの布片きれを出してやるのを、信如が妙な意地と遠慮とで使わない。あの光景なんか今でもハッキリと思い出せる。」
 代議士の富田氏までが、そんなことを言い出した。こうした一座の迎合を、秋山氏は冷然と、聴き流しながら、最後の断案を下すように言った。
「とにかく、明治の作家のうちで、本当に人間の心を描いた作家は、一葉の外にはありませんからね。硯友社けんゆうしゃの作家が、文章などに浮身をやつして、本当に人間が描けなかった中で、一葉丈は嶄然ざんぜんとして独自の位置を占めていますからね。一代の驕児きょうじ高山樗牛ちょぎゅうが、一葉丈には頭を下げたのも無理はありませんよ。僕は明治時代第一の文豪として一葉を推しますね。」
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 秋山氏は、如何いかにも芸術家らしい冷静と力とを以て、昂然こうぜんとそう言い放った。
 信一郎は、もう先刻からじり/\といて来る不愉快さのために、一刻もじっとしてはいられないような心持だった。すべてが不愉快だった。凡てが、しゃくに触った。かしの棒をでも持って、一座の人間を片ッ端から、殴り付けてやりたいようにいら/\していた。
 そうした信一郎の心持を、知ってか知らずにか、夫人は何気ないように微笑しながら、
渥美さん! しっかり遊ばしませ。大変お旗色が悪いようでございますね。」


     

 信一郎が、フラ/\と立ち上るのを見ると、皆は彼がおおいに論じ始めるのかと思っていた。が、今彼の心には、樋口ひぐち一葉も尾崎紅葉もなかった。たゞ、瑠璃子夫人に対する――夫人の移りやすきこと浮草のごとき不信に対する憎みと、恨みとで胸の中が燃え狂っていたのだった。
 彼は一刻も早くこの席を脱したかった。彼は其処そこあつまっている男性に対しても、激しい憎悪ぞうおと反感とを感ぜずにはいられなかった。
「奥さん! 僕は失礼します。僕は。」
 彼は、感情の激しい渦巻のために、何と挨拶あいさつしてよいのか分らなかった。
 彼は、どもりながら、そう言ってしまうと、泳ぐような手付で、並んだ椅子いすの間を分けながらドアの方へ急いだ。
 さすがに一座の者は固唾かたずを飲んだ。今まで瑠璃子夫人をさしはさんで、鞘当さやあて的な論戦の花が咲いたことは幾度となくあったが、そんな時に、形もなく打ち負された方でも、こんなにまで取りみだしたものは一人もなかった。
 真蒼まっさおな顔をして、憤然として、立ちでて行く信一郎を、皆は呆気あっけに取られて見送った。
 信一郎は、もう美しい瑠璃子夫人にも何の未練もなかった。後に残した華やかな客間を、心の中で唾棄だきした。夫人の艶美えんびな微笑もみつのような言葉も、今はくうの空なることを知った。いな、空の空なるか、ではなくして、その中に恐ろしい毒を持っていることを知った。それは、目的のための毒ではなくして、毒のための毒であることを知った。彼女は、目的があって、男性を翻弄ほんろうしているのではなく、たゞ翻弄することの面白さに、翻弄していることを知った。
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自分の男性に対する魅力を、楽しむために、無用に男性を魅していることを知った。丁度、激しい毒薬の所有者が、その毒の効果を自慢してみだりに人を毒殺するように。
なんじ妖婦ようふよ!』
 信一郎は、心の中で、そう叫び続けた。彼は、客間から玄関までの十間に近い廊下を、電光のごとくに歩んだ。
 周章あわてゝ見送ろうとする玄関番の少年にも、彼は一瞥いちべつをも与えなかった。
 彼は突き破るような勢いで、玄関の扉に手をかけた。
 が、その刹那せつな【瞬間】であった。
 信一郎の興奮した耳に、冷水を注ぐように、
渥美さん! 渥美さん! 一寸ちょっとお待ち下さい。」と、言う夫人の美しい言葉が聞えて来た。信一郎はそれを船人の命を奪う妖魚サイレンの声として、そのまゝ聞き流して、戸外へ飛び出そうと思った。が、彼のそうした決心にもかかわらず、彼の右の手は、しびれたように、扉の把手ハンドルにかゝったまゝ動かなかった。
うなすったのです。本当にびっくりいたしましたわ。何をそんなにお腹立ち遊ばしたの。」夫人は小走りに信一郎に近づきながら、可愛かわいい小さい息をはずませながら言った。
 心配そうに見張った黒い美しいひとみ象牙彫ぞうげぼりのように気高い鼻、端正な唇、しろつややかな頬、こうした神々こうごうしい﨟《ろう》たけた夫人の顔を見ていると、彼女の嘘、偽りが、夢にもあろうとは思われなかった。彼女の微笑や言葉の中に、微塵みじんいやしい虚偽が、潜んでいようとは思われなかった。
「何うして、そんなに早くお帰り遊ばすの。わたくし、皆さんがお帰りになった後で、貴君あなたと丈で、ゆっくりお話していたかったの。秋山さんと言う方は、本当にあまんじゃくよ。反対のために反対していらっしゃるのですもの。それをまた、みんなが迎合するのだから、いやになってしまいますわね。客間サロンにいらっしゃるのがお嫌なら、図書室ライブラリーの方へ、御案内いたしますわ。あなたのお好きな『紅葉全集』でも、お読みになって、待っていらっしゃいませ。妾、もう三十分もすれば、何とか口実を見付けて、皆さんに帰っていたゞきますわ。ほんの少しの間、待っていて下さらない?」


     

『ほんの少し待っていて下さらない?』と、言う夫人の言葉を聴くと、『なんじ妖婦ようふよ!』と、心の中で叫んでいた信一郎の決心も、またグラ/\と揺ごうとした。
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 が、彼は揺ごうとする自分の心を、辛うじて、最後の所で、グッと引き止めることが出来た。お前はもう既に、夫人のみつのような言葉に乗ぜられて、散々な目にあったではないか。再びお前は、夫人から何を求めようとしているのだ。お前が夫人の言葉を信ずれば、信ずるほど、夫人のお前に与うるものは、幻滅げんめつと侮辱との外には、何もないのだ。男性の威厳を思え! 今日夫人から受けた幻滅と侮辱とは、まだ夫人に対するお前の幻覚を破るのに足りなかったのか。男性の威厳を思え! 夫人の言葉をスッパリと突き放してしまえ! 信一郎の心の奥に、弱いながら、そう叫ぶ声があった。
 信一郎は、心の中に夫人の美しさに、抵抗し得る丈の勇気を、やっとあつめながら言った。
「でも、奥さん! 私、このまゝおいとまいたした方がいゝように思うのです。あゝした立派な方があつまっている客間には、私のような者は全く無用です。どうも、大変お邪魔しました。」
 信一郎は、可なりキッパリと断りながら、急いでくびすを返そうとした。
「まあ! 貴君あなた、何をそんなにお怒り遊ばしたの、何かわたくしが貴君のお気に触るようなことをいたしましたの、折角いらして下すって、ぐお帰りになるなんて、あんまりじゃありませんか。客間に蒐まっていらっしゃる方なんて、妾仕方なくお相手いたしておりますのよ。妾が、妾の方から求めてお友達になりたいと思ったのは、本当は貴君お一人なのですよ。」
 信一郎は、そう言いながら、何事もないように、笑っている夫人の美しさに、ある凄味すごみをさえ感じた。夫人の口吻くちぶりから察すれば、夫人は周囲に集まっている男性を、はえ同様に思っているのかも知れない。もし、そうだとすると、信一郎なども、新来の初心な蠅として、たゞ一寸ちょっとした珍しさに引き止められているのかも知れない。そうした上部うわべ丈けの甘言に乗って、ウカ/\と夫人の掌上てのうえなどに、止まっている中には、あの象牙ぞうげ骨の華奢きゃしゃな扇子か何かで、ビシャリと一打ひとうちにされるのが、当然の帰結であるかも知れないと信一郎は思った。
「でも、今日は帰らせていたゞきたいと思います。又改めて伺いたいと思いますから。」
 信一郎は、可なり強くなって、キッパリと言った。
 夫人も、さすがにそれ以上は、勧めなかった。
「あらそう。うしてもお帰りになるのじゃ仕方がありませんわ。
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やっぱり、妾の心持が、貴君あなたにはよく分らないのですね。じゃ、左様なら。」
 夫人は、淡々として、そう言い切ると、グルリと身体をめぐらして、客間の方へ歩き出した。
 夫人から引き止められている内は、それを振切って行く勇気があった。が、こうあっさりと軽く突き放されると、信一郎は何だか、拍子抜けがしてさみしかった。
 夫人と別れてしまうことにって、異常な絢爛けんらんな人生の悦楽を、味う機会が、永久に失われてしまうようにも思われた。自分の人生に、明けかゝった冒険ロマンスあけぼのが、またそのまゝ夜の方へ、逆戻りしたようにも思われた。
 が、危険な華やかな毒草の美しさよりも、つつましい、しおらしい花の美しさが、今彼の心のうちによみがえった。
 淋しいしかし安心な、暗いしかし質素な心持で、彼は大理石の丸柱の立った車寄を静に下った。もうの家を二度とおとなうことはあるまい。あの美しい夫人の面影に、再び咫尺しせきすることもあるまい。彼がそんなことを考えながら、トボ/\と門の方へ歩みかけた時だった。彼はふと、門への道に添う植込みの間から、左に透けて見える庭園に、語り合っている二人の男性を見たのである。彼は、その人影を見たときに、ゾッとして其処そこに立ち止まらずにはいられなかった。


     

 信一郎が、おどろいて立ちすくんだのも、無理ではなかった。玄関から門への道に添う植込の間から、透けて見える、キチンと整った庭園の丁度真中に、庭石に腰かけながら、語り合っている二人の男を見たのである。
 二人の男を見たことに、不思議はなかった。が、その二人の男が、両方とも、彼の心に恐ろしい激動を与えた。
 彼の方へ面を向けて、腰を下している学生姿の男を見た時に、彼は思わず『アッ!』と、声を立てようとした。品のよい鼻、白皙はくせきの面、それは自分の介抱を受けながら、横死した青木じゅんうり二つの顔だった。それが、白昼の、かほど、けざやかな太陽の下の遭遇でなかったならば、彼はそれを不慮の死を遂げた青年の亡霊と思いあやまったかも知れなかった。
 が、彼の理性が働いた。彼は一時は、駭いたもののぐその青年が、いつかの葬場で見たことのある青木淳の弟であることに、気が付いた。
 しかし、彼が最初の駭きから、やっと回復かいうくした時、今度は第二の駭きが彼を待っていた。
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青年と相対して語っている男は、まぎれもなく海軍士官の軍服を着けている。海軍士官の軍服に気が付いたとき、信一郎の頭に、電光のようにひらめいたものは、村上海軍大尉たいいという名前であった。青年が、のこして行った手記の中に出て来る村上海軍大尉と言う名前だった。
 青木淳が、はげしい忿恨ふんこんもって、ノートに書き付けた文句が、信一郎の心に、アリ/\とよみがえって来た。

『昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待っていた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕をまくり上げて、腕時計を出して見ているのに気が付いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似こくじしているのである。自分はそれとなく、一見を願った。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外したときの駭きは、んなであったろう。し、大尉が其処そこに居合せなかったら、自分は思わず叫声を挙げたに違ない。』

 信一郎は、青木淳の弟と語っている軍服姿の男を見たときに、それが手記の中の村上大尉であることに、もう何の疑もなかった。もし、それが、村上海軍大尉であるとしたならば、青木淳と大尉との双方に、同じ白金プラチナの時計を与えて、『これは、わたくし貴君あなたに対する愛の印として、貴君に差し上げますのよ。本当は、かけ替のない秘蔵の品物ですけれど。』と、言いながら二人を翻弄ほんろうし去った女性が、果して何人なんぴとであるかが、信一郎にはもうハッキリと分ってしまった。
なんじ妖婦ようふよ!』
 彼は心のうちで再びそう声高く、叫ばずにはいられなかった。
 が、信一郎の心を、もっと痛めたことは、兄が恐ろしく美しい蜘蛛くもの糸に操られて、悲惨な横死を――形は奇禍であるが、心は自殺を――遂げたと言うことを夢にも知らないで、その肉親の弟が、又同じ蜘蛛の網に、ウカ/\とかゝりそうになっていることだった。いや恐らくかゝっているのかも知れない。いや、兄と同じように、もう白金の時計をもらっているのかも知れない。あゝして、話している中に、相手の海軍大尉の腕時計に、気が付くのかも知れない。兄の血と同じ血を持っているはずの弟は、それを見て兄と同じように激高げきこうする。兄と同じように自殺を決心する。
 そう考えて来ると、信一郎は、烈々と輝いている七月の太陽の下に、なお周囲あたりが暗くなるように思った。兄が陥った深淵しんえんへ又、弟がちかかっている。
209/335

それほど、悲惨なことはない。そう思うと、信一郎は、
『おい! 君!』と、高声に注意してやりたい希望に動かされた。が、それと同時に、血を分けた兄弟を、兄に悲惨な死を遂げしめた上に、更に弟をも近づけて、翻弄しようとする毒婦を憎まずにはいられなかった。
『汝妖婦よ!』彼は、心の中でもう一度そう叫んだ。が、信一郎が、これほど心を痛めているにもかかわらず、当の青年は、何が可笑おかしいのか、軽く上品に笑っているのが、手に取るように聞えて来た。
 信一郎は、見るべからざるものを見たように、面をそむけて足早に門をでたのである。


     

 新宿行の電車に乗ってからも、信一郎の心は憤怒ふんぬ憎悪ぞうおはげしい渦巻で一杯だった。
 瑠璃子夫人こそ、白金の時計を返すべき当の本人であることがわかると、夫人の美しさや気高さに対する賛嘆さんたんの心は、影もなくなって、憎悪と軽い恐怖とが、信一郎の心にいた。
 青木じゅんの死の原因が、直接ではなくても、間接な原因が、自分であることを知りながら、嫣然えんぜんとして時計を受け取った夫人の態度が、空恐しいように思い返された。『わたくしが預って本当の持主に返して上げます。』と、事もなげに言い放った夫人の美しい面影が、空恐ろしいようにおもい返された。

『が、彼女と面と向って、不信を詰責きっせきしようとしたとき、自分はかえって、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児のごとく、翻弄ほんろうされ、奴隷どれいの如くいやしめられた。しかも美しい彼女の前に出ると、唖のようにたわいもなく、黙り込む自分だった。自分はいきどおりうらみとのためにわな/\ふるえながら而も指一本彼女に触れることが出来なかった。自分は力と勇気とが、欲しかった。彼女の華奢きゃしゃな心臓を、一思いに突き刺し得る丈の力と勇気とを。……彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態びたいを惜しげもなく、示しているかと思うと、自分の心は、夜の如く暗くなってしまう。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか二つに一つだと思う。……そうだ、一層いっそ死んでやろうかしら。純真な男性の感情をもてあそぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせてやるために。そうだ、自分の真実の血で、彼女の偽の贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女のわずかに残っている良心を、恥しめてやるのだ。』

 青木淳ののこしてった手記の言葉が、太陽の光にさらされたように、何の疑点もなくハッキリとわかって来た。
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彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑いもなかった。純真な青年の感情を弄んで彼を死に導いた彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑いもなかった。
なんじ妖婦ようふよ!』
 信一郎は、十分な確信をもって、心の中でそう叫んだ。青年は、彼女に対して、綿々の恨を呑んで死んだのである。白金の時計を『返してれ。』と言うことは、『たたき返して呉れ。』と言うことだったのだ。彼女の僅に残っている良心を恥かしめてやるために、叩き返して呉れと言うことだった。
 そうだ! それを信一郎は、瑠璃子夫人のために、不得要領にき上げられてしまったのである。
『取り返せ。もう一度取り返せ! 取り返してから、叩き返してやれ!』
 信一郎の心に、そう叫ぶ声が起った。『それで彼女の僅に残っている良心を恥かしめてやれ。お前は死者の神聖な遺託いたくに背いてはならない。これから取って返して、お前の義務を尽さねばならない。あれほど青年の恨のこもった時計を、不得要領に、返すなどと言うことがあるものか。もう一度やり直せ。そしてお前の当然な義務を尽せ。』
 信一郎の心のうちる者が、そう叫び続けた。が、心の中の他の者は、こうつぶやいた。
『危きに近寄るな。お前は、あの美しい夫人と太刀打が出来ると思うのか。お前は、今の今迄いままで危く夫人に翻弄されかけていたではないか。夫人の張る網から、やっと逃れ得たばかりではないか。お前が血相を変えて駈付かけつけても、また夫人の美しい魅力のために、手もなく丸められてしまうのだ。』
 こうした硬軟二様の心持の争いのうちに、信一郎何時いつの間にか、自分の家近く帰っていた。停留場からは、一町とはなかった。
 電車通を、右に折れたとき、半町ばかり彼方かなたの自分の家の前あたりに、一台の自動車が、止まっているのに気が付いた。


     

 信一郎の興奮していたひとみには、最初その自動車が、漠然と映っている丈だった。
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それよりも、彼は自分の家が、近づくに従って、『社の連中と多摩川へ行く。』などと言う口実で、家を飛び出しながら、二時間もたないうちに、早くも帰って行くことが、心配になり出した。また早く、帰宅したことに就いて、妻を納得させる丈の、口実を考え出すことが、可なり心苦しかった。彼は、電車の中でも、何処どこか外で、ゆっくり時間をつぶして、夕方になってから、帰ろうかとさえ思った。が、彼の本当の心持は、一刻も早く家に帰りたかった。妻の静子の優しい温順な面影に、一刻も早く接したかった。危険な冒険を経た者が、平和な休息を、只管ひたすら欲するように、他人との軋轢あつれきや争いに胸を傷つけられ、瑠璃子夫人に対する幻滅で心を痛めた信一郎は、家庭の持っている平和や、妻の持っている温味あたたかみの裡に、一刻も早く、浴したかったのである。縦令たとい、もう一度妻をあざむく口実を考えても、一刻も早く家に帰りたかったのである。
 が、彼が一歩々々、家に近づくに従って、自分の家の前に停っている自動車が、気になり出した。勿論もちろんの近所に自動車が、停っていることは、珍らしいことではなかった。彼の家から、つい五六軒向うに、ある実業家の愛妾あいしょうが、住っているために、三日にあげず、自動車がその家の前に、永く長く停まっていた。今日の自動車も、やっぱり何時いつもの自動車ではないかと、信一郎は最初思っていた。が、近づくに従って、何時もとは、可なり停車の位置が違っているのに気が付いた。うしても、彼の家を訪ねて来た訪客が、乗り捨てたものとしか見えなかった。
 が、段々家に近づくに従って、恐ろしい事実が、ようやく分って来た。何だか見たことのある車台だと言う気がしたのも、無理ではなかった。それは、まぎれもなくあの青色大型の、伊太利イタリー製の自動車だった。信一郎も一度乗ったことのある、あの自動車だった。そうだ、此の前の日曜の夜に、荘田しょうだ夫人と同乗した自動車に、寸分も違っていなかった。
 夫人が、訪ねて来たのだ! そう思ったときに、信一郎の心は、はげしく打ちたたかれた。当惑と、ある恐怖とが、胸一杯にち満ちた。
 出先で、妖怪ようかい這々ほうほうの体で自分の家に逃げ帰ると、その恐ろしい魔物が、先回りして、自分の家に入り込んでいる。昔の怪譚かいだんにでもありそうな、絶望的な出来事が、信一郎の心を、底からくつがえしてしまった。瑠璃子夫人の美しい脅威におののいて、家庭の平和の裡に隠れようとすると、相手は、先回りして、その家庭の平和をまで、みだそうとしている。
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静かなつつましい家庭と、温和な妻の心をまでも掻き擾そうとしている。
 信一郎は、当惑と恐怖とのために、しばらくは、道の真中に立ちすくんだまゝ、何うしてよいか分らなかった。その裡に、信一郎の絶望と、恐怖とは、夫人に対する激しい反抗に、変って行った。
 温和おとなしい妻が、美しい、溌剌はつらつたる夫人の突然な訪問を受けて狼狽ろうばいしている有様が、あり/\と浮んで来た。自分が、妻に内密で、ああした美しい夫人と、交りを結んでいたと言うことが、どんなに彼女を痛ましめたであろうかと思うと、信一郎は一刻も、じっとしてはいられなかった。温和しい妻が夫人のために、どんなに言いくるめられ、どんなに翻弄ほんろうされているかも知れぬと思うと、一刻も逡巡しゅんじゅんしているときではないと思った。自分の彼女に対する不信は、後でどんなにでも、許しをえばいゝ。今は妻を、美しい夫人の圧迫から救ってやるのが第一の急務だと思った。
 それにしても、夫人は何の恨みがあって、これほどまで、執拗しつように自分を悩ますのであろう。自分を欺いて、客間へんで恥を掻かせた上に、自分の家庭をまで、掻き擾そうとするのであろうか。今は夫人の美しさに、おそれているときではない。戦え! 戦って、彼女のわずかに残っているかも知れぬ良心を恥しめてやる時だ! そうだ! 死んだ青木じゅんのためにも、とむらい合戦を戦ってやる時だ! そう思いながら、信一郎は必死の勇を振って、敵の城の中へでも飛び込むような勢で、自分の家へ飛び込んだのである。


     

 玄関先に立っている、もしくは客間に上り込んでいる妖艶ようえんな夫人の姿を、想像しながら、それに必死に突っかゝって行く覚悟のほぞを固めながら、信一郎は自分の家の門を、潜った。
 見覚えのある運転手と助手とが、玄関に腰を下しているのがず眼に入った。信一郎は、彼等を悪魔の手先か何かを見るように、憎悪ぞうおと反感とでにらみ付けた。が、夫人の姿は見えなかった。手早く眼をやった玄関の敷石の上にも、夫人の履物はきものらしい履物は脱ぎ捨てゝはなかった。信一郎は、少しは救われたように、ホッとしながら、玄関へ入ろうとした。
 運転手は素早く彼の姿を見付けた。
「いやあ。お帰りなさいまし。先刻さっきからお待ちしていたのです。」
 彼は、れ/\しげに、話しかけた。
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信一郎はそれが、可なり不愉快だった。が、運転手は信一郎を、もっと不愉快にした。彼は、無遠慮に大きい声で、奥の方へ呼びかけた。
「奥さん! やっぱり、お帰りになりましたよ。何処どこへもお回りにならないで、直ぐお帰りになるだろうと思っていたのです。」
 運転手は、いかにも自分の予想が当ったように、得意らしく言った。運転手が、そう言うのを聴いて、信一郎は冷汗を流した。運転手と妻とが、どんな会話をしたかが、彼には明かに分った。
「御主人はお帰りになりましたか。」
 運転手は、最初そうたずねたに違いない。
「いゝえ、まだ帰りません。」
 妻は、自身しくは女中をしてそう答えさせたに違いない。
「それじゃ、お帰りになるのをお待ちしていましょう。」
 運転手は、そう言ったに違いない。
「あの、会社の人達と一緒に、多摩川へ行きましたのですから、帰りは夕方になるだろうと思います。」
 何も知らない、信一郎を信じ切っている妻は、そう答えたに違いない。それに対して、この無遠慮な運転手はこう言い切ったに違いない。
「いゝえ、直ぐお帰りになります。只今ただいま私の宅からお帰りになったのですから、よそへお回りにならなければ三十分もしないうちに、お帰りになります。」
 初めて会った他人から、夫の背信はいしんを教えられて、妻は可なり心を傷けられながら赤面して黙ったに違いない。そう思うと、突然運転手などを寄越す瑠璃子夫人に、彼は心からなる憤怒ふんぬを感ぜずにはいられなかった。
 信一郎は、可なり激しい、叱責しっせきするような調子で運転手に言った。
「一体何の用事があるのです?」
 運転手は、ニヤ/\気味悪く笑いながら、
「宅の奥様のお手紙を持って参ったのです。何の御用事があるか私には分りません。返事を承わって来い! おかえりになるまで、お待して返事を承わって来い! と、申し付けられましたので。」
 運転手は、待っていることを、言い訳するように言った。
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 手紙を持って来たと聴くと、信一郎は可なり狼狽ろうばいした。妻に、内密ないしょで、ある女性を訪問したことが露顕ろけんしている上に、その女性から急な手紙をもらっている。そうしたことが、どんなに妻の幼い純な心を傷けるかと思うと、信一郎は顔の色があおくなるまで当惑した。彼は、妻に知られないように、手早く手紙を受け取ろうと思った。
「手紙! 手紙なら、早く出したまえ!」
 信一郎は、低く可なり狼狽した調子でそう言った。
 運転手が、何か言おうとする時に、夫の帰りを知った妻が、急いで玄関へ出て来た。彼女は、夫の顔を見ると、ニコ/\とうれしそうに笑いながら、
「お手紙なら、此方こちらにお預りしてありますのよ。」と、言いながら、薄桃色の瀟洒しょうしゃな封筒の手紙を差し出した。暢達ちょうたつな女文字が、半ば血迷っている信一郎の眼にも美しく映った。

面罵めんば[#「面罵」は大見出し]



     

 妻から、荘田しょうだ夫人の手紙を差し出されて見ると、信一郎は激しい羞恥しゅうちと当惑とのために、顔がほてるように熱くなった。平素は、何の隔てもない妻の顔が、まぶしいもののように、真面まともから見ることが出来なかった。
 が、静子の顔は、平素いつもと寸分たがわぬように穏かだった。春のように穏かだった。夫の不信をとがめているような顔色は、少しも浮んでいなかった。見知らぬ女性から、夫へ突然舞い込んで来た手紙を、疑っているような容子は、少しも見えなかった。夫の帰宅を、いそ/\と出迎えている平素いつもの優しい静子だった。
 信一郎は、妻の神々こうごうしいまでに、つつましやかな容子を見ると、かえって心が咎められた。これほどまでに自分を信じ切っている妻をあざむいて、他の女性に、好奇心を、いだいたことを、後悔し心の中で懺悔ざんげした。
 妻が差出した夫人の手紙が、悪魔からの呪符じゅふか何かのように、いとわしく感ぜられた。もし、人が見ていなかったら、それを、封も切らないで、寸断することも出来た。が、妻が見て居る以上、そうすることは却って彼女に疑惑を起させる所以ゆえんだった。信一郎は、おず/\と封を開いた。
 手紙と共に封じ込められたらしい、高貴な香水のにおいが、信一郎の鼻を魅するように襲った。が、もうそんなことにって、魅惑せらるゝ信一郎ではなかった。
 彼は敵からの手紙を見るように警戒と憎悪ぞうおとで、あわたゞしくむさぼるように読んだ。
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『先刻は貴君あなたを試したのよ。わたくしの客間へ、妾と戯恋フラートしに来る多くの男性と貴君が、違っているかうかを試したのですわ。妾は戯恋することにはき/\しましたのよ。本当の情熱がなしに、恋をしているような真似まねをする。擬似恋愛フラーテイション! 妾は、それに倦き/\しましたのよ。身体や心は、少しも動かさないで、手先丈で、恋をしているような真似をする。恋をしているような所作丈をする。恋をしているような姿勢丈を取る。妾は、妾の周囲にあつまっている、そうした戯恋者ぎれんしゃのお相手をすることには、本当に倦き/\しましたのよ。妾は真剣な方が、欲しいのよ。男らしく真剣に振舞う方が欲しいのよ。すべての動作を手先丈でなく心の底から、行う方が欲しいのよ。
貴君が忿然ふんぜんとして座を立たれたとき、妾が止めるのも、かず、憤然として、お帰り遊ばす後姿を見たとき、この方こそ、何事をも真剣になさる方だと思いましたの! 何事をなさるにも手先や口先でなく、心をも身をも、打ち込む方だと思いましたの。妾が長い間、たずねあぐんでいた本当の男性だと思いましたの。
信一郎様!
貴方あなたは妾のテストに、立派に及第遊ばしたのよ。
今度は、妾が試される番ですわ、妾は進んで貴方に試されたいと思いますの。妾が、貴方のために、どんなことをしたか、どんなことをするか、それをお試しになるために、の自動車でいらしって下さい!瑠璃子るりこ

 手紙の文句を読んでいるうちに、瑠璃子夫人の怪しきまでに、美しい記憶が、殺されそこなった蛇か何かのように、また信一郎の頭の中に、ムク/\と動いて来た。
 夫人の手紙を、読んで見ると、夫人の心持が、満更虚偽ばかりでもないように、思われた。あの美しい夫人は、彼女を囲む阿諛あゆ追従ついしょうや甘言や、戯恋に倦き/\しているのかも知れない。実際彼女は純真な男性を、心から求めているかも知れない。そう思っていると、夫人の真紅の唇や、白き透き通るような頬が、信一郎の眼前に髣髴ほうふつした。
 が、次ぎの瞬間には青木じゅんの紫色の死顔や、今先刻見たばかりの、青木淳の弟の姿などが、アリアリと浮んで来た。


     

 手紙を読んだ刹那せつな【瞬間】の陶酔とうすいから、めるに従って、夫人に対するいきどおろしい心持が、また信一郎の心によみがえって来た。こうした、人の心に喰い込んで行くような誘惑で、青木淳を深淵しんえんへ誘ったのだ。いな青木淳ばかりではない、青木淳の弟も、あの海軍大尉たいいも、否彼女の周囲にあつまるすべての男性を、人生の真面目まじめな行路から踏み外させているのだ。彼女を早くも嫌って恐れて、逃れて来た自分にさえ、なお執念深く、その蜘蛛くもの糸を投げようとしている。恐ろしい妖婦ようふだ! 男性の血を吸う吸血鬼ヴァンパイアだ。
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そう思って来ると、信一郎の心に、半面血にまみれながら、
『時計を返してれ。』
 と絶叫した青年の面影が、又歴々ありありと浮かんで来た。そうだ! あの時計は、不得要領に捲上まきあげらるべき性質の時計ではなかったのだ! 青年の恨みを、十分にめてたたき返さなければならぬ時計だったのだ! ことに、青年の手記のうちの彼女が、瑠璃子夫人であることが、ハッキリと分ってしまった以上、自分にその責任が、げんとして存在しているのだ。恐ろしいものだからと言って、面を背けて逃げてはならないのだ! 青年に代って、彼が綿々の恨みを、代言してやる必要があるのだ! 青年に代って、彼女のわずかしか残っていぬかも知れぬ良心を恥かしめてやる必要があるのだ! そうだ! 一身の安全ばかりを計って逃げてばかりいる時ではないのだ! そうだ! 彼女がもう一度の面会を望むのこそ、勿怪もっけの幸である。その機会を利用して、青年の魂を慰めるために、青年の弟を、彼女の危険から救うために、否すべての男性を彼女の危険から救うために、彼女の高慢な心を、取りひしいでやる必要があるのだ。
 信一郎の心が、こうした義憤的な興奮で、みたされた時だった。妻の静子は、――神のごとく何事をも疑わない静子は、信一郎を促すように言った。
「急な御用でしたら、ぐいらしっては、如何いかがでございます。」
 妻のそうした純な、少しの疑惑をも、さしはさまない言葉に、接するに付けても、信一郎は夫人に叩き返したいものが、もう一つ殖えたことに気が付いた。それは、夫人から受けたの誘惑の手紙である。妻に対する自分の愛を、陰ながら、妻に誓うため、夫人の面に、この誘惑の手紙を、投げ返してやらねばならない。
 信一郎の心は、今最後の決心に到達した。彼は、その白い面を、薄赤く興奮させながら、妻に言うともなく、運転手に命ずるともなく叫んだ。
「じゃ直ぐ引返すことにしよう。早くやってお呉れ!」
 彼は、自分自身興奮のために、身体が軽くふるえるのを感じた。
かしこまりました。七分もかゝりません。」
 そう言いながら、運転手と助手とは、軽快に飛び乗った。
「じゃ、静子、行って来るからね。ホンの一寸ちょっとだ! 直ぐ帰って来るからね。」
 信一郎は、小声で言い訳のように言いながら、妻の顔を、なるべく見ないように、車中の人となった。
 が、ガソリンが爆発を始めて、まさに動き出そうとする時だった。信一郎は、周章あわてて窓から、首を出した。
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「おい! 静子! おれの本箱の下の引き出しの、確か右だったと思うが、ノートが入ってる。それを持って来ておくれ!」
「はい。」と言って気軽に、立ち上った妻は、二階から大急ぎで、そのノートを持って降りて来た。
『これが、武器だ!』信一郎は、妻の手からそれを受けとりながら、心の中でそう叫んだ。
 爪黒つまぐろ鹿しかの血と、疑着ぎちゃくの相ある女の生血とを塗った横笛が、入鹿いるかほろぼす手段の一つであるように、瑠璃子夫人の急所を突くものは、青木淳の残した此のノートの外にはないと、信一郎は思った。


     

 五番町までは、一瞬の間だった。
 こうした行動に出たことが、いゝか悪いか迷う暇さえなかった。信一郎の頭の中には、瑠璃子夫人の顔や、妻の静子の顔や、非業ひごうに死んだその男の顔や、今日客間サロンで見たいろ/\な人々の顔が、あらしのように渦巻いている丈だった。が、その渦巻の中で彼は自ら強く決心した。『彼女の誘惑を粉砕せよ!』と。
 もう再びはくぐるまいと決心した花崗岩かこうがんの石門に、自動車は速力をわずかに緩めながら進み入った。もう再びは、足を踏むまいと思った車寄せの石段を、彼は再び昇った。が、先刻は夫人に対する賛美さんびあこがれの心で、胸を躍らしながら、が、今は夫人に対する反感と憤怒ふんぬとで、心を狂わせながら。
 取次ぎに出たものは、あの可愛かわいい少年の代りに、十七ばかりの少女だった。
「奥様がお待ちかねでございます。さあ、どうかお上り下さいませ。」
 信一郎は、それに会釈えしゃくする丈の心の余裕もなかった。彼は黙々として、少女の後に従った。
 少女は先刻の客間サロンの方へ導かないで、玄関の広間ホールから、ぐ二階へ導く階段を上って行った。
「あの、お部屋の方にお通し申すようにおっしゃっていましたから。」
 信一郎一寸ちょっと躊躇ちゅうちょするのを見ると、少女は振り返ってそう言った。
 階段を昇り切った取っ付きの部屋が、夫人の居間だった。少女は軽くノックしたが、内から応ずる気勢けはいがしなかった。
「あら! いらっしゃらないのかしら。それではどうか、お入りになって、お待ち下さいませ。屹度きっと、お化粧部屋の方にいらっしゃるのですから。」
 そう言って、少女はドアを開けた。
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 信一郎は、おそる/\その華麗な室内に足を踏み入れた。部屋の中には、夫人の繊細せんさい洗練せんれんされた趣味が、隅から隅まで、行き渡っていた。敷詰めてある薄桃色の絨毯じゅうたんにも、水色の窓おおいにも、ピアノの上に載せてある一輪挿の花瓶にも、桃花心木マホガニイの小さい書架に、並べてある美しい装幀そうてい仏蘭西フランスの小説にも、雪のように白い絹で張りつめられた壁にかゝっているクールベエらしい風景画にも炉棚マンテルピースの上の少女の青銅像ブロンズにも、夫人の高雅な趣味が光っていた。すべての装飾が、金で光っている丈ではなく、その洗練された趣味で光っているのだった。
 信一郎は、部屋の装飾に、現われている夫人の教養と趣味とに、接すると、たかめよう/\としている反感が、何時いつの間にか、その鋭さを減じて行くような危険を、感ぜずにはいられなかった。
 が、こうした美しい部屋も、彼女の毒の花園なのだ。彼女が、異性を惑わす魅力の一つなのだ。信一郎は、そう言う風に考え直しながら、青色の羽蒲団はねぶとんの敷いてある籐椅子とういすに、腰をおろしていた。窓からは、広大こうだいな庭園が、七月の太陽に輝いているのが見えた。
 夫人は、なか/\姿を見せなかった。小間使が氷の入った果実汁シロップを持って来た後も、なか/\姿を見せなかった。
 彼は、所在なさに、室内の装飾をあれからこれへと、見直していた。そのうちに、ふと三尺とは離れていないデスクの上に、眼が付いた。其処そこには、先刻信一郎が受け取ったのと同じ色のレタアペイパアと、金飾の華やかな婦人持の万年筆とが、置かれていた。先刻の手紙は、恐らくこの桃花心木マホガニイの小さい卓で書いたのに違いない。そう思って見ている中に、ふと一枚のレタアペイパアに、英語か仏蘭西語かが書かれているのに気が付いた。彼の好奇心は、動いた。彼は、少し上体を、その方に延ばしながら、それを読んだ。
(Shinichiro)
 彼は、自分の名前が書かれているのに驚いた。が、その次ぎの二字を見たときに、彼のおどろきは十倍した。
(Shinichiro, my love!)
信一郎、わが恋人マイラヴよ!』
 而も、その同じ句がそのレタアペイパアの上に、鮮かな筆触で幾つも/\走り書きされているのだった。


     

信一郎、わが恋人マイラヴよ!』
 信一郎の頭は、この短い文句でスッカリ掻き擾されてしまった。
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彼は十七八の少年か何かのように、我にもあらず、頬が熱くほてるのを感じた。夫人に対して、張り詰めていた心持が、ともすれば揺ぎ始めようとする。
 彼は、心の中で幾度も叫んだ。夫人の技巧の一つだ。誘惑の技巧の一つだ。自分の眼に入るように、わざとこんな文句を、書き散して置いたのだ。見え透いた技巧なのだ! が、そう言う考えの後から、又別な考えが浮んで来た。あの利口りこう聡明そうめいな夫人が、こんな露骨な趣味の悪い技巧をろうする訳はない! やっぱり、夫人の本心から出た自然の書き散しに違いない。信一郎の心の中の男性に共通な自惚うぬぼれが、ムク/\と頭をもたげようとする。あの先刻受け取った手紙も、こうして見ると、夫人の本心を語っているのかも知れない。夫人を妖婦ようふのように思うのも、みんな自分の邪推かも知れない。彼女は、男性との恋愛ごっこに飽き/\しているのだ。彼女の周囲に、あつまる胡蝶こちょうのような戯恋者に、飽き/\しているのだ。本当に、心をも身をも捨てゝかゝる、真剣な異性の愛に飢えているのかも知れない。世馴よなれた色男風ダンディふうの男性に、あきたらない彼女は、自分のような初心うぶ生真面目きまじめな男性を求めていたのかも知れない。
 夫人に対する信一郎の敵意がもうなかば崩れかけている時だった。
「御免下さいまし。」
 銀鈴に触れるようなさわやかな声と共に、夫人は静かに扉をあけて入って来た。
 湯上りらしく、その顔は、白絹か何かのように艶々つやつやしく輝いていた。縮緬ちりめん桔梗ききょうの模様の浴衣ゆかたが、そのスッキリとした身体の輪郭りんかくを、艶美えんびに描き出していた。
 わずか四五尺の間隔で、じっとその美しいひとみを投げられると、信一郎の心は、催眠術にでもかゝったような、陶酔を感ずるのを、うともすることが出来なかった。
「まあ! 本当によくいらっしゃいましたこと。わたくし、もうあれ切りかと思いましたの。もう、あれ切り来て下さらないのかと思っていましたよ。」
 信一郎が、彼女の入って来たのを見て、立ち上ろうとするのを、制しながら、信一郎と向きあって小さい卓を隔てながら、腰を下した。
 信一郎は、ともすれば後退あとじさりしそうな自分の決心に、しきりに拍車を与えながら、それでも最初の目的どおり、夫人と戦って見ようと決心した。
「先刻は大変失礼しましたこと。
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あの方達を帰してしまった後で、ゆっくり貴君あなたとお話がしたかったのよ。差し上げました御手紙御覧下すって?」
「見ました。」
 信一郎は、自分の決心を、動かすまいと、しっかりと言い放った。
「何うお考え遊ばして?」
 夫人は、追窮ついきゅうするように、美しく笑いながらいた。信一郎は、可なりハッキリした口調で言った。
貴女あなたの本当のお心持が、分らないものですから、何うお答えしてよいか当惑する丈です。」
「あれでお分りにならないの。あれで、十分分って下すってもいゝと思いますの。妾が、貴君のことを何う考えていますか。」
 夫人の顔に可なり、真剣な色が動いた。信一郎も、ある丈の力をもって言った。
「奥さん! 何うか記憶して置いて下さい! 僕には妻がありますから、家庭がありますから、貴女の危険なおたわむれのお相手は出来ませんから。」
 信一郎は、妻の静子の面影や、青木淳の死相を心の味方として、この強敵に向ってハッキリと断言した。


     

 その刹那せつな【瞬間】、夫人の顔が、さすがに鋭く緊張した。
「あら、貴君あなたまでが、そんなことを考えていらっしゃるの。わたくしが貴君の家庭をみだすような女だと思っていらっしゃるの。貴君にも、やっぱり妾の真意が分って下さらないのですわね。妾が、何を求めているかが、やっぱり分って下さらないのですわね。妾は、妾の周囲の戯恋者には飽き/\したと申しているではありませんか。妾は戯恋の相手ではなく、本当のお友達が欲しいのです。本当の男性らしい男性のお友達が欲しいのです。妾が、この方こそと思ってお選みした貴君からそんな誤解を受けるなんて、妾には忍びがたい恥辱ですわ。」
 そう言っている夫人の顔には、もうあの美しい微笑は浮んでいなかった。少しく、忿怒ふんぬを帯びた顔は、振い付きたいような美しさで、輝いていた。
 美しい夫人の顔に、忿怒の色が浮ぶのを見ると、信一郎は心の中で、可なりタジ/\となった。が、彼は自分のため、青木じゅんのため、また夫人その人のためにも、夫人の妖婦ようふ的な魂と、戦わねばならぬと決心した。
221/335

彼は、夫人の美しい顔から、出来るだけ面を背けながら言った。
「いや! 貴女あなたのお心が、分らないのではありません。僕を、真のお友達として、多くの男性から選んで下さる。それは僕として、光栄です。が、奥さん! 僕は貴女から選まれると言うことが可なり危険なことであるような気がするのです。僕は、安穏あんのんな家庭の幸福で、満足している平凡な人間です。うか僕を、このままに残して置いて下さい!」
 信一郎の語気は、可なり強かった。
「まあ! 何と言うことをおっしゃるのです。妾を、爆弾か何かのように、触ることさえ、お嫌いだと言うのですね。」
 夫人は、半ば冗談のように、言おうとしたが、信一郎の心の中の敵意を、アリ/\と感じたと見え、先刻までの夫人とは、丸切違ったような鋭さが、その美しさの裏に、ひそみ初めていた。
「いや! 奥さん、こんなことを申し上げては、失礼かも知れませんが、僕は貴女に選まれて飛んだ目にあったある男性のことを知っているのです。その男も、真面目まじめ初心うぶな男でしたから、僕が貴女に選まれたのと、同じような意味で、貴女に選まれたのではないかと思うのです。し、同じような意味で選まれたとすると、その男が飛んだ目にったように、僕も何時いつかは、飛んだ目に逢いそうです。はゝゝゝ。」
 信一郎は、懸命な勇気をもって、言い終ると調子外れの笑い方をした。彼ははげしい興奮のために、妙に上ずッてしまっていたのである。
 夫人の顔色が、一寸ちょっと変った。が、少しも取り擾す容子はなかった。彼女は、信一郎の顔を、じっと見詰めていたが、憫笑びんしょうするような笑いを、頬の辺に浮べると、一寸腰を浮かして、傍の卓の上の呼鈴を押しながら言った。
「貴君と妾とは、やっぱり縁なき衆生しゅじょうだったのですわね。やっぱりあれっ切りにして置けばよかったのですわね。妾の思い違いよ。貴君を、スッカリ見損っていたのですわね。貴君の躊躇ちゅうちょや、臆病おくびょうを、妾反対に解釈していたのですわ。妾男性の中で臆病な方が、一等嫌いなのですわ。
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差し出された女の唇に、接吻せっぷんを与えるほどの勇気さえないような男性が、一等嫌いなのでございますよ。おほゝゝゝゝ。妾自身、御覧の通のお転婆てんばでございますから、やっぱり強い男性の方が、一等好きなのでございますよ。」
 信一郎の攻撃に対する夫人の反撃は、烈しかった。信一郎は夫人の真向からの侮辱に、目がくらんだ。彼は屈辱と忿怒とのために、胸がくらくらするように煮えた。信一郎口籠くちごもりながら何か言おうとしたときに、呼鈴に応じて先刻の小間使が顔を出した。夫人は冷静な口調で、ハッキリと言った。
「お客様がお帰りになるそうだから、自動車の支度をするように。」


     

 西洋では、いやな来客を追い帰すとき、又来客と喧嘩けんかしたとき、『ドアを指さし示す』ことが、習慣である。直ぐ出て行ってれと言う意味である。客に対する絶大の侮辱であり、挑戦である。
 が、来客の前で、勝手に帰り支度を、整えてやることも、『扉を指さし示す』ことと同じ程度の侮辱に違いない。
 夫人は、自分の好意を、相手が跳ね返したと知ると、それを十倍ものはげしさで、跳ね返し得る女であった。
 信一郎は、平手で真向から顔を、ピシャリと、たたかれたような侮辱を感じた。もし、相手が女性でなかったら、立ち上りざま殴り付けてでもやりたいような激怒げきどを感じた。それと同時に、突き放されたようなさみしさが、激怒の陰に潜んでいることをも、感ぜずにはいられなかった。
 信一郎の顔が、激怒のために、真赤に興奮しているのにもかかわらず、夫人はその白い面が、心持あおんでいる丈で、冷然として彫像か何かのように動かなかった。
 信一郎も、相手から受けた、余りに思いがけない侮辱のために、しばらくは、口さえけなかった。
 夫人も、黙々として一語もらさなかった。その中に、バタ/\と廊下に軽い足音がしたかと思うと、先刻の女中が、顔を出した。
「あの、お支度が出来ましてございます。」
「そう。」
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と、夫人は軽く会釈えしゃくして、女中を去らせると、静かに信一郎の方を振向きながら、彼女の最後の通牒つうちょうを送った。
「それでは、どうかお帰り下さいませ。わたくしがお呼び立ていたした罪は、幾重にもおわびいたしますわ。でも、お互に理解しない者同士が、何時いつまで向い会っていても、全く無意味だとも思いますわ。うか安穏な御家庭で何時までも平和にお暮し遊ばせ!」
 夫人は、一寸ちょっと皮肉な微笑を浮べると、静に立って信一郎に、扉の方を指さし示した。
 信一郎の心は、激しい恥辱のために、裂けんばかりに、張り詰めていた。このまゝ、帰ってしまえば、徹頭徹尾てっとうてつび全敗である。どんなに、相手が美しい夫人であるとは言え、男性たるものが、こうも手軽に、人形か何かのように翻弄ほんろうせられることは、何うにもたまらないことだと思った。今こそ全力を尽して彼女と、戦うべき日であると思った。激怒のために、波立つ胸を、彼はじっと抑え付けながら言った。
「奥さん! 折角ですが、僕にはまだ帰られない用事があります。」
 信一郎の言葉は、可なりふるえを帯びていた。
「おや! 御用事。それじゃぐ承わろうじゃありませんか。妾、またこんな部屋には、一刻もおとどまりになるお心はなくなったのだろうと思っていました。」
 夫人は、すごいほどに、落着いていた。
 信一郎は、蒼白まっさおになりながら、懸命に冷静な態度を失うまいとした。
「奥さん! 帰るときが来れば、お指図を待たなくっても帰ります。が、只今ただいま伺ったのは、貴女あなたのお手紙のためばかりじゃないのです。僕がどんなに軽薄な人間でも、一度席をって帰った以上、貴女のお召状丈で、ノメ/\とやっては来ません。」
「おや! それでは、妾はその点でも飛んだ思違いをしていましたのね。」
 夫人は、針のような皮肉を含みながら、冷やかに笑った。信一郎はいらだった。
「貴女に申し上ぐべきこと、当然お願いすべき用事があればこそ参ったのです。それが済むまでは、貴女が幾ら帰れとおっしゃったって、帰れません。
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貴女も一度僕と会った以上、自分の用事丈が、済んだと言って、そう手軽に僕を追い返す権利はありません。」
「大変御尤ごもっともなおおせです。それではその用事とかを承わろうじゃありませんか。」
 夫人の皮肉な態度は突き刺すようなトゲ/\しさを帯び初めた。


     

 夫人の皮肉なトゲに、突き刺されながらも、信一郎は、やっと自分自身を支えることが出来た。
「用事と言って、ほかではありませんが、いつか貴女あなたにお預けして置いたあの白金プラチナの時計を、返していたゞきたいと思うのです。死んだ青木君から遺託いたくを受けたあの時計をです。」
 信一郎は、一生懸命だった。彼は、身体が激高のために、わなゝこうとするのをやっと、抑えながらしゃべった。が、その声は変に咽喉にからんでしまった。
 夫人の冷たさは、愈々いよいよ加わった。その美しい面は、象牙ぞうげきざんだ仮面か何かのように、冷たく光っていた。『何を!』と言ったようなかぬ気の表情が、その小さい真赤な唇のあたりに動いていた。
「あら、あれはわたくしにお預けして下さったのじゃないのですか。一旦いったんお預けして下さった以上、男らしくもないじゃありませんか。また返せなどとおっしゃるのは。」
 信一郎揶揄からかっているように、冷かしているように、夫人の語気は、ます/\辛辣しんらつになって行った。
「いや、お預けしたことは、お預けしました。が、それは返すべき相手が分らなかったからです。また、う言う心持で返すのかが、分らなかったからです。今こそ、返すべき女性がハッキリと分ったのです。また、何う言う態度で、あの時計を返すべきかも、ハッキリと分ったのです。僕は、あの時計を貴女から返していたゞいて、その本当の持主に、一番適当な態度で、返さねばならぬ責任を青木君に対して、感じているのです。どうかぐお返しを願いたいと思います。」
 夫人の顔は、さすがに少しく動揺した。が、信一郎が予想していたように、狼狽ろうばいの容子は露ほども見せなかった。
「そんなに、面倒臭い時計なのですか、それじゃ、お預りするのではなかったわ。それじゃ只今ただいま直ぐお返しいたしますわ。」
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 夫人は、手軽に、借りていたマッチをでも返すように、手近の呼鈴ベルを押した。
 二人は、黙々として、しばらく相対しているうちに、以前の小間使が、扉を静に開けた。
「あのね。応接室の、確か炉棚マンテルピースの上の手文庫の中だったと思うのだがね。壊れた時計があるはずだから持って来て下さいね。し手文庫の中になかったら、あの辺を探して御覧! 確かあの近所に放り散かして置いた筈だから。」
 信一郎が、あれほどまでに、心を労していた時計を、夫人は壊れた玩具か何かのように、放りぱなしにしていたのだった。青木じゅんが臨終にあれほどのうらみめた筈の時計は、夫人にって、意味のない一個の壊れ時計として、炉棚の上に、信一郎から預かった時以来忘れられていたのである。
 夫人から、そんなにまで手軽く扱われている品物に就いて、返すとか返さないとか、躍起になっていることが、信一郎には一寸ちょっと気恥しいことのように思われた。
 が、夫人のあゝした言葉や態度は、心にもない豪語であり、擬勢ぎせいである、口先でこそあんなことを言いながらも、彼女にも人間らしい心が、少しでも残っている以上、心の中では可なり良心の苛責かしゃくを受けているのに違ない。信一郎は、やっとそう思い返した。
 小間使は、探すのに手間が取れたと見え、暫らくしてから帰って来た。そのふっくらとした小さい手の裡には、信一郎には忘れられない時計が、薄気味のわるい光を放っていた。
 夫人は小間使から、無造作にそれを受取ると、信一郎の卓の上に軽く置きながら、
「さあ! どうぞ。よくあらためてお受取り下さいませ! お預りしたときと、寸分違っていない筈ですから。」
 夫人は、毒をくらわば皿までと言ったように、飽くまでも皮肉であり冷淡であった。


     

 信一郎は、差し出されたその時計を見たときに、その時計の胴にうすく残っている血痕けっこんを見たときに、もてあそばれて非業ひごうの死方をした青年に対する義憤の情が、旺然おうぜんとして胸にいた。それと同時に、青年を弄んで、間接に彼を殺しながらしかも平然として彼の死を冷視している――神聖な遺品かたみの時計をさえ、さげすみ切っている夫人に対して、燃ゆるような憎しみを、感ぜずにはいられなかった。
 信一郎は、かすかにふるえる手で、その時計を拾い上げながら、夫人の面を真向から見詰めた。
「いや、確にお受取りしました。お預けした品物に相違ありません。」
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 彼の言葉も、いつの間にか、敵意のある切口上に変っていた。
「ところが、奥さん!」信一郎は、満身の勇気を振いながら言った。
一旦いったんお返し下さったこの時計を――改めて、そうです、青木君の意志として――私は、改めて貴女あなたに受取っていたゞきたいのです。」
 そう言って、信一郎は、夫人の顔をじっと見た。どんなに厚顔な夫人でも、少しは狼狽ろうばいするだろうと予期しながら。が、夫人の顔は、やゝ殺気さっきを帯びているものゝ、その整った顔の筋肉一つさえ動かさなかった。
「何だか手数のかゝるお話でございますのね。子供のお客様ごっこじゃありますまいし、お返ししたものを、また返していただくなんて、もう一度お預かりした丈で、懲々こりごりいたしましたわ。」
 夫人はんで捨てるように言った。
 信一郎は、夫人の白々しい態度に、心の底まで、にくしみと憤怒ふんぬとで、煮え立っていた。
「いや、此度このたびはお預けするのではないのです。いや、最初から此の時計は貴女にお預けすべきでなくお返ししなければならぬ時計だったのです。時計の元の持主として、貴女に受取っていたゞくのです。貴女は、此の品物を当然受取るべきお心覚えがあるでしょう。ないとは、まさかおっしゃれないでしょう。」
 信一郎も、女性に対するすべての遠慮を捨てゝいた。二人は男女の性別を超えて、格闘者として、相対していた。
 信一郎に、そう言い切られると、夫人はしばらく黙っていた。白いひさごの種のような綺麗きれいな歯で、下唇を二三度噛んだがやがて気を換えたように、
「それでは、貴君あなたは此時計の元の持主を、わたくしだと仰しゃるのですか。」
「そうです。それを確信してもよい理由があるのです。」信一郎りんとしてそう言い放った。
「おやそう!」夫人は事もなげにけながら、「貴君が、そうお考えになりたければ、そうお考えになっても、別に差支さしつかえはございませんよ。それでは、この時計もお受取りして置こうじゃありませんか。どうせ一度は、お預かりした品物ですもの。」
 夫人の態度は、いよいよ逆になり、愈々毒を含んでいた。
「それで、御用事と仰しゃるのはこれ丈!」
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 夫人は信一郎と一刻でも長く同席することが不快でたまらないようにき立てるように附け加えた。
 信一郎は、夫人の自分に対するはげしい憎悪ぞうおに傷きながら、しかも勇敢に彼の陣地を支えた。
「いや、大変お手間を取らして相済みません。が、もう一言、そうです、青木君の言伝ことづてがあるのです。時計の元の持主にこう伝えてれと頼まれたのです。」
 信一郎は、そう言って言葉を切った。
 夫人はさすがに、緊張した。やさしくけむっているまゆを、一寸ちょっとしかめながら、信一郎が何を言い出すかを待っているようだった。

彼女の云分いいぶん[#「彼女の云分」は大見出し]



     

 遺言と言っても、信一郎青木じゅんの口ずから受けているのではない。が、彼は青木淳の死前のうらみこもったノートを受け継いでいる。
『彼女のわずかに残っている良心を恥かしめてやる』べき、以心伝心の遺託を、受けているのだった。
「いや、遺言と言っても、外ではありません。この時計を返すときに元の持主にこう言ってれと頼まれたのです。青木君が瀕死ひんしの重傷に苦しみながら、途切れ/\に言ったことですから、ハッキリとは分りませんが、何でもこう言う意味だったと思うのです。純真な男性の感情をもてあそぶことがどんなに危険であるかを伝えて呉れ。弄ぶ女に取っては、それは一時のたわむれであるかも知れぬが、弄ばれる男に取っては、それが死であると。奥さん! 貴女あなたは、こう言う話を御存じですか。池の中に多くのかえるが浮んでいると、子供達が来て石を投げ付ける、その時に蛙が何て言ったか御存じですか。蛙はこう言ったのです。貴君方あなたがたに取って遊戯であることが、我々に取っては死である、と。青木君の死際しにぎわの云分も、つまりそれなのです。貴女は、青木君の死を単なる奇禍きかだと思ってはいけません。形は奇禍ですが、心持にいては立派な自殺です。たゞ自動車の偶然の衝突があの人の死を、二三日早めたのに過ぎないのです。貴女は青木君の死を奇禍だと考えることにって、貴女の良心をあざむいてはなりません。正しく自殺です。
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しかも池の中の蛙が、子供が戯れに投げた石に当って死んだように、貴女が戯れに与えた白金プラチナの時計に依って死んだのです。蛙がし人間としての働きがあったならば、その石を子供に投げ返すように、僕は青木君に代って、の時計を貴女に投げ返すのです。そうです、貴女の良心に向って投げ返すのです。貴女の心に僅かにでも、良心が残っているのなら、貴女はそれで此の時計を受け止めて下さい。そうしてその受け止めた痛みに依って、貴女の心をきよめていたゞきたいと思うのです。そうして、男性に対する貴女の危険な戯れを、今日限りしていたゞきたいと思うのです。それが青木君の死に対する貴女のせめてものつぐないです。僕が、先刻貴女のお戯れの相手をするのは危険だと言ったのはこう言う意味です。青木君の場合はまだ独身ですから、貴女の戯れの犠牲になるものは一人で済むのですが、僕のような既婚者の場合は被害者が複数ですからね。」
 信一郎の興奮は、彼を可なりな雄弁家にしてしまった。夫人はと見ると、さすがに彼の言葉が一々肺腑はいういていると見えて、うなだれ気味に、黙々と聴いていた。信一郎は、自分の心が、少しでも夫人の心を悔い改めしめているかと思うと、内心ある感激を感ぜずにはいられなかった。そうだ! 此の美しき女性をたゞ恥かしめる丈が、能ではない。自分の言葉に依って、夫人の心を、少しでも浄くし改めてやりたいと思った。
「いや! 奥さん。僕は何も貴女に恩怨おんえんがあるのではありません。恩怨がないばかりでなく、ある点では貴女を敬慕しているものです。貴女のそのすぐれた美しさと、貴女の教養や趣味に対して、心から敬慕しているものです。が、僕は貴女がそうした天分や教養を邪道に使っているのを見ると、本当に心が暗くなるのです。僕は青木君のためにばかりでなく、貴女自身のために、僕の言ったことをよく玩味がんみしていたゞきたいと思うのです。」
 こう信一郎が、述べきたった時、今まで傾聴しているような態度をしていた夫人は、つと頭を上げた。
「あの、お言葉中で恐れ入りますが、御忠告なら、御免をこうむりたいと思います。御用事丈を承わるはずであったのでございますから。」
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 鋼鉄のようなりんとした冷たさが、その澄んだ声の内に響いていた。


     

『御忠告ならば、御免を蒙る。』と、夫人がきっぱりと言い放つのを聴くと、信一郎は夫人に対して、最後の望みを絶った。青木淳は、『わずかに残っている良心』と、書いている。が、僅に残っている良心どころか良心らしいものは、かけらさえ残っていない。女らしい、つゝましい心の代りに、そこに翼をひろげているものは、恐ろしい吸血鬼ヴァンパイヤである。純真な男性の血を好んでたしなむ怪物である。夫人の良心に訴えて、少しでも彼女を、いゝ方に改めさせてやろうと思ったのは、悪魔に基督キリストの教を説くようなものであると思った。
 信一郎外面如菩薩げめんにょぼさつと言う古い言葉を、今更らしく感心しながら、しばらくは夫人の顔を、じっと見詰めていたが、
「いや、これは飛んだ失礼をしました。青木君の遺言だけを伝えれば、僕の責任は尽きていたのでした。」
 彼は、そう言っていさぎよこの部屋から出ようとした。が、その時に、彼は青木淳の弟の姿を思い浮べた。そうだ! あの青年を、夫人の危険から救ってやることは、自分の責任だと思った。
「だが、奥さん! 僕は僕の責任として、貴女あなたにもう一言言わなければならぬことがあるのです。これは貴女に対するおせっかいな忠告じゃないのです。青木君に対する僕の責任の一部として、申し上げるのです。畢竟ひっきょう青木君の遺言の延長として申上げるのです。それは、外でもありません。貴女が如何いかなる男性の感情を、どんなにもてあそぼうが、それは貴女の御勝手です。いや御勝手と言うことにして置きましょう。だが、青木君の弟の感情を、弄ぶこと丈は、僕が青木君に代って、断然お断りして置きます。まさか、貴女も少しでも、人情がお有りでしたら、兄を深淵しんえんへ突きおとした後で、その肉親の弟をも、同じところへ突き陥すような残酷なことはなさるまいとは思いますけれども、念のためにお願して置くのです。いやどうもお邪魔しました。」
 夫人の顔が、さすが蒼白そうはくに転ずるのを尻目しりめにかけながら、信一郎は、素早く部屋を出ようとした。が、それを見ると、夫人はきっとなって呼び止めた。
渥美あつみさん! お待ちなさい!」
 そのりんとした声には、女王のような威厳いげんが備わっていた。
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貴君あなたは、自分のおっしゃることさえ仰しゃってしまえば、それでお帰りになってもいゝとお考えになるのですか。貴君が、わたくしに御用事があるうちは、貴君に帰る権利が、妾になかったように、妾が貴君に申上げることが残っている以上貴君はお帰りになる権利はありません。妾は一言丈貴君に申上げることが残っています。」
 美しいまゆり上り、黒いひとみは、血走っていた。信一郎を、屹と見詰めて立っている姿は、『怒れる天女』と言ったような、美しさと神々こうごうしさとがあった。
「貴君は、今青木さんの遺言ゆいごんとやらを、長々しく仰しゃいましたが、それを妾が受けると思っていらっしゃるのですか。時計こそ、お受けしましたが、そんな御遺言なんか、一言半句だって、お受けする覚えはありません。そんなお言伝を、青木さんから承わるような覚えは、さら/\ありません。今承わったお言葉全部を、そのまゝ御返上します。」
 夫人の声にも、憎みと怒りとが、燃えていた。が、信一郎はたじろがなかった。
「死人に口がないと思って、そんなことを仰しゃっては困ります。貴女を、今日訪問した客に村上と言う海軍大尉たいいがあったはずです。まさか、ないとは仰しゃいますまいね。」
「よく御存じですね。」
 夫人は、平然として答えた。
「それなら、青木君の遺言を受ける責任と義務とがあります。貴女に、もし少しでも良心が残っていらっしゃるのなら、今貴女にお目にかけるものを、平然と読めるかどうか試して御覧なさい!」
 そう言いながら、信一郎はポケットに曲げて入れていたノートを夫人の眼前めのまえに突き付けた。


     

 信一郎が、眼の前に突き付けたノートを、夫人は事もなげに受取った。ノートの重さにもえないような華奢きゃしゃな手で、それを無造作に受け取った。
 鋼鉄のごとき心と言うのは、恐らく今の場合の夫人の心を言うのだろう。鬼が出るか蛇が出るか分らないそのノートを、受け取りながら、一糸みだれたところも、ひるんだところも見せなかった。
「おや、青木さんのノートでございますのね。」
 夫人は、平然と言いながら、最初のページから繰り初めた。
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繰っているその白い手は、落着きかえっている。
 が、信一郎は思った。今に見ろ、どんなに白々しい夫人でも、血で書いた青木淳の忿恨ふんこんの文字に接すると、屹度きっと良心の苛責かしゃくに打たれて、女らしい悲鳴を挙げる。彼女の孔雀くじゃくごとき虚飾のおごりをみだされて、女らしい悔恨に打たれるに違いない。そう思いながら、頁を繰る夫人の手許てもとと、やゝあおんでいる美しい面から、一瞬も眼も放たず、じっと見詰めていた。
 そのうちに、夫人はハタと、青木淳が書き遺した文字を見付けたらしい。さすがに美しいひとみは、卓の上に開かれたノートの頁の上に、釘付くぎづけにされたように、止ってしまった。
 美しい面が、最初薄赤く興奮して行った。が、それがだん/\蒼白そうはくになり、唇の辺りが軽く痙攣けいれんするように動いていた。
 夫人が、深い感動を受けたことは、明かだった。信一郎は、今にも夫人が、ノートの上に瓦破がばと泣き伏すことを予期していた。泣き伏しながら、非業ひごうに死んだ青年の許しをうことを想像した。彼女の美しい目から、真珠のような涙が、ハラ/\とほとばしることを待っていた。悔恨かいこん懺悔ざんげとの美しい涙が。
 が、信一郎の予期は途方もなく裏切られてしまった。一時動揺したらしい夫人の表情は、回復かいうくした。涙などは、一滴だって彼女の長いまつげをさえ湿うるおさなかった。
 彼女は、一言も言わずに、ノートを信一郎の方へ押しやった。
 信一郎は、夫人の必死的デスペレートな態度に圧せられて、の上何か言う勇気をさえくじかれた。
 二人は、二三分の間、黙々として相対していた。信一郎は、その険しい重くるしい沈黙に堪えかねた。
如何いかがです。此のノートを読んで、貴女あなたは何ともお考えにならないのですか。」
 信一郎の声の方が、かえってあやしいふるえをさえ帯びていた。
 夫人は、黙して答えなかった。
 信一郎は、畳みかけていた。
「貴女は、青木君が血をもって書いた、此のノートを読んで、何ともお考えにならないのですか。
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青木君の言い草じゃないが、貴女の少しでも残っている良心は、此のノートを読んで、顫いおののかないのですか。貴女のたわむれの作った恐ろしい結果に戦慄せんりつしないのですか。」
 信一郎は、可なり興奮して突きかゝった。
 が、夫人は冷然として、氷の如く冷かに黙っていた。
「奥さん! 黙っていらしっては分りません。貴女は! 貴女は此ノートを読んで何ともお考えにならないのですか。」
 信一郎は、いらだって叫んだ。
「考えないことはありませんわ。」
 彼女の沈黙が冷かな如く言葉そのものも冷かであった。
「お考えになるのなら、そのお考えを承わろうじゃありませんか。」
 信一郎益々ますますいらだった。
「でも、死んだ方に悪いのですもの。」
「死んだ方に悪い! 貴女はまだ死者をさげすもうとなさるのですか。死者をいようとなさるのですか。」
 信一郎は火の如く激高した。
 その激高に、水を浴びせるように夫人は言った。
「でも、わたくし、此ノートを読んで考えましたことは、青木さんも普通の男性と同じように、自惚うぬぼれが強くて我まわがままであると言うこと丈ですもの。」


     

 夫人の言葉は、信一郎唖然あぜんたらしめた。彼は呆気に取られて、夫人の美しい冷かな顔を見詰めていた。どんな妖婦ようふでも、昔の毒婦伝に出て来るような恐ろしい女でも、自分を恨んで死んだ男の遺書かきおきを、こうまで冷酷に評し去る勇気はないだろう。自分を恨んでいる、血ににじんだ言葉を自惚うぬぼれと我まわがままだと言って評し去る女はないだろう。
 が、一時の驚きが去ると共に、信一郎の心に残ったものは、夫人に対する激しい憎悪ぞうおだった。女ではない。人間ではない。女らしさと、人間らしさとを失った美しい怪物である。その人を少しでも人間らしく考えた自分が、間違っていたのだ。彼は心の中の憎悪を吐き捨てるように言った。
「いやもう、なにも言いたくありません。
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貴女あなたは、貴女のお考えで、男性をもてあそぶことをおつゞけなさい! その中に、純真な男性の怒が、貴女を粉微塵こなみじんに砕く日が来るでしょう。」
 信一郎は、床を踏み鳴らさんばかりに、激高しながら、叫んだ。
 が、信一郎が激すれば、激するほど、夫人は冷静になって行った。彼女は、冷たい冷笑をさえ頬の辺りに、浮べながら、落着き返って言った。
「男性を弄ぶ! 貴君あなたは、女性が男性を弄ぶことを、そんなに恐ろしい罪悪のように考えていらっしゃるのですか。だから、わたくしが男性の我ままだと言うのですわ。し、男性を弄ぶ女性を、純真な男性の怒りが、粉微塵に砕くとしたなら、今の世間の大抵の男性は、純真な女性の怒りにって、粉微塵に砕かれる資格があるでしょう、貴君だって、貴君の純真な奥さんのお心の前に、少しも、恥かしいと思うことはありませんか、貴君が妾の良心にお訴えになったように、妾も貴君の良心に、それを伺いたいと思いますの。」
 夫人の態度は、あきらかに熱していた。赤く熱すると言うよりも、白く冷たくしかも極度に熱していた。
「女性が男性を弄ぶと貴君方男性は、ぐ妖婦だとか毒婦だとか、あらん限りの悪名を浴びせかける。貴君などは、眼の色を変えてまで、叱責しっせきなさろうとする。が、御覧なさい! 世間の男性がどんなに女性を弄んでいるかを。女性が男性を弄ぶに致しましたところで、それは男性の浮動しやすい心を、弄ぶのに過ぎないじゃありませんか。男性が女性を弄ぶ場合は、心も肉体も、名誉も節操も、蹂躙じゅうりんし尽すじゃありませんか。眼にこそ見えませんが、この世間には男性に弄ばれた女性の生きたむごたらしい死骸しがいが、幾つ転がっているかも分りません。貴君の眼の前にいる女性なども、案外にもそうした生きた死骸の一つだか分りませんよ。」
 夫人の美しいひとみ爛々らんらんと輝いた。その美しい声は、はげしい熱のために、ふるえていた。
「男性は女性を弄んでよいもの、女性は男性を弄んでは悪いもの、そんな間違った男性本位の道徳に、妾は一身をしても、反抗したいと思っていますの。今の世の中では、国家までが、国家の法律までが、社会のいろ/\な組織までが、そうした間違った考え方を、助けているのでございますもの。
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御覧なさい! 世の中には、お女郎屋だとか待合だとかお茶屋だとか、男性が女性を公然と弄ぶ機関が存在しているのですもの。そう言うものを国家が許し、法律が認めているのですもの。また、そう言うものが存在している世の中に、住みながら、教育家とか思想家などと言う人達が、晏然あんぜんとして手をこまぬいているのですもの。女性ばかりに、貞淑であれ! 節操を守れ! 男性を弄ぶな! そんなことを、幾何いくら口をくして説いても、妾はそれを男性の得手勝手だと思いますの。男性の我ままだと思います。丁度青木さんのノートが、男性の我ままを示しているように。」
 しいたげられたる女性全体の、反抗の化身であるように、夫人の態度は、跳ね返る竹のごとき鋭さを持っていた。


     

 夫人は、心の中に抑えに抑えていた女性としての平生の鬱憤うっぷんを、一時に晴してしまうように、烈しくほとばしる火花のようにしゃべり続けた。
「人がとらを殺すと狩猟と言い、紳士的な高尚な娯楽としながら、虎が偶々たまたま人を殺すと、凶暴きょうぼうとか残酷とかあらゆる悪名を負わせるのは、人間の得手勝手です。我まわがままです。丁度それと同じように、男性が女性をもてあそぶことを、当然な普通なことにしながら、社会的にもめかけだとか、芸妓げいしゃだとか、女優だとか娼婦しょうふだとか、弄ぶための特殊な女性を作りながら、反対に偶々一人か二人かの女性が男性を弄ぶと妖婦ようふだとか毒婦だとか、あらゆる悪名を負わせようとする。それは男性の得手勝手です。我ままです。わたくしは、そうした男性の我ままに、一身をして反抗してやろうと思っていますの。」
 彼女は、一寸ちょっと言葉を途切らせてから、
青木さんとの事だって、そうでございますわ。貴君あなたなどは、すべての責任を妾に負わせようと遊ばす。妾が、清浄無垢しょうじょうむく青木さんを迷わしたようなことをお言いになる。が、あの時計だって、妾が青木さんに、どうかお受け取りになって下さいと言って、差し出したものじゃあございませんわ。青木さんが、幾度もれ/\とおっしゃったから差し上げたのよ。自分がおねだりなすったことなどは、ちっとも書いておありにならないのですもの。だから、自惚うぬぼれが強くって我ままだと申したのですわ。
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またあの方が、幾何いくら自殺をすると書いておありになっても、それはあの方の詠嘆えいたんに過ぎませんわ。もし、自動車が転覆しなかったら、あの方は今日あたりは、妾の客間サロンへお見えになったかも知れませんよ。また縦令たとい自殺の決心が、本当でおありになったとしても、それを妾一人の責任のように、御解釈なさることは、御免こうむりたいと思いますわ。だって、あの方の性格の弱さに対してまで、妾は責任を持ちたくありませんもの。妾との戯恋フラアテイションの一寸した幻滅で、自殺をなさるような方は、男子としての生存的意志を、持っていないと申上げてもいゝのですもの。妾とのいきさつで、自殺なさらなくっても、又なにか別なことで、ぐ自殺してしまう方ですもの。」
 信一郎は、夫人の言葉を聴いている中に、それを夫人の捨鉢な不貞腐ふてくされの言葉ばかりだとは、聞きながされなかった。彼は、その美しい夫人のうちに、如何いかなる男性にも劣らないような、鋭い理知りちと批判とを持った一個の新しい女性、如何なる男性とも、精神的に戦い得るような新しい強い女性を認めたのである。
 彼の夫人に対する憎悪ぞうおは、三度四度目に、又ある尊敬に変っていた。旧道徳の殻を踏みにじっている夫人を、古い道徳の立場から、非難していた自分が、可なり馬鹿ばからしいことに気が付いた。
 夫人の男性に対する態度は、彼女の淫蕩いんとうな動機からでもなく、彼女の妖婦的な性格からでもなく、もっと根本的な主義から思想から、きざしているのだと思った。
「妾、男性がしてもよいことは、女性がしてもよいと言うことを、男性に思い知らしてやりたいと思いますの。男性が平気で女性を弄ぶのなら、女性も平気で男性を弄び得ることを示してやりたいと思いますの。妾一身を賭して男性の暴虐ぼうぎゃくと我ままとをこらしてやりたいと思いますの。男性に弄ばれて、綿々の恨みをいだいている女性の生きた死骸しがいのために復讐ふくしゅうをしてやりたいと思いますの。本当に妾だって、生きた死骸のお仲間かも知れませんですもの。」
 そう言いながら、夫人は一寸頭をうなだれた。緊張し切っていた夫人の顔に、悲しみの色が、サッと流れた。


     

 物凄ものすごいと言ってよいか、死身と言ってよいか、かく、烈々たる夫人の態度は、信一郎の心を可なり振盪しんとうした。
 これほどまで、深い根拠から根ざしている夫人の生活を、慣習的な道徳の立場から、非難しようとした自分の愚かさを、信一郎はしみじみと悟ることが出来た。
236/335

夫人をして彼女の道を行かしめる外はない。縦令たとい、その道が彼女を、どんな深淵しんえんに導こうとも、それは彼女に取って覚悟の前の事に違いない。多くの男性を翻弄ほんろうした報いのために、縦令彼女自身をほろぼすとも、それは、彼女としては、主義に殉ずることであり、男性に対する女性の反抗の犠牲となることなのだ。
「いや! 奥さん、僕は貴女あなたのお心が、始めてわかったように思います。僕はそのお心に賛成することは出来ませんが、理解することは出来ます。貴女に忠告がましいことを言ったのを、おわびします。貴女が、一身をして、貴女の思い通り、生活なさることを、はたからかれこれ言うことの愚さに気が付きました。が、奥さん、僕は、今おいとまする前に、たった一つ丈お願いがあるのです。聴いて下さるでしょうか。」
「どんなお願いでございましょうか。わたくしにも出来ることでございましたら。」
 信一郎が夫人の本心を知ってから、可なり妥協的な心持になっているのにもかかわらず、夫人の態度の険しさは、少しもゆるんでいなかった。
「外でもありません。先刻も申しました通り、青木君の弟丈を、貴女の目指す男性から除外していたゞきたいと思うのです。青木君の死をまざ/\と知っている丈、あの方の弟までが、貴女の客間に出入することは、僕の心を暗くするのです。青木君の死の責任がどちらにありましょうとも、青木君が貴女を恨んで死んだ以上、青木君の弟に対して丈は、慎んでいたゞきたいと思うのです。」
貴君あなたは、御忠告をなさらないと言う口の下から、またそう言うことをおっしゃっていらっしゃるのですね。」そう言いながら、さすがに夫人は一寸ちょっと苦笑ともなく微笑ともなく笑った。「自分の生活丈を自分の思いどおりにしようとするものは、利己主義ではない、他人の生活をまで、自分の思い通にしようとするものこそ、本当の利己主義だと、ある人が申しましたが、貴君などこそ、本当の利己主義でいらっしゃいますわね。青木さんの弟が妾をしたっていらっしゃるとする。そう仮定したとしても、それがあの方としては、一番本当の生活じゃございませんでしょうかしら。それが、あの方として一番本当の生き方じゃございませんかしら。そう言う他人の真剣な生活を、貴君が傍から心配なさることは少しもないと思いますわ。
237/335

妾のために、あの方が、一身を犠牲にするような事があったとしても、あの方としては一番本当の生き方をしたと言う事になりは致しませんでしょうか。」
 夫人の考え方は、すべての妥協と慣習とを踏みにじっていた。
「果してそんなものでしょうか。僕は断じてそうは思いません。」
 信一郎は可なり激しく、抗議せずにはいられなかった。
「それは、銘々の考え方の違ですわ。妾は、妾の考え方にって生きる自由を持っています。」
 夫人は、この長い激論を打ち切るように言った。
「そうです。それはそうかも知れません。が、貴女が貴女の考えに依って生きる自由があるように、僕も僕の考えを実行する自由を主張するのです。奥さん! 青木君の弟を、あなたの脅威きょういから救うことに、僕は相当の力を尽すつもりです。それは死んだ青木君に対する僕の神聖な義務だと思うのです。」
「どうか、御随意に。」夫人は、冷然と言った。
青木さんの弟に取っては、本当に有難迷惑だとは思いますが、しかむを得ませんわ。貴君が躍起になった御忠告が、あの方の妾に対するお心を、どの位さまさせるか、ゆっくり拝見したいと思いますわ。」
 夫人は、最後のとどめを刺すように、高飛車に冷然と笑いながら、言い放った。

初恋



     

 瑠璃子るりこ夫人を、あの太陽に向って、豪然と咲き誇っている向日葵ひまわりたとえたならば、それとは全く反対に、鉢の中の尺寸の地の上に、楚々そそとしてつつましやかに花を付けるあの可憐かれん雛罌粟ひなげしの花のような女性が、夫人の手近にいることを、人々は忘れはしまい。それは言うまでもなく、彼の美奈子みなこである。
 父の勝平が死んだとき十七であった美奈子は、今年十九になっていた。その丸顔の色白の面は、処女そのものの象徴のような、浄さと無邪気あどけなさとをもって輝いていた。
 男性に対しては、何の真情をも残していないような瑠璃子夫人ではあったが、彼女は美奈子に対しては母のような慈愛と姉のような親しさとを持っていた。
 美奈子また、彼女の若き母を慕っていた。
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ことに、兄の勝彦が父に対する暴行の結果として、警察の注意のため、葉山の別荘の一室に閉じ込められたために、彼女の親しい肉親の人々をすべて彼女の周囲から、奪われてしまった寂しい美奈子の心は、自然若い義母に向っていた。若き母も、美奈子を心の底から愛した。
 二人は、過去のにがい記憶をことごとく忘れて、本当の姉妹のように愛し合った。瑠璃子が、勝平の死んだ後も、荘田しょうだ家にとどまっているのは、一つは、美奈子に対する愛のためであると言ってもよかった。この可憐な少女と、その少女の当然受け継ぐべき財産とを、守ってやろうと言う心も、無意識のうちに働いていたと言ってもよかった。
 従って瑠璃子は、美奈子を処女らしく、女らしく慎しやかに育てゝ行くために、可なり心を砕いていた。彼女は彼女自身の放縦な生活には、決して美奈子を近づけなかった。
 彼女を追う男性が、はえのようにあつまって来る客間サロンには、決して美奈子を近づけなかった。
 従って、美奈子は母の客間サロンに、どんな男性が蒐まって来るのか、顔丈も知らなかった。無論紹介されたことなどは、一度もなかった。たゞ門の出入などに、そうした男性と、擦れ違うことなどはあったが、たゞ軽い黙礼の外は口一つかなかった。
 母が日曜の午後を、華麗な客間で、多くの男性に囲まれて、女王のように振舞っているのをよそに、美奈子は自分の離れの居間に、日本室の居間に、気に入りの女中を相手に、お琴や挿花さしばなのお復習さらいに静かな半日を送るのが常だった。
 時々は、客間にける男性の華やかな笑い声が、遠く彼女の居間にまで、響いて来ることがあったが、彼女の心は、そのために微動だにもしなかった。そうした折など、女中達が、瑠璃子夫人の奔放な、放恣ほうしな生活を非難するように、
「まあ! 大変おにぎやかでございますわね。奥様もお若くていらっしゃいますから。」
 などと、美奈子の心を察するように、忠勤ぶった蔭口かげぐちを利く時などには、美奈子は、その女中をそれとなくたしなめるのが常だった。
 が、日曜の午後を、彼女はもっと有意義に過すこともあった。それは、青山に在る父と母とのお墓にお参りすることであった。
 彼女は、女中を一人連れて、晴れた日曜の午後などを、わざと自動車などに乗らないで、青山に父母の墓を訪ねた。
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 彼女は夢のような幼い時の思出などにふけりながら、一時間にも近い間、父母の墓石の辺に低徊ていかいしていることがあった。
 六月の終りの日曜の午後だった。その日は死んだ母の命日に当っていた。彼女は、女中を伴って、何時いつものようにお墓参りをした。
 墓地には、初夏の日光が、やゝ暑くるしいと思われるほど、輝かしく照っていた。墓地をしきっている生籬いけがきの若葉が、スイ/\と勢いよく延びていた。美奈子は裏の庭園で、切って来た美しい白百合しらゆりの花を、右手めてに持ちながら、なつかしい人にでも会うような心持で、墓地の中の小道を幾度も折れながら、父母の墓の方へ近づいて行った。


     

 晴れた日曜の午後の青山墓地は、其処そこの墓石の辺にも、彼処かしこ生籬いけがきうちにも、お墓まいりの人影が、チラホラ見えた。
 清々すがすがしく水が注がれて、線香の煙が、白くかすかに立ち昇っているお墓なども多かった。
 小さい子供を連れて、き夫のお墓に詣るらしい若い未亡人や、珠数じゅずを手にかけた大家の老夫人らしい人にも、行き違った。
 荘田家の墓地は、あの有名なN大将の墓から十間と離れていないところにあった。美奈子の母が死んだ時、父は貧乏時代を世帯しょたいの苦労に苦しみ抜いて、碌々ろくろく夫の栄華の日にも会わずに、死んで行った糟糠そうこうの妻に対する、せめてもの心やりとして、此処ここに広大な墓地を営んだ。無論、自分自身も、妻の後を追うて、其処そこに埋められると言うことは夢にも知らないで。
 亡き父の豪奢ごうしゃは、周囲を巡っている鉄柵てつさくにも、四辺あたりの墓石を圧しているような、一丈に近い墓石にもしのばれた。
 美奈子は、女中が水をみに行っている間、父母の墓の前に、じっとうずくまりながら、心の裡で父母のなつかしい面影を描き出していた。世間からは、いろ/\に悪評も立てられ、成金に対する攻撃を、一身に受けていたような父ではあったが、自分に対しては、世にかけ替のない優しい父であったことを思い出すと、何時いつものように、追慕の涙が、ホロ/\と止めどもなく、二つの頬を流れ落ちるのだった。
 女中が、水を汲んで来ると、美奈子は、その花筒の古い汚れた水を、浚乾かえほしてから、新しい水を、なみなみと注ぎ入れて、り取ったまゝに、まだ香の高い白百合しらゆりの花を、挿入れた。こうしたことをしていると、何時の間にか、心が清浄しょうじょうに澄んで来て、父母の霊が、遠い/\天の一角から、自分のしていることを、微笑ほほえみながら、見ていてれるような、頼もしいような懐しいような、清々しい気持になっていた。
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 美奈子は、花を供えた後も、じっと蹲まったまゝ、心の中で父母の冥福めいうくを祈っていた。微風が、そよ/\と、向うの杉垣の間から吹いて来た。
「ほんとうに、よく晴れた日ね。」
 美奈子は、やっと立ち上りながら、女中を見返ってそう言った。
「左様でございます。ほんとうに、雲のかけ一つだってございませんわ。」
 そう言いながら、女中はまぶしそうに、晴れ渡った夏の大空を仰いでいた。
「そんなことないわ。ほら、彼処あすこにかすったような白い雲があるでしょう。」
 美奈子も、空を仰ぎながら、晴々しい気持になってそう言った。が、美奈子の見付けたその白いかすかな雲の一片を除いた外は、空はほがらかに何処どこまでも晴れ続いていた。
「今日は余りいゝお天気だから直ぐ帰るのは惜しいわ。ぶら/\散歩しながら、帰りましょう。」
 そう言いながら、美奈子は女中をうながして、懐しい父母の墓を離れた。
 何時もは、歩きれた道を、青山三丁目の停留場に出るのであったが、その日は清い墓地内を、あてもなくぶら/\歩くために、わざと道を別な方向に選んだ。
 自分の家の墓地から、三十間ばかり来たときに、美奈子はふと、美しく刈り込まれた生籬に囲まれた墓地の中に、若い二人の兄妹きょうだいらしい男女が、お詣りしているのに気が付いた。
 美奈子は、軽い好奇心から、二人の容子を可なり注意して見た。兄の方は、二十三四だろう。銘仙らしい白い飛白かすりに、はかま穿いて麦藁むぎわらの帽子をかぶった、スラリとした姿が、何処となく上品な気品を持っていた。妹はと見ると、まだ十五か十六だろう、青味がかった棒縞ぼうじまのお召にカシミヤの袴を穿いた姿が、質素な周囲と反映してあざやかに美しかった。
 美奈子達が、段々近づいてその墓地の前を通り過ぎようとしたとき、ふと振り返った妹は、美奈子の顔を見ると、微笑を含みながら軽く会釈えしゃくした。


     

 妹らしい方から会釈されて、美奈子周章あわてながら、それに応じた。が、相手が誰だか、容易に思い出せなかった。長いまつげおおわれたその黒いひとみを、何処どこかで見たことのあるように思った。が、それがうしても美奈子には思い出せなかった。
「人違いじゃないのかしら。」
 そう思って、美奈子一寸ちょっと顔を赤くした。
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 が、美奈子がその墓地の前を通り過ぎようとして、二度ふたたびその兄妹らしい男女を見返ったとき、今度は兄の方が、美奈子の方を振り返っていた。恐らく妹が、挨拶あいさつしたので、一寸した興味を持ったためだろう。美奈子の眸は、当然その青年の顔を、正面から見た。その刹那せつな【瞬間】美奈子は、若い男性と、咄嗟とっさに顔を見合わした恥かしさに、はじかれたように、顔を元に返した。
 それはホンの一瞬の間だった。が、その一瞬の間に一目見た青年の顔は、美奈子の心に、名工がのみを振ったかのように、ハッキリと刻み付けられてしまった。
 彼女は、今まで異性の顔に、自分から注意を向けたことなどは、ほとんどなかった。が、今見た青年の顔は、彼女の注意のすべてを、支配するような不思議な魅力を持っていた。
 白いくっきりとした顔、妹によく似た黒い眸、凜々りりしく引きしまった唇、顔全体を包んでいる上品なにおい
 お墓参りの後の、澄み渡ったような美奈子の心持は、たちまみだされてしまった。彼女ののんびりとしていた歩調は、急に早くなった。彼女の心は、強い力で後へ引かれながら、身体丈けは彼女の意志とは反対に、前へ/\と急いでいた。丁度、恐ろしいものからでも逃れるように。
 彼女のみだれていた心が、だん/\なごんで来るのに従って、先刻の妹の方から受けた挨拶のことを、考えていた。先方は、自分を知っているに違ない。少くとも、妹の方丈は、自分を知っていてれるに違ない。が、そうは思って見るものの、妹が誰であるか何うしても思い出されなかった。
 が、通り過ぎた時に、チラと見た所に依ると、二人が、つい近く失ったばかりの肉親のお墓まいりをしていたこと丈は、明かだった。幾本も立っている卒都婆そとばが、どれもこれも墨の匂が新しかった。
 美奈子は、知人の家で、最近に不幸のあった家を、それからそれと数えて見た。が、何うしても兄妹の所属はわからなかった。
 妹の方が、人違をしたのかも知れない。そう思うことは美奈子は、何だかさみしかった。やっぱり、此方こちらが思い出せないのだ。
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その中には、また屹度きっとあの人達と顔を合せる機会があるに違いない。屹度機会が来るに違いない。
「お嬢様! 何方どっちへ行らっしゃるのでございます?」
 そう言って呼び止める女中の声に驚いて、美奈子が我に帰ると、美奈子は右に折れるべき道を、ズン/\前へ、出口のない小径こみちの方へと、進んでいるところだった。
其方そちらへいらっしゃいますと突き当りでございますよ。」
 そう言いながら、女中は笑った。
「おや! おや! わたしぼんやりしていたわ。」
 美奈子も、てれかくしに笑った。
 二人は何時いつの間にか霞町かすみちょうの方へ近づいていた。
「霞町から乗って、青山一丁目で乗換えすることにいたしましょうか。」
 女中の発議にまかしたように、美奈子は黙って霞町の方へ、だら/\した坂をくだっていた。心の中では、まだ一心に、その妹の顔と兄の顔とを等分に考えながら。
 塩町行の電車の昇降台しょうこうだいの棒に、美奈子が手をかけたとき、彼女は低く、
「あゝそう/\!」と、自分自身に言った。
 彼女は、やっと妹を思い出した。お茶の水で確か三年か二年か下の級にいた人だ。そう/\! 先刻見たときバンドをしていたのをスッカリ忘れていた。向うでは此方こっちの顔丈を覚えていて呉れたのだ。そう思うと、美奈子は兄妹に対して一入ひとしおなつかしい心がいて来た。


     

 少女の顔丈は、やっと思い出したけれども、名前はうしても思い出せなかった。家へ帰ってからも、美奈子は、お茶の水にいた頃の校友会雑誌の『校報』などをひろげて、それらしい名前を、思い出そうとしたけれども、やっぱり徒爾むだだった。
 自分ながら、何うしてあの兄妹に、不思議に心をかされるのか、美奈子には分らなかった。が、兄の方の白い横顔や、妹の会釈えしゃくした時の微笑などが何うしても忘れられなかった。自分にも、あんなに親しい兄があったら、兄の勝彦が、もう少し普通の人間であったら、などと取り止めもないことを、考えながら、やっぱり忘れられないのは、一目顔を見合わせた丈の兄妹だった。いな、本当に忘れられないのは、兄の方一人丈だったかも知れない。
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たゞ兄をおもい出すごとに、妹は影の形に伴うごとく、彼女の記憶のうちに、よみがえって来るのかも知れなかった。異性の兄の方丈を考えることは、彼女のつつましい処女性が、彼女自身にそれを許さなかった。彼女は、自身でも兄妹のことを考えているように、言訳しながら、本当は兄丈のことを考えていたのかも知れなかった。
 美奈子は、兄の方の美しい凜々りりしい姿を、心の裡で、じっとみしめるように、想い出しているとほの/″\と夜の明けるように、心の裡に新しいのぞみや、新しい世界が開けて行くように思った。今まで夢にも知らなかったような、美しい世界が開けて行くように思った。
 が、それと一緒に、兄妹の名前が、ハッキリと知れないことが、寂しかった。あの時に、偶然ったばかりで、今後永く/\、否一生逢わずに終るのではないかと思ったりすると、淡いつかみどころのないような寂しさが、彼女の心を暗くしてしまうのだった。
 彼女は、新しい望みと、寂しさとを一緒に知ったと言ってもよかった。否彼女の心の少女らしい平和は、永久に破られたと言ってもよかった。
 美奈子は、以前よりも温和おとなしい、以前よりも慎しい少女になっていた。
 その裡に、彼女の心にも、少女らしい計画プランが考えられていた。そうだ! の次の日曜にも、お墓まいりをして見よう。もし、あの新しい墓の主が、兄妹に取って親しい父か母かであったならば、此次の日曜にも二人は屹度きっと、お詣りをしているのに違ない。
 そう考えて来ると、美奈子には次の日曜が回って来るのが、一日千秋のように、もどかしく待たれた。
 が、待たれたその日曜が来て見ると、昨夜ゆうべからの梅雨つゆらしい雨が、じめ/\と降っているのだった。
「今日はお墓詣りに行こうと思っていたのですけれども。」
 美奈子は、朝母と顔を見合すと、運動会の日を雨に降られた少女か何かのように、こぼすように言った。瑠璃子には美奈子の失望が分らなかった。
「だって! 美奈さんは、前の日曜にもお参りしたのじゃないの。」
「でも、今日も何だか行きたかったの。わたくし楽しみにしていたのです。」
「そう! じゃ、自動車くるまで行って来てはどう。自動車を降りてから、三十間も歩けばいゝのですもの。」
 瑠璃子は、優しく言った。
「でも!」
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そう言って、美奈子口籠くちごもった。
 雨をいてでも、風を衝いてでも、自分は行ってもいゝ。が、先方むこうは? そう思うと、美奈子は寂しかった。普通にお墓詣りをする人が、こんな雨降りの日に出かけて来る訳はない。そう思って来ると、雨降りにでも行こうと言う自分の心、否お墓詣りと言うことを、ダシに使おうとしている自分の心が、美奈子は急に恥かしくなった。彼女は、われにもあらず顔を赤くした。
「おや! 美奈さん。何がそんなに恥しいの。お墓詣りするのが、そんなに恥しいの?」
 明敏な瑠璃子は、美奈子の表情を見逃さなかった。
「あら! そうではありませんわ。」
 と、美奈子周章あわてゝ、打ち消したが、彼女の素絹しらぎぬのように白い頬は、耳の附根まで赤くなっていた。


     

 その次の日曜は、珍らしい快晴だった。洗い出したような紺青色ウルトラマリンの空に、まぶしい夏の太陽が輝かしい光を、一杯にみなぎらしていた。
 美奈子は、朝眼が覚めると、寝床ベッドの白いシーツの上に、緑色の窓掩カーテンを透して、朝の朗かな光が、たわむれているのを見ると、急に幸福な感じで、胸が一杯になった。今日は何だか、楽しいうれしい出来事に出逢であいそうな気がした。彼女は、いそ/\として、床を離れた。
 午前中は、いろ/\な事が手に付かなかった。母に勧められて、母のピアノにヴァイオリンを合せたけれども、美奈子何時いつになく幾度も幾度もき違えた。
「美奈さんは、今日はうかしているじゃないの?」と、母から心の裡の動揺を、見透されると、美奈子の心は、愈々いよいよみだされて、到頭中途で合奏をめてしまった。
 午後になるのを待ち兼ねたように、美奈子はお墓まいりに行くための許しを、母にうた。何時もはあんなに気軽に、口に出せることが、今日は何だか、言いにくかった。
 墓地は、何時ものように静かだった。時候がもうスッカリ夏になったためか、の前来たときのように、お墓詣りの人達は多くはなかった。が、周囲は、静寂であるのにもかかわらず、墓地に一歩踏み入れると同時に、美奈子の心は、ときめいた。何だか、そわ/\として、足が地に付かなかった。こわいようなおそろしいような、それでいて浮き立つようなそそられるような心地がした。
 父母のお墓の前に、じっとうずくまったけれども、心持はいつものように、しんみりとはしなかった。
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こんな心持で、お墓に向ってはならないと、心でとがめながらも、妙に心が落着かなかった。
 彼女は、平素いつもとは違って、何かに周章あわてたように、父母の墓前から立ち上った。
すみや、今日も霞町かすみちょうの方へ出て見ない!」
 美奈子は、一寸ちょっと顔をあからめながら何気ないように女中に言った。女中は黙っていて来た。
 美奈子の心は、一歩ごとにその動揺を増して行った。彼女は墓石と墓石との間から、今にも麦藁帽むぎわらぼうの端か、妹の方のあざやかな着物が、チラリとでも見えはせぬかと、幾度も透して見た。が、そのあたりは妙に静まり返って、人気さえしなかった。
 彼女が、決心して足を早めて、心覚えの墓地に近づいて行ったとき、彼女の希望は、今朝からの興奮と幸福とは、煙のようにムザ/\と、夏の大空に消えてしまった。
 心覚えの墓地は、むなしかった。新しい墓の前には、燃え尽きた線香の灰が残っている丈であった。供えた花が、しおれている丈であった。美奈子の心を、寂しい失望が一面にとざしてしまった。
 せめて墓に彫り付けてある姓名から、兄妹の姓名を知りたいと思った。が、生籬いけがき越に見た丈では、それが何うしても、確められなかった。それかと言って、女中を連れている手前、それを確かめるために、墓地の回りを歩いたりすることも出来なかった。
 美奈子は、満されざる空虚を、心のうちに残しながら、寂しくその墓地の前を通り過ぎた。
 彼女は、その途端ふと学校で習った『くいぜを守ってうさぎを待つ』と、言う熟語を思い出した。約束もしない人が、何うして一定の時日に、一定の場所に来ることがあるだろう。そう思って来ると、自分の子供らしさが、恥しいと同時に、寂しい頼りない気がした。あるいは、あれ切りもう一生われない人かも知れない。
 彼女は、怏々おうおうとして、暗いむすぼれた心持で電車に乗った。今までは楽しく明るい世の中が、何だか急にかげって来たようにさえ思われた。
 が、美奈子の乗った九段両国行の電車が、三宅みやけざかに止まったとき、運転手台の方から、乗って来る人を見たとき、美奈子は思わずその美しい目をみはった。


     

 美奈子が、おどろいて目をみはったのも、無理ではなかった。
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車内へツカ/\と、入って来て、彼女のぐ斜前へ腰を降ろしたのは、まぎれもない、墓地で見たの青年であった。美奈子が二週間もの間、よそながらもう一度見たいと思っていたあの青年であった。彼女は、一目見たばかりではあったが、上品なその目鼻立を見ると、直ぐそれと気が付いた。
 その青年に、つい目と鼻の位置にすわられると、美奈子は顔をあからめて、じっとうつむいてしまう女だった。が、心のうちでは思った、何と言う不思議な偶然チャンスだろう。その人にえると思った場所では、逢えないで、悄然しょうぜんと帰って来る電車の中で、ヒョックリ乗り合わす。何と言う不思議な偶然だろう。そう思うと同時に、不思議な偶然の向うには、思いがけない幸福でもが、潜んでいるように思われて、先刻までしおれかえっていた美奈子の心は、別人のように晴れやかに、弾んで来た。が、美奈子は顔を上げて、相手の顔を、じっと見詰める丈の勇気はなかった。車台の床に投げられている彼女の視線には、青年が持っている細身のとうのステッキの先端はしだけしか映っていなかった。
 あの方は、自分の顔を覚えていてくれるかしら。美奈子はそんなことを、わく/\する胸で、取り止めもなく考えていた。かく、妹が挨拶あいさつをした以上、自分の顔丈位は、覚えていてれるかしら。覚えていて呉れゝば、どんなに幸福であろうかなどと思ったりした。
 電車は、直ぐ半蔵門で止った。もう、自分の家までは二分か三分かの間である。動き出せば直ぐ止る、わずかの距離であった。美奈子は、もっと/\の電車に乗っていたかった。そうだ! 青年の乗っている限り、此の電車に乗っていたいと思った。
 彼女は、女中をそれとなく先へ降して、神田辺に買物があると言って、此のまゝずっと乗り続けていようかと思ったりした。が、そうした大胆な計画をなすべく、彼女はあまりに純だった。
 その内に、電車はもう半蔵門の停留場を離れていた。英国大使館の前の桜青葉の間を、勢よく走っていた。美奈子は電車が、平素いつもの二倍もの速力で走っているように思った。彼女は、最後の一瞥いちべつを得ようとして、思い切って顔を持ち上げた。
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青年は、此の前見たときと同じような白い飛白かすりの着物にセルらしいはかま穿いていた。近く見れば見るほど、貴公子らしい凜々しい面影が、美奈子の小さい胸をし付けるように、迫って来るのだった。美奈子は、此の青年と向い合って坐りながら、もっともっと九段までも両国までも、いな/\もっとはるかに遥かに遠いところまで、一緒に乗って行きたいような、切ない情熱が、胸にいて来るのをうすることも出来なかった。このまゝ別れてしまうと、また何時いつ会われるか分らない。二年も三年も、いな一生もう二度と会われないのではあるまいかなどと思ったりすると、美奈子は、何うしても座席が離れられなかった。が、女中のすみやは、そんなことは少しも頓着しなかった。
 五番町の停留場の赤い柱が見え出すと、主人よりも先きに立ち上った。
「参りましたよ。」
 彼女は主人をうながすように言った。美奈子がそれに促されて、不承々々に席を離れようとしたときだった。降りそうな気勢けはいなどは、少しも見せなかった青年が、突然立ち上ると男らしい活発さで、素早く車掌台へ出ると、まだ惰力だりょくで動いている電車から、軽くヒラリと飛び降りた。
『おや!』女中が、傍にいなかったら、彼女はおどろいて声を出したかも知れなかった。
『御近所の方かしら。』そう思った美奈子は、電車を降りながら美しいひとみこらして、その後姿を見失うまいと、眼も放たず見詰めていた。


     

 美奈子より先に、電車を飛び降りた青年は、その後姿を、じっと彼女から見詰められているとは少しも気が付かないように、とうの細身のステッキを、まぶしい日の光のうちに、軽く打ち振りながら、グン/\急ぎ足で歩いた。
 美奈子は、一体の青年が、近所のどの家に入るのかと、わざと自分の歩調を緩めながら、青年の後姿を眼で追っていた。
 その時に、彼女をおどろかすような思いがけないことが、起った。
「おや! あの方、家へいらっしゃるのじゃないかしら。」
 美奈子は、思わずそう口走らずにはいられなかった。
 九段の方へグン/\歩いて行くように見えた青年は、美奈子の家の前まで行くと、だん/\その門に吸い付けられるように歩み寄るのであった。
 青年は、門の前で、ホンの一瞬の間、佇立ちょりつした。
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美奈子は、やっぱり通りがかりに、一寸ちょっと邸内の容子を軽い好奇心からのぞくのではないかと思った。が、たたずんで一寸何か考えたらしい青年は、思い切ったように、グン/\家の中へ入って行った。ステッキを元気に打ち振りながら。
「お客様ですわ、奥様の。」
 女中は、美奈子の前の言葉に答えるように言った。
 いかにも、女中の言うとおり、母の客間サロンおとなう青年の一人に違いないことが美奈子にも、もう明かだった。
「お前、あの方知っているの?」
 美奈子は、心の裡の動揺を押しかくすようにしながら、何気なくいた。
「いゝえ! 存じませんわ。わたくしはお客間の方の御用をしたことが、一度もないのでございますもの。きくやなら、きっと存じておりますわ。」
 きくやと言うのは、母にいている小間使の一人だった。
 美奈子は、かくその青年が、自分の家に出入りしていると言うことを知ったことが、可なり大きいよろこびだった。自分の家に出入りしている以上、会う機会、知己ちき【知り合いしりあいになる機会が、幾何いくらでも得られると思うと、彼女の小さい胸は、歓喜のためにはげしく波立って行くのだった。が、それと同時に、母が前から、その青年と知り合っていること、その青年とお友達であることが、不思議に気になり出した。今までは、母が幾何若い男性を、その周囲にき付けていようとも、それは美奈子に取って、何の関係もないことだった。が、この青年までが、母の周囲に惹き付けられているのを知ると、美奈子は平気ではいられなかった。かすかではあるが、母に対する美奈子の純なにごらない心持が、揺ぎ初めた。
 美奈子が、心持足を早めて、玄関の方へ近づいて見ると、青年は取次が帰って来るのを待っているのだろう。其処そこに、ボンヤリ立っていた。
 彼は不思議そうに、美奈子をジロ/\と見たが、美奈子が此の家の家人であることに、やっと気が付いたと見え、少し周章あわて気味に会釈えしゃくした。
 美奈子も周章て、頭を下げた。彼女の白いうっくりとした頬は、見る/\染めたように真赤になった。その時に丁度、取次の少年が帰って来た。青年は待ち兼ねたようにその後に従いて入った。
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 美奈子が、玄関から上って、奥の離れへ行こうとして客間の前を通ったとき、一頻ひとしきにぎやかな笑い声が、美奈子の耳をいて起った。今までは、そうした笑い声が、美奈子の心をかすりもしなかった。本当に平気に聞き流すことが出来た。が、今日はそうではなかった。その笑い声が、妙に美奈子の神経をき刺した。美奈子の心を不安にし、悩ました。あの青年と、自由に談笑している母に対して、羨望せんぼうに似た心持が、彼女の心に起って来るのをうともすることも出来なかった。


     

 その日曜の残りを、美奈子はそわ/\した少しも落着かない気持のうちに過さねばならなかった。かの青年が、自分の家の一室にいることが、彼女の心をみだしてしまったのだ。
 今までは、一度も心に止めたことのない客間サロンの方が、絶えず心にかゝった。青年が母に対してどんな話をしているのか、母が青年にどんな答をしているかと言ったようなことを、想像することが、彼女を益々ますます不安にさせ、いら/\させた。
 彼女は、到頭部屋の中に、じっとすわっていられないようになって、広い庭へ降りて行った。気をまぎらすために、庭の中を歩いて見たいためだった。が、庭の中を彼方此方と歩いている裡に、彼女の足は何時いつの間にか、だん/\洋館の方へ吸い付けられて行くのだった。彼女のひとみは、時々我にもあらず、客間の縁側ヴェランダの方へ走るのを、うともすることが出来なかった。その縁側からは、時々思い出したように、華やかな笑い声が外へれた。若い男性の影が、チラホラ動くのが見えた。が、その人らしい姿は、到頭見えなかった。
 大抵は、その日の訪問客を引き止めて、華美はで晩餐ばんさんを振舞う瑠璃子るりこであったが、その日は何うしたのか、夕方が近づくと皆客を帰してしまって、美奈子とたった二人り、小さい食堂で、平日のように差し向いに食卓に就いた。
 その夜の瑠璃子は、これまでの通り、美奈子に取って母のような優しさと姉のような親しみとを持っていた。が、美奈子は母に、ホンのかすかではあるが、今までに持たなかったような感情を持ち初めていた。母の若々しい神々こうごうしいほどの美貌びぼうが、何となくうらやましかった。
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母が男性と、ことにあの青年と、自由に交際つきあっているのが、何となく羨ましいように、ねたましいように思われて仕方がなかった。が、美奈子はそうしたはしたない感情を、グッと抑え付けることが出来た。彼女は平素いつも初々ういういしい温和おとなしい美奈子だった。
 順々に運ばれる皿数コーセスの最後に出た独活アスパラガスを、瑠璃子夫人がその白魚のような華奢きゃしゃな指先で、つまみ上げたとき、彼女は思い出したように美奈子に言った。
「あゝそう/\! 美奈さんに相談しようと思っていたの。貴女あなたこの夏は何処どこへ行きましょうね。四五日の裡に、何処かへ行こうと思っているの。今日なんかもう可なり暑いのですもの。」
わたし、何処だっていゝわ。貴女のお好きなところなら何処だっていゝわ。」美奈子は、つつましくそう言った。
「軽井沢は去年行ったし、妾今年は箱根へ行こうかしらと思っているの。今年は電車が強羅ごうらまで開通したそうだし、便利でいゝわ。」
「妾箱根へはまだ行ったことがありませんの。」
「それだとなおいゝわ。妾温泉では箱根が一番いゝと思うの。東京には近いし景色はいゝし。じゃやっぱり箱根にしましょうね。明日でも、富士屋ホテルへ電話をかけて部屋の都合をき合せましょうね。」
 そう言って、瑠璃子は言葉を切ったが、ぐ何か思い出したように、
「そう/\、まだ貴女にお許しを願わなければならぬことがあるの。女手ばかりだと何かに付けて心細いから、男のお友達の方に、一人一緒に行っていたゞこうと思うの。貴女、介意かまわなくって?」
「介意いませんとも。」美奈子はそう答えた。もし、昨日の美奈子であったら、それをもっと自由に快活に答えることが出来たであろう。が、今の美奈子はそう答えると共に、胸が怪しく擾れるのを、何うともすることが出来なかった。
「温和しい学生の方なの。いろ/\な用事をしてもらうのにいゝわ。」
 瑠璃子は、いかにもその学生を子供扱いにでもしているような口調で言った。
 学生と聴くと、美奈子の胸は更にはげしく波立った。
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押え切れぬ希望と妙な不安とが、胸一杯にち満ちた。

箱根行



     

「御機嫌よく行ってらっしゃいませ。」
 玄関に並んだ召使達が、口をそろえて見送りの言葉を述べるのを後にして、美奈子みなこ達の乗った自動車は、門の中から街頭へ、滑かにすべり出した。
 乾燥した暑い日が、四五日も続いた七月の十日の朝だった。自動車の窓に吹き入って来る風は、それでもやや涼しかったが、空には午後からの暑気を思わせるような白い雲が、彼方此方あちらこちらにムク/\とき出していた。
 美奈子は、母と並んで腰をかけていた。前には、母の気に入りの小間使と自分の附添の女中とが、窮屈そうに腰をかけていた。
 美奈子は、母から箱根行のことをかされてから、母が一緒にともなって行くと言う青年のことが、絶えず心にかゝっていた。が、母の方からはそれ以来、青年のことは何とも口に出さなかった。母が口に出さない以上、美奈子の方から切り出して訊くことは、内気な彼女には出来なかった。
 出立しゅったつの朝になっても、青年の姿は見えなかった。美奈子は、母が青年を連れて行くことを中止したのではないかとさえ思った。そう思うと美奈子は、失望したような、何となく物足りないような心持になった。
 自動車が、日比谷ひびや公園の傍のお濠端ほりばたを走っている時だった。美奈子は、やっと思い切って母に訊いて見た。
「あの、学生の方とかをお連れするのじゃなかったの?」
 瑠璃子は、初めて気が付いたように言った。
「そう/\。あの方を美奈さんに紹介して置くのだったわ。貴女あなたまだ御存じないのでしょう。」
「はい! 存じませんわ。」
「学習院の方よ。時々制服を着ていらっしゃることがあってよ。気が付かない?」
「いゝえ! 一度もお目にかゝったことありませんわ。」
青木さんと言う方よ。」
 母は何気ないように言った。
青木さん!」美奈子一寸ちょっとおどろいたように言った。「その方はこの間、くなられたのではございませんの。」
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 美奈子も、母の男性のお友達の一人なる青木なにがしが、横死したと言うことは、薄々知っていた。
「いゝえ! あの方の弟さんよ。兄さんは、帝大の文科にいらしったのよ。」
 ここまで聴いたとき美奈子にはもうすべてが、わかっていた。此の旅行の同伴者が、何人なんぴとであるかがもうハッキリと判った。新しく兄を失った青木と言う青年が、彼女が青山墓地で見たその人であることに、もう何のうたがいも残っていなかった。
 美奈子の心は、あらしの下の海のように乱れ立った。かの青年と、少くとも向う一箇月間一緒に暮すと言うことが、彼女の心を、取り乱させるのに十分だった。それはうれしいことだった。が、それは同時におそろしいことだった。それは、楽しいことだった。が、それは同時にはげしい不安を伴った。
 美奈子の心の大きな動揺を、夢にも知らない瑠璃子るりこ夫人は、その真白な腕首に喰い入っている時計を、チラリと見ながら独言ひとりごとのようにつぶやいた。
「もう、九時だから、青木さんは屹度きっと来ていらっしゃるに違いないわ。」
 そうだ! 青年は、停車場で待ち合わせる約束だったのだ。もう、二三分の後にその人と面と向って立たねばならぬかと思うと、美奈子の心は、とりとめもなく乱れて行くのだった。
 が、美奈子は少女らしい勇気を振い起して、自分の心持をまとめようとした。あの青年と会っても、取り乱すことのないように、出来る丈自分の心持を纏めて置こうと思った。美奈子の心持などに、何の容赦もない自動車は、彼女の心が少しも纏まらない内に、もう彼女を東京駅の赤煉瓦あかれんがの大きい建物の前に下していた。


     

 美奈子等の自動車の着くのを、先刻さっきから待ち受けていたかのように、駅の群集の間から、五六人の青年紳士が、自動車から降り立ったばかりの、瑠璃子夫人の周囲を取り囲むのであった。
「お見送りに来たのですよ。」
 皆は、口をそろえて言った。
 夫人は軽い快いおどろきを、顔に表しながら言った。
「おや! うして御存じ?」
「はゝゝ、お駭きになったでしょう。お隠しになったって駄目ですよ。
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我々の諜報局ちょうほうきょくには、奥さんのなさることは、スッカリわかっているのですからね。」
 外交官らしい、霜降りのモーニングを着た三十に近い紳士が、冗談半分にそう言った。
「それは驚きましたね、小山さん! 貴君あなた間諜スパイでも使っているのじゃないの? おッほゝゝ。」
 夫人も華やかに笑った。
「使っておりますとも。女中さんなんかにも、気を許しちゃいけませんよ。」
「じゃ! 行先も判って?」
「判っていますとも。箱根でしょう。しかも、お泊りになる宿屋まで、ちゃんと判っているのです。」
 今度は、長髪に黒のアルパカの上着を着て、ボヘミアンネクタイをした、画家らしい男が、そう附け加えた。
「おや! おや! 誰が内通したのかしら?」
 夫人は、当惑とうわくしたらしい、その実は少しも当惑しないらしい表情でそう答えた。
 若い男性に囲まれながら、彼等を軽くあしらっている夫人の今日の姿は、又なく鮮かだった。青磁色の洋装が、そのスラリとした長身に、ピッタリ合っていた。極楽鳥の翼で飾った帽子が、その漆のようににおう黒髪をおおうていた。大粒の真珠の頸飾りが、彼女自身の象徴シンボルのように、その白い滑らかな豊かな胸に、垂れ下っていた。
 平素いつも見馴みなれている美奈子にさえ、今日の母の姿は一段と美しく見えた。駅の広間ホールに渦巻いている群衆の眼も、一度は必ず夫人の上に注がれて、彼等が切符を買ったり手荷物を預けたりする忙がしい手を緩めさせた。
 美奈子は、母を囲む若い男性を避けて、一間ばかりも離れて立っていた。彼女は、最初その男達の間に、あの青年のいないのを知った。一寸ちょっと期待が外れたような、安心したような気持になっていた。その内に、母を見送りの男性は、一人増え二人加った。が、かの青年は何時いつまで待っても見えなかった。その男性達は、美奈子の方には、ほとんど注意を向けなかった。たゞ美奈子の顔を、よそながら知っている二三人が軽く会釈えしゃくした丈だった。
「奥さん! まだ判っていることがあるのですがね。」
 しばらくしてから、紺の背広を着た会社員らしい男が、おず/\そう言った。
「何です? おっしゃって御覧なさい。」
 夫人は、微笑しながら、しかも言葉丈は、命令するように言った。
「言っても介意かまいませんか。」
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「介意いませんとも。」
 夫人は、ニコ/\と絶えず、微笑を絶たなかった。
「じゃ申上げますがね。」彼は、夫人の顔色をうかがいながら言った。「青木君を、お連れになると言うじゃありませんか。」
 それに附け加えて、皆は口を揃えるように言った。
「何うです、奥さん。当ったでしょう。」
 皆の顔には、六分の冗談と四分の嫉妬しっとが混じっていた。
「奥さん、いけませんね。貴女あなたは、皆に機会均等だと言いながら、青木君兄弟にばかり、いやに好意を持ち過ぎますね。」
 小山と言う外交官らしい男が、冗談半分に抗議を言った。
 美奈子は、母が何と答えるか、じっと聞耳を立てゝいた。


     

「まあ! 青木さんを連れて行くって。うそばっかり。青木さんなんか、まだ兄さんのいみも明けていない位じゃありませんか。」
 瑠璃子るりこ夫人は、事もなげに打消した。美奈子は、母が先刻自分に肯定こうていしたことを、こうも安々と、打ち消しているのを聴いたとき、内心少からず驚いた。自分に対しては可なり親切な、誠意のある母が、こうも男性に向っては白々しく出来ることが、可なり異様に聞えた。
「忌もまだ明けないだろうって。奥さんにも似合わない旧弊なことをおっしゃるのですね。忌位明けなくったって、いゝじゃありませんか。ことに、奥さんと一緒に行くんだったら、死んだ兄さんだって、冥土めいどで満足しているかも知れませんよ。死んだ青木じゅん君の瑠璃子夫人崇拝は人一倍だったのですからね。あの男の貴女あなたに対する態度は、狂信に近かったのですからね。」
 長髪の画家が、一寸ちょっと皮肉らしくった。
 夫人は、美しい顔を、少し曇らせたようだったが、ぐ元の微笑に帰って、
「まあ! 何とでも仰しゃいよ。でも青木さんのいらっしゃらないのは本当よ。論より証拠青木さんは、お見えにならないじゃありませんか。」
「奥さん! そんなことは、証拠になりませんよ。
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